河川工学からみた水城

2011年1月 太宰府市において水城のシンポジウムを開催した時のレジメである。

1.太湖大堤

1990年3月に中国の上海の水源となっている太湖を訪れた。面積は琵琶湖の4倍もある大きな湖である。当時、この湖の周りに太湖大堤と呼ばれる、堤防を築いていた。その堤防は水城ほどの高さはないが、堤防の裏側には幅50m以上もある大きなフィッシュポンドが連続していた。堤防の前にも後ろにも広い水面が浮かぶ光景は今でも忘れられない。このフィッシュポンドは堤防を作るために土を取った後であるが、大堤の前にも後ろにも水があるということは、印象深く私の記憶に残った。

底樋の高さが上流の水面の高さだろうか?御笠川本流を堰止めた水城は、洪水時の流水を如何に排出するかが課題であったろう。そのために、洪水吐きが必ず必要である。後ほど詳述するが、1時間に30㎜程度の雨が降ると、御笠川から毎秒100-150㎥ていどの水は流れてきたと予測される。木樋で洪水時の水を流そうと思えば相当規模の大きな木樋がなければ無理である。建設当初から、洪水を排出するためのかなりの規模の洪水吐きがあったと考えられる、その高さまで上流側に貯水面が広がっていたであろう。

太湖大堤 フィッシュポンド側から見た写真

学生の時以来、九州に再び住むようになり、大堤と呼ばれる水城の下流側(福岡側)のみに水がたまっているというのが現在の通説となっていることに、不思議な気持ちを持ち、少し調べてみることにした。

2.日本書紀における「堤」

日本書紀には堤という字は、水城を含めて15か所みられる。その内訳を見てみる。

万葉仮名の読み「て」として用いられているところ5ケ所。景向天皇紀、日本武尊の記述で「三尺の剣をひきさげ(堤)」とひさげるという動詞として用いているのが1ヶ所。景向天皇紀に「造坂手池。即竹蒔其堤上」とあり、ため池の堤として用いているところが1ヶ所。仁徳天皇紀に、淀川の茨田堤の堤防に用いられている個所が4か所、河川堤防と考えられる「横野の堤」としている個所が1ヶ所。用明天皇紀に、「逆之同姓白堤与横山言逆君在処」として人の名前の「白堤」として1か所。大化時代に「国々可築堤地」とやはり堤防として1ヶ所。そして最後に天智時代、「於筑紫、築大堤貯水。名曰水城。」とある。

堤は基本的に水をためる構造物に使う用語であり、日本書紀には堤という字を防塁の意味でつかった場所は1個所もない。水城大堤も水を貯水するための構造物だったのではないだろうか?

日本書紀に「筑紫に、大堤を築き水を貯える、名付けて曰く水城」とある。

大堤を築き、水を貯えているという記述である。水城は巨大構造物である。この文章からは、大堤と貯水池が釣り合っている景観を想像する。空中写真で見ると下流側に水を貯えるだけでは、水城という大構造物と釣り合わないと感じるのは、私が河川技術者ゆえであろうか。

3.もし上流側に水がたまっていたら?

それでは、上流側に水がたまっていたら、どこまでたまり、どのような風景であったろうか?

1mピッチの等高線を国土地理情報の50メッシュの標高を用いて作成した。数値地図50mメッシュ(標高)は、2万5千分1地形図の等高線から計測・計算し求めた数値標高モデル(DEM)で、実測データではないため誤差を含む。また、水城大堤の敷高(堤防の最下位の高さ)、天端高(最上端の高さ)について正確な標高データを持ち合わせていないため、以下の記述には誤差を含んでいることに注意する必要がある。

水城堤防の縦断面図(平野を輪切りにした図)を見ると、水城堤防は両端で高く、央部が低くなっている。中央部の堤防の上端(天端:てんば)は標高37m程度で堤防高はおよそ10mである。いくつかの木樋が見つかっている。一番底部の木樋の底敷きは標高27m程度で、底からは中石敷の遺構が出ている。この高さがおおむね堤防の敷き高と考えられる。

