2022年9月25日
説教題:主に清められる
聖 書:レビ記14章1~9節、ルカによる福音書5章12~16節
イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。
(ルカによる福音書5章12~13節)
ルカによる福音書をご一緒に読み進み、イエス様の恵みを主の日ごとにいただく幸いに与っています。今日の箇所にいたるまで、私たちは礼拝のたびにイエス様がおっしゃる御言葉・神さまの御言葉が絶大な力をもって働くことを知らされてまいりました。御言葉は悪しきものを神さまの御前から退散させ、私たちから去らせます。また御言葉によって、イエス様は私たちを神さまに、またイエス様自身に力強く引き寄せてくださいます。その二つの恵みを心において今日の聖句に臨むと、私たちは「清いもの」と「清くないもの・汚れたもの」に気付かされます。
御言葉によって神さまとイエス様に引き寄せられるのが、「清いもの」です。「汚れたもの」はその逆に神さまの御前から取り除かれ、私たちから遠ざけられます。それを思うと、今日の聖句が語る「全身重い皮膚病にかかった人」の願いがどれほど痛切なものだったかが想像できるでしょう。
旧約聖書の時代、イエス様の時代、そして比較的近年にいたるまで「重い皮膚病にかかった人」は社会から遠ざけられていました。感染しやすく治療がきわめて難しい病気とみなされて、社会から隔離されていたのです。
皆さんの中で比較的古い版の聖書をお持ちの方は、今日の聖句の「重い皮膚病」のところに「らい病」とあることに気付いておられるでしょう。ハンセン氏病のことを「らい病」と呼んだことがあったようです。感染しやすくて治らないと思われていたハンセン氏病は、医学の進歩とともに実は感染力が弱く、人にうつりにくいことがわかり、1943年に薬が開発されて完治の道が開かれました。ハンセン氏病と診断されても、実は隔離の必要などなかったのです。 診断された人が社会から断絶・隔絶されて生涯を送るなどもってのほかだったとわかったのは、つい数十年前、20世紀のことでした。その時を迎えるまで、多くの人々が隔離生活を余儀なくされていたのです。
旧約聖書では、重い皮膚病にかかった人がすべきこととして律法に次のように定められています。レビ記13章45節からお読みします。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらなければならない。この症状がある限り、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」
病気の自覚がある者は、自分で自分を「汚れた者」と呼び、しかも人に感染させないよう、人を遠ざけるためにそれを大声で言わなければなりませんでした。衣服を裂き、髪をほどいて、見てすぐにその病気だとわかるようにしなければなりません。そして「宿営の外」・人々の居住地域の外で過ごさなければなりませんでした。共同体からはじき出され、疎外されてしまったのです。病気であるにもかかわらず看病してくれる人もなく、衣食住の保障もなく、これまでの生活から放り出されてしまうその孤独感と絶望感はどれほど深かったことでしょう。
今日のルカ福音書の聖書箇所で、イエス様を「見てひれ伏し」(ルカ福音書5:12)た人は、その孤独と絶望のただ中にいました。この人は、イエス様が御言葉によって癒しのみわざを行い、病気の者に一人一人手を置いて癒してくださったと噂に聞いて、イエス様だったら今の状況から自分を救い出してくださると望みを抱き、勇気を出してイエス様の御前に進み出てひれ伏したのでしょう。
しかし、この人がイエス様に言った言葉に、私たちは驚かされます。私たちは、この人がイエス様に「私の重い皮膚病を癒してください」とお願いしたと想像しがちです。ところが、この人はこう言ったのです。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」(ルカ福音書5:12)
この人にとっての大問題は、病気か健康かではなく「清い」か「汚れている」かでした。清ければ共同体でみんなと一緒に暮らせます。「汚れたもの」とみなされている今はそれができず、仲間と暮らせません。なぜなら、汚れているから神さまの宝の民の一人ではないとみなされていたからです。この人にとっては、神さまの宝の民から成る共同体・信仰共同体の一員ではなくなってしまったことが、病気の苦しみよりもつらいことだったのです。
「清いもの」であるしるしは、共同体が献げる礼拝に出席することでした。「清いもの」は神さまに聖別され、神さまのものとして特別に取り分けられています。神さまの宝の民は「清いもの」、神さまに清められて聖別されたものなのです。
神さまを主と仰がず、偶像を崇める異邦人は礼拝の場では区別されています。神さまの民ではないとみなされました。エルサレム神殿には「異邦人の庭」があり、偶像を崇める異邦人は神殿の建物の中に入ることさえできませんでした。異邦人は神さまのものではなく、聖別されておらず、清くないとみなされたからです。
その異邦人と同様に、仲間ではないと差別され、あっちへ行け、神さまはお前のことなんか知らないと言われるのが、この人にとっては病気の苦しみよりもつらく悲しく心をえぐられることでした。
この人は共同体に戻りたい、そのために清められたい、神さまのものだと証しされたいと願いました。しかし、この人はイエス様に「お願い」をしませんでした。
この人が言った言葉・ルカによる福音書5章12節を、今一度、注意深く読んでいただきたいと思います。お読みします。「(イエス様、あなたはわたしを)清くすることがおできになります。」
「御心ならば」という言葉は、もとの聖書の言葉では「イエス様がそうしたいと思われるのならば」と直訳できます。イエス様なら、そのお気持ちさえあれば、この私をご自身に近く引き寄せてご自分のものとしてくださることができます ― この人は、イエス様が、自分に何をする力をお持ちなのかを率直にイエス様に申し上げたのです。
前回の説教箇所で、イエス様はペトロ、ヤコブ、ヨセフを招き、ついてくるようにと引き寄せて、ご自分の弟子とされました。ペトロはイエス様が大漁の奇跡を起こしてくださったのを目の当たりにして、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ福音書5:8)と恐れおののきました。ところが、自らを恥じてイエス様から遠のこうとしたペトロと仲間の漁師たちを、イエス様は強く招いてくださったのです。この重い皮膚病の人は、自らを罪深く、神さまの御前に立つ清さを持たないと自覚した者を、イエス様が引き寄せてくださったこの出来事を聞いて知っていたのでしょう。そして、この望みを抱いたのです ― イエス様なら、自分を再び聖なる信仰共同体へと引き寄せてくださるに違いない。だから、この人はイエス様の前にひれ伏してすぐにこう言ったのです。「イエス様、あなたなら共同体からはじき出されたこの自分を神さまのもとへ引き寄せることができる方です。そうしようと思えば必ずおできになる方です。」つまり、この人はイエス様に、あなたは「清いか・清くないか」を決められる方・聖別をなさる方だと言ったのです。これは何を意味するでしょう。聖別なさるのは神さまですから、この人は、イエス様に、あなたは神さまだと信仰を告白したのです。
イエス様は、この人の信仰を受け入れられました。イエス様はまず、この人に何をしたでしょう。御言葉を発される前に「手を差し伸べてその人に触れ」(ルカ福音書5:13)られました。繰り返しますが、この人は「汚れています」と自ら叫んで、近寄る人を遠ざけなければならないと律法で決められています。
その人にイエス様は手を伸ばし、体に触れられました ― 律法を超えたのです。律法を造られた神さまだからこそ、イエス様は律法を超えることがおできになるのです。この人に触れることで、イエス様はこの人が「ご自分のもの」すなわち「清いもの」だと示されました。それから、この人に働く力・御言葉を発されました。「よろしい。清くなれ」(ルカ福音書5:13)と聖別してくださいました。
「よろしい。清くなれ」 ― この御言葉は次のように直訳できます。この人が言った「御心ならば、イエス様がそうしたいと思われるのならば」に答えて「わたしはそうしたいと思う。あなたを清くしたい、あなたを自分に引き寄せたいと思う。なぜなら、あなたは私が愛する大切な人だからだ。清くなれ。」
御言葉の力によって、この人の全身を覆っていた重い皮膚病の症状は消えました。イエス様は律法に定められているとおりに、元どおりになった体を祭司に見せるようにと言いました。今日の旧約聖書の言葉にあるように、清めの儀式を経て共同体に復帰して、礼拝に出席できるようになるためです。それによって、共同体に仲間だと認められ「よく帰って来た、おかえりなさい」と迎え入れられるためです。
イエス様がこの人を清めてくださって、この人のために本当に良かったと思う一方で、皆さんは今、「清い」とか「清くない」とか、「礼拝に出て良い」とか「礼拝に出ない人は仲間ではない」とか、イヤな考え方だと感じておられると思います。今日の御言葉が語っているのは、そういうことではありません。ここで私たちに語りかけられているのは「本当は、私たちはみんな清い」ということです。
私たちはそろって神さまに深く愛されて造られ、そもそも初めから神さまのもの・清いものです。だれもが皆、礼拝に出席できます ― キリストの教会では、当たり前のことです。
ところが、私たちは清い者であるにもかかわらず、自分で勝手に礼拝に出ないことがあります。現代の生活では、特に感染拡大防止に努めるこの2年半を通して、私たちは具体的に礼拝に出席できないことがあると深く実感しました。
ですから「礼拝に出席しない」とは、日曜日の決められた時刻に会堂にいるという物理的な事象よりも「神さまに心を向けない」「神さまを忘れている」ことを意味すると考えると良いでしょう。
私たちは、時に、神さまの御前にひれ伏すことを忘れて自分の様々な事情を優先してしまう者たちです。その私たちを、イエス様は呼び戻してくださいます。ご自身に近づけ、引き寄せてくださいます。
そのために、イエス様はご自分を犠牲にしてくださいました。今日の旧約聖書の聖句で、清めの儀式に生きている清い鳥の血が用いられます。レビ記14章6節に、このように記されています。お読みします。「…杉の枝、緋糸、ヒソプおよび生きているもう一羽の鳥を取り、さきに新鮮な水の上で殺された鳥の血に浸してから、清めの儀式を受ける者に七度振りかけて清める。」一人の人を神さまのもとに連れ戻し、共同体での生活に戻す清めの儀式のために、ひとつの命が犠牲になり失われます。
イエス様は、私たちを信仰共同体に引き寄せてくださるために、犠牲となるこのひとつの命となってくださったのです。イエス様は、私たちを神さまの御前に連れ戻してくださるために十字架に架かられ、肉を裂かれ血を流して、私たちのために命を捨ててくださいました。
私たちが清められ、救われたしるしとして三日後に復活され、私たちに永遠に神さまのものである・永遠に清いものであるとの約束を与えてくださいました。
このイエス様の御前に、瞬間・瞬間、この重い皮膚病にかかった人のように心でひれ伏して思いを献げましょう。イエス様、私を神さまのもとに帰すことがおできになる方は、あなたの他にはおられません ― 御心ならば、イエス様、あなたの十字架のみわざとご復活を通して私を永遠に神さまのもの・清いものとならせ続けてください。それがおできになるのは、ただ一人イエス様だけです ― そう信仰を告白し、願い、祈りましょう。イエス様は手を伸ばして私たちの心に触れ、必ず清めてくださいます。私たちから離れず、今日から始まる新しい一週間の一日一日を守り導き、支え抜いてくださいます。その恵みに感謝して、安心して進み行きましょう。
2022年9月18日
説教題:お言葉ですから
聖 書:イザヤ書6章8節、ルカによる福音書5章1~11節
…シモン・ペトロは、イエスの足元にひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは陸に舟を引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
(ルカによる福音書5章8~11節)
前回の主日礼拝説教で、私たちはイエス様がシモン・ペトロの家でいやしのみわざをなさった出来事を御言葉に与り、主のいやしの御力の恵みをいただきました。今日は、そのシモン・ペトロがイエス様の弟子となった出来事を語る聖書箇所をいただいています。
この前の礼拝説教でもお伝えしたことですが、マタイによる福音書、マルコによる福音書ではイエス様が湖の岸辺を通りかかって、出会った漁師たちを招き、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネは招かれたとたんにイエス様について行く決心をたちどころに固め、すべてを捨ててイエス様に従うと記されています。
二つの福音書に記されているまさにそのとおりを、私たちは事実として心に受けとめます。今日のルカによる福音書の聖書箇所は、その背景にあるいきさつをいくぶん詳しく、私たちに知らせてくれています。
その前に、シモン・ペトロという名前について少しご説明しておきましょう。シモンは、イエス様のお名前であるイエスをはじめとする聖書によく出て来るヨハネやヨセフと同じように、ユダヤ民族の男性の名前として一般的なものです。新約聖書では、イエス様の十字架をイエス様に代わってかついだ人物の名がシモン、キレネのシモンです。イエス様の12弟子にはこのシモン・ペトロの他にももう一人シモンという名の弟子がいて、一番弟子のシモン・ペトロと区別するために、そちらのシモンは熱心党のシモンと呼ばれています。
シモン・ペトロのペトロは、イエス様がシモンにつけた呼び名で「岩」を指します。彼の性格が、良く言えば一徹で一度決めたら揺るがないこと、悪く言えば頑固で岩のようだったからと言われています。彼はこの性格ゆえに、イエス様から「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ福音書16:18)と言葉をいただきました。彼はガリラヤ湖畔の漁師で、ルカによる福音書ではイエス様が伝道活動を始めた当初からイエス様の説教を聞き、イエス様を慕い、礼拝が終わってから家に招くほど親しんでいたことが伝えられています。
今日の聖書箇所の冒頭に、イエス様が湖畔に立っておられると、お話を聞こうと群衆が岸辺に押し寄せ、イエス様も群衆も湖に落ちそうな危険な状態になったと記されています。
イエス様は周りを見渡して、親しい間柄になったペトロとその仲間の舟二そうが漁から帰って岸に上げられ、ペトロたちが網の手入れをしているのに気づきました。そこで、彼らの手を借りようと思い付きました。これは、たいへん大切なことなので、ぜひ心に留めておいてください。イエス様は神さまですから、どんな課題もご自身でたちどころに解決されますが、この時、私たち人間をご自身のお働きに参加させてくださろうと思ってくださったのです。
今、「働き」という言葉を用いましたが「働き」は元の聖書の言葉で何と同じだったか、覚えておられる方はおいででしょうか。「権威」と同じです。神さまの権威ある御言葉 ― 御言葉が人となられたイエス様の「お働き」である「御言葉」を伝える伝道に、イエス様は漁師たちを招く思いを抱かれました。
イエス様はこの意図のもとに、ペトロの舟に乗って湖に少し漕ぎ出させ、群衆が押し合いへし合いしなくても互いに安全にイエス様の話を聞けるように計られました。
話が終わって群衆が帰り始めると、イエス様は不思議なことをペトロに勧めました。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」(ルカ4:4)ペトロは驚いたことでしょう。
洋の東西を問わず、漁師は魚が海面近くに集まる日没から夜明けにかけての時間帯に漁をします。日中に漁をしても、成果が上がらないのは明らかです。また、この時、ペトロたちは明け方の漁から戻ったばかりで、舟を陸に上げて網の手入れをしていました。
陽が高い時間に漁に出かけても、魚はいません。そもそも、この日は魚が水面に上がってこなかったらしく、ペトロたちは一晩中漁をしていたのにまったくの不漁でした。さらに、イエス様は大工さんで漁のことはご存じないはずなのです。ペトロからすれば、一仕事した後で疲れているので、舟をもう一度漕ぎ出したくないというのが本音だったでしょう。どうしてイエス様はこんなことをおっしゃるのだろうと、彼は不思議に思ったでしょう。
しかし、ペトロはイエス様が御言葉によって大きなお働きをされるのを間近で見て来ました。イエス様は、御言葉によって会堂の礼拝で悪霊を男性から追い出しました。イエス様は、御言葉によってペトロのしゅうとめの高熱をいやしました。今、イエス様は御言葉によって自分に「漁をしなさい」と働きかけておられるのです。
また、何よりも、ペトロはイエス様のことが大好きで深く尊敬していました。せっかくイエス様がこうおっしゃるのだから、疲れているけれどイエス様のために、もうひとがんばりしてみようとペトロは思ったのでしょう。頑固なペトロですが、イエス様に「魚の獲れる時間じゃない」と強く言い張らず、「お言葉ですから」と自分を曲げてイエス様の言葉を受け入れました。それは、イエス様へのペトロの信頼と優しさ、そしてまだ自覚はしていませんでしたが真実の主の御前での従順の表われでした。
ペトロはその単純だけれども一徹な人柄ゆえに人望があり、漁師仲間ではリーダー格だったと思われます。彼は仲間の漁師たちに、イエス様が舟を出してみろとおっしゃっているのだから、出してみようぜ!と声をかけて、彼らは沖に漕ぎ出しました。
イエス様の言葉どおりに網を降ろすと、網が破れそうになるほどの魚が獲れました。二そうの舟が沈みそうになるほどの大漁となったのです。イエス様のことが大好きなペトロですが、イエス様はやっぱりすごい!とハグするようなことはしませんでした。
この時、彼の脳裏をよぎったのは悪霊を追い出し、高熱をいやしたイエス様の神さまとしての御言葉の働き、その力がとにかく絶大だということでした。すさまじさでした。この方は自分たちとは次元が違うとペトロは直感し、自分にはその方の前にいることすらできないとおののきました。
さらに彼は、「漁をしなさい」と言われた時に、自分はすぐに従ったわけではなかったことも思い出して恥じ入りました。イエス様の御言葉が働く時に、自分はその働きを妨げるように「何もとれなかった(から、漁に行きたくない)」と的外れのことを言ってしまったのです。イエス様の足もとにひれ伏して、ペトロは思わずこう言いました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」
聖書の元の言葉では「的外れ」と「罪」は同じ単語です。私たちはペトロのように、小さく貧しい人間の知識や自分の経験からだけで神さまの御言葉を知ろうとし、勝手に判断して「的外れ」な言動をする「罪深い」者なのです。それを自覚した時、ペトロとその仲間 ヤコブとヨハネは実に従順に自分の小ささを認め、それを恥じてイエス様の前にひれ伏しました。イエス様が次元の違う高みにおられる方であることを深く心と魂で知り、自分を恥じてイエス様から離れようとしました。そのペトロに、イエス様はおっしゃいました。「恐れることはない。」それほど小さくなることはない、この私におののくことはない、離れずに一緒に進んで行こうではないかと招いてくださいました。イエス様は、私たち人間に寄り添ってくださる方です。決して離れることなく、共に歩んでくださる方です。だから、この時もペトロに遠のいてはいけない、近くにいなさい、一緒に働こう、私と共に歩もうとおっしゃってくださいました。
この時にイエス様がおっしゃった「人間をとる漁師」という御言葉は、少しわかりにくいかもしれません。良いイメージよりも、網にからめとられるネガティブなイメージが浮かんでしまう言葉ではないでしょうか。皆さんには、「人間をとる漁師」という言葉から、このようなことをイメージしていただきたく思います。
魚はえら呼吸ができるので、水の中で生きていられます。しかし、人間はえら呼吸ができないのに、水に閉じ込められて罪の重しをつけられて窒息しかけているというイメージです。
さまざまなこの世の価値観が、私たちを窒息させようとしています。息苦しくさせています財産への欲求、能力を求める思い、この世の競争を勝ち抜いて勝ち組になりたい願い、自己実現を達成したいばかりに自分を追い詰めるプライド…などなどの偶像が、私たちを息苦しくさせているのです。
こうしたこの世の価値観を優先して、その達成のために自分自身をこの世すなわち水中に自らを没してしまう私たちは、自分で自分を窒息させているようなものです。この世の価値観という偶像を崇拝して、神さまを忘れているという点で、私たちは実に的外れな選択をしています。的外れ、すなわち罪深い者たちなのです。水の外に出られたら、神さまの御手の中に救い上げられ、自由に聖霊の風で胸をいっぱいに満たされ、真実の満足と平安に満たされます。
イエス様は神さまの恵みを知らせて水中から人間を救い上げる(掬い上げる)伝道のみわざへと、ペトロたちを招きました。
もちろん、真実に人間を救ってくださるのはイエス様だけです。私たち人間には、私たち自身を救うことができないからこそ、神さまはイエス様を私たちに遣わしてくださったのです。私たち教会はその救いのみわざを語り伝え、ご復活で約束された永遠の命・水の外の自由な命の約束を広く知らせる福音伝道の働きを担わせていただいています。それが「あなたがたは人間をとる漁師になる」(ルカ福音書5:10)と語られたイエス様の招きの御言葉です。このイエス様の御言葉に招かれて、私たちもペトロやヤコブ、ヨハネのようにイエス様についてまいりましょう。
今日は少し時間が残っているようですので、いただいた聖書箇所の三つの導きをご一緒にあらためて心にいただきましょう。最初の導きは、イエス様の御言葉の働きの絶大な力を心と魂で知るということです。二つ目の導きは、その絶大な御言葉の力、神さまのみわざの御前で、私たちがそれぞれの小ささ・的外れでとんちんかんな罪深い者であることを知るようにと勧めています。自らを恥じて、聖なる神さまから俗なる自らを遠ざけようとする私たち人間を、イエス様は招いてくださいます。そして、私たちは「お言葉ですから」と、イエス様に従うのです。これが、今日の三つ目の導きです。私たちを大いに力づけるこの導きは、御言葉の働きを共に行なおうと召し出してくださるイエス様の招きです。
御言葉の絶大な御力を知る、その御前での自らの罪を知って恥じて神さまから離れようとする、ところが神さまはその私たちを強く招いて共においでくださる ― この三つの恵みは、私たちが聖書を開くたびにどの御言葉からもいただく大きな喜びです。神さまの愛の表われです。私たちは愛されている喜びを知るたびに、その都度新しく、イエス様に従って、神さまのものとして生きる決意・信仰の決断を新たにされます。それを繰り返して、私たちは信仰生活を送ります。
今週も、どんな小さなことにも忠実にイエス様に教えられたとおりに「お言葉ですから」と自分の思いよりもイエス様を重んじる私たちでありたいと願います。イエス様に従い続けることにこそ、真の幸いと平安があることを心に留めて今日から始まる新しい一週間の一日一日を進み行きましょう。
2022年9月11日
説教題:いやしと宣教
聖 書:イザヤ書35章3~6節、ルカによる福音書4章38~44節
日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。…イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。
(ルカによる福音書4章40、43~44節)
今日は御言葉の説き明かしの前に、讃美歌173番「荒れ地よ、喜べ」を讃美しました。歌詞からお気付きになったと思いますが、173番は今日の礼拝で、ルカによる福音書4章38~44節の聖書箇所と共にいただいている旧約聖書イザヤ書35章の聖句を歌った讃美歌です。かつては緑が美しかった草原が踏みにじられて荒れ地・砂漠になってしまったと、歌います。この言葉は、小さいけれど宝石のような美しさを讃えられたイスラエルの国が大国の侵略によって滅び、廃墟となってしまったことを語っています。
イスラエルの人々は、喪失感からすっかり無気力になっていました。その彼らに、神さまは預言者イザヤを通して励ましの御言葉を贈られました。それが、イザヤ書35章、讃美歌173番の歌詞となっている聖句です。
荒れ地よ、悲しんでいる神の民よ、あなたは喜びに踊る! なぜならあなたがたの神であるわたしが、荒れ地に野ばらの花を一面に咲かせるからだ、あなたがたに幸いと平安を豊かにそそぐからだ!と神さまは回復の約束を告げてくださいます。
神さまがなさる回復のみわざを、聖書は「いやし」という言葉で表現します。神さまはユダヤの悲惨な歴史に恵みの「いやし」を与えてくださったのです。いえ、実際には聖書の「いやし」は回復以上の恵みです。回復はマイナスの状態から元に戻ることをさしますが、イザヤ書35章の御言葉では、荒れ地は緑地・草原に回復されるだけではなく、花園になります。「元どおり」を超えて、それ以上のもの・神さまは前よりもすばらしく、力に満ちたものに私たちを造り変えてくださいます。私たちを前よりもすばらしいもの、「いやし」をいただく前よりも神さまに喜ばれるものに造り変えてくださる ― これこそが、神さまの「いやし」のみわざです。このみわざはイエス様の十字架の出来事とご復活によって、私たちにわかりやすく、はっきりと示されました。
神さまのご計画によってイエス様は十字架に架かり、三日後によみがえられました。十字架に架けられる前の、人として生きたイエス様がよみがえったばかりでなく、ご復活のイエス様は人としての有限の命を超えて、私たちに永遠の命を約束してくださるお方として復活なさいました。
私たちは洗礼を受けて神さまのものとなることによって、イエス様にならうものとされています。神さまは私たちを造られましたが、そのままの私たちではなく、イエス様との出会いを与えてくださいました。洗礼によって私たちは罪を洗い流されてゆるされただけではなく、信仰者として神さまを仰ぐ者とされたのです。罪によって私たちが知らぬうちに破っていた神さまとの絆が、こうしてより確かなものに結び直されたのです。
イザヤ書35章6節の御言葉は「歩けなかった人が」元どおりに歩けるようになるだけでなく、「鹿のように踊り上がる」と告げています。「口の利けなかった人」がお話しできるようになるだけではなく、「喜び歌」えるようにしてくださるのです。
その「いやし」のみわざをなさる神さまを見なさいとイザヤは語り、今日のイザヤ書35章4節の最後の聖句では「神は来て、あなたたちを救われる」と喜びを告げ知らせます。
神さまは私たちをあらゆる苦しい状況から救い出し、前よりも力あるもの・生き生きとした命に満ちたものに刷新・リニューアルしてくださいます。それを神さまのみわざとして告げ知らせ、宣教・伝道してゆくのが私たち神の民・信仰者の務めです。
神さまの「いやし」と、それを広く人々に知らせる「宣教」は深く結びついています。
神さまからいただく「いやし」のみ恵みを、私たちは讃え、宣べ伝えることで神さまへの感謝を表わします。
「歩けなかった人」が神さまにいやしていただいて「躍り上がる」のは、喜びと感謝の舞を献げています。「口の利けなかった人」が神さまにいやしていただいて「喜び歌う」のは、もう言わなくてもご承知と思いますが、神さまへの讃美を献げているのです。
神さまから恵みをいただくと、私たちはただ黙って受け取るだけではなく感謝を献げ、それを通してより強く神さまと結びつけられ、絆をいただくようになります。それを繰り返して、私たちは生き生きとこの世を歩み、喜ばしい信仰生活と命を生きてゆきます。信仰生活とは、常に新しくいやされ、その喜びを伝えてゆく歩みと言い換えても良いでしょう。
さて、今日の新約聖書の御言葉 ルカによる福音書4章38~44節にも、イエス様がなさったことを通して「いやし」と「宣教」の深い関りが語られています。
前回の礼拝では、この直前の出来事を語る聖書箇所をご一緒に読みました。その箇所で、イエス様は礼拝の中で、悪霊に取りつかれた男性から、その悪霊を追い出して人々の元に取り返してくださいました。ここでイエス様が語られ、悪霊を叱りつけられた神さまの言葉は礼拝の中でだけ効果があるのでしょうか? いえ、御言葉は私たちが礼拝を終えて、それぞれの生活に戻ってもなお、強い力をもって私たちを導き守り、支えてくれます。
さて、このようなことを心に留めてから、今日の新約聖書の聖書箇所を初めからご一緒に読んでまいりましょう。
礼拝後のことが、今日の聖書箇所の冒頭にこのように記されています。「イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。」(ルカ福音書4:38)このシモンとは、イエス様の一番弟子ペトロのことです。
マタイによる福音書、マルコによる福音書では、イエス様はペトロとアンデレの兄弟に会って、その場で彼らを弟子に招き、ペトロとアンデレは何もかも捨ててイエス様に従い弟子になったことが記されています。それはもちろん、そのとおりですが、ルカによる福音書を書いた福音書記者は、その時にイエス様がペトロに初めて会ったわけではなかったと解釈しています。それがはっきりとわかるのが、今日のこの箇所です。カファルナウムのあちこちの会堂で説教をなさるイエス様のお話を、ペトロはこれまで何度も聞いていて、すでにイエス様とある程度の知り合いになっていたと、ルカによる福音書は告げています。
そのようにイエス様を慕うようになっていた者たちは、ペトロの他にもいたでしょう。彼らはもっとイエス様と一緒にいたいと思いました。礼拝が終わった後、ペトロは自分の家にイエス様を招きました。他の者たちも、イエス様とペトロの後についてきました。
これは、礼拝が終わって私たちが会堂から世に遣わされてゆく時、イエス様が私たちと一緒においでくださることを示していると言ってもよいかもしれません。ここに、礼拝で心に受けた御言葉なるイエス様を自分の平日の生活に持ち帰って、新しい一週間を過ごす力とする私たちの信仰生活が表されているように思うのです。
さて、イエス様をお連れして、シモン・ペトロと友人たちはペトロの家に着きました。ところがシモン・ペトロの家では思いがけず、ペトロのしゅうとめが高熱に苦しんでいました。しゅうとめとは、お嫁さんのお母さんのことですね。ペトロは結婚しており、妻の母・義理の母であるしゅうとめが同居していたのは、彼女が夫を亡くした未亡人、聖書でしばしば使われる言葉では「やもめ」として経済的にはペトロの世話になっていたからだと推測できます。おそらく、しゅうとめは実の娘であるペトロの妻と共に家事や育児に勤しんでいたのでしょう。この時のように客人が来れば、もてなすこともしたでしょう。
その義理のお母さんが会堂から帰ったら体調が悪くなっていたので、ペトロは驚き、大いに心配してうろたえたのではないでしょうか。家の人々も、イエス様と一緒に会堂からペトロの家を訪れた人々も、礼拝でイエス様が悪霊を退散させて男性を救ったのを目撃していましたから、何とかしゅうとめを助けてやってくれとイエス様にお願いしました。イエス様は、その願いを聞き入れてくださいました。何をされたかが39節に記してありますが、これは興味深い表現です。お読みします。「イエスが(高熱で寝込んでいるしゅうとめの)枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り」。
イエス様は、悪霊を神さまの御力の発出である御言葉によって悪霊を叱りつけて退散させました。この時も同じように、イエス様は「御言葉」を用いられて病をいやされました。
病が悪霊のしわざだと考えられていたという時代的な背景よりも、ここではイエス様が「御言葉」を用いられたことを深く心に留めてください。御言葉の御力により、しゅうとめはいやされました。
いやされた直後に、しゅうとめは何をしたでしょう。私たちがいやしをいただき、神さまとの絆が刷新されると、私たちが神さまに何をするかを、先ほどお話ししました。何だったでしょう。そうです、私たちは神さまに感謝を表わします。鹿のように躍り上がり、讃美の歌を歌います。いやされたしゅうとめが何をしたかが39節後半に記されていますので、お読みします。「彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。」
