18年10月-19年03月

2019年3月31日

説教題:「隠れ場」への招き

聖 書:出エジプト記34章29-35節、ルカによる福音書9章28-36節

この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った…ペトロは自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

(ルカによる福音書9章28-36節)

受難節に入り、四回目の主日礼拝を献げています。今年の受難節、私たち薬円台教会は、特にひとつのことを祈っています。それを、今週も、週報の祈祷課題に掲げました。「教会員・求道中の方・牧師、皆が より深く正しく 主の救いのみわざを味わい知る恵みに与るように。」私たちは、イエス様の十字架のみわざ・その救いのみわざの意味と恵みを「知る」ことを祈りたいと思っています。さらに、もう少し踏み込んで、イエス様を、神さまを、より深く知って、恵みを豊かにいただきたいと願っています。

聖書の中の箴言という書に、このような言葉・聖句があります。9章10節です。「主を畏れることは知恵の初め 聖なる方を知ることは分別の初め。」ここに言い表されているとおりに、神さまの大きさ・人間である自分の小ささを知って私たちは恵まれます。神さまが聖なる方であることを知って、私たちは清くない私たちの真実の姿を知り、人の道・人間らしく生きる道をわきまえるようになるのです。

教会で「神さまを知る」という時、この言葉はそのまま、神さまを信じることをさします。しかし、長く信仰生活を送っていても、私たちはふと思います。私は本当に正しく神さまを知っているのだろうか。そう思ってしまうのは、神さまが、私たちの目には見えない方だからです。また、神さまのこと・イエス様のことをまだ知らない方に伝えたいと思う時、伝道する時も、同じように思います。時々、自分の心の底までのぞき込むような気持ちになって、私は本当に神さまを信じているのかしらと思われる方も決して少なくないでしょう。

私たちにとって、自分の目に見えない神さまを知り、信じることは簡単なことではありません。

今日は旧約聖書の御言葉を出エジプト記からいただいています。出エジプト記には、ユダヤの人々が神さまに導かれて、エジプトの奴隷の身分から自由の身へと自由にされ、救われたことが記録されています。そして、ユダヤの人々が自分たちを救ってくださった神さまを信じることができなかったことも、記されているのです。見て、聞いて、触って、確かめることができない神さまを信じられないから、彼らは勝手に金の子牛・偶像を自分たちで作って、それをあがめる過ちを犯しました。そのような人間の愚かしさを、神さまは憐れんでくださって、私たちに我が子イエス様を、私たちと同じ人間としてこの世に遣わしてくださったのです。

どうして、私たちは神さまを実際の目で、肉眼で見ることができないのでしょう。それは、神さまが私たちと次元が違うところにおられる方だからです。次元が違うとは、別の言葉を用いれば、神さまが聖なる方だということです。それは、どういうことでしょう。

ある神学書が紹介している、こんな話を読んだことがあります。ある小さな男の子が、船というものがあることを知って、見たいな~乗りたいな~とお父さんお母さんにおねだりしました。両親は男の子を港に連れて行って、そこにたまたま入港していた豪華客船に、一緒に乗りました。そして、男の子に「ほら、お船はすてきでしょう、すごいでしょう」と顔を覗き込みました。あんなに楽しみにしていたのだから、どれほど喜ぶかと思ったのです。ところが、男の子はポカンとしていました。そして、お船はどこ?と聞いたというのです。

船に乗っていながら、いえ、乗っているから逆に、大きな船が、大きすぎるがゆえに、目に見えなくなってしまうのです。

私たちは神さまの御手のうちに置かれ、安全に抱かれていますが、その御手はあまりにも大きくて、私たちは神さまに大切に抱かれているとわかりません。気づくことができないのです。

しかし、神さまは、私たちにご自身を知らせてくださいます。

聖書の御言葉を通して。また、人となって世においでくださったイエス様を通して。そして、復活された主・聖霊を通して。神さまは私たちにご自身を示され、出会いをくださいます。

旧約聖書では、その出会いは「隠れた場」で私たちに与えられます。今日の説教題に、その言葉を用いました。隠れた場。神さまは隠れておいでなのです。神さまは、私たちの手に簡単に届くような、近しい、卑近なものとして表してはくださいません。私たちは傲慢で愚かしいので、神さまが身近に表れてくださったら、決して神さまだと思わないからです。イエス様が本当に私たちと同じ肉体を持った人間としてこの世においでくださった時、それは、ほとんどの人にわかりませんでした。また、イエス様が神さまであると気づかされた人も、それは一瞬のことで、すぐにわからなくなってしまうのです。

前回の新約聖書の箇所で、イエス様に「あなたがたは、わたしを誰というのか」と問われたペトロは“あなたはメシア、神からの救い主”と正しく答えました。ところが、同じペトロが、そのすぐ後に、イエス様が十字架に架かることを告げたとたんに、そんなことを言ってはなりませんとイエス様をいさめ、イエス様に「しりぞけ、サタン」と叱られてしまいました。

神さまを知った、わかった、自分は確かに神さまを信じている!と思った次の瞬間に、また自分が信じているかどうかがわからなくなってしまう―神さまがご覧になる人間は、こんな者なのかもしれません。

神学者カール・バルトは、信仰について繰り返しこう言っています。

信仰を自分のものとして所有することはできない。信仰は神さまから与えられるもので、自分で手に入れるものではないからだ。自分の信仰に確信をもった時、その信仰は腐ってしまう。

厳しく私たちの傲慢を戒める言葉であると同時に、神さまがいつも私たちに新しく信仰を、信じる思い・神さまに憧れる思いを与えてくださると教える希望の言葉です。

神さまは、私たちに「隠れ場」で出会ってくださいます。そして、その信仰を与えてくださいます。

今日の旧約聖書の御言葉は、モーセがシナイ山で神さまから十戒を刻んだ石の板を与えられて、山を下りてきた時のことが語られています。その少し前から読むと、この時に、神さまがどのようにモーセと会ってくださったかがわかります。

お読みしますが、もし一緒に旧約聖書をお開きくださるなら、150ページを開けてください。神さまが、モーセにご自身の「主という名」を宣言されたことが記されています。神さまが、預言者モーセ、ご自身が選ばれたモーセに会ってくださった時のことを、18節からお読みします。

モーセが、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言うと、主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」更に、主は言われた。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」

(出エジプト記33章18-23節)

私たちと神さまは次元が違う、神さまが聖なる方だということは、私たちが神さまの顔を見たら生きていられない、それほどに強烈なことなのです。だから、神さまは、モーセをご自分の栄光が通り過ぎる時にモーセを隠してくださいました。この隠れ場で、モーセは神さまと出会い、神さまを知りました。

そして、今日の箇所では、山から下ってきたモーセ、神さまを知ったモーセの顔が光り輝いていたことが記されています。心に留めたいのは、この時、モーセは自分の顔の光に気づいていなかったことです。この光は、神さまからいただいたものでした。

モーセが欲しいと願って、自らの力で手に入れたものではなかったのです。もし自分で得た顔の光だったら、モーセがそれに気づかないはずがありません。

先ほどご紹介したバルトの言葉を思い起こしてください。

-信仰を自分のものとして所有することはできない。信仰は神さまから与えられるもので、自分で手に入れるものではないからだ。

モーセの顔の光は、神さまがくださった信仰の光・神さまを信じていただく栄光と祝福の光だったのです。

私たちも「隠れ場」で、神さまとの出会いをいただきたい ―そう願います。けれど、その「隠れ場」はいったいどこにあるのでしょう。

先ほどお読みした御言葉の18節で、モーセは神さまに「あなたのご栄光をお示しください」と願いました。あなたのご栄光。これは身近な言葉で言えば「神さまのすばらしさ・ものすごさ」、少し気取ったと申しますか、神学用語を用いれば「神さまの超越性・神さまが人間を超越している、そのしるし」と言えましょう。説教の始めに申し上げた言葉で言えば、「神さまが聖なる方」だということです。旧約聖書の世界では、モーセをはじめとする、神さまに選ばれた特別な人々・預言者しか、その栄光をいただく「隠れ場」へ招かれることがありませんでした。

イエス様は、「最後の預言者」と言われることがあります。福音書には、これは、四つある福音書のどれでもそうですが、イエス様がたびたび弟子たちから離れ、人里離れたところ、たいていは山で過ごすひとときを持たれたことが記してあります。イエス様は、父なる神さまと過ごすために、「隠れ場」へ行かれたのです。そこで、神さまと語り合う祈りの時を持たれたのでしょう。

今日の新約聖書の聖書箇所、ルカによる福音書9章で、イエス様はこの「隠れ場」に、弟子たちを連れて行かれました。この時、イエス様はあえて、一人になろうとなさらなかったのです。

それは弟子たちを真実へと導くため、言い換えれば、弟子である私たちをも、真理を通して父なる神さまへと導くためでした。

イエス様はペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人を連れて山に登り、祈られました。そして、イエス様ご自身が神さまであることが、ここではっきりと示されました。モーセは、神さまに出会って顔に光をいただきました。その光は受けたもの・授かったものでした。ここではイエス様ご自身の顔の様子が変わり、服が真っ白に輝き、イエス様自らが光り輝いたことが語られています。ヨハネ福音書が語るように、光であるイエス様が、ご自身を現わされ、示されたのです。

モーセとエリヤ、二人の預言者が現れ、イエス様と語り合いました。語っていた内容は、イエス様がエルサレムで十字架に架かって最期を迎えることでした。イエス様が神さまであること、それは、この受難節の説教の中で何度も繰り返し申し上げているように、十字架の出来事で表されたのです。それが、この箇所からもよくわかります。

そして、弟子たちは天の父の声を聴きました。35節です。御声は、こう語られました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」そして、気づけば、そこにはイエス様、ふだんのとおりのイエス様お一人がおられました。

旧約聖書の世界、イエス様がまだおいでにならなかった時には、人は選ばれた預言者を通してしか、神さまを知ることができませんでした。預言者は隠れ場に招かれて、神さまを知ったのです。

しかし、神さまはイエス様を通して、ご自身に通じる道を通してくださいました。旧約聖書が語る隠れ場にあたるところに、イエス様お一人がおられる、それが弟子たちに示されました。私たちには、信仰を与えられる「隠れ場」、神さまとの出会いの場として、イエス様が与えられているのです。

私たちは、神さまを自分の力で信じようとしても、信じることはできません。神さまを信じるとは、神さまがおいでになって、自分がいて、そこに出会いがあるということです。いくら恋愛がしたいと思っても、いくら結婚したいと思っても、相手がいなくてはどうにもならないのとまったく同じです。出会わせてくださいと、神さまに祈ることなしに、遮二無二、自分一人で頑張っても、信仰の安らぎと平安は与えられません。

しかし、十字架の出来事で、イエス様が私たちひとりひとりを、ご自分の命を捨てるほどに愛してくださったことを知る時、私たちは神さまの愛を知ります。神さまが真実におられることを知り、信じようとするのではなく、信じずにはいられなくなるのです。

私たちの隠れ場、すべての敵から守られ、完全な平安のうちにおかれるところは、イエス様です。神さまを知る喜びと、愛されている幸い、自分のすべてをゆだねる安心・平安は、イエス様を思う時に与えられます。瞬間、瞬間ごとに新しく与えられます。いつも新鮮な聖なる方への憧れ・神さまへのいきいきとした信仰を、今週も瞬間、瞬間ごとにいただいて、進み行きましょう。

2019年3月24日

説教題:自分の十字架を背負って

聖 書:イザヤ書63章7-14節、ルカによる福音書19章18-24節

イエスは…… 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについてきたい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。

(ルカによる福音書19章21-24章)

受難節・レントに入りまして、三回目の主の日を迎えました。今日の聖書箇所をご覧になって、受難節なのに、と思われた方は少なくないかもしれません。確かに、今日の御言葉は、イエス様の十字架の出来事を直接語ってはおりません。しかし、聖書はどこのページを開いても、イエス様の十字架のみわざとご復活に集約されてゆきます。

すでに何度もご紹介したエピソードですが、20世紀最大の神学者と言われるカール・バルトは、ある時、あるインタビューでこんな質問をされたそうです。「聖書全巻66書を、要約してください。」バルトは、その無茶な問いにひと言で応えました。それは、おそらく多くの方が親しんでおられる、こども讃美歌の歌い始めの歌詞です。「主、我を愛す。」このひと言でした。「神さまは、私を愛してくださっている。」これが、バルトが聖書が伝える究極のメッセージと考えた事柄です。

私たちの神さまは、十字架で命を捨てるほどに私を愛し、死から救い、復活で永遠の命をお示しくださいました。今、私は敢えて「神さまは“私たちを”愛し」と申しませんでした。神さまが 聖書を通し、聖霊を通して、主の十字架の出来事とご復活で伝えようとされることは“人類の文化に良い影響を与える、人類にとってプラスになる考え方”というようなものではありません。神さまがそこまで酷い犠牲を払って愛されている事実は、私たち個人個人の生き方に、決定的に正しく豊かな方向付けを与えます。なくてはならないものなのです。

薬円台教会の週報に、「今週の祈祷課題」という欄があります。

この欄に、今年の受難節は、こんな課題を掲げています。「教会員・求道中の方・牧師、皆が より深く正しく 主の救いのみわざを味わい知る恵みに与るように。」こう記しましたとおりに、イエス様の十字架のみわざ・その救いのみわざの意味と恵みを「知る」ことを祈りたいと思っています。

これを受難節の祈りといたしましたのは、神さまは十字架の出来事とご復活を通して、最も鮮やかに、くっきりとご自身を示してくださっているからです。十字架の出来事であるご受難とご復活を知ることで、神さまを知り、神さまを知ることで、私たちは大きな恵みに満たされます。その喜びを戴けるように。それが教会の祈りです。

“教理” – これは、教えるという字に、理科の理と書いて“教理” と読む言葉です・言葉は良くないかもしれませんが、“信仰の理屈”と言えるかもしれません – 一度、この教理を学んで覚えたから、神さまを知ったというのでは、ありません。今は卒業式シーズンですが、信仰生活・教会生活に卒業は有り得ません。神さまはあまりに大きく、あまりにすばらしく、私たちはこの方を知り尽くすことなど到底できないからです。私たちひとりひとりが、牧師も含めて、皆で、教会として、神さまを今日よりも明日、明日よりも今日、神さまが自分をどれほど大切に思ってくださっているかを知って行きたいのです。

主を知りたい、この祈りを共に祈る教会として、あらためて、今日のルカによる福音書の御言葉を、ご一緒に読みましょう。特にじっくりと考えつつ、言葉を追いたいのは20節からです。イエス様は、弟子たちに尋ねました。「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか。」これは、イエス様が今、直接、私たちに問いかけている言葉です。

皆さんは、イエス様にそう聞かれたら、何と答えるでしょう。

イエス様にこう尋ねられて、今日の聖書箇所の中では、イエス様の一番弟子・ペトロは、答えました。「神からのメシアです。」「神さまが、この世に遣わされたメシア・救い主・キリストです」と答えたのです。正しい答えでした。この時、ペトロは弟子たち – これは後に使徒と呼ばれるようになる10人、この時はまだ裏切り者ユダもいましたから、12人を代表して答えただけではありませんでした。弟子とは、イエス様の後をついて、イエス様にならって進む者のことですから、私たちもイエス様の弟子です。ペトロは、今、ここにいる私たち皆を代表して、イエス様に「あなたは救い主キリストです」と答えたのです。

今日の旧約聖書の御言葉には、救い主とはどなたかが、明確に語られています。司式者がお読みくださいましたが、その箇所を、今一度お読みします。イザヤ書63章8節からです。「主は言われた。彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。」この「彼ら」は、神の民をさしますから“私たち”と読み替えて良いでしょう。読み替えてお読みします。「そして主は“私たち”の救い主となられた。“私たち”の苦難を常にご自分の苦難とし 御前に仕える御使いによって“私たち”を救い 愛と憐れみをもって“私たち”を贖い 昔から常に “私たち”を負い、“私たち”を担ってくださった。」

私たちは、教理が語るとおりに、ペトロのように「イエス様は、私の救い主です。十字架のみわざで私をお救いくださり、永遠の命をくださいました」と言葉で応えることは、比較的 たやすくできると思います。薬円台教会は、毎回、主の日のたびに、日本基督教団信仰告白を全て、始めから終わりまで、声を合わせて読みますので、言葉として、口に馴染み、体にしみこんでいるかもしれません。少し意地悪な言い方をすると、かけ算の九九の暗唱のように体が覚えているかもしれないのです。

そうではなく、イエス様は、私たちがひとりひとり「この私にとってどのような方か、どんな時に私を救ってくださった方か」を知りたいと思われているのではないでしょうか。「救い主」という“覚えている言葉”としてではなく、神さまと自分との体験として答えることを、イエス様は望んでおられます。

話が飛びますが、「母の日」という日があります。アメリカの教会学校から始まった習慣で、日本でも5月の第2日曜日がその日です。その日が近くなると、今はしているのかどうか、わかりませんが、私が幼かった頃、幼稚園ではお母さんにプレゼントする似顔絵を、先生が子どもたちに描かせました。私が小学校の頃、「お母さんへの感謝」として、お手紙を国語の時間に、作文として書いたのを覚えています。似顔絵も、お手紙も、子どもたちが、それぞれお母さんのことをどう見ているか、お母さん! ママ!と呼びたい時はどんな時かを、心で確かめることになります。それが、自分の母を知ることになります。

今は「父の日」もありますから、同じように、子どもさんはそれぞれのお父さんを知るのです。

子どもさんが、お母さん・お父さんは、そう言えばどんなお顔で私を・僕をみつめてくれるか、何をしてくれるかをあらためて思い出し、お母さん・お父さんをあらためて知って、お母さん大好き! お父さん大好き!と心から声を挙げるのです。

私たちが「天の父、神さま・イエス様を知る・自分にとって どなたかを知る」とは、それと似たことだと考えて良いでしょう。

「イエス様を知る、神さまを知る」ということを、私たちはよく、大きく間違えて考えてしまいます。教会に通い始めて少したった方から、私は時々、このようなことを伺います。聖書に書いてあることがどこまで本当だかわからない、イエス様が本当にこのようなことを言ったりなさったりしたのか、全部を信じられないから、神さまを、またイエス様を信じることができない、どうすれば良いのでしょう。

「信じる」という言葉。この言葉には二通りの意味があります。

ひとつは、証拠や根拠を自分のこの目で見て、自分のこの手で触って確認して、または自分に理解できる筋道・理屈で納得して「信じる」ことです。私たち人間が、神さま・イエス様のなさったことや言葉が信じられないと思うのは、自分の目で、自分の手で確認し、自分の小さな知性の理解の枠内で、それらを納得することができないからです。神さまが海を二つに分けた奇跡、イエス様が五つのパンと二つの魚で五千人以上の人々の空腹を満たした奇跡を信じることができないから、信仰を持つことができない、どうすればよいのかと思う時、私たちはこの意味での「信じる」という言葉に捕らわれてしまっているのです。

「信じる」には、もうひとつの意味があります。子どもがお母さんを、またお父さんを信じるように、理屈抜きで信頼するという意味の「信じる」です。大好き!という喜びと安心と直結している「信じる」です。信仰は、神さまを、またイエス様を、このように信頼することです。神さまは、人間を愛しているからこそ、奇跡を起こされました。海を二つに分けなければ、イスラエルの民は、再び自由を剥奪され、エジプトの奴隷の身分へと引き戻されてしまったでしょう。彼らを救うために、神さまは海を分けたのです。

私たち人間の力では、海を真二つに分けることはできません。それが超自然的なことにしか思えないから、私たちはそれを人間の視点から「奇跡」と呼ぶのです。そして、愚かしいことに「信じられない」と言うのです。これは、目の悪い人が、目の良い人に見えているものを教えてもらって「信じられない」と言うのによく似ています。

人々が空腹であまりに憐れだから、イエス様は五つのパンと二つの魚で、人々をその惨めさや苦しみから救ってくださいました。どうしてそんなことがお出来になったのか、私たち人間にはどうしても分からないから、私たちは人間の視点から、その出来事を「奇跡」と言うのです。

でも、「奇跡」と呼ばれるそれらの事柄を信じるかどうかは別として、私たちは海を割ってくださり、私たちの飢えを満たしてくださる神さま・イエス様の深い愛を信じます。私たちへの深い愛があったからこそ、神さまは“わたしたちのために”奇跡を起こしてくださったのです。

その愛を信じて主を信頼する時、主を信じる時、私たちは限りない安心・平安をいただけます。

だからこそ、イエス様は、今日のルカ福音書の聖書箇所で、このように言われました。22節をお読みします。イエス様の言葉です。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

イエス様のご受難・十字架の出来事と、三日後の復活は、神さまの愛の表れです。けれど、私たち人間の視点には、自然な事柄として理解できず、受けとめられない事柄です。私たち人間が十字架に架かることには救いの意味はなく、私たち人間が肉体の死を迎えて三日後に生き返ることはないからです。「私たち人間」という次元にとどまっている限り、十字架の御救いと復活は信じることができません。

その「私たち人間」の次元にとどまるとは、言い換えれば「自分」にしがみつくことです。

だからこそ、イエス様はおっしゃってくださいます。23節です。「わたしについてきたい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」あなたには、人間の次元を超える希望と平安を与えたい、だから、わたしについて来なさい、わたしは神さまへ通じる道だから、人間が人間の力では得ることの出来ない安心・平安のあるところへあなたがた人間を導いて行くことができると、イエス様は私たちを招いてくださるのです。

「自分を捨て」とは、無我の境地や無私無欲、悟りの境地を指すのでは、決してありません。自分の目に見えるものにしがみついている、その手を離してごらんなさい・人間の次元を、わたしの後についてくることで超えなさい – 主は、そう言われます。

「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と、イエス様はおっしゃいました。

「自分の十字架」。これも、しばしば自己流にドラマティックに解釈される方がおられます。法に触れるような犯罪とまでいかないけれどやってしまった悪いこと、人間関係をこじれさせてしまうなど、取り返しのつかないこと・深い罪をさすと考えておいでの方が多いのではないでしょうか。人間には解決のつかない苦しみと考える方もおいででしょう。仏教で言うところの「業(ごう)」だと思う方もいるかもしれません。

この「自分の十字架」という言葉は、私たちひとりひとりに「神さまが与えてくださるご計画」と言い換えることができます。イエス様が、神さまのご計画によって十字架に架かられたように、また、十字架を担ってゴルゴタへの道を歩まれたように、私たちもひとりひとり、神さまからのご計画をいただいています。それは、私たちの人生そのものです。困ったことや悲しいことが何も起こらない人生は、ないでしょう。私に、どうしてこんなことが起こるのだろう、としか思えないつらいことが起こるのが、人生です。その問いかけや苦しみや、悲しみをまるごと背負って、けれど荷物を背負った自分にしがみつかないで、荷物ごと、神さまにゆだねなさい。そうイエス様は言われます。

24節で、イエス様は、さらにこうおっしゃいました。お読みします。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」前半は、わかりやすいと思います。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」 - 自分で自分の命を救いたいと思っても、それはできません。当たり前のことを言っておられます。後半は、どうでしょう。「わたしのために命を失う者は、それを救う。」この言葉は、殉教を勧めているように聞こえますが、そうではありません。「わたしのために命を失う者」とは、“わたし、すなわちイエス様に自分の命をゆだねて、自分から命を手放した人”です。

その人の命は、イエス様の御手の中にゆだねられたのですから、救われています。24節で、イエス様は厳しい殉教の道を歩めとおっしっているのではなく、救いの真実を伝えておられます。そして、その救いの真実を突き詰めてゆくと、私たちはそれぞれ、主に献げ尽くす人生を歩むことになるのです。それは、迫害の時代には、確かに殉教というかたちを取ることになったでしょう。

悲劇に思えます。けれど、主に自分のすべてをお任せした者の心は、ただ限りない平安と、復活の希望に満たされていたでしょう。

神さまに愛されていることを、今日、あらためて心に留めましょう。イエス様は、神さまにすっかり自分を預け、お任せしなさいと、今日の御言葉で言われます。今日の、一読すると厳しく聞こえる御言葉には、イエス様のマタイ福音書11章28節の呼びかけが響いています。その御言葉を共に心にいただきましょう。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

わたしたちに、この安らぎと平安、限りなく大きな安心をくださるためにこそ、イエス様は十字架に架かられました。

その恵みを思い、イエス様を思いつつ、この週を過ごしてまいりましょう。

2019年3月17日

説教題:人間の綱、愛のきずな

聖 書:ホセア書11章1-9節、ヨハネによる福音書19章28-30節

まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに 彼らはわたしから去って行き バアルに犠牲をささげ 偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて 歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き 彼らの顎から軛を取り去り 身をかがめて食べさせた。…ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。イスラエルよ お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て フェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。

(ホセア書11章1-9節)

今日の週報で礼拝順序の新約聖書の箇所をご覧になって、あれ?と思われた方がおいでかと思います。前回・3月10日の聖書箇所と同じです。この前の礼拝でも、私たちは新約聖書 ヨハネによる福音書19章28節から30節をいただきました。イエス様が十字架で息を引き取られたことを告げる御言葉を通して、恵みを受けました。その恵みは、まったき神・まったき人、100パーセント神さまであると同時に100パーセント人間であるイエス様が、人間として、天の神さまに従いとおした、ひたむきな信仰を知る恵みでした。

もっとも、その信仰のいちずさ・主への完全な信頼は、私たち人間を超えるものです。私たちはイエス様のような完全な信仰を、貫くことはできないでしょう。しかし、めざす姿を知って進むのと、何が目標かも判らずに闇雲に進むのとでは、気の持ちよう・安心の大きさがまるで違うでしょう。私たちは、十字架の上で「すべては御心のままに成し遂げられた。神さまのご計画が成った。このわたしも、すべてを神さまにゆだねる」と息を引き取られたイエス様を知り、神さまに自分のいっさいをお任せすることこそが信仰だと知って、平安をいただけるのです。それが、先週の礼拝説教でお伝えしたことでした。

今日は、前回と同じ聖書箇所が告げるイエス様の死を皆さまと読みつつ、この時の神さまの御心を聴きたく思います。もとより、私たち人間には、神さまの御心を知ることはできません。しかし、神さまは御言葉を通して、イエス様を通して、また特にイエス様の十字架のみわざとご復活を通して、ご自身を私たちに知らせたいと願っておられます。イエス様が十字架の上で苦しまれ、息を引き取られた時、神さまは何を思っておられたのでしょう。どうして、こんなむごいことが、私たちのための、神さまのご計画だったのでしょう。

イエス様が地上で過ごされた最後の一週間・受難週の出来事を描いた『パッション』という映画があります。比較的 最近 – と申しましても16年前、2004年の映画です。ご覧になった方もおいででしょう。

十字架に架かられたイエス様が息を引き取られた時、そのお姿が真上から映されるシーンがあります。そのイエス様に、上から大きな、大きな水滴・一滴のしずくが落ちてゆきます。この巨大なしずく。それは、神さまの涙です。

神さまは、ご自身のたったひとりのお子様を亡くされました。

わが子を亡くして、神さまは泣かれるのです。

天からの一滴の涙は映画の演出ですが、神さまの嘆きは真実でありましょう。神さまはイエス様の死を嘆かれました。だからこそ、聖書が告げるように、この時、大地は揺らいで地震が起こり、太陽は光を失ったのです。

聖書の神さまを語る時に、他の宗教で崇められている超越的な存在とは異なる特徴として「人格神」という言葉が用いられます。私たちの神さまは人格をお持ちである、人間のように喜怒哀楽が豊かであるというのです。実際には、私たち人間が「神さまに似た姿」に造っていただいたから、喜怒哀楽を備えていると言った方が正しいのですが、「人格神」「ペルソナをお持ちの神」という言い方になってしまいます。

旧約聖書を読むと、神さまの喜怒哀楽が、たいへんよくわかります。

神さまは、人間と真剣に向かい合ってくださり、私たちを愛し、そして怒りや悲しみを露わにされます。

それは、赤ちゃんを相手にするのに少し似通っているかもしれません。私たちは可愛いと思う反面、意思疎通ができなくて困ることがあります。比喩的には、神さまが大人で、私たち人間が赤ちゃんです。意思疎通ができないのは、赤ちゃんが、また私たちが未発達だからです。

生まれたての赤ちゃんを私たちが可愛いと思っても、当の赤ちゃんには、愛されていることがまだよくわからないでしょう。同じように、神さまが人間と向き合って、全力で愛おしんでくださっても、私たちにはそれがわかりません。赤ちゃんは、だんだん成長してわかるようになります。私たちも、信仰が成長して、神さまの愛を受けとめられるようになれば良いのですが、まっすぐに成長しないので、神さまは嘆き、怒りを表されます。人間の親のように、いえ、神さまは 私たちよりももっと強く深い愛と、創造主としての責任感をもって私たちに接してくださいます。だから、厳しく激しく怒るのです。

今日の旧約聖書の御言葉・ホセア書に、神さまの私たち人間への愛の深さが語られています。今日は、新約聖書ではなく、このホセア書の御言葉を中心に聴きましょう。

1節は、そのものずばりの神さまの言葉です。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。」イスラエルの民・ユダヤ人は、エジプトで奴隷でした。ピラミッド建設のためにこき使われていた民族でした。あまりに可哀想なので、神さまが預言者モーセを立てて、奴隷の身分から救ってくださったのです。しかし、まだこの時には、ユダヤ人には国民としての意識も、神さまを自分の神として崇める意識も、十分にはなかったでしょう。信仰的なアイデンティティが育っておらず、自分たちと、他の宗教を信じる人たちの違いが分からなかったのです。これを、神さまは幼かったイスラエル、と呼ばれます。そして、この幼な子のイスラエルを、神さまは本当に親として育ててくださいました。3節には、こう語られています。「エフライムの腕を支えて 歩くことを教えたのは、わたしだ。」親御さんとなられた方は、お子さんがハイハイから「立っち」、伝い歩きから、だんだん自分で歩けるようになるために、手を取って歩かせたご経験をお持ちでしょう。

お子さんと目線も姿勢も合うように膝をついて、後ろ向きにすさって、お子さんの手を引いたことがおありではないでしょうか。

神さまは、イスラエルのために、人間のために、それをしてくださったのです。「しかし」、と御言葉は続きます。「わたしが彼らをいやしたことを 彼らは知らなかった。」養い育て、病になったら癒やし、食べさせる、それらすべての良いことを、神さまが自分たちのためにしてくださっていることを、イスラエルの民は信じようとしませんでした。

私たちには、教会に来て、神さまを知って、自分と自分の人生について初めてわかることがたくさんあります。あの時のあの苦しい体験は神さまを知るためだった、神さまが私を成長させてくださるために、または傲慢にならないために与えてくださった試練なのだと、目からウロコが落ちるように、わかることがあります。

そのようにして、神さまを知ってもなお、イスラエルの民は、いわゆる「御利益(ごりやく)」のありそうな、目に見える偶像を崇めたのです。2節の御言葉「彼らはわたしから去って行き バアルに犠牲をささげ 偶像に香をたいた」、この言葉には、神さまが愛する人間に裏切られたせつなさ・寂しさ・悲しみが滲み出ています。

私たちの神さまが与えてくださるのは、いわゆる御利益では、ありません。人間が信心して、献げ物をしたら、その見返り・報酬として何か願った者を与えて人間の欲を満たすのが御利益ですが、それは私たちが神さまと仰ぐ方が私たちにくださる恵みとは違います。

神さまが与えてくださる恵みとは、人間が神さまを知り、神さまを信頼することでいただける豊かな人生です。そして、人間が、人間同士、互いに喜びながら、生き生きと人生を共に歩んでゆくことです。肉体に終わりが訪れても、死を超える希望を持ち続けることです。

人間が互いを大切にして生きようとする時、私たちは愛し合うと同時に、きまりを守り、正しく生きなければなりません。私たちは、愛と正しさ・愛と正義と二つに分けて言うことしか知りませんが、神さまにあっては、これは一つのものなのです。これを、神さまは人間を互いに結び合うものとして、恵みとして、与えてくださいました。

それが4節に記された神さまの御言葉です。今日は、この御言葉を説教題にもいたしました。神さまは、私たちに「人間の綱、愛のきずな」を与えて導いてくださいます。この「綱・きずな」に従わない時、もつれさせる時、または自ら これを断とうとする時、神さまは私たちを正しく導こうとされます。それは、罪を罰する神さまの怒りとして表されます。

神さまは、7節でこう私たちの背きの罪を嘆かれます。お読みします。「わが民はかたくなにわたしに背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも 助け起こされることは決してない。」しかし、神さまは、私たちを可愛いと思ってくださるあまり、私たちを見捨てて罰を与え、滅ぼすことができません。罰して滅ぼすことが正しく「正義」です。それをなさるのが神さまなのに、神さまは、そうなさいません。

8節で、主はこう言われます。「ああ、エフライムよ。お前を見捨てることができようか。」そして、9節で、こう決断されるのです。「わたしは、もはや怒りに燃えることなく エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。」

「神であり、人間ではない」と神さまは自らおっしゃられます。これはどういうことでしょう。

人間には、正義を貫くことと、愛と平和を保ち続けることが、両立しないことがあります。神さまは、ご自身が、そのような人間ではない、私は神であると宣言されるのです。愛と正義を同時に貫くために、神さまは人には考えつくことも、行うことも不可能な、驚くべきご計画を立てられました。

私たち人間は、ひとりひとり、皆、神さまからそれぞれの命と人生を与えられて、ひとりひとり、別に造られています。かけがえのない、この世にたったひとりしかいない私であり、皆さんおひとりひとりです。だから、互いに身代わりになることができません。

そして、神さまは、何でもおできになる方です。そのお力を用いて、神さまはご自身が私たちの身代わりとなってくださったのです。神さまだけが、私たちの身代わりになることがおできだからです。

逆説と申せば、こんな逆説はありません。それを成し遂げるために、神さまはご自身と一体の独り子イエス様をこの世に遣わし、私たちの身代わりとして十字架に架けられました。

これこそが、神さまにしかおできになれない、愛と正義の両立でした。神さまにしか耐えることのできない苦難であり、悲しみでした。その悲嘆と苦痛が、イエス様の十字架です。

イエス様の十字架の苦しみは、天の父の苦しみでもあるのです。

それほどまでにして、神さまは私たちを罪から救い出してくださいたいと思われました。罪は、神さまから背き離れていることです。神さまと、他の人々と、愛で結ばれて、人間の綱・愛のきずなをいただいているのに、神さまにも、他の人に対しても、心を向けることができないということです。もう少し言ってしまうと、関心の中心が、いつも自分自身にあるということです。

