06年10月-07年03月

2007年3月25日

説教題:ぶどう園の主人と農夫

聖書:哀歌 1章1-11 ルカによる福音書 20章9-19節

【説教】

イエスが語ったこの譬えは分かり易いですが、その意味と重要さを聞いていた民衆が理解したか疑問です。私たちもこの譬えを理解しているか問い直す必要があります。

イエスはこの譬えを、エルサレムに入って神殿から商人たちを追い出した後、十字架を前にして語っています。この譬えの中心は、ぶどう園の主人が敬ってくれるだろうと送った、愛する子が殺されたところにあります。16節に、この譬えを聞いて「そんなことがあってはなりません」と言った、と記されています。彼らはそのことがあってはならないことだ、自分ならしない、と言っているのです。言ったのは民衆です。19節には、律法学者、祭司長たちが、イエスはこの譬えを自分たちに当てつけて話されたと気づいた、とあります。彼らはこの時既に、イエスは自分を神子と言っている、殺してしまえ、と思っていたのです。でも彼らは民衆を恐れて実行しなかったのです。しかし、イエスを十字架につけた責任は彼らだけではなく、民衆にもあるのです。すべての人に責任があるのです。

このぶどう園は地上の世界で、その主人は神です。農夫は、私たちも含めたすべての人です。この譬えの主人は農夫に必要なものをすべて貸し与えています。ところが農夫はそのことに鈍感で、ここにあるのは自分のものと思っているのです。私たちも神によって全てのものを貸し与えられて生かされていることに鈍感なのです。

ぶどう園の主人が「収穫を納めさせるために」、口語訳聖書「収穫の分け前を出させようと」僕を農夫のところに送りました。ところが農夫は、この収穫は自分の物だ、自分が苦労して手にした物だ、奪われてなるか、とその僕を殺してしまったのです。主人の息子が送られてきても同じように殺してしまったのです。農夫は、神まかせに怠けていなかった、一生懸命に働き苦労した、それだけその収穫は自分の働きによるとの思いが強かったのでしょう。私たちも、命も体も自然も全てのものを神から与えられているのに、それらを自分のものと思い、自分の知恵と力によって収穫物を手にしていると思っているのです。

現代は「神は死んだ」「私が神を殺した」と公然と宣言する人がいる時代です。神の愛と恵みによって生かされているのではない、人間の知恵と力によって生きているのだ、と言う声が支配的な世です。私たちもそのような声に影響されることが起こるのです。

イエスは、16節以下でご自分の死によって新しい農夫が誕生し、新しいぶどう園が出来ると光を語っています。新しい神の民の誕生、新しい神の国を見ているのです。

イエスはこの譬えを語られた後で、「家を建てる者の捨てた石が隅の親石になった」と言われました。家を建てる者が、これは必要ないと捨てた石、それが神の子イエスだ、その捨てられたイエスによって新しい神の家が建てられる、と言われたのです。

この新しい神の家は神の愛と恵みによって建てられるのです。その家に住んで生きる民は、自分の知恵と力で頑張り誇って、主人である神を忘れてしまう民ではなく、十字架のイエスに自分の罪を見、謙遜になって、神の愛と恵みを感謝しながら歩む民なのです。

2007年3月18日

説教題:メシアの栄光を示す主

聖書:出エジプト 34章29-35節 ルカによる福音書 9章28-36節

【説教】

地上を歩まれていた主イエスの姿が山の上で変わった。この出来事は、「イエスは何者か」の問いに神が答えて、イエスは神の子、神の栄光を持っているお方、神の愛する子である、と示しているのです。

ルカ福音書は、「八日ほどたったとき」と書き始めています。八日目は、割礼を受ける日として人々に覚えられていました。ルカは、この山上でイエスが神によって新しい神の子に変えられた、それがイエスに結びつく者たちが新しい割礼を受けた新しい神の民として誕生することを意味している、と暗示しているようです。

イエスは「祈るために山に登られました」、そして「祈っておられるうちに」イエスの姿が変わったのです。主イエスが、父なる神との交わりの祈りに集中しているとき、その祈りに応えるように、神がイエスの姿を変えられたのです。御子イエスと父なる神が意気投合し、神はイエスを御心を行う者として力づけ心新たに歩む者とされた、イエスはご自分の使命と責任の自覚を強くされた、そのことがここで起こったのです。

栄光の姿に変わったイエスと、二人の人が語り合いました。「二人(モーセとエリヤ)は栄光に包まれて現れた」のです。栄光は、光で、エネルギーで、命です。この栄光は神の圧倒的な力、命を現しています。その栄光に包まれて3人が語り合っているのです。モーセもエリヤも旧約聖書の中で、神の力と命を与えられて歩んだ、神と人間の仲立ちをした人物です。神による救いを、神の民に伝え、民を導いた律法と預言者の代表者です。

31節に3人は「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話し合った」と記されています。この「最期」と訳されている言葉は、「出口」「脱出」という言葉です。この世からの脱出ということで「最後」「死」の意味にも使われます。イエスがエルサレムで遂げる最期は、死であると共に、罪と死からの脱出、神の命への脱出、復活をも含んだ最期です。「遂げようとしておられる」の「遂げる」は、「実現する」「満たす」ということです。ルカ24:44に「必ずすべて実現する」とある「実現する」がこの字です。モーセとエリヤが神に選ばれ用いられて行ってきた救いの働きがイエスによって満たされる、旧約聖書の約束が実現する、というのです。栄光の中で3人が話し合っていること、イエスがエルサレムで成し遂げる最期のことは、神の救い、罪の支配からの脱出のことです。

32節「ペトロと仲間はひどく眠かった」「じっとこらえていると」は、口語訳聖書では「熟睡していたが、目を覚ますと」となっています。ここに肉の人間の弱さが示されています。ペトロは寝ぼけ眼ですが神の栄光の中にいる3人を見て、目先のことで判断した愚かしいことを言いました。それなのに、神はそのペトロたちを弟子と認め重んじて雲の中から「これは私の子、選ばれた者、これに聞け」と告げているのです。

このように弱く愚かな私たちに、神は選ばれ人を用いて、イエスによって与えてくださった神の栄光、力、命に与って生きるように、語りかけ、導いて下さっているのです。

2007年3月11日

説教題:イエスは何者か

聖書:イザヤ書 63章7-10節 ルカによる福音書 9章21-27節

【説教】

イエス様はどういう人でしょうか、何者でしょうか。

イエス様はご自分のことをこう言っています。「人の子(私・イエス)は必ず多くの苦しみを受け,長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日後に復活することになっている」。ここで「必ず」と言っているのは、神様がイエス様にそのようにする、そしてイエス様はそれを主体的に引き受け義務と責任をもってする、と言うことです。小学生のAちゃんに6ヶ月の赤ちゃんの弟がいますね。Aちゃんが「僕は皆がいない時には必ず赤ちゃんを見ているよ」と言う。この「必ず」はそのような「必ず」なのです。

イエス様にとって何が「必ず」なのか。「多くの苦しみを受け」から、「復活することになっている」まで全部です。イエスが苦しみを受けて殺される、と聞いてマタイとマルコではペトロが「主よ、とんでもないことです」とイエスを諌めたと記していますが、このルカは「復活する」までが一つになっているのでそれは記していません。神様が殺されたイエスを必ず復活させてくださる、イエス様はそのことを信じてお話しているのです。

神様が復活させて下さるのには、イエス様が神様から与えられた義務と責任を果たして死ぬからです。それは、神のメシア、人々の罪を代わりに負って罪を贖う死を自分のものとすることです。それで、イエス様は、私は必ずそのように死ぬ、と強い決意を語られました。ペトロは、その強い決意に圧倒されて、イエスの言葉を誤解したのです。イエス様は、その時その場の思いや感情で生きたのではなく、自分の考えや計画で生きたのでもなく、神様のお考えとご計画を知り受け入れて、ご自分に与えられた責任を果たすように目標を見ながら歩まれたのです。苦しみを受けて殺される道を歩まれたのですが、神のご計画の道で、復活させてくださる道なので、希望と光を見て歩んだのです。

イエス様が長老たちから「排斥される」ということは、自分から排斥される者になったということではありません。「必ずそうなる」その結果「排斥される」のです。「排斥」は、ある規準と物差しによって厳しく調べ、これはだめだと捨てられ離されることです。イエス様は、神からの義務と責任を果たすために、神の道を歩まれました。そのことがこの世の基準、この世の道に合わなかったのです。この世と合わないところがあって苦しめられ、排斥されるのです。苦しみ排斥されることが目的ではありませんでした。神からの義務と責任を果たすことが中心になって、イエス様は「必ず」の道を歩みぬかれたのです。

そのイエス様の復活は神様がして下さったのです。神様の「必ず」とイエス様の「必ず」によって私たちの救いがあるのです。イエス様はその神さまを信じて、苦しみを受け排斥される道を歩まれたのです。これがイエス様の正体、神のメシア、私たちの救い主です。このイエス様が、私たちが従うべき主です。私たちは、イエス様に従って神さまから与えられた道を歩むのです、そのためにこの世から苦しみを受け排斥されることがあっても、神の命に生かされる希望をもって、神の子の誇りをもって歩むことが出来るのです。

