2021年9月26日
説教題:互いに愛し合いましょう
聖 書:申命記30章11-14節、ヨハネの手紙一 4章7-12節
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
(ヨハネの手紙一 4章7-12節)
今日は説教題をこのようにいたしました。「互いに愛し合いましょう。」今日の新約聖書の聖句の冒頭部分です。
実は、こうして声に出して口にするのがたいへん難しい言葉です。こんなだいそれたことを偉そうに言って良いのかと思ってしまいます。自分が主の御心にかなうように、兄弟姉妹を、隣人を、また自分自身を愛せるかと申しましたら、私はまったく自信がありません。そんな愛する心の乏しい者が、こんな高いところから、「互いに愛し合いましょう」と声に出すのは実におこがましいことに思えてなりません。皆さんも、心のどこかで「愛し合いなさいと言われても…できるかな…?」と思っておられるのではないでしょうか。
しかし、互いに愛し合うことに、私も皆さんも、憧れを持っています。誰にも思いやりを持って優しく接し、困っていたら親切にしてあげられるような、そういう人になりたいと思っています。その、言わば私たちの心の柔らかいところ目がけて、今日の御言葉は語りかけて来るのです。私たちを促し、教え、励まします。「互いに愛し合いましょう」と。
「互いに愛し合」うことは、私たちの理想です。目標です。今はできないけれど、いつか、できるようになりたいという教会全体の夢・私たちの夢と言っても良いでしょう。
「ひとたびは死にし身を」と始まる讃美歌があります。その讃美歌のリフレインとして繰り返し歌われる歌詞をご紹介します。「昼となく、夜となく、主の愛に守られて、いつか主に結ばれつ 世にはなき交わりよ。」
「交わり」とは、教会の兄弟姉妹が互いのために祈り合い、関わり合って、語らいを楽しんだり、一緒に奉仕をしたりと、共に心を合わせることをさします。この讃美歌のリフレインは「主の愛に守られて」 ‒ イエス様の愛・天の父なる神さまの愛に包まれ、そして聖霊によって愛でつなげられて ‒ 今ではなくてもいつか必ず・きっと、主に結ばれる・御国に共に進み入ると謳っています。その喜ばしい交わりは、しかし、「世にはなき交わり」なのです。教会の交わり・「互いに愛し合いましょう」と愛の共同体をめざす交わりは、この世には他にありません。教会につながらなくては、愛の共同体はないのです。そしてこの世の教会でも、その愛の実践はきわめて難しい理想です。
ここで、前回の説教で “不可能の可能性” という言葉をご紹介したことを思い出してください。イエス様は私たちに代わってご自分を犠牲にして、十字架で地上の命を捨ててくださいました。イエス様のように周囲の人・隣人のために身を献げ、命をも献げる愛の実践は、私たち人間にはほとんど不可能と申して良いでしょう。しかし、イエス様の愛に学び、イエス様の愛を理想として、できる限りそのように生きたいとイエス様に憧れを抱きつつ日々を過ごすことは可能です。それが、”不可能の可能性” です。
そうして理想を仰ぎつつ生きるキリスト者が共同体となり、御国に向かって群れとしてひとつの歩みを続けつつ、共に祈り、共に励み、共に御言葉に養われるのが教会です。
「互いに愛し合いましょう」 ‒ その願いでひとつとなるのが教会 ‒ 愛の共同体です。
ところで、前回の礼拝に出席された皆さんは、今日の新約聖書の聖書箇所がヨハネ福音書ではなく、ヨハネの手紙一であることに“あれ?”と小首を傾げる思いをお持ちかもしれません。前回の説教では、キリスト賛歌の箇所をいただきました。その時に、次は「小聖書」と宗教改革者ルターが呼んだ聖書箇所をご一緒に学びましょうと予告しました。小聖書と呼ばれる箇所は、ヨハネによる福音書3章16節です。これは、ただ一節の聖句です。お読みします。ヨハネによる福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」クリスマスによく読まれます。
マルチン・ルターは、このひとことの聖句に主の恵みが凝縮されていると言ったと伝えられています。たった1節ですから覚えやすく、聖書が手元にない時にも、思い起こして慰められ、力づけられることができます。私たちが日常生活を送る中で、ごく稀にですが、突然、予想もしなかった恐ろしい出来事に遭うことがあります。たとえば事故、地震や災害です。驚いて、祈りたくても頭の中が真っ白になってしまう、そんなことがあります。その時に主の祈りを繰り返し思い起こし、口の中でつぶやくようにして祈り、神さまの助けを求めて気持ちを落ち着ける方は多くおいででしょう。この小聖書・ヨハネ福音書3章16節にも、同じように助けられた経験をお持ちの方がおいでかと思います。
この聖句をより丁寧に語っているのが、今日の新約聖書箇所 ヨハネの手紙一です。音楽で言えば、ヨハネ福音書3章16節を主題として、ヨハネの手紙一では豊かな変奏曲が奏でられていると言えるでしょう。
愛する者たち、と今日の御言葉は呼びかけます。この手紙、すなわちこの説教の書き手が、読み手である教会の兄弟姉妹に、私が愛しているあなたがた、と語りかけているのです。そして、互いに愛し合いましょうと促します。当然、書き手・説教者は、今日の説教の始めに私が皆さんにお話ししたように、“自分はイエス様のようには到底 人を愛せない”との面映ゆさを抱えていますし、読む者も“え〜、そんなことを言われても、イエス様のような自己犠牲はできない” と感じているでしょう。だから、説教者は次にこう語ります。「愛は神から出るもの」 、と。“人間にはイエス様のようには人を愛せない”というあなたがたの思いはもっともだ、愛は、神さま・イエス様を源として泉のようにあふれるものだと、読む者の思いに寄り添うのです。
これは言い換えれば、人間は愛の源になり得ないということです。もし、自分は人を愛せると簡単に言いきれる人間がいたら、逆にその人の愛は信用できない ‒ そういうことになりましょう。イエス様の愛・聖書の愛は、人の心に自然に湧き出る誰か特定の人への恋愛感情や、友情や、親子・肉親の間にある情愛とは違います。神さまの愛は、前回のキリスト賛歌でご一緒に学んだように、自分の思いを超えた自己犠牲の愛です。我が子に代わって、または自分の親や連れ合いに代わって命を投げ出すというのは、自分の思い・自分の情けから生まれる行動です。しかし、神さまはご自身から御覧になれば、土をこねて造り出した者に過ぎない者である私たち、旧約聖書の言葉を使えば “虫けら”の私たちのために、たいせつな御子イエス様を犠牲にしてくださいました。それは、私たちが滅びないため、いわゆる生物学的な生命が失われても神さまと共に生きるためだったのです。
旧約聖書時代から、神さまはこの愛の恵みをずっと語り続け、約束し続けてくださいました。しかし、神さまを自分の目で見ることのできない人間には、それを受けとめ、信じることができませんでした。
命の源である神さまに背き、命の反対・死をもたらす悪行・罪を重ねました。それが旧約聖書に記されている人間の歴史・国家が犯す殺人罪である戦争の歴史なのです。神さまは、何度も人間を戒めましたが、罪がなくなることはありませんでした。神さまの姿を人間は見られない・御声を聞けない、だから神さまを信じることができない ‒ それは、今日の聖書箇所の終わりの節12節にもこのように記されています。「いまだかつて神を見た者はいません。」
だからこそ、神さまは人間が神さまを信じることができるようにと、ご自分の一部であり、たいせつなたった一人の子である御子イエス様を私たちと同じ人間として、この世に遣わされました。イエス様は、互いに憎み合って、時に戦争というかたちで殺し合ってしまう私たち人間の罪を根本から背負って十字架で死なれ、その死によって私たちの罪をゆるし、肉体の死を超えて主と共に永遠に生きる道を開いてくださいました。
こうして、私たちはイエス様を通して神さまを知ることができました。十字架は、イエス様の愛を知らない者にとってはただの木を十字に組んだ死刑の道具です。しかし、私たちイエス様に救われた者にとっては、神さまの愛のしるしです。また、イエス様の十字架の出来事とご復活の後に生きる者たち ‒ それは、教会の時代である “今” を生きる私たちです ‒ には、これを語り伝える福音の御言葉と、主の愛と恵みを受ける心の扉を開いてくれる聖霊が与えられています。
だから、今日の旧約聖書の御言葉は語ります。「御言葉はあなたのすぐ近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」(申命記30:14)私たちは、福音を聞いて喜び合い、語り合うことのできる口、聖霊に満たされて、神さま・イエス様の愛を喜び感謝できる心を与えられています。この真実・事実を深く感謝し、愛し合う勇気と希望をいただきましょう。
私たちは、イエス様のように完璧に愛のわざを行うことはできません。相手のためを思って言ったことや行ったことが、間違って伝わってかえって怒らせてしまったり、傷つけてしまったりすることがあります。その経験から失敗を避けようとします。また、自分が傷つけられるのを恐れて、人間関係は表面的なつきあいにとどめておこうと萎縮し、いじけてしまうことがあります。その私たちに向かって、くじけることなく愛を実践し続けようとする勇気を持ちなさいと、今日の御言葉は私たちの背を押してくれます。
私たちが互いに愛し合う、その愛の一歩は、忍耐から始まります。「愛は忍耐強い」(コリントの信徒への手紙一13:4)のです。傷つけられた時に、言い返さない、やりかえさないことです。難しいことです。そこでぐっと我慢できても、私たちの心は傷ついてしまっています。悔しいとか、悲しいとか、思わずにいることは私たちには不可能です。感情を持たずにいることはできませんから、私たちは自分では、この心の痛みをどうすることもできません。しかし、その時、思い出したいことがあります。それは、イエス様が十字架の上でひどく侮辱され、血を流してくださったことです。イエス様は人間に傷つけられました。人の罪がどれほどつらく、激しい痛みをもたらすかを、イエス様は知り尽くしておられます。私たちが傷つけられて痛む時、私たちに常に寄り添ってくださるイエス様はその痛みを共に受け、共に痛み、共に耐えてくださいます。
今日の聖句の最後の部分をご覧ください。お読みします。「わたしたちが互いに愛し合うならば」 ‒ その思いを持ち続け、決して諦めずにイエス様の愛に学び、その愛にならおうとするならば ‒ 「神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」神さま・イエス様・聖霊の主は、愛し合おうとひとつの思いをもって進む私たちの中・今 ここにおいでくださいます。私たち教会に生きる者の中に、信仰共同体の内においでくださるのです。
私たちのすぐ近くにおられて、私たちをいつも見守り、導いてくださる主をそれぞれの心にいただいて、今日から始まる新しい一週間の一日一日 愛の試みを絶やさずに進み行きましょう。
2021年9月19日
説教題:同じ愛を抱いて
聖 書:詩編133編1-3節、フィリピの信徒への手紙2章6-11節
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
(フィリピの信徒への手紙2章6-11節)
前回の主日礼拝で、私たちはマルコによる福音書を読み終えました。イエス様のご生涯をたどり、十字架の出来事とご復活の恵みに与りました。今日の礼拝では、新約聖書からイエス様が私たちに与えてくださった、その救いの出来事が実に簡潔に、コンパクトに語られている聖書箇所をいただいています。
今日は、この聖書箇所に導かれて これまでの福音の学びをまとめるひとときをご一緒したく願います。
先ほど司式者がお読みくださった新約聖書の聖句・フィリピの信徒への手紙2章6節から11節は「キリスト賛歌」と呼ばれています。この6節から成る短い御言葉には、私たち教会に生きる者が、どのような思いを抱いて十字架を見上げ、イエス様を仰ぎ、付き従ってゆけば良いかを告げる指針が記されています。
この「フィリピの信徒への手紙」を書いたのは、パウロです。パウロは、イエス様の十二人の弟子の一人ではありません。彼は十字架に架かる前のイエス様、人間として世にお生まれになったイエス様には、直接会ったことがないのです。しかし、彼はご復活のイエス様との劇的な出会いをいただきました。彼の人生を180度転換させる出会いでした。それまで、彼はキリスト者を迫害する者だったのです。彼は律法を学ぶ青年として、イエス様を十字架に架けた祭司長や律法学者、ファリサイ派の人たちと同じ立場にあったのです。ところが、ご復活のイエス様に出会い、福音の真理に触れてキリスト者となりました。それも、凄まじいまでに熱く福音を伝える伝道者となったのです。
イエス様が死刑囚として死なれたこともあり、その教えを信じるキリスト者は激しい迫害に遭いました。信徒さんはもちろん、福音を伝える伝道者、今で言えば説教者たちが迫害されたのは言うまでもありません。しかし、弟子たちをはじめご復活のイエス様に従っていた者たち、またさらに新しく加わったキリスト者たちは、その迫害に負けませんでした。決して挫けずに、地中海地方からヨーロッパにかけて広く福音を宣べ伝えたのです。パウロは、その伝道活動を最も力強く推し進めた伝道者と申して良いでしょう。
パウロは各地に教会を建て、迫害のためにたびたび逮捕され、投獄されて牢につながれながらも 決して福音伝道をやめませんでした。ついにローマで殉教の死を遂げるまで、イエス様の十字架の出来事とご復活の真理と恵みを語り続けたのです。
今日の「フィリピの信徒への手紙」は、パウロがエフェソの牢獄にいた時に、パウロがその前に建てたフィリピの教会へと書き送った手紙です。エフェソは今のトルコ、フィリピはギリシャにあります。
“教会を建てる”とは、教会の建物・会堂を建てることを言うのではありません。教会とは建物をさす言葉ではなく、福音を信じる者の集まり・信徒の群れをさす言葉です。福音伝道者は、ひとつの町で福音を伝え、信じてキリスト者となると申し出た者たちに洗礼を授け、しばらくの間、その群れを御言葉によって養い育てると、そこを去って、次の町で新しく伝道して教会を興し、多くの人々に主の恵みを告げ知らせてゆくのです。
伝道者が去った後の教会に、新しく伝道者が来れば幸いですが、来られないことがありました。すると、その群れの中から、御言葉を説き明かす者が興されることになったでしょう。そのような群れに正しい信仰を受け継がせるために、パウロは手紙のかたちで説教を書き送りました。新約聖書に残されているパウロの手紙は、数多くあります。私たちが今日読んでいるフィリピの信徒への手紙も、そのひとつです。
伝道者は、出会う一人一人に福音を伝えます。その一人一人がイエス様の十字架の出来事とご復活で救われたことを信じ、喜びを分かち合えるようになると、信じる者のグループ・教会が生まれます。パウロが教会に書き送った手紙・説教は、信じる者一人一人が教会に生きる者としてどのように歩めばよいかを教えています。それは、取りも直さず、教会全体がどう歩めば良いかを教えることでもあります。今日のキリスト賛歌も、フィリピの教会に、そして時と空間を超えて、今、私たち教会に与えられている教えです。
今日の聖書箇所の前のページ、2章が始まるところに小見出しがあります。この小見出しは本来、聖書には存在しないものです。適切な小見出しと、そうでもない小見出しがあるので、聖書を朗読する時は、これを読みません。今日の小見出しは「キリストを模範とせよ」とあります。イエス様をお手本にして生きてゆきなさいと、私たちはパウロに教えられているのです。
私たちはイエス様に従う志をいただいています。従うという言葉は、もともと、後をついて行くという意味です。また、私たちはイエス様に学び、イエス様にならって歩もうといたします。「学ぶ」という言葉は、もともと「真似る」という言葉から転じたと言われます。私たちはイエス様の後について、イエス様がなさったように その真似をしなさい、イエス様をお手本として真似をしながら、心豊かな生き方を身に付けてゆきなさいと教えられているのです。そして、今日の御言葉はイエス様の何を真似すれば良いのかを端的に教えてくれています。
小見出しのすぐ後から、本文をお読みします。2章1節からです。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」
パウロは、フィリピの教会の人々に大いに期待をかけています。キリスト者が迫害されていた当時、生まれたばかりの教会・できたばかりの教会が、パウロが去った後、迫害に負けて雲散霧消して、消えてなくなってしまう可能性はかなり高かったのです。その中で、フィリピの教会は持ちこたえ、礼拝を献げ、信仰の灯を燃やし続けていました。獄中にいたパウロはそれを知らされてたいそう喜び、こう教えています。
「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにしなさい。」その「同じ思い・同じ愛」の内容は、続く3節に記されています。3節をお読みします。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」
パウロがこう教えるのは、イエス様がそうだったからです。だから、パウロはこの教えに続いて、今日 私たちがいただいているキリスト賛歌を高らかに告げます。イエス様がどのようなお方であるかを告げるのです。
イエス様は、利己心や虚栄心から何かを行ったことが一度もなかった方です。イエス様がご自分のために奇跡を起こしたことは、一度もありません。マルコによる福音書で、前回の礼拝まで私たちが読み味わってきた御言葉の中には、イエス様が病や体の不自由さ、飢えに苦しむ人々を救うために奇跡を起こしてくださったという記述が数多くありました。イエス様は、ご自分のお腹がすいた時、“そうだ、思い出した、私は神さまだから奇跡を起こせるのだった、その力を使って何でもできるのだ!”と、石をパンに変えてご自分の空腹を満たすようなことは決してなさらなかったのです。
また、イエス様はユダの接吻がなければ、他の弟子たちと見分けがつかない姿かたち・服装をしておられました。自分は神さまだから、誰が見てもすぐに分かるように、そして立派だな〜と思うように、いつも光り輝いていよう、贅沢な服装をしようなどという虚栄心を微塵もお持ちではなかったのです。
それは6節に記されています。あらためて、お読みします。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
天の父なる神さまは、イエス様に人間を救う使命を与えられました。私たちに代わって、私たちのために十字架でイエス様が死なれる、という使命・ミッションです。神さまは死ぬことがありませんから、イエス様はこのみわざのために、死ぬ者すなわち人間にならなければなりませんでした。そのために、イエス様は、父なる神さまに実に従順に従って、神さまの御子・神さまでありながら、人間になってくださったのです。そして、人間と共にこの地上におられる間、私たち人間に仕えてくださいました。神さまとして奇跡を行うことのできるお力を、人間のために使い、ついには、ご自分の命を私たちのために犠牲にしてくださったのです。
教会が、すなわち私たちが、イエス様に学び、イエス様の真似をしてイエス様に従うのは、このイエス様の生き方であり、イエス様の死に方です。「同じ思いになり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに」しなさいとパウロが告げるのは、イエス様のこの自己犠牲の愛です。
自分の命を捨てて、自分以外の誰かを救う ‒ これが、イエス様が私たち人間に与えてくださった愛の恵みです。キリスト者への迫害が激しかった頃、この教えはたいへんリアルなものだったでしょう。教会の兄弟姉妹をかばって、自分が命を落とす危険があったのです。もちろん、パウロは殉教を積極的に勧めるようなことはなかったでしょうけれど、そこまで深く互いをたいせつに思って欲しい、そこまで深くイエス様の愛に学んでほしいと、パウロは教会に期待を寄せたのです。
キリストの教会への迫害は、今の日本では確かに過去のことです。しかし、教会をひとつにするものが、御言葉と聖霊と、そしてこのイエス様の自己犠牲にならう愛であることは変わりがありません。また、私たち一人一人がキリスト者・クリスチャンとして生きる姿勢の根本が、イエス様の自己犠牲の愛にならうことであることも、変わりがありません。
自分よりも、自分の隣にいる人を優先して差し上げる ‒ ここから、教会に生きる喜びが始まります。また、今日、ここ・教会から出発して、私たちはこの世の社会へと使わされてまいります。自己犠牲を至高の愛とする共通認識を持たないこの世の社会で、自己犠牲を実践するのは、実に難しいことです。その善意が伝わらない方も、世間にはいるからです。せっかくの善意を踏みにじられ、利用されたように思うこともあります。
けれど、私たちはそのようにして、イエス様に救われました。イエス様が十字架に架かられた時 私たちに示してくださった深い愛を、本当に分かっていた者は誰もいませんでした。天の父・神さまだけが知っておられました。だから、9節にあるように「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えにな」ったのです。
私たちがイエス様にならって、私たちなりの小さな、小さな自己犠牲を払う時、見返りを求めずに どなたかのために自分の力と時間と富を犠牲にする時、人間は誰も見ていなくても、神さまは見てくださっています。イエス様が見てくださっています。そして、私たちをこう呼んでくださいます。「我が子よ、救われた子よ」、と。
長く続くコロナの禍の中で、社会にストレスがたまり、互いへの思いやりが難しくなっています。その中で、今日の御言葉が語る同じ愛・イエス様の自己犠牲の思いを模範として仰いでまいりましょう。イエス様に救われた者として、イエス様の愛に抱かれ、その同じ愛を私たちも抱いて、今週一週間を進み行きましょう。
2021年9月12日
説教題:真実なる言葉
聖 書:エレミヤ書31章31-33節、マルコによる福音書16章9-20節
イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアにご自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところに行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。
(マルコによる福音書16章9-20節)
今日いただいている聖書箇所は、マルコ福音書の結びの部分です。前回お伝えしましたように、マルコ福音書のきわめて古い写本には、この結びがありません。ご復活のイエス様が姿を現されたことが記されていないのです。マグダラのマリアともう一人のマリアがイエス様の体が墓にないことに驚き、天使と思われる若者からイエス様が復活したと聞かされて、震え上がったことが述べられ、それだけで唐突に終わってしまいます。
そのあとの時代に造られた写本には「結び一」を持つものと、たいへん短い「結び二」を持つものが発見されました。マルコによる福音書の御言葉を説き明かす時は、「結び一」までを語るのが適切なこととされています。
この「結び一」が書かれたのは、マタイによる福音書やルカによる福音書よりも後の時代と聖書学者は考えています。「結び一」には、まず、ご復活のイエス様がマグダラのマリアに会ってくださったことが記されています。これはマタイによる福音書に書かれていることと同じです。さらに、「結び一」には、ご復活のイエス様が田舎の方に向かった二人の弟子たちにも現れたことが記されていますが、これはルカによる福音書ではエマオに急ぐ途中の弟子たち二人が経験したことと重なります。弟子たちが集まっているところへ復活されたイエス様が現れたことは、ルカによる福音書に記されています。
このように、今日の「結び一」の部分を説明すると、皆さんはこのように考えるかもしれません。“ なるほど、古いマルコ福音書の唐突な終わり方ではちょっとおかしいと思う人たちが多かったのだな。福音書はイエス様の恵みを伝える伝道の書、良いお知らせ、グッドニュース Good News なのに、古いマルコ福音書は「(二人のマリアが、イエス様のご復活を)だれにも言わなかった。恐ろしかったからである」と終わってしまって、伝道になっていない。だから、あとの時代になってから、マタイ福音書やルカ福音書にならって、記事を付け足したのだろう。” そして、今日の聖書箇所を、聖書の御言葉であっても付け足しではなんだか物足りない、と感じてしまわれるかもしれません。
しかし、もちろん、そんなことはありません。
あとの時代になってから書き加えられた部分ですが、私たちを励まし、希望を与えてくれる神さまの御言葉・命の言葉であることには変わりないのです。このことを心に留めて、さて、あらためて、今日の聖書箇所から、恵みと力をご一緒にいただいてまいりましょう。
ご復活のイエス様はマグダラのマリアに、また田舎の方へ歩いて行った二人の弟子たちに会ってくださいました。聖書では同じ言葉・同じ表現が使われています。
まず、マグダラのマリアに会われた時の聖句をご覧ください。9節と11節にはこう記されています。お読みします。「イエスは…マグダラのマリアにご自身を現された。マリアは…このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。」
次に、二人の弟子たちに会われた時の聖句をご覧ください。12節と13節です。「イエスが別の姿でご自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。」
ご復活のイエス様に会った者が、それを十字架の出来事の前にイエス様を慕い、付き従っていた人たちに伝えても、その人たちは信じませんでした。信じようとせず、聞く耳すら持たなかったと言っても良いでしょう。
彼らは、イエス様を失って深く 深く悲しんでいる人たちでした。その悲しみは、イエス様の突然の死という喪失感からだけではありませんでした。イエス様は、重大な犯罪を犯した犯罪者として死刑によって死に至らしめられました。イエス様を慕っていた者たちにとって、これは受け容れられない出来事、衝撃的で悲惨な出来事だったのです。
そのうえ、彼らはイエス様が逮捕された時、イエス様を見捨ててしまいました。ペトロはイエス様が不当な裁判にかけられた時には、そのわずか数時間前まで、たとえ死なねばならなくなっても、イエス様のことを知らないとは言わないと断言していたのに、三回も「そんな人は知らない」と言ってしまいました。
イエス様の弟子たちや、イエス様に付き従っていた者たちは、イエス様の十字架の出来事までのおよそ三年間、イエス様を中心にすばらしい時を過ごしました。彼らはイエス様が語られる天の父・神さまのお話を聞いて、神さまが優しく、寛い心をお持ちでいつも私たちを見守ってくださっていることをあらためて知らされ、心を豊かに満たされました。イエス様が語られる律法の解釈に、新しく目を開かれる経験 ‒ まさに目からウロコの経験 ‒ をしました。イエス様と共に過ごした毎日は、本当に、本当に幸福な日々だったのです。イエス様は分け隔てなく、彼らの誰にも優しく思いやり深く接してくださいました。
イエス様は相手をたいせつにしてくださいます。ですから、イエス様に接した人は、自分が、自分で思っているよりも、実ははるかにたいせつな存在なのだと知ることができたのです。彼らは一人一人、イエス様に見守られ、イエス様に見つめられ、そしてイエス様に深く愛されました。彼ら・彼女らの中には、世間から罪人や汚れた者とつまはじきにされた者も少なくありませんでした。ところが、イエス様は彼らに実に優しく接してくださいました。この優しさによって、彼らは人としての尊厳を取り戻すことができたのです。まだ自分は捨てたものではないと、力をいただいた者がいたでしょう。いえ、みんな、一人残らずそうだったでしょう。この方に会えて良かった、これでこそ生まれてきた甲斐があったというものだ、と、イエス様の優しさに接した者は一人残らず、心の底から思ったのです。
ところが、繰り返しになりますが、彼らはそのイエス様を見捨ててしまいました。又はペトロのように「そんな人は知らない」と言ってしまいました。
これは、イエス様と過ごした日々のすばらしさ・喜ばしさを、自ら否定したようなものです。
イエス様をどうとでもなれとばかりに見捨て、「そんな人、知らない」と言って否定したことは、残された彼らの心に汚いしみのように暗く広がっていたのです。
イエス様に申し訳ないと思っても、イエス様は十字架の出来事で失われてしまいました。もうとりかえしがつきません。自分が臆病で卑怯だったことを、彼らは深く悔やみました。その悔やんでも悔やみきれない後悔と自分を責める罪の意識で心は重く沈んでいました。イエス様は死なれ、そのイエス様と一緒に過ごした自分も、失われてしまったのです。イエス様に見つめられ、見守られて、自分はまだ捨てたものではないと思えたあの自分は、やっぱり捨てるしかない、どうしようもない存在だったと思えてきました。
残された彼らは、途方に暮れていました。イエス様に付き従って今まで歩んできたのですから、途方に暮れて当然です。彼らは迷子になってしまいました。イエス様と過ごした幸せな時間は何だったのか、生まれて来て良かったと思えた喜びは何だったのか、幻想だったのか ‒そう思うと、足元が崩れてゆくようなむなしさを感じました。彼らは、それぞれ自分のむなしさ・自分の絶望で心がいっぱいになり、自らの虚無の中に閉じ込められてしまったのです。だから、マグダラのマリアや二人の弟子がイエス様のご復活を知らせても、聞く耳を持ちませんでした。主のよみがえりを信じようとしませんでした。心の中が自分の思いでいっぱいになり、神さまの恵みを入れようとしませんでした。彼らは信じようとしないから、信じられなかったのです。
イエス様は、弟子たちのこの様子を御覧になって、ついに彼らに姿を現してくださいました。14節からお読みします。お聞きください。「その後(のち)、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」
自分の絶望に自分を閉じ込めて、希望を持とうとせず、前を向こうとせず、心を閉ざしてしまう ‒ それが、イエス様がおとがめになった「かたくなな心」です。
そして、イエス様のご復活を信じない、または、ただ ああ、イエス様は生き返ったのだ、と自分と無関係な奇跡、自分と無関係な不思議な出来事としてしか聞くことができないのが、イエス様がおっしゃった「不信仰」です。
復活は、弟子たちに無関係ではありません。イエス様が死んだ、死んでいなくなった、自分はもうイエス様からお声も言葉もかけていただけないと思うから、彼らは絶望しています。しかし、イエス様はよみがえられ、彼らにふたたび声をかけ、言葉をかけられました。これからも彼らと共に生きてくださること、今も生きておられることを表すために、イエス様は復活のお姿を彼らに示されたのです。イエス様が生きていることが分かれば、弟子たちも生き続ける希望を持てるから、イエス様はよみがえりのお姿で彼らのいる場においでくださったのです。
それは事実であり、さらに事実を超えて真実です。マルコ福音書は、それをはっきりと告げています。聖書箇所のページを1ページ戻って、11節をご覧ください。「イエスが生きておられること」 ‒ こうはっきりと記してあります。イエス様が生きておられるとは、弟子たちがイエス様と共に過ごした恵みの日々が真実だったということです。
信仰とは、神さまを信じるとは、イエス様が生きておられることを心と魂で知ることです。イエス様は生きておられるのですから、彼らは再び、イエス様と伝道していた三年の間と同じように、いえ、さらに喜びを深めて、伝道の旅を続けることができます。
イエス様は、弟子たちに伝道を続け、真実の言葉を人々に告げ知らせ続けるようにと今日の聖書箇所15節でおっしゃいました。こうして、新約聖書の使徒言行録が語る伝道の働きが始まりました。イエス様が逮捕された時には卑怯で臆病だった弟子たちは、イエス様が生きておられ、共においでくださると分かって別人のように勇気あふれる者とされました。殉教さえ恐れぬほどに力強く福音を宣べ伝える使徒たち、伝道者たちとなったのです。
彼らはご復活のイエス様に見守られ、見つめられ、イエス様の前で、まだ自分は捨てたものではないと、繰り返し新しく自分を取り戻しながら、勇気と希望にあふれ、死をも恐れずに十字架の出来事とご復活を語り続けました。これは、信仰の恵みです。
これは、私たち今を生きる者にとっても同じです。
ご復活のイエス様は私たちに会ってくださり、私たちは主に見守られ、愛されて生きていることを心と体で知ります。イエス様を知らなかった時も、私たちそれぞれが生まれる前から、イエス様は、天の父なる神さまは、私たちを見守ってくださっていました。私たちは、生まれる前から、主にたいせつにされてきたのです。苦しみ迷いの中にいる時も、主は片時も私たちひとりひとりのそばを離れず、こうしてひとりひとりを教会に導いてくださったのです。それに気付いた時、私たちは洗礼を決心します。今、生きて働かれる主から決して離れずに、神さまの子として生きる決心をするのです。
イエス様の十字架の出来事とご復活、そして今もイエス様が生きて私たちを御国へと導き続けてくださっている真実の言葉を伝えられて、私たちは本当の自分を知り、生きている幸い・命の恵みを知って前進しています。真実の言葉・福音を、世に知らせるために教会は歩みを進めているのです。
今週の木曜日、9月16日に薬円台教会は創立48周年を迎えます。この地にあって、兄弟姉妹と主にお仕えできる喜びを感謝して、今週一週間の一日一日を、神さまからプレゼントされる特別な一日一日と心にうけとめ、心を高く上げて進み行きましょう。
2021年9月5日
説教題:主は復活なさった
聖 書:詩編16編7-11節、マルコによる福音書16章1-8節
安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
(マルコによる福音書16章1-8節)
今日の主日礼拝にいただいている聖書箇所、イエス様のご復活が告げられる御言葉は、マルコによる福音書の終わり近くにあります。聖書のこの箇所を御覧になると、ある表記上、興味深いことがあると気付かれるでしょう。マルコ福音書16章8節の続き、9節からが亀甲カッコ(亀の子カッコとも言うそうです)に入れられているのです。
聖霊の導きにより、初代教会から受け継がれた御言葉の記録・写本が、祈りと聖書学者たちによる綿密な考証によって、今、私たちが手にしている正典として編集されました。福音書の中で最も早く書かれた、つまり時代的には最も古いとされるマルコ福音書の最初期の写本には、この亀甲カッコに入れられている19節から後の部分がありませんでした。そのため、19節から後がカッコに入れられることになりました。
最初期のマルコ福音書写本は、今日の聖書箇所の最後の節、16章8節までです。8節は、こう語って突然、終わります。「(婦人たちは)だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
何とあっけない終わり方かと、思わずにはいられないでしょう。
しかし、古い写本の終わり方のゆえに、私たちは “イエス様の遺体が墓にない” という経験をした婦人たちの戸惑いと驚きを実にリアルに感じずにはいられません。この唐突な終わり方により、私たちはイエス様のご復活が真実だと知らされるのです。
もし、"イエス様は十字架で死なれたけれど、よみがえられました! 婦人たちは、イエス様の遺体をみつけられませんでしたが、それは生き返ったからだと知らされて、たいそう喜びました。めでたし、めでたし” という終わり方だったら…と想像すると、今日の御言葉が真実を逆照射していることがありありとわかるでしょう。
“ 婦人たちはたいそう喜びました、めでたし、めでたし”という終わり方には、人間がこしらえた作り話の嘘っぽさと軽薄さが丸見えになっています。
古いマルコ福音書がそう終わってはいないからこそ、イエス様のご復活が“作り話” ではない・イエス様を慕っていた者たちがこしらえた話ではないと、私たちにわかります。
もちろん、今、私たちが今日の御言葉を通していただくのは“復活が本当にあった・イエス様のよみがえりは信じるに足る事実である” ということでは決してありません。そんな、ネス湖の怪獣の正体は何?というような次元の話ではないのです。
神さまがイエス様をご復活させてくださったのは、すぐには人間に喜びだと受けとめられる単純でわかりやすい事柄ではなかった、ということです。
神さまのみわざがあまりにも素晴らしすぎ、偉大すぎて、私たち人間にはわかりにくいということが、実にしばしばあるのです。
イザヤ書55章には、神さまの御言葉がこう記されています。お読みします。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なる」(イザヤ55:8)、また「わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55:9b)
神さまの恵みの大きさは、私たち人間が感知し認識しうる限界を超えています。神さまは私たちにみわざのすばらしさを知らせて、私たち人間に限界を超えさせてくださっている、とも申せましょう。しかし、残念なことに、私たちは感知・認識できないこと‒ 理解できないことを目の当たりにすると、まず激しい恐怖を感じます。
私たちの肉体の滅びである生物学的な死も、それが死ぬ当人にとってどんなものかを私たちは感知・認識・理解できません。それを経験した当人は、生物学的に生きている者に、その経験を伝えることができないからです。
だから、私たちは死を恐れ、今日の旧約聖書箇所のように死から墓穴へ、さらに陰府へと運ばれることを忌み嫌って、人間に起こる最悪の事柄として遠ざけようとします。
死は、最悪 ‒ だれにでも訪れる人間にとっての最悪であり、恐怖の対象なのです。
だから、婦人たちは、おそらく天使と思われる若者にイエス様が復活されたと聞かされて恐怖しました。「震え上がり、正気を失」うほどに、未知のものである死から戻ってきたことは、不可思議で恐ろしい出来事だったのです。
でも…と思われる方がおいででしょう。
福音書の中には、亡くなった人が生き返ったことが何度か記されています。イエス様は、娘を、息子を、兄弟を失って嘆く人々を御覧になって、愛をもってよみがえりの奇跡を行ってくださったのです。よみがえりが起こるところには、イエス様がおられました。イエス様が、その深い愛によって行ってくださったのが、よみがえりだったのです。イエス様の深い愛によって、結果的に亡くなった人が生き返りました。よみがえりの奇跡の契機はイエス様の愛、その中心にあるのもイエス様の愛だったのです。
イエス様のご復活の中心にあるのも、イエス様の私たちへの愛です。それに気付けずにいる間は、今日の聖書箇所が語るように、婦人たちにとってよみがえりは恐ろしいだけのことでした。
しかし、実は若者がイエス様から弟子達たちへの伝言として婦人たちに伝えた言葉に、すでにイエス様の愛が語られています。イエス様の恵みと慈しみが、あふれている聖句があるのです。どの聖句でしょう。何節でしょう。
7節です。イエス様の墓にいた若者は、婦人たちにイエス様から弟子たちへの伝言を伝えました。それは、このような内容でした。“ わたしはあなたがたより先にガリラヤに行っている。前にも言ったことだけれど、そこでまた会おう。”
イエス様は弟子たちに、また、会おう ‒ そう、おっしゃってくださったのです。
この時、弟子たちはイエス様を失って打ちひしがれていました。彼らの悲しみの理由は、イエス様が十字架上で犯罪者として処刑されて亡くなってしまったということだけにあるのではありませんでした。彼らの嘆きは、イエス様が逮捕された時に自分たちがイエス様を見捨てたこと、ペトロの場合ならば、イエス様なんか知らないと言ってしまったことにあったのです。
イエス様に弟子として付き従い、イエス様と共に伝道に勤しんだおよそ三年間の日々は、弟子たちにとって本当に、本当に楽しい毎日だったでしょう。イエス様のそばにいることで、ただ それだけで、心が満たされる日々でした。それに加えて、彼らは日々、イエス様の笑顔を仰ぎ、声を聞き、イエス様が語られる神さまのお話に耳を傾け、一緒に食事をし、共に笑い、同じ場所に寝泊まりしました。心躍る、実に喜ばしい毎日でした。
イエス様を囲む弟子たちは、それほどの幸福をイエス様からいただいたのに、肝心の時にイエス様を見捨ててしまいました。イエス様と共にいた輝かしい時間のすべてを、自らの手で真っ黒に塗りつぶすようなことをしてしまったのです。
弟子たちはイエス様にお詫びの言葉を言うことすらできませんでした。彼らがイエス様を見捨てた半日ほど後に、イエス様は十字架に架けられて死なれ、本当にとりかえしがつかないことになってしまいました。
弟子たちがイエス様の死を嘆く、その嘆きの根本には、深い自責の念と、悔やんでも悔やみきれない後悔、そして深い罪の意識がありました。私たち一人一人の心の底・人間存在そのものの根本に、とりかえしのつかないことをついやってしまう罪が、このように暗く沈んでいるのです。
しかし、イエス様はこう言ってくださいました。“また会おう、伝道の旅を一緒に始めた、あの懐かしいガリラヤで、また会おう。わたしは先に行って、あなたがたを待っているよ!”
