22年10月-23年03月

2023年3月26日

説教題:我らの罪のために

聖 書:イザヤ書53章7~10節、マタイによる福音書27章15~26節


そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。
(マタイによる福音書27:21~23)


 受難節第五主日礼拝を迎えました。私たちは、イエス様の十字架でのご受難をたどりつつ、この受難節を過ごしています。前回の礼拝ではイエス様が逮捕される直前に祈られた御言葉をご一緒に読みました。今日の聖書箇所には、逮捕されたイエス様は裁判にかけられ、死刑の判決が下されたことが記されています。

説教を準備するために、私はこの聖書箇所を繰り返し読みました。読むたびに、悲しみとも、怒りともつかない強い感情に胸の内側を叩かれるような痛みを感じました。皆さまも、そうではないかと思います。何の罪も犯していないイエス様が実に理不尽な扱いを受けて、死刑に処すると決められてしまったのです。

 私たちは、日曜日ごとにこうして教会に集まります。それは聖書の御言葉を通してイエス様と出会い、愛されている喜びをあらためて知るためです。過ぐる一週間の疲れをいやされ、新しい一週間を過ごす元気をいただきたいと願って、私たちは礼拝に集います。それなのに、今日の御言葉が語るこのつらい出来事からどんな恵みをいただけばよいのかと、私たちは戸惑う思いになります。

しかし、ここで、私たちは思い起こさなければなりません。聖書は神さまから私たちへの愛と恵みの書であると同時に、神さまが私たちに教えてくださる深い知恵の書です。聖書の語る知恵への第一歩は「神さまへの畏れ」(箴言1:7)を知ることです。この「畏れ」は「怖がる」意味の恐れではなく、自分とは次元の違う大いなる方として私たちの主・神さまを知ることをさします。

私たち人間は、常に相対的に物事を認識します。比べることでしか物事を見分けられません。ですから、神さまが絶大な方であると知るとは、すなわち自分は神さまの御前で実に小さく、弱いものだと心の底から知ることをさすのです。私たち人間が、神さまの御前で小さく、弱く、そして本当は神さまの愛と恵みにふさわしくない取るに足らないものだと知って、私たちはようやく神さまのすばらしさを魂で知るようになります。今日の御言葉は実につらい箇所ですが、私たち人間の真実の姿・本性を知るためには必ずご一緒に読み通さなければなりません。

今日の聖書箇所には、私たち人間の欠点がこれでもか、これでもかというほど羅列的に語られています。我慢して、忍耐して、ご一緒に読んでまいりましょう。書かれている罪をひとつひとつ、確認しながら読んでいきます。

 今日の聖書箇所はこの聖句で始まります。マタイによる福音書27章15節です。お読みします。「ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。」何のことか…と思われるでしょう。少し、背景をご説明しましょう。

当時のユダヤは、ローマ帝国の植民地でした。犯罪者は、ローマ帝国の法律で裁判にかけられ、罪状を告げられて懲罰が与えられます。植民地ユダヤでこの裁判を行ったのは、ローマ帝国からユダヤに派遣されている総督でした。イエス様が逮捕された時の総督は、名をポンテオ・ピラトと言いました。

イエス様を殺そうとたくらんで逮捕に持ち込んだのは、ユダヤの祭司長たちや長老たちでした。彼らはユダヤ社会のエリートであり、権力を持つ指導者グループです。彼らは自分たちこそが、ユダヤの社会で最も人々から尊敬され、慕われ、愛されるはずだとごく当たり前のように思っていました。実際、イエス様が現れる前はそうだったのです。

ところが、イエス様は神さまの教えを人々の心に響くように教え、伝え、御力をもって人々を癒され、人々はイエス様を熱狂的に大歓迎しました。祭司長たちや長老たちは立場がなくなったように思ったのです。卑俗な表現ですが、顔に泥を塗られた面子をつぶされたと感じました。これは実に単純で、幼稚なねたみの感情です。しかし、彼らはこの感情に突き動かされて、イエス様を死に追いやろうとくわだてました。ただ暗殺するのでは、自分たちが犯罪者になってしまいますから、公に死刑にしようとしました。そこで、イエス様がご自分をユダヤ人の王だと言っている、ユダヤの独立をくわだて、ローマ帝国に反乱を企てているとでっち上げて、ローマの総督ピラトによる裁判に持ち込んだのでした。ここに、ねたみからのいじめの罪、冤罪の罪があります。

総督ピラトはローマ帝国の、現代で言えば役人・高級官僚であり、政治家でした。すぐにイエス様に法的な罪が何もないことを見抜きました。ユダヤの祭司長たちや長老たちが望むように、イエス様を死刑にしてはならないとピラトは考えました。

しかし、それを祭司長や長老たちに直接、言い渡すわけにはいかないと、ピラトは考えました。祭司長たちや長老たちはそれなりの権力を持っていますから、ローマ帝国の皇帝、つまりピラトの上司に不服を訴え出るだろうとピラトは予想したのです。自分の派遣先ユダヤでの仕事ぶりが、皇帝に悪く思われるとピラトのこれからの出世の道が閉ざされてしまいます。

その時、ピラトにひとつ、アイデアがひらめきました。自分で直接、裁判の判決を出さず「祭りの度ごとに、…民衆の希望する囚人を一人釈放すること」(マタイ福音書27:15)を利用して、民衆にイエス様の釈放を選ばせようとしました。ここに、責任逃れ・無責任の罪が書かれています。イエス様が死のうとどうなろうと関係なしに、自分の出世だけを望むピラトの自己中心の罪でもあります。

ピラトはイエス様が人々に大人気であることを知っていたので、このアイデアを思い付きましたが、それは失敗に終わりました。20節をご覧ください。お読みします。「しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。」

次に記されている人の罪を知るために、ここでは「民衆」という言葉が、「群衆」に変わっていることに注意してください。群衆を扇動する罪、そして、群衆は扇動されて一人一人が自分の考えを持たず、何が正しいのか分からずにまわりに流されてしまいました。イエス様でなく、バラバを釈放しろとわめきだしました。

今日の聖書箇所の22節から23節をお読みします。「ピラトが、『では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか』と言うと、皆は、『十字架につけろ』と言った。ピラトは『(イエス様が)いったいどんな悪事を働いたというのか』と言ったが、群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び続けた。」

群集心理に走る愚か者の罪がここにあります。その他大勢の中にまぎれて、勝手なことを言って責任を取ろうとしない卑怯者の罪がここにあります。イエス様を「十字架につけろ」と怒鳴る声、叫ぶ声が起こり、どよめきになりました。烏合の衆となって大騒ぎする群衆を説得する力は、ピラトには到底ありませんでした。どうすることもできず、彼はついに無責任きわまりない言葉を言ってしまいました。今日の聖書箇所の24節の終わり近くです。お読みします。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」

ピラトはイエス様の命を助けられる立場にありながら、一人の命を救える立場にありながら、その役割を放棄して、その死の責任を他人、この場合はユダヤの群衆になすりつけました。

そして、今日の聖句が語る最後の罪を確認しましょう。神さまご自身が、聖書を通して誰が本当に罪深いのかを今、私たちに告げています。私たちが、実に真摯に受け止めなくてはならないことです。

25節をご覧ください。お読みします。「民はこぞって答えた。『その血の責任は、我々と子孫にある。』」人々をさす言葉が「民衆」から「群衆」へ、さらに「民」となっていることに注目してください。「民」とは、神さまの民・私たちです。

今日の聖書箇所を通して、この聖句までご一緒に確認した罪には、無責任の罪、自己中心の罪、群集心理の罪などがありました。これらの罪を、私はこれまで生きて来た中で一度も犯していない、やっていないと言い切ることができません。これらの罪は、私たちが日常生活を平凡に送る中で、誰もが自分を守るため、その場の空気を読んで、それに合わせるためにやってしまうことです。その積み重ねが、イエス様の十字架での死刑を決めてしまったことを、今日の聖書箇所は告げています。

聖書はここで、私たち人間・民の言葉として「イエス様が流した血の責任、イエス様を十字架につけたその責任は、私たちにある」と告げているのです。

イエス様を十字架につけたのは、私です。

私たち一人一人です。

私たちは毎回の礼拝で使徒信条により、信仰を告白します。その中に、この言葉があります。「主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ。」厳しい神学者・説教者は、こう言います。 ― ポンテオ・ピラトの名のところに、心の中で自分の名前を入れなさい。

その言葉に従うと、このような信仰告白になります。「イエス様は、おとめマリアより生まれ、原田裕子のもとに苦しみを受け、十字架につけられました。」

私は、イエス様を十字架にかけてしまったのです。イエス様を死に追いやった、その私の深い罪を背負って、イエス様は十字架に架かってくださいました。そんな原田裕子なんか大嫌いだとはおっしゃらず、逆に、原田裕子がその罪のために死なねばならないのなら、自分が代わって十字架に架かってやるよとおっしゃって、それを本当に行ってくださったのです。それほどに、原田裕子のことが大好きだよとおっしゃってくださり、この私に代わって死んでくださったのです。

十字架で死なれたイエス様が三日後によみがえられたのは、原田裕子を決して見捨てず、ずっと、私のことを永遠に大好きでいてくださるという約束です。

私はこの真実を、私の人生で最も幸福なことと受けとめています。そして、毎日 朝を迎えるたびに思うのです ― イエス様は、今日も私を見守っていてくださる、私がたとえこの世の誰からも見捨てられても、イエス様は決して私を見捨てることなく導き続けてくださる。その日に自分が犯した罪を数えるのではなく、ゆるされた罪の喜びを数えながら一日を過ごせることを、本当に嬉しく思うのです。これほどに大きな安心と喜びは、ありません。

イエス様は、皆さんすべてを、そのように慈しんでくださいます。一人一人に、大好きだよ・愛しているよとおっしゃってくださり、それは永遠に変わらないと約束してくださいます。

この小さな私に、私たちそれぞれに、イエス様の十字架の出来事とご復活を通して神さまは大きな大きな愛をそそいでくださっています。他の何ものと比べることのできない、その大いなる恵みをいっぱいに受けて、今日から始まる一週間を心豊かに進み行きましょう。



2023年3月19日

説教題:わたしではなく御心を

聖 書:イザヤ書53章1~6節、マタイによる福音書26章36~46節


それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」

(マタイによる福音書26:40~42)


 今日の礼拝にいただいている聖書箇所には、イエス様逮捕の時が差し迫り、イエス様が悲しみもだえつつ祈られた出来事が記されています。実に多くの教えを私たちに与えてくれる聖書箇所ですが、今日はその多くの中のひとつだけに心をそそぎましょう。イエス様は、今日の御言葉を通して、何が正しい祈りか、正しく祈るために何を祈ればよいのかを私たちに明確に示してくださっています。

今日の御言葉で、イエス様が「悲しみもだえ」たことに私たちは驚き、ショックを受けます。イエス様は全能の神さまなのだから、いつも穏やかで、決して慌てず、悠揚迫らざる笑顔ですべてを受けとめられるはずだと私たちは何となく思っているからです。

私たちはここで、次の事実を思い起こさなければなりません。イエス様は全き神であり、全き人としてこの世においでくださいました。完全に神さまであると同時に、私たちと同じ人間です。人間であるがゆえに、イエス様は私たちと同じようにこの世の事柄を心で受けとめ、感情を大きく揺らされ、「悲しみもだえ」られました。イエス様が人間として地上を歩んでくださったからこそ、私たち人間は、天の神さまに祈るイエス様のお姿から、神さまの御前での人としての在り方を教えられるのです。

繰り返しますが、イエス様は今日の聖書箇所を通して、私たちに真実の祈りを教えてくださいます。ご一緒に御言葉をたどって、その真実の祈りの姿勢を学んでまいりましょう。

過越の祭の食事を弟子たちと共にした時、イスカリオテのユダはイエス様を裏切ろうと、主の晩餐の場から夜の闇へと出かけて行きました。イエス様が逮捕される時が迫っていました。そのような中でも、イエス様はいつもの祈りの習慣を変えることはなさいませんでした。

イエス様はエルサレムに入られてから、夜は弟子たちと共にゲツセマネという所で天の神さまに祈りをささげることになさっていたようです。その晩も、そこへ向かいました。しかし、いつもと違っていたことがあります。ユダの裏切りにより逮捕の時が近づいていて、イエス様はその恐れを、ご自身の祈りの中で神さまに訴えずにはいられませんでした。

イエス様は、こう祈られました。今日の聖書箇所 マタイによる福音書26章39節です。お読みします。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

イエス様はこの祈りを通して、私たちがどう祈らなければならないかをはっきりと教えてくださっています。この時、人間としてのイエス様の心には、これからご自分が進まなければならない十字架への道がありありと浮かんでいました。重い十字架を担がされ、鞭打たれ、ののしられて侮辱されながら、死刑が行われるゴルゴタの丘へと坂道を登って行かなければならないのです。激しい体の痛み、のどの渇き、心の痛み、孤独の深さと死に向かう絶望 ― それが十字架の出来事です。

イエス様は、その苦しみを受けることを「杯」と呼び、この杯を飲まずに済ませられるのなら、そうさせてくださいと天のお父様に願いました。それは「願い」でした。

私たちが今日、祈りについて学び、深く心にとめなければならないのはこのことです。「自分の願い」は「祈り」ではないということです。

イエス様の人間としての願いは十字架に架からず、これまでどおりに弟子たちとはつらつと伝道活動を続けることだったでしょう。一方で、神さまの御心はそれとは異なりました。神さまは、御子イエス様を私たち人間の救いのために十字架に架ける ― その使命をイエス様に与えて、イエス様をこの世に遣わされました。

人間としてのイエス様の望み・願いと、神さまの御心が食い違い、真っ向から衝突していました。人間の願いと、神さまの御心が食い違い、衝突することはたびたびあります。いえ、たびたびどころではなく、しょっちゅうです。

今、戦争が続いています。神さまは人間に平和に過ごすようにとおっしゃっているのに、人間は自分の言い分が通らないと平和を破壊したがります。あらゆる武器・あらゆる暴力を用いて、神さまの道ではなく、道なきところ・闇の中に無理やり、自分の道を作ろうとするのです。

神さまの御心と自分の願い ― どちらが正しいのかは、明らかです。神さまはすべてを知り尽くし、これから起こることを計画しておられます。そのご計画に基づいて、私たちの行いを導いてくださっています。

私たち人間は、今この瞬間のすぐ後に何が起こるかを知ることはできません。 たとえ大地震が起こるのだとしても、それを予知することができません。

神さまの御心と人間の願いが食い違って衝突することを、信仰の戦いと呼ぶことがあります。神さまの御心と、人を誘惑して支配しようとする悪が人の心に入り、人が犯す罪がぶつかり合うからです。

御心は、言い換えると「神さまのご計画」です。一方、私たちの願いは悪に誘惑されて、神さまのご計画からはずれた自分勝手なものになっている可能性があります。正しい願いか、罪深い願いか、私たち人間には自分の願いの正しさを判断することができません。神さまのようにすべてを見通し、未来を計画する英知を持たない人間には、願いの正しさを判断するのは不可能です。

今日の聖書箇所で、イエス様は三回、同じ祈りをささげ、三回とも、神さまの御心がかなうようにと祈られました。聖書で「三」は聖なる数ですから、この祈りの大切さがここからも私たちに伝わってまいります。

イエス様は人間的なご自身の願いを捨てて、神さまを第一に、神さまを中心に置かれました。正しく祈られることで、信仰の戦いに勝利されたのです。ご自分の人間としての願いを捨て、同時にそこにはらまれていたかもしれない悪を捨てられました。人間としてのイエス様は天の父に導かれ、心の中でご自身の願いを滅ぼされました。それによって、神さまの御心が勝利しました。

その祈りの言葉を今日の聖句からお読みします。私たちもその祈りを学び、そのように祈るようにと今日の聖書箇所から、イエス様から教えられています。まず、39節です。お聞きください。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」次に、42節です。お聞きください。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」次に三回目として、44節にこう記されています。お読みします。「三度目も同じ言葉で祈られた。」

イエス様は「わたしの願いではなく、御心が行われるように」と祈り、自分の願いを捨て、神さまのご計画の成就を第一とされました。

 自分の願いを捨てるなど、とうていできることではないと私たちは思ってしまいます。願いを「自分の欲」と言い換えると、イエス様の教えが心に近づいてくるかと思います。自分勝手な欲、あれが欲しい、これが欲しいという我欲を捨てて、神さまの愛と平和のご計画が成るよう祈りなさいとイエス様は教えてくださいます。

何度も、何年も礼拝に出席を続け、信仰生活を続けているうちに聖書を通して、私たちは神さまの御心が自分の願いと重なる経験を積んでまいります。人に優しく親切でありたい、人を分け隔てせず、平和を愛したいと願うようになります。主の御心が私たちのうちに宿り、主の御心を我が願いとしてイエス様と共に主の道を歩む幸いをいただけるのです。

けれど、どうしても、どうしても、祈れない時があります。その時のために、イエス様は私たちに「主の祈り」を教えてくださいました。「主の祈り」は、御心が成るようにと祈ります。

皆さまは、すぐに思い起こすことがおできでしょう ― 天にまします我らの父よ、願わくは御名をあがめさせたまえ、御国を来たらせたまえ、御心の天になる如く 地にもなさせたまえ。

イエス様は私たちに寄り添われ、私たちを優しく慈しんで、私たちが心乱れて祈ることができない時のことをも思いやってくださいました。だから「主の祈り」を教え、覚えさせてくださったのです。祈れないほど苦しい時は、私たちはひたすら主の祈りを祈ればよいのです。

この事実から、私たちがイエス様の深い愛に包まれている恵みがありありとわかります。その喜びを、あらためてしっかりと心にとめましょう。今日から始まる新しい一週間の一日一日を、イエス様に愛されて支えられている安心のうちに過ごしましょう。



2023年3月12日

説教題:主の過越の犠牲

聖 書:出エジプト記12章21~23節、マタイによる福音書26章17~30節


一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」

(マタイによる福音書26:26~28)


 今日の礼拝でいただいている新約聖書の聖書箇所 マタイによる福音書26章17節から30節には、大きく二つのことが語られています。ひとつは、過越の祭りの食事の最中に、イエス様が弟子の一人に裏切られることをすでに見抜いておられたことです。

この箇所を読んで、私たちは不思議に思わずにはいられません。神さまであるイエス様は、その英知によって当然 ユダの裏切りを御存じだったのに、どうしてそれを戒め、止めようとはなさらなかったのでしょう。

今日の聖書箇所で語られている二つ目の事柄が、その私たちの問いへの答えです。26節から28節にかけて、イエス様が行われた主の晩餐とその時に語られた御言葉から、私たちはイエス様がユダの裏切りを止めず、敢えて十字架への道を歩まれたことを知るのです。

主の晩餐で、イエス様はこうおっしゃいました。拝読します。「取って食べなさい。これはわたしの体である」、さらに「この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」この時、弟子たちにはイエス様の言葉の意味がわかっていなかったでしょう。しかし、イエス様は十字架に架かられるお覚悟をもってパンを裂き、それをご自身の体として弟子たちに与え、杯にぶどう酒を満たして、それをご自身の血潮として彼らに渡されました。キリストの教会で執り行われている聖餐式が、この時、イエス様ご自身によって行われたのです。

繰り返してお伝えします。今日の御言葉は、二つのことを私たちに伝えています。ひとつは、ユダの裏切りに表される私たちの罪です。そして、もうひとつは、その深い罪から私たちを救い出される神さまの大いなるご計画と、それを成し遂げたイエス様の自己犠牲の愛です。それぞれについて、御言葉に聞きつつ、ご一緒に思いめぐらしてまいりましょう。

 まず、罪についてです。私たちはユダがイエス様を裏切ったことを、最低最悪の人間がすることだと思います。人の信頼を裏切ることは、たいそう卑怯な行いです。イエス様が、ユダを困らせたり、傷つけたり、何かユダがイエス様を恨むようなことをなさったはずがありません。それなのに、ユダは銀貨三十枚のためにイエス様を裏切りました。なんという悪人か…と怒る前に、今日の聖句は私たちがそれぞれの罪を思いめぐらすようにと導いています。

ユダは裏切る時に、イエス様の逮捕を企んでいる祭司長たちのところへ行き、こう言いました。今日の聖書箇所の少し前、マタイによる福音書26章14節から16節をお読みします。「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」

この聖書箇所では二回、「引き渡す」という言葉が使われています。聖書のもとの言語・ギリシャ語では、「引き渡す」の他に「手渡す」「裏切る」そして「捨てる」という意味を持つ単語が用いられています。ユダはイエス様を捨てたのです。

神さまを捨てる・信仰を捨てる ― この表現は、神さまを、イエス様を いったんは信じたものの、自分には何の得にもならないから、教会に行くのをやめるという意味で使われることが多いのを、皆さんはご承知でしょう。ユダの裏切りの罪の根本は、自分勝手に神さまの価値を決めて、イエス様から離れてしまったことにありました。自分で考えて、自分が信じる道を進み、自分で判断した方が、イエス様である御言葉に従うよりもずっと確実だと思ったからです。

このようにイエス様から離れてしまうこと・イエス様に背いてしまうことは、私たちの誰にも起こり得ることです。光であるイエス様から離れたら、私たちはすぐに迷子になってしまいます。暗闇の中へと落ちてしまいます。これが死です。滅びです。聖書はイエス様から離れてしまうこと・イエス様に背いてしまうことを罪と呼び、その結果・報いを死と呼びます。

父なる神さまは私たち人間を造られた時から、私たちが神さまから離れる罪を犯すことを御存じでした。罪の結果・報いである死から救い出すために、神さまはまず、ご自分の民に律法・ルールを与えて守るようにと教えられました。ところが、民は神さまの愛の律法を勝手に解釈して、これを守ることができませんでした。死んで滅ぶしかない人間をそこから救うために、御子イエス様は天の父の御許から私たちのところへおいでくださいました。

ここから、二つめのこと・イエス様の自己犠牲についてお伝えするために、今日の旧約聖書の聖書箇所 出エジプト記12章21節から23節に記されていることをお話しします。ユダヤ民族が神さまに導かれて奴隷とされていたエジプトから脱出する時、神さまはその手立てとしてエジプトに災いをくだされました。十の災いがエジプトにふりかかりました。その最後・十番目の災いは、夜の間に神さまが遣わした「滅ぼす者」が、それぞれの家の最初に生まれた子(初子・ういご)の命を取るというたいへんむごいものでした。

神さまはユダヤの家々がこの災いを被らないように、ひとつの方法を教えました。それは、ユダヤの各家でたいせつな財産として、また愛おしんで育てている一歳の小羊を屠って、その肉を食し、その血をユダヤの家の入口の鴨居とそれを支える二本の柱に塗るという方法でした。初子(ういご)の命を取りにきた「滅ぼす者」は家の入り口の小羊の血を見ると、その家には入らずにそこを通り過ぎ、「過ぎ越し」ます。初子(ういご)を失うというその家の災いは、小羊を犠牲にすることによって回避でき、避けることができたのです。

イエス様はユダの裏切りを止めず、十字架に架かる覚悟を決められ、主の晩餐・聖餐でこうおっしゃいました。先ほど司式者が朗読された聖書箇所を、今一度お読みします。マタイによる福音書26章26節から28節です。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」

旧約聖書で、初子(ういご)を失うというユダヤの家の災いは、小羊を殺し、犠牲にすることによって回避できました。私たちは神さまから離れる・神さまに背くという罪を犯し、滅びなければなりませんが、イエス様が犠牲となって十字架に架かり、死なれることによって救われるのです。犠牲による救いは、旧約聖書の昔から、いえ、世の初めから神さまが計画してくださったことです。それは、私たちのために犠牲を払われた神さまの、また犠牲となってくださったイエス様の大いなる愛によって成し遂げられたのです。

私たちはどうしても神さまから離れ、主に背いて罪を犯します。しかし、イエス様が私たちへの深い愛をもって、私たちを救うためにご自分を犠牲にしてくださいました。尊い犠牲すなわち十字架のみわざ、そしてその三日後のご復活により、私たちは救いの約束をいただきました。私たちは滅びず、肉体の死を超えて、イエス様に寄り添われて永遠の命を生きる恵みに与っています。

そして、友のため、隣人のため、たとえ自分を敵とする者のために、自分を犠牲にする愛の豊かさをそれぞれの人生の豊かさとしてキリスト者として歩むようにと、主の道へと導かれています。

私たちは、自己犠牲という大それたことはできないと、つい尻込みしたくなってしまいます。しかし、自分の安楽を誰かのために譲ってあげること ― たとえば電車内やバスの中で、ご高齢の方や体の不自由な方に席を譲ってあげることから、始めることができます。困っている身近な方に自分の安楽を譲るのは、ささやかではありますが、自分の取り分を犠牲にすることです。イエス様の大いなる自己犠牲のみわざに導かれて、私たちそれぞれが小さな親切や優しい声がけといった、私たちにできる愛のわざを行いつつ、この新しい一週間を進んでまいりましょう。



2023年3月5日

説教題:すべての民の祈りの家

聖 書:イザヤ書 56章5~7節、マタイによる福音書21章10~17節


それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」

(マタイによる福音書21:12~13)


 今日、礼拝に与えられている御言葉は、イエス様の「宮清め」として知られています。宮すなわち礼拝の場であるエルサレム神殿を、イエス様が清められた出来事が記されています。

今日はこの御言葉から、二つの恵みをいただきましょう。

恵みをいただく前に、この聖書箇所を聞いて、または読んで私たちが感じる驚きを分かち合っておきたいと思います。この御言葉は「荒ぶる」イエス様の姿を私たちに伝えています。

