第41回地域院生研究フォーラム
日時:2023年9月20日(水)14:30~17:00 /9月28日(木)13:00~17:00
会場: オンライン(Zoom)
報告者(敬称略)・論題・要旨
1) 趙楚楚(地域アジア・中国)「1867年の廬山蓮花洞事件からみた清末の外国人借地紛争と地方交渉」
清末の開港場における租界の形成、及び租界内部の社会状況については、すでに豊富な研究蓄積がある。しかし、租界そのものに注目した研究がほとんどであり、外国人の租界の外での活動や、清朝の地方官と地元住民のそれに対する反応に関しては、まだ十分に解明されていない点が多い。
本報告は廬山のような、租界からは離れているものの、外国人の避暑地として形成されていた地域に焦点を当てることにし、1867年に盧山で起きたバンガロー破壊事件を取り上げ、下記の二つの問題を検討したい。①九江道台や江西巡撫といった清朝の地方官僚が開港場の範囲及び外国人の居住と借地に関する利権を如何に理解していたのか。②開港場及び付近の「遊歩地域」において外国居留民は如何に生活していたのか、地元の官員と住民が外国人の行動を如何に考えていたのか。本報告は総理衙門檔案やイギリス外務省の記録を活用して、清末における地方での対外交渉の一面を考察したい。
2) CHOI SEUNGYUP (地域アジア・韓国朝鮮)「1980年代における韓国クロス承認政策の形成と展開 :全斗煥政権の「戦略」と東アジア国際構造の相互作用を中心に」
1980年代の南北朝鮮は、国内秩序の変動と米ソの「新冷戦」といった変化の波に乗って激烈な外交競争を展開していた。特に、韓国は北朝鮮より優越な経済力を背景にして自信をもち、いわゆる南北の「クロス承認政策」を日米に提案して、韓国の「段階的な統一戦略」を具体化したが、その意図については今も議論の最中である。この政策は「二つのコリア」を認めるか否かに関する問題であるからこそ、関係諸国である日米中も関心を寄せていた。冷戦構造に従って南・北を支持していた日米・中は、その基本的な立場を堅持しつつも、地政学的な観点から朝鮮半島の安定と平和の維持という共通の目的をもってこの問題に関わった。以上を踏まえて、本稿では、1970年代に起源をもつ韓国の「クロス承認政策」の立案から提案までの過程を検討し、全斗煥政権の「戦略」を確認する。また、この政策をめぐる東アジア国際関係に注目し、その多層的な性格の可能性について論ずる。
3) 白尾安紗美 (地域フランス)「アルザス=モゼルの宗教教育におけるライシテの受容-解放後から今日にいたるまで」
厳格な政教分離の原則(ライシテ)が存在することで知られるフランス共和国だが、北東部のアルザス地方とモゼル県(いわゆるアルザス=ロレーヌ)は、国家と諸教会の分離を定めた1905年法をはじめ、教育の世俗化に関する1880年代の法律が適用されていない例外的な地域である。現在もこの地域の公立学校では宗教教育が正規の科目として存在しているが、時にライシテの観点からこの制度が問題視されることも少なくない。しかし政教分離法が制定されて以来、ライシテの捉え方は時代とともに変化してきたし、アルザス=モゼルでも、特に第二次世界大戦以後、ライシテと宗教教育の共存を可能にするための独自の解釈が提案されてきた。本発表はこの解放後の時代に着目し、アルザス=モゼルの宗教教育が社会の潮流に合わせてそのかたちを変化させる過程および、それと並行して進行するライシテの受容を検討する。その上で、共和国の一体性を象徴するライシテを地域から問いなおす試みとしたい。
4) 宋君宇(地域アジア・中国)「猪口孝の政治研究」
現代の政治科学(ポリサイ)はアメリカの学問である、政治学を「政治という科学(science of politics)」だけではなく、「政治のための科学(a science for politics)」にもしようとしたアメリカ的なイデオロギーも含まれている。このような政治学のあり方、あるいは政治学の動向のなかで日本の政治学の歴史を振り返ると、その転換点は1980年代だった。1980年代の日本の政治学者は、政治学を歴史学や思想史から分離して、一つの科学的な学問体系として政治学を確立しようとした。国際政治学者の猪口孝が編集した「現代政治学叢書」と彼を中心とする「レヴァイアサン」グループは、こうした学問的志向性を象徴する二つのイニシエーションだった。本研究は猪口孝の政治学を重点的に分析する際に、彼の研究方法と問題意識の変遷などの要素に着目し、その理論の源流と理論を規定した現実的な側面を明らかにしようとする。
5) 穗原充(地域東欧)「フルシチョフはなぜ住宅建設に注力したか」
「物質的な利益が無ければ、社会主義ではない」(1)と語ったフルシチョフは、民衆の生活水準の向上を最重要政策の一つとして掲げた。その中でも特に大きな存在感を示したのが住宅建設である。フルシチョフカと呼ばれる5階建ての住宅を大量に建設することで、従来一つの部屋に集住したり粗末なバラック小屋に建てたりしていたソ連の住民に、独立した住居を供給した。生活水準の向上という目標を達成する手段は複数あるなかで、フルシチョフが住宅建設にこだわった背景には①彼は建設政策を通じて出世しており、住宅建設の課題と解決策が具体的に見えていた、②消費財の増産を掲げて台頭した政敵マレンコフとの権力闘争に勝たねばならなかったという2つの事情があった。これらは同時代の建設や政治を扱う研究者に認識されながらも、その具体的なメカニズムは論じられていない。そこで本報告では主にフルシチョフ期の建設、政治、経済について個別に論じた先行研究を上記の関心の下に整理しレビューすることで、彼が住宅建設に注力した理由を分析する。
(1) Хрущев Н. С. Время, люди, власть: воспоминания. Кн. 4. М., 1999. C. 9.
司会:清野(地域文化研究専攻地中海小地域博士課程)、鈴木(地域文化研究専攻日本小地域博士課程)