2025年3月30日
説教題:主の憐みと忍耐
聖 書:詩編110編1~3節、ルカによる福音書22章63~71節
そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」
(ルカによる福音書22:70)
受難節第四主日を迎えました。今日から、受難節・レントの後半の歩みを始めます。今日まで、ルカによる福音書の御言葉に聴きつつ、十字架に向かうイエス様のお姿をご一緒に読んでまいりました。前回の聖書箇所で、イエス様は捕らえられて、ユダヤ社会の宗教的な、いわば心の面での最高権威者である大祭司の家に連行されました。今日の聖書箇所をご一緒に聴く前に、イエス様が逮捕された背景をお伝えしておきたく思います。
十二人の弟子と共にナザレから伝道の「イエス様は、ユダヤの民衆 ― ごく普通の生活を送っている多くの人びと ― の心を、強く惹きつけておられました。ユダヤは当時、ローマ帝国に支配されている植民地だったので、人々の間には鬱屈した思いが長く渦巻いていました。町には、特に今日の聖書箇所の舞台である神殿の町・首都エルサレムには、常に支配者側のローマ兵が駐留していました。人々は監視され、抑圧されていると感じずにはいられなかったでしょう。
この圧迫感から解放されたいと、人々は願いました。この窮屈で息苦しい空気から、自由と解放へと救われたいと願っていたのです。当時のユダヤの指導者たち ― かたちばかりとなってしまった王とその一族、長老たち、心と魂の指導者であるはずの祭司長や律法学者たちは、人々を救ってくれてはいませんでした。逆に、ローマ帝国に取り入ることばかり考えていました。
ユダヤの民は、その指導者層には期待していませんでした。新しい指導者、この閉塞感・圧迫感から救い出してくれる救い主の出現を待ち望んでいたのです。しかも、救い主が現れることは、彼らの聖書 ― 私たちにとっての旧約聖書です ― に預言されていました。その預言に、救い主はメシアという言葉が記されています。ナザレからやって来たイエスという青年は、このメシアに違いない、神さまからの救い主だと、人々は熱狂したのです。
ユダヤの指導者層 ― 祭司長や律法学者、長老たち ― は、民衆のこの熱狂に穏やかならぬものを感じ取りました。自分たちの立場を、イエスという青年に脅かされていると感じたのです。こうして、イエス様を逮捕して民衆から取り上げ、ユダヤ社会から除外する陰謀が企てられ、実行されました。イエス様を逮捕し、死刑にする根拠として、祭司長や律法学者たちはイエス様が神さまから遣わされた救い主・メシアだと人々に思われていることを利用しました。
私たちは、イエス様が神さまの御子であり、神さまに遣わされた救い主・メシア・キリストであることをよく承知しています。イエス様が救い主でおいでくださることは、私の存在を支え、生かしている私にとって実に大切な恵みです。ただ、それを受け入れられない人・それがわからない人にとっては救い主・メシア・キリストという言葉は何の意味も持ちません。イエス様が本当に救い主・メシア・キリストであるとわからなかった人々が、ナザレのイエスは自ら神さまから遣わされた救い主であると言いふらしている、神さまの名を汚し、冒瀆しているとしてイエス様を逮捕したのです。
旧約聖書の律法・掟で、神さまへの冒瀆の罪を犯した者は死刑と定められています。(レビ記24:16、民数記15:30-31)今日の聖書箇所には、その掟にもとづく裁判の直前に行われたこと、また裁判での事柄が記されています。
この聖書箇所を今 ご一緒に聴くにあたり、ぜひ、皆さんと共に心に留めて思い巡らしたい言葉がございますのでお伝えします。それは、あらためて申しますが「救い主」という言葉です。「救い主」とは旧約聖書の言葉 ― ヒブル語、ヘブライ語 ― では「メシア」、新約聖書の言葉では「キリスト」です。この言葉は、救われる者と救ってくださる方の愛の関わりがあって、初めて意味を持ち、成立します。救ってくださる方によって、人間の力ではとうてい助かる望みのない者が深く憐れまれ、慈しまれ、愛されて、救い出されたと知った時に、救ってくださった方に呼びかける言葉です。
前置きが長くなってしまいましたが、では、先ほど司式者がお読みくださった聖書箇所の63節から、ご一緒に御言葉に聴いてまいりましょう。
今日の聖書箇所は「さて」という言葉で始まっています。この言葉は、「今や」と訳してもよいでしょう。祭司長や律法学者、長老たちが大祭司とイエス様の裁判の段取りをしている間、イエス様は大祭司の家の庭に捕えられ、見張りをつけられていました。見張り役の者たちには、すでに裁判の筋書きはわかっていました。イエス様が、自らを神さまから遣わされた救い主・メシアだと言った冒瀆の罪で死刑だと判決が下されると知っていたのです。彼らの中には、イエス様がエルサレムの町に入られた時に、イエス様を「ホサナ、ホサナ」と大歓迎して喜んだ者がいたかもしれません。ところが、イエス様が犯罪者とされた「今や」、彼らは手のひらを返すようにイエス様を「侮辱したり、殴ったり」(ルカによる福音書22:63)しました。侮辱が言葉による暴力、殴ったことが腕力による暴力です。
64節にはこう記されています。「そして目隠しをして、『お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ』と尋ねた。」(ルカによる福音書22:64)これは、お前が本当にメシアであり、神さまから遣わされた者だったら、人間を超える能力・超能力で人にはわからないことも見通せるだろう、だから言い当ててみろという揶揄です。
神さまは、超能力を持つから神さまなのではありません。私たちの命の根源であり、私たちと共に生きてくださる神さまです。私たちを救ってくださる神さまです。それを思うと、彼らはイエス様に、何という愚かで無礼な言動をしたことか ― そう怒りを感じる私ですが、彼らの立場にあったら、同じことをしたかもしれません。十字架の出来事とご復活の前で、イエス様がどなたであるか、まだ明確には示されていなかったからです。この時、イエス様は、静かに忍耐され、この者たちの罪も、また私の罪も、背負って十字架に架かってくださいました。
66節は、夜が明けてからのことを語っています。ユダヤの指導者たち ― 「長老会、祭司長たちや律法学者たち ― が集ま」(ルカによる福音書22:66)りました。イエス様を被告として、最高法院と呼ばれる裁判を行うためでした。
彼らは、イエス様にこう問いただしました。67節です。「お前がメシアなら、そうだと言うがよい。」ここで思い出していただきたいのは、イエス様がご自身をさす時に「人の子」という言葉を使われることです。「人間である者の子である人間」という思いをこめて、そう言われます。完全に神さまであり、完全に人である方として、世に遣わされたからです。
イエス様はご自身が神さまであり、神さまの御子ですが、ご自分では「神の子」「神」「救い主」「メシア」とはおっしゃいません。イエス様を冒瀆の罪で裁こうとしている最高法院の面々は、イエス様を罪に定めるために、イエス様から自ら「わたしはメシア」と言うひと言がどうしても欲しかったのです。
イエス様は、彼らの思惑通りのことはおっしゃいませんでした。こう言われたのです。67節後半の、イエス様のお言葉からお読みします。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。」
先ほど、一節ずつの説き明かしに入る前に、私は こう皆さんにお伝えしました。「ぜひ、皆さんと共に心に留めて思い巡らしたい言葉がございます、それは『救い主』という言葉です。」今一度、思い起こし、ご一緒に思い巡らしてまいりましょう。
「救い主」は、繰り返しますが、ヒブル語の「メシア」、またはギリシャ語の「キリスト」と言い換えても差し支えありません。この言葉を私たちが言うとはどういうことかを、イエス様は今日 聖書の御言葉を通して私たちに示してくださっています。イエス様を自分の救い主だと信じていない者にとって、この言葉は意味がありません。
だから、イエス様は祭司長たちに「わたしが(メシアだと)言っても、あなたたちは決して信じないだろう」とおっしゃったのです。さらに申しますと、イエス様に救われたと心と魂で知っている者・信仰者にとっては、「キリスト」「救い主」「メシア」という言葉は、それだけで信仰告白そのものです。また、この言葉だけで、イエス様への呼びかけ、すなわち祈りの言葉なのです。
神さまの御前に立ち、あるいはひざまずいて、あなたはこの私を十字架で命を捨ててまで救ってくださった、ありがとうございますと、感謝をささげるお礼の言葉でもあります。
あなたは、ご自分の命に代えて、造られた私たちを救ってくださる深い、深い愛の方だと、イエス様を讃える讃美の言葉でもあります。
私はあなたに救われた!と喜びを表す歓喜の叫びの言葉でもあります。
さらに、イエス様からの耳には聞こえない絶えざる問いかけ ― 「あなたにとって、わたしは何者か」という問いかけへのお答えでもあります。
私たちは、十字架の出来事とご復活の福音を受け入れて救われた恵みを信じたその時から、常にイエス様から「あなたにとって、わたしは何者か」と尋ねかけられ、「あなたは私の救い主キリストです」と応えて、救われてイエス様と永遠に一緒にいられる喜びをかみしめつつ、感謝をささげて生きているのです。
そして、もちろん、イエス様の救いの福音を信じていない者は、イエス様に「あなたにとって、わたしは何者か」という問いに答えられません。イエス様がそう問いかけつつ、御手をさしのべてくださっているのに、「あなたは我が救い主」と言えません。自分はあんたとは関係がない、あんたなんか知らない、とイエス様の手を振り払ってしまいます。
あ!と思い起こす方がいらっしゃるでしょう。そうです、あんたなんか知らない ― 前回の礼拝でご一緒に与った聖書箇所のペトロの言葉です。イエス様を深く慕っていても、ペトロはそう言ってしまいました。私たちが信仰だと思っているものは、それほど弱く、もろく、イエス様を侮辱する危うさをはらんでいるのです。そのペトロのために、私たちのために、イエス様は侮辱を忍耐してくださいます。私たちの弱さを、深く憐れんでくださいます。せっかく差し伸べられたイエス様の手を振り払って、闇に駆け出す私たちをしっかりご自身につなぎとめてくださるために、イエス様は十字架に架かってくださいました。三日後のご復活は、イエス様が私たちと手をつなぎあってくださっている恵みの愛の表われです。
今日の聖書箇所に戻ります。69節で、イエス様はこうおっしゃいました。「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」
このイエス様の御言葉は、私たちが今日の礼拝に与えられている旧約聖書の御言葉、詩編110編1節と重なることに気付かれた方がおいででしょう。詩編110編1節をお読みします。「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。』」
この聖句が少し不思議な感じがするのは、主が主ご自身に語っているからです。ここでは、神さまが三位一体の方であることを思い起こしましょう。創造主なる父が御子イエス様に語りかけていると考えると、良いのではないでしょうか。
御父なる全能の神の右の座におられるのは、御子イエス様です。私たちは、その事実を先ほど、使徒信条で御前に告白しました。「主は聖霊によりて宿り」と始まり、「全能の父なる神の右に座したまへり」と一区切りする、あの言葉です。
今一度、ルカによる福音書の御言葉に戻りましょう。最高法院での裁判の時、イエス様のこの言葉を、祭司長たちはイエス様が「自分は神の右に座す神の子だ」と言ったと受けとめました。それで、祭司長たちは、イエス様に「では、お前は神の子か」と念押ししました。これは、文脈を考えて少し言葉を補うと、こうなります。「ではお前は、自分は神の子だと言い張るのだな。人の子・人間の子だと自分で言いながら、神さまの右の座に就くと言うとは、何という神さまへの冒瀆か。お前の言葉は冒瀆の罪の証言だ。」
イエス様は、その無礼きわまりない言葉にこう応じられました。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」もとの聖書の言葉では、「わたしがそうだ」にあたるところはこうなっています。「わたしは、ある。」
この言葉に、ピンときた方は、おいででしょうか?旧約聖書 創世記でモーセが神さまから初めて呼びかけられた時、神さまはご自分についてこう言われました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記 3:14 )これは、神さまがご自身を顕す時におっしゃる顕現の御言葉、神顕現の言葉です。
ですから、イエス様の「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」との言葉は、ふたつの意味に取れます。ひとつは、祭司長たちこそ「わたしはある、わたしはあるという者だ」と自らを神だと冒瀆の罪を犯しているとの罪の指摘です。死刑に処されなければならないのは、実はイエス様を裁いた民の長老会、祭司長たちは律法学者たちです。イエス様は、彼らをも、いえ、彼らこそ深く憐み、冒瀆の極みを忍耐してくださって十字架に架かられました。私たち人間を、イエス様はこれほど広いお心でゆるし、御手のうちに守ってくださるためにお命を捨てられたのです。
もうひとつは、イエス様が、ご自身が神さまであるとの明確な宣言を、ここで、この神顕現の言葉を用いてされたということです。
わたしはある、わたしはあるという者だ ― そうイエス様はおっしゃって、十字架に向かわれます。神さまにしか忍耐できない侮辱に忍び耐え、神さまにしかおできにならない救いのみわざをなさってくださるためです。
ここまで深く愛されて、今生かされていること、またその今がイエス様と共に生きる永遠につながる恵みを胸に刻みましょう。主に感謝をささげつつ、今日から始まる新しい一週間、そして受難節後半の歩みをイエス様の憐みと忍耐を思いつつ進み行きましょう。
2025年3月23日
説教題:あなたの身代わりとして
聖 書:イザヤ書43章1~4節、ルカによる福音書22章54~62節
主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
(ルカによる福音書22:61‐62)
イエス様は過越祭の夜に、祭司長や長老たちに率いられた群衆に捕えられました。逮捕され、大祭司の家に連れて行かれました。大祭司とは、ユダヤ社会で最も尊敬され、絶大な権威と権力を持つ者です。そこへイエス様が連行されたことで、この逮捕が深刻な大事件であることが、周囲の誰にもわかる状況でした。
その中で今日、私たちがいただいているルカによる福音書22章54節後半の御言葉は、イエス様の一番弟子ペトロがこの時に何を言い、何をしたかを伝えています。54節後半をお読みします。「ペトロは遠く離れて従った。」ルカによる福音書には他の弟子たちのことは記されていませんが、他の福音書は、この時にペトロ以外の弟子はイエス様が逮捕されるというあまりの出来事に恐れおののいて逃げ散ってしまったことが記されています。しかし、ペトロは一人、イエス様に「従った」のです。ただ「後ろをついて行った」という意味を持つ単語ではなく、弟子として「従った」という意味の単語が、聖書のもとの言葉には用いられています。突然の出来事に激しく心を乱されながらも、ペトロは犯罪者として捕らえられた主に、弟子として従おうとしました。ただし、これまでよりもイエス様から「遠く離れて」ついて行きました。ペトロもまた、ことの大きさに打ちのめされて、怯えていたのです。
55節にはイエス様を捕らえた群衆が大祭司の屋敷の中庭で火をたき、皆で焚火を囲んで座ったことが記されています。この出来事が起こったエルサレムは、砂漠地帯にある都市です。日中は気温が高くても、夜になると一気に氷点下にまで冷え込みます。群衆が焚火を焚いたのは、この夜の寒さをしのぎながら、大祭司がイエス様にどのような判断をくだすか、どうイエス様を扱うかを待とうとしたからでした。「ペトロも彼らの中に混じって腰を下ろし」(ルカによる福音書22:55)ました。
この時の群衆は、気持ちとしては野次馬に近くなっていたかもしれません。彼らは、あのたいへん人気のあるイエスという青年が、これからどうなるか知りたいという下品な好奇心でうずうずしていたのでしょう。と同時に、自分たちは権威を持つ体制側に加担しているから安全だという優越感をも抱いていたことでしょう。また、大祭司の判断を待ち受ける緊張感も、その場に満ちていました。
ペトロは、この群衆とはまったく違う思いを抱いて、この場に来たはずでした。「遠く離れて」ではあってもペトロはイエス様に従い、逮捕されたイエス様のことが心配だったのです。しかし、自分ではどうすることもできませんでした。イエス様のそばに走り寄る勇気もなく、結局 群衆に混じって同じ行動を取りました。離れたところに逮捕されたイエス様の背中が見える中で、イエス様を捕らえた人たちと一緒に焚火で暖まっていたのです。群衆に気おされて一人だけ違う行動を起こす勇気を出せず、まわりの人々と同じことをしてしまう、一人のごく平凡な人間の姿が、ここにあります。
焚火の炎がゆらめいて、ペトロの顔が闇の中にはっきりと見えた時、一人の女中がこう言いました。私たちの新共同訳聖書には記されていませんが、もとの聖書の言葉には、この女中が「彼」と逮捕されたイエス様を指して言った言葉が記されています。彼女は、こう言ったのです。「この人は彼と一緒にいた。」とっさに、ペトロは「わたしはあの人を知らない」(ルカによる福音書22:57)と、その言葉を打ち消しました。
続けて他の人に、逮捕されたあの人の仲間だと言われて、ペトロは「いや、そうではない」(ルカ福音書22:58)と否定しました。
さらに別の人に、ガリラヤ地方の言葉のなまりから気付かれて、逮捕されたあの人と一緒にいたと指摘されました。ペトロは「あなたの言うことは分からない」(ルカによる福音書22:60)とそらとぼけて、しらをきってしまったのです。
最後の言葉・三回目のイエス様を否定する言葉を言い終わる前に、突然、鶏が鳴きました。
その時のことを、61節からお読みします。 「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。」
イエス様のお言葉に加えて、ペトロはきっと、自分があの時、言った言葉も思い出したでしょう。ペトロは、こう言ってしまったのです。「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカによる福音書22:33)
あの言葉は、あの時のペトロの、まさに本心でした。ペトロはイエス様のことが大好きで、どんな苦労もイエス様のためならできる、イエス様とご一緒なら、たとえ牢につながれようと、たとえ死ぬことになろうとかまわないと本当に思っていたのです。
しかし、イエス様が実際に逮捕され、大祭司の判断のもとに刑死の可能性も十分にあるこの時に、ペトロはその思いのとおりの行動をすることはできませんでした。本当にイエス様への思いが試されるこの時に、ペトロは、自分はイエス様とは何の関係もない、あんな人は知らないと言ってしまいました。
イエス様が振り返り、ペトロをじっと見つめたことで、ペトロはハッと気づいたのです。自分は、取り返しのつかないことを言ってしまった。彼は、焚火を囲む群衆の前で体裁を繕うことなどどうでもよくなって、大祭司の中庭から、外へ飛び出しました。そこで、こらえきれずにわっと号泣しました。
この箇所は何度読んでも、またこうして皆さんにお伝えしていても、ペトロの涙に合わせて自分の目にも熱いものが滲む気がいたします。ペトロの絶望が、この聖書箇所から伝わって来るからです。大好きなイエス様とのつながりを、あんな人とは関係ないと、ペトロは自分から断ち切ってしまいました。ペトロはイエス様への申し訳なさと、自分自身への自己嫌悪・情けなさとで激しく泣くしかなかったのです。
自分は、こんなどうしようもない臆病で卑怯な人間だったのだ、イエス様はもう、決して自分を弟子だとは思ってくださらないだろう ― ペトロはそう思って泣いたのです。
ただ、この聖書箇所を読む私たちは、ここに記されていることから、あるひとつの事実を知らされます。主の御言葉は、実現するという事実です。イエス様のこの預言、「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」という御言葉は預言であって、本当に出来事として起こったのです。鶏が鳴いて、イエス様が振り向いて自分を見つめた時、ペトロはそのまなざしでイエス様の預言を思い出しました。ペトロは、この時は深く絶望しました。
しかし、です。もう一度、繰り返します。主の御言葉・神さまの御言葉は実現します。だから、「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」とおっしゃる直前に、ペトロにおっしゃったことも実現します。主の御言葉だからです。それは、絶望を希望に転換してくださる御言葉でした。その希望の御言葉が、実はペトロにはすでに与えられていたのです。
それは、この御言葉、ルカによる福音書22章31~32節です。お読みします。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけられることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
イエス様は、天の父なる神さまに、ペトロのために祈ってくださっているのです。ペトロばかりではありません。イエス様は、私たちの信仰が弱められてしまう時、祈れなくなって信仰が危うくなる時、祈る事すら忘れて信仰を忘れる時、イエス様は私たちのために執り成しの祈りをささげてくださいます。
加えて、イエス様がこの後、逮捕直前にオリーブ山で究極の祈りをささげられたことを思い起こしましょう。ご自分の願いではなく、天の父・創造主なる神さまの御心が成るように、神さまの御心・ご計画が最善なのだから、その御心こそが何よりも優先して成し遂げられるようにと究極の祈りをささげられました。
この時に眠り込んでしまった、つまり信仰が弱まって祈ることのできなくなったペトロのために、弟子たちのために、また時に信仰を保ちきれなくなる私たちすべてのために、この祈りはささげられたのです。
天の父の御心とは、何でしょう。私たちは御心に近づくひとつの手立てとして、今日の旧約聖書の御言葉・イザヤ書43章1節から4節を与えられています。
イザヤ書43章1節で、預言者イザヤは創造主の御言葉をこう高らかに伝えます。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」神さまは、またイエス様は、あなたはわたしのもの、わたしはあなたの名をシモン、シモン ― ペトロの本名です ― 、ヨハネの子シモンと何度でも呼ぶ、そうおっしゃってくださっているのです。
実際に、十字架の出来事の後に復活されたイエス様はペトロに会い、ペトロにそう呼びかけ、弟子として彼に大切な使命を与え、あらためて「わたしに従いなさい」とおっしゃってくださいました。(ヨハネによる福音書21:15~19)
また、イザヤ書43章4節で主は、ペトロのために、また私たちのために、こう語りかけてくださるのです。「わたしの目にあなたは価(あたい)高く、貴く わたしはあなたを愛」する、と。自分をどうしようもない、情けない者だと思っているペトロを、主は「あなたはすばらしい。わたしにとって、あなたは かけがえのない大切な、たった一人のあなただ」と愛してくださいます。
私たちが激しい自己嫌悪に陥る時、消えてなくなってしまいたいと思う時、私たちの主は私たちを強くひきとめてくださいます。「あなたは消えたりしてはならない、いなくなってはならない、あなたは本当に大事なのだから」と強く引き止め、あなたの代わりに身代わりを与える(イザヤ書43:4)と約束してくださいました。
私たちのための身代わり ― その身代わりこそ、私たちの罪をすべて背負って、私たちに代わって滅びの死を遂げてくださった救い主イエス様です。
ペトロは、イエス様を知らないと言っている時は、イエス様に背いている不信仰に、まったく気づいていませんでした。私たちが自分では、それなりにしっかりしていると思っている信仰は、これほどもろいのです。私たちの心は、自らの決心・覚悟に耐え抜けるほど強くありません。弱いのです。私たちの手を引いて、時には背負って、その弱さを共に担いつつ、その弱さを乗り越えて、私たちの歩みを御国へと導いてくださるのがイエス様です。
私が自分では気付かずにどれほどの背きを重ねているか、そしてそれをイエス様がどれほどたくさん私のために代わって背負ってくださったか、見当もつきません。その私をゆるし、自己嫌悪が私を誘い込む絶望や、逆に自分の信仰が確かだと傲慢に思い込む恥から救い出すために、イエス様は、私の代わりに十字架にかかってくださいました。
イエス様がなさってくださった十字架の出来事を思う時、あらためて深い感謝が熱く私の心にあふれます。私の名を呼んでくださる主にお応えしつつ、私も主の御名を呼びつつ、讃えつつ、この受難節を過ごしてゆきたいと強く思うのです。
教会の兄弟姉妹、神さまの家族として、私たちは神さまに呼びかけられています。一人一人が、また教会の群れが、この主の呼びかけに答えつつ、また主の御名を呼びつつ、この新しい週・受難週第三週を進み行きましょう。
2025年3月16日
説教題:闇が力を振るう時
聖 書:イザヤ書60章1~7節、ルカによる福音書22章47~53節
「わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」
(ルカによる福音書22:53)
イエス様は過越祭の食事の後、祈りの場所と定めておられたオリーブ山に弟子たちと向かわれました。イエス様は、私たちに代わってすべての罪を負い、ご自身が死刑囚として 私たちに代わって罪を贖われる十字架の救いのみわざを、天の父から与えられた使命と深く受けとめておられました。イエス様は、御父の御心のままにと、救いのご計画がそのまま進められるよう切実な祈りをささげました。
今日、私たちが与えられているルカによる福音書22章47節からの御言葉は、天の父が、私たちの救いのご計画を、人間的な思いからすると 十字架に架かられるイエス様にとってはむごいと思えるほど、迅速にかつ徹底して進めたことが語られています。祈り続けられずに眠り込んでしまった弟子たちにイエス様が「まだ話しておられる」(ルカによる福音書22:47)ところへ、群衆が現れました。静かな祈りの場に、暗い企みを腹に持つ者、その尻馬に乗る者、企みの手先に利用されている者たちがどやどやと踏み込んだのです。イエス様を死刑となる重罪犯人として逮捕するためでした。
この企みがいかにいいかげんだったかは、逮捕しに来た者たちがイエス様をよく知らなかったことからも明らかです。イエス様は、いつも弟子たち十二人と行動を共にされていました。弟子たちはおそらく、いずれもイエス様と同じ三十歳前後の男性でした。そのため、逮捕しに来た者たちにとって、特に夜の闇の中では、誰がイエス様か分からなかったようです。見分けるための手先として、このオリーブ山にイエス様が来られることを知っており、かつイエス様と一緒に過ごしていた裏切者のユダが利用されました。
闇の中で、いっそう暗く見える人の群れの中から、そのユダが「先頭に立って」、逮捕しに来た者たちにイエス様だと分からせる挨拶の接吻をしに近づきました。本来なら、親しみと信頼を表す挨拶の接吻で、ユダはイエス様を、企みを持つ者たちの手に渡したのです。
49節には、その時の出来事がこう記されています。お読みします。「イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、『主よ、剣で切りつけましょうか』と言った。」(ルカによる福音書22:49)「イエスの周りにいた人々」は、弟子たちをさしています。
イエス様が48節でユダに言われたこの言葉「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」(ルカによる福音書22:48)と、群衆の様子から、ようやく、弟子たちはイエス様が逮捕されそうになっていることに気付いたのです。
「あなたは接吻で人の子を裏切るのか」とのユダへの言葉で、イエス様はユダの行動の意味を事実として語られました。前回の礼拝でいただいた御言葉に、祈れずに眠り込んでしまった弟子たちが「悲しみの果てに眠り込ん」(ルカによる福音書22:45)だとあるように、ユダの裏切りも人間が誘惑に弱く、悲しく情けない存在であるがゆえに生じた過ちです。イエス様は、人の弱さを悲しみ、憐れんで、ユダに「あなたは接吻で人の子を裏切るのか」とおっしゃったのではないでしょうか。
イエス様が逮捕されてしまうと見て取った弟子たちは、「剣で切りつけましょうか」とイエス様に尋ねましたが、イエス様のお返事を待ちませんでした。いきなり、自分の判断で乱暴な行動に出ました。50節です。お読みします。「そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。」
弟子たちにとって、ユダの裏切りは大きなショックだったでしょう。イエス様を慕う思いでひとつになっている自分たちの中に、イエス様を逮捕する手引きをする者がいたとは、そして、そのために、今イエス様が連れて行ってしまわれそうになっているとは、受けとめられないほどひどい事柄でした。彼らは驚き、嘆き、そして恐怖で心が、またはらわたがちぎれ、引き裂かれるように感じたのではないでしょうか。
また、これから自分たちがどうなってしまうのか、恐ろしくもありました。ただ、あまりに突然の出来事だったために、激しい感情は、悲しみと怖れを一気に通り越して、怒りになりました。
私たち人間は、自分の深い悲しみや不安から逃げるように、怒りを爆発させることがあります。わめき、怒鳴り、物を投げ、悲しみの元となっている相手・敵が目の前にいれば、怒りをその敵にぶつけて粉砕しようとするのです。
弟子の一人が剣を振るい、押し寄せた群衆の一人が切りつけられて片耳が落ち、血しぶきが飛びました。暗闇の中で、人の悪意と怒りがぶつかり合い、流血の惨事が起こりました。イエス様の祈りの場を、人の群れが人間の血と肉で激しく乱したのです。
私たちはこの御言葉を読み、この御言葉に聴きつつ、ふと このことに気づきます。この混沌のさなか、イエス様はひとすじの静かな、そして確かな光としてこの場におられます。まず、剣を振り回した者に、イエス様はこうおっしゃいました。51節を、お読みします。「やめなさい。もうそれでよい。」「それでよい」は、「もうそこまで」「そこから先は、なし」という意味の言葉です。イエス様のこのひとことが、乱闘になりかけていたその場を治めました。
続いて、イエス様は、切り落とされた者の耳をいやしてくださいました。この者は、イエス様を逮捕しに来た者たちの一人でしたが、イエス様は敵とはみなされませんでした。イエス様にとって この人は、悲しい人間のひとり、神さまの憐れみが必要な、イエス様が十字架で救わなければならない罪人の一人だったのです。
イエス様はこの血塗られた惨状の中で、決して乱れることなく、愛に溢れた優しさを貫いておられます。敵味方の分け隔てをなさらず、傷ついた者をいやし、いたわっておられるのです。