「もてなす」は神さまへの感謝だろうか?と疑問を感じる方もおられるかもしれません。「もてなす」とは、人に見返りを求めずに親切にすることです。言い換えれば、奉仕することです。
ローマの信徒への手紙で、パウロは次のように信仰者に勧めを語っています。「旅人をもてなすように努めなさい。」(ローマの信徒への手紙12:13)また、ペトロの手紙一にもこう記されています。お読みします。「不平を言わずにもてなし合いなさい。」(ペトロの手紙一4:9)私たちが神さまにお仕えして奉仕し、互いに奉仕して仕え合うと神さまは喜ばれます。神さまからいただいた恵みへの感謝を、こうして私たちは隣人に仕える行動である「もてなし」で表すのです。しゅうとめは、いやされた感謝を「もてなし」で献げました。実際に、客人として家においでになったイエス様をもてなしているのですから、直接的な奉仕と申しても良いでしょう。
イエス様がペトロのしゅうとめにいやしのみわざを行ったことは、すぐに近隣に広まったようです。続く40節をお読みします。「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。」
ユダヤの一日は夕方、日没から始まります。「日が暮れる」とは安息日が終わり、新しい一日が始まったことを示します。安息日には律法の定めによって、特に当時は律法学者の人間的な解釈によって行動や出歩く範囲に制限がありましたが、翌日は通常の日でその制限が解かれていました。家族や友人に連れられてイエス様のところに集まって来た病に苦しむ者たちを、イエス様は受け入れられました。
イエス様が彼らに何をなさってくださったか、40節の最後の御言葉をお読みします。「イエスはその一人一人に手を置いていやされた。」
礼拝の時、またペトロのしゅうとめになさったように、御言葉だけでいやしのみわざを行ったのではありませんでした。イエス様は、一人一人に手を置き、一人一人と絆を結んでくださいました。
これも、日曜日の礼拝から戻って平日の私たちに起こることです。私たちは一人一人、礼拝でイエス様から御言葉の恵みをいただき、それをイエス様は一人一人の心に、それぞれに合わせたかたちで平日の間に語りかけ続け、励まし続けてくださいます。
さらに、41節には、私たちが特に心に留めるべき事柄が記されています。イエス様は御言葉により、一人一人から病を、また悪霊を退散させました。悪霊はイエス様に「お前は神の子だ」とわめきながら、取りついていた人々から出て行きました。イエス様が神の御子なのは真実ですが、イエス様はここに記されているとおり「悪霊を戒めて、ものを言うことをおゆるしにな」(ルカ福音書4:41)りませんでした。
真実・事実・真理なのに、またイエス様が神さまの御子であり、私たちの救いのために世に来られたことを広めるのは宣教・伝道になるのに、どうして言ってはいけないのかと思ってしまいますが、イエス様は悪霊の口を封じました。これは、悪霊によって「イエス様がメシア・救い主である」ことが人々に誤解されるのを避けるためです。
これまでの礼拝で何度も繰り返しお伝えしたように、ユダヤの人々はメシアと聞けば、自分たちユダヤ民族を他民族の支配から解放して自由にしてくれる政治的指導者のことだと誤解して考える傾向にありました。イエス様は、この誤解が広まるのを避けようと悪霊の口を封じました。
また神さまの「いやし」は、悪に取りこまれてしまう私たち人間の考えとは異なることがあります。先ほど、何度か「いやし」のプロセスについて「元どおりになる」そして「元どおりよりもさらにすばらしくなる」と申しました。
しかし、神さま・イエス様の「いやし」にあっては「元どおり」を通り越して一気に「元どおりよりもさらにすばらしくなる」ことがしばしば起こります。人間の目から見れば「元どおりにならなかった」けれど、まったく思いもかけなかった別の恵みが与えられるのです。
星野富弘さんという画家がいます。この方はある事故に遭わなければ画家にならなかったかもしれません。体育教師として初めて生徒たちの前に立ったその日に、星野富弘さんは体操の模範演技をしました。ところが、星野さんはこの演技に失敗して頸椎損傷の大けがを負い、首から下をまったく動かせなくなりました。
失意の中で星野さんは聖書を読むようになり、イエス様との出会いをいただき、キリスト者となりました。口に絵筆をくわえて絵を描き、自分の信仰を記す詩をその絵に添えるようになりました。
神さまは、星野さんを、元どおりに起き上がれるようにはしてくださいませんでした。しかし、別の恵みをくださいました。口にくわえた絵筆で描いた絵と詩によって、星野さんは神さまを讃え、喜びをもって、たくさんの画集・詩集、カレンダーや絵葉書を通して神さまのみわざを伝える宣教の働きを今も続けているのです。
元どおりの体の自由を取り戻すことと、星野さんの今の恵みを私たち人間はどちらが良いと比べることはできません。ただ、星野さんが神さまのご栄光を伝える新しい恵みをいただいたことで、大きな喜びに満ちて日々を進んでいることは間違いがありません。
私たちもそれぞれ、それぞれの人生を振り返ると、多くの「望んだとおりにはならなかったが、こうなった。それで今の自分がある」と思える事柄をたくさん、たくさん抱えています。「今の自分」こそがすばらしい!とイエス様がほめてくださっている、この「今の自分」をこそ神さまはこよなく愛してくださっていると聖書の御言葉を通して恵みを心に受け入れる時、イエス様が自分と出会ってくださった恵みを誰かに伝えずにはいられない思いになります。自分の心の中だけにイエス様をとどめておいてはいけない、そう思うようになります。そうして、私たちの胸には、まだイエス様を知らない方々に、自分がイエス様からいただいた恵みを知らせずにはいられない伝道の志が芽生えるのです。
今日の聖書箇所 ルカ福音書4章42節後半から43節の聖句は、こう語ります。お読みします。「群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分達から離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。しかし、イエスは言われた。『ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。』そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。」
人々は、イエス様を引き止めようとしました。しかし、ひとつの村・ひとつの教会、一民族にとどまることは神さまの御心ではなく、イエス様のご意思でもありませんでした。イエス様は天の父の御心のとおりに「教え・伝え・いやす」主の道を歩き続け、十字架への道をひたすらに進まれます。
でも、私たちは知っています。前回の礼拝から、イエス様を私たちが引き止めなくても、イエス様はいつも私たちと共においでくださることを知っています。何ものも神さまの愛から私たちを引き離すことができません。わたしたちは、イエス様が十字架でご自身の命を捨てるほどに愛されていることを知っています。その恵みのうちに私たちは生きています。その喜びが私たちそれぞれの心からあふれ、私たちは自分からイエス様に従って、イエス様について行き、宣教されるイエス様と共に歩む恵みに生かされているのです。
私たちがイエス様と共にある幸いを今、あらためて心にいただいて、今週一週間を御言葉の力に満たされて希望を抱いて進み行きましょう。
2022年9月4日
説教題:権威と力の御言葉
聖 書:詩編130編5~6節、ルカによる福音書4章31~37節
イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力をもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」
(ルカによる福音書4章35~36節)
イエス様は故郷のナザレから宣教活動の本拠地とされたいたカファルナウムに戻られ、安息日が来ると会堂で説教をされました。必ずしもいつも同じ会堂で語られたわけではなく、カファルナウムの町のあちこちで多くの人に神さまの教えを説かれました。
32節が語るように、人々はイエス様が語る聖書の言葉の説き明かしに驚きました。前回の聖書箇所でも、人々はイエス様の語られる御言葉に驚きました。故郷ナザレでイエス様は講壇に立たれ、人々は「えっ! 子どもの時の姿を知っているけれど、大工ヨセフの息子イエスが祭司や律法学者になるための勉強をしたわけでもないのに、どうしてこんなに立派に御言葉を説き明かしできるのだ?!」と驚いたのです。今日のカファルナウムの人々の驚きは、ナザレの人々の驚きとはまったく異なります。驚きの理由が、32節の後半に続けて記されていますのでお読みします。「その言葉には権威があったからである。」
「権威ある言葉」とは、どういう言葉でしょう。イエス様が語られた説教には、どんな力がこめられていたのでしょう。
マタイによる福音書にも、今日の聖書箇所と同じ出来事が語られており、イエス様が語られた説教に人々が驚いたことについて、もう少し詳しく記されていますので、その箇所をお読みします。マタイによる福音書7章28~29節です。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」律法学者が語る説教のようではなかったから驚いた、と記されています。
これはどういうことでしょう。律法学者は、旧約聖書に記されているユダヤの律法・掟について深い知識を持つ専門家です。彼らは、律法を日常生活の中でこのように実践すると神さまの御心にかない、神さまの民として正しく清い生活ができると説教を通して人々に教えていました。たいへん実用的で便利な説教だと言えるでしょう。律法学者の言うとおりにすれば、ユダヤ民族として立派で、兄弟姉妹に決して後ろ指をさされない行動ができるのです。その説教はあくまでも、ユダヤ社会の規範という人間の行動基準を示すものでしかありませんでした。律法学者の説教は、ここで終わり、それ以上 深くは語りませんでした。
イエス様の説教は、まったく違っていたのです。イエス様は、律法の根本を語られました。わたしたちへの神さまの愛を語られたのです。
律法の根本は神さまが私たちを愛してくださっているという恵みそのものです。愛されている、それも天地を創られた神さまに愛されているという事実・真理は、ただそれだけで私たちを安心で満たし、喜びに胸のあたりが暖かくなります。
イエス様は、人々にそれを語ってくださいました。神さまが本当に自分を深く愛してくださっていることがよくわかり、人々の心は感動に揺り動かされました。考えてみれば、当たり前のことです…神さまであるイエス様が、直接 語りかけてくださっているのですから。
人の心を大きく動かすイエス様の説教を、聖書は「権威ある言葉」と言っています。権威や支配、権力といったいわゆる「上から目線の言葉」に抵抗を感じる方も少なくないと思いますので「権威」が、本来は何を意味する言葉かをここでご一緒に確認しておきたいと思います。
この言葉は、聖書の元の言葉では「働きかける」「影響を与える」という意味の言葉です。イエス様が告げる御言葉・イエス様の説教は人々の心を動かしました。まさに、人々の心に働きかけ、前向きに生きる力を与え、人々を正しく優しい言葉と行いへと導いて、強い影響を及ぼす力を秘めていたのです。
イエス様の御言葉は、神さまの愛を語る言葉でした。愛は、互いを堅く結びつける力です。神さまの愛は、神さまと私たちを強く強く結びつけ、絆を堅くしてくださいます。悪に乗っ取られ、奪われそうになっていた一人の人が、イエス様の言葉によって そこから救われて神さまのもとに、人々のもとに戻って来るのを、会堂にいた人々は目の当たりにしました。そして、今日の聖書箇所を通して、私たちも その恵みの真理を経験します。さあ、ご一緒に聖書の言葉に即して読んでまいりましょう。
イエス様が講壇に立たれ、語り始められると、人々の中の一人の男に取りついていた悪霊が大声で叫びました。34節です。お読みします。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。」
ここで、悪霊という言葉が気になる方は、悪と読み替えても良いと思います。この世の悪、人の世に潜む罪が、イエス様の力ある御言葉を聴いて耐えきれずに悲鳴を上げたことが、ここに記されているのです。
悪は何に耐えきれなかったのか。それは、悪の働きが、何であるかを考えると明らかになります。悪の働きとは、何でしょう。悪は何をせっせとやって、喜ぶのでしょう。私たち人間が不幸になるのを見て喜ぶのが、悪の働きです。悪は私たちが苦しむのを見て喜んで笑い、肥え太り、力を増します。
私たち人間の不幸とは、何でしょう。私たちの不幸は、愛と真理の源である私たちの神さまの近くにいられなくなることです。神さまから離れて遠くに迷い出てしまったり、神さまから無理やり遠ざけられてしまったりします。
悪は、私たちを神さまから引き離し、神さまを信じさせなくしようとします。だから、私たちの愛する者を奪ったり、私たち自身を病気にしたり、災害に巻き込んだり、戦争を起こすように仕向けたりします。
不幸な出来事が起こると、私たちはこう言わずにはいられません。神さま、こんなことが起こるなんて、本当にあなたは私のことを見守ってくださっているのですか?神さま、本当にあなたは私を愛してくださっているのですか? 神さま、あなたは本当においでになるのですか? 神さま、本当は、あなたはいないのではないですか?そのような不信仰な問いを私たちの心に起こさせて、悪は神さまから私たちを引き離そうとします。
しかし、そのような時に、イエス様は実に力強く私たちを神さまの元に連れ戻してくださいます。
悪はそのイエス様の力を知っていたからこそ、今日の聖書箇所34節で耐えきれなくなって叫びました。これが、悪の叫びです。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。」(ルカ福音書4:34)かまわないでくれ、とは「ほっといてくれ」、「好きなようにやらせてくれ」ということです。
悪霊は、自分が取りついているこの男性の耳をふさいで、イエス様の説教がこの人の心に届かないようにして、この人がイエス様を信じず、神さまを信じずに自分勝手をするようにさせたいのです。
イエス様はもちろん、そんなことはゆるしません。はっきりと力の御言葉を告げられました。それが、35節です。お読みします。「黙れ。この人から出て行け。」悪は、この御言葉の力に屈して、従うしかありませんでした。
35節後半から、悪がどれほど慌ててイエス様から逃げ、この人から退散したかがよくわかります。お読みします。「悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。」
もし多少なりとも余裕があって、イエス様の言葉に対抗できるなら、この男の人を深く傷つけてから去ることができたでしょう。人々の中に投げ倒してこの人を残しておかずに、この人を奪い取り、どことも知れぬ悪の暗闇へと拉致してしまうこともできたでしょう。
しかし、悪には、それができませんでした。悪は男性から去り、この人は会堂の人々と共に、何よりもイエス様の近くに、神の民として無傷のまま残ることができたのです。
人々はイエス様の言葉の力を讃えました。36節に記されているとおりです。それから、おそらく、この人を助け起こして喜び合ったことでしょう。「良かったね! 悪に取り込まれるところを、イエス様に救われたよ!」と。
それはこの人だけではなく、私たち誰にも起こることなのです。イエス様はこの人を、そして私たちすべてを悪から救い出し、神さまの元へと無傷で取り戻してくださいます。そのために、ご自分が深い傷を負われました。命さえも捨ててくださいました。それが、イエス様の十字架の出来事です。
私たちが救われたしるしは、イエス様のご復活によって約束されています。この大きな恵みを、使徒パウロはこのように書き残しました。
少し長くなりますが、ローマの信徒への手紙8章35節、そして38節から39節をお読みします。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。…わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
今日はこれから、ご一緒に聖餐式に与ります。私たちを救うために十字架で裂かれたイエス様の肉なるパンと、十字架で流されたイエス様の血潮なる杯をそれぞれの身に、また心にいただきましょう。
イエス様は私たちそれぞれと共に、また薬円台教会のこの群れに近く、限りなく近くおいでくださり、私たちはイエス様の愛・神さまの愛から引き離されることが決してありません。
だから、私たちは大丈夫です。不安の中にあっても、イエス様に導かれて、光の道を正しく歩んでいます。今日から始まる新しい一週間を、その安心と喜びに満たされて力強く進み行きましょう。
2022年8月28日
説教題:御心を求める
聖 書:列王記下 17章1~24、ルカによる福音書 4章22~30節
皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「…はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」
(ルカによる福音書4章22~24節)
今日の聖書箇所では、イエス様が初めて故郷のナザレにある会堂で礼拝の講壇に立たれ、御言葉の奉仕をされた時の出来事が語られています。
イエス様は神さまとして、イザヤ書に預言されている「主の恵みの年」が暦に関係なく、今 イエス様の口から語られた時に実現したことを告げました。神さまを自分のただ一人の主と仰ぐ時、すべての人が、自分を支配するあらゆる偶像 ― お金、名誉、力、自分自身 ― から自由へと解放されていると、イエス様はおっしゃってくださいました。その力に満ちた励ましの言葉は、会堂で礼拝に出席していた人々の心を震わせました。
今日の聖書箇所の冒頭にあるように、出席者全員「皆」が、イエス様をほめました。すばらしい、とイエス様を讃えたのです。
ところが彼らが感動したのは、私たちが聖書の御言葉とイエス様の福音に感動して神さまを讃え、讃美するのとは異なる理由からでした。彼らは感動するよりもまず、今日の聖書箇所が語るように「驚い」たのです。どうして驚いたかは、次の言葉に明らかです。「この人はヨセフの子ではないか。」(ルカ福音書4:22)
故郷ナザレの町で、イエス様は三十歳になるまで、父ヨセフと共に大工さんの仕事をしていました。祭司や律法学者といった、神さまの事柄・信仰に関わる事柄の専門家・スペシャリストの家に生まれて、英才教育を受けたわけではありませんでした。
ナザレの大多数の人と同じように世俗・この世の仕事をなさり、近所の人たちはイエス様がごく普通に育たれるのを間近で見ていました。ですから「あのヨセフの長男、イエスがこんなに立派になって!」とほめたのです。信仰とは何ら関係のない、人間的な思いからしか、人々はイエス様を見ることができませんでした。神さまではなく、人間としてのイエス様を子どもの頃から知っていることが、皮肉なことに、かえって信仰の妨げとなったのです。
イエス様は人々の関心が神さまからずれてしまい、人間としての自分をほめたたえていることを指摘して、神さまに心を向けようとなさいました。彼らのほめ方が的はずれであると指摘しようとされたのです。「的外れ」という言葉は、元の聖書の言葉・ギリシャ語では「罪」をさすのとまったく同じ単語です。イエス様は、ここで彼らの罪を指摘されました。
そして、彼らの心の中にあることを言い当てられました。それが、23節の「カファルナウムでは病気の人を癒したり、恵みを告げたりと、いろいろ奇跡のわざを行ったから、ナザレでもやってほしい」という内容の言葉です。
故郷ナザレの人々は、自分たちがイエス様を育てたような気分でいたでしょう。イエス様は、ご自分と個人的な関わりのないよその町で恵みのわざを行ったのだから、よく知っている自分たちには恩返しのつもりで、もっとすばらしいことをしてくれて当然だとの思いを、彼らは当たり前のように抱いたのです。
イエス様は、彼らに毅然とした態度を示されました。御言葉に仕えておられるイエス様は、人間としてのイエス様というよりも、神さまとしてのイエス様、全き神なるイエス様です。神さまはすべての人を造られましたから、すべての人をご自分の民とされ、すべての人と絆を結んでくださいます。
そして、すでに信仰を与えられた者よりも、まだ神さまを知らない者たちに目をそそいでくださるのです。その恵みがなければ、シリア地方から遠く、いわゆるキリスト教国から遠いはるか東にある日本に暮らす私たちは、神さまを知る幸いをいただけなかったでしょう。
イエス様は、そのことを人々に知らせるために、ユダヤの民が親しんでいる旧約聖書から二つの出来事を語られました。
ひとつが、今日の旧約聖書の箇所として与えられている預言者エリヤの出来事です。神さまはエリヤをシリア地方一帯が飢饉に苦しんでいた時に、ユダヤの民ではなくサレプタのやもめのところに遣わされました。サレプタはイスラエルの北、フェニキアの海岸沿いの町です。フェニキアは海の民と呼ばれて船を自在に操る航海術に長けたことで知られ、フェニキア文字を使う独自の文化を持っていました。神さまではなく、アシェラやバアルといった偶像崇拝をしていました。ユダヤの人々から見れば、異教徒です。神さまは異教徒・異邦人の未亡人と幼い息子に、エリヤを通して恵みを賜り、飢えと渇きから救い、幼い息子が病気で亡くなった時は再び命を与えてくださいました。
イエス様が語られたもうひとつの出来事は、預言者エリヤの衣を継いで彼の後継者となった預言者エリシャを通して行われた恵みです。ユダヤには多くの重い皮膚病で苦しんでいる人がいましたが、エリシャはシリア人ナアマンのところにだけ遣わされました。ナアマンはシリア地方の中でも、イスラエルではなくアラムという国の人で、列王記下5章1節によれば、アラムの王の軍司令官でした。アラムとイスラエルは民族的に近い関係にありますが、何度も戦いを繰り返し、互いに敵同士だったことが旧約聖書に記されています。神さまはイスラエルに攻め込む敵国の司令官の重いひふ病をいやし、恵みを与えてくださいました。
サレプタのやもめとシリア人ナアマンの出来事を通して、イエス様は、神さまの恵みが世にあまねく与えられること、ユダヤ人だからといって実は特別扱いされないことを人々にはっきりと告げられました。これは、ナザレの人々を大いに激昂させることになってしまいました。28節が語るとおりです。
イエス様は町の崖に追い詰められ、突き落されそうになりました。それほどにナザレの人々の怒りが激しかったのは、ひとつはイエス様への親しい思いを裏切られたように感じたからでしょう。故郷ならば、よその町よりももっと良いことを恩返しとしてしてくれるに違いないと、ナザレの人々は思ったのです。イエス様は神さまとして、それは間違いだとはっきりおっしゃいました。人間としてのイエス様しか見えないナザレの人々は、そのイエス様の言葉を「ヨセフの息子が生意気なことを言っている。けしからん」としか受けとめられなかったのです。
もうひとつの理由として、イスラエルの人々つまりユダヤの民がいだく選民思想が挙げられます。自分たちこそが神さまから選ばれた民で、だからこそ神さまに最も愛される、一番の恵みをいただけるという考えを持っているのです。ですから、偶像崇拝をする異教徒・異邦人への恵みを認めたくない思いがあります。イエス様は、神さまが神さまの選びの民に先んじて、異邦人に恵みを賜った出来事を彼らがよく知っているはずの聖書の御言葉を用いて示されました。彼らは馬鹿にされたと思い、イエス様を殺したいほど憎んだのでした。
イエス様は人々の間を通り抜け、立ち去られました。ここで殺されてしまうのは、天の父・神さまの御心ではなかったからです。
イエス様は、大切な使命を神さまからいただいていました。イエス様を殺そうとしたこのナザレの人々のためにも、彼らの罪を負ってその贖いのために十字架に架かられる使命です。
この時、ナザレの人々の心の目と耳が聖霊によって開かれていれば、イエス様が、つまり神さまが何を恵みとして与えてくださっているかわかったはずです。
今日は説教題を「御心を求める」としましたが、神さまの恵みを知るとは、御心を求めることです。共に祈り、聖霊に導かれて私たちなりに心と知性を働かせることです。
ここで、皆さまとご一緒に考えてみたいことがあります。
神さまが私たち信仰者に与えてくださる一番の恵みは、何でしょう。
すでに神さまが自分の造り主であり、イエス様が救い主であり、神さまが共においでくださる幸いを知っている私たちクリスチャンは神の選びの民です。その選びの民である私たち教会の者だからこそ、神さまからいただける恵みは何でしょう。
神さまが、選びの民だけでなくすべての人に与えてくださる恵みは数多くあります。癒し、安らぎ、励まし、そして奇跡のみわざを、神さまはサレプタのやもめに与え、シリア人ナアマンに与えられました。
教会に生きる信仰者、キリスト者・クリスチャンだけに神さまから与えられる恵みは、それとは少し違います。それは、イエス様に従って宣教活動を行うことです。神さま・イエス様・聖霊の三位一体の神のみ恵みを知り、神さまと絆を結んでいただいていなければ、宣教活動・伝道はできません。
宣教活動は、神さまの栄光のお働きに加えていただくこと、イエス様と共に働けることです。イエス様はペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネを弟子として招かれ、彼らはイエス様に従って三年の間、イエス様と伝道活動をしました。同じことが、生きて働く聖霊であるイエス様によって、今も教会で起こっているのです。
たとえば今、私たちが献げている礼拝でいわゆる奉仕をする司式者・奏楽者・祈りを献げる者・説教者はイエス様に呼ばれ、招かれ、その招きを受け入れて洗礼を受けたキリスト者でなければなりません。神さまは、私たちキリスト者が献げる働きを奉仕としてうけとめてくださり、この礼拝が礼拝として成り立つために今、私たちと共に働いてくださっています。
さらに、まだイエス様を知らない方々に神さまの恵みとイエス様の福音、聖霊の働きを言葉と行いと、さらには佇まいそのもので伝える宣教活動・伝道は、神さまのお働きに招かれ、キリスト者だからこそ参加できる大きな恵みです。
私たちはついつい、神さまから一方的にいただける良いもの ― 癒し、幸福、平安といったものだけを恵みと思ってしまいがちです。奉仕と聞くと義務という言葉が浮かんだり、教会員としての責任という重い言葉が浮かんだりするかもしれません。しかし、イエス様は私たちを友としてくださり、一緒に伝道しようと招いてくださって宣教の奉仕に連れて行ってくださるのです。喜んで、このご奉仕を献げることこそが、私たちキリスト者に与えられた一番の恵みです。
感染のために長く延期されていた特別伝道集会が、感染防止対策を尽くしながら、来月末には行われる予定です。10月には同じく延期されていた墓前礼拝、神学生が遣わされる神学校日礼拝、信徒の証しも予定されています。
これからの感染の行方・世の動きは私たちにはわかりませんが、イエス様が私たちを喜んで守り支えてくださり、導いてくださるのは本当に確かなことです。私たちは当たり前のこととしてそれを信じ、イエス様によりすがります。そして、イエス様と共に進むのです。
まだイエス様を知らない方、この礼拝であらためてイエス様を知って洗礼や信仰告白に導かれる方がおられたら、ぜひ神さまの選びの民・教会の群れの一員へと導かれますように。洗礼へと導かれますように。
今日から始まる新しい一週間、いつも共にいてお支えくださるイエス様の光を希望としてご一緒に進み行きましょう。
2022年8月21日
説教題:主の恵みの実現
聖 書:イザヤ書61章1節、ルカによる福音書4章16~21節
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。…イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
(ルカによる福音書4章16節、20~21節)
前回の主日礼拝では、洗礼を受けられたイエス様が荒れ野で試練に遭われ、悪魔に勝利して退散させた出来事をご一緒に御言葉に聴きました。イエス様は、試練の後、さらに豊かに聖霊に満たされて、ガリラヤ地方に帰られました。
今日の聖書箇所の直前、ルカ福音書4章15節にはイエス様が神さまの教えを伝え始められたことが次のように記されています。「イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。」
「ガリラヤに帰られた」(ルカ福音書4:14)との聖句を読んで、私たちはイエス様が故郷の村ナザレを中心に宣教活動をされたと考えます。
ところが、そうではなかったのです。
聖書の最後のところに、付録として地図のページがあります。
それをご覧になると、ガリラヤ地方はけっこう広く、ガリラヤ湖の西にいくつかの町や村があり、ナザレはそのうちのひとつだと気付くでしょう。ナザレよりも北、ガリラヤ湖のほとりにカファルナウムという町があります。イエス様は、このカファルナウムを拠点として宣教活動を展開されたと伝えられています。
イエス様は今日の聖書箇所で語られている出来事で初めて、ナザレの会堂に赴かれたのです。
その理由は4章の後半に明らかにされますが、今日は4章の前半の御言葉に集中いたします。
系図の説き明かしの時と同じように、本日の聖書箇所も私たちの情緒よりも知性による受けとめが求められています。
今日の聖書箇所は「謎解き」の要素が強い御言葉です。
系図の時にもお伝えしましたが、秘められた神さまのみわざ・秘儀・神秘を意味する聖書の元の言葉は「ミステリオン」です。
推理小説をさす英語のミステリーの語源となった言葉です。
そのことを心に留めたうえで、ご一緒に今日の聖書箇所から知性を通して恵みをいただきましょう。
イエス様の時代に、ユダヤの会堂の礼拝がどのように行われていたかが、今日の聖書箇所に記されています。
イエス様に巻物が手渡され、それをイエス様が朗読し、その後、イエス様が何をおっしゃるかに人々が注目したと聖句に述べられています。
巻物は聖書です。新約聖書はまだありませんから、旧約聖書です。本の形にとじられておらず、ひとつひとつの書が巻物になっていました。
礼拝では、聖書が朗読され、読まれた聖書箇所についての説き明かしが行われました。これは、現在、私たちが献げているキリスト教の礼拝にも脈々と受け継がれています。
ユダヤの礼拝では祭司に限らず、さまざまな立場の人が御言葉の朗読と説き明かしに立てられました。イエス様は、この日、奉仕に立てられた一人として、聖書朗読とその説き明かしの務めを担われたのです。
この安息日にイエス様が読まれた聖書箇所は、イザヤ書61章1節、そして2節の初めの部分でした。イエス様の朗読が終わったところで、人々は、イエス様の説き明かしの言葉を待ちました。ところが驚いたことに、イエス様は巻物を巻き戻して係の人に返してしまい、そのまま席に戻って座られました。
今日の聖句 ルカによる福音書4章20節後半は、その時の人々の驚きをこう記しています。「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれた。」説教者が聖書の朗読をしただけで説教をせずに席に戻ってしまったら、出席者全員が「どうしたの? 説教者に何があったの?」と思うでしょう。
そして、イエス様はひとこと、こうおっしゃいました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」(ルカ福音書4:21) これは、実に文字通りの意味です。これはイエス様が神さまだからこそ、おっしゃることのできる言葉です。人間の説教者には、決して言うことができません。なぜなら、イエス様が読まれた聖書箇所の「わたし」は、まさにイエス様その方だからです。
朗読されたイザヤ書61章1節は、今日の新約聖書ではルカ福音書4章18節に引用されています。そこからご一緒に読んでまいりましょう。
