23年04月-23年09月

2023年9月24日

説教題:主の教えを愛する

聖 書:詩編1編1~3節、ルカによる福音書11章24~28節


しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」
(ルカによる福音書11:28)

  前回の主日礼拝にて教会創立50周年の感謝を献げ、今日は再びルカによる福音書の講解説教に戻ってまいりました。少し、前回の御教えを心に思い起こしましょう。

イエス様は、私たちにとっての「敵」が何であるかを教えてくださいました。「敵」は自分のライバルや、攻め寄せて来る他国ではありません。「敵」は私たち人間に罪を犯させる「悪」です。聖書は、それを「サタン」「ベルゼブル」「悪霊」と呼びます。

私たちは「悪」に打ち勝つことができませんが、神さまは悪に勝利されます。私たちは、私たちのために「悪」と戦ってくださる救い主イエス様の慈しみにすがり、身をゆだねていて良いのです。

さて、今日のルカによる福音書の聖書箇所には、イエス様が私たちの中から「汚れた霊」を追い払ってくださった後のことが まず述べられています。汚れた霊は、「悪」の罪に汚れた霊と考えることができます。

彼らは、私たち人間の中から追い出されて「休む場所を探す」のですが、そのような場所は みつかりません。

そこで、汚れた霊は恐ろしいことにこう言います。24節の後半からお読みします。「出て来たわが家に戻ろう」私は今、「恐ろしい」と言いました。なぜ、この汚れた霊の言葉が恐ろしいのか、おわかりでしょうか。汚れた霊は、私たち人間のことを「わが家」と思っているのです。私たち人間が、罪で汚れた霊にとっては「休む場所」でどこよりも居心地が良く快適なのです。私たちの中で、汚れた霊は好きなように寛ぎ、悪さができるからでしょう。

私たち人間は、汚れた霊に太刀打ちできない、彼らの好きなようにすることのできる弱い入れ物だと見くびられているのです。いえ、見くびられているのではなく、それが私たち人間の真実の姿なのでしょう。イエス様が、今日、そうおっしゃっているのですから。

汚れた霊が出て来た人間のところに戻って来たら、その人間はどうなっていたでしょう。25節をお読みします。「そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。」そこは、清められ整えられて、汚れた霊にとって、あまり居心地のよくない居場所になっていました。

入りにくいので、汚れた霊は助っ人を頼みました。26節です。お読みします。「そこで、(汚れた霊は)出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」

人間は、清められ、整えられただけでは、戻って来た汚れた霊を退けることができません。彼らは、仲間を連れて来てしまうからです。どうすれば良いのでしょう。

今日のこの聖書箇所とよく似た教えを、イエス様はマタイによる福音書でも語っておられます。マタイによる福音書12章43節から45節です。その44節後半には、汚れた霊が人間に戻って来た時の人間の様子がこう記されています。お読みします。「(汚れた霊が)戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。」

今日のルカによる福音書の箇所とほぼ同じですが、言葉が多くなっています。「空き家になっており」という言葉が、ここにあります。この言葉から、私たち人間が、私たち自身の自我で充足されるものではないということがよく分かります。

私たちを住処(すみか)としていた汚れた霊をイエス様が追い出してくださった後、清められて御言葉で整えられても、そこはからっぽです。「空き家」です。私たち人間は、自分で自分を満たすことはできないのです。私たちの内に住んでくださり、私たちを正しく満たしてくださるのは、私たちの主 イエス様です。

使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙3章16~17節でこのように祈りをささげています。お読みします。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」

皆さんに、特に今日、心に留めていただきたい御言葉を繰り返します。「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」

この御言葉が語るように、私たちを満たしてくださるのは、イエス様です。イエス様が私たちの内に住んで、私たちを満たし、愛に根ざして生きる者にしてくださるのです。

また、聖書の別の箇所でも、パウロはイエス様が私たちの内に宿ってくださることを次のように語っています。コリントの信徒への手紙一6章19節をお読みします。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」

生きて働かれる聖霊・イエス様が宿ってくださるのなら、私たちは空っぽの空き家ではありません。汚れた霊が八つどころではなく束になってやって来ても、イエス様が追い出してくださいます。

私たちはずっと清められ、ずっと整えられ続ける恵みをいただけるのです。清められるとは、神さまのものとなることです。神さまの御手のうちに、堅く守られて安心して過ごせる恵みをさします。

さて、今日の聖書箇所に戻りましょう。ルカによる福音書11章27節からの、今日の聖書箇所の後半部分は、イエス様の教えを聞いていたある女性が感動して告げた言葉から始まっています。

27節からお読みします。「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「『なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。』」

イエス様が人間の胎・女性のおなかに宿られる、そして、「なんと幸いなことでしょう」というこの言葉。ここで、ああ、この女性はイエス様を聖霊によって宿した母マリアを讃美していると気付かれる方がおいででしょう。

受胎告知の時、おとめマリアは天使ガブリエルにこう祝福されました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(ルカ福音書1:28b)。しかし、イエス様はその女性にこうおっしゃいました。

今日の聖書箇所の最後の聖句、28節です。お読みします。「しかし、イエスは言われた。『むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。』」

女性がイエス様の母マリア、つまり「人間」を讃え、賛美したのに対し、イエス様は「おめでとう」と真実に祝福されるべきなのは、御言葉を聞き、それを守ることだとおっしゃいました。神さまの御言葉にこそ、私たち人間の真実の幸いがあると教えてくださったのです。

もちろん、イエス様は「御言葉を守る」ことを四角四面の律法学者のように勧めているのでは、まったくありません。神さまの教えの御言葉を知識として知り、厳しい掟としてロボットのように無感動に守り、従いなさいとおっしゃっているのでは決してないのです。

今日の旧約聖書の御言葉 詩編1編が語るように、「その教えを愛し」、神さまに愛されていることが嬉しくて、昼も夜も御言葉から離れず、口ずさむほどに御言葉を慕うことを、イエス様は語っておられます。

私たちは神さまを見ることも、その声を聴くこともできません。また、人となって私たちの間においでくださったイエス様も天に戻られて、そのお姿を見ることもできません。しかし、私たちは神さま・イエス様を心と魂と精神で知ることのできる聖霊をいただいています。イエス様に深く、深く愛されていることを、十字架の出来事とご復活の福音で事実として知らされています。

神さまの言葉・聖書を通して主の愛と正義へと心の窓を開かれていることを、イエス様が今日の聖書箇所で語られるように、御言葉を通して知らされているのです。福音 ― 「良い知らせ」として、私たちはその恵みをいただいています。

さらに心に留めていただきたいのは、ヨハネによる福音書1章1節以下が語るように、イエス様は御言葉そのものだということです。世においでくださり、私たちの目に見え、耳で聴ける御言葉が肉体を取ってくださったのが、イエス様です。イエス様は復活なさり、天の父のみもとに戻られましたが、私たちには目に見え、読むことができ、耳で聴ける御言葉なるイエス様が与えられており、聖霊によって喜びをもって御言葉に従う信仰をいただいています。これこそが、私たちのまことの幸福です。

私たちは、「空っぽの空き家」ではなく、御言葉なるイエス様で満たされます。

御言葉で満たされ、御言葉による福音を通してイエス様の愛に満たされ、神さまのものとして生きる恵みがここにあります。神さまのものであること・その御手に抱かれて守られていること、これにまさる喜びと平安はありません。今日から始まる新しい一週間、この恵みに力をいただいて進み行きましょう。



2023年9月17日

創立50周年記念礼拝

説教題:キリストの福音の初め

聖 書:イザヤ書40章10~11節、マルコによる福音書1章1~8節


神の子イエス・キリストの福音の初め。…わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。
(マルコによる福音書1:1、8)

  今から50年前の9月16日、1973年9月第二回目の主の日・日曜日に、薬円台教会の最初の礼拝がささげられました。説教者は宮﨑 創牧師、共に礼拝に与ったのはお連れ合いの宮﨑博子さんとご長男の宮﨑 新さん、後の新先生のお二人でした。

この会堂は、まだ影も形もありませんでした。今、ここに集っている私たちキリスト者の誰一人として、その時は薬円台集会所、後の薬円台教会という群れの名をまだ知らなかったのです。最初の礼拝で読まれた最初の聖書箇所が、本日の新約聖書箇所 マルコによる福音書1章1-8節です。説教題は「しあわせとは」でした。

今日は薬円台教会が50年、イエス様に導かれていることに感謝して二つのことを心に留めたいと願います。ひとつは、今日の聖書箇所の聖句にある最初を意味する「初め」という言葉です。もうひとつは、同じ聖句にある言葉「福音」と、宮﨑 創牧師が語られた説教「しあわせとは」のつながりです。

「初め」という言葉 ― これは聖書のたいせつな言葉です。聖書は旧約聖書と新約聖書合わせて66の書から成りますが、そのうちの三つの書が「初め」という言葉から始まっています。ひとつは、まさに聖書全体の初め・創世記の第一語です。「初めに、神は天地を創造された」(創世記1章1節)と記されているとおりです。

ふたつめが、今日のマルコによる福音書です。聖書のもとの言葉の順序では、マルコによる福音書1章1節はこうなります ― 「初め、福音の、イエス・キリストの、神の子の」。「初め」という言葉がまっさきに語られています。

みっつめは、ヨハネによる福音書です。こう始まっています。「初めに言(ことば)があった。」(ヨハネによる福音書1章1節)

創世記が天地・この世の初めを、ヨハネによる福音書が御言葉の初めを示し、マルコによる福音書・今日の「初め」は「福音」の初めを示しています。

では、「福音」とは何でしょう。直訳すると「良い知らせ」のことです。薬円台教会の始まり・伝道の働きの第一歩は、「良い知らせ」とは何かを思いめぐらすようにという勧めから、始まりました。宮﨑先生が最初の主日礼拝説教の題を「しあわせとは」となさったのには、その思いが込められていたと思います。

私たちは何を知らされると心の底から喜び、安心し、幸せを実感することができるのでしょう。 時代の波にもまれても変わらず、すりへることも汚れることもなく、いつも私たちの心を嬉しさと幸福で満たしてくれる「良い知らせ」とは、何でしょう。

50年前、薬円台教会の前身となる集会の礼拝で語られた最初の説教「しあわせとは」は、私たちの心を安心と幸福で満たす「良い知らせ」を伝えることを使命・ミッションとする伝道の最初の一歩、第一声だったのです。

私たちは人生を歩むうちに、この世で価値あるものとされ、誰もが競い合うように求めるものや事柄が、必ずしもすべて輝かしいわけではないことを知るようになります。その価値あるものとして、すぐ思いつくだけでも富、名声や名誉、自己実現、権力といったものが挙げられます。残念ながら、他人を蹴落とす競争を招くものばかりです。

価値あるものに「正義」があることを思い起こし、「正義」は他人を蹴落とさない、と思われる方がいらっしゃるでしょう。確かに正義は美しく力強い言葉です。ところが、競争とは言えないかもしれませんが、それぞれの正義を振りかざすことから諍いが始まってしまいます。他人の正義をどうしても正義とは思えず、そこから憎しみが生まれて争い合うのが、この世です。私たち人間には絶対的な正義、真実の正義を知ることができないからです。神さまの導きが、何としても必要なのです。また、立場と考えを異にする相手を理解して対話しようと志す寛容な愛の決心を、慈しみの主イエス様に学ばなければなりません。

価値あるものを手に入れよう、または実現しようとすることで、人間はいつの時代にも争いを起こしつつ、歴史を積み上げて来ました。人類の歴史は戦いの歴史と言っても、過言ではないでしょう。世界のどこかで、これまで必ず戦争、紛争、対立が起きてまいりました。今も、戦火の中にある方々がおられます。私たち人間は、誰もがいつも安心で幸福、笑顔でいることができない者たちなのです。

一方で、私たち人間は、誰かの笑顔を目にすると、自分も笑顔になる本能を備えています。平和な群れとして生きる社会的な生き物・被造物なのです。神さまが、私たちをそう造られました。私たちは、笑顔を交わし合うようにと造られているのです。

だから、私たちは笑顔を、笑顔になるしあわせを本能的に求めます。いつの世も変わらない正義があり、その正義に守られて安心して暮らせるしあわせを、私たちは求めます。まわりの人誰もが自分に優しく笑いかけ、互いを尊重して愛し合い、困ったら手を差し伸べ合うしあわせな社会を、私たちは生きてゆきたいのです。

それなのに、その逆へと進んでしまうどうしようもない私たちです。その「どうしようもなさ」を、聖書は罪と呼びます。罪から救い出してくださるために、神さまは御子イエス様を私たちに与えてくださいました。しあわせを約束する完全な正義と完全な愛が、イエス様によってもたらされたのです。「福音」・「良い知らせ」とは、その事実です。

福音書に記されている「良い知らせ」は、イエス様が世に来られ、十字架の出来事を成し遂げられ、復活されたこと、それによって完全な愛が貫かれ、正義が示されたことを告げ知らせます。

イエス様は、私たちを愛して愛し抜いて、私たちの代わりにすべての悪しきもの・呪わしいもの・罪を背負って十字架に架かってくださいました。イエス様は、ご自身と共に罪を滅ぼし、真実の正義に生きる新しい命を私たちに与えてくださいます。その約束のしるしが、イエス様のご復活です。

イエス様は、私たちの存在そのものを深く愛してくださいます。だからご自身を犠牲にして私たちを罪から救い、清めて神さまのものとしてくださいました。

私たちが生命体として地上の命の終わりを迎えた後も、その真実は変わりません。私たちは永遠に神さまのもの、永遠に教会の一員です。永遠にイエス様を一番のお兄様とする神さまの家族の兄弟姉妹です。

その「しあわせ」を世に知らせる福音の初めから語り始め、薬円台教会は「良い知らせ」を50年間 語り続けて来ました。困難の中・忍耐の時代も、喜びの時も悲しみの日も変わらずに、礼拝がささげられてきました。イエス様が導いてくださるからこそ、イエス様が常に寄り添ってくださる真実の主の羊の群れ、真実の教会だからこそ、半世紀を歩むことができたのです。

私たちは、イエス様が羊飼いとなって命がけで守ってくださる羊の群れです。イエス様は50年間、私たちを守ってくださいました。それは、これからも全く変わりません。教会の歩みの姿・群れの姿を今一度、イザヤ書の御言葉に聴きましょう。今日の旧約聖書の御言葉・イエス様がおいでくださる預言の御言葉をお読みします。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」(イザヤ書40:11)

この預言は成就し、イエス様はこの世にお生まれくださいました。その事実は、私たちに新約聖書を通して知らされているとおりです。

私たちを十字架の出来事で救われ、復活されたイエス様が、私たちに常に寄り添ってくださいます。群れが一人も漏れることなく 一体となって御国への道を進めるように、イエス様は私たちを守ってくださいます。私たちが小羊のように弱くなっている時には、ふところに抱いてくださいます。群れの者は、だれ一人として置き去りにされたり、見捨てられたりすることはありません。イエス様が、私たちを一人残らず、真実に正しい道を歩ませてくださいます。

その恵みを堅く信じて、今日から始まるこれからの一週間を過ごしましょう。また、これからの薬円台教会の新しい歴史をひらいてまいりましょう。真実の主の群れとして、心ひとつに進み続けましょう。



2023年9月10日


説教題:主と共に集めよう

聖 書:イザヤ書49章25節、ルカによる福音書11章14~23節


しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。…わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。
(ルカによる福音書11:20、23)


 今日の聖書箇所が司式者によって拝読されるのを聞いて、また目で聖句を追ってご自身でも読んで、皆さまはどんな印象を持たれたでしょう。小見出しに「ベルゼブル論争」と記されているのを参考にされ、確かに「論争」で、頭の体操のようだと思われたのではないでしょうか。わかりにくいところがあるかもしれません。ご一緒に、イエス様と、イエス様の足を引っ張ろう・落ち度を暴露しようとしている人たちのやりとりを、ざっと整理してまいりましょう。

イエス様は、悪霊によって口の利けなくなった人から悪霊を追い出して、その人を癒し、話ができるようになさってくださいました。それを目の当たりにした人々の中には、イエス様に敵意・嫉妬心・疑いや反感を抱いている人たちがいました。彼らは、こう言い出したのです。15節です。「あのイエスという男は、悪霊の頭(かしら) ― 悪霊の親玉、親分、サタン ― だ。だから、悪霊はあの人の言うことを聞いて、出て行ったのだ。」

イエス様が悪霊の親分とは、なんと無礼で愚かな言葉でしょう。冒瀆的だと感じた方もおられるでしょう。とんでもない見当はずれ・的外れです。聖書のもとの言葉では「見当はずれ・的外れ」を表す単語は、そのまま「罪」を意味します。愚かで、自分の狭い了見にしがみついている者たち・イエス様のすばらしさを認めようとしないかたくなな者たちは、まさに罪を犯しています。また、私たちもイエス様の十字架の出来事とご復活がなければイエス様がどなたかわからず、同じことを考えて罪を犯す危うさをはらんでいます。

この愚かで罪深い者たちに、イエス様はこうおっしゃいました。17節から18節です。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。」

この言葉は、このように言い換えてよいでしょう。 「悪霊の役割は人を困らせることだから、悪霊の親分・サタンなら、下っ端の悪霊に『その人から出て行け』と言わないだろう。悪霊本来の役割に反することを命じて、悪霊の間での内輪もめ・混乱を生じさせるようなことを、サタンはしないだろう。だから、わたしがサタンのはずがない。」

順を追って考えを進めると、なるほどイエス様のおっしゃることは ― イエス様は神さまなのですから、あたりまえですが ― 道理にかなっている、そのとおりだ、うんうん、と皆さまは頷かれるでしょう。

そして、ご自身がベルゼブルではないと明確に道理を説いたイエス様は、続く20節で、ご自分がどなたなのかを私たちに語られます。その20節の御言葉をご一緒に聴きましょう。お読みします。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」イエス様は悪霊を追い出すのに「神の指」を使われたとはっきりおっしゃっています。そうです、イエス様は神の御子、神さまその方なのです。

また、イエス様が語られたこの20節は、次の21節・23節と合わせて、この世がどんな状態か、その中で私たちはどんな立場に置かれているかを表しています。今日の聖書箇所は、イエス様を妬み、憎んでいる者たちがイエス様を陥れようとしている出来事であると同時に、この世に生きる私たちへのイエス様からの恵みの御言葉です。さあ、耳を澄ましてよく聴きましょう。

 21節から22節にかけての、イエス様の言葉を拝読します。「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。」ここで「屋敷」は「国・この世」と言い換えても良いでしょう。この御言葉は「強い人」、つまり 私たち人間の力では対抗できない者がこの世を自分のものとして、がんとして譲らず、その「持ち物」をも封じ込めている状況をさしています。

さらに「もっと強い人」が襲って来ると その「持ち物」は奪い去られ、ばらばらに散らされてしまいます。私たち人間が立ち向かえないほど強い力、また、それよりもさらに強い力が私たちを襲うとイエス様は言われるのです。その力とは、何でしょう?

教会でこの質問が問われる時、私たちは二つの力を思い浮かべます。ひとつは、大いなる神さまの御力です。もうひとつは、私たちの内に潜み、私たちを誘惑して闇に引きずり込む悪の力です。聖書は、その悪の力をサタン、悪霊の頭(かしら)、ベルゼブルと呼びます。

私たちは悪の力とは知らずに、その闇に引きずり込まれることがあります。自分の力を試そうとか、もっと高いところを目指せるとか、自分では向上心だと思っているうちに、欲望が膨らんで自己中心的となり、隣人を蹴散らし、自分だけが良ければ他の人はどうなってもかまわないと考える悪の闇へと突っ走ってしまうことがあります。悪は、このようにひそやかに私たちを襲うから、恐ろしいのです。

私たち人間が この二つの大きな力の「持ち物」だと、イエス様はおっしゃいます。まさにそのとおりです。私たちは、洗礼を受けて「神さまのもの」 ― 神さまの子、神の家族の一員 ― になります。

しかし、それと同時に、私たちはこの世に生きている限り、常に自分の欲の闇に取り込まれ、悪に封じ込められる危険に晒されています。私たちの主は、弱い私たちに代わって、この悪と戦ってくださいます。今日の旧約聖書の御言葉 イザヤ書49章25節がこう語るとおりです。お読みします。「わたしが、あなたと争う者と争い わたしが、あなたの子らを救う。」

私たちに忍び寄る悪は、死・滅び・絶望という形で、私たちの目前にその姿を表します。イエス様は十字架に架かられ、その死・滅びと争い、打ち勝ちました。それが十字架の出来事から三日後の、よみがえり・ご復活です。

神さまの平和のご計画の中では、私たちは互いを敵とすることがあってはなりません。イエス様は、私たちすべてに互いの隣人になるようにと導いてくださいます。人間同士は、すべて互いに隣人となるようにと神さまは教えてくださいます。私たち人間にとっての「敵」は、「悪」です。イエス様は、私たちに代わって悪と戦ってくださいます。

しかし、私たちはただイエス様に代わっていただくだけでよいのでしょうか。今日の聖書箇所の最後の聖句23節は、イエス様が鋭い表現で私たちについてくるようにと招く御言葉です。お読みします。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」

イエス様は、私たちをこう招いてくださいます。「さあ、私と一緒に集めよう、働こう、私と一緒に悪の網に捕らわれている人たちを集めて救おう、そうでないと私たちは一つになることができない、気持ちはばらばらに散らされて平和が来ない。」

イエス様の今日の御言葉を用いさせていただければ、伝道は、イエス様と一緒に、救われる人々を集める働きです。教会はイエス様に付き従って、イエス様と一緒に、救われる民を集めつつこの世を突き進んで平和の道を拓きます。

 イエス様の招きに従って、平和を実現する者とならせていただきましょう。すべての人を隣人として、平和を築く希望を胸に、今日から始まる新しい一週間を主と共に歩み行きましょう。



2023年9月3日


説教題:求め、探し、与えられる

聖 書:出エジプト記16章9~15節、ルカによる福音書11章5~13節


そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。…このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。
(ルカによる福音書11:9~10、13)


  ルカによる福音書を読み進めています。イエス様が弟子たちに教えた事柄を 私たちは福音書を通して、神さまを仰ぎ、信じる生活こそが最も幸いな生き方であると知らされつつ、歩んでいます。

イエス様は、こう教えてくださいました。自分勝手な思い・自己中心的な願いよりも、御心が大切。その御心が語られる、主の御言葉に聴くことが大切。イエス様は、私たち人間にわかりやすいように「こちらよりも、これが大切」と優先順位を示してくださることで信仰の恵みを与えてくださいます。

私たち薬円台教会は、創立当初から50年、「神中心、礼拝中心の生活を送る」ことを掲げて進んでいます。今、私たちは、ルカによる福音書を読みつつ、その信仰の姿勢をあらためていただき、心に深く留めようとしているのです。

前回の聖書箇所で、イエス様は弟子たちに「主の祈り」を教えてくださいました。この祈りが、ユダヤの人々がそれまでささげていた祈りとまったく異なる祈りであると、前回の説教でお伝えしました。

この違いは、たいへん大切です…皆さんは、それが何だったか、覚えておいででしょうか。イエス様は、神さまに「父、お父さん」と呼びかけてよいと教えてくださいました。それまで、ユダヤの人々の祈りでは、そのように馴れ馴れしく神さまに呼びかけることは考えられなかったのです。

ところが、神さまの御子イエス様が、神さまである創造主を呼ぶのと同じように「天の父」、「天にまします我らの父よ」と呼びなさいとおっしゃってくださいました。被造物に過ぎない人間である私たちが、それぞれの家庭でお父さんに抱くような親しみを神さまに抱き、甘え、その懐に飛び込んで行ってよいと イエス様は言われました。

神さまと私たちは、当たり前のことですが 次元が違います ― にもかかわらず、大いなる神さまを「父、お父さん」と呼んでよい…これは「ものすごい」ことなのです。神さまは、イエス様ゆえに、イエス様を通して、私たちにその計り知れないほどの大きな恵みを与えてくださいます。

今日の聖書箇所で、イエス様はひとつのたとえ話を通して、その恵みを弟子たちに、また私たちに語ってくださいます。神さまが言葉に尽くせないほど深く大きく、そして暖かい愛をもって私たちの祈りを受けとめてくださるかが、このたとえ話にこめられています。

始めに、今日の聖書箇所にしまわれている恵みを開ける鍵・キーワードを三つ、お伝えしておきましょう。

ひとつは5節にあります。「友よ、パンを三つ貸してください」と記されている中の「パン」という言葉。二つ目は8節にあります。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何かを与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるだろう。」 ― こう記されている中の「しつように」という言葉。三つめは最後の節・13節にあります。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」 ― こう語られている中の「聖霊」という言葉。これらの三つです。パン、しつように、聖霊。

まず、イエス様が語られたたとえ話を短くまとめておきましょう。夜遅く、もう戸締りをして寝てしまってから、こう頼む友だちの声が聞こえたというのです。これが5節から6節にかけてです。お読みします。「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。」

頼まれた人は、初めは起きもせず、戸も開けずに家の中からこう言います。7節です。お読みします。「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。」

しかし、頼みに来た友だちは、いっこうに諦めようとしません。7節後半に「しつように」という言葉があるように、この人は実にしつこく、夜中なのに大声で頼みを繰り返し、おそらくどんどんと窓や戸を叩いてわめき続けました。家の中で寝ていた人は、とうとうたまりかねて起き上がり、必要なものは何でもあげるよと、頼みを聞き入れるとイエス様は話されました。「しつように」 ― しつこく、何度もくどくどと、ねちっこく頼み込むと、どんな人でも願いを聞いてくれるとおっしゃったのです。

ここで、イエス様が弟子たちに、また私たちに教えてくださるのは「しつように」祈ることの大切さです。どんな人間でも「しつように」頼めば聞き入れてくれるのだから、ましてや、私たちを愛して造ってくださり、常に見守ってくださる私たちの天の父・神さまが私たちの願いを聞き入れてくださらないはずがない、とイエス様は主の愛の深さを教えてくださいます。

この教えから私たちが思い起こしたいのは、今日の旧約聖書が語る「マナの奇跡」の出来事です。エジプトから神さまに救い出されたユダヤの民は、モーセを指導者として荒れ野・砂漠をさまよい、渇きと飢えに苦しみました。この時、人々は祈ろうとすらしませんでした。神さまに呼びかけることすら、思いつかなかったのです。それほど、神さまから遠く離れ、背いてしまっていました。

奴隷の身分から救われて自由を与えられたのに、肉鍋を前にしてパンをお腹いっぱい食べたいからエジプトに帰ってまた奴隷に戻りたいと、 神さまにたいそう恩知らずなことを言いました。

彼らは あれが食べたい、これが飲みたいと、おそらく自分勝手で自己中心的な欲望を並べ立てたのでしょう。それは、たいそうしつこく、「しつよう」だったに違いありません。ところが、祈りでも願いでもない彼らの欲望が「しつよう」だったからこそ、神さまは彼らに必要なものを与えてくださいました。

今日の聖書箇所 出エジプト記16章12節は、この神さまの御言葉を伝えています。お読みします。「あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる。」神さまはこの時から、安息日以外の毎朝、日毎の糧・命をつなぐパンとして、砂漠をさまようユダヤの民のためにマナを降らせてくださったのです。