2007年3月4日

説教題:悪霊と戦うキリスト

聖書:創世記 6章11-22節 ルカによる福音書 11章14-26節

【説教】

聖書は、善の神と悪の神という二つの神を認めていません。唯一の神が存在するのです。

創世記6;11に「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた」とあります。「堕落」は腐敗、変質、乱れとも訳されます。「不法」は力、暴力、暴虐とも訳されています。神の造られたものが、神の御心から離れた、それが悪なのです。ルカにある「悪霊」は、病気や災いをもたらす霊、風や息のように地上に存在している霊で、これが悪の力です。

創世記6;5,6には、主は悪をご覧になって、後悔し、心を痛められた、と記されています。神は、自分の心を理解しない活発な我が子に対する親ように、これではいけないと、怒りではなく、心痛めてられたのです。神は、無感動な方ではなく、時と状況に応じて喜び怒り心痛め後悔もされる、生きた人格的な神なのです。それで、洪水をもって悪の人間を滅ぼし、ノアの一家を通して新しい世界を造ろうと、決意をされたのです。しかし、神は全てを完全に滅ぼすことはされませんでした。被造物の中に、神の意志に従わない悪霊が風のようにあるのをご承知で、神はノア後の人間と被造物に祝福を与えました。

ルカ11;14に、イエスが悪霊を追い出すことで、口の利けなかった人が、口の利けるようになったことが記されています。群集は驚嘆しました。しかし、イエスが何の力によって悪霊を追い出したか理解できないで、「悪霊の頭ベルゼブルの力で追い出したのだ」と言う人や、イエスを試そうとして天からのしるしを求める人がいたのです。

私たちは、この人はこゆう人だと言う先入観を持っていると、その人が言ったり行ったりしていることを信用しないで、裏がある、用心しろ、とその人の言動を素直には見ないのです。一度悪い事をした人、刑務所から出て来た人がそのような目で見られ、立ち直るのに苦しむのです。イエスに対して、ある人たちは悪魔の子という先入観を持っていたのです。それで、19節にあるように、他の人も病人を治すことはしていたのに、イエスに対してだけ、悪魔の頭の力によるのだ、神の力によるならしるしを見せろ、と言ったのです。

イエスは、「私がベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うが、それではサタンの国が内輪もめして国が成り立たない。また、同じことを行っているあなたたちの仲間は何によって追い出しているのか。神の力によってではないのか。」と、冷静に神の力に目を向けるように言いました。そしてイエスが神の力によって今ここで悪霊を追い出している。神の指であるイエスがここにいる。神の国がここに来ているのだ。と言われました。

この地上には悪の力が風のように満ちているのです。私たちはどこで神のご支配を知ることが出来るのでしょうか。それは、祈り冷静になって神の業を見、神の言葉を聞くことによってです。その時、洪水や病を通しても神の愛よ恵みのご支配があることを知ることが出来るのです。イエスは神の指となって悪霊に勝利したのです。

しかし、イエスの勝利だけに満足していると、再び悪霊が入って来るのです。勝利の主イエスを心にしっかり宿し、日々主と共に悪霊と戦うのが信仰生活なのです。

2007年2月25日

説教題:主を試してはならない

聖書:申命記 6章10-19節 ルカによる福音書 4章1-13節

【説教】

新共同訳聖書はここの小見出しを「誘惑を受ける」としています。そして13節までに「誘惑」という言葉を繰り返し使っています。何かイエスが悪魔に支配されて、悪い罪の方に引っ張られている印象を受けます。しかし、「誘惑」ではなく、「試み」と訳している聖書が多いのです。神が、悪魔を使ってイエスを試みている、テストしているのです。1-2節に「霊に引き回されて、悪魔から誘惑を受けられた」は、「神の霊に導かれてテストを受けられた」ということです。この世では、悪魔が神に用いられることがあるのです。

イエスは、40日間何も食べないで空腹を覚えられた時、悪魔から「神の子なら、石にパンになるように命じたら」と言われました。「神の子なら」は、「もし神の子なら」というのではなく、「神の子なのだから」という言葉です。空腹で、そこには悪魔以外には誰もいないのです。何を基として行動するかが問われているのです。その時イエスは、悪魔の甘い囁きにも、自分の肉の空腹にも従うのではなく、神の意思に従うと決断されたのです。4節は申命記8;3の言葉ですが、イエスは「神から出る言葉によって生きる」という言葉を略しています。生きるかどうかも神の意志に従う、と言っているようです。今日から受難節の礼拝ですが、イエスは十字架に架けられた時、神の子ならそこから降りて自分を救え、と言う声に従わないで、神の御心に従いました。そのメシアのテストがここにあるのです。

次に悪魔は、イエスに私を拝むなら国も権力も繁栄も全て与える、と言いました。イエスは、神が全てのものの主である。その主を拝み、主に仕える、何を手にするか、支配するかは問題ではない、誰を拝むかが唯一の問題だ、と答えました。これは申命記6:13,14の神の命令と一つになっています。誰に聞き従うかが大事なことで、私たちも幼い子に「何か上げると言っても聞き従ってはいけないよ」と躾けるでしょう。

9節以下に、悪魔が神の言葉を使って「神の子なら、ここから飛び降りてみろ。天使が助けてくれる」とイエスを誘ったことが記されています。ここで悪魔が誘いに使っている言葉は、詩編90;11-12にありますが、神を信頼している人に対して、神が与えた道を歩んでいるなら例え躓きの石があっても倒れないように天使が助ける、と言う内容の言葉なのです。悪魔は神の言葉を自分の都合がいいように解釈し、組み合わせて使うのです。

イエスの12節の答えは、申命記6;16節の引用です。「マサにいた時のように主を試みてはならない」とあるのは、出エジプト記17;1-7の所に記されていることを指しています。特に7節の「イスラエルの人々が『果たして主は我々の間におられるだろうか』と言って、主を試した」を指して、このような民になるなと、言っているのです。イエスはこの言葉を引用することで、どんなに苦難な道でも私は神を信じて歩むと宣言しているのです。

イエスは神に用いられた悪魔の挑戦に勝利されました。13節に、悪魔は時が来るまでイエスを離れた、とあります。その時は22;3節と言えます。十字架の時に悪魔が又用いられ活躍するのです。しかし、イエスはここでの勝利を十字架でも示されたのです。

2007年2月18日

説教題:パンの奇跡を行うイエス

聖書:イザヤ書 41章8-16節 ルカによる福音書 9章10-17節

【説教】

今日与えられた聖書ルカ9:10-17の前の所に、ヘロデ王が「イエスはいったい何者なのだろう」と言い、「イエスに会って見たいと思った」ことが記されています。この「会って見たい」は「非常に関心があるので是非会って何者か知りたい」と言う意味です。

今日の聖書の後には、イエスが弟子たちに、「群集は私を何者だと言っているか」「あなた方は私を何者だと言うか」、と尋ね、弟子たちが答えたことが記されています。

この「イエスは何者か」という問いと答えの間に、今日のイエスがパンの奇跡を行った記事があります。ルカはこの記事によって、イエスが何者か関心を持ち、イエスに思いを集中して、イエスが神からのメシアであることを知って欲しい、と編集しているのです。

11節は、イエスが、イエスの後を追ってきた群集を迎え、神の国について語り、治療の必要な人を治した、と記しています。イエスはそれらのことを特別な感情をもって行うのではなく、自分に与えられている務めをするように、語り治した、と聖書は淡々と記しています。そして、イエスはパンの奇跡を行うのです。

ルカ福音書は、イエスが荒野で悪魔から誘惑を受けた時、「人はパンだけで生きるものではない」と答えたことを記しています。イエスは、6:20,21では、貧しい人が幸いだ、神の国、神のご支配を知るようになる、と、7;22では、貧しい人は福音を、神のご支配を告げ知らされている、と言っています。今日の9:10-17全体は、神の国、神のご支配のことを語っているように思われます。イエスの所に救いを求めて来た人々に、神の国を語り、イエスと共に神の国、神の愛と恵みのご支配が来ていて、命がある、と語っているのです。

今日のイザヤ書は、捕囚されている民に神が、私はあなたの神だ、あなたと共にいる、あなたを固くとれえ決して見捨てない、だから恐れることなく歩め、と言っています。

イエスの所に来た人々は、時間を気にしなかった、時間の経つのも、空腹であることも忘れて、イエスと共にいることで満たされていたのかも知れません。しかし弟子たちはそのことが気になりました。それでそのことをイエスに伝え、人々を解散させようと提言ました。ところがイエスは弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言いました。食べ物を与える、給仕する、サーヴィスすることを、弟子たちがしなさいと言うのです。弟子たちが自分たちには出来ないと言うと、イエスご自身が弟子たちを用い、神に祈って食べ物を与える業を進めたのです。その業によって群集に食べ物を与えたのです。イエスが給仕する者になられたのです。そして全ての人が満たされたのです。

この奇跡は、ただ僅かなパンを沢山にしたというだけではなく、イエスと共に神の愛と恵みのご支配がある。イエスは何者か、神に仕え人々に仕えるメシアである、ということを示している奇跡なのです。そして弟子たちに、主イエスに倣い従って仕える者でであるように、教えているのです。

2007年2月11日

説教題:主イエスの思い

聖書:ヨブ記 2章1-10 ルカによる福音書 5章12-16節

【説教】

聖書の「重い皮膚病」は、レビ記に記されていることから、恐ろしい病で人々から隔離されなければならないような誤解を受けています。しかし、旧約聖書に出てくるナアマンは重い皮膚病でしたが軍人として普通に活動しています。