イエス様は、まずこう読まれました。「主の霊がわたしの上におられる。」― これは、まさにこのとおりです。天の父・聖霊は、もともと三位一体のただおひとりの神さまとして、イエス様と一体です。
さらに、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、イエス様に人々の目に見えるかたちで聖霊が降り、天の父の言葉と共にイエス様を満たしました。
イエス様は、こうして神さまからこの世に遣わされました。
「わたし(イエス様)に油を注がれた」とは、神さまがイエス様に祭司・預言者・王としての使命を与えたことを意味します。
神さまの掟である律法に定められたとおり、ユダヤの祭司・王の就任式の時には香油が新しく祭司となる者または王となる者にそそがれました。
イエス様が神さまに遣わされて世に遣わされたのは「貧しい人に福音を告げ知らせるため」でした。
「貧しい」とは、経済的に困窮している人々をさすばかりではありません。心が満たされず、むなしさを感じたり、生きてゆくことに意味を見いだせなかったりしている「心貧しい人」たちに、体のための、また心のための日々の糧・神さまの御言葉、そして良い知らせを告げるために、イエス様はこの世においでくださいました。
福音とは聖書の御言葉をさすと同時に、私たちがイエス様の十字架の出来事によって罪を贖われ、ご復活によって永遠の命に与る約束をいただいた、その救いの知らせをさします。
イエス様は、福音すなわち十字架に架かられること、そして三日後にご復活されることをすでにこの宣教の始めに告げておられるのです。
イエス様は、さらにこう読まれました。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由に」するためである、と。
イザヤ書の時代の人々は、ユダヤに攻め込んでくるアッシリアやバビロニアの専横と支配からユダヤ民族を助け出すために「わたし」が遣わされたと受けとめて、喜んでこの御言葉を受けとめたでしょう。
イエス様の時代の人々は、ユダヤを植民地としているローマ帝国の支配に抵抗する民族運動の強力な指導者が神さまから遣わされたと政治的に解釈しました。
しかし、御言葉は時代を超え、民族を超えて変わらぬ普遍的な真理を告げています。
時と場所を超えるものを知ることのできない、まさに「目の見えない」人間に、神さまは「見える」永遠の真理・「見える」福音の御言葉であるイエス様を遣わしてくださいました。
イエス様がここで読み上げ、宣言される「わたし」は人間すべてを悪と罪、その報いである死・滅びから解放してくださる真の救い主です。
人間の欲や自己中心、自分だけが良ければよいという利己主義や無関心、他者を支配下に置きたいという傲慢は周囲と自分を苦しめます。
その連鎖から成る人間の歴史から、私たちを自由にしてくださるとイエス様は宣言されたのです。
そしてイザヤ書61章2節前半、ルカ福音書では4章19節でこう聖書を読み上げられました。「主の恵みの年を告げるためである。」
「主の恵みの年」は、ヨベルの年と呼ばれます。
7日に1度が安息日であることを拡大して、7年に1度の「安息の年」が定められていました。その年には土地を耕さず、休耕地として土地を休めます。この7年を7回繰り返し、7回の「安息の年」を過ごすと49年が経ちます。
その翌年・50年目を「主の恵みの年」・ヨベルの年と呼んで、奴隷をすべて解放して自由にし、借金を帳消しにし、売られた土地は元の所有者に返還することが決められていました。(レビ記25章)奴隷や借金で首が回らなくなった人、大切な農地を売って買い戻すことができずにいる人にとっては本当に救われる年でした。
「主の恵みの年」は奴隷の身分や借金で「捕らわれている人」「圧迫されている者」が「解放」され「自由」になる至上の喜びの時だったのです。
イエス様は「主がわたしを遣わされたのは、…主の恵みの年を告げるためである」と聖書を読まれ、そのまま説教をされずに着席されました。
聖書は神さまの言葉ですから、イエス様がこう言われたことは、そのまま事実です。つまり、暦のうえでの50年目のヨベルの年とは関係なく、イエス様が「主の恵みの年を告げる」とおっしゃれば、そのとおりになります。
私たちはイエス様の十字架の出来事とご復活により、罪の奴隷とされ、悪に自らを売り払って買い戻すことができずにいる立場から、自由な者また買い戻されて贖われた者とされ、救われるのです。
死から救われ、永遠の命に生きる者とされています。
神さまが、すなわちイエス様が「今は主の恵みの年だ!」とおっしゃれば、今この時がその恵みの年・時になります。
それは神さまがなさるみわざです。当たり前のように、そうなります。ですから、イエス様は神さまの御言葉である聖書の言葉を告げた後、何の説き明かしも必要ないと席に戻られました。
しかし、イエス様が神さまであることを知らない人々・魂の上では「目の見えない人」たちには、その事実がまったくわかりませんでした。
朗読だけで説教をなさらなかったイエス様に人々が不思議そうに注目するので、イエス様はひとこと付け加えられました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」(ルカ福音書4章21節)
救い主であるわたしが恵みを告げたのだから、あなたがたは死と罪から自由だ!と救いの福音を宣言されたのです。
この御言葉は、ここに記されているとおりに「今日」、たった今、この礼拝の中で私たちが「耳にしたとき、実現」します。
聖書が記された時代を超えて、神さまは聖霊を通して今、私たちに罪からの赦しと永遠の命・救いの福音を告げてくださっています。
御言葉によって、私たちはこうして真の幸いに与っています。救いが実現しているのです。
聖書の御言葉が立ち上がる恵みを、今、この瞬間に私たちはご一緒に経験しています。
聖書が聖霊を通して与えてくれる、まさに神秘・秘儀・ミステリオン、神さまの秘められた恵みのみわざが、ここにこうして実現しています。
今、こうして時空を超え、人の合理的理解を超え、御言葉を通して、繰り返しますがまさしく「今」、私たちに語りかけてくださる主の慈しみを心にいただいて、歩んでまいりましょう。
今日から始まる新しい一週間の一日一日、神秘にして大いなる主の懐に抱かれている喜びと安心のうちに進みましょう。
2022年8月14日
説教題:荒れ野の誘惑
聖 書:申命記8章2~3節、ルカによる福音書4章1~15節
さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を‟霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。
(ルカによる福音書4章1~2a節)
今日は、説教前に讃美歌21 530番「主よ こころみ うくるおり …」を讃美しました。「こころみ」とは試練をさします。苦難・困難と言い換えることができるでしょう。「試練」は、聖書のもとの言葉では「誘惑」を意味する言葉とまったく同じです。イエス様が荒れ野で誘惑を受けられたことが記されている今日の聖書箇所は、人となってくださった神さまの御子イエス様が、私たち人間と同じように苦難の時を過ごされたと告げているのです。
今日の聖句の冒頭、「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」との言葉から、洗礼後のイエス様が日常に帰ろうとなさったように読み取れます。
私たちも、洗礼を受けた日の翌日には、それぞれの週日・普段の生活が待っています。しかし、それは以前の生活とは異なります ― 生活や環境が異なるわけではありません。洗礼を受けて、私たちは聖霊に満たされたキリスト者となり、新しい主にある命を歩み始めます。聖霊と御言葉に導かれて、これまでとは違う視点や考え方をするようになります。すぐにではありません…洗礼後、何年もたってから ふとそのことに気付かされます。
神さまでありながら人となられ、私たちと同じように洗礼を受けられたイエス様は、今日の御言葉で洗礼後に私たちに起こることを先取りするように経験してくださいます。
イエス様を満たした聖霊は、イエス様を「引き回し」ました。「引き回す」と訳されていますが、元の聖書の言葉は「導く」です。聖霊が、イエス様を荒れ野・荒野・砂漠へと導きました。それに続く御言葉に、私たちは驚かずにはいられません ― 「四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。」(ルカ福音書4:2a)聖霊に導かれているのに、神さまとは真反対の邪悪な悪魔に出会わされるとはどういうこと?と思います。
マタイによる福音書には、イエス様に起こった同じ出来事・荒れ野の誘惑が神さまのご計画による悪魔との邂逅であり、洗礼後のイエス様に必要な事柄だったことがより明確に記されています。「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、‟霊”に導かれて荒れ野に行かれた」(マタイ福音書4:1)と記されているのです。このこともまた、イエス様の洗礼が私たちの洗礼後の信仰経験を先取りして教えてくれていると読み取って良いでしょう。
私たちの身には、どうしてこんなことが私に起こるの?と思わずにはいられない出来事がふりかかります。自分に少しも過失がないのに、病気や怪我、災害や事故は私たち自身や、愛する家族・親しい人々を苦しめます。神さまがおられるのなら、自分にこんなことをなさるはずがない…としか思えず、私たちはつい神さまの愛を疑い、信仰が揺らいでしまいます。
しかし、聖書は使徒パウロを通してこう語ります ― 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリントの信徒への手紙一 10:13)苦難は試練だと、苦労を重ねた伝道者パウロは語るのです。神さまがあなたなら耐えられると見込んで、敢えて与えられた試練だと思う時、私たちに寄り添ってくださるイエス様が共に逆境と戦ってくださっていることを信じる強い心・強靭な信仰をいただくことができます。
神さまが私たちに試練を与えるのは、神さまとの関わりを深めてくださるためです。苦しみの中で、神さまを究極の希望として仰ぎ、御言葉に励ましを求め、イエス様が共におられることを信じる時に、神さまとの私たちの関わりは深められます ― 神さまとの関わりが深くなるとは、信仰が深まることを意味するほかはありません。
苦難とは試練だと知ることができるのは、私たちが神さまのものとされた洗礼の後です。苦難をも恵みだと自然に思える信仰が、イエス様が洗礼後に受けた試練・悪魔による荒れ野の誘惑で示されているのです。
さて、悪魔からの誘惑の内容を読み進む前に、私たちは大切な事柄を心に堅く留めておかなければなりません。それは、誘惑の内容そのものです。悪魔はイエス様が神さまだからこそ、続く三つの誘惑でイエス様を試みました。私たち人間が受ける苦難とは、ここが大きく異なります。
悪魔の誘惑は、神さまであるイエス様しか持たない奇跡をなさる御力・世を支配される王の中の王としての権威を試し、最後に神さまの子であることを証明しろと迫りました。
まず、悪魔はイエス様をこう誘惑しました。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエス様は断食をされて激しい空腹を感じておられました。悪魔はそこにつけこんだのです。また、悪魔は愛の主であるイエス様が飢えた者をご覧になったら、パンを石に変える奇跡を行って、彼らを苦しみから救うはずだとも考えました。しかし、イエス様は、神さまとしての全能をご自身のためには用いられません。ですから、ご自身の空腹を満たすために、主の全能を用いませんでした。
悪魔が、神さまが造られた人間が貧しく飢えて空腹になったなら、人間を愛している神さまならば救うはずだろう、奇跡を起こしてみろとイエス様を試したのに対し、イエス様は、神さまの恵みは肉体の飢えを満たすだけではない、と神さまの言葉・律法が語っていると指摘しました。その指摘に、イエス様は申命記8章3節の聖句を用いられました。「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」という聖句です。
二番目の誘惑として、悪魔は「わたしを拝むなら、世界のすべての国々の一切の権力と繁栄とを与えよう」と誘いました。この悪魔の言葉は、たいへん興味深いこの世の現実を示しています。この世の権力と繁栄を自由自在にする力を、悪魔が握っていると読めます ― この世の歴史を振り返る時、人間の中の悪魔が支配しているとしか思えない権力があったことに気付かされます。ヒットラー、スターリン、ポル・ポト…いくつかの恐ろしい独裁者の名が思い起こされます。
この世は、終わりの日に御国とひとつになるまで ― 御国とは、神さまのご支配があまねく行き渡ることを意味します ― 悪の支配から逃れられません。その邪悪な支配に対抗し、神さまはイエス様を通して戦ってくださいます。
それを阻もうとする悪魔が、イエス様を自分の支配下に置こうとしましたが、イエス様は当然、この誘惑をきっぱりとはねつけました。その時には、申命記6章13節と10章20節の御言葉「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」を示されました。
イエス様は悪魔の誘惑をはねのけると同時に、御言葉によって私たち人間をも導いてくださいます。悪を悪だと知ることができるように御言葉に親しみ、聖霊の導きを祈るよう、神さまだけを自分の主として他のものの支配を拒み、神さまだけにお仕えできるように自らを整えよと教えてくださるのです。
最後に、悪魔はイエス様をエルサレム神殿の高い屋根の端に立たせて、これまでの2回の誘惑に対してイエス様がなさったように御言葉でイエス様に挑みました。「神は…あなたをしっかり守る」(詩編91:11)、「天使たちが手であなたを支える。」(詩編91:12)と神が言っているのだから、本当にそうしてくれるかどうか、やってみろと誘って、神さまの子であると証明しろと言ったのです。
イエス様は、神さまと一体の方です ― 三位一体の神さまですから、父は子の、子は聖霊の、そして聖霊は父の思いを我が思いとして知り尽くしています。
神さまが自分を愛していることは、イエス様ご自身が神さまを愛していることとまったく同じで巌のように揺るがない真実・事実・真理です。
イエス様にとって、神さまの愛を試すなどナンセンスです。
そして、私たちもイエス様を通して神さまの子とされています。私たちを神さまと堅く結びつけ、神の子としてくださるために、イエス様は十字架に架かってくださいました。
ヨハネによる福音書は、御言葉なるイエス様が肉の体となって人となり、世にお生まれくださった真理を告げています。私たちが信じるイエス様は、ギヴ・アンド・テイク式に益をもたらし、この世の欲を満たすご利益信仰の対象である偶像とはまったく異なる方なのです。イエス様は十字架の上で肉を裂かれ、血を流されて、その肉と血潮を私たちの魂を養う御言葉の恵みとして私たちに与えてくださいました。
私たちは聖餐式で私たちがパンと杯に与り、イエス様の裂かれた肉・流された血潮によって私たちが神さまの子としていただけたことを思い起こします。
このように、神さまは我が子イエス様を犠牲にして、私たちをご自身と深く関わる者としてくださいました。ですから、私たちにとっても、神さまのこれほどに深い愛を疑い、試すなどナンセンスなのです。
その恵みの事実を、イエス様は悪魔の三つ目の誘惑に対抗する言葉を通して私たちに教えてくださいます。この聖句です ― 「あなたの神である主を試してはならない。」(申命記6:16)
繰り返しになりますが、悪魔は洗礼を受けた後のイエス様に、イエス様が神の子だからこそ、それを証明せよと三つの誘惑で イエス様に挑みました。イエス様は三つのいずれの誘惑も、神さまの御言葉・聖書の言葉で退け、敗れ去った悪魔はイエス様から離れ去って行きました。
洗礼を受けた私たちキリスト者は、洗礼後、やはり聖霊に、この世という荒れ野へと導かれます。そこでは試練が待っています。今日、イエス様が悪魔を退けた三つの御言葉をもって、試練に打ち勝ちましょう。
私たちは魂の養い・信仰のパンとして、御言葉を日々いただきます。それは十字架に架かってくださったイエス様の肉であり血潮です。独り子イエス様を十字架に架けてまで、私たちを大切に思ってくださる神さまの他に、私たちが神と仰ぐ方は誰もいません。だから私たちは、悪に支配されず、世の権力と繁栄をよく見極めて進みます。御言葉に親しみ、イエス様に従って日々を歩むうちに、私たちにはどのような苦しみや不安にあっても、神さまの愛を決して疑わない強く深い信仰が養われます。
今、私たちが暮らすこの世の有り様は決して平穏で安楽なものとは言えません。感染も、社会も、世界情勢も、地球の環境・気候の状況も、私たちの心と生活を脅かしますが、必ずイエス様が私たちを正しく安心な道へ、主にある平安と喜びへと導いてくださいます。神さまの愛・イエス様の愛・聖霊の導きを深く信じて、行く手を主にゆだね、今日から始まる新しい一週間の一日一日を心を高く上げて進み行きましょう。
2022年8月7日
説教題:受洗と宣教の始め
聖 書:イザヤ書42章1節、ルカによる福音書 3章21~38節
民衆が皆洗礼(バプテスマ)を受け、イエスも洗礼(バプテスマ)を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、マタト、レビ、メルキ、ヤナイ、ヨセフ、…エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。
(ルカによる福音書3章21~24節、38節)
今日の御言葉は、イエス様について、私たちが必ず知っておかなくてはならない次の事実を告げていますー 救い主イエス様は、完全に神さまであり、それと同時に、完全に人間である。
今日の聖句と、それに続く系図の説き明かし(説教)を「謎解き」のようだと思われる方が多くおられると思います。心に響かないと感じる方も、おいででしょう。
ただ、このことを思い起こしていただきたいのです ― 私たちは神さまから与えられた感受性・情緒・感情だけでなく、知性・理性で御言葉を受けとめ、情でも理でも主の恵みを知るように造られています。今日、私たちは私たちの知性・理性を働かせつつ、御言葉を通して主の光をいただくようにと導かれています。その導きに従って、御言葉をご一緒に味わってまいりましょう。
今日の聖書箇所の始め ルカによる福音書3章21節から23節は、「イエス様が完全に人間である」事実を語っています。
救い主が世に遣わされたことを告げるヨハネは、荒れ野で声を響かせ、悔い改めて ― 悔い改めるとは、神さまに心を向け、神さまを自分の主と仰ぐことです ― 洗礼を受けるようにと呼びかけました。多くの人が集まり、ヨハネは彼らにヨルダン川の岸辺で洗礼を授けました。ヨハネはこの洗礼を「水による洗礼」と呼びました。川の流れに身を浸し、流れで罪を洗い流され、新しく清められた者となるための洗礼でした。
今日の御言葉は、この洗礼を洗礼者ヨハネからイエス様が受けたと語ります。この事実を知って、「え?!」と驚き、不思議に思われる方がいらっしゃるでしょう。イエス様が清めの洗礼を受けたの? イエス様に、そんな必要あったの?そう思うのはもっともです…イエス様は神さまの子で、まったく罪がありません。にもかかわらず、人々と同じようにヨハネから洗礼を受けられました。
どうしてでしょう? イエス様は、神さまですが、そのまま人間にもなってくださいました。完全に神さまの御子であると同時に 完全に人間でもある方になられたのです。ですから、私たち人間と同じ罪人として、清めの洗礼を受けられました。
この洗礼から三年後、イエス様は、私たち人間の罪をすべて負い、私たちに代わって十字架に架かってくださいました。私たち人間の罪を負ったご自身の人間の体を死なせることによって、罪を滅ぼしてくださったのです。これは極端かつ単純化したたとえを用いれば、私たちに不安を与えているコロナウイルスを、すべてイエス様がご自分一人の身に集めてくださるようなものです。神さまは感染しませんが、人間は感染します。神さまは罪を犯さない方です。しかし、人間には罪があります。罪を負うために、イエス様は神さまでありながら人間になってくださったのです。人間として、私たちの罪もろとも死んで、罪を滅ぼしてくださったのです。
これがイエス様と一体の父なる神さまのご計画であったことは、洗礼に続いて語られる出来事からわかります。イエス様の祈りに応えて、天の父なる神さまはイエス様に聖霊を降されました。
罪の洗い清めの次に起こる聖霊のそそぎ ― これは、私たちが教会で洗礼を受ける時にも起こります。教会で洗礼を受けると、罪の清めと聖霊のそそぎを同時にいただくのです。
今日の聖書箇所では、聖霊が「鳩のように」人間の「目に見える姿」でイエス様に降り、イエス様を満たしたことが語られています。
人間に聖霊が見えるようにしてくださったのは、神さまの私たち人間への思いやり・憐みです。しかし、イエス様に「鳩のような聖霊」が降るのを見ても、人々にその意味はわからなかったことでしょう。イエス様が神の子・メシアだと、わからなかったのですから。
聖霊がよりはっきりと私たちに見えるように、そしてわかるように示されたのは、イエス様の十字架の出来事とご復活の後でした。復活されたイエス様が天の父の御許に帰られた後、聖霊降臨の出来事が弟子たちに起こりました。それは、使徒言行録2章に記されています。この時 聖霊は、鳩のようではなく、炎のような舌のかたちをしていました。聖霊に満たされた弟子たちは、この舌を用い、さまざまな異国の言葉で同じ救いの福音を語り、宣教活動を始めました。
さて、その出来事を先取りするように、イエス様への聖霊降臨が記されているのが、今日の聖書箇所です。聖霊で満たされたイエス様は神さまから「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼びかけられ、「神の子」として宣教活動を開始されました。続く23節が、その事実を伝えています ― 「イエスが宣教を始めたときはおよそ三十歳であった」、と。
23節の後半から、イエス様の系図が語られます。まず、「イエスはヨセフの子と思われていた」(ルカ福音書3:23)と告げられます。
「思われていた」のであって「ヨセフの子」ではないと、聖書は語ります。マリアはヨセフと結婚する前に、聖霊によってイエス様を受胎していますから、イエス様がヨセフと血のつながった子でないのは事実です。しかし、23節の後半に続く言葉から、話は、この世で「イエス様の父と思われた人間」であるヨセフの系図に移ります。ずらっとカタカナが並び、ユダヤ人の名はあまりバリエーションがないので同じ名前も繰り返し出て来て、たいへん読みにくい聖書箇所ですね。
系図は家族の歴史を記したものです。ですから、系図がここに示されているとは、人間としてこの世にお生まれになったイエス様が、人間の歴史の中で生きられたことを語っています。「イエス様が完全に人間である」事実が告げられているのです。
ところで、日本語の聖書だとわかりにくいのですが、もとの聖書の言葉であるギリシャ語でこの箇所を読むと、気付かされることがあります。ギリシャ語とシンタックス(構文・語順)が同じ言語、たとえば英語に訳された聖書で読むと、アッと気付かされることがあります。それは「ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、マタト、レビ、メルキ、…(以下、カタカナと読点がずっと38節の終わり直前まで続きます)」の箇所です。
ギリシャ語聖書、そしてその語族の聖書ではこの箇所に「それからさかのぼると」に相当する言葉が実は存在しません。直訳すると、こう書かれています。「ヨセフはエリの息子、エリはマタトの息子、マタトはレビの息子、…」と「…の息子」がひとつひとつの名を結んで続きます。
わかりやすくするために、この箇所の英語の聖書をお読みします。the son of Joseph, the son of Heli, the son of Matthat, the son of Levi …云々と記されているのです。こうして、38節の「エノシュ(はセトの息子)、セト(はアダムの息子)、アダム」まで語られます。そして、ここまでのすべての名が、23節の「ヨセフの子と思われていたイエス」に同格で結ばれています。つまり、アダムからヨセフまでの人間すべての息子がイエス様だと読むことができます。イエス様は人間だという事実を、ここまでの系図は語っています。
さて、イエス様がご自身を「人の子」と呼ぶことを思い出しましょう。たとえば、マタイ福音書25章31節ではイエス様が言われた再臨の預言がこう記されています。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。」 この「人の子」は、イエス様が「わたしは」と言っているのと同じです。
「人の子」は、英語の聖書では「the Son of Man」と言います。直訳すれば「人類の息子」、言い換えれば「人間の息子」です。イエス様が人間の息子・まったき人であることを、今日の系図のルカ福音書3章38節の途中までの聖句は、こうして告げているのです。
そして、38節の最後の言葉は、こう告げます。わかりやすくするために、英語の聖書で、その最後の言葉をお読みします ― the Son of God. 「神の子」です。Jesus, …(系図 the Son of Man )…, the Son of God と記されています。イエス様は神の御子、すなわち神さまであると明記してあるのです。
人間の歴史が系図として記されて、イエス様は人間だと語られた後に、イエス様は神さまだと記されています。こうして聖書は、私たちの心に灯を掲げてくれます。イエス様は人の世に生まれ、人の子として生き、同時に神さま ― だから人の世の歴史には神さまの光が与えられているのだと、ここに明らかにされています。この系図を辛抱して読んで、最後の「神の子」という言葉にたどりつき、私たちはぱっと明るく心に輝きをいただくのです。 イエス様は、全き人の子、全き神の子。だから、私たちは救われるのだと希望をいただくことができます。
系図は、親から子へと人の歴史が続いてきたことを示します。名前を記された一人一人が前の世代から受け、次の世代に渡す営みがあったのです。ここに名のあるマタトは、レビは、メルキは、それぞれどんな人生を送ったのでしょう。地道に生き、家族を養い、苦労をし、その時々の社会の変動に翻弄されつつも懸命に生きたにちがいありません。生き延びるため、また家族のために、時にはずるいことや人を出し抜くこともやったかもしれません。同胞や隣人を助け、喜ばれたこともあったでしょう。
その人の営みのすべて ー労苦も、喜びも、イエス様は「人の子」として担ってくださいました。それと同時に、人間を造られた神さま・創造主として私たちを造った責任をも負ってくださったのです。だからこそ、イエス様は、人間すべての罪を負い、それを私たちに代わって償ってくださりました。
私たち人間は、ここに記されている系図のように、それぞれ過去から現在へと歩んでまいりました。神さまに造られて歩んできたのです。すべての始まりは、神さまにありました。私たちはこれからも歩んでまいります。親から子へ、ベテラン教会員から青年教会員へと、私たちの歩みは続きます。神さまの御子イエス様は、全責任を負って私たちを見守り、これからも続く私たちの歩みをずっと導き続けてくださいます。
それを思うと、今の自分にいろいろな課題があり、社会に不安があり、世界にまだ平和が訪れていなくても、光のうちを歩んでいることに確信を持てます。私たちの救い主イエス様が、私たちと共においでくださり、私たちに寄り添い、私たちを導いてくださっているからです。
イエス様は人の子・人間として私たちの悩みや行き詰まり、絶望感や無力感を知り尽くし、十字架の出来事とご復活によって行き詰まり・絶望・無力感に突破口をひらいてくださいました。
今、感染下に置かれているがゆえの閉塞感や不安が、私たちの心を暗くし続けています。今日の平和聖日には、特に、戦火がやむ気配がないことを思わずにはいられません。しかし、イエス様が私たちに与えられている救いの約束に、私たちは希望をいただいています。今日から始まる新しい一週間の一日一日、イエス様が掲げてくださる希望の光を仰ぎつつ、共に進み行きましょう。
2022年7月31日
説教題:民衆に福音を
聖 書:ミカ書4章3節、ルカによる福音書 3章15~20節
そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼(バプテスマ)を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼(バプテスマ)をお授けになる。
(ルカによる福音書3章16節)
前回の主日礼拝聖書箇所に続いて、今日の聖書箇所にも、救い主・メシアが世に遣わされた!と荒れ野に声を響かせるヨハネのことが語られています。
ヨハネは、世俗の権力に価値を見出さず、この世の贅沢に目もくれず、ひたすら神さまを仰ぐ生活を送っていました。人々は、このヨハネこそが、ユダヤの民が700年以上にわたって待ち続けている救い主ではないかと思いました。
ヨハネは、その人々の期待をきっぱりと否定しました。その言葉が、今日の聖書箇所の中心、16節です。
この聖句には、神さまであるイエス様と人間ヨハネの大きな違い、神さまと人間とはまったく次元が異なるという事実・真理が明確に記されています。この御言葉は、私たちに 神さまは如何なるお方か、どれほど大いなる恵みを私たちに与えてくださる方かをあらためて知らせてくれています。救い主イエス様がいかなる方かを教えてくれる御言葉なのです。
ユダヤの民はそもそも、「救い主・メシア」という言葉の意味を間違って考えていました。彼らは、「救い主・メシア」をローマ帝国の支配・他国の支配から自分たちユダヤ民族を解放し、独立を勝ち取ってくれる英雄、武力によって打ち勝つ王・指導者だと思っていたのです。
単純なたとえを用いれば、いじめっ子に叩かれている自分の代わりに、いじめっ子を叩いて打ち負かしてくれるのが「救い主・メシア」 ― そう考えていました。しかし、これではいじめっ子・ガキ大将の代替わりにすぎません。
ガキ大将が自分の力・存在の根拠とする「いじめ」・暴力・この世の権力そのものがなくなったわけではないからです。
「強い者が偉い」という価値観から抜け出さない限り、人間はひたすらガキ大将の代替わりを繰り返すだけです。
真実の「救い主・メシア」とは、この世の権力 ― この中には政治力・経済力、人と人との間に優劣・強弱をもたらすあらゆるものが含まれます ― こそ最も価値あるものだとする価値観から、ユダヤ民族を、またユダヤ民族に限らずローマ人を含むすべての人類を解放してくださる方です。その方こそが、神の御子 イエス様なのです。
人間は「強い者が偉い」という価値観から自力では逃れることができません。私たちが、ごく自然に「強い者」 ― 優れた能力を持つ人 ― を「すご~い」と感じる感覚を備えていることに、それは表されているといっても良いでしょう。特に若い頃には、そのような人を尊敬したり、目標にしたりします。これは、良いことです。自分を高めることができるからです。
その一方で、その憧れの人が身近な人で、どれほどがんばっても理想の姿に近づけない時、私たち人間はその人をねたんだり、憎らしいという思いを持ってしまうことがあります。
「強い者・能力が優れた者が偉い」という私たち人間の価値観は、良い方にも悪い方にも向かう両刃の剣です。悪い方に向かえば、罪に陥る危険をはらんでいます。「強い者・能力が優れた者が偉い」を当たり前のこととして、誰もが強くなろうとし、競い合うことが奨励される世の中で、その危険に気付くのは実に難しいことです。人間は、自分では、自分の罪に気付くことができないのです。
神さまは「強い者・能力が優れた者が偉い」という価値観から、まったく自由な方です。何からも自由な方、それが私たちの神さまです。神さまは、私たち人間を、この人間は強いから偉い・こっちは弱いからダメということなど一切なく、皆を等しく愛して造ってくださいました。その神さまを仰ぐ時、私たちは初めて、私たちの間に優劣・強弱による差別や格差など本当はあってはならないことに気付かされます。