続けて、イエス様はご自分を逮捕しに押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちにこうおっしゃいました。52節の後半と、今日の最後の聖句53節をお読みします。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」
イエス様はご自分が逮捕されること、悪意をもって押し寄せた人々と、その場で起きた流血の出来事を「時」として語られました。「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」とおっしゃいました。
イエス様が「あなたたちの時」、つまり「人間の、この世の時」は闇・悪が力を振るうと言われたことから、私たちは、私たちに示されているもうひとつの時、「神さまの時」を思い起こさなければなりません。
聖書には、時を表す二つの言葉があります。
そのうちのひとつを、クロノスと言います。私たちが生きるこの世の時で、私たちが持つ時計で測ることができ、先へ先へと進んで後戻りできない時間、また時代の流れをさします。人間の歴史として表される「時」と言ってもよいでしょう。このクロノスを語源とする英単語にクロノロジーという言葉・「歴史の年表」をさす言葉があります。
聖書の中で、もうひとつの時を表す言葉をカイロスと言います。これが、神さまの時です。空間と時間を自由自在になさる普遍的な方である私たちの神さまが、私たちの歴史・クロノスの真っただ中に突入してくださる時です。
イエス様のご降誕・クリスマスの出来事が、このカイロスの出来事でした。天の御父から遣わされて、イエス様は人間の小さな赤ちゃんとしてこの世にお生まれになりました。また、主の御体なる教会に生きる私たちは、この世の時間・クロノスの中に生きつつ、天に国籍を持っています。私たちの名は、天の命の書に記されて、私たちは永遠の命・永遠に神さまと共にカイロスの時間を生きる恵みをいただいています。
今日の旧約聖書の聖書箇所が語る御言葉に、今一度ご一緒に耳を傾けましょう。イザヤ書60章2節をお読みしますので、どうぞ良い心の耳を澄ませてお聴きください。「見よ、闇は地を覆い 暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる。」(イザヤ書60:2)
今日の新約聖書が語る「あなたがたの時」・「人の世の時」は、イエス様が逮捕されたこの時のことに限りません。今、この時もこの世のどこか・世界のどこかで、諍いが起こり、血が流されています。今お読みしたイザヤ書の御言葉が語るように、闇が地を覆い、暗黒が国々・人々を包み、悪が力を振るっています。
しかし、イエス様がこの世においでくださったから、同じくこのイザヤ書の預言のとおりに、その闇に向けて、必ず闇を払う光なるイエス様の御言葉が語りかけられているのです。
私たちの上に主が輝き出で、私たちの上に、神さまの愛の表われである栄光が目に見えるイエス様、耳に聞こえるイエス様の言葉として響いています。「やめなさい。もうそこまでだ。それ以上傷つけてはならない。」
イエス様は、この言葉をおっしゃっただけではありませんでした。私たちが重ねる憎み合い、傷つけ合う悪をご自身のお命もろとも十字架の出来事で滅ぼし、ご自身の命をもって罪の支配を止めてくださいました。
その明確なしるしが、十字架の出来事から三日目のイエス様のよみがえり・ご復活です。私たちが光の子として、神さま・イエス様と聖霊に導かれて永遠に生きる恵みの約束こそが、ご復活です。
私たちは御言葉に従って悪をやめ、罪から離れ、いつでもイエス様の光の中へと立ち帰れる光の子とされています。この恵みの真理・幸いの約束を、私たちは語り継いでまいりましょう。闇の中のひとすじの光・イエス様を仰いで、この新しい週、受難節第二週を力強く歩んでまいりましょう。
2025年3月9日
説教題:起きて祈っていなさい
聖 書:詩編 57編8~12節、ルカによる福音書22章39~46節
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
(ルカによる福音書22:42)
イエス様は弟子たちとの地上での最後の食事をなさり、その後、弟子たちを伴って出かけられました。どこへ出かけ、また何のためだったのでしょう。皆さんは先ほど司式者が今日の聖書箇所を朗読されるのを聞かれ、始めの方で同じ言葉が繰り返されているのに気付かれたと思います。繰り返されたその言葉とは、「いつも」、「いつも」という言葉です。冒頭の39節はこう語ります。「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると。」また、次の40節もこう始まっています。「いつもの場所に来ると。」
イエス様は、エルサレム滞在中、「日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされ」(ルカによる福音書21:37)、決まった日課を過ごされていました。過越祭の食事をなさったこの晩も、この日課を変えませんでした。
前の晩まで、イエス様を裏切ろうと食事の場から出て行ったイスカリオテのユダも、弟子としてイエス様と一緒にこのオリーブ山に祈りに来ていました。ユダは、このオリーブ山にイエス様がおいでになることを知っているのです。ここに兵士たちを連れて来れば、律法学者や祭司長たちの目論見通りにイエス様を逮捕できるとわかっていました。
一方、イエス様ご自身はユダの裏切りをご存知でした。いつもの場所を他に変えていれば、逮捕を免れることができたでしょう。しかし、イエス様は「いつも」のようになさったのです。逮捕されて十字架へと進むことが、天の父の御心であり、イエス様の使命だったからです。
オリーブ山に着くと、イエス様は弟子たちにこう言われました。「誘惑に陥らないように祈りなさい」(ルカによる福音書22:40)
イエス様が「誘惑に陥らないように」との願いを祈りとしてささげるようにおっしゃったのが、少し唐突に思えはしないでしょうか。この時、弟子たちはどんな誘惑にさらされていたのでしょう。また、弟子たち自身は、それに気付いていたでしょうか。ここで少し、「誘惑」についてご一緒に思いめぐらしてみましょう。
「誘惑」は悪い誘いに引き入れられることを言います。その誘いに心が傾いて揺らぐ時、私たちは、為すべきことを正しく行えるかどうか、岐路に立たされます。誘惑者 ― その多くが私たち自身の内に生じる弱さですが ― を退け、誘惑に陥らず正しい道に踏みとどまれるかが、ここで試されているのです。このように、「誘惑」は、「試されること」と言い換えられます。聖書ではこの「試される」ことに、しばしば「試練」「こころみ」という言葉が用いられます。毎主日の礼拝で、私たちは声をそろえて私たちの願いをこうささげます。「我らをこころみに遭わせず、悪より救い出したまえ。」今日も、さきほど、この願いをご一緒にささげました。今日の聖書箇所で、イエス様は弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と促したのは、「自らの弱さを超えて、試練を乗り越えられるように祈りなさい」とおっしゃったのです。
私たちが「主の祈り」で「我らをこころみに遭わせず、悪より救い出したまえ」と神さまに祈るのは、自分の力では自らの弱さに打ち勝てないからです。神さまに身をゆだね、主に手を引かれて、私たちは誘惑・試練・こころみを退け、あるいは乗り越えることができます。「誘惑」では、私たち自身の心の強さではなく、私たちが神さまに本当に自分自身をゆだねているか、自分の力を頼りにせず、神さまに依り頼む信仰が試されているのです。
弟子たち自身は、この時まだ、自分たちの信仰が試されているとはよくわかっていなかったかもしれません。ただ、「いつも」のように祈るために「いつも」の場所に来ても、「いつも」とは何かが違うという不安な気持ちは抱いていたでしょう。今日の聖書箇所から少し前にさかのぼって、弟子たちの心の動きを御言葉から読み取ってみましょう。
イエス様は食事の時に裏切り者が同じ食卓に着いているとおっしゃり(ルカによる福音書22:21)、そこから弟子たちの心はざわつき始めました。誰が裏切り者かを詮索し、自分こそイエス様に忠実だから偉いのだと競い始めました。イエス様に従う心、すなわち信仰の深さを競い合いました。
信仰は神さまから私たちに与えられるものです。ですから、与えてくださる神さまだけが、その深さ大きさをご存知です。私たち人間には自分の信仰の真実の姿はもとより、兄弟姉妹の信仰の在り方がわかるはずはありません。また、同じ一人の人でも信仰の深さ大きさは、置かれている状況によって揺れ動き、変わります。にもかかわらず、弟子たちが互いの信仰について的外れな言い争いをしてしまいました。
そこで、イエス様はこうおっしゃってくださいました。その聖句、ルカによる福音書22章31から32節をお読みします。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。」
サタンが弟子たちの信仰を試し、信仰の実がちゃんと詰まっていない小麦の粒のような不信仰な者を自分の手の内に陥れようとしているから、イエス様は特にペトロのために信仰が守られるように祈ったとおっしゃられたのです。ところが、ペトロはここで、サタンが仕掛けた誘惑の罠にまんまとはまってしまいました。
この時、イエス様のことが大好きなペトロは、イエス様を慕う自分の思い・自分の信仰に自信がありました。ですから、イエス様に信仰がなくならないように祈られたことがショックだったのです。むきになって、自らの信仰の強さをこう豪語してしまいました。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカによる福音書22:33)
もちろん、これはこの時のペトロの本心だったでしょう。しかし、実に悲しいことに、私たち人間には、この本心・信仰を、どんな状況に合ってもずっと同じように保つことがきわめて難しいのです。
実際にこの数時間後、ペトロは逮捕されたイエス様との関わりを詮索されて、自分も逮捕され鞭打たれることを恐れるあまり、「あんな人は知らない」と弟子であることを否定してしまいました。すべてを見通されるイエス様は、それを見通しておられました。見通したうえで、ペトロを励ますために、前もって言ってくださったのが、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」との御言葉だったのです。
ペトロには、それがわかりませんでした。そのため、イエス様は34節でこうおっしゃいました。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」(ルカによる福音書22:34)この言葉は、ペトロにとっても、他の弟子たちにとっても、なおのことわけのわからない、謎のように思えたでしょう。
また今、こうしてご一緒に御言葉をいただく私たちは、この箇所を読んで、誘惑が実に巧妙に、弟子たち ― つまり、私たち人間に ― わかりにくいようにずる賢く仕組まれた罠であることに気付かされます。
ペトロがイエス様に従い通す覚悟を告げた33節の言葉は、実に立派な信仰の言葉でした。そして、数時間後に、実に悲しいことに、それは嘘になってしまいました。先を見通すことができず、自分の心がどう動くか分からないペトロは、予想だにしなかったイエス様の逮捕に直面した時に、イエス様との関わりを否定し、自分で自分の信仰の決意を翻してしまいました。
私たち人間はこのように、繰り返しますが先を見通すことができず、自分の心がいざとなったらどう動くか分からない者なのです。信仰を保てるとおもっていても、いざとなるとぐらついてしまい、誘惑に陥ってしまいます。だから、イエス様は弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」、信仰を与えて保たせてくださるように、神さまだけに身をゆだねるよう、信仰を求めて願いをささげなさい、と祈りを促してくださいました。
この祈りは、私たち自身のための祈りです。そして、この後、イエス様はこの自分のための祈りを超える祈りを、ささげられました。それは、「御心なら」と神さまに従い通す祈りです。神さまだけに身をゆだねて自分の身について願うことを超え、自らを捨てて、神さまだけを思う祈りです。
42節のイエス様の祈りをお読みします。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
杯は、イエス様が死刑囚として十字架で死なれることをさしています。イエス様の時代から400年ほどさかのぼったギリシアで、哲学者ソクラテスが死刑に定められ、その死刑の方法が毒の杯を飲ませられることだったと思い出す方もおられると思います。
イエス様は「御心なら」と、神さまに身をゆだねる言葉を二回用いて、祈られました。一回目に「御心なら」、神さまが良いと思われるならば、十字架に架けられる道を行く手から取りのぞいてくださいと祈りました。その祈りを「しかし」という言葉で翻して、イエス様はこう祈られたのです。「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」わたしの願いなどどうでもよい、神さま、十字架に架かるようにとあなたが思われるのならば、その御心が成りますようにとイエス様は願われました。
イエス様はこの時、「人々が救われるのであれば」「私が人々の代わりになるのであれば」といった英雄のようなことは一言もおっしゃいませんでした。ただ、わたしの命をあなたにゆだねますから、どうか思いのままになさってくださいと、祈られたのです。
続く43節から44節は、四角いカッコ ― 「ブラケット」という記号だそうです ― でくくられています。皆さんは「何だろう?」と思われるでしょうけれど、今日はこの御言葉もご一緒に読んでまいりましょう。
43節では、天使が天から現われ、イエス様を力づけたと述べられています。自分を捨てて神さまを最優先にするイエス様の祈りを、天の父は誉れとされました。イエス様の祈りを励ますために、神さまは天使を遣わしてくださったのです。天使の励ましが加えられてもなお、44節が語るように、イエス様は「苦しみもだえ」ました。
イエス様は、神さまであると同時に、人間として世においでになりました。私たちは、人間・生きる者・命ある者として生き延びようとする本能を備えています。日常的に経験する些細なことで申しますと、たとえば飲んだ水が間違って食道に入らず、気管の方に流れてしまうと、私たちは激しく咳き込みます。ちょっとのことなのですが、肺に水を入れまいと、私たちの意思とは別に、体そのものが反射行動として水を拒絶して命を守ります。
その人間として備えておられる生きようとする思いを超えて、イエス様は「御心のままに」と祈られました。この願いを心の底からの切なる真実としてささげるのはどれほど苦しいことだったかが、44節に記されています。イエス様の「汗が滴るように地面に落ちた」のです。
苦しい祈りでしたが、これは神さまであり、同時に人であるイエス様だからこそ、ささげることのできた祈りでした。それが続く45節でわかります。イエス様は「祈り終わって立ち上がり」(ルカによる福音書22:45)と記されています。この「立ち上がり」という言葉は、もとの聖書の言葉では「復活する」という言葉と同じ単語が用いられています。神さまの御子であり人であるゆえに、人としての命を捨てて神さまから与えられた使命に従う究極の祈りをささげたイエス様は、こうして神さまの御前に立った、「立ち上が」ったのです。
イエス様が弟子たちのところに戻ってご覧になると、弟子たちは眠り込んでいました。「悲しみの果てに眠り込んでいた」と記されています。
説教の始めの方で、弟子たちが誘惑に陥ってしまう弱さをお伝えしました。その時に、敢えて、「実に悲しいことに」という表現を二回用いさせていただきました。人間は、実に悲しいことに、残念なことに、人間としての限界 ― これを聖書は不完全であること・欠け・罪と呼びます ― を持つために、自らを捨てて完全に神さまを優先する究極の祈りをささげることが、たいへん難しいのです。祈らなければならない願いの深さに挫けて、神さまの御前に立てず、うずくまり、やがて意識さえもうろうとして眠り込んでしまうのです。
苦しいこと・悲嘆にくれることが身に起ると、私たちは祈ることができなくなります。夫が突然亡くなった時、ただ泣くばかりだったことが、私にもありました。祈れずに眠り込んでしまった弟子たち、うずくまって泣くばかりの私、祈りを諦めてしまう私たちは、神さまの御前に立てなくなっているのです。「あなたが造ってくださった私は、ここにいます。神さま、あなたを求めています」と神さまに心を向けていません。
そんな私たちを、イエス様は見捨てずにいてくださいます。逆に厳しくも愛にあふれる祈りのコーチのように、私たちを叱咤激励してくださるのです。それが46節の、今日の聖書箇所の最後の御言葉です。「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」起きて、神さまの御前に立って、祈りなさい ― イエス様はそう、私たちの祈りを支えてくださいます。
イエス様は「御心のままに」との苦しい祈りをささげてくださることを通して、私たちに二つの大きな恵みを与えてくださいました。
ひとつは、十字架の救いのみわざそのものです。悲しみに負け、苦難に挫け、神さまから離れてしまう私たちの弱さ・罪を私たちに代わって贖い、十字架でお命を捨ててくださいました。そして、私たちが救われて、神さまと永遠に共に生きる約束を三日後のご復活でお示しくださったのです。
もうひとつは、今日の聖書箇所が語る、このオリーブ山での出来事を通して「御心のままに」という祈りを私たちに教え、祈りのコーチをしてくださり、それでも祈れない私たちに代わって祈ってくださることです。
「御心のままに」という祈りを、私たちは「主の祈り」として教えられ、共に祈るよう導かれています。そうです ―「主の祈り」の「御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ」の、あの祈りの言葉です。
今日のために説教準備をしながら、私は、自分がつい、あまりにも何気なく「主の祈り」を祈っていると気付かされました。「汗が血の滴るように地面に落ち」るほどの苦しみながら「御心が成るように」と祈ってくださり、そう祈れない弱い私のために、私たちのために、十字架に架かってくださったイエス様の深い慈しみが「主の祈り」にこめられていることに、あらためて深く感じ入りました。
今年のこの受難節の日々に、私たちは何度、「主の祈り」をささげるでしょうか。そのたびに、「御心のままに」と切に祈られたイエス様を思い起こしたい、そして、そう祈られてイエス様が十字架に向かわれたことをしっかりと心にとどめて、感謝のうちにレントの日々を過ごしたいと心から願います。
2025年3月2日
説教題:我らの罪を担われる主
聖 書:イザヤ書53章1~6節、ルカによる福音書22章35~38節
「言っておくが、『その人は犯罪者の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」
(ルカによる福音書22:37)
イエス様は、弟子たちのために過越祭の食事の場所を確保し、ご自身の地上の命の最後となる食事の時を弟子たちと共に過ごされました。せっかくの良き交わりの機会だったのに、弟子たちの間には気まずい空気が流れることになってしまいました。
イエス様はユダの裏切りを指摘し、続けてペトロがイエス様を知らないと三度言うだろうとおっしゃいました。それは、これから起こる事実を見通され、私たち人間の弱さを弟子たちに伝えて、弟子たちに心備えを与えてくださるためでした。ところが、弟子たちはイエス様の言葉を批判と受けとめて、互いを疑い始め、イエス様への忠誠心を競い合いました。否定的・ネガティブな事実に直面すると、とたんに弱さを露呈してしまう私たち人間の脆さが、ここに表されています。
イエス様を慕う思いでひとつとなっていた弟子たちの心は、ばらばらになってしまいました。先ほど、旧約聖書イザヤ書53章から今日の礼拝のために御言葉をいただきました。このイザヤ書53章は「苦難の僕」と呼ばれ、イエス様の十字架でのご受難を語る預言の言葉です。
先ほど司式者が読まれた6節には、この弟子たちの様子・人間の弱さが語られ、こう記されています。お読みします。「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(イザヤ書53:6)このように、繰り返しますが 弟子たちの心はばらばらになり、それぞれ勝手な方向に向かって行こうとしてました。
それでも、十字架に向かわれるイエス様は、弟子たちを導こうとされました。今日の聖書箇所の最初の聖句で、イエス様は弟子たちが喜び勇んで伝道に遣わされた時のことを語られました。ルカによる福音書9章1節から6節の御言葉です。
私たち薬円台教会は、一昨年2023年6月11日の主日礼拝説教でこの御言葉の恵みに与りました。あらためて、その御言葉をお読みします。「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。『旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持って行ってはならない。』」(ルカによる福音書9:1-3)
今日のルカによる福音書22章35節で、イエス様はその時のことをおっしゃっています。イエス様は、こう弟子たちに尋ねました。お読みします。「それから、イエスは使徒たちに言われた。『財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」(ルカによる福音書22:35a)弟子たちは、その問いに「いいえ、何もありませんでした」(ルカによる福音書22:35b)と答えました。
あの時、イエス様が弟子たちを招いて呼び集め、悪に打ち勝つ力・病をいやす力、その力を発動させることのできる権利・権能を彼らに授けてくださいました。イエス様は彼らをご自身のもとから送り出したので、物理的には弟子たちと一緒ではありませんでした。しかし、彼らに寄り添って 伝道の力の源となられ、祈り続けてくださっていたのです。
派遣された弟子たちは主の力に満たされて、恵みの道具として大いに用いられました。訪ねた先で、弟子たちは人々に受け入れられることがたびたびありました。神さまの愛と正義を伝える彼らの言葉と存在が人々に喜ばれ、歓迎され、もてなされ、食事をすすめられ、時には泊まる場所も提供されたでしょう。履物がすりきれていれば、代わりの履物をもらったでしょう。財布も袋も履物も、用意しなくても与えられました。
もちろん、彼らが歓迎されないこともありました。しかし、それでも必ず弟子たちは「神の国は近い」、「神さまの愛と正義が世の悪と汚れを駆逐して、すべてを神さまに導かれる時が来る」と告げてから、その場を去りました。
ところが、今日の聖書箇所で、イエス様は弟子たちにまったく逆のことをおっしゃいました。36節をお読みします。「イエスは言われた。『しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。』」
イエス様が、なぜこのように真逆のことをおっしゃったのでしょう。それは、弟子たちが喜ばしく伝道へと遣わされたあの時とは、状況が一変しているからです。
イエス様のもとから遣わされたあの時、ルカによる福音書9章が語るあの時には、弟子たちはいろいろな町や村へ遣わされ、この世の四方八方に散っている悪と向き合い、それに打ち勝ち、病をいやして主の御力を輝かせました。受け入れられなくても挫けることなく、御国が近いと真理を告げ知らせました。
ところが、今日の御言葉でイエス様は「しかし今は」とおっしゃいました。その「今」は、どんな時なのでしょう。それは、あの時は四方八方に散っていた悪をイエス様がご自身の身にすべて集める時なのです。
イエス様は世に疎まれ憎まれて その存在を消される死刑囚として、世のすべての悪と罪を集めて背負われます。その悪と罪を滅ぼすために、それらを集めたイエス様ご自身の命も十字架の上で滅びなければなりません。
悪と罪で失われたものは、償われなければなりません。ところが、私たち人間は、自分達では犯した罪を償いきれません。もう少し申しますと、私たち人間は自分では取り返しのつかないことをやってしまい、その責任を担いきれない者なのです。
この講壇のうえに、小さな加湿器があります。私が落としてしまったら、壊れてしまうでしょう。私は壊れた物を元どおりに復元することはできません。仕方がないので、新しい加湿器を買って「弁償」します。置き換えることはできますが、元どおりにすることは、できません。それは、私が無力だからです。無力であり、不完全な人間だからです。
壊したもの・割ったもの・失ったものが加湿器ではなく、命だったら、置き換えがききません。私たち人間のうち誰が、私たち人間が起こした戦争で失われた多くの命をよみがえらせることができるでしょう。誰にもできません。
私たち人間がやってしまう取り返しのつかないことを、イエス様はすべて取り返してくださるために、ご自身の命を十字架で無きものとしてくださいました。
繰り返しますが、世の悪と罪がイエス様お一人に集中するのが、今日の聖書箇所が語る「今」なのです。十二人の弟子を伝道に遣わした時には、その信仰の力の中心におられて祈り続け、ご自身を通して弟子たちに天の父の力を与え続けてくださっていたイエス様が「今」、いなくなるのです。だから、イエス様は、この世の弱い人間に過ぎない弟子たちに、彼らをこの世にあって守ってくれるせめてもの品々を持って備えるようにと言ってくださいます。あの時は必要なかった財布と袋、この世の富をイエス様は「今は」持って行くようにと、おっしゃいました。
私たちが驚くのは、それに続くイエス様のこの言葉です。36節の後半からお読みします。「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」
イエス様は、平和の君です。その方が人を傷つけ、命さえ奪うことのできるこの世の武器・武具を、服を売ってまで手に入れなさいと言われるのは、どうしてでしょう。これは、イエス様からの厳しい警告です。
イエス様は、続く37節でこうおっしゃいました。お読みします。「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」イエス様がここでおっしゃる『その人は犯罪人の一人に数えられた』という言葉は、今日の旧約聖書イザヤ書53章1〜6節の少し先にある12節の引用です。
イザヤ書53章11節からお読みしますので、心の耳を澄ませてください。「わたし」は神さまご自身をさしています。「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」(イザヤ書53:12b)
神さま自ら「わたし」とおっしゃって、私たち人類を救うご計画を語っておられます。神さまの御子で、神さまであるイエス様が、このご計画が実現するとおっしゃり、実行されるのは当たり前なのです。
ただ、十字架のご受難を成し遂げてイエス様が地上のお命を終えられると、その時、私たちの間からイエス様は不在になります。イエス様がいなくなるその時、人間たちにはこの世の偶像 ― 富や武器 ― が必要になってしまうと、イエス様は今日の御言葉を通して弟子たち・私たちに語っておられます。イエス様は、その恐ろしさを今日の御言葉で私たち人間への厳しい警告として告げておられるのです。
38節、ルカによる福音書22章の今日の聖書箇所の最後の聖句で、「服を売って剣を買いなさい」とおっしゃるイエス様に、弟子たちはこう答えました。「主よ、剣なら、このとおりここに二振り(ふたふり)あります。」その答えに、イエス様は「それでよい」と言われました。
イエス様が「それでよい」とおっしゃった剣はたった二振り・二本の、果物ナイフのような短い剣・短剣だったかもしれません。それでも、武器は武器です。イエス様が逮捕された時、ペトロが振り回した剣はこのうちの一振りだったかもしれません。
イエス様の警告を、もう一歩、進めてお伝えしたく思います。イエス様は私たちにこう警告してくださっているのです。武器のあるところに、イエス様はおられません。富を求めるところに、イエス様はおられないのです。イエス様がいない、神さまがおられない、聖霊の働きがないとは、何と恐ろしく、むなしいことでしょう。今日、私たちがいただいているルカによる福音書22章35〜38節は、それをありありと伝えているのです。
今、私たち教会は創造主なる天の父・御子イエス様・聖霊の主の三位一体の神さまを礼拝し、伝道するために働いています。かつて十二人の弟子たちがイエス様に伝道に遣わされ、一緒におられなくても自分たちのために祈ってくださるイエス様を心の中心に神の国は近いと宣べ伝えていた時、弟子たちのすべての必要は満たされていました。
それは、今の私たち教会も同じです。神中心、礼拝中心に生きて世に遣わされる時、私たちの心は豊かに満たされて生かされている喜びを知ります。悲しみや苦しみに出遭ったとしても、イエス様が共に荷を担ってくださり、逆境にもくじけない強さと力を与えてくださいます。
ところが、教会がもし、富を求め始めたら ― 幼稚園や保育園といった付帯施設を持つ教会は数多くありますが、もし、万が一、そこで利益の追求を最優先する事業活動が始まってしまったら、活動する人々の心には、イエス様がおられなくなっています。
万が一、教会が武装するようになったら、もうそれはイエス様の教会ではありません。
しかし、私たちは知っています。そのようになったとしても、イエス様は私たちを決して見捨てはなさいません。時代の流れや様々な事情により、時に私たちが道を踏み外したとしても、イエス様は必ず共においでくださいます。罪を犯し、道を踏み外した私たちをゆるしてくださいます。そのために、イエス様は十字架に架かられたからです。そして、三日後によみがえられました。三日後のご復活は、イエス様が必ず私たちと共においでくださり、踏み外した者を捜して連れ帰ってくださるためです。
今週の水曜日は、灰の水曜日です。この日から、教会の暦はイエス様の十字架への歩みをたどる受難節の歩みを始めます。常にも増して、イエス様の十字架の出来事で救われ、ご復活によって永遠の命の約束を与えられていることを深く心におぼえて日々を過ごしましょう。
私たち教会が教会であり続けるために、イエス様を中心に、常に主に立ち帰って絆を結び合う私たちでありたいと願います。私たち兄弟姉妹のために祈ってくださるイエス様に感謝し、私たちも主の祈りに心を合わせ、さらに主をたたえ、福音の恵みに与り、互いに祈り合いましょう。この新しい週を、ご復活のイエス様に従って心安らかに進み行きましょう。
2025年2月23日
説教題:主にとらえられる幸い
聖 書:詩編139編1~10節、ルカによる福音書22章31~34節
しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
(ルカによる福音書22:32)
中学生時代、時間割に週一回の書道の時間がありました。お手本を見ながら練習し、清書して提出します。卒業間近になった頃 ― 季節としては、今頃でしょうか ― 、先生に「好きな言葉を書いていいぞ~」と言われて、クラス中が喜んでそれぞれに筆を振るいました。好きなアイドルの名前を書いて、先生を絶句させたクラスメイトがいたのが楽しい思い出です。
