20年10月-21年03月

2021年3月28日

説教題:剣をさやに納めなさい

聖 書:イザヤ書31章1-2節、マタイによる福音書26章47-56節

 災いだ、助けを求めてエジプトに下り 馬を支えとする者は。 彼らは戦車の数が多く 騎兵の数がおびただしいことを頼りとし イスラエルの聖なる方を仰がず 主を尋ね求めようとしない。しかし、主は知恵に富む方。災いをもたらし 御言葉を無に帰されることはない。立って、災いをもたらす者の家 悪を行う者に味方する者を攻められる。

イザヤ書31章1-2節

 イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。56このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

マタイによる福音書26章47-56節

 今日は「棕櫚の主日」、イエス様が過越の祭のためにエルサレムの町に入られた日です。人々が歓呼の声を上げつつ棕櫚の葉を打ち振る中、イエス様は身を低め、ゼカリヤ書9章9節の預言どおりに子ろばに乗って町に入られました。

 今日から4月3日(土)まで、私たちは受難週を過ごします。

 今日いただいている御言葉は、イエス様が弟子たちの足を洗い、共に過越の祭の食事 ‒ イエス様が地上で最後になさった食事・「最後の晩餐」‒ の後、ゲツセマネの園で逮捕されたことを伝える聖書箇所の一部です。

 その時、これから起こる事柄 ‒ 十字架上の受難と復活 ‒ をリアルに知り、わかっていたのはイエス様ただお一人でした。

 ゲツセマネの園で、イエス様は受難の苦しみと弟子たちとの別れの悲嘆を予測して「悲しみもだえ」(マタイ26:37)、「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マタイ26:38)とおっしゃいました。弟子たちは、これまで三度も十字架の出来事とご復活をイエス様から予告されていながら、何もわかっていませんでした。イエス様は悲しみもだえ、苦しみを「杯」と呼んで「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:30)と祈り、共にいた弟子たちにも「目を覚まして祈っていなさい」(マタイ26:41)とおっしゃいました。

しかし、事態の深刻さを感じることのできない弟子たちは、イエス様が苦しんで祈っておられる間、眠ってしまっていたのです。

 イエス様は三度、苦しみながら祈られました。そのたびに、弟子たちのところに様子を見に行きましたが、イエス様と心を合わせて目を覚まし、苦しみを分かち合おうとする者は一人もいませんでした。

 三度とも、皆 眠っていたのです。

 イエス様は「杯」を飲まなければならない時、すなわち逮捕され十字架への歩みを始める時が来たことを悟り、眠っている弟子たちにおっしゃいました。「時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(マタイ26:45b)

 イエス様の言葉どおりに、やって来たのはイエス様を裏切ったユダと、彼が連れて来た武装集団でした。

 イエス様も、弟子たちも、祈るためにゲツセマネの園に来たのですから、武器など何も持っていません。それなのに、「祭司長や民の長老たちの遣わした大勢の群衆」(マタイ26:47)は皆、剣や棒を持っていたのです。

なぜでしょう。

 人と会う場に、相手を傷つけることのできる武器を持って姿を見せるとは、何を意味するでしょう。武器を担う ‒ それは、相手への敵意の表明・相手を支配しようとする意思を表します。戦闘態勢です。神さまは、この姿を喜ばれるでしょうか。けっしてそうは思えません。

 神さまは、私たちがそれぞれに違う者でありながら、互いを受け容れ合い、互いの友となることを望んでおられます。

 その望ましい過ごし方・暮らし方・生き方を、聖書は「平和」と呼びます。

 平和を破壊し、互いに敵対することを聖書は「悪」と呼びます。

 かつて、ノアの箱舟の出来事の時に、神さまが大洪水を起こされたのは、地上にはびこった「悪」をぬぐい去るためでした。

 創世記は、その時の神さまのお心をこのように伝えています。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」(創世記6:5-6)互いに争って、痛めつけ合い、殺し合っている人間の罪深い姿は、神さまを悲しませました。箱舟に乗せた者たちを残して、一度は悪をぬぐい去ったはずの世は、その後、ふたたび悪に満ちてしまいました。

 最初の人アダムとその妻エバが罪を犯したように、人は罪の誘惑から逃れることができない罪深い者なのです。

 神さまが宝の民としてエジプトでの奴隷の身分から救い出したユダヤの人々は、今日の旧約聖書箇所では、神さまではなく、なんと、かつて自分たちを支配していたエジプトにすがろう ‒ しかも、戦車や騎兵といったエジプトの強大な武力にすがって攻め寄せてくるアッシリアから逃れようとしました。苦しみが迫る時に、造り主である御自分ではなく、昔、自分たちの祖先をこき使っていた国に頼る人々の姿を、神さまはたいそう悲しまれたでしょう。情けないとすら思われたかもしれません。

 それはユダヤの民の姿に限りません。私たち人間は皆、そのように力にものを言わせ、あるいは逆に力にへつらい、互いを傷つけ、また傷つけられるのです。それが、悪が渦巻くこの世の姿なのです。その悪と、それをせずには、また巻き込まれずにはいられない罪から人間を救おうと、ついに神さまはご自身の御子イエス様を「平和の君」として地上に遣わされました。そして、まことの平和を私たちにさししめすために、十字架でのご受難とその後のご復活を成し遂げてくださいました。

 イエス様は、人間の罪・悪に真正面から、自らを守るものを何一つ持たずに立つことになったのです。

 悪を表すのは、具体的な暴力ばかりではありません。

 ユダは裏切りの接吻・偽りの心でイエス様を痛めようとしました。

 イエス様は早い時点で、ユダの裏切りを見抜いておられました。

しかし、イエス様はそのユダを、今日の聖書箇所で「友よ」(マタイ26:50)と呼んでおられます。

 このイエス様の呼びかけは、ユダに対する皮肉ではありません。イエス様は平和を世に示すために、御自分をおとしめようとする者・敵をも こうして友と呼び、この時も、心からユダを愛されていたのです。ヨハネによる福音書には、最後の晩餐の前に、イエス様がこのユダの足も愛情をこめて洗ったことが記されています。

 イエス様は、山上の説教でこう教えられました。

 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子になるためである。」(マタイ5:44−45)

 ご自身がおっしゃったこの御言葉を、イエス様は十字架で実際に行われました。それが、天の父の御心・イエス様の「杯」、そして御父と一体であるイエス様ご自身の御旨だったからです。

 イエス様は、自分を裏切ったユダを友と呼び、「しようとしていることをするがよい」(マタイ26:50)と言われて、抵抗せずに逮捕されました。その後、ユダヤ人もローマ兵も、イエス様にありとあらゆる暴力と侮辱を好き勝手に浴びせかけました。この人間の罪を、罪が招く滅びから救うために、イエス様はこのまま十字架で死なれたのです。

 イエス様は、私たち人間を救うために、ご自身を犠牲にされました。

 今日の聖書箇所の51節から52節にかけて、実に印象的な出来事が記されています。今日の説教題「剣をさやに納めなさい」も、この箇所からいただきました。

 イエス様が逮捕される時、「イエス様と一緒にいた者の一人」 ‒ ヨハネによる福音書では弟子ペトロだったと伝えられています ‒ が、こうしたことが記されています。今日の聖書箇所の52節です。お読みします。その人は、手を伸ばして相手の「剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。」(マタイ26:52)

 この者は、イエス様の逮捕をやめさせよう、阻もうとしたのでしょう。イエス様を思ってのこと、そして罪もないイエス様が逮捕されることへの強い正義感の表れでもあったでしょう。

 しかし、剣を振るう者に対して、自分も同じ剣で対抗し、相手を傷つけるのは、やはり「悪」です。だからこそ、イエス様は剣で相手を傷つけた者に「剣をさやに納めなさい」と言われました。

 イエス様が、山上の説教で語られた言葉を思い出しましょう。

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5:38-39)

 悪に悪で報いてはならない、とイエス様はおっしゃいました。

 悪意に満ちて襲いかかって来る者の心は、荒れ野のようにすさんでいます。頼る者は自分だけだとの孤独と不安でいっぱいで、喜びも希望もありません。強そうに見えても、これは弱い心です。「自分が、自分が」と気負う心の糸がぷつんと切れたら、もろく崩れてしまいます。

 暴力・憎しみ、悪意に対して、自分も同じように悪に手向かい、暴力・憎しみ、悪意を振るえば、心からは愛が失せてしまいます。

 やられたらやりかえす、倍返しだ、と攻撃の応酬を繰り返しているうちに、人間は滅びてしまいます。

 使徒パウロは、ローマ教会の兄弟姉妹にこう書き送って勧めています。お読みしますので、耳だけをお開きください。ローマの信徒への手紙12章19節です。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。」(ローマの信徒への手紙12:19)また、その少し後で、こうも記しています。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマの信徒への手紙12:21)

 このパウロの勧めのように神さまにすべてをゆだねるのは、私たちには実に難しいことです。

 イエス様がおっしゃったように、「善をもって悪に勝」つのは、もっと困難です。これを完全におできになるのは、イエス様お一人だけではないでしょうか。

 私たちはやられれば、ついやり返し、御言葉をハッと思い起こしてやり返すのをやめても、悔しさ・怒り、相手への憎しみが、なかなかおさまりません。自分の中でもやもやして、苦しみます。このように、人間は自分でも自分の感情の動きをコントロールすることができない弱い者なのです。

 それがおできになる方、完全に愛を貫かれるのは、イエス様だけです。おできになるからこそ、イエス様はご自身を犠牲にして敵への愛を貫き、十字架で命を捨ててくださいました。そのご受難の三日後に復活され、わたしたちに「死にて死に勝つ」道・御国への道を開いてくださいました。

 私たち弱い者は、イエス様のあとをついて、イエス様に従って、その道を歩み「死に勝つ」永遠の命を生きて進み続けます。

 私たちは身近なささやかな事柄から、イエス様の御言葉に従うことができます。

 もし、誰かに何か、たいへんいやなことを言われたとしましょう。私たちの心・感情はすばやく反応して悲しみます。怒ります。言い返す言葉を探します。そして、実にすばらしい「言い返しの悪口」、「相手をやりこめる言葉」、復讐を思い付くことができます。

 しかし、その時に、思いきって口を閉じてみましょう。

 言い返さず、我慢するのです。裁判で、ひと言も何もおっしゃらなかったイエス様のように、黙って耐えるのです。相手は、せせら笑ってこう言うかもしれません。「ほ〜ら、何にも言い返せないよ、弱虫。」

 しかし、私たちは「言い返せない」のではありません。

 イエス様にならって、敢えて「言い返さない」のです。

 悪と憎しみの応酬を避けるためです。

 我慢する時・忍耐する時、イエス様が私たちの傍らに寄り添っていてくださいます。友よ、よく我慢したとおっしゃってくださいます。

 イエス様は言われます ‒ 「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)

 私たちにできる小さな平和を作ってまいりましょう。

 喜びに満ちて「言い返さない」柔和な者に、主は私たちを育ててくださいます。イエス様が十字架で私たちの罪を贖ってくださったこと、神さまの子にしてくださったことを深く感謝して、この受難週を進み行きましょう。



2021年3月21日

説教題:皆に仕える者になる

聖 書:イザヤ書53章1-5節、マタイによる福音書20章20-28節

わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

イザヤ書53章1-5節

 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。

マタイによる福音書20章20-28節

 受難節第五主日を迎えました。それにしては、と、ちょっと思うような出来事が記された新約聖書の聖書箇所を、いただいています。

 実は、今日の新約聖書箇所・マタイによる福音書20章20〜28節は、このところだけを読むと、浅くしか御言葉を受けとめられなくなってしまいます。20節からの出来事だけでは、イエス様の弟子ヤコブとヨハネが母親に連れられてイエス様のところに来て、その母親がイエス様に、自分の息子二人を特別扱いして欲しいと頼んだことしか読み取れません。

 2000年以上前から、昨今では もう死語になっている言葉かもしれませんが“教育ママ”がいて、“裏口入学”のようなことがあったのだ、それにしても聖書にこんな俗なことが書いてあるなんて…と思う方も少なからずおられるでしょう。

 そして、この母親の勧めと助けによって、ヤコブとヨハネが、弟子たちの中からいわゆる“抜け駆け”をして、他の十人の弟子たちよりも偉い者になろうとしたことを聞いて、その十人の弟子たちが腹を立てました。

 25節から28節は、その特別扱いをしてもらおうとした母と、息子たちだけでなく、腹を立てている弟子一同にイエス様が語った御言葉です。イエス様はこうおっしゃいました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(マタイ福音書20:26b〜27)

 それを聞いて、弟子たちも、また今日の聖書箇所を読む私たちも、何となく教えられ、納得した気になります。真実に偉い者・立派な者とは、誰のためにも身を粉にして働く者のことだとイエス様は教えてくださっている、と理解してしまいたいところです。

 そうか、優れた能力を身に付けると、えっへんとふんぞりかえり、目下の者を顎でこき使うようになるのが“人の罪”だと、イエス様はおっしゃっているのだ … だから、傲慢にならず、自分が成長し充実してゆく自覚を持ったならば、謙虚になって人のために働きなさいと、イエス様は今日の聖書箇所で教えてくださるのだと、そう考えてしまいます。

 なるほど、日本でも古来「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということわざがあると、思い起こして納得したりもするでしょう。

 さらに、私たちは、ここから自分の教会生活・信仰生活を振り返り、反省しようとします。このイエス様の教えを教会生活・信仰生活に活かして、熱心に奉仕を献げ、神さまと兄弟姉妹・隣人を愛し、神さまと兄弟姉妹・隣人に仕える自分になるよう祈ろう、励もうと心をあらたにします。そして、ああ、今日の日曜日、自分は悔い改めたと満足してしまいます。

 確かに、神さまと人を愛し、神さまと人に仕えることは、信仰生活がめざすところです。

 しかし、私たちは忘れてはなりません ‒ 私たちが献げる神さまと人への奉仕は、神さまへの深い感謝と、愛されている喜びから行うものです。私たちが奉仕を献げるのは、“信仰者・クリスチャンだったら、イエス様がおっしゃるように、謙虚に誰にも仕えるべきだから、熱心に奉仕する”という考え、教条的な、強制されたような思いを出発点にはしていません。自分の意思ではなく、義務として強制されたことを、私たちはそう長く続けられません。いやいややり続けているうちに、途中で心底いやになってしまいます。私たちが奉仕を献げ、それも何十年と長く献げ続けられるのは、神さまと人のために何かをせずにはいられないという思いからです。

 そして、奉仕 ‒ 自分の身・時間・力・富 ・思いを神さまと人に献げること ‒ は、神さまと自分、そして神さまと自分と兄弟姉妹・隣人をつなげる大きな喜び・楽しみです。喜んで、楽しんで献げる奉仕が本当に主に喜ばれる献げものです。

 こう考えると、今日の聖書箇所で、イエス様が弟子たち、そして私たちに「あなたがたは皆に仕える者になりなさい」「謙虚に、へりくだってよく奉仕する者になりなさい」と伝えようとなさった、とだけ受けとめるのでは、不十分だということが分かります。

 実は、今日の箇所の少し前、マタイによる20章17節から聞かなければ、イエス様の十字架の出来事とご復活を真実に受けとめることにはなりません。17節から19節にかけて、何が記されているでしょう。

お読みします。「イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。』」

 ここに、イエス様が十字架の出来事で死なれ、復活されることを弟子たちに告げた、その言葉が記されています。それは弟子たちにとって三回目の、イエス様の十字架での死と復活の予告でした。

 ここでは「死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。…侮辱し、鞭打ち、十字架につける」(マタイ福音書20:18b〜19a)とイエス様がいたぶられ、極刑にされる言葉が続いて、前の二回の予告よりも詳しく述べられています。それを聞いた弟子たちは、イエス様が痛ましい最期を遂げることに衝撃を受けたでしょう。

 イエス様は十字架の出来事の後のことも、続けてはっきりと語られています。18節の後半で「そして、人の子は、三日目に復活する」、と。ところが、聞いていた弟子たちの十人は、イエス様が死なれるという衝撃で、復活のことが耳に入らなかったか、あるいは何のことかわからなくて、受けとめきれませんでした。

 弟子たちの中に二人、はっきりとはわからないながらも、復活はイエス様がご栄光を受けることだとうっすらと聴き取れた者がいたのです。それが、ヤコブとヨハネでした。彼らはそれが気になって、母親に話したのでしょうか。そして母親は、イエス様が語られた復活を“ご栄光の復活”と、息子たちよりも重く受けとめたのです。

 ヤコブとヨハネの母は、イエス様にこう言いました。21節です。「王座にお着きになる」 ‒ この母は、イエス様が語られた十字架の死の三日後に起こる復活は、イエス様が御国の王となられ、栄光を顕されることだとわかっていました。我が子を特別扱いして欲しいと頼み込むだけの愚かな母ではなかったのです。イエス様が着かれる栄光の座に、自分の息子たちを伴って欲しいと願いました。

 しかし、ご栄光の復活に至るには、十字架での受難があることを、この母親も、ヤコブとヨハネも本当には分かっていませんでした。

だから、イエス様はおっしゃいました。22節です。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」「杯」とは十字架での受難をさします。

 ヤコブとヨハネは、即座に「できます」と答えました。

 しかし、私たちは知っています ‒ ゲツセマネの園でイエス様が逮捕された時、ヤコブとヨハネは他の弟子たちと同様に、イエス様を見捨てて逃げてしまったのです。

 ところが、イエス様はこのようにおっしゃいました。23節です。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。」

 これは、事実となりました。イエス様の預言的な言葉だったのです。十字架の時には逃げ去ってしまった弟子たちは、復活されたイエス様に出会って、彼らの「杯」 ‒ 彼らの十字架 ‒ をすすんで、喜んで受けました。

 弟子たちはペンテコステの日に聖霊で満たされた後、実に力強く福音を伝え始めました。イエス様の十字架の出来事で救われ、永遠の命に生きる復活の福音を語り、激しい迫害に耐えて伝え続けました。ヤコブは迫害を受けてヘロデ王に殺され、殉教しました。イエス様が告げたとおりに、イエス様の杯を飲むことになったのです。

 このようにイエス様の言葉を、十字架の出来事と復活を思い巡らしつつ読むと、「皆に仕える者になる」とは、ただ小腰をかがめてへりくだり、せっせと働くことだけをさしているのではないと分かってまいります。

 実は、「皆に仕える者」には、イエス様 ただお一人にしかなることができません。

「皆の僕になる」とは、自分の命を捨てて、命がけで「皆」に仕えることです。

「皆に仕える者」は、「皆」を、襲ってくる恐ろしい敵から守ろうとする時、どうするでしょう。

 私たちだったら、まず、守ろうとする「皆」 ‒ 我が子、我が家族、愛するたいせつな人 ‒ を連れて、害を及ぼそうとする敵から逃げるでしょう。しかし、もし逃げ切れなかったら、どうしましょう。「攻撃こそ最大の防御なり」と考えて武器を探し、手に取って、敵と戦おうとするでしょう。敵は悪だから、傷つけても良いと、つい考えてしまうからです。

 しかし、ふと、暴力はやっぱり良くないと気付くことができるかもしれません。

 戦わずして、大切な人を守ろうとしたら、どうすれば良いでしょう。

 私たちに考えつけるのは、こんなことです ‒ 守ろうとしている人と、襲ってくる敵との間に入り、敵の攻撃を自分が盾となって受けること。敵の武器が壊れて、守りたい人を傷つけることができなくなるまで、自分が“やられ続ける”ことです。

 しかし、私たち人間は、そのような強い“盾”になれません。敵の武器は私たちの肉体を滅ぼし、守ろうとしている大切な人をも貫くでしょう。悪の力が私たちをむしばみ、愛する者たちをも痛めつけるでしょう。

 守り抜くことのできる“盾”は、イエス様ただおひとりです。そして、イエス様は「盾」となるよりも、さらに強く堅く私たちを守ってくださいます。

 イエス様はおっしゃいました。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ福音書5:44)

 強力な武器で攻めて来る敵の前に、イエス様は私たちをかばって素手で立ち、攻撃を受け続け、さらには、深く強い愛をもって敵を抱きしめられます。どれほど憎しみですさんだ心も、抱きしめられると “はっ“と気付くのではないでしょうか。幼い日に、こうして自分は愛情をもって抱きしめられたことがあった ‒ この自分も、愛されたことがあった、と。こうしてイエス様は、憎しみだけでいっぱいになった敵の心に“愛”をそそぎ、“愛”を呼び起こされます ‒ ご自身が犠牲になって。

 イエス様は犠牲となって十字架で死なれ、その死が、憎しみで死んだ心を愛へと生き返らせるための死だったことを、ご復活で示されました。これが、救いです。神さまに遣わされて、この救いのみわざを成し遂げられる方は、イエス様の他には誰もいません。「皆に仕える者」は、自己犠牲を貫き通されるイエス様ただおひとりなのです。

 それでは、イエス様はどうして、「皆に仕える者になり、…皆の僕になりなさい」と私たちにおっしゃるのでしょう。

 イエス様の自己犠牲という深い愛を、私たち人間はイエス様を通し、福音を通して教えられなければ知ることができません。また、聖霊で満たされなければ、イエス様の歩み・救いの福音を“尊い”と、心と魂で受けとめることはできません。イエス様の自己犠牲を尊いと思えない心は、極端に申せば、誰かが自分の身代わりになってくれたと知らされても、“ラッキー!”としか感じることができません。それは自分のことしか考えられない、狭量で冷たい心です。罪なる心です。神さまはイエス様の十字架の出来事とご復活、そして昇天を通して、人間のこの自己中心的な心に愛の息・聖霊を与えてくださいました。

御子を犠牲にするまでに、私たち人間を愛してくださいました。

 取るに足らないこの者が、尊い方に、ここまで深く愛されている ‒ それを心と魂で知ることは、私たちひとりひとりにすさまじいまでに大きな励まし・生きるエネルギーを与えます。

 この喜びを感謝で表さずにはいられないから、私たちは主を讃美し、礼拝を献げます。

 あふれる感謝が、神さまのために働きたいという思いを私たちのうちにかきたてます。 その思いが、教会で、社会で、家庭で、兄弟姉妹と隣人・愛するたいせつな人のために働く奉仕へと私たちを促し、進めます。

「皆に仕える者になり…皆の僕になりなさい」との御言葉を通して、イエス様は「わたしの後をついてきなさい・わたしに従いなさい」と私たちを招いてくださいます。

 そのお招きに喜んで応えて、イエス様についてゆきましょう。

 今日から始まる新しい一週間の一日・一日を、イエス様から離れず、愛されている喜びと感謝に満ちて進んでまいりましょう。



2021年3月14日

説教題:わたしの子 イエスに聞け

聖 書:マラキ書3章23-24節、マタイによる福音書17章1-13節

 見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に 子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって この地を撃つことがないように。

マラキ書3章23-24節

 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

マタイによる福音書17章1-13節

 今日いただいているマタイ福音書17章1〜13節は、イエス様が十字架の出来事とご復活を予告されてから六日後の事柄を語っています。

イエス様は一番弟子のペトロと、ペトロのすぐ後に弟子となったヤコブとヨハネの兄弟だけを連れて山に登られました。

 「山に登った」ことは、旧約聖書の二人の代表的預言者・二つの事柄を思い起こさせます。

 一人は、エジプトで奴隷だったユダヤの民を、神さまに導かれて脱出させたモーセです。モーセは民を代表してシナイ山に登り、そこで神さまから十戒を授けられました。

 もう一人は、神さまの宝の民・ユダヤの人々が偶像バアルを崇拝することに激しく抵抗した預言者エリヤです。モーセの人生の道のりも苦難の連続でしたが、エリヤも預言者として過酷な歩みを与えられました。当時のイスラエルの王アハブの妃イゼベルはバアル崇拝者でした。彼女は、天の父・主の御言葉を人々に伝える預言者を、エリヤ以外、皆殺しにしました。エリヤはたった一人、生き残った預言者になってしまったのです。エリヤは命の危険を感じて逃げ、神の山ホレブで神さまと会いました。ところが、そこで、神さまはエリヤに驚くようなことをおっしゃいました。 “逃げるな。” そう厳しく言い渡され、難しい使命を与えられたのです。

 神さまは、エリヤにこう言われました。「行け、あなたの来た道を引き返」すように(列王記上19:15)。エリヤは、この御言葉に従いました。命の危険を顧みず、主に従い通したのです。

 神さまがエリヤと会った「神の山」ホレブは、モーセが十戒を授けられたシナイ山の別名と言われています。モーセも、エリヤも、命がけで神さまを信仰し、勇気をいただいて、神さまから託された御言葉・御旨を人々に伝えた預言者です。

 今日の新約聖書箇所でイエス様が三人の弟子を連れて登られた「高い山」は、シナイ半島の南にあるシナイ山ではなく、イエス様が育たれ、伝道活動を始められたガリラヤよりもさらに北のヘルモン山と言われています。標高は約2300メートル、常に山頂に冠雪をいただく「高い山」です。

 ここで、私たちと同じ完全な人としてこの世にお生まれになったイエス様は、神さまの御子・完全な神としてのお姿を顕されました。神さまとしての栄光によって、イエス様の御顔は太陽のように輝き、光り輝くような真っ白な衣をまとわれた姿になられたのです。

 そのイエス様のところに二人の預言者、モーセとエリヤが現れてイエス様と語らい始めました。

 マタイ福音書には記されていませんが、ルカ福音書にはこれと同じ出来事の記述があり、そこには語った内容が次のように記されています。ルカによる福音書9章31節です。お読みします。

「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」(ルカによる福音書9:31)

 なぜ、モーセとエリヤ、そしてイエス様が十字架の出来事・イエス様の贖いの死について話していたのでしょう。この “なぜ” の答えを導く鍵は「最期」という言葉にあります。新約聖書のもとの言葉・ギリシャ語では、この「最期」は「エクソドン」と発音される言葉です。聞いたことのある言葉に似ている…と思われませんか。エクソダス、エキジット・Exit という言葉を連想されはしないでしょうか。

Exit は「非常口」「脱出口」「出口」を意味する英語で、その語源はギリシャ語の「エクソダス」です。そして、出エジプト記のことを、英語では「エクソダス・Exodus」とギリシャ語を用いて呼び習わしています。「脱出物語」とでも訳せましょうか。

 イエス様が「エルサレムで遂げようとしておられる最期」すなわち十字架の出来事とは、ルカ福音書のギリシャ語を直訳すると「彼(イエス様)のエルサレムでの脱出」です。

 十字架での死は、神さまの御目から御覧になると、また御旨を私たちに伝え天と地をつなぐ役割を担った預言者モーセとエリヤ、そしてイエス様ご自身にとっては「脱出」なのです。

 何からの脱出でしょう。

 モーセに率いられてエジプトから脱出 ‒ エクソダス ‒ したユダヤの民は「奴隷の身分から脱出」しました。神さまの民となる未来へと歩み出すための脱出でした。

 エリヤは殺されそうになって、その立場から脱出しようとしたところ、神さまに戻るようにと言われてそのとおりにしました。それは、人間の目には後戻りのように見えます。しかし、エリヤが来た道を戻り、神さまから遣わされたユダヤの民への預言者に還ることで、エリヤはユダヤの民に偶像崇拝をさせず、民を真実の神さまを仰ぐ希望へと導きました。それは、イスラエルの民・ユダヤの民全体を天の父を仰ぐまことの信仰へと歩み出させるための脱出でした。

 イエス様の十字架 ‒ それは、私たち人間が「罪と、その報いである滅びの死から」脱出するためです。滅びから私たちを救い出し、私たちが永遠の命に生きる主の御国へと歩み出すために、イエス様は脱出口・非常口・出口を十字架で死なれることで開いてくださったのです。

 イエス様とモーセ、エリヤは「脱出」という一事によって、つながっています。だから、イエス様がまったき神さまのお姿を弟子たちに顕した今日の聖書箇所で、神さまは後に使徒・福音伝道者となり、まことの主を人々に伝える弟子たちに三人の姿を見せたのです。

 今日いただいている旧約聖書の聖句 マラキ書3章23-24節は、旧約聖書全体の最後にある御言葉です。この旧約聖書最後の御言葉には、エリヤのことがこう述べられています。「わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に 子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって この地を撃つことがないように。」父は創造主なる天の神さま、そして、子は神さまに造られた私たち人間です。

 この聖句の後に、新約聖書が始まります。自分の創造主を知らずに生まれてくる私たち人間に、父なる神さまを知らせ、父なる神さまを知らないために罪人のまま滅びなければならない私たちを救ってくださる御子イエス様の系図が語られます。こうして、旧約聖書と新約聖書は苦難から、また罪と滅びからの「脱出」でつながっているのです。

 私たちは皆、神さまに背を向けて自分中心に生きる罪のために死に、滅んでゆかなければならない者たちでした。

 しかし、イエス様は私たちに代わって、罪を担ってくださいました。イエス様が、私たちを罪という死に至る病から癒やし、脱出させ、救い出してくださったのです。行く手には永遠の命・天の御国、もう涙を流すことのない喜びと安らぎの神の国があります。

 さて、今日の新約聖書の語るところでは、ペトロは、イエス様・モーセ・エリヤが話し合っているのを目の当たりにして感激し、自分でもわけのわからないことを口走ってしまいました。

 すると、光り輝く雲が三人とペトロと、おそらく他の弟子たちをも覆い、その中から神さまの声が響きました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」

 弟子たちは恐れてひれ伏しました。

 イエス様は、その彼らに近づき、手を触れて起こしてくださいました。彼らが顔を上げると、そこに、ひたすら・ひとすじに仰ぎ見なければならない方・イエス様だけがおられました。

 神さまの御心に適う方・イエス様に従って進むことに、まことの幸いと喜びがあります。私たちはそれぞれ、イエス様に近づいていただき、触れていただき、手を取られて顔を上げ、主を仰ぎ見て生きてゆきます。イエス様は十字架の死を超えて、復活へ、永遠の命へと歩み行かれます。そのイエス様のあとをひたむきについてゆくことに、私たちのまことの幸いがあります。

 それぞれの “ついて行き方”・ “従い方” ・今日の御言葉・説教題にある“イエス様の聞き方”があります ‒ それぞれの人生の歩みがあるように。

 しかし、イエス様の十字架の出来事とご復活を心と魂に受け入れ、信じて救われた私たちは、皆そろって同じ方向を向いて歩んでいます。イエス様を通して、天の父を仰いでいるのです。

 この世の命の終わり、地上の別れを超えて、私たちはイエス様につながり、兄弟姉妹、すべての信仰者につなげられています。イエス様の言葉に聞き、あとに従ってまいりましょう。そのことにこそ、私たちのまことの安心があることを胸に、今週一週間を進み行きましょう。



2021年3月7日

説教題:主イエスについて行く

聖 書:イザヤ書53章9-10節、マタイによる福音書16章21-28節

 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

マタイによる福音書16章21-28節

 受難節第3主日を迎え、十字架の出来事とご復活の恵みを特に深く味わう40日間の歩みの半ばにいます。今日のために与えられた新約聖書の御言葉は、イエス様ご自身が弟子たちに初めて、御自分がこれから十字架で死なれることとご復活を語られた箇所です。その予告の御言葉は、弟子たちに大きな驚きと衝撃をもたらしました。私たちも、今日、その厳しさに胸を衝かれる思いがいたします。しかし、それは私たちのために死なれるイエス様の愛と決意の御言葉です。私たちは、イエス様が救い主であるとはどういう意味か、そして、その恵みがどれほど大きいかを今日の御言葉から教えられます。心をむなしくし、信仰の耳を大きく開いて、ご一緒に御言葉に聴きましょう。

 今日の御言葉の直前に、ペトロはイエス様がイザヤ書に預言された救い主・メシアだと言いました。これは、イエス様を自分の救い主と信じるペトロの信仰告白でした。ペトロの言葉をイエス様が「そのとおりだ」とおっしゃったその時、イエス様とペトロ、そしてペトロを代表する弟子たちの絆が強められ、弟子たちは大きな喜びに満たされました。

 ところが、その直後に、イエス様はご自身の死とご復活を弟子たちに予告されました。救い主・メシアの御業とは何かを、はっきりと、正しく弟子たちに教えるためでした。

 先ほど司式者が朗読されたマタイ福音書16章21節の御言葉です。今一度、あらためてお読みします。「イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」(マタイ福音書16:21)繰り返しますが、これはメシア・救い主の「救い」とは何をさすのかをはっきりと告げる言葉でした。しかし、救い主とは何かを正しく理解していなかった弟子たちは直前の喜びから一気に困惑へと突き落とされたように思いました。

