2014年9月28日
説教題:神の栄光のために
聖書:コリントの信徒への手紙一 10章23-11章1節
私たちは先週、芳賀力先生をお迎えして伝道礼拝と講演会を持ちました。感謝です。そこで芳賀先生は、教会がこの世に存在しているのは神が民を呼び集めているからで、教会は世に福音を証しする存在だ、とお話し下さいました。
今日の聖書10:23は「全てのことが許されている」と言った後、「しかし」と続けて二度言っています。キリストに救われ律法や罪から解放され自由になった、それが神の恵みに生きる者の喜びです。ところが「しかし、全てが益になるのではない」「全てのことが私たちを造り上げるのではない」と言って、自分個人の思いと判断でその自由を考えるな、行動するな、と忠告しています。10:24には「自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」とあります。
私たちの救いは、自分で獲得したもの、自分の思いを満足させるというものではありません、神によって与えられたものであり、神にあって意味ある者と変えられたことです。私たちの救いは真の神を知り、神に生かされていることを信じることにあります。ですから「地とそこに満ちているものは、主のもの」と知っています。「市場で売っているものは、良心の問題として詮索しないで食べなさい」「あなた方が信仰を持っていない人に招待されそれに応じたら、出されたものは良心の問題と詮索しないで食べなさい」と言っているようにします。当たり前と思うこのことを特別に勧めとして言っているのは、その食事をキリスト者がするのは問題だと見ている人がそのキリスト者の周囲にいるからです。
当時コリントでは偶像に供えた物が市場で売られ人々はそれを食べていました。キリスト者もその人たちと生活で交わりをしていました。キリスト者は証し人です。真の神を信じているのに疑問や不信を与える言動は極力避けるべきです。それで「もし誰か『これは偶像に供えられた肉です』と言ったら、その人のため、またその人の良心のために食べてはいけません」とパウロは言っています。この「良心」は、神の前でそれが正しい、と判断する心です。「偶像に供えた肉です」とわざわざ教えてくれたことは、あなたはそのことを知っていますか、知っていて食べますか、食べてはいけないのでしょう、と疑問の思いがその人にあることを現しています。パウロは「人を惑わす原因にならないようにしなさい」と言っています。人を躓かせるな、信仰に誤解を与えるな、そのために自分の自由を自己規制しなさい、何よりも神に栄光を現すことを第一にしなさい、と言っています。
私たちの良心は、キリストにあって決断し責任を負っているので、人に左右され裁かれることはありません。与えられたものを全て神に感謝して自由に食べます。そのことに問題はありません。しかし、信仰生活は個人の生活であると同時に、教会生活です。個人を造り上げると同時に、教会をも造り上げる生活です。人々は個人として見ていると共に、教会員として見ています。神に栄光を現すのは、特別なことをするのではありません。信仰生活の全てで、日常生活で神に感謝し、つまずかせない生活をすることです。
2014年9月14日
説教題:主が養い育てる教会
聖書:出エジプト記 32章19-29節 コリントの信徒への手紙一 10章1-13節
10:1に「私たちの先祖は皆」とあります。この「私たち」は、パウロの身内ではなく、キリスト者全員を指しています。「私たちの先祖は皆」と10:1-4で5回使って、「先祖はこのように神の民として歩んだ」と言っています。私たちの先祖は皆、神に導かれて歩みました。
ところが10:5で「しかし彼らの大部分は神の御心に適わず滅ぼされてしまった」と書いています。そして10:6には「これらの出来事は私たちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように私たちが悪をむさぼることがないように」とあります。これを読んでいる私たちは、これが遠い昔の民に起こったこと、と読むのではなく、同じ過ちを繰り返さないための前例、警告として注意して読みなさい、と言っているのです。
ここで注意すべきは「彼らの大部分が滅ぼされた」です。彼らは「モーセに属する者となる洗礼を授けられ」、人間の奴隷から神の者にされました。私たちの洗礼と同じです。そして神に導かれて約束の地に向って歩んだのです。教会の歩みと同じです。そして「皆同じ霊的な食べ物を食べ、飲み物を飲み」、神からの糧によって養われ育てられました。その水を出した岩は先在のキリストだといっています。そのように神の恵みによって神の民とされ、神に導かれ養われて歩んでいた民の大部分が滅んだのです。
「彼らが悪をむさぼった」前例に学べ、とパウロは警告しています。先祖たちの「むさぼり」は7~10に具体例が示されています。7の出来事は出エジプト32章に記されています。モーセの帰りが遅いので民は落ち着きを失い、偶像を造って礼拝したのです。民は、神の臨在を示すもの、手応えのあるものを求めたのです。神の御心を自分が期待するように示して欲しいと求めたのです。しかし神は民といつも共にいて、民を導き歩ませていたのです。民がその神を信じていないのです。
民は、神のご臨在と愛が見えない、御心が分からない、と不平不満を口にします。それでパウロは「彼らのように不平を言うな」と私たちに命じています。神は必要な恵みを与えてくださり、命の糧と命の水で養い育てて下さっているのです。
聖書は、私たちが終わりの時に救いに与かるように、先祖の前例を警告とするように私たちに書き伝えています。「立っていると思う者」は、「自分は救われている」「確かな信仰者だ」と思っている人です。その人は、自分がどんなに頼りにならないかを先祖たちの前例によって知って、倒れないように心すべきです。滅ぼされないように注意し、神を信じ教会から離れないで歩むのです。
13節は励ましと慰めの言葉です。私たちには試練が襲ってきます。しかし「耐えられない試練に遭わせることはない」と神の確かな御心を示しています。どんな試練も神が共にいて耐えられるものにしてくださるのです。そして「逃れる道も備えて」下さっているのです。神は真実な方です。神の民を愛しています。信じる者を滅ぼすことなく、試練中でも養い育てて、終わりの時に救いに与かるように歩ませてくださいます。
2014年9月7日
説教題:福音を伝える自由
聖書:イザヤ書 52章7-10節 コリントの信徒への手紙一 9章1-18節
9;3に「私を批判する人たち」とありますが、「批判する」は「裁判のために取り調べる」という言葉です。「パウロには使徒の資格がない」という批判があったのです。
その理由の第一は、9:1にある「パウロはキリストに会っていないので使徒ではない。それで自由に旅をして話をしている」です。それに対してパウロは、自分は使徒として自由がある。キリストにお会いして使徒とされ、資格と力を与えられて働いている。それで私が使徒の働きをした実りとしてあなた方が信仰を持っているではないか。他の人が私を使徒と認めないと言っても、あなた方の存在が私が使徒であることを示している。と言っています。
理由の第二は、パウロが教会に報酬を要求しないことです。使徒でないから報酬を要求しないし、要求できないのだ、というのです。これに対してパウロは、使徒や伝道者、教会に仕えている人は教会に報酬を要求する権利はあるし、教会は報酬を差し上げる義務がある。私にも他の使徒と同じように報酬を得る権利はある。しかし私はその権利を使わないのだ。私だけ権利を特別に使わないのだ。と、9:15以下で、それまで「私たち」と言っていたのを「私は」という言い方に替えて、私を強調しています。9:6と12の「私たちはこの権利を使わなかった」は、バルナバを含めた言い方で、「私は権利を使わなかった」と言っているは内容が違います。パウロは使徒の権利を使うことを強く拒否しています。それは、パウロがキリスト者として新しく生まれ変わった時、使徒に選ばれ用いられることが同時に起こったからです。そしてパウロはその時から福音を託されて用いられて生かされていることを喜び感謝し誇りとして生きてきているのです。ですからパウロは宣教の働きによって報酬を求めることは考えられないのです。
「自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし強いられてするなら、それは委ねられている務めです。」パウロにとって伝道は、したいからしている、ボランティアではありません。「伝道が飯より好きだからしている」のでもありません。それなら報酬が得られるでしょう。パウロにとって伝道は、神から強制されているので、すべきことをしているのです、しないではいられない、福音を伝えないでいるなら不幸な悲しいこと、私には禍だとも言っています。それなら、福音を伝える報酬、報いは何か。それは無報酬で伝道すること自体にある、と言うのです。イザヤは、福音を伝える者は伝えることで十分報酬を得ている、そして福音を携えて伝えている者の足は美しい、と言っています。
子育てをしている親は、報酬を求めるのではなく、子育てそのものに喜びと意味と誇りをもって全力で子育てをしている、そこに親の美しさがあります。パウロは特別に使徒として選ばれ用いられましたが、私たちもそれぞれ神の愛と恵みによって生かされていることを感謝して受け止め、置かれているところで、与えられている使命と責任を全力で果たす時、私たちは報酬によってではなく、福音の自由によって生きていると言えるのです。
2014年8月31日
説教題:福音に生きる自由
聖書:イザヤ書 58章6-10節 コリントの信徒への手紙一 8章1-13節
当時コリントでは偶像に供えた肉が市場に出ていて人々はそれを買って食していました。人々は偶像には力があり、供えた肉も力を宿していると考えていました。それでキリスト者はそれを食べることについてどう考えたらよいか、との質問がパウロに来ました。
