レジスタンス序章

それはまさに地獄絵図であった。

火と、血の匂いが、地上にむせ返るほどに充満している。

地上の緑を覆い隠すほどの赤が、嘘のように青い空の日であった。

ドーナ帝国による制圧戦争。

小国でありながらその力は絶大で、瞬く間に大陸を手にした悪魔の国。

優秀なる王グラシェードの指揮は酷く狡猾であり、どの国の王も敵うことはなかった。

そして大陸を手中に治めた王はさらに誰も逆らえぬよう、とどめを刺したのである。

『大陸の美しい女を我がドーナへ連行せよ』

戦争で疲弊していた男たちが女たちを守り切れるはずはなく、無念にも片端から殺され、女の中でも特に美しい妙齢の者たちだけが連行された。

泣き、悲しみ、女たちは哀れにも獰猛な男たちの食い物へ。

乙女たちよ、剣を取れ。

そう言いだしたのは誰だったか。

+++

それは突然訪れた。

ラディーヌは二つに結んだ青く長い髪をなびかせて、いつものように剣を持って、牛たちが襲われないように見張っていた。

遊牧民族であるラディーヌは、その孤立性故に大陸の情勢を何も知らなかった。しかし、その異常にはすぐに気が付いた。

「…………?」

普段、地平線しかないこの平原になにかが見えるということは稀である。渡り鳥だとか、牛を狙う猛獣たちだとか、そういった類はまた別だ。

それは直感だった。なにかがおかしい。その違和感に、ラディーヌは誰よりも敏感に反応した。

「……。兄さん、にいさーん」

「ん? どうした、ラディーヌ」

五つ年の離れた兄で、遊牧民族の長であるグーヴァーに声をかける。ラディーヌと同じ青い髪の、少しくせ毛な、鋭い目つきの男。

ちょうど羊の毛を刈っているところだったグーヴァーはラディーヌの方は見ないまま話を聞こうとした。

「……あのね。…………なんか、向こうの方からたくさんの……馬かな、がこっちに向かってきてるんだけど」

「馬~……?」

このあたりに、ラディーヌたちの飼っている馬以外の生息はない。だとしたらなんだ。不審そうにグーヴァーがラディーヌの指さす方向に顔を向ける。

その瞬間、事態を理解したのかグーヴァーの顔がこわばった。

「……兄さん?」

「お前ら今すぐ武器を取れ!! 女と子供を守るんだ!! ドーナが来たぞ!!」

必死の形相で仲間たちに声をかける。男たちはすぐに硬い顔をして、動物たちを放って武器を取った。

対してラディーヌたち女や子供はドーナという聞きなれない単語に首をひねる。そんなに警戒をしないといけない生き物なのかと顔を見合わせた。

「ラディーヌ、お前も気を引き締めろ。ただの獣が敵じゃないぞ」

「ねぇ兄さん。ドーナってなんなの?」

背の高い兄を見上げる。今まで見たことのないその緊張の面持ちに、少し不安を覚える。

「ドーナは――――悪魔の国だ」

+++

血と、草と、皮膚と髪が焼ける匂い。

大草原に撃たれた火矢は瞬く間に燃え広がり、ラディーヌたちの逃げ場を断った。

仲間の中でも特に強いはずのグーヴァーとラディーヌの二人でさえ、ドーナ軍に対しては多勢に無勢であった。

動かない兄の姿。

現実味のない視界で眺めていた。何度も何度も踏まれていく兄の死骸を見ていると、無力感が溢れた。

ラディーヌもすでに動くのがつらいほどの手傷を負い、地に伏していた。火に焼かれた髪が肌にちりちりと痛みを与える。

周りには共に戦った男たちの骸が転がっていた。自分もいずれ同じものになるのだろうか。朦朧とする意識の中で思う。

「……………………」

朧げな視界の先に大きな足が止まる。無言の圧力が、のしかかる。銅像のように大きな、鉄を纏ったその足は、ラディーヌの顔ほども大きさがあった。

ずる、とラディーヌの体が浮き上がる。霞がかった視界に飛び込んでくるのは、ガラス玉の目をした中年の男の顔。顎にはひげを蓄え、近くへと寄せられると小皺の多いのが目についた。

