流域圏をどうとらえるか (2010)

1. 流域圏はこれまでどう定義されてきたか?

流域圏という言葉は、どう定義されているのであろうか?

四万十・流域圏学会では設立趣意書の中で流域圏を定義している。「日本の河川は水系の自然環境と地域の気候条件によって、固有の地形を形成し、そこに産業、芸術、歴史、民俗、生活、言語などの文化を育んできた。いわゆる流域圏と呼ばれる所以である。」この定義は、流域圏の空間領域を河川水系とし、流域圏の概念に自然環境と文化が河川水系ごとに異なる、あるいは自然環境と文化がひとつのまとまりをなす領域を流域圏としてとらえようという定義である。

流域圏という言葉が国の計画レベルで語られたのは三全総(第三次全国総合開発計画)が初めてであろうが、その概念が十分に発展したとは言えず、1998年に制定された五全総(21世紀の国土のグランドデザイン)で流域圏が再び取り上げられた。五全総では流域圏は、「流域および関連する水利用地域や氾濫原」で示される一定の範囲の地域(圏域)とし、水質保全、治山・治水対策、土砂管理や、森林、農用地等の管理などの、地域が共有する問題について、地域が共同して取り組む際の枠組みとして形成される圏域」と定義された。この考え方は空間領域として、いわゆる自然科学で定義される集水域としての流域に加え、水を配水する区域や氾濫流が及ぶ地域までを流域圏として包含させている点が特注である。また、地域が共有する問題を解決するための領域、すなわち国土管理の領域として流域圏が定義されている。

吉川勝秀は「流域圏プランニングの時代(2005)」のなかで、多くの識者が唱える流域や流域圏などの概念を地下水域まで考慮に入れたうえで整理し、流域圏の定義を次のように行っている。「三全総で提唱された流域圏といった場合は、かつての自然の流域のランドスケープに対応して人々の暮らしと活動があり、それに対応した見事な水系社会が成立していた歴史から、この場合には、表流水の流域を流域圏と見ていたといってよい。水・物質循環や生態系、基礎的な人々の暮らしや生産活動と比較的よく対応し、自然と共生する流域圏・都市の再生計画づくりや実践の単位としてわかりやすいことから、流域圏を表流水の流域に対応させ」と述べている。

また、近年、東京湾流域圏あるいは伊勢湾流域圏(辻本ら、http://www.errp.jp/)など湾域に流入する全ての河川流域および湾域を流域圏と捉え、それらを総合的に管理するための研究がなされ始め、流域圏概念の拡張が見られる。

以上のように、流域圏は、流域では十分に取り扱えない、氾濫原や用水の配水地域、沿岸域、湾域まで空間領域を広げるための概念として使われている。また、四万十・流域圏学会が当初指摘したように、流域圏は水の循環、水の連続性をベースに、自然あるいは文化の両面で共有可能な共通性がある圏域設定としての意味をもつというのが共通の認識になってきている。

2 地図を回転させて、海を中心に流域圏を考える

四万十川流域の地図を西を上にして見てみる。驚くことに、四万十川流域は極めて九州に近く、しかも韓国にも意外に近いことがわかる。四万十川の上流域の一部は、宇和島のすぐそばまで及んでいることを考えると、かつて都があった奈良、京都とくらべても大陸は近い距離にあることが分かる。

宿毛市史には「弥生初期の板付式系統の土器が、中村市の入田・有岡、宿毛市の橋上・福良から発見されている。これは北九州に発生した弥生文化が、直接播多の地に入ったことを示すものである。おそらく北九州にはじまった弥生文化が4、50年とたたないうちに、豊後水道をわたって宿毛湾に入り宿毛市・中村市の低湿地に及んだもので、土佐における弥生文化の発祥地が、宿毛市・中村市であることがうかがえる。この時代はまことに土佐の文化は西方よリ、といってよい位である。」と述べている。この指摘は非常に興味深い。近畿地方にくらべて、大陸あるいは北部九州の文化が先進的であったころは、宿毛あるいは宇和島、八幡浜あたりから文化は上陸し、四万十川を主要な交通路として、高知方面へと流入していたものと想像される。なお、幡多地方とは、幡多郡、宿毛市、土佐清水市、四万十市を含む高知西部の地域名であり、日本書紀には波多国とあり、土佐国とは別に国をなしていた。

近年、佐渡島、対馬、奄美大島、釜山などに行く機会に恵まれ、昔の海民の移動について知る機会があったが、私が想像していた以上に古代の人は活発に容易に海を越えていたのである。豊後水道は、北九州―韓国間の海域にくらべるとそれほど広くはなく、古代の海民は活発に行き来していたものと思われる。幡多の「幡(はた)」は「八幡(やはた)」に通じ、八幡浜そして対岸の宇佐八幡とつながりが感じられる名前である。文化的にも対岸の九州東部と強いつながりがあったものと想像できる。