太湖ー大堤ーフィッシュポンドの配置 、水城と似ている

図―2 コンター図と地形図の重ね合わせ

図―1に貯水位の等高線を図―2に色付けし、地形図と重ね合わせた図を示した。貯水位2mとくらべて3mで大きく貯水範囲が広がることが分かる。また貯水位3mになれば、北東岸、南岸とも斜面に接する。特に北東岸の水城近傍は急斜面の場所まで水面が迫っている。防衛を考えた場合に重要な視点であろう。3m貯水時の貯水量は100万㎥である。

また、貯水位が6mになると大宰府政庁近傍まで水面が迫り、政庁の南部に水面が広がり、最上流端は西鉄紫駅を超える。この時の貯水量は640万㎥である。この時の風景の予想図を図―3に示すが、政庁が水に浮いたように見える。

堤防の高さがおよそ9―10mで、余裕高+越流時の水深+洪水吐の高さ=堤防高であることを考えると、上方に余水吐きを設けた場合、貯水位はおおよそ6-7m程度と考えられる。

4.どの程度の雨で水はたまるか?

それでは、上記のような水位まで貯水した時に、本当に水はたまるのだろうか?どの程度の雨で貯めることが可能なのであろうか?

水城地点での御笠川の流域面積は福岡県の資料によると、およそ30.7㎢である。

降雨による流出率を5割程度と考えると、流域に100mmの雨が降った場合30.7㎢では、およそ150万㎥の流出が見込まれる。

したがって、3章で対象とした、①では、100㎜程度の雨で十分に貯水できる量である。一方、③においても、400㎜程度の降雨で貯水できる量である。ちなみに、福岡の年間平均降水量は1800㎜、5-7月の降水量は600㎜を超えるため、ひと梅雨こえれば、十分に貯水できる量である。

図―1 水城より上流の貯水位ごとの等高線図(黄色は政庁跡)

(3m、6mは堤防敷高からの貯水位、33mは標高)

図-3 水面から政庁を望む(標高33m、6m貯水した時)

5.洗い堰の構造は?

ここで、洪水吐の規模について考えてみたい。

越流量の算定式は以下で示される。

Q=CBH3/2

Q:越流量C:流量係数(1.5を与える) B:堰幅(1mとする) H:越流水深

越流水深を1mとした時 単位幅越流量は1.5㎥/s

越流水深を1.5mとした時 2.8㎥/s

となる。

御笠川のピーク流量は、当時流域が見開発であったと仮定し、流出率を0.3として時間雨量30㎜で100㎥/s程度、時間雨量100㎜であれば300㎥/s程度と予測される。越流水深が1-1.5m程度と考え、貯水池でピークがある程度はつぶれると考えられるが、100㎥/sで40-60m程度以上、300㎥/sで100-200m程度と規模の大きな洪水吐が必要であったと考えらえる。

6.まとめ

・水城の下流に水がたまっていたことは疑いない。

・日本書紀で、堤を防塁の意味で用いたところは1ヶ所もない。基本的に水をためる構造物に用いている。

・あれだけの大きな堤防で平地を締め切ると、上流の水を完全に排水することは困難となる。特に洪水時の排水施設が必要である。そのため洪水吐きは必ず必要であり、その高さまでは必ず上流にも水がたまっていたであろう。

・どうせ水をためるのであれば、水をためることが可能な構造として作られた巨大堤防を活用して、防衛上、十分な高さまで水をためたと考えることが素直である。

・かなりの高さまで水を貯水したとしても御笠川からの水の供給で一梅雨あれば十分に貯水可能な量である。

・河川の合流点での処理、洗い堰など排水施設の構造、過去の遺跡、過去の詳細な標高などとの関連については未解明であり今後の課題である。

謝辞

本文章中の図は林博徳研究員に依頼し作ってもらったものである。また、林重徳教授からも様々な情報を提供していただきました。どうもありがとうございました。