バレンタインの仲直り

「若林なんて、だいっきらい!!!!」

+++

その叫びに教室が静まり返る。

発言者は誰だと振り返れば、若林とセナがいた。

初めは、いつもどおりのくだらない口論だった。

誰も気にしてはおらず、止めるつもりもなかった。

しかしセナは泣いていた。

みんななにがあったのかわからなかった。泣かせた本人であろう若林でさえわかってはいないようだった。

怒りと心外さと悲しみがないまぜになったような泣き顔に誰もが困惑する。

「………………っ」

「す、涼風さん?」

何度かしゃくりあげ、涙を吹いてから逃げ去ってしまう。授業のためにやってきた朝木にぶつかるも、謝るわけでもなく一心に走り去る。

「……。みなさん教室でおとなしくしていてください!」

理解はできなかったが連れ戻さなければならないと感じたらしい、朝木が後を追う。

若林はどうにか泣き止ませようと宙を掻いていた手を止めて呆然としていた。

あとに残されたのは何があったのかわからないままの生徒たちと、ショックで固まっている若林だけだった。

「…………若林、なにがあったんですか……?」

ユイが戸惑い気味に問う。セナが泣くところを見ることも、ここまではっきりした喧嘩を見ることも久しかったからだ。

「……セナちゃん、泣いてたね……」

セナの走っていった方向を見て呟くマナ。けして責めるニュアンスはなかったが、その事実が深く胸に刺さった。

――――セナを泣かせた。

好きな子を泣かせた、そのことが酷く胸を抉る。

後を追うこともできず、呆然とするしかなかった自分が情けなくて。

普通に話しかけるのがなんだか恥ずかしくて、いつも発言がひねくれてしまう。いつか本気で怒らせるだろうとは思ってはいたが、まさか泣かれるとは思わなかった。

最後に見た瞳が、涙が、目に焼き付いて離れない。

「…………俺……」

「あなた、セナに何言ったんですか?」

少しだけ詰問調になるユイの質問。できる限り平静に、穏和に努めようとしているのがわかった。ユイが見た目ほど大人しくないことは、同じクラスにいればある程度わかる。

「…………最後に行ったのは、“喫茶店なんか馬鹿みてぇ”……だったかな……」

記憶をたどってひねり出す。もちろん本気のつもりはなかった。いつもどおりの、天邪鬼。

そう言うとユイが若林の前に来て、

ぱんっ

乾いた音が、今度は教室に響いた。

+++

セナは泣いていた。

昇降口に続く階段にうずくまって、声を押し殺して泣いていた。たまに肩がはねて、殺しきれなかった声が階段に響く。

心外だった。喫茶店の夢を馬鹿にされて。

一緒に姉まで馬鹿にされた気がして。

姉と姉のバディが受け継いできた喫茶店。その流れをきっとセナが受け継ぐのだと、心に堅く誓っていたのに。

夢が、姉が、否定された。そのことが酷く悲しかった。

それとは別に、不思議なわかだまりがセナの中にはあった。

若林がセナを馬鹿にするのはいつものことなのに、何故かそれだけは言わないと信じていたのだ。

怒りと悲しみと絶望が、ないまぜになってセナに襲いかかる。

「……涼風さん」

静かで低い、男性の声。

朝木の声だとすぐにわかった。どこか落ち着く、優しい声。

「若林さんと、なにかあったんですか?」

「…………」

セナは返事をしない。しようにも、話せるような状態ではない。

朝木は問い詰めるでもなく隣に座り、セナの背をなでる。泣き止むまで、じっと。

「っ……せん、せ……」

息を整えて、声を絞り出す。震える声を抑えることはできなかったが、とにかく誰かに吐き出したかった。

「…………きっさ、てんが……ばかみた、いって」