気付かされた時に、私たちは「強い者・能力が優れた者」という価値観ではなく、またその価値観がもたらす差別・格差、競い合いを捨てて、神さまに造られたものとしての新しい価値観を持たせてくださいと願わずにはいられなくなります。
罪から逃れさせてくださいと、神さまに願い、祈るようになるのです。聖書は、この願いと神さまを仰ぐ姿勢を「悔い改め」と呼びます。
私たち人間にできるのは、こうして神さまを仰ぐところまでです。その先のことは、私たち人間にはできません。
この真理を踏まえて、ヨハネは「わたしはあなたたちに水で洗礼(バプテスマ)を授ける」(ルカ福音書3:16)と人々に告げました。わたし(ヨハネ)は罪の洗い清めまで導くことはできるが、その先へと導いてくださるのは「わたしよりも優れた方」 ― 真の救い主・メシアであるイエス様だと言ったのです。
イエス様は聖霊のそそぎと火によって、私たちを新たな価値観に生きる者へと導いてくださいます。
今日の聖書箇所の16節で、ヨハネはその恵みについてこう人々に告げました。お読みします。「その方(イエス様)は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」悔い改めて神さまを「神さま!」と仰いだ後に、私たちに与えられるのが聖霊と火の洗礼(バプテスマ)です。
聖霊と火と聞いて、私たちは何を思い浮かべるでしょう。そうです ― ヨハネは預言者として、この時からおよそ3年半から4年後に起こるペンテコステの聖霊降臨の恵みを語っているのです。
ペンテコステの出来事を、思い起こしましょう。イエス様は十字架の出来事とご復活の後、天に昇り、御父の御許に帰られました。地上でイエス様のお姿を見ることができなくなる代わりに、イエス様は悔い改めた者一人一人の心に聖霊を授けてくださると約束されました。そして五旬祭(ペンテコステ)の日に、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、(弟子たち)一人一人の上にとどまっ」(使徒言行録2:3)て、その約束は果たされました。これが、ペンテコステ・聖霊降臨の出来事です。
弟子たちに聖霊が宿ったように、信じて父・子・聖霊の名による洗礼に与ることを通して、私たちには聖霊 ― 私たちのうちで働いてくださるイエス様 ― が心に宿り、この世の価値観から解放されて神さまの正義と愛のご計画に生きる者とされます。
ペンテコステの出来事の後、弟子たちは異国の言葉で福音を語り、ここから教会が生まれ、信じる者・キリスト者による福音伝道が始まりました。弟子たちは、神さまの正義と愛のご計画のために、喜び勇んで身を献げる者となったのです。自分が人と比べて強いとか弱いとか、優れているとか劣っているとか、そのようなことからいっさい解放されて、神さまに身をゆだねることを最高・至上の喜びとする者に造り変えられました。
私たちキリストの教会の洗礼では、罪の洗い清めと聖霊と炎のそそぎが一度に行われます。
しかし、洗礼を受ける者には、自分が悔い改めて神さまを仰いだことしか実感としてはわかりません。この人間的実感を踏まえて、ヨハネは自分が授けることのできる洗礼は罪の洗い清め・「水の洗礼」だと言ったのです。彼は、人間としての自分の限界を知り尽くしていました。神さまは私たちの実感・理解を超えて、私たちの心に働きかけ、聖霊を授けてくださいます。
説教者・牧師が集まる勉強会や牧師会で、時々このようなことが話題になります。信徒さんから、聖霊がわからない…洗礼を受けたけれど、自分がイエス様の十字架の出来事とご復活を本当にうけとめきれているかわからない…信仰を持てていないような気がする…そうした質問を受ける ― こういう話題です。その時に、おそらくどの説教者・牧師も信徒さんに伝えたいと思うのは、「わからなくて、まったくかまわない」ということです。信仰は、自分でがんばって学んで、努力して教理を理解し、そうして身に着けようとして着けられるものではないからです。
信仰は、聖霊を通して神さまが与えてくださる恵みです。人間側から納得して信じるのではなく、信じたいと祈り願って、神さまから私たちに与えられるすばらしいプレゼント ― それが、信仰です。
自分の力で信じようとじたばたするのではなく、信じようと決意と、信じたいとのひとすじの願いを持つことで聖霊に導かれる安らぎ・真の平安が与えられます。
この恵みを私たちに与えるために、イエス様は十字架でご自身の命を捨ててくださいました。イエス様が命を捨ててくださるほどに自分は愛されている ― この事実は、私たち一人一人をたいへん強くしてくれます。
真の権威者・真実の導き手・救い主イエス様に愛されているのですから、この世の権力者に嫌われようが寵愛されようが どこ吹く風という肝のすわった強い心・聖霊で満たされた心を持てるようになるのです。
今日の聖句に続くルカ福音書3章19節以下が告げるように、ヨハネはユダヤの王・領主ヘロデの悪事を糾弾することを少しも恐れませんでした。そのために牢に閉じ込められましたが、主にすべてをゆだね、悪を悪と指摘したことを後悔しませんでした。
世が完成して天とひとつになる時・世の終わりの時に再臨されるイエス様が、すべてを正しく裁いてくださるので、イエス様にお任せしていればよいのです。再臨のイエス様が、今日の17節でヨハネが語るように「手に箕を持って、脱穀場をすみずみまできれいにし、麦(良い実り)を倉に入れ、殻(悪)を消えることのない火で焼き払われ」(ルカ福音書3:17)て、決着をつけてくださいます。
自らを最も正しく、最も善なる方の御手にゆだねることに、私たちの至上の幸福があります。今日から始まる新しい一週間の一日一日を、その信仰の幸いのうちに歩んでまいりましょう。
2022年7月24日
説教題:良い実を結ぶ
聖 書:イザヤ書40章3~5a節、ルカによる福音書3章1~14節
そこでヨハネは、洗礼(バプテスマ)を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。…良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
(ルカによる福音書3章7~8a、9b~10節)
前回の礼拝で、少年イエス様が十二歳の時に、神さまであると同時に人である救い主としてのお姿が顕われたことを御言葉に聴きました。それから十八年ほど後の出来事が、今日の礼拝の聖書箇所 ルカ福音書3章1節から14節に語られています。
イエス様がお生まれになった時にはローマの皇帝はアウグスティヌスでしたが、この時はティベリウス皇帝に代わっていたことが、最初の聖句・ルカ福音書3章1節から読み取れます。それに続いて、イエス様を十字架に架けて死刑にすることを最終的に判断したローマの提督ポンティオ・ピラトの名が記されています。
これらの歴史的記録を記すことにより、聖書はイエス様が確かにこの地上を歩かれ、私たち人間の歴史に足跡を刻まれた方であることを明確に語ります。
前回の礼拝の聖書箇所では十二歳だったイエス様は、三十歳になっておられます。そのお働きの始まりを人々に告げるために、神さまはまず、ザカリアの子ヨハネにくだりました。ヨハネは、祭司ザカリアの息子です。イエス様が救い主として世に来られたことを告げ知らせる使命を与えられ、老いた夫婦・ザカリアとエリザベトに大きな奇跡であり恵みとして授けられたのが、このヨハネでした。イエス様よりも六カ月先に生まれ、祭司の息子でありながら、慣習に従って祭司とはならず、荒れ野で神さまを求める清い生活を送っていました。
彼は、荒れ野で、大声で預言の言葉・神さまから与えられた言葉を語り始めました。それは、イザヤ書40章にある救い主の到来を告げる御言葉だったのです。彼は大声で呼ばわりました。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」(ルカ福音書3:4b)
救い主を迎える心構えをしなさいと告げました。さらに「罪の赦しを得させるため」の「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えたのです。
ヨハネが告げたのは、預言者イザヤの口を通して神さまがユダヤの人々に与えた約束・預言の言葉でした。今こそ、その預言が実現するとヨハネは語りました。
預言者イザヤの時代に、ユダヤの民は国土と独立を失って捕囚の辱めに遭っていました。自分たちの背信が今の苦境を招いたのだと失意に沈む民に、神さまは、後の世に必ず救い主が現れるから希望を持つようにとイザヤの口を通して励ましと希望の約束を賜りました。
それからおよそ700年後、今日の聖書箇所の時代にも、ユダヤは外圧によって屈辱的な状況に置かれていました。先ほど、ポンテオ・ピラトの名が記されていることをお話ししました。ピラトはユダヤの総督として、ローマ皇帝から派遣され、ユダヤの実質的な支配者として駐在していました。ユダヤはローマ帝国の支配下にある植民地になっていたのです。国土はありましたが、独立は奪われていました。
ローマ帝国は植民地に高い税金を課し、ユダヤの人々はそれに苦しめられていました。後で出て来る「徴税人」は、ユダヤ人からこの税金を取り立てる役割の人たちを指しますが、ローマはこの嫌な役割をユダヤ人の中から選んで割り振りました。ユダヤの王・指導者はこれを黙認するばかりか、ローマ帝国の植民地支配にへつらう姿勢を取っていました。王とは名ばかりで、支配国の傀儡政権・あやつり人形でしかなかったのです。そうしなければ、王自身とその一族も生き延びられませんでした。
こうして国の精神的支柱が歪み、権力に媚びへつらう者が得をし、神さまに希望を置く者は馬鹿にされました。正しいことを正しいと言えず、行えず、悪と欲がはびこる醜い社会となっていたのです。
その社会から身を遠ざけて、ヨハネは荒れ野・砂漠で禁欲的な生活を送っていました。都の金持ちや権力者が身にまとう華美な衣服ではなく、らくだの毛衣に荒縄の帯をしめていました。贅沢な食事ではなく、野蜜といなごを食べて断食をしていました。そのヨハネの口を通して、神さまは腐った社会から人々を救う救い主があらわれる、そのために心に道を整えるようにと語りかけたのです。
イザヤ書の預言の言葉がついに実現した・救い主がついに自分たちのためにあらわれてくださると叫ぶヨハネの声を喜びをもって聞いたのは、歪んだ社会で得をしている人たちではなく、得をしている権力者のために貧しく苦しい生活をしていた庶民だったのではないでしょうか。
神さまはヨハネの口を通して、今こそ神さまに立ち帰り、悪と欲 ― 罪 ― から離れ、罪を赦されたしるしである洗礼を受けるようにと促しました。神さまが、罪の赦しの洗礼を受けるようにと人々に告げられたことはたいへん重要です。
神さまに見守られ、その恵みのうちに置かれているしるしは、当時、洗礼ではありませんでした。割礼でした。ユダヤ人として男の赤ちゃんは、生まれて八日目に割礼を受けて神さまとの絆を持つことが、律法に定められています。
割礼は、神さまが男性の体につけてくださるしるしとして、私たち人間の目で見て確かめることができます。それはもちろん、律法に定められた主の恵みですが、残念なことに、女性にはこの割礼を受けられる体の部分がありません。そのために、人間的な思いによって、女性が男性よりも卑しく劣った者として見られる根拠ともなる事柄でした。
一方、洗礼にはそのような分け隔ての根拠はありません。男女を問わず、どんな人も、ヨハネを通して神さまに導かれ、川の流れに全身を浸して洗い清められれば罪を赦され、神さまの御前に立つにふさわしい姿となれるのです。
その洗礼に臨む心備えは、救い主イエス様を迎え入れる心備えでもありました。洗礼に臨み、神さまの御前にふさわしい者とされるために、ヨハネはたいへん厳しい言葉を人々に告げています。
ただ川の水に浸るだけで洗礼を受けたと思ってはならない、「悔い改めにふさわしい実を結べ」(ルカ福音書3:8a)、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(ルカ福音書3:9b)と心備え・心構えの大切さを説きました。
どうしたら、その心備え・心構えを持つことができるのかと、人々はヨハネに尋ねました。「…群衆は、『では、わたしたちはどうすればよいのですか』と(ヨハネに)尋ねた」(ルカ福音書3:10)と記されていますが、私たちもまさにそのとおりの言葉で、どうしたら神さまにずっとつながり続ける信仰をいただけるのかと尋ねたくなります。
私たちが神さまに造られ、イエス様の十字架の出来事とご復活で救われたと信じて洗礼を受けても、私たちは自分の信仰が弱く、おぼつかないことをわかっているからです。私自身も献身する前、説教者として立たされる前は、仕事が忙しく、自分のことにかまけてばかりで、気が付けば神さまへの祈りを忘れていたことがありました。信仰の足腰を鍛え、どんな時もすぐに神さまに助けを求めて祈る健やかな信仰をどうすればいただけるのか、知りたいです。知っていれば、安心して過ごせるからです。
私たちの切実な神さまへの問いでもある、群衆たちの問いかけに、ヨハネは実に具体的で実行可能な事柄を答えてくれました。
その答え、11節をお読みします。「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ。」自分よりも困っている人を助けて、持っているものを分けてあげなさい、分かち合いなさいと教えたのです。
歪んだ社会では、行うのが困難なことでした。ローマ帝国にゴマをすって権力を手中にしていた者たちは、下着も上着も、いくらでもため込んで、貧しい人たちからなおも剥ぎ取ろうとしていたのです。しかし、見渡せば、今の時代でも、同じことがこの世で公然と行われているのではないでしょうか。汚職疑惑も、権力者がその権力を誤ったことに用いた残念な事件も、いつの時代も頻繁に報道されています。
正しいことが行われにくく、ずるがしこい悪人が得をするこの世で、神さまとの絆をいただいて清く生きようとするために、愛と分かち合いがまず必要であることを神さまはヨハネを通して人々に教えてくださいました。
悔い改めて、救い主を迎える心備えをいただくには、まず自分だけが良ければよいという自己中心的な思いを捨てるようにと、神さまは教えてくださいます。自分が当面は着ない余分な下着があれば、裸で困っている人にその下着を分けてあげなさい、食べ物も同じように、分かち合いなさいと導かれます。繰り返しますが、これらは、実行が難しいことでは、けっしてありません ― 神さまは、私たち人間を見抜いておられ、まずできそうなことから始めるようにと憐みをもって導いてくださるのです。
互いに助け合うことにより、権力者に集中していた「山のような」富は、貧しい「谷」に分け与えられ、凹凸のあった格差社会が平らにならされ、平等になってゆきます。富・権力・あらゆる支配力の奪い合いが助け合いに置き換わり、山と谷という社会の凹凸は平らに整えられて「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見」(ルカ福音書3:5‐6)て、救い主を迎える心備えをいただくのです。
自己中心を捨て、相手を思いやって互いに分かち合う愛を心にいただく時、私たちは「悔い改めにふさわしい実」(ルカ福音書3:8)、「良い実を結」(ルカ福音書3:9)ぶ道へと導かれます。小さな分かち合いから、大きな平和が生まれます。
戦火がやむようにとの私たちの祈りも、今日 教えられた小さな思いやりをイエス様に従って、人類 皆が正しく積み重ねてゆくことで可能になります。その希望を抱き、ひとすじに主を仰ぎ、救い主イエス様に寄り添っていただいて、今週も共に進み行きましょう。
2022年7月17日
説教題:神と人とに愛される
聖 書:申命記16章1~3節、ルカによる福音書2章41~52節
両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
(ルカによる福音書2章48~49節)
私たちには四つの福音書が与えられています。福音書は、イエス様の十字架の出来事とご復活の救いの御業、その御業に至るまでイエス様が地上で為された「教え・伝え・癒す」の三つのお働きを私たちに語り伝えています。イエス様が私たちにどのような恵みを与えてくださったか、そしてイエス様はどなたであるかが、四つの角度から記されていると言って良いでしょう。イエス様は「まったき神にしてまったき人」 ― 完全に神さま・救い主であり、完全に人間でもあるお方です。福音書の、いえ聖書のどこを開いても、主のお姿を照らす御言葉が記されているのです。
今日の聖書箇所には、イエス様の少年時代の出来事が描かれていますが、この出来事はルカによる福音書にしか、記されていません。
今日の聖書箇所からも、イエス様がすでに少年の時から救い主としての姿を顕しておられたこと、そして、人間としての成長期にあったことを読み取ることができます。
まず、イエス様が人間としての成長期にあったことをご一緒に読み味わってまいりましょう。
今日 与えられている旧約聖書の聖書箇所 申命記16章1~3節は、ユダヤ民族が守るべき三つの祝祭日が記されています。過越祭、七週祭、仮庵祭の三つです。この三大祝祭日は、ユダヤの民は神さまが彼らをエジプトから救い出したことを思い起こし、神さまの御名を置いた場所で献げ物を献げる日として定められました。ユダヤ人ならば、一年に三度、「神さまが御名を置いた場所」に詣でて献げ物をするのが掟であったと言い換えても良いでしょう。
このことを心に留めて、今日の新約聖書箇所を読んでまいりましょう。イエス様の母マリアとその夫ヨセフは「過越祭には毎年エルサレムへ旅を」(ルカ福音書2:41)したとあるのは、ユダヤ人としての掟・律法を守るためだったことがわかります。神殿のあるエルサレムこそが、「神さまが御名を置いた場所」だったからです。
イエス様が十二歳になった時も、マリアとヨセフはその慣習を守りました。ここで、イエス様が十二歳だったことを心に留めておきましょう。ユダヤの男子は十三歳で大人の仲間入りをします。ですから、この時、イエス様は子どもとしては最後となる年のエルサレム詣でをしたことになります。
祭りの一週間が終わって、マリアとヨセフは一緒に来た親戚やナザレ村の人たちと帰途につきました。
数家族で行動するとありがちなことですが、男性は男性のグループ、婦人たちは婦人のグループ、そして子どもたちはそれぞれの両親から少し離れて、子ども同士で行動していたと思われます。そのため、マリアとヨセフは一日が終わるまで、おそらく夜になってどこかに泊まろうとした時まで、一行の中に我が子イエスがいないことに気付きませんでした。イエス様は、まだエルサレム神殿の境内にとどまっておられたのです。
外出先で、いえ外出先でなくても、我が子がいないことに気付いたら、いつの時代・世界のどこでも、両親はパニックに襲われます。
マリアとヨセフは大慌てでイエス様を捜しながら、エルサレムに引き返しました。エルサレムから一日かけて着いたところから、捜しながら時間をかけてエルサレムに戻ったため、足かけ三日をかけてようやくイエス様を見つけました。
イエス様は、今日の聖書箇所の46節にあるように「神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したり」しておられました。
この箇所を読む時に、つい、先入観からある誤解をしてしまいがちです。私たちは、宣教活動を始められたイエス様が律法学者たちと議論を重ねたことを福音書から知らされています。ですから、この時もまだ十二歳の少年だったイエス様が、律法学者たちと議論して論破し、斬新で正しい律法解釈で彼らをやりこめていたのだと思ってしまいがちです。さすがイエス様は神の御子、栴檀は双葉より芳しと言う如くに十二歳の少年の頃から、人間の律法学者など足元にも及ばなかったのだ…と、私たちは心の内で拍手喝采しながらこの箇所を読んでしまいます。
しかし、実はこれは誤解です。今日の聖句を丁寧に見てまいりましょう。もう一度46節をお読みします。「(イエス様は)神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられ」た。
イエス様は、「話を聞いたり質問したり」しておられました。自分が律法学者たちに議論をして話し、討論を求めて問いかけていたのではありません。イエス様は生徒として、教師である学者たちの話に熱心に耳を傾け、わからないところは質問して学んでいたのです。イエス様が熱心に学ぼうとされるので、律法学者たちはこぞって教えようと少年イエス様を取り囲み、期せずしてそれは、熱気のある公開授業のような光景となったのでしょう。多くの人々がその周りに集まり、「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いてい」(ルカ福音書2:47)ました。イエス様は優れた「生徒」・賢い「少年」として注目を集めていたのです。人間として成長期にあるイエス様の、人間としての一面が示されています。
イエス様は、こうして当時のユダヤ人男子と同じように、人間が解釈する律法をまず、基礎から学ばれました。この基礎に立ってこそ、後に神さまの視点から、正しく自由で画期的な律法解釈を展開するようになったのです。まずは同じ議論の土俵に立たないと、相手を論破することはできません。
イエス様は十二歳のこの時に、律法学者たちの立つ土俵の理論を学ばれ、その基礎から応用へと思索を巡らせ、さらに革新的な解釈へと飛躍されました。この飛躍は、人間の次元から神さまの次元への飛躍・神さまの御子イエス様だからこそ成し遂げられた飛躍と申して過言ではないでしょう。
成長して宣教活動を始められたイエス様の言葉を、マタイによる福音書はこのように記しています。少し長くなりますが、お読みします。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。…言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(マタイ福音書5:17~18、20)
お聞きのとおり、イエス様は律法学者たちをそれなりに認めておられるのです。人間による解釈の限界を、律法学者の解釈に学んだとも考えられます。そして、その人間の限界を超える神さまの真実を伝え、律法を完成するためにこの世においでになったのです。
さて、次に、十二歳のイエス様に、救い主・メシアとしてのお姿がすでに顕われていることをご一緒に読んでまいりましょう。
学者たち、すなわち先生たちに囲まれて贅沢な個人授業を受け、人々の賞賛を浴びているイエス様を、マリアとヨセフがみつけて近寄りました。おそらく、マリアは我が子がみつかった安心でホッとし、とたんにこみあげてきた怒りに顔を赤くして、イエス様に駆け寄ったのでしょう。そして、こう言いました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」(ルカ福音書2:48)
マリアの気持ちはよくわかります。その母マリアに、イエス様はこう答えられました。続く49節をお読みします。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
イエス様はすでに、ご自身が救い主・神の御子である自覚をお持ちでした。ですから、その天の父の家・神殿にいるのは当たり前だと言われたのです。ところが、聖書はこう続けます。50節です。「しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。」
マリアとヨセフには、残念ながら分からなかったイエス様の言葉の意味を、私たちは知っています。私たちには、この言葉の意味がイエス様の十字架の出来事とご復活の事実によって、すでに与えられているからです。
繰り返しますが、イエス様は神さまの御子であり、神さまだから、神殿にいて当たり前なのです。
さらに、今日の聖書箇所から、こう考えることもできます。
イエス様のご受難 ― 十字架の出来事 ― は過越祭の週の間に起こりました。イエス様のご復活は、その三日後でした。少年イエス様が過越祭の後、マリアとヨセフと共にナザレの村に帰らずに神殿にとどまり、そこで見つけられたのは、親しい人たちが少年イエスの姿を見失ってから三日後です。三日という事実が重なっていることにお気づきでしょう。イエス様の少年時代のこの出来事に、後のイエス様のみわざが隠れるように示されているのです。
イエス様は私たちを罪が招く破滅から救うために、この世においでくださいました。
私たちは人を思いやり、優しい言葉と行いをしようと思っても、つい感情で荒っぽい言葉やしぐさをしてしまいます。マリアも、愛情にあふれているからこそ、今日の聖句にあるように、少年イエス様に本気で怒りを表したのです。人間味あふれる事柄で、私たちもよくしてしまうことです。
人間らしく感情をあらわにしてしまうために、私たちは時として人間関係を円滑に保つことができません。私たちは人と平和に過ごそうと心がけても、相手が心を開いてくれなかったり、自分が相手にかける言葉をみつけられなかったりします。
また、さまざまないきさつから、私たちは平和を保つことが困難です。それぞれの民族、それぞれの国が、自国民を守るために武力を行使してしまい、国と国との平和が壊される悲しい事実が、今も続いています。
その私たちのどうしようもなさ・私たちの罪のすべてを、イエス様は一身に担われ、十字架でご自身の肉体の死と共に、その罪を滅ぼしてくださいました。イエス様は、こう私たちに示してくださいました。 ― あなたがたは繰り返し過ちを犯すが、繰り返し赦され、良い道・正しい道を求め、神さまを求めて進み続けることができる。― その約束のしるしが、イエス様のご復活です。
この私たちのための救いのみわざを、イエス様が地上の命を歩まれている間、誰も理解できませんでした。
誰もイエス様が神さまの御子であると、完全にはわかっていなかったのです。前回の聖書箇所でご一緒に読んだシメオンの喜び、アンナの新しい出発を目の当たりにしていても、マリアもヨセフも、イエス様が救い主だとわかりませんでした。この人間の愚かさにもかかわらず、イエス様は天の父なる神さまに定められた使命を十字架で果たしてくださいました。主は三日後によみがえられ、私たちに聖霊を与える約束をなさって、父の御許に帰って行かれました。
今、私たちはイエス様が約束してくださった聖霊をいただいて、御言葉の恵みを知り、イエス様の十字架の出来事とご復活の意味を受け入れ、イエス様のあとをついて歩んでいます。
私たちと同じ人間として成長され、神の御子としての使命を成し遂げてくださったイエス様に従って進み行きましょう。
今日の聖書箇所の最後の聖句・52節はこう語ります。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」私たちもイエス様の御跡を踏んで、信仰の知恵と背丈を育てていただき、神と人を愛し、愛されて今週一週間を過ごしてゆこうではありませんか。
2022年7月10日
説教題:万人の救いの光
聖 書:イザヤ書 46章3~4節、ルカによる福音書2章22~40節
主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。
(ルカによる福音書2 :29~32)
今日の主日礼拝の聖書箇所(ルカ福音書2:22~40)は、二人の年老いた信仰者の幸いを伝えています。
ひとりは男性・シメオン。この人は、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けて」(ルカ福音書2:26)いました。聖霊の言葉・御言葉を信じて、シメオンは今日の礼拝聖書箇所のルカ福音書2:25が語るように正しく、信仰篤く、「イスラエルが慰められるのを待ち望」んで生き永らえてきたのです。
ユダヤ社会はローマ帝国の支配下に置かれ、皇帝を神と仰ぐローマ人・異邦人が大手を振って歩いていました。その中で「正しく・信仰篤く」、ユダヤ民族の誇りを保って生きるのは困難な時代でした。徴税人ザアカイのようにローマ帝国の手下となり、同胞であるユダヤの民から搾取する者も少なくなかったのです。「正しく、信仰篤く」生きるシメオンには、苦労が多かったでしょう。いやがらせを受けたり、実際に具体的な損失を被ったりすることがあったでしょう。しかし、シメオンは決して屈しませんでした。預言されているメシアに会う日を待ち望み、その日が自分の人生で最も良い日と信じ、その日を何よりも楽しみに生きていたからです。メシアに会える希望・主にある希望がシメオンに力を与え、彼を実に打たれ強い者に育て上げていたのです。
神さまが私たち信仰者に与えてくださる力は、人を押しのけたり、蹴落としたりする力・人に勝つ力ではありません。「自分が、自分が」と前に出て人に勝とうとする力ではなく、まわりの人々と協力し、支える力・支え合う力です。
また、この世の悪・理不尽を耐え忍び、悪に打ち勝つイエス様の勝利を信じる信仰の力です。
私たちが何歳になっても、神さまはわたしたちをご自身の愛し子として慈しんでくださいます。信仰者は、何歳になっても、いつまでも、神さまに心を養われ魂と信仰を育てられて成長してゆきます。
シメオンは高齢でしたが、心も魂も信仰も少しも老いてはおらず、若々しくみずみずしいままでした。シメオンにとって、またイエス様のご復活によって永遠の命を与えられた者 皆にとって、肉体の滅び・死はひとつの通過点です。
シメオンにとって、肉体の死は通過点であり、同時に、メシア・救い主イエス様と会える希望の約束が実現する最高の日を知らせるものでした。だから、シメオンは幼子イエス様を腕に抱いた時に「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。」(ルカ福音書2:29)と謳いあげました。救い主イエス様に会えたのだから、もう死んでもよい、この世のすべてに別れを告げてかまわないと、シメオンは声高く主に語りかけたのです。
イエス様に出会う ― それは、この世のすべての悲しみ・労苦に押しつぶされる人々の心を強め、互いに助け合い、支え合うようにと導いてくださる方と出会うことです。
イエス様に出会う ― それは、真の導き手・指導者・リーダーがついにこの世においでになり、その方と出会うということです。
救い主なる真の指導者とは、すべての人・万民を過ちの泥沼から引き揚げ、救い上げて正しく安全な道・正義と愛の道を進ませてくださる方です。
人の世には、さまざまな賜物を持ち、いろいろな指導者が現れます。一昨日の7月5日、この国の指導者の一人が戦いの道半ばにして凶弾に倒れました。私たちは卑劣な暴力がもたらしたこの出来事に、大きな衝撃を受けました。二日たった今も、心にはその衝撃が残っていると言っても良いでしょう。
暴力は、暴れる力と書きます。 暴れて破壊する力、壊してすべてを無にする力、人の命を奪って文化を破壊し、人間関係・国と国との親しみを壊して、愛と幸福を破壊する悪の力です。
一方、神さまが与えてくださる力・主の十字架の出来事と復活を信じる信仰が私たちに与える力は、慰める力です。
神さまは無からすべてを創られた創造主です。私たちは何も無いところから何かを創り上げることはできませんが、真の指導者・リーダー、救い主イエス様に導かれて本当に良いもの・平和を築いてゆくことができます。互いに支え合い、助け合い、慰め合って愛と幸福を築いてゆくことができます。
イエス様が与えてくださる慰めの力は、私たちに大きな安らぎをもたらします。今日の聖句で、シメオンが語るとおりです。繰り返しになりますが、シメオンが語った言葉をお読みします。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。」(ルカ福音書2:29)シメオンは、自分のこの世の命が終わる時にも、安らかに去って行けることを喜びに満ちて言うのです。自分がこの世を去っても、この世が救い主に導かれて幸福へと進むことを信じ、希望を抱いているからです。そして、シメオンはこの世を去った後、御国で生きることを楽しみだとさえ思っているのです。
このように思うのは、シメオンだけではありません。私たちクリスチャン、主を信じる者は皆、そう思うようにと信仰を育てられます。私たちは一人一人、それぞれの人生のどこかで救い主イエス様に出会い、洗礼によって罪に死に、新しい命によみがえって主と共に歩む平安を約束されたキリスト者としての命を歩み続けるのです。
