慶長2年(1597) 侍は5人、農民・町民は10人をもって5人組、10人組を作り、辻斬りや、盗賊を防ぐ組織を整備した。
身延町 みのぶちょう
https://www.town.minobu.lg.jp/chosei/choushi/T03_C04_S03_1.htm
秀吉、巨椋(おぐら)池を干拓し宇治川に太閤堤築く-伏見が交通の要衝として発展 1596年2月14日(文禄5年1月16日)
防災情報新聞
秀吉、京都に御土居を築き、都を長年の水害から防ぐ 1591年2月~(天正19年1月、閏1月頃~)
防災情報新聞
天正15年(1587)バテレン追放令
天正十三(一五八五)年八月には、多武峯の僧徒に武器の提出を命じ、武装解除を強行し、寺社の武力反抗の防止に着手している。
このことが三年後の全国的な「刀狩り令」に発展し、兵農を分離して武家政権の長期安定化に役立つのである。
香芝市
天正13年(1585) 豊臣秀吉 関白
太閤検地は、1582年から1598年まで行われ、全国の土地の生産力が米の量で表されることになりました。
NHK
https://www2.nhk.or.jp/school/watch/clip/?das_id=D0005403062_00000
村民生活一般を規制する村掟 滋賀県
信長は、「楽市(らくいち)・楽座(らくざ)」という制度をつくります。 NHK
https://www2.nhk.or.jp/school/watch/clip/?das_id=D0005310069_00000
永禄3年(1560)5月、今川義元は2万5千もの兵を率いて尾張国へ侵攻を開始します。この中で起きたのが、いわゆる桶狭間(おけはざま)の戦いです。
国立公文書館
https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents1_03/
享禄4年(1531) 現役の室町将軍である義晴が足かけ4年も安土町内の桑実寺(くわのみでら)に身を寄せ、義晴を取り巻く幕府の組織もここで機能していた
滋賀県文化財保護協会
石見(いわみ)銀山は1527年に発見され、それ以後本格的に開発が開始された。
島根県
https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/ginzan/outline/outline_08.html
足利学校
永正年間(1504~1520)から天文年間(1532 ~1554)には学徒三千といわれ、事実上日本の最高学府となり、
第7世玉崗瑞璵九華の30年間にわたる在任中おおいに発展
https://www.city.ashikaga.tochigi.jp/education/000031/000180/p001417.html
朝倉家の分国法
「朝倉孝景条々」は、越前の戦国大名・朝倉孝景の家訓であり、孝景晩年の 1479 年 (文明 11)~1481 年(文明 13)に成立したとされています。
福井県立図書館
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/bunsho/file/615245.pdf
大乗院寺社雑事記 だいじょういんじしゃぞうじき
https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/rekishitomonogatari/contents/27.html
興福寺の門跡寺院大乗院の門主、尋尊(じんそん 1430―1508)の日記
応仁の乱をはさむ室町後期の政治・経済・世情・風俗
応仁の乱
応仁元(1467)年から文明9(1477)年までの11年間,管領細川勝元(ほそかわかつもと)の東軍と山名宗全(やまなそうぜん,持豊<もちとよ>)の西軍が戦った内乱。
京都市情報館
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi14.html
コシャマインの蜂起
『新羅之記録』によれば、康正二年(1456年)から翌年にかけて、道南地方に居住する和人と、先住のアイヌとの間に大きな戦争が起きました。
松前町
https://www.town.matsumae.hokkaido.jp/hotnews/detail_sp/00000350.html
鹿苑寺(ろくおんじ)は,鎌倉時代に造られた貴族の別荘を,足利義満が応永4年(1397)に譲り受けて粋を尽くした別邸北山殿に造り替え,さらに義満の死後応永29年(1422)に,夢窓疎石を開山とする禅寺とされたことに始まります 。
京都市情報館
夢窓疎石(1275年:建治元年~1351年:観応2年/正平6年)
国師は、弟子に連なる者一万人と言われ、1351年に76歳でこの世を去るまでの間に、七人の天皇・上皇から、夢窓・正覚・心宗・普済・玄猷・仏統・大円と国師号を賜り、七朝の帝師と称えられています。
恵林寺
https://erinji.jp/history/%E5%A4%A2%E7%AA%93%E5%9B%BD%E5%B8%AB
夢窓国師の教え
円覚寺
https://www.engakuji.or.jp/blog/27566/
絹本著色夢窓疎石像 けんぽんちゃくしょくむそうそせきぞう
絹本著色無極志玄像 けんぽんちゃくしょくむきょくしげんぞう
文化庁
丹波綾部の安国寺 京都府綾部市
尊氏が全国に設置した安国寺、その筆頭に置いたのは丹波綾部の安国寺(安国寺町)だった。
綾部市
延元元年 (1336)
12月 後醍醐天皇京都脱出。
23日 穴生(賀名生)着、28日吉野山へ入る
五條市
https://www.city.gojo.lg.jp/material/files/group/41/rekisinenpyou.pdf
奈良県
https://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/fukabori/detail11/