イエス様は穏やかで優しい方です。しかし、もちろん、父なる神さまの戒めを語られる時には毅然とした厳しい態度をお取りになります。論争の時には、舌鋒鋭く過ちを指摘されます。神さまとして強い態度を表される時には、イエス様がそれを言葉でお示しになると私たちは承知しています。

ところが、今日の聖書箇所では、イエス様は詞ではなく激しい動作によって戒めを表されました。売り買いをしていた人々に言葉で「出て行け」とおっしゃったのではなく、行動によって「追い出し」ました。両替人や鳩を売る者にも「そんなことはやめなさい」とおっしゃったのではなく、なんと台や腰掛けを倒して彼らの商売を妨げました。そんな乱暴なことをイエス様がなさるなんて、と私たちはショックを受けます。

しかし、ここで私たちがしっかりと思い起こしておかなければならないことがあります。それは、イエス様は天地を創造された神さま、シナイ山で雲を湧かせ雷を轟かせ、稲妻を走らせてモーセに十戒を授けた神さまと同じ方、一体である方だということです。

ユダヤの民をエジプトから導き出した時、神さまは彼らを約束の地へと逃がすために海を二つに分け、彼らを追って来たエジプト軍の兵士がそこを通ろうとした時に、海をひとつに戻し軍を溺れさせました。そのような神さまの激しいお力の働きをもって、イエス様は過ちを厳しく指摘されたのが、今日 私たちがいただいている宮清めの出来事です。

さて、今日の御言葉の最初の恵みをお伝えします。それは、真実の祈りの場でこそ、神さまからの恵み・私たちの心を満たす祝福が与えられることです。真の祝福・主の愛は、私たちが自分の利益や損得を思わずに、ただ神さまを讃える時に私たちを豊かに満たします。

今日の聖書箇所マタイ福音書21章12節で、イエス様はエルサレム神殿の境内に入られたと記されています。境内とは、神殿の建物を囲む庭、特にここでは「異邦人の庭」と呼ばれる場所をさします。異邦人とは、ユダヤ民族ではなく、男性ならば生まれてすぐに神さまのものであるしるしを体に付けていない外国人をさします。神さまを我が主と仰ぐ環境に生まれなかった ― それが、異邦人です。

今日のもうひとつの聖書箇所 旧約聖書イザヤ書56章に記されているように、神さまは異邦人をも、もちろん、ご自身の民となさいます。しかしエルサレム神殿では、異邦人は「異邦人の庭」にしか入れず、ここで礼拝をするしかなかったのです。

ところが、この異邦人の庭は静かに祈りをささげることができない、とんでもない騒がしい場所でした。ささげものにする家畜が売り買いされ、高い手数料を取ってユダヤのお金に換金する両替人が横行していました。家畜を売り買いする者や、両替人は異邦人ではなくユダヤ人たちでした。家畜の鳴き声、最も貧しい人たちがささげものとして買う鳩の声、特に売り手と買い手の値段の取引の声で喧騒に満ち満ちていたのです。

売り買いしている人々は、神さまのことなど考えず、少しでも自分が得をするようにと値段の交渉をしています。神さまではなく、自分の利益を求めて神殿に来ているのです。礼拝や祈り、賛美などはそっちのけでした。

礼拝は神さまとの出会いを求めて集い、神さまだけを求める場です。礼拝で私たちは自分の思いを心から追い出し、からっぽになった心で神さまを求めます。神さまは、その私たちの求め・祈り・願いをかなえてくださり、からっぽになった私たちの心を恵みで豊かに満たしてくださいます。それが、私たちが礼拝を通していただく真実の恵みです。

今日の聖書箇所で、イエス様は、その恵みをまず当時のユダヤの人々に、また聖書を通して今を生きる私たちに教えてくださるために、あえて厳しく激しい行動をとられたのです。

さて、二つ目の恵みをご一緒に思いめぐらしましょう。イエス様は、この「異邦人の庭」で礼拝をささげるために集まった外国人たち、異邦人たちのために、この宮清めをなさってくださいました。

今日は、説教題を「すべての民の祈りの家」といたしました。これは、今日の新約聖書の御言葉で、イエス様自らが引用されている旧約聖書イザヤ書56章7節の聖句です。

神さまはすべての人間を創られ、私たちを一人残らずご自身の民として愛し、たいせつに見守ってくださいます。神さまの恵みは分け隔てなく、神さまを求める人誰にでもそそがれます。実際にそうでなければ、神さまの愛が極東の地・日本で暮らす私たちには届くことはなかったでしょう。ユダヤ人も、そうでない人たちも、すべての人が礼拝をささげ、神さまを求め、恵みに与るようにとイエス様は宮清めをなさってくださいました。

イエス様が分け隔てをなさらない方だということを、明確に表している聖句として特に注目したいのが、今日のマタイによる福音書21章14節です。

お読みします。「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。」

当時、神殿に入れるのは人間の目で見て、体に傷や不自由なところのないユダヤの男性だけでした。ユダヤの女性は「婦人の庭」で、そして体に不自由なところのあるユダヤの男性は「異邦人の庭」で礼拝しなければなりませんでした。

ここには、差別、区別があったのです。心が痛みますが、私たちの歴史上の事実です。

その差別されていた人々がイエス様の傍らに集まって来たと、今日の御言葉は告げています。イエス様は誰も分け隔てせず、弱い立場の者を助け、力づけ、慰めてくださることを、助けを必要とする者たちはよくわかっているからです。

通常、私たちは怒って荒々しい行動を取っている人に近づこうとしません。怖いからです。ところが、戒めとして、台や椅子を倒して激しい行動を取っておられるイエス様を、社会的弱者である差別された人々・虐げられていた人々は少しも恐ろしいと思いませんでした。

目の見えない人は、イエス様こそが自分の目を見えるようにしてくださると、純粋に神さま・イエス様の助けを求めてイエス様のそばに近づきました。足の不自由な人は、イエス様でなければこの足はいやされないと知って、一所懸命にイエス様のかたわらににじり寄って行ったのです。

イエス様は、彼らの思いと願いをよく知ってくださり、彼らの願いどおりに彼らをいやしてくださいました。

思えば、私たちも一週間の間に疲れを負い、時には心に傷を負って、この礼拝に集まります。イエス様に疲れと心の傷をいやしていただきたいと、一心に願って集うのです。

私たちのために、私たちに代わって十字架に架かり、ご自身の命に替えて私たちを救ってくださったイエス様にしか、自分のこの苦しみはいやせないと私たちは知っています。その私たちの痛みと傷、疲れを、イエス様はいたわり、愛で包み、いやしてくださいます。

この礼拝で、慰めと励ましを心にあふれるほどにいただきましょう。明日を、また新しい一週間を、歩み通す恵みを心いっぱいに受けましょう。私たちの歩みをイエス様が日々強めてくださることを信じ、祈りつつ進み行きましょう。



2023年2月26日

説教題:御言葉は我が道の光

聖 書:詩編119編105節、ルカによる福音書8章16~21節


「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。」

(ルカによる福音書 8:17~18)

「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」

(ルカによる福音書8:21)


イエス様は今日の聖書箇所で、私たちに「どう聞くべきかに注意しなさい」と諭してくださっています。前回に続いて、聖書の御言葉をどう聞けばよいのかをイエス様は教えてくださっているのです。さあ、ご一緒に心してイエス様の御言葉に耳を傾け、御言葉「に」聞きましょう。

今日はふたつのことを心に留めましょう。前半の「ともし火のたとえ」と小見出しのある御言葉からひとつ、後半の「イエスの母、兄弟」と小見出しのある御言葉からひとつです。前半も後半も、私たちはイエス様からの厳しい教え・戒めとして受けとめますが、実は、イエス様は私たちを大いに励ましてくださっています。聖書に記してある神さまの御言葉を、私たちが必ず理解し、感動をもって受けとめることができ、心豊かに養われるとおっしゃってくださいます。

ちょっと「え?」と思われるのではないでしょうか。聖書を読んでも、日本語で書いてあるのに意味がわからない…教会に通い始めた頃に、その経験をした方は少なくないと思います。イエス様は、その私たちに、聖書がわからないことはない、だから 礼拝はつまらなくない、まったく心配することはないと、今日の御言葉で断言しておられます。

イエス様は、御言葉を前にして「わからない」とたじろいでしまう私たちを、こう励ましてくださいます。まず、16節で、イエス様は御言葉とは明るい「ともし火」だと語られます。そして「入って来る人」つまり、教会に来る人皆に「光が見えるように」高く掲げられているとおっしゃいます。

聖書の御言葉は一見するとわかりづらく、意味がわからないように感じますが、光のように明らかに、見えるように、わかるように私たちに向けて差し出され、高く掲げられているのです。

確かに、わかりにくいところがあります。私たち人間とはまったく次元の異なる高みにおられる神さまが、私たちにわかるように人間の言葉でそれを伝えてくださろうとしているからです。その聖書・御言葉には、神さまのご計画が「隠れて」います。これが17節の「隠されているもの」、秘められた聖なる恵みです。

恵みは、隠されています。神さまの恵み・永遠の命に与る道は、何度もお伝えしたように「狭い門」です。マタイによる福音書からお読みしますので、お聞きください。イエス様は、こうおっしゃいました。「狭い門から入りなさい。…命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13-14)

この狭い門を通る時、つまり実際に狭いところ・狭い門を通り抜けようとするとき、私たちは体をどんなふうにするでしょう。そうです、体を縮めます。身を小さくします。私たちは神さまの御前に立とうとする時、神さまに至る道へと入ろうとする時、頭を下げて身をすくめ、屈んだ姿勢を取ります。これは、へりくだった謙虚な姿勢です。

御言葉の意味を知るたいせつな姿勢は、この「へりくだり」「謙虚」です。それが、御言葉に聞く時の私たちの基本的な姿勢です。神さまの御前で小さく小さくなって、こんな者のためにあなたは大事な独り子イエス様を十字架に架けてくださったのですと、私たちは御前にひれ伏す心で礼拝に集います。

礼拝は、招きの詞、讃美歌、交読文と進みます。その中で、私たちは多くの御言葉に触れます。神さまは本当にすばらしい、この神さまになんと自分が愛されているのだとあらためて知らされて、感謝を献げます。

実はこの礼拝の最中に、神さまは実にたいせつで、大きなみわざをなさってくださっているのです。そのみわざとは、聖霊の働きです。主は私たちの心に、礼拝の中で聖霊をそそいでくださいます。目には見えないけれど、私たちの間で生きて働いてくださるイエス様である聖霊が、私たちの「へりくだった謙虚な心」に宿ってくださるのです。

聖霊に導かれて、私たちは御言葉を心と魂と精神で知らされます。聖霊をいただいて、私たちは聖書の御言葉を心と魂と精神で受けとめられるようになります。御言葉がわかるようになるのです。

礼拝では使徒信条による信仰告白の後に、今日の聖書箇所が朗読されます。この聖書の御言葉・その日の聖書箇所が、その日の礼拝の中心です。続いて、説き明かし・説教が語られます。

イエス様は、御言葉と説教を聞く時の姿勢をこう教えてくださいます。今日の聖書箇所・18節の後半です。お読みしますので、お聞きください。「持っている人は更に与えられる。」イエス様に愛されて救われたことへの喜びと感謝を「持っている人」は、「更に」もっと、溢れるほどにイエス様と共に生きる喜びを「与えられる」、とイエス様はおっしゃいます。

この喜びが、主の日から始まる新しい一週間・七日間を過ごす私たちの力になります。一週間の疲れを背負って教会に来る私たちは、礼拝で疲れを癒されて、御言葉から新しい力をいただきます。これが、神さまの秘められたご計画の一部です。

私は日曜日、礼拝が終わるたびにこのように感じます ― 礼拝が終わって会堂から帰られる皆さんをお見送りする時、皆さんは何となく顔が明るくなっています。ホッとした笑顔を向けてくださいます。ご自分では意識されていないかもしれません。しかし、皆さんそれぞれに御言葉を心に受けて、それぞれに恵みを「お持ち帰り」していると私には感じられて、たいへん嬉しく思います。神さまに、イエス様に、心からの感謝をささげる思いへと導かれます。

今日の聖書箇所で、18節の終わりに、イエス様は謎めいた言葉をおっしゃいました。お読みします。「持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」これは、礼拝に慣れていると自分で勝手に思い込んでいる者、特に説教者を戒める厳しい御言葉だと私は受けとめています。礼拝の間、今日の聖書箇所を自分はよくわかっていると思う人を、イエス様は「持っていない人」、つまり「新しくイエス様と出会う、新しい喜びと力を持っていない人」とおっしゃるのです。

御言葉との新鮮な出会いがどれほど大切か、心がイエス様の救いの喜びで新しく満たされると私たちがどれほど力づけられるかを、イエス様は教えてくださいます。

 さて、二つめのイエス様の今日の教えに聞きましょう。「イエスの母、兄弟」と小見出しのある今日の聖書箇所の後半は聞いて、または読んで、私たちは再びちょっと「え?」と感じます。イエス様が、せっかく訪ねて来た母マリアと弟たちを退けるような言い方をされるからです。

21節は「神の言葉を聞いて行う人たち」だけを、イエス様が「母、兄弟」つまり「家族」とみなすように聞こえます。実際には、イエス様の母マリアはイエス様が十字架に架かられた時に、その場にいました。イエス様は決して母マリアをご自身から遠ざけたり、家族としてのつながりを断ってしまったりはなさいませんでした。

イエス様は、今日の21節の御言葉を通して、私たちにこう伝えようとなさっておられます ― イエス様は私たちと一緒に御言葉の恵みに与り、共に永遠の命への道を進む教会の仲間を真実のイエス様の家族として、深く愛し、たいせつにしてくださるのです。

私たちはイエス様の御前、神さまの御前で小さくへりくだります。しかし、イエス様に従う弟子である私たちを、イエス様は「友」と親しく呼んでくださいます。イエス様は、私たちを「友」だと2回もおっしゃってくださいました。ヨハネによる福音書から、イエス様の言葉をお読みします。「あなたがたはわたしの友である。」(ヨハネ福音書15:14)、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」(ヨハネ福音書15:15)

「友」とは、堅く強い絆で結ばれた仲間であると、イエス様はこのように告げられました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ福音書15:13)友の命を自分の命に代えても守り抜き、助け、救うとイエス様はおっしゃられました。おっしゃっただけではありません。

イエス様は、私たちを友としてくださり、私たちを罪の贖いである死から救い出すために、ご自分が私たちに代わって十字架に架かり、本当に命を捨ててくださいました。そのようにして救われた者たち・イエス様の友の集まりが、こうして教会に集い、イエス様を共に仰ぐ私たちです。教会の兄弟姉妹、神さまの家族です。

 先週の水曜日、2月22日は「灰の水曜日」でした。この日から、教会はイエス様の十字架でのご受難を思い、復活の朝を待つ受難節の歩みを始めました。

今日からイースターまでの一日一日、まずは今日から始まる新しい一週間の一日一日を大切に、誠実に、御言葉を私たちの道を照らす光、足元を照らしてくれる明るい灯としてイエス様に従って進み行きましょう。



2023年2月19日

説教題:御言葉に聞く

聖 書:詩編126編5~6節、ルカによる福音書8章4~15節


弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」

(ルカによる福音書8:9~10)


今日はルカによる福音書から、イエス様のたとえ話と言えばすぐに思い浮かぶ代表的なお話をいただいています。イエス様は、このたとえを通して弟子たちに御言葉をいただく心の備えを教えてくださいました。たとえを人々に語り、その後でイエス様は特別に弟子たちだけに、その説明・説き明かしをなさってくださいました。

今日の8節でイエス様が人々に語ったこのたとえ ―「良い土地に落ち、生え出て百倍の実を結」ぶ心 ― とは、15節のイエス様ご自身の説き明かしにより「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人」だと、私たちは教えられ、受けとめます。ですから、この「種」(たね)のたとえ話そのもののさらなる説き明かしは、今日の礼拝では行うには及ばないでしょう。

今日、この聖書箇所を通して皆さんにお伝えするようにと導かれたのは、イエス様が弟子たちに伝えようとしたふたつの恵みです。

まずひとつは、今日のたとえ話で「種」と言われている「神さまの御言葉」こそ、イエス様その方だということです。

今日は説教題を「御言葉に聞く」といたしました。「御言葉を聞く」ではなく、教会ではよく「御言葉に聞く」と言います。どうしてこう言うのかは、「御言葉」という言葉を「イエス様」に置き換えると、たいへんよくわかるのではないでしょうか。

また、「御言葉に聞く」という言い方は、聖書に記されているある出来事にもよります。イエス様の弟子ペトロ、ヨハネ、ヤコブは、イエス様が地上でただ一回、神さまの御子のお姿を顕して真っ白な衣姿となった時、天からの父なる神さまの声が響きました。この出来事は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書すべてに記されています。天からの声は、こう言ったのです。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(マタイ17:5、マルコ9:7、ルカ9:35)

そして、ヨハネによる福音書はその冒頭で、言(ことば)がイエス様となって世においでくださったことを語っています。だから、教会では「イエス様に聞く」、「御言葉に聞く」のです。

さらに、「御言葉に聞く」という表現で、たとえば音楽を聞く、鳥の声を聞くという時のような受け身の姿勢にとどまらず、聞いてから 「御言葉に従う」という私たちのその後の積極的・能動的な行いも示しています。

イエス様は人々を慈しみ、優しく接して助けてくださいました。私たちもイエス様に聞き、イエス様のなさったことを知り、それに従って、イエス様の後をついて「御言葉に聞いて」まいりましょう。

  次に、今日の聖書箇所で、イエス様が私たちにくださるもうひとつの恵みをお伝えしましょう。この恵みそのものについてお伝えする前に、イエス様が、この大きな幸いはイエス様についてゆく者にだけ与えられていると教えてくださったことをお話しておかなくてはなりません。

この恵みは、イエス様についてゆこうとしない「他の人々」には与えられていないのです。イエス様はそれを、今日の聖書箇所で、旧約聖書イザヤ書6章9節から10節を引用して弟子たちに語られました。お読みしますので、お聞きください。「他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」(ルカ福音書8:10)

私たちには、神さまの御心を悟る形のある手立て、目に見えるものとして聖書が与えられています。しかし、イエス様の十字架の出来事とご復活を信じずに聖書を読んでも、字や言葉は見えても、また聖書朗読が礼拝の中で聞こえても、その内容がわからないとイエス様はおっしゃいます。わからないとは、感動をもって受けとめられないということです。

御言葉を聞いて、私たちはイエス様が私たちに代わって十字架で命を捨ててくださったこと、しかし三日後によみがえられたことで、この自分が主に深く愛されて救われた幸いを、喜びをもって思い起こします。実に心が震えるほどの深い感動をもって、思い起こします。聖書が「わからない」とは、たいへん残念なことに、この恵みに心が震えない、この幸いを喜んで思い起こすことができないということです。

礼拝ごとに、日ごとに、イエス様に救われ、神さまに愛されて守られていることを思い起こすことで、私たちはイエス様につながり続けられます。イエス様はこの自分を、お命を捨てるほどに愛してくださった、だから今日、まわりへの思いやりをもって生きようと新たに決心することで、私たちは主にあって豊かに毎日を過ごすことができます。

イエス様は今日、それをあらためて私たちに教えてくださいます。イエス様の愛を知った者は、イエス様の弟子です。十二人の弟子だけでなく、キリストの信仰共同体、つまり 今ここに集まっている教会の皆さんを含めて、すべてイエス様の十字架の出来事によって救われたと信じ、感謝する者はイエス様の弟子、クリスチャン、キリスト者です。

そして、イエス様は今日の御言葉で、キリスト者には「神の国の秘密を悟ることが許されている」(今日の10節です)とおっしゃいます。この言葉を聖書の元の言語から直訳すると、このようになります。「神さまの御心を知ることができるように、与えられている。」これは、たいへん大きな恵みです。私たちは人間ですが、イエス様を信じてついてゆけば、次元の異なる高みにおられる神さまのご計画に導かれると、イエス様はおっしゃってくださるのです。言い換えれば、今がどんなにつらくても希望を持って前へと進み続けられると、イエス様は私たちを励ましてくださいます。

十字架に架かられたイエス様は三日後に墓から復活され、私たちにどん底からの再起を約束してくださいました。もうダメだと思っても、希望を抱いて進むと必ず光が見えてくるとイエス様は教えてくださいます。

教えてくださるだけでなく、必ず人の思いを超えた光を、イエス様は助けとして与えてくださいます。先週 何か失敗をしてしまって今は落ち込んでいても、今週はきっとそれを乗り越えて先に進めるとイエス様は力づけてくださいます。

この一週間は、きっと先週よりも幸いが豊かだ ― きっと、先週よりも恵みが濃密に与えられる ― イエス様がくださるその期待を胸に、今日から始まる新しい七日の旅路を、イエス様からいただく愛を数えながら その一日一日を、しっかりと生きてまいりましょう。



2023年2月12日

説教題:主のことを語り伝えよ

聖 書:詩編22編1~32節、ルカによる福音書8章1~3節


すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

(ルカによる福音書 8:1~3)


 今日の礼拝には、たいへん長い旧約聖書箇所と、それとは実に対照的に短い新約聖書箇所が与えられています。もちろん長い・短いにまったく関係なく、聖書の御言葉はすべてがたいせつで 私たちへの豊かなみ恵みにあふれています。ただ、皆さまには今日の短い新約聖書の特徴を心に留めていただきたく思います。

新約聖書には、私たちの救い主イエス様がなさったこととおっしゃったことが記録されています。その中で、今日の箇所では、イエス様に従っていた者たちのことが記されているのです。イエス様と共に福音伝道の旅をしていた者たちは、後の世の私たち・教会の姿を彷彿とさせます。その意味で、私たちは今日の聖書箇所を心に深く受けとめたく思います。

では、聖句をご一緒に読んでまいりましょう。まず、8章1節でイエス様がなさったことが語られます。この最初の節には、十字架に架かられるまでに、イエス様がこの地上でなさったことが記されています。 それはここに書いてある通りに「神の国を伝えること」「福音を告げ知らせること」、そして、人々をいやすことでした。

今日の御言葉は、すぐにこう続きます。「十二人も一緒だった。」(ルカ福音書8:1b)十二人とは、イエス様の十二人のお弟子をさします。弟子たちはイエス様に付き従って、福音伝道に励んでいたのです。

イエス様は神さまです。何でもおできになる方です。ですから、伝道のみわざもお一人で進めるのはたやすいことでした。けれど、ご自身のみわざに私たち人間を招き入れ、一緒に伝道しようと参加させてくださったのです。

それは、イエス様がいつまでも私たちと共に地上においでにはならないからでした。十字架の出来事の後、イエス様はご復活されて天の御父の右の座に戻られ、私たちにはそのお姿が見えなくなります。聖霊降臨を経て、後の世の教会の誕生へと私たちを導くために、イエス様は弟子たちがイエス様の姿を見られなくても大丈夫なように、備えてくださったのです。

十二人を選び、福音伝道を一緒に行い、その中で弟子たちにいろいろなことを教えてくださいました。十二人の弟子たちの他にも、イエス様を慕って一緒に伝道旅行をしている者は大勢いたことが知られています。数十人から百人近い人々が、イエス様を取り巻いて一緒に旅をしていたと言われています。

今日の聖書箇所には、一緒に旅をした三人の女性の名が挙げられています。イエス様の時代では、女性の社会的身分が男性と同じように認められておらず、その自由な行動は制限されていました。神殿で礼拝を献げる場所も男性と女性とでは異なりました。何となく、神さまからの恵みが男性の方がより豊かにそそがれると思い込んでいた人も少なくなかったかもしれません。

もちろん、私たちは神さまの恵み・イエス様の愛がありとあらゆる人に等しく、分け隔てなく、惜しみなくそそがれていたことをよく知っています。今日の聖書箇所はイエス様の時代には隅に押しやられがちで、恵みも薄いと思われがちだった女性たち・婦人たちが、イエス様の一行の中で分け隔てなく存在感を発揮していたことを私たちに伝えてくれます。

今日の聖書箇所の最後の聖句は、こう告げています。「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」(ルカ福音書8:3)イエス様の時代に、自分で商売をしてお金を稼ぐ経済的に自立した女性がいないわけではありませんでした。しかし、女性の多くは自分の財産と呼べるのはお嫁入りの時に父親が持たせてくれる持参金と、母親からの衣服や宝飾品だけだったと思われます。そのわずかな物を、女性たちは伝道旅行のために使ってくださいと持ち寄り、伝道活動を支えました。

イエス様の一行は、先ほどお話ししたように数十人から百人ほどの大きな団体でした。その団体が旅をしているのですから、実にたくさんの物が必要でした。まず、日々の食事が必要です。また、おそらく野宿だったでしょうから、寝る時に必要な寝具、衣服、衛生用品、日常用品などなど、なくてはならないものがたくさんありました。

男性もその調達に大きな働きをしたに違いありませんが、日常のこまごまとした品物を揃え、料理をしたり、片付けたり、整理して持ち運びやすくしたりするのは、主に女性たちだったのではないでしょうか。そのために、女性たちはそれぞれ自分の持ち物を献げ、あるいは持ち物をお金に替えてそれを献げ、実に大きな貢献をしたと思われます。

