いろは歌は、平安時代末期以降(明治時代初めに至るまで)、子供がはじめて平仮名を習うときの手本として使われるようになりました。
国立国語研究所
法然上人が専修念仏を開宗する43歳のときには後白河法皇49歳(66歳崩御)、平清盛58歳(64歳寂)とまさに平家そして院政の時代である。このとき源頼朝29歳。
善想寺
https://zensoji.or.jp/priest/309.html
承安5年(1175)上人43歳の春、浄土宗が開かれた
知恩院
源頼朝が伊豆韮山にある「蛭ヶ小島」に流されました。
幼少期より20年間、一番感受性の強い時期を流人として伊豆の大自然の中で過ごしたのです。
しばらくして、伊豆山走湯権現(いずさんそうとうごんげん)の別当密厳院(みつごんいん)の僧、阿闍梨覚淵(あじゃりかくえん)に師事するようになりました。
伊豆山温泉観光協会・伊豆山温泉旅館組合
https://www.izusan.com/rekisi/yoritomo%20masako.html
1160年(永暦元年)2月に14歳で配流となり、34歳で旗揚げするまでの20年間をここで過ごしていたのです。
伊豆の国市観光協会
https://izunotabi.com/sightseeing/hirugashima/
源頼朝公配流の地
鳥羽離宮(鳥羽殿<とばどの>)は,白河天皇(1053~1129)が創建した譲位後の御所です。
鳥羽上皇(1103~56)の代にほぼ完成し,14世紀頃まで代々院御所として使用されました。
京都市情報館
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi07.html
熊野詣
白河上皇の9度、鳥羽上皇21度、後白河上皇34度、後鳥羽上皇の28度
熊野本宮大社
https://www.hongu.jp/kumanokodo/shinkou/kumanoshinkou/
和歌山県世界遺産センター
令和4年(2022)誠心院
安倍晴明が亡くなったことを惜しんだ上皇が、生誕の地に晴明を祭らせることを晴明の子孫に命じ、亡くなって二年後の寛弘四年(1007年)に完成したのが、安倍晴明神社であると記載されています。
安倍晴明神社 大阪市
源氏物語
中宮彰子に命じられた紫式部は、石山寺に七日間滞在
大津市
https://otsu-murasakishikibu.jp/introduction/
源氏物語ゆかりの地 ガイドマップ
我が国の記録に現れた著述の年(1008年)
京都市情報館
https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/cmsfiles/contents/0000174/174195/panhu.pdf
法成寺関白道長公記(ほうじょうじかんぱくみちながこうき)
寛弘2年(1005)
藤原道長と摂関政治
NHK
https://www2.nhk.or.jp/school/watch/clip/?das_id=D0005310035_00000
晴明公は、朱雀帝から村上、冷泉、円融、花山、一条の6代の天皇の側近として仕えられ、数々の功績をたてられます。
晴明神社
https://www.seimeijinja.jp/history/
陰陽師とは何者か-うらない、まじない、こよみをつくる-
国立歴史民俗博物館
https://www.rekihaku.ac.jp/event/2023_exhibitions_kikaku_on.html
花山天皇(かざんてんのう、かさんてんのう)
968年11月29日〈安和元年10月26日〉- 1008年3月17日〈寛弘5年2月8日〉
花山院菩提寺 三田市尼寺
所在地の尼寺(にんじ)のいわれ 花山法皇の即位時にお仕えしていた女官たちが法皇を慕い尼僧となって麓に住み着いたことにより、この地名となっています。この地に尼寺(あまでら)があったわけではありません。
花山院菩提寺
https://www.kazanin.jp/?page_id=288
花山院は、花山天皇が19歳の若き身で隠棲
兵庫県観光サイト
https://www.hyogo-tourism.jp/spot/result/1072
花山法皇は書写山円教寺へ二度行幸されています。一度目は寛和2年(986)、二度目は長保4年(1002)
書寫山圓教寺
醍醐寺(だいごじ)
下醍醐に釈迦堂を建立し、山上・山下にわたる壮大な寺院計画がなされました。
醍醐天皇の願いは、朱雀天皇・村上天皇に受け継がれ法華三昧堂・五重大塔が建立され一山の尊容が整いました。
醍醐寺
https://www.daigoji.or.jp/about/history.html
五重塔(国宝)は天暦6年(952年)の建立で、府内最古の木造建築物
京都府
太宰府天満宮 だざいふてんまんぐう
延喜19年(919)には勅命により御社殿が造営され、以後幾度となく勅使が差し遣わされるなど、皇室のご崇敬を集めることとなりました。
太宰府天満宮
https://www.dazaifutenmangu.or.jp/about/goyuisho