今日の聖書に、イエスが町におられる時そこに重い皮膚病の人がいた、と記されていますが、このような状況はありうることでした。この人は、イエスを見てひれ伏しました。イエスと別の世界にいたのではありません。同じ世界、同じ町にいたのです。しかし、自分は汚れた者で、清い神との交わりが許されていない、という思いが強くあったのです。同じ世界、同じ所にいても、交わりが許されていないということは非常に辛いことです。同じ屋根の下で一緒に生活していても交わりがなく心が離れているために起こった、と思われる事件が幾つも報じられています。その交わりのない孤独でいることに、慣れてしまって諦めの生活をするのではなく、何とか交わりを得たい、交わりを得て生きたい、と思う時には、そのために出来るだけのことを行うでしょう。

この病人は、イエスの御心によって清くしていただくことが出来る、と信じていました。それでイエスの前にひれ伏し頼みました。イエスは私を清くする力を持っている、問題はイエスに私を清くしようと思う意志があるかどうかだ、と確信していたのです。父なる神は、全ての者を救うために御子イエスを汚れた世界に遣わされたのです。イエスは、その父なる神の心をご自分の心としていらっしゃるのです。清い人は汚れている人との交わりを拒否します。汚れている人は、拒否されるのを恐れて、清い人を敬遠してしまうのです。しかし、この病人はイエスを信じて、イエスの前に出てひれ伏して頼んだのです。

イエスは手を差し伸べて、その人に触れ「よろしい、清くなれ」と言われました。イエスは手を差し伸べて、汚れている病人に触れて、交わりをもたれたのです。主イエスに清くなることを求めて来る、交わりを失っている人が交わりを求めて来る、その人の願いをイエスは「私の意志も同じだ」と言って清くされたのです。しかし、ルカは、この病人に特別な感情を示しているようには書いていません。イエスは交わりを求めて来るすべての汚れた人を清め、神との交わりの中に入れようとされている、と書いているようです。

ヨブ記2章で、ヨブが頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病になったが、ヨブは神を呪わなかった、と記しています。ここに信仰者ヨブが示されています。しかし神も最後までその汚れたヨブを見放なさず、交わりを絶たないのです。その神の強い御心とヨブの信仰によって神とヨブの交わりがあるのです。

私たちは神の前に汚れた者です。しかし、神は私たちを見放さず、交わりの手を差し伸べて下さっているのです。主イエスはそのことを示すお方として私たちの中に来て下さったのです。主イエスの思いは、私たちがイエスを信じて、神と真実の交わりを得て生きることです。主はそのことを願い、意志して十字架の道を歩まれたのです。

2007年2月4日

説教題:種を蒔く人の心

聖書:ルカによる福音書 8章4-15節

【説教】

今日の「種を蒔く人のたとえ」はマタイ、マルコの福音書にもほとんど同じ表現で記されています。しかし、幾つかは違う表現をしています。譬えは分かり難いことを分かり易くするために用いることが多いのですが、この種蒔きの譬えは、少し考えると、なぜこんな無駄な種の蒔き方をしているのか疑問を持つ譬えです。

ルカ福音書は、弟子たちが理解できないでイエスにこの譬えの意味を尋ねています。そこでイエスは弟子たちに「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されている」と言われました。その言葉と関係あると思われるのが8節に、「『耳のあるものは聞きなさい』と大声で言われた」と、「大声で言われた」の言葉があることです。聞く者は、そんな譬えは分かっていると聞き流すのではなく、しっかり聞きなさい、心に刻みなさい、と大声で言われたのです。「言われた」という字は、繰り返し言い続けた、という字です。イエスの言葉をしかり聞いて自分のものとし、分からないところをイエスに問い続ける、そのことによって、あなたがたには神の国の秘密を悟ることが出来る,と言われているのです。

ルカは、イエスの弟子たちは特別な理解力をもっていて譬えが自ずと理解出来る、とは見ていません。信仰のある人も、弟子たちも、イエスの話をしっかり聞いて、受け入れ自分のものにすることが必要だ、そうすれば神の国の秘密が分かる、と書いているのです。

11節以下でイエスは5節から8節の譬えの説明をしていますが、その5節の「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」とある言葉は、「彼の種を蒔きに出て行った」という言葉です。そして、その「彼の種」は「彼が持っている種」の意味ではなく、「(彼が品種改良したような)彼固有の種」を意味しているのです。このことに注目すべきです。11節の「神の言葉」を自分の種として蒔く人は、主イエスです。イエスが、神の言葉、福音をこの世界に蒔いているということです。

この譬えの種を蒔く人は、非常に乱暴で無駄の多い蒔き方をしています。しかし、種は昔も今も非常に大切です、種を蒔く人は十分な準備をし心配りして蒔くのです。この種を蒔く人イエスは、砂漠に花が咲くことを信じて、荒野にあえて種を蒔いているのです。ここはだめだ、と初めからその所を見捨てることをしないで、ここにも種が宿り実を結ぶ喜びが得られるかもしれない、と祈りと希望をもって種を蒔くのが主イエスなのです。

ここの「実」は、「木の実」を意味する字です。木の実は鳥や風が種蒔きをしているのが自然です。種を蒔く人が木の実を蒔く時には、そこに根付いて成長し実を結ぶように、一つ一つ丁寧に蒔くでしょう。その時木が成長して実を結ぶことかが問題で幾つ実を結ぶかは問題ではありません。ルカは15節の所で、種が何倍の実を結ぶかは全く語っていません。唯一つでも小さな実でも熟した良い実を結べばいい、と言っているようです。

私たちは、聞く耳のある者となってイエスの言葉をしっかり聞いて、小さな実でもよいから、御言葉の実を結ぶものでありたいと思います。

2007年1月28日

説教題:生ける神の神殿

聖書:ハガイ書2章1-9節 ルカによる福音書 21章1-9節

【説教】

神殿は、神の民にとって生きるのにも、生活するのにも、重要な役割を果たしています。神殿は、生ける神が神の民の祈りと叫びを聞き、神の民の歩みを見て下さる所、神と民が交わる所です。所が、イスラエルはバビロンに滅ぼされて、民は捕囚の民にされ、神殿は破壊されてしまいました。捕囚民として60、70年の生活をしていると、神の民である思いが弱くなり、神との交わり、神のご支配にある歩みを重んじない人が出てきました。

ハガイ2章は、バビロンの支配から解放され、エルサレムに帰還して、神殿再建をしている神の民に、神が臨んだ言葉です。「今建てている神殿は、ソロモンが建てた神殿に比べたら、無に等しい。しかし、妨害や苦労があっても、勇気を出して神殿を再建しろ。わたしはこの神殿を栄光で満たす。この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさる。この場所に平和を与える」と、神は言われました。神殿が重要であるのは、神がそこに目を注ぎ、耳を傾けて栄光を示して下さるからです。神のこの言葉は、神のご支配、神の御心、神の栄光を第一にするように、と命じているのです。

ところがハガイの時には、神殿を廃墟のままにして、自分の家を立派に建てることに一生懸命の人がいたのです。神は民に、神の前に出ることなく、神を知らない民と同じように、自分の生活、自分の栄光を第一に励む者でいいのか、と言っているのです。

ルカでは、神殿で献金をしている人をイエスが見て、弟子たちに言われた言葉が記されています。金持ちの献金は、金額は多いけれど、自分の生活、自分の栄光のために使って、余った中からのお金だ。それに対して、貧しいやもめの小額の献金は、自分の生活と栄光を全て神に委ねている献金だ。だからこのやもめは、誰よりも沢山捧げたのだ。とイエスは言われました。献金と一緒に、神の対する祈りと叫びを捧げているのです。捧げる心、捧げる生活があるのです。その祈り、叫びを神は聞き、その生活と心に神は注目して下さるのです。このやもめは、神のご支配を信じ、神が下さったその日を、神に力を与えられて生きるように、誰よりも沢山の恵みと力を神から与えられたのです。

神殿はそのように生ける神がご臨在し、目を注ぎ、耳傾けて下さる所なのです。ですから神に真実を捧げることが大事です。イエスの時代の神殿は、神のご臨在を語っている、永遠に存在するような立派な神殿でした。しかし、立派な建物の神殿も崩れる時が来るのです。しかし又、立派な神殿が崩れても終わり時が来たのではありません。たとえ神殿を失っても、生ける神を信じ、神のご支配のもとに、自分の生活を神に委ねるなら、神の栄光はその礼拝をしている所に満ちているのです。そして、どんなに貧弱な礼拝の場でも、立派な神殿の時に勝るとも劣らない恵みと栄光を、礼拝する者に神は与えて下さるのです。

神が私に命を与え生かして下さっていることを信じ、与えられた賜物と生活を神に委ね捧げて生きる時、私たちは神の栄光を受け、決して消え去ることのない命に生きるのです。

私たちの教会での礼拝は、何よりも生ける神の神殿での礼拝なのです。

2007年1月21日

説教題:ヨセフの子で、神の子

聖書:ルカによる福音書 4:20-24

【説教】

「ヨセフの子で、神の子」は誰でしょう。イエス様です。

イエス様は、ヨセフとマリアの子として生まれ他の人と変わりなくナザレで育ち生活していました。洗礼を受けた時、「あなたは私の愛する子」と神様からの声を聞きました。この時からイエス様は、神の子として、神の愛と救いを語り示す生き方に変わったのです。

イエス様は、荒野で悪魔の誘惑に勝って悪魔を退けた後、生まれ育ったナザレに帰ってきました。ナザレで礼拝をした時、イエス様は渡された聖書を読みました。人々はその聖書についてどんな話をするか、イエス様に注目していました。洗礼を受けてからイエス様は変わった、ということをナザレの人たちも聞いていたからです。