幼子イエス様と出会って、信仰者の幸いをいただいたもう一人の高齢者はアンナという女性の預言者だったと、今日の聖書箇所は語ります。
アンナのこれまでの人生は、過酷なものでした。彼女は結婚してたった七年で夫を亡くしました。聖書では「やもめ」と記されている未亡人になってしまったのです。当時、女性は社会で仕事を得ることがほとんどなく、父や夫といった男性の庇護のもとでしか生きることができませんでした。
アンナには預言の賜物があり、夜も昼も神殿で主に仕えていましたが、実質的には神殿に詣でる人々から与えられる施しで命をつないでいたのでしょう。この世の価値観では、惨めな人生だと侮りさげすむ人も多かったでしょう。
アンナはイエス様と出会ったこの時、すでに八十四歳になっていました。もう人生のたそがれ時かと思われる年齢でしたが、このアンナに、神さまは新しい使命・新しいミッションを与えました。
今日の聖書箇所の最後の聖句はこう語ります。お読みします。「(アンナは)近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。」(ルカ福音書2:38)
「神を賛美し」て、「(救い主である)幼子のことを話した」とは、礼拝を献げて主の福音を宣べ伝えたということです。アンナは、礼拝で聖霊に満たされ、伝道へと遣わされる信仰者の使命を、八十四歳にして主から賜ったのです。
八十四歳になっても、いくつになっても、私たちは主との出会いとその後の務め、新しい使命と人生を与えられています。人の目には悲惨な人生の幕引き間近に見えても、アンナの人生は主と共に生き、主のために生きる喜びにあふれる希望の人生の始まりなのです。
私たちは、いくつになっても神さまの愛し子です。イエス様と共に歩む人生を、私たちは年齢に関係なく、いつからでも始めさせていただけます。失敗した・道を誤った・迷ったと思った時には悔い改めてリセットして、またイエス様に手を引かれ、時には抱っこされ、おんぶされて歩みます。
幼子のような初々しい心で、今日から始まる一週間の一日一日、主を共に見上げて進み行きましょう。
2022年7月3日
説教題:恵みの目撃と伝道
聖 書:イザヤ書40章9~11節、ルカによる福音書2章8~21節
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使たちが話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
(ルカによる福音書2 :15~18)
今日、わたしたちはイエス様を主と仰ぐ最初の礼拝、そしてイエス様の恵みを伝える最初の伝道を語る御言葉をいただいています。
救い主がおいでになる ― 700年ほど前から預言者イザヤが、そして多くの預言者たちがこの恵みを人々に知らせ続けました。その神さまの御業は今日の御言葉が語るとおりに実現しました。神の御子イエス様が、ベツレヘムでお生まれになったのです。
イエス様を宿したマリアはヨセフとの旅の途中で月が満ち、宿屋に泊まることもできずに馬小屋で御子を出産しました。ゆりかごなどあるわけもなく、赤ちゃんは布にくるまれて飼い葉桶に寝かされました。神さまの御業が、この世の片隅でひっそりと実現したのです。
この恵みを、神さまは限られた人たちにしか伝えませんでした。マタイ福音書によれば、その限られた人たちは東方の占星術の学者たちでした。私たちが今読み進んでいるルカ福音書は、その人たちとは羊飼いだったと語ります。
なぜ羊飼いだったのか ― それは、昨日の「今日のみことば」でもお知らせしましたが、羊飼いの務めがきわめて過酷で、労働量がたいへん多く、自己犠牲的だったからです。
救い主は羊の群れを守り導く羊飼いであると、今日の旧約聖書 イザヤ書40章は告げています。
羊飼いが危険をもかえりみず、自分の命をかけて羊を守り抜くように、私たち・神さまの羊を死の滅びから救い出してくださる救い主こそ、イエス様です。羊飼いが羊の群れをまとめるように、私たち・神さまの羊を群れとしてひとつにまとめてくださる統率者が、イエス様です。この世で最も苦労が多く、人の思いでは報いのない務めを担ってくださるのが、イエス様です。
神さまは私たちの羊飼いとなってくださるイエス様のお生まれを、労苦が多く報われることの少ない私たち人の世の羊飼いに知らせてくださったのです。
羊飼いたちは、天使の知らせを驚いて聞きました。しかし、驚いてぽかんとしていただけではありませんでした。天使に言われたとおりに、お生まれになった救い主をぜひ探し当てようと、羊に寄り添って野宿していた夜の草原からベツレヘムの町へといっさんに走り出したのです。
探し当てたい ― 羊飼いたちは、その強い願いを抱いて走りました。
探し当てる ― このことをめぐって、今 あるご高齢の牧師先生の証に恵みを受けたことがありますので紹介します。
その先生は子どもの頃にお父さんを失くされました。お母さんは悲嘆に暮れてお子さんたちに心を向けることができなくなってしまいました。生活には不自由しなかったようですが、中学生だった先生は不安と寂しさから心の支えを求めました。
重荷を背負う者・悩める者は来なさい、と招いてくれる教会というところに行ってみようと思い立ち、ご自分の町にある教会を電話帳の住所を頼りに訪ねて行ったそうです。ところが、古い町で道が入り組んでいたらしく、どうしても見つかりません。
ぐるぐる同じ町内を何度も歩き、礼拝開始時刻が迫るので汗びっしょりになり、坂を上り下りして、必死に探しました。諦めようとした時に、ふと上を見上げたら十字架が見えたそうです。自分が見つけたというよりも、十字架の方から視野に飛び込んできてくれたように思えたとおっしゃっていました。探し当てた!という喜びを、この先生はこの後もずっと抱き続け、十字架に救われた恵みを伝える伝道者・牧師になられました。
救い主の救いを恵みと受けとめるのは、自ら関わること・自ら探しに行くことから始まります。もちろん、そこには主の導きがあります。主も、主を求める者・迷った羊を探してくださっているからです。
迷った羊が必死に羊飼いを呼んでメェメェと鳴くように、私たちが必死に主の救いを求めること・神さまに会おうとする行動を起こすことを、神さまは待っていてくださいます。
そして、今日の聖句は、羊飼いたちがメシアご降誕の知らせを受けた時にどんな行動を取ったかを私たちに告げてくれます。羊飼いたちは、お生まれになったばかりの救い主と会うために走り出しました。天使から救い主ご降誕を知らされて、へぇ~、そうなんだ、それはめでたい…と他人事のように終わらせてしまわずに、救い主が世に来られたことに自ら深く関わろうとしたのです。
先ほどご紹介した牧師先生も、教会というありがたいところがあるらしい…で終わらずに、何とかそこに行きたいと強く願い、行動を起こしました。
私たちも皆、それぞれの人生のどこかで主を求め、教会を求め、行動を起こして主に出会い、今 礼拝を献げて主との確かな出会いをいただいています。
羊飼いたちは、天使が告げたとおりに飼い葉桶に布でくるんで寝かされている乳飲み子のイエス様に出会いました。これが、イエス様を仰ぐ最初の礼拝です。
そして、イエス様と出会った人は、その出会いについて語らずにはいられません。伝道するのです。
今日の聖句で、羊飼いたちはこの後、何をしたでしょう。お読みしますので、どうぞお聞きください。「この幼子について天使たちが話してくれたことを人々に知らせ」(ルカ福音書2:17b)ました。
羊飼いたちは、伝道したのです。
救い主がお生まれになった、その方は人間の姿で来られ、私たちの中で最も貧しく貶められている者のように、飼い葉桶に寝かされていた ― だから、きっとあの方は、苦しむ者・底辺に生きる者の悲哀と苦労をわかってくださると、伝えたのではないでしょうか。
力で人を抑えつける支配者に決してならず、寄り添うことで民を導いてくれる新しい指導者だと伝えたのでしょう。
しかし、それを聞いた人々について、聖句はこう語っています。お読みします。「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。」(ルカ福音書2:18)最初の礼拝の後、世に遣わされて伝道した羊飼いたちの宣教活動は成功しませんでした。聞いた人は不思議に思い、信じようとしなかったのです。
神さまは、そのようなことが起こると見通されていたでしょう。伝道・宣教活動はそうやすやすと成功しない・実らないということを、主は知り尽くしておられます。にもかかわらず、羊飼いたちは諦めませんでした。恵みを目撃した事実を証しし続け、語り続け、伝道し続けたでしょう。最も尊いお方が、この世の人の目には最も低く卑しい飼い葉桶に寝かされて、この世の底辺の者と共においでくださる ― それを目撃した感動を語り続けずにはいられませんでした。
私たち信仰共同体は、その宣教の実りです。私たちも、同じように主に出会った恵みを語り続けずにはいられません。語らずとも、私たちの心を豊かに満たす喜びが、イエス様の香りとなって香り立つことを信じます。
救いの主と出会わせていただいた恵みに力づけられて、今日から始まる新しい一週間の一日一日を生き生きと喜ばしく歩もうではありませんか。
2022年6月26日
説教題:主が地に降られる
聖 書:ミカ書 5章1~4a節、ルカによる福音書2章1~7節
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。…人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。…ところが、かれらがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
(ルカによる福音書2 :1、3~4、6~7)
今日、私たちはイエス様のお生まれを告げる御言葉をいただいています。天の神さま ― 永遠に遍在する尊いお方 ― が、ついにこの地においでくださいました。
神さまは、私たち人間とは次元の異なる方です。私たちには感知も体験もできない次元・天にも、私たちが暮らすこの次元・この世・地にも、どこでも いつまでも どんな時もおられます。神さまは、三次元の空間と時間の流れの中に閉じ込められて、肉体としては限りのある生命を持つ私たちとは、まったく異なる方です。その方・イエス様が、父なる神さまの御心によって地に降られたことを今日の聖句は語ります。この聖句は、この世の者には考えもつかない大いなる御業が為されたことを、この世の歴史的事実により、時と場所を明確に冒頭で示すことによって、淡々と告げていると申してよいでしょう。
時はいつでしょう。皇帝アウグストゥスが君臨する時代でした。皇帝アウグストゥスは、ローマ帝国の最初の皇帝です。言い方を変えれば、ローマが皇帝を最高権力者とする君主制になったのは、このアウグストゥスの時からなのです。
その前、ローマは共和制を守り、元老院での会議で民主的に政治を行う国でした。
アウグストゥスの父 ― 父と言っても血がつながっているわけではなく、アウグストゥスはいわゆる養子でしたが ― は、あのガイアス・ユリウス・カエサル、英語読みでジュリアス・シーザーという、あの人物です。カエサルは共和制ローマの政務官でしたが、将軍として出陣したガリア戦争で大勝利を収めました。ローマの人々は熱狂して、彼をローマの名を高める英雄としてもてはやしたのです。共和制という制度を保つよりも、力のある一人の人物に国を任せた方が良いという考えが生まれ始めました。
共和制では選挙で政治を司る者を選びますが、いつの世も選挙をめぐって人の心の闇があぶり出されます。その当時のローマでも、選挙のために陰謀を図る者、裏切る者が現れ、国の政治は乱れました。
その中で、カエサルは共和制を守ろうとする人たちによって暗殺されてしまいました。独裁者を排除しようとのたくらみでしたが、カエサルが殺されても、人々は一人の権力者・皇帝による支配と統治を望みました。こうしてカエサルの養子・オクタヴィアヌスがその皇帝となり、アウグストゥスと呼ばれるようになったのです。
ローマは、こうして皇帝をいただく帝国となりました。
共和制時代のように国内での政治のごたごたがなくなったためか、人々の期待どおりにローマはますます強くなりました。領土を広げ、シリア地方を支配して属州とし、ユダヤもその支配下に置かれました。
シリア地方では比較的小さな国同士が争いを繰り返していましたが、それらが一括してローマ帝国の支配下に置かれることで皮肉なことに争いはなくなりました。どの国もすべて等しく、いわばローマ帝国の手下の国にさせられてしまったからです。
パクスロマーナという言葉を、お聞きになったことがあると思います。ローマの平和という意味ですが、武力で自分よりも力の弱い者を配下に置き、そのことを通して争いごとを平定するというのが実態です。この人間の力による平和な世・強力な者によって平定された世は、アウグストゥスの時代からおよそ200年続きました。
ローマ帝国の頂点に立つ皇帝は自らを神と称しました。帝国は皇帝を崇める信仰を持つようになったのです。しかし、本当の神さまがアウグストゥスの出現とほぼ同時に、ローマではなく別の場所へ天から地に遣わされました。
今日の聖句は、その場所がベツレヘムだったと明確に告げています。イエス様は、ベツレヘムでお生まれになりました。ミカ書・今日の旧約聖書の御言葉に預言されたとおりです。その聖句 ― ミカ書5章1節・3節そして4節の冒頭をお読みします。
「エフラタのベツレヘムよ…お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。…彼は立って、群れを養う 主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり その力が地の果てに及ぶからだ。彼こそ、まさしく平和である。」
まことの神さまのために、群れを養う者が現れると預言されています。養う者であるイエス様がそうして群れを慈しみ、豊かにしてくださるからこそ、人々は安らかに、平和に暮らせるようになります。この彼・イエス様こそ、まさしく平和そのものだからです。
今日の聖書箇所では、人の世の指導者・皇帝アウグストゥスと、まことの神・イエス様が、実に対照的に語られています。
皇帝アウグストゥスは、勅令を出して支配下の人々を苦しめました。この勅令による住民登録のために、ヨセフは身重のマリアを伴って長い旅をしなければならなかったのです。
生まれて来る方 ― まことの神であり、まことの人であるイエス様は、この世の最高権力者が歯牙にもかけない小さな、小さな暗い片隅で産声をあげられました。力を振るって人間の頂点に立とうとする権力者が豪華な邸宅、贅を尽くしたベッドで眠る時に、私たちの救い主・まことの神さまは飼い葉桶に寝かされました。宿屋には、この世には、イエス様を神だと知ろうとする者がおらず、イエス様と母マリア、その夫ヨセフには居場所がなかったからです。
イエス様は、世の人が思う物質的に満たされ、社会的に高い地位を得るという幸福な生活を過ごしませんでした。全能の神さまの御力を、ご自身のためには決して用いられませんでした。必ず、困っている人・病んでいる人・飢えている人のために奇跡の御業をなさいました。イエス様は、ご自分のためには何一つ取ろうとせず、すべてを私たちに与え尽くし、ついには十字架の上で命さえも与えてくださいました。私たちキリストの教会は、このようにご自身を私たちのために犠牲にしてくださったイエス様を慕い、信じています。
イエス様が私たちになさってくださったように、悲しんでいる人に慰めを、困っている人に助けを、居場所のない人に居場所を差し出すことのできる私たち薬円台教会でありたいとせつに願います。
昨日から急に暑くなりました。ぎらつく太陽の季節・夏が近づくと、私たちは終戦記念日を、そして平和聖日を思わずにはいられません。
今も戦火がやまない地域のために、私たちにできるささやかな、しかし誠実に心をこめた祈りと業を献げて、この新しい一週間もイエス様にならって進み行きましょう。
2022年6月19日
説教題:聖霊に満たされる
聖 書:詩編98編1~3節、ルカによる福音書1章57~80節
…こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。
(ルカによる福音書 1:73b‐75)
今日の礼拝では、長い聖書箇所をいただいています。ルカによる福音書1章57節から80節で、洗礼者ヨハネの誕生を告げる聖句から始まります。
神さまが約束してくださったとおりに、エリサベトは男の子を無事に出産しました。親戚も、近所の人たちも、出産を喜び祝いました。
律法では、ユダヤの男の赤ちゃんは生まれて8日目に割礼を施されると決められています。同時に、名前も付けられることになっていたのでしょう。割礼を施すために集まった人々は、男の子に父ザカリアと同じ名を赤ちゃんにつけようとしました。男子が生まれたら、父と同じ名をつけるのが習慣だったのかもしれません。しかし、聖書はこう語ります。「ところが、母は、『いいえ、名はヨハネとしなければなりません』と言った。」
ここで、皆さんはルカ福音書の初めの箇所を思い起こされるでしょう。
子どもに恵まれないまま年老いた祭司ザカリアに、天使が神さまの約束を伝えました。天使は、ザカリアにこう言いました。ルカ福音書1章13節からお読みします。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」
神さまは、すでに生まれる子の名を決めておられました。願っても、願っても子どもを授からなかった夫婦を神さまが心から憐れんで、願いをかなえてくださり、名前も与えてくださったのです。ヨハネという名は、聖書のもとの言葉でまさに「主は憐み深い」という意味です。
ザカリアに臨んだ主の御言葉でしたが、妻エリサベトにもそれは伝えられたのでしょう。彼女は神さまが自分たち夫婦に与えられた恵みを心から感謝して、赤ちゃんの名前を「主は憐み深い」という意味・ヨハネの名も主の恵みと受けとめました。そこで、周りの人々の思いに反して「名はヨハネとしなければなりません」と強く言いました。
人々は納得せず、赤ちゃんの父親・祭司ザカリアに意見を求めました。
さて、ここでザカリアのことを思い出しましょう。
ザカリアは、子どもを授かるという神さまの恵みの約束を受けとめられませんでした。神さまの言葉を疑い、それが本当ならばしるしが欲しいと言ってしまいました。
そして、神さまはこのザカリアに主に立ち帰り、神さまに全幅の信頼をおく悔い改めの時を与えようとザカリアの口を封じられました…この出来事を思い出したでしょうか?
今日の聖書箇所の62節で、人々はここでようやく父ザカリアに問いかけました。手振りで「この子に何と名を付けたいか」(ルカ福音書1:62)と尋ねたのです。声に出して話しかけなかったことから、ザカリアは口がきけなくなったばかりでなく、耳も聞こえなくなっていたことがわかります。神さまの御言葉を聴きとることに集中するために、神さまは彼の耳もふさがれたのです。ザカリアは筆談で「この子の名はヨハネ」と神さまから言われたとおりの名を記しました。
人々は皆、驚きました。習慣に従わず、人の世の習いに背いた名を、妻エリサベトと同じようにザカリアも赤ちゃんに付けたいと言ったからです。
ザカリアはこうして、主の御心に従いました。すると、たちまち「口が開き、舌がほどけ」(ルカ福音書1:64)ました。
口がきけるようになったザカリアがまっさきに行ったのは、64節にあるように「神を賛美」することでした。本来、私たちの耳は神さまの御言葉を聴くために、私たちの口と声は神さまを賛美するために与えられていることがよくわかります。
その場に居合わせた人々は、とてつもないことを目撃したと実感しました。この出来事は、ユダヤ中で話題になりました。(ルカ福音書1:65)
また、人々はザカリア・ジュニアではなくヨハネと名付けられた子どもが「どんな人になるのだろうか」(ルカ福音書1:66)と思いを巡らしました。
この問いには、当時、祭司という職業が世襲だったという背景があります。祭司の家に生まれた男の子は父と同じ、祖父と同じ、曾祖父とも、その前の代の男性の先祖とも同じ祭司の務めを生涯の仕事とするのです。まるでその流れを断ち切るように、ザカリアは我が子に自分とは別の名、神さまがくださった名前を付けました。
このことを通して、私たちはザカリアの新しい信仰の在り方をうかがい知ることができます。自分の子であっても、我が子は神さまがくださった恵みだから、自分の意のままにしてはならない、ましてや人の世の習慣の虜にはさせないという信仰です。ザカリアは神さまを讃美する言葉の中で、その信仰を言い表しています。
73節の後半からをお読みします。「こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。」(ルカ福音書1:73b‐75)
神さまから恵みを与えられたにもかかわらず、それを信じられなかったザカリアは口と耳とを封じられて、子どもが生まれるまでの10か月の間、悔い改めの時を与えられました。彼はその間に、神さまとの新しい出会いと聖霊のそそぎをいただきました。
それまでのザカリアは祭司として神さまに仕えていましたが、心から身を神さまに献げる思いはなかったのかもしれません。父親が祭司、祖父も祭司、こうして祭司の家に生まれた男の子だから当然のことだぐらいにしか受けとめていなかった…そう想像してもよいでしょう。それがこの世の習い・習慣で、その流れから外れると人に批判されるだろうと恐れる気持ちもあったでしょう。それは、神さまではなく、この世に従う生き方でした。
ザカリアは、神さまの律法を守る正しい人だったと聖書は告げています。ルカ福音書の初めの部分・1章6節にこう記されているとおりです。「(ザカリアとエリサベトの)二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがなかった。」(ルカ福音書1:6)
この「非の打ちどころがなかった」とは「人間の目から見て」ということだったように思えます。ザカリアは人々の前で祭司らしく立派にふるまい、人々に尊敬してもらえるように主の掟と定めを守ろうと一生懸命努力して人生を過ごしてきたのでしょう。彼の心にあったのは人の目にどう見えるかということで、祭司でありながら、実は神さまのことを忘れていたかもしれません。彼の頭にあったのは人々と世間からの自分への評価でした。彼が神さまの掟と定め、すなわち律法を守り通していたのは、そうしなかったら、世間の人たちが、祭司のくせにと自分と自分の血筋と家を批判するだろうと思ったのではないでしょうか。
ザカリアは、この世・人間を恐れていました。
神さまを思い出す時には、神さまは掟を破ると怒るたいへん恐ろしい方だということが、第一に心に浮かんだでしょう。
ザカリアは、神さまを怖がっていました。恐れていました。
こうして、彼は神さまを恐れ、人を恐れ、極端な言い方をすると怯えながら生きてきて、心が本当に休まることがなかったのです。
また、神さまに耳と口を封じられた時のザカリア・神さまの恵みに証拠を見せてくださいと言ってしまったザカリアは、生まれて来る男の子がお父さんの跡なんか継がない、絶対に祭司になんかなってやるもんか、自分は自分だと反抗したらどうしよう…と心配する弱さを持っていました。その心配はもちろん、子どもの個性や希望と向き合い、子どもを思いやる気持ちからの心配ではありません。自分の社会的身分を考えてのことでした。
神さまが恵みとして与えてくださる子をどれほど愛してくださっているかを、彼は考えていませんでした。その子に託した神さまの御心を、思いめぐらすこともできなかったのです。
神さまはザカリアとエリサベト夫妻に与えた男の子に、特別な使命を授けていました。それは、父ザカリアの跡を継いで祭司になることではありません。イエス様が救い主としておいでになることを、荒れ野で告げる役割です。
口と耳を封じられていた間に、ザカリアは人の声・この世の言葉を聞かなくなり、神さまだけに心を向けるようになりました。そして、神さまの御心を受け入れたのです。神さまが自分と妻を憐れんで子を与えてくださることを心から喜び、生まれて来る子を神さまにゆだねようとの思いがザカリアの心に宿りました。聖霊が、ザカリアを満たしたのはこの瞬間でした。
彼を満たした聖霊によって、ザカリアは神さまにすべてをゆだねることに心の平安があると知ったのです。人の言葉もこの世の声も、恐ろしくなくなりました。神さまは、ザカリアに目を留めてくださり、あらゆる悪しきものから彼を守ってくださる方なのです。その方だけを仰ぐのが、他の何よりも正しく安心できることだと彼は心と魂で知りました。
彼の口と耳は開かれ、その口は神さまを讃美し、さらに、その口に我が子・ヨハネの未来を預言する言葉が与えられました。
その言葉どおりに、赤ちゃんのヨハネは身も心もすこやかに育ち、大人になってからは身を清めつつ、荒れ野で過ごす者となりました。
ヨハネは父のように祭司にはならず、もちろん祭司の豪奢な衣服もまとわず、らくだの毛衣をまとって荒縄を帯の代わりとしました。この世の人の目など気にせずに、自分の時間と力を神さまに献げる人生を歩みました。そして、イエス様がメシア・救い主として来られた方であると告げ、その使命を果たしました。
彼はヘロデ王の悪事を糾弾し、そのために命を落とすことになってもひるみませんでした。父ザカリアに与えられた預言の言葉どおりに、「恐れなく主に仕え(る)、生涯、主の御前に清く正しく」(ルカ福音書1:74)生き抜いたのです。
私たちも、聖霊で満たされる前のザカリアのように、人の目や人の評判、この世のいろいろなことを恐れながら生きています。特にキリスト者が人口の1パーセント・100人に一人しかいない日本で暮らす私たちは、さまざまなところで折り合いをつけながら生活しなければなりません。
疲れてしまうことがあります。
日本社会の習わしに妥協しなければならない時がたくさんあります。神さまだけに目を注ぐことができず、その自分を責めてしまうことがあるでしょう。この世に妥協してしまう自分を不信仰だと嘆き、自分が神さまを悲しませていないかと思ってしまうこともあります。
しかし、そうして思い悩んでいる私たちを、神さまはしっかりと見守ってくださっています。その悩みや後ろめたさ、罪の意識を、イエス様は私たちと共に担ってくださるのです。そのイエス様に私たちは心の重荷を預けてよいのです。
思い悩むよりも、主にすべてをゆだねよう ― そう気付かされたとたんに、安らぎが心を満たします。聖霊が私たちを満たしたので、安らぎが与えられたと申してよいでしょう。
その安らぎは、イエス様の十字架の出来事とご復活によって確かにされます。イエス様は、私たちに代わって、私たちのすべての恐れと心の揺らぎ、心の陰を担って十字架で死に、心の闇・罪を滅ぼしてくださいました。三日後のご復活によって、私たちが永遠にイエス様と共に生き、肉体の死を超えて歩むことを知らされました。
弱い私たちですが、イエス様によって、聖霊によってこそ強められ、恐れなく主に仕えたいと願います。
人の目には、どう見えても良いのです。神さまだけが自分の真心を知っていてくだされば、それで良いのです。ただ主の御前に清く正しく生きたい ― その切なる願いをもって生きる時、主はその祈りを喜んでくださいます。この主の慈しみを信じて、聖霊によって強められ、今週一週間を、心を高く上げて進み行きましょう。
2022年6月12日
説教題:信仰者の幸い
聖 書:詩編34編5~8節、ルカによる福音書1章39~56節
…「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
(ルカによる福音書 1:42~45)
5月最後の主日礼拝で、私たちはマリアへの受胎告知を記した聖書箇所をいただきました。天使はマリアに「あなたはみごもって男の子を産む…生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ福音書1:31、35b)と告げました。マリアの胎に、聖霊によって御子イエス様が宿られたのです。戸惑いつつも、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ福音書1:38)と告知を受け入れました。
その直後にマリアがどんな行動をとったか ― ルカ福音書は1章39節から、すぐにそれを私たちに知らせてくれています。受胎告知の後、マリアは「出かけて、急いで山里に向かい」(ルカ福音書1:39)ました。
14歳の少女が神さまの子を身ごもっていると聞いたら、私たちはその少女・マリアが呆然として何も手につかなくなる様子を想像しがちです。また、多くの宗教画から、マリアはたいへんしとやかで静かな女性だったとのイメージを描きがちです。
確かに、マリアは御言葉を受けて思いめぐらすことの多い、思慮深い少女だったでしょう。と同時に、彼女は今日の聖書箇所に記されているとおり、実に行動的な面も持ち合わせていました。
マリアが「急いで山里に向か」ったのは、天使の言葉にあった「親類のエリサベト」(ルカ福音書1:36)に会うためでした。
天使は「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)と神さまの全能を証しし、マリアを安心させるためにエリサベトの身に起こったことを教えました。エリサベトは子どもを授かる年齢を越える高齢で、「不妊の女と言われていたのに」(ルカ1:36)夫である祭司ザカリアとの間に、願っていた子どもをみごもって六カ月になっていたのです。
その恵みを天使から聞いたマリアは、エリサベトに会うためにさっそく出かけて行きました。神さまのなさった大いなる御業を、自分の目で見たいと思ったのです。
皆さんは、こう思われるかもしれません。
御言葉を聴いたら、それを信じて心に受けとめるだけで十分とするのが正しい信仰ではないか…自分の目で確かめようとするのは、御言葉を疑う不信仰で失礼な態度ではないか、と。
しかし、思い出していただきたいのです。
イエス様がお生まれになった夜、羊飼いたちは天使に次のように言われました。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ2:12)「見つけるであろう」と言われたとは、恵みのしるし・神さまの大いなる救いの御業のしるしを「見つけに行きなさい」と促されたのと同じです。
このお告げを信じたからこそ、羊飼いたちは急いでベツレヘムへと走り出しました。確かめようとしたのではありません。そして、馬小屋にいるイエス様とマリア、ヨセフを見つけ、この世で最初のイエス様の御前での礼拝を献げることができました。天使の御言葉を信じずにぽかんとして動かず、行動を起こさずにいたら、この礼拝に与る喜びはなかったのです。
ヨハネによる福音書で、サマリアの女はイエス様が救い主メシアだと知った時、声を上げてイエス様へと人々を招きました。「さあ、見に来てください。…この方がメシアかもしれません。」(ヨハネ福音書4:29)
御言葉を聴き、それを恵みと信じて受け入れた人はじっとしていません。神さまの御言葉が、この世に実現しているのを目撃しに行くのです。恵みの証人・証し人となるためです。だから、受胎告知を受けたマリアもじっとしていなかったのです。
マリアが暮らしていたのは、イスラエルの北にあるガリラヤのナザレの町です。一方、エリサベトがいたのは夫である祭司ザカリアが仕える神殿の町・エルサレムです。直線距離にしておよそ103キロの道のりを旅して、マリアはエリサベトに会いに行きました。
エリサベトのおなかまわりはすでにふっくらとして、神さまの与えた子・ヨハネが宿っているのが明らかであることがマリアにわかりました。神さまのおっしゃったことが、こうしてエリサベトの身に実現しているのです。それが自分の身にも起こっていることを、マリアは確かに受けとめました。御言葉の実現を信じたのです。
マリアを迎えたエリサベトは喜び、聖霊に満たされて、マリアが祝福されていることを声高らかに告げました。この聖句です。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」(ルカ1:42)
こうしてマリアとエリサベトは出会いました。
もうひとつの出会いがあったことに、皆さんはすでにお気付きでしょう。
エリサベトの胎内にいた洗礼者ヨハネはマリアの胎内にいるイエス様に出会って、喜んでおどりました。後に、ヨハネは水による罪の洗い清めの洗礼を人々に授けて、救い主イエス様を心に迎えるようにと伝える役割を果たすようになります。