その時に、書いた人が多かった言葉は平和、希望、友情、勇気、愛、夢、そして自由でした。大人になっても、同じ言葉が選ばれるかもしれません。キリスト者だったら、信仰が加わると嬉しく思います。
それはさて置くとして、自由 ― 私たちは自由が好きです。自由という日本語は明治以降に造られた言葉で、英語のfreedomの訳語として福沢諭吉が考案したそうです。自由の二つの漢字は「自」分の行いの理「由」すなわち根拠が自分自身にあることをさし、「自分の思いのまま」を意味すると言います。
自由の反対語は「とらえられる・束縛される・つかまえられる」です。私たちは誰かにつかまえられて監視され、自由を奪われ、管理されるのが大嫌いです。ところが、私たちキリスト者には とらえられることが喜びとなり、幸いとなる恵みがあります。
先ほど司式者がお読みくださった今日の旧約聖書の詩編139編10節は、このように謳います。10節をお読みしますので、お聴きください。「あなた(神さまをさします)そこにもいまし 御手をもってわたしを導き 右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」(詩編139:10)
神さまは、私たちひとりひとりをとらえてくださる方です。その少し前の7節は、こう語ります。この祈りの人は、預言者ヨナのように神さまから逃げようとしています。「どこに行けば あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。」(詩編139:7)この祈りの人は神さまに自分のすべてを知られ、すべてを把握されていることが鬱陶しく感じられて、逃げようとしたのでしょうか。しかし、神さまの右の御手の守りから、私たちは決して出ることができません。思いがけない苦しみに遭って、私たちの心が挫け、絶望の闇に沈もうとする時も、私たちは神さまに見守られ、寄り添われているのです。
詩編の祈りの人は、はっきりとこう言います。11節の中からお読みします。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。」神さまが闇の中でその人と、私たちと共においでくださると、光と希望と生きる喜びの源である神さまがそこにおられることによって、闇は闇ではなくなります。
12節で、この人はこう高らかに謳いあげます。お読みします。「闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち 闇も、光も、変わることがない。」この御言葉を、口語訳聖書で「夜も昼のように輝く」と覚えておられる方も少なくないと思います。
どんな時も神さまが共におられ、私たちを呑み込もうと迫り来る闇を希望に変えて、光で包み、私たちを確実に守り抜いてくださるのです。このうえない安心・やすらぎの約束を、私たちはいただいています。
さて、今日の新約聖書の聖書箇所には、弟子たちに迫り来る闇が語られています。せっかくイエス様が弟子たちのために準備してくださった過越祭の食事の席で、弟子たちは自分たちの中で誰がイエス様を裏切っているのか、その反対に誰が一番偉くてイエス様に忠実に従っているか、言い争いを始めてしまいました。また、ユダ以外の弟子たちは、この時 イエス様の逮捕が迫っていることを少しも知りません。
イエス様は「他者に仕える者になる」ことをおっしゃり、ご自身が弟子たちに、また人々に、全人類に仕える者だとはっきりおっしゃいました。おそらく、この御言葉で言い争いがやみ、弟子たちがしんとなったところで、イエス様は今日の最初の聖句を言われました。
ルカによる福音書22章31節をお読みします。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」もしかすると皆さんの中で「えっ!」と感じられる方がおられる聖句かもしれません。この世では神さまとサタンが対決して、清く聖なる善と、よこしまで卑劣な悪が戦っていると、私たちは漠然と想像しがちです。
今もなかなか終わりの見えない複数の戦争が続くなど、この世には悪が満ちているので、私たちは神さまとサタンが対等な力で、私たちには見えない次元で戦いを繰り広げていると感じてしまいそうです。ところが、今日のこのイエス様の御言葉は、明らかにサタンが神さまにお願いをする立場、悪が神さまの足元にひざまずく者であることが示されています。
弟子たちが小麦のようにふるいにかけられるとは、弟子たちの信仰が試されることをさしています。小麦の一粒一粒がふるいにかけられ、実の入っていない痩せた小麦の粒が地面に落とされるように、信仰の弱い者がふるいにかけられて、イエス様に背き、ふるいの下で待ち受けるサタンの手の中に落ちて来るようにとサタンは神さまに願い、聞き入れられました。
これはある出来事を預言しています。今日のルカによる福音書22章31節で、「シモン、シモン」と呼びかけられたのはイエス様の一番弟子 ペトロです。イエス様はこの時、ご自分が逮捕された後、気になって後をついて来たペトロが周りの人に「逮捕された犯人 ナザレのイエスの知り合いだろう、仲間だろう」と言われて三回も「あんな人は知らない」とイエス様を否定することを知っておられました。ペトロは恐怖心からイエス様に背いて、サタンの罠にかかって罪を犯してしまうのです。
ペトロに起こったこの出来事のように、神さまは、私たちの信仰が試される状況を私たちにいくつも与えられます。それは、この世で私たちに試練として襲いかかります。気付かなくても、誘惑の罠として私たちの行く手に潜んでいます。
私たちは、時に、自分がキリスト者であることをこの世のある場面では隠し通そうとすることがあるかもしれません。キリスト者が少数の日本の社会では、周囲との軋轢を起こさないために、信仰を表明しない方が楽に生きられるという誘惑があります。イエス様にうしろめたさを感じながら、キリスト者であると言わずに過ごし、祈りの中で主にゆるしを求める信仰者がいるかもしれません。
イエス様は、この信仰者をも、すでにゆるしてくださっています。イエス様はこの人が感じているうしろめたさ、罪悪感のつらさを十字架で代わって担ってくださり、その罪の贖いのために、十字架で命を捨ててくださったのです。
イエス様は、たとえ私たちが悪の闇に引き込まれていても、旧約聖書の御言葉 詩編139編12節のように 光として共においでくださって、私たちを照らし、寄り添ってくださいます。
今日の新約聖書の御言葉には、その恵みが明確に記されています。イエス様はペトロの背きの罪を預言なさり、さらに、その罪から救い出す恵みもはっきりと示してくださいました。32節で、イエス様はこうおっしゃいました。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカによる福音書22:32)
この御言葉はイエス様からペトロへの励ましでしたが、まだ自分がイエス様を否むことになるとは夢にも思っていないペトロは、イエス様がおっしゃられた自分に「信仰が無くなる」との言葉に激しく反応しました。彼は、イエス様に必死にこう言いました。33節です。お読みします。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」(ルカによる福音書22:33)
このペトロの言葉は、この時のペトロの本心だったでしょう。私たちは、自分の心を把握しきれていません。不測の事態に陥って追い詰められ、その事態が自分の限界を超えることだったら、自分が何を言い、何をするか、自分でもわかりません。
私たちの主・イエス様は、私たちを造られた主は、私たちを知り尽くしておられます。今日の旧約聖書139編の御言葉がこう語るとおりです。「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。」(1節)また、4節「わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに 主よ、あなたはすべてを知っておられる。」
私たちの主は、私たちが不測の事態に陥って追い詰められると何を言い、何をしてしまうか、ご存知です。この時に、弱い私たちが、つい護身のために、自分でも思いもよらぬ言葉を言ってしまう可能性を見抜いておられます。ですから、ペトロがイエス様のことを知らないと三回も言ってしまうことを、イエス様はご存知でした。
だから、イエス様はこうおっしゃいました。今日の最後の聖句、34節です。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」(ルカによる福音書22:34)ペトロが勇んで言った「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」(ルカによる福音書22:33)の言葉が、数時間後にはむなしい嘘になってしまうことは、すでに明らかだったのです。
イエス様はもちろん、ペトロを咎めるためにこうおっしゃったのではありません。34節よりも早く32節で、すでにイエス様は、イエス様を知らないと言い、信仰を失いかけているペトロに寄り添って「信仰が無くならないように」と祈ってくださっています。「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と、ペトロのその後の歩みを豊かに祝福して励ましてくださっています。
そして、私たちは知っています。
イエス様の十字架の出来事の後、ペトロは復活のイエス様に会い、イエス様に愛されていると知らされ、自分も深くイエス様を愛していると口で三回告白する恵みに与りました。自分で砕いてしまったと思い込んでいたイエス様との絆をこうして、再び与えられました。信仰を新たに与えられ、彼は別人のように強くなりました。
ペトロは、もう二度とイエス様を知らないと言いませんでした。十字架の出来事とご復活の救いの福音をひたすらに宣べ伝え、宣教に励みました。ペトロは、キリスト教への迫害の嵐の中で、伝道者であるために捉えられて牢に入れられ、殉教しました。
ペトロが勇んで言って、その数時間後にはむなしい嘘・イエス様への背きを表してしまったこの言葉、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」(ルカによる福音書22:33)を、復活のイエス様は真実にしてくださいました。ペトロがついてしまった嘘と背きの闇は、主に招かれて立ち帰り、信仰を与えられたことで真実の光に変えられたのです。
私たちの信仰は常に揺れ動き、一定の強さを保ち続けることはおそらく誰にもできません。どんな試練に襲われるか、その時に自分が何を言い何をしてしまうか、まったくわからないからです。
その中で、私たちに確かにわかっていることがあります。試練に遭っているその時に、イエス様が必ず私たちと一緒にいてくださることです。遭っている試練を共に乗り越えてくださるために、まず、イエス様は私たちが信仰を保てるように、心をこめて祈ってくださいます。そして、つらさと苦しみを分かち合ってくださり、ひとりではないとおっしゃってくださるのです。
闇の中に閉ざされてしまったように思える時も、私たちは主の光の御手に包まれています。主に包まれ、抱かれ、主にとらわれることの恵みを心に確かに留めて、この新しい一週間の一日一日を進み行きましょう。
2025年2月16日
説教題:すべての人に仕える心
聖 書:詩編23編1~6節、ルカによる福音書22章24~30節
そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」
(ルカによる福音書22:25~26)
イエス様は、過越祭の食事を弟子たちと共にするために 場所を準備してくださいました。その食事の席を主の晩餐の場として弟子たちを招き、ご自身がこれから十字架で救いのみわざを行われることを語られました。「新しい契約」という大切な言葉を通して、弟子たち、ひいては私たち人間が十字架のみわざによって あらためて、神さまのものとされる祝福を告げてくださいました。それが前回の主日礼拝でご一緒にいただいた御言葉の恵みです。
イエス様がおっしゃったことの大切さと、なさろうとしている十字架の出来事との重み。私たちはそれを受けとめようと祈りつつ、心の耳を澄ませました。イエス様を囲んで、主の晩餐の席に着いていた弟子たちももちろん、聖書に記録されているこの時に、イエス様が語られる言葉を心を傾けて熱心に聴いたと思います。しかし、彼らにはまだその御言葉の大切さも重みも、わかってはいませんでした。
彼らは「新しい契約」とは何を指すのかを理解できなかったので、その言葉には感銘を受けず、イエス様が発された「裏切る」という言葉に強く反応しました。ご自身を裏切る者がいるとイエス様が話された途端に、弟子たちは議論を始めたのです。議論と記されていますが、聖書のもとの言葉では「争う」を意味する単語が用いられています。せっかくの主の晩餐なのに、弟子たちは言い争いを始め、ざわつきました。
弟子たちには十字架の出来事がこれから為されることも、新しい契約もわかりませんでした。自分たちの中にイエス様を裏切る者がいるということだけに注目し、それだけが自分たちに直接関わることだと感じたのです。そして、裏切り者はだれだと犯人捜しが始まり、とげとげしい言葉が交わされてしまいました。弟子たちの姿は、そのまま 私たち人間の姿です。
私は今日のために説教準備をしながら、私自身の幼い頃の、こんな出来事を思い出しました。幼稚園で誰かが何かを落として割った音がして、クラスのみんなが立ちすくみ、先生が「どうしたの?」と厳しい声を出しました。先生が厳しい声を出したのは、誰かが怪我をしたのではないかと思ったためだったのは、今ならわかります。その時は、先生の声を厳しく咎める声だと、私も、クラスの他の園児も思ってしまいました。部屋のあちこちから、「僕がやったんじゃない」「私じゃない」という声が上がりました。私も、心の中で「私がやったんじゃない、私は関係ない」と呟いていたことを 今でもありありと思い出すことができます。
何か良くないことが起こった時、私たち人間はとっさにその事柄に関わる自分の立ち位置を確かめようとするのです。それを、今回の説教準備を通してあらためて気付かされました。悪いことをやったのはだれか、悪者はだれか、犯人はだれかを探り出し、聖書の言葉を用いれば「裁く」ことに、私たちの関心は傾くのです。
「裁く」とは、もともと分けるという意味を持つ言葉です。あの人はあっち側の人・自分はこっち側の人、あっち側は敵・こっち側は味方と区別して、分け隔てにつながります。イエス様の弟子たちは、裏切り者はだれかと探り合ううちに、自分はその裏切り者とは違う、この弟子たちの中でも優れた者だと、自分を他の弟子たちと比べる方向に話を進めたのでしょう。
今日の聖書箇所・ルカによる福音書22章24節からの御言葉は、彼らが互いに比べ合ったことを表すこの聖句から始まっています。お読みします。「使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。」(ルカ福音書22:24)
ここを聞いて、または読んで、似たような聖句がどこかにあった、と思った方がおられるのではないでしょうか。そのとおりです。
ルカによる福音書9章46節で、私たちはこの聖句をご一緒にいただいています。お読みします。「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。」イエス様の弟子たちは、もう少し言ってしまえば私たち人間は、競争が大好きなのだと思わされます。また、しょっちゅう自分をまわりと比べ、少しでも自分が優っているところを見つけて安心したがる者なのだとも、思わされます。
そのようにあくせくしている弟子たち・私たち人間に、イエス様は9章では小さな子どものようになりなさい、とおっしゃってくださいました。幼児にはまだ自我の意識がなく、自分について思いめぐらすということがありません。イエス様は、その幼児のように、私たちは神さまの御前では、ただ存在するだけでよいと言われたのです。
当時の社会では跡継ぎは重んじられても、子ども一人一人の尊厳も権利も、少しも大切にされていませんでした。イエス様は、幼い者も大切に神さまに愛されて造られた者として重んじてくださいました。神さまの御前にいるだけでよい、神さまに愛されて造られた者として存在するだけで、私たち一人一人はかけがえのない命だとおっしゃってくださったのです。何もしなくても、何もできなくてもよいとおっしゃったその9章の御言葉に、イエス様は今日の聖書箇所で、さらに恵みを加えて語ってくださいます。イエス様は弟子たちにこうおっしゃいました。25節の中ほどです。お読みします。「異邦人の間では、王が民を支配し、民のうえに権力を振るう者が守護者と呼ばれている。」
異邦人、つまり神さまを知らずに偶像崇拝をする人々は、この世での力の強い・弱いしかわからないから、強い者が王となって弱い者がその手下のような民となって王の言うことをきき、強い王が弱い民を守る役割を果たすとおっしゃったのです。弟子たちの言葉で言えば「いちばん偉い人」は、あらゆる点で一番強く、より弱い立場の者に権力を振るって好き勝手ができるが、その強さゆえに本来は弱い者を守らなければいけないと、イエス様は言われました。
民を守る王は、民を虐げて搾取しない分、それだけで良い王なのでは…と思いますが、イエス様は弟子たちにその王のようであってはいけない、と言われました。さらに続けて、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(ルカ福音書22:26)と、仰いました。
この御言葉は、自分が偉いと思う人は自ら望んで、喜んで若い者のようになり、自分が上に立っていると思う人は自ら望んで、喜んで使える者になりなさい、と読むことができます。と同時に、もとの聖書の言葉ではこう訳すことも可能です。「あなたがたの中でいちばん偉い人を、若い者のようにして、あなたがたの中でみんなを仕切る人を、みんなのために尽くす人のようにしなさい。」
この世の人々の中でそれなりの立場にあるいわゆる「お偉いさん」を、まわりの人は、若くて経験も知識も乏しい者を見るように厳しい目で見てよい、いやむしろそれが大切だとイエス様はおっしゃいます。指導的な立場にある者にとって、それは緊張を伴いますが、暴走しないためには実にたいせつなことです。また、指導的な立場にある者は、本来 みんなに奉仕する者なのだとイエス様は語られます。
指導的な立場の人は、まわりの人に世話をしてもらうのではなく、むしろ自らまわりの人の世話をして、奉仕の働きをする者なのです。イエス様は、ご自身が、そのように奉仕をする者だと言われました。27節の後半で、はっきりとこう言われています。お読みします。「わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」
繰り返しますが、イエス様は、この主の晩餐で場所を弟子たちのために準備してくださいました。ヨハネによる福音書には、この晩餐の席で、イエス様は弟子たちの足元にひざまずき、奴隷の仕事である「客の足を洗う」務めをはたしてくださったことが記されています。
イエス様は弟子たちのために、奴隷の務めさえなさってくださいました。さらに、私たちのために、十字架で命を捨てて私たちの罪を贖う究極のお働きをなさってくださいました。十字架の出来事は、弟子たちの足を洗って清められたイエス様が、私たち全人類のために成し遂げてくださった奉仕のみわざです。
神さまが、私たちのために奉仕してくださるのは、この礼拝でも同じです。礼拝のことを、英語でworship serviceと言います。私たちは神さまに讃美をささげ、イエス様に祈りをささげてサービス ― 奉仕を行います。
ただ、私たちが決して忘れてはならないのは、まず神さまが私たちをこの礼拝に招いてくださるところから、この礼拝が始まり、礼拝が礼拝として成り立つことです。礼拝の式次第の初めに告げられる招きの詞・招詞がそれを表しています。
また、私たちは礼拝の中で神さまから御言葉をいただき、その説き明かしとして説教をいただきます。一週間を走り抜けるに余りある力を神さまからいただき、神さまに奉仕され、サービスされて、心豊かにこの世に派遣されていくのです。
サービスを提供し、自分もサービスを受ける ― 聖書の言葉ではそれを「仕え、仕えられる」と言います ― ことの大切さを、イエス様は語っておられるのです。尊く、誠に価値ある生き方とは、今日の聖書箇所の言葉を用いればほんとうに「偉い」のは、互いに仕え、仕えられる関わりを互いに大切にする信じる者の群れ ― 愛し合う信仰共同体・教会の交わりです。
イエス様の十字架の出来事とご復活の前は、まだ主の教会は存在していませんでした。ところが、イエス様は教会が興ることをよく知っておられました。その教会の交わりについて、イエス様は今日の聖書箇所の28節から30節にかけて、預言的な言葉を語られました。イエス様が地上のお命を歩んでおられる間はまだ存在しなかった教会の姿が、ここに語られています。
28節でイエス様はこう言われました。お読みします。「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。」皆さんは、イエス様が逮捕された時、また十字架の出来事の時とその後、弟子たちが恐れのあまり逃げ散ってしまったことを知っているので、首をかしげたくなると思います。
逃げ散った弟子たちと、復活のイエス様は会ってくださいました。弟子たちは、イエス様が逃げ散った自分たちの弱さと卑怯さをゆるし、変わらずに深く愛してくださる深い愛を知らされて、別人のように強くなったのです。彼らはその後、迫害に屈することなく、伝道のわざに身をささげ、主に仕え通しました。伝道のためには地上の命さえ惜しまず、ユダとヨハネを除く十人は殉教して果てました。地上の命の果てには、皆 御国に迎え入れられ、30節でイエス様が語られているように主の食卓に招かれ、新しい契約によるイスラエルの全ての部族、神さまの御国 ― 教会をさします ― の導き手・使徒と呼ばれるようになりました。
ルカによる福音書では、前回の聖書箇所から今日の箇所にかけて、「弟子たち」をさす言葉として「使徒」が用いられています。ルカによる福音書22章14節、19節、23節、また今日の御言葉では24節で「弟子」を表す言葉は「使徒」と記されています。主に導かれた使徒たちの働きにより、また使徒に導かれた多くの信仰者が互いに愛し合い、仕え合うことを通して、教会は今 こうして信仰共同体としていきいきと生き続けています。
私たち薬円台教会も、もちろんそのように導かれています。私たちは、イエス様の十字架で欠けを覆われ、罪をゆるされ、神さまに仕え、互いに仕え合う者の群れとして歩み続けています。互いに仕え、互いに祈り合い、この一週間を主に導かれて思いやり深く進み行きましょう。
2025年2月9日
説教題:主の恵み深さを味わう
聖 書:詩編34編1~11節、ルカによる福音書22章14~23節
それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」
(ルカによる福音書22:19~20)
イエス様と弟子たちは、ユダヤのたいせつな祭・過越祭を過ごすために神殿の町エルサレムに入られました。祭の日が近づき、記念の食事をする夜、食事の場所を弟子たちのために準備してくださいました。
過越の祭は、ユダヤの民にとって実に重要な祭事です。ユダヤの民がモーセを通して神さまに導かれ、奴隷として酷使されていたエジプトから脱出した自由と解放を記念するようにと律法に定められています。その時に、普段とは異なる特別な食事 ― 酵母を入れないパンに苦菜を添えて、急いで食べる食事 ― をすることも、決められています。ユダヤの民が毎年、食する記念の食事です。イエス様は、この食事のための場所に弟子たちを招いてくださったのです。
ただ、私たちが今日いただいている聖書箇所が語る出来事は、この時だけの一回限りの特別な食事でした。イエス様が十字架に架かられる前の、最後の晩餐だったのです。その食事の席で、イエス様は特別なことをなさり、特別なことを弟子たちに語られました。
イエス様がなさったこと・語られたことは、今、私たちに聖餐式として伝えられ、それによって教会は主の御業の恵みを継承しています。ところが、このイエス様の晩餐の大切さを、弟子たちはまったくわかっていませんでした。イエス様が場所を準備してくださったことに、多少は驚いたかもしれません。しかし、自分たちはイエス様と一緒にこれからも毎年、過越の祭を祝うのだろうと思っていました。よもや、この後にイエス様が逮捕され、十字架に架けられるとは思っていなかったのです。
その弟子たちに、イエス様は、食事の初めにこうおっしゃいました。15節です。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」苦しみとは、十字架に架けられること・十字架のご受難をさしています。
さらにイエス様は、杯を取り上げて弟子たちに互いに回し飲みをしなさいとおっしゃいました。その時にも、ご自分の地上の命が終わることをこう告げられました。その18節をお読みします。「言っておくが、神の国が来るまで 」― これは世の終わりまでという意味です ― 「わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」そのように、イエス様は、ご自分の地上の命の終わりが近づいていることを弟子たちに告げました。
そして、私たち教会が大切な神さまとの約束・契約の儀式としている聖餐のパンの分かち合いと、杯の分かち合いをなさいました。イエス様はパンを掲げて裂き、弟子たちに分け与えられました。パンは、弟子たちのため、すべての人々のため、私たちの救いのために十字架で裂かれたイエス様のお体です。その後で、イエス様は杯を掲げ、同じようになさいました。杯にそそがれていたぶどうの実から作った飲み物が、弟子たちのため、すべての人々のため、私たちのために十字架で流されたイエス様の血潮です。
今日は、イエス様がなさり、語られた主の晩餐の御言葉が私たちに告げる二つの祝福に与りたいと思います。
ひとつは、イエス様の恵み深さです。今日の旧約聖書 詩編34編の御言葉は、このように謳います。「味わい、見よ、主の恵み深さを。」たいへん心を魅かれるのは、この御言葉では主の恵み深さを私たちが口に入れて舌で感触として味わえるものとして謳っていることです。
この御言葉は、うるわしい比喩表現にとどまりません。イエス様は主の晩餐で、弟子たちにまさに主・神さまの恵み深さを、実際に食事としてパンと杯で味合わせてくださいました。私たちが見て・触って・匂いを嗅いで・聞いて・味わえるようにしてくださったのです。
何度も繰り返しお伝えしていることですが、神さまは私たちとはまったく次元の異なる方です。私たちの五感では、神さまのすばらしさも、私たちのために何をしてくださっているのかという恵み深さも、感じきることはできません。
それを、イエス様は私たちと同じ人間となって、私たちのために十字架で激しい痛みと苦しみを受けてくださることで 私たちにわかるようにしてくださったのです。
私たち人間は、自分で抑制のきかない肉体を持って生まれてきます。私たちの肉体は、食べ物・飲み物がないと維持することができません。その生命体としての必要を必ず満たしてくださるのが、神さまです。
また、私たち人間が暮らすこの世には、前回の主日礼拝の聖書箇所で示されたように、分け隔てがあります。かつて、ユダヤの民がエジプトで奴隷として酷使されていたのは、その究極の表われのひとつと言ってよいでしょう。支配する者がいて、支配される者が苦しむ社会の構図がありました。
その構図は大なり小なり形を変えて、雇用する側と雇用される側、お客様と相手を呼ぶ側とお客様と呼ばれる側、命令を出す側と命令に従う側といった形で、私たちの現実の社会に今あり、これからもあり続けます。また、そのような役割分担が秩序や規則としてある程度は存在しないと、この世が無法地帯になってしまう恐ろしさがあります。
私たちは皆、神さまに等しく愛されて造られ、本来は分け隔てない存在のはずです。にもかかわらず、私たちは、分け隔てのあるこの世に生きなければなりません。また分け隔てを、ある程度の秩序としなければ、繰り返してお伝えしますが、この世は無法地帯となってしまいます。その私たち人間のジレンマを、聖書は罪と言うのです。
このように、この世の人間であること自体に囚われて、自分たちで自分たちを苦しめているのが、私たち人間です。イエス様は、その苦しみを十字架ですべて背負い、罪を贖って、私たちを解放してくださいました。主にあって、人間はみんな分け隔てなく愛されて造られたという真理を知ることが、魂の解放です。
私たち一人一人は神さまに愛されているのだから、自分には神さまの他には主人はだれもいない、人間はだれもこの自分を所有し、尊厳を脅かし、傷つけることはできないのだと、イエス様は真理を知らせてくださいました。同様に、イエス様は、私たちそれぞれに、神さまは自分以外の人もすべて同じように深く愛しているのだから、一人一人が他のだれをも支配せず、だれの尊厳も脅かさず、だれをも傷つけずに生きることを志すようにと、正しい道を示してくださいました。
愛と平和に生きるその真実の生き方は、私たちの肉体に食べ物・パンが必要なように、私たちの魂に必ずなくてはならない、必要な真理なのです。
パンを味わってお腹を満たすように、私たちは、その真理の恵み深さを味わい知って魂を豊かに満たされて生きていきます。だから、イエス様はご自身をパンだとおっしゃり、裂いて、私たちに分け与えてくださいました。
主の晩餐で、イエス様が私たちに与えてくださったもうひとつの祝福は、契約・約束です。杯を弟子たちと分かち合った時に、イエス様はこう言われました。今日の聖書箇所の20節です。先ほどお読みしましたが、今一度、拝読します。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」
「新しい契約」と、イエス様はおっしゃいました。「新しい」とわざわざおっしゃったということは、「古い」契約があるからです。かつて、神さまは「古い」契約をご自分の民と結んでおられました。それは条件のついた契約・約束でした。ユダヤの民が神さまの御言葉をすべて行い、守るという条件のもとに、神さまはユダヤの民の神さまとして祝福し、守り支えるという約束だったのです。
この約束を交わした時、モーセは鉢に満たした雄牛の血の半分を神さまの祭壇にかけ、残りの半分を民に振りかけて神さまと人間との間での約束を交わし、契約を結びました。(出エジプト記24:3-8)
しかし、少し考えればすぐわかることですが、御言葉をすべて行い、守ることは人間にはできません。人間は不完全だからです。不完全とは、欠けがあり、罪があることをさします。
約束は破られ、契約は破棄される他ありませんでした。それでは、神さまはもう、人間を祝福してはくださらないのでしょうか。いえ、もう一度、神さまはイエス様の十字架の出来事を通して、人間に手を差し伸べてくださいました。
私たち人間が神さまとの約束を守りきれないその罪を、神さまの御子イエス様すなわち神さまご自身が、地上の命を十字架で捨てることで贖うから、条件なしであなたがた人間を祝福すると、新しい約束をしてくださったのです。