その時イエス様は、「この聖書の語っていること、神様が囚われている人を解放する人を遣わすと告げていることは、今日あなた方が私からこの言葉を聞いた時に実現した」と言いました。イエス様が神様から遣わされた救い主で、イエス様によって神の救いが実現している、神の約束は成就したと話したのです。それを聞いた人たちは、すばらしい、イエス様によって神の約束が成就し、神の救いが実現した、と喜びました。そして、イエス様が語る、神様の愛と恵みの救いの言葉を聞いて、驚き神を賛美しました。

ところがそこに「この人はヨセフの子ではないか」と言う人がいました。「この男イエスは神の子ではない、私たちと一緒に育ち生活していた普通の人間ではないか」、と言ったのです。イエスが神の子、救い主なんて嘘だという人たちが出てきたのです。

それでイエス様は言いました。「きっとあなたがたは『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いているが、郷里のここでもしてくれ』というに違いない」と。「医者よ、自分を治せ」というのはどうゆう人でしょうか。自分は病気ではない、健康だと思っている人です。そのような人は、評判の良い医者を批判と悪意の目で見るのです。その目で見ると、なんでも否定的に見えるのです。病人は、「私を治してください」とすがりついて、医者にお願いし、医者の言うことに聞き従うのです。信じて聴き従う人には医者の言葉が生きて働くのです。イエス様を神の子と信じて、受け入れて、聴き従う人には、神の恵みの言葉が実現するのです。

イエス様は神の子です。それでナザレの人たちは、イエス様に神の子のしるしを見せてくれ、と求めたのです。しかし、神の子であるのは、超人的な人間、スーパーマンというのではないのです。神様は、罪と悪に支配されていて自分を救うことが出来ない人間、を救おうと思われているのです。ですから、神なのに、ヨセフの子になって、弱く小さい者の中に身をおき、罪人の罪を負い、十字架に歩まれた、そこに神の子のしるしがあるのです。神様は私たちが救われるようにイエス様を与えてくださったのです。

この神の御心を受け入れて、イエス様の言葉に聞き従って歩んでいきましょう。

2007年1月14日

説教題:ペトロの召命物語

聖書:出エジプト記 18:13-27 ルカによる福音書 5:1-11

【説教】

「救い」の理解は多種多様です。聖書は、神の救いをどのように語り、示しているか。

出エジプト18章に、モーセが民を一人で裁いていて疲れ果てそうになっているのをしゅうとのエトロが見て、モーセの荷を民が分担して担うようにと助言し、実行したことが記されています。これはエトロが知恵と経験で助言したのではありません。エトロは祭司で神の前に祈ってこの助言を与え、民も神の導きに従って自分たちの歩みを決めたのです。

新共同訳聖書は、イエスが漁師のペトロを弟子にした、と小見出しをつけています。ペトロが自分の意思や力でイエスの弟子になったのではないのです。イエスが湖畔に立っていた。そこに神の言葉を聞こうと群衆が押し寄せてきた。それでイエスはシモンの船に乗って、漕ぎ出すようにシモンに頼みました。

イエスがどうしてシモンの船に乗ったのか。4章38-39を読むと、イエスはシモンを既によく知っていたのです。この時シモンは、夜通し苦労したのに何もとれないで、網を洗っていました。そこにイエスが乗ってきて漕ぎ出すように頼んだのです。シモンがイエスに特別な思いを持っていたから、疲れていたのにイエスの頼みを聞いて漕ぎ出したのでしょう。そして、イエスが船の中から群集に語る神の言葉をシモンは熱心に聞いていたと思います。ですから、話し終わってイエスが「沖に漕ぎ出して、網を降ろし、漁をしなさい」と言った時、シモンは「先生」と言ったのです。「私の上に立つ人、私の指揮者」という言葉です。シモンは「お言葉ですから網を降ろしてみましょう」と答えました。シモンは自分が漁師であるという誇りと経験を捨てて、イエスに聞き従い、イエスに身を委ねました。

網を降ろすと網が破れそうに成る程夥しい魚がかかりました。シモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏し「主よ、私から離れてください」と叫びました。これは、神さまに対する姿です。ペトロは漁師です。今イエスの言葉に従ったら沢山の魚が獲れたのです。普通の人間なら「イエスさま私から離れないで、いつも一緒にいてください」というのではないでしょうか。しかし、この時ペトロはイエスを神の言葉、神の力を持っている神だと知ったのです。それで、この時までにイエスを先生と受け入れて聞き従っていましたが、今自分がイエスを信じきっていない、自分中心で神に逆らう者であることを知らされ、イエスの前にひれ伏し、「離れてください、私は罪人です」と言ったのです。

私から離れてください、と言ったペトロにイエスは、「恐れることはない。今から後あなたは人間をとる漁師になる」、と言われました。それで、ペトロは全てを捨ててイエスに従う者になりました。このぺトロの召命は断片的な出来事して起こったのではありません。物語で、神の大きな救いの物語に組み込まれているのです。ペトロは後に、自分の召命に関する全てが神のご計画の中でのことである、と理解して教会で語ったでしょう。私たちも洗礼を受けた後振り返ると全てが神の導きの中にあったことを知らされるのです。私たちは自分中心の断片的な物語、皆がばらばらの物語に生きているのではないのです。

2007年1月 7日

説教題:神が定めた道を歩む

聖書:ヨシュア記 3:1-17 ルカによる福音書 3:21-22

【説教】

今日は今年最初の主日で、教会ではクリスマスの祝いの中での主日です。

今日の聖書はクリスマスに誕生した主イエスが洗礼を受けられたところです。23節には、その時イエスはおよそ30歳であった、と書いてあります。イエスは神の子、救い主として誕生されたのです。しかし、洗礼を受けるまでは特別のことはなさらなかったのです。

21節に「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けた」と記されています。この洗礼は、3節にあるように、ヨハネによる罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼です。イエスは、神の子でありますが、罪の赦しを必要とする罪人である民衆と一つになっていたのです。私たちと一つになってくださったのです。

イエスが洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊がはとのようにイエスの上に降って来ました。このことは他の民衆には起こりませんでした。イエスが神の子であることをはっきりと示す出来事です。天が開け、天と地に道が出来たのです。イエスに聖霊が与えられて、神の霊が宿り、天の命と力を宿して歩む者になったのです。

この時「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が天から聞こえました。口語訳聖書は「声がした」と訳していますが、イエスにその声が聞こえた、イエスがその声を聞いた、のです。聖霊を与えられて、天からの声を聞いたイエスは、新しい歩みを始めました。罪人である民衆と一つであるとの思いで歩んでいたイエスが、この時から自分は神の子で、神から使命を与えられている、自分に定められている道を歩もう、との決意を強くさせられたのです。23節あるように、イエスは宣教の歩みを始められたのです。

4章1節には、イエスは洗礼の後荒野の中を霊に引き回され、40日間悪魔から誘惑を受けられた、と記されています。神の愛する子、神の心に適う者である人の歩みは、普通の人が思うような恵まれた平安な歩みではありません。荒野の歩み、サタンや罪との戦いの歩みです。しかし、イエスは、神が定めたその厳しい道を、聖霊に導かれ、支えられて、神は自分を愛し心に適う者として使命を託して下さったのだ、と誇りと喜びをもって、その道を主体的に受け入れて積極的に歩んだのです。十字架の死にいたるまで、神から定められた道を歩み抜かれたのです。

このイエスの歩みによって、罪人である私たちは救いを与えられたのです。天に開かれた道をイエスにあって歩んで行ける者とされたのです。このイエスと共に歩む道は楽な道ではありませんが、神の愛する子、救い主イエスが共にいてくださるので、私たちもその道を、自分に定められた道と主体的に受け入れて、歩み抜くことが出来るのです。

ヨシュア3章でヨシュアは、神の言葉に聞き従い、神の箱に導かれ守られて、約束されていたヨルダン川を渡りました。不安が沢山ある道を、イスラエルの民全てが子どもも老人も、神が共にいる、見放すことも、捨てる事もしない神にあって進んで行ったのです。

神が定め与えて下さった道は、苦難の道でも、イエスが先立ち共にいて下さるのです。

2006年12月31日

説教題:万民のための救いを見た

聖書:ルカによる福音書 2章25-35節

【説教】

今日は大晦日2006年最後の日です。それと共にクリスマスの喜びの中での主日です。今日の聖書でシメオンが、幼子を抱いて「主よ、今こそあなたは、お言葉通りこの僕を安らかに去らせてくださいます」と言っています。「主」と訳されている言葉は、「専制君主、暴君」を意味する言葉です。「僕」は奴隷です。暴君の下に仕えているのが自分だ、とシメオンは言っているのです。この年もいじめ、自殺が数多く報道され、高齢者や弱者の問題が議論されました。神から与えられた命を生きるだけで大変なことだ、という人がいます。主人の前で務めを果たすことは、大変なことで、楽ではりません。しかし、主人と僕が信頼と愛の関係を持っているなら、主人のために役立つ働きが出来ることは光栄で、喜びでもあります。主人は僕に一日の仕事の指示を与え、一日が終わる時「もう私のところから去っていい」と言います。僕は、それを労(ねぎら)いの言葉と聞き、主人を褒め称える、シメオンの言葉はそのような言葉です。主人の下で一緒に仕事が出来、主人がよしとする時まで与えられた場に留まって仕事を成し遂げ、今去る、その全てを喜び感謝しているのです。