当たり前ではないか、と思われる方が多いことでありましょう。自分の関心の中心が、自分になくて、何が人間かと反発が来そうです。人間は、基本的には自分自身にしか関心が持てないものなのだと、逆に教えられてしまいそうです。この「当たり前」が聖書の語る罪です。

神さまが私たちにくださった人間の綱・愛のきずなは、私たちに、この人間の基本・人間の限界を超えるようにと招いてくださいます。恨みたい人・憎みたい人・赦せない事柄を、恨まず、憎まず、赦すように。天の父は御子を失う悲しみの中で、御子イエス様は十字架の上で血を流しながら、こうして私たちをより豊かな人生と平安へと招いてくださいます。人間が人間の当たり前を超えて、主の愛を信じることに、人間が当たり前だと思う死を超える復活があります。永遠の命があります。受難節のこの時を、その復活の日を心待ちにしつつ、今週も歩んでまいりましょう。

2019年3月10日

説教題:成し遂げられた

聖 書:ミカ書7章8-10節、ヨハネによる福音書19章28-30節

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

(ヨハネによる福音書19章28-30節)

先週3月6日は灰の水曜日でした。教会の暦は、この日から受難節・レントに入ります。六週間にわたり、イエス様が十字架で私たちの救いのために苦しんでくださったことを思い、ご復活の日・イースターを待ち望みます。

今年の受難節は、主の日の礼拝で続けて読んでいるマタイ福音書に加え、私たちが与えられている他の福音書から、イエス様の十字架の死を伝える御言葉を聴きたいと思います。

マタイによる福音書では、二週間前の礼拝でご一緒に読みましたとおりに、イエス様が十字架の上で最後に語られたのは、このお言葉でした。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになるのですか」。

これが詩編22編の始めの言葉であり、ただこの言葉を言っただけで、神さまを讃美する詩編22編全体をさすことを、あの時の説教で皆さまにお伝えしました。イエス様は、神さまに恨み言をおっしゃって地上の命を終えたのではなかったのです。イエス様は、エリ、エリと始まるこの言葉を言われた後、大声で叫ばれて、息を引き取られたのです。 何を大声で叫ばれたのかは、マタイ福音書には記されていません。

他の福音書、ルカによる福音書を見ますと、そこには、イエス様が大声で叫ばれた言葉が、こう伝えられています。「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。」(ルカ23:46)

今日、この礼拝の御言葉としていただいているヨハネによる福音書は、イエス様の地上の最後の言葉をこのように伝えています。「イエスは、このぶどう酒を受け取ると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(19:30)

成し遂げられた。イエス様のこの言葉が「成し遂げた」ではないことを、心に留めましょう。イエス様は、ご自分が十字架の上で救いのみわざを成し遂げた、とはおっしゃいませんでした。このみわざを「成し遂げた」のはどなたでしょう。

「成し遂げた」ではなく、「成し遂げられた」とおっしゃったことに、イエス様の強いお気持ちが現れています。御業を行ったのは、自分ではない、天の父・主なる神さまだと、イエス様はこのひと言で言い表されました。あまりに人々に慕われ愛されたので、悪意を抱いたユダヤ社会の指導者たちのために、苦しみと辱めを一身に受けて、十字架で死なれたのは、確かに他ならぬイエス様、この方でした。しかし、その死は、私たち人間の罪を葬るための神さまのご計画のうちにあったのです。

イエス様は、ゲッセマネの園で逮捕される直前に、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と、祈られました。ご自身の願いではなく、神さまのご計画が成し遂げられることを祈られたのです。

その祈りはかなえられました。イエス様ご自身の十字架の死により、神さまの御心・ご計画が成し遂げられました。

今日の御言葉が伝えるイエス様の最後の御言葉「成し遂げられた」。この言葉は、イエス様が、神さまのご計画の成就を喜び、ご自分が使命を果たし終えたことをかみしめる、深い平安の言葉なのです。

イエス様がこの世で過ごされたのは33年だったと言われています。

そのうち、「公生涯」は三年間でした。「公生涯」は、公の生涯と書きますが、イエス様がナザレの大工さんとしての仕事をやめて、天の父・神さまを伝える伝道者として働かれたことをさします。

この三年間、イエス様は、こんにち、世界宗教として最も多くの人々が信じるキリスト教のいしずえとなる伝道活動をされました。大きな、大きなお働きです。それがたった三年間だったということを思うと、私たちはあらためて驚かされます。大きなお働きがわずか三年間で為されたのは、もちろん、イエス様が神さまの御子だという事実があります。人であると同時に神さまとして、この世においでくださったイエス様は、人をはるかに超えるお力をお持ちでした。神さまとして、イエス様が為されたことだから、三年という短い年月で成し遂げられたのです。その一方で、イエス様がこの三年を、人として、人間として、ある一貫したお心で走り通したからこそ、神さまの御心は、この地上で私たちの目に見え、理解できるかたちで表されたのです。

イエス様の一貫したお心。ひとすじの心。それは、今日の「神さまのご計画が成し遂げられた」という最後の言葉に表されています。神さまのご計画、その御心にひたすら導かれ、神さまを完全に信頼し、徹底的に従った - それが、人間としてのイエス様の信仰生活だったのです。このイエス様の神さまへの全幅の信頼、完全に神さまにゆだねるという信仰の姿勢を、私たちは決して忘れてはなりません。

イエス様は、ご自分のことを「神の子」とおっしゃらず、「人の子」とおっしゃいました。それは、神さまの御子でありながら、人として生き、私たちと同じ信仰者として生きたことを私たちに示してくださるためでした。

キリスト教は、ユダヤの人々が崇めていた天の神様の愛を、イエス様が、それまでの誤解を覆し、正しい理解を新しい言葉で人々に伝えることで始まりました。世界史・歴史の言葉を用いれば、イエス様は当時の新しい宗教だったキリスト教の「開祖」ということになります。

多くの新興宗教で見られるのは、開祖の神格化です。この現代の日本でも、本当につい最近、オウム真理教の事件がありました。人間に過ぎない開祖が崇められ、異常な事件にまで発展してしまいました。イエス様は、人間の本性と申しますか、人間が神になりたいと願っているこの貪欲な心の闇を知り尽くしておられます。だからこそ、ご自身が本当に神さまの御子であるにもかかわらず、開祖が神格化されては決してならないと、ご自分を「人の子」とおっしゃられました。ご自分への崇拝を喜ばず、地上の命の最後の三年間、ただひたすら天の父を指し示す生き方・信仰生活を貫かれたのです。

特に、ヨハネによる福音書には、そのイエス様の信仰の姿勢を伝える言葉が多く記されています。天のお父様・神さまこそが私たちが見上げるべき方であるかを示す言葉、そしてイエス様は、その通り道・「しもべ」に過ぎないと強調するイエス様の言葉を、たくさん読み取ることができます。

その中から、いくつかをご紹介します。

良い耳を開き、心を柔らかくして、お聴きください。

5:19「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。」

5:30「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。…わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

6:38「わたしが天から降ってきたのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。」

7:16「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」

7:28〜29「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実である…わたしはその方のもとこあら来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。

8:50「わたしは自分の栄光を求めていない。…栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。」

14:10「わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」

今お読みしたなかで、どんな言葉が皆さまの心に残りましたでしょうか。

イエス様が繰り返し、力をこめておっしゃっているのは、「あなたがた人間が見上げるべき方は、私ではない」ということです。イエス様は、こう言われます。「わたしの力ではない」「わたしの意志ではない」「わたしの教えではない」「わたしの栄光ではない」「わたしの言葉ではない」 - すべて、神さまのものだと、イエス様は言われます。

私たちが、イエス様を見上げるのではなく、天の神さまを見上げるようにと常に導いておられます。

イエス様はご自身を無にされました。ご自分には何の力もない、自分は何者でもない、そう言われたのです。

イエス様のご生涯を歌った讃美歌「まぶねの中に」には、このような歌詞があります。「すべてのものを与えし末に死の他何も報いられで」

この歌詞が告げるように、イエス様は十字架で死なれました。

しかし、すべてを失われたのでしょうか。ご自分を無にして、死という無意味・むなしさの中に吸い込まれてしまったのでしょうか。

いいえ、イエス様は神さまのため、神さまが愛して造られた全ての人間のために、ご自分を与え尽くし、十字架で命さえも捨てられましたが、何も失わなかったのです。むしろ、神さまのために生きることで、イエス様は神さまの愛と知恵、力、正しさ、そしてこれらがもたらす神さまの平和のうちに、一貫した人生を歩まれたのです。そして、命を捨てられて死なれましたが、その死は、そこで終わるものではありませんでした。復活へとつながる死です。一度死ななければ、よみがえりはありません。神さまへの信仰により、平安と希望に満ちたひとすじの人生。イエス様みずからが、地上の命の終わりに、それを言い表されました。それが、今日、説教題として掲げたひとことです。「成し遂げられた」、この言葉です。

イエス様が息を引き取られた時、神殿の幕が真二つに裂けました。イエス様は、その死によって、幕の向こうに隠されていた神さまと、私たちをつなげる道を開いてくださいました。

私たちは、祭司を通してではなく、イエス様のあとに従って、御言葉を通して、それぞれが直接 神さまの恵みを受けることができるようになったのです。「イエス様のあとに従って」とは、イエス様が地上で生きた、その生き様のあとを歩む、イエス様にならうということです。

イエス様の信仰生活のとおりに、すべては自分の力ではない、神さまが与えてくださり、支えてくださるから、この自分があるのだと、神さまひとすじに生きる道へと招かれているのです。

神さまは、イエス様と、父・御子・聖霊のひとつの神さまでおられました。そして、今はイエス様が聖霊として、私たちといつも共においでくださいます。私たちに寄り添い、見守ってくださっています。ですから、私たちは「どうしよう」と一人でうろたえなくて良いのです。「自分で自分の道を、切り開いていかなくてはならない」「ひとりで頑張らなくてはならない」と思い込んで、孤独な出発をしなくてよいのです。先ほどお読みした、イエス様の語られた言葉が告げる姿勢から始めれば良いのです。「わたしの勝手ではない」「わたしひとりの力ではない」「わたしの栄光ではない」。そうおっしゃって、イエス様がご自身のすべてを天の父なる神さまにゆだねられたように、私たちも自分のすべてを、神さまに預けるところから始めれば良いのです。

何かを新しいことを始めようとする時、決断が必要な時、私たちはまず、祈ります。そして、聖書を開きます。御言葉が、私たちの決断を支えてくれます。

私が浜松の三方原病院チャプレン・病院とホスピスの牧師として五年を過ごした頃、こちらの薬円台教会に招かれました。何度もお話ししたことですが、私は病院チャプレンとして一生を過ごすだろうと思っていました。大きな病院にただ一人の牧師で、確かにたいへん過酷な毎日でしたが、満ち足りていました。平安がありました。急に千葉へ招かれて、私に不安がなかったと言えば嘘になります。しかし、教団の神学校であり、私の出身神学校が決めた決断です。私は神さまに身を献げた牧師ですが、さらに献げる思いをあらたにして、長く祈りました。祈りながら、聖書を読みました。

皆さまも、大きな決断を迫られた時、どうぞ聖書を読み、祈ってください。その中で、ご自身に語りかけられているとしか思えない御言葉が与えられます。ことあるたびに、その体験を積むのが,私たちクリスチャンの人生なのです。薬円台教会に招かれた時に、私に与えられたのはこの御言葉でした。使徒言行録18章9節の言葉です。お読みします。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。…この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」

この町とは、船橋市七林町、薬円台教会のある町のことだと、私は信じてここにまいりました。不安や恐れから黙っておらず、福音を語り続けるために、ここに遣わされたのだと信じた時、本当に、本当に深い平安が与えられました。

御言葉にしがみつく、そして、決して天の父への祈りを忘れない。イエス様が貫いたその信仰のお姿を仰ぐ時、私たちも、神さまと共に、神さまに寄り添われて生きる幸いのうちにあります。御手のうちに、安らかに抱かれる大きな、大きな安心があります。平安の人生があるのです。

「成し遂げられた」 - イエス様はお苦しみの中にあっても、神さまの御手のうちに、大きな平安に包まれておられました。

同じ平安の恵みを、十字架のイエス様を通して私たちがいただいていることを胸に、今週、この受難節第一週の歩みを、感謝して進めてまいりましょう。

2019年3月3日

説教題:勇気ある願い

聖 書:創世記23章12-20節、マタイによる福音書27章57-66節

夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。

(マタイによる福音書27章57-60節)

前回の礼拝で、私たちはイエス様が、十字架の上で死なれたことを伝える御言葉をいただきました。イエス様が大声で叫んで息を引き取られると、神の御子の死であったことを現すさまざまなことが起こりました。岩が砕け、地割れが起きるほどの地震が起こり、死者の体が生き返った、そう聖書は語っています。マタイによる福音書には、イエス様の弟子たちが逃げてしまっても、最後まで、女性たちがイエス様に付き従っていたことが記されています。今日の新約聖書の聖書箇所の直前、マタイによる福音書27章55節と56節です。

地震で人々が逃げ惑う中でも、彼女たちはじっと十字架上のイエス様を、また起きていることのすべてを見守っていました。彼女たちは、どうして逃げなかったのでしょう。十字架の見えるところから、動こうとしなかったのでしょう。それは、イエス様が亡くなられた今、地震から逃れても、ローマの兵隊やユダヤの祭司長たちから逃れられても、自分には何の安心も喜びもない、と思っていたからでしょうか。イエス様が失われたことへの絶望と無力感で動くこともできなくなっていたのでしょうか。

いろいろな解釈がある中で、これは!と思えるものがありますので、ご紹介します。女性たちは、55節の後半に記されているように、「ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々」でした。ずっと、イエス様の身の周りのこと、食事のことや衣服のこと、住まいのお掃除をはじめとするこまごまとしたことをしてきたのが、彼女たちでした。そして、イエス様が命の終わりを迎えても、まだ彼女には行うべきことがあったのです。何でしょう。それは、イエス様をたいせつに、心をこめて葬ることです。

看護師として働いた経験から、私は実感として、これからご紹介するこの解釈に最も説得力を感じました。

病院の病室で患者さんが息を引き取られると、医師が最後の脈を取り、瞳孔を調べ、時計を見てご臨終の時刻を確認します。死亡診断書を書くためです。そして、医師・ドクターが患者さんにできるお仕事は、これですべてです。通常、病院で治療のために働くドクターは、患者さんに命がある間だけしか、患者さんと関わりません。患者さんが亡くなってしまうと、もう、ドクターは何もできませんから、そそくさと病室を出て行きます。後に患者さんのお身体と共に残されるのは、ご家族と看護師です。看護師の仕事は、患者さんが息を引き取られて、物言わぬご遺体になってからも、まだまだ続きます。ご家族を慰めながら、ご遺体をきれいに整えるのです。長い闘病生活の間に伸びた髪をきれいにして、おひげをそり、全身を拭いて差し上げます。ご家族が一緒になさることを申し出てくださる場合も少なからずあり、ご生前の思い出話を聞きながら、患者さんのお顔に最後の装いをほどこさせていただきます。

死に化粧、今はエンゼル・ケアと申しますが、それを行って葬りの備えをするまでが、看護師の仕事です。

イエス様が亡くなられた時、女性たちは心をこめて、イエス様の最後の身の周りのお世話をするために、地震からも、恐ろしい現象からも逃げずに、そこにとどまっていたのです。イエス様は、お身体に多くの傷を受け、ご遺体はいたましい様子だったことでしょう。それを、どうしてもきれいにして差し上げたいと、彼女たちは思ったのです。

実に静かで、地味な、そして現実的と申しますか、地に足がついたリアルな心の動きです。

整った葬りをすることがどれほど大切かは、時代を超え、洋の東西を越えて、変わらない私たち人間の真実の思いでありましょう。

シャニダールの花、という言葉を聞いたことのある方がおいでかと思います。比較的最近の映画の題名にもなっています。イラクで、ネアンデルタール人の遺骨と共に、花の花粉がみつかりました。これが、シャニダール4号の墓と呼ばれ、みつかった花粉の花がシャニダールの花と言われています。私たち人間の先祖の「旧人」、ネアンデルタール人たちも仲間が亡くなった時には、死体に花を添えて葬る心を持っていたと、考古学者・人類学者が学説を展開しました。

葬ること、亡くなった方のために悲しみとお別れの儀式を持つことは、これほどに存在する者の根源的な思いであり、大切なことなのです。今日の旧約聖書の御言葉も、かなりの分量と言葉を用いて、ユダヤ民族の父と言われるアブラハムが、その妻サラを、ねんごろに弔おうと墓地となる土地を探し、買い求め、葬ったことが記されています。

イエス様のお世話をした女性たちも、むごたらしく死刑になったイエス様を、最後はしっかりと、心をこめて葬りたいと願いました。

そう願ったのは、女性たちだけではありませんでした。女性たちは、十字架に架けられたまま、放っておかれるイエス様のお身体を、下におろすことができずに、困ったでしょう。ここに、57節から、アリマタヤ出身のヨセフという人が現れます。58節を読みますと、この人がピラトに直々に、イエス様の遺体を渡してくださいと申し出たことがわかります。

安息日直前の夕方のことでした。ユダヤでは一日の始まりを日没としていますから、日が沈むと共に、安息日になってしまいます。家に籠もり、神さまのためだけに自分の時間と存在を献げる時間を持つのが、安息日です。他のことは、用事も、食事の用意などの家事も、もちろん仕事も、何もできなくなります。葬ることは、もちろんできません。ですから、アリマタヤのヨセフは、イエス様の遺体の受け取りを、迅速に申し出たのです。

さっと読んでしまうとわかりにくいかもしれませんが、これはたいへんな勇気と決断力を持たないと、できないことです。

イエス様の遺体を受け取るとは、自分から、私はイエス様を葬るほどに、たとえばこの世の言葉を用いれば、葬儀委員長を引き受けるほどに、親しく 身近な関わりをイエス様と持つ者ですと言い表すことです。弟子たちが、イエス様との関わりを否定し、逃げ去って、ローマ兵に捕まらないようにと、どこかに隠れてしまった時に、アリマタヤのヨセフは、自分はイエス様の弟子だったとわかることを行いました。

マルコによる福音書15章42節には、同じこの事柄を、はっきりとこう記しています。「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。」

彼は、勇気を出したのです。

また、この人はイエス様のために、お墓を献げました。

彼は、お金持ちだったと御言葉は告げています。自分と家族のために、まだ誰も入っていない新しい墓をすでに買い求めていました。お墓は今も昔も、家や土地といった不動産を求めるのと同様、高価なお買い物です。今日の旧約聖書の御言葉で、アブラハムが亡き妻サラのお墓を買う事柄にも、それは表されています。薬円台教会も、ご苦労を重ね、たくさんの献げ物をされて、教会墓地を購入されたのでしょう。苦労しなければ買えないお墓。アリマタヤのヨセフは、イエス様という、この世の、また、その時代の目で見れば一人の死刑囚・この世がいらないとつまはじきにして死に至らしめた者のために、そのお墓を献げました。

勇気ばかりでなく、この人は献げる心・奉仕の心をも備えていたのです。

アリマタヤのヨセフは、この新しい墓にイエス様を納めました。婦人たちと共に、きれいな亜麻布でくるみ、当時の墓は横穴の洞窟ですから、そこに納めたのです。

アリマタヤのヨセフの捨て身の勇気と奉仕の心。イエス様の遺体をきれいに整えようと、実直な思いにあふれた女性たちの勇気と、愛する者のために尽くす心。

聖書は、私たちが彼らを賞賛し、かれらのような勇気と愛と、奉仕の心を持ちなさいと教えようとしているのでしょうか。

マタイによる福音書が私たちに伝えたいメッセージは、それとは少し違うように思います。

もう少し丁寧に、アリマタヤのヨセフの実像を御言葉から読み取ってまいりましょう。この人は、ユダヤ社会の議員で、長老たちの一人でした。しかし、こっそりとイエス様の弟子になっていたのです。この人が、初めから勇気を表していたとは思えません。長老たちは、イエス様を糾弾し、落とし入れて十字架に引き渡しました。この時、このアリマタヤのヨセフは、何も言えませんでした。他の長老たちが、イエス様を十字架に架けようと、さまざまな画策をしている間、この人は、そんなことはやめようと言うことができず、ただ黙っていたのでしょう。しかし、イエス様が亡くなられた時、何もせずに、これ以上じっと黙っていることはできませんでした。心の底からの思いに突き動かされるようにして、勇気をふりしぼり、イエス様の遺体を渡してくださいとピラトに頼んだのです。逮捕されるかもしれないこと、もしかするとイエス様と同じように死刑にされるかもしれないこと、また、この願いによって確実に自分が今まで生きて来たユダヤの社会から弾き出されることをもかえりみずに、イエス様を葬りたいと願いました。

弟子たちが逃げ去った後に、この人が、また弟子たちの背後に隠れていた女性たちが、聖書の御言葉の前面に現れてまいりました。

これは、教会の姿をあらわしています。

私たちは、教会でそれぞれ、神さまから役割をいただいています。具体的には、役員として立てられたり、奏楽者として立てられたり、さまざまな委員会の委員として、イエス様のために働いています。一生懸命、イエス様のため、教会のためと思って仕えていると、私たち人間は、ふとこう思い始めてしまいます。私がお預かりしているこの役割は、私が何かの事情で教会に行けなくなってしまったら、この奉仕そのものが潰えてしまうのではないか。自分が弱くなってしまったら、誰も後を引き受ける人がいないのではないか。

しかし、その心配はないと、今日の聖書は語るのです。

私たちの主は、必ず私たちの弱さを補い、代わる者をお立てくださいます。

イエス様の弟子たちは、イエス様が捕らえられて十字架への道を歩まれていた時、実に弱くなってしまいました。しかし、聖霊の主は働かれて、それまで弱くて何も言えなかったアリマタヤのヨセフを、たいへんに強めてくださったのです。彼に勇気と、奉仕の心を与えてくださいました。また、弟子たちが元気にイエス様と活躍していた頃は、人間的な価値観からすると、それほど伝道のために重要な役割を担っていなかった女性たちが、たいへんな勇気を与えられました。

教会は、こうして誰かが弱っていると、他の誰かが元気を与えられて、一生懸命に主に仕える共同体です。一人で主のために頑張っている人を孤立奮闘させず、互いに支え合うのが、教会という信仰共同体です。こうして、教会は共に支え合って、共に主のために働けることを喜び合いながら、前進してゆくのです。

今日の聖書箇所の後半で、ローマの兵士たちは、イエス様の遺体を弟子たちが盗み出して、イエス様のご復活だと言いふらさないようにと、三日の間、見張りを立てることにしました。

しかし、イエス様は人間の限られた知恵を越えて、預言されたとおりに復活されます。

この限りなく命に満ちた方が、私たち信仰共同体・教会という群れを、いつも命と力で満たしてくださいます。このご復活に主に導かれ、私たちは自分一人で頑張らず、ゆだねて、助け合って、愛し合って、進んでまいりましょう。私たちは、主にあってひとつです。今週も、その恵みを胸に、心を合わせて歩みゆきましょう。

2019年2月24日

説教題:この人は神の子だった

聖 書:レビ記16章11-19節、マタイによる福音書27章45-56節

百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

(マタイによる福音書27章54節)

イエス様が、十字架の上で息を引き取られた – 今日は、その出来事を伝える御言葉をいただいています。十字架上のイエス様の死は、45節から56節まで、12の節によって語られています。ひとつひとつの節を、一回ごとの説教で深く味わい知るべき聖書箇所です。赦しの恵みと、イエス様の愛の深さを一節ごとにいただける箇所です。その中で、今日は特に三つの事柄に焦点を絞って、わたしたちの主を知る恵みにご一緒に与りたいと願います。

最初の事柄をお伝えするにあたって、前回、そして前々回の礼拝で読まれた聖書箇所について、皆さんに思い起こしていただきたいことがあります。前回、前々回の聖書箇所で、イエス様が実際に語られた言葉について、特に思い出していただきたいのです。

イエス様は、ピラトの前で何かおっしゃられたでしょうか。ピラトが群衆に「イエスとバラバ、二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と尋ねた時、イエス様の言葉はあったでしょうか。ローマの兵士たちが、イエス様をあざけりながら いたぶった時、イエス様は何か言葉を言われたでしょうか。思い出してください。または、聖書をお膝の上にお開きの方は、前のページに戻って、56ページの下の段、27章11節の言葉から後、イエス様の言われた言葉があるか、ご覧下さい。

イエス様の言葉。みつかったでしょうか。

なかった。そうでありましょう。イエス様は27章11節でピラトに「それは、あなたが言っていることです」とおっしゃられた後、ずっと沈黙されておいででした。ゴルゴタの丘の上で、手と足を十字架に打ち付けられた時、人々が十字架上のイエス様を罵った時も、言葉も、声すらも発されたという記録は、マタイによる福音書にはありません。

今日の聖書箇所の中、50節で息を引き取られるまで、イエス様がおっしゃられた言葉は、40節に記されている言葉ただひと言です。

40節をお読みします。「『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」ただ、これだけです。

イエス様の沈黙。聖書はそれによって、何を伝えようとしているのでしょう。

「神さまの沈黙」という言葉は、文学や哲学といった人間的な学問領域でしばしば耳にいたします。いくら祈っても、神さまは、それに答えてくださらない。沈黙されている。似た表現は詩編の中にありますが、少し違うように思います。文学や哲学が「神の沈黙」という言葉を用いた時には、本当に助けていただきたい時に助けてくださらない神・かたわらにおいでくださって、慰めていただきたい時に、黙っておられるのでいるかいないかわからない神・悩み迷っていて答えが欲しいのに、何も教えてくださらない神。そういう意味でしょう。

しかし、私たちは、ここで少し自らをみつめなければならないでしょう。私たちは、本当に神さまの声、神さまの言葉を聞き取る良い耳を持っているでしょうか。私たちの耳は、生理学的にも、聞きたい声や事柄を選び取って、それを集中して聴き取るようにできています。幼い子供が、騒音が響く中でも、自分を呼ぶ母親の声を聞きわけることが出来るのは、そのためです。聞きたい声と言葉を聞き取る耳を私たちは持っています。神さまの助け、愛は人の思いを越えて語りかけられますから、私たちは聴き取ることができないのです。

さて、今一度、イエス様の沈黙の意味を考えなければなりません。イエス様が何もおっしゃらなかったのは、言葉をご自分のために使おうとされなかったからです。ご自身が十字架に架からなくてもよいように自己弁護をしたり、いかなる理性をもって考えても バラバが十字架に架かる方が適当だと解説したりは、いっさいなさいませんでした。ご自分は私たち人間の代わりに、十字架に架かって死ななくては救いが成就しないので、それを妨げるいっさいの言葉をおっしゃらなかったのです。イエス様の沈黙は、私たち人間への深い愛と、神さまへの完全な従順を現しています。

それでは、マタイによる福音書が告げる、十字架上でイエス様がおっしゃられたたったひと言。大声で叫んだひと言は、私たちに何を伝えているのでしょう。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」46節に記されているこの言葉は、イエス様が日常的に用いられていたヒブル語の方言、アラム語です。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか。」そういう意味です。

ここだけを読むと、イエス様が神さまに恨み言を言っているようにしか思えません。私を見捨てて、あなたがお造りになった人間たちを救われるのですね、私は捨て駒なのですね、あなたのたった一人の子どもなのに。そうではないのです。

この言葉は、詩編22編の最初の言葉です。

当時、ユダヤ人の家に生まれた子ども、特に男の子は六歳になると聖書、私たちが持っている聖書の旧約聖書の部分ですが、その中の律法を中心に、すべてを覚えさせられました。

それが、ユダヤの教育だったのです。ですから、ユダヤ人であれば、イエス様が「エリ、エリ、…」と叫ばれた時に、すぐに、あれは詩編22編の言葉だとわかったのです。イエス様は、十字架上で力尽きようとされていましたから、22編のすべてを語ることはおできになりませんでした。しかし、22編をすべて語って、それをご自身の祈りとして、地上の命のある中での最後の言葉として神さまに献げられました。

前回の礼拝で、私たちは旧約聖書の詩編22編をいただいたのですが、触れる機会がありませんでした。

今日は、開いてみましょう。耳を傾けたい御言葉はお読みしますので、手元に聖書をお持ちでない方は、どうぞお耳を開いてください。旧約聖書の852ページです。

1節から3節は、苦しみの中にいる者が、自分は神さまに見捨てられたように、御声を聴き取ることができない、あなたの恵みを受けとれないと嘆きます。しかし、すぐに4節で、「だが」と、それは打ち消されています。6節は「神さまに見捨てられる」という語り出しとは、つまり、イエス様が十字架の上で叫んだ「エリ、エリ」の言葉とは、まったく逆のことが語られています。お読みします。「助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。」イエス様は、ご自身が全幅の信頼をおいている天の父に、この詩編の言葉を通して「あなたは裏切ることのない方」と、ご自身の思いを語られ、神さまを讃美されたのです。

22編は、十字架に架かられたイエス様の事柄を、そのまま謳っています。預言の言葉です。9節をご覧ください。十字架上のイエス様が人々に罵られたのと、同じ言葉がここにあります。8節からお読みします。8節「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。』」

十字架に架けられる前、イエス様の衣服をローマ兵がくじ引きで分け合ったところも、詩編22編には、こう記されています。19節です。主語は17節の「犬ども」「さいなむ者」です。彼らは19節のように「わたしの着物を分け 衣を取ろうとしてくじを引く」のです。

聖書の言葉、教会の言葉、クリスチャンに特有の言葉に「証し」があります。大和言葉で「証し」と申しますから、たいへん特殊な言葉に聞こえますが、もともとは裁判用語・法廷用語の「証言」です。英語ではtestimony です。私はこれこれのことを、確かに目撃した。体験した。それが法廷用語で言う証言です。クリスチャンの言葉として、私たちは「証し」「証言」を、神さまの恵みを確かに体験した、それを言い表すために用います。

薬円台教会でも、一年に一度、「信徒の証し」として礼拝で、説教の前に「証し」を立てていただきます。今年度は中原さんに語っていただいて、たいへん恵まれました。神さまが愛して、この自分に与えてくださった人生が、どれほど喜びと恵みにあふれているかを語る、そして神さまに感謝を献げ、神さまを誉め讃えるのが「証し」です。

この詩編22編は、イエス様の「証し」です。イエス様が歩まれた苦難の道が、今 お話ししたように語られ、そして、讃美が献げられます。22節をお読みします。「貧しい人は食べて満ち足り 主を尋ね求める人は主を賛美します。」さらに、ここにはイエス様のご復活も、語られているのです。30節の最後の行をご覧ください。「わたしの魂は必ず命を得」。イエス様は、天の父が 十字架での出来事の後に、イエス様をご復活されることも確信しておられ、この詩編22編を、地上の最後の言葉として語られました。

イエス様は、十字架の上で、主への深い愛と感謝、そして主を賛美する「証し」を献げられた。これが、今日の第一のメッセージです。

今日の二つ目の事柄として注目したいのが、今日のマタイによる福音書27章51節の御言葉です。ここには、このように語られています。「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真二つに裂けた。」

イエス様の死が、神さまと私たちを隔てる幕を取り去ってくださいました。

神殿の幕が何のためにあったのかを、今日の旧約聖書レビ記の言葉が語っています。また、この幕は、私たちが、私たちの罪の汚れによって聖なる神さまから隔てられていることを現しています。私たちは罪で汚れているから、神さまに近づけない、神さまのことを知ることができない、神さまを理解できないのです。しかし、この罪を、イエス様が十字架ですべて背負い、贖ってくださいました。罪が覆われたことにより、幕は裂け、別の次元におられる神さまが、御言葉を通して、またご復活のイエス様 – ご復活のイエス様のことを「聖霊」と言い換えても良いでしょう - を通して、ご自身を私たちに、明らかに現してくださるようになったのです。だから、私たちは、もう旧約聖書・今日のレビ記に語られている祭司を必要としません。

こうして、イエス様は、ご自身を通して、ご自身を道として、通り道として、天の父と私たちを直接つないでくださいました。イエス様は、神さまと私たちをつなぐ橋になってくださったのです。

イエス様が、このようになさってくださったので、私たちがいただけるようになった恵みが、今日、お伝えすべき最後のこと、第三の事柄です。

ここで、皆さんにご一緒に考えていただきたいことがあります。

54節をご覧ください。今日の説教題は、この聖句からいただいています。54節をお読みします。「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れ、『この人は本当に神の子だった』と言った。」

この「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たち」とは、誰でしょう。ここに初めて登場した人たちでしょうか。さっと聖書を読むと、そのように理解されると思います。しかし、実は、私たちが読んできた前回の御言葉の中に、すでにこの人たちは登場しています。

この人たちは、ピラトがイエス様を引き渡した、その兵士たちです。兵隊は秩序の元にありますから、ならず者のようにイエス様をいたぶったとしても、ある一部隊、この百人隊長に率いられた一部隊だったのです。彼らが、イエス様が十字架で亡くなってゆくのを見て、ハッと真実に気付いた。それが、この「この人は本当に神の子だった」という言葉です。彼らは非常に恐れた、と記されていますが、この恐れは恐怖よりも、神さまを神さまとして知る畏れの心、神さまを敬う心でしょう。ならず者のような兵士たち、イエス様をいたぶった者たちが、最初に心を強く動かされ、イエス様の真実を知ることができたのです。「この人は本当に神の子だった。」これは、信仰を告白する言葉です。そして、私たちは、どなたが自分の人生を確かに導いてくださる方かを知って、信仰を告白できる時、まことの平安と希望をいただけるのです。

私たちの主を深く知り、神さまの愛と、私たちの罪のために命を捨ててくださったイエス様の十字架のみわざを深く感謝して、日々、どなたが私たちを導いてくださる主か、祈り、確かめながら歩みましょう。救われた恵みを一日、また一日と感謝して進む一週間を、今週も過ごしてまいりましょう。

2019年2月17日

説教題:主は人々の救いのために

聖 書:詩編22編1-6節、マタイによる福音書27章27-44節

折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りてこい。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

(マタイによる福音書27章38-44節)

今日のマタイ福音書の朗読を聞いて、ああ、と胸の痛みを感じた方は少なからずおられると思います。ああ、とうとうこの箇所まで来てしまった。とうとう、イエス様が十字架に架けられる時が来てしまった。