 彼らは「救い主」の意味を大きく誤解していたのです。

 ユダヤ民族はイエス様の時代から600年ほど前に国を滅ぼされ、それ以来いくつかの大国に代わる代わる支配されていました。

 彼らにとっての「救い」とは、他国による支配からのユダヤ民族の解放と独立でした。ですから、彼ら弟子たちには、イエス様がおっしゃったように“ユダヤ民族の救い主”が、長老・祭司長・律法学者といった“ユダヤ民族そのものの指導者層”から苦しめられて殺されるとは、とうてい考えられませんでした。

 イエス様が、ユダヤ社会の指導者層に反感を抱かれ、憎まれ、ねたまれていたのは事実でした。イエス様が人々に語られる神さまのまことの教えは、律法学者やファリサイ派の人々の人間中心の律法解釈とは違って神さまの愛に満ちていたからです。しかし、長老や祭司長、律法学者たちの反感や憎しみも、イエス様が“ユダヤ民族の救い主”であると分かれば消えると、弟子たちは楽観していたのでしょう。

 ところが、イエス様が“自分はユダヤの指導者層に殺される”と、おっしゃり、対立をさらに深めてしまうことを言われました。イエス様がおられるところには、いつも弟子たちがいました。弟子たちだけでなく、イエス様を慕う群衆もいました。イエス様をライバル視している長老や祭司長、律法学者たちもいたのです。だから、ペトロはあわてて、イエス様を脇にお連れしました。この情景は、容易に想像することができます。ペトロはイエス様よりも年上ですから、こんなふうにこそこそと、イエス様を叱ったのではないでしょうか。“そんな、(いわゆる)偉い人たちをもっと怒らせるようなことをおっしゃってはなりません。ややこしくなるではありませんか。だいたい、殺されるなんて、物騒な。それに、復活なんて不思議なことまで言い出して。イエス様が死刑になるなんて、あってはなりません。” イエス様の死の予告、そしてさらに不可解な復活の予告は、今日の聖句のペトロの言葉どおり、イエス様を慕う者たちにとっては、まさに「あってはならない」ことだったのです。

 このペトロの言葉に、イエス様は激しい怒りを示されました。「サタン、引き下がれ」と厳しくおっしゃったのです。どうしてこんなに怒られたのか ‒ それは、救いのまことの意味と恵みを伝えるためです。

 その厳しさの理由を、少し丁寧に考えてまいりましょう。

 神さまがイエス様をこの世に遣わされたのは、ユダヤ民族のみの救いのためではありませんでした。人間すべての「救い」のためだったのです。その「救い」は、イエス様の十字架の死で成し遂げられ、三日後のご復活で明らかに示されます。それが神さまのご計画です。

 その神さまの御業とご計画を妨げ、邪魔する者は神さまの敵・サタンです。サタンとは、今日の23節にあるように、「神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ福音書16:23)者です。

 前回の礼拝でご一緒に聴いた新約聖書箇所で、イエス様はこのように言われました。

 マタイ福音書12章30節です。この御言葉です。「わたしに味方しない者は、わたしに敵対し」(マタイ福音書12:30)ている。わたし ‒ 神さま・その御子であり、神さまと一体であるイエス様 ‒ に味方せず、その邪魔をしようとする時、その者はたとえ一番弟子のペトロであっても、神さまの敵・サタンです。

 これは、人間の心の中のサタン・罪を言い当てた御言葉です。

 神さまの御心を尋ねることを忘れた人間中心の願望 ‒ たとえば、弟子たちやユダヤの人々が思い描いていた“ユダヤ民族だけの救い”・独立と解放のみしか視野に入っていない願いや計画 ‒ は、神さまへの背きであり、サタン的・悪魔的であり、罪そのものです。

 具体的には、ユダヤ民族の独立と解放は、彼らを支配していたローマ帝国への反逆を意味しました。それはユダヤ民族の暴動と反乱、それを鎮圧するために民に武器を向けるローマ兵の攻撃をもたらします。

神さまを忘れた人間中心の願望が、流血の惨事・争いを招くのです。実際に、ユダヤは紀元66年から十数年にわたり「ユダヤ戦争」と呼ばれるローマへの反乱を起こし、エルサレムは戦地となり、そして陥落してしまいました。

 対立がすぐに暴動となり、血が流され、命が失われる。これは、イエス様の時代のユダヤばかりでなく、人間の歴史で繰り返されている事態です。

 これは神さまの御心ではありません。このような武力対立をもたらす独立運動の指導者は、真実の「救い主」ではないのです。弟子たち、そしてユダヤの人々の救い主への期待は、ここが根本的に間違っていたのです。

 人間の願望が原動力となって血が流され、多くの命が失われる ‒ これは、人の悪・罪・サタンのしわざです。暴動と武力鎮圧によって損なわれたもの ‒ 多くの人の心や体、命はどうすれば癒やされるのでしょう。回復するのでしょう。

 私たちは、子供の頃から、物を壊したら弁償しなければならないとしつけられています。誰かに痛い思いをさせてしまったら、ごめんなさいを言うように教えられています。破壊された社会、傷つけられた体と心、失われた命は、償われなければなりません。

 犯罪には刑罰が与えられます ‒ 罪は罰によって償われなければなりません。

 しかし、失われた命を、人はどうやって償い、回復させることができるのでしょう。人を殺したら、その償いのために自分も死ぬことで償いになるでしょうか。なりません。

 亡くなってしまった方を、人間は生き返らせることはできません。誰かを深く傷つけたら、その前の何もなかった元の状態に戻すことは、人間には決してできないのです。 

 自分の願望のままに自己中心的な行動を行って、あたかも全世界が自分を中心に回っているかのように振る舞った結果、壊してしまったものを、人間は元にもどすことはできません。

 それは、心の中に棲むサタンに、全世界を手に入れさせてやるからとそそのかされて売った自分の魂を、自分では買い戻すことはできないとたとえても良いでしょう。

 人間にはできないことを、神さまはおできになります ‒ これは、イエス様ご自身が、マルコ福音書10章27節でこのようにはっきりおっしゃっています。お読みします。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ福音書10:27)

 神さまであるイエス様は、人間の罪を代わって負い、ご自身が人間に代わって死をもって罪の償い・贖いを十字架で成し遂げてくださることがおできになるのです。人間が破壊して回復・修復できない事柄を、イエス様は元どおりにしてくださいます。

 それによって、私たちは罪を赦されます。それが、「救い」です。

 神さま・イエス様は、ただ魔法のようにこの回復のわざをなさるのではありません。激しい苦痛を伴った罪は、同じ激しい苦痛で償われなければ、償ったことにはならないからです。私たちには他の人の痛みを自分の痛みのように感じることはできませんが、何でもおできになる神さまは、罪が与えた痛みをすべてご自身が受けてくださいます。それがイエス様の十字架の出来事です。今日の旧約聖書が告げる「苦難の僕」の預言を、イエス様が実現なさったのです。

 このイエス様のご受難によって、私たちは破壊の罪・自己中心の罪を、ゆるされました。本当はこの罪によって、私たち自身が苦しみ、痛み、死ななければならなかったのです。滅びなければなりませんでした。その滅びから、イエス様は私たちを救ってくださったのです。

 これが、イエス様が成し遂げてくださった「救い」です。

 ユダヤ民族だけではない、全人類の、すべての人間の、そして私たちひとりひとりのための救いです。

 「救い」が、罪からの「救い」であると心と魂で知ることが、イエス様に「ついてゆく」ことです。同じことを逆から申せば、イエス様についてゆく・イエス様に従う・イエス様の弟子になる・教会の一員になって洗礼を受けるとは、自分の罪を知り、イエス様が自分をその罪の結果である滅びから救い出してくださったことを知ることです。知って、喜び、イエス様に感謝し、主を讃美する ‒ それを、日々、いえ瞬間・瞬間ごとに新しく、感動をもって繰り返して歩むことです。ただ繰り返すのではありません。繰り返すごとに、救われた喜びは深く、大きくなります。

 イエス様は今日の聖句・マタイ福音書16章24節でこう言われました。「わたしについて来たい者は、自分 ‒ これは、人間中心・自分中心の願望、争いを招く罪深い自己中心の願いです ‒ を捨て、自分の十字架を背負って ‒ 自分の十字架とは、己が心に潜む罪・サタンを深く自覚するということです ‒ 罪を背負って、わたしに従いなさい。」

 イエス様は、さらに次の25節で、こう言われます。「自分の命を救いたい ‒ つまり、自分だけの命を救って、隣人・兄弟姉妹、特に敵と思う者の命はどうなっても良い ‒ 自分だけ助かりたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者 ‒ つまりは、イエス様について来る者 ‒ は、それを得る。」

 そして、26節です。イエス様はおっしゃいます。「人は ‒ 神さまの御心を尋ねず、自分の心に潜む罪・サタンに魂を売り払って ‒ 全世界を手に入れても、自分の命 ‒ 永遠の命 ‒ を失ったら、何の得があろうか ‒ 救われず、滅びるだけなのです。

 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。‒ 人間は、自分の罪を自分では償えず、自分を救えません。それがおできになるのは、神さまであるイエス様ただお一人です。」

 これが、イエス様が、すべての人間・わたしたちを救うために成し遂げてくださった十字架の御業、救いの恵みです。

 そして、十字架の出来事の三日後に、イエス様は復活されました。ご復活は、罪がすべて償われ、争い・流血で破壊され滅ぼされた命がすべてよみがえり、回復したことのしるしです。いっさいの悪しきものが解消されて、新しい光の中に現れたことのしるしです。

 この復活日・イースターの喜びを待ちつつ、ひとすじにイエス様に心を向け、今日から始まる一週間、日ごとに心を新しくされて、イエス様について行きましょう。



2021年2月28日

説教題:神の国はもう来ている

聖 書:イザヤ書49章25節、マタイによる福音書12章22-32節

主はこう言われる。捕らわれ人が勇士から取り返され とりこが暴君から救い出される。わたしが、あなたと争う者と争い わたしが、あなたの子らを救う。

イザヤ書49章25節

そのとき、悪霊にとりつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼベルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼベルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追いだしているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。

マタイによる福音書12章22-32節

 去る2月17日から受難節の歩みを進め、 今日は受難節第2主日を迎えています。受難節は、イエス様の十字架の出来事とご復活の恵みを特に深く思い巡らし、復活日・イースターを待つ四十日間の時をさします。今年の受難節、私たち薬円台教会は、平素、主日・日曜日ごとに読み進めているマルコ福音書からしばし離れて、 日本基督教団の聖書日課による聖書箇所に聴いてまいりたく思います。

 今日は「神の国はもう来ている」との説教題をいただいています。今日のために与えられた旧約聖書、新約聖書の両方の御言葉を通して、私たちが二つの恵みに与っていることを表します。ひとつは、文字どおり、神さまの国がもう来ている ‒ つまり、私たちはこの世にありながら、同時に、神さまが私たちと共においでくださるということです。もうひとつの恵み。それは、神さまが私たちと共にいて、御自分の国・天の御国に置いてくださるとは、すなわち、神さまが私たちを御自分の国の民として守り、敵と、悪と戦ってくださるということです。

 今日の主日礼拝に与えられた旧約聖書箇所 イザヤ書49章25節に聞きましょう。

 神さまは「 わたしがあなたと争う者と争い」とおっしゃいます。神さま御自らが、 私たち人間のために敵と戦ってくださるのです。

 私たちが暮らす“この世”、それはまだ終わりの日を迎えていません。終わりの日に、この世は天の御国とひとつになって完成します。しかし、まだ未完成です。未完成だから、私たち人間を悲しませ、涙を流させることが起こります。人間が互いを苦しめる最悪の出来事・戦争を起こしたり、また今、私たちが苦しめられている新しい感染症が蔓延したりするのです。

 自然災害や感染症の蔓延は御手におゆだねするほかありませんが、私たちがどうしようもなく無力感と情けなさを感じるのは人間同士の争いです。戦争・内乱で命・健康・生活・愛する人を奪われる人、あるいは差別や疎外により生活の安定や心の平安を失う人が、いつの世にも絶えません。今もいます。人間の心が産んだ憎しみという罪から出ているにも関わらず、 人間の手に負えなくなってしまう「悪」が、この世には常にあるのです。

 では、終わりの日まで苦難と悲哀をもたらす「悪」 がまったく野放しになったままなのかと言えば、 決してそうではありません。

 神さまは「わたしがあなたと争う者と戦う」と告げて、 私たちのために「悪」と争ってくださいます。目には見えませんが、神さまは私たちのために、常に戦い続け、今も戦ってくださっているのです。

 私たちの神さまは、ただどっしりとすわりこんで、私たちの讃美と献げ物を受け取ってニコニコしている方ではありません。私たちは献げ物・献金をするとき、よく“あなたのご用におもちいください・聖なる御業のためにお使いください”とお祈りします。使う、とはひとつの作業です。私たちは神さまに作業すること、献金を御旨のままに、人の思いを超えた御業に使うため、働くことを願います。

 この私たちの、日常的な言葉を用いれば“働いてください”との祈りに応えて、実にまめまめしく立ち働いてくださる ‒ それが、私たちの神さまです。

 そのお働きとは「悪」を追放する御業です。そのお働きをとおして、神さまは、ご自身が私たちと共においでくださること ‒ すなわち「御国の到来」・「神の国はもう来ている」 ことを示してくださいます。

 今日の新約聖書箇所は、イエス様が悪霊を追放され、自ら「 神の国はあなたたちのところに来ている」との御言葉を告げる聖句を与えられています。

 マタイによる福音書12章の今日の御言葉に先立つ9節〜13節には、イエス様が、 ある人の萎えた片手を癒やしの奇跡の御業によってまっすぐに癒やされたことが語られています。イエス様がそれを行ったのは、安息日でした。安息日は心と行いを神さまだけに向ける日です ‒ 私たちの主日・日曜日で、ユダヤ教では土曜日と定められていました。

 神さまの御子イエス様が、神さまのために御業を行って、ある人の麻痺した、動かない片手を癒やされた ‒ 御心に適うことを行ったのですから、少しも定めからはずれたことにはなりません。ところが、定め・律法・掟を頑なに解釈するファリサイ派の人々は、誤り・律法違反だと考えました。

 ファリサイ派の人々は「安息日には働いてはならない」 との律法解釈をして、 それをユダヤの人々に守らせることで自分たちの権威を保ち、 指導者層となっていました。ところが、神さまの御子イエス様は、神さまの真実の御旨を伝え愛の律法・真実の律法を人々に伝えて、深い喜びを人々に与えていました。イエス様は人々に慕われました。ファリサイ派の人々は、このイエス様の評判が高いことをねたみ、イエス様を憎み、危険人物として暗殺を企て始めました。

 そのような陰謀が進む中で起こったのが、今日の新約聖書箇所が語る出来事 ‒ 新共同訳聖書の小見出しによれば「ベルゼブル論争」 だったのです。

 今日の新約聖書箇所を、ご一緒に少し詳しく聞いてまいりましょう。22節は、「そのとき」という言葉で始まっています。

「そのとき」とは、どんな時でしょう。22節の前の箇所では、イエス様が多くの人の病を癒やされたことが語られています。そして、それは、預言者イザヤによって救い主メシアが世においでになる預言の実現だと語られました。(マタイ福音書12:15〜17)メシア預言が語られた時 ‒ それが、今日の最初の言葉「そのとき」です。

 イエス様に癒やしていただこうと、「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエス(様) のところに連れられて」(マタイ12:22)来ました。 イエス様はその人から悪霊を追い払われ、この人は目が見え、口が利けるようになりました。

 人々は、イエス様こそ「ダビデの子」 すなわちメシア・救い主だ、 イザヤ書の預言が実現している!と驚き、騒ぎました。

 ところが、 イエス様を憎み、亡き者にしようと企てているファリサイ派の人々が、これに「悪霊を追い払うことができるのは悪霊の頭(かしら・親分・ 首領)ベルゼブルだ」と難癖をつけたのです。

 彼らが言ったのは、たとえば、不良グループ ‒ 不良という言葉はもう、死語だそうですが、徒党を組んで、穏やかに暮らしている人に嫌がらせをして、お金を巻き上げたり暴力を振るったりする“ならず者”たちです ‒ この不良グループの下端の者たちを平和な町から追い出すことができるのは、町の人ではなく、その不良グループのボス・親分だという理屈です。不良グループの親分・“かしら”の命令なら、子分は聞くからということです。実に、ありがちなことです。

 ファリサイ派の人々は“小悪魔が、ある人に取りついて、 目が見えず口も利けないようにしたのを、 悪魔の頭領・かしらが叱りつけて追い出した”と言いたて、イエス様は悪魔の頭領・ベルゼブル ‒ ベルゼブルというのは、サタン、悪霊の親玉と同じ意味です ‒ だと言ったのです。

 すると、イエス様は彼らに、こう言いさとされました。「サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。 そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろう。」( マタイ12:16)

 不良グループに限らず、人の集団・ この世の人の集まりには、内輪もめ ‒ 内部での対立と、その結果による分裂がつきものです。

旧約聖書の時代、ダビデがせっかく統一したイスラエル王国も、 ソロモンの後継者をめぐって二つに分裂してしまいました。そして、分裂することによって国力は衰え、信仰も弱まり、 ついにはユダヤの国はアッシリアに滅ぼされてしまったのです。その後、ユダヤは独立と国土を失って、イエス様の時代もローマ帝国の植民地でした。

 内輪もめとは、人間が人間を裁き、支配しようとすることです。この世の内輪もめとは、戦争です。対立しあったり、格差を生んだり、そこから苦しむ人を追い落としたりすることです。今、この世で現に起こっていることです。今日の聖書箇所でイエス様がおっしゃる27節の御言葉を引用させていただけば、「彼ら(あなたたちと同じ人間)自身があなたたちを裁く」(マタイ12:27)と、 それは内輪もめになり、その集団・「その国」 は分裂して成り立たなくなるという、人間の罪の真理です。

 人間同士が、そうして苦しみと悲しみしか生み出さない内輪もめをして、悪が ‒ 聖書は、それを悪霊と呼びます ‒ はびこってしまう「この世」に、神さまは、手を差し伸べて、働いてくださいます。

 しかし、神さまが、悪と戦って下さるのです。

 今日の聖書箇所では、イエス様が、ある人に取りついて目が見えず口が利けなくなっている悪・悪霊を正しく裁いて追い出してくださいました。その事実を、イエス様は「 神の国は…(もう人間のところ・この世に)来ている」( マタイ12:28)とファリサイ派に告げました。

 私たちが「主の祈り」 の始めの部分で、「御国を来たらせたまえ」と祈ります。この「御国 ‒ 神の国 ‒ を来たらせたまえ」の祈りは、「神さまこそが、 この世から悪いものを追い払い、私たちを悪いものから守り、御手のうちに置いてください」、「神さまこそが、 わたしたちを治める方、支配者となってください」という意味です。

 「支配」という言葉に抵抗を感じる方もおいででしょう。それは「こんな人に、自分は絶対に支配されたくない」 と感じるような威張った者・権威を振りかざす者・ 役得を得ようとする者に対して、 敏感に拒絶したいとの直感を持つからです。

 私たちは、私たちのために自分を犠牲にして深い愛をそそぐ統率者にならば、喜んでその傘下に入り、その守りに与りたいと願うのではないでしょうか。

 神さま・イエス様こそが、その愛に満ちた統率者、真実の支配者です。イエス様は、「あなたが罪から救われるために、 私は十字架に架かる」と私のために、私たち一人一人のために、 ご自身の命を捨ててくださいました。

 そこまで深く私たちを愛してくださる方に、 私たちは永遠に守られ、慈しまれ、 その方のそばを離れずに付き従いたいと願います ‒ それが、「神さまこそが、わたしの・ わたしたちの支配者となってください」「御国を来たらせたまえ」 という祈りなのです。

 繰り返しになりますが、 イエス様は、今日のマタイ福音書の聖書箇所で、その祈りがすでにかなえられ、「 神の国はあなたたちのところに来ている」 とおっしゃってくださいます。

 イエス様は、ご自身の命をかけて、 私たち自身を苦しめる私たちの罪と戦い、 十字架に架かってくださいました。

受難節の歩みの中、特に今、 イエス様が私たちを脅かしている感染症と戦い、 そこから派生する差別や嫌悪といった私たち同士を遠ざけて分断するもの ‒ 人間の心の歪み・罪 ‒ と戦っていることをおぼえて、主を讃美し、 十字架のみわざを感謝せずにはいられません。

 最後にひとつ、今日の聖書箇所マタイ福音書12章で、イエス様がおっしゃる大切な御言葉を心に留めたいと思います。イエス様は、30節で、こうおっしゃっています。「 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、 わたしと一緒に集めない者は散らしている。」

 この聖句は、イエス様の御言葉の中でも、 特に厳しいひと言として知られています。

 イエス様がおっしゃる「わたしに味方する者」とは、イエス様を信じる者 ・十字架の救いを受け容れ、イエス様を主と仰ぐ者です。 その者たちは、ひとつに集まり、集められて神さまに守られます。

 イエス様がおっしゃる「わたしに味方しない者」とは、イエス様を信じない者・ イエス様の十字架の御業とご復活を受け容れない者です。イエス様の十字架の出来事とご復活について聞いても、「そういう考え方もあるかもしれないが、私には関係がない」 と思う者です。その人たちは、散らされて御国から迷い出してしまうのです。

 30節の、このイエス様のひと言・御言葉によって、私たちは悔い改めへと強く促されています。イエス様と神さまの愛へと、強く、強く招かれています。

 日ごとに、 信仰の喜びをいただこうと主を仰ぐ心・ 聖霊に満たされた心をいただきます。

 受難節のひとひ(一日)・ひとひ(一日)、今日から始まる新しい一週間の歩みを、救われた恵みの豊かさを感謝しつつ、主に心を向けて進み行きましょう。



2021年2月21日

説教題:主を仰ぎ、今を生きる

聖 書:出エジプト記3章9-12節、マルコによる福音書12章18-27節

復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」

(マルコによる福音書12章18-27節)

 前回の主日礼拝で、イエス様はファリサイ派とヘロデ派の人々から論争をもちかけられ、彼らをみごとに、しかも人々を朗らかな思いで満たす素晴らしい方法で論破されました。

 今回の聖書箇所で、イエス様に問答 ‒ 論争 ‒ を仕掛けたのはサドカイ派です。ファリサイ派には律法学者が多くおりましたが、サドカイ派に多かったのは祭司たちでした。祭司は神殿での儀式と典礼を司るので、秩序正しさを重んじ、律法についてはファリサイ派よりも、いわゆる“文字どおり”の解釈をすることが多かったようです。

 旧約聖書の始めの五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命書)を「律法の書」と呼びますが、サドカイ派はその五書だけを正典としていました。イザヤ書、エゼキエル書といった、復活について語る預言書などを認めていませんでした。そのために、彼らは復活を信じていなかったのです。

 一度、息を引き取って葬った人がよみがえる復活を信じられない ‒ それは、古代に生きたか・現代を生きているか、どんな文明を背景としているかにそれほど関わりなく、私たち人間・人類全般に共通する事柄です。

 キリスト者・クリスチャンはイエス様の復活と、神さまが賜り、聖書に記されている私たちの終わりの日の復活の約束を信じています。

その信仰によって、地上の命が終わった後も、神さまの御手のうちにある永遠の命に生きる希望を与えられて、死は絶望だと必要以上に怯えることなく、日々を安心して生きることができるのです。

 この復活を否定するサドカイ派は、復活を理論的に論破しようとして、まず申命記25章5節で定められている律法 ‒ ユダヤ社会の掟・ルール ‒ を告げました。ユダヤ人なら、誰でも知っている結婚についての掟で、兄弟の兄が妻との間に跡継ぎの子どもがいないまま亡くなったら、弟は亡くなった兄の妻と結婚することを定めています。

それを確認した上で、サドカイ派の人々は極端な例を引いて、イエス様に質問をしました。七人兄弟の長男が妻をめとり、跡継ぎの子がいないまま亡くなったので、長男の妻は次男と結婚しました。ところが、次男も跡継ぎの子がいないまま亡くなったのです。妻は三男と、彼女自身にとっては三度目となる結婚をしました。ところが三男も亡くなって…と不幸続きで、結局、妻は七人の兄弟全員と結婚しました。

 終わりの日に復活の時が来て、七人兄弟が復活した時、妻は誰の妻になるのか ‒ これがサドカイ派の質問でした。

 復活とは、命も生活も元どおりになることだと考えれば、確かに混乱が予想されます。こんな、人を混乱させるような復活という事柄を、神さまはご計画しなかったはずだ、というのがサドカイ派の理屈です。

 イエス様は、この理屈をこねる彼らに「聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしている」(マルコ12:24)と教えられました。

神さまの超越性 ‒ 人の思いをはるかに高く超える神さまの御力とご計画の遠大さ ‒ を、イエス様は彼らに教えられたのです。そして、イエス様は復活するときの姿を、こう語られました。「復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」(マルコ12:25)

 先日、女性への差別的な発言が原因となって、ある政治家が重要な国際行事の会長を辞任しました。差別的な発言が起きてしまうのは、そもそも差別があり「へだて」が人の世・この世にあるからです。そのへだてを取り去り、へだてによる嫌悪 ‒ ヘイト ‒ を除き、憎しみから起こる争いのない世界を築くようにと、神さまは「平和の君」、イエス様を通して私たちを導かれます。その世界に満ちるのは、主の平和です。

 主の平和が実現するのは、この世が完全に天の御国とひとつになる終わりの日・私たちの復活の日です。新約聖書のガラテヤ書には、こう記されています。

 「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。」(ガラテヤ書3:28・口語訳)

 イエス様は、私たちが、復活の日に、男も女もなく、天使のようなものとしてよみがえると教えてくださいます。「天使」とは、元の聖書の言葉を直訳すると「天にいる御使い」です。

 天の御使いは、天にいます。天の神さまと常に共にいることができるのです。そして、常にその御言葉に満たされ、神さまのために、また神さまと共に働くのを至高の喜びとします。私たちが復活すると、そのようなものになる、とイエス様は言われます。

 今の私たちの使命は何でしょう。神さまは「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(創世記1:28)と人間を創造された時に、人間にこの世・地上にあっての使命を与えました。ところが、終わりの日には「地」・「この世」はもう天にのみこまれ、その使命は終わっているのです。結婚して子を成し、産むことも、増えることも必要なくなり、神さまと共に生きる幸いが復活後の私たちの使命になります。

 しかし、ここで大切なことを心に留めておかなくてはなりません。

終わりの日に到来する幸いを待ち望む余り、死んだ後のこと、終わりの日の復活にばかり目をそそいで、今の人生・今を生きることを忘れてはなりません。肉体の滅びを必要以上に恐れないのと同様に、必要以上に死後の心配をすることはないのです。天国に行きたい・死んだら素晴らしい世界が待っていると自分勝手に死を招き寄せるようなことは、してはならないのです。

 キリスト者・クリスチャンにとって、この世ははかない「浮き世」ではありません。

 ユダヤ民族はもともとエジプトの奴隷で、ピラミッド建築のためにこき使われていました。エジプトの人々は、死後の世界にたいへん強い関心を持っていました。王族は、死後も今と同じ豪奢な生活ができるようにと、肉体を保存するためにミイラ化の技術を磨き、召使いも、ペットの猫までもミイラにし、ピラミッドを絢爛豪華な家具調度品・装飾品で満たしました。生きている間・今というこの世の人生の時間は、エジプトの王族にとって死後の世界を準備する時にすぎなかったのです。

 神さまは、そのような文化を持っているエジプトの国で、むなしく「死後の世界」を造らされている奴隷だったユダヤ民族を救い出しました。それは、今、共にいる主に導かれて、今を幸いに生きるためだったのです。

 エジプトからユダヤ民族を救い出すにあたり、神さまは民族の導き手として預言者モーセをお立てになりました。そのことを語るのが、今日の旧約聖書の御言葉です。

 先ほど、司式者が朗読してくださったのは「モーセの召命」 ‒ 神さまから使命をいただくことを召命と言います ‒ と呼ばれる箇所です。

 神さまは人間の前・モーセの前に御姿を表しません。燃え続け、そして燃え尽きない不思議な柴の中から、神さまはモーセに語りかけました。神さまからの召命に、モーセは驚き、なんと畏れ多くも、いったんは断ろうとしてしまいました。

 「わたしは何者なのでしょう」 ‒ どうして、そんなたいへんなことを、この私がやらなければならいのでしょう? と問うたのです。

 すると、神さまは今日の聖句「わたしは必ずあなたと共にいる」と語られて、共にいること ‒ インマヌエルの神であること ‒ こそが、そのしるしだとおっしゃいました。

 それは、神さまがイエス様をこの世に遣わされるよりも、1300年も前の出来事でした。モーセは目に見えない神さまを、すぐに信じることはできませんでした。彼は自分の同族・同胞・ユダヤの民に、何という名の神さまに命じられたのかと尋ねられたら、どう答えればよいのかと神さまに問いかけました。たいへん無礼な問いですが、神さまは優しく忍耐して、モーセにお名前を教えてくださいます。

「わたしはある。わたしはあるという者だ。」(出エジプト記3:14)

 「わたしはある」 ‒ これは、聖書のもとの言語・ヒブル語では "ヤーハー" と聞こえる言葉、ギリシア語(七十人訳)ではエゴ−・エイミ、そして英語の聖書では I am という言葉です。その意味は、私は存在する・私はありとあるもののすべて(私はアルファでありオメガである)・存在の根拠という名 ‒ そう言えるでしょう。ただ、物・物体、命のない物のように、固定的に存在するのではありません。

 動き、働き、瞬間・瞬間に新しく自らの存在を確かめ、周囲に知らしめる ‒ そのような意味が込められています。

 旧約聖書を読んでいると、たびたび「主は生きておられる」という言葉が出てまいります。苦難に遭った時や途方に暮れる時、少しでも前途に明るい兆しが見えると、旧約聖書に描かれている信仰者は「主は生きておられる ‒ 我々の神さまが、今、共においでくださって私たちのために働いてくださっている!」と主を讃美し、感謝を献げました。神さまのお名前「わたしはある」は、まさに「今、あなたと共にいて生きている・あなたのために働いている」という事実を表しています。

 神さまがおっしゃるこの「今」は、この世で私たちが経験する時間(クロノス)の「今」だけではありません。その私たちの時間、クロノスを超えて普遍的に自在に自らを顕してくださる神さまの時(カイロス)の「今」 ‒ 永遠 ‒ です。

 私たちの神さまは、私たちと常に、いつも共においでくださり、この世での歩みを導き、肉体が失われた後もずっと寄り添い続けてくださいます。

それをはっきりと歴史的事実で顕してくださったのが、イエス様の十字架の出来事とご復活です。

 見えない神さまを信じることのできない私たちのために、イエス様は私たちと同じ人間となってこの世においでくださいました。そして、神さまを己が目で見ることができないために、信じられない私たちのすべての罪を、私たちの代わりに背負い、十字架で贖ってくださいました。

 先週の水曜日、2月17日は「灰の水曜日」 でした。

この日から4月3日まで、私たちはイエス様の十字架の出来事を思い、4月4日の復活日・イースターを喜び感謝する心備えをいただく受難節の歩みを進めます。

 さて、最後にひとつ、お伝えしておかなければならないことがあります。今日の新約聖書の聖句に一度、戻りましょう。「これは何? どういうこと?」と思う箇所があるのではないでしょうか。

 その箇所をお読みします。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト記3:6、3:15、マルコ12:26b)と神さまがおっしゃったと、イエス様は言われます。

 アブラハムも、イサクも、ヤコブも、大昔にこの世の歩みを終えて天に召され、「死んだ者」なのに、どうしてイエス様は「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(マルコ12:27a)とおっしゃるのか、不思議に思えます。

 私たちは、思い出さなくてはなりません ‒ アブラハム、イサク、ヤコブは天に召され、神さまと共にあり、復活の時を待っています。彼らは地上での歩みを終えただけで、神さまの御目から御覧になれば、永遠の命に生きています。それこそが、永遠の命の在り方です。

 聖書では「名」がたいへんたいせつです。

 神さまは、燃える柴の中からモーセに呼びかけ、モーセにユダヤ民族エジプト脱出の導き手となるよう召命を与えました。その時、神さまはご自身の名を教えてくださいました ‒ 「わたしはある」というお名前です。

 誰かの名を知るとは、その名の人を呼んで関係性を持つことができる、友となれるということです。私たちは神さまの名を知りました。教えていただきました。そして、神さまは私たち一人一人の名を知っていてくださいます。知っているばかりでなく、救い出そうとなさってくださいます。イザヤ書に、この御言葉があります。

「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ43:1b)

 主の名を呼べば、主は呼んだ一人一人にお応えくださり、今、「あなたはわたしのもの」と愛を表し、いとおしんで守り支え、寄り添ってくださいます。

 「今」をたいせつに生きる、「今」を精一杯 生きる、それが信仰者の生き方です。「今」、全力を尽くして私たち人間に、一人一人にできることを行い、あとは神さまにすべてをゆだねて平安に、心を満たされて生きてゆく ‒ それが、神さまと共に生きる幸いです。