この僕にとって、「去ってよい時がきた」のは、自分の働きや力によってではなく、「あなたの救いを見た」「主人が約束していた救いを見た」ということです。31-32節でシメオンは、自分が見た救いは、自分一人のではなく万民のための救いだ、と言っています。「救い」は生かすことです、病や死、悪や罪の力から解放して生かすことです。御子によって万民が救いを与えられ、命を与えられるのです。それで、「主よ、私は今までの日々を、今満たされた思いで振り返り、満たされた思いで去ることが出来ます。」と言って、去るのです。この「去る」は一日の仕事が終わって主人の前を去る、一日が終わり床に就く、生涯の終わりに地上を去る、などの意味を持っています。その終わりは、疲れ果て、暗い思いで、生きることに絶望して去ることを待望している、と言う状態ではないのです。満たされた感謝の思いで終わりを迎えて去るのです。カトリック教会の祈祷書では、眠りに就く時の祈りに、死をも思いながら唱えるよう、この聖書の言葉を用いています。

今日私たちはこの年を送るのに、このシメオンの言葉をもって送るのです。

私たちは一日の働きにおいても、人生においても、この一年の歩みにおいても、神の前に十分でなかったこと、やり残したこと、失敗や罪がありそれらを処理しないでいることを思います。しかし、神は御子を万民の救いとして与えてくださったのです。私たちのやり残したこと罪や問題を御子が引き受けてくださる、だから安心して去っていい、と言っているのです。ですから私たちは満たされた思いと感謝で去ることが出来るのです。

御子の誕生は万民の救いです。私たちは自分の力で救いをもたらそう、自分の力で生きよう、人生を完成させようと頑張らなくてよいのです。駅伝のバトン渡しが用意されていて、ブレーキを起こして迷惑をかけたランナーをも「十分によく走った」と迎え入れるように、神は御子を与えて下さり、私たちの歩みの全てを引き受けてくださるのです。

2006年12月24日

説教題:救い主が誕生した

聖書:ミカ書5:1-3 ルカによる福音書 2:8-20

【説教】

この日羊飼いたちは、主の天使が近づいて主の栄光が照らした時、非常に恐れました。それは彼らにとって思いがけない突然の出来事だったからです。天使は「恐れるな。落ち着いて告げることを聞きなさい」、と言って、救い主の誕生を告げました。

羊飼いたちが救い主を求めていたか、救い主について考えていたか分かりませんが、この夜この時に救い主の誕生が告げられるとは思っていなかったので、恐れたのでしょう。羊飼いたちは天使が離れ去ると、「さあ、主が知らせてくださった出来事を見よう」と話し合い、急いで行って、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。

クリスマスの出来事は、人間の知恵や力によって起こった出来事ではないのです。天の神が、ご自身の思いと力によって、この世界に与えて下さった救いの出来事なのです。

現在、人間の努力、頑張りが大事だということが強調され、成果を上げることが求められています。他の人に頼るのではなく、自分で自分を救え、と言う考えです。松坂選手は、「夢が実現した感想は」と聞かれて、「夢と言う言葉は好きでない。僕は大リーグで投げるのを目標にしてやってきた。」と答えました。しかし、多くの人は、格差社会の中で、自分を救い生かすことに苦しんでいるのです。夢は自分では実現することが出来ないかも知れません。しかし、神にあって与えられる夢は必ず実現するのです。キング牧師は「私には夢がある」と語り、夢が消え去るような出来事が起こっている中でも「今日尚、私には夢がある。この夢は、いつの日にか神によって実現するでしょう」と語り続けました。

神から救い主が与えられることが、私たちにとって本当の救いになるのです。その救い主は、お金持ちでも軍人でも政治家でもなく、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子です。その子が私たちの救い主、守り生かしてくださるお方だ、ということは、神がこの子と共にいて、神が私たちを救い、守り生かしてくださる、ということです。クリスマスは、神が共にいて下さるということがはっきり示された、出来事なのです。

天使は「あなた方のために救い主がお生まれになった」と告げました。羊飼いたちは、その言葉を「自分たちのために救い主が与えられた、よかった」と聞きました。クリスマスの出来事でこれも大事なことです。自分には救い主はいらない、神にある夢は自分には関係ない、と思っている人には、神からの救い主誕生の恵みは意味を持たないのです。救いを求めている人でも、自分の目標を実現するための力や助けを求めているなら、馬小屋に誕生した乳飲み子を救い主として受け入れることは出来ません。羊飼いたちは、「飼い葉桶の乳飲み子」を自分たちの救い主と信じ受け入れて、会いに行ったのでです。そこ子に会って、全て天使が告げた通りだ、この子と共に神がいます、私たちとも共に神はいます、と確信することが出来て、喜び、神を賛美しました。これがクリスマスです。

救いを求めながらも、神を見失い、自分を救うことが出来ないでいる私たち人間の中に、神が来て宿り共にいて下さったのです。このクリスマスを喜び祝いましょう。

2006年12月17日

ヨハネの誕生予告

ルカによる福音書 1章5-20節

【説教】

今日の聖書には祭司ザカリヤが登場しています。当時祭司は18,000人ほどいたそうです。祭司は組みに分け当番でその務めをし、神殿の聖所に入って務めをする祭司は当番の中からくじで決めていました。生涯に一度も聖所で務めをしない祭司もいたのです。ザカリヤは祭司の家に生まれて、幼い時からこの務めを憧れ、期待して待っていたでしょう。

この時年老いたザカリヤがくじに当たって聖所に入りました。心も体も誠実に務めを果たそうという思いで一杯だったでしょう。そのザカリヤに主の天使が現れ「ザカリヤ あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」と告げました。ザカリヤは、祭司で神殿の聖所にいたのですが、主の使いを見て恐怖の念に襲われました。聖なる神の使いがこの自分に出会って下さった、そのことに恐れを感じたのです。主の使いは「恐れるな」と言い、恐れないで、落ち着いて私が告げることを聞きなさい、と言って、ヨハネが誕生することを予告したのです。

主の使いは「あなたの願いは聞き入れた」と言いましたが、ザカリヤは若い時には自分たちに子どもが与えられるようにと熱心に祈りをしたでしょう、が、年をとるに従って、子どもなしの生涯を受け入れるようになっていたと思います。しかし、神は祈りをお聞きになっても、人間の思いではなく神が良いとされる時に、実現されることがあるのです。今主の使いが、願いは聞き入れられた、とヨハネが誕生することを告げましたが、この時二人に子どもが与えられるのは、二人の信仰生活や人間的力によるのではなく、神のみ旨とみ力によってです。名前を付けるのは父親の主権であったので、「ヨハネと名付けなさい」と命じているのは、神がその子に対して特別な責任と権利を持つことを意味しています。

ザカリヤは祭司として当然イスラエルの民全体のことを覚えて祈っていました。ヨハネは、ザカリヤ夫婦の喜びになるが、多くの人の喜びになる、と使いは告げました。ヨハネの務めは16,17節に記されています。16節に「イスラエルの多くの子らを、その主のもとに立ち帰らせる」とあるのは、神の民が主のもとから離れているということです。これは現在の私たちのことを言っていると聞けます。ヨハネの誕生予告を読んで、私たちは神の前に立ち帰るのです。17節で「父の心を子に向けさせる」と言っているのは、父が子の心に関係なく子を従わせるのではなく、父が子と心から一つになるということです。家族が争い対立したままではなく、平和と喜びの家庭で神の子、平和の君を迎えるのです。

ザカリヤは自分の思いに支配されていて、御使いが告げたことが理解できず、受け入れませんでした。御使は、必ずなる神の言葉が成就するまで口が聞けなくなる、と宣言します。そしてその通りになりました。神は、ゼカリヤの生涯と世界の歴史の最も相応しい時にヨハネの誕生を予告し、主を与えて下さったのです。63-64節、ザカリヤは口が利けるようになると神を賛美しました。彼は沈黙の間、神はこの不信仰な私たちと共に一緒にいて下さる、神は真実なお方だ、という思いを深めていたでしょう。これが待降節です。

2006年12月10日

説教題:神の救いを告げる方

聖書:ルカによる福音書 4章14-21節 イザヤ書 55章1-7節

【説教】

イザヤ書55章は、イスラエルの国がバビロンに滅ぼされて、その民が捕囚の民とされて50年ほど経った時、ペルシャがバビロンを攻めイスラエルの捕囚民を開放しようとしている時に記されました。

「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい」は、肉の喉の乾きだけではなく、活ける命の乾き、魂の渇きをも意味しています。捕囚民は、技術や知識があったので、50年間バビロンに住んでいてそれなりの生活が出来、子ども孫も出来て安定した平和な生活をしていました。しかし、神の民意識の強い彼らは、他国に捕囚民として置かれていることに活ける魂に渇きを覚え、エルサレムに帰って自分たちの神と共に生活することを渇望していたでしょう。私たちも、自分の本来の生活の場から離れた所で長い間生活していると、自分の魂が落ち着かなくなり、ホームシック、心の病になるのです。

