レジスタンス八話
広い部屋に最低限の家具だけが置かれた、簡素な部屋。簡素だけれど、緻密で絢爛な装飾のなされた家具の数々が置かれている部屋は、物が多くないのになんだか騒がしく感じる様相をしている。
それでも何一つ音のしない部屋は、騒がしい内装とは裏腹に不気味に静けさを保っていた。
そんな静寂の中、机を挟んで二人の男が座っている。
「さぁ、お前の番だ」
「ま、また面倒なことに……」
頭を抱えながら唸る青年と、それを淡泊に見つめる少年。
挟んだ机にはチェス盤が置いてある。これは二人がいつもやる、暇つぶしの遊びだった。
濃紺の色の三白眼の青年――ネイガス・モートンは頭を抱える。
たかが暇つぶしの遊び、とはいえ、従者であるネイガスには目の前の彼を楽しませなければならない責務がある。このチェスをできるだけ、できるだけ悪あがきして引き延ばして、彼の暇つぶしを長く続けなければならないのだ。
彼がチェックメイトと言わないのなら、この詰めにはたしかに打開策はある。はずなのだ。
ネイガスがあまり頭がよくないのもわかった上で、彼はネイガスが解けるか解けないかほどの位置に駒を動かして弄んでいるのだ。だから、彼が終わらせない限り、このゲームは終わらない。
しかし。
どんなに頭を抱えて唸ってみても、ネイガスには答えがわかりそうにない。
なにかヒントがもらえないか。ネイガスは向かいに座る少年を覗き見る。
きめ細かい白い肌、青みがかったさらさらとした黒髪の美しい、少年。
御年十九歳になるにしては、線が細い顔立ち。いっそ可愛らしいと形容した方が正しいくらい、中性的で幼げな美貌をしていた。
その美貌が、意地の悪い笑みに歪められてさえいなければ、透き通った水色の瞳に、同じ男のネイガスでも見惚れることがあっただろう、と言えるほどには。
ウィンリル・ボニツェール・ドーナ。
グラシェード王の三男坊であり、唯一の王位継承者。その美貌は、アンジェリカ妃によく似ている。
「……ねぇ王子、なにかヒントは」
「白馬に乗った王子様」
「それは自虐かなにかですか?」
「貴様は首にされたいのか?」
ぶんぶんぶん、と首を振ってまた視線を戻す。
ただの兵士に逆戻りするのは、今のネイガスには痛すぎる。やはり自力で抜け出せるようにもがいてこの意地の悪い王子を楽しませるしか手がない。
しかしため息をついて、またぼんやりとチェス盤に目を戻してもネイガスには活路が見えそうにない。
「……鳩か」
「えっ?」
不意にウィンリルが呟くのにつられて外を見る。
見れば、昼の太陽に照らされて輝く白鳩が王宮の方へと向かっていくところだった。
最近、あの鳩をよく見かける。いつも同じような時間に、足になにかを括りつけて飛んでいる。誰かの伝書鳩なのだろうが、王宮の伝書鳩とは色が違った。
王宮の伝書鳩は灰がかった色なのだが、あの鳩は染み一つない白だから妙に目立つのだ。よほど飼い主に可愛がられているに違いない。
「いつも、綺麗ですよね、あの鳩」
「そうだな。それでネイガス、答えは見えたか?」
「あ、えーと……」
急に話を戻されて困惑する。
相変わらずチェス盤は動かせなままである。否、ただ動かすだけならネイガスにもできるのだが、ウィンリルを楽しませるためには一工夫を考えなければならないのだ。だからやっぱり、チェス盤はまだしばらく動かせそうにない。
困った、と焦って話の転換を図ることにする。
「そういえば、昨日また処刑者が出たそうですね」
「それは男か、女か」
「男です。執事の一人で、食事に毒を混ぜて出したとか……。王にそれをやろうとするのもすごいですが、毒に気付く王もすごいですよね。使ったのは無味無臭の劇薬だったそうですよ」
「あの男は悪意にだけは敏感だからな。毒に気付いたんじゃなくて、敵意に気付いただけだろうよ」
あの男――――国王グラシェード。
己の父を小馬鹿にしたように評価して、ウィンリルはつまらなさそうに鼻を鳴らす。彼は父があまり好きではないのか、名前を出すことも少し嫌そうにしている。
グラシェード王は制圧戦争の後、多くの女を率いると同時に国内に潜む反逆者を次々と摘発して処刑に勤しんでいる。どんなに周到に計画を練っても、凡人には彼を謀ることは難しいらしい。あれから一か月しても彼に触れられた者さえいない。
元々、税も重く恨まれている王だったので、別段暗殺しようとする者が珍しいわけではない。だから誰が殺されようと、ただの世間話になるかならないかである。