パウロは、先ず「私たち真の神を信じている者は、神は唯一の神だけがいるので偶像は神ではない、力はない、供え物を食べても問題はない、とう知識を持っている」と言って、「しかし、知識を持っているという思いは人を高ぶらせる」と続けています。そして、福音によって与えられた自由は、知識だけで行動する自由ではない、愛によって行動する自由である。知識は人を高ぶらせ差別を生むが、愛は造り上げる、と言っています。
知識は、私が福音の自由を知っている、と言います。しかし愛は、神を愛することによって、神に愛されて罪の支配から自由にされ律法の束縛から解放されている、と言います。神が私たちを愛でご支配し自由にしてくださっていると、謙遜で感謝します。
福音による自由に生かされている人は皆、真の神を信じて自由の知識を持っています。しかし、今真の神を信じている人でも、信じる前に持っていた偶像に対する考えが捨てきれないで、偶像に供えた物を食べることは神を裏切るのではないかと、神の前で決断するのに不安と迷いのある良心の弱い人がいるのです。「知識による自由な態度が、良心の迷いにある人を罪に誘うことのないように気を着けなさい」とパウロは言っています。そして「あなた方が偶像の神殿で食事の席についているのを見て、それを食べるかもしれない。そうするとあなたの知識によって良心に迷いのある人が滅んでしまいます」と言っています。
福音は人を生かす神の恵みです。福音の自由は、自分を自由に生かすだけでなく、他の人も福音の自由に生かすのです。他の人を滅ばす自由ではありません。パウロは「知識によってその人が滅んでしまう」と言った後「その兄弟のためにもキリストは死んでくださったのです」と言っています。そして「このようにあなた方が兄弟に対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけることは、キリストに対して罪を犯すことなのです。」と厳しい言葉を続けています。知識によって福音によって与えられた自由を行う、偶像の神殿で食事をする、それは福音の自由を教えてあげる正当な行為だと言っても、現実にはそれによって弱い人を滅ぼすことになる。それは知識による自由で愛による自由ではない。とパウロは言います。そして「だから、食物が兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後決して肉を口にしません」と断言します。
キリストの愛によって自由が与えられたのですから、私たちも愛によって自由を用い、福音の愛を示すべきです。福音の自由は、私たちを解放し拘束するものは何もない自由ですが、神の愛、キリストの死によって私たちを生かすために与えられているのです。ですから、福音の自由は、規則で縛られることはありませんが、状況判断を正しくして、兄弟に対する愛によって規則以上に厳しく自己規制して行う自由なのです。
2014年8月24日
説教題:主に召された者
聖書:イザヤ書 56章1-8節 コリントの信徒への手紙一 7章17-24節
現在でも民族や国籍、身分の違いによって差別を見、不平不満、対立や争いがあります。
その身分の違いを運命と諦めて受け入れる考えがありますが、パウロは「各々主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召された時の身分のまま歩みなさい。これは私が命じていることです」と言っています。パウロは、民族や身分、性別などの違いによる問題がこの世にあるのと同じように教会の中にもあるのを見て、この世での身分や環境などは、神が各自に適当と量り分け与えて下さっている賜物だから、神があなたを神の者としてくださった今の状態のままで歩みなさい、と全ての教会に命じています。
私たちの中には、自分の現状に不満を持ち、他人を羨み、理想とする自分になりたい、という思いがあります。「神の者にされた」「救われた」と告げられた時、今までの自分の身分が替わる,替えることができる、と思う人がいます。教会の中で味わう差別の一つは割礼の有無です。主を信じるまでは割礼を誇りにしていたが、今は割礼の痕を消そうとしている、という人がいたのです。それでパウロは、割礼の有無は問題ではない、召されたままでいなさい、大切なのは神の掟を守ることです、と言っています。
イザヤ書は、神の民は、形式的に律法を守っているユダヤ人の枠を超えて、心から生活全体で神の律法を守っている人である。神はその人を、その人が異邦人や宦官であっても、ご自分の宮に喜んで迎え入れる、と言っています。聖書は、神に召されている者は誰か、救いはどこにあるか、神に召されている者はどのような生活をすべきか、を教えています。
奴隷であった者は、「神の者にされた」「救われた」と告げられた時、自由人になることを期待したでしょう。ところがパウロは「召された時奴隷であった人も、そのことを気にしないで、自由の身になることができても、そのままでいなさい」と言って「主によって召された奴隷は、主によって自由の身だからです」と説明しています。自由になれるからとこの世的な奴隷の身分から自由人の中に身を置くことが、この世的で肉的な囚われから自由になって喜びに生きることになるか、問題があります。「というのは主によって召された奴隷は主によって自由の身にされた者だからです。同様に主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷です」、と言っています。
この世的に奴隷と自由人の身分の違い、生活の違いは大きですが、それをどう見るかが問題です。差別を見て壁を作る、対立し争う、それがこの世の見方で生き方です。神の民も肉を誇った生き方をしていました。この世は現在でもそのように生きています。
しかし神に召された者は、身代金を払ってこの世の支配から神の支配に買い取られ、国籍を天に持つ者にされているのです。ですから肉の人間の奴隷になりません。十字架の血と愛によって敵意の壁を取り除いて、世界の民が一つ体を造るために生きるのです。
私たちは各自違いを越えて、自分が置かれている場で、自分に与えられている賜物を用いて、神の奴隷として喜んで生きるのです。
2014年8月17日
説教題:結婚と独身の問題
聖書:創世記 2章18-25節 コリントの信徒への手紙一 7章1-16節
「そちらから書いてよこしたこと」は書いてよこした質問です。その質問に対する答えの第一は「男は女に触れない方がよい。しかし、みだらな行いを避けるために男は妻を、女は夫を持ちなさい」です。福音による自由いうことから、みだらな行いをする人、禁欲主義や独身主義の人等がいて教会が混乱している、どうしたらよいかと質問がきたのです。
信仰の問題と教会生活の問題は、皆で話し合って多数意見でまとめる、知恵者を中心に答えを得る、というのではありません。み言葉に聞くのです、み言葉の管理者を通して神の御心を聞くのです。それでパウロに質問が来たのです。パウロは、男は女に触れないがいい、問題を避けるために結婚しなさいと言っています。「避ける」は「逃げる」です。
しかし神は、男は独りでいるのは良くないので助ける者として女を造られ、結婚を祝福しています。パウロはここで結婚がどのようなものかを語ろうとしてはいません。
コリントには日常的にみだらな行いをしていた人がいたようです。それで結婚をしたらよいと言ったのです。しかし結婚は二人が一つになって生きることです。自分の欲望と自由、それに対応する相手が持っている欲望と自由があります。3-5節では、結婚した者は自分の体を自分の意のままにするのではなく、相手が意のままに自由にする権利を持っている、互いに相手の重荷や欲望を受け入れ合いなさい、と言っています。
しかしパウロは、結婚を勧めてはいません。「人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから人によって生き方に違いがあります。」と言って、人それぞれで自分の生き方をしたらよい、と言っています。独身者も既婚者も、現在の生活を続けるか、今の生活を終わらせて新しい生活をするか、私たちは神からの賜物を用いて神の栄光を現すように生きるのです。しかしそのことを真剣に考えると悩み苦しみを覚えます。その時、命を与えて下さり、賜物を与えて下さっている神を信じ、結果を神に委ねて、独身か結婚か神が示してくださる道を歩むのです。神は私たちを見放さないで祝福に導いてくださいます。
パウロがこの問題に慎重に答えているので、彼の指示がはっきりしないところがあります。「私はそうしても差支えないというのであって、そうしなさいと命じているのではありません」「命じているのは主です」「主ではなく私が言うのです」と、言っています。パウロは個人としてではなく、教会の管理者として「私は主の指示を受けていませんが、主の憐みによって信任を得ている者として意見を述べます」と言って、主のご支配と御心を内に与えられている者であるとの確信を持って、質問に答えています。
パウロは、独身と結婚の問題も肉の人間を中心に考えるのではなく、キリストに救われて生かせれている者としてどう生きるかということで考えています。独身者は自分勝手に生きるのではなく神のことに心を集中して神を喜ばせ神の栄光を現すように生きなさい。結婚している者はキリストの愛にあって高ぶらず、自己主張しないで相手を重んじる生活をしなさい、と勧めています。それはキリストにある生活をするのだと言えます。
2014年8月10日
説教題:神の栄光を現す体
聖書:申命記 7章6-11節 コリントの信徒への手紙一 6章12-20節
12節で「私には全てのことが許されている。しかし」と繰り返して言っています。「キリストを信じている私」は、律法や罪の支配から解放されて「全てのことが許されている」のです。この解放の言葉が救いの喜びを現す教会の合言葉になっていたようです。パウロはこの言葉に続けて「しかし」と言います。この言葉を口にしている人たちの生活が福音の自由を正しく現していないと指摘し、正しい理解を教えるのです。