「渇きを覚えている者は」ということは、「渇きを覚えていない者」もいるのです。異国の生活でも、食べるのには困らない、バビロンの神や民と仲良くしている、この生活に満足している、満足していなくてもこの生活を捨ててエルサレムに帰ろうとは思わない、という人はいたのです。2節の「なぜ、糧にならぬ物のために銀を量ってはらい、飢えを満たさぬもののために労するのか」は、そのような人たちに、自分の命を見直せ、肉的な快楽や、物的な満足、豊かさのためにお金を使い労していて、本当のいのち、魂は生きるのか、と問い掛けているのです。「私に聞き従えば、良いものを食べることが出来る。魂はその豊かさを楽しむ」、と神は彼らに呼びかけているのです。人は何によって本当に生きるのか。野獣と違って、神と共に生きることで人間は救いを得るのです。

1節の「銀を持たない者も来るがよい」というのは、安いものだから只で上げる、というのではありません。高価な命の水です。その水を相応しい銀を払って買おうとするなら、全財産を払っても足りないほど高価な水なのです。その水を恵みで与える、だから相応しい銀を持っていなくても、この水を求めてきなさい、といっているのです。「穀物を求めて、食べよ」と言っています。買って手にしても、眺めているだけでは命の水にも、命の糧にもなりません。買って食べることで命の糧となり、命を生かすのです。ここに命の水、命の糧がある、来て求めて食べなさい、と神は言っているのです。3節で「耳を傾けて聞き、私のもとに来るがよい。聞き従って魂に命を得よ」と言い、6節で「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに」と言っています。神の熱心さが示されています。

ルカ福音書は、主イエスが「預言者が語った神の救い、恵みの年、ヨベルの年の救いは、私がその解放を告げる時に実現している」と告げた、と記しています。この主イエスの言葉を聞いて、受けいれ、主と共に歩むとこるに真の命があり、救いがあるのです。

クリスマスは真の命の救いを告げるお方が私たちのところに来たときです。私たちは、自分の飢え渇きを知って、命の水を求めて真の命に生きる喜びを与えられるのです。

2006年12月 3日

説教題:神が約束を果たす日が来る

聖書:ルカによる福音書 21章25-36節 エレミヤ書 33章14-16

【説教】

エレミヤ33:14「見よ、私がユダの家に約束を果たす日が来る、と主は言われる」を、エレミヤは33:1に記されているように獄の中で語っているのです。

32:1~5にあるように、エレミヤは、神がこの都をバビロンに渡すと言っていると予言したので、ユダの王によって獄に拘留されたのです。バビロンが都を包囲し、間もなくて都を攻め落とそうとしている。そのような状況の中で、エレミヤは神の指示に従って親族の土地を証書を作って買いました。その指示の背後で神はエレミヤに、都は占領され、ユダ王朝の世界はなくなるがそれで終わりではない、ユダが悔い改めるので、繁栄を回復させる、と約束を語っているのです。

それで、33:14で「神が約束を果たす日が来る」と語っているのです。神の約束は人間の力で実現されるのではありません。神が御旨と御力によって果たされるのです。それは希望です。国はバビロンに滅ぼされる。自分は獄に拘留されている。しかしエレミヤは希望があるので、力強く神の言葉を語って、生きているのです。

私たちが生きる時、何かを目標にして生きることがあります。子どもに目標を与えて励まし、利益や業績に目標を定めて計画し仕事がされています。目標は人間が決めることです。目標をノルマと考える人もいます。人によって高過ぎる目標で果たせないで失望する、低すぎる目標で励まず喜びもない、ということもあります。人間が決めた目標は人間の事情や環境の事情によって叶えられないこと、意味を持たなくなることもあります。

それに対して希望は向こうから来るのです。神の約束によってくる希望は決して失望に終わることはないのです。国が滅びて都が占領されても、神の約束は必ず果たされるのです。エレミヤはそのことを語り、勝つことのない戦いをして、徒に苦しみを大きくすることはない、と語ったのです。

エレミヤが語った「恵みの約束を果たす日」は、エレミヤが生きている時には来ませんでした。しかし、エレミヤは、闇の時獄中にあっても希望の光を持って生きたのです。

ルカ21章は主イエスが、人間の目標や業は滅ぼされる、イエスを信じる人たちも滅びの世界にいる、と語っています。そして、その終わりの時は神の裁きの時で人の子が力と栄光をもって来る、と語り、28節で「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなた方の解放の時が近いから」と言っています。再臨の主によってこの世界と歴史は完成されるのです。ですから私たちは、主の民である自覚をしっかりと持ち、神の約束を信じ、希望を持って、頭を上げて今日の日を確かな歩みで歩むのです。

アドベント、待降節は、過ぎ去った2000年前を回顧しながら歩む時ではなく、エレミヤや主イエスの言葉を今日私に語られた言葉として聞き、この世界と歴史には終わりがある、神による完成がある。その時、主にあって歩んでいる者には救いが与えられる。その約束を信じて、その時を望み見ながら、今日の日を歩むのが私たちの待降節です。

2006年11月 26日

説教題:神さまが下さる実り

聖書:ルカによる福音書 12章22-31節 創世記 41章1-8節

【説教】

今日の創世記は、エジプトの王様が見た夢のお話です。皆はどんな夢を見るかな。意味のわからない、変な夢を見ることもあるでしょう。

王様はナイル川の所にいる夢を見ました。そこに突然良く肥えた7頭の牛が来て草を食べ始めました。すると今度はやせ細った7頭の牛が来ました。そして、そのやせ細った7頭の牛が肥えた牛を食べちゃいました。王様はそこで目が覚めました。又眠ると、また夢を見ました。太ってよく実った麦の穂が7つ一本の茎から出て来た。その後実の入っていない干からびた穂が7つ生えて来た。そして、実の入っている穂を飲み込んでしまった。そこで目が覚めました。

王様は、この変な夢はなにか意味があるのかなと思って、この夢を解き明かす人を探しました。ヨセフなら解き明かせるだろう、と言う人がいたのでヨセフを呼んで夢の話をしました。すると教えてくれました。それは、これから起こることを王様に教えているのです。今から7年間、国全体に豊作が来る、しかし、その後7年間飢餓が来る。同じ意味の夢を見たことは神様がこのように決めているので考えて対応しなさい、と言っているのです。だから7年間の豊作の産物を蓄えておいて、飢饉の時に国が滅びないようにしたらいいです。とヨセフは王様に話しました。それで、王様はヨセフを国の責任者にして、そのように行いました。

豊作と飢饉は神様が決めている。人間の働きも収穫や実りに関係があるけれど、ナイル川は豊富な栄養のある水です、しかし、大氾濫することもある。良い天候の年もあるけれど不順な天候の年もある。それは人間の力を越えている。人間は神様がなさることを正しく受け止め、理解して働くことで、十分な実り、収穫を得、恵みを味わえるのです。

ルカの方では、鳥を見なさい、と言っている。鳥は、自分で食べるものを作っていない、蓄えてもいない。だけど神様が毎日必要な食べ物を与えてくださることを信頼して、毎日食べ物を探して食べている。鳥は神様が与えてくださっている物を喜んで受け入れ、遠くまでも探して取りに行く。続いて、野の花を見なさい、と言っている。野の草は、神様が自分にくださった土、水、光、熱などを感謝して受け入れて育ち、花を咲かせている。

今日は収穫感謝の礼拝で果物が捧げられています。この果物は人間がお世話したのですばらしい、立派な果物です。ですけれど、人間は神様が下さる恵みに添って世話をしたのです。神様が恵みを下さった、それがこれらの果物の実りの中心です。そして神様は恵みをずっと与え続けて下さっているのです。

神様が王様に夢で教えたように、主イエスが鳥や草を見なさいと教えているように、私たちは今日この果物を通してどう生きるべきかを教えられるのです。

神様から与えられた環境やこの日を、不平不満を云わないで感謝して受け入れて、生きましょう。その毎日の積み重ねで神と人に喜ばれる人に育っていくのです。

2006年11月19日

説教題:救いの約束

聖書:ヘブライ人への手紙 8章7-13節 出エジプト記3章1-15節

【説教】

今日の聖書で、神がモーセにご自身を示し語りかけています。なぜ神がそうされたのか。

2章11節以下を読むと、モーセは、同胞のイスラエル人が重労働で苦しめられているのを見ていられないで、苦しめているエジプト人を殺した。そのことがエジプトの王にも分かりお尋ね者になったので、王の手が届かない地に逃れ、好意で迎え入れてくれる人に出会い、そこで結婚し子どもも出来、平和な生活をしていた。と記されています。しかし、モーセは、自分がお尋ね者で、神から契約で与えられた自分の土地ではない所にいる、ということで心安らかに眠ることが出来ない状態だった。その上同胞のイスラエル人は今なお重労働に苦しめられている、と伝え聞いて心痛んでいた。と思われます。他方、2章23節で神はイスラエル人の苦しみ、嘆き、呻きを聞かれた、24節には「神は契約を思い起こされた」とあります。神は契約を結んで民を守っているのです。

そこで今、神はモーセに出会われたのです。そして、特にモーセに身の上について触れないで、イスラエルの民の苦しみについて語り、彼らを救い出すからファラオのところに行け、と命じます。モーセは、「私は何者でしょう。」、と命令に従うことを拒否します。このモーセの、拒み、しり込みに対して神は「私は必ずあなたと共にいる。このことこそ、私があなたを遣わすしるしである」と告げるのです。

「私(神)が共にいる」という約束が契約でもあります。モーセは、罪人の囚われから放されて、神に用いられる喜びで「今私は参ります」と命令を受け入れます、が、現在神に対して不満を持っているイスラエル人が「これを伝えた神の名はなにか」と問うたら何と答えるべきか、と神に尋ねます。神の答えは、「私はある。私はあるという者」、でした。