現在の本殿は、豊臣秀吉の命をうけた小早川隆景が1591年に再建
「西の都」日本遺産活性化協議会
https://www.nishinomiyako.com/heritage/dazaifutenmangu/
全国約12,000社の天満宮の総本宮
貞観11年5月26日(869年7月13日),陸奥(むつ)国大地震(Mw8.4)が発生
日本地質学会
https://geosociety.jp/faq/content1052.html
大地震の翌年には「陸奥国修理府(むつのくにしゅうりふ)」が置かれ、大宰府にいた新羅国(しらぎのくに)の瓦職人が、多賀城を再建するための瓦づくりに従事し、その技術を陸奥国の職人に教えていたことが読みとれます。
多賀城 陸奥総社宮
貞観大噴火(864~866年)
864年(貞観6年)富士山の北西斜面(現在の長尾山)から大量の溶岩を流す噴火が起こりました。流れ出た溶岩の一部は当時あった大きな湖(せの海)を埋めて西湖と精進湖に分断
富士市
https://www.city.fuji.shizuoka.jp/safety/c0107/fmervo000000oxtb.html
武蔵国は宝亀2年(771)年に東山道から東海道に所属替えが行われています。それに伴い、上野国から南に分岐して武蔵国府に向かうルートは使用されなくなり、東山道武蔵路はそれまでのような主要道路として機能しなくなったと考えられています。
吉見町 よしみまち
https://www.town.yoshimi.saitama.jp/soshiki/shogaigakushuk/7/443.html
宣明暦法 せんみょうれきほう
貞観四年(862)から貞享元年(1684)までの823年間と、我が国で最も長く使われた暦法になった
国立天文台
灌頂暦名
空海が密教の入門儀式である結縁灌頂を行った手控えで、弘仁三年(812)の記録。
神護寺
http://www.jingoji.or.jp/treasure03.html
空海の筆跡として最も有名なものが,天台宗の開祖最澄(さいちょう,767~822)に宛てた手紙「風信帖」(ふうしんじょう,国宝)です。
京都市情報館
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka02.html
風信帖 NHK
桓武天皇 かんむてんのう
都は、桓武天皇により平城京から延暦3(784)年に長岡京に遷都がなされました。その 10 年後の延暦 13(794)年に、桓武天皇は 都を平安京に遷しました。
国土交通省
https://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/onlinelecture/lec74.html
京都府埋蔵文化財調査研究センター
https://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/mukashi/pdf/m-p91-95.pdf
向日市 むこうし
https://www.city.muko.kyoto.jp/rekimachi/rekishi_bunkazai/rekishi/nagaokakyo/1441755810280.html
石山寺
大慈山 乙訓寺(だいじさん おとくにでら)
延暦三年(784)、桓武天皇がこの乙訓の地に遷都したとき、京内七大寺の筆頭として乙訓寺を大増築したと伝わります。
長岡京市
聖武天皇は、災害や政変、反乱などが相次ぐ当時の社会不安を、仏法の力によって解消しようと(鎮護国家思想)、全国に国分寺の創建を推進する一方、大仏造立を発願。 東大寺の本尊として世界最大の金銅仏、盧舎那仏(るしゃなぶつ)の造営が始まり、天平勝宝4年(752年)に開眼法会が盛大に行われました。
奈良市観光協会
https://narashikanko.or.jp/feature/daibutsu/
調査の結果、採掘された銅は東大寺の大仏に使われ、長登銅山は日本最古の国営銅山であると判明しました。
Mine秋吉台ジオパーク
三世一身法の所有期限の規定は、天平十五年(七四三)の墾田永年私財法で撤廃された。
福井県立図書館
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/5-01-01-01-03.htm
天平13年(741)、聖武天皇は鎮護国家を祈念して、諸国に国分寺〔僧寺(金光明四天王護国之寺)と尼寺(法華滅罪之寺) 〕を建立するように命じました。
国分寺市
https://www.city.kokubunji.tokyo.jp/machi/midokoro/1002881.html
三世一身の法 さんぜいっしんのほう
723年 政府が開墾を奨励するために出した法令
学研キッズネット
『日本書紀』は、元正天皇の養老4年(720)に完成したとされるわが国最初の勅撰国史(天皇の命で編修された国の歴史)。
国立公文書館
https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/rekishitomonogatari/contents/02.html
