2020年11月28日研究発表例会 発表報告

井上円了の海外視察ノートについて

 客員研究員 出野尚紀

 東洋大学創立者井上円了は3回海外視察を行い、それぞれ報告が書籍として出版されている。それら海外視察のうち、1902(明治35)年11月15日から翌年7月27日までおこなった第2回については、4月2日分までメモと日記を記したノートが東洋大学井上円了記念博物館に所蔵されている。タイトルはついていないので仮に「海外視察ノート」とするが、このノートはまだ判読されていない。

 1904年1月に発行されたこの視察の紀行文『西航日録』のもととなったノートについて、絵葉書の発送記録や河口慧海との再会、哲学館事件の連絡といったポイントにおいて、記載内容に加えてその当時の周囲の状況を総合的に考察することで、円了がなにに着目してノートに記載したのかを発表した。
このノートは左右両方を表紙として用いており、「日本東京井上円了E R Inoue」の名前が両表紙裏に記されているいる。左綴じでは、出費項目、その日の行動、備忘録としてのメモが記されている。逆に右綴じでは、餞別を貰った相手とその金額、日本に送った郵便の筆記場所と日付が記されている。

 『西航日録』が東京出発から始まるのに対し、ノートは横浜から始まることが違う。また、日記としてその日その日に出来事として記したことが、『西航日録』では船中のことなどとまとめられている点も異なっている。

 さて、河口との再会だが、『西航日録』では、上陸後に大宮孝潤の寓居を訪ねて一泊したことが中心で、そこで河口との再会は「奇縁」であると済まされている。ノートでは、馬車で大宮の部屋を訪ねたが不在であったため、17時まで待ったところ大宮が帰宅したとなっている。また、チップの金額がその間に記されている。河口との再会に感想はなく、その晩に河口からチベットの情報を聞いたとあり、その内容が記されている。河口の『西蔵旅行記』では、大宮と出かけて帰ってきたら、円了がおり、思いがけない再会に大いに喜んでもらったと記されている。ノートでは事実が記されるのみで、自身の思いはそこに見られない。

 1903年1月30日に哲学堂事件の報告を受けたことは、どちらも事実のみを記しているが、『西航日録』では、教員認可取り消しという内容まで記し、感想を短歌や川柳を載せてにしているのに対し、ノートでは、視学官からの苦情が学校にあったというだけで処分内容は記されていない。電報ではなく、封書でとどいたはずだが、この30日には、内容を十分に確認していない可能性がある。31日に領事館で有吉領事と善後策を相談の上で2月1日に封書を送ったが、封書の発送自体も郵便記録から抜け落ちている。
以上2点からだけでも、ノートは備忘録として円了の行動を記したものだと分かるはずである。

 

 

新型コロナ禍における宗教―新宗教教団における模索を中心に―

 客員研究員 隈元正樹

 新型コロナウイルス感染拡大に伴い、日本においては3月以降、多くの祭、葬儀や法事、集会行事が中止・縮小されたが、秋以降、各宗教、教団が感染対策に注意しながら、活動を再開しはじめている。本発表では、新宗教教団を中心に現状を整理した。

 É・デュルケームが宗教を「すぐれて集合的なもの」であり、「教会Église」の観念と不可分と指摘した通り、宗教にとって「集まること」は本質的な要素である。

 日本の新宗教においては、祭・儀式に加えて、日常的な「集まり」が重要である。歴史的には、新宗教の教勢拡大は、戦後直後から高度経済成長期にかけての地方農村から都市部への大規模な人口移動を背景とし、「故郷喪失者」「根無し草」の都市部での新たなコミュニティづくりという側面があった。組織・機能的にも、新宗教においては、教会・支部等の地方拠点における活発な小集団活動が宗教活動の基本である。したがって、集まれないことは、新宗教にとって死活問題となる。

 研究方法は教団機関誌、ホームページ等の情報、聞き取りの分析である。祭や伝統教団の動向は、新聞、テレビ等一般メディアでも時折取り上げられるが、新宗教についての情報はほとんどない。

 新宗教は、信仰が日常の生活や、教会・支部での奉仕、社会活動に落とし込まれていることが特徴の一つである。したがって、教団行事や社会活動が自粛されると、「信仰そのもの」が停滞する。新宗教の関係者の中から、そのような従来のあり方を反省する声が挙がっている。そういう意味では新型コロナ禍は信仰の純化(強化)をもたらしたが、末端では会員の教団離れが一層進むと思われる。問題は、活動から信仰の深化が必ずしもうまく機能していなかった点と言えよう。 