「しかし、全てのことが益になるわけではない」というのは、今自分の益になっても兄弟姉妹や全体の益になるわけではない、ということです。「しかし、何事にも支配されはしない」は、自分の欲望,情欲などにも支配されない、ということです。全てのことが許されているからと言って、欲望や情欲のままに行動するのは福音による自由ではありません。
福音による自由は神から与えられている体を、神にあって十分に生きる自由です。
「食べ物は腹のため、腹は食べ物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます」。「滅ぼされる」とは永遠ではない、一時的なものということです。だから、食べ物によって清い人や汚い人になるという考えに縛られないのです。それに対して「体はみだらな行いのためではなく主のためにあり、主はからだのためにおられる」は、体は腹とは違うことを強調しています。食べ物も腹だけでなく体を生かし活動する養分になりますが、食物で清い人になるのではありません。しかし「みだらな行い」はキリスト者の体に影響します。キリスト者の体は清い生活をするために生かされているのです。「体は主のためにあり、主は体のためにおられます」、キリストがキリスト者の内に宿っているのです。
キリスト者は、生まれながらの人が十字架に死んで、今は復活の体に結び付けられて生かされています。キリストの体である教会に結び付けられて生かされています。私たちは、自分がキリストの体の一部になって生かされているのだと知る時、その誇りと責任感で強い人になります。「キリストの体の一部を娼婦の体の一部にして良いか、決してそうではない」。その交わりがどんなに深刻な結果になるか分かったら、交わりを軽く考えて行動することはできません。16の「交わる」、17の「結びつく」は「にかわで張り付ける」意味です。一体になることです。そこでパウロは、「みだらな行いを避けなさい」と勧めます。
そして「知らないのですか。あなた方の体は神からいただいた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなた方はもはや自分自身のものではないのです」と言っています。だから肉の自分中心の益ではなく、神の霊が宿っている体として益になるように自由に生きるのです。
「あなたは代価を払って買い取られたのですから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」神が代価を払って神の者、神の義と愛の中に生きる者にしてくださったのです。だからキリスト者はその体と生活の全てで神の栄光を現すのです。それも、自分の力で現すのではありません。罪の私を買い取って下さった神、そして弱い私たちの内にいます神が、私を神の栄光を現す者にしてくださるのです。
2014年8月3日
説教題:真実のパンで祝う教会
聖書:コリントの信徒への手紙一 6章1-11節
今日は平和主日です。戦争が起こらないためにはどうしたらよいのでしょうか。
6:1に、あなた方の間で争いが起こった時どうして正しくない人々に訴えるのか、とあります。この「正しくない人」は公の裁判所などです。教会員の間で財産などの争いが起こったのでその解決を公の場に訴えている人がいる。そのことをパウロは知ったのです。
神は、王や権力者を地上に立て人々が平和に生活できるように力と権威を与えています。聖書も上にある権威に従いなさいと命じています。しかしその力も権威も、神にある絶対的終末的ではなく、一時的で相対的です。ですからこの世では国家や法律に対して「それは正しくない」という主張が常に出てきて争いが絶えず、歴史を積み重ねても、国を超えて人間の知恵を集めても、現在も争いの問題を解決できないでいます。
教会も、教会外の人との問題を解決するためには、この世の権威や法律に訴えることをします。しかし神の家族である兄弟同士の問題は父なる神のご支配の中で解決すべきです。6:1の「あなたがた」は6:5,6の「兄弟」と同じで、キリスト者です。神の家族の中の問題は家族の中で解決すべきです。家族は共通の家族愛によって、時には「兄弟の不義を甘んじて受け」「奪われるままでいる」ことがあります。家族は家族に対して自分の法的権利を主張するのではなく、家長の意志に従って平和な交わりをします。ところが、今パウロは、兄弟の中に兄弟に対して不義を行い、奪い取っている者がいる、と言っています。
6:6でパウロは「兄弟が兄弟を訴えるのですか。信仰なない人たちの前で」といい、6:7で「あなた方の中で裁判ざたがあること自体」問題だと言っています。教会生活をこの世の人たちは見ています。教会は義人の教会ではなく罪人の教会です。不義を行っていてもキリストに救われている者は神の家族です。未熟な者でも神の家族です。
しかし教会は不義が支配しているのではありません。罪と妥協して平和をつくっているのでもありません。6:9で「正しくない者が神の国を受け継げないことを知らないか」と言っています。ここでの「正しくない者」は教会内の人、神の家族です。神の家族でも罪を犯すことがある、しかしその罪に気づいたらキリストによって義なる者にされます。悔い改めないで、罪を犯し続けている者は神の国を継ぐことはできない、とパウロは言っています。そして、6:11では「あなた方の中にはそのような人もいました。しかし、キリストと神の霊によって洗われ,聖とされ、義とされています』と言っています。
神の国は神が治めています。神は、王として力によってではなく、父の義と愛によって国民を治めているのです。神の民は、自分の正しさを主張し示すのではなく、罪人であった者がキリストによって救われ、神の民とされていることを感謝して、救われている者に相応しくあるように心して歩みます。神の国は、神の愛と義が御支配しているので、兄弟の不義を受け、奪われている者もいます。神の国である教会はこの世を裁いているのです。
この日、御国が来るように、御国の平和が成るように心から祈りたいと思います。
2014年7月27日
説教題:真実のパンで祝う教会
聖書:コリントの信徒への手紙一 5章1-13節
私たちは、一人のキリスト者として存在し歩んでいますが、キリストの体である教会を形成している一員で、神の家族の一人としての責任を担っている者です。
自分の信仰を人と比べることの問題を1:10以下で書いてきましたが、個人が自分の信仰をこれでよいと思うことによっても、福音理解や信仰生活に問題が生じることがあります。
5:1でパウロは、話題を教会内の仲たがいから一人の教会員の生活に移して語り出しています。「現に聞くところによると」というのは、噂として聞いているというのではなく、信頼できる人から確かなこととして聞いているということです。教会では噂で発言することはしません。「ある人が父の妻を自分のものにしている」と言っている「ある人」が誰かを、パウロは5:3にあるように知っています。しかし問題は、その人個人のことよりも、その人と教会の関係にあるので、その人の名前もその人の具体的な生活内容についても言及していません。それでその生活について多様な想像がされています。もし「父が若い後妻をもらって死んだので、父の後妻の世話をしている」だけなら、問題がないように思われます。ところが「ふしだらな行い」とあるので実態は分かりません。
パウロが問題にしているのは、その息子の生活の実態よりも、5:2「あなた方は高ぶっている」、5:5「あなた方が誇っている」ことです。「あなた方」は教会です。私は福音の自由に生きている、愛の業をしている、と当人が高ぶっているだけでなく、教会がその人の生活を、福音の自由、個人の自由、愛の業と誇って見ている、そのことを問題にしているのです。教会は教会員個人の福音理解と信仰生活についても責任を持っています。
5:4にあるように、教会はキリストの名によって集まり成り立っています。そこに集っている一人一人がキリストの霊を宿していると同時にキリストがその群れを御支配している、そこに教会があります。その教会をパウロはパンを例にして語っています。パンを作る時普通パン種を入れます。パン種は、パンを膨らませて美味しくさせますが、腐敗した菌です。それでパンを作る時には新しいパン種を入れます。
しかし教会はパン種をすべて取り除いていてパンを作ります。昔モーセに導かれたイスラエルの民がエジプトを出る過ぎ越しの時、小羊を屠りパン種を除いたパンを食べて救いの道を歩みだしました。教会は、過ぎ越しの時にキリストが十字架に死に復活した、そのキリストによる過ぎ越しの恵みを記念して喜びの信仰生活をしています。パン種を除いた、本物の命の糧、真実のパンで過ぎ越しの喜びの歩みをしているのが教会です。
ですから、この世的な美味しさと膨れ上がらせるパン種は教会から全て取り除かなくてはいけません。少しのパン種がパン全体に影響を与え、腐ったパンにしてします。
5:11以下では、教会外の人との付き合いは普通にしても、兄弟と呼ばれている教会内の人との関係は、教育的な意味を持って厳しく考え、悪い者は除き去れ、と命じています。私たちの教会全体がキリストによって真実のパンで喜び祝う信仰生活をしているのです。
2014年7月20日
説教題:親の愛で諭す
聖書:ホセア書 11章1-4節 コリントの信徒への手紙一 4章14-21節
親が子を育て教育するのは人間社会の基本です。親が我が子に優しく諭し、言うべきことを厳しく言うのは義務と責任から当然のことです。
パウロは4:13まで、厳しいことを言ってきましたが、4:14では態度を変えて「こんなことを書くのは、愛する自分の子として諭すためです」と言っています。教会は神の家族です。父なる神と母なる教会によってキリスト者は生まれ育てられる。と言われて来ています。父と母が責任ある養育と教育をすることで人は成人になります。私たちも親の下で神の民の一員に育てられ、教会全体も神の家族になるのです。