その男の顔はラディーヌの二倍ほどもあり、胴体だけでもラディーヌの全身をすっぽりと納めてしまいそうに大きい。

巨人だ。ラディーヌは思う。巨人が攻めてきたのだ。きっとこれは夢なのだ。

巨人はラディーヌの顔をじろじろと見ると、後ろでもう馬に乗っている男たちと頷きあう。

それから一瞬ラディーヌの腕を離して、次の瞬間には脇に抱えられていた。

何をされたのか理解するのにしばらくかかった。気が付けば仲間たちが遠くなっていく。

もうここは用済みなのか、馬にラディーヌごと乗り込む。捕虜として連れて行かれるのだとようやく理解が及んだ。

「どこへ行くの…………………?」

かすれた声で問う。しかし大男は軽い一瞥をくれただけで答えてはくれなかった。

どんどん遠くなる仲間たちの姿にひとつ、ふたつと涙が流れる。抗いたかったけれど、指一本動かす力ももうなかった。

――――どこへ行くんだろう。

おそらくドーナとかいう国なのだろう。そこでなにをするのだろう。

今まで何も知らずに育ったラディーヌには考えることもできなかった。ただ牛たちの世話をして、獣たちを追い払って、戦も知らずに育ったラディーヌには。

ラディーヌを抱く腕はひたすらに優しく、そして温度を感じさせないものだった。

きっとこの先は地獄だ。

もう、あの楽しかった毎日は戻ってこないんだ。

そう思わざるを得なくて、またひとつ涙がこぼれた。

+++

町から離れた奥地にそびえ立つ屋敷の前に、ウィンリルは立つ。

少し幼げな美しい顔を、心底興味なさそうに歪ませていた。

――――父上も馬鹿なことをしたものだ。

ドーナ帝国第三王子であるウィンリルは、当然父王グラシェードに逆らうわけにはいかない。けれど他の男と違いウィンリルは女などに興味はなかった。

だからとりあえず手軽に済ませようと、この先の目の上のこぶを潰す名目もかねてとある貴族の屋敷へ訪れていた。

「――――何の用だ、ウィンリル・ボニツェール・ドーナ」

およそ二メートルはあろうかという虎のような男が兵を率いてウィンリル軍の前に立ちはだかる。お互いまだ攻め込む様子は見せない。

自分よりも二回りも大きな相手にウィンリルは怯むどころか興味のない様子で答える。

「聞くまでもないだろう。ラギルダ・ティエルを迎えに来たんだよ」

「……この私が許すとでも思うか」

「大人しくよこせば命くらいは助けてやるが?」

ギッ、と鋭い眼光で男が睨みつけてくるのを、ウィンリルは軽い冗談で返してやる。

その挑発に乗らない男だとわかった上での軽口だった。

「わかっているだろう。私が命を惜しまないことを」

「ああ、知っているよ。ミハエル・オブライアン。お前のその態度は尊敬に値するよ」

――――だからお前はここで死ぬんだよ。

その一言を合図に、両者は剣をぶつけ合い――――。

+++

「ミハエルッッ!!」

血を吐くような声でラギルダは叫んだ。

窓から見えたのは愛する婚約者ミハエル・オブライアンの殺される瞬間であった。

ミハエルを切った剣についた血を払い、蒼髪の男がラギルダの方を見上げた。

少年と言うべき幼な顔に不釣り合いな冷たい目の男だった。

最愛なる婚約者を殺害したその男を、ラギルダは知っている。

悪魔の国ドーナの第三王子、ウィンリルその人だった。

そんな男が戦に繰り出しているのにも驚いたが、なにより驚いたのはラギルダの家――――大陸一の財力と権力を持つティエル家に攻めてきたことだ。

ラギルダの国は大陸でも大国である。そのラギルダの国をドーナが掌握したことは知っていた。しかしそれで終わりだと思っていたし、ここまで火の粉が来るとは思っていなかったのだ。

何故。

おそらくティエル家の権力が大陸を制する上で邪魔なのだ。

隣国である以上、ティエル家の影響は免れない。あの狡猾なドーナだ、当然そのくらいのことは考えるだろう。

この行動が、大陸でどれほどの混乱生むのか。その混乱の中で、どう狡猾に生き延びるかの術さえも。

「どうしよう…………」

ミハエルの骸を見つめたまま動けずに固まっていたところを、無理やり呟いた。

悲しみと怒りと戸惑いでどうにかなりそうだ。何かをしようにも、ラギルダはあまりにも無力であった。

このままここに佇んでいれば、いずれ兵がやってきてラギルダも殺すだろう。まだラギルダの周辺に影はなかったが、遠くから給仕たちの悲鳴が聞こえてきて背筋が凍る思いがする。

