2013年3月31日
説教題:主、復活の朝
聖書:ヨハネによる福音書20章1-18節
神の独り子イエスは全てを成し遂げて十字架に死なれました。十字架で救いは完全に実現している。人間は皆死ぬのだから、十字架の死で終わっていい、という人がいます。
日本では、多くの人が死で全てが終わったとして、遺体を確認し、葬りをして落ち着きを得ている。婦人たちもイエスの遺体を確認したいと墓に行ったのかもしれません。
墓に行くと、墓を塞いでいた石が除けられていました。それを見てマリアは、イエスの遺体を誰かが他の場所に移した、と思いました。イエスの葬りは、ニコデモが没薬と沈香を混ぜた物を百リトラ持って来、香料を添えて王の葬りのようでした。当時王の墓は盗賊に荒らされたので、マリアはイエスの遺体は盗まれたのだと思ったのです。マリアは肉的な思いとこの世的な考えで墓に来ていたのです。
マリアは、ペトロともう一人の弟子にそのことを知らせ、二人は墓に行って遺体を包んでいた亜麻布を見ました。「もう一人の弟子」は「見て、信じた」。ところが9節に「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」とあります。この弟子は何を信じたのでしょう。亜麻布を見て、イエスは盗まれたのではない、消えた、天に昇った、と信じたのではないかと思います。イエスは「私は父のもとに昇って行く」と弟子たちに告げていたからです。また、20:19には、その日の夕方、弟子たちが家の戸に鍵をかけていたのにイエスが来た、主を見た弟子たちは驚かないで喜んだ、とあります。この弟子たちは、十字架を前にイエスを知らないと言った弟子ではなく、イエスの約束の言葉に支配された弟子になっていたのです。神の言葉に支配されないと復活のイエスを見ることはできないのです。
マリアが墓の外で泣いていると、復活のイエスが現れ「なぜ泣いているのか」と語りかけました。しかしマリアはイエスだとは気づきませんでした。イエスが三回目の呼びかけで「マリア」と言いました。マリアは振り向きました。イエスの声に支配されていたのです。肉の思いも先入観も消え去っていました。マリアは新しい姿の復活したイエスをそこに見ました。そのイエスは十字架につく前のイエスと同じお方にも見えました。マリアは懐かしさと喜びですがりついたのでしょう。イエスは「私にすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と言いました。すがりつくのは、自分の物にしたい、自分がいる地上に留めておきたいという行為です。私たちにはこのような思いがあります。しかし復活のイエスは地上ではなく、天の父のもとに居場所を持っているお方なのです。
イエスは「私の兄弟にこう言いなさい『私の父であり、あなた方の父である方の所に私は上って行く』と」。復活のイエスによって、私たちも神の子、神の民にされるのです。
週の初めの日に主イエスが復活された。そのことを覚えて、この日からイエスの弟子たちは、週の初めの日に礼拝をし、復活のイエスとの交わりを体験しているのです。その主との交わり体験は、み言葉に支配され、信仰を持って主を見る者だけができることなのです。
2013年3月24日
説教題:全てが成し遂げられた
聖書:イザヤ書 53章9-12節 ヨハネによる福音書 19章23-30節
19:28に「イエスは、全てのことが今や成し遂げられたことを知り、『渇く』と言われた。こうして聖書の言葉が実現した」とあります。この聖書を書いた人が、イエスはこの時自分が今どこに居てどのようなことをしているか知っていた、と記しているのです。
これは、事件を起こした人でも契約をした人でも責任能力のない人やそのような状況にあった人のものは効力がないが、主イエスの十字架の贖は効力がある、またイエスはこの時最後まで目覚めた意識で神の御旨に添ってことを行っている、と言っているのです。
19:25以下で、主イエスは母マリアを愛する弟子に託しています。これは、イエスが死を前に苦痛の状態にあっても取り乱さず、自分の死後の母を思い、人間的な愛で冷静に先を見通して言動している、と象徴的な例として記しているのです。
19:28の「聖書の言葉が実現した」は、「渇く」と言ったことだけではありません。19:24にもこの言葉があり、これらの言葉は詩編22編にありますが、イエスはこの聖書の言葉を実現しようと思って行動をしているのではありません。神の御心が全体を支配していたのです。兵士たちの行動もそうです。イエスを十字架につけた人々も神の救いのご計画を実現していたのです。ヨハネ2:1-11のカナの婚宴で母マリアに「私の時がまだ来ていない」と言ったその時、栄光の時が今ここに来ている、実現している、と読むこともできます。
そのようなことから主イエスの十字架の死は、敗北の死ではなく、神の御心が成った、御子がご自分の意志を持って栄光を現し救いを実現した、勝利の死であるといえます。
「渇く」は、人間イエスの渇きの苦しみを現している叫びですが、渇きを覚えている全ての人の渇きをご自分のものとされて、その渇きを神に叫び訴えて、渇いている人に救いを与えるための叫びです。この世の厳しい環境の中に居て、砂漠で焼け付く太陽のもとで生活している人、「義に飢え、渇いている人」の渇きでもあります。神の命の水を求め、神の義を求めている叫びです。この叫びが神の言葉の実現で、救いの実現になっているのです。
30のイエスが十字架上で「成し遂げられた」と言って息を引き取られた言葉は、28と同じで「終わった」という意味ですが、ここでは「完成した」「仕事を仕上げた」という勝利者の言葉です。御子がこれを言ったのは、御子が父である神と一つだということでもあります。御子は、神がご計画し委ねたことを全て成し遂げたのです。神が独り子をこの世に遣わされたのは、神がこの世を愛されたからです。神の愛は人間の考えで分かるものではありません。御子が十字架への歩みでその愛を啓示してくださったので、この世は神の愛を知ることができるのです。その愛によって罪人は救われ、光の中に生きる者にされたのです。
十字架は、罪を贖う、悪魔の支配に対する神の勝利でもあります。悪魔の下で奴隷状態であった人間が、十字架によって解放され、神の愛と義に生きる者になったのです。イエスの十字架の死は、無力な者の死ではない、神の御心と力を持った御子の死です、神の栄光を現す勝利の死です。その死によって私たちは神の愛を知り神に生きる者となったのです。
2013年3月17日
説教題:裁く者裁かれるお方
聖書:イザヤ 53章1-8節 マタイによる福音書 26章57-68節
人間の世界で罪は、場所と時によって違い、今ここで罪とされるという相対的なものです。罪は、掟を破った、的外れで間違えたことを言いますが、掟も的も正しいこともその所と時によって変わるのです。自分を中心に力ある者が基準を決めているのです。
しかし世界は絶対的な正しさを必要とし求めています。教会が「全ての人が罪人である」と言っているのは、世界と歴史の造り主の義によって言っているのです。その義を示し、人々がその義に生きるようにと、自分中心の人間の世界に神の子が遣わされて来たのです。
御子イエスは、神から託された使命を果たすためにマリアから生まれ、十字架への道を歩まれました。その道は、自分が選んだ道ではなく、神が備え示した道でした。私たちは、この御子に罪なき人の姿と神の愛と義の歩みを見ることができます。
しかし、神の民の指導者たちは、自分たちが神の前で正しくあると思っていたので、御子の存在が邪魔者になりました。彼らは相談して御子イエスを殺そうと決めました。
徐酵祭の第一日の夜、イエスを捕えて大祭司カイアファの所に連れてきました。そこに律法学者や長老たちも集まってきました。夜ですが、最高法院の全員が集まって捕えたイエスを裁いたのです。この裁判は、裁く者がイエスは邪魔者だ、邪魔者は殺せ、と決めていて、神の民を納得させるために形式的に行っているものです。人間の世界では裁く者が正しさと力を持っていることが多いのです。しかし、その裁きを人々に正当で有効であると受け入れてもらうことが必要なので、ここで形式的な最高法院を開き、死刑は二回の最高法院で決めるとの規定があるので、27:1に早朝二回目の会を開いて決めたのです。
最高法院を開くだけでなく、審議が正しく行われて死刑が決まった、ということも大事なことです。それで彼らは偽証でもいいからイエスの罪を証言する人を求めました。証人は何人も現れたのですが、二人以上が同じ証言をしなくては有効な証言になりません。お金や権力者に媚びて偽証する人がいるのです。人々は正しさを軽く見ているのです。
この時、少し離れたところでペトロが自分の身を守るために、イエスと一緒だったと言われると「そんな人知らない」と誓って打ち消しています。私たちも同類の人間です。
しかし偽証人が何人現れても証拠が得られないでいると、二人の者が来て証言しました。自分に不利な証言がされてもイエスは黙り続けていました。自分を守らないイエスの沈黙は大祭司には理解できませんでした。この沈黙はイザヤが告げている主の僕の沈黙です。
大祭司はイエスに「お前は神の子か」と問いました。イエスは「そうです」「人の子が全能者の右に座り、雲に乗ってくる」と言いました。大祭司は、人々の同意を得てイエスを死刑に決めました。罪人の人間が裁いて、神の子を十字架につけたのです。
神の前に謙遜になれ、悔い改めよ、と言って神の義を告げる神の子を、邪魔者として、大祭司も人々も自分を守るために、十字架につけたのです。この十字架によって私たちは、自分たちの罪を知り、神の義を知ったのです。そして神の義に生きる者にされたのです。