途切れ途切れに呟く。涙声と階段に響きわたる引きつった声で、上手く話せず鬱陶しい。

朝木はなにも言わず聞いてくれていて、その体温に少し落ち着く。

「せなのゆめ、ば、ばかにし……っ。おねえのだいじにしてたもの……っ」

話せば話すほどまた涙が溢れてくる。

自分のことを馬鹿にされるのは、ムカつくけれどまだ許せた。自覚している部分もある。

でも姉のことを、喫茶店の夢のことを、馬鹿にされるのだけは許せなかった。

心から、誇りに思っていることなのだ。

「……とても、誇りに思っていたことだったのですね」

一通り話したところで朝木が口を開く。

背を撫でていた手を頭に移し、撫でる。

「ならば、落ち着いたら、そのことを話してみましょうか」

「は……な、す……?」

「何が嫌だったのか伝えて、謝ってもらいましょう。そしたらまた、仲直りです」

セナが顔をあげれば、そこには優しい笑顔があった。

+++

若林は思考が停止する。右頬がじくじくと痛む。手の甲で叩かれたのか、骨の当たった感触がまだした。

ユイの目が怒りに染まっていく。自分が悪かったことはたしかだが、セナといいユイといい意味もわからず激怒されて、意味が分からなかった。

「ゆ、ユイちゃん! やりすぎだよ……っ」

「泣かれて当然です! 喫茶店は、セナの夢ですよ!?」

「そ、それは知ってたよ! けど、なんでそんなに怒るんだよ!?」

「喫茶店は、セナのバディのしていたことです! セナはそれを継ごうと……。喫茶店を馬鹿にすることはセナの誇りを、バディを馬鹿にすることです! なんてことを言っているんですか、この馬鹿!!」

身長差から少しばかり上目遣い気味に睨まれる。ユイの怒声とセナの涙の真相を知って居た堪れなくなる。

若林も小学生のときからいた身だ、バディへの親愛の情がどれほど深いのか理解している。ゆえに、取り返しのつかないことをしたと、青くなる。

――――もう口を聞いてもらえないかもしれない。

仲直りがもしも出来なかったら。きっとこの恋は終わるのだろう。そのことがなにより若林を焦らせた。

「……お、俺セナに謝りに……!」

「待って、若林くん!」

「なんだよ!!」

引き止めるマナにイラついて怒鳴る。少し肩が跳ねたが、マナは引かなかった。

「もう少し、落ち着いたほうがいいんじゃないかな? ……若林くんも、泣きそうだよ?」

心配そうにマナがのぞき込む。

焦りと申し訳なさで落ち着かない。今すぐに謝りに行きたいのに、考えればどうやって謝ればいいのだろう。考えなさに嫌気がさす。

「……。ね、若林くん、明日って何日?」

「……は? ……2月14日?」

突然の質問に戸惑う。ユイも不思議そうにマナを見た。

「そう、バレンタインでしょ? かこつけちゃえば、謝りやすいんじゃない?」

「はぁ?」

ユイと若林が揃って素っ頓狂な声を出す。

謝るのにわざわざチョコをあげる必要はないだろう、ユイは思う。

「だってせっかくのイベントだよ? 便乗しなきゃ! 逆チョコだよ逆チョコ!!」

きゃあきゃあと勝手にマナは盛り上がる。

女子のテンションにはついていけないと若林は思う。心配してくれてると思ったらこれなのだから意味が分からない。

「……まぁ、物で釣るっていうのはいいかもしれませんね。作ってる間、言葉も考えられますし」

「え、作んの!?」

「何言ってるんですか当然でしょう」

真顔で言われた。

たしかにスーパーじゃ普通の店のようにバレンタイン用のチョコなど売っていないから作るしかない。だが若林は男であり、そういうのは正直抵抗がある。というか本気なのかその考えは。