参考:八幡(はちまん)神社は八本の旗のことか?対馬には八旗(やはた)の伝説がある。神功皇后が凱旋した時、八本の旗を立てて祝ったのが八幡(はちまん)神社の由来とある。対馬も八幡と関係が深い。佐賀県の唐津市を流れる松浦川の支流の徳須惠川(波多川とも呼ばれる)の流域が波多地方である。)

また興味深いことは海を挟んでいても四国西部と九州東部の汽水魚や淡水魚類相は類似していることである。アカメが四万十川と同じように、宮崎の北川や大淀川に生息することはよく知られている。また、少し話は飛ぶが、伊勢湾にそそぐ河川の淡水魚類相、有明海沿岸の淡水魚類相など同じ海域を河口とする水系の魚類相は類似していることが報告されている。

以上のように、現在私たちは東京を中心に、そこから遠いほうが辺境のように思うようになっている。しかしながら、それは単に東京を中心とした見方であって、決して普遍的な見方ではない。また、海を境界として見てしまうが、海は境界ではなく自由な交通路としてとらえるべきである。その海とつながる河川は自然と文化の動脈として捉える必要がある。四万十流域圏を豊後水道流域圏というとらえ方から見直すと面白い発展があるのではないかと思っている。

3 同じ山を源とする川は同じ流域圏か?

福岡県と佐賀県の県境に脊振山地が横たわり、それぞれ多数の河川がその山地を源として玄界灘や有明海に流入する。その代表的な河川が前者は福岡市を流下する那珂川、後者が佐賀市を流下する嘉瀬川である。上流の地質は風化花崗岩であるため、どちらの河川も河床は白い砂が主体である。また、両河川の上流の住民はナマズを食べない。どちらの河川にも与止姫(よどひめ)信仰があり、その一属といわれているナマズを食べない。ナマズを食べない地域は佐賀平野の与止姫神社がある他の河川の住民にも見られる。また、嘉瀬川には石井樋および多布施川という一連の水利施設が、那珂川には一の井出と裂田の溝と呼ばれる用水路がある。那珂川町の調査によると、取水口の石積みの構造は佐賀県の嘉瀬川の石井樋ときわめて類似している。また筆者らの調査によると、用水路の蛇行のさせ方や支川処理の方法などについても技術的な類似性が高い。このようなことから、両河川で河川技術の交流があったと推察される。以上のように、流域は異なっていても水源を同じくする河川では川の性質や文化が類似した場合も見られる。このような場合、源流である山を中心に考えた脊振山流域圏という捉え方をしてもよいのではないかと考えている。

おわりに

以上のように、流域圏の捉え方は四万十・流域圏学会発足の時から比べると広がりを見せている。私はその地域が抱える問題の所在によって、都合がいいように流域圏という言葉や概念を用いればよいと思っている。流域圏という言葉が出てきた背景には東京一極集中の弊害と地方への主権の移譲が根底にあり、そういった意味では地方が元気になれるような形での流域圏の捉え方が重要であると考えている。

また、流域圏にかかわる活動については、階層的な空間スケールの設定とそのスケールから見えてくる課題やそれを解決するための合意形成や主体形成などの仕掛け、具体的な手法が必要であると思っている。

今、わたくしたちのグループは福岡市内で昨年氾濫した樋井川という都市小河川流域を対象に全住民参加による貯留浸透を主とした流域治水を提言し、活動を開始している。流域面積はわずか20㎢程度の河川であるが、空間スケールの大きさをいくつか設定し、その空間スケールに対応したものの見方と対処法を考えない限り、流域治水が達成できないことが徐々にわかってきている。

たとえば小学校区を対象とするスケール、これは都市の自治組織とのつながりを考える場合に重要なスケールであるが、避難路、学校などの公的空間の抽出、団地の配置などを把握し、それらに対して貯留・浸透をどう進めればいいのかを考える場面で重要となる。もう少し小さいスケールとして、個別の住宅、個別の学校などのスケールがあげられる。これは具体的な要素技術を導入する時に必要となるスケールで、排水系統、建物の配置、雨水桝の形状など細かい仕組みの理解が重要となる。流域全体を見るスケールも重要である。支流の配置、森林・住宅地・学校・ため池などの面積割合、全体の地形など、マクロな計画を立てる場合に必要である。

以上のように、流域圏の概念の拡大はとても重要であるが、流域圏の中の入れ子になったさまざまなスケールに対しての眼差しと対処を怠ってはいけないと考えている。今後の流域圏への取り組みは、これらを両輪として展開されることを期待し、また私自身も実践していきたい。

四万十流域圏学会で2010年5月に話したものです。

流域より広い概念として流域圏を捉える考え方について示したものです。