この「しつように」という言葉は、聖書のもとの言葉では「恥知らず」という意味を持ちます。確かにユダヤの民は恥知らずに、恥も外聞もなく、勝手なこと・自己中心的なことをわめき散らしていました。にもかかわらず、神さまは彼らの必要を満たしてくださいました。

「恥」は、同時に「罪」を意味します。罪を罪とも分からずに、自分の罪を知らずに生きている私たちですが、それでも命をつなぐパンは必要です。自分が愛されていると知らされる喜び ―神さまの愛のパンは、私たちには絶対に必要なものなのです。

だからこそ、神さまは恥知らずで罪深い私たちのために、イエス様をパンとして与えてくださいました。神さまは大切な我が子イエス様を、私たちが神さまと共に生きる命のために、私たちに与えてくださったのです。

私たちの罪を贖うために、十字架でイエス様のお体は裂かれ、血が流されました。神さまは、そこまで深く私たちを愛し、私たちのためを思ってくださいます。

だから、今日の聖書箇所でイエス様がおっしゃるように「しつように」、「求め、探し、門を叩いて」よいのです。むしろ、そうすることを神さまは強く望んでおられます。

私たちが何を求めれば御心にかなうのかも分からず、自分勝手なことをつぶやき、自己中心そのものの求め方をしていても、神さまは私たちを大切に思ってくださって、必ず最も良いものをくださいます。最も良いもの ― それは、聖霊です。今日の聖書箇所の最後の聖句を、今一度お読みします。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

聖霊が最も良いものとは、どういうことでしょう。イエス様は命を捨てるほど、この自分を愛してくださった ― それがわかるのは、聖霊によってだ、ということです。聖霊は、神さまの御心を私たちに示し、神さまの御国の扉を開けてくれる恵みの鍵です。

私たちは今日 これから聖餐式にあずかります。心の中で、しつように、何度も、求めましょう ― 神さまの正義、愛、平和がこの自分と世界にもたらす真の幸いを。しつように、何度も自分の心の中を探しましょう ― イエス様が十字架で命を捨てて赦してくださった罪と、愛されている自分、いつも寄り添ってくださるイエス様を。そして、心の中でしつように叩きましょう ― 御国の門、永遠の命へと導く扉を。

そのすべてを与えてくださるために、裂かれたイエス様の御体と流された血潮を、心から感謝していただきましょう。



2023年8月27日

説教題:祈りを与えられる

聖 書:箴言 30章5~9節、ルカによる福音書11章1~4節


そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください。』
(ルカによる福音書11:2~3)


  私たち薬円台教会は、ルカによる福音書を第1章第1節から読み進めて、今日のこの主日に至ります。

ルカによる福音書にて、イエス様は弟子たちに、また弟子たちへの言葉を通して私たちに、主の御前に立つ時の心構え・信仰の姿勢を一歩一歩、順番に教えてくださいます。幼子の手を引いて、歩みを支える親のように、イエス様は私たちに分かりやすく、信仰者には「こちらよりも、これが大切」と伝えてくださいます。自分がどうしたいかではなく、主の御心が大切。主の御心が語られる、主の御言葉に聴くことが大切。私たちは、前回まで そのように教えられてまいりました。

そして、いよいよ今日の聖句の学びの時を迎えました。今日の聖書箇所では、イエス様が祈りを教えてくださいます。その祈りとは、教会に通うようになった方が、最初に覚える祈り・「主の祈り」です。

さあ、今日の第1節から、ご一緒に読んでまいりましょう。第1節をお読みします。「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』」

これまでルカ福音書を読む中で、私たちは何度も、イエス様が祈っておられる姿を記す聖句を読んでまいりました。イエス様がお一人で祈ることも、時には弟子たちを伴うことがあったことも、皆さんは覚えておいででしょう。

イエス様のお祈りを聞いて、そのお姿を見ていた弟子たちが、今日の聖書箇所で「祈りを教えてください」とイエス様にお願いしました。「弟子の一人」と聖句は語っていますが、弟子たち全員の思いを代表してのお願いだったと考えて良いでしょう。この弟子の代表者は「ヨハネが弟子たちに教えたように」と言っています。

イエス様に多くの人々と弟子たちが付き従っていたように、洗礼者ヨハネも自分を慕う者たちのグループに囲まれていました。そして、独自の祈りをグループ全員が声を合わせて祈っていたと思われます。それを見たイエス様の弟子たちが「自分たちも…」と願うようになったのでしょう。

ここで、「え?」と何となく不思議と申しますか、違和感を持つ方が少なくないと思います。イエス様も、弟子たちも、ヨハネとその弟子たちも、同じ聖書 ― 私たちの「旧約聖書」― を知っています。知っているどころか、ユダヤ人の男子は6歳からそれを暗記させられ、暗唱することができます。また、旧約聖書の中に、祈りの言葉を集めた書『詩編』があるのは、 皆さんがご存じのとおりです。弟子たちは、祈りを知らないどころではなく、ユダヤの神さま・私たちの神さまを崇める者として、祈りを良く知っているはずだったのです。それなのに、どうして「祈りを教えてください」とイエス様にお願いしたのでしょう。

それは、旧約聖書の祈りと、イエス様の祈りには、決定的な違いがあったからです。どこが違うのでしょう。イエス様が、祈りの中で天の神さまを「父よ」と呼びかけているのが、旧約聖書の祈りとの大きな違いです。旧約聖書では、天の神さまを親しく「父よ」と呼びかけることはありませんでした。イエス様は神さまの御子ですから、当然 息子として 「父よ」と呼びかけます。

私たちが8月6日の主日礼拝でいただいた聖書箇所、ルカによる福音書10章21節に、それがはっきり記されています。お読みします。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」創造主への全幅の信頼と、ご自分の父への親しみのこもった敬愛の思いをこめて祈るイエス様の祈りは、弟子たちの心を震わせました。

「祈り」とは、自分が誰よりも頼りと思う方に自らのすべてをさらし、思いをそそぎこむものであると、弟子たちはイエス様の祈りを聞いて初めて知ったのでしょう。それまで、弟子たちは祈りと言えば、姿の見えない、抽象的で大いなる方・創造主に漠然と、いわば形式的に呼びかけていたのかもしれません。イエス様の祈りには、リアルな命が通っていたのです。

「祈りを教えてください」という弟子たちの祈りに応え、イエス様はこう教えてくださいました。「父よ」という、イエス様と全く同じ呼びかけで祈り始めるようにと教えられたのです。これは、弟子たちにとっては実に嬉しい驚きだったに違いありません。イエス様の弟子たちも、イエス様を通して神さまを信じる者も、イエス様と同じように神さまを「父」と呼びかけて祈ることを通して、神さまの子とされる恵みが この祈りの教えにあふれています。

ただ、こう教えられると、私たちは戸惑います。「この自分が神さまの子!?」と驚き、そんな不遜な呼びかけをしてよいのかと思ってしまいます。戸惑う私たちに、宗教改革者ルターは、私たちがイエス様の十字架の出来事ゆえに「神さまの養子」にされる幸いをいただいたのだから、呼びかけてよいと教えています。イエス様は私たちを本当に愛し、ご自分の命に代えて、十字架の出来事を通して私たちを神さまの子・神さまの家族にしてくださったのです。父よ! お父さん!と神さまに呼びかけることだけでも、私たちの祈りです。

イエス様は、さらにこう祈るようにと教えて下さいました。御名が崇められますように ― お父様、聖なる方であるあなたの御名が讃美されますように。讃えられますように。御国が来ますように ― お父様、あなたがすべてを導き、すべてを守り支える平和な世が来ますように。ここで祈ることは、私たち一人一人の個人的な願いであると同時に「わたしたち」の願い・祈りであることを、堅く心に留めましょう。「主の祈り」は、私たちが一人で神さまに祈る時に、また 教会の兄弟姉妹と一緒に祈る時に、ささげる祈りなのです。

続けて、イエス様は、実に具体的な願いをささげるようにと教えてくださいました。3節です。お読みします。「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。」私たち人間が肉体から成る生命体で、食事でエネルギー補給の必要があることを、イエス様はしっかりと覚えていてくださっているのです。

それから、4節です。お読みします。「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」私たち人間が、生きている時も、生命体として終わりを迎えた時も、どんな時も、神さまと、またイエス様と共にいられることを願う祈りがここにあります。

神さま・イエス様と共にいるためには、私たちは清められていなくてはなりません。ですから、「わたしたちの罪をゆるしてください」との祈りは、「私たちをゆるし、罪の汚れを洗い落としてください」という願いです。

この祈りは、イエス様の十字架の出来事によって聞き届けられ、かなえられました。イエス様は私たちの罪をすべて背負って十字架に架かられ、イエス様の死で罪は贖われ、私たちは罪をゆるされ、清められたのです。清められたとは、聖なるもの・神さまのものとならせていただいた ― 神の子とされたということです。そして、神さまのものとされたとは、神さま・イエス様といつまでも共にいられる恵みをさしています。イエス様はご復活によって、永遠に聖なる者とされた私たちと共においでくださると約束してくださったのです。

信仰生活・教会生活を送る中で、本当に必要な祈りの言葉は何か…と考えることが、おありと思います。6〜7年前の教会修養会で、「祈りについて」をテーマに皆様と学んだことを思い出しています。自分になくてはならないものを、神さまにお願いするとしたら、どんなことを祈ってお願いしますか?と出席者にお尋ねしました。

この問いには、正しい答えなどありません。どんな答えも、正しいのです。私たちは、欲しいものは何でも、神さまにお願いして良いからです。(ルカによる福音書11:9より)それは、私たち一人一人が 神さまの子にしていただいて、神さまを「父よ、お父さん!」と呼んでよいとゆるされているのと同じです。

そして、「私たち」が教会として、兄弟姉妹が集まるたびに、心と声を合わせて献げる祈りの模範が「主の祈り」です。「主の祈り」の中でお祈りする二つの願い ― それは「日ごとの糧」と「罪の赦し」です。

私が神学校卒業直後に指導を受けた牧師先生は、一緒にお祈りするたびにこう祈っておられました。「私たちの天のお父様、御名が崇められますように。御国が来ますように。私たちになくてはならない二つのもの、罪の赦しと日毎の糧を今日も与えてくださり、ありがとうございます。」

 皆さんにとって、「なくてはならないもの」は何でしょう?今日 こうして、ご一緒に「主の祈り」をイエス様から教えていただきました。それを心に留めて、それぞれの祈りをあらためて思いめぐらしたいと願います。より御心にかない、イエス様により喜んでいただける祈りを献げつつ、今週も手を携えて共に進み行きましょう。



2023年8月20日

説教題:必要なことはただ一つ

聖 書:詩編130編5~6節、ルカによる福音書10章38~42節


主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」
(ルカによる福音書10:41~42a)


今日の聖書箇所は、イエス様が「善きサマリア人のたとえ話」を語られた後の出来事を語ります。 

イエス様と弟子たち、つき従う者たちの一行は「ある村」に入りました。この「ある村」は、ヨハネによる福音書12章によると、今日の聖書箇所に登場するマルタとマリアが弟ラザロと暮らしていたベタニアという村です。イエス様がめざしている神殿の都エルサレムからわずか3キロほど東へ行ったところでした。

目的とするエルサレムは、もう目と鼻の先です。いよいよ、イエス様の十字架の出来事が迫ってまいりました。

ここに至るまで、イエス様は弟子たちに、また聖書の御言葉を通して私たちに大切な恵みをたくさん授けてくださいました。その恵みと教えが、エルサレムを目前にして核心に近づこうとしています。

イエス様は今日、マルタに、また私たちにキリスト者・クリスチャンとして必要なただ一つのことを教えてくださいます。今日の聖書箇所 ルカによる福音書10章41節でイエス様がこう語られるとおりです。「必要なことはただ一つだけである。」

その「必要なこと」とは何でしょう。

今日の聖書箇所の冒頭 38節から、ご一緒に読み進んでまいりましょう。

イエス様の一行が村に入ると、「マルタという女が、イエスを家に迎え入れ」ました。「迎え入れた」というのですから、マルタはイエス様がおいでになったことを心から喜び、大歓迎したのでしょう。おそらくマルタは、イエス様、さあ どうぞ どうぞ、家の中で旅の疲れを癒してくださいと迎え入れたと思われます。

しかし、イエス様はゆったりくつろがれなかったようです。

39節をご一緒に読みましょう。こう記されています。「彼女(マルタのことです)にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」

イエス様は十二人の弟子たちを町や村に遣わし、さらに七十二人を遣わした時に、彼らに何と命じたか覚えておられますか。家に入ってくつろぎなさいとおっしゃったでしょうか。

いえ、こうおっしゃったのです。七十二人を派遣したルカによる福音書10章8節からお読みします。「迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。」イエス様は弟子たちに、確かにもてなしを受けなさいとおっしゃいました。と同時に、伝道しなさいともおっしゃったのです。イエス様は、このマルタとマリアの家で弟子たちに命じたことを、ご自分でも率先して行われました。

イエス様は「神の国は近づいた」と語られ、天の父の愛と正義を家にいた者たち、またイエス様がおいでになったことを聞きつけてやってきた者たちに伝えられたのです。

そのイエス様の足元に座って、お言葉に耳を傾けていたのが、マルタの妹マリアでした。

マルタはどうしていたでしょう。40節をお読みします。「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた…。」

イエス様と弟子たち、十二人に七十二人を加え、女性たちもつき従っていましたから総勢で百人ほどだったでしょうか。近所の人たちも、やって来ました。

マルタは、イエス様一行の人数もおおむね把握していたでしょうし、段取りも食事の材料もそろえてあったでしょう。それでも、百人を超える人たちをもてなすのはたいへんです。目の回るような忙しさとなりました。マルタは、妹のマリアと一緒にもてなすことを考えていたのかもしれません。ところが、マリアはマルタのそばにいませんでした。

あろうことか、お客様たちと客間にいて、しかもイエス様の足元の一番良い席に陣取ってイエス様のお話を聞いていたのです。

これを見て、忙しく立ち働いていたマルタは、怒りを感じました。

イエス様を我が家にお迎えして、こんな嬉しいことはないのに、てんてこ舞いの忙しさで喜びを感じられなくなっていたのです。

できることなら、自分もマリアのようにイエス様の足元で一言も漏らさずに 御言葉の恵みに与りたいのです。それなのに…とマルタの心は怒りでいっぱいになりました。

彼女はイエス様のおそば近くに寄って こう言いました。40節の後半です。お読みします。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

皆さんは、ここの箇所を読まれて いかが思われますか? マルタに、どんな印象を持たれますか?

私は、マルタは怒りにかられていても 偉いと感じました。

もし私がマルタだったら、イエス様に何も言わず、いきなりマリアの手を引っ張って立たせ、台所に引っ張っていきそうな気がします。

怒りに任せて「あんた、何をぼ〜っとしているの、手伝ってちょうだい、今 たいへんなのは見てわかるでしょう!!!」ぐらい言ってしまいそうです。

マルタは、そんな乱暴なことをしませんでした。

まず、イエス様にお願いしたのです。まずイエス様に。自分の思いを打ち明けるのは、まずイエス様。怒りも、悲しみも、いらいらも、不満も、すべてまずイエス様に告げる ― 私は、このマルタの姿勢は信仰的だと感じます。

マルタは、自分が困っていることを正直に、怒りの感情もそのまま、イエス様に伝えました。また、イエス様にしていただきたいこと ― イエス様に、「マルタを手伝ってやりなさい」とマリアに言ってほしいのだと、率直に、素直にイエス様に伝えました。

イエス様だったら わかってくれると、マルタがイエス様を深く信頼していることが伝わってきます。私たちも、こうでありたいと願うのです。

イエス様が私たちのすべてを、髪の毛一筋さえもご存じだとよく分かっていて、この自分の怒りも不安も願いも、すべて受けとめてくださると信頼して、イエス様の御前に立ち、祈りをささげる私たちでありたいと願います。困っていることがあったら、まずイエス様にお願いする私たちでありたいと思うのです。 

誰かと困ったことになったら、自分でその誰かに何かしてしまうのではなく、イエス様に何とかしていただこう、仲裁していただこうとすぐに思いつく私たちにしていただきたいと思います。

さて、そのマルタからの深い信頼を、イエス様は受けとめてくださいました。しかし、イエス様は、マルタの願いどおりにはなさいませんでした。マルタがもてなしのために心を乱しているのは、神さまが喜ばれる奉仕ではなかったからです。

イエス様・神さまにお仕えする時、喜んで奉仕をささげる私たちを、イエス様・神さまは喜んでくださいます。イエス様・神さまに喜んでいただきたいと心をこめて奉仕する時、私たちの心は自然と主のために働く嬉しさで満たされます。

奉仕に負担を感じ始め、つらくなってきたら、ひと休みすることが望ましいでしょう。ひと息入れて、御言葉に立ち帰り、御言葉に新しく元気をいただくのです。

イエス様は、それをマルタに教えてくださいました。マルタをなだめ、優しさと慈しみをもって教え導かれたのです。

だから、イエス様はもてなすために忙しく立ち働き、喜びを忘れてしまったマルタにこう告げました。イエス様は、慈しみをもって語りかける時、相手の名前を二度呼びます。この時もそうでした。

41節から42節にかけてのイエス様の言葉をお読みします。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

私たちは、ストレス社会に生きています。どうしてストレスを感じるのかと言えば、この世の事柄やしなくてはならないことが自分の中にドッと入り込んできて、処理が追い付かなくなるからです。

必死に何とかしようとして、私たちはそれぞれ、今日の聖書箇所のマルタのようにがんばります。がんばっているうちに、やっていることだけに目を奪われ、喜びを感じられなくなってしまいます。

愛されて造られたこと、神さまに命をいただいてこうして生きていること、神さまにいつも見守られていることを忘れて、少しも喜べなくなってしまうのです。そして、いらいらしてしまいます。

神さまの愛を思い出させてくれるのは、私たちにわかる、私たちの言葉で語りかけて下さる神さまの言葉、御言葉です。

疲れてきたり、いらいらしてきたり、忙しさのあまり 虚しさを感じて元気がなくなってきたら、今日の聖書箇所を思い出しましょう。イエス様が、私たちそれぞれの名を二度呼んで、優しく語りかけてくださいます。

必要なことはただ一つ、イエス様の足元に座って、御言葉に聞き入ることなのです。あまりに疲れていて、御言葉を聞いても何も感じないように思うこともあるかもしれません。

それでも、聖霊の働きを待って、御言葉に聴き続け、教会から離れず、信仰の友が自分のために、誰よりもイエス様が自分のために祈ってくださっていることを忘れないで過ごしましょう。必ず、喜びが再び心を満たす日が来ます。

日々 愛される喜びに生きられるように、互いに祈りつつ この新しい一週間を過ごしましょう。



2023年8月13日

説教題:隣人を愛し、隣人となる

聖 書:レビ記19章17~18節、ルカによる福音書10章25~37節


彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
(ルカによる福音書10:27)

さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
(ルカによる福音書10:36~37)


今日の御言葉は、聖書の中でも最も広く知られているイエス様のたとえ話と申して良いでしょう。クリスチャンでなく、教会に行ったことも聖書を読んだこともない方でも、「善きサマリア人」と言えば「キリスト教精神の基本、隣人愛」と いわば一般教養として知られています。

アメリカ、カナダ、オーストラリアの法律で「善きサマリア人の法 Good Samaritan Law」が定められているのを御存じの方もおいででしょう。公共の場で病や怪我で倒れた人を、医療者が善意から救助した場合に適用されます。とっさのことだったので、残念ながらその応急処置が適切とは言えなかった、ということもあるわけです。しかし、善意から行ったことなので、救助した医療者は罪に問われないという法律です。

今日は始めから余談のような、雑学的なお話になってしまいましたが、イエス様が語られた今日のたとえ話のサマリア人は、法律とはあまり関係がありません。ただ、今日の聖書箇所の冒頭に記されているとおり、イエス様がこのたとえ話をお語りくださったのは。この世の法律ではなく、神さまが私たち人間に与えた掟・律法を専門とする律法学者の発言がきっかけでした。

私たちはルカによる福音書を、講解説教として、聖句の前後のつながりに注目しつつ読み進んでいます。今日の「善きサマリア人」の話も、前回の聖書箇所と関連して読むことで、恵みをいただきたく思います。

前回の聖書箇所で、イエス様は七十二人の弟子が派遣された町や村から帰って来たのを喜んで迎えられました。イエス様から力をいただいた七十二人の弟子たちは病を癒し、神さまの教えを伝えて、伝道活動は大成功でした。弟子たちは、いたるところで人々を笑顔にすることができたのです。しかし、イエス様は弟子たちが人々を幸せにできたのは、すばらしいことだが、最も大切なことではないと教えられました。

最も大切なのは、神さまが弟子たち、そして今を生きる私たちを愛して造られ、一人一人の名を天に書き記され、造り主としての責任をもって愛し抜いてくださることだと教えられました。

私たちは、主に愛されている喜びを知って、主への感謝の思いから 自分にできる精一杯の善いこと・善い行い、他の人への思いやりを尽くそうとの思いで生きるようになります。その思いに突き動かされて取った思いやりに満ちた親切な行動が人々を笑顔にし、愛の業として小さくても大切な一歩になり、それが幾重にも広がって、この世に平和を築く道が拓くと、前回の聖書箇所でイエス様は教えてくださいました。

イエス様は、弟子たちに教えられた後、彼らを祝福されました。その喜びに満ちた光景に、まるで水を差すような発言がありました。それが、今日の聖書箇所の冒頭 ルカによる福音書10章25節の「ある律法の専門家」のイエス様への発言です。この人は、イエス様が民衆にたいへん人気が高く、慕われていることを妬み、機会があれば足を引っ張ってやろうとしていました。今日のルカ福音書10章25節にも、その人がイエス様を「試そうとして言った」と記されています。

この律法の専門家は、イエス様が神さまの御子であることを知りません。ナザレという辺鄙な地方からやって来た青二才だとしか、思っていないのです。彼は、「律法の専門家」としてイエス様を試そうとしました。「試す」という字が表すように、文字通りにイエス様を試験・テストしようと考えました。

イエス様を慕っている人々の手前、彼はへりくだった言葉を使って質問しましたが かえって嫌味に聞こえます。その嫌味な発言、25節をお読みします。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

「永遠の命を受け継ぐ」とは「死から救われる」すなわち「滅びずに、神さまのものとされて永遠に生きる」ことをさします。

イエス様が「神さまに愛され、神さまのものとされていることを知ることが最も大切」と教えられたので、「神さまのものとなるためには、どうすればよいのですか。何をすれば、どんな行いをすれば、神さまのものにしていただけるのですか 」と尋ねたのです。

前回の聖書箇所で、イエス様は「行いの結果が大切ではなく、その行いへと私たち人間を促す志は 神さまに愛されていると知ることから始まる」と教えてくださいました。律法の専門家は、それをまったく理解できていなかったことが、彼の質問から分かります。しかし、イエス様はそれを指摘せずに、逆に彼に質問をされました。律法の専門家に意地悪をされているのに、イエス様は、神さまの恵みが彼にも分かるように 彼の専門分野である律法について尋ねたのです。この御言葉です。26節をお読みします。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」

律法の専門家は、レビ記19章に書いてあると答え、その聖句を暗唱しました。27節の最後のところです。お読みします。「隣人を自分のように愛しなさい」イエス様は、彼が知識を充分に持っていることを認め、「正しい答えだ。」とおっしゃってくださり、「それを実行しなさい。」(ルカによる福音書10:28)と言ってくださいました。

ところが、律法の専門家は、なおもイエス様を困らせ、自分の方が豊富な律法の知識を持ち、神さまのことを正しく知っていることを見せつけようと質問を重ねました。29節の、その問いをお読みします。「では、わたしの隣人とはだれですか」

律法の専門家は、どうしてもイエス様を言い負かしたかったのです。イエス様を敵だと思っているのです。しかし、イエス様は彼の毒のある質問に、律法の専門家である彼の立場に寄り添って応えてくださいます。その優しさと思いやりに満ち、敵を敵と思わずに神さまへと導こうとされるたとえ話が「善きサマリア人の話」です。

サマリアとユダヤがいわゆる犬猿の仲で、憎み合い、互いをけなし合っていることは前にお話ししました。その二つの民族それぞれに属する人たちを登場させて、イエス様は、このようなたとえ話を語られました。

あるユダヤ人が追いはぎ  ― これは、 強盗のことです ― に襲われて、大怪我を負い 息絶え絶えで道に倒れていました。

怪我をした人と同じ民族のユダヤ人の祭司が、次に祭司の手伝いをするのが役目のレビ人が、そこを通りかかりました。ところが、祭司とレビ人は二人とも、怪我をした人を助けようともしませんでした。31節にあるように、怪我した人を避けて 道の向こう側に行ってしまいました。

なぜ、こんな非人間的な、冷たいことをしたのでしょう。祭司とレビ人が神殿で礼拝を行う職務に就いていたことが、その理由です。ユダヤ教の聖書、私たちからすれば旧約聖書では、つまり律法では 血は汚れたもので、それに触った身では神殿での働き・奉仕ができません。祭司とレビ人は神さまへの奉仕を最優先として、怪我した人の血で汚れないように道の反対側に行ったのです。

律法の専門家の目から見れば、これは正しい行いです。神さまの御目から見て、これは本当に正しいことだったでしょうか。イエス様はここで、お話の中にサマリア人を登場させました。

サマリア人は、倒れているユダヤ人のそばにやって来ました。今日の聖書箇所の33節が語るとおりです。もし、怪我をしたユダヤ人にわずかでも意識があって、サマリア人が近づいてきたことに気付いたら、こう感じたことでしょう。「ああ、誰か来たけれど、来た人はサマリア人だから、自分を助けに来たのではない。ユダヤ人の私が死にそうなのを見つけて、とどめを刺しに来た。」

まったくそうではありませんでした。サマリア人は実にねんごろに、心をこめてユダヤ人を介抱し、自分のロバに乗せて宿屋に連れて行ってくれたのです。イエス様が語られたサマリア人の優しさは、私たちの心に暖かくしみわたります。

このサマリア人の優しさは、イエス様の優しさです。ユダヤだとか、サマリアだとか区別をせず、分け隔てなく、傷んでいる人を救おうとする愛の業です。

律法の専門家は、イエス様を敵とみなして、やりこめてやろうとしつこく質問をしました。その人を、イエス様は敵だと決して思われませんでした。サマリア人のたとえ話をなさることで、その人の心に優しさを思い起こさせ、愛の業へと導こうとしてくださったのです。イエス様はご自身の語りかけによって、自分に意地悪をし、苛んでいるこの律法の専門家を救おうとしてくださっているのです。

イエス様の語りかけは、律法の専門家の心に届きました。彼のうちに、優しさが広がりました。

イエス様は、その人にこう尋ねました。今日の聖書箇所 36節の聖句です。お読みします。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」

イエス様のお話で心がやわらいだ律法の専門家は、こう答えることができたのです。「その人を助けた人です。」

律法の専門家は、こうしてイエス様に導かれ、血を汚れとする律法にがんじがらめにされず、そこから自由になって、敵を敵ではなく隣人としてたいせつにする愛 ― 私たち人間がどれほど神さまに背いて 反旗を翻していても、決して見捨てずに救おうとしてくださる神さまの愛に目を開かれました。