2013年3月10日
説教題:キリスト者の生き方
聖書:マタイによる福音書 25章31-46節
主イエスは、人の子は天使たちを従えて来て栄光の座に着き、全ての民を集めて彼らを分ける、と言いました。「人の子」はイエスご自身のことです。十字架を前にした最後の教えで、イエスはご自分がこのような者であると語り、キリスト者の生き方を示しています。
人の子が、栄光を持った王となって世界の全ての民を集めて裁かれる。その時右と左に分ける基準は、34節以下にある「私の兄弟であるこの小さい者に愛の業をしたか、しなかったか」です。王は右側に分けた人に、「祝福された人たち」と呼びかけ「天地創造の時からお前たちに用意されているこの国を受け継ぎなさい」と言いました。この人たちは自分がいつ愛の業をしたか覚えていません。自分は特に意識せずにその業をしていたのです。
32節の「全ての国民」は「すべての異邦人」とも訳せます。40節の「私の兄弟」は、この教え全体から全ての国民、すべての隣人であると読めます。全ての異邦人が、その隣人に対して愛の業をしているか、を基準にして裁かれることになります。世の終わりの時には、キリストを知らない人も全ての人が集められて、この基準で裁かれる。この基準が天地創造の時から人間の中に用意されていた、と考えられます。
この考えは、ローマ2:13~15「たとえ律法を持たない異邦人も律法の命じるところを・・行えば、・・・、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその人の心の中に記されて・・・います」に通じるものがあり、キリスト者以外でも愛の業を重んじ、実行している人がいるので、信仰を問わないで愛の業を勧めている、と読めます。
それに対して、「私の兄弟に」を基準に裁かれることは、その時までに全ての人に伝道されていることを前提にしているので、この教えは弟子たちに伝道に励めと勧めている、とも読めます。これはマタイ24:14「この福音は・・・全世界に宣べ伝えられる。それから終わりの時が来る」、28:19「全ての民を私の弟子にしなさい」等もあり、説得力があります。
その伝道をするキリスト者はこの世でどのような者で、異邦人にどう対すべきなのか。ここでイエスは「私の兄弟は小さい者である」と言っています。イエスは、私の兄弟は十字架の愛で小さい者になって異邦人に出会いなさい、と言っているのです。それで異邦人も、十字架の福音が分かり、ここに神の国が来ていると分かるのです。
それに対して左側の人は、キリストの弟子に出会っているのに、それに気づいていないのです。この人は、自分が大切だと思う人には愛の業をしていたので、「いつ私が愛の業をしませんでしたか」と問うています。この人は自分の判断、自分の愛の業に自信と誇りを持って生きていたのです。しかしこの人は「呪われた人」とされたのです。
マタイ7:21-23でイエスは、天の国に入るのは父の御心を行った者であるが、「私は御名によって預言した、奇跡も行った、愛の業をした」と言った人ではない、と言っています。
私たちは自分の判断行い生き方を誇ります。しかしそこに罪があります。キリスト者は、十字架の愛によって生かされているので、自分を主に捧げ仕えて小さい者になるのです。
2012年3月3日
説教題:イエスの権威を知る
聖書:マタイによる福音書 21章18-27節
主イエスの十字架と復活を覚えることは、私たちが十字架と復活によって意味ある者とされていることを、また今ここに生かされている原点とその歩みを、知ることです。
21:23に、イエスが神殿の境内で教えていると、祭司長たちが「何の権威でこのようなことをしているのか、誰がその権威を与えたのか」と言いました。彼らは神の民の信仰と生活全体に対して、秩序を守り指導する責任と力を持っていました。その力が権威です。権威は目的を達成する自由意志と力を持っています。「親の権威」もありますが、親には完全な自由はなく、神の権威の下にあります。神だけが絶対的な権威ある者です。
ところが人間は神抜きに自分を権威ある者と考えるのです。祭司長たちはイエスが自分たちの許可なしに神殿で勝手に振る舞っているのは何事か、問い詰めて処罰しようと思ったのでしょう。主イエスはこの時すでに決断をして、売り買いしていた人々を追い出し、境内で教えていました。その決断は十字架で人間の罪と神の義を明らかにすることです。
18-22に、イエスがベタニアから都に帰る途中、いちじくの木が葉を繁らせているのに実がなかったのでその木を枯らした、と記されています。これは、葉だけを繁らせて実をつけていない木が、神殿で捧げ物をして見た目には立派な礼拝をしているように見えるが、信仰の実がない信仰生活を示している、とご覧になっての裁きを、象徴的に表しています。
主イエスは、祭司長たちが「何の権威でこのようなことをしているのか」と問うたのに対して、「では、私も一つ尋ねる,それに答えたら私も何の権威によるか言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものか」と、逆質問をしました。イエスはこの質問に答えを用意していますが、イエスはその答えを外から与えるのではなく、彼らが自分自身の中で確かな答えを得、それをはっきり口で言い表すことを求めているのです。
祭司長たちはイエスの質問について互いに論じ合いました。彼らも答えをはっきり持っていたのです。「ヨハネの洗礼は神から来ている」と。しかしそれを彼らが言うと、「では、なぜヨハネを信じて、悔い改めの洗礼を受けなかったのか」と言われことは明らかです。しかし、それは民の前に権威を持っている彼らにはできないことです。
「ヨハネの洗礼は人からのものだ、だから我々はヨハネの所に行かなかった」、と言えば「群衆が怖い。皆がヨハネを神からの預言者と思っているから」。ということで、彼らは「分からない」と答えました。彼らは分かっているのに分かろうとしないのです。その権威を認めたくないのです。彼らは、自分たちを権威ある者としているので、謙遜になって御言葉に従って歩むことを拒否しているのです。そこには真の実りある歩みはありません。
イエスの権威を無視する人、知ろうとしない人、その権威を認め受け入れて歩むことをしない人がいます。その人たちにはイエスの救いが関係ないものになってしまうのです。
しかし、主イエスの権威を正しく知って、その権威を受け入れる時、私たちは神にあって意味ある者となり、実を結ぶ救われた命に生きる者となるのです。
20013年2月24日
説教題:神が居ますところ
聖書:イザヤ書56章1-8節 マタイによる福音書 21章12-17節
主イエスはろばに乗って柔和で平和な王であることを象徴的に示して都エルサレムに入られました。そして神殿の境内に入ると、異邦人の庭と言われているところで売り買いしている人々を皆追い出し、両替人の台や腰掛を倒されました。乱暴な振る舞いです。
神殿にある異邦人の庭は、ヘロデ王によって拡大された神殿の三分の二以上を占める広さで、異邦人も身障者も入ることができ、両替や売り買いもされていました。両替も売り買いは礼拝に必要なことであると公式に許可され認められていました。その庭に立ったイエスは、その売り買いしている人々を皆追い出し、台や腰掛を倒し「私の家は祈りの家と呼ばれるべきなのに、あなた方は強盗の巣にしている」と言ったのです。
このイエスの言葉はエレミヤ書7章にありますが、人々がいつもは神の声に聴かないで、自分中心で異教の神に従うことをしているのに、私は神がいますこの神殿に来て神を礼拝しているので神に守られている、とこの神殿に来て平安を得ている。その信仰生活は、神殿を強盗が安らぎの場にしているのと同じだ、とイエスは境内で売り買いしている有様を見て乱暴な振る舞いをされたのです。
売り買されている品物は確かに礼拝を重んじるものでした。しかし、そのことが心から礼拝をすることよりも、捧げ物の立派さを誇るようになったのです。イザヤ56章は、それまで汚れた者なので神殿に入れないといわれていた異邦人や宦官でも、謙遜になって真実に神を求めて神の許に来る者は、神が迎え入れると言っています。異邦人、宦官、障害者でも心からの捧げ物をもって来るなら神は差別なく迎え入れる、と言っています。
神が居ますところが祈りの家になるのです。立派な神殿でも神が居ないなら空虚な家です。神は神殿だけでなく、私たちが生活している全ての所に居ます。神との真実な交わりである礼拝で大事なのは、場所でも捧げ物がでもない。心から謙遜になって真実に神を求める者であること、公義と愛の歩みをすること、毎日の生活が大事なのです。その者が祈り求める時、神はお会いしてくださるのです。礼拝の時だけ立派な捧げものをする信仰生活ではいけない。主イエスはそのことをここで象徴的に示しているのです。
神が喜ぶのは、神の前に謙遜になって公義を行い、愛を以て弱い者、小さい者と共に歩むことです。主イエスは売り買いする者たちを追い出した後、境内にいた目の見えない人や足の不自由な人がそばに寄ってきたので、これらの人をいやされました。異邦人の庭にはこの人たちも礼拝のために来ていたのです。イエスがここで一人行ったことは広い庭の中で目立たない、一部の人にだけわかる象徴的な行為だったでしょう。しかしイエスの言葉と行為を注意深く聞き見ていて人には、イエスが神と共にいること、イエスご自身が神のご支配を示していることが分かったでしょう。それでこの行為が伝えられたのです。
イエスの十字架によって、憐みと愛の神が私たちの所に来てくださったのです。それで私たちは日常の生活の場に神が居ますことを知り、イエスと共に愛の生活をするのです。
