07年10月-08年03月

2008年3月23日

説教題:復活の主に会う

聖書:ヨハネによる福音書 20章1-18節

【説教】

今日はイエス・キリストが墓から甦られた日です。この日の朝、マグダラのマリアは他の婦人たちと一緒に墓に行きました。そのことは19:25、20:2等から推測できます。しかしマリアは、自分の汚れと罪がイエスによって清められ、贖われて救われた、との思いが他の人以上に強かったのです。ですから彼女は、遺体でもいいからイエスと一緒にいたい、イエスがいるところにいたいという思いを強く持っていました。

マリアが墓に行くと、石が取り除けてありました。マリアは落ち着きを失い、ペテロと弟子の所に行って「主が墓から取り去られました」と告げました。二人は墓に来て、墓の中を見、イエスを包んでいた布はあるけれど遺体がないのを見ました。8節に「見て、信じた」とありますが、この「信じた」は、9節から“イエスの復活”でないことは明らかで、マリアの言葉を信じたのです。二人はそのことを受け止めて家に帰って行きました。

しかしマリアは、墓から離れることができないで、泣いていました。泣きながら墓の中を見ると、二人の天使が見えました。天使が「婦人よなぜ泣いているのか」といったので、「私の主が取り去られました」と言いました。そう言いながら後ろを振り向くとイエスが見えました。しかし、このときのマリアにはその人がイエスだとは分かりませんでした。

なぜ分からなかったのか。はっきりした理由は分かりませんが、ものを見て理解するのには、心の状態が大きな働きをすることは確かです。イエスが「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言われたときにも、イエスを園丁だと思ったのです。ところがイエスが「マリア」と言ったとき、聖霊が彼女に働き、その言葉と声で遺体であるはずのイエスが生きていると知ったのです。彼女は振り向いて「ラボニ」と言いました。イエスだと認めたのです。

17節でイエスはマリアに「私にすがりつくのはよしなさい」と言っています。「私を捕まえているのは止めなさい」と言っているのです。そしてイエスは弟子たちの所に行けと命じ、弟子たちに語るべきことをマリアに告げたのです、「私は、私の父であり、あなた方の父である方、また、私の神であり、あなた方の神である方のところに上る」と。

この言葉を聞いてもうマリアは泣いていなかった。イエスにしがみつくのは、過去に執着することで、遺体の傍で落ち着くのと同じ心です。しかし今マリアは、目に見えなくてもイエスは天から私を愛の眼差しで見ていて下さる、と慰めを与えられて弟子たちの所へと行ったのです。マリアは弟子たちに、「私は主を見た」と言って、イエスが伝えよと言われたことを伝えました。「見た」は、「会った」「お目にかかった」とも訳されています。それは、唯肉の目が見ただけではなく、その人について既に知っている、そしてその人が現れて会って下さり喜びの経験をした、恵みが与えられた、ということを意味しています。

マリアと弟子たちは、聖書の言葉を理解し、十字架のイエスを知り、聖霊を与えられて、復活のイエスに会ったのです。その出会いの経験によって、罪と死から解放され、新しい神の命に生き、「イエスは復活した」と伝える証人になったのです。

2008年3月16日

説教題:十字架から流れた血

聖書:ゼカリヤ書 12章7-10節 ヨハネによる福音書 19章28-37節

【説教】

28節以下に主イエスが十字架で息を引き取られた時のことが記されています。ヨハネは28節と30節で「成し遂げた」と重ねて記して、イエスが神の子として、またメシアとして為すべきことを一つも残さず全てなし終えて、息を引き取られた、と強調しています。イエスは、世の罪を贖う神の小羊として死なれて、ご自分の息(命)を神に渡されたのです。

ですから、私たちの罪は完全に贖われたのです。私たちが自分の罪を贖うために何かしなければならない、ということは何もないのです。私たちはこの十字架のイエスを私の罪を贖ってくださった神の小羊と信じればいいのです。

31節以下に、十字架上で死なれた後のイエスの体に起こったことが記されています。ユダヤ人たちは、安息日に罪人の体が十字架上にあるのはよくないので安息日になる前に十字架から降ろしてほしい、と総督ピラトに願い出ました。そこで十字架上の罪人の足を折って死を早めて降ろすことにしました。しかしイエスは既に死んでいたので足を折りませんでした。そのことが結果的に「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現することになった、とヨハネは言っています。この言葉は、詩編34;21;に“神に従う正しい人はこのように守られる”と、また出エジプト記12:46に“過ぎ越しの羊の骨は折ってはならない”と記されています。足を折らなかった、ということによっても、イエスはこのように聖書に記された方として完全に死んでいる、とヨハネは言っています。

その後でローマ兵が槍でイエスのわき腹を刺しました。これはローマ兵の勝手な無意味な行為です。しかしヨハネは、この行為も神にあって意味がある、ゼカリヤ書12:10節の成就だと述べています。このゼカリヤの言葉は、終わりの日に神の救いがその民に与えられる、それはその刺し貫いた者が刺した方を悔いらためて見上げる時、その民に哀れみと祈りの霊が注がれる、新しい命が与えられる、と告げています。ヨハネはこの言葉が今イエスによって成就している、と言っているのです。

イエスを刺すと、すぐ血と水が流れ出た、とありますが、実際に遺体から血と水が流れ出るか問題があるようです。これは、この聖書が書かれた時代に“イエスは確かに肉の人間であった”ということを示す必要があった、それで35節でこのことは確かなことなのだと強調しているのだ、と説明している人がいます。しかし聖書は、いつの時代にも十字架のイエスから血と水が流れ出たことによる救いを信じるように、と書いているのです。

十字架のイエスから血と水が流れ出たことは、十字架の死から新しいことが始まった、新しい命の霊が地上に与えられたと、いうことを語っているのです。罪を完全に贖った小羊が、救われた者に新しい命の血と命の糧である水を与えて、生きるようにされているのです。十字架は私の罪のためだと悔い改めて見上げる者に新しい霊が与えられるのです。

この十字架から流れ出た血と水はこの時だけで止まって、消えてなくなったのではありません。この時から地上の歴史の中に流れ続けて、人を新しく生かしているのです。

2008年3月9日

説教題:光のうちを歩きなさい

聖書:ヨハネによる福音書 12章27-36節

【説教】

イエス様は「暗闇が追いつかないように、光のあるうちに歩きなさい」と言っています。暗闇が追いついてきて光がなくなるときが来る、暗闇になる、と言っています。どういうこと? 昼がいつまでも続いているのではなく夜が必ず来る。だから昼の間に夜が来てもいいようにしていよう、ということです。暗くなったら自分がどこにいるのか、正しい道も危険な道も分からなくなる。

イエス様はこの言葉を十字架で死ぬ前に話しているのです。死ぬ時が迫っている、だからイエス様は27節で「今私は心が騒ぐ」とも言っています。イエス様が十字架で死ぬと弟子たちが暗闇の中にいることになる。イエス様は弟子たちのことが心配で心が騒いでいるのです。でもイエス様は、神様の深い御心の栄光を現すために十字架に進みます、この心が騒ぐ不安を取り去ってください、と父である神さまに祈り、弟子たちには私が一緒にいる間に光のうちを歩いて暗闇が来ても大丈夫になりなさい、と言っているのです。

子どもは親がいなくなったら困りますね。小さい子は親にしがみついていて親から離れない。親から離れたら、不安で危険が一杯だからです。「小さい子を一人置いてくるわけにいかないので、規則違反でも自転車に3人乗りしています」とお母さんたちが言っています。でも大きくなったら3人乗りは出来ない。それまでに親は、1人残してきても大丈夫か、お母さんの自転車に乗せないでも出かけることが出来るように、育てるのです。

幼い子の親は、迷子にならないように、親から離れないように、親の目や声が届く所に、光の中にいるように注意します。しかし、親がいなくなっても大丈夫なように育てることが必要です。親がいなくなっても迷子にならないためには、自分がどこにいるか、どこに行ったらよいか、を知っていることです。親と一緒にいる時に、自分の家、家に行く道、などを知っていれば親がいなくても迷子にはなりません。

ところが、成長すると束縛を嫌い、自由を喜び、主体性を主張して親から離れたくなる。怖さを知らないので、自分の思いで好きな所に行く。自分勝手な所に行って行方不明になることがある。子供は、友達の家にいる、自分が知っている所に寄り道している、ということでも、親はどこに行ったか心配することがある。行方不明の人は、親や社会にとってはいなくなった人、隠れた人、闇の人です。その人は、自分は生きていると思っても、光の中を生きているのではないのです。だから、迷子ではない、自分がいる所と自分が歩いている道を自分は知っている、自分のことだから私の勝手でしょう、ではいけないのです。親や関係者と交わりを持ち、結びついて光の中を歩むことが大切なのです。

人間はどんな生き方でも生きていけばいい,ではないのです。自分の道を歩む、この世の声を聞いて歩む、隠れて闇の中を歩む、等の生き方もあります。しかし、イエスに教えられた道、私たちを救うために死んで下さったイエスの光の道、を歩むことが大切なのです。

私たちは、光のある間に光の中を歩んで、闇の時が来ても、光の子として歩みましょう。

2008年3月2日

説教題:葬りの備えを受ける主

聖書:ヨハネによる福音書 12章1-8節

【説教】

イエスに香油が注がれた出来事は他の福音書にも記されていますが、ルカは罪深い女がイエスに愛されて罪赦されたその愛に応える愛でイエスに香油を注いだ、と記しています。マタイとマルコはこのヨハネと同じ、葬りの備えとしてイエスに香油を注いだと記しています。しかし、マタイとマルコが皮膚病のシモンの家で起こったこととしているのに対して、ヨハネは死人からよみがえったラザロがそこにいたことを強調しています。