イエス様にこのたとえ話をしていただくことで、律法の専門家は、神さまに愛されるとはどういうことかを知ったのです。おそらく、それまでの彼は、人を見たら、その人が律法を守っているかどうかだけに関心があったと思われます。その人の悩みや、苦難には目が向かなかったのです。しかし、イエス様からたとえ話をいただいて、彼は敵と思っていた人に優しくされる感動を知りました。心が暖かく満たされて、この自分でも優しくなれる、誰かに優しくしてあげたいと願う思いを心に宿すことができたのです。

続けてイエス様は、律法の専門家にこうおっしゃいました。今日の聖書箇所の最後の聖句です。お読みします。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

今、イエス様は私たちにも、同じ御言葉で語りかけてくださいます。

イエス様を憎み、軽んじ、馬鹿にして十字架に架けた者たちのために、イエス様はご自身の死をもって救いのみわざを成し遂げてくださいました。

私たちは、時々 イエス様を忘れ、軽んじてしまいます。この世の競争者社会の中で、意識せずに人を蹴落とすようなことをしてしまうことがあります。後で、自分が犯した罪に気付いて、こんな罪深い自分なんか…と自らを否定する思いに陥ることがあります。

神さまが愛して造ってくださった自分を否定する ― これは、大きな罪です。そして、私たちは自らに否定的になることで、自分の敵となり、自らを傷つけています。自分では気付かずに、自分の罪によって満身創痍・傷だらけ、大けがをしている私たちなのです。その私たちを、イエス様は「憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱し」(ルカによる福音書10:33)てくださいます。

イエス様の私たちへの憐れみ、私たちへの介抱が、十字架の出来事とご復活です。連れて行ってくださる宿屋は、天の御国・神の国です。私たちは、深く愛されています。たいせつにされています。

だから、イエス様はおっしゃいます ― 「行って、あなたも同じようにしなさい。分け隔てなく人を愛し、すべての人を隣人として、やすらぎ やわらいで過ごしなさい。」

その御言葉に従って、私たちは今、ここから世へと出かけてまいりましょう。新しい一週間へと、新しい愛の業へと、その志と試みに向けて 主を仰いで歩み始めましょう。



2023年8月6日

説教題:天の書に名を記される

聖 書:イザヤ書52章4~7節、ルカによる福音書10章17~24節


「…むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
(ルカによる福音書10:20)

それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。」
(ルカによる福音書10:23)


前回の聖書箇所で、イエス様は七十二人を福音宣教に遣わされました。今日の御言葉では、彼らが「喜んで帰って来」(ルカ福音書10:17)たことが、最初に語られています。弟子たちは「悪霊さえも…屈服する」と、喜びにあふれてイエス様に報告しました。彼らは、イエス様のお力に満たされ、イエス様を通して働き、悪を屈服させる経験・悪に勝つ勝利を体験したのです。

それを聞いたイエス様は、彼らがすぐに英雄気取りになりそうであると察知されました。そして、弟子たちの力は、ご自身が授けたものであることを思い出させる御言葉をおっしゃいました。また、悪に打ち勝つことを誇るよりも、ずっとすばらしいことがあると、信仰の根源・私たち信仰者の真の幸いを弟子たちに教えてくださいました。それが20節のこの御言葉です。お読みします。「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

大切なのは、神さまによって私たち人間に何ができるかではない、ということです。遣わされて行った町で悪を打ち負かすことはすばらしいことですが、それが福音の恵みではありません。

神さまに遣わされて良い働きをし、人に親切にして、多くの人々に喜ばれるのは確かにたいへん善い業です。しかし、それによって人々に褒められると、私たち人間は自己満足と自己達成感に浸ってしまいます。つい、神さまに力を授けられたことを忘れて自分に陶酔しやすくなるのです。イエス様はそれを戒め、その自己満足・自己達成の充実感が私たちの真の幸い・喜びではないことを弟子たちに思い起こさせようとしてくださいました。

私たちキリスト者・クリスチャンの真の幸い・喜び ― それは、神さまが私たち一人一人を愛して造ってくださり、一人一人の名をご自分の天の書に記し、常に見守って導いてくださることです。

私たちには神さまのお姿を見ることができず、私たちに差し伸べられている手を見て、実際にそれにすがりつくことはできません。しかし、御言葉と聖霊を通して、十字架の出来事とご復活の福音を通して私たちは神さまを見なくても、さわることができなくても、神さまを信じ、信じることによって希望と力と勇気をいただいて生きています。それどころか、この世に遣わされたイエス様と同時代を生きた弟子たちは、イエス様のお姿をその目で見ることができたのです。

だから、イエス様は23節で弟子たちだけにこうおっしゃいました。23節をお読みします。「それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。『あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。』」

彼らが見ていたもの ― それは、これから十字架に架かろうと歩まれているイエス様です。救い主のお姿です。彼らは全き人として世に遣わされた神さま・御子イエス様を、その目で見て、お声を聞くことができました。これから十字架の救いの御業とご復活を成し遂げるのを目の当たりにしていたのです。

救い主がこの世においでくださることは、イエス様のご降誕の何百年も前から預言者を通して告げられていました。旧約聖書の預言者や王たちは救い主メシアとの出会いを渇望しました。しかし、いくら望んでも、その時代にはまだ救い主イエス様にお目にかかることはできなかったのです。

そのイエス様を、弟子たちは見ていました。お声を聞いていました。共に伝道活動をしていました。イエス様がほんとうはどなたであるのか、神さまの御子であり、預言された救い主であることが、彼らはまだわかっていなかったにもかかわらず、弟子たちはイエス様を「見ることのできる目」を与えられていたのです。

しかし、イエス様は弟子たちを祝福してくださいました。そして、十字架へと歩みを進める覚悟をさらに堅くされたのです。

イエス様を知るとは、神さまがこの自分を救うために命を捨ててくださったと知ること、そこまで深い神さまの愛を知ることです。

神さまの愛は、私たちの小さな心では受け止めきれないほど大きく豊かです。私たちがどれほど主に感謝をささげても、ささげきれないほど私たちは愛されています。私たちの心からあふれた神さまの愛は、私たちを兄弟姉妹、隣人への優しさや思いやりの行いへと促してくれます。神さまに愛されていると知ることが、私たち人間が互いを愛し合う、その隣人愛の原点なのです。

今日は、平和聖日です。8月15日は終戦記念日です。今日8月6日、次いで8月9日は、人類が最初に核兵器を使用して多くの命を破壊した二つの日付です。この日本は、核兵器の最初の犠牲者となった人々が暮らしていた国です。これらを心に留めて、日本基督教団では8月の最初の主日を「平和聖日」と定めて、私たちが平和を実現できるよう祈りを深めています。

昨年の2月に始まったロシアとウクライナの戦争は、開戦から1年半ほどを経て、まだ和解・終戦の見通しがつかないようです。人類の歴史が始まって以来、地球上で争いごとがなかった日は一日たりともなかったのではないでしょうか。

すべての人間が平和に暮らすことは、私たち皆のせつなる願いです。イエス様は、今日の御言葉を通して、平和が、神さまから始まることを語られます。神さまは、私たち一人一人をすべて漏らさずご存じで、知っていてくださるだけでなく、造り主としての責任をもって愛し抜いてくださっています。

繰り返しになりますが、それが今日の20節の御言葉です。今一度、お読みします。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカによる福音書10:20)

そのように、神さまのものとして愛されて造られ、おぼえられ、天の書に名を記されて見守られている私たち一人一人を、イエス様は山上の説教で、こう祝福してくださいます。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイによる福音書5:9)

この聖句が語る神の子とは何でしょう。神さまに愛されていることを心と魂で知って、私たちは洗礼を受けて神の子とされる、そのことをさします。え!この私が神の子!?と思われるでしょう。宗教改革者マルティン・ルターは、私たちは神さまの「養子とされる」と語っています。

私たちは罪深く、神さまのものとされる資格がない者ですが、イエス様が十字架の出来事で神さまとご自身の間を仲介してくださいました。それによって、私たちは神の子となって、イエス様を一番のお兄さんとする、神さまの家族・教会の一員になる恵みに与る、実にあふれるほどの幸いをいただいたのです。

その神の子とされた私たちは平和を実現する、だから幸いだと、イエス様は山上の説教で私たちを祝福して下さいました。

平和は、神さまの子にしていただいた私たちの心にあふれる主の愛から始まります。この私のために、イエス様は命を捨ててくださった ― それなのに、私はイエス様に何もして差し上げられない…と、私たちは思います。しかし、その私たちにイエス様はこうおっしゃってくださいます。マタイによる福音書25章40節からお読みします。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

イエス様に感謝を表わしたい、その感謝のしるしとして、何かして差し上げたいと思う時、兄弟姉妹、隣人の中で小さく低められている人すなわち困っている人に手を差し伸べ、助けることが、イエス様へのささげものになるのだと、主は教えてくださるのです。

隣人への小さな思いやり、兄弟姉妹へのささやかな親切、小さくささやかだけれど、私たちにできるせいいっぱいをイエス様にささげようと思いながら行う― 平和は、そこから始まります。

こうして主に愛されている私たちは、互いに手を差し伸べ、手を取り合います。そして 神さまの家族は、背中を向け合っている者同士・互いを叩き合っている者同士・傷つけ合っている者同士が、手を取り合えるようにと祈ります。

罪と悪は、あらゆるものを破壊する力です。一方、愛は、破壊されたすべてを修復し、回復させ、壊れた絆・離れた手と手を、もう一度 結び直す力です。そうして、神さまは私たちに平和を実現させて下さいます。

イエス様は、はっきりそうおっしゃってくださいました。そのことに希望を持って進みましょう。私たちにできる小さな愛の業を主がつなぎ、結び、この世の平和を成し遂げてくださることを信じて、今週も、ここ教会・主の家から、世に遣わされてまいりましょう。



2023年7月30日
説教題:伝道の働き、平和の使者
聖 書:イザヤ書52章7-10節、ルカによる福音書10章1-16節


「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」

(ルカによる福音書10:5)


  前回の礼拝説教から、ルカによる福音書は第二段階に入りました。イエス様は、十字架の出来事へのお覚悟を語られ、エルサレムへの旅・十字架への道を歩み始められました。イエス様の、そのお覚悟を、今一度 ご一緒に心に留めておきたいと思います。

 父なる神さまは御子イエス様を世に遣わし、十字架の出来事で私たちの罪を贖い、ご復活で永遠の命の約束を賜る使命を与えられました。イエス様は、その使命を成し遂げる決心を固められ、御心を最優先とする信仰の姿勢を弟子たちや、イエス様を慕って付き従う者たちに示しつつ、進み始められたのです。

前回の聖書箇所から、私たちは主の御心を最優先とする信仰の姿勢を、あらためて学ばされました。その姿勢は、もちろん、今日の聖書箇所でも貫かれています。さらに、今日の御言葉には、その姿勢を保ちつつ伝道するために、ぜひとも必要な心得が語られています。また、具体的な助言がいくつも語られています。イエス様が教えてくださる心得と助言を、ご一緒に聴いてまいりましょう。

ルカによる福音書10章1節から読む前に、今日の聖書の後半部分についてお伝えしておきたく思います。13節から、イエス様が悔い改めない町々を戒められた言葉が記されています。イエス様は、ありとあらゆる町々、村々に神さまの愛と義の教えを伝える想いをお持ちだったでありましょう。しかし、天の父から受けた使命を最優先として、十字架の出来事を成し遂げるために、ガリラヤ地方からエルサレムに向けて南下しておられます。13節以下でイエス様が戒めを語られるコラジン、シドン、ティルス、カファルナウムの町々はいずれもユダヤの北方にあり、イエス様が向かっておられる方角とは逆に位置しています。そのため、これらの町に教えの想いをこめて、イエス様は厳しい言葉を送られました。

このように読むと、イエス様は十字架へひたすら一直線に突き進んだとの印象を強く受けます。しかし、もちろん それは、ただエルサレムに着けばよいという旅ではありませんでした。今日の旧約聖書の御言葉にあるように「良い知らせを伝える者」として、救いの恵み・神さまの教えを伝えつつ旅をするのが御心です。

イエス様は、天の父のその御心に忠実に従いました。良い知らせ・福音は、どのように伝えられると人々の心を豊かに満たすでしょう。天の父は、聖書の語り・神さまの御言葉を通して、その伝え方をも私たちに知らせてくださっています。それは、「先触れ」をするということです。「先触れ」をして、与えられる恵みのすばらしさを伝えておき、期待感を高めて、知らせを待つわくわくとした喜びを人々の心に用意するのです。

「先触れ」は、旧約聖書では特に「預言」として告げられました。神さまが私たちに救いの御業を為される時、旧約聖書の時代から、神さまは預言者を通して御業のすばらしさをあらかじめ知らせてくださったのです。イエス様がこの世にお生まれになることは、ご降誕の750年ほど前に預言者イザヤを通して語られていました。旧約聖書の他の預言書にも、イエス様が世においでになることと救いのみわざを成し遂げてくださることが記されています。

新約聖書にも、「先触れ」が記されています。イエス様が神さまの御子としてのお働きを始める時には、洗礼者ヨハネが先触れをしました。

 ここで、イエス様は天の父にならって同じようになさいました。それが、10章1節に語られています。お読みします。「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」イエス様は、サマリアに遣わした弟子たちの「ほかに」、つき従っている者から七十二人を選んで「先触れ」をさせたのです。

七十二人はたいへん多い人数のように思えますが、それでも足りないと主はお考えでした。だから、このようにイエス様はおっしゃいました。2節をお読みします。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」この言葉は、出かけて行く七十二人が安心するようにと、イエス様が言われた優しい御言葉でもあるのです。

ユダヤの人々は神さまの掟を守りつつ、律法に従って生活していますが、本当に信仰的に生きているかと言えば、必ずしもそうではありませんでした。律法が神さまの愛の導きではなく、単なるきまり・儀式・形だけのものになってしまっていたのです。神さまを心の中心に置くことなく、うわべだけの信仰生活を送っていたのです。

そのような人々のところへ神さまのすばらしさを伝えに行っても、すげなく追い返されるのではないかと派遣を命じられた七十二人は心配しました。イエス様は彼らの不安を見通されて、「収穫は多い」と神さまのなさってくださっている事実を伝えました。

ここで用いられているのは作物を育てるたとえです。種まきから始め、世話をして作物を育てなくても良い、それはすべて天の父がなさってくださっているから、あなたがたは行って実っている収穫を獲り入れるだけでよい、刈り入れるだけでよいと、イエス様はおっしゃってくださいます。

本当にそうなのです。今年度の薬円台教会の年間標語はヨハネによる福音書15章からいただいていますが、そこには「わたしの父は農夫である」と、天の父が創造された命をたいせつに手入れして育ててくださることが記されています。すでに神の民となる信仰者は育てられ、準備されているから、安心して出かけなさいとイエス様はおっしゃられます。

これは今の時代も同じです。キリスト者は少ないけれど、潜在的に神さまが育ててくださっている神の民は多いのです。百人に一人しかキリスト者のいない日本で暮らしていると、あまりピンと来ないかもしれませんが、神さまはこれを恵みの事実として、御言葉を通してお語りくださいます。

すでに心のうちに信仰を育てられている人が大勢いて、刈り入れを待つ麦畑のように洗礼の時を待っているのです。しかし、その人々は、福音を、自分と同じ人間から人間の言葉で伝えられないと、信仰をいただいていることに気付けずにいるのです。 

実は、神さまに選ばれて恵みを受ける者とされている神の民、しかしその自覚がまだない神の民が、町に、村に、今も薬円台のこの地にいて、私たちの言葉で福音が届けられるのを待っています。主の備えは万全、「主の山に、備えあり」(創世記22:14)なのです。

この事実を踏まえて先を読むと、今日の聖書箇所のイエス様の御言葉が心に響いてまいります。3節で、イエス様は厳しい現実・人々が神さまを心の中心とせずにかたちばかりの神の民として生きている現実を指摘されて、こうおっしゃいます。お読みします。「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」

それなのに、イエス様は4節で、こう言われます。お読みします。「財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。」え? どうしてこんな厳しいことをおっしゃるのだろうと、私たちは思ってしまいます。町々に七十二人を遣わすのが「狼の群れに小羊を送り込む」ようなものならば、いろいろ身を守るものを持って行きなさいと言ってくださってもよさそうだとつい思ってしまうのです。ところが、何も持たずに行きなさいと主は言われます。

神さまが、すべて必要な物を与えてくださるから、むしろ何も持たずに行くのが御心にかなうのです。

何か持って行く― それは自分の力に頼ることになります。財布や袋や履物といった日用品を持って行ってよいとなると、それらを揃えているうちに、護身用品を持って行きたくなるのが私たち人間の自然な真理です。危害を受けた時に身を守るために、杖でも持って行こうかと思いつきます。杖は護身用というよりも、むしろ歩く時に用いるものですから、良いだろうという気になります。杖を持つと、小刀も持ってゆくと良いように思えるでしょう。果物を食べる時に、小刀があると便利だし、必ずしも護身用ばかりとは言えません。ところが、それがだんだんと護身の要素を増して、ついには武器を持つようになってしまうかもしれません。人を傷つける武器を持って伝道せよとは、イエス様は決しておっしゃらないでしょう。

 自分で持ち物を決めるという選択肢を完全に手放し、神さまにすっかり頼るようにと、今日の御言葉でイエス様は教えてくださいます。神さまに頼りきり、ゆだねて歩む時、私たちが何も持たずに出かけても、必要は満たされます。私たちの主は、平和と平安のうちにすべての必要を満たしてくださるのです。

続けて、イエス様は具体的な助言をくださいました。道の途中で出会う誰にも彼にも挨拶して親しもうとするのではなく、神さまが備えてくださっていると思われる家族が暮らす家に行きなさいと言われます。そして5節で「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」と教えてくださいました。

「この家に平和があるように」とは、ユダヤの言葉で「シャローム」です。この言葉は、ごく日常的な挨拶に用いられます。「こんにちは」「おはようございます」「こんばんは」 ― すべて、「シャローム」という言葉で、直訳すると「平安があるように」という美しい言葉です。

挨拶の言葉はあまり意味を考えずに使っていることが多いのですが、本当に共に平安を祈り合う家族は、「シャローム」と心をこめて主にある平和を伝えようと訪れる平和の使者を歓迎します。今日の旧約聖書の御言葉にあるように、「良い知らせ」、福音を伝える者は平和を告げる伝令・伝道者です。その恵みを真正面から受け止める家族、それは神の民です。

もし、訪ねて入った家がそうでなかったら、再び喜びの知らせ・良い知らせ・福音は伝道者に戻って来ると、イエス様はおっしゃいました。ただの挨拶として伝道者の「シャローム」を受けとめた者は、挨拶の意味で伝道者に「シャローム」と返します。これが、イエス様が6節の後半でおっしゃる御言葉「その平和はあなたがたに戻って来る」ということです。伝道者は、その挨拶で語られた「平和があるように」という想いを携えて次の家に向かいます。

「平和の子」(ルカによる福音書10章6節)がそこにおらず、挨拶として「シャローム」と言った後に、伝道者に「いえ、神さまの教えを語ってくださらなくても結構です」と拒まれたとしても、伝道者は平和のうちにそこを去り、次の家に向かうのです。拒まれたからと言って気落ちすることはなく、まして気を悪くして拒んだ者を悪く思うこともありません。そこには常に平和があるのです。

イエス様の十字架の出来事とご復活、昇天と聖霊降臨の後、イエス様の弟子たちは、今日の御言葉でイエス様が教えてくださったように宣教活動を行いました。7節にあるように、福音を受け入れる家族・家に入ったら「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲み」ました。9節が語るように「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』」と言いました。こうして、福音宣教は行われたのです。

時を経て海を越え、恵みと救いの福音は私たち極東の日本に暮らす者にも届けられたのです。それを受けて、いくつものキリストの教会が日本に建てられました。薬円台教会は、そのひとつです。ここで、私たちはさらに地域伝道・宣教を続けています。また、子どもの世代・孫の世代、さらにその先へと信仰を継承してゆきます。

神さまの御心を最優先として、主に心の真ん中にいていただくこと ― これが前回からの主の教え、私たちの信仰の姿勢です。

今日のイエス様の言葉から、神中心の心構えに加えて、私たちが新しくいただく恵み。それは、すべてを主が備えてくださっているので、安心して大胆に宣教活動を続けられるという喜ばしい事実です。伝道して拒否されても、がっかりすることはありません。

今日の聖書箇所の最後で、イエス様はすべての責任はご自身と天の父なる神さまにあることを、こう明言されます。16節をお読みします。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」

私たちは、神さまに、またイエス様に遣わされて使いの者として福音を伝え、宣教します。言葉を用いることがなくても、佇まいや、醸し出す雰囲気の優しさ、気配りのこまやかさ、喜びにあふれる生き生きとした笑顔で、私たちはイエス様の香りを伝えることができます。自分はそんなにすてきではない…などと思ってはなりません。自分ですることではなく、私たちの内に宿り、生き生きと働いてくださるイエス様が、それをなさってくださいます。だから、私たちは鏡の前で笑顔の練習などしなくてよいのです。何も持たずに、主にすべてをゆだねて出かけるのです。

伝道した相手に、もし拒まれても、それは失敗ではありません。神さまとイエス様、聖霊の主がすべてを準備してくださっているので、伝道には失敗がありません。全能の神さまに、失敗はないからです。

拒否されたら、ただ、それは主のご計画にある時ではなかった、ということでしょう。別の時に、主のお働きの実りを私たちは刈り入れる恵みに与るはずです。

忍耐強く、けっして諦めず、日常の事柄として福音を伝えてまいりましょう。すべてを主にゆだねて、この新しい一週間も心の中心においでくださる主に導かれ、生き生きと喜ばしく進み行きましょう。



2023年7月23日
説教題:わたしに従いなさい
聖 書:列王記上19章19-21節、ルカによる福音書9章51-62節


イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」

(ルカによる福音書9:60)


 今日の主日礼拝では、ルカによる福音書9章51節から62節までの御言葉が与えられています。二つの異なる出来事が語られている、と受けとめられる方が多いと思います。

確かに出来事としては「二つ」です。ひとつは、イエス様が、短気で血気にはやる弟子 ヤコブとヨハネを戒めたこと。もうひとつは、イエス様が、まわりにいた3人の人たちに、イエス様に従って福音を伝える心構えを教えられたことです。

これら二つは別々の出来事に見えますが、ひとつの聖句で同じ方向性を持たされています。そのひとつの聖句とは、今日の最初の御言葉、ルカによる福音書9章51節です。お読みします。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」

私たちが読み進めているルカによる福音書は、この聖句から新しい局面へと向かってゆきます。

ルカによる福音書は大きく三つの部分に分けることができます。最初の部分が、前回までです。イエス様は、幼い頃から暮らしているガリラヤで弟子たちを召し出し、ガリラヤ伝道を行われました。それが、ルカによる福音書の第一部と申して良いでしょう。

そして、今日の御言葉 ルカによる福音書9章51節は、イエス様が「天に上げられる時期」、すなわち十字架に架かり、救いの御業を為される時が近づいたことを告げます。ここからが、ルカによる福音書の第二部、エルサレムへの旅を語る部分です。

イエス様は、51節のとおり、神殿のあるイスラエルの首都 エルサレムに旅立つ決意を固められました。イエス様の御父・天の神さまが、ユダヤの民・神の宝の民にとっての信仰生活・経済生活・社会生活、すべての中心として機能している都・エルサレムで、イエス様が死刑に処せられ、十字架に架かることを定め、計画されていたからです。イエス様は、天の父の御心に忠実に従う覚悟を決められました。今日のメッセージの中心は「主に従う」ことです。今日の説教題は、今日の聖書箇所からいただきました。

57節からの聖書箇所の小見出しに「覚悟」という言葉が用いられています。この小見出しには「弟子の覚悟」とありますが、イエス様が語られるのはご自身の覚悟です。イエス様は天の父に従う覚悟を決められ、その恵みを今 御言葉を通して私たちに伝えてくださいます。また、ご自身の覚悟を踏まえて、イエス様に従う弟子となる覚悟を 今、御言葉に聴く私たちに教えてくださるのです。

今日の最初の出来事で、イエス様が弟子のヤコブとヨハネを戒めたのも、弟子の覚悟を示すためでした。51節から56節に語られている出来事は、イエス様がエルサレムに向かうために準備をする中でのサマリア人とのもめごとです。

皆さんの中には、サマリア人と聞くと、イエス様が語られた「善きサマリア人」の話(ルカ福音書10章)を思い起こす方がおられるでしょう。強盗に襲われて大けがをしたユダヤ人を助けたのは、同じ民族のユダヤ人ではなく、ユダヤ人と敵対関係にあるサマリア人だったという話を通して、イエス様は敵対意識や憎しみを越える隣人愛を教えてくださいました。

その話で語られるように、歴史的にユダヤ人とサマリア人は敵対する間柄で、特に信仰的に複雑な対立をしていました。エルサレムへと旅をするにあたり、イエス様と弟子たちはガリラヤ地方から南へ下り、サマリア地方を通ろうとなさいました。宿を確保しなければなりませんから、イエス様は先に「使いの者」をサマリアに送りました。

イエス様が神さまの教えを語りつつ、エルサレムへの旅をなさることをサマリアの人たちは知って、反発しました。先に述べたように、サマリア人の信仰とユダヤの民の信仰は 複雑に対立していたからです。

弟子のヤコブとヨハネはサマリア人の反発に腹を立て、イエス様にこう言いました。54節です。お読みします。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」

ヤコブとヨハネは、天の父が背徳の町 ソドムとゴモラを焼き滅ぼした創世記の出来事を思い出して このような過激なことを言ったのでしょう。

また、前回の聖書箇所で、イエス様は「逆らわない者は、(あなたがたの)味方である」(ルカによる福音書9:50)とおっしゃいました。ヤコブとヨハネは、サマリア人たちのことを「逆らっているから、敵である」と理解して「焼き滅ぼしましょう」と言ったのです。

彼らは、二つの誤りを犯しています。ひとつは、天から火を降らせる奇跡を起こせるのは神さまであって、弟子たちのような人間ではないのに傲慢に「火を降らせる」と言っていることです。もうひとつは、前回の聖書箇所で、イエス様は「主の御前には敵も味方もない、すべて隣人だ」との意味をこめて「味方だ」とおっしゃったのに、まったくそれを理解していなかったことです。

イエス様の二人への戒めは、この二つの他にもありました。ヨハネとヤコブは、最優先にしなければならないことを、すっかり忘れているのです。最優先にしなければならないことは、何でしょう。神さまの御心、ご計画です。

神さまはエルサレムに行くようにと御旨をイエス様に知らせ、イエス様はそれに従っておられます。邪魔者を懲らしめろ・サマリア人をやっつけろとなど、神さま・イエス様はおっしゃっていません。邪魔をされたら、56節に記されているように「(サマリアではない)別の村に行」って、御心に忠実にエルサレムに向かえばよいのです。

信仰に生きるとは、具体的には、常に神さまの御心を最優先として生きることです。「御心を最優先にする」 ― すなわち、御旨に従う、主に従うことが信仰者、クリスチャンの生き方です。

この教えにならって、58節のイエス様の言葉を読むと「主に従う」とはどういうことなのかが、わかってまいります。

57節で、熱烈にイエス様の弟子になりたいと願う者がこう言いました。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」