「あの男が小細工程度にひっかかるわけがない。まともに手をかけられそうだったのは、何十年か前の男ただ一人だったらしいからな」
「あー……セロン・メイブリック…………でしたっけ?」
「よく覚えていたな。そうだ」
以前、こっそり読まされたドーナの政治の流れが書かれた本の内容を必死に思い出す。
セロン・メイブリック。
かつてグラシェードの側近の騎士であったとされ、噂ではグラシェードの父、前王ゴードンの隠し子だったのではないかとも言われている人物。
グラシェード王が即位する以前の書物は王が即位してすぐにほとんどが焼き払われたらしく、現在過去を知る術はない。故に、彼について知ることもこれしかない。
それなのに、王が即位してから数年後に生まれたウィンリルがどうしてそんな本を手にしているのかは、ネイガスはまったく聞けていない。
「あの男は、小細工せずに正面から決闘を賭けたそうだ。それで負けて殺されているのだから、まったくあの男は嫌らしい」
グラシェード王がその王座を欲しいままにしているのは、なにも賢しい頭脳だけが理由ではない。本人もまた十二分な実力を持っているのだ。
だからこそ、暗殺される恐怖に対して王はふてぶてしく構えていられるのだと、ウィリルはつまらなさそうに呟いた。
王が即位してから二十数年。その間ずっと横暴な政治をしていた彼に誰も手出し出来ないのはそれだけ王が天才的であるからなのだ。
「今回、女たちが奴を殺れなければ、きっと死ぬまであの男はこの国を牛耳るのだろうよ」
「女って……今回浚われてきた者たちですか? 今まで散々男たちが暗殺を企ててきたのに、女ごときが王に立ち向かえるとは思いませんが」
「だから、お前はこんなチェスも攻略できないんだ馬鹿め」
すっと伸びて来た王子の白い指がネイガス側の駒を掴む。それをそのまま少し移動させて、また置いた。するとネイガスにもようやく、次にどう動けばいいのかが分かってくる。
「あ、あ、ああ……!」
「いつだって歴史は予想もしない方向から動くものだ。そうやって関係ないだろうと無視している方向から、背中を切られるんだ……お前は軍師には向かないな」
「こんな簡単だったのか……!」
もっと難しいものだと思ったのに、あまりにもあっさりと盤が動いたことにネイガスは頭を抱える。
白馬に乗った王子様、とはつまり白のナイトのことだったのか。王子の方に気を取られてさっぱり中身がわからなかった。
頭を抱えるネイガスを鼻で笑った音がする。顔を上げると、やはりつまらなさそうな冷えた瞳の王子がこちらを見ていた。その唇が動く。
「なんの戦力もない、ただの女たちの烏合の衆だったらそうかもしれないな。だが、その中に一人化物がいるだろう」
「……ラグダッド小隊の女のことですか?」
「そうだ。戦力がいるかいないか、それだけでだいぶ違う。……もっとも、そいつ一人だけならば話にならんがな」
ラグダッド小隊に新たに入隊してきた、軍唯一の少女。
ラディーヌ・アディス。その名と特徴は王宮でおそらくラグダッドと同等に有名だろう。
蒼く短い髪の美しい、人並み以上に小さく小柄であるのに、軍に入る時に下っ端の兵士を五人、かすり傷さえないままに倒したそうだ。
二メートルを超えるラグダッドと並ぶ姿は小人のようであると、聞いたことがある。
たしかに、下っ端でも五人を敵にもしない実力を持っていれば女達には十分な戦力だろう。
「今はまだ、なにも動いていないように見えるだけだ。だが、そのうち……転機はきっと訪れる。駒が揃うなら、きっと」
「……」
王子の呟きに、ネイガスはぼんやりとした寒気を感じる。
なにかが動くのだろうと、ネイガスにさえもわかるくらい、王子の呟きは低く小さく、なにかの怨念が込められているように聞こえた。
――女が揃ったら、きっとこの国は動く。
――王子はそれを期待しているんだろうか。
ネイガスには、陰謀というものはわからない。ウィンリルの言うことはわからないでもないが、それに対して自分がなにかできるわけでもない。
ネイガスはただの庶民で、本来王子の従者になれるような身分でもないのだ。だからただ、ネイガスは彼の言うことを聞くしかない。
――俺はきっと、その駒の内の一つなんだろう。
王子はなにかを始めようとしている。そんな嫌な予感をネイガスは感じた。
+++
「おかえり、アルバート」
昼過ぎ、窓をたたく一羽の鳩のためにカレンはその窓を開ける。
小さく開けたその窓から滑り込むように部屋へと入ってきて、するりと止まり木へと体を預ける。