 今日から始まる一週間、一瞬ごとに「今」のために最善を尽くしつつ、主を仰ぎ、私たちが地上にあっても天に召されても、共においでくださる主を仰いで共に進み行きましょう。



2021年2月14日

説教題:神のものは神に

聖 書:詩編24編1-6節、マルコによる福音書12章13-17節

地とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものは、主のもの。主は、大海の上に地の基を置き 潮の流れの上に世界を築かれた。どのような人が、主の山に上り 聖所に立つことができるのか。それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく 欺くものによって誓うことをしない人。主はそのような人を祝福し 救いの神は恵みをお与えになる。それは主を求める人 ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。

(詩編24編1-6節)

 さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。

(マルコによる福音書12章13-17節)

 今日の新約聖書の御言葉は、「さて、人々は」と始まっています。「人々」とは「祭司長・律法学者・長老たち」のことです。前回の礼拝でいただいたマルコ福音書の、今日の御言葉の直前の箇所で、ぶどう園と農夫のたとえ話を通してイエス様に厳しく批判された人たちです。この人たちは、神殿の庭で説教をされるイエス様を追い出そうとしてイエス様に問答をしかけたのですが、真実を語られるイエス様の問いかけに答えられず、群衆の前で情けない姿をさらしました。そのうえ、ぶどう園と農夫のたとえ話でイエス様に厳しく罪を指摘されました。

 彼らはまったく悔い改めません。逆に悔しがって、今日の聖句によれば「イエス様の言葉尻をとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエス様のところに」(マルコ12:13)送り出しました。

 ファリサイ派は、神さまの愛の律法を人間的な考えで “厳格なルール” のように解釈し、尊重していました。律法を守ることで、ユダヤ民族の伝統と誇りを保とうとしていたのです。

 一方のヘロデ派は、ヘロデ派という言葉が表すように、ローマ帝国の植民地となったイスラエルの王・ヘロデを応援する人々です。ローマ帝国は、皇帝を崇めます。ヘロデは、その皇帝の言うなりになって、神さまも律法も忘れたように堕落した宮廷生活を送っていました。

 ファリサイ派とヘロデ派。立場が真反対ですから、当然、この二つの派の仲は険悪でした。ところが “ナザレのイエスが憎らしい” という一点で、犬猿の仲の二派が意気投合したのです。

 前日にイエス様にやりこめられた祭司長・律法学者・長老は主にファリサイ派の人々で、イエス様に憎しみを募らせていました。

 一方のヘロデ派も、イエス様を憎んでいました。イエス様が群衆に愛され、ヘロデ王をしのぐ尊敬と憧憬のまなざしをそそがれていたからです。また、ヘロデ王は洗礼者ヨハネを殺してしまった張本人です。前々回の主日礼拝の新約聖書の箇所で、イエス様はヨハネの洗礼はどこからのものかと問われました。その問いは、神さまからのもの・天からの恵みとして罪の洗い清めの洗礼を行っていた預言者ヨハネがヘロデ王に殺されるのを、あなたがたは止めなかったではないか、という罪の指摘でした。それにより、ヘロデ派のイエス様へ憎しみは、さらに深くなったでしょう。

 前回の箇所でイエス様にやりこめられた祭司長・律法学者・長老たちがファリサイ派の論客を通じて、ヘロデ派と力を合わせてイエス様を陥れるよう、働きかけたと思われます。ファリサイ派とヘロデ派は、それぞれの立場からイエス様を陥れようと、揃ってやってきました。

 イエス様に問答をしかける前、彼らは14節で、イエス様をたいそう敬っているようなお世辞を言いました。イエス様は、彼らの下心をすっかり見抜いておられますから、胸のうちでイザヤ書の預言の言葉を思い起こされていたでしょう。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」イザヤ書29章13節の言葉、そしてイエス様がマルコによる福音書7章6節で、すでにおっしゃった言葉です。

 そのようにイエス様に見抜かれていることは、彼らにはわかりません。お世辞に続けて、彼らがイエス様に問うたのは、宗主国ローマへの税金についてでした。ローマ帝国は、植民地となったユダヤ民族に重い税金を課して、ユダヤの人々を苦しめていました。

 ファリサイ派は、この税金に大反対です ‒ 律法には、こんな税金についてのきまりは定められていないからです。

 一方のヘロデ派は、仕方がないと考えていました ‒ ローマ帝国は、操りやすいヘロデを王位につけることで、ユダヤが植民地としてローマに服従する支配の方法をとっていたのです。

 イエス様に、この税金を払うのは律法に適っているか・適っていないか、植民地税をローマに納めるべきか・納めるべきでないかと尋ねました。ファリサイ派とヘロデ派は、本来 仲が悪いのに、この時はイエス様を陥れるためには知恵を絞り合って、この質問を考え出していたのです。

 イエス様が“律法に適っている”と答えたら、律法に詳しい ‒ と自分たちで勝手に思い込んでいる ‒ ファリサイ派は、“律法破りが神殿の庭で説教などするな” とイエス様を神殿から追い払えます。

 イエス様が“律法に適っていない、植民地税など納めてはならない”と答えたら、今度はヘロデ派が、ローマ皇帝への反逆者としてイエス様をローマ総督に訴え出るでしょう。

 イエス様は、税金を納めなさいとも、納めてはならないとも、おっしゃいませんでした。答える代わりに、ローマの貨幣であるデナリオン銀貨を持って来るようにと言われました。植民地では、通貨として宗主国の貨幣を使用します。当時のユダヤでは、税金も、このデナリオン銀貨で納めていました。その銀貨には、ローマ皇帝の顔と名(銘)が刻まれています。

 イエス様とファリサイ派・ヘロデ派との、ここからのやりとりは ‒ イエス様にたいへん失礼なようですが ‒「一休さん」の“とんち話”を思わせます。

 イエス様は、ファリサイ派とヘロデ派の人々に、銀貨に誰の顔と銘があるかと尋ねました。物に名前が書いてあったら、たとえば落とし物に名前が書いてあったら、その名前の人の持ち物なのだから、その名の人に返せばよい ‒ イエス様の言葉には、そのような意味合いが込められています。そして、イエス様はご自分ではそうおっしゃらず、ファリサイ派とヘロデ派の人々が自ら、「皇帝のものです」と答えるように仕向けられました。彼らが銀貨に刻まれている顔と銘は「皇帝のものです」と答えると、にっこりされたのではないでしょうか。“ほら、今あなたがたが言ったように、この銀貨には皇帝の名前が刻んであって、ご丁寧に顔までわかるようにしてあるのだから、皇帝のものでしょ”という意味がこめられた“にっこり”です。

 このやりとりの面白さを、おわかりでしょう。イエス様はたいへん上手に彼らが仕掛けてきた論争の舞台を変えてしまわれたのです。ベルクソンの笑いの哲学にあるような、次元をずらす面白さ・シュールなおかしさです。              

 ここで、私たちが再び思い出さなければならないのは、イエス様がおられるところには、いつも弟子たちと、イエス様を慕う群衆が集まっていたということです。

 前回と同じように、この時も、多くの人々 ‒ イエス様の弟子たちと群衆 ‒ が、イエス様とファリサイ派・ヘロデ派の対決を囲むようにして見ていました。イエス様のウィットのきいた小粋な切り返しに、弟子たちと群衆は面白がって、わっと笑ったでしょう。

 このイエス様のひと言で、その場の険悪なムードが一瞬にして吹き飛んで、明るくなりました。イエス様は、このような悪意をも吹き飛ばされる方・笑顔を人々にもたらされる方なのです。そして、イエス様を陥れようとやってきた者たちのたくらみは、またも失敗に終わりました。

 ここで説教を終えても良いのですが、今日は、イエス様がさらにおっしゃった実にたいせつなひとことに注目したく思います。イエス様はこう言われました。

 「神のものは神に返しなさい。」

 今日の中心聖句「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」は、しばしば政教分離を説く御言葉として引用されます。政教分離とは、政治と宗教を分けて考える、この世のことと信仰とを分ける思想です。

 去る2月11日は、「建国記念日」でしたが、日本基督教団では、この日を「信教の自由の日」と定めています。政治をはじめとする人間的・世俗的な事情により、信仰が妨げられないことを祈る日です。第二次世界大戦中、日本のキリスト者は国家から迫害を受けました。それが二度と繰り返されてはならないように、信仰で互いの間に隔てを造らないようにとの願いと祈りを込めて、日本基督教団は、この日を「信教の自由の日」としました。

 政教分離は、たいへんたいせつなことです。

 しかし、イエス様の今日のひと言・御言葉は、それ以上のことを意味しています。

 この世のすべては、神さまのもの。

 それを、今日の旧約聖書の御言葉が告げています。「大海」が果てしなく広がり、「潮の流れ」が激しく早い中に、神さまはこの世界の基を据えてくださいました。そこに、すべての被造物を造り、私たちを造り、生かしてくださいます。神さまが据えてくださる地の基が堅くしっかりとしたものだから、大海の中・潮の流れの中にあっても、私たちは怖がることなど少しもありません。

 天地創造の時に、神さまは私たち人間を造られ、祝福し、こうおっしゃいました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記1:28)

 こうして、私たち人間は神さまが造られた世界をお預かりし、管理する者としての務めと使命をいただきました。そして、この世界で起こることの最終的な責任は、創造主であり所有者である神さまが必ずお取りくださいます。

 神さまが、被造物のすべて・この世が「大海」の「潮の流れ」に呑み込まれないように、私たちの手をしっかりと握り、全世界を御手のうちに置いてくださいます。

 大海に浮かぶ「世界」という舟には、イエス様が共に乗っておられます。嵐が来て舟を転覆させようとしても、イエス様が波と風を叱って静めてくださいます。(マタイ8:23-27、マルコ4:35−41、ルカ8:22−25)

 私たちのまことの平安と喜びは、私たちが主のものであるという、まさにそのことにあります。自分の人生が自分のものでなくて主のもの、と初めて聞いた方は、驚くかもしれません。誰かに支配されるのは自由がなくていやだと思うかもしれません。しかし、神さまのものとされている時、私たちは逆に、限りなく自由です。しかも、正しく、安心に自由です。間違ったり、失敗したり、迷ったりしても、必ず主が正しい道に戻してくださるからです。

 主を仰いで「私があなたのものであると、いつも私に示し続けてください」と願い、その平安と喜びを求め続ける ‒ そう、主を求める者の幸いを、今日の詩編は謳っています。

 私たち新約聖書の時代に生きる者には、それが歴史的事実として、目に見える形で与えられました。イエス様の十字架の出来事とご復活がその事実、十字架がその形です。

 その真理を原点とする ‒ それが「神のものを神に返す」ことです。自分も、この世のすべても、神さまのものとして守り支えられている恵み・安心・幸いと自由を、心と魂で瞬間・瞬間に味わい知ることが、「神のものを神に返す」ことなのです。

 政治をはじめとするこの世の事柄を静かに祈りつつ見つめる時、正しく、誰にも優しい言動を取ることのできる英知へと、主は私たちを導かれます。



2021年2月7日

説教題:捨てた石が、隅の親石

聖 書:詩編118編22-25節、マルコによる福音書12章1-12節

イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。

(マルコによる福音書12章1-12節)

何とも心痛む「たとえ話」を、イエス様が語られた…今日の新約聖書箇所が司式者によって読まれるのを聞いて、そう感じずにはいられません。

 イエス様はこのたとえ話を通して、私たちに何を伝え、教えてくださるのでしょう。

 前回の主日礼拝説教で、私たちは今日の聖書箇所の直前で、祭司長・律法学者・長老たちが「異邦人の庭」で説教しているイエス様に、いったい誰がここで説教して良いと言ったのかと問いました。イエス様は、逆に彼らに洗礼者ヨハネについて質問をされました。彼らは「分からない」と答えざるを得ず、実に情けない姿を群衆の前にさらす結果となりました。

 イエス様は、この時に、ご自身に対する彼らの激しい憎悪と嫉妬、殺意を感じました。そして、それを「たとえ話」として彼らに語られたのです。イエス様と彼らのやりとりを聞いていた群衆は、イエス様のたとえ話にも耳を傾けたでしょう。

 さて、そのイエス様の「たとえ話」に少し詳しく聞いてまいりましょう。ぶどう園 - この世 ‒ の主人である神さまが、ぶどう園を農夫たち、すなわち祭司長・律法学者・長老たちといった当時のユダヤ社会の指導者層に貸して旅に出ました。収穫の時が来たので、主人は使者を遣わして実ったぶどうを受け取ろうとしました。ところが、農夫たちはぶどうを渡しません。所有者は、次々と使者を送りました。

 主人が遣わした使者たち ‒ これは、ユダヤの歴史を通して、旧約聖書の時代に、神さまが人々に多くの預言者の口に御言葉を託されたことを表しています。それは、時に神さまの怒りであったり、警告であったりしましたから、耳に快い言葉ばかりではありませんでした。遣わされた預言者たちの多くは相手にされず、虐げられることもありました。

 イエス様のたとえ話の中で、農夫たちは次々と送られてくる使者の頭を殴って傷つけ、何人も殺してしまいました。預言者はこうした扱いを受けたのです。

 主人はとうとう愛する息子を送りました。ところが、農夫たちはぶどう園を自分たちのものにしようと、この跡取り息子をさえ、殺して園の外へほうり出してしまったのです。

 こうイエス様が語られた時、聞いていた群衆からは「なんとひどい農夫たちだ」と声が上がったことでしょう。

 この聖書箇所を読む私たちも、そう思います。説教の冒頭で、心痛むたとえ話と申し上げたのは、そのゆえです。

 このたとえ話は、神さまの独り子イエス様が天から遣わされたのに、この世の指導者層に殺されてしまう出来事 ‒十字架の出来事を語っています。この自己中心的で残忍な農夫たちに、愛する息子を殺されたぶどう園の所有者が、“この世の常識なら” どうするかを、イエス様はこう告げられました。

 「このぶどう園の主人は、戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」(マルコ福音書12:9b)

 これを聞いて、農夫たちにたとえられている祭司長・律法学者・長老の面々は顔色を失い、群衆は「そうだ、そうだ、そんな悪い農夫たちは殺されてしまうがよい!」とイエス様の言葉に同意を示したでしょう。

 ところが、イエス様は神さまがどうなさるかを、旧約聖書の預言の言葉を引用して語られました。

 神さまがなさる「御業」 ‒ それは “この世の常識” によって、たとえ話の中でぶどう園の主人・所有者が息子の復讐のために「農夫たちを殺す」こととは、まったく違っていました。

 イエス様が引用されて語られた「主の御業」は、詩編118編22節から25節の御言葉、今日の主日礼拝で与えられている旧約聖書の御言葉です。

 「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」

 祭司長・律法学者・長老たちは、イエス様を十字架に架けて殺そうとしました。自分たちが指導者として権力を握り、民・群衆を支配している “この世”つまり、ぶどう園を主人である神さまから奪い取って自分たちのものにしようとしているのです。

 彼らは、自分たちがそんな恐ろしい罪を犯しているとは、気付いていなかったかもしれません。しかし、神さまの愛と義を伝える律法を、彼らは人間の知恵で自己流に解釈し、それを用いて神さまの民の言動を裁き、制約し、人々を支配していました。人々を御手のうちに治められる真の支配者は主であるのに、その主を押しのけて、自分たちが“主”になろうとしています。主のほかに神があってはならないのに、自らを神とし、自らを偶像として、この世を支配しようとしています。そして、それに気が付いておらず、自分たちが神に仕える聖職者と信じ込んでいるところに、人間の罪の深さがあります。

 この祭司長・律法学者たちが排除しようとしているイエス様は、神さまの御子であり、神さまその方です。この世の誰よりも良く神さまの律法をご存じです。イエス様は、神さまの律法を、まさに神様ご自身のまことの愛と義によって語っておられました。 “この世” の正しい秩序・心の指針・言動の規範となる「隅の親石」 ‒ コーナーストーン・定礎の石となるべく、イエス様は天の父なる神さまに遣わされたのです。

 ここで、私たちはイエス様が引用された詩編の御言葉、今日の旧約聖書の御言葉に少し詳しく聞かなければなりません。詩編118編は、 「恵み深い主に感謝せよ 慈しみはとこしえに」と始まり、「慈しみはとこしえに」と何度も繰り返して神さまの愛の深さを誉め讃えます。

まさに、賛美の歌です。

 118編は、神さまが私たち人間のためになさってくださることを次々と歌います。

 まず、苦難の時に助けを呼ぶと、答えて苦難から解き放ってくださること。次に、必ず味方になってくださること。さらに、主の御名によって、私たちを脅かすものを滅ぼす力を与えてくださること。

 このように素晴らしい方、私たち人間の救いの砦・希望の歌である方が、神さまであり、御子イエス様です。

 しかし、その方は私たちの目には「家を建てる者が捨てた石」のように見えます。私たちには、イエス様が目立って優れた容姿や良い声をお持ちのようには見えないのです。

 イエス様が育ったナザレは、当時はイスラエルの国の中でも辺鄙な田舎とみなされ、「ナザレからどんな良いものが出るか」と軽視されていました。イエス様の話す言葉は当時のイスラエルで用いられていたヒブル語の方言・アラム語で、エルサレムに住む都会暮らしの人々の耳には強い訛りに聞こえました。

 美しさを誇るエルサレムの都人は、そのナザレの訛りを軽蔑したのです。

 また、イエス様は弟子たちと一緒におられると、それほど容姿や様子に特徴をお持ちでなかったためか、弟子たちとの見分けがつきませんでした。そのために、ユダは“裏切りの接吻”で、イエス様を逮捕するためにやって来た者たちに、誰がイエス様かを知らせました。

 イエス様は大工さんで、当時の社会的指導者層であった祭司長・律法学者・長老ではありません。それも彼らがイエス様を軽視・蔑視する理由のひとつとなりました。

 このように、いろいろな、実に人間的・この世的な尺度や基準によってイエス様を見るために、彼らにはイエス様の神性がわからず、ただイエス様を地方からやって来た教養も富もない、生意気な青二才としか見ることができませんでした。

 彼らは実に傲慢で愚かです。しかし、私たちが彼らだったら、同じ過ちを犯してしまう可能性はきわめて高いと言えましょう。

 十字架の出来事とご復活がなかったら、私たちにはイエス様が神さまの御子だとはわからなかったでしょう。

 私たちの目は、霊的にふさがれていてイエス様のまことのお姿が見えず、また耳は霊的にふさがれていて真実の御言葉を聴くことができません。

 繰り返しますが、祭司長・律法学者・長老たちの目に平凡に見えたイエス様こそが、神さまの御子・神さまでした。

 イエス様こそ、私たちが頼るべき「救いの砦・希望の歌」なのです。

 そのように、主の御目には、私たちとはまったく異なって見えることが、日常にもたくさんあるでしょう。私たちが日々直面するさまざまな事態を、主の御心にかなって正しく見つめ、正しく判断し、正しく言動を起こすことが勧められています。正しい基準を持つようにと言われています。

 「隅の親石」は、この基準です。英語でcorner stone、コーナーストーンと呼ばれます。このコーナーストーンは、レンガを積んで建物を建てる時にたいへん重要な役割を果たします。

 隅に置いて「親石」となるレンガの縦・横・奥行きによって、力学的に建物の大きさが決まるのだそうです。全体の基準になるのが、この「隅の親石」なのです。

 私たちの言動の基準となるのは、御言葉・聖書です。

 聖書を正典と呼びますが、この「正典」はラテン語で「canon・測り縄」という語です。

 現在でも、教会の会堂やキリスト教系の団体が建物を建てる時、「定礎式」を執行し、聖書が「隅」に埋められます。私たちが社会の事柄を測り、自らの言動を測るために与えられているのが、聖書・御言葉です。

 神さまはイエス様が語られたこのたとえ話のように、祭司長・律法学者・長老たちを殺しはなさいませんでした。彼らをも救うために、神さまは愛する息子、イエス様を彼らのもとに、また私たちすべての人間のもとに遣わしてくださったのです。恐ろしいほどに悪意に満ちた人間の罪を、イエス様はすべて背負ってくださって十字架に架かり、私たちに代わって、罪を贖ってくださいました。今日の御言葉で、イエス様はご自分が成し遂げることになる神さまのご計画を語られました。まさに、跡取りの息子は十字架で殺されて、この世の外へ、いったんはこの世の命の外へと放り出されました。しかし、それによって、御国への道を開いてくださいました。それが、イエス様のご復活が示す大きな恵みです。

 イエス様が今日の心痛むたとえ話で、私たちに伝えるメッセージは

神さまの寛大なゆるしの御心と、すべての人間への慈しみ、そして、これから数日後に迫っている十字架の出来事の真実と復活の恵みです。

 神さまは熱情の方であり、人間の背きの罪に激しく怒りを表される方です。旧約聖書が、その神さまを伝えています。

 しかし「愛する息子」 ‒ イエス様 ‒ をこの世に遣わされた神さまは、イエス様を通して、私たちへの深い愛を示してくださいました。

それは、“やられたら やりかえす”ことをつい、考えてしまう私たちの思い・この世の常識をはるかに高く超えています。

 その私たちの率直な思いを、イエス様はこの御言葉で「まったき人」として私たちと同じ心をもって、こうおっしゃられました。

 今日の御言葉で引用している最後の聖句です。

「これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」 

 旧約聖書は、この箇所を「これは主の御業」と記しています。

 主の御業・神さまのお働きは、私たちの思いをはるかに超えて大きく深く、私たちを正しく導き、広い御心による愛ですっぽりと包んでくださいます。

 今日から始まる一週間、私たちはイエス様によってこの大いなる愛に生かされていることを感謝し、イエス様を指針 ‒ 「隅の親石」・コーナーストーン ‒ と仰いで、進むべき正しい道を求めつつ、主に従って進みましょう。



2021年1月31日

説教題:天からのもの

聖 書:イザヤ書7章10節-14節、マルコによる福音書11章27-33節

それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。 見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。

(イザヤ書7章14節)

一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼(バプテスマ)は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ」と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

(マルコによる福音書11章27-33節)

ユダヤ民族のたいせつな祭である過越の祭の時を、イエス様は弟子たちと共にエルサレムで過ごされようとしていました。イエス様と弟子たちの一行は、エルサレムに近いベタニアという町にある友人の家に泊まり、そこから毎日、エルサレム神殿に出かけておられました。

 神殿に出かけたイエス様は、その境内 ‒ 神殿の建物の外にある庭 ‒ で、人々に神さまの愛と義を伝えられました。この境内が、「異邦人の庭」と呼ばれる神殿の外の広場で、ユダヤ民族以外の者がここで祈ることをゆるされていたことは、1月10日の礼拝説教でお伝えしました。イエス様が語られる神さまのお話・説教に、そこにいた外国人も、ユダヤ人も、共に喜んで聴き入ったでしょう。

 ところが、これを快く思わない人たちがいました。祭司長、律法学者、長老たちといった、ユダヤ社会の指導者層・エリートです。この人たちは、神殿の外の広場で祈ろうとする外国人(異邦人)を差別して、「異邦人の庭」が静かな祈りの場でなく、喧騒に満ちた市場のようになってしまうことを許した張本人たちでもあります。神殿の管理は、彼らに任されていたからです。

 彼らはイエス様が「異邦人の庭」で「宮清め」をなさったことが気に入りませんでした。「宮清め」とは、その広場が本来の祈りの場所ではなく、神さまへの献げ物にするための家畜の売り買いや、献金のための両替に用いられていたことにイエス様が怒りをあらわにされ、そこから商売や両替をしている人を追い出した出来事をさします。神殿の広場が神さまの御心に添った用いられ方をされていないというイエス様の指摘と怒りは、人々・群衆の心に届きました。人々は、イエス様の怒りと行動をもっともなものと受け容れ、イエス様を囲んで、説教に聞き入るようになったのです。このように、イエス様が人々の心をとらえていることに、祭司長・律法学者・長老たちは、激しい憎しみと嫉妬を抱きました。

 そこには、イエス様を恐れる心情もありました。マルコによる福音書11章18節には、彼らがイエス様に感じていた恐怖心が、次のように記されています。今日の聖書箇所の少し前、前のページの下の段です。お読みします。「祭司長たちや律法学者たちは…(中略)…イエスをどのように殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。」

 彼らは、イエス様を殺そうと企てていました。ユダヤ社会のエリートとして敬われ、特権を得ている自分たちの立場が、人望の篤いイエス様に脅かされるという恐怖、イエス様への嫉妬・憎悪は、イエス様を殺したいとの恐ろしい暗い願望にまで育ってしまっていたのです。

「殺してはならない」という十戒の第六戒を平気で破ろうとするほどに、祭司長・律法学者・長老たちの心は罪に満ち、神さまに背いていました。

 彼らは、イエス様を逮捕しようとして、こう尋ねました。

 「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」

 誰の許可で「宮清め」を行い、祭司・律法学者・長老でもないのに説教をしているのかと、とがめたのです。

 この言葉には、自分たちこそが説教を行い、自分たち以外の者で説教を語ろうとする者に許可を与える立場にあるとの傲慢と縄張り意識が透けて見えます。

 説教 ‒ 神さまの御言葉の説き明かし ‒ をしてよいと許可を与えてくださるのは、神さまご自身です。しかし、祭司長・律法学者・長老たちは、この時、意識はしていなかったかもしれませんが、神さまを押しのけて自分がその立場に立とうとしていました。説教のゆるしを与える権限・権威が自分たちにあると言ったようなものです。これは、神さま以外 ‒ ここでは自分自身 ‒ を中心として、自らを偶像とする偶像崇拝です。これは、と申しますか、このことも、彼らが十戒の掟(第三戒、第四戒)を破っていたことを表しています。

 イエス様は神さまの御子で、ご自身が神さまであり、あまつさえヨハネ福音書第1章によれば 「言」・「御言葉」として世に来られた方ですから、御言葉の説き明かし・説教をなさるのは当然です。

 ところが、その当然の事柄を、イエス様は今日の聖書箇所では敢えて、祭司長たちに告げませんでした。告げたところで、その事実を理解して受け容れ、信じる心を彼らが持っていないことを見抜いておられたからです。

 イエス様は、彼らの問いには答えず、逆に問いを与え、それに答えたら「何の権威で宮清めを行い、説教をしているのか言おう」とおっしゃいました。イエス様を逮捕しようとする彼らの悪意・罪を見抜いて、みごとに切り返しをされたのです。

 イエス様の問いは、神さまの御子イエス様がおいでになることを先触れした洗礼者ヨハネが行った洗礼 ‒ 罪の洗い清め ‒ は、天、つまり神さまからのものか、それとも人間の誰かの許可を受けてのことか、というものでした。

 御子イエス様がこの世に遣わされることは、旧約聖書の時代から多くの預言者によって先触れされていました。天の父なる神さまは、ご自身のご計画を私たち人間に告げ知らせ、それによって私たちを導かれるお方です。

 旧約聖書時代にイエス様のご降誕を預言した代表的な預言者が、イザヤです。イザヤは、イエス様がお生まれになる七百数十年前に、そのお誕生・ご降誕を預言しました。その預言の言葉、「インマヌエル預言」を、私たちは今日の主日礼拝の旧約聖書の御言葉としていただいています。クリスマス聖句なので、何度も聞かれていると思います。

 イエス様が世に遣わされることを告げる預言者の役割を、新約聖書ではヨハネが担っていました。

 神さまから役割を担わされることを「召命」と言います。召す・刀という字の下に口を書く、あの「召」という字に命と書いて、「召命」です。

 ヨハネは預言者としてイエス様が遣わされることを人々に告げ知らせ、水で罪を洗い清める洗礼を人々に授ける「召命」を神さまから授けられていたのです。

 ヨハネによる洗い清めの洗礼 ‒ 水による洗礼 ‒ を、イエス様ご自身も受けていました。

 祭司・律法学者・長老たちの自己中心的な特権意識と欲にまみれたエルサレムの町から遠く、荒れ野で清く貧しく生活し、いちずに神さまを仰ぎ求めたヨハネの姿、信仰と教えは、人々の心に響きました。

 多くの人が次から次へとヨハネから水による洗礼を受け、ヨハネが告げる「聖霊でバプテスマ(洗礼)をお授けになる方」 ‒ イエス様 ‒ を心待ちにしていたのです。

 ヨハネの伝道活動が神さまから ‒ 天から ‒ の召命によるものなのは、明らかでした。

 ところが、このヨハネがヘロデ王の姦淫の罪をとがめた時、王を諫める立場にある祭司長・律法学者・長老たちは、見て見ぬふりをしました。ヨハネは牢につながれ、王女サロメが戯れのように王にヨハネの首をねだったために、無残に殺されてしまったのです。

 今日の聖書箇所でイエス様がなさった質問は、天から・神さまからヨハネが召命を受けていたとわかっていたならば、聖職に就いていて神さまに仕えるあなたがたは、王を諫めてヨハネの死を止めることができたはずだという含みを持っています。彼らがヨハネの死を止めなかったのは、ヨハネの洗礼が天からではなかったと考えていたことになります。

 道理から考えると、神さまからの召命でないとすれば、当然、ヨハネの召命(洗礼)は「人から」だと答えなければなりません。

 しかし、この答えは誤りであると同時に、明らかに御心に背くことです。神さまから役割をいただいている人の、その役割のための働きを否定する ‒ それは、神さまを否定することだからです。

 そこで、祭司長・律法学者・長老たちがぐっと言葉に詰まった、という展開を私たちは期待します。本来、神さまのために働く者である彼らが、神さまを畏れ・恐れてイエス様の問いに答えられなかった…という展開にはならなかったのです。それを、今日の御言葉(マルコ11:32)は語っています。今日の御言葉が私たちに伝えるたいせつなメッセージです。そのマルコ福音書11章32節をお読みします。お聞きください。

 「彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。」

 神さまに仕える者ならば、神さまを畏れるはずです。ところが、神さまの為に働き、先ほどお話した召命を受けたはずの身でありながら祭司、また現代の神学者にあたる律法学者は、神さまよりも、人々を恐れました。人々の尊敬を失ったり、批判を受けたりすることの方が、神さまに背くよりも重大で、怖ろしいことだったのです。

 彼らは結局、ぼそぼそと相談して(「論じ合った」)、イエス様に「分からない」と情けない答えをする他ありませんでした。

 ここに、罪を罪と自覚できない人の罪・弱さがあらわにされています。もし、イエス様の問いかけをきっかけに、祭司長たちが悔い改め、心を神さまの方に回し直して、回心したならば、神さまはそれを喜ばれたでしょう。イエス様も、それを受け容れられたでしょう。

 ところが、彼らは人々の面前で恥をかかされたことで、イエス様のことをさらに憎むようになってゆきました。何とかしてイエス様を逮捕し、死刑にしようとする企ては揺るぎないものになっていったのです。

 イエス様の十字架の出来事は、実に、この三日後に近づいています。

 この祭司長・律法学者・長老たちの罪のゆるしのためにも、イエス様は十字架に架かってくださいました。


 私たちも語り、また行動を起こす時、物事の判断を迫られる時、「人がどう思うか」ではなく、「御心はどこにあるか・神さま、イエス様はどうお考えになるか」を第一に求めたく思います。

 今、感染拡大の中で私たちを苦しめているのは、ウィルスです。しかし、それに加えて、ウィルスをめぐる人の差別や批判で、今、社会がとげとげしくなってはいないでしょうか。ただでさえ社会的距離を取って、人との触れあいを避けなければならない時に、差別的な言葉や態度、批判の刃で、互いを遠ざけ合ってしまう出来事をメディアは伝えています。そして、そのメディアもどこまで信じて良いのか、判断に迷うこともあります。

 その日々が続く中で、気持ちが沈みがちになり、気疲れしてしまう方も多いと思います。

 人に惑わされない・人の心を追い求めてはならないことを、今日の御言葉は私たちに教えてくれています。イエス様が私たちに、どんな時も、判断に困る時、迷う時、何を信じたら良いのか分からなくなる時にこそ、天からのもの・神さまの御心に聴くようにと勧めてくださっているのです。

 どんな時も、第一に天の父の御心を求めましょう。祈りの中で、主の導きをいただきましょう。聖書を開き、御言葉に聴いて、新しい力をいただきましょう。

 私たちの主は、必ず、いつも、私たちと共においでくださるインマヌエルの主です。今週一週間も主は私たちに寄り添って、慰め、励まし、強めてくださいます。そのことを信じて、心を高く上げて進んでまいりましょう。



2021年1月24日

説教題:神を信じなさい

聖 書:イザヤ書5章4-7節、マルコによる福音書11章20-25節

わたしがぶどう畑のためになすべきことで 何か、しなかったことがまだあるというのか。 わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ 石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず 耕されることもなく 茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑 主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに 見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに 見よ、叫喚(ツェアカ)。

(イザヤ書5章4-7節)

(<マルコによる福音書11節12節~14節>翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。)

翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」

(マルコによる福音書11章20-25節)

今日の新約聖書の御言葉の始めの方に「ペトロは思い出して」という言葉があります。この言葉にならい、私たちも今日は思い出すことから始めましょう。

 前回の主日礼拝の新約聖書の箇所で、イエス様が神殿から商人を追い出されました。その前に、なさったことがありました。イエス様はおなかがすいて、食べる物はないかと見渡され、いちじくの木をみつけました。マルコ福音書11章12節から14節にかけての出来事です。イエス様は、みつけたいちじくの木のそばに行かれましたが、葉が茂っているばかりで食べられるいちじくの実は成っていませんでした。いちじくの実は初夏、6月から7月に成ります。新約聖書が語るこの時は、過ぎ越しの祭の直前ですから、3月か4月頃でした。いちじくの実が成る季節ではなかったので、実がなかったのは当然でした。ところが、イエス様はいちじくの木にこのように言われました。

「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように。」

 弟子たちはこれを聞いていました。そして、次の日の朝早くに同じ所を通りかかると、実がならないようにとイエス様に命じられたいちじくの木が枯れていました。これを見たペトロが、イエス様に「あなたに呪われたいちじくの木が、そのとおりに枯れています。」と言った ‒ それが、今日の新約聖書が語る出来事です。

 前回と今回の新約聖書箇所・マルコ福音書11章12節から15節で、イエス様は私たちがびっくりすることを二つ、立て続けになさいました。ひとつは、実の成る季節ではなかったので実をつけていなかったいちじくを、呪ったことです。もうひとつは、神殿の境内が神さまの御心に背いた用いられ方をしていることに激しい怒りを表されたことです。

 前回の説教で説き明かしをお伝えした箇所・イエス様が神殿の異邦人の庭から商人たちを追い出した箇所は、「イエス様の宮清め」と呼ばれています。この出来事で、イエス様が一見して乱暴とも思えるような言動を取られたのは、ユダヤ民族以外の者・異邦人への差別に対する神さまの怒りを伝えるためでした。神さまの御心に反する罪深いことへの激しい怒りを、イエス様は言葉と行いではっきりと伝えたのです。

 それでは、もうひとつの出来事、いちじくのことは、どう受けとめれば良いのでしょう?