私たちはイエス様が十字架での死に向かっておられることを知っていますから、この人は何と身の程知らずなことを言うのかと思ってしまいます。イエス様は、その人にこうおっしゃいました。58節をお読みします。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」

ここを読んで、イエス様はこの世に住みかをお持ちにならなかったので、伝道する者は イエス様にならって 自分の住まいや土地を持ってはならないと受けとめたくなるかもしれません。しかし、それはいささか 的外れです。

イエス様は、十字架の出来事をめざして進み行かれます。その十字架への道・救いへの旅が、地上におけるイエス様のすべてだと、イエス様は58節でおっしゃられたのです。イエス様は、天の父の御心・ご自身に与えられた救いの使命を最優先されておられるのです。

続く59節で、イエス様は「わたしに従いなさい」と、別の人を弟子になるよう 招きました。イエス様の弟子たちは、ペトロもヨハネも そのようにして招かれて 漁師だった彼らは網を捨て、舟を捨て、徴税人だったマタイは職場を捨てて、即座にイエス様に従いました。しかし、この時 イエス様に招かれた人は「まず(つまり、「先に」)父を葬りに行かせてください」と言いました。

この人にイエス様が言った言葉に、私たちは少なからずギョッとします。60節をお読みします。「イエスは言われた。『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。』」

イエス様は、この世の父は大切にしなくても良いと考えておられるのか、それは冷たいのではないかと私たちは驚いてしまいます。また、天の父の教えとは真逆ではないかとも考えて、ギョッとしてしまいます。

律法の基本である十戒では、「あなたの父母を敬え。」(出エジプト記20:12)と教えられています。また、旧約聖書では、葬ることの大切さも語られています。

イエス様の言葉は、十戒に背くようにも、また親子の情を認めない冷たさのようにも聞こえてしまうのです。ただ、少し気を静めて、あらためて読むと、60節でイエス様は決して、「あなたの父を葬りに行ってはならない」とおっしゃってはいません。

ただ、旧約聖書の時代から律法でたいへん大切とされて来た父や母を敬うこと、葬儀を行うことよりも優先しなければならないことを、この人に勧めておられます。それが、「神の国を言い広めなさい」、福音を伝えなさいということなのです。

イエス様が教えようとされているのは、実際に何をどうするかではありません。律法・十戒の「父母を敬え」を否定しているのでも、もちろんありません。イエス様がこの人に、また聞いている弟子たちに、そして今 この礼拝で私たちに指し示してくださるのは、神さまを最優先とする心構え・覚悟です。

父を葬らなければならない時も、まず、第一に、心にあるのは、「主なる神」のはずだとイエス様はおっしゃるのです。父を失くした人に、私は父を失って悲しいのだ、死ぬばかりに寂しいのだと、神さまに訴え、慰めてくださいと、まず、何よりも先に、神さまに祈るようにと勧めてくださいます。神さまに悲しみと寂しさを祈りでささげれば、真実に深い慰めをいただけるからです。イエス様は、どんな悲しみの底にあっても、神さまを求めるようにとおっしゃっているのです。そこに私たちの真実の、そして完全な平安があるからです。

薬円台教会が創立以来、またほとんどのキリストの教会が大切にしているのは「神中心の生活を送る信仰生活」です。神中心に生きる ― それがイエス様の弟子、クリスチャンの覚悟なのです。

61節で、イエス様の弟子になろうとしている別の人の言葉も読んでおきましょう。61節をお読みします。「また、別の人も言った。『主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。』」

父を葬りたい人も、この人も、共通して用いている言葉があります。お気付きでしょうか。「まず」という言葉です。聖書のもとの言葉では、「一番に、最も早く」という意味の単語が用いられています。

イエス様は、この人にも「行ってはいけない」とはおっしゃいませんでした。ただ、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(ルカによる福音書9:62)と言われました。

イエス様についてゆく決心をした時に、第一に神さまの召しに従うことを喜び、その喜びが家族との別れの寂しさにまさると、主は言われるのです。

皆さんは、日本という100人に一人しかクリスチャンがいない国で、平日に一生懸命 それぞれの場を守り、それぞれの責務を果たしておられます。その中で、いつも心の真ん中に主においでいただくことを願いましょう。

まわりに誰もクリスチャンがいない職場で、場合によっては、この世の基準や価値観に合わせて行動しなければならないかもしれません。その時にも、主を忘れず、この世の基準や価値観を第一に考えてはならないと主は教えてくださいます。

そう言われても、洗礼を受けてクリスチャンとなってから長く信仰生活を送っていても、私たちは神さまを忘れてしまうことがあります。

心の中心にあるのが、自分の悩み事だったり、心配事だったりして、祈るのを忘れます。行動の決断の基準が、家族だったり、自分自身の損得だったり、利害関係のある人の意見だったりして、神さまの御心を尋ねて祈るのを忘れます。

そのように不甲斐ない私たち、イエス様を忘れてしまう私たちを救い、神さまのものとして主との絆を保たせてくださるために、イエス様は私たちの代わりに十字架で死なれました。

イエス様は、これからエルサレムへの旅、十字架への道を歩み始められます。イエス様に従う・主に従うとは、このイエス様の歩みを心に堅く留めて、決して忘れないことです。

イエス様が常に御心にかなうようにと、父なる神さまに与えられた使命に従ったように、私たちもいつも御心を第一に求めましょう。

私たちを深く愛し、いつも見守ってくださる主は、今 この私に何をせよとお考えなのか ― 祈りへとつながるその問いを繰り返しつつ、この新しい一週間も、一瞬一瞬、主に心を向けつつ進み行きましょう。神さま中心、イエス様中心に歩みましょう。主が心の真ん中においでくださる ― この恵みにまさる平安は、他にないのですから。



2023年7月16日
説教題:主の御名によって
聖 書:ミカ書5章6節、ルカによる福音書9章46-50節


「わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」

(ルカ福音書9:48)


 今日は「主の御名によって」という説教題が与えられています。前回の説教でも、似たような言葉を聞いたと覚えておられる方がおいででしょう。前回の説教では、こうお伝えしました。「イエス様を通して、人々は神さまが確かに自分たちに手を差し伸べ、助けてくださると知ることができました。イエス様を通して。これは私たちが決して忘れてはならないことです。祈る時に、私たちは必ずこう言って祈りを神さまの御前にささげます。『イエス様の御名によって』または『イエス様の御名を通して』この祈りを御前にささげます。」

今日も前回に続いて、神さまの御子であり、神さまであるイエス様を通して、私たち人間が見えない天の父・神さまを知ることがどれほど大切であるかを御言葉から学び、恵みをいただきましょう。

先ほど司式者がお読みくださった今日の新約聖書の御言葉 ルカによる福音書9章46節から50節には、二つの出来事が記されています。二つとも、弟子たちの失敗を通してイエス様が信仰の姿勢について新しい学びをくださいます。どちらの出来事にも「イエス様の御名」、「主の御名」という言葉が用いられています。この言葉を手掛かりとして、今日の聖書箇所をご一緒に読み進めてまいりましょう。

まず、46節から48節の出来事です。弟子たちは、実に愚かな議論をしました。議論と言うよりも、言い争いだったのではないでしょうか。「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」 ― そう言い合ったのです。

弟子たちは、イエス様に従って伝道活動を行う中で、食糧の調達や宿の確保など、具体的な日常の営みを担っていました。具体的な事柄だけに、意見が食い違う事があったでしょう。

同じ金額を払うのならば、こっちの店のパンよりも、あっちの店のパンの方がおいしいと主張し合い、自分の意見を譲らないという場合があったのではないでしょうか。

その時に「自分はお前よりも先にイエス様の弟子になったから自分の方が偉い、自分の意見を通せ」、「いや、先に弟子になったと言ってもたいした時間差ではない、自分はイエス様から財布を任されている会計係だから偉いのは自分だ」と口げんかが始まったと想像できます。

それがイエス様の御心にかなわない、愚かしい議論・口げんかであることを、弟子たちはよくわかっていました。だから、イエス様の前では取り繕って静かにしていました。しかし、47節に記されているように「イエス様は、彼らの心を見抜き」ました。

私たちの天の父、イエス様の父なる神さまは、私たちを造られる時に、それぞれを善いものとして造ってくださいました。私たちは、みんな一人一人、違います。違っているからこそ、みんながそれぞれに善いのです。その私たちを、神さまは、またイエス様は等しく深く慈しんでくださいます。私たちはそれぞれ違っていますが、私たちの主は同じ大いなる愛で包んでくださるのです。だれが偉い存在、だれは取るに足らないつまらない存在という差別は、主の御前にあって存在しません。

「主の御前にあって」 ― これが、大切です。「主の御前にあって」「主にあって」とは、すなわち「イエス様のお名前によってひとつとされて」と言い換えることができます。

私たち人間すべてに共通する絶対的な真理は、神さまに深く愛されて造られたということです。神さまの深い愛が、イエス様の十字架の出来事とご復活ではっきりとわかったことを信じているのが私たちキリスト者です。ですから、キリスト者は、イエス様のお名前を呼んで祈り、イエス様!と讃美することでひとつとされます。その時は、わけへだてなく、偉い・偉くないという概念そのものが消え失せています。愛が、差別化・格差に打ち勝っているのです。

イエス様は、それを弟子たちによくわかるようにと、「一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせ」(ルカによる福音書9:47)ました。

当時、子どもの存在はきわめて軽く、少しも大切にされていませんでした。前にもお伝えしましたが「子どもの権利条約」が国連で採択されたのは、1989年、なんとわずか34年前のことです。

人間の歴史では、実に長い間、子どもの権利は尊重されず、子どもは親の所有物のように思われたり、労働力として不十分なので取るに足らない者と思われたりと軽んじられてきました。最も軽んじられ、最も小さく、最も弱い者 ― それが、子どもだったのです。

「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(ルカによる福音書9:48)とイエス様はおっしゃって、逆説的に「偉い・偉くない」というこの世の価値観に意味がないと弟子たちに教えてくださいました。また、今 私たちをも、その価値観の束縛から解放してくださいます。何の実りももたらさずに、ただ争いや競争へと追いやるこの世の価値観から、私たちを自由にしてくださるのです。

私たちは皆 イエス様に等しく愛され、イエス様の御名を讃美し、イエス様の御名を呼んで祈るためにここに集められています。神さま、イエス様の御前では、皆 小さく弱く、だからこそ イエス様を通して神さまにすがる私たちなのです。

続いて、49節からの二つ目の出来事を読みましょう。ヨハネは、自分の知らない人、つまりイエス様の弟子ではない人がイエス様の「お名前を使って悪霊を追い出している」(ルカによる福音書9:49)のを見て、自分たちのようにイエス様の弟子になろうと誘いました。それが、「わたしたちと一緒にあなたに従う」(ルカによる福音書9:49)ことです。その人が断ると、ヨハネは「だったら、イエス様のお名前を使って悪霊を追い出そうとするな」と禁じてしまいました。

ヨハネはイエス様が大好きです。イエス様に従い、イエス様のおそばにいることは他のどんなことよりもすばらしく、幸せだと思っていました。だから、一緒に伝道しようと誘ったのです。

ところが、すげなく断られてしまいました。

ヨハネは残念に思ったでしょう。そして、せっかく誘ったのにと、腹立たしく思ったのではないでしょうか。そんな怒りもあって、その人に「イエス様のお名前を使うな、悪霊を追い出そうとするな」と言ったと思われます。

ヨハネの考えはこうだったのでしょう。― 自分たち弟子のグループに入ろうとしない人は、仲間ではない。仲間でない人は、敵だ。敵は、私たちを導いてくださっているイエス様のお名前を使って、礼拝をささげてはならない。恵みをいただいてはならない。

これは、明らかに過激で傲慢、誤った思い込みです。イエス様は、こうおっしゃってヨハネを諭されました。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」(ルカによる福音書9:50)

ヨハネをがっかりさせた人は、イエス様がすばらしいから、そのお名前を使い、イエス様を讃美し、イエス様と呼んで祈って悪霊を追い出そうとしていたのです。イエス様の悪口を言っていたわけではなく、その教えや、弟子たちがイエス様に従うその歩みを否定したわけではありません。イエス様に歯向かってはいない、逆らってはいません。

だから、イエス様は「逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」(ルカによる福音書9:50)とおっしゃって、イエス様を慕うことでひとつにされている恵みをヨハネに教えられました。

この二つ目の出来事からは、私たちが信仰生活の中で遭遇する具体的な事柄が思い起こされます。教会によって、または教派、教団によって、少しずつ礼拝の仕方が異なります。違うからと言って、私たちが互いにけなしあい、礼拝をやめなさいと足の引っ張り合いをしたら、伝道はまったく進みません。

また、教会ではなく、教育や医療の場でキリスト教主義を掲げながら、一人もイエス様の弟子 つまりキリスト者・クリスチャンがいない施設があります。そのような施設に、学校や病院での礼拝をやめなさい、そこで伝道している聖書科の教師やチャプレンは撤退しなさいと言ったら、日本で一般社会にキリスト教を知らせるたくさんの扉がばたばたと閉じてしまうことになります。伝道は閉塞状態を迎えるでしょう。

そんなことをしてはならないと、イエス様は今日の御言葉を通して教えてくださるのです。「逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」とのイエス様の御言葉を、私たちの現実に即して言い換えると、こうなりましょうか。「イエス様のお名前を呼び、イエス様のすばらしさを少しでも知る者は、教会の隣人であり、友人である。」

伝道は、多くのイエス様の弟子・キリスト者という実りをいただきながら、同時に誰もがイエス様の友へと導かれ、招かれる、その福音の種まきをすることです。

今日語られている二つの出来事から、私たち人間が皆 神さまに愛されて造られた真実をすべての人が心で知り、心からそれを喜び、最高の幸せとして歩めるように、祈りを深めて福音伝道に励みたいと願います。今日から始まる新しい一週間の一日一日を、イエス様の御名を呼びながら、イエス様を讃美しながら、変わらぬ大きな愛に包まれて進み行きましょう。



2023年7月9日
説教題:隠されている主の真心
聖 書:申命記 29章28-29節、ルカによる福音書9章37-45節


「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。

(ルカ福音書9:44-45)


 ルカによる福音書を読み進め、今日は9章の中ほどの御言葉をいただいております。聖書のひとつの書を初めから終わりまで、聖句に添って読む御言葉の説き明かしを講解説教と申します。講解説教でたいせつなのは、前回、または前々回の礼拝で説き明かされた聖書箇所との関わりです。聖書箇所の流れによって、イエス様の語られたこと、なさったことが段階的に教えられることがあります。また、前回の聖書箇所との対照・コントラストによって、私たちに正しい信仰の姿勢が示されることもあります。今日の聖書箇所は、その後者です。前回の主日礼拝でご一緒にいただいた聖書箇所と鮮やかなコントラストを成す出来事が語られています。

さあ、ご一緒に御言葉の恵みに与りましょう。前回の聖書箇所で、私たちにはイエス様の神さまとしてのお姿、栄光に輝くお姿が示されました。三人の弟子、ペトロ、ヨハネ、ヤコブはそのお姿を間近にみる幸いに恵まれましたが、その出来事が本当に意味する恵みを知ることはできませんでした。

今日の聖書箇所には、その翌日の出来事が語られています。イエス様と三人の弟子が山から下りると、群衆が出迎えました。イエス様を待っていたのです。

群衆の中から一人の男性が声を上げ、こう言いました。一人息子の病気をイエス様に癒していただこうとイエス様を訪ねてやって来たが、イエス様は三人の弟子を連れて祈りの時を持つために山に行かれてご不在だった、と。この男性は、やむなく留守を守っていた九人の弟子に病気を起こしている悪霊を追い出してくれと頼みました。

この父親の言葉を、今日の聖書箇所 ルカによる福音書9章40節からお読みします。「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」

ここで、皆さんは二つのことに「あれっ?」と気付かされたのではないかと思います。その気付きは、ルカによる福音書を始めから読んでいるからこそ、導かれることです。ここに、講解説教の恵みがあります。

ひとつは、イエス様が弟子たちをあちこちの村に遣わされた時、弟子たちには悪霊を追い出せていたということです。すでにご一緒に読んだ9章1節を、今 あらためてお読みします。「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。」

弟子たちは、イエス様に力と権能を授けられて悪霊を追い出すことができました。6節にはこう記されています。お読みします。「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。」弟子たちは、悪霊を追い出し、人々の病をいやし、福音を告げ知らせて遣わされた伝道者の役割を果たしていたのです。それなのに、どうして今日の聖書箇所では「お弟子たちに頼みましたが、できませんでした」ということになってしまったのでしょう。これが、第一の「あれっ?」という気付きです。

第二の「あれっ?」は、さらに一歩深いところでの気付きです。それは、この父親が弟子たちではなく、そもそもイエス様に直接お願いすべきだったということです。ルカによる福音書9章1節から6節で、弟子たちに悪霊を追い出すことができていたのは、イエス様が彼らに「悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった」(ルカ福音書9:1)からだったのです。弟子たちの力で、悪霊を追い出せていたのではありませんでした。いやしの奇跡は、もともとイエス様が行っておられます。イエス様に遣わされたからこそ、弟子たちにそれができたに過ぎなかったのです。

このように、弟子たちには悪霊を追い出せた成功体験があったので、父親に頼まれた時、「自分たちがやってやる」と自信たっぷりに引き受けたのでしょう。

この時、悪霊を追い出す癒しの奇跡が神さまのみわざ・イエス様の恵みのみわざであるという事実が、頼んだ父親の心からも、引き受けた弟子たちの心からも消え失せていました。彼らは神さまをすっかり忘れ、信仰を忘れて、人間の力ではどうにもならないことを何とかしようとしているのです。

父親は、本来ならば神さまに祈りをささげ、イエス様の帰りを待って、イエス様に直接お願いしなければならなかったのです。また、弟子たちは、イエス様の御力によらなければ、祈りによらなければ、自分たちには何もできないことを思い起こさなければなりませんでした。

ですから、イエス様は事の次第を聞いて嘆かれました。イエス様がおっしゃったお言葉を読みます。41節です。「イエスはお答えになった。『なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。』」彼らは、信仰を忘れ、神さまに依り頼むことを忘れ、自分の力に頼ろうとしていました。

イエス様はさらにおっしゃいました。41節の続きをお読みします。「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」

前回の聖書箇所で私たちには明らかにされたように、イエス様は本来 栄光に輝く神さまです。私たちの救いのために、神さまの御子が、敢えて人間となってこの世においでくださいました。その神さまの慈しみを忘れてしまうなど、イエス様にとってたいへんな侮辱です。もう人間には我慢ならないと、すぐにもとの真っ白に輝く栄光のお姿となって、父なる神さまの右の座に帰られても不思議はありません。

しかし、イエス様はそうはなされませんでした。弟子たちと群衆の不信仰と無知を、忍耐してくださいました。天に帰るとは決しておっしゃらず、そんなに不信仰ならば勝手にしなさいなどともおっしゃらず、こう言われました。「あなたの子どもをここに連れて来なさい。」(ルカ福音書9:41)そして、病に苦しむ子どもから悪霊を追い払い、その子をいやしてくださいました。42節をお読みします。「イエスは汚れた霊を叱り、子どもをいやして父親にお返しになった。」

 イエス様は、私たちがどれほど不信仰でも、神さまを忘れていても、私たちが望んだとおり、願ったとおりに恵みを与えてくださいます。父親はもとより、弟子たちも、群衆も、イエス様のそのお姿となさった御業に感動しました。

これは人間にできることではない、これは神の御業だと心の底から思いました。だからこそ、43節はこう語るのです。お読みします。「人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。」

イエス様を通して、人々は神さまが確かに自分たちに手を差し伸べ、助けてくださることを知ることができました。私たちが、神さまの御業の恵みを知ることができるのは、ただイエス様を通してのみです。これは、私たちが決して忘れてはならないことです。

 祈る時、私たちは必ずこう言って祈りを神さまの御前にささげます ― 「イエス様の御名によって、または イエス様の御名を通して、この祈りを御前にささげます。」恵みをいただくために、私たちはイエス様を通して神さまを仰ぐのです。

今日の聖書箇所に語られている出来事が起こった時には、イエス様をめぐる人々は弟子も、群衆も、イエス様が神さまの御子であり、神さまであることをまだ知りませんでした。それは、44節から45節にかけての御言葉を読むとわかります。この聖句を通して、イエス様は、ご自分が逮捕されて死刑を宣告され、十字架で死なれると予告されました。

43節後半からの御言葉をお読みします。「イエスは弟子たちに言われた。『この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。』弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。」

十字架の出来事とご復活の御業が成就され、私たちの救いと永遠の命の約束が為されるまで、イエス様が救い主であることは人間の理解から隠されていました。なぜ、隠されていたのでしょう。それは、十字架の出来事とご復活が確実に成し遂げられるためでした。

今日の聖書箇所は、イエス様がどれほど私たち人間の無知と無礼を我慢し、忍耐してくださったかを語っています。私たちがどれほどイエス様を踏みつけにしたか、不信仰か、そして愚かであるかを思い知らされます。自らの罪深さを思い、悔い改めへと導かれます。

イエス様が私たちの愚かさを耐え忍んで、十字架への道を歩まれたことに深い感謝をささげましょう。主の御前では、実に取るに足らない私たちに、せめてもの感謝のしるしとしてできることは、イエス様に従いゆくことです。ひたすらにこの方を慕い、ついてゆくことです。今日から始まる新しい一週間を、そのひたすらな思いを抱いて進み行きましょう。



2023年7月2日
説教題:栄光に輝く主
聖 書:イザヤ書42章1-4節、ルカによる福音書9章28-36節


祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。(ルカ福音書9:29-31)


 今日は、「栄光に輝く主」を説教題として与えられました。「栄光」という言葉は、今日の聖書箇所に2回 用いられています。最初は31節で、衣が真っ白に輝き、お顔の様子が変わったイエス様のところにモーセとエリヤが現れた箇所です。こう記されています。「(モーセとエリヤの)二人は栄光に包まれて現れ」た。

もう一箇所は、32節です。イエス様のお姿が変わり、そこにモーセとエリヤが現れたのを弟子たち3人が目撃していました。32節では、その時の様子が「ペトロと仲間たち」・弟子たちの視点からこのように記されています。お読みします。「ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。」今日の聖書箇所では、イエス様が栄光に輝き、モーセとエリヤが栄光に包まれていることが語られています。

ところで、聖書が語る「栄光」とは何でしょう。日本語で「栄光」と言うと、この世的には、抜きんでた功績や成し遂げた立派な成果によって名誉を受けることを意味します。

この世の「栄光」と、聖書が語る「栄光」は異なります。聖書が言う「栄光」とは、何でしょう?あらためて何かと問われると答えにくいことに気付きます。

「栄光」とは、私たちの目には見えない、また人間のこの世の価値観ではイエス様の十字架の出来事とご復活なしには受けとめきれない、理解できない主の御業です。長く教会生活を送っている方でも、あらためて問われると「はて、栄光とは何だろう」と思うかもしれません。

ある教区の集会で、こういう質問がありました。「栄光って、どういう光ですか?」経験豊かな牧師先生がお答えしようと立ち上がったとたんに、年配の役員の方があっさりこう答えました。「ああ、栄光ね。イエス様を描いた昔の絵に、よくイエス様の頭の後ろに金色のお盆みたいなものが描いてあるでしょう。栄光って、あれです。」そこにいた一同は、ちょっとあっけに取られました。

答えた信徒さんは、中世などの宗教画に描かれた光輪(「光の輪」と書きます)、英語で言えばハロー、仏教など広く他宗教も含めて宗教美術で言われる「後光」のことを言ったのでした。牧師先生はちょっと苦笑いをされていました。神さま・イエス様の栄光は、後光ではありません。

栄光は「こういう光」「これが栄光」と指し示すように具体的な説明ができません。敢えて私たちが具体的に認識できる「主の栄光」は何かを言葉で表せば、神さまの愛が、私たちにわかるように示されたしるしと言うことができましょう。栄光は人間の五感で感じ取ることができないものですが、示された時には私たちはそれを神さまからの恵み、助けと知って感謝し、喜び、神さまが自分と、また自分たちと共においでくださることを確信できるのです。

私たち人間の目には見えないから、イエス様が十字架に架かられて復活されるまで、皆 イエス様が栄光の神さまの御子だとはわかりませんでした。宗教画でイエス様に後光を描くのは、イエス様と弟子たちが人間の目では区別がつかないから、後光でしるしをつけて誰がイエス様かをはっきりさせるためでした。

天の父・神さまは御子イエス様を、人として私たちの世に遣わされました。その時に、イエス様が神さまだとすぐわかるようなお姿で遣わすことはなさいませんでした。天使のような、この世のものではないような美しいお顔や立派な体格を、イエス様は備えておられませんでした。人間のリーダーに見られる人目を引く華やかさ・カリスマ性さえも、神さまは敢えてイエス様に与えなかったのです。

 イエス様は、平凡なお顔立ちと佇まいの方だったと伝えられています。ただ、神さまの教えを語り、伝え、人々を癒される時に、イエス様は世の常の人とはまったく異なる「栄光」を身に帯びておられました。その「栄光」のお姿が、3人の弟子たちに現れたのが 今日の聖書箇所 ルカによる福音書9章28節以下の出来事なのです。

イエス様は、群衆が来ない山の上に3人の弟子たちを連れ、祈りに集中されました。イエス様が栄光の姿に変わられたのは、その時でした。純白に輝き、神さまとしてのお姿を顕されたイエス様は、旧約聖書時代に神さまの栄光を現わした二人の人物と語り合っていました。

一人は紀元前16世紀から13世紀の間の人、モーセです。モーセは、神さまに従ってエジプトで奴隷だったユダヤの民を解放へと導いた預言者です。彼は神さまから十戒を授けられ、創世記から申命記までの旧約聖書の初めの五つの書を書いた人物と言われています。これら五つの書は「モーセ五書」と呼ばれ、律法をさします。

もう一人は紀元前9世紀の人、エリヤです。エリヤは、偶像崇拝を厳しく戒めた預言者でした。モーセに表された律法と、エリヤに表された預言から旧約聖書は構成されています。

そして、彼ら二人が、人間のために救いの御業をこれから成し遂げてくださろうとしているイエス様と共に語り合っていました。

聖書全体に示された神さまの救いのご計画が、この時、3人の弟子たちの目の前にありました。救いのご計画 ― それは、人間のうちにはびこるこの世の悪に打ち勝ち、悪の誘惑から人間を解き放つ勝利の計画です。3人の弟子たち、ペトロ・ヨハネ・ヤコブは、イエス様の栄光のお姿を目の当たりにする幸いに恵まれましたが、その恵みの意味を その時は本当には理解することができませんでした。

今日の御言葉を通して、三つのことを心に留めておきたいと思います。一つは、人間である弟子たちには、モーセとエリヤがイエス様と語っている内容が少しも栄光だとは思えなかったことです。

30節をご覧ください。お読みします。「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしている最期について話していた。」

イエス様がその地上の命の最期を死刑囚として十字架で終えることは、人間的には少しも立派でも、輝かしくも、名誉なことでもありません。しかし、ここで この「最期」という言葉に注目していただきたいのです。これが、今日、心に留めておきたい二つ目のことになります。