2013年2月17日
説教題:十字架の主の招き
聖書:創世記 19章1-14節 マタイによる福音書 11章20-30節
神の子イエスは、地上に来て神の救いを知らせ、その救いの中に生きるように招いてくださいました。「神の国は近づいた。悔い改めて、私の招きに応えなさい」と。
しかし人々は、イエスから神の救いを聞いても、その救いの言葉を心に宿すことをしないのです。「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた」とあります。イエスが力の限りに救いの業を行って神の救いを示したのに、人々は悔い改めないで自分の思いを宿したままで、心を変えないのです。
どうしてでしょうか。イエスに足りないところがあったのでしょうか。私たちも伝道して成果がないと、その理由や原因を考えます。主イエスは、自分の力不足や行っていることが間違えているとは思いませんでした。この町の頑なさを叱っています。そこに理由があるからです。「コラジン、ベトサイダお前は不幸だ。」と叱責しているのは、神によってお前たちの責任が問われる、ということです。
イエスは神の子で、神には大きな力があるので、上からの力で人々を悔い改めさせることができるかもしれません。その見方からするとイエスは持てる力を使い切っていないと見えます。私たちも「もっと強い力で言ったらよいのに」と言われることがあります。しかしイエスは、その人の意志を無視して上から力で悔い改めさせるのではなく、自主的に自分自身が心から救いを受け入れて悔い改めることを望んだのです。それでイエスの憐みの心で罪人に救いを告げ、示して招いたのです。頑なな心を少しでも柔らかくして、イエスの言葉を受け入れれば、悔い改めは起こったのです。
イエスは、「お前たちの所で行ったことを」他の町で行ったら人々は悔い改めた、と言って、悔い改めないお前たちは裁きの日に厳しい裁きがある、と警告しています。ここにソドムの名前がありますが、ソドムは、創世記18,19章に罪のために滅ぼされた経緯が記されている、悔い改めないために滅ぼされた有名な町です。その町よりもお前たちの頑なさの罪は重い、と告げているのです。
ここでイエスは、力いっぱい行ったご自分の宣教が間違えていたとも失敗したとも思っていません。25節以下で、これらのことは神の御心に適っていた、と神をほめたたえています。これはイエスが、人間的に見たら失敗の宣教のように見えても、神の御心に適った、神の御業が自分を通して行われていることを信じ、見ての発言です。父なる神の御業はどのように実を結ぶのでしょうか。「これらのことを知恵ある者、賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。これは御心に適ったことです」と言っています。自分の知恵や賢さを誇り、それによって救いを獲得したのだと思う人ではなく、幼子のように救いを恵みとして感謝して受け入れる人に救いが与えられる、それが相応しいのです。
受難節のこの時、私たちは自分自身が何を誇り、誰と一緒にどの道を歩んでいるかを改めて見直し、イエスの招きにお答えして歩んでいる歩みを自己吟味したいと思います。
2013年2月10日
説教題:十字架の主と弟子たち
聖書:エレミヤ書 8章8-13節 マタイによる福音書 10章34-42節
マタイ10:34はイエスの言葉だろうか、と意外な思いをさせる言葉です。しかしイエスはここで、「周囲の人たちと争いを起こしなさい。剣を手にしなさい」と、争いを勧めているのではありません。真の平和をつくりなさい、と言っているのです。
この世の人は争いを好んでいません。それで見た目で人と争っていない平和を重んじ、心の中では憎しみや不平、不満があっても仲良くする平和を重んじています。しかしそのような平和は、自分の心を抑えるか、社会など外の力によって治められている見かけだけの平和で、そこに本当の平和や正義があるとは言えません。心に平和があって「真の平和」があるのです。そこで何によって心が平和であるかが問題になります。
エレミヤは、神の民ユダが神に罪を犯したので、ユダはバビロンによって裁きの鞭を受ける、だから民の指導者は神の前に悔い改めて神の言葉に聞き従え、と言いました。しかし、民の指導者たちは「自分たちは神に立てられて務めをしている。律法による神の義を行っている」と言って、エレミヤの言葉を聞きません。それで「神から罰を受けて指導者たちは捕えられ、征服者の手に渡される」と警告しています。どしてそのようなことになるのか。皆が自分の利をむさぼり、自分に都合がよいように物事を考え振る舞って、この国は平和だ安心できる、と言っているからです。
これはエレミヤの時代のユダの国だけではありません。いつの時代でも地上の国に言えることです。人々は自分中心の心で生きているのです。神の言葉も自分に都合が良いように理解して、自分中心の平和を神による平和だ、この平和を大事にしろ、守れという生き方をしているのです。イエスはそのような見せかけの平和をつくり、安心している人たちの中に、真の平和をつくるために来たのです。剣は罪と戦うもので、自分中心の思いを打ち破るためのものです。
主イエスは罪人たちの中に来て、十字架によって罪を贖ってくださり、私たちを新しい人にしてくださいました。新しい人は、十字架によって罪の壁、自分中心の敵意という壁を取り除いていただいた人です。キリストのご支配のもとに自分も隣人も見る人です。その人は、自分も隣人も同じように神に愛されているのを見て、隣人を愛します。
37節は「家族を愛するな」というのではありません。自分の思いで家族を愛するのではなく、十字架の愛で愛しなさい、と言っているのです。キリストが私たちの罪を負って贖ってくださったのですから、私たちも他の人を罪人と突き放すのではなく、家族や隣人の罪をも負ってキリストに従うって歩むのです。それがイエスの弟子で、キリスト者です。
私たちキリスト者が、十字架による平和がここにあるという歩みをして、キリストによる新しい神の民の誕生を示し、宣べ伝えることによってこの世に神の平和が実現するのです。私たちが信仰を持って、十字架の主の弟子として歩むとき、主も私たちと共にいて働いてくださり、私たちを心の中に真の平和を宿す人にしてくださるのです。
2013年2月3日
説教題:神が造り治めている
聖書:創世記 1章24-31節 マタイによる福音書 10章26-31節
今日の聖書で主イエスは弟子たちに、「恐れるな」「恐れよ」と重ねて言っています。イエスの弟子はどうして恐れを持つのでしょうか。それはイエスの弟子がこの世では少数者で弱い者だからです。私たちは肉の目で見た数や大きさを尺度として判断します。しかし主イエスが生きている世界は、見えない神が生きて働いている神の世界、神の国です。
「覆われているもので、現れないものはない」とイエスは言っています。イエスは「神の国が来たことを人々に告げよ」と弟子たちに命じ、弟子たちをこの世に遣わしますが、この世は神の国を見ることができないでいます。それで弟子たちは、神の国に対するこの世の無理解によって妨害や迫害を受ける、それで恐れるのです。しかし、主イエスは「覆われている神の国も現れる、だから恐れないで私が伝えた福音を人々に告げよ、私が遣わしている使命を果たせ」と弟子たちに命じています。
ここで主イエスは、弟子たちが告げていることが実現したら弟子たちが大きな存在になり力を持つことになる、だから恐れるなと言っているのではありません。神の国が来るのは、神のご計画で神の業による、だから神の国の実現は明らかなことである。だから無理解や妨害があっても、恐れないで福音を告げなさい、と言っているのです。十字架の時までは、主イエスは弟子たちだけに十字架と復活の福音を伝えていました。しかしペンテコステ後には、教会は公然と福音を語り出しました。神がご計画によることです。
この世界は神が造り治めているのです。神の御心によって救いが来たことを告げるのに、何も恐れることはないのです。ここでイエスは「体を殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と言っています。私たちも体を殺すものを恐れ、前に出ていけないで、引っ込んでしまうことがあります。そこで、私たちは、体と魂を共に造りご支配しているお方にあって生きるとの確信に立ち、神との交わりを大事にして、神の子としての歩みをするのです。そして、神は一羽の雀が地に落ちて死ぬことさえも心にかけ、私たちの髪の毛も数えて下さっている、この神の御心なしに生も死もない、と主は告げています。ですからその神を信頼し、すべてを神に委ねて、与えられた仕える道を歩むべきなのです。
この世界は、見えるもので判断しているので、キリスト者が存在し福音を伝えることには無理解で、抵抗や拒否があり、困難があります。しかし、神を信じている者は死を恐れることも、この世を恐れることもありません。死を告知された人が、残された命を死を恐れずに生きて福音を伝えた、という事例は数多くあります。私も牧師として、そのような人を教会員の中に、幾人も知っています。
神の国の到来は神の業で、神が世界を造られたその完成です、神の勝利の業です。その業の中に教会が建てられているのです。神の勝利をこの世と歴史の中に示すしるしとして、教会が存在し、キリスト者が存在しているのです。ですから、私たちは少数者で弱い存在であっても、恐れることなく、神の民として最後まで感謝と讃美の生活をするのです。
2013年1月27日
説教題:狼の中に羊を遣わす
