鳥の羽重ね(とりのはがさね)

久しぶりで塩田に行きました。大切にされていたのでちょっとうれしかったです。

塩田川と鳥の羽重ね

塩田川には、江戸時代に作られた鳥の羽重ねと呼ばれる著名な治水施設がある。塩田川の湾曲部の内側の土地を堤防で囲み、本流沿いの下流側を無堤の開口部とし、洪水時の遊水地とした。塩田川は蛇行しているので、羽状の遊水地が交互に現れ、まるで鳥の羽を重ねたようである。

さてこの河川改修は塩田郷の庄屋、前田伸右衛門の功績で、明治以前日本土木史にも記載されている。前田伸右衛門は享保17年(1732年)塩田津に生まれ、幼くして父を失ったが慈母に育てられたとされる。鳥の羽重ねの改修は宝暦13年(1763年)になされた。その結果、堤防の決壊も減り、洪水は下流側より遊水地内に運ばれるため、荒地は減水の際の泥土の堆積のため、年々肥え美田に至ったと伝えられている

また前田伸右衛門は、教育にも力を注ぎ、藩校である観潤亭の前身となった塩田学寮を創設した。久間村に荒地を開墾し、藩に請うて、土地の収入を学寮の運営資金にあてた。

また、蓮池藩に属す、武雄市橘の三法潟の利水にも力を注いだ。玉江溜池、池ノ内溜池のかさ上げを行い、水不足に悩んでいた橘を米どころに変えた。特に池ノ内溜池のかさ上げは、武雄の専有溜池で、領主の狩場ともなっていたため困難を極めた。水使用量、工費の分担などを指定し、代替地を提供するなどによって、やっとかさ上げにこぎつけた。前田伸右衛門の没後、地元では前田宮を祭った。現在でも祭りの時には子孫を迎え遺徳をしのんでいるそうである。前田伸右衛門が治水の神と謳われた由来である。

塩田津は、陶土や陶磁器の集散地として江戸時代から昭和初期まで川港として大変栄えた。戦後、米軍が撮影した空中写真を見ると、塩田川は大きく蛇行しているが、90度に直角に曲がったところがある。そこが川港、塩田津である。その後、塩田川は改修でショートカットされ、塩田津付近は塩田川の支川、浦田川となり、「みなと広場」としてその面影を残している。一方、鳥の羽重ねは、今は、現地に行ってもほとんど分からないが、一部、開口部を残し遊水地として機能している。

霞堤の開口部