パウロが自分を父親と言っているのは、コリントに福音を伝えて教会を誕生させた事実、神に召されて使徒とされていること等、神から親の権威が与えられているとの信仰によってです。それで、激しい言葉で語ってきたが、それはあなた方に恥をかかすためでなく、この諭で自分の子が自己反省し問題点を自覚するためである、と言っています。
パウロは、愛を持って子を諭すと言った後、「私に倣う者になりなさい」と勧めています。子どもが育ち身に着けていく時に大事な一つは、お手本に倣うことです。子どもは周囲のいろいろなものを見て倣います。パウロの時代には、手本になる教会も先輩の信徒も未だいませんでした、パウロは規則で縛ることをしませんでした。それで「私に倣うものになれ」と親として信仰による我が子に勧めているのです。親が力で従わせるのでなく、子どもが自分で決断して倣うことが大事です。倣う手本が混乱してはいけません。パウロは「私に倣うために」テモテを遣わす、テモテによって「キリストに結ばれた私の生き方を思い出すでしょう」と言っています。今はその生活を忘れて、自分を高ぶらせる生き方になっていても、一度身に着けた生き方は倣うべきものを示されれば思い出します。
信仰生活の基本はキリストによる自由です。しかしその自由は、この世的な知恵と快楽の自由な生活ではありません、各自が勝手に生きる自由でもありません。キリストによる自由は、キリストに倣って歩み、キリストの証し人になる自由です。パウロは、自分は神に選ばれ、用いられている福音の管理者であるとの確信から、私は父親として諭していると言うと共に、「私に倣うものになりなさい」と力強く言えたのです。パウロは、自分の知恵と力で言っているのではなく、自分自身も自分の意志と努力でその言葉に相応しくなっていると思ってもいません。キリストにあって新しくされ、キリストに知恵と力を与えられて言っているのです。パウロの諭しを聞く者も、パウロに倣う者もパウロと同じキリストによって新しい人にされ、キリストの体に一つに結び付けられて生きることによってそのことでできるのです。教会生活の型、伝統はこのようにして作られていくのです。
4:19,20で、神の福音は言葉によって語られ、伝えられますが、福音は新しいキリストにある生活を作り出す力を持っている、と言っています。私たちはキリストに結ばれて、キリストの家族、キリストの体に結びつく者にさて、教会生活を育てていくのです。
2014年7月13日
説教題:福音に生きている者
聖書:コリントの信徒への手紙一 4章6-13節
4:6でパウロは「あなた方のことを思い、私とアポロとに当てはめてこのように述べてきた」と書いています。これは、1:10から4:4まで教会内に起こっている仲たがいの問題を述べてきたが、この問題を起こしている当事者は実はあなた方の中にいる。その人の名前を書くと問題の解決に妨げを生じると思って、私とアポロだけの名前を出して述べてきた。当事者はこれを読んで、これは自分のことだと自覚してほしい、と言っているのです。
「あなた方が私たちの例から学んでほしい」は、あなた方は自分を賢者だと高ぶって他の人を批判して仲たがいを生じさせてるが、私もアポロも神から与えられた分に応じて一つになって神の仕えてきた、その私たちの中にあなた方自身を置いて、管理者は教会でどうあるべきかを学んでほしい、と言っているのです。
ここでの「高ぶり」は、差別意識ではなく、仲間が自分たちの指導者を評価し等級をつけて一人を選び他を捨てることです。評価して等級をつけるのは、より優れた者ができることです。パウロは、あなた方をそのように優れた者にしているのは誰か、と問うています。「それはあの先生です」「私の賢さです」と答えるでしょうか。パウロは、それら評価する力は全て神から戴いたものではないか、「いただいているなら、なぜ戴かなかった支配者で力ある者のような顔をするのか」と重ねて問いかけます。自己吟味を求めてです。
私たちは、神の前に謙遜になって、学び聞き従う立場に身を置くべきなのです。ところがパウロから見ると、コリントの教会の人々は「あなた方はすでに満足し、大金持ちになり、王様になっている」状態です。その人々にパウロは、あなた方は既に福音の喜びに満たされていると言いるが、「実際、王様になってくれたら」、と皮肉を込めてこれを言い、私を抜きに勝手に王様になっていると思い込んでいるだけだ、と言っています。
パウロが語っている福音は十字架の福音です。福音に生きることは、自分が富み王様になって喜ぶ福音ではなく、死刑囚のようになって神に仕えることです。十字架のキリストの証し人になることです。その福音を、福音の管理者であるパウロたちは、コリントの教会に身を持って伝えました。パウロは4:10-13で、キリストの証し人として生き教会の管理者として歩んでいる自分と、福音の喜びに満足しているコリントの人たちとの違いを、対照的に語って、十字架の福音に生きる者の在り方を教えています。
パウロは愚か者になって、弱い貧しい者として歩んでいます。しかしパウロは、強いあなた方は神に助けを求めないで自分の強さで生きているが、人間的この世的に弱い私は神の力を求め神から力を与えられて強くされて歩んでいる、弱い時にこそ私は神にあって本当に強い、と言っています。パウロもアポロも優れた人でしたが、自分を誇り高ぶらないで、神に仕えて謙遜に歩みました。この二人が福音に生きる者の姿です。神はその歩みを意味あるもの、神の栄光に結びつくもの、にしてくださっています。ここに福音の力、神の愛を見ることができます。
2014年7月6日
説教題:キリストに仕える者
聖書:コリントの信徒への手紙一 3章18-4章5節
3:18に「誰も自分を欺いてはなりません」とあります。私たちは自分を知恵があり、正しい判断力を持っている、と錯覚して人を批判します。そのように批判し合うことで仲たがいが生じているコリントの教会がキリストにあって一つになるために、パウロは「あなたがたの誰かが自分はこの世で知恵のある者だと考えるなら、本当に知恵のある者となるために、愚か者になりなさい」と言っています。
自分は知恵があり正しいと思っていても、本当に知恵があり正しい人から愚かな者で間違えた判断をしている、と言われることがあります。自分は実は愚か者だと気づき、それを認めて正しい判断を受け入れる、そこから正しい交わりと歩みは始まります。
本当に知恵ある者は誰か。パウロは「この世の知恵は神の前では愚かです」と言っています。この世の知恵は、この世では役立つ知恵ですが、全てを創造して治めている神の前では愚かなものなのです。人間が自分自身を欺いて錯覚している賢い知恵でなく、神の前に謙遜になることで得られる知恵が賢い知恵です。この世の知恵は、神の前で正しく用いられる時神の御心を行うのに有用なものになりますが、神の思いから離れると教会を仲たがいさせる愚かで有害なものになります。この世の知恵によって「この人の方が知恵者だ」と言い合う「知恵ある者たちの議論」3:20は分派争いを生み、議論全体がむなしいです。その議論から実のある成果は得られません。
3:21「ですから誰も、私はこの人についている」と人間を誇ってはなりません。私たちは神さまの愛と恵みによって今ここに生かされているのです。「全てはあなた方のもの」「一切はあなた方のもの」です。全ては、各々が分に応じて、神のために一つになって働いているのです。私たちを支配しているこの世のものは全て、神のご支配のもとにあって神の仕え、用いられているのです。そのように私たちは自分を神にあって正しく知るべきです。
4:1「こういうわけですから人は私たちをキリストに仕える者、神のご計画の管理者と考えよ」とパウロは言っています。「仕える者」であるが「管理者」でもる。「管理者」は、主人に忠実に仕えることによって、使用人に対して主人に代わって指示命令をし、使用人は管理者の指示命令に従います。人間の行うことです、人によって受け止め方もいろいろあります。4:2以下でパウロは、「私はあなた方や人間の法廷で裁かれようと問題でない」「自分を裁くこともしません」と言っています。これは、自己吟味や自己検討をしない、自分に対する批判を無視する、と言うのではありません。自己吟味し、批判を聞くがそれによって「私は義人で知恵者だ」という錯覚に陥らない、あなた方も自分が知恵者だと思って主が来られる前に先走って裁きをするな、と言っているのです。
この世の知恵も力も神が与えて下さっています。それなのにこの世は神の御心を無視して自分中心に用いて対立や争いを生じさせています。キリスト者は、神に生かされ用いられている自覚を持って、与えられている知恵と力を神のために用いて仕え、歩みます。
2014年6月29日
説教題:神の家を建てる
聖書:列王記上 8章27-36節 コリントの信徒への手紙 3章10-17節
子どもも成長すると、自分はどのような者として生きるかを主体的に決めて、自分はこのように生きる、この人生が自分の人生だ、と責任を持って生きるようになります。親の言いなりに生きる、成り行きに任せて生きる、のでは本当に生きることになりません。
その時、今ここにいる自分をどのように見るか、が非常に重要なことです。神の深いご計画によって私は今ここにいる、と自分を知ることができるでしょうか。教会は、神が誕生させ、神の命が宿り、神の御心、御業がなされるところです。ですから3:9の「私たちは神のために力を合わせて働く者です」が教会に結びついている者の言葉になります。
3;10でパウロは「私は熟練した建築家のように土台を据え、他の人がその上に家を建てます」と言っています。私たちの信仰生活は教会生活で、教会を建てることです。パウロは未熟な建築家とは言っていません。高慢だからではなく、神の賢い知恵によって選ばれ用いられている建築家である、だから建築家として必要な知恵は神から与えられて土台を据えた、と言っているのです。土台は3:11にある十字架のキリストです。だから土台を据えることについては神によって問題は残っていない、と言っています。人間が見てここに欠陥がある等いろいろ思うところがあっても、神はこれで良いとされているのだから「他の人はその上に家を建てる」、と言っているのです。家を建てた後、最後に神が全体を吟味して下さる。だから人間の判断で評価するのではなく、各自の働きは終わりの時の神の吟味に委ねよう。と言っています。
