第40回地域院生研究フォーラム
日時:2023年3月27日(月)10:00~17:30
会場: オンライン(Zoom)
報告者(敬称略)・論題・要旨
1) 芹澤海杜(地域地中海)「近世フィレンツェにおける「若さ」-コジモ一世と若者たち」
老人政治を基盤として発展を遂げたフィレンツェ共和国は、15世紀後半から16世紀前半にかけて自国の命運を決する戦争の影響を被り、メディチ家を党首とする君主国に成り変わる。1532年にメディチ一族のアレッサンドロが都市の支配者として君臨するも、彼自身が25歳の未熟な若者であったことを非難され、1537年に同家の者に暗殺されてしまう。フィレンツェを根本的に君主国化したのは、1537年に同じく18歳という若さで公爵の地位に即位したコジモ一世に他ならず、彼の支配下で若さを重視する宮廷文化、外交・軍事政策の発展が促進され、それまで脚光を浴びてこなかった若者たちが政治の表舞台に躍り出た。本報告では当時の年代記や書簡における宮廷人や兵士に関する記述を中心に分析し、16世紀のフィレンツェ社会で「若さ」という言葉が持っていた意味合いや、若者が果たしていた社会的役割について考察する。
2) 胡昶旭(地域地中海)「「アッティカ風であろうとする者たち」:ローマ共和政末期における政治闘争とアッティカ風文体主義者」
前1世紀後半、アッティカ風文体主義と呼ばれる文芸思潮がローマに興り、その擁護者たちは前5世紀から前4世紀のアテーナイの弁論家に範を仰ぎ、キケローなど過度に派手と彼らが判断した弁論家をアシア風と称して排撃した。一方、当のキケローは前40年代に執筆した一連の修辞学著作の中で彼らを論駁している。アッティカ風文体主義(者)に関するキケローの記述は、長らく文学史研究で史料として用いられたが、後世の関連証言とは大きな齟齬がある。そこで近年、これを手掛かりにキケローの記述を批判的に解釈する研究が盛んになりつつあるが、その執筆の契機となった文体論争の同時代的背景、とりわけローマにおける弁論の政治的重要性に十分な注意を払っているとは言い難い。本報告では、キケローと、彼が挙げたアッティカ風文体の代表人物との政治上の関わりを整理し、彼の描くアッティカ風文体主義(者)像が彼自身の政治経験に大きく影響されていた可能性を示したい。
3) 松尾健司(国際社会科学)「地域的取決めか、国家間条約か:アフガニスタンへの対応をめぐる新疆省政府と北京政府の関係」
北京政府期(1912-1928)の中華民国では、中央政府たる北京政府の力に限界があったにもかかわらず、周縁部における対外関係において、地方政府が主導しつつも、北京政府が地方政府と連絡を行いながら一定の関わりを見せていたことが指摘されている。しかし、外国側が地方政府を対外関係の窓口として認めるかという視点が欠落しており、また、北京政府と地方政府の間での連絡欠如の側面や連絡の具体的局面にも注目する必要がある。本発表では、従来、十分に解明されていなかった、1920年代前半の中華民国とアフガニスタンの関係に着目する。中英の史料を用いて、新疆省政府とアフガニスタンの間で行われた地域的取決め(地域を限った取決めを指す)の交渉において、地域的取決めか、国家間条約かが主要な争点となり、最終的にアフガニスタンからの提起により国家間条約締結の交渉へと移ったことを示す。その上で、一連の過程の展開と新疆省政府から北京政府への情報共有の状況に着目することで、対外関係における北京政府と新疆省政府の関係の具体的様相を分析する。
4) 張子一(地域アジア・日本)「満洲国建国神廟創建過程再考――満洲国から見た近代日本型政教関係の光と影」
満洲国の最高神は何だったのか?と訊かれたら、1940年7月15日以後の場合は「天照大神」と答えなければならない。ラストエンペラー溥儀が日本から持ち帰った「御神体」を満洲国宮中の建国神廟に祀るようになった日だった。これは満洲国での関東軍による「宗教侵略」だったという見方もあれば、逆に溥儀が日本を牽制するための「謀略」という見解もありうる。いずれにしてもこの二つの視線が相俟って戦後史のなかの建国神廟の歴史像が構築されてきたが、どちらも建国神廟の歴史的性格の一側面にすぎないと思われる。本研究は、一次史料を用いて建国神廟の創建をめぐる日満交渉の過程を考証し、当時には関東軍と溥儀及び満洲国官僚が呉越同舟的に建国神廟の鎮座を実現させた経緯を明らかにした。そして同時代の日本では難航していた「祭政一致」の法的・行政的定着も、建国神廟の創建をきっかけに対岸の満洲国で実現された。こうした満洲国建国神廟の歴史像を外交史及び政教関係史の視点によって再考する。
5) 王潔琳(地域アジア・日本)「明治初期の万国博覧会における民間出品者の構成と政府による資金貸与-1878年パリ博における東京府の例を中心に」
1875年、明治政府は万国博覧会の民間出品者に対して、出品資金の貸与をはじめとする経済的援助策を掲げ始めた。そして、1876年フィラデルフィア博とその後の1878年パリ博には、民間出品者の参入と拡大が顕著に見られる。従来の研究では、その援助策は内務省の民業奨励政策を具体化する方法として捉えられ、民間出品者の拡大の理由とされてきた。しかし、援助策の受け手である民間出品者という集団の内部における格差が着目されず、財政難の中でこの援助策を掲げた政府側の意図も釈明されていないため、その性格と効果について検討の余地があると言える。本発表では、援助策の中核をなす出品資金の貸与に絞り、1878年パリ博における東京府下の民間出品者の動向に着目する。民間出品者、東京府及び内務省博覧会事務局の間での資金貸与をめぐるやりとりの実態を把握することによって、民間出品者という集団における複層性を明らかにし、政府による資金貸与の性格と効果を再評価する。
司会:清野(地域文化研究専攻地中海小地域博士課程)、鈴木(地域文化研究専攻日本小地域博士課程)