 多くの教団でオンラインによる儀式・行事の配信を行っている。ただし、新宗教の多くは信者の高齢化が進んでおり、パソコンやスマートフォンを持っていない、持っていても使いこなせない、インターネット環境が整っていないなど、対応できない場合が少なくない。

 儀式・行事は、宗教団体にとっては布施の集まる機会でもあるが、クレジットカード、スマートフォン決済などによるキャッシュレス化、オンライン上での決済代行などは問題を抱えており、進んでいない。

 また新型コロナ禍における外出自粛、休校、テレワーク等により、家族(世帯)の人間関係がクローズアップされている。これまで、宗教(教団・教会)活動に奔走していた活動会員は、嫌が応なく、家庭での実践が求められている。また、多くの新宗教教団の末端組織は、会員宅を利用した支部や家庭集会であり、家庭での活動は、必ずしも信仰に理解があるとは限らない他家族員の承認を得る必要がある。教団や本部に出かける場合にも同様である。

 

 


『法華玄賛』にみる定業・不定業と悔愧の関係について

                                                                                  客員研究員 水谷香奈

 中国法相宗の初祖とされる慈恩大師基(窺基:632-682年)の『法華玄賛』は、『法華経』に対して法相唯識の立場から書かれた注釈書として知られるが、『法華経』観世音菩薩普門品についての注釈箇所では、彼の救済観を伺うことができる興味深い内容が記されている。

 周知の通り、観世音菩薩普門品は観世音菩薩による衆生救済を主に説いており、東アジアにおける観音信仰の流布にも大いに影響を与えている。ただし、その中には災難回避などの現世利益的な内容が多く含まれることから、三論宗の大成者である吉蔵(549-623年)の『法華義疏』では、実際に経典を信じてはみたものの難を脱し得ない場合があるという現実、すなわち救済の有無は何によって決まるのかという、宗教的に見ても重要なテーマに言及する箇所がある。吉蔵はこれに対して、「一心不乱に観音菩薩を念じていない」「救っても本人のためにならない場合は救われない」「善行が少なく観音菩薩と縁が薄いと救われない」「定業による結果は観音菩薩でも覆すことはできない」という4つの見解を示している。

 これに対して基は、『瑜伽師地論』などの唯識系論書を用いつつ、自らの積極的な意思で為した増長業の結果は原則として覆せないが、「追悔」すなわち自らの行為を思い返して後悔し、「対治」すなわち過ちを改めれば、増長業も不増長業と呼ばれ、未来に受け取る結果を変えることができるとする。従来の用語に対応させれば、増長業は定業、不増長業は不定業と言い換えることができるが、両者の区別は決定的なものではなく、「悔愧」の心の有無によって入れ替わることができるのである。

 さらに基は、上記の原則は阿羅漢であっても変わらないと述べている。たとえば、アングリマーラは多くの殺人を犯したが、その悪業がふさわしい苦果を結ばないうちに阿羅漢果を得て解脱した。この一見不条理な出来事に対し、『瑜伽師地論』に基づいて、阿羅漢果を得れば受果以前のすべての定業は消滅すると理解した者たちが存在したと見られる。しかし基は、アングリマーラが阿羅漢果を得られたのは、彼が心からの悔愧の念を持っていたためであり、また阿羅漢果を得ても彼が受ける苦しみが消えたわけではないとする。このような精神的転換を重んじる見解と、懺悔による滅罪を強調する浄土教との関係は不明だが、「悔愧」についての文章は基の晩年に成立したと推定される章疏のみに見られることから、彼の宗教的実践を考える上でも注目すべきものと考える。

 

 

梵文『維摩経』の偈頌:第1章,第 1 〜15偈

 院生研究員 梅田愛子

 本発表では,初めに韻律について概説し,次に梵文『維摩経』第1章にある第 1 〜15偈の特色について述べた.原則として1詩節は4つの詩句(pāda:a・b・c・d)から成り,韻律はpādaを構成する音節の数,音節の軽重,mātra,gaṇaなどによって規定される.また,音節の軽重は次のように定められる.

 1)plutaを含む長母音,2)子音結合により接続される母音,3)anusvāraを伴う母音,4)子音を伴って終わる母音,5)visargaを伴って終わる母音,以上のような母音を有する音節は重い(guru: –).それ以外の音節は軽い(laghu: ᴗ).

 一般的にpāda末の音節は,実際の音価にかかわらず重音節として扱われるが,若干の例外もある.なお,パーリなどのMIA(中期インド・アーリヤ語)では,重音節を作る【母音+anusvara】に並んで,軽音節扱いの鼻母音(ex. ã)が韻律上設定される.