なんという優しいゆるしの言葉でしょう。
ご復活のイエス様は、なんと暖かく、たのもしく、弟子たちの、また今、私たちの心を慰めてくださるのでしょう。
よみがえりのイエス様は、なんと明るく、これから先にある喜びへの期待・未来への希望で私たちの心を満たしてくださるのでしょう。
一緒に歩み続けよう‒ これが、ご復活されたイエス様が私たちにくださる大きな、大きな恵みです。
よみがえりのイエス様に従って歩み続ける ‒ いつもイエス様のかたわらにいて、肉体の滅びを超えて天の御国への道を進む ‒ これこそが、私たちがいただく救い主のご復活の幸いです。今、この瞬間もイエス様は共においでくださり、私たちを導き続けてくださいます。今日も、明日も、その次の日も、その幸いが変わることはありません。
世にある私たちには、不安があり、試練があります。しかし、死をくつがえされてご復活されたイエス様から、確かな希望をいただきましょう。
ご復活のイエス様に従って、今日から始まる一週間の一日一日を、心を高く上げて進み行きましょう。
2021年8月29日
説教題:準備と待望
聖 書:詩編88編2-3節、マルコによる福音書15章42-47節
既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。
(マルコによる福音書15章42-47節)
イエス様は十字架で息を引き取られました。それは、金曜日の午後三時のことでした。
やがて、夕方となりました。今日の新約聖書 マルコによる福音書15章42節の御言葉は、それを告げて始まっています。
ユダヤの人々にとって“夕方になる”ことは、特別な意味を持っています。ユダヤの一日は、日没から、つまり夕方になって日が暮れてから始まるからです。私たちはいわゆる真夜中の十二時、午前零時に日付が変わることを、共通のきまりごととしています。その日付の変わり目が、ユダヤの社会では日が沈む時・日没なのです。イエス様が亡くなられたのは金曜日でしたが、日が沈むと土曜日になり、新しい一日が始まります。
ユダヤの人々にとって“土曜日”もまた、特別な曜日です。安息日です。私たちキリスト者は神さまに心を向け、イエス様の十字架の出来事とご復活を思って礼拝を献げるのを日曜日と定めていますが、ユダヤでは土曜日が、神さまのことだけを思って仕事を休むと律法で定められた日です。先ほどお読みしたマルコ福音書15章42節の後半は、こう述べています。「その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので」。
さらに、今日の御言葉が語るこの週の安息日・土曜日は、ユダヤの人々にとって一年に一度の特別な日でした。過越の祭の日だったのです。祭の日の前日・金曜日は、祭の準備をしなければなりません。
イエス様は、この準備の日・金曜日に十字架に架かられました。
繰り返しますが、ユダヤの律法は夕方になり、日付が変わって安息日に入ると、神さまのことを思い、祈りを献げる他はほとんど何もしてはならないと定めています。日没までに用事を済ませなければなりません。特にこの日は、日が暮れきってしまうまでに、過越の祭の準備を済ませなければなりませんでした。それに気付いて、イエス様の処刑を見に集まっていた群衆はにわかにざわざわと帰りを急ぎ始めたことでしょう。
そして、もうひとつ、たいへん大切なことがあります。
十字架の上のイエス様のお体をどうするか、ということです。
死刑に処せられたのですから、本来ならば そのまま放っておかれます。さらしものになります。
それには忍びない、あまりにイエス様がいたわしいと思った人がいました。それが、43節に登場する「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフ」です。この人は身分が高く、祭司長や律法学者、長老たちと共にユダヤ社会の指導者の一人でした。だから、議員を務めていたのです。祭司長たちと頻繁に会っていたでしょうから、イエス様が彼らに憎まれていたことを知っていたでしょう。その中で、祭司長たちとはまったく反対に、このヨセフという人は、こっそりとイエス様を慕っていたのです。それはイエス様が語られていた「神の国」をこの人が待ち望んでいたことと記されている43節から明らかです。ヨセフは祭司長たちには分からないように、こっそりと、群衆に紛れ込んでイエス様が語られるお話を聞いたり、夜の闇にまぎれてイエス様が泊まっている家に行ったりしたこともあったのではないでしょうか。死刑になったイエス様と、そのように関わりがあったと分かったら、このヨセフのユダヤ社会での立場は悪くなります。将来の成功は望めなくなります。
ところが、この人は「勇気を出し」ました。それが43節に記されています。彼は、イエス様の体を十字架から降ろしたいと思ったのです。そして、日が沈んで土曜日・安息日になって何もできなくなってしまう前に、葬りたいと総督ピラトに願い出ました。
葬りは、申すまでもなく たいへん大切な事柄です。亡くなった方個人にとって、そのご家族にとって、また亡くなった方と関わりを持つ方すべてにとって大切な社会的儀式です。
聖書にも、葬りは大切な事柄として記されています。旧約聖書中の「士師記」という歴史書から、その例を挙げてみましょう。イスラエルがまだ国としてまとまっておらず、王様がいなかった頃、王様に似た立場の指導者が次々と立てられました。
それを士師と言います。たとえば、旧約聖書の404ページには小見出しとして、その士師の名前が太字で記してあります。イブツァン、エロン、アブドン、サムソンです。この前のページからは、エフタという士師の記録が記されています。このエフタについては、7節にこう記されていま。「エフタは六年間、士師としてイスラエルを裁いた。ギレアドの人エフタは死んで、自分の町ギレアドに葬られた。」
続いて、イブツァンについても こう記してあります。10節です。「イブツァンは死んで、ベツレヘムに葬られた。」次のエロンについて、12節も同様です。「ゼブルンの人エロンは死んで、ゼブルンの地アヤロンに葬られた。」アブドンのこともまた、15節にこのように記録されています。「ピルアトンの人ヒレルの子アブドンは死んで、アマレク人の山、エフライムの地にあるピルアトンに葬られた。」
生きて、死に、そして葬られる ‒ 葬られることが、生きた証しなのです。同時に、葬られることは、亡くなった人がこの世から“いなくなった”、“滅びた”事実をはっきりと刻みます。
今日の聖書箇所が語るアリマタヤ出身のヨセフは、イエス様が生き、死なれ、いなくなった事実を「葬る」ことで世に刻もうとしたのです。
前回の礼拝説教は、イエス様が十字架の上で息を引き取られたことが記されている箇所をご一緒に読みました。その時の説教で、テネブレ・消灯礼拝をご紹介しました。イエス様が、わたしたちのいるこの場・この世からいなくなったことが、暗闇で終わる礼拝で示されます。
私たちは福音の恵みをこう言い表します ‒ イエス様の十字架のみわざで救われ、ご復活によって永遠の命の約束をいただいた。十字架の出来事とご復活。うっかりすると、十字架で亡くなられたイエス様が、十字架でよみがえられ、そのまま天に昇られた錯覚を起こしてしまいます。十字架のみわざとご復活の間には、死の暗闇がぽっかりと口を開いています。イエス様はいなくなりました。その体は墓の暗闇に葬られます。
ここで、たいせつなことをお伝えしておかなければなりません。それは、聖書では肉体と精神を分けて考えないということです。聖書には、肉体が精神の入れ物という考え方は、ありません。肉体と精神はひとつです。命が終わる・滅びる・死ぬとは、肉体も精神も終わることを意味します。体が死んでも、魂がその体から抜け出て生きるという考え方はしません。また、体が死んでも、亡くなった方の精神や生き方が残された者の心の中に思い出としていきいきとよみがえるから、そういうかたちで人は生き続けるのだという考え方も、いたしません。前回の説教でも申し上げたことですが、イエス様は人間として、完全に死なれました。終わったのです。
アリマタヤのヨセフにイエス様の体を十字架から降ろしたいと言われて、ピラトが何を思ったかが44節に、こう記されています。「ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い」。おそらく、ピラトはイエス様に死刑判決を言い渡した後、自分の館に帰っていて死刑場であるされこうべの丘・ゴルゴタには行かなかったのでしょう。イエス様が死んではいけない方だとわかっていながら、群衆の声に負けてバラバを恩赦で解放し、イエス様に死刑判決をくだしたピラトにとって、イエス様のことはもうそれで終わりにして、できれば忘れたいことだったのではないでしょうか。
十字架刑は受刑者を長く苦しめるための残酷な処刑方法です。体力がある受刑者なら、二日ぐらいは生きているのが普通だったようです。ですから、ピラトはイエス様があまりに早く亡くなったことに驚いて、不思議に思いました。百人隊長に言いつけて、イエス様が本当になくなっていることを確認させました。45節によれば、「イエス様の死を確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した」のです。
ヨセフはこうしてピラトの許しを得てイエス様の体を引き取り、日没が迫っていたので、大急ぎでイエス様を葬りました。先ほども申し上げたとおり、日没と共に日付が変わり、土曜日・安息日になると、神さまのことを思う他はほぼすべての仕事も作業が禁じられ、火を焚いて食事を作ることさえもできなくなるからです。
ユダヤの人々の葬り方は、エジプトに似ています。ヨセフはエジプトのミイラに施されているように、イエス様の体を亜麻布で巻き、自分が所有していた墓に納めました。墓は洞窟です。岩に掘られた横穴です。その入口に大きな石を転がして、墓にふたをしました。封印したことを意味します。命が終わったしるしの石です。
マグダラのマリアとヨセの母マリア ‒ マリアはユダヤ人の女性の名前として、たいへん好まれる一般的な名前だったのでしょう。イエス様の母も、よくご存じのとおりマリアです。二人のマリアは、イエス様を慕って、イエス様と、十二人の弟子たちや他の弟子たちと一緒に伝道の旅をしてエルサレムに一緒に来た女性たちでした。彼女たちは、イエス様の体が納められた場所をじっと見つめていました。時間がないために、ヨセフがイエス様の体をしっかりと葬ることができなかったのを残念に、また悲しく思っていたのでしょう。ユダヤの葬りは、体を清めて香油や没薬を塗るからです。
二人は、イエス様のご生涯が終わった墓を見つめていました。終わりのしるしとして真っ暗な心で、絶望して見つめていたのです。
ところが、です。
天の父なる神さまと御子イエス様、そして聖霊の三位一体の主を信じる私たちキリスト者に、主は必ず「しかし」「ところが」「にもかかわらず」を準備してくださっています。どん底まで落ちた・終わったと思った後の大逆転 ‒ それが、クリスチャン・キリスト者・主を信じる者に約束されている恵みです。
神さまの大いなるご計画をまだ目の当たりにしていない者にとっては、イエス様を失ったこの時は、まさに絶望の時でした。ところが、しかし、にもかかわらず、イエス様はこの三日後によみがえってくださいました。
天の父は、私たちに希望をくださるためにイエス様を復活させてくださったのです。
聖書が語るように、イザヤ書55章が告げるように。神さまの思いは、人の思いをはるかに高く超えています。人間にとっての絶望の時は、実は待ち望む時・待望の時、希望を抱いてじっと待つ時なのです。
私たちは今、試練の中にいます。世界中の人が新型コロナウイルス感染拡大という同じ危機と試練の中でじっと収束を待っています。人間にはわからないことが多いウイルスで、1年半が経っても収まりません。報道を通してしか知ることはできませんが、変異株の出現によりさらに感染しやすいウイルスになっていると聞いています。しかし、主は、私たちがただ ただ不安の中で震えたり、心を暗くしたりしてしまうことはない、と示してくださいます。
確かに私たちは弱く、一番悪い予想を立てて、すぐにおののいてしまいます。
また、状況が良くならないと、同じ人間の中に悪者をみつけようとする醜い心も持っています。さらに、今の厳しい残暑と不穏な中東の情勢に心が挫けそうな思いもいたします。
しかし、ところが、にもかかわらず、神さまはイエス様のご復活という事実を通して、私たちに希望を与えてくださいます。
私たちの代わりにイエス様を死なせてしまうほどに、神さまは私たちを愛しておられます。こんな喜ばしいこと、こんな大きな恵みはありません。
神さまは、私たちに善い心が育つと期待し、私たちが御手にすがるのを待ってくださっています。私たちが御手にすがるとは、イエス様に従うことです。そのために、神さまはイエス様を復活させてくださいました。今日のアリマタヤのヨセフのように、神の国を待ち望み、真理の道を進んで行けるようにと、ご復活の主と聖霊を賜ったのです。
神さまの深いこの御愛に、私たちにできる精一杯の善い志と言葉と行動をもってお応えしようではありませんか。互いへの小さな思いやりと助け合いから、私たちは共に生きる平和を築きましょう。互いに助け合って試練のトンネルを出口に向かいましょう。
出口の光であるイエス様を仰ぎ見つつ、暑さにもウイルスにも、不穏な国際情勢にも心を挫かれることなく、今週一週間を歩んでまいりましょう。
2021年8月22日
説教題:わたしの神よ
聖 書:詩編22編2-4節、マルコによる福音書15章33-41節
昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
(マルコによる福音書15章33-39節)
イエス様が十字架に架けられてから三時間後、昼の十二時になると全地が暗くなったと、今日の聖書箇所の最初の聖句は語ります。
一日のうちで、一番 光がまばゆくあふれる時刻に、全地が真っ暗になりました。この世の光である神さまが、イエス様が、息を引き取られるからです。光が世から失われるから、世は暗闇に覆われるのです。
私たちはイエス様が死なれたことを、重く 重く受けとめなければなりません。神さまだから復活する、よみがえるから良いではないかという話ではないことを、今日はまず心にしっかりと刻みましょう。
イエス様は、神さまの御子であり、ご自身はもちろん、神さまです。神さまは死にません。神さまは命の源です。命が、生が、神さまの本質です。にもかかわらず、イエス様は私たちに代わって、死んでくださいました。イエス様は私たちのために、ご自身の本質を覆すほどのことをしてくださったのです。
私たちは神さまとイエス様を思う時、必ず神さま・イエス様・聖霊の主と自らの関わり・三位一体の主と私たちとの関わりの中で思いを巡らせます。イエス様の死を、私たちは自分に関わることとして思い巡らせなければなりません。私たちにとって、皆さん一人一人にとって、私にとって、主なるイエス様・世の光であるイエス様が失われるとはどういうことか ‒ この視点から今日の聖書箇所を読まなくてはならないのです。イエス様の死と同時に真昼に光が失われ、真っ暗闇になったとは、私たちが光を失い、暗闇に沈められたということです。
イエス様の死が私たち人間にとっての闇だった ‒ このことを実際に体と心で実体験として知るために、受難週の金曜日・イエス様が亡くなられた聖金曜日にテネブレと呼ばれる特別な礼拝を献げる教会があります。テネブレとは、ラテン語で暗闇のことです。テネブレは、消灯礼拝と呼ばれることもあります。
テネブレまたは消灯礼拝では、七本のロウソクに灯りを灯し、その灯りだけのもとで礼拝を始めます。イエス様の十字架の出来事を告げる聖書箇所を七つに分け、一部分を読んで祈り、讃美歌を歌い、ロウソクを一本消します。それを七回、繰り返します。並行して、教会の中心である聖餐卓に黒い布がかけられ、主の食卓は見えなくなります。また、会堂の十字架はすべて、どんなに小さな十字架でも黒い布で覆われます。イエス様がいなくなるからです。そして、茨の冠が黒い布で包んだ十字架に架けられます。ローマの兵隊がイエス様をからかうためにイエス様の頭にかぶせた冠、私たち人間がイエス様を侮ってかぶせた冠です。
十字架の出来事を告げる聖書箇所を読み終わった時、七本目のロウソクの灯りが消されます。それが、この消灯礼拝の終わりです。
真っ暗な中で終わるのが、テネブレ ‒ 聖金曜日の礼拝なのです。
イエス様がいない中で、礼拝が終わる ‒ 何と恐ろしい礼拝でしょう。私はこの消灯礼拝に出席した経験がないので、暗闇で終わる礼拝・希望の光をいただかずに終わる礼拝は考えられない気がします。イエス様に励まされ、御言葉に力づけられて、笑顔で会堂から出発するのが、私が親しんでいる礼拝だからです。消灯礼拝という礼拝のかたちが受け継がれているのは、このように楽観的になりがちな私のような信仰者に、イエス様がおられない世界の恐ろしさ・暗闇に包まれる怖さを実体験させる意味があるからかもしれません。
イエス様が息を引き取られたのは、午後三時でした。
その直前に、イエス様は「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」とおっしゃられました。先ほど司式者がお読みくださった今日の聖書箇所の34節後半に、その意味が記されています。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」
この言葉を、私たちは二通りに受けとめるようにと導かれています。
ひとつは、その言葉通りに受けとめることです。天の父なる神さまは、決して私たちを見捨てることはありません。私たちを滅ぼさないと約束してくださいました。しかし、私たちは滅ぼされなければ償えない、そういう罪を犯します。罪を犯したくない、善だけを行いたいと願っても、使徒パウロでさえ自分にはそれができないと嘆いています。人間は、神さまに背いてばかりいます。最初の人アダムとエバは、神さまが人間をたいせつに思ってくださって、この木の実は食べてはならないと言ってくださったのに、誘惑に負けて、簡単にその言いつけを破って食べてしまいました。
イエス様がエルサレムの町に入られる時、大歓迎したエルサレムの人々は、わずか一週間も経たないうちに、バラバを釈放してイエス様を十字架につけろとわめきたてました。何が本当に正しい言動かを、私たち人間は知ることができません。今月・八月は平和聖日があり、終戦記念日があって、私たちは過去の過ちを繰り返さないようにと心を新たにされます。しかし、時間という歴史の中を疾走している群像の中にいる私たちには、自分の姿も、群像の姿も、また群像全体つまり世界の人類全体が、どこへ向かって走っているのか、まったく見ることができません。少し先に断崖絶壁があったとして、先頭を走る者たちが気付いて全体を止めようとしても、後から走って来る者たちに押されてなだれを打つように全体が落ちてゆくかもしれないのです。自分たちの無知と愚かさに気付かず、神さまを仰ごう・イエス様に従おうとせず、ひたすら疾走する私たちは、神さま・イエス様をないがしろにしています。そして、自ら勝手に絶壁からなだれ落ち、滅びてゆきます。
神さまは、その私たちを滅ぼさずに救い上げ、我が子イエス様に罪の償いをさせました。私たちの代わりにイエス様を死なせ、滅ぼしたのです。私たちを見捨てる代わりに、天の父なる神さまはイエス様を見捨てました。私たちは、それを心に深くとめなければなりません。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」イエス様のこのお言葉を、私たちはもうひとつ、別の受けとめ方をするようにとも導かれています。
私たちは今日の旧約聖書の御言葉として詩編22編をいただいています。それは、この言葉で始まる祈りです。この祈りを献げたダビデは、イスラエル王国を統一した王ですが、実に苦労の多い人生を送りました。多くの賜物に恵まれていましたが、その賜物ゆえに、あるいは自分の罪ゆえに、何度か窮地に陥りました。詩編22編に謳われているように、すべての人に憎まれ、侮られているように思ったことがあったでしょう。
しかし、ダビデは祈りました。神さまにむかって、なぜ?と問いかけました。この時、ダビデは“自分は神さまに見捨てられた”と独り言をつぶやいていたのではありませんでした。彼は、神よ、と呼びかけました。嘆きを、怒りを、疑問を、独り言にせずに神さまに直接、ぶつけたのです。そうしてぶつけてみて、ダビデは初めてハッと気付いたのではないでしょうか。自分には、こうしてやるせない気持ちをぶつけることのできる神さまがおられる!
