19年10月-20年03月

2020年3月29日

説教題:一粒の麦死なずば

聖 書:イザヤ書52章13-15節 、ヨハネによる福音書12章20−26節

見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように 彼の姿は損なわれ、人とは見えず もはや人の子の面影はない。それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口をとざす。だれも物語らなかったことを見 一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。

(イザヤ書52章13-15節)

さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上ってきた人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

(ヨハネによる福音書12章20−26節)

今年の受難節に、私たちはヨハネによる福音書から御言葉をいただいています。今日の礼拝のための御言葉は、イエス様が子ロバに乗ってエルサレムの町に入られた直後に語られたと、ヨハネによる福音書は語っています。

今日の聖書箇所は「さて、祭の時に」と始まっています。この「祭」はユダヤ民族の祭・過越祭です。神さまが奴隷だったユダヤ民族をエジプトから救い出してくださったことを記念し、感謝する祭ですから、純粋に「ユダヤ民族の」祭です。

ところが、そこに何人かのギリシア人がいました。ユダヤ人から見ると、外国人です。聖書の言葉を用いれば“異邦人”です。ユダヤ人ではない人々・ギリシア神話の国の人々が、わざわざ、神殿のあるエルサレムに、ユダヤ独自の祭が祝われる時にやって来た ‒ これは、驚くべきことです。旅がたいへんな時代ですから、現代のように、観光客として外国のお祭りを見物に来たわけではありません。彼らギリシア人はエルサレムに、イエス様に会いに来たのでした。

イエス様がお生まれになった時、東方の学者たちがはるばる砂漠を旅して、イエス様を拝みに来たことを思い出しましょう。イエス様の救いの恵みがユダヤ民族にとどまらず、全人類の救いであることを、これらの事実がよく表しています。

ギリシア人たちは、イエス様の“癒やし”の御業 ‒ 重い皮膚病の人や長く病で苦しんでいる人たちへの癒やし ‒ を遠い噂として聴いたのでしょう。そして、ぜひ会ってみたいと願ったのでしょう。

興味深いのは、彼らがいきなり・直接は、イエス様を訪ねなかったことです。ヨハネ福音書は、けっこうな字数を割いて、彼らがイエス様に会うまでに踏んだ手順を記しています。この手順に、私たちは私たち教会の伝道のあり方を考えさせられます。

ギリシア人たちは、まずイエス様の十二弟子の一人フィリポに頼みました。このフィリポは、異邦人伝道の賜物があったと思えます。使徒言行録では、フィリポはエチオピアの宦官に伝道し、洗礼を授けたことが伝えられています。この時、フィリポは自分一人だけで判断せず、同じイエス様の弟子のアンデレと二人で、ギリシア人たちをイエス様に紹介しました。

教会のあり方に似ていませんか。

聖書に関心を持ち、もしかするとイエス様が自分の救いではないかと思っている方がおいでだったとします。けれど、教会に行くのはためらわれる、何となく敷居が高い気がする ‒ そういう方は多いと思います。しかし、身近なところにキリスト者・クリスチャン・教会に通っている人がいたら、連れて行ってくれないかと頼むかもしれません。または、クリスチャンの友人・知人から、クリスマスやイースター、特別伝道集会に誘われたり、案内をもらったりしたら、渡りに舟とばかりに、教会に、イエス様に会いに来るのではないでしょうか。

そのようにして教会に初めて来られた方が、礼拝に通うようになり、やがて洗礼を受けたいと願う時が来ます。この時、その方の洗礼志願を受け入れ、教会の一員となることを決定するのは、基本的には牧師一人ではありません。牧師は推薦をします。それを受けて、教会の役員会が試問会を行い、そのうえで洗礼式を行うかどうかを判断します。こうして一人の方が洗礼でイエス様との絆をいただくまでに、複数のイエス様の弟子・教会員が、洗礼志願者・求道者の方をイエス様に紹介します。イエス様のところに連れて行く・洗礼への道を開くのは、聖霊で満たされた複数のクリスチャン・役員会のわざです。今日の聖書箇所では、フィリポは自分だけで判断せず、アンデレと共に、複数でギリシア人たちをイエス様のところに連れて行きました。

この時に、聖書はたいへん面白い言葉遣いをしています。22節で、

フィリポとアンデレは、このギリシア人の方々があなたに会いたいと来ています、とイエス様に話しました。別に何か質問したわけではありません。ところが ‒ 23節をご覧ください。こう記されています。

「イエスはこうお答えになった。」

「答える」、この言葉はもとの聖書の言葉・ギリシア語では、直訳すると「決断から」という意味を持っています。

確かに、私たちは何か問われて答える時・レスポンスをする時、自分なりの決断や判断を相手に伝えています。イエスかノーか、今日は29日であって28日ではない、などです。

23節で、イエス様はこの時、ご自分の決意・覚悟を語られました。救いを求めてはるばる遠くからやって来た外国の人々と、近く親しいご自分の弟子に、もう少し申せば聖書の言葉を通して 時を超え、今を生きる・今ここで主を仰ぐ私達に、ご自分が何の為にこの世に遣わされたか、本当は何者であるかを告げたのです。それが、この言葉です。「人の子 ‒ イエス様ご自身のことです ‒ が栄光を受ける時が来た。」

この言葉は、特にヨハネ福音書では重要な意味を持っています。

この時まで、イエス様は繰り返し「わたしの時はまだ来ていない」とおっしゃっています。皆さんがすぐに思いつかれるのは、カナの婚礼で水をぶどう酒に変える奇跡を行った時、どうにかしてやってほしいという母マリアに、イエス様が語ったこの言葉でしょう。(2:4)

しかし、ついに、イエス様は“わたしの時が来た”、「栄光を受ける時が来た」とおっしゃいました。

「栄光を受ける」という言葉は、通常、晴れがましさを連想させます。栄光の冠は、競争に勝った人に与えられます。努力が報われ、人よりも抜きんで出て、ほめそやされている姿が目に浮かびます。

しかし、今日の旧約聖書 イザヤ書52章、イエス様を預言した言葉はこう語ります。見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。14かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように 彼の姿は損なわれ、人とは見えず もはや人の子の面影はない。

一読すると、矛盾しているように思ってしまいます。神さまは、「見よ、わたしの僕は栄光を受ける」とおっしゃられます。しかし、その栄光の姿は、神の子の面影をもはや宿さないほど損なわれています。

そればかりか、人間とは思えないほどにずたずたになっている、と言うのです。

十字架の上のイエス様の姿です。手首・足首を、釘で十字架に打ち付けられ、鞭打たれて槍で刺されて肉を裂かれ、血を流しておられる姿です。

そして、今日の中心となる言葉が語られました。イエス様の言葉をお読みします。24節です。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」

一粒の麦は、命をその内側に宿しています。しかし、その命は、麦の一粒が蒔かれて、その一粒としての形を失うときにしか現れません。土に蒔かれたその麦は、一粒を一粒の形にしている表の皮を破って、まず根が出て来るでしょう。さらに皮を大きく破って、今度は芽が出ます。麦一粒の中に収まっていた養分を使って、根と芽は伸び、元の一粒の麦の形は原型をとどめず、崩れてゆくのです。

しかし、麦は新しい命として育ち、やがて実りの季節を迎えると、麦の穂は何百という麦の粒の重みで豊かに頭(こうべ)を垂れるようになります。

イエス様は、この時、ギリシア人と弟子二人に“私はこの一粒の麦のように死んでゆく、そして、それによって、無数の命の救いの道を開く”と希望の言葉を告げられました。

ご自身が死なれ、そして復活されることで、そのように死して死に勝つ命の道を開かれるのは、神の子イエス様ただお一人です。そうして開かれた救いの道を見いだすのは、狭い門を見いだすように、わずかな人でありましょう。なぜなら、生まれたまま、神さまを知らない人間が自分で気付くことのできない・人間の力では知ることのできない驚くべき価値観がここに示されているからです。

それは、25節のたいへん厳しく響く言葉に表されています。

25節。イエス様は、こう言われました。25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。私たち人間は皆、自分の命を愛します。それを守ろうとします。憎んで手放すことは、本能的と言って良いのかもしれないと思うほどに、できません。

少し話が飛ぶようですが、私が運転免許を取るために自動車の教習所へ行っていた当時、自動車事故では助手席の人が亡くなる確率が圧倒的に多いと教わりました。エアバッグなど、車そのものが安全な装備をするようになったことと、安全ベルト着用が義務づけられたことなどで、今は後部座席の人が亡くなる確率の方が高いのだそうです。

昔、助手席の人が亡くなることが多かった理由は、こう教わりました。“あ、ぶつかる!”と思った瞬間に、運転している人は反射的に ‒ これを本能的にと申して良いのかもしれませんが ‒ 自分が助かる方向にハンドルを切るから。どんなに愛し合っているご夫妻でも、カップルでも、どんなに可愛いと思っているわが子でも、運転していた方が助かって、助手席の人が亡くなってしまうことが多かったのです。

イエス様が、もし、私たちを助手席に乗せて運転くださるならば、その“あ、ぶつかる!”と思った瞬間に、イエス様は、必ず私たちが助かり、ご自分が一番損傷を受ける仕方でハンドルを切ってくださいます。それは、人間わざではありません。人間は、自分が助かる方にハンドルを切る ‒ そういうものです。

人間にはできないことをなさる、それが神の子であり、ご自身が神さまであるイエス様なのです。

そうして救われたことを知って、私たちは感謝します。イエス様のなさってくださったことを美しいと思います。

イエス様の十字架のみわざで自分は救われたと知った人間は、自分にはできないことだからと言って、イエス様の自己犠牲の尊さに無関心ではいられなくなります。このように自分を投げ出す生き方があることを、知らされるからです。

三浦綾子の小説「塩狩峠」を読んだことのある方は、多くおられると思います。この小説の主人公は、実在の方をモデルにしています。北海道、私たちと同じ日本基督教団に属する旭川六条教会の教会員 長野政雄さんという方です。たまたま乗っていた列車が暴走した時、長野さんは、多くの乗客の命を助けるために自分の体を投げ出して、その暴走を止めました。イエス様の生き方にならう者とされた方です。

また話が飛びますが、私は自分が看護師免許を持っていることに、妙にこだわってしまうことがあります。私がボストンから日本に戻ったのは2001年の夏のことでした。帰国してわずか1ヶ月後に、9.11(きゅう・てん・いち・いち)、ニューヨークでの同時多発テロ事件が起こりました。ボストンで一緒に働いていた看護師や、看護学校のかつての同級生たちが、大勢ボランティアに向かったと聞いて、焦りのような思いを持ちました。日本に帰って、こんなふうに安穏としていて良いのかという気がしたのです。今のウィルス感染症拡大にあって、神さまが私に看護師免許を取らせたのは、何のためだったか、今この瞬間も多くの看護師の方々が感染防止の前線で戦っているのにと思います。

しかし、それは私のこだわりに過ぎません。自分に何ができるかと、自分の力を思ってしまうのは、やはりひとつの自己中心的な考えであり、驕り高ぶりです。

イエス様の十字架のみわざで救われたことを知っている者は、その自分の力を思う考え方そのものを捨てるでしょう。自分が得意とするもの、それができなくなったら自分らしさ・自分が保てないと思うもの、それを手放すこと。捨てること。それが、今日の聖書箇所でイエス様が言われる「自分の命を憎む」ということです。

イエス様は、ただ、ただ、ご自分以外の者のこと、私たちのことを思ってくださいました。

その生き方を仰ぎ、イエス様にならい、自分を捨てて生きることができればと願う者がまずすること。それは、何でしょう。

祈ることです。

自分以外のどなたかのために祈ることです。

神さまとイエス様の全能を覚えて、そのお力によって、たいせつな人・親しい人、イエス様をまだ知らない方々、この社会、今 脅威にさらされている世界の人々を守り支えてくださいと祈りましょう。それが、私たちが「自分の命を他の誰かのために捨てる」、その第一歩です。それが、私たちがイエス様に従い、イエス様に仕え、主に身を献げる最初の一歩、最も大切な一歩です。

まず、誰かのため、愛する誰かを守ってくださいと主に祈りを献げることから、この新しい一週間を始めましょう。

2020年3月22日

説教題:唯一の主への贈り物

聖 書:申命記6章4-5節 、ヨハネによる福音書12章1−8節

聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

(申命記6章4-5節)

過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

(ヨハネによる福音書12章1−8節)

長引く感染症拡大の中で、受難節第4週の主日を迎えました。

皆さまがそれぞれに、今まで経験したことのない忍耐や不安をしいられ、日常生活を変えられ、それを通してあらためて主を仰ぎ、悔い改める時を過ごしておいでと思います。

その私たちに、今日与えられている旧約聖書の御言葉は、このように語りかけます。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

神さまは、このひとことを通して、私たちが恵みの人生をいただくために、心にしっかりと留めておくようにと二つの事柄を教えてくださっています。

ひとつは、私たちの主が唯一の方だということです。神さまは、ただ一人しかおられません。私たちが自分の「ご主人様」と仰ぎ、支配をいただくのは、ヤハウェというお名前の神さまだけということです。他の何者にも、自分自身にさえも、私たちは支配されません。「支配される」とは、別の言葉で言い換えれば「守られる」ことです。私たちは、自分で自分を守りきれません。この自明の事実をもって、私たちが自分の主人となり、自分で自分の神となることはありえないと気付かれるでしょう。神さまだけが、御心にかなうかたちで、私たちそれぞれを、また被造物すべてを守ってくださるのです。

もうひとつは、そのただお一人の主である神さまを「愛するように」と言われていることです。言われたから、愛する・愛しなさいと命じられて、愛する ‒ 愛はそういうものではない、もっと自然に心に湧いてくる感情だと思われる方は少なくないと思います。しかし、聖書で愛が語られる時、それは情愛・感情をさしているのではないのです。

愛は、覚悟であり、決断です。イエス様は、ご自身からご覧になれば何の良いところもない私たちを愛し、私たちのために十字架で命を捨ててくださいました。人間をたいせつにする、人間を救う、決して見捨てないと、神さまは約束され、決意されたからです。

また、これとは別の点からの戸惑いがあります。神様を愛しなさいと言われても、と私たちは当惑します。神さまに愛されることはたいへん嬉しいが、自分のような者が神さまを愛するのは、どうにも傲慢に思えるという方もおいででしょう。イエス様が、この自分のために十字架で命を捨ててくださった ‒ その深い愛に、自分たちは報いようがない、お返ししようがないと思うのが正直な気持ちかもしれません。

それでも、神さまは私たちが愛する者になることを期待してくださいます。神さまを愛し、そしてその愛をもって互いを愛する善い者に育つよう、望んでくださいます。

私たちのただお一人の主・天の神さまを、小さな者である私たちがどう愛することができるでしょう。神さまへの私たちの愛は、奉仕・神さまにお仕えすることで表されます。

私たちのために、十字架でご自身の命を犠牲にしてくださったイエス様に献げる私たちの愛・私たちのご奉仕。今日の新約聖書ヨハネによる福音書12章1節から8節に、その奉仕の記録が記されています。

ナルドの香油をイエス様にそそいだ女性のことは、今日いただいているヨハネ福音書の他、昨年読み終えたマタイ福音書、また受難節前まで読み進んでいたマルコ福音書にも書かれています。

ヨハネ福音書と、マタイ、マルコ両福音書にまったく同じように書かれているかと言えば、実はそうではないのです。マタイとマルコ福音書では、イエス様に香油をそそいだのは、「一人の女」だったとだけ書いてあります。一方、ヨハネ福音書は、先ほど司式者がお読みくださったとおり、その「一人の女」がマリアだった、とはっきりと告げています。ヨハネ福音書は、マルコ、マタイ福音書からだいぶ経ってからまとめられており、また、特有の観点から記されています。

このマリアは、イエス様の母マリアではありません。イエス様が生き返らせてくださったラザロの姉妹のマリアです。また、働き者で、しっかり者のマルタとも姉妹でした。マルタ、マリア、ラザロの三人のきょうだいは、イエス様と同年代か、少し年下の親しい友人であり、イエス様を慕い、イエス様に頼り、従う者たちでもあったのです。

今日、この受難節のために与えられたヨハネによる福音書のこの箇所を、特に「香り」に心を配って読みたく思います。

最初、12章第1節に「過越祭(すぎこしさい)の六日前」と書かれています。イエス様が十字架に架かられる日が近づいています。この翌日、イエス様はエルサレムの町にロバに乗って入られ、その週の金曜日に十字架で死なれます。

イエス様を暗殺する陰謀が渦巻いています。

死が、ひたひたとイエス様に迫っています。

「死臭」という言葉があります。死の臭いです。せっかく教会に来たのに、そんなまがまがしい、けがらわしい言葉を聞きたくないとお思いでしょう。しかし、イエス様は私たちをその死から、闇から、絶望から救い出してくださいました。死に関わる、死にまつわる事柄と言葉を、私たちはしっかり聴かなければなりません。

死の放つ悪臭。それが漂う一方で、エルサレムは神の都・うるわしの都です。良い香りが常に充ち満ちている都市です。聖書で良い香りとは、何をさすでしょう。イエス様の香りです。それは、もちろん、今日の聖書が語る香油の香りでしょう。しかし、旧約聖書まで含めると聖書が語る「良い香り」は献げ物を焼き尽くす香りです。

エフェソの信徒への手紙5章2節に、この聖句があります。お読みします。「キリストがわたしたちを愛して、ご自分を香りの良い供え物、すなわちいけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」(p357)

エルサレム神殿では、常に献げ物、それも焼き尽くす献げ物が備えられていました。ユダヤの人々は自分が買える最も良い家畜 ‒ 雄牛、雌牛、羊 ‒ を罪の赦しのために、又、神様への感謝をこめて献げます。最も神さまが喜ばれる献げ方は、それを焼き尽くす事でした。肉のひとかけらも残さず、つまり、人間がそれをわずかでも自分のものにすることなく、焼いて、その焼く香りを煙に乗せて天に昇らせるのです。

真心をこめて神様に身を献げる証拠が、「焼き尽くす」ことでした。

イエス様は、神の小羊と呼ばれます。私たちの罪の赦しを願って、ご自身自らが焼き尽くす献げ物の家畜・小羊のように我が身をあますところなく献げ尽くされ、十字架で死なれたからです。

死臭を放つ絶望の死ではなく、イエス様の十字架の死は、神さまへの献身のしるし、そして復活するための命の終わりです。今日の聖書箇所で、ラザロとマルタの姉妹・マリアは、この「死んで、死に勝つ」栄光の出来事を、ナルドの香油の香りで表しました。死の臭いを消し、イエス様の十字架の死の意味を、明らかにしたのです。

ラザロとマルタの姉妹・マリアは、イエス様を慕い、敬愛し、そして、こういう言い方はあまり良くないのかもしれませんが、若干浮き世離れしたところのある女性でした。現実的なマルタに比べ、マリアはちょっとぼんやりしています。マルタがイエス様をもてなすために必死に立ち働く中、マリアはずっとイエス様のそばで話に聴き入っていました。そのために姉マルタは逆上するほど怒り(いかり)、イエス様がマルタを慰めました。マリアは、そういう人でした。そして、マルタもマリアも、それぞれに主に愛されました。

このマリアが、人間的な見方をすれば、おそらくイエス様に最もふさわしい贈り物として思い付いたのがナルドの香油だったのでしょう。

この香油の存在を知った時、わずかな香りを初めてかいだ時、マリアは深く感動して、これこそ、イエス様に差し上げたいものだと、ただ単純に思ったのでしょう。そして、多ければ多いほどすばらしいと、素朴に思ったのではないでしょうか。

ナルドの香油は実に高価で貴重なものです。1リトラは、小さいペットボトル約1本分。300デナリオンは、今の日本円で、300万円以上。国税庁によると、日本の働く女性の平均年収が276万円だそうです。

マリアが、こつこつと、一生懸命に貯めた300万円。

わずかずつ買って、何年もかけて、壺に溜めたナルドの香油。

一瞬で使い果たされました。彼女はそれを、イエス様の足に注ぎ、しかも不思議な事をしました。自分の長い髪で、それを拭ったのです。

イスカリオテのユダは、自分の罪をごまかすように、マリアのこの行いを激しく批判しました。

イエス様は、おそらくマリア自身にもわかってはいなかったこの奉仕の意味を、穏やかに説き明かされました。

7節をお読みします。イエス様の言葉です。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから。」

先ほど申し上げたことをそのまま、今一度、繰り返します。

イエス様の死は、死臭を放つ絶望の死ではありません。イエス様の十字架の死は、神さまへの献身のしるし、そして復活するための命の終わりです。一度死ななければ、復活はないからです。マリアは、この「死んで、死に勝ち復活する」栄光の出来事を、ナルドの香油の香りで表しました。死の臭いを退け、イエス様の十字架の死の意味を、明らかにしたのです。

マリアの行ったことは、実に正しいご奉仕でした。ただ一人の私たちの神さま、私たちのために、十字架でご自身の命を犠牲にしてくださったイエス様に献げる愛・せいいっぱいのご奉仕が、人の目にはどんなに奇妙に見えようと、それは主に導かれたものだったのです。

私たちも、主の導きを祈り願いつつ、自分にできるせいいっぱいを献げましょう。私たちを生かし、今この時もしっかりと守り支えてくださっている主に、私たちにできる限りの感謝を献げましょう。

2020年3月15日

説教題:この方こそ我らの神

聖 書:ヨシュア記24章14-18節 、ヨハネによる福音書6章60−71節

しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは、最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者が誰であるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」このために、弟子達の多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

(ヨハネによる福音書6章64−71節)

イエス様が私たちの救いのために十字架へと進まれた、その歩みをたどる受難節。今日はその第3週の主の日を迎え、悔い改めにまことにふさわしい御言葉をいただいています。

皆さんよく分かっておいでとは思いますが、聖書が伝え、今のように礼拝説教で用いる“悔い改め”という言葉は、教会の外で一般に思われているように“反省する”“自分が犯した悪事を後悔する”こと以上の意味を持っています。“悔い改める”とは、“神さまの方に向き直る”こと、つまりは“神さまが、いかなる方かを正しく知る”ことをさします。さらに申せば、“悔い改める”とは“天の父ヤハウェ・子なるイエスさま・今、生きて働かれるイエス様である聖霊の神がどなたであるかを正しく知る”ことです。

今日の聖書箇所は、その真理をイエス様みずからの言葉を通して、端的に語っています。前回の礼拝と同じように、今日も、御言葉が伝える核心をまず皆さんにお伝えしてから、少し詳しく聖書に聴きたいと願います。

さて、その核心・大切な真理は二つあります。

まず一つ目。それはヨハネ福音書63節・64節のイエス様の言葉の中にあります。お読みします。「63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」

ヨハネ福音書は、私たちの救い主イエス様が、この世においでくださった命の言葉である ‒ この真理に貫かれています。ヨハネ福音書が、その第一声から「初めに言葉があった」と始まっていることを思い起こしましょう。「言葉は神と共にあり。言葉は神なりき」と続くとおりです。

もうひとつの核心・たいせつなことは、私たちが神さまを選ぶのではなく、神さまこそが私たちを選んでくださったということです。69節で、イエス様がおっしゃるとおりです。主の言葉をお読みします。「あなたがた十二人は ‒ これは、使徒をさしますが、広くイエス様を信じ、従おうとしている私たちをもさすと受けとめてよいでしょう ‒ あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。」同じヨハネ福音書の別のところ、15章16節で、イエス様はさらにはっきりとこうおっしゃっています。お聞きください。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」

今日、御言葉が私たちに示す、この二つの真理を心に刻みましょう。そうしておけば、私たちはどんな時も主を思い起こし、心を喜びで満たすことができます。もし、誰かにあなたの神さまはどんな方かと訊ねられたら、すぐに答えて恵みを伝えられます…と申したいところですが、いかがでしょう。

イエス様は命の言葉。自分がイエス様に選ばれたのであって、自分がイエス様を選んだのではない。そう二つの真理を心に並べてみても、ぴんと来ないのではないでしょうか。

私たちは、イエス様・神さまを「あなたの重荷をおろしなさい」または「わたしの目にあなたは価高く貴い」と言ってくださる方として知っており、そこに慰めと励まし、安心をいただきます。また、今日の旧約聖書の言葉・ヨシュア記 24章のユダヤの民の言葉にも、私たちは共感できます。ユダヤの民は、神さまが彼らを奴隷の身分から助け出し、守り通してくださったことを深く感謝して、神さまを主と仰ぎ、お仕えすると言いました。しかし、私たちは、そのように神さまが自分達のためにしてくださったことを喜び、感謝したユダヤの民が、その後、幾度となく神さまに背いたことを知っています。だからこそ、天の父はご自身のひとり子イエス様を遣わしてくださったのです。

私たちが神さまの恵みと思うもの。ああ、神さま、ありがたいと思うその理由。それは少し違うと、悔い改めを迫るのが、今日の二つの真理です。

実際に、今日のヨハネ福音書の聖書箇所は、このように始まっています。60節です。「弟子たちの多くの者はこれを聞いていった。‒「これ」と言うのは、その少し前にあるイエス様の言葉 58節です。イエス様はこう言われたのです。58節もお読みします。「これは、(つまりイエス様ご自身は)天から降って来たパンである。」そして、弟子たちの多くは、それを聞いて、こう言ったのです ‒ 『実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか。』」

イエス様は、このように弟子たちがつぶやいているのを聞いて、こうおっしゃいました。今日の中心となる言葉です。先ほどもお読みしましたが、繰り返します。63節後半。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」すると、弟子たちはどうしたでしょう。66節をご覧ください。お読みします。「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」

これは、イエス様が十字架に架けられるために逮捕された時のことではありません。その時、確かに弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいました。しかし、それよりもずっと前、イエス様が活発に伝道活動を展開しているさなかに、その宣教団の分裂があったと、ヨハネ福音書は告げているのです。

この箇所は時々誤解されるように、イエス様が語ったこと ‒ わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさいという、後の主の聖餐につながる言葉が、人肉を食す、いわゆる人食い・カニバリズムと間違われて気味悪がられたからではありません。

イエス様は命の言葉。そうイエス様ご自身がおっしゃったことが、弟子たちをがっかりさせ、イエス様から離れさせる原因となりました。どうしてでしょう。

それは、弟子たちが、イエス様に間違った期待をいだいており、イエス様がそれに応じないとわかったからです。それは言い換えれば、私たちが間違ったものを神さまだと信じ込むようなものです。祈っても 祈ってもその“神”がその願いをかなえてくださらなかったら、なんだ こんな神、捨てちゃおう、別の神に鞍替えしよう、と とっかえ ひっかえ、神選びをすることと似ています。今、よく使われる言葉を用いれば、神ショッピングをするようなものです。私たちが神を選ぶのではないにもかかわらず、私たちはうっかりすると、そんな思いを抱いてしまいます。それをイエス様はおっしゃるのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」

今日の旧約聖書の言葉で、ユダヤの民は、神さまが、彼らの望んだ自由を与え、砂漠・荒れ野で食べ物と水を与え、敵から守ってくださったことを感謝しています。その感謝に基づく信仰から、人間は、うっかりすると、神さまがどのような方かについて、間違った思い込みをもってしまうことがあります。

願いをかなえてくれて、自分たちの役に立ってくれるから、神さまをあがめる ‒ 御利益信仰に陥ってしまうのです。自分の願いをかなえてくれるという点から言えば、アラジンのランプの魔法使いと、変わらなくなってしまいます。アラジンのランプの魔法使いは、アラジンの召使いです。主・主人はアラジンです。御利益信仰に陥る時、同じことが起こります。私たちが神さまに対して主・主人になろうとし、私たちは神さまを便利な召使いにしようとするのです。

私たちの神さまは、そのような方ではありません。

私たちの願いが間違ったもの・自己中心的なものだったら、神さまはそれを戒めます。魔法使いは、戒めずに、唯々諾々と言われことをやるだけでしょう。

私たちの神さまは、言葉で、私たちを正しい道に導いてくださいます。親が我が子のわがままを、その子の健やかな心の成長のために戒めるように、時には厳しい言葉で私たちの願いの誤りを叱ります。人間には見えない未来を見晴るかす、その大きなお心で、今しか、自分しか見えない私たち人間の願いとはまったく異なることをなさいます。

神さまは、真実に私たちのためを思ってくださっているのです。私たちを、愛してくださっているのです。

愛は、相手の欲求を、言われるが儘に満たしてゆくことではありません。互いの人格を尊重し合い、互いにたいせつにしあうことです。

私たちキリスト者・クリスチャンが“神さま”と申します時、それは普通名詞ではありません。普通名詞とは、私たちが互いを名前・固有名詞で呼び合わずに、“人間”と呼ぶようなものです。私たちは皆、確かに人間ですが、それよりも大切なのは、共に生き、特に教会に生きる者は主にある兄弟姉妹同士であり、ひとりひとり個性を持ち、固有名詞・名前を持つ一個人だということです。

私たちの神さま、主は、お名前をお持ちです。固有名詞をお持ちです。たくさんいる神さまの一人では、断じてないのです。ただ一人のお方、ヤハウェとおっしゃいます。このお方が、私たち一人一人をその名で呼び、選び出し、私たちの人格を尊重し、こよなく大切にしてくださいます。人格的な真実の心の通い合いをする者として、なんと神さまはこの私を、皆さん一人一人を選んでくださったのです。たいせつな“あなた”として。

真実に相手を愛する時、私たちは真心をこめて相手に言葉をもって語りかけます。十分に子どもを愛することのできない親が、どう愛情表現をしたら良いのかわからなくて、たくさんのオモチャで子どもの関心を呼ぼうとして甘やかす、それに類するようなことを、私たちの主・神さまは決してなさいません。聖書の御言葉をもって、私たちを養い、必要な励ましと慰めを与え、力づけ、私たちをいきいきと気力・活力で満たしてくださいます。

この言葉として、神さまは独り子イエス様を世に遣わしてくださいました。さらに、私たち“この世のもの”が、イエス様を理解できないために、まさにヨハネ福音書がその第1章10節・11節にあるように「世は言を認めなかった。言は自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった」のです。同じヨハネ福音書の今日の箇所、60節で多くの弟子たちがイエス様の言葉を聞いて「実にひどい話だ。聞いていられない」と言い、66節では「弟子たちの多くが離れ去り、…イエスと共に歩まなくなってしまった」のです。

特に、イエス様から離れ去ったのは、イエス様に自分勝手な望みをかけていた弟子たちでした。イエス様が、ローマの支配下にあるユダヤの独立運動を起こす、その指導者になると期待していたのです。後にイエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダも、その期待をイエス様にかけていたと伝えられています。

神さまがイエス様を世に遣わした御心は、その場限りの、歴史の舞台にイエス様を立たせることではありませんでした。時代を超えて、人の心を真実に強める命の言葉を与えることだったのです。

さらに、御言葉なるイエス様は私たちに命を与え、永遠に神さまの御手の中に私たちを置いてくださるために、十字架に架かり、死に打ち勝って三日後にご復活されました。

私たちを一人一人、特別に愛して選び出され、一人一人を命がけで愛してくださり、命の御言葉を与え、御言葉により私たちに命を与えてくださる方。この方こそが、私たちの神さまです。

この方にこそ、私たちは依り頼み、ひたすら信じ、従って歩みましょう。今この時も、この忍耐の時にあって、主は私たちと共においでくださいます。信仰を堅く保って、今週一週間を進み行きましょう。

2020年3月8日

説教題:救い主への信仰

聖 書:列王記下6章15-17節 、マタイによる福音書9章1−12節

神の人の召使いが朝早く起きて外に出てみると、軍馬や戦車を持った軍隊が町を包囲していた。従者は言った。「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか。」するとエリシャは、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。

(列王記下6章15-17節)

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が 生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム ‒ 『遣わされた者』という意味 ‒ の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

(マタイによる福音書9章1−7節)

受難節第2週の主の日を迎えました。この日のために“私たちは神さまが目を開いてくださって 恵みがわかる”ことを語る聖書箇所を二つ与えられています。もう少し言葉を付け加えれば、旧約聖書と新約聖書それぞれから、一箇所ずつ、“神さま・イエス様が私たちの心の目を開いてくださって、信仰を与えるという奇跡をなさり、神さまの恵みがわかるようになる”事実を伝えられているのです。

もう一度、申します。今日の説教は、これに尽きると申し上げても良いでしょう。“神さま・イエス様が私たちの心の目を開いてくださって、信仰を与えるという奇跡をなさり、神さまの恵みがわかるようになる”事実を伝える御言葉を、今日、私たちはいただいています。

旧約聖書では、エリシャという預言者と、その召使い ‒ 従者という言葉も使われていますが ‒ が、イスラエルと常に緊張関係にあったアラムの軍勢に包囲されたことが語られています。アラム軍は、エリシャと その召使い、このたった二人を捕らえるために、大軍を動かしました。夜の間に二人が滞在している町をすっかり取り囲んでしまったのです。エリシャの召使い・従者が朝早く、目覚めてすぐに見たのはアラム軍の兵隊と、軍馬の引くシャリオット ‒ “戦車”です ‒ が宿のまわりにひしめきあう恐ろしい光景でした。彼は、もうダメだと思いました。エリシャに「御主人よ、どうすればいいのですか」と言ったのは、 “御主人、どうしても逃げることはできません”と同じでしょう。

しかし、エリシャは落ち着いてこう答えました。“私たちに味方をしてくれる者たち・私たち二人と共にアラム軍と戦う者の数の方が、断然多いから、安心していなさい。”召使いは、ご主人様は何を言っているのだろうと思ったでしょう。自分たち二人に対して、何百人という大軍が押し寄せているのですから、どう考えても逃げられない ‒ 彼の目には、そうとしか見えなかったのです。エリシャは、「恐れてはならない」と召使いに安心の言葉をかけ、祈りました。「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください。」

神さまは、エリシャの祈りのとおりにしてくださいました。召使いは、自分で見ようと思ったわけではありません。見ようとして、何か工夫したり、努力したりしたのではありません。

しかし、神さまが召使いの目を本当に開いてくださって、心の目・真理がわかる目で、神さまの助け・恵みが見えるようにしてくださいました。町を囲む山に、神さまの御使い・天使の軍勢が満ちているのが、ありありと見えました。その数はアラム軍よりもずっと多く、またより強く、燃え盛る火の馬が引くシャリオットを従えていたのです。

どうしよう、自分はひとりぼっちで、この孤独から逃れる道はないと心が沈み込むような時、教会に来たことがあり、イエス様を知っていると、私たちが思い出せる実に大切なことがあります。イエス様は何と私たちに言ってくださったでしょう。「わたしは世の終わりまで、あなたがたと共にいる」 ‒ そうおっしゃってくださったイエス様が、目には見えなくても、今、自分と一緒にいてくださるではないか。そう、私たちは思い出せるのです。