 このようにMIA韻律は古典サンスクリット韻律よりもはるかに古い発達段階に属し,後者の韻律規則の厳格さに対して,作詞上大きな自由が許される.例えば,Metrical Licence (Metri Causa)があるが,単語は韻律のニーズを満たすために,以下のような方法で変更される.

 1) 母音の長さを長くしたり短くしたりする.2) 子音を倍にしたり単純化したりする.3) 「ṃ/ṁ」を使用したり削除したりする.これらの変化は恣意的に起こるものではなく,単語の中の特定の位置でのみ起こる.語尾の音節は変更される可能性が最も高く,内側の音節が変わるのは接合部があるところのみ.まれに,最初の音節も変更されることがある.

 他にも,Conjunct not making position,Svarabhakti (Sarabhatti),Resolutionについて概説した.

 次に,梵文『維摩経』第1章にある第 1 〜15偈の特色についてであるが,前半の第1偈から第8偈までは,14音節からなるVasantatilakāである.しかし,それらは固定された古典サンスクリットのものとは違い,長音節のresolutionが多く見られ,韻律に合わせるための語尾の省略や不正規な語形の多様など自由度が高く,古典サンスクリット韻律よりも古い発達段階に位置すると考えられる.残りの第9偈から第15偈までは,パーリ語経典やその註釈(アッタカター)文献に見られる11音節と12音節(Triṣṭbh/Jagatī)の混合詩節に近い.また,プラークリットからサンスクリット語化された形跡も随所に見られる.

 検討した第1偈から第15偈までの共通点をあげれば,語末のṃを多用するなど,古典サンスクリットのsandhiの規則が守られないことが多く,MIA的な特徴が随所に見られる.また,語頭の二重子音(pr [p],tv [t], etc.)は単子音であった可能性が大きい.MIA段階の言語で作られていた詩を基にBuddhist Hybrid Sanskrit化した偈頌であると考えられる.

 

 

Nishitani and Nihilism. The Institution of a History

西谷とニヒリズム。ある歴史の成立

客員研究員パオロ・リヴィエリ
(Paolo Livieri)

 西谷啓治(1900-1990)は、20世紀前半の日本でニヒリズムに最も関わりのある哲学者の一人です。彼はいわゆる京都学派に属し、現代日本文化へのニヒリズムの到来を分析するための参照点となりました。今回の発表は、西谷のニヒリズムの概念のいくつかの問題と、提示されたニヒリズムの「自己克服(self-overcoming)」が結果として不十分であったことを明らかにしようとするものです。西谷は、ニヒリズムを哲学の本質としても、一般的な人間の合理的な活動に埋め込まれたものとしても考えておらず、歴史上ヨーロッパで発生し、ゆくゆくは明治時代初頭に日本に移植された出来事として理解していたようにみえます。

 発表者は、ニヒリズム概念の哲学的理解の起源を18〜20世紀のドイツ文化の源泉まで遡ってたどる、ニヒリズムの歴史を伝えることによって、西谷がニヒリズムを同定するアプローチを批判的に考察しました。F.H.ヤコービ(1743-1819)のテキストからE.ユンガー(1895-1998)とM.ハイデガー(1889-1976)との間の対話にいたるまで、ニヒリズムは現象や出来事とは異なったものとして現れます。むしろ、ニヒリズムは支配的な思考法の真なる本性の表出であり、言い換えれば、ニヒリズムとは合理的な人間になる方法を提示するものといえます。

 今回の発表では論理的分岐を導入して議論を進めました。つまり、一方では、西谷が行っているようにニヒリズムが出来事として定義されている場合、それは本当の脅威を提示することはなく、実際のところ、その出来事について、その出来事がニヒリズムとは実質的に異なっていると考える余地を残す文化的適合の一局面を提示するだけです。この意味では、西谷が述べているのとは打って変わって、ニヒリズムの自己克服はないことになるでしょう。

 他方では、ニヒリズムが合理的な存在としての私たち西洋人(および日本人)の生き方に対する本当の脅威であるならば―ニヒリズムの概念の歴史が実際に物語っているように―、それはニヒリズムが合理的な人間の本質そのものに埋め込まれていることを意味しています。したがってそれは出来事ではありません。しかし、この仮定は、ニヒリズムそのものによってニヒリズムを克服する方策の余地をあまり残していません。というのはニヒリズムそのものを考えることがニヒリズムによって苦しめられるように見えるからです。