独り言やつぶやきは、自分以外に聞く者がいません。それは、うけとめる相手のいない、むなしい言葉です。ところが、祈りはむなしくありません。
祈ることを知っているとは、すばらしいことです。それは、人を内側から滅ぼす孤独から、祈る人を救い出します。見えない神さまが、祈りを必ず聞いてくださっているからです。神さまに献げれば、神さまは必ず受けとめてくださいます。祈ることは、神さまが自分を見捨ててはおられない恵みの証しそのものです。
神さまは確かにおられる、おいでくださって自分の祈りを聞いてくださると気付いて、ダビデの祈りは讃美と感謝に変わりました。それは、詩編22編を2節から32節まで通して読むとありありとわかります。ダビデは神さまがなさってくださった恵みをひとつひとつ思い起こしました。その恵みの豊かさを、ダビデは讃えずにはいられません。こうして、詩編22編は神さまを恨むような言葉から始まって、すばらしい讃美の歌になりました。また、それは信仰を子孫に受け継ぐ伝道の歌となりました。
ところで、ユダヤの子どもたちは、六歳になると律法の書を中心とする旧約聖書を暗記させられます。それが、ユダヤ民族の基本的な教育方法だったのです。ですから、ユダヤの人たちの中には、イエス様が十字架の上で詩編22編の最初の部分「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言われたとたんに32節にわたる詩編22編全体を、神さまへの讃美と感謝の祈り、そして伝道の祈りとして思い起こした人が少なからずいたでしょう。イエス様は十字架上の苦しみのために22編の冒頭の節しか声に出すことがおできになりませんでしたが、その1節を聞いただけで、私たちは22編全体の祈りへと招かれます。
詩編22編の最後の部分をお読みします。「わたしの魂は必ず命を得 子孫は神に仕え 主のことを来るべき代に語り伝え 成し遂げてくださった恵みの御業を 民の末に告げ知らせるでしょう。」(詩編22:30b-32)この言葉が、イエス様に実現し、イエス様のお体である私たち教会に実現したことを、私たちはよく知っています。
イエス様は、命を得られました。三日後によみがえられました。復活されました。
神さまが計画され、イエス様が成し遂げられた救いのみわざは、全世界に、また時の流れを超えて私たちに告げ知らされています。教会は今日も、今のこの礼拝の瞬間も、こうして讃美と感謝を献げ、福音の恵みを告げて、世に主のみわざと栄光を語り伝えています。イエス様がその冒頭部分を十字架上でおっしゃられた詩編22編の御言葉は、今、ここに実現しているのです。
イエス様は、ご自身の死をもって私たちを死から救ってくださいました。真理への道・命への道・神さまへの道を開いてくださいました。その恵みはイエス様のご復活で明らかになります。しかし、実はすでにこの時、復活の前・イエス様が地上の命の終わりを迎えた時にも、それは示されていました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というイエス様の問いの二つ目のうけとめ方は、このように私たちを福音の恵みへと招いています。
今日の一見すると暗黒としか思えない聖書箇所には、このような恵みが三つ秘められています。ひとつが、今 お話ししたイエス様の問いの二つ目の受けとめ方です。さらに、今日の聖書箇所には二箇所、その恵みが語られています。
一箇所は38節です。その直前、37節からお読みします。「…イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」(マルコ福音書15:37-38)
イエス様の時代、エルサレム神殿の奥まった場所には、至聖所という垂れ幕で仕切られた部屋がありました。ここに聖なる契約の箱が置かれ、定められた祭司の他は入ることができませんでした。イエス様は十字架の救いのみわざで、すべての人をわけへだてなく神さまへと導く道を開いてくださいました。神殿の垂れ幕は必要なくなりました。祭司でなくても、誰もが神さまに歩み寄れるようになったのが、今の教会のありようです。神さまは、誰をも永遠の命へと招いてくださっているのです。イエス様の死と同時に、上から下まで真っ二つに裂けた神殿の垂れ幕が、その恵みを示しています。
もうひとつの聖書箇所は、百人隊長の言葉です。百人隊長は、ローマの兵隊百人から成る軍隊の隊長で、もちろんローマ人です。ユダヤ人からすれば、ローマの皇帝を崇める異邦人です。神さまを知らないはずの人でした。また、自分の部下である兵士たちが、十字架に架かる前のイエス様をいたぶるのを止めなかった人でした。イエス様を侮辱した人です。この人が、こう告白しました。39節です。お読みします。「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」イエス様は神の子であり、神さまだったと、異邦人が信仰告白をしたのです。
イエス様が十字架で死なれたのは、イエス様がおられなくなるという意味で、私たち人間にとってのどん底の出来事・最も悲惨な出来事でした。
しかし、です。
にもかかわらず、です。
底打ちをした後の逆噴射・最悪の直後に到来する大きな恵みを、神さまは私たちに与えてくださいました。それが、イエス様が三日後のご復活で明らかにしてくださった永遠の命への道です。永遠にイエス様と共にいることのできる恵みです。
神さまは、我が子イエス様を見捨ててまで、私たちを救ってくださいました。イエス様は、その神さまのご計画に従って、私たちに希望と光の道、神さまへの道を開いてくださいました。その恵みを深く感謝して、心に希望と勇気を抱き、今週の一日一日を心を高く挙げて進み行きましょう。
2021年8月15日
説教題:わたしたちの救いのために
聖 書:詩編22編18-20節、マルコによる福音書15章16-32節
兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。そして、イエスをゴルゴタという所 ‒ その意味は「されこうべの場所」 ‒ に連れて行った。没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
(マルコによる福音書15章16-32節)
今日の主日礼拝に与えられた新約聖書の聖書箇所 マルコ福音書15章16〜32節には、イエス様がとうとう十字架に架けられてしまった出来事が語られています。
イエス様の十字架の出来事は二つの道筋で進められてまいりました。
ひとつは、イエス様の御父・私たちの天の神さまである創造主のご計画によってです。イザヤ書に預言されているように、私たち人間を造られた神さまは、私たちが善を愛し、正義を尊んで正しく豊かに地上の命を生き、地上の命を終えても御国で神さまと共に過ごせるようにと“救いのご計画”・救済史を、世の始めから描いてくださっていました。御子イエス様はその救済のご計画を成し遂げるためにこそ、神さまから完全な人間として この世に遣わされたのです。イエス様の十字架のみわざは、天の父なる神さまの御心によって定められていました。
今ひとつ、イエス様が十字架に至られたもうひとつの筋道は、人間の罪によってです。
イエス様は、ご自身が神さまなのですから、当然ながら 正しく、そして人々の心に届く愛に満ちた律法の解釈と御言葉の説き明かしを人々に語られました。破壊されたものや関係、痛んだ人々を元どおりにして癒やし、奇跡を行われました。そのために、人々にたいへん慕われ、そのために祭司長を始めとするユダヤの指導者層にねたまれ、暗殺を企てられるほどに憎まれました。さらにイエス様は弟子ユダに裏切られ、ペトロに否まれ、暗愚な群衆と優柔不断な総督ピラトによって、偽証に充ち満ちた裁きを受け、ついには総督ピラトによって “公然とローマの法律に則って” 死刑判決を受けることになってしまいました。
光と闇のように相反して見える以上の二つの道筋は、ばらばらに進められたのではありません、人間の心のすべてを知る神さまは、人間の罪によってイエス様が十字架に架かる二つ目の道筋をも、ご自身のご計画・救済史のうちに置いておられたのです。
神さまの救いのご計画 ‒光‒ の中に、人間の罪による陰謀 ‒闇‒ が入れ子のように収められ、十字架の出来事が進んで行く様子が、今日の礼拝の聖書箇所 マルコ15章16〜32節にはっきりと示されています。このご計画は、十字架のみわざの彼方にあるイエス様のご復活によって私たち人間にも、いえ もっとはっきり申せば、ご復活を信じる者には、神さまの光の中で恵みとして与えられます。つまり、イエス様のご復活を信じて聖書を読む私たちは、救済の計画と人の罪 ‒ 光と闇が交差し、闇の中にあるものが光に照らし出され、さらには光に闇が打ち勝つのを、聖書・聖句から読み取ることができるのです。
人の心の闇は、まず死刑判決を下されたイエス様にローマ兵たちが陰湿ないじめを行ったことに表されています。
総督ピラトがローマ帝国の法によって定めたイエス様の罪は、ローマへの反逆者「ユダヤ人の王」を名乗ったことでした。それをローマ兵たちはからかいました。
しかし、イエス様がよみがえられたことを知る私たちには、はっきりとわかっています。イエス様が本当に王‒ ヘンデルのハレルヤコーラスの中で繰り返し歌われるように、王の中の王(The King of kings, the Lord of lords)であり、ユダヤの王にとどまらず、天の父と共に御国の王であることを。軽率きわまりないローマ兵のイエス様を侮辱する罵り言葉は、神さまの光の中では文字どおりです。イエス様は王 ‒ これは真実なのです。
同様に、十字架に架けられたイエス様を侮る祭司長と律法学者たちの言葉も真実です。この言葉です。「他人は救ったのに、自分は救えない。」ここで彼らは、恩赦によって犯罪人が一人だけ解放される時にバラバがゆるされて命を救われ、イエス様が処刑されたことを言っているのでしょう。
しかし、私たちは知っています‒ イエス様が、私たちを「他人」と言うよりも「となり人・隣人」として深く愛して救ってくださるために、十字架に架かられたことを。イエス様は、ご自身が私たち人間に代わって命を罪の償いとして神さまに献げることで、私たちを滅びから救ってくださったのです。
祭司長と律法学者たちは、続けてイエス様を侮辱しました。ユダヤの国・一民族の指導者層とは到底思えない、まるで子どものような罵り言葉です。「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」
しかし、私たちは知っています‒ イエス様が、本当に十字架から降りられたことを。よみがえり、復活されたことを。
主のご復活を信じる者は、イエス様が本当にメシア、ギリシャ語では救い主クリストー・キリストであることを知っているのです。祭司長たちの罵りの言葉は、そのまま、文字通りの真実なのです。
このように、今日読んでいるイエス様の十字架の出来事・実に悲愴なご受難が記されている聖書箇所には、その三日後のイエス様のよみがえりを信じる者にとっては真理の御言葉です。文字通りに受け取って良い真実です。主の恵みと光が秘められています。
この悲惨な箇所を読む時、確かに、私たちは自分たち人の罪深さをありありと、あらためて知らされます。
しかし、私たち人間の口から出た戯れ言を、神さまはイエス様のご復活により真実にしてくださいます。いいえ、私たち人間には、始めから定められている真実が、そのとおりの美しい姿で見えないのだと言い換えた方が良いでしょう。だから、私たち人間はイエス様にこんな失礼な、こんなむごいことを平気でしてしまいます。それなのに、イエス様は、その人間のために、私たちのために、十字架に架かってくださいました。この愚かしい私たちの罪を代わって引き受けてくださり、私たちが受けるはずだった十字架の苦しみを代わって担ってくださったのです。
その救いのみわざは、イエス様の十字架で成し遂げられました。そして、ご復活で私たち人間にもわかるように示されます。イエス様は神さま・救い主だからこそ、死を超えてよみがえられたのです。
イエス様のご復活を思う時、まるでオセロゲームでこれまで黒だったたくさんの石がくるくると裏返されて盤面が白くなってゆくように、人間の醜い罵詈雑言は主にある真実・事実がまばゆく私たちの心に広がってまいります。
私たちが歩む中で、つらい経験や悲しい出来事が、私たちの心を硬くこわばらせてしまうことがあります。信頼していた近しい人に裏切られたり、思いもよらない事故に遭ったり、誰かの心ないひと言に深く傷つけられたりして、私たちはこの世には愛や正義といった善いものなんか本当はないのだと、心を冷たく突っ張らせることがあります。
しかし、愛や正義を信じられず、神さまに背を向けそうになっているそのような時にも、いえ、そのような時にこそ、私たちは自らのうちに暗さを持ちながらも、神さまの暖かくまばゆい光のうちにしっかりと抱かれています。
人に傷つけられて、周囲の誰も信じられないように思う時、私たちは歯を食いしばって、自分は神さまだけを信じていれば良いのだ、イエス様だけが私を見守っていてくだされば良いのだと思って自分を励まそうとします。それは、たいそう苦しい自らへの叱咤激励です。その姿を、神さま・イエス様は痛ましいものと見てくださいます。
家の外でつらいことがあって涙をこらえている我が子を、親はかわいそうと思って心を痛めるでしょう。私たちは神さまに似て造られています。神さま・イエス様・聖霊の三位一体の主は、人に心を閉ざした頑なな者を親のように憐れんでくださいます。親が我が子の笑顔 ‒ 自分に向けられた笑顔も、他の人たちと交わし合っている笑顔も見たいと思うように、主は私たちが主に笑顔を、また隣人に笑顔を向けるのを御覧になりたいと思われます。歯を食いしばり、こわばらせた顔を、神さまの光は暖めて笑顔を取り戻させてくださいます。この私のために死んでくださった主のお苦しみは、ここにこそ愛と正義があり、主のよみがえりは信じて決して悔いることのない善が真実にあることをありありと示すのです。善がある、こうして本当にある ‒ その真実を知ることで、私たちは自分でも驚くばかりに勇気づけられます。主を信じる思いに心は熱くなり、もう一度、人をも信じてみようと、隣人に向ける笑顔を取り戻せることができるようになるのです。頑なな心は主の光に暖められて溶け、やわらぎ、つらさは隣人と生きる期待と喜びへと変えられます。このすべてを、十字架のみわざを成し遂げ、よみがえられた主が導いてくださいます。
イエス様の十字架の出来事によって、人を苦しめ、自分自身を苦しめ、神さまを悲しませる私たちはその罪から解放されました。さらに何と喜ばしいことに、イエス様のご復活によって、私たちには死をさえ超えて、私たちを支えて勇気と希望をくださるイエス様から片時も離れることなく、共に御国へ、父なる神さまの御許へと歩める永遠の命への道が与えられました。
聖書では、最悪と思える言葉の中に、輝ける希望が秘められています。まさにその箇所を、今日、私たちはご一緒に読み、共にこうして恵みをいただいています。
今日の箇所の中に埋め込まれているもうひとつの大きな恵みの出来事は、イエス様が苦しみながらされこうべの丘を登って行くときに、ついに力尽き果てられて、他の者がその十字架を代わって担ったと記されている事柄です。21節です。お読みします。「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。」
イエス様は殴られ、鞭打たれ、夜通しどうしようもない裁判のために引き回されました。自分がつけられる十字架を自ら担いで、死刑の場であるゴルゴタの丘へ歩いて行くのが、当時の死刑囚に課せられた死刑の前段階の刑罰でした。しかし、イエス様には、もうその体力が残っていなかったのです。それで、兵士たちは偶然、過ぎ越の祭の見物に来ていたキレネ人をつかまえて、イエス様に代わって十字架を担がせました。
この事実を聖書に読むのは、イエス様の苦しみを人間の身でわずかでも知るためには、大切な事柄です。ただ、ここを読んで少し不思議な感じを持ちませんか。どうして、わざわざイエス様に代わって十字架を担いだ者の息子たちの名前が、こうも詳しく具体的に「アレクサンドロとルフォス」と、書いてあるのでしょう。
ここを繰り返し読んで感じるのは、この言葉にこめられたこんな響きです。“このキレネのシモンという人はね、ほら、みんながよく知っている あのアレクサンドロとルフォスのお父さんだよ。”
これはどういうことでしょう。キレネのシモンは、イエス様の十字架を担ったことをきっかけに、きっと、後にキリストの教会に連なる者となったのです。アレクサンドロもルフォスも、イエス様を信じて教会に連なり、その時代のキリスト者・クリスチャンなら誰もがその名を聞けば、ああ、あの人、とわかる伝道者になったのでしょう。イエス様は、最も苦しい時にさえ、こうしてイエス様を知り、神さまを仰ぐ喜びを知る者を起こしておられました。
まさに、主を信じる信仰の歩みには、最悪と思える事態の中に大いなる恵みが隠されている ‒ その恩寵がここに語られています。
最悪と思える試練の時にも、勇気と希望を抱いて主を仰ぎましょう。
私たちの主は必ず我が子よと深い安心とやすらぎを与えてくださいます。
その深い恵みを信じ感謝して、今週の一日一日を光の子として進み行きましょう。
2021年8月8日
説教題:ピラトのもとに苦しみを受け
聖 書:イザヤ書53章11節、マルコによる福音書15章1-15節
彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。
(イザヤ書53章11節)
夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。
ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
(マルコによる福音書15章1-15節)
今日の聖書箇所は、最高法院で死刑判決をくだされたイエス様が総督ピラトの前に連れ出されたと語り始められています。
ユダヤの最高法院がイエス様を死刑に定めた罪状は冒瀆罪でした。イエス様はご自身が“神の子、救い主”だと明言されました。これは真実です。しかし、イエス様が神さまの御子とわかっていないユダヤの指導者・祭司長たちにとって、この真実の言葉は社会的地位のないナザレの若者が神さまを汚す言葉でしかありませんでした。それにより、彼らはイエス様に冒瀆の罪による死刑の判決をくだしました。
その判決に続いて、イエス様が十字架につけられたかと申しますと、実はそうではありません。当時のユダヤがローマ帝国の植民地だったために、事柄は複雑でした。
植民地ユダヤの法律すなわち律法は、公の権威を失っていました。権威があるのは、ローマ帝国の法律でした。ユダヤ人であっても、ローマの法律で裁かれて、そこに定められている罰則で罰せられなければならないのです。ユダヤの最高法院がイエス様に死刑判決をくだしても、それはユダヤを統治している宗主国ローマから見れば、ユダヤの内輪もめ・リンチ事件にすぎません。リンチは暴行罪ですから、そうなると、ユダヤ最高法院がローマの法律で裁かれることになります。
当然のことながら、祭司長たちは、それを絶対に避けたいと考えました。1節の半ばに、それを回避するために彼らが相談をしたことが記してあります。相談の末、彼らはイエス様がローマの法律で死刑になるように、ローマから派遣されている総督ポンテオ・ピラトのところに縛って連れて行きました。
ローマ帝国は皇帝を神と崇めます。ユダヤの律法による冒瀆罪云々と言っても認められません。植民地で極刑となる大罪とは、その植民地を治めている宗主国への反逆です。当時のユダヤの宗主国はローマ帝国、支配者はローマ皇帝でした。反逆罪とは、ローマ皇帝への忠誠を拒否して、自分こそがユダヤの支配者・王だとクーデターを起こすことです。ローマ帝国・ローマ皇帝は、反逆者をゆるさず、極刑・死刑判決をくだします。
ユダヤの指導者たちは、イエス様をローマ皇帝の代理としてユダヤに派遣されている総督ピラトの前に連れて行き、この者はローマに反逆し、自分こそがユダヤの王だと言っていると告げました。
ピラトは、それがユダヤの指導者たちの作り事であり、イエス様をおとしいれるための悪だくみだと見抜いていました。今日の聖書箇所の10節に、こう記されています。お読みします。「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」
ピラトは、イエス様には罪がないと知っていました。ですから、祭司長たちがイエス様を自分のところに連れて来た時、困ったことになったと思ったに違いありません。
ローマ帝国から植民地に派遣される総督は、たとえて言えばローマ本社からの支店長のようなものです。任された支店である植民地を上手に治めて、植民地税をたくさんしぼり取り、任期をつつがなく務め終えてローマに帰れば出世の道が開けています。一方、植民地でたびたびクーデターが起き、暴動が起こって政治不安が続けば、総督は早々にローマに呼び戻され、皇帝からは失敗者として無能の烙印を押され、出世の道は閉ざされます。
そのような背景があったので、ピラトは、祭司長たち・ユダヤの指導者たちをなだめたいと思いました。彼らに、ピラトがイエス様の無罪を見抜いていることと、すべてが祭司長たちのたくらみであることを言えば、祭司長たちは怒り出すに決まっていたからです。ピラトは植民地社会の指導者層を敵に回したくありませんでした。
困ったピラトは、イエス様を尋問することにしました。それが、2節です。ピラトはイエス様に、こう尋ねました。「お前がユダヤ人の王なのか」 ‒ あなたを連れて来たユダヤの最高法院の人たちは、あなたがユダヤの王を自称してローマへの反逆をしようとしていると言っているが、本当にそうなのか、と聞いたのです。
ピラトは、この若者が自分はそんなことは言っていないと言うだろう、そうしたら祭司長たちに“違うと言っているぞ、あなたたちも聞いただろう”と告げて、イエス様を釈放しようと思ったのでしょう。
ピラトは、常識的な普通の人だったのです。卑怯な陰謀をめぐらす祭司長たちがイエス様は悪者だから死刑にしろと言っても、罪のないイエス様を死刑にするわけにはいかないと考えていました。
ところが、イエス様はピラトの予想とはまったく違うお答えをされました。質問への答えにならないひと言だけを、こう言われました。 「それは、あなたが言っていることです。」
実に静かな言葉です。ピラトさん、あなたは今、そうおっしゃいました、私はそれを肯定も否定もしません。それだけのお言葉です。祭司長たちは尚もイエス様のことを悪く言い、ピラトに訴えました。イエス様は もう何もおっしゃいません。その超然とした姿に、ピラトは感銘を受けると同時に、底知れぬ不思議さを感じました。
この人を死刑にして死なせてはいけないと、ピラトはますます思ったのではないでしょうか。彼は、イエス様を祭司長たちから助け出すもうひとつの方法があることを思い起こしました。これまで、ピラトは祭のたびに、恩赦を行っていました。犯罪者として拘留されている者の中から、ユダヤの人々が願い出る罪人を一人、釈放していたのです。ピラトはこれを使って、イエス様を死刑から免れさせようとしました。
恩赦の時に、ピラトは群衆・ユダヤの一般の人々の願いを聞き入れることにしていました。イエス様がエルサレムの町に入られた時、人々がイエス様を大喜びで迎えたことを知っていたピラトは、人々がイエス様の釈放を願うに違いないと考えたのです。
ところが、ここでもユダヤの指導者たちは悪賢く立ち回りました。彼らは群衆が無責任で、気まぐれで、愚かなことを知り尽くしており、それを利用したのです。バラバという犯罪者が、この時、イエス様と同じように囚われの身となっていました。この人はローマ帝国に反逆して暴動を起こし、その騒ぎの中で人を殺してしまった、いわば本物の犯罪者でした。祭司長たちは、このバラバこそがユダヤの独立運動を熱心に行っている英雄だ、だからバラバを救い出せと、人々をけしかけました。そして、人々は簡単にこの扇動に乗ってしまったのです。
ほんの一週間前にイエス様を大歓迎した群衆が、こう叫びました。“バラバを釈放して、ナザレのイエスを十字架につけろ。”
繰り返しますが、群衆は無責任で、気まぐれで、愚かです。手のひらを返すように、意見を変えて、それを卑怯だとも恥ずかしいとも思いません。私に良く分かっているのは、いつの時代も群衆はそうだということです。さらにはっきり私に分かるのは、私自身がその群衆のひとりだということです。もし私が今日の聖書箇所の群衆 ‒ まだ、イエス様が神さまの子だと知らない群衆の一人だったら、祭司長たちに扇動されない自信はとうていありません。
群衆は叫び立てました。「(イエスを)十字架につけろ。」
先ほども申しましたが、ピラトはイエス様を死なせたくありませんでした。無実だとわかっていたからです。わめき立てる群衆に、彼は念を押しました。今日の聖書箇所の14節です。「(このイエスという人が)いったいどんな悪事を働いたというのか。」ピラトは良識的・常識的です。彼は良心にもとづいて、「この人は無実ではないか」と言ったのです。ところが、「群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び立て」ました。
そして、残念なことに、ピラトの良心はここまででした。“どうするのが正しいか”よりも、“どうしたら、穏便にことを済ませられるか・自分は傷つかないか・自分も家族も損をしないか”を考えることを優先したのです。良心に従って正しいと信じることを貫くよりも、保身が大切だったのです。保身とは、我が身と身内が第一という自己中心的な姿勢です。そのためには、「群衆を満足させる」ことが必要でした。群衆の言いなりになって、ピラトは自分の良心に背き、バラバを釈放しました。これによって、イエス様の十字架刑が確定したのです。
常識的に、良心をもって生きる ‒ それは、私たち皆が日頃、こころがけていることです。また、できるだけ損をしないように身を守りつつ生きることも、私たちの身についた本能のようなものです。私たちは、言ってみれば日々、ピラトのように生きています。
また、先ほど申しましたが、私たちは皆、今日の聖書箇所の群衆の一人です。
私たちは主の日の礼拝のたびに声を合わせて使徒信条により、信仰を告白します。その中で、イエス様が「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」た、と申します。このポンテオ・ピラトは、私たちです。十字架につけろと叫んだ群衆も、私たちです。
私たち人間は良く生きようと願っても、どうしても、どこかでピラトのように、また群衆のようになってしまいます。ですから、私たちが日曜日ごとの礼拝の使徒信条で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と言うのは、“イエス様は、私のために、私たちのために苦しみを受け”と告白しているのと同じです。
イエス様は、この群衆の救いのために、またピラトの救いのためにも、十字架にかかってくださいました。忘れてはいけないのが、今日の聖書箇所で、釈放されたバラバです。イエス様は、バラバに代わって十字架に架かられました。私たちは、罪をすべてイエス様に代わっていただいて、救われました。私たちは皆、バラバです。
ピラトが、群衆が、バラバが、私が、私たちが、イエス様を苦しめたにもかかわらず、イエス様は私たちすべてを救うために十字架に架かってくださいました。人を苦しめ、神さまを苦しめる罪から私たちを解放してくださるためです。深く、深く感謝せずにはいられません。
イエス様の十字架のみわざの恵みの深さ、また それを私たちにはっきりと示す三日後のイエス様のご復活の言葉に尽くせない恩寵の大きさを心に留めて、新しい一週間の歩みを始めましょう。
2021年8月1日
説教題:知る、関わる、愛する
聖 書:創世記4章8-9節、マルコによる福音書14章66-72節
カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」
(創世記4章8-9節)
ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。
(マルコによる福音書14章66-72節)
とうとうこの聖書箇所を読む礼拝が巡って来た ‒ 巡って来てしまった ‒ そう思わずにはいられないほど、今日の御言葉は私たちの胸深くに突き刺さります。このペトロのように、私たちもイエス様なんか知らない、教会なんて自分には関係ないと言ってしまう時が来るのではないか、ペトロでさえ言ってしまったことを、この自分が言わないとは限らないと、恐れつつ思わずにはいられません。
ご一緒に聖句をたどってまいりましょう。
ゲツセマネの園で逮捕されたイエス様は、大祭司の自宅中庭に連行され、その屋敷の二階広間での不当な裁判に引き出されました。
イエス様が逮捕されたとき、弟子たちは武装した捕り手たちを恐れ、蜘蛛の子を散らすように逃げ去りました。しかし、一番弟子のペトロだけは連行されるイエス様と捕り手たちから「遠く離れて…大祭司の屋敷の中庭まで入」(マルコ14:54)って行きました。
ペトロは一番弟子であるだけに、他の弟子たちよりも長く、そして親しくイエス様と多くの時と経験を重ねていました。イエス様を深く慕い、これからどのような目に遭わされてしまうのかが大いに心配でこわごわ、距離を取ってあとについて行ったのです。
その数時間前には、次のようなことが起こっていたことを私たちは思い出さねばなりません。イエス様はゲツセマネの園で祈りを献げる直前に、ご自分がこれから逮捕されること、その時には弟子たちが逃げ散ってしまうことが聖書に預言されていると予告しておられました。(マルコ14:27以下)その時ペトロは、自分は決してイエス様から離れない、「『たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません』と力を込めて言い張」(マルコ14:31)りました。
それは、本当にその時のペトロの真心・真実の思いだったでしょう。だからこそ、ペトロは(ヨハネによる福音書によれば)イエス様が逮捕される時には思わず捕り手に剣を振るい、連行されるイエス様のあとについていかずにはいられなかったのです。
前回の礼拝でご一緒にいただいた聖書箇所で、イエス様は虚偽に満ちた裁判で死刑の判決を言い渡され、その後 侮辱され、殴打されました。
大祭司自宅の二階広間で行われていた裁判の声や気配は、そのすぐ下の中庭にいたペトロに聞こえていたでしょう。それまでのペトロの予想を超える深刻な事態となったことに、ペトロはすっかり震え上がってしまったのではないでしょうか。
ニセ裁判に集まって偽証のたくらみを実行したのは、ユダヤ社会のエリート層でした。彼ら祭司・律法学者・長老たちは、神さまに仕え、司法の任に就いて人々を導き、社会秩序を保って正義を実行することを務めとしています‒ 務めとしているはずの人々でした。民衆から信頼と尊敬を受けるにふさわしい行いをしているはずだったのです。それが、どうでしょう。判決の後に、彼らは醜い本性・罪の姿をあらわにして、イエス様をいたぶりました。ペトロは、これに大いに驚き、自分もイエス様の仲間だとわかってしまったら、同じように責められ、殴られるかもしれないと恐怖でいっぱいになったのです。
そのペトロを見て、声をかけた人がいました。
大祭司の家で働く女中です。その人はペトロに、あんたは、捕らえられたナザレのイエスの仲間じゃないかと尋ねたのです。
震え上がったペトロはとっさにそれを否定して、「出口の方へ出て行」きました(マルコ14:68)‒ 逃げようとしました。イエス様が預言なさったこと、神さまが旧約聖書を通していにしえから定めておられた計画は実現しました。羊飼い・イエス様が打たれると、羊・弟子たちは皆 散ってしまうとのゼカリヤ書の御言葉が成ったのです。イエス様のあとをついて大祭司の屋敷の中庭まで来たものの、悲しいことにペトロも結局は、他の弟子たちと同じように、逃げてゆくのです。そして、それはすでに神さまのご計画に折り込まれた事柄でした。
夜明けが迫りつつありました。最初の鶏が鳴きました。
逃げるペトロの背中を、女中の声が追って来ました。ペトロではなく、まわりにいる人々に言ったのです。「この人(ペトロ)は、あの人(イエス様)たちの仲間です」(マルコ14:69)
ペトロはそれも打ち消しましたが、今度はまわりの人々が言い出しました。「お前はあの連中の仲間だ。」(マルコ14:70)人々に取り巻かれ、口々にナザレのイエスの仲間だと言われて、ペトロの恐怖心は頂点に達したのでありましょう。この時、ペトロの心はここから逃れようとの思い一色になりました。彼は必死に呪いの言葉さえ口走りつつ、イエス様との関わりを否定しました。呪いの言葉を口にするとは、そんなことがあったら ‒ つまりナザレのイエスと自分に関わりがあったら、その関わりは呪われるがよいと言ったということです。さらに、自分はイエス様に関係ないと誓ってさえしまいました。ペトロは、こう言い張りました。「そんな人は知らない」(マルコ14:71)
その時、再び鶏が鳴きました。
「ペトロは、『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだし」(マルコ14:72)ました。
ペトロは、ほんの数時間前に、こう言いました。その時も、言い張りました。繰り返しになりますが、その言葉を今一度、思い起こしましょう。彼はイエス様に向かって、こう言い張ったのです。“一緒に死ぬようなことになっても、決してイエス様から離れません。” そう、心からイエス様に言ったのに、その覚悟は波に洗われた砂の城のようにもろく崩れ去り、彼はイエス様を知らない、そんな人と関係があったら、それは呪われた関係だと言ってしまったのです。
何ということを、自分は言ってしまったのか、なんと自分は臆病なのか。激しい自己嫌悪と後悔で、ペトロは泣きだしました。
しかし、ペトロの号泣は自己嫌悪を後悔のためだけではありませんでした。
鶏が二度目に鳴くのを聞いた時、ペトロは、自分がイエス様を三度「知らない」と否定するのを、イエス様がずっと前からわかっておいでだったことに気付いたのです。
イエス様は、ご存じでした。いざとなった時に、ペトロの覚悟が微塵に吹き飛んで臆病者になること、ペトロが本当は自分だけを守ろうとする弱い心の持ち主‒ 私たち人間は、おそらくみんなそうです‒ であることを知り尽くしておられたのです。
それにもかかわらず、イエス様はゲツセマネの祈りの時に、愛する弟子としてペトロを伴い、深く信頼されました。“目を覚まして、近くにいてくれ” とさえおっしゃったのです。
この人はいつか私を見捨てる‒ そうわかっているのに、とことんその人に寄り添って誠実に愛し抜くことが、私たち人間にできるでしょうか。イエス様は、そのようにペトロを愛して、愛し抜いてくださったのです。
自分は、そこまで深くイエス様に愛されている‒ ペトロは、イエス様の深い愛を魂と心で知ったからこそ、激しく泣きだしたのでした。それほどにイエス様に深く愛されているのに、自分は取り返しのつかないことを言ってイエス様を見捨ててしまったと、ペトロはなおも泣きました。大好きなイエス様に、もう二度と顔向けできないことを言ってしまったのです。
イエス様が十字架に架かられたのは、このペトロをゆるすためでした。
イエス様がご復活されたのは、このペトロに会うためだったのです。
いえ、ペトロばかりではありません。イエス様をおとしめ、いつイエス様から離れてしまうかわからない私たちすべてをゆるすために、イエス様は十字架に架かられたのです。そして、イエス様から離れてしまったにもかかわらず、決して見捨てられないことを示してくださるために、イエス様は十字架で死なれた三日後にご復活されました。
たとえ私たちがイエス様なんか知らないと言ってしまったとしても、イエス様は、決して私たちを見捨てません。どんな時も、変わらずに必ず「わたしは、あなたを知っている。あなたは私の友だ」とおっしゃってくださいます。そのための、主によみがえられました。
聖書が語る「知る」という言葉は、ただ認識するという以上に、相手と深い関わりを持つことを意味します。
創世記に「アダムは妻エバを知った」(創世記4:1)という聖句があります。それは二人が心と体でひとつにつながり、いつどんな時も互いと関わり続けることを意味します。
神さまは、私たち一人一人を造り、造り主として私たち自身よりも私たちをよく知っておられます。私たちの髪の毛ひとすじも、神さまがこういう髪に造ろうとご計画くださって、実現されているのです。
神さまは、私たちが必死で覚悟や決意をしても、それをあっけなく手放してしまうもろさ・弱さを持っていることを知っておられます。にもかかわらず、神さまはイエス様を通して私たちに常に変わらない愛をそそぎ続けてくださいます。
元気いっぱいに奉仕に励んでいる時も、教会から心が離れそうな時も、変わらずに手を差し伸べ続けて、私たちが幼子のようにそれにすがるのを常に待っておられます。
私たちは弱くもろい心を持ち、いつなんどき主に背を向けてしまうかわからないにもかかわらず、常に変わらずに主に深く愛されています。失敗しても、弱さを露呈しても、主の愛は変わることがありません。その恵みと幸いを今、しっかりと受けとめ、たいせつに心に留め置きましょう。
愛されている喜びを胸に、今日から始まる新しい一週間を力強く、心を高く挙げて進んでまいりましょう。
2021年7月25日
説教題:ほむべき方の子、救い主
聖 書:イザヤ書53章6-8節、マルコによる福音書14章53-65節
わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。
(イザヤ書53章6-8節)
人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」 しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」大祭司は衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒瀆の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。
(マルコによる福音書14章53-65節)
イエス様は過越の祭の夜、最後の晩餐の後にゲツセマネの園で逮捕され、そのまま大祭司のところへ連れて行かれました。大祭司は神殿での儀式を取り仕切る最高責任者です。また、ユダヤ社会では社会を秩序立てる法律が神さまから与えられた律法そのものなので、大祭司は社会秩序の最高責任者でもありました。55節にある最高法院という言葉は、私たちの社会での最高裁をさし、大祭司は最高裁判所長官にあたります。イエス様は、この大祭司の屋敷に連行されたのでした。
そこに、イエス様を憎み、妬み、イエス様の逮捕を仕組んだ者たち ‒ 祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まっていました。大祭司は、このたくらみのトップでもあり、先導者だったのです。恐ろしいことに、この大祭司がユダヤ社会の最大権力者で、すべての事柄の最終決定権を握っていたのです。
そして、欺瞞に充ち満ちた裁判が始まりました。
裁判は当然、公明正大なものでなくてはなりません。ところが、それは、公明正大の真反対のものだったのです。公明正大の反対語は不公不正、または依怙贔屓(えこひいき)なのだそうです。まさに、ここでユダヤ社会の指導者層であり、エリート階級である祭司長・律法学者・長老たちに有利に、そしてイエス様に不利になるよう、依怙贔屓そのものの裁きが行われたのです。それは、先ほど司式者が読まれた今日の聖書箇所55節の聖句から明らかです。55節をお読みします。「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めた」。イエス様への判決は、裁判の前に、もう死刑と決まっていました。これは裁判でも何でもありません。イエス様を十字架に架けるための手続きに過ぎない、欺瞞に満ちた裁判ごっこです。
さらに、ここにひとつ、この裁判の行われ方には何ともいえないうさんくささがあります。一国の最高裁判所での裁判が、どうして真夜中に、それも最高裁判所長官・裁判官の自宅で行われるのでしょう。すでに不思議に思っておられる方もおいででしょう。そうです。怪しすぎます。
当時のユダヤはローマ帝国の植民地でした。正式な裁判は、ローマ帝国から派遣され、ユダヤ社会の統治を任された総督によって開かれます。この時のユダヤの総督は、私たちが先ほど声を合わせて献げた使徒信条にもある「ポンテオ・ピラト」です。
ですから、大祭司の自宅で行われたこの真夜中の裁判には、何の法的効力も権威もありませんでした。宗主国であるローマ帝国から見れば、内輪もめです。低俗な言葉を敢えて用いれば、ユダヤ民族が勝手にイエス様をいたぶるためのニセ裁判を行い、そこで降された死刑判決がもしそのまま、その場で実行されたら、それは違法なリンチです。