家を建てることは一人ではできません。皆で建てます。各自は自分の仕事をどのようにするか注意して行うべきです。注意すべきことは、自分自身のことだけではありません。隣とのつながり、全体との結びつきにも気を付けなければいけません。その時、他の人を批判することも気にすることもなく、キリストの土台にどのように結びついているかに注意して建てます。キリスト者が一つになって建てるのは、神の教会で、神殿です。
ソロモンは、神殿は天にいます神がこの地上に生けるご臨在を示し、天の神と地上の人間が出会うところ、と言っています。だから神よ、ここに目を注ぎ、耳を傾け、人間がここで語る祈りを聞いてください。その歩みを見て下さい。と言っています。
私たちが建てるのは、建物ではなく礼拝です、祈りの生活を造るのです。教会は世界の民を代表して礼拝し、祈りをしています。神が受け入れて下さる礼拝を造るのです。神の教会を建てるのに神は人間を用いています。教会はキリスト者全体で作ります。キリスト者全員がそのために用いられています。私たちの内に神の霊が宿っているので、私たちが皆神の宮です。神は私たちと共にいてくださって、私たちが神殿を建てるのを導き支えて下さっています。主に用いられた私たちの働きは、終わりの日に吟味されます。その時、神の火によってその働きが燃え尽きても、その人は救われる、とパウロは言っています。
私たちは終わりの救いを信じて、主にあって共に教会を建てる業に励みたいと思います。
2014年6月22日
説教題:神の者である私たち
聖書:コリントの信徒への手紙一 3章1-9節
私たちは自分がどのような人間か考えることがあります。国際試合を見ていると自然に、自分は日本人だ、という感情が出てきます。生活の予定を考えていると、自分は会社員だ、主婦だ、高校生だ、という自覚が出てきます。聖書は人間を「霊に人」と「肉の人」に分けています。霊の人は、神から霊を与えられて、神のものとされて生きている人です。肉の人は、神を信じていない人、2:14で「自然の人」「生まれながらの人」、といわれている人です。
パウロは、コリント教会の人たちに、あなた方は信仰を持っている霊の人なのに信仰のない肉の人と同じ生活をしている、それは信仰理解が乳飲み子と同じだ、霊の人は信仰生活をすることで成長するはずだ、それなのにあなた方の信仰生活は成長していない、と言っています。これは私たちの信仰生活についても言えることです。
信仰を持っている霊の人は、肉の人とは考え方も生き方も違います。霊の人も、初めは生まれながらの肉の人と同じで霊の乳を飲んで乳飲み子の状態ですが、成長して乳では物足りなくなり堅い食べ物を求めそれを食べて信仰によって生きる人に、肉の人とは違う人に成るのです。それなのにあなた方は、「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、肉の人、ただの人です。「私はパウロに」「私はアポロに」と言っているならあなた方はただの人に過ぎない、霊の人になっていない、とパウロは言っています。
パウロは、「アポロとは何者か、パウロは何者か、この二人はあなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」と言って、二人を特別な人のように重んじるのは間違えている、「私は植え、アポロは水を注いだ、しかし成長させてくださったのは神です。大切なのは神です」と説明しています。
これは、霊の人はどのように歩むか、またどのように成長するか、を知りなさい。霊の人と肉の人の違いも知りなさい、と言っているのです。自然の人、肉の人は、自分と他の人をこの世的に比べて自分中心に評価します。それに対して霊の人は、自分も他の人もそれぞれが神によって選ばれ用いられている、各々が神から与えられた分に応じて働いている、と見ます。だからあなたがたも、お互いに自分を誇ることも他の人と比べることもしないで、各々自分に与えられている分に応じて神に仕えなさい、と勧めているのです。
私たちは、自分の思いと力で良いことと思って愛の業をしても、それが必ずしも善い業にならないで余計なことになること、詐欺などに巻き込まれる人がいること、を知っています。十字架の主が私たちの罪を贖って私たちを神の者として下さり、霊が働いて信仰による業を善い業にしてくださり、成長し実を結ぶ業としてくださるのです。
私たちキリスト者は、自分たちは「神のために力を合わせて働く者」、神の者である、と常に自覚して、共に御言葉に聞き従って歩むのです。その時私たちの信仰は成長し、信仰の業と歩みは意味あるものになるのです。
2014年6月15日
説教題:神の救いを知る霊
聖書:イザヤ書 40章12-14節 コリントの信徒への手紙一 2章1-16節
今日の聖書2:1に「神の秘められた計画」とあるのは、「神の救いの計画」で、キリストの十字架によって罪の人間を救うご計画です。神の救いのご計画は一つですが、人間がそれを伝えるとき人間に個性や知恵や力の違いがあるので、教える人によって救いに違があるように受け入れる人がでます。パウロは今、神のご計画を伝えて建てた教会に、パウロが去った後アポロが来て教会を導いたので仲たがいが生じている、その仲たがいを解消して教会が一つになるために、この手紙を書いています。
それでパウロは、教会では人間の知恵や力は問題ではない、十字架による救いだけが大事なのだ、と言っています。パウロ自身コリントに行った時、優れた言葉や知恵を用いなかった、十字架が意味と力をもっているから、十字架のキリストだけに関心を持とうと心に決めました。新しい土地に行くと関心を持つべきことがいろいろあり、それらを知ることが神の救いを伝えるのに有益であるとも思われます。しかしパウロは、ここに救いがある、このことだけに関心を持っていれば他のことは知らなくてもよい、と心に決め全力でその救いを伝えた、と言っています。パウロ自身がその救いに出会って心を奪われていたのです。その出会いは、人間の知恵や力によってではなく、神から与えられるものです。
神の深い御心である十字架による救いは、人間の知恵では愚かなものですが、神の霊をいただき、霊の導きと力によって知ることができる、神の知恵です。2:13に、パウロや教会がこの救いを語っているのは、人の知恵の言葉によってではなく、神の霊によって教えられた言葉で、霊的なことは霊的なものが説明する、と言っています。
14に「自然の人」とあるのは、神の霊を受け入れていない人で、神の霊を宿していない人、神の愛と恵みを知らない人です。生まれたままで神の霊を宿していない人は、自覚していなくても自分中心に生きている罪人のままです。人間の知恵で来ている人は、自分の命が第一で、自分の義を主張し、自分の利益で判断して生きています。
しかし、信仰を持って霊を宿している人は、信仰生活に必要なことのすべてを信仰によって判断します。神によって今ここに生かされていることを受け入れて、今味わっている苦しみや重荷を神の前に負うべきものと判断して責任を持って負って歩みます。
15「霊の人は一切を判断しますが、その人自身は誰からも判断されません」。この判断は人間の知恵によるのではなく、霊によるからです。イザヤ書を引用して、主の思いを知っている人、主を教え導くことができる人はいない、と言っています。信仰を持っていない人が、どんなに賢く知恵があっても、神の深い救いの御心は分かりません。しかし、信仰を持っている人は、神の霊によって、神の救いのご計画に与かって、神の愛と恵みの中を生きています。16で「私たちはキリストの思いを宿している」と言っています。私たち、キリスト者は、キリストが私たちのために十字架についてくださった思いを宿して、感謝と愛に生きています。これが救われている者の信仰生活です。
2014年6月8日
説教題:聖霊降臨と教会の誕生
聖書:創世記 11章1-9節 使徒言行録 2章1-13節
今日は聖霊降臨日、ペンテコステです。2:1の「五旬祭」がギリシャ語でペンテコステです。過ぎ越しの祭りから50日目のお祭りです。過ぎ越しの時に主イエスは十字架につけられ復活しました。2:1に「一同が一つになって集まっている」とありますが、この一同は主イエスと共に地上を歩んだ弟子たちです。1:3-4で主は、復活後40日間弟子たちにご自分を示し食事も共にして交わり、「あなた方の上に聖霊が降るのを待ちなさい」との約束を与えて10日後に天に昇られました。その約束を信じて祈って待っていたのが、この「一同」です。2:2に「突然」とありますが、聖霊降臨は、神のご計画の中では主イエスを地上に遣わされる時から、予定されていたことです。2:33に「イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました」とあります。
聖霊降臨は、「激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ」とある、その源を天に持っている、天と地上を結びつける出来事です。聖霊は、神が御子を地上に遣わして罪人を救う業を完成させる霊です。ですから、御子イエスを信じて、イエスと共に歩んだ弟子たちが約束の霊を祈りながら待っている時に与えられました。聖霊が与えられて、弟子たちはキリストの霊を宿し、神の命と力を与えられて生きる者、真実の神の民になりました。
2:3,4に「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人に留まった。一同は聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、他の言葉で語りだした」とあります。聖霊は裁きと救いの言葉です。この言葉を受け入れることができたから、彼らは大胆に語り出したのです。聖霊は天から降ってきて、救いの言葉を一人一人に与え、受け入れる心を造り、理解する知恵となりました。また一同に一つの霊となって与えられました。この出来事によって教会が誕生しました。聖霊は、この後今に至るまで、教会と信じて祈る者に与えられています。
