2011年3月27日
説教題:人の考えと神の御心
聖書:ルカによる福音書 22章1-13節
【説教】
地震と津波による災害について2つの声があります。一つは、地震も津波も原子力発電所の問題も、この100年には起こらないだろうと想定されていなかった事だ。人間の思いと力を越えて起こった問題に対して、皆で力を合わせて解決しよう、と言う声です。
別の声は「想定外と言うが、予測できた地震、津波なのに対策を怠ったのでこんなことになったのだ。責任を取ってもらう。失った物の弁償をしてもらう」と言う声です。
私たちは神の御心を100%知ることは出来ません。歴史の経験や科学などの知識、人間の知恵と技術で何%予測できるかで喜び、又ガッカリする生活をしているのです。
ところが人間は心の中で自分を中心にした絶対の世界に生きたいとの思いがあるのです。自分が絶対の世界では真の神を拒否するのです。神を無視し、排除するのです。ルカ22:2に「祭司長たちや律法学者たちはイエスを殺すにはどうしたらよいか考えた」とあります。イエスによって自分たちが正しくないといわれることが許せないのです。彼らは、武力や政治力によってではなく、正義は自分にあるという思いで生きていると同時に、周囲の人々にも自分の正しさに学べ、従えという姿勢で生きていたのです。
彼らは、自分たちが正しく、イエスが間違えているということを公にしようと、イエスと論じ合ったのです。けれどイエスの言葉尻をとらえることが出来ませんでした。それでも彼らは神の前に謙遜になるのではなく、どうしてイエスを殺そうかと考え合ったのです。そのとき想定外のことが起こったのです。想定外のことによって歴史は展開するのです。「十二人の一人、ユダにサタンが入った」のです。どうしてサタンが入ったのか分りません。唯言えることはユダに隙があったのです。主イエスに頼る心に隙が出来たのです。
ユダは彼らのところに行って、イエスを引き渡す相談をもちかけました。彼らは喜びました。自分たちの考えが行き詰まっていたところに想定外の人が来たのです。それで自分たちの考えが実現するように事が進む、と喜びました。しかし、ユダがイエスを彼らに引き渡すことは、主イエスが予告していた神の御心だったのです。
この時、イエスはペトロとヨハネを使いに出して過ぎ越しの食事の用意をさせました。ペトロも、イエスから「サタン引き下がれ。あなたは神のことを思わないで人間のことを思っている」と叱責を受けたことがあり、十字架を前にしてイエスを「その人を知らない」と裏切ったのです。サタンが入り込む隙は弟子の皆にあるのです。二人がイエスの言葉に従って使いに行くと、言われた通りの部屋があったのです。主イエスが全て準備していたのです。神の御心が人間の思いを越えて、救いの道を備えているのです。
このように準備された過ぎ越しの食事は、主イエスが私たち罪人を救うために十字架にかけられる前の最後の晩餐になったのです。神の御心は独り子を十字架にかけて罪人の人間を救うことにあったのです。人間の思いとの違いを知らされます。そして、人間の思いではなく、神の思いが地上の歴史の中に進められ最後に実現するのです。
2011年3月20日
説教題:神のものは神に返せ
聖書:ルカによる福音書 20章19-26節
【説教】
10日前に起こった地震と津波による災害、その災害の中にある人々に雪が降っている。原子力発電所被災の問題があり、火力発電所も被災したので計画停電がある。
これらの出来事、そこから起こってきている問題は人間の思いと力を越えていることです。しかしその声に対して、「想定外という言葉は承認できない。地震や津波は過去に起った記録がある。適確な対策、指導をしなかった責任を問う」という主張や報道があります。
今日の聖書の20:19にある「律法学者や祭司長たち」が20:20の「彼ら」です。彼らは、神から民の指導者に立てられ、その務めを神から託されているのです。ところが9-18の「ぶどう園と農夫」の譬えのように、彼らは神のものを自分のものにして指導権を使っているのです。それに対して主イエスが「神の前に謙遜になって与えられている務めを行なえ」と言ったのです。それでイエスが邪魔なので、イエスを殺すことを思ったのです。しかし民衆の中には、この世界は人間のものではなく神のものだ、イエスは正しい、と思う人がいました。それで彼らは、ローマ総督の手でイエスを殺させようと考えたのです。
その考えを実行するため彼らは、正しい神の民を装った人をイエスのところに遣わして、神の民が異邦人の皇帝に税を治めるのが律法に適っているか、適っていないか尋ねさせるのです。これは、神の律法かこの世の政治権力か、どちらを選ぶかの問いです。このように神の支配とこの世の問題を、あれかこれか、二者択一的にすることがよくあります。
イエスはこの質問に直接答えないで、「デナリ銀貨を見せなさい。そこに誰の肖像と銘があるか」と言いました。質問した人は地上の生活で使っているデナリ銀貨を見せ「皇帝のものです」と答えました。イエスは「皇帝のものは皇帝に。神のものは神に返しなさい」と言いました。
ここで主イエスは、これは皇帝のもの、これは神のもの、と区別して返す先を正しく選択しろと言っているのではないと思います。イエスは区別する基準を何も示していません。皇帝の肖像のある銀貨を全部皇帝のところに返せと言っているのではないでしょう。
「税を納める」は「与える」という言葉で「自分のものを与える」という意味です。税は権力によって取られる意識が強く、自分が主体的に納めるという意識は弱い。しかしパウロはローマの信徒への手紙13章で権力者は神によって立てられ、神に仕えているのだ、だから税を納めることはキリスト者の義務だ、神の国に生きることと、この世の権力者の下に生きていることとは別世界のことではない、と言っています。