日常的なことなので目立ちませんが、日々の生活を支えるこれらの務めは絶対必要なものです。ルカによる福音書を記した者の目は、それをしっかりととらえていました。福音書記者の目が、と言うよりも、イエス様の暖かいまなざしがどこにそそがれているかを、記者がよく見ていたと申した方が良いでしょう。イエス様のまなざしは、常に、すべての人たちを見守っていました。もちろん、目立たないところで一行を支えている人たちにもそそがれていました。女性に限らず 口数が少なく静かな男性や、まだ若いために軽んじられやすい青年たちにも、余すことなく まっすぐにそそがれていたでしょう。イエス様は、弱い立場だと軽蔑される人の苦しみや悔しさを決して侮らず、さげすまれず、一人一人に等しく、それぞれに必要な助けを与えられます。

そのイエス様の分け隔てのない慈しみを、イエス様と伝道旅行をしていた一行はうるわしい愛として知り、受けとめ、できれば自分もそうしたいと思うようになっていました。イエス様に倣って、自分も人間社会で軽んじられやすい人たちに優しいまなざしと言葉をかけ、仲間に招き入れたいと願う思いやりが育まれていたのです。

後に教会へと育って行く群れの姿(使徒言行録4:32~36をお読みください)を、私たちはこの女性たちの奉仕に、また女性たちばかりでなく、イエス様に付き従っていた一行の奉仕の姿に読み取ることができます。

奉仕は、自分の物を自分のために使わず、誰か他の人のために差し出して犠牲にすることです。

前回の聖書箇所で、私たちは奉仕の原点が罪を悔い、ざんげする心であることをご一緒に聴きました。罪を繰り返すこの自分を何度もゆるし、決して否定しない方 ― そのお方こそがイエスさまであると、私たちは知っています。イエス様は、私たちがどうしようもない者の集まりだったとしても、「あんたなんか、お前たちなんか、いなければよい」と絶対におっしゃいません。逆です。イエス様は私たちに、あなたには、必ず生きて一緒にいてほしい、あなたたちと一緒に歩み続けたいとおっしゃってくださいます。

そのために、イエス様ご自身が、ご自分がお持ちのものを私たちのために差し出してくださいました。イエス様がお持ちの物、それはイエス様の地上の命です。イエス様は、十字架に架かられた時に三十四歳だったと言われています。三十五歳、三十六歳と、それから先も重ねて行くはずの年月を、命とそれがもたらす幸いのすべてを、イエス様は私たちのために犠牲にしてくださいました。

私たちがイエス様に奉仕をしたのではなく、イエス様がまず、私たちにご自分の命を差し出して奉仕してくださいました。聖書では ヨハネの手紙一4章10節に、それが明確に記されています。お読みします。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を贖ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

イエス様が私たちの罪のために、代わりに命を差し出してくださったから、私たちはそれに感謝して、私たちの感謝を讃美として、また礼拝と奉仕として献げます。

イエス様が私たちを愛してくださったから、私たちは自分の物を出し合って、それぞれにできることで協力し合って、教会のため、世のため、隣人のために働き、イエス様がくださった愛を分かち合おうとします。イエス様が私たちを愛し、そのために苦しんでくださったから、私たちも自分にできる何らかの犠牲を払い、感謝を表わし、イエス様の愛を伝える為に時間と力を献げるのです。

イエス様が十字架に架かってくださった時、私たちのためにどれほど苦しまれたかを、私たちは今日の旧約聖書の御言葉・詩編22編を通してご一緒に聴きました。この詩編の言葉は、こう始まります。「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。」(詩編22:2)詩編22編は、無罪であるにも関わらず、濡れ衣を着せられて罪人として滅びてゆく信仰者の祈りの言葉と言われています。

この詩編の冒頭の言葉が、イエス様が十字架で叫ばれた言葉と同じであることを、わたしたちは思い起こさなくてはなりません。(マタイ福音書27:46、マルコ福音書15:34)

詩編22編は、私たちがただ一人で信仰者として生きてゆくのではなく、教会として、信仰者の群れである信仰共同体として生きる恵みを示してくれます。

この祈りを献げた人は、個人としては恥辱と苦難の中で地上の命を終えて行きました。しかし、この人は、自分の信仰が地上の命と共に終わってしまわないことを知っています。

この人の信仰は、共に生きた信仰共同体と共に生き続けます。信仰共同体すなわち教会が生き続けるとは、神さまの教えが教え続けられ、イエス様の十字架の出来事とご復活の福音が告げ知らされ、疲れた者が礼拝と交わりの中でいやされる、それがずっと続くことです。イエス様の愛が語り続けられ、それに応えて愛の奉仕が続くことです。

信仰が生き続けることを信じるとは、それぞれ、自分が持っている物を差し出し、それによって皆が活かされる教会の奉仕の営みがずっと続くことを信じることです。イエス様の十字架の出来事で救われたことを喜び、兄弟姉妹が日曜日ごとに会堂に集まって礼拝を献げ、交わりを通して励まし合うことを信じているのです。

だから、詩編22編を祈る人はこのように主を讃美します。お読みしますので、どうぞ良い耳を開いてお聞きください。「主は貧しい人の苦しみを 決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく 助けを求める叫びを聞いてくださいます。それゆえ、わたしは大いなる集会で あなたに賛美をささげ 神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。」(詩編25:26)

 この薬円台教会を通して、先に天に召された方々がおられます。教会の最初の牧師である宮﨑 創先生をはじめとして、多くの方が、ここに薬円台教会が立ち続け、毎日曜日の礼拝が献げられるようにと祈りつつ地上の命を歩まれ、ここから天に送られて行きました。

その方々の祈りは今、ここ・この会堂で、こうして応えられています。私たち薬円台教会はここに立ち続け、今日も礼拝が主に導かれて献げられています。先達の祈りはかなえられ、満願を迎えているのです。地上の命が終わっても、主が祈りをかなえ続けてくださる。 これこそが、永遠の命です。イエス様のご復活は、この永遠の命が私たちに約束されている恵みのしるしです。 

 薬円台教会は、来年 創立五十周年を迎えます。先週の日曜日には、教会総会にて新役員が選出され、新年度への歩みが着々と進められています。今日の聖書箇所に倣って、私たちも自分たちが持っている賜物と時間を出し合って、力を出し合って、教会としてひとつとされてイエス様の愛にお応えし、仕えてまいりましょう。今日から始まる新しい一週間を、救われた喜びを胸に力強く進み行きましょう。



2023年2月5日

説教題:赦されて愛を知る

聖 書:ミカ書7章18節、ルカによる福音書7章36~50節


「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

(ルカによる福音書 7:47)


 今日の御言葉には、一人の罪深い女性が涙ながらにイエス様に精一杯、その場でイエス様のために自分にできることを行ったことが語られています。その女性の行動を、私たちは奇妙だと感じます。昔の人だから、またはユダヤの人だから、こういうことをしたのかと申せば、決してそうではありません。時代や文化に関係なく、この女性がしたのは誰の目にも驚きの行動として映りました。

この女性は、イエス様とそれまでまったく面識がなかった・会ったことがなかったと思われます。罪深い女とありますが、この人がどのような罪を犯したのかは、今日の御言葉には記されていません。ただ、一目見て「罪深い」と分かる装いや雰囲気を持つ女性だったのでしょう。誘惑に満ちた派手な装いで化粧が濃く、すぐに娼婦と分かる姿だったと想像できます。

この女性は、イエス様への挨拶も、自己紹介も、何もせず、いきなり食事をなさっているイエス様の足元に後ろから近づきました。普通、こういうことはしないでしょう。

そして、この女性は滂沱の涙を流しました。見ている人は、びっくりしたでしょう。この聖句を読む私たちも、びっくりです。

涙の理由は聖書箇所には記されていませんが、女性は自分が人の享楽的な肉の欲望を満たす生業であることを悲しみ、そのようにしか生きられない自分を嘆いて、罪に苦しめられている心をイエス様の御前にさらけ出して泣いたのでしょう。

女性は娼婦である自分が、十戒では姦淫の罪を犯していることをよく承知していました。しかし、貧しさや、育った環境から、そのようにしか生きる手だてがなかったことは容易に想像がつきます。

私たちが泣くのは、涙があふれてしまうのは、自分では事態をどうすることもできない時です。女性は罪深い自分が、この罪の沼から自力で這い出ることができないと諦めていました。しかし、イエスさまなら罪の沼から自分を引っ張り上げて、救い出してくださるかもしれない、イエスさまなら、自分の苦しみを分かってくださるかもしれないと信じました。

泣きながら、女性は、イエス様のために自分にできるせいいっぱいのことをしました。

当時のユダヤの人々は足にサンダルを履いており、砂ぼこりでイエス様の足も汚れていました。女性の涙はイエス様の足に流れ落ち、彼女はそれを自分の長い髪で拭い、イエス様の足をきれいにしました。イエス様の足に接吻して、持ってきた高価な香油をかけ、整えたのです。

女性が当時の人々から顔を背けられる罪深い娼婦だったことと合わせ、その行動がたいへん奇妙だったので、その場にいたファリサイ派のシモンという人が、その場にいたすべての人を代表するように、いわば「良識的な」観点からイエス様を批判しました。

ところが、イエス様はこの女性の行いも、また女性の存在そのものも慈しみをもって受け入れられました。イエス様は、シモンと人々に女性の行動の意味と意義をしっかりと伝え、さらに罪の赦しを宣言して、清められたこの女性を「安心して行きなさい」と祝福してくださいました。自分は罪深くない善人だと思ってこの女性を批判し、裁き、差別する者たちよりもはるかに豊かで特別な恵みを、イエス様はこの女性に与えてくださったのです。

女性が自分の罪の汚れを心から悲しんでおり、それをイエス様の前に隠さず涙で表し、自分にできるイエス様への心からの思いやり・愛を献げたことをイエス様は大いに喜んでくださいました。

「自分の罪の汚れを心から悲しみ、それをイエス様の前に隠さず涙で表す」 ― これを、「ざんげ」と申します。

今日は、特にこの「ざんげ」そして「罪を赦される恵み」について思いを巡らすようにと導かれている ― そのように思わずにいられません。

今、「ざんげ」という言葉を用いました。皆さまの中に、少し首を傾げたくなった方はおいででしょうか。「ざんげ」はカトリック教会で行われるもので、私たちプロテスタント教会には馴染まないとお考えかもしれません。

実は、そんなことはないのです。カトリック教会では、むしろ「ざんげ」という言葉よりも罪を告白し、その罪から解放されるという意味で「告解」という言葉が用いられます。映画などでご覧になったことがおありだと思います。教会の建物・会堂の中に「告解室」という小部屋があり、そこで神父に罪を告白し、神父は神さまに代わって罪の赦しを告げて その重荷から告白した人を解放します。これはカトリック教会では「聖なる儀式」で、カトリック信徒・カトリック教会の人は一年に一回、必ずこの儀式に与ります。

私たちプロテスタント教会にはこの儀式がなく、またこれを聖なる儀式とはいたしません。その理由のひとつとして、私たちは誰も人間は神さまの代わりができないと堅く信じていることが挙げられます。誰も、神さまに代わって罪の赦しを直接 告げることはできないのです。

 しかし、私たちにはざんげが必要です。イエス様に十字架で罪をゆるしていただいたのに、そのためにイエス様は地上のお命を捨てられたのに、私たちは、少なくともここにいる中では、この私は、また罪を犯してしまうからです。

私は日々ざんげしなくてはならない者であると、自らのことを思っております。できるだけ罪から遠ざかり、罪を犯すまいとしても、私にはそれができません。

私はご年配の方の体の痛み、弱っている方の心の痛みを想像しても、限界があるので、思いやりに欠け、気付かずに無神経なことを言ったりしたりしていると思います。

また私には、自分で自覚している大きな欠点・罪がいくつもあります。その中から思いつくままにふたつを挙げると、心が冷たいこと、それから勇気がないことです。

私は、子どもの頃から、この人とはうまくやれそうにないとか、そばにいると自分が傷つけられるとか、この人はどこか間違っていると感じると、その方を敬遠し、できるだけ関わりを持たないようにしてしまいます。子ども時代、特にいわゆるティーンズの頃には、ずいぶんそのことで悩みました。

私が苦手だと感じて敬遠してしまう人は、たいていまわりの人・クラスからもそう思われています。そのために孤立しがちです。そのような人には、自分から声をかけ、積極的にお友だちになろうとするのが、望ましい行動でしょう。友なき者の友になるようにと、イエス様は教えてくださっています。でも、十代の私には、それがどうしてもできませんでした。傷つけられたり、面倒な人間関係に巻き込まれたりするのを恐れて、逃げ腰になってしまいました。今でも、おそらく、私のその性格的傾向は変わっていないでしょう。

私は、イエス様の赦しをいただきたいです。私には「ざんげ」が必要です。ざんげは、ゆるしを求める行いです。

ゆるされると、私たちは心が軽くなります。ゆるされるとは、存在を肯定されることです。「そこにいてよい、生きていてよい」と言われることです。過ちを犯して謝罪し、人にゆるされると私たちはそれぞれ、とてもほっとして嬉しく感じます。

人間同士でも嬉しいのですから、神さまにゆるされて「あなたは生きていてよい、わたしの子よ」と言っていただけたら こんな嬉しいことはありません。

嬉しいことをしてもらったら、私たちはなんと言い、何をするのでしょう。幼稚園の一番小さい子どもたちのクラスでも、みんなが知っている言葉と行いです。私たちは「ありがとう」と言い、自分がしてもらって嬉しいことを、誰かにしてあげるのです。

今日の聖書箇所の罪深い女性は、感謝の言葉を声にはしませんでしたが、その行いと存在のすべてでイエス様に自分がしてもらって嬉しいことを最大限行いました。

人間が神さま・イエス様に献げられるささやかな感謝の表われを、イエス様は喜んでくださいました。これは、奉仕です。

この女性がイエス様に献げた行いと、私たちが教会で働き、献げる「奉仕」は同じです。イエス様は、それを喜び、祝福してくださいます。今日 このことを、心に深く留めておきましょう。

私たちの奉仕の源は、ざんげの心・罪を悔いてゆるしを求める心です。奉仕は、イエス様に認めていただこうと、頑張ることではありません。ですから奉仕は、具体的な行いである必要はないのです。イエス様、私のために十字架に架かり、命を捨てられて 私の罪を赦してくださってありがとうございます、だから私はこのとおりに生きて行けるのですと、祈ることが奉仕です。祈りこそ、私たちの第一の奉仕です。

今日、教会の「具体的な奉仕」である役員の選出が、この礼拝の後に行われます。すべての奉仕の原点・ざんげの思いを今日、ここに深く思いめぐらして御心をいただきましょう。

イエス様は、今日の聖書箇所の最後の聖句で、女性を強く励ましてくださいました。「ここにいてよい、あなたは私のものとして永遠に生きてゆく、だから安心して行きなさい」と新たな希望の道へと歩みをすすませてくださったのです。このイエス様の愛をいただいて、私たちも、この一週間も力強く進み行きましょう。



2023年1月29日

説教題:神を神と知る恵み

聖 書:詩編 92編5~7節、ルカによる福音書7章24~35節


「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」

(ルカによる福音書 7:28)

「…知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」

(同福音書7:35)


今日の聖書箇所は、礼拝で何度か聞いたことがある・読んだことがあると感じる方が多いと思います。そして、その記憶の割には イエス様が何を教えてくださったのかよく覚えていない…という方が多いのではないでしょうか。

今日の御言葉でイエス様が私たちに教えてくださることのエッセンスを、まず初めにお伝えしておきましょう。そのうえで、聖句を少し詳しくご一緒に読んでまいります。

イエス様が今日、私たちに教えてくださるのはイエス様がこの世においでくださったことで、私たちが、その前よりも神さまを深く知ることができるようになったという大きな恵みです。神さまは、罪に罰を与える恐ろしいだけの神さまではなく、罪を赦してくださる愛の方です。それを、イエス様のお生まれと、十字架の出来事とご復活を通して、私たちは知ることができるようになったのです。その新しい恵みのメッセージを皆さまに伝えたく、今日の説教題を「神を神と知る恵み」といたしました。

神さまは、ヨハネのように禁欲的な、信仰的に優等生のような人間だけでなく、神さまに命を与えられ、生きることを心から楽しむ人間を深く喜んでくださいます。人生を喜ぶ私たちと、イエス様を通してこの世で交わってくださるのが、私たちが神さまと仰ぐお方なのです。それを私たちに知らせようと、私たちと同じ人間として世に独り子イエス様を送られた創造主なる神さまの愛、そして御子である救い主イエス様の深い愛を、今日のイエス様ご自身の御言葉を通してそれぞれの胸にいただきましょう。

さて、前回の礼拝で私たちは、苦難に遭ったヨハネの信仰の揺らぎと、それにもかかわらずヨハネがつまずかなかったことを聴きました。

神さまは本当に自分を見守ってくださっているのかと、不安や疑いが心に浮かんだら、自分で勝手に結論を出してしまう前にイエス様に祈って尋ねることを私たちはここで学んだのです。そのヨハネの使いが帰って行った後、イエス様は、今度は群衆に向かって話し始められました。「群衆に」と記されているのは、聖書を通して今、イエス様が私たちに語りかけてくださっていると受けとめて良いでしょう。

イエス様はヨハネについて、私たちにこう語られます。今日の聖書箇所7章26節の御言葉です。お読みします。「(あなたがたは荒れ野に)何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。」荒れ野で救い主の到来に備えるようにと呼ばわっていたヨハネを、イエス様は旧約聖書に記されている「使者」、神さまからの使いの者である天使をさす言葉と同じ言葉を用いてたいへんおほめになりました。

旧約聖書の時代、預言者にしか神さまの御言葉は託されることがありませんでした。私たちは今、誰でも聖霊の助けによって聖書を読み、励ましと感動をいただくことができます。耳で聞くことはできませんが、神さまの御言葉を聖書を通して心で聴く道が開かれています。

 ところが、イエス様が世においでになる前は、神さまに選ばれて預言者として立てられなければ、神さまの御言葉を聴くことはできませんでした。洗礼者ヨハネは、救い主・メシアであるイエス様がすでに世にお生まれになったことを神さまから知らされ、その恵みの事実を荒れ野で人々に伝えました。その意味では、預言者でした。

 さらに、イエス様はマラキ書3章1節の預言者マラキによる預言の言葉をこう引用されました。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう。」この預言の実現が、洗礼者ヨハネその人だったことをイエス様は群衆に、また私たちに告げてくださいます。

 ヨハネはイエス様を救い主としてお迎えするにふさわしく、それぞれが身を清めるようにと強く勧め、罪を洗い流す洗礼を人々に授けました。人々に救い主を迎える準備をさせたのは、預言者の務めを超える働きです。イエス様は、そのヨハネの働きを「預言者以上の者」「神さまの使い・使者」と讃えました。

さらに加えて、イエス様はさらなる誉め言葉でヨハネを讃えました。こうおっしゃったのです。28節の聖句です。「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。」人間として生まれた者で、ヨハネより偉大な者はいないと、最大限とも思える賛辞をヨハネに贈ったのです。

しかし、これに続く聖句を読んで、私たちは首をかしげてしまいます。同じ28節の後半の、この聖句です。お読みします。「しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」

イエス様は、この御言葉で何を私たちに伝えてくださろうとしているのでしょう?そもそも、「神の国」とは何をさしているのでしょう? その「神の国」で最も小さな者でも、この世で天使のような使者の働きをしたヨハネよりも偉大とは、どういうことでしょう?

ここで、私たちが深く心に留め、覚えておかなくてはならないことがあります。それは、「神の国」とは、私たちが地上の命を終えてから行く天の御国をさすばかりではありません。特に、ルカによる福音書では「イエス様が来られ、神さまの愛を教え、伝え、人々をいやし、救われるようになった新しい時代のこの世」をさしています。

続く30節と31節には、こう記されています。民衆はヨハネの言葉を受け入れて洗礼を受けて、神の子イエス様が来られるとの神さまの御言葉の正しさを信じました。しかし、その頃の社会で最も神さまのことに詳しいとして尊敬されていたファリサイ派や律法の専門家たちは洗礼を受けず、神さまの恵みを拒んだのです。神さまの恵みを知って受け入れる幸いに与った者がいる一方で、知識として神さまのことを学びながらも心では神さまを知らず、逆にその恵みを拒む者がいました。

そして31節から、イエス様はこのように群衆に、また私たちに問いかけます。「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいのか。」

イエス様は「時代」、「今の時代の人たち」とおっしゃいました。ここで、私たちはイエス様がおいでになった時代に思いを巡らしましょう。イエス様がおいでになる前・クリスマスの世にお生まれになる前は、ユダヤ社会に代表されるこの世の信仰的な在り方は、預言の実現を待ち望む旧約聖書の時代にありました。イエス様がおいでになって預言が実現され、新しい時代が始まりました ― 新約聖書時代が幕を開けたのです。

しかし、その時代を生きていた人々すべてに、その新時代の幕開けが分かったかといえば、そうではありませんでした。その幕開けを教えてくださるために、イエス様は、預言者の時代・旧約聖書時代の最後の神の人であるヨハネと、イエス様ご自身とがある面ではまるで正反対であり、鮮やかな対照を成していたことを、今日の聖句で語られます。

イエス様は32節でこうおっしゃいます。今の時代の人たちは「広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。」

まず、「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。」 ― これは、子どもたちが結婚式の披露宴の真似事、結婚式ごっこをしていることをさします。おめでたく華やかで、誰もが笑顔の結婚式で、誰かが笛を吹くと、招かれている結婚式のお客は新郎新婦を祝って踊ります。それなのに、笛を吹いても誰も踊らないとイエス様はたとえ話を話されます。その場がめでたい結婚式の場だと、誰にもわかっていないからです。光の子であるイエス様がおいでになったのに、それを知る人は本当にわずかで、誰も何が起こっているのか分からずにいます。せっかくイエス様がいらしているのに、恵みの事実を知らないから喜び踊ることができません。

また、イエス様がおいでになる前の時代の終わりを、イエス様は子どもたちのお葬式ごっこにたとえました。32節の後半です。「葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった。」その場の空気を理解できず、何をすればよいのか分からない人々の姿が、ここにたとえられています。神さまが罪を裁き、容赦なく罰を与える恐ろしい方だとのみ、神さまのことを思う時代が終わったことも、多くの人々はまだ分かっていないのです。

続く33節と34節でのヨハネとイエス様についての言葉を通して、私たちはヨハネについても、イエス様についても、人々が本当には分かっていなかったと知らされます。33節で、人々の中には、荒れ野で禁欲的な清い信仰生活を送ったヨハネを理解できず「悪霊に取りつかれている」と言った者がいたことが語られています。

34節では、ヨハネとは対照的に人間として生きる楽しみを謳歌されるイエス様が「大食漢で大酒飲み、罪びとだ」と批判されたことを、イエス様ご自身がおっしゃっています。

私たちの主は、私たちの罪を赦してくださるから、そして神さまはイエス様として地上に来られ、共においでくださるから、私たちは大いに人生の恵みを喜んでよいのですが、人々にはそれがまだはっきりと分かりません。私たちへの罪の赦しをはっきりと示してくださるために、イエス様は十字架に架かってくださいました。そして、この世においでくださったのがまさに神さまであることを明らかにされるために、ご復活されたのです。

目に見えない神さまは、ご自身が神さまであることを私たちに知らせようと、大切な御子イエス様をそうして私たちに与えてくださいました。今日の説教題である「神を神と知る恵み」、「神さまを神さまだと知ること」はそれだけで、いえ それこそが、大きく深い神さまの私たちへの愛の恵みです。神さまを我が神と知るとは、神さまが私たちを知っていてくださり、呼びかけ、招いてくださるそのお招きに応えるということです。どんなふうにお応えすればよいかを、イエス様は身をもってお示しくださいました。それは命を与えられていること、人生を喜び楽しむことです。罪を赦された感謝を全身で表し、踊り、歌い、地上の命をせいいっぱい意味ある人生、豊かな人生、笑顔と嬉しさで満ちた人生とすることです。

イエス様が来られることを先触れとして告げたヨハネは、まだこのことを知りませんでした。だから、神さまの御前で慎んで過ごす禁欲的な生き方だけが、神さまに喜ばれると思ったのです。神さまはもちろん、清い生活を喜ばれます。それと同時に、イエス様が自ら示された私たちの笑顔と幸福も喜んでくださいます。私たちの神さまは、ご自身を神秘のベールで包み隠そうなどとせず、明らかにしてくださいます。

私たちの主、私たちと親しく愛の関わりを持ってくださる主が、私たちの神さまであることを心から喜び、感謝を献げましょう。人生を正しく謳歌しましょう。その幸いで心を満たされて、今日から始まる一週間を、希望を抱いて進み行きましょう。



2023年1月22日

説教題:救いの主が来られた

聖 書:イザヤ書35章3~6節、ルカによる福音書7章18~23節


「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

(ルカによる福音書 7章22₋23節)


 イエス様は伝道の本拠地となさったカファルナウムの町から、後に十字架に架けられるエルサレムの町へと、すでに十字架への道を進まれておいでです。

その途上で、二つの大きな御業をなさいました。異邦人であるローマ軍の百人隊長の部下の重い病気を御言葉だけでいやし、やもめの一人息子をよみがえらせました。それがユダヤの国中に驚きと畏敬をもって伝えられたことを、前回の礼拝にてご一緒にいただいた聖書箇所の最後の聖句はこう告げています。「イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。」(ルカによる福音書7:17)

イエス様が深い愛から行われた二つの御業は、旧約聖書の中でイザヤを始めとする多くの預言者たちが伝えて来た救い主・メシアの到来が実現したことを群衆に思わせました。それも、前回礼拝の聖書箇所にこう記されています。人々は「『神はその民を心にかけてくださった』と言った。」(ルカによる福音書7:16b)

今日の聖書箇所はイエス様の御業と、それを「来たるべき方・メシア」の到来だと喜ぶ人々の様子をヨハネの弟子たちがヨハネに伝えたことから始まります。

ヨハネは、荒れ野で清い生活を送り、人々に罪の清めの洗礼を授けていたあの洗礼者ヨハネです。祭司ザカリアの息子で、ヨハネとイエス様はそれぞれの母の胎にいる時に出会っています。ヨハネはイエス様より半年早く生まれ、荒れ野でメシア到来に備えるようにと人々に呼びかけていました。イエス様ご自身も、ヨハネから洗礼を受けられました。

ヨハネは、イエス様の御業と、それを「来たるべき方・メシア」の到来と喜ぶ人々の様子を弟子たちから聞かされて、弟子たちをイエス様のもとに遣わし、こう尋ねさせました。今日の聖句 ルカによる福音書7章19節です。「来(きた)るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければいけませんか。」

皆さんはここを読んで、または今 礼拝の中でこうして聞いて、戸惑いを感じるのではないでしょうか。洗礼者ヨハネは救い主イエス様が世においでになった恵みを先触れして、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(ルカによる福音書3:4b)と預言者イザヤの言葉を通して、人々に救い主・メシアであるイエス様をお迎えする心備えをするようにと力強く呼びかけた人です。誰よりも強く、イエス様が救い主・メシアであることを確信しているのが、このヨハネのはずです。

その人が、どうして今になって、イエス様が「来たるべき方・メシアか?」などと疑問を抱くのでしょう?