前回の礼拝説教で、イエス様が死刑判決を受けた箇所をご一緒に読みました。ローマの総督ピラトは、ユダヤの祭司長や長老たちに扇動された群衆の声に押し切られるように、イエス様が無罪とわかっていながら死刑を宣告しました。その後、イエス様は死刑囚として鞭打たれ、ユダヤ人たちからローマの兵士たちに引き渡されました。

前回の聖書箇所の半ばで、ピラトがイエス様について、非常に不思議に思ったことが記されてありました。イエス様がご自身について、ひとことも弁明・釈明をしようとしないことに、ピラトはたいへん驚いたのです。イエス様は今日の箇所でも、ずっと沈黙を貫いておられます。ピラトがイエス様の沈黙を不思議に思ったのは、これまで幾多の裁判で判決をくだしてきた経験からでしょう。

当たり前のことですが、死刑判決がくだされるとは、被告にとっては命が奪われることを意味します。本当に犯罪を犯していても、被告は死にたくないですから、自分はやってないとわめくことが多かったのではないでしょうか。命乞いをすることもあったでしょう。

まして、犯罪を犯していない無罪の人ならば、なおさらです。

皆さんも、悪いことをしていないのに、やったように人に言われたら、どんなにおとなしい方でも声を上げるのではないでしょうか。それは違う、わたしはやっていないと必死になって誤解を解こうとするでしょう。無罪の人が死刑判決を受けて、自分は やっていない、それは違うと叫ぶのは、死にたくないという気持ちよりも、悪者とされて汚名を着せられたままで終わりたくないという、自尊心にかかわる思いの方が強いでありましょう。ピラトの常識では、人間としての誇りと申しましょうか、矜恃・自尊心・自負心のようなものが少しでもあれば、ここで黙っているなどということはありえなかったのです。だから、彼はイエス様の沈黙にたいへん驚きました。

今日の聖書箇所で、イエス様はローマの兵士たちにひどく侮辱されます。そして、ひと言も何もおっしゃいません。ただ、ただ、されるがままになっておられます。ローマ兵たちは、イエス様のことを何と情けない男だと思ったかもしれません。

もちろん、それは大きな考え違いです。

私たちは、イエス様のゲツセマネでの祈りを知っています。イエス様は「私の願いどおりではなく、御心のままに」と祈りました。天の父の御心が成りますように、神さまが計画されたとおりになりますようにと祈り願ったのです。神さまのご計画とは、イエス様が人々の代わりに、人々の罪をすべて背負って十字架に架かられることでした。イエス様は、それをいっさい妨げないように、ひと言も何も言われなかったのです。

このように、イエス様は、神さまに徹底して忠実に従われたのです。

ピラトは、それを知りませんでした。ローマ兵たちも、知りませんでした。また、イエス様を「十字架につけろ」と叫んだユダヤ人たちも、知りませんでした。

私たちも、聖書を こうして礼拝の中でじっくりと読まなければ、このことを心と魂で知ることなく済ませてしまうかもしれません。イエス様が天の父・神さまと思いをぴったりとひとつにされ、ご自分のことをいっさい思わず、救いのみわざを成し遂げられたことの重みと深さを、あらためて今日、それぞれ受けとめて感謝したく思います。

そして、私たちが、人間が、イエス様が私たちのためにどれほど忍耐してくださったか、それほどに私たちを愛してくださったかを知らないか、その無知をも、自分たちの姿としてしっかり心に刻んでおきたいと思うのです。

人間が神さまの愛・イエス様の慈しみを知らずに、どんな罪深いことをしてしまうかは、今日の聖書箇所のローマ兵を通して描かれています。ローマの兵士たちがイエス様を侮辱する様子は、侮辱を通り越して「いたぶり」です。底意地の悪い「いじめ」です。イエス様の罪・罪状は「ユダヤの王」と名乗ったこととされていました。彼らは、それをからかいの種にしました。

28節から、少し丁寧に読んでまいりましょう。彼らは、イエス様の服をはぎ取り、代わりに赤い外套を着せかけました。ローマの将軍がまとうようなマント、王様らしく見えるマントです。そして、さらに王らしく見えるように冠をかぶせましたが、それはトゲのある茨で編んでありました。乱暴にギュッと抑えつけるようにしてイエス様にかぶせ、茨のトゲはイエス様の額に刺さって血が流れました。心にも、体にも、彼らはイエス様に苦痛を与えました。そして、イエス様を崇める真似をしたのです。ふざけた仕草でイエス様の前にひざまずき、万歳!と言いました。

ここに、神さまがなさることの真実が、強烈な仕方で現れています。

イエス様は、本当に王様の中の王様、King of kingsなのです。

本当に崇められるべき神の子、神さま その方なのです。

ローマの兵士たち自身はイエス様をいたぶって、悪ふざけをしていますが、皮肉なことに、彼らは そうとは知らずに、真実の神さまの前にひざまずき、万歳と崇めていたのです。人間に真実が判っていないとは、何と恥ずかしく、何と惨めなことかと思わずにはいられません。 角度の違うことですが、この箇所から、主は私たちにこうも語りかけておられるように思います。「イエス様ばかりでなく、私たち人間には、お互いの素晴らしさ・大切さも本当には見えていない。」

子どもたちや、若い人たちの間でイジメが問題になってもう長いことになります。イジメは、相手が大切にしている事柄や自尊心を侮辱し、踏みつけにすることで、相手の心をえぐります。イジメをしている者たちには、相手が、神さまに深く愛されて、すばらしい命をいただいて造られたことを知らないのです。自分もまた、そうして神さまに愛されていることを知らないのです。知らない、気付かない、または忘れている。だから、胸の悪くなるような卑劣なイジメをするのです。大浜幼稚園で一週間に一度、子どもたちにイエス様のお話を伝える機会が与えられています。主に導かれて、幼い心に種まきができれば、もう少し大きくなった時に、イジメをする子が一人もあらわれないようにと願っています。また、自分自身をかえりみて、私自身もイエス様の真実のお姿を決して忘れてはいけないと思うのです。

さて、兵士たちは ひとしきりイエス様をなぶりものにすると、仕事を始めました。死刑が執行されるのは、ゴルゴタの丘・「されこうべの場所」と決まっていました。されこうべ・頭蓋骨のような形の小高い丘だったようです。ローマの兵士たちの仕事というのは、死刑囚をここへ引き立ててゆくことでした。死刑囚は、自分が架かることになる十字架を背負って、坂道を昇らなければなりませんでした。

目に見える形でのイエス様の十字架への道行きが、ここから始まりました。この箇所を描いた絵画や映画では、イエス様は十字に組まれた木を担いで歩かれますが、実際は、横木だけを担ぐことになっていたそうです。十字に組んでから死刑囚に担がせようとしても、縦の木が長いので、物理的に無理だからです。しかし、前の夜・木曜の夜から夜通し苦しめられ、鞭打たれ、茨に刺され、葦の棒で殴られて傷ついているイエス様は横木を担ぎ通すことができませんでした。

32節には、キレネ人シモンに、イエス様の十字架を代わりに担がせたことが記されています。キレネは、今のリビアにあったギリシャ都市です。キレネとユダヤはエジプトを間に挟む位置にありますから、このキレネのシモンは、たいへん遠くからエルサレムにやってきた人だったのです。見るからにユダヤの人ではなく、ローマの人でもない、イエス様が死刑になった事情に無関係な人だから、ローマ兵はちょうど良いとばかりに、イエス様の十字架を代わりに無理矢理担がせました。今、私はローマ兵の目には「イエス様が死刑になった事情に無関係な人」と申しました。しかし、後に、このキレネのシモンの息子たちが教会に加わっていることが聖書の他の箇所に記してあります。イエス様の十字架を担いだことで、シモンはイエス様を知り、家族も福音を知るようになったのでしょう。イエス様と無関係な人は、この世に一人もいないことを、マタイによる福音書は実に短い言葉ながら、伝えています。イエス様と無関係な人は、誰一人いないのです。私たちも、イエス様が死刑になった事情に、またイエス様の救いのみわざに無関係ではありません。

こうして、イエス様は十字架につけられました。そして、罵られました。三つのグループから、同じように罵られました。一つ目のグループは、通りがかりの人たちでした。こう言いました。40節です。 「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から、降りてこい。」 「同じように」と、41節は始まっています。ユダヤの祭司長たち、律法学者たち、そして長老たち。これが二つ目のグループです。イエス様を罵り、侮辱しました。「他人は救ったのに、自分は救えない。」43節には、彼らの罵りの言葉が、こう記されています。「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」そして、最後にイエス様の右と左で十字架につけられていた強盗たちも、一緒になって、同じように、イエス様を罵ったのです。三つのグループ。これは人間全体と考えて良いでしょう。

彼らが同じように、十字架上のイエス様に向かって放ったこの罵りの言葉は、人間がイエス様のことをまったくわかっていなかったことを良く示しています。人間、と申しますのは、ここにいる私たちも含めてのことです。私たちはイエス様のことをキリストと申します。私たちが信じているのは、キリスト教です。そして「キリスト」とは、「救い主」という意味です。私たちが信じる神さまは、救ってくださる方だということを、私たちは信じているはずなのです。

しかし「神さま」と言うと、私たちは、人間は、まったく違う何かを勝手に思い描いてしまうのです。それは、祭司長・律法学者・長老たちの罵り言葉にそっくり言い表されています。42節です。「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば(お前が神の子だと)信じてやろう。」この言葉には、神さまというのは、何でも自分の思い通りにできる能力を持っていて、それを自分のために使う存在だという暗黙の解釈が込められています。言ってみれば、人間にはできない奇跡を起こすのが、神さまです。しかし、それでしたら、スーパーマンは神さま、ということになりはしませんでしょうか。魔法使いも、神さまになります。

私たちの神さまは、奇跡を起こされました。イエス様も、奇跡を起こされました。しかし、思い出していただきたいのです。神さまが海を二つに割って、海の底に道を開かれたのは、ご自分のためだったでしょうか。イエス様が二匹の魚と五つのパンで、五千人の空腹を満たされたのは、ご自分のためだったでしょうか。私たちの主が、その全能を用いられるのは、ご自分のためではありません。私たちのためです。だから、イエス様はご自身のために、ご自身を救うために十字架から降りようとはなさらなかったのです。それは、神さまの御心ではありませんでした。祭司長たちは、こう言ってイエス様を罵りました。40節です。「他人は救ったのに、自分は救えない。」

礼拝のふざけた真似ごとをして、イエス様をいたぶったローマの兵士たちとまったく同様に、祭司長たちは、この言葉で、そうとは知らずに神さまの真実を言い表します。何とも不思議な聖霊の働き、くすしき主のみわざ、その深い英知と申す他ありません。この皮肉に、神さまと人間の間に深い谷・断絶があることを、私たちはあらためて感じます。しかし、その断絶を越えて、何も知らずに主を侮辱する人間に、イエス様は手を差し伸べてくださっています。クレバスに、谷に、イエス様はご自身の身を橋にして、神さまと私たちの間の橋渡しをしてくださるのです。十字架の上で。それが天の父の御心でした。

神さまは、私たちの救い主キリスト・イエスは、自分以外の者を救うために、ご自分を捨てる方なのです。私たちを救うために、ご自分の命を捨てられた方が、私たちの神さまでおいでくださるのです。神さまの全能とは、神さまが何でもおできになるとは、私たちのために限りなくご自身を低めてくださることすら、おできになるということなのです。それほどに深い愛をもって、神さまは私たちを愛してくださっています。

御言葉を通して、聖霊をそそがれて、もっともっと、皆さまと共に神さまがどなたであるかを知ってゆきたいと願います。主がどなたかを知ることは、そのまま私たちへの主の愛の証しであり、私たちへの恵み・励ましだからです。今週も、十字架に架かられた主の愛に押し出されて歩み出す一週間を送りましょう。

2019年2月10日

説教題:死に至るまでの従順

聖 書:イザヤ書53章1-5節、マタイによる福音書27章11-26節

祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアと言われているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

(マタイによる福音書27章20-26節)

今日、私たちはイエス様が地上で過ごされた最後の一週間、受難週の金曜日の出来事を伝える聖書箇所をいただいています。

厳しく、読むのがつらい箇所です。なぜつらいのでしょう。それは、何よりも、まったく罪のない、優しいイエス様が理不尽な苦しみを受けられることを読まなければならないからです。

そればかりでは、ありません。

わたしたちは、イエス様の十字架への道行きをたどりながら、人間の、私たち自身の、真実の姿を見なければならないのです。

(前回の礼拝の聖書箇所で、私たちはペトロとユダが、気付かずに、イエス様を自分の人生から切り捨ててしまおうとしたことを読みました。自分のしてしまった裏切りが、イエス様を死に追いやってゆく。

または、イエス様と死ぬなどと言ってしまった自分の軽率さに、気付く。ユダもペトロも、自分の心の醜さ・冷たさに、ぞっとせずにはいられなかったでしょう。私たちは、彼らの嘆きを通して、罪の闇の深さを知ります。罪の償いは、決して自分ではできないこと、人間にはできないことを知るのです。だからこそ、イエス様が私たちに代わって罪を十字架で贖ってくださるしかないことを、あらためて知らされます。

けれど、と思われる方がおいででしょう。ユダもペトロも、イエス様の弟子で、イエス様に深く関わった者たちだった。やっぱり、イエス様のことは、2000年以上も前に、遠い国で起こったことで、自分にはまったく関係のないこととしか思えない。その私たちに、今日の聖書箇所は、群衆が、民が、イエス様と個人的な関わりを持っていなかった人々が、イエス様を十字架につけたことを伝えるのです。

今日の箇所は、この言葉で始まっています。11節です。「さて、イエスは総督の前に立たれた。」総督とは、ローマ帝国から植民地ユダヤに派遣されているポンテオ・ピラトのことを指します。

私たちは礼拝のたびに、ですから今日も、信仰告白・使徒信条の中でこの名前を、声をそろえて、いっせいに口にします。イエス様は、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」と。

信仰告白・使徒信条の中で、イエス様を十字架につけて死に至らしめた張本人として名の出てくるピラト。ユダのもとに、ではないのです。ポンテオ・ピラトのもとに、と私たちは言うのです。そして、このピラトは、イエス様と個人的にはいっさいの関わりを持っていませんでした。この金曜日まで、イエス様に会ったこともなく、顔も知りませんでした。

ユダヤの祭司長たちと長老たち、ねたみからイエス様を亡き者にしようとたくらんだ者たちが、イエス様をピラトに引き渡したのです。当時、ユダヤはローマ帝国の植民地でした。イエス様がローマ帝国の法律で死刑に定められずに、ユダヤの祭司長や長老たちに殺されてしまったとなると、今度は殺した祭司長たち・長老たちが殺人の刑に問われてしまいます。そこで、彼らは、ローマから派遣され、ローマの法律で裁く権利を持っている総督ピラトに、イエス様を死刑にする判決を出させようと訴え出ました。その時、祭司長や長老たちは、ピラトにこう言いました。「このイエスという男は、自分がユダヤの王だと言っています。」ローマの植民地ユダヤでは、この言葉はローマへの反逆を意味します。祭司長たちは、イエス様のことを、ローマにとって危険な人物ですよ、クーデターを起こそうとしていますよ、と訴え出たのです。

だから、ピラトは、こうイエス様を尋問しました。「お前がユダヤ人の王なのか。」反逆を企てたというのは、本当かと尋ねたのです。真剣に問いただすという態度ではなく、ユダヤの内輪もめを持ち込まれて面倒だと言う気持ちが強かったでしょう。

多くの注解書が、このピラトの立場をこう説明しています。ピラトは、ローマ帝国を国の中央とすると、そこから遠くに派遣された中堅どころの役人に過ぎなかった、と。大過なく、ユダヤで任期を勤め上げて本国ローマに呼び戻されれば、それなりの出世が待っている、そういう立場の人だったのです。大過なくとは、ユダヤの総督でいる間に地元のユダヤ民族と摩擦を起こさず、もめごとや事件が起こらないということです。もう少し言えば、ピラトにとって大切だったのは、ユダヤではなく、ユダヤ人が信じている神さまや、信仰ではありませんでした。大切なのは、自分の出世だったのです。

そのために、この時、彼は正しい裁判をすることよりも、この場をうまく納めることを優先させました。

ユダヤの指導者たちが願うとおりにしておけば、彼らは問題を起こさないだろうと、ピラトは思ったことでしょう。しかし、ここで簡単に彼らの申し出を聞き入れて、イエス様を十字架で死刑にしてしまうわけにはいかないと、彼は考えていました。イエス様が群衆に、言ってみれば一般大衆に、たいへん人気があったからです。イエス様がエルサレムの町の門を入ってこられた時、子ロバに乗ったイエス様を、人々が棕櫚の葉を振って大喜びで迎えたことを、彼は聞いて知っていたでしょう。こんな、言葉はあまり良くありませんが、ユダヤの国民的アイドルのようなイエス様を死刑にしてしまったら、怒った民衆が暴動を起こすのではないかと、ピラトは心配になりました。暴動が起きたら、自分は総督としては無能だという評価を本国ローマの上司たちに下されて、出世の道が閉ざされるのは目に見えています。

今、私はこうしてお話ししながら、少々、おかしな心持ちがしております。ピラトが考えていたであろうことを、こうしてお伝えすると、説教から、つまり信仰的な事柄からどんどん遠のいてしまうからです。それほどに、ピラトは自分の損得で頭をいっぱいにしていました。神さまのことなど、またイエス様に魂で向き合うことなど、考えてもみなかったのです。目の前にいるイエス様は、ピラトにとってイエス様でもなければ、一人の人格ですらありません。心を通わせる隣人でも、敵ですらないのです。出世の階段のひとつ、片付けなければならない仕事、ただそれだけでした。サインをしなければいけない書類であっても、血が通い、命を持った人間であっても、彼にとっては同じ、ただの「物」、自分の出世に役立つかどうかだけが問題となる「物」だったのです。人を人として見ない。ピラトには、それが当たり前のことになっていました。これが、彼の罪ではないでしょうか。

そして、彼は自分の、人に、人として関わろうとしない冷たさに気付いてもいません。ピラトに見えているのは、出世の階段ばかりです。そう考えると、ピラトが可哀想にさえなってまいります。この味気なさは、救いようがないのではないか、そうとさえ思えるのです。そして、イエス様はこの救いようのないピラトすら救うために、十字架に架かられます。だから、ご自分のために何か弁明をすることはなく、じっと沈黙を守っておられました。ピラトは、それを非常に不思議に思った、と今日の聖書箇所の14節は告げています。イエス様の沈黙は、天の父の救いのご計画に、忠実に従うためだったのです。

さて、ピラトは、ユダヤの祭司長や長老たちの願うようにしながら、同時にユダヤの民衆も納得する方法を考えようとしました。そして、祭の時に、民衆が希望する囚人を一人、釈放する習わしを利用することを思い付きました。16節に、ピラトがそのために思い付いた囚人の名が記されています。バラバ・イエスという「評判の」囚人でした。

名前がイエス様と同じなのは、特に不思議なことではなく、「イエス」という名そのものが、ユダヤでは男性の名前としてありふれたものだったからです。「評判の」という方に注目しましょう。マタイによる福音書のこの言葉は、暴動を起こした政治犯だったことを指すと、多くの注解書は説明しています。

ユダヤ独立のクーデターを起こし、おそらく暴力的な行為に及んだことで逮捕されたのが、バラバだったのです。ある注解書は、現代で言うテロリストにあたると解釈しています。このバラバは、ユダヤ独立運動の過激な闘士だった、そう言えるのかもしれません。

ユダヤ民族の中には、バラバを英雄とみなす人々が多かったことでしょう。彼らにとってバラバは、自分たちを制圧する理不尽な力・大ローマ帝国に、立ち向かおうとして捕らえられた勇気ある人物なのです。力に力で対抗しようとしたバラバ。

一方、イエス様は、どうだったでしょう。まったく違います。

イエス様は、力を愛で包み込まれる方です。その姿は、権力に対して ひと言も言い返さない弱さに見えます。

今日、与えられている旧約聖書の御言葉は語ります。お聴きください。「この人は主の前に育った。見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」これが、この時、ユダヤの群衆の目に映ったイエス様の姿でした。ユダヤの群衆だけではありません。私たち人間の目に、イエス様はそう見えるのです。

ピラトは、群衆にイエス様か、バラバか、どちらかの釈放を選ばせようとしました。エルサレムに入られた時に、群衆がイエス様を熱狂的に歓迎したことから、ピラトは群衆がイエス様の釈放を望むと考えたのでしょう。しかし、ピラトのこの読みは、はずれました。群衆がどれほど気まぐれで無責任か、ある者の声が大きく響けば、それに簡単に同調してしまうものか、把握しきれていなかったのです。その場でひそやかに、しかしシミのようにひろがったのは、20節にあるように、ユダヤの指導者たち、つまり祭司長や長老たちの説得の声でした。彼らは、群衆がバラバを選ぶように、うまく扇動したのです。

群衆が「バラバを!」と叫んだ時、ピラトはひるみました。バラバは犯罪を犯したことが明らかで、だからこそ囚人として捕らえられていたのです。一方、ピラトがイエス様に「お前はユダヤ人の王なのか、ローマに反逆して、クーデターを起こそうとしたのか」と尋ねても、イエス様は答えませんでした。前の夜、大祭司カイアファの屋敷の中庭で、偽の裁判にかけられた時と同じように、「それは、あなたが言っていることです」と言われただけで、ピラトにとってはらちがあきません。罪状を確定できない、犯罪を犯したのか、犯していないのかもわからないのです。彼は、思わず群衆にこう問いかけました。23節です。イエスというこの人が、「いったいどんな悪事を働いたというのか。」

ところが、群衆はすでに興奮状態になっていました。ひとりひとりの理性はどこかに消し飛んでしまい、群衆の中に融け込んで、同じように無責任にひとつのことを騒ぎ立てていることが、快感になっていたのです。イエス様は当然、なにひとつ、悪事も罪も犯してはおられません。狂ったようになった群衆が「十字架につけろ」と叫び立て、それを納めることのできなかったピラトは「この人が流す血、この人の命の終わりについて、わたしには責任がない」と投げ出してしまいました。こうして、イエス様は十字架につけるために兵士たちに囚人として、死刑囚として引き渡されました。


讃美歌に「あなたもそこにいたのか」という黒人霊歌の名曲があります。国であれ、民族であれ、ひとつの共同体の中で、私たちは生きています。私たちは常に、何かの共同体の一員として「わたしもそこにいる」という責任を負っている者です。この国が国として何らかの決断をする時、私たちはその責任を負わなくてはなりません。けれど、共同体・群衆が大きければ大きいほど、どこかに向かっているそのうねりの幅が広ければ広いほど、私たちは、群衆に呑み込まれて真実や正義を見失ってゆきます。迷子になってゆきます。私たちが一人残らず、その群衆の中に、確かに「そこにいる」にもかかわらず。

今日の御言葉の、この時、ピラトは「わたしはここにいないことにする」とばかりに、責任を投げ出して手を洗いました。群衆の中にも、本当は何が何だかわからなくなっている人、判断がつかなくて内心でおろおろしている人が多かったはずです。にもかかわらず、彼らはピラトが「お前たちの問題だ」と言って責任を投げ出すと、「そうだ、この責任は、我々と子孫にある」と簡単に、まるで売り言葉に買い言葉のように「ここにいる」ことを引き受けてしまいました。しかし、これは事実なのです。私たちはみんな、今ここにいる私たち「も」みんな、ここにいる・この愚かで無責任な群衆の中にいるのです。

イエス様は、ご自身をこうして死に追いやる彼らすべて、人間すべてのために、十字架への道を歩まれました。私たちのこのいいかげんさが神さまに赦されるために、道を開いてくださったのです。

イエス様が、そのようにしてくださったからこそ、私たちは、もう、迷子ではありません。私たちは、今、どこにいるのでしょう。私たちは、神さまのものとされて、イエス様の御手の中にいます。


明日2月11日は、国民の祝日「建国記念の日」です。私たち日本基督教団では、私たちキリスト者は天の父を神さまとするのであって、天皇を神としないことの意思表示として、この日を「信教の自由を守る日」と定めています。この姿勢を、守り抜きたいと強く思います。しかし、私たちは今日の聖書箇所のように、愚かな群衆として、時代の波・人の声に負けてしまうことがあるかもしれません。

しかし、それでも、イエス様は、私たちをしっかりと御手のうちに捕らえていてくださいます。ほら、あなたはここに、私と共にいる。そう、おっしゃってくださいます。十字架でイエス様が血を流し、肉を裂かれてまで、私たちにそうおっしゃってくださることをおぼえ、私たちも思いを深くします。イエス様を慕い、愛し、信じる心を決して失いたくない。今週も、その祈りと願いを胸に、主を仰いで進み行きましょう。

2019年2月3日

説教題:後悔と悔い改め

聖 書:エレミヤ書32章20-25節、マタイによる福音書27章1-10節

夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人たちの血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。

(マタイによる福音書27章1-3節)

マタイによる福音書27章の先ほど司式者が朗読してくださった御言葉は、「夜が明けると」と始まっています。新しい一日が始まりました。どんな一日でしょう。

この前の夜から、イエス様と、イエス様に関わる人間はすべて、おそらく一睡もせずに、この朝を迎えたことでしょう。

前の日・その夜に何があったのでしょう。

前の日は木曜日でありました。洗足木曜日でした。イエス様は、弟子たちの足元にひざまずいて、ひとりひとりの足を洗い、彼らを愛して愛し抜かれておいでのことを示されました。

前の夜の食事は、最後の晩餐でした。食事の後、イエス様は弟子たちとオリーブ山へ行かれ、ゲツセマネの園で祈りを献げました。そして、父なる神さまに忠実に従って、十字架に架かられ、救いのみわざを成し遂げる決心をさらに堅くされました。イエス様はその直後に逮捕され、偽りの裁判で死刑と定められました。この時、ペトロはイエス様を三度、知らないと言って、犯罪者として捕らえられたイエス様との関わりを強く否定しました。そして、夜明けを知らせる鶏が鳴いたのです。

こうして、この世が迎えた新しい一日は、イエス様が十字架に架かられる日でした。今日の聖書箇所の1節にあるように、祭司長と長老たちは、イエス様を殺す相談をしました。この時代、ユダヤはローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国の法律によらず、ユダヤ民族の裁判でイエス様を死刑に処してしまったら、それは殺人になってしまいます。そこで、祭司長と長老たちはローマ帝国の法律にかなった形でイエス様を死刑にするために、ローマ帝国からユダヤに派遣されている提督、ポンテオ・ピラトのところに引きずって引き渡しました。

ここまでが、今日の1節・2節が語っている事柄です。

私たちはこの後、ピラトがイエス様にどう接したかを知りたいところなのですが、3節からの聖書の言葉は、私たちのその期待に応えてはくれません。いきなり、「そのころ、ユダは」とまったく違う話題が始まっています。イエス様を裏切ったユダが何を考え、何をしたのかが語られています。私たちは四つの福音書 – マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書をいただいていますが、福音書の中では、ユダがどのような命の終わり方をしたのかを告げているのは、今日のマタイ福音書だけです。ルカによる福音書の続きである使徒言行録の1章に、ユダがどのように死んだかが記されていますが、内容が違います。

前回の説教で、マタイによる福音書だけが私たちに伝えるメッセージがあるとお話ししました。今日の箇所にも、それがあります。

マタイによる福音書だけが、夜明けをはさんでイエス様を裏切った二人の弟子について私たちに伝えているのです。

二人の弟子のうち、一人はペトロです。鶏が鳴く前、光を待つ夜の暗闇の中で、イエス様を三度「そんな人は知らない」と否定してしまいました。鶏の声と共に、自分がイエス様を裏切ったことに気付き、激しく鳴いた、あのペトロです。

ペトロは、この裏切りとイエス様の十字架の出来事を経て、ご復活のイエス様に会うことができました。「私の羊を飼いなさい」− そのようにイエス様に言われて、ペトロは、主の救いの福音を告げる教会を建て上げる働きをしました。どこまでもイエス様に従う者となったのです。

もう一人の弟子。それが、今日の聖書箇所が語るユダです。彼は、イエス様から離れて、滅びの死にからめとられてしまいました。

マタイ福音書は、夜明けをはさんで、ペトロとユダを並べています。

同じようにイエス様を裏切った二人。しかし、ユダはなぜ、死に呑み込まれてしまったのでしょう。逆に言えば、ペトロはどうして、イエス様を裏切ったのに、イエス様と生きる道を与えられたのでしょう。

二人とも、イエス様を裏切ったことは同じです。ユダは意識的、ペトロは無意識という違いはあるかもしれません。また、ユダは裏切りで銀三十枚という利益を得て、ペトロは何も手に入れませんでした。しかし、二人とも、イエス様に従って来た弟子という立場を捨て、イエス様を愛することをやめてしまったことに、何の変わりもありません。

それを読み取るために、今日の箇所を、少し詳しく読んでまいりましょう。

3節は、すぐにユダの心の中に分け入ってゆきます。彼は夜が明けて、自分があの裏切りの接吻で手引きをして、祭司長や長老たちの手下に捕らえさせたイエス様が、死刑の判決を受けたことを知りました。

そして、激しく後悔したのです。まさか、イエス様が死刑になるとは思っていなかったのかもしれません。あんなことをしなければ良かったと、ユダは鳥肌が立つ気がしたことでしょう。そして、彼はすぐに行動を起こしました。自分がしてしまったことを、元に戻そうと奔走したのです。

ユダは、銀貨三十枚を祭司長や長老に返そうとしました。その理由として、自分の罪を告白しました。4節ではっきり「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言っています。ユダの、この罪の告白はいさぎよく思えるほどです。彼は、イエス様は無実だ、自分が悪かったのだと言っているのです。死刑にしないでくれ、とイエス様を救い出すために銀貨三十枚を返そうとしたのです。ここに、イエス様の死刑を止めよう、それを手引きした罪を何とか償おうと必死になっているユダの姿があります。

しかし、祭司長や長老は、ユダのお金を受け取りませんでした。そもそも、彼らはどんな理由をつけてもイエス様を亡き者にしたいのです。彼らはずばり、こう言いました。「我々の知ったことではない。」それは、ユダがどれほど後悔したとしても、それは自分たちには関係がないと切り捨てる言葉です。また、彼らは続けて、こう言いました。「お前の問題だ。」これは、元の言葉をそのまま日本語にすると「お前が見なさい」です。自分のしたこと・自分の気持ちの整理は自分でつけなさい、自分の面倒は自分で見なさい、自分が犯した罪の責任は自分で取れ – 彼らは、こうユダを拒みました。

そして、ユダはすぐにそのとおりにしてしまいました。イエス様を売った銀貨三十枚を手元に置くことは、もはや考えられなかったので、それを神殿に投げ込み、自らの命を絶ちました。こうして、ユダは自分で責任を取ろうとしたのです。

もう一人の弟子、ペトロのことを考えてみましょう。ペトロは、自分がイエス様を裏切ってしまったことに気付いた時、何をしたでしょう。前回の聖書箇所で、最後の節には、その時のペトロの様子がこう記されています。「イエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」ペトロは、ユダのように機敏に行動して自分で何とかしようとはしませんでした。まるでその逆でした。子供のように、ただ泣いたのです。イエス様の言葉を思い出して、泣いたのです。

ペトロと、ユダ。この二人は、罪に対する姿勢がまったく違います。罪をどのように考えるか、そもそも そこから違っていると申しても良いでしょう。

皆さんは、罪をどのようにお考えでしょう。

罪を償う、という言葉があります。

ユダは、罪を償おうとして、自分が罪を犯す前の状態にすべてを戻そうとしました。自分の力で戻そうとしたのです。銀貨三十枚を返し、イエス様の死刑の判決をくつがえしてもらおうとしました。しかし、元のように戻ることはありませんでした。私たちが犯してしまうすべての罪も、そうなのです。何かしてしまったら、言ってしまったら、したり言ったりしなかった時の、きれいなまっさらの状態には、もう何をしても戻りません。この講壇にナイフか何かで傷をつけたら、いつか傷は目立たなくなるかもしれませんが、消えることはありません。誰かの心を傷つけたら、その傷が癒えることはあっても、傷跡は消えません。取り返しがつきません。

罪は、取り返しがつかないものなのです。人の力では、どうしても、こうしても、償いきれるものではありません。自分で償えないから、誰か他の人間に頼もうと願っても、断られます。ユダが祭司長や長老たちに言われたように、それは自分の問題だろうと拒絶されます。他の人間には、あんたなんか関係ないと言われ、助けてはもらえません。

そして、本当に人間には、自分の罪についても、他の人の罪についても、どうすることもできません。後悔しても、もう元に戻すことはできないのです。子供のように泣くしかありません。子供の頃、何か壊してしまったり、なくしてしまったりして大泣きしていると、親や周りの大人に「泣いてもどうにもならないから、泣くのをやめなさい」と言われました。子供は、泣いても、何をしてもどうにもならないことをよく知っています。だから、泣いているのです。鶏の声でハッと罪に気付かされたペトロも、そうだったでしょう。しかし、ペトロはこの瞬間に、イエス様を思いました。イエス様は、自分のすべてを、ペトロの良い所も欠点も、これから犯す罪も、すべて知っておられ、ペトロをまるごと、ありのままに受けとめてくださっていたのです。

私たち人間は、祭司長や長老たちがユダに言ったように、互いに、あなたが犯した罪は私には無関係だ、自分の責任は自分で取ってくれと言うしかありません。しかし、イエス様は、私たちを絶対に切り捨てません。私たちの罪も含めて、私たちの全責任をご自分が引き受けてくださいます。私たちのしてしまった取り返しのつかないことを、あなたの罪は私の罪だ、だから私が何とか償ってあげよう、私が責任を取ってあげようと言ってくださいます。おっしゃるだけでなく、イエス様は本当に十字架で、私たちの罪を、私たちに代わって償ってくださいました。

私たちは、後悔の中で、自分で自分の罪を償おうとあがきます。その果てにあるのは、ユダが呑み込まれてしまった死です。滅びです。

後悔の中で、涙の中で、イエス様を思う時、私たちは悔い改めへと導かれます。悔い改めとは、罪の中で苦しみながら、必死にイエス様を思い起こすことです。イエス様の十字架の救いとご復活を通して、神さまの憐れみと恵みを求めることです。そして、それは間違いなく、漏れることなく、私たちに与えられます。悔い改めによって、私たちは主の愛に豊かに満たされるのです。