神さまに仕える祭司たちの指導者・統率者であり、民族の秩序を最も整えなくてはならないはずの大祭司が自ら、率先して無法なこと・アウトローさながらのことを行っていました。
イエス様を敵とみなす大祭司たちの立場からすれば、そうまでしてイエス様を死刑にしたいほど、イエス様を危険人物と見ていたのです。
律法主義に凝り固まり、神さまの愛の掟・律法を勝手に人間的に解釈して人の言動を束縛するルールにしてしまい、人々をそのルールで支配してエリートの地位を保っていたのが、大祭司たちでした。その律法解釈を鋭く批判するイエス様は、彼らの地位を脅かす革命家で、何とか社会から排除してしまわなければ、自分たちの社会的面目が立たないと、彼らは思い込んでいたのです。
このニセの裁判のために、彼らは急遽、ニセの証人を準備していました。偽証 ‒ 偽りの証言をする者たちです。
ところで、律法では偽証は十戒で禁じられています。それほど、根本的な罪なのです。嘘をつくのはもちろん罪ですが、偽証・嘘 偽りの証言は、罪のない人に本来なら受けなくても良い罰則を与え、社会的信用を失わせ、その人のその後の人生を大きく歪めてしまいます。偽証を防ぐために、律法では二人または三人による証言が一致していないと、その証言を認めないと定めています。
イエス様を死刑・十字架刑にするために、大祭司一味に雇われたニセ証人たちが、口々にイエス様の罪を言い立てました。もちろん、嘘ばかりです。ところが、嘘にはほころびがつきものです。真実でない作り事なので、ニセの証人たちは割り振られた証言のセリフを間違えて言ってしまうのです。それで、大祭司たちがごまかそうとしても収集がつかないほど、ニセの証言は食い違いました。なかなか興味深い、人間の真実の姿・愚かしい姿がここに現れています。
そこで、とうとう大祭司たちは手持ちの中で、とっておきの切り札を使いました。58節の証言です。お読みします。「この男 ‒ イエス様のことです ‒ が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」
あ、似た聖句が、聖書のどこかにあった…と思われた方がおいででしょう。ヨハネによる福音書2章19節にイエス様がおっしゃったこの言葉が記されています。お読みします。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」大祭司たちが切り札としたニセの証言は、このイエス様の言葉の本当の意味がわからずに、ただ言い換えているだけです。イエス様が神殿を三日で建て直してみせるとおっしゃったのは、ご自分の体のことでした。まことの礼拝は、ひたすらイエス様を思い、天の父を仰ぐ信仰を抱いて二人または三人の信仰者が献げる時に、建物のあるなしに関係なく成立します。「三日」とは、十字架に架かられてから三日後に、イエス様がご復活されることを預言した言葉でした。
ユダヤの人々は苦労して46年もかけて建てた神殿で献げる礼拝こそが真実の礼拝と信じています。そのために、それぞれの故郷から、1年に1回のエルサレム詣でをするのです。その神殿を壊して三日で建て直すとは、神殿の尊厳を汚し、神さまを冒瀆し、自分を大それた者にみせかける罪深い言葉だと誤解した者がいても、不思議はありません。弟子たちですら、その言葉がイエス様の復活の預言とはわからなかったのですから。
繰り返しますが、この言葉は実際にイエス様がおっしゃったことです。それを証言としているので、大祭司たちは今度こそ、イエス様を有罪に、しかも冒瀆罪で死刑に出来るとほくそえみました。
ところが、意味のわからないイエス様の言葉を二人、三人の証言者が言うと、また食い違いが生じました。イライラしていた大祭司はとうとう業を煮やし、我慢できずに立ち上がり、イエス様に尋問しました。60節です。お読みします。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているのが、どうなのか。」
イエス様は沈黙しておられました。61節に、こう記されているとおりです。「しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。」
大祭司は、イエス様が自分の弁明を始めたならば、神聖な神殿を壊す、また壊して三日で建て直すと神殿を軽んじるように言ったことを冒瀆罪の自白証言として死刑の判決をくだせると考えたのでしょう。
ところが、イエス様はそれについてひと言も自己弁護や説明をなさいませんでした。
それは、今日の旧約聖書箇所・イザヤ書53章7節の預言 ‒ 預言は神さまのご計画です ‒ が実現するためでした。
イエス様はゲツセマネの園で逮捕される時、暴力に対抗して剣を振るってしまった弟子を戒め、起こっていることのすべては「聖書の言葉が実現するためである」(マルコ14:49)と静かに述べられました。
この時、イエス様は人間の悪がうごめく闇とは実に対照的に、神さまとしての確かで静かな光を放っておられます。そもそも、イエス様は神さまとして奇跡のみわざを行う時も、ご自分のためにはその力を決して用いません。この時も、自分を弁護して逃れようなどとはまったく思っておられませんでした。
このイエス様の沈黙に、大祭司はさらに苛立って、ついに究極のといかけをしました。61節の後半です。「お前はほむべき方の子、メシアなのか。」
「ほむべき方」とは「讃美され、誉め讃えられる方」すなわち天の父・創造主なる神さまのことです。イザヤ書やエレミヤ書に預言されてきた神さまの御子 メシアとは救い主のことです。イエス様は、まさにこの救い主としての使命を託されて、天の神さまからこの世に遣わされた御子に他なりません。開いているのに、真理を見極めることのできない人間の目には、完全に人としてしか見えていませんでした。
人間に過ぎない者が自分は神である、神の御子メシアであると言ったら、それは間違いなくたいへんな冒瀆罪です。ところが、イエス様は完全に人であると同時に、完全に神さまです。そして、イエス様はその真実だけを、この裁判で告げられました。メシア・救い主かと大祭司に尋問されて、初めて口を開き「そうです」と答えられたのです。
日本語の聖書では「そうです」と訳されていますが、新約聖書の元の言葉 ギリシャ語では「私はある、私はあるというものだ」というイエス様のお答えがはっきりと記されています。
「わたしはある、わたしはあるというものだ」 ‒ 旧約聖書の出エジプト記で、神さまが燃える柴の中から預言者モーセに初めてご自身が神であることを告げた時の言葉そのものです。神さまの自己紹介の言葉と言って良いでしょう。イエス様は大祭司の尋問に「わたしは主なる神である」と宣言されたのです。
これは、大祭司にとっても、衝撃的な宣言でした。ナザレの田舎の青年で、これと言った経歴も学歴もないくせに、不思議と神学議論では絶妙な冴えを見せる生意気な若造が、なんと自分は神だ、救い主だと言ったのです。大祭司は驚きと怒りを表す時のユダヤの習慣である衣を裂きながら、これは死刑に値する冒瀆の言葉で、もはや証言は必要ないと言いました。
神さまを侮辱する冒瀆の罪は、大罪です。どんな扱いをされても仕方がありません。祭司長たちや律法学者たちは、イエス様に対して人間の醜い本性をあらわにして、イエス様をいたぶり始めました。イエス様に目隠しをしてこぶしでなぐりつけ、「言い当てて見ろ」とゲーム感覚でイエス様を虐げ出したのです。彼らの部下である下役さえ、調子に乗ってイエス様を平手で叩きました。こうなったら、社会的地位に関係なく、誰も彼も根性の曲がった単なるいじめっ子です。
ここで、私たちは、私たち自身の姿・人間の姿をかえりみなければなりません。今の時代に、ネットやSNSにあふれかえる誹謗中傷の恐ろしさを思わずにはいられません。批判される人には、誰からの誹謗中傷かわからないようにして、人格を全否定する言葉がこぶしのように浴びせられるのです。自分はそんなことはしない、と私も思いたいところです。しかし、こんなことを言ったりしたりする人は絶対にゆるせない、これについて私は絶対正しいと思うことがあったら、信念をもって批判の言葉を発信してしまうかもしれません。自分では、自分だけの正義をかざす自己中心的な者にすぎないことに、その罪に、少しも気付かないかもしれないのです。
今日の聖書箇所は、私たちに厳しく自らをかえりみるよう促し、自分の内に潜む罪に気付かせようとしてくれます。しかし、それだけではありません。ここに、神さまの大いなる恵みと、イエス様の私たち人間への愛があふれています。どこでしょう。どの御言葉でしょう。
それは、62節の「そうです」というイエス様の言葉です。この言葉により、イエス様はご自身が「救い主だ、私は神である、私はあるというものだ」と宣言してくださいました。ご自分をニセの裁判で死刑に処す罪人たちのために、私はあなたがたをその暗く醜い罪の闇から救う、わたしの命をかけて十字架で救うとおっしゃられたのです。
そして、今、聖書の御言葉を通して、私たちにも語りかけてくださっています。わたしはあなたの救い主だと、寄り添ってくださるのです。あなたがつらい時には、わたしはそのつらさを分かち合おう、あなたの心が誰かへの憎しみでいっぱいになって、そのためにあなた自身が苦しむような時には、その憎しみがすでに十字架で清められ、あなたがゆるされていることを、聖霊を通して知らせようと前に進む勇気と励ましをくださいます。
今週も、私たちはイエス様にこうして支えられ、導かれて一日一日を過ごします。救い主イエス様を与えられた感謝と喜びを胸に、この新しい一週間も心を高く上げて進み行きましょう。
2021年7月18日
説教題:御言葉が成るために
聖 書:詩編88編14-19節、マルコによる福音書14章43-52節
さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。人々は、イエスに手をかけて捕らえた。居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。
(マルコによる福音書14章43-52節)
前回の主日礼拝説教箇所で、イエス様はゲツセマネの園で「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と天の父なる神さまに祈りを献げました。
人間としてのイエス様の願いは、反逆者・犯罪者として逮捕などされず、弟子たちと伝道の旅を続けることだったでしょう。この時、 “人間としての” イエス様はまだ青年と言っても良い、三十代前半の若さでした。弟子たちと生活と旅をして、神さまの教えを人々に伝えるようになって三年ほどしかたっていませんでした。この世にとどまって “教え・伝え・癒やす”‒ この三つのみわざを続けたい・人々の笑顔に接し続けたいとの願いがあったと推測できます。
しかし、神さまが御子イエス様を人間として地上に遣わしたのは、この三つのみわざの後に十字架にて救いのみわざを成し遂げ、ご復活によって人々を神さまにつながる真理の道へと導くためでした。
イエス様はゲツセマネの祈りを通して、あらためてご自身の使命を示され、決然と十字架への道を歩み始めました。
その時に語られた御言葉が、前回の聖書箇所最後の聖句「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(マルコ福音書14:42)です。その言葉のとおりに、裏切り者ユダがイエス様逮捕の手引きのために、大祭司の手下たち‒ 祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆‒ を連れて近づいて来ました。
イエス様と弟子たちは、皆 ほぼ同じ年代で、姿や服装も似たり寄ったりでした。青年たちの中からイエス様を特定することが、ユダの役割だったのです。
イエス様を特定するためにユダが用いたのが「接吻」でした。
日本では挨拶として接吻をする習慣はありませんが、ユダヤおよび地中海地方では、目下が目上に・弟子が師の頬に唇を寄せて挨拶をする習慣があったそうです。今でも欧米諸国の多くに、この習慣があるのではないでしょうか。
すでに自ら弟子であることをやめたにも関わらず、ユダはイエス様を「先生」と呼んで挨拶の接吻をしました。これを合図として、大祭司の手下たちはイエス様を捕らえたのです。
彼らは、ユダが前もって言い置いていたように、イエス様を「捕まえて、逃がさないように連れて行」(マルコ14:44)くため、剣や棒で武装していました。この手下に、「居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて」(マルコ14:47)打ってかかり、「片方の耳を切り落とし」ました(マルコ14:47)。
イエス様はこの時、こうおっしゃいました。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。」(マルコ14:48〜49)
この聖書箇所には、神さまの御子イエス様と、救いを必要とする罪深い人間の対比が鮮やかに示されています。
事実を告げて、静かな真理の光のうちにおられるのが、イエス様。
悪しきものが潜む闇にうごめくのが、人間の思惑です。
より簡略に申せば、今日の聖句には、平和の君なるイエス様の静穏・大らかさと、互いに傷つけ合うことを大前提としている暴力的な人間の弱さが、私たちにわかるように記されているのです。
イエス様はおっしゃいました‒ 「わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえなかった。」(マルコ14:49)
そのとおりです。
イエス様は、最後の晩餐の木曜日の前日まで、神殿で祭司長・律法学者・長老、その他、ユダヤのいろいろな立場の人たちと論争を交わされました。
イエス様の言葉‒ 神さまの御言葉‒ が、あらゆる人間の考えつく理屈よりも優れており、卓抜だったのは、イエス様が神さまの御子であることを受け容れていれば、当然だとわかります。
しかし、その事実は誰にもわかっておらず、イエス様に論破されたユダヤのさまざまな立場の人々は ただイエス様を憎みました。
イエス様を暗殺しようとの動きはすでに始まっていましたから、イエス様に敵対心を抱く者たちがイエス様を捕らえる機会はいくらでもあったのです。にもかかわらず、彼らは手出しをしませんでした。
どうしてでしょう。
イエス様は人々 ‒ 聖書では群衆という言葉をしばしば用います ‒に絶大な人気がありました。神殿の庭に集まった人々はイエス様と学者たちの神学論争に聴き入り、イエス様の見事な論駁に喝采を送っていました。しかも、この論争の中で、イエス様は律法に反すること、すなわち不法・違法なことはなにひとつおっしゃらなかったし、なさっていなかったのです。
イエス様を逮捕する正当な根拠・理由は何一つありませんでした。そのような中で強引にイエス様を取り押さえたら、人々・群衆は祭司や学者たちに反感を持つでしょう。
イエス様に敵愾心を抱いていたユダヤの指導者階級は、群衆を‒群衆の人気を失うことを ‒恐れ、また正当な理由無しに神殿でイエス様を捕らえることをためらい、実行しなかったのです。
この時点で、彼らはイエス様を逮捕し、亡き者にするのは罪なき者に罪を着せる冤罪であると自覚していました。罪を罪だとわかっていて、悔い改めることなどなく、むしろ敢えて強行したのです。
悪しき陰謀・罪深い企みは、それにふさわしく木曜の夜遅くに闇に包まれたゲツセマネで、ユダの裏切りという卑怯な方法と、武装集団という憎しみを表した姿で行われました。
また、この時、「居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて」(マルコ14:47)打ってかかり、「片方の耳を切り落とし」ました(マルコ14:47)。
ヨハネによる福音書は、その者が一番弟子のペトロだったと記録しています。この時のペトロにイエス様を守ろうとする思いもなくはなかったでしょうが、ほとんど本能的に、暴力に対して暴力をふるったのでありましょう。
やられたらやり返す。 できれば倍返しをする。相手に罪を犯されたら同じ罪で復讐する…その悪循環から逃れられない人間の次元での対決が、ここに記されています。
これは神さまの御心でした。ゼカリヤ書13章7節には、神さまの言葉が次のように記されています。「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ」(ゼカリヤ書13:7)「わたし」とは主なる天の神さま、「わたしの羊飼い」とは、イエス様のことです。イエス様が剣を持った者に逮捕されることによって、この御言葉は実現しました。まさに、イエス様が今日の聖書箇所でおっしゃったように「聖書の言葉が実現」(マルコ14:49)したのです。
イエス様は、その人間の次元を超えて天の父の御心を行われます。
繰り返しますが、天の父の御心とは、やったらやり返す、その憎しみの悪循環を招く人間の罪を、人間に代わって贖うために、イエス様が抵抗せず静かに捕らえられることだったのです。
イエス様は誰かと “敵対”することは、なさいません。
山上の説教で、次のように教えられたとおりです。(マタイ5:44-45)
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」
これは、平和への道を示す主の御言葉「愛敵の教え」です。
しかし、イエス様が逮捕されたこの時、弟子たちは一人もその教えを実行できませんでした。イエス様について行くことさえできず、みんな イエス様を「見捨てて逃げてしまった」(マルコ14:50)のです。
この愚かしく、心の弱い弟子たちのために、また私たちすべての人間のために、イエス様は天の父が計画されたとおりに十字架への道を進まれました。
このマルコによる福音書の講解説教を通して、私たちはイエス様のご復活にいたるまで、私たちは心痛む御言葉・私たち人間の弱さと罪を指摘される御言葉をいただき続けなければなりません。
しかし、人間の罪・自らの罪を知って受け容れるところから、主の愛と恵みをいただく幸いへの導きが始まります。
私たちの弱さ・愚かしさを知ってなお、私たちをまるごと愛してくださる主を信じ、御手のうちに守られていることを感謝して、今週一週間を進み始めましょう。
2021年7月11日
説教題:主は全き神、全き人なり
聖 書:イザヤ書55章10-11節、マルコによる福音書14章32-42節
雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ 種蒔く人には種を与え 食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。
(イザヤ書55章10-11節)
一同がゲツセマネというところに来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
(マルコによる福音書14章32-42節)
今日は「ゲツセマネの祈り」の箇所を与えられています。
最後の晩餐の後、イエス様は祈るために11人の弟子たちとオリーブ山(実際は小高い丘)に向かわれ、その中腹にあるゲツセマネで足を止められました。そこからは、三人の弟子‒ ペトロ、ヤコブ、ヨハネ‒ だけを伴って更に祈りの場へと進まれました。
イエス様が最初に弟子になさったのはペトロ(とその兄弟アンデレ)、次がヤコブとヨハネの兄弟でした。この三人は、イエス様が山上で純白の衣のお姿・天上のお姿を顕された時にも、弟子たちの中から特に選ばれてイエス様に伴っていました。
この三人は、弟子たちの中でも、イエス様と共にいた時間が長く、それゆえにイエス様は 彼らに深い親しみを抱いていたと思われます。
彼らに、イエス様はご自身の心のうちを告げ、特別な頼みごとをなさいました。34節の聖句です。お読みします。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」(マルコ14:34)
この「ゲツセマネの祈り」の始めのイエス様の言葉を読んで、私たちは胸に痛みを感じずにはいられません。ここには、イエス様が十字架での死‒ ご自身の滅び‒ を恐れ、悲しみながらもだえるお姿が記されているからです。
同時に、私たちはこの箇所に、戸惑いをも感じずにはいられません。
イエス様がこんな弱音をおっしゃったとは、と内心で驚きます。
イエス様はこれまで三度、ご自分が十字架で死なれることをはっきりと告げられました。それが神さまの御心であることを、イエス様はしっかりと受けとめ、人間の救いのためにこの世に遣わされた使命も、受け容れておられました。
だから、イエス様が恐れなく敢然と十字架への道を歩まれるのではないかと私たちはつい、思ってしまうのです。
イエス様は神さまだからです。
イエス様ご自身が、今日の36節で、父なる天の神さまに こう、おっしゃいました。「父よ、あなたは何でもおできになります。」
イエス様は父なる天の神さまの御子であり、神さまと一体・ひとつです。ですから、イエス様は神さまと同じように何でもおできになります。実際に、わたしたちは、その事実が記されている聖書を手にしています。
イエス様は神さまとしての御力を人間のために用いてくださいました。人々の病を癒やし、空腹を満たし、嵐を静め、水をワインに変えられたのです。
それらのみわざを知っている私たちには、今日の聖書箇所が伝えるようにイエス様が十字架での死を恐れることが不思議に思えます。
ご自分が復活されることもご存じなのですから、よりによってイエス様が、死を怖がることはないのではないかと思ってしまいます。
今日の聖書箇所で、イエス様はペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人に心情を吐露され、目を覚ましていて欲しいとおっしゃいました。
「目を覚ましていなさい」という命令の言葉ですが、その前におっしゃられた言葉から、ご自分が献げる祈りに心を合わせて欲しいと願っておられたことがうかがえます。
神さまであるイエス様が、弟子たちに “一緒にいて欲しい” と心細さを訴え、祈りの間、そばにいてくれと願われたことは、私たちにとってたいそう意外に思えます。そのように親しい者に頼るのは、私たち人間同士がすることであって、神さまは別の次元・はるかな高みにおられ、私たちの祈りをうけとめてくださる方のはずだからです。
しかし、今日の御言葉を通して、私たちはこのイエス様のお姿からこそ、恵みをいただきます。
そのために、二つのことを心に留めておきたく思います。
ひとつは、十字架の死の重さです。
「死」ではなく、「十字架の死」です。それは生命体としての死・地上の命の終わりとは異なります。「十字架の死」は、滅びと、神さまから見捨てられたことを意味するのです。
生命体としての死・地上の命の終わりは、私たち人間には必ずいつか訪れるものです。
その生命体としての死を言う時に、敢えて「死」という言葉をもちいない説教者も多くおられます。なんと言うかと申しますと「住む所が別になる」「すまいを異にする」との言葉を使います。
イエス様に導かれて、永遠の命に生きる希望から、地上ではなく、御心のままにすまいを変える‒ それが、地上の命の終わりの先にキリスト者に約束されていることを思い起こさせるための表現です。
生理的に息をしているか、もう息ができなくなってしまったかに関係なく、どんな時も、私たち一人一人・信仰者の存在は、神さまと堅く結ばれています。
ところが、これからイエス様が命を落とされるのは「十字架の死」によってです。
罪のために、滅ぶのが「十字架の死」です。
罪とは、何でしょう。自分を愛して造ってくださった神さまに背を向けて、別のものを頼りにすることです。そのような背信行為を、神さまは悲しまれ、怒り、そして、その存在を造らなかったことにされます。これが、滅びです。
神さまに全否定され、完全無視され、いなかったことになります。
愛する方や信頼する方、頼りに思う方に「お前なんか、いない方が良い。今後はいっさい関係ない」と言われて、家族や友人から見捨てられたら、私たちの心は切り裂かれたように痛むでしょう。
イエス様が「死ぬばかりに悲しい」と恐れもだえたのは、この絶望感のためだったのです。
本来は、その絶望に陥るべき者は、神さまを忘れてしまう私たち人間のはずでした。しかし、神さまは私たち人間を憐れんでくださいました。私たち人間を滅ぼさず、滅びから救い出すために、代わりにイエス様をこの絶望の淵・死の淵に落とされたのです。
そして、イエス様は この時、完全に私たちと同じ人間の心の動きをもって、弟子たちに頼り、一緒にいて欲しい、祈りに心を合わせて欲しいと願われました。
今日は、説教題を「主は全き神、全き人なり」といたしました。
それはイエス様が、私たちの身代わりとなって完全に人として十字架に架かってくださったからです。
イエス様が私たちに代わって、人間となって共に地上の命を生きてくださった‒ それが、今日、私たちが心にとめておきたいもうひとつの恵みです。
この恵みは、使徒パウロによって、フィリピの信徒への手紙2章6節から7節の聖句にはっきりと記されています。お読みします。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリピの信徒への手紙2:6〜7)イエス様が身を落としてくださった人間とは、どんな者か‒ それが、今日の聖書箇所の37節以下に記されているペトロ、ヤコブ、ヨハネの姿です。
イエス様が苦しみながら、自分の近くにいて欲しい、自分の悲しみを分かち合って欲しいと願ったのに、彼らは眠り込んでしまいました。
イエス様は三度、彼らを見に来られ、その三度とも、弟子たちは眠りこんでいました。
イエス様はそれをたいへん残念に思い、深い孤独を感じられたでしょう。しかし、悲しみながらも、38節の後半にあるように、「心は燃えても、肉体は弱い」(マルコ福音書14:38b)と、人間の限界を理解してくださいました。
私たちはどれほど親しく、どれほどたいせつな人と心を重ね、分かち合いをしたいと願っても、自分という肉体の存在を超えてつながり合うことができません。聖霊がつないでくださらなければ、私たちは心ひとつになることはできないのです。
また、たとえば、病気に苦しんでいる愛しい人、おつれあい・親御さん・お子さんと代わってあげたいと思っても、この肉体の限界ゆえに身代わりになることはできません。
だから、二度目にイエス様が彼らを見に来た時、40節にあるように、ペトロ、ヤコブ、ヨハネは何と言えばよいかわからなかった‒ どうすることもできなかったのです。 繰り返しますが、イエス様は深い孤独を感じられたでしょう。
イエス様と伝道の働きを共に行い、三年の間 寝起きも苦労も共にした弟子たちに、イエス様は見捨てられたのも同然でした。
三度目に、三人が眠っているのを御覧になって、イエス様がおっしゃったことをご覧ください。41節です。お読みします。「もうこれでいい。時が来た。」この「もうこれでいい」とは、イエス様が眠っている弟子たちに呆れ果てて「もう、いい!」とかんしゃくを起こされたのでは、ありません。
聖書の元の言葉では、「満ち足りる」「ひとつのことから離れ、他のことで十分とする」という意味の単語が用いられています。イエス様は本心から、真心から、“これで良い・わたしはこの悲しみを振り払い、天の父の御心どおりにすることで満ち足りる”とおっしゃったのです。この瞬間、イエス様が苦しみながら祈られた今日のみことば、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」が聴き上げられました。
次いで、イエス様は今日の最後の聖句をおっしゃられました。42節です。「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」 こうして、イエス様は決然と、神さまの御心どおりに十字架への道を進まれたのです。
ペトロたち三人の姿に、私たち人間の限界と、その限界がもたらす自己中心の罪を見いだすのは、私たちにとって実に心痛むことです。しかし、それは同時に恵みでもあります。私たちは、自分の罪・人間の弱さに気付かされなければ、それをすべて代わりに背負って、十字架でお命をもって私たちをゆるしてくださった主の愛の大きさ・広さのすばらしさを知ることができないからです。
十字架の出来事の意味を思い巡らし、イエス様にここまで深く慈しまれていることをしっかりといただきましょう。今日から始まる一週間の一日一日を、救い主に感謝しつつ歩んでまいりましょう。
2021年7月4日
説教題:主イエスにつまずく
聖 書:ゼカリヤ書13章7節、マルコによる福音書14章27-31節
イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。
(マルコによる福音書14章27-31節)
今日の新約聖書に語られている出来事、先ほど司式者がお読みくださったイエス様とペトロのやりとりに、私たちは心の痛みを覚えます。
ペトロは命をかけて、イエス様に従い通すと言い張りました。しかし、私たちは、わずかその数時間後に、イエス様がおっしゃったとおり、ペトロがイエス様を知らないと言ってしまうのを知っています。そして、それにハッと気付いたペトロが号泣したことも知っています。
そのペトロの姿に、また今日のみことばに私たちの心が痛むのは、人間の弱さが、そこに映し出されているからです。
イエス様につまずく ‒ それは、イエス様がわからなくなり、信じきれなくなってついてゆけなくなることです。しかし、それでも、イエス様は私たちをゆるし、共においでくださいます。
今日の聖書箇所で、イエス様が弟子たちのつまずきを指摘されました。私たち人間の心の弱さ・罪の深さを浮き彫りにした箇所と申しても良いでしょう。しかし、イエス様は今日の聖書箇所でも、弟子への深い配慮と愛を語っておられます。その恵みを、ご一緒に味わってまいりましょう。
過越の祭の食事を終えた後、イエス様と弟子たちは声を合わせて賛美をしました。過越の食事で食べる順番や食べ方、そこで読まれる言葉や祈りが決まっているように、この賛美の歌も決められています。詩編の115編から118編で、ハレルヤと主を讃えて終わる賛美です。
それから、イエス様と弟子たちはオリーブ山に向かいました。
オリーブ山は、エルサレムの東にある海抜800メートル余りの、山と言うよりも、小高い丘です。都の騒がしさから逃れられるところで、静かな祈りの時を持つことができます。イエス様と弟子たちは、祈るためにオリーブ山の坂を上りました。
今日の聖書箇所は、その坂の途中で、イエス様が弟子たちに言われた言葉から始まっています。
イエス様は、ご自分がその夜のうちに逮捕されることを、良く承知しておられました。弟子たちと一緒にいられる時間がもう残り少なくなっていることをご存じでした。ですから、今のうちに弟子たちに伝えられることは、坂の途中で息を切らせながらでも、言い残しておかれたかったのです。
ここでひとつ心に留めておきたいことがあります。神さまであるイエス様にとっては当然の事柄が、私たち人間には受け入れがたいという残念な真実です。
今日の聖句もそうです。イエス様は、弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく」(マルコ福音書14:27)とおっしゃいました。
「つまずく」とは、道を前に進んでいる時に、何か障害物があって、それに足をとられて転ぶことです。それから転じて、神さまへの信仰・イエス様への信頼を失って、イエス様についてゆけず、挫折してしまうことをさします。もっと簡単な言い方をすれば、信仰を捨ててしまうことです。
イエス様が信じられなくなる ‒ これは、この時の弟子たちにとっては、実にリアルな事柄でした。すでにイスカリオテのユダは、イエス様の弟子であることをやめていました。だから、イエス様を裏切ったのです。ユダは、イエス様に間違った期待を抱いていました。そして、他の弟子たちも、わずかながら、そのような思いを持ち始めていたのです。
弟子たち、またユダヤの群衆・人々は、イエス様が自分たちの政治的なリーダーとなってくれることを期待していました。ユダヤの人々はたいへん苦しい、つらい歴史を歩んでいました。攻め寄せてくる強大な国に征服され、紀元前6世紀半ばからは、ずっと植民地状態でした。イエス様の時代では、ユダヤを支配しているローマ帝国に対してクーデターを起こし、それを成功させて、ユダヤ民族を独立へと導いてくれる強力なリーダーこそがメシア・救い主だとの絶大な期待を持っていたのです。
イエス様はそのような政治的なリーダーではありません。ユダヤ民族のためだけに、神さまに遣わされた方ではなかったのです。イエス様の示す道は、人間の世界での勝ち負けを超えています。心の豊かさと平和への歩みを示してくださるイエス様こそが、真実の救い主・メシアです。
しかし、弟子たちには、それがわかっていませんでした。わかっていないばかりか、期待した分、当てがはずれたように感じて、イエス様についてゆけない思いがひろがっていました。
イエス様は、弟子たちのこの思いをもちろん見抜いておられました。
また、弟子たちのこの心の動きは、すでに神さまに計画されたものだったのです。
だから、イエス様は旧約聖書の預言の言葉を引用されました。今日の旧約聖書 ゼカリヤ書の御言葉です。その箇所を、今一度お読みします。 「羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。」(ゼカリヤ書13章7節)その御言葉を、イエス様はこのようにおっしゃられました。
「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう。」(マルコ福音書14:27b)
聖書では、人間は羊にたとえられます。聖書の舞台となっているシリア地方は荒れ野・砂漠が多く、家畜としての羊は、自分の力では餌になる草地も、水のあるオアシスも探し出すことができません。コヨーテや狼のような野獣からも、身を守ることのできないたいへん弱い生き物です。
その羊のように、私たち人間も、自分の力で心を満たす恵みを造り出すことができません。自分の力で何か成し遂げられたとしても、自己満足の喜びは束の間です。本当にこれで良いのか、真実に正しい生き方はこれで良いのだろうかと問い続けます。
羊が良い草の生えている草地へ、また水の湧き出るオアシスへ行くには、羊飼いの導きが必要です。私たちも、イエス様に出会い、救われて本当の心の糧と、命の泉に導かれるのです。
ところが、神さまは羊飼いを打つ、とゼカリヤを通して預言されました。敢えて、弟子たちの羊飼いであるイエス様を十字架に架けて撃ち、その地上の命を終わらせ、弟子たちからイエス様を奪います。
羊飼いのいなくなった羊たちは、哀れです。頼る人がいなくなってしまい、どこに行けばよいのかわかりません。それぞれが勝手な方向に進み、群れはばらばらになってしまいます。
イエス様が逮捕された時 ‒ それは、今日 読んでいる箇所の数時間後に起こることですが ‒ 、弟子たちは驚き、恐怖のあまりに逃げ散ってしまいました。ゼカリヤが預言し、イエス様が指摘されたとおりになります。弟子たちは皆 イエス様について行けず、逃げ散りました。
ところが、イエス様がそうなる、皆わたしにつまずく、と預言的におっしゃった時、弟子のペトロがこう言いました。
「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」イエス様への戸惑いが弟子たちの中に広がっているのを、一番弟子のペトロはペトロなりに案じていたのでしょう。イエス様に対する自分の迷いを振り切りたいとの願いがあったでしょう。また、弟子たちの心がばらばらになってゆくのを、何とかしたいという気持ちがあったのではないでしょうか。さらに、一番弟子であるというプライドから、自分は他の弟子とは違う、決してイエス様から離れないと言い張りたい人間的な思いもなかったとは言いきれません。
しかし、弟子たちが逃げ散ってしまうのは、事実です。神さまのご計画の中で決められていることです。ですから、イエス様は、ペトロがいつイエス様を知らないと言ってしまうか、徐々に時を限定して明確に預言されました。まず、今日のうちに、その今日の時間の中でも、この夜のうちに、鶏が夜明けを知らせて二度鳴く前に、そして三度、わたしを知らないと言うだろう、とイエス様はおっしゃいました。
しかし、このように明確に言われるとかえって、ペトロはますます、力を込めて“そんなことは決して申しません” と言い張りました。それは、その時のペトロの本心だったでしょう。ペトロはせつないほどに必死な覚悟を持ちたかったのです。その思いに引っ張られるように、他の弟子たちもみんな、口々に自分はイエス様についてゆくと一生懸命言いました。
ところで、イエス様が、弟子たちと一緒に過ごす時間がもう残り少ないから、弟子たちにこれだけは伝えたいと思ったのは、「あなたがたは皆わたしにつまずく」ということでは、ありませんでした。
イエス様が伝えたいと願ったのは、今日の聖書箇所の28節です。お読みします。「わたしは復活した後、あなたがたよりも先にガリラヤへ行く。」
イエス様は、逃げ散った後の弟子たちのことを心配しておられたのです。くだけた言い方をすれば、イエス様は弟子たちにこうおっしゃられたのです。“あなたがたは、わたしが逮捕され、十字架に架けられた時には気が動転して、たいへん不安な思いをするだろう。私を見捨てるだろうけれど、それは仕方がないことだとわたしはよくわかっている。天の父も、それをご承知だからこそ、わたしをこうしてあなたがたのところに遣わされたのだ。あなたがたは、わたしを見捨てたとそれぞれ自分自身を責めるだろう。でも、それは、わたしが十字架で死ぬことで、もうゆるされている。そして、わたしはよみがえる。復活して、必ずまた、あなたがたと笑顔で会う。わたしは先にガリラヤへ行って、あなたがたを待っている。そこで会おう。これは、待ち合わせの約束だよ。”
これは、救いとゆるし、恵みと喜びの約束です。それなのに、弟子たちはそれを聞き取ることができませんでした。
弟子たちは自分たちがつまずくと言われて、うろたえたのでした。人間の心は狭いので、批判されたと思ったのです。そして、ペトロは「決してあなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言いました。その時は本心でも、数時間後には、自分でも気付かずに、その気持ちは変わってしまいました。
心は、ころころ変わるからこころというのだ、と聞いたことがあります。私たち人間は同じ覚悟を持ち続けることすら、できない弱い者なのです。
しかし後に、ご復活のイエス様によって弟子たちは強められました。
今日の旧約聖書のゼカリヤ書の預言は、神さまが羊飼いを撃つようにユダヤの民に試練を与えることをさしています。それは、ユダヤの民の中に真実の信仰を育てるためでした。
また、そのように、弟子たちはイエス様の十字架での死によって、信仰の目を新しく開かれました。自分たちの弱さに気付かされ、しかし、その弱さをうけとめて なお、共にいてくださるイエス様の愛に気付かされたのです。
ご復活のイエス様に会った弟子たちは、イエス様が逮捕された時に逃げ散った時とは別人のように強められました。イエス様を信じ通し、信じて心を満たされる喜びと安心を伝える思いに一途に燃えて、迫害にもくじけることなく主の道を御国へと進み通したのです。
今、イエス様は聖書を通して、私たちに語りかけてくださっています。それは、わたしはあなたがたに会いに、もう一度、この世に来る
という約束の御言葉です。そして、その時こそが新しい世・御国の始まりです。苦しみも涙もなくなるその時を信じ、今を、今日から始まる一週間の一日一日を、希望を抱いて進み行きましょう。
2021年6月27日
説教題:御体なるパン、約束の杯
聖 書:出エジプト記24章3-8節、マルコによる福音書14章22-26節
モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」
(出エジプト記24章3-8節)
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
(マルコによる福音書14章22-26節)
今日の新約聖書 マルコによる福音書14章22節から26節・最後の晩餐の様子が司式者によって朗読されるのを聞いて、ほとんどの方が、ああ、聖餐式の式文の言葉に良く似ていると気付かれたと思います。
そのとおりです。
コロナ禍がなければ、私たちは毎月一回・月の最初の主日礼拝で聖餐式に与ります。パンと杯を一緒にいただく聖餐式は、今日の聖書が語る出来事とイエス様の言葉をそのままなぞっています。イエス様が弟子たちを招いて持たれたこの最後の晩餐を、私たちは聖餐式の中で、言葉と行いで心と体に刻み、味わいます。