ヨハネ福音書は、11章2節でラザロをイエスに香油を注いだマリアの兄弟と紹介し、11章でラザロの病死と死からのよみがえりを丁寧に記しています。そして、12章1-2節では、死者の中からよみがえったラザロがそこにいた、イエスと共に食事の席にいた、とそこにイエスとラザロが一緒にいることを強調しています。その食事の場でマリアがイエスの足に香油を塗ったのです。マリアは、兄弟のラザロが死から生き返らされたことを喜び感謝すると共に、イエスは命の主、イエスを信じる者は生きるという信仰をもって、イエスの足に香油を注いだのではないかと思います。

マタイとマルコはイエスの頭に香油を注いでイエスをメシアと示していますが、ヨハネはイエスの足に香油を注いだと記しています。ヨハネは、13章10節で足を洗うことは全身を洗うことになるといっていますので、この香油の場合もマリアはここでイエスをメシアであると謙遜に示しているのだと思われます。13章との関連でイエスの足に香油を注いで髪の毛でぬぐった事を見るといろいろなことが見えてきます。

13:8で、ペトロはイエスが自分の足を洗うのを拒んだ、それに対してイエスは「もし私があなたの足を洗わないならあなたは私と何のかかわりもないことになる」と言いました。マリアがイエスの足に300デナリオンで売れる香油を塗ったのに、イエスはそれを拒まないで受け入れました。このことは、マリアが求めているイエスとのかかわりを、イエスの僕として従う結びつきを、受け入れた、ということです。

そして、イエスはこのマリアの行為を、「私の葬りの日」の行為だ、今この時を私の葬りの時として今までとっておいた全てを私に注いでいるのだ、と説明しているのです。ヨハネはこの所で、イエスの死と葬りは、ラザロによって示されているイエスの甦りの入り口であり、イエスは新しい命に生きるお方であることを告げているのです。マリアは、イエスの死と葬りを自分と重ねて自分の救い、永遠の神の命への復活を見ているのです。イエスの死と生き返りは、マリアと結びつき、マリアの兄弟とも結びついているのです。

12:12以下にはイエスがイスラエルの王としてエルサレムには入り十字架へと歩むことが、12:32にはイエスが「私は地から引き上げられる時、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と言ったことが記されています。11章で強く語られているように、イエスを命の主と信じる者はみなイエスに結びつけられて生きるものとされるのです。

イエスは、私たちを罪から救って生かすために、十字架に死んで葬られたのです。

2008年2月24日

説教題:永遠の命の言葉

聖書:ヨシュア記 24章14-24節 ヨハネによる福音書 6章60-71節

【説教】

今、冷凍食品によって食中毒が起こり、冷凍食品から農薬や殺虫剤が見つかったので大騒ぎです。肉の命のために最大限の注意をし、お金や時間を使うのは当然だ、といえます。

しかし、イエスは63節で「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない」と言っています。この言葉は、34-58節まで、主イエスは天から来た命のパンで、ご自分を命のパンとして与える、そのパンを食べるものは生きる、といわれたのが酷い言葉だ、理解できない、と弟子たちが言ったのを聞いて、言われた言葉です。

「肉は何の役にも立たない」と言う言葉は、一つには、53節以下で言われていることですが、イエスご自身の肉である聖餐のパンを食べるだけでは何の役にもたたない、それが魔術的に命を与えるのではない、63-64節の「私が話した言葉は霊であり、命である」と言っている言葉を信じて食べることが必要だ、イエスの体として差し出されたパンを信仰を持って受けるときイエスの言葉と聖霊が働いて命が与えられる、と言っているのです。

この言葉のもう一つの意味は、肉の体や命が大きくなり長生きしても永遠の命には何の役にも立たない、神の霊の命を与えられることが必要だ、と言っているのです。63節は「人を生かすのは霊である」とも訳されています。肉のイエスは「ヨセフの子だ」と誰にでも分かります。しかし、神の言葉が肉となって十字架に死ぬイエスは、理解し難い、固くて飲み込めないことなのです。そこでイエスは「父からお許しがなければ、誰も私の許に来ることは出来ない」、と44節と65節で繰り返して言っているのです。イエスが神の言葉であることは、神の導きを受けて理解出来ることなのです。肉の人間の知能や理解力によってではないのです。神の導きは聖霊の働きです。聖霊の働きによって、パンを肉としてだけでなく、神の言葉、永遠の命の糧として知り、受けることが出来、効力をもつのです。

イエスの言葉が理解できないで多くの人が去って行きました。イエスは、その人たちを留めることも引き戻すこともしていません。その人たちは結局神の導きによってイエスと共に歩んでいたのではないのです。そこでイエスは、12人に「あなた方も離れて行きたいか」と尋ねました。この問いは、「いいえ、離れません」との答えを想定している、信頼と確信を持っている問いです。ペトロは12人を代表して「主よ、私たちは誰のところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると私たちは信じ、知っています」と答えました。これは神の導き、聖霊による答えです。ペトロは、「サタンよ引き下がれ」と言われても、結局イエスから離れませんでした。

主イエスは神の言葉、救いの言葉であり、永遠の命そのものである、ということは神の導きと聖霊を与えられて知ることが出来るのです。ですから教会は少数者であること、小さいことに怯えることをしません。不安をもちません。教会は、いつもイエスから「信じるか」と問われ、イエスこそ永遠の命である、と信じ、イエスに従って歩んでいるのです。

神の民は、ヨシュア記にもありますように、自由な決断と責任で神に従って歩むのです。

2008年2月17日

説教題:盲人であったが今は見える

聖書:ヨハネによる福音書 9章24-34節

【説教】

生まれながら盲人であった人が、イエスによって目が開かれて見えるようになった。この聖書の出来事をアウグスチヌスは、生まれながら罪人で盲目であった人類が、イエスによって見えるようにされ、光が与えられ、新しく生きるようになった、そのしるしだ、と言っています。人間は原罪の中で、裁かれるべき罪をもって生まれているのです。

今日の聖書の人が盲目で生まれたのは「神の業がこの人に現れるためである」とイエスは語って、盲人の目を開くための業を始めました。盲人はイエスの言葉に従って行動しました、そして見えるようになりました。ここでアウグスチヌスは、目が見えないと言っている人は不信仰で、見えるのが信仰があることだ、昼にイエスのいます時にイエスと共に働く、それが信仰だ、と言っています。

人々は盲人であった人に見えるようになった経緯を聞きました。彼は「イエスという方が土をこねて私の目に塗り、シロアムに行って洗え、と言ったので洗ったら見えるようになった」と答えました。その説明から、安息日を守らないで労働をしたのでイエスは神の許から来たのではないと言う人と、盲人を見えるようにすることが罪人に出来るかと言う人とに分かれました。そこで盲人であった人は「あの方が罪人かどうか私には分かりません。ただ知っているのは、見えなかった私が今は見えると言うことです」と強く言いました。彼の言葉にユダヤ人たちは「お前は罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返しました。ユダヤ人たちは、自分たちは神の民で教える立場にいる、と言っているのです。彼らに対してイエスは、「見えなかったのであれば罪はなかったであろう。しかし、今『見える』と言っている。だから、あなたがたに罪は残る」と言われました。

アウグスチヌスは、イエスは彼らに、もしあなたがたが自分が盲人であることに気付いて、自分は盲人です、と告白して医者のもとに走っていくならば救われ、罪がない者になる。ところが、私は見える、と言い張って医者を求めようとしない。だから見えない状態にいるのだ。そのことがはっきりするために私は来た。と言われている、と言っています。

ここで「見える」「見えない」というのは、肉の目のことだけでないことは明らかです。しかし、「見える」「見えない」が分かり易いことなので、救いの業、救いのしるしとして語られているのです。そして実際に、肉の目が見えないという障害になったが、霊の目が開けて救いを得、光の中を歩くようになった、という人がいます。ヘレン・ケラーもその一人でしょう。ヘレンは、盲人をかわいそうにと言う人に、盲人でも目の見える人と同じ喜怒哀楽を持っている、教育をしたら目の見える人と同じ活躍が出来る、と力説しています。そして、目の見える人も神の前に謙遜になって神の愛に生きるように勧めています。

お前は盲人だ、罪の中にいる、と裁くのではなく、すべての人が罪人で盲人なのだ、医者を必要としているのだ、と謙遜になるために、神は盲目や障害を与え、信仰による霊的な目を開いてくださり、新しく光の中に生かしてくださることもあるのです。

2008年2月10日

説教題:試練に遭われる主

聖書:出エジプト記 17章3-7節 マタイによる福音書 4章1-11節

【説教】

先週の水曜日から受難節に入りました。教会の暦によって今日の聖書を読みました。

マタイ4:1,3の「誘惑」は「試練」とも訳されています。主イエスが悪魔から誘惑を受けたのは、神の子がテストを受けたというのではなく、肉の人間になった神の子が肉の人間の弱さ、苦しさ、辛さをご自分のものとされて受けられた誘惑であり、試練だったのです。

