桃瀬かるた

赤木嶺と 古利根の流れ 桃瀬の里

2万4千年ほど前に、赤城山、榛名山、浅間山が大噴火して、山崩れをおこしました。流れだした泥流が前橋台地をつくりました。この前橋台地と赤城山のすそ野の間を流れている利根川は、氾濫を 繰り返して、広瀬川低地帯をつくりました。今、この広瀬川低地帯 を広瀬川と桃木川が流れています。桃瀬小地区は、この二つの流れの間にあり、すべて古利根川の流れた低地帯に入ります。

今むかし 地域をうたった 八木節音頭

西片貝町には、子供連八木節保存会があります。「西片貝町八木節音頭」の歌詞には、地域の歴史や言い伝え、町の位置関係や地域社会の様子などがうたい込まれています。

今も、この八木節は、地域の子供たちに大事に受け継がれています。八木節は、新潟県の口説き節が元になって、足利市の渡辺源太郎が作った民謡です。今は、群馬県を代表する民謡となっています。

牛島の 供養に建てた 馬頭観音

桃瀬小地区は、昔は農業が盛んでした。牛や馬が田畑を耕すために使われ、農家では、大切に飼われていました。田畑を耕すために一生懸命働いた牛や馬に感謝して、供養するために建てられたのが馬頭観世音菩薩です。今、馬頭観世音菩薩は、玉蔵院に2つ、石尊宮付近の三さ路北側に1つ、市場通りと桃瀬小に行く道路の交差点の北側に1つあります。

江戸道の おもかげ残す 松並木

前橋藩主や沼田藩主が参勤交代などに使っていた江戸道は、天川新町、天川町、天川大島町、駒形、町から五料の関所を通って本庄の関所あたりで中山道に入り、江戸に向かう道でした。前橋古河線の天川大島町にある松並木は、いつ誰が植えたものかはっきりしませんが、松の木陰は、疲れた旅人に一時のやすらぎを与えたにちがいありません。

大塚の 古墳をきずいた 古代人

片貝神社の裏にある大塚古墳は、6世紀頃につくられた古墳です。古利根川の沖積地上にきずかれた現在あるただ一つの古墳です。旧桂萱村にある古墳の中でニ番目に大きい前方後円墳ですが、現在は、後円部だけが残っています。

雁の住む 雁堀跡に 小学校

今、桃瀬小があるところは、小字を「雁堀」といい、農地となるまでは、雁などが住んでいる沼地でした。また、その昔、ここは片貝城の外堀でした。

北関東 つなぐ 国道50号

昭和8年に県道の前橋・桐生線ができました。さらに昭和38年に足利・水戸を結ぶ重要な路線ができて、昭和40年に前橋と水戸を結ぶ国道50号線となりました。現在は、北関東の物や人が行き交うために重要な役割を果たしています。

空襲で 焼け野と化した 前橋市

第二次世界大戦の終わり近い昭 和20年8月5日、前橋市はアメリカの爆撃機B29、92機によって空襲を受けました。前橋の市街地の約8割(全焼11,462戸) が焼けてしまい、535人もの人が死にました。

県民の 命を救う 血液センター

昭和37年に日赤病院の中に日 本赤十字群馬県血液銀行がつくられました。その血液銀行が昭和 59年に天川大島町二丁目に移されて、群馬県赤十字血液センターとなりました。

献血された安全な血液を県内の病院にとどこおりなく届け、県民の尊い命を救っています。

米をつく 杵の音なつかし 原の水車

明治7年頃、天川大島町原町は、松やススキの茂る原野でした。そこを流れる広瀬川に高さ2mの石積みをして新貝堰を造り、そこから水路(車川)を引いて水車を造りました。水車は、羽の幅約1m 10~80cm、高さ6~7mもある壮大なもので、米をつく臼が22機、粉挽き臼が2機、赤城山のふもとで一番大きい規模の水車でした。昭和1607年頃まで、杵の音が一里(4km)四方まで届いていたということです。

産業の 開発ささえる 東部バイパス

東部バイパスは、前橋市都市計画と東部土地区画整理により、昭和37年から14年をかけてできた道路です。東西に国道50号線、南北に東部バイパスと交通に恵まれたこの地域は、急速に開け市街地になりました。また、児童文化センター近くに、徳川三代将軍家 光の頃、疫病から人々を救うために即身成仏となった満開上人の「満開塚」がありました。そこに東部バイパスができたので今ではなくなってしまいました。

信頼の 自動車検査 陸運局

昭和55年、前橋生鮮食料品総合卸売市場の北側に関東運輸局群馬陸運支局が移転してきました。ここでは、自動車を登録してナンバーを付けたり、自動車が保安基準に適しているかどうか検査したりしています。道路を走る自動車 は、きちんと届け出のしてある整備の行き届いた自動車であるように目をひからせ人々の安全を守っています。