聖書の御言葉を通して、「わたしはあなたを助ける・わたしの目に、あなたは実にたいせつだ・決してあなたを見捨てない」と繰り返し言ってくださっていることを思い出せるのです。そして、聖書を開くと、そこには神さまがイエス様を遣わして、その深い愛を明らかに示してくださった事実が記されています。それは、イエス様が私たちの身代わりとなって ご自分の命を犠牲にされるほどに、私たちは愛されているという事実であり、真理です。

旧約聖書の時代、この明らかな恵みの事実・救いの真理は まだ人間に与えられていませんでした。奇跡を目の当たりにしても、のど元過ぎれば、また肉眼で見えるものしか、信じることができなくなってしまうのが人間です。神さまは、その人間の心の目をずっとご自分に向けて開かせ、神さまがいつも共にいてくださることがわかるようにしてくださろうと、神さまは独り子イエス様をこの世に人間として遣わしてくださいました。

そして、今日の新約聖書 ヨハネによる福音書の御言葉です。

イエス様はエルサレムの町並を弟子たちと通っておられた時、「生まれつき目の見えない人を見かけられ」ました。どうして道を通っていて、この目の見えない人をご覧になったのかというと、8節によれば、この人が道端で物乞いをしていたからです。申すまでもないこととは思いますが、この時代のユダヤの社会では、社会福祉の制度がまだ発達しておらず、人の考え方も現代とは異なっていました。この人は、物乞いをしないと生きて行けなかったのです。

イエス様が この人に目を留められたので、弟子たちはイエス様に問いかけました。私たちには、何ともすさまじいハラスメントに聞こえる問いかけです。「ラビ ‒ これは“先生”という意味です ‒ この人が 生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

体に生まれつき不自由なところがあることと、罪を犯したこととは、何の関係もありません。こう問いかけてしまうこと自体に、私たちの弱さ・人を傷つける心の卑しさ・愚かしさ、すなわち罪があるのです。私たちは、物事の原因を知りたく思います。それは、私たち人間に本来備わっているものです。発達心理学という、人間の赤ちゃんの頃からの心の成長を研究する学問分野があります。それによると、2歳から6歳までの子どもは「質問期」という発達過程にあるとされます。この「質問期」は、「なぜなぜ期」と呼ばれることがあります。もうおわかりでしょう。子どもは言葉が話せるようになってから小学校に入学する頃ぐらいまで、繰り返し、そして何についても、「なぜ? どうして?」と周りの大人に尋ねます。質問します。これが「質問期」「なぜなぜ期」です。探究心の芽生え・合理的に物事を考えようとすることの芽生えで、成長にはなくてはならない時期です。

やがて、成長とともに、世の中には初めからそうなのであって、どうしようもないことがある・不公平なことがあると、「不条理」ということを知るようになります。良くも悪くも、大人になってゆきます。

しかし、不条理に対して「どうして、こんなことが?」と問いかけたくなる思いは、いつまでも私たちの心の中に残っています。

どうして、こんなことが。たいへんな苦難に見舞われると、人はその原因を求めようとします。治療法のない重い病気にかかると、また大きな災害に遭うと、どうして自分がこんな目に遭うのか、この苦しみは何のため、どういう意味があるのかと、私たちは訊ねます。

精神科の医師ヴィクトール・フランクルは、このように記しました。人間の本当の苦しみは、どうしてこんな苦しみがあるのか、その苦しみの意味がわからないことだ。フランクルは、第二次世界大戦時に、ナチスによるユダヤ人収容所に入れられた体験と洞察を名著『夜と霧』を書いた人物です。

神さまを知らないと、この苦しみの意味を問う声は、あてもなく虚空に消えてゆきます。

神さまを知っていれば、私たちは神さまに問いかけることができます。いったいどうして、この苦しみがあるのか。誰が、何が悪いのか。これは、誰のせいか。誰の罪か。今日のヨハネ福音書の聖書箇所で、弟子たちがイエス様に尋ねたのと同じ質問をするのです。

イエス様は、この質問にこう答えられました。「(この人の目が生まれつき見えないのは)本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

イエス様は、この答えで、私たちが物事を考える方向を、ご自分のまなざしが向いているその方向にクルッと変えてくださいます。

私たちは苦しみの理由・原因、“何のせい”と考える時、過去に目を向けています。もう変えようのない過去に目を向けているのです。

もし何かを変えようとするのであれば、それはこれからのことです。未来のことです。生き方を変えよう、こんな自分を変えてもっと優しくなろうと、私たちは未来に向かって考えます。

そして、未来を決定的に良いものに変え、希望を確かに実現できる方は、神さまをおいて他にありません。

イエス様は、弟子たちへの答えの中で、それを言っておられるのです。「神の業がこの人に現れるためである」‒ イエス様のこの言葉は、決然としたお覚悟を表しています。イエス様は神さまですから、「神の業」とは「私が行うこと」をさします。簡単に申しますと、イエス様はこうおっしゃられたのです。「これから、私がこの人に、神にしかできないことを行おう。この人は、神の奇跡が その身に起こるために ‒神の光が その身にそそぐ、その幸いと恵み・光のまばゆさと暖かさを知るために ‒ 生まれつき目が見えないのだ。」

今一歩、突っ込んで申します。「この人は、光ある世界の素晴らしさを真実に知る為に、生まれつき目が見えないのだ。神の恵みを本当に知る為に、この人は ‒ この人だけでなく人間全てが ‒ 神を知らずに生まれてくる。この人の為に、全ての人の為に私は十字架に架かろう。」

生まれた時から、この世の喜びのすべてを知っていたら、私たちの人生には感動がありません。何か幸せなこと・何か嬉しいことを初めて知り、それが深められて、私たちの人生は豊かになります。

生まれた時から、神さまを知っている人は私たちの中に誰一人、いません。ところが、私たちは自分では知らなくても、教会学校のお誕生日の讃美歌のように、生まれた時から神さまに守られているのです。神さまが私たちを造られたのだから、神さまは当然、私たちを知っておられます。

どうして私たちを造られたのか・どうして守ってくださるのかと言えば、それは、神さまが、私たちがこの世に存在しなければならないほど可愛いと思われたからです。その深い愛の恵みを、私たちが知らず、気付かずに生きてゆくことほど、悲しく寂しく残念なことはありません。私たちが、それぞれの人生のどこかで、それぞれ与えられた仕方で、イエス様の招く声を聴き取り、今 ここ・教会にこうして集められて神さまを一緒に仰いでいるのは、実に幸いなことなのです。

イエス様は、生まれつき主を知らず、主の光を心の目で見ることができずに生まれてくる私たち一人一人に、私たちすべてに、今日、与えられている御言葉をおっしゃってくださいます。生まれつき目の見えないこの人に、おっしゃられたのと同じ言葉を告げられます。「神の業がこの人に現れる」‒ 「あなたに、神である私にしかできない恵みを与えよう、それによってあなたに真実の光を与えよう」と。

さて、今日の聖書箇所に戻ります。6節です。イエス様は、ご自分の唾で土をこねてこの人の目に塗り、それをシロアムの池で洗い流すようにとこの人に言われました。この人は、そのとおりにしました。

唾で土をこねて、見えない目に塗る ‒ 講壇から語るにふさわしい言葉ではないかもしれませんが、この箇所を読まれて、心の中で“おまじないのようだ”と感じる方は少なからずおいででしょう。私たち現代に生きる者と、新約聖書の時代に生きた人々は考え方やものの感じ方が違うところもあれば、時代の流れによって変わらず、似通っているところもあります。この唾と土については、同じ感じ方をしたのではないでしょうか。イエス様が唾で土をこねて、生まれつき目の見えない人に塗った時、この人は見えないがゆえに敏感な嗅覚や気配で、自分が何をされているかを理解し、“おまじないに過ぎないではないか”と思ったかもしれません。しかし、この人は、そのすべてを、イエス様が与えてくださるものとして受け入れました。自分の勝手な判断によらず、決して侮ることなく、実に素直にイエス様の言葉に従いました。

ここに、この人の決断があります。イエス様がおっしゃるとおりにする、主に素直に従う決断です。洗う決断。洗われる決断。洗礼を受ける決断です。そして、この人の目は開きました。心の目を開かれ、神さまを知り、新しい人生が始まりました。

イエス様の奇跡とは、この私に洗礼を授けてくださったことだと、私はよく思います。こんな私が生きるために、それも日々、喜んで生き続けるために、イエス様はご自分の命を十字架で捨てられたのです。しかし、三日後によみがえり、今も私と、私たちと、世の終わりまで一緒にいてくださいます。

私は薬円台教会に着任して五年が経とうとしています。薬円台教会がすばらしいと気付かされることはたくさんあります。その中のひとつが、この教会の十字架です。

この教会の会堂には十字架があるのか、ないのか。まずそこから考えさせるのが何ともすごいと思います。

イエス様の十字架の出来事を知らなければ、これは、窓枠にしか見えないでしょう。しかし、イエス様が十字架で自分のために命を捨ててくださったことを知っている私たちには、これはどう見ても十字架にしか見えません。私たちを救ってくださった、そのしるしなのです。

心の目を開いていただく、信仰をいただくとは、未来に主にある希望を抱くことです。死をも超えて、常に未来が、天の国・御国がある、その主が共におられる平安に生きることです。

今この時も、この忍耐の時にあって、主は私たちと共におられます。十字架を見上げ、信仰を堅く保って、今週一週間を進み行きましょう。

2020年3月1日

説教題:荒れ野の誘惑

聖 書:出エジプト記17章1-7節 、マタイによる福音書4章1−11節

主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」…主はモーセに言われた。…見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの前でそのとおりにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。

(詩編126編5-6節)

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。…次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の上に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。」と言われた。

(マタイによる福音書4章1−11節)

先週の水曜日は「灰の水曜日」でありました。この日から4月11日までの6週間、私たち教会に生きる者は受難節・レントの歩みを進めます。受難節の間、私たちは礼拝でイエス様の十字架の道行きをたどり、イエス様が 命を捨てて私たちを救ってくださった事実をあらためて心に刻み直し、感謝と祈りを深めます。

今年度の受難節も、日本基督教団の聖書日課に従って イエス様の十字架のみわざの恵みを伝える聖書箇所をいただいてまいります。

今日は その第一回目です。先週まで読み進んでいたマルコによる福音書をいったん離れ、旧約聖書から出エジプト記17章“岩から水が与えられた出来事”を、新約聖書からマタイ福音書4章“イエス様が荒れ野で悪魔の誘惑を退けられた出来事”を与えられています。

イエス様は、荒れ野で悪魔から三つの誘惑を受けられました。その中で、今日は特に二つ目の誘惑、マタイ福音書4章5節と6節に語られている出来事から恵みをいただきたく思います。

その前に、ひとつ心に深く留めておきたいことがあります。それは、イエス様が悪魔から誘惑を受けたのは、神さまのご計画のうちにあったということです。4章1節をご覧ください。このように記されています。お読みします。「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」天の父なる神さまは、霊をもってイエス様を荒れ野に導かれました。天の父も、イエス様ご自身も、そこで悪魔の誘惑に遭うことをご存じだった、いえ、知っていたばかりでなく、まさにそれが目的だったのです。

私たちがここで決して間違ってはならないことがあります。それは、父なる神さまが いわゆる修行のために、獅子が我が子を千尋の谷に落とすように、イエス様を悪魔の誘惑にさらしたのではないということです。神さまが 私たち人間の世界・この世に ご自分の独り子イエス様を遣わしたのは、私たちのためでした。徹頭徹尾、私たちのためです。この時も、神さまがイエス様を荒れ野に導いたのは、私たちのためだったのです。

マタイ福音書4章5節で、悪魔はイエス様を荒れ野から「聖なる都に連れて行き」ました。エルサレム神殿の屋根の端に立たせたのです。

エルサレムは当時の大都市です。神殿を中心に、人々でにぎわうところです。その屋根の端に誰かの姿があったら、当然大騒ぎになるでしょう。あれは誰だ、何をしようとしているのか、と人々は見上げ、好奇心からいろいろなことを言い合ったでしょう。その人々の言葉が、悪魔の誘惑の言葉に集約されています。

神殿の屋根に立って、あの男は、自分が天からの使いだとでも言いたいのか。だったら、飛び降りてみるがよい。神さまのものなら、神さまが助け、救うだろう。決して死なせないだろう。

こう申しますと、私たちがイエス様の十字架の出来事をおぼえる受難節の聖書箇所として、どうしてこの御言葉を与えられているのか、お分かりになった方がおいでと思います。

今、人々が言ったのではないかと申し上げた言葉は、イエス様が十字架に架けられた時、そこを通りかかった人たちの口から出たものです。マタイ福音書27章39節から40節をお読みします。「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。『神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。』」また、42節から43節。「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」

今日の荒れ野の誘惑の箇所、6節で、悪魔は まさに、後に人々が、私たちが、十字架のイエス様に向かって投げつけたその言葉を言うのです。お読みします。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」悪の暗闇が私たちの心にあるのでしょうか。それとも、悪魔が私たちの口を通して、そう言わせるのでしょうか。どちらにしても、私たちに自らの心の底を見つめさせる、恐ろしいばかりに鋭い聖書の言葉、神さまが私たちに突き付ける人間洞察の言葉です。

悪魔はイエス様を誘い、そそのかそうとしました。イエス様にこう言ったのです。「あなたが神殿の屋根から飛び降りても、神さまはあなたの足が石に打ち当たらないように、天使たちを遣わして、あなたを救ってくださるというではないか。それを見せてくれたら、私はあなたを神の子だと信じてやろう。」

証拠がなければ信じない、そう言っているのです。

繰り返しになりますが、人々は、十字架に架けられたイエス様に、同じことを言ってあざけり ののしりました。お前が神ならば、自分で自分を救えるだろう、だから、お前が十字架から降りたなら、神の子だと信じてやろう。さあ、その証拠を見せろ。

神さまは、イエス様を私たちのために遣わされました。これも繰り返し申し上げます。たいせつなことだからです。イエス様は、ご自分のためには何ひとつ、なさらない方です。徹頭徹尾 神さまに従い、ひたすら私たちのために、私たちと共にいてくださるのがイエス様です。ご自分が助かるため、または神の子だと示すためだけに天使たちを用いたり、十字架から降りたりすることは絶対にない方なのです。

だから、イエス様は十字架で死なれました。

このことを私たちに明らかにしてくれるのが、今日の旧約聖書の御言葉です。イエス様のことが預言された言葉と言っても良いでしょう。

エジプトで奴隷だったユダヤの民は、神さまの恵みにより 預言者モーセに率いられてエジプトから脱出し、荒れ野・砂漠に歩み出しました。待ちに待った自由が手に入ったのです。ところが、神さまが彼らを導いたのは、神さまの恵みなくしては生きることのできない砂漠でした。水も食べ物も、安全も、命も、すべて神さまに頼りきることなくしては、つまりは 主への信仰なしでは生きて行けない所なのです。そして、神様は彼らが苦しむたびに、マナを、ウズラを賜りました。

切羽詰まると、必ず助けてくださる ‒ マナが降り、ウズラが与えられる ‒ それで十分に神さまがおられる証拠だと思えます。ところが、人間は疑い深く、欲深く、自分の都合でしかものを考えられません。ユダヤの民は苦しくなると、神さまがいないのではないかと、神さまを疑うのです。自分が生きていること・存在すること自体が、造り主なる神さまがおられることの立派な証拠なのに、こう申します。今日の旧約聖書箇所 出エジプト記17章7節をお読みしますので お聞きください。「果たして、主は我々の間におられるのかどうか。」

私たちは、人に間違って理解されると すなわち 誤解されるとたいへんつらい思いをします。それで人間関係が壊れることが、実にしばしばあります。それを、言葉の誤解どころか、私たちは神さまに向かって「あなたは、いないのではないか」と言うのです。

英語で、このような罵り言葉があります。“You are nothing.”

いろいろな訳し方があるでしょうけれど、直訳すると「お前は何者でもない、お前は無だ、無に等しい」という意味です。映画の字幕だったら「お前、何様のつもりだ」とでもなるでしょうか。

神さまを疑う、主が共にいてくださることを信じないとは、神さまに向かって「お前、何様だ」と言っていることになります。神さまに、このようなことを言うのは、あまりに失礼というものでしょう。神さまが悲しみ怒り、私たちとの関わりをいっさい絶たれ、私たちを見捨てても当然の言葉です。しかし、神さまは そうはなさいませんでした。

ユダヤの民が喉の渇きに苦しんで“今すぐ水をくれないと、神さまなんて信じない。神さまの愛なんて嘘ばっかり”と駄々をこねると、神さまはモーセに告げるのです。出エジプト記17章6節からお読みします。「見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」

なんと、神さまは人間に「わたしの立つ岩を打て」とおっしゃるのです。岩は、救いの岩・隅の親石、イエス様ではありませんか。それを打て、と神さまは言われました。

思い出してください。イエス様は、十字架に架けられる時に、鞭打たれました。茨の冠をかぶせられ、ユダヤ人の王とあざけられて、殴られました。

神殿の屋根から飛び降りたら、石に足を打ちつけないよう 天使が守るという悪魔の言葉のまさに正反対です。私たちの主は「打て」と言われます。イエス様は、私たちに殴られ、鞭打たれました。

それは何のためでしょう。モーセがホレブの岩を打つと、水がほとばしり出ました。死を意識せざるを得ないような激しい喉の渇きに苦しんでいたユダヤの民は、夢中でその水を飲んだでしょう。生き返った思いがしたでしょう。いや、事実、死地に命を見いだしたでしょう。神さまは、命の水をくださったのです。打たれて十字架に架かられたイエス様は、私たちを生かすため・私たちに命をくださるために、ご自分は打たれ、砕かれて、死なれたのです。

ご自分のためには何ひとつなさらず、すべてを神さまと私たち人間のために献げて死なれたイエス様に、神さまは誉れを賜りました。それが、三日後の主のご復活です。また、ご復活は、イエス様が永遠に私たちと共においでくださることを明らかに示す、私たちへの最高の贈り物・恵みです。このすべてが神さまのご計画のうちにありました。

今、私たちは想像もしなかった特殊な試練のさなかにいます。私はこのようにマスクをして講壇に立つ事態も、聖餐式が延期になるという事態も、想像したことはありませんでした。神学校でも、迫害について学び、血で血を洗うような宗教革命について学んだのに、こんな事態については学んだことが…と昨晩、考えていて、いや、そうではないと思い至りました。

聖書は、今のこのことを大いに語っているのです。

私たちは今、見えないウィルスの脅威にさらされています。

感染症が、私たちを脅かしています。そして、聖書は、感染症 ‒ 重いひふ病 ‒ について何度も、何度も語っています。うつる病・感染症は、人と人とを遠ざけるものです。今も、私たちはお互いと接触しないようにしています。しかし、イエス様は病にかかった人とも、病に怯える人々とも、いつも共におられ、教え・伝え、そして癒やして十字架への道を歩まれました。打たれるために、私たちに代わってすべての苦しみを負ってくださるために、私たちに命の水を与えるために。

私たちをお互いから引き離し、神さまからも引き離そうとするものを、イエス様は退けさせてくださいます。

イエス様は今この時、この瞬間も、私たちと共にいてくださいます。一緒に、今の時を耐え忍んでいてくださっています。主は、私たちをたいせつに思ってくださっています。愛してくださっています。私たちの主への信頼を、堅く保ちましょう。事態が必ず収束に向かうことを信じて、主の御手に守られて、今週を過ごしましょう。

2020年2月23日

説教題:聞く耳のある者とされよう

聖 書:詩編126編5-6節 、マルコによる福音書4章1−20節

涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。6種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 束ねた穂を背負い 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

(詩編126編5-6節)

イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。…そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」…種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。

(マルコによる福音書4章1−20節)

イエス様は十字架へと歩まれる前に、三年間、地上で天の父なる神さまを伝える働きをされました。その働きは三つの事柄を通してでありました。教え、伝え、癒やす。この三つです。

前々回 2月9日の礼拝説教で、私たちはイエス様の厳しい姿勢を御言葉に聴き、信仰者の覚悟を学びました。イエス様は、自分がイエス様に癒やされることだけを願って押し寄せた人々を退けられたのです。それは、神さまに自分の願いを満たしていただくことよりも、御言葉をいただくことの方が恵み豊かであることを示すためでした。私たちは、イエス様が語られる御言葉、今を生きる私たちとしては聖書の御言葉に集中することを教えられました。

前回2月16日の説教で、イエス様はさらに厳しく主の御前に集う者・信仰者の姿勢を私たちに語られました。イエス様から離れず、そばにとどまる者こそが、神さまの御心を行う神の家族だと、イエス様はおっしゃられたのです。

本日の聖書箇所は、イエス様は御言葉を聞く私たちの姿勢を、さらにステップアップさせてくださいます。どのような心でイエス様のおそばで、語られる御言葉を聞いて受け入れれば、御心に適うかを教えてくださいます。

このように段階を追って私たちを導いてくださるイエス様は、当然ではありますが、たいへんすばらしい教育者であられたと、思いを新たにさせられます。主は、確かに厳しいことをおっしゃられます。私たちはそれぞれ我が身を振り返り、至らなさを感じさせられます。

しかし、イエス様は決して私たちを突き放すことはありません。厳しいけれど、こうすれば御心に適うと確実に一歩ずつ、教えてくださるのです。そして、それに従うかどうかは、私たちの自由に任されています。イエス様は、私たちをご自身から遠ざけようと、厳しいことをおっしゃられるのではありません。私たちを無理矢理に引っ張って、ご自身に従わせるようなことは、なさらないのです。御言葉が開く御国の幸いと平安に、私たちが自発的に、おのずから憧れて、喜んで主の従う者へと育ち成熟してゆくのを、待ってくださいます。

さて、今日の聖書箇所を少し詳しく、ご一緒に読んでまいりましょう。イエス様は、ガリラヤ湖の岸辺で説教を語られました。前々回の聖書箇所では、病気を治してもらおうとおびただしい群衆が押しかけて、イエス様は潰されそうになってしまい、やむなく舟を出して説教をされました。その時に、病気を治してもらえず期待はずれと思った人々は、イエス様から離れて行き、今日の聖書箇所の場にはいなかったのではないかと思われます。今回、岸辺に集まったのは、イエス様の御言葉を聴き、神さまに愛されていることをあらためて知らされ、心を満たされる幸いを慕い求めて、イエス様のそばにとどまろうとした人たちでしょう。

イエス様は、ご自身を「種を蒔く人」にたとえてお話をされました。種は、神さまの愛と正しさを伝える言葉です。イエス様は、それを説教で語られて、御言葉の種を人々の心に蒔かれます。そのイエス様の説教・御言葉を聴く人の心備えを、蒔かれた種が落ちる場所にたとえて、語られました。

4章1節から8節で、このたとえを語られた時、イエス様はそれぞれのたとえが何を意味しているのかを、人々に伝えませんでした。そして、たとえを、9節で「聞く耳のある者は聞きなさい」という、少し挑戦的な言葉でしめくくられました。このしめくくりのイエス様の言葉を、重く受けとめた者たちこそ10節に記されている人々です。

イエス様が説教を終えて、大部分の人々が立ち去りました。イエス様がそうしてひとりになられたとき、十二人の弟子たちがイエス様と一緒に残りました。また、弟子たちと一緒に「イエス様の周りにいた人たち」がその場にとどまっていました。弟子たちと彼らは、前回の聖書箇所で申せば3章34節で、イエス様の周りに座っていて、イエス様に「わたしの母、わたしの兄弟」と言われ、神さまの家族とされた者たちと言っても良いでしょう。

この人たちは、イエス様が種まきのたとえ話の意味を詳しく尋ねたと、聖書は語ります。イエス様は、御言葉を聞く四つの心備えをたとえで話されました。ひとつは御言葉の種を鳥に食べられてしまう心、二つ目は石だらけで土が浅く、芽が出ても根が育たない心、三つ目は茨の心、四つ目が良い土地で御言葉が実を結ぶ心です。説教後、イエス様の周りに残った弟子と人々は、四つのたとえが、それぞれどんな心備えをさすのかを具体的に聞きたがりました。イエス様が語られる御言葉を聞き分ける、良い耳を持ちたいと願ったのです。

少し話が逸れるかもしれませんが、耳は人間が持つ五感 ‒ 見る・聞く・匂いを嗅ぐ・味わう・触る ‒ の五つの中で、人間の主体的な選択能力を最も発揮できる感覚器官だそうです。どういうことかと申しますと、聞きたいと思う声や音を、私たちは周囲の雑音の中から拾い取り選んで、意識を集中してそれだけを聴き続けられるということです。

私たちの目・視界・見えるものの中には、何でも映り込みます。嫌いな色は見ないという事は、できません。匂いも味も、触った感じも、一律に私たちの感覚の中に入り込んできます。イヤな匂いと良い香りが同時に流れてきた時、私たちが良い香りだけを選んで嗅ぐことはなかなか困難です。ところが、私たちは駅の雑踏の中で、大きなアナウンスの声や電車の音の中でも、隣の人のさほど大きくない話し声を聴き取り、自然に会話を続けることができます。簡単に申しますと、耳は、自分が聞きたい声・言葉を選んで聞き取ることが出来るのです。

また、耳は鍛錬することができます。たとえば、私の耳には邦楽 ‒ 日本古来の三味線やお琴、笙の調べ ‒は、何を聞いてもあまり区別がつきません。また、二、三度聞いただけでは、メロディを覚えることもできません。魅力も良さも分からないので、残念なことに、聞いて感動することもできません。聞き慣れていないからです。その一方で、好んで聞く分野の音楽は曲ごとに違うと分かりますし、数回聞けば、自分でメロディを覚えて、ちょっと歌うこともできます。聞いて心が熱くなったり、元気になったりと、感動もします。耳がそれらの分野の音楽を聞き慣れ、親しんでいるからです。皆さんもそうでしょう。

御言葉を聞くとは、神さまが私たちの感覚器官として与えてくださった耳の、こうした機能を最大限に用いることを意味します。

御言葉に敏感になり、どんな誘惑の嵐がうるさく吹き荒れる中でも、“かそけき”主のささやきを聴き取り、意識を集中して聴き続ける力を与えられたいものです。

礼拝に通い続けて御言葉に慣れ親しみ、そのすばらしさに馴染んで、感動する耳と心をいただきたいものです。初めは何のことだかわからなかった聖書の言葉・説教の説き明かしは、何度も礼拝に通い続けるうちに耳に馴染み、やがては、それに感動する感性 ‒ もはや、信仰と申して良いでしょう ‒ が備えられます。それには、人によって何年もかかることがあるでしょう。しかし、神さまはすべての者を礼拝に招いてくださっているのですから、その時は必ず与えられます。

イエス様が説教をされた後に、まだイエス様の周りに残っていた人々は、神さまの御言葉を深く味わう心の耳をいただきたい ‒ そう願ったのです。ですから、これからイエス様の言葉をもっと良く聞き分けられるようになりたい、もっと感動できるようになりたいと、たとえの意味を尋ねたのです。

イエス様は、弟子たちと、残った人たちの心ばえを 天の神さまの御心にかなうとして喜ばれたのでありましょう。そこで、11節のようにおっしゃられたのです。お読みします。「そこで、イエスは言われた。『あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている』…」

私たち人間は、神さまに愛されて造られ、御言葉を戴いて それに育てられ、正しく豊かな命に生きるようにと 一人残らず招かれています。

しかし、いただく御言葉を、人生のどのタイミングでしっかりと受けとめて、イエス様に手を引かれ、神さまの国・御国の幸いに与ることができるかどうかは、神さまの選びによるのです。

また、その選びに素直に従って、あらゆる誘惑の雑音の中から御声を聴き取り、人の耳にどんなに快く響く誘いをもはねのけて、御言葉に聞き従う勇気と決断を、主は私たちに望んでおられます。

今、イエス様がマタイ福音書7章13から14節でおっしゃられた言葉を思い起こしましょう。そこに、私たちへの、この主の期待がこめられているからです。お読みしますので、お聞きください。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者は多い。しかし、命に通じる門は何と狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

今、ここに集められている私たち、お仕事がお休みの日曜日・家族が団らんを楽しむ日曜日・朝寝をしようと思えばできる日曜日に、こうして教会に集い、御言葉に聴こうとしている私たちを、世間は、少し変わり者を見る目で眺めているかもしれません。私たちは、「奇特な人たち」なのかもしれません。しかし、神さまの目・イエス様のまなざしの中では、私たちは狭い門を通りたい、イエス様のそばにとどまり、御言葉が開くすばらしい次元を垣間見たいと願う者たちでありましょう。

そして、そのようにイエス様の弟子として、神の家族とされて、イエス様のそばにとどまる私たちに、イエス様はたとえの説明を親しく、詳しく説き明かされ、御言葉を聞く心構えを教えてくださるのです。

神さまの言葉 ‒ 神さまの愛と正しさを語る御言葉 ‒ が、イエス様の説教を通して、種として蒔かれます。

前にもお伝えしたことですが、ユダヤ地方の種蒔きは、種を畑の畝に丁寧にひとつひとつ植えてゆくことをしないのだそうです。豪快に種を手のひらいっぱいにつかんで、風まかせにバッと投げるように蒔きます。だから、種はいろいろな場所に落ちてゆきます。

道端に落ちるとは、御言葉が畑の外・心の外に落ちてしまったことをさします。心で受けとめず、頭脳と申しましょうか、知性で受けとめようとするのが“道端で御言葉を受けとめる”ことです。聖書の言葉は、人生の教科書ではありません。こうしたら正しく幸せに過ごせるという「一般的な人生」を教えてくれる知識を並べたマニュアル・取扱説明書ではないのです。そもそも「一般的な人生」などというものは、ありません。私たちはこの世に、全時代を通して、ただ一人しかいない大切な者として造られ、「主が下さったこの人生」しか持ちません。聖書の言葉は、私たちそれぞれの魂に語られています。自分のこととして自分の心に、受けとめなければなりません。御言葉を聞いても、「ふーん、なるほど、そうすれば良いのね、それは、良いアドバイス」と聞いたのでは、心の外に置き放すことになります。すると、誘惑する者・悪い者が、御言葉を聞いた記憶を奪って飛び去り、何も残りません。

次に語られている石だらけで、土が浅いところに御言葉が落ちるとは、自分のこととして受けとめても、それが魂の土台になっていないということです。私たちは、イエス様に自分の命の土台となっていただいています。御言葉が、その土台と結びつき、イエス様はそうして自分を愛して十字架で罪から救ってくださったのだと、深い感動と共に御言葉を受けとめないと、御言葉は心に根を張りません。17節後半にあるように、「御言葉のために艱難や迫害が起こると」、とたんに教会から離れ去りたい気持ちになってしまうのです。土台と御言葉が結びついていないから、教会でつらいことがあったり、特に100人に一人しかクリスチャンのいない日本社会であれば、クリスチャンであることで傷つくことがあったりすると、心が揺れてしまいます。イエス様・神さまは、自分を見ていてくださっていないのではないかと信仰が揺らぎます。いや、わたしはあなたと共にいると、神さま・イエス様・聖霊は聖書を通して私たちに語り続けます。どの御言葉も、イエス様が十字架で示された私たちひとりひとりへの深い愛を語り、それによって私たちに直結する命の言葉・私たちそれぞれの土台に根を張る言葉なのです。

三つ目には、御言葉の種が茨にさえぎられるというたとえが語られています。それは自己中心的な思いが、信仰の邪魔をすることをさします。イエス様は、マタイ福音書6章21節でこう言われました。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」富は、今日の聖書箇所の言葉では「実を結ぶ」、その「実り・実」と表されていると考えても良いでしょう。自分の富・自分の実り・自分の憧れ・自分の仰ぎ見るところを、この世の金銭的・物欲的・名誉欲的な欲望を満たすことに置いてしまうと、それは茨となって、御言葉によってイエス様を求めて伸びる思いをはばんでしまいます。イエス様に愛されていることがわからなくなり、心は満たされず、寂しくさまよう者となってしまいます。実りのない、空疎な魂は、さらに私たちをイエス様から引き離す者、聖書の言葉を用いれば悪霊・サタンを呼び込みます。そうなってはならないと、イエス様は私たちを戒めてくださるのです。

そして、最後。種を迎える良い土地を、イエス様は祝福されます。

御言葉を受けとめた良い土地は、イエス様の愛を知り、感謝して喜び、満たされて安らぐ心です。喜ばしいことです。そうしてイエス様に満たされた者は、イエス様の香りを運び、伝えてゆきます。イエス様は、伝道するキリスト者のことも、ここで語っておいでと申して良いでしょう。一人のキリスト者として誠実に生きることで、三十倍、六十倍、百倍の喜びの実りが地を覆うのです。ここに、御国の幸いがあります。

御言葉に親しみ、御言葉を聞き分けられ、御言葉に集中して感動しつつ聴き続ける、良い耳を持つ者とされたい ‒ 心から、そう願います。決してイエス様から離れず、おそばに踏みとどまって、御言葉に手を引かれて狭い門から入る ‒ 今週、それを日々の祈りといたしましょう。

2020年2月16日

説教題:神の御心を行う人

聖 書:イザヤ書49編22-25節 、マルコによる福音書3章20−34節

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭(かしら)の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。…はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「ご覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを探しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

(マルコによる福音書3章20−34節)

今日の礼拝のために、マルコによる福音書からやや長い御言葉をいただいています。前回の礼拝で、私たちはイエス様の厳しい姿勢を御言葉から聴き取りました。それに続く今日の聖書箇所でも、イエス様は私たちに信仰者の覚悟と決断を示してくださいます。

今日、ご一緒に御言葉を読み進むにあたり、二つのことを意識していただきたく思います。

ひとつは家、家族です。私たちは“教会は 神の家族”という言葉をしばしば用います。“教会は イエス様を一番のお兄さんとする、神さまの家族”‒ こう申します時、私たちの心は 安らぎとなごみで暖かく満たされるように感じます。信仰者であればこそいただける、その幸いと喜びをまことに深く味わうために、私たちは何を心得ておかなくてはならないのか ‒ それを、今日、イエス様はお示しくださいます。イエス様に従う者・教会に生きる者としての心備えを教えていただけると申しても良いでしょう。今日は まず、「神さまのまことの家族」を聴き取ることに、心の耳を大きく開いてください。それが、まず、ひとつのことです。