その時の権力者が神の御心に明らかに背いている場合にも従うのか。この問題は、誰がその判断をするのか、キリスト者としてどのような従い方があるのか、歴史の中で色々な答えが出されてきています。画一された答えはありませんが、この世界も体も命も神から与えられたものなので、与えられている全てを神にお返しするものとして使うべきでしょう。そしてその時、その状況の中で私たちの信仰と決断が問われるのです。
2011年3月13日
説教題:ろばに乗る王
聖書:ゼカリヤ書 9章9-10節 ルカによる福音書 19章28-40節
【説教】
一昨日、東北地方太平洋沖に大地震があり、太平洋沿岸を大津波が襲いました。被災地の有様をテレビで見ますと、私は南相馬市と石巻市で牧師をしていたので心痛む思いをさせられています。昨日もその思いをさせられながら今日の説教の準備をしました。
人間は、いつもは神を真剣に考えていないのです。全てのものが神に造られ、存在していると言っていても、人間の知恵と力で世の中は動いていると考え、「私は私の知恵と力で世の中をこのように変える」と言う人に付いて行き、目に見える結果を期待するのです。
一昨日の地震と津波は多くの人間的な思いを虚しいものにしたのではないでしょうか。
人間が神にあって生かされ歩んでいるのだ、と神の前に謙遜に歩んでいる人は、神に生かされている人間はどのように生きるべきかを学ぶ大事な経験を一つ積み重ねたでしょう。経験を積み重ねて歩む人は失敗や悲しみも意味あるものとして目標に向って進むのです。教会は、個人の経験だけでなく、神の民の経験を自分のものとして歩んできているのです。
今日の聖書はイエスが、ユダヤ人の王、神の民の王としてエルサレムに上って行く様子を記しています。主イエスはここで旧約聖書に約束された、ユダヤ人を救う神から遣わされた王としてご自身を示されているのです。ルカ福音書はそのことを一層はっきりさせるように、「ムナ」の譬えをこの記事の前に置いています。
「ムナ」の譬えは、立派な家柄の人が王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つ。そして彼は王の位を受けて帰って来て、彼の僕たちを留守中の生き方によって裁くのです。これは、イエスは十字架で死ぬが、復活し天に上げられ神の権威を持って再臨する、と語っているのです。そしてろばに乗るイエスは神の権威を持ったお方だと言っているのです。
主イエスは二人の弟子を使いに出して子ろばを引いてくるように命じました。弟子たちは使いに出て行くと、イエスが全権を持っている王であることを現すようにイエスの思いと言葉がそのままそこに行なわれて、子ろばを引いて来ました。今までイエスがろばに乗ったと言うことは書いてないのでこれは特別のことを意味していると言えます。ゼカリヤの約束がここに成就しているのです。弟子たちは子ろばに自分の服をかけ、イエスをお乗せし、進んでいく道に自分の服を敷きました。これは列王記下9:13と同じ、私たちはあなたを王として承認し、踏みつけられても従います、との意思表示なのです。
37節以下でルカは群集ではなく「弟子の群れはこぞって、自分の見た奇跡のことで喜び、神を賛美した」と記しています。「自分の見た奇跡」は、自分が救われた、新しい人にされたことです。その驚くべき経験をもった人たちが、子ろばに乗ったイエスを神からの救い主、私たちの王と迎えて、喜び、神を賛美したのです。「主の名によってこられた方、王に祝福があるように」と。この賛美する人を叱って下さい、と言った人に、イエスは「この人たちが黙れば、石が叫ぶ」と答えました。救われた者はこの喜びと賛美に生きるのです。
ルカは、私たちが主の再臨まで地上でどのように生きるべきかを教えているのです。
2011年3月6日
説教題:神に義とされた人
聖書:ルカによる福音書 18章9-14節
【説教】
今週の水曜日から教会の暦ではレント(受難節)に入ります。この時に、神の前に真実に悔い改めて生きることを学ぶ聖書として、今日のこの聖書箇所が読まれてきています。
今日の聖書にある「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」は誰でしょうか。10節以下にある二人の内ファリサイ派の人がこの人に当たります。「ファリサイ」という言葉が、自分は他の人と違うと区別する、という意味なのです。
このファリサイ派の人は、本当に神に受け入れられたいと思っている人で、真剣に全力で律法を守り、行っているのです。唯見せ掛けだけ行なっているのではありません。それなのに、神に義として受け入れられませんでした。なぜでしょうか。この人の行為が人に見せようとしたもので、神の思いと離れていたからです。この人は、神に聞き従うのではなく、自分の判断でこれが正しいと決めた、その自分を満足させる行為をしていたのです。そのことは「心の中で祈った」という言葉からも知ることが出来ます。神を見ないで、自分を見て、独り言のように祈ったのです。祈っている内容も「私は他の人のように罪を犯すことをしていない。この徴税人のようなものでないことを感謝します」と人と比べて、満足し、感謝しているのです。
徴税人も、自分は神さまの前に一生懸命に正しい歩みをしたと思って、神がいます神殿に来て真剣に祈っています。ファリサイ派の人との違いは、誰を見て歩んでいるか、何を尺度にして自分を見ているか、です。ファリサイ派の人が神に義とされなかったのは、その行いが悪かったからでも不十分だったからでもありません。人と比べて自分を見ている、神を見ないで他の人と自分を見ている、そこに問題があるのです。この徴税人は、神と自分を見ていて、他の人は全く見ていないのです。他の人と比べて人を見ることをしていないのです。そこから「罪人の私を憐れんでください」と神に祈っているのです。
徴税人は、神の前に出て自分を見た時この言葉だけが出てきたのです。私たちは、神から目を離すと他の人と比べるようになるのです、そのようにサタンが働くのです。一般の人は殆どの人がファリサイ派と同じ姿ではないでしょうか。「私は罪を犯していない。罪人ではない。」「新聞に載っているこの人はひどい人だ。」と言います。新聞やテレビの世論調査にも「他の内閣と比べて、今の内閣は」という項目があります。キリスト者でも他の人と比べて、私はあの人ほどではない、と思うことがあるのではないでしょうか。