出エジプトでは、イスラエルの民がモーセと争い、主を試しています。神の民であっても、本当に苦しく辛い状態だったので、静かに落ち着いていることが出来なかったのです。

主イエスが40日間断食して空腹を覚えられたのは、肉になられた人間イエスの苦しみ辛さを示しています。その所でイエスは、神を信頼し、神の言葉に留まって、誘惑に負けなかった、試練に対して踏みとどまった、のです。

悪魔は、6節からは、神の言葉を使ってイエスを誘惑しています。人間として、自分に力があるところを示したい、人々から拍手をもらい褒められ評価してもらいたい、と人間は誰でも思います。その思いは、肉の人間には当然な思いなので、その思い自体は否定されるよりも、教育や子育てには必要なこと、と一般に言われています。しかし、誰にどう評価されるかが重要なことです。悪魔は聖書の言葉を使って悪魔の思いを実現させようとしたのです。自分の思いを実現するために親や教師の言葉を利用し、おだて褒めることはよくあることです。イエスは申命記6:16の言葉によって悪魔の誘惑を退けました。申命記で神はイスラエルの民に、しるしを求めないで神が共にいることを信じなさい、と言っています。これは、民が幼かった時から神が愛を持って民と共に歩んできたことによって、民の中に神に対する愛の信頼がある、と神に確信があって言えることです。人間は、荒野のイスラエルのように初めは呟き不平不満を言い、しるしを求めます。しかし、神と一緒に歩むことによって、辛さの中にあっても神が共にいてくださる、愛と恵みでご計画の中に生かしてくださっている、自分一人で歩んでいるのではない、この辛い歩みは無意味に与えられているのではない、ということが分かるようになるのです。

主イエスは、この誘惑を十字架の死に至るまで受け続けましたが、神から与えられた道を歩み抜かれたのです。その主が私たちと共にいて、私たちが神から離れてしまいそうな時に「私もおなじ誘惑、試練を味わっているよ。一緒に勝利の歩みをしよう」と語りかけてくださるのです。

辛く苦しい状態にいる時、荒野のような世界を歩む時がある、こんな私にも神がいるのか、私は神から見捨てられているのではないか、と思うことがあります。そのように神に見捨てられていると思って当然と思われる状態の中にいても、神を信じ、神の愛と恵みのご支配を見失わないように、と歩んでいる人がいます。主イエスは、私たちを救うために、肉の人間になって試練にも遭われ、十字架へと歩まれたのです。ですから、私たちは自分の十字架の道を歩むのです。その道を歩む心と力を、主イエスが与えて下さるのです。

2008年2月3日

説教題:新しい神殿

聖書:列王記上 8章26-32節 ヨハネによる福音書 2章13-22節

【説教】

天にいます神のご臨在を確かに見て拝み、交わりを覚えて祈るのは難しいことです。

そこでイスラエルの民は、荒野を旅している時は神の箱が置いてある天幕を礼拝の場にしていました。ソロモン王は、神殿を建てましたが、神は地上の神殿の住むようなお方ではない、しかしこの神殿に御目を注いで下さい、ここで祈る祈りに耳傾けて聞いて下さい、と祈ったのです。そのように、神殿は神が御臨在される所、人が神と交わる所なのです。

主イエスは、過ぎ越しの祭りが近づいたので、エルサレムの神殿に行きました。祭りの時には、遠くからも礼拝のために人が来ていました。神殿の境内では、牛や羊、鳩を売る人、両替をする人がいた。これらのものは礼拝をするときの捧げもので、遠くから来た人には必要なものだったのです。所がイエスはその人たちを縄と鞭で追い出されたのです。

ある人は、このような行動は、神の子でなければ出来ないことだ、と言っています。神殿は、神が御臨在する聖なる所ですから乱暴なことは普通の人には出来ない、厳しい管理がされていたので特別な力がないと自由な行動は出来ない、所です。

イエスは16節で「このような物はここから運び出せ。私の家を商売の家にするな」と言っています。神殿を「私の家」と言い、牛などを売っている人は商売をしている者で、彼らは神殿を商売の家にしていると見ているのです。地上に神のご臨在を見て礼拝するという人間的、この世的な考えが入ってくるのです。分かり易い、便利だ、実用的だということが強くなって来る。神の聖なるという思いが弱くなる。そういうことが起こるのです。神の前で罪を赦してもらって、神との交わりを得ることも、心から悔い改めることよりも、お金で解決する、立派な捧げ物を買って捧げればよい、ということになってくるのです。イエスはここで、「私の父の家で礼拝をするのに商売は必要ない」、父なる神は立派な捧げ物を求めてはいない、心を求めているのだ、と言っているのです。

ユダヤ人たちは、イエスのこの行為に対して「あなたはこんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか」と言いました。神から遣わされているしるしを見せて欲しいというのです。当然の求めでしょう。しかしイエスはここで直ぐにしるしを見せることはされませんでした。代わりの「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」といわれました。「神殿」は「聖所」という言葉です。神が御臨在する所です。ユダヤ人たちは「この神殿を建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と問い返しました。福音書は、この場のやり取りはこれで終わりにし、ここでイエスが行ったことがどういう意味であったか、後に弟子たちにどう理解できたか、を記しています。

「三日で神殿を建て直す」というのは、イエスが十字架で罪を贖うために命を捧げ三日目に新しい命に復活することです。イエスご自身が新しい神殿になるのです。十字架と復活によって新しいキリストの体が誕生する。キリストの体である教会が、新しい神の宮になる、そこに神が御臨在し、礼拝が行われ、キリストの名で祈りがされるのです。

2008年1月27日

説教題:主の栄光が現れた

聖書:ヨハネによる福音書 2章1-11節

【説教】

ガリラヤのカナで婚礼が行われ、母マリアとイエス、弟子たちが招かれて列席していました。結婚した二人とイエスたちとの関係は分かりません。

この婚礼の喜びの時に、ぶどう酒が足りなくなりました。婚礼は前から分かっていることですし二人の新しい歩みのためにも大事な祝いの時なので、ぶどう酒は十分に用意していたでしょう。それが足りなくなったのです。二人にとっては緊急事態です。

イエスの母がそのことに気付いて「ぶどう酒がなくなった」と言いました。イエスの母は客として招かれていたので、給仕している人たちが困ったような顔をして話を交わしているのを見、聞いたのかも知れません。マリアの言葉が、呟きなのか、イエスに報告しただけなのか、「何とかしなさい」との命令を含んでいたのか、分かりません。イエスは命令を含んだ言葉として聞いたようです。イエスは母に「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。私の時はまだ来ていません」と言ったのです。母と息子の関係は命令指示する、従う、ということが普通に行われる関係です。所がここでイエスは、私はあなたの命令指示によっては動かない、私が神の子として神の御心に従って行動する時はまだ来ていない、と母に言っているのです。ヨハネの洗礼を受けてからイエスは、マリアの子であるよりも、神の子としの自覚を強く持たれたのです。

それでも母マリアは、イエスが何かしてくれると思ったのでしょう、召使たちに「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」と頼みました。そして、直ぐにイエスが神の子としてご自分の意志と判断で行動される時が来たのです。イエスは、人間の声に直ぐに聞き従うのではなく、神の意志を求めて行動されるのです。人間はその時まで、マリアのように、イエスを信頼して全てをイエスに委ねて、待つことが必要なのです。召使たちは、マリアの指示とイエスの言葉に従って、6つの清めの水がめに水を満たしました。この水がめは、ユダヤ人たちが神の民の清さを守るために食事をする前に異邦人との交わりで汚れた手を洗うための水がめです。その水がめに満たした水を、イエスの指示に従って、宴会の世話役の所に持って行くと、水はぶどう酒に変わっていたのです。

世話役は花婿を呼んで「あなたはすばらしい」と賞賛しました。喜びの場が呟きの場になるのが避けられたのです、恥をかく代わりに誉れを得たのです。イエスはそのようにしてくださる方なのです。そのように神の子の栄光を現されたのです。

また、清めの水がぶどう酒に変わったことは、旧い律法による清めと救いが、イエスによって福音の救いに変わったことを示しているのです。

花婿も世話役もそのぶどう酒がどこから来たか知りませんでした。しかし、召使たちはイエスからと知っていました。イエスはこの時神の子としてのしるしをこのようにして現されました。それは、父である神の栄光を現したことでもあります。これは、私たちの祈りの声を聞いてくださり、絶えることのない喜びを与えてくださる、神からの福音です。

2008年1月20日

説教題:来て見なさい

聖書:サムエル上 3章1-12節 ヨハネによる福音書 1章43-46節

【説教】

A君はお母さんに「来て見て」と言うことある。それは、どういう時。口では説明できないけれど見てもらいたいものがある時。お母さんから「来て見なさい」、と言われることある。その時は大事なことを伝える時でしょう。サムエルも皆もそのように育てられている。

イエスさまは二人の人がついて来るので「私に何を求めているの」、と聞きました。二人は「先生どこに泊まるの」と言いました。どこに泊まるか知りたい、と同時にイエスさまはどんな人か知りたかったのです。それでイエスさまは、「どこの家に泊まるよ」と答えるのでなく、「来て見なさい。そうすれば分かる」と言いました。私と一緒に歩いて行って、泊まる家に着いたら分かる、私がどんな人かも分かる、と言っているのです。二人は午後4時頃泊まる家に着きました。そして、イエスさまと一緒に泊まりました。それで二人はイエスさまがどんな人か分かったでしょう。このような知り方は大切なのです。

