19年04月-19年09月

2019年9月29日

説教題:主は私の家にも

聖 書:詩編30編1-6節、マルコによる福音書1章29-34節

すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れてきた。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追いだして、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

(マルコによる福音書1章29-34節)

今日の聖書箇所を読まれて、またはつい先ほど 司式者によって朗読されるのを聞かれて、皆さまは少し意外な思いを抱いたかと存じます。

前回の御言葉で、イエス様はユダヤの会堂で、安息日に、これまでユダヤの誰も聞いたことのなかった神さまからの真実・イエス様のまことの父・神さまから直接 託された御言葉を語られました。イエス様はこの日、初めて神さまの御子として 公の第一声を発せられたのです。

すぐにそれがわかったのは、人間ではありませんでした。

人間は聖なるものと汚れたものの区別がつかず、どちらにも引き寄せられる者なのです。イエス様を神さまからの清き聖者とわかったのは、汚れた霊でした。イエス様は この汚れた霊を、とりついていた男の人から追い出されました。

こうして、驚きのうちに礼拝が終わりました。

その直後にイエス様がなさったことが、今日の出来事です。

イエス様が会堂でなされたことは、実にスケールが大きな出来事でした。イエス様の真実の姿が明らかにされました。それに比べると、今日の箇所は弟子の家庭の中での出来事です。何かほのぼのとした ささやかな出来事という印象を持った方もおいででしょう。

では、今日の御言葉が伝えるイエス様のいやしのみわざは ささやかなものでしょうか。小さいものでしょうか。そのようなことは けっしてありません。

今日の聖書箇所でシモンという名で表されているのは 後にペトロと呼ばれるようになるイエス様の一番弟子です。イエス様は 熱を出していたペトロのしゅうとめを癒やされました。それは、イエス様が、私たちの身近な課題 ‒ 自分の中では大問題だけれど、きわめて個人的な事柄・社会一般からするとささいな事柄と自分で思ってしまう事柄 ‒ に 確かに寄り添ってくださることを示しています。

癒やされたペトロのしゅうとめは 元気になって一同をもてなしました。「一同をもてなす」とは イエス様に、また隣人に仕えたことをさします。しゅうとめは、イエス様に癒やされて 喜んでイエス様を我が家に また心に迎えました。

私たちひとりひとりにとって、実に身近で現実的 かつきわめて困難な課題があります。私たちは皆、それを抱えています。私も抱えています。何の課題でしょう。家庭内伝道です。

まだ洗礼を受けておられないご家族に いったいどうしたらイエス様の福音を伝えられるのか。ことあるごとに そのことが心に思い起こされ 毎日の祈りとされておいでの方が多くおいでと存じます。

私も父・母に福音を伝えられないまま 二人を亡くしました。弟家族がいつか教会に来るようにと 祈る毎日です。

家庭内伝道は それぞれの課題です。家庭内伝道は また みんなが共通して抱え 時に同じ悩みを持つ者同士として分かち合う課題です。そして、つい 「祈るしかない」と諦め気味に思ってしまう課題でもあります。

私たちにとって身近な大問題である家庭内伝道を、イエス様は今日の聖書箇所で先立って行ってくださいます。

今日は恵みを最初に伝えたかたちになりましたが、さあ、御言葉をご一緒にたどってまいりましょう。

今日の聖書箇所は「すぐに」という言葉で始まっています。カファルナウムの町の会堂の礼拝でイエス様が説教をされ、礼拝が終わると イエス様と四人の弟子 シモン ‒ もうペトロと言い換えて良いでしょう ‒ とアンデレ、ヤコブとヨハネは「すぐに」会堂を出てペトロとアンデレの家に行きました。

あれ?と思う方も少なくないでしょう。弟子たちは それぞれ自分にとって実にたいせつな物を捨てて イエス様に従いました。漁師だった彼らは 四人とも、この世の生活を成り立たせる大切な道具である網を捨てました。ヤコブとヨハネは「父を雇い人と一緒に舟に残して」イエス様に従いました。家族すら後に残し、捨てるようにして イエス様に従う ‒ そのようにイエス様だけをひたすら慕い求める信仰を勧められていると 私たちは思いました。永遠の命をいただくには 厳しい覚悟が必要だと思わされました。

ところが、礼拝の後に一行がすぐに向かったのは 弟子のひとりの家族のところだったのです。弟子たちが涙を呑んで捨てた覚悟でいたかもしれない、そのところへ イエス様は真っ先に戻ってくださいました。

ここで「しゅうとめ」という言葉が出て来ます。夫から見て妻の母、奥さんのお母さんを「しゅうとめ」と申します。ペトロはイエス様の弟子になる前にすでに結婚して家庭を持っていたのです。パウロの手紙には、ペトロが妻を連れて一緒に伝道していたことが記されているところがあります。(コリントの信徒への手紙一9:5)ペトロの妻も イエス様を信じるようになり、クリスチャン家庭が営まれていました。

そのきっかけとなったのが、今日の聖書箇所の出来事だったのではないでしょうか。

さて、ペトロの家ではしゅうとめが熱を出して寝ていました。熱を出しているぐらいどうということはないと思いがちですが、「しゅうとめ」ですからある程度の年配だったでしょう。肺炎を起こしかけていたのかもしれません。そして、この日は安息日でした。律法で仕事をしてはいけないと定められています。医師を呼んでくることができない、治療をしてもらえない、極端なことを申せば看病さえできない日だったのです。娘であるペトロの妻は、気が気でなかったのではないでしょうか。他の娘たち ‒ ペトロの妻の姉や妹たち、他の兄弟たちも集まって気をもんでいたかもしれません。

その日の朝、イエス様は説教をされ、「神の国は近い」と神さまの愛によるご支配を告げ、人々の心を新鮮な喜びと驚きで満たしました。汚れた霊にとりつかれていた男の人から その霊を追い払って いやしのみわざを行われました。安息日であるにもかかわらず、堂々と病んでいる人を治されたのです。この方なら、と人々は思ったに違いありません。この方なら、何を打ち明けても大丈夫と深く信頼したのです。

ですから、熱に苦しんで横たわるペトロのしゅうとめを囲んで どうしようと気をもんでいた人々はイエス様に頼りました。31節に、イエス様がすぐにペトロのしゅうとめのそばに行ってくださったことが記されています。そして、手を取って起こすと、たちどころに熱は去りました。元気になったのです。

ペトロのしゅうとめ本人も、心配していた家族も、どれほど喜んだことでしょう。イエス様が誰かの手を取られる・呼びかけられる、それは御言葉を与えられた私たちの時代にあっては 聖書の言葉を通してイエス様に招かれることです。イエス様に呼びかけられることです。

私たちは名前を呼ばれたら、お返事をいたします。自然なことです。

私たちは嬉しいことがあったら、それを表さずにはいられません。自然と頬がゆるんで笑顔になります。しかも その嬉しいことというのが、誰かにしてもらったことだったら 私たちにとって最も自然な表し方は何でしょう。これは3歳ぐらいの小さなお子さんでも知っていることです。お名前を呼ばれたら「はい」とお返事をする。何か嬉しいことをしてもらったら「ありがとう」と言う。このことです。

癒やしていただいたペトロのしゅうとめは、イエス様にどんなお返事をしたのでしょう。どんな「ありがとう」を言ったのでしょう。

31節の最後にそれが告げられています。「彼女は一同をもてなした。」

「もてなす」‒ ここは 聖書のもとの言葉・ギリシャ語で「仕える」「奉仕する」を意味する語がそのまま用いられています(ディアコノス)。イエス様に招かれたペトロのしゅうとめのお応えは 一同 ‒ 神さまに仕え イエス様に仕え そして隣人に仕えることでした。

こうして、ペトロのしゅうとめは イエス様の恵みを知り、イエス様に仕え 隣人に仕え 主を知り福音を信じる者とされてゆくのです。ペトロの妻、またその時 家にいた者たちも そうして主に従う者とされたのでしょう。そして、コリントの信徒への手紙一でパウロがペトロとその妻について記したように、この夫妻はイエス様に従う伝道者とされました。

また「おもてなし」は、相手の方を迎え、相手の方の目・耳・鼻・口そして体と心に心地良さを提供することです。英語で「おもてなし」をホスピタリティと申しますが、これがいやしの場所である病院・ホスピタルと同じ語源を持つことは ご存じのとおりです。

こうして、イエス様が初めて会堂で説教をされた安息日は、三つの驚きと喜びのうちに終わりました。一つは、イエス様の説教そのものです。二つ目は、会堂での汚れた霊を追いだして 一人の男の人を癒やしたいやしの奇跡です。三つ目が、イエス様が家においでくださり 弟子の最も身近なところでいやしの奇跡と伝道のわざを行われた、このことです。

ユダヤ民族は一日の始まりを日暮れに置きます。私たちは一日が日の出と共に始まると考えますが、聖書では一日は日の入り・日没と共に始まります。32節をご覧ください。「夕方になって日が沈むと」と記してあります。日暮れと共に安息日が終わり、新しい一日が始まりました。

会堂でイエス様の説教を聞き、男の人が癒やされたのを目の当たりにした人々の中には、家に病気の人がいる者が大勢いたのでしょう。いえ、私たちも家族がみんな揃って元気、みんなが若くて何も支障がないという人はほとんどいないのではないでしょうか。病気の人がいる者たちは、安息日の間は律法を守って家でじっとしていました。しかし、安息日が終わって平日・平常どおりに仕事や用事ができるようになると、一斉に病気の人たちをイエス様のもとに連れてきたのです。33節にはこう記されています。「町中の人が、戸口に集まった。」

これは、誰の家の戸口でしょう。イエス様がおられる家、ペトロの家です。主に従う者・イエス様を心に宿す者の家です。

ペトロの家は、実際にイエス様が伝道活動をなさる拠点となりました。イエス様は弟子たちと共にこの家に住まわれ、この家のあるカファルナウムの町で宣教活動を展開されたのです。

私たちが「家庭集会」をたいせつにして、教会の方のおうちで集会を開き、そこに初めて福音に触れる方を招く聖書的根拠がここにあります。家庭集会から伝道所へ、伝道所から教会に育って行く群れもあります。

イエス様が宿られる家。それはきよめられた家です。聖なるものとされた家です。だから、今日の聖書箇所の最後はこう語ります。「イエスは、多くの悪霊を追いだして悪霊にものをいうことをお許しにならなかった。」悪霊はイエス様が神さま・聖なる方であることを はっきりと知っていて 退いてゆきます。こうして イエス様が私たちを悪い者から守ってくださるのです。

私たちは家庭内伝道に行き悩むことがあります。時には、家庭の中でただひとりのクリスチャンとして苦しい立場に立たされることもありましょう。ご家族の皆さんが自分以外はみんな いわゆる「お休み」で、団欒を楽しもうとしている日曜日に ご家族を振り切るようにして礼拝に来られる方もおられます。礼拝に来ることそのものが試練という覚悟をもって、教会生活を続けておられる方もおいででしょう。

イエス様は、そのお一人お一人を見守っておられます。イエス様を心に宿す者が住まう家。それはすでにイエス様が清められた家です。癒やされたペトロのしゅうとめが、元気になり 喜んで おそらくはすばらしい笑顔でイエス様に仕え 家族みんなをもてなしたように、家庭内伝道に行き悩むときも どんな時も 主を信じて心を高く挙げましょう。イエス様を心にお迎えして、今週一日一日の恵みを期待して、新しい一週間を始めましょう。

2019年9月22日

説教題:新しい教えに驚く

聖 書:詩編119編105-112節、マルコによる福音書1章21-28節

あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯(ともしび)。

(詩編119編105節)

人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

(マルコによる福音書1章27-28節)

前回ご一緒に読んだ聖書箇所で、イエス様は四人の漁師を弟子にされました。四人の弟子がイエス様の後について行った ‒ この言葉で、終わっていました。

イエス様と四人の弟子が、最初の目的地に到着したことから、今日の御言葉は始まっています。カファルナウムはガリラヤ湖の北の岸辺の町です。その町の会堂で安息日に天の父の御心を告げることが、イエス様の目的でした。

天の父・神さまの真実を、イエス様はこの時よりも前に語り始めておられました。荒れ野の誘惑に遭った後、「神の国は近づいた」とガリラヤで伝道を始められました。四人の弟子も、おそらくその説教を聞いて、イエス様に従う決意を起こされたのです。

しかし、イエス様は、それらの説教を会堂で語ったのではありませんでした。「安息日に会堂で説教を語る」とは、特別な意味を持っています。そもそも会堂とは何でしょう。シナゴーグとも呼ばれます。ユダヤ教を信じる人たち、私たちが持っている旧約聖書を聖書とする人たちが、集会を持つ場所は今でもそう呼ばれています。シナゴーグ・会堂の集会で、人々は旧約聖書の中でも特に「律法」を学びました。神さまがくださった掟を生活のきまりとして学んでいたのです。

また、安息日は特別な日でした。仕事も用事も行わず、火を熾して料理せず、あらかじめ準備したものを食べて、心と生活のすべてを神さまに集中する日です。「安息日に会堂で語る」とは、神さまの掟・神さまの御心を語ることを意味します。安息日に、会堂で神さまのことを語ってこそ、ユダヤの人たちはそれを神さまからの言葉としてうけとめます。そのために、イエス様は会堂で安息日に教えを初めて語られました。

イエス様の言葉を、人々はどう受けとめたでしょう。22節にこう記されています。「人々は非常に驚いた。」人々は目が覚めるような、初めての経験をしました。神さまからの御言葉が、直接、神さまの御子を通して人間に語られたのです。

当時、会堂で律法を教えていたのは、主に律法学者でした。聖書の律法にこう書いてあるから、実生活では、それをこう実行しなさいと、言ってみれば学校の授業のように教えていたのでしょう。

私たちも生活の中で、何が正しいのだろうと思うことがあります。お隣の柿の木の枝が、垣根を越えて我が家の庭に伸びてきた。そこに柿の実がなった。実が枝についていれば、それはお隣のおうちのもののような気がする。実が我が家の庭に落ちても、やっぱりそれはお隣のうちのもので、黙って食べたら盗みだと訴えられるのだろうか。しかし、一方、お隣のうちの人が、我が家の庭に落ちた実を自分のものだからと言って断りもなく拾いに敷地内に入ってきたら、家宅侵入罪だと訴えることができるのだろうか。いろいろなことが考えられます。

私たちの日常生活の中では、これは法律の専門家に尋ねないとわからないことです。その法律の専門家が、ユダヤ教では律法学者です。

教えてもらうと、なるほどと思います。それを丁寧に守っていれば、誰かに訴えられることもなく、安心して正しく暮らせます。

律法には、その源に神さまの愛があります。神さまは人を愛され、平和に過ごすようにと思いやりをこめて掟・決まりを授けました。それを知ることには、深い感謝と感動があります。律法学者は、その源よりも、律法を守るテクニックを教えていたのではないでしょうか。

イエス様は、直接、その源・神さまの愛に目を向けるようにと語りかけました。「神の国は近づいた」と宣言された、その言葉を会堂でも語られたでしょう。

イエスというこの人は、と人々は驚きました。律法学者のようにテクニックを語るのではなく、「権威ある者としてお教えに」なる。

「権威」とは、「支配」や「権力」と同じように、私たちにとって みみざわりの良い言葉ではありません。

私たち日本の文化の中で育っている者は、特に、謙遜を好みます。「実るほどこうべを垂れる稲穂かな」と、本質的に優れていて力があればあるほど、腰低く、へりくだる態度が望まれます。同じ人間同士なら、そうかもしれません。しかし、イエス様が神さまであり、本来は私たちと別次元の方であることを思い起こしましょう。権威とは、神さまが絶対的な方、他に相対(あいたい)する者がいない、超絶的な力と素晴らしさをお持ちの方であることを示します。

もとの聖書の言葉では、「権威」には「許可をもらった者」という意味があります。イエス様は、まさに神さまの御子として、神さまの御心を語る者として特別に遣わされた方なのです。

しかし、この時、人々はイエス様が神さまの子だとは分かりませんでした。ただ、イエス様の語る言葉が、これまで聞いてきた説教とは違い、神さまにまっすぐ自分たちを向けようとすることは、聴き取れたのです。新鮮で、喜びと感動に満ちた「驚き」の体験でした。

イエス様がどなたであるかを見抜いたのは、人間ではありませんでした。汚れた霊には、それがわかったのです。汚れた霊は、聖なる者を嫌い、恐れ、天敵のように怖がります。それが、その時、ひとりの男の人にとりついていて、恐怖に絶えられず叫び出しました。24節の言葉です。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」

ここを読むと、これは昔の話・非科学的なお化けの話と同じレベルと思ってしまう方も少なくないと思います。しかし、汚れた霊の「かまわないでくれ」という言葉は、実は私たちのうちに潜んでいます。この箇所は、聖書のもとの言葉を訳すと「イエスよ、あなたは私たちと何の関係もない」‒ こうなります。

教会でこの言葉が実際に発せられるのを、私は聞きました。

献身前、私が教会学校教師をしていた時、教会学校に子どもさんを連れてきたお母さんがおられました。子ども礼拝が始まると、その方は学校の授業参観日の保護者のように、席に座らずに会堂の後ろに立っていました。子どもの数はそれほど多くなく、会堂の席はがらがらにあいていますから、牧師は「どうぞ お母様もご一緒に。お席にかけて」と声をかけました。私は、その方が讃美歌も聖書も持っていないことに気付いて、あわててお渡ししようとしました。しかし、そのお母さんは、堅い顔で受け取ろうとしませんでした。そして、牧師と私にこう言いました。「私はキリスト教に関係ありませんから。」思わずたじろぐような強い口調でした。「かまわないでくれ。ほっといてくれ」という思いが伝わってきました。

きっとこの方は、宗教全般に警戒心を持っておられたのでしょう。しかし、教会学校はお子さんの情操教育に良いとどなたかに勧められたのか、教会に来られたのです。このようなシチュエーションは、かなり頻繁にあると思います。また、「私はイエスに何の関係もない」「キリスト教に関係ありません」という言葉もよく聞かれると思います。

関係ないと、関わりを持とうとしない心は、寂しい心です。命の根源であり、生きる喜びの源である神さまに招かれていながら「関係がない!」と関わりを絶ってしまうのは、あまりに残念です。

命の主に向かおうとしない心、自分を造られた神さまを拒む心は、どこに向かうのでしょう。神さまではないものを、これさえあれば大丈夫と大切にするようになるのではないでしょうか。お金や、名誉や、社会的地位。自分が築き上げてきた経歴や、努力の成果。自分しか頼る者はないと、自らを神としてしまうこともあるでしょう。

神さまはただお一人の方です。神さまでないもの、聖なるものではないのに、私たちが神としてしまうものは、今挙げただけでもいくつもあります。悪霊がどういうわけで「我々」と自分たちを複数で言うのか、少しわかるように思えます。

関わりを持とうとしない心は、孤独です。助けを求めようとしないし、助けようともしません。まわりはみんな競争相手、だれもかれをも蹴落とすばかりです。

そして、どんどん神さまに背を向けて、離れて行ってしまうのです。

イエス様が伝道を始める時におっしゃられたのは、この言葉でした。「悔い改めて福音を信じなさい。」「悔い改めて」とは、神さまの方にまっすぐに向き直ることです。神さまから背を向けて離れようとする寂しい心に、帰っておいでと強く呼びかける招きの言葉です。

しかし、人間には自分がどっちの方向を向いているのかさえ、わからないことがあります。神さまをまったく知らない時は、それは仕方ないことでありましょう。先ほどお話ししたお母さんは、そうだったのです。ただ、私たちは神さまの方を向いていると自分では思っていても、とんでもないところ・実に的外れの方角に走り出してしまうことがあります。的外れ。聖書では、まさにこの言葉が罪をさします。私たち人間という弱い者は、その罪によって神さまからとんでもなく遠く暗いところに引き込まれてしまいます。その暗さに引き込む力が悪霊であると言って良いでしょう。

のちにイエス様がゲツセマネの園で逮捕された時、ペトロは何と言ったでしょう。「そんな人は知らない。」(マルコ14:71)あのイエスと言う人と、自分とは関係がないと、イエス様を裏切ってしまったのです。そのほんの少し前、ペトロは力を込めてイエス様に こう言い張ったのに。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」マルコ福音書14章31節です。

私たちは、この箇所を読む時、ペトロの弱さに胸をえぐられるように思います。それは、いつ自分がペトロと同じことをしてしまうか、知らずに神さまを裏切り、またはユダのように神さまを売り渡してしまうか、わからないおののきを感じるからです。汚れた霊のひろげる誘惑の暗闇に、自分がいつ落ちこむか、わからないからです。

しかし、イエス様はその汚れた霊を叱りつけてくださいます。「黙れ。この人から出て行け。」すると、26節にあるように、汚れた霊は逃げ去って行きます。この男の人は、けいれんを起こしましたが、その後はイエス様を心に迎えたでありましょう。

復活のイエス様は、自分を裏切ったペトロを「わたしの羊を飼いなさい」とゆるしてくださいました。自分がどこに向かっているかすら見えない、この世に生きる私たち。自分の弱さのために、汚れた闇に取り込まれる私たち。その私たちを、イエス様は十字架に架かり、ご自身を犠牲にして聖なるものとして取り戻してくださいます。

神さまがイエス様を遣わしてくださったことで、律法学者が教える時代・旧約聖書の時代は新しくされました。闇を払ってくださる神さまが、本当においでくださいました。これは、すごいとしか言いようのないことです。真実の力である権威・神さまから遣わされたイエス様が、喜びに満ちた豊かな生き方を教えてくださる時代に、私たちは生きています。

この恵みの大きさに、今日、あらためて驚き、あらためてイエス様に感謝を献げましょう。日々、新しくイエス様の教えを心にいただき、日々、救われた幸いに満たされながら、今週一週間も進んでまいりましょう。

2019年9月15日

説教題:わたしについて来なさい

聖 書:エレミヤ書16章14-21節、マルコによる福音書1章16-20節

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

(マルコによる福音書1章16-20節)

前回主日・9月8日に、私たちは特別伝道集会を持ちました。イエス様の愛と主の御言葉が広く伝わるようにと祈り願いつつ礼拝を献げ、共に食事をして交わり、神さまの御手に導かれて共に生きることをめざす愛の実践を促す講演を聴きました。

神さまの御言葉で心を満たされたら、次はそれを誰かに伝えたくなる – その伝道の思いをさらに強めていただく一日に恵まれました。

伝道。その大切さを私たちはよく知っています。今、ここにいる私たちは、ひとり残らず、イエス様のこと・聖書のこと・教会のことを誰かから伝えてもらって、ここにいます。伝えてもらうこと・伝道を通して、御言葉の恵みの深さを知ったのです。

しかし、いざ自分が伝道をしようと思うと、何をどうしたらよいのか、どう伝えればよいのか戸惑ってしまいます。同じ日本語を使っていながら、神さまのこと・聖書のこと・イエス様と教会のことを 教会に来たことのない誰かに伝えようとすると、どうしてこうも伝わりにくいのかと思わずにはいられません。

今日のマルコ福音書の御言葉には、その伝道のもとい・伝道の根幹が語られています。

聖書の言葉をたどりながら、伝道について思いをめぐらしてまいりましょう。

今日の聖書箇所の直前、マルコ福音書1章14節から15節には、イエス様がみずから「神の福音を宣べ伝え」られたことが記されています。イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と呼びかけられました。

次にイエス様がなさったことが、今日の聖書箇所に記されています。イエス様は何をなさったのでしょう。四人の漁師を弟子にされました。ご自身の呼びかけに従って「悔い改めて福音を信じる者」を興し、つまりは伝道され、一緒に伝道する弟子・仲間を作られました。

伝道はイエス様と共に行い、そしてイエス様と二人だけでなく、仲間と共に行うこと。それが、よくわかります。

聖書はこのように告げています。16節をお読みします。「イエス様は、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。」イエス様は、湖のほとりから、舟で漁師の仕事をしている兄弟に話しかけられました。

ユダヤの漁師は、釣り竿ではなく網を使ったそうです。それも、仕掛けておくのではなく、網を湖にばっと投げ、その網を手元にたぐり寄せて、そこに入った魚を捕るという豪快な漁の仕方をしました。今お読みした聖句の中に「網を打つ」という表現があります。これは網を水面に広がるように投げることをさします。束ねてある網を、手元からきれいに水のおもてを覆うように広げて打ち、いっぱいに広がった網は水の中の広い範囲に落ちて、そこにいる魚を捕らえます。そして、漁師は魚で重くなったその網を手元へと引き寄せるのです。これには力とわざ、そして経験が必要だったでしょう。

ユダヤの漁師たちは、漁師の父親に子供の頃から網打ちを教えられ、仕込まれて一人前となり、漁師として生計を立てて行けるようになったと思われます。漁師にとって、網は自分が漁師だということを表すしるしでした。網の扱いに優れているとは、優れた漁師だということでした。上手に網を扱って、多くの魚を捕り、良い値で売ってユダヤの家々の食卓を豊かにする、そうして自分もまわりも幸せになる ‒ それがユダヤの漁師の生きがいであり、誇りだったことでしょう。シモン - 彼は後にイエス様からペトロと呼ばれるようになります – とアンデレの兄弟は、そうして一生懸命、自分の生業(なりわい)に励んでいたのでした。

イエス様は、そんな彼らに、湖の岸辺から大声で呼びかけました。「わたしについて来なさい。」

シモンとアンデレの兄弟が、イエス様に会ったのは、この時が初めてではなかったと思われます。イエス様が「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と最初の説教をされた時、彼らはそこに集まった人々の中にいて、じっと耳を傾けていました。

イエス様が湖のほとりで神さまの話・説教をされるたびに、彼らは、そこにいて、教えを聞いていたでしょう。湖が漁師である彼らの仕事の場所なので、自然と耳に入ったこともあったでしょうし、イエス様を囲む人々の中に自分からすすんで交じったこともあったでしょう。

しばらく、そのような日々が続いた後に、イエス様は彼らに声を掛けました。「わたしについて来なさい。」

このイエス様の言葉を聞いて、シモンとアンデレの兄弟はどうしたでしょう。聖書は私たちにこう告げます。18節をお読みします。「二人はすぐに網を捨てて従った。」

彼ら二人はすぐに、迷うことなしに、網を捨てました。漁師のしるしである網を捨てたのです。この世で誇りとする物・自分の生活を支える物を手放して、イエス様について行きました。

シモンもアンデレも「ついて来なさい」とおっしゃったイエス様に、ひと言も問いかけませんでした。「どうして、ついて行かなければならないのですか」「仕事中の私たちに、なんでそんなことをおっしゃるのですか」とは、尋ねなかったのです。

さて、イエス様と、イエス様に従うシモンとアンデレの三人は湖沿いの岸をさらに少し進みました。そこで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟アンデレが網の手入れをしていました。

網を手にしていたと書いてある ‒ これだけで、彼らが漁師であることがわかります。しかし、同じ漁師でも、ヤコブとヨハネは、シモンとアンデレの兄弟とはだいぶ違っていました。対照的と言ってよいでしょう。シモンとアンデレは、元気いっぱいに網打ちをしていました。ヤコブとヨハネは、舟に乗ってはいましたが、網打ちではなく、網の手入れをしていたのです。「手入れ」と訳されていますが、もとの聖書の言葉は「もとの姿に戻す・直す」という意味の言葉です。ヤコブとヨハネは破れてしまった網を、うつむいて必死に繕っていました。

シモンとアンデレが漁師として成功した姿だとすれば、ヤコブとヨハネは漁師として苦しい立場・逆境にあったと言って良いでしょう。

生活を支える道具・網が破れてしまい、使い物にならなくなって、暗い気持ちで一生懸命、直していたのです。

イエス様は、彼らを呼びました。ヤコブとヨハネの名をご存じだったのです。シモンとアンデレと同じように、彼らもイエス様の説教をたびたび聞いていた、ただ聞いていただけでなく、イエス様が彼らの名を知るほどに親しくなっていたと思って良いでしょう。

イエス様は、聖書の中で、慈しみと親しみをこめて弟子の名を、また人々の名を呼ばれます。この時、イエス様が彼らの名を呼んだ声には、破れた網を繕っている彼らを励ます優しい思いがこめられていたと、つい私は想像してしまいます。

呼ばれた彼ら、ヤコブとヨハネはどうしたでしょう。今日の聖書箇所の最後の聖句は、こう告げます。「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」

彼らは、イエス様に呼ばれて、まず大事な網を手放しました。さらには網と同じように生活を支える舟を、手放しました。舟には、彼ら兄弟を育て、年老いたら養うはずだった父が乗っていました。しかし、彼ら二人はその父を残してイエス様について行ったのです。

ヤコブとヨハネも、先の二人・シモンとアンデレと同じように、イエス様に「どうして、なんで私を呼ぶのですか。なぜ私について来なさいというのですか」と尋ねませんでした。

イエス様が「ついて来なさい」「私の後に従いなさい」とおっしゃるときは、問答無用です。イエス様が自分を呼ぶ声を心のうちに聞いたならば、ただついて行く。それだけです。

これは、最近になって私自身が、ようやく心の底からわかってきたことのように思います。

生きていると、小さな困ったこと・大きな苦難、さまざまな悩みごとが絶えず襲ってきます。自分が招いたのではなく、病気や事故のように厄介ごとが雨のように身に降りかかります。その雨の中をひたすら歩いて行くのが人生なのかもしれません。時間は過去から未来へと流れていますから、私たちは立ち止まりたくても、止まることはできません。無理矢理止まっても、前へ流されてゆきます。私たちは進むことしかできないのです。

その中で、どうして私にこんなことが?と問いかけたくなる苦難があるでしょう。しかし、問いかけても無駄だと、私はずいぶん前からうっすらと思うようになり、割合に最近になって、それは確信となりました。私に起こることは、それが私自身にとって良いと思えることも、むごいと思えることも、すべて神さまが私に与えるとお決めになったことだからです。私がどれほど知恵をめぐらそうと、どれほどのたうちまわって苦しもうと、神さまがお決めになったことは、私のこの身と心に否応なしに起こるのです。なぜ?と問う余地はありません。

問うよりも、イエス様を探しましょう。私たちは、時間の流れの中・苦難艱難の雨の中を、否応なく前に進まざるを得ません。その時、私たちにできるたったひとつのことは、前に進む最も良い道・正しい道を知ることだけでしょう。その道は、イエス様こそが教えてくださるからです。わたしについて来なさい、そうすれば、あなたは雨も暗闇も無事に通り抜けて、光の中を歩めるから。イエス様は、そう私たちを招いてくださいます。イエス様は、この世の充実した人生のさなかにあったシモンとアンデレも、破れた網・破れた心でうつむいていたヤコブとヨハネも、同じように招かれました。どのような人も、イエス様に呼ばれ、招かれています。

特に苦難の時には、イエス様だけを、聖書の御言葉の中に探せばよいのです。神さまだけが私たちの頼りであることは、今日の旧約聖書エレミヤ書の言葉が告げています。その箇所をお読みします。エレミヤ書16章19節です。「主よ、わたしの力、わたしの砦 苦難が襲うときの逃れ場よ。」神さまの御心を示し、主にある平安を示してくださるのは、イエス様です。だから「わたしについて来なさい」と呼ばれ、招かれたら、どれほど疑問に思っても素直に従えば、安心へと導かれます。

最後に、厳密には最後から二番目のことになりますが、「人間をとる漁師」のことを少しお話しします。この言葉は、不思議に思えます。魚が漁師に捕らえられると、魚にとって少しも良いことはありません。それなのに、どうしてイエス様は人間を捕られる魚にたとえた表現を使われるのだろうと、私も長く思っていました。こういう考え方・解釈に出会いましたので、ご紹介します。魚は水の中で息をする・えら呼吸をするように造られていますが、人間は水の中では生きられません。私たちは、水中でもがくように、苦しいこの世を生きているのです。しかし、イエス様は大きな強い網で、私たちをすくい上げてくださいます。すくい上げられ、引き上げられて初めて、私たちは神さまの恵みを知り、楽に息ができるまことの命の幸いを知るのです。私たちをすくい上げる代わりに、ご自身が水底に沈む ‒ その十字架の出来事への覚悟を抱きながら、イエス様は私たちを命の主へと導いてくださいます。

まことの命・神さまの安心をいただくとは、この世の何物・何事にも代えがたい大きな恵みです。そのことを、今日のマルコ福音書の御言葉は、イエス様について行く四人がこの世を生きる上で大切な網・舟、父さえもあとに残してゆくことで言い表しています。

伝道とは、この世の何物・何事に頼るよりも、イエス様に従って神さまお一人を頼りとする心の姿勢を、私たちが保ち続けることを指します。この世がその姿勢を見て神さまのすばらしさを知ること、少なくとも初めは クリスチャンがこれほど真剣に寄りすがる神さま・天の父が どのようなお方なのか知りたいと思うようになること、これが伝道です。

今日の旧約聖書の聖書箇所の最後の聖句は、それを告げる神さまの御心が語られています。お読みします。「わたし」は神さまご自身です。「それゆえ、わたしは彼らに知らせよう。今度こそ、わたしは知らせる。わたしの手、わたしの力強い業を。彼らはわたしの名が主であることを知る。」神さまは、ご自身を人々に知らせるためにイエス様をこの世に遣わされ、イエス様は、弟子を招き、私たちを招いて伝道を進めてくださいます。今も、生きて働くイエス様である聖霊が働いて、「わたしについて来なさい」と呼び招いてくださいます。その御声に従いましょう。新しい心で、イエス様について行きましょう。今週も、主に従って一週間を歩んでまいりましょう。

2019年9月8日

説教題:共に生きるために

聖 書:コリントの信徒への手紙一12章12-26節

わたしたちは、体の中でほかよりも格好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好良くしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をもっと引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

(コリントの信徒への手紙一12章12-26節)

今日、私たちは教会の一日を特別伝道集会として過ごします。午前の礼拝と、午後の木下勝世先生による講演会の主題・テーマは同じです。一貫しています。「皆、神さまに造られた者として、共に生きる」 ‒ このテーマです。

聖書には、神さまが最初の人間アダムのために、その妻エバを造られた時のことがこのように記されています。創世記2章18節です。お読みします。「主なる神は言われた。「人が独りでいるのはよくない。彼に合う助ける者を造ろう。」こうして、神さまはアダムのあばら骨、人の心臓にもっとも近い骨を取って、それからエバを造られました。もともと、アダムとエバはひとつの体だったのです。だから、互いを探し求め合って、二人で一つの体となり、心と力を合わせて、助け合い協力し合って生きてまいります。

独りでいるのはよくない、一人では完全ではない、と神さまがおっしゃいましたが、この言葉は結婚を勧めているばかりではありません。もっと広い視座に立った言葉です。人は必ずだれか他の人と生きてゆく、そして、そこに一緒にいる必要と、一緒に生きる喜びがある ‒ そもそもそのように造られていることを表しています。

しかし、誰かと一緒に暮らすのは決して喜ばしいことばかりではありません。皆さんも、高校生ぐらいの頃、こう思った経験がおありでしょう。お父さん、お母さんと衝突して「こんな家、出てってやる。好きでこんな家に生まれたわけじゃない。僕には、私には、お父さんやお母さんと違う生き方がある」と心の中でつぶやいたことがあるのではないでしょうか。

違う生き方。お父さん・お母さんと違う生き方。人とは違う生き方。そう思うのは、実は正しいことなのです。神さまの御心どおりです。神様は、私達をそれぞれ、ただ独りしかいない者として造られました。

自分と同じ人は、どこにもいません。過去にも自分と同じ人はいなかったし、これからの未来にも自分の「そっくりさん」が現れることはありません。遺伝子を同じにする技術によって生まれるクローン、そして「自然界のクローン」と呼ばれる双子ちゃん、三つ子ちゃんはそっくりではないかと思う方もおいでかもしれません。しかし、身近に双子ちゃんがいたことのある方は、よくご存じでしょう。見かけはそっくりでも、二人の性格や食べ物の好みは違います。似ているかもしれませんが、まったく同じではないのです。

私たちはみんな、違います。違うけれど、一緒に生きてゆくように造られています。その違いを、私たちがどう受けとめれば良いかを、今日の聖書箇所は語っています。

今日の聖書の言葉で言えば、私たちは全員が目ではありません。また、全員が耳でもないのです。そうなってしまったら、それは体とは言えないと、御言葉は告げています。

体が一つの体となるのは、実にいろいろな、それぞれ違うけれど、それぞれが必要な部分を備えているからです。こうしてみんなで集まって、ひとつの体を造り上げていると、今日の聖書の言葉は語ります。

これは、たとえのように聞こえるかもしれません。しかし、教会について言えば、ここに書かれていることは、実はたとえではなく、事実なのです。それがありありと実感になるのは、私たち教会が、ひとりの人のように意志を持つことに思い至る、その時でしょう。

こう考えるとわかりやすいかと思います。人数の少ない小さな教会があり、そのお隣に百人を超える大教会があって、大きな教会が小さな教会に、合併しようと上から目線で言ってきたとします。しかし、人数の少ない教会は、その教会にしかない独自の歩みを持っています。