この徴税人は神の前に出て、自分の罪を神の前に知り、神の憐れみを求めて祈っています。この人は、過去の自分と今の自分を比べることもしていません。今神の前で祈っているのです。その祈りを神は聞いて、彼の罪を赦し義としたのです。神に義とされ、罪の支配から解放されて、新しい命に生かされ、力強く新しい歩みを神の前に歩み出したのです。
私たちは常に、今の自分を神の前に出して、神に祈るのです。その時十字架と復活の主が私たち罪人を義としてくださり、新しく生かしてくださるのです。
2011年2月27 日
説教題:羊飼いイエス
聖書:ルカによる福音書 9章10-17節
【説教】
主イエスが五千人にパンを分け与えた記事は4つの福音書すべてにあります。イエスと一緒に歩んでいた人々にとって印象深い経験で、大事な出来事として教会に伝えたのです。
しかし、4つの福音書の中でルカだけがこの記事の前に、ヘロデが「何者なのだ。うわさの主は」と言った言葉を置いています。そしてこの記事の後に、イエス御自身が「私は何者か」と問い、ペトロが「あなたは神からのメシアです」と告白している記事が続いています。ですからルカは、五千人にパンを分け与えているこの記事を、イエスが神からのメシアであるとペトロが告白する要因の一つになっている、とここに置いているのです。
マルコ6:34は、主イエスがこの五千人の群集を「飼い主のいない羊のような有様」に見た、と記しています。詩編23篇にある「主は良い羊飼い。私には何も欠けることがない。主は私を青草の原に休ませ、憩いの水の辺に伴い、魂を生き返らせてくださる」という良い羊飼いがイエスであることをこの記事は現しているのです。
そしてルカはこのところで、主イエスが誰であるかを教えているだけでなく、弟子たちは良い羊飼いにどのように仕え従うべきかをもイエスが教えている、と語っているのです。12節で弟子たちは、群集を解散させて下さい。自分たちで宿と食を採るでしょう、とイエスに頼みました。それに対して主イエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言いました。主の弟子である自覚と責任を強く呼び覚まさせているのです。弟子たちは「私たちにはパン五つと魚二匹しかありません」と、とても不可能だと答えました。
主イエスは、先ず五千人を組みに分けて座らせ、パンと魚を取り、天を仰いで、讃美の祈りを唱え、裂かれました。そして弟子たちの手を通してパンを分け与えさせたのです。
ここで私は、昨年8月に南米チリの鉱山事故が起こった時、僅かな缶詰で33人が2週間十分に元気いっぱい生きたことを思います。チリ鉱山の労働者たちはカトリックの信仰を持っていて、祈って生活し、食べ物をいただいた、と聞いています。聖書のこのパンの奇跡が意識の中にあったのではないでしょうか。この主に導かれ、教育され、養われて、閉ざされた暗い地下にいても明るく希望を持って力強く生きたのでしょう。
弟子たちが、これだけのパンしか持っていない自分たちはこの人たちにパンを与えることが出来ない、と言った。その直ぐ後で、弟子たちは自分の手で群集にパンを与えることができたのです。主イエスが私たちの羊飼いであるのは、唯食物と命の糧を与え、安らぎを与えるだけの羊飼いではない。羊を一人前に養い育てる羊飼いである。また見習の羊飼いを一人前の羊飼いに育てる羊飼いである。幼稚なキリスト者を一人前のキリスト者に、未熟な弟子を一人前の牧者に育てる羊飼いである、と記しているのです。
私たちは飼い主のいない羊ではありません。主イエスが私たち羊の飼い主です。命の糧を与えられ、養い生かされている、と共に、導かれ、主と共に歩むことによって、一人前に成長させられるのです。羊も、牧者も育てられていくのです。
2011年2月20 日
説教題:幸いな人は誰か
聖書:ルカによる福音書 6章20-26節
【説教】
聖書がここで使っている「幸いな人」という言葉は、「神に祝福されている人」という言葉で、「地上の煩わしい事に関わらないで、永遠の平安の中にいる神々の状態」を意味し、不安は何もない労働も苦悩もない、神のような生活をしている人に使われていた言葉です。
ですからこの言葉を「貧しい人々は幸いだ」と聞いた人たちは驚いたと思います。「貧しい」という言葉は、物がないだけでなく、「物がないのに耐えられないで物乞いをしている」という言葉です。その人たちに神の祝福がある、と言っているのですから。
しかしここでイエスは、貧しく物乞いしているから幸いだ、と言っているのではありません。神の国があなたがたのものだ、だから幸いだ、と言っているのです。
24節では、「富んでいるあなたがたは、不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。」と言っています。もう今すでに慰めを受けてしまっている、だから不幸だ、と言っているのです。「不幸だ」というのは、「哀れだ」「悲しいことだ」「災いだ」という意味です。しかし一般的には、富んでいる人を「哀れな人」とは言いません。ここで富んでいる人が不幸だ哀れな人だ、と言っているのは、富んでいる人も神々のような幸いな状態にはいない、それなのにもう慰められていてその要求ができない状態にいるからです。
20-23節で「あなたがたは幸いである」と言っているのは、20節は「神の国はあなた方のものである」と現在形に訳されていますが、21,23は「満たされる」「笑うようになる」「大きな報いがある」と将来のこととして語られているように、将来神から与えられる幸いを先取りして告げているのです。
24節は、「もう受けている」と、将来受けるべき物を今すでに受けてしまっているので、将来受けるものは何もない、期待も希望もない、と告げているのです。