聖書:エレミヤ書 20章7-13節 マタイによる福音書 10章16-25節
10:12に「私があなた方を遣わす」とある「あなた方」は、12弟子であるよりも私たちキリスト者です。イエスの弟子たちは十字架と復活の後に迫害を受けるようになったのです。
キリスト者は、新しい神の民、牧者である神に生かされ養われている羊です。キリスト者がこの世に生きることは狼の中に羊が生きるようなものである、と主イエスは言っています。狼は肉食動物で、群れで縄張りをつくり餌を捕って、自分たち中心の世界をつくっています。その中に、キリスト者は主から使命を与えられて遣わされているのです。その使命は「天の国は近づいた」と伝えることです。天の国は、神の国で地上の国境や国籍を消し去って、ユダヤ人もギリシャ人もない国籍は天にある、神の民の国です。その神の民は、狼の群れの中ではその存在も声も拒否され否定されて、迫害を受けるのです。
エレミヤは、神の民が神に対して罪を犯しているので、神の民は神から罰を受けてバビロンに滅ぼされた、だから謙遜になって神の言葉に聞き従うように、と訴えたのですが、民は罪の生き方を改めず反って彼を迫害しました。それでエレミヤは、預言者として語ることを止めよう、と思ったのです。地上の世界の状況は現在も同じです。
主イエスは「私があなた方を遣わす」と「私」を強調しています。主イエスが責任を以て、使命を果たすのに必要な力を与え、使命を託して遣わす、と言っているのです。それで私たちは、狼の中に遣わされた羊であることを知っていても、使命を果たす者として生きることができるのです。狼の中で生きる羊は、羊が自己の強さで戦うのではなく、小さくなって身を隠すのでもなく、遣わされた方を信じ、その方に聞き従って生きるのです。「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」と主イエスは命じています。
「蛇の賢さ」は、悪賢さの意味もあり、その賢さがサタンに利用されることもありますが、悪賢さで身を守ることがあります。「鳩の素直」は「単純、汚れを知らない」「騙され易い」という意味もあります。「蛇の賢さ」と「鳩の素直さ」を持ち、両者を賢明に活用することが狼の中で生きるのには必要です。
「人々を警戒しなさい」は周囲の人を狼として警戒することですが、必要以上に心配し恐れないで生活していいのです。狼に捕えられて裁きに引き渡されても、そのことが異邦人に福音を伝える遣わされた使命を果たすことになるのです。その時、何をどう言おうかと心配しないでいい。自分の賢さや知恵で語るのではなく「話すのは、あなた方ではなく、あなた方の中で語ってくださるのは父の霊である」。この霊は、教会の頭であるイエスの霊,聖霊です。教会に宿っている霊、キリスト者の内に宿っている霊です。
迫害は親しい者からも、身内からも起こります。周囲の人々から迫害されるのは辛いです。しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われるのです。一つの町で迫害されたら逃げろ、とも言っています。逃げるのも賢さです。救いは、遣わしてくださった方を信じて、蛇の賢さと鳩の素直さを以て歩むところにあるのです。希望を持って耐えて歩み貫くのです。
2013年1月20日
説教題:主からの派遣
聖書:マタイによる福音書 10章5-15節
【説教】
イエスの弟子たちは、自分が救われたいからイエスについてきたので、人の重荷を負ってあげるとか、悩み苦しむ者に喜びを与えることなどはできない人たちでした。主イエスは、そのことを十分にご存知で、その弟子たちの中から12人を御側に呼ばれ、力を与え育て、十分に働くことができる者にしたのです。私たちはキリストに呼ばれ、御側にいて共に歩むことによってキリスト者へと育てられているのです。
12人はイエスの所から神の国を信じていない人々の所に派遣されます。派遣するとは、派遣する者が責任を持ち、力を与えるということです。派遣される者は自分の思いや力で出ていくのではありません。派遣するに当たってイエスは幾つかのことを言いました。
先ずどこに行くか。自分の思いで選んだ所ではなく、主が示す所、主がお考えになっている人のところに行って、派遣された者として働きをし、使命を果たすのです。
その派遣された使命、働きは、「天の国は近づいた」と福音を宣べ伝えることです。これは主ご自身が語り行ったことです。ですから弟子たちは、主が語り行ったことを見倣って行えばよいのです。ここで主は「病人を癒し、死人を生き返らせ」と私たちにとてもできない、と尻込みしてしまうことを命じていますが、主が責任を以て弟子たちを派遣し力も与えているのです。弟子である私たちは、主を信じて、命じられたことをできるだけの力で行えばよいのです。主が私たちの思いを超えて豊かな実を結ばせてくださるのです。
「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」利益を求めて宣教するのではありません。十字架の恵みをただでいただいているので、報いを求めることなく喜んで福音を与えるのは当然です。「お金も着替えも持って行くな。」と言っています。このように命じて派遣しているイエスを信じて、出て行って宣教するのです。自分が持っているお金や力で宣教するのではありません。「働く者が食べ物を受けるのは当然である。」主に派遣されている弟子たちは、主が責任を持って必要なものを与えられるのです。
宣教の旅をしている時、相応しい家があったら、その家に留まるように命じています。相応しい家は弟子たちが調べて決めるのではありません。主が決めているのです。神の言葉を喜んで聞いてくれる家が相応しい家なので、その家は神の平和が満ちる家になるのです。相応しくない家は、神の言葉を受け入れないで拒否する家です。その場合にはその家への宣教は打ち切って他の家に向かいなさい、と命じています。その家の塵を払って、新しい心で他の家に向かうのです。その家については主に委ねるのです。弟子たちは神のご計画の中で、主が相応しいとされている人に宣教し、留まるように命じられているのです。
この12人を派遣した主は、今、教会の頭として教会に私たちを呼び寄せ、この世に派遣してくださっているのです。主は、私たちがキリスト者として生きるのに必要な力を、教会を通して与えて下さっているのです。ですから、私たち自身は弱い者ですが、主からこの世に派遣されているキリスト者として喜びと光栄の思いで生きていくのです。
2013年1月13日
説教題:主に呼び寄せられた者
聖書:マタイによる福音書 10章1-4節
【説教】
主イエスが町や村で宣教していると、多くの群衆がついてきました。その中にイエスに批判的な人もいましたが、イエスに神の権威があるのを見て従っている人々がいました。
特にイエスが「来なさい」と呼ばなくても、イエスは神の権威を持っている、とイエスについて来る人はいたのです。現在でもいます。しかしイエスはその弟子と呼んでよい人たちの中から12人を特に選んで呼び寄せられたのです。それには目的がありました。この世を救うための働き手が必要で、その働き手を育て、遣わすためです。12人は、神の民の12部族を象徴的に意味しているといえます。この12人を基に新しい神の民を形成し、教会を建てる土台にしようというご計画があっての12人と思われます。
マルコ3:13,14は「イエスが、これと思う人々を呼び寄せると彼らは側に集まってきた。そこで12人を任命し、使徒と名付けた」と記しています。「これと思う人々」は、イエスがふさわしいと思われた人々ということですが、この人たちは神の民の基、教会の土台になるのにふさわしいと人間が思うのとは全く違います。主イエスは、12人を呼び寄せると、「任命し、使徒と名付け」ました。それは、形だけでなく、力を与え務めをする者にした、その人を相応しい者に造り整えた、ということです。その具体的なことが、イエスの側に置いて、派遣して宣教するための力を与え、悪霊を追い出す権能を持たせることなのです。
マタイ福音書でも、聞き従っている者の中から呼び寄せて、汚れた霊を追い出す権能をお授けになっています。生まれながらの人間は、どんなにイエスの教えと業に感銘し、イエスを讃美しても、人々の前に出て行って悪霊を追い出し、神の言葉に聞き従う者にする御言葉を伝える力はないのです。イエスの側にいて共に歩み、必要な力をイエスから与えられることが必要なのです。十字架と復活の命と力はイエスと共にあるのです。
12人の名前が記されています。漁師の兄弟は人を教え導く知恵や力が備わっていない人々です。徴税人のマタイはユダヤ人からは異邦人に仕えて神の民を苦しめている罪人と呼ばれていました。熱心党のシモンは、異邦人ローマの支配は許せない、メシアが来て神のご支配が実現するためには武力行使もしよう、と考えている人です。徴税人と熱心党は相対立する考えの人たちです。それに「イエスを裏切ったユダ」がいたとあります。私たち人間の考えではこのような人たちが神の民の基にふさわしいとは思われません。力不足な人たちであるだけでなく、一つにまとまると思えない人たちの集団に思われるからです。
しかし主イエスは、十字架と復活によって新しくした神の民を形成しようと計画されて、私たちが持っている基準や枠を破って、この12人を選んだのです。すでに相応しくなっている人を選び用いるのではなく、小さな者を相応しい者として生かし用いられるのです。雑多な者を集めて、神に生かされていることを喜び賛美する豊かな神の民にするのです。
私たちも、主イエスによって御側に呼び寄せられて、生かされ、キリスト者として生きる力を与えられて意味ある者にされているのです。