今日の御言葉は、私たち一人一人の信仰をたくましく養う箇所として、私たちの心に鋭く刺さる響きを秘めています。それを心に留めて「どうしてヨハネが、イエス様はメシアかと疑い惑ったのか?」の問いを、ご一緒に考え巡らしてまいりたいと願います。

結論を先に申してしまうと、ヨハネでさえ、イエス様が救い主メシアであるかを疑い惑いました。

人間には、イエス様を救い主だと受け入れ、差し出されている信仰の恵みを素直に受け取ることがそれほどに難しいことを、今日の聖句は語っています。イエス様を救い主・神さまだと信じられなくなることを、聖書では「つまずく」と申します。今日の聖書箇所の最後の聖句で、イエス様は「わたしにつまずかない者は幸いである」とおっしゃいましたが、その「つまずく」です。

ヨハネは、つまずきかけていました。背景には、その時にヨハネが置かれていた過酷な状況があります。ヨハネは逮捕されて、牢につながれていました。ユダヤの王ヘロデの機嫌を損ねたからでした。

ユダヤの王ヘロデは兄の妻へロディアに横恋慕をして、へロディアもそれに応えました。ヘロデはへロディアを兄から奪い、自分の妃にしたのです。これは、当然のことですが、神さまの御心にかなわないことでした。十戒が禁じている姦淫の罪を犯しています。

清い生活を送る洗礼者ヨハネは、激しくヘロデ王を批判・糾弾しました。神さまの御前に正しいことを発言し、ヨハネはそのために捕らえられ、生かされるも殺されるも、すべては悪王ヘロデの機嫌ひとつにかかっていました。実際に、今日の聖書箇所が語る出来事の少し後に、ヨハネは王の誕生日の余興が発端となり、戯れ事のように首をはねられて無残に殺されてしまったのです。

正しいことを言ったら、悪を行っている者に殺されてしまった…なんとおかしなことでしょう。不条理です。不公平です。

心に留め置きたいのは、ヨハネに降りかかったこの不条理・不公平は、決して他人事ではないということです。今も、この世には権力者の不正が横行し、この世の権力者の発言が正しくなかった場合でも、弱い立場にある者の声がかき消されてしまうことがあります。牢の中にいたヨハネの失望と怒り、悲しみは私たち皆が同じように経験するかもしれないことです。

今日の聖書箇所の出来事があった時、ヨハネは「どうしてこんなことが自分に起こるのか」と疑問を抱いたと考えても、何の不思議もありません。救い主メシアがすでに世においでになっているのなら、なぜ、自分をこの苦境から救ってくれないのかと、ヨハネは思ったのです。ヨハネは人間ですから、私たちが感じるように事態を感じ、疑問を抱いて当然です。

ヨハネのすばらしいところは、「やっぱり、イエス様はメシアではなかった。イエス様は救い主ではない」と勝手に自分で結論付けてしまわず、弟子を通してイエス様に尋ねかけたことです。つまずきかけましたが、つまずいて転んでしまってはいません。

私たちも、神さまがおられ、人間を愛してくださっているなら、どうして戦争が続いているのか・どうして感染症がまだ治まらないのか・どうしてあちこちで自然災害が起こって多くの命が奪われるのか等々、不条理を感じずにはいられないことがたくさんあります。やっぱり神さまはおられないと自分で結論付けて、信仰から離れてしまう ― つまずいて転んでしまう ― 、残念ながら神さまに背いてしまうことがないわけではありません。

しかし、苦しい時にこそイエス様にすがり、心に力をいただいて教会にとどまり続ける道を、私たちは こうして選んでいます。神さま、イエス様、どうして私にこんな苦しみがあるのですか?と尋ねて祈り、しかし聖霊と御言葉でイエス様が寄り添って力づけてくださっていることを深く心と魂で知って、よりイエス様を慕うようになる経験を、皆さんが持っておられます。

さて、ヨハネが弟子たちを通して「イエス様、あなたがメシアなのですか」という問いに、イエス様は直接 肯定も否定もされませんでした。今、ご自身がなさっている御業・現に今ここで立ち起こっている恵みを弟子たちがヨハネに伝えるようにとおっしゃいました。

その御業・恵みとは、21節から22節にかけて記されていることです。あらためてお読みします。「そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。…目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(ルカによる福音書7:21~22)

 イエス様は人々をこよなく愛して人間たちのために多くの働きをなさり、多くの人をいやし助け、救っておられます。それは、決して揺るがない事実そのものです。

 ヨハネの望みはヘロデ王が自分を牢から解放し、自分が主張する正義が実現して悪が懲らしめられることだったかもしれません…人間にとって、おそらくその望みが最も妥当でしょう。ヨハネのその願い ― 自分だけのための願望 ― は満たされていませんが、イエス様は御心のままにいやしと助けの御業を行っておられるのです。

 繰り返しますが、この恵みの事実につまずかない人は幸いである、「わたしにつまずかない人は幸いである」(ルカによる福音書7:23)と、イエス様はおっしゃいました。主のご計画にあって、ヨハネは牢での苦しみの中でその役割を立派に果たしているのです。それは、その時にはヨハネ自身にも、人間の誰にもわからないことですが、いつか明らかになります。ヨハネ自身が気付かなくても、牢の中にいるヨハネをイエス様は支えて励ましてくださっています。

 私たちは一人一人、神さまがこの苦しみから救ってくださらないかと願い、その祈りがかなえられない・神さまが応えてくださらないように思うことがあります。しかし、その時にイエス様は共においでくださり、私たちを慰め励まし、御心によって最も良いものを与えてくださっているのです。私たちの苦しみの半分を、イエス様が担ってくださっています。

 つまずいてしまえば、その恵みに気付くことができません。つまずかず、苦しい時にこそ主に依り頼み、祈り続け、共においでくださるイエス様にすべてをゆだねる時に、私たちはイエス様が救い主であることを深く知り、主を我が神と仰ぐことができるのです。

ここに、すぐには受け入れがたい信仰の真理があります。それは、私たちの苦しみ・病・想定外の困難は、神さまの大いなるご計画の中で、私たちの思いを超える高い価値と深い意味を持たされてるということです。それこそが、私たちに与えられている栄光です。

自分の思いを手放して すべてを主にゆだねる信仰にこそ、私たちの最も大きな幸いがあります。自分を一度 手放してこそ、その喜びをいただく道がひらけます。

私たちの神さまは、ご利益信仰の神ではありません。こう記されているとおりです。マタイによる福音書7章14節からお読みします。「…命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

皆さん、イエス様に手を引かれ、思いを尽くし、心を尽くし、魂を尽くして、狭い門から真の命・真実の恵みへと入ってまいりましょう。イエス様につまずかない幸いな者として、常に共においでくださるイエス様にすべてをゆだね、安心してこの一週間を進み行きましょう。



2023年1月15日

説教題:もう泣かなくともよい

聖 書:イザヤ書35章1~2節、ルカによる福音書7章11~17節


主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。

(ルカによる福音書 7章13₋15節)


今日は、初めにこの真理をご一緒に確認してから、共に御言葉に聴きましょう。神さまがなさる大いなるみわざの中で、私たちが常に心に留めておきたいのは「創造」― その中でも命の創造 ― と「命の回復・よみがえり」です。

今日の聖書箇所で、イエス様は「命の回復・よみがえり」のみわざをなさいました。神さま・イエス様は、ご自身のためにみわざをなさることはありません。必ず私たちのためを思って、御力を発出なさいます。今日 語られているよみがえりのみわざも、イエス様はある一人の母親への深い憐み ― 愛 ― ゆえに行ってくださいました。

では、少し詳しく今日の聖書箇所をご一緒に読んでまいりましょう。イエス様はカファルナウムから、だいぶエルサレムの方へ南下して来られ、弟子たちや、イエス様を慕う群衆と共にナインの町に入ろうと町の門にさしかかりました。

すると、町の中からお葬式の行列が出てきました。死者・遺体を土葬するので衛生上の理由もあり、町中に墓地を造らず、町の外・人の住まない荒れ野や砂漠に近いところに墓地があったからと考えられます。

亡くなってこれから葬られようとしているのが、ある母親の一人息子であること、さらにこの母親はこの息子を失ったら家族が一人もいなくなることはイエス様と弟子たち、そして群衆にもすぐに分かりました。葬列の嘆き方が激しく、町の人たちに付き添われ、一所懸命に慰められているのがたった一人の女性だったからです。

当時のユダヤの葬式には泣き女も雇われていました。彼女たちが悲しみの深さを人々に広く知らせるために、夫に先立たれたこの女性が、今 一人息子も失ってしまったことを涙ながらに語っていたのかもしれません。

女性が社会で仕事を持ち、自立した生活をする機会がほとんどなかったその当時、夫を亡くして未亡人になること、聖書の言葉で「やもめ」となることは死活問題でした。親族の援助や施しで生活してゆく他ありませんでした。

その困難な生活の中で、この女性は夫が亡くなった後、忘れ形見の一人息子を大切に育ててきました。息子がやがて結婚して、家にお嫁さんの声が聞こえるようになり、子どもたちも生まれて家族が楽しく和やかに過ごす…やもめの母親はそんな日を夢見つつ、息子との二人の生活を守って来たと想像するに難くありません。

ところが、その息子が亡くなってしまいました。やもめの母親は、すべてを失った思いに陥ったでしょう。生きる力を打ち砕かれて、ただ泣くばかりだったのではないでしょうか。

イエス様は、その母親をご覧になってたいそう気の毒だ、可哀想だと深く憐れまれました。ご自分の力を、この母親のために用いてよみがえりのみわざをなさる決心をしてくださったのです。イエス様は、母親に「もう泣かなくともよい」とおっしゃいました。

私たちが泣くのは、事柄の解決になる手段がもう何もない、絶望的な段階です。子どもだった頃、私が何かができずに泣き出すと、「泣いてもどうにもならないでしょ!」と祖母や叔母たちに叱られました。子どもだった私としては「どうすることもできないから、泣いている」のですが、祖母や叔母は「泣かないで、何とか自分でがんばりなさい」と励ましてくれていたのでしょう。

このやもめの母親が泣いていたのは、正真正銘、本当にどうにもならないからでした。亡くなった息子は、もう何をしても、どうしても人間の力では生き返ることがありません。泣くしかなかったのです。

その母親に、イエス様は「もう泣かなくともよい」とおっしゃいました。なんと優しい言葉でしょう。

そして、皆さんがすでにご存じのとおり、神さまの言葉・イエス様の御言葉には力があります。御言葉は、大いなる力をもって働きます。イエス様は、もう泣くことはない、あなたが泣くことになった出来事を私が元通りに回復・修復するとおっしゃり、続いてすでに亡骸となっている息子の体に言葉をかけました。今日の聖書箇所、ルカによる福音書7章14節後半の御言葉です。お読みします。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」

そのとおりになりました。息子はよみがえり、起き上がって、ルカによる福音書7章15節によれば「ものを言い始めた」― 言葉を話し始めました。

よみがえりのしるしが、この息子にあっては「言葉を語る」ことだったのです。さらに、ルカによる福音書7章15節後半はこのように語ります。「イエスは息子をその母親にお返しになった。」直訳すると「イエス様は息子を母親に与えた」という言葉です。

イエス様は、死の行列・葬列を止めてくださいました。絶望へと続く歩みを中断させ、死に奪われていた命を取り返し、新しく母親に与えてくださったのです。ただ元どおりの生きた体に戻るだけではなく、新しい命として与えられました。よみがえり・復活とは、まさにこのことです。

ここに、この出来事から3年ほど後の、イエス様ご自身の十字架での死とご復活が投影されていることにお気づきの方がおいででしょう。

イエス様は十字架で私たちに代わって死なれました。それによって、私たちすべての魂の死・絶望に陥る虚無への歩みから救い出してくださいました。三日後によみがえられ、弟子たちの前に現れました。昇天された後、今はお姿が見えずとも、私たちに聖書の御言葉を通してご自身を顕し、ご自身を与え、聖霊として語りかけてくださるようになられました。ご復活のイエス様は、私たちに希望を与え続ける命の泉として新しく働きかけてくださるのです。御言葉として常に私たちと共においでくださり、私たちの魂を生かし続けてくださいます。

ですから、私たちが絶望することはありません。

今、私たちを取り囲む状況を見渡すと戦争が続き、感染症もすっかり収まったとは言えず、経済情勢も良いとは言えません。しかし、イエス様は私たちを憐れんで、必ずこうおっしゃってくださいます。「もう泣かなくともよい。」

私たち人間の力ではもうどうにもならなくなっても、必ず救いの道・打開の道をイエス様が開いてくださるから、泣くことはないとイエス様は言われるのです。私たちのためにお命を捨てるほどに、私たちを愛し、大切に思ってくださるイエス様がおっしゃるのですから、これほど確かな言葉はありません。

どんな時も希望を捨てず、あきらめず、万策が尽きたとしても その先にイエス様が開いてくださる新しい、より良い道が与えられることを信じましょう。今日から始まる新しい一週間、主にゆだねる安心のうちに進み行きましょう。



2023年1月8日

説教題:御言葉をください

聖 書:イザヤ書55章8~11節、ルカによる福音書7章1~10節


「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのでさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕(しもべ)をいやしてください。

(ルカによる福音書 7章6b₋7節)


昨年から、ルカによる福音書をご一緒に読み進んでいます。前回・元旦の主日礼拝で、イエス様が私たちの魂・心、私たちの存在そのものの土台となってくださることを聴きました。イエス様の「平地の説教」は、そのイエス様の教えで終わっています。

今日の聖書箇所は、その後に起こった出来事を私たちに伝えてくれています。このように始まります。「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。」(ルカ福音書7:1)

カファルナウムは、イエス様が伝道の拠点となさっていた町です。ガリラヤ湖のほとりの漁師町で、一番弟子ペトロの家があることをご記憶の方が多くおられるでしょう。イエス様は山で十二人の弟子を選ばれた後、山から下って「平地の説教」を語られ、再びこの町に戻って来られました。 イエス様の宣教活動は、十二人の弟子と共にいわば第二段階へと進んだと考えてよいでしょう。

今日の聖書箇所の中で、私たちが心に留めなければならない新しい出来事がひとつ、起こりました。イエス様のみわざ・奇跡がひとつ成し遂げられたと言ってもよいでしょう。しかも、それは新しいだけにとどまりません。新しい事柄を示しつつ、ルカによる福音書の初めから貫かれている大切な教えをいっそう深く私たちの心に伝える出来事です。

新しい事柄とは、異邦人への宣教です。異邦人とは「異なる邦(くに)の人」と書きます。同じ民族・同胞(はらから)の反対語で、外国人という意味です。聖書はユダヤ民族を同胞(はらから)とし、それ以外の民族は異邦人と呼んでいます。

イエスさまはユダヤ民族のお生まれで、私たちは出身民族から言うと異邦人です。天地創造の見えない神さまを神さまとするのがユダヤ民族、偶像崇拝をするのが異邦人です。

ノーベル文学賞を受賞した作家アルベール・カミュに「異邦人」という題の作品があることを、ご存じでしょう。カミュはフランス人作家で、この「異邦人」という題名はフランス語で「エトランジェ」といいます。英語ならストレンジャー、エイリアンです。価値観を共有できない、まったく見知らぬところから来て何も分かり合えない人とでもいえばよいでしょうか。

この小説の主人公は、自分の母親が亡くなったのにお葬式でまったく涙を流さず、翌日に浮かれ遊び、トラブルに巻き込まれて人をあやめてしまいます。主人公は、人間らしい情感を持てない自分を「異邦人、エトランジェ、ストレンジャー、エイリアン」とみなして、死刑になってこの世から消え去ることに不思議な希望と期待、充実感を抱くという不条理を描いた作品です。このように「異邦人」とは、国・民族・言葉が違うという以上に「価値観を共有できない人」のことをさします。

ユダヤ民族からすると「異邦人」は、同じ神さまを信じていないから価値観が異なり、「話が通じない・同じ心を持てない人」です。自分たちが神さまの宝の民だが、「異邦人」は神さまと無関係だとユダヤ人はうけとめて差別し、軽蔑していました。異邦人と一緒に食事をすることや、交際することは禁じられていました。

しかし、今日の聖書箇所で、イエス様はその差別がまったく無意味で、ユダヤ人も異邦人もすべて神さまの民であることを教えてくださいます。

ルカによる福音書で、今日の7章よりも前にイエス様がいやしの奇跡を行って救われたのは、ユダヤの人ばかりでした。今日の聖書箇所で初めて、イエス様は異邦人をいやされました。その異邦人が、ローマ軍の兵士である百人隊長の部下です。これが、異邦人宣教の始まりです。今日の御言葉が語る「新しい」事柄です。

今日の聖書箇所は、もうひとつ、大切なことを伝えてくれています。それは私たちにとって新しいことではなく、聖書を読むうえで最も大切なこと・常に心におかなくてはいけないことです。イエス様は、今日の聖句を通して、御言葉の力を信じ、御言葉にひたすら依り頼む信仰の大切さを私たちに教えてくださいます。

異邦人宣教の始まり、そして御言葉に寄り頼む信仰の大切さ ― この二つを心に留めて、少し詳しく今日の聖書箇所をご一緒に読んでまいりましょう。

「平地の説教」を終えたイエス様が戻られたカファルナウムはガリラヤの主要な町で、当時ユダヤを支配していたローマ帝国の軍隊が駐屯していたのではないでしょうか。ローマ帝国は皇帝を神さまとして崇めていますから、ユダヤ人から見れば異邦人です。

今日の聖書箇所の第2節に、この軍隊で、百人の兵士からなるひとつの隊の隊長・百人隊長の部下が重病で死にかかっていたことが記されています。百人隊長は何としてもこの部下に生きてほしい、病気から治ってほしいと願い、イエス様にお願いすることを思い立ちました。民族的には、この百人隊長はユダヤ人ではないので「異邦人」でしたが、心はイエス様を信じていたのです。百人隊長は、イエス様のことをいやしの奇跡を行う魔術師・まじない師などとはもちろん、思っていません。もし、そう思っていたなら、ユダヤを支配しているローマ軍の隊長ですから、その権威を使ってイエス様を呼びつけたでしょう。

百人隊長は、イエス様が人間とは次元の異なる畏れ多い方だという真実をよくわかっていました。また、この人はユダヤ人が自分たち異邦人を差別していることを冷静にうけとめ、そのいわば「この世のならい」をわきまえてもいました。先ほど申しましたように、ユダヤ人が異邦人と交際することは禁じられていますから、ユダヤ人であるイエス様は百人隊長の部下が臥せっている枕元に行くことはできません。そこを何とかしておいでいただきたいと百人隊長は強く思い、ユダヤ人の長老たちに頼みました。

その願いを受けて、長老たちが取った行動が4節にこう記されています。「長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。『あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。』」長老たちは百人隊長をほめていますが、その根拠は「自分たちユダヤ人のために会堂を建ててくれた」ことでした。支配国・敵国ローマの人だがユダヤ人に好意的で、つながりを持っておくと有利だと長老たちは考えたのでしょう。

その長老たちと一緒に、イエス様は百人隊長の部下のもとへ急ぎました。ところが、百人隊長は思い直し、友人を使いに出して道の途中でイエス様と長老たちに会わせ、こう伝えさせました。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのでさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕(しもべ)をいやしてください。」(ルカ福音書7:6b‐7)

支配国ローマの軍人なのに、大変へりくだった言葉です。異邦人と交際してはならないというユダヤの風習を尊重してくれています。

そればかりではありません。「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」という言葉には、本当にイエス様が神さまであり、自分とは次元が異なる尊い方であって家に来てくれなどと気安く言えないという謙遜の思いがこもっています。さらに、この百人隊長は神さまがどのように働かれるかをよく分かっていました。

今日の聖書箇所の終わり近くの聖句・9節でイエス様は、この百人隊長をこのようにたいへんほめておられます。イエス様はこうおっしゃいました。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」

神さま・イエス様が何を通して働かれるか、わたしたちが神さま・イエス様の何をたいせつにし、何を求めなければならないのか、この百人隊長はユダヤ人よりもよくわかっていたからです。

皆さんは、神さまが何を通して働かれ、私たちが神さま・イエス様の何を求めなければならないのか、おわかりでしょうか。百人隊長が求め、そして私たちがイエス様に求めなければならないたいせつなもの、それは、主の御言葉です。

神さまは、御言葉によって働かれます。前の主日礼拝・1月1日の礼拝でも、私たちはそれを確かめ合いました。神さまは言(ことば)で天地を創造されました。神さまが「光あれ」とおっしゃったら、そこに光が現れたのです。

イエス様は世においでくださって私たちの間で働かれる神さまの「言」そのものの方です。

今日の礼拝に与えられた旧約聖書の御言葉が語るとおりに、イエス様は神さまの言葉として世においでくださいました。旧約聖書 イザヤ書55章11節をお読みします。「わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。」

神さまはイエス様を、私たちの罪が招いたあらゆる破れ・破壊を繕い、修復し、いやして回復させて、私たちを救ってくださるためにこの世に遣わしてくださいました。イエス様は苦しむ人々を慰め、病をいやし、私たちの救いのためについには十字架に架かって地上のお命を犠牲にしてくださいました。御言葉であるイエス様は、地上で大きく大きく恵みのみわざを働かれたのです。

私たちは、御言葉を求めて祈り、そして今日の百人隊長の言葉にあるように主の御言葉に従って生きることを神さまに期待されています。

主が「行きなさい」とおっしゃったら問答無用で行き、主が「来なさい」とおっしゃったらすぐに主の御許に心を向けることが私たちの信仰です。

繰り返しますが、今日の聖書箇所で、百人隊長はイエス様の御言葉を求めました。イエス様の御言葉が働いて、イエス様ご自身が部下のところに行かなくても、彼はいやされてすっかり元気になっていたと今日の最後の聖句 ルカによる福音書章7章10節は告げています。

私たちの目には見えませんが、今も生きておられるご復活のイエス様、聖霊は私たちがいただいている聖書の御言葉として今も働き、私たちにまだ気づかないところでこの世の悪を退け、病をいやし、破れと破壊を修復して下さっています。

私たちにできるのは、そして主に求められているのは、その御言葉の力を信じ続け、さらに力強く働いてくださいと心を合わせて祈ることです。

「御言葉をください」― 百人隊長のように、私たちもそう祈り願いましょう。ひそやかに、秘められたところで成し遂げられている和解と平和のみわざを信じて、今日から始まる新しい一週間を心明るく進み行きましょう。



2023年1月1日

説教題:この年を良き実りの時に

聖 書:詩編18編1~4節、ルカによる福音書6章43~49節


「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。

(ルカによる福音書 6章47₋48節)


新しい主の年2023年を迎えました。今日の礼拝の聖書箇所、ルカによる福音書6章43節から48節には、たいせつな二つのことが語られています。年の初め、まさに元旦に、私たちは信仰生活の基となる二つの教えに与る恵みをいただいています。しかも、この二つの教えはいきなり、唐突に語られているのではありません。昨年から私たちがイエス様に学んできたことの延長線上・続きに、この教えが展開されています。

私たち薬円台教会は昨年の終り頃から、ルカ福音書が語るイエス様の「平地の説教」を聴いてまいりました。イエス様の教えを覚えておいででしょうか ― イエス様は「敵をも愛しなさい」と自己犠牲を私たちに教えてくださいました。続けて、自己犠牲などできないと尻込みする私たちを、励ましてくださいました。「目の中の丸太」のたとえで、‟あなたがたの目には見ることのできない真理と恵みへと、私があなたの手を引き、案内するからついていらっしゃい”と招いてくださいます。

二週間前の日曜日に、私たちは目に見えない神さまからの言葉を信じて、この世の価値観とは異なる大いなる豊かさへと導かれたマリアとヨセフの恵みに思いを馳せました。この世の価値観でマリアを裁かず、主の御言葉に従ったヨセフはイエス様をその家に迎えるという大きな祝福に与りました。そのように、神さまはこの世の価値観でふさがっている私たちの心の目と耳を、主の愛によって開いてくださいます。

神さまの御言葉を聴くとは、御言葉を知らされることです。

御言葉を知らされるとは、神さまの御心が私たちなりに ― あくまで私たちなりに、ですが ―「分かる」ようになるということです。

そして「分かる」とは私たちが「変わる」、正確には御言葉によって「変えられる」ことをさします。この世の価値観から解き放たれ この世の奴隷から、真実に自由な神さまの民へと変えていただけるのです。

では、今日与えられている聖書箇所が語る二つの教えを、ご一緒に少し詳しく読んでまいりましょう。

まず、43節から45節をご覧ください。イエス様は「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」(ルカ福音書6:44)と語られ、人の口から出る言葉でその人の心が善いか悪いかが分かるとおっしゃいました。

少なからずドキッとさせられます…私たちは会話をする時、キャッチボールのように言葉のやりとりをします。配慮しているつもりでも、熟考に熟考を重ねて最も適切な言葉を選べているわけではありません。

皆さまはそんなことがないかもしれませんが、私は適切な、思いやりのある言葉を口から常に発しているとは、とうてい思えません ― 特に家族のように、親しい人と話す時にはそうです。思ったことをそのまま言ってしまい、後になってから売り言葉に買い言葉だったと反省することがあります。あんなに強い言葉を使わなければ良かった、こういう表現をすれば思いやりがあったと思うこともあります。私の中の「悪」「罪」に気付かず、それを口に出してしまい、親しい人を傷つけ、イエス様をがっかりさせていると胸が痛くなります。

さらに、イエス様のこの言葉は、さらに私の胸を痛めます。今日の聖書箇所 ルカによる福音書6章44節、47節の御言葉です。お読みします。「茨からいちじくは採れない」(ルカ福音書6:44)、「良い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。」(ルカ福音書6:45)茨のようにとげとげした私の悪い心はもうどうすることもできない、ずっとこのままだと思えてしまいます。私たちには、自分で自分を変えることはできないからです。

ところが、続く46節から49節で、イエス様はそれを変えてくださることが分かります。人を根底から変えるとは、神さまだけにおできになるすばらしいことです。私たちを造られた神さまだからこそ、私たちを根底から変えてくださることができるのです。


神さまであるイエス様の御言葉が私を、また私たち一人一人を善い者に変えてくださいます。それは私たちが「自分」を基盤とするのではなく、イエス様の御言葉を心の基盤とすることで可能になります。

ここに、主の御言葉の大いなる力と大切さがあります。神さまは、言葉で天地を創造されました。イエス様は、言葉で奇跡を起こされます。

そうです ― 神さまは全能ですから、神さまの御子イエス様は、言葉で茨をいちじくに変えられる方です。イエス様は、醜くとげだらけの茨である私を、香り高く甘いいちじくの実がなるいちじくの木にしてくださるのです。

その奇跡がどのようになされるかを、イエス様は四七節でこうおっしゃいます。「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う」(ルカ福音書6:47)茨である私がイエス様のもとに行き、イエス様の言葉を聞いて、それを行う時、茨はいちじくの木になり、いちじくの実を実らせていただけるのです。イエス様の御力ゆえにです。「言葉を行う」とイエス様はおっしゃいました。イエス様の御言葉を行う・行動すると、茨にいちじくが実るのです。

では、その行い・行動は何でしょう?