聖書の元の言葉・ギリシャ語では、この「最期」に「エクソドス」という単語が用いられています。エクソドスとは、脱出することを意味します。英語の聖書では、ユダヤの人々がエジプトから脱出し、奴隷から自由へと解放されたことを語る「出エジプト記」の書名そのものが「エクソドス」です。

イエス様の最期・十字架の上での死は、私たちを罪の奴隷の身分から脱出させ、罪から解放してくださるための御業だったのです。イエス様の十字架の出来事は、私たちを、罪に満ちたこの世と自らの心から真実の生き方と永遠の命への脱出へと導く恵みです。

最後の三つ目です。ペトロはイエス様とモーセ、エリヤを見て、わけがわからないながらも三人のために仮小屋を三つ建てようと言いました。33節です。ペトロなりに、自分が目の当たりにした出来事を記念したいと願ったので、形に残る物・仮小屋を建てたいと言ったのでしょう。ところが、ペトロがそう言ったとたんに、何が起こったでしょう。

34節からお読みします。「ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。」(ルカ福音書9:34~36)

ペトロがこの出来事を記念として「仮小屋」の形にとどめようとしたとたんに、モーセとエリヤは消え、天からわたしが選んだこの僕(しもべ)に聞けという声だけが響き、ただ一人イエス様がそこにおられたのです。これは、何を意味するのでしょう。私たちの信仰の養いとなるどんな恵みが、ここに込められているのでしょう。

私たちは、恵みの感動を形にして残したいと願います。それは、神さまの御心ではありません。形にすると、偶像になってしまいます。目に見えるものを神さまは消し去られ、ペトロたちに「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」とおっしゃられました。

神さまからイエス様を通して私たちがいただく恵みは、まずイエス様に聞き、御言葉に聴くことなのです。私たちは日々、御言葉を通して主に愛される喜びを新しく満たされ、瞬間ごとにより深く愛される者となる幸いを受けつつ、歩みます。人の目には見えない真の命に力づけられて、今日から始まる新しい一週間の日々を主の栄光の御光の中で、御心ならば神のものとされた喜びに満ちて、主のご栄光を我が身をもって表しながら進み行きましょう。



2023年6月25日
説教題:自分を捨て、主に従う
聖 書:イザヤ書53章11-12節、ルカによる福音書9章18-27節


「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
(ルカ福音書9:23)


 今日は、聖書箇所の説き明かしに入る前に、少し前置きをお話しさせていただきます。説教題を、今日の聖書箇所からいただいてこのように与えられました。「自分を捨て、主に従う。」これは、先ほど 司式者がお読みくださった今日の聖書箇所、ルカによる福音書9章23節の聖句を通してイエス様が私たちに示す信仰の姿勢です。

厳しいお言葉だと感じると思います。信仰に生きるとは、求道的な生き方をすることなのだと、あらためて襟を正す思いになった方もおいででしょう。ただ、日本語の求道的というのと、キリストの教会で求道するというのはだいぶ違うことをまず、今日お伝えしておきたく思います。

日本語で「求道的」というと、思い浮かぶのは厳しい修行を積み、精神的にも肉体的にも鍛え上げられて、超人的な境地への到達をめざす達人の姿でしょう。剣道や柔道といった武道、書道・茶道・華道などのたしなみが連想されます。

武道では、練達をめざすための稽古の場を「道場」と言います。わたしたちキリストの教会では洗礼を受ける決心をされ、準備を始める方を「求道的(ぐどうてき)」と同じ漢字で読み方を変え「求道者(きゅうどうしゃ)」と呼びます。洗礼を受けた皆さんは、皆、誰もが一度は求道者でした。では、皆が求道的であり、教会は厳しい道場のようかと申せば、それはだいぶ異なると思うのです。

確かに、イエス様がおっしゃるように「自分を捨てる」ことは生半可な覚悟ではできません。「自分の十字架を背負って」イエス様に「従う」とは、この世の価値観とは異なる自己犠牲の愛に生きることです。ですが、洗礼を受けたから、そうできるようになるかと言えば、決してそうではありません。

しかし、私たちはイエス様の福音に触れた時・イエス様との心の出会いをいただいた時から、イエス様が十字架で示された自己犠牲の愛がこの世の何にも増して尊いことを知っています。そして、私たち人間には自己を犠牲にして隣人への愛を貫くのがきわめて困難なことも、よくわかっています。

ルカ福音書9章23節の聖句には、イエス様がこのように志をいただきながら、それを貫くことに困難を感じる私たち弱い人間への優しい思いやりをこめておっしゃってくださったひとつの言葉があります。「日々」、この言葉です。

私たちがイエス様のように隣人を愛することができないとしても、イエス様の愛を理想として日々を、毎日を過ごすようにとイエス様はおっしゃってくださっているのです。日々、新しくイエス様に従う志を与えられ、この世の価値観の誘惑に負けないと決心をしなさいとイエス様は勧めてくださいます。

さて、今 お伝えしたことを心に留めて、今日の聖書箇所を初めから読んでまいりましょう。前回の聖書箇所で、イエス様は弟子たちと祈りの時間を持とうとしてベトサイダに行かれました。大勢の人々・群衆がついてきて、イエス様は静かな時間を持つことができず、結局は群衆のために五千人の給食の奇跡をなさってくださいました。

今日の聖書箇所の冒頭 ルカ福音書9章18節で「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた」と語られていることから、ようやく群衆がそれぞれの家路に着いて、イエス様が天の父と過ごされる祈りの時、そして弟子たちと過ごす時間を持てたことがわかります。この時、イエス様は弟子たちにこう問われました。「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」

イエス様が地上の命を生きておられる時、弟子たちも、群衆も、誰も、イエス様がどなたであるかを知りませんでした。イエス様が清らかな生活をされ、神さまの教えを説くことから、洗礼者ヨハネと似ていると言う者がいました。また、預言者エリヤの再来だ、いにしえの預言者の一人だという声もありました。

イエス様は、さらに弟子たちに問いかけました。20節です。お読みします。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」これは、イエス様が聖書を通して私たち教会に、また私たち一人一人に尋ねかけておられる大切な問いです。

私たち教会は、こう答えるよう期待されているでしょう。イエス様、あなたは私たち教会のかしらです、私たちはあなたの体です。さらに、先ほど使徒信条をもって信仰を告白したように、イエス様が救い主であると答えます。しかし、イエス様が十字架で死なれ、三日後に復活されるまでは誰もイエス様がどなたであるかを本当にはわかっていませんでした。

今日の聖書箇所では、この問いかけをされた弟子たちの中で、一番弟子のペトロがこう答えたと記されています。「神からのメシアです。」神さまが私たちに救い主メシアを遣わしてくださる ― これは、旧約聖書に預言されていたことでした。

前回の旧約聖書の箇所、クリスマスによく読まれるイザヤ書9章5節から6節にかけて、イエス様がお生まれになることはこう記されていました。お読みします。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君』と唱えられる。」この真実の王・まことの君主・平和を実現する指導者が与えられるとの預言は、イエス様のご降誕で実現されました。今日の聖書箇所で、ペトロは「わたしは何者か」というイエス様の問いに正しく答えたのです。ペトロの答えは「神からのメシアです」という言葉でした。

メシアとは、「神さまに香油をそそがれた者」という意味です。王がたてられる時、神さまは預言者の手を通して香油をそそぎます。イスラエルの最初の王サウル、次の王ダビデも、こうして即位したのです。

メシアのことをギリシア語でクリスト―、すなわち「キリスト」と言います。私たちキリストの教会は、真実の指導者イエス様を仰ぎます。だから「キリスト教」なのです。

さて、真実の指導者・まことの王というと、この世的にはどんなイメージでしょうか。人間社会では、どんな指導者像が期待されているのでしょう。

この世が期待する指導者のイメージ、それは威風堂々とした容姿と態度を備え、寛大で優しく、一目でこの方は普通の人よりもはるかに優れている、別格だとわかる、いわゆるカリスマ性を持った人ではないでしょうか。もちろん品行方正で、法律違反などいっさいしません。誰からも尊敬され、愛されて人望が厚く、特にイエス様の時代だったら、ユダヤ社会の指導者層であるエリート階級である長老・祭司長・律法学者たちのリーダーとして正義をもってあらゆる苦しみを解決する ― それが、立派な王のイメージではないでしょうか。

しかし、人間的・この世的には立派なこの姿は、私たちキリストの教会を率いてくださる救い主イエス様のお姿ではありません。イエス様は、それを弟子たちにこう伝えました。

今日の聖書箇所22節からお読みします。「人の子」というのは、イエス様がご自分をさす時に用いる言葉です。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

先ほど、理想の指導者は「ユダヤ社会の指導者層であるエリート階級である長老・祭司長・律法学者たちのリーダーとして正義をもってあらゆる苦しみを解決する」と申しましたが、イエス様が弟子たちに告げたご自身の姿は、その真逆です。現代の社会で用いられている言葉に置き換えれば、イエス様はご自身があらゆる社会の権力者・有識者から批判されて死刑判決を受けて殺され、三日後に復活するとおっしゃったのです。

弟子たちは何が何だかわからなくて、あっけにとられるだけだったでしょう。まことの王であるはずの方が、どうして死刑判決を受けるのか、また復活するとはどういうことか、わからないことだらけでした。

イエス様は続けて言われました。23節からお読みします。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」

「自分の命を救いたいと思って、それを失う」とは、この世の価値観に従って、イエス様に背くことです。

イエス様に従うとは、この世の価値観を捨て、つまり自分を捨て、日々、自分の罪を悔い改めて十字架を負いながらイエス様について行くことです。そうしてイエス様に従って、私たちは真実の愛を知り、永遠の命に生きることができます。

それはこの世の価値観と折り合いをつけつつ、この世で生活する私たちにとってたいへん難しく、苦労を伴うことです。

ある牧師先生の息子さんで、ご自身も牧師になったある先生が、小学生の頃、運動会を始めとする学校行事が日曜日に行われると参加できなかったことを淡々と話してくださったことが思い出されます。先生のお父さんは牧師なので、家族そろって主日を教会で過ごすことを優先され、幼かった先生にもそのようにさせました。その思い出を抱えながら、その先生は若い日に献身の志をいただき、牧師となりました。今日、今この瞬間に、ご自身に託された教会の講壇に立って説教されていることを思わずにはいられません。

また、教会員の方は、ご自分の仕事やご家庭の都合で礼拝を休むと罪悪感を抱かれます。この世の事柄を全うしようとすると、クリスチャンとしての生活を貫けなくなるジレンマの中で、私たちは生きています。

イエス様は、世と折り合わなければならない私たちの痛みを知り抜いていてくださいます。時には、イエス様に従うことができない私たちのジレンマと痛みもご存じです。その罪の痛みのすべてを、イエス様は十字架で負ってくださいました。その痛みのために滅びなければならなかった私たちの代わりに死んでくださいました。それは、痛みをはるかに上回る復活の喜びと恵みで私たちを満たしてくださるためだったのです。

その喜びと恵みは、この世の何よりも輝かしく、何よりも薫り高く、何よりも豊かです。私たちがひとすじに主を信じて従うその道には、その豊かさが約束されています。日々、ご復活の主を仰ぎ、主に従う志を新たにされて、この新しい一週間を進み行きましょう。

2023年6月18日
説教題:心の糧、体の糧
聖 書:詩編 111編1-6節、ルカによる福音書9章10-17節


すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
(ルカ福音書9:16)


 前回の礼拝で共に聴いた聖書箇所で、イエス様は十二人の弟子たちに御国を伝え、悪霊を追い出し、病を癒す力と権能を授けてあちこちの村に遣わしました。今日の御言葉は、弟子たちが伝道の働きから、イエス様のもとに戻って来たところから始まっています。

十二人の使徒たちは帰って来て、自分たちが行ったことをイエス様に報告しました。口々に、そして次々に、自分がイエス様の力を与えられ、権能によってその御力を発揮できたこと・伝道したことを語ったのです。弟子たちが、心の高ぶった状態だったことは容易に想像がつきます。

人間は弱い者ですから、その興奮した心の状態で互いの報告を聞く中で、悪の誘惑を受けやすくなります。どういうことかと申しますと、競争心が頭をもたげてしまうのです。あの弟子は派遣された先でそんなことをしたのか、この自分はもっとすごいことができたなどと思ってしまいます。

伝道は、神さまが私たちを恵みで満たしてなさってくださるみわざです。「自分にこういうことができた」のではなく、主がこの自分を用いてくださり、わざをなさったのは神さまなのに、それを忘れてしまうのです。それを、イエス様は見抜いておられました。

そこでイエス様は、弟子たちのために今日の聖書箇所の10節後半のことをなさいました。お読みします。「イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。」(ルカ福音書9:10)ベトサイダはイエス様が活動の拠点とされていたガリラヤ湖のほとり、カファルナウムの町から湖沿いに5キロほど東に行ったところです。

カファルナウムよりは小さく、そして「退かれた」という言葉から分かるように、イエス様は、町の中心ではなく静かな郊外に弟子たちを連れて行ったと思われます。興奮して、「自分が、自分が」と神さまを忘れてしまいそうな弟子たちには、静かな祈りの時間が必要であることを、イエス様はよくご存じだったのです。

ところが、群衆・人々がイエス様と弟子たちのあとを追ってぞろぞろとやって来ました。人々がイエス様を慕い、いつもイエス様のそばにいたいと願ったために、イエス様と弟子たちはいわゆるプライベートな時間を持つことができませんでした。

イエス様は、群衆を追い返されたのでしょうか。いいえ、そんなことはなさいませんでした。今日の旧約聖書の御言葉にあるように、「主は恵み深く憐みに富む方」(詩編111:4)です。

ルカによる福音書、今日の9章11節はこう語ります。イエス様はこの「人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやして」くださいました。イエス様は、常に自己犠牲の愛に生きる方です。この時も、ご自身と弟子たちのための時間を犠牲にして、人々のために尽くしてくださいました。

イエス様は、弟子たちに静かな祈りを通して主の御力のみに依り頼む恵みを思い起こさせようと思われましたが、人々のために弟子たちと祈る時間を持てなくなった時、人々への奉仕を通して、弟子たちに伝道について新しい教えを賜りました。祈りの時間を持てなかったことを、逆転して新しい教えを弟子たちに授ける機会とされたことに、イエス様のすばらしさがあります。この新しい教えの中心にあるのは「神さまが、イエス様が私たちと共においでくださる」、「主と共に生きる」(インマヌエル)ということでした。

さあ、聖書箇所に戻り、その教えを御言葉に聴いてまいりましょう。イエス様が人々に神さまの恵みを説き聞かせていると、やがて日が傾いて、夕暮れが迫りました。イエス様と弟子たち、そして大勢の群衆がいるのは町の郊外でお店も宿屋もないところでした。十二人の弟子たちはイエス様にこう言いました。ルカ福音書9章12節からお読みします。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れたにいるのです。」

弟子たちは人々を解散させることを提案しましたが、イエス様は人々・群衆と共に過ごそうとなさいました。弟子たちが「群衆を解散させてください」と、群衆を散り散りばらばらにすることを提案した一方で、イエス様は皆で一緒に過ごすことを選ばれたのです。

解散させてくださいという弟子たちの提案は、人間として常識的な判断でした。砂漠のあるシリア地帯では、日中と日没後の気温差が大きく、日が沈んで夜になると一気に冷え込んで野宿の厳しさは耐え難いほどです。さらに、食べ物がないので、このまま夜を迎えると悲惨なことになるのが目に見えていました。

群衆はかなりの大人数でした。この時、男性だけで五千人がいたと14節に記されています。当時は、女性と子どもは文字通りに「頭数に数えられない」社会でした。男性だけで五千人ということは、男性の連れ合いと子どもがそこに一緒にいて「五千世帯」と考えるのが自然です。夫婦と子どもで一世帯三名と考えても、実に、一万五千人近い人たちが集まっていたと推測できます。おなかをすかせ、日没とともに寒くなる中で野宿をしたら、幼い子供の中には夜の間に衰弱してしまうかもしれません。「解散させてください」という弟子たちの申し出は、もっともだったのです。

しかし、イエス様は思いもよらないことを仰いました。ルカ福音書9章13節をお読みします。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」弟子たちは驚いて言いました。同じ13節です。お読みします。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません。」そして、十二人で一万五千人以上のために買い出しに出かけるのは無理だと、私たち人間にとっては当然のことを考えたのです。

自分たちには、できない ― イエス様に、弟子たちはそう言うしかありませんでした。町々村々に派遣され、伝道が成功し、意気揚々と帰って来た弟子たちは、ここで自分たちの無力を思い知らされました。

旧約聖書 詩編46編11節は、私たちにこう告げています。「力を捨てよ、知れ。わたしは神。」イエス様は、この御言葉を弟子たちにリアルに教えられたのです。

そして、私たち人間が自らの力・知恵・傲慢を捨てる時、ありありと分かってくることがあります。ルカによる福音書の最初の章、1章37節はこう語ります。お読みします。「神にできないことは何一つない。」さらに、これから私たちが読むルカ福音書18章27節でイエス様はこうおっしゃいます。お読みします。「人間にはできないことも、神にはできる。」

神さまが私たちと共においでくださらなくては、私たちには何一つできないことを、この時、イエス様は弟子たちにあらためて教えられたのです。そして、イエス様は私たちと共においでくださるために、私たちをそのお働きの中に招いてくださいます。私たちを用い、みわざのために共に働かせてくださいます。

主のための働きとは、主と共に働くことです。イエス様は、弟子たちに実に具体的な指示をなさいました。14節の、そのイエス様の言葉をお読みします。「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい。」弟子たちは、その通りにしました。イエス様に素直に従ったのです。

すると、イエス様は、このようになさいました。16節をお読みします。「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。」イエス様は弟子たちが持っている物 ― 五つのパンと二匹の魚 ― を神さまから与えられたものとして感謝の祈りをささげ、天の父・神さまを讃美されました。神さまはその恵みのうえに、さらに恵みを重ねて与えてくださいました。それは、男性だけで五千人、実際にはおそらく一万五千人以上が「食べて満腹」(ルカ福音書9:17)するほどの大いなる恵みだったのです。

それは「裂いて」与えられました。「裂く」という言葉で、私たちは何を思い起こすでしょう。イエス様が十字架に架けられて、死なれ、そのお体を裂かれたことを思い起こすのではないでしょうか。私たちはその十字架の出来事をおぼえて、聖餐式で主の御体なる裂かれたパンをいただきます。

今日の聖書箇所で、弟子たちは、その「裂かれた恵み」をイエス様から渡されて、群衆に配りました。恵みが豊かに、豊かに行き渡ったのです。これが主と共に働く奉仕だと、イエス様は弟子たちに教えられたのです。イエス様の言葉に従って行動し、奉仕し、恵みをイエス様から手渡され、それをさらに人々に渡して行く ― これが、伝道です。

今日の聖書箇所のように、イエス様は私たちを伝道に用いてくださいます。派遣されるだけでなく、イエス様のもとで静まっているだけでなく、イエス様と共に働く者として用いて下さるのです。そこには常に、イエス様と私たち、そして私たちがお互いと、共に生きる喜びがあります。この新しい一週間も、イエス様が共においでくださり、私たちのうちに喜びとなって生き生きと働かれ、私たちを輝かせてくださっていることを信じ感謝して、心を高く上げて進み行きましょう。



2023年6月11日
説教題:弟子たちを派遣する
聖 書:イザヤ書9章1-6節、ルカによる福音書9章1-9節



十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。
(ルカ福音書9:6)


 今日から、ルカによる福音書の講解説教は新しい章、9章に入りました。イエス様は弟子たちの中から、十二人を呼び集められました。彼らに悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を授け、伝道へと派遣されました。

弟子たちはこれまでイエス様に付き従って、イエス様のみわざを間近に見て来ました。イエス様が悪霊や病に苦しむ人をいやし、この世での最悪の事態と思われている死からも少女を救い出されたのを見届けて来た彼らは、イエス様の御業の証し人です。イエス様に憧れ、イエス様のおそばにいることが何よりも嬉しい彼らでしたが、まさか自分たちがイエス様に用いられるとは思わなかったでしょう。イエス様に派遣の使命をいただいた時、彼らはイエス様のなさるような奇跡のみわざをすることなど、とうていできませんと首を横に振りながら青ざめたのではないでしょうか。

そんな弟子たちに、イエス様は今日の聖書箇所ルカ福音書9章1節によると「悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けにな」りました。悪に打ち勝つ力、病気や悪いものに破壊された健康を元どおりにする力を、十二人に授けてくださったのです。さらに、その力を発揮することができるように「権能」を授けられました。

「権能」とは、世俗的な表現をすると「その権限を発揮する能力を与えられる」、「資格を与えられる」ことです。より世俗的な言い方をすると、「免許を与えられる」と言っても良いでしょう。弟子たちはイエス様から力を受け、イエス様のお許しによって、主の御名によってのみ、その力を発揮できる権能を授けたのです。

もちろん、それは弟子たちが世の誉れを受けるためではありませんでした。イエス様が弟子たちを村々に派遣されたのは、二つの目的のためでした。今日の聖書箇所 ルカ福音書2章2節にそれが記されています。

お読みします。「神の国を宣べ伝え、病人をいやすため」。「神の国を宣べ伝える」とは、完全な愛と善 ― 善きもの ― のお方である神さまがすべてを取り仕切ってくださる世界が来ると告げることです。

「病人をいやす」については、先ほどもお伝えしました。身体的な健康に限らず、心の健康をとりもどさせることをさしているのは、もちろんです。

社会病理という言葉を御存じだと思います。

社会全体が力を失い、衰退してゆくことをさしますが、社会の健康の回復もさしているでしょう。そのために、イエス様は弟子たちを村々に遣わし、今は私たち信仰者を御言葉を通して、この世に派遣されています。

弟子たちに与えられた「神の国を宣べ伝える」という使命 は、私たち教会の使命、伝道です。教会は絶えず祈り、伝道の進展のためにはどうすれば良いのだろうと考えます。今月26日・月曜日に千葉支区伝道協議会が開催されます。その伝道協議会は文字通り、福音伝道が活発になり、御言葉が生き生きと世に伝えられ、伝道の働きが成果をもたらすように祈り合い、話し合う集会です。

そうすると…と私たちは、こう考えてしまいます。…伝道には充分な準備が必要なのではないか。イエス様の十二人の弟子たちも、同じことを考えたでしょう。派遣とは、別の言葉を用いれば「出張」ですから、まず旅の準備をしなければいけないと思ったのではないでしょうか。ごく自然なことです。

ところが、イエス様はこうおっしゃいました。今日の聖書箇所 ルカ福音書9章3節から、イエス様のお言葉をお読みします。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。」今、身に着けているものだけで、準備せずにすぐ出かけなさいと、イエス様は弟子たちに命じられたのです。

イエス様の言葉に、弟子たちは戸惑ったでしょうか。ルカによる福音書をここまで読み進んできた皆さんは、イエス様が伝えようとしている思いを弟子たちはこのように受けとめたと思っておられるでしょう。「何も持たなくても、すべては与えられるから大丈夫。安心して行きなさい。恐れることはない。ただ信じなさい。」

「安心して行きなさい」(ルカ8:48)とは、イエス様が後ろからそっとイエス様に触れて癒された女性を祝福した言葉です。「恐れることはない。ただ信じなさい」(ルカ8:50)とは、イエス様が娘を失ったヤイロを励ました言葉です。弟子たちは、このイエス様の言葉をしっかり覚えていたでしょう。だから彼らは、イエス様に支えられていることを信じて、恐れずに出かけました。

また、「旅には何も持って行ってはならない」とのイエス様のお言葉には、さらにこのような厳しい思いもこめられています。「目に見える物、この世で力を持つ物や役に立つ物は何も持って行ってはならない。」この世で役に立つものの中には、自分の力、自分の能力も入ります。弟子たちの中には、もしかすると弁舌さわやかでその話術で巧みに神さまのすばらしさを語り、人の心をとらえる賜物を持った者もいたかもしれません。

自分がいると何となく人が集まってくる ― そのような人好きのする性格を自分の強みだと思っている者も、いたかもしれません。それに頼るようなことはいっさいしてはならない、とイエス様はおっしゃったのです。それに頼ると、人間は自分が伝道したような傲慢な気持ちを心に抱くようになるからです。また、その達成感と自己満足のために伝道するようになってしまうからです。

伝道は、神さまにささげる、神さまのための働きです。伝道は、私たちが神さまに用いられる道具となって進められます。それを忘れてはならない、だから何の準備もせずに出かけなさいと、イエス様はおっしゃいました。

そして、弟子たちは旅立ちました。自分の力を捨て、イエス様が弟子たちに授けた力だけを持ち、その力の発揮をイエス様が許してくださるという権能だけを信じました。言い換えれば、信仰だけを心に抱いて出発したのです。

その働きは実りました。今日の聖書箇所から6節をお読みします。「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。」

薬円台教会もこれまでの50年、このようにして来たと私は信じています。教会が教会であり続けていることそのものが、それを証ししています。

さて、今日の聖書箇所の後半部分も続けてご一緒に読みましょう。ルカによる福音書9章7節から9節にかけて、イエス様のみわざ、そして弟子たちの働きを聞いた領主ヘロデのことが記されています。

領主ヘロデはローマ帝国に支配され、植民地とされた当時のユダヤの王でした。宗主国ローマに操られる傀儡政権ですが、王としてひとつの組織の長であるだけに、彼は大切なことを見抜いていました。それは、イエス様が「ただ者ではない」ということです。今日の聖書箇所は、ヘロデの言葉をこう伝えています。「いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」(ルカ9:9)イエス様はどなたか?という問いをヘロデは抱き、イエス様に会ってみたいと思い始めました。

イエス様は、どなたでしょう。それは、今日の旧約聖書の御言葉、イザヤ書9章5節が語るとおりです。イエス様は、私たちに与えられたひとりの男の子、その名は「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父」そして「平和の君」です。

ヘロデ王がイエス様に関心を持ったことは皮肉なことだとも、これこそが神さまのご計画なのだとも思えます。この世の人間の王と、すべてを支配される神さまはまったく真逆の存在・対極にあるからです。人間の王は武力・暴力で敵を支配下に置き、お山の大将のように憎しみと猜疑心の中で孤独になってゆきます。神さまは、私たち人間と愛の関わりを持ってくださり、私たち同士も愛でつなげてくださり、共に生きる道を拓いてくださいます。十二人の弟子たちが派遣されて村々に伝えた福音、そして今も私たちが伝道し続けている福音は、愛によって共に生きる平和へと私たちを導きます。

この世に平和があったことは、残念なことに未だかつてありません。しかし、イエス様が世においでくださり、十字架の出来事で真実の愛と平和への道が示されました。

イエス様は、平和への道があることを人々に知らせるために、弟子たちを村々に遣わしました。そして、今も私たちを伝道へと遣わしてくださっています。自分には伝道などできない ― 謙虚な方ほど ついそう思ってしまいがちですが、そうではないと今日の聖書箇所を通してイエス様は私たちに語りかけてくださいます。

もう一度、イエス様の今日の御言葉を繰り返します。「何も持って行ってはならない。」― 私たちは力を持たず、何もできなくて良いのです。

私たちは教会として日曜日のたびにここに集まり、まことの礼拝をささげ続けることから始めるだけで良いのです。安心して、イエス様に愛されていることをただ信じて、私たちのすべてをもって主を讃え続けましょう。今週も、一日一日を生き生きと喜ばしく歩んでまいりましょう。