今、礼拝のこの場で、私たちはゆるされて、主の愛に包まれています。その喜びをもって、今日から始まる一週間を歩み行きましょう。

2019年1月27日

説教題:愛が途絶えるとき

聖 書:ダニエル書7章13-14節、マタイによる福音書26章57-75節

しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

(マタイによる福音書26章73-75節)

今日は、かなり長い箇所を司式者に朗読していただきました。二つの事柄が語られているように思えるのに、どうして2回に分けて説教しないのかと不思議に思われた方もおいでかもしれません。

確かに、今日の聖書箇所には、二つの大きな事柄が語られています。

ひとつは、イエス様が捕らえられ、この陰謀の首謀者である大祭司カイアファの屋敷で偽りの裁判にかけられたことです。

もうひとつは、ペトロが3回もイエス様を「知らない、そんな人は知らない」と、一番弟子でありながら、イエス様との関わりを否定したことです。

もちろん、これら二つの出来事を、それぞれ、一回ごとの説教として、じっくりと説き明かすことは大切で必要です。しかし、この二つの出来事は、実はイエス様が語られたある言葉で密接につながりあっています。マタイによる福音書が是非とも伝えたいメッセージが、ここに記されています。

今日は、皆さんと その恵みをご一緒に分かち合うようにと導かれました。

一つ目の出来事から読んでまいりましょう。大祭司カイアファとその仲間、すなわち律法学者や長老たちは、イエス様を何としても死刑にしようと思い決めていました。自分たち神さまに仕える者たちが、民衆から愛され、讃えられ、尊敬されるはずなのに、イエス様の方がはるかに人々に慕われていたからです。彼らはイエス様をねたみ、憎みました。そればかりでなく、自分たちの人間的な視点からの律法解釈を、イエス様がまことの神さまの子の視点からくつがえし、それが神さまの深い愛を伝えて人々の心を満たしていることに、自分たちの立場を脅かされる激しい不安と焦りを感じていたのです。

この真夜中に行われた裁判が、どれほど偽りに満ちたものだったかは、59節から読み取れます。お読みします。「さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた」。彼らが人々、それも自分の手下たちに言うようにと求めたのは、「偽証」、嘘の証言でした。人々の模範となるべき立場にいる者が、嘘を言ってイエス様を死刑にしようと画策したのです。しかし、これはうまく行くようで、彼らのねらいどおりには進みませんでした。証言は、二人の人がまったく同じことを言わないと採用されないと、律法で決められていました。

次から次へと語られた嘘の証言は、ばらばらで一致していませんでした。ただひとつ、二人の証人が同じことを言ったのが61節の言葉でした。「神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる」。これは、私たちが今読み進んでいるマタイによる福音書にはありませんが、ヨハネによる福音書2章19節に、はっきりとイエス様の言葉として記されています。嘘の証言ではありませんでした。

しかし、この言葉をイエス様のお考えどおりに正しく理解する者はいなかったのです。祭司長たち 神さまに仕える者にとって、神殿を倒す・壊すとは神さまを冒瀆する罪そのものの行いでした。また、建てるのに46年もかけた大神殿を三日で建て直すなどと言うのも、神さまに仕える人間をさげすむ、ゆるすことのできない大ボラでした。しかし、イエス様がこう言われたことについて、ヨハネ福音書はこう説明しています。ヨハネ福音書2章21節です。「イエスが言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」イエス様は十字架で死なれ、三日後にご復活されます。「三日で建て直す」とは、神さまがイエス様を地上の命を終えられてから三日後によみがえらせることをおっしゃっていました。

しかし、大祭司たちの誤解・無理解・無知を、この真夜中の裁判で、イエス様は指摘されようとしませんでした。じっと黙っておられたのです。大祭司カイアファは勝ち誇って、イエス様にこう言いました。62節です。「何も答えないのか。この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」63節に「イエスは黙り続けておられた」と記されています。そこで、カイアファはいよいよ最後の“切り札”を出します。こう言ったのです。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」イエス様が「自分は神だ・神の子だ、救い主メシアだ」と言ったら、神さまを冒瀆したとして、イエス様に死刑を宣言しようと、カイアファは待ち構えていたのです。

続く64節で、イエス様は不思議な言葉を言われました。「それは、あなたが言ったことです。」

説教の初めに、“今日の聖書箇所で語られている二つの出来事は、イエス様のある言葉で密接につながっています”と申しました。そのイエス様の言葉とは、この言葉です。 「あなたは神の子、メシア」というカイアファの問いの中の言葉。これは、皆さんが聞いたことのある言葉ではないでしょうか。

これは、ペトロが言った言葉です。マタイによる福音書16章16節のペトロの言葉です。ペトロはイエス様のことを「あなたはメシア、生ける神の子です」と宣言しました。言い換えると、ペトロはイエス様に こう言ったのです。「あなたは私の救い主、私を永遠の命で満たし、私を決して見捨てずに、いつまでも一緒に生きてくださる方です。」これは、信仰の告白です。ペトロは、イエス様を信じ、救い主として従い、あなたを愛します、あなたについてゆきますと愛と信仰の告白をしたのです。そして、この神さまを信じるという私たちの信仰告白は、私たち人間から神さまに申し上げる言葉です。私たちも先ほど、声を合わせて信仰告白の言葉を読んだばかりです。もう一度言います。信仰告白は、私たち人間から神さまに献げる愛と信仰の言葉です。神さまが“我こそは救い主”と最初にメシア宣言をされるわけではありません。救われるのは、私たちなのですから。

だからこそ、イエス様は、わけもわからずに、イエス様を死刑にするためにこの言葉「あなたは神の子、メシア」を用いるカイアファに「それは、あなたが、人間が言う言葉だ」とおっしゃいました。それが、私たちの聖書では「それは、あなたが言ったことです」と訳されている、不思議に思える言葉なのです。

ところで、ペトロは弟子たちの中で、真っ先にイエス様への信仰を告白しました。そして、イエス様はこれをたいへん喜ばれ、ペトロをおほめになったのです。しかし、このペトロは、今日の聖書箇所で、イエス様が暗闇の裁判にかけられている時、どうしていたでしょう。ペトロの信仰はどうなっていたでしょう。

ペトロが「イエス様を知らない」と三度言ってしまうずっと前、今日の聖書箇所の始めの部分に、すでにペトロの信仰、イエス様への愛の危うさが読み取れる言葉が記されています。

58節です。「ペトロは遠く離れてイエスに従い」とあります。ペトロは、この時、イエス様から遠く離れていました。前回の聖書箇所で、ペトロはイエス様に手をかけた者に斬りかかり、イエス様に諫められました。けれど、おそらく乱闘になりそうになった時には、恐怖のあまり、イエス様を見捨てて逃げてしまったのです。しかし、ペトロは思い直して戻って来ました。イエス様のことが気になって仕方がなかったのです。ペトロがイエス様を大好きで、一生一緒にいたいと願っていたのは、真実・本心でありましょう。だからこそ、彼はゲツセマネに行く直前に、イエス様に「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:35)と言ったのです。でも、彼の愛は試練に遭うと揺らいでしまう、弱く小さなものでしかありません。思いきってイエス様を助けに行くことなど思いも寄らず、彼はイエス様の近くにいる「隣人・となりびと」になることはできませんでした。しかし、イエス様から遠く離れていながらも、イエス様に従いたい気持ちは持っていたのです。

この思いを持つのは、ペトロばかりではありません。私たち人間が抱くことのできる愛は、このように揺れ動き、弱く、恐ろしい試練に遭うとしぼんでしまいます。同じ強さで愛を貫くことができないのが、私たち人間なのです。そして、恐怖や不安に負けて、自分だけを守ろうとして、引きずり込まれるように、してはいけないこと・愛する相手を最も傷つけることをやってしまいます。気付かずに、やってしまうのです。愛する人を裏切ります。見捨てて、逃げようとしてしまいます。それが、ペトロがイエス様にしてしまったことです。三回も「そんな人は知らない」と言ってしまいました。気付かずに。

イエス様の愛は、違います。私たちを愛して、愛し抜いてくださいます。いつも同じ暖かさで私たちを包み、いつも同じ強さで私たちを支えてくださいます。

イエス様は、ゲツセマネに行く前に、ペトロにこのように言われました。「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(マタイ26:34)これはペトロの弱さを見抜いた厳しい言葉に聞こえます。しかし、イエス様はペトロを思って、ペトロのためにこう言われたのです。今日の聖書箇所の最後の節には、こう記されています。75節:ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。ゲツセマネに行く前のこのイエス様の言葉がなかったら、ペトロは鶏が鳴いても、自分がイエス様を裏切ってしまったことに気が付かなかったでしょう。

ペトロは、激しく泣きました。イエス様への申し訳なさと、自分への情けなさで、いても立ってもいられずに子供のように号泣しました。この気付きがあったからこそ、ペトロは、自分が本当はどれほどイエス様を慕っていたかを思い起こしたのです。苦しい自己嫌悪と罪の意識と共に、イエス様への愛が、ペトロの心によみがえったのです。

神さまの私たちへの愛は、どこまでもひとすじに突き抜けてゆく愛です。私たち人間の神さまへの愛、そしてお互いへの愛は、時に破れ、時に途絶え、時にかすかになってしまいます。けれど、神さまが私たちに手を差し伸べて、私たちを救い上げてくださるので、私たちが愛を失うことはありません。コリントの信徒への手紙は語ります。「愛は決して滅びない。」(コリントI 13:8)イエス様に愛されていることを知っている限り、私たちが愛のない冷たい世界に沈んでしまうことはないのです。

私たちはペトロのように、何度でも自分の愛の少なさを嘆き、自分の失敗を悲しんで、そしてゆるしてくださいと、イエス様のところに戻ってゆくことができます。これが悔い改めです。悔い改めた私たちを、イエス様は必ず、迎え入れてくださいます。信じて良いのです。

最後にひとつだけ付け加えて、お話しします。ペトロが聞いた鶏の声。鶏は夜明け前に鳴いて、時を作ります。その声で、私たちはまだ空が真っ暗でも、夜明けが近いとわかるのです。朝の光を待つことができるのです。夜明け。それはすべてが新しくなる新天新地の日です。 まさに、今日の聖書箇所でイエス様がカイアファに言われたダニエル書の言葉どおりに、イエス様が天の雲に乗ってもう一度、この世に再臨される時です。その時は、まだ来ていません。けれど、私たちはペトロのように、気付きの鶏の声をいただいています。試練と苦難のこの暗い世にあって、“わたしの愛に立ち帰りなさい”と招いてくださるイエス様の慰めと励ましの愛の御言葉を、聖書を通して与えられています。 今日から始まる一週間も、この恵みの希望を心にいただいて、まっすぐに主を仰いで歩んでまいりましょう。

2019年1月20日

説教題:御言葉の実現のために

聖 書:イザヤ書2章1-5節、マタイによる福音書26章47-56節

ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は歩み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下にうちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。 (マタイによる福音書26章49-52節)

ご一緒に読み進んでおりますマタイによる福音書は、前回の礼拝説教から、イエス様が十字架に向かわれる厳しい箇所にさしかかっています。前回の最後の御言葉は、26章46節のこの言葉でした。「見よ、わたしを裏切る者が来た。」

今日の聖書箇所は、イエス様のこの言葉に重なるように始まっています。47節です。「イエス様がまだ話しておられると」。イエス様が、また「わたしを裏切る者が来た」と言い終わらないうちに、イエス様の十二人の弟子のひとりでありながら、イエス様を銀貨30枚で売り渡し、イエス様逮捕への手引きをするユダがやってきたのです。イエス様を死刑にしようと陰謀をたくらんだ祭司長たちや長老たちの手下である大勢の群衆も、手近な武器を持ってユダのうしろにつき従っていました。

夜は更けて、ゲツセマネの谷は暗く、人の顔と姿の見分けが付かないほどの闇でありました。イエス様を捕らえに来た人々には、そこにいたイエス様と近くにいた三人の弟子 ペトロ・ヤコブ・ヨハネ、少し離れていた八人の弟子たちの中で、誰がイエス様か、判りませんでした。この事態を予想していたのでしょう。裏切り者ユダは、前もって合図を決めていました。イエス様に挨拶をして、親しいという証拠の接吻をする、そういう合図でした。日本には、人前で親しい間柄同士が接吻する習慣はありませんが、中東から欧米の文化では、親しい相手と会った時に、肩を叩いたり、ちょっと軽い握手したりするのと同じ意味合いです。49節に記されている、ユダが「『先生、こんばんは』と言って接吻した」とは、日本の感覚で言えば「にこやかに近づいて、「これは、これは、先生」と挨拶をした」− そういう仕草です。

これを合図に、武器を手にした群衆は一斉にイエス様一人を囲み、手荒く、襲いかかるようにして、イエス様の自由を奪いました。

この時、弟子たちの一人が剣を抜いて、狼藉者に打ちかかり、片耳を切り落とした。聖書は、そう伝えています。ここで聖書が同時に伝えているのは、イエス様を捕らえて死刑にする、このたくらみの首謀者が大祭司カイアファだったことです。剣を抜いた弟子、ヨハネによる福音書(18:10)はこの弟子がペトロだったと記していますが、彼が打ちかかったのは大祭司の手下だったことが明らかにされています。

耳を切り落とすとは、大変なことです。しかし、群衆はイエス様を離そうとしませんでした。そのため、剣を抜いた弟子は、さらに相手に打ちかかろうとしたでしょう。他の弟子たちも、剣を振るおうとしたのではないでしょうか。仲間の一人に怪我を負わされた群衆が、色めき立って手にしている武器を構え、乱闘が始まりそうになりました。

その時、イエス様の声が響きました。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」

ユダヤの律法「目には目を、歯には歯を」に従えば、片方の耳を切り落とされた者は、やり返すことができます。相手の二つある耳のうちの片方を取ってよいのです。双方が、同じ片耳を失った姿になったら、もうそれ以上の復讐をしてはならない。「目には目を、歯には歯を」という律法は、それを命じています。しかし、そこで終えることができないのが、私たち人間です。

耳を片方 取られた人は、悔しさと嘆きのあまり、相手の耳を両方取ってやろうと思わずにはいられないのです。両方の耳を取られた人は、今度は相手の目を潰そうとするでしょう。こうして、復讐に復讐が重なって、双方が命を奪い合い、滅ぼし合うまで争いが続いてしまう、それが人の世です。

イエス様は、この律法を新しくこう言い換えられました。マタイによる福音書5章38節以下です。お読みしますので、お聞きください。「あなた方も聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」これは、イエス様が山上の説教で語られたことです。そして、この言葉はこのイエス様の教えへと続きます。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」敵をも愛するように、と言われたイエス様の愛敵の教えです。

競い合う者・争う者のうち、どちらか一方が、もちろん、双方同時の方が良いのですが、相手をゆるすことを思い起こして、振り上げた拳を降ろさないと、争いは終わりません。拳を降ろし、攻撃をやめたその間に、相手に2回か3回、たとえ余計に殴られてしまったとしても、その痛みと悔しさをこらえ、忍耐し、自分を犠牲にして相手をゆるさなければ、どちらも死ぬまで戦いは終わりになりません。

イエス様が、ご自分を捕らえた者・敵に剣を振るった弟子を諫めた次の言葉は、まさにこのことを告げています。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」

イエス様は、このように言われて、人と人との間の争いをいさめられました。まったき人・ナザレ出身の人の子・イエスと、それに敵対する者のいさかいは、この言葉でいましめられました。

しかし、イエス様は、まったき人であると同時に、まったき神さまでもあられます。神さまであるイエス様を捕らえ、暴行を働き、あまつさえ死刑に処するとは、言うまでもなく神さまへのそむきです。もちろん、やってはならない事・ゆるされない事です。なぜ、イエス様はそれを戒めようとなさならなかったのでしょう。なぜ、神さまに背く者たちが為すがままとなり、捕らえられてしまったのでしょう。

それを、イエス様はこう説き明かされました。53節です。「わたしが父に – これはイエス様のお父様、私たちの天の父、神さまのことです - お願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」ローマの皇帝アウグストゥスの時代にイエス様はお生まれになりました。この時代、ローマ軍の一軍団は5千人の兵士から構成されていました。ですから、十二軍団とは、一人でも人間よりもはるかに強い神さまの御使い6万の大軍団です。「あなたがたが私の名によって祈ることは、何でもかなえられる」とおっしゃられたイエス様の、その神さまの御子イエス様ご自身の願いと祈りを、天の父が聞き上げないはずがありません。

しかし、前回の礼拝で、イエス様は「御心を為させたまえ」「御心が成るように」と祈られました。神さまのご計画がそのまま成し遂げられるようにと祈り、これからご自身が十字架に架けられることを御心の杯として受け容れる決心を示されたのです。イエス様はここでも、その決心を語られました。聖書は、神さまの御言葉です。神さまの御心です。だから、イエス様は、こう言われました。「わたしが天の父に、天使の援軍を祈り願ったとしたら」、そして54節です。「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」

大祭司の手下たちが、大勢、手に 手に武器を持ってイエス様を捕らえに来たことは天の父の御心だと、イエス様は言われました。御心を記したその言葉は、旧約聖書の詩編41編10節に、ダビデ王の嘆きとして書き記された祈りの一部です。お読みします。「わたしの信頼していた仲間 わたしのパンを食べる者が 威張ってわたしを足げにします。」この御言葉によって、十字架で、私たちのために救いのみわざが成し遂げられるために、イエス様はユダに、また他の弟子たちに、むごいほどに手ひどく、無残に裏切られなくてはならなかったのです。

今日の御言葉の最後の聖句は、こう語ります。「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」もはや、誰もイエス様を助けようとせず、詩編41編が語るとおりに、イエス様が信頼していた弟子たちは、イエス様を石ころのように捨てました。このような私たちだからこそ、イエス様に深く愛されても、ちゃんとイエス様を愛することのできない私たちだからこそ、神さまは救わなければならないと、イエス様を十字架に架けられたのです。

今日は最後にもうひとつ、私たちへの御言葉の語りかけをご一緒に聴きたいと思います。

イエス様は、大祭司の手下を傷つけた弟子に、こう言われました。「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」剣を取る者とは、私たち人間すべてをさします。自分が傷つけられたら、憎しみの心を抱き、復讐のために武器を手にせずにはいられない者です。それは実際に体を痛めつける暴力に限りません。人種差別、性差別、言葉の暴力や、無視をも意味します。これは、昨今、よく聞かれるようになったハラスメントやネグレクトのことです。社会的・世間的に強い立場の人が、弱い立場の人を虐げることをさすパワーハラスメントという言葉を、よく耳にするようになりました。しかし、上司や教師の指示や指導を、部下や生徒が、あまり良くものが見えていない状態で、何もかもパワーハラスメントだと批判し、攻撃すれば、それは部下や生徒たちが上司・教師にモラルハラスメントをしていることになります。人と人とが対立しあっている限り、赦し合い、認め合わない限り、武器を捨てない限り、果てしなく暗い泥仕合が続いてしまいます。傷つけ合って、どちらもひどく痛み、力を失い、やがて、どちらも滅びてしまいます。

イエス様は、武器を捨てよと言われました。

自分を捕らえようとした者を憎もうとされませんでした。

人間の本当の敵は、人間ではないからです。本当の敵とは、何でしょう。人間同士を争わせ、すべての人間を滅ぼしてしまう本当の敵。それは、何でしょう。

私たちの中にある「自分が、自分が」という思いです。誰かが自分よりも優位に立っていることを感じると、この思いは私たちの心の底でもぞもぞとうごめき始めます。やがて「うらやましい」は「負けたくない」になり、「憎らしい」になり、争いの罪が心一杯に暗く広がってしまうのです。悲しいことです。そして、私たちは、自分では、この人間の本当の敵を、罪と滅びを、どうすることもできません。

イエス様は、この敵をこそ憎まれました。この敵にご自分を食らいつかせ、敵ごと、ご自分もいったんは死なれました。それが、十字架のできごとだったのです。そして、死んだ敵の亡骸から離れて、戻って来られました。復活されたのです。

これから、私たちは真冬の寒さを迎えようとしています。マタイによる福音書の御言葉も、イエス様の十字架の道行きに従って、厳しくつらいメッセージになります。しかし、その先には、春の明るさと暖かさ、主のよみがえりのイースターが待っています。私たちを愛し抜いてくださる主の慈しみを、それぞれの心深くにいただいて、今週も歩んでまいりましょう。

2019年1月13日

説教題:御心を為させたまえ

聖 書:ゼカリヤ書13章7-9節、マタイによる福音書26章31-46節

それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。それから、弟子たちのところへ戻ってご覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところへ戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

マタイによる福音書26章31-46節

アドヴェント、クリスマス、そして先週の公現日までの六週間。今年度の薬円台教会は、イエス様のご降誕の恵みを、ルカによる福音書の御言葉を通していただきました。今日の主日礼拝から再び、マタイによる福音書に戻ってまいりました。

アドヴェントに入る直前に、ご一緒に読んだマタイ福音書の箇所は、「主の晩餐」を告げる御言葉でした。イエス様は、弟子たちとの最後の食事の席で、パンを取って裂いて弟子たちに渡し「取って食べなさい。これはわたしの体」と言われました。またぶどう酒の杯を取って祈られ、弟子たちに渡して「この杯から飲みなさい。これはあなたがたのために流されるわたしの血」と言われました。これから十字架で私たちの救いのために死なれるお覚悟を弟子たちに伝えたのです。

この時、弟子たちには、イエス様の思いや、神さまの子としてご計画の成就を成し遂げるご決心がわかっていたでしょうか。少しもわかっていませんでした。

食事の後、過ぎ越しの祭を過ごす時のユダヤの定めに従って、イエス様と弟子たちは讃美歌を歌いながら、オリーブ山に向かいました。祈るためでした。オリーブ山は、イエス様が祈りの場所とされておられた所です。

山と言うよりは丘のように小高い場所で、オリーブの果樹園があるところでした。イエス様と弟子たちが最後の夕食・最後の晩餐をした家から2,3キロ離れた、エルサレムの町はずれと言われています。

先ほど司式者が朗読してくださった今日の御言葉は、イエス様と弟子たちがオリーブ山に向かっていた、この時の出来事から始まっています。イエス様は、これから自分は逮捕されて十字架で殺される、しかし打たれて死んでも復活する、故郷のガリラヤにあなたがたよりも先に戻ると、弟子たちに語られました。イエス様への、この神さまのご計画は、すでに旧約聖書の御言葉・ゼカリヤ書の中で語られていました。その神さまの言葉を、イエス様はほぼそのまま、弟子たちに伝えました。

今日の旧約聖書ゼカリヤ書、新約聖書の両方が語る「神さまが羊飼いを打つ」から始まる箇所は、このことを告げているのです。イエス様は、弟子たちを導く羊飼いにあたります。そのイエス様が「打たれる」、つまり「殺されて、弟子たちから取り去られてしまう」と、羊たち・弟子たちはどうすれば良いのかわからなくて、蜘蛛の子を散らすようにバラバラになってしまうと預言されました。

この時、弟子たちに、イエス様が十字架に架かり、神さまからの救いのみわざを成し遂げる決心を抱いておられたことは、わかっていたでしょうか。少しもわかっていませんでした。

続くイエス様とペトロのやりとりを通して、聖書は、弟子たちにイエス様の真心が通じていなかったことを、鮮やかに描き出しています。

ペトロは、たとえ、他の弟子たちがイエス様への信頼を失って、イエス様から離れ去り「つまずいても」、自分は決してつまずかないと言いました。イエス様に「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度、わたしを知らない、イエスなどと言う者とは関係がないと言うだろう」と言われると、なおさら心を燃やし、いきり立つように、「イエス様のために死ななければならなくなったとしても、そんなことはしない」と断言しました。他の弟子達も同じことを言ったと、御言葉は伝えています。

弟子たちには、何もわかっていなかったのです。数時間後に、ペトロは自分が犯罪者として逮捕されたイエス様と関わりがないと言い張りました。こんなにあっけなく、自分がイエス様を裏切ってしまうとは、わかっていなかったのです。自分のいい加減さ・頼りなさを知りませんでした。また、これからイエス様に起こる逮捕と死刑という重大な事柄の意味も、恵みも、まったくわかっていませんでした。もちろん、イエス様が、そのためにどれほどもだえ苦しんでおられるか、想像することも、察することもできなかったのです。

真夜中頃に、イエス様は、オリーブ山近くのゲツセマネ — これは「オリーブをしぼる場所」という意味だそうです — という場所に行かれました。これからご自分が囚われの身になる前に、神さまに真摯に祈りを献げるためでした。イエス様は、十一人の弟子の中からペトロ・ヤコブ・ヨハネの三人だけを選び、彼らを連れてゲツセマネに来られました。イエス様は、地につっぷして苦しみながら、神さまが人間の救いのためにご自分に与えた十字架の出来事のご計画を、過ぎ去らせてくださいと祈りました。そして、三人の弟子たちに、自分と一緒にいてくれ、起きて、目を覚まして、祈りに心を合わせてくれと頼まれたのです。弟子たちに、それができたでしょうか。できませんでした。

イエス様のためなら死んでも良いと言ったばかりの弟子三人は、眠気に負けてしまい、目を開けていることすらできなかったのです。

御言葉の38節のところで、イエス様は、ゲツセマネに連れて行ったペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人に言われました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」イエス様は三度、ほぼ同じ言葉で、同じことを繰り返して祈られました。二度目と三度目は同じ言葉だったと記されています。この言葉です。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」

イエス様は、心をそそぎだして祈るたびに、弟子たちのいるところへ戻られました。「わたしと共にいてくれ」と願ったのに、弟子たちは眠っていて、その心はイエス様と共にありませんでした。

今日、私たちがいただいている御言葉は、イエス様の苦しみが深まれば深まるほど、果たそうとされている十字架のみわざの意味が重ければ重いほど、イエス様の弟子たち・私たち人間が、その深みと重みから遠いところにいる情けなさを語っています。

弟子たちには、また 私たちには、神さまのご計画が、わかりません。イエス様の思いを、想像することもできません。これは、私たちが、どれほど神さまから遠いところにいるかを明らかに示しています。

同時に、私たちは神さまが自分と同じように愛して、大切に造られた「となりびと」・隣人からも遠いところにいます。私たちは、隣にいる人、ごく身近な人、自分にとって大切な人の心すら、本当に理解することができません。

ここに、私たち人間の限界があります。私たちには、自分の痛み・自分の物の見方しか、わかりません。他の人の痛みを、自分の痛みとして感じたり、知ったりすることはできません。そのために、私たちは、自分の感じ方や物の見方が一方的に正しいと思い込みます。そこからしか、人に言葉をかけたり、行動を起こしたりすることしかできません。そのために、見当違いのことを言ったりしたりして、人を傷つけてしまいます。私たちの限界は、自覚することのできない、私たちの罪でもあるのです。

また、今日の御言葉は、神さまから遠いところにいる私たちと、神さまの間で必死に橋渡しをしてくださろうとしているイエス様の姿を、実にありありと伝えています。

注意深く39節を見ると、イエス様の祈りの場所、イエス様が父なる神さまに祈りを献げる場所と弟子たちがいる所は「少し」しか離れていないことがわかります。しかし、その「少し」は、実は途方もなく遠い隔たり・遠い距離です。石を投げれば届くほどの、その距離で祈っているイエス様の祈りの真剣さを、弟子たちは少しも理解することができないのです。その間には、目に見えない深い谷が横たわっています。

イエス様は、その谷を三度、行ったり来たりしてくださいました。

弟子たちが眠り込んでいるのをご覧になって、「わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか」と悲しまれ、嘆かれながら、ペトロにこう言われました。「心は燃えても、肉体は弱い。」ここで、「心」とは、霊的なもの・神さまを求める心をさします。ペトロたちが、イエス様にどこまでもついてゆくと言った気持ちに嘘はありませんでした。しかし、人間的な限界・私たちが神さまの御心を知ることができないという霊的な無知は、私たち人間の決定的な弱さです。人間的な弱さ・罪は、神さまを求める心を眠らせ、呑み込み、消してしまうのです。

イエス様は神さまとして、この霊的な願いと罪の間の谷・神さまと人間の間にある途方もなく大きな隔たりを、もちろんご存じでした。イエス様は、この隔たりを越えて、人間が神さまの方をしっかりと向くことができるようになるためにこそ、父なる神さまからこの世に遣わされたのです。ですから、イエス様は眠りこんでしまう弟子達を嘆きながらも、彼らをどうしようもないと見捨てませんでした。イエス様は、弟子たちのところに三度、戻ってくださいました。何とかして、私たちがしっかりと神さまの方を向き、正しい方向を向いて歩んでゆくようにと心を砕かれます。また、そのためにこそ、イエス様は神さまと人間の間の深い谷に身を沈めるように、十字架に架かってくださったのです。

この谷は、死の谷です。旧約聖書の詩編23編に「たとえ死の陰の谷を行く時も」と語られている暗黒の谷です。この深い谷に身を沈めるのは、恐ろしいことでした。神さまであるイエス様が、十字架での死を恐れ、それを苦しみ嘆くのは、意外なことのように思えるかもしれません。復活されることがわかっているのに、なぜ?と思う方もおいででしょう。

しかし、イエス様が死を前にして、ここまで恐れ、苦しまれるお姿を通して、私たちは聖書が語る死とは何かを知ることができます。神さまを求めようとせず、その愛を知ろうとしない私たちの無知が、聖書の語る死です。自分が感じることしか感じられない限界、そこから生じる他の人の痛みや苦しみ悲しみへの無関心や鈍感さ、さらには身勝手、もっと言ってしまえば、他人はどうなっても良いという自己中心性。これが「死」です。「悪」と言い換えても良いでしょう。

イエス様は、人間すべての、この「死」、この「悪」をたったお一人で引き受けてくださいました。イエス様が激しく苦しみ嘆かれたのは、この人間の罪にまみれることでした。どろどろしたものが、ご自分にまといついて、真っ暗な底なし沼に引き込まれるように感じられたのでしょう。真っ暗な底なし沼とは、「死」そのもの、悪そのものです。

人の無知の恐ろしさを思う時、私には思い出されてくることがあります。まだずっと若い頃、洗礼を受けてそれほど年数が経っていない頃、仏教と神道を織り交ぜたような新興宗教の勧誘を受けたことがありました。その頃勤めていた職場に来た新人のパートさんが、私を含めて職場の数人を自宅に招きました。ホームパーティをするというお誘いでしたが、行ってみたら、その宗教団体の幹部の女性が何人かいて、異様な雰囲気でした。私も、一緒に招かれた同僚たちも、回れ右をして玄関で靴をはき直しました。すると、幹部たちはドアの前に立ちふさがるようにするのです。私は、自分はクリスチャンだから、勧誘しても無駄ですと言いました。そうしたら、幹部の一人が甲高い声で、こう言ったのです。「人間に殺されて十字架につけられてしまう神なんて、どこが神なものか!」その時の、イエス様を罵ったその人の、歪んだ顔の醜さを、私は今でも忘れることができません。

どうして忘れることができないかと言えば、あの時のあの人の醜さは、そのまま鏡のように私自身を映すからです。私はその時、この人は少しもイエス様をわかっていない、嘆かわしい、救われない憐れな人だと思いました。しかし、かえりみれば、いったい私にイエス様の何がわかるというのでしょう。牧師になってから、いっそうその思いは強くなりました。聖書を必死に研究したとしても、私に垣間見ることができるのは、そこに記された神さまの大きく深い御心のほんの一部にすぎません。私が、誰かを、この人は信仰が篤いとか薄いとか裁いてしまう時、私はイエス様を罵った新興宗教の幹部と同じ醜い顔をしているのです。私は御心に適わぬ神さまに背く者、裏切り者、悪人なのです。

しかし、イエス様は、この私のためにも、十字架に架かって死んでくださいました。

私たちの信仰が、私たちの中の人間的な弱さに負けて眠り込んでしまう時、イエス様は私たちに必ず、こう言ってくださいます。それが、今日の46節、最後の聖句です。イエス様は言われました。「立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た。」イエス様を裏切る者、それは私自身の中に巣くう悪・罪です。ペトロのように、イエス様に従いたいと願いながら、肝心な時に自分を守ってしまう弱さです。イエス様と共に祈りを献げたいと願いながら、また何とイエス様ご自身にそれを望まれていながら、肝心な時に眠り込んでしまう情けなさです。しかし、イエス様は、そんな私たちを見捨てず、仰ってくださるのです。「立て、行こう。自分の弱さに、情けなさに、人の罪に、世の悪に、私と一緒に立ち向かおう。」立ち向かおう。こうイエス様が言われるのは、世にある私たちの信仰の戦いです。イエス様が、この信仰の戦いに必ず勝利されます。ご復活がそのしるしなのです。

イエス様は、私たちに「一緒に行こう」とおっしゃってくださいます。信仰の戦いを共に戦おうと、弱い私たちを招いてくださるのです。私たちは、その招きにどう応じれば良いのでしょう。信仰の戦いの場に、私たちはどのように加われば良いのでしょう。

イエス様は、私たちに「主の祈り」を与えてくださいました。「主の祈り」で、イエス様は私たちにこう祈るようにと教えられました。

「御心の天になる如く地にも為させたまえ。」「御心を為させたまえ。」

自分の願いではなく、神さまの「御心が行われますように」と願う祈りです。

これは、今日いただいているゲツセマネのイエス様の祈りです。イエス様は二度、こう祈られました。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」

私たちは力無く、罪深い者です。しかし、イエス様に導かれて死の谷を越え、主と共に歩もうとする時、この祈りをもってイエス様と共に正しく前に進みたいと思います。

私の思いではなく、私の願いではなく、主よ、すべてあなたのご計画がなりますように、御心のままに、わたしが、また私たちが生き、また命の終わりを迎えられますように。この祈りによって、今週一週間を進んでまいりましょう。


2019年1月6日

説教題:わたしの心に適う者

聖 書:ヨシュア記3章1-17節、ルカによる福音書3章15-22節

民衆が皆洗礼(バプテスマ)を受け、イエスも洗礼(バプテスマ)を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(ルカによる福音書3章21-22節)

本日1月6日は、キリスト教の暦で公現日と呼ばれます。週報にも書いてありますが「公に現れる日」と書いて、「こうげんび」です。

「公」とは「あまねくすべての人々に」という意味でありましょう。

あまねくすべての人々に、何が現れたのでしょう。その問いへの答えは明らかです。ベツレヘムの馬小屋で、いわば世界の片隅にお生まれになったイエス様が、すべての人を救う救い主であること、つまりは「メシアの現れ」が神さまによって明らかに示された — この事です。