私たちは私たちで進みたい。その決心は、神さまから与えられます。教会はイエス様の体ですから、その御心を顕します。そして、それをはっきりと表明する小さな教会に、誰も、大きな教会と合併しなさいとは言えません。

教会はひとつひとつ、毅然としたひとつの意志を与えられています。

ところが、ひとつの意志を持つ・心をひとつにするというこのことが、たいへん難しいのです。教会を造り上げているひとりひとりが、それぞれ、神さまから違う者として造られたひとりひとりだからです。思いや願いが違い、考えも違います。

今日の聖書の言葉は「コリントの信徒への手紙一」という、伝道者パウロが書いた手紙の中にあります。宛先はコリントというギリシアの都市にある、コリント教会です。その教会の中では、立場や考え方、生活環境の違いからいさかいが絶えませんでした。パウロはそれをたいそう心配して、この手紙、そして今日の言葉を書き送りました。

ここに書かれているように、コリント教会には、ユダヤ人とギリシア人、言葉も人種も異なる民族が一緒におりました。奴隷も、その持ち主も、一緒にいました。裕福な人たちと、貧しい人々がいました。そして、その違いのために、心をひとつにすることができずにいさかいを繰り返し、教会は進む方向を決められずにいたのです。

パウロは、このように記しています。今日の聖書箇所で、パウロは私たち人間が「違い」をどのように思うかを、こんな言葉で言い表しています。「ほかよりも弱く見える」「ほかよりも格好が悪い」「格好が良い」「見栄えの良い部分」「見劣りのする部分」「見苦しい部分」。

「違い」は、ただ違うということにおさまりません。私たち人間は、違いを見つけると、必ずそこにどっちが優れているかを見ようとします。比べてしまうのです。優劣・勝ち負けを決めたがります。

それは、私たち人間の目にどう見えるかということに過ぎません。先ほど抜き出した言葉に、それははっきり表れています。

「弱く見える」「格好」「見栄え」「見劣り」「見苦しい」。

私たちは、どう見えるかにこだわります。しかし、私たちは、ものごとを正しく公平に見る目を持っているでしょうか。持っていません。ひとつの角度からしか、私たちは見ることができません。自分の立っているところからしか、物事を見られない私たちなのです。

「違い」を、どっちが良いかという優劣・評価にしてしまう私たちは、簡単に「違い」を「差別」にします。互いに差別し合い、罵り合い、憎み合う時、私たちは互いの間に壁を作り上げてしまいます。

一方、神さまの目に「違い」は何に見えるのでしょう。

その答えは、今日の聖書箇所の少し前にあります。12章の冒頭、315ページの下の段のところで、パウロはコリント教会に、こう語りかけています。「兄弟たち、霊的な賜物については」。霊的な賜物。これは、こう言い換えられる言葉です。「神さまが、ひとりひとりに特別に与えてくださる贈り物」。

「違い」を、私たちは自分の欠点と感じることがあります。私は若い頃、自分が骨張って痩せた体つきで、女性らしく優しげにふっくらしていないことがいやでたまりませんでした。爪のおしゃれが流行り始めた頃、自分の爪があまりに小さくみっともないので、いつも指先を手のひらに握り込むようにして隠していました。外見も性格も、実に欠点ばかりの自分なのです。

しかし、自分ではいやだと思っているその欠点も含めて、すべてまるごと、神さまがお造りになった私です。創世記1章31節、聖書の第2ページには、こう書いてあります。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」

神さまは天地を創造された後、造られた物を「極めて良かった」とおっしゃいました。天地の中には、すべてがあります。私たちも、造られたのです。そして、ひとりひとり、神さまの目には「極めて良い」ものなのです。

自分の目には欠点と見えるものすら、神さまは大切に思ってくださいます。

見た目の欠点とは限らない場合もあります。本当に、どうして自分には、他の人たちが、ごく当たり前に持っているものがないのだろうと思うことがあります。私ごとばかりで恐縮ですが、私の場合は、子供です。結婚して何年も経つのに、どうしても、どうしても、子供が与えられませんでした。若い頃は、ご年配の方に「あなたは、子供が嫌いなのでしょう。働き続けたいから、子供を産まないのでしょう」と言われるのが、たいへんつらく思えました。

神さまは、どうして私をこのように造られたのか、答えは与えられていません。ただ、長い間 祈り、考えて、今の私が思うのは、このことが、私にとっての神さまからの恵みだということです。

宗教改革者ルターは、人間は「恵みの器」だと言いました。器は、ものを入れるための道具です。中がうつろで、へこんでいないと、何も入れることができません。神さまからの恵みがくだってきても、うつろなところ・欠けているところ・へこんでいるところがなければ、受け取ることができません。

恵みは、慰めと言い換えて良いでしょう。励ましでもありましょう。

また、欠けているところ・へこんでいるところは、まわりの他の方に補ってもらうことができます。補い合うことで、私たちは互いにつながります。これも、神さまからの恵みです。それぞれが違っているからこその、恵みです。

だから、今日の聖書の言葉はこう私たちに語るのです。22節です。「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」

そして、欠点ゆえに、私たちは互いに補うかたちでつながりあい、

24節にあるように「組み立てられ」、「体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合って」います。

補い合い、助け合う。それは、互いへの配慮・思いやりへとつながります。今日の聖書箇所最後の聖句は、こう語ります。26一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。思いやりは、深い共感と一体感・愛へと育てられてゆきます。この愛こそが、共に生きることの根底にあります。また、共に生きるとは、イエス様の愛に包み込まれることです。それは、次のページをご覧になれば、明らかでしょう。共に生きることを語ったすぐ後に、パウロは愛を語ります。13章には、「愛は忍耐強い」から始まる「愛の讃歌」が、高らかに奏でられています。この箇所にある「愛」を、「イエス様」と置き換えて読んでよいでしょう。

私たちが互いに補うことのできない、究極的な欠け・不足があります。それは、私たちの罪です。どうしても、どうしても、他の人ではなく、自分のことしか考えられない・自分しか大事にできない・自分こそが正しいと強く自己主張して相手を深く傷つけてしまう、わたしたちのその罪です。その大きなへこみ・深い穴を、埋めてくださったのはどなたでしょう。イエス様こそが、そのへこみ・穴、罪をご自分の命をもって埋めてくださいました。あがなってくださいました。

私たちが共に生きることを考え、思い巡らす時、私たちのために十字架に架かってくださったイエス様の愛が、私たちの命の土台にあることを忘れずに心に留めて、今日から始まる一週間、心を高く挙げて進み行きましょう。

2019年9月1日

説教題:神の国は近づいた

聖 書:イザヤ書40章1-2節、マルコによる福音書1章14-15節

慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。 罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と。

(イザヤ書40章1-2節)

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

(マルコによる福音書1章14-15節)

今日の御言葉は、いよいよイエス様が神さまのためのお働きを始めたことを告げています。イエス様は、たいへん力強く、このように宣言されました。「時は満ち、神の国は近づいた。」

イエス様が、神さまだからこその宣言の言葉でした。

イエス様は、こうはおっしゃいませんでした。「さあ、自分は洗礼も受け、サタンの誘惑も退けた。神さまの使命を果たす十分な準備ができたから、さて、出発だ。」私たち人間の言葉としては、たいへんふさわしいと思います。しかし、イエス様は、御自分が整えられこと、言ってみれば「ご自身の都合」で、伝道の旅と、十字架への歩みを始めたわけではありませんでした。

すべてに先んじて、揺るがせにならない神さまのご計画があり、そのご計画で決められた時が来ました。これが、今日の御言葉が告げる「時は満ち」が指している事柄です。イエス様は、神さまの御心を何よりも優先され、そのご計画に忠実に従われたのです。

今日は、「時は満ち」という言葉の「時」に特に注目して、ご一緒に御言葉に聴きたいと思います。

「時」の意味を、国語辞典で調べるとこのように記されています。「過去から現在へ、さらに未来へと、とどまることなく移り流れてゆくと考えられる現象。具体的には月日の移り行き。」言われてみると、ああ、なるほど、と思います。それ自体は目に見えないけれど、私たちこの世に生きる者のうえに、確実に足跡を残して「移り行く」現象です。その足跡とは、赤ちゃんの成長・じっと何十年、何百年と動かない石に生えるコケ、また変わっていく町の様子などとして、私たちに時の流れを実感させます。今の瞬間が、次に起こることにつながります。種を蒔いたら、芽が出ます。原因があって、そのことの結果がある ‒ それを繰り返し、積み重ねて、私たちはこの世を未来へと進んで行きます。そして、決して後戻りすることはありません。

これが、私たちがそれぞれに経験を通して知っている、この世の「時」です。

実は、聖書にはもうひとつの「時」があります。「神さまの時」です。

神さまが、ご自分のご計画を、私たちにはっきりと見せてくださる時です。私たち人間には、神さまの御心を知ることはできません。ですから、それは、まったく突然のことのように感じられます。

「この世の時」と、「神さまの時」。聖書には、この二つの時があることを、まず心に留めてください。違う意味の「時」ですから、聖書のもとの言葉・ギリシャ語では、それらをそれぞれ、言い表す言葉が別にあります。

「この世の時」を言い表すには、クロノスという言葉が使われます。

歴史の年表を、英語でクロノロジーと言いますが、その語源です。

「神さまの時」を表すのに用いられるのは、カイロスという言葉です。繰り返しになりますが、このカイロスは、私たちには見えない次元におられる神さまが、私たちのこの世の時の流れに、思いもかけない仕方で、その御心を示される時です。それを、教会の言葉・いわゆる神学用語で「啓示」と呼びます。啓蒙の「啓」に「示す」と書きます。

私たちが聖書を通して知らされている事柄の中で、何が、その啓示でしょう。

カイロスなのでしょう。

イエス様のお誕生が、そうです。

十字架の出来事が、そうです。ご復活も、そうです。

そして、私たちが今、手にしている聖書が語る御言葉そのものも、啓示です。私たちには、本来見ることのできない、知ることのできない神さまの御心・ご計画が、この一冊の中に、私たちが使う言葉として表されています。

神さまからのカイロスがなければ、私たちはこの世という暗闇に閉じ込められたままだと思い込んでしまいます。どの方向を向けば良いのかわからないまま、先に崖があっても見えないまま、この世の時・クロノスに流されて進んで行くしかありません。

カイロスは、そこに神さまが照らしてくださる一筋の光です。この御言葉の光によって、私たちは自分自身と、周囲を初めて正しく見ることができるようになるのです。

神さまは、この世が闇に閉ざされているのはないことを、行く手の光を見せて私たちに教えてくださいます。暗いトンネルを進むようなものだけれど、歩き通せば、必ず光の中に出られると希望を示してくださるのです。

さて、今日のイエス様の御言葉に戻りましょう。

「時は満ちた」とイエス様は言われました。神さまが御心を明らかにされる、それに十分な時が来たとおっしゃったのです。

しかし、その時は、人間の目から見た「良い時代」ではありませんでした。今日の聖書箇所は、この言葉で始まっています。「ヨハネがとらえられた後」。

2回ほど前の主日礼拝で、私たちはマルコによる福音書1章4節から11節をご一緒に読みました。洗礼者ヨハネについて記されている箇所でした。ヨハネは、この世の価値観で、尊敬される祭司や律法学者とは真逆の、純粋に神さまを求める生き方を選び、実践しました。

人にほめてもらうような、みせびらかすような整った祈りではなく、荒れ野で神さまを真実に求める祈りを献げました。人が感心するようなきらびやかな高価な衣装をまとわず、毛皮を帯で体に巻き付けた姿で、自分の満足ではなく、神さまの御心を求めました。

そのヨハネは、当時のユダヤの王ヘロデの逆鱗に触れて、囚われの身となったのです。ヘロデ王は、自分の兄の妻と道ならぬ関係となり、邪魔な兄を殺し、その妻も、王位も手に入れました。これが実に罪深く邪悪な行いだと、ヨハネは批判したのです。ヘロデ王のしたことは、明らかに姦淫の罪であり、殺人の罪であり、むさぼりと貪欲の罪です。

しかし、王に憎まれることを恐れて、本来、罪を指摘するべき立場にある祭司も、律法学者も黙っていました。その中、「悪いことは悪い」と声を挙げたヨハネは、逮捕されてしまったのです。良い心・良心が抑圧される、恐ろしい時代でした。

しかし、そのような時代・そのようなこの世の時に、神さまの御手は人間に差し伸べられました。神さまの御子イエス様を通して、神さまは福音を宣べ伝え、正しく、喜びに満ちた道を示すことを決心されたのです。

神さまは、人間が、わたしたちが弱い時にこそ、その私たちを強めてくださるために、ご自身をお示しくださいます。

聖書で「弱い」と言う時、それは神さまに背を向けてしまった状態をさします。自分でも気が付かないうちに、神さまの方を向かなくなり、その教えを守らなくなり、神さまを忘れている状態です。

神さまに背を向けるとは、神さまの後について行っていないこと・従っていないことです。神さまに従わず、別のものにくっついて行き、迷子になっているのが、私たちが弱くなっている時です。

そのような者は、私たち人間の目には、一見すると強くなっているように見えます。ヘロデ王は、どうだったでしょう。兄の妻を横取りし、その兄を殺し、自分が王になり、好き勝手なことをしていました。ヘロデは、自分が何でもできる、たいへん強い立場にあると思っていたでしょう。ヘロデがついていった別のものとは、自分の欲です。ユダヤは、ローマの支配下にありましたが、それでもこうして自分が好きなことができる、反対する者を逮捕できる、自分の国だと考えたい自己満足です。そのヘロデのごきげんを伺っていれば、自分も強い立場にいられると思っていた、取り巻き連中も我欲に溺れていました。

しかし、こうして手に入れた「自分の国」「自分が王である国」は、自分が苦しめた他の人たちの犠牲の上に建っています。

その土台は、なんと悲しく、暗いものでしょう。それを土台として建つ「自分勝手の国・我が王国」は、何と寂しいものでしょう。

ヘロデ王の悪事は、実にわかりやすい「悪いこと」・罪そのものです。

けれど、私たちは生きてゆくうえで、何が正しいのかわからずに流される状況にたびたび立たされます。あるいは、悪いとわかっていても、それをしなければ この世で生きてゆけないこと、自分が生き残るためには、誰かを押しのけないと前に進めないことがあります。

この世は、原則として競争社会です。受験で、自分が合格すれば、誰かは不合格で、涙を流しているのです。子どもたちや中高生のイジメにも、そのやりきれなさがはびこっているのではないでしょうか。いじめる人たちと一緒に、自分も標的になっているその子をいじめないと、自分が標的にされるのです。

それが怖くて、仕方なく流れに身を任せてしまうことがあるでしょう。その時は恐怖心が、その子・その人が生きる国を支配しています。

それは「恐怖が支配する国」です。「悪・サタンが支配する国」です。

怖くて泣きながら、またはやりきれなさに心の潰れるような思いをしながら、生きなければならないのが、この世です。

神さまは、泣いている者たちを御覧になりました。そして、その涙をぬぐおう、もう泣かなくてもよいと言おうと決心されたのです。

旧約聖書は、その神さまの決心の時を預言しています。今日のイザヤ書の言葉が、それを告げています。預言者イザヤは神さまから御言葉を預かりました。その御言葉によって、人々を「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と、神さまは言われたのです。

神さまは、人間に、私たちに慰めを与える決心をされるのです。私たちが安心して、喜んで生きることができるように。

その世界、その国には、愛が土台としてどっしりと据えられています。隣人を悲しませず、隣人を出し抜いたり欺いたりするために心を削るような思いをしない国です。それは、自分一人がお山の大将となる「自分の国」ではありません。ましてや、恐怖が支配する「サタンの国」であるはずがないでしょう。隣人と手を取り合い、共に生きる国です。

どなたがその国を導いてくださるのでしょう。正しいことをご存じのただ一人のお方・神さまです。ですから、神さまが私たちを導き、私たちを整え、心を聖霊で満たしてくださることを、「神の国」と言うのです。

イエス様は宣言されました。「神の国は近づいた。」「近づいた」という言葉には、神の国が来た、しかし、まだ完全には、ここが神の国であるとは言い切れないという絶妙なニュアンスがこめられています。

まだ、この世には闇がある、けれど、神さまが光となって、闇の世を照らしてくださるとの希望を示す言葉です。

イエス様は、この闇の世の光として、お生まれになりました。私たちが苦しまなければならない荒れ野で四十日間、サタンと向き合われ、サタンに勝利されました。そして、泥沼のように私たちの罪がたまったこの世を清めてくださるために、十字架への道を歩み始められたのです。その清めを、御自分の命をもって成し遂げてくださいました。闇のない世が来る希望を、そのご復活で示されたのです。

その希望を仰ぐこと、神さまを仰ぐこと。それが悔い改めです。悔い改めとは、聖書では反省を意味するばかりではありません。もとの言葉は心を回すことです。神さまに背を向け、自分を神としたり、世間の価値観を神としたりする心を、180度転換させて、神さまに向け直すことです。そうして、初めて、慰めの福音を私たちは聴くことができるのです。

だから、イエス様は、今日の宣言でこう言われました。「悔い改めて福音を信じなさい。」

わたしたちは、涙する事柄に出くわします。どうしてこんなことが、と立ち尽くすしかないことが、身に起こります。または、この社会に、事故として、事件として起こります。しかし、イエス様がおいでくださったことによって、十字架の出来事とご復活によって、神の国・慰めの国・すべてが良いもので満たされる国の姿が、示されました。

私たちは、その姿を闇の世に浮かび上がらせてくださる神さまの光・カイロスの光を、決して見失わないようにいたしましょう。光は、御言葉のうちにあります。今週一週間も、御言葉を胸に、イエス様のあとをついて歩んでまいりましょう。

2019年8月25日

説教題:荒れ野の誘惑

聖 書:イザヤ書11章6-10節、マルコによる福音書1章12-13節

狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。 牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。 わたしの聖なる山においては 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように 大地は主を知る知識で満たされる。 その日が来れば エッサイの根は すべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。

(イザヤ書11章6-10節)

それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

(マルコによる福音書1章12-13節)

マルコによる福音書をご一緒に読み始めて、三回目の主の日を迎えました。マルコによる福音書はたいへん特徴的です。短くて鋭い、そういう印象があります。今日の聖書箇所も、イエス様が荒れ野でサタンから誘惑を受けたことが、マタイ福音書、ルカ福音書よりもずっと短く語られています。マタイやルカが語るサタンの三つの誘惑を覚えておられる方は、どうしてこんなに違うのだろうと戸惑われるかもしれません。サタンがイエス様に「もし神の子なら、石をパンにしてみろ」「神の子なら、神殿の屋根から飛び降りてみろ」「サタンであるわたしを拝め」と言ったという記述がないのです。しかし、この違いこそが、マルコが伝えようとしているイエス様の姿であり、マルコ福音書を通して私たちがいただく神さまの真理であり、恵みなのです。

今日は、この聖書箇所が語る三つの恵みをお伝えしたいと思います。まず、どうしてイエス様はサタンの誘惑に遭われたか、それから、今お話しした、マタイ福音書・ルカ福音書との違いから、イエス様が受けた誘惑の、マルコ福音書特有の意味を思い巡らしてまいりましょう。

前回の聖書箇所で、イエス様は洗礼を受けられました。聖霊に満たされて、神さまの愛と真理を伝えるお働きを、すぐに始められ、十字架への道をまっしぐらに進み始めるかのように思われます。しかし、そうではありませんでした。

光の中を進むような、その歩みとは反対のことが起こります。12節には、このように記されています。それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。「それから」の「それ」は、イエス様が洗礼を受けて、聖霊に満たされたことをさします。イエス様の天のお父様・神さまは、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とイエス様に呼びかけられ、豊かな祝福を与えたことを思い起こしましょう。

神さまは、ご自身と一体の御子イエス様を、当然のことではありますが、深く 深く信頼され、ご自身のことを伝える使命と人々の救いのために十字架に架かられ、救いの成就をご復活によって示されることを、この言葉で表しておられます。

イエス様は神さまに支えられ、堅く守られて、伝道の旅に出かけられると思うのが、私たち人間の思いとしては自然です。ところが、そのイエス様を、神さまは聖霊によって「荒れ野に送り出し」ました。「送り出す」と聞くと、神さまが我が子イエス様を「さあ、行ってらっしゃい、気をつけて」と見送った印象があります。しかし、ここで本来、用いられているのは「追いやる」という言葉です。

英語の聖書の中には、このところを「無理に、いやおうなしに追いやる」と翻訳しているものもあります。そこには、イエス様が荒れ野に喜んで行ったのではない、むしろ荒れ野などに行きたくなかった思いが込められています。

荒れ野とは、砂漠をさします。水がほとんどなく、草木も生えず、昼間は灼熱の太陽のもとで灼けるような暑さになり、夜は一気に氷点下まで冷え込む場所です。人間ばかりでなく、命あるものはここでは生きてゆけません。

神さまは命の源なる方ですから、砂漠は神さまを拒むところ・神さまに反逆するところと考えて良いでしょう。まさに、神さまに対抗しようとするサタンが棲む場所なのです。

ただ、ここで思い起こして心に留めておきたいのは、神さまは万物を創造された方だということです。神さまは砂漠をも造られ、悪魔・サタンが、命を滅ぼす、砂漠というその死の場所を自分の縄張りとすることもご存じでした。

そこへ、神さまは我が子イエス様を追いやりました。イエス様は私たち人間と同じ「人」としてこの世に遣わされました。もちろん、同時に神さまでもあられますから、奇跡を起こすお力を用いて、砂漠を楽園にすることはおできになったでしょう。しかし、イエス様は徹底して「人」として砂漠に追いやられたのです。なぜなら、神さまは御自分が楽をするためには、奇跡を行われないからです。

イエス様が奇跡を起こされるのは、いつも私たち人間のためでした。

最初の奇跡を思い起こしましょう。ヨハネ福音書によれば、まだ若者だったとおぼしきイエス様は、結婚式のお祝いに招かれた先で、ワインが足りなくなって困っている人たちのために、水をワインに変えました。苦しむ人の病を、その人が笑顔と心の平安を取り戻すために、癒やしてくださったのです。愛する息子や娘を失って嘆く父親・母親のために、青年や子供をよみがえらせました。

わたしたち人間のために働いてくださるイエス様は、御自分としては、ただ砂漠を荒れ野・死の領域のままとされ、身を置かれました。

また、それが天の父である神さまの御心でもあったのです。

人間が死に直面する、または死に匹敵するような悲惨な苦しみに直面する ‒ その苦難を、神さまはイエス様に与えました。人が人として通り抜けなければならない苦難を、経験させたのです。

しかも、それはイエス様が洗礼を受けて、聖霊に満たされた直後でなければなりませんでした。

これは、私たちが洗礼を受け、その瞬間から聖霊に満たされて神の家族・教会の一員として歩み始めるのと重なります。

「え〜、どういうこと? この自分とイエス様とは、全然違う!そんな、畏れ多いことがあってはならない」と思われる方が、ほとんどだと思います。私も、最初にマルコ福音書を学んだ時は、絶句せんばかりに驚きました。

そもそも、私たちは天の父・イエス様の十字架とご復活・今も共においでくださる聖霊の神を信じる決心をして、洗礼を受けます。礼拝の洗礼式の中で、聖霊を受けます。しかし、洗礼を受ける前と後とで何か変わったかと言えば、自分ではまったく実感がありません。

洗礼を受けても、すぐに聖書の言葉が心に響き、よくわかるようになり、感動をもってすらすらと読めるようになるわけではありません。優しさがいつも心を満たして、おだやかに過ごせるようになったと、すぐ実感を持つこともないでしょう。自然に祈りに励む思いがわき出るようになる方も、そうそうはおられないと思うのです。洗礼を受けても、自分がまったく変わっていないので、拍子抜けするほどだったことを、私は今でもよく覚えています。今、申し上げた変化は、洗礼を受けてから長い年月を経て、もたらされる信仰の成長です。洗礼から十数年、何十年と経って、ふと自分が変えていただいたことに気付く、そういう変化です。

洗礼を受けて、聖霊をいただくとは、少し理屈っぽい言い方をすれば、神さまの方から私たちを御覧になって、私たちがどう変わって見えるかという、神さまの側の事柄と申しても良いでしょう。神学的な言葉を用いますと、ミステリオン・秘儀、人の目には隠されている神さまのみわざです。

私たちは、自分で自分の心をみつめることができません。何か決断を迫られた時に、大いに迷って、自問自答をすることがありますが、それはあくまでも、自分の考えを確認したり、自己吟味をしたりするに過ぎません。自分の中に、まったく異なる考えの基準がしっかりとあって、それに照らして自分をみつめることは、ありえません。

聖霊を受けるとは、この考えの基準、しかも正しく真理である神さまのまなざしを、自分の中にいただくことです。

神さまのまなざしには、実は、この世という荒れ野の中にいる私たちが見えています。さらに申しますれば、私たちの心の荒れ野が見えておられるのです。

神さまを知らなければ、私たちは自分の命が死で終わるとしか、自らの人生を受けとめようがありません。どれほどこの世で成功を収め、どれほどお金持ちになって満ち足りた贅沢な生活を送ろうと、死んでしまえば、すべては「うたかた」の夢・泡・バブルのようなものであったとしか思えないのです。

また、この世が砂漠・荒れ野であるとは、生き延びるために、自分の他はどうでも良いという自己中心的な思いを起こさせる場であることを意味しています。これが、荒れ野の誘惑です。

自分さえ良ければ、まわりの人はどうでも良い。何か大変なことが起きた時、助けてと、すがってくる人の手を振り払っても、自分は逃げる。ためらいもなく、それを正しいと思ってしまう。それは、何と殺伐とした生き方ではありませんか。また、私たちの心の中そのものに、そのように他の人とのつながりを拒む、荒れ果てた砂漠・寂しい荒れ野がひろがっているのです。

私たちの中の、その殺伐とした心を聖書はサタンと呼び、罪と呼びます。これが、荒れ野の誘惑です。

もちろん、イエス様は神さまの子であり、ご自身が神さまですから、人間としてこの世に来られても、御自分の中に、そのような自己中心的な思いは、まったくなかったでありましょう。しかし、イエス様のお父様である神さまは、あえて、イエス様に人間の心の荒れ野を示されました。そして、その荒涼とした人間の心を救い、神さまの愛を知らせ、命の水で潤すようにとの伝道のお働きと、十字架への道に進むよう促されたのです。

イエス様は、荒れ野の誘惑に屈することなど、けっしてありませんでした。しかし、四十日間じっくりと、サタンの誘惑の声の中に、人間の自分勝手・自己中心の冷酷さと醜さを御覧になりました。人間は、何と可哀想な存在なのかと、深く憐れまれたでしょう。

イエス様は、洗礼を受けて、聖霊によって荒れ野に追いやられ、送り込まれ、人間の罪の現実をみつめられました。それは、人間を救うための聖霊の導きだったのです。

私たちも、洗礼を受けます。聖霊を受けます。それは、それまで気付かなかった私たちの心の中の荒れ野・罪をみつめる聖霊のまなざしをいただくことなのです。

ここまでお話ししたことは、神さまがどうしてイエス様を荒れ野に追いやったか、という問いの答えです。

今日の二つ目の問いかけは、何だったか、覚えておいででしょうか。

今日、読み始めて三回目となるマルコ福音書が伝える「荒れ野の誘惑」は、マタイ福音書・ルカ福音書が伝える「荒れ野の誘惑」と、大きく違うのか、という問いでした。もうお気づきの方がおいでかもしれません。先ほど、お話ししたことの中に、答えは含まれていました。マタイとルカが記したサタンは、イエス様に「神の子なら」と誘いかけます。神の子であると証明するために、石をパンに変えろ、神殿の屋根から飛び降りてみろと誘います。しかし、これらの誘いは、実はイエス様が神の子であるという事実を、逆説的に強調しています。

一方、マルコ福音書は、砂漠・荒れ野を心に持つ人間の憐れさを、イエス様がしっかりとみつめてくださることに重点が置かれています。

前回、イエス様は罪のない完全に清い方なのに、悔い改めの洗礼を受けられました。人間に寄り添うためでした。そして、今日の聖書箇所では、イエス様は人の心の荒れ野に身を置いてくださいます。そこまで、主は私たちに寄り添い通してくださるのです。

イエス様は、人間をこの荒れ野から救うために、十字架で死なれ、ご自身の命を犠牲にされました。人間の自己中心的な思いが、私たちから完全に取り去られれば、まことの平和が訪れます。

残念ながら、私たちは、まだその平和に至ってはいませんが、イエス様が示してくださる平和をめざして進むことはできます。進もうとしています。これが、今日お伝えする三つ目の事柄です。

今日の後半の御言葉「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」は、この平和をさしています。今日の旧約聖書の言葉には、イエス様が私たちを導かれる平和な世界が描かれています。部分部分をお読みしますので、どうぞお聞きください。6狼は小羊と共に宿り (豹は子山羊と共に伏す。)、子牛は若獅子と共に育ち、(小さい子供がそれらを導く。7牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。)8乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。 ここでは、この世でわたしたちが正反対 ‒ 食らう者を食らわれる者、強い者と弱い者、醜い者と愛くるしい者 ‒ このように正反対と思っている者同士がわけへだてなく、共に、実に仲良く過ごしています。イエス様は、野獣と天使という、私たちには正反対に思える者と一緒に、荒れ野におられました。敵対する者同士を結びつけ、荒れ野に楽園をもたらされました。旧約聖書イザヤ書、今日の9節が語るとおりの平和を実現されました。9節をお読みします。9わたしの聖なる山においては 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。

私たちも、誰をも傷つけず、誰をも心の中ですら罵らず、憎まず、敵を造らずに生きてゆきたいと、強く願わずにはいられません。また、この月・終戦記念日を過ごす8月は、平和を深く思い巡らす時でもあります。今日の御言葉が表すように、私たちに寄り添い通し、罪の世に愛と平和をもたらしてくださるイエス様を仰いで、今週一週間も進み行きましょう。

2019年8月18日

説教題:主は霊を与えられる

聖 書:イザヤ書42章1-4節、マルコによる福音書1章2-11節

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

(マルコによる福音書1章9-11節)

前回の礼拝から、マルコによる福音書を読み始めました。前の礼拝でお話ししたことですが、イエス様のご生涯を記した四つの福音書の中で、マルコによる福音書は最も短く、鋭く福音の中心に迫ってゆきます。福音の中心とは、イエス様の十字架の出来事とご復活です。

先ほどの司式者の朗読を聞かれて気付かれたことと思いますが、マルコによる福音書には、イエス様の母マリアがイエス様を身ごもった時のこと、ベツレヘムの馬小屋でイエス様を産んだことなどはまったく記されていません。イエス様の子ども時代の事柄も、大工さんとして生活されていたことも、書かれていません。天の父である神さまから受けた使命に従う人生を始められた、その時からのことを伝えているのです。

父なる神さまからイエス様がいただいた使命とは、まず三つの行いをすることでした。癒やし、教え、伝えることです。人の心と体を、その根底から癒やすこと。天の神さまについての真実を人々に教えること。神さまの愛と真理を伝えること。この三つです。それから、イエス様は、私たちの救いのために十字架に架かり、三日後に復活されました。

癒やし、教え、伝え、十字架で私たちを罪から救い、復活される。これら五つの神さまから与えられた使命を、イエス様は、およそ三年をかけて、まっとうされました。今日の新約聖書の御言葉は、イエス様が神さまのための、そのお働きを始める時に何があったのか、神さまがイエス様に何をなさったのかを告げています。

神の御子であり、ご自身が神様であるイエス様が、人として、それもユダヤ人としてお生まれになった時代、ユダヤは屈辱の中にありました。ローマ帝国の支配下に置かれ、植民地とされていたのです。ユダヤ民族が虐げられていたのは、この時代だけではありませんでした。

そもそも、ユダヤ民族はエジプトの奴隷でありました。ピラミッドを造るために酷使されていた民族を神さまが憐れんで、救い出してくださったのが、神さまが人にご自身を顕された最初だったのです。独立を謳歌し、豊かで美しい国となった時代も、ありました。しかし、その後はバビロンなどの大国に滅ぼれ、平和も平安もなく弱い民族として生き続けていたのです。神さまは、そのユダヤ民族の中に、ご自身の御子イエス様を遣わされました。

イエス様がお生まれになることは、すでに旧約聖書のイザヤ書に預言されていました。それが、先ほど司式者がお読みくださった、マルコ福音書の1章2節からの言葉です。こう告げられています。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし」。

神さまは、イエス様に先立って使いの者をこの世に遣わすと、イザヤ書に書いてあるではないかと、マルコ福音書を書いた人は記しました。その使いの者・使者が洗礼者ヨハネでした。ヨハネは、その時代にあって、実に新鮮な価値観を示した人物でした。

当時のユダヤ民族の価値観、言い換えるとユダヤの人々がたいせつにしていたことは、自分たちが神さまの宝の民であるということでした。神さまの教えであり掟である律法に忠実に従うことが、実にたいせつだったのです。ですから、ユダヤ社会で尊敬されるのは、律法をよく知っていて、それに忠実な人々でした。律法学者や祭司が、尊敬され、「ほ〜、すごい」と思われていたのです。

実感としてわかっていただくために、たいへんこの世的な、イヤな感じを持たれるかもしれないたとえを申し上げましょう。日本で一般に「ほ〜、すごい」と思われるのは、どんなことでしょう。名の通った大企業に勤めているとか、有名大学出身であるとか、お金持ちであるとか、そういうことではないでしょうか。

イエス様の時代のユダヤでは、神さまの教えに忠実な人が信仰深いと尊敬されていたのです。ですから、この世的な日本の価値観に振り回される人が、立派な家を建てたがったりするように、社会の上層部をめざすユダヤの人々は、自分の信仰の深さを見せびらかしたがりました。人前で立派な祈りを献げたり、これ見よがしに貧しい人に施しをしたりして、周りの人たち・巷(ちまた)の尊敬を集めていたのです。ところが、これは、もちろん、神さまの御心にかなったことではありませんでした。自分が人間社会で尊敬されるために、神さまを利用しているだけで、真実の信仰とは言えないからです。

今日の旧約聖書 イザヤ書42章2節に、この言葉があります。少し言葉を補って読むと、このようになります。お聴きください。「わたしの僕(しもべ)、わたしが喜び迎える者は、叫ばず、呼ばわらず、声を巷(ちまた)に響かせない。」神さまの御心に適う者、神さまがこの世に遣わされるご自身の御子は、そのように人前でこれ見よがしに朗々と祈りを献げるような者ではないとおっしゃられたのです。

その神さまの御心に応えて、人に見せびらかす信仰ではない、そして神さまを信じる思い・信仰を自己実現の道具にしない、純粋な信仰を求めて、人の住む町を離れた人物がいました。それが、イエス様に先立つ使いの者・洗礼者ヨハネだったのです。

彼は、律法学者や祭司が好んで身にまとう、袖も裾も長く、豪華な飾りを施した立派な上着を着ようとしませんでした。らくだの毛衣を着て腰に革の帯を締めるという、人に馬鹿にされるような粗末きわまりない服装を、あえて選んだのです。そして、いなごと野蜜を食べるという、質素な、断食に近い生活を送りました。暮らしたのは、人のいない、つまり 人の目・人の評価を気にすることのない「荒れ野」でした。

この世的・人間的な虚飾を排したヨハネの生き方は、真実を求めようとする多くの人の共感を呼びました。神さまだけを見上げる清らかな生き方を、ヨハネが示してくれたように感じられたからでしょう。

4節に、こう記されています。お読みします。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた。」

ここで洗礼と言っているのは、当時のユダヤの人々にとって新しい、新鮮な事柄でした。ユダヤ民族の家に、ユダヤ人として生まれた男の子は、生まれて八日目に割礼を受けて、それを神さまのもの・神さまの宝の民となったしるしとします。では、ユダヤ人しか天の神さまの民になれないのか、ユダヤ教を信じる者にはなれないのかというと、そうではありません。洗礼を受け、男性だったら割礼を受けて、ユダヤ教徒になることができます。この洗礼は、一度、水に沈んで罪を洗い流され、同時にそれまでの自分が死んで、新しくユダヤ教徒として生まれ変わることを表しました。ですから、洗礼はユダヤ人ではない人、聖書の言葉を用いると「異邦人」が受けるものだったのです。

ところが、ヨハネは、ユダヤ人にも悔い改めの洗礼を勧めました。人に自分の信仰を見せびらかして、自分の社会的地位を高めるために神さまを利用するような、そういう価値観に染まった心を、洗礼によって洗ってきれいにし、清められることを宣べ伝えました。清らかになりたいと願う人々が、荒れ野のヨハネのもとに集まり、ヨルダン川で洗礼を受けたと、今日の御言葉の5節が語っています。

人々は、この清い生活をしているヨハネこそ、預言にある救い主メシアではないかと思い始めました。そうではありませんでした。その事実を、ヨハネはよくわかっていました。だから、彼は7節・8節でこう宣べ伝えたのです。

「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたがたに洗礼(バプテスマ)を授けたが、その方は聖霊で洗礼(バプテスマ)をお授けになる。」

ここで、ヨハネが「わたしの後から来られる、わたしよりも優れた方」と語る方こそ、イエス様なのです。イエス様は、ヨハネが授ける水による悔い改めの洗礼以上の洗礼、聖霊による洗礼を授ける方です。