2023年6月4日
説教題:恐れず、ただ信じなさい
聖 書:詩編34編5-11節、ルカによる福音書8章49-56節



イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」
(ルカ福音書8:49~50)


 聖霊降臨日・ペンテコステ礼拝を経て、再びルカによる福音書に戻ってまいりました。前回の聖書箇所を覚えておいででしょうか。

会堂長ヤイロの娘が重い病気にかかり、イエス様の癒しの御業が強く求められました。娘は12歳、当時のユダヤ社会では結婚適齢期に差し掛かろうとしている年齢でした。花ならつぼみという年頃までたいせつに育てた娘が今にも死んでしまいそうだからと、父ヤイロはイエス様を迎えに走り、急いでイエス様を我が家へと案内しました。

ところが、神さまの恵みを教え、伝え、病を癒すイエス様の噂を聞きつけた町の群衆が押し寄せて、道を急ぐことができませんでした。そのうえ、長く病に苦しんでいた一人の女性が群衆にまぎれて後ろからイエス様の服に触れました。この女性は癒され、イエス様は立ち止まってこの人に語りかけました。「安心して行きなさい」とこの女性を祝福されました。女性にとって、この時のイエス様との出会いは生涯忘れることのできない恵みと喜びの時となったのです。

一方で、この時、もともと娘のためにイエス様を招こうとしていた会堂長ヤイロは気が気でない思いをしていたでしょう。癒された女性と共に喜ぶなどもっての他で、ここで時間を取られてイライラしていたかもしれません。誰もが同じように、同時に幸福なわけではないという人間の現実を、私たちはここであらためて鮮やかに知らされます。

今日の聖書箇所は、危惧されていた最悪のことが起こってしまったと告げる言葉から始まります。イエス様がまだ女性に語りかけている時に、会堂長の家から人が来て こう言いました。ルカによる福音書8章49節後半の御言葉です。お読みします。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」すべての可能性、あらゆる希望がなくなる最悪の出来事が起こってしまったのです。娘は息を引き取り、娘を巡るいっさいの未来は失われました。

会堂長の家の者の言葉から、何をしても無駄という絶望感が伝わってきます。繰り返します。「この上、先生を煩わすことはありません。」イエス様に来ていただいても、何にもなりません ― もう、これで終わりです。できることは何もないのですと、この人は言う他ありませんでした。

この知らせを受けて、父ヤイロはその場にしゃがみこんでしまったでしょう。死を前に、私たち人間には何もできません。無力そのものです。その父親に、イエス様はこうおっしゃられました。50節のイエス様の言葉をお読みします。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」

ヤイロは何を言われているのかわからず、力のない視線だけをイエス様に向けたのではないでしょうか。信じなさいと言っても、いったい何を?もう何をしても遅いのに…。

私たちも、最悪の事態に陥れば、ヤイロやその家の者のように思ってしまうかもしれません。神さまが自分を見守ってくださると信じていたけれど、願ったようにならなかった。…そう思うことがあります。願いはかなえられず、失ったものは元どおりにはならなかった。…そう感じることがあります。

しかしここで、私たちが思い出さなければならないことがあります。イエス様を信じる心を持つ、すなわち福音を信じる信仰を抱くとは、自分の願いがかなえられ、何でも自分の望みどおりになることではないということです。イエス様は、お祈りというコインを入れれば願いがポンと出て来る、そんな自動販売機のようなお方ではありません。

では、あらためて、思いを巡らせてみましょう。信仰とは、何でしょう。信仰とは、神さまを、イエス様を、また聖霊の主にどのように心を向けることなのでしょう。信仰とは、イエス様がどのような方かを心と魂で知ることです。

私たちは、イエス様がどんな方かを知っています。イエス様は一度 死なれて、最悪の事態を経験された方です。

イエス様は、十字架の上で死なれました。私たちは、自分の願いがかなえられないと神さまを疑ってしまいます。厳しい言い方をすれば、私たちはつい、ご利益信仰に走りがちです。そんな私たちの弱さと愚かさ、神さまを信じる信仰の脆さという罪を、イエス様は私たちの代わりに背負って、十字架に架かってくださいました。罪を背負ったご自身の体を犠牲にすることによって、罪を滅ぼしてくださいました。

しかし、イエス様は死で終わりませんでした。私たちはその恵みの事実をよく知っています。イエス様は、三日後に復活されました。イエス様は、人間にとっての最悪の事柄・死に打ち勝つお方なのです。死の暗闇を覆して、神さまの栄光の輝きで満たし、私たちに永遠の命という最善の未来を開いてくださる方です。

イエス様は、十字架に架けられる前に、地上で伝道の旅をされていました。その旅の途上で、イエス様はご自身が死に打ち勝つ方であることを何度か示してくださいました。それが、死者のよみがえりです。

今日、ご一緒に読んでいる聖書箇所で、イエス様はヤイロの娘をよみがえらせました。死に勝つ私を信じなさい、肉体の死は終わりではない、死が最悪ではないことを信じなさいとイエス様はヤイロにおっしゃり、それが明確に分かるように、娘を生き返らせて救ってくださいました。こうして、信じられない私たち・どう信仰を持てばよいのかわからない私たちに、イエス様は信仰を与えてくださいます。

イエス様は嵐の湖で風と波を静め、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(ルカによる福音書8:25)と、弟子たちに問いかけました。死ぬかもしれない恐怖の事態を前にして、弟子たちがイエス様と共にいる安心を忘れてうろたえた時のことでした。

あらためて、ご一緒に考えましょう。私たちの信仰は、イエス様と共に歩もうとする私たちの信仰は、どこにあるのでしょう。私たちの信仰は、イエス様と共にいる恵みを知ることにあります。より分かりやすく申せば、私たちの信仰は、イエス様とのつながりの中・イエス様との関わりの中にあるのです。イエス様が私たちに差し伸べてくださる手を握る、その手の中に、私たちの信仰があります。

今日の聖書箇所でも、イエス様は娘の死を知らされて絶望したヤイロと共に、おそらく彼を励ましながら家に行き、そして、娘の「手を取」(ルカによる福音書8:54)って、この少女をよみがえらされ、死の淵から救い出してくださいました。

イエス様は、その後も福音伝道の旅を続けられました。それは、十字架の出来事と復活への道でした。神さまが定められた時が来た時に、イエス様ご自身が十字架で私たちの絶望と不信仰の罪を担って、その罪と共に死なれ、三日後に復活されました。

私たちがどんな時も絶望で終わらず、希望を抱き続けられることを、イエス様は十字架の出来事とご復活で示してくださいました。イエス様はご自身の全存在と命・体の痛み苦しみと傷・流された血潮をもって、私たちは死を超えて生きると伝えてくださったのです。これが、救いの福音です。

私たち人間の小さな常識の器では、イエス様の救いも復活も、大きすぎてすぐには受けとめられません。だから、イエス様は「『ただ』信じなさい」(ルカによる福音書8:50)とおっしゃってくださるのです。

イエス様が手を差し伸べ、私たちと手をつないでくださるから、私たちは「ただ」その手を握り、すべてをイエス様におゆだねしてまいりましょう。自分の思いでじたばたせずに、イエス様についてゆきましょう。それが、イエス様に従うということです。

イエス様と私たちのつないだ手の中にある信仰が、人生のどんな局面にあっても、上り坂・下り坂、「まさか」の坂や谷のどん底にあっても、行く手を希望の光で照らし続けてくれます。今日から始まる新しい一週間、一日一日、イエス様が私たちの手を取り、導いてくださっている恵みのうちに「ただ」信じて進み行きましょう。



2023年5月28日
説教題:教会の誕生
聖 書:創世記11章1-9節、使徒言行録2章1-13節

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、‟霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
(使徒言行録2:1~4)


 今日は聖霊降臨日で、ペンテコステ礼拝をささげています。聖霊降臨日は、教会の三大祝日です。教会の三大祝日をご一緒に挙げてみましょう。イエス様のお誕生・ご降誕を祝うクリスマス、ご復活のイースター、そして今日、イースターから50日目のペンテコステ・聖霊降臨日です。

この聖霊降臨日とは、どういう日でしょう。聖霊は私たちの神さま、三位一体の主なる神さまです。三位一体の主は、創造主なる天の父・救い主なる御子イエス様、そして私たちに信仰を与える聖霊の「三位」にして一つの方です。

イエス様は天の父・神さまから世に遣わされ、十字架の出来事とご復活で救いの御業を果たされました。イエス様の地上での使命は、ここに完成し、成就しました。ですから、イエス様はいつまでもこの世にとどまらず、本来のところ・天の神さまの右の座に戻らなければならないのです。

神さまが、御子イエス様を人間としてこの世に遣わされたのは、私たちの目には見えない神さまを、見えるようにしてくださろうとのご配慮からでした。神さまが見えないから、その御声が聞こえないから、その導きを信じることができない人間が魂で愛を知ることなく、争いを重ねているのを、神さまは可哀想だと思われ、憐れんでくださったのです。

しかし、では、ご復活されたイエス様が天に戻られたら、また私たち人間には、神さまが見えなくなって愛を失ってしまうのでしょうか。

いえ、そうならないために、イエス様は、ご自分が天に戻られる時に、弟子たちに約束をしてくださいました。こう言い置かれたのです。「わたしは、父約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ福音書24:49)

イエス様は弟子たちに、イエス様のように、神さまの御心どおりに聖書の言葉を説き明かし、語る力を与える者が、必ず高い所・天から送られてくると約束されました。この「約束されたもの」こそが、聖霊です。神さまは、必ず約束を守る方です。ご復活から50日後の五旬祭の日、ギリシャ語で言うペンテコステの日に、天から聖霊が降りました。

その出来事を語るのが、先ほど司式者がお読みくださった今日の新約聖書の御言葉です。私たちキリストの教会は、毎年、それを記念して、こうしてペンテコステ礼拝を祝っているのです。

あらためて、聖霊とは何か・どんな方かと申せば「イエス様が天に昇られてから50日後に、イエス様と入れ替わるように、私たちに寄り添って、私たちに神さまの御心を伝え、聖書の言葉を理解する力を与えてくださる方」です。

また、祈りの時に、神さまは私たちに聖霊を通して語りかけてくださいます。だから、私たちは礼拝の前・集会の前・祈りの前に「聖霊で満たしてください」と祈るのです。聖霊の恵みとして、皆さまの心に留めておいていただきたいことを今日は二つ、お伝えします。

ひとつは、聖霊が御言葉の力を現すことです。今日の新約聖書の言葉・使徒言行録2章が語る聖霊降臨の出来事は、それを私たちに伝えてくれています。

「炎のような舌」が、そこに集まっていた者一人一人の上にとどまった、と語られています。舌。それは、言葉を語ります。

言葉は、教会で、また聖書で、特に深く大切な意味を持っています。神さまが最初に世界を造られた天地創造の時、神さまは言葉で「光あれ」とおっしゃることで光を造られました。また、ヨハネによる福音書は「初めに言葉があった」と神さまを、またイエス様を「御言葉」と言っています。私たちがコミュニケ―ション・意思疎通のために用いる言葉ではなく、「御言葉」であることについて、思いを巡らしてみましょう。

神さまの言葉・「御言葉」は、意味を伝えると同時に、感動を伝えます。神さまの私たちへの深い愛、イエス様が私たちの代わりに命を捨ててくださった深い愛が、聖書の言葉・「御言葉」にこめられているからです。

今日の聖書箇所の11節後半をご覧ください。「炎のような舌が一人一人の(弟子の)上にとどまる」と、弟子たちはさまざまな外国語で語り始めました。しかし、彼らが語っていたのは、同じ事柄・同じ内容でした。その内容とは、そこに記されているように「神の偉大な業」です。「神の偉大な業」とは、救いの御業です。イエス様が十字架で私たちのために死んでくださり、それによって私たちを罪と滅びから救い出してくださり、復活された救いの御業を、弟子たちはさまざまな言語で語っていたのです。

今日の聖書が語る出来事は、たいへん不思議なことのように思えます。しかし、思えば、同じことが毎週、全世界の教会で行われています。日曜日ごとに、世界中のキリストの教会で、ありとあらゆる国の言葉で礼拝が献げられ、聖書の御言葉が読まれ、主の愛が語られ、イエス様の十字架の出来事とご復活の救いの福音が告げられています。今現在、すべてのキリストの教会が行っている「教会のわざ」が最初に為されたのが、今日の聖書箇所が告げる五旬節・ペンテコステの日でした。だから、聖霊降臨日・ペンテコステは「教会の誕生日」とも呼ばれているのです。

今日、聖霊について心に留めていただきたいもうひとつのことは、聖霊が神さまの愛の力を現すことです。愛とは、あなたはたいせつだ、私にとっていなくてはならない人、かけがえのない人だと互いに深い関わりを結び合うことです。

イエス様は、私たちを愛して深く関わってくださいます。私たちがもし、もう生きていたくないと絶望することがあったならば、聖書を通してこう語りかけてくださる方です ― 私はあなたに生きていて欲しい、私があなたに寄り添うから生きて欲しい。だから、神さまは私たちに肉体の死を超える永遠の命を与えてくださったのです。

愛は、生きる希望を与えます。絶望の死の淵から命へと呼び返し、よみがえらせるのが、愛です。よみがえり・復活は、死んだもの、滅んだもの、壊れてしまったものが元どおりに、さらにそれ以上のものになることを言います。

一度、絶交状態になってしまった者同士が仲直りをして、さらに信頼を深め、互いに今まで以上に心を寄せ合い、助け合って進む ― そのような関わりの復活を聖霊は私たちの内で働いて、可能にしてくれます。聖霊は、ダメになったもの、ばらばらになったものをもう一度、復活させる力をさすのです。

今日の旧約聖書はバベルの塔の話を伝えています。人間は、れんがを造ることを知り、アスファルトを利用して何でもできる力を持ったように思い、天、すなわち「神さまの領域」に踏み込もうと傲慢になりました。

人間の知恵の成果は、善も悪も両方もたらします。たとえば、数学と技術の成果であるインターネットはたいへん便利ですが、それを用いた犯罪を招いています。真の善悪の判断は、神さまがなさる御業で、人間は神さまの領域に踏み込んではなりません。

バベルの塔の話で、神さまは人間がそれ以上、傲慢にならないようにと、互いの言葉がわからないようになさいました。こうして、神さまは人間が、自分を神とする危険から守ってくださったのです。そして、人間は全地に散らされました。

長い旧約聖書の時代を経て、新約聖書の時代に、バベルの塔と逆のことが、聖霊降臨日に起こりました。聖霊によって、弟子たちはさまざまな言語で、しかし、まったく同じ内容・神さまの偉大な業・福音という同じひとつのことを語り始めました。神さまが、人々の心をひとつにしてくださったのです。心がひとつになるとは、敵・味方の対立がなくなることです。聖霊によって主の愛を知らされた私たちが、平和を築く希望がここにあります。

残念なことに、この世界に、まだ平和はありません。しかし、聖霊を信じ、イエス様の愛を信じ、父なる神さまを共に仰ぐことで、私たちは平和への道を与えられています。その希望の恵みをいただいて、今日から始まる一週間を歩んでまいりましょう。

2023年5月21日
説教題:安心して行きなさい
聖 書:イザヤ書66章1-2節、ルカによる福音書8章40-48節


しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
(ルカによる福音書8:46-48)


 ルカによる福音書の講解説教として、今日の聖書箇所をいただいています。イエス様はガリラヤの湖の向こう岸に渡り、そこで一人の人を救われ、再びユダヤの地・ガリラヤに戻って来られました。今日の御言葉は、人々がイエス様をたいへん喜んで迎えたと記す言葉から始まっています。

イエス様は神さまの御力によって悪霊を追い出しました。あらゆる病を癒すイエス様のお帰りを、ガリラヤの人々は待ちわびていたのです。この町の会堂長ヤイロの娘が重い病気になり、今にも命が危うくなりそうで、イエス様のお癒しを必要としていたからでした。

私たちが礼拝をここ教会の会堂でささげるのと同じように、ユダヤの人々も礼拝をシナゴーグと呼ばれる会堂でささげていました。シナゴーグを管理し、礼拝に向けて整えるのはユダヤ社会では大切な務めで、その役割を担う会堂長は人々から尊敬されていました。ガリラヤの町で、その会堂長の役割を担っていたのがヤイロだったのです。ヤイロには十二歳、ユダヤ社会ではそろそろ結婚のできる年齢に達する年頃の一人娘がいました。

この少女は、きっと、会堂長とその妻はもとより町の人 皆から大切にされて、その成長を楽しみに見守られていたのでしょう。ところが、重い病気にかかって死にそうだったので、皆はたいへん心配して心を痛めていました。父親の会堂長 ヤイロはイエス様の足元にひれ伏して、娘の命を救い、病をいやしてくださいとイエス様に頼みました。イエス様は承諾して、弟子たちと共に すぐにヤイロの後について彼の家へ、少女のもとへと向かいました。

その出来事は、ガリラヤの町では大事件だったでしょう。多くの人々がヤイロとイエス様、弟子たちの周りに集まって来ました。少女の容態を心配して集まった人々が多かったでしょうが、イエス様を見たい、イエス様に会いたいとの思いで群衆が集まったとも考えられます。

イエス様は言葉で奇跡を行うと共に、手で触れて病を癒しておられました。今日の聖書箇所から少しさかのぼり、ルカによる福音書6章18節から19節にかけて、このように記されています。お読みします。「(多くの人々が)イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。」

イエス様に触れると病気が治る ― その恵みと喜びの知らせが町中に広まっていたので、イエス様と弟子たちの周りに押し寄せるように多くの人が集まりました。

この群衆の中に、まさに「イエス様に触れると病気が治る」という噂を頼りに、イエス様に近づいた一人の女性がいました。この女性がどんな苦しみを負っていたかを、あらためて御言葉に聴きましょう。ルカによる福音書8章43節からお読みします。「ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。」この女性は群衆に紛れて後ろからイエス様の服の房にそっと触れました。

先に読み進む前に、 ひとつ、確認しておきたいことがあります。私たちが福音書を読むこと、特に福音書を初めから終わりまで丁寧に少しずつ続けて読む講解説教によって御言葉を読むのは、イエス様がどのようなお方であるかを心と魂で知るためです。

イエス様は、誰をも分け隔てせずに愛し、慈しみ、大切にされる方です。

当時のユダヤ社会では社会の構成員として男性しか認められていませんでしたが、イエス様は女性も、そして子どもたちにも同じように深い愛を注がれました。今日の聖書箇所は、そのイエス様の分け隔てのない愛を私たちに伝えてくれています。

イエス様がヤイロの家に向かったのは、十二歳の一人の少女のためでした。ヤイロが町の有力者・重要人物で男性の中でも中心的な人だったから、その娘を助けようとしたのではありません。神さまが造られた少女の命、そして神さまが計画されている少女のこれからの歩みを支えるために、その父 ヤイロの頼みを聞き、その家に向かいました。

一方、群衆に紛れてイエス様に触れたのも、女性でした。この人は十二年間、出血を伴う病気 ― おそらく婦人科の病気にかかり、そのためにすべてを失っていました。血を流すこと、そして出血する病はユダヤ社会で汚れとして忌み嫌われ、人前に出ることや人と交わることを禁じられていました。この女性はそのために、十二年もの間 孤独に、ひとりぼっちで病気に堪えなくてはならなかったのです。

当時の女性は、ヤイロの一人娘のように十二歳を過ぎると結婚して子を成すことを第一に求められましたが、この女性は人との関わりを禁じられているので もちろん家庭を持つことはできなかったでしょう。父親が結婚のための持参金として用意してくれたお金を、治療のために使い果たしましたが、効果はありませんでした。

当時のユダヤ社会で、この女性は女性であるために軽んじられ、血を流す病気のために疎んじられ、差別され、結婚して子を成すという通常の女性の役割を果たすことができないために軽蔑されるという三重の差別に苦しんでいました。人前に出ることができないので、この人は人ごみに紛れてそっとイエス様に近づいて、その服の房に触れることに希望を持つしかなかったのです。

その小さな希望は、かなえられました。イエス様に触れたとたんに、出血が止まり、この人は癒されました。癒されたことをすぐに自覚したこの女性は、喜びと共に、再び群衆に紛れてイエス様から離れようとしたでしょう。

ところが、イエス様はこうおっしゃいました。今日の聖書箇所 ルカによる福音書8章45節です。お読みします。「わたしに触れたのはだれか。」女性は真っ青になったに違いありません。イエス様は怒っておられるに違いないとしか、思えませんでした。神さまの恵みを、こっそり盗み取ろうとしたようなものだからです。

今、「神さまの恵み」という言葉を用いましたが、そもそも、この女性が癒されたことを恵みと知る信仰そのものを持っていたかと言えば、そうではなかったと思えるのです。財産を使い果たしても願いがかなえられないので、この世にも、神さまにも、もう期待しなくなって無気力になっていたと考えられます。イエス様を「神さまの御子」とは知らなかったでしょうし、イエス様の癒しの御力が噂になっているので「ものは試し」ぐらいに思っていたかもしれないのです。

「神さまを試す」とは、実に冒瀆的なことです。実際に癒されて、女性はイエス様の御力の大きさにおののきました。このようなものすごい方を、自分は不遜にも「試して」しまったことに、この人は震えあがりました。

さらに、女性が恐れたのは、イエス様の怒りだけではありませんでした。もっとリアルに恐怖を感じたのは、人前に出ることを禁じられている汚れた血の病の自分が、群衆の中にまぎれていることが明らかにされて、「あの汚れた病の、汚れた女が自分たちの中にいるぞ!!!」と大騒ぎになることでした。

しかし、イエス様は怒ってはおられませんでした。さらに、イエス様は、この女性を群衆からも守ってくださいました。イエス様は、こうおっしゃったのです。ルカ福音書8章46節です。お読みします。「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」

ここで、私たちが心に留めておかなくてはならないのは、神さまは奇跡をなさる時に、御力を発揮なさるということです。何でもない簡単なこととして、神さまが私たちに恵みをくださるのではないということです。主の御力を用いてくださるのです。働いてくださるのです。

「ものは試し」とこっそりイエス様の服の房に触れたこの病気の女性のために、イエス様はご自身の力を出してくださいました。力が、イエス様から出て行ったのです。イエス様はこの女性のために、いくばくかの力を失われました。犠牲を払われました。

同じように、イエス様を十字架に架けた者 ― 私たち人間すべての罪のために、イエス様はご自身の力を出し切ってくださいました。イエス様が神さまの御子であり、私たちの救いのためにおいでになったことを理解できず、受け入れず、信じようとしない人間のために、イエス様は十字架でお命を捨ててくださったのです。ご自身を犠牲にしてくださいました。

さて、今日の聖書箇所で、イエス様の服の房に触れた女性は47節によると、自分がイエス様に触れたことを「隠しきれない」と深く感じました。彼女がしたことを、御言葉に聴きましょう。47節から、続けてお読みします。女性は「震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。」

イエス様が自分をいやしてくださるのではないかと願い、そしてそれが本当になったと人々の前で話したのです。女性は自分の身に起こった真実・事実を、まったく飾らずにありのままに、震えながら語りました。

イエス様を通して神さまとの出会いをいただく時、その出会いを経験した人が語るまったく飾らない「ありのまま」、「事実そのもの」が恵みの証しになります。自分が何をしたかを語るのではなく、神さまがこの自分に何をしてくださったかを話すのが「恵みの証し」だからです。女性が語ったのは、私たちが教会で行う「恵みの証し」そのものでした。

女性は自分がイエス様に希望を抱いたこと、そしてその小さな希望が成就して、自分がすっかり癒されたことを話しました。イエス様は、女性がかすかにでもイエス様に期待し、御力にすがろうとした思いを顧みてくださいました。

今日の旧約聖書の聖書箇所 イザヤ書66章2節で神さまはこう語られます。「わたしが顧みるのは 苦しむ人、霊の砕かれた人 わたしの言葉におののく人。」

その御言葉のとおりに、神さまは、イエス様を通してこの女性の苦しみ、絶望、恐れを顧みてくださいました。

イエス様は、女性にこうおっしゃいました。ルカによる福音書8章48節をお読みします。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」「ものは試し」程度の期待をもってイエス様に触れたこの女性のためにイエス様は御力を使われ、しかも 彼女が抱いたわずかな期待を信仰と認めてくださり、そのうえ、「安心して行きなさい」と祝福してくださいました。祝福されたのですから、この人はもう汚れてなどいません。堂々と人前に出て、誰とも自由に交わることができるのです。

たとえ、この出来事から後、この女性が卑しめられ、差別され、軽んじられることが再びあったとしても、イエス様に祝福されたこの真の恵みを決して彼女から消えることがありません。また、彼女がこの幸せを忘れることもありません、忘れない限り、この女性はこの世の誰もが「汚れているからあっちへ行け」と言われたとしても、決して孤独にも不安にも陥らないでしょう。イエス様に癒され、祝福されることによって、まさに、この女性は「安心して」人生を進むことができるようになったのです。「イエス様に救われる」とは、このように、完全な安心のうちに生きる幸福をいただくことです。

今日、私たちはこの完全な心の平安と希望を、御言葉を通していただいています。

「安心して行きなさい」 ― イエス様は、私たち一人一人に、そうおっしゃって、この場からそれぞれの持ち場へと、新しい一週間へと送り出してくださいます。御言葉通りに、安心して行きましょう。イエス様の優しさと慈しみを心にいっぱいに受けて、明日へ、明後日へ、その次の日へと力強く進み行きましょう。



2023年5月14日
説教題:来たるべき世代に語る
聖 書:詩編71編14-18節、ルカによる福音書8章26-39節


悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。
(ルカによる福音書8:38-39)


 私たちは今日の聖書箇所から、実にさまざまな、多くの恵みを与えられます。その中から、この礼拝でほんの少ししかお伝えできないのが残念なほど、いろいろと考えさせられます。思いを巡らすひとつのきっかけとして、今日の恵みを共にいただきましょう。

前回の礼拝で、イエス様は「向こう岸に行こう」と弟子たちと共に舟に乗り、湖を渡られました。湖の半ばで嵐に遭いましたが、イエス様は風と波を叱りつけて嵐を静めてくださいました。イエス様のご計画・神さまのご計画のもとに、弟子たちは向こう岸にたどり着きました。

イエス様はなぜ、この「向こう岸」に渡られたのでしょう。今日の聖書箇所の初めの聖句にあるように、「向こう岸」はゲラサ人の土地でした。ユダヤ人の土地ではありません。湖を隔てたその地は別の国、ユダヤの民の神さま、すなわち私たちの天の父なる神さまが崇められ、信じられていない異邦の地だったのです。

ここにイエス様が来られたのは、一人の人を救うためでした。27節をご覧ください。イエス様が舟から下りて陸に上がると「悪霊に取りつかれている男」が近づいてきました。このたった一人の人のために、イエス様はゲラサの地に来られたのです。

この人は悲惨な状態にありました。この人の有り様を読むと、私たちは人間にとって何が最もつらく、苦しいことなのかを考えさせられます。病や事故、自然災害、戦争といった大きな災難ではなく、人間の弱さそのものが呼び込んでしまう暗闇 ― それを今日の聖書箇所は「悪霊」と呼んでいます ― が内側からその人を破壊してゆくことの恐ろしさを思わずにはいられません。御言葉に添って、この「悪霊に取りつかれた男」の様子をご一緒に読んでまいりましょう。