洗礼者ヨハネとイエス様は、それぞれ、この世で幸福な人生を歩んだとは決して言えません。ヨハネはヘロデ王に捕らえられて、首をはねられました。イエス様はローマへの反逆者として逮捕され、十字架に架けられました。
イエス様の母マリアは、この世のこととして言えば、たいへんつらい人生を歩んだ女性と言えるかもしれません。婚約者がいながら、その人の子ではない子を身ごもり、夫を早く失くして未亡人になり、我が子が死刑になるのを見なければならなかったのです。
しかし、マリアは今日のエリサベトの言葉どおり、祝福をあふれるほどに受けていました。ヨハネも、祝福されていました。主がマリアと、またヨハネと共においでくださり、その真実を知る力・信じる力を聖霊によって与えられていました。
人の目にはどれほどの苦難、深い悲しみと見える出来事も、共においでくださる主が一緒に担ってくださり、守り救ってくださって、マリアもヨハネも、またすべての信仰者は主にあって豊かな人生を歩むのです。
主はマリアと常に共におられ、マリアはその守り支えを信じ、つらい時は主に呼びかけて答えていただきながら進んで行きました。その喜びを賛美として謳い、主に献げた祈りの歌が、46節からのマリアの賛歌です。
さて、あらためて繰り返します。
マリアはイエス様を身ごもったとのお告げを信じてすぐに行動を起こし、エリサベトに会いに行き、エリサベトの口を通してその恵みを告げる神さまの祝福を現実に受けることができました。これは、信仰者の幸いです。
今日は、「信仰者の幸い」という説教題を与えられました。神さまを信じる者の幸福は、まず、2回ほど前の礼拝説教でお伝えしたように、神さまが常に共においでくださることにあります。
今日の旧約聖書の御言葉が語るように、苦難に遭って主を呼び求めれば、必ず答えて救い出してくださる ― その方が私たちの神さまでおられることが、私達信仰者の幸いです。
さらに、信仰者の幸いとは、信じて聖霊に満たされ、マリアのようにすさまじいまでの行動力を与えられることにあります。信仰共同体・信じる者の群れである教会の力とは、実にこの聖霊によって証しをいただき、主に仕える力だと言ってよいでしょう。
前回の主日礼拝でいただいた御言葉が証しするように、弟子たち・教会の群れは聖霊に満たされて御言葉を語り、伝道しました。
今、私たちは、聖霊で満たされてそれぞれ与えられた奉仕を献げています。主の日に主日礼拝を思い、感染防止などの事情によって出席ができなくても置かれた場所で主を仰ぐことそのものが奉仕です。心がじっとしないで、主を求め、主を賛美しているのです。
最後に、信仰により聖霊に満たされて奉仕へと導く、この信仰者の幸いのかたちを具体的にご紹介したいと思います。
私が薬円台教会に着任する前にお仕えしていたのはキリスト教系の病院ですが、その病院は90年ほど前、長谷川保という信仰者によって結核患者のための施設として造られました。
初めは本当に貧しい小屋のような施設だったと聞いています。やがてこの施設で礼拝が献げられるようになり、この礼拝集団・信仰共同体から教会が生まれました。医師、看護師、病院に勤務する人たち、そして患者さんたちが礼拝に出席しました。
しかし、病気が重くて立ち上がれない患者さんたちがいました。ベッドに横たわったまま、歩くことができず、会堂での礼拝に出席できないのです。
御言葉の説き明かしを聴きたくても、それができない ― けれど、御言葉による励ましと慰めを最も必要としているのは、病気に打ちひしがれそうになっている重病の人たちでした。
当時はインターネット同時配信も、中継も、病室への放送すらありませんでした。そこで、礼拝に出席できた人たちは、礼拝が終わるとすぐ、病室で寝ている患者さんたちのところへ駆けつけることにしたのです。動けない患者さんたちの枕もとで、聴いたばかりの御言葉の説き明かしを語り聞かせました。
礼拝が終わったら、すぐ御言葉を分かち合い、祈り、伝道する ― この行動力が与えられたのです。この伝統は、私がその教会で協力牧師としてお仕えしていた頃も、まだ生きていました。
しかし、思えば、別に今ご紹介したこの教会でなくても、私たち信仰者はどの教会でも同じことをしています。
礼拝が終わって教会を後にしてからの一週間、私たちはいただいた聖霊に満たされ、御言葉に力づけられ、言葉にしてもしなくても信仰者として世で生き、主を証しして、働きます。主の導きを信じ、主を仰ぎ見て、愛に生きようとします。
そして一週間が過ぎると、また新しく力をいただくために共に集います。
それを毎週繰り返して、信仰者の歩み・教会の歩みはたくましく進んでまいります。信仰者の幸いを胸に、今日から始まる一週間も力に満たされて生き生きと喜ばしく、主を仰いで進み行きましょう。
2022年6月5日
説教題:教会の誕生
聖 書:創世記11章1~9節、使徒言行録2章1~13節
…炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、‟霊“が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。
(使徒言行録2:3-4)
今日の新約聖書の御言葉は、イエス様が天の父のもとに帰られた後、聖霊が弟子たちに降って教会が誕生した出来事を伝えています。
この出来事を語る聖書箇所の冒頭にある言葉・五旬祭の日とは、ユダヤの収穫祭のことです。この祭りは、過越の祭の翌日から五十日後に祝われると決まっていました。ギリシャ語の五十という言葉に由来して、この五旬祭・収穫祭をペンテコステと呼びます。その日に弟子たちに聖霊が降ったので、この日・聖霊降臨日をペンテコステと呼ぶようになりました。
さて、少しさかのぼってお話しします。
イエス様は過越の祭の金曜日に死なれ、その日から足かけ三日後の日曜日に復活されました。
ご復活のイエス様は、四十日間 弟子たちに現れ、食事を共にしていた時に弟子たちにこうおっしゃいました。使徒言行録1章4節から5節に記されているとおりです。お読みします。「(イエス様は)彼ら(弟子たち)に、エルサレムから離れないでいて、『あなたたちが私から聞いた』父の約束を待っているように、と命じました。『なぜなら、ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたたちは多くの日がたたぬうちに、聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授けられるであろうから』と。」(使徒言行録1:4b-5)
四十日が過ぎると、イエス様は山の上から天に昇り、天の父の右の座に帰って行かれました。イエス様を見送った弟子たちにとって、エルサレムにとどまり続けるのは危険なことでした。
この世的には、イエス様は死刑に処せられた犯罪者です。
イエス様に関わりを持つ者は、イエス様と同じようにローマ帝国への反逆者とみなされて罪に問われ、逮捕されるおそれがありました。弟子たちはナザレやガリラヤなどの故郷に帰った方が安全だったのです。にもかかわらず、彼らは先ほどお読みした聖句でイエス様に命じられたとおり、エルサレムにとどまりました。
この五旬祭の日、弟子たちがローマ兵やイエス様を憎んでいた者たちから隠れて過ごしていたのはエルサレムの町の二階の部屋だったと言われています。十字架に架けられる前の晩、イエス様が弟子たちの前にひざまずいて彼らの足を洗い、彼らと最後の晩餐のひとときを過ごした部屋です。また、ご復活のイエス様が現れて、疑い深いトマスに手と足、わき腹の傷を示されたのも、この部屋です。
彼らは「一つになって集まって」(使徒言行録2:1)いました。
不安から、互いに体を寄せ合って一つとなっていたのです。同時に、彼らはイエス様の約束を待ち焦がれる思いで一つとされていました。「聖霊による洗礼(バプテスマ)」とイエス様がおっしゃった、その恵みを受けるのを待っていたのです。ヨハネが授ける水による洗礼を彼らは知っていましたが、聖霊による洗礼とは何を授けられるのか、わかっていませんでした。
聖霊による洗礼は、強烈な始まり方をしました。聖霊降臨を待ち望んでいた弟子たちの予想をはるかに超える強烈な訪れでした。今日の聖書箇所 使徒言行録2章2節は、こう語ります。「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」風。風は神さまの命の息を思わせます。聖書のもとの言葉では、聖霊・風・息がすべて同じ言葉であることは、前にお伝えしたとおりです。
天からの音に続いて、現れたのは舌でした。炎のように赤く、ちろちろと動く舌です。その舌は、もとは一つでしたが、3節にあるように「分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどま」りました。舌は、私たちが言葉を話す時に使う体の一部です。この時、福音を語り伝えるための舌が弟子たちに与えられました。おおもとの「一つの舌」から分かれた舌が、彼らに授けられたのです。
それによって起こったことは、4節に記されているとおりです。お読みします。「すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」
これが聖霊による洗礼でした。同じひとつの真理・同じひとつの霊が与えられ、それによって、ただひとつの救いの福音が、さまざまな国の言葉で語られるようになったのです。
11節に、弟子たちが語ったこと・救いの恵みはこう明確に語られています。 お読みします。「彼らが…神の偉大な業を語っている。」神の偉大な業・福音を語る ― これは、教会が行っていることです。
教会が行うことは語ること、そして教会が語り続けるのはただひとつの福音です。イエス様が私たちに代わって十字架に架かってくださり、その死によって私たちが救われたこと。そして、三日後の主日・日曜日にイエス様は復活され、私たちに永遠の命の約束があたえられたこと。その救いの福音です。
今日のこの日曜日に世界中の教会で同じその福音が、それぞれ異なる言葉で語られています。
伝道する弟子たち・伝道する教会がこうして初めての働きを行ったのが、今日 私たちが読んでいる聖書箇所が語る事柄・弟子たちに聖霊が降り、聖霊による洗礼が授けられた時だったのです。この時から今に至るまで、2000年を超えて、そして御心ならば世の終わりまで、教会の福音宣教は続きます。
だから、キリストの教会はその出発点となったこのペンテコステの聖霊降臨の出来事を「教会の誕生」、そして聖霊降臨日を「教会の誕生日」と呼ぶのです。
この喜ばしい恵みは、世の人々にはすぐに理解されませんでした。今日の聖書箇所の終わりの方・12節と13節には、こう記されています。まず12節をお読みします。「人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った。」 福音を語る弟子たち・教会の姿に驚嘆し、戸惑いながらもこの不思議を知りたいと思った人たちがいたのです。
彼らは後にそれを知ろうと、弟子たちから御言葉の説き明かしをしてほしいと願い、やがて彼ら自身が水と聖霊の洗礼に授かってキリスト者となり、自分も福音を伝える者になったかもしれません。
一方、13節にはこう語られています。「しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた。」
日曜日に教会が礼拝を献げるのは、言葉は適切ではないかもしれませんが「変な人」と思われます。特に、クリスチャン人口の少ない日本では、そうです。日曜日は、仕事から解放されてのんびりそれぞれの自由を楽しむ日だと日本社会は思っています。その日曜日の朝に献げる教会の礼拝は、一般社会からは堅苦しい儀式のように見えるのでしょう。聖書を知りたいという方・礼拝経験のない方に「日曜日の午前中に、ぜひ礼拝へ」とお招きすると、「日曜日はちょっと」と断られることがよくあります。
しかし、聖霊を授けられ、聖霊で満たされると、私たちは同じひとつのことを最も大切だと心と魂で知るようになるのです。神さまが自分の人生の中心にいてくださり、主を讃美し、御言葉の恵みに与ることこそが自分の最高の喜びになります。こうして、教会は神中心・礼拝中心の歩みを進めます。
聖霊は、私たちに神さまが共においでくださることのすばらしさ、安心と喜びを知る心の窓を開いてくれます。聖霊は、私たちに御言葉を理解し、励まされ、深く感動する心を与えてくれます。私たちがイエス様に深く愛され、その死によって救われたことを知らされるのは聖霊の主によってです。
聖霊によって、私たちは信仰を与えられます。
私たちは一人一人、創造主なる主に個性を備えられて別の人格として造られました。しかし、同じひとつの福音によって同じように心が打ち震えます。聖霊の主が、私たちすべてに同じ思いを授けているからです。
イエス様の愛を私たちに等しく知らせてくれるのも、聖霊です。イエス様の愛を心と魂で知ることほど、私たちにとっての幸いと平安はありませんが、それを私たちに可能にしてくれるのが聖霊の働きなのです。
この同じ思いでひとつとされている教会の群れは、ひとつの使命のために進み続けます。イエス様は私たちに使命を与えられました。この使命です。マタイ福音書の最後・28章19節から20節をお読みします。「…行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。
薬円台教会も、世にあるすべての教会も、この使命を果たしつつ歩んでいます。あらゆる試練・苦難に負けることはありません。世の教会は、そうして2000年以上の歩みを続けて来ました。聖霊の主が「世の終わりまで、いつも」(マタイ福音書28:20)私たちと共においでくださるからです。
今日から始まる新しい一週間も、日々聖霊に満たされて過ごせるよう願い祈りつつ、一人一人が聖霊の宿るキリスト者として生き生きと歩んでまいりましょう。
2022年5月29日
説教題:主があなたとともに
聖 書:創世記18章9~15節、ルカによる福音書1章26~38節
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
(ルカによる福音書 1:26-28)
今日、私たちに与えられたのはイエス様の母マリアへの受胎告知の御言葉です。天使は神さまから遣わされ、マリアのところに来てまっさきに彼女にこう告げました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(ルカによる福音書1:28)
これは祝福の言葉です。天使は神さまの御言葉・御心をそのまま伝えることを務めとしています。その天使が、マリアに伝えたのは神さまからの「おめでとう」の言葉でした。正真正銘の天からの祝福そのものだったのです。
聖書のもとの言葉では「喜びなさい」と訳すことができます。そして、その喜びの根拠がすぐにこう語られます。「恵まれた方。」神さまがマリアに豊かな恵みをそそがれ、だからこそ、マリアに「喜びなさい」とおっしゃってくださるのです。
神さまの祝福・恵みとは、何でしょう ― 私たちは神さまからいただくこの賜物について、わかっているようで、実はわかっていないかもしれません。しばし、ご一緒に思いめぐらすひとときを持ちましょう。
私たちは互いに祝福を祈り合います。また、自分にも、兄弟姉妹にも、親しい人や関わりのある隣人にも神さまの恵みが豊かでありますようにと祈ります。祝福という言葉は、私たちが教会で最もよく用いる言葉のひとつかもしれません。ただ、教会の外ではあまり耳にすることのない言葉です。
祝福って何?と教会に来たことのない方に尋ねられたら、どのようにお答えするでしょう。小学生ぐらいのお子さんに聞かれたら、どう説明するでしょう。このようにおっしゃるのではないでしょうか。
「祝福・恵みとは、神さまがあなたにたくさん良いこと・すばらしいことをしてくださることです。」
もう少し詳しく、神さまが与えてくださるたくさんの良いこと・すばらしいこととは具体的には何ですか?と尋ねられたら、どう答えますか?私たちの心に思い浮かぶのは、次のようなことです。
まず、体も心も健康で、生活に困らず、悲しいことが何一つなく、いつもニコニコと笑顔で過ごせる人生が与えられること。 平穏で満ち足りた一生を過ごせること。
こう考えて、私たちはそのささやかな願い・神さまが叶えてくだされば良いと思うその願いに、ついこう付け加えてしまいます。できれば、その平穏な人生に何か生きがいのようなもの・生きる喜びが加わると良い。さらに、その生きがい・生きる喜びが、周りの人のためや社会のために役立つことであると良い。自分が日々生きてゆくそのことが、たとえごく小さな力に過ぎないとしても、社会の豊かな未来につながると良い。また、社会の平和につながると良い。
私たちが祈り願う祝福・恵みは、具体的には上記のようなことでしょう。
ところで、今日の御言葉には神さまからの祝福・恵みが何であるかが、実に具体的にはっきりと語られています。今日の御言葉・ルカ福音書1章28節を繰り返してお読みします。天使はマリアにこう告げました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
天使はこう言ったのです。あなたは豊かな祝福・恵みを受けている ― 「主があなたと共におられる」― それは、神さま・主があなたと共においでくださるということだ。
神さまからの祝福・恵みとは、先ほど、具体的にお話しした私たちの幸福と平安を根本から支える真理です。それが、「主があなたと共におられる」こと ― 神さまが私たちと、また私たち一人一人と共においでくださることなのです。
どんな時も、神さまが共におられる ― それこそが、神さまの祝福・恵みです。
神さまが創られたこの世は、神さまがおられる天の次元よりも小さなものです。神さまの次元には、時間の制約も空間の制限もありません。限界がないのが、神さまの次元でありましょう。
それを、聖書は永遠と呼ぶのです。そこには光が満ちていて、影がまったくありません。悲しみも嘆きもないのです。
一方、私たちが暮らすこの世・神さまが私たちを置かれたこの世には限界があり、まだ罪の闇があります。私たちのこの世での人生・生命体としての人生は時間の制限の中に置かれ、したがって、ある時がくれば生命体として終わりを迎えなければなりません。別れの悲しみがあるこの世、罪により平和が破壊されるこの世で、私たちは生きています。
この世に暮らす私たちには、悲惨なこの世の現実に立ち向かわなければならない時・涙する時があります。戦禍がやまない今の世界情勢を見ても、それは否定できない現実です。しかし、そのような時にも、必ず神さまが私たちと共にいて寄り添い、力を与えてくださると、神さまは今日のマリアへの御言葉を通して私たちに約束してくださいます。
神さまと共に生きる人生が、私たちに与えられています。平穏で嘆き・悲しみのない人生を、神さまに励まされた経験なしに歩むよりも、嘆きの中で神さまに助けられ、主に救われた経験をいただいて主と共に生きる喜びを知る人生が豊かである・祝福された人生、恵まれた人生だと、今日の御言葉は告げているのです。
この御言葉から力を受けて、どんな逆境・どんな思いがけない不幸にあっても神さまにすがり、神さまによって強められるようにと私たちは導かれています。「主があなたと共におられる」 ― この御言葉を神さまから天使を通していただいたマリアは、まさにそのような人生を歩みました。
受胎告知を受けたこの時、マリアにはダビデ家のヨセフという婚約者がいて、結婚を待つ身でした。自分の家庭を持つという新しい人生のステージに、期待と希望に満ちて臨もうとしていたのです。マリアが願っていたのは、未来の夫ヨセフと共に、社会的にも家庭的にも安定した、平穏な人生を歩むことだったでしょう。
ところが、マリアには聖霊によって神さまの御子イエス様を身に宿すことになりました。
人間社会では、マリアは結婚前に未来の夫ヨセフとの子どもではない赤ちゃんを身ごもったことになります。
その赤ちゃんが神さまの御子・救い主メシアであることは、人間によって証し ― 証明できる事柄ではありませんでした。この事柄は、ただ信仰によって、ただその事実を信じる他ありません。信仰がなければ、婚約者ヨセフはマリアに裏切られたと思うでしょう。
信仰がなければ、マリアの両親は我が子マリアをふしだらな娘だと思い込んで嘆き、ナザレの村・共同体の人々はマリアを白い目で見るでしょう。
幸いなことに、主のはからいにより、婚約者ヨセフは天使によりマリアが御子を身ごもったことを知らされ、信仰をもってそれを信じました。マタイによる福音書が語るとおりです。
しかし、マリアを批判する者もいたに違いありません。マリアはナザレの村の若い娘としてのささやかな幸福ではなく、試練を受けることになりました。マリアが人間の世で受けるこの試練の中で、主はマリアと共にいて彼女を助け、励まし、導き通してくださいました。
受胎告知の時に、主がマリアと「共においでくださる」との約束がまっさきに与えられたのは、神さまからマリアへの大きな、大きな恵みそのものでした。この恵みに支えられて、マリアはどんな意地悪い陰口にも、冷たい態度にも負けず、ひとすじに神さまに頼って主と共に生きる幸いな人生をいただいたのです。
今日、私たちもこの御言葉と共に神さまからの祝福をいただいています。思えば、私たちは社会としても、個人としても、次々といろいろな試練にさらされています。
イエス様が再びおいでくださる終わりの日を迎えるまで、この世にある試練が絶えることはありません。試練に負けそうになって、神さまなどいないのではないか、または 自分は神さまに見捨てられてしまったのではないかと信仰を失いそうになることもあります。けれど、そのように弱くなり、神さまに背いてしまいそうな時、または神さまに背いてしまっても、神さまは必ず共においでくださいます。
私たちが見捨てられることはありません。イエス様がご自身のお命を捨ててまで、救ってくださった私たち一人一人と、主は必ず共においでくださるのです。
試練の中にある時、次の御言葉が私たちを力づけます。コリントの信徒への手紙一 10章13節の御言葉です。お読みします。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
この御言葉は、神さまが私たちと共においでくださる事実・真理によって裏付けられています。マリアは神さまが共においでくださるという祝福の御言葉により、また聖霊によって身に宿った御子イエス様によって、試練の中にあっても守り抜かれました。
私たちも今日の御言葉を通して、どんな時も主が共においでくださる恵みに生き、さらに、私たちはイエス様の十字架の出来事とご復活によって、はっきりと主の救いをいただいています。
さらに、聖霊が私たちのうちに宿ってくださっています。私たちの間で生きて働かれる聖霊の主のご降臨を祝う聖霊降臨・ペンテコステの礼拝を、来週 私たちは献げようとしています。
信仰を支え、常に私たちの心を主に向けさせてくださる聖霊の主の恵みをあらためて思いめぐらしつつ、共においでくださる主に感謝して、今日から始まる新しい一週間を天来の御力に満たされて進み行きましょう。
2022年5月22日
説教題:叶えられた祈り
聖 書:マラキ書3章19~24節、ルカによる福音書1章5~25節
天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子は…イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。」
(ルカによる福音書 1:13~14a、16)
神さまは御子イエス様を、私たちの救い主としてこの世のただ中に遣わしてくださいました。「この世」とは、神さまに造られ、命を与えられた人間がその事実さえ知らずに生活を営んでいるところ、わたしたちの歴史が息づいているところです。
そのことを、ルカによる福音書は、1章5節から始まる福音書本文の最初の言葉ではっきりと表しています。この言葉です。「ユダヤの王ヘロデの時代」(ルカ福音書1:5)。
イエス様は、永遠という時空を超え、時空の限界・あらゆる限界を超える神さまの次元から、私たち人間が生きるこの世のユダヤという限定された空間へ、ヘロデ王の時代という限定された時の一点へ、私たちのために降りてきてくださいました。無限の力をお持ちの神さまは、限界を持つ私たち人間のために御子イエス様の神的な身をへりくだらせて、この世に遣わされたのです。
イエス様がお生まれになったクリスマスの出来事を語る時、特に教会学校の礼拝で、神さまが人間にイエス様を最高のプレゼントとして贈ってくださったという言い方をします。それは、本当にそのとおりです。イエス様を神さまから私たちへの最高のプレゼントとして受けとめる時、心に留めておかなければならないのは、そのすばらしい贈り物・神さまからのプレゼントは、私たちがつい思ってしまうようにサプライズでは決してなかったことです。
神さまが御子イエス様を私たちに与えてくださる ― それがどれほどすばらしいことか、私たちにとってどれほど大きな意味を持つか、神さまは旧約聖書に記された預言書を通して繰り返し人間に伝えてくださいました。イエス様は、予告なしに私たちに与えられたのではありません。
イエス様がおいでになることは、預言者によってメシア預言として何度も予告されていたのです。残念なことに、イエス様のすばらしさは、ほとんどの人間に理解されませんでした。メシア預言を聞いても、人々はあらためて神さまを仰ごうとしませんでした。御手に守られ、主に導かれて生きる幸いと安らぎを求めようとしなかったのです。こうして、人間の歴史の営みは、主に立ち帰ることなく続けられたのです。
神さまは愛をもって、何度も預言者を立て、御心を私たちに知らせてくださいました。救い主がおいでになる! そう告げる者は、イエス様がお生まれになる数カ月前にも生まれました。この者が、洗礼者ヨハネです。
今日の聖句 ルカによる福音書1章16節は、ヨハネの果たす使命をこのように告げています。「イスラエル (これは神さまの民・人間と考えてよいでしょう )イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。」
今日の聖書箇所は、後にイエス様が救い主であることを告げ続け、今日の聖句 ルカ福音書1章17節にあるように人々の心が主を仰ぐように準備をしたヨハネの受胎のいきさつです。聖書に四つある福音書の中で、ルカによる福音書が最も詳しく洗礼者ヨハネについて語っています。
どうしてルカは、祭司ザカリアを父に、その妻エリザベトを母として生まれた洗礼者ヨハネの受胎のいきさつを詳しく伝えているのでしょう。
私たちが、今日の御言葉からいただくメッセージは何でしょう。それはまさしく、これからおいでになる救い主イエス様をお迎えするために、洗礼者ヨハネが心と魂を尽くして行ったことへと私たちを導くためです。私たちを神さまに立ち帰らせるため、私たちの心をまっすぐに神さまに向けさせるための準備です。
その準備のために、私たちが何をどうすればよいのかを、今日の御言葉は示してくれています。さあ、ご一緒に少し詳しく御言葉に聴いてまいりましょう。
洗礼者ヨハネの父となるザカリアが祭司であることは、すでにお伝えしました。この時代に、神殿で神さまに仕えて儀式を執り行う祭司は
七千人から二万人いたと言われています。彼らは十二の組に分かれて奉仕を献げていました。今日の聖書箇所の5節に「アビヤ組の祭司」とあるのは、そのことです。
どの組がいつの当番かが定められ、その組の中でどの祭司がどんな奉仕を献げるかはくじで決められていました。この時、ザカリアがくじを引いたところ、神殿の至聖所に入って香をたく大役にあたりました。
至聖所は、神殿の最も奥まったところにあり、祭司の中でも特に選ばれた者しか入れないことになっていました。聖なるものと、この世の俗なるものが垂れ幕ではっきりと分け隔てられていました。
後に、十字架に架けられたイエス様は、ご自身の命を捨ててこの分け隔てを取り払い、垂れ幕を上から下まで裂いて、私たちすべてに神さまへの道を開いてくださいました。
さて、今日の聖書箇所で洗礼者ヨハネの誕生が告げられた時、ザカリアは至聖所で香をたくという、祭司であっても一生に一度できるか・できないかの大きなご奉仕を果たすことになりました。このたいせつなご奉仕の最中に、神さまはザカリアに天使を遣わされて恵みの言葉を与えたのです。
それは、子どもがいなかったザカリアとエリザベトに息子が与えられるという喜びの言葉でした。ザカリアとエリザベトは、長く子どもの誕生を祈り願っていました。しかし、授からないまま二人とも高齢となり、おそらくもうすっかり諦めていたと思われます。
そのような中、しかも緊張して大切な奉仕をしているさなかに、突如 天使が現れ、突如 彼らの願いと祈りが叶えられて子どもが生まれると聞かされて、ザカリアはさぞや驚いたことでしょう。
子どもが与えられることだけでも、14節にあるように「喜びとなり、楽しみとなる」のに、生まれる子どもについて、天使はさらにザカリアを仰天させることを次のように告げました。
「彼は主の前に偉大な人になり…既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。」(ルカ福音書1:16)
驚きのうえにも驚きが重なって、ザカリアは天使にこう言ってしまいました。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」(ルカ福音書1:18)
このザカリアの言葉は、このように言い換えられるかもしれません。「子どもが生まれるなんて、私も妻も年をとっていてとうてい無理です。そんなこと、信じられるわけがないじゃないですか。信じろと言うのなら、その証拠を見せてください、証拠を。」
すると、天使はこう答えました。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。」(ルカ福音書1:19)
天使はガブリエルと、自らの名前を名乗りました。相手に名前を知らせるのは、自分の本質を知らせることです。しかも、神さまの前に立つ者だと自分の立場、つまり自分の身分をすっかり明らかにしました。
このことだけでも十分に証拠ですが、さらに天使は丁寧に自分が神さまに遣わされて来たことを明確に告げました。そうして、言葉で身の証しを立てた後、天使はこう言いました。20節です。「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」
そして、天使ガブリエルのその言葉のとおりに、その時から子どもが生まれてザカリアが感謝と喜びの祈りと預言を語るまで、ザカリアは口が利けなくなってしまったのです。
皆さんは、少し怖さを感じられるかもしれません。神さまの言葉を信じないと、こういう厳しい罰が与えられるのだと思ってしまいます。
口ごたえの言葉を言ったお前の口からは、どんな言葉も出せなくしてやろうと、神さまが天使を通してザカリアを懲らしめたように感じるからです。
でも、これは単なる「お仕置き」なのでしょうか。神さまは、私たち人間に罰ではなく、試練を与えられます。試練をもって私たちに働きかけてくださり、その試練によって私たちの信仰を育ててくださいます。
試練には、必ず導きが伴います。試練の前よりも、もっと神さまの恵みを敏感に感じ取れるようになります。神さまに向かう心の窓が、より大きく広く開かれるようになると言っても良いでしょう。自分が神さまに愛されていることをより深く、より喜ばしく感じられるようになるのです。神さまの愛の大きさを、試練を受ける前よりもさらに深く味わい知り、感謝を献げ、より真剣に祈るようになります。御前に進み出て、もっと神さまに従う者になりたい、だからもっと神さまの御言葉を聴きたいと願います。
こうして、試練は私たちに神さまの恵みをいただく心備えを与えてくれます。神さまに、心をまっすぐに向ける準備をいただくことができるのです。この恵みを、聖書は「主に立ち帰る」と言います。
ザカリアとエリザベトに生まれる息子ヨハネは、民を主に立ち帰らせ、「準備のできた民を主のために用意」(ルカ福音書1:17b)することになります。
主に心を向け、御言葉を聴き、御旨を求めて祈るには、まず自分が沈黙しなければなりません。
自分の心にざわつくさまざまな勝手な思いを鎮めて、黙って、自分の言葉と声を抑えて神さまの御言葉を祈り願わなければなりません。
