2026年4月19日
説教題:祈り合い、励まし合う
聖 書:詩編27編1~4節、テサロニケの信徒への手紙一 5章9~11節
主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。
(テサロニケの信徒への手紙一 5:10-11)
今日は、礼拝後に開催予定の教会総会に向けて、私たちが一年間掲げて歩んでまいりました2025年度の標語聖句を御言葉にいただいています。
御言葉が記されている『テサロニケの信徒への手紙一』は、使徒パウロがギリシャのコリントで伝道に励んでいた頃 ― 紀元50年と言われています ― 、同じギリシャにパウロ自身が開拓伝道して創立したテサロニケ教会に向けて送った手紙です。この書は、テサロニケ教会の兄弟姉妹へ向けたパウロの熱い思いと、教会形成を語る信仰が語られた手紙・書簡の形をとった説教でもあります。
コリントの教会を導きながら、パウロはテサロニケ教会のことを深く気にかけていました。と申しますのも、テサロニケ教会は激しい迫害に遭い、パウロは命を脅かされてそこから去らなければならなくなったからです。
当時の伝道者・説教者は、行く先々の町で御言葉を語って宣教し、開拓伝道により教会を建てました。建てた教会がある程度、信仰的に成長すると、伝道者は教会を信徒さんたちの群れ ― 私たちで言うと役員を中心とする信仰共同体 ― を、主なる聖霊の導きにお任せして、そこを去ります。まだ伝道がなされていない、教会のない町に向かうためです。一方、信徒さんたちは、その町に暮らし続ける、その町の人たちです。テサロニケ教会なら、教会員はテサロニケの町にとどまり続けます。私たち薬円台教会の教会員の皆さんの多くが、この地域・近隣に住まわれ、生活の拠点とされているのと同じです。
パウロはテサロニケ教会を建て、しばらくテサロニケにとどまって、その信仰的成長のために力を尽くそうと決めていました。ところが、その町でキリスト者への激しい迫害が始まりました。キリスト者が逮捕され、乱暴な扱いを受けるようになってしまったのです。特に執拗に狙われたのは、ここに教会を建て、指導的な立場にあった伝道者パウロでした。パウロはおそらく、テサロニケ教会の人たちと共に町にとどまり、一緒に迫害に耐えようとしたことでしょう。
先ほども申しましたように、テサロニケ教会の信徒さんたちはテサロニケの町の住民です。この町から簡単によそへ逃げてゆくわけにはゆきません。しかし、テサロニケ教会の信徒たちは、必死にパウロを逃がそうとしました。パウロが、ご復活のイエス様に出会い、福音を正しく、どこででも語る賜物を受けているからです。パウロが逮捕されて、命を奪われてしまったら、ヨーロッパの他の地域への福音宣教は先細りになってしまいます。パウロ自身も、聖霊によってそのことをよく知らされていました。実際に、パウロがテサロニケで地上の命の終わりを迎えたら、コリントの教会は建てられず、ローマの教会も強められなかったでしょう。キリスト教は現在のように世界で最も信じる人の多い、いわゆる世界宗教にはならなかったでしょう。日本への宣教もならず、薬円台教会も存在せず、今 この礼拝の時もなかったでありましょう。私たちは神さまの愛も、永遠の命の希望も知らされずにいたかもしれないのです。とうとう、パウロは本当に仕方なく、後ろ髪を引かれる思いで、テサロニケ教会を後にしました。
パウロはその後、コリントで新しく教会を建てながらも、テサロニケ教会のことが気になってなりませんでした。迫害によって教会は消滅してしまったかもしれない、教会の信徒さんは元気でいるだろうか…。心配でたまらず、パウロは弟子のテモテをテサロニケに送りました。
テモテは、たいへん嬉しい知らせと共に戻って来ました。テサロニケの教会は迫害の嵐にくじけず、堅く正しい信仰に立ち続け、信仰共同体としていきいきと進み続けていたのです。
パウロは、たいへん喜びました。テサロニケ教会を守り支え通してくださった主に感謝をささげ、テサロニケ教会にさらなる祝福を祈りました。そして、テサロニケ教会へ、今日私たちが読んでいるこの手紙を書き送ったのです。
手紙の前半では、共に教会を立ち上げた時の労苦と骨折りがつづられています。神さまの御言葉がテサロニケ教会で生きて働き、教会がキリストの愛で強められていることを知らされた喜びへと続きます。パウロは、テサロニケに戻ろうとしたことは一度ならずあった、と記しました。サタンにさえぎられて、行けなかったのです。パウロは、主に守り抜かれたテサロニケ教会に「実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです」(テサロニケの信徒への手紙一 2:20)と書き送りました。
続けて、教会のためにこう祈っています。テサロニケの信徒への手紙一 3章13節をお読みします。「わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非の打ちどころのない者としてくださるように、アーメン。」