2013年1月6日
説教題:キリストが働かれる
聖書:ローマの信徒への手紙 15章14-21節
【説教】
今日は今年最初の主日ですが、教会では公現日と呼んでいる日です。クリスマスの恵みと光が異邦人にも及んだ、全世界の人々に福音の喜びが与えられたことを記念する日です。
ローマ15:15でパウロは「記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました」と言っています。自分の思いを分かってもらうようにと強くはっきり書いたのです。「記憶を新たにしてもらう」ためであり、「私が神から恵みをいただいてキリストに仕える者となり、祭司の役を務めているからです」と言っています。パウロはローマの教会に行ったことがありません。その教会宛に書いていることは、新しいことではない、ローマの信徒がすでに聞いていることで、「記憶を新たにする」のです。基本的なことや大事なことは繰り返し思い起こし確認します。私たちが礼拝で聞いている御言葉も同じ、すでにキリストによって新しく生かされていることを確認しているのです。
パウロは、キリストに仕える者、祭司の務めを与えられている者として思い切って書いたのです。祭司として、異邦人のローマの信徒が神に喜んで受け入れて頂ける供え物になるようにとの思いを持って、書いたのです。パウロは「神のために働くことができることを、キリストによって誇りに思っています」と言っています。人間は誇りを持つことで生きるのです。誇りを失うと生きる意欲と力を失います。誇りが自分中心の自慢になることがあり、他から見て価値がないと思われるものを誇りにしている人もいます。しかしその誇りを傷つけてはいけない、その誇りで生きているので、それを受け入れることがその人を生かすのです。どのような誇りを持って、どのように生きるかが大事なことです。
神のために生き働くことを誇るパウロのこの誇りも、この世的には特に評価されるものではないでしょう。しかしパウロは、自分の働きを評価するのは自分が仕えているキリストで、キリストによって自分の存在も働きも意味があり誇りもある、と言っています。パウロは、18節で「キリストが私を通して働いているからだ」と言っています。キリストが私を通して働いている、私を用いて下さっている。私の中のキリストが働いてくださっている、そのことをパウロは喜び、誇りに思っているのです。パウロは自分の知恵や力で生きたのでも伝道したのでもありません。キリストがパウロの内に宿って働いたのです。
14節でパウロは「兄弟たち、あなた方自身は善意に満たされ、互いに戒めあうことができると、私は確信しています」と言っています。善意に満ちて互いに戒めあうことができる、ということは普通の人間関係ではできません。しかしパウロは、一度も会ったことがないローマの信徒たちですが、キリストによってキリスト者であると確信させられている、と言っているのです。それはキリストが肉の人間の主となって働くことによってだけできることです。キリスト者は皆その人の内にキリストが宿り働いているのです。
神は、異邦人であった私たちをもキリストによって生きる者、神の御用をする者にしてくださっているのです。その記憶を新たにしてこの年を歩みたいと思います。
20012年12月30日
説教題:この世の王と神の子
聖書:ミカ書 5章1-5節 マタイによる福音書 2章1-12節
【説教】
イエスはユダヤのベツレヘムでヘロデ王の時代にお生まれになりました。その時、東の国から学者たちが来て「ユダヤ人の王として生まれた方はどこにいますか」と尋ねるのを聞いて、ヘロデ王は不安になりました。ヘロデは自分の才覚と力で強引にローマから「ユダヤの王」という名称を得ていましたが、王の権威も民からの信頼もないのを知っていたので、自分が王でいることはできないのかと恐れたのです。民もヘロデが王でいるために何をするか分からないと不安になりました。ヘロデは不安から2才以下の男子を殺させました。
この世の王全てがヘロデ王のように自分の力で王になっているのではありません。この時ローマの皇帝はルカ2:1に記されているアウグストゥスです。少し前ローマは三頭政治でした。カエサルが実権を持って独裁になると対立者に殺され、また三頭政治になりましたが、三者の間で対立があってオクタヴィアヌスが残り、アウグストゥス(皇帝)の称号を与えられました。この時代を「ローマの平和」と呼びます。ローマは外国と戦争をしない、国内に混乱もない時で、この時の政治が理想とされています。しかし、占領地の住民にもローマ人と同じ権利を与えて帝国全体の問題を対等に担わせる、との考えに同調できない人がいました。差別を求める心が人にあり、人間の制度や知恵や力には限界があります。
平和な王と呼ばれているローマの皇帝も、ヨセフとマリアがナザレからベツレヘムに旅をし、飼い葉桶の中に幼子を寝かせることになる、勅令を出しているのです。この世の王は貧しく弱い者を救いきれないのです。人々が苦しみ、死の危険の中を歩むのです。
神の子はこの人間の王が支配している世に与えられたのです。この神の子は、都エルサレムではなく、小さな村ベツレヘムの馬小屋で生まれました。貧しく弱く、裸で生まれ、寝かされたのは飼い葉桶で、この幼子に出会った学者たちは喜んで持ってきた宝を捧げて幼子を拝みました。この幼子は神の子だと知り、信じたからです。
この神の子は、自分の力や身分で人々を支配し従わせるお方ではありません。この神の子は、出会う者が、命を与え恵みを与えて下さる神がこの子と共にいることを知り、心から従うようにさせられる、お方です。学者たちがそうでした。羊飼いたちもそうでした。なぜそうなるのでしょう。神の子は何よりも神の国の王なのです。神の民を治め、民の命と生活を守り、その民の存在と働きを神の国にあって意味あるものとする王なのです。
その神の国の王がこの世に来たのがクリスマスです。神の国の王はこの世の王をも治めるのです。私たちはこの世の統治者の下で生きています。神はこの世の王を御心によって治め用いています。ですから私たちは神の民として、神に従いこの世の王にも従うのです。神の民であることによって地上の私たちの命と歩みに意味あるのです。
クリスマスに神の子に出会いった私たちは、神の民として神の国のために生きる者でありたい、との思いを持って、この年を送り、新しい年を迎えたいと思います。
2012年12月23日
説教題:神は我らと共にいます
聖書:イザヤ書 7章12-14節 マタイによる福音書 1章18-23節
【説教】
クリスマスに誕生したイエス・キリストはどのようなお方なのでしょうか。
マタイ1:18,19によると、ヨセフは婚約者のマリアが身ごもっていることを知って、戸惑い迷った末、密かに縁を切ろうと決心しました。その時、天の使いがヨセフに「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」と告げました。クリスマスに誕生したイエスは、神が御心によって時と母となる女を選んで、人間の男性を排除して聖霊によって身ごもり、御力によってマリアから誕生したのです。イエスは第一に、神が人となって歴史の中に誕生し、歩まれたお方です。
神はどのようなお考えによってマリアをイエスの母に選んだのか。それは婚約者であるヨセフがダビデの血筋の中に居たからです。マリアに母となる資格や力があったからではありません。神はダビデの子孫に救い主を与える、と約束されていました。神は歴史の中で約束を確かに果たされます。そのことは私たちに安心感と希望と生きる意味を与えます。
ですから、聖書はヨセフが「正しい人であった」他に、どんな人物であったかは何も記していません。しかし1~16節まで長い系図を記して、これはイエス・キリストの系図であると1節と16節で記しています。20節で天の使いは「ダビデの子ヨセフよ」と呼びかけています。マリアはヨセフの婚約者であったことで選ばれ、ヨセフはダビデの子孫でマリアの夫であることで神に用いられたのです。人は神のご計画の中に用いられることによって、意味ある存在となり、意味ある働きをするのです。
天の使いは「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と言いました。イエスという名前は「救う」という意味で、天の使いによって名付けられたイエスは名前通りに救いを実現する、十字架で民を罪から救う救い主になりました。
第二に、イエスはインマヌエル「神は我々と共におられる」と呼ばれるお方です。神が我々と共におられるということは、長い系図を示すことによって、神が歴史の中に共にいてご計画を実現されることを表現しています。それと共にインマヌエルの名は、神が私たちと共におられる、と言っているのです。誰が誰と共にいるのかは重要なことです。イエスは罪人と共にいて十字架で罪を贖ってくださいました。しかし現実の人間の世界は、罪の刑に服して刑期を終え拘束から解放されても、前科者だ、前にあんなことをした、と過去から自由になれないのです。私たちは弱いので「新しい人、強く正しい人になっている」と胸を張って歩めないのです。私たちは、十字架で新しい人にされても、自分に自信がなく不安があり、なんという惨めな人間なのだろう、と嘆くことをしてしまうのです。そのような弱い人と共にいてくださるのがクリスマスの御子です。「私が神と共にいる」のではなく、「神が私と共にいてくださる」のです。このお方が救い、共にいてくださることによって私たちは救いの喜びに生きることができるのです。