もうひとつは、私たち人間は、決して自由ではないということです。“自由” ‒ これも、たいへん美しい言葉です。私たちは 身も心も解放されていることを望みます。

雲一つない青空を振り仰ぐように、私たちは自由に憧れます。しかし、今日の聖書箇所を通してイエス様が教えてくださるのは、私たち人間にとって、自由は必ずしも幸福なものではないという驚くべき事実です。自由とは、究極的には自分の好き勝手にすることだと、私たちは考えがちです。自分に関わる事柄すべてを、自分が良いと判断したとおりに進めてゆくのが一番良い、一番満足できると思っています。

しかし、実はこんな危険なことはありません。たいへんイヤなことを申し上げるようですが、皆さん一人一人、完全でしょうか。完全な知識と判断力をお持ちでしょうか。これを選べば間違いなく幸福になれるという、未来を見通す力をお持ちなのでしょうか。残念ながら、そうではないと思います。自由とは、そのように不完全な自分に、自分を任せきることです。このように、実は危険な側面を持っているのが、人間にとっての自由です。

そして、実際に、私たちは法律により、秩序という いわば制限付きの“ほどよい自由”の中で、その法に守られる権利を与えられ、ほどほど幸福に生きています。社会的には、法律を備えた統治国家の中で安全に生きることができています。法律に守られています。制限のない自由、何も法律で禁じられていない・何をしても罰せられない社会は、無法地帯です。それは自由ではありますが、美しいどころか、たいへん恐ろしい空間と成り果てます。守られている中での自由、それが“ほどよい自由”なのです。

それでは、魂の問題としての自由を、私たち人間はどう考えればよいのでしょう。私たちは何に、またはどなたに 守られれば、最も幸いなのでしょう。今日の聖書箇所は、それに思いを巡らすようにと私たちを促します。

家。それから自由。この二つのキーワードを心に置いて、さあ、今日 いただいている御言葉に聴いてまいりましょう。

「家」という言葉は、今日の聖書箇所の最初に出てまいります。マルコ福音書3章20節は、こう語り始めます。

「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。」イエス様は弟子たちと、家に帰られたと記されています。この「家」は、どこでしょう。

イエス様が育った家、母マリアとその夫ヨセフの家と思いたいところですが、実はそうではありません。マルコ福音書1章29節以下で、私たちはイエス様が弟子のシモン ‒ 後のペトロです ‒ シモンの家に行き、そこでシモンのしゅうとめの熱病を癒やされたことを読みました。このシモンの家が、イエス様と弟子たちの伝道活動の拠点・神さまの愛を伝える活動の拠点になりました。

今日の聖書箇所が語る「家」は、この宣教活動の拠点です。イエス様と弟子たちは、ここで共に祈り、イエス様が語る天の父・神さまの話に耳を傾け、そして心を聖霊に満たされ、伝道活動に遣わされて行ったのです。

私たちが伝道活動の拠点としているのは、どこでしょう。

共に心を合わせて御言葉に耳を傾け、共に祈るのは、どこでしょう。

それは、ここです。教会です。

私たちは福音宣教のために、特別伝道集会案内のチラシ、クリスマス礼拝案内のチラシを、地域の家々に配りに行きます。その出発点はどこでしょう。それも、ここです。教会です。

今日の聖書箇所は「イエスが家に帰られると」と語ります。私たちがクリスマス礼拝や特別伝道集会のポスターなどを貼りに出かけ、またはキャロリングの後に「ただいま」と帰るのも、ここ教会です。

ただ、私たちが住まいとしているところ、私事で申しますれば牧師館に戻ると、私はそれなりにと言いますか、くつろいで ぼ〜っといたします。しかし、たとえば他の教会での会議から、または 訪問していた先から牧師館でなく、教会に帰ると、忙しくなります。

郵便物を仕分けし、留守番電話のメッセージをチェック、折り返して電話して、必要な書類を作り、営業で来られた方のお話を少しだけ聞いてなどしていると短い冬の日はあっという間に暮れてしまいます。

それとは、だいぶ、と申しますかまったく意味合いが異なりますが、今日の聖書箇所では、伝道の拠点に帰られたイエス様と弟子たちが たいへん忙しくされていたことが記されています。「家」が、私たちの時代で申すところの伝道の拠点である「教会」だからこその忙しさでありましょう。

湖でいったんは散って行った人々が、イエス様めざしてまた集まって来ました。イエス様は彼らの話・悩みを聞いて、慰め、神さまのことを伝えて励まされたのでしょう。使徒に任じられた弟子たちも、それぞれの賜物を活かして、集まった人たちの心を安らかにしようと働いたのではないでしょうか。イエス様と弟子たちは「食事をする暇もないほど」忙しく主のために、人々のために尽くし、働きました。

次の節、21節を見ると、たいへん興味深い言葉が用いられています。「身内の人たち」という言葉です。イエス様と血のつながった家族をさします。今日の聖書箇所の後の方、31節に出てくる「イエスの母と兄弟たち」です。イエス様の本来の家族、血のつながった いわゆる「血族」としての家族は、この時、イエス様の家・教会にいて、イエス様と一緒に働いていませんでした。それどころではなく、イエス様のことを聞いて取り押さえに来たのです。「イエス様の気が変になっている」という噂を耳にしたからでした。

この時の情景を思い浮かべていただきたく思います。比較的リアルに想像できるのではないでしょうか。

イエス様は三十歳ぐらいまで、ヨセフの長男として、ヨセフの職業だった大工さんでありました。ヨセフは早くに亡くなったといわれていますが、母からすれば、家業を継いで、家計を支え、弟・妹の良いお兄さんだった真面目な長男が、突然 豹変してしまったのです。そもそも、ナザレの村の家に帰ってきません。どこへ行ってしまったのだろうと大いに心配していたら、カファルナウムの町の会堂で安息日に説教をし、癒やしの奇跡のわざを行って、律法学者や祭司、ファリサイ派の人々を怒らせているという噂が、村に届いたのでしょう。

祭司や律法学者は、当時のユダヤ社会では尊敬されるべきとされている人々でした。イエス様の母と、イエス様の弟・妹たちは、そういう人たちに、我が子が、またお兄さんが楯突いて問題を起こしていると聞いただけで、いても立ってもいられないほど心がざわついたのでしょう。ずっと知っている我が子イエス、お兄さんのイエスとは、まったく違う人になってしまったように思えたでしょう。

福音書をまたいで少しお話ししますが、ルカ福音書でイエス様をみごもった時、母マリアは天使のお告げを「お言葉どおり、この身になりますように」と実に素直に受け入れました。その従順さを、私たちはすばらしい信仰のあり方と受けとめます。ところが、その母マリアの理解と認識、忍耐を超えることが起こったということです。神様が人となられ、この世で働かれるとは それほどに凄まじいことなのです。

イエス様の血族、母マリアと兄弟は、イエス様が神さまに仕えている姿を、受け入れることができませんでした。イエス様が神さまのために働いておられる「家」に、母と兄弟は、入って来ません。31節をご覧ください。こう記してあります。「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。」イエス様の「家」の中に、なんとイエス様の血のつながりのある家族は入ろうとしないのです。人々をかきわけてでもイエス様のそばに近づこうという気持ちも持てず、イエス様との直接の関わりを避けて、他の人を通してイエス様を呼ぼうとしました。

これは、たいへん悲しく寂しいことです。

イエス様は、しかし、この時、実に厳しい姿勢を示されました。

33節で、このようにいわれたのです。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。」そして、周りに座っていた人々を見回されました。周りに座っていた人々とは、イエス様のそば近くにいて、逃げていこうとか遠ざかろうとかまったく考えずに、腰を落ち着けている人々です。イエス様を求め、直接の関わりを持とうとしている人々です。イエス様のおられるところを、自分の居場所、「家」とする人たちです。

イエス様のそばにいる ‒ これは、たいへん大切なことです。前回の聖書箇所で、イエス様が使徒として選ばれた12人の弟子に、イエス様が最初にさせたことが、このことでした。聖書をお開きの方は、前のページ、マルコ福音書3章14節をご覧ください。イエス様が12人を任命したのは、何のためであったか。「彼らを自分のそばに置く」ため。これが最初に書かれています。派遣して宣教させるため、悪霊を追い出す権能を持たせるためということの前に、「ご自分のそばに置く」と記されているのです。

今日の聖書箇所で、イエス様はご自分のそばに座っている人たちを見回して、だれがご自身の母・兄弟、まことの家族であるかを、こう言われました。ページを戻って、マルコ福音書3章34節です。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」

間違ってはいけないこと・心に留めておきたいことは、イエス様はわたしたちすべてを、ご自分のそばへと招いておられることです。その招きを受け入れて、「家」に入れば誰でも「イエス様を一番のお兄さんとする神さまの家族」のひとりとさせていただけます。

後に、母マリアも、イエス様の弟も「神の家族」に加わりました。イエス様が十字架で死なれた時、母マリアはその場にいたのです。

今日の聖書箇所で、母マリアとイエス様の弟・妹たちが 神さまに仕えて働いておられるイエス様と弟子たちを理解できなかったのは“我が子または我が兄イエスとはこういう人”というそれぞれの思い込みがあったからでした。それが壁となって、母マリアと弟・妹たちの心の目をふさぎ、神さまでありながら人となり、地上で神さまのお働きをされているイエス様のまことのお姿が見えなくなっていたのです。

自分の思い込みが、柔軟な理解をさまたげ、心をかたくなにし、認識の自由を奪ってしまったのです。

説教の始めにお話しした二つのキーワード、「家」と「自由」。

「家」は、お話ししたとおりですが、ここから「自由」に関わることを少しお伝えします。イエス様の母マリアと弟・妹たちの心は、自分自身の理解・認識に縛り付けられて自由と柔軟性を失ってしまいました。私たち人間の心は、簡単に自分で自分を支配し、自分を奴隷にしてしまうのです。私たちの心は、どんな時も何かに支配されていると申して良いでしょう。何か または何者かに支配されるのを私たちはたいへんイヤなことと感じて反発しますが、支配から逃れ、自分は何にも縛られていない、自分は自由だ!と喜んだ途端に、自分のエゴ・自分の欲望・独りよがりの正しさの奴隷になるのが、私たち人間です。

今日の聖書箇所の前半、「ベルゼブル論争」と小見出しのあるマルコ福音書3章22節から30節は、そのことに関わっています。

時間があまりなくなってしまったので、駆け足でお伝えします。

律法学者は安息日に人を癒やしたイエス様を、律法に違反する者として糾弾しようとしていました。エルサレムから来た権威ある律法学者が、イエス様のことをベルゼブル ‒ 悪霊・サタンをさします ‒ に取りつかれていると言い出しました。イエス様が人に取りついた悪霊を追い出す癒やしができることを、そのように言ったのです。

こういう理屈でした。イエス様はサタンの頭(かしら)・親分だから、子分の悪霊は、その命令を聞いて取りついた人から出て行くのだ。しかし、イエス様は、この理屈の盲点にすぐに気が付かれました。

悪霊が人に取りついて、その人を苦しめるのは、その頭(かしら)であるサタンが“そうしなさい”と言うからです。人を苦しめるから、サタンはサタンであり、悪霊は悪霊なのです。“その人から出て行って、その人を苦しめるのをやめなさい”と、サタンは絶対に言いません。そんなことを言ったら、サタンは良い人になって、悪い者・悪霊ではなくなります。“人を苦しめない”悪霊・サタンは自己矛盾をきたすのです。それを、イエス様は 26節にあるように「サタンが内輪もめして争えば。立ち行かず、滅びてしまう」と言い表されました。

イエス様は悪霊を追い出し、「強い人(サタン)を縛り上げる」ことに匹敵することをなさいます。すなわち、イエス様は、悪霊・サタンとは真反対の存在、聖なる方・聖霊なのです。イエス様を「汚れた霊に取りつかれている」と言うとは、聖なるイエス様を冒瀆する言葉です。イエス様は、人間がいかにも利口そうに理屈をこねて、このようにご自身も、天の父も冒瀆することを厳しく批判され、裁かれました。それが、29節の言葉です。「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」

ここを読まれて、または今、この礼拝で、心のうちで、これは恐ろしいことだと思った方が少なからずおいでだと思います。永遠に赦されない、罪の責めを負う ‒ イエス様に そう裁かれてしまったら、人生は真っ暗に思えます。

私たち人間は、科学理論で神さまが存在しないと証明できるように思うことがあります。人間が中心となって展開する科学の事柄と、神さまによる人間の魂の救いの問題は、まったく次元が異なります。しかし、それに気付かずに、その境界線を簡単に逸脱してしまうのです。そのように、人間は人間中心、一人一人ということで申せば、自分中心に自分の心を支配して、聖霊をたやすく冒瀆してしまいます。

イエス様は、その私たちすべてを、この永遠の罪の責めから救ってくださるために、十字架に架かられました。私たちは、イエス様がここで言われていることから、救われているのです。安心していて良いのです。

私たちは、皆、願います。悩みたくない。苦しみたくない。安心して、安らかな心でいたい。これは、聖書の言葉を使えば、苦しみという悪霊を追い出していただきたいという、せつなる願いです。聖なる方・イエス様が自分の心に宿ってくだされば、悪霊は逃げ去るでしょう。自分という支配者の横暴も、イエス様が治めてくださるでしょう。イエス様のそばにいて、御言葉を聴き続け、聖なるもので心を満たしていただければ、いえ、イエス様のそばにとどまり続けさえすれば、私たちは守られるのです。どんな苦難のさなかにあっても、安らぎをいただけるのです。

今日の聖書箇所の終わりの節 35節で、イエス様はこう言われます。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

神さまの御心を行うとは、神さまを仰ぎつつ、一身に人のために尽くし、寝食を忘れてボランティア活動や、平和活動のために獅子奮迅することをさすように、私たちは考えがちです。しかし、今日の聖書箇所でイエス様がおっしゃるのは、ただ、ご自分のそばにとどまりなさい、このことです。神の御心を行うとは、イエス様から離れないことです。

すぐに心を自分のエゴで満たしてしまう私たちです。聖霊を冒瀆しても気付かない私たちです。

しかし、その愚かしく、罪深い私たちを、イエス様は罪から救い出し、清めて、ご自分の家族としてくださり、生死を超えて共にいてくださいます。そのために、イエス様はご自身の命を捨てられました。

わたしから決して離れず、そばにいなさい ‒ そう言ってくださるイエス様の言葉を心に抱き、今週一週間を安心して過ごしましょう。イエス様のおそばにとどまり、御心を行う者とさせていただきましょう。

2020年2月9日

説教題:主の恵みは湖に、山に

聖 書:詩編131編1-3節 、マルコによる福音書3章7−19節

(都に上る歌。ダビデの詩)主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように 母の胸にいる幼子のようにします。イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに。

(詩編131編1-3節)

イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち「雷の子ら」という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。

(マルコによる福音書3章7−19節)

マルコによる福音書を読み進んでいます。前回、ご一緒にマルコ福音書3章1節から6節に聴きました。その箇所の最後の節には、このように記されていました。お読みします。「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」聖書はこんな言葉で語るのか、と驚く方もおいでになるかもしれないほど、恐ろしい事柄が記されています。イエス様を殺す計画・暗殺計画が立てられ始めたのです。

イエス様は、すぐにそれを察知されました。察知して、どうなさったかということから、今日の聖書箇所は始まっています。今日の最初の節、7節は少し言葉を加え、元の聖書の言葉に即して読むと、私たちにこのようなことを伝えています。“イエス様は弟子たちを伴って、会堂のあるカファルナウムの街中を立ち去り、ガリラヤ湖の方へ退かれた。” もちろん、暗殺を避けるためでした。

ユダヤ社会の指導者層、ファリサイ派やヘロデ派の人々がイエス様暗殺計画を立てたのは、多くの人たちが彼らよりもイエス様を慕ったからでした。彼らはイエス様に、自分たちの立場が脅かされると感じました。また、無名の青年 ‒ イエス様のことです ‒ が、自分たちよりも人々に愛されていることにねたみと屈辱をおぼえたのです。

イエス様がガリラヤ湖に退かれると、イエス様を慕う人々はそのあとを追いかけてゆきました。人々のことを、聖書は「おびただしい群衆」と記しています。どれほど多くの人々だったか、どんなに大規模な群衆だったかは、8節に挙げられている地名をご覧になるとわかります。ユダヤ、エルサレムはガリラヤ湖よりもずっと南の方です。イドマヤは、そのさらに南にあり、民族的にも純粋なユダヤ人が多く暮らす所とはいいがたい地域でした。そして、ティルスやシドンはガリラヤ湖の北です。

後で聖書巻末の地図でご確認くださると良いでしょう。パレスチナ地方全域から、人々がイエス様をめがけて押し寄せてきたことがわかります。それは、8節にあるように「イエス様のしておられること」を噂で聞いたからでした。イエス様がしておられたこととは、直前にあるように手の萎えた人を癒やし、1章、2章に語られたように重い皮膚病や麻痺のある人を癒やし、それをさします。それは10節に明らかです。こう記されています。お読みします。「イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとし」たからだったのです。

病の苦しみにある人々が、ほんの少しでもイエス様に触って治りたいと押し寄せ、イエス様に迫り来ました。そのすさまじさは、9節でイエス様が、この群衆に押しつぶされないために、小舟を用意してほしいとおっしゃったほどでした。イエス様はガリラヤの岸辺に黒山のようになった群衆をその岸辺に残し、何人かの弟子たちと小舟に乗って湖に漕ぎ出したのでありましょう。

これは人々にとって、大いに予想外だったでしょう。人々は何を期待してイエス様を追いかけて来たのでしょう。苦しむ自分にイエス様が寄り添ってくださり、その肩を抱き、手を握ってくださることです。人々は、イエス様に優しく癒やしてもらえると思っていました。ところが、イエス様は小舟に乗り、自分から遠ざかってしまったのです。イエス様に、もっと優しくしていただけると思ったのに、どうしてそんなにイエス様は冷たく自分をあしらうのか。もしも私が人々の中・群衆の一人としてそこにいたら、きっとそう感じたでしょう。

さらに、イエス様はおそらく、小舟から岸辺の群衆に向けて、説教を始められたのです。ルカによる福音書5章3節から4節に、このような箇所があります。お読みします。

「イエスは、…シモン ‒ これは、一番弟子のペトロのことです ‒ の持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。」

人々に神さまの真理を言葉で伝え、教えることが、イエス様がなさる第一のことなのです。病気を治してもらいたくて、はるばる遠くからイエス様をめざしてやって来た人々・群衆にとって、これは期待はずれそのものだったでしょう。自分が優しくイエス様に引き寄せてもらえると思ったら、冷たく遠ざけられてしまい、そのうえ、病気のために痛みやつらさを一生懸命がまんしながら立っているのに、ながながと説教を聞かなければならないのです。

人々は、がっかりし、悲しみ、怒り出したかもしれません。

11節に、たいへん興味深いことが記されています。お読みします。「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、『あなたは神の子だ』と叫んだ。」このマルコ福音書では、すでに最初の章・1章の23節に「汚れた霊にとりつかれた男」のことが述べられています。汚れた霊は、人間よりもずっと良くイエス様のことを知っています。イエス様が本当は神さまであること、神さまが人となってこの世においでくださった方だということがわかっているのです。汚れた霊は、自分がとりついた男の口を通して、イエス様に「我々 ‒ 汚れた霊 ‒ を滅ぼさないでくれ」と叫びました。このガリラヤの岸辺でも、似たようなことが起こったのでしょう。汚れた霊にとりつかれて苦しんでいる人々の口を通して、「神の子イエス、神さまなら、憐れんでくれ」、イエス様にひれ伏して「神の子なのだから、いつも深い愛をもって優しくしてくれ。そんな冷たいことで良いのか」… そのようなことを叫んだのではないでしょうか。

イエス様は、汚れた霊に毅然とした姿勢を示されました。

12節をお読みします。「イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」

そして、説教を続けられたのでしょう。

マルコによる福音書の今日の箇所は、私たちにたいへん厳しいことを教え、告げています。私たちが初めて教会に来るようになるきっかけは、さまざまです。聖書のことも、イエス様の福音も何もまだ知らずに初めて教会においでになった方に、教会の第一印象を尋ねると、ほとんどの方がこうお答えになります。「教会の人は、みんな優しい。こんな所があるとは、思わなかった。」そう好意的に思われるのは、私たち教会に生きる者として、たいへん嬉しいことです。初めて教会においでになった方が、寂しさや、寄る辺無さ、孤独を癒やされ、心を満たされるのは喜びです。天地を創られた神さまの愛が教会に満ち、友なき人に寄り添ってくださるイエス様の愛が教会で働いていることを、あらためて知らされるからです。そして、かつての自分も、教会で初めて寂しい心を満たされた、その頃のことを思い出します。

しかし、何を通して、主の愛は教会のひとりひとりを強め、優しい者・親切な者として活かしているのでしょう。人間的な優しさに触れて、自らも人に優しい接し方を身に着ける事で、教会は教会として立ちゆくのではありません。イエス様の十字架のみわざと、復活を伝える福音を通してです。聖書の御言葉を通して、主の救いに与ることによって、私たちは神さまに愛され、ご自分を投げ打って私たちを愛してくださるその主の愛にならって、神と人を愛することを知るのです。

イエス様に病気を治してもらおうと、ガリラヤの岸辺に押し寄せた群衆は、教会は自分に優しい居心地の良い所だから、もっと優しくしてくれ、悩みを聞いてくれ、そのうち仲間に入れてくれ、とやって来て、そこから御言葉の真理への一歩を踏み出せない人々です。礼拝説教の中で、イエス様の十字架の出来事と復活が繰り返し語られていても、大昔の遠いユダヤの話で自分には関係がないとしか、感じられないのです。心癒やされたい、慰められたい、そして、あわよくば、自分も世のため人のために役立つ表面的には良い人間になりたい ‒ そうした自分の欲望が、それこそ汚れた霊のように 心を一杯にしているから、聖霊を閉め出してしまい、説教が心に入ってゆきません。

私は、説教準備の時から今日の説教を語るのはつらいと思い続けていました。今、与えられた言葉をこうして語るのは、やはり苦しいです。御言葉を取り継ぐ者として語れと命じられているから、伝えています。又かつて高校で一度教会を離れ、大人としてあらためて教会に通い始めた自分が、教会に再びつながったきっかけが人の交わりに居心地の良さを感じたことであることも、思い出しつつ伝えます。

イエス様は、神さまの御言葉・真理を求めず、ただ自分の欲望が刹那的に満たされるのを求める人たちが、ご自分に向かって“助けて、私の手を握って”と伸ばす手を、いったん遠ざけました。

今日の聖書箇所は、病気の人々が集まったことを語っていますが、病気であっても健康であっても、生きるとは それ自体苦しいものです。人は常に自分に不足を感じています。自分の限界、欠点、乗り越えられない逆境、解決できない問題、人間関係のもつれ、うまくコントロールできずに自分も周囲も傷つける過剰な人間的感情や能力、その危うさから生まれる不安・恐れから逃れたいと安心・平安を願っています。人間として生まれた誰もが持っているこの苦しさを、聖書は罪と言います。この私たちの罪は、イエス様が十字架で御身を捨てて私たちに代わって背負って下さる他に救われようがありません。それを私たちが知るのは、御言葉を通してです。

だから、イエス様は御言葉だけを人々に伝えました。

小舟に乗って、人々にさわられないようにし、人間的な交わりを避けました。「御言葉による交わり=説教」だけをなさいました。

御言葉によって、群衆の、人々の魂にふれようとされたのです。

イエス様のみからだである教会も今、この時代にあって、同じことを示します。真実の神さまの恵みは、人の交わりの居心地の良さの中にあるのではありません。聖書の御言葉にあります。御言葉が立ち起こされて目に見えるようになる洗礼式と聖餐式、この二つの聖礼典にあります。これから教会に連なろうとされる方はもとより、すでに教会員である方も、それを深く心に留めるようにと、今日の御言葉を通して、イエス様は語られます。特に、教会員になってからは、教会のために奉仕することを通して自己実現・自己達成を図ってしまうという恐ろしい誘惑に陥らないようにしなければなりません。

さて、イエス様が湖の小舟で説教をされた結果、どうなったのでしょう。押し寄せていた人々は、自分の求める病の癒やしを得られず、イエス様に背を向けて、不満を抱えて我が家に帰ったのではないでしょうか。人間は自分勝手で、目先のことしか見えません。しかし、先ほど申し上げたように、常に自分に不足・不幸を感じています。神さまは、そのように自分勝手な私たち人間を、決して見捨てられません。それが、13節からの十二人の弟子の選びに記されています。

イエス様は、13節にあるように「これと思う人々を呼び寄せ」ました。「これと思う」とは、元の聖書の言葉では「ご自身が望まれる」という意味の単語が用いられています。イエス様が自ら選んだ、御心にかなった者たちは、イエス様に呼ばれて、そばに集まって来ました。さわって癒やしてもらおうとして押し寄せたのでは、もちろんありません。自分の勝手・自分の都合でイエス様に近づこうとしたり、説教がイヤになったら離れたりということがない人たちです。イエス様は、彼らを使徒と名付け、ご自分のそばにいつもいる者とされました。また、彼らが説教して神さまのことを伝えられる者、さらに悪霊を追い出すことのできる者 ‒ つまりは、癒やしのできる者とされました。

イエス様が望んで選んだ十二人の使徒の中に、後にイエス様を裏切り、十字架上での死刑に売り渡すことになるユダがいました。すでにこの時から、イエス様は十字架に架かって死なれることを覚悟しておられたのです。

自分勝手な都合・欲望からイエス様にさわろうと押し寄せ、もっと良いもの・魂を根底から癒やす真理の御言葉を与えられると、そんなものはいらないと背を向ける私たち人間です。しかし、イエス様は、その私たちを決して見捨てはなさいません。

そうして、私たちは救われたのです。

イエス様の御言葉を通して、神さまの恵みは、湖に山にあふれていましたが、それを知ろうとしない肉の心・自分勝手な欲求と自分が正しいと信じ込む暗愚な心は、恵みに気付くことができません。

今日の旧約聖書の御言葉は語ります。「わたしは魂を沈黙させます。」私の心は驕っていないと言えば、即 驕りに陥り、身の丈に合わないことを望まないと宣言すれば、即 自分のその言葉が背伸びの証拠になる私たちです。

今週、沈黙して見えない主に心を向け、御言葉に心の耳を澄ますひとときを日々いただくようにいたしましょう。罪を知り、だからこそ、主を求め仰ぐ私たちとさせていただきましょう。

2020年2月2日

説教題:霊と知恵に満ちた人

聖 書:詩編133編1-3節 、エフェソの信徒への手紙4章10−16節

見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り 衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り ヘルモンにおく露のように シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された。祝福と、とこしえの命を。

(詩編133編1-3節)

こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。…キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

(エフェソの信徒への手紙4章12−16節)

教会とは何か、信仰共同体に生きる幸いとは何か ‒ 前々回の礼拝から説教を通して、それを思い巡らし、魂と理性・知性で知る恵みをいただいています。今日はその三回目で、今回をもってひとつの区切りといたします。私たちは三回それぞれの礼拝で心に受けた御言葉により備えられて、この礼拝後に、教会総会を持ちます。

今日の旧約聖書、詩編133編の御言葉は、信仰で結ばれた神の家族・兄弟姉妹の喜びを高らかに謳います。

「見よ、兄弟が共に座っている」 ‒ 詩編は、そう歌い出します。兄弟という言葉で結ばれているのは、血の絆・血縁ではありません。血縁関係も含むでしょうけれど、主にある絆・信仰でひとつにされている者たちです。彼ら、そして 彼女らは、 ‒ 御言葉なのですから“私たちは”と申してもよいでしょう ‒くつろいで、神さまに、またお互いに身をゆだねきっています。気取らず、格好も付けない、自然で幸福な姿です。もちろん、この詩編を書いている詩人本人も、この兄弟姉妹の輪の中にいます。気をゆるしあっている者同士が、安心して神さまの御手のうちに守られているのです。詩人は その幸いを、そのまま言葉にして歌を続けます。「なんという恵み、なんという喜び。」

どうして、これほど嬉しいのでしょう。その背景にあるのは、その詩編の始まりに小さな字で記されている言葉「都に上る歌」です。「都に上る」とは、ユダヤ民族が一年に一度、エルサレム神殿に詣でて礼拝を献げることを指しました。この詩編は、エルサレム礼拝への旅の途中の信仰者の姿を描いているのです。

ユダヤ民族には、アッシリアやバビロンの襲撃によって国土を失った時代がありました。ちりぢりバラバラになる中で、世代がくだるにつれて、ユダヤの言葉を話せない子どもたちが増えてゆきました。国を失い、言葉が消える中で、彼らを民族としてひとつにしていたのは、神さまを主と仰ぐ信仰だったのです。ですから、国土が戻り、イスラエルの地に帰ることができるようになった時、彼らがまず行ったのは、エルサレム神殿の礼拝で、神さまに感謝を献げることだったでしょう。再びエルサレム神殿で、民族が“神の家族”として、共に礼拝を献げる喜びは たいへん深く大きかったのです。

だから、今日の詩編の言葉には、嬉しさがあふれています。

自分たちの力では、彼らはエルサレムに帰ることはできませんでした。それを成し遂げてくださったのは、ただ神さまの恵みでした。

詩編133編では、この恵みがアロンのひげにしたたる香油として描かれています。アロンは祭司として主に立てられました。主に立てられた者・主に役割を与えられて任命された者は、香油を注がれます。

その香油がアロンの頭からひげ、衣の襟へとしたたったように、すべての人が恵みを受けて、恵みでひとつにつながれて、同じ良い香りを放つようになります。兄弟姉妹は、皆 神さまに選ばれ、招かれて 信仰共同体・群れ・教会としてひとつになります。

イエス様がこの世に遣わされて、教会の時代を生きている私たちのことを、新約聖書はこのように語ります。コリントの信徒への手紙二 2章14節、15節をお読みします。どうぞ、耳だけを開いて、お聞きください。「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進 ‒ 勝利とは、イエス様が十字架の死によって私たちの罪を滅ぼされ、ご復活によって死に打ち勝たれたことを告げます ‒ その勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。… わたしたちはキリストによって神にささげられている良い香りです。」

前回の説教でお話ししたことですが、教会は この世にある人のグループとしては 珍しいくらい、実にいろいろな方が集まるところです。年齢も、信仰の歩みも まったくまちまちです。お母さんのお腹の中にいる時から教会に来ていたという方がいる一方で、還暦に近くなって初めて教会の礼拝に出席した方もおられます。お互いの職業、勤務先、生活環境、趣味 ‒ 何十年と 長く一緒に教会生活を送っているのに、尋ね合ったこともなく、だから知らないということもよくあります。それで差し支えない、いえ むしろ それが喜ばしいのが、教会です。

お互いを「イエス様に救われて神の子とされた者」同士として、知っていれば、それで十分です。そして、ただ そのことひとつによって、私たちは結ばれて、同じかぐわしいキリストの香りを、皆 同じように漂わせることができるのです。

私たちを呼び集めてくださったのは、主なる神さまです。そして、私たちが自分で自分のことをどのように罪深く汚れたものと思っても、清めてご自分のもの・聖なる者として、ひとつの群れに ‒ 教会に ‒ まとめてくださるのは、神さまです。神さまは、私たちひとりひとりに 唯一無二の違う人生と個性を与えてくださったように、私たちそれぞれに 違う賜物・ギフトを与えてくださいます。

だから、今日の新約聖書 エフェソの信徒への手紙4章11節から13節は語ります。お読みします。「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」

私たちは、主の体である教会を造り上げるひとつひとつの部分であり、絶えず成長し続ける主の体 ‒ そう、この御言葉は力強く告げています。主の「体」と申します時、私たちは その「体」は「頭」、教会で用いられる言葉として「かしら」と読むことが多いのですが、その「かしら」にしっかりとついているものであることを 心に留めなければなりません。教会のかしらは、イエス様です。天の父なる神さまの右におられます。その方にしっかりとついている「体」だから、教会は天につながっているのです。その状態で固定されているのではありません。主は、イエス様は、生きておられます。

私たちの頭から体へ、脳から体のそれぞれの部分に常に神経信号が送られ、それに従って体に命が保たれ、生命体としての秩序ある活動が保たれているように、私たち教会もイエス様を「かしら」として、常にいきいきと働いています。今日の御言葉は、それは常に成長だと語るのです。

同じ状態が保たれているのでは、ありません。成長、すなわち育ってゆくのです。ただ大きくなるだけではありません。信仰が強められ、互いの絆が固くなり、充実してゆきます。成熟という言葉が、13節で用いられています。けっして弱ったり、おとろえたりするのではありません。

教会そのものの大きさ、たとえば人数が少なくなったり、あるいは行事などが少なくなったりして、人間の目には小さくなったと見える時が、あるかもしれません。

この世の人間の考えでは、一見して良くないことに見える事柄は、実にしばしば、主の恵みのご計画のうちに置かれています。教会の方・教会に続けておいでの方は それを 皆さん よくご存じです。逆風に見える状況や苦難の中で踏みとどまり、それが過ぎ去ってみると、その間、自分が、また私たちが、教会が、どれほど大きな主の助けと恵みを受けていたかを知らされます。そして、その間、私たちは御言葉を聴き続け、祈祷会で、またそれぞれの場所で祈り、主から けっして離れないようにします。

また祈ることに加えて、教会で与えられている役割を通して、私たちはそれぞれ奉仕を献げます。働きます。課題について具体的な話し合いを繰り返し行い、この世にあって主に導かれて最も良い解決法を求めてゆきます。それは神さまから、必ず与えられます。

ひとりの主を見上げ、同じ信仰で結び合わされているから、私たちは 15節にあるように「かしらであるキリストに向かって」ひとすじに、道を間違えずに進み、そして成長してゆくことができるのです。

今、私が申し上げた「同じ信仰」という言葉 ‒ これを 今日のエフェソ書の御言葉は「愛」という言葉で言い表しています。

イエス様の愛によって救われた者同士である ‒ この絆は、私たちひとりひとりを、今お隣にいる兄弟姉妹と堅く結び合わせています。私たちはそれぞれの持ち場から、別々の背景と異なる生活の中から、ここに集められています。その違いを一気に取り払い、私たちを「神さまの御前で同じ者」、なんと「聖なる者」としてくださっているのが、イエス様の愛です。私たちがこうして生きるために、イエス様は私のために、皆さん一人一人のために、苦しく屈辱に満ちた十字架の死を死んでくださり、復活されました。今年度も、6月にひとりの姉妹を天に送りましたが、その肉体の死を超えて、私たちが ふたたび会える、その再会の約束をいただいているのは、イエス様が お命を犠牲にされるほどに、私たちを愛してくださったからなのです。