眩く光る白い鳩。アルバートと名付けた小さな友人に、カレン・フィンツィは労働の対価として食事を与える。そうして、アルバートがパンをついばんでいる隙にその足に巻き付けられている紙を取り外すのだ。
本来はこんな仕事をするような鳩ではないのだが、この一か月でだいぶ慣れてくれた。こんなことに巻き込んでしまって申し訳ないが、こうでもしないと情報の交換が難しいのだ。いくら城下町とはいえ、城に雇われている者は滅多に城から抜け出すこともできないし、あまり出入りして気取られても困る。
本当に、アルバートには感謝していた。小さな頭を指で撫でてみると、気持ちよさそうに目を閉じるしぐさが可愛らしい。
そうして取り外した小さく薄い紙を、カレンはゆっくりと広げる。
『ラディーヌ、無事加入。速やかに接触を』
それだけが、なんとか読める大きさで記されている。
ラディーヌ。その名は王宮ではラグダッド少佐と同じか、それ以上に有名だ。
蒼く短い髪に、金の瞳を持つ少女兵。女の兵と言うだけで有名になるのも仕方ないのに、さらに彼女はあのラグダッド小隊に配属されたのだ。
ラグダッド小隊とは、ドーナ軍の中でも随一の実力者だけが集められた特殊部隊。二メートルを超える巨漢のラグダッドを初め、その甥のミドルトンや、司令塔のスチュアート、それからアロースミスとカータレットという、五人の男だけで作られている。
その実力は、たった五人で軍団(三万人以上で作られた軍隊)に並ぶともされている。
一か月前に行われた制圧戦争でも、ドーナがこれほどまでに猛威を振るえたのは彼らの存在があったからであるとさえも言われている、いわゆる化物集団なのである。
そんな中に、小柄で可憐な少女兵が配属されたのは。当然、前代未聞であり彼女の存在は瞬く間に王宮内に知れ渡った。
ラディーヌの噂を聞いて反乱軍に教えたのもカレンである。
城外にいるルーシィが接触を図ると聞いて不安もあったが、どうやら無事に勧誘が済んだらしい。
「これで、一先ず最低限の戦力は確保し終わったのね……」
紙を眺めながら、カレンはベッドへと倒れこむ。
きらきらと光る金の髪はまるで天の川のように広がって、窓から受ける太陽の光を美しく反射した。
そんな美しい髪とは反対に、醜くはないがよくもない、特徴のない普通の顔を複雑そうに歪める。
カレンは浚われてきた女たちとは違う。ドーナ国民である。
ドーナ国の中で、グラシェード王に反乱を起こそうという動きは彼が即位してから絶えずあった。だが国内の者は、グラシェード王が何度暗殺の危機に晒されてもまったくの無傷で反乱者を処刑していった姿を知っているが故に、気後れするところがあるのだ。
それを、幸運なのか不運なのか、外から来た女たちは知らない。
知らないで一人、持ちかけてきたのだ。
『ねぇ、アタシたちと手を組まない?』
アルバートを放つ先で働く、女。
誰もが見惚れるほどの美貌を持つ、淡い茶色の髪のルーシィが。
+++
「どういうつもりですか」
「えー、特にどうってこともないんだけど」
彼女に会ったのはちょうど一か月前。
堂々と娼婦として城に潜り込んでいたルーシィを、驚きのあまり部屋へと連れ込んでしまった時のことだった。
まるで隠れようともしないで、ドレス姿のままでうろついているものだから、王が呼んだ娼婦かと思って声をかけたら、「偵察に来たの」となんの気後れもせずに言ってのける目の前の女にぎょっとするあまり、ついしてしまったことだった。
どうしてこんなことをしたのかは自分でもよくわかっていない。あまりに無防備に城を歩いている美女が取って食われやしないかと不安になってしまったのかもしれない。
「今、城でたくさん浚われた女が雇われてるって聞いたから、ここで反乱軍の勧誘したら頭数はそろうかなーって思って入ってきたんだけど」
「はぁ!?」
「やだー、そんな怖い顔しないでよー」
けらけら笑う美女に思わず声を荒らげてしまう。
絶世の美女だと言うのに、あまりに調子が軽いので世俗的に見えてくる。浮世離れした美貌とあまりにちぐはぐで、カレンは頭の奥が痛むのを感じた。
「あの……つまり、グラシェード王に呼ばれた娼婦の方……では、ないんですね?」
「ええ、違うわよ。ただ潜り込んできただけ」
この国の警備は一体どうなっているのだろう。いくら美人でもこんなに簡単に入れてしまうなんてがばがばじゃないか。
カレンの動揺を知ってか知らずか、女はにこにこと無邪気に手を伸ばしてカレンの髪を撫でる。背の高い女らしい、女性にしては大きな手が撫でてくる感覚にぞくりとなにかが背筋を走って、カレンの全神経の反応を止める。