前回の聖書箇所を思い起こしつつ、今日のみことばをご一緒にたどってまいりましょう。
前回の礼拝で、ユダヤの人々にとって最大の祭である過越の祭のクライマックスについて、お伝えしました。過越の祭で最も大切な行事は、神殿で行う礼拝ではなく、家族で、または親しい者同士で一緒に食べる食事・晩餐です。その食事は、定められた仕方・決まった順番で進み、食べ物と食べ物の間で定められた言葉が読まれ、祈りが献げられます。
イエス様は、この過越の晩餐に弟子たちを招かれました。もてなす者として御言葉を読み、祈りを献げる役割をご自身がなさいました。食事が始まってから、イエス様はイスカリオテのユダがご自分を裏切ろうとしていることを指摘して、弟子たちはざわめきました。そのために食事が中止されたり、長く中断したりしなかったのは、この食事が過越の食事で、定められた仕方で最後まで終えなければならないものだったからです。
いわば、儀式として、晩餐は粛々と進められてゆきました。
前回もお話ししましたが、過越の食事は全員が食べる分が一つの深皿 ‒ 鉢と言ってよいでしょう ‒ に盛りつけられています。その鉢をみんなが回し、食べ物を分け合うことがたいせつなのです。
今日の聖書箇所・マルコ福音書22節では、パンが分けられる時のことが記されています。過越の食事のパンには、イースト菌・ふくらし粉が入っていません。過ぎ越の晩餐は、ユダヤの人々がエジプトから脱出して自由になるための腹ごしらえの食事です。大急ぎで脱出するために、パン生地にふくらし粉を入れて寝かせておく時間がありませんでした。それを記念するために、言ってみれば覚えておくために、過ぎ越の晩餐のパンは、ふっくらしていません。前回も申し上げましたが、パンと言うよりもクラッカーに似たものです。
全員に行き渡るひとつの大きな塊を、食卓の主人となる人 ‒ ここではイエス様 ‒ が、ちぎって ‒ つまり、裂いて ‒ 共に食卓を囲む人たちに渡します。イエス様はパンを取って掲げ、定められたとおりの賛美の祈りを献げて、それを裂きました。ただ、弟子たちにパンを渡す時に、ユダヤの過越の食事では定められていない、新しいことをおっしゃいました。それがこの言葉です。「取りなさい。これはわたしの体である。」
次に、これも決められたとおりに、イエス様はぶどう酒の杯を取って掲げました。この杯は、一人分のワイングラスではありません。食卓を囲む全員が飲む量が入っている大きな容れ物です。過越の食事では、集まっている全員が、同じひとつの容れ物のぶどう酒を回し飲みします。
日本語の慣用表現に「同じ釜の飯」という言葉があります。一緒に生活し、飲み食いをともにして同じ釜で炊いた御飯を食べた、たいへん親しい間柄を意味します。
過越の食事は、まさに「同じ釜の飯」です。同じひとつの鉢の食事を食べ、同じひとつの容れ物・杯からぶどう酒を飲んで、苦労も喜びも共にする共同体としての意識を深めるのです。
イエス様は、ぶどう酒の入った大きな容器をも掲げて、定められた感謝の祈りを献げ、弟子たちに渡しました。弟子たちは、これを回して飲みました。一巡して、全員が飲んだところで、イエス様はこの食事の儀式には本来 定められていなかったこと・新しいことを言われました。それが、24節の御言葉です。お読みします。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
この言葉は、パンの時の「取りなさい。これはわたしの体である」と共に、イエス様が十字架に架かることをさしています。そのお体が裂かれ、血が流れ、生命体としての命が終わることを、ちぎられるパンと、飲み干されるぶどう酒で象徴的に表した御言葉です。
パンとぶどう酒に表される食事全般は、私たち人間が生きてゆくためになくてはならないものです。私たちは食べたり飲んだりしなければ ‒ その中には現在の医療による胃瘻やカテーテルを通しての栄養摂取も含まれます ‒ 命を保つことができません。
イエス様は、十字架でご自身の体と血潮を犠牲にして、本来は滅ぶはずだった私たちの代わりとなってくださいました。それによって、私たちは死なず、滅びず、生きてゆくことができるのです。
特に心を留めたいのは、イエス様のこの御言葉です。「契約の血」。
神さまは、ユダヤの人々をエジプトから救い出した時に、彼らと契約を結ばれました。契約とは堅苦しい言葉ですが、より日常的な言葉を用いれば、約束と申して良いでしょう。神さまに愛されて、互いを尊重し合う共同体として平和に力を合わせて生きてゆくための掟 ‒ これが律法です ‒ を守るならば、神さまは人々の神さまとなって守り支えてくださるという約束です。
その契約が結ばれた時のことを記しているのが、今日の旧約聖書の聖書箇所です。その契約には、献げ物としていけにえ・犠牲となった家畜の血が用いられました。
ところが、この契約を人々は守り抜くことができませんでした。彼らは、神さまが与えてくださった掟・律法から大きくはずれた道を歩みました。大国から脅かされると、外交手段として、あるいは文化的影響から偶像崇拝を取り入れて、神さまに背き、神さまをないがしろにしました。また、これは今を生きる私たちもしてしまうことですが、神さまではないものを自分の心の中心に据えてしまいます。神さまに頼るのではなく、お金の力や自分の能力に頼り、その時に強力なものになびいてしまいます。
神さまは、いったん結んだ契約が守られていないことを悲しまれ、怒りを表されました。この時に、神さまはご自身が造った人間を、またユダヤの民を滅ぼすことさえおできになったはずです。しかし、神さまはそうはなさいませんでした。
その代わりに、新しく契約を結び直す決心をしてくださったのです。
しかし、その前に、行わなければならないことがありました。
人間が神さまに対して犯してしまった背きの罪が、償われなければなりません。罪はそのまま放置されてはならないのです。必ず弁償なり、補填なりがなされなければなりません。本来ならば背いた当人である人間がすべきこの償いを、神さまはご自分がなさってくださる計画をお持ちでした。神さまは、この償いのために、たいせつな我が子イエス様をこの世に遣わされたのです。人間に代わってイエス様が償いをなさるためです。
神さまをないがしろにした者は、滅んで死ななければなりません。イエス様は、それを私たちに代わって引き受けてくださったのです。
イエス様の十字架の死は、私たちを生かしてくださるための犠牲の死です。新しい契約のために、旧い契約で振りかけられた献げ物の家畜の血ではなく、神さまの御子イエス様の血が流されました。
旧い契約 ‒ 旧約聖書の時代 ‒ は終わり、新しい契約 ‒ 新約聖書の時代 ‒ が、こうして始まりました。
人間にとって実に大きな恵みです。
そのため・私たちのために、イエス様は地上の命を十字架で終えられました。この事実を、私たちは感謝をもって、深く心に留めなければなりません。
しかし、今日の聖書箇所が語る最後の晩餐は、イエス様が十字架に向かわれる悲壮感だけで終わっていません。イエス様は、希望の御言葉を伝えてくださっています。それは、この聖句です。25節です。お読みします。「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
この御言葉は、さっと読むと、イエス様がもう地上でぶどう酒を飲むことはない ‒ もう自分は死ぬのだとおっしゃっていることだけをさしているように思ってしまいます。確かにそう言っておられるのですが、注意深く読むと、こう読み取れます。“わたしがぶどう酒を飲まないのは、神の国・御国・天の国で、再び、あなたがたとこうして回し飲みをするまでのことだ。”
言い換えると、こうなります。“わたしは、御国でまたあなたがたと会う。その時には、あなたがたは新しくされている。こうしてまた一緒に飲み、共に食べる時が必ず来る。”
ここでイエス様は、復活のことをおっしゃっておられます。また、世の終わりにイエス様がもう一度、この世に来られ、その時に新しい天と新しい地が、神の国・御国が成ることを言っておられるのです。
弟子たちには、イエス様が何のことを言っているのか、わからなかったでしょう。しかし、新約聖書を与えられている私たちに、復活と永遠の命、御国の希望と約束が与えられています。これは、私たち教会の時代に生きる者にとっての実に大きな恵みです。
聖餐式で、私たちは実際にパンとぶどう液をいただきます。兄弟姉妹が共に、御体なるパンと血潮なる杯をいただくことを通して、イエス様がくださった永遠の命の希望でひとつにされます。イエス様に救われたことを魂で知った者は、洗礼を受けて兄弟姉妹となります。教会員となります。そして、洗礼を受けた者だけが、聖餐式に与ります。
どれほどつらいことがあり、忍耐しなければならないことが続いても、分かれ分かれになることがあっても、御国で再び会える望みを持って、今を生きることができるようになるのです。
この教会のつながりの中に、ひとりでも多くの方が加えられるように、共にイエス様に望みを持てるようにと願います。
私たちが安心して、心一つに聖餐式に与ることのできる日が早く来るようにと願います。
今日から始まる一週間、イエス様に生かされ、日々希望を新たにされて、心を高く上げて進み行きましょう。
2021年6月20日
説教題:世は言を認めなかった
聖 書:ゼカリヤ書11章10-14節、マルコによる福音書14章10-21節
10十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。11彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。
12除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。13そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。14その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」16弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。17夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。18一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。20イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。21人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
(マルコによる福音書14章10-21節)
今日の礼拝の新約聖書の聖書箇所から、イエス様が十字架へと歩みを進められていることがはっきりと聴き取れます。ご受難の時が刻一刻と近づいています。弟子のひとり、イスカリオテのユダがイエス様を裏切り、イエス様がそれを見抜いておられることが語られています。
私たちが今日の聖書箇所を聴いて、まず気付くのはイスカリオテのユダが自ら、イエス様を殺そうと計画している祭司長たちのところへ出向いて行ったことです。それは、本日の最初の聖句・マルコ福音書14章10節に記されています。
祭司長たちが自分たちの立てた計画のために、イエス様の弟子たちに近づいて、裏切りをそそのかしたのではありませんでした。むしろ、ユダは自分が祭司長たちの味方であることを積極的に示したのです。
ユダはイエス様の弟子ですが、この時には、もう弟子であることをやめて、イエス様と袂を分かつ決心をしていたのでしょう。なぜ、そのように考えるようになったのかは、私たちが今 読み進んでいるマルコ福音書には記されていません。ただ、他の福音書、特にヨハネによる福音書から推測することはできます。
前回の礼拝で、一人の女性がイエス様に高価な壺いっぱいの香油を注いだ事柄をご一緒に聴きました。その時に、居合わせた何人かが、こう言ったことを覚えておいでの方がおられましょう。マルコ福音書14章4節からお読みしますので、お聞きください。「そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。『なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。』」この批判・非難に対して、イエス様は女性をかばい、こうおっしゃいました。「わたしに良いことをしてくれたのだ(わたしがこれから十字架に架かって死ぬ、その葬りの準備をしてくれたのだ)。」
イエス様がこう言われたことの意味は、そこにいた誰にもわかりませんでした。イエス様が女性の、人間的な思いからすれば非常識で愚かな行いをかばい、執り成されたことに怒りを感じたままだった者もいたでしょう。ヨハネによる福音書には、貧しい人に施しができるのにと批判をしたのは、イスカリオテのユダだったと記されています。
ヨハネ福音書には、ユダについて他の事柄も書かれていますが、今日はそれに触れている時間は残念ながらありません。ただ、ヨハネ福音書と併せて今日の聖書箇所を読むと、私たちは ユダが自分の正しさにこだわり、イエス様の行いや言葉に強い反発を感じていたことを、推し量ることができます。イエス様は、律法で人間を束縛する祭司長や律法学者たちの律法解釈の間違い・誤りを指摘されました。
神さまの御子であるイエス様の教えは、常に、律法は神さまが人間を正しく、豊かに生きるために神さまが与えてくださった掟だという神さまの視点からぶれることがありません。そのために、時に、人間には、弟子たちにすら理解できない大胆な行いをされ、思いもかけない鋭い切り口で律法学者たちを論破されました。
そのイエス様に、ユダはついてゆけなくなっていたのでしょう。ユダの心は次第にイエス様から離れ始め、すなわち神さまから離れ始めていました。そしてナルドの香油の出来事が、イエス様からの決別を決定づけました。
それは、ユダばかりでなく、他の弟子たちの心の中にもわずかながら、潜んでいた思いだったかもしれません。イエス様が神殿の庭で神学論争をなさった、いわゆる「論争の火曜日」に、イエス様はユダヤ社会で対立し合っていた論陣のすべてを論破され、彼らからことごとく憎まれるようになっていました。彼らの関心の中心は、究極的には、どうしたら当時のユダヤがローマ帝国の支配から、ユダヤ民族にふさわしい仕方で逃れられるか、独立できるかということでした。ところが、イエス様は人間が神さまの御前で正しく豊かに生きる姿勢を語ろうとされていたのです。食い違って当然と言えば、当然でした。
弟子たちも また、ユダヤの民として民族の独立を願い、その指導者を求めていました。ユダヤの人々は、その指導者をメシア・救い主として待ち望んでいたのです。イエス様は、その政治的な意味でのメシアではないのでは…という疑いが、弟子たちの心の底に忍び寄っていたかもしれません。
その中で、イエス様と弟子たちは過越の祭を迎えようとしていたのです。過越の祭は、奴隷だったユダヤ民族が神さまに導かれて、自由へと歩み出したことを記念する祭です。たいへん民族意識が高まり、ユダヤ民族であるとの一体感をそれぞれに強く自覚します。
しかし、神さまの愛と義 ‒ 人間への慈しみと正義はユダヤ民族だけにとどまるものではありませんでした。それは、今 私たちが世界の極東の国 日本でこうして礼拝を献げ、時差があるとは言え、同じ主日・日曜日の朝に、世界中の教会で十字架の出来事とご復活の救いの福音が語られている事実から明らかです。
ただ、今日の聖書箇所の出来事が起こっている時点では、誰にもそれがわかりませんでした。イエス様が神さまから遣わされた神さまの御子であることも、行われることと、語られる言葉が真理だということも、すべての人間を罪から救うためにこの世においでくださったことも、人間には、もちろん弟子たちにも、わからなかったのです。
イエス様はすべての人間を罪から救ってくださいました。しかし、その恵みと幸いを心と魂で深く味わい知るには、人間の罪とは何かを知らなければなりません。
祭司長や律法学者たちの陰謀、ユダの裏切り、そして弟子たちの心の揺れ動きは、私たちすべての人間の罪をはっきりと示しています。読むのがつらい聖書箇所であっても、私たちはしっかりと受けとめなくてはならないのです。
さて、ユダの裏切りは、祭司長たちがそれに報酬を払い、金銭がからむことによってさらに暗く醜い姿を表してゆきました。ユダは雇われたスパイのように、おそらく何食わぬ顔をしてイエス様の元に戻り、過越の祭の食事・晩餐を共にしようとしたのです。
過越の祭で最も大切なのは、この食事です。ユダヤの民がエジプトから脱出するためには、小羊の血が必要でした。小羊を屠り、それを定められた仕方に従って家族で、または親しい仲間と食します。
それによって、自分たちが自由を得るために小羊が犠牲になったことを思い起こすのが、過越の祭の最も大切な事柄なのです。
食事の場所が、神殿のあるエルサレムの都であることも重んじられていました。イエス様と弟子たちはエルサレム郊外のベタニアという村にある友人の家を宿としていましたが、そこではなく、エルサレムに食事の場所を借りる必要があったのです。
それが、今日の聖書箇所・12節の弟子たちの問いに表れています。
弟子たちはこうイエス様に尋ねました。お読みします。「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか。」その問いに応えて、イエス様は細かく指示をされました。それは、イエス様が、この食事をご自分が弟子たちを招くというかたちで、事前にすっかり準備・手配してくださっていたことを示しています。
たいへん俗っぽいたとえで恐縮ですが、たとえば私たちが職場で新人さんの歓迎会や、転勤や退職する方の歓送会を開く時、お店選びや予約などの手配をするのはだいたい若手です。しかし、この時、イエス様は弟子たちをもてなそうと、準備をしてくださっていたのです。
当日の具体的な事柄は弟子たちがするにしても、場所はしつらえてくださっていました。ですから、二人の弟子に、今 泊まっているベタニアの村からエルサレムの都に行くと、水がめを運んでいる男性に会うとおっしゃったのです。当時、水がめを頭に載せて運ぶのは女性でしたから、そうしている珍しい男性が目印という意味です。
その男性について行くと、食事をする家に案内され、その家の主人が、おおまかな支度を整えてくれているとイエス様はおっしゃいました。そして、実際に16節が示すように「そのとおり」だったのです。
繰り返しますが、過越の祭で大切なのは屠られる小羊です。
しかし、私たちが読んでいる聖書箇所には、イエス様と弟子たちの食卓に小羊が出されたことが書いてありません。いけにえの小羊は、これから十字架に架かられるイエス様だからです。
イエス様は、特にたいせつなことをおっしゃる前には必ずと言って良いほど「はっきり言っておく」と言われます。聖書の元の言葉では「アーメン」、“これから言うことは真実だ”という意味です。私たちが讃美歌の後に、またはお祈りの後に「アーメン」と言うのは、今 言ったこと・言われたことは真実だと宣言し、言挙げするためです。
そう前置きをされて、イエス様は「この中にわたしを裏切る者がいる」とおっしゃいました。弟子たちは激しく動揺しました。「まさか、わたしのことでは」と口々に言いました。エルサレムに来て、弟子たちには、イエス様がユダヤ社会のどんな立場の人とも考えが合わないこと・イエス様が孤立していることがわかり始めていました。その中で、イエス様に従い通す気持ちが揺らいでいるのを見抜かれたように感じたのです。
「まさか、わたしのことでは」とは、元の聖書の言葉ではたったひとつの単語です。「そんなことが」という問いかけの言葉で、「あるわけない」と相手に否定してもらうことを期待して用いられます。
イエス様は、そんな弟子たちの期待に反して、言葉を重ねられました。20節で、イエス様はこうおっしゃいました。「わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。」過越の祭の食事は、今でもユダヤ教の人々が行っていると思いますが、セデルというひとつの深皿に盛って、みんなでそれを回して食べます。マッツァというパン種を入れずに焼いたクラッカーのようなものですくい取るようにしますから、全員が「一緒に鉢に食べ物を浸」します。弟子たち全員の心に、イエス様を信じられなくなる思いが潜んでいるとおっしゃったのです。
また、この時 すでにイエス様を裏切って、スパイのようにその席に着いていたユダのことを見抜いておられました。イエス様が犠牲の小羊として、私たちの救いのために十字架に架かられるのは、神さまのご計画です。ですから、イエス様はこう言われました。21節です。「人の子(イエス様ご自身のことです)は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。」
ユダが裏切っても、裏切らなくても、神さまの救いのご計画は変わらなかったでしょう。しかし、ユダは裏切ってしまいました。
イエス様はすべてを見抜かれておられ、それでもユダを含めて弟子たちをご自分が準備した食事の席に招き、もてなしてくださいました。それは、何度も繰り返しますが、その食卓で、ご自分が犠牲の小羊となるためです。
この食卓が、主の最後の晩餐でした。私たちは、この食卓にならって、聖餐式を行います。現在、コロナ禍のために、私たちは月に一度の聖餐式を行うことができません。しかし、御言葉を通して、イエス様のもてなしに預かることができます。私たちの小ささと乏しさ、矮小さをすべてイエス様は知り尽くし、それでも受け容れて、慈しんでくださいます。今日から始まる新しい一週間の一日一日を、イエス様のおおらかな愛に包まれている喜びと安心で満たされて、進んでまいりましょう。
2021年6月13日
説教題:自らの最善を尽くして
聖 書:出エジプト記12章21-23節、マルコによる福音書14章1-9節
モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までにだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。
(出エジプト記12章21-23節)
さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、何とか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは、「民衆が騒ぎ出すといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。イエスがベタニアで重いひふ病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
(マルコによる福音書14章1-9節)
今日の新約聖書の御言葉には、イエス様の十字架の出来事の二日前の事柄が語られています。ユダヤ民族のたいせつな祭・過越の祭を金曜日に控えて、イエス様はその週の水曜の夜をエルサレムの近郊にあるベタニアという村で過ごされました。重いひふ病にかかっていたシモンという人の家での夕食に招かれていたのです。その時代には、重いひふ病を患う人は疎外されて除け者にされていましたが、イエス様は決して分け隔てなさらずに、その人の招待を受けられたのです。
その食事の席に現れた一人の女性が、その場にいた誰もが思いもかけなかったことを行いました。イエス様の頭に壺いっぱいの高価な香油を注いだのです。
香油は今で言うアロマオイルで、マッサージなどに今日でも使われています。家に招いたお客の足を召使いに洗わせ、その時に少量の香油を使うのは当時のユダヤのもてなしの習慣だったようです。
香油はユダヤの王の即位の時に、新しく王となる人の頭に注がれます。また、亡くなった人の遺体を清めるためにも用いられました。
香油は、いろいろな芳しい香りの植物から抽出したエッセンスを、油に混ぜた贅沢品でした。現在の香水や宝石の値段がたいへん高価なのと同じように、女性が使ったナルドという植物の根から造られた香油は、実に貴重な品でした。今でもヒマラヤの山村で栽培されているそうです。
イエス様の時代には、秘境からはるばる運ばれてきた名品というイメージだったのではないでしょうか。
そして、その値は三百デナリオン ‒ 1デナリオンが一日の労働の対価ですから、およそ三百万円の価値のあるもの ‒ でした。
その高価な香油を入れた石膏の壺は、小さなペットボトルぐらいの大きさと思われます。女性がその壺を壊して、香油をすべてイエス様の頭に注ぎかけました。すばらしい香りで、その場も、その家もいっぱいになりました。ふだんは訪れる人がいない寂しい重いひふ病の人の家が、おもてなしの香りに充ち満ちたのです。その女性はイエス様の訪問を、それほど大歓迎して、大いに喜んだのでしょう。
それにしても、いわゆる常識からはずれた歓迎の仕方でした。
これから食事しようとなさっているイエス様は壺いっぱいの香油でべとべとになり、いくら名品と言っても、香油の強烈な香りは居合わせた人すべての食欲を減退させるものだったでしょう。
そのように、高価な逸品が一瞬にして、人間的な思い・常識からすれば無駄に費やされたことに、何人かが批判の声を上げました。
三百万円と言えば、現代の日本の20代から30代の方たちの平均年収だそうです。それだけのお金があれば、もっと有意義なことに使えたではないか ‒ そう、何人かは女性を厳しくとがめました。
貧しい人たちへの施しは、ユダヤの律法で美徳として奨励されています。三百万デナリオンも持っていたのなら、ナルドの香油に使うのではなく、施しに使うべきだったという批判は、確かに、いわゆる正論でありましょう。
しかし、何が本当に大切で、変わることのない価値を持っているかは、私たち人間には決めることができません。
私たち人間が判断する価値は状況に左右され、少しも確かなものではないのです。砂漠で渇きに苦しむ時、1本100円のペットボトルの水は、ナルドの香油ひと壺よりもはるかに貴重になります。真実の価値を定めてくださるのは、ただお一人・神さまだけです。
この時、イエス様に香油を注ぎかけた女性は、その行為を何人もの人にとがめられ、狼狽してしくしくと泣き出していたのかもしれません。イエス様は、その場をとりなして、こうおっしゃいました。「なぜ、この人を困らせるのか。」
ここで、イエス様がまっさきに気配りをされたのは、女性の心の痛みでした。彼女の行いが正しいか、間違っているかではないのです。
状況によって変わる人の世の価値判断ではありませんでした。
善意で行ったことを愚かしいと非難されて、すっかり気落ちしておろおろしている女性を守ろうと、イエス様は第一に、最初に愛を発動させられたのです。
それから、イエス様はこうおっしゃいました。(この女性は)「わたしに良いことをしてくれたのだ。」
この言葉にこそ、天の父・子なるイエス様・聖霊の三位一体の神さまにしかご存じではない真実が語り込められています。
今日の御言葉の冒頭・マルコ福音書14章1節から2節にかけて、祭司長や律法学者たちはイエス様を殺す計略は過越祭と除酵祭が終わってからにしようとたくらんでいました。
イエス様は人々・民衆にたいへん慕われていました。だから、彼らが集まっている祭の間にイエス様を亡き者にしてしまっては、自分たちの評判が下がると考えたのです。
ところが、実際にはイエス様は過越の祭の日の当日・金曜日に十字架に架けられました。イエス様の死が祭司長や律法学者 ‒ 人間 ‒ の計略ではなく、神さまの救いのご計画だったことが、この事実にはっきりと示されています。
今日の旧約聖書の御言葉・出エジプト記の聖書箇所で、神さまは奴隷だったユダヤ民族がエジプトを脱出させるために、ユダヤ人の家の門にしるしをつけるようにと命じられました。
夜の間に、神さまはエジプトの家の最初の子ども、エジプトの家の家畜の最初に生まれた子を亡き者になさり、ユダヤ人の家をその災いに巻き込まないために、小羊を屠り、その血で門を塗ってしるしとするようにとおっしゃったのです。しるしを御覧になって、神さまはその家にはユダヤ人が住んでいることを確かなこととされ、その家に災いをもたらさずに通り過ぎられました。
通り過ぎる、つまり過ぎ越されたのです。こうしてユダヤ民族が奴隷の身分から脱出し、神さまに導かれるようになったこの事柄を記念するのが、ユダヤ最大の祭・過越祭です。
神さまがユダヤの人々に与えたこの自由の恵み・奴隷の身分からの解放は、小羊の血の犠牲があってこそもたらされたものでした。
イエス様は、私たち人間を罪の奴隷から解放してくださるために十字架に架かられました。小羊が犠牲になったように、イエス様は私たちを罪の報いである滅びから救い出すために、地上の命を犠牲にしてくださったのです。
それが、神さまからの私たちの救いの恵みの現れでした。
過越の祭の二日前であるこの水曜日、ナルドの香油の一件が起こった時に、その真実を本当に理解していた人間は誰もいませんでした。
弟子たちも、何もわかっていなかったのです。
ナルドの香油をイエス様に注いだ当人である女性ですら、わかっていませんでした。この女性は、本当にただ真心をこめて、自分に思い付くことのできるせいいっぱいのおもてなしをイエス様にしてさしあげたかっただけだったのです。
しかし、人間の目には常識はずれに見えるこの行為は、神さまのご計画の中で、そしてイエス様のまなざしの前に、実にたいせつな意味を担っていました。それを、イエス様は今日の聖書箇所の8節で、明確にこうおっしゃいました。8節をお読みしますのでお聞きください。
「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」
先ほど香油の説明をした時に申し上げたように、香油は亡くなった人の遺体を清めるために用いられます。
イエス様は、ご自分が過越の祭の日・金曜日には十字架で死なれること、そしてこの女性が自分では知らずに神さまに用いられて、その準備をしてくれたと、女性の献げたナルドの香油を喜ばれたのです。
私たちは、聖書の御言葉・ローマの信徒への手紙の聖句によって、次のように神さまにお仕えする奉仕を奨励されています。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマの信徒への手紙12:1)
この御言葉に従って、私たちはそれぞれの賜物によって、それぞれに自分の時間と力とわざを神さまに献げて奉仕をいたします。
コロナ禍に見舞われているこの1年半ほど、薬円台教会ではコロナ感染拡大前までのように集い、行事を行うことはできなくなりました。それにもかかわらず、教会は礼拝を中心として着実に歩み続けています。それは、神さまの導きと、それに従って地道に奉仕を献げ続けている教会のお一人お一人の働きによります。コロナ禍のために多くの制約・妨げがあるなかで、一人一人が、まさに自分に「できるかぎりのことをし」ています。
今は、教会に多くの方々が集まることはできません。
ですから、献げたお働きの結果が、多くの方に見られることも、ほめられることもありません。そんなことは一向に気にせず、つまり、人の目など気にすることなく、神さまへのご奉仕はまったく変わることなく、真心をこめて、丹念かつ丁寧に献げられています。人のためではない、神さまのための献げ物だからです。
ただ一途・ひとすじに神さま・イエス様に献げられ、神さま・イエス様だけが、その価値を知って喜んでくださいます。
その献げものこそが、私たちの救いのために十字架で血を流され、犠牲の小羊となってくださったイエス様に、私たちが献げることのできる精一杯の感謝の現れです。
この感謝と献身の思いを心に、今週一週間も主に従って進んでまいりましょう。
2021年6月6日
説教題:神の言葉は永遠に立つ
聖 書:イザヤ書40章7-8節、マルコによる福音書13章28-37節
草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
(イザヤ書40章7-8節)
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」
(マルコによる福音書13章28-37節)
イエス様が、この世の終わりの日・終末の日について教えてくださる、その御言葉をご一緒に聴くのは今日で三回目になります。前回・ 5月30日の主日礼拝聖書箇所、マルコ福音書13章23節で、イエス様は私たちに終末の日に起こることを「前もって言っておく」、と知らせてくださいました。
その終末の時には、「憎むべき破壊者」(マルコ13:14)のために恐ろしいことが起き、人々は身ひとつで逃げなければならない事態に陥ります。
しかし、怖がることはない ‒ そう、イエス様はおっしゃられます。前々回、イエス様は「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と、その時を忍耐することを教えてくださいました。前回は、ただ耐え忍ぶだけではなく、逃げて良い・逃げなさいと言われました。そして、今日の御言葉では、終末の日を迎えた時に与えられる三つの恵みを語ってくださいます。終わりの日は、ただ苦しくつらく、恐ろしいだけではないのです。
その三つの恵みを、御言葉に聴いてまいりましょう。
最初の恵みは、前回の聖書箇所とつながりを持っています。
29節でイエス様はこうおっしゃいました。「…あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」「これらのこと」とは、“これまで人類が経験したことのない未曾有の苦難” をさします。その苦難は、その後に訪れる御国の喜びのしるしです。「憎むべき破壊者」ではなく、まことにして完全な方がすべてを統治して平和と愛の新しい世界が始まることを示します。終わりの日の苦難は、その完全な方、神さまであり「人の子」であるイエス様が、再びこの世においでになる予兆です。だから、すさまじい苦難が来たら、これが過ぎればイエス様と会える、イエス様が救いに来られるしるしだから、大丈夫だとイエス様は教えてくださいます。その苦難は、もう悲しみの涙を流すことのない天の国への「産みの苦しみの始まり」(マルコ13:8)です。
その苦難がなければ、永遠の命への扉は開かれません。
卵にヒビが入り、割れて壊れるのは、新しい命・ヒナの誕生を意味します。そのように、苦難の時に必ずおいでになるイエス様を待って、苦難をむしろ希望の兆しと受けとめるようにと、イエス様は私たちを励ましてくださるのです。
二つ目の恵みは、イエス様が語られる御言葉の確かさです。
イエス様は、こうおっしゃいました。31節です。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
御言葉の確かさは、先ほど司式者が朗読してくださった今日の旧約聖書の聖書箇所イザヤ書40章7〜8節に記されているとおりです。この御言葉は、ブラームス作曲の「ドイツ・レクイエム」で合唱曲の歌詞として用いられています。レクイエムは亡くなった方を悼む楽曲です。「ドイツ・レクイエム」の中で、この御言葉が歌われる曲は、ひときわ力強く、レクイエム全体の中でも強く印象に残ります。地上の歩みを終えた近しい方を悼みつつ、御国での再会を待つ希望を待つ祈りと願いが高らかに献げられるからです。
親しい方の死に接すると、私たちはお別れを悲しみながら人の命のはかなさを思います。お別れが突然のことだと、なおさら、私たちは人の命が、このイザヤ書の御言葉が語るように、草が、その花の季節にだけ美しく咲いて、旬を過ぎると枯れてゆくはかなさに似ていると感じます。
しかし、私たちは、神さまが私たち人間を、被造物の中でも「地に満ちて地を従わせる」(創世記1:28) 特別な存在としてお造りくださったことを思い起こさなければなりません。人間は言葉によって恵みを知る幸い、そして死を超えて、御国での永遠の命に生きる幸いを “前もって” 知らされています。
これは、実に大きな恵みです。
旧約聖書の「コヘレトの言葉」3章に、次のような御言葉があります。お読みします。「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時…泣く時、笑う時…戦いの時、平和の時。人が労苦してみたところで何になろう。… 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」(コヘレトの言葉3:1〜11)
人の思いでは “はかない”ものにしか見えない私たちの命に、“栄光をあらわす” 輝きを与えてくださるのは、神さまにほかなりません。
私たちは、神さまを創造主・救い主として知るようにと造られました。
“神さまを知り、主を知る”ことそのものこそが、私たちの命を希望と喜びで支える至高の恵みなのです。
イザヤ書40章7節から8節の御言葉に続いて、イエス様の再臨の預言が語られています。イザヤ書40章10節以下を拝読しますので、お聞きください。
「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ 御腕をもって統治される。…主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」(イザヤ書40:10〜11)
世の終わりの日に、イエス様が統治者としておいでくださり、私たちをまことの羊飼い、 “大牧者” として導き行かれる様子が語られています。
神さまが愛して造ってくださった自分の命・人間の一生を“はかない”と思ってしまうのは、私たち人間を不幸にする「罪」のひとつでありましょう。なぜなら、その考え・その感性は、極端な言い方をすれば、命を造られる神さまのみわざを自分の身の丈に合わせて貶め、勝手に命に失望することだからです。神さまのみわざに失望するとは、神さまに対して失礼です。それは、神さまに対する背きです。
同じように、世の終わりを勝手に怖がって、勝手に絶望するのも、神さまへの背きです。
しかし、そのように弱い私たちの恐怖も絶望も、イエス様はさげすみません。イエス様は人間となられ、人として生きた方です。だから、その私たちの弱さを知ってくださっています。そして、そのように弱い私たちを、イエス様は時に抱き 時に背負って導いてくださいます。
まして、私たちが心に留めておかなければならないのは、イエス様が言(ことば)として天の父なる神さまに遣わされ、この世においでになったことです。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とヨハネ福音書1章14節が語るとおりです。
イエス様の御言葉を、地の基が揺らぐ時にも不動の真理と信じてうけとめることに、私たちのまことの魂の安らぎと安心があります。再びこの世においでくださる、その再臨の日にも、イエス様は私たちを真実に平和で公正な御国にて、私たちを力強く支えてくださいます。
「神の言葉はとこしえに立つ」 ‒ この御言葉の真理を信じ、イエス様が再び来られる終末の日の訪れを、希望と喜びとして受けとめる信仰をいただく ‒ これが二つ目の恵みです。
三つ目の恵みは、32節から37節の間に、日本語の新共同訳聖書では4回繰り返される「目を覚ましていなさい」の御言葉です。
終わりの日を待つとは、どういうことでしょう。御国が到来し、そこで父・子・聖霊の三つにして一人なる神さまと顔と顔を合わせて永遠に生き始める恵みの実現を待つことです。
私たちは、イエス様に、その終わりの日まで、この世を「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マルコ13:13)と教えられました。そのために、つい、その終わりの日だけに心を向けがちです。
あまりにこの世的なたとえとは思いますが、たとえば学生の頃、試験準備の間は好きなことをせずに、試験が終わったらあれをしよう、これもやりたいと楽しみを我慢して試験勉強に専念しようとする ‒ それと似た思いで終末の日を待ち望むようになります。
このように終わりの日だけを楽しみに待ち望むと、私たちが過ごす終末の日までの日々は、「忍耐」だけの灰色の毎日になってしまいます。それは、御心ではありません。
イエス様は今日の御言葉の33節から34節にかけて、こう言われます。お読みします。「気をつけて、目を覚ましていなさい。…それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕(しもべ)たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。」
このたとえでは、家を後に旅に出る人・御主人は、ご復活して天の御父の右の座に昇られたイエス様です。イエス様は、私たち僕(しもべ)に仕事を割り当てて責任を持たせてくださいます。