クリスマスの御子は十字架のイエスで、いつも私たちと共にいてくださるお方なのです。
2012年12月16日
説教題:先駆者と救い主
聖書:イザヤ書 35章1-6節 マタイによる福音書 11章2-11節
救い主の到来は突然あったのではありません。神から預言者たちに約束され知らされていました。預言者は神から与えられた言葉を民に伝えていましたので、神の民は救い主が来るのを、備えをして待っていました。私たちもクリスマスを迎える備えをしています。
マタイ11:2-11のヨハネは、預言者ですが、救い主の使者、先駆者でもあります。ですから、ヨハネは、救い主が来ることを知らせるだけでなく、自分の罪を悔い改めて救い主をお迎えし、救いの喜びに与かるように、と語り人々に悔い改めの洗礼を授けていました。
その悔い改めをヘロデ王にも迫ったのですが、ヘロデは悔い改めないでヨハネを牢に入れたのです。ヨハネは、牢の中でイエスがなさっていることを聞き、イエスが約束されている救い主キリストであり、自分はその方の先駆者である、との確信を得たのでしょう。
ヨハネは自分の弟子たちをイエスの所に送って「来たるべき方はあなたですか」と尋ねさせました。弟子がイエスから直接「自分が来たるべき救い主である」と聞くことを期待して弟子を送ったのだと思います。ヨハネからの問いかけにイエスは答えて、ヨハネの弟子たちに「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と自分が救いの業を行い福音を語っていることを告げ、「私につまずかない人は幸いである」と言いました。
このイエスの言葉は、そこにいた群衆にも聞こえるように語られました。イエスはここで、「ヨハネが確信しているように、私は預言者イザヤが伝えた神からの救い主である。」と宣言して、「私が行い語っていることを確かめなさい」、と言っているのです。
ここでヨハネは、「私は先駆者でイエスが救い主である」と直接言ってはいませんが、私が先駆者となっている救い主がここにいる、ここに神の約束は実現している、と宣言して、十字架のイエスを示しているのです。そしてイエスは荒野の預言者ヨハネについて語ります。それはイエス自身について語ることでもあります。人々は、そのヨハネから神の言葉を聞いて、神の道の生きる者にされるのです。預言者の中でもヨハネは救い主に先立つ使者、先駆者で、救い主に結びつている、預言者以上の存在である、とイエスは群衆に語っています。「私につまずかない者は」は、「ヨハネにつまずかない者は」に通じるのです。
イエスによって新しい時代が始まった、神の国が来た、そのことを信じる幸いを得るのには、イエスが行い語ったことを旧約以来の預言者、特にヨハネの歩みと結び付けて見、判断し決断することが求められます。イエスは、ヨハネから新しい時代が始まっている、と言っています。ヘロデ王のようなこの世の力、古い時代の勢力が、神のご支配を妨げ人々を躓かせていて、神の御心や救い主の到来を見えなくしています。その世界に、ヨハネは預言者、先駆者として、十字架のイエスを信じ迎え入れるように、生き方で示したのです。
キリストの体である教会が存在し、歩んでいるのは、この歴史の中にクリスマスの御子イエスによって新しい時が来、新しい歴史が始まっていることを人々に伝えるためです。教会には、人々が喜んでクリスマスを迎えるように神の御心を伝える使命があるのです。
2012年12月9日
説教題:罪の世に来る救い主
聖書:イザヤ書 59章12-20節 マタイによる福音書 13章53-58節
【説教】
主イエスが、神から力を与えられ導かれて、家を出て宣教の旅をされて、自分が育った故郷に帰って来ました。この時のイエスは、弟子たちを連れ、会堂で教えられる言葉も家を出る前と違って権威を持っていました。
イエスの言葉を聞いた故郷の人々は驚き、仰天しました。「このような知恵と力をどこから得たのだろう」とイエスを見直したのです。今まで知っていたイエスにはなかったもので、イエスに対して驚きと、疑問を持ったのです。この疑問は、天からこの世に来た救い主イエスに出会った者が持つ、正しい疑問です。私たちにも必要なことです。どの視点からこのイエスを見て、どのように疑問を持ち解決するか、が重要なことです。
故郷の人々は、イエスの知恵と力は故郷で身につけたものではない、どこから来たのか、誰から与えられたのか、と自分の経験と知恵で問い、答えを得ようとしました。そこでその人たちは「イエスのことは私たちが良く知っている。この人がこんな知恵や能力を持つことはありえない。」「この知恵も能力も、自分たちが知らないところから来たのでも、与えられたのでもない。驚くことはない。」との結論を出したのです。
神の子がマリアから人間イエスとなって生まれ、救い主となられたのです。彼らはイエスをただの人間に過ぎない、と判断することでつまずいたのです。つまずき倒れて、人間イエスを神からの救い主と信じる道から断たれたのです。この世での罪の力は強く、この世に生きる人を支配し、神の義も神の国も私たちとは遠く離れた別世界のことだ、という思いを人々に根付かせています。そこに罪と妥協して生きているのが現実です。「罪の世に来る救い主」の「罪の世」は「犯罪人が集まっている世」ではなく、神に生かされていることを無視している世、人間の世界、私たちの世界のことです。この世の力や人間的な思いに罪が働いて、神から来た救い主を信じる「信仰」を妨げるのです。今日の聖書は、イエスの故郷の人々の罪を語るのに、「罪」でなく「不信仰」の言葉を用いています。このイエスは神から与えられた救い主だ。だから神の知恵と力で語り、救いの業を行っているのだ、と信じる時、私たちは神の国に生きる喜びを得るのです。
今、衆議院議員選挙運動でどの政党も「わが党こそ日本を救う」と言っていますが、この世の政治が与える救いは自分中心の幸せ豊かさ等罪と妥協した相対的な救いで、神にあるような絶対的な救いではありません。イザヤ書で、捕囚から解放されて帰還した神の民は、生活が苦しく辛い、これは神が自分たちを見捨てたのだ、と神に不平不満をぶつけました。それに対してイザヤは「私たちが神に背いている民だ。背いている民に楽しみや恵みを与えるならば神の正義は遠ざかり、この世は正しい尺度を失ってしまう。」と言っています。
主イエスは、信仰のない人の前で、自分の知恵と力を誇かのように神の言葉を語ったり、奇跡をおこなったのではありません。私たちが信仰を以て人間イエスに出会う時、私たちは罪の世に来た救い主の恵みを知り、神の救いに生かされる者とされるのです。
2012年12月2日
説教題:目を覚まして待つ
聖書:イザヤ書 2章1-5節 マタイによる福音書 24章36-44節
【説教】
救い主イエス誕生の喜びの日を待つ待降節です。その最初の主日に与えられた聖書です。
「その日、その時」は、24:2で主イエスが仰っている目の前にある立派な神殿が崩れる時、35節の「天地が滅びる時」です。この世界は安定しているように見え、私たちは不安のない安定した世界で落ち着いた生活をしています。ところがイエスは「この世界は滅びる」と仰っているのです。弟子たちが、その日その時はいつなのか、と尋ねたのに対して、「それは誰も知らない、私も知らない。父である神だけがご存知である」と答えました。神がご存知であるということは、神が決めて行う、だから必ず起こる、ということです。
私たちはこの言葉を今日聞くのです。私たちが何を考えても、行っても、天地は滅びる、だから何もしないでただ救い主が来るのを待ちなさい、というのでしょうか。
しかし、主イエスは34,35節で「これらのことがみな起きるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが私の言葉は決して滅びない」と言っています。この後イエスは十字架で死なれました。それなのに「私の言葉は決して滅びない」と言っています。その言葉通りに十字架のイエスは、復活して天に昇られ今も神の右にいます。そして天地が滅びる時、救い主として再び来るのです。だから、「いつ滅びるのか。滅んだら全てが空しくなる。」というのではなく、主の言葉によって落ち着いて、また主が再び来る希望をもって、今の時を生きなさい、と告げているのです。教会は、待降節の時を、過去の降誕を懐かしく記念として覚えて待ち祝うだけでなく、再臨の主を待って今ここに生きている、との思いを確かにする時として歩んで来ているのです。今は闇の世ですが、この闇の世界に光の主が再び来てくださる、そのことを確信して喜びのクリスマスを迎えて来ているのです。
37節の「人の子が来るのは、ノアの時と同じだ」というのは、今の私たちに再臨の主の言葉を信じて生きているか、主の言葉を聞かないで自分の思いで滅びの生活をしているか、と問うているのです。東日本大震災の時にも津波が来る前に安全なところに逃げて助かった人が沢山いました。「今までと違うよ。早く逃げなさい。」と言うのに「大丈夫だ。これをしてから行く。」と言って津波に呑まれた人も多くいました。40,41節に、二人の男と二人の女の内、一人が神のもとに連れて行かれ、一人は滅びの世に残される、とあります。神はいろいろな言葉によって、語り告げています。その言葉をどのように聞き、受け止めるか、それによって今ここでどう生きるか、が重要なことなのです。主は「滅びる」とだけ言っているのではなく、「私の言葉は滅びない」と言っているのです。
「だから目を覚ましていなさい」と主は仰っています。「目を覚ましている」ということは、目を覚まして遊んでいるのではなく、泥棒が入ってきたら直ぐに対応できるような備えをし、注意力を持っている、心が目を覚ましているということです。「人の子は思いがけない時に来る」と言っています。人の子が来た時に救いに迎え入れていただくように、日々を目を覚まして歩む。それが私たちの待降節の信仰であり、教会の歩みです。