「幸い」は人間が自分で獲得するものではなく、外から神から与えられるものなのです。
主イエスはここで、イエスのところに来てイエスの話を聞いている人々に、「神の国はあなたがたのものだ」「あなたがたはもう慰められている」と両方のことを言っています。これはそこにいる人々を、貧しい人と富んでいる人とに分けて言っているのではなく、「幸いだ」と告げると同時に「幸いな人になりなさい」と告げているのです。現在の自分や現在の生活だけに生きているのでなく、神にある命と世界を覚えなさい、と言っているのです。
福音は全ての人に与えられているのです。イエスの話を聞く人は、貧しい人が多かった。その人たちに主イエスは、あなたたちは神の愛の中に既にいる、神の国に生きている、と告げたのです。しかし、金持ちもイエスのところに来ました。金持ちの青年にイエスは「あなたは金持ちだから不幸だ」とは言っていません。18章18-23節の金持ちは、お金に頼って神に頼ることをしなかったので、お金を手放せないでイエスの前から去って行きました。
「幸いな人」は神のご支配の恵みに生きる人です。幸いは、主イエスの言葉を聞いて信じて生きている者に、現在既に神から与えられているのです。
2011年2月13 日
説教題:安息日の主
聖書:出エジプト記 20章8-11節 ルカによる福音書 6章1-5節
【説教】
安息日の問題は、私たちが神によってどのように生かされているか、神の前にどのように生きるか、という問題です。
出エジプトは、神が神の民を恵みによって奴隷の身から救い出した、その恵みを覚え恵みに応えてこのように歩みなさい、と勧めている十戒の中で安息日について記しています。神が6日間働いて天と地の全てのものを造られ、7日目に休まれた。それで神は7日目を休みの日として祝福し、聖とされたのです。これが安息日です。
ところが、そのように神の恵みを覚えて歩む勧めとして与えられた十戒が、厳しい神の命令として受け止められ、安息日も「安息日にはいかなる仕事もしてはならない」ということが強調され、細かい規定が定められ、それを守ることが求められるようになったのです。そして、守っているか、監視し合い、裁くようになった、そのことがルカ6:2の「安息日にしてはならないことをしている」という指摘になったのです。ここで指摘されているのは、麦の穂を摘んで、手でもんだことです。これが仕事、労働になる、というのです。
そのようにファリサイ派の人たちが責問に対して、主イエスは、ダビデが祭司以外は食べてはいけないと規定されていたパンを、規定を破って食べた、しかし神から罰せられていない、その記事を読んだことがないのか、と言って答えました。それは、神が規定よりもダビデに特別に目を注いで守っていたからです。イエスはここで、自分は神の子でありダビデの子である、と主張しているのです。そしてイエスは「人の子は安息日の主である」と告げられたのです。
「人の子」はイエス御自身のことです。安息日は、6日の仕事で疲れた人が休み、心から安息する日です。ところが人々は目に見える仕事と休みだけを問題にするようになったのです。ファリサイ派の人は目に見える基準を厳しく定め、見張り、裁いていたのです。
しかし、「休め」「休んでいる」ということで安息が与えられるのではないのです。目に見える仕事や労働をしていなくても、心が疲れる、気が休まらないことがあります。舞台に上げられて注目されていると何もしていなくても疲れるでしょう。失敗しないか、間違いがないか、疲れます。ファリサイ派の視線は安息日も休んでいない、彼らは安息日も休んでいないのです。また、彼らの前では仕事をしていなくても、休めないのです。
イエスは、私は安息日の主である、と宣言しているのです。「疲れている者、重荷を負っている者は、私のもとに来なさい。休ませてあげよう」とも言っています。また、安息日の神は6日間働かれた神です。6日間の働きが終っていない、問題が残っている、気になることがある、という状態であったら、7日目に仕事を休んでも気が休まらないでしょう。主イエスは、6日間の仕事の日々も主として共にいてくださるのです。そして、この仕事はこれで終わりにして休んでいいよ、と安息日を与えてくださっているのです。
安息日の主は、安息日だけでなくいつも共にいて、真の安息を与えて下さるのです。
2011年2月6 日
説教題:福音の新しさ
聖書:エレミヤ書 13章1-11節 コリントの信徒への手紙一 2章1-5節
【説教】
2月に入り、私立中学の入学試験が始まりました。学校、勉強は大事です。食料、医療もお金も生きるために必要です。人間は歴史を積み重ねてきました。人間の知恵と力、その技術はすばらしいものです。しかしそこに本当の救いがあるでしょうか。
コリント一1:18に「十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものであるが、救われる私たちには神の力である」とあります。「救われる者」は、この闇の世、虚しい命から光の世に意味ある命に移された者、造り主であり命の主である神と真実の交わりの中に生きる者です。その救いは「十字架の言葉」によって、神の力によって与えられるのです。
2:1に「兄弟たち、私もそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした」とあります。「神の秘められた計画」は、神の創造と救いの計画、十字架のキリストによる救いの計画です。これが神からの福音です。この福音の新しさは、今まで地上の歴史になかった新しさです。今までのどんな物差しでも計ることができない新し神からの喜びです。ですから、今までの価値観や生活習慣に固執して歩んでいる人には躓きになるのです。
エレミヤ13:1以下で、神はエレミヤに、神と神の民の関係を麻の帯びを例えに用いて語っています。ここで神は、神が選んだ神の民が、神との結びつきを軽視して力ないものにしたので、神の民は選びの名誉と威光を失った。神の民も都も存在意味を失い、役に立たないものになった、と語っています。