イエスさまを紹介してもらったら、イエスを知りたいと思った。「来て見なさい」と言われたら、素直に聞き従ってイエスと一緒に歩んだ。それで二人はイエスを知ったのです。

教会に来て、イエスさまを知りたいと思い、教会生活を一緒にする。そのことによってイエスさまを知ることが出来る。そのようにして知ることが重要なことです。

この二人の内の一人アンデレは、兄弟のシモンに会って「私たちはメシアに出会った」といいました。「会った」も「出会った」も同じ字で、「見つけた」「探し当てた」「発見した」という意味の字です。お風呂の水が溢れ出るのを見て、「見つけた」と言って裸で町に飛び出した人と同じ言葉です。アンデレは、メシアを求め探していた、イエスさまを知ったことが嬉しくて誰か伝える人はいないか探していた、その時シモンの会ったのです。イエスを知ることはそのような喜びなのです。

翌日イエスは、アンデレと同じ町にいたフィリポに出会い、「私に従いなさい」と言いました。フィリポは、アンデレからイエスのことを聞いていたかも知れません、イエスから声を掛けられて嬉しくて、イエスに従っていろいろ知ったのではないでしょうか。フィリポは、お友だちのナタナエルに出会いました、それで嬉しくて「私は今預言者に出会った。ナザレ人でヨセフの子イエスだ」と言いました。するとナタナエルは「ナザレから良いものは出ないよ」と言い返しました。それでフィリポは「来て見なさい」と言ったのです。

お前の話は信じられない。聞く耳を持っていない。と言う人に、「来て見なさい」と言ってイエスの方に導いて行ったのです。そうしたら、イエスの方が先にナタナエルを見つけて、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言ったのです。ナタナエルは驚きました。そしてイエスと話をしました。多分イエスの弟子になったでしょう。

イエス様の弟子はこのようにして生まれ、増えて来ました。自分で勉強して、一人でイエス様を知って、信じるようになった人はいません。イエス様を知りたい人は、教会でイエス様を知るのです。教会は今もこの世の人に「来て見なさい」と言っているのです。

2008年1月13日

説教題:この方こそ神の子

聖書:ヨハネによる福音書 1章29-34節

【説教】

29節に「その翌日」とあります。19-28節を読むと、ヨハネは何ものか、メシアは誰か、という問答がされています。

その翌日の今日の所で、ヨハネはイエスを見て「私はこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために私は水で洗礼を授けに来た」と語っています。「知らなかった」と言うことは、今は知っている、ということです。31節、33節で繰り返し「私はこの方を知らなかった」と言っています。ヨハネは、今はこの方を知ったので、知ったことを証しする、と32,34節で重ねて言っています。

1章6-8節には、ヨハネは光を証しするために神から遣わされた、と紹介されています。1章15節にも、ヨハネは独り子の栄光を証しするために声を張り上げて言った、と記されています。ヨハネ福音書は、ヨハネは人々に悔い改めのバプテスマを授ける人物ではなく、イエスに洗礼を授けるために遣わされた人物である、と強調して記しています。ヨハネの洗礼はイエスに洗礼を授けることによって役割が終わるのです。私たちの洗礼は、水よる罪を悔い改める洗礼ではなく、十字架と復活のイエスによる新しい命に生きる洗礼です。

イエスに洗礼を授けてメシアを証しする、これがヨハネに与えられた使命だったのです。その務めは、この世的にはとるに足りない小さなもので、気付かれないで無視されてしまうものです。しかし、神の御計画、救いのみ業の中では非常に大きなものです。

私たちキリスト者も教会も、この世的にはその存在も働きも小さなものです。しかし神のご計画の中にあっては非常に重要なものなのです。私たち一人一人も、その人だけに託されている使命があり、そのために地上に命を与えられて生かされているのです。

26節で「あなた方の中には、あなた方の知らない方がおられる」とあります。この「あなたがた」は、直接にはヨハネと対話しているそこにいる人です。しかしこの言葉を、この聖書が書かれた時の人たちと読むことが出来ます、現在この聖書を読んでいる私たちとすることも出来ます。現代でも、神の子メシアは私たちの中にいるのです。キリストの体である教会が存在し、歴史の中を歩んでいるのです。ヨハネは、キリストを知った時、キリストを知らない人々に「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」「この方こそ神の子だ」と証ししました。私たちもキリストを知らない人たちに証しする責任のあることを思います。

ヨハネが神の子を知ったのは、勉強し、修行してではありません。神に導かれて知ったのです。神から与えられた生活をしている中で知ったのです。そして、ヨハネが知り、伝えたことは、その後、主イエスご自身が内実のある、実際に効力のあるものにされたのです。世の罪を除く神の小羊として十字架につき復活されたのです。そして、教会は神ご自身がその歩みと働きを導き、実らせて下さることを信じてキリストを伝えているのです。

天からイエスに与えられた聖霊は、イエスの許に留まり、イエスと共にあるのです。今は教会を通して聖霊が生きて働いて、御子の救いを命あるものとしているのです。

2008年1月6日

説教題:拝むための旅

聖書:マタイによる福音書 2章1-12節

【説教】

今日,1月6日は「顕現日」「公現日」と呼ばれ、神の子イエスの栄光が世界に現れた日として祝われています。そして、教会はマタイのこの聖書を読んで来ています。

2章1節に「占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来た」とあります。教会はこの学者たちについて、いろいろと美しい想像をしています。聖書の言葉を美しい想像をして読むことは望ましいことです。ここで「学者たち」と訳されている人物は、当時星を見て人生や社会の動き、歴史などについて占いをしていた人たちと思われます。その人たちは、自分一人だけで占いをするのではなく、長い年月の記録を持っていて、長年研究されてきた知識を身に付けているエリートたちだったようです。異邦人のエリートが、神の示しを与えられて、ユダヤ人の王の誕生を知ったのです。

そのしるしを示された学者たちは、自分もそのユダヤ人の王を神の栄光を持った救い主として拝もう、と決心したのです。そして、そのお方を拝むために旅立ったのです。彼らは、長年の記録や知識を持っているエリートですが、自分に与えられた環境と立場で精一杯誠実に歩み、与えられた務めに励んでいたのです。それは道を求め、人生と歴史に導きを求める務めでした。神の前に謙遜になって、夜も眠らないで星を見て与えられた務めをしていたのです。その時、神からユダヤ人の王であり救い主である方が生まれる、としるしを与えられました。彼らは、そのしるしを素直に受け入れて、拝みに旅立ったのです。

彼らは、自分の立場や自分の国中心ではなく、神の前に謙遜で、星の下にある世界全体が神のご計画と御手の中にあると信じたのです。それでユダヤ人の王を拝むために旅立ったのです。私たちもこの年、神を信じて、世界の平和と救いのために与えられた務めに励みたいと思います。

学者たちは、この時まで過ごしていた平安な生活を後にして、厳しい日々を送ることになる旅を始めたのです。それは、平安であるけれど過ぎ去って行く現在の生活よりも、厳しいけれど神の共に歩む旅の方に、本当に生きる自分の生活があると思ったからではないでしょうか。そして彼らの旅はユダヤ人の王を拝むと言う目標がありました。現在、豊かになった世界で、何のために生きているのか分からない、という人が多くなっています。生きているのが空しい、と誘い合って自殺する人までいます。神が共にいて下さる、神が語りかけ導いて下さっている、星に導かれながら旅をしていた学者たちは、厳しいけれども喜びと充実感を与えられて歩む日々ではなかったでしょうか。

私たちのこの年の歩みも、厳しいと思いますが、神を礼拝して歩むことによって、神が語りかけ導き励まして下さる、喜びの歩みであることを信じることが出来るのです。

学者たちは幼な子に出会って持ってきた宝を捧げました。しかし、どんな宝を捧げても、心と生活を自分中心で変えないでいたら救いはないのです。神の前に自分の心と生活をささげきる時、神は私たちの歩みと全てを神のもの、意味あるものとして下さるのです。

2008年1月1日

説教題:新しい代に生きる

聖書:コリントの信徒への手紙二 5章16-17節

【説教】

新しい年を迎えました。新しい年を迎えて、何が新しくなったのでしょうか。今日は昨日に続いた日です。昨日と今日で何が違うのでしょうか。何が新しくなったのでしょうか。

昨日と今日では着ているものが違う、心が違う、町全体が違う、世界全体が違う。どうして違うのか。昨日は過ぎ去る2007年の時の中にあって、今日は新しく始まる2008年の時にあるからです。今日は新しい年を迎えて、新しい心、新しい自分、新しい世界が清々しく、快いのです。

しかし、自然の流れの中で迎える新しい時は直ぐに旧い時になります。昨日が今は旧い時であるように、今日は直ぐに旧い時になるのです。ですから、現在の新しさを味わうことの大切さが強調されます。新年も、「正月だから」「正月くらいは」と、過ぎ去る時の中で新しい時を迎えている清々しさをたっぷり味わおうとするのです。

しかし私たちキリスト者は、自然の流れ行く時の中だけでなく、クリスマスの喜びの中で新年を迎え、祝うのです。聖書はこう言っています「私たちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストに結ばれている人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と。肉によって知るということは、肉の目に見えるもので知るということ、外観の目に映る上辺で知るということです。キリスト者は、霊によって、信仰によってキリストを知るのです。神の深いみ旨ご計画によって神の子が肉の人となり十字架についてくださった、そして復活された、と知るのです。その御子によって私たちが救われ生かされている、私たちもこの世界も御子によって救われ新しく生かされている、と知るのです。