「宮清め」といちじくの事柄を通して、イエス様は同じひとつの大切なことを私たちに教えてくださっています。それは、私たち人間が、私たちなりの神さまのイメージを描いてしまってはいけないということです。わたしたちは、ついこんな思いを抱きがちです ‒ イエス様は、乱暴なことをなさらない。いちじくの季節ではないのに実がないからと言っていちじくを枯らすような、理不尽なことはなさらないはずだ。

 神さま・イエス様は愛に満ちあふれた方だから、思いのままにならないいちじくに対しても、神殿の境内(異邦人の庭)で御心に背くことをしていた人々にも、「神さまらしく」「イエス様らしく」威厳と優しさに満ちた対応を常にされる方だ。私たちが前回と今回の礼拝の聖書箇所を読んで驚くのは、その思いがくつがえされるからです。

 しかし、イエス様が神殿の庭でなさった荒々しい「宮清め」は、民族・人種の別なく、神さまの愛がすべての人にそそがれていることをはっきりと示すためでした。

 いちじくの出来事についても、私たちが“いちじくの季節ではないから、実を望まれるのは理不尽”と思う時の “理” とは、人間の限界ある知性・理性の中での考えにすぎません。

 また、大いなる創造主である神さま・私たちの救い主であるイエス様に「神さまらしく、イエス様らしくなさって欲しい」と願うのは私たち人間の分を超えたおこがましく、不遜な思いです。人間には、神さま・イエス様がどんな方かという全体像を知ることなどできないからです。

 神さまは、預言者イザヤの口を通して、こう言われました。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なる。」(イザヤ55:8)

 神さまは、私たち人間の小さな理性・乏しい想像力の中に収まる方では、決してありません。私たち人間にとって都合の良い、優しいだけの神さま像・イエス様像を思い描くと、その “像” は、十戒で戒められている「偶 “像” 崇拝」となってしまいます。

 イエス様ご自身は、「神は何でもできる」(マタイ19:26、マルコ10:27)と言われました。

 その御言葉には、神さまが激情の神さまであり、ノアの時のように大洪水を起こすこともおできになれば、身を大いに低めて子ろばに乗って神殿の町エルサレムに入りもされる方だとの、真理が込められています。

 いちじくの聖句には、その背景に旧約聖書 イザヤ書5章の御言葉があります。「ぶどう畑の愛の歌」として謳われています。

 聖書をお開きの方は、どうぞ1067ページをご覧ください。

 ここで語られている「わたし」は預言者イザヤの口を通して語る天の父なる神さま、「ぶどう畑」は神さまの宝の民・ユダヤの人々です。

神さまは創られた全人類の中でもきわだって弱い民族だったユダヤの人々を、その弱さゆえに憐れんで特別に愛されました。ぶどうの苗を「よく耕して石を除」(イザヤ書5:2)いた肥沃な丘に植えた ‒ これは、神さまはエジプトの奴隷として苦しんでいたユダヤの人々を救い出し、豊かなカナンの地に導かれたことをさします。親が我が子のために恵まれた環境を与えてありったけの愛をそそぐように、神さまはユダヤの民・ぶどうの苗をたいせつに慈しんで育てられました。

 今日掲げた聖句の冒頭が示すように、これ以上はやることがないほどに、完璧に手厚く世話をしてくださいました。それは、神さまご自身のためではありませんでした。良い実を結ぶことが、人々自身のためになるからこそ、そうしてくださったのです。

 神さまが人に期待する良い実・美徳は、新約聖書の「ガラテヤの信徒への手紙」に次のように語られています。お読みしますので、どうぞ耳だけ開いてください。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(ガラテヤ5:22)

 親は、愛する我が子がいつも笑顔で、誰からも愛され、誰に対しても優しい人になって幸せに暮らして欲しいと願います。

 それと同じように、神さまはユダヤ民族が平和な共同体としてガラテヤ書が語る徳を実らせ、喜ばしく、いきいきと繁栄することを望まれました。確かに、ユダヤはソロモン王の時代に大いに栄え、首都エルサレムは砂漠の中で宝石のような輝きを放つ美しい都に成長しました。シバの女王が賞賛したほど立派な町となったのです。

 しかし、豊かになればなるほど、人々は傲慢になりました。自分たちの力だけで富と幸福を築いたように思い込み、神さまへの感謝を忘れてしまったのです。礼拝は慣習に過ぎなくなり、祭司や律法学者は神さまの掟を人間の知恵で勝手に解釈して、愛のないきまりごとにしてしまいました。

 他国・異教の国々と関わる中で、わかりやすい偶像崇拝の誘惑に負け、人々の生活も道徳も乱れてしまいました。神さまに愛され、自分も神さまに愛と感謝を献げて、毎日の必要を満たす衣食住を与えられているだけで、笑顔でいられる ‒ それが、主を信じる「光の子」の歩みです。ところが、ユダヤの人々の顔からは笑顔が消えていました。豊かになればなるほど、隣人と自分を比べ、いつも心満たされず、焦燥感や嫉妬でいらだって怖い顔をして過ごすようになっていたのです。

 こうして、ユダヤの民は「良いぶどう」ではなく「酸っぱいぶどう」に育ってしまいました。

 神さまはがっかりされ、たいへん悲しまれました。そして、怒りを表されました。真実にユダヤの民のことを愛し、彼らのことを思っているからこそ、神さまは激しく怒られ、戒め、悔い改めを迫りました。

こうして、神さまは大国バビロン、アッシリアをユダヤに攻め込ませ、苦難の中でユダヤの民が神さまを仰ぐことを求められたのです。しかし、彼らはなおも悔い改めず、自分たちの力・人間の力で事態を解決しようとしました。

 自らの力で何とかしようとしたばかりでなく、神さまではなく、偶像崇拝をする異教の国々にも頼って同盟を結び、人間の知恵に頼って外交政策上の策略をめぐらし、それが破綻して、裏切りや憎しみが渦巻く中で戦いが繰り返されました。

 今日の聖句の後半部分は、旧約聖書で好まれた韻を踏む詩の形式が用いられています。聖句中のカッコ内の言葉は、旧約聖書の原語・ヒブル語で、裁き・正しさを選ぶこと(ミシュパト)が流血(ミスパハ)と、正義(ツェダカ)と叫喚(ツェアカ)が韻を踏むことが示されています。神さまは民に「良いぶどうの実」 ‒ 正しさと正義 ‒ を期待されましたが、結果は流血と阿鼻叫喚の惨事となってしまったのです。

 ここで、私たちは立ち止まって思いを巡らすよう、促されています。

神さまの戒めはたいへん厳しいものです。では、ユダヤの民、ひいては人間全体が、その厳しさから逃れるために、神さまから見捨てられてしまった方が良かったのでしょうか。神さまに「もう、あなたとは関係がない」と突き放されたら、人間は「あ〜、せいせいした!」と自由を満喫して、真の幸福を自力で成し遂げられるのでしょうか。いいえ。神さまを失ったら、人間は糸の切れた風船のように頼りなく虚空を舞い、進むべき正しい道を見出せず、迷い続ける者となったでしょう。

 神さまは、ぶどう畑を見捨てるとおっしゃいましたが、ユダヤの民を見捨てることはなさいませんでした。この預言の御言葉から七百数十年後、神さまは人間との絆を新しく結び直してくださるために、御子イエス様を世に遣わしてくださいました。

 イエス様は、いちじくの木を神さまとして呪うことで、「神には何でもできる」ことを表されました。ぶどう畑は、御心に従えば、立派な実をたわわに成らせたはずなのです。

 神さまの御心ならば、いちじくの実がなる季節でなくても、いちじくは実ります。神さまに従えば、立派な実がいつでも成るはずです。

 従わなければ、激情の神である天の神さまは、激しく嘆かれ、怒られます。私たち人間の目には信じられないほどすばらしいと映ることも、逆に悲惨としか見えないことも、神さまはなさいます ‒「神は何でもできる」からです。神さまは、こうして奇跡をなさいます。

 イエス様は、この真理を弟子たちに示すために、また聖書の御言葉を通して私たちに今日、伝え教えてくださるために、いちじくの木を枯らされました。

 神さまは、自分の思い、人間の思いを超える大いなる方。その方を我が人生を導く主として仰ぐこと・この方の言葉と為されようをすべて受け容れること・素直に従うこと ‒ これが「神を信じる」ことです。

だから、イエス様は「神を信じなさい」(マルコ11:22)とペトロに告げ、聖書を通して今、私たちをも導いておられます。

 イエス様は、今日の聖句で “この山が動く” とおっしゃいました。「この山」とは、エルサレム神殿のすぐそばのオリーブ山をさします。

オリーブ山が動き、半分に裂ける ‒ 実は、このことは旧約聖書ゼカリヤ書14章に預言されています。イエス様は、この預言を心に留めつつ、今日の御言葉をおっしゃいました。

 オリーブ山が動く時 ‒ それは、「戦いの日が来て…主が進み出」(ゼカリヤ14:3)て、戦われる時です。ゼカリヤ書は、こう語っています。神さまは人々に、ご自分が戦っている間に、山が動いてできた谷を通って、安全なところへ逃れるようにと言われます(ゼカリヤ14:5)。

神さまは、このように私たちを愛し抜かれ、自らを痛め、時にはご自身を犠牲にしてまで私たちを救ってくださる方なのです。

 ゼカリヤ書の預言を、イエス様は宮清めの五日後・ペトロが枯れたいちじくに気付いた朝の四日後の金曜日に実現されました。それが、十字架の出来事です。

 神さまの御心に従わず、見えない神さまではなく、わかりやすい偶像を崇拝してしまう私たち人間は、その背きの罪により「酸っぱいぶどう」の実を成らせ、また、神さまが望まれる時にいちじくの実を成らせることができません。そのために神さまの怒りを受けて、ぶどう畑のように見捨てられ、いちじくのように滅ぼされるはずでした。その私たちに代わり、イエス様は神さまの怒りを一身に受けて、私たちを救ってくださるために十字架で地上の命を捨てられました。それによって、私たちは神さまの怒りを免れ、救われたのです。

 この事実を、神さまは十字架の出来事から三日後の日曜日の朝、イエス様のご復活によって私たちに明らかにしてくださいました。

 今日の新約聖書箇所の終わり部分は、「主の祈り」と重なっています。「主の祈り」は、イエス様が私たちに「こう祈りなさい」(マタイ6:9)と教えてくださった祈りです。

 私たちはいろいろなことを神さまに祈り願うことを赦されていますが、それはすべて、今日の聖句にある「祈り求めるもの」として「主の祈り」に集約されます。そして、「祈り求めるものはすべて」、御国では既に私たちに与えられています。祈りを献げる時、私たちはこの世にいながら、聖霊に満たされて主と共に御国のうち・永遠の命に生かされています。イエス様が「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」と今日の御言葉を賜って、この真理を告げておられます。

 神さまの恵みは、実に計り知れないほど大きく、私たちにそそいでくださる神さまの愛は、計り知れないほど深いのです。大いなる主に、我が身と心をゆだね、今週一週間も安心して過ごしてまいりましょう。



2021年1月17日

説教題:万人の祈りの家

聖 書:イザヤ書56章7節、マルコによる福音書11章12-19節

それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。 『わたしの家は、すべての国の人の 祈りの家と呼ばれるべきである。』 ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしてしまった。」

(マルコによる福音書11章15-17節)

今日の新約聖書の聖書箇所を初めて読んだ時に、「え!」と驚いた覚えのある方は多いと思います。どうしてイエス様は、実の成る季節ではないから実をつけていないいちじくに、こんなに怒りをあらわにされるのだろう。イエス様でも、お腹がすいて血糖値が下がると、イライラしてしまうのだろうか、それにしても、優しいイエス様が、どうして…と不思議に思わずにはいられません。

 さらに読み進むと、イエス様が神殿の境内で怒りを爆発させ、暴れておられます。愛にあふれる神さまの御子・イエス様が、椅子をひっくり返し、人々を追い払っているのは、いったいどういうことかと思います。

 イエス様がいちじくの木を呪われたことは、次の主日礼拝の説教で読む箇所とつながっているので、今日は触れずにおきます。今日は、イエス様が神殿の境内でなさったことに焦点をおいて、御言葉を取り継がせていただきます。

 ここで、「境内」や「売り買いしていた人々」という言葉から、私たち日本で暮らす者は、つい神社のお祭りや縁日の賑わいを思い浮かべます。そうすると売り買いしていた人々がいて、そこが騒がしくても当たり前のことに思えます。今は、いったん、そのイメージを消してみてください。

 「境内」という言葉は、日本でも宗教法人法では、神社やお寺の他にも、さまざまな宗教の建物が建っている土地・敷地を言い表すのに用いられる言葉です。私たち薬円台教会のあるこの土地も境内と言います。そうすると、イエス様の怒りの理由は、神殿という聖なる場所・本来なら祈りに集中すべき所で、自分たちの利益のために騒がしく売り買いをしていたことかと想像がつくかと思います。

 それは正しいお考えです。

 しかし、イエス様の怒りの理由は、実はそれがすべてではありません。理由のより大きな部分は、イエス様がおっしゃった言葉の中にあります。イエス様は、今日の旧約聖書の聖書箇所イザヤ書56章7節を引用されました。先ほど司式者がお読みくださいましたが、今一度、お読みします。「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き わたしの祈りの家の喜びの祝いに 連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」

 ここで、預言者イザヤの口を通し、「わたし」と人間に語りかけているのは天の父・創造主なる神さまです。

 では「彼ら」とは誰でしょう? それは、この7節に先立つ3節に記されている「異邦人」と「宦官」です。

 ユダヤの人々にとっての「異邦人」という言葉。それは、神さまの民として選ばれた自分たちユダヤ人以外の民族をさします。神さまを主と仰がず、偶像崇拝をする民族だと、ユダヤ人は他の民族をみなしていました。神さまの恩寵をいただけるのは自分たちユダヤ民族だけで、他民族・「異邦人」は恵みを受けられないと考えていたのです。

ユダヤの民は異邦人を差別し、軽蔑し、憎みました。「異邦人」とは、ユダヤ民族から見ると、そのように低められた存在だったのです。

「宦官」とはどんな人たちでしょう。「宦官」は役人として、または宮中で特別な役割に就くために、生殖機能を人為的もしくは意図的に失った男性です。エジプトやペルシャなどの古代オリエント、古代ローマ、またアジアなど多くの文化圏に宦官が存在したことが知られています。新約聖書では、「使徒言行録」でイエス様の弟子フィリポがエチオピアの宦官に洗礼を授けたことが記されています。

 神さまは私たち人間の男女を創造されたときに「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(創世記1:28)とおっしゃいました。しかし、宦官が妻を娶り、その妻が宦官と血のつながった子を産むことはあり得ません。そのために、ユダヤの民は彼らを神さまの御旨に背く者・神さまの恵みから漏れている者として蔑みました。

 ところが、イザヤ書56章7節のこの御言葉で、神さまは「彼ら」すなわち異邦人と宦官を、ご自身の山・祈りの家の喜びの祝いに招いてくださいます。ユダヤ人であるという民族のくくりが「神さまの民」を決めるのではなく、すべての人・全人類が神さまの民として選ばれ、神さまの愛と恵みへと招かれているのです。

 但し、神さまはこの聖句・7節が語るように「焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら」と条件を示されました。

 まるで、供え物をしないと恵みも与えない ‒ ギヴ・アンド・テイクの交換条件のように思えますが、違います。「焼き尽くす献げ物といけにえをささげる」とは、神さまだけを自分の神・主と仰ぎ、神さまに救われる契約をさします。

 十戒の第一戒を思い起こしましょう。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20:3)との戒めを神さまは与えられました。その戒めを守り通す信仰の証しが「焼き尽くす献げ物といけにえ」です。

 民族・人種・国、その他の人間を分ける「へだて」を超えて、神さまを信じる真実の心をもって、神さまだけが私の主・あなただけが私を導き、私のすべてを支える方と仰ぐ時、神さまは「我が子」と呼んでくださいます。

 神さまがこのイザヤ書の御言葉をユダヤの民に与えたのは、イエス様がお生まれになる700年余り前のことでした。ところが、ユダヤの人々にはその言葉の意味がわからなかったのです。ユダヤ民族だけが神さまに選ばれた宝の民と信じて、他の民族を差別し続けました。

他の民族との間に軋轢が生じ、相手からも憎まれ、蔑まれるようになりました。互いに憎み合い、傷つけ合い、戦って誰も心安らぐ時がありませんでした。

 神さまの御言葉を理解できない人間のために、神さまはイエス様を人間として遣わされました。そして、すべての民が神さまに招かれている御旨を伝えようとされたのです。

 その御旨を、イエス様が御言葉と共に激しい行動で表されたのが、今日の新約聖書、マルコによる福音書11章15節から17節の聖書箇所です。

ここから、新約聖書の聖句をご一緒に読んでまいりましょう。

 15節で、イエス様は神殿の境内に入られました。先ほどお伝えしたように、つい思い浮かべてしまう縁日の風景をちょっと引っ込めてください。

 「神殿の境内」‒ エルサレム神殿の境内は、神殿の門を通ってすぐ広がっている場所で、「異邦人の庭」と呼ばれていました。神殿の敷地・境内は壁で囲まれて、所々に門がありました。敷地の奥に神殿 ‒ 建物‒ があります。神殿は、境内全体の四分の一ほどの大きさだったようです。神殿以外のところに「異邦人の庭」という名がつけられているということは、何を意味するのでしょう。

 それは、異邦人は神殿の中に入れないということです。神殿の建物の周りには柵がめぐらされ、「異邦人の庭」から異邦人が神殿に入れないようになっていたのです。神さまに祈りを献げたいと願ってエルサレムの神殿に来た外国人は、神殿の中に入れませんでした。また、神殿の中にも区切りがありました。女性には「婦人の庭」と呼ばれる建物の中でも外側部分が定められていました。また、「祭司の庭」が別にあり、それは神殿の中央に近いところに位置しています。成人したユダヤ人の男性は「婦人の庭」と「祭司の庭」以外の場所、その二つの間で礼拝を献げます。

 神殿の一番奥には聖櫃(せいひつ)が納められた至聖所がありました。ここは幕で仕切られ、きわめて限定された祭司しか入ることを許されていませんでした。

 イザヤ書56章7節で、神さまが預言者イザヤの口を通して語られたとおりならば、神殿は「すべての国の人の祈りの家」のはずです。ユダヤ人以外の者も招き入れられ、礼拝できる場でなければなりません。

ところが、そこが立場によって分けられてしまっていたのです。

 イエス様が入られた神殿の境内・異邦人の庭は、祈りを献げられるような場ではなくなっていました。ユダヤ人が献げ物とする傷のない牛や羊、鳩を買う場所になっていて、家畜の鳴き声と商売の声で喧騒に満ちていました。

 ここに両替人がいたのは、神殿で献げる献金にはユダヤのお金しか用いることができなかったためです。この当時、ユダヤはローマ帝国の植民地だったので、日常の通貨はローマ帝国のお金でした。そこには、ローマ人が神と崇める皇帝の顔が刻まれています。それでは献げるにふさわしくないと考えられていたのです。そこで、通貨をユダヤのお金に換えるための両替人が必要になりました。しかし、この両替人は法外な手数料を取り、私腹を肥やしていました ‒ まさに、異邦人の祈りの場が「強盗の巣」となっていたのです。

 もう皆さんは、神殿と境内の造りそのものが、差別を表していたことにお気付きと思います。

 ユダヤ民族ではない者は差別され、まともに礼拝できる場・祈りの場を与えられていませんでした。

 また、体にユダヤ民族のしるしである割礼を施すことのできないユダヤの女性も差別され、神殿の建物に入ることはできても、「婦人の庭」にとどめられていたのです。

 そして、祭司は聖職者として特権を与えられていました。

 この差別は、天の父なる神さまの御心ではありません ‒ 神さまは、すべて創られた人を招いておられるのです。

 イエス様が神殿の境内で激しく怒りをあらわにされたのは、神殿のつくりそのものが差別を表し、御心に反する「へだて」が行われていたからです。イエス様はあらゆるへだての壁を崩すために、怒りを行動で表されました。

 私たちはこの世で、相対的な価値観によって生きることしかできません。この世の社会生活は区別と違い・差違に満ちあふれています。ひとつの立場に自分が立つと、それとは異なる立場に立つ人が見えてきます。その人の立ち位置が自分よりも高いか低いか、どうしても気になってしまうのが私たち人間なのです。

 集団が組織として働く時、階層があった方が効果的に機能する場合も多々あります。しかし、人間は区別と差違を、実にたやすく差別と憎しみに変えてしまいます。

 そこから争いが生まれ、争いが戦いとなり、人と人、民族と民族、国と国が戦争を起こし、多くの血が流されてきました。

 今に絶えることのない人の罪です。

 私たちは今、コロナ禍の渦中にいます。たいへん皮肉なことに、新型コロナウィルスという今の私たちの苦難の種は平等です。どんな人もウィルスに感染する可能性があります。ウィルスは、その意味では差別無しに私たちを平等に襲います。ところが、それによって新しい「へだて」を生み出してしまうのが、私たち人間の罪深い姿です。感染した方やその家族、ウィルスとの戦いの最前線で働いておられる医療者とその家族が差別を受けているという悲しい報道がずっと為されています。そして、この差別を、人間はつい、ほとんど無意識的にしてしまうのです。

 この私たち人間の罪を贖うためにイエス様は十字架で死なれ、私たちがその罪を赦されていることを、三日後のご復活でお示しくださいました。赦されているとは、 罪深い者でありながら、イエス様を通して神さまを仰ぐようにと促され、神さまに「我が子」と呼ばれ、イエス様に従って御国へと進むことを意味します。

 生きる瞬間・瞬間に、イエス様の十字架の出来事とご復活を通して主と共に光の中を歩める幸いと平安を感謝して、今の困難な時をも一歩一歩、手を携え助け合い、励まし合って、今週一週間を進み行きましょう。



2021年1月10日

説教題:柔和で謙遜な勝利者

聖 書:ゼカリヤ書9章9節、マルコによる福音書11章1-11節

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ(救い賜え)。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

(マルコによる福音書11章1-11節)

 今日から再び、マルコ福音書から御言葉をいただきます。アドヴェント前に、私たちは神殿都市エルサレムをめざすイエス様が、エルサレムの手前・エリコの町で癒やしの奇跡を行った聖書箇所の恵みを賜りました。目が見えなかった人の目を開かれたのです。

 癒やされた人も加って、イエス様と弟子たち、またイエス様に従う人々の一行は、エルサレムの町までもう少しというところへ来ました。

 ここで、皆さまに少し情景を思い描いていただきたく思います。当時の都市は城壁に囲まれており、門を通らないと市中に入れません。

すでにイエス様は奇跡を起こす素晴らしい助けの力を持つ方として、その名を広く知られていました。その方がエルサレムに着かれると聞いて、門のところには大勢の人が集まっていました。もしかすると、オリーブ山のところまで来たイエス様と弟子たちの耳には、彼らのざわめきが届いていたかもしれません。

 オリーブ山のふもとで、イエス様は二人の弟子に不思議なことを命じられました。今日の聖書箇所11章2節です。お読みします。「向こうの村へ行き…まだだれも乗ったことのない子ろば…をほどいて、連れて来なさい。」

 弟子たちが言われた通りに出かけてみると、イエス様がおっしゃったとおりに、つながれている子ろばを見つけました。他人の子ろばですが、イエス様の言葉どおりに「主がお入り用なのです」(マルコ11:3)と言うと、持ち主は許してくれました。持ち主は、少し不思議に思ったかもしれません。ろばは、馬のようですが馬よりもずっと小さく、耳が長く、主に荷物を運ぶための家畜でした。しかし、子ろばでは、まだその役割を果たすことはできません。しかし、「主のご用」 ‒ 神さまのご用と聞き、また用が済んだらすぐに返すとも言われて、納得したのでしょう。

 イエス様がおっしゃった「主のご用」 ‒ 神さまのご用とは、何だったのでしょう。

 それは、今日の旧約聖書の御言葉に記されています。その聖句、ゼカリヤ書9章9節を先ほど司式者がお読みくださいました。もう一度お読みします。「神に従い、勝利を与えられた者」が「雌ろばの子であるろばに乗って」。ユダヤの首都・神殿のあるエルサレムに入り、それを人々が歓呼の声で喜び迎える預言が語られています。この「神に従い、勝利を与えられた者」こそが、イエス様です。この預言の聖句の実現を、人々の目の前に事実として示すために、イエス様は子ろばをお入り用とされました。

 イエス様はご自身が天の父のご用を果たすためにこの世に救い主・まことの指導者として遣わされたこと、また、ご自分が主の御子であり、主その方であることを人々に証するために、子ろばが「入り用」だったのです。

 ここで語られている「勝利者」の「勝利」は、長く様々な国に支配され、この時もローマ帝国の植民地だったエルサレムの人々がすぐに連想したような勝利・ “独立を勝ち取る”という意味ではありません。

戦いそのものを根絶させ、戦い・争いの根源である憎しみや、他者を亡き者にしようとする罪を滅ぼし、悪に打ち勝つ真実の王 ‒ まことの平和をもたらす王という意味です。

 ゼカリヤ書9章9節、今日の旧約聖書の聖句の直前に、神さまはユダヤの民にこう約束されました。「もはや、圧迫する者が彼らに向かって進んで来ることはない。」(ゼカリヤ書9:8)

 ユダヤの歴史は周囲の強国・大国との攻防の歴史と申しても、過言ではありません。常に「圧迫する者」がユダヤを支配しようと襲ってきて、彼らは迎え撃たねばなりませんでした。ユダヤの国はやがて二分し、独立を保っていた南ユダもアッシリアに攻められ苦しみました。

 ユダヤの民にとって、勝利の反対語である敗北とは国が滅びること、家族が引き裂かれること、愛する者、そして自分自身の命の終わりを意味しました。

 当然、ユダヤの人々は絶対にそうなって欲しくはないと思いました。人々が夢見たのは、戦いのために出かけて行った王や将軍と、兵士として出征した夫や息子が勝利を治め、戦地から帰って来ることでした。

 当時の都市は外敵を防ぐために城壁に囲まれ、町の入口には門がありました。勝利した王・将軍・勝利者が、エルサレムに戻って来る時には、この町の門を“凱旋門”として、帰ってくるのです。勝利者が勝利軍を率いて帰還し、それを町全体が歓呼の声と喜びの舞いで迎えることを、ユダヤの人々・エルサレムの民は待ち望んでいました。

 預言者ゼカリヤは、“その夢はかなえられる”と、今日の御言葉で未来を語ります。

 人々が思い描いていた凱旋将軍は、人間的な意味・この世的な意味で威風堂々としたものだったでしょう。立派な馬に乗り、人々を睥睨しながら勝利の行進をする姿が、人々の頭に浮かんでいたでしょう。

 ところが、神さまは凱旋する勝利の王は、今日の旧約聖書の預言で「子ろばに乗って」来るとゼカリヤの口を通して人々に告げました。ろばは、馬よりもかなり小さい動物です。馬はすらっとしていますが、ろばは「ウサギ馬」という呼び名もあるそうで、耳が大きく長く、全体にずんぐりとして、格好良いと申しますよりも、どちらかと言えば可愛い印象があります。子ろばはさらに小さく、その背に人が乗ると立っているよりも丈が低くなるでしょう。乗った人の脚は、おそらく地面についてしまいます。

 「子ろばに乗った」勝利者・英雄がエルサレムに入る姿は、人々を睥睨するどころか、人々に見下ろされ、大人が子ども用の三輪車に乗っているような滑稽な姿です。しかし、その何とも珍妙な姿が「神に従い、勝利を与えられた者」のしるしです。

 「高ぶることなく、ろばに乗って」来るこのまことの王が、馬に乗っていないのは、ゼカリヤ書の、今日の聖句の少し先を読むとはっきりとわかります。ゼカリヤ書9章10節をお読みします。「わたし(=神さま)はエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。」

神さまは、戦うための乗り物である戦車(当時は馬に引かせていました)や軍馬を絶たれます。馬がもういないから、まことの王はろばに乗って町に入るのです。預言者ゼカリヤの口を通して、神さまはさらに語られます。10節を続けてお読みします。「戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。」(ゼカリヤ書9:10)。

 ここで、私たちが思い起こさなければならないことがあります。

 イエス様は、ご自身のことを何とおっしゃっていたでしょう。

 マタイによる福音書11章28節です。イエス様は、人々にこうおっしゃいました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者…。」

 イエス様は神さまです。しかし、高いところから私たちを見下ろす方ではありません。わたしのもとに来なさい、と私たちを招き、共においでくださる方です。私たちと同じ目線、いや、もっと低いところに身を置かれる方です。イエス様は、人間が生まれる場所よりも汚い片隅・馬小屋でお生まれになりました。また、イエス様は弟子たちの前にひざまずいて、その足を洗いさえしてくださったのです。私たち人間よりも身を低められて、どこまでも、あくまでも、柔和で謙遜な方 ‒ それがイエス様です。そして、この方こそが,真実の王であり、深い愛によってすべての戦いに終止符を打ち、平和をもたらす方なのです。 

 イエス様がお生まれになった夜、天の御使いが「天に栄光、地に平和」と告げました。その「平和の君」としておいでになったイエス様は、それが誰の目にも明らかになるようにと子ろばに乗られたのです。

そのお姿は、私たち人間が預言の実現だと思えるような荘厳または神聖な様子ではありませんでした。先ほども申しましたが、滑稽な姿だったのです。

 ゼカリヤ書の預言どおりに、そのイエス様を、人々は大喜びして迎えました。その中には、この光景をただ面白がって、はしゃいだ人々がいたでしょう。一方で、ユダヤの男子は6歳になると旧約聖書の暗唱を学びとしますから、ゼカリヤ書の預言が目前で実現していると受けとめた人々も少なからずいたはずです。

 しかし、彼らが歓呼の声を上げ、葉を打ち振って「勝利を与えられた者」を迎えたのは、当時 ユダヤを植民地として支配していたローマ帝国から独立を勝ち取ってくれる強力な指導者 ‒ 政治的な意味での “ユダヤの王” が現れたと誤解したからでした。

 この誤解が、人間的な意味ではイエス様を十字架での死刑へと追い詰めて行きます。イエス様は、“ユダヤ人の王だと自称して、人々をたぶらかした”罪、神さまに立てられる王であると自ら名乗ったことによる冒瀆の罪で、十字架に架けられることになりました。

