聖痕十話

セナに励ましてもらってから翌日。

ボロボロだった身なりを整えていつものように支度する。泣き腫らしたせいで一日たってもまだ目元に違和感が残るけれど、この際は無視する。

お兄ちゃんの部屋の鍵を持って、もう住居者のいないあの場所へとこれから向かう。

借家である部屋を片付けるのは、バディや親しい友人の仕事。セナは手伝おうかと言ってくれたが、そんなに物も多くないはずなので断った。

準備を終えて扉を開ければ、そこに広がるのは昨日と同じようにすがすがしいほどの快晴で――――昨日のように憎らしく思う気持ちは、もうなかった。

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お兄ちゃんの部屋の鍵を開ける。

重い音を立てて開いた扉の先にはつい先日まで当たり前に見ていた場所が広がっていて、寂しさがこみ上げる。

どんなにこの場所で待っていてもお兄ちゃんが戻ってくることがないことを、今は驚くほどすんなりと受け止められた。セナのおかげだな、とほほ笑みがこぼれる。

セナがいなければ今こうしてすっきりした気分ではいられなかっただろう。ここに来るのも、どのくらいかかっただろう。そう思うと感謝しきれない。

ベッド付近に荷物を置いて片づけを始めることにする。片付いているように見えて物を角に押しやっているだけなのだ。結局、何度言ってもお兄ちゃんは片づけられるようにならなかったな。

ゴミ箱にぱんぱんになるまで詰め込まれたカップ麺をまとめたり、冷蔵庫に入れておいた食材をクーラーボックスへしまう。ガス台の下を漁れば食べられることのなかったカップ麺がまた大量に出てきた。

こんなにカップ麺ばかりあっても困るので今度クラスの男子にでも配ろうか。持ってきたバックに詰め込むけれど少し入りきらなくてまた戸惑う。

一か月のほとんどをカップ麺で過ごしてればこれだけの量も食べるのだろうけど、これはさすがに買いすぎじゃないかとお兄ちゃんをいささか恨む。

もう物がないか確認してからコンセントを抜く。掃除は荷物を全部回収してからだ。

家電や家具は初めからここにあった支給品なので次ここに入ってきた人へと引き継ぐ。そのため私物――――服や文具、食材に食器などはバディやその友人が回収して部屋は初期の状態へ戻す。

そう教えられたのは学校でだったか、お兄ちゃんからだったか、それとも噂だったか。どこで聞いたかはわからないが聞いた通りの手順で片づけを続ける。

お兄ちゃんの寝相が悪いせいでぐちゃぐちゃになっていた布団を干したら文房具が出しっぱなしの机を片付けに入る。

仕事の資料らしきファイルを適当にめくってみるけれどよくわからないから寄せておく。後で先生たちにどうすればいいか聞きに行こう。それから仕事は関係なさそうな少ないノートや冊子をゴミ袋へ入れる。

中には一週間そこらで飽きたらしい日記のノートも混じっていて、それがまた三行も書けてなくて小学生みたいだと思わず笑ってしまう。どうやら飽き性でもあったらしい、こうなってからまた新しく知るなんて。

引き出しの中からは大昔わたしの描いた絵なんかも大事に閉まってあったりして顔が熱くなる。7年も昔の、こんなものを几帳面にとっておかなくていいのに。

お兄ちゃんだと言って無邪気に見せた昔の自分を呪うと同時に、泣きそうに暖かい気持ちになった。

出てくるものに笑ったりなんだこれと思ったりしながら片づけを進めていると、二通の便箋が出てきた。

色気もそっけもない茶封筒。その表には「由井へ」と書かれたものと「沙耶へ」と書かれたものがあった。

沙耶とは、誰だろう。知らない女の人の名前。

お兄ちゃんの知り合いに、そんな人はいない。……いるとしたら、きっと、外の人だ。

指が震える。

読みたい衝動を抑えて茶封筒を鞄へ仕舞う。

早くするべきことは済ませてしまおう。今読んだら、片づけなんて手につくわけがない。

それから大急ぎで残りの片づけを進めた。ただひたすら、一心に。

少しでも考えたら、なんだか泣いてしまいそうで――――。

生活感のないからっぽの部屋はただ無機質で、それゆえにどこか非現実的で写真のようだ。高い太陽の日差しが差し込んで、余計に幻想的に魅せてくれる。

8時に掃除を始めたのに終わったときには3時になっていた。間に昼食も挟みはしたけど、それでも一日中動き続けていたら疲労が体にのしかかる。

ずっと集中していたせいもあるかもしれない。ぴんと張った糸を切ったように、今は体が重かった。

片づけが終わったら、役所へ行って死亡届の手続きをして鍵を返す。そうしたら、お兄ちゃんは本当に故人になる。

座り込んだまま手の中にある二本の鍵――――お兄ちゃんとわたしが持っていたそれぞれの鍵を、見つめていた。

本当はすぐにでも行かないといけないけれど、お兄ちゃんと一緒に暮らしていたこの部屋がただの空き家になるのが切なかった。

背にしていた布団から太陽の匂いがする。この部屋がお兄ちゃんのものだったという証拠はどこにも見えない。

両親が死んだときはショックと恐怖ばかりでこんな寂しさを覚えることはなかった。まだ小さかったから、覚えていないだけかもしれないけれど。

空白の空間も手伝って虚無感ばかりが広がる。風に揺れるカーテンを見ていると、そのまま一日を過ごしてしまいそうだった。

深い深いため息をついてから重い腰を上げる。カップ麺や文房具でいっぱいのバッグと少ない食材の入ったクーラーボックスを持って、窓を閉める。

これで本当にお別れ。そう思うと切なかったけれど、涙は昨日全部流したからか、出なかった。

靴を履いて部屋を振り向けば、そこはただの部屋でしかなくて――――。

「……さよなら、お兄ちゃん」

それを確認すると、もう未練はなかった。

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鍵を返した後は妙にすっきりした気分だった。片づけしたときに気持ちの整理も終わったみたいだ。憑き物でも落ちたように軽やかだった。