この人の苦しみは、イエス様・神さまと自分が 、そしてまわりの人々・隣人と自分が関わりを持てないことに根差していました。

サッと読むと、この「悪霊に取りつかれた男」はごく特殊な人の特殊な苦悩のように思えるかもしれませんが、御言葉が指し示しているのは私たち皆にとってのリアルな真実です。神さまと人間、そして人間同士の正しい関わりは実にもろく、危険にさらされやすく、イエス様にしか救いはないということです。

まず、人と人との関わりの問題から、この聖書箇所を読んでみましょう。そうすると、実は、この男の人にだけ問題があったわけではないことが分かります。

27節をご覧ください。お読みします。「衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。」この人は、生きている人たちが営む社会に背を向けて、死者の場所である墓場に住もうとする人でした。まわりの人々は、この人を何とか自分たちの社会につなぎとめてやりたいと工夫しました。ところが、それが裏目に出てしまうばかりでした。

29節の後半をお読みしますので、お聞きください。「この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。」(ルカ福音書8:29)まわりの人が、この人を何とか社会に適合させようと試みましたが、それが、この人には鎖や足枷、監視に感じられたのです。

人間の思いは、思いやりを受ける側からすると、お節介に感じられたり、場合によっては「しがらみ」になってしまったりすることがあります。困っている人が本当に何に困っているのかを見極めず、自分の基準で良いと思うものを差し出しても、相手はもっと困り、その食い違いにかえって苦しむだけになってしまうことがある、ということです。場合によっては、かえって傷つけてしまうでしょう。愛情のぬくもりが欲しいと寂しさに心を震わせている子どもに、寒いのならこれで暖まりなさいと毛布を与えるのは見当違いです。

私たち人間は、悲しく残念なことに、究極的には自分のことしかわかりません。いえ、自分が本当に何を必要としているのかすら、わかっていないことがあります。その私たちが、自分の思いや考え・人間の知恵と道徳で他の人に善いことをしてあげようと思うのは傲慢です。見当違いのお節介が人と人とを引き離してしまい、一部の人を社会からはじき出してしまう皮肉な現実を、今日の聖書箇所は教えてくれています。

本当に人を思いやるのなら、私たちは人間を超える神さまの真実の愛を知ることから、始めなければなりません。その真実の愛とは、イエス様の十字架の愛・自己犠牲の愛です。

イエス様がこの自分のために命を捨てられるほど、深く自分を愛してくださっていることを知って、私たちは初めて、真実に隣人を愛そうと思えるようになるのです。

次に、神さまと人との関わりの問題を今日の御言葉に聴きましょう。28節をご覧ください。悪霊に取りつかれた男はイエス様にこう言いました。お読みします。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」これは、この人自身の言葉ではありません。この人の口を借りて、この人に取りついている悪霊が言っている言葉です。どうしてこんなことを言ったのかは、次の29節を読むと分かります。お読みします。「イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。」イエス様が汚れた霊に出て行けと命じたので、男の中の悪霊が「かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」とイエス様に懇願しました。

悪霊とは、分かりやすく「悪」とだけ言い換えて良いでしょう。「悪」は、この悪霊のように私たちの中にあり、私たちをイエス様から引き離す暗い力です。その力にひきずられて、この人は「かまわないでくれ、ほっといてくれ、関わらないでくれ」とイエス様を拒み、イエス様の愛を拒絶しているのです。

私たちをイエス様から引き離そうとするもの、十字架の出来事とご復活の福音を拒絶し、信じようとさせなくするものは、数限りなくあります。自分しか信じない孤独で傲慢な自我。お金しか信じない拝金主義。多数意見だけを聞こうとする日和見主義。目に見え、証明できる事柄しか信じない唯物論や科学万能主義。他にも、たくさんあるでしょう。

たくさんある、と今 私は申しました。このことを、ちょっと心に留めておいてください。

そして、30節をご覧ください。お読みします。「イエスが、『名は何というか』とお尋ねになると『レギオン』と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。」

レギオンとは、英語のlegion、軍団をさす言葉と同じです。一軍団は千人をさすそうです。イエス様に名を尋ねられて「レギオン、一軍団」と答えた悪霊は、私たちをイエス様から引き離す誘惑の力・悪の力・罪は「うじゃうじゃいるぞ、いっぱいあるぞ」と答えたのです。

この無数の罪と悪を、イエス様は彼らが望むとおりに豚の群れに乗り移らせました。そして、この豚の群れは「崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死ん」(ルカ福音書8:33)で自滅してしまいました。

この出来事によって、悪霊に取りつかれていた男は悪と罪から自由になりました。35節の一部をお読みしますので、耳を澄ましてください。「悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っている」 ― 救われたこの人は、イエス様の足元にぴったりとくっついています。さらに、38節もお読みします。「悪霊どもを追い出してもらった人が、(イエス様に)お供したいとしきりに願った」 ― この人は、イエス様から片時も離れたくないのです。

さて、説教の始めの方でこうお伝えしたのを覚えておいででしょうか。人と人との関わりの問題から、この聖書箇所を読むと、この男の人にだけ問題があったわけではないこと、この人を取り囲むまわりの人々と社会にも問題があったことがわかるとお伝えしました。

この男の人はイエス様に救われ、彼の問題は解決しました。しかし、まわりの人々と社会はどうだったでしょう。37節をご覧ください。お読みします。「ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。」この人々、この社会は、イエス様を追い出してしまいました。残念なことです。

私たちが生きるこの世、この社会はこの世の価値観に満ち、イエス様を信じる信仰者はほんのわずかしかいません。しかし、だからこそ、伝道が必要なのです。

イエス様の十字架の出来事で悪と罪から救われ、ご復活を通して永遠の命を約束された私たちは、自らに起こった主の恵みを証しし、世に伝えていかなければなりません。

イエス様に悪霊を追い出していただいた人は、イエス様のお供をしたいとしきりに願いましたが、イエス様はこの人に伝道の使命を与えました。イエス様は、この人にこうおっしゃいました。39節です。お読みします。「『自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。』その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。」

この人は、イエス様の御言葉に従うことこそが、本当にイエス様のお供をすることだとよくわかったのです。だから、イエス様がおっしゃったとおりに恵みのみわざを世に言い広め、伝道しました。不信仰なゲラサの町で、おそらく遭遇したであろうさまざまな伝道の挫折にくじけることなく、イエス様の恵みのみわざを語り続け、証しし続けたのです。

この世にあって、イエス様に救われた私たちは同じ伝道の使命を与えられています。この礼拝の後、私たちは世に遣わされて、それぞれの持ち場に帰ります。この世の自分の家・自分の与えられた場所に戻るのです。そして、そこでイエス様が自分になさってくださったことをことごとく伝えます ― 言葉で、行いで、態度で、時に優しく 時に毅然とした物腰で、私たちの存在すべてを用いて、主を証しするのです。今日から始まる新しい一週間の一日、一日を、今の世に、さらに来たるべき未来の世代に、主の恵みを伝えつつ、力に満たされて進み行きましょう。



2023年5月7日
説教題:向こう岸に渡ろう
聖 書:詩編89編6-10節、ルカによる福音書8章22-25節


弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスは起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。
(ルカによる福音書8:24)


 今日の聖書箇所は次の聖句で終わっています。その聖句、ルカによる福音書8章25節後半をお読みします。「弟子たちは恐れ驚いて、『いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか』と互いに言った。」弟子たちは、自分たちが先生と慕うイエス様がどなたであるかをまったくわかっていなかったのです。

イエス様がどなたかを、私たちは福音・聖書の御言葉から知らされています。イエス様は、まったき神にしてまったき人であるお方、 完全に神さまであり、同時に完全に人間である方です。神さまでありながら人として地上においでくださり、人としての命を捨てて私たちを救ってくださいました。イエス様は、救いのみわざによって、私たちを神さまの御手のうちにとどめ、私たちを神さまから引き離そうとするあらゆる悪から私たちを守ってくださる方です。今日の聖書箇所は、その恵みの真理を語っています。さあ、ご一緒に御言葉に聴いてまいりましょう。

御言葉は、イエス様が弟子たちと共に舟に乗り、「向こう岸に渡ろう」と彼らを導かれたと語っています。神さまはご計画をもって私たちを前進させ、救いの歴史を導いてくださる方です。ここで、イエス様は神さまとしてそれをなさいました。

ところが、イエス様と弟子たちを乗せた舟は湖を渡るうちに嵐に遭いました。舟は荒波に翻弄され、弟子たちは水をかぶり、危なくなりました。遭難しそうになったのです。この災難の中で、イエス様は舟の中で眠っておられました。これは、弟子たちにとっても、また私たちにとっても不思議に思えることです。

共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカによる福音書のうち最も古いマルコ福音書には、この時に弟子たちが思わず言ったのだろう本音がそのまま記されています。お読みします。「弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った。」(マルコ4:38b)

波が高く、舟に水が入り込んで、弟子たちは舟を操りながら水を掻い出してたいへんな思いをしていました。イエス様は、どうしてこんな時にのんきに寝ているのか、先生なのに何と冷たいのかと弟子たちは思ったのではないでしょうか。

しかし、ここで私たちは思い起こさなければなりません。神さまには、「神さまの時」があるのです。

旧約聖書の「コヘレトの言葉」にこのような聖句があります。この聖句は私たちが用いている新共同訳よりもひとつ古い訳・口語訳で覚えておいでの方が多いと思いますので、口語訳をお読みします。「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(口語訳聖書 伝道の書3:11)

神さまのなさるみわざはすべて時にかなって美しく、私たちの喜びも悲しみも、その御手のうちにある ― けれど、人はそれを知ることはできないと語られています。私たちに、すべてを主の御手にゆだねることに真実の平安があると教え導く言葉です。

今日の聖書箇所で言えば、イエス様に導かれて弟子たちが漕ぎ出した舟が湖の上で嵐に遭うことを、神さまは初めからご存じだったということです。神さまであるイエス様は、もともとご計画の中にあることだから、慌てふためくことなく眠っておられたのです。

一方、私たちは聖書が語るこの別の出来事も知っています。ヨハネによる福音書2章にあるカナの婚礼で、イエス様が水をぶどう酒に変えた奇跡です。この時、イエス様の母マリアはイエス様にこう言いました。「ぶどう酒がなくなりました。」(ヨハネ2:3)マリアはイエス様と共に婚礼の場にいたのでしょう。マリアは客としてではなく、厨房などの手伝いに来ていたのかもしれません。ぶどう酒が宴の途中で足りなくなってしまったので、イエス様にどうにかしてくれと頼んだのです。

イエス様はこう答えました。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2:4)イエス様ご自身が、自分には神さまとしての御力を使われる時がまだ来ていない、とおっしゃいました。しかし、イエス様はそうおっしゃいながらも結局は困っている人々を思いやり、慈しんで御力を用いてくださいました。水をぶどう酒に変えてくださったのです。

神さまには、神さまのご計画と時があり、それに造られたもの・被造物である私たち人間が注文をつけることなど到底できません。そんな無礼で傲慢な、冒涜的なことをしてはならないのです。

ただ、神さまはご自身の自由で豊かな愛で私たち人間を思いやり、慈しみ、私たちと深いかかわりを持って下さいます。私たちに寄り添って私たちの祈りと願いに耳を傾け、ご自分の御力を使い、私たちを苦難・困難から必ず救ってくださいます。

今日の聖書箇所で、イエス様は嵐から弟子たちを救い出されました。人間には決してできないこと ― 自然災害を叱りつけて静めるという奇跡のみわざを行って弟子たちを危機から助け出したのです。

湖がすっかり凪いで平安が戻って来ると、イエス様は弟子たちにこう尋ねました。今日の聖書箇所の最後の聖句です。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」この御言葉に、私たちは信仰についてあらためて思わされます。

信仰とは、全能の神さま・大いなる神さまが、この小さな自分と絆を結ばれ、深く愛してくださるから、何があっても大丈夫だと心と魂で知ることです。

嵐に翻弄される舟の中で、弟子たちはこの信仰をどこかに置き忘れたようになって、イエス様に「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」とイエス様の愛を疑いました。イエス様は、私たちがどうなってもかまわないなどと決して思うことのない方です。私たちが神さまを離れ、イエス様を忘れて、ふらふらどこかへ迷い出てはならない、滅んではならないと強く思ってくださっておいでです。だから、人としての地上の命をすら、自分を陥れる者・裏切る者・見捨てる者のためにさえ、十字架で捨ててくださいました。それは、私たちがどんなに罪深くても、イエス様が代わりにその罪を贖う者となり、私たちと神さまをつないでくださるためだったのです。

私たちの魂が本当に危険な状態になるのは、私たちが重い病や苦難に遭った時ではありません。重病や困難の中でも、自分が神さまに愛されて見守られていることを信じていれば、私たちはちゃんと信仰を与えられています。信仰を与えられて、神さまとの深い信頼の中にあり、守りのうちに置かれています。完全に安全です。そこには真の心の安らぎがあります。

本当の魂の危機は、神さまに見放されていると自分で勝手に思い込むことです。自分なんか、どうなっても良いと自暴自棄になり、自分で自分を見捨てて絶望することです。

それでもイエス様は私たちを決して見放されません。今日の聖句の言葉をもって、私たちに語りかけてくださいます。「あなたの信仰はどこにあるのか。」

こう仰った時のイエス様の口調は、叱りつけるような厳しいものではなかったでしょう。むしろ、弟子たちに、また私たちに、イエス様に愛されて信仰に与ることの幸いを思い起こさせてくださる優しい口調だったのではないかと、私には思えてならないのです。

信仰は、どこにあるのでしょう。信仰は、イエス様が私たちと重ねてくださる、その手と手の中にあります。信仰があるところには、何ものにも、何ごとにも負けない希望があります。だから、私たちは決してくじけることがありません。いっとき立ち止まっても、必ず立ち直ります。

なぜ、立ち直れるのでしょう。力尽きたようにうずくまってしまっていたとしても、なぜ立ち上がれるのでしょう。それは、イエス様が、私たちの手をどんな時も堅く握ってくださっていて、私たちをを引っ張り起こしてくださるからです。

つらい時・これが限界でもうがんばれないと思う時・人間関係がこじれて人が信じられないように思える時・何もかもが不安に思える時が、私たちにはあるかもしれません。その時にも、イエス様が私たちと手をつないでいてくださることを決して忘れずにいましょう。イエス様の愛がくださる信仰と希望を胸に、この新しい一週間も心を高く上げて進み行きましょう。



2023年4月30日
説教題:主につながり続けよう
聖 書:詩編80編9-12節、ヨハネによる福音書15章1-5節


わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
(ヨハネによる福音書15:5)


 一週間前、4月23日の主日礼拝後に、私たち薬円台教会の教会総会が開かれました。2022年度を主に守られて無事に歩めたことを感謝のうちに報告し、新しい年度へと、祈って与えられた計画を持って歩み出しました。

私たち教会の今年度の歩みを導く聖句が、今日の聖書箇所から与えられています。今日、新年度の歩みを始めるにあたり、ご一緒にその主題聖句・ヨハネによる福音書15章5節の御言葉に学びましょう。

聖書はどのページを開いても、どのひと言、どの一語からも私たちにあふれる恵みをそそいでくれます。その豊かな喜びの中から、今日は三つの恵みをいただきましょう。

 ひとつは、この聖句が直接私たち教会に語られ、御心にかなう教会の正しく幸いな姿を教えてくれていることです。

この聖句は、イエス様が最後の晩餐の夜 弟子たちに語られた説教の中で語られた言葉です。この時、イエス様は十字架に架かられるお覚悟をすでに固められ、この地上に残してゆかなければならない弟子たちに最後の教えと励ましを語られました。

イエス様はご自分が十字架で死なれ、三日後に復活されることを御存じでした。しかし、よみがえってもずっと弟子たちと一緒にいられるわけではないことをも知り抜いておられました。イエス様は復活後、しばらく弟子たちにお姿を現わした後、天の父のもとへと帰って行かれます。

地上に残される弟子たちが不安におののき、うろたえることをイエス様は案じてくださいました。イエス様は彼らを思いやって、ご自身の姿が彼らに見えなくても大丈夫だとはっきり伝えました。それが、今日の聖書箇所です。

実は、イエス様が思いやってくださったのは、その時代にイエス様の弟子だった者たちだけではありません。イエス様は、今 教会に生きる私たちのことをも思ってくださり、聖書を通してこうして語りかけ、励ましてくださっているのです。イエス様のお姿を見ることができない、けれどイエス様の福音を信じ、イエス様を敬い慕っているという点では当時の弟子たちも、今 ここに集っている私たち教会も同じです。イエス様は、教会のために「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とお語りくださいました。

イエス様は、ご自身を幹、私たちはそこから生え出る枝と心得て、イエス様を中心にひとつであり続けなさい、一本の木であり続けなさいと導いてくださいます。

皆さんは、ぶどう狩りなどで、実際のぶどう園に行かれたことがおありだと思います。ぶどう棚を下から見上げると、すくすくと伸びた枝がからみあって何が何だかわからなくなっています。しかし、一本の枝をたどって行けば、必ず一本の幹から伸びていることが見て取れます。こちらの枝も、あちらの枝も、ある一本の木から生え出ているとわかるのです。

この一本の木が、枝すべてに養分と水分を行き渡らせて枝を活かしているのです。この一本の木が、イエス様です。イエス様は、私たちのためにご自身の命を犠牲にされる深い愛で、私たちという枝のひとつひとつに命を与え続けてくださいます。

キリストの教会に初めておいでになった方は、私たち教会に生きる者に接して、この人たちはどうしてここに集まるのだろう…と思いめぐらすでしょう。何度か教会の礼拝に通ううちに、ああ、みんなイエス様が好きでたまらないのだ、イエス様なしでは生きられないのだ、イエス様につながっているのだと気付かされます。イエス様なしでは生きられない ― そうです、イエス様が木の幹として枝である私たちに与えてくださる愛と義がなくては、信仰者は本当の意味で「自分が生きている」とは実感できません。また、その実感でひとつとされている教会であり続けるようにと、イエス様は私たちを導いてくださいます。

今年度、創立50周年を迎えるこの薬円台教会も、そのイエス様の教会としてこの地に根付き、育ってまいりました。半世紀という長い年月の間には、色々なことがあったでしょう。何があったとしても「イエス様の教会」であることは、決して変わりません。

それを、イエス様は今日の御言葉で初めからはっきりとおっしゃってくださっています。たとえ、今の教会は大丈夫かな…と思うようなことが、仮にあったとしても、「大丈夫!」とイエス様は言われるのです。それが、今日の二つ目の恵みです。

それを実際に、御言葉に見てまいりましょう。2節で、イエス様はこうおっしゃっています。お読みします。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」この御言葉は、ちょっと怖いな、と感じるのではないでしょうか。徳の実を結ばない、背徳的なこと・罪を犯すと刈り取られてしまうと記されているのです。

私たちは、イエス様に従って、神さまの御心にかなう生き方をしたいと願っています。しかし、自分では意識せずに、罪を犯してしまうことがあります。そんなつもりではなかったのに、つい御心に背くことを言ったりやってしまったりして、結果として誰かを傷つけてしまったりする私たちです。そうすると、天の父なる神さまが手入れをなさり、切り取られてしまうのでしょうか。

そう不安になる私たちに、イエス様は3節でこう語りかけてくださいます。お読みします。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」聖書の元の言葉では、「清くなっている」「清められている」という単語は「手入れされる」と同じです。御言葉に聴き、イエス様の福音を聴き続け、受けいれ続けることによって、私たちは整えられ、清められているのです。

自分で御心にかなう生き方をしようと一生懸命にならなくても、大丈夫だとイエス様はおっしゃってくださいます。いえ、むしろ自分の力・自分たちの力・人間の力で何とかなるなどと思わない方が良いのです。私たちが必死にしがみつかなくても、イエス様の方から、私たちにつながってくださっているからです。そのままイエス様に身をゆだねていれば、良いのです。

三つ目、今日の説教の終わりにお伝えする恵みは、神さまであるイエス様が私たちにつながってくださることです。

神さまのことを「絶対他者」と呼ぶことがあります。絶対他者 ― 何かと比べて、つまり「相対」的に認識することが不適切な、この世のものとは次元の違う高みに存在することを「絶対」と申します。「対する者」が存在しない、「絶えて無い」から「絶対」なのです。そうです、神さまは「絶対」です。

「絶対」である神さまは、自分の中には決して存在しません。私たちとは「絶対」的に他の者「他者」なので、神さまは「絶対他者」なのです。

私たち人間は社会的存在なので、神さまを知らないまま、この世の社会で育ち、社会性と協調性を備えると、いわゆる道徳観や倫理観、良識や常識を持つようになります。それらを備えていると、社会で円滑に暮らすことができるので、いわば経験的にそれらを身に着けてゆきます。こうした人間的道徳観、倫理観、良識、常識は、私たちの中にあると申してよいでしょう。

一方、神さまの愛と義の真理は、人間社会でそれぞれが自身のうちに備えた人間的道徳観、倫理観、良識、常識を超えています。

この世の常識は、イエス様の自己犠牲の愛のみわざを愚かしいと判断するでしょう。しかし、イエス様はそれを成し遂げてくださいました。そのイエス様が、天の父である神さま・「絶対他者」と私たちの間をつないでくださいます。

たいへん畏れ多いことですが、こうして私たちはイエス様を心に宿し、イエス様を模範として、この世の常識を超える豊かな愛に生きるよう導かれています。

「不可能な可能性」という言葉があります。完全な平和を追い求めることは、そのひとつにあたるでしょう。完全な平和は奇跡のような愛のわざで、人間には成し遂げることが不可能かもしれないけれど、私たちはそれを理想とすることができます。それをめざして、より良い次の歩みへと進むことができるのです。こうして、私たちは実を結ぶ教会へと導かれてまいります。

イエス様によってひとつにされ、その恵みの事実・真実に身をゆだね、イエス様にならって、歩みましょう。教会のこの新年度、主につながり続ける希望を抱いて、進み行きましょう。

2023年4月23日

説教題:信じる者になりなさい

聖 書:イザヤ書51章12~16節、ヨハネによる福音書20章24~29節


それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
(ヨハネによる福音書20:27-28節)


 4月9日に主のご復活を祝うイースター礼拝をささげてから、16日、そして本日23日と2回の礼拝で、復活されたイエス様が弟子たちに姿を現わしてくださった御言葉をいただいています。イエス様のご復活は、弟子たちや、十字架の出来事に至るまでイエス様に付き従っていた者たちでさえ、すぐには信じられない出来事でした。死者が生き返るとは、信仰がなければ恐ろしい出来事です。その一方で、イエス様のご復活は、信仰の目・心の目を開かれ、ご復活を通してイエス様と再会できたと知った者には実に大きな恵みです。

今日のための聖書箇所として、ヨハネによる福音書20章24節から司式者にお読みいただきましたが、実はその前、19節から読むのが適切です。ご一緒に記されていることをたどってまいりましょう。日曜日の夕方に、弟子たちはユダヤ人たちがイエス様を陥れたように、自分たちをも捕まえに来るのではないかと怯えて扉に鍵をかけ、閉じこもっていました。彼らの心も恐怖で閉ざされ、鍵をかけて敵を入れまいとかたくなになっていました。すると、彼らの真ん中に、よみがえられたイエス様が現れてくださいました。鍵をかけて誰も何もいれまいとしている頑なな心をも、イエス様はやわらげて開いてくださるのです。

弟子たちの真ん中に立ったイエス様は「あなたがたに平和があるように」とおっしゃいました。彼らの心から不安が消えて平安で満たされ、敵を恐れる恐怖がなくなるように、そして敵・味方といった線引きや分け隔てがなくなって誰もが平和であるようにと、正しい心のありようを示してくださったのです。

さらにイエス様は、ご自分が十字架に架けられて死なれたこと、しかしよみがえられたことを明確に彼らに示すために、十字架に釘で打たれた手の傷と、槍で刺されたわき腹の傷を示されました。

イエス様が本当に復活されたことを知って、弟子たちはたいへん喜びました。平和があるようにとのイエス様の祝福により不安も恐れも消えて、彼らの心は豊かな幸いで満たされました。

ところが、弟子たちのこの喜びの輪から漏れてしまった一人の弟子がいました。トマスという弟子でした。ご復活のイエス様が現れた時に、その場にいなかったので、イエス様に会うことができませんでした。他の弟子たちが嬉しそうにご復活の主に会ったことを語り合い、喜び合っているのに、同じ経験をしていないトマスはその喜びを分かち合うことができませんでした。自分だけ取り残されたように感じました。今日の聖書箇所、ヨハネによる福音書20章24節に記されている事柄は、そのトマスに起こった出来事です。

弟子たちの喜びの輪に入れない悔しさと寂しさから、トマスはこう言い張りました。今日の聖書箇所の25節後半です。お読みします。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」何となく子供っぽい、幼稚な意地の張り方に思えなくもありません。人の思い・感情とは、そのようなものだと思わされます。

また、トマスは実際に自分の目で見、手で触って体験しなければ、ごまかされたり、だまされたりは絶対にしないという合理精神の持ち主のようにも思えます。トマスの立場だったら、自分もこのように言うかもしれないと考える方も少なくないでしょう。

その八日後、復活されたイエス様は再び、弟子たちの前に現れてくださいました。今度は、トマスもその場に一緒にいました。いえ、イエス様はトマス一人のためにこそ、もう一度お姿を現わしてくださったのです。

トマスがイエス様の復活を疑って言った言葉を、イエス様はご存じでした。だから、トマスが望んだことができるようにこうおっしゃってくださいました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。」(ヨハネ福音書20:27)

イエス様がおっしゃった「ここ」とは、ご自分の手の釘の跡、釘に貫かれて穴のあいた手です。槍に裂かれたわき腹の傷にも、同じように手を入れるようにとトマスを招きました。私たちがここで特に心に留めなくてはならないのは、イエス様が傷を受けたそのままの姿でよみがえられたことです。

傷は消えていません。傷口は開いたままです。激しい痛みを負ったまま、イエス様は復活されました。

怪我をすると、私たちはその怪我を本能的に守ります。ただでさえ痛いのに、その傷口に自分でうっかり触ったりぶつけたりすると、ましてや触られようものなら、ものすごく痛いからです。

ところがイエス様は、トマスが望むなら、その激しく痛む傷に手を突っ込むようにとおっしゃってくださったのです。イエス様はトマスにこう言われました。その聖句をお読みします。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)

イエス様は ‟トマス、あなたが望むなら、わたしは激しい痛みをがまんするから、ほら、触りなさい。わたしはあなたが大好きだ。だから、あなたのために忍耐する。いくらでも、がまんする。わたしがそれほどにあなたを愛していることを、トマスよ、あなたに知ってほしい。あなたへのわたしの愛を、信じなさい。”

聖書には、トマスがイエス様の傷に実際に手を入れたかどうかは記されていません。こう聖書は語ります。28節の初めです。「トマスは答えて」。‟わたしの愛を信じなさい” とおっしゃったイエス様に、トマスは答えました。その答えとは、「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)です。言い換えれば、トマスはこうイエス様に答えたのです。‟わたしはあなたを信じます。あなたはわたしを愛し抜き、わたしのために激しい痛みさえ耐えて、わたしをたいせつに たいせつにしてくださるわたしの神さまです。”