人を助けたり、たくさんの奉仕をしたり、世のため人のために必死の活動をする いわゆる「愛のわざ」でしょうか。イエス様は、そうはおっしゃいません。

48節に、その行いがたとえを用いて具体的に記されています。お読みします。「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建て」る。自分の心という「地面」を掘るようにと、イエス様はおっしゃいます。自分という「地面」から、どんどんスコップで泥 ― これが自分の心の中身です ― をすくい出して捨ててしまえと勧めてくださいます。

目の中の丸太を取り除くように、実際にはイエス様が私たちの心の中身をすくい出してくださいます。自分が自分を捨てて、自分を束縛しているこの世の価値観・人間の狭い了見から自由にしてくださるのです。

ついに自分の心がからっぽになり、岩につきあたったら、そこに土台を置きなさい、とイエス様はおっしゃいます。その土台こそが、イエス様の御言葉です。

そして、そこに家を建てるようにと私たちは教えられます ― 「家を建てる」ことが、先ほど言った具体的な愛のわざです。人を助け、たくさんの奉仕をし、世のため人のために必死の活動をするのです。この愛のわざは実に強く丈夫で、どんな洪水にも ― 戦争やあらゆる戦い・争い、差別や迫害、虐待のようなどんな悪意にも ― 揺らぐことがありません。決して変わることのないイエス様の愛が、土台となっているからです。

もし私たちが自分の心を土台として人を助け、世のため人のために活動をすると、それは揺らぎやすいものになります。自分の心を土台とする行動は、簡単に自己満足になるからです。人のために尽くす自分になりたいから、そうしているだけ ― つまりは、自己承認欲求を満たしているだけの偽善者ということです。

そうではなく、自分の思いを捨てて完全にイエス様に従い、イエス様の御言葉に従っている時、私たちは自分の思いではなくイエス様の思いで働きます。神さまの御心を行う良き僕(しもべ)となって、用いていただくことができるのです。

さらに、この御言葉には驚くべきイエス様の御心が顕われています。イエス様が私たち一人一人の土台となってくださるとの御心には、イエス様の私たちへの深い愛が込められています。

「神さま」とは、私たちの上におられる方だと私たちは自然に何となく思っています ― 実際に「主を仰ぐ」という表現をよく用います。ところが、今日の御言葉で イエス様は私たちの土台となって私たちの下になり、私たちを支えてくださるとおっしゃるのです。

前回の主日礼拝・クリスマス礼拝で、私たちは教会も聖書もイエス様の福音も知らないうちは、何となく神さまは人間にバチを当てる方のように思ってしまうとお話ししました。神さまとは、悪いことをすると、厳しく罰を与える方のように私たちはつい思ってしまいます。

しかし、神さまの思いは人間の思いをはるかに高く超えています。神さまであるイエス様は、悪いことをした私たち・本質的に悪である私たちが本来 受けなければならない罰をご自分が代わりに受けてくださいました。私たち人間の思いの真逆を語り、行われ、私たちを救ってくださるのが私たちの主イエス様です。

イエス様は、ご自分を私たちの下に置いてくださいました。ユダヤの苦しい歴史のただ中に来られ、馬小屋で生まれ、この世の私たちの苦しみや悩みをすべて知ってくださり、ついには人に忌み嫌われる犯罪者として十字架で命を捨てられました。それは私たちに代わって、私たちの罪を贖ってくださるためだったのです。

イエス様は私たちに代わってご自身を犠牲にされました。茨である私たちに代わって茨となり、私たちをいちじく・善いものにしてくださるためでした。そして、十字架のみわざを通して、私たちの心にこう語りかけてくださいます。‟わたしを踏みつけて、あなたがたは生きて行きなさい。” ‟わたしを下に敷き、その上に立って、あなたがたは生きて行きなさい。”

私たちを思ってくださるイエス様のその愛は、聖書にそのまま、はっきりと記されています。ヨハネによる福音書14章6節の御言葉です。お読みします。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。」イエス様はこの御言葉で、私たちにイエス様を道として踏んで行きなさい、イエス様を道として天の父・神さまのもとへ行きなさいと永遠の命を約束してくださっているのです。

自分の思いで生きるのではなく、自分の思いを捨ててイエス様の御言葉を心の土台としなさい ― イエス様は今日、私たちが神さまの良い僕となるために、そのように導いてくださいます。イエス様の御言葉で心を満たし、その上に愛のわざを築いて行きなさいとイエス様は私たちを励ましてくださいます。

この新しい年2023年 最初の日・本日に、イエス様の御言葉を心の礎として生きる志をあらたにいたしましょう。イエス様を道とさせていただいて、その正しく豊かな愛の道を安心して歩んでまいりましょう。



2022年12月25日

説教題:神は我々と共におられる

聖 書:ミカ書5章1~3節、マタイによる福音書1章18~25節


「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

(マタイによる福音書 1章23節)


メリー・クリスマス! 皆さまと心を合わせ、救い主のお生まれに心からのお祝いを申し上げます。

今年はクリスマス当日と主日が重なり、こうしてご一緒に祝える幸いを感謝いたします。

2000年ほど前の冬の夜に、私たちの救い主、主なる神イエス様は人として世においでくださいました。今日の聖書箇所が語るとおりに、結婚を控えていた少女マリアは聖霊によって身ごもり、冬のさなかに馬小屋で男の子を出産しました。救い主イエス様です。神さまの御子が、人間の赤ちゃんとして世に遣わされました。

全能の神さまが、何でもおできになるその大いなるみわざを用いて、最も小さく、最も弱い者になって私たちのところに現れてくださったのです。

私たちには見えない神さまが、見える姿となっておいでくださいました。目に見えないものを信じることが難しい私たちのために、神さまはその御力を使って見えるものになってくださったのです。それは、救いの約束を果たしてくださるためでした。

今年のこのクリスマス礼拝では、今日の聖書箇所・聖句を通して三つのことを心に留めましょう。イエス様のお誕生が私たちに開いてくださったのは、人間には不可能な三つの恵みへの道です。その三つとは、永遠・愛・平和です。

イエス様を知らなければ、私たち人間には永遠がありません ― 肉体が終わりの時を迎えれば、死が訪れ、無になるしかないのです。

イエス様を知らなければ、私たち人間には愛がありません ― 気の合う者同士が仲良くするという、いわば馴れ合いがあるだけです。

イエス様を知らなければ、私たち人間には平和がありません ― このことについては、これからお話しします。

私たちに三つの真理を示してくださるためにお生まれになったイエス様の呼び名は、インマヌエル ― 「神は私たちと共におられる」を意味する言葉です。

永遠・愛・平和 ― この中で、このクリスマスには特に平和について思いめぐらしたく思います。

紀元前730年頃・イエス様のお生まれから730年前、今からさかのぼること2800年ほど前に、イスラエル王国は風前の灯とも思われる危機を迎えました。そこには、平和がありませんでした。イスラエル王国は大国アッシリアに圧倒されて、南ユダと北イスラエルに分裂し、北イスラエルが南ユダに攻め込み、ユダヤ民族同士・同胞が戦うという悲劇が起こりました。攻め寄せて来る巨大な力の前に力を合わせなければならない大切な時に国が分裂し、同胞が争うことになったのです。どちらを向いても争いしかありませんでした。

しかし、歴史を振り返ると、私たち人間は常に争っていたことを思わされます。私たち人間の歴史は、争いの積み重ねです。

その歴史の中でも、繰り返しになりますが、紀元前730年頃のユダヤの民は神さまに言われたとおりに「落ち着いて、静かにしている」(イザヤ書7:4)ことができず、不安と恐怖の中で仲間割れをしてしまい、そこに大国が攻め入って来るという最悪の事態に陥りました。神さまに言われたとおりにできない ― 神さまに従うことができず、自分の判断で勝手に動いてしまうのは人間の傲慢です。自分の方が神さまよりも賢いと思っているから、じっとしていることができなかったのです。神さまは、人間のこの傲慢と愚かさを嘆かれ、アッシリアによって「(ユダヤの)領土は必ず捨てられる」と預言をされました。ユダヤの民は国を失う、とおっしゃられたのです。

しかし、そうして一度、国が滅びた後にユダヤの民は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」(イザヤ書9:5)を与えられ、その国は永遠に支えられると神さまはユダヤの民に約束してくださいました。

人間が自分たちで築くことが可能だと思う平和と、神さまが教えてくださる真実の平和とは、大いに異なります。人間は、平和をこう考えます。この世から戦いがなくなる ― この世が平和になる ― のは、"すさまじく強力な武力を持った王が、すべての国を滅ぼし、あらゆる戦いに勝って、統一国を建設する時"というのが、人間が考えることのできる最終的な手段でした。

中国の秦は、そのようにして国土の平定を図ったのではないでしょうか。マケドニアのアレクサンダー大王が、後にローマ帝国が行った侵略は、その人間の計画と理想のうちに行われました。これは、その後も近代、現代にかけてそう大きく変わったとは思えません。国は安全を保証し、平和を保つために軍事的抑止力 ― より強力な武器 ― を増強し、政府は防衛費に多額の予算を計上します。

神さまが実現してくださろうとする平和は、その真反対です。神さまは武器を手放し、完全なやすらぎのうちに「平和が絶えることがない」(イザヤ書9:6)国をめざすことを教えてくださろうとしました。武力や暴力、権力、支配力ではなく、愛による平和の国の建設です。

その平和を、神さまは私たちに言葉と行いをもって、究極的には命をもって教えてくださる指導者を、与えてくださると約束されたのです。その指導者こそ、繰り返しますが「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」なる御子イエス様です。

神さまの預言のとおりに、ユダヤ民族は国土を失いました。かつての勢いを取り戻すことなく、その730年後、イエス様がお生まれになった時代にはローマ帝国の支配下に置かれていました。その中で、神さまはイエス様を通し、人間の次元では不可能な平和への道を示してくださいました。

人間の次元では戦いを回避することができず、戦って勝つ者がいれば必ず敗北して涙する者がおり、人の命は肉体の滅びと共に終わります。人間の次元には真実の平和がないのと同様に、私達には‟永遠“、‟いつまでも”ということもあり得ません。私たちは、自分が愛する家族や友人と ‟いつまでも一緒にいたい”、‟いつまでも共に”と願います。しかし、それは人間には不可能です。

イエス様は、その私たちに‟いつまでも”への道・永遠への道を拓いてくださいました。

話している事柄の次元が一気に下がるように感じられるかもしれませんが、世間一般の話として、もしイエス様を知らなかったら、「神さま」と聞くと「バチを当てる怖い存在」という連想が働くことが最も多いでしょう。悪いことをすると、神さまがお怒りになって「バチ」、すなわち罰を与えると私たちは思いがちです。

自分の行いが悪いと神さまにバチを当てられ、罪への罰として命を取られてしまう…そう私たちは考えがちなのです。その「バチを当てる神」という一般概念を、私たちの主・天の父は根底から覆し、真実の神さまを知らせてくださるためにイエス様を遣わしてくださいました。

戦いを果てしなく繰り返し、人を傷つける私たち人間は「悪い者」です。罰を受けて当然、人の命を奪ったら罪を償う罰を与えられて当然です。国によっては、それは死罪となります。命をもって、罪を償うことが求められます。

ところが、イエス様はその罰を私たちに代わって受け、私たちにからみつく悪・罪を滅ぼしてくださるために、十字架に架かられました。イエス様のその尊い犠牲によって、私たちは命を取られず、肉体が滅びても死なず、永遠に主に導かれ、共に生きる恵みをいただきました。

今日の聖句が語るように、イエス様の呼び名は「インマヌエル」 ― 共におられる神 ― です。神さまが永遠に私たちと共におられるのですから、私たちには何も恐れるもの、怖いものがありません。自分の身や家族、愛する者たちを守るために戦う必要は、何もないのです。イエス様が私たちと共におられ、私たちを守り通してくださいます。真実の平和へと私たちを導いてくださいます。この真理を、私たちの目に見えるかたちで顕してくださったクリスマスの出来事に感謝し、心新たに平和への道を歩み続けましょう。



2022年12月18日

説教題:赦し、与え、主に倣う

聖 書:イザヤ書11章1~5節、ルカによる福音書6章37~42節


与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。

(ルカによる福音書 6章38節)


 今日、アドヴェント・クランツのろうそく四本すべてに、あかあかと火が灯されました。待降節第四主日を迎え、次の主日はイエス様のご降誕日・クリスマスです。

この主日礼拝に、私たちはイエス様から「裁くな、赦しなさい、与えなさい」との御言葉をいただいています。イエス様のご降誕日を待つアドヴェントの中でこの御言葉を思い巡らしておりますと、御子がマリアの身に宿られた出来事を思わずにはいられません。

今日の礼拝では、説教前に「マリアの賛歌」(讃美歌21‐175番)と呼ばれる讃美歌を歌いました。自分のおなかに聖霊によって御子イエス様が宿っていると天使に告げられたマリアが、驚きつつも、主のみわざの大いなることを崇め、主を讃える讃美歌です。

伝えられるところによれば、マリアはこの時、14歳ほどの少女だったと言われています。女性は十代半ばで嫁ぐという当時のユダヤ社会の慣例に従い、大工さんのヨセフと婚約をして結婚式の日を待っていました。その身はヨセフの新妻・花嫁となるにふさわしく、清らかに保たれていなければなりませんでした。

ところが、神さまは天使を通してマリアに、あなたのおなかには男の赤ちゃんがいる、あなたは聖霊によって神さまの御子を身ごもっていると告げたのです。これは、神さまを信じる者にとっては大いなる恵みの奇跡の知らせでした。

一方で、神さまを信じていない者にとっては最悪の知らせです。この世の人間社会の常識では、結婚を間近に控えた女性への最悪の知らせだったと言ってよいでしょう。マリアのおなかの子が聖霊によって宿ったことを信じられない者には、マリアは婚約者ではない男性の子を妊娠しているということになってしまいます。この世の常識では、結婚前にあやまちを犯した女性とみなされて、婚約は破棄され、結婚が破談になるような事柄です。

このような、いわば社会的制裁だけではなく、当時のユダヤ社会では、律法のうえでも結婚前に夫以外の者と深い関わりを持った女性は厳しく裁かれました。姦淫の罪を犯した女性として、死罪とされたのです(レビ記10章、申命記22章)。しかも、その死刑の方法は最もむごたらしい石打ちの刑と定められていました。

マリアのおなかがだんだん大きくなり、身ごもっていることが誰の目にも分かるようになって、婚約者ヨセフが、マリアが妊娠するなど自分には覚えがない、自分はマリアに裏切られたのだと証言したら、マリアは裁きの場・法廷に引き出されます。そこでマリアは律法で裁かれ、レビ記や申命記が定めるとおりに、人々に石で打たれて死ぬことが明らかでした。

しかし、神さまは天使を通してマリアにこう告げられました。「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは…男の子を産む…その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」(ルカ福音書1:30-32)マリアは、自らに起こったこの「神さまの御子を宿す」という出来事を、神さまに告げられた通りに恵みと信じました。神さまを深く信頼して、この世の常識ではなく、神さまに身をゆだねる信仰をいただいていたのです。

ゆだねるばかりでなく、マリアは尊いみわざが自分の身に起きたことを喜んで神さまを讃えました。神さまはマリアに告げたとおりにマリアを守り通し、ヨセフは夫としてマリアに寄り添い、御子イエス様はこの世にお生まれになりました。信仰がこの世の常識を超え、この世の裁きを超えることを、イエス様はマリアに宿られた時から示しておられたのです。

 さて、このことを堅く心に留めて、今日の聖書箇所をご一緒に読んでまいりましょう。

イエス様は、今日の聖書箇所で裁きについて語られます。イエス様がマリアに宿られたことをお話しした時に、すでに皆さんは人間の裁きがあてにならないことを受けとめておられると思います。

また、今日の旧約聖書箇所が語るように、人間は正しく公正な裁きを行うことなどできません。私たち人間の目には過去のすべての事実も、未来の事柄も見えず、今日の聖書箇所の後の方の言葉を用いれば「丸太」でふさがれているも同然だからです。私たちは、私たちが見聞きできるほんのわずかな情報に頼って判断するしかありません。その判断が、正しいわけがないのです。だから、イエス様はおっしゃいます。「裁くな、人を罪人だと決めつけるな」(ルカ福音書6:37)と。

マタイによる福音書によると、マリアの夫となるヨセフも、夢で天使に「マリアの胎(おなか)の子は聖霊によって宿ったのである」(マタイ福音書1:20)と告げられました。ヨセフも見えない神さまの御言葉を信じました。

この世の常識では、ヨセフはマリアを、婚約者を裏切った罪人だと裁くのが当然だったでしょう。しかし、ヨセフはマリアを裁かず、訴えもせず、夢で告げられたとおりにマリアを妻として迎え入れました。

今日の聖句でイエス様は「裁くな」に続いて、「赦しなさい」とおっしゃいます。ヨセフは、この世の思いで心をいっぱいにして、マリアに裏切られたと激しく怒っても無理はありませんでした。「マリアを許さない、姦淫の罪を犯した女として法廷に訴え出る」と息巻くこともできたのです。しかし、ヨセフはそうはしませんでした。

さらに今日の聖句で、イエス様は「裁くな、赦しなさい」に続いて「与えなさい」とおっしゃいました。ヨセフは自分の男性としての見栄や意地を捨て、人々の陰口や白い目からおなかの大きくなったマリアを守り、マリアを妻としました。

私たちは聖書から、ヨセフについてはマリアの夫としてしか知らされていません。イエス様のお生まれについて語られている聖書箇所の他には、ヨセフのことを記した御言葉は他にありません。しかし、それで十分なのでしょう ― ヨセフ自身にとっても、私たち聖書に学ぶキリスト者にとっても、また僭越な言葉とは思いますが、主にあっても。ヨセフはマリアを支え、そのことを通して主に身を献げ、神さまに自分を与え尽くし御心にかなう地上の命を選んだのですから。

主に導かれて人の世の常識を超えたマリアとヨセフの夫妻は、人の目に見えない神さまの真実に生きる者として、御子イエス様を家族とする幸いに恵まれたのです。

前回の主日礼拝で、私たちは「敵を愛しなさい」とのイエス様の御言葉から自己犠牲の尊さを学びました。マリアとヨセフは、主に従ってそれぞれの安楽な人生、この世・世間に受け入れられやすい人に裁かれない人生を諦め、神さまのために自己犠牲を払ったのです。

ヨセフはマリアを裁かなかったから神さまに裁かれず、赦したから神さまに赦され、与えたから、神さまから多くの恵みを与えられました。

信仰者が大きな恵みで満たされることを、イエス様はこのようにおっしゃいます。今日の聖書箇所の38節です。お読みします。「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。」

何のことか、わかりにくいかもしれません。イメージしていただきたいのは、升を使う豆や穀物の量り売りです。洋の東西を問わず、形にまとめにくい商品は重さを量って、たとえば小麦粉100グラムいくらとして売ります。しかし、ひとつひとつ量って売るのでは手間がかかるので、升をつかい、小麦粉がひと升ならばこの重さでこの値段と決めます。

ところが、粉や豆は量り方で実際の量が変わってきます。ふわっと量るよりも、ぎゅうぎゅうに押し込んだ方がひと升にたくさん入ります。升に詰め込んで ― つまり、押し込み、押し入れて ―、揺すり入れると嵩が減って大量になります。神さまは、そのあふれるほどの恵みを私たちのふところに押し込んでくださいます。

ところが、この恵みは目に見えません。神さまを知らない人、イエス様の福音を受け入れていない人にとっては、この恵みは恵みだとは思えない、良いことだと知ることはできないのです。

今日の聖書箇所の後半39節から、イエス様はそのことを語られます。イエス様が話される三つのたとえのうち、二つは「見る」ことに関わっています。

まず、39節のたとえをお読みします。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。」人間の案内人に身を託さず、すべてを見通される神さま、そしてご自身・御子イエス様に人生の案内役を任せなさいと、イエス様は勧めてくださいます。

次に、最後の節・42節のたとえと勧告をお読みします。「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」私たちの目は、イエス様の福音を知らなければ神さまを知らず、節穴のようなものだとイエス様はおっしゃるのです。目に丸太が入っているように、何も真実が見えていません。

 それにもかかわらず、説教の始めの部分でお話ししたように、私たちは自分で見聞きできるほんのわずかの情報に頼って判断し、しばしば人を裁きます。イエス様のご降誕について申せば、神さまの子と知らずに、マリアとヨセフ、そしてマリアのおなかの子を中傷する人もいたでしょう。そのような人がほとんどだったかもしれません。

真実が見えていないのは、この世の常識や自分の考えが頑固に、また傲慢に、心の目を丸太のようにふさいでいるからです。イエス様は、ご自分が案内するから自分の傲慢 ― これが丸太です ― を捨てて、主の真理に向かってイエス様に従い、主の道へと踏み出すようにと招いてくださいます。さらに、イエス様は今日の御言葉で、その主の道を歩む信仰生活を正しく送る心備えを与えてくださいます。

主を知って教会につながり兄弟姉妹となっても、私たちの心の目がすっかり開いたわけではありません。ぼやっと見えているだけです。パウロはこの事実を次のように記しています。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。」(コリントの信徒への手紙一 13:12)ぼんやりとしか見えないので、誤り・間違いを犯します。その誤り・間違いを、イエス様は今日の聖句で「目の中のおが屑」とたとえます。その「兄弟の目の中のおが屑」を「目にそんなゴミが入っていたら、さぞ痛いでしょう」と優しく取り除いてあげられるのは、私たち自身の心の目・信仰の目が明るく澄んで、まっすぐに主を仰ぐことができる時です。イエス様は、わたしについてくればそれができる、そして兄弟姉妹が互いに教え合うことができると、私たちを励ましてくださっているのです。

さらに、40節の聖句を通して、イエス様は私たちにより大きな励ましを与えてくださいます。40節を拝読します。「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」