弟子たちが大胆に語りだしたので、何の物音かと人々が集まって来ました。その中には他の地に移住していた人でエルサレムに帰ってきた信仰深いユダヤ人がいました。その人たちは、その音を自分たちの故郷の言葉で神の偉大な業、救いの業を語っている、と聞くことができ、どうしてこんなことが起こっているのかと驚きました。このユダヤ人たちにも聖霊が臨んで働いたので弟子たちが語るのを神の言葉と理解することができたのです。
しかし、この時「あの人たちは新しい酒に酔っているのだ」と弟子たちをあざける人もいました。謙遜な心で御言葉を聞く者でないと、救いの神の言葉は分からないのです。
聖霊降臨は、創世記11章にある、人間が神を蔑にして自分たちだけで何でもできると高慢になったのを、神が裁いて人間の言語を混乱させて相互理解を不可能にし、交わりを断絶させたこと、と関係があります。その混乱と断絶させられた民を、神はキリストによって赦し、聖霊によって神の言葉を理解して一つに交わる民にして集めました。神は聖霊によって、違うところで生まれ育ち、違う言葉を使っていた者たちを、同じ神の言葉を聞いて神の偉大な出来事によって結びつく群れとし、教会を誕生させたのです。
2014年6月1日
説教題:神の知恵の賢さ
聖書:コリントの信徒への手紙 1章18-31節
人間は、今生きている時だけが全てではありません。人生全体の中の今の時、歴史の中の今の時があります。神にあって自分、また今の時があります。
パウロは、「十字架の言葉は滅んでいく者にとっては愚かであるが、私たち救われる者には神の力である」、神による終わりの時に滅びる者か救われる者かの違いがある、その道を今皆歩んでいる、その道は十字架によって始まっている、と言っています。
「十字架の言葉」は、神が御子イエスを十字架につけて語っている、救いの言葉です。十字架は当時のローマの処刑の一つです。人間の知恵は、処刑された人が救い主であるであるはずがない、彼を救い主とは愚かな言葉だ、と考えます。しかし18の「神の力」とある「力」は、ダイナマイトという言葉で、爆発して周囲のものを吹き飛ばす力、武力で破壊し征服する力でもあります。十字架の言葉は、人間を支配していた罪を吹き飛ばし、賢い者の賢さを意味のないものにしてしまいます。人間の知恵と賢さで説得して、敗かし、勝利するのではなく、神の力によって吹き飛ばして勝利するのです。
この世が求めている救いは、知恵や賢さによって論争して納得させる救いです、またここに神の力があるという証拠を見ることのできる救いです。当時ユダヤ人は、救い主はローマを滅ぼして自分たちを解放してくれる、と信じていました。ギリシャ人は、真善美の神に近づくことを救いと考え、人の罪を代わり負って罪人として十字架に死ぬ人が神の子で救い主であると信じることは愚かしいと考えます。賢く知恵者であると誇りを持っている人間は、自分たちの考えている神以外に神を考えることができません。人間は皆、自分の知恵によって十字架の言葉を神の救いの言葉と聞くことはできません。
しかしユダヤ人でもギリシャ人でも、神の前に謙遜にされて、神の救いを喜んでいただこうと心開くなら、神の言葉が分かるのです。神の賢さは人よりも賢く、神の強さは人よりも強いからです。ですから「十字架の言葉」を受け入れる人は「召された者」です。自分の知恵で受け入れるのではなく、神の召しを拒まないで素直に身を委ねることによって、神の力が発揮されて十字架の言葉を受け入れるのです。人間の知恵を吹き飛ばしてしまう神の賢さの力です。そのことが確かである証明は教会とキリスト者の存在にあります。
パウロは「あなた方が召された時のことを思い起こしなさい」と言って、教会員たちに自分が人間的な知恵や資格があったから救われたのではなく、知恵も資格もない者が救われたことに思いを向けさせています。神にあってはこの世の知恵や力や家柄などの基準は意味がない。神は、この世でそれらを高く評価されても、神の前でそれらを誇ることがないようにされているのです。そのことを私たちは知るべきです。
この世の知恵や力を誇って十字架を愚かとする人は滅びの道を歩んでいるのです。それに対して十字架の言葉を心に受け入れて、そこの神の知恵、神の力があると信じて歩んでいる者は救いの道を歩んでいるのです。
2014年5月25日
説教題:キリストによって一つ
聖書:コリントの信徒への手紙一 1章10-17節
パウロは挨拶文が終わると直ぐに、今コリントの教会が持っている問題点を指摘すると共に、その問題を解消するようにと書いています。挨拶文の直ぐ後にこのように書くことができるのは、差出人と受取人との間に強い信頼関係があったことと、問題が今すぐ解消しないといけない重大な問題だ、との思いがあったからです。その思いは使徒パウロが、コリントの教会は神の教会である、と確信していることから来ています。それで、世界の神の教会は皆、ここに書かれている問題は自分の教会の問題でもある、と読んでいます。私たちも礼拝で、自分たちに語られている言葉として読んでいます。
パウロは先ず問題点と問題解消の道を示します。「皆勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにして固く結び合いなさい」。「勝手なことを言わず」ということは「自分自身を強調しない」ことです。皆が自分を強調すると仲たがいが生じます。パウロは、コリントの教会にこの問題があるのをクロエの家の者から聞いた、と書いています。クロエ家の人たちのことはあまり分かりませんが、教会もパウロもこの人たちは偏った見方をしないと信頼のあった人だったので、この人から聞いて知ったとパウロは書き、コリントの教会も納得してこの手紙を読むことができたのです。争いの情報は誰がどのように伝えるかで、偏ったもの、問題を解消するよりは大きくするもの、になります。パウロは無責任な情報によるのではないと情報源を明記しました。それによってコリントの教会がパウロの指摘している問題に真剣に耳を傾けたのです。
10節の「仲たがい」は「紛争、不和」で、11節の「争い」は「競争、対抗意識、嫉妬」で、コリントの教会には分裂や争いがあったのではなく、一つの礼拝をしていたのです。しかし教会の中に対抗意識が生じ、口喧嘩がある。これは教会の基盤を破壊する深刻な問題です。そのことに気付いて問題を解消するように、とパウロはこの手紙を書いているのです。
教会の基盤はキリストです。それなのに「私はパウロに」「私はアポロに」「私はケファに」と別れて言い争っている。パウロとアポロがコリントの教会にどのように関わったかは使徒言行録18章に記されていますが、パウロがコリントを去った後、アポロがコリントに行っています。アポロは聖書に詳しく雄弁でした。それでパウロとアポロのグループができ、その後ケファ、キリストというグループができたと思われます。これは肉の人間が肉の人間を見て、各々が自分の足場をその人間に置くようになったのです。人間は、人間的な見方や評価をし、自分の考え生き方を主張し、対抗意識や妬みを持ちます。しかし神の教会は、キリストによって罪贖われて救われている者の集まりで、キリストの体です。それでパウロは、私もアポロもただの人間で、救いを与えてくださったのはキリストお一人だ、キリストによって教会は皆一つに堅く結び合いなさい、と勧めています。
福音は、キリストの十字架によって罪贖われた救いで、人間の知恵や言葉によるものではありません。教会はキリストによって命を与えられている一つのキリストの体です。
2014年5月18日
説教題:神の教会への手紙
聖書:申命記 7章6-13節 コリントの信徒への手紙一 1章1-9節
パウロとコリント教会の関係は、使徒言行録18章1-18節に記されています。アテネで伝道に良い成果が得られなかった後、コリントでは幸い協力者を与えられて、1年半滞在して教会が誕生したので、パウロとコリントの教会はお互いに親しい関係にありました。
しかしパウロは親しい交わりを喜ぶということでこの手紙を書いたのではありません。パウロは、今日読んだ挨拶文が終わると1:10で「あなた方に勧告します」と書いています。このままでは教会にとって心配だ、という問題があって書いた手紙です。
パウロは、コリントの教会の人々が彼のことをよく知っているのに「神の御心によって召されて使徒となったパウロから」と、肩書きを付けて差出人の自分を記しています。自分は今この手紙を親しい仲間として書いているのではない、だからそのようにこの手紙を読んでほしい、という思いがこの肩書きにあります。組織の責任ある所に親しい者がいると、親しさからの厳しさが失われ、秩序が乱れ、組織が機能しなくなることがあります。
パウロは使徒として差出人の自分を語ると共に、受取人を「コリントにある神の教会に」と書いています。問題がある教会でも神によって召された人が集まり、神によって建てられている教会です。教会は人間が集まって形成している人間の集団ではありません。それして「至る所でキリストの名を呼び求めている聖なる者とされた人々へ」と続けています。世界の全ての所にいるキリストによって召されて聖なる神の民とされた全ての人々にこの手紙を書く、とパウロは手紙の受取人を指定しているのです。ということは、この手紙の問題は世界のすべての教会の問題でもある、ということです。私たち薬円台教会のことでもあります。そのように私たちも読みたいと思います。
パウロは、親しさだけでコリントにこの手紙を書いているのではないし、人間的に力と資格があるから書いているのでもない。神から遣わされた使徒、キリストの代理人として世界の神の教会に書いているのです。