私たちは、それぞれ、イエス様がたいせつに、たいせつに思ってくださっている者同士です。それを新しく思い起こすと、もちろんそんなことがあったとは思いませんが、お互いに無関心であったり、お互いをついぞんざいに扱ってしまったりすることはないでしょう。お互いに尊重し合い、丁寧に接する思いがわくでしょう。そうです。それこそが、今日の御言葉の最後に語られる教会の成長をあらわしています。「自ら愛によって造り上げられてゆく」 ‒ このことです。

イエス様の十字架のみわざとご復活を思う時、私たちは、それによって生かされているお互いをたいせつにせずにはいられなくなります。互いに、愛し合わずにはいられなくなります。私たちのうちに、その愛の力を呼び起こしてくださる主に感謝し、必ず「かしら」なるイエス様を思い起こし、進み続けましょう。これから与る聖餐式、その後の教会総会、そして今日から始まる新しい一週間、そのいずれのどんな時も、主の愛による内なる成長を信じて歩んでまいりましょう。

2020年1月26日

説教題:霊と知恵に満ちた人

聖 書:申命記34章9節 、使徒言行録6章1節−7節

ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちていた。モーセが彼の上に手を置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおり行った。

(申命記34章9節)

そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられてからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。

(使徒言行録6章1節−7節)

教会総会を前に、礼拝、教会、そして教会のご奉仕によって主にお仕えすることの恵みと誠の意味を、御言葉を通してご一緒に味わい学ぶ幸いをいただいています。来週 予定されている定期教会総会は役員選挙のための総会です。役員とは、どのような役割でしょう。今日の新約聖書 使徒言行録の聖書箇所は、最初の教会に役員の体制が備えられたことを語っています。

イエス様は十字架で死なれ、しかし三日後にご復活されて弟子たちに よみがえりの姿を現されました。

その後、イエス様は弟子たちを地上に残し、天に昇って行かれました。その時、ひとつの約束と、ひとつの命令を残されました。約束は、聖霊降臨です。目には見えないけれど、イエス様は福音を信じる者に聖霊なる主が降って信仰を与え、必ず共においでくださる、だから大丈夫だという約束です。また、イエス様は昇天の時に、与えられた命令は、大宣教命令でありました。マタイ福音書28章19節「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」 ‒ この伝道の勧めです。

約束は、確実に果たされました。五旬祭・ペンテコステの日に、燃える炎のような舌として聖霊が降り、弟子たちは福音を力強く語り始めました。エルサレムに、こうして最初のイエス様の教会が誕生したのです。

ここで、少し言葉の使い方に気をつけなければなりません。

福音書を読む時、「弟子」という言葉を見て 私たちはイエス様が直接、弟子にされたペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネから始まる十二人を思います。しかし、今日の聖書箇所の最初の節・第1節にはこう記されています。「そのころ、弟子の数が増えてきて」。この「弟子」は、十二人の弟子ばかりでなくイエス様を信じる信仰をいただいたものすべてをさします。キリスト教の信徒をさします。その意味では、私たちも「イエス様の弟子」なのです。福音書で弟子と呼ばれていた人々は、「使徒」と呼ばれるようになります。

弟子の数が増えてきて…と御言葉は語り、イエス様の大宣教命令が忠実に果たされて、信徒数が増していることを告げます。喜ばしいことですが、同時に、これは困難をも意味します。主は教会に、ただイエス様の福音を信じて救われるという恵みによってだけ、私たちを呼び集めます。ですから、実にいろいろな方々が集まり、人間的なことだけで申しますと、互いに理解し合うのが難しくなることがあるのです。

最初の教会に起こったのも、そのことでした。第1節には、こう記されています。「ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。」最初の教会は、大きく二つのグループから構成されていました。ユダヤの中心都市・エルサレムに立った教会ですから、ほとんどがユダヤ人なのは自然ですが、ユダヤ人は、何百年も他の大国に植民地とされていました。

宗主国や、周辺地域に散らされて、もともとのユダヤの言葉であるヘブライ語を話せなくなったユダヤ人も多くいたのです。彼らはギリシア語を話しました。ひとつの教会の中で、違う言葉が話されていたということです。

苦情の内容は、日々の分配のことでした。

最初の教会が素晴らしかったのは、教会のひとりひとりが自分の食べ物・持ち物を持ち寄って、それをみんなで分け合ったことでした。主にあって共に生きる、その生きざまは、使徒言行録4章32節から、このような美しい言葉で記録されています。お読みします。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。…信者の中には、一人も貧しい者がいなかった。…金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」豊かな人から貧しい人への施しという これまでの形ではなく、教会の中では、へだてを超えた分かち合いが行われていました。

ところが、残念なことが始まってしまいました。私たち人間は、何事も、一生懸命に真心をこめて行ったとしても、完璧にできるということがありません。これはたとえとしてここで申し上げて良いことかどうか、ちょっと疑問かもしれませんが、私は毎週の週報を、心をこめて、注意深く作ります。しかし、必ずと言って良いほど、どこか間違えてしまいます。変換ミス、誤字脱字、ページ数の間違いなどです。

自分を最初の教会の使徒と引き比べるのは、あまりに僭越ですので、今の例は忘れてくださって良いのですが、最初の教会の使徒たちは、教会の一人一人のことをどれほど大切に思っていたとしても、完璧に公平に、平等に分配ができたわけではありませんでした。

イエス様はヘブライ語、正しくはそのナザレ地方の方言であるアラム語を話され、最初の弟子たち、つまり使徒たちもそうでした。

そのヘブライ語を話す使徒たちに、ギリシア語を話すユダヤ人グループから苦情が出ました。人間的な意味で、当時の社会で最も軽んじられ、最も生きるのがたいへんだったのが、やもめでした。夫を失い、養ってくれる息子もいない、未亡人です。ギリシア語の話す信徒グループの未亡人が、十分な食事の割り当てをもらっていない、これはひどいではないか、差別だと使徒たちは文句を言われたのです。

人にはいろいろな思いがあり、状況にはいろいろな事情があります。言葉が違い、文化が違うと食べる物も異なります。真実に、心から教会のためを思ってのことであっても、それまでの教会の事情や背景を知らずに行うと、受け入れられるのが難しいことがあります。

この時、最初の教会で不公平な分配を招いた背景には、ギリシア語を話す信徒たちとヘブライ語を話す信徒たちの文化的な違いや、教会の成立過程の事情に加えて、使徒たち ‒ ヘブライ語を話す当初の弟子たち ‒ のたいへんな忙しさがあったようです。使徒たちは、神の言葉を伝える説教準備に身を削ると同時に、食事の配分・準備、2節で「食事の世話」と書いてあることも行っていたからです。

私たち人間には、体力の限界があります。時間の限界もあります。

ゲッセマネでイエス様が血の涙を流して祈っておられる時に、弟子たちは睡魔に負けて眠り込み、イエス様は彼らのために「心は燃えても肉体は弱い」と言われました。しかし、すべてに欠けのある人間、何事も完璧にはできない人間を、神さまは役割分担による解決へと導かれました。

使徒たちは、今日の聖書箇所の3節でこう言ったと記されています。お読みします。「わたしたちが神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」

教会の兄弟姉妹が、互いの中から“霊”、すなわち聖霊に満ちて正しい信仰を与えられている人を選ぶ、すなわち選挙することが、ここから始まりました。

ここで、祈りと御言葉の奉仕に専念する使徒の役割を果たすのは、今日の私たちプロテスタントのキリスト教会では牧師をさします。牧師の役割の中心は聖礼典の執行と、礼拝の説教にあります。聖礼典は洗礼と聖餐式、この二つです。それはイエス様の十字架の出来事とご復活を信じる者が聖霊をそそがれて聖なるものとして、この世から取り分けられ聖別される式で、福音の御言葉が目に見える行いとして現される出来事を執り行うことです。

また、牧師は御言葉とその説き明かし・説教を中心とする礼拝に人間の中では最も重い責任を負わされています。今、ここに聖霊としておいでくださる主の御前で、主にふさわしい礼拝を、初めから最後まで献げ、礼拝を守る務めを担わされています。礼拝は前奏から始まり、祝祷と後奏によって終わります。ここに2008年、私が着任する7年前に改定版として守り受け継がれている薬円台教会の司式者の務めを記したものがあります。これを見ると、人間の言葉が極力少なくしか語られないように、綿密な工夫がこらされていると判ります。聖書朗読は神の言葉です。また、その説き明かしである説教も、神の言葉です。

私は今、ここに立たされて説教を語っていますが、私という人間個人が語っているのではありません。宗教改革の時に記述された第二スイス信条に「神の言葉の説教は 神の言葉」という一節があります。

人間の言葉が入り込まないように、しかしながら、この世の社会にあって、その時代特有の課題を担わされている教会に、主が御言葉を通して何を語りかけようとされているかを祈り、聴き取り、説教に紡いでゆくのが牧師の役割です。

そして、礼拝の祝祷の後、後奏を奏でるオルガンが響く中、司式者と説教者に続いて、次々と礼拝出席者が退場する礼拝形式を取るのが礼拝の終わり方として最も適切と言われています。ですから、礼拝の後、本来ならば会堂には誰もいなくなります。それが本来の礼拝です。

ただ、神さまの言葉が響いた余韻を残す空間が残るだけ、それが礼拝後の会堂です。

御言葉と祈りの他の務め、今日の聖書箇所では「食事の世話」とありますが、世にあって生きて働く教会の営みの部分を担うのが、今日の聖書箇所が語る七人です。現代の教会では、教会備品や建物の整備、公共料金を始めとする会計、事務、営繕、教会の日常を支える大切な役割です。教会によって、この役割を長老、執事、幹事と呼びます。

ごく一般的には、役員と呼び、薬円台教会もそれにならっています。

そして、人間が選ぶ選挙ではありますが、その選挙を通して神さまの御心があらわされ、主による選びが行われ、召し出されています。

牧師になることを「身を献げる」と書いて献身と申します。神さまに志をいただいて神学校で学び始めてから、いくつもの試み、すなわち試験を経て、按手を受けます。按手式に出席される牧師先生がたが、按手を受ける者の頭に手を置いて、聖霊を受けて按手されます。それは、今日の旧約聖書が告げている言葉そのものです。ヨシュアは、モーセの後継者として自分がふさわしいとは微塵も思えず、不安とおののきでいっぱいでしたが、モーセが、その彼の頭に手を置いたことで、ヨシュアは聖霊で満たされ、ヨシュア自身の思いとは関係なく、ただ主の霊と知恵に満たされるようになりました。

按手によって、牧師の人生は牧師個人のものではなく、神さまのものになります。そして、役員を長老と呼ぶ教会、長老派の教会では、選挙で選ばれた役員・長老に按手を執行します。

牧師は比較的短いサイクルで代わってゆきますが、多くの場合、教会員はその人生の大部分を、ひとつの教会で過ごします。お母さんのお腹の中にいる時から教会に通い始め、教会学校で育ち、やがて洗礼を受け、その教会で結婚式を挙げ、お腹のお子さんと礼拝出席をする、そのお子さんがまたその教会で洗礼を受ける、この恵みを繰り返すことが多いのです。教会は、教会員お一人お一人がその人生のよりどころとして生きる場です。教会は、イエス様に毎週、御言葉で養われ、育てられるところです。また、お一人お一人が、新しく増し加えられる方のために、その場をイエス様に従って整えてゆくところです。また、地上の命が終わる時、聖霊が教会と天とを結んでいてくださるからこそ、ここから天へと旅立ちます。

私たちは、永遠の命の恵みを与えられるこの場で、教会で生きてゆきます。一人では何事も十分に、完璧に成し遂げることはできない私たちです。だからこそ、神さまは私たちが協力し合い、今日の御言葉にあるように、役割分担をして、奉仕も分かち合いをして、教会を支えるように導かれています。人間の思いではなく、聖霊に満たされて、心を合わせ、力を合わせ、共に心一つに祈りつつ、その教会の働きに参与する志をいただきたく思います。

2020年1月19日

説教題:霊的な家に造られる

聖 書:イザヤ書40章6-8節 、ペトロの手紙一1章22節−2章5節

あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。

…この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。

(ペトロの手紙一1章22-25節、2章4-5節)

二月第一主日礼拝後の定期教会総会に向けて 聖書の言葉・御言葉を通し、礼拝を通して「教会とは何か」を ご一緒に思い巡らす恵みをいただこうとしています。教会生活の長い方、教会生活を始めて日の浅い方さまざまで、今日の説教で語られることはすでによく知っていると思われる方もおいでと思います。それはそれですばらしいですが、そもそも礼拝は、信仰を新たにされる・信仰を更新し、リフレッシュするためのひとときです。ご一緒に御言葉に聴きましょう。

今日は「ペトロの手紙一」から御言葉を与えられています。教会に宛てた手紙の形を取っていますが、紀元1世紀に地中海地方のここ・そこに建てられ始めたキリストの教会で回し読みをするようにと書かれた「読む説教」です。その中に、こう私たちに強く勧める言葉があります。2章4節です。「この主のもとに来なさい。」この主は、もちろん、私たちの救い主イエス様をさします。十字架で死なれ、三日後にご復活されたイエス様です。人々がイエス様を少しも理解せず、十字架で死刑に処したことを、今日の聖句は「人々からは見捨てられた」と言い表しています。イエス様の愛の深さがわからない人々の愚かしさを知っていて、天の父なる神さまは あえて イエス様をこの世に遣わされました。人々をその愚かしさから、罪から救うためでした。その恵みの真理を、御言葉はこう語ります。「(イエス様は)神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。」

御言葉と聖霊に招かれて、救い主イエス様のもとに集う者たちが、「教会」です。教会は、建物をさすのではありません。集まっている人・私たちをさします。私たちは、今ご一緒にいるこのところ・場所をさす時には、「会堂」「教会堂」という言葉を別に持っています。この建物は、正しくは「薬円台教会堂」です。薬円台「教会」は、 イエス様のもとに集められた信仰共同体、この私たちをさすのです。

御言葉に呼び集められ、信じ、洗礼によってイエス様と永遠に共にいることを決意した者が、神さまに従う決意を表して、集まっている、この集まりが「教会」です。神さまに従う決意を表して と今、私は申しました。それは具体的には、次の事柄をさします。

ひとつは、洗礼によって主にある命を新しく与えられていること。さらに、それによって、教会に籍 ‒ 一般の社会で言うと戸籍です ‒を与えられていること。これを教会員になる、とも申します。これは、目に見えるかたちではっきりと表されます。ここにおいでになる方々で薬円台教会の教会員は、皆、おひとり おひとり、教会のたいせつな書類としての「原簿」をお持ちです。皆さんは、洗礼、または他の教会からの転入を通して薬円台教会員になります。そして、聖書の御言葉に従い、慰めと恵みと励ましをいただき、薬円台教会の教会規則に従うという神さまとの約束、また教会員同士の約束を守って生きてゆきます。これが、私たちが教会として生きるということです。

「教会」という言葉は、「群れ」と言い換えることができます。共同体、特に信仰共同体とも申します。神さまの家族・神の家族とも言います。私たちは互いに 天の神さまを父とし、御子イエス様を一番のお兄様とする兄弟姉妹です。このように申しますと、教会が この世にあるいろいろな集まりよりも、強い結びつき・絆を与えられていることが明確になるのではないでしょうか。

イエス様に導かれ、イエス様に従って 私たちは主と共に、そして 兄弟姉妹と共に、生きてゆきます。さらに、それぞれが、この世で関わりを持つ方々を隣人として 決して敵とせずに、生きてゆきます。

教会は、この共に生きる命を基とします。共に生きる新しい命です。分かりやすくするために、たいへんこの世的な表現を用いますが、この新しい命とは、新しい価値観・イエス様がおいでになるまでは、誰も価値を見出せなかった「愛」に生きることだと言えましょう。価値は「力」にありました。力 ‒ それは、本当に物理的な腕力、能力、財力、人よりも抜きんでるためのさまざまなエネルギーをさしましょう。

通常 ‒ その「通常」を「この世」と呼んでも良いですが ‒ 、私たちは その「力」を、生きる源・幸福への原動力としています。力を手に入れ、そのために自己鍛錬を奨励される社会・競争社会に私たちは生きています。この力に最も高い価値を置く価値観が、この世の価値観です。そうではない価値観、イエス様がお示しになった愛を仰ぎ、それを理想とする心を持とうとするのが、主にある信仰共同体・教会です。

今日の礼拝に与えられている聖書箇所の前半 ‒ ペトロの手紙一 1章22節から1章の終わり・25節までは、私たちが御言葉によって新しい命に生かされたこと、生かされ続けることが喜びをもって語られています。だいぶ前置きが長くなってしまいましたが、22節・最初から 少し丁寧に ご一緒に読んでまいりましょう。

22節は、こう語り始めます。「あなたがたは、真理を受け入れて」。

この「真理」は、たいへん具体的な事柄をさしています。イエス様が私たちを罪から救ってくださるために十字架で死なれ、三日後にご復活されたことです。ご復活は、私たちが肉体の死を超えて ずっとイエス様と一緒にいることができる、その永遠の命のしるしです。この救いの事実・主の恵みのみわざを、「受け入れる」。「受け入れる」とは、“自分の存在の根源にそれを置く”というほどの深い意味です。すぐ後に「魂」という言葉が置かれています。

魂という言葉は、西洋哲学では“肉体と魂”というように 見える体に対して見えない精神活動をさすと思いがちです。

しかし、聖書を読まれる時、そのような分け方はなさらない方が良いでしょう。魂は、私たちの目に見える部分である体も見えない部分である精神も すべて含めた存在そのものの根源です。私たちそれぞれを それぞれらしく、唯一無二の一人しかいない者に造り上げているもの・命の根源と申してもよいでしょう。

そこにイエス様の十字架のみわざとご復活を「受け入れる」とは、この事実を感動して理解し、信じ、この事実を思い起こすたびに、自分が生きている実感をいただけるということです。思い起こすたびに、喜びにあふれて、幸福感に満たされ、誰かにこのこと ‒ イエス様の十字架のできごととご復活 ‒ を伝えたくてたまらなくなる、そして正しく 感動と感謝をこめて まだイエス様を知らない方に伝えられるということです。理想的には。

皆さま、いかがでしょう。イエス様の十字架のできごととご復活。そう聞いただけで、またはこれらの言葉を思い浮かべるだけで、心が喜びで震えるでしょうか。どっぷり御言葉に浸かった生活をしているわけではないから、それは ちょっと難しい…そう感じられるかもしれません。日曜日ごとの礼拝で、また特に聖餐式で、あらためて そうだった!と福音を受け入れ直しておられるかと思います。

それで良いのです。イエス様が私たちを呼び集め、こうして一緒に主を仰ぐように教会・群れ・共同体にされたのは、ひとつには、主のものとなった時の喜びと感謝を、正しく更新してくださるためです。私たちは別々に、それぞれで、教会の群れから離れて聖書を読み、祈りを献げていると 自分勝手な方向に迷い込んでしまいがちです。偶像を造ってしまいやすい、弱い私たちです。だからこそ、今日の聖書箇所の次の言葉が語られるのです。「魂を清め」 ‒ 清める、とは、神さまに、聖なる者としてこの世から取り分けていただくことです。

この自分が聖なる者!と驚いて、そんな畏れ多いことがあるわけがない、と否定してしまってはなりません。それは、神さまがイエス様を通して差し伸べてくださっている御手を、拒絶することになります。自分では、自分は汚れている・こんな者が、と思っても、神さまが選んで ご自身を知らせてくださったのです。

その導きに従って来たからこそ、私たちはそれぞれ、今、ここ・神さまの御前に一緒にいます。神さまに私たちのすべてをゆだねる・お任せすることが、私たちの信仰者としての正しいあり方です。人間的な思いは、時に謙遜なようでいて、実は神さまに身をゆだねきっていない傲慢になります。この身は主のものとして、清められている ‒ そう受け入れることが、まことの主の御前での謙虚さです。御心にかなう私たちのあり方です。

そして、主の御前での私たちを自ら 清い者として受け入れたうえで、その次に語られる御言葉は、私たち教会を愛のわざへと導きます。

御言葉は、こう語ります。「あなたがたは偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。」

そう言われても、自分はあまりに自己中心的で愛がない…とたじろいだり、自分にはそんなことはできないと自分で自分を判断したり・裁いたりするのは、むしろ傲慢です。

薬円台教会は毎回、主日礼拝のたびに教団信仰告白の全文を、声を合わせて読み挙げます。我は天地の造り主全能の…と始まる使徒信条に入る直前に、この言葉が置かれているのを 皆さん ご存じでしょう。

「愛のわざに励みつつ、主のふたたび来たりたもうを待ち望む。」

この愛のわざの出発点は、イエス様が十字架で私たちのために命をすててくださるほどの深い愛を知って驚き、恐れ入り、そして感謝することにあります。

そして、「自分を愛するように隣人を愛する」愛が、イエス様によって 自分の身に本当に起こったことを知り、それを愛の理想としてめざし始めるのが、「愛のわざ」の始まりです。

自分を愛するように隣人を愛する ‒ イエス様はご自身の命を私たちのために捨てて、私たちにそれを示されました。ここに、人間の思いを大きく超える価値観の大転換があります。自己犠牲という愛があり、それがどれほど尊いかを 主の十字架は私たちに示すのです。

しかし、主を信じる者の群れ・教会の外の世界は、それを拒否し、力を求める価値観を掲げようとします。だからこそ、まず、主に救われ、愛の深さ尊さを知らされている兄弟姉妹の間・教会で 愛のわざが主に導かれて起こります。教会も単なる人の群れに過ぎないように思えることがあります。新約聖書では、コリントの信徒への手紙で、使徒パウロは コリント教会の愛の乏しさ・この世的な差別の醜さを戒めています。ただ、戒めながらも、パウロは決してコリントの教会をダメだと決めつけません。教会は人間が建てたのではなく、イエス様が呼び集めて教会とされているのだから、ダメと人間が決めつけるのは大いなる傲慢なのです。教会は、主にある希望に生きます。

イエス様の御言葉が語られるところに、聖霊が働きます。生きて働くイエス様・聖霊によって御言葉は 呼び集められた信仰共同体に、喜びをもって聴かれます。ひとりひとりが自分を捨てるイエス様の自己犠牲の愛・十字架の愛を知り、それによって結びあわされている ‒ この霊の働きを信じるところから、始めましょう。それによって、教会は この世にありながら、聖なるものとされ続けます。聖霊に満たされて 今日の説教題である「霊的な家」に成長し、地の塩・世の光とされます。草のように、花のようにはかないこの世にあって、御言葉によって永遠の命に立ち続けます。

薬円台教会は、これまで46年間、そうして立ち続けてきました。

これからも、神中心・御言葉中心・礼拝中心をこころがけ、自分の心の真ん中に自分ではなく、イエス様においでいただこうと心を尽くして祈る者の群れとさせていただきましょう。今、お隣の席におられる兄弟を、姉妹を、主が出会わせてくださった大切な、大切な方と思う心を けっして忘れずに歩んでまいりましょう。

2020年1月12日

説教題:手を伸ばしなさい

聖 書:出エジプト記20章8-11節 、マルコによる福音書3章1−6節

イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

(マルコによる福音書3章1−6節)

私たち薬円台教会は待誕節・アドヴェントに入るまで、主日礼拝ではマルコによる福音書から御言葉をいただいておりました。それをしばらく中断して、救い主イエス様のご降誕をお祝いいたしました。前回1月5日にクリスマスの季節をしめくくる公現日の御言葉 ‒ 東方の学者たちの礼拝の聖書箇所をマタイ福音書に聴き、今日は6週間ぶりにマルコ福音書に戻っています。

これから教会は年度末のまとめの時期に入ります。日曜日に教会で礼拝を献げることの意味・教会とは何か・役員選挙とは何かを、福音を通して学び知らされる機会をいただこうとしています。今日はマルコ福音書のイエス様の言葉と行いから、日曜日・安息日に教会に招かれ集うとはどういうことかを、ご一緒に思い巡らしてまいりましょう。

今日は旧約聖書 出エジプト記20章から、十戒の第四戒・安息日の規定を司式者に朗読していただきました。ユダヤの人々は、十戒を始めとする神さまの律法・掟を固く守り抜き、国土や国としての主権を失っている間も、民族としての一貫性を保っていました。他の国・民族に征服されていても、律法・掟を守ることによって、自分たちが神さまの民だと明らかに示すことができたのです。「安息日には仕事をしない」という掟を守ると、民族が混在している社会の中では、たいへん目立ちます。あの人が仕事に来ない、この人も来ない、そう言えば、休んでいる人はユダヤの人々だ、安息日だから休んでいるのだと、わかります。ユダヤ民族は、このように律法を守ることによってアイデンティティーを守り通し、離散せずに生き延びました。私たちクリスチャンで申しますと、「日曜日は教会へ」‒ これが イエス様を信じる者のしるしとなっていることと重なります。

このように、律法はユダヤ民族にとって信仰のあかしであると同時に、よりどころでもありました。イエス様の時代に、律法の解釈と守り方を教える律法学者・祭司・ファリサイ派の人々がユダヤ社会で重んじられていたのは、そのためでした。しかし、彼らは人間であり、当然 人間の理性と知性の限界の中で律法解釈をします。人間が平和に幸福に生きるようにと、愛をもって律法を授けてくださった神さまの御心を知らずに、ただ ただ命令として、それを守ることに必死になるだけだったのです。

10節で、こう定められています。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」仕事をしないで、では、何をしなさいと、神さまはおっしゃっておられるか ‒ これに、律法学者や祭司、ファリサイ派の人々の思いは十分には及んでいませんでした。もちろん、仕事を休んで、会堂に集まり、礼拝を献げる ‒ それは、当然のこととされていました。しかし、祝福して聖別された安息日・聖なるものとして、日常の人間的な事柄から清められている安息日の祝福について、考え、理解することはなかったのです。

イエス様は、今日の新約聖書 聖書箇所の直前、マルコ福音書2章27節後半でこうおっしゃいました。お読みします。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」

「人の子」は、イエス様がご自身を指す時に用いられる言葉です。神さまの御子であり、ご自身が神さまであるイエス様は、神さまであると同時に人間となってくださいました。主の御心を、イエス様を通し 見える形・耳に聞こえる声として、私たち人間に伝えるためです。「人の子は安息日の主でもある」とのイエス様のお言葉には、「私は、安息日にあなたがたの主・神である私自身を現す」との意味が込められていると考えてもよいでしょう。安息日に礼拝を献げ、そこで私たち人間は、どなたが主であるかを知るのです。礼拝の中で「主なる神さま」が御言葉を通して、私たち教会に、またひとりひとりに、会ってくださいます。進むべき道を示し、励ましを与え、魂に、休息と必要なものすべてを与えてくださるのです。

「人の子は安息日の主でもある。」その御言葉に続くマルコ福音書3章からの聖書箇所・今日いただいている御言葉で、イエス様は、言葉を行いで現してくださいました。

神さまに会うとは どういうことかを、手の萎えた人を癒やすみわざで示されました。

礼拝の中で神さまが私たちにご自身をお示しくださる・私たちに会ってくださる ‒ 特別なこの日・一週間七日の中で一日だけの この日に向けて、神さまは私たちを教会の礼拝に招いてくださいます。清めてくださいます。この世から、ご自身のもの・聖なる者へと取り分けてくださいます。それが祝福され、聖別されるということです。ですから、私たちは 神さまとの出会いを期待する思いを心のうちに起こされ、それに導かれ、同じひとすじの心で御堂に集められます。

ところが、今日の聖書箇所では、律法学者やファリサイ派の人々は、別の目的を持って安息日の会堂に集まりました。2節です。「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。」

マルコ福音書の1章、2章には、イエス様が 何人かの人々を癒やされたことが記されています。私たちは、悪霊にとりつかれた人が その悪霊をイエス様に追い払っていただいたこと、重い皮膚病の人、そして中風の人が癒やされたことを読んでまいりました。イエス様は、癒やしのみわざによって、病や障がいに苦しむ人々を その苦しみから解放されました。救われました。神さまは、私たちを「たいへん善い」ものに造って命を与えてくださり、「善い状態」に保ち、命を保ってくださいます。私たちの命を造り、保ち、支える方として、神さまであるイエス様は、癒やしのみわざをなさいます。

しかし、人々には 預言されていたメシア・救い主が 今 自分の目の前においでだということが、まったく分からなかったのです。多くの者が驚き、喜びました。ある者たちは不思議がり、イエス様のことを怪しみました。そして、ある人々は、イエス様をねたみました。

ねたみには、恐怖心も交じっていたでしょう。ユダヤ社会で人々の尊敬を最も集めていた祭司・律法学者・ファリサイ派の人々は、イエス様の評判が高いので、自分の地位を脅かされるように感じました。

とんでもないライバルが、それも競争してもとうてい勝ち目のないライバルが現れたと、彼らはイエス様のことを思ったのでしょう。聖書の研究を専門としているはずの者たちなのに、聖書に預言されていが救い主が 目の前にいてもまったく理解できなかったのです。聖書の御言葉を信じきれていなかったのでしょうか。信じたくても、正しいのは自分・すべてを知っているといるのも自分という傲慢な思い込みで、何も見えなくなっていたのでしょうか。

彼らは、イエス様の評判を落とし、ユダヤ社会の表舞台から追放しようと考えるようになりました。そこで、イエス様が安息日に、「人の病を癒やすという仕事をしている」ことが律法に違反していると、イエス様を律法違反者・罪人(つみびと)として訴え出ることを思い付いたのです。

彼らは、礼拝で神さまとの出会いをいただくことなど そっちのけとなっていました。安息日に神さまのことを思わず、自分のためになることだけ・自分の利益だけを考えていたのです。この彼らこそ、神さまに背を向けて自分勝手に進もうとしている罪人たちでした。

しかし、イエス様が天の父なる神さまに この世に遣わされたのは、このような本来的な意味での罪人をも 救うためでした。神さまがおられることを知らせ、その恵みの光の中に呼び戻そうと、イエス様はなさいました。ご自身が神さまであることを明らかにするために、イエス様は、あえて、この時に癒やしのみわざをなさったのです。

3節で、イエス様は手の萎えた人に、こうおっしゃいました。「真ん中に立ちなさい。」

突然、人目につく会堂の真ん中に招き出された この手の萎えた人は、驚いたことでしょう。しかし、神さまの救いのみわざは、神さまがおられることを確かに示すために、人々の目の前で行われなければならないのです。

これは、私たちの教会でも同じです。教会で救いのみわざが行われるのは、いつでしょう。それは、洗礼式です。洗礼を受けるとは、救われたしるしをいただくことです。イエス様が十字架で自分のために命を捨てられたことを受け入れ、ご復活で肉体の死を超えてイエス様と共にいられる永遠の命を受けたことを信じるしるしです。これは、病床洗礼などの特別な場合を除き、教会の礼拝の中で、教会の兄弟姉妹の目前で行われなければなりません。

でも、洗礼を希望される方に洗礼式のことを説明すると、たまに、こうおっしゃる方がおられます。“みんなが見ている前で洗礼を受けるのは恥ずかしいから、牧師と二人だけの時に、こっそり授けてくれませんか。”こう言われてしまうと、私は内心で、この人は まだ教会が何であるかわかっていない、と思います。もっと、この方と 洗礼前の学びを続けないといけないと気付かされるのです。

人前に出るのが恥ずかしい、という気持ちはよく判ります。しかし、神さまの栄光は、広く示されなければなりません。洗礼式では、その栄光が顕され、その人が主に救われたことを目撃し、証言できる“あかし人”として、教会の兄弟姉妹が用いられ、立てられるのです。教会は、主を証しします。

さて、今日の聖書箇所から、手の萎えた人が素直にイエス様の言葉に従って真ん中に立ったことが読み取れます。何も記されてはいませんが、この時、この手の萎えた人がずっと担ってきた苦しみやつらさを、イエス様は 知り尽くし、この人のその重荷に寄り添われたのでしょう。この人は、イエス様からその思いのこもった深い慈しみのまなざしをそそがれ、その瞳がたたえる優しさに強く招かれて、恥ずかしさを忘れて会堂の真ん中に立つことができたのではないでしょうか。恥ずかしさを忘れた、とは自分を好奇の目でみつめるかもしれない、会堂に集まっている他の人々の存在を忘れたということです。この人には、この時、イエス様しか見えなくなりました。この自分を慈しみ、癒やそうと招いてくださるイエス様と、自分しか、ここにはいない。

そうとしか感じられない瞬間を、この人はいただきました。この人は、安息日の会堂で、確かに自分の主に、神さまに出会ったのです。私たちも同じ経験を持ちたいものです。主日礼拝の中で、語られる御言葉の中に、確かに自分だけにそそがれる神さまの愛を知り、癒やされ、慰められ、励まされたいものです。

このように、手の萎えた人を会堂の真ん中に招いてから、イエス様は、続けて言われました。それは、ユダヤの人々の律法理解、「安息日には仕事をすることが 許されていない」という禁止命令とは、まったく異なる視点からの安息日規定でした。「安息日に禁止されていること」ではなく、行うようにと神さまが言われるのは 何か。

イエス様は、人々にそう尋ねられたのです。

神さまは天地を創造されて、命を造られ、私たち人間を造られ、生かして、安息されました。命の源である、この神さまに心を向けるようにと私たちは求められています。そこに、私たちの本来の姿があり、神さまの御前で、その御手の中で憩うことに、まことの安らぎが、平安があるからです。安息日は命の主の日。だから、安息日には善を行い、命を救うことを神さまは望んでおられると、イエス様はおっしゃいました。

しかし、イエス様の問いかけに、人々は沈黙していました。いろいろな沈黙がありますが、この沈黙は戸惑いを通り越して、ファリサイ派や律法学者たちの憎しみ・イエス様を拒絶し、追放しようとする悪意が滲み出た沈黙でした。目の前に神さまがいながら、無視し、ないがしろにする沈黙です。新しく神さまの御心を伝えていただいているのに、自分の思いに頑固にしがみついている愚かしい沈黙です。

せっかくイエス様が、安息日は命の神さまに立ち帰れと 悔い改め・神さまへの向き直りを勧めてくださっているのに、人々はそれを拒否しました。

イエス様は怒って人々を見回し、悲しまれました。

神さまが恵みをくださろうとしているのに、いりません、と拒絶する。神さまは怒り、そして嘆きます。しかし、イエス様は さらに人々を招いてくださるのです。神さまの愛と恵みを顕すために、手の萎えた人を癒やされました。「手を伸ばしなさい」とおっしゃると、萎えた手は伸びて元どおりになりました。