イエス様が師・先生、私たちはイエス様の弟子です。

イエス様がこれを「たとえ」として語られているのは、人間のこの世の師弟関係と、神さまであるイエス様と私たちとの関わりは同列には語れないからです。イエス様が師・先生、私たちはイエス様の弟子ですが、イエス様は私たちとは次元の異なる神さまなので、この世の師弟関係とは異なります。この世の師弟関係ならば、修行を積めば、弟子は師の業と同レベルに熟達することが可能ですが、私たちは決してイエス様と同じ愛と正義の言動を身に着けることはできません。また、信仰生活は喜びをもっていきいきと生きることをさすのであって、修行ではありません。

しかし、イエス様と私たちの関わりと、この世の師弟関係には似たところがあるから、イエス様はこのたとえを用いておられるのです。弟子は心をこめて師についてゆき、師に学び、師に倣えば「師のようになれる」のです。私たちはイエス様と同じ愛と正義に生きることはできませんが、時々キラッと輝くように、私たちのうえに主が働いてくださり、思いやりと優しさに満ちた言葉と行いができるとイエス様はおっしゃってくださいます。

イエス様についてゆき、心の目の丸太を取り除いていただきましょう。このアドヴェント第四週を、クリスマスに向けて、明るく澄んで、まっすぐに主を仰ぐことのできる信仰の目を開かれて、進み行きましょう。



2022年12月11日

説教題:あなたを憎む者を愛しなさい

聖 書:ゼファニヤ書3章17節、ルカによる福音書6章27~36節


…あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。

(ルカによる福音書 6章35-36節)


 キリスト教と聞くと、教会の方でなくても、いわゆる世間一般に「愛」という言葉が連想されるとしばしば言われます。

「愛」とは自然に心に湧き上がる愛情のことだと、私たちはほぼ無意識に受けとめますが、イエス様が語り、私たちに教えてくださる主の愛・聖書の愛は「勇気ある決断」です。私たちが自分の弱い心に負けず、御心に従って決断する力をイエス様が私たちに与えてくださいます。今日は、その力と恵みをご一緒にいただきましょう。

イエス様は今日、実に厳しいことをおっしゃられます。私たちにとっては耳が痛いどころか、聴きたくないことかもしれません。32節をご覧ください。このように記されています。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。」

私たちは自分にとって優しく快い態度を取ってくれる人を、好ましいと感じます。そこから生まれる友情や親近感、恋愛感情を私たちは喜び、私たちの幸福はそこから生まれます。ところが、それは恵みではない、私たちを本当に豊かにしてくれるものではないと、イエス様はおっしゃるのです。

その次元・この世の人間的な次元にとどまっている限り、罪人だとさえ、イエス様はおっしゃいます。この「罪人」という言葉には、少し説明が必要かもしれません。私たちはすべて罪人だと言えば まさにそのとおりなのですが、ここでは罪― 言い換えれば人間的な価値観 ―の中にどっぷりと浸って神さまを求めない人をイエス様は罪人と呼んでいると考えると良いでしょう。自然に心にわき起こる愛情を、私たちは理想的なものと思いますが、イエス様は、それも人間的な価値観であり罪人の思いだと厳しくおっしゃるのです。

気の合う者同士、何となく似た者同士で私たちは仲良くなりますが、その次元にとどまっていてはいけないとイエス様は私たちを叱咤激励されます。真実の愛へ、永遠の命へと背中を押してくださいます。それが、「敵をも愛しなさい」という究極の教えです。

それは自分にはとうていできない、無理だと私たちは思います。その私たちを導くたいへん具体的なひとつの道を、イエス様は今日の聖書箇所で教えてくださいます。今日は、ぜひ、この教えを心に留めたいと思います。

その教えへの鍵は34節にあります。お読みします。「返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。」 

この聖句を通して、自分が相手にしてあげたことに対して、その人からの見返りを求めてはならないと、イエス様はおっしゃいます。ひとことで申しますと「自己犠牲」を払いなさい、ということです。もっと簡単に言えば、「ありがとうと言ってもらえなくても、そのありがたさのわからない人のために親切にしてあげなさい」ということです。

私たち人間は、「ありがとう」の一言や、自分が良いと思ってしたことへの理解と感謝を求めます。礼儀だからというばかりでなく、自分が相手に良かれと思って行ったことへの同意を求める思いを、私たちは殆ど本能のように抱いているのです。幼い子どもの頃から、私たちはその思いを心に宿しています。

それを巡り、少し胸の痛くなるような、こういう話を最近聞いたのでご紹介します。子どもの世界のことですが、子どもにとどまらず、私たち人間の姿・人との関わり方として、私はいろいろと考えさせられました。

ある四歳の男の子が、自分の体を血が出るほどかきむしる行為 ― 自分を痛めつける自傷行為 ― を始め、それが数日間続いて、両親はたいそう心配しました。その子の通っている幼稚園(保育園かもしれません)の先生に相談し、しばらく様子を見ていて理由がわかりました。

その子はおもちゃで遊んでいて、他のお友だちに「貸して」と言われると、本当はもっとそのおもちゃで遊んでいたいのに、「いいよ」と言って貸してあげるのです。いつも、いつも 「貸して」と言われるたびに、そうやって優しく譲ってあげていました。ところが、四歳ぐらいだと「貸して」と言って来た他の子どもには、この子に「譲ってもらったこと」「優しくされたこと」がわかりません。「いらないから、貸してくれたんだ」、または「自分の欲求が通った」と思うだけです。

そして、一般的に、子どもはすばやく学習します。この男の子のクラスの子どもたちは、男の子のところに行って「貸して」と言えば絶対に「ダメ」と言われず、必ず貸してくれるとしっかりと学習して覚えました。自分の得・利益になる方向を学習したと申してよいでしょう。結果的に、その男の子は何かおもちゃで遊ぼうとするたびに、他の子に取られてしまうことになりました。

いつも譲ってあげるその子は、本当に良い子です。そして、同じ年齢の他の子どもたちよりも心の発達と申しましょうか、社会性が発達しています。社会性が発達しているとはどういうことかと言えば、相手の気持ちを推し量ることができる、想像することができるということです。

その優れたところが、この四歳の男の子自身を逆に苦しめることになってしまいました。他の子の気持ちのわかる思いやりのできる子が、その優しさからおもちゃを他の子に譲ってあげても、まだ優しさという愛のわからない他の子は「しめた、よかった」としか思いません。その子の優しさにつけ込むだけです。

いつも譲ってあげる男の子には、それがとても辛かったのです。ありがとうと言ってもらえない・自分が遊びたい思いを我慢して他の子に譲ってあげていることを他のお友だちにわかってもらえないことが、悲しかったのです。心が涙を流すほどつらく悲しくて、言葉でそれを表現できないこの男の子は、心の涙を流す代わりに自分の体を血まみれになるほどかきむしってしまいました。

その子の幼稚園(保育園かもしれません)の先生は、クラスのみんなの前で、子どもたちがわかるかどうかは別にして、その子が他の子のために自分の思いを我慢したことを話し、その子をありったけの言葉でほめ、力いっぱい抱きしめました。おうちでも、両親はその子がお友だちに優しく譲ってあげたことを、言葉を尽くしてほめました。

すると、その子が自分で自分をかきむしる自傷行為は、ぴたっとやんだそうです。自分が良いと思ってしたことが他の人にも「良い」と認められ、理解されたからです。自分の行いの意味と価値を、認めてもらって、その子の心の傷は癒されました。

人に譲る行為は、自己犠牲のひとつです。自分の欲求を抑え込み、我慢をするからです。そして、自己犠牲はこの男の子のクラスの子たちがそうだったように、自分が得することを最優先にする自己中心的な感覚・この世では当たり前の価値観だけしか理解できない人には、実にわかりにくい事柄です。

イエス様が今日の聖書箇所でおっしゃる「敵」とは、自己中心的な感覚でしか人間を理解できない者たちのことです。

ここまでお聞きになって、もうお気づきの方がおいでと思いますが、イエス様の十字架の出来事は、この世の人には誰も意味のわからない自己犠牲のみわざでした。

その価値をご存じだったのは、父なる神さまとイエス様ご自身だけでした。人間は誰一人としてイエス様が地上の命を自分のために捨ててくださったことを理解していなかったのです。

イエス様はこの世で、人間という自己中心的な敵に囲まれておられました。しかし、イエス様はそんな私たちを敵とはなさいませんでした。愛のわからない敵だから、どうなっても良い、神さまに見捨てられるがよいなどとは思わず、逆に私たちを救ってくださいました。

少し話が戻りますが。自分の思いを抑えて、他の人に譲ることは、どの文化でも美徳とされています。ご高齢の方や体に支障のある方に席を譲る自己犠牲は「親切」と呼ばれて美しいと讃えられます。しかし、他の誰かのために自分が出世の道を譲ることを、この世の人は愚かしいというでしょう。その線引きは、いったいどこにあるのでしょう。

私たちは、ある意味で常に競争しなければならないこの世で生きています。入学試験もそうですし、就職試験もそうです。社会に出て社会人となれば、いよいよ日々競争の毎日です。これは譲ってあげられるけれど、これは譲れない、譲ってしまったら自分と自分の家族が生きて行けないという判断を日々行いながら生きています。自分が損をしない、つまり自己犠牲を伴わない親切ならばすすんで行うけれど、自分の得にならないことなら馬鹿らしいからやらないと判断するのが、この世を生きる知恵でしょう。どこまでを親切として行い、どこからは馬鹿らしいからやらないと判断するか、その「線引き」をしつつ生きているのです。

イエス様は、線引きなどなさいませんでした。イエス様は、自己犠牲を貫かれ、十字架で死なれるためにこの世に生まれてくださったのです。線引きしなければ生きていけない、誰かを蹴落とさずには生きていけない私たちを救ってくださるためでした。たいせつな独り子イエス様を、敵しかいないこの世に遣わされたのは、天の神さまの大きな、大きな愛の決断でした。ヨハネによる福音書三章十六節にこう記されているとおりです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」

その愛のみわざの出来事、イエス様のお誕生を感謝するクリスマスを待ちつつ、今のアドヴェントの時を過ごしています。この世に生きる私たち皆がイエス様の自己犠牲のみわざを知り、少しずつそれぞれが犠牲を払って自分ではない誰かのために譲り合うことができるなら、この世はきっと、誰にとってももっと幸福な世界になるでしょう。その望みと、イエス様の愛の光を心に宿し、今日から始まるアドヴェント第三週目の一日一日を進み行きましょう。



2022年12月4日

説教題:主の幸いに満たされる

聖 書:イザヤ書53章11節、ルカによる福音書6章20~26節


さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。

(ルカによる福音書 6章20節)


 今日の御言葉で、イエス様はこのようにおっしゃいました。先ほど司式者がお読みくださいましたが、今一度 お読みします。「貧しい人々は幸いである。」

この御言葉を聞いて、皆さんはどのように感じられるでしょう。「聞いたことがある」と思われる方がおられるでしょう。そのとおりです。数年前にご一緒に読んだマタイによる福音書のイエス様の言葉とよく似ています。

また「イエス様の御言葉らしい感じがする」、「聖書の言葉という感じがする」とも思われたかもしれません。どうして?と尋ねられると「何となく」という答えが返ってくるかもしれません。皆さんが「イエス様の言葉らしい感じ、御言葉という感じがする」と思われたのは、おそらくこの聖句が逆説的だからでしょう。イエス様はしばしば、人間社会ではごく当たり前の考え方をひっくり返して、逆説的な表現をされ、私たちに「あれ?」と思わせて、そこから神さまの愛とまことを教えてくださいます。この箇所も、そうです。

「貧しい」とは、私たちの通常の感じ方・受け止め方では「良くないこと」「自分がそうはなりたくないこと」、つまり「不幸なこと」です。しかし、それを敢えて逆に「幸いだ」「幸福だ」とイエス様はおっしゃいます。逆説を通して、イエス様は私たちに神さまの真理を伝えてくださるのです。

聖書を通して私たちが体験し、イエス様から教えていただくのは神さまを信じることで起こる価値の逆転です。イエス様は、私たちがマイナスの価値観・良くないと思う事柄にしっかりと目をそそぐようにと教え、それを輝かせる奇跡を行われます。

イエス様が「貧しい」とおっしゃると、「ある者たち」にとって「貧しい」ことは「幸福」「幸い」「幸せ」となるのです。

「ある者たち」とは、誰でしょう。

今日の聖書箇所の冒頭を、もう一度お読みします。「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。」イエス様は「弟子たち」に、つまりイエス様を深く信頼して従い、その教えを待ち望む者たちに今日の言葉をおっしゃったのです。「弟子たち」とは、すなわちクリスチャン、信仰者のことです。求道中の方、初めて教会にいらした方を含めて、イエス様との出会いを求めて集う私たちのことです。

2000年の時間の隔たり、そしてユダヤと私たちが今いる極東の日本との空間の隔たりを超えて、イエス様は聖書を通して今 私たちに語りかけてくださいます。

信仰者にとっては、貧しいことは苦しいけれど、不幸なこと、悲しいことではないとイエス様はおっしゃいます。その理由は、その言葉と対になっている今日の聖書箇所の24節をご覧になるとわかります。こう記されています。「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。」

「貧しい」の反対が「富んでいる」 ― お金がたくさんある、経済的に豊かである ― ですが、イエス様はその状態にある人々を不幸だとおっしゃいます。なぜなら、もう「慰めを受けているから」だと、イエス様はその理由を語られました。日本語訳では少しわかりづらいのですが、この「慰め」という言葉はもとの聖書の言葉では「力」または「安楽」を意味します。お金がある人たちは社会的な力もあるし、楽に生きていると言い換えることができます ― だったら、やっぱり貧しい人よりもずっと幸福ではないかと思えてしまいますが、それは不幸だとイエス様はおっしゃるのです。

貧しいとは不幸なことと思ってしまう私たち人間の考え・価値観の一歩先と申しましょうか、一段上を行くのがイエス様の教えです。この世的な力を持ち、楽々と生きていると、人は満足します。自分自身について、命について、人生について、また社会について、この世で生きることについて、あまり深く考えなくなります。

逆に貧しいと人間は、なぜこの世に不平等があり、自分が虐げられる立場に生まれたのかを怒りと悲しみと共に考えます。「不条理」ということを、身をもって知るようになります。貧しい人はこの世に負けて、イエス様の弟子になった徴税人のレビがそうだったように(覚えておいででしょうか…後にマタイの福音書を書いたマタイです)やぶれかぶれになって開き直り、不道徳な生き方をすることもあるかもしれません。この世に負けて、自分は貧乏くじを引いたと人生を諦めてしまい、暗い恨みがましい心を持つようになるかもしれません。この世に負けるとは、結局 お金や権力や名声がこの世を支配していると思いこんでしまうことだと言い換えて良いでしょう。

しかし、イエス様はその貧しい人たちに「いや、この世を支配しているのはこの世のすべて、天地を創られた神さまだ」と力強く語りかけられます。神の国とは、神さまがすべての采配を振るわれているという真理をさします。そしてイエス様は、富も名誉も権力も私たちの心を支配できない ― 支配しているのは創造主なる神さまだとおっしゃるのです。それを知ることにこそ、真実の幸いがあります。真理を知る者、そして真理を通して神さまを知り、神さまに見守られていることを知る者は恵まれるからです。

恵みとは、この世の何に対してもくじけない心の強さ – どんな時も希望を持つ心の力をいただくことです。これは、私たちが強くなることではありません。私たちは、弱いままです。イエス様が常に私たちの弱さを負い、私たちの心に愛という力を注ぎ込んでくださることで私たちは強められるのです。

信仰を持つ – イエス様を信じるとは、この恵みに生きることです。実は、その恵み・幸いは貧しいか・富んでいるかとは関係がありません。この世的には – つまり人間的な価値観では不幸に見える貧しい人も、幸福に見えるお金持ちも、神さまの前では等しく神さまに造られて愛されている一人一人です。そして、十字架で私たちのためにご自身の命を捨てるほどに私たちを愛してくださったイエス様が私たちの心に宿り、大丈夫と励まして私たちを行く手へと導いてくださいます。それは私たちがどのような状態にあっても、揺るがない真理です。

21節と25節を合わせて読むと、それがわかります。人間的な価値観では、人間は飢えていれば絶望し、この絶望体験によって、満腹しても次に飢えることを思って心の底から本当に幸福だとは感じられなくなります。泣いたり、笑ったりするのも同じことです。

私たちの状態も心も、いつも同じではありません ― 常に変化しつつ、時に流されてゆきます。しかし、変わらないことがひとつ あります。それが、先ほど伝えた主にある恵みです。繰り返します。

私たち誰もが、神さまの前では等しく神さまに造られて愛されている一人一人。そして、十字架で私たちのためにご自身の命を捨てるほどに私たちを愛してくださったイエス様が私たちの心に宿り、大丈夫と励まして私たちを行く手へと導いてくださることが、私たちの恵み。

たいへん残念ですが、この真理を魂で知る者はほんのわずかです。イエス様はこの残念な事実を、こう語られています。マタイによる福音書7章13節から14節の御言葉です。お読みします。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

多くの仕事がお休みの日曜日に、教会に集まる人はきわめて少数です。これはキリスト教社会と言われる欧米でも、教会に行くのが文化的習慣である点を差し引くと、そう変わらないかもしれません。こうして礼拝をささげている私たちは、社会の少数派・マイノリティと申してよいでしょう。

富や権力や名声といったわかりやすい価値観が支配するこの世と、神さまを最優先にする信仰者とは摩擦を起こしてしまう事があります。今日の聖書箇所の22節にもあるように、クリスチャン・信仰者は迫害の歴史を持っています。「人々に憎まれ」、「人の子 ― イエス様のことです ― のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられ」ることが何度もありました。しかし、その都度、イエス様にこそ希望を抱いて乗り越え、世とは衝突せずに世に仕える道を進んできたのです。

この社会での教育と医療、福祉でのキリスト者・信仰者の働きは、人口に対する人数の割合の少なさからは想像できないほど大きなものです。この世の人の目には一見すると逆説と思える「見えない神さまにすべてをお任せする価値観」を心の礎としていることを、今日 ご一緒にあらためて心に留めたいと願います。

今日は、クリスマスを待つアドヴェント第二主日です。

クリスマスの意味を思いめぐらしながら、今日のイエス様の逆説による祝福の御言葉を読む時、イエス様の地上のご生涯そのものが大いなる逆説であることに気付かされます。

イエス様は最も尊い方であるのに、最も卑しい馬小屋の片隅でお生まれになりました。最も清く慕わしい方が、誰もそんなところで生まれたくないと思う不潔で暗い場所でひっそりと産声を上げられたのです。しかし、イエス様がお生まれになった時に、その不潔で暗い場所はイエス様によって光り輝く恵みの場所となりました。東方の博士たちは、その場所を探してはるばる長い旅路をやって来ました。駆けつけた羊飼いたちと共にイエス様を伏し拝み、喜びにあふれたのです。

イエス様がお生まれになった馬小屋は、イエス様によって光あふれる場所になりました。私たちの心も暗い時にこそ、宿ってくださるイエス様がそこに光を輝かせてくださいます。つらい時にこそ、「今泣いている人々は、幸いである」とおっしゃってくださるイエス様に希望をいただきましょう。イエス様の恵みに満たされて、この新しい一週間を心豊かに過ごしてまいりましょう。



2022年11月27日

説教題:使徒の選び

聖 書:イザヤ書55章3~5節、ルカによる福音書6章12~19節


そのころ、イエスは祈るために山へ行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。

(ルカによる福音書 6章12–13節)


クリスマス・クランツの最初のろうそく・一本目のろうそくに灯りがともされました。今日から教会はイエス様のお誕生を感謝して祝うクリスマスに向けて、四週間のアドヴェントの歩みを始めます。

薬円台教会では、主日礼拝ごとにルカによる福音書を読み進めています。聖書のひとつの書をこうして礼拝ごとに少しずつ読んで、読み通す説教を講解説教と申します。

アドヴェントからクリスマスにかけてはその講解説教をいったんやめて、ルカ福音書から離れ、クリスマスの出来事を直接 語る御言葉をご一緒に読むことを考えました。しかし、今日ちょうど、読み進んできたルカによる福音書の聖書箇所では、クリスマスの意味を告げる御言葉をいただいています。イエス様がどのような使命を受けてこの世に人としてお生まれになったかを告げる御言葉を与えられています。そのため、今年のアドヴェントはこのままルカによる福音書を御一緒に読み味わいつつ、併せてクリスマスの意味を深く思いめぐらし、主のご降誕への心備えをいただくこととしました。

今日の聖書箇所は「そのころ」という言葉で始まります。「そのころ」とは「どんなころ」でしょう。イエス様に何があったのでしょう。

前回の聖書箇所を思い起こしましょう。当時のユダヤ社会で指導的な立場にあったのは律法学者やファリサイ派の人々、それに祭司や長老たちでした。彼らは、神さまが人間への深い愛ゆえに人間に律法をくださったことを忘れて、ただひたすらに律法を守るようにとだけ、人々に教えていました。イエス様は、その誤りを指摘されました。彼らは人々の前で恥をかかされたために、イエス様を憎んで怒り狂ったのです。また群衆が自分たちよりもイエス様を尊敬していることにも腹を立てました。嫉妬心からイエス様に危害を加え、イエス様を亡き者にしようと考えるようになったのです。今日の聖書箇所は、そのような悪意を向けられたイエス様がなさった大きな出来事を私たちに語ってくれています。

誰かに憎まれて、平気な人などいないでしょう。まして、命を狙われ、死ねばよいと思われていると知って心穏やかでいられるはずなどありません。イエス様は、この人の心の暗闇・深い罪にさらされ、この人の罪に向き合う事態となられました。そのために、イエス様は今日の聖書箇所の冒頭で語られているように「祈るために山へ行き、神に祈って夜を明かされた」のです。イエス様は夜通し、つまり徹夜で祈られ、天の父なる神さまに導きを願われました。

イエス様が神さまに祈られる姿は、福音書にたびたび記されていますが、徹夜の祈り・夜を徹しての祈りはルカ福音書では二か所しかありません。今日のこの箇所と、イエス様が逮捕される直前のゲッセマネの祈りです。

人の罪に向き合われたイエス様は、この時、何を夜通し神さまに祈られたのでしょう。

祈りは神さまとの対話ですが、神さまは御子イエス様に何を語られたのでしょう。

 人の憎しみを恐れて、そこから救い出してくださいと天の父に祈ったかもしれませんが、そればかりとは思えません。むしろ、憎しみという人の罪を天の父の御子としてお生まれになったご自身がどうすれば良いのかを、父なる神さまに尋ねたのではないでしょうか。

憎しみは、愛の真逆にあるものです。愛は人を生かしますが、憎しみはイエス様の暗殺計画が立てられ始めていたことからわかるように、人を殺します。愛は人を大切にし、尊重し、人と人とを結んで心を喜びで満たしますが、憎しみは人の心も体も粗末に扱い、人を遠ざけます。憎しみとは、神さまに背いて破滅に向かう罪です。

神さまに仕え、神さまが人間に与えた律法を真剣に研究している律法学者やファリサイ派の人々が今、こうしてイエス様への憎しみで心をいっぱいにしてしまい、神さまに背く者となっていることをイエス様は情けないことだと思われたでしょう。また、天の父と心を合わせて、彼らを憐れと思ったのではないでしょうか。

憎しみのために神さまに背き、滅びてしまう者たちを救うのがご自身の使命であることを、イエス様は長い祈りの中であらためて天の父なる神さまから示されたのでありましょう。イエス様は救い主として、この世に遣わされたのですから。

イエス様が救い主として世に遣わされた – それが、クリスマスの出来事です。

今日の聖書箇所のイエス様の祈りの中で、天の父はイエス様に今の状況から逃げるようにとはおっしゃいませんでした。逆に、彼らの憎しみと罪をそのままイエス様が身に受けて、それを負い、十字架への道を歩まれるようにとあらためて使命を告げたのです。

私たち人間の罪を私たちに代わって負い、イエス様ご自身の人間としての命と共に罪を滅ぼすことこそ、イエス様が天の父から与えられた使命でした。イエス様は、この使命を果たすために世に遣わされたのです ― 繰り返しますが、それこそが、イエス様が人となってこの世にお生まれになった、クリスマスの出来事です。

天の父がイエス様に使命をあらためて告げられたことは、祈りの夜が明けて朝になり、イエス様が弟子たちを呼び集めた時に明らかになりました。

弟子とは、イエス様が伝える神さまの愛の教えを信じ、イエス様に従う者たちをさします。すでにこの頃、イエス様を慕い、仕事も家族もあとに残してイエス様の伝道の旅に着き従っていた弟子たちはかなりの数にのぼっていました。祈りで明けた朝、イエス様は、その多くの弟子たちの中から十二人を選び出されました。

彼らは特別に「使徒」と名付けられたと、今日の聖書箇所の13節は告げています。「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。使命を担った者たちと言い換えても良いでしょう。どんな使命でしょう。

福音宣教の使命、それもイエス様の十字架の出来事とご復活が成され、イエス様が天に帰られてからの福音宣教を担う使命です。使徒たちはイエス様のそば近くでお仕えしていましたが、それより重要だったのは、イエス様が天に昇られてからの務めでした。

イエス様は、この時、ご自分が十字架に架かり、人間としての命を捨てて救いのみわざを成し遂げられることを神さまから告げられていました。イエス様は、復活されて神さまとしてのお姿を明らかにされ、神さまの右の座に戻られます。

その後、イエス様がこの地上でなさっていた神さまの教えを宣べ伝える宣教・伝道の仕事を導く者が使徒たちなのです。 イエス様は、「使徒」と名付けた十二人の弟子たちに、その宣教の指導者としての役割を使命として与えられました。彼らはイエス様のご復活と昇天の後、ペンテコステの日に聖霊を受け、イエス様を礎として教会をたて、イエス様に従う群れを育ててゆきました。