それが明確に語られたのが、今日のこのイエス様の言葉です。今日、三回目になりますが、もう一度お読みします。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」イエス様がこうして犠牲になってくださったゆえに、私たちは不完全なまま、ありのまま、神さまの祝福と守り支えをいただけるようになりました。
前回の御言葉の説き明かしで、十字架の出来事は光でもあり、同時に闇でもあることをお伝えしました。イエス様がこうして、私たちに輝かしい恵みを約束してくださっているのと同時に、悪の闇の出来事が進んでいます。
イエス様は、そのことも、今日の聖書箇所でおっしゃいました。21節です。「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。」イエス様が言われたのは、イスカリオテのユダの裏切りでした。ユダ以外の弟子たちはまだそれを知りませんから、イエス様のその言葉に驚いて、主の晩餐の場は騒然となりました。
しかし、その議論の中でイエス様は超然とされています。22節で、イエス様は「人の子は、定められたとおり去って行く」とおっしゃいました。その御心は、少しも揺らいでいません。そのお姿をこそ、今、今日、私たちは心にいただいてまいりましょう。
御言葉を通して、イエス様は私たちに今、二つの祝福の光を与えてくださっています。ご自身のお命を捨てて、私たちに神さまの愛を示してくださった恵み深さの光の中に、私たちは生かされています。ありのままで、無条件に神さまに愛される約束・新しい契約の光の中を歩んでいます。その恵みを心に深くとめて、今日から始まる新しい一週間の一日一日を光の子として進み行きましょう。
2025年2月2日
説教題:主の過越を記念する
聖 書:出エジプト記12章1~5節、ルカによる福音書22章1~13節
過越(すぎこし)の小羊を屠(ほふ)るべき除酵祭の日が来た。イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われた。
(ルカによる福音書22:7-8)
十字架の出来事とご復活を思う時、ある「わからなさ」を感じる方が決して少なくないと思います。その「わからなさ」は、私たち人間の目に見える事柄が起こった道筋と、それを導かれた主の御心があまりにかけはなれているように感じるからではないでしょうか。
私たち人間の目に見える事柄としては、十字架の出来事は、イエス様が弟子に裏切られ、人々に憎まれ、死刑にされた歴史上の事実です。人間的な思いからすれば、これは悲惨きわまりない出来事でした。
一方、十字架の出来事は神さまの御心でした。御子イエス様は十字架に架けられるために、御父に遣わされ、使命を与えられて この世に来られたのです。十字架上で使命が成就されたことで、イエス様は御父の栄光をあらわされたのです。
私たち人間は誰しも命を謳歌し、いきいきと生きるためにこの世に誕生します。イエス様はただ一人、生きるのではなく死ぬために世に遣わされました。私たちの主は、この十字架の出来事で救いの御業を成し遂げられました。神さまの私たちへの深い愛が、あらわされた恵みの出来事でした。イエス様の十字架に、私たち人間の闇と、神さまの栄光が同時に、どちらもくっきりとあらわれているのです。
ルカによる福音書は、今日 ご一緒に読み始める22章から、イエス様の十字架への道を語り始めます。十字架にあらわされている闇と光 ― 両極端が示されるので、私たちはめまいがするような「わからなさ」「謎」「不思議さ」を感じます。ただそこに、神さまの私たちへの深い、深い慈しみが秘められていることは確かです。十字架の光と闇を心に留めながら、これからのルカ福音書の御言葉を、まずは今日の聖書箇所を読み進めてまいりましょう。
今日の聖書箇所は1節から6節までと、7節から13節までと大きく二つに分けられます。それぞれが、闇と光をあらわしています。
22章1節から6節に記されているのは、闇の出来事です。ユダヤ民族にとって最も大切な祭り、過越祭が近づいていました。過越祭では酵母を入れないパンを食べる習わしがあるので、過越祭は「酵母を除く祭り」・除酵祭とも呼ばれています。
先ほど読まれた旧約聖書の御言葉でご一緒に聴いたように、過越祭を定めたのは神さまです。なぜこの祭りが大切かと言えば、それはユダヤの民がエジプトの奴隷の身分から神さまによって解放されたことを記念する祭だからです。ユダヤ民族だけでなく、すべての人間は神さまと出会い、神さまに従って、真の自由へと解放されることも、加えて心に留めておきたいと思います。
御言葉に戻りますと、2節で祭司長や律法学者は過越祭が近づく中で、イエス様を暗殺する計画を立てていました。イエス様が過越祭を神殿の町・ユダヤの首都エルサレムで過ごしておられ、すぐ近くにいるので計画実行の絶好の機会と思われました。
その一方で、計画自体はまだおぼろげなものでした。2節の後半にこう記されています。「彼ら ― 祭司長や律法学者たち ― は民衆を恐れていたのである。」民衆・一般の人々は、イエス様のことが大好きでした。神殿の庭でイエス様が神さまのお話をされ、説教を語られると 人々は皆 喜んで聞き入り、イエス様の周りには人垣ができました。イエス様がそのように人々に愛されているので祭司長や律法学者たちは悔しがり、イエス様を殺したいほど憎むようになったのです。
祭司長や律法学者たちは、イエス様に手を下したら 民衆の怒りと憎しみが自分たちに向けられることを恐れていました。そして、第3節は「しかし」と始まっています。先ほどお伝えしたように、十字架には真逆の事柄 ― 闇と光 ― が同時にあらわれます。ここには罪 ― 私たちの心に潜む悪・サタンが深く絡んでいます。3節をお読みします。「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。」
ユダがイスカリオテと呼ばれていたとはどういうことか、少しお話しておきましょう。ユダヤの南部にケリヨテ、「大都会」を意味する名の町があり、イエス様の弟子の一人ユダはこの町の出身でした。イスカリオテとは、ケリヨテの人、すなわち「都会人」という意味の言葉です。ユダは、イエス様と他の弟子たちがいわゆる田舎のナザレ出身だったのとは異なり、都会風で様子が違っていたのかもしれません。お金の取り扱いがうまく、弟子たちの中で会計係を務めていました。この「ユダの中に、サタンが入った」 ― 私たちが先ほどささげた「主の祈り」の言葉によれば、ユダは「こころみに遭って」「悪」にひきずりこまれてしまったのです。いえ、彼は、むしろ自分からすすんで悪を行ってしまいました。
4節をお読みします。「ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。」祭司長たちにとって、ユダがやって来たのは まさに渡りに舟でした。弟子の一人が、イエス様暗殺の手引きをしてくれると言うのですから。民衆を恐れていた祭司長たちでしたが、イエス様を捕らえて民衆から批判をされたら、すべて ユダに罪をなすりつければよいのです。祭司長たちは喜んで、ユダに金を与えることにしました。こうして、イエス様の命が金で取引され、ユダの行く末も金で買い取られるという事柄が起こりました。
かつてユダヤの民は、エジプトで金で買われる奴隷でした。今日の旧約聖書の御言葉は、神さまが、ユダヤの民を真の自由へと解放してくださった恵みを記念して過越祭を行うようになったその起源が語られています。せっかく神さまが与えてくださった自由を、彼らはさして深く考えもせずに、ここで手放してしまったのです。
神さまが造られた命には、また私たち人間の営みには本来 値段のつけようがありません。ところが、祭司長たちはユダの裏切りに値段をつけ、それを買い取り、ユダへの報酬としました。
そして、私たちはふと気づかずにはいられません。今、私たちが比較的よく耳にするある言葉があります。社畜、という言葉です。会社の家畜、という意味で揶揄的に使われています。いやな響きの言葉ですが、次の事実を言い当てています。この世では、働かないと生きていけません。会社であれ何であれ、何かの利益を生み出す組織の家畜 ― 家畜は本来、所有される財産です ― として所有され、飼われ、給料という餌を与えられて、取引の中で生きるという意味では、この世には決して自由はないという事実が言い当てられているのです。私たちの営みすべて・私たちの存在そのものに値段が付けられ、それらに対して報酬が払われ、それで回っているのがこの世です。
神さまは、私たちを互いに分け隔てなく、みんなが平等に神さまの子として造られました。ところが、私たちはこの世では、常に取引の中で生きるしかありません。買う者と買われる者、支配する者と支配される者の分け隔てが、常に生じているのです。神さまがユダヤの民のエジプト脱出を通して示されたのは、その分け隔てから自由になる道でした。
このエジプト脱出を伝える御言葉を通して、今を生きる私たちに示されているのは、神さまはこの世の価値観とはまったく異なる御国の恵みへと私たちを解放してくださる恵みです。もう少し簡単に言えば、こうなるのでしょうか ― 私たちが神さまとの出会いをいただかなければ気付くことのできない、神さまの御前での平等へと、神さまは私たちを解放して自由にしてくださるのです。
この世の取引の奴隷になって、その悪と罪の泥水で窒息している私たちを、神さまはイエス様を通して救ってくださいます。神さまとの出会いは、自分が悪と罪の泥水で死にそうになっていると気付かされることです。そこからの自由と解放、真の救いを求めれば、神さまは必ず救い上げて、真実の命を私たちに与えてくださいます。
ただ、この救いには犠牲が必要です。ユダヤの民がエジプトから脱出する時、神さまは、ユダヤの家族がそれぞれ大切に育てている小羊を屠り ― 殺し ― 、その血を戸口に塗るようにとモーセを通しておっしゃいました。また、家族はその小羊の肉を食べて、エジプトからの脱出に備えなさいとおっしゃいました。
神さまの使いは、宵闇にまぎれてエジプト中の最初に生まれた子 ― エジプトの王ファラオの世継ぎから、家畜が産んだ初めての子に至るまで、すべての最初に生まれた子の命を奪いました。しかし、この時、家の戸口に小羊の血が塗られていたら、その家には入らずに通り、過ぎ越して行きました。こうして、ユダヤの家族の最初に生まれた子はすべて生かされたのです。小羊が犠牲になることによって、自由と解放、真実の命への道が拓かれました。
イエス様は、ご自分が全人類の犠牲の小羊として十字架に架かられることを 知り尽くしておられました。そのお覚悟・ご決意を、私たちは今日の聖書箇所の後半、7節から13節の御言葉に読み取ることができます。イエス様は、過越祭の食事 ― 小羊の肉と、苦菜と、酵母を入れないパンの食事を弟子たちとするために準備しようとなさっています。
暗殺計画が進み、悪の闇が濃くなる一方で、イエス様はその悪からの解放の準備をされているのです。この食事の準備をするために、弟子たちの中からペトロとヨハネが使いに選ばれたと8節に記されています。
ペトロとヨハネは、自分たちが場所を確保しなければならないと思っていたでしょう。ところが、イエス様は前もって場所を備えていてくださいました。イエス様は、ペトロとヨハネに、10節で、「水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き」なさい、とおっしゃいました。二人がイエス様に言われたとおりにすると、「席の整った二階の広間」(ルカによる福音書22:12)が準備されていました。それが、13節の御言葉です。今日の聖書箇所の最後の聖句です。お読みします。「二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事の準備をした。」
この聖句に示されるように、イエス様は、場所を備えてくださる方です。私たちのために天の国・御国に場所を準備しておいてくださるのが、私たちの救い主 イエス様なのです。
ヨハネによる福音書14章1節から3節、最後の晩餐での惜別説教で、イエス様は弟子たちにこうおっしゃいました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいるところに、あなたがたもいることになる。」
ご自身を犠牲にして、私たちを御国の恵みに招いてくださるイエス様の愛を、今週も心にいただきましょう。ここまで深くイエス様に愛されていることを感謝しつつ、私たちにできる最善を尽くせるよう祈りながら、この新しい一週間も心を高く上げて進み行きましょう。
2025年1月26日
説教題:永遠に立つ主の御言葉
聖 書:イザヤ書40章6~8節、ルカによる福音書21章29~38節
放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。…しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。
(ルカによる福音書21:34、36)
ルカによる福音書では、イエス様が終わりの日について語られた御言葉をかなり長く伝えています。21章5節から38節のその聖書箇所を、三回に分けて主日礼拝説教として説き明かす導きに与りました。今日は、その三回目です。
この世の終わりの日が必ず来ることを、イエス様は語られました。その時にはまず、キリスト者への迫害が起こり、次いでエルサレムが敵に囲まれ、さらに地球のみならず天体全体が揺り動かされて 私たち人間には想像もつかない大惨事となると、イエス様はおっしゃられました。
ただ、イエス様は恐ろしいことが起こるとだけ語っているのではありません。終わりの日は、イエス様が再び私たちのところへおいでくださる再臨の恵みの日です。御言葉の中で、イエス様が「あなたがた」と慈しみをこめて呼びかけてくださっているのは、私たち信仰者・キリスト者です。
前々回の礼拝に与えられた聖書箇所で、イエス様は私たちにこう励ましと安心の御言葉をくださいました。ルカによる福音書21章17節から19節をお読みします。「…わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」
前回の聖書箇所では、イエス様は終わりの日について こう語られました。ルカによる福音書21章26節です。「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」この時に、信仰者・キリスト者ももちろん、おののき震えますが、その私たちに向けて イエス様はこう言ってくださいます。27節と28節をお読みします。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
苦しいことの後には 恵みが待っているのだから、うなだれることなく 頭を起こしなさい、再びあなたがたに会いに来るわたし・再臨の主を仰ぎなさいとイエス様は言われます。この世に 悲しみや苦しみがあるのは、この世が不完全で、罪・悪に満ち、そこに暮らす人間は、まるで泥水の中で暮らすように息を詰まらせているからです。イエス様は十字架の出来事とご復活によって、罪と悪の水から私たちを救い出してくださいます。その恵みのみわざの真理が、終わりの日のイエス様の再臨によって明らかになります。
終わりの日の裁きとは、主のものとそうでないものが神さまによって分けられる時と言ってよいでしょう。イエス様・神さまは、ご自分のものとされた私たちと永遠に共においでくださいます。私たちは、こうして真実に主のもの、主の民となるのです。
今日の聖書箇所でも、イエス様は前々回、前回と同じように 終わりの日・再臨の日を待つ心構えを教えて下さいます。前々回・前回の聖句と今日の聖句とで大きく違うのは、イエス様が「終わりの日」「再臨の日」を「神の国が近づいている」と、告げておられることです。
今日の29節で、まずイエス様はいちじくの木のたとえを語られました。いちじくや、ほかのすべての木を見て、葉が芽吹くのを見たら、夏の訪れを知りなさいとおっしゃいます。私たち日本に暮らす者は、桜が咲けば春が来たと知り、朝顔を見て夏を、色鮮やかな紅葉を見て秋を思います。自然の風物の変化によって季節の巡りを知るように、あなたがたキリスト者は世の終わりを悟りなさい、とイエス様は教えてくださいます。迫害、戦争、地震、飢饉、疫病や、いわゆる天変地異が起きたら、それを世の終わりの徴と悟って心備えをするようにとおっしゃるのです。
心備えがあるのと、ないのとでは、つまり不完全ではあっても少しは先のことを知らされているのと、知らないのとでは、終わりの日の受けとめ方がまったく異なります。少しでも先のことを知っていれば、多少なりとも心の準備ができます。
イエス様がご自身の再臨と終わりの日について語られると、私たちは恐ろしいと思ってしまいます。しかし、それは私たちへの深い慈しみからのことなのです。どれほど激しい迫害・戦争・地震・飢饉・疫病があったとしても、その後に、イエス様がもう一度おいでになって、一連のすべてのことが起こるまで、この世は終わりません。32節で、こうイエス様がおっしゃるとおりです。お読みします。「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。」
イエス様は、ご自身の、つまり神さまの御言葉の確かさを、続けてこう言われました。33節です。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」苦しみが続いたら、イエス様の再臨の恵みを待って希望を持つようにとイエス様はこうして、繰り返し、繰り返し、言ってくださいます。
さらに、34節で、イエス様は苦しみが恵みの前触れであることを、心を研ぎ澄まして感じ取るようにと言われます。その34節をお読みします。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」
放縦とは、遊び惚けて自分の好き勝手なことばかりやって面白おかしく過ごすことです。神さまは、私たちが共に平和に穏やかに、心安らかに過ごせるようにと掟・十戒をはじめとする律法をくださいました。律法を破って、隣人を不快にし、迷惑をかけていることを気にもせずに暮らすことを、イエス様は放縦と呼んで諭されました。
隣人ばかりか、自分自身にとっても害になることとして、深酒も戒めておられます。深酒に限らず、私たちの肉の欲・生理的な欲望を簡単に満たし、それ故に依存症になり易いものをさしておられると考えて良いでしょう。
三つ目に、イエス様は「生活の煩い」も私たちの心を鈍くするとおっしゃいます。この世の一般的なこととして、放縦や深酒は悪徳だと考えられていますから、私たちはイエス様の戒めを少しも不思議に思いません。ところが、「生活の煩い」まで戒められてしまったら、どうすればよいのかと戸惑う思いがします。私たちは毎日のように、今月のお金のやりくりを考えたり、一日の仕事の配分を工夫しようと悩んだり、何かで誰かからクレームをつけられたらどうしようと思ったり、実に限りなく生活の煩いで心を悩ませているからです。
「生活の煩い」は、イエス様がマタイによる福音書6章 山上の説教で語られた「思い悩み」のことでありましょう。ルカによる福音書では、同じ御言葉が12章22節以下に編集されています。その聖句をお読みします。イエス様の御言葉です。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。…あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ福音書12:22、30b~32)
目の前の生活、特に人間関係、自分の能力と理想の落差に私たちは思い悩み、つい不安や弱気になります。イエス様が「小さな群れよ」と言われたのは、数の上で人数の少ない教会や共同体をさしているのではありません。迫り来る圧倒的な悪の支配力に対して、不安や弱気になる私たちを、大きな悪に対して「小さな群れ」よ、とおっしゃっているのです。その意味では私たち人間は皆、小さくて弱い者ばかりです。その私たちを、イエス様は「恐れるな」と励ましてくださいます。
なぜなら、イエス様は十字架の出来事で、すでに私たちに代わって悪と戦い、悪を滅ぼして復活してくださったからです。イエス様はご復活によって、永遠の命の約束を私たちに与えてくださいました。
「永遠の命」は、言い換えると何という言葉になるでしょう。そうです、「神の国」です。この世が終わった時、イエス様の再臨と共に、私たちは神の国に生きる者となります。神の国には、もちろん悪はかけらもありません。神さまのご栄光のみに満ちて、ヨハネの黙示録21章4節に記されているように「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」世界がイエス様の再臨と共に始まります。私たち信仰者は、この喜びの時を至福の時として全身全霊で受けとめ、味わうことができます。
それまでの間、私たちはこの世に耐え忍ばなければなりません。どのように耐え忍ぶのでしょう。イエス様は、前々回、前回、そして今日の聖書箇所で、私たちが忍耐しつつ、神の国・イエス様の再臨・終わりの日を待ちつつ、行うことを三つ教えてくださいました。
ひとつは、前々回の礼拝でいただいた「イエス様が悪にうち勝たれた十字架の出来事とご復活を信じて、希望をもってあらゆる苦しみをじっと耐え忍ぶこと」です。
二つ目が、前回の礼拝で賜った「うなだれず、胸を張り、身を起こして頭を上げる」ことです。
そして、三つめが今日の御言葉にある「心を研ぎ澄まして、神さまを求め、神の国を求めて祈る」ことです。
「神の国を求めて祈る」と言われても、なんだか漠然としてよくわからない…と思われるかもしれません。その私たちの戸惑いをイエス様は、すでによく知っていてくださっています。だからこそ、私たちに主の祈りを教えてくださったのです。
私たちは、主の祈りの最初に、何と祈るでしょう。「天にまします我らの父よ、願わくは御名をあがめさせたまえ、御国を来たらせたまえ。」そうです、私たちは神の国・御国よ 来てください、神さま、御国を来させてくださいと祈るのです。
祈りの言葉が思い浮かばないほど苦しい時、つらい時、涙が流れて声も出ない時のために、イエス様は私たちにすでに祈りの言葉、神の国を求める究極の祈りの言葉を与えてくださっています。イエス様の私たちへの深い、深い愛に、その限りない慈しみに、心が震えます。
イエス様は、人々に再臨の日・終わりの日・御国が来る日を告げた後、今日の聖書箇所の最後の部分が語るように、自ら オリーブ山に祈りにおもむかれました。
イエス様に導かれて、私たちも祈りを深めましょう。この新しい週も、イエス様の愛に包まれて、心ひとつとされて祈りつつ進み行きましょう。
2025年1月19日
説教題:解放の時は近い
聖 書:マラキ書3章1~5節、ルカによる福音書21章20~28節
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
(ルカによる福音書21:27-28)
イエス様は、世の終わりの日に近づく時のこの世の姿、また世の終わりの日について語られました。前回の聖書箇所に続くイエス様の御言葉を、今日 私たちはいただいています。
前回の聖書箇所で、イエス様は、世の終わりに起こることとしてキリスト者への迫害について語られました。その迫害の時こそが主を証しする時なのだから、希望をもって耐え忍ぶようにと、イエス様は安らぎと励ましを与えてくださいました。十字架の出来事とご復活によって、イエス様はすでに私たちに代わって苦難を引き受け、この世のあらゆる悪に打ち勝っておられます。私たちキリスト者は、イエス様と堅く結ばれて共にいるからこそ、イエス様と共に苦難を乗り越え、悪に勝利するのだと、イエス様は力強く示してくださいました。
今日の聖書箇所で、イエス様はエルサレムの町、またそのまわりに暮らすユダヤの人々全体に終わりの日が来る時の出来事を語られました。今日の聖書箇所の冒頭、ルカ福音書21章20節をお読みします。「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。」
これはイエス様の預言の言葉です。と申しますのは、イエス様がこう語られてから40年後の紀元70年、ユダヤの首都にして神殿の町、ユダヤの人々の心のよりどころだったエルサレムはローマの軍隊に取り囲まれて、実際に滅ぼされたからです。この出来事は歴史上、エルサレム陥落と呼ばれています。いわゆる「籠城」の果てに、美しの都エルサレムは滅ぼされ、バビロン捕囚以来、再び廃墟となってしまったのです。
イエス様はこのひと言の預言を告げられてから、人々にその時の逃げ方を教えてくださいました。逃げ方、つまり囲まれた時に、その囲いから逃れて解放される方法を伝えてくださったのです。それは、当時の人々にとっては意外な方法でした。それが、21節以下に語られている三つの事柄なのですが、この三つをサッと読んでも、現代の私たちには何の違和感も感じられません。
イエス様が語られたのは、この三つです。敵が襲ってきたら平地ではなく山に逃げる、人が密集する都市部を避けて都から立ち退く、すでに田舎にいる人は都に立ち入ってはならない。当時の町・都市の構造と戦いの仕方を知ると、イエス様が示された脱出方法が、当時の人々には意外だったことがわかってきます。
その頃の町は、いわゆる城壁都市として構築されました。高い城壁に守られ、壁・塀が外敵の侵入を阻んでいました。敵が攻めて来たら、人々はこの壁・塀の中にとどまって、自分たちの軍隊が敵を追い払うのをじっと待つのです。戦いの仕方・戦法としては、城にこもる「籠城」です。戦いが始まった時に城壁の外にいた人たちは、守られるために、みんな塀の中へ入ります。この籠城のための食料も町には準備してあったでしょう。
ところが、イエス様は人々に町を、エルサレムの都を捨てるようにとおっしゃったのです。城壁を越え、ギドロンの谷を越えてオリーブ山、さらにその向こうに広がる山地へ逃げなさいとおっしゃったのです。当時の身の守り方の常識とは、真逆の逃げ方です。これを聞いた人々は、皆 、驚いたことでしょう。心のよりどころであるエルサレム神殿を捨てて良いのか、と思ったことでしょう。
ここで、私たちは本当の「心のよりどころ」とは何かを問わなければなりません。私たち人間の問いかけに、主は応えてくださいます。
エルサレム神殿は、神さまの住まいとして人間の手で造られた物です。
普遍的に、時空を超えて存在される神さまは普遍的に存在される方、つまり時空を超えて同時に、またあらゆる場所においでになることのできる方です。人間の手で造った神殿には、本来お住まいになりません。ところが、ユダヤの人々は神さまは神殿の至聖所においでくださるから、自分たちは神殿のあるエルサレムの町にいれば大丈夫、守られていると思い込み、その思い込みにとらわれていました。
その思い込みは、言ってみれば目に見える神殿を心のよりどころにしており、広い意味では偶像崇拝的であったかもしれません。その思い込みから、イエス様は人々の心を解放してくださろうとなさいました。そのために、本当の心のよりどころを示してくださったのです。
本当の心のよりどころ、それは、イエス様の十字架の出来事とご復活を信じ、救われた幸いを知る恵みです。その恵みを、イエス様は実に具体的に 私たちが目で見られるようにしてくださいました。それが、この世の終わりの日に、イエス様が再びおいでくださる再臨です。
再臨とは、「再び」という字に「臨む」、臨時の「臨」と書きます。降臨の「臨」でもあります。再臨のイエス様のお姿を、イエス様自らが、今日の聖書箇所の27節で語られます。お読みします。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」
イエス様は、最初にこの世においでくださった時、人となってこの世に赤ちゃんとしてお生まれになりました。それが、ご降誕、クリスマスの出来事です。イエス様は、教え・伝え・癒す三つのみわざを地上で行われ、十字架に架かって死なれました。しかし、その三日後に、復活なさいました。ただ、残念ながら、ご復活後、ずっと弟子たちと共においでくださったわけではありません。
ご復活のイエス様は、天に昇られました。今も、天の父の右の座におられます。私たちが使徒信条で告白するとおりです。この世の終わり、この世が天とひとつとなるその時に、イエス様は再びこの世へとおいでくださいます。
天と、この世は、次元が異なります。私たちは、点・面・奥行きから構成される三次元の空間に生き、時間を含めると四次元で生活しています。天の御国は、いったい何次元なのでしょうか。もはや、私たちの五感では感知できない別世界でありましょう。その別世界から、イエス様はご降誕の時には人間の赤ちゃんとなってくださり、そして、終わりの日には神さまとしてのお姿のまま、おいでくださいます。
次元を超えてイエス様がおいでくださる時、この世の三次元空間、時間を含めて四次元の世界は、とてつもなく大きな衝撃を受けるでしょう。空間は歪み、時間は急に流れたり止まったり、逆行したりするでしょう。宇宙全体が、ねじれるでしょう。それが、今日の25節が語るイエス様の御言葉に表されています。25節をお読みします。「太陽と月と星に徴が現れる。」宇宙がねじれれば、地球は軌道をはずれ、重力は保たれず、陸地も海もいつものようでいられるはずがありません。25節の続きをお読みします。「地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民はなすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」
宇宙が揺り動かされ、失神を招く恐怖感。その中で、信仰がなければ、人間は自分の力にすがり、どうにかしようとする他ありません。しかし、信仰が与えられていれば、信仰者はイエス様のお力にすがればよいのです。イエス様は、その時に、私たち信仰者、ひたすら目を開けて、再びおいでくださるイエス様・再臨のイエス様のお姿を仰ぎ見ればよいとおっしゃられます。今日の聖書箇所の最後の聖句です。28節を、お読みします。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
この世が御国に呑み込まれて、私たちがこの世のものではなくなり、神さまと共に御国に生きる者とされる時、私たちは我欲に満ち、罪を犯しやすい肉体から解放され、自らの思い込みという偶像から解放され、自由になります。こうして、私たちは滅びる命から解放されて、永遠の命の限りない自由と、神さまと共にいる安らぎの中に生きるようになるのです。
ここで、ご一緒に思い出したいことがあります。イエス様は、ルカによる福音書の始めの方、5章でペトロに弟子になるようにと声をかけ、次いでその仲間 ヨハネとヤコブを招かれた時にこうおっしゃいました。「今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(ルカによる福音書5:10)「人間をとる漁師」 ― "人間を網ですくいとる漁師"にしていただくとはどういうことか、そこに何か良いことがあるのかしらと、すぐにはピンと来ない感じがしますが、それはこういうことなのです。
私たちはこの世に生きる限り、この世という水の中であっぷあっぷおぼれそうになっています。魚と違ってエラ呼吸ができない人間が、この世という水の中で生きなければならないとは、何と苦しいことでしょう。水の中からすくい上げられれば、「救い」上げられれば、苦しさから解放されて自由に息ができるようになります。