9節は、イエス様が現れたこと、そして最初になさったことを、こう告げています。お読みします。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けられた。」皆さんは、この箇所を読んで、または聞いて、不思議に思われるかもしれません。どうして、神の御子であり、ご自身が神さまであるイエス様が、人間に過ぎないヨハネから洗礼を受けたのだろう。そう思われるのは、自然でありましょう。

そもそも、イエス様は完全に清く罪の無い方なので、罪を洗い流す必要がありません。新しく生まれ変わる必要もないのです。洗礼は、神さまと深い絆で結ばれるしるしですが、神さまの御子であるイエス様は当然、それも必要ありません。しかし、イエス様は、私たち人間と同じように、水で洗礼を受けられました。ここに、イエス様が身を低めて、私たちと同じ人間となってくださったことが示されています。神さまのおられる天の高み・この世とは次元を異にする高みから降りて来られ、私たちの隣人(となりびと)となってくださったのです。ここに、イエス様の私たちへの深い愛が表されています。

ヨハネから水による悔い改めの洗礼を受けたイエス様は、水から上がるとすぐに、聖霊を受けられました。

聖書はこう私たちに告げています。10節から11節です。

「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。11すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」

そして、聖霊を受けたこの瞬間から、イエス様は天の父・ご自身のまことのお父様である神さまからの使命を果たす道を歩み始められました。神さまの御心に満たされて、十字架へと進み始めたのです。

私たちが、キリストの教会で「洗礼」と言う時、その洗礼は、罪を洗い流し、同時に聖霊を受ける、このイエス様が受けられた洗礼をさします。洗礼によって、これまでの人生で、自分にこびりついてしまったこの世的・人間的な価値観を、洗い流していただきます。そして、きれいになったところに、聖霊がそそがれて、私たちは神さまと結び合わされます。

皆さんにぜひ覚えておいていただきたいのは、聖霊が天から、神さまから贈られてくる、ということです。長く教会の礼拝に通われて、ご自身でも聖書を読み、聖書と教会についての知識を積んだとしても、そうして自分の中に築かれてゆくものだけでは、神さまと結び合わされることはありません。これは神さまが、人間の知識により造られたものではないことを、よく表しています。

神さまをより深く知り、その愛に、より深く、確かに抱かれて安らぎたいと願うのであれば、早く洗礼を受けられることを、私は心からお勧めします。聖霊を受けることでしか見えてこない聖書の真実が、本当にあるからです。神さまと私たち人間の間には、断絶があります。深い溝があります。次元が異なるとは、そういうことです。だから、私たち人間の側からは、この世にある限り、世の終わりを迎えない限り、神さまのことが本当にはわからないのです。洗礼を受けて、聖霊をいただくと、神さまがその溝に橋を架けてくださいます。

洗礼を受け、聖霊によって、聖書の言葉が、または教会のこのこと・あのことが、実はこういうことだったのか!と、それこそ目からうろこが落ちるように、はっきりとわかってまいります。

また、私たちは日曜日・主の日の礼拝ごとに、この聖霊の恵みを新しくいただきます。月曜から土曜まで、この世の価値観に従わざるを得ないことがたくさんあります。それを清められ、神さまとの絆である聖霊で、あらためて満たしていただくのが、日曜日の礼拝です。

今日も、ここから清められて、この世へと送り出され、聖霊によって守られ支えられて、一週間を歩み出しましょう。

2019年8月11日

説教題:キリストの福音の初め

聖 書:イザヤ書52章7-10節、マルコによる福音書1章1節

いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた、と シオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声をあげ 皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る 主がシオンに帰られるのを。歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。主は聖なる御腕の力を 国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が わたしたちの神の救いを仰ぐ。

(イザヤ書52章7-10節)

神の子イエス・キリストの福音の初め。

(マルコによる福音書1章1節)

今日から、日曜日の礼拝ごとに、新約聖書の御言葉として「マルコによる福音書」を読み始めます。記念すべき最初の回なのに、先ほど司式者が朗読してくださった今日の聖書箇所を聴き、あまりの短さに拍子抜けした方が少なからずおられたことと思います。誰よりも、司式者ご本人が、もっと読みたかったのに、なんでこんな短いのかと物足りなく思われたかもしれません。

短いけれど、このマルコによる福音書1章1節は、たいへんな重みを持っています。

聖書には、四つの福音書があります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。それぞれを書いたと言われている人の名を用いて、マタイによる福音書、マルコによる福音書などと呼ばれています。

教会学校の生徒さん・中学生に「福音書って何ですか」と尋ねると、たぶんこう答えてくれると思います。「福音書はイエス様の伝記でしょ」。それから、続けて、こう話してくれるでしょう。福音書に書いてあるのは、イエス様がクリスマスの夜に馬小屋でお生まれになってから、弟子たちと天の神さまのことを伝える伝道のお働きを三年間されて、十字架にかかり、私たちを救って、永遠の命をくださるために復活されたこと。ここまで言えたら、たいへんよくできました、とほめてあげなくてはいけませんね。

確かに、福音書はイエス様のご生涯の記録を私たちに伝えてくれていると言ってもよいかもしれません。でも、それだけではありません。

また、教会の礼拝に続けて出席されるようになって日の浅い大人の方からは、こう質問されることがあります。「どうして聖書には、四つもイエス様の伝記があるのですか。同じことが四回も繰り返して書いてあるなんて、無駄じゃないですか。どれかひとつにしたらいかがですか?」

それは正直で、率直な問いかけです。質問した方は、新約聖書を始めから、四つの福音書を読み通されたたいへん真面目な方たちです。似た内容が四回出てくるので、うんざりしたのかもしれません。

しかし、四つの福音書はまったく同じではありません。少しずつ、違っています。そして、違うことにこそ、大きな意味があるのです。私たちは今年のイースター礼拝・4月21日に、新約聖書の最初の書・マタイによる福音書を読み終えました。このマタイ福音書を書いたとされている人は、実に独特な視点から、この書を記しました。マタイ福音書の大きな特徴は、最初にイエス様の系図があることです。この系図は、他の三つの福音書にはありません。新約聖書を初めて開いた方は、最初のページ・マタイ福音書の第1ページを覆い尽くしているカタカナの名前の羅列を見て、読む気を失いそうになります。

この系図に出てくる、イエス様に至るまでの一人一人は旧約聖書に、それぞれ何らかのエピソードが記されている人なのです。その名をたどることによって、読む人は旧約聖書全体の流れ、イエス様にいたるまでの、神さまとユダヤ民との歴史の流れをなぞることができます。

こうして、マタイ福音書は旧約聖書と新約聖書の橋渡しをする役割を果たしています。だから、旧約聖書に続く位置・新約聖書の一番最初がマタイ福音書なのです。

そのために、マタイ福音書が最初に書かれた、一番古い福音書だと思われる方は多くおいでです。実は、そうではありません。

今日から読むマルコによる福音書が、四つの福音書の中で最初に書かれました。マルコ福音書を元にして、マタイ福音書とルカ福音書が書かれ、それからしばらくして、少し傾向の異なるヨハネ福音書が書かれました。

ですから、今日の聖書の言葉、たった一節の「神の子イエス・キリストの福音の初め」は大切な意味を持っています。この言葉は、元の聖書の言葉・ギリシャ語では日本語とまったく逆の語順になります。「初め・福音の・イエスキリストの・神の子の」。「初め」という言葉から、マルコ福音書は始まっています。ここで、私たちは旧約聖書の最初の文を思い起こさなければいけないでしょう。創世記1章1節はこう告げます。「初めに、神は天地を創造された。」旧約聖書は「初め」という言葉で始まっています。マルコ福音書の書き出しは、それにそろえてあるのです。神さまが私たちのためにイエス様を遣わした福音書の「初め」という言葉には、神さまがこの世界・宇宙を造られた、私たちの目に見えるすべての「初め」に匹敵する、まことに大切な意味がこめられています。

それほどにたいせつな「福音」とは、何でしょう。

マルコ福音書は、その福音を私たちに伝えることに集中しています。四福音書の中で、一番短い書です。16章37ページです。マタイ福音書は28章60ページ、ルカ福音書は24章63ページ、ヨハネ福音書は21章49ページ。比べると短さがはっきり判ります。

また、これから このマルコ福音書をご一緒に読んでゆくと、皆さんはあらためて「ええっ!」と驚くかもしれません。イエス様がお生まれになった時のこと、あの美しい聖なる夜の、馬小屋で起こった出来事について、ひとことも書いてないのです。

そして、終わりの部分、イエス様のご復活についても、あっけないほどあっさりと書かれています。イエス様のお墓にマリアたちが悲しみながら出かけて行くと、白い衣を着た若者が彼女たちに「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と告げ、それを聞いた女性たちが「震え上がり、正気を失うほどに恐ろしかった」と書かれています。それだけで、唐突に終わってしまうのです。疑い深いトマスも登場しなければ、エマオへの道でご復活のイエス様に出会う二人の弟子も現れません。ご復活の主に出会って、ペトロが、イエス様が手ずから準備してくださった朝ご飯をいただき、背きをゆるしていただく あの感動的な出来事も、ここにはありません。

もちろん、だからと申しまして、マルコ福音書に魅力がないわけでは断じてありません。この福音書のすばらしさは、繰り返しになりますが、何と申しましても「イエス様の福音」という一点に切り込むように鋭く、力強く集中していることでしょう。

では、福音とは何でしょう。どうして、聖書はマルコ「福音」書とこの書に題をつけ、「マルコによるイエス様のご生涯の記録」とは呼ばなかったのでしょう。

だいぶ前置きが長くなりましたが、今日は「福音」が何であるかを思い巡らしてまいりましょう。「福音」はもう少し日常に近い言葉で言い換えますと、「良い知らせ」「喜びのお便り」のことです。

皆さんがこれまでに受け取った「喜びの知らせ」「嬉しい手紙」は、何でしょう。青春時代なら、意中の方からのラブレターでしょうか。

受験した学校の合格通知、希望したお仕事の採用通知。最近嬉しかった知らせとして、病院の検査結果が良かったとか、健康診断の結果が良かったという「安心の通知」もあるかもしれません。「福音」は、そのように、私たちに喜びと安心、そして未来への希望を与えてくれるものなのです。「神の子イエス・キリストの福音」とは、「神さまから、その御子イエス様を通して私たちに伝えられる喜びの知らせ」という意味です。

もともと、この「福音」「良い知らせ」、元の言葉・ギリシャ語で申しますとエウアンゲリオン、またはエヴァンゲリオンは、陸上競技のマラソンと関係があります。マラソンの起源は、紀元前490年、今から2500年ほど前に、さかのぼります。ギリシャのアテナイ連合軍が、攻め寄せてきたペルシア帝国をマラトンの丘で迎え撃ち、勝利をおさめました。戦争に勝つとは、実に大きな喜びを意味しました。負けたら、奴隷にされてしまいます。国を失います。勝利とは、戦争に出かけて行った夫が、父が、息子が帰って来ることでした。国がそのまま・自分たちの財産や土地もそのままで、もとどおりの平穏な日常が戻ってくる、安心な日々の「回復」という平和を意味したのです。

マラトンの戦いの勝利を一刻も早く、国元で待っている妻に、子どもたちに、親御さんに伝えたい ‒ その思いで、アテネ軍は伝令を送りました。アテネまでおよそ40キロの道のりを、この伝令は走りました。走りながら、道すがら、通り抜けて行くギリシャの町や村の人々に良い知らせ・勝利の知らせを叫ぶのです。「我が軍勝利! 勝ったぞ! 平和が来る!」それを聞いて、人々は喜びました。勝ち負けの結果を喜んだのではありませんでした。自分たちアテネ軍は強い、そんなことを喜んだのではないのです。喜んだのは、愛する者が帰ってくることを、そして平和の回復でした。

伝令はアテネの町に辿り着き、力尽きて倒れて絶命したと伝えられています。良い知らせを伝え、多くの人々に安心を与え、笑顔を取り戻させることに、喜んで命をかけたのです。

その「良い知らせ」・エウアンゲリオンの言葉は、そのまま聖書で用いられています。その言葉が、日本語聖書で「福音」と訳されているのです。

伝令の足は、40キロ余りを走り抜けたために、土ぼこりでよごれ、傷つき、人の目にはたいへん汚いものだったでしょう。人の喜びと心の平安のために、伝令はこの足はおろか、命も献げ果てたのです。

神さまの愛を伝える神さまの御子イエス様のご生涯も、この伝令と似たところがあります。村から村へ、町から町へと、十字架に架かって命を終えられる前の三年間は、息つく暇もない旅の日々でした。イエス様が弟子たちと共に人々に伝え続けたのは、「あなたは主と共に、人生に勝ったのだ」という勝利宣言でした。

この戦いの敵は、もちろん他の人ではありません。私たち人間の心に「信用できるのは自分だけだよ、自分が一番、自分が最優先、自分だけが正しいと思って突き進めば、人生勝ち組だよ」とささやく悪の声です。私たちをお互いに競争させ、憎しみに追いやり、ばらばらにしてしまう悪の力・闇の力です。その暗い力は、私たちの心に棲んでいます。聖書はそれを、罪と呼ぶのです。それは、神さまとつながろうとする心に「神さまなんかいないよ、あなたは自分が大将と信じて生きれば、そのとおりに頂点に立てるよ」とささやき、神さまから引き離そうとする罪でもあります。

私たちは、自分の中に棲むこの罪の力に、自力で勝つことはできません。

私たちが、生きたまま、自分の体の悪くなった内臓・病気になった部分をつかみ出し、ああ、これで元気になった、治ったと喜んで、生き続けることができないのと同じです。

神さまが、イエス様を通して戦い、必ず勝ってくださり、そしてイエス様を伝令として送り、私たちに勝利を伝えてくださいます。

伝令は、伝道と言い換えても良いでしょう。イエス様の伝道は、マラトンの伝令よりも厳しく惨めでした。イエス様は、十字架に両手足を釘で打ち付けられ、ぼろぼろになってこの世の命の終わりを迎えられました。しかし、神さまは使命を成し遂げたイエス様が、実は勝利を勝ち取られていたこと・私たちの罪を滅ぼしてくださったことを、イエス様をご復活させることによって示してくださいました。

イエス様の犠牲によって、イエス様を神さまとのつなぎの橋として、私たちは悪のささやきに惑わされても、神さまとつながり続けます。悪に負けることはないのです。一度、神さまを信じ、洗礼によって神さまと手をつなぎあったら、たとえ私たちがその手を離してしまうことがあったとしても、神さまは私たちの手を握りしめ、離さずにいてくださいます。私たちは悪にのみこまれて死に滅ぶことなく、生き続けることができるのです。また、教会につながることで、私たちはそれぞれ、一人で孤独に苦しむことはなくなります。たとえ意見が割れて、激しく人間的な・この世的な言い争いをしてしまったとしても、イエス様の復活は「愛の回復」「仲直り」をもたらしてくださいます。

これが、私たちがいただく「良い知らせ」・エウアンゲリオン・福音です。

今日の旧約聖書の御言葉は、こう始まっています。

いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。

伝道の労苦にまみれて汚れた足を、神さまは美しく貴いものとご覧くださいます。イエス様が、神さまが与えた使命を果たされたからです。「彼(イエス様)は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ」てくださいました。私たちは、皆、この良い知らせに耳を傾け、「神さまこそ、私の人生を守ってくださる王」と喜びの人生を送ることができるのです。

また、私たちの神さまは、私たちをも、この伝道の「美しい足を持つ者」に育ててくださいます。イエス様は、十字架に架かられる前の夜、弟子たちの足を洗い清めてくださいました。ご自分が人の世から去った後、弟子たちが「良い知らせ」「福音」を伝えられるようにしてくださったのです。

私たちも、伝道します。神さまの愛を伝えます。薬円台教会は、来月に特別伝道集会を開き、まだ神さまを知らない方々をお招きします。

神さまに愛され、隣人を造り、隣人を愛する ‒ その良い知らせを喜んで受け、伝えて、今週一週間を歩んでゆきましょう。

2019年8月4日

説教題:主の平和に導かれて

聖 書:イザヤ書55章8-13節、コロサイの信徒への手紙3章12-17節

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配させるようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって父である神に感謝しなさい。

(コロサイの信徒への手紙3章12-17節)

本日・8月最初の日曜日・主の日の礼拝を、私たち日本基督教団の教会は「平和聖日」として献げます。今日は聖餐式の直前に「日本基督教団の戦争責任告白」を行います。それは何かと申しますれば、今日、週報と共に配られた皆さまのお手元にある告白の言葉をそれぞれの思いと願いとして、声をそろえて読むことです。

私たちが神さまの前で行う「告白」は大きく二つがあると申して良いでしょう。ひとつは、先ほど献げた信仰告白です。これはもっとわかりやすく言えば、神さまへの感謝の思いの告白です。また、神さまへの愛の告白でもあります。そして「神さまに従います」と、イエス様について行く決意の表明でもあります。感謝と愛と、あなたを人生の主としますと決意を献げる信仰告白。

では、もうひとつは何でしょう。罪の告白です。「ざんげ」という言葉が用いられることもあります。自分の罪を自ら包み隠さずに打ち明け、悔い改めの思いを明らかにし、ゆるしてくださいとお願いするのが「ざんげ」です。平和聖日に私たちが行う教団の戦争責任告白は、この「ざんげ」、罪の告白です。

日本基督教団は、およそ1700の教会・伝道所から成る、それ自体が大きな教会です。教会は、一人の人のように意志を持ちます。その意志は、信仰共同体として、御心に従い通すという意志でなくてはなりません。しかし、戦時中に、日本基督教団は聖書に語られている神さまの平和への勧めに従い通すことができませんでした。この罪を神さまの御前に告白し、ゆるしていただかなくてはなりません。

皆さん、お持ちの週報の反対側の面をご覧ください。「子ども礼拝」式次第が印刷されている面です。その右側に、リタニーが載っています。リタニーは「交読文」、先ほど私たちが司式者と交互に読んだ詩編の言葉に相当します。

このリタニーが、これから私たちが行う「戦争責任告白」を実にわかりやすい言葉で表しています。教会の罪が、こう表現されています。「むかし、わたしたちの国が戦争を始めました。教会は、戦争をとめることができませんでした。」

この「むかし」とは、今から70年以上前をさします。第二次世界大戦のことを言っているからです。そんな古いことに、私たちは責任がないと言うことはできません。今は過去から形づくられ、そして未来につながっています。過去のあやまちを繰り返さないために、今を生きる私たちは、それを未来に伝える責任を担っています。

そのために、日本基督教団は、今日のこの日を「平和聖日」に定めました。「子ども礼拝」のリタニーには、二度、神さまにお願いする言葉があります。「イエスさま、ゆるしてください。」

神さまにしか、ゆるしていただけない罪があります。自分が傷つけた人に「ごめんなさい」と言って、その人にゆるしてもらっただけでは償いきれない罪です。自分が傷つけられた側・被害者の立場に立った時に、罪の大きさ・重さ・深さはよりはっきりとわかるかもしれません。

先月、言葉を失うような犯罪がありました。京都アニメーションの放火事件です。被害者の方のご家族は、容疑者に厳罰・厳しい罰を望んでいると報道されています。しかし、どんな罰が与えられたとしても、失われた命は二度と戻りません。人間が罰で償うことができないのが、人間の罪なのです。どんな罰をもってしても、愛する人は帰って来ない ‒ そう思う時に、被害者のご家族の悲しみはいっそう深くなるのではないでしょうか。

戦争について、被害者・加害者と言うのは、実に奇妙なことでしょう。戦争では、人間はそのどちらにもなるからです。

第二次世界大戦、特に太平洋戦争で、日本は真珠湾攻撃で多くの人の命を奪うことから始め、世界最初の核爆弾の攻撃を受けて、多くの命を失いました。

私たちは、誰にゆるされ、誰をゆるせば、まことの心の安らぎを得られるのでしょう。罪は、人間だけでは解決のできない重さと深さ、暗さにふくれあがっています。人間のゆるしよりも、もっと大きなゆるしが、求められています。それは、人間を超える方にしか、できない大きなゆるしです。

私たちは「あやまちは、もう繰り返しません」と誓います。よく似た状況にもう一度おちいることがあっても、同じ間違いを犯さず、別の、もっと良い道を選ぶ決意をしたいと、心から願います。しかし、私たち人間だけで、その「もっと良い道」を選ぶことができるでしょうか。

人間が、自分を超える方を見上げていなければ、「もっと良い道」を見いだすことはできません。

だから、今日の旧約聖書の言葉・イザヤ書で、預言者イザヤの口を通して神さまは、私たちに語りかけてくださいます。お読みします。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ書55章8-9節)

こうして、神さまは御子イエス様を、私たちの間に人間として遣わされました。11節の後半は、そのことを告げています。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。

イエス様は、神様から与えられた使命どおりに、十字架に架かって、私たち人間が償いきれない罪を、ご自分の命で償って下さいました。

そして、私たちがもう二度と過ちを犯さないように、別の次元・より良い解決方法を選べるようにと道を開いてくださいました。それが、イエス様の復活です。

復活は、ただの「生き返り」ではありません。ただ生き返るのであれば、いつかは、また死ぬでしょう。復活は、永遠の命です。イエス様の復活は、私たちが神さまと永遠に共にいられるように、永遠の命へと私たちを導きます。「神さまと永遠に共にいられる」とは、その神さまから、ずっと人間の知恵を超える知恵を、人間の思いを超える次元の考え方を、与え続けられるということです。神さまの知恵・神さまの思いは、真実の平和へと私たちを導きます。

それが、そのとおりの言葉で、今日の旧約聖書の御言葉・イザヤ書55章12節に告げられています。お読みします。「あなたたちは喜び祝いながら出で立ち 平和のうちに導かれて行く。」

そうしてイエス様は、平和への道を開いてくださいました。

今日の新約聖書の御言葉・コロサイの信徒への手紙3章は、私たちがどのような心がけをもって、その道を歩んでゆけばよいかを勧めています。ここで、忘れてならないのは、イエス様がご自分を捨てて、私たちを救ってくださったことです。それは、何が何でも、他の人のために自分を犠牲にしなさいと薦めているのではありません。

私たち一人一人は、神さまに愛されて造られた、かけがえのない命です。失われたら、神さまが深く悲しまれる、そういう大切な命です。だから、私たちは自分を大切にしなければなりません。

しかし、自分の主張と、他の人の主張がぶつかる時、自分だけが正しいと思い込んでしまわないようにしなければなりません。他の人も、この自分と同じように、神さまが愛して造られた、大切な命だからです。他の人をそう思う時、「他の人」は私たちの隣人「となりびと」になります。

今日の新約聖書の御言葉の最初の言葉は、私たちに、まず自分が愛されて生まれたことを、あらためて思い起こさせます。だから、手紙の書き手は、こう告げるのです。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから」。(コロサイの信徒への手紙3章12節a)この自分のためにイエス様が命を捨ててくださった、自分は神さまに、命を捨てるほどに愛されている ‒ そのことを思い出すと、私たちは、そうやって神さまが活かしてくださっているこの自分は、こんな生き方をしていて良いのかと思わずにはいられません。もっと神さまが望まれる生き方、人を愛せる生き方をしたいと、願わずにはいられません。聖霊によって、この時に、私たちの心に満ちる思いが、12節の続きの言葉です。憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容。

他の誰かと意見がぶつかった時、自分が正しいと思っても、ひとまず立ち止まってみる。その人を突き飛ばして、先に進もうとしない。それが、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容です。立ち止まって、その人の隣に立つのです。そして、相手を理解しようと、穏やかに愛をもって語り合ってみるのです。自分が、自分の心を支配するのではありません。この時、イエス様が自分の心を満たしてくださるように、祈ります。それが、15節の言葉です。お読みします。「キリストの平和があなたがたの心を支配させるようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。」

私たち一人一人がイエス様に満たされると同時に、一人の人のように一つの体となった教会が、イエス様に満たされます。皆さんが、教会は穏やかな所だ、優しさがあり、暖かさがあり、自分の居場所としたい所だと感じられたら、それはこの言葉が、薬円台教会に実現され、教会が確実にイエス様の平和へと導かれていることを示します。

もし、まだそうでないと感じたら、優しさ・暖かさ・安心できる所になるように、イエス様の平和を目標とすれば良いのです。

平和への歩みは、聖書を通して主の御言葉を聞くことから始まります。今日の新約聖書箇所の最後の言葉・16節と17節が語るのは礼拝を忠実に守り、説教が説き明かす聖書の言葉を生活の中心に置くようにという勧めです。キリストの言葉が、私たちの内に豊かに宿るように。それによって、もう二度とあやまちを繰り返さない者へと、戦争をとめることのできる教会へと、育てられてまいりましょう。

2019年7月28日

説教題: 感謝と喜びに生きる

聖 書:エゼキエル書36章25-29節、テサロニケの信徒への手紙一5章16-28節

わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。

(エゼキエル書36章26節)

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

(テサロニケの信徒への手紙一5章16-18節)

今、私たちは礼拝のためにここに集められています。招いてくださったのは、神さまです。何のために、私たちは礼拝に招かれたのでしょう。それは、私たちが、一人一人として、また教会として、ここに導いてくださった神さまと出会うためです。イエス様を通して。イエス様の十字架の出来事とご復活を知ることによって。

しかし、神さまは目に見えません。その御声を、私たちは耳で聞くことはできません。その方とどのようにして出会うのかと言えば、聖霊の働きと、イエス様の福音を聖書の御言葉を通して心の耳で聴くのです。

主と出会うために、どのような心の姿勢を持てば良いのかを、今日の聖書箇所は語ってくれます。特に、今日の新約聖書の御言葉として、私たちは、パウロが心をこめて愛するテサロニケ教会の人々に書き送った手紙の最後の部分を読んでいます。どのような心で、自分の心・私たちの心をどこに置いて、御言葉を受けとめれば良いのでしょう。

今、皆さんに問いかけて、お一人お一人に、心のうちでご自分がどう思っておられるのか、確かめていただきたいことがあります。それは、生きることはつらくて当たり前と思っているか、それとも人生は順風満帆で当たり前と思っているか、です。何を当たり前と思うか ‒ つまり、心の位置をどこに置くかで、心は御言葉が染み渡りやすい柔らかさを持てたり、御言葉が届きにくく頑なになったりします。

日本で生活していると、気候が温暖で治安が良く、社会全体が経済的にも比較的安定しているので、何となく人生は順風満帆で当たり前と思いがちです。一方、聖書の最初の舞台は、砂漠の国です。今日一日生きられても、明日はどうだかわからない、そのような厳しい自然環境の中で、神さまは人間に出会ってくださいました。特に、神さまが最初にご自分の民とされたのは、エジプトで奴隷だった民族です。

自然に翻弄され、社会では最底辺。どん底にいたユダヤの民は、生きることがつらくて当たり前の人々でした。神さまは彼らに、生きることの喜びを示そうと、彼らに出会ってくださったのです。

同じように、神さまは、私たちと、それぞれの人生のどん底で出会ってくださいます。人生順風満帆と思っていた者が、まさかの苦しみに突き落とされた時に主と出会い、救われます。救いは、病気や貧しさ、人間関係の泥沼などの苦しい状況が、一気に好転するという魔法ではありません。魔法ではなく、苦しみを乗り越える勇気と力が与えられる奇跡を、神さまは苦難にある人の心に起こして下さるのです。

生きることは、ただそれだけでつらく苦しいこと。それが当たり前です。神さまと出会う、その前は。

私たちは一人残らず、神さまを知らずに生まれてきます。クリスチャンホームに生まれても、両親そろって何代にもわたる牧師家庭に生まれても、キリスト教国に生まれたとしても、一人一人は、生まれ落ちた赤ちゃんの時、すでに神さまを知っているわけではありません。もちろん、神さまの方では、ちゃんと知っていてくださっていますが。

生きることは、つらい。だから、私たちの人生最初の呼吸・産声は鳴き声なのではないかとさえ、思ってしまいます。

成長する中で、私たちはいろいろな困難に出遭います。親御さんや教師や、友人に助けられ、乗り越えてゆきます。自分の力で何とかできることもあります。しかし、どうにもならなくなることがあります。

これはたびたびお話しすることではありますが、人生には三つの坂があるとよく言われます。登り坂、くだり坂、そして「まさか」の三つの坂。くだり坂が、いつか登り坂になるだろうと思いながら頑張っている中で、「まさか」に突き落とされ、途方にくれることがあります。

その時、私たちが思うことは何でしょう。

こうは思わないでしょうか。この苦しみが、どうにもならないものだったら、せめて、苦しみを感じないようになることはできないだろうか。つらさや痛みに無感覚になれないだろうか。私は思いました。感じやすいから、心は痛むのです。心は傷ついて、涙を流します。苦しみが病や怪我でありましたら、体は痛み、血を流します。私達は人間ではなく、石のようになってやり過ごし、楽になりたいと願います。

神さまは、この私たちの必死の願いをご存じです。人間の心を捨てて、何も感じない石になりたいと願うのは、危険な誘惑です。いきいきとした心を捨て、命を放り出すことです。神さまはこの破滅と魂の死から、私たちを救い出してくださいます。

今日の旧約聖書の御言葉で、私たちの神さまは言われます。

わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。もちろん、ただ取り除くだけではありません。命に向かう力を与え、心を生き返らせてくださいます。主は、こう言われます。26わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。それは、神さまが私たちを清めて、ご自分のもの・ご自分の民としてくださることから始まります。神さまの民になるとは、神さまに守られることです。その究極の安心のうちに、石にならず、人間の柔らかな心をもって苦しみに相対する勇気を、私たちは神さまからいただきます。神さまに守られているということは、神さまが共においでくださる、寄り添ってくださるということです。共においでくださることを、イエス様が十字架の出来事とご復活で、確かに示してくださいました。ここに、神さまとの出会いがあります。

その究極の安心と勇気を知った者は、それをまだ知らない人に伝えなくてはなりません。これが福音伝道です。また、共に分かち合うことで、励まし合います。これが教会の交わりです。愛のわざです。

私たちが今日、読み終えようとしているテサロニケの信徒への手紙を、パウロは、教会を励ますために記しました。今日は、その最終回です。パウロが全力を尽くして、教会に語りかける言葉から始まっています。お読みします。

16いつも喜んでいなさい。17絶えず祈りなさい。18どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

神さまが、御子イエス様を十字架に架け、その命に代えてまで、私たちに与えてくださった恵みがあります。パウロは、その恵みを最初に語ります。それは、何でしょう。いつも喜んでいることです。

我が子を守って、命を落とした親御さんがおられたとします。その親御さんは、生き延びた我が子に何を望むでしょう。その子が、親御さんを慕い、生き延びた自分を責めて、泣き暮らすことを望むでしょうか。違うでありましょう。親御さんは、我が子が笑顔で、いつも喜んで、いきいきと前向きに生きてゆくことを望むでしょう。私たちの天の父・神さまは、まさにそれを望んでおられます。

今、例としてお話ししたことでは、親御さんはもうこの世にいませんが、神さまは生きておられます。イエス様は、復活されました。ですから、私たちは なおさらのこと、生きて今も私たちに働きかけ、こうして礼拝に招き、私たちの心を満たしてくださる神さまに、語りかけることができます。それが、私たちの祈りです。また、神さまに、そこまで深く愛されたことを実にありがたいこととして、心から献げる感謝です。

神さまは、イエス様を通して私たちを我が子としてくださり、私たちが満ち足りて喜ぶ姿を見たいと望まれます。子供が親に甘えるように、神さまに話しかける私たちの祈りの声を聞きたいと望まれます。

パウロは、愛するテサロニケ教会に、この神さまの望みをかなえる姿を表す信仰共同体になるようにと勧め、今、聖書の言葉を通して、この薬円台教会に集う私たちにも勧めているのです。

苦しみ・悩みのさなかにある方は、思われるかもしれません。いつも喜ぶことはできない、神さまがおられるのなら、どうして自分をこんなに痛めつけるような悲しいこと・つらい目に遭わせるのかわからない。こんなことは、言われたくない。

そう思われる方々に、私事(わたくしごと)でたいへん恐縮ですが、今日のこの御言葉が、励ましであることを、私自身の経験の中からお話ししたいと思います。

私は牧師になる志をいただいてすぐに、神学校に行ったわけではありません。夫が相前後して志をいただいたので、夫が先に神学校に行きました。学費と生活のために、私は夫が先に卒業するのを4年間、待たなければなりませんでした。正直なところ、長い4年間でした。

この間、私は日本看護協会というところに勤めていました。ここで言う看護協会の「きょうかい」は、今、私たちキリストの教会というチャーチの「きょうかい」ではなく、アソシエーション、協力の「協」という字を書く方の「きょうかい」です。

私がここに勤務し始めた時、看護協会は国際部を大きくしようとして、海外で学んだ経験のある看護師を募集しました。大きくすると言っても、総勢で6人でしたが。集められてみて、驚いたと申しますか、興味深かったのは、このうち3人・半分がキリスト者・クリスチャンだったことです。日本では100人に一人しかクリスチャンがいないことを考えると、喜ばしく、心強いことでした。

看護協会が国際部を大きくしようとしたのには、明確な目的がありました。日本から、世界看護協会の会長を出そうとしていたのです。

会長は、2年ごとの選挙で選ばれます。日本からは、まだ一人も会長を出したことがありませんでした。それは、悲願と言ってよかったかもしれません。国際部の拡大は、この選挙運動のためだったのです。

選挙で票を入れてもらうために、国際的な働きの実績を積みます。具体的に申しますと、経済的に苦しい国、アジア、また特にアフリカの国々の看護活動・医療活動を助ける援助をします。日本看護協会の理事会が方針を決め、それを実現するために、通訳などの連絡係・実働隊として、私たち国際部が使われたのです。

日本の援助は、たいへん喜ばれました。同時に、私たち国際部の中では、戸惑いが広がってゆきました。援助は、真心からではなく、露骨な票集めなのです。こんな汚いことをして良いのかと、思いました。

結果として、困っている国々の医療の助けになっているのだから、神さまは これを良しとしてくださっているのだろうと思う他はありませんでした。キリスト者・クリスチャン3人でよく集まって話しました。話すだけでなく、一緒に祈りました。自分がしていることに確信が持てない時、祈れること・一緒に祈れる信仰の友がいることは大きな助けでした。

選挙は台湾大会で行われました。大勝利で、日本の代表が当選を果たし、世界看護協会会長に選ばれました。しかし、本当にこれで良いのかと思う私たち3人の気持ちは、当選が判った瞬間に、ますます深くなりました。私は、こんなことをして、本当に神さまに仕え、御言葉を伝える者にしていただけるのかと おののく思いがしました。

明日は日本に帰る・凱旋するという日に、束の間の自由時間を使って、3人で故宮博物館に行きました。なかなか混んでいたので、有名な、よく美術の教科書に載っているかまきりと白菜の象牙細工を見るのに、並んで待っておりました。

そうしたら、博物館の学芸員か、ボランティアらしい老紳士に、顔いっぱいの笑顔を向けられ、日本語で話しかけられたのです。

「日本から来たのでしょう? こっちへいらっしゃい、せっかく日本から来たのだから、列に並ぶことはありません。ほら、ほら」と手招きして、列をかきわけ、私たちを前に連れて行ってくれました。また、列に並んでいた若い人たちも、ニコニコと場所を空けてくれたのです。

私などよりもよくご存じの方が、ここには多くおいでと思いますが、かつて、台湾は日本の植民地でした。日本語を強要し、日本語教育を行ったので、日本語が上手な高齢の方がまだおいでだったのです。そして、日本に支配されていたにも関わらず、台湾は日本に親しみを持つ親日国です。台湾に行く前から、それは知らされていましたが、それを、実際にこのように体験するとは思いませんでした。

何とも、居心地が悪いと申しますか、選挙のこと・日本の植民地支配時代のこと、いろいろな罪意識が心に広がり、どんな顔をしたら良いのか わからない思いがいたしました。老紳士に案内されて、私たちは博物館の人混みの中を、楽々と見学し、最後に写真を撮りました。老紳士が、私のカメラを持って、構えてくれました。

この時、私たちはカメラに向かって、こわばった顔をしていたと思います。この方の親切にここまで甘えてしまって良いのか、こんな罪深い自分で良いのかと思わずにはいられませんでした。

そうしたら、老紳士はカメラを持ったまま、私たちに向かって大きく笑いかけました。「笑ってくださーい。笑って、笑って!」この台湾のお年寄りは、日本に統治され、支配された時代を少年として生き、にもかかわらず、ただ ただ 私たち日本人を、喜んで歓迎してくれているのです。

私の心の中で、弾けたものがありました。「いつも喜んでいなさい」‒ 今日の聖句が、心の中で鳴り響いたように思ったのです。

こんな自分で良いのか・ゆるされるのかと、くらぐらとしたものが胸に広がることがあります。しかし、答えは すでに神さまの御手の中にあります。私は、私たちは、ゆるされています。神さまは、私たちをゆるすために、独り子イエス様を十字架に架けてくださいました。

だから、いつも喜んでいて良いのです。いえ、私たちが喜んで、笑顔でいることをこそ、神さまは望んでおられます。この汚れた者・どうあがいても、何かしら罪を犯さずにはいられない者が、ゆるされている ‒ 私たちは、それを言葉にして、祈りにして神さまに献げ、感謝せずにはいられません。