――――ミハエルと共に、僕も死のう。

どうせ父も母も殺されるに違いない。愛する人ももういない。ならば一人生き残ってもしかたのないことだ。

しかし敵兵の手によって死ぬなんて、そんな屈辱を受けるわけにはいかない。だとしたら、もはや自害しか手はない。

きつく手を握り締めて決意する。

早く自害するための剣を探さなければ。そう、移動しようと窓から目をそらした先。

「――――……ぁ……………………」

「――――連れて行け」

氷の目をした男が、言った。

+++

きゃ――――――――――――――――――――――ッ!!!

耳をつんざくような悲鳴が娼館を駆け巡る。

その声に驚いて服を着るのもおざなりに飛び出した。その先には、この国のではない紋章をかかげた大量の兵士たちがいた。

――――ドーナだ。直感する。

あとから飛び出してきた客がドーナ兵を見て固まる。逃げ場はない、この男は殺されるだろう。

ばくばくと鳴る心臓を無視してルーシィは服装を直す。さっきまで体を重ね合っていた熱は一瞬にして冷めた。

「こんにちは、ドーナの兵隊さん? こんなところに大勢で物騒ね、何の用かしら」

客は放って、とにかく状況を把握するために近くの兵を捕まえる。

兵の目には一瞬の欲が映り、すぐに軍人の顔に戻った。まだ欲丸出しならば扱いやすかったかもしれない、とルーシィは軽く舌打ちする。

「娼館に来るのなんて、女を取りに来たに決まっている」

「あら、ずいぶん団体様ね。気に入ってくれてうれしいわ」

「そうだな、この人数だからもっと女がいる――――」

ぐい、と兵が腕を引っ張る。突然のことに驚いて逆らおうとしたが、力の差には勝てなかった。

なにすんのよと叫びかかったとき、視界の端に目に鮮やかな赤が映った。

「…………………っ!」

ゆっくりと首を回してその方を見れば、そこには仲間の娼婦の死体がまとめて置かれている山があった。10人、いやそれ以上。もしかしたら、別の店のも混じっているかもしれない。

見た瞬間に戦慄が走り、抵抗するのをやめた。

――――逆らったら殺される。

ほとんど本能的に悟った。事前にある程度は情報を知っていた。おそらく大人しくしていれば暴行されることもないはずだ。ルーシィは自分の美しさを十分なほどに把握していた。

店の外にある台車にも、十人あまりの娼婦が乗っていた。誰もがその美しい顔を暗く俯かせ、ひたすらに黙っていた。薄暗い台車の中、ぼうっと浮き上がる白い肌は、薄気味悪くもある。

「乗れ」

どん、と背中を押されて台車の前に出される。娼婦たちの陰鬱な表情にためらいながら、静かに乗った。

――――このままドーナに連れて行かれるんだわ……。

ドーナ王の出した令はルーシィも伝え聞いている。けれどそれなりに離れているこの国にこんなに早くに、そしてあっさりと来るだなんて。少し驚いていた。

このままドーナへ連れて行かれ、やらされるのは慰安婦かなにかだろうか。だとしたら、今までと何も変わらない。

他の娼婦たちも同じようなことを考えているのだろうか。視線をあげて見回してみるが、表情が抜け落ちた彼女たちからは感じ取れなかった。

それでも誰もが諦めている中、ルーシィだけは諦めてはいなかった。

どうあがいても出られなかった娼館よりも、大きな国であるドーナのほうがきっと希望はあるはずだ。あまりにも無理やりな希望だが、それでもルーシィはすがりたかった。

なんとしてでも自由となって、普通の人生を歩んでみせるのだ。

――――絶対に、どこかに突破口はあるはずなのよ。きっと、きっと……

言い聞かせるように反芻する。

動き出した台車の中、ルーシィは一人、希望ある未来を描いた。

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かくて、女たちは自由を手にするために立ち上がる。