「責任を持たせる」とは、聖書の元の言葉では「権限を持たせる」との意味を持ちます。イエス様は私たちそれぞれに、それぞれの賜物にふさわしい果たすべき務めを与え、そこで生き生きと、それぞれの個性、自発性と権限を発揮させてくださるのです。ですから、終わりの日までの毎日は、ただ歯を食いしばって我慢するだけの日々ではありません。
私たちが賜物をいただいているその務めは、たいてい何か、好きなこと・得意なこと・それをやっていると面白くて、楽しくてたまらない ‒ そういう何かです。ですから、私たちは天から与えられた務め・自分の賜物を活かせる場では大いに喜んで、生き生きとその務めを果たします。灰色の忍耐の日々では、まったくないのです。
「目を覚ましている」とは、魂でイエス様と共にいることを知って過ごすことを意味します。
イエス様は十字架に架かられる前の晩、ゲツセマネの園で、これからご自身に起こることを「死ぬばかりに悲し」(マルコ14:34)まれ、天の父に祈りを献げられました。その時、弟子たちにご自身が祈っている間、「ここを離れず」 (マルコ14:34) ‒ つまり、イエス様と共にいて ‒「目を覚ましていなさい」(マルコ14:34)とおっしゃられました。
イエス様は私たちに、イエス様から離れず、信仰の瞳を明るく開き、聖霊が御言葉を通し、また祈りを通して魂に語りかけることに敏感であるようにと勧めてくださいます。そして、自分の賜物を活かし、それが与えられていることを主に感謝しつつ、大いに楽しんで、いきいきと過ごすのです。
これが、私たちの毎日の過ごし方です。
終末の日はいつか、やって来ます。
しかし、その日ばかりを意識して怯えて、または逆に、その日だけを楽しみにして、今日という日を何となく過ごしてしまってはならないと、イエス様は今日の御言葉で教えてくださっているのです。
今日の三つの恵み ‒ 苦難を希望の兆しとすること・御言葉の真理を信頼し抜くこと・今、イエス様と共にいられる喜びに日々を生きること ‒ を心に留めて、主を仰ぎつつ、今日から始まる新しい一週間を進み行きましょう。
2021年5月30日
説教題:主は永遠なる統治者
聖 書:ダニエル書7章13-14節、マルコによる福音書13章14-27節
「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら ‒ 読者は悟れ ‒ 、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」 「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
(マルコによる福音書13章14-27節)
前回の礼拝で私たちは聖霊降臨・ペンテコステをおぼえて、礼拝を献げました。ちょうどその前の礼拝・5月16日の主日礼拝で、私たちはイエス様が “この世の終わりの日” について弟子たちに語り、人間の想像を超える苦難を迎えるが、それは御国の時を待つための「産みの苦しみの始まり」だと教えられました。
イエス様は、弟子たちが主の教えを信じ伝える者であるがために激しい迫害を受けることを預言されました。逮捕されて裁判にかけられる時、自分で労苦して弁明の言葉を探さず、聖霊の導きを信じて耐え忍べば良いのだと導かれ、安心を与えようとしてくださったのです。
この聖書箇所に続いて、前回の主日に聖霊の働きをご一緒に思い巡らすペンテコステ礼拝を献げることができたのは、私たち薬円台教会の御言葉の学びについて、主がご計画と配慮にもとづく「カリキュラム」を造ってくださっていたからだと思えてなりません。御計画によって群れを確実に御国へと導いてくださる主に感謝を献げます。
さて、イエス様は前々回のマルコ福音書(マルコ13:1〜13)で起こる “終わりの日” の苦難として、おもに人間の悪によって引き起こされる人災を挙げられました。一箇所だけ「地震」と自然災害への言及がありますが、あとは流言飛語、戦争、国同士・兄弟姉妹・親子の敵対などを語られました。
そして、最悪の迫害の一例として弟子たち、そしてキリスト者への迫害と、その時に為すべきこと ‒ 何かしなくてはならないと言うより、むしろその逆で、聖霊にゆだね、“主にお任せして、自力でじたばたしない” ・自分では何もしないということ ‒ を教えてくださいました。その箇所に記されていた最後のイエス様の御言葉・聖句を覚えておいででしょうか。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マルコ13:13)でした。
その日の説教では、“たとえ進退きわまって逃げることすらできず、逃げる力もなく、その場にうずくまってしまっても、耐え忍んで、その場にとどまってさえいれば、イエス様が私たちを抱き、背負って父なる神さまのもとへと導いてくださる” とメッセージをお伝えしました。
しかし、私たちは このイエス様の御言葉「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」を深く心に留めて、“何とかその場に踏みとどまって忍耐する” ことを強く勧められたと受けとめ、“逃げることすらできず” の部分を聞き流してしまいがちです。
逃げることに、私たちはネガティヴな、悪いイメージを持ちます。やらなければならないことや、乗り越えなければならない課題から逃げるのは恥とすべき卑怯な行いで、倫理的・道徳的にも決してほめられたことではないと、私たちは直感するからです。
ところが、その私たちの思いをイエス様はすっかり見通しておられます。今日の御言葉で、イエス様は、逃げなさい、早く逃げろと、今日の聖書箇所で、積極的に逃げることを勧められます。
それはどんな時でしょう。今日の聖書箇所の冒頭に、イエス様が語った言葉が、こう記されています。迫害が続く中で、ついに「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら」(13:14)イエス様が“逃げなさい”とおっしゃるのは、その時です。
さらに、その後に「読者は悟れ」と、聖書には珍しく編集者ないしは写本作者のいわば “註” のような但し書きがあります。
ここは少し説明が必要と思いますので、お伝えします。「憎むべき破壊者」とは、偶像崇拝を強制するこの世の主権者を意味します。
ユダヤ民族の国イスラエルが、偶像崇拝を行う大国にたびたび征服され、文化・生活習慣・価値観を宗主国に合わせることを強制されてきた歴史については、すでに前回までの説教で繰り返しお伝えしてまいりました。その歴史の中で、エルサレム神殿には何と、イスラエルを征服した諸国の偶像が置かれるようにさえ、なっていました。
また、イエス様の時代にユダヤを占領していたローマ帝国は、ローマ皇帝を神として崇めます。植民地となったイスラエルにも、表向きには、それが求められていたでしょう。
ユダヤの人々はおもに政治的な理由によって、つまり民族としての独立を求めてローマ帝国に反発し続け、ついにイエス様が十字架に架けられた出来事からおよそ40年後に、武力による反乱を起こし(ユダヤ戦争)ました。この反乱はローマ軍に鎮圧され、エルサレム神殿は崩壊して瓦礫の山になり、ユダヤの人々は各国に逃げ散ってゆかねばなりませんでした。
繰り返しますが、聖書のもとの言葉で、今日の御言葉の冒頭にある「憎むべき破壊者」とは “偶像崇拝を強いる人” をさします。ですから、この箇所はこう読み取ることができます。“偶像崇拝を強いる人が、本来立つべきではない王権の座・この世の主権を握る時が来る。 この福音書の読者は歴史の事実から知っているだろうが、そのようなことが、実際に紀元70年のユダヤ戦争で起きたのだ。この福音書を読む読者は、その史実を知っているはずだ。そして、「憎むべき破壊者の横暴と邪悪を悟っているはずだ。”
このことを踏まえ、今日の聖書箇所では、続けてイエスさまの言葉が記されています。偶像崇拝を強要する悪意に満ちたこの世の破壊者が、支配者としてこの世の頂点に立ってしまったら、「そのとき、…山に逃げなさい。」
人間が悪い支配者からすばやく逃げることを、神さま・イエス様・聖霊の三位一体の私たちの神は強く願っておられるのです。
“逃げなさい”という御言葉。これは、クリスチャンが迫害に遭った時、または私たちが苦難に遭った時に、イエス様がおっしゃった「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マルコ13:13)の御言葉に、自力でしがみついてしまう危うさの指摘と受けとめることもできます。
イエス様がこの御言葉で私たちに伝えられたのは、聖霊がとどめてくださるならば、その場にとどまって忍耐し、苦難に耐えるのが御心だということでしょう。しかし、私たちは聖霊の語りかけを必ずしもいつも、聴き取れるわけではありません。何が御心なのか、聞き分けること、御言葉から読み取ることは、決してたやすいことではないのです。聖霊に語りかけられているのか、自分の思いなのか、祈ってもわからないことが多いのではないでしょうか。
もしかすると、一生懸命踏みとどまっているのは、耐え忍ぶようイエス様から命令されている・踏みとどまらないとイエス様をがっかりさせるという自分の思い込みなのかもしれません。また、人間的な思いから“踏みとどまって、自分の命を主に献げて信仰をまっとうする”殉教を英雄視したり、美化したりすることには、別の誘惑が潜んでいます。“神さまに自分の命を献げてまで、迫害に耐える自分”が偶像になるという誘惑です。そのために、がんばって必死に踏みとどまる私たちの心は、神さまから遠くに離れてしまうのです。
だから、イエス様は逃げるという選択肢を強く示してくださいます。また、ここで私たちがイエス様の言葉から聴き取らなければならないのは、本来、神さまがおられるはずの真実の支配者・統治者の位置に「憎むべき破壊者」が立つ時、この世に、すさまじい速さで恐ろしい災いがもたらされるということです。
イエス様は今日の御言葉を通して、その苦難からは、とにかく早く逃げなさいと具体的な場合を想定しながら、弟子たちに強くおっしゃられたのです。御言葉に一節ずつ、聴いてまいりましょう。
15節から16節では、何か避難用品や財産を持って逃げようとせず、とにかく自分の身ひとつで逃げる時間しかないと記されています。
17節には、ふだんの時なら祝福されるはずの身重の女性や乳幼児を抱く母は、“身ひとつ” ではないので逃げにくく、不幸だと述べられています。身重の女性や赤ちゃんのいるお母さんを、夫や家族でさえ自分のことで精一杯で、助けてくれる時間・余力がないということでしょう。
18節には、冬にこのことが起こらないよう祈りなさいと勧められています。“身ひとつ” で逃げるので、雨が降り続き、寒い冬だったら凍えてしまうからです。
災い・災害と申しますと、私たちはここ十年ほどのことを思い返さずにはいられません。東日本大震災、相次ぐ台風被害、昨年からの新型コロナウイルスによるパンデミックと、私たちはこれまでの予想を超える災いに襲われ続けています。
しかし、19節をご覧ください。この「世の終わり」に起こる苦難は、それらよりも大きく深くこの世の基を揺るがすとイエス様はおっしゃいます。それは、「神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決して来ないほどの苦難」、今の私たちにはまったく想像がつかない未曾有・想定外の苦難なのです。神さまが起こすのではなく、ニセの主権者がこの世を支配しようとする時にもたらされる苦難でありましょう。
近代から現代にかけて、我欲が強いために支配者の位置を求める者が権力を握り、横暴を働いた史実はたくさんあります。ナチス・ドイツによるホロコースト、カンボジアのポルポト政権による虐殺、スターリンによる恐怖政治、中東のテロ活動。いずれも、起きてからまだ100年と経っていません。
そうなる前に、どうして止めることができなかったのか…とは、
誰も言えません。実際に、その時代に生きた人々はそれらの存在の出現を制止できなかったのです。それが、人間全体の弱さであり、愚かさであり、罪なのだと思うしかありません。
そのような恐怖政治を行う権力者が現れるのか、まったく違うかたちか、それはわかりませんが、破壊者が恐ろしい力を振るってこの世を支配する時が来る、そうイエス様はおっしゃいました。
しかし、イエス様は、創造主なる神さまが「御自分のものとして選んだ人たち」のために、「その(苦難の)期間を縮めて」(マルコ13:20)くださることを弟子たちに告げます。人間を愛して造られた神さまは、必ず人間を守り抜かれると言ってくださいます。
だからこそ、イエス様は23節でこう言われるのです。「(偽メシアや偽預言者に惑わされずに)あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」
「前もって、(こうして)知らせておく」とイエス様はおっしゃいました。弟子たちにその意味が分かっても、また今の私たちにその真実の意味がよく分かっても分からなくても、とにかくこうして前もって言っておいてくださることに、イエス様の私たちへの思いやりと優しさがあふれています。
親が、悲しいことが起きた時に、事情を理解できない幼い子どもに、“今はわからなくても、これだけは覚えておきなさい。大丈夫だから、安心していなさい” と言って聞かせるようなものでしょう。
神さまが苦難の期間を縮めてくださるのは、早くニセ主権者をその権力の座から追放しないと、この世がその者の悪に呑み込まれてしまい、「だれ一人救われない」(マルコ13:20)からです。
そして、神さまであるイエス様ご自身が、ニセの主権者を追放するために天から再び、この世においでくださいます。これが、イエス様の再臨です。
イエス様がおいでになれば、すべてはもう大丈夫です。
旧約聖書のダニエル書、今日の旧約聖書の御言葉として先ほど司式者が読まれた聖書箇所には、イエス様の再臨のお姿が預言されています。それも世の初めから、神さまが計画されていたことなのです。
再臨されたイエス様は「憎むべき破壊者」を追放し、悪い者の支配から逃れて、無事にさまざまなところに逃げ散っていた人々を「地の果てから天の果てまで」(マルコ13:27)呼び集めてくださいます。
“呼び集められた人々”のことを、聖書の言葉でコイノニアと言います。まさに、信じる者の共同体・教会を表す言葉です。それを今日の聖書箇所は「(神さまによって)選ばれた人々」と呼んでいます。
終わりの日・終末の苦難の時を聖霊の導きによって耐え忍び、悪しきニセの権力者の支配から逃れて、ひたすら神さまに希望と信頼を置き、悪に染まらなかった人々です。
まことの指導者であり、すべての悪しきものから神さまの民・選ばれた人々、信仰者を守ってくださる統治者であるイエス様が治める新しい世が、この時から始まります。
苦難をさまざまなかたちで耐え忍んだ者の疲れと痛みを、真実の統治者・イエス様が癒やし、回復させ、心をなごませてくださる新しい時・新しい世が始まります。
終わりの日・終末の出来事を語る今日の聖書箇所に語られている事柄を、私たちは実感として受けとめることが難しいかもしれません。ただ、この世が最悪の専制君主・暴君に支配される時が来ることに対して、それを前もってイエス様から知らされていることを、私たちはイエス様の優しさと深い配慮とおぼえて、深く感謝いたしましょう。また、心して、その悪い力・悪の力を敏感に感じ取れるようになっていたいと願います。
また、もしその最悪の事態となってしまっても、その時にはイエス様が悪を駆逐するためにおいでくださること、新しい世・御国の時代を始めてくださることに、絶対の信頼と希望を抱きましょう。
私たちの代わりに十字架で命を捨ててくださるほどに、そしてご復活で永遠に私たちと共においでくださる道を開いてくださるほどに私たちを愛しておられる主が、心をこめて「前もって」私たちに教えてくださることを、今を、今日を生きる命の言葉として心に留めて、今週一週間も進み行きましょう。
2021年5月23日
説教題:主の偉大な業を証する
聖 書:ヨエル書2章27-3章2節、使徒言行録2章1-13節
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
(使徒言行録2章1-13節)
今日は聖霊降臨日です。私たちは教会の誕生を祝い、ペンテコステ礼拝を献げています。
ペンテコステとは、今日の聖書箇所の最初・冒頭にある「五旬祭」のことです。「旬」という字は、ひと月を上旬・中旬・下旬と三つに分けることから連想できるように10日間をさします。五旬祭は、過越の祭から五つの旬、つまり五十日後に祝うユダヤの祝日です。同時に、私たちキリスト者にとって、この五旬祭の日は、イエス様の十字架の出来事から五十日が経ったことをも意味します。
イエス様はご復活された後の四十日を地上で過ごされました。その間に弟子たちに姿を現してくださり、神の国について話してくださいました。その時のことは、今日の聖書箇所の少し前、使徒言行録第1章の始めに記されています。
イエス様は、こう弟子たちに語られました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」この「約束されたもの」が、聖霊です。
私たちは前回5月16日の主日礼拝で、イエス様が弟子たちにこれから訪れる「終わりの日」について話された聖書箇所を共に読みました。その中に、このような聖句があったのを覚えておられますか。あらためて、マルコ福音書13章10節をお読みしますので、お聞きください。
「…まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」
イエス様は、やがて弟子たちが福音伝道のために迫害を受けて引き渡され ‒ つまり、逮捕されて ‒ 裁判の場で自ら弁明をしなければならなくなると預言されました。しかし、その時に弁明の言葉を自分で考えなくてよい、聖霊があなたがたの口を通して語られるから、あれこれ思い悩み、取り越し苦労をしなくてよいと安心させてくださったのです。迫害を受けた弟子たちが逮捕される罪状は、取り締まる側から見れば、死んだ人間のよみがえりという不思議な情報で人々の心を乱し、社会を混乱させることだったでしょうか。
ローマ帝国の領地内ではローマ皇帝を神としますから、イエス様の福音と神さまの教えを伝えることは冒瀆罪にあたったでしょう。
弟子たちがユダヤの裁判で裁かれる時も、イエス様が神さまの御子、預言されたユダヤ人の王であるメシアだと信仰を告白することが、偽証の罪・冒瀆罪に問われたかもしれません。
裁判での弁明の言葉とは、「自分は少しも悪くない」という言い訳の言葉では、もちろんありません。正しい証言をして、自分の正義を宣言する言葉です。
そのために、弟子たちは自分が伝えている情報、つまり福音が真実であること、イエス様が本当に神さまの御子であることを証言しなければなりませんでした。その証言、つまり「証し」の言葉は聖霊が語るから心配することはない、とイエス様は弟子たちに言われました。
これはきわめて人間的な考えからも、十分に納得がゆくことです。裁きの場に引き出された弟子たちが、それぞれ違うことを言ったら、つまり証言が食い違っていたら、疑いは深まってしまいます。しかし、全員が同じことを言ったら、信憑性が高いと受けとめられるでしょう。
聖霊は弟子たちの口を通して、同じひとつのことを語ります。
それは「神の偉大な業」 ‒ 今日の説教題にもいただいている、今日の聖書箇所の11節にある言葉です。
神さまの大いなる御業とは、イエス様の十字架の出来事とご復活に他なりません。弟子たちの口を通して聖霊が語る証言・証しの言葉は、それを語ります。
聖霊は、神さまによってこの世に遣わされた御子イエス様が、私たちの代わりに十字架で罪を贖って私たちを死の滅びから救ってくださったこと、またイエス様が復活されて私たちに永遠の命・神の国への道を開いてくださった恵みの福音を語るのです。
弟子たちは、イエス様と共に暮らし、イエス様が逮捕された時にはその場にいて、ご復活のイエス様に何度も会っています。彼らが皆一様に、分かち合って経験した事実、イエス様の十字架の出来事とご復活を聖霊が真実として語ってくださるので、聖霊にお任せすれば何も恐れることはない、とイエス様はおっしゃってくださいました。
弟子たちは、同じ真実・真理を語ることで、こうして聖霊によってひとつとされます。
聖霊とは、言い換えれば弟子たちのうちに宿り、真理を語ってくださるイエス様なのです。
天に帰られた後、必ずこの聖霊が弟子たちに降る、とイエス様は約束してくださいました。
弟子たちにとって、イエス様が天に帰られていなくなった後、エルサレムに残るのはかなり勇気がいることでした。人間的・この世的な観点から申せば、イエス様は死刑になった犯罪人、弟子たちはその仲間と見なされていました。みつかったらたいへんな嫌がらせを受けることが、容易に想像できました。
ですから、弟子たちは、危険の多いエルサレムを離れ、故郷ナザレ、ガリラヤ湖のほとりに戻って身を隠し、静かに暮らしたかったでしょう。
実際に彼らは一度、ご復活のイエス様に会うためにガリラヤに戻っています。そこでイエス様は、夜通し漁をしても何も獲れなかった彼らに豊漁の奇跡を起こされ、何と朝ご飯までごちそうしてくださったのです。
弟子たちは、幸福な故郷ガリラヤでのイエス様とのひとときを過ごしましたが、イエス様が約束してくださった聖霊を受けるためにもう一度、エルサレムに帰って来ました。イエス様が、エルサレムにとどまりなさいとおっしゃったからです。
イエス様が逮捕された時に、弟子たちが蜘蛛の子を散らすように逃げてしまったことを思うと、彼らがここでかなりの勇気を奮い起こしたことがわかります。いいえ、彼らが自分たちの精神力で勇気を奮い起こしたのではなく、ご復活のイエス様が彼らに勇気を与えてくださったのです。イエス様に再び会えた喜びに、弟子たちの心は熱く燃え立ったのでした。ガリラヤ湖のほとりで復活されたイエス様と会った弟子たちは、イエス様は死なれたけれど復活された、そして自分たちを見守ってくださるとの確信によって、心を大いに強められました。
さて、五旬祭のこの日、彼らはエルサレム市内のある家の二階に集まっていました。
この二階の部屋は、イエス様が最後の晩餐の時を過ごしたところ、また、ご復活のイエス様が疑い深いトマスに手の傷・胸の傷を示されたところと言われています。
すると、激しい風が吹いてくる音が聞こえました。
聖書で「風」は特別な意味を持つ言葉です。旧約聖書の言葉では息、霊と同じ一語・ルーアッハという単語で表されます。最初の人アダムは、塵で形づくられた後、鼻の穴に神さまの命の息・ルーアッハ・風を吹き込んでいただいて生きる者となったことを思い出しましょう。
この風の音と共に、炎のような舌が分かれ分かれに現れて、弟子たち一人一人の上にとどまりました。聖霊は“舌”‒ 言葉を語り、福音を伝えるための舌として弟子たちに降ったのでした。
舌は、ラテン系の言葉でラングと言います。「猫の舌」・ラングドシャーというフランスの薄い 薄いクッキー菓子があります。ラングが舌、ドは「の」、英語で言うとof、そしてシャーが猫ですね。
また、ラング・舌と語源が同じ単語ランゲージ language は、言語・言葉を意味します。
弟子たちは、さまざまな言葉を語る舌を与えられたのです。
大きな物音に驚いて、近隣の人々が集まって来ました。彼らは、中東・小アジアのさまざまなところから、五旬祭のためにエルサレムにやって来たユダヤ人たちでした。
今日の聖書箇所の5節と8節を少し注意深く読むと、このユダヤ人たちが二つの故郷を持っていたことがわかります。
ひとつは、それぞれの出身地です。イスラエルの国は、何度も大国に侵略され、バビロン捕囚を経験して、国としては国土があったり なかったりという歴史を持つようになります。国民も離散を余儀なくされ、中東から小アジアの各地方へと散らされて行きました。散って行って住み着いた異国の土地で、仕事と家庭を持ち、その土地の言葉を使って生活するようになり、やがて子ども・孫が二世・三世として生まれていました。
もうひとつの彼らの故郷は、彼らの民族的・信仰的なふるさとであるイスラエルです。彼らはエルサレム神殿で、五旬祭を民族としてひとつの心で祝うために、集まったのです。
エルサレムでは三つの言葉が使われていたと言われています。アラム語とヒブル語、そして貿易、商売をするための共通言語であるコイネーギリシャ語です。
イエス様の弟子たちは、ナザレ、ガリラヤの強い訛りのあるアラム語を話しました。イエス様が逮捕された時、心配でこっそり後をついていったペトロは、その訛りで、イエス様の弟子であることが周囲の人にわかりました。
言葉に強い訛りがあった弟子たちが、他国の言語に習熟していて、流暢に語ることができたとは、少し想像しにくいように感じます。
ところが、聖霊を受けた弟子たちは、集まった人々の故郷の言葉で話していました。言葉は違っていても、語っていたのは同じひとつのことでした。神さまの偉大なわざを語っていたのです。それは、イエス様の十字架の出来事による救いの恵みとご復活による御国への希望、その福音でした。
故郷の言葉・母語・母国語は、私たちの魂に最も強く届く言葉です。
聖霊は、御言葉を求めて聴く人の魂に届く言葉を弟子たちに語らせてくださったのです。
聖霊の恵みは、神さまの御業を証する弟子たちだけでなく、聴く者にも与えられていました。
ところが、与えられない者もいたのです。
彼らにとっては、今日の聖書箇所の最後の聖句が語るように、弟子たちは酒に酔って、たわ言を言っているようにしか聞こえませんでした。
これは、福音が語られる時の事実を表すと申して良いでしょう。
弟子たちに降った聖霊は、福音が真実に語られる時に、語る者と、それを求めて聴く者に降ります。聖霊が働かなかった聴き手の心と魂には、恵みの福音が届かなかったのです。
語る者と聴く者は、共に聖霊に満たされて、聖霊のお働きによってイエス様の十字架の出来事で救われ、ご復活による御国への希望を繰り返し、繰り返し心に新しくいただくために、そしてその恵みを喜んで、神さまを讃えるために集まるのです。
それが、教会です。
だから、この聖霊が初めて降った日・ペンテコステの日は教会の誕生日と言われるのです。
教会は福音を語り継ぎ、迫害にも苦難にも耐えて今に至っています。
福音は、やがて来る御国・神さまの国 ‒ 涙を流すことのない、苦しみがすべてなくなる時を私たちが地上の命を超えて待ち望む希望の源だからです。
私たちは今、コロナ禍ゆえの忍耐の時にあります。しかし、聖霊によってひとつとされて、神さまの大いなる御業を証ししてまいりましょう。主が守り支えてくださることを信じ、今週も心を高く上げて進み行きましょう。
2021年5月16日
説教題:最後まで耐え忍ぶ
聖 書:エレミヤ書7章1-4節、マルコによる福音書13章1-13節
主からエレミヤに臨んだ言葉。
主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。
(エレミヤ書7章1-4節)
イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎやうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」
(マルコによる福音書13章1-13節)
今日の聖書箇所、マルコ福音書13章は“小黙示録”と呼ばれています。聖書の最後に置かれている「ヨハネの黙示録」を“大”黙示録とした場合の“小”黙示録です。「ヨハネの黙示録」には、世の終わりと、それに続く新天新地の壮大なヴィジョンが記されています。
この“小黙示録”・マルコ福音書13章には、イエス様が弟子たちに語られた言葉として、終末への心備えが告げられています。
読み始める前に、ひとつ、心に留めていただきたいことをお伝えします。聖書の言葉としてではなく、一般的に“この世の終わり”と申しますと“最悪の惨事”“これ以上考えられないほど悲惨な出来事”をさします。しかし、イエス様に救われて御言葉に生きる信仰者にとっては“終末・この世の終わり”は決して否定的な、悪いことだけをさす言葉ではありません。この世の終わりの時には、イエス様がもう一度おいでくださり、真実に正しい裁きを行われて、この世に生きる者を御国へと導いてくださるからです。
その時までに地上の命の終わりを迎えていた信仰者は、御心ならば復活します。よみがえります。御国での永遠の命が、新しく始まるのが聖書の語る“世の終わり”なのです。だから、どうか、心を恐怖感でいっぱいにして今日の御言葉を読まないでいただきたいと願います。それを心に留めていただいて、読み始めたく存じます。
さて、イエス様は神殿の庭(境内)で群衆に教えを語られ、律法学者たちと神学論争を繰り広げた後、境内を出て帰途に着かれようとしました。その時、弟子の一人がエルサレム神殿のすばらしさを讃えました。
この時、エルサレム神殿はヘロデ王によって改築工事中だったと言われています。二度目の大きな工事でした。
エルサレム神殿は、まず、紀元前970年頃のソロモンの時代に建てられました。たいへん壮麗・荘厳な建物でした。ところが、その500年ほど後に、バビロンに攻められて崩れ落ちてしまいました。さらに50年〜70年を経て、ユダヤの人々はようやくバビロン捕囚から解放されてエルサレムに戻りました、そこで、人々は崩れた神殿の補修を行いました。これが最初の改修工事です。その神殿が、イエス様の時代にヘロデ王によって、さらに大改築を行われていたのです。
ユダヤの文化は、もともとエジプト的な要素を多く持っています。ユダヤ民族が、かつてはエジプトで奴隷としてピラミッド建設のために働かされていたことを思い起こしてください。残念ながら、私は実際に見たことはないのですが、エジプトの遺跡はピラミッド、王や女王の彫像、スフィンクスを思い浮かべていただくと分かるように、すべて巨大です。エルサレム神殿の工事でも大きな石が切り出され、美しい彫刻などを施されていたのでしょう。
イエス様の弟子は、それを見て感動の声を上げたのです。
確かに神殿の建物の“目に見える壮大さ”から、大いなる神さまのすばらしさを思う心を触発されるかもしれません。しかし、その一方で、私たち人間は目に見える大きな物を、簡単に崇めて偶像にしてしまう愚かさ・罪をも持っています。イエス様はこの人間の浅はかさを、神殿のすばらしさに感動している弟子の言葉に聴き取って、それをたしなめました。イエス様が言われた言葉・「これらの大きな建物を見ているのか」(マルコ13:2)は、“人の目には見えない天の父なる神さまをこそ、仰ぎなさい”を意味すると考えても良いでしょう。
それに続くイエス様の言葉をご覧ください。お読みします。「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
これは、未来に起こることをイエス様が見通しておっしゃっている言葉です。このイエス様の言葉は、その70年ほど後、紀元70年のユダヤ戦争の時に本当のこと・史実になりました。
今日は、イエス様の預言的なお働きに心を向けるよりも、イエス様の言葉を聞いて、このように堅固壮麗な建築物が崩壊するのは世の終わりの時だと、弟子たちがおののいたことを読み取りましょう。
確かに、たとえば2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の時、摩天楼・ワールドトレードセンタービルが崩れ落ちる様子や近年相次ぐ大地震・自然災害の爪痕の報道を見て、私たちは恐れおののきます。そのおののきと同じ思いを、弟子たちはイエス様の言葉に感じ取りました。イエス様がおっしゃるように立派な神殿が崩壊することが本当に起きたら、それは“この世の終わりだ”と、私たちが一般に思う悪い意味で、弟子たちは恐怖を抱きました。
そこで、彼らはイエス様に尋ねました。続きをお読みします。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」(マルコ福音書13:4)
大惨事・大災害・大地震がこれから襲って来るのだったら、それがいつか知りたい、知って備えておきたいと思うのが自然な考えです。
だから、弟子たちはイエス様にそれはいつかと尋ねたのです。
しかし、イエス様は“いつ”とは教えてくださいませんでした。
その代わりに、どんなことが起こるか、またその時のためにどのように心を備えておけばよいかを教えてくださいました。
イエス様は、まず社会に不穏な空気が流れ、デマが飛び、情報操作が行われると告げられました。イエス様の名・救い主の名を名乗るニセ者が大勢現れて、自分に頼れば、これからやって来る災いを乗り越えられると人々を誘惑します。イエス様は、これに惑わされないようにと言われました。
次に、人間同士・国同士の争いが起こります。イエス様は「そういうことは起こるに決まっている」・起こって当たり前だからうろたえるな、とおっしゃいました。戦争が当たり前との御言葉にちょっとぎょっとしますが、確かに、地上から争いが絶えたことはありません。今もまさに中東で、またアジアでも、戦争と内乱が起こっています。イエス様は人間の罪の事実をそのままおっしゃったのです。
しかし、戦争で世が終わりになることはない、とイエス様はおっしゃいました。
さらに地震と飢饉という自然災害が起こりますが、イエス様はこれも「産みの苦しみの始まりである」‒ まだ“世の終わり”ではない、これは始まりで、これからもっと苦しくなる、とおっしゃいます。
ところで、皆さんは、人生は平穏で、そこそこ 幸せなのが当たり前だと思っておいででしょうか。それとも、人生は苦しくて当たり前だと受けとめておられるでしょうか。
聖書の語る人生は、すべてつらく苦しいものです。
なぜなら、人は原罪を犯してしまったからです。
知恵の木の実を食べたことで、人間は中途半端な知恵・理性を持つようになりました。少し先のことを予測できる合理的な知力を持っているので、期待し、そのとおりにならないとがっかりします。私たち人間の知力・理性は、すべてを神さまのように見通すことができず、いくつかの起こり得る可能性を予測できるだけです。可能性のうち、どれが本当に起こるのかはわかりません。中途半端です。それゆえに、私たち人間の知力・理性は、極端な言い方をすれば、自分を苦しめる厄介な知恵です。挫折を恐れるならば、かえって将来設計などする知恵を持たず、その瞬間、その瞬間を本能だけで生き抜くだけの方が楽なのではないかと気弱になっている時や、多感な成長期には思ってしまう方もおいでかもしれません。
旧約聖書を読むと、神さまから御覧になって、人間を虫けらのようだとする表現が何回か出てまいります。イエス様の十字架の出来事で原罪をゆるされ、救われなければ、私たちは皆、旧約聖書の言葉のごとく「虫けらのように」苦しんで期待と不安と失望を繰り返して生き、「虫けらのように」むなしく地上から消えて塵に帰り、無になるだけなのです。
今日の聖書箇所で、イエス様は“人生がつらくて当たり前”であることを、弟子たちに伝えようとなさいました。
では、信仰を持てば幸福になるのでしょうか。
その逆だと、イエス様はおっしゃいます。
キリスト者・クリスチャンは迫害の嵐に翻弄されるとイエス様は言われました。
実際にそうなったことを、私たちは歴史の事実から知っています。
イエス様と一緒にいた弟子たちの多くは迫害され、殉教して果てて行きました。その後も、福音伝道と迫害が、まるでセットのようにキリスト教の歴史についてまわります。日本では、第二次世界大戦中に説教者や教会に連なる方々が、スパイ容疑で逮捕され、拷問されて亡くなった事実・史実があります。
それでも、信仰者は福音伝道を諦めることはありませんでした。
だから今、私たちはこうして教会に集められ、礼拝を献げています。
なぜ、信仰者は福音伝道を諦めないのでしょうか。今日の聖書箇所マルコ福音書13章10節で、イエス様はこうおっしゃいました。お読みします。
「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。」
人生が苦しいからこそ、世の終わりがあるからこそ、それに備えて救いの福音が宣べ伝えられなければなりません。なぜなら、イエス様の十字架の出来事により、私たちは苦しみの根源である原罪・罪から解放されたからです。中途半端な知恵を持ってしまい、未来を中途半端に予測できる理性を持つために、期待と不安と失望をただ繰り返し、決定的な答を見出せないまま滅びることになっていた私たちは、イエス様のご復活により、永遠の命という絶対的な答・究極の希望の恵みを与えられました。
イエス様の十字架の出来事とご復活に、決して中途半端ではない、絶対的に正しい答があります。救われた者は“つらく苦しいこの世が終わり、苦しみも涙もない新しい御国が始まる”という絶対的に正しい答を心と魂と精神で知っています。その福音を信じることに、平安と幸いがあることを知っています。この恵みを知った喜びを、私たちは黙っていることができません。伝えずにはいられません。
だからこそ、迫害に遭っても、福音は伝え続けられて来たのです。
だから今、ここに教会があり、私たちは主の日の恵みに与っているのです。
迫害に耐え抜く力を、どう備えれば良いのかを、イエス様は今日の聖書箇所で教えてくださいました。11節をご覧ください。「引き渡され ‒ これは逮捕されることを意味します ‒ 、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。」
この「取り越し苦労」こそが、中途半端に未来を予測して気を揉み、思い悩む私たちの不完全さ・欠け・弱さです。イエス様は、取り越し苦労が必要ない理由を実に力強くおっしゃってくださいます。11節の後半です。お読みします。「そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」
十字架の出来事とご復活の後、イエス様は天の父の右の座に帰って行かれました。その時に、必ず生きて私たちの間で働くイエス様である聖霊を送ると約束してくださいました。その聖霊が、苦難の時に私たちに代わって語り、道を開いてくださるとイエス様は教えてくださいます。
12節で、とうとう、これ以上悪いことは人間には考えられない苦難が起こると、イエス様は言われます。ここに挙げられている家族間の憎み合い・殺し合い、クリスチャンへの迫害・憎しみは苦難の例として挙げられていると考えることができます。想定外の苦難は、いくらでも起こり得るのです。
東日本大震災で、津波の高さは人間の想定をはるかに超えて、町を破壊し、多くの命を奪いました。今、私たちは、予想もしなかった新型コロナウイルス感染拡大によって、大きな困難の中にいます。
しかし、イエス様はおっしゃいます。今日の聖書箇所の最後の御言葉をお読みします。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マルコ福音書13:13)
「耐え忍ぶ」とは、もとの聖書の言葉では「居残る」「我慢して待つ」という意味の言葉です。
私たちは、困難・苦難を乗り越えようと自分の力以上にがんばったり、苦難に打ち勝とうとしたりしなくてよいと、イエス様は言われます。私たち信仰者・クリスチャンは、困難を自分にできる以上のがんばりで乗り越えなくて良いのです。逃げられるのであれば、もちろん、逃げて良いのです。
逃げることができず、苦難という大きな山のふもとで疲れ果てて、うずくまってしまっても良いのです。ただ、そこに居残っていれば、それだけで良いとイエス様はおっしゃいます。
我慢して耐えて、主の導きを待っていれば良いのです。
終わりの日には、イエス様が自らおいでくださいます。
それより前の今の時・教会の時代の苦難であれば、聖霊が私たちを導いて道を開いてくださいます。その聖霊がくだった日をおぼえて祝うのが、来週の日曜日・聖霊降臨日、ペンテコステです。
今の時を、また私たちがそれぞれの人生でぶつかるあらゆる課題と困難の時に、踏みとどまって聖霊の導き・主の助けを待ちましょう。
御言葉によって心を満たされて、私たちは力をいただき、うずくまってしまっていても、主の手に引かれて必ず立ち上がります。
主を仰ぐ時、私たちの目も顔も自然に上を向きます。
うつむくことはありません。
今、自分たちにできる精一杯を尽くし、ひたすらイエス様に希望を抱いて、今週一週間も心を高く上げて進み行きましょう。
2021年5月9日
説教題:主のまなざしの中で
聖 書:詩編33編12-15節、マルコによる福音書12章38-44節
イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
(マルコによる福音書12章38-44節)
私たちは聖書から教訓をいただきたいと、思いがちです。今日の箇所から比較的 簡単に読み取れる二つの教訓がある ‒ そう考えます。ひとつは、「律法学者のように偉そうに人を見くだし、自分が特別な存在だとアピールしてはならない」、もうひとつは「自分たちにできる精一杯を、神さまに献げなさい」。なるほど、覚えておこう ‒ こう満足してしまっただけで、果たして良いものでしょうか?