パウロは、この手紙を書いた時、牢につながれていました。自由を奪われ、明日の命も知れない身でした。しかし、神さまの御手のうちにあり、愛されている喜びと、罪からの解放・自由は、そのようなこの世の苦しみを ものともしない力をパウロに与えていたのです。パウロは、この福音の力を、テサロニケ教会に伝え、今、ここに集う私たちと分かち合っています。

テサロニケの信徒への手紙一。今日で読み終わりました。迫害に耐え、いつも喜び、感謝して祈る教会の姿を心に深く留め、それを憧れとして、私たちも進み行きたいと、せつに願います。

2019年7月21日

説教題:安らかに生きる

聖 書:エゼキエル書34章23-28節、テサロニケの信徒への手紙一5章12-15節

兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、またそのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。だれも、悪をもって悪に報いることがないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。

(テサロニケの信徒への手紙一5章12-15節)

テサロニケの信徒への手紙一を読み進み、いよいよしめくくりの箇所にさしかかりました。パウロの手紙の終わり部分・5章12節から最後までを、今日と来週の2回に分けて、じっくりと恵みをいただきたいと思っています。

今日、ご一緒に読むのは、手紙のまとめの言葉の前半部分です。パウロは力をこめて語ります。パウロが福音の教師として、テサロニケ教会のみんなにどうしても知らせたいことを、必死で書いている ‒ その心の熱さが伝わってくる言葉遣いです。先ほど、今日の新約聖書の箇所を司式者が朗読されるのを聴いて、気付いた方がおられるかと思います。パウロの言葉の勢いは、命令口調にあります。今日の聖書箇所は、最初の文以外は、すべて命令形・命令の口調で書かれています。尊敬しなさい。平和に過ごしなさい。戒めなさい。この日本語訳の聖書では、8回も、「なさい」と命令が繰り返されています。

皆さんは、このように御言葉で畳みかけるように命令されると、どう感じられるでしょう。やらなければいけないことばかりでイヤだな〜と、抵抗を感じますか。それとも、聖書は生き方を教えてくれる人生の教科書のようなものと思っておられる方は、この箇所からは、たくさん指導を受けられて、恵まれた、良かったと思うのでしょうか。

実は、聖書の元の言葉・ギリシャ語ではこれほど高圧的な言葉遣いではありません。パウロが力をこめて語った言葉の勢いを、何とかして伝えようとしたために、この日本語訳では8回もの命令形を使ったのだと思います。原語では、パウロは慎ましやかに今日の御言葉を語り始めています。「兄弟たち、あなたがたにお願いします」と語り始める優しい姿勢が、聖書の元の言葉では保たれているのです。英語の聖書は、このお願いという言葉にリクエストを用いています。

教会では神さまの前で皆が等しく平等で、威張る人はありません。パウロは、主にあるこの真実を、新約聖書に収められているテサロニケの手紙以外の手紙、たとえばローマの、又はフィリピの信徒への手紙で繰り返しています。

互いに人が自分よりも優れた者と思いなさいと、パウロは勧めます。神さまがそれぞれを、たった一人しかいない大切な人として、愛して造られたからです。その大切な人に向かって居丈高に命令することは、神さまに愛され、その愛に応える者としてふさわしくありません。

だから、パウロは「わたしには、教会の皆さんにお願いしたいことがあるのです」と今日の聖書箇所で語り始めるのです。教会は、命令するところでも、命令されるところでもなく、協力し合って具体的に事柄を勧める時には、互いにお願いをするところです。

そのパウロのお願い・リクエストとは、教会のために苦労し奉仕する人たちを愛し、尊敬することです。教会のために労苦するとは、当時、テサロニケ教会が置かれていた状況を考えると、教会を迫害から守ることを指しました。教会を迫害から守るとは、どういうことでしょう。すぐに思い浮かぶのは、礼拝を妨害する迫害者を撃退することかもしれません。教会に来よう・礼拝に出席しようとする教会の兄弟姉妹への、悪質ないやがらせを追い散らす、それもあるでしょう。しかし、その時、教会が迫害に負けないために、ぜひとも堅く心に留め置かなければならないことがあります。それは、イエス様の言葉に従い続けることです。

イエス様はおっしゃいました。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)迫害者が暴力を振るって来ても、やり返さない。罵詈雑言を浴びても、言い返さない。暴力に暴力で、罵倒に罵倒で答えていたら、教会は、この世にある醜さ・罪を犯してしまいます。この罪に陥らないでいるのは、たいへん難しいことです。

テサロニケ教会の中には、迫害されて、つい、やり返してしまう人がいたでしょう。自分がやられてやり返すということはなくても、教会の仲間・兄弟姉妹が痛めつけられているのを見て、じっとしていられないことがあったでしょう。その時、「敵を愛しなさい」とのイエス様の言葉を思い起こさせる心 ‒ これは主に従う心です ‒ を保っている他の兄弟姉妹がいなければなりません。振り上げてしまった拳を降ろさせ、売り言葉に買い言葉とばかりの罵りをさえぎる人がいなくてはならないのです。

その教会の兄弟姉妹のことを、パウロは今日の聖書箇所で、このように言っています。「あなたがたの中で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々。」

迫害される苦しみに耐え、悔しさをこらえ、迫害者に対抗する兄弟姉妹に「それはイエス様の御心ではない」と戒めて、「ほら、思い出しましょう、敵をも愛しなさいと、イエス様は教えてくださったではありませんか」と導く人たちのことを、パウロはここで思っています。迫害に、この世的な意味で負けまいとする教会の人たちは、その導きや戒めを、現実的ではないと思うでしょう。そんなことを言って我慢を重ね、攻撃されるばかりだったら、教会はますます弱くなると、イエス様の愛を示す人たちを軽んじ、弱虫と軽蔑するでありましょう。

しかし、繰り返しになりますが、暴力と悪意に、同じく暴力と悪意で応じていたら、教会はこの世と同じになってしまいます。それは、イエス様の御心ではありません。教会は、この世にあって、御国の平和・真実の安らぎを仰ぎ見て、形づくろうとする共同体だからです。

だから、パウロはテサロニケ教会の人々に、力をこめて語ります。迫害と戦っていないように見える人々・「敵を愛しなさい」とのイエス様の言葉で、迫害とのこの世的な戦いを戒める人々を、弱虫と軽んじて軽蔑せず、逆にその人たちを重んじ、大切にしてください。イエス様の愛を思い出して、心から尊敬してください。そして、教会が平和を願うひとつの心を持ち、互いを大切にして平和に過ごしてください。

テサロニケ教会が、平和な教会、主が共にいてくださり、神さまに守られ、同じ価値観を分かち合う兄弟姉妹であるとの実感のもとに、ひとつとなって歩み続けるために、パウロは14節から具体的なアドバイスを書き送っています。

14節、ちょうど379ページの初めから始まる箇所をご覧ください。聖書をお開きにならなくとも、お読みしますので、どうぞお聴きください。「兄弟たち、あなたがたに勧めます」とパウロは語り、こう告げました。「怠けている者たちを戒めなさい。」この「怠けている者」は元の聖書には「決まりを守らない者」という言葉が用いられています。昨年発行された新しい日本語の聖書では「秩序を乱す者」という訳が宛てられています。決まり・秩序は、イエス様の言葉そのものです。「隣人を愛しなさい(マタイ22:39)」「敵を愛しなさい(マタイ5:44)」と言われる、あの御言葉です。

イエス様に従わず、その十字架の出来事に現された私たちへの深い愛を信じず、学ばず、頑なに自分の正義にしがみついて、攻撃されたらやりかえそうと心を燃やしている者を、聖書は「怠け者」「秩序を乱す者」と呼んでいます。そうして、振り上げてしまった拳・鋭い言葉を互いに戒めるようにと、パウロは勧めました。続けて、気落ちしている時には互いに励まし合うように、と書き送りました。

この「気落ちしている」の訳として、英語の聖書は興味深い言葉を用いています。「心が気絶している」という言葉です。悲しみに茫然として、または突然の出来事にパニック状態になって、あるいは病のために、ものが考えられなくなっている時をさすのではないでしょうか。このような時に、イエス様の愛を思い出せなくなり、自分本位・自己中心的な考えに支配されてしまうのが、私たち人間の弱さです。聖書で用いられている「弱い」という言葉は、しばしば、このように神さま・イエス様から離れ去ってしまっていることをさします。また、励ます・助けるとは、イエス様を思い出させることです。

気落ちしている時、神さまの愛を忘れてしまいそうな時は、兄弟姉妹に御言葉を、十字架で私たちを救うために死なれたイエス様を思い出させてもらいなさい。イエス様が言われたことに従えなくなっている教会の人がいたら、御言葉を示して思い出させてあげなさい。

そして、パウロはさらに語ります。14節の後半をお読みします。「すべての人に対して忍耐強く接しなさい。」

パウロが念頭に置いているのは、次に申し上げることでありましょう。イエス様が教えてくださる愛を信じて今の苦しみ・嵐を耐え忍べば、忍耐の後に、神さまは、イエス様を通して必ず安らぎをくださる。

その希望こそが、教会を迫害から守ります。自分たち人間が必死の形相で教会を守るのではなく、イエス様に従うこと、イエス様を羊飼いとして素直な羊として守られ、教会で安心していることが、教会を迫害から守るのです。自分たち人間の力だけで何とかしようと頑張るのではなく、イエス様に抱かれる安心で、教会は生き続けるからです。

パウロが語る平和・聖書が伝える安らぎは、自分一人だけが安穏としていることではありません。自分一人だけが満ち足りて、幸福でいることではありません。むしろ、自分だけが良い思いをしているのは孤独で寂しいことではありませんか。分かち合っていないのですから。仲間が、兄弟姉妹がいないのですから。

パウロは、今、ここに集まっている私たちにも、忍耐強くありなさいと語りかけています。迫害という言葉を使うことをためらうとしても、キリスト者は、この世では休日とされている日曜日に、こうして集まるということだけでも「変わっている」と見られがちです。皆さんは、苦労して、忍耐して、時にご家族の反対を押し切って、毎日曜日ここに来られます。この世と折り合いをつけなければならない点では、皆さんの方が、牧師の私よりもずっと苦労が多いと思います。その中で、皆さんが、こうして毎日曜日、礼拝に集うのはすごいこと・すばらしいことだと、あらためて思わずにはいられません。

「すべての人に対して忍耐強く接しなさい」の「すべての人」は、元の言葉では、人に限らず「すべて」をさします。愛をもって、自分を苦しめるものや事柄に接し、ついにはそのものや事柄を隣人(となりひと)・仲間とするのがイエス様です。それは私たちを嘆かせる病であり、人生での挫折の経験でもあるでしょう。それらの苦しみが降りかかる時、私たちは当然、受け入れることができません。その存在をゆるすことができません。

パウロが勧める忍耐は、苦しみを受け入れ、取り込み、極端な言い方をすると、耐えてゆく中で苦しみに親しむことです。病やつらい経験を憎まず、無理に戦わず、それと共に生きようとすることです。受け入れるとは、敵だった苦しみを「まあ、自分と一緒にいて良いから」とゆるすことではないでしょうか。ゆるすことによって、私たちは苦しみに打ち勝ちます。苦しみと和み、苦難との間に平和を勝ち取って、私たちは安らぎに生きることができるのです。

ここで間違っていただきたくないこと・誤解されたくないことがあります。

苦しみに馴染んで安らぐことは、負け犬になることでは、けっしてありません。敗北主義ではないのです。

苦しみの中でも、悪には負けないように、自分の中にある悪意にひきずられないようにと、パウロは今日の御言葉の最後の聖句を語ります。少し言葉を言い換えながら、お読みします。15節「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべてに対しても、いつも善を、神さまがあなたを、またこの世を愛して造られた本来の姿である善を、行うように努めなさい。」

共に安らぎに生きる希望を抱いて、苦しみに耐え、決して神さま・イエス様の愛を忘れない ‒ その御言葉に導かれて、今週のこれからの日々を進み行きましょう。

2019年7月14日

説教題:光の子として歩む

聖 書:詩編27編1-10節、テサロニケの信徒への手紙一5章1-11節

主はわたしの光、わたしの救い わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦 わたしは誰の前におののくことがあろう。

(詩編27編1節)

兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要がありません。2盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。… しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたがを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。

(テサロニケの信徒への手紙一5章1-11節)

4月の終わりから、日曜日の礼拝ごとに「テサロニケの信徒への手紙一」を読み始めてから三ヶ月ほどになりました。数えてみたら、今日で11回目になります。そして、今日、いよいよ最後の章・第5章に入りました。前もって申し上げておきますが、今日は、少し教理的なお話・理屈っぽいお話になるかと思います。それはイヤだと思われるかもしれませんが、与えられた御言葉です。

ご一緒にパウロの言葉に、恵みを聴き取りましょう。

今日から読み始める第5章は、内容の上では前回の第4章の終わりのところと強いつながりを持っています。

前回、7月7日の礼拝で、ご一緒に読んだ御言葉で、パウロはテサロニケ教会の兄弟姉妹に、何を伝えようとしていたでしょう。それは、永遠の命をいただいていることのすばらしさでした。イエス様が、ご自身の死と復活で示してくださった永遠の命の恵みを、パウロは心血をそそいで、この手紙に書きました。

死んでも、なお生き返る・よみがえる ‒ それが、復活です。永遠の命です。それは、体に命がよみがえるという以上の、大きな喜びです。パウロは、その幸い・永遠の命をいただく恵みを、前回の御言葉ではこのように言い換えました。4章17節、今日の聖書箇所の少し前にある言葉です。「いつまでも主と共にいる」。私たちが生きているときも、命の終わりの時も、長い眠りについてからも、ずっといつまでも神さまが私たちと一緒にいてくださる ‒ その恵みを受けていることを共に喜び合い、それを力の源とするようにと、迫害の中にあったテサロニケ教会を励ましました。

「いつまでも主と共にいる」 ‒ 前回と同じ励ましの言葉を、パウロは今日の箇所のしめくくりでも書いています。

5章10節です。お読みします。「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」

パウロが、このように繰り返し、繰り返し、神さまが、いつまでもわたしたちと一緒にいてくださると、テサロニケ教会の人たちに書き送ったのは、この恵みの真実を、愛する兄弟姉妹にどうしても伝えたかったからです。同時に、パウロは、テサロニケ教会の人々が、復活について質問したいことがたくさんあるだろうと考えていました。死んだ者の復活は、人間的には確かに受け入れ難いことだからです。

現在であれば、コミュニケーションの手段がたくさんあります。電話もあれば、メールもラインも、顔が見ながらお話ししたければ、スカイプもあります。実際に、今日、こうしてご一緒に礼拝を献げておいでの方の中には、私にメールで聖書や福音について質問を送ってくださり、それに私がお答えして何回かやりとりを重ね、それをきっかけに洗礼にいたった方も、おいでです。しかし、当時は何ヶ月もかけて届く手紙が、遠く離れた者同士を結ぶ ただひとつの ‒ と申して良いでしょう ‒ 通信手段でした。

ですから、パウロはあらかじめ、質問されそうなことを予測して、それに答える形で、手紙を書き進めています。

何度も繰り返しますが、永遠の命とは、私たちが死んでも、肉体の命を超えて なお主と共にいることができ、イエス様がご復活されたように、新しく神さまと共に生きる命によみがえるということです。しかし、テサロニケ教会の人たちは、それを真実とは、イエス様の約束どおりに実現することとは、受けとめられなかったのです。

平たく言えば復活の恵みが、よくわからなかったのです。私たちもそうですが、いったいそれは本当に起こるのか、起こるとすれば、いつ、どんなふうに起こるのかと、質問したくなるだろう…そう、パウロは考え、今日の聖書箇所で、丁寧に答えを記しています。

私たちの復活が実現する日。それは、今日の聖書の言葉では「主の日」と呼ばれています。私たちの主・救い主イエス様は復活されてから天に昇られました。そのイエス様が、再び地上に来られる日、その日が「主の日」、よみがえりの日です。イエス様を信じた者がすべて、イエス様に直接お目にかかることができる日です。

主が共においでくださることを、直接にこの目で見て、イエス様の声を聞き、五感で知ることのできる日です。生きている者は生きたまま、新しい命をいただき、それまでに体の死を迎えて死んでいた者は、復活して、イエス様に会い、それからずっと、イエス様が一緒にいてくださいます。

パウロは、そう記しながらも、今日の聖書箇所の冒頭で、こう明言しています。兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要がありません。 これは、パウロの厳しさと言えば、そうかもしれません。あなた方は目に見えることをどうしても信じたいから、そう尋ねるだろうけれど、神さまのご計画をすなおに信じ、自分を主のご計画にゆだねきっていれば、そんな質問は出てこないことなのだとたしなめているのです。しかし、彼は、書き記す必要がないと厳しく言い渡しながら、丁寧に盗人や、妊婦のたとえを使いながら答えてゆきます。これは、パウロの優しさであり、テサロニケ教会の人たちへの愛と思いやりであり、また正しく神さまの真実を伝えようとするパウロの伝道者としての使命感の表れでありましょう。

主の日・復活の日は、イエス様を信じ、神さまに身をゆだねている者にとっては、主がお決めになった時です。主が選ばれたその日は、主に愛されている自分にとっても、最も良い時・最善の恵みの日に間違いがありません。だから、受け入れます。それが光の子です。

一方、イエス様を信じず、神さまに身をゆだねていない人たちからすれば、その日は、自分の都合に関係なく、突然来るこの世の終わりの日です。その人たちを、パウロは暗闇にいる人たちと呼んでいます。神さまの光の中に、入ってこようとしない人たちだからです。

では、神さまを信じようとしない人たち・神さまの光の中に入ろうとしない人たちは、何を信じているのでしょう。自分の命が終われば、すべてが終わる、ただその後は「無」になる、という思い込みに生きている人たち。彼らにとって、「死」だけが真実なのです。

聖書は、その人たちを「死に支配されている人々」と考えます。

自分の思い込みに生きる人々は、自分を中心とする自己中心に生きる人々でもあります。自分の判断・自分の正しさにしがみつき、それを遮二無二 主張し、自分の正義に反する人を憎み、互いに憎み合い、攻め合って、どちらも滅んでゆきます。こうして、人は闇に沈むのです。

この「死に支配される」闇の子ではなく、神さまの招きに応えて、神さまを中心に集まることを、「神さまの支配に生きる・神さまの国に生きる・御国に生きる」と言います。今、私たちは礼拝を献げています。これが、神さまを中心にするということです。「主の祈り」で、私たちは「御国を来たらせたまえ」と祈ります。それは「神さま、私たちを死の支配から解き放ち、あなたの支配の恵みのもとに置いてください」という願いです。そして、イエス様が言われるように「願ったことはすでに聞き届けられている」のです。私たちは、イエス様を信じ、主を仰ぐことで神さまの御国・光の中に、確かに置かれています。

神さまの御国に生きること・光の中に生きること、それは生きていても、この世の命を終えても、主が共にいてくださるということです。

繰り返し、繰り返し、お話ししているように ‒ 私が話しているのではなく、パウロを通して神さまが語る御言葉を、私がこうして取り次いでいるにすぎませんが ‒ 主が共においでくださることが、永遠の命です。そして、人間に与えられた最も大きな幸いです。恵みです。

パウロが、こうして永遠の命・主が共においでくださることについて、テサロニケ教会に書き送ったのは、もちろん、伝道者として、牧師として、神さまの恵みを教え伝えるためでありました。しかし、それ以上に、自分の心にあふれる喜びを伝えずにはいられなかったからです。特に、喜びは、愛する者と分かち合いたいものです。パウロは、そうせずにはいられなかったのです。

主が自分と共にいてくださる ‒ これは、パウロ自身にとっての希望そのものだったに違いありません。彼は、厳しい環境と迫害の中で、苦しみながら伝道をしていました。すでに前回までにお話ししたとおりに、彼は行く町行く町で追われ、捕らえられて牢につながれる危険にさらされ、さすらいながら神さまのために働いていたのです。

その中で、彼は神さまがいつも一緒にいてくださる、いつまでも一緒にいてくださると、繰り返し、自分に語りかけ、自分で確かめながら、さまざまな困難を耐え抜いて前進していたに違いありません。

パウロはローマをめざしました。当時、ローマは、地中海地方・西の世界の文化・政治・経済の中心でした。その都市で、イエス様の福音を語れば、全世界に広がってゆくとパウロは考えたのです。そして、事実、その通りになりました。今、私たちが日本にあってこうして聖書を知り、イエス様の十字架の出来事とご復活の真実から力をいただくことができるのは、パウロがローマへの伝道を成し遂げたからです。

「神さまが共にいてくださる」という永遠の命の恵みは、この働きへとパウロを導き支える、すさまじいまでの力を持っていました。

ここで特に心に留めておきたいのは、パウロは、苦しくてたまらない時も、ただ福音を伝える神さまのための働きを、ひたすら苦しいだけの苦役とは、思っていなかったであろうということです。

苦しいことは、確かに苦しかったでありましょう。どこの町に行っても町の権威者・行政当局からは、追い払われてしまうのですから。先行きの不安も、常につきまとっていました。いつ、投獄されて、命を奪われるかわからない状態にも置かれていました。精魂傾けて進めている目下の計画が、実を結ぶかどうか、人間的な思いからすれば、あまり確かな裏付けを得られないことばかりだったでしょう。

しかし、パウロはその中でも、祈りながら工夫し、試行錯誤の繰り返しを行いました。しかも、いやいややったのではなかったでありましょう。喜んで、すすんで、もう少し申しますと、楽しみつつ行ったのでしょう。苦労と不安の中でも、今やっていることは、決して、無駄になるはずがないと彼は確信していました。必ず、伝道の実りにつながるはずだ、と信じていたのです。神さま・イエス様・聖霊が、自分を強めて、寄り添ってくださっているから大丈夫という安心感が、パウロを支え、喜びをもって働く力を与えていました。

私たちは、パウロが特別に神さまに選ばれた人のように思います。それは事実です。けれど、パウロ自身は、イエス様に愛されていることを知った者は、一人残らず、自分と同じように、神さまに招かれ選ばれ、主が共においでくださる恵みを受けているとの確信を持っていました。そして、これもまた、主にあって事実であり、真実なのです。

パウロは、イエス様と出会い、福音を信じて洗礼を受けてからまだ日の浅いテサロニケ教会の人たちが、この恵みの大きさに気付いていないと心配だったのでありましょう。

だから、ぜひ知らせたい、気付いて欲しい、そして主が共にいてくださることに勇気づけられて、迫害に負けず、テサロニケ教会を生かし続けて欲しいと、この手紙に繰り返し書いたのです。

今日の御言葉を通して、私たち薬円台教会も、あらためて恵みに気付き、喜ぶ者とされたいと強く願います。

教会が存続し、生かされ続けるというのは、実に大きなわざです。そして、教会が続いてゆくことは、主が共におられることの確かに目に見える証しです。私たちは、この薬円台教会を創立された宮﨑先生を一昨年、天に送りました。しかし、教会がこうして立ち続けていることは、主が私たちと共におられ、宮﨑先生の献身の志が生かされていることを示しています。そのような形で宮﨑先生も私たちと、主と共におられることのしるしに他なりません。先月お送りした一人の姉も、また同じです。

教会には、困難もあります。若い方々・幼い魂への伝道が、薬円台教会だけでなく、全国的に難しい課題となっています。その中でも、これは誇張でも何でもなく、薬円台教会の教会学校の礼拝が喜びをもって献げられているのは、まことに確かなことなのです。また、教会の各委員会は夏の行事、秋の行事に向けて、今年度もいきいきと動いています。これは、大きな喜びです。

教会生活の中に喜びを、良い意味での楽しみを抱きながら、共に進んでまいりましょう。今、ここから私たちは世に遣わされて一週間を始めます。決して死に支配される者とはされず、主の者・光の子として歩んでまいりましょう。

2019年7月7日

説教題:いつまでも主と共に

聖 書:詩編98編1-9節、テサロニケの信徒への手紙一4章13-18節

兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。主の言葉に基づいて次のことを伝えます。…このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。

(テサロニケの信徒への手紙一4章13-18節)

今日は、説教を質問から始めます。

皆さん、このような質問をされたら、どうお答えになりますか?

あなたにとって、一番たいせつなものは何ですか?

もう一度、質問します。おひとり、おひとりへの質問です。

あなたにとって、一番大切なものは何ですか?

答えが胸に浮かんだでしょうか。多くの方が、この答えを胸にお持ちと思います。わたしにとって一番たいせつなもの、それは「命」。

自分の命とは限らないかもしれません。お子さんをお持ちの方は、お子さんの命、また守らなければならない方・ご家族がおありの方は、自分よりも、その方々の命が大切 ‒ そう言われる方も大勢おいででしょう。自分の命。愛する誰かの命。とにもかくにも、生きていることが一番大切。私たちはほとんど本能のようにそう思います。

何もかも、命があってこそ。それが当たり前だと私たちは思っています。だから、身近な方が亡くなると、私たちは、その方のすべてが終わったと感じます。亡くなった、その方にとっての未来や喜びが失われたことを思い、その方の無念を思って悲しみます。それから、その方に、もう会えないことを思って、寂しさに胸をえぐられます。「死」という命の終わりは、未来を奪い去ります。亡くなった方からも。また、私たちからも。死によってぽっかりとあいた穴は、耐えがたいほど深く暗く、私たちは嘆かずにはいられないのです。

命が私たちの最も大切なものであれば、その真反対にある死は、私たちが最も遠ざけたいものでありましょう。私たちの喜びは、命を源とします。いきいきとした命のいぶきを感じる時、私たちはしあわせを感じます。新しい命の誕生は、希望そのものです。

そして、死は希望の逆、絶望です。

しかし、今日の新約聖書の御言葉・テサロニケの信徒への手紙一 4章13節で、パウロはこう力強く語ります。「兄弟たち、すでに眠りについた人たちについては、希望を持たない他のように嘆き悲しまないように、ぜひ次のことを知っておいてほしい。」

パウロは「死」という言葉を避けて「眠りにつく」と言っています。

亡くなった親しい方々、死んでいった教会の兄弟姉妹を悼んで、泣くことはないと、パウロは言うのです。私たちが知っているすべての事柄の中で、最も悲しいこと・死を悲しむことはない、それは希望を持たない人がすることだと語ります。

イエス様を知っていれば、死は絶望ではなくなると、パウロは続けて告げています。イエス様は死んだけれど復活された、そして、イエス様のご復活に導かれて、私たちも復活する - 命は終わらない、私たちの希望の源であり、私たちにとって最も大切な命はよみがえり、永遠に続くと、パウロは教会を力づけました。

イエス様が十字架で死なれた。これは、紛れもない事実です。しかし、その三日後にイエス様がよみがえられたことも、真実です。体の命の終わり、肉体の死を超えて、神さまは御子イエス様を復活させられました。同じように、私たちも死を超えて復活すると約束をいただいています。

聖書の復活は、単に体が息を吹き返すことをさすのではありません。聖書の語る復活は、命を取り戻すという以上の意味を持っています。

それは、今日の聖書箇所の最後が告げる恵みをさしているのです。この箇所をお読みしますので、お聴きください。17…このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。18ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。

復活は、いつまでも主と共にいるということです。神さまが、私たち一人一人と、生きている時はもちろん、死の床にある時も、死の瞬間も、そして肉体が消え去ったとしても、ずっと一緒にいてくださることが、復活です。

イエス様の十字架の出来事とご復活を信じておられない方にとっては、つまり、神さまを信じておられない方にとっては、神さまが一緒にいてくれることに、どんな良いことがあるのだろうと思われることでしょう。

先ほど、絶望は死だとお話ししました。実際に体が死に直面していなくても、私たちは、生きていながら「死ぬような絶望」に陥ることがあります。いろいろなことがうまくいかず、行き詰まって、たいへん困った状況にある時に、助けを求めることができない - そのような時です。もちろん、私たち誰もが、その状況を経験するわけではないでしょう。しかし、私たち誰にも、その可能性があります。私たちが最も大切にする命を自ら捨てたくなる時・もう生きていても仕方がない、死んだ方がましだと思う事態に、私たちは一人残らず、陥る可能性があるのです。誰にも助けを求められない時、私たちは深い孤独の中にいます。誰からも見捨てられている、誰も私を必要としない、私は誰にも愛されていない、すべての人に嫌われている - そう思う時、私たちは生きていても仕方がない、と絶望します。

先週、そして先々週、今日の説教準備のために御言葉を繰り返し読みながら、私には、しきりに思い出されることがありました。

高校時代に、一人の先生が話してくれたことです。私が高校生だったのは、今からもう40年以上前のことですが、その時に、その話をしてくれた先生は、すでに50代でした。理系の科目を教える男性の先生で、たいへんダンディで穏やかな、すてきな先生でした。英国紳士のようだったと、今でも思います。いつも冷静で、計算されたユーモアをこめて話され、高校生の私たち一人一人を、子供扱いすることがありませんでした。いわゆる熱血教師とは、正反対のタイプの先生です。その先生の話が忘れられないのは、その時だけ、いつも冷静な先生が感情をあらわにされ、今にも泣きそうだったからです。

先生が若くて、まだ教師として駆け出しだった頃のある晩、夜中の電話で叩き起こされたのだそうです。

電車の脱線事故があり、複数の死傷者が出ました。そして、亡くなった方の中に受け持ちのクラスの生徒がいたと知らされました。先生がその訃報を受けて、信じられないと思ったのは、平日の終電近い時刻の電車に、どうしてその女子生徒が乗っていたのか、まったく判らなかったからでした。高校生が夜遅くまで塾や予備校に通う時代では、ありません。女子高生がアルバイトできる時代でも、ありませんでした。また、亡くなった生徒は真面目で、夜遊びをしていたとは思えなかったのです。

事故から少し経ってから、その生徒が家庭に深刻な事情を抱えていたことがわかりました。事故の数週間前から、彼女のお父さんが家に帰って来なくなっていました。他に家庭を持ったということだと思います。その生徒の家には、彼女と、お母さんと、お父さんのお母さんであるおばあちゃんが残されました。お母さんとおばあちゃんは、この事態に力を合わせるどころか、お父さんの家出をめぐって、激しくいがみ合ってばかりいました。その生徒は、それがいやで いやでたまらなくて、家に帰りたくなかったのです。

学校の授業が終わり、部活が終わり、同じクラブの友だちがそれぞれ家路に着いても、彼女は家に帰りたくありませんでした。朝、登校する時からこっそりと持ってきていた私服に着替えて、毎日、映画館でずっと映画を見続け、終電に近い時間の電車で家に帰っていたらしいということが、判ってきました。

彼女は、お父さんが自分を捨て、家族を捨てたことに深く 深く傷ついていたに違いありません。また、頼りにしたいお母さんも、おばあちゃんも、それぞれ、自分が捨てられたことで心がいっぱいで、彼女のことを気にかける余裕がなかったのです。高校生の帰宅時刻としては、異常な時刻・夜遅くに帰る娘を、孫を、心配できないほどに、お母さんの心、おばあちゃんの心には嵐が吹き荒れていたのでしょう。

彼女の心の傷は、ますます深くなりました。

それがどれほど深かったか。言葉にできなかった、そのことが、その傷の深さを如実に表しています。父親に見捨てられ、母親にも祖母にもかえりみられていないことを、誰にも言えないほど、彼女の心の傷みは深かったのです。言葉にすると、起こった事柄に直面しなければなりません。だから、何も、誰にも話すことができなかったのではないでしょうか、

彼女の、若さ ‒ 幼さと申しても良いかもしれませんが、十代の少女としてのプライドも、語ろうとする思いをさえぎったでしょう。

彼女は、親しい友人にも、担任の先生にも、誰にも、何も話していませんでした。家族がばらばらになってしまったことを、ひとりぼっちでうけとめ、ひとりぼっちで耐えようとしたのです。そして、誰も、彼女にこんな大きなことが起こったと、気付きませんでした。気付けなかったのです。隣人にこまやかに気を配れない、配ったとしても配りきれない、人間の限界があります。そのために、周囲が彼女の孤独に気付けなかったと言えるでしょう。また、周囲に心のうちを気付かせないよう、彼女自身が、自分を堅い鎧の中に封じ込めていました。

彼女のその鎧は、「いつもと同じ顔、明るい笑顔」だったかもしれません。せいいっぱいの笑顔の鎧をまとったまま、彼女は電車事故に遭い、亡くなってしまいました。

これを話してくれた先生が、今にも涙を流さんばかりだったのは、この生徒がどれほど寂しかったか、孤独だったかを思うからでしょう。教師として手を差し伸べられるところにいながら、気付くことさえできなかったからです。

彼女は、本当はひとりぼっちではなかったのです。助けを求めさえすれば、先生も、友人も、話を聞き、寄り添ってくれたはずです。彼女の家庭を元どおりにすることはできなくても、彼女が一人、暗い映画館で、夜遅くまで、むなしく絵空事を映し出すスクリーンをみつめて過ごすことから、彼女を守ることはできたでしょう。

受け持ちの生徒を、最悪の中で死なせてしまった - 先生は、そう言って、こう続けました。「皆さん、困ったことがあったら、必ず頼ってください。私に頼ってくれれば、私はとても嬉しい。でも、私でなくても、誰かに助けてと言ってください。助けてと言えるのは、それだけで立派な勇気ですから。」

最悪とは、死そのものではありません。孤立していると思うこと、自分はひとりぼっちだと思い込むことです。本当は、私たちはひとりぼっちではありません。それなのに、どうしようもない事態に直面すると、私たちは自分の力だけで何とかしようとじたばたしてしまいます。自分の不幸を隠そうとします。自分のこの不幸をわかってくれる人はいないと思ってしまいます。

隣人の傷みや苦しみを、本当に深くわかることは、確かに私たち人間にはできません。それが、私たち人間の限界と申しても良いでしょう。だから、私たちは自分が苦しんでいる時、この苦しみを本当にわかってもらえないのなら、自分以外の誰かからの同情なんか欲しくないと思ってしまうのです。

しかし、私たちの苦しみを、本当にわかってくださる方がおられます。必ず、真実に寄り添ってくださる方がおいでです。その方こそ、私たちを一人一人、かけがえのない者・この世にたった一人の者として造ってくださった神さまです。私たちの髪の毛一筋をも、よくご存じの神さまです。このお方が、人間の相互理解の限界をはるかに超えて、ぴったりと私たちの心に寄り添ってくださいます。しかも、私たちが恐れる死を一緒に超えて、永遠に共においでくださいます。

永遠の命とは、この方が私たちを見捨てず、とこしえに共に歩んでくださることです。イエス様の復活は、その確かな証しです。

「苦しい時の神頼み」という言葉があります。私たちの日常の言葉で、良い意味で使われることのない、そういう言葉です。ところが、聖書は苦しい時にこそ、神さまに依り頼みなさい・すがりつきなさいと、繰り返し、繰り返し勧めます。自分一人でがんばろうと、心をこわばらせ、自らを鎧で固めてしまうのは、強いように見えますが、実は弱さです。見えない神さまの愛の深さを、イエス様の十字架の出来事とご復活を通して知り、弱い私を助けてくださいと祈り願う、それがまことの勇気です。自分の弱さを認めるのは勇気、助けてと言うのも、勇気です。

教会は、互いに弱い者であることを知り、神さまに頼る他はないとの決心によって結ばれている共同体です。その決心を神さまに献げ、神さまによってこそ力をいただいて、なにがあってもくじけずに堅く立ち続けます。私たちは、主にあって、決してひとりぼっちになることはありません。教会の兄弟姉妹の絆があり、何よりも、その絆の基である神さまに、私たちはイエス様を通して堅くつなげられています。

苦しい時に、まず神さまに「助けて」と叫ぶ祈りを、神さまはいつも待っていてくださいます。

その安心をしっかりと胸に抱いて、今週一週間も安心して歩みゆきましょう。

2019年6月30日

説教題:聖なる生活への導き

聖 書:レビ記19章1-2節、テサロニケの信徒への手紙一4章1-12節

主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。

(レビ記19章1-2節)

さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、あなたがたはよく知っているはずです。実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。

(テサロニケの信徒への手紙一4章1-3節)

今日の新約聖書の御言葉・テサロニケの信徒への手紙一4章は、「さて」と始まっています。その直前の言葉、前回、私たちが礼拝でいただいた箇所は、パウロの祈りと「アーメン」でしめくくられています。

キリスト教への迫害のために、パウロたちは、テサロニケ教会の人たちから引き離されてしまいました。教会の人たちを懐かしみながら、パウロは心にあふれる再会の願いを書き送りました。

神さまに、どうかテサロニケ教会のみんなにまた会わせてください、と祈ることで、この手紙の前半が終わりました。

今日の「さて」と始まる箇所から、『テサロニケの信徒への手紙一』の後半が始まります。

パウロが伝道者・牧師として、テサロニケ教会を創設し、集められた人々に神さまの正義・イエス様の愛を伝えることができたのは、ほんの数ヶ月間のことでした。知らせておかなければならないことがたくさんあったのに、言い残す暇もなく、パウロはテサロニケから去らなければなりませんでした。