それで神は、新しく御子をこの世に遣わし、十字架によって民の罪を贖い、十字架の御子を信じる者に、神との交わりにある新しい喜びの命を与える、という計画をもたれ、実行されたのです。この御子によって与えられた救いが新しい福音です。この福音によって、新しい神の民が誕生したのです。人間の知恵や力によって神の民になるのではありません。神の計画に結びつく者とされて、神によって新しい神の民にされるのです。この新しい神の民には、福音によって、全ての人が招かれています。
御子の十字架による、罪の贖いの招きは、全ての人を包んでいます。ですから、パウロは、この世の知者や力ある者という枠を超えて、この福音を伝えたのです。「私はあなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外は、何も知るまいと心に決めていた」と言っています。パウロは、コリントに行った時衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安だった、と言っています。知恵や力を誇る人たちの中で十字架の福音に生き、福音を伝えることに希望も光も見えない、と思ったのです。しかし、そこで神を信じ、神の御計画と御業の確かさの中に身を置いて、私は、十字架のキリストによって今ここにいる。救いはここにある。と、喜びをもって力強く語ったのです。
十字架によって罪が贖われ、神と正しい交わりを与えられる。それによって隣人とも、世界の人々とも、被造物全体とも正しい交わりが出来るのです。これが福音の新しさです。
2011年1月30 日
説教題:聖霊によって宿った御子
聖書:ハガイ書 2書1-9節 コリントの信徒への手紙二 6章14節-7章1節
【説教】
私たちキリスト者は、キリストを信じていない人とどこが違うのでしょうか。
コリント14節で「信仰のない人々と」と言っているのは、「キリストを信じていない人々と」ということです。当時ギリシャでもローマでも多くの神殿、宗教があり、お互いに他の人が信じている神や宗教は認め合って生活していました。その社会で「キリスト者は、キリストを信じていない人々と不釣合いな軛につながれるな」と言っているのです。
「軛」は、動物を結び合わせて重荷を負って一緒に歩ませる、横木です。その横木が不釣合いの動物を繋いでいたら歩くことは困難で苦痛です。マタイ11:29で主イエスは「私の軛を負い、私に学びなさい。安らぎを得られる。私の軛は負いやすい」と言っています。
軛に繋がれるということは、一緒に重荷を負い合い、教育し合って命を共にして歩む、生きるということです。私たちの周りには色々な人がいます。交わり、社会生活を共にしています。その中でキリスト者は誰と軛を一緒にして歩むか注意すべきなのです。
パウロは「正義と不法」「光と闇」がどんな繋がりがあるのか、と言って、キリスト者とキリストを信じていない人とでは、生きる目標、基準、尺度、歩く姿も全く違う。相反する。一緒になれない。と言っています。このことを知っていることが大事なことです。
16節では「私たちは生ける神の神殿なのです」と言って、旧約聖書の言葉を引用し、神が神の民の中に入って住むことによって、神の民を神の民とした。だから、神の民は神の聖さに応える民であるべきだ。と言っています。
17節はイザヤ書52:11からの引用です。バビロンに捕囚されていた民が、エルサレムに帰還するように、エルサレムの神殿が破壊された時にバビロンに運び込まれた祭具を今持って、バビロンが栄え力あるように見えてもあの者から出て行き遠ざかれ、と言っているところです。イザヤ書はここで「神が先立ち、しんがりを守って、神の民を導き守る」と言っています。神はこのように民と軛を共にするお方なのです。主イエスも同じです。
ハガイ2章は、バビロンからエルサレムに帰還して神殿を再建しているが困難が多く、体力も気力も失ってしまう、そこで神が指導者を励ましているのです「勇気を出せ、神の契約は今も有効でお前たちの中に留まっている、私は一緒にいる、見捨てることも見放すこともしない。私がいる、恐れるな。」と。新しい神の民が創造されていることを告げ、この歩み、この働きに意味がある、と言っているのです。
神は、キリストによってこの新しい神殿を建てられたのです。キリスト者が、そして教会が新しい神殿になったのです。十字架と復活の主イエス・キリストが、罪人で弱く小さな私たちの中に来て、私たちと共に歩んでくださっているのです。
私たちは、神が住む聖なる神殿なのです。ですから、汚れたものから離れるように注意すべきなのです。7:1でも、「肉と霊とのあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう」と勧めています。
2011年1月23 日
説教題:神の言葉の実現
聖書:イザヤ書 61章1-6節 ルカによる福音書 4章16-30節
【説教】
マリアから生まれたイエスも成長して大人になり、洗礼を受け、荒野で悪魔を退けた後、聖霊に満ちて会堂で教えられるようになりました。
イエスは、お育ちになったナザレの会堂で、渡された聖書を開きイザヤ書61章1-2節を読みました。ここでイザヤが告げているのは、50年毎に借金や奴隷になって苦しんでいる人が解放されるヨベルの年が今来た、この言葉が神によって実現した、というところです。ここを人々は希望の言葉として読んでいました。ところがイエスは、この所を読むと「この聖書の言葉は、今日あなたがたが耳にした時に実現した」と言って説教を始めたのです。
イエスは、自分がこのことを語ったこの時、イザヤが預言した神の言葉が実現した、この言葉だけではない、神の言葉による救い、解放、自由が、私の言葉と共に今日実現した、と宣言されたのです。イエスは18-19にある言葉を、イエス御自身の言葉だ、イエスが神の霊を与えられ、霊に満たされ、神の務めを果たす者に任命されている、そしてイエスは神から与えられたその業を行なう、と宣言されたのです。王の宣言のように、イエスが語る言葉は、それを耳にした人たちが、神の言葉と知り、信じた時に実現しているのです。