 この点で、仏教が新しい文化的生活のためにニヒリズムを実践していたような、ニヒリスティックな「運命愛」の復興について何かしら言及することは通用しません。なぜなら、a)概念の歴史が示しているように「運命愛」がニヒリズムの適切な定義ではなく、そしてb)ニヒリズムは伝統へのいかなる郷愁も復興も許さないからです。

 だとしても、西谷のテキスト、The Self-Overcoming of Nihilism(『ニヒリズムの自己克服』)は、新たな問いかけに導くかもしれない非常に興味深いアプローチを提供しています。

 ニヒリズムが「人間という合理的存在者」についての異なる定義づけを促すために、これまで考えられもしなかった思考を考える挑戦である場合、私たちは次のように問うかもしれません。答えのない現実的な問いを遂行できる思考の定義づけへと、私たちはアプローチするべきではないのか?これが本当だとすれば、おそらくは、哲学的な答えをもたない哲学的な問いが、ニヒリズムの影の外部で人類を導くという目的を果たすことができます。私たちは、この問いが尋ねるものに関して宗教にアプローチする場合にのみ、ニヒリズムとは異ったものを産み出すのを思い描くことができるでしょう。しかし、この最終的な宗教的応答は、それについて思考する私たちなしには登場してくることができません。哲学とは、答えの揺籃の地として、異なった地平をもつのでなければならない問いがそこで見いだされるような、ニヒリズム的性質をもった地平なのかもしれません。こういった意味において、西谷の努力は魅力的です。というのも、それは哲学そのものの範囲と責任を低減させながら、哲学と宗教を結びつける戦略を直接指し示しているからなのです。

 

(英語原文)
 Nishitani Keiji (1900-1990) was one of the most relevant philosophers of the first half of the 20th century Japan and, as a member of the so-called Kyoto School, became a point of reference for the analysis of the advent of Nihilism in modern Japanese culture.

 My presentation aims at unearthing some problems of Nishitani’s notion of Nihilism and the consequent inadequacy of the proposed «self-overcoming» of it. Nishitani’s seems to understand Nihilism neither as the essence of philosophy nor as embedded in human rational activity in general, but as an event, historically occurring in Europe and eventually transplanted in Japan at the beginning of the Meiji era.

 My presentation challenges Nishitani’s approach to the identification of Nihilism by delivering an history of Nihilism that traces the origin of the philosophical understanding of the concept back to the sources of 18th-20th century German culture. From the texts of F.H. Jacobi (1743-1819) to the dialogue between E. Jünger (1895-1998) and M. Heidegger (1889-1976), Nihilism appears to be something different than a phenomenon or an event. It is rather the manifestation of the true nature of a dominant way of thinking. In other terms, Nihilism would represent a way to be a rational human being.

 The presentation then proceeds by introducing a theoretical fork: if, on the one hand, Nihilism is defined as an event, like Nishitani does, then it does not represent a real threat, but just a phase in the cultural adjustments which, in truth, leaves space for a thinking about that event; a thinking that substantially differs from Nihilism. In this sense, there would not be a self-overcoming of Nihilism, as instead Nishitani states.

 On the other hand, if Nihilism is a real threat to our (and Japanese) way of living as rational beings – like the history of the notion of Nihilism actually maintains – it means that Nihilism is embedded in the very essence of any rational human being. And it is not an event. But this hypothesis leaves not much space of maneuver to overcome Nihilism by means of Nihilism itself, because the thinking itself looks plagued by it.

 At this point, any reference to the rehabilitation of a nihilistic «amor fati» that Buddhism would use to implement Nihilism in favor of a new cultural life seems impassable, because a) the history of the concept has showed that «amor fati» is not the proper definition of Nihilism, and b) Nihilism does not allow any nostalgia or rehabilitation of any tradition.

 Yet, Nishitani’s text The Self-Overcoming of Nihilism offers a very interesting approach that may lead to a new questioning.

 If Nihilism is a challenge to think a thinking that has not been thought before, in order to promote a different definition of “human rational being”, then we may ask: should we not approach a definition of a thinking that is able to perform a real question for which it has no answer? Maybe, if this is the case, a philosophical question that has no philosophical answer can serve the purpose of conducting human beings outside the shadows of Nihilism. We could imagine a different output than Nihilism only when we approach religion in relation to what this question asks. But this eventual religious answer cannot appear without us thinking about it. Philosophy may be the horizon of nihilistic nature within which we find the question that needs to have a different horizon as cradle of its answer. In this sense, Nishitani’s efforts is fascinating, for it points directly to a strategy that connects philosophy and religion, while diminishing the scope and liability of philosophy itself.