パウロは4節で先ず、コリントの教会がキリストによって神の恵みを受けていることをいつも感謝している、と記しています。問題を起こしている教会でも、神から豊かな恵みを受けていることは確かなことです。私たちは、恵みを受けていることよりも、足りないことに目と思いを向けて不平不満を先ず口にするのではないでしょうか。キリストによって私たちは恵みを受けると共に、恵みとして受け止めることができるのです。キリストに結ばれていれば賜物に何一つ欠けることがない、とパウロは言っています。
神の御心は、初めの時から終わりの時まで変わることなく、キリストによって人を救おう、とお考えです。その御心を完成させるために、神の教会を地上に、歴史の中に誕生させ、歩ませているのです。だから、今教会に問題があっても、神の教会は神によって最後まで支えられ、信者は終わりの時に非難を受けることなない者にされるのです。
神は真実な方ですから、神の教会はキリストに結びついて確信を持って歩みましょう。
2014年5月11日
説教題:羊飼いと羊
聖書:エゼキエル書 34章17-22節 ヨハネによる福音書 10章1-10節
イエスさまは羊飼いと羊のお話をされました。イエスさまと私たちの関係は、羊飼いと羊の関係ですよ、と話しています。
羊飼いは自分の羊をよく知っています。羊の名前も、今羊がどんな体調か、何をしているかも知っています。羊飼いが声をかけると、羊は声を知っているので羊飼いの所に来ます。そして自分の羊飼いの声には喜んで従います。でも他の羊飼いの声にはついて行きません。それは羊飼いと一緒に生きている羊ですよ、とイエスさまは私たちに教えています。
私たちに羊飼いはいるのでしょうか。羊飼いは誰でしょう。お父さんやお母さん、先生なども羊飼いのような人といえます。
先日テレビを見ていたら、イノシシの親子が映っていました。子供たちが散って自由に動いていたのですが、お母さんの声で子供たちは皆ピタッと動かなくなりました。空に大きな鳥が飛んでいるのが映りました。次にお母さんの声で皆急いでお母さんの所に走ってきました。テレビは大きな蛇を映しました。森にはいろいろな声があります。でも野鼠の子はお母さんの声を知っていて、何を言っているか聞き分けることができる、それで正しく行動できるのです。そのようにお母さんに守られ導かれて、安全に健やかに歩むことができるのです。そして大きく育ち、自立して、母親から離れて生きるようになります。
でも羊は群れで生きているので、大人になっても一匹では生きていけません。群れの中にリーダーがいるのです。幼い羊は、群れの中で守られながら何年か歩んで、群れ全体を守る羊の仲間になっていきます。
聖書は、神の民もリーダー、指導者に導かれ、養われ、守られて安全で健やかに歩むことができる、と言っています。それで神さまは神の民の指導者に、神が選んだ民の指導者なのだから、相応しい指導者でありなさい、羊飼いでありなさい、と厳しく命じています。
それと共に、今読んだエゼキエル書は神の民に「お前たち、私の群れよ」と呼びかけて、神に羊の群れであるように、と命じています。牧者に問題があるかもしれないが、民であるお前たちも悪い、だからお前たちの間を私自身が裁く、と神は言っています。
ヨハネ10:6は「イエスはこのたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話のことが何のことか分からなかった」と書いています。神の民の指導者が神の言葉が分からなくなっている。神が定めた門から入る者が正しい羊飼いです。門から入るのには謙遜になって、神が求めている羊飼いでなければなりません。身も心も神の愛と御心を宿して、神さまからOKと言われて、門を通るのです。
それに対して、自分は羊飼いに相応しいと、門を通らないで羊の所に来る羊飼いは、神の羊を自分の羊にしようと誘う、とイエスさまは言っています。私たちはそのような声に惑わされないようにしましょう。私たちは羊で、一人で生きていくことはできません。荒野で叫ぶ声を聞き分けて、神が与えて下さった羊飼いに聞き従って歩みをしましょう。
2014年5月4日
説教題:死に勝利した命
聖書:ホセア書 13章9-14節 コリントの信徒への手紙一 15章50-58節
人間は何でも知りたいと思います。死んだらどうなるか、納得できる結論を求めます。パウロは49節まで自分の考えを書いています。パウロが書いている説明で納得できない人がいるでしょうが、復活は神がなさることなので、私たちは信仰的に納得すべきです。信仰を持っていないと納得できない、ということになります。
50節で、復活の説明の結論のように「肉と血は神の国を継ぐことはできず、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことはできない」と言っています。神の国を相続する神の民になるのには、生まれたままの人間ではなれないのです。何が必要でしょうか。51節で、「私は神秘を告げます」とそこで神の業が行われることを告げます。ここでパウロは、今信仰をもって生きている人は、終末が来たら、一瞬に朽ちない者に変えられる、と言っています。復活は霊の朽ちない体になってキリストと共に神の国に生きる者になることです。
「変えられる」のは、「朽ちないものを着る」ことです。今まで生きていた人がその上に着るのです。着るものによって、覆われ、支配され、別人に変身するのですが、今まで生きてきた信仰生活が無になるのではありません。これは人間が頭で考えることができませんが、キリストを信じて死んだ人に、創造者である神がなさる神秘で確かなことです。
ですからこれは、イエス・キリストの十字架と復活の出来事が確かであったように、神が聖書で約束しているので、必ず成就します。現在まだ終末は来ていませんが、キリストを信じている私たちは、この約束の確かさの中に生きています。
55節はホセア書13:14の言葉です。パウロは、ホセアがイスラエルに対する神の裁きを語っている言葉を脇に置いて、イスラエルが与かる神の勝利の歌を記しています。神は、罪と死に勝利したのです。もう罪も死も力を持っていません。そのことが今神によって、キリストを通してなされたのです。それでキリストを信じる私たちは、神の国を継ぐ者、朽ちない命に生かされる約束の中に生きているのです。
そこでパウロは58節で、私たちに今の時をどう生きるべきかを勧めるのです。愛する兄弟たち、「動かされないようにしっかり立ち」というのは「自分の座席にしっかり腰を落ち着けて」という意味です。「動揺しないで」という意味もあります。罪と死に勝利した命を宿して生きているのだから、どっしり腰を落ち着かせて「主の業に常に励みなさい」。「主の業」は伝道だけでなく、主から今の自分に与えられている、主のご計画を進めるための全ての業です。「常に全力を注いで励む」それを私たちに勧めています。そのように生きることができるのは「主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄になることはないと知っているからです。」
主に結ばれている私たちは、死んで終わりではありません。朽ちない者に変えられて、神の国に生かされる約束の命を宿しているのです。神の国を継ぐ者とされていることを感謝して、全力で主の業に励む者でありたいと思います。
2014年4月27日
説教題:キリスト復活の恵み
聖書:コリントの信徒への手紙一 15章12-20節
先週の日曜日は主の復活日でした。主イエスの復活は、私たちも死から復活するという約束を与えられた大きな恵みの出来事です。しかし、死んだ人が復活するということは簡単に信じられることではありません。普通にはない特別な出来事だからです。
パウロはこの15章の初めで、私が最も大切なこととして受け伝えてあなた方が受け入れている福音は、キリストが死んで復活したことである。その復活のキリストにこれだけの人々が出会っている、だからキリストが復活したことは歴史的事実である、と書いています。6節では「そのうちの何人かは既に眠っているが大部分は生きている」と書いています。これは、もし信じられないならその人たちに聞いて確かめたらいい、との思いがあります。キリストの復活が事実であると証明する最も確かなものは、この復活のキリストに出会った人たちの証言です、そして教会はその証言を聞き、信じ、伝えてきています。教会はキリストの復活を信じている者の群れです。
12「キリストは死者の中から復活したと宣べ伝えられているのに、あなた方の中のある人が復活などないと言っているのはどういうわけですか」。この『ある人』は教会に結びつている信者で、キリストを信じているが死んだ人間が復活することはない、と言っている人です。6節を「キリストを信じて、復活のキリストに出会った人でも、命を失って既に死んでいる人がいる」と解釈しているのです。その考えが教会の中にあるのです。パウロはその考えが納得できない「復活がないと言っているのはどういうわけか」と問います。
パウロは、十字架と復活のキリストを信じた死者は復活する、と信じてそのことを語っているのです。なぜなら、キリストが十字架に死んで復活したのは、罪を犯して死に支配されている人間が神にあって生きるためではなかったのか。そもそも、キリストの十字架と復活の恵みは、罪人が罪なき者とされて生きるためではないか。私たちはこの福音によって救われています、とパウロは2節以下で言っています。キリストが聖書に書いてある通りに私たちの罪のために死んで、復活した、それは聖書を信じ、キリストを信じる私たちが死から救われて生きるためです。
パウロは14節以下で、キリストの復活がないなら、私たちの宣教は無駄、信仰も無駄、その上神の偽証人になる、と言っています。16節以下では、キリストを信じて死んだ人が復活しないなら、キリストの復活は意味がないもの、復活がないことになる。聖書と神の言葉を信じ、キリストを信じている信仰がむなしいものになる。キリストを信じて死んだ人たちは死の滅びの中にいることになる。キリストに望みをかけている私たちは最も惨めな者である、と言っています。
ここでパウロは断言します「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた」。私たち罪人を神の命に生かすためにキリストは一粒の麦となって死に、復活されたのです。実際に私たちを救う復活です。復活を知る力は信仰です。