聖書は教訓を集めた書物でも、道徳の教科書でも、“良い人生の賢い過ごし方 ‒ 生き方マニュアル” でもありません。
聖書は恵みの書です。
読んで、あるいは聞いて、励まされ、慰められ、元気づけられるのが聖書です。
聖書から教訓を学ぶのではなく、聖書を私たちへの「良いおしらせ」、喜びの手紙として読み、御言葉に聴く姿勢を与えられたいと願います。
二十世紀最大の神学者と呼ばれるバルトは、あるジャーナリストに “聖書をひと言で要約してください” と無理難題を言われました。このことは、すでに皆さんに何回となくお話ししたかと思います。皆さんはバルトの答えもご存じでしょう。バルトは、こう答えたと言われています。「主、我を愛す。」 ‒ 神さまは、私をいとおしんでくださる。大切に、大切に思ってくださる。これが、聖書に記された神さまからのメッセージです。
神さま、そして御子イエス様の私たちへの深い愛・慈しみが、今日のみことばにも込められています。それを、ご一緒に聴き取ってまいりましょう。
イエス様は、こう言われました。「律法学者に気をつけなさい」。これは、神殿の庭でイエス様が律法学者・祭司長・長老たちと神学論争を繰り広げているのを見ていた群衆におっしゃった言葉ですが、同時に、当の相手である律法学者にも向けて告げられています。イエス様は、群衆に教えることを通して律法学者たちに警告をされました。
イエス様が今日の聖書箇所で指摘した律法学者たちの罪。それは人をあざむく “見せかけ” を装い、人から尊敬されようとする傲慢の罪です。傲慢とは、本来、心の中心におられるはずの神さまを押しのけて自分がそこに居座り、自分が中心となる自己中心をさします。
イエス様は、その律法学者たちの罪を、その様子が目に見えるように、具体的に指摘されました。
まず、長い衣をまとって歩き回ることです。この「長い衣」は、神殿の礼拝で聖書、特に律法の書を朗読する時にまとう正装です。その姿で歩き回り、自分がユダヤ社会で指導的立場にある律法学者であることを見せびらかして、人々からの尊敬のまなざしを受けたいとの下心が丸見えです。
自分から誰かに挨拶をすると、自ら目下の者と言っているようなものだと信じ込み ‒ そんなことはありません…挨拶をするのは礼儀の基本です ‒ 、「挨拶される」ことが大好きです。
人の集まる場では上席・上座に案内されないと機嫌を悪くします。
そして、「やもめの家を食い物にし」ます。
「やもめ」は未亡人のことです。当時のユダヤ社会では、最も弱い立場にありました。女性の経済的自立の道がほとんどなかった時代ですから、夫に先立たれた者は、夫が残してくれた財産に頼るか、息子の世話にならなければ生きてゆけませんでした。
律法学者たちは、そのような弱い立場の「やもめ」に取り入って、思いやるふりをして、「見せかけの長い祈り」をする、未亡人の財産からお礼を受け取ろうとする、とイエス様は厳しく指摘されました。
祈りは、心をこめて神さまに献げるものです。
誰かのために祈ることを「執り成しの祈り」と申します。神さまが、その誰かのためにお働きくださることを、心をこめてお願いするのです。しかし、律法学者たちが祈る時、彼らは神さまのことを思っていません。やもめのことも思いやっていません。
彼らの心の中にあるのは、まわりの人々がどれほど自分の祈る姿・美辞麗句とレトリックを駆使した祈りの言葉に感心しているかという、自分の “見かけ”・ “見せかけ” のことだけです。
繰り返しになりますが、これは、心の中心におられるはずの神さまを押しのけて、そこに自分が居座る自己中心のありようです。 自分を偶像としてあがめる偶像崇拝です。
だから、イエス様は律法学者たちに警告を発されました。マルコ福音書12章40節後半の言葉です。お読みします。「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
これは、厳しい裁きの言葉です。神さまが、創造主としての責任をもって、造られた人間をしかるべく裁き、罪を罪として真実を告げている言葉なのです。そして、同時に神さまの愛の言葉でもあります。実際に十字架の上でこの裁きを受けてくださったのは、神さまの独り子、イエス様だったのです。
イエス様は、律法学者たちに代わって、あるいはこの世で、律法学者たちのように自分を少しでも立派に見せたくて “見せかけ” を装い、神さまをないがしろにする人間の罪を、十字架でご自身のお命をもって贖ってくださったのです。律法学者も、イエス様を陥れようと企んだ者たちも、群衆も、私たち人間はイエス様の十字架のご受難によって救われました。
この神さまの愛、イエス様の慈しみのまなざしを、私たちは今日の聖書箇所の41節に続く箇所から、さらに深く読み取ることができます。
ここで、イエス様のまなざしは、当時の社会で最も弱い立場にあった者・40節で語られた「やもめ」にそそがれています。このやもめは、貧しい人でした。亡くなった夫が残してくれた財産がもうほとんどなく、もしかしたら息子にも先立たれていたのかもしれません。
41節は、このように語り始められています。お読みします。「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。」
イエス様の時代の、神殿での献金の仕方は現在とはだいぶ異なっていたようです。献金が多いほどまわりの人からの尊敬を得られ、名前と献金額がその場で読み上げられたという説があります。
また、賽銭箱がラッパのように音が響く造りだったという説があります。当時は紙幣がまだ存在していませんでした。硬貨しかなかったのです。人々が投げ入れる金貨、銀貨の音が賽銭箱の中で反響し、その音を聞いて、今の人は金貨を投げ入れた、次の人は銀貨だと、わかるような仕組みの賽銭箱だったというのです。
イエス様が「賽銭箱の向かいに座って、群衆がそこにお金を入れる様子を見ていた」と記されていますが、これは特別に変わったことをなさっていたわけではなく、賽銭箱にお金を投げ入れられるのを見物する人たちが大勢いて、その中に交じっておられたと考えられます。
お金を投げ入れるのは、 “人に見せびらかす行為” でした。
まごころをこめて神さまに自分の富と力、時間を献げるのではなく、見物人に、自分の財力と信仰心を合わせて見せびらかしていたのです。
見物する群衆は烏合の衆・無責任です。たくさんのお金が投げ入れられると「お〜」と歓声をあげたり、はやし立てたりしたのではないでしょうか。お金を投げ入れる人は、その見物人の目を十分に意識して、競い合うようにしていたと思われます。
人は相対的にしか、物事をとらえることができません。比べることで、事柄や事象を認識します。私たち人間は、ほとんど本能的にと言ってよいでしょうか ‒ 見ているもの同士を比較し、また、社会で生きてゆく中で自分とまわりの人を比べ、心の中で競って、勝ち誇ったり、逆に落ち込んだりします。
その時、私たちは世間の物差しや、自分の価値観という基準で比較をしています。私たちの真実の基準は神さまの御言葉にあるにもかかわらず、それを忘れてしまうのです。 基準のことを、ラテン語ではカノンと申します。そしてこのカノンという言葉は正典すなわち聖書をさします。
さて、この時、一人のやもめがお金を投げ入れようとしていました。この年配の女性のみすぼらしい姿をあざけり、からかう心ない声が、群衆の中から上がったでしょう。
この人が投げ入れたのは、レプトン銅貨2枚・1クァドランスでした。1クァドランスは労働者が一日働いて稼げる金額・1デナリオン(8千円〜1万円)の64分の1、日本のお金にして125円から156円ぐらいです。
イエス様は見物人・群衆とはまったく異なるまなざしで、このやもめを見守っておられました。神さまの目・主のまなざしは、そのわずかなお金が、このやもめの全財産であることを知っておられたのです。
イエス様は、やもめが主に献げたまごころをしっかりと受けとめてくださいました。そして、弟子たちに、また「たくさん」「わずか」と比較することで物事を認識する私たち人間すべてにおっしゃいました。
今日の聖書箇所の最後の節をお読みします。「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」
イエス様は、わたしたちそれぞれの「たくさん」を見てくださいます。他の人と比べることなく、私たちひとりひとりを特別なひとりとしてご覧くださるのです。
私たちは、みんな、この貧しいやもめです。
私たちは皆、放蕩息子であり、群れから迷い出た一匹の羊です。
それとまったく同時に、私たちは父に大歓迎される放蕩息子をうらやむ兄であり、群れに残っている九十九匹の羊です。
みんな、欠点を、正しい道から迷い出る愚かさを持ち、自分の小ささを嘆くかと思えば、人を見下して傲慢になる実に小さな器です。
そして、誰もが、簡単にがっかりしたり、傷ついたりしてしまう弱い心を持っています。
繰り返しますが、私たちは、みんな、ここに記されている貧しく、人から侮られ、隅に追いやられ、ないがしろにされているやもめです。しかし、同時に、ここに語られているように、イエス様にしっかりと見守られているやもめなのです。神さまに、イエス様に見守られていれば、それだけで十分な恵みではありませんか。
私たちは比較するのが大好きですが、実は石ころと宝石の区別がつきません。イエス様は、私たちすべての内に、ひとりひとりの中に、必ず宝石を見てくださっています。このイエス様のまなざしに守られて、主を仰ぎつつ、今週一週間を進み行きましょう。
2021年5月2日
説教題:主こそが救い主を遣わす
聖 書:詩編110編1節、マルコによる福音書12章35-37節
イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』 このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。
(マルコによる福音書12章35-37節)
今日の聖書箇所でも、イエス様と律法学者・祭司長・長老たちとの神学論争・問答が続いています。
受難節に入る直前までは、イエス様を陥れようと律法学者たちが意地悪な質問をイエス様に問いかけ、イエス様の鋭い切り返し・お答えに逆に恥をかかされる問答が語られていました。前回は、イエス様のお答えにすっかり感動した律法学者のひとりが、陥れようとのもくろみを忘れたかのように、イエス様に聖書の黄金律「主を愛し、隣人を自分のように愛する」ことについて教えを乞いました。
今回は、イエス様の方から律法学者たちに問いを発しておられます。
少し、理屈っぽいと申しましょうか、頭の体操のようなやりとりです。
イエス様の問いは、こうでした。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」この問いかけは、不思議に思えます。なぜなら、旧約聖書にはメシア ‒ すなわち救い主 ‒ はダビデの子孫からあらわれると預言されているからです。
その預言を、私たちは聖書のさまざまな箇所で読むことができます。
イザヤ書11章に、こう記されています。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。」(イザヤ書11:1〜2)
エッサイとは、ダビデの父の名です。ダビデの末裔・子孫から、「弱い人のために正当な裁きを行」(イザヤ書11:4)う 平和の君・救い主イエス様がお生まれになるとの預言が、このようにイザヤ書に記されています。
また、マタイによる福音書には、その冒頭にイエス様の系図が掲げられています。エッサイはダビデ王をもうけた(マタイ福音書1:6)…と名が記されて「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(マタイ福音書1:16)とはっきりと書かれています。
マルコによる福音書で、私たちは10章の終わり近くで、イエス様が「ダビデの子」と呼ばれる箇所をご一緒に読みました。過越の祭のために弟子たちとエルサレムに入られる直前、イエス様がエリコの町で目の不自由な人を癒やされた聖書箇所です。この目の不自由な人は「ダビデの子イエスよ」(マルコ福音書10:47)と必死で呼びかけ、イエス様はその呼びかけに応え、この人の視力を回復させました。
ユダヤの人々はイザヤ書の時代から数えると700年以上もの長い間、さらに、今日の旧約聖書の聖書箇所であるダビデの祈りの言葉から推測すると1000年の長きにわたってメシア・救い主を待ち望んで生きていました。そのメシア・救い主が、ダビデの子孫であることは揺るぎようがありません。
メシア・救い主とは、新約聖書のもとの言葉では「クリストス」すなわちキリストです。イエス様のことに、ほかなりません。
それを踏まえると、今日の御言葉でイエス様が言われたことは、不思議に思えるのです。なぜイエス様は「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と、まるで救い主がダビデの子孫から生まれることを問題にしていないような問いを発されるのでしょう。
さらに、今日の御言葉としていただいている聖句では「ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と「ダビデはメシアを敬っているのに、どうしてそのメシアがダビデの末に生まれることになるのか」と問うておられます。
イエス様は母マリアの夫ヨセフがダビデの子孫なので、地上の家系としては確かにダビデ家の末裔にお生まれです。にもかかわらず、今日の聖書箇所では、どうして、いわば ユダヤ社会でのきわめて “由緒正しい” ご自身の系図を否定するような表現をされるのでしょう。
注解書の多くは、イエス様の問いの前に、律法学者たちからイエス様へのたいへん侮辱的な言葉があったのではないかと推測しています。
私たちが使徒信条で信仰告白するとおり、イエス様は聖霊によってマリアの胎に宿られました。“血筋” としては、ヨセフの息子ではないのです。
ヨセフがマリアとまだ婚約者同士で、ヨセフがマリアに触れてもいない時に、マリアはみごもりました。ヨセフはマリアに裏切られたと考え、たいへん苦しみました。それはマタイによる福音書1章の、イエス様の系図に続いて記されている事柄からはっきりと読み取れることができます。
ヨセフはおなかの大きなマリアを伴って、住民登録のためにベツレヘムへ長旅をしました。(ルカ福音書2章)
マリアのおなかの子の父親がヨセフではないこと、さらに、それにも関わらず、ヨセフがおなかの子ごとマリアを妻として受け容れたことは、住民登録をした時にベツレヘムの役所の人たちに知られることとなりました。人の口に門(かど)は立てられませんから、もちろん故郷ナザレでも人々の噂となったでしょう。
イエス様が、こうしてヨセフを通して人間的な意味では “戸籍のうえ・書類のうえ” だけでダビデの末裔となった…と意地悪く考える人も少なくなかったのです。イエス様を憎んでいる律法学者たちは、この事柄を、イエス様をおとしいれるのに好都合な情報と考えました。
注解書は、律法学者たちが、イエス様に「本当にダビデの血を受け継いでいるのか。不義密通の子ではないのか。この人はメシアだと言われているが、本当はどこの馬の骨かわかったものではない」と侮辱の言葉を言ったのではないかと推測しています。
聖霊によって御子としてマリアに宿られたイエス様に、なんと失礼な言葉でしょう。
ただ、ここで、私たちは自らの心をかえりみなければなりません。
人間の限りある理性と常識では、 “イエス様が聖霊によって宿られた”という神さまの秘儀 ‒ 人の目に隠されたみわざ ‒ よりも、“マリアのおなかの子はヨセフ以外の人間の男性の子” という推測の方が、受け容れやすいのです。だから律法学者たちは、その推測を盾にとって、イエス様がダビデの子孫とは嘘だと罵ったのでしょう。そこには、遣わされた救い主が本物かどうかを判断できるのは、自分たち人間だという思い込みがあります。この思い込みにより、私たちは自分たち人間の限りある理性を偶像とし、思わぬ自己中心に陥ることがあります。
ダビデはイスラエルを統一したユダヤの王様です。王は、神さまに立てられて、香油・油をそそがれた者でした。そのようにして王の権威を神さまから受けた者をメシア・救い主と言うのです。主は神さまにこそ、遣わされてこの世においでくださいました。ところが、律法学者たちは、イエス様がダビデの子孫を自称して神さまを冒瀆している、冒瀆罪を犯していると言い立てようとしたのです。
それに対し、イエス様は「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』というのか」と問いかけました。 “律法学者たちが『メシアはダビデの子だ』と言っているが、その判断は律法学者がすることなのか” との戒めが、ここに込められています。
救い主を世に遣わされたのは、天の父なる神さまです。
信仰は、人間の憶測や推測から始まるのではありません。神さまのみわざを信じることから信仰は始まります。
さらにイエス様は、その模範とすべき信仰が、1000年前のダビデの言葉そのものにあるとおっしゃいました。イエス様が引用されたのは、今日の旧約聖書の聖書箇所・詩編110編1節の御言葉です。ここに、
ダビデが「主は、わたしの主にお告げになった。(旧約聖書の御言葉では、わが主に賜った主の御言葉。)」と祈ったと記されています。
この「主」とは「ご主人様」「主君」という言葉です。先ほどお伝えした「油(香油)をそそがれた者」をさします。ユダヤでは神さまに王として立てられた者が「油をそそがれた者」です。
ダビデは王としてユダヤ社会では頂点に立ち、神さまの他には「私の主(ご主人さま)」「主君」、時代劇風に申せば「殿さま」と仰ぐ人はいないはずです。それなのに、神さまと自分の間にもう一人「ご主人さま」「主君」「殿様」がいる、と言っているのです。
ダビデは、世の始めから、創造主である天の父とともにおられる救い主イエス様を、聖霊の働きによって知っていたのでしょう。救い主キリスト、メシアが時空を超えて神さまによって遣わされたことを、イエス様は「どうしてメシアがダビデの子なのか」との言葉で表されました。
そして、救い主は人が生きてゆく中で出会うすべての「敵」 ‒ 悪しきもの ‒ を足台として踏み敷き、悪に打ち勝ってくださいます。
今日の御言葉「わたしがあなたの敵を あなたの足元に屈服させる」は、人間が遭遇するあらゆる最悪の事態に勝利して、活路を開き、信じる者を御国へと導いてくださる御子の使命を告げています。
今日の新約聖書・マルコによる福音書12章37節の最後は「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた」としめくくられています。
人の憶測・予測、そこから生まれてしまう不安に、救い主イエス様が打ち勝ってくださる ‒ ローマ帝国の支配下にあってユダヤ民族の今後に不安を感じていた群衆は、イエス様の言葉にたいへん勇気づけられたのです。
私たちは、洗礼を受ける前の準備の学びの中で、使徒信条の「主は聖霊によって宿り」を信じて受け容れます。
私たちは人間の限られた、限界のある理性の中では、イエス様がおとめのままのマリアの胎に宿られたことは不合理だと考えてしまいがちです。イエス様のご復活が不合理だと、信仰をお持ちでない方が感じるのと同じです。しかし、私たちは信仰を与えられると、神さまの全能を信じます。神さまには何でもおできになる、それがむしろ当然だと心と魂ではっきり知るようになるのです。
だから、私たちはイエス様がマリアの胎に宿られたのは、不義密通などではまったくなく、神さまのおおいなるみわざだったことを受け容れます。信じます。使徒信条・信仰告白の言葉のすべてを自分の思い・自分の告白として御前に献げました。そして、洗礼を受けたのです。
私たちは主がイエス様を遣わしてくださったことを、喜びのうちに知り、その幸いに生き、こうして主の日ごとに感謝を献げます。
イエス様を信じる信仰をいただく幸いは、人の思いを超える神さまの全能と偉大さを知り、その真実から希望をいただくことです。
新型コロナウイルスの感染拡大は、長く続きます。二年目に入ろうとしています。しかし、主のお力と全能を信じ、平安をいただいて今の時を忍耐したいと思います。互いに祈り合って、自分にできる最善を尽くしながら、今週一週間も心を高く上げ、希望を持って進み行きましょう。
2021年4月25日
説教題:三つの愛
聖 書:レビ記19章18節、マルコによる福音書12章28-34節
復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
(レビ記19章18節)
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
(マルコによる福音書12章28-34節)
前回の主日礼拝後に、私たち薬円台教会は2021年度の定期教会総会を開催し、すべての計画案が可決されて新しい年度のスタートを切りました。主の導きを感謝いたします。
今日から、礼拝にて共にいただく新約聖書箇所は、受難節前まで読み進んでいたマルコ福音書の御言葉に戻ります。1ヶ月半以上、間があいているので、イエス様のどんな歩み・どんな言葉から私たちが恵みをいただいていたかを思い出してみましょう。
イエス様が十字架に架かられる前・地上での最後の一週間・受難週を過ごされた、その時の出来事を語る御言葉を、私たちは読んでおりました。受難週の火曜日から水曜日にかけてのことです。イエス様は神殿の敷地内 ‒ 聖書の言葉を用いれば「境内」で説教され、ユダヤ社会のいろいろな立場の人たちと議論をなさいました。特に律法学者たちはイエス様の人気が高いことをねたんで憎らしく思っていましたから、イエス様から何か失言を引き出そうと質問を繰り出しました。しかし、その都度、イエス様は御心の根本を示され、時にはユーモアを交えて答え、逆に人々の前で律法学者たちに恥をかかせていたのです。
律法をめぐって、いわば問答合戦が繰り広げられ、イエス様が圧倒的に優れていることが示される聖書箇所を ‒ それは当たり前です … 神さまがお造りになった律法を、神さまご自身が説明し、説き明かしているのですから … 、私たちは数回の礼拝にわたって聞いてまいりました。
今日の箇所も問答のかたちを取っています。28節にあるように、これまでの問答を聞いていた一人の律法学者が進み出て、イエス様に尋ねた、とあります。しかし、これまでの質問者と、この律法学者はまったく違っていました。今日の箇所の二行目にこの律法学者がイエス様に質問した理由が記してあります。お読みします。「イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。」
この人は、先に質問した律法学者たちや、さまざまな立場のイエス様を陥(おとしい)れようとする者たちとは違い、イエス様の答えに深く感動し、尊敬から質問したのです。本当に知りたいことへの完全に正しい答えをイエス様がお持ちだと信じたからこそ、イエス様への敵対意識から問いかける仲間の律法学者の視線を気にせず、勇気を奮って進み出たのでしょう。この人は、こう問いました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」そして、イエス様はすぐさま答えてくださいました。
その答えを私たちは、今日、今、ご一緒にいただいています。
総会後の年度初めにふさわしい御言葉をいただいたと申して良いでしょう。聖書の黄金律・ゴールデンルールと呼ばれる最も大切な二つの教えです。
ひとつは「あなたの神である主を愛しなさい。」
もうひとつは「隣人を自分のように愛しなさい。」
「あれ?」と思われた方がおられるかと思います。
今日の説教題は「三つの愛」なのに、イエス様がおっしゃる愛は二つ?…もうひとつの愛は、どこに書いてあるのでしょう?