イエス様は弟子たち すなわち イエス様の十字架の出来事とご復活の福音を伝え、御言葉を伝える者たちを、その御言葉の力と栄光 ― 愛 ― によって人々を水中から救い上げ、水の苦しみから解放する漁師にするとおっしゃったのです。救い上げられた者は、その喜びと安心を、まだ水の中にいる人たちに知らせてます。これが宣教活動であり、伝道です。
そうして、福音を知らされ、恵みに与った者 皆が、この世が水抜きをされる終わりの日、新しい天と新しい地に生きる時に自分の目でイエス様のお姿を仰ぎ、真の幸いに満たされます。私たちは今、その希望を、御言葉からいただいています。罪と悪、闇と苦しさという水からの解放と自由を、約束されています。なんと、幸いなことでしょう。
神さまは、決して約束を破らない方です。永遠の命と罪からの解放の約束が果たされたことを、私たちは終わりの日に目の当たりにできます。再臨のイエス様を、仰ぐことができるのです。そのために、イエス様が今日の聖書箇所の直前で語られた御言葉に従い、「忍耐して命を勝ちとり」ましょう。イエス様が今日、語られるように、「身を起こし、頭を上げ」、心を高く上げて進み行きましょう。
2025年1月12日
説教題:言葉と知恵を授けられる
聖 書:詩編40編1~12節、ルカによる福音書21章5~19節
だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。
(ルカによる福音書21:14-15)
今日の聖書箇所はイエス様が、地上のご生涯最後の一週間、十字架の出来事とご復活の、ほんの数日前に語られた恵みを伝えています。
イエス様は神殿の庭で人々に天の父の愛と義を語られ、ファリサイ派や律法学者に議論を挑まれれば見事な切り返しをなさいました。エルサレム神殿にやって来た人々は、その見事さに感動して呆然と神殿を造り上げている石と奉納物に見とれました。イエス様は、その人々に“こうした見た目のすばらしさは、永遠に残らない”とおっしゃって、神さまを仰ぎ、心を奪われるほどの憧れを抱くのは神さまに対してだけであると示されました。イエス様は、今日の御言葉を通して永遠に残るもの ― いつまでも残る永遠の命を約束されている者・キリスト者がどれほど幸いか、幸福であるかを語られたのです。
今日の聖書箇所が朗読されるのを聞いて、または前もって今日の礼拝のために読んで来られて、語られている事柄を怖い・恐ろしいと感じた方は少なくないと思います。しかし、繰り返して申しますが、イエス様が今日、私たちに伝えてくださるのは永遠の命の約束を与えられた私たちの幸福です。イエス様を信じ、神さまを神さまと仰げる喜びを今日の御言葉から、私たちは共にいただこうとしています。
さて、今日の聖書箇所を読むと、イエス様がこの世の終わりの日が来ることを 人々に語ったことが記されています。人々はおののいて、終わりの日はいつですか、そしてその日が近づいていると知ることのできるしるしはあるのですかとイエス様に尋ねました。イエス様は、「世の終わりはすぐには来ない」(ルカ福音書21:9)とおっしゃって、まず人々の不安を和らげてくださいました。そして、世の終わりの前に「まず起こるに決まっている」こと(ルカ福音書21:9)が何であるかについてを語られました。
イエス様がおっしゃる「まず起こるに決まっている」最初の事柄は、自分から救い主・メシアだと言って世の終わりを予言する偽者が大勢現れることです。イエス様は、彼らが「世の終わりが近づいた」と言っても、その前に起こることがまだまだあるのだから、その言葉に「惑わされないように気をつけなさい」(ルカ福音書21:8)とおっしゃってくださいました。
世の終わりの前に起こる事柄が、9節から12節にかけて語られています。戦争、暴動、地震、飢饉、疫病、それからいわゆる天変地異が起こるとイエス様はおっしゃいました。そして、その前に、この世全般ではなく、キリスト者だけに、クリスチャンを選んで襲いかかってくる苦難があります。
迫害です。
12節で、イエス様はこう語られました。「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害」する、と。誰にでも同じように降りかかる苦難ではなく、私たちキリスト者・クリスチャンだけが選ばれて耐え忍ばなければならない試練が迫害です。
なんと恐ろしいことかと思いますが、イエス様はこの試練こそ、神さまが与えてくださる伝道・宣教のチャンスだと語られます。13節です。お読みします。「それはあなたがたにとって証しをする機会となる。」
「証し」とは、なんでしょう。それは、私たちにとって神さま・イエス様・聖霊の恵みを高らかに語りなさいと主に導かれていきいきと語る喜びの時です。感謝をささげ、自分が与っている大きな喜びを広く伝えて、神さまが私たち一人一人を燦然と輝かせてくださる恵みの時です。
薬円台教会では一年に一度、主日の礼拝の中で信徒の証しを一人の教会員に語っていただきます。その時の証詞者は、皆さん、実に堂々とされています。お一人お一人が、講壇のうえで輝いておられたのが、皆さんの記憶にあると思います。
その証しの時は、イエス様を知らない世の人に理不尽で屈辱的、かつ暴力的な迫害を受ける時だとイエス様はおっしゃるのです。16節では、「殺される者もいる」と命さえ奪われるとイエス様は預言をされました。
死んでしまっては何もかも終わりではないか、証しを立てて主のご栄光を輝かせても、自分が死んだら何にもならないではないかと、絶望的な気持ちが湧き起こりかけるかもしれません。しかし、永遠の命の約束をいただいているとは、死んでも終わらない命を与えられるということなのです。イエス様が十字架で死なれ、その三日後に復活されて私たちに示してくださった永遠の命こそが、その死んでも終わらない命です。
私たちは先月、12月16日に一人のご高齢の兄弟を天に送りました。ご火葬は海辺の斎場で執り行われ、長女さんご夫妻と、お孫さんたち、ひ孫さんたちと私でお見送りしました。長女さんの他は、私は初対面で、キリスト教式のご葬儀に出席されるのも皆さん初めてとのことでした。その時に、窓から見える冬の晴れた空の下、風が強く時々白く波が立つ冬の海を眺めながら、まだ小学校低学年ぐらいのひ孫さんが、誰にともなくこう言ったのです。「死んだらどうなるのかと思ってたけど、どうなるのか、わかった。死んだら、神さまのところに行くんだ。」
それを聞いて、大人は私を含めて一瞬、ハッとしました。大人に教えられたことではなく、本当にそのお子さんが自分でよくわかって言った言葉だとはっきりと伝わって来たからです。
ひ孫さんが、わからなくて不安に思っていたことが、おそらく人生で初めての死とご葬儀によって目隠しがとられるようにありありとわかった、そしてわかって深く安心したと、その口調から感じられました。ひいじいじはひ孫さんに、ご自分の死とご葬儀によって「死んでも終わりではないから大丈夫だよ」と安心を伝えて天に行かれたのです。
亡くなった方は教会でも立派に証しを語ってくださいましたが、ご自分の地上の命の終わりをも証しとされました。私たちはこうして、皆 それぞれの地上の歩みの終わりに主のご栄光を輝かせて御許に旅立つ恵みに与っています。
イエス様が今日の聖書箇所で語られた迫害について、歴史の中から少しお伝えして 今日の説き明かしを終えたいと思います。イエス様が迫害について預言されてから、約30年後にローマで皇帝ネロによるキリスト者大迫害が起こりました。多くのクリスチャンが捉えられ、たいへん残酷な方法で命を奪われました。
史実の詳細については、これからの研究を待たなければならない部分もありますが、皇帝ネロがローマの大火はキリスト者が起こしたものだと濡れ衣を着せたことについては、多くの歴史家の見解が一致しています。イエス様の十字架の出来事とご復活からおよそ30年後に起こるその悲惨な出来事、またその後も日本を含む世界の各地で起こった歴史上のキリスト者への迫害を、イエス様は知っておられたのです。そのうえで、今日の御言葉をお語りくださいました。
繰り返しますが、イエス様は信仰者が迫害を受け、信仰について問いただされ糾弾されることを「証しをする機会」とおっしゃいました。そうおっしゃってから、その時を私たちが怖がらなくても良いように、こう言ってくださいました。まず、14節をお読みします。「…前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。」
私たちは、わなわなとおののきながら 信仰を弁明する言葉を自分で必死に考えなくても良いのです。逮捕されてストレスを受けている時に、さらに弁明の言葉を自力で考え出そうとして、自らにストレスをかけなくてよい、とイエス様は言ってくださいます。どうしてでしょう。イエス様は15節で、こう語られます。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたに授ける…。」
イエス様は困難・苦難の時、私たちに必ず寄り添って、私たちの手を取り、足を取り、語るべき言葉を口移しにして、すべてを教えてくださいます。イエス様に頼りきって、ひたすら言われるとおりにしながら、私たちは世の終わりを待っていれば良いのです。
世の終わりの時に、私たちは主の栄光を真実に見て、知り、味わうことができます。そうして主に望みをおいて、希望を抱いて、ただじっとしていることをこそ、聖書は「忍耐」と呼ぶのです。
皇帝ネロによるキリスト者大迫害が紀元64年にあってからおよそ250年後の紀元313年、ローマ帝国でミラノ勅令によりキリスト教を信じる自由が認められ、さらに紀元392年に、ローマ帝国はキリスト教を信じる国になりました。迫害された信仰者の忍耐は、栄光の実を結んだのです。
ただ、イエス様が今日の聖書箇所で語られるのはこの世の栄光だけではありません。最後の聖句で、イエス様は永遠の命の約束を私たちにお語りくださいます。19節をお読みします。「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」え?!と、つい私たちは思います。いったい私たちに、命を勝ち取ることなどできるのでしょうか。
イエス様が「命をかち取りなさい」とおっしゃるのは、私たちがすでによく知っている主にある真理によります。イエス様こそが、十字架で私たちに代わって罪を贖い、しかし三日後に復活されて 私たちのために永遠の命を勝ち取ってくださったのです。ヨハネによる福音書16章33節、イエス様が最後の晩餐で弟子たちに語られた御言葉をお読みします。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
イエス様が今、私たちと共におられ、悩みも苦しみもすべてを共にしてくださっていることをあらためて深く心にとめましょう。イエス様に強めていただいて、この新しい週も、心を高く上げて進み行きましょう。
2025年1月5日
説教題:民の真の指導者
聖 書:ミカ書5章1~4a節、マタイによる福音書2章1~12節
彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
(マタイ福音書2:11b)
新しい主の年2025年の最初の礼拝を、こうして皆さまと共にささげられる幸いへの喜びと感謝を、まず 主におささげします。
私たちは今、イエス様のご降誕を祝いつつ、教会の暦で言う「降誕節」を過ごしています。明日の1月6日を、教会の暦は「公現日」と定めています。“公(おおやけ)に現れる”と書いて「公現日」です。英語ではエピファニーといい、「明らかになる」ことを意味します。この日を「栄光祭」と呼ぶキリスト教の教派もあります。この「栄光祭」の「栄光」こそ、“公(おおやけ)に現れる”恵み、明らかになる恵みです。神さまの愛と正義が、私たち人間にわかるように示されることを「栄光」と申します。
まさに、イエス様が私たちと同じ人間としてお生まれになり、私たちにわかる言葉で神さまの愛と正義をあらわしてくださるようになった大きな喜びの記念の日が「公現日」です。明らかになっただけでなく、この世の隅々にまで、あまねく主の栄光が輝き始めた恵みの記念の日でもあります。
イエス様がお生まれになる前、ユダヤ民族は私たちの神さまである天の父・創造主を「自分たちの民族の神さま」、もう少し言ってしまうと「自分たちの民族だけの神さま」と考えていました。確かに、神さまはユダヤ民族をご自分の宝の民として選ばれました。出エジプト記に記されているように、ユダヤ民族はエジプトで奴隷として酷使されていて、自分たちの国土を持てない小さな民で、神さまはこの民に格別の恩寵を賜いて深く憐れまれました。
ただ、神さまはユダヤ民族だけの神さまではありません。神さまは天地を創造し、ユダヤ民族だけでなく 私たち全人類を創られました。その真理が、イエス様によって明らかにされたのです。イエス様は、ユダヤ人だけではなく異邦人 ― ユダヤ人ではない人々 ― にも、天の父を教え、伝え、異邦人も癒されました。イエス様がお生まれになった時にも、馬小屋でマリアの胸に抱かれた幼子イエス様をユダヤ人でない者たちが伏し拝み、最初の礼拝をささげました。
今日の聖書箇所には、その最初の礼拝・占星術の学者たちの礼拝が語られています。御言葉に添って、ご一緒に今日の聖書箇所が語る出来事を思い巡らしてまいりましょう。
占星術の学者たちは、遠い東の国にいながら、救い主を強く、強く尋ね求める心を与えられました。今日の2節に、このように記されています。彼らは長く旅を続け、ユダヤの中心エルサレムへたどりついて、こう尋ねました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」
彼らは、ユダヤ人の王を捜し求めていました。東の国から砂漠を越えて、何日も何日も苦しい旅を続けるほどに、その捜し求める思いは痛切でした。なぜなら、学者たちは深刻な課題を抱えていたからです。その課題は、新しくお生まれになったユダヤ人の王によってこそ、またそのユダヤ人の王によってのみ解決されると 彼らには分かっていました。彼らが生涯の専門研究分野としていた占星術が、それを彼らに示したのです。
いにしえの時代、洋の東西を問わず、占星術の学者は最高の知識人でした。「占い」という言葉が用いられていますが、彼らの その「占い」はおまじないではなく、科学的な根拠と統計的な経験値に基づく学識でした。彼らは、彼らの前の代の占星術の学者たちから引き継いだ知識やデータをもとに、星の動き・天体の動きを観測して、天候を予想し、その年の自然災害やそれに伴っての疫病の流行などを人々に知らせていたのです。現代の気象予報士や、地震の研究者に近い人々と言っても良いでしょう。
占星術の学者たちは、星の運行を観測して得たその年の、その地方の気象予報を王に伝え、王はそれによって自分が統治する国の農作物の不作や干ばつ、自然災害への備えをすることができました。
王が本当に国民のためを思う「真の王」ならば、国民を守るために食糧を備蓄し、嵐や突風の前に何らかの手立てを施すことができたのです。このように、占星術の学者たちの能力と知識によって、また王が真実に人々を思う心を持っていたならば、社会は無事に守られました。
しかし、そうできないことの方が多かったかもしれません。まず、学者たちの予想・予報がはずれることがあったでしょう。飢えや水害に苦しむ同胞を見て、学者たちは自分たちの力の無さ、ひいては人間の力には限界があることを思い知らされていたのではないでしょうか。
また、せっかく学者たちが観測の結果を王に知らせても、王が無能で人々を守る方法を考えることができなかったら、人々は助かりません。
無能ではなく、王が、自分の治める国の人々のことを思いやらず、自分勝手で自己中心的な「偽りの王」だったら、やはり、人々は助かりません。今日の聖書箇所には、その「偽りの王」として、ヘロデのことが伝えられています。彼が何を言い、何をしたかも記されています。
ヘロデは真の王がお生まれになったと聞いて、自分の王の位が後にその幼子に脅かされると考え、学者たちに幼子の居場所を教えるようにと言いました。彼は、自分もその幼子を拝みたいからと嘘をつきました。その幼子・イエス様の居場所が分かったら、命を奪おうと考えていたのです。
学者たちは、まず、自分たち自身について人間の限界を知らされました。また、人々が安心して暮らせる良い社会を心から願って、人々のために我が身を削る思いをする真の王が、この世にはきわめて少ない ― 厳密には、いないのかもしれないことも、知らされました。指導的な立場、いわゆる人の上に立つ者になればなるほど、人間の醜さがあらわになると学者たちは思ったかもしれません。彼らは、ヘロデのたくらみにも、もしかすると薄々 気付いていたかもしれません。この王も「偽りの王」だと感じたからこそ、学者たちはさらに、人間を超える方・救い主を心の底から捜し求めたのです。
そのような思いを抱いてヘロデの宮殿を出た彼らを、星が導きました。
今日の聖書箇所9節には、このように記されています。「東方で見た星が先立って進み」。学者たちはその星を追って、ひたすら砂漠を進みました。
神さまは、こうして彼らの望みを叶えてくださいました。今日の御言葉にはこのように記されています。「(星は)幼子のいる場所の上に止まった。」(マタイ福音書2:9)
旧約聖書に「哀歌」という書があります。その3章25節は、こう告げています。「主に望みをおき尋ね求める魂に 主は幸いをお与えになる。」(P1290)学者たちは、この哀歌の御言葉どおりに、大きな喜びと幸いをいただきました。今日の聖書箇所 マタイ福音書2章10節はこう語ります。「学者たちは、その星を見て喜びにあふれた。」
学者たちが家に入ると、そこには幼子イエス様が母マリアと共におられました。学者たちは、その幼子をひれ伏して拝み、ささげものをしました。
ユダヤの礼拝と決定的に違う、イエス様を主と仰ぐ私たちの礼拝の最初の形がここにあります。ユダヤの礼拝では、神殿の奥・至聖所には、祭司しか入ることができません。ささげものをするにしても、祭司に託して、自分では直接ささげることができません。一転して、イエス様は私たちと同じ人間の体を持ち、見える姿で親しく私たちに臨んでくださいます。学者たちは、ユダヤの礼拝では祭司に託して献げるささげものを、こうして直接、イエス様にささげることができたのです。
学者たちは、心にあふれる喜びを、ささげもので表しました。11節の後半の御言葉は、こう語ります。「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」ここで、学者たちがささげた宝は、占星術により星の運行を調べ、人を癒やすのに必要な、たいへん卑俗な言葉を用いれば占星術の学者たちにとってなくてはならない「商売道具」だった黄金・乳香・没薬でした。彼らは、これまでの自分たちが「絶対に必要な物」と思っていた物をイエス様にささげました。それらよりも、イエス様に出会った喜びと感謝の方がずっと大切だと、自分たちのすべてを献げたのです。
黄金は王のしるし、乳香は預言者・祭司のしるし、そして没薬は、当時のシリア地方で死者の埋葬に用いられ、遺体をミイラにする防腐剤でした。この没薬は、イエス様が後に十字架で死なれることを表しています。
イエス様は、自分の罪のために滅びなければならない私たちを救うために、まったく罪のない方であるにも関わらず、私たちのために命を捨ててくださいました。そのようにご自分の命に代えて、私たちに決して滅びない永遠の命を与える約束を、三日後のご復活で示されました。
その恵みを思う時、私たちはどれほど自分にとってたいせつなものをささげても到底 不足で、いただいている恵みが有り余るほどの恩寵であると知らされます。
しかし、私たちにできるせいいっぱいの献げ物 ー富にしても、行動で献げる力の奉仕にしても、祈りの奉仕をも、 主は喜んで受けとめてくださいます。受けとめて清め、神さまを神さまとして仰ぐ喜びと幸いで満たしてくださいます。
今日の御言葉は最後に、学者たちが夢のお告げにより、来た道とは別の道を通って帰って行ったことを伝えています。これは、偽りの王・ヘロデにイエス様の居場所を知らせないためでした。
もうひとつ、彼らの行動は大切な真理を示しています。救い主と出会った人は、これまでと別の生き方をするようになります。礼拝を通して新しい生き方を与えられるのは、実に大きな、礼拝でしか私たちが経験することのできない恵みです。
今日の聖書箇所は最初の礼拝を私たちに語っていますが、それはそのまま、私たちが今日 主の日ごとにささげる礼拝の心そのものです。私たちは主に招かれて、主を尋ね求めて礼拝に集います。礼拝の中で、イエス様は私たちの心に宿り、大きな喜びと明日からの一週間を新しく生きる力を与えてくださいます。また、私たちはその喜びへの感謝を、主への讃美を歌い、ささげものをすることで表します。
この新しい主の年2025年も、私たち薬円台教会は、そのように主の日ごとに礼拝をささげて進み行きましょう。礼拝を魂の中心・生活の中心として、この一年、心を合わせて主に従い、希望を抱いて歩んでまいりましょう。
2024年12月29日
説教題:この身と体に宿られる主
聖 書:サムエル記上2章4~10節、ルカによる福音書1章39~56節
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」
(ルカによる福音書1:47-49)
今日は、イエス様のご降誕を巡る出来事としては順番が前後してしまいますが、イエス様の受胎を告知されたマリアについて述べられている聖句をいただいています。
受胎のお告げを受けたマリアは、天使から教えられた親戚のエリサベトに会いに行きました。エリサベトのおなかの中で、後にイエス様の先触れをする洗礼者ヨハネがすくすくと育っていました。エリサベトの胎内のヨハネが、マリアの胎内に宿られたイエス様に会って喜び踊ったことが、今日の聖書箇所に語られています。この恵みの出来事に深く感謝して、マリアは主を讃える祈りをささげました。
イエス様がお生まれになる前のこの出来事から、私たちは三つの恵みをいただきます。ひとつは、神さまの愛、その深い慈しみに分け隔てがなく、世の片隅に追いやられている弱い立場の者へもあふれるほどにそそがれるという、マリアとエリサベトの二人とも経験した祝福です。ふたつめとして、この世で強い者・弱い者を決める基準となるこの世の力は、神さまの御前では意味を失うという事実です。三つ目は、マリアとエリサベトが心を合わせて、あまねく世を照らす愛と、真実の正義の力を示してくださる神さまを讃美したように、私たちに与えられている共に主を仰ぐ喜びです。三つの恵みを、今日の御言葉から順番に聴いてまいりましょう。
今日の聖句は「そのころ」という言葉で始まります。「そのころ」という単語は、ある程度の長さのある時間をさしますが、実際に聖書のもとの言葉で用いられている単語は「今」「この時」をさします。「さて」と訳してもよいかもしれません。マリアは天使ガブリエルに神さまの御子イエス様が宿っていることを知らされました。その直後に、マリアが「さて!」「今だ!」との思いから起こした行動を、今日の聖書箇所は語っているのです。聖句にはこう記されています。「マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。」(ルカ福音書1:39-40)
御子が自らの胎内に宿られたことを、マリアは実に従順に「お言葉どおり、この身に成りますように」と受けとめました。その姿から、私たちはついマリアはおとなしくおしとやかで、ほとんど自己主張をせず、自分からは行動しようとしない少女というイメージを抱いてしまいます。しかし、今日の聖句の冒頭の単語一つが示すように、マリアはすばやく心を決め、それをすぐ行動に移す強さを持っていました。もちろん、この行動力と強さは、神さまに導かれてのことだったでしょう。
マリアは、天使を通して神さまから親戚のエリサベトも、神さまの御力によって、高齢であるにも関わらず奇跡的に身ごもっていることを知らされました。奇跡をいただいた者同士・神さまの不思議な恵みに与った者同士が出会い、祈り合い、心を合わせて主を讃えて励まし合うように導かれていると、マリアは思いました。そして すぐさま、その導きのとおりに行動したのです。
マリアが暮らしていたガリラヤのナザレから、ユダの町・エルサレムまでは直線距離で100キロメートル、歩ける道だと140キロメートルほどの道のりがあります。途中の地形は起伏が多く、まさに山里を超えて4、5日かかる旅でした。
婚約者ヨセフは、夢のお告げによってイエス様の受胎を知らされてマリアを受け入れ、世間の目からマリアを守る静かな強さを神さまから与えられました。その一方で、マリアは行動する強さを与えられたと言ってよいでしょう。
旧約聖書のヨシュア記の、この聖句が思い出されます。「心を強くして、勇気を出しなさい。」 ― 私たちが用いている新共同訳聖書では「強く、雄々しくあれ。」(ヨシュア記1:6)と訳されています。モーセの後継者として立てられたヨシュアが約束の地カナンに入り、先住民族のカナン人との戦いが避けられない時に、神さまは彼をこの御言葉で力づけました。「(あなたの主である)わたしはモーセと共にいたように、あなた(ヨシュア)と共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。」(ヨシュア記1:5b-6)戦う戦士・兵を率いる指導的立場にある将軍たちへの御言葉ですが、神さまがその励ましを分け隔てなく、私たち人間すべてに与えてくださったことは、今日の旧約聖書の御言葉からも読み取れます。
旧約聖書サムエル記上2章4節から10節の聖句は、その当時の社会で、夫を亡くした未亡人・やもめの次に社会的立場の弱かったと思われる子どもをなかなか授かることのできない女性ハンナが、神さまからの恵みをいただいてささげた讃美と感謝の祈りです。
ハンナのように子どもを産めない女性は、当時、ごくつぶしのように思われて蔑まれていました。夫エルカナにどれほど深く愛されていても、その愛は残念ながらハンナを幸せにはできなかったのです。夫との間に子どもが欲しいと強く願ったハンナの祈りを聞き上げてくださり、子を授け、ハンナを幸福にして、強い立場へと引き上げてくださったのは神さまの愛でした。
神さまの愛の深さを知ったハンナは、この世の弱さ・強さをくつがえして小さく弱い者に目を留めてくださる神さまをたたえました。それと同時に、この世での強い立場・弱い立場を決める人の力の空しさに気付きました。ハンナは、こう祈りの中で告げています。「人は力によって勝つのではない。」(サムエル記上2:9b)
ハンナがここで言う「勝つ」とは、神さまの勝利すなわち悪に打ち勝つ主の正義です。この世の勝ち負けは、神さまの正義を表していないことの方が多いのではないでしょうか。むしろ、言葉で理論的に言い負かされて、暴力を振るって結果的に正論を語る人の口を封じることがたびたび起こります。
この世の勝負事で最も規模が大きいのが国家間の、または世界大戦規模の戦争です。戦争に勝ったからと言って、その戦勝国の主張が正しいわけではありません。多くの人々を苦しめ、傷つけ、命を奪い、その結果と申しましょうか、その挙句に勝ったわけですから、正しいはずがないのです。それでも、私たちの世界の歴史は勝利した方の主張が通ることで進んでいます。
それは神さまのご計画のうちにある御心かもしれず、もしかすると不完全なこの世に潜む悪の力の働きによるのかもしれません。終わりの日まで、それは明らかにされません。しかし、神さまの愛の恵みに与り、こんなに弱い自分でも神さまに目を留めていただき、「あなたは善い」と承認され、強められた信仰の体験を通して神さまとの魂の出会いをいただいた者は、この世の勝ち負けを冷静な目でみつめる知恵を授かります。御心なのか・悪の力すなわち罪の働きなのかを祈って、神さまに問いかけ、導きをいただく恵みに与っています。自分が巻き込まれている事態がたとえ罪の働きによるものだったとしても、イエス様の十字架の出来事によってすでに否定され除去されていると信じて、今を忍耐する勇気と未来への希望を与えられるのです。ハンナはサムエルを、エリサベトはヨハネを、そしてマリアはイエス様を身に宿して、御心を尋ね求める聖霊に満たされました。
実は、私たちも同じです。実際に目で見ることのできる生命体を身に宿したわけではありませんが、私たちは皆、洗礼を受けた時に聖霊を受けています。父・子・聖霊の御名によって洗礼を受け、この心と身と魂を聖なる宮としてイエス様に宿っていただいています。マリアが神さまを讃えるために、同じく祝福を受けたエリサベトを訪ねて二人で喜び合ったように、私たち教会もいつも心を合わせています。
教会として、群れとしてひとつとされて主を讃える時、一人の喜びは兄弟姉妹の喜びと重なって何十倍にも、何百倍にも大きくなります。今、この会堂においでになれない方々とも、聖霊を通して心をひとつにされています。世界中のキリストの教会と、私たちは心を合わせて父・子・聖霊の神さまをたたえます。
主にあるかぎり、私たちは決して一人ぼっちになることはありません。必ず主に寄り添われ、兄弟姉妹と、キリストの友と共に生きるのです。私たち一人一人の信仰は、この信仰の交わりのなかで養われて大きく深く育てられます。
今日、ご一緒に恵みに与った聖書箇所の「マリアの賛歌」はラテン語で「マグニフィカト」と呼ばれています。Magnifyという英単語と同じ語源を持ち、「大きくされる」ことを意味します。祈りによって、この世が、主のご栄光の輝きの大きさをより広く知ることができるようにという願いがこめられています。また、共に主を仰ぎ、祈りを合わせることで、私たち信仰共同体はますます大きく養われます。
2024年最後の主日のこの礼拝で、この年も私たちを守り通してくださった主に感謝して、マリアのマグニフィカトの祈りに心を合わせましょう。今日から始まる新しい週の歩みも、主の慈しみ深い養いを信じ、心にイエス様を宿して進み行きましょう。
2024年12月22日
説教題:果たされた約束
聖 書:イザヤ書57章16~19節、ルカによる福音書2章1~21節
天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
(ルカによる福音書2:10~11)
皆様とご一緒に、今日、こうしてイエス様のご降誕を記念するクリスマス礼拝に与る幸いに、感謝をささげます。
今日の新約聖書の聖書箇所、ルカによる福音書2章1〜21節は、まさにイエス様ご降誕の出来事を語っています。イエス様は、この世の片隅・馬小屋に降誕されました。
ご降誕から遡ること700年以上 ― そんな昔から、今日の旧約聖書のイザヤ書にあるように 救い主メシアが世においでくださることは預言されていました。約束されていたのです。その約束が、イエス様のお生まれによってついに果たされました。
神さまは、必ず私たち人間との約束を守ってくださいます。その約束が、大切なたった一人のお子様・イエス様を私たちに与えてくださるという究極の形ではっきりと示されました。約束のしるしこそ、今日の新約聖書の御言葉にあるように、布にくるまれて飼い葉桶に寝かされた幼子イエス様です。ユダヤ民族が幼い頃から暗唱して、待ち焦がれ、待望していた救い主ご降誕のその預言は、こうして成就しました。
ユダヤの人々は、このようなかたちで救い主メシアが世に来られるとは 思ってもいませんでした。周囲の大国に代わる代わる支配されていたユダヤの国は、独立革命を起こし、支配する他民族を蹴散らしてくれる救い主メシアと思い描いていたのです。メシアは、王家の血筋か、ユダヤ社会のエリート層を出自とすると 皆が当たり前のように思っていました。政治的なリーダーシップと、軍事的な知識と鍛錬は この世的な意味で「選ばれた社会階級」に生まれなければ養われず、身に着かないからです。ところが、真実の救い主は、そのような特権階級にはお生まれになりませんでした。むしろ、底辺と言ってよいところにお生まれになりました。