 しかし、主のご計画の中では、イエス様の十字架の出来事は異なる意味を持っています。イエス様は十字架で死なれることで、私たちに代わって私たちの罪を負い、私たちが被るべき滅びの死を私たちに代わって死なれ、それによって私たちは罪・死・滅びからゆるされたのです。

 私たちは、イエス様の十字架の死によって、救われました。

 それをはっきりと示すのが、イエス様が死に打ち勝ったことを表す三日後のご復活です。

 この世のどんな英雄も、凱旋将軍も、どれほど力ある者も、他の人間には負けたことのない無敵の者も、“死”から逃れることはできません。その“死”に打ち勝った勝利者の証しとして、イエス様はご復活されました。そして、私たちにも、肉体の死を超えて神さまと共に生きる永遠の命・救いの道を開いてくださいました。この方こそが、私たちの進む道を照らし、私たちを守り、正しく導いてくださるまことの指導者です。とりわけ、今のコロナ禍の中で、私たちに真実に依り頼むことのできる方、まことのリーダー、イエス様が私たちの心と魂の指導者として与えられていることは大きな恵みです。

 繰り返しますが、子ろばに乗ったイエス様は、私たち人間の目にはたいへん滑稽に見えます ‒ このように、神さまのなさることは人の思いを高く超えています(イザヤ書55:9)。神さまは、私たちには思いもかけない、私たちの思いをはるかに超える仕方で、私たちに必ず幸福と平安をもたらしてくださいます。

 それは、どのような幸い、どのような平安でしょう。今日から始まる一週間を、その恵みを楽しみに主を仰ぎ、不安を乗り越えさせていただいて、希望を胸に力強く進み行きましょう。



2021年1月3日

説教題:まことの指導者

聖 書:ミカ書5章1節、マタイによる福音書2章1-12節

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

(マタイによる福音書2章1-12節)

私たちキリストの教会は毎年1月6日を「公現日」‒ エピファニー ‒ と呼び習わしています。教派によっては、「栄光祭」と呼ぶそうです。神さまのご栄光があまねく地の果てにまで知らされ、恵みの光が世を明るく照らすことを喜ぶ日です。その日の前の主日・今年は今日1月3日、教会はその喜びをおぼえて礼拝を献げます。

エピファニーの礼拝で、伝統的に読まれる新約聖書箇所があります。今日私たちの礼拝に与えられているマタイ福音書2章が語る「占星術の学者たち」の記事です。

占星術の学者たちは「ユダヤ人の王の星」を見て、生まれたばかりのこの王を礼拝するために、はるばる東の国から長い旅を続けてユダヤの地に辿り着きました。

彼らがまず行ったのは、ユダヤの王・ヘロデの王宮でした。「ユダヤ人の王」ならば、王の子・王子として宮殿で誕生したに違いないと考えたからです。ところが、該当する王子は生まれていませんでした。

星が示した「ユダヤの王」は、ヘロデ王もしくはその血筋の者ではなかったのです。

まことのユダヤの王・真実の王は、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったイエス様でした。

それを、イエス様の降誕のはるか前に預言していたのが今日の旧約聖書の聖句・ミカ書5章1節です。この聖句は、しばしば、クリスマス礼拝で読まれます。

私たち薬円台教会も、ついこの前の聖夜讃美礼拝で、この御言葉をいただきました。ご記憶にある方もおられるでしょう。

“まことの王・真実の王” とは、今日の聖句が告げる「イスラエルを治める者」をさします。「治める者」のわざは、今日の聖句の少し後・3〜4節に次のように語られています。お読みします。

「彼は立って、群れを養う 主の力、神である主の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり その力が地の果てに及ぶからだ。 彼こそ、まさしく平和である。」(ミカ書5:3〜4a)

預言者ミカに与えられた主の御言葉は、“まことの王・真実の王” が「まさしく平和」そのものであることを告げています。

「治める」が、 “統治する”という言葉とほぼ同義語だと考えると、私たち人間の歴史に現れた統治者 ‒ 歴史的人物たち ‒ から平和をイメージするのは難しいように思えます。私たちが生きるこの世では、「治める者・統治者」とは武力や経済力によって自国に劣る「小さき者」を制圧し、支配する者であり、平和の真反対にある語・戦いの勝利者であることが多いのです。

「小さき者」 ‒ 特に、今日の聖句が語る「いと小さき者」・ユダヤ民族のような者は、ただ虐げられるだけで幸いと安心を得られなくなります。

「小さき者」の平安、救いはどこにあるのでしょう。

彼らへの平和は、どこから与えられるのでしょう。

実は、ユダヤは小さいながらもソロモン王の時代には、富と文化の高さを誇った力のある国でした。しかし、それに驕り、彼らは神さまへの信仰を失いつつあったのです。

彼らは繁栄のすべてを自力で成し遂げたと、自己中心的な思いを持つようになりました。それを悲しみ、残念に思われた神さまは、ユダヤの人々の傲慢と不信仰の罪を戒めるために、彼らを「いと小さき者」に貶め、悔い改めを促されました。強国アッシリアやバビロンを用いて、ユダヤの国に攻め入らせました。こうして、ユダヤの国・イスラエルは弱小国となってゆきましたが、彼らはそれでも、預言者の言葉に耳を傾けず、神さまの方を向き、回心して悔い改めはしませんでした。

神さまが人の目に見えない方なので、信じることができなかったのです。神さまは、この人間の無知と限界、罪を憐れまれました。

人間をその無知の暗闇から救い出されるために、神さまは大切な独り子イエス様を見える人間とされて、世に遣わしてくださったのです。それは、この方を「まことの指導者」と知るためでした。

力による人間の王・人間の「治める者」・統治者には、彼ら自身が安らぐ時を持てません。広大な土地と富・権力のすべてを手中に納めたと思っても、次の瞬間には新しいライバルが現れるからです。統治者同士の争いは人々を巻き込み、血を流させ、悲嘆を招きます。

その戦いには、終わりがありません。

しかし、平和の君 イエス様は、すべての人を安らぎで包みます。

互いをたいせつに思いやり、助け合い、励まし合う平和の心・主の愛が、すべての人々をひとつに結びます。イエス様の平和の光があまねく地を照らす ‒ その希望のあらわれ・顕現がエピファニーの恵みです。今日の旧約聖書の御言葉・ミカ書の聖句は、平和をもたらす方・イエス様こそがまことの指導者であるとの預言なのです。

さて、ここから私たちは、今日の新約聖書の御言葉の恵みに与ります。東方の学者たちは、聖書の神さまを知らないはずの外国人、聖書の言葉を用いれば異邦人です。彼らが、こうしてイエス様を礼拝したことは実に先見的です。キリスト教の基であるユダヤ教はユダヤ人の民族宗教ですが、キリスト教はあまねく人類を真理の恵みに与らせる世界宗教として命の喜びの光でこの世を照らすようになりました。それが、今日の聖書箇所にすでに語られているのです。

「まことの指導者」へと、少し話を戻しましょう。

国家は苦難に直面すると、真実の指導者を求めます。

強大な国々に囲まれた小国・ユダヤも、数百年にわたり外部からの侵攻に見舞われ、常に真実の指導者を求めていました。真実の指導者とは、どんなリーダーシップを発揮する者でしょう。

文武に秀で、経済を発展させる才覚を持ち、人心を鼓舞する雄弁者 ‒ それが真実に優れたリーダーでしょうか。ユダヤの第二番目の王・ダビデ王は、確かにそのようなリーダーでした。戦いに強く、そのうえ竪琴の名手で、詩編の数々として今も残されている主への賛美の歌を献げ、人の心を和ませ慰めることができました。人々の先頭に立ち、国事を進めていたのです。

ところが、天の父・私たちの神さまが示される “まことの王” は、「先頭に立つ者」ではありませんでした。

日本語にも「殿」という言葉があります。一国の主・殿様をさす語ですが、「しんがり」とも読みます。「しんがり」は、自軍が敗走する時に軍の最後尾にいて、迫り来る敵の攻撃から味方を守る役割をさします。実際の戦では、敗走する時、殿様は重臣に守られていたでしょう。しかし、そのように敵の攻撃を一身に受けて、自国と民を守ってくれる者が「殿」‒ まことの指導者・王であってほしいとの願いが、「殿」という文字を「しんがり」と呼んだ心にこめられているように思えてなりません。

聖書の神さまが示される「まことの指導者」は、このように危機に際して自分の身を挺して人々を守る者でした。

神さまは我が子イエス様を、そのように私たちを守り抜く「まことの王」・「しんがり」として、この世に遣わされたのです。

富・武力・知識が豊富な者が優遇される、この世的ないわゆる“格差”社会において、イエス様は貧しい家の幼子としてお生まれになり、“エリート”として生きるこの世の人生を与えられてはいませんでした。しかし、差別される者・虐げられ、軽んじられる者の苦しみや悔しさをご自身のこととして理解し、底辺の人々と共感できる生き方を授けられたのです。さらに、イエス様はそのこの世の歩みの終わりには、私たち人間に代わって、命にとっての最大の敵である罪と滅びを一身に受けてくださり、十字架で死なれました。

それは、「しんがり」として、私たちを罪から逃がし、追い迫る悪の闇から解放し、救ってくださるためだったのです。

救い主イエス様こそ、私たちの「まことの指導者」です。

その事実を記録し、今に生きる私たちに伝えるのが、今日の新約聖書箇所の聖句です。

歴史の中で、この方が私たちに与えられたことを心から感謝し、真実の指導者に私たち人間が何を期待すべきかを、今一度考えてみましょう。

日本社会が、また世界全体が新型コロナウィルス感染拡大という脅威にさらされる中で年末年始を過ごすこの時に、私たちが進むべき方向をイエス様は導いてくださいます。感染拡大を押さえ込むためにさまざまな意見が交わされ、それらは時に対立します。また、いわれのない差別・格差が生じます。私たちを苦しめているのはウィルスのはずなのに、いつの間にか、そのウィルスをめぐって人間同士がいがみ合ってしまい、平和に過ごすことができないのです。ウィルスによる不安があっても、互いに助け合い、支え合って私たち同士が平和を保つ ‒ その指針を与えてくれるのが、平和の君 イエス様を伝える聖書の御言葉です。福音は常に今の問題・課題に解決を与えてくれます。イエス様が私たちを常に導き続けてくださいます。そのことを信じ、主に依り頼み、今週の、また今年の日々を、勇気と希望をもって進み行きましょう。



2020年12月27日

説教題:天に栄光、地に平和

聖 書:イザヤ書60章2-3節、ルカによる福音書2章8-20節

見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい 王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。

(イザヤ書60章2-3節)

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子をみつけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところに栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして、急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。この光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、讃美しながら帰って行った。

(ルカによる福音書2章8-20節)

前の主日礼拝にてクリスマスをお祝いした喜び、さらに木曜日の夜にクリスマス・イヴの礼拝(聖夜讃美礼拝)を献げた喜びの余韻が、まだ会堂に残っている気がいたしますが、今、私たちは今年最後の主日礼拝を献げています。今日は、ルカによる福音書から、イエス様のお生まれになった夜の出来事を語る聖句をいただいています。

そこに語られているのは、羊飼いに起こった出来事です。

荒れ野・砂漠で、夜を徹して羊の群れを守っていた羊飼いたちに、恵みの主の言葉が告げられたと記されています。この天使の言葉によって、羊飼いたちは、最初にイエス様を礼拝する者となりました。

どうして、この恵みの知らせは最初に羊飼いたちに届けられたのでしょう?

そもそも、羊飼いは、どんな立場の者たちだったのでしょう?

私たち現代日本に暮らす者は「羊飼い」と言われても、あまり具体的なイメージを持つことができません。

クリスマス絵本で、その姿形は何となくわかる気がいたします。ダビデ王は少年時代に羊飼いで竪琴の名手でした。

また、イエス様は、羊飼いにたとえられます。

オルガンの後ろの壁に、羊の群れを率いる羊飼いの絵が掲げてあります。見た途端に、この羊飼いはイエス様だ、だから教会にこの絵があるのだと、おそらく多くの方は思うでしょう。こうしたことから、羊飼いと聞くと、まずイエス様を思い浮かべます、そして、羊飼いはたいへん優しいというイメージを心に抱きます。また、竪琴の名手であり羊飼いだった少年ダビデ王の印象から、牧歌的な姿を心に描きがちです。もちろん、イエス様がお生まれになった時代のユダヤの羊飼いにも、そのようなイメージはあったでしょう。

しかし、当時のシリア地方の人々が「羊飼い」と聞いて真っ先に心に浮かべたのは、その姿ではなかったでしょう。「羊飼い」と聞いて、人々がまず思い描くのは "勇敢に戦う者" の姿でした。

「羊飼い」とは、羊の飼い主から託された群れを守るために全力を尽くすことを務めとする者なのです。

羊飼いは、そのために武器を持ちます。教会学校のクリスマスでは、降誕劇・ページェントを演じます。その時に、羊飼いが必ず手にするのが、杖です。杖は羊飼いのシンボルマークと申しても良いでしょう。

え? 杖が武器?と思われるかもしれません。

詩編23編には、羊飼いが鞭と杖を用いることが謳われています。4節後半に、このように記されています。お読みします。「あなたの鞭 あなたの杖 それがわたしを力づける。」(詩編23:4)

私たちが連想しがちなように、鞭と杖は、群れを乱す不従順な羊を懲らしめるために使うこともあったでしょう。しかし、それでは「力づける」の意味がよくわかりません。鞭と杖で、羊飼いはどのように羊を力づけるのでしょう。

羊はたいへん目が悪い動物だそうです。自分の進んで行く道の先がよく見えません。私たち人間が聖書で羊にたとえられるのは、象徴的な意味で自分の行く先・未来が見えないからと言うこともできます。

羊が群れからはぐれてしまった時、羊飼いは杖で地面を叩き、鞭をヒュンヒュンと鳴らしながら迷子を捜すそうです。

もちろん、声もかけるでしょう。

すると、疲れてうずくまっている迷子の羊に、杖の振動と空を切る鞭の音、羊飼いの声が伝わります。羊は、羊飼いが近くにいると知って、たいへん安心します。自分はここにいる、とメェメェ鳴く元気も出るかもしれません。羊飼いは、鞭と杖を、そのように使うと伝えられています。ただ、これでは 鞭と杖は通信手段です。武器として使ったことにはなりません。

羊飼いが鞭と杖を武器として使うのは、何よりも羊を狙ってやって来る狼や山犬、羊盗人を撃退して群れを守るためでした。怯えている羊を、自分たち羊飼いがしっかりと守っていることを示して、羊たちを力づける ‒ それが、羊飼いの務めでした。

羊飼いが羊の飼い主に雇われるのも、その守る力を見込まれてのことでした。羊飼いは、冷え込む砂漠の夜を徹して寝ずの番をして、か弱い羊たちを守って戦う者だったのです。

羊飼いが、その勇敢さと屈強さを買われて、傭兵として雇われることもありました。傭兵 ‒ いわゆる “外人部隊”です。

地中海沿岸からシリア地方、エジプトにかけて、イエス様の時代に至るまで、いえ イエス様の時代を超えて、様々な民族が覇を競っていました。各国・各民族の王や首長は、自国の兵士・自分の民族の兵士だけでは足りなくなった時に、お金を払えば兵隊として戦ってくれる兵士を雇い入れます。この時に、砂漠の獣や盗賊を撃退する力と知識を持っている羊飼いが、その戦闘能力を買われ、「プロの兵士」として雇われました。

羊飼いにとっては、戦いが仕事であり、日常でした。常に「敵」がいる生活・戦わなければならない日々を送っていました。その平和のない毎日で、彼らが最も願っていたのは安らぎだったのではないでしょうか。

戦いの日々に明け暮れて疲れ、それでも夜通し羊を守って、なお働いている羊飼いたちを天の父は見守っておられました。その心のうちに、安らぎを求める思いがあるのをご覧になっていました。一番平和を求めていたのは、彼ら羊飼いだったことを、神さまはご存じだったのです。

神さまは独り子イエス様をこの世に遣わした夜、それを知らせようと、彼らのために、天使、さらに天の大軍を遣わしてくださいました。

イエス様こそが、まことの平和をもたらしてくださる方だからです。

いつか、まことの平和をもたらすメシアがおいでになることは、今日の旧約聖書のイザヤ書の言葉にも、預言として与えられていました。それが、ついに実現することを、神さまは天使を通して、誰よりも先に羊飼いたちに告げられたのです。

「栄光、神にあれ ‒ あなたたちの苦労をしっかりと見ている創造主・神さまの愛が、天に満ちている ‒ 、地には平和 ‒ あなたがたの心が必ず安らぐ平和がもたらされる」と、神さまは約束してくださいました。そして、その「しるし」が「飼い葉桶の中で寝ている乳飲み子」だと告げられました。これは、たいへん不思議な言葉です。私たち現代に生きる者の言葉を用いれば、“平和のしるしは、駐車場のバケツの中で眠っている赤ちゃんだ”と天使は告げたようなものです。

ところが、羊飼いたちは、天使の出現と、告げられた不可解な言葉をまったく疑いませんでした。なぜ疑わなかったのでしょう。平和の訪れを信じたかったからです ‒ それほど深く強く、彼らは平和を望んでいたのです。彼らはすぐにベツレヘムへと走り、本当に乳飲み子イエス様を見つけ出しました。平和のしるし・平和の君イエス様の目撃証人となりました。

自分たちが夜空に見た天使と、天の大軍、そして伝えられた言葉が夢幻ではなかった・真実だった・事実だったことに、まず彼らは感激したでしょう。そして、本当に神さまが平和をもたらしてくださると、確信したのです。イザヤ書の預言が成就した、ついに救い主メシアがお生まれになった ‒ この喜びを、羊飼いたちは町の人々に伝えました。

福音を伝道したのです。

ところが、町の人々に、福音は受け入れられたでしょうか。今日のルカによる福音書2章18節をお読みします。「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。」(ルカ福音書2:18)人々は、羊飼いの喜びを信じられなかったのです。

ルカによる福音書2章14節は、羊飼いたちに告げた天使のこの言葉を伝えています。「地には平和、御心に適う人にあれ。」「御心に適う人」とは、福音を受け入れ、真実の平和への歩みが始まったことを信じる人をさします。今の時代で言えば、主に従う決心をした者・キリスト者、クリスチャンをさすのです。

イエス様は、平和への道を拓いてくださるために、まず私たちと神さまとの間に平和をもたらしてくださいました。人間は、神さまに背き、自らが神さまに造られ、神さまのご計画のうちに生きていることを信じず、受け入れない罪のために滅ぼされてもおかしくない存在です。ここには、神さまと私たちの平和はありません。しかし、イエス様は、この背きの罪を、私たちに代わって背負ってくださり、十字架で私たちの代わりに滅ぼされ、地上の命を捨ててくださいました。こうして、イエス様が執り成してくださって、私たちは背きの罪をゆるされ、神さまとの間に和解が成ったのです。私たちは肉体の死を超えて、永遠に神さまと共にいる恵みを約束されています。イエス様の三日後のご復活は、その恵みを表しているのです。

さて、羊飼いたちは、もちろん、赤ちゃんのイエス様を見ることができただけで、十字架の出来事と復活については、この時は知るよしもありませんでした。それでも、赤ちゃんのイエス様によって、救いと平和の確信をいただいたのです。

町の人々には、羊飼いの話を信じてもらえませんでした。私たちも、伝道しても、すぐには受け入れてもらえないことの方が多いのです。伝道の進展がはかばかしくなくても、町の人々に受け入れられなくても、羊飼いたちは落胆しませんでした。この聖書箇所を読むと、そうだ、伝道はこうでなくてはならないと、私はたびたび励まされます。今日も、今も、皆さんにこうして御言葉を取り継ぎながら、新しく励まされています。繰り返しますが、羊飼いは少しも落胆しませんでした。今日の聖書箇所の最後の聖句は語ります。彼らはなお喜びに満ちて、「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」のです。

彼らが「帰って行った」のは、砂漠・荒れ野にある自分の本来の持ち場でした。羊飼いである自分の立場・戦う者である自分の現実へと戻って行ったのです。立場・現実は変わっていません。

しかし、彼らの心は大きく変えられていました。その心には、いつか平和が必ず訪れるとの希望が確かに宿っていたのです。

私たちは今、コロナ禍という大きな困難に直面しています。感染をめぐり、差別やいじめ ‒ 人と人とのいさかい ‒ が起こっています。思いやりと配慮をしっかりと思い起こさなければなりません。

このような時にこそ、私たち羊を守るまことの羊飼い・イエス様が、私たちを苦しめるものと戦ってくださっていることを堅く信じ、主にすがり、ゆだねて過ごしましょう。私たちにできる精一杯、そしてイエス様にならって、私たちにできる思いやりと助け合いを尽くした後は、いっさいを主の御手にお任せしましょう。

主は必ず私たちを、光へと導き出してくださいます。

新しい主の年2021年が、明るく幸いな一年となることを信じ、心にイエス様をいただいて、今週を、年末年始の日々を進み行きましょう。


2020年12月20日

説教題:言、我らのうちに宿り

聖 書:イザヤ書9章1節、ヨハネによる福音書1章1-14節

闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

(イザヤ書9章1節)

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

(ヨハネによる福音書1:1-14)

薬円台教会の皆さん、今、私たちは主のご降誕・クリスマス礼拝の恵み、神さまの栄光のただ中で光に包まれています。世界的な感染拡大による厳しい状況の中にあっても、いえ、その苦難の中にいるからこそ、こうしてクリスマス礼拝にて恵みをご一緒できることを今、心から主に感謝します。

また、たった今、この礼拝の中で私たち薬円台教会の群れに、新しく一人が加えられました。何と喜ばしいことでしょう。

感染のために集まることができない・集会を持ちにくく、伝道がきわめて困難なこの年度に、私たちには二人 ‒ お一人は六月に、今お一人はこの礼拝で ‒ イエス様を受け入れて、福音を信じ、新しく神の子となる方々が与えられました。主が私たちを力強く導いてくださっているこの証しを感謝し、心から御名を讃美します。

このクリスマス礼拝に、私たちはヨハネによる福音書から、光の御言葉をいただいています。神さまが人間と新しく結んでくださった、約束の言葉です。

神さまは、人間と最初の約束・契約を結ばれました。

それは “人間が、自分たちを創り、この天地を創られたのが神さまであることを受け入れ、自分の創り主である神さまを主と信じ、受け入れ、神さまの愛の表れである律法に従うなら、滅ぼさない”という約束でした。神さまは、この約束をご自身の宝の民であるユダヤ民族と結ばれました、しかし、この約束は破られてしまいました。

ところが、神さまは、人間を滅ぼすことはなさいませんでした。新しい約束・新しい契約を結んでくださったのです。神さまの愛の表れ・律法を胸に授け、心に記す時、新しく神さまは、その人々の神さまとなり、彼らは神さまのものとなり(エレミヤ31:31)、堅い絆が結ばれます。新しい約束・新しい契約、「新約」の兆しは「新約」聖書に記されているとおりです。新約聖書は、イエス様がこの世にお生まれになってから、福音が今にいたるまで伝えられている希望の書です。

先ほど、この新しい約束について、“聖書は神さまの愛の表れ・律法が人々の心に記されると告げている”と申しました。記される、とは“書かれる”、“文字で記入される”ということです。記されるもの・書かれるもの・記入されるものとは、何でしょう。言葉です。

福音の言葉・恵みと救いと希望の言葉を、私たちの心の目が読み、私たちの心の耳が聞き、その言葉が、私たちの心に刻まれると、神さまは約束してくださいました。そこに、私たちの本当の幸いと、まことの安らぎ・安心があります。

私たちの心に刻まれる言葉。それを聖書は「言」(げん)という一つの字で表します。そして、それを「ことば」と読みます。また、そうして私たちに与えられた「ことば」を、今日の新約聖書の御言葉は「神の独り子イエス様」であることを告げているのです。

今日、このクリスマス礼拝に私たちに与えられている良き知らせ・恵みの福音・ヨハネ福音書1章1節から14節はイエス様のご生涯を語っています。「言(ことば)」と記されているところに、「言」に換えて「イエス様」と入れて読むと、私たちにはすべてがわかります。

1節の「言」を「イエス様」に換えて読めば、こうなります。“イエス様は、天地創造よりもずっと前、初めから天の父なる神さまと一緒におられました。イエス様は、神さまだったのです。” そして、創造主なる神さまは、言によって天地を創られました。光あれ、と言えば光が生まれ、大空あれ、とおっしゃれば空が生まれて水と分かれました。この言は、神さまの御子イエス様です。

4節に、このように記されています。「言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。」御子イエス様は、言であり、命であり、光です。私達は神様に造られましたが、心の目と耳を閉ざしているために、この光を見ることができません。残念ながら、暗闇の中に自らを閉じ込めて、真実・真理が何もわからない状態に置かれているのです。聖書は、それを罪と呼びます。その暗闇に、イエス様という言が光となって射し込んでくださいました。私たちは、その光に照らし出されて、神さまを知り、自分をも知り、世界の真実を知ることができるのです。

イエス様は、私たちの肉体がとらえることのできる、私たちの実際の目と耳に見える人間となって、こうして世においでくださいました。

それが、クリスマスの出来事です。

ところが、人々には、すぐにはこの恵みがわかりませんでした。

11節をご覧ください。こう記されています。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」まさにこのとおりで、イエス様は祭司やファリサイ派の人々、そして群衆によって、人間の傲慢と無知・暗愚という罪によって、十字架に架けられたのです。ところが、神さまは、この皮肉な出来事を大いなる恵みに換えられました。

イエス様のご復活です。このことの指し示す意味が、12節に記されています。お読みします。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子としての資格を与えた。」

今日、洗礼式の中で、受洗者の方はイエス様を受け入れ、イエス様を信じる決心を言い表されて、神さまの子となりました。私たちは、たった今、このヨハネ福音書の言が実現するのを見たのです。私たち全員が、この真実の証し人です。そして、13節です。

「この人々」とは、すべての信仰者・すべてのクリスチャン、私たちをさします。“わたしたちは”と読み替えてよいでしょう。“わたしたちは、”「血によってではなく」すなわち“血筋によってではなく、血のつながりを持たずに”、「肉の欲によってではなく、人の欲によってではなく」すなわち“人間男女の交わりを目的とした行為の結果ではなく命を授かり、また何らかの人間的な利益を得るために洗礼を受けたのでもなく”、「神によって」すなわち「神さまから贈られた御言葉なるイエス様を信じることによって」、神の子として、永遠の命に生きるものとされる洗礼を受けて、新しく生まれたのです。

そして、最後の14節です。まさにこのことのために、言・イエス様は人間という肉となって、私たちの間に宿ってくださいました。私たちはイエス様の十字架とご復活が示す神さまの深い愛・栄光を心の目で確かに受けとめます。

新しい約束・契約が成就するのは、終わりの日・イエス様がもう一度、この世においでくださる再臨の日です。私たちはイエス様に導かれて、その日へと前進しています。クリスマスは、主に従い、主に寄り添っていただいて、終末の日への前進の志を新たにされる時です。

言なるイエス様に感謝し、心新たにされて、共に父なる神さまを仰ぎ、共に進み行きましょう。



2020年12月13日

説教題:神は我々と共におられる

聖 書:イザヤ書7章14節、マタイによる福音書1章18-25節

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

(マタイによる福音書1:18-25)

アドヴェント第三主日礼拝を迎え、クランツの三本目のろうそくに灯りが灯されました。今日は旧約聖書・新約聖書の聖書箇所はともに、このアドヴェントにいただくにふさわしい、“インマヌエル預言”の聖句をいただいています。

今日の旧約聖書の御言葉は、預言の言葉です。「神が我々と共におられる」ことを、その存在自体が表す“しるし”が与えられると、神さまは約束されました。“しるし”とは、神さまが人間となって私たちの間に“男の子”として生まれることでした。それは、実に700年以上の時を経て、実現しました。それを告げているのが、今日の新約聖書の第1ページ、マタイによる福音書第1章に記されている聖句です。

旧約聖書の預言の御言葉は、ユダヤの民に希望の光として与えられました。今日は、まずそのイザヤ書の御言葉からご一緒に読んでまいりましょう。聖句は「それゆえ」と始まっています。「それゆえ」とは、何をさすのか、少し時代背景をご説明いたします。

イザヤ書が語るのは、今から2700年余り前の時代のできごとです。悲しいことに、ユダヤの民は北イスラエルと南ユダの二つの国に分裂していました。神さまへの信仰でひとつとされているはずのユダヤ民族が二つに分かれ、大きな不安と混乱の中にありました。大国アッシリアが地中海地方全域を征服しようと攻め寄せる中、それに対抗して、北イスラエルが異教の民・偶像崇拝をするアラムと手を組んだとの知らせが南ユダにもたらされたのです。

実は、この時の南ユダの王・アハズは大国アッシリアに対抗しても勝ち目はないと考えていました。むしろ、アッシリアと同盟を結んでしまった方が良いとさえ考え、アラムと北イスラエルが南ユダに攻め入って来たら、アッシリアに援軍を頼もうとすら思っていたのです。

神さまに助けを求めることを忘れて、異教の民に援軍を頼んでしまおうとする混乱ぶりであり、神さまを思う心・信仰がひどく弱まっていたことが察せられます。

イザヤ書は、驚き騒ぐ南ユダの様子を次のように記しています。

「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。」(イザヤ書7:2)

神さまに依り頼んで平安をいただくことを忘れ、怯えるばかりの南ユダに、神さまは約束してくださいます。“アラムがあなたがた南ユダの国に攻め込んで、アラム人があなたがたの王になることはない” ‒ イザヤ書7章7節、今日の聖句である14節の少し前には神さまの預言の言葉が鳴り響いています。お読みします。「それは実現せず、成就しない。」(イザヤ書7:7)

しかし、人々はこの神さまの言葉を信じることができませんでした。神さまにすべてをゆだねられず、なおもアッシリアに援軍を頼もうとしました。神さまはそれをたいへんもどかしく、悲しく、寂しいことと思われました。それはそうです。私たち人間も、我が子が親である自分を信じないで、よその強そうなおじさんを頼ったら、たいへん残念に思います。

しかし、神さまは、激しく怒りを表すことはされませんでした。

むしろ、ご自身の約束を証する「しるし」を賜ると言われました。

それが、今日の聖句の冒頭の語・「それゆえ」の背後にある経緯です。神さまはイスラエルの民・私たち人間に約束のしるしを与えるから、それを“よすが”にして信じなさいと、優しさを表してくださったのです。それは、私たち人間の心が弱いことを深く思いやってくださったからに他なりません。心が弱いとは、誘惑に弱く、一度 思い決めたこと・信じたことを貫き通せない“もろさ”と申して良いでしょう。人間の心は弱く、言葉と心だけでは神さまをも、互いをも信じることができません。

実に残念なことですが、私たちは愛の言葉と心をも、完全に信じきることができない弱い者です。その意味では、弱さも神さまに背く罪の要素を担っていると言って良いでしょう。

しかし、人間は、約束や契約を結ばずに共同生活を送ることはできません。身近なところでは、私たちキリスト者・クリスチャンは、毎日曜日の朝10時30分に礼拝を献げると神さまに約束し、お互いに約束し合って、今ここに集まっているのです。

一般社会では、契約のために、私たちは契約書を交わします。

互いの愛の言葉と心を約束として信じるために、結婚では誓いの他に指輪を交換し、お式に親族・友人・お仕事の関わりの方々を招いて誓いの証人になってもらいます。結婚指輪は交わした愛の約束の「目に見えるしるし」として、互いの信頼の“よすが”となります。

私たちは結婚相手を目で見て、声を聞き、手で触れることができます。しかし、究極的には信じきることができなかった時のために、指輪や交換し、お式を挙げ、周囲の方々にご挨拶をします。私たちは約束の証拠となるものを、保証として目に見え、複数人で確認しあえるかたちで残さなければ確信を持てない弱い者なのです。このように、弱い私たちが、目に見えず、その御声を聴くこともできず、まして触れることなど到底できない神さまを信じて信仰を持つのはきわめて困難 ‒ 殆ど不可能と申して良いでしょう。

私たちはそれぞれ自分の力・人間の力では信仰を持つことができません。神さまからの大いなる働きかけ ‒ 聖霊のお働きがあって初めて、私たちは信仰を与えられるのです。信仰は、人間が努力や頑張りで身に付けるものではなく、神さまが私たちに与えてくださる賜物です。

また、一度 恵みによって信仰を与えられ、信じる幸いと安心をいただいても、私たちの心は揺らぎます。

2700年余り前に預言者イザヤが神さまから預かった御言葉を語ったその時代、ユダヤの王と民の心も、先ほどお読みしたように、風に騒ぐ森の木々のように怯えて揺らぎ震え、動揺しました。そのユダヤの人々・人間たち・私たちの信仰を確かにしてくださるために、神さまは私たちに目に見える「しるし」として、男の子を与える約束をくださいました。ユダヤの民が危機に瀕した時に “あなたたちが恐れていることを、わたしは実現させない。その約束のしるしを与える”とおっしゃってくださったのです。繰り返しますが、約束のしるしが男の子の誕生、そしてこの男の子こそが、イエス様です。