すこやかな 子どもを育てる 児童文化センター

子供の教育活動を向上させるための施設が必要だという地域の強い求めに応じて、昭和44年に児童文化センターがつくられました。児童文化センターでは、交通公園やプラネタリウムなどの施設を活用して、いろいろな教室や行事を行い、子供の科学・芸術文化・交通安全教育を進めています。

また、前橋子ども情報局として、市内の催しや活動など子どもに向けて情報提供する拠点にもなっています。

生産と 消費のかけはし 総合卸売市場

時代に合わせて生鮮食料品の流通を便利にしたり、効率をよくしたりするために、前橋市内のあちこちにあった青果市場と魚市場などをまとめて、昭和45年に前橋生鮮食料品総合卸売市場がオープンしました。

交通の便のよい、広い敷地の総合卸売市場には、前橋青果市場、前橋魚市場、前橋生花市場があります。豊富な品揃え、価格の統一入荷・卸などがとても便利になりました。

送電と 変電行う 野中変電所

東京電力野中変電所は大正3年にでき、第二次世界大戦の時には戦災にもあいました。今は、変電所、中継所、研修所の働きをしています。変電所としては、前橋市内の電力供給の一部をになってい ます。また、水力発電所から送られてきた電気を高崎方面や東毛方面、埼玉方面などに送る中継所として送電もしています。研修所には、変電シュミレータ研修施設もあって、研修・訓練の拠点となっています。

旅人の 安全願う 道しるべ

天川大島町松並木の刑場跡供養塔の所に道しるべがあります。道しるべの正面には旅人の安全を願い「南無阿弥陀仏」と「宝暦五歳 (1755)」、その下に「右江戸みち、左あ徒満道」と彫られています。「あづま道」は、古代の律令 政治の都(京都)から奥州(東北地方)への公の道「東山道」の名残りと考えられ、小相木一実政の渡し一六供-天川 - 天川大島-上 大島-上長磯を通り、国道50号にほぼ沿って続いていました。

中世の 庶民の信仰 阿弥陀さま

中世の戦乱の時代、一般の人々の間では、阿弥陀様の信仰が盛んでした。

人々は戦乱の中で苦しみ、阿弥陀様にすがって、来世は阿弥陀様のいる極楽へ行きたいと願ったのでした。

東片貝の墓地に阿弥陀来像の代わりにぼん字(梵字)のキリークという文字をきざんだ石碑があります。

また、この辺りの地名を「阿弥陀」といっています。

強い意志 豊かな心 桃瀬小

桃瀬小は、昭和47年4月1日に西片貝町二~五丁目、東片貝町、天川大島町一~三丁目を学区にして開校しました。開校した時の児童の数は、706人でした。

寺子屋の 昔をしのぶ 筆小塚 

昔、寺子屋で学んだ弟子たちが師匠を敬い、その恩に感謝して建 てた碑が「筆子塚」です。桃瀬小地区には、西片貝町の王蔵院に法印祐詮を慕って弟子39名が建てた塚、西片貝町の龍澤寺に宗音大和尚のための塚、東片貝町に弟子50名による片山半兵衛の塚の3つの「筆子塚」があります。「筆子塚」から、この地区は昔から学問を尊ぶ土地柄であったことがうかがえます。

土地改良 機械化進む 農作業

「西片貝、東片貝、天川大島などの前橋東部の土地改良は、昭和40年にほぼ終わりました。きちんと区画されて水路が整った広くて四角の田畑では、大型の農業機械を使えるようになりました。桃瀬小北の四つ角に昭和49年7月吉日と刻まれた東部土地改良竣工記念碑があります。

なごやかに 元気に楽しく サイクリングロード

前橋東部の土地改良にともなって、桃木川も整備されました。昭和47年に桃木川の堤防に下小出町から駒形町までの13.5kmのサイクリングロードがつくられました。

ニコニコと 人の輪広げる 公民館 

地域の生涯学習のかなめとなるところが公民館です。桂萱公民館をはじめとする各町の公民館では、さまざまな活動を通して、人々のふれ合いの輪を広げています。そして、子供も大人もお年寄りも生きがいをもち、同じ地域に住む人として協力したり、助け合ったりしてみんなで素晴らしい地域にしようと努めています。

ぬくもりの あふれるみんなの 町公園

桃瀬小地区の各町には、西片貝、町公園、新東橋公園、原町公園、 片貝緑地公園、しみず公園などの町公園があります。公園は、地域の人々の協力により、いつも明るくきれいて、子供からお年寄りまでみんなのふれあいといこいの場となっています。また、西片貝町にある須賀の図は、昭和の初め頃は県下一の藤の名所といわれ、今でも5・6月頃には美しい藤の花が人々の目を楽しませてくれます。