私たちキリストの教会が、伝統的に今日の公現日の礼拝で読む聖書箇所があります。必ずその箇所を読まなければならないと決められているわけではありませんが、公現日をおぼえて読まれることが多い御言葉です。ひとつは、先ほど讃美歌で歌った「東方の博士たちが、イエス様を拝んだ」ことが記されているマタイ福音書2章です。もう一つが今日の箇所で、イエス様が洗礼を受けられたことを伝えています。

東方の博士たちの聖書箇所は、イエス様がやがて十字架の出来事とご復活で示された愛、イエス様を人の世に遣わしてくださった神さまの愛を伝えるキリスト教が、ユダヤ民族の枠を超えて世界宗教となることを告げています。

そして、今日の箇所では、イエス様が洗礼を受けられると「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿で」イエス様に降ったことが語られています。イエス様は人間の子供として生まれ、ナザレの里で大工ヨセフと その妻マリアの長男として育ちました。それまでにも、もちろん他の子供とは違うということはありましたが、神さまの御子であることが明らかにされたのは、この時だったのです。天からの声、神さまの声が洗礼を受けたイエス様の上に響きました。「あなたはわたしの愛する子」。神さまが、イエス様は我が子であると言われたのです。

さらに、主の御声は続けて、こう響きました。「わたしの心に適う者。」

「わたしの心に適う者」とは「神さまの御心を行う者」という意味です。イエス様は十字架に架けられて地上の命を終え、しかし、それによって人々を滅びから救う者だと、天の神さまは宣言されました。

この時、今日の御言葉は聖霊が「目に見え」、神さまの天からの声が「聞こえた」とはっきり告げています。神さまは、この時、全世界に、イエス様こそがご自身の独り子であり、この方を救い主として遣わしたことを、私たち人間にわかるように、私たちの目と耳に明らかにしてくださいました。

イエス様のご生涯は三十三年ほどだったと言われています。イエス様はナザレという小さい村の大工さんで、特に神さまのことを熱心に語られていたわけではなかったようです。洗礼を受けられたのは、三十歳の時でした。この時から、イエス様は天の神様の御心を伝える伝道活動を始められ、三年後に十字架で死なれました。この三年間をイエス様の「公生涯」、公という字に、人生という意味の生涯と書いて「公生涯」と呼びます。

繰り返しになりますが、ここまでお話ししたことから、今日の公現日は、ふたつのことを心におぼえる日であることがおわかりと思います。ひとつは、キリスト教がユダヤ教を超えて、全世界・すべての人々の心に希望の光をともす天の神様を宣べ伝える教えであること。もうひとつは、そのためにイエス様こそが、救い主として私たちのもとにおいでくださったことです。

そして、神さまがイエス様の上にこのことをお示しになった、その示し方そのものが、神さまの私たちへの限りなく深い愛・慈しみを顕しています。それを、今日は御言葉からの恵みとしてご一緒にいただきたい。そのように思います。

神さまは、私たちを死から救い、滅びのどん底から引き上げて下さるために、ご自身と一体であり、大切な独り子のイエス様を、天の高みから、私たちのいるこの低い地に遣わしてくださいました。神さまでありながら、卑しく汚れた人間の身になってくださったのです。

それを、わたしたちは今日の聖書箇所から、イエス様が洗礼を受けられたことを通して読み取ることができます。

皆さんは、イエス様が洗礼を受けたことを読まれて、何となく不思議な感じがしないでしょうか。洗礼は三つの事柄を表します。聖書の言葉を用いて、こんなふうに申し上げても良いでしょう。罪を洗い流す、洗礼者ヨハネが行っていた水による洗礼。イエス様がなさる、罪を焼き尽くす火の洗礼。そして、火で焼き尽くされた後に聖霊をそそがれて、罪を赦されて希望に生きる新しい命をいただく聖霊の洗礼。水・火・聖霊による洗礼は、どれも罪と深い関わりを持っています。

ところが、イエス様は、人間としてお生まれくださいましたが、神さまなので、罪がありません。完全に清らかな方です。イエス様は、本来、洗礼を受ける必要のない方でした。

また、洗礼そのものが、この時代のユダヤでは差別的な意味を持っていました。そもそも、ユダヤ民族として生まれた人は、洗礼を受ける必要はありませんでした。特に男性は、生まれて八日目に体にしるしをつける割礼を行います。それが、神さまのもの・神さまの宝の民としてのユダヤ民族のしるし・神さまとの契約、約束のしるしです。

ユダヤ民族として生まれていない人が、ユダヤ教を信じて改宗する場合には、男の人は、必ずこの割礼を受けなければなりません。また、割礼と同時に罪を洗い流す洗礼も受けなければならなかったのです。

ですから、洗礼を受けるとはユダヤ人ではない異民族・異邦人だったことを表し、生粋のユダヤ人はその人たちを低く見るという態度がどうしても生まれます。洗礼は、言ってみれば屈辱のしるしでした。

ところが、これを一変させたのが洗礼者ヨハネ、イエス様の先触れをしたヨハネでした。生粋のユダヤ人として生まれていても、洗礼を受けなければならないと人々に語ったのです。

ユダヤ民族は、苦しみの中で長い年月を過ごしていました。ジレンマの中で苦しんでいたと言ってもよいかもしれません。自分たちは神さまの宝の民なのに、どうしていつも いつも、何百年も、自分たちが馬鹿にしている汚れた他民族に支配されていなければならないのか。

神さまは彼らに、預言者たちの口を通して、繰り返し、自分たちは神さまの宝の民だと安心してしまうことが、傲慢で罪深いのだ、神さまの方へと向き直る悔い改めが必要なのだと戒め続けました。しかし、それはなかなか理解されず、受け容れられなかったのです。悔い改めるとは、ユダヤ人にしてみれば律法を守ることでした。ですから、彼らは人間の理解だけに依り頼んで、かたくなな律法の解釈に凝り固まり、ますます神さまに深く真実に愛されていることに立ち戻ろうとしなくなりました。そして、神さまに背く一方だったのです。

洗礼者ヨハネは、悔い改めの心・悔い改めのしるしを律法で表さずに、洗礼を受けることで表すようにと強く勧めました。律法を人間的に解釈してそれにしがみついていても、人を裁き、自分を縛り、神さまから遠のく罪を重ねるだけだから、罪を洗い流す洗礼を受けなさいとヨルダン川の岸辺で人々を招きました。それまで、異民族が受けるものとして洗礼を馬鹿にしていたユダヤの人々は、目が覚める思いをしたのではないでしょうか。律法にしがみついていた心が、解放されるように思った – そう思うのです。

川。広々とした水の流れは、それだけで人の心を明るく解き放ちます。2019年、新しい年の私の務めは、元旦礼拝から始まりました。それが一月一日のことです。一月二日、三日と、今年は支区や教団の書類を造る仕事があって、四日が浦安エデンの園での集会「虹の会」でした。浦安エデンの園に電車でまいりますと、荒川を越えて行きます。今年のお正月はずっと良いお天気で、四日もよく晴れていました。

二日・三日と机に向かってパソコンの画面ばかりを見ていたせいもあったかと思いますが、青い空が広がる下に、川が水面をきらきらと輝かせながら悠々と流れてゆくのを電車の窓から眺めて、これからエデンの方々と礼拝を献げる楽しみもあり、心の中にも青空が広がる思いがいたしました。ああ、今年も始まった、祝福のうちに始まった、天のお父様・イエス様、今年の私の働きを見守り導いてください、従います、と心から素直に思いました。そして、いつも頭の半分は日曜日の説教のことを考えていますから、川と言えば、そうだ、イエス様が洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けた箇所をいただいているのだと思い起こし、どんな光景だっただろうと想像してみたのです。

今日の新約聖書が語る時代、律法学者やファリサイ人が律法を神さまの愛に基づかずに厳しく解釈したために、人々は日常をがんじがらめにされてしまっていました。繰り返しになりますが、その彼らにとって、罪を川で、外の光のもとで洗い流す洗礼は実に新鮮に感じられたことでしょう。罪から赦される自由の喜びを、川で全身を水に浸し、流れに洗われることでリアルに感じられることができたのではないでしょうか。だからこそ、人々は神さまの御前にへりくだって、異民族と同じように洗礼を受けよう、赦していただこう、そのように頑ななプライドを捨てて和らいだ心になれたのです。

この人々の中に、イエス様もおられました。まさにへりくだって、群れの中の一人として、人間の一人として、おいでくださったのです。御言葉は、それを21節でこう記しています。「民衆が皆洗礼(バプテスマ)を受け、イエスも洗礼(バプテスマ)を受けて」。そして、たいへん美しい御言葉がそれに続きます。天が開け、聖霊が鳩のように祈っておられるイエス様の上に降ってきたのです。神さまの宣言の御声が響きました。「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。」

神さまに深く愛されている御子。しかし、この祝福は同時に、御心に適う者として、天の父のご計画どおりに、十字架への苦難の歩みを示唆していました。私たち人間の代わりに、罪をすべて背負って死刑となってくださる、すすんで自己犠牲を払ってくださることが、恵みと同時に告げられました。

イエス様は、この天の声に従って、祝福も苦難も、神さまがおあたえくださるすべてを受け容れられました。

神さまの御子であるにもかかわらず、イエス様は人間となられ、しかも、群衆の中の名もない一人となって、私たちと等しくへりくだったくださり、私たちのために犠牲となられたのです。

神さまに選ばれ、特別に愛され、立てられて用いられる。それは神さまからの贈り物・祝福です。そして、神さまに用いられるとは、神さまに身を献げること、自ら犠牲を払うことだと、今日の御言葉は私たちに語ります。

私たちは、教会の中でさまざまなご奉仕に立てられ、用いられています。具体的な委員や役員の務めもそうですし、祈ること、今、こうして礼拝を共に献げていることも、ご奉仕です。神さまに献げる働きです。また、私たちは教会の外で、この世で、いろいろな立場と役割を与えられています。そして、そのすべてが神さまのご計画のうちにあります。私たちの苦しみを、神さまは用いてくださいます。苦しみの中で、その苦しみの意味が少しもわからないと思える中でも、神さまは答えをお持ちで、私たちを御手のうちに置いてくださっています。

今日は、旧約聖書のヨシュア記からも御言葉をいただいて、かなりの量の聖句を司式者に読んでいただきました。ここにも、神さまに立てられることの祝福と忍耐、そして自己犠牲が語られています。そそり立つ水の壁の前で、神さまに選ばれた十二人の祭司たちは、イスラエルの民・ユダヤの人々を約束の地へと無事に送り込むために、恐怖に耐えて、神さまに命じられたとおりに立ち止まり、川床に踏みとどまっていたのです。

新約聖書、旧約聖書が私たちに伝える今日の御言葉を通して、この一週間を、神さまと共に生きる祝福の大きさと深さを、思い巡らしつつ過ごしたいと願います。イエス様に従う者として、私たちも、イエス様が神さまのご計画のすべてを受け容れられたように、主の道を互いに助け合い、祈り合って歩んでまいりましょう。

2018年12月30日

説教題:お言葉どおり安らかに

聖 書:イザヤ書46章1-4節、ルカによる福音書2章22-40節

シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。

(ルカによる福音書2章28−32節)

クリスマス礼拝から一週間たった今日の主の日、私たちはイエス様が誕生されて およそ40日たった頃の出来事を伝える聖書箇所をいただいています。生後一ヶ月半ほどの赤ちゃんのイエス様が、ユダヤ民族の掟に定められたとおりに、夫婦に最初の男の子が誕生した折りの儀式を受けたことが記されています。

神さまがユダヤ民族に与えた掟・律法では、男の子の場合、生まれて八日目に割礼を施すことが決められています。体に民族のしるしを刻みつけるこの儀式を、イエス様は受けられました。

また、律法は男の子を出産した母親は一定期間、これは解釈によって33日間もしくは40日間、家から出ないで清めの期間を過ごすように言われています。これが、今日の聖書箇所22節が語る「モーセの律法に定められた清めの期間」のことです。

イエス様はヨセフとマリアの最初の子で、男の子でしたから、二人はやはり律法に従って、赤ちゃんのイエス様をエルサレム神殿に献げに行きました。最初の子・初子を神さまに献げ、そして出エジプト記の過越の出来事にならって再び返していただいて、手元で育ててゆくのです。この時の献げ物は一歳の雄羊一匹、それができなければ山鳩一つがいまたは家鳩の雛二羽と決められています。ヨセフとマリアは雄羊一匹を献げることができませんでしたが、掟どおりにその代わりとなる山鳩または家鳩の雛を献げました。☆ここで語られているのは、イエス様が神さまの御子としてお生まれになったにもかかわらず、人間として人生を始めて下さった、このことです。それも貧しい家の子供として。しかし貧しいながら、神様の掟に従い、我が子のために精一杯のことをしようと願う二人の家の子とされたと伝えられています。

イエス様がお生まれになった夜、天使の大軍のお告げを受けた羊飼いたち、そして東方の博士たちがイエス様を礼拝しました。私たちは先週、そのかがやかしく、美しく、おごそかな最初のクリスマスを伝える御言葉をいただいたばかりです。ですから、今日の箇所も、荘厳なエルサレム神殿にマリアがイエス様をたいせつに胸に抱き、ヨセフが二人に寄り添って、静かに主を崇める情景を思い浮かべがちです。

しかし、実際のエルサレム神殿の、祭司ではなく一般のユダヤの人々が妻と一緒に行ける境内は、いつもたいへん混み合っていたと伝えられています。マリア・ヨセフと同じように赤ちゃんを抱いた夫婦が大勢いたでしょう。赤ちゃん誕生の献げ物でなくとも、罪の赦しを求めたり、感謝の献げ物をしたりする人々、ザアカイのような両替商、献げ物の家畜を売る商人たちで賑わっていました。後に、大人になったイエス様が宮清めをしなくてはならないほどに、人間で満ち、また人間的なもので充ち満ちていたのです。この時、イエス様は神さまの子でありながら、人間の群れのただ中においでくださいました。マリアとヨセフは身なりもみすぼらしく、家族はまったく目立つところがなかったでしょう。ここにユダヤ民族の救いの主メシア、イスラエルの人々ばかりでなく世界の人々を救う方がおられるとは、およそ思えない状況でした。

しかし、それにもかかわらず、この雑踏の中で奇跡が起こりました。イエス様のお誕生は神さまが人となられた奇跡です。今日の聖書箇所が語る事柄は、主との出会いの奇跡です。

シメオンとアンナ、この二人の人が、イエス様こそが救い主であると知り、その方に出会えた喜びで満たされて、主をほめたたえました。

シメオンについて、御言葉はこう紹介しています。25節から26節にかけて、もう一度お読みします。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」

シメオンは、自分のために祈る人ではありませんでした。自分の幸福のため、自分が守られるために神さまにすがっていたのではなかったのです。彼は「イスラエルが慰められるのを待ち望んで」いました。すでに何度となくお伝えしたことですが、イスラエル、つまりユダヤ民族は独立と自由を奪われて何百年も苦しんでいました。この世に生まれたということそのものが、苦しみだったのです。しかし、これは、イスラエル民族に限ったことではありません。また、争いが絶えず、現代ほどに平和が叫ばれなかった、その時代に限ったことでも、ありません。

生きることそのものが、苦しみである。これは人間の事実です。

生老病死という言葉があります。生きる・老いる・やまい・死ぬ、と書きます。仏教用語です。これは人間が通過しなければならない四つの苦しみを表す言葉だそうです。生まれて生きる、老いる、病気になる、そして命の終わりを迎える。これは地上の人間が歩む道筋のすべてです。それらすべてが、いずれも、苦しいことなのです。

シメオンは、それを知り尽くした人・この真実を悟った人だったのでしょう。木曜日の聖書研究会では、つい先頃、旧約聖書の「コヘレトの言葉」を読み終わりました。この書の御言葉は、「すべてはむなしい」と繰り返します。そうなのです。人間は苦しんで生まれ、生きるために苦労し、たとえ楽しい事があっても、そのひとときの満足は空しかったと悟って死んでゆきます。その人に、神様がいないならば。

人間は、生きる苦しみ・老いる苦しみ・病の苦しみ・そして死の絶望から自分を救い出すことはできません。溺れた人が、自分の髪の毛を一生懸命引っ張って、水から逃れでようとしても不可能です。

自分ではない誰かに水中から引っ張り出してもらわなければ、文字どおりに救い(掬い)あげてもらわなければ、助かりません。それとまったく同じように、私たち人間の救いは、人間の外から、神さまからしか与えられません。

シメオンは「イスラエルが慰められるのを待ち望んで」いた人でした。彼は、その正しくあつい信仰によって、神さまにしか人間を救えないことがわかっていました。わかっていたから、彼は正しい人だったのです。「イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた」 — 慰める・慰められるという言葉は、日本語ではへこんだ気持ちを平常心に戻すぐらいの意味しか持ちませんが、もとの言葉はもっと強いニュアンスを持っています。もともとは、力づける、励ますという言葉なのです。溺れている人を、ただ助け出すのではありません。水の中に飛び込んでくれて、もう大丈夫と顔が水面に出るように姿勢を保たせてくれて、がんばれ、がんばれと言いながら岸辺に引っ張ってくれる。そうして、救い出してくれる。それが「慰める」ことです。シメオンは、その助け手を待っていたのです。

その助け手こそ、人間の現実である「生老病死」に打ち勝つ救い主です。人類の英知をきわめても、どうしても解決できない事柄から、その方はすべての人類を救い出してくださいます。

あなたは、その方に会えると、シメオンは実に幸いなお告げをいただきました。それが、救い主に会うまでは決して死なないという主の御言葉だったのです。救い主がどんな姿で来られるか、シメオンはまったく知らされていなかったでしょう。立派な、神々しい姿でおいでになると思うのが、人間の常識というものでしょう。よもや、貧しい身なりの、最も貧しい者の献げ物しか献げられない、若い平凡な夫婦に抱かれた赤ちゃんが、救い主とは思っていなかったでしょう。

しかし、シメオンの正しさと信仰は、聖霊が彼に「この子がその救い主」と示した時に、疑いもなく信じたことにあります。信じるばかりでなく、胸からあふれんばかりの喜びに満たされました。

信仰の奇跡は、ここにあります。真実を知ると同時に、爆発的な喜びと、限りない平安が心を満たします。シメオンに、これが起こったのです。そして、彼はイエス様を腕に抱き、高らかに歌いました。29節です。「主よ、今こそ あなたはお言葉どおり このしもべを安らかに去らせてくださいます。」私はもう、死んでも良いと彼は言ったのです。

今日の聖書箇所は、旧約聖書も新約聖書も、敬老の日に近い主日に読まれることの多い聖句です。長い 長い信仰生活を主と共に過ごされたご高齢の方々への祝福を祈る時に読まれます。しかし、今日の説教準備のために注解書をいくつか読んで、ハッと気付かされたことがありました。それは、赤ちゃんのイエス様を救い主と知って喜ぶこの箇所の二人、シメオンとアンナのうち、年齢がはっきり書いてあるのはアンナだけだという指摘がありました。確かに、37節に、アンナは84歳だったと記してあります。ところが、シメオンの方は、年齢がまったく書いてありません。実は、若い人だったかもしれないのです。

年齢に関係なく、たとえ十分に人生を生きたと言える年齢でなかったとしても、シメオンの喜びは「死んでも良い」と思うほど大きかった。聖書はそう告げています。それは、安らかに、平安のうちに地上から去って行けるからです。

ここに、神さまを知ることの絶大な恵みがあります。それは、死が終わりではない、このことです。死は通過点です。主が私たちと共においでくだされば、生老病死で私たちは終わりません。別れで終わり、闇に消えるのが私たちの命ではないのです。生老病死の先に、イエス様がひらいてくださった道があります。復活です。よみがえりです。

それは、イエス様が十字架で命を捨ててひらいてくださった希望の道です。イエス様が命を捨ててくださるほどに、深く愛されています。あなたは大切だ、だから死んではいけないと、溺れる私の代わりに、皆さんお一人一人の代わりに、イエス様は水に沈まれました。しかし、同時に、イエス様に背負われてたどりついた岸辺・向こう岸で、私を引っ張り上げてくださるのも、イエス様なのです。

シメオンの喜びの言葉の中に、イエス様の十字架の出来事とご復活はすでに語られています。彼はこう語ります。34節の終わり近くに、「反対を受けるしるし」とあります。イエス様は人々に否定され、この世にいない方が良い者として十字架で死刑に処せられました。しかし、よみがえられました。35節が語るように、マリアの心は息子を失う悲しみに刺し貫かれたのです。しかし、イエス様は復活されました。シメオンは語ります。少しさかのぼって、34節です。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められた」。イエス様は神さまとして裁き、人を自分の罪の深さに打ち「倒される」思いに沈めます。しかし、そこから、引っ張り上げて下さる方です。引っ張り上げて、再び自分の足で「立たせて」くださいます。イエス様と共に歩む限り、私たちは生きる苦しみを超え、老いる寂しさを超え、病のつらさを超え、死の恐怖を超えて、永遠の命に生きる希望をいただきます。

永遠の命とは、永遠に愛され続けるということです。たとえ世界中の人に「お前なんかいらない」と言われ、憎まれても — この世の法律で裁かれて、死刑になるとはそういうことです — 私たちが、神さまから見捨てられることは決してありません。神さまが、必ず、私たちに助けと励ましをくださいます。永遠の命とは、それを信じ感謝して、今の一日一日を丁寧に大切に生きることです。

そこに、限りない平安が、深い安心があるからです。

シメオンは、その幸いを歌いました。

そしてアンナは、この平安を、まだ知らない人々に告げずにはいられないと、讃美し、伝道しました。38節をご覧ください。アンナは「近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人皆に幼子のことを話した。」彼女は、84歳だった、そう聖書は語ります。

こう気付いてみると、この聖句がこの世的・人間的な意味で、敬老の日の主日礼拝にふさわしいかどうか、わからなくなります。私は、自分がこの御言葉を通して、こう言われていると思いました。「84歳になっても、まだまだ伝道し続けなさい。福音を宣べ伝えて、主のために働き続けなさい。」

そう語られているのは、牧師だけではありません。ルター、カルヴァンをはじめとする宗教改革者は「万人祭司」であることを説き、万人・すべての人のための御言葉であると告げます。

クリスマスにいただいた喜びと感謝を胸に、伝道のわざへと進むことができますように。今日の2018年最後の礼拝でいただく恵みが、私たちを伝道へと遣わす力であることを感謝します。新しい主の年2019年へと、主に従って共に歩んでまいりましょう。

2018年12月23日

説教題:大いなる喜びの訪れ

聖 書:イザヤ書57章14-19節、ルカによる福音書2章1-21節

天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

(ルカによる福音書2章10-11節)

主のご降誕をお祝いする礼拝の日を迎えました。今日、この礼拝のために与えられたルカ福音書・新約聖書の御言葉は、高らかに告げられた天使の言葉を、こう伝えています。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」

救い主イエス様のお誕生。それは、民全体の大きな喜びでした。その当時、ローマの植民地とされ屈辱の中にあったユダヤ民族だけに与えられた喜びではありません。今から2020年ほど前の、そのイエス様の時代の人々だけに与えられた喜びでもありません。時間と空間を超えて、人類すべて、今ここに招かれている私たち皆に与えられた喜びなのです。

なぜ、イエス様のお生まれが、この極東の日本に、今の時代を生きる私たちの喜びとなるのでしょう。そもそも、喜びとは何でしょう。私たちはどんな時に「嬉しい」「自然に笑顔になる」― そのような喜びで心を満たされるのでしょう。

一昨日は大浜幼稚園のクリスマス礼拝で、私は朝8時過ぎから夕方4時過ぎまで、ずっと園児さんたちと一緒におりました。小さいお子さんたちに、どんな時に嬉しい?と尋ねると、たいへん正直に答えてくれます。一番多い答えが「自分の好きな遊びをしている時」。ほとんどのお子さんが、そう答えます。私達大人にとっても、一番かどうかは別として、自分の自由気ままに時を過ごしているのは良いものです。

子供さんたちと過ごしながら、喜びとは何だろう、自由のことだろうかと、今日の説教のことも考えつつ思いめぐらしておりますと、神学校で私の一学年上で、共に学んだ牧師から聞いた事柄が思い起こされました。その方は、関西の教会に仕え、少年院の教誨師としても長く働いておられます。一学年上ですが、高校を卒業してすぐ神学大学に入学されたので、私よりもはるかに年下です。優しい雰囲気とがっしりした体格の方です。少年院に入っている、色々な事情を背景として持ち、様々な心の屈折と重荷を抱えた若い人たちが、この方には心を開くだろうと思われる、そんな方です。その方が、少年院のクリスマス会の話をして下さいました。クリスマス会を企画しても、少年達を招くだけ・参加者を集めるだけで一苦労なのだそうです。

クリスマス会に招いても鼻で笑われることがよくありました。「そんなもの、何がめでたい。何が嬉しい。」そうあざ笑われます。でも、そんな憎らしいような言葉でも、無視されるよりは良いと教誨師は考えるのだそうです。何らかの反応があって、会話ができるわけですから。その牧師はすかさず、「君には何が嬉しいの?」と尋ねます。うまくまた「そりゃ、自分の好き勝手することに決まってるじゃないか」と、返事が返ってきたら、「君は何が好きなの?」と尋ねます。少年たちの返事はたいてい同じだそうです。「言えないよ。それをやったから、自分は今ここにいるんだよ。」それから、馬鹿にしたような顔で「反省してま~す」と言うのも、決まったパターンだったそうです。

その中で、「君は何が好きなの?」という牧師の問いに、違う答えをした少年がいました。しばらくじっと考えていて、こんな言葉が返ってきました。「花火。」

牧師は思いがけない言葉が返ってきたことを内心で喜び、花火から会話をつなげようと、一生懸命、自分の花火の思い出をよみがえらせようとしました。ところが、この少年は意外なことを言ったのです。「でも、俺、ダメなんだよな。花火、好きなんだけど、見てると涙が出てくるんだ。好きなものって、全部そうなんだ。いつか、終わって消えるんだ。」

この時、牧師はこの少年が、自分の心の底にいつも潜んでいるむなしさを、また、幸福をつかもうとしても、それが手をすり抜けていってしまうせつなさを語ろうとしている事に気づいたそうです。そして、「自由気まま」「自分の満足」「好きなこと」は、本当の喜びとは大きく違うこと・異なる事を、心の深いところで思い知った気がしました。

自由気まま・自分の満足は、いつかは花火のように消えるものです。本当に心を満たす喜びは、いつまでも消えずに残り、自分から離れ去らないものではないでしょうか。今日の御言葉で天使が告げたのは、まさにその「大きな喜び」です。

今日の旧約聖書・イザヤ書の御言葉が語られたのは、現在のシリア地方にあたる地域で、戦いが絶えない時代のことでした。もちろんシリア地方に限らず、人間の世から戦いがなくなったことは今に至るまでありません。戦いは、欲望を満足させ、自分の目的を達成させるために始まり、攻め込まれた国の人々は自分と家族、国土と日常生活を守るために、その戦いを受けて立たなければなりません。それが繰り返されるのが「この世」でした。そして、今も「この世」です。自分の欲望を満足させることが何よりも優先させるその姿は、人間を造られた神さまを深く悲しませました。神さまは人間を深く愛して造られたのに、人間は愛されていることを忘れ、愛してくださる神さまを忘れているのです。

神さまは、人間というものを造ってはみたが、失敗作だったと滅ぼしてしまうことがおできになる方です。また、彼らが争うままに放っておいて、いつか互いに殺し合って勝手に滅亡してゆくに任せることもおできになりました。

しかし、今日のイザヤ書の御言葉は、神さまがそうはなさらなかったことを告げています。確かに神さまはいったんは人間に対し、怒りを表されました。17節の言葉です。今一度、お読みします。「 貪欲な彼の罪をわたしは怒り 彼を打ち、怒って姿を隠した。」人の争いがその貪欲から、自分本位の欲望から生まれ、それを聖書は罪と呼ぶことがわかる言葉です。そして、神さまが人間に警告をしても、また人間からいっときは離れ去ったかのようにふるまわれても、彼らは神さまを思い出そうとしませんでした。17節後半は、その人間の姿をこう語っています。「彼は背き続け、心のままに歩んだ。」しかし、神さまは人間を見捨てることはなさいませんでした。私たちの神さまは一度愛された者・私たちを捨てる方ではありません。

捨てる代わりに、かえって恵みを与えてくださる方。それが私たちの神さまです。神さまは、背きの罪を抱える私たちのその罪を、私たちがそれゆえに苦しむ重荷、あるいは象徴的に病いと語られ、神さまをないがしろにしている私たちをむしろ可哀そうと思って必要な癒しと休息を賜ります。18節は語ります。「わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ 慰めをもって彼を回復させよう。」

「罪を懲らしめる」という表現を使うとすれば、神さまは私たちの罪を懲らしめる道具として愛を用いる方です。愛こそが神さまの武器なのです。たとえて言えば、それは憎しみと悪意をもって攻め寄せてくる者を、愛で抱きかかえるようにすることでありましょう。人間を寄こせと詰め寄り、人間を罪に引き入れて飲み込み 滅ぼそうとする悪に、神さまは 私の一番たいせつなものを代わりに差し出すから、人間を解放してやってくれとおっしゃってくださいました。おっしゃるだけでなく、それを本当に行ってくださいました。

神さまの一番たいせつなもの。それは独り子イエス様です。神さまは御子イエス様を、惜しみなく私たちに与えてくださいました。最も貧しく苦しい環境に、御子を人間として生まれさせました。それは、イエス様が神さまの愛を伝える働きをされ、その後に私たちの身代わりとして十字架に架かられるためだったのです。私たちは、こうして滅びから救い出され、永遠に神さまの御手に守られて生きるようになりました。ここに、永遠に続くものがあります。花火のように一瞬にして消え去るもの、達成されてしまえば それで終わる欲望、刹那的な快楽とはまったく次元を異にする、まさに大きな喜びがあります。

天使は神さまのみわざを、こう伝えました。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。与えられる喜び。与えられるのですから、受けとめなければ喜びとはなりません。

天使の言葉を受けとめた羊飼いたちは、その喜びのしるしを見つけるために、いっさんに天使の告げた飼い葉桶の乳飲み子・イエス様のもとへ走りました。そして、世界で最初の礼拝をささげたのです。

クリスマスを迎えて、私たちはこの最初の礼拝の意味を深く心に留めたいと思います。永遠の命の喜びのしるし・大いなる喜びのしるし、イエス様と心と魂で会うために、私たちは毎週の主の日の礼拝に招かれています。ルカによる福音書2章20節、今日の聖書個所の最後の聖句は語ります。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」

私たちも、今日、そしてこれからの礼拝で、イエス様を心にいただき、神さまを讃美して永遠の命を受けた喜びを、この世に伝えるために、それぞれの持ち場に散らされてまいりましょう。そして、また生きて働かれるイエス様なる聖霊に共に満たされるために、主の日ごとにここに戻ってまいりましょう。

2018年12月16日

説教題:あけぼのの光の訪れ

聖 書:イザヤ書60章1-7節、ルカによる福音書1章57-80節

幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。

(ルカによる福音書1章76-79節)

今日の礼拝、クリスマス直前の主の日に私たちに与えられた御言葉は、「光が来る」ことを告げています。旧約聖書 イザヤ書60章の御言葉は語ります。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇る。」また、新約聖書 ルカによる福音書は、イエス様こそが 救い主としてこの世に来られたことを人々に知らせる声となった洗礼者ヨハネの父・ザカリアの讃美を通してこう告げます。「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らす。」

光が昇る、あけぼのの光が私たちを訪れる — それは、イエス様がお生まれになり、私たちに与えてくださる救いをさしています。

実際に、光がどれほど私たちの心を強め、励ましてくれるかを私たちは身をもって知っています。

今日の説教準備のために、御言葉を繰り返し読む中で、私は 看護師として病院で働いていた頃のことを思い出しました。記憶によみがえってくるのは、夜勤の時の事柄です。痛みに苦しむ患者さんの中に、夜の間、部屋の電気を消すのをたいへん嫌がる方が何人もおいででした。ナースコールで呼ばれてお部屋にまいりますと、患者さんが痛くて眠れないとおっしゃいます。痛み止めを使って「これで眠れますよ」とお部屋の電気を消してナースステーションに戻ろうとすると「ちょっと待って。電気を消さないで。」と切実な声で呼び止められることがたびたびありました。暗い方が眠りやすいだろうと思って、また 半分以上、習慣で電気を消してしまうのですが、実は思いやりのない行為なのです。患者さんは、こう言われます。「痛み止めが効いてくるまで、暗い中で苦しんでいたくない。」暗闇そのものが、苦しみなのです。

痛み止めが、効かないことがあります。その患者さんに処方された限界まで痛み止めを使ってしまっても効果がないと、ナースは、できるだけその方のそばに付き添うようにします。

マッサージで少し楽になることもありますし、付き添うご家族がおられない患者さんは よく、そばにいるだけで違うから、部屋にいてくれとおっしゃられました。苦しがっている弱い姿を見られたくないから、放っておいてくれと言う方がいそうですが、実はいないのです。このことに、ナースになって間もなく気が付きました。ちょっとハッとする発見でした。

付き添っていると、「早く朝にならないかな」 — 患者さんはよくそう言われました。何も言わなくても、そう思っていることが伝わってきました。真っ暗な窓の外の空が明るくなる、本当の光で明るくなるのを待っているのです。それだけで、ホッとするからです。

今、私たちが過ごしているアドヴェントの日々の思いは、この朝の光を待ち望む心にたとえられるでしょう。アドヴェントの讃美歌に、「見張りの人よ」と始まる曲があります。私たちはアドヴェント第一主日、12月2日の礼拝で讃美しました。「見張りの人よ、夜明けはまだか」と夜明けの光をひたすら待つ思いを歌います。

朝の来ない夜はない、だから、今の暗闇に耐えられる・痛みに耐えられる。救い主は必ずおいでになる、だから、今の苦しみを耐え忍ぶことができる。聖書は、そう語りつつ、私たちを励まし支えるのです。