萎えた手。ファリサイ派や律法学者たちの心は、主に向かって伸ばされていませんでした。縮こまっていました。安息日に主の御前にありながら、自分のことばかり考えていました。私たちも、うっかりすると、教会に自分の活躍の場を求めてしまいます。神さまに手を伸ばすことを忘れ、自分の能力を人に、何と 時には神様に 示そうとしてしまいます。ほら、私はこんなことが上手にできますよ、神様 見て下さい、と。

イエス様は、このような人間を もどかしいと思いつつも、怒りつつ悲しみつつも、安息日・主日礼拝の中で、私はここにいる、と私たちの萎えた手を癒やしてくださいます。さあ、私に向かってあなたの心の手を伸ばしなさいと、招いてくださいます。

イエス様に、私たちも心の手を伸ばしましょう。主は必ず 私たちの手をしっかりと握ってくださいます。決して離さずに、私たち一人一人と共に、日々を、今日から始まる一週間を、歩み通してくださいます。信じ、安心して進み出しましょう。

2020年1月5日

説教題:献身の恵みと幸い

聖 書:ミカ書5章1節 、マタイによる福音書2章1−12節

エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中からわたしのために イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。

(ミカ書5章1節)

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。…そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

(マタイによる福音書2章1-3節、8-12節)

新しい主の年2020年最初の主日礼拝を、こうして皆さんと献げられる幸いを、まず感謝いたします。いろいろなことがあった2019年を、共に主に導かれてご一緒に歩み、アドヴェントを過ごし、クリスマスを祝い、そして、今日このように最初の日曜日を迎えています。

今日が1月5日。ですから、当たり前と言えばそのとおりですが、明日は1月6日です。キリスト教の暦でエピファニーと呼ぶ日です。「明らかになる」という意味の言葉で、私たち日本のプロテスタント教会は「公現日」と訳してまいりました。

“公(おおやけ)に現れる”と書いて「公現日」です。

この日をもって、教会のクリスマスの季節が終わります。アドヴェントから一ヶ月余りにわたって、教会の玄関扉にはクリスマスリースを、掲示板にはたくさんの教会から贈られたクリスマスカードを、また講壇には常緑樹・エヴァーグリーンとポインセチアを飾ってまいりました。これは、明日には片付けます。

今、クリスマスの季節が“終わる”と申しました。クリスマスに限りませんが、私はいつも、“終わる”という言葉を用います時、何か もうひとこと、添えたい気持ちになります。何かが終わるとき、それは ただ“終わる”だけではないからです。終わって、何もなくなってしまうのではありません。特に主と共に生きる信仰生活を思いますと、物事なり事柄なりが一区切りつく時は、そこから“さらに新しく進む”という気持ちが強く働いているのではないでしょうか。

年の初めから、少し説教が横道に入ってしまうように思いますが、卒業式 ‒ 学校などの定められた課程を修め終わって、学舎(まなびや)から出て行く、あの卒業式の“卒”は、日本語では“ついに終える”という意味を持つ字だそうです。しかし、英語では graduation と言ったり、commencement と言ったりします。Graduation は、段階をだんだんと上がってゆくという意味、commencement はたいへん興味深いことに、なんと“終わる”の真反対・真逆で“開始・始まり”の意味を持ちます。繰り返しますが、私たちが生きてゆく途上で、ひとつの物事なり段階なり、事柄なりを終えると、すぐ目の前に新しいことが始まります。神さまが、イエス様が、私たちを差し招き 寄り添って、新しい道への歩みを進ませてくださいます。

クリスマスの終わりも、新しい歩みの始まりです。

私たち一人一人の、また教会全体の、新しい季節が動き出します。

前置きがたいへん長くなりましたが、クリスマスの終わりを示す1月6日の公現日に与えられている聖書箇所は、その新しい始まりを指し示しています。神の御子イエス様が 天のお父様のもとを離れてこの世にお生まれになり、真実の光を地上に初めて現してくださいました。

ヨハネによる福音書1章は語ります。「光は暗闇の中で輝いている。」(1:5)その輝きは大きくなって行きます。世界の隅々にまでおよびます。今も、広がり続けています。イエス様の救いのみわざが全世界に広がってゆく、その始まりが、今日の御言葉が語る東方の学者たちの礼拝なのです。世界の片隅・ユダヤの町ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったイエス様は、ユダヤ民族の救い主として何百年も待ち望まれていた方でした。しかし、ユダヤ民族だけにとどまらず、人類すべての、そしていつの時代にあっても、私たちを救って生かし続けてくださる方です。東から、ユダヤから見れば外国から、星をたよりにやってきた学者たちが、イエス様に会い、大いに喜び、礼拝し、そして自分たちの国へ帰って行きました。

ユダヤの礼拝は、神さまを主と仰ぐ長い歴史の中で、すでに定められたかたち・様式を持っていました。しかし、その歴史と文化、精神的風土と風習の中で育っていない外国の学者たちが、今日の聖書箇所の中で、イエス様を正しく喜ばしく礼拝し、心を豊かに満たされました。私たちも、今日からの新しい年、日曜日の礼拝を中心とする一年を過ごそうとしています。礼拝とは何か、この占星術の学者たちのどんな思いと行動が礼拝を成り立たせているのかを、今日は御言葉からご一緒に聴き取りたく思います。

礼拝とは、何でしょう。大きく五つの事柄が語られています。

まず、学者たちの初動・最初の動き、または動機を知りましょう。礼拝へと彼らを突き動かしたモチベーションは、何だったのでしょう。

それは、救い主を強く、強く尋ね求める心です。今日の2節に、このように記されています。彼らは長く旅を続け、ユダヤの中心エルサレムへたどりついて、こう尋ねました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」これは痛切な問いかけです。

自分が抱えている課題への解決・究極の答えは、どこにあるのか。

私の光は、どこにあるのか。

神さま、私に会ってください。

私には、あなたしか、救いがないからです。

繰り返しお伝えしていることですが、当時の社会にあって、占星術の学者は最高の知識人であり、高い科学技術を持った人たちでした。

星の動きを見て、天候を予想し、その年の自然災害やそれに伴っての疫病の流行などを人々に知らせることができたでしょう。彼らは薬学や医療にも詳しかったと言われています。努力と能力と知識によって、社会に安定を、人々の心に平安をもたらすことが、ある程度、できたのです。しかし、できないことも多かったでしょう。自分たちの予想・予報がはずれてしまい、嘆く人々を見て、人間の力には限界があることを思い知らされていたのではないでしょうか。自分はおよそ 完全からは ほど遠い、自分には決定的な欠けがある ‒ それを、悲しみと焦燥感とともに思い知ることを、聖書は“罪を知る”と言います。

だから、学者たちは人間を超える超絶的な方を、救い主を渇望したのです。

そして、彼らは星に導かれました。今日の聖書箇所9節には、このように記されています。「東方で見た星が先立って進み」。その星を追って、彼らはひたすら砂漠を進みました。彼らは従順です。すなおに従う謙虚な心を持っています。その謙虚な彼らに、星は自ら答えてくれました。9節の後半です。「ついに幼子のいる場所の上に止まった。」

神さまを求める私たち人間の思いに、神さまは必ずはっきりと答えてくださいます。神さまの方から、しるしを見せてくださいます。学者たちに、星は「ここだ! 救い主はここにいる!」と止まって、それを示しました。旧約聖書に「哀歌」という書があります。エレミヤ書のすぐ後に置かれています。その3章25節は、こう告げています。「主に望みをおき尋ね求める魂に 主は幸いをお与えになる。」(P1290)

学者たちは、この哀歌の御言葉どおりに、幸いをいただきました。今日の御言葉 マタイ福音書2章10節はこう語ります。「学者たちは、その星を見て喜びにあふれた。」

先ほど、礼拝の五つの事柄と申しました。その二つ目と三つ目がここにあります。神さまからのしるし、啓示。そして、その啓示を受けた喜びです。

学者たちが家に入ると、そこには幼子イエス様が母マリアと共におられました。ユダヤの礼拝と決定的に違う、新しい礼拝がここにあります。ユダヤの礼拝では、神殿の奥・至聖所には、祭司しか入ることができません。しかし、イエス様は私たちと同じ人間の体を持ち、見える姿で親しく私たちに臨んでくださいます。

学者たちは、ユダヤの礼拝では祭司に託して献げる献げ物を、こうして直接、イエス様に献げることができたのです。イエス様へと導かれ、彼らの心に喜びがあふれました。私たち人間は“土の器”ですが、神さまがそこに命の息・聖霊を吹き入れて、生きる者としてくださいます。いくら汲んでも尽きることのない永遠の命の泉、イエス様ご自身の潤いであふれさせてくださいます。あふれた喜びを、私たちはどうすればよいのでしょう。自分自身を献げるのです。神さま、私はここにいます、と自分を差し出します。

今日は、説教題を「献身の恵みと幸い」といたしました。

私たちは礼拝の中でお献げをする時、しばしば「感謝と献身のしるしとして、ここに献げ物をいたします」と祈ります。献身は、より狭い意味では御言葉に仕える主の僕(しもべ)として伝道者・牧師になることを指しますが、それだけではありません。皆さんは、毎週、日曜日の午前中、もし主を知らなければご家庭で寛いでいたかもしれない時間・仕事を離れてご家族と過ごす団欒の時間・自由気ままに自分の好きなことに熱中していたかもしれない時間を犠牲にして、主に献げています。そして、宝も献げています。

礼拝はオルガンの前奏から始まりますが、その直後に「招きのことば・招詞」が置かれています。主が私たちを礼拝に招待してくださる言葉、そして礼拝の姿勢・神さまの御前での姿勢を整える言葉です。今日は、詩編100編から「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ」から始まる 招きの言葉が与えられました。どの聖書箇所という決まりは特にありませんが、日本基督教団の教会では、だいたい10の御言葉を用いています。その中に、ローマの信徒への手紙12章からの聖句があります。今日も、実はこちらを示されているのかとだいぶ迷って祈ったのですが、このような御言葉です。お読みします。「兄弟姉妹たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12:1)

「いけにえ」は犠牲と書くことがあります。誰かのため または何事かのために、自分の身を献げることを意味します。私たちが献身するのは、イエス様がご自身の身を私たちの罪の救いのために、犠牲にしてくださったからです。

今日の聖書箇所は、こう語ります。11節の後半です。学者たちは自分の宝の箱を開けて贈り物を献げた ‒ 献げ物をしました。

宝は財産とも考えられますが、より広く深い意味で、自分がこれまでの人生で頼みにしてきたよりどころ、これがないと生きていけない物をさしましょう。学者たちを学者として成り立たせる物・占星術により星の運行を調べ、人を癒やすのに必要な、いわば商売道具の黄金・乳香・没薬だったとも言われています。彼らは、これまでの自分達になくてはならない物よりも、イエス様に出会った喜びと感謝の方がずっとたいせつであり、主こそが自分のこれからのよりどころとすべきだと気付かされ、これまでの宝を主に献げ、その決意を表しました。学者たちが献げた三つの宝のひとつ、没薬は、当時のシリア地方で死者の埋葬に用いられ、遺体をミイラにする防腐剤でした。イエス様が後に、十字架で死なれることを表しています。

イエス様は、自分の罪のために滅びなければならない私たちを救うために、まったく罪のない方であるにも関わらず、私たちのために命を捨ててくださいました。そして私たちに永遠の命を与えたことを、ご復活によって示してくださいました。

そのことを思う時、私たちはいくら私たちが献げ物をしても、追いつかない ‒ そんな ふがいなさを感じます。しかし、せめてもの、自分にできるせいいっぱいの献げ物 ‒ 宝にしても、行動で献げる奉仕、自分がしてほしいことを隣人にも行い、時に自分よりも隣人を優先する愛のわざ‒ を主は喜んで受けとめてくださいます。それを清め、私たちを清め、礼拝の喜びと幸いで満たしてくださいます。

そして、今日の御言葉は最後に、学者たちが別の道を通って帰って行ったことを告げています。救い主と出会った人は、これまでと別の生き方をするようになります。私たちが新しく造り変えられる、礼拝の恵みです。

今日の聖書箇所が伝える五つの事柄。主を尋ね求める心。それに応えて与えられるしるし・啓示。大きな喜び。献身。そして、始まる新しい生き方。この年も、この恵みの礼拝を魂の中心・生活の中心としとして、ご一緒に歩んでまいりましょう。

2019年12月29日

説教題:飼い葉桶の救い主

聖 書:詩編2編7-12節 、ルカによる福音書2章1−7節

ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には、彼らの泊まる場所がなかったからである。

(ルカによる福音書2章4-7節)

今年2019年のクリスマス、薬円台教会はルカによる福音書の御言葉から22日のクリスマス礼拝、そして24日の聖夜讃美礼拝の恵みに与りました。

22日には、神さまが暗いこの世、その闇の中でめざめていた羊飼いたちに、ご自身の栄光の光・この世ならぬまばゆさによって、神さまが確かにおられるとのマニフェストを顕されたことを聴きました。

それは、私たちを覆う暗い闇の一隅に天への突破口を開いたかのようでした。神さまの光が地を照らし、御子イエス様は天のお父さまのもとから、その光に運ばれたようにお生まれになりました。それを目撃する幸いをいただいた羊飼いたちは、最初のクリスマスの礼拝者、そしてイエス様のお誕生を世に告げる最初の伝道者となったのです。

24日の聖夜讃美礼拝では、その天の光が 人間の目には、この世の最も小さく低められた片隅に見える場所に届いたことを知らされました。それによって、神さまは 私たち皆、それぞれを、一人ももれることなく・一人残らず神さまの光の中へと招いてくださるのです。誰も、暗闇の中に残される者はありません。自分からすすんで、神さまの光でない偽の光を追い求めてしまわない限り。イエス様のお誕生は、神さまが私たちを決して手放さず、必ず助け導き、ご自分のところへと連れ帰してくださるしるしです。安らぎのあかし・平安のしるしです。

しかし、私たち人間たちは イエス様が世に来られても、これほどに明らかなしるしを「神さまがおられる証拠」として受け入れることができませんでした。神さまは、このことも当然、見越し、知り尽くしておられました。

今日の聖書箇所の中に、それははっきりと書き記されています。

今日の聖句の最後のところです。御言葉は、こう語ります。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」ご降誕の夜、マリアとヨセフ、そしてマリアのおなかの中におられるイエス様を、喜んで受け入れようとする場所はありませんでした。馬小屋の、家畜のエサ箱・飼い葉桶の中しか、なかったのです。

しかし、これをすでに神さまが予定され、ご存じでした。どうしても神さまを信じ続けられない、神さまの光の中に留まり続けられない人間を救うために、神さまは驚くべきご計画を立てておられたのです。

神さまは、そのご計画を 御子イエス様をこの世に遣わす前から定められていました。言い換えれば、イエス様は、そのご計画を成し遂げるためにこの世に遣わされたのです。

産まれたばかりの赤ちゃんが 家畜のエサ箱に寝かされるというこの異常な出来事・誰もが印象深く心に留めているこのクリスマスの出来事は、そのご計画の最初の一歩でした。

今年のアドヴェント礼拝の説教、そしてクリスマス礼拝の説教を準備するために読んだものの中に、興味深い御言葉の取り継ぎが紹介されていました。皆さんと分かち合いたいと すぐに思いましたが、少し迷っておりました。しかし、やはりご紹介したいと思います。竹森満佐一牧師、日本の講解説教の型を造ったと言われる、1975年から79年まで 東京神学大学の学長も務められた竹森先生の説教です。その中に、古い時代、おそらくキリスト教が西と東、西方教会と、ギリシャ正教などの東方教会に分かれる前の説教にこのようなことが記されていたとあります。‒ 天の神さまが、ご自身を、ご自身の御子を世に遣わされると天使たちに告げると、天がどよめいた。 何ということを 神さまはなさるのか。そう天使たちが驚き、衝撃を受けてどよめいたというのです。天使たちが平常心を保てずに騒いでしまうほどに、神さまが地へくだるとは 人間ばかりでなく 天使たちの思いをもはるかに超える出来事だったのです。もちろん、これは聖書に記されておらず、説教者の黙想ですが。ここに天と地はかけ離れており、天使達が 人間が暮らす地上・この世を罪深い闇の谷、恐ろしい場所ととらえていたという、古代教父の信仰が、読み取れます。

それほどに、この世は無法と悪に満ち、罪に満ちていたと、私たちは竹森牧師が紹介してくださるこの説教を通して、古代教父から学ぶことができましょう。

罪は、つぐなわれなければなりません。人の世に、他者と共に生きる限り、これはきまりです。ルールです。

そして人は一人では生きて行けません。一人で生きようと強引に決めた時、人は人の間にいなくなります。人間ではなくなります。

ごく幼い子供でも、人のものを壊したり、なくしたりしたら、つぐなうことを親や周りの大人から教えられます。

まず、ごめんなさいと言い、ゆるしてもらいます。そして、できる限り、元どおりにしようとします。壊したオモチャを、まず子供は一生懸命 直そうとするのではないでしょうか。直らなければ、似た物を探し出して、代わりに「はい、どうぞ」と差し出すように躾けられます。けんかをしたら、壊れた人間関係を直して元どおりになるようにと言われます。私たちのすべての人間関係は、そして神さまとの関係も、もちろん、仲直り すなわち和解で 安らぎの決着へと導かれなければなりません。

この世の罪の基は、神さまが確かにおられるのに、その神さまを信じず ないがしろにしていることです。親を、自分の親でないと軽んじたり、友だち同士なのに、友情を裏切ったり、無視して「なんだ、お前なんかいないと思ったよ」と茶化したりするのと、たいして変わりません。

神さまが本当においでになるのだろうか。そう疑うことがそもそも、厳しい言い方をすれば 神さまをないがしろにしていることになります。それは、自分を造られた神さま・自分の存在の根拠を否定でもあります。自分をもないがしろにしています。

人間はこの罪を、自らの存在を無にする、つまり滅びの死をもってあがなわなければなりません。しかし、神さまは、人間をたいせつに思ってくださり、何とか滅びの死から救い出そうと ご自身を、ご自身の御子を 人間の代わりとして滅ぼす計画を立てられました。

それがイエス様の十字架の出来事とご復活です。

この地上で、居場所がなくて飼い葉桶に寝かされた乳飲み子イエス様は、成長されて伝道のお働きを始めました。弟子たちに愛され、人々に慕われました。その一方で、神さまとして、正しい律法解釈・人間の知恵では思いもよらない説教をされるので、律法学者やファリサイ派の人々からは憎まれたのです。律法学者・祭司・ファリサイ派の人々は、当時のユダヤ者会の指導者層です。彼らに憎まれ疎まれ、イエス様は社会から抹消されようと、暗殺計画まで立てられました。

そして、彼ら律法学者たちの この罪をもゆるすために、彼らに代わって、私たちひとりひとり皆に代わって、イエス様は十字架で滅びの死を死なれました。

天の父の、このご計画は、すでにイエス様がお生まれになった時に定まっていました。私たちは そのしるしを、今日の御言葉 そして先週の御言葉の両方に与えられています。たいせつなしるしの言葉なので、二回、聖書に書かれています。皆さん、みつけられるでしょうか。

先週の箇所で申しますと、ルカ福音書2章の12節です。

今日の箇所ですと、同じルカ福音書2章の7節です。

この言葉です。「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」、そして「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている」。

布に包まれて、横たえられる。もう、お気づきかと思います。また、教会生活が長い方は、教会で過ごした何度かのクリスマス、その礼拝説教の中で聴いてこられたと存じます。

布にくるまれて横たえられる ‒ それは、ユダヤ、エジプト、シリア地方で人が葬られる時の姿です。エジプトのピラミッドに納められるミイラを思い起こしていただくと分かりやすいでしょう。没薬・防腐剤を使って、布で亡くなった人の体をすっかり包み、掘った横穴・洞窟に葬ります。

イエス様が、私たちの代わりに十字架で死なれ、私たちの代わりに罪をあがなって滅んでくださることを、神さまはこの幼子イエス様のお生まれの姿を通して表されました。

しかし、十字架の出来事だけでは、人間には神さまにこうして救われたことがわかりません。イエス様は、死に打ち勝って、神さまのみもとに帰ることをご復活で示されました。死を超えて、生きる道が、イエス様によって開かれたのです。死ねば何もかも終わりになる、すべて無になるという絶望は、救い主のご復活によってくつがえされました。私たちはこの世の命と死を超えて、イエス様と、また神さまと共にいる永遠の命を与えられたのです。

今年のクリスマスは、御言葉を通して、イエス様のお生まれによって私たち人間にもたらされた三つの恵みを分かち合いました。

皆さんの心に、どの恵みが特にとどまっているでしょう。

まことの平和の恵みでしょうか。人間は、力ですべてを平らげ、制覇による社会の安定を図ろうとしますが、神さまは、力をすべて投げ出し、愛による平和を示してくださいました。

あらゆる権威を天に置き残され、神さまの御子イエス様は、人間として最も弱い者・赤ちゃんとして、この世界の片隅・人間社会の最も低いところ、本来人が泊まるはずもない馬小屋の飼い葉桶の中においでくださいました。

私たちが自らを見捨てる時、全世界が自分を憎んでいるように思える時、絶望の暗い片隅に身を隠そうとしてしまう時に、イエス様は、共においでくださいます。その暗がりに一緒に身を潜め、さあ、自分があなたの代わりに この闇を引き受けた、あなたは光の方へ、父の方へ進み出しなさいと そっと背中を押してくださいます。その片隅にもおいでになったイエス様でしょうか。

または、十字架の出来事とご復活の道を歩み出されるために、布にくるまれて飼い葉桶に横たえられた、永遠の命の約束のしるし、救い主イエス様でしょうか。

それぞれに与った恵みを、兄弟姉妹への、ご家族への、隣人への思いやりのこもった言葉や行い、または祈りへと導かれて、新しい主の年2020年へと進み行きましょう。

2019年12月22日

説教題:聖なる幼子のやすらぎ

聖 書:イザヤ書9章1-6節 、ルカによる福音書2章8−20節

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、世には平和、御心に適う人にあれ。」天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いらは、「さあベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。…羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

(ルカによる福音書2章8-20節)

クリスマス礼拝の朝を迎えました。私たちの救い主のご降誕を、心からお祝いします。この朝、私たちはイエス様がお生まれになった、その出来事を伝える御言葉をいただいています。

それは、夜の出来事でありました。

人々が寝静まった町から遠く、ユダヤは砂漠地帯にありますから砂漠・荒れ野に近い原で、羊飼いたちが羊の番をしていました。その時代、羊は厩舎のように屋根と囲いのあるところで飼育せず、放し飼いだったと言われています。いろいろな人たちから預かった羊を群れにして、良い餌となる原と水場に伴って世話をするのが、羊飼いたちの仕事でした。

夜になると、山犬や狼が羊を襲いに現れます。この夜も、羊たちを野獣から守るために、羊飼いたちは寝ずの番をしていました。昼は灼熱の暑さとなる砂漠・荒れ野は、夜になると一転して氷点下近くまで気温が下がります。獣たちを追い払うため、そして暖を取るために、羊飼いたちは小さな焚き火を燃やしていたでしょう。彼らは、羊たちの寝息を確かめつつ、静かに燃える炎をみつめ、そのゆらめきの向こうに広がる闇の暗さを感じていたかもしれません。

砂漠を旅した人は、紀行文などによく、だいたい同じようにこう記しています。“砂漠で過ごす夜、静かさと闇の深さに圧倒的な孤独を感じた。見上げると空は満天の星。宇宙を感じた。”虚空の中に、自分という小さな、小さな存在があることに限りない孤独と不思議を感じさせるのが、荒れ野・砂漠の夜でしょう。頼りなさから、一刻も早く夜明けが来ないかと、光を待ち望む思いになるでしょう。

2020年ほど前、砂漠の夜、羊飼いたちは驚くべき体験をしました。

今日のルカ福音書聖書箇所の9節です。お読みします。「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした。」突然、神さまの御使いが現れ、あたりは主の栄光の光でまばゆいばかりに明るくなった、と聖書は語るのです。主の栄光とは、何でしょう。「栄光」を表す聖書の原典・もとの言葉、ギリシャ語“ドクサ”には、このような意味があります。

“神が、言葉によらずにご自身を顕す明白なしるし・マニフェスト。”

羊飼いたちは、それまで天使を見たことも、もちろん神さまを見たこともなかったでしょう。人間は生きて神さまを見ることはできません。しかし、それにもかかわらず、羊飼いたちには、現れたのが神さまからの御使い・天使だとわかりました。そして、神さまがあたりを照らすまばゆい光、人間が熾す火の明るさ・灯りの明るさとはまったく違う その「主の栄光」の光によって“ここにわたしがいる、あなたがたの主、神があなたがたと共にいる”というメッセージを受け取ったのです。

羊飼いたちは恐れおののきました。未知の体験をしていることへの恐怖もあり、同時に神さまへの畏れ・畏怖も、勿論あったでしょう。そこに、天使の声が響きました。これははっきりと言葉で羊飼いたちに伝えられました。「恐れるな、わたしは民全体に、大きな喜びを告げる。」喜びの知らせだから、怖がることはないと、天使は言ったのです。

“喜びの知らせ”と聞いて、ユダヤの者であればすぐに「あ、あのことかもしれない!」と思い至る事柄がありました。それは、すでに数百年前から、ユダヤの預言者たちを通して伝えられていた救い主誕生の預言です。

ユダヤの民は、実に苦難の多い歴史を持つ、苦労の多い民族でした。そもそも自分の国・国土を持っておらず、エジプトで奴隷としてピラミッド建設に仕えさせられていた人々だったのです。神さまは彼らを憐れんで、指導者としてモーセを立て、エジプトを脱出させ、40年の荒れ野でのさすらいを経て、約束の地カナンに導きました。

誰にもこき使われることなく、自分たちで自由な独立国を築けると思いきや、ユダヤの民にやすらぎはありませんでした。

彼らは神さまへの感謝を忘れ、勝手にその土地の神、偶像を崇めるようになりました。木や石で造られた偶像は、目で見ることができます。人間の手で造られたものに過ぎないのに、人間には目で見て確かめることができるものしか、信じることのできない浅はかさがあります。偶像崇拝がもたらす誤った信仰心、自己陶酔 ‒ セルフ・エクスタシー ‒ とも言える愚かしい状態を、神さまは、深く悲しまれました。

彼らが定着を始めたカナンの地には、いろいろな他民族が攻め込んできました。今日の旧約聖書が語るいくさが、数百年にわたって繰り返されたのです。他国・他民族の兵士の靴が、ユダヤの土地を踏み鳴らし、踏み荒らし、ユダヤの兵士たちの軍服は血にまみれました。戦争の悲哀、どうしようもない救いのなさ、そして聖書の言葉を用いれば“罪深さ”は、やられたらやり返さざるを得ないことにあります。自分の愛する者を守るために戦わなくてはならないことにあります。自分は誰も傷つけたくないと思っていても、戦わなくては 家族が、子どもたちが、傷つけられ、殺されてしまうのです。

ユダヤの人々には、やすらぎはありませんでした。平穏な時代は長く続かず、幸せな時にも、この幸福はいつまでだろうと戦々恐々としていなくてはなりませんでした。神さまは預言者を通して、ご自分がおられること、そこに平安がある事を伝え続けましたが、ユダヤの人々は目に見えない神さまに信じ、付き従うことができずにいたのです。

神さまは、彼らを見捨てず、ひとつの約束をしてくださいました。

真実の王を与えよう、という約束でした。それはメシア、救い主として、戦いの根を断ち、まことのやすらぎをもたらす平和の源として生まれると宣言されたのです。それが、今日、私たちがいただいているイザヤ書9章5節の言葉です。「ひとりのみどりごがわたしたちに与えられた。」

そして、その名は「驚くべき指導者」・リーダーであり、「平和の君」。

誰もが願っている平和を、驚くような、人の思いを超えて成し遂げてくださる指導者が生まれる。神さまは、その約束をユダヤの民に幾人もの預言者を通して与えられました。ユダヤの人々は、その究極の約束が実現するのを、待っていました。だから、羊飼いたちは「良い知らせ」との天使の言葉を聞いて、「もしや、平和の君が生まれるというあの約束が実現するのでは?!」と思い至ったのです。

しかし、天使が語る言葉は彼らの予想とは大きくかけはなれたものでした。「平和の君」は、もとの言葉・ヒブル語の訳を考えつつ言い換えると“平和の君主”“平和の王子、プリンス”ですから、庶民とは異なる王族に、そのみどりごが生まれるとの予想を抱いても不思議はありません。ところが、その幼子は王家のお城の中で、ゆりかごにいると天使は言いませんでした。「飼い葉桶の中に寝ている」というのです。

飼い葉桶は、家畜の餌を入れるものです。今も昔も、ユダヤでも、日本でも、おそらく世界のどの国でも、家畜のえさ箱を生まれたばかりの赤ちゃんの寝床として使う文化はないでしょう。羊飼いたちは、耳を疑ったでしょう。しかし、これこそがメシアのしるし、約束の「平和の王子」である救い主が生まれたことのしるしだと天使は言いました。

さらに、この天使に天の大軍、幾多の、大勢の天使が加わって、賛美の歌声が空いっぱいに響きました。14節です。お読みします。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

天使たちが歌う「地には平和」の言葉を、羊飼いたちの耳はしっかりととらえました。「平和」と言った、と彼らは天使の言葉を受けとめたでしょう。やっぱり あの約束だ、ついに平和へと、やすらぎへと自分たちを導いてくれる方が現れる、あの約束だと気付いたのです。

そして、天使は彼らを離れ去り、もとの星空が戻ってきました。羊飼いたちは互いに目を見合わせ、同じ体験をしたこと・今の天使のお告げが自分たちに確かに起こったことを確かめ合いました。そして話し合ったのです。「さあ、ベツレヘムへ行こう!」 “私たちがずっと、ずっと待っていたやすらぎの生活・平和な日々をもたらしてくれる約束が果たされる、その救い主のお生まれの出来事を見に行こう!”