ですから、この手紙の後半で、パウロはその伝えたかったことを 心をこめて、一生懸命書き送りました。まず、自分がテサロニケ教会にいた時に語ったことの中で、何が大切だったかを思い起こさせようと語り始めます。2節で、パウロはこう告げます。「わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、あなたがたはよく知っているはずです。」「命令」という厳しい言葉が使われているこの文を、このように言い換えても良いでしょう。“イエス様が、あなたがたに、どのように生きなさいとおっしゃっているか、イエス様が十字架の死とご復活で何を示されたか、思い出してご覧なさい。何が、一番たいせつなことでしたか?”そして、パウロは3節で、その大切なことを語るのです。お聴きください。「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」

神さまがテサロニケの教会に、また時空を超えて、2000年ほど後のこの日本に暮らす私たちに、願っておられるのは「聖なる者となること」です。

テサロニケの教会の人たちに、パウロがどうしても、どうしてもやめてほしい、そのままでは神さまが望まれる「聖なる者」にはなれないと思うことがありました。教会から離れて暮らさなければならないパウロには、それが気がかりでならなかったからこそ、パウロは今日の4章の文章を書いたのです。3節の後半から4節にかけて、パウロはこう書いています。「みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。」

パウロはテサロニケの教会で、何が起こることを心配していたのでしょう。パウロが「避けなさい」と言わなければならない「みだらな行い」が、教会で起こりそうだったのです。「汚れのない心で結婚相手と生活するように学びなさい」と言わなければならない乱れ、「情欲におぼれてならない」と言わなければならない恥知らずなことが起こりそうだったのに、パウロは教会から引き離されていました。

テサロニケの教会では、結婚の絆が大切にされていなかったのです。結婚していても、自分の妻または夫以外の者と、気の向くままに深い関わりを持ちそうな人たちがいたのでしょう。パウロは、これを何としてもやめてほしいと願いました。

私たちも「一人の夫に一人の妻」という結婚のかたちを大切にする社会に生きていますから、それは当たり前だと感じます。ユダヤ社会に生きるパウロにとっても、それは当たり前のことでした。

しかし、テサロニケ教会のあるテサロニケの町は、ギリシャにあります。ユダヤとはまったく違う文化を持った国なのです。今日の説教を準備する中で、ギリシャの文化では結婚、そして男性と女性の関わりがどう受けとめられていたかを示す興味深い言葉に出会いました。

教会の説教で語るにはふさわしくない言葉と思いながら、違いを明らかにするために、あえてご紹介します。

デモステネスという古代ギリシャの政治家(BC.384生)の言葉として残されているものです。こんな言葉です。「わたしたちは楽しみのために、お金を払って女性と遊ぶ。毎日毎日の肉体の欲求のために愛人・恋人を持つ。自分の子供を持ち、家庭を守るために妻と結婚する。」結婚しているにも関わらず、お金を使って女性と遊び、愛人を持つのが普通だったような言い方です。政治家がこう公言していたのですから、おそらく、それが社会的に認められ、道徳的に間違っているとは誰も思わなかったと考えられています。

女性の方は、思わず眉をひそめたくなるかと思いますが、これは男尊女卑というのとも、少し違ったようです。ギリシャの女性と言えば、才能にあふれた女流詩人であり、自分のサロンを持つ高級遊女であったサッフォー(BC.580逝去)が思い浮かびます。ギリシャはそもそも、あのギリシャ神話の国です。女性も男性も、同じように肉体の欲望にまかせた生き方が望ましい人間のありかただったのかもしれません。男性も、女性も自由奔放だった ‒ それが、ギリシャ社会だったのです。

テサロニケ教会は、そのような価値観の社会のただ中に生まれた教会でした。聖書が語る男性・女性の関わりは、ギリシャの考え方とは全く異なります。逆と言っても良いでしょう。「十の戒め」と書いて「十戒」と読む、聖書が定める社会のきまりごとがあります。ユダヤ社会が、またそれを受け継いでキリスト者が守る神さまからいただいた掟です。そこには、「姦淫してはならない。あなたの隣人の妻を欲してはならない」とあります。結婚したら、自分の夫・妻以外の者と関わりを持ってはならない、関係を持ちたいと思ってもいけません。

神さまは、自分が結婚した伴侶だけを大切にしなさいと言われました。パウロは、このことを、テサロニケの教会の人たちによく分かって欲しかったのです。テサロニケの教会の人たちは、もともとギリシャ文化の中で育った者たちです。神さまの言葉を伝える牧師がいなくなったら、聖書の愛を忘れてしまうと、パウロは気が気でなかったのです。

ギリシャ社会の自由な男女の愛と、聖書に刻まれている神さまの愛は、まったく違います。日本語だと同じ「愛」という言葉を使うしかありませんが、聖書の元の言葉では、まったく違う単語が用いられています。ご存じのかたもおいででしょう。奔放な男女の愛はエロス、聖書の愛・神さまの愛はアガペーといいます。

男女の愛・エロスは、相手を自分のものにしようとします。

神さまの愛は、自分を相手に差し出します。イエス様が私たちの救いのために十字架に架かり、私たちのために死んでくださったことが示すように、私はあなたを守れるためならば自分の命を差し出すと決心するのが神さまの愛・アガペーです。

また、神さまの愛をいただいた者・教会に生きる決心をして洗礼を受けた者同士は、このように相手を大切に 大切に思いたいという願いを与えられます。教会の兄弟姉妹の愛、兄弟愛と呼ばれるこの思いは、聖書ではもうひとつ、別の言葉を持っています。フィレオ−、またはフィラデルフィオといいます。

だからこそ、パウロは今日の聖書箇所で、こう言います。6節をご覧ください。「このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。…」

繰り返しになりますが、この世の男女の愛・ギリシャ社会で当たり前だったエロスは、好きになった相手を自分のものにしようとします。相手の真実の幸福ではなく、自分の欲望が中心です。また、エロスは結婚の絆から、そのどちらかを奪い取ることになります。テサロニケ教会の中で、すでに結婚しているカップルのどちらかを、他の人が奪い取ったら、奪われて嘆く人が、必ず現れます。これは兄弟愛を踏みにじることになります。深く傷つけ、憎しみを招くことになります。パウロは、ギリシャ社会のまっただ中にあるテサロニケ教会のあの二人、あちらのカップルが、絆を自ら破壊し、傷つけ合いあっていることを、神さまが、この夫婦の絆・家庭の崩壊をどれほど悲しまれるかと思うと、居ても立ってもいられないほどだったでしょう。

しかし、パウロは、人間である自分が心配しても仕方がないことも、よく判っていました。もうどうしても自分の力・人間の力が及ばないと判りきっていることについて、それでも 何とかしようとあがくのは、かえって傲慢というものです。神さまが聖霊を通して、テサロニケ教会の人々の心に語りかけてくださることを信じ、すべてを神さまにゆだねて、パウロはこう書き送ります。9節です。お読みします。「兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。 あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。」

「聖なる者になりなさい」。イエス様の御名によってパウロが勧めるこの教えは、兄弟愛を貫くようにとの導きです。共に等しく神さまに結ばれた者同士・神さまの愛によって結ばれた者同士ならば、互いに相手を大切にする心が与えられる ‒ そうして聖なる者にしていただけると、パウロは、神さまが働かれることを信じて、そう語るのです。聖なる者とは、清らかな者・純潔な者という意味でありましょう。純潔は、みだらの真逆です。イエス様は十字架で、私たちの人間の心にわきあがるエロスの思い・みだらな思い・自己中心的な欲望や罪を、爆弾のように抱いて玉砕してくださったのです。

そのようにして、イエス様は、私たちの汚れと罪を清め、私たちを聖なる者としてくださいました。たやすく悪いこと・汚いことを考えてしまう私たちをゆるし、その汚れを行ってしまわないように導いてくださいます。この罪のゆるしと清めが永遠であることを、イエス様は、十字架の死から三日後のご復活で明らかにしてくださるのです。

思えば私たちも、テサロニケ教会がギリシャ社会の中に置かれていたように、エロスとさまざまな誘惑の渦巻く「この世」のただ中に立っています。100人に一人 しか クリスチャンのいないこの日本で、学校も仕事もお休みの日曜日に、教会へ行き、一時間ほどこうしてじっとかしこまって過ごすことを自ら選び取るのは、相当に特殊なことです。「キリスト者・クリスチャンならでは」と言える価値観です。その特殊な生き方を選びとった者同士、教会の兄弟姉妹は今ここで、堅い真実の絆で神さまと、お互いとに結ばれています。

教会の兄弟姉妹は、イエス様の十字架の出来事とご復活によって神さまに清められ、この世から取り分けられて聖なる者として絆で結ばれています。真実の絆は、同時に、永遠の絆でもあります。

イエス様がこの世の命の終わりを意味する死を打ち破って、よみがえられたのは、何も・誰も、この教会の絆を壊すものはないことを指し示しています。天にお送りした兄弟姉妹と、私たちと、神さまは、いつまでも、永遠の命に生き続けます。それが、聖なる者とされることの恵みです。

今日からまた、新しい一週間が始まりました。イエス様が私たちを、すべての悪しきものから守り、聖なる者としての生き方を与えてくださっていることを信じて、進み行きましょう。

2019年6月23日

説教題:主は教会を強められる

聖 書:詩編119編97-104節、テサロニケの信徒への手紙一3章11-13節

わたしはあなたの律法を どれほど愛していることでしょう。

(詩編119編97節)

どうか、わたしたちの父である神ご自身とわたしたちの主イエスとが、わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように。どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたを愛しているように。

(テサロニケの信徒への手紙一3章11-12節)

今日の御言葉、先ほど司式者が朗読された旧約聖書・新約聖書の御言葉を聴いて、皆さんの心にどのようなイメージが浮かんだでしょう? 共通しているのは「道」という言葉です。

旧約聖書の詩編の言葉は、神さまが私たち人間に与えてくださった律法・定め・愛の掟を守り通す志を謳っています。神さまに従って正しい道を歩み、悪の道に足を踏み入れない人生を送りたいと、この詩編の作者は熱い心で神さまに語りかけます。自分の人生そのものが、神さまのみもとに通じる一本の道でありたいとの願いの強さも、伝わってまいります。

新約聖書の言葉・テサロニケの信徒への手紙3章の終わりの言葉は、パウロの祈りです。キリスト教への迫害のために引き離されてしまったテサロニケ教会の人たちに、また会う道を開いてくださいとパウロは神さまと御子イエス様に祈り願いました。パウロは、パウロ自身とテサロニケ教会の人たちが神さまの愛によって結ばれ、そこに目に見えない一本の道が通っているように思ったのではないでしょうか。

今日の旧約聖書・新約聖書の御言葉に共通しているのは「道」という言葉だけではありません。「愛」という言葉も、実に印象深く語られています。

今日、最初に読まれた旧約聖書・詩編の御言葉を、あらためてお読みします。「わたしはあなたの律法を、どれほど愛していることでしょう。」不思議な言葉に聞こえませんか。もう少し日常に近い言葉に言い換えると、この人は、神さまにこう語りかけているのです。告白していると申しても良いでしょう。「神さま、わたしはあなたの命令が大好きです!」命令が大好き。こういう言い方を、私たちはあまりしませんね。そもそも、私たちは命令されるのが好きではありません。子供の頃、やろうと思っていたことも、やり始めるよりも先に親に言われると、とたんにやる気が無くなってしまった経験を、どなたもお持ちだと思います。「命令を愛する」とは、二つのことを意味しているでしょう。

ひとつは、その命令が、命をかけてやり通すにふさわしい正しさに貫かれていると、命令に従う者がよく知っていることです。言われたことを守っていれば、自分が絶対に悪い道に入り込んで不幸になることはないと、堅く信じ、だからこそ、その命令を大切に思っているのです。その命令は、命令された者・他ならぬこの自分を幸福にするための命令なのです。

もうひとつは、神さまはこの自分を深く愛してくださっているからこそ、幸せになるためのその命令をくださったのだと、よく分かってことです。神さまの深い愛を知っている、と申しても良いでしょう。

私ごとで恐縮ですが、こんなことを思い出します。私は高校に入学してから三年生の始めまで、父・母、兄弟と離れて祖父母(おじいちゃん・おばあちゃん)と暮らしていました。私の高校入学が決まった直後に父親が転勤することになったためでした。私は祖父母の家に預けられて、そこから高校に通うことになったのです。それまで、私は六人の孫の中でたった一人の女の子だったので、祖父母にかなり甘やかされていました。しかし、この時、いわゆる年頃の女の子を預かることになった祖父母は、私がだらしなくならないようにと思ってくれたのでしょう。祖母に、こう言われました。「おじいちゃんとおばあちゃんの言いつけが、どんなに理不尽で意地悪に聞こえても、それは私たちが心底、あなたのためを思って言っていることだからね。それだけは、よく覚えていてよ。」それを聞いて、高校1年生・16歳だった私は、16歳なりに、祖父母が心の底から私の親代わりになり、真剣な思いで私を預かってくれたことがわかりました。責任をもって、難しい年頃の子供を預かってくれる — その思いは、愛に他なりません。

祖父母の愛は、私を支えてくれました。確かに門限は厳しく、食事の好き嫌いも許されず、保護者の授業参観日には祖父が来てくれて、先生もクラスメートも、お母さん方にも驚かれ、ちょっと恥ずかしかったりもしましたが、父母兄弟と離れて暮らしていても、寂しいと感じたことはありませんでした。

ただ、祖父母、また親は人間ですから、理解と判断には限界があります。その子供のためを深く 深く思っていても、育った時代や環境が異なると、本当に正しくその子が置かれた事態が分かっているわけではないこともあるでしょう。しかし、神さまはすべてを知り、すべてを正しく把握しておられます。だから、神さまの命令・教えは必ず正しいのです。神さまに導かれて歩む人生には、険しい山道もあれば、歩きにくい石ころ道もあるでしょう。しかし、それは、必ず幸福へとつながる道です。神さまから離れず、その教えを守って歩き抜けば、必ず幸福が待っている道を、私たちは与えられているのです。

神さまが、どれほど深く私たちを愛し、わたしたちのためを思ってくださるか。その愛の深さは、イエス様が十字架で私たちのために命を捨ててくださったことで示されています。証しされています。

愛されているという安心は、人を支えます。神さまからいただくその愛の支えを、私たちはお互いをつなぐ絆とすることができるのです。

今日の新約聖書、テサロニケの信徒への手紙3章12節で、パウロはこう記しています。お読みします。「どうか、わたしたちがあなたがたを愛しているように、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように。」

パウロのこの祈りを読む時、私たちは当時、クリスチャンが激しい迫害を受けていたことを思い出さなければなりません。パウロたちは、そのためにテサロニケの町から追い出されました。また、残されたテサロニケ教会の人々は、もともとその町の住民ですから、そこを離れて生活はできず、その町の中で孤立していったでしょう。

今、私たちがしているように大きな声で讃美歌を歌い、マイクを使って礼拝を献げていると、いやがらせをうけたのではないでしょうか。礼拝を妨害されたかもしれません。こっそりと隠れるようにして礼拝を献げていても、みつかって邪魔をされることがあったでしょう。そのような時、テサロニケ教会の人たちは、互いに疑心暗鬼になったのではないでしょうか。ユダが銀30枚でイエス様を裏切ったように、教会のだれか・自分たちの兄弟姉妹の誰かが、密告したに違いない — 裏切り者は誰だと、お互いを疑いの目で見るようになる時、そこからは、愛が消えています。

テサロニケ教会が迫害の中で、こうして愛を失ってしまわないようにと、パウロは祈りました。「主があなたがたを、お互いの愛で豊かに満ちあふれさせてくださいますように」と。

教会の兄弟姉妹の心が、疑いのためにばらばらになってしまわないように、神さま・イエス様の愛が皆をつなぎとめてくださいと、パウロは祈りました。愛は、神さまが大事に造られた人として、相手を信じようとする志です。ひどい扱いをされても、相手を大切にする姿勢を貫くことです。イエス様が、ユダに裏切られたことを知っておいででも、ひざまずいて彼の足を洗ったように、イエス様の愛に踏みとどまり、互いにその愛で繋がり合うように。パウロは、教会がひとつであるようにと強く願い、神さまによりすがったのです。

また、パウロは、こうも祈りました。「主があなたがたを、すべての人への愛で豊かに満ちあふれさせてくださいますように」。

すべての人への愛。教会の中の仲間だけで、くっつきあっているのではなく、すべての人への愛で教会が満たされるようにとパウロは願いました。迫害の中で、教会の人たちは「クリスチャンだったら自分の味方、それ以外の人は迫害をする敵」と考えるようになります。それが当たり前の人間の考えでしょう。そうして、敵と味方を見分け、迫害してきそうな敵に対しては警戒を怠らず、守りを堅くしておけば、大きな痛手を受けずにすむかもしれないからです。

しかし、イエス様は山上の説教の中で、こう言われました。マタイによる福音書5章43節からお読みしますので、お聴きください。「43あなたがたも知っているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。…48 あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

迫害する者を憎まず、裏切ったかもしれない誰かを憎まず、すべての人を隣人として愛しなさいと、イエス様は言われました。パウロは、そのイエス様の教えを、テサロニケ教会が守り通せるようにと祈ったのです。

迫害されて傷つけられたら、こちらからもやり返す — やられた方は、また倍返しをする…この負の連鎖が起こらないように、果てしない憎しみへと落ちこんではならないと、イエス様は言われました。憎しみが続けば、いつかどちらも滅びてしまいます。憎み合って滅んでゆくこと。それを、聖書は罪と呼びます。私たち人間は、神さまが我が子イエス様を十字架に架けて、その罪から救い出してくださらなければ、こうして滅んでしまう者なのです。

それをさせないために、イエス様は言われました。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」そして、それでも敵を愛することなど、とうていできない私たち人間のために、十字架に架かって、ご自分が私たちに代わって滅びてくださったのです。

パウロの祈りは、そのイエス様の深い愛を、私たちの心に思い起こさせます。

「敵を愛する」とは、神さまの愛をまだ知らない方からすれば、実に愚かしいことに思えるでしょう。自分を裏切ったとわかっているのに、その裏切り者ユダの前にひざまずいて、奴隷のように彼の足を洗ったイエス様の行いは、理解を超えているでしょう。そんな自分を低める、卑下するようなことは馬鹿げている — それがこの世の考えでしょう。敵にへつらい、戦わずして初めから負けているような弱虫になれと言うイエス様の言葉に従うことなどできないと思う方が、多いでしょう。

しかし、イエス様がおっしゃる「敵をも愛しなさい」とは、「敵にへつらう」ことではありません。そもそも「へつらう」とは、相手の気に入るようにすること・機嫌を取って好意を受けようとすることですから、こちらから相手をたいせつに思う愛とは、正反対を意味します。また、敵を愛すること、すべての人を愛することを通して、弱虫・弱い者になることはありません。

逆です。愛は人を強くします。もう少し申しますと、愛されて、愛を知って愛する人は、強くなります。一人で強くなるのではありません。愛で神さまと教会につなげられ、愛を絆として強められるのです。

説教の始めの方でも申しましたが、愛されることで人は強く支えられます。そして、私たちは一人一人、神さまに愛されているのです。他でもない神さまに、あなたはたいせつな、かけがえのない、この世でも御国でもたった一人のあなただと、十字架に架かられたイエス様は告げてくださいます。互いに愛するとは、このイエス様の愛を伝えてゆくことです。すべての人を愛するとは、すべての人にイエス様の愛を知らせてゆくことです。そして、教会は互いに愛し合い、全ての人を愛して伝道することで、強く生きてゆきます。

歴史が、それを証明しています。

迫害の中で、イエス様を救い主と崇めるキリストの礼拝は消えてしまったでしょうか。とんでもありません。クリスチャンの数は、どんどん増えてゆきました。

迫害しても、迫害しても、「いえ、あなたを大切に思います」とみつめるクリスチャンの穏やかなまなざしに会って、ハッとひるむ迫害者が、きっと多かったのだろうと、私は思います。こんな目で自分をみつめる人を傷つけることはできない、この人たちは何を、どんな神さまを信じているのだろう — そう思うことから、キリスト教を知ろうと教会に近づき、親しんでゆく人たちが増えていったのでしょう。

そうして、シリア地方からギリシャ、ヨーロッパへと教会の数は増え、やがて海を渡り、イエス様の十字架の出来事とご復活の福音は、世界中に広がってゆきました。その伝道の流れの中で、薬円台教会も生まれ、今日も世界のどこかで、新しく教会が立ち、洗礼を受ける決心をする方々が興されています。

主の愛、教会の愛によって生かされ、支えられ、強められていることをあらためて心に留めましょう。愛を心に抱いて、今日から始まる一週間を進み行きましょう。

2019年6月16日

説教題:命とは、主にある絆

聖 書:イザヤ書11章1-4節、テサロニケの信徒への手紙一3章1-10節

ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えてくれること、更に、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるのです。

(テサロニケの信徒への手紙一 3章6-8節)

今日の新約聖書の御言葉・テサロニケの信徒への手紙一 3章は、パウロの思いがあふれた言葉で始まっています。「もはや我慢できず」— ああ、もう我慢できない! 教会の皆さんに会いたくてたまらない! —とパウロは語ります。又、5節には、こうあります。「もはやじっとしていられなくなって」。これは、パウロの心の叫びです。こんな熱い思いを伝える感情の言葉が聖書にあった事に、驚く方もおいででしょう。

パウロ、シルワノ、テモテたち伝道者 — 今で申します「牧師」— は、信徒さんたちが集まり始め、ようやく群れとしての形ができはじめたテサロニケの教会を去らなければなりませんでした。繰り返しになりますが、それは、パウロたちがテサロニケの町で騒動を起こすから、ここから出て行ってくれという行政からの退去命令という衣をまとったキリスト教への迫害でした。

伝道者たちは、各地を旅して福音を伝え、その地に教会ができたら、しばらくその成長を見守って、次の町や村に新しく教会を立てに行く — それを繰り返してまいります。しかし、パウロたちは、テサロニケの教会の成長を見守ることができませんでした。また、伝道者たちが追放された後、当然のことですが、教会の人々はテサロニケに残るしかありません。そこが、教会の人々が住んでいる本来の居場所・生活の場だからです。迫害は、教会の人たちを苦しめました。

教会の人たちは、テサロニケの町で仕事を持っていたり、商売をしていたりと、その地に根をおろしています。迫害されて、仕事がなくなることがあるでしょう。自分のお店の商品をだれも買ってくれなくなるという迫害もあったでしょう。自分ばかりでなく、家族も生活に困る事態になったと容易に想像できます。

また、教会の人たちは、そのために知人や近所の人からうとまれ、挨拶すらしてもらえなくなったかもしれません。友人の中にも、手のひらを返すように冷たくなる人たちがいたのではないでしょうか。子供がいる家族だったら、その子の友だちの親が、教会に行っているあの子供とは遊ばないようにと言い聞かせたかもしれません。

パウロたちは、こうしてイエス様を信じて集まった者たちが、迫害の中で苦しんでいることを思って、大いに心を痛めたのでした。3節に記されている「このような苦難」とは、テサロニケ教会を襲ったこの迫害の苦しみをさします。だから、パウロはテサロニケを追われた後「じっとしていられない」ほどに、教会のことが心配だったのです。

また、テサロニケの教会の人々の心は揺れ動いたでしょう。イエス様を信じていることで生活ができなくなり、孤立してしまうのだったら、もう教会には行かないことにしよう。そう考えた人もいたと想像できます。信仰を捨てて、自分がイエス様から恵みをいただいて洗礼を受けたことを忘れて生きよう。そう思ってしまう人もいたでしょう。これは、むしろ、この世の人間の考えとしては自然なのかもしれません。それぞれの心は二つに割れたでしょう。一方には、信仰を捨ててしまおう・テサロニケでこれまでどおりの平穏な日々を過ごそうとの思いがあり、もう一方には、信仰にとどまり、迫害の中でも教会を守ろうとの願いがありました。テサロニケ教会の人々の心は、この二つの思いの間で揺れたでしょう。

パウロは、この人々の心を推測して、それをこう言い表しています。

5節の後半をご覧ください。お読みします。「誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配」。信仰を捨ててしまおう、という心の声をパウロは誘惑・悪い誘いの声と呼んで、心配しました。ここで「わたしたちの労苦」とパウロが言っている「わたしたち」とは、伝道者パウロ、シルワノ、テモテだけでは、ありません。テサロニケ教会を共に立ち上げた、教会の人々のことを、パウロは思い浮かべているのです。

これは、今に生きる私たちも、同じことです。教会で、特に祈りの中で「私たち」と言うことがあります。その「私たち」は、ここ・薬円台教会に集まる皆さんと、思いながらも今は一緒にいることのできない教会の方々と、この薬円台教会で共に教会生活を送って天に召された方々、代々(だいだい)の牧師先生、そして私をもさしています。

教会は、まさに労苦によってたっています。パウロは、この世からの迫害・荒波に負けずにたつ教会の労苦と、それを共にしているテサロニケ教会の一人一人を思い浮かべながら「わたしたちの労苦」が無駄にならないようにと、祈り願いました。この薬円台教会もそうです。この建物がなかった間の苦労、それを支え、会堂を献げるに至った宮﨑先生や教会の方々、そして教会がこうして今も生きて、礼拝を献げ続けていることを思うと、今日の御言葉にあるパウロと同じことを思わずにはいられません。「わたしたちの労苦」が無駄にならないように。けっして、けっして、教会がなくならないように。

(実際に、教会が消えてなくなってしまうことがあります。)

このように、私たち自身の祈りと合わせて、今日の聖書箇所を読む時、私には、パウロの祈りと願いの切実さが伝わってくるように思います。皆さまは、いかがでしょう。胸が熱くはなりませんか。

パウロは、テサロニケ教会がまだちゃんとあるか、教会のみんなが信仰を捨てて、ちりぢりばらばらになってはいないかと、様子を見るために、若いテモテをテサロニケに送りました。もし、たとえ一人でも、二人でも、テサロニケ教会で礼拝を献げる信徒がいたならば、テモテを通して御言葉で励ますためでもありました。

パウロたちは心配しながら、テサロニケ教会の礼拝を「寂しい礼拝」だと想像していたかもしれません。「寂しい礼拝」とは、人数を問題にして申しているのではありません。ひとすじにイエス様の愛を信じ、神さまにだけすがろう、と心をひとつにされた信仰者が二人で、または三人で礼拝を献げていたら、その礼拝は、少しも寂しくありません。礼拝を聖霊が満たしてくださり、主はその礼拝を喜ばれるでしょう。

寂しい礼拝とは、礼拝出席者の数がたとえ百人を超えていても、一人一人が二つに分かれた心を持って礼拝を献げている礼拝です。二つに分かれた心。聖書は、それを「二心(ふたごころ)」と呼ぶことがあります。それは、二つの思いの間で揺れ動く、動揺する心です。一つは、「教会から離れても、かまわない。私には、私の都合がある」という思い。テサロニケの教会の場合だったら「迫害に屈してしまおう、教会を捨てよう」との思いです。もう一つの思いは「この自分のためにご自身の命を犠牲にされたイエス様に、最後まで従い通したい、教会にとどまろう」、この思いです。信仰です。

テモテは、一度は追放されたテサロニケの町に忍び込み、行政の目を盗んでこっそり教会へと向かいました。テモテはどきどきしたでしょう。もう、だれもいないかもしれない。もし、寂しい礼拝が献げられていたならば、自分は歓迎されないだろう。いやがられ、帰ってくれと言われるとの予想もあったでしょう。迫害の中で、今日礼拝をやめようか、来週にしようかと迷っているところに、信仰を励ます牧師が来て、大声で説教をされたら、迷惑だと思われるかもしれないと、テモテは思ったでしょう。

皆さんは「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」という映画をご存じでしょうか? ご覧になったことがおありでしょうか? 42年前の映画です。ささいなことから喧嘩で人を殺めてしまった一人の男性が、刑務所の中で妻とのハガキのやりとりで、こう妻に頼みました。もし、罪を犯した自分を見捨てず待っていてくれるなら、その印に家のどこかに黄色いハンカチを出して置いて欲しい。それがなかったら、諦めて、もう二度と家には帰らない。刑期を終えた男性は、どきどきしながら何年ぶりかとなる我が家をめざします。家の近くまで来て、一枚の黄色いハンカチが、目に入れば。そう願って目を上げました。そして、何十枚の黄色いハンカチが、家の屋根に、窓に、はためいているのを目にするのです。妻は、彼の帰りを心から待っていました。

テサロニケ教会は、この幸福の何十枚もの黄色いハンカチにこめられた、夫を待つ妻の思いのように、テモテを歓迎しました。6節にはこのように記されています。「あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっている」。テサロニケの教会は、一つの心・ひとすじに神さまに向かう心で、聖霊に満ちた喜びの礼拝を献げていたのです。

その喜びの源は何でしょう。8節をご覧ください。ここにある言葉です。「主にしっかりと結ばれている」。教会は、十字架で私たちの罪を担って、ご自身を私たちのために犠牲にしてくださったイエス様の愛を信じ、ご復活の希望を信じます。この救い主への信仰と希望と愛で、神さまに堅くつなげられています。また、私たち教会に生きる者も、互いに信仰でつなげられているのです。この絆こそが、私たち教会の命です。だから、パウロは8節で語ります。「わたしたちが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きている」のです。

主にある絆は、教会の命であり、力です。まことの力は、教会が大きな困難・小さな困難に直面した時に発揮されます。私たちそれぞれの人生、それぞれの家庭は、いつも順風満帆というわけではありません。むしろ、小さな問題・大きな問題が絶えず起こっていて、大波小波に揺られているようなのが、私たちの実際の生活でしょう。教会もまったく同じです。突然、設備が故障して早急にかなりの金額の修理が必要になる時、ご病気のために礼拝に来られない方々が増える時、教会学校に生徒さんの姿が少なくなる時。しかし、しっかりと主に結ばれて、教会は喜びと命を保ち続けます。主の日・日曜日ごとに、つながりを確かめ合い、時にここから礼拝に来られない方のところを訪問し、絆を強め合います。主にある絆を信じ、またここに「ただいま」と帰ってくる日曜日をめざして、今日から始まる一週間を進み行きましょう。

2019年6月9日

説教題:聖霊に満たされる幸い

聖 書:創世記11章1-9節、使徒言行録2章1-13節

…この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

(創世記11章9節)

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

(使徒言行録2章1-4節)

教会では年に三回、大きなお祝いの日を持ちます。教会の三大祝日と呼ばれます。ひとつは、世間一般でもよく知られているクリスマスです。イエス様がこの世にお生まれになった日・イエス様の誕生日です。もうひとつは、イースターです。十字架で死なれたイエス様が、復活された日・復活日です。今年は4月21日に、イースターを祝いました。そして、三大祝日の三つ目が、今日、イースターから50日目のペンテコステ・聖霊降臨日です。

さて、この聖霊降臨日とは、どういう日でしょう。それを説明するには、イエス様のご復活からお話ししなければなりません。イエス様はよみがえられました。弟子たちは、初めは驚き、ある者は疑いました。しかし、イエス様は、疑い深い者・トマスに、ご自身の傷跡に指を入れさせ、復活が事実であることを示してくださいました。そして、イエス様が戻ってきてくださったことを、たいへん喜んだのです。

それは、当然のことでしょう。亡くなったとばかり思っていた親しい人が生き返り、これまでと同じように仲良く暮らせたら、そんなに嬉しいことはありません。しかし、イエス様は、弟子たちとずっと一緒においでくださるわけにはいかなかったのです。

イエス様は、神さまの子です。父である神さまから遣わされて、この世に人間としておいでくださいました。

それは、人の世に憎しみと争い、殺し合いを招く人間の心の闇をすべて引き受けて、十字架でその闇を滅ぼしてくださるためだったのです。聖書は、この闇を「罪」と呼びます。イエス様は、私たちの罪をすべて背負って、その罪ごと、死んでくださいました。イエス様がよみがえられたのは、私たちが罪から解放されたことの証しです。

ここで、イエス様が天の父・神さまから命じられた務めは終わりました。ですから、いつまでもこの世にとどまらず、本来のところ・神さまの右の座に戻らなければならないのです。

神さまが、イエス様を人間としてこの世に遣わされたのは、私たちの目に見えない神さまを、見えるようにしてくださろうとの神さまのご配慮がありました。私たちは、自分の目に見え、聞こえ、自分の知性で確かめられることしか信じようとしません。神さまが見えないから、その御声が聞こえないから、その導きを信じることができない人間が、争いを重ねているのを、神さまは可哀想だと思ってくださったのです。しかし、それでは、ご復活されたイエス様が天に戻られたら、また私たち人間は、神さまが見えなくなり、信じることができなくなってしまうのでしょうか。イエス様は、ご自身のお父様である神さまのことを、弟子たちに、また人々に語り聞かせてくださいました。では、イエス様が天に戻られたら、私たちは神さまのことを教え伝えてもらう手立てを失ってしまうのでしょうか。また、信じることのできない闇に戻ってしまうのでしょうか。

いえ、そうならないために、イエス様は、ご自分が天に戻られる時に、弟子たちに約束をしてくださいました。こう言い置かれたのです。「わたしは、父から約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ福音書24:49)

イエス様が天に戻られても、私たちは見捨てられたわけではないのです。イエス様のように、聖書の言葉を神さまの御心どおりに説き明かし、語る力を与える者が、必ず高い所から送られてくるとイエス様は約束されました。この約束の者が、聖霊です。

神さまは、必ず約束を守る方です。ご復活から50日後の五旬祭の日、ギリシャ語で言うペンテコステの日に、天から聖霊が降りました。その出来事を語るのが、今日の新約聖書の御言葉です。私たちキリストの教会は、毎年、それを記念してペンテコステ礼拝を祝います。

今年は、その日を今日、こうして迎えています。

ですから、聖霊は何か、どんな方かと申せば、イエス様が天に昇られてから50日後に、イエス様と入れ替わるように、私たちに寄り添ってくださる方と言って良いでしょう。

天には、父なる神さまと御子イエス様がおられ、私たちを見守ってくださいます。そして、聖霊は私たちと今、ここに共においでくださって、私たちに神さまの御心を伝え、聖書の言葉を理解する力を与えてくださいます。また、祈りの時に、神さまは私たちに聖霊を通して語りかけてくださいます。

今日は、聖霊について、二つのことを心に留めていただきたく思います。ひとつは、聖霊が御言葉の力を現すことです。

先ほど司式者が朗読してくださった新約聖書の言葉・使徒言行録2章が語る聖霊降臨の出来事は、それを私たちに伝えてくれています。

炎のような舌が、そこに集まっていた者一人一人の上にとどまった、と語られています。舌。それは、言葉を語ります。

教会で、また聖書で、言葉は特に深く大切な意味を持っています。

神さまが最初に世界を造られた天地創造の時、神さまは言葉で「光あれ」とおっしゃることで光を造られました。

また、光と闇を分け、光を昼と言葉で呼び、闇を夜と、同じく言葉で呼ぶことで、昼と夜を造り、時間を造られたのです。

そして、教会は言葉で書かれた聖書を実にたいせつにします。私たちが日曜日ごとに献げているこの礼拝も、言葉から成っています。

聖霊が降って、語ることのできる舌を与えたとは、神さまの言葉・聖書の言葉の意味と、そこからいただく大きな恵みを受け取る力を与えられたということです。恵みは、感動です。意味がわかっても、納得するだけで、感動しない、心が動かないことは、普通の言葉ならよくあることです。外国語で書かれた標識、たとえば「一方通行」という標識の意味がわかって、大いに感動することは、まず考えられません。しかし、聖書の言葉は、意味がわかると同時に、感動が心にあふれます。神さまがどれほど深く私たちを愛してくださっているかが、聖書の言葉にこめられているからです。

今日の聖書箇所の11節後半に、このような言葉があります。聖霊をいただいた弟子たちが、さまざまな外国語で語り始めたところです。彼らは、外国語で、同じ内容を語っていました。その内容とは、そこに記されているように「神の偉大な業」です。「神の偉大な業」とは、イエス様が十字架で私たちのために死んでくださり、それによって私たちを罪と滅びから救い出してくださり、復活されたことです。ペンテコステの日、私たちは、一人一人、神さまが犠牲となってくださるほどに深く愛され、大切にされていることが、さまざまな国の言葉で語られたのです。

今日の聖書が語る出来事は、たいへん不思議なことのように思えますが、同じことが毎週、全世界の教会で行われています。毎日曜日、ありとあらゆる国の言葉で、教会の礼拝が献げられ、その礼拝では、聖書の言葉が読まれ、主の愛が語られ、イエス様の十字架とご復活のできごとが告げられています。だからこそ、聖霊降臨日は「教会の誕生日」とも呼ばれています。

今日、聖霊について心に留めていただきたいもうひとつのことは、聖霊が神さまの愛の力を現すことです。愛は、あなたはたいせつだ、私にとっていなくてはならない人、かけがえのない人だと語りかけることではないでしょうか。自分なんか消えていなくなってしまえば良い、もう生きていたくないと絶望する時に、いや、私はあなたに生きていて欲しい、私があなたに寄り添うから生きて欲しいと希望を与える言葉です。命を与え、絶望からよみがえらせるのが、愛です。