神さまは、私たちの思いを超えるこのみわざを実現されました。また、このみわざを私たち人間すべてに伝えるために、証し人・証人として、ある人々を選ばれました。その人々とは、今日の聖書箇所が語る「羊飼い」たちです。
羊飼いは、ユダヤ社会で必要不可欠でした。ユダヤの民にとって大事な財産である羊を預かり、その群れを、体を張って野獣から守る役割です。そのために、勇気と知恵、優れた身体能力と精神力が求められました。なくてはならない務めであり、高い資質と能力を求められていながら羊飼いは羊を良い糧と水で養うために町の文化的な営みから離れた野原で暮らし、人々からは忘れられがちでした。野宿を余儀なくされて夜通し働き、多くの労力を費やしているのに それに見合わない待遇しか与えられず 社会的地位は決して高いとは言えませんでした。羊飼いは、ユダヤ社会の「縁の下の力持ち」のような存在だったと考えて良いでしょう。神さまは、世で苦労していた「縁の下の力持ち」、隠れた英雄である羊飼いたちを選んで、救い主のご降誕を知らせました。
これが、今日の聖書箇所 ルカによる福音書2章8節から9節の出来事です。羊飼いたちが寒く暗い野原でオオカミやキツネといった野獣から羊を守って番をしていると、突然、天使が現れ 主の栄光があたりを実に不思議な光で照らし出しました。その光の、この世のものではない眩さと美しさに、羊飼いたちは恐れおののきました。私たちは自らの理解を超えるもの、経験したことのない事柄を本能的に恐怖します。危害を加えられるかもしれないからです。おののく羊飼いたちに、天使はこう神さまの御言葉を告げました。
「恐れるな。」怖がらなくてよい理由を、天使はすぐに続けてこう言いました。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」(ルカ福音書2:10)
天使は、この上なく喜ばしい「良いしらせ」を告げるために来たのです。天使はこう言いました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ福音書2:11)さらに、神さまは天使を通して、この約束には確かに目に見ることのできる、人間の次元で感知し、理解できる証拠・「しるし」があると保証してくださいました。
それが、説教の始めにお伝えした事柄です。ルカによる福音書2章12節をお読みします。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
生まれたばかりの赤ちゃんが、飼い葉桶に寝かされているとは、日常生活ではまず起こらないことです。神さまからのしるしさえ、人間の理解を超えることでした。恐れることはないと言われながらも、さらに驚く羊飼いたちが仰ぎ見る空に、天使の大軍が加わり、このように神さまを讃美しました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」ここに、神さまがこの世に示された価値観の大転換がありました。真の平和が示されたのです。
戦いよりも平和が良いと、私たちは当たり前のように感じています。ただ、ここで私たちは思い起こさなければなりません。この世は、自分の力で戦って欲しいものを勝ち取ることに大きな価値を置いています。自分の主張する正義を貫くために、私たちは時に、腕力とまではならずとも、言葉や主張の暴力を用いてしまいます。また、たいへん残念なことに、今も世界で複数の戦争が起こっています。
この世で、私たちはより良い生活を送るために、また時には生き延びるために、望みのものを勝ち取るために、様々な競争に勝ち抜かなければなりません。真実に平和をまっとうしようとしたら、競争相手に勝ちを譲ることになります。譲っても美徳と思われず、単なるお人よしだと思われてしまうこともあります。
しかし、イエス様は自らを譲って犠牲になさり、真実の平和をまっとうすることの尊さを 私たちに示してくださいました。そのために、十字架にかかってくださいました。
イエス様の自己犠牲は、神さまによって世の始まる前から計画され、イエス様のお生まれをめぐって、実はすでに為されていました。マリアとヨセフが宿屋に泊まれず、イエス様が馬小屋でお生まれになったのは、他の誰かが宿に泊まっていたからです。歴史のどの断面も、金太郎飴のように競争社会のこの世にあって、神さまはイエス様をあえて 世の片隅に追いやられるご計画を立てられました。自分は世の片隅に退いて、他の誰かに良い場所を譲る自己犠牲の愛が、ここにあります。
後に、イエス様は十字架に架かられ、私たちに代わって罪を贖われ、御身を犠牲にして私たちを救ってくださいました。
この世の縁の下の力持ち、世の片隅の隠れた英雄である羊飼いたちは、こうして世が知らなかった新しい価値観・神さまの自己犠牲の愛・無償の愛を知らされたのです。
羊飼いたちは、その新しい価値観・平和への道を示すイエス様、「飼い葉桶の中で眠っている乳飲み子」を探し出すために、急いで走り出しました。そして、探し当てました。
イエス様がお生まれになった夜の出来事は、最初の礼拝と呼ばれます。この最初の礼拝以来、私たちは主の日ごとに、救われたしるしを探し当てるようにと招かれて、礼拝に集います。主の日の礼拝で、私たちは御言葉を通してイエス様との出会いをいただきます。また、今日はこの後の聖餐式で、私たちのために裂かれたイエス様の御体なるパンと流された血潮なる杯に与ります。
イエス様が世の片隅に退いて、私たちに命を譲ってくださった大きな恵みを、そうして私たちは思い起こします。互いに譲り合う愛が、主にある真の平和を開くのです。神さまは私たちに、世の終わりに成る真の平和も約束してくださいました。その約束も果たされると信じて、希望を抱き、このクリスマスから、心を新しくされて、さらに平和への祈りを深めましょう。
2024年12月15日
説教題:主の御前に清く正しく
聖 書:マラキ書3章19~24節、ルカによる福音書1章67~80節
主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。
(ルカによる福音書1:72~77)
クリスマスを待ちながら過ごす待降節・アドヴェント第三主日を迎えました。アドヴェントの最初の主日、私たちは神さまの御使い・主の天使がヨセフの夢に現れたことを聴きました。次のアドヴェント第二主日には、主の天使がマリアに救い主イエス様を身ごもっていることを知らせる御言葉をいただきました。
ヨセフとマリアの身に起こったことは、毎年、教会で待降節に語られています。皆さんの中にも、幼い頃から繰り返し、繰り返し、所々を暗唱できるほどに聴いて来られた方が少なくないと思います。マリアとヨセフと聞くと、クランツのろうそくを消した後の匂いが鼻の奥でするような気がする…ページェントで着た衣装の肌触りや色彩の記憶がよみがえる…そんな方もおいでかもしれません。
マリアが救い主イエス様を身ごもったために、マリアとヨセフの二人は人間の目には実に苦しい立場に置かれました。にもかかわらず、神さまに守られて二人は強く耐え抜き、私たちの救い主イエス様は馬小屋で誕生されました。それは、疑う余地もなくクリスマスの喜びです。
ところが、私は どうしたわけか、この年のアドヴェント第一主日と第二主日の説教準備の間、いつもの年のような喜びを感じられずにいました。私に気持ちが落ち込むような個人的な出来事があったわけでは、決してありません。ただ、イエス様を実に身近に我が子として、家族として迎えることになって、マリアとヨセフがどれほどたいへんだったかということにばかり気持ちが向いてしまったのです。14歳だったと言われる少女マリア、誠実そのものだったのではないかと思われるその婚約者ヨセフに、神さまはどうしてこんな重荷を負わせるのだろうと思えて仕方ありませんでした。憐れみと慈しみに溢れる神さまが、どうしてマリアとヨセフにこんなことをされたのか…私には二人が可哀想に思えてならなかったのです。
私のこの感情の動きは、決して信仰的ではありません。自分に与えられている信仰が弱まっているから起こるのだと、私は怖くなりました。感情の動きは、こんなに自分でコントロールできないものなのだと、あらためて感じるほどでした。
このように自己抑制のきかない自らの感情に流されて、聖書が告げている以上のことを御言葉に読み込もうとするのは、神さまへの背きであり、罪そのものです。私たちは聖書の御言葉は神さまの御心を聖霊によって読み取らせていただく・読み「出す」ように導かれますが、そこに自分の勝手な思いを入れて読む ― つまりは読み「込む」ことはゆるされないからです。
御言葉を読む者の信仰の在り方や状態に関わらず、確かな事実が、当然ですが聖書に記されています。聖書は、イエス様のお誕生が、マリアとヨセフ、ご降誕に関わる人々、つまりこの世を、あらゆる意味で激しく揺さぶる一大事件だった事実を告げています。
その一大事件を記念する降誕日を待つアドヴェントは、ラテン語で「やって来る」「到来」という意味を持ちます。クリスマスが、まさに「やって来る」から、待降節をアドヴェントと呼んで過ごすのです。
音のよく似た言葉に、アドヴェンチャーという英語の単語があります。日本語では「冒険」と訳して、スリルと緊迫感を、勇気を出して積極的に楽しむことをさします。
アドヴェントとアドヴェンチャー、どんな関係があるのだろうと語源辞書を調べたところ、アドヴェンチャーがアドヴェントを語源として、フランス語系の別系統の単語であるアバンチュールの意味が加えられた言葉だと知らされました。さらに、アドヴェンチャーを「冒険」と訳すのは、実はいささか楽天的だということにも気づかされました。
アドヴェンチャーは、「自分ではどうにもできない事柄が、向こうから自分を目がけてやって来る」「危険が迫って来る」というニュアンスの言葉だそうです。もしも、自分が弱気になっている時に「自分ではどうにもできない事柄」が起こったら、とてつもない災難・苦難です。一方、強い心で迎えられれば、これは「冒険」になります。
マリアとヨセフ、イエス様のご降誕に関わる人すべて ― それは つまり聖書に名前のある人だけでなく私たち人間すべて ― にとって、アドヴェントは、アドヴェンチャーです。見えない神さまが、見える人として世にお生まれくださる大いなるみわざは、私たち人間には、特に信仰を弱められている時の人間には「恐ろしい神さま」を感じさせてしまうのです。
今日の主日礼拝に、私たちはザカリアの預言の言葉を与えられています。ザカリアは洗礼者ヨハネの父です。アドヴェント、神さまのアドヴェンチャーに巻き込まれた人間の一人です。
今日の聖書箇所の少し前から、聖書の御言葉を読みながら、知らされている事柄をお伝えしたく思います。ザカリアは祭司で、妻エリサベトと共に「神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがなかった」(ルカによる福音書1:6)人でした。しかし、残念なことに「彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとって」(ルカによる福音書1:7)いました。ザカリア夫婦は子どもの誕生を痛切に願っていたのに、授からなかったのです。
ザカリアは、ある日 ― イエス様のご降誕の18カ月前・1年半前の日です ― 実に重要な祭司の役割を果たすことになりました。祭司として、一生に一度あるかなしかの栄誉ある役割で、神殿の至聖所に入って香を焚く務めでした。この役割の祭司の他には、人間はだれ一人として入れない至聖所でザカリアが務めをしていたところ、主の天使が現れました。
天使はザカリアに言いました。「ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。…(彼は)主の前に偉大な人になり…既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。」(ルカによる福音書1:13b、15b~16)
ザカリアは恵みの知らせを信じられず、天使にその知らせを裏付ける証拠を、こう求めました。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」(ルカによる福音書1:18b)ザカリアは神さまの恵みを喜んで受け入れられず、逆に神さまを試してしまったのです。
彼は、このために神さまに裁かれました。あなたに喜びを知らせようと神さまから遣わされたのに、と天使は言い、さらに こうザカリアに告げました。「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」(ルカによる福音書1:20)
天使に突然遭って、驚きと恐れという自分の感情を抑制できなかったとは言え、ザカリアは自らの勝手な思いから神さまを試してしまったのです。その傲慢さのために、ザカリアは声を奪われました。
ザカリアは祭司ですから、声を使えず、話せなくなると礼拝で律法の言葉を読めません。神さまに仕えるために生かされている者が、お仕えできなくなってしまったのです。ルカによる福音書1章62節を読むと、人々がザカリアとの意思疎通を手振りで行っていると記されているので、耳も聞こえなくなったと思われます。
天使が告げたとおりに、月が満ちてエリサベトに男の子が生まれました。ザカリアは父親としてその子に名を付ける時に、父の名や近親者の名を生まれた子につけるというこれまでの習わしを覆し、人々が驚く新しいことを行いました。天使を通して神さまに言われたとおりに、神さまに従って、その子の名をヨハネとしたのです。
聖書はその時の出来事をこう記しています。ルカによる福音書1章64節です。お読みします。「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。」その賛美が、今日 私たちがこの礼拝にいただいている御言葉です。ザカリアは高らかに告げました。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。」(ルカによる福音書1:68)
それは預言の言葉でもありました。ザカリアが、再び声を出し、言葉を話すことができるようになった時、語れた最初の言葉が、神さまから与えられた御言葉だとは、何という幸いでしょう。
信仰に限らず、一般的なこととしても、私たちはよく、発言する前に言いたいことを一度考えてから言うようにと教えられます。自分勝手で愚かしいことを言い放ち、誰かを傷つけ、結果的には自分も痛い目に遭って自らを貶める、いわゆる失敗発言・失言をするからです。
神さまから言葉を与えられて、それだけを発言するのであれば、どんなに安心なことでしょう。実際に、ルカによる福音書12章11節から12節の御言葉を通して、イエス様は弟子たちにおっしゃってくださいます。
「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」迫害に遭うかもしれない弟子たちに心備えをくださった言葉ですが、今を生きる私たちを力づける御言葉でもあると、今年の初夏頃の主日礼拝でこの箇所をいただいた時に、共に励ましを賜りました。
繰り返しになりますが、今日の聖書箇所で、ザカリアは「口がきけるようになった、わー、何と嬉しい」といった自分の思いではなく、聖霊に満たされ、導かれて神さまからの言葉を語りました。神さまがザカリアに与えてくださった言葉は、ザカリアが神さまから預かった言葉、すなわち預言でした。生まれたばかり、名付けたばかりの我が子ヨハネ、成長して、後に洗礼者ヨハネとなる息子に神さまから与えられた使命が、その預言で語られたのです。
神さまはユダヤの先祖を憐れんでくださいました。「憐れみ」とは「共においでくださる」との意味です。日本語で「憐れみ」というとたいへん高ぶった、いわゆる‟上から目線”の言葉になります。聖書で「主の憐れみ」という言葉が出てきたら、いったん日常的に用いている日本語の「憐れみ」のニュアンスから離れて、神さまが自分と横並びになってくださる、同じところにおいでくださるという言葉に、ご自身の中で言い換えるとよろしいと思います。
神さまは、ユダヤの先祖に祝福を賜ると約束してくださり、その約束・契約を決して忘れずにいてくださいました。ユダヤの先祖との契約を通して、私たちを決して見捨てない、むしろ必ず共においでくださるとの約束です。神さまを信じる限り、74~75節でザカリアが語るように、私たちはあらゆる「敵の手から救われ、恐れなく」、「生涯、主の御前に清く正しく」主にお仕えする幸いと安らぎを賜ります。
神さまが共においでくださるインマヌエルの恵みを、私たちにはっきりとわかるようにお示しくださるために、イエス様は私たちと同じ人間となってお生まれくださいました。見えないから信じられない ― それが私たち人間の限界であり、弱さであり、不完全さです。聖書は、それを罪と呼びます。
神さまであるイエス様は、この限界を持ち、弱く、不完全な人間の体を持ってこの世においでくださいました。これは極端な例をあげると、こう言えましょう。
皆さんのお子さんなり、お孫さんなりが、粘土をこねて泥人形を作ったとしましょう。そのお子さんは、泥人形の出来栄えに不満そうでした。そこで、皆さんがその子に、泥人形が可哀想だから、あなたが代わりに泥人形になってあげたら?と勧めたら、お子さんはどんな顔をするでしょう。親御さんにそんなむごいことを言われてぎょっとして固まってしまうか、泣き出してしまうか、または怒って、不出来な泥人形を潰してしまうのではないでしょうか。
ところが、神さまは潰せばただの粘土の塊にすぎない泥人形になってくださいました。塵から造られた私たち人間に、なってくださったのです。私たちを造ってくださった方が、造られた者になってくださるという次元を超える驚くような逆転の出来事が、ここに起こっています。神さまによって、起こされています。その一大事件を記念するイエス様のご降誕を待つのが、今のアドヴェント、アドヴェンチャーの時です。
私たちがどう感じようと、どう思おうと、それを喜びと受けとめようと、先週までの私のようになぜか弱腰で迎えようと、その出来事・「自分ではどうにもできない事柄が、向こうから自分を目がけてやって来る」、「人間にはどうすることもできない神さまのみわざ・恵みが、この世目がけて一直線に やって来る」という事実は変わりません。神さまのご計画は、成し遂げられます。その凄まじい出来事のために、恵みを恵みと知ることのできない弱腰で不信仰な者を整えてくれる言葉が必要です。
恵みを受けた時には それが恵みとわからず、その勢いに砕けてしまっても、出来事の輪郭だけでも言葉で聞いていれば、後でそうと理解して、立ち直ることができます。
とんちんかんな姿勢で恵みの出来事に向き合おうとしていても、心を広やかにして、感情の上がり下がりを静め、山や谷を平らにするようにと備え方を言葉で示してくれる人がいれば、受けとめ方は違って来るでしょう。
ザカリアの子、洗礼者ヨハネは荒れ野で、イエス様が救い主がすでにおいでになっていることを叫ぶ声となりました。叫んだのは、この言葉です。お読みします。「主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを 肉なる者は共に見る。」(イザヤ書40:3b~5)
旧約聖書イザヤ書40章3節から5節、今日の招きの言葉です。イザヤに託されたこの神さまの約束・預言は、洗礼者ヨハネによって新約聖書の時代、その幕開けに宣べ伝えられました。(マタイ福音書3:1~12、マルコ福音書1:1~8、ルカ福音書3:1~9、15~17、ヨハネ福音書1:19~28)
旧約聖書と新約聖書の間には、空白のページがあります。皆さんがお持ちの聖書は、そうなっています。どの聖書も、そうです。昨晩、家にある聖書を手当たり次第引っ張り出して、旧約聖書と新約聖書の間がどうなっているか見てみました。日本語の聖書にも、他の言語の聖書にも、全部空白のページがあります。
確かにあるのですが、しかし、この空白のページは、旧約聖書と新約聖書の間の断絶を示すものではありません。私たちを造ってくださった神さまが、造られた者になってくださるという人間の思いをはるかに超える大事件が起こる前に、読む者の心を備えさせるための空白です。ひと呼吸 置くような、空白です。
新約聖書と旧約聖書、二つの聖書があるように思えてしまうために、私たちはついつい、ご自身を顕さない、見えない旧約聖書の神さまは恐ろしいと思ってしまいます。新約聖書でイエス様がおいでになって、ようやく神さまの慈しみが分かるようになった、と感じてしまいます。けっしてそうではありません。旧約聖書と新約聖書は、一冊なのです。
繰り返しますが、神さまは旧約聖書と新約聖書の間にある空白の一ページで、私たちに一大事件への心備えをくださいました。それから、洗礼者ヨハネを用いて、救い主イエス様がすでに世においでくださっていると宣べ伝えさせました。神さまは、こうして、丁寧に私たちを導いて、旧約聖書と新約聖書の間の空白のページに橋を準備して、そこを手を引いて一緒に渡ってくださるのです。
さらに、イエス様ご自身がこうおっしゃるのを、私たちは共に御言葉に聴いてまいりました。マタイによる福音書の講解説教をご一緒に聴いた時です。お読みします。「わたしが来たのは律法や預言者 ― これはわたしたちが持っている「旧約聖書」をさします ― を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ福音書5:17)
新約聖書が語るイエス様の御言葉と地上での愛の御業、そして十字架の出来事とご復活は、旧約聖書の完成のためでした。このように、聖書は、一貫して一人の神さま、三位一体の一人の神さまの言葉なのです。
重ねて、お伝えします。荒れ野で、ヨハネは主の栄光を共に見るようにと人々に宣べ伝えました。主のご栄光とは、私たちを愛し抜いてくださる神さまの慈しみが 私たちにわかるように輝きわたる、その輝きです。どんな時も、信仰が熱く燃えている時も、揺らいで消えそうな時も、救い主の輝きが変わることはありません。神さまの救いのご計画が、揺らぐことはありません。
自分が弱くなっている時にこそ、神さまの確かさが、私を、私たち一人一人を、支えてくださいます。主は、私たちを決して滅ぼさず、ご自身のものとして救うご計画を決然と進め、大切な御子イエス様を私たちに与えてくださいました。
この主のみわざの恵みに、次の主日、クリスマス礼拝にて、私たちがそろって豊かに与ることができますように。整えられるようにと祈りつつ、心を合わせてクリスマスを待ちましょう。
2024年12月8日
説教題:御心が成りますように
聖 書:イザヤ書9章1~6節、ルカによる福音書1章26~38節
マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
(ルカによる福音書1:38)
アドヴェント第二主日の今日、クランツには二本目のろうそくに火が灯されました。礼拝には、少女マリアが、イエス様の母となることを天使に告げられた聖書箇所が与えられています。皆さんが教会生活を始めてから、毎年、この季節になると礼拝で聴いて来られた受胎告知の御言葉です。毎年聴いて、よく知っているにもかかわらず、厳かな思いと静かな喜びにあらためて満たされ、そして新しい気付きを与えられる箇所です。
先ほど司式者が朗読してくださいましたが、その冒頭の一言で「あれ?」と思った方も少なくないと思います。今日の御言葉は「六か月目に」と語り始めるのです。何から六か月目なのでしょう?そのことから説き明かし始め、今日は御言葉から三つの恵みを皆さんとご一緒にいただきたく思います。
ひとつは、神さまが私たちに御子イエス様を与えるにあたって 備えてくださったこと。ふたつめは、神さまが何でもおできになる全能の方であること。最後の三つめは、その神さまを神さまと仰ぐ信仰をいただいて、すべてをゆだねることのできる幸いです。
さて、冒頭の「六か月目」が何をさすかをお伝えします。イエス様のお生まれ・ご降誕には、イエス様の他にもう一人の男の赤ちゃんの誕生が伴っています。そうです、洗礼者ヨハネの誕生です。
ヨハネの父は祭司ザカリア、ザカリアの妻でありヨハネの母となるのはモーセの兄のアロンの名を持つ家の血筋を引くエリサベトでした。その社会的地位からも、家柄からも、またザカリアとエリサベトの人柄の点からも、人々の尊敬と信頼を集める夫妻でした。
残念なことに、子どもに恵まれないまま、二人とも年老いていました。この夫婦から、皆さんは旧約聖書 創世記のアブラハムとサラの夫婦を思い浮かべておられるかと思います。まさにそのとおりで、アブラハムとサラに息子イサクが与えられたように、ザカリアとエリサベトにも息子ヨハネが与えられました。今日のマリアへの受胎告知の六カ月前に、天の御使いはその恵みをザカリアに告げていたのです。
妻エリサベトのお腹の子・ヨハネは、この時すでに六か月目を迎えていました。ヨハネは大人になってから、イエス様がメシアであることを世に伝える先触れの役割を果たします。ここに、救い主のご降誕への備えの道を天の父は計画してくださっていたのです。
また、ここでもうひとつ、心に留めておきたいことがあります。年老いた女性が身ごもることは、神さまが旧約聖書でなさった大いなる御業・奇跡のひとつです。奇跡は、神さまの恵みのしるしです。
今日の聖書箇所で、突然 天使に「おめでとう」と祝福され、あなたは男の子、それも「いと高き方の子」(ルカ1:32)、「神の子」(ルカ1:35) を産むことになっていると告げられたマリアは、当然のことながらたいへん驚きました。婚約者が決まっている結婚前の身で、そのようなことがあるはずはないと、マリアは天使に必死の抗弁さえ試みました。
そのマリアの不安を和らげるために、天使は確かなしるしがあるとマリアに語りかけました。その天使の言葉を記す聖句をお読みします。36節から37節です。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」
この知らせを聞いて、マリアの心は安らぎました。ヨハネを身ごもったエリサベトは、マリアとは親戚同士でした。身近な人に驚くべき恵みがあったことで、マリアは奇跡を自分とはまったく関係のない事柄には感じなかったのです。神さまは、そのようにお計らいくださり、マリアのために備えを賜りました。
天使に「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている」と言われて、マリアはこう思ったことでしょう。ああ、あのエリサベト伯母さまは年老いておられるけれど、アブラハムの妻サラのように神さまによって男の子を与えられた。年を取った女性はもう子どもを産めないと私たち人間は思ってしまうけれど、神さまはサラにも、サムエルの母ハンナにも、エリサベト伯母さまにも子どもを身ごもらせてくださった。結婚して男の人を知らないと子どもを産めないと私は思ったけれど、神さまはその私の思いを超えて、今、私のうえに働いてくださるのだ。神さまは、何でもおできになる全能の方だ。
一方で、結婚前に、婚約者ヨセフの子どもではない子を身ごもったマリアには、さまざまな試練が降りかかることが容易に考えられました。姦淫を犯したふしだらな女とみなされて、ヨセフから、家族から、だれからも見捨てられ、罪びととして石打の刑で処刑されることも、予測できました。
しかし、天使に告げられた神さまの御力の大きさを思う心・神さまへの信仰が、予想される世の災いへの恐怖をはるかに超えて強く、確かに、マリアの心を満たしたのです。マリアはこの信仰を告白しました。38節の、この言葉です。お読みします。「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。』」「はしため」とは、耳ざわりの悪い言葉ですが、女奴隷という意味です。奴隷は、自分のものを何ひとつ持っていません。体も心も、その未来も、すべて奴隷の主人の持ち物です。
ただ、この「主人」が文字通りに私たちの主・神さまならば、体も心もささげて、未来をゆだねて、こんな安心なことはありません。マリアは『わたしは主のはしためです』 ― 私は神さまを私の主とあがめます、と信仰告白をささげました。
これから待ち受けている試練がどれほど厳しくても、神さま、あなたが私の主なのですから安心してついてゆきます、と言ったのです。その信仰を聞き届けて、天使は去って行きました。
マリアが信じたように、私たちも神さまの全能 ― 神さまには何でもおできになると、知識として知るだけではなく、心と魂で信じたいと思います。
最後に、天使の言葉「神にできないことは何一つない」を今一度思いめぐらして説教を終わりたく思います。「神にできないことは何一つない」― この「何一つない」は、元の聖書の言葉でも強い否定・「決してない」を意味する単語が用いられています。
説教準備をする中で、私は この「決してない」という単語が「最初の言葉」をさすと知って大きく、深く心を動かされました。「神にできないことは何一つない」を、あえて直訳すると「神の最初の言葉に不可能はない」となります。神さまのこの世への最初の言葉は、何だったでしょう ― 神さまがこの世・天地を創造された時におっしゃった第一声は、この言葉でした。「光あれ。」(創世記1:3)
この御言葉により天地創造が始まりました。この世の歴史を紡ぎ始める壮大な時間の流れと、私たち被造物の命の躍動が始まりました。神さまのご計画を告げる最初の言葉なのです。
その最初の御言葉に従って、世は形づくられ、私たちの罪を贖う救いのご計画・救済史が進んでいます。「神の最初の言葉に不可能はない」との天使のお告げに、マリアはこう応えました。今日の聖書箇所の最後の言葉です。お読みします。「お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)
神さまにすべてをお任せし、神さまのご計画が成りますように、御心が成りますように願うことに、私たちの真実の安心があります。この世はそのように造られて、今 在り、マリアも、また私たちそれぞれも、そのご計画のうちに生かされているからです。そのご計画は正しく、真理をすべて表しているから、進む先・未来には神さまのくださる大きな恵み・希望が待っています。
ヨハネ文書が告げるように、神さまの御言葉は光となって、人となって、イエス様となって、私たちのところにおいでくださいました。マリアの祈りに心を合わせ、私たちも神さまの御心が成り、すべてを神さまにゆだねられるようにと祈りましょう。そこにこそ、私たちの真の心の安らぎと、真の幸いがあるからです。
2024年12月1日
説教題:我らと共にいます主
聖 書:イザヤ書7章13~15節、マタイによる福音書1章18節~25節
このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
(マタイによる福音書1:22~23)
アドヴェント第一主日を迎え、クランツの最初のろうそくに火を灯して主を仰ぐ恵みに与っています。今日の礼拝に与えられた聖書箇所の中で、皆さんの心に残るのはどの聖句でしょう?「神は我々と共におられる」 ― 先ほど読まれたイザヤ書7章14節、そしてマタイ福音書1章23節にある、この御言葉ではないでしょうか。
天の父なる神さまは、私たち人間と共においでくださるために、私たちと同じ人間として御子イエス様を世に与えてくださいました。その深い恵みの出来事が、イエス様のお誕生・ご降誕です。