「綺麗な髪ね。あんた名前は?」
「か、カレンです……」
「そう、アタシはルーシィって言うの」
座ったら、とベッドの隣を促す女の言うままに、カレンはそろそろと美女の隣に座る。
たった一回の動作で、あっという間に呑まれてしまった。心臓が明らかに早い音を刻み続けて、体温がぐんぐん高くなっていくのを感じる。部屋の主はカレンだというのに、立場が逆転してしまったようである。
カレンは凡人なのだ。ただの庶民なのだ。こんな、女神とも形容できそうな美女と本来対面できるような人間ではない。それを急激に自覚させられて、もう思うように動けそうになかった。
「アタシね、この国から出たいのよ」
「国から、出る……?」
「そうよ、自由になりたいの」
十分な間を空けてから、女が語り出す。
「アタシ、北の国の出なんだけどね。ここに来る前も娼婦だったの。まぁ、そんなものはどうでもいいわ――だからね、ここから出て自由になりたいの。でも一人じゃそんなことできないじゃない? だから仲間を探してるのよ。反乱軍を作るための。今は、娼館を根城にじっくり仲間を集めてるところ。それでね、お城の中にも仲間がいたらいいのになーって、今日は来てみたの」
今度は女がベッドから立ち上がって、カレンの視界を占領するように前に現れる。
その美貌で顔を覗かれると、もう嘘など付けそうにもなく。隠し事など、できそうになく。
つい、
「……わたしも、反乱軍に入っているんです」
言ってしまった。
ほとんど無意識に、美女に誘われるままに。言ってから、今のは仲間を売る行為だったのではないかと後悔が頭をよぎった。
けれど、目の前の女が笑顔になったことでついにどうでもよくなってしまった。
「そうなの!?」
「は、はい」
まるで押し倒されるのではないかという勢いで肩を掴まれる。美貌の女はどんな距離で見てもあまりにも美しくて、カレンの心臓は爆発するのではないかと思うほどだ。
いい加減見ているのも耐えられず、ゆっくりと押し返して、仲間のことを話す。
「ドーナにも、あるんです……反乱軍。グラシェード王の政治は昔から横暴で……それに抵抗しようっていう集まりなんですけど……」
「へえ……へぇ………!」
嬉しそうにする女と、反乱軍の仲間たちとを天秤にかけて女が勝った。
心の中で謝る。だが、こんなにも美しい女を目の前にして、一体誰が隠し通せるだろう。
ただ女が嬉しそうに笑顔になっていく様子を見るだけでこんなにも心が満たされてしまうのに。
言い訳をするうちに、女がカレンの手を取る。
腰を落として、まるで騎士がするように跪く。その様子にぎょっとして手を離そうとするも、女はきつく手を握って放してくれない。
「ねぇ、アタシたちと手を組まない?」
この女はずるいと思う。
カレンは思う。こんな凡人を捕まえて、そんな風に言われたら、ただの凡人には断る術がないのだ。
カレンは、眩いばかりの金髪だけが浮いて、顔は普通な、ただの少女だ。こんな美女と並ぶのは慣れてない。
「話して……みます」
+++
そうやって、元々存在した反乱軍と浚われてきた女達の反乱軍を結びつけたのがカレンとルーシィだった。それゆえに、鳩を飼っていたこともあってカレンが自然と王宮での統括役になった。
美貌に絆されて、そんなことになってしまったことを、カレンは今でもよかったのだろうかと思っている。
ドーナの国は、ドーナ国民が変えていくべきなのではないかと。
浚われてきた女達による、新しい風がどうしても肌に合わなかった。
王宮の給仕は、もうほとんどが浚われてきた女たちだ。カレンのような国民の給仕は見目の悪い者から次々とやめさせられていった。カレンも、おそらく先は長くない。
王宮給仕になってから一年。そんな幼さで責任者にさせられてしまったのもそんな理由だ。まだ十六の少女には荷が重く、どうしても浚われてきた女達を恨んでしまうこともある。
そうやって、どんどんと国民の場所が奪われていく中で、唯一の希望が、ラディーヌ。
――本当に、これでいいのだろうか。
「……アルバート、わたし、ちゃんと守れるかな」
起き上がって、愛しい家族の頭を撫でる。どんなに問いかけても、彼は返事をしてくれない。
カレンは、この国が好きだ。
きっと、それは同国の民に言ってもわかってはもらえないとは思うけれど。
「ゴードン様……」
小さな呟きに、アルバートがくるっぽーと呑気な返事をした。