よみがえり・復活は、死んだもの、滅んだもの、壊れてしまったものが元どおりになることを言います。友情の復活とは、一度、絶交状態になってしまった者同士が、仲直りをして、再び友人として互いに助け合い、楽しみもつらさも分かち合うことをさします。聖霊は、ダメになったもの、ばらばらになったものをもう一度、復活させる力をさすのです。

今日の旧約聖書はバベルの塔の話を伝えています。人間は、れんがを造ることを知り、アスファルトを発明して有頂天になり、天に届こう、神さまと同じ高みに登ろうと傲慢になりました。人間が自分の力しか信じなくなる、自分を神とすることほど、恐ろしく危険なことはありません。

バベルの塔の話で、神さまは人間がそれ以上、傲慢にならないようにと、互いの言葉がわからないようになさいました。こうして、神さまは人間が、自分を神とする危険から守ってくださったのです。

そして、人間は全地に散らされました。私たちは、生まれ育った環境の言葉の他は、一生懸命勉強しないと、言語を身につけることができません。

長い旧約聖書の時代を経て、新約聖書の時代に、バベルの塔と逆のことが、聖霊降臨日に起こりました。聖霊によって、神さまの偉大なわざというひとつのことを語るために、弟子たちはあらゆる言葉を、まったく勉強することなく話し始めたのです。

さまざまな国の言葉で語る人々が、聖霊を通してひとつに結ばれることを、この出来事はよく現しています。ばらばらになった私たち人間は、神さまを信じる信仰によって、再びひとつとされるのです。平和が、ここにあります。主の愛によって、私たちが生きるこの世界に、平和がもたらされる希望がここにあります。

私たちは、御言葉によってひとつにされ、また、今日はこれから聖餐式に与って、イエス様の御体なるパンと血潮なる杯によって、ひとつとされます。たいへん残念なことに、この世界に、まだ本当の平和は訪れていません。しかし、聖霊を信じ、イエス様の愛を信じ、父なる神さまを共に仰ぐことで、私たちは平和への道を与えられています。神さまに愛されている自分をたいせつにし、同じように愛されている自分以外のすべての人をたいせつにしたい、その願いから、平和をめざしましょう。その願いをもって、今日から始まる一週間を歩んでまいりましょう。

2019年6月2日

説教題:希望、喜び、誉の冠

聖 書:詩編133編1-3節、テサロニケの信徒への手紙一 2章17-20節

都に上る歌。ダビデの詩。見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り 衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り ヘルモンにおく露のように シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された。祝福と、とこしえの命を。

(詩編133編1-3節)

兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、— 顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが — なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。

(テサロニケの信徒への手紙一 2章17-20節)

今日、わたしたちがいただいている御言葉は、旧約聖書の詩編133編も、新約聖書のテサロニケの信徒への手紙一2章17節から20節も、どちらも、始めの方に「兄弟たち」という言葉が語られています。兄弟たち。これは男性に限らず、姉妹も含めて、兄弟姉妹をさしています。

詩編133編は、「兄弟たち、兄弟姉妹たちが一緒に座っているのは、何という喜び」と歌います。「一緒に座っている」という言葉は「一緒に住んでいる、共に暮らしている」ことも意味します。この詩編が讃えているのは、兄弟姉妹が仲良く暮らすことの素晴らしさです。

また、新約聖書の方で、テサロニケの教会に、パウロが語りかける時に用いるのも、親しみをこめた「兄弟たち」、「兄弟姉妹よ」という言葉です。

教会に初めておいでになった方・通い始めて少し経った方が、教会の印刷物 — たとえば、週報や、先週発行された「薬円台誌」、日本基督教団の広報紙「こころの友」や「信徒の友」をご覧になって気付くのは、名前の後に「兄」や「姉」という字がついていることでしょう。教会の人は、みんな血縁関係にあるのだろうか、いや、そんな、まさか…と思ったご経験のある方も、おいでかもしれません。

薬円台教会ではお互いを「さん」づけで呼びますが、教会によっては、名字に続けて男性であれば○○兄弟、女性であれば○○姉妹と呼ぶ習慣を持ちます。私が洗礼を受けた教会がそうで、洗礼を受けるまでは「原田さん」と「さん」づけで、洗礼を受けてからは「原田姉妹」と呼ばれました。

お互いを兄・姉、または兄弟・姉妹と呼ぶのは、教会が、神さまを父とし、イエス様を一番のお兄さんとする家族だからです。教会は「神の家族」— それが、今日の聖書箇所が私たちに伝える恵みです。

教会で、血のつながりがないのに「兄」「姉」と呼び合うこと、また文章で自分の名の後に「兄」や「姉」がつくことに、初めは、わずらわしさを感じるかもしれません。芝居がかっている、わざとらしいと反発を持ったり、束縛されるように思ったりするかもしれません。

ただ、心に留めていただきたいことがあります。聖書は、教会としての連帯感を強めなさい、神の家族になりなさい、そのために兄弟姉妹だとお互いをみなしなさい、と言っているのではありません。教会が神の家族だというのは、動かしようのない事実なのです。神さまが、教会に集う私たちを、家族にしてくださるのです。

もう少し日常的な言い方に、言い変えてみましょう。教会は、神さまを信じて、神さまの子とされた者なら誰でも、いつでも、「ただいま」と自分の家として帰ってくることのできるところです。

皆さんは、イエス様が語られた「放蕩息子のたとえ」の話をご存じでしょうか。親がまだ元気なのに、遺産をよこせと言ったわがまま息子の話です。この息子は、望みどおりに親から大金をもらい、放蕩の限りを尽くして外国で遊び歩き、大金を湯水のように使い果たし、あっという間に無一文になってしまいました。お金があった時はくっついてきた取り巻き連中は、一人としてこの息子を助けようとしてくれませんでした。仕方なく、この人は、豚の世話をして賃金をもらう身に落ちぶれる他ありませんでした。お腹がすいてたまらなくなり、世話をしている豚の餌を食べようかと思った時に、自分の過ちと愚かさに気付きました。そして、お父さんのところへ帰ろうと思うのです。父親が、この放蕩息子をどのような深い愛をもって迎えたか、どうぞルカによる福音書15章をお読みください。私たちのお父様である神さまが、さまよったあげくにご自分のもとに辿り着いた私たちを、どれほど暖かく迎えてくださるかを、どうぞ読み味わってください。

帰るところがある、自分を迎え入れ、守ってくれる家がある — それは、実に大きな安心です。

聖書は、その安心できる自分の居場所が、あなたにもある・教会があなたの家だ、教会があなたの家族だと告げるのです。

今、お話しした「放蕩息子のたとえ」で、イエス様はその恵みを語られました。そして、このルカ福音書15章ばかりでなく、聖書は教会を神の家族・神さまを信じる者に与えられた「家族」であり、「帰る場所」であることを繰り返し伝えます。

家族は、家族であるがゆえに、互いにぶつかりあうことがあります。関わりが深く、互いをよく知っており、ものの考え方が似ているけれど少し違う、そして、遠慮がない — だから、喧嘩をしてしまうのです。他人ならば仕方ないと割り切れるところが、兄弟姉妹だと、どうしても割り切って考えることができなくて、どうしようもないほど、関係がこじれてしまうこともあるでしょう。

聖書は、そのような人間の心の闇を的確に伝えています。聖書が伝える最初の殺人事件は、兄弟殺しです。兄カインが、ねたみ・嫉妬のために弟アベルを憎み、殺してしまいました。

しかし、この人間の心の闇を、神さまは闇のまま放っておくことはなさいませんでした。心の闇は、聖書の言葉を用いれば「罪」と言ってよいでしょう。その罪を、イエス様はすべて背負ってくださり、私たちを闇から解き放ってくださるために、十字架で罪と共に死んでくださいました。

イエス様は、人間が、憎み合ったままで終わることがないようにしてくださったのです。人間同士が憎み合って断ち切ってしまった絆を、神さまは再びつなぎ直してくださる、だから人間は再び愛し合うことができる、絆を取り戻すことができる — その希望を、イエス様は十字架で一度罪と共に滅び、ご復活されることで示してくださったのです。

私たち人間が、どれほど互いのことを思いやって、愛し合おうとしても、限界があります。しかし、神さまは限界のある私たちの小さな心を超えて、互いをご自身の愛で結び合わせてくださるのです。

ですから、「教会が神の家族」であるとは、このようにも言い換えられます。「教会は、仲直りの場所。別れ別れになった者、憎み合っていったんばらばらになった者が、再びひとつにされるところ。」

先ほどご紹介した「放蕩息子のたとえ」でも、放蕩息子はただ愚かしく我が儘だっただけではなく、父や母、兄弟姉妹たちと、どうしてもうまくやってゆけず、家から出たいと思ったのかもしれません。家族の間で、親子げんか・兄弟げんかがあったかもしれないのです。

しかし、この息子は最後には家に帰りたいと願いました。

たとえ息子として受け入れられなくても、使用人でもかまわないから、家に帰りたいと思いました。そして、そのとおりにしたのです。

一方、この息子の父はわが子の帰りを待ち続けていました。そして、息子が帰って来たら大喜びで迎えました。ここに、再会と仲直りの喜びがあります。神さまは、私たちの心を離れたまま、ばらばらなままに捨てておかれることはありません。

ここには、再び共に生きる希望が語られているのです。

旧約聖書の時代、まだイエス様はこの世に遣わされてはいませんでした。しかし、今日の詩編133編の言葉は、神さまが兄弟姉妹・神さまの家族を、その恵みでつなげてくださることを告げています。先ほど司式者が朗読してくださいましたが、今一度、お読みしますので、お聴きください。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り 衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り ヘルモンにおく露のように シオンの山々に滴り落ちる。」

ユダヤの祭儀では、神さまからの祝福として香油・かぐわしい油が人々にそそがれます。兄弟たちをひとつにつないでいます。油は彼らの頭に等しくそそがれました。ユダヤの大人になった男性は皆、ひげを長く伸ばしていますから、そこにもしたたり、服の裾にもしたたって、皆が同じ良い香りを放つようにしてくださるのです。

この詩編の作者は、一節に書かれているように、イスラエル統一を果たしたユダヤの二人目の王・ダビデだと伝えられています。ダビデは、最初のユダヤの王・サウルにたいへん愛されました。ダビデは歌うこと、竪琴を奏でることが上手でした。少年だった頃には、うつ病だったのではないかと言われるサウル王に仕えて、その鬱屈した心を慰めたのです。ダビデは文武両道に優れておりました。青年となってからは戦(いくさ)で活躍し、サウル王にまさる武勲を立てました。ダビデが戦ったのは、自分を愛し、また自分も敬愛する王サウルを助け、守るためでした。しかし、その結果として、ダビデがサウル王よりもすぐれた武将であることがわかると、サウル王はダビデに嫉妬して、激しく憎むようになりました。サウルは何度もダビデを殺そうとして命を狙い、とうとうダビデは、祖国イスラエルにいられなくなって、いったんは他国に逃げなければなりませんでした。

ダビデの人生に、そのような出来事があったことを知って、この詩編133編を読む時、サウルに憎まれて祖国を追われたダビデが、どれほど深く人の心の暗さを嘆いたか、故郷へ、家へ帰りたいと思ったかが伝わってくるように思います。ダビデは、再びサウルと、主にある仲間・神の家族として一緒に祝福を受けたいと願ったことでしょう。

しかし、旧約の時代には、神さまを信じてひとつとされる、その確かなしるしを、人間はまだいただいていませんでした。

神さまは、その独り子イエス様を、人間の目に見える、私たちと同じ人として この世に与えてくださいました。イエス様こそが、私たちが神さまの家族とされていることのしるしです。こうして、新しい神さまとの約束・新約聖書の時代が始まったのです。

今日の新約聖書の聖書箇所では、パウロが、テサロニケ教会の人たち・主にある兄弟姉妹たちに、もう一度会いたいと強く願っていたことを伝えています。これは教会の中でいさかいや争いごとがあったわけではなく、前回お話ししたように、迫害を受けたためでした。ようやく教会として歩み始めたばかりのテサロニケ教会から引き離されるように、この町を追われたパウロは、何度も戻ろうとしました。しかし、どうしても戻ることができなかったのです。

パウロは、そのことを悲しい、くやしいと嘆いているでしょうか。もう、テサロニケ教会の人々とは会えないと、諦めているでしょうか。パウロは、嘆きも悲しみもしていません。希望を持ち続けています。

今日の19節から20節にかけての御言葉をご覧ください。ここに、神さまを信じ、イエス様の十字架のみわざにより救われた者・教会に与えられている希望が記されています。お読みします。「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。」

パウロの目は、イエス様が来られる時、すなわちこの世が終わり、神さまの国とひとつになる日にそそがれています。肉体が滅んでいても、その日には、イエス様が十字架の死からよみがえられたように、私たちは復活します。その時には、必ず会うことができる、しかも、イエス様の御前で会えると、パウロは再会の希望を語ります。

私たち教会の家族は、希望の絆で結ばれています。

この世の家族を結ぶのは、血のつながり・血縁でありましょう。

教会の家族を結ぶものがあります。それは、イエス様が十字架で裂かれたお体、そこから流れ出た血で救われたことを信じる信仰です。

今日は、これから、その絆をさらに堅くしていただく聖餐式に与ります。教会の兄弟姉妹は、十字架の上で裂かれたイエス様のお身体なるパンと、流された血潮なる杯を実際に一緒にいただいて、共にそれぞれの内に取り込むことを、私たちは神の家族のしるしとします。

教会という神さまの家族は、この世にあっていろいろなことを経験します。家族の中でもめごとが起きることがあります。財政上の困難に直面することもあります。肉体の死の陰が、教会を色濃く覆うことがあります。私たちが悲しみと不安に打ちのめされそうになる時が、あるのです。

しかし、何があっても、教会で兄弟姉妹となった者同士には、同じひとりのお父さま、天の父なる神さまがおられます。私たちを必ず守り、決してちりぢりになることなく、永遠に群れとしてひとつにまとめ続けてくださる方がおいでです。

まだ教会の兄弟姉妹になっておられない方を、主が強く洗礼へと招き、家族としてご一緒に歩めるようにと祈り願います。私たちひとりひとりが、居場所としていつも安心して帰ってこられるところが、ここにあります。今週も、その安心を胸に、今日から始まる一週間を過ごし、また来週、「ただいま」と、ここへ帰ってまいりましょう。

2019年5月26日

説教題:生ける神の言葉

聖 書:詩編33編1-15節、テサロニケの信徒への手紙一 2章13-16節

このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中で現に働いているものです。

(テサロニケの信徒への手紙一 2章13節)

今日、私たちに与えられた旧約聖書の御言葉・詩編33編は、私たちに礼拝の意味を伝えてくれています。私たちが今、こうしてご一緒に献げている礼拝で何をしているのかを的確に知らせる言葉です。私たちは毎週、日曜日の決められた時刻、薬円台教会では朝十時三十分にひとつに集められて、礼拝を献げます。歌ったり、聖書を読んだり、聞いたり、そしてまた歌ったりといたしますが、何のためにしているのでしょう。私たちが何のために礼拝を献げているのか、その礼拝の意味が、今日の詩編の言葉に語られていると申して良いでしょう。

詩編33編1節は、私たちにこう呼びかけます。主に従う人よ、と。私たちは皆、この礼拝の場に集まることで、神さまを仰いでいます。初めて礼拝においでになった方がいたとすると、その方は、神さまがおられること自体を、まだ受け入れていないかもしれません。自分は教会がどんなところかを知りたくて、見学に来ただけだと思っておられるかもしれません。けれど、目には見えないけれど、今、ここに確かにおられる神さまには、その方がちゃんと見えています。そして、神さまは、集められたすべての人に語りかけます。もちろん、自分では見学に来ただけと思っているその方にも、語りかけられるのです。

見学ということで言えば、日常生活の中で、私たちのほとんどが、小・中学校、高校に通っていた子ども時代に「体育の時間、体調が悪くて見学する」という体験を持っていると思います。体育の時間の「見学」はつまらなくて、さびしいものです。みんなが楽しそうにサッカーをしたり、バレーボールをしたりしているのに、自分だけできないというのは、たいへんな疎外感があります。

自分では「見学しに来た」という思いで、礼拝の外側・教会の外に身を置いたつもりの方も、神さまからご覧になれば、つまり現実・真実にあっては、礼拝の中・教会の中、私たち主にある者の一人になっているのです。自分だけが違う、という隔てはありません。そうして、神さまにつなげられている私たちは、皆、神さまに従う者としていただけます。

もちろん、神さまが聖書を通して示される正しさや優しさ、隣り人への思いやりを、いつも心に抱いて、そのとおりに行動するのは、私たちにとってたいへん難しいことです。ほとんど不可能と申しても良いでしょう。しかし、従いたいとの願いを持って祈れば、神さまはイエス様を通して、私たちを神さまの正しい道へと導いてくださいます。

神さまを知らなければ、私たちは進み方がわからなくて、右往左往してしまいます。何が正しいのか分からない時に、道を見失って迷い、立ちすくんでしまいます。自分の力、また、まわりの親しい方に相談しただけでは判断がつかないことが、私たちには実にたくさんあります。その私たちに、神さまは進むべき道を示してくださいます。

そのように私たちを導いてくださる神さまの素晴らしさを、私たちは感動をもってほめたたえずにはいられません。また、神さまの導きを感謝せずにはいられません。神さまをほめたたえる思いと、感謝する思いは、私たちの心からあふれて言葉になり、歌になります。それが、讃美歌です。今日の詩編の言葉を用いれば、讃美歌は「ほめ歌」です。私たちの「新しい歌」です。「喜びの叫び」です。

それでは、神さまは、私たちをどのように導いてくださるのでしょう。神さまは私たちの目には見えません。そのお声も、私たちの耳では聞くことができません。肉体の目や耳を通しては、私たちは神さまが示してくださる道を知ることはできないのです。

神さまはどのように私たちに道を示してくださるのでしょう。神さまは、二つのことを用いられます。ひとつは、聖霊を通してです。もうひとつは、聖書の御言葉・神の言葉を通してです。

私たちがそれぞれ、一人でいて聖書を開く時にも、聖霊が働いて、聖書に記されている神さまの言葉を心の耳・魂の耳に届けてくださいます。聖書を読みながら、今、まさに私の悩みに応えてくださる言葉を与えられた、悩みや苦しみを超えて前進する指針を与えられたという経験をお持ちの方は、ここにも大勢おられるでしょう。

しかし、神さまの言葉・御言葉は分かち合うことで、真実に活かされます。

御言葉の分かち合いが最も豊かに与えられるのが、この主の日の礼拝です。

毎週の週報の式次第・礼拝順序に記されているように、礼拝の中で、私たちはたくさんの神さまの言葉をいただきます。招きの詞から始まり、交読詩編があり、そして聖書朗読があります。私たちが最も豊かに神さまの言葉をいただくのは、この聖書朗読を通してです。

しかし、聖書の言葉は、私たちがただ聞いただけ・読んだだけでは、意味がよく分かりません。そこで、説教が語られます。その日曜日の礼拝で与えられている聖書の箇所を、説教者が説き明かします。説き明かすとは、その字が示すごとく、説明することです。

今日の新約聖書の方の聖書箇所、テサロニケの信徒への手紙一 2章13節は、説教は何かということから語り始めています。

パウロは、テサロニケの教会の人たちに語ります。2章13節をお読みします。わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。

事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中で現に働いているものです。

ここでパウロが「わたしたち」と言っているのは、パウロと一緒にテサロニケの教会を立ち上げたシラスとテモテを合わせた伝道者、今で言う説教者・牧師にあたる者たち三人のことです。そして、当時は新約聖書がまだありませんでした。何度も繰り返しお伝えしますが、今、私たちが読んでいるテサロニケの信徒への手紙は、新約聖書の中で最初に書かれた書です。イエス様の十字架の出来事とご復活を記録した文書は、まだひとつもありませんでした。

その中で、パウロたちは旧約聖書の御言葉を読み、そこにイエス様のことが預言されていることを語り、イエス様の死とご復活を説教として語りました。

パウロは大胆に教会の人に告げます。「わたしたちから神の言葉を聞いたとき」。これが“人の耳にはたいへん大胆に聞こえる”と申しますのは、パウロは説教が神の言葉だと言っているからです。

説教は神の言葉。説教を語る立場にある私・牧師から申しますと、実に重大な課題を突き付けられる言葉です。私が語っているこの説教は、神の言葉でしょうか。

神学校の授業科目に「説教学」というものがあります。学部の三年生になると、神学生は初めて説教を語ることを学び始めるのです。

私が神学生だった時の最初の「説教学」授業を、今でもよく覚えています。私たち学生は教授からこの命題を与えられました。

「説教学」担当の先生は、授業開始のお祈りを献げ、その後にすぐ立って、教室の黒板にこう書かれました。「神の言葉の説教は、神の言葉」。(第二スイス信条)そして、私たち学生に尋ねられたのです。

「皆さんは、これに賛成されますか? アーメンとおっしゃいますか?」

私たち学生は、みんな、おそるおそるではありましたが、同じことを答えました。「説教を聞くときは、どの牧師が語られても、神の言葉と思って聞きます。けれど、これから自分が語ることになる説教が、神の言葉とは、到底思えません」。

「神の言葉の説教は、神の言葉。」これは、第二スイス信条という信仰の勧めの中の言葉です。宗教改革の時代、今から500年ほど前に記されました。この言葉は、説教を聞く者にとっての真実です。私たち学生が説教学の先生に答えたように、礼拝で語られる説教を、神の言葉として受けとめます。そして、説教を語る伝道者・牧師にとっては、これは目標であり、果たさなければならない使命です。自分の考えや思いを伝える言葉ではなく、神さまの言葉を伝えます。水を通す管を思い浮かべていただくと良いでしょう。命の水である神さまの言葉を、耳を傾けている皆さんにわかりやすく、けれど余分なものを足したり、命のためになくてはならない成分を引いたりしないで、伝える「管」(くだ)の役割を説教者は担っています。

そして、今日の御言葉で、パウロはテサロニケの教会の人たちが、自分たち三人の説教者が語った説教を「神の言葉」として受けとめたことを、心から喜んでいます。そうでなければ、テサロニケの教会は、教会として生き延び続けることがなかったからです。

続く14節後半の言葉は、キリスト者がユダヤ人から、またギリシャにあるテサロニケのクリスチャンたちが自分の国の人・同胞のギリシャ人から迫害を受けたことが告げられています。

そもそも、イエス様は、どうして十字架で死刑にされたのでしょう。それは、神さまの御子イエス様の語る言葉、律法の新しい解釈を、ユダヤの人々が、神の言葉として受けとめず、信じなかったからです。

しかし、イエス様はご復活されました。ご復活により、神の言葉そのものであるご自身が滅びることなく、永遠であることを示されました。旧約聖書のイザヤ書40章に、このような預言の言葉があります。

「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。」神さまのご計画の中で生きている私たちは、神さまが命の息・主の風を与えてくださる時に生まれ、神さまがご自身のもと・神の御国へと呼び返す時に、この世の命を終わります。

日本語にもいわゆるふつうの国民・人民をさして「民草」(たみくさ)という言葉があります。「雑草のように強く生きる」という表現もあります。聖書とは関係のない一般の表現ではありますが、励まし合う時に使うのではないでしょうか。この表現には、草のように弱くはかないものであっても、という気持ちが前置きとしてこめられています。草のように弱くはかなく、簡単に踏みつけられ滅びてしまうものであっても、力の限り生きようという心意気が「雑草のように」という言葉になったのでしょう。

私たちは、確かに草でありましょう。けれど、イザヤ書40章は、こう続くのです。「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」草であり、そこに咲く小さな花である私たちが枯れ、しぼんでも、私たちを忘れず、永遠におぼえて、魂を活かしてくださるのが、とこしえに生き続ける神さまの言葉なのです。

イエス様のご復活は、その真実を事柄・事実として、はっきり現した「出来事」です。人となってこの世においでくださった神の御子イエス様は、その草のような人の命を、最も悲惨な死刑という形で終わられました。

しかし、よみがえられたのです。

神さまの言葉は生き続けます。絶えることなく、永遠に真実です。

神さまの言葉を永遠に立ち続ける真実として受けとめ、信じる私たちと、神さまは必ず共にいてくださいます。私たち草のようにはかない命の小さい者を、深く愛してくださったからです。

それこそが、私たちが永遠の命をいただくということです。

パウロたちはテサロニケの町で、イエス様の十字架の出来事とご復活を語りました。それは、永遠の命を与える希望と恵みの言葉です。神の言葉として受けとめさえすれば。

けれど、人間の言葉・人の言葉とだけしか聴き取れないと、イエス様のことは、死刑になった者の話、そして死人が生き返ったという信じがたい話でしかありません。

パウロたち伝道者が、数ヶ月しかテサロニケの町にいられなかったことの表向きの理由、と申しますか、法的な理由は、そんな信じがたい話で、町の人の心をかき乱さないで欲しいということだったのです。そのためにパウロたちは、イエス様の希望と恵みの福音を語ることを禁じられて、町を追われてしまいました。残念なことです。

私が残念と申しますのは、パウロたちが町にいられなかったことが、後に残されたテサロニケの教会の人たちのために残念だという意味も、もちろんあります。しかし、本当に残念なのは、パウロたちが語っている希望と、愛の恵みの神さまの言葉を、信じて受け入れられなかった多くの人々です。パウロたちを、またパウロたちが去った後、テサロニケの教会の人たちを迫害した人たちです。

迫害は、信仰者をいじめたり、無視して排除しようとしたり、暴力を振るったりすることです。それらは、迫害として行動に表れる事柄と言って良いでしょう。迫害の中心にあるもの、迫害の本質は、神さまの言葉を信じないで、人間の言葉による「たわごと」だと軽蔑し、語らせないようにすることです。

パウロたち説教者がテサロニケの町を追われ、教会を離れなくてはならなくなった時、テサロニケのクリスチャンたちは、神さまの言葉をいただく機会を失いました。

いえ、失ったのでしょうか。

彼らは失いませんでした。心に受けとめた神さまの言葉を、信徒さんたちが、互いに大切に語り合ったのです。これは、一人ではできません。一人では、自分一人の思い込みが加わって、だんだん神さまの言葉が自分流に歪んで違うもの・人間の言葉になってしまうからです。

テサロニケの教会の人たちは、心を合わせて祈りながら、聖霊に助けられ、また互いに教え合い、神さまの言葉を歪めないように、礼拝を献げ続けました。だからこそ、教会は、一人の人ではなく、複数の人・二人または三人から起こされて群れになるのです。

その教会の役割を、テサロニケの信徒さんたちが粘り強く、忍耐強く、迫害に耐えて果たし続けていたことへのパウロの喜びを表すのが、今日の御言葉です。教会を支えたのは、しかし、人の力ではありません。神さまの言葉を信じて、その言葉に強められる、その信仰を与えてくださった神さまの深い愛が、彼らを支えたのです。

私たちは、皆、しあわせになりたいと願っています。不幸になりたいと思っている人は、おられないでしょう。しあわせ・幸福とは、何でしょう。病がなく、物質的に恵まれ、悩みもなく、不自由なく過ごす、ただそれだけのことでしょうか。しかし、この世に生きる限り、私たちは災害・病・事故・苦難から逃れることはできません。

真実の幸福とは、これらの苦しみの時にも、今を耐えれば良いのだと安心と落ち着きを得られることではないでしょうか。私たちの真実の幸福は、永遠にゆらがない、とこしえに立つ神さまの言葉を支えに生きることにあります。ここに、苦労の中でも、安心があるからです。

迫害の中でも、テサロニケの教会は助け合って、神さまに依り頼み、苦しくても幸福だったでしょう。教会に集まりさえすれば、そこには信仰の友・心をゆるしあえる友がいて、安心できる自分の居場所がありました。また、安心を心に抱いて、そこからテサロニケの町に勇気を持って出て行くことができたのです。

私たち薬円台教会も、しあわせになりましょう。神さまの言葉によりすがり、神さまの言葉に支えられて、教会で心を合わせ、安心をいただきましょう。一週間を過ごす力を御言葉からいただいて、今週も進み行きましょう。

2019年5月19日

説教題:ひたむきに主に従って

聖 書:詩編17編1-5節、テサロニケの信徒への手紙一 2章5-12節

わたしの口は人の習いに従うことなく あなたの唇の言葉を守ります。暴力の道を避けてあなたの道をたどり 一歩一歩、揺らぐことなく進みます。

(詩編17編3-5節)

わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。…あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。ご自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。

(テサロニケの信徒への手紙一 2章7-12節)

私は薬円台教会にお仕えして、この四月で五年目を迎えました。まる四年という月日は、決して長くはありません。しかし、短いとも言えません。ひとつの区切りの年月のように思えます。

私個人としては、あっという間に四年が経って、五年目に入ったという実感を抱いています。四年の間に、もう少ししっかりした牧師に育たなかったものかと、反省の思いもあります。日曜日の礼拝を終えたら、皆さんとご一緒に無事に主の日を守り、礼拝を献げられたことを感謝し、喜んで、すぐに次の日曜日をめざして走り出す – それを毎週 続け、あれよ あれよという間に月日が過ぎました。

薬円台教会を造り上げている教会員の皆さんが、群れとしてどっしりと落ち着いていることを、あらためてありがたく思い、主に感謝を献げます。群れそのもの・教会そのものは、少しずつ成長し、大きくなっています。宮﨑創先生と、二人の信仰の先達を天にお送りしましたが、洗礼を受けた方や、他の教会から転入された方が新しく加えられました。ずっと前・何年も前に薬円台教会で信仰生活を送っておられた方が、久しぶりにここにおいでになったら、どんな印象を持つでしょう。そんなことを思いながら、今日の新約聖書の御言葉、テサロニケの信徒への手紙一 2章5節からの説教を準備いたしました。

このように申しますのは、少し前から皆さんと読み始めた「テサロニケの信徒への手紙」というこの書は、伝道者 — 牧師と申して良いと思いますが — 牧師パウロが、久しぶりに、自分のいた教会に向けて呼びかけ、書き送っている文書だからです。前回、前々回の説教でお伝えしたように、テサロニケの教会は迫害に負けず、しっかりと生き残っていました。パウロは、それを知ってたいそう喜びました。

そして、喜ぶパウロの心に続いて浮かんだのは、テサロニケの教会が、変わっているだろう、かつて自分がいた頃とまったく同じではないだろうということだったのではないでしょうか。天に召された方がおられ、迫害や、さまざまな事情により、残念ながら教会から去っていた人がいるでしょう。そして、パウロのことをまったく知らない、新しく加わった教会員たちも、そこにいたに違いないのです。

先ほど司式者が朗読された聖書箇所、2章5節から12節は、パウロが、正確にはパウロと一緒に牧師としてテサロニケの教会に仕え、一緒にそこを去らざるを得なかったシラスとテモテの三人を代表するようなかたちで、パウロが自己紹介をしているところです。パウロは、自分たちがどんな思いで、どんなふうに神さまの言葉を伝え、福音を伝える生き方をする者かを、今日の箇所で語っています。その言葉は、テサロニケの教会に新しく加わった人々に向けてばかりではなく、時間と場所を越えて、パウロたちの自己紹介にとどまらず、伝道者 – それは牧師ばかりでなく、神さまの言葉を伝え、福音を伝えるすべての者・私たちが与えられている使命と心構えを教えてくれています。

最初の5節は、自己紹介の言葉としては、少なからず後ろ向きと申しますか、ネガティブと申しましょうか、良い印象を与えないものです。皆さんも、ちょっと驚いたのではないでしょうか。パウロは、自分たちのことを、こう弁明することから、自己紹介を始めているのです。5節を、今一度、お読みします。5あなたがたが知っているとおり、わたしは相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます。パウロは、何を言うよりも先に、まず、自分たちは、話を聞く相手にへつらったり、お金をかすめ取ったりしないと言っています。そう言わなければならなかった時代背景が、当時の社会にあったのです。

今から2千年近く前のギリシャには、文化として、言葉を用いて語り聞かせることや、討論することがたいへん盛んだったようです。現代のようにいろいろな娯楽はもちろんありません。人々に話を聞かせながら、町から町を巡り歩くことを「なりわい」として、それでお金を稼ぎ、生計を立てている職業の人たちがいました。巡回説教者と呼ばれる人たちです。

人々は、この巡回説教者たちにお金を払って、ためになる面白い話を聞くことを期待したでありましょう。そうなると、話し手の中には、聴き手を喜ばせる語り方だけを考える者が現れたでしょう。お金を払ったのに、つまらない話で、しかも気持ちが滅入ったり、叱り飛ばされるような話だったりしたら、お金を返してくれと言われたかもしれません。そのために話し手の中には、本当に伝えなければいけない内容をねじまげて、相手の機嫌を取ることばかり考えるようになった者もいたでしょう。5節にある「へつらったり、かすめ取ったり」とは、そのような者たちがしたことをさしています。

パウロは、自分たちがお金のために話したり、相手の機嫌を取ったりして話をする者ではないと明確に宣言することから、自己紹介を始めました。そして、それは「神さまが証ししてくだされば良い」 - 自分たちの話がつまらないと言われ、人気が出なくても良い、人間に認められなくても良いと言っているのです。それが、6節の言葉となっています。パウロは、こう書いています。お読みします。あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。

パウロは、実際に、人間的な意味では、あまり説教が上手な伝道者ではなかったと自分で書き残しています。「わたしのことを『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』という者たちがいる。」(コリント書II 10:10)

しかし、パウロはそんなことは気にしない、人間が「仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」(コリント書II 10:12)と、人の評価・毀誉褒貶に翻弄される人間の浅はかさと悲しさ、空しさを語ります。

では、神さまから使命をいただいた者だからと、威張っていて良いのか、神さまの権威をふりかざして良いのかと言ったら、決してそんなことはないと、パウロは告げます。ユダヤ教の指導者、律法学者や祭司たち – イエス様を十字架に追いやった者たち – は、自分たちが神さまにお仕えする者だということを嵩に着て、たいへん居丈高にふるまっていました。パウロは、自分たちはそんなことはしないと言うのです。それが、今日の聖書箇所の7節です。威張り散らす代わりに、パウロはどうするのでしょう。彼は、こう書いています。お読みします。「(わたしたちは)あなたがたの間で幼子のようになりました。」

当時の社会では、幼子・赤ちゃんや幼児は取るに足らない者と考えられていました。育たない赤ちゃんが多かったことから、今の考え方からは思いもつかないことですが、いなくなっても仕方がない・また産めばよいだけの者とすら、思われていたのでしょう。最も弱く、何もできない者、発言力もなく、相手にされない者。それが、当時の幼子です。

しかし、私たちは、ここで思い出さなくてはなりません。イエス様は、最も貧しい環境の中で、幼子としてこの世においでくださいました。そして、誰にも相手にされないどころか、社会から排除され死刑にされる罪人として十字架に架けられ、この世から去って行かれたのです。その時、人間には、イエス様が、そのようにして私たちの闇のいっさいを背負ってくださったことを少しも知りませんでした。

私たちの神さまは、なんと、私たちよりも低いところに身をおかれ、私たちに仕えてくださる方なのです。

神さまが私たちに仕える – イエス様が、私たちに仕えてくださる – そのイエス様の愛にならって、パウロは教会にお仕えする姿勢を語ります。当時の社会の幼子のように、あるいは、弟子たちの足元にひざまずき、弟子たちの足を洗う奴隷の仕事をしてくださったイエス様のように、パウロはへりくだって教会に仕えると告げているのです。

それは心構えや決意と言うよりも、教会の、また教会の人々への深い愛からでした。パウロは、イエス様が弟子たちを、また私たち人間を深く愛してくださった御心を、イエス様の言葉と行いを通して、また聖霊を通して、確かに受けているのです。

パウロは教会の人々への愛を、母の愛にたとえました。7節の後半から8節にかけてをお読みします。どうぞ、お聴きください。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、8わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。

母となる人は、命を削るようにして、自分の胎内に宿った命を育てます。へその緒を通して栄養を与えます。妊娠中の方は、おなかの赤ちゃんの骨を造るために、歯のカルシウムを奪われます。ここにおいでの方々にも、妊娠中に歯が悪くなった経験をお持ちの方がいらっしゃるでしょう。赤ちゃんが産まれると、お母さんは赤ちゃんにお乳をあげます。お母さんが自分の命のために食べる物は、母乳となって赤ちゃんに分かち与えられます。今日の聖書箇所で「母親」と訳されている言葉は、聖書のもとの言葉・ギリシャ語では「乳母」という意味を持ちます。母親は乳母となって、自分の命を、ごく当たり前のように、喜んで、赤ちゃんにそそぎ与えるのです。

パウロは、自分たちもその母親の心をもって教会に仕えると語りました。それが、8節の言葉です。神さまの言葉、イエス様の十字架のみわざとご復活が、パウロたちが教会にそそぎこむお乳です。母親が赤ちゃんに、自分の体から栄養を削って母乳を与えることと並行させて、パウロはこう語ります。「わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、自分の命さえ喜んで与えたいと思ったほどです。」

私は、この箇所を読みながら、四年前の5月10日の、牧師就任式を思い出さずにはいられませんでした。牧師就任式の時に、私は東京教区議長代理の千葉支区長、岸先生にこう問われました。「あなたは、主の栄光のためにその身をこの職 – 薬円台教会の牧師の職 - に献げる覚悟がありますか。この教会の牧師の職務を忠実に果たすことを約束しますか。」私は応えて、忠実に果たすと誓約しました。続けて読まれた聖書箇所を、皆さんは覚えておいででしょうか。ヨハネの福音書10章11節から、イエス様が語られたこの言葉が読まれました。「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。」良い羊飼いであるイエス様に従って、私もその道を歩んでゆけるように。教会のために、命をも捨てる愛を抱けるように。私は日々、そのために祈っています。

そして、今日の聖書箇所の後半部分では、パウロたちが母の愛だけでなく、父の愛をも もって、教会に仕えることが語られています。11節です。お読みします。11あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に12呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。母の愛の無償の優しさと併せて、ここには父の愛の強さと厳しさが語られています。

赤ちゃんは、何でも口に入れようとします。食べても大丈夫なキャンディと、丸い乾電池の区別がつきません。赤ちゃんがキャンディだと思い込んで、乾電池を口に入れようとしている瞬間に、いつでも優しく、赤ちゃんの気持ちを傷つけないようにと、おっとりと「ダメよ」と言っていたら、赤ちゃんは乾電池を呑み込んでしまいます。間に合わないでしょう。ひと言も言わずに、赤ちゃんの手から乾電池を乱暴に奪い取る事が必要な時があります。赤ちゃんが吃驚して泣き出したとしても、結局は、その厳しさが、赤ちゃんの命を救うのです。

教会でも、人間の目にはすばらしく見える事柄が、実は恐ろしい誘惑であり、キャンディではなく乾電池だということがあります。牧師は、聖書の言葉を専門的に、また集中的に学んで資格を与えられた者として、目の前の事柄がキャンディか乾電池か・恵みか誘惑かを見きわめて、教会の皆さんの魂の安全を守ることを命じられています。優しいと同時に、必要な時には厳しく戒めなくてはならないのです。

私は、優しい人間になりたいと願ってやみませんが、残念なことに、それほど優しい者だとは、自分でも、とうてい思えません。毅然として、厳しく強いリーダーシップを取れる人間でもありません。

この私が、牧師の役割をまっとうするには祈るしかありません。殆どの牧師がそうだと思いますが、私も牧師になりたいと、自分の願いだけから強く希望して、牧師になったわけではないのです。いろいろな事情が重なって、牧師になるしかない道へと追い詰められて、神学校に進みました。しかし、逆に申せば、私にはこの道しかなかったことが、主の御心の証しだと思います。そして、優しくもなく、リーダーシップも取れない私にできるのはただ一つ、ただ阿呆のように「ひたむきに主に従う」事だけです。今日は、これを説教題としました。

「牧師になるしかなかった」とは、今日の聖書箇所の最後の言葉を借りて言い換えれば、牧師になるよう、神さまに招かれたのです。パウロは語ります。今日の聖書箇所の最後の言葉をお読みします。

ご自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。

招かれているのは、私だけではありません。私たちは皆、神さまの愛の中に、そこで与えられる使命と役割へと、招かれています。

「ひたむきに主に従う」とは、この神さまの招きにお応えすることです。それこそ幼子のように、自分の考えを主張せず、ひたむきに、ひたすら神さまに従う素直さを持つことです。そこから、私たちは、神さま・イエス様が、母のように命を献げる愛と、父のように強く厳しい愛で私たちを包んでくださっていることを知るようになります。その愛を知って、そのように強く、優しく愛せる者に自分もなりたいと、願う者の集まり。それが、教会です。教会には、幼子の心と、母の愛と、父の愛への憧れがあります。その思いと祈りでひとつにされているのが、神の家族・教会です。そして、その祈りを確かにかなえて、私たちを満たしてくださる主が、真ん中においでくださいます。

この教会に生きる幸いを、豊かに胸に抱いて、今週一週間を進んでまいりましょう。

2019年5月12日

説教題:主を仰ぐひとすじの心

聖 書:詩編86編11-13節、テサロニケの信徒への手紙一 2章1-4節

主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように 一筋の心をわたしにお与えください。

(詩編86編11節)

兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。

(テサロニケの信徒への手紙一 2章1-4節)

今日の新約聖書の御言葉が朗読されるのを聞いて、このように思われた方が少なくないと思います。「フィリピで苦しめられ」と聞いたが、フィリピでパウロたちに何が起こったのだろう? どんな苦労・苦しみがあったのだろう?