この預言の言葉は、今日の新約聖書の御言葉に直結します。

新約聖書 マタイによる福音書第一章、第一ページ、今日のために与えられている聖書箇所をお開きください。イエス様の母となるマリアの婚約者ヨセフに起こった出来事が記されています。夢に現れた天使を通して伝えられた神さまの御心によって、ヨセフは大きな信仰的決断を果たしたことが、語られているのです。

ヨセフの婚約者マリアは、結婚前にヨセフの子ではない子どもを胎に宿していました。ヨセフは、これを婚約者の裏切りと考えて激しく怒り悲しんで当然の立場にあり、また、マリアを姦通者と糾弾して、石打ちの刑 ‒ 当時、姦通者に処せられた死に至る刑 ‒ に遭わせることも可能な立場にありました。

しかし、ヨセフはそうはせず、ひそかにマリアと縁を切ろうと決めていました。それが人間的な知恵と思いによる最善の解決だったのです。

神さまが天使を遣わしていなかったら、ヨセフはそれを実行していたかもしれません。それによって、マリアは父親のいない子どもを産むことになります。それは、当時のユダヤ社会では、姦淫の罪を自分から公表するようなものでした。ヨセフに別れを告げられたマリアは、やはり、石打ちの刑を免れることはできなかったでしょう。マリアの死は母体の死・母親の死です。赤ちゃん ‒ イエス様 ‒ は、生きることがきわめて困難になったでしょう。

しかし、神さまは天使を遣わし、夢の中でヨセフに語りかけました。

それが、今日の新約聖書の御言葉です。「マリアの胎の子は、聖霊によって宿った」神の子である ‒ ヨセフは、この神さまからの働きかけ・天使の言葉を信じ、そのとおりに婚約者マリアを妻として迎え入れました。御子を迎える夫妻・家庭が備えられ、ご降誕への準備が整えられたのです。

私たちと同じ人間となられたイエス様を通して、私たちは「我々と共におられる神・インマヌエル」をリアルに知ることができるようになりました。

イエス様は私たちと同じ人間として生き、教え・伝え・癒やす ‒ この三つのことをなさいました。“教え”とは、弟子の育成です。“伝え”とは、父なる神さまの教えを伝道したことをさします。“癒やし”は、奇跡のみわざです。こうして、イエス様は「神が我々と共におられる」ことを示す三つの大きな足跡を残してくださいました。

また、そればかりではありませんでした。十字架の出来事とご復活により、私たちの救いと永遠の命、天の御国に生きる幸いを示されました。十字架の出来事とご復活は、世の始めと終わり・この世が天の御国に喜ばしく包み込まれるにいたる神さまのご計画を、私たちに示す確かな信仰の証・しるしです。

それでは、イエス様はどのようなかたちで、私たちと共においでくださるのでしょう。

私たちと向かい合ってくださるのでしょうか。…いえ、それでは、私たちはただ歩みを止めるしかなくなってしまいます。

では、イエス様は、私たちを後ろから支え、押してくださるのでしょうか。…いえ、それでは、私たちは進む道がわかりません。

イエス様は私たちの真横に並んで、軛を共に担って前進してくださるのです。「わたしの軛は負いやすく」(マタイ福音書11:25)とおっしゃってくださるとおりです。

感染拡大が続く中、社会・世界が不安な時を過ごしています。この危機から社会・世界が脱出するために、今の事態を突破しようと人間にできる全力を尽くしています。突破は前進です。前に進む力であり、行動です。

感染という重荷を、今、イエス様は共に私たちと担い、突破のために私たちの身心を支えて導き、共に前進してくださっているのです。それが「神が我々と共におられる」ことが今、私たちに示す意味です。

使徒パウロは私たちにこう勧めています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神が あなたがたに望んでおられること」(テサロニケ一 5:16)です、と。どんなことにも、いつも、絶えず、神さまの守り支えと祝福があるから、私たちはこの時にも喜び、感謝し、祈ることができます。そのしるしこそ、インマヌエル ‒ 神は我々と共におられる ‒ そのイエス様であることを心に堅く留めて、あらゆる不安をすべて主にゆだねて、主に依り頼んで進み行きましょう。主にすべてをゆだねて、心安らかに来週のクリスマス、そして主の再臨を待ち望みましょう。



2020年12月6日

説教題:天地の主を知る御子

聖 書:イザヤ書59:15b-20節、マルコによる福音書11章25-30節

主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った。主は人ひとりいないのを見 執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により 主を支えるのは主の恵みの御業。

(イザヤ書59:15b-16)

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を背負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜なものだから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

(マルコによる福音書11:25-30)

いつもの主日礼拝では、先週まで、私たち薬円台教会はマルコによる福音書を読み進んでいます。今日のアドヴェント第二主日から公現日(エピファニー・1月6日)前までの主日礼拝では、今年度の日本基督教団の「日毎の糧」に従った聖書箇所から、御言葉をいただきます。

新約聖書の御言葉をご一緒に読む前に、今日の旧約聖書の聖書箇所に、まず心を向けましょう。イザヤ書59章のこの御言葉は、神さまが天から地を見られ、正義が行われておらず悪がはびこっていることをご覧になって、深く嘆かれたことを伝えています。主は、人々が憎み合って争っている以上に恐ろしい状況になっていることに気付かれました。16節にこのように記されています。「主は人ひとりいないのを見」。人がひとりもいなかったとは、どういうことでしょう。

神さまが愛をこめて造られた人間は、すでに「人」ではなくなっていたのです。神さまが世の創めに「人」として造られたもの ‒ 創世記が語るように、塵をこねて形を整え、ご自身の命の息を吹き込んで「人」として生かした人間 ‒ が、いなくなっていたのです。

そもそも、神さまは「人」 ‒ 私たち人間をどのような者としてお造りになられたかを創世記の御言葉に聴きましょう。創世記2章7節には、このように記されています。お読みします。「主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)

人間は神さまの命の息・聖霊で神さまにつながって、はじめて人として生きる者となります。ところが、今日の旧約聖書イザヤ書の御言葉によれば、そのように神さまの命の息で生かされている人を、神さまは地上にひとりもみつけることがおできにならなかったのです。

地上にいて争い合っているのは、神さまとのつながりを絶ってしまい、体は動いていても魂が死んでいる生ける屍たちでした。

仕方なく、神さまは次に、執り成す人を捜されました。執り成す ‒ 仲直りをさせる人です。ところが、その人も、一人もいませんでした。

また、神さまとのつながりを絶ってしまったことを悔いて、もう一度、命の息をくださいと人々のために神さまに立ち帰り、神さまとの間に和解をいただこうと祈りを献げる人 ‒ この祈り人も、神さまと人間の仲直りを試みる執り成す人です ‒ この執り成し人を捜しましたが、いませんでした。

地にあふれているのは、神さまの命の息で生かされていない者・生ける屍ばかりだったのです。神さまから離れてしまうことを、聖書は罪という言葉で言い表します。その罪の中にいながら、人はそれを誰かに指摘してもらわないと、まったく気付くことができません。淀んだ空気の中にずっといると、それに気付かないのと同じです。今は寒いくらいに換気をしていますから、この会堂は大丈夫ですが、締め切った部屋に長くいると、空気の汚れは見えないのでわかりません。

神さまは、しばしば、人間に罪を気付かせようと預言者を立てられました。しかし、預言者の警告の言葉が聴かれることはほとんどありませんでした。神さまが、このような人間を造ったことを後悔されて、地上から消してしまおうと思われても不思議はありません。陶芸家が失敗作を割ってしまうように、神さまが人間を消し去ったとしても、おかしくない状況だったのです。

実際に、神さまはかつて、人間に悪が満ちた時、大洪水を起こしてノアの一族と動物たち以外は滅ぼされたことがおありです。しかし、洪水の後、神さまは「二度と人間を滅ぼそうとはすまい」と約束され、そのしるしとして空に虹をかけてくださいました。

神さまは、必ず約束を守られる方です。

自らの罪のために生ける屍となって滅んでゆく人間に、どう救おうか ‒ どう、ふたたび命の息を吹き込もうかと、神さまは思われたでしょう。人間に人間が救えないのなら、神さまご自身が救うほかはありません。こうして神さまは、ご自身と一体である愛する独り子 イエス様 ‒ を "生ける屍" が、うじゃうじゃとうごめき、虚しく騒いでいるこの世に「人」として遣わす決心をされました。このご計画によって、イエス様は私たちの間に人間としてお生まれになり、自らが人間の罪・死を引き受けられて、十字架で人としてのお命を終えられました。

しかし、神さまはイエス様をよみがえらせました。イエス様が神さまとつながっていること・神さまと、その命の息でひとつとされておられることを、ご復活させることで明らかにされたのです。

このイエス様を通して、私たちも神さまの命の息を再び与えられ、神さまにつながり、永遠の命に生きることが約束されています。

さて、今日の旧約聖書が語るこの神さまの御心をそれぞれの胸に納めて、今日の新約聖書 マタイによる福音書11章からの御言葉をご一緒に読み味わいましょう。

今日の御言葉の後半・28節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」の聖句は、聖書の中でも多くの方に愛され、励ましを与える御言葉です。

薬円台教会でも、年間標語聖句として掲げたことがあります。

実に慰めに満ちた主の御言葉です。ただ、あまりに恵み深い聖句であるために、この28節だけが切り離されて記憶され、27節より前の流れ・文脈の中で受けとめる機会があまりなかったかもしれません。

クリスマス・ご降誕を待つ今日アドヴェント第二主日に、私たちは聖書の文脈の中でこの聖句をいただき、イエス様がこの世に遣わされた天の父の御心を心に留めることを勧められています。

この恵みの御言葉を語られる直前、マタイ福音書20章20節から24節で、イエス様は「悔い改めない町」を厳しく叱りつけられました。それらの町は、イエス様が癒やしの奇跡を行って人々を助けたのにもかかわらず、それをただ不思議で “ラッキーな" 出来事としてしか受けとめませんでした。天の父・神さまを仰ぐことも、主の道に立ち帰ることもしなかった人々の町だったのです。イエス様は「裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりもまだ軽い罰で済むのである」(マタイ福音書11:24)との御言葉をもって、激しく叱責されました。

ところが、イエス様が神さまの御子であるとは知らない、またわからない町の人々は、単に、奇跡を行われたイエス様が人間的な意味でふさわしい評価を受けていないので怒っていると思ったようです。イエス様は、この言葉こそ、天の父がイエス様を通して人々を叱責している御言葉であるとはっきり伝えるために、今日の御言葉を語られました。

それは、天の父への祈りとして献げられました。今日の新約聖書の御言葉は、こう始まっています。「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。』」これは、お祈りの始めに神さまに呼びかけ、讃美する言葉です。

それからイエス様は、「すべてのことは(天の)父からわたしに任せられています」(マタイ11:27)とはっきりおっしゃいました。イエス様は、目に見えない天の神さまを信じることができない人間のために、目に見える方・私たち人間と同じ姿のまったき人としてこの世に来られました。それは、人間に聞こえる肉声で、人々に悔い改めを促す天の父の厳しい御声を伝えるためだったのです。

しかし、それだけではありませんでした。

イエス様は、天の父なる神さまから、神さまと人間との間を執り成す仲介者として遣わされました。それは、説教の始めの方でお伝えした、今日の旧約聖書が語っている事実です。神さまは人間への怒りを厳しく表される一方で、人間を深く愛し慈しまれていることをも、イエス様を通して伝えようとなさいました。神さまは、虹の約束をしたから人間を滅ぼさなかっただけではなかったのです。どうしようもない、それこそ救いようのないほど恩知らずな人間を、それでも可愛い我が子と愛おしんでくださったのです。

この神さまの人間への愛を伝えるために、イエス様はこの世に遣わされました。だから、イエス様は厳しく人々を戒めた後に、この恵みの御言葉をくださったのです。あらためて、お読みします。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。

私たちの神さまは、イエス様の十字架の出来事とご復活を信じる信仰を通して、私たち一人一人を“我が子”と呼び、みもとに呼び戻してくださいます。どうすれば正しく歩めるのかわからず、過ちを繰り返す私たち人間を、神さまが “そんな悪い子は、ウチの子ではありません!”と追い出してしまうことは決してありません。私たちを追い出す代わりに、神さまはたいせつな独り子イエス様を十字架に架けられ、一度は命から追いやられました。そうまでして、私たちを招いてくださいます。「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と。

そうして主の道に立ち帰ることに、私たちのまことの安らぎがあります。安心があります。疲れた者が、再び元気を取り戻せる命の泉・オアシスがあります。

感染が拡大し、私たちの日常が脅かされる不安を感じるこの時でありますが、主のもとには安心がある ‒ このことを忘れずにおりましょう。この幸いを感謝して、今週一週間を進み行きましょう。



2020年11月29日

説教題:主の光の中を歩もう

聖 書:イザヤ書2:4-5、マルコによる福音書10章46-52節

主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。

(イザヤ書2:4-5)

一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこでイエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

(マルコによる福音書10:46-52)

今日は待降節・アドヴェント第一主日です。クランツの一本目のろうそくに、火が灯されました。今日から私たちは、イエス様のお生まれを祝うクリスマスへの四週間を進んでまいります。神さまがたいせつな独り子イエス様を私たちのために与えてくださった、そのことを私たち人間自身のために喜ぶクリスマスです。イエス様ご自身にとっては、神さまでありながら人間に生まれ、十字架に架けられる歩みが始まるお誕生日でした。しかし、十字架の出来事の三日後に、イエス様のご復活は約束されていました。その約束どおりに、父なる神さまと共に永遠の命に生きるしるしとして、十字架の死の三日後に、イエス様はよみがえられました。そして、この世の終わりの日には、私たちを永遠の命に迎え入れてくださるために、もう一度、この世においでくださいます。私たちがこれから過ごそうとしているアドヴェント、そしてクリスマスは、イエス様がもう一度おいでになる、その希望を新たにする時でもあります。

イエス様は、私たちの救いのために世にお生まれくださいました。何から救うためでしょう。罪からです。罪は、神さまを知りながら、神さまをたいせつに思わないことです。自分が一番たいせつ・自分が中心と、神さまを押しのけ、隣人を押しのけてゆく人間が地上にあふれていることを、天の神さまはたいへん悲しまれました。

そこには、平和がなかったからです。

先ほど司式者がお読みくださった旧約聖書イザヤ書の御言葉は、そのことを伝えています。イザヤ書は、後の世にイエス様がお生まれになることを告げている預言の書です。そこに、今日の御言葉 ‒ 神さまが争う人々・争う国々を嘆き、戒めると記されています。

戒められた国々・人々が、悔い改めて何をすべきかをも、告げられています。武器を、田畑を耕す農具に造り変え、力を合わせて働くようになるのです。若者の学びから軍事教練が消え、誰も戦うことを学ばなくなります。互いに助け合い、力を出し合い、お互いのためを思う平和に生きるようになるのです。それが、先ほど司式者が読まれた旧約聖書の最後の聖句で呼びかけられています。「ヤコブの家よ ‒ 神さまに愛され・神さまを愛する 群れよ ‒ 主の光の中を歩もう。」

平和に生きるとは、神さまの光の中を歩むことです。

しかし、残念ながら、ユダヤの人々は悔い改めませんでした。戦争は続き、小さなユダヤの国は二つに分裂し、ひとつが滅び、やがて残ったひとつも失われました。生き残った人々は、他国に連れ去られて行きました。

神さまは、ご自身の宝の民がこうして自ら破滅の道を歩んだことを悲しまれました。そして、生き残った人々と、人間全体のために、平和を教えようとされました。こうして、イエス様が遣わされたのです。

イザヤ書9章5節には、このようにイエス様のことが記されています。「ひとりのみどりごが わたしたちのために生まれた。… その名は『驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君』と唱えられる。」

イエス様は、私たち人間に、平和に生きること・神さまの光の中を歩むことを教えてくださるために、この世にお生まれになったのです。

今日の新約聖書の聖書箇所は、イエス様が十字架に架かられるためにエルサレムの町に向かわれる、その直前の出来事が語られています。

今日の新約聖書の聖書箇所は、イエス様と弟子たちの「一行はエリコの町に着いた」と始まります。そして、すぐに、そのエリコの町を一行は出発してエルサレムに向かおうとしますが、その時に「盲人の物乞い」(マルコ10:46)が、せいいっぱいの大声で叫び出しました。

「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」

福祉制度がなかったイエス様の時代、体に何らかの障がいのある人々は、この人のように物乞いをして生きる他はありませんでした。貧しさに苦しみ、人にさげすまれることにも苦しんでいたでしょう。この人は、物心共に満たされない暗い日々を過ごしていたのです。その中で、この人は、イエス様が通りかかったことを、人々のざわめきから聴き取ったのでしょう。

この人がイエス様を「ダビデの子」と呼んだのは、たいへんたいせつなことです。イザヤ書に預言されている救い主は、ユダヤを統一した王ダビデの子孫から生まれると告げられています。この人は、その救い主こそが、今通りかかっているイエス様だと信じて、叫びました。この方こそが、光のない暗い日々から自分を救い出してくれる、そして今を逃してはならないと必死に声を張り上げました。あまりの大声に、人々は彼を「叱りつけて黙らせようとし」ましたが、彼は諦めませんでした。

イエス様は、救いを求めるこの人の声を受けとめられました。立ち止まってくださったのです。

しかし、私たちはこれに続く聖書箇所を読んで、不思議に思わずにはいられません。イエス様は、どうして「あの男を呼んで来なさい」とおっしゃられたのでしょう。ここで「呼んで来なさい」という言葉は、「来るように招いた」とも訳すことができます。

ところが、このようにイエス様に招かれても、目の不自由な人はイエス様の居場所がわからないので、おそばに行くことができません。

そして、私たちはふと、不思議に思わずにはいられないのです。どうして、イエス様は御自ら、この目の不自由な人に歩み寄ることをなさらなかったのか、と。

この問いへの答えを求めるために、私たちは次のことを思い出さなければなりません。主の思いは、いつも、私たち人間の思いをはるかに高く超えています。イエス様が目の不自由な人のところに自ら歩み寄らなかったのには、深い意味があるのです。

この聖書箇所を注意深く読みますと、イエス様は直接、目の不自由な人に「私のところに来なさい」とおっしゃったわけではなかったことに気付きます。イエス様は、人々に「あの男を呼んで来なさい」と命じられたのです。

すると、それまで目の不自由な人を叱りつけて黙らせようとしていた人々は一転して、その人に声をかけ始めました。49節です。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」

「安心しなさい」という言葉は、新約聖書の原語では「元気を出しなさい」「奮い立ちなさい」「気楽にしなさい」など、幅広く励ます意味を持ちます。「がんばれ〜!」という声援の言葉にも、近いかもしれません。

繰り返しになりますが、福祉制度がないこの時代にあって、この目の不自由な人は、これまで人に邪魔にされたり、罵られたりすることはあっても、声援を送られたことはなかったのではないでしょうか。多くの人々にこれほど注目され、励まされたことも初めてだったでしょう。この人は喜び、心の底から奮い立ちました。人々に励まされて立ち上がりました。すると、いっせいに多くの手が差し伸べられてこの人の手を握り、肩や背中も支えられて、この人がイエス様のところに辿り着くのを助けたのではないでしょうか。

イエス様の言葉が、人々の心を変え、皆が協力して目の不自由な人をイエス様の前に連れてくるようにと働かれました。誰かのために手を差し伸べること、誰かを助けること、さらには助け合うことを、この時、イエス様は人々に教えられたのです。

神さまは、私たちをそれぞれ、異なる個性を持った者として造られました。そのために、私たちは考えや感じ方の違いからいさかいを起こすことがあります。しかし、違いを否定し合って争うのではなく、違いを足し合い、助け合ってより良い未来を築いてゆくことができます。ここに、神さまがイエス様を通して人間に教えようとなさったまことの平和があります。

平和は、ただ何ごともなく静かに、穏やかに過ごすことではありません。互いに助け合い、力を合わせる喜びを知って、より良い未来に向かって共に歩んでゆくことです。

この時、イエス様は目の不自由な人に自ら歩み寄らず、人々に言葉をもって働きかけることで、こうして積極的に平和を築き、平和に生きる幸いを教えてくださいました。人々は目の不自由な人に「お呼びだ、あなたは招かれている」と伝えることで、この人を助けたのです。

これは、私たちの伝道の働きにも、よく似ています。思えば、私たちも教会も聖書も知らず、イエス様を知らなかった頃に周りのクリスチャン ‒ それは、ご家族やご両親だったかもしれません ‒ に声かけされて、主を知るようになったのではないでしょうか。中には、お母さんのお腹の中にいたので、否応なく教会に“運ばれ”、気付いたらイエス様を知っていたという方もおられるでしょう。

けれど、イエス様は、ただ知っているという以上の関わりを私たちと持ってくださいます。

つらい時・試練に遭った時に“誰か私を助けて!”と心の中で叫びたくなることがあります。それが、「わたしを憐れんでください」とイエス様を必死で呼ぶ声になります。

その心の声に、イエス様はお応えくださいます。そして、イエス様が、私たちをそれぞれ、御前に呼び出してくださるのです。ある日、私たちはひとりひとり、自らの決断を持って洗礼を受ける決心をします。イエス様に招かれた、その自分を呼ぶ主の声に応えて、主の御前に立ちます。

今日の聖書箇所で、イエス様は、ご自身の前に立った目の不自由な人にこう語りかけました。

「あなたの信仰があなたを救った。」(マルコ10:52)

この人の信仰は“イエス様、助けて!”と叫んだことでした。イエス様がそれに応えられ、この人を呼び、この人は人々に助けられながら、自らイエス様の前に来ることができました。その時に主の御力がこの人の目を開き、光を与え、暗闇から救い出して癒やしたのです。

イエス様は、こうして私たち同士を結び合わせ、私たちそれぞれと神さまを結び合わせてくださいます。平和によって、私たちは結び合わされます。イエス様は、こうして「平和の君」のお働きを成し遂げてくださるのです。

イエス様が教えてくださる平和の実現に努める私たちとされますように。平和の主・イエス様のお生まれを感謝するクリスマスを、今日から四週間、感謝して祈りつつ喜びのうちに過ごしましょう。



2020年11月22日

説教題:神の国を受け入れる

聖 書:サムエル記上1:27-28、マルコによる福音書10章13-16節

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

(マルコによる福音書10:13-16)

今日は、子ども祝福の恵みに与り、神さまに心からの感謝を献げます。今、神さまの祝福を受けたお子さんが大好きなお母様、そのお母様が愛され・愛しておられるイエス様、お母様の教会の兄弟姉妹である私たちが愛し・愛されている神さまを、いつかお子さんも大好きになってくださるようにと、せつに祈ります。

毎年、アドヴェント直前のこの日曜日には、「大人と子ども一緒の礼拝」を献げます。この日は収穫感謝日でもあるので、例年だったら、ここにはたくさんの秋の実りの果物が並びます。

礼拝が終わったら、アドヴェント、クリスマスを迎えるにふさわしく会堂を皆で掃除して、お疲れさまのお茶の会として、持ち寄った果物をいただきます。楽しい交わりのひとときですが、今年は感染防止のために、教会で食べたり飲んだり、また清掃のために大勢が近々と接触したりができなくなりました。

行事を中止せざるを得ないことを寂しく感じますが、同時に、薬円台教会全体が礼拝と御言葉に特に集中する時を与えられていると強く感じるこの頃です。

さて、今日はこの日のために、イエス様が子どもたちを祝福された御言葉を、マルコ福音書からいただいています。

この時、イエス様は、弟子たちと共にエルサレムに向かう旅の途中でした。十字架に架かられる御覚悟でおられることは、弟子たちにも伝えられていました。十字架の出来事とご復活の意味の深さを、弟子たちはまだよく理解していませんでしたが、イエス様の使命感の切実さは、受けとめていたことでしょう。ある緊張感が、弟子たちの間にもあったことと思われます。大切なその旅の途中で、大勢の親がイエス様のもとに子供たちを連れて来ました。手を置いて祝福していただくためでした。

この時、まだ誰も、弟子たちも、人々も、イエス様が神さまの子であり、十字架の出来事によって私たちを救われることを知りませんでした。親たちはイエス様が ”人のために奇跡をなさるすばらしい方・徳の高い偉い人” という評判だけを聞いて、子供たちを連れて来たのです。子供たちが健やかに育つよう祝福してもらおうとしたのです。

それは、日本でちょうどこの時期に行われる七五三の行事に、似ているかもしれません。文化習慣と言えばそうなのかもしれませんが、我が子が健康で良い子に育つようにと願う親心は真実です。

ところが、弟子たちは、この親たちを叱りつけました。

いくつかの理由が考えられます。当時、子どもは現代のように尊重されていませんでした。前にも申し上げたことと思いますが、子どもが一人の人としての権利を認められるようになったのは、人間の長い歴史の中で言うと比較的 最近のことです。児童の権利宣言が発効されたのは、1959年。今、ようやく60年を過ぎたばかりです。

2000年ほど前のユダヤでは、子どもは軽んじられていました。誰もがイエス様の近くで神さまのお話を聞きたいと願っているのですから、弟子たちにとって、子どもは後回しにしたかったのです。また、子どもはどうしても騒いだり、動き回ったりします。弟子たちは、その子どもたちが、真剣な思いでエルサレムに向かうイエス様の邪魔になると思ってしまったのでしょう。

しかし、イエス様は「これを見て憤り」(マルコ10:14)ました。今日の聖書箇所の14節にあるとおりです。イエス様が憤る・怒りをあらわにされる ‒ これは、聖書の中でも珍しいことです。子どもをたいせつにせず、子どもを連れてこようとした親たちを叱った弟子たちは、神さまの御心とは違うことをしてしまっていることを、イエス様は示されました。

イエス様は、弟子たちに、子どもがご自身のところに来るのを邪魔してはならないとおっしゃいました。続けて、「神の国はこのような者たちのものである」と言われ、さらに「はっきり言っておく」と峻厳に言い渡されました。15節です。お読みします。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

イエス様はどうして、子どもたちこそが神の国・永遠の命をいただくにふさわしい者と言われたのでしょう。

純粋無垢で悪を知らず、素直で清らかだからでしょうか。

聖書は、子どもを清らかで無垢な罪のない者・神さまの御心にかなう愛と義に満ちた者とは、語っていません。むしろ、使徒パウロが語るように、罪の報いである「死はすべての人に及んだ」(ローマの信徒への手紙5:12)ので、「正しい人はいない。一人もいない」(同前書3:10)のです。「すべての人」の中には、生まれたばかりの赤ちゃんも含まれています。

イエス様が、弟子たちに、また今日の聖書箇所を通して、“子どものような者でなければ”と、私たちに伝えようとされたことの中心は「受け入れる」という言葉にあります。今日の聖書箇所の子どもたちは、おそらく乳幼児だったと思われます。親に連れて来られたのですから、自分からすすんでイエス様のもとに恵みをいただこうと来たわけではなかったのです。親に連れて来られるほどに、何もわかっていないし、多くの子どもたちは、自分で歩くこともおぼつかなかったでしょう。

親たちが “イエス様という人に祝福してもらいましょうね” と言って、“いやだ”などと抗うこともなく、ただ受け入れて連れて来られました。この世には目に見えるものしか存在しないとか、奇跡は科学的にありえないとか、理屈をこねることができず、ただ受け入れたのです。

また、当時のユダヤの神殿では、献げ物と祝福とが、いわば“セット”になっていました。献げ物の牛や羊を持って来て、祭司に渡し、神さまに願いごとをしたり、ゆるしを求めたり、感謝をあらわしたりしたのです。一方、子どもたちは、もちろん、献げ物を持ってくることなど、できません。これを献げるから、その報いにこうしてくださいとお願いすることなどできないのが、子どもたちなのです。

子どもたちは弱く、自分が置かれた状況に立ち向かう力を持っていません。受け入れるしかありません。泣いて助けを求めるしかできないのが、子どもです。

ただ、子どもは本当に自分を助けてくれるのが誰かを知っています。

それは、自分の親御さんです。

助けて欲しいときに親を求めて必死に泣く子どもの心を、天の父なる神さまは大いに祝福されます。大人になっても、自分を真実に造ってくださった方 ‒ 天の神さまを求めて、助けて欲しい時には必死に泣くことを、神さまは喜ばれ、祝福されるのです。それをイエス様は、今日の御言葉により、弟子たちに、また私たちに教えてくださいます。

私たちが、神さまのため・教会のために力を尽くし、ご奉仕する時、もちろん、神さまは私たちの働きを喜ばれ、大いに祝福してくださいます。しかし、私たちの働きがあるから、祝福してくださるわけではありません。

私たちの神さまは、ギヴ・アンド・テイクの神さまではないのです。ただご自身を与え尽くすギヴ・アンド・ギヴの神さまです。

この主の愛と憐れみは、私たちの救いのために、命を十字架で捨てられてご自身を与え尽くしたイエス様に、あふれています。

がんばっても がんばっても 何も報われず、むなしいように思える時、イエス様を通して、天の父なる神さまを思い起こしましょう。神さまは、一人一人を見守っていてくださいます。心の中で、子どものように「助けて!」と泣き、肩の力を抜いてひとすじに主を仰ぎましょう。

どんな時も主が共においでくださることを感謝して、今週一週間も心を高く挙げて進み行きましょう。



2020年11月15日

説教題:私たちの平和のために

聖 書:イザヤ書53章5節、マルコによる福音書10章35-45節

彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは 私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

(イザヤ書53:5)

ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼(バプテスマ)を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼(バプテスマ)を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしが決めることではない。それは定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

(マルコによる福音書10:35-45)

今日の新約聖書・マルコ福音書10章35節以下の御言葉の直前で、イエス様は第三回目の、ご自身の十字架での出来事とご復活の予告をなさいました。そして、十字架へと、また十字架を超えて、永遠の命・神の国に人々を導く決意をはっきりと示されるように、弟子たちと従う者たちの先頭に立って、エルサレムに向かって歩み出されました。その毅然としたご様子は、弟子たちを驚かせ、またいつも優しく穏やかなイエス様を見慣れている者たちに恐れを抱かせるほどでした。

弟子たちや、イエス様に従って伝道の旅を続けている者たちは、当たり前のことを申すようですが、イエス様が大好きでした。

彼らはイエス様を“私たちの先生”と呼んで心から慕い、いつも一緒にいたいと思うほどでした。いつも、イエス様のお話を通して天の神さまのことを教えていただきたいと願ったのです。

だからこそ、弟子たちは仕事も家族も後にしてイエス様に付き従いました。イエス様と弟子たちが行く先々では、四千人、五千人の人々が集まり、イエス様の後を追って説教に耳を傾けていたのです。

イエス様は、人々にとって“良い方”そのものでした。ですから、イエス様が三回目の十字架の出来事と復活を予告された時、そこで語られた死刑に処せられるという言葉に、弟子たちは激しく動揺しました。“良い方、善良そのものの人であるイエス様”が犯罪人・悪人として死刑になることは、彼らの理解を超えていたからです。

その中で、“いや、イエス様が悪人とされるはずはない”と正しく理解した二人がいました。今日の聖書箇所で、イエス様に願いを申し出たヤコブとヨハネの兄弟です。イエス様が死刑に処せられるとしても、それは神さまのご栄光を表すためだと、二人はイエス様の言葉を受けとめました。

それは、正しい受けとめ方です。イエス様は神さまに託された使命を果たされて十字架で私たちを罪から救われました。その御業によってイエス様が神さまのご計画を成就されたことを、天の父・神さまは限りなく祝福され、イエス様をよみがえらせたのです。これが、イエス様のご復活です。

ヤコブとヨハネは、これを完全に理解していたわけではなかったでしょう。しかし、たとえ火の中・水の中、どこまでもお慕いするイエス様についてゆく覚悟を決めていました。また、イエス様が十字架で死なれ、復活されることが、神さまの遠大なご計画であることも、はっきりとではないにしても、わかっていたのです。

イエス様が十字架の御業により、天のお父様からの栄光を受ける時、自分たち二人は必ずそこにいる・必ずイエス様について行く ‒ 彼らは、その決意を固めて、イエス様に願いを申し出ました。

ところが、それはたいへんな見当違いと考えられても仕方ない願いのかたちを取ってしまいました。イエス様の一番近くにいたいという願いを、彼らはこのように言葉で表現しました。37節です。お読みします。「栄光をお受けになるときには、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」