2014年4月20日
説教題:復活の主に会う
聖書:イザヤ書 12章1-6節 ヨハネによる福音書 20章11-18節
今日は主の復活日です。十字架につけられたイエスが復活したことは、歴史的に確かな事実で、使徒たちの証言と、その証言を教会が受け継いでいることで証明されています。
この日の朝マグダラのマリアはイエスが納められている墓に行きました。葬られているイエスにお会いしたい思いでいっぱいでした。彼女は、墓を塞いでいた石が取り除かれているだけで、ペトロと弟子の所に行って「主が墓から取り去られました」と告げました。
彼女はイエスが復活したとは全く思っていません。これが人間の経験から思うことです。
マリアはペトロたちに告げた後、また墓に戻って泣きながら墓の中に入り、遺体の置いてあったところに天使がいるのを見ました。天使が「なぜ泣いているのか。」と尋ねたので、「私の主を誰かが取り去りました。」と答え、後ろを振り向くとイエスがおられるのが見えました。ところがマリアはイエスと気づきませんでした。イエスの復活を全く思っていなかったので気づかなかったのでしょう。別の福音書では、「復活のイエスにお会いしたと女たちが告げると、使徒たちはそれをたわ言と思った」、と記しています。
復活のイエスにお会いして、イエスだと知るのにはどうしたらよいのでしょうか。振り向いたマリアにイエスは「なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」と尋ねました。マリアは園丁だと思って「あなたが運び去ったのでしたら教えて下さい。私が引き取ります」と答えました。遺体でもイエスを自分の所に置いておきたい、という強い思いが分かります。そのような人間的な強い愛があってもマリアは復活のイエスに気づかないで、又遺体があった方を向きました。そのマリアにイエスが「マリア」と呼びかけました。マリアは名前を呼ばれて魂を目覚めさせられました。イエスから霊的な力を伴って呼びかけられたので、マリアは振り向くと共に「ラボニ(先生)」と叫ぶように答えました。イエスから霊的な呼びかけがあって私たちは復活の主にお会いし、信仰によって主と知ることができるのです。
マリアは淋しさと悲しみの中にいた幼子が母親に出会ったように、イエスを知ると、イエスにすがりつきました。イエスは「すがりつくのは止めなさい。まだ父のもとに上っていないから」と言いました。復活は十字架に上げられたイエスの復活で、天の神の許に私たちを導き、天に私たちの居場所を用意して下さる過程なのです。天に上げられつつある状態であると言えます。復活の主はその時にも、主体的に人々にご自身を現されました。
マリアはイエスの言葉を受け入れました。イエスは彼女に、弟子たちの所に行って、復活のイエスが「天の父であり、神である方の所に上って行く」と告げなさい、と命じました。イエスは、「弟子たちに『復活のイエスに会える』と告げよ」、と命じたのではありません。復活のイエスが天に上って行って、弟子たちは、イエスと同じ父であり、神であるお方を持つようになる、それによって救いが完成するのです。
弟子たちが、霊的にイエスと一つ神の子にされることに比べたら、復活のイエスに肉的にお会いすることは二次的なことです。イエスに霊的にお会いすることが大事なのです。
2014年4月13日
説教題:神の国と十字架
聖書:ヨハネによる福音書 18章28節-19章12節
今週の金曜日は主イエスが十字架に架けられた日です。金曜日の明け方、大祭司の下役やユダヤ人たちはイエスを大祭司の所から総督官邸に連れて行きました。
ユダヤ人たちは、異邦人の官邸に入ると汚れて食事ができなくなると、総督を呼び出してイエスを渡しました。ユダヤ人たちは、自分たちは清く義しい人である、と誇りを持っていたのです。ピラトは「この男をどの罪で訴えるのか」「お前たちの律法で裁け」と言いました。するとユダヤ人たちは「私たちには人を死刑にする権限がありません」と言いました。
これを聖書は「それは、御自分がどのような死を遂げるかイエスの言われた言葉が実現するためであった」と解説しています。イエスは、ヨハネ福音書で「私は地上から上げられる時全ての人を自分のもとへ引き寄せよう」と言い、他の福音書で「自分は祭司長たちに引き渡され、異邦人によって十字架につけられる」と予告しています。ユダヤ人の思いと力が支配している世界で事柄は進んでいるようですが、ここはイエスと共に神が御支配している神の国で、イエスは神の御心と御業によって十字架へ歩まれたのです。ユダヤ人は律法によって石打ちの処刑ができましたが、ローマの総督によって十字架につけられることが神の御心による処刑だったのです。その処刑が罪を贖い、その贖いが自分の為であると、信じて見上げる者に救いと永遠の命を与える道なのです。
ピラトはイエスを呼んで、「お前がユダヤ人の王か」と尋問しました。ピラトには、イエスが神を冒涜しているか否かには関心がなく、ローマに反抗する王か否かに関心がありました。イエスは尋問に正面から答えず、判断をピラトに委ねました。ピラトはイエスが分からなくなり「お前は一体何をしたのか」と迫りました。イエスは、自分は神の国に属し、この世には属していない、と答えました。それでピラトは「やはり王なのか」と重ねて問います。イエスは「私は王である。しかし真理の国の王で、神の国の真理を証しするために世に来た。真理に属する者は皆私の声を聞く」と答えました。ピラトは「真理とは何か」と言って、そんなことに自分は関心がないとイエスから離れてユダヤ人の方に行きました。
神の国は真理の国で、神の真理が光で、道です。神の真理を知ることが救いです。ピラトは、祭りの時に一人釈放できるので、イエスを釈放しようと思ってユダヤ人に同意を求めました。ところがユダヤ人たちはその提案を拒否して「釈放はバラバを」と主張しました。ピラトは、イエスを鞭打って憐れな姿にし「可哀そうだ釈放してやれ」の声を期待して「見よ、この男を」とユダヤ人たちに示しました。すると彼らは「十字架につけろ」と叫んだ。それでピラトは恐ろしくなり、イエスに「お前はどこから来たのか。私にだけは答えよ。私はお前を釈放する権限も、十字架につける権限も持っている」と迫りました。しかしイエスは「神から与えられなければ、私に対して何の権限もない」と言いました。そしてピラトは自分にその権限があるのに、自分の意志とは違う人々の声に支配されてイエスを十字架刑にする判決を下しました。イエスは、神の御心によって十字架で神の救いを成就されたのです。
2014年4月6日
説教題:弟子の足を洗うイエス
聖書:ヨハネによる福音書 13章1-20節
主イエスは、弟子たちと最後の晩餐をした時、この世を去って天の父のもとへ移る時が来たこと、ご自分の死が迫っていることを悟って、弟子たちをこの上なく愛し抜かれました。ご自分がこの世に遣わされた使命を果たし抜く思いを強くされたのです。
主イエスは、神の御旨に従って罪人の罪を贖うことがご自分の使命であることを思い、自分に託されている弟子たち全てを最後まで愛し、罪を贖い抜く決意をされました。
既に悪魔は、ユダにイエスを裏切る思いを抱かせていました。しかし、イエスは悪魔から逃げたり抵抗して助かろうとせず、動揺することなく、父が全てをご自分にゆだねていることを知って、託されている使命を果たし抜くことだけを思われました。神の御心がなるように進む決意を一層強くして、ご自分の意志で十字架への道を進まれました。
それで「イエスは食事の席から立って上着を脱ぎ、手拭いを腰にまとい、たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗い、ふき始めました。」この姿は奴隷の姿です。弟子たちに、お互いに仕え合いなさい、と身をもって教える行為です。しかしそれ以上に、これは神の子が奴隷の身分になって死に至るまで神に仕え、神に従順に従ってご自分の務めを果たしていることを示しています。イエスは神の忠実な僕となって十字架に進まれたのです。
12「イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着き」ました。4節の「上着を脱ぐ」は「命を捨てる」ことで、「上着を着る」は「命を受ける」ことです。この福音書10章に「私は羊のために命を捨てる」「再び命を受ける」とありますが、その「捨てる」「受ける」と、ここの「脱ぐ」「着る」は同じ言葉です。
ペトロは、イエスが弟子の足を洗う行為を奴隷がする事をしていると見て、「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか」と言いました。イエスの心が理解できなかったのです。イエスは「私のしていることは、今あなたには分かるまいが、後で分かるようになる」と言われました。今説明しても分からない。しかし後で分かるようになる。私たちにもそういうことがあります。ですから焦らず諦めずイエスとの交わりを続け深めて行くことが大事です。そうすれば分かるようになります。しかしペトロは「私の足など決して洗わないでください」とイエスに言いました。この世的な思いで恐縮して言ったのです。
イエスは「私が足を洗わないなら、あなたは私と何の関わりないことになる」と言われました。「関わり」は「分け前をもらう」ことで、イエスと関わりがなくなると、イエスが持っている罪を贖った命を受けられない、神の国の権利が得られないことになります。ペトロは「足だけでなく、手も頭も」と言いました。イエスは「既に体を洗った者は全身が清い。足だけ洗えばよい」と言われました。体を洗ったとは洗礼を受けているということです。その人は足だけ洗えばよい。しかし足は洗っていただくことが必要です。
最後の晩餐での主イエスの洗足は、これから行われる聖餐式を意味しています。主は今も私たちの足を洗ってくださっています。主の愛の御業に感謝をもって与かりましょう。