神が「ある」というお方であるのは、永遠から永遠に存在すると言うだけでなく、神は自由に存在し、行動する、だから民の苦しみを見、呻きを聞き、彼らと出会い、救い出して下さるお方、「あなたと共にいる」お方ということです。このとき大事なことは、共にいてくださる神を主にして「私」が神に従うものになることです。ところが人間は、自分を主にして神を従わせ、私(自分)と共にいる神にするのです。そのためモーセの契約は、神の民が自分を義人とするようになり、神の民を自分中心の民にしてしまったのです。

ヘブライの手紙の7節で、最初の契約に欠けたところがあったので第二の契約を必要とすることが起こった、と言った後8節では、問題は契約ではなくイスラエル人にあった、と言っています。そのイスラエル人が、国が滅亡しバビロンに捕囚の民とされたことを、神の鞭と受け止めて悔い改め、神のもとに立ち帰った。そこで、新しい契約の約束が与えられたのです。その約束はキリストによって新しい人が創造されて現実になったのです。

神は契約を個人と結んでいるのではありません。キリストによって新しい契約に生かされている者は、小さく弱い者も神に意味ある者とされているのです、たとえ現実には苦しく辛い道を歩んでいても、神の救いの道を、神と共に歩んでいるのです。

2006年11月12日

説教題:神の民の選び

聖書:ローマの信徒への手紙 9:1-9 創世記 18:1-15

【説教】

私たちは誰かに認められないと人間として生きていけません。誰にも認められないと、私はだめな人間だ、どうなってもいい、ということになり、投げやりで、刹那的で、無責任に生きることになってしまうのです。そして、心の深いところでは、惨めで闇の中にいる思いになっているのです。自分を相手にしてくれない、無視され、配慮してくれないことは、空しく死を思うようになるのです。

誰か、認め受け入れる人が必要なのです。その誰かの中で母親が最も大きな存在です。「母を訪ねて3千里」のように、母に認められたい、そのためにどんな苦しみにも耐え障害も乗り越える思いが子どもにはある、思いだけではなくその忍耐力や実行力があるのです。養護学校の校長が「ここにいる子は問題児ではなく、孤独な子だ。誰も自分を本当に思ってくれない、と思っている子だ」、とその事例を紹介して講演し、本にしています。人間は、造り主である神との交わりを失うと孤独になり、真実の人間として生きることが出来ないのです。逆に神との交わりがあれば、たとえ寝たきりでも、誰からも認められていなくても、希望を持って生きることが出来るのです。その事例を皆さんもご存知でしょう。

しかし、罪人で汚れている私たちが神に受け入れてもらうためには、神が私たちに愛の目をかけてくださり、私たちを清めて招いて下さることが必要です。神は、イスラエルに目をかけて選び、ご自分の民として、奴隷であったエジプトの地から救い出されたのです。それは、羊の血によって自分の家を包んだその家の人を、神の民として受け入れることでした。その民は、神の定めに従って、罪を清めて神と交わる生活をして、神の民として神の前に意味ある歩みをしていました。

しかし、その神との交われは「写し」であったのです。「写し」は、価値のない偽物ではなく、神との交わりの意味と価値を持っているのです。神が認めている証明書、有効期間や条件が付いているパスポートのように、神の民であるとこの世で証明しているのです。地上の聖所での礼拝は、天の聖所での神ご自身との交わりに導くものであり、天での交わりを前もって味わい知るものなのです。でも神との完全な交わりではないのです。

羊の血による出エジプトは、キリストの血による罪の支配からの救いの予型ともいわれています。キリストによって与えられた礼拝は、24節にあるように「写し」ではなく、今ここで天の神と交わりがなされていることなのです。そのキリストによる神との交わりは、唯一度キリストの血によって、今までの罪もこれから罪も清められて、私たちに与えられているのです。キリストは大祭司として私たちを導いて天の聖所に入ってくださっる、と共に、私たちの罪を贖う犠牲の捧げ物となって神の前にご自身の血を流してくださったのです。キリストはこの二つの働きによって私たちを神に結び付けてくださったのです。ですから、私たちは、今は神との交わりの中に生きる者、神との交わりを失うことはない者なのです。神に目をかけられ、認められ、受け入れられ、愛されている者なのです。

2006年11月 5日

説教題:死と命を支配される神

聖書:ローマの信徒への手紙 5:12-21 創世記 9:8-17

【説教】

私たちは誰かに認められないと人間として生きていけません。誰にも認められないと、私はだめな人間だ、どうなってもいい、ということになり、投げやりで、刹那的で、無責任に生きることになってしまうのです。そして、心の深いところでは、惨めで闇の中にいる思いになっているのです。自分を相手にしてくれない、無視され、配慮してくれないことは、空しく死を思うようになるのです。

誰か、認め受け入れる人が必要なのです。その誰かの中で母親が最も大きな存在です。「母を訪ねて3千里」のように、母に認められたい、そのためにどんな苦しみにも耐え障害も乗り越える思いが子どもにはある、思いだけではなくその忍耐力や実行力があるのです。養護学校の校長が「ここにいる子は問題児ではなく、孤独な子だ。誰も自分を本当に思ってくれない、と思っている子だ」、とその事例を紹介して講演し、本にしています。人間は、造り主である神との交わりを失うと孤独になり、真実の人間として生きることが出来ないのです。逆に神との交わりがあれば、たとえ寝たきりでも、誰からも認められていなくても、希望を持って生きることが出来るのです。その事例を皆さんもご存知でしょう。

しかし、罪人で汚れている私たちが神に受け入れてもらうためには、神が私たちに愛の目をかけてくださり、私たちを清めて招いて下さることが必要です。神は、イスラエルに目をかけて選び、ご自分の民として、奴隷であったエジプトの地から救い出されたのです。それは、羊の血によって自分の家を包んだその家の人を、神の民として受け入れることでした。その民は、神の定めに従って、罪を清めて神と交わる生活をして、神の民として神の前に意味ある歩みをしていました。

しかし、その神との交われは「写し」であったのです。「写し」は、価値のない偽物ではなく、神との交わりの意味と価値を持っているのです。神が認めている証明書、有効期間や条件が付いているパスポートのように、神の民であるとこの世で証明しているのです。地上の聖所での礼拝は、天の聖所での神ご自身との交わりに導くものであり、天での交わりを前もって味わい知るものなのです。でも神との完全な交わりではないのです。

羊の血による出エジプトは、キリストの血による罪の支配からの救いの予型ともいわれています。キリストによって与えられた礼拝は、24節にあるように「写し」ではなく、今ここで天の神と交わりがなされていることなのです。そのキリストによる神との交わりは、唯一度キリストの血によって、今までの罪もこれから罪も清められて、私たちに与えられているのです。キリストは大祭司として私たちを導いて天の聖所に入ってくださっる、と共に、私たちの罪を贖う犠牲の捧げ物となって神の前にご自身の血を流してくださったのです。キリストはこの二つの働きによって私たちを神に結び付けてくださったのです。ですから、私たちは、今は神との交わりの中に生きる者、神との交わりを失うことはない者なのです。神に目をかけられ、認められ、受け入れられ、愛されている者なのです。

2006年10月29日

説教題:神が天地の造り主

聖書:使徒言行録 14:8-18節 ヨブ記 38:1-11

【説教】

私たちは誰かに認められないと人間として生きていけません。誰にも認められないと、私はだめな人間だ、どうなってもいい、ということになり、投げやりで、刹那的で、無責任に生きることになってしまうのです。そして、心の深いところでは、惨めで闇の中にいる思いになっているのです。自分を相手にしてくれない、無視され、配慮してくれないことは、空しく死を思うようになるのです。

誰か、認め受け入れる人が必要なのです。その誰かの中で母親が最も大きな存在です。「母を訪ねて3千里」のように、母に認められたい、そのためにどんな苦しみにも耐え障害も乗り越える思いが子どもにはある、思いだけではなくその忍耐力や実行力があるのです。養護学校の校長が「ここにいる子は問題児ではなく、孤独な子だ。誰も自分を本当に思ってくれない、と思っている子だ」、とその事例を紹介して講演し、本にしています。人間は、造り主である神との交わりを失うと孤独になり、真実の人間として生きることが出来ないのです。逆に神との交わりがあれば、たとえ寝たきりでも、誰からも認められていなくても、希望を持って生きることが出来るのです。その事例を皆さんもご存知でしょう。

しかし、罪人で汚れている私たちが神に受け入れてもらうためには、神が私たちに愛の目をかけてくださり、私たちを清めて招いて下さることが必要です。神は、イスラエルに目をかけて選び、ご自分の民として、奴隷であったエジプトの地から救い出されたのです。それは、羊の血によって自分の家を包んだその家の人を、神の民として受け入れることでした。その民は、神の定めに従って、罪を清めて神と交わる生活をして、神の民として神の前に意味ある歩みをしていました。

しかし、その神との交われは「写し」であったのです。「写し」は、価値のない偽物ではなく、神との交わりの意味と価値を持っているのです。神が認めている証明書、有効期間や条件が付いているパスポートのように、神の民であるとこの世で証明しているのです。地上の聖所での礼拝は、天の聖所での神ご自身との交わりに導くものであり、天での交わりを前もって味わい知るものなのです。でも神との完全な交わりではないのです。