サムエル記上に、まだ幼かった預言者サムエルが主の御前に静まって御言葉を求めたことが記されています。その時、サムエルは師である祭司エリから、こう祈って待つようにと言われました。この言葉です。「主よ、お話しください。僕(しもべ)は聞いております。」(サムエル記上3:9)このサムエルのように、私たちは静まって心を備え、御言葉を待ちます。これが、「主に立ち帰る」姿勢です。
沈黙して、神さまの御業と働きを待つ ― 神さまはザカリアから声と言葉を一時 失わせ、沈黙して主の御言葉に耳を澄ますようにと導かれたのです。
彼は、また妻のエリザベトも、人間の目から見れば「非の打ちどころがな」い(ルカ福音書1:6)二人でした。
ルカ福音書1章6節には、こう記されています。お読みします。「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがなかった。」
ザカリアとエリサベトは律法を遵守し、人々に尊敬される夫婦でした。しかし、ただ守るだけでは、神さまとの恵みの関わりは与えられません。神さまが差し伸べてくださる愛の御手を、自分からも求めなければなりません。沈黙して、御前に進み出なければなりません。それが、主に立ち帰るということです。
ザカリアには、こうして主の御前に沈黙する備えと立ち帰りの恵みが与えられました。
また、妻エリザベトについては今日の聖書箇所の終わり近く・24節にこう記されています。「その後、妻エリザベトは身ごもって、五カ月の間身を隠していた。」身を隠したのは、身ごもったことが恥ずかしかったからでは決してありません。人の声・人の言葉から身を隠し、神さまの御前で静まって過ごす時間を持ったのです。
こうしてルカによる福音書は、ザカリアとエリサベトについて語ることを通して、私たちを主への立ち帰りへと導いてくれています。
私たちは日々、特に平日の間は、この世の営みに忙しく立ち働いています。その中で、神さまに心を向ける立ち帰りのひとときを持ちたいものです。しかし、なかなか聖書を広げて御言葉に聴き、目を閉じて祈る 静かな時間を持てないものです。しかし、そのようにしなくても、神さまはイエス様を通して私たちの立ち帰りを見ていてくださっています。
通勤電車に揺られながら、または おうちの台所でお皿を洗いながら、仕事机の前でパソコンの画面を前にしながら、庭で雑草を抜きながら、心を神さまに向ける ― その私たちの心を、主はご覧になってくださるのです。その時、イエス様は生きて働く聖霊として私たちに寄り添っていてくださいます。ですから、こう主を仰ぐ心をいただきましょう。神さま、私の心にお語りください・僕(しもべ)は聞いています。 その祈りと願いをもって、この一週間を進み行きましょう。
2022年5月15日
説教題:伝道の志を抱いて
聖 書:詩編105編1-6節 、ルカによる福音書1章1~4節
わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。
(ルカによる福音書 1:1~3)
今日、私たちはルカによる福音書の冒頭の御言葉をいただいています。
聖書には四つの福音書があり、それぞれ その書を書いたと言われる人 ― マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ ― の名によるものと題名がつけられています。
それぞれに特徴がありますが、ルカによる福音書の大きな特徴のひとつは、今日 与えられているこの冒頭の御言葉です。
誰が、誰に向けて、何のためにこの書を記すのかが明確に告げられています。
5節から福音書のいわば本文が始まりますが、今日 与えられているその前の1節から4節は、「テオフィロさま」に献呈するための いわゆる「添え書き」です。他の三福音書には、このような添え書き・説明的な記述はありません。
また、マタイによる福音書とマルコによる福音書では、それらを書いた人(福音書記者と呼びます)のことは記されていません。一方、ルカによる福音書は今日の聖句からわかるように「わたし」が「詳しく調べて」責任をもって「確実なもの」を書き留めると告げています。
この「わたし」は、ルカという人物です。
彼は新約聖書の他の書、特に使徒パウロが記した書に名前が記されています。
フィレモンの手紙24節に「わたし(パウロ)の協力者たち、…ルカからもよろしくとのことです。」、テモテへの手紙二には「ルカだけがわたし(パウロ)のところにいます」(テモテへの手紙二 4:11)とあります。
ルカがパウロのそばにいて、行動を共にしていた ― 伝道の苦楽を共にしていた ― 人であることが、この二か所の聖句から読み取れます。
さらにもう一か所、コロサイの信徒への手紙4章14節には、こう記されています。「愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています。」
この聖句から、ルカの職業は医者だったのではないかと言われています。
パウロは精力的な伝道者でしたが、頑強な体の持ち主ではありませんでした。
持病に苦しめられていました。
目の病気とも、神経系統の病気とも言われていますが、病弱だったパウロにとって医術の心得のあるルカがいつも一緒にいるのはたいそう心強かったことでしょう。
そして、パウロが多くの手紙によってイエス様の救いの福音を伝えたように、ルカも福音書を著して伝道に励んだのです。
この福音書が「テオフィロさま」に福音を伝えるために書かれたことは、今日の聖句から明らかです。残念ながら、この「テオフィロさま」が誰かはわかっていません。
イエス様の弟子たち・パウロやルカが興した教会に来て、イエス様のことをもっと知りたいと願っている社会的身分の高い人だろうとイメージできます。
この名前は、ギリシャ語で「神さまを愛する人」という意味だと解釈することもできなくはありません。
そこで、このようにも言われています。この「テオフィロさま」とは一人の具体的な人物ではなく、イエス様のことを知りたいと願うすべての人をさすのではないか、と。
そのように主を求めて礼拝に集う人に、イエス様の出来事を伝える伝道者 ― イエス様の弟子たち ― は「教えてやろう」という いわゆる「上から目線」の態度を決して取りませんでした。
「テオフィロさま」・「神さまを愛する人」と尊重して、丁寧に接することを心掛けたのではないでしょうか。
イエス様は「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書15:17)と弟子たちに教えてくださいました。
弟子たちはイエス様に教えられたことを「互いに愛し合いましょう」(ヨハネの手紙一4:7)と、まさに「互いに」勧め合い、世に宣べ伝えてゆきました。
私たちは、前回の礼拝でそのことを心に留めたばかりです。
イエス様の愛の教えを、パウロは次のように言い換えています。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」(フィリピの信徒への手紙 2:3)、「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」(ローマの信徒への手紙 12:10)
愛し合うとは、分け隔てをしないことを基としています。
また、愛し合うとは、互いを自分よりも優れた者と思って尊重し合うことを基としています。
当時、キリスト者への激しい迫害がありました。ですから、教会の兄弟姉妹は自分たちの仲間だけれど、教会の外の人はそうではない ・兄弟姉妹は信用するけれど、教会の外の人たちには警戒を怠らない ― そのように分け隔てすることは、人間的な思いからすればむしろ当然だったでしょう。
今の時代に生きる私たちにとって、表立った信仰的な迫害はありませんが、初対面の人と話しているうちにその人がクリスチャンだとわかると何となくホッとする ― それが、正直なところ、実感ではないでしょうか。
教会の外の社会で自分がクリスチャンだと言うと、周りの人の態度が変わるのではないかと気になることがあるのは、その思いの裏返しでしょう。
これは信仰の事柄だけにかかわることではありません。私たちは自分と似た者に親近感を持ち、自分と異なると感じる相手との間に線を引いて分け隔てしがちなのです。自分たちと違う特色を持った者たちを見下しがちです。また、このように異なるグループは、些細なことで意見が対立すると互いに相手を敵とみなしがちです。時代とは関係なく、これは人間に備わった性癖と言ってよいでしょう。
人間は仲間同士で親しく心を通わせて、協力し合って生きる知恵を持っています。しかし、異なる主張を持つグループが自分「たち」の主張を通すために仲間内で結託してこの協力する知恵を用い、衝突してついには争いを起こしてしまう時、この知恵は罪となります。知恵の木の実を食べた人間に宿るようになった罪です。
イエス様は、この罪から私たちを救ってくださいました。互いに愛し合うようにと掟をくださり、どうしても愛し合えない私たち人間のために、私たちの代わりに十字架で命を捨ててくださいました。しかし、神さまの栄光をあらわし、私たちと共においでくださるためによみがえられ、私たちが互いに愛し合う思いを抱いて生きてゆくようにと今も励まし続けてくださるのです。
その思いを地の果てまで伝え、すべての人をその思いに生きる友とするようにと、導き続けてくださいます。
イエス様が天の父の御許に昇って行かれる時に、弟子たちに告げた言葉は、今も鳴り響いています。この御言葉です。「…あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。(弟子にする、とは心から喜んでイエス様の愛の教えに従う者・友にするということです)彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ福音書28:20)
互いに愛し合うとは、すべての人を友とするイエス様の愛を伝え、伝道するということなのです。
そして主の愛を伝える時に、愛をもって伝えるのが伝道です。
今日の聖句に話を戻せば、イエス様のことを知りたい・イエス様の父なる神さまの恵みに与りたいと願って教会へ来た人に敬意をもって接すること、今日の聖句にあるように「敬愛する」ことが、伝道の基本姿勢なのです。
教会に初めておいでになった方は、こわごわ・おっかなびっくりといった心持ちで礼拝に出席します。自分が「よそ者」だと思うから、こわごわ・おっかなびっくりなのです。
その方を「あなたはよそ者ではありません、あなたは神さまに造られたたいせつな方です、私たちは誰もがそうなのです」と迎え入れることが、私たちの伝道の基本姿勢です。
伝道と聞くと、私たちはつい、礼拝が終わってからのことだと考えます。礼拝でいただいた御言葉の恵みを心に抱いて会堂を後にし、イエス様の弟子として世に遣わされてからが伝道だ…そう思います。しかし、伝道はそればかりではありません。
礼拝そのものが伝道です。私たちはこの地で礼拝を献げ、そのことでここに教会があることを世に知らせています。今、この礼拝の瞬間も、神さまは私たちを伝道の御業に用いてくださっているのです。さらに申せば、私たちクリスチャンがいること・存在すること自体が、伝道だと言ってよいでしょう。
「あなたは神さまに造られたたいせつな方です、私たちは誰もがそうなのです」と互いに思い合っている限り、つまり「互いに愛し合」おうと志している限り、イエス様は私たちを導いて世の光・地の塩として用いてくださり、伝道の器として用いてくださいます。
今日 ここにいただいている御言葉・ルカによる福音書の冒頭で、この福音書を書いた伝道者ルカは、そのことを私たちに語り、その真理から伝道を始めようとしています。
伝道は、平和への道です。
「あなたは神さまに造られたたいせつな方です、私たちは誰もがそうなのです」、だから「互いに愛し合いましょう」と互いの友となることで、実に単純な言い方ですが、争いは、戦争はなくなるはずなのです。
世界が平和だと言えない今、この今だからこそ、この本当に単純なキリスト者・クリスチャンの姿勢を日曜日ごとに思い起こし、取り戻し、分かち合い、伝えてまいりましょう。
主に愛されて救われ、互いに愛し合う者として生きてゆく ― その思いを胸に、今週もイエス様の弟子として、伝道の志・平和への希望を抱いて進み行きましょう。
2022年5月8日
説教題:互いに愛し合いなさい
聖 書:レビ記19章18節、ヨハネの手紙一 4章7~12節
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。…愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
(ヨハネの手紙一 4:7、11~12)
今日の礼拝を、薬円台教会は「大人と子ども一緒の礼拝」として献げています。5月第二日曜日 ― 今年は今日・5月8日です ― を「母の日」とすることが、世間的に定着していますが、薬円台教会の「大人と子ども一緒の礼拝」は、教会の草創期に、その母の日にちなんで年間行事とすることを取り決めたのだと思います。
「母の日」にはカーネーションをお母さんに贈る習慣があり、今は花屋さんでもスーパーでも、赤やピンクのカーネーションが彩り華やかです。
この「母の日」は、もともと教会の行事として始められました。20世紀の初め・1905年~1908年頃、アメリカのある教会で、アンナ・ジャービスという女性が亡き母を哀悼するために白いカーネーションを礼拝に出席した人々に配りました。お母さんが生きている間に十分に伝えることができなかった感謝 ― 生んでくれたこと・育ててくれたこと、イエス様の愛にならって子どもである自分を愛し慈しんでくれたことへの感謝 ―を表すためでした。
この試みは人々に感動をもって受け入れられ、瞬く間にアメリカ全土に広がりました。また宣教師を通して日本の教会にも伝えられ、教会から日本の一般社会へと広まっていったのです。
子どもにとって、お母さんはたいへん身近な存在です。そのため、母への感謝をあらためて言葉や形にして表すことのたいせつさに、人々は気付いていませんでした。しかし、アンナ・ジャービスの行ったことでそのことに気付かされ、誰もが、そのように言葉と形で母への感謝を表したいと思うようになったのです。「母の日」は、そのようにして広まりました。
実はもうひとつ、母の日が瞬く間に広まった理由・背景があります。
アンナ・ジャービスの母は牧師の妻で、生前、19世紀の半ばから、教会を中心に「母親による平和運動」を進めていました。彼女にはアンナを含めて10人の子どもがいましたが、なんとそのうち8人を南北戦争(1861~1865)で亡くしていたのです。
彼女は、この悲しみに負けませんでした。自分と同じように戦禍で我が子を失った母たちにひとりで悲しみを抱え込まず、分かち合い、慰め合い、祈り合う会を開いたのです。彼女が暮らしていたのは南軍に属する地域でしたが、彼女は南北戦争で敵対している最中の敵・北軍の母たちにも呼びかけました。南軍・北軍、敵・味方の分け隔てを越えて両軍の母たちが集まる機会を設けました。
戦争で子どもたちを失った母たちは、敵・味方の分け隔てなく同じ悲しみを抱いて集まり、互いの悲しみを語り合い、そこに友情が育まれました。その絆から戦争を止めてほしいと平和を訴える「母たちの友情の日」の運動が始まりました。
アンナの母は、このように勇気と活力、実行力を備えた強い母だったのです。 この母を記念し、母たちが志した平和への願いを受け継ごうとの思いをこめて、アンナはカーネーションを配りました。
教会を中心に平和運動が展開されるのは、少しも不思議なことではありません。
私たちの救い主イエス様は「平和の君」として、この世に遣わされました。
私たちは、自分の正義を貫こうとします。しかし、それは本当に正義でしょうか。真実の正義は神さまだけがご存じです。私たちは、その神さまに背いて誤っているかもしれない自分の正義を追い求め、主の道から外れ、つまりは神さまの手をふりほどいて悪と手をつないで仲良くすることになってしまいます。そうして、自分が望む・望まないにかかわらず、自分たちのうちに潜む悪・罪のために神さまに敵対してしまう私たちを、イエス様は主の道に連れ戻してくださるために、世においでくださったのです。私たちを神さまと和解させてくださるために、イエス様は十字架に架かられてご自身を犠牲にされました。
イエス様は、敵・味方という考えを捨てるようにと私たちにおっしゃいました。イエス様ご自身が、まず、あらゆる隔てを超える道を示してくださったのです。イエス様はそれを言葉と行いで表して、ご自身は神さまでありながら私たち人間を友としてくださいました(ヨハネ福音書15:15)。
しかし、人間にはその恵みを理解することができませんでした。イエス様の友としていただいたにもかかわらず、人間は、イエス様が窮地に立たされた時、イエス様を見捨てて逃げ散ってしまいました。一番弟子だったペトロでさえ、「あんな人は知らない」とイエス様を見捨てました。しかし、イエス様はその実にふがいない者たちのために「友のために自分の命を捨て」(ヨハネ福音書15:13)て、十字架で死なれたのです。
私たち人間は自分と自分の利害を中心にして、「自分の仲間(同胞・兄弟姉妹・家族)」「友人(隣人)」「敵」とまわりの人たちをだいたい三種類に分けて認識し、その認識に基づいて行動します。
ところが、すべての人間を創造された神さまにとって、すべての人間が我が子です。だから、神さまは人間を分ける・分け隔てすることなどなさいません。ですから、すべての人間がイエス様にとっては分け隔てなく「友」であり、たいせつにしたい仲間なのです。
誰かをこよなくたいせつに思う・誰をも敵とみなさない ― 聖書はそれを愛と呼びます。人間が歴史上、まだ果たせていない平和への願いと希望は、この愛から生まれます。
イエス様は、願いと希望を諦めることなく平和の主を仰ぎ続けるようにと私たちに指針を与えてくださいます。
「わたしがあなたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書15:12)と私たちに語りかけてくださいます。
その御言葉を受け継いで、ヨハネの手紙の書き手は今日の聖句で「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」と今、私たちに呼びかけています。イエス様の愛へと、私たちを招きます。
私たちはそれぞれ、イエス様が命をかけて愛してくださった者同士です。
私たちが誰かと関わりを持つ時、イエス様はその誰かを私たちに託しておられます。この人は私の大事な人だからね、どうぞよろしく ― 私たちが誰かと初めて出会う時、イエス様は見えないけれど その場におられ、互いの仲を取り持ってくださいます。その言葉に従って、私たちが互いをたいせつにする時・愛し合う時、私たちの目には見えないイエス様は、確かに私たちの間においでくださいます。
そのことを、今日の聖句 ヨハネの手紙12節はこう語ります。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされるのです。」
話を、母の日に戻したく思います。アンナ・ジャービスの母が「母の友情の日」を開催した時、北軍の兵士の母も、南軍の兵士の母も同じひとつの会場に招かれて集まりました。もしかすると、その会場には戦いの中で我が子を死に至らしめた兵士の母同士が、同席していたかもしれないのです。いえ、「かもしれない」ではなく、事実としてそこにいたことでしょう。
しかし敵・味方を越えて、どの母も戦争を憂えていました。母たちは皆等しく、もう子どもたちを決して戦場に送りたくない・人を殺させたくない・平和に生きてほしいという願いを持っていました。
その願いを抱く母たちは、イエス様はそれぞれ互いに「この人は私の大事な人だからね、どうぞよろしく」と紹介され、出会いをいただいた者同士だったのです。
復讐してはならない、イエス様が開いてくださる平和を願って、手を取り合って進みたい ― 過去ではなく、より良い未来へと共に進みたい。これは母たちだけの願いではありません。
私たち皆の願いです。
母の日、子どもの日、父の日…いろいろな日があります。365日、4年に一度は366日、どの日も、私たちが未来に向かって歩む一日一日はそれぞれに、神さまが与えてくださる特別な一日です。
そしてどの日も、イエス様がご自身の命を捨てて私たちを救ってくださったからこそ、永遠の命に生きる希望を抱いて歩める一日です。
どの一日も、イエス様からのこの呼びかけを心にいただいて歩む一日です。「互いに愛し合いなさい」一 この人は、私が命がけで救った大事な人だからね、どうぞよろしく。
私たちは互いをイエス様からそのように託されて、共に生かされています。ですから、私たちも「互いに愛し合いましょう」
日々、その思いを新たにされて、今日から始まる一週間も恵みで心を豊かに満たされて過ごしてまいりましょう。
2022年5月1日
説教題:新しい力をいただく
聖 書:イザヤ書40章27~31節、コリントの信徒への手紙二4章5~9節
ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。
(コリントの信徒への手紙二 4:7~9)
私たち薬円台教会は前の日曜日・4月24日に教会総会を開き、教会として新しい年度を歩み始めました。協議の場にて、全会一致で今年度の主題「新しい力をいただく」を掲げて進むことが決まりました。その主題のもととなる聖句は、旧約聖書のイザヤ書40章31節の前半です。週報に記してありますが、今一度お読みします。「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。」
この「新たな力」は、自分の力ではありません。神さまの御力です。
鷲は自力でバタバタとはばたいて空の高みに上がるのではなく、広げた翼に風を受け、上昇気流の力で青空に飛翔します。
そのように、私たちは神さまから風・命の息・霊をいただき、神さまの力に満たされて前進します。
だから、イザヤ書40章31節の後半が語るように「走っても弱ることなく、歩いても疲れない」のです。野を越え、山を越え、さまざまな試練・困難や課題や苦難、時に悲しみを乗り越えて前に進み続けます。立ちすくんでうずくまり、進めなくなってしまうことはありません。ましてや、後戻りすることなど、決してありません。これは、よりわかりやすく申しますと「決して希望を捨てない・心はいつも前向き」ということです。
今日の新約聖書の聖句は、そのすさまじいまでの気力・希望の力の源が神さまであると告げています。7節の聖句が語るこの御言葉を心に留めましょう。「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らか」。
この「神(さま)のもの」である「並外れて偉大な力」がどれほど大きいか、人並外れて、すなわち人間の力をはるかに、はるかに超える偉大さであることは、今日の聖句が記されているコリントの信徒への手紙二 4章1節と16節に記されている言葉からわかります。
1節と16節は、こう力強く告げています。「だから、わたしたちは落胆しません。」人間は落胆します。がっかりします。「がっかり」を積み重ねて絶望します。希望が持てなくなるのです。生きようとしなくなります。神さまが与えてくださった命を諦め、死に身をゆだねても仕方がないと思ってしまうのです。
聖書は、これを罪と呼びます。
今日の新約聖書箇所 コリントの信徒への手紙二 4章7節の言葉を用いれば、落胆する人間・罪ある人間は「四方から苦しめられ」ると行き詰まって前に進むのを諦めます。
「途方に暮れ」ると希望を失ってまさに失望し、絶望します。
「虐げられ」ると、自分で自分を見捨てて自暴自棄になってしまいます。
「打ち倒され」ると、滅ぶ、つまり生きようとしなくなってしまいます。
薬円台教会は順調に堅実に、そして淡々と平常心で感染がもたらした閉塞的な2年間を過ごしましたが、私たちが生きるこの世の諸状況は決して安泰なものではありません。収束の見通しがつかない感染・収まらない戦争・世界情勢の悪化と経済の停滞などを思うと、わたしたちはまさに「四方から苦しめられて」います。しかし、私たちに天からの、神さまからの並外れた力が与えられるのも、まさにこのような時なのです。
神さまは、私たちにイエス様を与えてくださいました。
神さまの御子であり、ご自身も神さまでありながら、私たちと同じ人間 ― 土の塵から創られた壊れやすく割れやすく、滅びやすい土の器・人間でもある方です。
神さまは命の源であられます、もちろん、神さまが死なれることなどあり得ません。ところが、神さまは御子イエス様を人間とされ、人間として死ぬ体を持たせたゆえに、イエス様は神さまでありながら、自らすすんで死ぬ方になられました。私たちと同じになってくださったのです。
神さまは大いなる全能を用いて至上の高みに昇られます。と同時に、その全能によって小さく、低くなることも可能な方です。神さまは私たちが罪のために滅びる他ない身であることを憐れんで、ご自身の全能をイエス様を人として私たちのもとに遣わすことに用いられました。主の愛によるイエス様のへりくだりが、実現したのです。
イエス様は、私たちに代わって人間の罪・絶望・行き詰まりを担われ、十字架の上で土の器として私たちの代わりに割れて壊れて、死んでくださいました。
これは本当に単純なたとえを用いれば、私たちが走って疲れて足が前に出なくなったら、イエス様がその疲れ果てた足となってくださって、代わりにご自分の疲れを知らない足で私たちに代わって走り続けてくださるようなものです。わたしたちの主が、動けなくなった私たちを抱いて、背負って、私たちの手足の代わりとなって進んでくださると申しても良いでしょう。
イエス様が私たちに代わってくださったことで私たちは救われ、イエス様のご復活が開いてくださった永遠の命を生き、前に進み続けることができるようになったのです。
自分を犠牲にして、誰かの代わりとなる ― これこそが、並外れた力です。神さまの力です。イエス様の十字架の出来事によって私たちの心に宿る、イエス様の愛なのです。また、イエス様のご復活によって私たちの心に光を灯す、希望の力です。
こうして、イエス様の十字架の出来事とご復活を受け容れて信じる者は、「走っても弱ることなく、歩いても疲れ」(イザヤ書40:31b)ません。「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされ」(二コリント 4:8~9)ません。そして、前に進み続けます。
「前」と申しますが、その「前」とはどこでしょう。
御国です。
神さまの御力と栄光がこの世の陰なるもの・すべての悪を駆逐して、光だけに満ち溢れる神さまの国です。
私たちはそこに到達する希望を抱いて、走るべきこの世の道のりを堅実に着実に、淡々と為すべき最善を努めてイエス様に従って、そこに至る確かな道を進んでいます。
薬円台教会には、先に逝った信仰の友・私たちの兄弟姉妹がおられます。その方々は、希望を抱いて進み通し、今はイエス様と顔と顔を合わせて憩いと平安をいただく恵みに与っています。信仰者にとって死はありません。確かに生命体として肉体が活動を終える時があります。しかし、それは信仰者にとって死ではありません。その死を超えて、イエス様が私たちの存在そのものと共においでくださいます。イエス様と共に御国に向かってさらに前進を続け、終わりの日に約束されている復活の時・永遠の命を待つ希望が与えられています。
その道を歩み続けるすさまじい力・並外れた力・新しい力を、今年度の一日一日、新たにいただきつつ共に進んでまいりましょう。
2022年4月24日
説教題:平和があるように
聖 書:詩編145編10~16節、ヨハネによる福音書20章24~29節
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
(ヨハネによる福音書 20:27~29)
前回の主日礼拝で、私たちはイエス様のご復活・イースターを感謝して祝いました。
イエス様は日曜日の朝によみがえられ、マグダラのマリアの前に現れてくださいました。マリアは弟子たちやイエス様を慕っていた者たちに「わたしは主を見ました」(ヨハネ福音書20:18)と話しました。
この時、弟子たちやイエス様を慕っていた者たちは、マリアの言葉を信じたでしょうか。イエス様のご復活の事実を知って、大いに喜んだでしょうか。
ヨハネによる福音書には、何も書いてありません。この時、マリアからイエス様のご復活を聞いた彼ら・彼女らは半信半疑だったのではないかと思われます。
彼らはイエス様のお体が墓の中になく、墓が空っぽだったことは見てわかり、受けとめ、事実として受け容れることができました。しかし、彼らはそれをマリアが語ったイエス様のご復活とつなげて考えることはできず、イエス様の体が盗まれたと理解したのです。さらに、ユダヤ社会およびローマ帝国の自分たちへの憎しみと悪意による嫌がらせだと考えました。
イエス様はローマ帝国にとってはユダヤの王を自称した反逆者、ユダヤ社会にとっては社会秩序を乱す者として、死刑になった後もその体をいたぶられるほど嫌われたのだと、弟子たちは思い込んだのではないでしょうか。
その思い込みは、弟子たちの恐怖心の表れでした。彼らは死刑囚イエスの弟子すなわち社会を乱す危険分子として世間から白い目で見られていると感じ、イエス様のように逮捕されるなどの危害を加えられることを大いに恐れていたのです。
彼らの中にはエルサレムから逃げて、近くの町エマオへ向かった者さえいました。他の者たちはそうもできず、滞在していた家の一室に皆で閉じこもって息をひそめていたのです。
滞在していた家・閉じこもっていた部屋 ― それは、イエス様が弟子たちと最後の晩餐の時を過ごしたあの二階の部屋だったと言われています。彼らは自分たち以外の者の侵入を危ぶみ、扉にはしっかり鍵をかけていました。
ところが、その彼らの真ん中に、ご復活のイエス様が現れてくださいました。「あなたがたに平和があるように」 ― イエス様はそうおっしゃって、集まっていた者たちを祝福してくださいました。ご復活の姿を現してくださったイエス様を、彼らは感激と感動、そして喜びをもって迎えました。
平和があるようにと、現れたイエス様は彼らを祝福してくださいました。彼らの心に平安がなかったからです。彼らにはまわり全部が敵に見え、不安に怯えて心をおののかせていました。
その彼らに、イエス様は、わたしが一緒にいるから大丈夫だ、ほら、このとおりにわたしはよみがえったと姿を現してくださったのです。ご復活の主に会った者は皆、イエス様がこうして共においでくださることで大いに心を強められました。彼らは喜んで「イエス様はよみがえられた、復活された、今も自分たちと一緒にいてくださるから大丈夫だ」と口々に語り合ったでしょう。
この時、ひとりだけ、イエス様に会えなかった者がいました。十二人の弟子の一人、トマスです。
彼はみんなが喜んでいるのを見て、自分だけ仲間外れにされたように思い、すねてしまいました。
すねて、意地になったトマスはこう言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(ヨハネによる福音書20:25b)
イエス様は、このトマスのために、その八日後 ― これは足かけ八日後なので、復活日の一週間後です ― に、もう一度 復活のお姿を現してくださいました。この出来事を語り伝えているのが、今日の聖書箇所です。
弟子たちと、イエス様を慕う者たちは、この日・この時もトマスも含めて 最後の晩餐を過ごした二階の部屋に集まっていました。礼拝を献げるためでした。扉には相変わらず「みな鍵がかけてあった」(ヨハネ福音書20:26)と聖句は語ります。この言葉から、 トマスの心の扉が堅く閉ざされていた ― トマスがかたくなになっていたことを読み取ると良いでしょう。
19世紀の画家ウィリアム・ハントの「世の光」という絵をご覧になったことがあるでしょうか。イエス様と思われる姿が、一軒の家の外に立ち、その家の閉ざされた扉をノックしている絵です。扉を閉ざしたその家は真っ暗です。
外に立つイエス様は明るいともしび・カンテラを手に提げています。真っ暗な家・暗く閉ざされた心に、イエス様は光を持ってきてくださったのです。
この絵をよく見ると、扉にドアノブ・取っ手がないことに気付かされます。家の内側から、「さあ、どうぞお入りください」と扉を開けなければ閉ざされた中へ入れないのです。