羊飼いたちは、急いで出かけずにはいられませんでした。不思議な出来事を体験し、美しく清らかな天使のお告げを聞いただけでは終わらなかったのです。何よりも、彼らは天使に「しるし」をいただいていました。「飼い葉桶の中で寝ている乳飲み子」が目印、と言われました。飼い葉桶に寝かされている乳飲み子は まず他にはいないでしょう。お告げが実現していればすぐにわかる! そう、彼らは即座に理解して、走り出したのです。

主が告げられた乳飲み子は、すぐにみつかりました。彼らが荒れ野で天使から告げられたこと、「見聞きしたこと」は「すべて天使の話したとおりだった」のです。羊飼いたちは、その幼子の安らぎを見て、神さまの御言葉を「そのとおり!」と信じました。そして20節の御言葉、今日の聖書箇所の最後の言葉にあるように「神をあがめ」ました。教会で「そのとおり!」と言う時、私たちは何という言葉を用いるでしょう。アーメンです。神さまが語られる御言葉に「アーメン」と言い、そして神さまをあがめる、賛美する。これは礼拝です。神さまの御言葉を信じ、それに依り頼むことにやすらぎを見いだし、神さま、あなたがおっしゃるとおりですとひれふすことに、私たちのまことの平安があるのです。 羊飼いたちは、イエス様がお生まれになったその夜、救い主イエス様の御前で、御子を遣わされた天の父をあがめ、世界で最初のキリストの礼拝を献げました。

羊飼い達は信仰者・礼拝者・証し人・伝道者です。これが、紀元0(ゼロ)年のクリスマス礼拝です。今年は紀元2019年。実際にはイエス様は紀元0年より4年早くお生まれだったと言われています。最初のクリスマスから2020年以上を数え、年を重ねて、この日この時、この薬円台教会で、そして世界中でクリスマス礼拝が献げられています。

羊飼いたちが目撃した幼子のやすらぎ。それは、人間にはないものでした。力で押さえ込み、平定するのが人間の王のやり方です。飼い葉桶で眠る幼子イエス様を包んでいたのは、愛を貫き、敵をも愛する事で平和を実現する平和の君のやすらぎでした。

イエス様は、いくさをやめることのできない人間 ‒ やられたら、やり返してしまう私たち・競い合わずにはいられない私たち・時に互いに恨みを抱き、憎み合ってしまう私たち人間 ‒ の罪を、ご自身が十字架ですべて引き受けて、私たちを罪から救われるために この世に生まれてくださいました。ご自分の命を犠牲にして 私たちに永遠の命をくださるために、イエス様は私たちの中に人間となっておいでくださいました。神さまは、こうしてイエス様を遣わし、私たちに深い愛をそそがれました。大丈夫、平和と平安、まことのやすらぎへの道は開かれたと主は言われ、イエス様を、そのしるしとしてくださいました。

私たちには、こんなことが自分に!と思わずにはいられない時、嵐のただ中で雨に風に打たれているように感じることがあります。心が千々に乱れてくじけそうな時に、いくさに荒れ狂うこの世にくだってくださった、聖なる幼子イエス様のやすらぎを思い起こしたいと思います。イエス様は、ご復活によって、いつも私たちと共においでくださいます。主のやすらぎが、いつも私たちに与えられていることをおぼえ、主のご降誕を心から感謝し、今日から始まる日々を歩んでまいりましょう。

2019年12月15日

説教題:主は私たちと共に

聖 書:イザヤ書7章13-14節 、マタイによる福音書1章18−25節

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

(マタイによる福音書1章18-25節)

アドヴェント第三主日を迎えました。いよいよ、来週はクリスマスです。今年のこの日、私たちはイエス様のお誕生をめぐって、マリアのいいなずけヨセフに起こった出来事を伝える聖書箇所を与えられています。

聖書を読んでおりますと、私たちに必ずと言って良いほど示されることがあります。それは恵みの体験です。“聖書を読んで”だけ示されるのではありません。神さまを信じて生きていると、私たちはそれぞれ、闇が光に変わるような、恵みの体験をいただきます。

イエス様が母となるマリアに宿られたとき、マリアに闇と光の出来事が投げかけられました。人間の理解の限界の中にとどまる限り、マリアの受胎は婚約中にいいなずけ以外の者の子を宿したようにしか見えません。マリアの受胎は、十戒で戒められている姦淫の罪を犯したとして、石打の刑に処せられ、命を奪われるに値する事柄でした。人間の知識と理解の範囲の中では、マリアは闇の人生を与えられたようなものでした。

しかし、神さまは御使い・天使をマリアに遣わしてくださいました。

そして真理が告げられます。あなたの胎の子・おなかの子は、聖霊によって宿った神さまの御子だ、と。その真理は闇を貫く光です。しかし、信仰を持っていなければ、それが光だとはわかりません。マリアは信仰によって、天使の言葉を受け容れ、神さまの光の中に入れられました。すべてを主にゆだね、主に手を取られ、主に背負われて、主と共にいることを決意したのです。

それによって、マリアは人の目には嵐の闇としか見えない状況のなかでも、神さまに守られ、その生涯を通して主と共にいること・インマヌエルの光の中でやすらいでいることができたのです。

繰り返しますが、人の目には闇としか見えない状況の中で、神さまは真理の光を私たちに与えてくださいます。それは御言葉を通して私たちに与えられ、教会を通して ‒ 言い方を換えると私たちの兄弟姉妹・神の家族、同じ信仰者を通して与えられることがあります。神さまが、私たちを互いに励まし合い、助け合う者として用いてくださるのです。

天使のお告げ、つまり御言葉の光を受けた後、マリアを助ける者として与えられたのはいいなずけのヨセフでした。このヨセフにも、闇と光の出来事が起こりました。

今日の聖書箇所は、ヨセフの闇を、主の光の中でとらえつつ、こう書き記しています。マタイ福音書1章18節から19節です。先ほど司式者が朗読してくださいましたが、今一度 お読みします。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」

マリアと同様に、この時ヨセフを襲ったのは、人間の目・この世の常識から見れば“とんでもないスキャンダル”でした。婚約者マリアが、まだヨセフと関わりを持っていないのに、おなかが大きくなって、それが誰の目にも明らかとなったのです。「聖霊によって身ごもっ」たことは、信仰の心と目を通し、神さまの光を受けて、マリアを見ないとわからないことです。マリアは神さまの光を天使のお告げとして受け、自分の身に起こったことを受け入れました。しかし、ヨセフのところには、まだ光は届いていません。天使は来ていません。この世の人間の理解と思いだけしか持てない中で、ヨセフはマリアの妊娠を知り、激しく戸惑ったことでしょう。

マリアに裏切られた、そう思っただろうと簡単に想像がつきます。

ヨセフは怒り、悲しみ、嘆き、誰も信じられないとすら感じたでしょう。そのヨセフの戸惑いと苦しみを、神さまは見ておられました。そして、「正しい人であった」と私たちにヨセフを紹介されるのです。

人間の目から見ての正しさではありません。この時代に、人間の目から見て正しいとされる行動は、ヨセフが取った行動 ‒ マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した ‒ という、この行動とはかけ離れたものでした。この時代に、世間的に「正しい人」だとみなされていたのは、祭司や律法学者、ファリサイ派の人々でした。もし、彼らが婚約者の裏切りにあったらどうするかを考えると、ヨセフの「正しさ」が、人間の考える正しさと異なるとよくわかります。

祭司・律法学者・ファリサイ派の人々が、もしヨセフと同じ立場に立たされたら、彼らはマリアが姦淫の罪を犯したと訴え出て、“表ざたにする”ことが婚約者としての義務であり責任だと考えたでしょう。先ほどもお話ししましたが、それによってマリアは石打の刑に遭うことになりましょう。罪にふさわしい罰・制裁を与えることが、人間が考える正しさなのです。しかし、ヨセフはそれを望みませんでした。起こった事柄に手ひどく傷つけられながらも、彼はマリアを深く愛していました。ヨセフは、マリアが罪人としてはずかしめられ、石打の刑で殺され、神さまに見捨てられた者として滅びてゆくなどということは、とうてい受け入れられませんでした。だから、ヨセフはマリアのことを表ざたにしないと決めました。

しかし、ヨセフはマリアを妻として受け入れることはできないと考えました。愛しているけれど、こうなってしまったら、もうマリアのことを忘れるしかないと考えたのでしょう。

ヨセフは悩み苦しんで、心を決めました。ひそかに婚約を解消し、ひっそりとマリアから離れる決心をしたのです。マリアをなじることも、怒りをぶつけて非難することもせず、ただ離れて行く。これが、マリアのためにも、自分のためにもできる精一杯だとヨセフは考えたのでしょう。

私たちは、この箇所を読んで つい こう思わずにはいられません。ヨセフの心の激しい葛藤を、神さまは見ておられました。神さまは、どうして ただ見ておられたのか。なぜ、ヨセフが苦しむままにしておいたのだろう。マリアに天使を遣わしたように、事柄の真実の意味・マリアのおなかの子は聖霊によって宿った神さまの子だと早くヨセフに伝えれば良かったのに。イザヤ書の預言のとおりに、救い主・メシアはダビデの家系の末裔の家に生まれます。そして、ヨセフはダビデの末裔です。だからこそ、マリアの夫はヨセフでなくてはならないと、神さまは早くヨセフに伝えれば、彼はこんなに苦しまなくて済むのに。

決心をしても、ヨセフの心は晴れなかったでしょう。この婚約とその解消は、自分の人生の汚点として残るとしか思えなかったのです。その闇に、神さまは光を射し込ませ、一気に価値の逆転をなさいました。自分の感情を押しとどめ、マリアを裁かず、決して死なせない ‒ 当時のユダヤ社会では優柔不断と取られそうな、このヨセフの優しい決心を、神さまは“正しい”とされました。そして、夢を通してマリアの身ごもった子が神さまの御子・救い主であると告げたのです。夢に現れた天使は、こう彼に語りかけました。20節後半です。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」生まれる御子の名はインマヌエル、「神は我々と共におられる」という意味だと天使が告げた時、ヨセフは神さまがマリアと自分と共におられることを確信しました。

苦しみの闇が長かっただけに、これからの人生が暗いと思っていただけに、神さまからの御使いの言葉は確実な光となって、ヨセフの心からあらゆる陰りを追い払いました。神さまが自分と共にいる、自分とマリアと共にいる。その確信と共にヨセフは目覚め、ためらいなく、おそらくたちどころに、天使に告げられたとおりにマリアを妻としました。結婚によって、ヨセフはマリアを石打の刑にさらすことから完全に助け出しました。それと同時に、人間的・この世的には、マリアと共に「何やら訳ありの夫婦」と批判的に見られることにもなったのです。しかし、主が共においでくださるとの確信が、ヨセフの心を強め、励まし、マリアをかばい通す勇気を与えました。

神さまは、なぜ、あえてヨセフに長い苦しみの時を与えたのか ‒ その答えを、私たちはここにいただいていると申して良いでしょう。苦しみが長く、闇が濃く深く、暗ければ暗いほど、そこに差し込む光の明るさは眩くなります。主を知る喜び・恵みの喜びは大きくなります。

神さまを信じ、従おうと努めて生きていると、私たちはそれぞれ、人生の山あり谷ありの歩みの中で、闇から光への大転換・恵みの喜びをいただきます。今日、この礼拝に招かれておいでの皆さんは、信仰生活の長い方も まだそれほど長くない方もおられますが、振り返ってみて、いかがでしょう。たとえば行き詰まりの状況にあって、御言葉を通して、まさに目からうろこが落ちるように、違う角度から自分の状況を眺めることができたと感じたご経験をお持ちではないでしょうか。あるいは、苦労の時を過ぎてから、歩んだ道筋を振り返って、自分が今こうして生きているのは、神様が自分を支え続けてくださったからだとしか思えない ‒ そのように恵みを受けた方もおられるでしょう。

神さまに慰められ、励まされる恵みの体験。それは、人の思いの闇に、神さまの光が差し込み、その光によって、闇の中に沈んでいたものが、新しい意味と価値を与えられたことを意味します。自分の考え・人間の思いや理性だけではわからなかった事柄・見えなかった真理が、神さまによってあらわにされたのです。それを知る時・恵みを体験する時、私たち人間は、私たち自身の力・能力では探り当てることが不可能だった神さまの真理のすばらしさに、目を開かれます。

その真理は、まさに人知を超えています。驚きであり、同時に、多いなる喜びです。自分が抱えている課題は、自分の目には苦しみとしか見えない、または見えなかったけれど、神さまが光を当ててくださると全く違って見えてまいります。 信仰の喜びは、それを知り、体験することにあります。神さまが、この自分めがけて光の矢を放ってくださったように、その真理を示してくださったこと自体が、喜びです。恵みです。人間には到達不可能な真理に、神さまがこの自分を連れて行ってくださり、信じられないほどの勇気と希望を与えられたと知らされるのです。この主のみわざを、聖書は「主が共におられる」と表現します。この恵みにまさる安心は、ありません。私たちが何にも増して心やすらぐのは、神さまが共にいてくださると知る時です。

神さまが共にいてくださる ‒ それが私たちの救い主の呼び名インマヌエルであると、今日の旧約聖書イザヤ書は告げています。そして、その預言の実現が、イエス様のご降誕・クリスマスの出来事です。

私たちの救い主・イエス様は、主が私たちと共におられるとの真理を、私たちと同じ人間となられて体現してくださいました。そして、私たちが肉体の死を超えて神さまと共にいられるように、十字架の出来事とご復活によって永遠の命を与えてくださいました。

次の主日、クリスマスで私たちはその喜びを新たにされます。夜が長く、暗い時間が長いこの季節の日々ですが、心に光を灯しつつ、今週も神さまを我が主と呼べる幸いを抱いて、安心して歩み行きましょう。

2019年12月8日

説教題:主に結ばれて光となる

聖 書:エレミヤ書30章18-22節 、エフェソの信徒への手紙5章6−8節

ひとりの指導者が彼らの間から 治める者が彼らの中から出る。わたしが彼を近づけるので 彼はわたしのもとに来る。彼のほか、誰が命をかけて わたしに近づくであろうか、と主は言われる。こうして、あなたたちはわたしの民となり わたしはあなたたちの神となる。

(エレミヤ書30章21-22節)

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。

(エフェソの信徒への手紙5章8節)

アドヴェント第二主日を迎えました。この世には苦しみがあり、先週 アフガンで起こった襲撃事件のような不条理があり、幸福で満たされていない現実があります。“いまだに”あるのです。私たちは、それを折々に実感し、痛感いたします。

つらいことがありながら、しかしクリスマスは確実に近づいています。イエス様は“すでに”二千年以上前の夜に、この世にお生まれになりました。そして、希望の光がだんだんと明るく灯されてゆきます。もっと良い世の中になる。今の苦しみと悪は、光に駆逐される。私たちは主に希望をおいて、そう信じます。

もう涙を流さなくて良い日が来ると、神さまは約束してくださったのですから。アドヴェントの間、私たちは週ごとにろうそくの灯を一本ずつ増し加えながら、その日を待つ思いを深くします。

アドヴェントに入りまして、教会に、近隣の教会や神学校から、クリスマスカードが届きます。喜びを分かち合う嬉しいおたよりです。東京神学大学からのクリスマスカードには、大学チャペルに飾られるクランツの写真がありました。それを見ながら、私は今日の聖書の御言葉をあらためて思い巡らし、こう思いました。たとえ、嫌がる人がいたとしても、与えられた御言葉の説き明かしとして 皆さんにきっちりとお伝えしなければならない事実・真実がある ‒ そう思ったのです。

東神大チャペルの写真のクランツにも、四本のろうそくが立てられています。しかし、そのろうそくの色は赤ではありません。紫色です。紫色、と聞いて皆さんは何を思われるでしょうか。

教会には「典礼色」というものがあります。教会の暦に合わせた色です。アドヴェント、クリスマス、公現日、受難節、イースターなど、講壇の前にこの色・典礼色に合わせた色の布・フロンタルをかける教会も数多くあります。

典礼色の紫は、受難節・イエス様が十字架に架かられる前の四週間を過ごす季節の色です。喪の色、死を悼む色と申しても良いでしょう。そして実は、今、私たちが過ごしているアドヴェントの典礼色は、受難説と同じ色・紫色です。だから、東神大チャペルのクランツのろうそくは紫色なのです。クリスマスの色と言えば喜ばしい赤と緑なのに、紫なんてイヤだと思われる方もおいでかもしれませんが、これは教会的な決まりごとす。

私たちの教会の赤いろうそくも、もちろん、神学的・教会的に正しい色です。赤の方が、より直接にイエス様の十字架を指し示していると申しても良いかもしれません。この赤は、十字架で流されたイエス様の血の色です。緑は、その尊い犠牲によって私たちに与えられた永遠の命の色です。けっして滅びることのない、枯れることのない常緑樹・エバーグリーンの緑です。

クリスマスを待つ喜びの季節にあっても、忘れてはならないことがあります。それは、私たちに永遠の命をくださるとの約束を果たそうと、イエス様が私たちのために犠牲となられ、命を捨ててくださった事実です。それを心にとどめておくために、教会はクランツに紫色、または赤のろうそくを用います。

今、“犠牲”という言葉を用いました。犠牲とは、誰かのために身を献げることです。たいせつな誰かを守り、あるいはみんなが幸せになるために、自分なんかどうなっても良いと自分を投げ出して無にすることです。功利的かつ合理的な考えからすると、愚かしく思えるでしょう。しかし、聖書はそれを見通して、パウロ書簡を通してこう語っています。「神の愚かさは人よりも賢い」。コリントの信徒への手紙一1章25節の御言葉です。

そして、今日 与えられている旧約聖書の預言の言葉は、エレミヤの口を通してこう語ります。「ひとりの指導者が彼らの間から 治める者が彼らの中から出る。わたしが彼を近づけるので 彼はわたしのもとに来る。彼のほか、誰が命をかけて わたしに近づくであろうか、と主は言われる。こうして、あなたたちはわたしの民となり わたしはあなたたちの神となる」(エレミヤ書35:21〜22)

一人の指導者が現れ、命をかけて人間と神さまの間を執り成し、橋渡しを成し遂げる指導者が現れる ‒ ユダヤの混乱の時代にあって、預言者エレミヤは そう救い主誕生の希望を告げました。

それは、イエス様がお生まれになる600年ほど前のことです。800年前にイザヤが救い主の誕生を預言しましたが、それからさらに200年ほどくだった時代のことになります。

イザヤの時代も、またエレミヤの時代も、ユダヤの人々の心は神さまから遠く離れてしまっていました。私たちの天の父は、まずエジプトで奴隷だったユダヤ民族を解放することから、実に具体的なお働きを始められました。ところが、お働きを通して私たちは 神さまの恵みを経験することはできますが、お姿を見ることができません。神さまは、私たち人間よりもはるかに高い次元・別次元におられるからです。言い方を変えると、神さまと私たちの間には、深い断絶があって 人間の側から容易には神さまに近づけないのです。神さまは隠れたところにおられ、その姿を見る者は命を取られます。

お姿を見られないため、御声を聞けないために、人は神さまを信じる思いを長く保つことができません。これは今も同じです。力を尽くして狭い門から入らなければ、それによって 神さまに真実に選ばれていることを感謝して受けとめ 主を受け入れなければ、私たちは本当に神さまとの魂の出会いを果たすことができないのです。

ユダヤの人々は簡単に天の父から心を離し、目で見ることのできるバアルのような偶像崇拝を始めました。単純な言葉を用いますと、偶像崇拝とはご利益(ごりやく)宗教だと申せましょう。ギブ・アンド・テイクの価値観で、安易に心の安らぎを買い取れる宗教とも言えます。“バアルよ、私はこれほどの貢ぎ物をしましたから、それに見合うよう、私の願いごとをかなえてください”という、自分の願いが中心の宗教です。

自分の思いで心がいっぱいになる時、私たちは闇の中にいます。真実に良いものは、私たちの外から、神さまからしか与えられません。そして、それは闇に打ち勝つ光として私たちに届けられます。簡単に目で見られる偶像、たやすく耳に届くむなしい言葉は誘惑です。

ユダヤの時代も、現代の私たちも、見えない神さまよりも見える偶像の誘いに惑わされてしまう点は、まったく同じです。ユダヤの時代、神さまは、ご自分の民がこの浅はかな宗教に走るのをご覧になって嘆かれました。彼らを悔い改めへと促すために、アッシリアやバビロンのような大国を用いてイスラエルの国へ攻め入らせ、苦難の中で、ご自分の民が神さまを呼び、求めるようにされました。その時に、この神さまの御心を伝えたのが、大預言者ではイザヤ、エレミヤ、またミカやアモス、マラキといった小預言者たちだったのです。

彼らを通して、神さまは人間の損得に過ぎないご利益(ごりやく)宗教のむなしさを示され、より高い次元の新しい価値観を与えてくださいました。それは、神さまが人間に与えられるご自身の御子、神さまであると同時に人間である救い主イエス様に体現されます。その新しい価値観は、損得の合理主義を否定するものです。競争社会にあっては、他者を蹴落とし、人間の戦いを勝ち抜いて勝利者・王となることが評価されます。一方、主が示された価値観は驚くべきものでした。逆説的と言って良いでしょう。イエス様の生き方とは、誰かのために自分を与え、与え尽くして自分は貧しくなる、社会の底辺で軽蔑される者になる、そればかりではなく罪人とされて死刑に処せられ、命さえも人間に与える生き方なのです。ギブ・アンド・ギブの生き方です。人を蹴落とし、自分だけがのしあがることはむなしいと、主は示されたのです。

ご自身を献げることをとおして、イエス様は私たち人間と神さまとの間にあるクレバスのような断絶に、橋を渡してくださいました。闇に生きる罪深い私たち人間を、神さまの光へと導いてくださったのです。ヨハネ福音書で、イエス様はこう語られます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことができない。」(ヨハネ14:6)イエス様は、私たち人間に、私が神さまへの道になるから、私を踏んで神さまのところへ行きなさい、とまでおっしゃってくださるのです。

さらに、それ以上のことを、今日の新約聖書の御言葉は語ります。使徒パウロはこうエフェソ教会の人々に書き送りました。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェソ書5:8)この言葉から、私たちがすぐ思い出すのは、イエス様ご自身が山上の説教で語られたことです。マタイ福音書4章14節です。お読みします。「あなたがたは世の光である。」

この箇所を読むたびに、実は 私は驚かずにはいられません。皆さんはいかがでしょう。神さまこそが光である、そう私は受けとめます。または「光あれ」と言葉によって光を造られる神さまは、光の源であると理解しています。ですから、イエス様に「あなたは世の光」と言われても、ひたすら恐縮し、文字通りに恐れて縮こまり、どうしてこんな者が光でいられようかと思うのです。

しかし、イエス様は続けて「山の上にある町は、隠れることができない」とおっしゃいます。イエス様を信じ、救い主として受け入れたら、それをこの世の人々に隠しようがないと 主は言われます。そして、毎回、私は“ああ、そうだった”と気付かされるのです。すべてを定められるのは、神さまであり、私ではありません。私たちが光であるかどうかを判断されるのは、神さまです。神さまこそが、主なのですから。神さまが、あなたは私の子・光の子なのだから隠れることができない、その行いで私の子だとわかるのだから、ありのままに輝くのだとおっしゃられたら、それはそのとおりに起こるのです。こんな私なんかが、と恐縮するのは、自分の勝手な判断です。神さまの判断を自分の判断で押しのけているから、かえって傲慢なのです。さらに、それは自らこの世に自分がキリスト者だと表明することとも、何ら関係がありません。

迫害の時代、生き延びるために、自分のためというより家族や知人・友人のためにキリスト者であることを隠さざるを得なかった人々は、どれほどこのイエス様の言葉に励まされたことでしょう。

そして、パウロは私たちが光の子であることを、今日のエフェソ書の御言葉でさらに明らかにしてくれました。

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」

イエス様がご自身の命を投げ打って、神さまと私たちの間に橋を架け、道となり、神さまと私たちを“結んで”くださいました。それによって、私たちはただひたすら主を仰ぐことで、光として悪をしりぞけ、希望を捨てず、歩み続けることができるのです。

今日から始まるアドヴェントの第二週、イエス様の十字架を思い、永遠の命をイエス様の尊い犠牲によって与えられたことを感謝しつつ、光の子として歩んでまいりましょう。

2019年12月1日

説教題:荒れ野に泉が湧き出でる

聖 書:イザヤ書35章1-6節 、マタイによる福音書11章2−10節

ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重いひふ病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。

(マタイによる福音書11章2-10節)

クランツの最初のろうそくに火が灯りました。今日から、イエス様のお生まれ・クリスマスを待つアドヴェントの四週間が始まりました。

私たち薬円台教会は主の日ごとの礼拝でマルコ福音書から御言葉をいただいてまいりました。それをいったん置いて、今日から1月5日 公現日の1日前の主日礼拝まで 教会の暦に合わせてアドヴェント そしてクリスマスの語られている聖書箇所から恵みをいただこうとしています。先ほど司式者が読まれた旧約聖書・新約聖書の御言葉は アドヴェントに読まれる聖書箇所として知られています。

とは申しましても、今日の聖書箇所が読まれるのを聞いて、おや?と思われた方が少なからずおいででしょう。マリアもヨセフも出てこないからです。イエス様も赤ちゃんではありません。

しかし、あ、ヨハネが語られていると気付かれた方も多いはずです。

ヨハネ、洗礼者ヨハネです。この人は 荒れ野で神さまを求めて清い生活を送り、まことの救い主・預言の書にあるメシアが来られることを告げ、イエス様に洗礼を授けました。それでも、アドヴェント第一主日のこの日に読まれる箇所として ぴんと来ない、胸にストンと落ちないという感じを持たれるかと思います。

ヨハネはイエス様について「わたしは、その履き物をお脱がせする値打ちもない」(マタイ3:11)と、イエス様が自分と次元の違う方であるとの認識を明らかにしました。イエス様がメシアであるとの確信に満ちて、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(マタイ3:3)と呼ばわって 福音の先駆けの役割を心得、果たそうとしたのです。

そのヨハネが、今日の聖書箇所では 弟子をイエス様のところに遣わして こう尋ねさせています。「来るべき方はあなたでしょうか。それともほかの方を待たなければなりませんか。」(マタイ11:2)イエス様こそが救い主だと呼ばわったヨハネその人が、本当にこの方がメシアなのかと戸惑い 心を迷わせています。この世においでになった、神さまが私たちと同じ人間として地上にお生まれになったということは、霊に満たされたヨハネにしてさえ、わかりにくかったのです。

今、アドヴェントの最初の礼拝に与えられているヨハネの戸惑いは、私たちに 救い主のご降誕の意味をあらためて考える機会を与えてくれます。また 救い主とは私たちにとってどのような方かを認識する たいせつな四週間を過ごすきっかけともなります。

たいへん基本的な問いかけから始めます。私たちは なぜクリスマスをお祝いするのでしょう。もちろん、私たちの救い主イエス様のお生まれを喜び祝うのですが、クリスマスは 単にイエス様の誕生を記念するという意味で 教会のたいせつな日とするのではありません。

イエス様のご復活の日・イースターの喜びと比べてみると わかりやすいかもしれません。イースターの喜びは爆発的です。死からよみがえりへと 真っ暗闇の絶望が 一瞬にして命の光に満たされる大逆転の喜びです。イエス様のご復活は、私たちが体の死を超えて永遠の命をいただいた 確かなしるしなのです。

一方、クリスマスの喜びは クランツのろうそくに一本一本 火が灯されて、暗がりが少しずつ明るくなってゆくように 静かに 次第に たかまってゆく喜びです。少しずつ たいへん喜ばしいもの・恵みが近づいてくるのを待つ、そのような喜びです。その喜ばしいもの・恵みとは何でしょう。それは、希望です。

クリスマスの恵みとは、イエス様が私たちのところまで降りて来られ、私たちの間に宿ってくださったことで 少しずつ しかしはっきりとした希望が私たちの心に生まれ やがて確信となる その祝福をいただくことを意味します。

今日の新約聖書の言葉を少し丁寧に その背景にも思いを馳せながら読んでまいりましょう。

「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた」 ‒ そう始まっています。ヨハネは この時 捕らえられて牢獄にいました。この事実に、ヨハネ自身の苦難と その時代の暗闇が現されています。

ローマ帝国の植民地だったユダヤでは、当時 ヘロデ・アンティパスが王位に就いていました。王とは名ばかりで 国の主権を握ったローマ帝国の言うなりになるしかない、いわば傀儡だったと伝えられています。王として人々の尊敬・敬愛を集めることができなかったヘロデは、荒れ野で純粋に神さまを求める信仰生活を通して 人々に慕われ、評判の高いヨハネを妬み、憎みました。

また、ヘロデは罪を犯していました。兄の妻ヘロディアと通じ、ヘロディアと共謀して兄を亡き者にしたのです。それを、ヨハネは姦通の罪として批判し、糾弾しました。

ヘロデはまことの王としての資質を持っていませんでした。ヨハネの指摘を受けて悔いあらためるどころか、ヘロデは激怒して無意味に、無謀な権力を振るい ヨハネを捕らえて投獄したのです。

ユダヤの王は本来、人々を率いるにふさわしい者と神さまに選ばれ、神さまから油を注がれて王権をゆだねられているはずです。ユダヤの二代目の王となったダビデも、姦通の罪を犯したことがありました。部下の妻バトシェバを 我がものとするために その部下を戦場で死なせました。その罪を預言者ナタンに指摘されたとき、ダビデは罪を認めました。また、その罪の償いを神さまに求められました。

そのことから、ヨハネはこう信じていたでしょう。神さまがユダヤを見捨てておられなければ、神さまは 王ダビデに罪の贖いを求めたように ヘロデにも臨むはず。ナタンがダビデの罪を指摘した後、当然のごとく家に帰ったように、王の罪を指摘した預言者は神さまの御心を伝える者にふさわしい扱いを受けるはずです。ところが、ヨハネは牢につながれたままでした。

この時、ヨハネの心に広がった不安と恐れは、自分が囚われ、王に憎まれ、命まで取られるかもしれないということだけではなかったでしょう。むしろ、最も恐ろしかったのは イザヤ書をはじめとする預言の書に記され 長く 長く待ち望まれている救い主・メシアが あのナザレの村人 イエスではないのではという心に湧いた疑問でした。

救い主がおいでになったら、たちどころに この世は正しくされる。素晴らしい世の中になると ヨハネは期待していたのです。キリストが来られたら、にせの王・ヘロデは権力の座を追われ、神さまを知らないローマ帝国が自分たちを支配する世は終わる。虐げられた者は高くされ、荒れ野・砂漠が花園となって花が咲き乱れる。苦しみは消えて 喜びに満たされ、もう涙することはなくなると思ったのです。しかし、悪はまだはびこっていました。正しいことを言う者が牢につながれ、罪深い王が君臨しているのです。どういうことか。彼は戸惑いました。

ヨハネのすばらしさのひとつは その戸惑いを自ら打ち破る率直さにあると申しても良いでしょう。疑いは放っておくと心の中でくろぐろと育ち、憎しみになり、神さまへの背き・背信を招きます。イエス様を裏切ったイスカリオテのユダも、イエス様が真実の救い主であることを疑い、信じられなくなったので 主を銀三十枚で売り渡しました。

ヨハネは、イエス様が宣教活動を始めておいでのことを聞いていました。人々に天の父のことを正しく教え、その愛を伝え、人々を癒やされていることを聞いていたのです。

イエス様は、すでにキリストとしてのお働きを始めている。だったら、直接、真実を聞いてみよう。彼は自分の弟子をイエス様のもとに遣わして、質問させました。“あなたが、預言されていた 来たるべき方・救い主なのですか。” イエス様は答えました。“救い主が、その働きを始めていることは、見てのとおりだ。ヨハネが聞いたとおりだ。私が預言された救い主だ。”そのイエス様の言葉を、今日の聖書箇所はこう伝えています。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重いひふ病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」

ヨハネが期待したように、また多くの預言者たちが期待したように、イエス様が世においでになって“たちどころに”すべてが良くなったわけではありませんでした。しかし、荒れ野・砂漠が花の咲き乱れる園となるためには 潤い・水が必要です。小さな泉が湧き出でなければなりません。その泉は、すでに湧き始めていました。イエス様が歩かれるところには、目の見えない人が見えるようになる奇跡、死者が生き返る奇跡、そして何よりも救いの福音が語られていたのです。

つらいばかりに思える現実の世の中に 救い主の働きを見いだすことのできる者は幸いです。だから、イエス様は続けてこうおっしゃいました。「わたしにつまずかない者は幸いである。」荒れ野に 泉が湧いていることを見いだした者は、やがて荒れ野が花園となる光景を思い描くことができます。その心の光景を 聖書は幻と呼び、ヴィジョンと呼びます。ヴィジョン、すなわち展望です。今は困難・苦難ばかりがあるように思えても、ほんのわずかな希望の兆し・芽吹きを見いだすことができれば、実に明るい展望を持ち、それをめざして進めます。

人間は、そのように未来を描ける生き物・被造物です。天の父は、私たちを そう造られました。それを知った者、すなわち イエス様につまずかず、疑わず、イエス様こそが救い主と知った者は幸いです。私たちは、聖書と聖霊を通して、イエス様が私たちを救われる方だということ、すでにおいでになったことを知っています。だから、希望を持つことができるのです。

ヨハネはイエス様の答えを弟子たちから聞いて、牢の中にいながら、希望を抱くことができたでしょう。暗闇の世に、光がひとつ灯されたことを知ったのです。その光は次第に暗闇を追い払い、暗闇と戦いながら 広がって行きます。闇が完全に駆逐され、光に充ち満ちる時はいまだ来ていない、しかし希望はすでに芽生えている時代が始まっています。神学では、この時代を教会の時代と呼びます。イエス様がおいでになってから、今までの時代、私たちが今、こうして生きているこの時代です。別の言葉で「中間時」と呼ぶこともあります。

私たちはクリスマスを“希望の始まり”として祝います。希望は、イエス様の再臨と世の終わり・新しい天と新しい地の喜びのヴィジョンを、私たち信じる者に与えてくれるのです。

アドヴェント、希望の時が始まりました。今日から始まる一週間、そしてクリスマスまでの四週間を、心に光を掲げ、真実の平和と永遠の命の到来を願いつつ 主の御心に従って共に歩んでまいりましょう。

2019年11月24日

説教題:感謝と祝福の安息日

聖 書:サムエル記21章1-7節 、マルコによる福音書2章23−28節

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」

(マルコによる福音書2章23-28節)

今日のこの日、収穫感謝を献げ 子ども祝福をいただくのは まさに二つの大きな恵み、二重の幸いです。そのことをおぼえて、今日は説教題を「感謝と祝福の安息日」といたしました。

始めから私事で恐縮ですが、私が“神さまが おられる”と知らされたのは、収穫感謝を通してでした。

私はクリスチャンホームに生まれたわけではありません。ただ、子ども時代をカナダで過ごし、友だちに誘われるままに教会学校へ、と申しましてもカナダはキリスト教国なので 小学校の同級生誰もが教会学校に行くわけで 行くのが当然なのです。そうして同級生にくっついて行くことで 私は聖書を知りました。

日本では信じられないことですが、月曜日から金曜日まで毎朝、学校に行くとまず校内放送でカナダの国歌が流れます。

みんな、起立して歌います。その後、お祈りの姿勢をとって主の祈りを献げます。そして、授業が始まります。

収穫感謝の日はThanksgiving Dayとして国民の休日です。学校も職場も、今はどうかわかりませんが、その頃は一週間ぐらい お休みになりました。仲良しの友だちの家族に連れられて教会の礼拝に行き、収穫感謝の由来を礼拝の説教の中で初めて聞きました。

16世紀から17世紀にかけて、純粋な信仰生活を過ごしたいと願うピューリタンの人々は儀式を重んじるイギリス国教会に強い違和感を感じていました。ピューリタンの人々が聖書に忠実に生きようとする姿勢は迫害を受け、彼らは自分の国にいられなくなりました。

信仰の自由を求めて、ピューリタンは小さな帆船メイフラワー号に乗り、アメリカ大陸をめざしました。66日間の厳しい船旅を経て、彼らはアメリカのマサチューセッツ州プリマスに辿り着きました。冬のさなか、凍てつくばかりに寒いプリマスには、食べる物が何もありませんでした。途方に暮れる彼らを助け、トウモロコシなどの栽培を教えてくれたのが 先住民族の人たちだったのです。到着して1年後、栽培し、育てた地の実りの収穫を喜んで、彼らは感謝の礼拝・感謝祭を献げました。その時に、先住民族の人たちを招いたのです。

ここまでを聞いて、小学生の私・まだ神さまを知らない私は 親切にしてくれた先住民族に感謝を献げる日だと思いました。ところが、皆さん すでによくお分かりと思いますが、感謝は神さまに献げるのです。

今の私にとっては それが当たり前ですが、本当にびっくりしました。先住民族の人たちが 言葉の通じない、姿形・肌の色・目の色の違うピューリタンが困っているのを見て本当に優しく助けてくれた。そのことへの感謝よりも先に、まず神さまに感謝する。全部を含めて神さまに感謝を献げる。神さまはそんなに大きな方なのか、と胸が震えるように思いました。

その出来事を 国を挙げて感謝祭として記念するのだから、神さまは本当におられるのだ。子ども時代の強烈な精神体験と申しますか、魂の体験として、それが深く心に刻みつけられました。すべての恵みの源は神さまなのだと 知った瞬間でした。

そして、聖書を学ぶようになって それは真実であると日々新しく確信するようになりました。

まことに、すべての源は神さまにあります。神さまだけが、何もないところからすべてを創ることがおできになるのですから。私たちの命は神さまから与えられます。その命を保つ食べ物は、肉も魚も野菜も果物も穀物も、大部分が命です。また 私たちの未来を拓き、明日を創って行く子どもたち・新しい命も神さまから与えられます。

それほどに大いなる神さまだからこそ、私たち人間は その方を自分の小さな 小さな知性・理解の中に押し込めてはなりません。

今日の新約聖書の聖書箇所 マルコ福音書2章の安息日の出来事は、それを教えてくれています。

安息日を、私たちキリストの教会の者は一週間の中で日曜日・主の日として守っています。その日は聖書には、十戒でこのように定められています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」(出エジプト記20:8)または「安息日を守って、これを聖別せよ。」(申命記5:12)

「聖別せよ」‒ 言い換えますと、自分を神さまのものとして、清められ、この世から取り分けられた者としなさいということです。しかし、そう言われても、どうすればよいのかわかりません。

それで、神さまは安息日の守り方をこのように教えてくださいます。「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」

出エジプト記20章9節から10節にかけての御言葉です。ここを読むと、私たち人間は 安息日をどう過ごせば良いのか具体的にわかった気がします。そうか、どんな仕事もしてはいけないのだ、そう理解します。ユダヤの律法学者たち・ファリサイ派の人々は その理解をつきつめてゆきました。そして、料理をすること、火を焚くことさえも仕事、一定以上の距離を歩くことも仕事と解釈して ほとんど何もしないことが安息日・主の日の守り方だとみなしました。それを守れない者は悪い者・汚れた者、神さまに背く悪人と考えたのです。

ですから、彼らはイエス様が安息日に病気の人を 癒やされたのを見て、激しく批判しました。病気を癒やすこと・治療は仕事のうちに入ると考えたからです。

今日の新約聖書が伝える出来事の中では、イエス様と弟子たちが麦畑を通った時に、弟子たちが麦の穂を摘み取りました。ファリサイ派の人々は、これを麦の穂を刈り取る仕事と見て、安息日にしてはならない仕事をした、と非難したのです。間違っている・悪人だ、そんな者が神さまの教えを伝えるなど 言語道断だといきりたちました。