古事記
天武天皇(同673―686)が稗田阿礼(ひえだのあれ)に正しい記録を誦習させた。
元明天皇(同707―715)の命で、稗田阿礼が誦習した内容を、太安万侶(おおのやすまろ)が筆録。和銅5年(712)にこれを進呈しました。
国立公文書館
https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/rekishitomonogatari/contents/01.html
和同開珎 708年(和銅元年)に、唐の「開元通宝」をモデルに初めて公的に鋳造・発行したとされる銭貨です。
日本銀行
https://www.boj.or.jp/about/education/data/are02i.pdf
日本の国で一番欲しいものの一つであった和銅が出たことは大変おめでたいことだと喜んだ朝廷が、和銅にちなんで改めた年号なので、「和銅元年」となったのである。
秩父市和銅保勝会
701 年(大宝元年) 班田収授の法(はんでんしゅうじゅのほう)
御殿場市
https://www.city.gotemba.lg.jp/gyousei/kanri/assets/uploads/2016/01/siryou1.pdf
税金の歴史
https://www.nta.go.jp/about/organization/sapporo/education/kyozai/pdf/07.pdf
古代における神祇制度の変遷
静岡県立中央図書館
https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/50/1/ssr1-11.pdf
神名帳(じんみょうちょう)(官社帳)を神祇官が保管しました。
東京都神社庁
白鳳時代 680年 天武天皇によって皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願し発願され、697年持統天皇の時代に完成しました。
百済(くだら)は、斉明天皇6年(660)に唐・新羅の連合軍に滅ぼされました
大化2年(646年) 薄葬令
645年6月。豪族たちの頂点にいた蘇我入鹿が殺害された乙巳の変。
NHK
https://www2.nhk.or.jp/school/watch/clip/?das_id=D0005310017_00000
諸国の神社に付属する寺院を設け、そこに僧侶を置き「神宮寺(じんぐうじ)」としました。
東京都神社庁
三経義疏』(さんぎょうぎしょ)
『法華義疏』(伝 推古天皇23年(615年))
『勝鬘経義疏』(伝 推古天皇19年(611年))
『維摩経義疏』(伝 推古天皇21年(613年)
法隆寺 推古15年(607)創建
新羅征討 600-623
金剛組
創業 飛鳥時代第30代敏達天皇7年(西暦578年)
527年 筑紫君磐井の戦い つくしのきみいわい
https://www.city.yame.fukuoka.jp/iwatoyama/iwaiwoshiru/11761.html
507年 河内国樟葉に宮をおいて即位し継体天皇となる
https://www.kkr.mlit.go.jp/fukui/siryou/hen1/syou4/1gensi4_3.html
471年 稲荷山古墳金錯銘鉄剣
https://sakitama-muse.spec.ed.jp/%E9%87%91%E9%8C%AF%E9%8A%98%E9%89%84%E5%89%A3
辛亥年(471年)七月中、記す。乎獲居の臣の上祖、名は意冨比危
百舌鳥・古市古墳群‐古代日本の墳墓群‐ 4世紀後半から5世紀後半
もず・ふるいちこふんぐん―こだいにほんのふんぼぐん―
文化庁
かわらめき古墳群 出土した土器から4世紀後半から5世紀中頃
千葉県八街市
369年製作 七支刀
出雲地域では4世紀前半になると安来市荒島町周辺を中心とする中海沿岸と、斐伊川中流域(雲南市)に相次いで前方後方墳や方墳が出現します。
島根県
西都原古墳群 3世紀末から7世紀にかけて築造され、陵墓参考地の男狭穂塚・女狭穂塚を加えた319基
宮崎県立西都原考古博物館
弥生時代の中期には、政治集団の首長たちによって墳墓が造られるようになり、弥生時代の後期後半・ 2 世紀後半には、各地で特色のある墳丘墓が造営されるようになります。
百舌鳥・古市古墳群
楯築遺跡は、倉敷市に所在する弥生時代後期に造られた墳丘墓で、円丘部とその両側に長方形の突出部をもつ特異な形をしており、同時期の墳丘墓では全国でも最大級の大きさを誇ります。
https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/3935/
『後漢書』倭伝 恒帝(一四七~一六七)と霊帝(一六八~一八九)
https://www.yoshinogari.jp/ym/topics/
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼 素不和
https://www.aozora.gr.jp/cards/001477/files/50926_41514.html