手紙の後半、4章と5章では、パウロはテサロニケ教会に伝えたくても、伝えきれなかった信仰生活の具体的な導きを記しています。5章8節では、このように力強く勧めを説いています。お読みします。「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜(かぶと)としてかぶり、身を慎んでいましょう。」そして、救いの希望について、ご復活の主がお示しくださった永遠の命 ― いつまでも、肉体の死を超えて主と共に生きる永遠の命の約束を語ります。9節を、お読みします。「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずかるように定められたのです。」神さまは、罰や、いわゆるバチを当てる方ではない、とパウロは断言しています。むしろ、ひろい、ひろい御心をもって赦してくださる方です。そのために神さまは御子イエス様を世に遣わしてくださいました。十字架の出来事で、私たちに代わって罪を贖ってくださったイエス様の救いの御業により、私たちは赦され、この赦しと救いを信じる者は滅びません。主と共に肉体の死を超えて生き、御国で主にお目にかかり、兄弟姉妹は御国で再び出会うのです。
次の10節から11節にわたる御言葉を、私たちは2025年度の教会の標語聖句として掲げ、一年を過ごしました。お読みします。「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが目覚めていても眠っていても、 ― これは肉体・生命体として活動している時も、細胞の総体としての命を終えて肉体の死を迎えた時も、と読み替えることができましょう ― 主と共に生きるようになるためです。」ここに、救いの福音の希望と恵みがあります。
そして、私たち薬円台教会は、次の御言葉11節に導かれて2025年を歩みました。お読みします。「ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」テサロニケ教会が、迫害の嵐の中でも踏みとどまり、信仰共同体としていきいきと教会生活を営むことができたのは、主を仰いでひたすら主に従い、その御言葉に立って祈り合い、互いに励まし合ったからにほかなりません。
2025年度、私たちは愛する二人の姉妹を天に送りました。そのお二人の姿を見られず、声を聞けない寂しさは、ご家族はもちろんのこと、神さまの家族である私たちすべての心にいまだ深く残っています。しかし、御言葉に導かれ、御国で再び会える時を期待して、私たちはその寂しさを乗り越えようとしています。御言葉に「現にそうしているように」と記されているように、まさに今、私たちは「現に」互いに慰め合い、励まし合い、力づけ合って、歩んでいます。私たちは、主の御言葉に忠実に従い続けているのです。だから、思いやりにあふれる教会として育てていただいてるのです。
テサロニケの信徒への手紙一で、御言葉はさらに教会にこう勧めています。5章16節をお読みします。あ!あの御言葉は、ここにあったのか!と気付かれる方が多いと思います。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」
パウロは、手紙をこうしめくくっています。5章27節です。「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。」この御言葉に従って、今日は、この御言葉を講壇から教会の兄弟姉妹、教会に連なるすべての方々にお読みしました。
この御言葉が記され、テサロニケ教会で読まれたのは、今からおよそ2千年前です。わたしたちキリストの教会は常に希望を抱いて喜び、絶えず祈り、感謝をささげて2千年を歩み続けて来ました。わたしたち薬円台教会が、その歩みの中に置かれていることにあらためて感謝をささげましょう。「栄光を主に帰せよ」と、御言葉は語ります。教会が、現にこうしていきいきと歩んでいる栄光を、神さまにお返ししましょう。御国の到来・イエス様の再臨を待ちながら、さらに深く祈り合い、互いに励まし合って、2026年度を進みゆきましょう。
4月12日(主日)礼拝では「信徒の証詞」が語られました。HPへの掲載はありません。
2026年4月5日
説教題:復活は、再会の喜び
聖 書:ヨシュア記1章9節、マタイによる福音書28章1~10節
天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。…」
(マタイによる福音書28章5-6節)
今日のイースター、復活日礼拝にて、このように皆さまと主のご復活を祝える幸いを、心から感謝いたします。
金曜日に十字架の上で死なれたイエス様は、日曜日の朝早く、よみがえられました。マタイによる福音書28章1節から3節、そして5節がそれを語っています。司式者がお読みくださいましたが、今一度、拝読いたします。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。…天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。』…」