イエス様は、彼らに真実を伝えました。その真実は 神さまの御子であるイエス様が、神さまとしておっしゃる言葉です。27節です。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」

神さまからご覧になれば、愛して造った人間がお腹をすかせているのに、食べるための行動・動作をすることができないというのは、本末転倒です。

きまり・規則は 法律も 教会の規則も 私たちを守るために造られています。赤信号で私たちが止まるのは、その規則が私たちを事故から守るためです。小さい子どもに「信号が赤だったら、道を渡ってはいけません」と教えますが、それは子どもを事故から守るためで、赤信号に私たちが支配されるためではありません。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という言葉を面白く感じるのは、それがうっかりすると規則が人間を支配する愚かしさを指摘しているからです。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」とイエス様がおっしゃられたのは、まさにこのことなのです。ファリサイ派の人々の頑なで狭い律法解釈によって 規則が人間を支配することを神さまは悲しまれる、とイエス様は指摘されました。

神さまは 私たちが喜び 幸福に過ごしているのをご覧になって ご自身も喜んでくださいます。祝福してくださいます。イエス様は 私たちのためにお命を犠牲にし、十字架に架かるほどに私たち人間を愛してくださいました。滅んではいけない、いつまでも一緒にいようと 私たちに永遠の命を与えてくださったのです。ご復活は そのしるしです。

月曜日から金曜日、時には土曜日まで 私たちは多くのことに心を配りながら過ごします。自分と仕事。自分と家事。自分と家庭。自分と職場の仲間。自分と、いろいろな人間関係。神さま・イエス様に出会ってからは、常に神さま・イエス様、主が私たちと共においでくださいます。ですから、私たちは自分と仕事と主。自分と家事と主。そのように心を配り、一度にいくつものことを考えながら週の六日間を過ごしています。神さまに集中できないのです。神さまだけに向かうひとすじの心を持つことができません。神さま以外のことを考えざるを得ない生活を送っている、それが人間の「仕事の」日々・週の六日間の日々です。

しかし、私たちが最も幸福なのは、神さまに愛されていることを全身全霊で知る時です。それこそが聖別される時です。自分が持っているものすべては 神さまから与えられた、それほどに自分は深く神さまに愛されている、祝福されていると感謝する時。

説教の始めでお話ししたピューリタンの人々は、特に強くそれを感じた日を、収穫感謝礼拝として献げました。

私たちは、一週間に一日、神さまに愛されていることを全身全霊で知る時を与えられています。それが、安息日・私たちの主の日・日曜日です。

そして、実に幸いなことに そのひとつのことを 同じ心・同じ信仰で信じた者を 神さまは教会に招いてくださいます。教会で 神さまは私たちと出会ってくださいます。目には見えないけれど、ここにおいでくださいます。いつも一緒にいるよ、いつまでも一緒にいようとおっしゃってくださいます。

神さまと過ごす大切な清められた時間。それを 神さまは 一週間に一度、日曜日の朝 一時間ほど 薬円台教会だったら日曜朝10時30分から11時30分ぐらいまで 私たちに与えてくださっています。

感謝を献げ、祝福をいただくこの時を あらためて たいせつな恵みの時間として心に留め 過ごして行きたいと心から思います。

来週からアドヴェントに入り、私たちは夜明けを待ち焦がれるようにクリスマスを待つ季節を迎えます。今週はその備えの時として、主の日の恵み深さを味わいつつ 毎日を過ごしてまいりましょう。

2019年11月17日

説教題:新しい喜びに生きる

聖 書:詩編98編1-9節、マルコによる福音書2章18-22節

新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。

(詩編98編1節)

ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。

(マルコによる福音書2章18-22節)

「ワンダー」という言葉があります。英語の単語です。ワンダフルのワンダー、ワンダーランドのワンダーです。動詞も名詞もありますが、名詞で言えば、不思議なもの、驚くべきこと、感動と驚きがわきあがる事柄という意味になりましょう。“奇跡”と訳されることもあるようです。

聖書は、実にこのワンダー、感動と驚きに満ちています。神さまは、またイエス様は、奇跡を起こされました。

神さまは何もないところから命を作られ、息の絶えた者たちを生き返らせました。人間の力・能力では まさか そんなことありえないとしか思えない事柄を神さまは成し遂げられました。まさに、今日 与えられている旧約聖書の御言葉が謳い上げるとおりです。詩編98編1節「主は驚くべき御業を成し遂げられた」のです。

聖書は、この奇跡の記録です。人の思いをはるかに超える主のみわざを 主ご自身が語られる言葉です。私たちはその最初のページを開き、神さまが天地創造をされた箇所を読むときに 毎回、正直に 率直に「これはすごい!」と思わないでしょうか。たったひと言 神さまが「光あれ」と言われて どんなに深く黒々と広がる暗闇にも打ち勝つ光が現れたことに 大きな感動をおぼえないでしょうか。自分の心が闇に負けそうになっている時、不安におののいていたり 困難に挫けそうになったりしている時には、「光あれ」との主の御言葉に 力づけられ、我が心にも主が光を灯してくださった、そのことを知るのです。

聖書を読むたびに、同じ箇所を暗記するほどに何回も読んでいても、そのたびに私たちは驚きと感動をいただきます。繰り返しますが、神さまのみわざが人の次元を超えているからです。御言葉を通して超絶的な神さまのみわざを知って、私たちは 毎回 新しく驚きます。ああ、神さまはやっぱりおいでになるのだと、新しく心に刻み直します。そして、新しく心を神さまの方に向け直し、回心します。

今日の新約聖書 マルコ福音書2章でイエス様は言われました。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」神さまはどんな方か ‒ ユダヤの知恵者・律法学者・ファリサイ人たちは自分の次元・人間の次元に神さまを押し込めようとしていました。そうではなく、新しい感動をもって真実の神さまを知る時が来たとイエス様は言われたのです。そうはっきりと断言なさった背景には、実に明確な根拠がありました。

イエス様ご自身が、神さまの御子であり、神さまその方だからです。

神さまの御子が地上に遣わされて、人間と共に生きている ‒ その新しい時が来たのだから、新しい心・新しい喜びと感動をもって神さまを仰ぐようにとイエス様は教えられました。

さあ、今日のマルコ福音書2章18節から、この日のために与えられた御言葉の出来事をご一緒に読んでまいりましょう。

ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は断食していた、と18節に記されています。洗礼者ヨハネとその弟子たち。律法を通して神さまの教えを熱心に研究していたファリサイ派の人々。彼らは正反対の立場にあったように思えるかもしれません。ファリサイ派の人々は 祭司や律法学者と共に行動し、社会的地位も高く、指導的な立場にありました。おそらく豊かな生活をしていたでしょう。一方、ヨハネは社会・町から離れた荒れ野で すすんで苦しい環境に我が身を置き、神さまを仰ごうとしていました。その彼らがどちらも 断食をしていた、と聖書は語ります。

ファリサイ派の人々もヨハネとその弟子たちも、真剣に神さまの御心を求めるという点では同じでした。だから、どちらも断食をしていたのです。私たちは食べないと死んでしまいます。命が亡くなってしまいます。その食べ物を求める本能よりも強く、神さまを求めようとして飲食を断つのが断食でありましょう。神さまに真剣に心を向けようとする姿勢・信仰の姿勢を断食で現すのは 当時 ごく常識的なことでした。ファリサイ派と ヨハネとその弟子たちの間にいるいろいろな立場のユダヤ人たちにとって 断食は当たり前のことだった、ユダヤ人誰もが断食をしていたと、この18節から読みとって良いでしょう。

ところが、イエス様はご自身の弟子たちには、断食をするようにと教えておられませんでした。

イエス様ご自身が断食して祈られたことは、聖書の数箇所に記されています。しかし、イエス様は 神さまの真実・御心を知るには、断食するよりも大切なことがあると弟子たちに示されていたのです。

断食よりも大切なもの。それは何でしょう。

人々がイエス様に「なぜ あなたの弟子たちは断食しないのですか。真剣に神さまを仰ごう、崇めようとしていないのですか。どうしてですか」と問うた時、イエス様は こうお答えになりました。19節です。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。」

不思議な言葉・不思議な答えに聞こえましょう。まさに“ワンダー”なことをイエス様は言われました。そして、あなたたちは気付いていないだろうが、今は断食などする時ではないとおっしゃられたのです。

この「花婿」とは、神さまの御子であるイエス様ご自身のことです。

旧約聖書でも 主なる神さまと その宝の民・神さまを信じる人間が まことに望ましい、幸いな関係を結ぶことが「結婚」にたとえられていました。神さまが花婿、民・人間が花嫁です。それは今の教会の在り方として 神学的にも用いられる表現で、イエス様が花婿・教会が花嫁と申したりいたします。

神さまが人間と共においでくださる、その喜ばしい神さまと人との関わりは結婚式の祝宴にたとえられます。この宴には 誰もが招かれていて、招きに応じて加わった者は皆、婚礼の客として喜びと恵みを分かち合うことができるのです。

神さまが一緒にいてくださらない時には、それこそ 人間は 寂しさのあまりに神さまを求めて 食事を断ち、断食して神さまを求めるでしょう。しかし、実は 今はその時ではないとイエス様はおっしゃられました。天の父・神さまの御子であるこの私が こうして神さまに遣わされて あなたたちと共にいるではないか。

それが、「花婿が一緒にいる」というイエス様の言葉の意味です。

だから、寂しがったり 嘆いたりする必要はない、断食の必要はないと主は言われました。

当時のユダヤの婚礼は、花嫁が婚礼の支度を整えて婚礼の客と共に待っている祝宴の席に、花婿が到着するという形を取りました。結婚は二人が一つとされて新しい家庭を営み、さらに新しい命が生まれる喜びの時です。お祝いの宴(うたげ)は一週間に及んだと言われます。

花婿としてのイエス様を迎えて 地上の人々は喜びのさなかにいるはずなのです。イエス様は 神さまからご覧になってのその事実・真実を「花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」と言い表されました。

神さまであるイエス様が すでにこの世に生まれ、共におられるのに それに気付いていた者は ほとんどいませんでした。洗礼者ヨハネは イエス様を「聖霊でバプテスマをお授けになる方」と呼んでいましたが、イエス様が神さまの子であるとまで明確にわかっていたかどうかは定かでありません。

ただ、イエス様は行かれるところではどこでも、人々のうちに新しい驚きを巻き起こす御業をなさいました。汚れた霊にとりつかれた男をいやし、汚れた霊を追い払った時(マルコ1:26)、そこに居合わせた人々の様子を聖書はこのように伝えています。マルコ福音書1章27節です。「人々は皆 驚いて、論じ合った、『これはいったいどういうことなのだろう。権威ある新しい教えだ。』」中風の人を癒やされた時も、人々はこう言ったとマルコ福音書2章12節後半に記されています。「人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って神を賛美した。」(マルコ2:12)

悪霊に取りつかれた人の癒やし。中風の人の癒やし。それはどちらも 驚きつつも人々に幸いと喜び、心の平安をもたらすものでした。

同時に、イエス様は人々の 少々品のない表現をお許しいただければ 社会一般の人々の度肝を抜く仕方で新しさを示されたこともありました。先週の箇所・徴税人レビが弟子となった箇所です(マルコ2:15)。この時、イエス様はユダヤ社会の日陰者・嫌われ者の徴税人や犯罪を犯した前科者たちと共に、弟子たちを連れて食事をされました。

ユダヤ社会で「善男善女」と自他共に思っている常識的な人々は、驚いたに違いありません。イエス様が“癒やしの わざ”をなさった時の驚きは喜びと希望を伴っていました。けれど、この食事の驚きが伴っていたのは戸惑いと イエス様を、この人は本当に良い人なのだろうかという疑う気持ち・不信感だったでしょう。しかし、人々が遠巻きにしておそるおそる眺めていたかもしれない、イエス様と徴税人・罪人たちの食事の席そのものには、喜びがあふれていました。

いつも暗い顔・怖い顔をしていた徴税人や罪人たちの顔は 驚くほどに明るく輝いていたことでしょう。食べ物を分かち合い、喜びも楽しみも、生きていることそのものの歓喜を分かち合う 根源的な人間の命の輝きがあったのです。神さまが天地創造の時に人間を「きわめて良い」ものとしてお造りになったその姿、知恵の木の実を食べてしまう前の 神さまに造られたままの人間の幸いの姿が そこにあったのではないでしょうか。そして、これこそが、人間が罪を赦されて 清められて戻って行く本来の姿です。

この喜びこそが、神さまが人間にお与えになった命の核心・真ん中にある。それをイエス様は人々に新しく示そうと思われました。

新しいぶどう酒。それは真実の主にある命の喜びです。

新しい革袋。それは律法から解放され 主の愛を知る信仰の姿勢です。

今は、断食はふさわしくない、そうイエス様はおっしゃいました。

特にファリサイ派が主張していた律法の解釈は、神さまの御心にかなうためには、これをしてはいけない、あれもしてはいけないと人間を束縛する傾向に著しく偏っていました。

掟を守ることだけが目標となり、そもそも何のための掟だったかが忘れられていたのです。

日本でも、かつて 比較的近年まで、多くの教会の礼拝堂・会堂で飲食は禁止されていました。礼拝堂では笑うこと・大きな声で話すことも禁止され、お互いに歯を見せないようにする教会も少なからずあったと聞きました。しかし、最近の地球温暖化のせいか、それぞれに飲み物を持って来て 水分補給しないと 礼拝を規律正しく献げる以前に 私たちの健康そのものが損なわれてしまいます。薬円台教会のように 会堂が小さく、礼拝を献げる会堂が他の集会の場所を兼ねる教会では 笑うこと・話すことが禁じられてしまったら 教会の交わりがなくなってしまいます。

礼拝中に脱水症状を起こして倒れること。交わりの消えた教会になってしまうこと。天の父も、イエス様も、そんなことは少しものぞんでおられません。私たち人間が喜ばしく生き生きと 神さまを愛し、隣人を愛して 教会で過ごし、その幸いを世に伝え広めることを主は臨んでおられるのです。

ファリサイ人やヨハネの弟子たちの断食、特にファリサイ人の断食は それ自体が自己目的となり始めていました。立派な断食を行っていることを神さまではなく、他の人間に見せびらかし、やせて見苦しくなった姿をこれ見よがしにして信仰の証とする人々が多かったようです。イエス様、そして天の父なる神さまは 人間がことさら わざとらしく神さまのために苦しむ姿をご覧になりたいとはお思いにならないでしょう。しかも それは実は神さまに献げる断食の思いではなく、他の人に見せびらかすための自己満足の行いなのです。

これは昔のユダヤの話ばかりではなく、私たち自身も犯しがちなあやまちです。奉仕をする時には、本当に神さまに献げる奉仕なのかを一度、吟味して 祈る習慣をお持ちになると良いかと思います。教会の他の方々の目を意識した 自己満足のための奉仕にならないよう、神さまに献げるのではなく、自分の働きになってしまわないように。私も日々、心して祈る祈りの課題です。

最後にひとつ、今日の聖書箇所の中で皆さんの心に留め置いていただきたい聖句があります。20節です。お読みします。「しかし、花婿が奪い取られる時がある。」これは、イエス様が このわずか2年余り後に十字架に架けられることを 見据えていたことを示しましょう。

私たちの命の喜びが永遠に続くように、イエス様は すでにこの時からご自身の命を犠牲にされる道と その後のご復活への歩みを進めておられました。

イエス様の尊い犠牲をもって、私たちは心からの命の喜びをいただいています。これを常に、瞬間・瞬間ごとに新しく心に刻み 自己中心に傾いて行く心を瞬間・瞬間ごとに神さまに、またイエス様に新しく向き直す ‒ 今日から始まる一週間を、この新しい喜びのうちに進んでまいりましょう。

2019年11月10日

説教題:主は弱き者の為にこそ

聖 書:イザヤ書25章1-10節、マルコによる福音書2章13-17節

イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そこに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は,イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人でなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためでなく、罪人を招くためである。」

(マルコによる福音書2章13-17節)

前回と前々回、2回の礼拝を経て、再びマルコ福音書にもどってまいりました。そのマルコ福音書の中で 今日 私たちがいただいている御言葉は“レビという人がイエス様の弟子になった”ことを告げています。イエス様は地上の歩みの中で、12人を弟子とされました。天の父である神さまの愛と真実を世に告げ知らせ、神さまに愛されている恵みと幸いを伝える伝道のお働きに、イエス様は12人を伴われました。

その弟子のひとりに、今日語られている「レビ」という人がなったと聞いて、またはこの箇所を読まれて、首をかしげる方もおいでかと思います。イエス様の12人の弟子、後に「使徒」と呼ばれるようになる者たちの中に「レビ」、今日の聖書箇所に従い もう少し詳しく言えば「アルファイの子レビ」という名前の人はいなかったのでは、と思われるでしょう。

マルコによる福音書を もう少し読み進むとイエス様がご自分の弟子12人を任命した箇所が現れます。3章からです。そこに12人の名前が記されています。さらにその中に、「アルファイの子ヤコブ」という名があります。3章18節、新約聖書66ページ上の段 3行目です。多くの聖書学者は、この「アルファイの子ヤコブ」は、今日の御言葉の「アルファイの子 レビ」と同じ人物だと考えています。

私たちは昨年まで マタイによる福音書を読み続けていました。マタイ福音書9章には、今日語られているのと同じ出来事が記されています。徴税人がイエス様に呼ばれて、弟子になりました。ただ、その名前はレビではなく、マタイでした。

徴税人でイエス様の弟子になったのは、レビなのか、ヤコブなのか、それともマタイなのか。

あるいは そうしてイエス様の弟子になった徴税人が複数いたのか。

聖書学者の研究によっては、まだ はっきりしたことはわかっていません。ただ、今日 私たちが御言葉を通して確かに読み取り、受けとめることは「徴税人がイエス様に招かれて、弟子になった」‒ このことです。

徴税人とは、どういう職業の人でしょう。読んで字のごとく 税金を徴収する人・税金を集める人ですが、イエス様の時代にあって「徴税人」は現代の私たちが税務署で働く職員さんを思い浮かべるのとは まったく違う意味合いを持っていました。イエス様の時代のユダヤの人々は、ローマ帝国の支配下にありました。ユダヤの国は、植民地とされていたのです。そして、支配者であるローマ帝国に植民地税という税金を払うことを強要されていました。新約聖書で「徴税人」というのは、この税金を集めることを職業にした人をさすのです。独立した国家であれば、植民地税など払う必要はありません。国が戦いに敗れ、敵に征服されてしまったために、経済的に長く搾取され、支配される民族・弱い民族だったユダヤの姿がここで明らかにされています。

ユダヤの人々にとって苦役のようだったこの植民地税。それを集める徴税人が ユダヤの人々にどう思われていたか ‒ 簡単に想像できると思います。徴税人は嫌がられ、憎まれていました。徴税人とは「嫌われ者」のことだったと申しても、言いすぎではありません。

ローマが持って行く税金だから、この徴税人はローマの役人・ローマ人だったと思うのが自然でありましょう。ところが、ローマ帝国は 植民地となった国々から さらなる憎悪を受けないよう、そしてさらに効率良く税金を集められるように、たいへん狡猾な手段を用いていました。ローマ帝国が「支配の天才」と呼ばれるのには、ひとつにはこのようなことがあったからでしょう。

ローマ帝国が徴税人として雇ったのは、ユダヤ人でした。意外に思われるでありましょう。募集しても、ユダヤ人は誰もこの徴税の仕事などやりたがらない、そう思われるでしょう。しかし ローマは、この仕事に大きな役得を付けていました。“徴税人は同胞・自分と同じ民族であるユダヤ人から集めた税金から 一定の金額をローマに払えば、後は全部自分のものとして良い”と定めていたのです。

この取り決めによって、何が何でもお金が欲しい ‒ そう願うユダヤ人は、徴税人になることで大金を手にすることができました。できるだけ多くのお金を同胞のユダヤ人からしぼり取り、決まった金額だけをローマに納めて 残りを全部自分のものにしてしまえばよいのです。

そんなあくどい人が本当にいるだろうか、自分の仲間から嫌われるのがわかっていて、お金のために手段を選ばない人がいるだろうか。

そう思いながら 今日の説教準備のために、今日の聖書箇所について書かれた文章をいろいろ読んでおりました。その中に、第二次世界大戦中のアウシュビッツ収容所でのある役割について書かれたものがありました。この中にも、ご存じの方がおいでかもしれません。フランクルの「夜と霧」に出てくるカポーと呼ばれる役割です。彼らはユダヤ人として収容されていながら、仲間であるユダヤ人の見張り役・監視役を請け負っていました。その裏切りの見返りとして、他の収容者が担わなければならなかった重労働を免除されたのです。

カポーのことを知って、自分だったらどうかと思わずにはいられませんでした。ユダヤ人というだけで理不尽な仕打ちを受けて拉致され、収容所に閉じ込められ、重労働に服すように命じられ、心身共に痛めつけられていたら。その時、仲間の見張り役になるのなら、重労働から解放してやると誘われたら。自分のためだけだったら、その誘いにはのらないかもしれません。しかし、もし見張り役となる見返りに、愛する人、家族、特に子どもの命を助けてやるなどと言われたら、気持ちが大きく傾くのではないか ‒ そう思えるのです。

そのように考えてみると、私たち人間は さまざまな苦しい状況のもとで、いろいろな事情の中で 徴税人に またカポーになってしまう可能性を十全に備えていることがわかります。私たちが、皆 弱い者であることがわかります。

徴税人になり、カポーになる人の多くは、仲間を裏切って良いのかと良心に痛みを感じたでしょう。しかし、それでもなお、彼らは自分が生き延びて行くために、自分の利益のために 仲間を捨て 自分を取らざるを得なかったのです。

さて、今日の聖書箇所 マルコ福音書2章13節は こう語ります。聖書を開かれる方は、64ページをご覧ください。イエス様が、その日も、いつもと同じように湖のほとりに出かけて行かれ、集まった人々に教えを語ったとあります。この時、徴税人レビは、集まった人たちの中にいたでしょうか。いませんでした。14節で それがわかります。イエス様は「通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけ」られました。

レビは、黙々と、集めたお金を数えて帳簿に書き込む仕事をしていたのでしょうか。お金のこと以外には関心がない、ことさらにそんな様子をしていたのでしょうか。イエス様が教えを語られているところ、人々がイエス様の説教に聴き入っているところには、明るさがあったでしょう。暖かさがあったでしょう。レビはそれをまぶしすぎるもののように感じながら、自分がその人の輪に入る資格はないと思っていたのかもしれません。

徴税人とイエス様との出会いということでは、ルカによる福音書のザアカイの話を思い出す方もおられましょう。

あの箇所で、ザアカイはイエス様を「ひとめ見たい」と思いますが、背が低いために群衆にさえぎられてしまいました。(ルカ19:3)ザアカイが嫌われ者の徴税人だったために、背が低くても 彼を群衆の前の方に押し出してくれる親切な人は、一人もいなかったのです。何としてもイエス様を見たいと思ったザアカイは、いちじく桑の木に登りました。しかし、今日の聖書箇所のレビには、その勢いも どことなく無邪気に感じられる強い好奇心もないようです。

そのレビに、イエス様は声をかけられました。「わたしに従いなさい。」それに続く聖書の言葉は、実に短いひとことです。「彼は立ち上がってイエスに従った。」

これは、レビの人生が変わった瞬間を現すひとことです。

立ち上がった。この言葉から、思い出さずにはいられないある詩の一節があります。

「立ち上がって たたみなさい あなたの嘆きの地図を。」繰り返します。

「立ち上がって たたみなさい あなたの嘆きの地図を。」

W.H.オーデンというイギリス出身のアメリカ人詩人の詩です。「12の歌」という詩集の中に収められています。この詩人の詩の言葉「見る前に跳べ」を現代の日本の小説家 大江健三郎が紹介したことでも知られています。これは心を前に進めてくれる言葉、それこそ座り込んでしまって動けなくなった魂の背中を押すひと言でありましょう。

徴税人レビは、誰からも嫌われていました。どういう事情で徴税人になったのかはわかりません。聖書には何も書かれていないからです。しかし、人に言えない心の屈折があって この嫌われ者の仕事を選んだことは想像に難くありません。レビは人から嫌われていましたが、この人は、自分でも自分を嫌っていたのではないでしょうか。それが、この人の悲しみでした。誰からも相手にされない 自分でも捨ててしまいたい心を抱えて、どこへ行けば良いのか。レビは胸のうちに 悲しみと嘆きの地図・悲嘆の地図を広げて 逃げ場を探していたのです。自分の魂の居場所を探していたのです。

ただ。ご一緒に考えてみましょう。

レビは、本当に誰からも嫌われていたのでしょうか。彼は、本当にこの世に居場所がなかったのでしょうか。神さまが、イエス様が、レビを愛しておられました。見ておられました。レビを愛して造られた神さまは、決してレビを嫌いになることなく、見捨てることなく、居場所を与えてくださいます。イエス様は、レビをご自分の「弟子」という居場所に招かれました。

その招きに応えるかどうか、それはレビの決心ひとつにかかっていました。そして、レビは従ったのです。

嫌われ者だったレビが、イエス様の弟子となり 最初に勇気を奮って行ったことは何だったでしょう。それはイエス様と 新しい仲間となった他の弟子たちを自分の家の食事に招くことでした。どうしてそのことに勇気が必要だったのでしょう。

一緒に食事をする ‒ それは親しみと和らぎの意味を持っています。食事はそれ自体が私たちの命を保つものであり、食べること自体を楽しむように 神さまは私たちを造られました。さらに、一人よりも、信頼し合っている仲であれば、一緒に食事をすることで 一層 楽しく嬉しく 美味しいと感じます。信頼している仲であれば。仲間とならば。

レビが 特に人々に嫌われていると感じたのは どんな時だったでしょう。誰も自分に話しかけてくれない、誰も笑顔を向けてくれない。誰も自分と食事を共にしてくれない。レビが来ると、みんないなくなってしまう。ローマに魂を売り渡した徴税人だ、裏切り者だ、罪人だと、みんな背を向けて自分から去って行く。こんな時に、レビは深い孤独を感じたのではないでしょうか。それが どうしようもなくやるせないのは、これは自分が招いたことだとわかっているからです。

イエス様は、果たして この自分を本当に受け入れてくださるのか。他の弟子たちはどうだろうか。レビはおそるおそる、イエス様と弟子たちを自宅の食事に招いたのです。イエス様は 弟子たち みんなを連れて 当たり前のようにおいでくださいました。楽しく食事を一緒にしてくださいました。

ファリサイ派の人々は、ユダヤ人の敵・裏切り者・罪人レビと食事をしているイエス様と弟子たちを見て 仰天しました。神さまの教えを語る者は常に清められていなければなりません。罪人と食事をして、その罪の汚れがついてはならないからです。だから、ファリサイ派の人々は「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と弟子たちに尋ねました。答えたのは、弟子たちではなく イエス様でした。

イエス様は言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためでなく、罪人を招くためである。」

この時、ファリサイ派の人々が言った「徴税人や罪人」は 人としての道をはずれた者と社会的な犯罪を犯した者という意味だったでしょう。そして、自分は正しい者だから それに入らないと思ったのです。

しかし、ヨブ記が語るように 神さまの目からご覧になって、正しい人は一人もいません。このレビの出来事の後、ファリサイ派の人々やユダヤの祭司・長老たちとイエス様の関わりは悪くなって行きました。そのために、イエス様は命をねらわれ、弟子たちの中に、イエス様を裏切る者が現れました。弟子たちは、イエス様が十字架に架かられた時は 皆 イエス様を見捨ててしまいました。

弟子たち、また私たち人間には どうしても こうしても 正しいことを貫き通すことができません。愛が足りません。どうしても こうしても イエス様に従いきれません。どこかでイエス様を裏切り、どこかで神さまを汚します。神さまは、それをご存じでした。しかも それを怒らず、そのために私たちが滅びてしまうのを 悲しまれ そこから救うためにイエス様を遣わしてくださいました。

十字架の出来事の後に、イエス様は罪の赦しのしるしである復活を成し遂げられたのです。

今日の最後の聖句のイエス様の言葉は、その十字架のお覚悟を告げています。「わたしが来たのは、正しい人を招くためでなく、罪人を招くためである。」私たち人間・罪人をゆるしへ、救いへと招くために、イエス様は十字架に架かられました。

レビは 今日の出来事を通して新しい人生を歩み始めました。しかし、イエス様が十字架に架かられた時には、他の弟子たちと同じように、逃げ去って身を隠しました。けれど、ご復活のイエス様に会い、再び主に従う道へと戻ることになりました。さらなる新しい歩みをあたえられました。

イエス様にある限り、私たちは いつからでも 新しくしていただける・いつからでも 心をあらためさせていただけるのです。今日は これから聖餐式に与ります。聖餐は 洗礼の更新です。今日からまた、主に新しい力をいただいて、歩み行きましょう。

2019年11月3日

説教題:永遠の命をいただく

聖 書:詩編98編1-3節、ヨハネによる福音書3章13-21節

天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者は誰もいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

(ヨハネによる福音書3章13-16節)

今日の主の日・日曜日に、私たちは召天者記念礼拝を献げるためにここに集められています。召天者 ‒ どんな方々でありましょう。私たちと同じ心で神さまを信じて仰ぎ、イエス様に導かれて日々を歩み、そして私たちよりも先に地上の命の終わりを迎えて 天に召された方々です。先に 主にあるまことの そして変わることのない平安をいただいている方々。そう申し上げてもよいかもしれません。

召天者。その方々は、今日 特にこの薬円台教会でご葬儀を行われた方々のご家族にとっては 心から愛し 今もそれぞれのお心のうちに面影を宿しておられる特別な方々でありましょう。死に隔てられて 会えなくなってしまったことを思い、時には こんなこともしてあげたかったのに、あんなことも一緒にできたのにとの心持ちにさいなまれることもおありかもしれません。愛する方と 二度と会えなくなる悲しみと寂しさは まことに深く苦しいものです。また、その方が長くつらい病(やまい)や老いによる衰えで苦難を抱え その果てに地上の命の終わりを迎えたのであったなら、生きるための戦いに敗れたという敗北だと感じられ、無力感とむなしさ・喪失感が 心の隅にぽっかりとあいた暗い穴のように広がることもあるでしょう。

召天者の皆さまと この地上で会えなくなったのは悲しい事実ではありますが、しかし、今日の聖書の御言葉は語ります。その方々は死に負けたのではありません。私たちは喜びのうちに命をいただいて この世に生まれます。その地上の命が終わった時には 滅びるのではありません。 負けるのでも、命を失うのでも 決してないのです。命の終わりには さらにその先に よりすばらしいものが待っています。

今日は、その真理・真実を伝える聖書の言葉をいただいています。先ほど 司式者がお読みくださった新約聖書 ヨハネによる福音書3章のうち16節を 今一度 お読みします。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

この聖書の御言葉は、はっきりと私たちにこう告げてくれています。教えてくれています。‒ イエス様を信じて 命の終わりを迎えた者は、 一人も死に負けて滅びることはない。イエス様が永遠の命を与えてくださる その喜びと平安に生き続ける。

私たちは、今日、その聖書の真実をあらためていただき、心に深くとどめるために ここに集められています。

永遠の命をいただく喜びと平安。それを私たちに教え 示すのは聖書の御言葉です。御言葉は何を語っているのかと申せば、それはイエス様の十字架の出来事とご復活を告げているのです。イエス様の十字架の出来事とご復活が 私たちに永遠の命を教えてくれています。

さらに、私は比較的 最近 こうも思うようになりました。永遠の命の喜びと平安を私たちに教えてくれるのは、召天者の方々 ‒ まさに私たちよりも先に命の終わりを迎えられ 天に召された方々です。

そう思う、と申しますか そう強く感じるようになったのは 今年の召天者記念礼拝・今日のこの日のために 召天者のお写真を整理して貼り直した時でした。毎年 召天者記念礼拝に出席されたおいでの方はお気づきと思いますが、今年はお写真のパネルを新しくしました。あらためて 天に召された方お一人お一人のお顔を 写真を通して見つめ 扱わせていただくひとときを与えられました。

皆さまのお手元の召天者名簿には43人のお名前があります。お写真をいただいていない方もおいでですので、ピアノ室のパネルには36人の方のお写真があります。私は薬円台教会に着任して 4年と6ヶ月を教会と共に過ごしてまいりました。決して長い年月ではありませんので、お写真の中で存じ上げている方はわずかです。5人の方々に過ぎません。しかし、36人の方々のお顔を見て、お一人お一人がイエス様につながって生き、またはご家族の信仰によってイエス様につなげられて人生を送ったことを思うと 失礼な言い方でしたら申し訳ないのですが 何か 胸のうちが暖かくなるような親しみを感じました。この親しみ。これこそが、イエス様の十字架の御業とご復活によって私たちに与えられた「共に生きる」恵みです。

召天者の方々は イエス様を通して神さまを知り、もちろん 神さまもそれぞれの方をご存じでした。そして、神さまは、この私をも知っておられます。地上で会ったことがなくても 神さまに知られ 神さまを知った者は その喜びと安心でひとつに結び合わされています。召天者のお一人お一人が歩まれた人生は それぞれ違っておいででしょう。しかし、いずれも神さまに守られ支えられ 同じひとつのところ、神さまの国・天の御国に入って行かれたのです。そこは やがてこの私も 願わくば 入るのをゆるされたいところです。信仰で結ばれた者は、同じひとつのところを「ふるさと」とする者同士。そう思うと 私は写真のパネルの前で 実に大きな安らぎに満たされました。

今日は、ふだん あまり教会においでにならない方が ご家族として礼拝に出席されています。良い機会と思いますので、キリスト者・クリスチャンは何を信じているか、そして先に天に召されたクリスチャンのご家族が喜びとして生き、心に抱いて この地上から旅立って行かれた信仰を 限られた時間の中ではありますが、できるかぎり簡潔にお伝えしたいと思います。

ひとつの大前提があります。神さまが私たち一人一人を愛して造ってくださったから、私は、皆さん一人一人が命を持って存在する ‒ この大前提です。神さまが私たちを強く望んでくださり「存在せよ」と願ってくださったからこそ、私たちは生まれてくるのです。

神さまは私たちと永遠に共にいてくださろうと思うほどに、そこまで深く私たちを愛してくださいました。しかし、私たちはその愛に ふさわしくない者でした。命の源である神さまの大きさ・素晴らしさ・尊さを心と魂とで 理解できない、受けとめきれない者なのです。