長くクーラーボックスに入れていた食材を冷蔵庫に移したり、カップ麺や引き取ってきた文房具を片付ける。重かったバッグが軽くなった頃、底から二つの茶封筒が覗く。

軽かった体がびくりと跳ねて固まる。

掃除をしていたときに見つけた、お兄ちゃんの、遺書。

ゆっくりわたしの名前が書いてある方を手に取る。見慣れたお兄ちゃんの文字で、手紙が書かれていた。

『由井へ。

あなたがこの手紙を読んでいると言うことは、僕はとうとう死んだのでしょう。

同年代の人たちが狂暴化していく中、よくこんなにも生きていられたものです。7年、あなたと一緒に居られてよかった。

来てすぐのときはそんなことはなかったのに、由井と出会ってからは狂暴化するのがずっと怖くなったのを覚えています。

いつ、小さなあなたを一人ぼっちにするか不安で不安で、でも、あなたの成長をここまで見届けられてよかった。

僕がバディで、頼りなかったでしょう。家事はできないし、子供の扱いが上手いわけでなく……あなたがしっかりした子でよかった、と言ったらきっと他の人たちに怒られますね。

由井は、僕がバディでよかったでしょうか。直接言うのは恥ずかしいのでここに書きますが、由井がバディで本当によかった。

初めてあの小さな手を握ったとき、妹ができたようでうれしかった。本当は喜んでいい状況ではないかもしれませんが……。

まったくの他人の子の面倒を見る。それは由井も戸惑っていたように僕もすごく困っていました。子供の相手をしたことはないし、自分の生活だっていい方じゃないのに。

由井もどうして赤の他人なのに優しくするのかと聞いてきましたよね。

その理由は今もよくわかりません。でも面倒臭いとか、そういう感情はどうしてか沸いてこなかったのは覚えています。

すごく不器用に、遠慮しながら過ごしてきた気がします。他人といきなり一緒に暮らすのは本当に難しくて、それでもとても楽しかった。

上手く言葉に表せませんが、僕のバディが由井でよかった。それだけは思うんです。

由井、あなたはしっかりしているから、僕がいなくても大丈夫でしょう。

あまり辛いことは溜めこまないで、友達にちゃんと相談をしてくださいね。溜めこんで体調を壊したりしないように。

僕の死を悲しんでくれたらうれしいけれど、由井が泣くのは嫌ですね……。

もしも悲しんでくれているのなら、どうかすぐに立ち直ってくれることを願います。

拙い文でごめんなさい。

いままでありがとう。』

何度も書きなおしてぐちゃぐちゃの紙に黒いしみができる。

読んだ瞬間、過呼吸になったように胸が重く苦しく詰まった。手は震え、息ができない。

長く長く息を止めていて、涙を流していることに気付いたのはもっと後。

けして上手いとは言えない文章。何度も書きなおしたことがわかる消えきらなかった鉛筆の線。消しゴムをかけたときに寄ってしまったらしく紙はいくつもの折れ目がついていた。

たったこれだけで、どれだけお兄ちゃんが不器用で優しいことがわかって、涙が止まらない。

せっかく気持ちの整理がついたのに、これでは逆戻りだ。お兄ちゃんの馬鹿。

どうにか深呼吸をして震える手で涙をふく。

拭っても拭っても止まらなくて、静かな部屋に嗚咽が響く。

それでも一昨日とは違うのは、世界の終りのような悲壮感がなかったことだ。

10分くらいベッドにもたれかかりながら泣いていたら徐々に落ち着いてきて、再び手紙を手に取る。

元からよれよれだった手紙は涙でぬれたせいでかぴかぴになっていた。ごめんねお兄ちゃん。

折りづらくなった手紙をたたんで封筒に戻そうと封筒の中を覗くと、まだ何かが入っているのが見えた。

逆さにして出てきたのは、なんの素っ気もないメモ用紙だった。

『P.S.

少しお願いをしてもいいですか。

ある人に、一緒に見つかったはずのもう一つの手紙を届けてほしいのです。

嫌ならば行かなくて構いません、外に出ることになりますから……。

彼女の家の電話番号と、名前を裏に書いておきます。

彼女は理解のある人です。どうか、お願いします』

裏を見てみると、神田沙耶という名前と、電話番号が書いてあった。

家族でもない女性への手紙。それだけで、彼女がどんな人か嫌でもわかる。

正直、あまり行きたくない。

お兄ちゃんが好きだった人と、どんな顔をして会っていいのかわからない。

敵意を向けることは、おそらくない。でもただ名前を見るだけでも複雑なのに、本人に会うとなると、考えるだけでどうしたらいいのかわからない。

どんな人で、今なにをしている人で、どこにいて、今お兄ちゃんのことをどう思っているのか。気になることはたくさんあって、それでもどれも聞けるわけがない。お兄ちゃんへの想いは、一番聞きたくない。

メモを片手に、悩む。

行きたくない。でも、お兄ちゃんのお願いを聞かないわけにはいかなくて――――。