ただし一人を除いて、です。その一人とは、十二人の最後に名前が記されているイスカリオテのユダです。

イエス様の救いのみわざは、イエス様が人の罪をすべて負い、その罪と共にご自身の命を十字架で捨ててくださらなければ成し遂げられません。イエス様はイスカリオテのユダの裏切りによって逮捕され、十字架に架けられました。イエス様のそば近くに仕える十二人の弟子の一人、イスカリオテのユダの裏切りが、イエス様の十字架での死を招きました。

神さまの救いのご計画の中では、イスカリオテのユダがイエス様の十字架のみわざを成就させる布石のひとつとなっています。イエス様は、徹夜の祈りの中で、父なる神さまからイスカリオテのユダを「使徒」に選ぶようにと命じられ、それを受け入れられました。

十字架で死なれ、私たちのために救いのみわざを成就される神さまのご計画に従う決意をされたのです。ご自分の命を犠牲にして私たちを救う私たち人間への愛と、神さまに従い通す従順 – この二つを、夜を徹しての祈りでイエス様が心に深く決められました。

その覚悟を胸に抱いてイエス様は「使徒」たち十二人と一緒に山から下りて来られました。

今日の聖書箇所17節に、「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」と記されています。

神さまとの時間を山で過ごされ、イエス様は再び私たち人間と同じ平面で、わたしたちと共に生きるために戻ってくださいました。

イエス様に着き従うために「大勢の弟子」が、またイエス様の教えを望み、癒しを待つ「おびただしい民衆」がユダヤ全土と海岸地方から集まっていました。人々のために生きる ― そのイエス様の日常が、イエス様を待ち受けていました。

今日の聖書箇所の最後の節19節には、こう記されています。お読みします。「イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていた。」徹夜で祈りを献げられたイエス様は、休む間もなく大勢の人々のために働かれ、ご自分の疲労を回復することもなく、人々のために力を費やされました。

私たちは、つい、イエス様は神さまなのだから何があっても平気で、私たち人間が苦痛・苦難・悲嘆と感じることもハエがとまったほどにも感じられないのではないかと想像してしまうことがあります。徹夜など、イエス様にとっては何でもないと考えてしまいます。イエス様は人間とは次元が違う全能の方だから、人間にとってきわめてつらい事柄 – 病い・苦しみ・老い・死の恐怖と絶望 – をつらいと感じないのではないかと思ってしまうのです。

しかし、私たちは神さまがイエス様を私たちと同じ人間として、無力な赤ちゃんとして、私たちと同じ地上・この平面に遣わしてくださったクリスマスの出来事とその意味を忘れてはなりません。

イエス様は人間として、私たちのすべての苦しみを知ってくださいます。全能の神さまだからこそ、より深く痛みを知り尽くしてくださるのです。イエス様は、癒しを求めて来る人々と共に激しく痛みながら、だからこそ人々に共感し、寄り添って癒しのみわざをなさってくださいました。

今日の聖書箇所から、私たちはイエス様がまったき神であると同時にまったき人であり、救い主であるがゆえに二つの苦難を秘めていたことを知らされました。ひとつは、後に自分を裏切ると知っていながら選んだ一人の裏切者によって、ご自分の地上の命が惨めとしか言いようのない十字架上の死刑で終わることを承知しておられたということです。イスカリオテのユダの裏切りによって後にご自分が処刑されることが、私たち人間を救うためにはどうしても必要だったから、イエス様はその神さまの使命を受け入れて、ユダを使徒に選びました。イエス様はその使命を私たちのために受け入れてくださったのです。そして、もうひとつのイエス様の苦難は、イエス様が私たちのためにご自分の安楽を捨ててくださったということです。休息も取らず、身を粉にするようにして、イエス様は教え、癒し、神さまの恵みを人々に伝え続けました。

クリスマスを待つこのアドヴェントに、私たちはクランツを用意し、こうしてろうそくに火を灯します。ろうそくは、美しく静かに燃えながら小さくなってゆきます。身を削って、光を放っています。この炎を見ながら、私たちのために地上の命の火を燃やし、休む間もなく、また惜しむことなく私たちのために力を出し切ってくださったイエス様の愛を思います。

イエス様が、私たちをどれほど深く愛してくださったかを思いめぐらしつつこのアドヴェント第一週を過ごしてまいりましょう。私たちも隣人のため、誰かのために、小さな光となれるようにとイエス様は私たちを導いてくださいます。それを信じて感謝しつつ、イエス様に従って今日から始まる新しい一週間の一日一日を歩んでまいりましょう。



2022年11月20日

説教題:安息日は命の日

聖 書:サムエル記上21章7節、ルカによる福音書6章1~11節


律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」

(ルカによる福音書 6章7 – 9節)


今日の聖書箇所の聖句 ルカによる福音書6章5節で、イエス様はこうおっしゃられました ― 「人の子は安息日の主である。」

イエス様が十字架の上で息を引き取られたのは金曜日、ご復活は日曜日です。イエス様の十字架の出来事とご復活で救われた恵みを信じるキリスト者・クリスチャンは、イエス様がよみがえられた日曜日を主の日として神さまに心をひとすじに向ける安息日としました。

ユダヤの人々は、安息日を土曜日としていました。その日を、大切で特別な日として過ごしていたのです。そして大切にするあまりに、人間的な思いから誤りを犯してしまいました。それを、イエス様は今日の御言葉で指摘しておられます。

安息日は、神さまが天地を6日間で創造されたあと、一日をお休みの日となさったことに由来しています。旧約聖書の2ページ、創世記2章2節から3節にはこう記されています。「第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」

この聖句で繰り返し語られているように、神さまが仕事を離れて安息し、安息の日として特別に聖なる日として祝福されたのが「安息日」です。

律法では、十戒で安息日についてこう定められています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。…いかなる仕事もしてはならない。」(出エジプト記20:8-10)

律法学者やファリサイ派の人々は「いかなる仕事もしてはならない」という御言葉を重んじて、これをかたくななまでに守り、ユダヤの人々に守るよう厳しく教えました。

これはいろいろな民族がいる中で、七日目にはまったく仕事をしない民族こそが神さまの宝の民・ユダヤの民だというすばらしい目印になりました。

安息日は偶像崇拝をする人たちと、自分たち神さまの宝の民を識別するたいせつなしるしなのです。

安息日に決して仕事をせずにいることが、ユダヤ人としての誇りの証し、信仰的な、そして民族的なアイデンティティーの表われでした。

繰り返しになりますが、このために安息日を大切にするあまり、律法学者やファリサイ派の人々は滑稽なほどにこだわりの強い、間違った解釈に陥りました。

今日の1節から語られている麦畑でイエス様の弟子たちが行ったことと、それに対してファリサイ派の人々の批判の言葉を読むと、私たちはつい、これは笑い話なのかと思いたくなります。

安息日に、イエス様が弟子たちを連れて麦畑を通られました。今日は収穫感謝日ですので、皆さまは金色に実って収穫を待つ麦畑をイメージしてくださると良いと思います。

弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんでやわらかくこねて食べました。それを、ファリサイ派の人々は安息日にしてはならないことだと非難したのです。どうしてでしょう。

麦の穂をちょっと摘んだ – それは「刈り入れ」「収穫」という畑仕事をしたことになるからです。手でもんでもみ殻を取り除いた – それは「脱穀」という仕事をしたとみなされました。さらに、やわらかくこねたことは「料理」という仕事をしたことになったのでしょう。

ファリサイ派の人々は「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」とイエス様と弟子たちを厳しく問いただそうとしました。それに対して、イエス様は旧約聖書のダビデの出来事を語られ、律法で本当に大切なのは何かを指摘されたのです。

ダビデがサウル王に命を狙われるというつらい立場と空腹に苦しんでいた時に、神さまは聖別されたご自分のパン、律法では人間が食べてはならないとされているパンを、祭司を通してダビデとお供の者たちに与えてくださいました。

律法という決まりごとは、人間が神さまの御前で正しく神さまを仰ぎ、神さまに愛されて造られた人間同士が秩序を守り、互いに譲り合い 助け合って生きるために神さまが私たちに与えてくださった指標です。その根本にあるのは、神さまがどんな時も、私たちのためを思ってくださっているという主の深い愛です。

神さまは、私たちが困っていたら、必ず助けてくださいます。おなかをすかせていたら、ご自分のパンを与えてくださる方です。だから、ダビデは神さまのパンを与えられ、お供の者たちと共に命をつなぐことができました。

人間としての家系をたどると、ダビデの裔であるイエス様は、このダビデの出来事から千年後にお生まれになりました。イエス様は、私たちに永遠の命への道を拓いて生かしてくださるために、ご自分をパンとして与えてくださいました。私たちはその恵みをおぼえ、聖餐式にてイエス様の御体なるパンと血潮なる杯に与ります。

イエス様が今日の聖書箇所でダビデがパンを食べたことを語っておられることから、私たちはイエス様の十字架の出来事とご復活を思い起こさねばならないでしょう。

さて、イエス様の指摘で逆にやりこめられたかたちになったファリサイ派の人々と律法学者たちは、ますますイエス様への憎しみを募らせてゆきました。何とかしてイエス様を、律法違反を犯した罪人として訴えようと、別の安息日に目を光らせていました。

こうなると、もう彼らの関心は律法そのものからも、神さまからも離れてしまっています。憎しみという罪で、彼らの心はいっぱいになっていました。

イエス様がその安息日に教えておられた会堂には、手の萎えた人、手が麻痺して動かせない人がいました。イエス様はこれまで、安息日に癒しのみわざを何度か行ってこられました。

癒しのみわざは、神さまがなさることですから奇跡ですが、ファリサイ派の人々と律法学者たちは医療行為であり仕事だとみなしました。この時も、彼らはイエス様が手の動かない人を癒すにちがいない、医療行為という仕事を行って律法に背くに違いないと考えました。

彼らの考えでは、安息日には何も行ってはならない、安息日に何も行わないことが御心にかなうと考えていたのです。

少し頭の体操のようになりますが、大切なことなので耳を澄ませてください。

創世記で神さまが安息日を決められた時、「安息日には何も行わない」と定めたわけではありません。神さまご自身が、みわざを働き、行いをされています – 何のみわざでしょう?聖別された日として安息日を「祝福する」という、私たち人間からすると最も神さまらしいみわざでした。

そして、私たちは主にならい、安息日を主の日、神さまの日として神さまに一途に心を向け、神さまの愛を思い、神さまのものである隣人を愛する「行い」を求められています。安息日には何も行わないのではなく、神さまを仰ぐ礼拝をささげ、御心にかなう行いをすることが最も正しいこと、御心にかなうことなのです。ファリサイ派の人々と律法学者は、この点で大きな誤りを犯していました。

イエス様はそれを指摘するために、手の萎えた人を、真ん中に立たせてこうおっしゃいました。今日の礼拝の中心的な聖句です。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、滅ぼすことか。」

イエス様がおっしゃった四つのことは、すべて「行う」ことです。つまり、神さまが許しておられる安息日の過ごし方の選択肢には、「行う」ことしかないのです。律法学者やファリサイ派の人々の「安息日には何も行わない」という考えは、そもそも間違いなのです。

イエス様はこの真理を明確にされた後、神さまの御心を行われました。それはもちろん、善を行い、命を救うことです。イエス様は、萎えた手を癒してまっすぐに伸びるようにしてくださいました。会堂に居合わせたすべての人々は、イエス様の言葉を聞いて神さまが安息日に行いを許しておられることを理解しました。そして、イエス様が神さまのみわざを善なる救いの行いとして、手の萎えた人を癒されるのを目の当たりにしたのです。ファリサイ派の人々と律法学者の律法についての考えの過ちは、ここに明らかにされました。

彼らが神さまに従う信仰者ならば、ここでイエス様の御前にひれ伏したでしょう。ところが、彼らの心はイエス様への憎しみという罪でいっぱいでした。彼らはより罪深い方へと進んでしまったことが、今日の聖書箇所の最後にこう記されています。「彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。」(ルカ福音書6:11)

私たちは、今日のイエス様の御言葉から安息日を行いの日として過ごすよう導かれています。善を行い、救われた恵みに感謝して、人を助ける行いを神さまの御前に志す日が真実の安息日です。その志を抱いて、私たちは一週間を歩んで行きます。

いつも私たちを見守り、私たちに最も良いものを与えてくださる神さまの愛・イエス様の愛を心の礎として、この新しい一週間を安心して進み行きましょう。



2022年11月13日

説教題:絶えず新しくされて

聖 書:イザヤ書58章4~6節、ルカによる福音書5章33~39節


人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」

(ルカによる福音書 5章33 – 35節)


交換講壇の主日と召天者記念礼拝を献げた主日をはさんで、再びルカによる福音書に戻ってまいりました。

今日の聖書箇所の前に語られている出来事を思い起こすことから始めましょう。イエス様は、嫌われ者の徴税人レビを弟子になさってくださいました。レビは生きていながら死んだように何事にも虚無的でしたが、イエス様の招きを受けて思わず立ち上がり、イエス様に従ったのです。彼は前向きに生きる気力をイエス様からいただきました。イエス様によって自己嫌悪と孤独から救い出されたレビは、この喜びを祝う盛大な宴会・パーティを開きました。

宴会には、イエス様と弟子はもちろん、自分と同じ徴税人や社会からつまはじきにされていた罪びとたちが招かれました。これを見て、眉をひそめる者たちがいました。ファリサイ派の人々や律法学者たちでした。

一緒に食卓を囲んで、共に飲んだり食べたりするのは心を許し合い、信頼し合っている仲間意識の表われです。ファリサイ派や律法学者は、罪びとや、同胞を裏切って宗主国ローマの手先となって暴利をむさぼるレビのような徴税人は、聖なる神の民の食卓から遠ざけられるべきだと考えていました。神さまが、罪びとや裏切者を喜ばれるとはとうてい思えなかったからです。ところが、イエス様は彼らに、自分は罪びとや徴税人のように自分で神さまのそばに近づけないと思っている者たちを招くために世に遣わされたのだと明言されました。

今日の聖書箇所では、ファリサイ派や律法学者だけではなく世間の「人々」が、いわゆるならず者と食事をするイエス様と弟子たちを批判したことが記されています。この時に批判の的とされたのは、誰と食事をしたかではなく、盛大な宴会を開いて飲んだり食べたりすることそのものでした。

イエス様は神さまの教えを伝えておられますが、イエス様のお姿と弟子たちの様子が人々の考える「神の教えを説く者」のイメージからかけ離れていました。人々が知っている「神の教えを説く者」は、ファリサイ派や律法学者のようないかめしく、いつも厳しい顔をしている学者だったでしょう。常に自分の身を清らかに保つことで心をいっぱいにしている祭司たちのイメージも、人々の心に根強くあったことでしょう。そして、イエス様よりも六ヶ月早く生まれたヨハネが当時、荒れ野で禁欲的な生活を送って人々の尊敬を集めていました。

律法を守るようにとうるさく人々に説教し、戒めるファリサイ派や律法学者、祭司たちは社会の上層部にいました。社会の指導者層で当然のように人々の尊敬を集め、経済的にも恵まれていました。一目でエリートだとわかる高価な衣服をまとい、質の良い食事をして血色も体格も良かったことでしょう。

神さまに仕えることを生業(なりわい)とする者はこの世でも恵まれているという、ユダヤ社会的価値観をくつがえしたのがヨハネだったのです。ヨハネは衣食住の贅沢を捨てて純粋で清らかな生活を送り、町での便利な暮らしを避けて荒れ野で祈る毎日を過ごしていました。

ファリサイ派や律法学者、祭司とヨハネは生活面では大きな違いがありましたが、人々は共通点にも気付いていました。それが、断食をするということだったのです。祈りに集中して食べたり飲んだりをやめるのが、断食です。

生命を維持するのに絶対必要な飲食よりも、魂の命に力をくださる神さまを求める断食は、深い信仰の表われとみなされました。そのため、ファリサイ派や律法学者の中には、断食してやつれた姿を人々にさらし、自分の信仰心を見せびらかすようなこともしていました。人間的な思いからすると、断食は神さまに仕えることを生業(なりわい)とする者が必ず行うしるしのようなものだったのです。

ところが、イエス様の弟子たちは断食をする様子はありませんでした。ならず者のような罪びとや徴税人たちと、盛大に食べたり飲んだりして愉快に過ごしている姿ばかりが目立ちました。

イエス様はもちろん、祈りの時を過ごしておられましたが、祈る時は人里離れたところに行かれますから、人々はイエス様の祈りを見ていません。そのため、人々はイエス様とその弟子の生活が信仰的ではないと、今から思えば実に冒涜的な批判をしました。

その批判に応えて、イエス様がおっしゃられたのが今日の御言葉です。その頃の人々にとっては、謎の御言葉でした。イエス様は、ご自分がこれから十字架に架けられることを言われたのです。

イエス様はまず、こうおっしゃられました。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。」イエス様は、ご自身を婚礼の祝宴の花婿に、この世の人々を招かれた客にたとえて語られたのです。当時のユダヤの社会で、人々の最大の楽しみは一週間続く婚礼の祝宴でした。

結婚披露宴に招かれた人々は花婿と花嫁を囲んで、祝いのしるしに美味しい食事と飲み物を堪能して笑顔で喜びます。食べたり飲んだりしながら、語らい、歌い、踊ることもあったでしょう。楽器の演奏を披露して、花婿と花嫁へのお祝いの贈り物とした者たちもいたでしょう。新婚夫婦の前でめいっぱい喜びを表すことが、客として婚礼に招かれた者が為すべきことです。婚礼の祝宴に招かれて、何も食べず、一口の祝い酒さえ飲まず、陰気な顔でうつむいていたら無礼です。

私たちはこのように勧められています ― 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケの信徒への手紙一 5章16‐17節)

イエス様は、神さまに遣わされて世の光として私たちの間においでくださいました。イエス様は、婚礼の花婿としてこの世に来られ、この世を祝宴の場としてくださっているのです。私たちがその恵みを「いつも喜んでい」ることを、天の父は望んでおられます。

イエス様は、続けて言われました。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」花婿がこの世から奪われる時 – それは、イエス様が十字架に架けられて地上の命を終えられる時です。

イエス様のお体が墓に収められてよみがえりを待つ足かけ三日の間、世は暗闇に閉ざされ、神さまを求めつつ光を待ちました。

そして、イエス様はよみがえられました。滅びの死、神さまから見捨てられて闇に沈み無となる死という私たちにとって最も悲しい出来事は、回避されました。イエス様が私たちの罪をすべて、代わりに負ってくださったからです。

だから、私たちは感謝して喜びます。永遠の命をいただいて、神さまから決して見捨てられず、イエス様と常に共にいられるようになった救いを喜びます。

喜ぶ私たちをご覧になって、神さまは喜んでくださるのです。主の御前での喜びこそが、神さまへの最高の献げものであることを、人々はイエス様を通して初めて知らされました。断食でやつれた陰気な顔を信仰の証しとすることなど、神さまは喜ばれないとイエス様は人々に新しい教えを告げてくださったのです。

その新しさが、これまでの人々の考え方、律法学者やファリサイ派の人々の考え方とまったく異なることをイエス様は二つのたとえを用いて教えてくださっています。

そのひとつが、新しい服に古い服の布切れで継ぎをあてることであり、二つ目が新しいぶどう酒を古い革袋に入れることです。新しい服に継ぎをあてるためにわざわざ新しい服を破るのは、愚かしいことです。発酵している最中の新しいぶどう酒を古い革袋に入れると、新しいぶどう酒の勢いで古い革袋は破れてしまいます。

誰もそんな愚かなことをしませんが、ファリサイ派の人々や律法学者は断食を信仰の証しとして見せびらかす古い愚かしさをまだやっていると、イエス様は痛烈に彼らを戒めたのでした。

もちろん、神さまは、心の底から神さまへの祈りを献げる真実の断食を祝福してくださると信じます。ユダヤの歴史の中で信仰が古くからの習慣となり、本来の意味を失ってかたちばかりになり、それだけにとどまらず、虚飾の温床となることをイエス様は戒めてくださっているのです。

こう語りながら、私も我が身を振り返って悔い改めなければならないことがあると気付かされます。暗唱している「主の祈り」は、その都度 言葉を新しく心に留めながら献げているか ― 何となく、献げてしまってはいないだろうか。

使徒信条や日本基督教団信仰告白の言葉についても、ただ暗唱することにだけ集中して祈りの心を忘れていないだろうか。

日々新しく、いえ一瞬ごとに新しく、イエス様に救われて神さまのものとされている喜びを献げたいと、あらためて思います。絶えず新しくされてイエス様を慕い、神さまを仰ぐ心をいただきながら、今日から始まる一週間を共に歩んでまいりましょう。



2022年11月6日

説教題:天にある永遠の住みか

聖 書:詩編133編1~3節、コリントの信徒への手紙5章1~9節


わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。

(コリントの信徒への手紙二 5章1節)


「聖徒の日」、召天者記念礼拝の朝を迎えました。

この11月の最初の日曜日、第一主日を多くのキリストの教会、特に私たちプロテスタント信仰に生きる教会では、先に天に召された教会の方々を偲びつつ特別な礼拝を献げます。

今日は「聖徒の日」、「召天者記念礼拝」の言葉の意味をご紹介することから始めたいと思います。

カトリック教会では11月1日(ついたち)を「諸聖人の日」として、五世紀頃から聖人と殉教者をおぼえる日としています。

私たちプロテスタント教会では「聖人」を定めませんが、信仰の先達を思い、天に召された方々と今も共に永遠の命に生きている恵みを感謝します。「聖徒の日」の「聖徒」とはキリストの弟子という意味で、クリスチャンすなわちキリスト者のことです。この言葉は、亡くなったクリスチャンの方々をさすばかりではありません。今 地上に生きている私たちも「聖徒」です。クリスチャンは永遠の命に生きていますから、生命体としての命のあるなしに関わらず、皆「聖徒」と呼ばれます。地上にいる私たちと、地上の命を終えて薬円台教会で葬送式・お葬式を通して天の神さまの御許に送られた方々が皆、同じ「聖徒」として、共に主を仰ぐ礼拝を今、献げています。

私たち人間の目は、残念ながら、地上の命によって生きている者の姿しか見ることができません。それを補うために、今日は天に召された方々の写真をご家族からいただいて、会堂に置いて在りし日の姿を思い浮かべながら、今ここに一緒にいることを心におぼえつつ主を仰ぎます。昨年から今年にかけて天に召された方々四人のお写真を、新しいパネルに収めました。また、皆さまのお手元に、薬円台教会を通して天に召された方々のお名前と亡くなられた日、そしてその時の年齢を配りました。

今日のこの礼拝は「召天者記念礼拝」または「永眠者記念礼拝」と呼ばれます。薬円台教会では伝統的に「召天者記念礼拝」の呼び名が選ばれていますが、それはクリスチャンが終わりの日に復活して地上の命が終わってからの長い眠りからよみがえることを思い、「永遠に眠っている」のではないことを強調しようとの考えからでありましょう。

そして、今日の御言葉、コリントの信徒への手紙二 五章一節は召天者、すなわち天に召されるとはどういうことかを私たちに教えてくれています。ここには「住みか」という言葉が用いられています。これは、体・肉体をたとえた言葉と考えて差し支えないでしょう。

肉体を形作っている無数の細胞に、私たちが行う呼吸と食事を通してさまざまな物質が取り込まれ、化学反応が起こり、一時としてその活動が止まることがない – それが、生命体が生きているということです。

活動が止まると、肉体は滅びます。しかし、今日の御言葉はそれが滅びても、私たちには天に住まいが与えられているから永遠に生きると告げています。

この1節に続き、2節から9節にかけて「住みかを脱ぐ」「住まいを着る」という表現が多く用いられています。私たちに「魂」という目に見えないものがあって、この世に生きている時には肉体の中に魂が住んでおり、肉体が滅びると魂は別の天の住まいに引っ越しをするように読めなくもありません。私たちは着ぐるみを着てでもいるように、自分の魂を肉体に宿らせ、亡くなると神さまが用意してくださる別のものに着替えるのでしょうか。実は、今 申し上げたことは少し、聖書が私たちに伝えようとしていることとは異なります。

人間が肉体と霊魂の二つからできていて、魂が肉体に宿ると考えるのは、ギリシャ哲学です。この考え方が霊肉二元論と呼ばれることを御存じの方が、多くおられると思います。

聖書は、私たちの心と霊、そして肉体が備わる地上の命には、常にイエス様の命・イエス様の霊なる聖霊が寄り添っていると真理を語ります。私たちは生まれる前からイエス様に守られており、地上に生きる間、いつもイエス様が傍らにおいでくださって助け支えてくださっているのです。

孤独死という寂しく悲しい言葉をしばしば耳にしますが、クリスチャンは、この世を去る「いまわのきわ」にあっても決して一人ぼっちということはありません。イエス様が私たちの枕辺におられ、天への旅路を導いてくださるのです。イエス様がいつも共においでくださることを、「主イエス・キリストを身にまとう」(ローマ書13章14節)という言葉で言い表すことがあります。これは、言い換えれば「天から与えられる住みかを上に着」る(コリントの信徒への手紙二 5章4節)ということです。キリスト者・クリスチャンは皆、イエス様をユニフォームのように身にまとっている – こう言い換えても良いでしょう。