足利尊氏が武家政治再興の基本方針として「建武式目(しきもく)」を発表
NHK
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/nihonshi/contents/resume/resume_0000000578.html
宮内庁
蒙古襲来は鎮西御家人たちに大きな影響を与え、豊前の武士らも戦いや防衛にと活躍しています。鎮西探題は元弘3年(1333)に鎌倉幕府が滅亡するまで、九州統治を行いました。
中津市歴史博物館
鎮西探題(ちんぜいたんだい) 福岡市博物館
https://museum.city.fukuoka.jp/sp/exhibition/503/
征西将軍宮・懐良親王の九州下向 鹿児島県
足利尊氏(あしかがたかうじ)
1333年、後醍醐天皇とともに北条家を倒し、「建武の新政」の立役者となった
栃木県
https://www.pref.tochigi.lg.jp/c05/intro/tochigiken/hakken/jinbutsu1_08.html
臨済宗南禅寺派の本山。1291年(正応4)亀山法皇の離宮を賜り、無関普門(大明国師)が開山。室町時代は隆盛を極め、「五山之上」に列せられた。
南禅寺
一遍上人絵伝(遊行上人伝絵巻)
文化庁
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/487094
一遍上人の念仏
円覚寺
https://www.engakuji.or.jp/blog/27597/
弘安2年(1279)、41歳の時、信州佐久郡で踊り念佛を始めます。
無量光寺
1274年の文永の役
弘安4年(1281年)5月、元軍は前回の3倍以上の15万人近い兵を乗せた世界最大級の船団で再度、攻め寄せて来ました。
蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)
NHK
https://www2.nhk.or.jp/school/watch/clip/?das_id=D0005403028_00000
日蓮聖人(1222-1282)
国土交通省
https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001557396.pdf
1274年5月17日を日蓮聖人身延入山の日、同年6月17日を身延山開創(かいそう)の日としています。
身延山久遠寺
https://www.kuonji.jp/history/
池上示寂 立正大学図書館
https://www.ris.ac.jp/library/nichiren-kichou/d61_05/index.html
親鸞聖人(1173年~1262年)
1235年(嘉禎1) 63歳 このころ帰洛する。以降約30年の間、『教行信証』に推敲を重ねるとともに、『一念多念文意』『唯信鈔文意』『浄土三経往生文類』などの著作、また手紙をあらわして教化に尽くす。
東本願寺真宗会館
https://shinshu-kaikan.jp/learn/shinran
東本願寺
御成敗式目の要点 (ごせいばいしきもく)
https://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/goseibaishikimoku/
御成敗式目が生まれるまでの道のり 貞永元(1232)年施行
https://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/goseibaishikimoku/history.html
承久3年(1221) 「承久の乱」が起こり、後鳥羽上皇が北条氏率いる鎌倉御家人に合戦で敗れ、隠岐に流された
京都文化博物館
https://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/yomigaerujoukyuunoran/
『貞観政要』はおそくとも平安時代前期までには日本に伝わり、鎌倉時代の北条政子、江戸時代の徳川家康、そして明治天皇も愛読したといわれています。
NHK
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/94_gokyo/guestcolumn.html
明恵上人夢記 みょうえしょうにんゆめのき
高山寺(こうさんじ)(京都市右京区)を開いた鎌倉時代の僧明恵(一一七三〜一二三二)は、二十歳前後から晩年まで、生涯の大半にわたり、自分が見た夢を紙に書いて記録していた。
奈良国立博物館
https://www.narahaku.go.jp/collection/1259-0.html
建永2年(1207)より建暦元年(1211)の間にみた夢が断続的におさめられ、速い筆運びのいかにも学僧にふさわしい筆跡が特徴である。
文化庁
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/148414
建仁3年(1203) 東大寺南大門仁王像
http://inori.nara-kankou.or.jp/inori/special/13unkei_kaikei/
栄西禅師(ようさい ぜんじ 1141~1215)
1202 建仁2年 6月22日 建仁寺を創建
聖福寺
http://shofukuji.or.jp/wp/soshi2/yousaizenji/
慶長4年(1599)の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)による本坊方丈の再建
東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1632
『興禅護国論和解(こうぜんごこくろんわげ)』の写本(両足院蔵)には、「イヤウサイ」と読みがふられています。