神のご計画の中にあって、キリストに結び付られている私たちは旧くならないのです。17節の「古いものは過ぎ去った」ということは、目に映る上辺の肉の人間は過去のものとなった、ということです。キリストに結び付られている者は、神のご計画の中に新しく創造され、日々新しく生かされているのです。クリスマスの御子によって新しい時代が始まったのです。新しい代になったのです。キリスト者にとって新しい年は、冥土に向う一里塚ではなく、神の許に向って旅している新しい一歩を踏み出す時なのです。

キリスト者も、地上の歴史の中を歩んでいるので、正月を新しい年を迎えた節目の時として祝います。しかし、キリスト者は正月をそれだけでなく、キリストにあって新しく造られたことを覚えて祝うのです。キリストによって心の底から新しく変えられて、正月だけの晴れ着ではなく、日々新しく生かしてくださるキリストを着て歩むのです。

私たちは今日から始まる2008年を、日々キリストにあって新しい人として歩みたいと思います。神はその歩みを、ご計画の中で意味あるものとし、恵みと憐れみをもって導いて下さるでしょう。

2007年12月30日

説教題:神の恵みと真理が現れた

聖書:イザヤ書 40章25-31節 ヨハネによる福音書 1章14-18節

【説教】

今日は今年最後の主日礼拝です。この一年を振り返ってみると、今の世界はこんなにも闇なのか、行き詰まりと絶望の社会なのかを思わされます。この閉ざされた闇の世界の中に御子が肉となってきてくださったのです。クリスマスがこの年を結ぶのです。

この世界は神が造ったのか。神は生きているのか。この世界は人間が治めているので、神は死んだ、神は居ない。と100年以上前からキリスト教国で公然と言われています。

しかし、神は肉となって私たちの間に宿ってくださったのです。閉ざされた闇の世界に命の道が開かれ、光が与えられたのです。ヨハネは「私はその栄光を見た」と言っています。その栄光は、「恵みと真理とに満ちて」いるのです。神は、一人光り輝いてその力を誇るお方ではなのです、自分だけで余裕のない恵みのお方ではないのです。神は、恵みが満ちて溢れ出るお方です、その恵みは真理と一つでもあるのです。神は正しい秩序に満ちてもいる。その恵みと真理を御子の誕生で現されたのです。ここに神の栄光があるのです。

16節は「私たちは皆、このお方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」と記しています。私たちは闇と絶望の中を歩んでいるのではなく、日々恵みに恵みを受けて歩んでいるのです。ヨハネは「私は見た」と言っています。しかし、私たちは本当に神の栄光をこの年の歩みの中に見ているでしょうか。人間の功績や力による栄光ではなく、肉となった御子の栄光を、その恵みを日々の歩みの中に見ているでしょうか。

アウグスチヌスは「御子が肉となって私たちの中に来てくださったことによって、私たちは目薬が入ったように見えるようになったのだ。土や埃が目に入って、目を傷つけ見えなくしていたが、目薬によってそれらが取り除かれて見えるようになった。イエス・キリストは医者であり、目薬だ」と言っています。

カルヴァンは「大部分の人は盲目のためにこの栄光を見ることが出来ない。聖霊によって目が開かれた少数の者だけがこの栄光を見ることができる。大部分の人は、肉のいやしい条件の中に、罪の中に隠されていて、この栄光を見ることが出来ない」と言っています。

神の栄光、恵みと真理が現れているのに見えない人と、見える人がいるのです。イザヤは、捕囚民として異国の地に抑留されている人々に、神の創造と愛を信じるように語りかけています。神を信じることによって、今日の日を意味ある日として生きることが出来る、自分は神から捨てられていない、愛されている、と新しい力を得て生きることが出来る、と言っています。

現実の世界は、肉の罪が覆っていて、闇となっている、としか見えません。しかし、この世界に御子が住んでいるのです。御子が世と歴史を支配されていることを信じる私たちは、絶望の思われるこの闇の世界の中に、神の栄光を見ることが出来るのです。

神の恵みと真理が日々増し加えられているのを数えてこの年を送り、新しい年を迎えたいと思います。年を重ねることは、恵みを重ねること、恵みを加えることなのです。

2007年12月23日

説教題:御子が私たちの間に宿った

聖書:イザヤ書 9章1-6節 ヨハネによる福音書 1章1-14節

【説教】

イザヤが「闇の中を歩む民」「死の陰の地に住む民」と呼んでいるのは、現在仲間であった北イスラエルがアッシリアに占領され、自分の国も滅ぼされそうな状態にある民です。自分の国の指導者は神の前に正しく歩んでいないので、自分の国にも神の審判が下ると見える。どこを見ても闇と死しか見えない。これは私たちの世界の現実ではないでしょうか。

「向こうが悪い」と言っていられない、自分たちの中にも悪があり、罪がある。このままでいいことはない。裁かれ、滅ぼされるべきものがある。どこに救いがあるのか。地上にはない。イザヤは、その民に上から光が与えられる、と告げるのです。2節以下で言っていますようにそれは大きな喜びです。これがクリスマスの出来事です。

ヨハネはクリスマスの出来事を「言は肉となって私たちの間に宿った」と表現しています。「言は肉となった」というのは、神が肉の人間になった、ということです。神は、偉大な人間や知恵と力に勝る人間になったと言わないで、「肉」で全てを現す人間になった、といっているのです。ここに肉の人間にとっての救いがあるのです。

ユダヤ人にとって、神はいと高きところに居ますし、人間は神に近づくだけで死ぬ恐れがある、と考えていました。ですから神が人間になることは考えられませんでした。しかし、いと高き所で「あなたに救いがあるよ」というだけでは、地上の闇と死の中に居る人間にとって救いにならない、「私には関係ない」ということになってしまいます。神が私たちと同じ肉の人間になって私たちと一緒に住み歩んでくださる。そのことによって私たちが持ち、縛られている悩み、苦しみ、重荷、辛さ、闇と死を、神がご自分のものにしてくださる、そこに私たちの救いがあるのです。

「宿られた」と言うことは、「テントを張って宿る」ことです。人間は地上にテントを張って住んでいるのです。その命も生活も、一時的で永遠ではありません、はかなく頼りない空しいものです。その空しく死が支配しているテント生活をしている私たちの中に神が来て一緒に宿ったのです。神が御子イエスとなって宿ったことは、神が居て下さること、神の命と光が一緒にあることです。その一緒に宿られた御子がそのテントの群れの中心になり、導き手になるとき、そのテントの群れには平和があり、命があります。

御子が肉になって私たちの間に宿られたのは、造られたものにたいする神の深い思いと、罪人になってしまった肉の人間に対する神の愛が地上の歴史の中に現されたのです。神の深い思いと愛の現れが、御子であり真の人であるイエスの誕生です。この御子イエスの誕生によって、私たちに本当の救いがあるのです。光があり、命があるのです。

私たちはもろい肉の人間として生きていて、病や死が待っていることを承知しています、けれども私たちの傍らに御子が一緒にいてくださるので、私たちは神の命に生かされていることを信じることだ出来るのです。テント生活の一時の光や幸せを喜ぶことが出来るのです。御子誕生のこの時を心から喜び賛美したいと思います。

2007年12月16日

説教題:先駆者が示す主

聖書:マラキ書 3章19-24節 ヨハネによる福音書 1章19-28節

【説教】

クリスマスの備えをする時に登場するのがヨハネです。クリスマスは突然思いがけない人が来たように迎えるのではありません。予告されていた方がいらっしゃる、その備えをして迎えるのです。その方が今ここにいらっしゃった、と告げているのがヨハネです。

ヨハネは、その方が私と一緒に来ている、だから直ぐ備えをしなさい、と告げるのです。ところが、ヨハネ自身が待望の救い主ではないか、と思う人がいました。19節には、都エルサレムの指導者たちがヨハネに使いを出して「あなたはどなたですか」と質問しています。これは20節の答えで分かりますように「あなたはメシアですか」という質問です。ヨハネがメシアだと言う人がいるが本当だろうか、私たちに示すことなしにメシアが来るはずがない、そのような疑問を持っての質問です。そして、ヨハネは人を惑わしている、ヨハネは何ものなのか問い詰めよう、という含みをもっての質問です。

人々は救い主メシアを求めていました。闇の世界は光を求めます。ヨハネが言葉と生活をもって救い主が来たと告げるのを聞いて、ヨハネがメシアだと思う人がいるほど光を求めているのです。メシアでないのに「私はメシアだ」という人も出るのです。そこでヨハネは公言して隠さず「私はメシアではない」と言い表しました。自分に期待している者にも、攻撃しようと思っている者にも、強くはっきり言ったのです。

そこで質問者は、「ではあなたはエリヤですか、あの預言者ですか」と問いました。エリヤはマラキ書が記している最後の裁きの前に救いを告げる預言者です。「あの預言者」はモーセのように神の言葉を持っている預言者です。ヨハネは、この問いに「違う」といい、「私は荒野で叫ぶ声だ」と答えました。荒野の世界で救い主の到来を告げる声だ、と言っているのです。その声をしっかり聞いて、直ぐお迎えする備えをしろ、と言ったのです。ヨハネの声は、神の許から来るメシアを示すと共に、お迎えする備え方も教えているのです。

