焼き米溜池にみる江戸時代の公共事業

1. 白石平野北部におけるため池の築造

白石平野は佐賀県に位置し、六角川、杵島山地、塩田川に挟まれた平坦で海岸沿いには干拓地が連なる平野である。白石平野の面積はおおよそ100㎢で町村合併の結果、2005年よりすべて白石町の範囲となっている。図―1に大串らが作成した地図を示したが、干拓により海岸線が徐々に沖に展開していることが分かる。このように干拓地が広がっていったことが、白石平野の水事情を厳しくしている。

図―1 白石平野の位置と海岸線の変遷(大串ら2007引用)

図―2に白石平野北部の現在の水掛りとため池の分布を示した。この地区に関係する主なため池は嘉瀬川ため池(船野ため池含む)、永池ため池、焼米ため池、朝日ため池である。

嘉瀬川ため池は、この地区で最も古いため池で、天正年間(1573-91)に竜造寺信周が築造した。現在の管理者は須古土地改良区で、受益面積は628haである。その後、鍋島の時代になり、初代藩主勝茂は松土居と呼ばれる海岸堤防を築造し、白石平野の開田開発を行った。その水源として成富兵庫により寛永年間(1624-1643)に築造されたのが永池のため池である、3段のため池で、現在の受益面積は1707ha、杵島土地改良区が管理している。

図-2 白石平野北部の水掛

その後、干拓が続けられるが、干ばつがひどく、そのため八代藩主鍋島治茂が多久邑主多久茂に築造させたのが、焼米のため池(寛政12年(1800))である。焼米のため池は六角川の対岸にあるため掛け樋により六角川を横断し、遠く白石平野東部まで水を送るために設けられた。現在では永池ため池の受益地である、旧橋下村(図上では朝日・永池・焼米両掛と示されている部分)も極度の用水不足のため加入している。受益面積は1212ha、焼米土地改良区が管理している。朝日ため池は県営事業として昭和34年に完成された新しいため池である。受益面積は2063ha、永池ため池と同じ杵島土地改良区が管理している。

図を見てわかるように、もっとも古い嘉瀬川ため池はため池近傍の土地を灌漑し、近世中期に建設された焼米ため池は離れた場所を灌漑している。灌漑の権利は複雑かつ強固であり、水の権利の整理は難しく、ため池建設当時の排水区を現在でも基本的に踏襲していることが理解できる。

寛政11年11月26日、焼米に新堤決定

寛政11年12月2日百姓より愁訴しかし聞き入れられず 以下その文

1. 堤の内側に20軒、縄手東3軒、野中に6軒の家が立ち退かなければならず非常に難渋しています

1.田畑が水の下になり暮らしをどうすればよいか途方に暮れています

1.農閑期には薪などを切り出して焼米江筋に売り出していたが、道がなくなり売り出すことができず困っている

1.明神社、竜王神社は昔から鎮座するが、その場所も破壊地となり、氏子としてまことに恐れ多いことである。

1.墓地3か所の引き直しができずこれも難渋である

1.笹ケ谷2軒、大峠村13軒の家屋があるが通路がふさがれて当惑している。

1.どうか右のような難渋なことがありますので築立を中止してください。代わりに山下谷、長谷谷筋、水江道江の3か所に築立してはいかがでしょうか?この3か所は受水もよく、墓地や明神社も水没せず、田畑も残ります。その場合も難渋がありますのでその代地を脇村に確保してください。

1.往還上下の田畑は山水を持って耕作してきたが、堤ができてもそれが従前通りできるようお願いします。

1.3ケ所の築立についても、田畑への蒔きつけ、麦の収穫も不可能となるので、御尽力のほどよろしくお願します。

焼米村、大峠村百姓中

庄屋 善 内 殿