三番目の愛は第二の掟の御言葉に潜んでいます。
「(隣人を)自分のように愛しなさい」 ‒ そうです、三つ目の愛は「自分を正しく愛すること」です。
今日は、イエス様が語られる三つの愛について、御言葉に聞いて参りましょう。
第一の掟・「あなたの神である主を愛す」ことは、三つの愛の中でも特に大切です。私たちはそれを前回の御言葉を通しても、教えられました。主に自分をすっかり明け渡し、ゆだね、信頼しきってその御前にひれ伏すこと ‒ 礼拝中心・神さま中心の生活と人生を歩むことが「主を愛すること」です。
主への愛は、神さまがユダヤの民に命じられた掟として旧約聖書 申命記6章4節〜5節に記されています。申命記6章5節をお読みします。お聴きください。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
イエス様が語られたマルコ福音書の御言葉は、こうです。「あなたは心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」イエス様は旧約聖書の天の父の教えに、さらに「思いを尽くし」との言葉を付け加えられました。それは自分のすべてを主にゆだねる “思い”を強調されたからでありましょう。また、注解書によっては、この思いを表す元の聖書の言葉が英語で申しますとmind であることから、“理性を”尽くしてと受けとめる読み方もあります。
いずれにいたしましても、自分のすべてを献げて、私たちは主なる神さまを愛するようにとイエス様はおっしゃいます。強いられて、強制されて、命令されて愛するなんて愛ではない、と反発を感じられる方もおいでかもしれません。しかし、この教えは命令ではなく、神さまからのお招きです。恵みです。
自分は主なる神さまと深い信頼関係で結ばれていて、何があっても見捨てられない ‒ 欠点・失敗をも含めて自分は丸ごと神さまに愛されていると信じきる、それが私たちの主の御前での真実の姿なのです。
第二の掟の恵みをご一緒に思い巡らしましょう。
この第二の掟は、すべての人を「隣人」として尊び重んじることを教えます。聖書が、 またキリスト教そのものが高く掲げる「隣人愛」 が告げられている聖句です。
もともとは、旧約聖書のレビ記19章18節の御言葉です。どうして「となり人」「隣人」という言葉が出て来たのかを、旧約聖書から考えてまいります。今日の旧約聖書の御言葉が「復讐してはならない」と始まっていることを、まず念頭に置いておいてください。
隣人は、家族ではありません。ユダヤ社会では、同胞すなわち同じユダヤ民族の者を、 お互いに兄弟姉妹と考えます。自分たちユダヤ民族を、 神さまを信じる信仰によりひとつとされている大きな家族とみなすのです。
この考えは新約聖書に受け継がれています。また、私たちプロテスタント教会にも受け継がれています。教会の中で、特に文章ではお互いの名前の後に男性なら兄、女性なら姉をつけて兄弟姉妹 ‒ 家族であることを表します。「教会は神さまの家族」と、私たちはよく申しまして、絆を強めます。
それに対して「隣人」とは、実際に隣に住んでいる人、たまたま隣にいる人をさすと同時に、旧約聖書の時代には、「隣の国」・「隣国」の異民族をさしました。異民族は、天の神さまを知らず、偶像を崇めている異邦人です。信仰が異なるとは、価値観・考え方・ 文化や習慣が大きく異なることを意味します。
旧約聖書の時代、ユダヤの民が暮らしていたパレスチナ地方では、 多くの民族 ‒ 「隣人」間でいさかいが絶えませんでした。生きてゆくのが困難な砂漠地帯で、水源・ オアシスや肥沃な土地を奪い合っていたのです。話し合いで温和に解決しようにも、違う信仰を持ち、価値観・ 考え方・文化や習慣が異なるとすれ違い、 武力による戦いになることが多かったでしょう。そのような人間関係をも、今日の聖句は「隣人」 という言葉でさしています。
戦いで家族、 まさに兄弟姉妹の命を奪われた者は復讐を考えずにはいられませんでした。やられたら、やりかえす ‒ それが当たり前ではないかと思ってしまう人間に、今日の旧約聖書の御言葉は「 復讐してはならない。…恨みを抱いてはならない」と教えます。そして、自分自身・自分の家族・ 同胞をたいせつに思う心と同じ思いをもって、「敵」を愛し、「敵」ではなく「隣人」と思うようにと勧めるのです。
では、 やりかえすことのできない心の鬱憤をどうすればよいのでしょう。
旧約聖書 レビ記の19章18節で、神さまは、「わたしは主である」と宣言して、人間の、そのやるかたない思い・鬱憤・悲憤を受けとめてくださいます。「神であるあなたの主」と主が言われるとは、私たち人間のやるかたのない思い・恨みや悔しさにまで、神さまは人間を造られた創造主としての責任を取ってくださるということです。
私たち人間の心は “やられたら、やりかえす” ことでバランスを取ろうとします。神さまは、私たちの心に渦巻いてしまう憎しみ ‒ 罪 ‒ をご自身が受けとめてくださいます。
そのために、イエス様は、 私たちの罪をすべて背負って十字架に架かってくださいました。お命をかけて、私たちが「敵」をも「隣人」として愛し、 平和を築く歩みを進められるようにと導いてくださるのです。
「愛する」ことについても、もう少し深く思いを巡らしましょう。かつて日本に初めてキリスト教が伝えられた時、キリスト教とはどういう教えかを伝える「教理」(カテキズム)を著した「どちりな きりしたん」(イエズス会による教理書・1592年または1600年発刊)が記されました。
この書で、宣教師は日本の人たちに馴染みの深い言葉で「愛」を表そうと労苦し、愛を「おたいせつ」と訳しました。
愛するとは、どなたかをたいせつに思うこと、たいせつに思って接すること、たいせつに思いつつ関わりを続けることです。
私たちが血のつながりのある血族・同胞・同民族・同国人を大切にするのは、当然かもしれません。愛情も利害関係もあるからです。
しかし、たまたま隣に居合わせた通りすがりの人や見ず知らずの人、見慣れない風体の人には無関心であったり、ぞんざいにしてしまったりしがちかもしれません。場合によっては「人を見たら泥棒と思え」とばかりに「敵」とみなし、「攻撃こそ最大の防御」とばかりに敵対視してしまうこともあるかもしれません。
今のように感染拡大が続き、社会全体が互いに警戒心を持ち、緊張がある時は、ついぎすぎすした応対・冷たい応対になることもあるでしょう。
しかし、イエス様はおっしゃいます。分け隔てなく、誰をもたいせつに、そして「いつでも」「どんな場合も」隣り合わせたお互いとの関わりを大切にし続けるように。
いつでも、どんな場合でも、です。
たとえ自分が傷つけられた時も、裏切られた場合も。
これは、私たちには、たいそう困難で殆ど不可能なことです。
そもそも、私たち人間は何か嫌なことや期待外れなことをされたら、本能的にやり返したくなり、やり返さなくても「ゆるさない」と憎しみを持ち続けてしまいます。
イエス様は、愛はゆるすことだと教えてくださいます。私たちにとって、それがほとんど不可能なほど難しい、そのことを知り抜いておられるからこそ、イエス様は十字架に架かってくださったのです。
私たちの罪を背負って、イエス様は十字架でその罪を贖い、命を捨てて、神さまから私たちのゆるしをいただいてくださいました。
また、ご自分を十字架につけた者すべて ‒ 人間すべて ‒ を、ゆるしてくださいました。
こうして、ゆるせない者をも、主はゆるしてくださいます。
この真実を心に刻み、今、そして人生のどんな瞬間にも、隣に居合わせる人をイエス様と思ってたいせつにすることを、私たちは勧められています(マタイ福音書25章40節)。
そして、三つ目の愛です。「自分を愛する」ようにとイエス様はおっしゃられます。自分を正しく大切にするように、と。
私たちの命も存在も、実は自分のものではありません。
私たちは神さまのものです。神さまが愛されて造られた自分を、そのことゆえに、たいせつにしなければなりません。自分をないがしろにしては、けっして、けっしてなりません。苦しみから自暴自棄になったり、自分で自分を見捨てたり、最悪の場合には、自分の命に決着を着けたりしてはならないと、主は私たちに伝えようとされています。
自分を愛するとは、自己中心・自分勝手の真逆です。「神さまのもの」としての自分を、丁寧に取り扱い、たいせつにすることです。
その真実を全面的に受け容れることが、自らを明け渡して主に献げる「主への愛」なのです。ですから、 自分への正しい愛は、第一の掟・主への愛と根底で結びついています。
今日から始まる新しい一週間、「たいせつにする」ことを心に留めて進みましょう。私たちの神さまである主に心の中心にいていただき、隣人・となり人への愛を、自分自身への愛を主に献げつつ、ひごと、ひごとをあゆんでまいりましょう。
2021年4月18日
説教題:祈りの教会として歩もう
聖 書:詩編13編1-6節、ローマの信徒への手紙12章9-12節
指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。いつまで、主よ わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。いつまで、わたしの魂は思い煩い 日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。 わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え わたしの目に光を与えてください 死の眠りに就くことのないように 敵が勝ったと思うことのないように わたしを苦しめる者が 動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り 主に向かって歌います 「主はわたしに報いてくださった」と。
(詩編13編1-6節)
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
(ローマの信徒への手紙12章9-12節)
今日の新約聖書の聖書箇所は、「愛」という言葉から始まります。
キリスト教は愛の宗教と呼ばれます。その愛を正面から語っているのは、使徒パウロです。
パウロはユダヤのエリート階級に生まれ、律法学者としての明るい将来を保証されていました。ところが、彼はご復活のイエス様に出会って、その安心確実な人生を捨てました。イエス様の十字架の出来事とご復活を伝える伝道者となったのです。イエス様は死刑囚・犯罪人として地上の命を終えられました。そのため、イエス様の福音を伝える者は、どこでも激しく迫害されました。パウロは何度も牢につながれ、何度も死ぬような思いをしましたが、ローマへの伝道を諦めませんでした。
すべての道はローマに通じる ‒ そう言われていた時代です。ローマから福音を発信すれば、御言葉の恵みは世界に広がります。パウロはイエス様が地上の歩みをされたシリア地方から地中海を経てヨーロッパへ、そしてローマへと、幾つもの教会を興しつつ、主を信じる者の群れを育てながら伝道の旅をつづけました。福音は、ローマに届きました。そして、ここローマで、パウロは殉教したのです。
苦しい伝道の旅の間、パウロを支え続けたのは、イエス様の愛と義でした。主の慈しみとまことです。パウロが伝えた福音は大陸を越え、海を越えて、私たちが暮らす極東・日本にもたらされました。私たちはこうして、パウロを支えたのと同じ神さまの愛と義 ‒ 慈しみとまことで支えられて、永遠の命に生きる者とされたのです。
イエス様は十字架で命を捨てて、私たちを救ってくださいました。
私たちのためにご自身を犠牲にするほどに、私たちは主に愛されています。主の愛・慈しみをいただいていることは、私たちにもよくわかります。
私たちはそれぞれの賜物により、いろいろなかたちで ‒ 奉仕で、献げもので、讃美の歌で、祈りで ‒ 愛をそそいでくださる主に感謝を献げ、その愛の大きさ・深さを讃美します。
主の愛に応える者として、私たちは私たちのすべてをそそいで主を愛するようにと、繰り返し教えられています。聖書はこう語ります。
「あなたは、あなたの神、主を愛し、その命令、掟、法および戒めを常に守りなさい。」(申命記11:1)
私たちの方から神さまを愛することを、主は深く期待してくださっています。
私たち人間も親御さんはそのお子さんを可愛がり、ただ可愛がるだけではなく、我が子に慕われたいと願います。私たち人間のその有り様は、神さまが「御自分にかたどって人を創造された」(創世記1:27)から ‒ ご自身に似せて私たちを造ってくださったからです。
ただ、私たちは何となく、思ってしまいます。私たち人間が神さまを愛するなど、かえって神さまに失礼ではないか、畏れ多いのではないかとたじろいでしまいます。
いいえ ‒ 神さまは、私たちが「神さま、大好き!」と子どものように神さまを仰ぐのをどんな時も待っておられます。
しかし、私たちは戸惑います。お姿を見ることもお声を聞くこともできない神さまを、私たちはどのように愛すればよいのでしょう。使徒パウロは、伝道の旅の途中から、これからめざそうとしているローマ教会の信徒にあてて、それを手紙にしたためて送りました。その手紙には、イエス様の十字架の出来事とご復活で救われたキリスト者がどのように過ごせば良いのかが記されています。言葉はあまり適切ではないかもしれませんが、信仰生活・教会生活の「ハウツー」 ‒ 具体的方法・指針が語られているのです。
今日のパウロの記した言葉を通して、聖書は私たちに、私たちの心をどのように保てば “神さまを愛する” ことができるのかを教えてくれています。
パウロは、「愛には偽りがあってはいけません」と、まず教えます。
私たちは日曜日ごとに、父なる神・子なる救い主イエス様・聖霊の三位一体の神さまに、心と魂でお目にかかりたい思いで礼拝を献げます。
この「神さまに礼拝を献げたい」「御前にひれ伏したい」「神さまからの恵みをいただきたい」思いに、偽りがあってはいけないとパウロは言うのです。
この「偽り」は、もとの聖書の言葉では「お芝居をする」という意味も持ちます。礼拝は様式・形式 ‒ いわば “かたち” を持っています。このかたち・形式をなぞって、決められたとおりに聖書を読み、讃美歌を歌うと、それなりに礼拝らしくはなります。しかし、その礼拝は「お芝居のようであってはいけない」 “礼拝をする振り” “礼拝ごっこ” ではいけないとパウロは教えているのです。
今日は、司式者の招きの言葉・礼拝で語られる第一声でも、今こそがまことの礼拝を献げる時だとの御言葉をいただきました。まことの礼拝とは、前回の礼拝でも示されたように、神さまを決して疑わない・神さまの愛を疑わない・自分が神さまに愛されて恵みを受けることを疑わないということです。この礼拝で、必ず神さまが、ほかでは受けることのできない確かな恵みで心を豊かにしてくださると一途に期待する ‒ それがまことの礼拝です。
礼拝が終わり、後奏のオルガンの音色に送り出されて会堂を後にする時には、新しい一週間を歩み出す勇気と力をいただいたと素直に信じる ‒ それがまことの礼拝です。
神さまを徹頭徹尾 信じて、ゆだねきる心を献げるのがまことの礼拝・私たちの神さまへの愛のあらわれです。
昨年4月から先月3月末までの2020年度。その日々を、私たちはこの聖句を主題に掲げて歩み通しました。イエス様の御言葉です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイ福音書の最後、28章20節の、イエス様が弟子たちを伝道に派遣した時に励ました御言葉です。
あなたがたの目に見えなくても、わたしが一緒にいるから大丈夫、とイエス様は弟子たちを励まされました。私たちも、イエス様の弟子です。私たちには、共にいて支え、助けと励ましを与え、苦難にあっても、それを一緒に乗り越えてくださる主がおられます。
その主の愛に応えることが、私たちの愛の表れです。どう表せばよいのでしょう。礼拝を献げて表すのです。どんな困難の中でも、もうダメだと諦めることなく、勇気と希望で私たちの心を燃やし続け、前進させ続けてくださる主を礼拝することが、私たちの神さまへの愛の表れです。
苦しい状況が長く続くことがあります ‒ 知恵を絞り、力を合わせ、悪戦苦闘しても事態が少しも好転しないように思えることがあります。
その中で絶望して自暴自棄になってしまうのと、先に光が見えるはずと励まし合って希望を持って進むのでは、同じ現実を過ごすのでも心の有り様がまったく違います。雲泥の差と申して良いでしょう。
今、私たちが苦しい時を過ごしているのは、事実です。
2019年度、日本各地は自然災害に襲われ、私たちの会堂も屋根を台風で飛ばされました。2020年度には世界規模の新型コロナウィルス感染症の脅威にさらされました。2021年度も、感染拡大防止のために「三密」を避け、参集を控えなければならない状況が続いています。薬円台教会ばかりでなく、人類すべてが、またあらゆる共同体が苦難の中にあると言わざるを得ません。
教会は、互いに隔てなく、手を携えて共に進み、福音宣教に励むことを教会は使命として与えられています。
しかし、新型コロナウィルス感染症はそれを大きく阻もうとします。互いから遠ざかって距離をおかなければならず、未だ主を知らない方々を教会にお招きして伝道することができません。与えられた使命を果たせない・主にある喜びを伝えられない・兄弟姉妹の交わりを持てない ‒ これは、教会にとって、また教会の肢である教会員ひとりひとりにとって大きな苦難です。
また、封じ込める手段が見出せない点で、この感染症は「見えざる敵」のように私たちを不安に陥れています。わたしたちのその不安は先ほど司式者がお読みくださった旧約聖書の御言葉が端的に表しています。私たちは、感染収束の時を「いつまで、主よ … いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか」(詩編13:2-3)との思いで待ち望んでいます。
しかし、逆説的ではありますが、私たち信仰者・信仰共同体の幸いと恵みは「いつまで、主よ」と呼びかけ、問うことのできる主がおられることにあります。しかも、私たちの主・イエス様は、私たちを絶望と滅びから救うために、ご自身の命を捨てるほどの深い愛で私たちを包み、寄り添ってくださる方です。イエス様は十字架の死の彼方に、永遠の命への道を開いてくださいました。私たちを見守り支えてくださる主がおられることそのものが、私たちの喜びです。御言葉を通して聖霊に満たされる時、私たちの心を暗くする不安に、希望の光が射し込みます。
「いつまで、主よ」と問いかける私たちの言葉は、孤独な呟きで終わりません。聖霊の導きによって私たちの言葉は主に向かい、恵みと助けを待望する祈りになります。この事実こそが、教会のすばらしさです。パウロがまだ会ったことのないローマの信徒に言葉で手紙を書き送ってつなげられたように、信仰を心に持つ者は、御言葉で絆を保ちます。聖霊で心をひとつにされます。また、互いに会うことができなくても、互いのために祈ることで、信仰共同体は主に結ばれてひとつとされます。わたしたちは祈りつつ、今の苦難の時を耐え忍ぶことができるのです。
薬円台教会は創立以来、神中心・礼拝中心を掲げ続け、祈りを深めてまいりました。今年度を苦難のうちに始めるにあたり、祈りでつながり、祈る教会として歩む一年とされたく思います。祈りを通して主と、また兄弟姉妹との交わりの喜びを賜り、希望に満ちて、今この時にそれぞれにできる最善を尽くしましょう。
自分にできるベストを尽くせたら、あとは主におゆだねすれば良いのです。主題聖句・今日の御言葉にならい、主にある「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈り」ましょう。この聖句を掲げて、2021年度も手を携えて主に従い、一日一日を力強く歩んで行こうではありませんか。
2021年4月11日
説教題:教会の基なる主
聖 書:ヨシュア記1章8-9節、マタイによる福音書28章16-20節
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
(マタイによる福音書28章16-20節)
今日は、マタイによる福音書からイエス様のご復活の出来事に続く聖書箇所を与えられています。先週の日曜日は復活日礼拝でイースターを祝いましたから、その翌週の今日の礼拝で、この箇所に聞くのは自然なことです。この御言葉は、マタイ福音書をしめくくる聖句です。
完全に神さまでありながら、同時に完全に人間として生きられた、そのイエス様の地上の歩みのしめくくりが記され、さらに新しい “イエス様と弟子たちの歩み” が新しく述べられている箇所です。
今日、特にお伝えしなければならないのは、この聖句こそが、私たち薬円台教会が2020年度の一年間、掲げ続けた年度主題聖句だということです。
来週の主日礼拝後、私たちは定期教会総会を予定しています。教会総会で2020年度の歩みを振り返ってまとめ、2021年度への備えをいただきます。その教会総会の前の主日に、年度主題聖句として与えられたこの御言葉を今、こうしてご一緒にいただいていることを心に深く受けとめたいと思います。
さあ、少し詳しく御言葉に聞いてまいりましょう。
復活された日曜日の朝、イエス様は墓の前で二人のマリアに会い、声をかけてくださいました。前回の礼拝・復活日礼拝でご一緒に読んだ御言葉です。その中で、イエス様は二人のマリアに弟子たちへの伝言を託しました。それはガリラヤに行くように、そこで再会しようと弟子たちを招く言葉でした。
今日の御言葉は「十一人の弟子たちはガリラヤに行き」と始まっています。弟子たちが、伝言のとおりにしたことが述べられているのです。
当たり前のような気がいたしますが、少し状況を思い巡らせてみると、ここに弟子たちの心のドラマが潜んでいることがわかります。弟子たちは、イエス様が逮捕された時、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。こっそりと後をついて行ったペトロも、容疑者となったイエス様と一緒にいたとわかるのが恐ろしくて、イエス様を知らないと三度も主を否んでしまったのです。
マタイによる福音書には、イエス様が過酷な十字架刑で受難されていた時に、その場に弟子たちがいたとは書かれていません。「遠くから見守っていた」(マタイ27:55)者はいましたが、それは、イエス様を慕っていた女性たちだけでした。これまで、イエス様の一番近くにいたはずの弟子たちは、隠れていました。死刑囚となってしまったイエス様に関わる者として自分たちを見る世間の厳しい目から逃れようとしていたのです。
ペトロは三度イエス様を知らないと言った直後に、号泣しました。臆病さからイエス様を裏切ってしまった自分の弱さを嘆き、大好きなイエス様に何ということをしてしまったのかと激しい後悔に胸を貫かれたのです。ペトロだけでなく、弟子たちはいずれもイエス様を見捨てたことを悔いて、イエス様に申し訳ないと強く思いました。イエス様を銀貨三十枚で裏切ったユダは、自らの命を絶ってしまいました。
だから、十二人いた弟子たちは、今日の聖書箇所では十一人になっています。
弟子たちは、とりかえしのつかないことをしたと激しく悔やんでいました。自分のすべてを投げ打ってお仕えしたはずのイエス様を見捨ててしまいました。イエス様は十字架に架けられ、苦しんで死なれました。もうゆるしを乞うこともできない ‒ 彼らの心は自己嫌悪でいっぱいでした。ところが、二人のマリアに、イエス様がよみがえられた、しかもガリラヤで自分たちを待っていると伝えられたのです。
それを聞いで、弟子たちは死者のよみがえりという出来事そのものに、まずはたいへん驚いたでしょう。さらに、先にガリラヤに行って待っている、また会おう!との伝言の内容にも驚いたはずです。イエス様を見捨てたこんな自分たちに、イエス様は再び会うとおっしゃってくださる ‒ 弟子たちの心はたいそう複雑だったでしょう。
イエス様の前に二度と出られないと恥じる思い、イエス様を見捨てて申し訳なかったと、ペトロのように号泣しながら謝りたい思い、そして、大好きなイエス様に会いたい思い。彼らの複雑な胸中は、ひとつの聖句に言い表されています。
今日の聖書箇所の17節後半です。「しかし、疑う者もいた。」これは、復活のイエス様を目の前にしながら、よみがえりを疑ったという意味ではありません。ご復活が事実だったのは、明らかですから。
では、何を疑ったのでしょう。言葉に注目することから、ご一緒に思い巡らしてまいりましょう。
弟子たちはイエス様に会い、ひれ伏しました。「ひれ伏す」とは「礼拝する」という言葉と同じです。自分の心を広く開けて、主の恵みをいっぱいにいただく姿勢が「ひれ伏す」「礼拝する」です。
私たちは今、礼拝を献げています。それは神さま・イエス様・聖霊の三位一体の主に自分が招かれ、ここでしか与ることのできない恵みをいただけると信じているからです。
今日の聖書箇所17節後半の「しかし、疑う者もいた」は、ご復活のイエス様にガリラヤで再会し、礼拝を献げた弟たちの中には、本当に自分がイエス様に招かれたのか、半信半疑の者がいたことを伝えています。あんなひどいことをした自分を、イエス様はゆるしてはくださらないに違いない。自分ならゆるせない ‒ 半信半疑でイエス様の御前にひれ伏した者は、そのような思いでいたのです。
イエス様のゆるしの御心のひろさ、自分への愛の深さを信じられない、その思いを今日の御言葉は「しかし、疑う者もいた」と言い表しています。
ところが、すぐに続けて聖書はこう語ります。18節です。「イエスは、近寄って来て言われた。」
イエス様がご自分から、弟子たちへと歩み寄ってくださいました。
イエス様は、弟子たちをゆるしておられるのです。弟子たちの罪、ご自分を捕らえて侮辱し鞭打った者たちの罪、すべての人間の罪 ‒ 私たちの罪をゆるすために、イエス様は十字架に架かってくださったのですから。
弟子たちはイエス様を裏切ること、恐怖心からイエス様を知らないということ、または死刑囚にされてしまわれたイエス様から遠ざかろうとすることで、イエス様とのつながりを自分から断ち切ろうとしてしまいました。そのために、もうイエス様の前におめおめと出て行けないと、後ろめたさを抱いていました。
イエス様から遠ざかろうとする ‒ これは主から、神さまから遠ざかろうとすることです。
私たちは意識していなくても、神さまから遠ざかることがあります。神さまを忘れ、自分勝手な判断で物事を無理矢理進めようとする時です。神さまを忘れるとは、神さまをいないもののようにすること・ないがしろにすることです。これは神さまへの背きです。神さまとのつながりを自分から断ち切ろうとしているのと変わりません。聖書は、この背きを“罪”と呼びます。また、私たちは時に、人間関係を壊すようなことをしてしまいます。自分自身をたいせつにできず、自暴自棄になって自分をないがしろにすることもあります。神さまとの関わり・人とのつながり・関わりを私たちは壊してしまう罪深い者です。
しかし、今日の聖書箇所で、イエス様が弟子たちに近づいてくださったことが記されています。イエス様はこうして、主から遠ざかってしまった私たちに近づいてくださり、関わり・つながりを修復してくださるのです。罪をゆるし、絆を結び直してくださいます。
人間が犯すさまざまな罪、それは“とりかえしがつかない”、もう“元に戻せない”、“償おうにも償えない”ことに思えます。それを、イエス様は十字架の御業によって、とりかえしがつくようにしてくださいます。元どおりにしてくださいます。償い、贖い、よみがえらせてくださいます。
壊れた人間関係が修復されることを、私たちは易しい言葉で“仲直り”と申します。やや難しい言葉を用いて、それを“和解”と呼びます。
私たちがその喜びの事実・真実を知るのは、ご復活の主・よみがえられたイエス様に会う時です。
弟子たちとの仲が元どおりになったことを示してくださるために、イエス様は弟子たちとの再会の場に、彼らと福音伝道を始めたガリラヤを選ばれました。イエス様が弟子たちを招き、彼らがそれぞれに、そのイエス様のお招きに応え、喜び勇んでイエス様に付き従った、その初めの出会いの場に共に立とうと、イエス様は弟子たちを再び招いてくださったのです。
しかし、それは同じことをそっくりそのまま再現するためではありません。それは新しく、より素晴らしい福音伝道の途に弟子たちを赴かせるためでありました。イエス様は、ここで大宣教命令を賜りました。この御言葉、マタイ福音書最後の聖句です。
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。」(マタイ28:19)
今日の聖書箇所が語る出来事は弟子たちに起こった事柄ですが、聖霊の働きにより、私たち皆が与えられている御業です。
私たちはそれぞれ、自分の弱さ・ずるさ・自己主張の強さ、それによって誰かを傷つけたこと・主の御名を汚したことを恥じています。こんな私は主の御前に出ることはできない、とうていキリスト者などとは言えないと心震えることがあります。
しかし、神さまは日曜日ごとに、イエス様の十字架の出来事とご復活を通して私たちを礼拝に招いてくださいます。教会の基は、イエス様の十字架の出来事とご復活を通しての主の招き ‒ 愛とゆるし ‒ にあるのです。神さまはキリスト者だけでなく、ご自身が造られた人すべてを招いておられます。
私たちは、この礼拝で、ゆるされていること・主に深く愛されていることを確信して、神さまに、イエス様に、そして互いに心を開き、そそがれる恵みをいっぱいにいただきます。
私たちの小さな心から恵みはあふれ、私たちは受けた喜びを誰かに伝えずにはいられません。こうして私たちも大宣教命令に従って、福音伝道へと導かれます。
2020年度はコロナ禍により、教会はまだイエス様を知らない方を教会にお招きすることが難しくなりました。伝道が困難なばかりでなく、感染の始めの頃は、集まって礼拝をすることすら不可能に思えました。
教会だけでなく、集まることが命に関わるという、全人類にとっての試練の一年でした。
その中をわたしたちは、イエス様がマタイによる福音書で最後に語られたとされる御言葉を掲げて歩み通すことができました。
この御言葉、マタイ福音書28章20節です。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
私たちの日々の歩みに寄り添って、新しい年度を迎えさせてくださる主に心からの感謝を献げましょう。そして、今週を、また来る新しい2021年度を、主にある希望を抱いて共に進み行きましょう。
2021年4月4日
説教題:主は復活なさった
聖 書:詩編66編1-4節、マタイによる福音書28章1-10節
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
(マタイによる福音書28章1-10節)
今日のこの日、救い主イエス様のご復活・イースターを喜び祝う礼拝にて、御子を死からよみがえらされた、神さまのおおいなるみわざを知らせる御言葉をいただいています。ご一緒に聖書に聴いてまいりましょう。
それは「週の初めの日の朝早く」の出来事であったと、御言葉は語ります。週の初めの日、日曜日です。私たちキリスト者・クリスチャンが日曜日ごとに礼拝を献げるのは、イエス様のご復活をおぼえてのことです。
イエス様が十字架で死なれたのは、その三日前、金曜日でした。その時、地震が起こり、人々はあわてふためき、日没が迫りました。
ユダヤの一日は日没とともに始まるので、日が沈むと日付が変わり、土曜日・安息日となります。安息日には、仕事、家事をはじめとする作業めいたことは何もできません。
アリマタヤのヨセフが、急いで十字架で死なれたイエス様のお体を引き取りました。十分な弔い・葬りをする時間的余裕はありませんでした。亜麻布に包んで “とりあえず” 自分が所有している墓に納め、大きな石で蓋をしたところで日が暮れました。
こうして、土曜日を迎え、その安息日が過ぎてゆきました。
マグダラのマリアともう一人のマリアは、イエス様のお体を葬りにふさわしく整えられなかったことがたいそう気にかかっていました。
そこで二人は、安息日が明けた週の初めの日・日曜日の夜明けに走って墓に向かいました。
そこで驚嘆すべき出来事を経験したのです。大きな地震が起こり、天使が降りて来て、墓をふさいだ石を転がし、その石の上に座りました。当時のユダヤの墓は、横穴の洞窟です。墓の蓋石は洞窟の入口をふさぐ巨大なもので簡単には転がせませんが、天使はそれをいとも簡単にやってのけました。
天使が天から降りてきたのは二つのことのためでした。ひとつは、二人のマリアの前で墓を開け、中にイエス様の遺体がなく「からっぽ」であることを示すためでした。
もうひとつは、なぜ、そのように墓がからっぽなのかを、言葉で二人に告げるためでした。この天使の言葉・天からの言葉は次のようなものでした。先ほど司式者が朗読してくださったマタイによる福音書28章5節の御言葉です。今一度お読みします。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」
その言葉が真実であるのを、二人のマリアがそれぞれ自分の目で確かめるようにと天使はこう続けました。「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」
遺体のあった場所、墓の中は、からっぽでした。イエス様は、ご自身がおっしゃっていたとおりによみがえられたのです!
二人のマリアは「恐れながらも大いに喜び、…弟子たちに知らせるために走って」行きました。
すると、イエス様が行く手に立っておられたのです。
ご復活のイエス様は、二人に声をかけ、挨拶をしてくださいました。
薬円台教会が礼拝に用いている新共同訳聖書では、イエス様が「おはよう」と言われたと記されています。もとの聖書の言葉・ギリシャ語では、ただ「言った」という言葉が記されているだけです。この単語に “挨拶をする” という意味合いが含まれるため、「おはよう」という具体的な言葉に訳したのでしょう。
英語の聖書では、聖書によって、この箇所にいろいろ異なる訳語が用いられています。Rejoice 喜びなさい、Greetings 歓迎、迎えに来ました、古い英語ではAll hail ‒ これは「ようこそ」の意味です。
いずれの訳語にしましても、イエス様の方から、二人のマリアに親しみ深く声をかけられたのです。もう一度言います。復活されたイエス様は、イエス様の方から、人間に声をかけてくださいました。
今日、この年のイースターでは、私たちはぜひ、このことを心に留めたいと願います。なぜなら、イエス様のご復活を語り、イエス様が喜びつつおののく者たちに声をかけてくださるこの聖書箇所は、私たちに信仰の姿勢を指し示すからです。
イエス様が十字架で死なれた金曜日から日曜日の朝が明けるまで、二人のマリアはイエス様を亡くした、それも死刑というかたちで失った悲しみと、これからイエス様のいない日々を過ごさなければいけない不安で真っ暗でした。日曜日の朝になったら、イエス様のご遺体をきれいにしてさしあげよう…せめて、亡骸にすがってお別れしよう ‒ 残された者たちにとっては、その思いだけを慰めとして過ごした三日間だったのです。
ところが、二人のマリアが墓へ行くと突然、天使が現れました。イエス様のご遺体がないからっぽの墓を見せられました。立て続けに驚くばかりの不思議な出来事が起こったのです。二人のマリアは大いに混乱しました。恐ろしくなりました。混乱しつつも、天使が言うように “イエス様は復活された” と信じたいと願いました。そして、恵まれたことに、二人は信じる勇気を受けたのです。だから、二人は恐れながらも喜び、それを伝えるために弟子たちのところへ走って行きました。
その途中で、ご復活のイエス様その方が、彼女たちの行く手に立っておられるのが見えました。さらに、イエス様の方から、暖かく迎える言葉をかけてくださったのです。
これは、私たちの信仰の歩みにも起こる出来事です。
私たちは聖書を通して、初めて教会の礼拝に出て、またはクリスチャンホームに生まれた場合はご家族の語る言葉によって、御言葉に触れます。
特に思いもかけない困難・苦難に遭い、心が痛手を負って慰めが必要な時に、御言葉が心に響きます。
私たちは苦難に打ちひしがれ、予想外の事柄に振り回され、混乱と恐れのさなかにある時に、御言葉にすがるのです。二人のマリアが天使の言葉を信じたように。こうして二人のマリアのように、私たちも走り出す元気をいただきます。さらに、ご復活のイエス様が二人のマリアの行く手に立たれたように、イエス様は私たちと会ってくださいます。
ご復活のイエス様 ‒ 聖霊降臨後に地上に生を受けた私たちにとっては、生きて私たちの間で働かれる聖霊 ‒ は、私たちに真実の出会いをくださいます。それが、主自ら、私たちに声をかけてくださる、このことです。御言葉と聖霊により、こうして私たちはイエス様の十字架の出来事で救われ、ご復活によって永遠の命の希望に与ると信じる者となりました。
二人のマリアがイエス様から弟子たちへの伝言を預かって、また新たに走り出したように、私たちも聖霊に満たされ、イエス様の大宣教命令に従って福音伝道に赴きます。
困難に遭う、御言葉に触れて元気をいただく、御言葉に親しむうちに聖霊に満たされる、世にイエス様の救いのみわざと永遠の命の希望を証しする。一連のこの四つの事柄をひとりひとりが繰り返しつつ日々を過ごすのが、私たちの信仰の歩みです。その私たちが兄弟姉妹と祈りと聖霊でイエス様につながり、ひとつとされて御国に向かって進み続けるのが、教会の歩みです。
今、新型コロナウイルスの感染という人類にとっての未曾有の困難が続いています。しかし、この困難にあっても、私たちの信仰の歩みが止まることはありません。
ご自分の命を犠牲にして十字架の出来事で私たちを救われ、御国へと導き行くご復活の主が、私たちに声をかけてくださいます。
繰り返し、新しく出会ってくださいます。
そのたびに、私たちは感謝と喜びと希望にあふれます。
2021年・今年のイースターは、大きな困難の中にいるからこそ、主が私たちにかけてくださる御声は私たちの心に深く暖かく染みわたります。
ご復活の主をたたえ、希望に満ちて今日から始まる一週間を、またこれからの日々を力強く進み行きましょう。