“神さまが共においでくださる”という言葉・表現は、教会の中でたいへんよく用いられます。今日も礼拝前の祈祷で、様々な事情のために礼拝を欠席されている方々、特にご高齢やご病気のために施設で生活をされていて礼拝出席がままならない方々に主が寄り添い、共におられて支えてくださるようにと祈りました。
“神さまが共においでくださる”という恵みに、私たちは何となく、こういうイメージを持っています。見えない神さま ― 聖霊 ― が自分を支え、手を引いて導いてくださる姿を、私たちは心の中に描きます。悲しみの時には、暖かい手を肩に置いて慰めてくださると信じ、その手のぬくもりさえ、感じられるように思います。このように、“共にいます神さま”が、私たちに静かに寄り添い、気付かないくらいそっと手を添えて助けてくださっているというこのイメージは、決して間違ってはいないと私は信じます。
ただ、“私たちと共においでくださる”インマヌエルの神さまは、私たち人間と、静かにそっと寄り添ってくださるよりも、もっと深く激しく関わってくださいます。
人間同士でも、特別な親しさで結ばれている相手からは、心の動きや決断をするうえで、人生の根幹を揺るがされるような大きな影響を受けます。私たちは誰かに愛されること、誰かを愛することで、その信頼と睦まじい交わりによって変えられ、また変わります。人間同士であってもそうなのですから、私たちは神さまから愛されて、本当に大きく、花開くように新しく変ってゆくのです。イエス様のお生まれをめぐって、母となるマリアと、マリアの夫となるヨセフ、また洗礼者ヨハネとその両親にそれが起こりました。
今日は神さまに選ばれた彼ら・彼女らのうち、ヨセフの出来事へと導かれています。
本日の聖書箇所の最初の聖句18節の後半は、こう語ります。お読みします。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」さらりと記してありますが、世俗的に言えば、神さまの選びによって、マリアもヨセフもスキャンダラスな事態に巻き込まれてしまったのです。
マリアは婚約中で、結婚前であるにもかかわらず、ヨセフの子ではない子を身ごもりました。18節には「聖霊によって」と明らかにされていますが、夢を見るまで、ヨセフには何が起こったのか、まったくわかっていませんでした。ヨセフにしてみれば、婚約者マリアに裏切られたとしか思えなかったのです。
ヨセフは血筋としては、メシアが生まれると預言されているダビデの末裔でした。700年以上前、神さまはユダヤの民に、あなたがたを救うメシアを遣わし、そのメシアはダビデの血筋の末に生まれると約束してくださいました。
よもや、その約束がこのような、苦々しい事柄で始まるとはヨセフは夢にも思っていなかったでしょう。婚約者マリアが自分の子ではない子を身ごもっていると知って、ヨセフが受けた心の痛手は、どれほど深いものだったでしょう。なぜマリアは自分を裏切ったのか、どうしてこんなことが起きたのか、立っている地面が揺らぐほどの衝撃を受けたに違いありません。とうてい、このままマリアとの結婚へと進むことはできないと思ったでしょう。
この出来事には、律法に関わる問題もありました。婚約中にも関わらず、婚約者ではない人の子を身ごもった女性は姦淫の罪、十戒の第七の戒めを犯したとみなされます。ですから、マリアが石打の刑に処せられ、死をもって罪を贖わなければならなくなる事態も、十分に考えられました。ヨセフが怒りと嘆きのあまり、マリアを裏切者として祭司に訴えれば、そうなったことでしょう。
しかし、そうはなりませんでした。19節にあるとおりに、「ヨセフは正しい人であった」からです。神さまの御目から見て「正しい人」とは、愛に満ち、正義を行うことができる人ということです。
心をずたずたにされたように思いながらも、愛の人ヨセフはマリアを憎むまいとしました。姦淫の罪でマリアを訴えることはしない ― これが、「マリアのことを表ざたにするのを望ま」(マタイ福音書1:19)なかったヨセフの決断でした。
一方で、ヨセフは正義感から、姦淫の罪を犯した罪人と何ごともなかったように結婚するのは、罪人と一緒になって覆い隠す悪事だと判断しました。そのため、ヨセフはマリアと「ひそかに縁を切ろうと決心した」(マタイ福音書1:19)のです。
この悪夢のような出来事について、進むべき道をこう考え巡らしていたヨセフは、悪夢ではなく神さまから与えられた夢を見ました。
夢の中に主の天使が現れ、マリアを花嫁として、妻として迎え入れなさいと語りかけました。マリアのおなかの子は聖霊によって宿った神さまの御子、預言で約束された救い主メシアだと、天使はヨセフに告げました。天使はさらに、「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と語りました。ユダヤの言葉、ヘブライ語でイエスは「神は人の救い」という意味を持ちます。
ユダヤの社会では父が子に名をつけます。つまり、神さまは天使を通して、この世でヨセフに御子イエス様の父親の役割を果たすようにとおっしゃったのです。この事柄について、聖書はこのように説明しています。22節から23節をお読みします。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイによる福音書1:22~23)
天使に、生まれて来る子どもに名前をつけなさいと言われた時点で、ヨセフの心には「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む」と始まるイザヤ書の預言の言葉が鳴り響いたはずです。ヨセフが、聖書を暗記・暗唱することをもって教育とするユダヤ民族の男子だからです。
インマヌエルが何を意味するかも、もちろんヨセフには分っていました。さらに、その言葉が神さまから夢を通して直接、自分に語られたことを、ヨセフは信仰をもって受けとめました。
インマヌエル、「神は我々と共におられる」 ― ヨセフがマリアに裏切られたと思い込み、失意と悲しみに沈みつつも、なおマリアを思って心を乱している最中に、神さまはヨセフに「わたしはあなたと共にいる」と仰ってくださったのです。
ヨセフは、自由でした。私たちは皆、神さまの御前でかぎりなく自由です。神さまを信じるも、信じないも、自由なのです。この自由は、言い換えれば、拠り所がない、頼る者・真実に愛し愛される絶対他者に出会っていないということです。御言葉で神さまから「わたしがあなたと共にいる」と語りかけられる時、私たちは神さまに信頼され、愛されて、拠り所を差し出されています。
さらにそれは、神さまから、この世で生きる役割を与えられている恵みを意味します。
御言葉を受け入れ導かれて従うか、背くかは私たちの決断です。与えられた信仰を恵みと受けとめるか、何も感じられず自我と自分の主張だけを頼りとするかの分かれ道でありましょう。
聖書は、続けてこう語ります。24節から25節、今日の聖書箇所の最後の節です。「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」ヨセフは共にいてくださるインマヌエルの主を信じ、その愛を受け入れ、与えられた役割を引き受けました。
ベツレヘムへの旅の途中でのイエス様のお誕生、そしてその後のヘロデ王の嬰児殺害命令と、マリアを守って行動するヨセフを次々と試練が襲いました。その中にあって、ヨセフは神さまに従い通し、試練に耐え、神さまはヨセフを支え通してイエス様、マリア、ヨセフの家族を祝福されました。
“神さまが共においでくださる”とは、ヨセフがしたように、自ら積極的に神さまから愛され、神さまを愛する関わりを築くことです。神さまから与えられた人生の役割を、神さまの助けを信じてやり通すことです。
神さまご自身が、私たちに御子イエス様を与え、私たちの救いのために御子を十字架に架けて、私たちのためにみわざをやり通してくださいました。その深く激しい愛をもって、神さまは私たちと共においでくださいます。
今日は、教会の暦の上での一年の始まりです。共においでくださる神さまへの信仰を心にいただいて、これからも、心を高く上げて進み行きましょう。
2024年11月24日
説教題:神を主とする信仰
聖 書:歴代誌上29章10~14節、ルカによる福音書20章41節~21章4節
あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。
(ルカによる福音書21:4)
教会の暦では、今日の主日礼拝が教会の一年の最後の礼拝です。次の主日からイエス様のご降誕・クリスマスを待望する待降節・アドヴェントに入り、教会は新しい一年を歩み始めます。
今日は、収穫感謝日でもあります。収穫感謝礼拝・Thanks giving の起源は、信仰ゆえに迫害を受け、信教の自由を求めてイギリスからアメリカに渡ったピューリタンが 新しく生活を始めたニューイングランドの地での初めて収穫した実りを感謝してささげたものと言われています。
ただ、収穫感謝ということでなくても、また教会の一年の終わりという節目ではなくても、私たちはいつも主を仰いで心からの感謝を主にささげたいものです。
子ども祝福も、恵みのうちに礼拝の中で執り行うことができました。教会に連なる者が皆、そろって主への感謝でひとつとされる幸いに教会が満たされていることを思い、あらためて主の守り支えをありがたく思います。
そして、私たちは今日、与えられている聖書箇所から感謝のささげものをする時にぜひ思い起こしたいイエス様の御言葉を知らされています。
講解説教としてルカによる福音書を読み進めていますが、待降節・アドヴェントの間は、救い主のご降誕を語る聖書箇所を礼拝でいただきます。そのことも心に留めつつ、今日の御言葉をご一緒に読み味わいたく思います。
今日の聖書箇所には、ご覧になってすぐ気付かれるように 三つの事柄が語られています。最初の事柄は、ルカによる福音書20章41節から44節に記されています。イエス様はこの箇所の御言葉を通して、人々が救い主メシアについて誤った考えを持っていることを指摘されました。
次の事柄は同じ20章45節から47節で、イエス様は偽善的な指導者・律法学者に気を付けるようにと人々に警告されました。
三つ目の事柄は21章1節から4節です。人々は神さまに多くの献金をささげる金持ちを尊敬してしまいがちですが、イエス様が目をそそがれたのは貧しいやもめ・未亡人でした。
これら三つの事柄は一見するとばらばらに思えますが、イエス様の十字架への歩みを思う時、ここに一筋の道が示されているのに気付かされます。
すでに何度も御言葉を通して示されていますが、イエス様が御言葉を通して今日、明らかにされているのは世の人々に真の指導者・救い主メシアが与えられたことです。そして、その方が ― つまりはイエス様ご自身が ― 私たちに与えてくださる幸いに満ちた信仰の道・信仰の姿勢が語られているのです。それを踏まえて、初めのメシアの事柄、ルカによる福音書20章41節から44節に心を向けましょう。
イエス様がエルサレムの町に入られた時、人々はイエス様を「ダビデの子にホサナ」と大歓声で迎え、歓迎しました。ホサナとは、ユダヤの言葉・ヒブル語で「我らを救いたまえ」という意味を持ちます。救いを祈り願う言葉でしたが、「讃えよ、讃美せよ」と心を合わせてほめたたえる時のかけ声となりました。
エルサレムの人々がイエス様を「ダビデの子にホサナ」と歓迎したのは、イエス様が「ダビデの子」、つまり700年前から預言されていたダビデの末裔だったからなのです。イエス様の母マリアはヨセフと結婚し、ヨセフは確かに、マタイによる福音書1章1節からのイエス様の系図によればダビデの子孫です。人々は、救い主メシアがダビデの末裔に生まれることに注目していました。
私たちはイエス様が神さまの御子であり、神さまでありながら私たちの救いのために人となってくださったことを知っています。しかし当時の人々は、ダビデの血筋の末に誕生したのだから、メシアは当然、自分たちと同じ人間だと思い込んでいました。まさか自分たちの主・神さまが人となって世においでくださるとは、思わなかったのです。イエス様は、今日の御言葉で人間の思いの至らなさを指摘されました。
44節でイエス様はこうおっしゃいました。お読みします。「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」これは少々大胆ですが、こう言い換えられます。ダビデが、また歴代のユダヤの人々が皆 主と仰いできた神さま・救い主メシアは、ダビデの子孫というだけではない。ダビデの末裔として、この世に人間として来られた神さまなのだ、と。この事実をはっきりと明言しておられるイエス様こそが、神さまであると同時に人であるメシアです。
神さまは天地を創られ、被造物を守り支え、すべての営みを導かれる最高にして完全に正しい、唯一無二の指導者です。
この御言葉に続くのが、真の指導者として世に来られたイエス様の人々への警告です。ルカによる福音書20章45節から47節で、まがいものの指導者・偽善的な律法学者たちに気をつけるようにと警告されました。なぜなら、私たち人間は愚かしい価値判断をしてしまうからです。律法学者たちが立派な長い衣を着て歩き回り、これ見よがしに長く祈り、他の人たちから挨拶されるのを待っていて「偉そう」に見えると、人間は見せかけにだまされて偽善者に従って滅びの道を歩んでしまうのです。
指導者が人間である限り、見せかけにだまされたり、我欲を満たそうとしたりする罪から逃れることができません。この世は、そのような指導者が権力を振るい、社会を誤った方向へと進ませてしまいます。私たちは、それが歴史の中で繰り返されているのを知っています。真の指導者は、自身の欲望に目が眩んだり、他者の見かけに惑わされて誤った判断をすることはありません。真の指導者である神さまこそが、世を正しく導かれるのです。人となって世に来られた神さまの御子イエス様は、真の指導者です。私たち人間には見えない真実を、イエス様は見ておられます。
それが記されているのが、「イエスは目を上げて」と始まるルカ福音書21章1節から4節です。イエス様は、金持ちたちが献金するのを見ておられました。当時の献金箱には音を増幅させる仕組みがあり、入れられた硬貨 ― 銀貨や銅貨 ― が何か、またその硬貨が多いか少ないかも音で分かるようになっていました。
大きくて良く響く銀貨の献金の音を鳴らした金持ちは、礼拝を一緒にささげている周りの人から賞賛の目を向けられました。たくさんの施しをして、たくさんのささげものをする人は神さまに忠実に生きる信仰者として尊敬されるからです。金持ちたちは、満足げな表情を浮かべたのでありましょう。神さまへの感謝を、そもそも神さまを、すっかり忘れています。自分が周りの人に尊敬されているという承認欲求を満たされて、自分の欲・我欲で心はいっぱいです。
金持ちたちの華々しい献金の後に、献金箱は小さな弱々しい音を鳴らしました。やもめが、レプトン銅貨2枚を入れた音でした。やもめとは、女性が自立して働くことが難しい当時の社会で、人々からの施しに頼り、やっと生き延びている未亡人のことです。またレプトン銅貨2枚は、今の貨幣価値で170円ほどです。そのやもめの献金に、イエス様はこうおっしゃいました。21章3節です。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。」
すべてを見通されるイエス様は、このレプトン銅貨2枚・170円ほどがこのやもめの全財産であるとご存じでした。全財産を神さまにささげてしまったら、このやもめは明日、何か食べることができるのでしょうか。
その私たちの心配事・思い悩みに、イエス様は、こう答えてくださいます。ルカによる福音書12章29節から32節の、イエス様が語られた御言葉をお読みします。「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それは皆、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカによる福音書12:29~32)
神の国は、救いです。神さまと共に生きる永遠の命です。
イエス様は、やもめが、食べ物よりも飲み物よりも深く強く、神さまのおそばにいつもいられる神の国を求めていることをはっきりと見ておられました。このやもめは、神さまがどんな時も自分と共においでくださることに限りなく感謝して、全財産をささげ、自分にできるせいいっぱいの神さまに向かう心・信仰をささげました。
このやもめにとっては、今、神さまと共にいられることが最高にして永遠の喜びであり、何にもまさる安らぎです。与えられたその信仰によって、やもめにとっての今は永遠となるのです。いっさいを御手にゆだね、ひたすら神さまに導かれる人生の平安がここにあります。
何ひとつ持たなくても、すべてを神さまにゆだね、御心に導かれてひたすら歩む勇気をこのやもめは抱いています。それがこよなく愛し敬う神さまから自分に与えられた歩みだからこそ、至福の恵みであり、それが明日も明後日も、いえ、永遠に続くと信じる希望を持っています。イエス様は、このやもめを豊かに祝福されました。それが今日の聖書箇所です。
また、私たちが心に留めておかなければならないもう一つのことがあります。イエス様がやもめを祝福しつつ、十字架への道を歩んでおられることです。その歩みは、神さまからの使命であるがゆえに、ご自分のお命を捨てる道です。
イエス様は弱く小さい、けれど心から神さまを求めるやもめを救い、またこの世では強く見えますが実は罪によって魂をもろくされている偽善者たちをも救う広い広い愛のみわざを成し遂げるため、私たち人間すべてに光を賜るために、ご自身は闇へと、死へと、滅びへと進んでおられるのです。
しかし、ここで私たちが思い起こさなければならないことがあります。それは、イエス様が父なる天の神さまにご自身をゆだねきり、闇の杯をも御心ならば、とお受けになったことです。イエス様の御父、私たちの天の神さまは、イエス様の徹底した信仰を祝され、十字架の出来事の三日後に、闇を貫く栄光のご復活を賜りました。
今日のために説教準備をしながら、私は願わずにはいられませんでした。こうしてイエス様が闇を突破して開いてくださった御国への道を、ひたすらイエス様についてゆきたい。この私にも、ついて来て良いとおっしゃってくださるイエス様の背中を追って日々を歩んでゆきたい。今日の御言葉に導かれ、私は私なりにレプトン銅貨2枚をささげつつ、イエス様に従いゆきたい。
次の主日から、私たちは待降節・アドヴェントに入ります。イエス様のお生まれを喜び祝い、救いの恵みを深く思いめぐらす四週間を聖霊に満たされて進み行きましょう。
2024年11月17日
説教題:燃え尽きぬ命を信じる
聖 書:出エジプト記3章1~6、ルカによる福音書20章27~40節
イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることもなく嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」
(ルカによる福音書20:34~36)
イエス様は十字架に架けられる数日前の地上のお命、その限られた時間を神さまの恵みと真理を人々に伝えることに用いておられます。地上のお命の最後の最後まで、宣教と祈り、そして弟子たち、私たちを愛するために用いられました。今日の聖書箇所で、イエス様は神さまが私たちに与えてくださる復活について語られ、私たちを大いなる恵みへと導いてくださいます。
最初に皆さんに、二つの事柄をしっかりと心に留めていただきたく思います。
ひとつは、ここで語られている復活は、地上の命のよみがえり・生き返りではないということです。聖書、特に新約聖書には、一度 失われた命をイエス様がよみがえらせてくださる奇跡がいくつも語られています。イエス様が12歳の少女、やもめの一人息子、親しい友人ラザロを生き返らせてくださった奇跡がすぐに思い浮かびます。
旧約聖書にも、よみがえりは語られています。神さまが預言者エリヤの祈りに応えて、サレプタのやもめの息子を生き返らせた出来事を心に浮かべておられる方がおいででしょう。(列王記上17章)
生き返り・よみがえりの奇跡は大きな喜びと恵みの主のみわざそのものですが、このようにして一度生き返った者も、いつかは再び地上の命の終わりを迎えます。
今日の聖書箇所で語られているのは、そのような生き返り・よみがえりではありません。ここで言われている復活という言葉は、「永遠の命」と言い換えることができます。
そして、皆さんに心に留めておいていただきたいことの二つ目をここでお伝えしたく思います。この「永遠の命」は「死なないこと」、「ずっといつまでもこの世の命・生命体として生き続けること」、いわゆる「不老不死」ではありません。一度死ぬからこその復活であり、肉体の死を超える命・永遠の命を与えてくださったことこそが、神さまの私たちへの大きな恵みなのです。
ただ、こうお伝えしますと、永遠の命の恵みを心と魂で受けとめていないうちは「なんだ、結局 死ぬのではないか」、「それでは永遠の命の何が良いのだろう、何が恵みなのだろう」と思ってしまうかもしれません。
永遠の命とは、どのような恵みなのでしょう。それを今日、イエス様は、私たちに教えてくださいます。27節にあるように、サドカイ派の人々がイエス様に質問をしたことがきっかけとなりました。
サドカイ派は、ファリサイ派と同じように当時のユダヤ社会の指導的立場にあった人々です。ファリサイ派には律法学者が多く、彼らは一般の人々、いわゆる庶民・民衆を律法に従わせることに熱心でした。一方、サドカイ派には祭司が多かったと言われています。
サドカイ派は聖書 ― 私たちにとっての旧約聖書 ― の最初の五つの書・「律法の書」と言われるモーセ五書を特に大切にしていました。そのモーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)には私たち人間への永遠の命の約束は記されていないのです。「永遠の命」という言葉は、1回だけ、申命記32章40節に記載があります。その御言葉では、神さまが「わたしの永遠の命にかけて」とおっしゃられ、神さまご自身が永遠の命に生きる方であられることが明らかにされています。神さまとして、当然の事実を告げています。人間に永遠の命が約束されることについては、語られていません。
そのため、サドカイ派の人々は今日の聖書箇所の28節にあるような疑問を抱きました。28節をお読みします。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない。』」これは、申命記25章5節に定められている掟・律法です。
ユダヤ社会は、家父長制です。家長は男性で、その男性を父とする者の血筋を通して神さまへの信仰が継承されてゆきます。信仰を絶やさず、ユダヤ民族が存続するために、亡くなった兄の妻は、その兄の弟と結婚することが定められていたのです。その定めによると、七人兄弟の長男が妻との間に子をもうけないまま亡くなり、さらに次男、三男から七男まで、子のないまま次々と亡くなった場合、全員が元長男の妻と結婚することになります。そこで復活が起こったとすると、どう考えても解決がつかないあることにサドカイ派の人々は気が付きました。そこで、イエス様のもとへ質問に来ました。
この七人の兄弟と、その全員と順番に結婚することになった一人の女性 が、この世の命を終えて世の終わりにいっせいに復活したら、その女性は七人の兄弟のうち、誰の妻になるのかわからなくなります。こんな曖昧なことでは、復活と言われても信じられない ― これが、サドカイ派が復活を信じない理由でした。
素朴と言えば、まことに素朴、そして正直な疑問です。また、復活して永遠の命をいただくとは、この世がそのとおりに再現されることだと受けとめると、私たちも復活についてこのサドカイ派と似た問いを抱かずにはいられなくなります。
たとえば、亡くなった時の年齢の姿で復活するのかな?とふと思うのは、サドカイ派的な問いでしょう。私事で恐縮ですが、私の夫は私よりもひとつ年上で、12年前に亡くなりました。夫が召されてから12年の間に私は老いているので、この姿で復活して亡くなった時の若い姿の夫に再会したら、夫はどんな顔をするだろうと思わずにはいられません。
その思いに対して、また、もちろんサドカイ派の問いに対して、イエス様は今日の御言葉ではっきりと「そうではありません。心配することはありません」とおっしゃってくださるのです。イエス様は、その根拠を36節でこう言われます。お読みします。「この(永遠の命に復活した)人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」
「もはや死ぬことがない」とは、復活が、誰もが生命体としての命を終えることになっているこの世とは、まったく別の次元の出来事だという意味です。この「別の次元」とは、私たちが「神の子」としていただける次元です。
この世では、私たちはそれぞれに弱点・欠点を持っている不完全な存在です。神の子とされるとは、神さまの子となるにふさわしく、完全な命に造り替えていただける恵みをさします。
その人が完全なものにされるだけでなく、その人と神さまとの関わりも、隣人との関わりも、兄弟姉妹との関わりも、すべて完全にしていただけます。ですから、後味の悪い別れ方をして、そのまま会えずに亡くなった方との関わりもすっかり修復して、互いに笑顔で再会できるように 神さまが整えてくださいます。
またもっと申せば、私たちが神さまのことを忘れたり、教会から心が離れてしまったりした時のことも 神さまはイエス様の十字架の犠牲によって贖い、すべてゆるして私たちを背きのない完全な神の子としてくださるのです。
イエス様は、今日の聖書箇所でさらにこう語られます。38節です。お読みします。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」この「神によって生きている」は、「神さまの恵みによって生きている」と考えたくなりますが、厳密にはそうではありません。
「よって」と訳されている言葉は、英語では「to」、「どこそこへ」と向かう方向・目標を表す「to」なのです。 聖書のもとの言葉を直訳すると、イエス様はこうおっしゃったことになります。「すべての人は神さまへ向かって生きている。」
今、私たちは礼拝で神さまの御前に立っています。見えない神さまですが、いつも私たちに御顔を向けてくださっています。その御顔の前で、私たちは礼拝で「神の子」とされてこうして静まっているのです。それが、「神さまに向かって」いる姿勢です。ですから、なんと今すでに、私たちは礼拝にあって永遠の命に生きているのです。
旧約聖書の時代には、どう生きれば神さまに向かって生きることになるのかわかりませんでした。だから、人々はファリサイ派の解釈による律法を必死に守ることで、自分で神さまのおられる方角を探り当ててゆくしかないと思っていました。そのように行き惑い、迷子になっている私たち人間すべてを、イエス様は救ってくださいました。
私たちの迷いの罪を背負って十字架の出来事で死なれ、復活なさり、信じる者すべてが「神さまの子」として「神さまに向かって生きる」道を拓いてくださったのです。これが、今、世にある者・私たちがすでにいただいている永遠の命の恵みです。
この恵みは、私たちが肉体の死を通過するとさらに大きくなります。イエス様を知らなければ、肉体の死はただ、ただ恐ろしく思えるだけではないでしょうか。ところが、イエス様の十字架の出来事で救われ復活のみわざを信じる者は、肉体の死の先に大きな恵みが待っていることを知っています。これこそが、永遠の命の恵みのすばらしさです。
生命体としての死を迎え、罪を犯しやすい肉体から自由になって「復活」した後に、私たちは完全な者として神さまと共に生きるようになります。モーセがユダヤの民を約束の地カナンに導いたように、イエス様は私たちを復活の後の命へと導き続けてくださっています。
日々、さまざまな試練に心悩み、疲れを負う私たちです。それでも、その私たち一人一人にイエス様が寄り添って、「神さまに向かって共に進もう、さあ、一緒に行こう、私と一緒なら決して道に迷わない、大丈夫」と力づけてくださっています。この新しい一週間も、そのイエス様の慈しみを忘れず、希望を抱いて進み行きましょう。
2024年11月10日
説教題:真実により導く主
聖 書:詩編96編10~13節、ルカによる福音書20章20~26節
イエスは、彼らのたくらみを見抜いて言われた。デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
(ルカによる福音書20:23~25)
主の日の礼拝説教として講解説教を行っていると、実にしばしば、時宜にかなった聖書箇所・御言葉が教会に与えられることに驚きます。今日は、まさにそのような聖書箇所と言ってよいでしょう。
イエス様が語られた「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」との御言葉は、聖書の中では比較的よく教会を離れて一般社会でも知られている言葉です。この短い言葉だけが独り歩きさせられて、一般社会では政治と信仰を切り離す導きと解釈されていることがあります。いわゆる政教分離をさすと思われてしまうのです。が、ここでイエス様が語っておられるのは、そのようなことではありません。
天の父なる神さまは、イエス様を人間の歴史の中に遣わされました。無秩序な人間の欲望が、政治と人間が制度として作ったものを基にする危うい秩序の中で互いを傷つけ合い、もっと言えば食い合っているような混沌のただ中に、イエス様は真実の光、そして罪を照らし出す光としておいでくださいました。複数の戦争、紛争が今なお続いています。平和への道を祈る私たちに、イエス様は今日の御言葉を通して、確かな指針を与えてくださいます。
さあ、今日の聖書箇所の冒頭、ルカによる福音書20章20節から御言葉に聴いてまいりましょう。エルサレムに入られたイエス様は、地上のお命の最後の数日を過ごしておられます。ユダヤ社会の指導者たち ― 律法学者や祭司長たち ― がイエス様への怒りと憎しみをつのらせ、イエス様を殺そうとたくらんでいたからです。
当時のユダヤの指導者たちは確かに、難しい状況に置かれていました。すでに何度もお伝えしたとおり、ユダヤは強大な帝国ローマに支配されていました。ローマ帝国の、もっと具体的にはローマ皇帝の言うことをきかなければ、ユダヤ民族はひねりつぶされてしまいます。しかし、ユダヤの人々の中にはローマ帝国から独立しようと声をあげる者たちも少なくありませんでした。
律法学者や祭司長たちは、もちろんユダヤの存続を願っていました。現実主義者たちでもありました。彼らにとっては、一部のユダヤの人々が起こそうとしている独立運動の成功など夢のまた夢だったのです。彼らはローマの機嫌をうかがい、独立運動を起こそうとするユダヤの人々を抑え、自分たちも何とか指導者としての面子を保ちたいという危うい均衡を保ちつつ、ユダヤの指導者的役割を担っていました。一方で、そのように苦しい立場にありながら、その立場を利用して権威への欲望を満たし、おそらくは私腹を肥やしてもいました。
そのようにずるがしこく立ち回る中で、彼らは自分たちが神さまの宝の民・ユダヤの指導者として相応しい者ではなくなってしまったことを自覚していました。神さまの御言葉すなわち律法を、一般のユダヤの人々に対して権力を振るうための道具として利用していたのが彼らだったからです。
その彼らの前に、本当の指導者が現れました。イエス様です。にせものの指導者である彼らは、本物の指導者・イエス様を排除し、抹殺して自分たちの立場を守ろうとしました。そこで立てたのが、考え抜かれたひとつの計画です。彼らは、このようなシナリオを考えました。イエス様を合法的に殺す方法です。