「大丈夫だよ、手伝ってあげるし!」

「そうですね、おにいちゃんへのチョコを作るついでに教えてあげます」

「決定事項なわけ……?」

たしかにいい作戦ではある。猶予を貰え、物で釣れば成功率もあがる。しかしそれができるのは女子の場合なのではないだろうか。

「……おい、若林がとうとう告るってよ!」

「あー、やっとぉ?」

「うわ、クラスで初めてのカップルじゃない!?」

「セナ幸せにしてやれよ!」

「よっしゃ赤飯だ赤飯!」

「鍋パだ鍋パ!!」

「ジュース買いにいこうぜ!」

「朝木遅いし脱走だ!」

「ねーよ!!! てめぇら好き勝手言ってんじゃねーよ!!! 誰もしねーよ!!!」

「すればいいのにねぇ?」

「度胸がないんですよ」

「うるせぇ!!」

前途多難である。

+++

右手にはユイに手伝ってもらって作ったチョコレート。何度も失敗したし、成功したと言える数少ないものもとてもじゃないが上手いとは言えない出来だった。

菓子作り、しかもバレンタインとなれば今まで無縁だった行事だ。正直、どうすればいいのかわからない。

普通に謝ればいいのだが、やはりチョコは必要だったのかと思考がぐるぐる回転する。

今、若林は放課後の教室に一人だった。セナを待っていた。

おそらくもう少し待てばユイたちに言われて来るだろう、と思う。

深呼吸を繰り返す。さっきから心臓がバクバクとうるさい。告白するわけでもないのに、放課後の教室に二人きり、というシチュエーションを想像しただけで胸が苦しかった。

謝る言葉は、考えてある。何十回目かになる謝罪文を頭の中で復習する。

右手のチョコレートを確認する。薄い青の包装がされた細長い箱の中、必死に作った生チョコが入っている。

――――せっかく天野たちが手伝ってくれたんだ。

――――謝るだけだ、しっかりしろ、俺。

そう自分を鼓舞していると

こつ、こつ、こつ、

人の近づいてくる足音が響いた。

+++

セナはとある教室へ向かっていた。

放課後、一緒に帰ろうと声をかけたら何故かそこへ向かうよう堅く堅く命じられたのだ。

クラスメイトたちのにやにや笑いも気になった。一体そこになにがあるというのだろう。

不思議に思いながら廊下を歩く。

みんなが帰って静かになった学校の廊下は薄気味悪い。窓から外を見れば夕陽が綺麗に見えた。少し視線を下げれば下校中の生徒たちが見える。自分は一体、何をしているんだろうと少しだけ馬鹿馬鹿しくなる。

そうやって少しの間のんびりと歩いていると目的の教室の電気が付いていることに気づく。他に誰か居残ってるのだろうか、そっと覗いてみる。

「……セナ」

「…………わ、若林……」

昨日、喧嘩をしたばかりの若林だった。

もう怒りはない。けれど顔を合わすのは辛い。しかし気づかれてしまった以上、もうもどるわけにはいかなかった。

「なんで、あんたが……」

「よかった、こねーかと思った」

ほっとしたように微笑む若林に少しぎくりとする。一緒にいるのがすこしむずがゆい。

衝動的とはいえ嫌いと言ってしまったのだ、……謝らなければ、ならない。

もしかしたらユイたちはそのためにここに来るように言ったのかもしれない。そう気づいたら恨みと感謝がごちゃまぜになって複雑な感情が溢れてくる。

「セナになんか、用……?」

「ごめん!」

直角に頭を下げて若林は謝る。予測できていたのに唐突で思わずびっくりする。

「喫茶店の夢、馬鹿にしてごめん。バディのやってたことだとは知らなかったんだ。ほんと、ごめん……」

「……そ、そーだよ! 馬鹿、馬鹿若林、セナがどんだけ泣いたと思ってんの!?」

真面目な若林の表情を見ているのがむず痒くて八つ当たる。見ているとなんだか恥ずかしくなる、いてもたってもいられなくなる。

違う、違う違う、言いたいのはこれじゃない。

「これ」

「な、なに、これ……」

「チョコ。……こんなで許してもらえるとは思ってねーけどさ」

青い包装のしてある細長い箱が目の前に突きつけられる。恐る恐る手に取って顔に近づけてみれば、ほんの少し、チョコレートの匂いがした。

シスマにバレンタイン用のチョコレートなんて出回ってない。だとしたら、作ったのだろうか? わざわざ、このために?

そう思ったらなんだか涙が出そうで、でも若林の前でまた泣くなんて癪だから絶対に泣かない。

「……作ったの?」

「……わりぃかよ」

若林の顔が僅かに赤い。そのことに気がついて、ああ、恥ずかしいのはセナだけじゃないんだと少しほっとした。

いつも喧嘩ばかりで、でも息はあって、そんな自分たちにこんな真面目な仲直りは似合わない。それを若林も感じているのだ。

早くお互い謝って、また喧嘩して笑おう。

「セナもね、大嫌いなんて言ってごめん」

「……え?」

「おねえのこと、喫茶店のこと、馬鹿にされて本気でむかついた。セナの一番大事なもの、けなされて本気で悔しかった」

「……ごめん」

「でも、あんたのことは嫌いだけど、大がつくほどは嫌いじゃないよ。セナ嘘ついちゃった。だから、これでおあいこ」

えへへ、とおどけたように笑う。

それを赦しととったのか、若林も笑う。そう、これで仲直り。

「……帰るか」

「だね」

手は繋がない。でも手が触れそうなほどの距離を並んで歩く。

若林は少しだけ、セナに近づけたような気がした。

+++

「ちょっと若林!! セナのおやつ返してよー!!」

「昨日チョコやっただろーが、別にいいだろー?」

クラスのみんなは目を丸くする。

一昨日は大喧嘩して、昨日は一言も喋らなかったと思ったら今日はいつも通りの口論だ。

どうやら、元の鞘に収まったらしいと察する。それと同時になんだかつまらなくもある。

「……結局告白しなかったんだね?」

「若林も若林ですけど、セナも大概ですよねぇ……」

ユイとマナは遠目に見ながら呆れていた。

鈍感な友人とヘタレな少年。一体彼らはいつくっつくのか。

クラスメイトの興味はその一点に集中しているのにも関わらず彼らは気づいた気配もなく二人の世界で喧嘩三昧だ。

「なんだかんだ、お似合いだよね?」

「……結局、犬も食わない夫婦喧嘩ですね」

喧嘩して、それから笑って。

いつだって、二人でそうやって。