地上の命を生きている時も、地上の命が終わって天に住まいを移してからも、私たちは生死を超えてイエス様に抱かれ、イエス様に守られ、愛し抜かれているのです。

イエス様は十字架に架かられた時、着ていた服を剝ぎ取られました。イエス様が十字架で苦しんでいる時に、ローマの兵士たちはイエス様の服を分け合ったのです。イエス様は衣のない無残なお姿で人としての命を終えられました。それは、私達に愛の衣を着せかけてくださるためでした。

 私たち人間は、肉体によってこの世でさまざまな罪を犯します。人間は肉の欲に溺れることがたびたびあります。食欲は、ほどほどであれば良いものと考えるのをゆるされるでしょう。しかし金銭への執着、支配欲や所有欲などは、それで心をいっぱいにして人を傷つけ、自分にも破滅を招く罪と申してよいでしょう。

その肉体が犯す罪を、イエス様は私たちの代わりにすべて背負ってくださいました。私たちはそのイエス様の十字架の死によって、罪をゆるされ贖われて永遠の命に生きる者とされました。

生きて働くイエス様が、生死を超えてどんな時も私たちと共においでくださり、肉体が終わりを迎えてからは天の父の御許へと導いてくださいます。私たち人間はすべて神さまに造られて、この世に命を受けて生まれてきます。生まれる前、お母さんのおなかに小さな生命として形作られた時から、イエス様は私たち一人一人と共においでくださいました。

しかし残念なことに、人間は聖書を知らなければ、教会を知らなければ、イエス様の福音に触れなければ、その恵みの真理を知らずにこの世の人生を歩み、自分は無になると思って生命体としての命の終わりを迎えます。イエス様の救いの福音は、人々にあまねく伝えられなければなりません。主を仰ぎ、教会を通して天に召された一人一人は、決して無にはなりません。天に生き、また私たち教会の群れと共に生きています。この恵みの真理を知っている者は、まだ知らない者に伝えなければならないのです。天に生き、また私たち教会と共に生きています。今日の召天者記念礼拝は、その恵みを伝える日でもあります。

これから讃美歌385番を献げます。この讃美歌の言葉にあるように、私たちが薬円台教会で天への旅へと送った方々は主の愛を歌いつつ過ごされました。主に従って隣人を愛し、悩む人々の思いに耳を傾け、助けの手を差し伸べました。共に泣き、共に笑い、世にある登り坂、下り坂、まさかの時を越えて行きました。

また、主の光に包まれて まことの安らぎをいただく幸いを知っておられました。お一人お一人の歩む主の道は、私たちが今 イエス様に導かれて進んでいる道です。この光の道を、信仰の先達の姿に励まされ、イエス様に支えられて、これからも共に手を携えて進み行きましょう。



※10月30日は、薬円台教会にて日本基督教団 松戸教会 主任担任教師 村上恵理也牧師が、松戸教会にて原田裕子牧師が説教奉仕をささげました。そのため、ホームページへの説教の掲載はありません。


2022年10月23日

説教題:罪人を招く

聖 書:詩編51編3~4節、ルカによる福音書5章27~32節


その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。

(ルカによる福音書5章27~ 28節)


神学校日の主日と信徒の証詞に恵まれた主日をはさんで、再びルカによる福音書に戻ってまいりました。

前回は、イエス様がある家で教えを語っていると大勢の人々が集まり、イエス様の癒しをいただきたい中風の人を連れて来た者たちがその家の屋根を壊して、中風の人を寝ている床ごとイエス様の目の前に吊り降ろした出来事を聴きました。心と体を健やかに救う癒しと、神さまの御前での魂の救いである罪の赦しが中風の人に与えられました。

この時、人々がイエス様のところに集まってまいりました。しかし、イエス様は、人々がご自分のところにやって来るのを待っているだけではありません。ご自分から、人々の間にどんどんと出かけて行かれました。私たちの主は実にフットワークが軽く、いきいきと働いて救いの必要な者たちを捜し求めてくださるのです。そのことが、今日の聖句の冒頭で「イエスは出かけて行って」と語られています。

この時、イエス様は助けを必要としている者・レビに会いに出かけられました。レビは、徴税人だったと記されています。税金を集めるのを仕事としているのが、徴税人です。イエス様の時代に、徴税人は悪人・罪人の代表格のように言われ、ユダヤの同胞からたいへん嫌われていました。ただ税金を集めるだけではなく、ローマ帝国の手先として植民地税を取り立てる特殊な役割を負っていたからです。

すでに繰り返しお伝えしていることですが、当時のユダヤはローマ帝国の支配下に置かれ、人々は、そのために独立した国の国民だったら払う必要のない植民地税を宗主国に払わなければなりませんでした。

この徴税人という人々に憎まれる役回りを、ローマ帝国は自国の役人には負わせず、ユダヤの人々の中から選んだ者にやらせました。嫌われ役ですから、すすんでこの務めをやろうとするユダヤ人はいません。そこで、ローマ帝国は徴税人となる者が得をするようにしました。決められた額の植民地税よりも徴税人が人々から多く税金を取り立てて、差額を自分のものにしても咎めませんでした。徴税人の好き勝手を許したのです。そのために、徴税人は同胞のユダヤ人たちからますます嫌われ、疎まれ、憎まれました。

ユダヤの人々から見れば、徴税人は自分たちを支配するローマ帝国の手先となって私腹を肥やす者たちです。お金が儲かるのなら何でもすると、人間としての良心も誇りも悪に売り渡したような者たちだったのです。人々は徴税人を嫌って、可能な限り関わりを持たないようにしました。会っても目を合わせず、挨拶もせず、近くに寄ろうともしなかったでしょう。

ですから、徴税人の人付き合いはきわめて限られたものでした。ローマ帝国の役人にぺこぺこするほかは、徴税人同士でつるんで互いにどれほどあくどい儲けをしたか、自慢話をするぐらいしかなかったのではないでしょうか。

徴税人たちは金持ちでしたが、それを汚い手段で集めたお金だという罪の自覚を十分に持っていました。社会の表舞台に立つことはなく、人の目から隠れ、もちろん神さまからも隠れるようにして暗い裏街道を進むしかないと屈折した思いを抱いていました。彼らの心は、社会の人々にさげすまれていることからのコンプレックスでいっぱいでした。

社会一般の人が自分を嫌うのと同じくらい、いや、それ以上に、レビたち徴税人は自分自身を憎み疎み、徴税人仲間を軽蔑していました。それでも生きていかなければならず、生きていて体は動いているが、心は死んだような灰色の毎日を過ごしていたでしょう。徴税人が集まる収税所は、このような暗い心を抱えた者のたまり場になっていました。レビは、その中にいたのです。

今日の聖書箇所が語るこの日、レビに会おうと、イエス様はこの絶望した徴税人たちのたまり場・収税所に出かけて行かれました。聖書は、イエス様が、レビを見たと語ります。誰もが目をそらし、見ようとしないレビを、イエス様はまっすぐにご覧になったのです。

イエス様のまなざしは、レビのすさんだ心に灯りを灯しました。イエス様は、そのレビに「わたしに従いなさい」 ― ついてきなさい、一緒に歩もうとおっしゃいました。それまで、徴税人仲間以外にレビに一緒に何かをしようと誘ってくれた者はいませんでした。レビはイエス様のまなざしとこの招きの言葉に、思わず立ち上がりました。徴税人の務めを捨て、それまでの自分に関わるすべてを捨てて、イエス様について行きました。レビは、こうしてイエス様の弟子になったのです。

レビがイエス様の弟子として招かれた場面を描いた絵画を、ご存じの方がおられると思います。17世紀初頭、カラバッジョという画家の作品で、初期バロックを代表する名画と言われています。

ここでお見せすることはできませんので、少しその画面の様子を説明いたしましょう。右側に、イエス様と思われる姿が右手を差し伸べて招く姿勢で立っています。画面の左には四人の男性がテーブルを囲んでいます。税金を払いに来たユダヤの人たちと、収税人レビです。

この四人の中で、誰がレビなのかは、実はこの絵が描かれて以来、長く議論されてきました。イエス様の方を向いて、イエス様に招かれているのは自分か?と驚いて問いかけるように自らを指さしている初老の男性がいます。初期バロック美術は、光と闇を描き分けるコントラストが劇的な効果を生んだことで知られています。この初老の男性は、光の中にいます。この人が、救われたレビではないかと美術評論家や研究者たちの間では長い間、考えられていました。

しかし、この人は明るい光の中で顔を上げていて、その表情にはそれほど内面の屈折が表れていません。また、この人の右手はテーブルの一番左端にいる若い男性にお金を渡す動作をしています。税金を収税所に払いに来た一般のユダヤ人ではないかという説が、今では有力になっています。

一方、金を手渡されている男性、テーブルの左端の若い男性は、実に暗い顔をうつむいています。若いのに背を丸め、自分をできるだけ小さく目立たなくしようとしているように見えます。今では、この若い男性が、イエス様に招かれていることに気付く直前のレビではないかと言われています。

画家カラバッジョが描き出したこの場面の直後に、誰の視線も避けて生きていたこの人は、イエス様に見つめられ、見守られ、呼ばれていることに気付いて顔を上げたのではないでしょうか。イエス様に「わたしに従いなさい」と言われて、その暗い片隅から立ち上がり、イエス様のそばに引き寄せられるように近づき、そのまま二度とこの方のそばを離れまいと決心してイエス様の弟子になったのでしょう。

今、カラバッジョの名画の中で、描かれているどの人物が救われたレビなのかという話をご紹介しました。しかし、次のようにも考えられます。絵の中で、明らかにイエス様と思われる姿の他は、誰がレビであっても不思議はありません。イエス様は、そこに描かれている人物全員と会ってくださっています。

また、この絵を見る者は皆、孤独からの解放を実は内心で願っている罪人に、ご自分から会いに来てくださるイエス様がおられることを知らされます。絵を見ることを通して、イエス様が自分を招いてくださっていることを知るのです。

私たちのうちで、生まれた時からイエス様が主であると知っている者、イエス様が自分をしっかりと見つめてくださっていると知っている者は一人もいません。小さい頃に教会学校に通って、イエス様と出会った方々が、ここにはおられます。「優しい目が 清らかな目が 今日もわたしを見ていてくださる」と歌うこども讃美歌で、イエス様のまなざしに気付いたでしょう。また、ここには、人生の半ばを過ぎてから、いろいろなきっかけを通して教会に来られ、イエス様がこれまでも、これからも、どんな時も寄り添っていてくださることを心と魂で知った方々がおられます。

私たちは皆それぞれ、イエス様を知らなかったのに、どこかで、イエス様のことを知る幸いに恵まれました。誰かが、私たちそれぞれに知らせてくれました。その誰かは、その時、イエス様に遣わされていたのです。イエス様が私たちを捜しに出かけてくださり、イエス様が私たち一人一人を見いだされ、その愛のまなざしをそそいで私たちをご自分のもとへと招いてくださったのです。

イエス様と歩み、イエス様の弟子となったレビのその後の人生は、徴税人だった時から大きく変わりました。徴税人だった頃、お金がいくらあっても、レビには使い道がありませんでした。何の楽しみもなかったからです。有り余るほどのお金を払って建てた大豪邸を持っていましたが、そこで暮らすのは自分一人で、かえって寂しいほどでした。

ところが、イエス様と共に、そしてイエス様の弟子たちと共に生きて、共生の喜びを知ったレビは大きな楽しみ事を見つけました。楽しいこと、喜ばしいことを仲間と分かち合う「共に生きる」幸いを発見したのです。それはもてなすことでした。彼は、イエス様のために自分の家で盛大な宴会を開くことを思い付いたのです。

イエス様を招けば、弟子たちも一緒に来ます。イエス様を招けば、イエス様を慕うたくさんの人たちがレビの家に来るのです。その中には貧しい人も病気の人もいました。そのような悩み苦しみの中にある人々を、レビが開く宴会のひとときは大いに慰め元気づけることができたでしょう。レビはもてなすことと同時に、共感することを知りました。

レビがそれまで付き合っていた徴税人や、人生の裏街道を歩んでいるような人たちも、分け隔てなく宴会に招かれました。飲んだり食べたり、笑ったり歌ったり、人生の表舞台も裏街道も何もなく、神さまに愛され、見守られている人々が分け隔てなく楽しいひとときを過ごすことができたのです。

それを知ったファリサイ派や律法学者たちは、眉をひそめました。もともと、ファリサイ派の「ファリサイ」とは、「分ける」という意味の言葉です。律法を、清められた者と汚れた罪深い者を分ける掟とみなして、それをかたくななまでに守ることを、ファリサイ派や律法学者は神さまの御心として大切にしていたのです。

神さまのことを教え伝えるイエス様と弟子たちが、人でなしやならず者と飲んだり食べたりといった信頼に基づく行いを一緒にするのは律法違反だと、彼らはイエス様と弟子たちを非難しました。

それを聞いたイエス様は、こうおっしゃいました。今日の聖書箇所の最後の聖句です。ルカによる福音書5章31節から32節をお読みします。お聞きください。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

人間なら誰しも、常に健康とは限りません。軽い重いはありますが、誰でも何らかの病気にかかり、医師の診察と治療を必要とします。そして、人間ならば誰でも、神さまを知らない時・神さまを忘れてしまう時・神さまを自分の主とせずに的外れになる罪を犯す時があります。

自分から神さまを捜し求めることができない時に、私たちを見守っておられる神さまは、必ず自分を必要としている者を探し出して、自分の側近くへと招いてくださいます。私たちは皆、聖書が語る今日のレビの出来事のように、イエス様に見つけ出していただき、イエス様の体である教会に入れられて救われた者同士なのです。

さて、最後にひとつお伝えしたいことがあります。イエス様の弟子になったレビは、後に別の名前でよく知られるようになりました。誰でしょう?ヒントは、レビが徴税人だった時に養われた事務能力、物事を記録する能力を活かす奉仕へと導かれたことです。レビは、徴税人だった時のすべてを捨ててイエス様に従いましたが、イエス様はレビの賜物を活かしてくださったのです。

このレビこそ、後に「マタイ」と呼ばれる人物です。レビは、新約聖書の最初の書である『マタイによる福音書』を書いて、私たちにイエス様の言葉と行いを伝える者となったのです。イエス様が自分を見つめてくださっていることを知った喜び、それはイエス様を信じて希望を持つ恵みを世に知らせる証のわざとなりました。

今日も、イエス様は私たち一人一人を、また薬円台教会の群れを主のまなざしで見守ってくださっています。そのまなざしに力をいただいて、今日から始まる新しい一週間の一日一日を安心と希望に満ちて進み行きましょう。主のまなざしからいただく恵みを世に証ししつつ歩める私たちとしていただきましょう。



※10月16日は日本基督教団が定めた信徒伝道週間初日で、薬円台教会 教会員が証しを語られました。そのため、ホームページへの説教の掲載はありません。

※10月9日は日本基督教団が定めた神学校日・伝道献身者奨励日で、神学生が神学校から派遣されて説教奉仕をされました。そのため、ホームページへの説教の掲載はありません。


2022年10月2日

説教題:赦しといやし

聖 書:詩編32編5~6節、ルカによる福音書5章17~26節


…群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

(ルカによる福音書5章19~20章)

「…人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。
(ルカによる福音書5章24~25節)


今日の聖書箇所には、二つの事柄が語られていることにお気付きでしょう。ひとつは、「中風の男」 ― 体が麻痺した男性 ― がかなり強引な方法でイエス様の御前に連れて来られ、イエス様がその人に赦しを宣言されたことです。

もうひとつは、ファリサイ派や律法学者たちが、赦しの権限を持っているのは神さまお一人なのだから、厚顔無恥にも赦しを宣言したこのイエスという人物は神さまを冒瀆したと心の内で思い、それを知ったイエス様が御言葉によっていやしのみわざを行われて、ご自身が神さまであることを明らかにされたことです。

私たちは、イエス様が御言葉により、神さまの御心とご計画を果たし、働かれることを知らされています。そのご計画の中で、イエス様は悪しきものに連れ去られようとしている私たちを神さまのもとに、またご自身のもとへと取り戻してくださいます。神さまへ、イエス様へと連れ戻された私たちは、主に従って歩むようになります。ルカによる福音書から、私たちはその恵みを主日ごとにいただいてまいりました。

第4章半ばでは、イエス様は悪霊が人々の間から奪い去ろうとした人を人々の間に取り返し、病の高熱からペトロのしゅうとめを取り戻してくださいました。

ペトロはイエス様から豊漁の恵みをいただいた時、イエス様が神さまであり、自分とは次元の異なる方であると気付いて恐れおののき、イエス様から離れようとしました。すると、イエス様は彼がご自分から離れないように招き寄せて、弟子にしてくださいました。

この前の主日にいただいた御言葉では、イエス様は汚れた病だと社会から排除されていた人をいやして、共に生きる者であると明らかにしてくださいました。

このように、イエス様は御言葉によって私たちとご自身を絆で結び、神さまのもとへと共に進んでくださいます。

その御業は次のようにいろいろな言葉で言い表されることがあります。「悪霊の追放」、「いやし」、「弟子の召命」、「清め」。いろいろですが、御言葉によって私たちがイエス様と神さまに堅く結ばれるという点では、同じひとつの恵みです。そして、今日 御言葉が語る出来事でイエス様は、もうひとつ、私たちを神さまとイエス様に結んでくださる恵みを与えてくださいます。「赦しの宣言」です。

では、ご一緒に今日の聖書箇所の前半を少し詳しく読んでまいりましょう。イエス様は、この日もユダヤのある町の、とある家で神さまの教えを伝えておられました。イエス様がなさるのは「教え・伝え・いやす」 ― この三つのことですから、教え伝えると同時に、いやしのみわざもなさっていました。

ここで心に留め置かなくてはならないのは、今日の聖書箇所の冒頭17節にこう記してあることです。お読みします。「ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。」

イエス様がある男性から悪霊を追い出したのは会堂での礼拝中でしたから、安息日のことでした。礼拝から帰ってペトロのしゅうとめをいやしたのも、同じ日・安息日のことです。安息日には律法で仕事をしてはいけないとされているので、律法学者や厳しく律法を守ろうとするファリサイ派の人々は、イエス様が律法違反を犯したと考えました。

そこで、イエス様のなさることを監視しに、ユダヤ中から律法に詳しい者たちが集まって来たのでした。神殿のある首都エルサレムから、この世的には大いに権威のある律法学者がやって来ていたのでしょう。

一方、彼らとは別に、イエス様にいやしていただこうと多くの人が集まっていました。その中に体が麻痺して寝たきりで、身の回りのことすべてを人の手に頼らなければならない中風の人がいました。もちろん、この人は自分一人の力でイエス様のところに来ることはできませんでした。寝ている床・布団ごと、友人たちでしょうか、家族でしょうか、仲間に連れられてイエス様のところに運んでもらったのです。担がれたり、時には引きずられたりしながら、仲間たちは一生懸命、この人をイエス様に会わせようとしました。

この人を何とかイエス様にいやしていただこうとした、その仲間たちの熱意はすさまじいものでした。あまりに多くの人が集まっていて、イエス様のごく近くまで行くことができないので、彼らはとんでもないルール違反をしたのです。彼らは自分たちより先に来て、イエス様にいやしていただこうと順番を待っている人たちを無視する行動を取りました。屋根に上り、その屋根の瓦をはいで建物を壊し、イエス様を囲む人々の輪の真ん中、イエス様の前に、床ごと、この人をつり降ろしました。

幼稚園の礼拝でこの聖書箇所をお話しすると、聞いている子どもたちの目が驚きで丸くなります。こんな声が上がります。「ちゃんと自分の番を待たなければ、ダメなんだよ」、「人のおうちを壊したら、ダメなんだよ」、「その人たち、ずるいよ」「そんな危ないことをしたら、いけないんだよ」という声も上がります。そのとおりです。この人たちがしたのは、秩序を乱し、器物を損壊する傍若無人で非常識な行いです。

ところが、イエス様はこの行いをダメとおっしゃらず、戒めもなさいませんでした。逆に、この世・人間社会では許されないこの人の仲間の行いをご覧になって、こうおっしゃいました。20節です。「人よ、あなたの罪は赦された。」

正確には、イエス様はこの中風の人の仲間の「行い」をご覧になったのではありませんでした。彼らの「信仰」をご覧になって、罪の赦しを宣言されたのです。

信仰は、何が何でも神さまを第一とする強い思いです。その思いは、私たちをイエス様と神さまへと導いてくれます。片時もそばを離れまい、もっと近くに、もっとおそばに寄りたいと、私たちがイエス様と神さまににじり寄る― それが信仰です。

イエス様が大好き・神さまを愛するその思い・信仰は、私たちそれぞれをイエス様・神さまと結ぶだけではなく、私たちを互いに結び合います。

今日の聖書箇所が語る出来事で、中風の人の仲間は、中風の人を何とかイエス様に会わせ、近くに連れて行きたい、いやしていただきたいという強い思いでひとつにされました。この世的には確かにたいへん常識のないことをやってしまいましたが、中風の人をイエス様に会わせたいとの思いが彼らを突き動かしたのです。

彼らに連れて来られたこの中風の人は、この仲間の行いに戸惑っていたかもしれません。ここまでしてくれなくて良いと言いたくても、麻痺した口・麻痺したのどではそれが言えなかったのかもしれません。

また、この中風の人はいつも仲間に申し訳ないと思っていたことでしょう。自分は周りの人に世話をしてもらい、手間をかけさせ、今日の聖書箇所では文字通りに「お荷物」になっている … この人は、いつもそう思っていたかもしれません。自分はこの世の厄介者で、存在を許されていないのではないか、いない方が良いのではないかとさえ、思い詰めたことがあったのではないでしょうか。

ところが、イエス様はこの人に、こうおっしゃってくださいました。「あなたは赦されている」、と。あなたは、いなくてはならない人だとイエス様は言ってくださったのです。

この中風の人がいたからこそ、仲間たちは心をひとつにしてイエス様のそばにやって来たのです。仲間たちはこの人を愛し、この人を必ずいやしてくださる方だとイエス様を深く信頼して、何が何でもイエス様の近くに行こうと力を合わせました。信仰の交わりである愛の力が、ここに働いていたのです。そのきっかけとなったのは、繰り返しますが、この中風の人でした。自分では何もできないから、消えてなくなってしまいたいとさえ思っていたかもしれないこの人が、信仰の交わりの力が働く動機となったのです。だからこそ、この人はいなくてはならない人です。

イエス様は、この中風の人への仲間の思いやりが、イエス様の御前にみんなでぐんぐん出て行く信仰の交わりの力となっているのをご覧になりました。それが、「イエスは彼らの信仰を見て」と今日の聖書箇所に語られているのです。

ところが、イエス様が罪の赦しを宣言されたとたんに、律法学者たちやファリサイ派の人々は心の中で、この人は神さまではないのに罪の赦しを騙って神さまを冒瀆しているとイエス様を批判し始めました。これが、今日の聖書箇所に語られている二つ目の出来事です。

イエス様は、彼らの心の声を聴き取られました。そして、ご自身が神さまの御子であることを、この世のものしか見えないし、見ようとしないファリサイ派の人々と律法学者にはっきりとわかるように御業をなさいました。御言葉によって、中風の人をいやしたのです。

24節の御言葉「地上で罪を赦す権威を持っている」のが「人の子」すなわちイエス様ご自身であることを示されました。イエス様は「起きて歩け(23節)。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と中風の人に語りかけ、御言葉はこの人に働いて、彼はたちどころにそのとおりにすることができました。

担がれて来た人が、その床を担いで神さまをたたえ、賛美しながら家に帰って行きました。次にイエス様のところへ来るとき、この人はきっと誰か他の人を担いで、運んで、イエス様に会わせようと連れて来るでしょう。自分が仲間たちにしてもらったことを、自分も誰かにしたいと思うからです。信仰の交わりの力は、こうして大きく輪を広げてゆきます。

イエス様の今日の御言葉が私たちに語るのは、イエス様の福音に救われた者が最も大切とするのは信仰だということです。簡単に言ってしまえば、できるだけイエス様のそばにいよう、イエス様から片時も離れずにいたいと思う強い心が第一ということです。神さまを仰ぐ心・イエス様を慕う信仰がまずあって、そこから自分の番を待ったり、人の家を壊さずに人の物として大切にしたり、この世の秩序を尊重して祈りながら信仰と擦り合わせを図る英知が与えられます。

そして、信仰はイエス様・神さまとその人を、またその人と他の信仰者を強く強く結び合わせ、さらに一緒に主に近づこうとする力強い交わりの働きを生みます。それは、教会の働きです。

教会は、その力強い交わりの働きで日々、前進しています。私たちが互いに互いを御言葉に学びつつ慰め合い、励まし合い、力を出し合って歩んでいるのを主はご覧くださいます。

イエス様は私たちに「あなたがたはわたしのもの、わたしはあなたを愛している、あなたがたはわたしの友だ、仲間だ、わたしの民だ。だから、あなたはわたしにとって、いなくてはならない大切な人だ。たとえ、あなたが自分自身に絶望していても、私はあなたに希望をおいている。あなたに期待している」とおっしゃってくださいます。それが罪の赦しです。救いです。

 困難に出会う時、乗り越えなくてはならない試練にぶつかった時、必ずこう私たちにおっしゃってくださるイエス様を求めましょう。そして、教会を信頼しましょう。必ずそこに、私たち信仰者にとって最も幸いで、最も心安らぐ正しい答え・愛に満ちた解決方法があります。今日から始まる一週間、日ごとに主を仰ぎ、イエス様にぴったりとつき従って共に進み行きましょう。