神さまを知るとは、神さまの大きさの前で 自分の小ささを知ることです。神さまが望んでくださらなければ この自分は存在しなかった、それを心の底から知らなければなりません。

その時、真実の感謝が心に湧きます。これが神さまへの畏れです。

「畏れ」は神さまをこわがるという意味の恐怖の「恐れ」ではありません。神さまの大きさ、すばらしさ、超越的な絶対他者を知る恵みです。神さまを畏れ敬うことがないと、私たちは限りなく傲慢になります。これが、恐ろしいのです。聖書は、これを罪と呼びます。

私たちは 自分が神さまのようになれると思ってしまいます。自分の命は自分のもので、自由にできると錯覚を起こします。ややも すれば 人の命さえ 自由にできるととんでもない勘違いをするのです。自分の力・人間の力で自由で平等で平和な世界が造れると思ったりもします。

「共に生きる」という美しいスローガンのもとに、自分が誰かを助けることができると思い込んだりします。私たちのすべては 神さまの御手のうちにあるのに、自分の正義をふりかざすのです。

繰り返します。神さまを畏れ敬うこと。これが私たちの出発点です。そして、どうしてもそれができないのが、私たちの現実です。つい、神さまを忘れてしまう。神さまなどいないのではないかと 疑う。自分には 誰かを経済的に、あるいは誰かの魂を 実存的に助ける力があると信じ込む。こうして私たちは 傲慢になります。傲慢であることから逃げられないのが、私たち人間です。神さまの愛をしりぞけて、自分が出しゃばるのです。この人間の傲慢を神さまは嘆かれ、この罪ゆえに私たちは滅びると決められました。こうして、私たちは死から免れることのできないものとなったのです。

しかし、神さまは 滅びる私たちを見捨てることはできませんでした。私たちの傲慢の罪を 私たちの代わりにご自分が背負って 私たちの代わりにご自分が滅びてくださることを決心されたのです。

この私たちの代わりとなってくださったのが、神さまご自身であり、神さまの独り子であるイエス様です。私たちの身代わりとして死んでくださるために イエス様はこの世に人間として遣わされました。そして、その身代わりによって 私たちが永遠に神さまと共に生きられるようになったことを 十字架の死の三日後 ご復活によって現されました。

今日の御言葉はクリスマスの時に読まれる聖句です。どうして神さまであるイエス様が 私たち人間の住む地上に人間の、それも最も力無い赤ちゃんとなっておいでくださったのかを端的に語る言葉だからです。もう一度 繰り返してお読みします。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

これを福音と言います。喜びの知らせという意味です。この福音・喜びの知らせを信じ、一生 こうして自分を滅びから救い出してくださった救い主を自分の「主」として ひれ伏して生きる決心をして洗礼を受けた者がキリスト者・クリスチャンです。

神さまの御前に共にひれ伏すところから 教会の第一歩は始まります。教会は どうすれば優しい人になれるのかとか、どうすれば人に親切になれるのかとか、どうすれば助け合いができるのかとか、そうした道徳的な知恵を教えるところではありません。まず 第一に、自分が無力なくせに傲慢であるという罪を知るのが教会です。そのために滅ぼされるところだったのに、イエス様が身代わりになって救われたことを知るのが教会です。

そして、ここから第二歩の歩みが始まります。

イエス様の十字架の出来事とご復活で救われた者同士が 謙虚な思いで 互いを尊重し合い、補い合い、助け合うことを学び、教会生活を送ります。クリスチャンが励むようにと勧められているイエス様の愛のわざは、まず教会生活の中で活かされます。

教会の中での愛のわざの実践を経て、私たちは 礼拝のこの場から世に遣わされ、それぞれ主に従って 地の塩・世の光として相互に助け合う社会を築き、愛と福祉の働きに生きることを理想とします。教会は 主と共に永遠に生きる喜びを知ることと、教会の中での神の家族としての愛のわざに励むことを飛び越して、いきなり、この人類愛と福祉の社会的奉仕を始めることはできません。常に 主を畏れ敬い 自分の罪を自覚する第一歩から始めます。それは、この礼拝の中で与えられる大切な一歩です。

このクリスチャンの歩みは、十字架で死なれ、しかし その死をご復活によってくつがえされたイエス様に導かれて、死を超えて行きます。

イエス様は肉体の死を超える永遠の命を 信じる者に約束してくださいました。その永遠の命のことを 天の国・神の国と言います。

先に地上の命を終えた私たちの愛する方々は さらにイエス様に従い 天の国へと死を超えて進まれたのです。神さまと共に。イエス様と共に。そして、今はその約束の地で安らぎと 限りのない喜びに満たされておられます。今日、教会においでになった方すべてが クリスチャンである方も まだクリスチャンではない方も、この召天者記念礼拝で イエス様の十字架とご復活の意味と意義を、救いのすばらしさをあらためて知り、神さまがおいでくださる喜びを胸に 会堂の外へ この世へと新しく歩んで行けるようにと 主は御言葉を通して招いておられます。今日から始まる一週間、その招きに応えつつ進んでまいりましょう。

2019年10月27日

説教題:神が喜ばれるもの

聖 書:マルコによる福音書12章28-34節

当主日は東京神学大学から神学生が派遣され、説教奉仕を献げられました。

2019年10月20日

説教題:主に真心を献げる

聖 書:ゼファニヤ書3章16-17節、テサロニケの信徒への手紙一 5章16−18節

その日、人々はエルサレムに向かって言う。「シオンよ、恐れるな。力なく手を垂れるな。お前の主なる神はお前のただ中におられ 勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」

(ゼファニヤ書3章16-17節)

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神がわたしたちに望んでおられることです。(…“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。)

(テサロニケの信徒への手紙一 5章16−18節)

今日は私たち薬円台教会の群れの中から、一人の信徒の方に証(あかし)を立てていただきました。神さまがその方のうえにどれほど大きな恵みを与えてくださったかを共に分かち合うことができ、薬円台教会にこの方を導いてくださった主に、また 皆さんお一人お一人との主にある出会いと交わりを あらためて感謝します。

証し者の信仰生活を導く聖句を、今日ご一緒にいただいています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」“何々しなさい”という命令形です。私たちは命令されるのが好きではありません。しかし、この聖句は本当に命令でしょうか。

命令と受けとめてしまうと、ここに語られている三つのことほど 従うのが難しいものはないでしょう。“いつも喜ぶ”など、とうていできません。神さまは 私たちに知恵を与えられました。その知恵は 私たちの生活を向上させ 文明を発達させてきました。今の生活は嬉しくない・喜べない・今のままでは とうてい満足できない・もっと良い生活をしたいと 不平不満を乗り越えるために 私たちは知恵を使います。そうして 文明が発達し、科学や医療は進歩したのです。

また、神さまは私たちを弱く傷つきやすいものに造られました。つらい思いをするたびに 鋼(はがね)のように強い体と心を持っていたらと思います。しかし、私たちはつらさや苦しみの中で 自分の無力を自覚します。初めて神さまに助けを求め、神さまと出会い、その愛で慰められ 満たされる経験をします。そのために 今日の聖句は「絶えず 祈りなさい」と神さまに語りかけることを勧めているのです。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。」これは、神さまの命令ではありません。思いきった言い方になりますが、神さまからの 私たちへの願いと申して良いでしょう。

私たち人間が 神さまの思いを推し量るなど あまりにおこがましいですが、神さまが私たちにどんなことを期待されているのかを御言葉から読み取るのは、けして間違ってはいないでしょう。

今日の旧約聖書の御言葉は、こう語ります。「主はお前のゆえに喜び楽しみ」。私たち人間が、神さまの喜びなのです。神さまは 私たちが神さまを忘れ 自分の力に依り頼み どれほど自分勝手をしたとしても、決して見捨てることはありません。だからこそ、私たちが永遠にご自身と一緒にいられるように 大切な独り子イエス様を遣わして 私たちに永遠の命を与えてくださいました。

神さまは私たちがいること・私たちの存在そのものを喜ばれ、私たちが祈りによって神さまに語りかけるのを喜んでくださいます。今日の旧約聖書の最後の聖句にはこう記されています。主はお前のゆえに、つまり人間がいるからこそ「喜びの歌をもって楽しまれる」。私たちは楽しいことがあると、歌いたくなります。機嫌が良いと つい鼻歌が出る方も多くおられるでしょう。

同じように、神さまは私たちを御覧になって 喜んで歌われます。人間を造って良かった、と思ってくださいます。私たち人間からすると「神さまに造っていただいて良かった」‒ この思いがそのまま胸にあふれます。これは、そのまま神さまへの感謝です。神さま、この世界を、この私を愛して造ってくださり 命を与えてくださり ありがとうございますと叫びたくなります。それは讃美の歌声となります。

喜びと祈りと感謝。そして讃美。神さまが望んでおられる私たちの姿です。それが凝縮して現れるのが 日曜日ごとの この主の日の礼拝です。「いつも」ですから、一週間のどの瞬間も神さまの御前で喜び、祈り、感謝と讃美を献げるのが私たちの信仰生活です。繰り返しになりますが、日曜日、今この礼拝の時、それを凝縮されたかたちで私たちは神さまと共に教会で過ごします。

私たち人間は ともすると礼拝への出席を音楽会や演劇を見に行くのと同じように考えてしまうことがあります。講壇があって それに向かい合って会衆席がある造りが舞台と観客席に似ているために そのように思ってしまうのかもしれません。

笑い話と申しますか、ちょっと良くできすぎの冗談のようなことを私は神学生の時に経験しました。教会学校に通い始めた小学校男の子がこんなことを言いました。「礼拝って、参加型イベントだね。」人間の目からだと、そんなふうに見えるかもしれません。礼拝出席者が 講壇上で礼拝奉仕者がいろいろなことを行うのを眺め、受け身で説教を聞き、讃美歌を歌う時には参加すると考えれば なるほど“参加型イベント”に思えてしまうでしょう。ただ、このことを忘れてはなりません。それは、礼拝の時に、ここにおいでくださるのは主なる神さま・聖霊だということです。“参加型”という言葉を使うのなら、私たちはこの礼拝の場で働かれる聖霊なる主のお働きに参加させていただいているのです。

目には見えないけれど、神さまはこの礼拝の場におられ、大きく働いてくださいます。それは私たちを清め、御言葉で強めるお働きです。

週報の礼拝順序をご覧くださると、それがよくわかります。

前奏で、私たちに心の備えの時が与えられます。奏楽者からの音楽の献げものでもあります。

招きの言葉で、神さまは私たちをここに招き入れてくださいます。

発声するのは司式者ですが、司式者の声を用いて、神さまは私たちを招待されます。神さまに招かれて 私たちが礼拝に来ることがよくわかります。

神さまの栄光を讃えて、讃栄を献げます。主の祈りを共に献げ、讃美歌を歌い、御言葉を読み交わし、信仰を告白します。私たちを愛してくださる神さまへの愛の告白です。付き従いますという告白です。それに応えて、神さまは御言葉をくださいます。司式者が朗読する聖書の御言葉です。それを受けとめて司式者が教会の祈りを献げ、その御言葉の説き明かしをする牧師を清めて用いてくださるようにと祈ります。

感謝してさらに神さまを讃える讃美歌を歌い、献げもの・献金をして、頌栄を歌います。頌栄は私たちプロテスタントの教会では、特に三位一体の神さまを讃える讃美歌が選ばれます。そして、祝祷 諸報告 後奏と続いて礼拝が終わります。

祝祷は神さまからの祝福と派遣の言葉です。この礼拝の場から世に遣わされて 一週間を過ごすために神さまから贈られる「行ってらっしゃい」の言葉です。

その後の事務連絡でも、礼拝のこの場ではすべてが清められていることを心に深く留めておきましょう。

清められたこの場で、人間の自分勝手な発言は慎みたいものです。後奏と共に、出席者は皆 会堂から派遣されてこの世へと出で立ちます。

薬円台教会では 会堂の造りから、後奏の時に退場するのは お帰りになる皆さんを玄関で送る牧師だけですが、本当は牧師の後について 出席者全員が退場します。礼拝堂がからっぽになって 清められたまま礼拝が終わる ‒ これが本来の礼拝の献げ方です。

会堂の造りがゆるせば、礼拝後の委員会や集会、来週は神学生をお迎えしての愛餐会がありますが、それは礼拝とは別の場所で行います。礼拝では、基本的には その日の奉仕者のみが口を開き、ゆるされた言葉を語ります。

礼拝で清められる ‒ それは、この世の汚れから解放され、主のものとされるということです。この世から次元を異にする愛と力に包まれるということです。神さまが本当に喜んでくださる「良いものとして造られた」私たち本来の姿に戻ることです。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」喜び・祈り・感謝する ‒ 神さまの御前で満たされて生きる その私たちの本当の姿は、日曜日の礼拝で清められることから始まります。今週一週間も、主のものとされている喜びと感謝を胸に、また次の日曜日をめざして進み行きましょう。

2019年10月13日

説教題:汝の罪ゆるされたり

聖 書:詩編103編1-5節、マルコによる福音書2章1-12節

四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。…中風の人に「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と行って、神を賛美した。

(マルコによる福音書2章3-12節)

私たちは昨日、台風19号の襲来を受け、その嵐が過ぎ去ろうとしている中で礼拝を献げています。一ヶ月前の台風15号は、これまで台風による大きな被害をあまり受けたことのなかった千葉に深い爪痕を残してゆきました。南房総の教会や施設は、まだ建物の修理が終わっていないのに再び風雨にさらされました。薬円台教会も同じです。台風15号で玄関の庇(ひさし)の屋根、そのかなり大きな部分が壊れたまま、今度の台風が襲いました。残されている部分が落ちて、たまたま下にいる人やご近所の窓ガラスにあたったりはしないかと、金曜日に私の力でできる限りの補強をして、主の守りを祈っていました。

今日のマルコ福音書の聖書箇所には「屋根」が語られています。今の薬円台教会の課題である屋根を保つことではなく、その逆です。私たちを風雨から守り、安全な暮らしを支える具体的な物のひとつ・屋根を壊してまで、イエス様に近づこうとした者たちがいたというのです。そして、イエス様は彼らの信仰を大いに祝福されました。

聖書の御言葉は、どの御言葉も さまざまな角度から いろいろな深さから 何重にも重なって私たちの心にメッセージを語りかけています。今日の聖書箇所も もちろん例外ではありません。その多くのメッセージの中から、限られた時間の中で 今日は二つの事柄をご一緒に聴き取りたいと思います。

まず、最初の事柄です。

個人的なことを御言葉の取り継ぎで語るべきではないと承知はしておりますが、実は、この今日の聖書箇所は 私自身にとって思い出の深い箇所です。皆さんはご存じですが、私は薬円台教会にお仕えする前、キリスト教系の病院・末期がんの方々が過ごすホスピスで働く牧師でした。病院ですからもちろん、信仰をお持ちでなくても、どなたにも開かれています。クリスチャンの方は一般社会と同様、わずかでした。

しかし、そのわずかなクリスチャンの方は、牧師がいるキリスト教系の病院のホスピスであることに、大きな期待を抱いておられました。特に、患者さんがクリスチャンではなく、ご家族がクリスチャンの場合、ご家族は患者さんに残された数十日・数週間の残りの時間に 患者さんが何とかイエス様との出会いを果たせないか、洗礼を受けて神さまのものとされるにいたらないかと 切実な願いを持っておられます。

どうしてでしょう。それは、イエス様の救いにあずかり、洗礼を受けていないと 永遠の命をいただけないからです。地上の命が終わると、もう二度と会えなくなってしまうからです。

いつか、この世は終わり、イエス様がもう一度おいでになる時が来ます。その時、それまでに地上の命を終えた者、地上に生きている者 ‒ 皆、裁かれます。洗礼を受けて 永遠の命をいただき イエス様の救いに与っているとは、この裁きの時に イエス様が執り成してくださるということです。復活の希望に生きることができるということです。復活して、主に結ばれて愛し合う者は互いに再び会うことができます。

洗礼を受けていないと、復活するための執り成しをしてくださる方がいないではないか、死んだら もう二度と会えなくなってしまうではないか ‒ このように ご家族が洗礼を受けておられない方は心配し、おののき、焦ります。まだ意識があるうちに洗礼を受けて欲しい、ホスピスの牧師には しっかり患者さんに福音を届けて欲しい。クリスチャンのご家族は、最初の面談ではっきりとそうおっしゃいます。

数年、教会の礼拝に通い続けても なかなか洗礼の決心はつきません。神さまがおられることを受け入れ、自分が神さまに愛されて造られたことを心の底から知るまでにも、何年もかかる方がおいでです。

それを数週間のうちに、とは人間の考えでは 相当に難しいことです。人間が行うことではないからです。ご本人ではなく、牧師ではなく、イエス様と聖霊の導きがなくては、人間は誰しも 洗礼に至りません。

数週間のホスピスでの暮らしの中で、チャペルの礼拝に出席し、牧師と共に聖書を読み、驚くほど早く洗礼へと導かれた方は 確かにおられました。しかし、洗礼への決心をされないまま 地上の命を迎える方の方が圧倒的に多いのです。

ホスピスでのお別れの式を執り行い、亡くなった患者さんをご自宅に送る時に ご家族が流される涙が私にはたいへんつらく思えました。

ホスピスに着任して間もなく亡くなった方のご家族から このような質問を受けました。奥様とお子さんたちがクリスチャンで、亡くなった患者さんはご家族の中でただひとり、洗礼を受けておられませんでした。奥様が泣きながら 私にこう尋ねたのです「亡くなった夫は、滅びてしまうのでしょうか。この世の終わりの時、キリスト者の復活がゆるされる時が来ても、もう会うことはできないのでしょうか。」

その切実な問に答えるために、私は必死で聖書を読みました。答えをみつけるためでした。思いがけず早く見つかりました。それが、今日の聖書箇所なのです。

まだイエス様を知らない方が、イエス様を知っているまわりの人々、ご家族なり 友人なりの信仰によって救いに入れられることを、今日の聖書箇所は語っています。ご家族への答え。それは、聖書の今日の箇所をお示しすることなのです。

今日の聖書箇所にある「中風」とは、脳出血・脳梗塞など脳血管障害の後遺症をさします。症状の重い・軽いはあるでしょうけれど、半身が不随になり、手足が麻痺し、時には言葉も不自由になり、場合によってはほとんど寝たきりになります。イエス様の時代、リハビリ医療も進んではいなかったでしょうから、中風の人は自分では動けず、意思疎通もままならなかったと思われます。

しかし、この人はひとりきりで捨て置かれてはいませんでした。四人の男の人たち、この人の家族でしょうか、友人でしょうか、おそらくこの人が身動きならずに寝ていた寝床ごと、この人をイエス様のところへ連れてきました。クリスチャンの奥様・子どもさんたちが、まだ洗礼にいたらないうちに 地上の命を終えようとしている末期がんのお父さんの魂の救いのために、必死に浜松のキリスト教系のホスピスを探し、お父さんをそこに入院させるに至ったのは、聖書が語る四人の男の人たちの思いに重なります。

何とかイエス様に病気の人を会わせたい ‒ その熱意は 実に屋根をはがして病気の人を寝床ごと イエス様のおられる辺りに吊り降ろすほどだったのです。イエス様は その熱い心を御覧になりました。

クリスチャンがイエス様を深く強く信頼する、その信仰ゆえに イエス様は クリスチャンが必死の思いで連れてきた人を 救いに入れられました。こうおっしゃられたのです。今日の聖書箇所5節です。お読みします。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪はゆるされる」と言われた。イエス様の このお言葉は 親しい方への一生懸命の伝道が洗礼の実を結ばずに、この世でのお別れの時を迎えたキリスト者への希望です。この世で共に教会生活・信仰生活を送ることはできなかったけれど、愛する人に、御国でまた会える ‒ その希望を、イエス様は今日の御言葉を通して私たちに与えてくださいます。

今日の聖書箇所が告げるもう一つのメッセージ。それは、イエス様が言われた5節のお言葉の後半にあります。イエス様は中風の人に「あなたの病(やまい)は癒やされる、さあ 起きて床を担いで歩きなさい」とはおっしゃいませんでした。一読するとまったく関係が無いように思えることを言われました。「あなたの罪はゆるされる。」

この言葉を、聞き捨てならないと目くじらを立てたのが、その場にいた律法学者たちでした。罪のゆるしは神さまにしかおできにならない。それを ナザレ出身の、祭司でもないこの若者が言うのは 自分を神とする冒瀆行為に他ならない。律法学者たちは、そう思ったのです。

罪のゆるし。それは、何でしょう。この世の終わりの日・裁きの日に、命の終わった者も その時に命のある者も 等しく ひとりひとり神さまの御前に立たされます。裁かれます。「ゆるし」とは、その時に与えられる「あなたは良い、だから滅ぼさずに永遠の命を与える」 ‒ この神さまの裁き・判断・ご決断の言葉です。

私たちは そもそも、神さまに愛されて「良いもの」として造られました。創世記の最初の章、聖書の2ページ目に記されているとおりです。神さまは私たちをお造りになった時、私たちに自由な自我をお与えくださいました。その自由は、ロボットのように神さまの言いつけを守るのではなく、自分から 神さまのことが大好きだから 神さまに またイエス様についてゆこうとする自発的な愛を芽生えさせます。同時に、その自由は 私たちが神さまではないものを最優先にして、自分にすべての裁量がある・自分が何もかも決めることができる、自分が神であると思い込むきっかけともなったのです。従わない自由です。

私たちが神であるはずがありません。神ならば、自分が生まれる時と死ぬ時を決められるでしょう。私たちにはどちらも、何一つ 決められないではありませんか。

最初の人アダムとエバが 神さまの言いつけに従わず、食べてはいけないと言われていた木の実を食べた時、彼らは神さまのようになれると思いました。自分が神になれる ‒ 何と的はずれな とんちんかんな考えでしょう。的はずれ。とんちんかん。それを、聖書は「罪」と呼ぶのです。せっかく「良いもの」として造られながら、とんちんかんな方角を向き、間違った方へ歩み出してしまった人間を、神さまはイエス様を通して呼び戻してくださいます。

あなたは 自分を造った神の愛を忘れ、神を知ろうともせず、とんちんかんな、的はずれの道を歩んでいたけれど、戻ってこられる。もう一度、すっかり良いものとされる。これが、イエス様がおっしゃった「あなたの罪はゆるされる」という言葉です。

もう少し申しますと、「罪のゆるし」とは「良いものに戻していただく」ことです。それは、私たちの弱さや悲しみのすべて、病や事故や、避けることのできない人間関係のもつれなど、苦しみのすべてを神さまが取り去ってくださることを意味します。取り去って、無になったのではありません。イエス様が、そのすべての苦しみを私たちの代わりに十字架で担ってくださったのです。病気の癒やしも、「良いものに戻していただく」ことに含まれます。たとえ地上で病が癒やされなかったとしても、イエス様の十字架によって魂は救われるのです。

イエス様は9節で言われました。お読みします。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。『起きて、床を担いで歩け』 ‒ 病気の癒やしは、『罪の赦し』の中に入り、そして罪のゆるしは、神さまにしかおできにならないことです。罪のゆるしは、難しいか易しいかと言えば難しい と申しますよりも、そもそも人間には不可能な、神さまであるイエス様にしかおできにならないことなのです。

それを人間にわかるように、イエス様は律法学者や他の人々の目前で 中風の人をいやされ、その人が床を担いで歩き出すようにされました。人々は それを受けとめ理解したからこそ、今日の聖書箇所の最後の言葉が語るように「神を賛美」しました。

台風・雨風の中、たとえ目に見える会堂が壊れ、屋根が飛ばされたとしても 私たちイエス様を信じ 神さまを主と仰ぐ者たちは残ります。残って、神さまを讃美し続けます。

伝道の秋を過ごしています。私たちの 救いの福音を伝えようとの祈りと願いに応えて、主は今日も 連れてこられた中風の人を「良いもの」として救っておいでです。御国での再会を約束してくださいます。

今週も「良いもの」とされ、罪ゆるされて ここから世へと遣わされ、救いの喜びと安心のうちに進み行きましょう。

2019年10月06日

説教題:私は望む。清くなれ

聖 書:レビ記14章30編1-9節、マルコによる福音書1章35-45節

朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが探しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは説教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。

(マルコによる福音書1章35-42節)

先ほど司式者が朗読された新約聖書 マルコ福音書1章35節からの御言葉は、イエス様の祈りから始まります。

イエス様はその前に、ペトロの家に行き 発熱して苦しんでいた彼のしゅうとめを癒やされました。それはイエス様が安息日になさった二つ目のいやしの奇跡でした。イエス様は病を癒やしてくださる方。そうイエス様のことを理解し、受けとめた人々はそれぞれ身内の、あるいは友人の病気の人をイエス様のもとへと連れてきました。イエス様は病気の人をいやし、最初になさったいやしの奇跡のように 悪霊を追い出されました。安息日が明けた日没から、夜遅くまで働かれました。

休み、眠りにつかれたのは夜が更けてからだったでしょう。

ところが、今日の御言葉は何と始まっているでしょう。こう語られています。35節。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて」。まだ夜が明けないうちに、イエス様がこうして起きられたのは「人里離れた所へ出て行き」祈るためでした。

祈りは、イエス様が天のお父様と語られる、なくてはならない 大切なひとときです。特に、この日・この時、イエス様は神さまと語る時間がご自身の睡眠よりも、何よりも必要とされました。安息日に、イエス様は新しい大きな一歩を踏み出されました。会堂で説教され、その場で1回、そして直後にペトロの家で1回、いやしのみわざを行われました。それらは神さまから命じられた一歩でした。そして、イエス様はそれらを成し遂げたあとに、祈りを献げられました。

自分の行動の節目・節目に祈り、神さまが「良い」とおっしゃってくださるかを伺い、次にしなければならないことを尋ねる。

イエス様はそのために祈られました。御心にかなっていれば、神さまは「良い」とおっしゃってくださいます。それはご自身の原点に立ち返ることです。神さまが何のためにご自分をこの世に遣わされたのかを、祈りの中で神さまに問い、お答えをいただいてご自分の歩みを確かめるために、イエス様は人里離れたところへ祈りに行かれました。

イエス様にならって、私たちも行いの前と後に祈ります。礼拝の前に祈り、後に祈ります。目が覚めて一日を始める時に祈り、一日を終えて眠りに就く時に祈ります。創世記の第1章・聖書の最初の章で、神さまは天地と天地にあるものすべて、そして私たちを造られ、きわめて良いとされました。祈りによって、私たちは常にその原点に立ち返ります。神さまに立ち返ります。しっかりと神さまに心を向ける、これこそが「回心」・神さまの方へ心を回す「回心」です。これを、別の言葉で「悔い改め」と申します。

さて、朝早くの祈りの中で、イエス様は神さまにご自分の原点を示されました。何のために 神さまはイエス様を世に遣わされたのか ‒ それは、神さまの正しさと愛を伝えるためです。イエス様は、自分を探しに来た弟子ペトロとその仲間たちに はっきりとそれを告げられました。38節です。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでもわたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」

ペトロも、その仲間たちも、カファルナウムの町の人々も、イエス様がこの使命を神さまからいただいていることを理解していませんでした。彼らがイエス様を探しに来たのは、イエス様が自分たちのところにずっといてくださると思ったからでした。いてくださらないと困る、この町の者・自分たちをいやし続けてくださらないと困ると、イエス様をずっと一つ所にとどめておくために探したのです。

しかし、それは天の神さまの御心ではありません。

イエス様を「病気をいやす人」だと限定して決めつけ、自分たちだけのものとしようとする自己中心的な思いに過ぎません。

繰り返しになりますが、神さまは、ご自身の正しさと愛を広く知らせるようにとイエス様をこの世に遣わされたのです。その原点にイエス様は立ち返り、ペトロの家を本拠地としながら、近隣の町や村への宣教を始められました。ペトロたちも、イエス様に従いました。

その近隣の村で、イエス様のもとに切実な願いを抱いてやってきた人がいました。今日の聖書箇所 マルコ福音書1章40節から、その出来事が語られています。

重い皮膚病にかかった人が、イエス様のところに来てひざまずきました。そして、こう願ったのです。40節後半です。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」

この人が、「イエス様、あなたはわたしを清くすることができます」と言ったことに注目しましょう。この人は「わたしの重い皮膚病を治してください」とは言いませんでした。この出来事でたいせつなのは、イエス様が病のいやし以上のこと・清めのみわざをなさる方だということです。

「清める」とは「聖別する」ことです。聖別は、聖(ひじり)という字に別れると書きます。私たちを聖なるもの・神さまのものとして、取り分けてくださるという意味です。もう少し申しますと、本来良いもの・神さまのものとして造られたのに、造り主である神さまを忘れてそっぽを向いている的外れな者・私たちを「我が子よ」と呼んでご自身のふところに連れ戻してくださることです。それは神さまにしかおできになりません。 清い者とされるか、そうではないか。それを決めるのは神さまです。イエス様は神さまとして、重い皮膚病にかかった人に清めのみわざを行った ‒ それが、イエス様がなさったことです。

イエス様の時代、「清くない・汚れている」とされたのは重い皮膚病にかかった者たちでした。かつてはハンセン氏病だと解釈され、少し古い訳では「らい病」と書かれていました。近年は、そう考えてはおりません。

神さまの掟である律法に、重い皮膚病にかかっている人を隔離するようにと定められています。(レビ記13:45−46)近年の解釈では、この「重い皮膚病」がどんな病気だったかということよりも、掟・律法で「汚れている病」とされていることを、人間が人間の次元で勝手な受けとめ方をしたことを重視します。私たちには物事を相対化して理解することしかできません。そのために常に違いを探し出し、比べます。ただ比べるだけでなく、やがて自分だけが良いもの・正しいもので、他を差別するようになります。私たちの心には、うっかりすると差別や偏見になってしまう性癖が潜んでいます。言い方を変えると、誰かをいじめたい心が隠れていると考えて良いでしょう。

子どもたちの世界で大きな位置を占める学校で、何がたいへん長く問題にされているか、そしてなかなか解決しないかと言えば、おそらく多くの方がすぐ「いじめの問題」を挙げるでしょう。クラスメートの誰かを「汚い」と言い、「そばへ行くな、バイ菌がうつる」と言って、その誰かを孤立させる ‒ それが典型的ないじめのやり方と聞きます。それは、今日の御言葉が語る状況 ‒ 重い皮膚病にかかった人の手足・顔が膿んで崩れ、それが感染するのを「汚れている」としたことと重なってまいります。

病気になったら、家族や友人は心配し、看病をします。ところが、ここに記されている重い皮膚病にかかると「汚れている」とされ、その病気にかかった人は 人々の住むところから閉め出され、見捨てられてしまうのです。この人は、病気ではない人にさわられることすらできないのです。しかし、律法はそこから戻る・通常の生活に復帰する可能性を記しています。今日、旧約聖書から司式者がお読みくださったレビ記14章1節から9節に、その清めの儀式が定められています。

今日のマルコ福音書の聖書箇所で、イエス様の足元にひざまずいた人は清められて、この儀式を受けられるようになりたい、再び家族と共に、他の人々と一緒に暮らしたい、普通の生活に戻りたいと願ったのです。

この人は自分を造り、人間を造った神さまにだけ、清めのみわざがおできになることがわかっていました。ですから、人としてこの世においでくださったイエス様なら、自分を清めることができると確信したのです。

そのイエス様への深い信頼は、この人が語った40節の言葉に表れています。お読みします。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」あなたこそが、わたしを清めることのできる方です。だから、そう望んでください、願ってくださいと、この人は言いました。

イエス様はどうなさったでしょう。41節は、まずイエス様がその人を「深く憐れまれた」と語ります。「はらわたの底からわきあがるような強い思い」を表す特別な言葉が用いられています。その強い思いから、イエス様は神さまにしかできないことをなさいました。

人間は、重い皮膚病にかかった人に触ることができません。しかし、何でもおできになる神さまは、この人に触ることができます。神さまの御子イエス様は、この人に手を差し伸べて その人に触れました。この人に触ったのです。長く人に触れられていなかったこの人にとって、このイエス様の手のぬくもりだけでも、どれほどその深い孤独は癒やされたでしょう。

イエス様は続けて言われました。「よろしい。清くなれ。」

このイエス様の言葉は、直訳するとこうなります。病気の人の「あなたが願ってくだされば」という信頼に、まっすぐに応えた言葉です。「私は願う。私は望む。清くなれ。」

神さまが言葉によって天地を創造されたように、神さまの御子イエス様の言葉は実現します。重い皮膚病は去り、その人は清められました。そこで、イエス様は律法に定められているとおりに「行って祭司に体を見せ、清めの儀式を受けなさい」と勧めました。

ただ、ひとつ堅く言い渡したことがありました。44節をご覧ください。イエス様は、清められたその人にこうおっしゃいました。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。」

イエス様は、人間がご自分を理解されないことを承知していました。ただ病気をいやす「人」だとしか、人間にはイエス様のことがわからないのです。神さまだから、イエス様がこの人にさわることができ、神さまだから、イエス様がこの人を清めたと考えることができません。

しかし、45節にあるように、この人は「そこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。」それは、何を意味するでしょう。重い皮膚病にかかった人にさわると、さわった人は重い皮膚病がうつったと見なされて、人々と一緒に暮らすことができません。汚れがうつった・汚れた者とされて、人の住むところ、町や村から閉め出されてしまいます。それが、イエス様の身に起こりました。45節の中程に記してあるとおりです。お読みします。「それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。」

誰よりも清い方であり、神さまその方であるイエス様が、汚れを担われました。これは、イエス様の十字架のみわざを指し示しています。イエス様が、神さまの御子でありながら、私たちに代わって、人間の罪と汚れを一身に担ってこの世から抹殺される死刑囚となられ、十字架に架かってくださったことを指すのです。しかし、それにもかかわらず、いえ、むしろイエス様の十字架の出来事によって、マルコ福音書の今日の聖書箇所の最後には、イエス様が人々に求められ、慕われる今の現実と重なる言葉が記されています。お読みします。「それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。」私たちも今、イエス様を慕い、福音をいただこうと礼拝に集まっています。マルコ福音書に、すでにそれが記されていることに新しい驚きをいただきます。

私たちは、イエス様が聖なる方であり、私たちを清めて「我が子」と呼んでくださる天の父の御子であることを、今日、あらためて深く心に留めたいと願います。今日はこれから聖餐式に与ります。十字架でイエス様が私たちに代わって罪を負われ、肉を裂かれ、血を流してくださったことをおぼえましょう。身に余る恵み・清められた喜びを胸に、今週一週間も心を高く挙げて進み行きましょう。