2012年11月25日(子どもと一緒の礼拝)
説教題:実を結ぶ神の国
聖書:レビ記 26章3-6節 マルコによる福音書 4章26-32節
【説教】
今日はここに沢山の果物が捧げられています。この果物は、種から芽が出て、大きく育って実を結んだのですね。
イエスさまは神の国、神さまが治めている国がどんな国か、ある人が種を蒔いたことで説明しています。種を蒔いたら、人は寝起きして日がたつだけで、種から芽が出て、育って豊かな実を結んだ。それが神さまの国ですよ、と言っているのです。人間が何もしないでも、種から芽が出て育つのです。それは神さまが種に命を与え、種と土にそのように働いてくださっているからです。そのように、神さまが命と力を持って働いてくださっているのが神の国です。
それなら、今私たちがこの柿やリンゴを食べてその種を蒔いたら、芽が出てきて大きく育って実がなるでしょうか。多分来年の春には目が出ると思いますが、実がなるところまで育たないでしょう。神さまの御心に従って、人間が種を蒔くときに、その地方、その土地、その季節、に種を蒔くときに,芽を出し、育って、農夫は神さまからの恵みの報酬、賜物として、実を手にできるのです。
レビ記にそのことが神さまから言われています。「私の心と言葉に従う時に、季節を与え、雨を与え。豊かな収穫をあたえる」と。昔も今もこの世界は神さまの国なのです。だから、神さまの御心に従って種まきなどの仕事をすると、豊かな収穫が与えられるのです。
続いてイエスさまは「神の国はからし種のようだ」と言いました。からし種は他のどの種よりも小さいのです。こんなちっぽけな種、という小さい種でも、その一粒を神さまの御心に従って心を込めて蒔いたら、どんどん伸びて、他のどの野菜よりも大きくなる、とイエスさまは言っています。
神の国は神の命が生きていて、神の御心と御力が治めている国なのです。ここでイエスさまは私たちに、私たちが蒔いている種は、神さまの御心に従って蒔いていれば必ず実を結ぶよ、と言っているのです。種を蒔いてもなかなか芽が出ない、実がならない、とつぶやき不安になることがあるかも知れないけれど、神さまは、必要な命と力をこの世界に働いてくださっている。だから、からし種のような小さな種でも、神さまの御心に従って、その一粒を心を込めて蒔くなら必ず大きく育つ。望みを失わないで、今自分に与えられている務めに励みなさい。神さまを信じ、実を結ぶ日を望み見て、希望と喜びを持って今日の仕事に励みなさい、と言っているのです。
御心に従って蒔いた種は必ず、神さまが実を結ばせてくださる。これが神の国です。
大人の人には、主イエスが言っているこの種が、み言葉であり、福音だということ分かると思います。私たちの教会が蒔いているみ言葉の種、福音は明日の世界に必ず実を結んで収穫されるのです。
2012年11月18日
説教題:飼い主のいない羊
聖書:エゼキエル書 34章1-11節 マタイによる福音書 9章35-38節
【説教】
群れをつくり集団で生きている動物は、未熟なものを群れが囲んでいて、外周にいる一匹が敵を見つけ危険を感じると群れ全体に知らせて全体を守る、餌をとる場所も年長のものが経験で知っていて群れ全体を導く。一匹で、単独で生きて行くことはできません。
マタイ9:36に「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを」イエスが見たとあります。「飼い主のいない羊」で神の民のことを現している一つがエゼキエル書です。羊たちが牧者から見捨てられることは、弱い者、病める者、傷ついた者がそのまま見捨てられる、ということであり、道を示されず、導かれず、外的に追われて群れから離れても探し出してもらえない、ということです。それは責任を持って羊を牧すべき牧者がいない、ということです。エゼキエルの時代には、国の指導者が民を見捨てて自分のことだけを考えていたのです。それで神は新しい牧者を与える、と約束されたのです。
イエスは、町や村の人イエスのところに来る群衆が、飼う者のいない羊のように弱り果てているのを見て、深く憐れに思われました。それはイエスが神からの牧者の心を持っているしるしです。真の牧者が持つように、飼い主を必要としている羊と同じ状態に自分の身をおかれているのです。「弱り果てている」という状態はいじめられ、助けてくれる人がいないで、疲れ切っているということです。「打ちひしがれている」というのは、飢えと渇きで倒れ、物体のように放り出されていることです。世話をすべき人が世話をしないと倒れてしまうのです。現代でも誰も理解してくれない、助けてくれない、世話をしてくれないと弱り果て、倒れてしまう人はいるのです。
羊の飼い主である指導者が民のことを思わず、自分のことだけを思っているからです。私たちは、真の指導者によって、今ここに生かされている意味を知るのです。牧者の下にあっては、暫くの飢えや渇きに耐え、障害をも乗り越えて進んで行くことができるのです。今ここに生きている意味が分からない、真の価値ある物、大事なもの、歴史の意味が分からない。それを教えて導くのが指導者です。主イエスはこの飼う者から見捨てられている羊をご自分の羊と受け止められたのです。
そして弟子たちに「収穫は多いが働き人が少ない。だから収穫のために働き手を送ってくれるように、収穫の主に願いなさい」と言ったのです。収穫は、救いです。イエスによって救いの業は始まっているのです。救いを必要としている人、収穫されることを求めている人は多いのです。地上の人間世界は、その指導者が自分を養って、自分の羊を養わなくなっているのです。それで弱く病める者が見捨てられてしまっているのです。飼い主が不在なのです。
私たちも飼い主のいない羊だったのです。今イエスによって私が飼い主のもとに生かされていることを喜び感謝すると共に、飼い主を必要としている人たちが飼い主を知って、救いを得るように、働き手を送って下さるように、神に祈りたいと思います。
2012年11月11日
説教題:ここに神の救いがある
聖書:イザヤ書 35章5-10節 マタイによる福音書 9章27-34節
【説教】
先週アメリカの大統領選挙がありました。中国では現在国の最高指導者を選ぶ共産党大会が開かれています。日本では衆議院がいつ解散し選挙が行われるかが話題になっています。多くの人は偉大な指導者の登場によって救いが得られる、と偉大な指導者を求めます。
「イエスがそこからお出かけになると二人の盲人が『ダビデの子よ、憐れんでください』と叫びながらついて来た。」「ダビデの子」は神の民を異邦人の支配から解放する偉大な指導者で救い主を意味する称号です。二人の盲人が叫んで求めているのは何でしょうか。イエスは、二人の叫びを無視するように進んで行き、家の中に入り盲人たちが来ると「私にできると信じるか」と言われました。二人が「はい、主よ」と答えるとイエスは二人の目に触り「あなたが信じる通りになれ」と言われ、二人は目が見えるようになりました。
似た記事が20章29節以下に、主イエスが王としてエルサレムに入場する前の所のあります。同じ記事はマルコとルカにもあります。そこでは、道端で物乞いしていた盲人が「ダビデの子よ、憐れんでください」と叫ぶのにイエスは直ぐ応え「私に何をしてほしいのか」と問い、「目を開けて頂きたいのです」の答えを得るとイエスはその目に触れ、見えるようになったのです。物乞いしていた盲人が、お金や物ではなく、見えるようになることを求めていることを確かめて、大勢の人がいる道でイエスは癒しを行っています。癒した後で、「このことを誰にも言うな」とは言っていません。
20章の記事に対してこの9章では、イエスは道では盲人の叫びを無視して家の中に入ってそばに来た時「私にできるか」と尋ねています。これは、イエスが力ある救い主だと未だ人々に知られたくないのと、叫んで求めている彼らの信仰を知るということがあったと思われます。ですからイエスは「何をしてほしいのか」とは聞いていません。叫びながらついてくることで彼らの信仰を知っていたのです。そして癒しの後「このことを誰にも知らせるな」と命じました。まだ救い主イエスは人々に誤解されたくなかったのです
次に、口の利けない人がイエスのところに連れてこられました。この人は自分のことを何も表現していません。周囲の人に連れてこられているので、自分を失っているのです。なぜ自分を失ったのか分かりませんが、33節に「悪霊が追い出されると、ものを言い始めた」とあるので、悪霊が支配していたので自分を失っていたのだ、と聖書は言っています。どんなに肉体が健康でも、力ある指導者でも、悪霊が支配すると自分を失うのです。私たちも悪霊が支配すると戦争で人を殺すのです。イエスによって、この人のように悪霊を追い出していただくことが救いなのです。
群衆はイエスがなさったことを見て驚嘆し、神を賛美しました。ところが、救いのことに先入観を持ち、自分の考えや立場を大事と考えている人はイエスによって与えられている救いを認めず、「あの男は悪霊の頭だ」言ったのです。
神の子イエスによって悪霊が追い出されているのです。ここに救いがあるのです。
2012年11月4日
説教題:天にいる証人の群れ
聖書:ヘブライの信徒への手紙 11章39-12章3節
【説教】
今日は召天者記念礼拝です。薬円台教会で今年新たに名簿に加えられたお方は、今年2月に93歳で召されたNさんです。Nさんは静岡教会の教会員で葬儀には静岡教会の佐々木美知夫牧師が出席されました。