今日の旧約聖書、イザヤ書が救い主のお生まれを預言したのは、ユダヤの人々がバビロンに滅ぼされ、絶望に沈んでいる時でした。絶望とは「朝の来ない夜はない」と、思えなくなることです。夜が永遠に続き、痛みが決して自分から去らず、暗闇の中で苦しみ続けて出口がない。バビロンとの戦いに敗れたユダヤの人々は、そう思っていました。聖書の世界では、戦いの勝ち負けは神さまの御心と直接の関わりを持ちます。エジプトの奴隷だったユダヤの人々は、神さまに導かれ、預言者モーセに率いられて、初めて民族として自立しました。それ以来、神さまが共におられるからこそ、自分たちは他の国から守られ、戦いに勝ち、独立を保ってゆけると彼らは信じるようになりました。

ですから、戦いに負けるとは、神さまが もう、自分たちと一緒にいてはくださらないことを意味しました。神さまから見捨てられたから、自分たちは負けた。もう、自分たちには、希望も喜びも、良いものは何も残されていない。人々はそう思いました。

また、人々は、こう考えました。自分たちが神さまの言いつけに従わなかったから、律法を守っているようで、実は神さまを心の底では軽んじていたから、見捨てられたのだ。自分たちは正しくなかった。

しかし、と彼らは思いました。それでは、自分たちに勝ったバビロンは正しいのか、神さまに愛されたのか。神さまのことを知らない人々なのに。命のない石や木から造った偶像を拝んでいるだけの人々なのに。どうして、神さまは彼らに目を向けられ、自分達を見捨てたのか。

人々は暗い日々を過ごしながら、神さまの御心を尋ね続けました。神さまの御心である真実の正しさとは何かを求めるうちに、人々は戦いそのもののうちに正しさがない・正義がないことに気付き始めました。しかし、それでも人は戦います。利益のために、領土と富を獲得してより良い生活を送るために、自分ばかりでなく、いえ たとえ自分は何とでもなるとしても、自分が愛する家族をより幸せにするために、また自分の信念を貫くために、時には、他国から、誰かから攻め込まれたから ただ 必死で自分と家族、自分が責任を負っているものを守るというそのことのために、人は人と、国は国と戦い続けます。

これは現在でも、同じです。平和を守るためには、平和を乱す者と戦って制圧しないとならないのです。

人間は、平和に憧れながらも、戦いをやめることができません。

国同士ばかりでなく、私たちは互いに競い合うことをやめることはできません。これが人間の限界であり、闇なのです。国が敗北し、滅びること以上の深い闇と絶望がここにあります。

聖書は、この人間のありさまを「罪」と呼びます。

今日のイザヤ書60章2節は語ります。「見よ、闇は地を覆い 暗黒が国々を包んでいる。」預言者イザヤは、神さまの言葉を預かって語っています。神さまが彼に見せたものは、彼の祖国ユダヤの無残な敗北と滅びだけではなかったのです。もし、イザヤにそれしか見えていなかったら、彼は自分の国だけをさして、こう語ったでしょう。「闇は地を覆い、暗黒がこの国を包んでいる。」彼は「国々」と言いました。戦いに勝っても負けても、戦いがある限り、国々・この世は、暗黒の闇に閉ざされています。私たちは、自分では、ここから逃れる道を開くことができないのです。光は、私たちの中にはありません。私たちは自分で光ることはできないのです。しかし、神さまは光をくださいます。イザヤがこう伝えるとおりです。「あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる。」

光が来る、夜明けが来る。そう神さまはイザヤを通して、人々に告げました。自分たちが、決して神さまに見捨てられていたわけではなかったことを、人々はこうして知ったのです。神さまは一度、愛する約束をしてくださると、決して約束を破らず、見捨てない方です。

イザヤ書はさらに、その光が「ダビデの家に生まれる」「ひとりの男の子」として世に与えられること、その男の子が「平和の君」と呼ばれることも、告げました。ユダヤの人々は、その預言を支えに生き続けました。イザヤの時代から、イエス様がお生まれになるまで、実に800年を超える年月が過ぎてゆきました。気の遠くなるような長い夜でした。

しかし、夜明けは確実に来るのです。諦めて眠り込んでしまうと、あけぼのの光・夜明けの光を見ることはできません。

だからこそ、御言葉は繰り返し語ります。「起きよ」「目を覚ましていなさい」と。神さまは、イエス様が救い主であることを告げるこの声を、私たちにくださいました。今日の新約聖書の御言葉には、その声としての使命を生きたヨハネの誕生が記されています。イエス様のお誕生の半年前のことです。

人間的な、きわめて この世的な見方からすれば、ヨハネの一生は幸福とは言えないかもしれません。ヨハネは祭司ザカリアと、その妻エリサベトの子として生まれました。アブラハムの子イサクのように、非常に年老いた両親のもとに、年老いた母を身ごもらせて、神さまが与えてくださった子どもでした。そのこと自体は、人間的な意味でも、おめでたい、大きな喜びでした。今日の新約聖書の冒頭で語られているように、近所の人や親類は大喜びしたのです。祭司の家に生まれた子どもは、祭司となることが定められていました。父の名を継ぎ、その務めを受け継ぎます。ところが、神さまは、この赤ちゃんに別の使命を与えていました。また、父ザカリアと母エリサベトは、そのことをよく心に留めていたのです。神さまが命じたとおり、ヨハネという名を、赤ちゃんにつけました。「主は恵み深い」という意味の名です。

ユダヤの社会では恵まれた身分である祭司の家に生まれながら、ヨハネは大人になると 荒れ野で暮らし、神さまを求める祈りの生活をするようになりました。神さまが計画された通り、イエス様に洗礼を授け、この方こそが救い主であることを高らかに告げ知らせ続けました。後に、彼はユダヤの王・ヘロデを批判して逮捕され、少女サロメの踊りのご褒美として、戯れに、そして無残に命を取られてしまいます。

ヨハネの一生は、イエス様こそが、神さまが約束してくださった救い主であることを、告げ知らせるためにありました。眠り込んでいる人々の魂を目覚めさせ、救いの光を気付かせる声となることが、彼の命だったのです。

ルカによる福音書の1章、イエス様のお誕生の予告が語られる箇所には、二つの讃美の歌が記されています。ひとつは、イエス様の母となるマリアの賛歌、もうひとつが、今日の聖書箇所・ザカリアの讃美です。マリアとザカリア。二人とも愛する息子を、十字架で、また戯れのために、失います。それでも、いえ、だからこそ、かもしれません — 二人の讃美は、福音書を通して美しく鳴り響き続けているのです。

マリアの賛歌はマグニフィカートと呼ばれます。おおいなる方・主を、この卑しく小さな自分に目を留めて、神さまの御子の母としてくださった偉大な方と讃え、自らは身を小さく 小さく、そして神さまをマグニファイ・さらに大きく 大きくするからです。

ザカリアの讃美はベネディクトゥス、祝福の歌と呼ばれます。聖書の102ページの小見出しにあるように、預言としての内容を語っています。ザカリアは主に仕える祭司として、息子がどのように生き、そして死んでゆくかを聖霊に満たされて知り、祝福せずにはいられなかったのでしょう。人の目にはどう映ろうと、ヨハネの一生が、神さまの御用に用いられたからです。

それは、人間には決して成し遂げることのできない、真実の平和があること、それがイエス様として世に現れてくださったことを知らせる一生でした。78節後半から、79節にかけて、ザカリアはこう歌います。「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」

あけぼのの光。それはイエス様です。

高い所・人間とは次元の異なる神さまの高みから、イエス様はこの世においでくださいました。自分を捨てて相手を生かす、敵にも豊かな命を与える愛を十字架で示され、ご復活によって私たちを殺し合いの罪から救ってくださるためでした。

ヨハネの呼びかけに耳を澄まし、目を開き、イエス様の光を心にいただきましょう。どんな時も、どれほどつらく暗い闇も、イエス様が必ず破ってくださることを思い起こしましょう。来週の主日、私たちはクリスマスを祝います。今日から始まる一週間を、心静かにきよめられ、希望を抱いて過ごしましょう。

2018年12月9日

説教題:み言葉の実現

聖 書:イザヤ書61章1-4節、ルカによる福音書4章14-22節

主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。

(ルカによる福音書4章18-19節)

アドヴェント第2週の日曜日を迎えました。クランツの、2本目のろうそくに火が灯りました。私たちはこうして、イエス様が誕生されたクリスマスの意味を思い巡らし、感謝して祝う備えを進めています。

今日の新約聖書・ルカによる福音書4章の御言葉が司式者によって朗読されるのを聞いて、あれ?と思われた方が少なくないと思います。

クリスマスへの心備えをするアドヴェントには、イエス様がお生まれになる前のことが語られる — そうお考えかと察します。ところが、今日、この礼拝のために私たちが与えられた御言葉では、イエス様はすでに大人になっておられます。イエス様のお誕生への心備えとして、今日、私たちは何を心の耳で聞き、何を心に留めればよいのかと戸惑われておいでかもしれません。

しかし、このようにお考えいただきたく思います。アドヴェントは、イエス様が私たち人間に与えられた恵みの意味を思い巡らす時です。

イエス様は、私たちを罪から救われるために十字架に架かられました。そして、ご復活によって、私たちが罪の報いである死から救われ、永遠の命に入れられたことを示されました。これは、イエス様が成し遂げられた救いのみわざです。このみわざ自体が福音です。

同時に、イエス様は天のお父様である神さま・私たちの造り主が、大切な独り子であるご自身をこの世に遣わし、十字架に架けるほどに私たち人間を大切に思ってくださったこと・神さまの愛を、伝えられました。イエス様は福音のみわざを成し遂げられると同時に、神さまの愛と正義という福音をも、宣べ伝えられたのです。今日の御言葉は、それを私たちに告げています。

イエス様は、母マリアから生まれ、マリアの夫・ベツレヘムの大工ヨセフの家で、その家の長男として育ちました。おそらくヨセフから大工仕事を教わり、村の大工さんとして30歳頃までを過ごされました。

そして、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、神さまの真理を告げる使命を果たすようになられたのです。

今日の聖書箇所の直前は、イエス様がヨハネから洗礼を受けた後に、荒れ野で四十日間の悪魔の誘惑に遭われ、それに打ち勝ったことを語っています。イエス様は悪魔をこれらの言葉で退けられました。

「人はパンだけで生きる者ではない」「ただ主に仕えよ」、そして「あなたの神である主を試してはならない」。悪魔はイエス様から離れ去りました。そして、今日の聖書箇所の最初の言葉にあるように、イエス様は『霊』の力に満ちて、ご自身の故郷のあるガリラヤに帰られ、宣教活動を始められたのです。そのことが、15節に「諸会堂で教え」という言葉で表されています。

16節からの言葉をたどると、当時、ユダヤの人々が安息日にどのような過ごし方をしていたか、ユダヤの会堂で何が行われていたかがわかります。ここには、イエス様が「いつものように安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」と記されています。

日曜日に、教会に集められ、そこで聖書が朗読される — 御言葉を中心とする私たちの礼拝の元の姿が、ここにあります。イエス様の時代に、ユダヤの会堂で安息日に行われていたことを、私たちは私たちの主の日・日曜日に教会で献げる礼拝として受け継いでいるのです。

イエス様は、今日の司式者がそうであるように、聖書朗読をされました。この時代に「聖書」と申しますのは、まだ新約聖書がありませんから、私たちにとっての旧約聖書です。本の形をしておりませんで、巻物でした。その日はイザヤ書を読むことに決められていたようです。イエス様はイザヤ書を開かれ、そこに、この御言葉があるのを見いだされました。私たちの新共同訳聖書は「次のように書いてある箇所が目に留まった」と訳しています。

イエス様の目に飛び込んできた言葉、天のお父様に与えられた御言葉でした。それは、イエス様がどなたか、何をなさる方かを、イエス様ご自身が礼拝の中で、聖書の言葉・神さまの言葉として、はっきりと告げ知らせるものだったのです。

御言葉はイザヤ書61章でした。イエス様がお生まれになる800年ほど前に、救い主の誕生を預言した言葉です。イエス様は、その言葉を語りつつ、ご自身を語られました。まず、こうおっしゃられたのです。「主の霊がわたしの上におられる。」まことに、イエス様は神さまとして、常に聖霊に満たされたお方でした。

次いで、こう読まれました。「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。」

「油を注ぐ」とは、神さまに特別に選ばれることです。ユダヤ民族の王は、任命される時に「油を注がれる」儀式を行います。神さまを中心として生きる人々にとっての王とは、人ではなく神さまに選ばれて、神さまに王として任命された者なのです。

王とは、何をする者でしょう。一般的には、人々を統率する指導者と考えられるでしょう。国を治め、政治と行政を司って人々の生活を安定させ、裁判を行って人々の関係を正しいものとし、治安を守り、対外的には、軍事的なリーダーとして、国の外から攻め寄せてくる敵から人々を守るのが、私たちが一般に考える「王」「君主」ではないでしょうか。しかし、イエス様は、このような使命を神さまから与えられていたでしょうか。神さまが、イエス様に第一に与えられた使命は何だったでしょう。

イザヤ書は、私たちにとって思いがけないことを語ります。そして、イエス様はこの時、ご自分の使命として記されたその言葉を朗読され、ご自身が何をなさるためにこの世に来られたかを宣言されました。

それは、18節中ほどのこの言葉でした。お読みします。「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。」

神さまが任命した王が、第一に担ったのは、民の上に君臨して指導力を発揮する役割ではありませんでした。ユダヤの真実の王としてのイエス様の役割は、愛とあわれみです。

貧しい人。それは文字どおりに生活が苦しい人・この世で恵まれない人でしょう。また、「貧しい」とは、自分に足りないものがあって、それを渇望することも意味します。物質的には不自由がなくても、心が満たされず、平安がなく、いつも自分はこれで良いのかと焦り、迷い、今の自分と生活にむなしさを感じている人も、貧しい人です。現代を生きる私たちも、特に若い頃、自分で人生を切り拓いていこうとする時に感じる不安も、この貧しさの中に入るでしょう。

イエス様は、その人たちに、また今を生きる私たちに、福音・良い知らせ、心を真実に満たしてくれる恵みの知らせを告げるために、神さまに遣わされました。

イエス様は、ご自身の使命・ご自分が遣わされた神さまの目的を、さらに語られました。次のページです。お読みします。

「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

イエス様は、人々を自由にするために、神さまに遣わされました。これは、私たちが考える「王」「君主」がすることの逆のように思えます。一般に、王が行うのは、支配だからです。支配とは、どういうことでしょう。命令を下して国の政治や経済を営ませ、他の国と戦争が起こったら、戦わせる。私たちの間で、支配という言葉は、どちらかというと嫌われ者です。それは、束縛を意味するからです。自由の逆だからです。

ところが、イエス様は私たちを自由にしてくださるためにおいでになったと宣言されます。私たちは何かに束縛されているのでしょうか。何に捕らえられて、真実の自由を失っているのでしょうか。

そう考えてみると、私たちの思いや行いは、自分の考え以外のものに支配されることが、意外に多いことに気付きます。自分はこう考え、こう行動したいけれど、まわりの人に驚かれたり、呆れられたり、嫌われたりしないだろうか。私たちは、本当には正しいのか正しくないのかわからない、この世の常識に支配されています。

今、私は「本当には正しいのか正しくないのかわからない」と申し上げました。思えば、私たちは迷いながら生きています。お子さんを育てることひとつをとっても、ほめて伸ばせば良いのか、叱咤激励して厳しく育てるのが良いのか、真剣に考えれば考えるほどわからなくなって、ご両親の間で意見が分かれることもあるでしょう。真理・本当に正しいことが、私たちにははっきり見えません。その意味では、私たちは「目の見えない人」です。真理が光だとすれば、暗闇に閉ざされた人と申しても良いかもしれません。その私たちを、イエス様は光へと導いてくださいます。

本当に正しいことが見えてくるとは、イエス様を通して、神さまの真理を求めるようになるということです。世間の常識や、自分の思い込みに閉ざされて、不安を抱えながら暗闇を手探りで進むような生き方ではなく、光に向かう出口が見えるのです。出口が分かるとは、なんと安心なことでしょう。その出口へと私たちを導いてくださるイエス様は、私たちを闇から光へ、束縛から自由へと連れて行ってくださるのです。

光へと出て行くと、そこに神さまの真理があります。

それは、神さまの愛と正しさです。

私たちを救うために自分の命を投げ打って、十字架で死なれ、自分を犠牲にする究極の愛を示してくださるイエス様が、それをはっきりとお示しくださるのです。

私たちは、こうして救われて死から自由になります。ですから、イエス様の十字架のみわざ・救いの福音を知る、神さまを知るとは、最高の自由です。私たちに絶望を意味する死から自由になることです。

神さまを礼拝し、神さまに従うことは、自分の自由を手放すことだと思っている方がおいでかもしれません。洗礼を受けることで、束縛されると心配なさっている方もおいでかもしれません。その心配は、ありません。イエス様に従うとは、イエス様のあとをついて光の中に出て行くことです。そこに、自由になって、神さまの愛に身をゆだねる安心と幸いがあります。

イエス様は、それらの真理の預言を告げるイザヤ書の言葉を読み終えると、どうなさったでしょう。今日の聖書箇所の20節をご覧ください。「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。」私たちの礼拝は、聖書の朗読の後に説教・御言葉の説き明かしがあります。会堂に集まった人々は、それを待っていました。ところが、イエス様は、御言葉だけで十分、とばかりに席に戻られてしまったのです。

人々は驚きました。さらに、期待を込めて、イエス様をみつめました。聖書にはこう記されています。「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれた。」イエス様は、朗読されたイザヤ書の言葉が、そのまま人となられた方です。そのために、神さまはご自分の独り子イエス様を、目に見える言葉として遣わされました。ヨハネ福音書の表現を借りれば「言葉は肉となって」、イエス様は、その時、その場におられたのです。また、今、この御言葉をいただいている私たちの間におられるのです。イエス様がそこにおられるだけで、人々はイエス様がただそこにおられるのを見るだけで、十分なはずでした。説き明かし・説教は必要なかったのです。しかし、人々には、それがわかりませんでした。イエス様は、それを忍耐して、語ってくださいました。21節です。お読みします。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

人々にわかる言葉で、光へ、自由への解放の約束を語られたのでしょう。それは、人々を励まし、勇気づけました。イエス様の説教ですから、人々の心を動かし、すばらしかったのは当然です。それが、22節に語られています。お読みします。「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』」

人々の最後のひと言は、本当に人間的な、正直な言葉です。実に、残念な言葉です。

人々は、イエス様が神さまから遣わされた神さまの子であることが、まったくわかっていませんでした。特にこの時、イエス様はご自身が育ったふるさとの村・ナザレで今日のことを語られたので、なおさらそうだったのです。「あのイエスなら子供の頃から良く知っている。大工のヨセフの息子だ。立派になったな〜。たいしたものだ。」

神さまの御子イエス様の真実の姿が、彼らには見えていませんでした。人々は、ふたたび自分の常識という闇に戻ってしまい、イエス様が語られた恵みは光を失ったのです。

神さまの思いは、私たち人間の思いを、はるかに高く超えています。神さまの愛と正義は、私たちの常識を超えています。それを、私たちは今日の御言葉から思い知らなければなりません。

イエス様は、およそ神さまの御子の誕生の場とは思えない馬小屋で、飼い葉桶の赤ちゃんとしてこの世にお生まれになりました。

神さまの思いは、人間の常識を打ち破って私たちに届けられるのです。神さまの思いの大きさ・高さ・深さ、そして私たち人間をはるかに超える不思議さ・ミステリオンを、アドヴェント第二主日の今日、あらためて思い巡らしましょう。それを私たちにわかるように、イエス様がこの世においでくださったことを、今日、心に刻みましょう。

2018年12月2日

説教題:御言葉は成し遂げられる

聖 書:出エジプト記24章3-8節、マタイによる福音書26章26-30節

それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ 種蒔く人には種を与え 食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくはわたしのもとに戻らない。それはわたしの望むところを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。

(イザヤ書55章8-11節)

天使は答えた。「聖霊があなたに宿り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」そこで、天使は去って行った。

(ルカによる福音書1章26-38節)

神さまの御子イエス様のお誕生を祝うクリスマスの日を、救いの喜びを感謝しつつ待つアドヴェントを迎えました。アドヴェント第一主日の今日、クランツの1本目のろうそくに火がともりました。

静かに、そして一心に燃える、このろうそくの炎をみつめながら、私たちは思い起こすのです。イエス様は真っ暗なこの世を照らす光として、私たちのただ中においでくださいました。

冬のさなかに暖かく、明るく燃えるこのろうそくの炎をみつめながら、私たちは今日、ひとつのことを深く心に留めましょう。それは、私たち教会が、どうしてクリスマスをこれほどに喜ばしいものとしてお祝いするか、その理由です。もちろん、イエス様がお生まれになったことをお祝いするのがクリスマスですが、すばらしい方のお誕生を祝う、記念するだけではありません。クリスマスの喜びは、神さまが私たちにくださった約束の御言葉を 果たしてくださったことにあります。約束の御言葉は、「私は必ずあなたたちと共にいる。決してあなたたちを見捨てない。あなたたちの力と希望の源であり続ける」 — このことです。聖書の言葉を用いれば、インマヌエルの神でいてくださることを、主は約束してくださったのです。

それは、紀元前八世紀のことでした。神さまは、国を滅ぼされて絶望の暗闇の中に沈んでいたユダヤの人々に、預言者イザヤを通してこう語られました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7:14)インマヌエルという名は、「神は私たちと共におられる」という意味です。さらに、こうも語られました。

「ひとりのみどりごが わたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。その名は『驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君』」(イザヤ9:5) - 真実の平和への道をひらいてくださるこの方・ひとりのみどりご・ひとりの男の子が、いつか、私たち人間に与えられる。その約束が、人々の希望となりました。その希望にすがって、人々は生き延びたのです。私たちの主は、約束を守り通す方です。私たちを深く愛し、大切に思ってくださるからです。そして、800年の時を経て、約束は実現されました。

長く、長く「神さまの時」を待ち、忍耐して神さまの約束を信じ、そして与えられたイエス様のお誕生は、私たちへの神さまの愛のしるしです。だから、喜ばしいのです。

そして、もちろん、このしるしは「与えられて終わり・約束が果たされ満たされて終了」というものではありません。神さまの御子イエス様がこれからずっと私たちと一緒にいてくださり、だから、私たちは死を超えてイエス様と共に幸いと平安のうちに生きられる – その永遠の命の歩みが、始まりました。この恵みを喜び感謝して、私たちはクリスマスを祝うのです。

今日の旧約聖書の御言葉、先ほど司式者がお読みくださったイザヤ書55章11節は語ります。主 御自らが語られる言葉です。「わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。」神さまが語られた約束の言葉。それは、決してむなしくならないと、主は言われます。御言葉は、必ず成し遂げられます。神さまが私たちに約束してくださった救いの恵みは、必ず実現するのです。

今日は、その実現の出来事を新約聖書の御言葉・受胎告知の聖書箇所から少し詳しくご一緒に読んでまいりましょう。

与えられた御言葉は、いきなり「六ヶ月目に」と始まっています。

いったい何から六ヶ月目なのかと思われることでしょう。

今日の箇所では、イエス様の母となる少女マリアが、聖霊によって神の御子を身ごもったことを天使に告げられたことが語られています。

このマリアへの知らせに先立つこと六ヶ月、半年前に、神さまは、すでに一つの約束の成就を成し遂げておられました。イエス様の到来を告げた洗礼者ヨハネが祭司ザカリアと、その妻エリザベトの子として生まれることになりました。エリザベトは、信仰の父アブラハムの妻サラのように、子がないまま年老いて、子供を産むことを諦めていました。ところが、同じくサラのように、神さまはエリザベトに子を与えられると約束され、その約束は実現しました。神さまの恵みは、人の目や耳で確かめることが難しいことがありますが、この時、エリザベトのおなかはすでに目立つようになっており、神さまがおっしゃったとおりの妊娠が明らかだったのです。

その御言葉の成就を事実として携えて、天使はマリアを訪れました。マリアは、ダビデ家のヨセフという人のいいなづけ・婚約者でした。これは、ユダヤ民族を統一させたイスラエルの二番目の王・ダビデの末裔から救い主が生まれるという神さまの御言葉が実現するためです。しかし、その頃はダビデの末裔と言っても、それほど恵まれた生活をしているわけではありませんでした。当時の大都市エルサレムから遠いガリラヤのナザレという田舎町の、貧しい男性に嫁いでゆく少女。それがマリアだったのです。

先程からこのマリアに「少女」という言葉を用いていますが、その頃の女性の結婚適齢期は14歳だったと言われています。マリアは、おそらくこの年齢だったでしょう。家の奥で、母親に家事を教わって育てられ、今日の聖書が語る出来事がなければ、父の保護の元から夫の保護の元に移されるように結婚し、静かな人生を過ごしたのでしょう。

私たちが、イエス様の母となるマリアについて具体的に、この世的な意味で知ることができるのは、ただこのことだけです。美しかったとも、賢かったとも、書いてありません。救い主の母として、私たちが想像するように、特別に神さまを信じる心が強かった、信仰が篤かったとも、優しかったとも記されていません。マリア自身には、特徴がないのです。特筆すべきところのない、取るに足りない者、まだ人生の経験が14年しかなくて、自ら誇るところが何もない — それが、マリアでした。

多くの神学書・聖書の注解書は、まさにこのことこそが重要だ・心に留めるべきだと教えてくれています。なぜなら、神さまは、取るに足りないこのマリアを選び、救い主の母として用いられたからです。自分はどうということのない者だから、神さまに用いられることはないだろう、などと私たちが自らについて勝手に決めてはならないことを、このことは告げています。また、自分は信仰心もなく、神さまにも教会にも関心がないから、神さまの救いのご計画とは関係がないと考えることの誤りをも、この事実は伝えているのです。

私事で恐縮ですが、14歳と言えば、私が教会から離れてしまった頃です。その時はまだ、洗礼も受けていませんでした。教会と、聖書と、このように深く関わる人生になると、中学生の私は想像もしていませんでした。こうして教会で過ごす日々を与えられた今、思うことは、たとえ私がこれから、主から遠く 遠く離れて迷い出てしまったとしても、神さまはきっと私を呼び戻してくださるということです。誰もが、私たち皆が、今 神さまにどのような思いを抱いているかは関係なく、神さまに見守られ、その御手のうちで生かされているのです。

さて、聖書の御言葉に戻りましょう。天使に「おめでとう」「喜びなさい」といきなり言われたマリアは、激しく戸惑いました。

じっと考え込んでしまったマリアに、天使は優しく「恐れることはない、怖がらなくてよい」と告げ、説明をします。

ところが、その説明は、これからマリアの身に この世的には、とんでもないことが起こることを知らせるものでした。いいなづけヨセフの子ではなく、神さまの子を宿すと言われたのです。夫以外の子を身ごもるとは、十戒の姦淫の罪を犯すことをさしました。町の人がひとり一つの石を投げて罰する、石打の刑に遭うことを意味しています。それが罪の中で、侮辱され嫌われて死んでゆくことだと、世間知らずのマリアでさえ、すぐにわかったのです。もちろん、たいへん恐ろしいことです。

マリアは、一度は天使の言葉に抗いました。「どうして、そんなことがありえましょうか。」それに続くマリアの言葉「私は 男の人を知りませんのに」は、その背後に「私は男の人すら知らない者なのに、そんな大それたことにふさわしくないのに、取るに足らない者なのに」という意味を潜ませているでしょう。

天使は、親類のエリザベトが年をとっているけれど、神さまの言葉どおりに六ヶ月の身重であることを告げます。そして、こう続けました。「神にできないことは何一つない。」

それは、神さまは処女懐胎を可能にし、高齢の女性にも出産を可能にする、そういう意味で「何でもおできになる」ということでは、ありません。神さまの語る言葉は必ず実現するという意味です。神さまが、人間に語られた約束を必ず成し遂げるという意味です。

神様が私達の常識をくつがえす、いわゆる奇跡を起こされるのは、ご自身が何でもできる方であること・神様の全能を示すためではありません。神様がエジプトから脱出したイスラエルの民のために海を二つに割ったのは、「できる」ことを示されるためではありませんでした。

それは、イスラエルの民を救うためでした。

神さまは、今日の聖書の御言葉では、イエス様を遣わして人々を救おうとされておいでです。もちろん、その人々の中には、イエス様の母として用いられる、このマリアも含められています。

天使は言いました。35節です。「聖霊があなたにくだり、いと高き方の力があなたを包む。」まさに聖霊がマリアにくだり、マリアには人間の常識を超える神さまの真心がわかったのです。これからどのように恐ろしいことが待ち受けていたとしても、マリアには神さまの御心のままに身をゆだねることこそに、最高の平安・安心があることがわかりました。

これが、神さまの奇跡です。人の目には最悪の状況・窮地に落ちこんでいるように見えても、その人が神さまにすべてをゆだねて信じていることに、その人の心は最も平安、最もしあわせなのです。神さまの真実に満たされているから、安心なのです。小さな自分・誤りや偏りのある自分の思いを捨てて、真理であり、完全に正しい神さまに自分を任せることに私たちの幸いがあります。奇跡とは、海が二つに割れること、水がワインに変わること、男の人を知らずして身ごもることなどの事柄にとどまらず、それらの事柄の根底にあって働く神さまの恵みそのものです。絶望的な状況にあってなお、神さまに知られている自分は幸いと思える、その平安を、神さまからいただくことです。

マリアは、天使に応えました。今日の聖書箇所の最後の節です。「わたしは、主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」

マリアの信仰告白の言葉です。マリアは、天使を通して、神さまにこう申し上げました。「神さま、はしため・奴隷女のように、あなたにひたすら従ってゆくことにこそ、私の真実の平安があります。あなたは語られた言葉・約束を必ず成し遂げられます。私はあなたに従い、身をゆだね、すべてをあなたにお任せします。」

マリアが信じ、ゆだねた神さまの約束は、こう語るのです。今日の旧約聖書の御言葉です。「9天が地を高く超えているように わたしの道はあなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。」だから、人の思いでは不安に満ち、絶望しか見えないところを超えて、神さまは希望をくださいます。聖霊に満たされるとは、マリアのように、この神さまの恵みがわかるということです。

また、神さまは続けてこうも語られました。「10雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ 種蒔く人には種を与え 食べる人には糧を与える。11そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくはわたしのもとに戻らない。それはわたしの望むところを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。」

マリアに宿られ、月が満ちて寒い夜にお生まれになるイエス様。その方は、ここに預言された方です。天の父・神さまが望まれる救いのみわざを十字架で成し遂げて、イエス様は使命を果たされ、復活され、天の御父のもとに帰られました。

アドヴェントを過ごす中で、マリアのように聖霊に満たされ、まことの平安をいただくことを祈り願いましょう。そして、救い主イエス様のご降誕を祝うクリスマスを、心静かに感謝して、ご一緒に待ちましょう。

2018年11月25日

説教題:最後の晩餐

聖 書:出エジプト記24章3-8節、マタイによる福音書26章26-30節

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

(マタイによる福音書26章26-30節)

今日は収穫感謝日、子ども祝福の日です。たくさんの果物を持ち寄って、豊かな実りを私たちに賜る神さまに、感謝を献げています。

また、神さまが私たちの家庭、私たち神の家族に与えてくださった命の実り・子どもたち。

子どもさんへの祝福をいただけたことへも、感謝を献げましょう。

私たちプロテスタント教会では、あまり意識しないことなのですが、皆さんは教会の暦でいつが一年の始まりか、またいつが一年の終わりか、考えてご覧になったことがありますか。

薬円台教会では元旦に新年礼拝を献げます。しかし、教会の暦では、実は元旦が一年の始まりではないのです。教会の一年は、イエス様がおいでになることへの喜びの備えから始まります。「喜びの備え」から。イエス様のお生まれを祝うクリスマスへの備えをするアドヴェント第1週主日、今年は12月2日・来週が、教会の新年です。と申しますと、その前の週、つまり今日は、教会の一年最後の礼拝と言うことになります。

カトリックの教会では、この日を終末主日としているようですが、私たちプロテスタント教会では、この一年の終わりの日・今年は今日を「収穫感謝日」として、過ぐる一年の間に神さまが賜った恵みのすべてを感謝する日としています。

今日の旧約聖書から与えられた御言葉を、先ほど司式者がお読みくださいました。奴隷であったイスラエルの民を神さまはエジプトから救い出し、自由と心の糧・生活の保証を与えてくださいました。イスラエルの人々はそれを深く感謝して、焼き尽くす雄牛の献げ物を献げました。当時としては人間にできる最高の献げ物です。それは、人々が神さまの御言葉に従うことこそを、自分たちの最高の幸いとする決意の表れでもありました。すると、神さまは人々のその決意に、さらに応えてくださったのです。人々を守り続け、ずっと彼らの神さまでいるとの約束をしてくださいました。これは恵みの約束・契約です。

私たちが神さまに感謝を献げる時、神さまは、それを受けてくださいます。私たち小さな人間の、小さな献げ物を神さまが受けて下さる。

それだけでも、すばらしい恵みであります。

しかし、神さまは私たちの その精一杯の感謝に、さらに重ねて恵みを賜ります。それが、私は永遠にあなた方と共にいる・ずっとあなたたちと結ばれているという契約です。今日の旧約聖書では、その約束・契約のしるしとして、神さまは雄牛の血を用いられました。

教会で「血」と申しますと、私達の心に浮かぶものがあります。そうです。十字架で、私たちの罪の救いのために流されたイエス様の血です。また、旧約聖書で「血」と申しますと、出エジプト記でイスラエルの人々がエジプトから自由になろうとしていた時、彼らを救うため、神さまの使いがそれを印として「過ぎ越す」ためにイスラエルの家の門に塗られた犠牲の小羊の血が思い起こされるでしょう。イエス様が十字架で流された血は、この小羊の血と重ねられ、私たちはイエス様が私たちの救いのために血を流してくださったことを知るのです。

さて、薬円台教会は、主日礼拝でマタイ福音書からの御言葉を読み続けています。今日、私たちは主の晩餐・最後の晩餐の箇所をいただいています。この日のために計画していたわけではまったく、ありません。日曜日ごと、主の日ごとに順番に読んでまいりましたら、今日・教会の一年の最後の日、私たちが感謝を献げ、主がそれに約束・契約でお応えくださるこの収穫感謝日に、このイエス様の契約の血の箇所をいただくことになったのです。