25節で、遣わされてきた人々は「なぜ、洗礼を授けるのか」とヨハネを問い詰めています。この当時洗礼は汚れた民である異邦人が神の民の仲間に入る時に受けるものとされていました。神の民はすでに清いので洗礼を受ける必要がない、と考えられていたのです。それなのにヨハネは「悔い改めよ」といって神の民に洗礼を授けていたのです。それはその洗礼がメシアを迎えるのに必要だったからです。ヨハネは、自分は水で清めているが、メシアは霊で神の力と命を与えるお方である、そのお方はあなた方の中にいるのにあなたがたは知らない、私も知らない。なぜ知らないのか。人々もヨハネも、自分中心の罪に汚れているからだ。だから悔い改めが必要であるのです。

クリスマスの主は、私たちと世の罪を取り除いて下さるお方なのです。この主によって、世と歴史を支配している罪と闇はと取り除かれ、神の愛と光が治めるようになったのです。クリスマスの主は今、天の神の許にいて世界と歴史を治めているのです。私たちはヨハネが告げる声を聞いて信じ、悔い改め、喜びを持ってクリスマスを迎えたいと思います。

2007年12月9日

説教題:神による御子の証し

聖書:ヨハネによる福音書 5章36-47節

【説教】

現在、私たちは歴史の中に既にイエス・キリストが来たことを知っています。ですからイエスが神からの救い主であることを確認して、クリスマスの時を待っているのです。

そこで、イエスが神からの救い主だと言うことがどうして分かるか、が重要なことです。31節でイエスは「もし私が自分自身について証しするなら、その証しは真実ではない」と言っています。これは、「自分が私こそはと証しするなら」という意味と、「他の誰も言わないのに私一人だけが言っているなら」という二つの意味が考えられます。そのいずれの証しも、一般に真実として受け入れられない証しです。

そこでイエスは32節で、私が「自分は神からのメシアだ」と言っているのではない、私以外に「私のことをメシアだと証しされる方がいる」と言っています。33,34節ではヨハネの証しがある、と言い、あなたがたはヨハネによって輝く火を見て喜ぶが、私にはヨハネ以上に確かな証しがあると言っています。それは、私イエスが与える救いは、ヨハネ以上に確かな救いを人々に与える、「父が私に成し遂げるようにお与えになった業、つまり私が行っている業そのものが、父が私を遣わされたことを証している」、というのです。

この36節の言葉は、「私が成し遂げる業」も「私が行っている業」も奇跡や愛の業だけでなく、19章36節にある十字架上でイエスが言われた言葉と一つなのです。イエスが地上で行われた全てのこと、特に十字架と復活を指している言葉です。この福音書が書かれた時にはエルサレムの神殿は破壊されてなく、ユダヤ人たちは会堂に集いモーセの律法による救いを信じて信仰生活をしていました。5章38-40節の「あなたがた」はそのユダヤ人たちです。彼らは十字架のキリストによる救いを信じませんでした。聖書を読んでいるのに、イエスが神の子だと信じない、命を得ようとしていない、とイエスは言っているのです。

すでに待望の救い主メシアは来たのです。それなのに信じない、救い主の所に来ない、それがこの世です。この世はなぜそうなのか。「父がお遣わしになった者を信じない」からです。イエスを信じるのは聖霊によるのです。モーセの律法に生きているという誇りを捨てて、神の前に謙遜になり十字架を見上げることです。その時十字架から光が与えられ、聖霊が与えられてイエスを信じることが出来るのです。その時、聖書と教会を通して神の言葉を聞き、父なる神がご臨在して生きて働いていたもうことを見ることが出来るのです。

41.42節では「私は人からの誉れは受けない、しかし、あなた方の内には神への愛がないことを私は知っている」と言っています。神に目を向けて、神に愛されていることを味わい知っている人は、神の愛がこの世界と歴史の中に、又自分に豊に与えられていることを思わないではいられないのです。43,44節で、人々は人間同士で誉れを分け合う生き方をして、神からの誉れを求めようとしない、と言っています。これがこの世界の現実なのです。

しかし私たちは、イエスが神から与えられた業を成し遂げた神の子で、世界と私たちの救い主であることを知っているのです。ですから喜びを持ってクリスマスを迎えるのです。

2007年12月2日

説教題:救い主来臨の希望

聖書:イザヤ書 52章1-10節 ヨハネによる福音書 7章25-31節

【説教】

今日からアドヴェント、クリスマスを迎える備えをする時です。クリスマスにお迎えする方はどのようなお方、どのような救い主なのでしょうか。

イザヤは二つのことを告げています。一つは1-6で、現在バビロンに捕囚されていて希望も生きる力も失っている民に「奮い立て、力をまとえ、輝く衣をまとえ、聖なる都エルサレムよ」と神の民の目覚めを呼びかけ、神は今も見捨てていない、心にかけて神の民として生かそうとしている、神の栄光を現そうとしている、と告げています。神御自身が神の民を囚われの身から解放する、汚れた者が再び攻め込むことは起こらない、だから、神が解放するのを喜んで自分のものとし、相応しく力を回復し輝く衣をまとって証し人になれ、と呼びかけているのです。この呼びかけは私たちに対する呼びかけでもあります。

7-10では、「平和を告げ、恵みの知らせを伝える者が来る。その知らせは神が王となられた、という知らせだ」と告げています。これはクリスマスの知らせです。クリスマスは、神が王となって来たので、真の平和が確立したことです。それがどんなに待ち望まれていたことか、その知らせを聞くだけでもどんなに大きな喜びあるかがここに記されています。主が王となることによって与えられる平和は、争いがないという消極的な平和ではなく、聖なる御腕によって与えられる積極的な確かな平和です。

現在の世界も光を失い希望を失っています、人間知恵と力による平和で多くの人が悲しみと嘆き絶望の中にいます、クリスマスの主による真の平和の到来を求めています。アドヴェントはその主の到来を聞く時です。

ヨハネ7章7:12-31は、イエスを「良い人」と言う人もいれば、「群集を惑わしている者」と言っている人もいる、とイエスに対する見方が分かれていることを記しています。そして25-27で、ユダヤ人たちがイエスを殺そうと考えていることを知っている人たちが「私たちはイエスがどこから来たか知っている。ナザレの人間に過ぎない。メシアであるはずがない」と言った。それを聞いたイエスは話を中断して大声で言われた「私がどこから来たかあなたがたは正しくは知らない。私は神の許から来たのだ。神から遣わされてきたのだ」と。イエスは自分が神からの救い主メシアだ、と黙っていられないで話を中断して大声で叫んだのです。それだけ自分を正しく知ることが重要だと思われたからです。

ユダヤ人たちがイエスを殺そうと思っているのに、公然と話をしているイエスを捉えることが出来ないでいる。そのことを30節は、「イエスの時は未だ来ていなかったからである」と言っています。地上の世界はいろいろな人間が自分の考えで行動しています。しかし、この世界は神のご支配の下にあるのです。十字架と聖霊降臨の時までイエスは人間に理解されませんでした。イエスを理解するのには時が来るまで待たなければなりません。

十字架によって私たちはクリスマスに来たイエスがどのような救い主かを知ったのです。その救い主は、イザヤが告げた真の平和を確立してくださる神の子なのです。

2007年11月25日

説教題:神が下さる実り

聖書:申命記 26章1-11節 ヨハネによる福音書 12章23-26節

【説教】

ここに沢山の果物が捧げられています、この果物はどのようにしてここまで来たのでしょうか。そう、「私の家から持ってきた」、「スーパーで買った」、「農家の人が種を蒔いて、お世話して実りを得た」。種を蒔くのにはその土地を耕す、開墾するのです。果物がここに来るまでには沢山の人の働き、心配、苦労があった。

聖書は、神様が与えて下さった土地に住んで開墾し、収穫した初物を神に捧げて感謝しなさい、と言っています。それは立派な作物が沢山できたから感謝するのではないのです。貧弱な物が僅かしか出来なくても、そこに神の愛と恵みが与えられていることを感謝するのです。神さまの歴史の中に生かされていることを知って感謝するのです。収穫で大事なことは、神様の歴史を信じて、途中で怠けたり止めないで最後まで働くことです。「私たちの先祖は滅び行く一アラム人でした」と聖書は言っています。収穫の時、果物の歴史と一緒に人間の歴史を思うのです。開墾から立派な収穫まで年数がいるのです。自分一人の歴史だけでなく、神さまの歴史の中に生かされていることを思うのです。その歴史の中で自分が大事な存在だ、自分勝手ではいけない、自分が死んでも終りではない、と知るのです。

果物や穀物、野菜、花の歴史で大事なのは種です。収穫物の中から立派な種を選び残しておいて蒔くのです。立派な種を見つけて蒔くのです。種によって歴史が始まり進んで行くのです。今では品種改良ということがされて特別な種がある。野生の種と違う、人間によって誕生した種があります。今スパーにある果物や野菜、花はそのような改良された種から生まれ育てられているのが多いです。

イエス様はご自分を「一粒の麦」と仰いましたが、その麦の種は他の種と違う特別な種なのです。この種から新しい麦の歴史が始まる、と仰っているのです。

ロバを父に、馬を母にして騾馬という動物が誕生しました。非常に役立つ動物です。

イエス様は、天の神様を父に、マリアさんを母にして誕生されました。神の子である新しい人がイエス様です。そのイエス様が一粒の麦になって、新しい歴史が人間の中に始まったのです。イエス様を信じイエス様に生かされていることを感謝して生きるとき、野性の、生まれながらの人間とは違う、新しい人に変えられた人間として生きる人になるのです。その歴史を始めるためにイエス様は一粒の種になった、と聖書は言っているのです。種となって死ぬことで、父なる神の栄光を現す、と仰っているのです。