このイエスの言葉を聞いたナザレの人たちは驚きました。イエスを幼い時から知っているので、霊を受けて、神の言葉が私によって実現しているとイエスが告げたのに驚いたのです。イエスの変り方に驚いたのです。「この人はヨセフの子ではないか」と、イエスが特別な霊の力を持っているはずがない、と言ったのです。イエスをこのように唯の人間と見る見方、説教の言葉を人間の言葉と聞き、説教者、伝道者を唯の人間と見て、霊的な力、働きを無視することが、私たちにもあるのではないでしょうか。
イエスは『医者よ自分自身を治せ』ということわざを引いて、ナザレの人たちが「ここでイエスが霊に満ちた神の人である印を見せてくれ」と言っていることを承知で、「はっきり言っておく。預言者は自分の故郷では歓迎されないものだ」と言いました。自分は預言者であり、神の霊と力を持っている、と告げました。そして、異邦人が預言者を信じて、その言葉に聴き従った時に神の力がそこに現されたという二つの事例を紹介しました。
大事なことは、その預言者を幼い時から人間的によく知っているかということではなく、神から遣わされた人としてその預言者を受け入れてその言葉に聞き従うか、ということです。また、印を見て信じるのではないのです。神の言葉がイエスによって語られている。礼拝によっても語られている。その言葉を神からの救いを告げる言葉として聞くとき、神の救いがそこに実現するのです。
人間は自分中心で、イエスを神からの救い主としてなかなか受け入れることが出来ません。そのようなこの世の人たちの中で、イエスを神からの救い主と受け入れることが出来、イエスの言葉を神の言葉として聞くことが出来るのは、大きな恵みです。そのようにイエスの言葉を聞いている私たちに神の救いが実現しているのです。感謝です。
2011年1月16 日
説教題:しかし、お言葉ですから
聖書:ルカによる福音書 5章1-11節
【説教】
教会に来て、礼拝で聖書の言葉を聞くことはどういうことか。その答えが今日のイエスとシモン・ペトロとの対話に示されていると思います。この対話を、今の自分とイエスの間にも起こっていること、と信仰的に受け止めることが礼拝で聖書を読む大事な点です。
シモンと私たちとの共通点は何でしょうか。シモンも私たちも既にイエスを知っている、イエスとの交わりがあり、イエスを力ある導き手と信じていて、イエスの言葉を聞く心を持っている、ということです。そうでなければ、イエスの言葉は虚しくなるのです。
5:2に、漁師たちは船から上がって網を洗っていた、とあります。5節には、この漁師たちは夜通し漁をしたけれど何も捕れなかった、とあります。それで虚しい思いで、これから家に帰って休もう、もう何もする気はない、という状態でいたのです。
そこにイエスが来て、舟に乗り岸から漕ぎ出すように、シモンに頼んだのです。シモンはこの頼みを断ることが出来ました。断る理由は幾つもありました。しかしシモンは、このイエスの頼みを聞いて、舟を出しました。これはシモンとイエスが知り合いであり、シモンがイエスを好意的以上に見ていたからだ、と思われます。4:38-39がこの出来事の前にあったと想像することも出来ます。イエスは船の上から岸の人に話をしました。
これは、イエスを少し知り、それなりにイエスを信じている私たちを、イエスが捉え選んで私たちの所に来て話をし下さっている、と見ることが出来ます。教会は、初めの時代から、舟に例えられています。
シモンは漁で疲れていたのですが、船の中で、眠らないでイエスの話を聞いていました。そのことは、イエスの話が終った後の二人の応答で分ります。イエスは群衆に御言葉の種を蒔かれました。その御言葉の種はシモンの心の中にも蒔かれ宿ったのです。イエスは話が終ると、シモンに「疲れているのに有り難う」と礼を言うのではなく、「沖に漕ぎ出した網を降ろし、漁をしなさい」と言ったのです。シモンはこの命令を拒否することが出来ました。それなのにシモンはイエスに「先生」と言って答えたのです。この「先生」という言葉は、神の力を持っている導き手、という意味を持っています。シモンは御言葉の種を受け入れて、イエスをそのように信じたのです。そして「私は漁師で、夜通し漁をしたけれど何も取れませんでした。疲れているし漁師としては虚しいことをするように思われます。しかし、お言葉ですから網を降ろして見ましょう」と言って、実行したのです。
「漁師たちがその通りにすると」ということは、シモンは唯イエスの言葉に従って行動したのです。それで仲間の舟の助けを求めるほどに大漁になったのです。シモンは、イエスとの交わりを大事にして、イエスの言葉を心から聞いて、自分の思いを捨てて、イエスを信じ、イエスの言葉に従って行動したのです。
シモンは、イエスの足もとにひれ伏して「主よ、罪深い者です」と告白しました。ここからシモン・ペテロは新しい人となって歩むことになるのです。
2011年1月9 日
説教題:異邦人を照らす光
聖書:ルカによる福音書 2章25-35節
【説教】
今の日本は混迷の時代といわれています。明治以後30年ほど前までは、追いつけ追い越せ、と日本には目票がありました。しかし、経済大国と言われるようになると目標がなくなったのです。希望と目標を思って列島改造でレジャーランドを作ったけれど、お客が来ない。バブルが崩壊して、目標が見えない、希望がないという、混迷状態になったのです。
現在の混迷、虚しさは日本だけではない、世界全体の状態でもあり深刻です。このようなことは世界の歴史の中には幾度もあったのです。個人の人生にもあります。聖書はその時、人間の声に聞くのではなく神の声に聞くことを呼びかけています。