ここに、薬円台教会への神さまの大きな導きと恵みをおぼえ、心から感謝します。

さて、前置きがかなり長くなってしまいました。今日の新約聖書の御言葉、マタイ福音書26章26節から30節を、ご一緒に少し詳しく読んでまいりましょう。

イエス様は、弟子たちと過越の祭の食事の席についておられます。

神さまがイスラエルの民の神となって彼らを救ってくださった、あの出エジプト記に記された出来事を思い起こして主に感謝を献げながらいただく食事です。神さまに救われ、主にあってひとつとされていることを思いつつ、なごやかに過ごす食事です。本来は。

しかし、この時、前回の主日礼拝説教でお伝えしたように、イエス様と弟子たちの間にはたいへんな緊張が生じていました。弟子たちは、自分たちがイエス様に従ってゆけるかどうか、揺らぎ始めていたのです。その中で、弟子のひとり・イスカリオテのユダは、すでにイエス様を銀三十枚で売り渡す計画を進めていました。イエス様は弟子たちの心の動揺も、ユダの裏切りも、すべて見通しておられました。

そのうえで、イエス様は、弟子たちの主として、私たちの救い主として為すべきことを成し遂げようとされます。それは、弟子たちを愛して愛し抜くことでした。最も信頼しなくてはならない方・イエス様を信じられなくなっている弱い私たち人間、そのためにイエス様を売り渡し、裏切ろうとしている人間をゆるして、ゆるし抜くことでした。

ヨハネによる福音書では、イエス様はこの時、弟子たちの前にひざまずいて、ひとりひとりの汚れたその足を洗ってくださいました。直後にイエス様を裏切るユダの足も、イエス様が逮捕された時に三回、こんな人は知らないと言ったペトロの足も、洗ってくださったのです。

イエス様を信じたいけれど、信じきれない — 自分では信じていたと思っていたけれど、結局は裏切ってしまった — そのように弱く、愛の乏しい者たちを、イエス様は、前もって、逆に大きな愛で包んでくださいました。

食事の時に、イエス様はパンを手に取り、賛美の祈りを唱えて それを裂き、弟子たちに与えて言われました。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」

私はこれから十字架に架かり、命を捨てて、あなた方の命の糧となる。あなた方を養うものになる。イエス様はそう言われました。

パンの後に、イエス様はぶどう酒を満たした杯を取って、感謝の祈りを唱え、弟子たちに渡して こうおっしゃいました。「皆、この杯から飲みなさい。」杯に満たされたぶどう酒の赤い色。それにイエス様が込めた意味は、これから十字架に架かられ、そこで流されるご自身の血です。血潮です。それは、本来、私たちが罪の報いのために流す血です。イエス様はその私たちに代わってくださるのです。十字架で血を流され、死なれ、ご自身の命をもって、私たちの罪を贖い、赦しを与えてくださいます。イエス様は、ご自分がこれからなさろうとされているその十字架のみわざを、弟子たちに杯を渡しながら、このように言われました。「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」

イエス様の血潮なる杯は、イエス様と人間との契約のしるし・約束のしるしだと、イエス様はおっしゃいました。それは、今日の旧約聖書の言葉を背景にしています。献げ物として屠られた雄牛の血は、その半分が祭壇に、半分が人々に振りかけられ、モーセは神さまの約束「神さまがあなた方と結ばれた」ことを表しました。イエス様の血潮なる杯は、イエス様が永遠に私たちと共においでくださる約束のしるしなのです。

この食事は、イエス様の地上での最後の食事になりました。イエス様は弟子たちに、あなたがた天の父の国で,再びあなた方と会うまで、けっしてぶどうの実から作ったものを飲むことはないと言われました。そのお言葉のとおりに、この時の食事がイエス様のこの地上での最後の食事になりました。イエス様は、その夜遅くに逮捕され、次の金曜日に十字架に架けられたからです。

イエス様が、ご自身の十字架のみわざの意味を、このようにはっきりとお示しくださった最後の晩餐を、私たち教会は今にいたるまで、2000年を超えて「聖餐式」として受け継ぎ、守り続け、実行し続けています。私たちは、毎月執行する聖餐式で、イエス様が命をかけて私たちを神さまに結びつけてくださった、その約束の希望を、思い起こすためです。

ここで、私たちは一つの大切なことを心に留めておかなければなりません。イエス様は、今日の聖書箇所でこのように言われました。「これは、罪が赦されるようにと、多くの人のために流されるわたしの血・契約の血である。」イエス様は「弟子達のためだけ」とおっしゃいませんでした。「多くの人のため」と言われたのです。どんな人も、教会に聖餐式に招かれています。しかし、聖餐式でいただくパンがイエス様の御体であることを心で知り、魂で知っていなければ、そのパンをいただくことは、まだできません。また、イエス様が永遠に一緒においでくださることを心と魂で受け容れていなければ、イエス様の血潮なる杯を、約束として、未来への希望をもって心に受けとめることもできないでしょう。

ですから、イエス様と共に生きる決心をすでになさっている者、すなわちキリストの教会で洗礼を受けた者だけが共にパンとぶどう液を食し、聖餐式に与ることができます。

イエス様を永遠に共にいる決心をして、イエス様と約束をした方にこそ、この聖餐の意味に込められたイエス様の十字架へのみわざへのご決意と、ご復活の恵みは意味をもつものだからです。

それは、このように申しても良いでしょう。洗礼を受けて、イエス様を一番のお兄様として、私たちは血のつながりでなく、主に結ばれて信仰でつながった兄弟姉妹・神さまの家族になります。

また、イエス様と教会は、イエス様を花婿とし、教会を花嫁とする結婚にもたとえられることがあります。教会を「神の家族」と呼ぶ時、私たちは結婚にたとえられる、強い絆で結ばれている共同体なのです。

聖餐式は、その一体感を証しし、神さまの御前で確認する大切なひとときです。きわめて親密な一家団欒・まことに幸福な水入らずのひとときと考えてもよいでしょう。

その絆の堅さを経験したことのない方が、突然、家族・夫と妻の中に入ったとしても、イエス様と教会の結婚の幸いを、そのまことの意味を、その方は味わうことができるでしょうか。まことの幸いを知らずに聖餐に与ってしまうことは、決して恵みではありません。

イエス様を信じて、ついて行こうとして、しかしイエス様を見失いそうになってしまった弟子たちの戸惑いと悩み。イエス様を裏切ってしまったユダ、ペトロ。それでもイエス様は、迷い出た者を私のもとに帰っておいでと呼び続けてくださり、決して見捨てずにいてくださいます。今日、ご一緒に読み味わった最後の晩餐の御言葉で、イエス様がお示しくださった深い愛とゆるしの約束。この約束をしてから、イエス様が、教会の群れと、私たちひとりひとりと進む歩みが始まります。約束、すなわち洗礼をお受けになってからでないと、また幼児洗礼を受けられた方は、ご自身の自由な意思で信仰を告白しないと、イエス様との歩みは始まりません。イエス様との約束を思い出すために、私たちは聖餐式に与ります。思い起こし、思い出し、あらためて感謝し、イエス様に愛されている喜びをかみしめさせていただく。それが、聖餐式です。この世にはない、永遠の命につながる希望の喜びを、まだ洗礼に与っておられない方には、ぜひ知っていただきたいと、私は痛切に願わずにはいられません。

すべての方が、この幸いと喜びに招かれています。イエス様がご自身の命をかけて、差し出してくださる愛の御手、さあ、私と歩み始める約束をしようと差し伸べてくださる御手を、ぜひしっかりと握りかえしていただきたいのです。

この願いをもって、教会の一年を終わることのできる今日の主日礼拝を感謝します。来週の日曜日、教会の新しい一年が始まるアドヴェント第一日目の主日礼拝で、教会は聖餐式に与ります。今日の御言葉を胸に、この一週間を主に清められ整えられて、またこの御堂に集いましょう。

2018年11月18日

説教題:わたしの時が近づいた

聖 書:ゼカリヤ書11章7-14節、マタイによる福音書26章14-25節

主はわたしに言われた。「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。」わたしはその銀三十シェケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた。

(ゼカリヤ書11章13節)

人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」

(マタイによる福音書26章24-25節)

今日、私たちに与えられている新約聖書の御言葉の中で、イエス様は弟子たちに こう言われました。「わたしの時が近づいた。」本日の説教題として、イエス様のその言葉をいただいています。

これまで、イエス様は「わたしの時は まだ来ていない」と何度かおっしゃっておられます。イエス様が「わたしの時」と言われる「その時」とは、天の父なる神さまにこの世に遣わされた使命・ミッションを イエス様が果たされる「その時」です。それは、イエス様が私たち人間に代わって罪を贖い、十字架に架かられてこの世の命を終えられる「その時」です。その時が、ついに間近に迫って来ていることを、主は告げられました。今日の聖書箇所は、イエス様の十字架の出来事が迫り来る、その緊迫した状況を私たちに伝えています。

イエス様は「論争の火曜日」の翌日の水曜日を、エルサレムの郊外にあるベタニアのシモンの家で過ごされました。前回の説教の御言葉が語るとおりです。イエス様は、激しい論争の後の、しばしのやすらぎの時を、親しい者たちとなごやかに過ごしたいと願われました。なごやかに過ごすことは、おできになったでしょうか。いいえ、それはかなわなかったのです。

この時、シモンの家で、たいへんユーモラスと言ってもよいかもしれない出来事が起こりました。一人の女性が、自分がイエス様のためにできる最も良いこと、考えられる最善のことをしました。

それは、常識はずれの行いでした。この女性は、現在のお金に換算して300万円もする香油を一瞬にしてイエス様に注ぎかけたのです。

何という愚かな、無駄なことをするのだと、イエス様の弟子たちは女性を非難しました。300万円もあったら、貧しい人たちを助けることができるではないかと言ったのです。

イエス様は、弟子たちの厳しい言葉が飛び交う中でうろたえていたであろう女性をかばい、とりなされました。この女性がしてくれたことは、私にとってたいへん良いことだ。私を葬る準備をしてくれたのだ。イエス様は、そう言われたのです。それは、その二日後の十字架での死を覚悟し、そのみわざが成し遂げる救いの恵みを知り尽くしておられるイエス様の視点から語られたことでした。イエス様が伝えようとしたお覚悟は、イエス様の十字架のみわざとご復活を、聖書を通して知っている私たちには、説き明かし・説教を通して理解できることです。しかし、この時点の弟子たちには、まったくわからないことでした。弟子たちは「イエス様は貧しい者たちへ施すことを考えておいでではないのか、女性のした愚かなことをこんな悪い冗談でかばうなんて」とイエス様に失望し、戸惑い、そしてイエス様に怒りすら感じたのではないでしょうか。

この時、イエス様と十二人の弟子たちの間には、まるでクレバスのように深い裂け目が口を開けてしまったのです。突然開いた裂け目ではありません。弟子たちは、少し前からイエス様のことが理解できなくなっていたのです。

「論争の火曜日」に、ユダヤ社会の指導者層である祭司長や律法学者たち、当時のユダヤ社会超一流の知識人がイエス様にぶつける質問に、イエス様はまったく新しい、革命的と言って良い律法の解釈をもって答えられました。

イエス様が神さまの御子であり、ご自身が律法を造られた神さまだからこそ、そのお答えは可能だったのです。そして、神さまにしか、イエス様にしかおできにならない議論展開でした。弟子というくらいですから、本来ならば、十二人はイエス様に加勢して舌鋒鋭く律法学者やファリサイ派の人々を論破し、やりこめたいところです。ところが、イエス様のお話は高度すぎて、難しすぎて、弟子たちにはついてゆくことができませんでした。おそらく、おろおろしながら、あるいはボ〜ッとして、そこに立っていただけだったのではないでしょうか。

そして、彼らの心には、不安が芽生え始めたことでしょう。イエス様は、ユダヤのこんな偉い人たちを敵に回し、言い負かしているけれど、本当に大丈夫なのか。こんな、誰もが頼りにして、尊敬している律法の専門家である学者たちに楯突くのは、悪いことではないか。それは不安であり、イエス様への不信感の芽生えでもありました。

そして、翌日の水曜日の香油の出来事で、その不安と不信は深まりました。律法は、貧しい人たちへの施しを大いに奨励しています。それなのに、女性がイエス様のために行った無駄遣いの方が良いとおっしゃるなんて、理解できない — 弟子たちの戸惑いは大きなものとなったのではないでしょうか。イエス様についてゆけない、従って行けない思いを持ちながら、このままイエス様の弟子でいて良いのだろうか。

その中で、イスカリオテのユダは心を決めました。今日の聖書箇所は「そのとき」という言葉で始まっています。ユダは、香油の出来事の直後に祭司長たちのところへ行きました。イエス様の弟子であることをやめ、そればかりでなく、イエス様を裏切ることに決めたのです。

ユダは、イエス様を裏切る報酬として銀貨三十枚を約束されました。

香油の出来事の後に、こうして、畏れ多いことにイエス様に値段をつけました。聖書は、このことに深い意味を持たせています。

その意味を、私たちは今日の旧約聖書の聖書箇所、先ほど司式者がお読みくださったゼカリヤ書11章の言葉と関連させて読み取ることができます。今、この説教でゼカリヤ書の内容を詳しく説明することはできませんが、司式者が読まれた御言葉では、人々が神さまの御言葉の意味を理解できず、したがって、その恵みの深さをありがたいと思うこともできず、神さまへの賃金として銀三十シェケルすなわち銀三十枚を支払ったと記されています。神さまが、「わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を」と語られた言葉の中で「見事」と言っておられるのは、もちろん皮肉です。銀三十シェケルは、現在の日本のお金に換算すると4万円ほどだそうです。

十字架の出来事のすべてが、神さまのご計画によって進んでいます。旧約聖書で神さまのお働きの値段を、何もわからない人間が4万円としたように、ユダの裏切りの報酬、イエス様を売った値段は4万円だったのです。

神さまの恵みは、お金で換算することができません。私たちが感謝をこめて献げる献金も、その多い少ないを人間が決めることはできません。しかし、ここを読み、ナルドの香油の出来事を読む時に、私たちは暗澹とした思いになります。ナルドの香油は、これでもまだ足りないとばかりに、300万円を超える金額のものが一瞬にしてイエス様のために使い尽くされました。女性の感謝の思い・イエス様を慕う心は、それほどに深かったのです。かたや、ユダはたった4万円で主を裏切り、売り渡しました。

ユダが、イエス様につけた値段は4万円。信頼できない者に払う値としては、4万円は高いくらいかもしれません。聖書は、ゼカリヤ書を通し、また今日のマタイ福音書を通して、人間が神さまを理解できず、軽んじる心をこの値で示しているのです。

この時、ユダを裏切りに追い込んだのは、恐怖心でした。

自分がこれまで慕っていた誰か、尊敬して一心に付き従って来た誰かに信頼がおけなくなる、その誰かが本当に正しいかどうか、わからなくなるというのは恐ろしいことです。自分の立っている地面が、崩れ落ちる気がするのではないでしょうか。十二人の弟子たちは、皆、この時 同じ恐怖心を抱いていたと言えましょう。

イエス様は、ご自分の十二人の弟子が、ご自分を理解できなくなり、信頼できずに恐怖を抱き、苦しみ始めたことを、よくご存じでした。それは、それぞれが自分一人の胸にしまっておくにはあまりに大きく重たい重荷でした。だからこそ、イエス様は、今日のマタイ福音書26章21節で、それを言葉にしてくださったのです。イエス様は、こう言われました。「はっきり言っておくが — これは「これから私が告げることは真実だ、私は本当のことを言う」という意味の言葉、私たちもよく知っている聖書の言葉、アーメンです — 、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

イエス様は、弟子たちを非難しようと、この言葉を言われたのではありません。聖書の中で、イエス様はさまざまな呼び名を与えられています。平和の君、和解の主、またベスト・カウンセラーと呼ばれています。イエス様は、この時、弟子たちのカウンセラーとして、彼らの悩みを明らかに言葉に表して、重荷を共に担ってくださろうとしたのです。

また この時、イエス様と弟子たちは食事の席に着いていました。一緒に食事をするのは、信頼の表れです。相手がこっそり自分の食事や飲み物に毒を仕込まないと信じて、人は一緒に食事をします。食べている時、人は無防備になりますから、相手が攻撃してこないことを信じて、人は一緒に食事をするのです。

人が一緒に食事をするのは、互いの信頼を増して、より親しくなり、仲良くなり、もっと信じ合うためと言っても良いかもしれません。仲たがいをしている者同士が共に食卓に着くのは、仲直りの機会ともなるでしょう。

イエス様が自分たちの不安を打ち明ける突破口を作ってくださったので、弟子たちは口々に自分の苦しみを表し始めました。それが、22節に、こう記されています。「弟子たちは非常に心を痛めて」。彼らはイエス様を慕う思いと、もうついてゆけない・イエス様がわからないという思いの間で引き裂かれそうだったのです。しかし、彼らが最終的に代わる代わる口にしたのは、この言葉でした。「主よ、まさかわたしのことでは。」「まさか わたしのことでは。」これは、聖書の元の言葉では、たった一語の、慣用的に用いられる言葉です。そして、「そうではない」と否定してもらうことを待つ言葉、期待する言葉です。弟子たちは、最終的に、イエス様に「あなたは私を裏切ったりしない、あなたは私と最後まで一緒だ」と言っていただきたかったのです。

イエス様は、そのようなお答えをなさいませんでした。こう言われました。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。」一緒に手で鉢に食べ物を浸すとは、一緒に食事をすることそのものを指します。そこにいる十二人全員のことです。全員が裏切る。イエス様は、そう言われたとも考えられます。実際、イエス様が逮捕された時には、皆、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまったのですから、これは真実です。しかし、この場では、イエス様から「あなたがたは裏切らない」と慰めの言葉を期待していた弟子たちは、凍り付いてしまったでしょう。すさまじい緊張が食事の席に充ち満ちました。

続けて、イエス様は24節でこう言われました。「人の子は — これは、イエス様がご自身を指しておっしゃる言葉です。『私は』と言われたのと同じです — 聖書に書いてあるとおりに去って行く。」私が天の父なる神さまが計画され、旧約聖書に預言されたとおりに、人々の救いのために十字架に架けられて死んでゆく、それは明らかだとイエス様は言われました。裏切りがなかったとしても、イエス様が十字架に架けられることは明らかなのです。しかし、人の罪がここにあらわにされます。裏切る者が出てしまうのです。イエス様は、その者の不幸を憐れまれ、嘆かれました。それが、24節後半の言葉です。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のために良かった。」

イエス様は、この裏切りの罪を犯す者のためにも、その者をゆるすために、十字架に架かられるのです。これは、「あなたは裏切らない」と気休めのように慰めの言葉を言うよりも、はるかに大きく深いゆるしと慰めの言葉です。

弟子たちには、イエス様のゆるしの言葉の意味が、まったくわからなかったでしょう。そして、裏切りの行動を起こしていたユダは、後ろめたさ・罪悪感から、イエス様のこの言葉を、挑発とも、脅しとも、非難とも受けとめてごまかそうとしました。他の弟子たちと同じ言葉で、イエス様に問いかけたのです。「主よ、まさかわたしのことでは。」

このユダの問いかけへのイエス様の答えの言葉は、聖書のもとの言葉では、たったひと言です。直訳すると「あなたが」。この言葉です。「あなたが、言う」という意味になりましょうか。ユダよ、答えはあなたが自分で言うことだと、イエス様は、そう言われたのです。

ここで、私たちは、神さまが私たちを造られた時に、自由を与えられたことを思い出さずにはいられません。神さまは私たちを愛して造ってくださいましたが、その愛に必ず答える者、もう少し申しますと、ご自分の言いなりになるロボットのようにはされませんでした。

私たちは主に招かれて、神さまに造られたことを知ります。

主に選ばれて、神さまの愛に心を満たされ、真実の幸いを知って、神さまのものとなる決断をします。しかし、その決断は私たちがそれぞれ行うことなのです。神さまはイエス様の十字架のみわざを通して、私たちに手を差し伸べてくださっています。しかし、それを握り返すか・握り返さないか、神さまが呼ぶ声に答えるか・答えないかは、私たちの自由です。私たちは従う自由も、背く自由も与えられています。イエス様の「私を信じて、ついてくるか」との問いかけに「はい」と言うのも、「いいえ」と言うのも、私たちが決めることです。イエス様がユダに「あなたが」と言われたのは、このことです。

ユダは自分の自由を背くことに使いました。イエス様から離れ去り、暗闇に沈むことを選んだのです。イエス様は、もちろん、それを見通しておられました。ユダの罪の深さは、裏切りではなく別のことにあります。それは、その聖書箇所の時にお伝えしましょう。今日いただいている聖書の御言葉から、私たちがいただく恵みは、私たちがどんな自由を選ぼうとも、私たちすべての者の罪のゆるしと救いのために、もちろんユダのゆるしのためにも、イエス様は十字架に向かっての歩みを続けられというそのことです。それを知る時、イエス様のゆるしの大きさと愛の深さに、私たちは立ちすくまずにはいられない思いがします。私たちは、そこまで深く愛されています。それを知らない、何もわからない私たちのために、イエス様は命を捨ててくださったのです。

この主の愛に包まれて生きる幸いを、今、新しくいただいて、今週も歩みゆきましょう。

2018年11月11日

説教題:葬る準備をしてくれた

聖 書:申命記15章7-11節、マタイによる福音書26章1-13節

この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。

(マタイによる福音書26章12-13節)

昨日、薬円台教会は例年どおり、教会チャリティバザーを行いました。多くの方々が奉仕を献げられました。薬円台、七林町のこの地域に薬円台教会があり、イエス様の教会がこのように生きていることを示す伝道のわざを行うことができました。また、主に、あなたの御用に用いてくださいとの祈りをこめて、災害支援や福祉施設に送るための献げ物も、昨日の働きを通して準備することができました。

バザーだけでなく、私たちは どの教会行事の時でも、教会を用いてくださる主の御心を、実際に体を動かし、祈りを合わせ、力を合わせる奉仕の働きを通して思い巡らす時を戴きます。主の恵みと導きを感謝します。

そして、そのような奉仕の機会をいただいた翌日の主日に、今日の聖書箇所を与えられたことも、恵みであり、導きです。

今日の新約聖書の御言葉は、私たちが神さまにお仕えすること、神さまのために自分に、また教会に、何ができるか、ご奉仕できるかを考える時に、必ずと言って良いほど読まれる箇所です。

この時、イエス様は祭の準備に湧くにぎやかなエルサレムを一日離れ、エルサレムの郊外にあるベタニアという町におられました。この町は、イエス様がたいへんくつろげる所だったようです。イエス様が親しくされていたマリアとマルタの姉妹、その兄弟ラザロが住む場所でした。今日の聖書箇所は、「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると」という言葉で始まっています。「これらの言葉」とは、神殿での激しい神学論争と長い説教を指します。それは「論争の火曜日」と呼ばれる一日に起こった出来事でした。その緊張に満ちた長い一日を過ごされたイエス様は、次の一日を親しい者たち、愛する者たちと過ごそうと、ベタニアに向かわれたのでしょう。

イエス様はどんな人も愛されます。どんな人であったとしても、その人の友達となってくださろうとして、手を差し伸べられ、その人のためを思って真実を語られます。

しかし、真実を語られた者が、イエス様の愛を喜んだかと申しますと、必ずしもそうではなかったのです。イエス様が論争の火曜日に、議論をした相手・ファリサイ派の人々や律法学者は、イエス様が語られる真実を嫌い、イエス様を憎んで、今日の4節にあるように「計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談」しました。イエス様暗殺計画を立てるほどに、救い主を拒んだのです。彼らは社会的指導者で、政治力を持っていました。ですから、その暗殺計画は暗殺・つまり非合法に、世の暗闇の中でイエス様を葬り去ることではなく、公の場にイエス様を引き出して抹殺する、合法的な死刑の形を取ることになりました。イエス様を受け容れた人々、イエス様に愛されることを喜んだ者たちは、彼らのような社会の上層部の者達ではありませんでした。

社会で指導的な立場にあると自負する人、簡単に言ってしまうと自分で自分を多少「えらい」と思っている者は、憐れみを受けると反発します。彼らはイエス様からの憐れみをも、そんなものはいらないと軽蔑して拒絶したのです。

イエス様の憐れみを喜び、イエス様を心から受け容れたのは、弱い立場の人たちでした。体に障害を持つ者。夫を失った未亡人・やもめ。当時、たいへん差別された重いひふ病の人。貧しい者。前科を持った罪人。体を売って生きるしかない売春婦・姦淫の女。そういう人たちです。当時の社会の表舞台から蹴り落とされたような、そういう人たちが、イエス様が差し伸べてくださる手を握り、イエス様が自分の友となって下さることを心から喜びました。同時に、イエス様が この世でご自分の「友」と心から思う事ができたのも、そのような人達だったのです。ですから、イエス様がベタニアで過ごされたのは、重いひふ病の人、シモンの家でした。ここに、社会の最下層と言って良い立場の人達がイエス様に会って、一緒に食事をしようと集まったのです。

今日の聖書の言葉は、その楽しくくつろいだ食事の席で、一人の女性がイエス様に近寄ったことを告げています。この女性も、イエス様に憐れまれ、助けられたことのある、貧しく、社会的には卑しい身分の人だったでしょう。イエス様が自分の友となってくださったこと、自分のような者に手を差し伸べ、希望を与え、絶望から救ってくださったことを、この人は本当に感謝していたのに違いありません。この人は、その感謝を表すために、イエス様に香油をかけました。

香油をかける。それは、当時の社会ではおもてなしの作法のひとつでした。香油は香りの良い油で、今で言う香水のようなものと思って良いでしょう。そして、もともと「油を注ぐ」とは清められ、聖別されるという意味です。ユダヤ社会では、王様の即位の時に、神さまから選ばれたことを表すために、新しく王となる人の頭に「油を注ぐ」儀式を行いました。それが、時代がくだるにつれ、日常生活の中で、お客をもてなす時の作法となったようです。

ですから、女性がイエス様の頭に香油をかけたのは、それ自体では奇妙なことではありませんでした。そこにいる者が皆、たいへん驚いたのは、そして、弟子たちが批判の言葉さえ囁かずにはいられなかったのは、その油がたいへん質の良いすばらしいものだったこと、そして、そそいだ量がたいへん多かったことでした。

女性は、貧しく、社会的に卑しいとされる身分の者だったでしょう。いわゆる売春婦・娼婦だったと想像できます。罪深い者として、誰にも相手にされず、自己嫌悪と孤独に陥っていたこの人に、イエス様だけは優しく、人間として接してくださったのでしょう。それが、この女性には本当に、本当に救いとなったのです。感謝して、ここに記されているような極めて高価な香油をイエス様のために買おうと、この人はどれほど生活を切り詰めて節約し、忍耐したことでしょう。

イエス様に感謝を表すために、自分のできる限りのことをする・自分にできる限りの忍耐をする。それで、感謝とイエス様への愛を表す。これが奉仕です。この人がしたのは、この奉仕でした。

この極めて高価な香油は、ナルドというおみなえし科の植物から造ったものと伝えられています。小さな壺・350ミリリットルのペットボトルほどの量で、今の貨幣に換算すると300万円もするものでした。自分に生きる希望を与えてくださったイエス様に、自分のできる最高のことをしたい。その思いで、女性はその香油を一瞬にして使い切り、イエス様の頭に全部かけたのです。

この女性の愛と奉仕は、人の常識をはるかに超えるものでした。いわゆる非常識だったのです。人々はむせかえるような香油の香りにほとんど気分が悪くなりながら、油まみれになったイエス様を気の毒に思ったでしょう。イエス様が楽しみにされていた食事の席は、おそらくこの強烈な香油の香りのために台無しになってしまったのです。そして、弟子たちは、300万円も持っていたのだったら、こんな一瞬の無駄遣いをせずに、もっと良いこと・貧しい人への施しのために用いれば良いのにと、この女性を批判しました。

しかし、イエス様は、その弟子たちを逆にとがめ、女性を最高の言葉をもってかばい、執り成されました。こう言われたのです。「なぜこの人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。…この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

イエス様は、女性の一途な心を憐れまれ、愛され、その精一杯の奉仕を讃えられました。

しかし、ここで私たちは今日、もう一つのことを心に深く留めたいと思うのです。

それは、ここに私たちが奉仕の模範があると学ぶ以上のことです。

イエス様の福音の真実です。

イエス様は、こう言われました。「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では」。この福音とは、イエス様が私たちの罪の救いのために十字架に架けられ、死んで葬られ、三日後にご復活されたことです。「葬る」という言葉を、イエス様は今お読みした言葉の直前で、語られています。人が亡くなった時、葬る準備として体に香油を塗り、清める習慣がありました。イエス様は、女性が、これから十字架で命を捨てる自分に、その葬りの準備をしてくれたと言われたのです。

今日の聖書箇所は、前半の1節から5節までが、イエス様を殺す計略が巡らされていたことを語っています。イエス様が、それをすっかりご存じで、十字架へと歩まれる覚悟を、この「葬る準備をしてくれた」という言葉で表したと読み取ることができます。しかし、それだけでしょうか。イエス様は、人間の罪のために死なれました。それは父なる神さまのご計画でした。それは御心であって、人間の計画によるものではなかったのです。それが福音であり、今日の御言葉・聖書箇所がはっきりと言い表していることなのです。

私たちはその事実を、今日の箇所ではたいへん興味深い、推理小説を読むような仕方で読み取ることができます。推理小説のことをミステリーと申しますが、その語源となっているのは、神さまの霊的神秘を表すギリシャ語のミステリオンという言葉です。そのミステリオンを、今日の御言葉に私たちははっきりと読み取ります。

人間が計画したイエス様を殺す日は、いつだったでしょう。3節から5節を今一度、お読みします。「そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。」次が大切なので耳を澄ましてください。

5節「しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭の間はやめておこう」と言っていた。」

イエス様を殺すのは、祭が終わってからにしようと彼らは計画しました。しかし、イエス様が実際に十字架に架けられたのは、いつでしょう。祭の最中の、その週の金曜日です。今日の出来事から二日後です。人間の計略どおりに、イエス様は祭が済んでから殺されたのではありませんでした。天の父のご計画された「神さまの時」、祭の最中に、過越の犠牲となった小羊として、主は十字架に架けられたのです。

神さまが、主が、いっさいをお決めになる。真実は、主に御手のうちにある。それを、私たちはこのことから、また今日の女性の奉仕から知らされます。人の目には非常識・愚の骨頂としか思えない、大量の高価な香油を一瞬のうちにイエス様にすべて注いだこの女性の行いは、神さまのまなざしの光の中で真実の意味を与えられました。

私たちの行い、私たちの人生の歩みそのものに、真実の意味を与えられるのは、私たち人間ではありません。神さまです。自分ではどうしてこんなことになってしまうのか、無意味ではないか、無駄ではないかと思える人生の出来事に、神さまは意味を与えてくださいます。私たちの奉仕が、たとえどんなにささやかなものであっても、または人の目には無意味で非常識に見えても、それが主にあって正しければ、神さまは意味を与えてくださいます。

ただ単純に、ただ一途に、子供のようにまっすぐに、主からいただく愛と恵みを受けとめ、主が暖かく見守って意味を与えてくださることを信じて、自分にできる限りの感謝を献げ続けたい。心から、そう願います。私たちのまことの幸いはここにあります。今日から始まる一週間、ひたすら主を仰ぐ信仰を胸に、共に進んでまいりましょう。

2018年11月4日

説教題:天の故郷を熱望する

聖 書:創世記12章1-4節、ヘブライ人への手紙11章8-16節

この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。

(ヘブライ人への手紙11章13-16節)

今日は、聖徒の日・召天者記念日として、私たちよりも先に天に召された方々を記念して礼拝を献げています。ピアノのところにお写真を並べました。薬円台教会に連なり共に教会生活を送った方々、またこの教会でご葬儀をされた方々です。その方々をおぼえて、今日はご家族ともご一緒に礼拝を献げられることを、感謝いたします。

お手元に、召天者の方々のお名前を記した名簿をお持ちと存じます。お一人、お一人、神さまに愛されて、命を与えられ、その方にしか生きることのできない、かけがえのない人生を歩まれました。その方々が、私たちの暮らすこの地上・この世を去られた時には、ご家族とゆかりの方々、また信仰生活を共にした方々は、知っている姿で会うこと・声を聞くことができなくなった、その別れを悲しみました。

しかし、教会は、この地上にありながら、この世・地と、天とが結ばれているところです。一年に一回の、この聖徒の日ではなくても、私たちは、実は毎週、先に天に召された方々と共に礼拝を献げています。教会が天への門であることを思い出すために、今日の記念礼拝があると考えてよいでありましょう。また、私たちが与えられた人生を走り終えて、主のみもとに行く時に、先に召された方々と再び会うことができる、その希望をも、あらためて思い起こす為でもあります。

そのように、教会では、先にこの世での人生を終えられた方々と私たちは、死を超えて結ばれています。結ぶ絆は、福音を信じる信仰、または信仰者であるご家族の愛です。

今日の礼拝に与えられている聖書の御言葉は、信仰を抱いて生きる歩みが死を超えて続いてゆくことを語っています。ここに語られている永遠の命の希望を、今日は皆さまと味わってゆきたく思います。

今日の旧約聖書に記されているこのアブラムという人は、後にアブラハムという名を持つようになります。彼は「信仰の父」と呼ばれ、神さまから決して離れることがありませんでした。彼がどれほど神さまを愛し、深く信頼をおいていたかを、私たちは今日の御言葉から読み取ることができます。

彼が神さまに行きなさいと言われるままに、ふるさとを後にしたのは、彼は75歳になっていたと聖書は伝えています。今は75歳と申しましても、皆さん、お若いので、年齢は、あまり関係がないかもしれません。大切なのは、この時、神さまは、どこそこへ行きなさいと、彼に具体的な場所を示されたわけではなかったことです。

具体的な場所を言われたのであれば、たとえそれがあまり気の進まない所であったとしても、それなりの心備えをすることができましょう。しかし、アブラハムは「私はどこに連れて行かれるのでしょう?」と目的地を尋ねることすらしませんでした。彼は、神さまに言われたとおりにすることしか考えていなかったのです。なぜでしょう。

その答えは、今日の新約聖書・ヘブライ人への手紙の御言葉の中にあります。11節の後半です。聖書をあらためてお開きにならずとも、お読みしますので、どうぞ耳を傾けてください。「約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。」神さまを信じる信仰が、彼に出発の決心をさせたのです。