神の子の栄光は、イエス様が立派だと飾り物のように見られることで示すのではなく、種となることによって新しい種が沢山出来る、そして新しい麦の歴史が始まる、そのように神の愛と恵みに生きる人が地上に誕生していく、そのところに神の栄光が現れるのだ、と言っているのです。その栄光は、その歩み、存在にもありますが実りにあります。

私たちはイエス様の種によって誕生している新しい神の民です。私たちは、この地上で新しい神の民の歴史をつくり続け、神の民に相応しい実を結ぶ歩みをしたいと思います。

2007年11月18日

説教題:神からの命で生きる

聖書:出エジプト記 2章1-10節 ヨハネによる福音書 6章27-35節

【説教】

ヨハネ6:26で主イエスは「あなたがたが私を探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と仰っています。これはイエスが5千人にパンを与えたことを正しく理解していない、神の愛と憐れみを与えるメシアのしるしとして行ったのに、群集は満腹するまでパンを与えてくれたとしか見ていない、と言っているのです。

このような群集は、いつの時代にもいます。神によって生かされていることに思いを向けないで、パンによって生きていると思い満腹することを求めているのです。パンを与えられたことを神の憐れみと愛によるのだ、と受け入れ味わった人は、その喜びと味をいつまでも忘れないでしょう。神の憐れみに結びついている命は、永遠の命に連なるのです。

6:27でイエスは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と仰っています。満腹しても直ぐに空腹になる食べ物ではなく、永遠の命に至る食べ物を得るように働け、人の子イエスがあなたがたに与えるのはその食べ物だ、と言っているのです。「父である神が、人の子を認証された」は、神が、イエスこそ永遠に至る食べ物であり、イエスがその食べ物を与える者であるということを、確認している、と言っているのです。群集はこの言葉を聞いて「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねました。イエスは答えました「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。どんな業を一生懸命に行っても、神の御心に添わないことを行ったのでは実を結ばないだけ出なく、有害になることもあるのです。神の御心に添うことを行う、そのためには神が遣わされたイエスを信じることです。信じて、主として聞き従うこと、またイエスが与えてくださるものを感謝して受け入れることです。

そこで彼らはイエスに「私たちが見てあなたを信じることが出来るようにどんなしるしを行ってくれますか。私たちの先祖は荒野でマンナを食べました」と問いかけました。この群集は、モーセは神の人で、自分たちはモーセの律法によって歩んでいる、という誇りを持っていました。そこでイエスにモーセと同じしるしを要求しているのです。出エジプト記2章のモーセ誕生の記事は、彼らにモーセは特別神に導かれた人という思いを与えていた一つでした。そこでイエスは、モーセは唯の人間でマンナは天の神から与えられたのだ、そして今私の父が天からまことのパンを私によってあなたたちに与える、神のパンは天から降って来て世に命を与えるものだ、と言われました。この世には命がないのです。

イエスの語ることが群集には理解できないで「主よそのパンをいつも私たちに下さい」と求めました。この命のパンを求める声を無視されないで、イエスは「私が命のパンである」と言われました。「私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して乾くことがない」という意味でイエスはパンなのです。イエスの所に来て信じる者は、イエスがご臨在し、ご支配される世界に生きる、神からの永遠の命に生きる者になるのです。御子イエスを信じることによってだけ永遠の命に生きることが出来るのです。

2007年11月11日

説教題:神の民の選びと約束

聖書:創世記 12章1-9節 ローマの信徒への手紙 4章13-25節

【説教】

私たちが洗礼を受けて信仰生活を始めたのは、個人として新生活を歩み始めたのですが、神の民の一員としての歩みを始めたことでもあるのです。それまでの私たちの生活は、私が中心で神の御計画の中にある自分を考えず、重んじないで歩んでいました。洗礼を受けた時から私たちは、自分中心ではなく、神の御計画の中にいる自分を知り、神の言葉に聞き従い、神のみ旨を重んじて生きるものに変えられたのです。

聖書を通して神の言葉を聞いて歩む時、私と神の民の信仰の原点にアブラハムの信仰があることを知ります。ローマ4:13に「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束された」とあります。この約束の中に私たちの救いと信仰生活があるのです。世界は私や人間のものではなく神のものなのです。その世界を、私たちが我が家のように受け継いで、主人の神と一つ心で生きることが出来ると約束されたのです。

創世記12:1-3に神の選びと約束が記されています。アブラムはアブラハムの改名前の名前です。ここで神は「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」と命じています。アブラムは、神が自分を選んでこの言葉を与えて下さったのだと信じ、この言葉に従って歩み出しました。これが神に義された信仰です。信仰は、強制ではなく、神の言葉を真実と信じ自ら決断して従うことです。アブラムは目に見えるしるしを示されて信じたのではなく、自分が生きているこの世界を造り治めている神が自分に語りかけた、と霊によって信じ、霊によって神と語り合って神が私を選んでくださっているのだと信じ、決断して従ったのです。信仰は神との語り合いに依る決断です。

12:5にアブラムはカナンの地に向って出発したとありますが、交通機関がなく情報が殆どなかった時代のこの旅立ちは冒険でした。不安と危険に満ちていました。このような冒険の旅立ちをする前アブラムは、今までの生活に決別したい、新しい生活をしたいと神に訴え、祈った、そして神はそれを聞かれたのではないでしょうか。そのようにアブラムは神と語り合って信じ、決断して出発したので、その歩みは孤独でなく、旅の間も神と語り続け、神に導かれて歩んだのです。12:6に、カナンに着いたけれどそこには先住民がいた、とあります。12:7で神は「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束します。12:1では、住む地ではなく、示す地に行きなさい、と言われていたのです。アブラムはカナンに祭壇を築きました。神の真実を感謝して礼拝したのです。彼はそこからまた旅をしましたが行く先々で祭壇を築きました。アブラムの生涯は旅でしたが、神と語り合い、完成を子孫に見て、信仰を養い育てる旅でした。神と語り合うことで、未知の地、未知の人に出会った時、自分中心になるのではなく、謙遜になって語り合い、理解し合いました。

アブラハムは地上の氏族全てが神の祝福に入ることを目標にしていました。その信仰の完成はキリストによってなされたのです。私たちの信仰生活はこのアブラハムの選びと信仰に結び付られている、謙遜になって神と語り合い、決断して歩む信仰です。

2007年11月4日

説教題:天の神に連なる命

聖書:創世記 3章1-15節 ヨハネによる福音書 3章13-21節

【説教】

創世記2:7に、神は人間を造り、その鼻に命の息を吹き入れて生きるものにされた、とあります。2:18以下には、神は人間のことを思い「彼に合う助ける者を造ろう」と言われて女を造られた、と記されています。

そのように、神の命の息を内に与えられ、神の愛のご配慮をいただいて生かされていた人間が、蛇の誘いに動かされるのです。蛇は神の言葉を巧みに用いて、女に与えられている自由を使うように唆(そそのか)すのです。「目が開け、神のように善悪を知るものとなる」。人間は、未知のものに魅力を感じ憧れを持つ。「目が開け」といわれると、自分は盲目で闇の中にいるように思う。「神のように善悪を知る」は、神のように全てを知ると言うことで、非常に魅力的なことです。神の言葉から自立し、神から離れて自分の世界に生きよう、と思うのです。それで女は、禁じられていた木の実を取って食べ、男にも渡したのです。

二人の目が開くと、二人は裸であることを知りました。そこに神が歩いて来るのを知ったので、二人は神の顔を避け、隠れるのです。二人は、神の言葉に留まらず、神の言葉に背いた、そしてその責任を他に転嫁します。この初めの人間の罪と、罪の責任の転嫁を、教会は自分たちの中に見てきているのです。この自分の内に神が命を与えて下さったのに、神の思いと言葉に背いて、自分中心に自由を勝手に使ってしまった。神から離れ、神に対して責任を負うことをしない、又責任を負うことが出来ない人間は罪に死ぬことになったのです。その死は、肉の死だけでなく、神の命を失う永遠の死を意味しているのです。

その人間に、神は尚も愛を持ち続けて下さっているのです。背いた人間が、神の言葉を聞いて従うように、自分より神を信じて生きるように、と御子を人間の中に与えて下さったのです。ヨハネ福音書3:16は「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が独りも滅びないで、永遠の命を得るためである」と記しています。

御子をどう信じれば良いのか。それはヨハネ3:13-15が教えています。

天から来た方だけが、天に昇ることが出来る、そして天に居場所を持ち、天の神に連なる命を持っているのです。御子は、人間を罪の死から救うために天から地上の私たち人間の中に来て下さり、上げられたのです。「上げられた」のは、十字架に上げられたことと、復活して天に上げられたこと、の二つを意味しています。そして、モーセが荒野で蛇を上げ、その蛇を見上げた人が救われた(民数記21:4-9)ように、上げられた御子を信じて見上げる者は皆、永遠の命を得る、とイエスは仰っているのです。