ねんごろに 霊をとむらう 市の斎場

明治27年に天川大島町に炉一基で火葬場としてスタートしましたが、昭和47年に従来の火葬場という概念を一新した近代的な総合葬祭施設としてふさわしい現在の「前橋市斎場」が完成しました。

農業の 守り神さま 早虎稲荷

昔、お稲荷様のお祭りは一般にはその年の豊作を祈って、農作業にとって大事な馬にちなんで2月の初午の日とされていました。ところが、片貝では十二支で午(馬)より順番の早い虎(寅)の日にお稲荷様のお祭りを行い、より豊かな実りを祈りました。そこでここのお稲荷様は、「早寅福荷大明神」と名付けられたと考えられます。「早見稲荷」は、特に養蚕の神様として崇められていまた。

働く人が いこい楽しむ産業人 スポーツセンター

東片貝町にある産業人スポーツセンターは、前橋市内で働く人がスポーツを楽しみ、疲れをいやして仕事に励むことができるようにという目的で、前橋市内の約50の会社と前橋市がお金を出し合って、昭和40年につくりました。軟式野球場が4面あり、1面は夜間照明設備がついています。

引き継がれ 祭りに響く 祇園囃子

昔、東片貝は、上郭、東郭、南郭の三つの部に分かれていました。そして、それぞれの郭に屋台があり、祇園囃子がありました。今、この三つの祇園囃子を一つにまとめて、お囃子のできる地域のお年寄りから子供たちへと受け継がれています。東片貝町の夏祭りには、小太鼓、大太鼓、鉦、横笛からなる祇園囃子が、子供たちによって奏でられ、夜空に響き渡ります。

複線化 進めて走る 両毛線

前橋の市街地を東西に横切っている両毛線は、前橋市が発展するための大事な鉄道です。「昔、養蚕が盛んな頃、簡や生糸を運ぶために鉄道が計画され、明治21年に小山-桐生間、翌年に桐生一高崎間が開通しました。昭和43年には前橋駅と駒形駅の間が複線化されました。また、昭和62年には新前橋駅から天川大島町までが、高架になりました。

平成11年3月には前橋大島駅が開業しました。

平和と安全 市民の生活守る 東警察署

昭和55年に前橋市の東部の治安を維持するために、天川大島町一丁目に、前橋東警察署ができました。できた当時の署員は28名でした。人々が平穏で安全であるようにと、犯罪を防いだり取り締まったりしていつも人々を守ってくれています。

豊作と 平和の祈り 太々神楽

片貝神社に伝わる太々神楽は、前橋市の指定無形文化財です。片貝神社のお祭りは、1月13日と4月13日に行われ、この時、豊作と人々の健康を願って太々神楽が奉納されます。この神楽は、明治の初め、総社神社から伝えられたという里神楽というものです。

昔は、神楽を舞うことができるのは、片貝に生まれた長男だけでした。しかし、今ではこのしきたりはなくなり、同好の人によって神楽を受け継いでいる努力がなされています。

前橋藩の 刑場跡に 供養塔

天川大島町の松並木にある前橋藩刑場跡供養塔は、前橋市の指定重要文化財で、天保12年(1841年)68人の町人か世話役となって建てられました。これが建てられた天保の頃は、凶作のために世の中が不安な時代でしたので、処 刑された人の霊をとむらうことて、世の中が少しでも良くなることを願ったのかもしれません。刑場跡は、現在の供養塔の所より北に100mの所にありました。供養塔は昭和47年に今の所に移されました

水自慢 支える野中の 浄水場

清らかでおいしい水と前橋の水は、全国に知られています。利根川をはじめ広瀬川・桃木川など多くの川が流れ、古くから豊かな水に恵まれています。野中浄水場は、昭和42年に完成し、市内で二番目に大きな浄水場です。(10本の井戸から1日に23,250立方mの水を汲み上げることができます。汲み上げた水は、塩素消渉などをほどこして水道水として、主に前橋市の南東部に配水しています。

村や町 赤城の南部を つなぐ上電

上毛電気鉄道では、前橋、大胡、本庄と前橋-桐生を結ぶ鉄道をつくる予定でした。大正時代、群馬県では養蚕が盛んで、製糸は前橋、織物は桐生を中心に栄えていました。そこで、大正15年にまず前橋と桐生の間の鉄道を開通しました。しかし、その後戦争が激しくなり、前橋と本庄の間の鉄道の建設は中止になってしまいました。上電は前橋ー桐生間7市町村を結び、主に通勤・通学に利用されています。