29節で「主よ、今こそお言葉通りにこの僕を安らかに去らせてくださいます」と言っているシメオンの言葉を、今神の救いを見たので、虚しかったと思っていた今までの日々も歩みも人生も意味あるものだったのだ、安らかに満たされた思いで死に行ける、と神に感謝している言葉として読むことが出来ます。シメオンは神を見、神の救いを見ることで、人生も日々の歩みも空しくはない、満たされたものになったのです。
その読み方を受け入れながらも、これは一日の仕事を終って家に帰る労働者の言葉として読むのが相応しい、という人がいます。現代の労働は自分の家のための仕事ではなく、お金を貰うための辛い厳しい仕事です。仕事そのものに愛も喜びもない、同じことを繰り返して、終わりがない、虚しさを覚える労働です。その仕事をしている時主人が、「今日の仕事は十分だ、家に帰って休みなさい」といってくれた。その主人の言葉を聞いて、自分の働きが認められ評価されている、と満たされた思いで家に帰ることが出来る。今日の一日は充実した一日だった、と主人の一言で、救いと平安を与えられたのです。
しかし、その主人は、終わりに一言与えただけではないのです。仕事も主人から与えられたのです、そして仕事をしている間主人はその働きに目を注いでいたのです。ですから「今日の仕事は十分した」と告げたのです。神は終りの時だけ救いの言葉を語るお方ではないのです。私たちは、神によって生き、働き、歩み、去って行くのです。神はいつも私たちと共にいるお方なのです。そのことが特に救いの言葉によって分るのです。
25節に、シメオンは正しい人で、信仰にあつく、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた、とあります。「慰められるのを待ち望んでいた」ということは、長い間慰めも希望もない中にいたのです。シメオンは、正しく信仰厚かったので、この世の誘いの声に耳傾けなかったのです。この世の慰めを求めないで、神からの慰めを求めていたのです。
混迷の時代には、「ここに慰めがある、救いがある」という誘いの言葉が多くあるのです。詐欺がはびこるのです。混迷で、虚しさにある時こそ神を信じることが大切です。この時には神が見えない、神の言葉が聞こえないのです。神は「隠れている神」なのです。そこでシメオンは神を信じ、神からの慰めを求め続けたのです。そして、聖霊に導かれて神殿に行って、幼な子に出会ったのです。そこで慰めと救いを与えられたのです。
2011年1月2 日
説教題:幼な子と両親
聖書:ルカによる福音書 2章21-24節
【説教】
クリスマスに誕生した幼な子は、8日目にイエスと名付けられました。名前をつけることによって、一人の人格のある人間として認められることになった、と言えます。
この名前は、両親が考えて決めた名前ではなく、両親に天使が「名付けなさい」と指示した名前です。両親は、幼な子の肉体だけではなく、人間としての全てを天使の御心を受け入れて決めたのです。ですから神の子であり、人の子であるイエスが誕生したのです。
イエスは、マリアとヨセフを両親として生まれ、名前を付けられ、幼児期を育てられたのです。御子イエスは、聖霊によって宿ったのですが、マリアとヨセフが神の心を受け入れ、二人が聖霊に導かれて親としての責任を果たした、それによって御子イエスが誕生し、一人の人間として育ったのです。
出産と育児は大変なことです。ヨセフとマリアは、その大変さを承知で、天使の言葉を受け入れ、親としての責任を果たす決意をし、実際にそのように行ったのです。神はこの両親を特別扱いしないで、「女から、律法に下に」生まれた子の親として用いたのです。
私たちは、この年の初め、クリスマスの恵みを覚えて御子と共に歩む決意をし祈りますが、御子の両親にも目を向け、両親と同じ御子と共にある歩みをしたいと思います。
幼な子イエスは神の子でありますが、この時には無力で全てを両親の手に委ねる状態でした。幼児の時にイエスが奇跡を行なったと記している福音書は教会が異端としました。イエスは、真の人で罪を犯さなかったほかは私たちと全く同じ肉の弱さを味わい知っているお方なのです。神は肉の人間を救うために、神の子を肉の人間としてこの歴史の中に誕生させたのです。ヨセフとマリアが信仰と愛を持って、神から与えられた重荷と思われる幼な子を受け入れて、できる限りの心と力で仕えたので、御子は健やかに育ち、神の御心が実現したのです。神の民イスラエルを選び、ヨセフとマリアを選び用いて、そして教会をも用いて、神は御業を行なっているのです。
今日の聖書は、両親が主の律法に忠実に従って、8日目に割礼を行ない、定められた時にその子を主に捧げるためにエルサレムに連れて行った、と語っています。産後間もない母親が幼な子を連れて遠い地まで歩いて行ったのです。簡単なことではなかったでしょうが、両親は神の意志を重んじて神の民の道を忠実に守って歩んだのです。このことによって幼な子は、神の民の仲間になり、神の民を救うお方になったのです。神を信じ、神の言葉に従って歩んでいる両親の中心に、神の民の中心に、救い主の幼な子がいるのです。この幼な子を中心にした両親の歩みを神は守り祝し、意味ある歩みにてしているのです。
この両親は幼な子を中心に神の民としてできるだけのことをしました。人間的、この世的に計算して賢い歩みをするよりも、神に従って歩むことを大切にしたのです。その歩みを神は祝福し、恵みを与えてくださっているのです。私たちもこの新しい年、幼な子の両親の信仰と愛による歩みに倣う歩みをしたいと思います。
2010年12月26 日
説教題:別の道を帰った
聖書:マタイによる福音書 2章1-12節
【説教】
今日は、クリスマスの喜びの中での礼拝ですが、今年最後の主日礼拝です。
一年の終わりの時は、区切りの時で一年の歩みを振り返ります。区切りの時には今までの精算をして、新しい歩みの備えをします。今日はクリスマスの光の中での年末礼拝です。
聖書はクリスマスの出来事を,ルカは羊飼い,マタイは東方の博士によって伝えています。
