ふるさと駆けあ史

投稿日: Jun 01, 2013 7:34:21 AM

大津川のほとり、日当たりのよい台地に縄文の人々。 時を経て弥生人が同じ場所を選んで定住します。 宮根遺跡は縄文,弥生,古墳時代の重複遺跡。 この地における祖先の姿と「ムラ」の始まりを伝える最古の記録です。

古墳時代、千葉県は総(ふさ)の国と呼ばれ大和政権の支配が及び、柏あたりは朝廷の私有民が住む御名代でした。 奈良時代になると律令制度により全国支配が確立、相馬郡,葛飾郡に属し、東北への拠点として兵士や兵糧米を供給しました。 平安時代は藤原氏が力を伸ばし、国司として地方に下った子孫の中にもその土地に住み着く者が多くなりました。 桓武天皇の子孫である平氏の一族は、下総などを収める役人となり民衆をまとめます。 荘園が盛んにつくられた時代で、将門の乱後、平良文の領地となり、代々その子孫に受け継がれます。 平重常は領地を相馬御厨(そうまのみくりや)という伊勢神宮の荘園として支配を確実にしました。

下って鎌倉時代。 源頼朝の挙兵時の功により、千葉常胤(つねたね)が下総国の守護となり、相馬郡は次男の師常(もろつね)が相馬氏を名乗り支配します。 相馬氏の城(館)は増尾にあり、『義経記』に登場する増尾十郎も相馬氏に関係があったとみられます。 南北朝の戦乱後、室町時代は千葉氏、戦国時代は里見氏、次いで高城氏、江戸時代は本田氏が東葛地方一帯を統治。 隣接する「小金牧」には農民が人足としてかり出されました。

古代から中世の古文書には、「益尾」「名都谷」の地名が見られ、室町時代の『本土寺過去帳』には「ナトカヤ 」「増尾」の記述もあります。 明治時代に入ると牧は廃止され、開墾事業が始まります。 明治22(1889)年には「増尾」「名戸ヶ谷」「逆井」など11の村々が合併。 共存を祈って「十」と「一」の字を組み合わせた「土」村が誕生。 代々受け継がれた農民の誇りと連帯が『土』一文字に集約されています。

①法林寺

瑞雲山。真言宗。本尊は不動明王。 創建は慶安3(1650)年。 流山市鰭ヶ崎『東福寺過去帳』の記載から前身の寺の存在も考えられます。

境内の大銀杏は柏市指定文化財(天然記念物)で樹齢400年と推定されています。 この大銀杏には、後小松天皇康応元年(1389)頃に、越後の比丘尼が托鉢の途中、一夜の宿を求めたので泊めたところ、お礼にと一粒の銀杏を取り出し「これを蒔くように」と言って立ち去ったという伝説があり、それが大銀杏になったとも。 この説によれば樹齢600年になります。

②増尾城址

柏の中世に深い関わりを持つ相馬一族に関係する城郭といわれ、土塁で区切られた二つの曲輪(くるわ)からなり、場外と城内を分ける壁や側防施設を備えた壁が認められます。 相馬氏は源頼朝の挙兵を助けた千葉常胤の次男相馬師常を祖とする一族で、長らくこの地を支配しました。

しかし、城址の規模や構造から戦国期の小規模な軍事施設、砦のようなものであったとする説もあり、16世紀後半の築城ではないかとも考えられています。

③妙見堂跡

かつて妙見堂は増尾本郷にあり、妙見菩薩が安置されていましたが、管理が難しくなったため昭和58年(1983)に堂を壊し、菩薩は萬福寺阿弥陀堂に移されました。 その後、平成14年(2002)に記念事業として萬福寺に妙見堂を再建し、本郷の跡地に記念碑が建立されました。

妙見菩薩とは北極星の神格化で、妙見信仰と深く関わった相馬氏は、6代目重胤が奥州下向にあたり、氏神の妙見社を下総から移し、奥州の地に広めました。 当時の神官は「田代左衛門大夫信盛」別名「黒木増尾大夫」でした。

④廣幡八幡宮

創建は第59代宇多天皇(在位887~897)の代で「下総第一鎮守宇多天皇勅願所」として鎮座されたと伝えられます。 鎌倉時代に地方一帯の総鎮守として社殿が再建されました。 御祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと・八幡神)、気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)。 中世以降、八幡信仰は源氏の守護神となって全国に分祀されました。

家内安全,災厄消除などのご利益があるといわれ、また、正月には平和祈念の「浦安の舞」が奉納されます。 浦安とは心安らかなという意味です。

⑤宮根遺跡

柏市指定文化財(史跡)。 廣幡八幡宮の境内やその周辺、大津川に向かって突き出した舌状の台地に所在する縄文時代,弥生時代,古墳時代の重複遺跡です。

発掘調査は昭和28年(1953)、國學院大學考古学資料室が中心となり実施。 日誌には、土中学校3年有志の応援を得たとの記載があります。

縄文時代と弥生時代の壺,甕(かめ),高坏(たかつき)などが発見されています。竪穴住居跡は埋め戻され保存されています。

⑥少林寺

増尾山。臨済宗。 松戸市万満寺の末寺。 本尊は十一面観世音,阿弥陀如来で、開山は永禄元年(1558)と言われています。

相馬重胤の墓とも伝えられる一石五輪塔があります。 重胤は初代相馬師常から6代目で、所領奪回のため奥州に下向し、南北朝の戦乱を生き抜きました。 石柱には、「鎌倉で自害」と刻まれており、五輪塔には、いつ訪れても花が手向けられています。 堂内の『こて絵』は漆喰をこてで浮き彫りにした珍しい作品です。 境内には歌人江口章子(あやこ)の歌碑もあります。

⑦萬福寺

医王山。真言宗。 寛永2年(1625)創建といわれる阿弥陀堂には、本尊の阿弥陀如来坐像(千葉県指定文化財・有形文化財)が安置。 この像は高さ88.1cmの等身大、カヤ材を用い割矧造(わりはぎづくり)の技法で制作、楽な姿勢や穏やかな面相に定朝様式の特色があり、作風から12世紀後半の作とみられます。

増尾村は奥州相馬氏に相伝された所領です。 萬福寺は江戸時代初期の創建ですから、阿弥陀如来坐像は、それ以前に増尾に存在した寺院に祀られ、相馬氏により伝えられたと思われます。

⑧妙蓮寺

慶長山。日蓮宗。 本尊は十界曼荼羅。 下総中山法華寺の末寺。 慶長7年(1602)創建と伝えられ、文久年(1862)に庫裏を再建しました。

戦国時代、勢力を伸ばした高城氏(小金城主)は増尾も配下に収め、家臣平川兵庫が移住して来て堂字を建立し信仰したとみられています。 草創について土地では「昔、旅の僧がこの地に来たのをヒラカワという旧家が面倒をみたところ、まじめに務めているのを知り一寺を建立してやった」といわれています。

通称「山寺」。 白壁の径は今も山中のようです。

(以上 増尾地域ふるさと協議会30年 より引用)