自分のために痛みを耐えようとしてくださるイエス様の問いかけに、トマスは思わず、こう答えずにはいられなかったのです。トマスは仲間外れになって、心の痛みを抱えていました。イエス様は、お体の傷をもって、トマスと共にその痛みを耐えてくださるのです。

私たちが病で、体の故障で、または心の痛みでつらく苦しい時、復活のイエス様は十字架で受けた傷の痛みをもって私たちの苦しさを分かち合い、一緒に担い、耐えてくださいます。イエス様は、そこまで深く私たちをたいせつにして、愛してくださっているのです。

繰り返しますが、イエス様に「信じなさい、信じるか」と問われて、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と答えました。これは、トマスの信仰の告白でした。わたしの主よ、わたしの神よ、とイエス様に向かって呼びかけることをもって、トマスはあなたがわたしの神さまだと信じます、この私のために十字架に架かって死んでくださり、この私と永遠に共においでくださるために復活されたイエス様を信じますと信仰を告白したのです。

私たちは礼拝で毎回、信仰を告白しています。礼拝では、前奏の後に招きの詞・招詞が読まれます。今日は、詩編29編2節から「聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。」という御言葉を招きの詞としていただいています。私たちは、司式者の口と声を通して語られたその主からの招きの言葉に、お答えします。それが、式順序に記されている私たちの「信仰告白」です。この主日の礼拝でも、私たちは目には見えないけれど、今 私たち教会と共に確かにおいでくださる主に、使徒信条の言葉によって「はい」と答えているのです。今日の招きの言葉への応答として、‟はい、わたしはあなたをこそ わたしの神さまと信じて御前にひれふします”と、今日はお答えしたのです。

礼拝の時ばかりでなく、私たちは生きてゆくその一瞬一瞬に、神さまから命へと招かれ「はい、わたしはあなたからいただいた命と愛とで生きているのです」と私たちの存在そのものでお答えしています。

「答え」を、英語でレスポンスと言います。このレスポンスから派生した言葉に、レスポンシビリティresponsibilityという単語があります。答えることができる、という意味になりますが日本語では「責任」と訳されます。教会には、また私たちキリスト者の生き方には、命令されることも義務もありません。ただ、‟わたしに愛されていると信じるか、わたしの愛を信じるか”と、十字架で受けた傷の痛みの中で問いかけてくださるイエス様にお答えしてゆく「責任」があるだけです。

どのようにお答えするか、それは私たちの自由に任されています。奉仕で、祈りで、働きで、また「神さま」と呼んですがりながら生きて行くことそのもの、神さまの前で生きるというただそのことで、私たちはイエス様にお答えしながら生きて行きます。そのように、今日から始まる新しい一週間を、イエス様の呼びかけに答えながら、御心ならばできるだけ心をこめて、喜びをもって答えながら、歩んでまいりましょう。



2023年4月16日

説教題:主よ、ともに宿りませ

聖 書:列王記下7章6~11節、ルカによる福音書24章28~35節


一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
(ルカによる福音書24:30~31節)


 前の主日、私たちは主のご復活を喜び祝うイースター礼拝をささげました。天の父は、御子イエス様を死からよみがえらせ、私たちも死を超えて主と共に歩む者であるとお示しくださったのです。

しかし、イエス様が十字架に架かられて死なれ、三日後に復活されたその当時、イエス様のご復活を信じることは、空の墓に直接行かなかった弟子たちにとっては難しいことでした。死者のよみがえりは信じがたく、不可能としか思えなかったのです。

ご復活のイエス様は、信じる恵みを弟子たちに明らかにしてくださるために、信じられずにいる弟子たちの前に現れてくださいました。今日は、その恵みを伝える聖書箇所をいただいています。

時間の関係で、今日の礼拝には聖書箇所をルカによる福音書24章28節から35節をいただいていますが、この出来事全体を受けとめるには その前、ルカによる福音書24章13節から読み始めるのが適切です。

聖書をお開きの方は、今日の聖書箇所の前のページにその13節からの聖書の記述があります。13節は「ちょうどこの日」という言葉から始まっています。「この日」とは、イエス様がよみがえられた日です。

聖書はこう語っています。続けてお読みします。「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」(ルカ福音書24:13~16)

エマオという村は、エルサレムから海・地中海の方へ32キロほど行ったところと言われています。

二人の弟子は イエス様が十字架で処刑された三日後、安息日が明けて自由に移動できるようになると、このエマオ村をめざして、あわててエルサレムから逃げ出しました。死刑になったイエス様の弟子であるとわかると、逮捕され、苦しめられると思ったからです。仲間の弟子たちを見捨て、イエス様に付き従っていた女性たちを見捨てて、あとは野となれ山となれとばかりにエマオをめざしました。

彼らはエマオへの道を歩きながら、イエス様が逮捕され、十字架で処刑されたことを語り合わずにはいられませんでした。彼らはその朝、イエス様の墓に行った女性たちが、天使に「イエス様は生きておられる」とご復活を告げられたことと、墓にはイエス様のお体がなかったと言ったのを聞いていました。イエス様がご復活されたと聞かされていながら、彼らはそれを信じられず、わけがわからないまま、自分だけの判断で仲間を見捨てたのです。

人間である彼らにはこれから何が自分たちに起こるかまったく予測がつかないために、二人の心を不安と恐れが満たしていました。不安のあまり、二人は話し合わずにはいられませんでした。そこに「イエス(様)御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められ」(ルカ福音書24:15)ました。イエス様は、不安でいっぱいの二人に寄り添い、共に道を歩んでくださったのです。残念ながら、この時「二人の目は遮られていて」(ルカ福音書24:16)イエス(様)だと分かりませんでした。

これから自分に何が起こるかわからず、不安と恐れでいっぱいになっている時に、イエス様が寄り添って共に進んでくださる ― 実は、これは私たちキリスト者の生活の中でもしばしばあることです。

ここで、イエス様がどのように私たちに寄り添ってくださるかを、ご一緒に思いめぐらしましょう。聖書の中で、イエス様はさまざまな呼び名で呼ばれています。「平和の君」、最も偉大な羊飼いという意味で「大牧者」、その他にも呼び名がありますが、その中に「驚くべき指導者」(イザヤ書9:5)という呼び名があります。

日本語の、私たちが礼拝で使っている聖書では「驚くべき指導者」という言葉が用いられていますが、「不思議な助言者」と訳している日本語訳聖書もあります。英語では「ワンダフル カウンセラー」という言葉が使われています。まさに、イエス様は素晴らしいカウンセラーとして、私たちに寄り添ってくださり、私たちの悩みを聞いてくださるのです。

今日の聖書箇所で、イエス様はエマオへの道を進む二人に寄り添い、まず彼らの言いたいことを聞き、そこから彼らが気付いていないこと・信じられないので真理に対し目が遮られていることを汲み取ってくださいました。

繰り返しますが、イエス様はまさにカウンセラーです。イエス様は忍耐強く二人の話をしっかりと、すべて聞いてくださいました。心悩む時に、思いを言葉にして心に淀んでいるすべてを傾聴者・カウンセラーに吐き出すのが良いと言われますが、まさにイエス様は二人にそれをなさってくださいました。

それから、イエス様は二人に教えてくださいました。ルカによる福音書24章27節、今日の聖書箇所の直前の聖句からお読みしますので、良い耳をお開きください。イエス様は「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」

残念ながらそれでも、二人には一緒にいるのがイエス様だとは分かりませんでした。しかし、彼らはイエス様が聖書について、福音について語ってくださったことを通して、イエス様が何のために世に来られたのかを心に受けとめ始めていたのでしょう。

イエス様が何のために世に来られたか ― それは、私たちの自分勝手な、自己中心の罪の報いである滅びの死から私たちを救ってくださるために、ご自分が私たちの代わりに十字架で肉を裂かれ、血を流してくださることでした。

二人は自己中心的な思いから、自分勝手な判断で仲間を見捨ててエマオへ逃げ出してきたのですが、イエス様は彼らに寄り添い、聖書へと、御言葉へと引き戻し、主の道へと導いてくださったのです。イエス様の聖書の説き明かしを聞いて、二人の心は熱く燃えました。それでも、一緒に歩いているのがよみがえられたイエス様だとは、まだ分かっていませんでした。

日が暮れる頃、イエス様と二人はエマオの村に到着しました。ここからの聖句を、今日、私たちは礼拝の聖書箇所としていただいています。

イエス様はまだ先へ行こうとされましたが、二人の弟子たちは、イエス様とはまだ分からないまま「一緒にお泊りください」(ルカ福音書24:29)と「無理に引き止め」(ルカ福音書24:29)ました。

イエス様は二人に引き止められて、そこに泊まることにしてくださり、一緒に夕食の席に着きました。そこでイエス様がなさったこと ― それは、まさにイエス様がイエス様であることをはっきり示すことでした。この聖句、ルカ福音書24章30節をお読みします。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」

パンを裂いて弟子たちに渡したのは、イエス様が最後の晩餐の時になさったことです。皆さんは覚えておいででしょうか ― イエス様は最後の晩餐の時に、パンを裂いて弟子たちに渡しながらこうおっしゃいました。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。」(ルカ福音書22:19)また、この言葉は私たちが聖餐式に与る時、一緒にパンを食す時に司式者が語る定めの言葉です。

パンを裂き、それを私たちの代わりに裂かれたご自分の体として弟子たちに、私たちに与えて私たちを罪から救う ― これがおできになるのは、私たちを愛して命を捨ててくださったイエス様ただお一人です。だから、この瞬間、二人の目は開いて、ずっとエマオへの道を共に歩み、こうして自分たちと泊まってくださる方がイエス様であることが分かりました。

分かった瞬間にイエス様の姿は消えました。イエス様が、弟子たちの心に宿られたからです。イエス様は生きておられる、よみがえられて、自分たちと共においでくださる ― この確信と深い安心で、二人には自分たちが何をすべきかがはっきりと分かりました。イエス様が十字架の出来事を超えて、なお自分たちと共においでくださるというこの恵みの事実を、仲間に伝える強い志を、イエス様は二人に与えてくださったのです。

この瞬間に、彼ら二人は別人のような強さを与えられました。今日の聖書箇所の33節をご覧ください。お読みします。「そして、時を移さず出発して」。二人は「時を移さず」、つまり、すぐに、エルサレムからエマオへ逃げて来ましたが、その道を、逆にエルサレムに向かって戻って行ったのです。

もう日は暮れ、人々が宿に泊まり、眠りに就く時刻でしたが、二人は一日の疲れすら感じずに進み行きました。イエス様が復活された喜びと、二人に寄り添って同じ道を歩んでくださった恵み、それによって二人に救いの事実が知らされ深い平安を与えられた幸いを伝えずにはいられなかったのです。

二千年前の夜でした。エルサレムへと戻る道は街灯もなく真っ暗でしたが、二人は心に宿ってくださる復活のイエス様・希望の光に導かれて、何も恐れず、エルサレムでの逮捕の危険をものともせずに仲間のところへ戻って行きました。

エルサレムに戻った時の様子を、今日の聖書箇所からお読みします。33節の半ばから35節までです。「エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」

二人が戻ったのは仲間のところ、イエス様の弟子たちのところでした。聖霊降臨・ペンテコステの後には教会となる者たちのところへ帰りました。このように、教会はどれほど遠くにはぐれ去ってしまっていても、安心して帰って来られるところ、私たちが帰るところなのです。

その教会で何が語られているかと言えば、ご復活のイエス様に会ったこと、イエス様が私たちのためにご自身の体を裂き、ご自身が犠牲となって私たちを救ってくださった救いの恵みです。

教会は、現在に至るまで、この恵みを繰り返しいただいています。私たちは一週間の歩みを終えて、主がご復活された日曜日・主の日に教会に帰ってまいります。ご復活の主・イエス様に会うために、教会に帰って来るのです。ここ教会で、私たちは信仰の友とご復活の主が心に宿ってくださり、一週間を守り支え、私たちのワンダフル カウンセラーとして寄り添って共に歩んでくださったことを聖書からあらためて知り、互いに証しとして語り合います。

今日からの新しい一週間を生きるために、私たちはこの礼拝の後、再び世に派遣されて行きます。イエス様が共に歩んでくださるので、恐れることも不安に思うことも、何もありません。ご復活の主を心に宿し、主に支えられ、救いの福音を世に知らせ伝えつつ、この一週間を勇気と希望を抱いて進み行きましょう。



2023年4月9日

説教題:主の復活を知らせる

聖 書:詩編16編7~11節、マタイによる福音書28章1~10節


あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は使者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
(マタイによる福音書28:6~7節)


 御言葉を通してイエス様のご復活を知らされる時、私たちが心に深く留めなければならないのは「死者のよみがえり」は実に不思議な出来事だったということです。聖書が語るイエス様の時代・二千年前の人々は、現代ほど文明が発達していなかったから「死者のよみがえり」を簡単に信じたのだと、思ってはなりません。昔も今も、「死者のよみがえり」は人間の力で行うことができないことだったのです。ですから、イエス様のご復活は昔も今も奇跡であり、知らされたとしてもすぐには信じることのできない超弩級の恵みです。

イエス様のよみがえりは、神さまだからこそ、そして神さまだけにおできになった大いなる御業であり、それが私たちの救いのためだったことをあらためて心に留めて、今日の御言葉をご一緒に思い巡らしてまいりましょう。 

さて、今日の聖書箇所を通して私たちが特に注目したいのは「伝える」という言葉です。「告げ知らせる」、「知らせる」と言い換えても良いでしょう。今日の御言葉の中にある「伝える」を通して、励ましと恵みをいただきましょう。

今日の聖書箇所の少し前、イエス様の十字架での死から、共に黙想してまいります。イエス様が十字架で息を引き取られたのは、金曜日の午後のことでした。世の光なるイエス様が地上におられなくなり、地上は暗闇となりました。弟子たちと、イエス様に付き従っていた者たちは絶望に閉ざされて翌日の安息日・土曜日を過ごしました。

弟子たちと、イエス様に就き従っていた者たちは、それまでのおよそ三年間、イエス様に率いられて伝道の旅を続けて来ました。イエス様は天の父なる神さまが大いなる愛の方であることと人々に教え、伝え、神さまの御力によって病を癒し、彼らばかりでなく接する人々皆から深く慕われました。弟子たち一行は、それをイエス様の側近くでつぶさに見て、イエス様への敬愛を深めていたのです。

そのイエス様が、突然 逮捕され、冤罪としか思えない罪を着せられて十字架で死なれました。罪状は、イエス様が自らをユダヤの王と自称して宗主国ローマ帝国に対して反逆を企てたという反逆罪でした。そのたった五日前に、イエス様は歓呼の声でエルサレムの人々に大歓迎されました。その彼らが烏合の衆と化して、イエス様を十字架につけろと叫び、その結果としてイエス様は処刑されることになりました。

弟子たちと、イエス様に付き従っていた者たちは喪失の深い悲しみに突き落とされました。同時に、彼らには反逆者の一味として逮捕される危険が迫っていました。彼らは悲嘆と恐怖で、息を殺すようにしてイエス様の処刑の翌日、土曜の安息日を過ごしました。今日の聖句は、その彼らの中に、ひたすら夜明けを待つ二人のマリアがいたことを告げています。

土曜日・安息日は、家事すらしてはいけないと掟で定められています。そのためにマグダラのマリアともう一人のマリアは、あることがたいへん気になっていたのですが、まったく動くことができなかったのです。気になっていたこと ― それは、イエス様が十字架で死なれた後、そのお体があわてて墓に入れられたままで、葬りにふさわしく 香油や没薬で整えられていないことでした。

彼女たちは、あのままではイエス様があまりにいたわしいと思いました。そこで、安息日が明け、掟が手仕事と移動をゆるす時が来ると、朝日の中、いっさんにイエス様の墓へと走りました。そこで二人が遭遇したのは、信じられないほど衝撃的な出来事でした。

地震と共に天使が降り、墓穴の入口に蓋として置かれていた大きな石を転がして墓を開けました。見張りの番兵たちは恐怖で蒼白になりました。同じように、二人のマリアも恐れで立ちすくんだことでしょう。

天使は二人に、イエス様は死の場所である墓にはおられない、「死者の中から復活された」(マタイ28:7)と告げました。次に天使が彼女たちに告げることを、今日、今年のイースターに、私たちはその御言葉を主からの導きの言葉としていただこうとしています。良い耳を開いてお聞きください。天使はこう言いました。マタイ福音書28章7節からをお読みします。「急いで行って、弟子たちにこう告げなさい。」

おわかりでしょうか ― 二人のマリアはイエス様に葬りの支度をするために墓に来たのですが、この天使の言葉によって神さまから新しい使命を与えられたのです。天使は二人に「告げなさい」と言葉を取り次ぐ使命・伝える使命を受けました。しかも、天使は神さまからのその使命を彼女たちに伝えたことを明確にするために、7節の終わりにわざわざはっきりとこう言っています。お読みします。「確かに、あなたがたに伝えました。」

繰り返します。イエス様の葬りのために墓に急いでやって来た二人のマリアに、神さまは天使を通して「あなたがたがすべきことは他にある。あなたがたに新しい使命を与える」と言われたのです。それは「伝える」「知らせる」という使命です。イエス様が復活され、ガリラヤで弟子たちを待っている、そこでイエス様との再会を果たせるという喜びを伝えるようにと、二人には伝言係・使者の役割が与えられました。

彼女たちは、その役割をすばやく理解して受けとめました。今日の聖書箇所にはこのように記されています。「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」(マタイ福音書28:8)すると、ご復活のイエス様ご自身が二人の目の前に立ってくださいました。よみがえられたイエス様は、二人のマリアに直接「恐れることはない」と優しく語りかけ、天使が伝えよと言ったことを、ご自身の言葉で彼女たちに伝えました。

イエス様は、こうおっしゃったのです。‟わたしはよみがえって、ガリラヤに行っている。弟子たちと伝道の旅を始めた出発点、ガリラヤに先に行っている。そこで弟子たちが来るのを待っているから、そこで会おうと彼らに伝えなさい。”

イエス様の弟子たち。彼らはイエス様を慕っていました。しかし、慕っていながら、イエス様のことを大好きでいながら、それを言葉や行いで表し得たでしょうか。できませんでした。イエス様が十字架で死なれた後、彼らの心は激しい後悔で真っ暗になっていました。

イエス様が危険にさらされ、逮捕された時、弟子たちは情けないことに逃げ散ってしまったのです。一番弟子のペトロは、犯罪者として逮捕されたイエス様の一味と思われるのが恐ろしくて「あんな人は知らない」と三回も「イエス様を知らない」と言ってしまいました。彼らの心は、イエス様への申し訳なさと後悔、弱い自分への自己嫌悪でいっぱいでした。

そのまま、イエス様は十字架で死なれました。謝ることも、償うことも、信頼を取り戻すこともできません。もう取り返しがつかないことを、彼らは嘆いていたのです。

ところが、イエス様はよみがえってくださいました。そして、もう一度 ガリラヤから再出発しよう、神さまを伝える伝道の旅を一緒に続けようとおっしゃってくださるのです。

イエス様のご復活は、弟子たちが、つまりは 私たちが、永遠に一緒にイエス様といられることを意味します。死は、もうイエス様と弟子たち、私たちの間を裂くことは決してありません。死によって引き裂かれ、もう謝りたくても謝れない、許してもらえなくても許されない、取り返しがつかない後悔の苦しみを、イエス様は私たちから取り去ってくださいました。

イエス様の十字架の出来事によって、私たちは過去のあやまちをゆるしていただきました。あやまちを悔やみ、そこから学び、イエス様のご復活によって新しく生き直す希望、常に希望を抱いて未来へ向かう道へと導かれているのです。

ご復活の後 イエス様は天に帰られて、姿を見ることはできなくなりましたが、イエス様は聖霊としてずっと弟子たちと共においでくださいました。弟子たちは、再び伝道を始めました。イエス様を見捨てた時とは まるで別人のような勇気をもって、激しいキリスト教への迫害にもくじけることなく、弟子たちはイエス様の十字架の死とご復活を伝えたのです。

こうして今にいたるまで、二千年を超えて、教会は「伝える」ことを大切な使命としています。よみがえられたイエス様が、二人のマリアに与えた使命を今にいたるまで大切に行い続けているのです。

私たちの教会の状況を振り返ると、今までの三年間、感染防止に注意を払って、教会にまだイエス様を知らない方々をお招きできない時を過ごさざるを得ませんでした。今年度は少しずつ、伝道活動を再開できそうです。弟子たちのように、赦された喜びと感謝に心を燃やして、私たちも福音を伝え続けましょう。常に未来に希望を抱き、主に従って共に進み行きましょう。



2023年4月2日

説教題:まことの神の子

聖 書:詩編22編1~6節・28~32節、マタイによる福音書27章45~56節


さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
(マタイによる福音書27:45~46)

百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
(マタイによる福音書27:54)


 今日の聖書箇所には、イエス様が息を引き取られた時になさったこと、起こった出来事が記されています。

この日のための説教題を「まことの神の子」といたしました。54節で、イエス様が十字架に架けられて死なれ、それに続いて起きたことを間近で見ていた百人隊長たちの言葉「本当に、この人は神の子だった」からいただきました。イエス様が亡くなる間際になさったこと、起こったことは、十字架上で死なれた方が人間とは思えない事柄でした。百人隊長たちが「本当に、この人は神の子だった」と言ったのは、神さまの御子だからこそ、神さまだからこそ、そうなさり、そのようなことが起こったとしか思えなかったからです。

今日の聖書箇所はイエス様の死を告げる御言葉で、私たちは心に衝撃を受け、苦しい思いになります。私たちの胸は痛み、悲しいけれど、この礼拝ではイエス様の死によって「本当に、この人は神の子だった」と、主の真理に目を開かれた者たちがいたことを心に刻みましょう。神さまの真理を知ることは、大きな恵みです。御言葉が私たちに知らせる三つの恵みを、今日の御言葉に聴きましょう。

 

まず一つは、イエス様が命の終わりまで神さまを呼び、神さまとの結びつきにすがったことです。イエス様の死は、体の痛みという点でも、心の痛みという点でも、たいへん激しくむごいものでした。

無実のイエス様が、極悪人として死刑に処せられたのですから、理不尽きわまりない死に方と申してよいでしょう。理不尽な仕打ちをされると、私たち人間は何を感じるでしょう。その挙句に殺されたとしたら、何を思って死ぬでしょう。怒りに心を燃やし、自分を救う神はいないと絶望し、何もかもを呪ってやろう、できることなら自分の死と共に全世界を道連れにしてやろうと思うほどに恨みの心をたぎらせるのではないでしょうか。

イエス様は、まったく違っておられました。「なぜわたしをお見捨てになったのか」と嘆きの言葉を叫ばれましたが、それは神さまに向けた叫びだったのです。最後まで「わが神、わが神」と神さまを呼び、神さまが確かにおいでになることを信じ、信仰を貫かれました。

神さまが確かにおられることを、私たちは今、この礼拝で当たり前と思っています。しかし、想定外のひどい苦難に遭った時に、私たちは神さまへの祈りを忘れ、神さまがおられることすら心に浮かばなくなってしまうかもしれません。

しかし、イエス様は地上の命の最後の瞬間まで、神さまに頼り、すがりました。嘆きの言葉であったとしても、また詩編22編の最後の聖句につながる神さまへの讃美の言葉であったらなおのこと、イエス様の心を満たしていたのは主なる天の父への思いだったのです。

イエス様は、私たちの代わりに罪を負い、十字架に架かってくださいました。イエス様は、肝心の時に神さまを忘れてしまうかもしれない私たちに代わって、お命の最期の時に神さまに祈り、呼びかけてくださったのです。

このイエス様の信仰 ― 神さまに強く結ばれていたいとの切実な願い、そして確かに結ばれているとの確信 ― は、いざという時に神さまを忘れてしまうかもしれない、神さまに背いてしまうかもしれない私たち人間を、神さまにつなぎとめてくださいました。それが、十字架でイエス様が成し遂げてくださった「救い」です。

その「救い」のひとつの表われが、イエス様が息を引き取られた時に起こりました。これが、今日お伝えする三つの事柄の二つ目です。今日の聖書箇所の51節に、それが記されています。50節の途中からお読みします。「…イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け」た。私たちが注目しなければならないのは、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたことです。

エルサレム神殿には、至聖所と呼ばれる特別な部屋がありました。神殿の奥まったところにあって、天井から床まで下がる重い垂れ幕・カーテンで仕切られていました。その垂れ幕の向こう側には、特別に清められた祭司しか入ることができませんでした。

神さまは私たち皆を分け隔てなく愛してくださり、私たち皆に手を差し伸べてくださいますが、神殿の仕組みやこの世の制度では、イエス様が息を引き取られるその瞬間まで、私たち人間の方からは神さまに気軽には近づけないようになっていたのです。

イエス様が、十字架での死をもって、私たちの方から神さまに向かって進み出ることのできる道をひらいてくださったのです。

キリストの教会には、信仰的な意味で隠されている特別な場所はどこにもありません。特定の場所でなければ、神さまに祈りをささげられないということもありません。私たちは生活の中で、直接神さまに呼びかけ、一人で祈ることができます。悩みを信仰の友・教会の兄弟姉妹に相談する時があるでしょう。その時には、そこに集まった者たちで、どこでも、いつでも祈ることができます。

祈れない時も、イエス様はいつも私たちに寄り添い、私たちが神さまを忘れている時も、心に宿って確かに支えてくださいます。

イエス様の死によって、神さまは私たちにぐっと近づいてくださったのです。同時に、私たちからも、神さまを仰ごうと恵みを求めて積極的に、大胆に御前に進み出てよいのだということが強く勧められるようになりました。これが、二つ目の恵みです。

 今日 お伝えする三つの恵みの最後は、イエス様が本当に神の子だった・神さまだったと気付いたのが、もともと神さまのことをまったく知らない百人隊長とその部下のローマ兵だったことです。

ユダヤの人々はもともと天地を造られた創造主なる神さま、天の父、イエス様の父なる神さまを知っています。旧約聖書を持っているからです。一方、百人隊長をはじめとするローマ兵たちは、ユダヤ人からすると外国人・異邦人で、聖書の神さまのことを何も知りませんでした。その彼らが、イエス様の十字架の死と、それに伴って起こった事柄を通して、恐れつつ初めて創造主なる私たちの天の父・神さまを知ったのです。

神さまは、ユダヤ人だけの神さまではなく、私たち人間すべてを愛して造られました。その真実がこの時、外国人・異邦人である百人隊長とローマ兵たちに知らされ、あらゆる民族と人種、言語と国境を超えて、イエス様の十字架の出来事の後、世界に伝えられました。そのようにして、日本に暮らす私たちへも主の愛の恵みが届きました。そうして、私たちは今朝の恵みに与っているのです。

繰り返しますが、今日のイエス様の死を語る聖書箇所を読んで、私たちは心に衝撃を受け、悲しまずにはいられません。しかし、イエス様の死によって、私たちには神さまへの道が新しく開かれました。神さまを忘れてしまう時にも、イエス様が私たちを神さまに結び付けてくださる道です。そして、その道は身分、民族、性別、すべてのこの世の分け隔てをイエス様は取り払ってくださり、私たちすべてを御国へと導きます。その恵みを心に留めて、主への道を進む私たちへの約束への希望を抱き、次の主の日・イースターへと力強く歩んでまいりましょう。