羊の血による出エジプトは、キリストの血による罪の支配からの救いの予型ともいわれています。キリストによって与えられた礼拝は、24節にあるように「写し」ではなく、今ここで天の神と交わりがなされていることなのです。そのキリストによる神との交わりは、唯一度キリストの血によって、今までの罪もこれから罪も清められて、私たちに与えられているのです。キリストは大祭司として私たちを導いて天の聖所に入ってくださっる、と共に、私たちの罪を贖う犠牲の捧げ物となって神の前にご自身の血を流してくださったのです。キリストはこの二つの働きによって私たちを神に結び付けてくださったのです。ですから、私たちは、今は神との交わりの中に生きる者、神との交わりを失うことはない者なのです。神に目をかけられ、認められ、受け入れられ、愛されている者なのです。

2006年10月22日

説教題:天上での礼拝に与る民

聖書:ヨハネの黙示録 7:9-12

【説教】

私たちは誰かに認められないと人間として生きていけません。誰にも認められないと、私はだめな人間だ、どうなってもいい、ということになり、投げやりで、刹那的で、無責任に生きることになってしまうのです。そして、心の深いところでは、惨めで闇の中にいる思いになっているのです。自分を相手にしてくれない、無視され、配慮してくれないことは、空しく死を思うようになるのです。

誰か、認め受け入れる人が必要なのです。その誰かの中で母親が最も大きな存在です。「母を訪ねて3千里」のように、母に認められたい、そのためにどんな苦しみにも耐え障害も乗り越える思いが子どもにはある、思いだけではなくその忍耐力や実行力があるのです。養護学校の校長が「ここにいる子は問題児ではなく、孤独な子だ。誰も自分を本当に思ってくれない、と思っている子だ」、とその事例を紹介して講演し、本にしています。人間は、造り主である神との交わりを失うと孤独になり、真実の人間として生きることが出来ないのです。逆に神との交わりがあれば、たとえ寝たきりでも、誰からも認められていなくても、希望を持って生きることが出来るのです。その事例を皆さんもご存知でしょう。

しかし、罪人で汚れている私たちが神に受け入れてもらうためには、神が私たちに愛の目をかけてくださり、私たちを清めて招いて下さることが必要です。神は、イスラエルに目をかけて選び、ご自分の民として、奴隷であったエジプトの地から救い出されたのです。それは、羊の血によって自分の家を包んだその家の人を、神の民として受け入れることでした。その民は、神の定めに従って、罪を清めて神と交わる生活をして、神の民として神の前に意味ある歩みをしていました。

しかし、その神との交われは「写し」であったのです。「写し」は、価値のない偽物ではなく、神との交わりの意味と価値を持っているのです。神が認めている証明書、有効期間や条件が付いているパスポートのように、神の民であるとこの世で証明しているのです。地上の聖所での礼拝は、天の聖所での神ご自身との交わりに導くものであり、天での交わりを前もって味わい知るものなのです。でも神との完全な交わりではないのです。

羊の血による出エジプトは、キリストの血による罪の支配からの救いの予型ともいわれています。キリストによって与えられた礼拝は、24節にあるように「写し」ではなく、今ここで天の神と交わりがなされていることなのです。そのキリストによる神との交わりは、唯一度キリストの血によって、今までの罪もこれから罪も清められて、私たちに与えられているのです。キリストは大祭司として私たちを導いて天の聖所に入ってくださっる、と共に、私たちの罪を贖う犠牲の捧げ物となって神の前にご自身の血を流してくださったのです。キリストはこの二つの働きによって私たちを神に結び付けてくださったのです。ですから、私たちは、今は神との交わりの中に生きる者、神との交わりを失うことはない者なのです。神に目をかけられ、認められ、受け入れられ、愛されている者なのです。

2006年10月15日

説教題:愛による執り成し

聖書:ヘブライ人への手紙 6:4-12

【説教】

私たちは誰かに認められないと人間として生きていけません。誰にも認められないと、私はだめな人間だ、どうなってもいい、ということになり、投げやりで、刹那的で、無責任に生きることになってしまうのです。そして、心の深いところでは、惨めで闇の中にいる思いになっているのです。自分を相手にしてくれない、無視され、配慮してくれないことは、空しく死を思うようになるのです。

誰か、認め受け入れる人が必要なのです。その誰かの中で母親が最も大きな存在です。「母を訪ねて3千里」のように、母に認められたい、そのためにどんな苦しみにも耐え障害も乗り越える思いが子どもにはある、思いだけではなくその忍耐力や実行力があるのです。養護学校の校長が「ここにいる子は問題児ではなく、孤独な子だ。誰も自分を本当に思ってくれない、と思っている子だ」、とその事例を紹介して講演し、本にしています。人間は、造り主である神との交わりを失うと孤独になり、真実の人間として生きることが出来ないのです。逆に神との交わりがあれば、たとえ寝たきりでも、誰からも認められていなくても、希望を持って生きることが出来るのです。その事例を皆さんもご存知でしょう。

しかし、罪人で汚れている私たちが神に受け入れてもらうためには、神が私たちに愛の目をかけてくださり、私たちを清めて招いて下さることが必要です。神は、イスラエルに目をかけて選び、ご自分の民として、奴隷であったエジプトの地から救い出されたのです。それは、羊の血によって自分の家を包んだその家の人を、神の民として受け入れることでした。その民は、神の定めに従って、罪を清めて神と交わる生活をして、神の民として神の前に意味ある歩みをしていました。

しかし、その神との交われは「写し」であったのです。「写し」は、価値のない偽物ではなく、神との交わりの意味と価値を持っているのです。神が認めている証明書、有効期間や条件が付いているパスポートのように、神の民であるとこの世で証明しているのです。地上の聖所での礼拝は、天の聖所での神ご自身との交わりに導くものであり、天での交わりを前もって味わい知るものなのです。でも神との完全な交わりではないのです。

羊の血による出エジプトは、キリストの血による罪の支配からの救いの予型ともいわれています。キリストによって与えられた礼拝は、24節にあるように「写し」ではなく、今ここで天の神と交わりがなされていることなのです。そのキリストによる神との交わりは、唯一度キリストの血によって、今までの罪もこれから罪も清められて、私たちに与えられているのです。キリストは大祭司として私たちを導いて天の聖所に入ってくださっる、と共に、私たちの罪を贖う犠牲の捧げ物となって神の前にご自身の血を流してくださったのです。キリストはこの二つの働きによって私たちを神に結び付けてくださったのです。ですから、私たちは、今は神との交わりの中に生きる者、神との交わりを失うことはない者なのです。神に目をかけられ、認められ、受け入れられ、愛されている者なのです。

2006年10月1日

説教題:神の子に贖われた民

聖書:出エジプト記 12章21-28節 ヘブライ人への手紙 9章23-28節

【説教】

私たちは誰かに認められないと人間として生きていけません。誰にも認められないと、私はだめな人間だ、どうなってもいい、ということになり、投げやりで、刹那的で、無責任に生きることになってしまうのです。そして、心の深いところでは、惨めで闇の中にいる思いになっているのです。自分を相手にしてくれない、無視され、配慮してくれないことは、空しく死を思うようになるのです。

誰か、認め受け入れる人が必要なのです。その誰かの中で母親が最も大きな存在です。「母を訪ねて3千里」のように、母に認められたい、そのためにどんな苦しみにも耐え障害も乗り越える思いが子どもにはある、思いだけではなくその忍耐力や実行力があるのです。養護学校の校長が「ここにいる子は問題児ではなく、孤独な子だ。誰も自分を本当に思ってくれない、と思っている子だ」、とその事例を紹介して講演し、本にしています。人間は、造り主である神との交わりを失うと孤独になり、真実の人間として生きることが出来ないのです。逆に神との交わりがあれば、たとえ寝たきりでも、誰からも認められていなくても、希望を持って生きることが出来るのです。その事例を皆さんもご存知でしょう。

しかし、罪人で汚れている私たちが神に受け入れてもらうためには、神が私たちに愛の目をかけてくださり、私たちを清めて招いて下さることが必要です。神は、イスラエルに目をかけて選び、ご自分の民として、奴隷であったエジプトの地から救い出されたのです。それは、羊の血によって自分の家を包んだその家の人を、神の民として受け入れることでした。その民は、神の定めに従って、罪を清めて神と交わる生活をして、神の民として神の前に意味ある歩みをしていました。

しかし、その神との交われは「写し」であったのです。「写し」は、価値のない偽物ではなく、神との交わりの意味と価値を持っているのです。神が認めている証明書、有効期間や条件が付いているパスポートのように、神の民であるとこの世で証明しているのです。地上の聖所での礼拝は、天の聖所での神ご自身との交わりに導くものであり、天での交わりを前もって味わい知るものなのです。でも神との完全な交わりではないのです。

羊の血による出エジプトは、キリストの血による罪の支配からの救いの予型ともいわれています。キリストによって与えられた礼拝は、24節にあるように「写し」ではなく、今ここで天の神と交わりがなされていることなのです。そのキリストによる神との交わりは、唯一度キリストの血によって、今までの罪もこれから罪も清められて、私たちに与えられているのです。キリストは大祭司として私たちを導いて天の聖所に入ってくださっる、と共に、私たちの罪を贖う犠牲の捧げ物となって神の前にご自身の血を流してくださったのです。キリストはこの二つの働きによって私たちを神に結び付けてくださったのです。ですから、私たちは、今は神との交わりの中に生きる者、神との交わりを失うことはない者なのです。神に目をかけられ、認められ、受け入れられ、愛されている者なのです。