私たちは、まわりに心を閉ざしてしまうことがあります。特に思春期・十代の半ば頃、誰も自分の思いを理解してくれない、みんな自分のことなんか嫌いなんだ、いいんだ、もう一人ぼっちで生きてゆくと意固地になった経験をお持ちの方は多いのではないでしょうか。大人になっても、人間関係が円滑にいかず誤解されたり、仲間外れになったように感じたりすると、一気にその時の思いに戻ってしまうことがあります。
その時、イエス様は私たちの閉ざされた心に寄り添ってくださいます。明るく暖かい光を灯しに来てくださるのです。
今日の聖書箇所に記された出来事のこの時、トマスは礼拝には出ていましたが、安らいだ気持ちでいたわけではありませんでした。
兄弟姉妹が安らいだ心をいただき、その心でひとつとされて礼拝を献げるのが、御心にかなった礼拝でありましょう。けれど、実際にはこの世で献げられる礼拝で、集う私たちはいつも必ず心ひとつにされているわけではありません。
平日の仕事に疲れて、礼拝に集中できない方がおいででしょう。
日常生活の中で思いがけない嫌な出来事があって、本当に神さまは自分のことをちゃんと見守っていてくださっているのかと思いつつ、礼拝の場におられる方もいるかもしれません。
また、これは大切なことですが、礼拝に出席し始めてまだ日が浅く、イエス様の十字架の出来事とご復活の恵みを知らない方、まだ福音を信じるに至っていない方もおられます。
いろいろな心で、いろいろな課題を抱えつつ、またいろいろな立場で礼拝を献げているのがこの世に生きる私たちの礼拝の現実です。
イエス様は、その私たち一人一人と礼拝の中で出会ってくださいます。私たち一人一人の心に寄り添い、それぞれの心に明るい光を灯してくださるのです。
今日の聖書箇所が語るこの時、イエス様はトマスに出会うために現れてくださいました。27節で、イエス様は実際にトマス一人に語りかけておられます。彼が意地になって言い張ったこと・トマスが言い放ったなんとも自己中心的で憎らしい言葉を、そのまま実行させてくださろうとなさったのです。
イエス様は27節で、こうトマスにおっしゃられました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。」そして、イエス様は釘の穴が開いたご自身の手首をトマスに差し出したのではないでしょうか。また、続けてこうおっしゃいました。「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」十字架の上で、死んでいるかどうかを確認するためにローマ兵に槍で刺された傷口をトマスにさらして見せてくださったのです。
繰り返しますが、イエス様はトマスのためにこの場に現れてくださいました。トマスがイエス様の復活を聞いただけでは信じることができず、心に平安がなく、いらいらと落ち着かない気持ちでいたからです。
そのことを心にとめて、今日の旧約聖書箇所・ 詩編の御言葉に心を向けてみましょう。詩編145編の御言葉は、神さま・イエス様・聖霊の主の大いなる御業を告げています。どんな御業でしょう。
それは、神さまがこの世の創造主であり、すべてを治める方でありながら、たった一人のために深い支えと配慮を賜る方だということを如実に表す御業です。
このように謳われています。詩編145編14節です。「主は倒れようとする人をひとりひとり支え うずくまっている者を起こしてくださいます。」
また、15節にはこう記されています。「ものみながあなたに目を注いで待ち望むと あなたはときに応じて食べ物をくださいます。」
すべての者の望みと願いは果たされると、私たちは告げられているのです。
ここで「食べ物」と言われているものは、体の養いのための食べ物・食糧であると同時に、心の養いのために聖霊が与えてくださる信仰の糧・御言葉の恵みと考えることができます。
私たちは皆、恵みを与えられます。それは、具体的な願いをかなえられるという以上の喜びで私たちを満たします。願ったもの・必要なものが与えられたという以上に、神さまが自分を心にかけてくださっている ― 主がこの自分を愛してくださっている幸いをいただくからです。
トマスは、信じたいと願っていました。彼は「信じない」と言いながら、実は自分だけ信じることのできない孤独を悲しんでいたのです。信じたいと思っていたから、あんなひねくれたことを言ってしまったのです。イエス様はそのトマスひとりに向けて、さあ、わたしに触れて信じてごらんと言ってくださいました。
自分にそそがれているイエス様の慈しみに、トマスの心は震えたでしょう。イエス様の優しさ・イエス様のトマスへの愛は、彼にまっすぐに届きました。だから、彼は少しも迷わず、すぐにこう言ったのです。「わたしの主、わたしの神よ。」トマスはイエス様の深い愛を信じ、主のご復活を信じました。
「わたしの主、わたしの神よ」と、トマスはイエス様を信じて我が主と呼ぶ心の真実を言わずにはいられませんでした。これはトマスの信仰告白の言葉です。
イエス様は、さらにトマスにこう言われました。ヨハネによる福音書20章29節後半です。「見ないのに信じる人は、幸いである。」これは、時を超えて、私たちに今、語られているイエス様の言葉です。
すべての礼拝、今 献げられている礼拝で私たちが見ることのできないイエス様が、私たちにこう語ってくださっています。
今、イエス様のこの言葉が、この礼拝で語られているのです。
私たちは、復活のイエス様のお姿を見ることはできません。イエス様は復活後に天に昇られ、御父なる神さまの右の座に就いておられるからです。
しかし、イエス様が送ってくださった聖霊によってひとりひとり愛されていることを深く心に受けとめ、十字架で私たちのために命を捨ててくださったイエス様の愛を信じています。愛されていることを信じ、決して主に見捨てられることはないと期待し、希望を抱いて生きています。
私たちは様々な思いをもって礼拝に招かれ、集められます。感染が完全に収束しない今の時期なので物理的に集まれない現実もありますが、様々な心で日曜日・主日に救い主を仰ぎます。その時に私たちの心の扉は開かれ、イエス様が光を掲げてそれぞれの心に、また私たち教会にお入りくださいます。
今日は礼拝の後に、教会総会が開かれます。今、礼拝でひとつとされて、教会の新しい年度へと進み行きましょう。イエス様の光で心を明るくしていただき、いきいきと活かされる者として、今日から始まる新しい一週間を、心を高く上げて進み行きましょう。
2022年4月17日
説教題:新しい命に生きる
聖 書:出エジプト記14章15~22節、ローマの信徒への手紙6章4~11節
わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
(ローマの信徒への手紙 6:4)
イエス様のよみがえりを喜び祝うイースターの朝を迎えました。
今日の新約聖書の御言葉は、主のご復活によって「わたしたちも新しい命に生きる」と告げています。イエス様のご復活は、十字架で命を終えられたイエス様が元通りに息を吹き返した・生き返ったというだけのことではありません。復活の出来事はイエス様お一人だけのことではなく、むしろ、イエス様は私たちのために復活してくださったのだとパウロは語ります。
イエス様のご復活によって、私たちには死を突破する道・命の源なる神さまへの道が開かれました。それは、新しい命への道です。新しい命 ― それは、希望そのものです。希望は、あらゆる行き詰まりを突破する力です。
どんなにがんばっても結果を出せず、ダメだと絶望しそうになる時・諦めたくなる時に、その心の暗闇に差し込んでくれる光が、この希望です。
私たち人間には命を創り出すことができません。神さまが命を創られます。それと同じように、真実の希望も、神さまから私たちに与えられます。イエス様のご復活は、神さまが私たちに希望を与え続けてくださることをはっきりと示してくださった恵みの事実です。
今日の礼拝に与えられた旧約聖書の聖書箇所・出エジプト記14章は、神さまがユダヤの民と出会われた時に、まず希望を与えてくださったことを告げています。
神さまはエジプトで奴隷として使役されているユダヤの民を憐れんで、自由にしてくださろうとなさいました。神さまが選んで立てられた預言者モーセに率いられて、ユダヤの民はエジプトから脱出しました。
貴重な労働力を失うまいと、エジプトの王ファラオは軍を出動させて民を追いました。民は海の岸辺に追い詰められ、前に進めば海に呑まれ、退けばエジプト軍に捕らえられて奴隷に逆戻りという瀬戸際に立たされました。
この時、神さまはユダヤの民のために猛然と働いてくださいました。私たちの神さまは、人間に崇められ、仕えられているだけの方ではありません。イエス様はこうおっしゃいました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコによる福音書10:45)私たちの神さまは、私たちのためにお命を捨てるほどに猛然と働いてくださる方なのです。
今日の旧約聖書・出エジプト記が語る出来事で、神さまは動けなくなってしまったユダヤの民のためにたいへんなお働きをしてくださいました。神さまは、ユダヤの民を救うために戦われたのです。
ユダヤの民が動けなくなったのは、前は海、後ろはエジプト軍。命を失うか、奴隷になるかというどちらにしても絶望的な未来しかない ― その思いのためでした。自分たち自身の絶望のために、彼らは前進できなくなったのです。聖書は、このように自らの未来を見限って絶望することを罪と呼びます。ユダヤの民の敵は、エジプト軍であると同時に自分たち自身の絶望だったのです。
絶望は、常に私たち人間にとっての悪です。前進する力・生きる力を奪い、命から死へと誘い込もうとする暗い誘惑です。神さまは、私たちすべての人間のために、この悪と戦われる方です。そして、私たちの思いをはるかに超える打開策を与えてくださいます。出エジプト記14章で民が陥った絶望から彼らを救うために、神さまは紅海を二つに割って道を拓いてくださいました。
私たちはつい、海が二つに割れて、水が壁のようにそそり立つ壮大な出来事・奇跡に目を奪われ、そんなことが本当にあったのかという議論に迷い込みがちです。その議論に足をすくわれることなく、御言葉が私たちに伝えようとしていることに耳をすましましょう。御言葉が語るのは、人の目には絶望的な状況に、神さまがその大いなる力を尽くして希望を与えてくださる事実・神さまが私たちを慈しんでくださる愛の真実です。
神さまはこのように、愛をもって民を救ってくださいました。ところが、その後、ユダヤの民の心は神さまに背くことばかりを繰り返しました。
人間は、目に見えない神さまを信じきることができないのです。目に見えない大切なことを、大切だと悟ることができないのも、私たち人間の限界です。聖書は、この悲しい人間の現実をも 罪と呼びます。
その私たちに、神さまは私たちの目に見える御子イエス様を遣わしてくださいました。私たちが信じる者となるためです。そして、イエス様の十字架の死で私たちの罪を滅ぼしてくださいました。
今日のローマの信徒への手紙の聖句が語るように、私たちは私たちの罪と共に一度、イエス様の十字架で死に、イエス様のご復活によって新しい命を与えられました。
私たち人間が精神的にも、肉体的にも、知性の点でも限界を持つことは謙虚に受けとめなくてはならない事実です。その限界・罪のために、私たちは多くの過ちを犯します。旧約聖書の時代から、私たち人間は互いを傷つけ合い、究極的には命を奪い、この世・社会に死を招き入れる戦い・戦争のかたちで現れています。
悲しいことに、今も争いが起こっています。
この私たちではいけない、この罪深い私たちのままでいてはならない、新しくより良い者として出直すようにと、御言葉は私たちを前進へと促し、勇気づけてくれます。イエス様は私たちに、善いものとして生きる願いと希望を持つようにと私たちに道を示してくださいます。
新しくより良い者となって再出発する ― これが、一度死んで、新しい命によみがえることです。イエス様は、私たちの罪と共に一度死なれ、ご復活と共に私たちを新しい命に造り変えてくださいました。
主のご復活は、私たちの新しい創造を告げています。天地創造の時、神さまは「光あれ」とおっしゃられ、この世にまず光を創られました。それは希望の光です。ヨハネによる福音書は、イエス様が光として世に来られたことをこう語っています。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ福音書1:9)
復活のイエス様の光は、どんな時も私たちを明るくしてくださいます。
こんな自分ではどうしようもない、と自らを否定したくなる時に、いいえ、あなたは私の目にはこんなに輝かしい、私はあなたを愛していると照らしてくださいます。
こんな戦争ばかり繰り返す人の世は救いようがないと、私たちが深く人間そのものに失望しそうになる時に、いいえ、この世はすでに私が十字架に架かって救ったのです、と冷えた心を温めてくださいます。
イエス様の光に勇気と力をいただき、この光に導かれて平和の御国へと共に進み行きましょう。
2022年4月10日
説教題:御心に適うことを祈る
聖 書:イザヤ書50章4~7節、フィリピの信徒への手紙2章5~11節
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
(フィリピの信徒への手紙 2:6~9)
今日の主日礼拝に与えられている御言葉は、古くから「キリスト賛歌」と呼ばれて親しまれている聖句の中心部分です。「キリスト賛歌」は、イエス様が私たちのために成し遂げてくださった恵みのみわざを実に短く、端的に言い表した御言葉です。使徒信条よりもなお少ない言葉で、イエス様の地上の歩みと十字架で成し遂げられた救いのみわざ、そしてよみがえりが語られています。
イエス様は神さまの御子であり、ご自身も当然 神さまでありながら、天の座を離れて地上へ、この世の私たちのところへ下ってくださいました。
イエス様は神さまであるご自身の身を低くしてへりくだられ、私たちと同じ人間となられました。貧しさを表す馬小屋でのご降誕から十字架上の死に至るまで、神さまに命じられた使命を果たすために働かれました。
イエス様のこの世の人生は、いわゆる社会的な成功・人間的な意味での幸福から遠ざかって行く歩みに見えます。信仰者でない人からすれば、まだ33歳・34歳の若さで重罪人として死刑に処せられる最悪の人生に見えるかもしれません。ところが、その歩みは私たち人間を皆 悪から救いあげて正しく豊かな生き方へと導く栄光の人生だったのです。
それは、イエス様のご復活・よみがえりで明らかになりました。イエス様は天の高みから父なる神さまに遣わされてこの世においでになり、この世の低きに降り、十字架の死でどん底に沈んで、よみがえりで天高く高く上げられました。
私たちはその歩みを、新約聖書に収められている四つの福音書にたどることができます。また、受難週の一日一日についての聖書の記述からさらに詳しく読み取ることができます。
今日は棕櫚の主日、受難週の第一日目です。ご一緒にイエス様の十字架への道行きを心に深く受けとめて、共に主のご受難に思いを巡らしましょう。
受難週一日目の日曜日、イエス様はユダヤの最も大きな祭り・過ぎ越しの祭りの時期を過ごすためにユダヤの首都・神殿の町エルサレムに到着されました。
当時のユダヤはローマ帝国に支配された植民地でした。ユダヤの人々はその支配をくつがえし、ユダヤを独立へと導いてくれる強い指導者を待ち望んでいました。旧約聖書に預言されているメシア・救い主が、民族を救う政治的指導者として現れることを願っていたのです。
イエス様が人々の病をいやし、民衆の心に寄り添う方であることは、すでに広くユダヤの人々に知れ渡っていました。
人々は、このイエス様こそが待ち望んでいるメシア・救い主に違いないと、エルサレムの町に入られるイエス様を大歓迎したのです。彼らは手に手に棕櫚の葉 ― 大きな団扇のようで、打ち振るとバサバサと賑やかな音がします ― を持って振りながら、イエス様が歓呼の声で迎えました。
ところが、イエス様は彼らが思っていたような政治的指導者ではありません。人々の思い違いは、翌日から明らかになってゆきました。
イエス様は棕櫚の主日を過ぎてから、弟子たちと神殿の広場に向かわれました。広場では、ユダヤの政治的動向について、さまざまな立場を取る人々がイエス様に議論を仕掛けてきました。
民衆の期待がイエス様に熱く寄せられていることを嫉妬して、イエス様を憎んでいる者たちがいました。
イエス様はご自身が神さまその方ですから、神さまが人間に与えられた律法を当然、正しく解釈されて神殿の広場で人々に説き明かされました。それは、律法学者たちの人間的な解釈とはかけ離れていました。
また、イエス様の教えが、律法学者たちの教えに慣れたユダヤ社会の秩序を乱すのではないかと、イエス様への警戒が深まりました。
人々の多くが、イエス様がいつローマ帝国への反逆の狼煙を上げてくれるのかと大いに期待して待っていたことは先にお伝えしました。イエス様は、もちろん、そのようなことはなさいません。神殿の広場でイエス様が語られたのは、神さまがどれほど人々を深く愛しているかという、ただこのことです。
この愛ゆえに、神さまはこの不完全な世・神さまを知ることができないために悲しみと苦難が絶えないこの世の果てに、信じるすべてに永遠の命を与え、御国に入れてくださると約束されたことをイエス様は語られました。
これは、希望の言葉です。
時代を超え、民族を超え、人種を超え、あらゆる隔てを超えて鳴り響き続ける希望の福音です。しかし、目の前の政治的事柄しか見えない人々は、イエス様のおっしゃることを理解できませんでした。彼らからすれば、イエス様が語られる恵みの福音は期待外れでしかなかったのです。
彼らがイエス様の口から期待していたのは「さあ、ローマをやっつけろ! ユダヤの敵・ローマ帝国をぶっつぶせ!」という言葉でした。彼らが待ち望んでいたのは、憎い支配者ローマを蹴散らし、檄を飛ばして自分たちをリードしてくれる政治的指導者でした。
ところが、イエスさまはこう言われるのです。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ福音書5:44)
この言葉を、人々は理解できませんでした。人々の心は狭く、この言葉がめざす平和と安らぎを受けとめられなかったのです。平和の君として世に遣わされたイエス様を、人々は理解できず、受け容れることができなかったのです。
棕櫚の主日にイエス様を大歓迎した彼らでしたが、その心からはイエス様に期待し、イエス様を慕い、尊敬する思いは消え去ってしまいました。イエス様の弟子の中にも、そう思う者がいました。
イエス様は当然、日曜日に自分を大歓迎したあの雰囲気・ご自分を取り巻く空気が険悪なものに変わっていることを知っておられました。それでも、神さまの御国の約束・永遠の命の約束を語り続けられました。
イエス様は、それを父なる神さまからの使命として世に遣わされたのですから。イエス様は、神さまにどこまでも、限りなく従順でした。今日の御言葉の7節から8節に記されているとおりです。その御言葉をあらためて味読いたしましょう。
「…自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
私たち人間には、神さまのご栄光がまぶしすぎて受けとめきれないことがあります。 罪に目隠しされているために、私たちは主の御姿・御顔を仰ぐと生きていることができません。栄光を、そのまま仰ぐことができない ― それが、神さまの御前には罪人である人間の悲しい姿です。
イエス様は、神さまと私たちの間を隔て、神さまの栄光から私たちを阻むその罪を私たちから取り去ってくださるために、ご自身が犠牲となられました。
私たち人間が神さまの栄光で焼き尽くされることなく暖かい愛をいただき、それによって神さまを知ることができるように、神さまと私たちの仲立ちをしてくださったのです。
木曜日に、イエス様は弟子たちの足元にひざまずき、その足を洗ってくださいました。イエス様の時代、人々は舗装されておらず土埃が舞う道をサンダル履きで歩いていました。足は絶えず土埃で汚れ、それを洗うのは奴隷の務めでした。イエス様は、弟子たちのためにこの奴隷の務めを敢えてなさってくださったのです。それは、イエス様が、またイエス様を遣わした天の父なる神さまが、弟子たちを、また人間そのものをどれほど深く愛して愛し抜いておられるかを表すためだったのです。
イエス様に足を洗っていただき、愛が示されたにもかかわらず、弟子のひとり・イスカリオテのユダはイエス様を裏切るたくらみを抱いて外の闇の中へと出て行きました。
イエス様は、ユダの裏切りを止めませんでした。ご自分が逮捕され、十字架で死刑となり、しかしご自分が死ぬことで私たち人間が救われることを知っておられたからです。それが、神さまのご計画であることをイエス様は知り尽くしておられました。
ここに、人の思いをはるかに超える神さまの救いのご計画が表されています。イエス様が逮捕され、十字架に架けられて死罪となるのは人間側からすれば罪に満ち満ちた姦計・悪だくみ・陰謀でした。ところが、神さまは世の始めからイエス様の十字架刑を人間のための救いのみわざとしてご計画されていたのです。
弟子たちの足を洗い、裏切ろうと出て行ったユダを止めなかったイエス様は、この後・木曜日の夜に弟子たちと過ぎ越しの祭りの食事をなさいました。これが、最後の晩餐でした。
食事の後に祈りの時を持つために、イエス様は弟子たちを伴われ、ゲツセマネの園に行かれました。逮捕される時が迫っていました。イエス様は私たちと同じ人間の心をもって、この逮捕の時を恐れて死ぬばかりに悲しまれました。愛する者たちと過ごすために今の姿をとどめ、生きていたいと思われたのです。
しかし、イエス様は父なる神にこう祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイによる福音書26:39)
神さまの御心は、イエス様が人々の救いのために犠牲となって十字架で死なれることでした。イエス様は、この御心に従いとおされました。「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈り、十字架への道を進まれました。
金曜日にイエス様は十字架に架けられました。
土曜日、イエス様がおられない暗黒が全世界を覆いました。イエス様は死に、墓に葬られました。人の目には絶望の極みと思えるこの出来事は、救いのみわざの成就だったのです。神さまの御心・救いのご計画は、こうしてイエス様の犠牲によって成し遂げられました。
人の思いをはるかに超える神さまの救いのご計画の成就・イエス様のみわざの成就により、私たち人間が救われ、死を超える永遠の命を与えられたことを、神さまは私たち人間の目にも明らかにしてくださいました。それこそが、イエス様のご復活です。
日曜日、イエス様はよみがえられました。
今日の棕櫚の主日から、私たちは今、共に聴いたイエス様のご受難の一週間を思いつつ過ごします。
イエス様がご自身の命をもって救ってくださった幸いを感謝し、イエス様がそうして救った兄弟姉妹を互いに大切にし合い、この喜びを全地に伝える志を新たにいただいて、次の日曜日・ご復活を祝うイースターを待ち望みましょう。
2022年4月3日
説教題:慈しみ深き主
聖 書:哀歌3章19~26節、ローマの信徒への手紙5章1~11節
わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことはありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
(ローマの信徒への手紙 5:3b~5)
今日、私たちに与えられているパウロの言葉は、私たちプロテスタント教会の信仰のいしずえ・神学的根拠です。
「信仰によって義とされる」とは、神さまを信じて頼る者の心をご覧くださって、神さまが信仰者を「わが子よ」と呼んで、ご自分のものとしてくださるということです。たくさん奉仕をするからでも、優れた働きをするからでも、立派な祈りを献げるからでもなく、まして聖書について多くの知識を持つからでもなく、ただ神さまに頼る信仰によって、神さまに「あなたは良い」と認められるのです。
パウロが歩んだ人生を思う時、この言葉がいわゆる神学的な理論としてだけ語られたのではない、これはパウロの信仰を証しする言葉であると思わずにはいられません。
パウロの心の真実は、この聖句に続く今日の御言葉として掲げた箇所に表されています。
この御言葉です。「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことはありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマの信徒への手紙 5:3b~5)
苦難という言葉が語られていますが、まさにパウロの人生を集約した一語です。彼は、福音を宣べ伝えるために実に苦労の多い、いえ、苦労ばかりの人生を歩んだ伝道者でした。迫害を受け続け、何度も逮捕され、投獄され、ついには殉教して果てたことがすぐに皆さまの心に浮かぶでしょう。
しかし、パウロの苦難に満ち満ちた歩みは伝道者になる前から、イエス様に会ったその時から始まっていました。イエス様の十字架の出来事とご復活の少し後のことです。復活のイエス様は、まことに強烈な仕方でパウロに会ってくださいました。
この時青年だったパウロ、まだサウロという名前だった彼は、将来たいへん優れた律法学者になることが誰の目にも明らかなユダヤ教の律法の研究学徒でした。ユダヤ社会のエリートで、キリスト者を激しく迫害していたのです。イエス様を十字架に架けたユダヤのファリサイ派の人々・律法学者・祭司の側に立つ若者でした。
そのサウロに復活のイエス様が顕われ、彼は劇的な回心を経験しました。
彼の心は180度転換し ― つまり、イエス様に背を向けていた心がくるっと逆向きに回って、イエス様を仰ぐようになり ― それまでキリスト者を迫害していたのは大きな、大きな過ちであり、イエス様に従うことこそが真実に正しいことに目を開かされたのです。
ここから、彼のすさまじい苦難が始まりました。
人に信用されないという苦難です。
主は、回心した彼に洗礼を授けるようにと、幻を通してアナニアというキリスト者に語りかけました。ところが、アナニアはキリスト者を迫害しているあんな人に洗礼を授けるのはいやだと、なんと主に逆らう言葉を言ったのです。人間的な思いからすれば、当然のことでしょう。サウロという、この律法学者になろうとしている若者は、自分達の兄弟姉妹を捕らえ、キリストの教会を迫害しているのですから。
それでも、サウロ・後のパウロは、主の憐みによって洗礼に与ることができました。
では、サウロがすぐにキリスト者たちに受け入れられたかと言えば、決してそうではなかったのです。彼がキリストの教会に行くと、そこにいるクリスチャンは彼が自分たちを捕らえに来たのだと思って「恐れ」(使徒言行録9:26)ました。
イエス様を信じて洗礼を受けたと言っても、信じてもらえない ― 怖がられ、忌み嫌われ、憎まれてしまう ― 教会にいながら、彼はたいへんな孤独に陥ったのです。
また、彼がイエス様に会う前・洗礼を受ける前に一緒にキリスト者を迫害していたかつての仲間のユダヤ人たちは、彼を裏切者として、やはり激しく憎みました。命をつけねらうほどに、憎んだのです。(使徒言行録9:23)
サウロ・後のパウロは、どこに行っても友だち・味方・笑顔を向けてくれる人がいなくなってしまいました。彼は憎しみにさらされ、無視され続け、お前なんかこの世から消えてなくなった方がみんなのためだとばかりに命をねらわれるようになっていたのです。将来有望な青年だったはずなのに、彼は一転して社会からのけ者にされる脱落者でした。
彼がそうなったのは、イエス様を信じずにはいられなかったためでした。彼の苦しみは、救い主への信仰のためでした。彼を信用する「人」が、誰もいなくなってしまっても、彼の信仰は本物だ・真実だと誰よりもよくご存じの主・イエス様が、彼をしっかりと見守ってくださっていたのです。
サウロがキリスト者を迫害していた、まさにその最中に、イエス様はサウロにしか見えない姿で彼に現れてくださいました。その時、イエス様はサウロにこう呼びかけました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」(使徒言行録9:4)この呼びかけに、イエス様のあふれるばかりの優しさがこめられています。
イエス様は自分を慕うキリスト者たちを苦しめ、迫害するサウロを厳しく叱責する言葉をおっしゃって当然でした。サウロは罵られて当然のことをしていたのです。ところが、イエス様は二度、彼の名を呼びました。イエス様は慈しみをもって語りかける時、相手の名を二度重ねて呼ばれます。マルタとマリアの家で、イエス様をもてなすことでいっぱいいっぱいになってしまったマルタに語りかけたイエス様の言葉を思い起こす方もおいででしょう。
またサウロへの言葉で、イエス様は「わたしを迫害するのか」と尋ねられました。「わたしの愛する教会の者たち」「わたしの羊たち」ではなく、「わたし」とおっしゃられたのです。イエス様が信仰共同体である教会を、まさにご自身として愛しておられる、その慈しみがこの一語に込められています。イエス様の慈しみが、サウロの心に激しい改悛の思いを呼び起こしたのです。
サウロはこう思ったことでしょう ― 自分はキリスト者が信じているイエスという者を、犯罪者・極悪人だと思っていたが、まったく違うではないか。自分は、このように慈しみに満ち満ちた方を慕っている者たち・キリスト者たちを死に追いやる迫害を行っているが、それは大きな誤りではないか。この自分をも敵とみなさず、優しく語りかけるこの方こそ、真実の魂の慰め主・救い主ではないか。その方が、今、こうして自分に語りかけてくださっているのは、まさに奇跡のようにすばらしいことではないか。この方の慈しみを受け容れずには、いられない。この方が自分に寄せてくださる優しさに、自分のすべてをもって応えられずには、いられない。
キリスト者を迫害しようとする思いがサウロから消え、それと同時に、これまで彼の精神的支柱となっていたユダヤ社会的総意を代表する未来の指導者候補としての彼自身の矜持・アイデンティティも消え失せました。
彼は深い孤独に陥ったのです。
イエス様は、この彼の孤独の苦しみをよくご存じでした。
ご自身が苦しまれたからです。イエス様は、自分の弟子たちに理解されず、ついにはその愛する弟子に裏切られ、社会に疎まれてその存在を否定され、この世からいなくなった方が良いと判断されて死刑に処せられました。
イエス様がそのような苦しみ・ご受難を忍ばれたのは、キリスト者を迫害し、死に追いやっていたサウロ・後のパウロの罪を前もってゆるしてくださるためだったのです。
さらには、味方・友が一人もいなくなったパウロに寄り添い、彼を深く理解し、守り通してくださるためでした。
パウロの信仰を見守っておられる主はパウロに、世の人すべてがあなたを憎んだとしても、わたしを信じ、希望を寄せているあなたをわたしは決して見捨てないと聖書の御言葉をもって語りかけ続け、励ましてくださっていたのです。
今日の旧約聖書の御言葉は、その一部だったでしょう。
この御言葉です。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐みは決して尽きない。…主に望みをおき尋ね求める魂に 主は幸いをお与えになる。」(哀歌3:22-25)
誰もが自分を見捨てても、イエス様お一人はあなたの信仰は正しいとおっしゃり、自分を信じてくださっている ― イエス様の慈しみの真実は、パウロを限りなく強めました。
彼は苦難を忍耐し、愛のわざの練達へと導かれ、キリスト者の信頼を得られるようになりました。
こうして、主に希望をいただいた者として、パウロは主にある希望を伝える者になったのです。その地上の人生をローマでの殉教の死に至るまでイエス様に献げ尽くしました。
イエス様の慈しみと憐み・主の愛は、弱い人間に過ぎない私たち一人一人の限界・小さな力を限りなく広く大きくしてくださいます。
今 私たちに不安をもたらしている感染・世界情勢・自然災害といった苦しみに耐える力を、主は与えてくださいます。それらに打ち勝つ力を私たちが備えていなくても、主が私たちを抱き、背負って苦難を超えさせてくださいます。信じて主を仰ぎ見つつ、今日から始まる新しい一週間を進み行きましょう。