シーボルト事件と台風

1828年(文政11年)8月10日(新暦では9月19日)未明、九州北部地方を猛烈な台風が襲った。いわゆる「子の年の大風」である。この台風は、肥前での死者1万283人と、佐賀における、記録上、最大の被害をもたらした台風である。

文化・文政時代は、江戸後期にあたり、明治維新への胎動が始まった時である。1823年、長崎オランダ館付の医師としてドイツ人のシーボルトが27歳の若さで着任。シーボルトは、幅広い好奇心と知識を持ち、長崎の鳴滝に塾を構え多くの日本人に医学をはじめ西洋の幅広い知識を教えた。1828年、オランダ船コネリウス・ハウトマン号が長崎で台風に遭遇し難破。帰国予定であったシーボルトの積荷から日本地図、樺太地図などが発見され、シーボルトは国外通報に、弟子たちは処罰された。いわゆるシーボルト事件である。

文化11年8月9日の佐賀は快晴で、夜中を過ぎると少し風が吹き始めた。8月10日、未明から猛烈な風雨となった。未曾有といわれた子の年の大風である。「鍋島直正公伝」によると「大台風来襲し、豪雨なるため山嘯海嘯(土石流や高潮のこと)併せ起こり、肥前領内いたるところの山谷海浜を蕩壊し、家屋樹木を吹き倒したり」「佐賀城下にては八丁馬場の町家を将棋倒しにして一宇(一軒も)余さず」「東部の山嘯に蕩流(とうりゅう)せられたる死屍(しかばね)は大川に累々たり」「南里村の一農婦はその抱きたる嬰児(えいじ)を吹き飛ばされしが、夜明けてみれば、3間余の川向いに絶命し居たり」。すごい烈風である。溺死2226人、横死7901人、焼死115人、風による建物の倒壊による死者が最も多い。焼死は有田の風による大火災によるもので、窯業が大打撃を受けた。この台風の被害は肥前の石高の実に9割におよび(30万石を超えた),ほとんどの家は倒れ、当時の人口(約36万人)の30人に一人が亡くなっている。

土石流、烈風、氾濫、高潮が同時に生じた、稀有な大台風である。自然災害は時に人知を超えることがある。現在は、家も立派になり、治水も進んだのでこのような被害にはならないと思うが、油断は大敵である。シーボルトも不運で、実は未曾有の「子の年の台風」にコネリウス・ハウトマン号は遭遇し、難破し、シーボルト事件は起こったのである。