召された人を記念し覚えることは、家族など親しい結びつきのある人に対して特に行われます。それは、生前に交わりを持ったことのない人でも、自分の人生、自分が今いることに強い結びつきがあることを知らされる機会だからです。その人を記念し覚えることが、子どもや孫がしっかりした生き方をするように教え伝える大事な働きをするのです。
昨年の地震津波から1年の記念会で、その時まで「どうしてこんな老人を助けたのだ。若い者が死んで、こんな老人助けられても楽しいことはない。辛いだけだ。死にたい」と言っていた人が、自分が助かるために多くの人が犠牲的に働き、今も援助し祈っていることを知って、自分が今ここに生きているのは大事なことなのだ、感謝してしっかり生きなければいけない、と思わされた。という事例が多く報じられています。
教会での記念礼拝は、神にあってその人を覚えると共に、私たちが神の民、神の家族の一員としてその人に結びつけられて生かされていることを覚えることでもあるのです。
ヘブライ11章には私たちは信仰の仲間だ、信仰の仲間の先輩にはこのような人がいる、と名前を挙げて書いています。そして32節で「これ以上何を話そう。この人たちのことを話すなら時間が足りない」と言っています。これはこの手紙を読んでいる人たちは、信仰の先輩としてこの人たちのことは十分に知っている、ということでます。私たちはこの時、薬円台教会の関係者だけでなく、聖書と教会の歴史の中を信仰によって歩んだ信仰の先輩も覚えるのです。39節に「この人たちはすべてその信仰にゆえに神に認めらながらも、約束されたものを手に入れていません」とあります。敗北者のような信仰の歩みをした人も、信仰によって神に受け入れられているのです。私たちの場合も、破れ多い信仰の歩みでも神に受け入れられるのです。と共に、アブラハムも約束のものを手にしていないのです。いつ手にするのでしょうか。40節に「神は、私たちのためにまさったものを計画してくださったので、私たちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」とあります。「私たち」はキリスト者です。キリストによって完全な救いがすべての信仰者に与えられるのです。「私たちキリスト者」が神に受け入れられる信仰の歩みをすることによって、聖書の信仰者たちも完全な救いを手にできるのです。
12章で「こういうわけで私たちもまたこのようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、自分に定められている競争を走り抜こう。信仰の創始者また完成者であるイエスをみつめながら」と言っています。信仰の先輩たちが手本になり、証人になってくださっていることを覚えながら信仰生活に励む、と共に、イエスを見ながら、すべての信仰者の救いが私たちによって完全になるのだ、との責任感を持って信仰生活に励みたいと思います。
2012年10月28日
説教題:人を生かすイエスの力
聖書:イザヤ 53章4-7節 マタイによる福音書 9章18-26節
【説教】
今日の聖書には、二つの出来事が一つに結び付けられて記されています。一つは「ある指導者の信仰」、もう一つは「12年間も出血が続いていた女性の信仰」です。
「ある指導者」を他に福音書は「会堂長ヤイロ」と記しています。その人がイエスのそばに来てひれ伏し「私の娘が今死にました。でもおいでになって手を置いてやってください。そうすれば生き返るでしょう」と言いました。ここにこの会堂司の強い信仰が表れています。会堂司はユダヤ人の指導者で、神のことメシアのことを知っていたでしょう。その人が、このイエスこそメシアだと固く信じて、大勢の人がいる前でひれ伏して願い出たのです。「私の娘が今死にました。でも」とイエスは人を生かすお方だと信じているのです。会堂司がひれ伏して願い出るのに合わせて身を低くして聞いていたのでしょう、イエスは願いを聞くと起き上がって会堂司の後について行きました。
その時、12年間出血が続いている女がイエスの近づき後ろから触れたのです。イスラエルでは出血している女は汚れた者とされていました。血は命を意味します。彼女は12年間汚れた者とされ、外からは交わりを拒否され、自分も人との正常な交わりを断って、毎日確実に命を失うのを味わい続けていたのでしょう。そのような状態の中で、イエスは神の命を持っている光がある、と知らされ信じ、イエスの前に堂々と出ることはできないけれど心からイエスを信じ、必死でイエスに近づいて触れたのです。イエスは振り向いて「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われた、その時彼女は治ったのです。振り向いたイエスと彼女の視線が合い、愛の語り合いがされたのです。日々命を失い、死に向かって歩んでいた彼女が、命の道を歩む者に変えられたのです。
それからイエスは会堂司の家に行きました。家では娘が死んだので、当時の風習によって笛吹きや泣き女などで騒がしい状態でした。会堂司はイエスによって娘が生き返ると信じていたのに、死が確かだということで人々が葬儀の準備を始めていたのです。イエスはその群衆に「あちらに行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ」と言いました。群衆は出て行く時イエスを嘲笑いました。彼らは少女が眠っているのではなく死が確かだと確信していたからです。イエスも少女が死んでいることを知っていて,「命の主であるイエスの愛と力によって、死が眠りとなり目覚めることができる。その愛と力を示そう」と思われて言われたのです。神の子イエスの秘められた御力と御業は群集が出て行った後で行われました。イエスは少女の手をお取りになり、少女は起き上がりました。少女は失っていた命を得たのです。
命の主であるイエスは、12年出血が止まらなかった女と会堂司の、周囲の無理解や障害にも負けないで、それを乗り越えてイエスを信じ続ける信仰を共通に受け止められその信仰に応えられたのです。イエスは二人の信仰の苦しい戦いの歩みをご自分のものと受け入れられ、死の苦しい歩みを御自分のものとして負われて、その死から解放されたのです。
2012年10月7日
説教題:罪人を招く救い主
聖書:イザヤ書 56章1-8節 マタイによる福音書 9章9-13節
【説教】
今は、科学技術が進んでいて人手によらないで高い生産力を得られることもあって、先進国では高学歴でも職がない、職に就いても短期間で辞める人が多い。辞める理由に、その職場に自分の居場所がない、生きている喜びが得られない、というのがあるようです。
イエスは道を通っている時に、収税所に座っているマタイを見ました。マタイは収税所で仕事をしていて、イエスが通った時イエスを見たので、目と目が会ったのでしょう。イエスはマタイに「私に従いなさい」と言いました。どうしてイエスがマタイにそのように言ったのか聖書は何も書いていません。ただ、彼はその招きを聞くと立ち上がってイエスに従った、と書いています。この出来事をルカ(5:28)は「彼は何もかも捨てて、イエスにしたがった」と書いています。イエスの招きにその時の気分で従ったのではありません。今の仕事と生活だけではない、今までの生き方も心も人生観も全て捨てて、イエスに従って生きる人になったのです。イエスの弟子になったのです。
この時ユダヤの地はローマに支配されていたので、収税人はユダヤを裏切ってローマに仕えていると仲間から疎外され孤独にされていたのです。マタイは、経済的には不自由がなくても、収税所での仕事に自分の居場所を見ることができず、喜びや生き甲斐を得られなかったのだと思われます。その時イエスの愛の眼差しに出会い、招きを聞いたのです。
この時マタイにどんな思いが起こり、心にどんな葛藤があったのか分かりませんが、罪人と見られている自分を愛し、一緒に歩もうと招くイエスのところに自分の居場所があると見たのではないでしょうか。
マタイは自分の家にイエスと弟子たちや徴税人や罪人など大勢を招いて宴会を催しました。宴会の主人はイエスで、イエスによって徴税人も罪人も居場所を用意され与えられていました。その様子をファリサイ派の人々が見て「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言いました。彼らには理解できないことだったのです。
イエスは彼らに「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。『私が求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどう意味か行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためだある」と言いました。ここにイエスが歴史の中に救い主としてきた意味があるのです。イザヤが語っている、異邦人も宦官も神の愛を知って神の愛の中を歩む、その救いがイエスによって現実となったのです。
イエスが来たのは、罪人を招いて救うためです。罪人が悔い改めたら救う、というのではありません。病人の所に医者が来て癒すのです。癒されると信じて、医者の言葉に聞き従うことが必要です。イエスは罪人の所に来て罪人を招いた。そのイエスの招きに素直に応えて従順に聞き従うことが救われるのには必要です。その招きに応えず、イエスの救い主としての存在を無視する、というのでは罪人を招く主の働きは実を結びません。
マタイのようにイエスの招きに応え、最後まで従って、意味ある歩みをしたと思います。