天使が告げたとおり、イエス様は、復活されました。よみがえられたのです。私たち人間が逃れることのできない死、私たち人間には乗り越えることのできない死に、救い主・イエス様は打ち勝たれました。勝利されたのです。今日は、イエス様のご復活が、私たちにとってどうしてこれほど喜ばしいのか、なぜキリストの教会は復活日礼拝・イースターをこんなに喜んでお祝いするのか —それをお伝えしたく思います。
イエス様が十字架で私たちに代わり、命を捨てて罪から救ってくださった恵みとは何かを、まずご一緒にたどりましょう。聖書で言う罪とは「的外れ」を意味します。悪意をもって、誰かを傷つける・社会を混乱に陥れる悪事・犯罪だけが聖書のいう「罪」ではありません。むしろ、私たち人間すべてが日常的にやってしまう「罪」、犯してしまう「罪」は、知識がなくて的外れのことをしてしまう、または思いやりが足りなくて、周りの人を傷つけるようなことを言ったりしたりすることです。
私は子どもの頃、犬にチョコレートを食べさせてはいけないと知りませんでした。可愛がっていた犬に、私が食べていたチョコレートを欲しがるのでやってしまい、苦しい思いをさせたことがあります。大人になった今も、私には知っていることの何万倍も、何億倍も、知らないことがあります。私は私の知識の不足、また思いが至らないことから、皆さんのどなたかを傷つけたかもしれません。本当に申し訳ないことだと思います。
また、罪が意味する「的外れ」の「的」とは、神さまをさします。矢がまっすぐ的に向かって飛ぶように、私たちの思いは常にまっすぐ神さまに向けられているはずです。そこから「外れ」て、違うもの ― 自分自身の損得、自分自身の力、世の富や名声、そこに心が向けられていることも「的外れ」、「罪」です。
さらに、人間は取り返しのつかないことをします。元どおりにすることができないのに、壊してしまうことがあります。今、複数の戦争で失われている命も、建造物も、文化も、壊したら元どおりにすることはできません。日常的な事柄では、たった一言の言葉の行き違いで、築いてきた信頼が崩れ去ることがあります。この世そのものが、自分では取り返すことができないのに、破壊し、奪い、奪われ、失い、それを嘆く悲しみと隣り合わせの存在です。この世そのものが、罪深いのです。
その罪のために、人は死ぬものと定められました。この世は滅ぶものだと定められました。しかし、イエス様はその罪のすべてをご自分が代わって背負ってくださいました。罪を、ご自分の命と共に十字架で滅ぼすことで、私たちを罪から、そのさだめである死から、滅びから、救い出してくださったのです。その救いを示す永遠の命の約束が、イエス様のご復活であらわされました。
昨年度、薬円台教会は二人の姉妹を天に送りました。地上では、もう会うことができません。それは、実に寂しいことです。悲しいことです。信仰がなかったら、耐えきれません。
では、絶望せず、悲しみに押しつぶされず、希望を心に抱く「信仰」とは何でしょう。この「信仰」こそが、地上では会えなくても、いつの日か、神さまが定められた時に再び会うことができる「永遠の命」です。
復活の恵みは、再び会える喜びです。復活の恵みは、取り返しのつかないあやまちを、ゆるしていただき、すべてがもとどおりになる回復・原状復帰の喜びです。復活の恵みは、私たち人間には決してできない、再会とゆるし、回復・原状復帰をなさってくださる万能であり、完全である神さまが、私たちと共においでくださるという最高の喜びなのです。
神さまと共にいられるとは、どういうことでしょう。肉体の死を超えて、完ぺきなやすらぎ・何も失うもののない満たされた思いで、神さまの家族として生き続けるということです。
説教の終わりに、今日の聖書箇所の先、マタイによる福音書の最後の御言葉を共にいただきましょう。マタイ福音書28章16節から17節をお読みします。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」(マタイによる福音書28:16-17)弟子たちは、ご復活のイエス様をあがめて、ひれ伏しました。ちょうど、今、礼拝をささげている私たちのように、です。そして、中には「疑う者もいる」のです。まだ洗礼を受けておられない方もおいでですし、また世を見渡せば、復活など、本当のこととは信じられない人間の方が、むしろ多いのです。これは、今の、この世の姿です。しかし、イエス様の大きな愛は、信じる弟子も、疑う者もすべて包みこみます。
そして、イエス様はこう言われました。18節から20節をお読みします。「イエスは近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を預かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」(マタイによる福音書28:18-20)
イエス様は教会に、私たちに、役割を与えられます。私たち教会に与えられた使命、ミッションと申して良いでしょう。それは、「共にいる、共に生きる」ことです。イエス様と共に、イエス様が招き集めてくださった兄弟姉妹と共に、神さまの家族として、このイースターから、また新しい教会の年度へと力強く歩みを進めてゆこうではありませんか。