主の福音、すなわちイエス様の十字架の出来事とご復活がどのようにヨーロッパ地方に伝えられていったかは、新約聖書の中の五つ目の書、使徒言行録に記されています。フィリピでパウロ、シラス、テモテを苦しめた事柄を、私たちはその使徒言行録16章 から読み取ることができます。今日はご一緒に使徒言行録を読む時間がありませんので、16章に書かれていることを、短くご紹介したいと思います。

パウロたちは、初めはヨーロッパに伝道することを考えていませんでした。アジアの方に向かう計画を立てていたのです。しかし、それは神さまの御心ではありませんでした。福音を伝道するうえで、神さまのご計画だけが成就してゆく – これは、私たちの信仰生活にあっても、また教会の事柄としても、真実です。聖霊の主は、アジアではなく地中海を渡ってマケドニア、今のギリシアに行くようにパウロたちに命じました。そして、彼らがヨーロッパで最初に福音を伝えたのがフィリピだったのです。フィリピには金の鉱脈がありました。また、その時代に今のギリシアからイタリア、そしてシリア地方にかけて広く支配していたローマ帝国の軍事拠点でもありました。それほど大きな町ではありませんでしたが、重要な都市として栄えていました。

パウロたちのフィリピでの伝道は、始めはたいへん好調でした。紫布を扱うリディアという女性が、まず福音を聞いて信じ、受け容れて洗礼を受け、クリスチャンとなったのです。紫布というのは、貴重な貝の色素で染め上げた布のことだそうです。この布は、身分の高い人々の衣服を作るために、たいへん高価な値で取引されました。リディアは経済力と人脈を持つ有力な女性実業家だったのです。リディアの家族も洗礼を受け、彼女はパウロたちを自宅に招きました。旅から旅の伝道ですから、パウロたちはひとつの町に入ったら、寝泊まりする場所、そして福音を語る場所を確保しなければなりません。リディアは、パウロたちに、自分の家に泊まり、ここを伝道拠点にするよう申し出たのです。パウロたちにとって、この申し出は実に嬉しいことだったでしょう。

ところが、ある事件が起こってしまいました。

一人の女性の奴隷がパウロたちに付きまとい、彼らを困らせました。

その女性を退けることはできたのですが、その主人は、パウロたちのことを、フィリピの町を混乱に陥れる者として訴えました。福音は、フィリピの町では受け入れることも、実行することもゆるされない風習と糾弾され、パウロたちは逮捕され、牢に入れられてしまいました。これは、少し極端かもしれませんが、現代に置き換えて考えると、聖書について語ると船橋市の風紀を乱すと訴えられて、牧師が、また牧師ばかりでなく聖書について人々に伝えようとする者が逮捕されてしまう状況と言って良いでしょう。これは、迫害です。ヨーロッパで最初に伝道した町フィリピで、パウロたちは早くも迫害されました。

主の恵みによって、パウロたちは牢から解放されましたが、フィリピの町にそれ以上とどまることができなくなってしまったのです。これが、今日の聖書箇所にある「フィリピで苦しめられ」という言葉がさす内容です。

そして、これを皮切りに、福音が伝えられるところでは必ずと言って良いほど迫害が起こるのです。

今日の聖書箇所では、「フィリピで苦しめられ」に続き、同じ2節には「激しい苦闘の中で」という言葉があります。フィリピの次に伝道した町・テサロニケでも、パウロたちは迫害されました。パウロは、聖書 – この時代は、また旧約聖書しかありませんから、ユダヤの人々・ユダヤ教の聖典である旧約聖書をさします – が預言している救い主メシアとはイエス様のことであると告げました。これは、私たちにとっては当たり前すぎるほどに当たり前のことです。旧約聖書のイザヤ書9章5節が「ひとりのみどりごが、わたしたちのために生まれた」と語る、その「ひとりのみどりご」こそが、イエス様です。

しかし、ユダヤ人たちは、自分たちが十字架につけたイエス様が、預言されている人類の救い主・メシアだと認めたくありませんでした。

救い主はイエス様ではない、まだこの世においでになっていないと主張したのです。今でも、ユダヤ教を信じる人たちは、救い主がこれからおいでになるものと考えています。その到来を待っています。

しかし、イエス様こそが救い主であることは、十字架の出来事に至るまですべて事実であり、真実です。そして、たいへん興味深い、また皮肉なことが起こりました。聖書を知らないギリシア人たちが、パウロの語る福音を真実と信じ、次々と洗礼を受けたのです。ユダヤ人達は驚いたことでしょう。ユダヤ教の方がはるかに古い歴史と伝統を持っているのに、ギリシア人たちがユダヤ教ではなく、イエス様を信じることをたいへんねたましく思いました。そして、パウロたちを激しく恨み、憎んだのです。彼らは暴力を用いて、パウロたちを襲いました。詳しくは、使徒言行録16章をお読みいただきたく思います。

今日の聖書箇所の「激しい苦闘」とは、ひとつにはこの出来事をさしています。

皆さんは、不思議に思うかもしれません。なぜ、こんな苦しみがパウロたちを襲うのか。パウロたちはイエス様がお命じになった大宣教命令 - 世の果てまでも十字架の出来事とご復活の福音を伝える命令 - に忠実に従っているのですから、神さまに十分に守られ支えられるはずなのに、どうしてこんなに苦しむのか。

一般的な意味で、宗教によりすがる、神さまを信じるとは、幸福になりたいからであって、苦しむためではないでしょう。ところが、パウロたちは深くイエス様を信じ、広く福音を伝えようとすればするほど、苦しむのです。実は、今を生きる私たちにも、同じことが起こります。洗礼を受け、信仰を持つようになったら、苦しみが次々と襲ってくる – それを、私自身も経験しています。

今、その苦しみのさなかにある方も、ここにおいでかもしれません。

主を信じると、まず幸福よりも苦しみに襲われるように感じる — この事実は、私たちにとって受け入れがたいことです。そんなのはイヤだと思います。しかし、この事実の中に、真実があるのです。

それは、イエス様を信じ、この方について行こうとする者は、イエス様のあとをたどってゆくということです。イエス様が十字架に架かって苦しまれた、そのあとをたどるように、パウロも、また私たちも、それぞれの十字架を背負ってイエス様について行くのです。

イエス様の十字架の向こうには、ご復活があります。驚くばかりに大きな喜びと平安があります。パウロも、私たちも、それぞれの十字架の苦しみの向こうに、この恵みの約束をいただいています。

今、私がこうしてお伝えしていることは、わかりにくいかもしれません。イエス様を信じて、苦しみをすすんで受けよと言わんばかりに説教で語られても困ると、戸惑われるかもしれません。

今日、私たちがいただいている聖書の言葉は、苦しみに負けないパウロたちの姿、迫害に耐えて、またさまざまな試練に耐えて生き残り、立ち続けるテサロニケの教会の姿を伝えています。苦しみを耐えることで、苦しみがない安楽な生き方よりも深く、確かに、生きる意味をかみしめる恵みに導かれることを、パウロは語っているのです。

また、神さまはパウロたちを、またわたしたちを、苦しみの中に放ってはおかれません。苦しみに負けない方法を、私たちの主はお示しくださいます。どうしてパウロたちが、苦しみに負けなかったのか。それが、今日の聖書箇所の3節と4節にかたられています。

3節で、パウロは自分たちの宣教が、迷いや不純な動機に基づくものでも、ごまかしによるものでもないとはっきりと告げています。迷い・不純な動機・ごまかし。これは、たとえばこの壺を買えば幸せになれる、御利益がある、または教祖が入ったお風呂の水を買って飲めばどんな病気もなおる、このように、宗教を使って、もう少し申しますと神さまを利用して、詐欺まがいの行為を行うことです。パウロは、自分たちは決してそんなことをしない、純粋に、ひたすら、神さまの真実を伝えていると言い切っています。信じれば幸福になれる — そう、私たちが漠然と信仰に期待するその思いも、たいへん厳しい言い方をすると、御利益が欲しいというあさましい願いにおちいってしまいかねません。パウロは、自分の欲を見ないで、純粋に、ひたすら、イエス様の十字架のお苦しみに心の目をそそぐようにと勧めます。自分ではなく、十字架のイエス様を仰ぐところに、逆説的ではありますが、自分の苦しみから逃れる道が開けているのです。それは、復活に、永遠の命につながる道だからです。

自分を見ないように、そうパウロは3節で勧めた後、続く4節で、自分を見ないと、十字架のイエス様ではなく、つい他の人を見てしまう人の弱さを指摘しています。自己犠牲的な行動や言葉で、他の人に高く評価されたい、そのような偽善に走りがちな人の心を押しとどめるのです。4節には、こう記されています。人に喜ばれるためではなく、神さまに喜んでいただく。神さまだけが見ていてくだされば、それで十分。この世に認められなくても、神さまが認めてくだされば、神さまが見ていてくだされば、そんな幸いはない。そして、神さまは間違いなく、イエス様を通して私たちを認め、見守り、強く愛してくださっています。神さまは私たちのために、イエス様を十字架におかけになるほどに、私たちを愛してくださいました。神さまの愛は、イエス様の十字架で証明済みなのです。この神さまとの強い絆があれば、自分は何にも負けない、苦しみに負けない - パウロは、そう信仰の真実を語ります。主を仰ぐひとすじの心を、告げています。

主を仰ぐひとすじの心。この心をいただくことで、パウロは迫害に負けませんでした。苦しみに負けませんでした。

この心を、このひたむきな信仰を、私たちも神さまからいただきたいと願うのです。

今日の旧約聖書の御言葉は、その私たちの願いをそのまま祈りとしています。詩編86編11節から13節です。司式者がお読みくださいましたが、あらためて11節をご一緒に味わいましょう。朗読します。

11 主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように 一筋の心をわたしにお与えください。

この御言葉の、「あなたのまことの中」と訳されている部分は、もとの聖書の言葉・ヒブル語では「アーメン」です。アーメンは「賛成・そのとおり!」という意味です。私たちの一人が、私たちを代表して祈りを献げ、その祈りの言葉に共感・賛成して、私たちは「アーメン」と唱和します。神さまの道を歩むとは、イエス様にひたすら従って、神さま、あなたのおっしゃるとおりです、わたしはあなたのおっしゃること・なさることすべてに賛成します、あなたがわたしに苦しみを与えるのなら、それも受けましょう、アーメン、アーメンと言いながら、ひとすじの道を進んで行くことです。

その道は、神さまにつながる道です。諦めていた取り返しのつかないことが、すべて元どおりになり、破れ、壊れた人間関係が回復され、苦しみのない永遠の命へと導く道です。今は苦しくても、必ずそれを突破できる希望の道です。それを、13節の御言葉が力強く伝えています。私たちは主に導かれて苦しみを超え、救われて生きるのです。

そして、私たちはひとりぼっちでこの道を歩んでゆくのでは、ありません。教会の兄弟姉妹と共に進みます。助け合いながら歩みます。

そして、私たちの重荷・苦しみを共に担い、私たちが最も苦しんでいるときには私たちを背負って、寄り添ってくださるイエス様が、必ず一緒に歩んでくださいます。

主を仰ぐひとすじの心をいただいて、神さまに、私はあなたに従います、あなたのすべてに賛成してアーメンと言いながら、歩み続けたい。今週も、そのような私たち一人一人、また薬円台教会でありたいと、せつに願います。

2019年5月5日

説教題:主の言葉が響き渡る

聖 書:イザヤ書40章1-8節、テサロニケの信徒への手紙一 1章5-10節

わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言うことはないほどです。

(テサロニケの信徒への手紙一 1章5-8節)

前回の礼拝から、新約聖書で一番早く書かれた書、パウロがテサロニケの教会に宛てた手紙をご一緒に読み始めました。司式者が朗読された今日の聖書箇所は、テサロニケの教会をおおいに励ます言葉です。聖書の巻末に、地図があるのを、皆さん気づいておられるでしょう。9枚の地図があります。そのうち、3枚、つまり3分の1もが、パウロの宣教旅行の地図です。パウロが、御子イエス様の十字架とご復活によって私たちに示してくださった神さまの愛の御言葉を、どれほど精力的に伝えたか — その足取りをたどる地図です。

神さまの愛と真理を伝えること、すべての人が神さまを知ることを、神さまが強く深く望んでおられたことが、実によくわかります。教会が何のためにあるのか – 神さまの恵みの御言葉を伝えるためにあることをも、今日の聖書箇所から読み取れると思います。特に8節には、このように記されています。「主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられている。」

前回、お伝えしたように、テサロニケはギリシャの大都市です。港町です。マケドニアは、そのテサロニケから少し北上した内陸の地方一帯をさします。また、アカイア州は、テサロニケの西の方にあります。もう少し西へ行くとローマがあります。すべての道はローマに通じると言われた、そのローマです。地中海からヨーロッパにかけての地域で、すべてのことの中心だったローマに、神さまの愛と真理を伝えることを、パウロをはじめとする伝道者たちはめざしていました。

伝道がたいへんに困難だったことも、前回お伝えしたとおりです。激しい迫害がありました。

地図には、パウロが建てた教会がたくさんあるように見えます。

しかし、一度は教会となったけれど、迫害のために信徒の人々がちりぢりになって誰もいなくなり、記録に残らなかった教会は、おそらく、この何倍もあったでしょう。十何倍という数かも知れません。

パウロは、テサロニケの教会が迫害を生き延びて、毎週日曜日に礼拝を献げ、主の御言葉が語られていることを知って、たいそう喜びました。テサロニケ教会で語られている御言葉を人々が聞いて、次々に主を信じ、テサロニケばかりでなくギリシャの他の地方へも伝えられ、そのように教会がいきいきと生きて働いていることを知って、本当に喜んだのです。だから、彼は今日の聖書箇所で、神さまが、それをたいへん喜んでくださる、テサロニケの教会の皆さん、あなたがたはすばらしい!と、励ましを送っています。

教会が生き延びる — これは、今の時代でもたいへん大切なことです。薬円台教会も、テサロニケの教会のように生き残ってきた教会です。

また、ひとつの教会は、ひとりの人のように命を持っています。命と、心、そして志をいただいています。

今日のために説教準備をしながら、このようなことを思い出しました。神学校に通っていた時のことです。お茶を飲んだり、お弁当を食べたりできるラウンジで、クラスの人たちと、聖書や教会について、気ままな雑談をしていました。同級生の一人が、小さな教会 — 信徒さんの数が10人に満たない教会 — は、維持するだけでもたいへんだから、大きな教会と合併するのも一案だと、何気なく言いました。休み時間で、ラウンジには先生方もおられました。そして、そのひと言が、ある先生の耳に届いたようでした。その先生が、私たちの方に向かって、はっきりとこう言われました。「そんなことを、軽々しく言ってはいけない。どんなに小さくても、教会は自分の意志を持っている。」

私は、たいへん大切なことを教えられたと思いました。

今も、いえ、教会にお仕えする牧師としてこうして立てられて、神学生だった頃よりも、はるかにリアルにその大切さを感じています。

繰り返しますが、ひとつの教会は、ひとりの人のように命と心、志・意志をいただいて、生きているのです。薬円台教会も、そうなのです。

教会への恵みは、その教会を形づくる一人一人への恵みです。

薬円台教会への恵みは、薬円台教会で共に主を仰ぐ私たち一人一人への恵みなのです。

パウロが教会に書いた手紙の言葉は、教会を力づけると同時に、教会の一人一人への励ましでもあります。

それをまず心に留めておいて、パウロが今日の聖書箇所で私たちに伝える大切なこと・私たちを生かす命の言葉をご一緒に読み取りましょう。特に、二つのことを、今日は、ぜひ心にいただきたく思います。その二つのこととは、聖霊福音です。パウロは、その二つが、私たちが生きる力の源であると告げています。

5節をご覧ください。このように記されています。「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。」これは、どういうことでしょう。わたしたちの神さまは、創世記が告げるように、言葉で天地を創造されました。聖書では、教会では、また私たちの信仰では、言葉がたいへん大切です。キリスト教は言葉の宗教であると申せましょう。

ところが、パウロは今日の5節で語るのです。わたしたちの福音が伝えられたのは、ただ言葉だけではない、と。力と、聖霊と、強い確信 –特に聖霊が、私たちに信じる心・神さまの愛を恵みだと分かる心を与えてくれるのです。

私たちは三位一体の神さまを信じています。私たちの神さまが、私たちに三つの現れ方をしてくださる一人のお方。これが三位一体です。

一つの現れ方は、天の父・創造主です。私たち一人一人を、この世にたったひとりしかいない、かけがえのない大切な「この私」として造ってくださった方として、私たちの主は現れます。

二つ目は、人となってこの世においでくださったイエス様です。

そして、三つ目の現れ方が、イエス様が天の父のもとに還られる時、わたしたちに送ってくださると約束された聖霊なのです。

約束どおりに、聖霊は、今、私たちと共にいてくださいます。

目には見えませんが、私たちの心をひとつにして、神様に向かわせて下さるのは、聖霊です。私が今、語っている説教が、私個人の勝手な話になってしまわないように、聖書に忠実に語るようにと私を整えて下さっているのが、聖霊です。説教を通して、神様の愛の豊かさが言葉で語られますが、パウロはこう言うのです。福音を伝えるのは、その言葉だけではない、聖霊によってだ、と。

目に見えない聖霊を信じ、心に受けとめるのは、たいへん難しいことです。天の父・神さまは、私たちを造ってくださった方と理解し、受けとめることができます。イエス様は、その神さまへと私たちを導き、その愛と真理を十字架の出来事とご復活でお示しくださった方です。実際に、この世に目で見える人となっておいでくださった方なので、わかりやすいと申して良いでしょう。ところが、聖霊はピンと来ない、正直なところ、よくわからないと思われるでしょう。今、ここにおられて、礼拝のすべてを導いておられると言われても、心のどこかで「本当かしら」と首をかしげる方もいらっしゃるでしょう。

言葉を超えて、私たちに信仰を与え、神さまに向けて私たちの心をひとつにしてくださる聖霊。

私が、聖霊は確かにおられるとの確信を強め、その信じる思いを魂に刻みつけるようにされたのは、すでに牧師になって数年経ってからでした。

当時、私は浜松にある聖隷三方原病院で働く牧師でした。同じキリスト教系福祉事業団の系列施設で、すぐ近くに「聖隷おおぞら療育センター」があります。この施設は、きわめて重い心身の障害を持って生まれてきた方々にケアを提供しています。体を動かすことが困難、そして言葉を含む通常の手段でコミュニケーションを取ることが難しい方々です。ここでは一年に一回、クリスマス礼拝を献げます。私は浜松にいる間、毎年、牧師として招かれて、礼拝の司式をし、説教を語りました。

初めての年の、そのクリスマス礼拝前、私はたいへん緊張しました。言葉で意思疎通できない方々に、どうイエス様のことを伝えれば良いのか、主の導きを祈りました。礼拝開始時刻になると、施設の皆さんは次々と、看護師さんやご家族に付き添われて、ストレッチャーや車いすで集まって来ました。その方々をケアしている看護師さんやご家族は、口々におっしゃるのです。この子は、クリスマス礼拝が大好きです。今日は、朝からいつもと顔が違います。楽しみにしているのが、わかります。こう笑顔で言われて、牧師は礼拝に重い責任を担っていますから、私はますます緊張しました。

しかし、前奏が始まるとともに、ありありとわかった事がありした。その場が清められ、そこにいる皆さんの心が神さまに向けて本当にひとつになり、みんなが心の耳を澄ませていることが、はっきり伝わって来ました。礼拝を進めてゆくのは、司式者でも、奏楽者でも、説教を語る牧師でもなく、そこで生きて働いてくださる聖霊です。御言葉を取り継ぐ説教者は、御言葉からいただいた恵みを、ただそのまま語れば、聖霊は働いてくださって、主の御言葉が鳴り響くのです。ただ、主に心を向けて、すべてをゆだねれば、礼拝は与えられるのです。

同じように、この薬円台教会で、毎日曜日のこの時間、今のこの瞬間にも、礼拝は聖霊に導かれています。

聖霊がよくわからないと思っていても、神さまが、イエス様が、そして聖霊が、私たちを包み込んでくださっていることには変わりがありません。また、礼拝のこの場で共に主を仰ぐことで、私たちの言葉の理解力に関わらず、私たちが聖霊によって清めていただけることもまごうかたなき真実です。わからなくても、恵みをいただけるのです。もちろん、わかればもっと嬉しいのですが。

「清められる」とは、もとの聖書の言葉では、「取り分けられる」という意味です。神さまのものとして、特別に取り分けられる恵みを受けることを「清められる」というのです。そこには、この世のあらゆる苦しみや悲しみ、憎しみや恐れから守られている平安があります。ですから、牧師は礼拝をご一緒に献げることを強くお勧めします。語られている言葉がわかってもわからなくても、出席している方が神さまを信じたい、その恵みを受けたいと願うなら、その方は聖霊によって神さまのものとして清められ、恵みをいただけるからです。

聖霊に導かれて、礼拝の説教で語られるのは福音です。今日の二つ目に大切なこととしておぼえていただきたい福音について、もう今日はあまりお伝えする時間がなくなってしまいましたが、このことだけをお話しします。説教は“どう生きればクリスチャンにふさわしく良い人間になれるか”と道徳的な生活を語るものではありません。それは「お説教」です。説教は福音を語ります。福音は、イエス様が十字架で私たちの代わりに死んでくださったこと、その死によって私たちの罪が赦されたこと、イエス様が三日後に死に打ち勝たれて復活され、永遠の命に生きる希望を与えてくださった、この良き知らせです。

聖霊によって、この福音のまことの意味を心と魂で知る時、私たちは真実の生きる喜びを味わうことができます。

教会は、その喜びに生きる者一人一人がつながりあい、助け合ってひとつにされて、ひとつの志を抱き、主に従って進んで行きます。

主の恵みをいただきたい、その願いに導かれ、今日、心の平安をいただいて、今週も与えられた持ち場で過ごす – そのような私たちでありたいと心から願います。

2019年4月28日

説教題:祈りの度に、思い起こす

聖 書:詩編16編1-11節、テサロニケの信徒への手紙一 1章1-4節

わたしたちは、祈りの度にあなたがたを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも主に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。

(テサロニケの信徒への手紙一 1章2-4節)

今日の礼拝に、私たちは新しいことを二ついただいています。もっとも「新しいこと」と申せば、私たちは日々、いえ一瞬 一瞬、新しい時と新しい心をいただいています。新しい心と耳にしても、何か漠然としているように思うかもしれませんが、決してそのようなことはありません。小さなお子さんでもよく知っていることです。

つい先日、スーパーのレジで、私の前に女の子さんを連れたお母さんが並んでいました。レジは混んでいて、列がなかなか前に進まず、聞くともなしに、お母さんと女の子が話していることが聞こえてきました。どうやら、女の子は最近、お誕生日を迎えて五歳になったばかりのようなのです。

待つことに飽きてしまった女の子が、体を揺らしたり、足を踏み換えたりして動き回るので、お母さんが注意しました。「もう五歳になったのだから、ちゃんとしなさい。」女の子は言われたとおりにしましたが、お母さんを見上げて「ママは、ちゃんとしている子の方が好き?」と尋ねました。お母さんは「うん」と大きく頷きました。そうしたら、女の子は「ねえ、四歳の私と、五歳の私とどっちが好き? 昨日の私と、今日の私とどっちが好き?」お母さんは笑って、「全部好き! でも、今日より明日の方が、もっと好きになっているよ、きっと!」と答えたのです。女の子は「やった〜!」とニコニコしていました。

昨日よりも今日、今日よりも明日。子どもは自分が、同じ自分ではいないということをよくわかっています。そして、どう変わっていけばよいのか、どう変わりたいのかということもわかっているのです。大好きなお母さんに、もっと愛される自分に成長してゆきたいのです。

私たちも同じではないでしょうか。天のお父様である神さまに、昨日よりも今日、今日よりも明日の自分を深く愛してほしいと願います。

昨日よりも今日、大切な家族や仲間を、深く理解して愛したいと思います。また、今日よりも明日、もっと好もしい自分になりたい、もっと自分で自分を大切にできるようにとも願うのです。それが、新しくなる、また新しく変えていただくということです。

さて、今日は「新しい」ということから、始めから脇道にそれてしまいました。元に戻します。

今日の礼拝で私たちが与えられた二つの新しいこと。ひとつは、週報の上の部分に掲げている年度主題と主題聖句です。先週の礼拝後、私たちは教会総会を開き、2018年度をしめくくり、2019年度を歩み始めました。「主の愛に満たされる共同体」。この主題を与えられました。

もっともっと主に愛される、愛されて恵みを受けていることを実感できる教会・信仰共同体になりたいと、総会で決議しました。

皆さん、週報をご覧いただけますか。主題聖句、これはイエス様がおっしゃった言葉です。お読みします。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことである。」

私たちが大切にされている、愛されていると実感した時に、何をすればよいのかをイエス様が教えてくださっています。

「この最も小さい者」とは、私たちが人間的な考え・この世的な価値判断で「最も取るに足らない者」と思う者のことです。そのような人は、本当はどこにもいないはずです。この人は大切で、この人は取るに足らない、いらない人だなどということはあってはならないことです。私たちは、平等だからです。皆、同じように神さまに愛されて、同じ大切な命をいただいて生まれてきた者同士なのです。誰も、無視されたり、ないがしろにされたりしてはなりません。

皆さんはあまり経験されたことがないかもしれませんが、私はずっと若い、まだ十代の頃、おとなしくて ぼ〜っ としているように見えたらしく、よく列に並んでいると脇から割り込みをされました。透明人間のように扱われてしまうのです。割り込んでも文句を言えない、または言っても「ひと睨み」すれば黙ってしまう小さい者に見られていたのでしょう。確かに、私は割り込みをされても何も言わなかったのですが、黙っていても考えてはいました。人は本来、いつも、自分よりも誰が強い、誰が弱いと、比べてばかりいる者なのだろうか。自分もそうなのだろうか。そうだったら、いやだな。そうではない自分になりたいな。

割り込みは小さなことです。弱そうに見える人、または実際に弱い立場の人を無視してないがしろにする小さなことは、より大きな事柄と密接に結びついています。イジメや、差別の問題です。

今年の主題聖句で、イエス様はおっしゃいます。「この最も小さい者、弱そうに見えたり、また実際に障害や病気、貧困で弱い立場にいる者をないがしろにしたりするのは、私をないがしろにすることだ。弱い者に手をさしのべるのは、すなわちこの私を大切にすることだ。」

私たちは、神さま・イエス様に愛されていると、日常生活の中で、ピンとこないことがあるかもしれません。そして、神さま・イエス様を自分の方から「愛する」とは、逆にたいへん失礼なこと・畏れ多いことのように思う方もあるかもしれません。しかし、神さまはご自身と私たち、また私たち同士が互いを大切にする愛の関わりで結び合わされることを強く望んでおられます。神さまへの愛を、私たちはお互いへの優しさ、その中でも特に弱い立場の人を思いやる言葉と行いで現すことができると、イエス様は教えてくださっているのです。

誤解がないように申しますが、教会総会で この主題と聖句が決議承認されたのは、教会の中に弱い人や強い人がいて、強い人が弱い人に親切にしましょうということでは、もちろん、ありません。神さまの前では、皆が等しく小さく弱く、だからこそ、互いに助け合い、思いやって進んで行こうと志すのです。

教会の愛。主に呼び集められて、こうして毎日曜日、礼拝に集う私たちは教会を形づくっています。建物がなくても、目には見えないイエス様が私たちの真ん中におられ、私たちイエス様の十字架の出来事とご復活を信じる、または信じたいと願う者たちが集まれば、それは教会です。

薬円台教会は、46年前に宮﨑創先生が、目には見えないイエス様に導かれて創立されました。それから昨日よりも今日、今日よりも明日と、神さまへの愛・お互いへの愛を深めて今日に至ります。

今、50周年を視野に入れる時を迎えています。あらためて、教会を、私たちと神さまのつながり、そして 私たち同士の愛のつながりを考える時が来ました。教会は、この世の他の人の集まりと決定的に違っています。イエス様がこの自分を、十字架で命を捨てて救ってくださったと、知って、またはこれから知ろうとしている者が集まっています。また、イエス様のご復活によって永遠の命をいただこうとしている者の集まりです。その事実は、教会を形づくる私たちのうえに、どのように現れてくるのでしょう。それは、聖書に、教会はどう語られているかを読み取ることで明らかにされてゆきます。

今日の二つの新しいことのうちの、二つ目。それは、教会についての書を今日から読み始めるということです。今日から、テサロニケの信徒への手紙一を読み始めます。

私は2015年4月に、この教会に着任しました。

初めの半年ほどの説教が何だったか、皆さんは覚えておられるでしょうか。聖書の一つの書、もしくは長く受け継がれている信仰の言葉を説明しながら回を重ねて続き物として語る説教を「講解説教」と申します。「講解」は、大学などでの授業のことを「講義」と言いますが、その「講」の字に、解説の「解」と書いて「講解」説教です。

着任して半年の説教は、使徒信条の講解説教をいたしました。今日も、声をそろえてご一緒に読んだ信仰告白の終わりの方にある「我は天地の造り主 全能の父なる神を信ず」から始まり「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠(とこしえ)の命を信ず アーメン」で終わる言葉です。

こうして、私たちが何を信じているかを確認したうえで、三年半にわたって、マタイによる福音書の講解説教をいたしました。イエス様のご生涯と十字架の出来事、そしてご復活を、ご一緒に読みました。

それを、前回の礼拝で終えたばかりです。マタイによる福音書には、まだ教会のことは語られておりません。教会が、まだなかったのです。

前回、イースター礼拝に与えられた御言葉は、ご復活されたイエス様が天に帰られたことを告げた聖書箇所でした。イエス様は、見送る弟子たちにこう言われました。マタイ福音書28章19節からお読みします。お聴きください。「…あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の御名によって洗礼(バプテスマ)を授け20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

そして、残された11人の弟子たちは、言われたとおりにしました。

イエス様の教えを伝え、それを信じる志を立てた者に洗礼を授け、彼らが集められて、教会が立てられて行ったのです。

聖書では、四つの福音書の次に置かれている「使徒言行録」が、その歴史を語っています。

それでは、マタイ福音書に続けて読むのなら「使徒言行録」を読めば良いと思われるかもしれません。

しかし、歴史の書は、その出来事が終わってから、少なくとも大きな一段落を迎えてからでないと、書くことはできません。人の伝記を書くことを考えると、すぐわかると思います。今、生きている人の完全な伝記は、書くことができません。では、リアルタイムで、その人を描き出すものは何でしょう。今の時代は動画や画像もあるかもしれませんが、その人の日記や手紙に記されてゆきます。

今日から読む「テサロニケの信徒への手紙一」は、手紙です。まさに、リアルタイムで記録された新しい教会の姿です。そして、新約聖書の中で最も古い書です。福音書よりも前に書かれています。テサロニケの教会を立てたパウロという伝道者が、書いた手紙です。

パウロは、十字架に架かられる前のイエス様とは直接、出会っておりません。イエス様と生活を共にした11人の弟子たち、前回の聖書箇所でイエス様を見送った弟子たちの中に、パウロはいませんでした。

パウロは、復活のイエス様に出会いました。今日はお話ししている時間がありませんが、すさまじいほどに劇的な出会いをしたのです。

イエス様を十字架につけた人間的な背景には、律法学者たちのイエス様へのねたみと憎しみがあります。パウロは、この律法学者になろうとしていました。すでに将来を嘱望された優秀な、若い律法学者だったと申しても良いかもしれません。イエス様に敵対する者だったのです。実際に、彼はイエス様の弟子たち・クリスチャンへの迫害を、他のユダヤ人たちと一緒に行っていました。ところが、イエス様は、あえて、このパウロを、教会を立てる者、今で言う牧師として用いられようとされたのです。光の中で彼に会い、心に語りかけ、キリスト者を迫害する者から、キリストへ人々を導く者へと造り変えられました。

パウロはイスラエルから、地中海を渡ってヨーロッパにイエス様の十字架の出来事と復活、イエス様の愛とまことを伝えました。次々と場所を移して、伝えました。信じる人々の集まり・教会ができて しばらく一緒に過ごすと、次の町へ行く、そこでまた信じる人々の集まり・教会を起こすことを繰り返して、最終的にローマへ向かいました。

私たちが忘れてはならないのは、イエス様のことを伝えるのは、実に困難を極めたということです。イエス様は重罪人として十字架で死刑にされましたから、その方のことを伝えれば、嫌われます。迫害を受けます。弟子たちの、もちろん、パウロの伝道は茨の道でした。

テサロニケはギリシャの大きな港町です。今でもギリシャの首都アテネに次ぐ第二の都市と言われています。パウロはそこでしばらく伝道して、教会を起こした後、迫害の為に そこにいられなくなりました。