名工の 見事な彫刻 片貝神社

片貝神社の社殿の梁や柱には、破風の懸魚、極楽鳥(カリョウビンガ)、竜などの見事な彫り物がほどこされています。片貝神社には、大塚の森を背にして真ん中に片貝神社、西に早虎稲荷大明神、東に虚空蔵様がまつられています。明治時代、政府から神様と仏様を分けるようにと命じられましたが、信心深い片貝の人たちは、それに従わず、それまで通り神様と仏様を一緒の場所にまつったままにしておき、今に至りました。

桃瀬の 里の信仰 虚空蔵さま

清らかでおいしい水と前橋の水は、全国に知られています。利根川をはじめ広瀬川・桃木川など多くの川が流れ、古くから豊かな水に恵まれています。野中浄水場は、昭和42年に完成し、市内で二番目に大きな浄水場です。(10本の井戸から1日に23,250立方mの水を汲み上げることができます。汲み上げた水は、塩素消渉などをほどこして水道水として、主に前橋市の南東部に配水しています。

野菜肉 パワーのみなもと 学校給食

桃瀬小の給食は、桃瀬小地区に隣接する上泉町の前橋市学校給食中央共同調理場でつくられています。中央共同調理場は、昭和55年にできて、1日に12,000食分の給食をつくることができます。

今、前橋市の中部と北東部の小中学校と養護学校の14校に給食を届けています。学校給食は、食事についての正しい理解と望ましい食生活や豊かで明るい学校生活などを目的として行われています。

ゆずりあい ルールを守って 交通安全

昭和56年にできた前橋東交通安全協会では、自動車の運転免許の書きかえ、交通法規講習会、優良運転手の認定などを行っています。すべての自動車の運転手が交通規則をきちんと守って安全運転し、交通事故のない明るい社会にするようにと地域の人たちとも協カして交通安全活動に取り組んています。

用水の 役目をになう 広瀬・桃木

農作物が少しでも多くとれて、農作業がいくらかでも楽になるようにと、農民の願いをこめて、大正7年から田畑の整備がはじまりました。農業に欠かせない水路として、広瀬川や桃木川が整備されてきました。広瀬川と桃木川の水は、昭和23年につくられた板東大堰合口から利根川の水を取り入れて流しています。

乱世に その名を残す 設楽備前守

戦国時代、上杉謙信は厩橋城(前橋城)を関東制覇の拠点としました。謙信は、越後(新潟)を引き上げる時に、北条丹後守高広を厩橋城の城代にしました。その家臣が片貝城の城主・設楽備前守です。残念なことに設楽備前守の働きについては記録が残っておりません。

律令の 昔をしのぶ 桂萱郷

18世紀、律令政治の下、上野の国には14の郡(多野、碓井、片岡、甘楽、緑野、那波、佐位、新田、山田、邑楽、勢多、吾妻、利根、群馬)がありました。勢多郡には9郷(深田、深沢、深梁、田邑、真壁、時沢、藤沢、芳賀、桂萱)があり、片貝は桂萱郷にありました。

ルールと技 心身きたえる スポーツ少年団

地域には、野球、サッカー、ミニバスケットボールなどさなざまな少年スポーツ団があります。地域の指導者のもとで、異なる年齢の子供たちが、スポーツの練習に励んでいます。技能を高めるとともに、スポーツを通して心身を鍛えたり、人と人との関わりを通して豊かな心を育んだりしています。

歴史の足跡 今に伝える 地域の地名

天川大島、東片貝、西片貝など の「島」や「貝」は「川」とか かわりを示す文字です。

このように「川」に由来する地名から、桃瀬小地区は、古利根川の河道であったことがうかがえます。

ロボットも 大活躍の 家具づくり

昭和55年、天川大島町・上大島町につくられた東前橋工業団地の中に、市内のあちこちにあった家具工場を集めててきたのが木エ団地です。

前橋市では、山が近い、晴れた日が多く冬の空っ風は材木をかわかしてくれるなどの自然環境を生かして、昔から家具づくりが盛んでした。交通の便がよく住宅地から離れた広い敷地の木工団地の家具工場では、コンピューターやロボットも使って家具がつくられ、全国に送り出されています。

わき水に 願うご利やく うなぎ池

昔、片貝では、うなぎは虚空蔵様の化身と信じられ、特に大事にされていました。そこで、片貝人たちは決してうなぎを食べませんでした。

今でも、片貝神社の入口にうなぎ池がありますが、医学が発達していなかった昔には、この池の水は眼の病気に効くと信じられていました。虚空蔵様にお願いして眼の病気がなおると、人々はそのお礼にこの池にうなぎを放したということです。