イエス様が神さまの栄光を受けられるときは、十字架の上におられます。座るなどという楽なことのできる状態ではありません。また、復活の時まで、葬られて墓穴に横たえられています。あるいは使徒信条で先ほどご一緒に告白したように、陰府にくだり、そこで伝道に勤しんでおられます。そこでも座るという悠長なことはなさいません。

イエス様が神様の御子として ご復活後に天に戻られ、神様の右の座に就かれる時のことは、彼ら二人の思惑の中にはまだなかったでしょう。

ヤコブとヨハネはイエス様の言葉の意味がわかっているようで、実は、これからイエス様がなさろうとしていることの苦難の深さ・たいへんさを少しも考えることができなかったのです。それは、私たち人間すべてが、十字架の出来事と復活を凄まじくも偉大なる神さまのみわざとして受けとめることが難しいのと、同じです。

イエス様は、ヤコブとヨハネを厳しく戒めるようなことはなさいませんでした。これからご自分にふりかかる苦難 ‒ それを、今日の聖句で、イエス様は「わたしが飲む杯・わたしが受ける洗礼(バプテスマ)」とおっしゃっています ‒ その苦難を受けることができるか、と尋ねられました。二人は、どこまでもイエス様についてゆく覚悟を表したいので、おそらく胸を張ったでしょう。39節です。きっと威勢良く、声を合わせて「できます!」と言ったに違いありません。

その二人に、イエス様はおっしゃいました。39節の後半をお読みします。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼(バプテスマ)を受けることになる。」そのとおりに、ヤコブは紀元44年、今日 私たちが聖書で読んでいるイエス様とのやりとりのおよそ10年から15年後に殉教しました。伝道のために命を捨てることになったのです。

また、ヨハネは十字架に架けられたイエス様から、母マリアの老後を託されました。彼はその委託を忠実に果たそうとしましたが、捕らえられて長く幽閉生活を送ったと伝えられています。しかし、釈放され、その後はイエス様に言われたとおりに母マリアを守り通したと記録されています。

二人とも、イエス様のご復活後、福音を伝えるために、たいへんな苦難の道・茨の道を歩みました。

しかし、とイエス様はおっしゃいました。40節です。お読みします。「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしが決めることではない。それは定められた人々に許されるのだ。」お決めになるのは、天の父なる神さまです。ゴルゴタの丘で、イエス様の十字架の右と左の十字架につけられたのは、二人の強盗でした。イエス様が、この世的には、本当に犯罪者と同じ罪を着せられて処刑されたことを、神さまはこうして明確に示されたのです。

さて、少し視点を変えると、ヤコブとヨハネが “イエス様にどこまでもついてゆく”という意味で申し出た願いには、別の思いがこめられていたとも読み取れます。それは、“イエス様が神さまのご栄光を受けるという晴れがましさに包まれるとき、自分たち二人が誰よりもイエス様に近い者として、他の者たちより神さまの栄光をより多く受けられる”という、この世的・人間的な野心、欲望を表していたとも思えるのです。だから、41節にあるように、他の十人の弟子たちは、二人の願いを聞いて腹を立て始めました。

イエス様を思う気持ちは同じなのに、あの二人は抜け駆けをしようとしている ‒ そう思ったのです。

十二人の弟子たちは、心をひとつにしてイエス様に従い、天の神さまの愛と正しさを伝えるはずのひとつの仲間です。その彼らの間に、イヤな隙間風が吹き始めたのを感じて、イエス様は彼らをひとつに集めて、あらためて教えられました。それが、今日の聖書箇所の最後の三節・42節から45節です。

ここで、イエス様は人間の心に潜む他者を支配したい欲望・人の上に立ちたい野心を異邦人のものとして語られます。異邦人とは、まだ神さまの愛と正義を知らない人々・この世の価値観にだけ頼って生きている人々と読み取って良いでしょう。

神さまに自らを献げて仕え尽くしたい・イエス様にどこまでも従って忠誠を尽くしたい ‒ それは、その時の弟子たちの真実の覚悟だったでしょう。ところが、人間があまりにひとつのことに熱心になると、心の底に潜んでいる競争心が頭をもたげます。それは、昨日の自分よりも今日の自分の方が、神さまに忠実に過ごせているという自分の中での比較から始まるかもしれません。また、そのうち“他の誰よりも、自分が良い奉仕のできる者になりたい”、“自分が一番、主に忠実で、一番 イエス様に重んじられる弟子になりたい”という思いになってゆきます。

関心の中心となること・一番大切なものが“神さま”から、“神さまにお仕えする自分自身” にすり替わってしまうのです。こうなると、主に従う生き方であるはずの信仰生活は、この世の生活 ‒ イエス様の御言葉を拝借すると、神さまの恵みを知らない異邦人の生活と変わらなくなってしまいます。

この世では、競争に勝つことが大きな価値観を持っています。

この世での良い生活・幸福な生活には、十分なお金とそれなりの社会的地位を勝ち取らなくてはならない ‒ それが常識だと私たちは何となく思わされています。幸福を手に入れるためには、いくつもの競争に勝たなければならない ‒ それが人生だと思わされるのが、この世の在り方です。競争を勝ち抜いて、敗れた者を配下に置く ‒ その競争原理の価値観がすべてだと、神さまを知らなかったら、単純に信じ込むようにできているのがこの世の仕組みです。しかし、イエス様は、はっきりとこれを否定なさいました。43節です。こうおっしゃったのです。お読みします。

「しかし、あなたがたの間では、そうではない。」

続けて、イエス様は皆があっと驚くような逆説を言われました。43節の続きからお読みします。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」

この御言葉を、決して誤解してはなりません。信仰者として、最も神さまに喜ばれるのは、教会で、社会で、自分が生きている場で、せっせと人が誰もやりたがらない汚く・苦しく・きつい奉仕や仕事や作業だから、せっせとそれをしなさいと イエス様はおっしゃっているのではないのです。

それはもちろん、立派なことです。人のやりがたらないことを進んで行うこと・その心を、確かに神さまは喜んで祝福してくださいます。大切なのは、その時に私たちが、神さまだけを見上げているかどうか、ということです。人のやりたがらないことをなさる時、その方は、あまり人の目は気にしていないと思います。そもそも、人のやりたがらないことですから、人には見えないところで行うご奉仕であり、仕事です。気をつけなければならないのは、この時の自分の心です。人のやりたがらないことを、神さまのために一生懸命やっている自分を、自分が格好良い・優れた信仰者だと自己陶酔に陥っていないか ‒ そこをしっかりと自己点検しておかなければなりません。

もしも、自分の心の中心・関心の中心が神さまではなく、人のしたがらない働きを喜んで行う自分自身になってしまっていたら、残念ながら、その時にその人は自己中心となっています。その心は、主の道から迷い出て、神さまから離れ始めています。

自分の奉仕・献身に自ら酔って、自分を中心にしてしまう ‒ これは、ありがちで、実に危険な誘惑です。神さまからご覧になれば、罪・悪、神さまから離れるようにと誘うサタンの甘い声です。それに従ってしまうと、私たちはサタンに魂を売り渡し、その奴隷となってしまいます。神さまと私たち人間の間には、こうして深いクレバスのような溝ができてしまうのです。

イエス様の十字架の御業は、こうして知らないうちにサタンに身売りしてしまった私たちの身代金をご自分の命で払い、私たちを神さまの道へと買い戻してくださることでした。

それによって、イエス様は、神さまと私たちの間にできてしまったクレバスのような深い溝に橋渡しをしてくださいました。こうして、十字架の御業によって、神さまから離れてしまった私たちは神さまに立ち戻ることができ、神さまとの和解・平和が成し遂げられたのです。

今日の聖書箇所の最後に、イエス様はこうおっしゃられます。「人の子は…多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」そして、イエス様は十字架で死なれ、私たちが神さまから離れ去り、クレバスに落ち込んで死ぬこと・滅んでしまうことから救ってくださいました。

どうしても、自分にこだわり、自分と他の人を比べて一喜一憂し、また過去の自分と今の自分を比べて、さらに一喜一憂する私たちです。しかし、他の人と比べて むなしく心を騒がせることから、私たちは本来、イエス様の十字架で自由にされています。私たちはそれぞれ、神さまの御前で、たった一人しかいない大切な自分として、深く愛されているのです。イエス様の十字架の御業を通して、その愛を感謝と共に深く心に受けとめる時、私たちは神さまとの間にまことの平和をいただくことができます。

今日から始まる一週間、その主の愛を思い起こし、日ごと朝ごとに主の御前に立つことから一日を始めましょう。私たちを神さまから引き離そうとするすべての悪しきものから解放され、まことの自由をいただいて、共にイエス様に従って歩みゆきましょう。



2020年11月8日

説教題:主は私たちに代わって

聖 書:イザヤ書53章8節、マルコによる福音書10章32-34節

捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。

(イザヤ書 53章8節)

一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始めた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

(マルコによる福音書10章32-34節)

今日の御言葉は、イエス様が三度目となる受難とご復活の予告をされたことを伝えています。聖書では「数」が重要な意味を持つことが多く、特に「三」は聖なる数です。皆さんも、言われてみれば、あるいは言われるまでもなく、そうとお感じになるでしょう。三位一体の神の「三」、イエス様が十字架で地上の命を捨てられた後「三」日後によみがえられたことなどに、数字の「三」の重要性が示されています。

イエス様は、神さまに託された使命を弟子たちに「三」回、予告されました。今日の聖句が、その三度目です。それは、特にイエス様が心をこめて弟子たちに伝えた事柄でした。

今日は週報に、マルコによる福音書から、イエス様が最初に語られた十字架でのご受難と復活の予告、さらに二度目の予告を載せています。比較してお分かりのように、今日の三度目の予告には、十字架の出来事とご復活が最初の、また第二回目の予告よりも詳しく語られています。

イエス様が最初の予告で「多くの苦しみ」とだけ伝えていたこと、二回目の予告で、「引き渡される」とおっしゃっていたことの具体的な内容が、死刑を宣告され、異邦人 ‒ ローマ兵たち ‒ に侮辱されて鞭打たれることだと、弟子たちは初めて告げられました。

イエス様は、ご自分の身に起ころうとしている十字架での受難を、はっきりとご存じでした。後に十字架に架かられる前の夜・最後の晩餐の夜に、イエス様はゲツセマネの園で、父なる神さまに「ひどく恐れてもだえ」(マルコ14:33)ながら祈られました。「この杯(十字架の受難)をわたしから取りのけてください」(マルコ14:36) それほどに酷く、おそろしい苦しみにさいなまれることを、イエス様はエルサレムに入る前にすでにありありとイメージを持たれ、五感にその痛みを感じるように、明確に知っておられたのです。

しかし、三度目の予告をされたイエス様は、毅然としておられました。今日の聖書箇所は、その冒頭でこう告げています。「イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」(マルコ10:32)

この時のイエス様のご様子は、弟子たちが驚くほど、そして、母マリアやマグダラのマリアといった従う者たちが恐れを感じるほどの気迫に満ちておられたのです。

弟子たちと従う者たちは、イエス様と自分らは過越の祭を祝いにエルサレムに上って行くと考えていました。当時のユダヤの人々にとっては、それが常識的な理解でした。年に一度、ユダヤの首都であり、神殿のあるエルサレムに詣でて祭を祝うのは、人々が習慣としていたことでした。

しかし、イエス様がエルサレムに向かうのは年に一度の祭のためだけではなかったのです。祭では、罪のゆるしと神さまとの和解を願って小羊が“いけにえ”・贖罪と和解の献げ物として献げられます。イエス様はその小羊に代わって“いけにえ”となるために、エルサレムに向かっておられました。いえ、もともと小羊が私たちの身代わりでありました。旧約聖書は「目には目を、歯には歯を」と、教えます。誰かの目を傷つけてしまったら自分の目を傷つけ、誰かの歯を折ってしまったら自分も歯を失うように ‒ 傷つけた者が、そのつけた傷と同じ報いを被るように ‒ と教えて、罪の償いを勧めました。これは、一見して合理的で公平に思えます。

しかし、そうではありません。私たちは命をひとつしか与えられていませんから、もし二人の人・三人の人を殺してしまったら、その償いとして二回死ぬこと・三回死ぬことは不可能です。また、誰かの心に傷を負わせた場合は、その傷の深さが目に見えないので、自分が同じように傷つくことはできません。

どうすることもできない罪の贖いを、せめてたいせつな財産である小羊で贖うようにと神さまは律法に定めてくださいました。それは、人間への思いやりでしたが、人間はそうと受けとめることができませんでした。ただ小羊を献げれば済むこと ‒ そのように、人間は本来の自分の罪深さを省みることなく、小羊の“いけにえ”を単なる儀式にしていたのです。これでは、本当には人間が罪を償い、罪から救われることはありません。罪の贖いとして、いつかは死に、滅びなければならなかったのです。

神さまは、この人間を可哀想だと思ってくださいました。憐れんでくださいました。生かしてやりたい、滅んではいけない、死んではならないと、私たちをたいせつに思ってくださいました。そして、人間の代わりになる“いけにえ”として、独り子イエス様を送ってくださったのです。

今日の御言葉で、イエス様はエルサレムに向けて敢然と歩み出されました。それは年に一度の祭のためではありませんでした。天地の歴史上ただ一回、神さまが人間に代わって、その御身を献げるためだったのです。

イエス様がめざしておられたのは、十字架での死でした。

しかし、それは最終的な目的地ではありません。

十字架の向こうには、復活があり、永遠の命・天の御国へと続く主の道があります。イエス様は肉体の死を超える その道を拓くために、先頭に立たれました。私たちを永遠の命へと、御国へと導き行くために先頭に立たれたのです。

先週の11月1日の主日に、私たちは召天者記念礼拝を献げました。

イエス様の御体なる教会を通して、御国につなげられ、神さまと、また先に天に召された兄弟姉妹と共に主を仰いでいることをあらためて心に刻みました。

今日、私たちはこれから聖餐式に与ろうとしています。イエス様は私たちに代わって、私たちの罪の贖いのために、十字架で肉を裂かれ、血を流されました。それをおぼえて、与る御体なるパンと、血潮なる杯。コロナの禍で飲食による感染拡大を防ぐために、私たちは実に8ヶ月間、聖餐式を延期してまいりました。いよいよ、今日から、聖餐式を再開いたします。

今日の聖書箇所・実にたいせつなイエス様の十字架の出来事とご復活の三回目の予告は、説教者が今日の聖餐式のために意図的に選んだ箇所ではありません。マルコによる福音書を読み進む中で、薬円台教会の聖餐式の再開に合わせて、神さまが導き与えてくださった箇所です。それが、聖餐式を再開する今日のため・私たち薬円台教会の群れのために、ふさわしい御言葉として天より与えられました。神さまは、こうしていつも私たち薬円台教会の群れを見守り、励ましてくださっています。その驚くばかりの細やかで優しい御気配りに、心からの感謝を献げましょう。

また、イエス様が、私たちの先頭に立って苦難の十字架に向かわれ、しかし死を超えて、御国への道を拓いてくださったことを感謝しましょう。どんな時も ‒ いかなる苦難の時も、死の時も、その死をも超えて ‒ 共においでくださることに限りない安らぎをいただいて、今週一週間も心満たされて進み行きましょう。



2020年11月1日

説教題:天に故郷を持つ

聖 書:創世記12章1-4節、ヘブライ人への手紙11章8-16節

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。

(創世記12:1-4)

信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束なさった方は真実であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。

(ヘブライ人への手紙11章8-16節)

今日は、召天者記念日として、私たちよりも先に天に召された方々をおぼえて礼拝を献げています。日本基督教団が定めた記念日で、これまで毎年、召された方のご家族やゆかりの方々を礼拝にお招きしてまいりました。今年はコロナの禍のためにそれがかなわなかったことに一抹の寂しさを感じます。しかし、これまでどおりに、ピアノのところにお写真を並べました。また、お手元には、召天者の方々のお名前を記した名簿をお届けしています。お一人、お一人、神さまに愛されて、命を与えられ、その方にしか生きることのできない、かけがえのない人生を歩まれました。

お手元の召天者名簿にある方々の中で、私が直接に主にある交わりをいただいた方々を思い起こします。今は、その方々のお姿を見ることも、お声を聞くこともできなくなったこと、特にいきいきとした笑顔に会えなくなったことは、さすがに寂しく思います。

別れは、悲しいものです。

しかし、私たちキリスト者・教会に生きる者には、ふたたび会える喜びと希望が与えられています。私たちに 地上の死・肉体の滅びを超えて生きる永遠の命を与えてくださるために、イエス様は十字架でお命を捨てられ、ご復活の初穂としてよみがえりを果たされました。

召天者記念日は、先に天に召された方々を愛惜の思いをもって偲ぶ日です。また、私たち今、この世に生きている者たちが天の御国への希望を新たにする日でもあります。

そのように、教会は、この世・地と、天とが結ばれているところです。一年に一回の、この召天者記念日ではなくても、私たちは、実は毎週、先に天に召された方々と共に礼拝を献げています。死を超えて、教会の兄弟姉妹を結ぶ絆で私たちは結ばれています。

今日の礼拝に与えられている聖書の御言葉は、信仰者の歩みが肉体の死を超えて続いてゆくことを語っています。永遠の命の希望を、今日は皆さまと味わってゆきたく思います。

今日の旧約聖書に記されているこのアブラムという人は、後にアブラハムという名を持つようになります。「ハ」一字があるかないかで、名前の意味が変わります。アブラムは「父・お父さんを高める」という意味です。その名を持ったアブラムが、その父の家を離れるようにと神さまに言われた、と御言葉は語ります。

この時、神さまは、どこそこへ行きなさいと、アブラムに目的地を示されませんでした。アブラムもまた、どこへ行くのですかと神さまに尋ねませんでした。言われたとおりに、旅立ちました。

なぜでしょう。

その答えを、私たちは今日の新約聖書・ヘブライ人への手紙の御言葉からいただくことができます。11節の後半です。お読みします。「約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。」

神さまを他の誰よりも・何よりも、確かであると信頼する思いが、彼に出発の決心をさせたのです。この神さまへの絶対的な信頼を、私たちは信仰と呼びます。

信仰とは、時に世で言われるように、人の理性を曇らせるものでは決してありません。信仰とは、最も信頼できる方に我が身をゆだね、お任せして平安をいただくことを知る、最高の知恵です。

神さまがどれほど信頼できる方かがはっきりとわかることが、いくつかあります。ひとつは、神さまの誠意です。神さまは約束、これは聖書の言葉を用いれば契約と申しても良いでしょう。神さまは必ずなさった約束・契約を守り通されます。神さまだけにおできになること。人間には決してできないこと。それは、約束を守り通すことです。

私たち人間は、どれほど守りたい約束だったとしても、不可抗力によって破ってしまうことがあります。たいせつな待ち合わせの時刻に、道が混んでいたり、電車の事故や故障で遅れたりは、日常茶飯事です。

しかし、神さまは決してこのようなことをされません。私たちを約束が違うと泣かせたり、落胆させたりすることはなさらないのです。

神さまはアブラムに祝福を約束してくださいました。だから、何があっても、必ず祝福へと導いてくださると、アブラムは信じたのです。

私たちが絶対の信頼を神さまに寄せられる根拠のひとつに、神さまの愛があります。神さまは、私たちに悪意をもって接することが絶対にありません。怒りや戒めを示されることはありますが、それも私たちを思ってのことなのです。

神さまがなさることは、すべて私にとって良いことだと、私たちは幼子のように素直に信じてよいのです。良いと言うよりも、それが正しい私たちの在り方です。神さまは、たとえ私がどんなに神さまに反抗しても、どんなに情けない有様になっても、決して見捨ない方です。神さまが、この自分になさることは、すべて良いこと ‒ それを私たちは神さまからの祝福と呼び、神さまに愛されていると申します。

自分に起こったつらいことの意味が、その直後やしばらく、時には何年も、わからないことがあります。自分は神さまに見放されているのではないか、神さまは自分に意地悪をしたのではないかと思ってしまうことさえあるかもしれません。しかし、必ずいつか、それが自分のためであり、自分にとって最も良いことだったとわかる日が来ます。

何年も経ってから、つらかった時に、知り合い支えてくれた方々との親交が得難い人生の宝だと気付かされたり、苦しみによって人の痛みや人生の奥深さを知らされる成長を与えられたりします。神さまは、私たちにとって意味のないことは、なにひとつなさらないのです。

さて、神さまへの絶対の信頼を抱いて、アブラムは神さまに従いました。このように、神さまの愛を信じ、神さまに導かれるままに生きる ‒ それが信仰の人生です。今日の新約聖書の聖書箇所、9節は彼がついに約束の地で暮らすようになり、息子イサク、孫のヤコブもそこに暮らしたことが語られています。

神さまは、アブラムとの約束を果たしてくださいました。アブラムは生まれ故郷を旅立った時は75歳でした。聖書の年齢の数え方は、今もよくわからないところが多いのですが、その24年後、カナンの地に落ち着いて99歳になったアブラムに、神さまは新しい約束をしてくださいました。実は、ここで初めて、神さまはアブラムに、アブラムとその子孫の神となることを約束されるのです。そして、新しい名をアブラムに与えられました。それが、アブラハムです。「多くの民の父」という意味の名です。その名のとおりに、アブラハムは「信仰の父」 ‒今日、一神教と呼ばれるキリスト教・ユダヤ教・イスラム教の、最初の預言者となりました。

アブラハムには神さまの約束どおりに息子イサク、孫ヤコブが与えられました。そして、今日の新約聖書13節の御言葉は、こう告げます。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。」

体の死・肉体の死は、信仰の歩みの大切な節目です。体の死が命の終わりではないからこそ、肉体の死を超えて、私たちが神さまと永遠の命を生きるからこそ、節目となる大切なことなのです。

前回、前々回の礼拝聖書箇所から、私たちは永遠の命が聖書の他のどんな言葉で言い換えられるかを知らされています。「永遠の命」は、「天の御国」、「救い」そして、神さまがいつまでも私たちと共においでくださる「インマヌエル」の恵みです。神さまは、最初の人間を造られて、“極めて善い”とおっしゃってくださいました。終わりの日の復活により、私たちはその姿でよみがえります。

復活するため・よみがえるためには、一度は死ななくてはなりません。それをイエス様は十字架の出来事とご復活で、はっきりお示しくださいました。そして、それにならって、私たちも一度は死に、そして復活の日を待ちます。

このように天の御国でのよみがえりに希望をおき、今の日々を、神さまが共にいてくださることを信じて平安に生きることが、私たちのまことのふるさと・魂の故郷です。それが16節に記されています。この世の生まれ故郷よりも「さらにまさった故郷、すなわち天の故郷」です。

イエス様が復活された日曜日をおぼえて、私たちは毎週、主の日・日曜日の礼拝を献げます。日曜日から、次の日曜日へ。この歩みを続けるのが信仰者の生涯です。

天に召された方も、地に残された私たちも、共に同じ御国への歩みを着実に、変わらずに、粛々と進めるのが私たち教会です。

今この時を誠実に丁寧に着実に、今、主が共におられることを喜びとして、希望に満ちて、ご一緒に主の道を歩み行きましょう。



2020年10月25日

説教題:全能の主に救われる

聖 書:詩編33編8-11節、マルコによる福音書10章23-31節

全地は主を畏れ 世界に住む者は皆、主におののく。主が仰せになると、そのように成り 主が命じられると、そのように立つ。

(詩編33:8-9)

イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのはなんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

(マルコによる福音書10:23-31)

前回の主日礼拝の聖書箇所で、今まさに十字架への旅路を始めようとなさっていたイエス様を、あるお金持ちが呼び止めました。たいせつな質問をするためでした。それは、十字架への道を歩み始めるイエス様と共に進もうとする弟子たちにとって、重要なことでした。また もちろん、聖書を十字架の道行きへと、今、読んで御言葉をいただいている私たちにとっても、たいせつな問いです。

イエス様は、何のためにこれから十字架への旅を始めようとなさっているのでしょう。それは、私たち ‒ 弟子たち、今 主日に主を仰いでいる教会の私たち、そして すべての人間の救いのためです。イエス様は、十字架で私たち人間に代わって、私たちの罪を贖ってくださいました。イエス様の十字架の死の三日後、主はご復活されました。それにより、私たちは肉体の死を超えて生きる永遠の命をいただく恵みに与りました。イエス様の十字架の出来事・罪の贖い・救い、そして永遠の命・神の国、神さまが常に共にいてくださることを意味するインマヌエル ‒ これらは、すべて同じ福音です。

十字架への旅を始めるイエス様に、お金持ちの人は、こう尋ねました。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか。」

この人がイエス様から期待していた答えは、当時の律法学者やファリサイ派の人々が教えていたような具体的な行動の指針でしょう。

聖書の律法にあるこのきまりは、このように守りなさい。たとえば、安息日には何も仕事をしてはいけないから、火を焚いて料理をしてはならない。そのために、前の日に作り置きをしておきなさい。それを、安息日には暖めずに ‒ 暖めると火を熾す仕事をしたことになりますから ‒ 冷たいまま食べなさい。たいへん、具体的です。おそらく、お金持ちの人がイエス様から聞こうとしていたのは、こういう律法の守り方でした。

ところが、イエス様はまったく違うことをおっしゃいました。こう言われたのです。「行って持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

お金持ちの人は、持っている物をすべて売り払う覚悟ができませんでした。あまりに多くの財産を持っていたのです。この人は、悲しみながら立ち去りました。

イエス様は、そのしょんぼりと肩を落とした後ろ姿を、見えなくなるまで見送ったのではないでしょうか。この人を、イエス様は「慈しんで見つめ」て、教えられたのですから。それから、弟子たちに、ご自身も悲しみを、残念な思いをこめてと思われますが、こう言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、何と難しいことか。」さらに、ほぼ同じ言葉を繰り返されました。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちは、たいそう驚きました。それほど、イエス様が神の国・ご自身のお父様である神さま、またそれを記した聖書の御言葉についておっしゃることは、人々の考えとは違っていたのです。

弟子たちも、また当時の律法学者やファリサイ派の人々に教えられた人々も、こう考えていたのでしょう。

貧しい人たちへの施しが、多ければ多いほど、神さまは喜んでくださるだろう。だから、もし、あのお金持ちの人がイエス様に言われたとおりに全財産を施しに使っていたら、神さまはあの人に大きく広く、神の国の門を開けてくださったに違いない ‒ あの人に、その覚悟ができなかったのは本当に残念だ… 覚悟ができさえすれば、そして行動に移すことができさえすれば、財産のある人は、神の国に入るのにふさわしい人に違いない。

ところが、イエス様は「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われました。“施しをする気持ちになれない人が”または“財産を手放す覚悟ができない人が”「神の国に入るのは、なんと難しいことか」とはおっしゃらなかったのです。

もちろん、イエス様の言葉には、お金持ちはケチで、財産に執着するから神の国にふさわしくないという含みはありません。お金持ちの人が、もともと親からたくさんの財産を受け継いでいたのか、自分で商売などをして財産を築いたのかはわかりません。しかし、神さまが善い行いに報いてくださって、その人を豊かにしてくださるという考えが、旧約聖書には一貫して貫かれています。悪い行いをすれば、神さまは罰で戒めます。だから、財産を持っているとは、それなりに善い行いをすでに積んでいて、その結果だと考えるのが旧約聖書の時代には自然だったのです。もちろん、悪いことをしてお金を貯め込んでいることが明らかな人たちもいたでしょう。しかし、ユダヤの人々は、そういう人は、今に神さまの罰がくだる・悪業には悪業で神さまが報いてくださる、今に見てなさいよ…と思っていたのです。

また、弟子たちは、イエス様に質問をしたお金持ちの真面目な様子を近々と見ていました。この人が、もし富を築いたのであれば、こつこつと努力をしたのだろうと、容易に想像がついたのでしょう。もし親から受け継いだ財産ならば、地道な働きを重ねて、たいせつに守っているのだろう。

そして、その真面目なお金持ちの人は、自分がどれほど頑張って来たか、一生懸命せっせと働いて来たかを思って、そのためにも全財産を手放すことができなかったのです。その人が一生懸命働いて、財産を蓄えてきたのは、自分一人のためだけではなかったかもしれません。妻のため、子どもたちのため、年取った父母のため、一緒に働いている仲間や部下と申しましょうか、その当時ですから召使いのためだったかもしれないのです。自分が永遠の命を受け継ぎたいからと、全財産を売り払って、そのお金を施しに使ってしまったら、その後、自分に頼ってきた者たちはどうなるのかとも思ったのではないか…神さまは、そもそも、その優しさや頑張りに報いてくださって、あの人をお金持ちにしてくださったのではないか…そう、弟子たちは思ったことでしょう。

その考え ‒ 善い行いを積み重ね、そのご褒美として神の国に入れられる・救われるという考えを、イエス様は根本から覆されました。それなら、いったい誰が救われるのだろうと弟子たちは不思議に思い、素直にそれを言葉にして言いました。

人間が自分の判断で、“こういうことをしたら、神さまはほめてくださる・ご褒美として永遠の命をくださる・神の国に入れてくださる”と考えること自体が、間違いだとイエス様はおっしゃるのです。

救いは、イエス様が言われるとおりに「人間にはできることではない」からです。救いは、神さまだけがなさることです。神さまだけが決断され、実行されます。イエス様のお言葉どおり、今日の聖書箇所の27節にあるとおり、「神には何でもできる」のです。

神さまには、人間の思いや常識を超えることがおできになります。

人間の思いと常識では、悪いことをした者・凶悪犯罪者・極悪人は神の国に入れないようにしか、思えません。しかし、神さまが本当にどうなさるかを、私たちは知ることができません。

ルカによる福音書に、ザアカイという人の話が記されています。強欲な徴税人で、あくどい手段を使って税金の取り立てに高い手数料を上乗せし、それで私腹を肥やしていました。誰が見ても悪人で、誰からも嫌われていました。一緒に食事をする人も、家を訪ねてくれる友人もいなかったでしょう。そのために、自分で自分を見限っているようなところもあった、そう思います。ところが、イエス様は、このザアカイの友となられました。ザアカイは、ただ評判のイエス様を見物するつもりで木に登り、イエス様が下を通るのを葉の陰に隠れて見ようとしただけでした。しかし、イエス様の方から、木を見上げてザアカイを見つけてくださいました。そして、ザアカイ、今夜はお前の家に泊まりたいと言ってくださったのです。

神さまは、友なき者の友となられます。ゆるせない罪をゆるしてくださいます。イエス様は、とりかえしのつかない私たちの罪をゆるして、私たちのために御国の門を開いてくださるために、十字架に架かって死なれました。私たちには、誰かのために自分の命を捨てるなど、それも罪人の汚名を着せられて死んで行くなど、とうていできません。それを、イエス様は成し遂げてくださいました。「神には何でもできる」からです。全能の神さまの深い憐れみが、イエス様の十字架の死にこめられているのです。

自分が救われるか・救われないか…この私は死んだ後、ちゃんと御国に行けるのか…それに心を捕らわれて、永遠の命を受け継ぐには何をすればよいのかと考える時、私たちの心の中心を占めているのは「自分のこと」です。

28節で、ペトロはイエス様に「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いました。その時、ペトロの心の中心にあったのは、自分が行ったこと・自分のこと、自分がどれだけたくさんのものを捨てられたかということでした。“イエス様が、私を呼んで、弟子にしてくださいました”と、神さま・イエス様が心の中心にいてくださるなら、言うところでしょう。

イエス様は、このペトロの言葉を自己中心的だと とがめはなさいませんでした。ただ、イエス様は弟子たちに、はっきりと こう教えられました。「わたしのためにまた福音のために家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、迫害も受けるが、…後の世では永遠の命を受ける。」

“自分がどれだけの覚悟を決めて、すべてを捨ててイエス様に従ったか・自分がどれだけ神さまに身を献げたか”にこだわらず、「イエス様・神さまについてゆく」ことだけを思い、心の中心を神さまで満たすことで、永遠の命が与えられます。

神さま・イエス様を、自分をめぐるすべての人・物・事柄に優先させる時、神さま・イエス様が私たちの心の中心になります。結果的に、その心が、ペトロをはじめとする弟子たちに、すべてを捨ててイエス様に従わせました。

神さまとイエス様を心の中心とすることで、クリスチャンは度重なる迫害に耐えて来ました。福音はエルサレムから、ローマへ、さらにいくつもの海と陸を超えて日本に届き、日本のクリスチャンは戦時中の迫害に耐えて、今の私たちがあるのです。

ただ、これは結果です。神さまを最優先した結果、それが行動と決断となって、神さまではないものから神さまが私たちの心と魂を守ってくださったのです。

神さまが、私たちそれぞれの決断と行動を、どう導いてくださるか。また、私たちの決断と行動を、神さまがどうご覧になるかは、もちろん、神さまのお心のうちにあります。

基本的に、私たちは比較の中でしか物事を理解し、認識することができません。たびたび申し上げることですが、私たちが黒い物を黒いと呼ぶことができるのは、黒くない物と比較するからです。こうして比較で物事を識別する私たちは、つい互いを比べがちです。