私たちの社会にも、人間を合法的に殺す方法があります。どのような方法か、皆さんはすぐにお分かりになるでしょう ― そうです、死刑です。死刑が法律で定められているので、それによって犯罪者が殺されても ― つまり、社会が人を殺しても ― 誰も罪に問われません。この世の罪には、問われません。ユダヤの律法学者や祭司長がねらったのは、そのようにイエス様を死に追いやり、自分たちは安全にぬくぬくと生き抜く方法でした。
植民地が独立革命を起こすと、その首謀者は宗主国・支配している国によって裁かれます。ローマ帝国は、ローマ皇帝に対する反逆者を死刑と定めていました。そこで律法学者や祭司長たちは、イエス様をローマ皇帝に対する反逆者に仕立て上げ、死刑にされるように仕向けたのです。
今日の聖書箇所20節にあるこの言葉は、そのことをさしています。お読みします。「…彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。」
その回し者は、イエス様からローマ皇帝への反逆の言葉を引き出すために、こう質問しました。イエス様を大好きな人々が、イエス様の周りに集まってお話に耳を傾けている最中だったのではないでしょうか。この回し者は、その人々を喜ばせるように恭しくイエス様を讃えて、それから問いかけたのです。22節です。お読みします。「…わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
すでに何度もお伝えしたことではありますが、ローマ帝国がユダヤに課していた植民地税はユダヤの人々を苦しめていました。この問いに、もし「植民地税が律法に適っている」とイエス様が答えたら、イエス様を慕っているユダヤの人々の心は一気に冷めて、イエス様を嫌悪するようになります。さらに、そもそも植民地税など律法に記されていませんから、イエス様の答えは「適っていない」に決まっています。
そして、「ローマ帝国に税金を納めるのは律法違反だ」とイエス様が口に出しておっしゃれば、それは反逆罪になるのです。ところが、イエス様は彼らのたくらみを実にみごとにくつがえされました。まったく違う角度から、この問いに答えられたのです。
デナリオン銀貨は、今の日本の貨幣価値で言うと1万円ぐらいです。律法学者や祭司長、その回し者だったら、ごく当たり前のように、このデナリオン銀貨を財布にひとつふたつ入れていたでしょう。イエス様はこうおっしゃいました。「デナリオン銀貨を見せなさい。」ここから、人々に愛されたイエス様のすばらしさ、その明るさと朗らかさが発揮されます。
イエス様は、「そこ(デナリオン銀貨)には、だれの肖像と銘があるか」と尋ねました。
私たちは、自分の持ち物に名前を書くことがあります。教会ではみんなが同じ聖書と讃美歌を使っていますから、名前を書かないと誰のものか分からなくなります。礼拝後、会堂に聖書と讃美歌をお忘れになって帰る方がたまにおられますが、お名前が書いてあると所有者がわかるので、私としてはたいへん助かります。所有者はだれかという発想に、イエス様は回し者からの質問を見事にすり替えました。
デナリオン銀貨にはローマ皇帝の顔が肖像として刻まれ、その名前が書いてあります。見せなさいと言われて、回し者が出したデナリオン銀貨をご覧になって、イエス様はこうおっしゃったのではないでしょうか。「ほら、デナリオン銀貨にはローマ皇帝の名前が書いてありますね。だから、これは皇帝のものでしょう。落し物は持ち主に返しましょう。皇帝のものは、皇帝に返しましょう。」
固唾をのんで見守っていた人々は、イエス様のウイットあふれるお答えにドッと爆笑したのではないでしょうか。イエス様のすばらしい切り返しに、さすが!と大喜びしたでしょう。そして、今日の聖書箇所の最後の聖句にあるように、回し者たちは「その答えに驚いて黙ってしまった」のです。
もちろん、イエス様はとんち話のようなお答えでは終わりませんでした。こうおっしゃいました。「神のものは神に返しなさい。」ここに、イエス様が私たちに示してくださる道しるべがあります。指針が、示されています。「神のもの」とは、何でしょう ― そうです、この世のすべてです。
神さまのものであるすべてをお返しするとは、すべてを神さまの御手にゆだねなさいとの導きです。私たちの中にある見える豊かさも、見えない恵みも、この命も、今 喜びであるものも、試練と感じられるものも、もともとすべて神さまから与えられています。
イエス様は、ご自身が語られたこの言葉を数日後に十字架の上で行われました。今日の聖書箇所で喜んで、そして数日後にはいっせいにイエス様に背を向けた気まぐれな群衆の罪、本物の指導者を排除し殺そうとしたにせものの指導者の罪、その人間すべての罪を背負って死なれ、ご自身の人間としての肉体の命を神さまに返されました。
その真実を心に深く受けとめることに、私たちの安心があるのです。すべて神さまのものだから、すべてはいずれ、恵みとなると信じることができます。そのとおりに、イエス様は私たちと永遠に一緒にいてくださる約束をご復活で示してくださいました。
今この時も、その希望を抱いて心安らかに、そして何ごとも神さまが「神さまの時」に正しく導いてくださるとゆだねて進みたいとあらためて思います。その願いをもって、今日の聖餐式の恵みにご一緒に与りましょう。新しい一週間を、歩み通してまいりましょう。
2024年11月3日
説教題:愛と光の永遠の命
聖 書:詩編98編1~3節、ヨハネによる福音書3章13~21節
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
(ヨハネによる福音書13:16)
今日の主の日・日曜日の礼拝を、私たちは召天者記念礼拝としてささげます。薬円台教会を通して天に召された方々と共に、またその方々のご家族とご一緒に、今こうして御前に静まり、主を仰いでいます。
地上の命を歩み終えて、主の御許に召された方々を思う時、私たちは寂しさを感じずにはいられません。共に過ごしていた時のあの笑顔、あの声がよみがえります。そして、もう地上では会えないと、別れのせつなさが胸にこみあげてまいります。
地上では会えない ― たいへん残念なことですが、それは確かな事実です。しかし、イエス様を主と仰ぎ、十字架の出来事とご復活を信じる者同士は、再び出会える喜びの時を約束されています。今日は、その約束の御言葉を聖書からいただいています。
先ほど 司式者がお読みくださった新約聖書 ヨハネによる福音書3章のうち16節を 今一度 お読みします。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この聖書の御言葉は、はっきりと私たちにこう告げています。 ― イエス様を信じて地上の命の終わりを迎えた者は、 一人も死に負けて滅びることはない、イエス様が約束してくださる永遠の命に生き続ける、と。
永遠の命は、私たち人間が「死にたくない、永遠に生きたい」と願って神さまから与えられたものではありません。
神さまご自身が、私たちを深く愛して、私たちへの大きな贈り物として約束してくださった恵みなのです。私たちと永遠に共にいたい ― なんと、そう思われるほどに、神さまは深く私たちを愛してくださっています。
神さまに深く、強く愛されていることを知らず、神さまを信じることができない ― それを、聖書は罪という言葉で表します。私たちの三位一体の神さま ― 父・御子・聖霊の三つにして一人の神さまは、私たちの目には見えない方です。見えない方を信じるのは、たいそう難しいことです。つい神さまがおられることを忘れてしまうのが、私たちの現実です。祈りがかなえられないと、本当に神さまはこの自分を見守ってくださっているのかと、神さまの愛を信じられないように思ってしまいます。
神さまは、私たちの心と魂が、こうしてご自分から離れてしまうのをたいへん悲しまれます。私たちを深く愛し、いつも心にかけてくださっているからです。
神さまがおられることを心に受けとめていないと、私たちはすべてを自分の力で行おうとします。見守ってくださっている神さまを押しのけて、自分がでしゃばろうとしてしまいます。傲慢になると言って良いでしょう。
傲慢であることから逃げられないのが、私たち人間です。この人間の傲慢を、神さまは嘆かれます。人間の歴史は、自分の利益を追求し、自分の正義を振りかざして傷つけ合う戦いの歴史、戦争の歴史です。滅びに向かう歩みです。
しかし、神さまは 滅びてゆこうとしている私たちを見捨てはなさいませんでした。罪の歴史を止めようと、独り子イエス様を私たちに与えてくださったのです。イエス様は私たちのすべての罪を、私たちに代わって担われ、罪もろともにご自身の命を十字架の上で捨てられました。滅びゆく私たちの身代わりとして、ご自身のたいせつなたった一人の御子を死なせるために世に遣わしたのです。
神さまの子は、もちろん神さまです。そして、神さまは死にません。人間と同じ死ぬ体になるために、イエス様は人間になられました。こうして、イエス様は人間の赤ちゃんとしてこの世にお生まれになりました。
この出来事を記念して、教会はクリスマスを祝います。今日の聖書箇所は、教会がクリスマスを迎えようとする時期、またクリスマスの礼拝でもよく読まれる聖句です。神さまであるイエス様が、どうして、何のために、私たち人間の住む地上・この世においでくださったのかを端的に語る御言葉です。その御言葉を、今一度お読みします。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
教会は、この真理を大きな恵みとして信じています。これが、私たち教会が信じる福音です。
福音は、喜びの知らせという意味です。この福音・喜びの知らせを信じ、一生 こうして自分を滅びから救い出してくださった救い主を自分の「主」として生きる決心をして洗礼を受けた者がキリスト者・クリスチャンです。
教会は、教える会と書くので、どうしても誤解されやすいように思えてなりません。どんな誤解かと申しますと、道徳・倫理を教えるところだと思われてしまうのです。教会に行けば、道徳的に正しく立派な人になる方法が伝授されるように世間一般ではまだまだ思われがちのように感じることがありますが、決してそうではありません。
教会は、ただひとつのことを伝えます。それは神さまが、私たち人間に、また私たち一人一人に、死んではならない、滅びてはならない、永遠に共に生きようと思ってくださるほどに、私たちを愛しておられるという真実です。事実です。真理です。その愛のために、神さまは独り子イエス様を私たちに与えて、確かな愛のしるし・約束のしるしとしてくださったのです。
イエス様は私たちの代わりに一度、十字架で死なれました。三日後に復活されて、肉体の死を超える永遠の命を 信じる者に約束してくださいました。
今日の召天者記念礼拝で私たちが偲ぶ、先に地上の命を終えた教会の兄弟姉妹・愛する方々はこの約束を信じて生き、地上の命の終わりを迎えられました。ただ、それは命の終わりではありません。死ですべてが終わり、暗闇に閉ざされることは決してありません。この世の道のりを走り終えて、神さまと共に生きる命の光の中へと進んで行かれたのです。
今は御国におられる方々も、この世を今生きている私たちも、同じ命の光に包まれています。神さまに愛して造られ、その恵みの真理をイエス様の十字架とご復活が示してくださった命です。
今日、その光の中を歩む幸いをあらためて心に留めましょう。
※10月27日は日本基督教団が定めた信徒伝道週間初日で、薬円台教会 教会員が証しを語られました。そのため、ホームページへの説教の掲載はありません。
※10月20日は神学生が神学校から派遣されて説教奉仕をされました。そのため、ホームページへの説教の掲載はありません。
2024年10月13日
説教題:主は教会の礎石
聖 書:詩編118編17~25節、ルカによる福音書20章9~19節
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」
(ルカによる福音書20:17より)
イエス様は、地上のお命の最後の一週間を過ごされています。日曜日にエルサレムの町に入られ、月曜日から木曜日の日中にかけて、毎日 神殿の庭で、人々に父なる神さまの恵みと慈しみ、そして神さまの正義を語られました。
人々は、夢中でイエス様のお話に聞き入りました。ユダヤの指導者たち ― 祭司や律法学者、長老たち ― はそれをたいそう苦々しく思いました。人々に敬われ、愛されるのは自分たちのはずです。自分たちが神殿の庭を通ると、人々がひざまずいて敬意を表し、自分たちの語る言葉を一語も漏らさずに聴こうと耳を澄ますはずです。ところが、イエス様がおいでになったら、誰も自分たちを見向きもしません。祭司や律法学者、長老たちの心はイエス様への妬みと憎しみでいっぱいになりました。
彼らがイエス様を殺そうとたくらみ始めたことを、私たちは前回の聖書箇所、ルカによる福音書の最後の二つの節から聴きました。イエス様は、彼らのたくらみを見通していました。そのまがまがしさと醜さ、さらにこれからイエス様ご自身の身に起こる十字架の出来事を、イエス様はたとえを用いて語られました。そのたとえ話を、今日 私たちはこの礼拝のための聖書箇所としていただいています。
イエス様は、こう語り始められました。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。」ぶどう園を作った「ある人」とは、この世界・この天地を造られた創造主なる天の神さまをさしています。
創世記1章29節には、こう記されています。神さまが、ご自分にかたどって造られた最初の人間に言われた言葉です。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。」
神さまは、ぶどうをはじめとする草と木を私たちに与えてくださいました。ただ、私たちはそれが本来は神さまのものであることをよく知っています。だからこそ、旧約聖書の昔から収穫の中から、大地の実りを神さまにささげると定められていたのです。
今日の聖書箇所のルカによる福音書20章10節に「収穫の時になったので」と記されています。イエス様のたとえ話の中では、ぶどう園すなわちこの世は、ある人すなわち神さまが、農夫と記されている私たち人間に貸してくださったものです。収穫の時が来たら、ぶどう園の実りの一部を本来の持ち主にお返ししなければなりません。ぶどう園の持ち主、すなわち神さまは、僕(しもべ)をぶどう園に送りました。神さまの御言葉を預かって人々に伝える預言者を送ったのです。
旧約聖書には、多くの預言者が人々に疎まれ、侮辱されて命も危うくなった出来事が繰り返し記されています。そのように、今日のたとえ話でも「農夫たちはこの僕(預言者)を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。」(ルカによる福音書20:10b)
預言者エリヤは命を狙われ、預言者エレミヤはその苦難の生涯から涙の預言者と言われます。さらに、私たちはイエス様が救い主メシアとしてこの世においでになったと先触れした預言者ヨハネが、ヘロデ王に殺されたことを前回の聖書箇所を通してあらためて思い起こさせられています。
神さまからぶどう園・この世の実りの恵みに与った農夫たち ― ユダヤ社会の指導者たち ― は、神さまが遣わされた者たちを次から次へと拒絶し、痛めつけて追い払いました。とうとう、神さまはこうおっしゃいました。13節です。お読みします。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」(ルカによる福音書20:13b)
こうして神さまが遣わした息子がぶどう園に来ると、農夫たちは実にむごい計画を立て、恐ろしいことを実行に移しました。14節から15節をお読みします。「『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。」(ルカによる福音書20:14b-15)
イエス様はたとえ話として語られましたが、この出来事は、その数日後には現実のこととなりました。彼らはイエス様を逮捕し、十字架に架けて死なせてしまうのです。
ユダヤの指導者たち ― 祭司長や律法学者、長老たち ― は、今日のたとえ話にある神さまのぶどう園、すなわちこの世を、自分たちのものにしようとしていました。彼らは、神さまを礼拝する清らかな場所を自分たちの利益のために利用していました。前回の礼拝で、神殿の庭で彼らの儀式を経たささげものが法外に高い値段で、高額の手数料を上乗せされて売られていたことを、私たちは御言葉を通して知らされました。
ユダヤの指導者たちは、自分たちが神さまを利用し冒瀆していることを おそらく自覚していたでしょう。また、ヘロデ王が自分の盗みと殺しと姦淫の罪を糾弾する洗礼者ヨハネを捕らえて牢獄に閉じ込めたのを、見て見ぬふりをしたのも悪だったとわかっていたのです。
分かっていながら、彼らは少しも神さまがどう思われるかを考えませんでした。心のどこかで、神さまは見えないからいない、神さまは遠くにいて自分のことなど見ていないと思っていたのでしょう。いいえ、神さまは私たちがどんな状況にあっても、善を為していても、悪を行っていても、必ず私たちから離れず、すぐそばにおいでくださる方です。
その恵みの事実を知らずに、律法学者や祭司長たち、長老たちはイエス様を、神さまから遣わされた御子を、殺そうとしていたのです。
たとえ話の中の農夫が、神さまから遣わされた僕(しもべ)を次々と痛めつけて追い返したのには、ぶどう園の中を見られ、そこが荒れ果てているのを報告されるのがいやだったからでもありましょう。よく手入れされたぶどう園にぶどうの房がたわわに実っていたのではなく、雑草が生い茂り、蛇が這いまわる廃墟になっていたからです。彼らはその廃墟で民衆を自分たちの召し使いのように搾取し、自分たちだけは特権階級として居心地の良い思いをしていました。だから、その悪の廃墟を手放したくなかったのです。
私たちが今、生活しているこの世は、どうでしょう。戦争が治まらないのは、世が始まって以来 地球上で争いが絶えないのは、いつの時代もある階級がそれによって得をしているからではないでしょうか。
悪がはびこるこの世で、その悪によって身を肥え太らせて権力を振るっている者にとっては、イエス様の到来は都合の悪いことでした。誰にも分け隔てなく深い思いやりと慈しみを表す真実に正しく、真実の愛の方であるイエス様の言葉と行いによって、自分たちの罪と醜さをあぶりだされてしまうからです。
そうしてこの世は、神さまの御子イエス様を十字架に架けてしまいました。この世からほうり出して捨て、殺してしまったのです。
私たちは、それも神さまのご計画のうちにあることを心に留めておかなければなりません。イエス様がこうしてすべての悪と罪をご自身の身に負って十字架で死なれたので、私たちは罪から解き放されたのです。
私たちは、その救いの事実を礎として今、こうして集い、教会として礼拝の恵みに与っています。教会の礎は、世に捨てられた御子イエス様なのです。イエス様はその真実を、今日の旧約聖書の御言葉・詩編118編の預言の言葉を引用されて こうおっしゃいました。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」(ルカによる福音書20:17b)
隅の親石のことを少しお伝えして、今日の説教を終えたいと思います。
皆さんは「眼鏡橋」をご存知ですか。長崎にある眼鏡橋が有名です。石をひとつひとつ積み上げて形づくり、最後に真ん中にぴったりの大きさの石をはめ込むと完成します。その真ん中の石を「隅の親石」と呼ぶそうです。
周りから積み上げられた石がその親石をぎゅっと押して、それで力学的な均衡が保たれているということです。親石は周りの石の重荷に耐えて、そこで橋全体の形を保ちます。
イエス様は、必ず私たち教会という橋の真ん中にいてくださり、私たちの重荷を共に担ってくださっています。そして、教会はこの世と御国をつなぐ橋です。私たちはこの世にありながら、こうして教会として集い、兄弟姉妹が心ひとつに主を仰ぐことで御国に臨みます。
前回の礼拝では、聖餐式が執り行われました。礼拝後、皆さんがそれぞれの持ち場へと遣わされて、がらんとしたこの会堂には聖餐式の後、かすかにぶどうジュースの香りが残っていました。
聖餐式のあった礼拝の後は、毎回、その香りがします。良い香りです。御国の香りが、イエス様の香りが、はるかから送られてきているように思えて、私の心は静かに満たされます。一週間の教会の歩み・皆さんの日々が守り支えられることを堅く信じる思いが確かに湧きおこってまいります。
この新しい週も、私たちは教会の親石であるイエス様にそうして支えられて、歩んでまいります。その確信と希望を胸に、心を高く挙げて進み行きましょう。
2024年10月6 日
説教題:天の主に遣わされる
聖 書:イザヤ書61章1~4節、ルカによる福音書19章45節~20章8節
毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。
(ルカによる福音書19:47-48)
私たち教会に生きる者は、イエス様が父・子・聖霊の三位一体の神さまその方であり、創造主なる天の父に遣わされて私たちの暮らすこの世においでくださった事を知っています。また、私たちはイエス様が旧約聖書に預言された神さまが遣わしてくださった救い主・メシアであることもしっかりと心に留めています。イエス様は、私たちを救うために、私たちが生きるこの世とは次元の異なる御国から、あえて私たちと同じ人間になって世に来られた神さまなのです。
しかし、イエス様がこの世に来られ、人として生きておられた間、その時代の人々にはそれがわかりませんでした。イエス様の弟子たちでさえ、わからなかったのです。イエス様が民衆に、特に恵まれない社会的に弱い立場の人々に慕われているのを妬み、イエス様を憎んで邪魔者だと思っていた当時のユダヤの指導者 ― 祭司長、律法学者、長老たちにはなおさら、イエス様が天の父に遣わされた御子、救い主メシアだとはわかりませんでした。イエス様の行動や語る言葉を通して示されていたのに、心の目が曇らされてそれが見えず、少しもわからなかったのです。
今日の聖書箇所には、イエス様が神さまから遣わされたことを示す三つの出来事が記されています。そのひとつひとつを、良い心の耳をいただいてご一緒に聴いてまいりましょう。最初の出来事は45節「それから、イエスは」という言葉で始まっています。「それから」とは「何から」でしょう?イエス様は、この直前にエルサレムの町をご覧になって、この都に平和への道が見えていないことを嘆いて涙を流されました。「それから」とは、「イエス様が嘆いてから」との意味です。
嘆かれたイエス様は、神殿の境内で商売をしていた人たちを追い出すという激しい怒りの行動をなさいました。神さまが人間の罪を悲しむと、その悲しみは怒りとなって現れます。神さまは、私たち人間を愛し慈しんで造ってくださったので、その人間が自分たちを破滅に追い込む罪を犯していると嘆き、激しく怒りを現わされるのです。
私たち人間は、神さまに似たものに造られました。私はそれを、あまりに畏れ多いと感じ、いったいどこが似ているのだろうと思うことがたびたびありますが、心の動き方については確かに似ていると考えて良いでしょう。私たち人間の親は、我が子が火遊びなど危ないことをしていると、怒ってやめさせます。それは愛おしい我が子が、ケガをしてはならないからです。
同じように、神さまも、私たちが罪を犯し、その罪によって自らに死と滅びを招いていると激しく怒りをお示しくださいます。神さまが私たちを愛し、私たちが死んではならないと必死に思ってくださるのです。
イエス様は神さまですから、エルサレム神殿で行われている罪の危なさに激怒されました。エルサレム神殿の境内・神殿の庭で行われていた商売とは、神社のお祭りで境内に屋台が並ぶと言ったほほえましいものではありません。
ユダヤの礼拝の中心はささげものです。そのささげものは、祭司によって特別に清められたものでなければなりませんでした。神殿の庭では、この清められたささげものがたいへん高い値段で売られていたのです。礼拝をささげる人たちは、これを買わなければ礼拝をしたことになりませんでした。これを管理している祭司たち、ユダヤ社会の指導者たち、また実際に売り買いして高額の手数料を巻き上げている商売人たちは、礼拝する信仰者たち、また礼拝そのもの、さらには神さまを利用してお金儲けをしていたのです。神さまを利用するとは、冒瀆そのものです。まさに、死に値する罪です。
神殿の庭は、神殿の中に入れない外国人・異邦人が祈りをささげる場所でした。にもかかわらずその場所では、商売の売り買いの声が飛び交い、ただでさえ差別されているユダヤ人以外の外国人は祈りを妨げられていました。
イエス様はこれらの罪に対し、神さまとしての悲しみと怒りを顕されて商売人を追い出すという激しい行いをされたのです。イエス様が神さまだと知らない祭司長や律法学者、ユダヤ社会の指導者たちは、自分の儲け仕事を邪魔されてさらに深くイエス様を憎みました。
今日の聖書箇所47節には、彼らがさらに罪を重ねてイエス様を暗殺する計画を立てるようになったことが記されています。しかし、48節にあるように、彼らは「どうすることもでき」ませんでした。ここに、イエス様が神さまから遣わされた神の御子であることを表す二つ目の事柄が示されています。
その事柄を48節からお読みします。「民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。」民衆は、イエス様が語るような説教をこれまで聞いたことがありませんでした。それもそのはずです。天の父の御子として、イエス様は神さまを直接知っておられ、だからこそ語ることのできる説教だったからです。
神さまに会ったことのない祭司長や律法学者、ユダヤ社会の指導者たちには、決して語ることのできないイエス様のお話は民衆の心を強く動かし、慰め、励ましました。イエス様は、次の日も同じように神殿の庭でユダヤ人、外国人・異邦人を分け隔てせずに神さまの愛と義の福音を語られ、人々は喜びにあふれました。それが、20章1節の出来事です。
すると、そこへ祭司長、律法学者、長老たちがやって来ました。イエス様を問い詰めに来たのです。祭司長、律法学者、長老たちはこうイエス様に尋ねました。20章2節です。お読みします。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」言い換えると、「誰の許可をもらって、神殿の庭で説教をしているのか」という質問です。これは、実は質問の形を取ったイエス様への非難の言葉です。実際には「神殿では私たち祭司長、律法学者、長老の許可なしに説教をしてはならない。出て行きなさい」と言い渡したのです。
次のように言い換えると、祭司長たちの言っていることがどれほど奇妙で、神さまに背く不信仰なことかがはっきりわかります。「神殿で最もあがめられ、最高の権威を持っていて、すべてを決定できるのは私たちだ」と言っているからです。
神殿を教会に置き換えると、彼らの間違いが明確になります。教会で最もあがめられるのは、当然のことですが神さまです。そして、神さまである御子イエス様を頭(かしら)とする神さまの家族・教会が、教会のすべての営みを行います。
祭司長たちは、その神さまがおられることをすっかり忘れていました。神さまの御心を尋ねもせず祈りもせず、まるで事務仕事のように、神殿の事柄を決めていたのです。だから、神殿の庭で商売が行われるような神さまに背く冒瀆行為・罪深いことが平気で行われていました。
神さまであるイエス様こそ、神殿のすべてを決めるはずの方なのです。もちろん、人々に神さまの恵みを伝えるのはイエス様のたいせつな務めでした。しかし この時、イエス様はご自分が神さまの御子であるとおっしゃいませんでした。
その理由のひとつは、この世の価値観にすっかり染まっている祭司長、律法学者、長老たちは、イエス様がそう話されても受け入れないことを、イエス様はよくわかっておいでだったからです。自分は実はメシアで神さまの御子だと言ったら、逆に神さまを冒瀆する者として捕らえられていたでしょう。また、イエス様は聞き入っている人々を思いやり、そのような騒動に巻き込みたくないと思われました。
そこで、イエス様は彼らに逆に問いかけました。洗礼者ヨハネについて尋ねたのです。洗礼者ヨハネは、かつてメシアだと言われ、きわめて清らかな生活を送り、多くの人々に洗礼を授けて罪から清め、民衆に慕われました。
ヨハネは、祭司長、律法学者、長老たちがユダヤ社会の最高権威者だとたてまつっているユダヤの王ヘロデの罪を指摘して、王の怒りを招き、殺されてしまいました。ユダヤの指導者たちにとって、ヨハネは自分たちの罪をあばく邪魔者でした。民衆はヨハネがそうして殺された出来事への深い不満と怒りを抱き、ユダヤ社会の指導者への信頼は地に落ちていました。信仰の指導者であり、神さまに選ばれ召し出され、立てられたはずの指導者たちを、民衆は少しも信用できなくなっていたのです。
人々が神さまを求めようにも、神さまと人々との間を正しく取り継ぐ者がいなくなってしまっていました。その意味でも、この時のエルサレムの町と神殿には神さまとの間の平和も、人間同士の平和もありませんでした。そして、指導者たちは神さまの御心を尋ねる祈りをささげもせず、自分たちから離れてしまった人々の心を取り返そうとやっきになっていました。
イエス様にヨハネの洗礼は神さまからのものか、ヨハネ個人が勝手にしたことかと尋ねられて、彼らは返事に窮しました。ヨハネは神さまの御心に従って洗礼を授けていたので「天の神さまからのもの」というのが正しい答えです。しかし、祭司長たちはヨハネを冷たくあしらい、ヨハネが王に捕えられた時はヨハネのために執り成そうとしませんでした。だから、ヨハネは王に首をはねられてしまったのです。
一方、ヨハネが神さまの御心とは関係なく、自分勝手に人々に洗礼を授けていたと答えれば、そんなはずがあるものかと人々が怒りだして祭司長たちの立場は悪くなります。ご自分の質問に、祭司長たちが「分からない」と答えたので、イエス様はこうおっしゃいました。今日の聖書箇所の最後の聖句、ルカによる福音書20章8節です。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
神さまに仕え、神殿のご用を果たすはずの祭司長たちが神さまのことをすっかり忘れ、本当に大切なこと・信仰をおざなりにしているのは明らかでした。洗礼者ヨハネは、天の父がイエス様を遣わされることを先触(さきぶれ)させるために、天から遣わされた使者でした。しかし、それをこの人たちに言っても何もわからないとイエス様は、「何も言うまい」とおっしゃることで示されたのです。神さまから遣わされたイエス様がわからず、神さまを忘れ、信仰を忘れる人の罪が、ここに同時に示されています。イエス様は、この人の罪をご自身の身に背負って、ご自分の身もろとも罪を滅ぼして、私たちの代わりに罪の贖いをしてくださいました。
今日は、これから聖餐式に与ります。イエス様が遣わされ、十字架の出来事を成し遂げてくださらなければ、私たち人間は自らの罪で滅ぶしかありませんでした。イエス様が三日後にご復活なさらなければ、私たち人間は死の彼方に永遠の命の希望を抱くことは決してできませんでした。その恵みを深く心に留めて聖餐の恵みを受け、この新しい一週間を主に導かれて進み行きましょう。