御子は十字架に上げられて、私たちの罪を贖ってくださったのです。そして、復活し罪の死に勝利された清いものとなって天に上げられたのです。この十字架と昇天のイエスを、神の言葉に従って信じて見上げるとき、罪のために死ぬべき定めにいる私たちが永遠の命に生かされる者にされるのです。天の神の命に連なる者にしてくださる、と主イエスご自身がここで仰っているのです。

2007年10月28日

説教題:秘められた神の御計画

聖書:イザヤ書 43章1-7節 エフェソの信徒への手紙 3章1-11節

【説教】

今日は教会がどのような救いの道を伝えているかを、聖書を通してお話します。

エフェソ3:1に「あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人になっている私パウロ」と、この手紙の書き手と宛先、受け取り手が記されています。

「異邦人」は、イスラエルの人が自分たち以外の人に使う言葉です。イスラエル人は神に特別に選ばれ、神を知らされている民なのです。パウロは、異邦人に神の御計画を知らせ、救いに導くために、キリストの囚人になっている、と言っています。囚人は、捕らえられ自由を失っています。しかしパウロは2節で「神の恵みによってこのような囚人になっている」と喜びと感謝で言っています。それは3節の「秘められた計画が啓示によって私に知らされた」ことに基づいて神から与えられている光栄ある務めだからです。

神は、無計画に天地を造り人間に命を与えているのではない、胸深くに秘められた御計画によって天地を造り歴史を治めているのです。その御計画を神ご自身がパウロに示して下さったのです。それは4,5節にあるように、キリストによって実現する計画です、ですからキリスト以前の人間には知らされていませんでした。それが「今や」知らされたのです。そのことが使徒やパウロ、そして教会に知らされたのです。

キリストによって実現した御計画の内容は6節に記されています。「異邦人が福音によって、約束されたものを私たちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束に与る者となる」、ということです。神を知らなかった異邦人も私たちと同じになる、というイスラエルはどのように神に愛されたのでしょうか。イザヤ書43章にその一端が記されています。神に背き罪を犯したイスラエルを神は捨てないで愛している。しかしその民の罪を神は愛の鞭で罰したので、国は滅び、民はバビロンで捕囚の生活をしました。民は、神が生きているならなぜ私たちをこのような状態にして置くのか、と嘆き神に訴えたが聞かれないで来た。所が今、沈黙していた神が言われる「私はあなたを贖う。あなたは私のもの、私はあなたの名を呼ぶ。私はあなたと共にいる。私はあなたの神、私の目にはあなたは価高く貴い。私の栄光のために創造した者」、と。神は、私にとってあなたはどんな代価を払っても惜しくない高価な宝だ、決して離さない、私の栄光を示す存在だ、と言っているのです。このように神から限りない愛と命を与えられているのがイスラエルなのです。

今まで神を知らなかったので、自分の道、神に対して罪の道を歩んでいた異邦人が、キリストによって罪贖われ神の民と同じ愛を受け、神の栄光に与る者にされたのです。そして造られたもの全てが一つにされて神の栄光を現すことになる、それが神の秘められた御計画なのです。その御計画を知った時パウロは感嘆と賛美の叫びを挙げ、自分に与えられた異邦人に御計画を知らせ、神の道を歩むように勧める務めを恵みと感謝したのです。

そしてその務めが今は教会に託されているのです。教会も神の御計画のすばらしさを知らされて感嘆と賛美の叫びを挙げながら、この歴史の中を歩んでいるのです。

2007年10月21日

説教題:旅する神の民

聖書:ヘブライ人への手紙 11章32節-12章2節

【説教】

この手紙は11章に入って、信仰がどのようなものかを、イスラエルの先人の歩みを示しながら、語っています。32節では、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムソンの名前だけを挙げて、各人についての説明は一言もしていません。この手紙を読んでいる人たちは、この人たちのことを、自分の身内のように、聞いて知っていたからです。

聖書の信仰は、個人の信仰であると共に、神の民の信仰なのです。私たちが聖書の言葉を信じて、洗礼を受け、教会に結び付られることは、神の民の一員とされることです。神の国を自分の国とし、その国の歴史と先人の歩みを自分のものとして歩むのです。

説明は省略されていますが、これらの人の名前が挙げられているのには意味があります。ギデオンからエフタまでは士師記に、ダビデとサムエルはサムエル記に記されています。これらの人は、育ちも性格も皆違いますが、大事な時に信仰によって行動したという共通点があるのです。神の民にはいろいろな人がいます。その信仰もいろいろな姿や行動となって現れています。この手紙は33節以下に、順不同で思いつくままに、神の民の歴史にはこのようなことがあった、私たちの民にはこういう人がいた、と語っています。ここで注意すべきことは、33,34節には信仰によって勝利したことが語られていますが、35-38節は迫害を受けた人のことを語っていることです。神の言葉に従って歩む神の民の歩みは、いつも勝利の歩みとは限らない、苦しみや迫害を受けることがある。なぜでしょうか。

その問いに対して38節で、「世は彼らに相応しくなかった」と言っています。カトリック教会も第二公会議で「教会は地上を旅する神の民」と定義し、地上の教会は神の国そのものではない、神の国に向って旅している途上にある民だ、と言っています。旅している民には、戦いがあり困難な歩みもあり、時と所に応じての対応も求められるのです。

39節で、旧約の人たちは、その信仰によって神にご自分の民と認められていたが、約束のものはまだ手に入れていなかった途上にあった、と言っています。約束のものとは何でしょうか。いつ手に入るのでしょうか。40節に「神は私たちのために、更にまさったものを計画してくださったので、私たちを除いては完全な状態に達しないのです」とあります。

全ての神の民の歩みが、私たちによって完成しているのです。キリストによってその歩みが実を結び、救いを得、祝福に与っているのです。

12章1節では「私たちもまたこのように夥しい証人の群れに囲まれている以上、絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を走り抜こう」と言っています。私たちの走りは、自分ひとりの走りではなく、先輩の信仰者の走りを受け継いで、同じ信仰の道を走り抜き、後継者に受け渡す走りなのです。2節には「信仰の創始者、また完成者であるイエスを見ながら」とあります。私たちの歩みも不安があり、困難があり、戦いがあります。外に障害や攻撃があり、内に罪や弱さがあります。しかし、孤独ではない、夥しい仲間の励ましがあり、主イエスによって導かれている神の民の歩みなのです。

2007年10月7日

説教題:愛に訴えての願い

聖書:レビ記 25章39-46節 フィレモンへの手紙 8-22節

【説教】

レビ記に、同胞以外の奴隷は、売り買い出来、人間としてではなく財産として持ち働かすことが出来る、とありますが、奴隷は貴重な財産、労働力として管理されていました。

フィレモンへの手紙は、逃げ出した奴隷のオネシモを主人のあなたのもとに返すので、彼を奴隷としてではなく、愛する兄弟として受け入れて欲しい(16節)、とパウロが書いている手紙です。フィレモンとオネシモのことは、コロサイ書の、4章9節にオネシモの名前があり、4章10,14節にある名前とフィレモンの24節にある名前が重なることから、フィレモンはコロサイの近くに住んでいて、この手紙はコロサイへの手紙と一緒に運ばれたのではないかと想像されます。もしそうなら、フィレモンは異邦人で奴隷について厳しい考えを持っていたと思われます。その主人のもとからオネシモは逃げ出したのです。そして、どういう経緯か分かれませんが、パウロと出会い、キリストの十字架の救いを知って、新しい人になったのです。それでフィレモンのもとに返すことにしたのです。

奴隷に逃げられた主人は怒りを持っているでしょう。当時は法的にも生活習慣からも、逃げて行った奴隷を捕まえたら厳しく対処することになっていました。そのような状況の中で、パウロはオネシモを主人のフィレモンのもとに帰らせるのです。

パウロはこの手紙の初めで、自分を使徒と言わないで、キリストの囚人と言い、フィレモンのことを「私の愛する協力者」と書き、4-7節であなたの愛を聞いて「私は大きな喜びと慰めを得、心が元気付けられた」と、彼の愛と信仰を賞賛する言葉を記しています。

そして、8節から本題に入るのに、このことを主イエスから託されている使徒の務めのうちにあることとして命令することも出来るのだけれど、あなたの自由な意思と判断でこのことを喜んで行ってくれるように愛に訴えてお願いする、と語り出しています。

パウロは、使徒の権威をまったく捨てて、年老いて獄にいる私が、私の子で心でもあるオネシモのことでお願いする、と自分の弱さを丸出しにして懇願しています。オネシモが邪魔になったから返すのではない、いつまでも引き止めていたい、彼はそれだけ有用な人間だ、でもあなたの同意なしにはしたくない。あなたのもとに返すので、愛する兄弟として受け入れて欲しい。もし彼が損害を与えたり負債があるなら私が責任を持って払う。あなたから喜ばせてもらいたい、元気付けてもらいたい。とパウロは、二人がお互いに主にあって赦し合い、愛し合って欲しい、と命令よりも愛に訴えて懇願しているのです。

国際関係や国家、会社などでは、法律や規則を決め、命令し、力で守らせ従わせることで秩序を保っています。家庭でも、親の権威が必要だと言われていますが、親が子に何か頼む時どのような頼み方をするでしょうか。各家庭で、又時と状況で違いがあるでしょう。

キリスト者の交わり、教会でも主から与えられている秩序があり、皆で守っていることがあります。しかし、その交わりの中心は、お互いに赦し合い理解し合う主にある愛です。「むしろ愛に訴えてお願いします」と言っているパウロの信仰と愛に学びたいと思います。