アブラハムは一族のリーダーであり、決して愚かな人ではありませんでした。信仰とは、人を愚かにするものと思う方もおいでかもしれませんが、最も信じるに足る方・最も信頼できる方に我が身をゆだねることは、最高の知恵ではないでしょうか。

アブラハムは、神さまを深く信頼しました。神さまは、私たち人間には決してできないことがおできになります。それは、聖書に語られた奇跡の出来事ばかりではありません。窮地に陥ったイスラエルの民を救うために、海を二つに割って陸地を表してくださった奇跡、目の見えない人や、耳の聞こえない人をたちどころに癒やした奇跡ばかりを指すのではありません。神さまだけにおできになること。人間には決してできないこと。それは、約束を守り通すことです。

私たち人間は、どれほど守りたい約束だったとしても、不可抗力によって破ってしまうことがあります。電車が遅れて、待ち合わせの時刻に約束の場所にいられない。これなどは、日常茶飯事です。休みの日に、お子さんを連れてお出かけの約束をしたのに、突然、勤め先から連絡があって出勤しなければならなくなった、そのような体験をお持ちの方もおいででしょう。

しかし、神さまは決してこのようなことをされません。私たちを約束が違うと泣かせたり、落胆させたりすることはなさらないのです。神さまはアブラハムを祝福すると約束してくださいました。祝福とは、神さまがその人を守り支え、たとえその人がどんなに堕落して見えたとしても決して見捨てず、愛し抜くことです。その祝福の約束を、アブラハムは信じました。神さまが、この自分になさることは、すべて良いこと。たとえ、当座は意味がわからなくても、また苦しいことのように思えても、必ずいつか、それが自分のためであり、自分にとって最も良いことだったとわかる日が来る。アブラハムはそう信じて、神さまに従いました。

このように、神さまの愛を信じ、神さまに導かれるままに生きる。それが信仰の人生です。今日の新約聖書の聖書箇所、9節は彼がついに約束の地で暮らすようになり、息子イサク、孫のヤコブもそこに暮らしたことが語られています。しかし、もう少し読み進んで13節に、私たちが、おや? あれ?と思う言葉があります。お読みします。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。」

神さまに信頼して、心安らかな信仰生活を送ったのであれば、「この人たちは皆、信仰を抱いて生きました。」と書く方が自然ではないでしょうか。「死にました」という言葉に、私たちは少なからずドキッとせずにはいられません。なぜドキッとするのでしょう。それは、「死にました」という言葉が「終わり」「その先が何もない」といった、悪いことを意味する言葉だと反射的に感じてしまうからではないでしょうか。

しかし、ここでは「死にました」という言葉は、「終わり」でも、「その先がない」ことでもありません。むしろ、わざわざ「死にました」という言葉が用いられているのは、死を超えたその先に、生きている間は経験できなかったもっと素晴らしいことが待っているからです。その素晴らしいこととは、神さまが準備されたものです。救いの約束の実現です。

私たちは信仰をいただいて、洗礼を受ける時に、神さまからの約束をも同時にいただきます。それは「イエス様の十字架のみわざとご復活を信じて救われる」という約束です。救われて、罪をゆるされて、私たちは、罪悪感や自己嫌悪に陥っても神さま一人は自分を見捨てないことに希望をいただいて、日々を安心して生きてゆくことができます。しかし、それだけでは、神さまからの約束は完成していません。神さまは永遠の命を私たちに約束してくださっています。それは、この世が終わり、天とひとつになる終末の日に実現することです。聖書は、終わりの日に、それまでに命の終わりを迎えていた者は復活すると告げています。 イエス様が十字架で死なれ、その三日後に復活されたのは、未来に約束されている私たちの復活をお示しくださるためだったのです。

復活の喜びは、ただ生き返ることではありません。私たちは、より良く、新しい者へとよみがえります。また、死によって一度は別れなければならなかった愛する方々と、再び会って、楽しく親しく過ごせるようになるだけでもありません。

復活の最も大切な喜びは、私たちを愛して、愛し抜いてくださる神さまと、イエス様と共に、聖霊に満たされて、永遠に結ばれていることです。イエス様は私たちのために、命までも捨ててくださった方です。私たちを命がけで救ってくださったこの方こそが、私たちが頼りとする最も確かなお方です。この方と永遠に共にいられる、永遠の命をいただくことにこそ、私たちの真実の平安があります。

真実の平安をいただくところ。それこそが、私たちのまことのふるさと・魂の故郷です。それが16節に記されている、この世の生まれ故郷よりも「さらにまさった故郷、すなわち天の故郷」です。天のふるさとの安心に比べたら、この世での暮らしは「仮住まい」のように不安定なものです。

死は、別れということでは、確かにその時、堪え難い悲しみと寂しさを私たちにもたらします。若く、志半ばで突然死を迎えた方とご家族にとっては、実に無念なことでもありましょう。

しかし、信仰によって、死は終わりではないことがわかります。死を通り抜けて、私達は復活と、愛する方々との再会と、天の故郷で神様・イエス様と永遠に結ばれて生きるまことの平安をいただくのです。

今、生きている私たちが、死を恐れて日々をおののきながら過ごすことがないようにと、神さまは復活の希望を与えてくださいました。その主の愛に満ちた思いやりを、しっかりと受けとめたいと願います。今、この時を誠実に丁寧に生き、与えられた命を、希望に満ちて歩み通しましょう。今日の礼拝で記念した召天者の方々・私たちの愛する信仰の友は、その信仰の道を私達に先立って歩まれています。私達も、その同じ道を、心を高く上げて進み行きましょう。

2018年10月28日

説教題:主に愛され、愛する者に

聖 書:イザヤ書58章6-11節、マタイによる福音書25章31-46節

そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』…そこで、王は答える。『はっきり言っておく、わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

(マタイによる福音書25章34-40節)

イエス様が十字架に架かられる三日前、火曜日に神殿でファリサイ派の人々や律法学者たちと論争をなさった「論争の火曜日」に語られた言葉を、皆さまと読み続けています。今日は、その最後の部分をいただいています。「論争の火曜日」のしめくくりの御言葉を、今日、私たちは共に与っています。イエス様はここで、終末の日・この世が終わり、この世と天がひとつになって新しい天と新しい地が始まる日のことを語っておられます。

終わりの日。それは、イエス様がもう一度、私たちのところにおいでくださる日です。イエス様と再び会うことのできる、喜ばしい日です。それと同時に、私たちが人間的な思いから、その日を恐ろしいと思うのも正直なところでありましょう。それが裁きの日だからです。私たちは一人一人、主の御前に立たされます。それぞれ、正しく良い者とされて主と共に生きる永遠の命をいただくことができるか、それとも、悪い者であると主に裁かれて滅びるかを、定められる日です。

今日の聖書箇所には、その裁きがこのように記されています。32節です。「すべての国の民がその前(これは再びおいでになったイエス様の前に、ということですね)に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」

今日の聖書箇所を含む25章全体が、この終わりの日の裁きについての御言葉でした。イエス様は、25章で三つのたとえを用いて終わりの日への備えを教えて下さいます。今日の御言葉では、羊飼いが羊と山羊をより分けることにたとえられています。前の二つのたとえを、思い起こしてみましょう。「十人のおとめ」の話がありました。十人とも眠ってしまいましたが、花婿にたとえられているイエス様がおいでになった時、五人は油の備えで救われました。裁きを定めたのは「油を備えていたか」「御言葉を通して主の恵みを蓄えていたか」です。

次に、タラントンのたとえ話が語られました。主人である神さまを信頼して、与えられたタラントン・賜物をよく用いた僕(しもべ)は神さまにたいへん喜ばれましたが、神さまを信頼せず、むやみに恐ろしい方と勝手に思い込み、賜物を活かさなかったしもべは暗闇に追い出されて、救われませんでした。ここでは、自分の勝手な考えではなく、神さまに言われたとおりにすること、神さまへの信頼・信仰が救いか、裁きかを定めました。

今日の話では、救いか裁きかを定めるものは何でしょう。それを、イエス様の言葉の中に見つけ出すことができます。40節をご覧ください。また、その対に・ペアになる言葉が、45節にあります。

40節をお読みします。イエス様は、こう言われました。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

続いて45節をお読みします。「はっきり言っておく。この小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」

二つの節をご覧になって、いかがでしょう? 見つかりましたでしょうか? 救いか、裁きかを定めるための言葉は、「わたしにしてくれた」です。「わたし」すなわち「神さま・イエス様にしたか、しないか」が救いか、裁きかを定めるのです。

「神さま・イエス様のために何かをする」というと、私たちがすぐに思うのは教会の奉仕・教会の礼拝や行事のための働きではないでしょうか。礼拝出席そのものも、礼拝を献げるという表現があるくらいで、仕事が休みの日の貴重な時間と力を神さまに、イエス様のために献げています。これこそが「神さまのための自分のわざだ」と考える方がおいででしょう。献げるということでは、献金もそうだとおっしゃる方もありましょう。教会のわざとして、礼拝の次に重要な祈祷会に出席して、教会のため・群れのために祈ることも、もちろん、神さま・イエス様に献げる働きです。

しかし、今日の聖書箇所で、イエス様は そうはおっしゃっておられません。たいへん具体的なこと、教会や御言葉のための働きではなく、むしろ日常生活に密着した事柄を言われます。飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに泊まらせ、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢に捕らわれていたときに訪ねる。そういう行動が語られています。

現代の日本で生活していると、飢えたりのどが渇いたりしている方に遭ったり、裸でいる方に出会うことそのものが殆ど、と申しますか、まず、ありません。しかし、ホームレスの方の炊き出しボランティアに参加したことのある方はおられると思います。病気の方へのお見舞いを、私たちはしばしばいたします。また、少し事情は異なるかもしれませんが、親御さんやお連れ合いと喧嘩して、家から出て来てしまった友人や後輩の涙ながらの話を聞きながら家に泊めることも、比較的よくあることではないでしょうか。

そして、それらはすべて、「あなたの神であり、主であるこのわたしにしてくれたことだ」と言われるのです。これは、どういうことでしょう。「わたしにしてくれた」とは、言い換えると「わたしへの愛を行動で表してくれた」としても良いかと思います。

イエス様への愛・神さまへの愛を、イエス様は語っておられます。「イエス様への愛を行ったか、行わなかったか」・「わたしにしてくれたか、してくれなかったか」。それが今日の聖書箇所が語る「終わりの日の救いを決めるもの」なのです。

イエス様に愛され、神さまに愛されていることを、私たちは日々、思い起こさずにはいられません。日々、聖書の御言葉が直接、自分に向けて語られていることをリアルに感じ、慰められ、励まされます。私たちは神さまに愛されたからこそ、命を戴いて生まれてきました。

また、イエス様は、私たちが罪の中で滅びてしまわないように、死から救い上げて永遠の命を与えてくださるために、十字架で命を捨てられました。私たちを、自分の命に代えてくださるほどにいとおしいと思ってくださったのです。私たち一人一人を愛し抜いてくださいました。そして、私たちが神さまを、またイエス様の愛にお応えして、私たちの方からも神さまを愛し、イエス様を愛することを、主は待っておられます。

ご復活されたイエス様は、ご自分を裏切ったペトロを赦す時に、こうペトロに問いかけられました。「わたしを愛するか」。ペトロは、涙を流しながら「はい」と答えました。イエス様は、その答えを聞くことで、ペトロとの間にある堅い愛の絆を確かめてくださったのです。

聖書が語るこの出来事を読むたびに、胸がいっぱいになる思いがいたします。それと同時に、ペトロがまっすぐに「イエス様、あなたを愛します」と言えたことにも、心を動かされます。さすがペトロ、私はこのようにまっすぐに答えられないように思うのです。

イエス様を愛する、その愛の表れとしてイエス様のために何かをする — そのように考えること自体があまりに畏れ多いことに思えます。こんな卑しい身で神さまに何ができるか、神さまのためにこの自分が何かできるように思うことすら、考えてはいけない気がしてしまう…それが、私の正直な気持ちです。また、このように感じるのは、私だけではないと思うのです。洗礼者ヨハネでさえ、私にはイエス様の履き物をお脱がせする値打ちもない(マタイ3:11)と言ったではありませんか。

その小さい無力な、罪にまみれた私たちのために、イエス様は命を捨ててくださいました。この恵みはあまりに大きすぎて、お応えしようがありません。お返しようが、ないのです。自分の命を献げ、従いきっても、まだまだ足りないでしょう。パウロのように一心に伝道に尽くす一生を送ろうと志しても、パウロのあの凄まじいまでの献身は、パウロがその賜物を与えられていたからこそ、可能だったのです。

この小さい者が、いったいイエス様のために何をして差し上げることができるのだろうと、途方に暮れる思いにならずにはいられません。

今日の御言葉は、まさに、このように途方に暮れる私たちへのイエス様の言葉です。イエス様は、私たちの思いを知ってくださり、それでも大丈夫と語りかけてくださいます。ここには、イエス様の私たちへの優しさと思いやりがあふれています。イエス様のために何をしたら良いのかわからない私たちに、どうすれば良いのかを、手を取るようにして教えてくださるのが、今日の聖書箇所なのです。

おなかをすかせている人がいたら、何か食べさせて上げなさい。のどが渇いている人がいたら、水を飲ませて上げなさい。日常の中で、困っている人がいたら、その人の必要を満たして上げる、それこそが、私にしてくれたことになると、イエス様はおっしゃいます。

ここに記されている、どちらかと言えば誰にでもできる小さなひとつひとつの行いを、イエス様は神さまに献げる私たちからの愛のわざとして見てくださいます。その小さな行いが、あなたがたからのわたしへの愛になるのだと、主は今日の御言葉を通しておっしゃってくださるのです。

ここで、心に留めておきたいことが二つあります。

ひとつは、終わりの日に裁きの座に立って、イエス様に「わたしの父に祝福された者たち」と言われても、その救われた人たち、イエス様に愛のわざを行った人たちが、きょとんとしていることです。37節をご覧ください。この人たちは、逆にイエス様にこう問いかけています。「主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。」困っている方に手を差し伸べた時に、この人たちは、イエス様のために行っているという意識はなく、ただ、ただ、目の前の人を助けてあげたいという純粋な思いやりから行動を起こしたのです。終わりの日・裁きの日に、救われようとして人助けをしたのでは、決して、決してありませんでした。逆に、救われるためにした事ならば、偽善です。

イエス様は、私たちの真実の心・真実の愛を見ておられます。ですから、私たちも、イエス様に従いつつ、御言葉に学びつつ、心に真実にわいてくる愛の思いに忠実になれば良いだけなのです。思っても、なかなか恥ずかしくて行動に移せない時もあるでしょう。イエス様の後に従って、愛のわざを行うことができるようにと祈りましょう。

心に留めておきたいもうひとつのこと。それは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」とは、どういう人をさすかということです。「困っている人」と先ほど申しました。それは、十分に食べたり飲んだりすることのできない、経済的に逼迫・困窮している人を指すばかりではありません。もっと広い意味があるのではないでしょうか。

この世的な競争に勝つことができない弱い者、虐げられている者、理不尽な目に遭っている者、と考えると、私たちは弱者の立場に立ったこと・理不尽に虐げられたことといった経験を皆、持っているのではないでしょうか。理不尽に虐げられることの中には、人間関係ばかりでなく、この世に潜む悪や病気、災いに苦しめられることも含まれています。思いもかけない苦難に遭った時、私たちは皆、人の誤解や無理解の中で孤独を感じ、人の理解や優しさが欲しいと思ったことがありはしませんでしょうか。

孤独は平気だ、孤独が大好きという方もおいでかもしれません。

しかし、悲しみや悔しさ、人を赦せない思いで、一人涙を流したことは、どなたもおありでしょう。その時、その涙を真実に受けとめて寄り添ってくれる誰かがそばにいたら、一人で過ごした苦しい時間はそこまで苦しくはなかったかもしれません。ですから、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」とは、私たちすべての者です。イエス様が心に懸けてくださり、幸いであるようにと見守ってくださる私たちすべてです。イエス様が、友なき者の友となってくださるように、私たちも、互いに友となり、隣人となり、助けあい愛し合うようにと、イエス様は勧めてくださっています。

それは終わりの日の救いのためではありません。それは、結果に過ぎないのです。主に従う愛のわざ。それは、今を生きる私たちを愛でつなぎ、今この時を主の栄光で輝かせます。私たちがイエス様に愛されて、イエス様を、そしてお互いを愛する者へとされるように、この一週間も主に従って進み行きたく思います。

2018年10月21日

※ 10月21日(日)〜27日(土)は、日本基督教団が定めた「信徒伝道週間」です。それにちなみ、薬円台教会では例年、この週の主日礼拝中、説教前に教会員のお一人に証(あかし・主の恵みを受けたことの証言)を語っていただきます。

説教題:新たに生まれなければ

聖 書:民数記21章4-9節、ヨハネによる福音書3章1-15節

…「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

(ヨハネによる福音書3章3節)

今日は、信徒伝道週間の主日として、礼拝で私たちの教会員のお一人に証(あかし)を語っていただきました。今日の聖書箇所は、その方が証のために選ばれた箇所をそのままいただいています。今、その方を導いた御言葉をご一緒に味わって、御言葉に生かされる喜びを分かち合いたく思います。

さて、今日の新約聖書が語るのは、ニコデモとイエス様の出会いです。1節・2節に記されているように、ニコデモはファリサイ派の者で、ユダヤ人の議員でした。彼は、ユダヤ社会の中で知的指導者階級・上流階級に属していたのです。いわばエリートで、ライフステージとしては、社会的にも、経済的にも安定した中で人生をしめくくろうという段階に入った人でした。

ニコデモは、夜、イエス様を訪ねて来たと、聖書は語ります。多くの注解書が、ヨハネ福音書では「夜」に、特別に象徴的な意味があると説明しています。闇が力を増し、光が乏しくなる。それが夜です。

ヨハネ福音書は、その第1章でこう語っています。「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。…言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

夜の暗闇は、御言葉として私たち人間のもとにおいでくださったイエス様を受け容れることができない苦しみ、光を拒む罪の暗さと救いがたさを表しているといえるでしょう。光である神さまがおられなければ、私たちは、暗闇に棲むしかありません。この暗闇は、私たちがあらゆる物事について、また自分について、本当の姿を見ることができない・知ることができないことを象徴的に表しています。真実を知ることができないとは、たいへんな不安を私たちに抱かせるものではないでしょうか。一生懸命生きているけれど、何が本当に正しいのかわからない、自分が本当に正しいのかわからない、そういう不安です。

ニコデモは年齢を重ね、豊かな経験を積んできましたが、だからこそ、ますます「これで良いのか」と、不安になっていたのです。暗闇に棲むとは、扉を閉ざした部屋にひきこもっているようなものです。扉を開けて、新しいもの・光が入れなければ、ただその暗い小さな空間で堂々巡りをする他はありません。自分一人では解決がつかない、人間には解決がつかないという自分の中だけでの、あるいは人間にできることの中だけでの堂々巡りに、このニコデモは気付いて、不安と行き詰まりを感じていました。

過越祭の間、イエス様はエルサレムで多くの奇跡を行われました。ニコデモはそれを見て、ここにまったく新しい、人間の次元を超えた解決があると気付きました。人間を超えた神さまからの力が、このナザレのイエスという方と共にあると確信したのです。だから、ニコデモはイエス様に会うと、まず、こう言いました。2節の後半です。「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

その問いかけに、イエス様はまっすぐに答えられました。日本語の聖書だとわかりにくく、むしろ原語のギリシャ語の方に、皆さんは「そうだったのか!」という気付きを受けると思うので、ご紹介します。この時、イエス様はこう言われました。「アーメン!アーメン!」

イエス様は、ニコデモの言葉に「そうだ、そうだ、そのとおりだ。あなたの言うとおりに、神さまが私と共にいる」と言われました。イエス様は神さまの子ですから、これは新約聖書の時代に生きる私たちにとっては当たり前のことです。しかし、この時代には、その事実を明確に知っている人間はいませんでした。イエス様の弟子たちでさえ、どこまで理解していたか、わからないほどです。

この時、イエス様は、ご自分についてのその事実を、はっきりとニコデモに、人間に向かって言われたのです。そして、続けて、こうおっしゃいました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」「新たに生まれる」とは、聖書の元の言葉では「上からの力によって」という表現が用いられています。「上からの力」すなわち「神さまの力によって」ということです。「神さまの力によってでなければ、人として生まれた悩みと不安には解決がない」とイエス様はおっしゃいました。

自分の力では解決がつかないことを、神さまだけが打開してくださるのです。自分は本当にこれで良いのか。正しい道を歩んでいるのか。それに答えを出してくれるのは、自分の外から、上から与えられる力です。神さまの力です。

人間は一生懸命努力して、自分で自分を成長させようとします。経験を積み、知識に知識を重ね、思索を深めます。それは、大いに意味のあることです。イエス様は、それを否定などなさいません。しかし、人間の努力と知恵は、ニコデモがそうだったように最終的には人間の力の限界を知ることに結びつきます。「この不安は自分では解決できない・人間に本当に正しいことはわからない」ということを、ニコデモは、また私たちは発見します。

それが分かった時、私たちの中には、心にある音を聞く者がいます。それは、イエス様が私たちの心の戸口に立って、扉を叩いてくださる音です。

ニコデモには、それが聞こえました。聞こえたからこそ、彼は夜の暗闇の不安の中を、イエス様に会いに来たのです。

イエス様はニコデモに、心の扉を開けるようにと言われました。それが11節以下の御言葉です。イエス様は、ニコデモに「上からの力、神さまの力を信じなさい」とおっしゃっています。

13節で、イエス様はこう言われました。「天から (すなわち上から、神さまのもとから)降ってきた者、すなわち人の子(「人の子」とはイエス様がご自身を指しておっしゃる言葉です)のほかには、天に上った者はだれもいない。」イエス様が神さまの御子であり、救いのためにおいでくださったことを証する、つまり証明する者は、イエス様の他にはだれもいないが、これからイエス様が十字架に上げられることが証しになる。イエス様は、そうおっしゃいます。そして、今日の聖書箇所の最後の言葉で、ご自分が十字架に架けられることを、こう言われるのです。「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命(この言葉は「神の国」と同じ意味です)を得るためである。」

こうおっしゃることによって、イエス様はニコデモに「私が神の子であることを、信じなさい。そして、神の国・永遠の命に与りなさい」信仰の決断を迫られました。イエス様は、ニコデモにこう言われたのです。心の扉を開いて、暗闇に閉ざされた部屋に、光であり、命の言葉である私を入れなさい。

今日の聖書箇所には、ニコデモがイエス様を信じたことは記されていません。しかし、彼が信仰者となったことを、私たちはヨハネ福音書の後の方で知ることができます。7章50節には、ニコデモがファリサイ派からの糾弾からイエス様を弁護し、かばおうとしたことが、記されています。また19章39節には、十字架に架かられたイエス様の葬りのために没薬を持ってきたことが記されています。

イエス様は、私たちにも「信じなさい」とおっしゃって下さいます。

教会に来て、礼拝に与り、聖書の言葉を通してイエス様にこうして「信じなさい」と招かれても、信じずに去って行かれる方もいます。けれど、信じて洗礼を受け、真実の平安に満たされた人生を歩む方も、このとおり、大勢おられるのです。

信仰を戴き、主と共に歩む日々を与えられている方は、感謝の思いと共に、信仰を強められ深めていただけるよう、あらためて祈りましょう。

まだ洗礼を受けておられない方は、どうかイエス様に「信じます」のひと言を献げていただきたく思うのです。人間にはできない、神さまにしか与えることのできない真実の平安への道が、ここにあります。

真実に目を開かれて、イエス様を通して人間を超える新しい次元を開いてくださる方・父なる神さまを知り、確かな足取りで、安心して主の道を歩んでまいりましょう。

2018年10月14日

説教題:突風の中で

聖 書:詩編89編7-10節、マルコによる福音書4章35-41節

説教者:李 倫尚 神学生

当主日は神学校日にて、東京神学大学から大学院2年在学中の李倫尚(イ・ユンサン)神学生が派遣され、説教奉仕を献げられました。

2018年10月7日

説教題:更に与えられて豊かに

聖 書:イザヤ書40章27-31節、マタイによる福音書25章14-30節

天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。… さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。

(マタイによる福音書25章14-19節)

前回の礼拝でいただいた聖書箇所に続き、今日も私たちはイエス様のたとえ話を御言葉に聴いています。イエス様のたとえ話は、読めば読むほど、わからないこと・どうしてイエス様がこう言われるのか不思議に思える事が次から次へと現れてまいります。じっくり読むと、謎のような言葉・矛盾すると思える表現がたくさんあります。入口・切り口がたくさんあり、答えはひとつに定まりません。そして、豊かな物語性を持って、私たちの心に残ります。今回のイエス様のお話も、ドラマのように情景が目に浮かんでくるたとえ話です。

ある多くの財産を持っている人が旅に出かけることになり、三人の「僕(しもべ)」・召使いにお金を預けて出発した、という設定が語られます。主人が留守の間に、三人のうち二人は預かったお金を上手に運用し、投資して、それぞれ倍に増やしました。残る一人はお金をそのままそっくり、隠しておきました。さて、主人が帰って来て、一人一人と、預けたお金を精算しました。お金を倍に増やした二人の召使いを、主人はたいへん喜びました。ところが、お金を隠しておいた一人の召使いを、主人は怠け者と叱りつけました。そればかりでなく、この召使いを屋敷の外へ追放すると告げるのです。

イエス様は、このたとえ話を「天の国はこのようにたとえられる」という言葉で始めておられます。天の国。

それは、この世が終わる終末の日を迎え、その時に、すべてが神さまの守りのうちにおかれる「天の国」「神の国」となることをさしています。復活されて天に帰られたイエス様が、この時、もう一度私たちのもとへと、神さまの右のご自分の座から降りてきてくださいます。

繰り返しますが、イエス様は、その終末の日、そしてイエス様ご自身が地上にもう一度おいでになる再臨の日のことを、たとえ話として語られました。たとえ話では、主人が旅に出て留守となり、主人が帰ってくるとされています。「主人の留守」としてたとえられているのは復活されたイエス様が天に帰られ、今は、私たちがイエス様に直接お会いできないことを表しています。そして、「かなり日がたってから 主人が帰ってくる」とは、イエス様がもう一度、私たちのところにおいでになる再臨を表していると申して良いでしょう。

イエス様は終わりの日に、どうしてもう一度、この世においでくださるのでしょう。そのことを、ご一緒に考えたく思います。そのために、まず終末の日・終わりの日がどんな日であるかを、あらためて思い起こしましょう。

終末の時・終わりの日は、この世がこれまで経験したことのない恐ろしい大災害が起こる日、けれど、救われた者はそれを生き延び、また それまでに命の終わりを迎えた者は復活して、神さまと共に永遠の命を生きるようになる、新しい命と新しい世界が始まる喜びの日。皆さまはそのように受け止めておられると思います。

そして、それだけではないことも、ご承知でしょう。

終末の時・終わりの日は、裁きの日です。神さまが、正しい者・御心にかなう者・救われる者を選ばれ、悪い者・御心を苦しめさいなむ者・滅びる者を裁かれる日です。私たちは一人残らず、一人一人、神さまの御前に立って、この選び・裁きを受けなければなりません。この世では、この時の状況に最も近いのが「裁判」です。やや極端な言い方をしますと、神さまが裁判官であり、同時に検事・原告・証人としておられ、私たちが、その前に被告として立たされます。裁判の時、最低限、そこに必要な役割は裁判官、原告、被告、検事。

それだけでしょうか。ひとつ、重要な役割が足りませんね。

弁護人・弁護士が足りません。原告と検事、原告側の証人が、声をそろえて「被告はこういう悪い人間です、こういう悪いことをしました」と糾弾する中で「いやいや、被告にはこんな良い所もあります、この人はこんな良いことをしました。その刑は重すぎます」と、弁護して執り成してくれる弁護人がいなくてはならないのです。

終わりの日・終末の時の裁きにあっても、これは同じです。そして、イエス様は、まさにこの裁きの場で、私たちの弁護人になってくださるために、もう一度、この世においでくださいます。

イエス様の十字架の出来事で救われたことを信じ、ご復活に希望をおいて、地上の生涯を歩み抜いた者の生き様を、一緒に歩んでくださったイエス様はつぶさに見てくださっています。私たち一人一人の弱いところ・罪深いところはもちろんご存じですが、私たちが一生懸命、御心にかなう生き方をしようと努めたことも、ご存じです。

ですから、天の父・神さまが、私たち一人一人を前に立たせ、その罪を数える時、イエス様はおっしゃってくださいます。「神さま、その罪は私が十字架で代わりに背負って、つぐなっています。もう罪として残っておりません。この人は、私が救った人なのです。この人が、そうして私を知ったということは、あなたを知ったことと同じではありませんか。あなたと私は一つなのですから。この人は、あなたに愛されて造られたことをよく知り、一生懸命にその愛に応えて、精一杯に自分を献げて生きて来ました。私がそれを証明しますから、どうか、神さま、この人を思い起こしてください。」こうして、イエス様は、私を、また皆さんお一人一人を、神さまに対して執り成してくださるのです。イエス様を信じて洗礼を受けるとは、イエス様が終わりの日に、こうして私たちの弁護人になってくださるということです。

さて、今日は前置きがたいへん長くなってしまいました。

申し上げたかったのは何かと申しますと、今日のたとえ話で、帰ってきた主人が、一人一人、召使い・僕と「清算を始めた」という言葉が指す内容です。この言葉で、イエス様は終わりの日の裁きを言っておられます。「清算を始めた」という言葉が語るのは、まさに人生の清算、総決算の場なのです。

神さまの御前に立ち、救いの選びか、滅びの裁きか、どちらかを言い渡される日。皆さんは、この日が恐ろしいですか? 正直な所、私は全く恐ろしくないと言い切ることができません。イエス様が私を弁護してくださることを、私は信じています。最終的な判断は、もちろん、全て神様にお委ねしています。選ばれても、裁かれても、その御心に私の平安があります。又、終わりの日に神様と会うことができるのも、本当に、楽しみです。これも、正直な気持ちです。このように緊張と喜びが入り交じり「御心のままに」と心が定まるまでの数秒間、私はドキドキします。

イエス様が語られた、今日のたとえ話では、帰ってきた主人・神さまの御前に、五タラントン、二タラントンを預かって、それぞれ倍に増やした二人の僕は、主人の前に進み出ました。恐れがありません。主を心から待っていたのです。喜びしかありません。数秒間のドキドキなど、彼らにはありえないのです。

一方、一タラントンを預かって、それを穴に隠していた僕は、主人を恐れていました。その人は、こう言いました。24節の後半です。「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしく」なりました。

神さまは福音の種を蒔かずに、刈り取る方ではありません。育たないことも承知で、ふんだんに蒔かれます。岩波書店のロゴマーク、画家ミレーの「種蒔く人」の姿どおりに、手いっぱいに握った麦の種をバッと投げて、いたるところに散らす方です。散らさない所など、ないのです。一タラントンを預かって隠した僕は、神さまについて間違ったことを思い込み、それで神さまを知っていると思って、実に自分勝手に神さまを恐れおののいてしまいました。

この人は、神さまを信頼していなかったのです。私たち人間の間でも、互いに信頼し合えないのは悲しいことです。人に信頼してもらえない、不信感を抱かれるのは寂しく悲しいことではありませんか。神さまを信頼できないことを表す言葉があります。不信仰です。「神さまに背く罪」と言い換えることができる言葉です。神さまは不信仰を悲しまれます。こんなにあなたを愛し、イザヤ書で語るように「あなたは価値高く貴い」と思っているのに、なぜ信じないのかと嘆かれます。

神さまは、一タラントンを隠した僕の不信仰を嘆き、激しく怒りました。その嘆き・怒りの激しさは、この価値のない者を、神さまの光のない外の暗闇に追い出せという言葉に表れています。「追い出せ」とは「そんなに私を信じないのなら、この私もお前を見捨てる」という意味でありましょう。

今日のたとえ話について伝統的に解釈されてきたように、この一タラントンを隠した僕は、私たち人間すべてを指します。私たちは、誰一人として、完全な信仰など持てないからです。もう少し厳密に申しますと、私たちは信仰を自分で持つことができません。ただ、ただ、神さまから一方的に恵みとして与えられるだけだからです。

自分で自分の信仰の深さを測ることも、もちろんできません。それは、神さまがお決めになることです。これも伝統的に言われてきたことであり、特に近現代最大の神学者と呼ばれるバルトが指摘したことですが、先ほど、終わりの日が恐ろしいですかとお尋ねした質問に、「少しも怖くない」と即座に思えたら、それは偽善です。

私たちは、信じたいと思う心で神さまを仰ぎ、神さまがその求めに、神さまへの尋ねかけに応えてくださって、信仰を恵みとして与えられることで瞬間、瞬間を生きてゆきます。生かされます。

信じたい、その願いを抱いて主を仰ぎ、信仰を与えられる – このつながりの繰り返しをいただくことが、主と共に生きるということです。

さて、たとえ話の中で、神さまである主人は、一タラントンを隠してしまった不信仰な僕を、本当に闇に追い出し、見捨ててしまったのでしょうか。イエス様は、そこまで語っておられません。なぜなら、この見捨てられるべき、つまり滅びるべき人間を救って神さまの光の中にとどめるために、代わりに闇の中へ出て行かれようとしているのは、これから十字架に向かうイエス様ご自身だからです。

私たちは、このイエス様の犠牲によって救われました。

この救いの出来事、イエス様の十字架の出来事の意味を少しでも知る時、たとえ知識としてだけでも知る時、私たちは信仰を与えられます。この私のために命を投げ出してくれた方がいた、それがイエス様という方だと知って、私たちはただ、最初は不思議な思いがするだけかもしれません。しかし、それが心にひっかかって離れなくなる時、どうしてイエス様はそのような自己犠牲をなさったのだろうと思い巡らし始める時、ケシ粒のように小さな、聖書の言葉を用いれば、からし種のように小さな信仰が私たちそれぞれの心に宿ります。

一度与えられ、受けとめた信仰。それによって、私たちはイエス様とのつながりをいただけます。そのつながりを通して、主はさらに豊かな信仰の喜びを与えてくださいます。私たちはさらに信仰を与えられて、主と共に、豊かに生きるようになります。

今週も、イエス様の十字架の出来事とご復活の恵みを問いかけ、新しく豊かに信仰をいただいて、一日一日を歩んでまいりましょう。