パウロがテサロニケにいられたのは、数ヶ月だったと伝えられています。パウロは、ここでシルワノとテモテと共に、牧師として働きました。多くの人に洗礼を授け、礼拝が献げられるように導きました。そして、この町を追われた後も、テサロニケに残して来た、自分が洗礼を授けた者たちの集まり・教会のことが、心配で 心配でなりませんでした。テサロニケの教会には、牧師がいなくなってしまったのです。

みんな、洗礼を受けたことを忘れて、集まらなくなり、礼拝がなくなり、教会がなくなっているかもしれない…それは、礼拝に重い責任を持つ者・牧師がいなくなったら、起こりうることです。

テサロニケのみんなは、どうしているだろうとパウロは思いました。今と違って、メールも、電話も速達もありません。パウロは心配のあまり、弟子のテモテをテサロニケに送りました。若いテモテは、迫害を受ける危険をおかしてテサロニケに行き、教会が続いていることを見届けたのです。ちゃんと日曜日ごとに礼拝が献げられ、イエス様の十字架の出来事とご復活が語られ、教会は3節にある、実に教会らしい命に生きていました。3節をお読みします。

「3あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。」

テサロニケの教会は、迫害の中でも、信仰と希望と愛をもって耐え抜いて、互いに助け合って、嵐の中で船を導く灯台の輝きのように、世の光として生き抜いていたのです。テモテはパウロのもとへとって返し、この喜ばしい事実を伝えました。パウロは、もちろん、喜びました。そして、それを主の導きとして感謝して、さらに深い主の教えを教会全体に書き送りました。

手紙のかたちを取った長い説教を書いて、送ったのです。

それが、このテサロニケの信徒への手紙一です。

テサロニケの教会が残り続けていたのは、教会の一人一人が、強い魂の支えを受けていたからです。強い魂の支え。それは、この自分が、神さまが命を捨ててくださるほどに愛されているということです。パウロは、その根本的な事柄・信仰の土台を、テサロニケの教会に与え続けてくださっている主に感謝を献げました。日々、テサロニケの教会の一人一人を祈りのたびに思い起こして、教会の存続・一人一人との出会いと関わりを神さまに感謝したのです。

この薬円台教会の46年になろうという歴史の中にも、牧師がいない数年間がありました。しかし、薬円台教会は、その間も、一回も礼拝を欠かすことがありませんでした。テサロニケの教会のように、主に支えられていたのです。

今日から、新しい年度の歩みを始めます。私たち薬円台教会が、主に結ばれた者同士、ここで出会い、今、主にある恵みを共に受けていることを深く心に留めて、愛されている喜びと感謝をもって、今週一週間を進み出しましょう。

2019年4月21日

説教題:永遠なる主の愛に導かれて

聖 書:ヨシュア記1章1-9節、マタイによる福音書28章16-20節

わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。

(ヨシュア記1章9節)

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは近寄って来て言われた。「わたしは天と地のいっさいの権能を預かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

(マタイによる福音書28章16-20節)

今日のイースター礼拝にて、このように皆さまと主のご復活を祝える幸いを、心から感謝いたします。

金曜日に十字架の上で死なれたイエス様は、日曜日の朝早く、よみがえられました。先ほど司式者が朗読された聖書箇所に加えて、そのご復活を告げる箇所をお読みいたします。ご一緒に心の耳を澄ませて、聴きましょう。司式者が読まれた新約聖書の箇所の少し前、マタイによる福音書28章1節から3節、そして5節です。

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。…天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。

イエス様は、復活されました。預言されていたとおりに、よみがえられたのです。私たち人間が逃れることのできない死、私たち人間には乗り越えることのできない死に、救い主・イエス様は打ち勝たれました。勝利されたのです。今日は、イエス様のご復活が、私たちにとってどうしてこれほど喜ばしいのか、なぜキリストの教会は復活日礼拝・イースターをこんなに喜んでお祝いするのか —

それをお伝えしたく思います。

私たち人間の心は、喜怒哀楽 — 喜び・怒り・哀しみ・楽しみ — 大きくこの四つに動くと言われています。確かに、この四つを中心に複雑な動きを持つのが私たちの心でありましょう。いつも喜び、いつも楽しければ、こんなに幸福なことはありません。しかし、そうはならない現実があります。赤ちゃんの時から、私たちは笑うことと泣くこと、この二つを知っています。喜ぶ時・楽しい時には笑います。そして、怒りと悲しみを感じる時には、泣くのです。私たちは少し大きくなると、大泣きしていると親に「泣くのはやめなさい」とたしなめられるようになります。そうやって、私たちは成長します。泣いている時間があったら、頑張ろう — そうして大人になるのです。

大人になっても、泣きたい時があります。泣いてもどうにもならないけれど、泣くしかないことがあるからです。それは、この二つの時です。ひとつは、壊れたものが、元どおりにならない時。今ひとつは、失われたものを、もう取り返すことができない時。この二つが、人の怒りと悲しみ、もう少し申しますと、苦しみを生み出します。

壊れて元どおりにならないのは、物・物体だけではありません。心は折れます。壊れます。壊れた人間関係が、修復できないことがあります。そのために、人は人を殺すことがあります。国のレベルで言えば、関係が壊れると戦争になります。戦いになってしまったら、後戻りができません。戦争の後に講和が結ばれ、平和条約が取り交わされたとしても、戦いで流された血・失われた命はもう元には戻りません。

私たち人間は、この世の命を失ったら、もうそれをこの世では、取り返すことができません。亡くなった方とは、この世では、もう会うことはできないのです。

だから、私たちは怒ります。悲しみます。泣きます。苦しみます。

しかし、イエス様は、ご自身が死からよみがえる、そのご復活を通して、私たちに、その苦しみを乗り越える道を示してくださいました。

イエス様を十字架につけたのは、人間的な意味・この世の事柄としては、人のねたみと憎しみでした。祭司長や律法学者たちのイエス様へのねたみ。イエス様に自分勝手な期待を抱いて、その幻が破れるとイエス様に背いたユダの裏切り。一番弟子でありながら、イエス様を知らないと言ってしまったペトロの弱さ。多くの人の声に流されて、本当に正しいことは何かがわからなくなってゆく群衆。その人の罪の果てに、人の心の醜さの果てに、イエス様は死なれました。

しかし、神さまは、イエス様をよみがえらせました。復活させました。それは、私たちに、こう示してくださるためです。ごらん、あなたがたが、取り返しがつかないと諦めてしまうこと — 死も滅びも、わたしの計画にあっては、元どおりになるのだ。

復活されたイエス様は、弟子たちにお姿を現してくださいました。死んだ者がよみがえるなんて、信じられない。当然、人はそう思います。イエス様の弟子たちの中にも、そう思った者がいました。いえ、ユダがいなくなって残った十一人の弟子のうち、ほぼ全員が、イエス様のご復活について、始めは半信半疑どころか、信じられないと思っていたのです。だから、イエス様はお姿を現し、たまたまそこにいなかった一人、トマスのために、もう一度、現れてくださいました。トマスはたいへん正直で、イエス様の復活など信じられないと言いました。そこで、イエス様は、わたしにさわってごらん、十字架に架けられた時に釘を打たれた手の穴、槍で刺された脇腹の傷跡に手を入れて確かめてごらん、とさえ言ってくださったのです。

復活のイエス様は、ペトロをゆるされました。イエス様が逮捕された時、ペトロは弟子の自分も逮捕されるのでは、と恐怖しました。

そして、あんな人は知らないと、イエス様を三回も否定しました。「あんな人は知らない」と三回、はっきり言ってしまったあとで、ペトロは激しく後悔しました。号泣して、男泣きに泣いて後悔したのです。自分は決して赦されないことをしてしまった。自分の裏切りを、イエス様は憎み、赦さないまま、悲しんで十字架で亡くなってしまった。ペトロは、そう思って泣いたのです。信頼関係を失ったまま、相手に亡くなられてしまうのは、どれほどつらいことでしょう。もう一度、話し合おう・歩み寄ろうと思っても、それができないのです。

ところが、イエス様は復活されました。それは、ひとつには、ペトロにもう一度会うためでもあったのです。

私たちは、誰かを傷つけた時、自分の方から謝ります。大浜幼稚園の子どもたちも、幼稚園での礼拝の時に、私がこう問いかけるとちゃんと答えます。「みんな、誰かの足をふんじゃったら、なんて言うの?」「ごめんなさい。」「踏んづけられた人は、ごめんね、と言われたら、どうするの?」「いいよ。」こうして、子どもたちは幼くても、友だちであり続けようと心に決めるでしょう。仲直りが、大切なのです。謝るだけでなく、ゆるすだけでなく、私たちの互いの関わり合いが壊れた時、それは仲直りで元にもどされます。和解で完成するのです。

仲直り。和解。それは、死を超えます。愛が死に勝利すると申しても良いかもしれません。

ホスピスの牧師だった時に、そこに入院されていた一人の男性の患者さんの思いを伺いました。年齢は五十過ぎぐらい、もう回復の見込みがないほど病気が進み、残りの命が一ヶ月ぐらいと診断されていました。その地域の、いわゆる名家の長男で、親御さんの事業の跡取りとして大切に育てられ、自分でも努力し、結婚してお子さんもいて、順調に過ごされていました。しかし、父親が亡くなって、かなりの遺産を継いだ時に、この人は賭け事にはまってしまったのです。負けが込んでもやめられず、家も事業も借金のカタにとられてしまうことになりました。奥さんや子どもさんには、それを言えないまま、差し押さえの日が来ました。その日の朝、その人がしたことは、すべてを捨てて、自分だけ、誰も自分を知らないであろう土地に逃げてしまうことだったのです。奥さんも、子どもも見捨てて、この人は自分だけ助かろうとしました。そして、数十年が経ち、この人はずっと偽名で、遠く離れた町で生活していたのだそうです。奥さんにも、子どもにも、何も知らせず、まったく会っていませんでした。この人は病気になり、それももう助からないと医師に知らされた時に、会っておきたい人はいませんか、と尋ねられたのだそうです。この人は言いました。奥さんと子どもに、会いたい。ひどい苦労をかけただろうから、謝りたい。

皆さんは、メディカルソーシャルワーカー・医療社会福祉士という職業・資格があるのをご存じでしょうか。緩和医療を扱う病院には、この資格を持った方がいて、住民票や戸籍をたどり、居所を探し、仲立ちをしてくれます。わからないケースもたくさんありますが、この人の場合は、たいへん順調に調査が進みました。しかも、奥さんと、成人した子どもたちは、この人に会いに来たのです。

ご家族との再会を果たした後、この方は私にこう言われました。「会いに来てくれたし、ゆるしてくれた。もう死ぬのは怖くない。もう、十分だ。ねえ、牧師さん、俺はクリスチャンではないけれど、これを神さまがしてくれたのなら、何だか、神さまを信じてもいい気がする。」

これは、神さまがなさったことです。当たり前です。すべて、神さまの御手のうちにあるのですから。

ただ、この方は、それから本当にあっという間に亡くなりました。洗礼を授けることはできませんでした。

しかし、壊れた人間関係がもう一度、つなぎ合わされることで、この人は死を超える安らぎをいただけたのです。仲直り・和解の完成は、死を超えるのです。

さて、イエス様のご復活、聖書が語る和解に戻ります。

イエス様は、ペトロに裏切られ、深く傷つけられました。しかし、ご復活のイエス様は、ご自分の方からペトロをゆるすために、現れてくださいました。ヨハネによる福音書21章に記されている事柄ですので、後で読んでください。心が、本当に豊かに満たされます。イエス様は、ご自分からペトロに、こう声をかけられたのです。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」(21:16) このイエス様の言葉は、こう言い換えても良いでしょう。「ペトロ、わたしが逮捕された時、あなたはわたしを知らないって言ったけれど、本当はわたしと友だちのままでいたいと思っていたのだね。」

そして、ペトロは答えました。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」(21:16) この言葉は、こう言い換えて良いでしょう。「イエス様、私があなたをお慕いしていることを、あなたが知っていてくだされば、それ以上のことはありません。」

復活のイエス様は、仲直りを、関係の修復を、そしてすべての壊れたもの・失われたものの回復と完成を成し遂げてくださいます。

復活されたイエス様がペトロとの和解を完成させてくださったのは、ガリラヤでの出来事でした。ガリラヤは、ペトロと他の三人、イエス様の最初の弟子たちが、イエス様と出会ったところです。十字架に架けられる3年前のことでした。三十歳のイエス様と四人の若者は、ここで出会い、神さまの恵みを伝える伝道旅行を始めました。その、いわば原点に、復活のイエス様は再び、弟子たちを集めたのです。

先ほど司式者が読まれた今日の聖句は、この言葉で始まっています。

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。(マタイによる福音書28:16-17)

弟子たちは、ご復活のイエス様をあがめて、ひれ伏しました。ちょうど、今の私たちのように。そして、ちょうど、今の私たちのように、中には「疑う者もいる」のです。復活など、本当のこととは信じられない者も、もちろんいるのです。これは、今の、私たちの姿です。

しかし、イエス様は大きな愛で信じる弟子も、疑う弟子もすべて包み、そして言われました。

イエスは近寄って来て言われた。「わたしは天と地のいっさいの権能を預かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28:18-20)

イエス様は、教会に、私たちに役割を与えられます。神さまの御言葉を伝え、恵みを伝え、洗礼を授けます。教えを守って、今日はこれから聖餐式を献げます。そして、私たちが道を踏み迷って、神さまを、イエス様を信じられなくなることがあっても、イエス様はおっしゃってくださいます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」私たちは、決して見捨てられることがありません。だから、大丈夫なのです。今日の復活日礼拝は、少し特別な意味を持っています。

今日の聖書箇所で、私たちは5年間、日曜日の礼拝毎に、ずっと読み続けてきたマタイによる福音書を読み終わります。次の礼拝から、弟子たちが、イエス様のお言葉どおりに伝道を始めたその道筋をたどるために、テサロニケの信徒への手紙を読み始めます。

また、今日は午後に教会総会を開きます。これから私たちが進む道筋を、ご復活の主が導かれます。安心して、進み行きましょう。

2019年4月14日

説教題:主は闇に勝利される

聖 書:イザヤ書56章1-5節、ルカよる福音書22章39-53節

イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」…[イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。] イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻ってご覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

(ルカによる福音書22章39-46節)

今日から受難節の最後の週・受難週に入りました。今年の受難節、六週間、私たち薬円台教会は、特にひとつのことを祈っています。この祈りです。「教会員・求道中の方・牧師、皆が より深く正しく 主の救いのみわざを味わい知る恵みに与るように。」今日も、聖霊の助けをいただきながら、イエス様の十字架の救いのみわざを通して、イエス様を、神さまを、より深く知る恵みに与れますよう、ご一緒に御言葉をたどります。今日の御言葉が私たちに告げるのは、イエス様こそが暗闇の世においでくださった光 – この希望であります。今日の説教題に掲げましたように、主は闇に勝利される方なのです。

光なるイエス様。それを今日の聖句から読み取り、またその前に、受難週の出来事を思い起こして、光なるイエス様を心におきましょう。

受難週は、イエス様が十字架に架けられてからご復活されるまでの、言ってみれば、この地上で人として生きられた最後の一週間です。

第一日目は、日曜日でした。イエス様は弟子と共に、ユダヤの大きなお祭り「過ぎ越しの祭」を神殿の町エルサレムで過ごすため、この町に入られました。イエス様が貧しい者や弱い立場の者にたいへん優しく、そして彼らを助けるために神さまとしての力を発揮されることは、人々の間でよく知られていました。病をたちどころに癒やし、見えない目に光を与え、奇跡を起こす方を、エルサレムのユダヤ人たちは待ち焦がれていました。ここには、間違った期待がこめられていました。当時、ユダヤ・イスラエルの人々はローマ帝国の植民地でした。

ユダヤの人々の、民族独立の気運は高まっていました。そして、彼らはイエス様こそが、その指導者として自分たちを率いてくれると期待していたのです。人々はエルサレムに着いたイエス様を熱狂して歓迎しました。手に 手に棕櫚の葉を持ち、それを振りながら、ホサナ! ホサナ!と喜んで叫びました。

ホサナ。今日、献げた最初の讃美歌で、私たちは「ホサナ」と繰り返しました。この言葉は、ユダヤの言葉・ヒブル語で「救いたまえ」の意味です。ローマに抑圧されている、この隷属的な身分から、私たちを助け出してください。彼らは、イエス様に、そう叫んだのです。棕櫚の葉は、丸いうちわのような形をしています。ライブコンサートで、うちわを振って盛り上がる演出があります。それと同じような場面が、2000年ほど前のエルサレムで、町に入られるイエス様を迎えて繰り広げられました。

それを覚えて、受難週の最初の日・日曜日を「棕櫚の主日」と呼びます。今日の週報に記してあるとおりです。

しかし、イエス様は、ユダヤの人々が期待した政治的な意味での救い主、聖書の言葉を用いれば「メシア」ではありませんでした。社会的な意味ではなく、魂の、人間存在そのものの救い主だったのです。

魂の救いなんかいらない、自分たちは早くローマの支配から逃れたい、自由な独立した民族になりたいと、ユダヤの人々は思いました。

「魂の救い」 - それは、美しい言葉だが、中味のないきれいごと – 彼らには、そう思えたのでありましょう。私たちも、洗礼を受けて「救われた者」となっていても、その恵みをクリスチャン以外の方に伝えるのが難しい事柄です。

神さまは私たちを救ってくださるために、イエス様を世にお遣わしくださいました。しかし、私たちは、そもそも、救われていない苦しさ・惨めさ・醜さを自覚できていません。

聖書は、繰り返し、繰り返し、その人間の姿を描きます。

受難週の間に繰り広げられた出来事は、その人間の醜さと限界が、聖書の言葉を用いれば「罪」が、これでもか、これでもかといわんばかりに示します。それは、まるで暗闇の中にうごめく群像のようです。闇の暗さは、そこに一瞬、光が射し込んだ後に、いっそう深く黒々と実感されます。イエス様の光が、闇を映し出すのです。

イエス様を大歓迎したユダヤの人々は、イエス様が政治的な指導者ではないとわかると、態度を一変させました。そのように勝手に思い込んだのは自分たちなのに、イエス様にだまされたように思い、怒りと憎しみすら抱くようになったのです。

また、ユダヤ社会の指導者層の中には、イエス様がまだエルサレムに到着するずっと前、弟子たちとガリラヤ地方を中心に伝道活動を始めた頃から、イエス様に憎しみを抱いている者たちが大勢いました。

祭司長や律法学者、長老たちといった、信仰生活・精神面の指導者たちです。彼らの心に巣くっていた憎しみは、妬みでした。

先ほどもお話ししましたが、イエス様は人々のために、神さまとしてのお力を用いて、彼らを悲しみや苦難・困難から救い出されました。社会福祉制度が発達していない頃、心や体に障害を持つ人々は差別され、物理的にも精神的にもつらい生活を強いられていましたが、イエス様は人間社会で軽んじられる人々をこそ助け、特に優しく労られました。イエス様に助けられ、労られ、優しくされた人々は喜びと幸福で心を満たされました。そして、イエス様と、彼らのまわりにいた人たちも、心が和み、おだやかでしあわせな思いに包まれたのではないでしょうか。イエス様は何とすばらしい方なのだろうと、憧れを抱いたでありましょう。

ところが、すばらしさに接して、憧れだけでは終わらないところに、人の心の闇があります。

誰かが自分よりも優れていると、人はうらやましさを感じます。この思いが向上心となって、自分を高める方向に進めば良いのです。良いライバルを持つと、互いに競い合って、自分も相手も成長します。自分も相手も、生きるようになるのです。

ところが、うらやましさを通り越して、ねたみ・憎しみを抱くと、相手の破滅を願うようになります。聖書が語る世界で最初の殺人事件、カインが弟アベルを殺してしまったのは、ねたみのためでした。憧れは命へ、自分も人もいきいきと輝く方向へと進みます。ねたみは人を死と破滅へと誘い込んでしまうのです。

ユダヤの指導者たちはイエス様を妬み、憎み、そしてイエス様を殺す計略を巡らしていました。彼らはイエス様の言葉尻を捉えて罪に陥れようと、神殿の境内でイエス様に神学論争を挑みました。しかし、イエス様に論破されて、イエス様に対する憎しみをますますつのらせていったのです。

それが、マタイによる福音書で、私たちが読み続けてきた「論争の火曜日」の出来事でした。

受難週の間、イエス様をめぐって、人間の持つ闇が広がってゆきます。ひとつは、今お話ししたイエス様への妬み。そして、その前にお話しした、イエス様に自分勝手な期待を抱いて、失望させられたと言ってイエス様に怒りを感じた人々の、自分中心の思惑。どちらの闇も、私たち人間の心に、おそらく必ず、潜んでいるものです。

これも何回も繰り返し、申し上げたことですが、イエス様は完全に人であると同時に、完全に神さまです。私たち人間にはとうてい理解することの出来ない神さまの輝き – これを聖書は神さまが聖であること、また神さまのご栄光と言い表します – を携えておられます。

イエス様を理解しきれないということでは、イエス様の弟子たちも、同じでした。最もイエス様のおそば近くで、日々、イエス様の言葉を聞き、その行いを見ていながら、弟子たちも イエス様を理解していなかったのです。

イエス様の弟子・ユダも、イエス様が政治的指導者・民族独立運動のリーダーになってくださるとの幻想を抱いたひとりだったのではないかと、多くの注解書が告げています。彼がイエス様を裏切って、イエス様を殺そうとたくらんでいるユダヤの指導者層に銀貨30枚で主を売り渡したのは、イエス様が自分の思い描いていた方ではなかったからだと、解釈されています。

ユダヤの指導者たちは、イエス様を死刑にするために逮捕しようと、手下の者を手配しました。手下の者たちは、イエス様の顔を知りませんから、裏切り者ユダがイエス様に接吻することで、誰を捕らえれば良いのか知らせることにしたのです。

彼らのたくらみは、もちろん秘密のうちに進められました。しかし、神さまはすべてを見通され、見抜かれる方です。イエス様は、ユダの裏切りをすっかりご存じでした。

信じていた人に、実は裏切られていたことがわかった – もし、そんなことがあったら、皆さんはどうされるでしょう。私たちの心は、闇の中で動きます。裏切られていたことを知ったら、大人の判断としては、自分の方からも、その人を切り捨てます。その人からできるだけ距離をおいて、関わりを避けるようになるでしょう。ここには、関わりの終結・愛の死があります。愛が死ぬ。裏切り、また裏切られることによって、人のつながりが切れてしまうことを、そのように申してもよいかもしれません。

愛が死ぬ。愛が、滅ぶ。そういうことがあるのでしょうか。

決してない、と聖書は告げています。

愛は決して滅びない。御言葉は、こうはっきりと断言しています。

コリントの信徒への手紙一 13章8節です。今は聖書を開いている時間がないので、どうぞ、礼拝後、おうちに帰られてから、聖書を開いてご確認ください。結婚式で読まれることの多い聖書箇所ですので、ご覧になると、「あ! この箇所!」と頷かれることと思います。

愛は決して滅びない。愛は決して死なない。この御言葉を、イエス様は行い・行動で表されました。受難週の木曜日、過ぎ越しの祭の食事の席で、イエス様は弟子たちの足元にひざまずき、ひとりひとりの足を洗われました。足を洗うのは、当時は奴隷の仕事でした。相手の足元に屈するへりくだりの姿勢を取ります。現代でも、プライドの高い人は、自分が嫌いな人や頭を下げたくない相手には、取りたくない姿勢でしょう。この時、イエス様は、ご自分がユダに裏切られることを知っていながら、ユダの足元にもひざまずき、その足を洗いました。

イエス様は、ユダを遠ざけなかったのです。ユダという弟子への愛を貫かれました。愛を死なせなかったのです。裏切られても、ゆるし、相手に向けて手を差し伸べ続ける – これが、イエス様の愛、決して滅びない愛なのです。私たち人間が弱い愛しか持てなくても、神さまは必ず、この深く強い愛で、私たちをご自身につなぎとめていてくださるのです。

裏切った相手をゆるし、その足元にひざまずくなど、人間にはできないことではないでしょうか。人間にはできないどころか、私たちはそのようなイエス様を理解できないことがあります。どうして、そんなプライドのないことをするのか。それは愚かしく、自分で自分をおとしめる自尊心のかけらもない行為ではないか。

そう思われる方もおいででしょう。

しかし、神さまは、そのようにご自身を小さく 小さくされることで、逆説的に無限大の大きさと輝かしさ、聖なる栄光を顕されるのです。

神さまの逆説。ここに、私たち人間には計り知れない神さまのご計画があり、光があり、聖なる恵みがあります。

今日は、受難週についてお伝えしたために、今日の聖書箇所そのものに触れる時間がほとんどなくなってしまいました。

今日の新約聖書の聖句の中で、ひとつのことに心をお留めいただきたく思います。45節の後半です。このように記されています。お読みします。「イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。」

イエス様は、十字架に架かられ、命を捨てなければならないことを完全な人間として、実に人間らしく苦しみ、悲しまれ、どうか、この使命を取りのけてくださいと祈られました。弟子たちは、それにまったく無関心で眠り込んでしまったわけではなかったのです。「悲しみの果てに」眠り込んだのです。イエス様が嘆いておられるのを、人間の弟子たちには、どうすることもできないから、彼らは悲しみました。けれど、どうすることもできないと、意識を失ったように眠りに吸い込まれ、自ら無力になってしまうのが私たちの限界なのです。

弟子たちが眠り込んでしまった。これは、自分ではどうすることもできない苦難の前で、私たちが諦めて希望を失ってしまう、そのことを表していると申せます。希望を失う、望みが持てなく成る、絶望する。何度も申し上げたことですが、哲学者キェルケゴールが言ったように、絶望は死に至る病・絶望は魂の死です。

しかし、イエス様は、その私たち人間の限界を超える命への道を開いてくださいました。それが、十字架で一度死なれ、その死から復活されることです。

そして、イエス様は、私たちが絶望して諦めに陥った時に何をすべきかを実に具体的に教えてくださっています。46節です。お読みします。「イエスは言われた。『なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。』」

祈りなさい。イエス様はこう弟子たちに言われました。眠りの誘惑・困難の前で諦めて絶望してしまう、その死の誘惑に陥らぬよう、祈りなさい。神さまに思いを打ち明け、苦しみを語り、助けを求めなさい。私たちの主、死の闇に打ち勝たれてご復活なさる主は、必ず求めているものを、安らぎを賜るからです。

受難週を、私たちも祈りのうちに過ごしましょう。今日の「棕櫚の主日」、「論争の火曜日」、18日が「洗足木曜日」、そして19日が、イエス様が十字架に架かられた聖金曜日です。十字架の彼方・悲しみの果てに輝く、21日・主のご復活の日をご一緒に待ち望みましょう。

2019年4月7日

説教題:隅の親石を与えられる

聖 書:哀歌1章12-14節、ルカによる福音書20章9-19節

イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった.』。

(ルカによる福音書20章17節)

受難節第5回目の主日を迎えました。今年の受難節、私たち薬円台教会は、特にひとつのことを祈っています。覚えていただけましたでしょうか。この祈りです。「教会員・求道中の方・牧師、皆が より深く正しく 主の救いのみわざを味わい知る恵みに与るように。」今日も、聖霊の助けをいただきながら、イエス様の十字架のみわざ・その救いのみわざの意味と恵みを知り、イエス様を、神さまを、より深く知る恵みに与れますよう、ご一緒に御言葉をたどってまいりましょう。

今日の聖書箇所も前回に続き、直接には、イエス様の十字架の出来事が語られてはおりません。しかし、イエス様は、ご自身がどのような事情で十字架に架かられることになるかを、たとえ話で人々に伝えています。イエス様が、このたとえ話を語られたのは、十字架の出来事の三日前、私たちがマタイによる福音書で「論争の火曜日」として読んだ、あの長い 長い一日でした。

このたとえ話で、イエス様がたとえておられることは、比較的 わかりやすいと思います。ぶどう園を作ったのは、天の父なる神さまです。その恵みの土地を、神さまは農夫たち、つまり人間たちに貸してくださいました。しかし、人間は神さまの姿を見ることができません。恵みの大地を与えられたら、その本来の持ち主である神さまが見えない、言ってみれば旅に出ていて不在のように思えるので、自分たちの好き勝手をしました。収穫の時になって、主人が収穫を納めさせるために僕(しもべ)を送りました。しもべが、何を、または誰をたとえているかは注解書によってまちまちです。神さまの伝令として御言葉を伝える預言者をさすのだと説明する注解書が散見します。

預言者は、好き勝手にしている社会の人々・神さまがおいでになることを忘れている人々に、神さまの警告を知らせて、間違っていることを正す役割を負っています。預言者は、人々がやりたいことをダメと禁じ、戒めるので、たいへん嫌われます。今日のたとえ話で僕がひとり、またひとりと袋だたきにあって、ぶどう園 すなわち社会からほうり出されてしまうのは、それを表していると言ってもよいでしょう。

神さまは、ご自分の警告が受け容れられず、使いの者として送った伝令・しもべたちがひどい扱いを受けるので、とうとう、こう決心されました。わたしの愛する息子を送ろう。これがどなたであるか、もうおわかりと思います。イエス様です。

ところが、イエス様はうやまわれたでしょうか。人々に歓迎され、大事に扱われたでしょうか。イエス様が神さまから遣わされて語った言葉のすべてを、すべての人々が素直に受け容れることはありませんでした。特に、自分の聖書理解に自信を持っていた律法学者や祭司たちの激しい反発に遭いました。彼らの憎しみを招き、そのためにイエス様は十字架に架けられることになったのです。

ここに、私自身が、常に自らの姿勢を顧みて正さなければいけないことがあると思いました。牧師になるには、神学校で聖書を学び、正教師試験に合格して教師資格を受け、次いで按手を受けて、牧師となるおゆるしを受けます。そこで、自信をもって神さまの御言葉を、今、このように説教として語っているかと申しますと、語る言葉は「自信」から出ているのではないのです。

皆さんの目には、私は、それこそ憎らしいほど自信満々に、説教しているように見えるかもしれません。しかし、私は本来、たいへんおとなしくて、恥ずかしがり屋で、人前で話すことなど思いも寄らない人間です。え〜っ?!と思われることでしょう。本当なのです。

すでにお話ししたエピソードですが、今一度ご紹介します。高校生の頃、学校に行く時に、自分の前を高校で教わっている先生が歩いていることがあります。ご高齢の先生だと、歩みがたいへんゆっくりで、高校生の足だと、すぐに追いついてしまいます。追いついたら、当然、必ず「おはようございます!」と挨拶しなければなりません。幼稚園の子どもさんたちさえ、良いご挨拶をします。ところが、私はその挨拶をするのも恥ずかしくて、声がでない、そんな高校生でした。

もともと、人前で話す“「自」信”はありません。私を今、こうして声を出させ、説教をさせているのは、神さまです。神さまに救われた感謝と喜びが、私の恥ずかしいという自意識の殻を破って、説教になっているのです。それは、私が神さまからいただいている信仰によってです。牧師は自信に溢れて説教しているのではなく、神さまが牧師にくださる信仰、“「自」信”ではなく“「神」信”で語っているのです。

一方、イエス様の時代の神に仕える人たち、律法学者や祭司長たち「自信」にあふれていました。今の牧師と異なり、たいへん社会的地位が高く、上流階級で、どこでもうやまわれる人々でした。ですから、彼らの目には、大工さんで、三十三歳とたいへん若い青二才、言葉にはナザレという地方特有のさえない訛りのあるイエス様が、自分たちをしのいで人々に慕われているのが我慢なりませんでした。彼らは、そのためにイエス様をねたみ、憎み、十字架で死刑にする計略を巡らしたのです。)

イエス様は神さまですから、人の考えをすべて見抜かれます。その計略と、その罪深さを、今日のたとえ話で語られました。“神さまがお遣わしになった 愛する息子”であるご自身、今日のたとえ話で言えば、“ぶどう園の主人が遣わした 愛する息子”が殺されると告げたのです。

しかし、イエス様は、単にこれから起こる十字架の出来事を予告されただけではありませんでした。

まして律法学者や祭司長たちが思ったように、彼らへの“当てつけ”として語っただけでもありません。

教会について、実にたいせつなことを教え、告げるためでした。

イエス様は17節で、こう言われました。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった.』」これは、言葉が、かぎ括弧に入れられていることからわかるように、引用です。旧約聖書、ユダヤの人なら、子供の頃から覚え込まされている旧約聖書の詩編118編22節の言葉をイエス様は引用されました。家を建てる、これは「教会を形成する」「信仰共同体をかたちづくり、群れとして神さまのために働き、前進する」と考えて良いでしょう。その時に、ユダヤの信仰共同体を指導する律法学者や祭司長たちは、こんなものはいらない、こんな人はいらない、とイエス様を排斥し、除外し、十字架で死刑にしてしまったのです。

隅の親石、これは口語訳聖書では「隅のかしら石」と訳されていました。これは、何でしょう? 石造りの建物を建てる時に、たいへん重要な役割を果たすのが、この隅の親石です。

これには、二つの説があります。ひとつの説は、石を積んで、長崎の眼鏡橋のようなアーチを造る、そのアーチの真ん中の石だというものです。その石がしっかりと真ん中にはまり込むことによって、アーチ全体が絶妙な力学で堅く支えられます。その石がはずされると、アーチ全体が崩れてしまいます。そのような、なくてはならない大事な石だというのです。

もうひとつの説は、まさに「隅の石」、レンガ造りの家を建てる時のコーナーストーンをさすという説です。このコーナーストーンの大きさが決まると、建物の土台が据えられ、その大きさ・堅牢さが決まると言われています。

「隅の親石」は建物の“基準”を決めるものです。

イエス様は、私たちが教会を造り上げる時に、ご自身を土台とするようにと言われました。教会が共同体として、困難な出来事に遭った時には、何を基準に考えれば良いのかを教えてくださったのです。イエス様の御言葉、イエス様の愛を基準にするように、ということです。

「教会」は、漠然と信じる者の集まりを指すのではなく、たいへん具体的な教会を指しています。イエス様は、世界中に福音が宣べ伝えられるようにと、私たちに強く、強く勧められました。マタイによる福音書の最後でイエス様が語られる「大宣教命令」です。そのために、この町、あの村に、教会が建てられました。1973年に、この薬円台教会が建てられたのです。

イエス様は、聖書の御言葉を通して、今、この薬円台教会に向けて、このわたしを土台とするように、このわたしを隅の親石にするようにと告げておられるのです。

教会を建てるとは、建物を造ることではありません。薬円台教会が、この会堂を建て、会堂を献げる式・献堂式が行われたのは、教会創立の1973年から11年後の1986年6月10日の事でした。建物がなくても、薬円台教会は既に教会だったのです。

それはどういうことでしょう。

薬円台教会というイエス様の体を造り上げている教会員、この教会に所属するイエス様を信じる皆さんがおられたということです。皆さんは、ただ“いた”だけではありません。教会が教会になるために、イエス様を「隅の親石」として、土台として、イエス様がご復活された日曜日ごとに欠かさず礼拝が献げられ、祈祷会が持たれていたということです。

神さまがイエス様を通して、薬円台教会を教会として建たせ続けてくださるには、日曜日ごとに、場所はどこであれ、神さまがイエス様を通して教会員に恵みをくださる礼拝がなくてはなりません。

礼拝に次ぐ集会として、教会員が自分たちの方から、神さまの御前に進み出て感謝と思いと願いを献げる祈祷会が大切です。

薬円台教会での日曜日の主日礼拝。そして祈祷会。イエス様という「隅の親石」のうえに、薬円台教会が建ち上がるために、主のお招きに応えて礼拝に出席し、教会のために祈りを献げることが、この教会に籍を置く者が果たす務めです。薬円台教会に籍を置いているということは、イエス様を通して、それを神さまと約束したということです。

今日は役員任職式が執り行われました。任職を受けた三人の役員は、教会員の皆さんが、神さまの御心を尋ねつつ選出されました。お三人は、薬円台教会のために身を献げられることを、神さまに約束されました。また、教会員の皆さんは、新役員さん三人に加えて継続して役員をされる三人、合計六人に、この牧師を加えて七人から成る薬円台教会役員会を、しっかりとお支えくださると,神さまと約束されました。

牧師は、この世にあっては教会籍を持ちません。役員選挙権を持ちません。少し人間的な言い方をすれば、教会籍をお持ちの皆さまからすると、権利を持たず、ただひたすら神さまと教会に全力で仕えるはしためです。しかし、卑しい身ながら聖霊に満たされて、司式を執り行い、役員と教会員の、神さまとのお約束を見届ける証人・証し人とさせていただきました。その約束の実現のために全力で主に従い、実現を見届けたく思います。

この後に献げる聖餐式で、私たちのために肉を裂かれ、血を流してくださった主の愛をおぼえ、さらに薬円台教会としての絆を堅くしてまいりましょう。

世の人が、“価値無きもの”と捨てたイエス様は、十字架で私たちの救いのために命を捨ててくださった方です。この方を隅の親石として、主の日の礼拝と祈祷会によって強められる私たちでありたいと願います。これから皆さまはこの礼拝から、この世・社会でのご自分の持ち場に、それぞれ遣わされますが、日々、主に強められて歩みましょう。