しかし、イエス様はおっしゃいます。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」‒ 今日の聖書箇所の最後の聖句・31節です。これは、神さまの御前では、先も後もない、比較することはないことを意味しています。

人間が自分で考える信仰の深さに関係なく、神さまは私たち一人一人を“ただ一人だけのあなた”と愛のまなざしで見守っていてくださいます。造ってくださった全責任をお取りくださいます。一人一人を、その一人に向けた特別な愛、一人一人違った愛で、包んで下さいます。

だから、私たちは一人一人、違っています。違う人生を与えられています。そして、同じ神さま・イエス様を中心とする信仰を与えられています。それを、神さまが私たちそれぞれのために特別にご準備くださった贈り物として、心から感謝いたしましょう。主の愛のまなざしの中で、今週も一日一日を歩んでまいりましょう。



2020年10月18日

説教題:天に富を積む

聖 書:箴言15章16-17節、マルコによる福音書10章17-22節

イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守って来ました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

(マルコによる福音書10:17-22)

今日、マルコ福音書から与えられた御言葉は「イエスが旅に出ようとされると」と始まっています。イエス様は、この時、十字架に架かられるエルサレムに近い町に、弟子たちと一緒におられ、まさに旅に出かけようとされていました。「旅」とは、エルサレムへの旅・十字架への道行きです。

ところが、イエス様の歩みを止めた人がいました。その人は、イエス様に走り寄り、ひざまずいて質問をしました。ここでイエス様にどうしても聞きたいことがある、という強い思いが伝わってまいります。

これまで、イエス様に質問をした者たちは、どういう人だったでしょう。イエス様を貶めようとする律法学者やファリサイ派の人々です。彼らは、イエス様に、どうしてあなたの弟子たちは律法に定めているとおりに食事の前に手を洗わないのか・安息日に人を癒やすのは仕事で、それは律法で禁止されているのに、どうして行うのか、などイエス様を試す質問をしました。

この人は、そうした律法学者やファリサイ派の人々とは違っていました。まず、イエス様に「善い先生」と呼びかけています。この呼び方は、イエス様への深い尊敬を表します。続けて、彼は こう問いました。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか。」

“永遠の命を神さまからいただくには、何をすれば良いか 教えてください”と頼み込んだのです。

イエス様は、旅に出ようとしておられた足を止められました。

天の父・神さまから永遠の命をいただくことについて、最も良くご存じで、この人の問いに正確に答えられるのはイエス様だけだけだからです。天の神さまのたった一人のお子様であるイエス様だけが、この質問への正しい答えをご存じです。

「永遠の命」 ‒ この言葉と同じ意味を持つ聖書の言葉は、何でしょう。これはぜひ、皆さんに覚えておいていただきたいことです。聖書について知ることは、単なる知識にとどまりません。御言葉をより深く理解し、より強い感動・大きな恵みをいただけるようになります。「永遠の命」、それは「天の御国」「神の国」、それらの言葉と同じ意味を持ちます。さらにインマヌエルという言葉とも同じです。インマヌエル ‒ 神さまが共においでくださる、という意味です。

永遠の命とは、肉体の死を超える命がある、ということです。

この世の命が終わっても、天の御国・神の国で神さまが共においでくださる、それが永遠の命です。

永遠の命は、この世の命が終わる・終わらないとは関係がありません。私たちは今、この世にありながら天につながっている教会として、ここで礼拝を献げています。私たちは今、天の国・御国にいると申しても良いでしょう。神さまが、共にいてくださいます。

また、永遠の命に与るとは、この教会の会堂という建物の中にいることとは、何ら関係がありません。私たちが物理的に一緒にいる、ということとも関係がありません。私たちが教会の建物を出て家に帰っても、一人で過ごす時間も、私たち一人一人が教会の一人であることには変わりがありません。

今日も、感染防止のために、ご自宅で祈っておられる方がおいでです。今、その方々と私たちは、一緒に心を合わせて主を仰いでいます。

私たちは、今、おうちで祈っておられる方も含めて、一緒に天の御国・神の国にいます。主が共においでくださいます。そして、永遠の命に生きているのです。

さて、今日の聖書箇所に戻りましょう。

その永遠の命について尋ねられて、イエス様はこの人に、それが何かを正しく教えようとされました。イエス様は、よく質問をされると、質問で返されます。この時も、そうでした。この人に「善い先生」と呼びかけられたことについて、イエス様は尋ねました。

「なぜ、わたしを『善い』というのか。」

ここで、私たちも、この人と一緒に考えなければなりません。イエス様はすぐに答えを言ってくださいます。「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」これが、どういうことかピンと来ますでしょうか。

「善い」という言葉に善悪の善が用いられていることが、考えるヒントになります。善悪をご存じで、裁き分けるのは、神さまお一人です。もちろん、三位一体、父・子・聖霊でひとりの神であり、御子イエス様が「善い」と呼ばれたことは正しいことです。しかし、ここでは、イエス様は、この人の心をまっすぐに、天の神さまに向けようとされています。この世にまったき人・完全に人となって目に見え、お声も聞ける人間イエスとして遣わされたご自分ではなく、創造主なる天の父・神さまを思うようにと、イエス様はこの人の心を天の父にまっすぐに向け、整えようとなさいました。そのために、「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」とおっしゃったのです。

この人が求めている永遠の命は、神さまが共においでくださって、初めていただけるものです。神さまは、人間に十戒を与えてくださいました。前回の礼拝でも申しましたが、神さまの御言葉は掟ですが、ただひたすら守るだけの規則・ルールではありません。神さまが私たちのことをたいせつに思ってくださり、悪いものから守り、正しく助け合って生きられるようにと与えられた恵みです。人はそれを堅く守ると約束して、神さまとの絆をいただくのです。神さまとの絆が、神さまと共にいること・インマヌエル・天の国、永遠の命です。

それが本当にわかっているのか、という意味をこめて、イエス様は この人に、続けてこのように言われました。19節です。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ。

十戒の六つの戒めを ‒ 順番は違っていますが ‒ 、イエス様はおっしゃいました。あなたが、そうして神さまとの絆を持っているなら、永遠の命をすでにいただいているではないかという意味を込めて、そう言われたのです。

ところが、この人は、十戒を守ることを、まったく違う意味で受けとめていました。ユダヤの子供は6歳になると、律法を覚えさせられます。そして、律法の中でも特にたいせつな、まさに律法の基盤となるものとして、十戒を暗記し、それを文字通りに実行します。ルールとして守るのです。ユダヤ人として一人前に生きるのであれば、十戒は、意味がわかってもわからなくても、守らなければならない常識でした。だから、この人は、20節でイエス様に「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えました。

当時は、十戒も、律法も、当時は神さまの愛と関係づけて受けとめられてはいませんでした。強いて言うならば、絶対服従を求められる神さまの命令という解釈が、律法学者やファリサイ派の人々によって為され、そのように人々に教えられていました。イエス様は、その神さまの愛が伝えられていない解釈を正すために、父なる神さまにこの世に遣わされたのです。そのために、十戒・律法を規則としか受けとめられない律法学者やファリサイ派の人々から憎まれてしまうようになったのです。

一般的な、この世的な司法に携わる方が言われることを、ちょっとご紹介したいと思います。司法に携わる方とは弁護士さん、検事さん、そして裁判官といった職に就いている方です。私の高校時代の同級生で弁護士さんがいます。その方が、こう言っているのを聞いたことがあります。「六法全書には、愛はないのよね。」

日本の法律は、聖書の神さまとは関わりがありません。もちろん、根底に一貫した思想や人間観がありましょう。しかし、それは表に出ることはなく、純粋に、と申しましょうか、本当の規則の本、ルールブックです。そして弁護士さんをしていると、人間の心のさまざまな動きを感じ、その思いにも配慮しながら、法で守ってゆくことをしなければなりません。しかし、六法全書には愛がない ‒ だから、たいへん気苦労が多く、いろいろ考えさせられることが多いと、私の高校時代の同級生であるその弁護士さんは、言っていました。

しかし、ユダヤの人々が法律としていた律法は、もともと神さまの愛に基づいて与えられたものです。律法には、神さまの愛があふれています。今日の聖書箇所19節で、イエス様は「殺すな」という、十戒の第六戒を最初に告げています。神さまは、私たち人間に、「殺してはならない」と言われます。

十戒は、命令ではなく、事実として「あなたは殺さない」と訳すともとの聖書の言葉に近くなります。ですから、「殺してはならない」は、「私と約束をしたのだから、あなたは人を殺さない」と神さまがおっしゃっているという受け止め方が良いでしょう。

ここで、創世記のアダムとエバに命の木の実を食べてはならないと、神さまがおっしゃった言葉を思い出したいと思います。神さまは、二人に言ったのです。あなたがたは、園の中央の木を食べてはならない。「死んではいけないから。」(創世記3:3)神さまは、小さい子どもを必死で守る親が、子供に、へんなものを口に入れてはいけません、そんなことをしたら死んじゃうから、あんたが死んじゃったら、お父さんもお母さんも悲しいから、と言うかのように、「死んではいけないから」と言われました。繰り返しますが、神さまは、十戒の第六戒で、「殺してはならない。あなたは人を殺さない。」と言われました。

それは、「私はあなたがた 人間を愛している。絶対に死んで欲しくない。死んではいけない。私はあなたがたがどれほど私を苦しめ、悲しませても、あなたがたを滅ぼさない。殺さない。ゆるしたい。だから、あなたがたも、互いを殺してはならない」ということです。そして、私たちをゆるすために、私たちの代わりにたいせつな独り子イエス様を、十字架に架けて罪の贖いとしてくださったのです。

私たちは、そこまで深く神さまに愛されています。しかし、この人は、またこの人に限らず、当時のユダヤの人々は、律法学者やファリサイ派の人々の解釈を通しては、神さまに愛されているという喜びを知ることができなかったのです。

21節で、イエス様は この人にこう言われました。神さまのまなざしをもってじっと見つめ、慈しんでおっしゃいました。「あなたに欠けているものが一つある。」

それは、神さまの愛を知らない、ということです。

殺すな、と神さまはおっしゃいました。「殺す」の反対語が「殺さない」ですが、もっとはっきりとした反対語は何でしょう。「生きろ」「生きなさい」です。それを、私たち全体に向けておっしゃるとなると、その言葉は、どういう言葉になるでしょう。「共に生きなさい。」

神さまの愛を知らないとは、共に生きることを知らないということです。逆に、神さまの愛をいただいている喜びを知って生きるとは、互いに助け合い、ゆるし合い、分かち合って、共に主を仰ぐことです。

だから、イエス様は、この人にそれを教えました。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。」分かち合うことを知り、行いなさいと勧めたのです。そうすれば、神さまを知ることになる。安心で心を満たされる。あなたの心を天に置き、神さまがそこに寄り添ってくださることになる。

イエス様は、さらにおっしゃいました。「それから、わたしに従いなさい。」私と一緒に来なさい。私と一緒に人生を進もう。インマヌエル ‒ 主が共においでくださる、この恵みです。

天に積む富とは、信仰の喜び・神さまに愛されている平安の恵みなのです。もちろん、それはこの世の富で買うことなどできません。

しかし、この人には、イエス様がおっしゃるとおりに、持っている財産を売り払って、すべて人に施すことができませんでした。あまりに多くのこの世の富を持ちすぎていて、それに心をとらわれ、手放すことはとうていできないとしか思えなかったのです。こうして、この人は、悲しんで、イエス様のもとを立ち去りました。

この人の心は、神さまを求め、永遠の命を求めて十分に貧しかったのに。

イエス様は、エルサレムへの旅を始めます。それは、この世の富を手放すことができず、悲しみながら立ち去ったこの人を、神さまのもとへと呼び返そうと、十字架に架かるための旅です。私たち欠け多い者・すべての罪人のための旅路の始まりでした。

この主に、従ってゆきたいと、あらためて思います。

コロナ禍の中で、自ら命を絶つ方の報道が多く伝えられます。神さまは「死んではならない。生きてゆきなさい。私と共に。みんなと共に」と呼びかけられます。その福音が届いていればと、思わずにいられません。その福音をまわりの、まだイエス様を知らない方々に届けるために、私たちは教会として共に生き、助け合い、ゆるし合い、分かち合う姿を世に示してゆきたい、そうも、思うのです。

今週の一日・一日を、神さまの愛のまなざしで見守られ、たいせつに慈しまれている喜びのうちに、共に過ごしてまいりましょう。



2020年10月11日

説教題:神が結び合わせたもの

聖 書:創世記2章18節、マルコによる福音書10章1-12節

主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

(創世記2章18節)

イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群集がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

(マルコによる福音書10章1-12節)

今日、私たちが主の日ごとにいただいているマルコ福音書は、イエス様が結婚について語られた御言葉を伝えています。結婚は、私たちにとって身近な事柄です。夫婦として歩み続ける中で喜びと幸いを分かち合い、また どんなに仲の良くても、時に困難を感じるものです。

イエス様ご自身は、人間としての地上の歩みの中で結婚なさることはありませんでした。人であると同時に完全に神さまであったイエス様は、御身の清らかに保たれて、十字架に架かられました。

今日の聖書箇所で、イエス様が結婚について語られたのは、ご自身からと言うよりも、論争に巻き込まれたからでした。

イエス様が弟子たちとヨルダン川を渡り、ユダヤ地方に行かれたと、今日の聖書箇所の冒頭で語られています。あとで聖書の巻末にある地図をご覧くださるとよいと思いますが、イエス様は伝道の本拠地とされていたペトロの家のあるカファルナウムから、ずっと南に降って来られました。ユダヤ地方と言えば、国の首都があり、神殿のあるエルサレムの近くです。十字架に架かられるエルサレムに、イエス様は近づいておられます。

エルサレムには、ユダヤの王 ヘロデがいます。ヘロデの名を聞いて、皆さんは何を思い起こすでしょうか。

マルコ福音書6章でご一緒に読んだ、洗礼者ヨハネの首をはねた事件を思い出した方、おられるでしょうか。

ヘロデ王は、兄弟フィリポの妻ヘロディアと情を通じ、ヘロディアは夫と離婚して、ヘロデ王の妻となりました。洗礼者ヨハネは、これを姦淫の罪として厳しく批判したのです。そのためにヘロデとヘロディアの逆鱗に触れ、牢につながれてしまいました。そして、戯れのうちに、正式な裁判も何もなく、首をはねられてしまったのです。

ヘロディアの離婚と、ヘロデ王との結婚は当時のユダヤ社会では、たいへん品の悪い言葉を用いて恐縮ですが、王室の一大スキャンダルという呼び名が実にぴったりする出来事でした。フィリポの妻だったときから、ヘロディアがヘロデ王と通じていたのは明らかでしたから、洗礼者ヨハネが姦淫の罪と糾弾し、批判したのは当然でした。姦淫の罪は、十戒の第七の掟です。神さまが厳しく禁じている罪です。

そのような罪深いことが、人々の模範となるはずの王室で起こったので、ユダヤの人々は困惑し、律法学者たちや、律法を厳密に守ることに熱心なファリサイ派の人々は右往左往しました。離婚について、モーセが神さまに告げられて定めた律法をどう解釈すれば良いのか、彼らの間で論争が繰り広げられたのです。

いつものように弟子たち、また群衆に、天の父の教えを語っておられたイエス様に、ファリサイ派の人々が近寄って、この出来事についてイエス様に尋ねました。ファリサイ派の人々は律法を神さまの真実の愛にもとづいて、人々に感銘深く真理を教えるイエス様を憎んでいました。イエス様に質問したのは、イエス様をおとしめるための策略だったのです。ヨハネのように、イエス様が離婚をしたヘロディアについて批判的なことを言い、王室の味方をしたがる指導者層の反感を買うことを期待していました。

ところが、イエス様は「モーセは何と命じているか」と逆に質問を返されました。このお言葉には、“そんなことは、モーセが神さまから御言葉を預かって記した律法の書 ‒ これは、旧約聖書のはじめの五つの書をさします ‒ を見れば明らかではないか。わかりきったことを聞くなど、愚かしい”というニュアンスがこめられています。

律法の五つ目の書・申命記24章1節で、離婚は許されています。このように記されているので、お聞きください。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」これは夫が妻を気に入らなくなったら勝手に離婚してよいというたいへんな男尊女卑に聞こえますが、ヘロディアは、この逆、つまり妻が夫を去らせる離婚を行いました。ヘロデ王と結婚したいから、夫フィリポと離婚したのです。そこで、律法を厳密に守ることに熱心なファリサイ派の人々は、どう、この事態を解釈すればよいか困惑していました。

しかし、ヘロデ王とヘロディアのしたことの罪深さは、律法に従っているかどうかという問題ではありません。どうして姦淫が罪深いのか、そもそも、神さまが人間の結婚にどのような御心を託していたかを思い巡らすことが、求められているはずなのです。

イエス様は、6節で、それを指摘されます。お読みします。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って神が結び合わせたものを人は離してはいけない。」

イエス様がおっしゃられたこの言葉の最後の事柄 ‒ 神が結び合わせたものを人は離してはいけない ‒ に基づいて、カトリック教会は離婚を禁じています。

イエス様の言葉を、新しい律法・掟・守らなければならないルール、きまりとしたのです。

しかし、私たちプロテスタントは、こう考えます。イエス様が語られた御言葉のみならず、聖書のどの聖句も、“これをしてはならない、あれもダメ、これも禁止”と私たちの生活を拘束する規則書・ルールブックのように読むものではありません。きまりどおりに生きていれば正しいとされるのなら、私たち人間は神さまにいただいた命の息によって自由に生きていないただの土の人形に過ぎなくなってしまいます。それは、神さまの御心ではありません。聖書は、御言葉を通して、神さまが私たちに与えてくださる恵みを、良い耳と開いた心で聴き取り、生きる幸いをいただくものです。

イエス様は、今日の聖書箇所で私たちに語られる恵み。それは、男性と女性が共に生きる喜びです。イエス様は、それを、父なる神さまの天地創造にまでさかのぼって教えてくださいます。

神さまは天地とあらゆる植物、生き物を創造され、最初の人アダムを造られました。アダムをエデンの園に住まわせ、そこを耕す務めを与えられました。エデンの園には、さまざまな生き物が暮らしていましたが、アダムと同じ「人間」はまだいませんでした。アダムはひとりぼっちだったのです。それにあらためて気付かれた神さまは、こうおっしゃいました。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」今日の旧約聖書の御言葉です。神さまは、こうおっしゃって、アダムを深い眠りに落とされました。そして、その身体の一部・あばら骨から最初の女性エバを造られました。そのエバこそ、「彼に合う助ける者」です。

この彼に「合う」とは、アダムに都合の良いようにエバを造ったという意味ではありません。

聖書の元の言葉では、「前に立つ」「向かい合って立つ」という意味を持ちます。神さまは、エバをアダムの前に、アダムと向かい合って立つ者として造られたのです。一人の人と向かい合って立つことができるのは、物理的にも、たった一人の人です。

また、「合う」とは、興味深いことに、聖書の元の言葉では「反対・逆」をも意味します。アダムとはまったく異なる考えを持ち、同じ一つの事柄に対し、アダムとは逆の反応をして、反対の行動をするエバを神さまは造られました。エバがアダムと違っていれば、彼の欠けているところを補えるからです。「助ける者」とは、そういう意味です。これは、逆も言えるでしょう。エバの足りないところを、アダムが補い、二人は互いに補い合い、助け合って、二人で一つになれるのです。

こうして、神さまはアダムとエバを、お互いに向かい合って立つことのできるたった一人の者同士として、また互いにとっての唯一無二の助け合う者同士・補い合うパートナーとして造られました。

そのことを、イエス様はマルコ福音書の今日の聖書箇所で、「だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って神が結び合わせたものを人は離してはいけない」と告げておられます。

ただ、ここで私たちは考えることを勧められています。私たちは、決して神さまの御心を知ることはできません。ですから、厳密な意味では、神さまがご計画の中で与えてくださっている“自分とただ一人向かい合うように造られた唯一にして最高のパートナー”が誰だか、わかりません。私たちの多くは、比較的若い時に “この人でなくては”と互いに思い決めた者同士で結婚を決意し、クリスチャンであれば、またはどちらか片方だけでもクリスチャンならば、教会で、神さまと兄弟姉妹に見守られて結婚式を挙げます。神さまの御前で誓約を立てます。

互いが自分にとって「神さまが結び合わせてくださった唯一無二のパートナー」であると、希望をもって願いつつ、誓約をするのです。

繰り返して申しますが、神さまの御心はわかりません。ですから、神さまがお互いを結び合わせてくださったと信じて、せいいっぱいの誠意と思いやりを尽くしてゆきます。

神さまは、二人を見守り、主にある愛を育むようにと導いてくださいます。主にある愛とは、コリントの信徒への手紙13章13節に語られている愛の讃歌です。「愛は忍耐強い。愛は情け深い」と告げられています。イエス様は、私たちのためにご自身の命を犠牲にして、十字架に架かってくださいました。イエス様の愛・主にある愛とは、相手のために自分を捨てる自己犠牲の決心と行動です。

たいへん残念なことに、どうしてもそれができないことがあります。

そして、互いに忍耐できず、ゆるせないことがあります。それが重なるならば、もしかすると、その夫妻は、神さまが結び合わせてくださった二人ではなかったかもしれないのです。

神さまの御心は計り知れない ‒ この主の御前での謙虚さ・人間の無知を自覚するへりくだりによって、私たちプロテスタントは離婚が許されていると考えます。また、再婚も許されているのです。

もちろん、イエス様が教えてくださるのは、互いに結び合わされた者同士かを調べたり、試したりすることでは断じてありません。今、自分の前に向かい合って立つ人を信頼し、互いに欠点を補い合い、互いに忍耐し合い、ゆるし合えるように主の導きと支え、見守りを祈りつつ全力を尽くすことを、主は期待しておられます。結婚の誓約は、神さまの御前で交わしたからと言って絶対に守られなければならないものではなく、神さまの期待を願い、それに応えようと二人で約束するためのものなのです。

今、向かい合う二人が次の瞬間も、その次の瞬間も、向かい合っていられるように、今を生きる ‒ それが、主にある結婚です。結婚に限らず、神さまの期待・イエス様が十字架で示してくださった愛に応えようとせいいっぱい今を生きるのが、私たち主を信じる者の信仰の証です。

今、共に生きるパートナーを与えられている方々は、その決意を新たにされ、今、私もそうですが、一人でおられる方々は「人が独りでいるのは良くない」と主自らが寄り添い、教会の兄弟姉妹を与えてくださっていることを感謝し、心満たされて、今週一週間の日々を、思いやりをもって過ごしてまいりましょう。



2020年10月4日

説教題:命と平和のために

聖 書:民数記18章19節、マルコによる福音書9章42-50節

イスラエルの人々が主にささげる聖なる献納物はすべて、あなたと あなたと共にいる息子たち、娘たちに与える。これは不変の定めである。これは、主に御前にあって、あなたと あなたと共にいるあなたの子孫に対する永遠の塩の約束である。

(民数記18章19節)

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。… 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

(マルコによる福音書9章42-50節)

前回の礼拝の聖書箇所で、イエス様はご自分の名を使って悪霊を払っている者を実に優しく、大らかに、味方と考えて受け容れるようにと、弟子たちに教えられました。私たちも、教会のこと・聖書のこと、またイエス様のことを知らなくても、キリスト教に反感を抱かない方に広い心を持つようにと勧められました。私たち教会に生きる者が、教会の外の方々に対して取るべき姿勢を示されたのです。

さて、今日の聖書箇所で、イエス様は、今度は、教会の中で互いにどのような姿勢・思いを持つべきかを教えてくださいます。

先ほど司式者が朗読されるのを、皆さんは聞かれました。イエス様は、何と厳しいことをおっしゃるのだろうと思われたでありましょう。厳しいを通り越して、恐ろしいことを言っておられる、そう受けとめた方が少なくないと思います。

しかし、これだけは、まず、今、しっかりと押さえておいてください。イエス様は、教会の中で好ましくないことをした者を脅しておられるわけではありません。地獄が恐ろしいところだとと教えようとしておられるのでもありません。

イエス様は、私たちクリスチャン - イエス様を信じる者が、徹底して避けなければいけないことを教えてくださっているのです。私たちが、できるかぎり、避けなければいけないこと。それは、つまずかせること、そして、自分自身がつまずくことです。

イエス様は、今日の最初の聖句・46節でこう言われます。お読みします。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」イエス様を信じる小さな者 ‒ それは、洗礼を受けて教会員となっている皆さん、また、受洗準備を進めている方をさします。

「つまずく」とは、「転ぶ」ことです。イエス様を信じられなくなることです。信仰を捨てて、イエス様から、また教会から離れてしまうことです。

私たちは教会で、イエス様のあとをついて、文字どおり、イエス様に従って、天の父である神さまへとつながる道を進んでいます。一日一日を歩いて、前に進んでいるのです。信じているから、その道を前進しています。しかし、転んで前に進めなくなることがあります。

これは、キリシタンの殉教があった時代の言葉遣いを思い起こしていただくと分かり易いと思います。キリスト教が禁じられ、信者だとわかると拷問を受けて棄教、つまり信仰を捨てることを迫られました。宣教師として日本に来た者や、日本人で司祭になった者も、同じ扱いを受けました。司祭は、当時 バテレンと呼ばれていました。拷問があまりに過酷で、ついに我慢しきれずに信仰を捨てると言えば、解放してもらえました。その人たちが“転びバテレン”と呼ばれたことを、ご存じの方が多いでしょう。拷問という石にけつまずいて、転び、信仰を捨てたこと・失ったことを「つまずく」と申します。

兄弟姉妹をつまずかせてしまった者のことを、イエス様は厳しく戒めておられます。教会は、誰もがイエス様にならって、互いに思いやりを尽くすはずのところです。ところが、この世で生きている私たちの言葉の使い方や感覚は、人によって異なります。

そのために、思わぬ行き違いが起きて、互いを傷つけ合ってしまうことがあります。みんなが仲良くするはずの教会で、どうしてこんなことを自分が言われたのかと思うと、教会の外の人に同じことを言われた時の何倍も、何十倍も悲しく、つらく思えます。教会は一番安心できる自分の居場所のはずなのに、そこでイヤな思いをしたからです。

教会に行くのが、つらくなる ‒ たいへん悲しいことですが、そういうことが起きてしまいます。しかし、その時も、自分はイエス様について行くと思い定めて、イエス様から離れなければ、つまずいたこと・転んだことにはなりません。

イエス様を信じられなくなる、十字架の出来事もご復活も、自分には何の意味もないと思ってしまう ‒ これがつまずきです。

人は、この世はもちろん、教会でも、人を傷つけずに生きて行くことはできません。そのつもりがまったくなくても、むしろ、傷つけようなどとはまったく思わないのに、思わぬ言葉や感性の行き違いから人は傷つけてしまうし、また傷つくのです。イエス様が「これらの小さな者」、心が小さくて弱い者とおっしゃっているとおりの私たちなのです。しかし、イエス様は冒頭で「わたしを信じる者」と言われます。傷つけても、傷ついても、とにかくイエス様を信じて、ついて来なさいと言ってくださっているのです。

私たちはまた、人間関係の中でなくても、信仰を失うことがあります。イエス様のご復活を疑ったり、人間を幸福にできるのは、やっぱり人間の力だと思ったりしてしまいます。あまりにつらいことが続くと、教会に来ていても何の良いこともないと信仰を捨ててしまいます。それはいけない、とイエス様は強く、強く言われます。それが、今日の厳しい言葉となっているのです。

ご復活を疑う思いがわいてくる ‒ それが、今日の聖書箇所にある“あなたをつまずかせる片方の手”でありましょう。

人間の力こそが人間を幸福にする ‒ その考えがわたしたちをつまずかせる片方の足ではないでしょうか。

神さまがいないとして、生きていこうとする ‒ それが、わたしたちをつまずかせる片方の目でしょう。

そういう考えや思いは捨てなさい、それらを切り取ってぼろぼろになっても、命にあずかる道・神さまのもとへとつながる道を、イエス様のあとについて歩みなさいとイエス様はおっしゃるのです。

ただ、いかがでしょうか。

必ず信仰を貫くと、言い切れましょうか。そうしたくても、簡単には言えないように、思えてまいります。もし迫害にあって、暴力を振るわれたら。もし、自分がクリスチャンであるために、自分ではなく大切な家族・愛する人が、苦しめられたら。 信仰を捨てないと、家族や愛する人に暴行をはたらくと脅かされたら。私たちは、言ってしまうのではないでしょうか。“私の父を、母を、夫を、妻を、子を、痛めつけないでください。もう、教会には行きません。聖書も捨てます。お祈りもしませんから、それだけはやめてください。”と。

たいへん厳しく「つまずいてはならない」とおっしゃるイエス様です。もし、私たちがそう言って、家族のため・たいせつに思う人のために信仰を捨ててしまったら、私たちはイエス様に見捨てられてしまうのでしょうか。実は、大丈夫なのです。弱い私たちがつまずいて、転んで、倒れて、イエス様のあとについて行けなくなってしまっても、大丈夫とイエス様はおっしゃってくださいます。まさに、今日の厳しい言葉の中で、この厳しい言葉を用いておっしゃいます。

それが、48節から50節、今日の最後の聖句にいたる3節の御言葉です。48節で、イエス様は信仰を失う恐ろしさをたとえて、こう言われます。お読みします。「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」そして、次の49節で、こうおっしゃいます。「人は皆、火で塩味を付けられる。」突然、塩という言葉が出てまいります。

さらに、50節です。「塩は良いものである。」また、「自分自身の内に塩を持ちなさい」と勧められています。

これは、どういうことでしょう。

塩は、聖書では永遠の象徴です。今日の旧約聖書 民数記18章19節に「永遠の塩の契約」という言葉が記されています。それは、絶対に揺らぐことのない、永遠に変わることのない約束という意味です。

塩が、肉や魚を塩漬けにすることから分かるように、保存するため・その本質を変えないために用いられることから、永遠の象徴とされました。また、塩は貨幣に代わる貴重品でした。イエス様の時代、ユダヤはローマ帝国の植民地でした。このローマの兵士の給料が塩 ‒ ラテン語でサール ‒ で払われていたことが、英語の給料を意味するサラリーの語源です。

「自分自身の内に塩を持ちなさい」とは、「自分自身の内に、永遠に変わらない良いものを持ちなさい」ということです。その永遠に良いものは、火でもたらされるものなのです。

信仰を捨ててしまうかもしれない弱い私たちです。どれほど気をつけていても誤解されたり、自分が意図していたのとは違うように言葉を受け取られたりして、人を傷つけてしまう私たち、また簡単に傷ついて教会がいやになって、イエス様からも離れてしまう私たちです。その私たちが、神さまから離れて背いた罪のために焼かれるはずの火に、イエス様が私たちの身代わりとなって焼かれてくださいました。私たちが自分の弱さ・罪のために滅びるところを、イエス様が代わって担って下さいました。それが、イエス様の十字架の出来事です。

その十字架の御業と三日後のご復活によって、私たちは永遠に神さまにつながる者とされました。イエス様の十字架の出来事とご復活によって、私たちは実に明確に、塩の契約をいただいたのです。

ですから、イエス様を信じて私たちが受けた洗礼は、永遠です。

私たちの肉体が死を迎えても、神さまとのつながりは終わりません。

洗礼を受けて、私たちは教会員になります。教会には退会はありません。教会をやめることは、ありえません。たいへんこの世的な言葉でたとえを用いると、洗礼は御国・天の国へのパスポート・聖餐式のたびに更新されるパスポートですが、もういりませんと返すこと・返却することや捨てることはありえないのです。たとえ教会を離れ、信仰を失ってしまい、つまずいて転んで、イエス様に従って歩めなく、あるいは自らの勝手な意志で歩まなくなったとしても、イエス様が必ず私たちを抱き、背負い、歩みを共に進めてくださいます。

そこまで深く、イエス様は私たちを愛してくださっています。私たちに代わって滅びてくださった、その火によってもたらされた塩を、イエス様の愛を心に持つようにと、今日のイエス様の御言葉は私たちに教えています。それによって、傷つけられても相手をゆるし、いたわり合おうとする志を与えられます。兄弟姉妹が共にイエス様を仰ぐことでひとつにされて、ゆるしあう平和のうちに過ごそうと祈り願えるようになるのです。

新型コロナウイルス感染防止のために、礼拝に集まることが難しい・聖餐式にあずかれないという困難な時を、今、私たちは過ごしています。しかし、薬円台教会の歩みは感染拡大が始まった2月以来、9ヶ月を超えて守られています。主の御手のうちに共にある、この幸いと平安を私たちは塩として心に持って、この一週間も主を仰いで進み行きましょう。