ルカの羊飼いたちは、天使の言葉を信じて、そのことばに従って歩んで行くことによって御子に出会いました。それで、喜びに溢れて、神は真実なお方だ、と人々に伝えました。これが羊飼いの今までの歩みの総括であり、新しい歩みの出発でした。
マタイの学者たちは、夜空の星を見て、ユダヤ人の王が生まれたことを知りました。夜空の星を調べる務めをすることで、地上の国や民族の違いを超えて、天地の造り主である神が歴史と天地を治めている、と知ったのでしょう。星に導かれてユダヤの都エルサレムに来ました。ユダヤ人の王が生まれたのでその都では皆が喜び祝っていると思うのは当然です。ところが王の誕生を誰も知りせん。王はどこに生まれたのか、と人々に尋ねました。そのことがヘロデ王の耳に入ったのでヘロデ王は、学者たちを王宮に呼び「その王はベツレヘムに生まれる、王が見つかったら知らせてくれ」、との言葉で送り出したのです。
王の言葉に従って歩んで行くとまた星が先立って進みました。学者たちは喜びました。
その星を見て神の確かな導きを知って喜んだのです。そして幼子に出会って、自分たちが大切にして持ってきた宝を幼子に捧げて礼拝をしました。この礼拝は、自分たちの感激と、幼子に仕え、従うことを現しています。
学者たちは幼子に会って旅の目的を果たしました。旅してきた総括として、神に感謝の祈りをしたでしょう。12節の「ところが」は、「そして」「その後」とも訳せる言葉です。「お告げがあった」というのは「神が祈りに応えて告げた」ということです。学者たちはエルサレムで星が見えなくなりました。私たちも神の導きを見えなくなることがあります。その時には迷子になったように不安になります。学者たちも全く知らない土地で、星が見えない、王が誕生した所が分らない、と不安と闇に覆われていたでしょう。その時ヘロデ王が王宮に呼んで、「王が生まれるのはベツレヘムだ」、と教えて送り出してくれたのです。学者たちは、王宮でのもてなしもあって、ヘロデ王は感謝すべき方、お礼を言うべき方と思っていたのではないでしょうか。ところが神は「ヘロデの所に行くな」といったのです。
学者たちは、今までの歩みは基本的には神に導かれた歩みだった、と総括したのです。それで、神の言葉に従って、ヘロデの所に行かないで、別の道を通って帰りました。その道にはヘロデの王宮のような快楽や王にある平安はありませんでした。しかし、神は自分たちと共にいる、幼子にも出会った、という喜びに満たされた歩みだったでしょう。
私たちもこの時、神に一年の区切りとクリスマスの喜びの祈りをしたいと思います。そして神に導かれて新しい年の歩みを歩み出したいと思います。
2010年12月19 日
説教題:光が世に来た
聖書:イザヤ書 11書1-5節 マタイによる福音書 1章1-14節
【説教】
クリスマスの出来事をヨハネは9節「まことの光が世に来た」と14節「言は肉となって私たちの間に宿られた」の二つの言葉で現しています。
「その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」の「光」は、6-9でヨハネが人々に証をした光です。その光は、「まことの光」「本物の光」です。神の言葉を持った、命ある光なのです。他の光は、偽物の光、見せ掛けの光、なのです。
この世にも光があります。人工的な光があります。希望の光があります。私たちも、心に太陽を持つように、光を持って生きています。しかし、太陽の光も日没と共に光は消えて闇になるのです。イルミネーションも街の灯りも電気が切れたら光を失います。原子爆弾が太陽以上に明るく熱力のある光を放っても、その光は命を持っていないのです。人工の光は、明かりを与えてもその灯りは一時的で、明かりと同時に影を作り闇と死をもたらすのです。人間は、自然や人工の光で明るく生きていけると思い、歩んでいます。
しかし、私たちはそのように思い、歩むことによって、天地の造り主であり、命の主である神に目を向けないで、地上の世界だけを見て生きているのではないでしょうか。神を無視して生きることによって、罪の中を罪に支配されて生きることになるのです。人間の世界は光があっても、そこにはまことの命と光がないのです。
そのような闇の世に神は独り子を光として与えてくださったのです。神からのまことの光は、神の言です。人間を愛し救おうという神の思いです。そこに神の命があるのです。
「言は肉体となって、私たちの間に宿られた」のです。神の言、神の命が人間となって歴史の中に宿ったのです、一人一人の中にも宿ったのです。遊牧民がテントを張って生活しているように、神が私たちの日々の生活に中に宿って共にいてくださるのです。その来て下さった光、言、御子を受け入れることによって、私たちは光の中を神の命を宿して生きる者となるのです。神がそのようにしてくださるのです。
ところが人間は、自分の知恵や技術のすばらしさを誇り、そこに光と希望と命があるとして、神の言葉を受け入れないのです。それでこの世は闇なのです。
ヨハネ3:16-19に、神は、世を愛され、御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るために、独り子をお与えになった。ところが、世は光が来たのに、光よりも闇を愛して御子を受け入れない。とあります。これが人間世界の現実なのです。
しかし、3:21には神の光に来る者がいる、と言っています。1:10-12でも、神の言を世は受け入れないが、受け入れた者には神は神の子なる資格を与えた、と言っています。
この神の言葉を受け入れて神の子とされているのがキリスト者です。神の子イエス・キリストが人間の歴史の中に誕生することによって、闇の世が光を輝かす世に、命の世界に変ったのです。その御子を受け入れて信じているキリスト者が、今は世の光となってまことの光を証ししているのです。キリスト者の喜びと使命、責任を思わされます。
2010年12月12 日
説教題:聖霊によって宿った御子
聖書:イザヤ書 11書1-5節 マタイによる福音書 1章1-14節
【説教】
クリスマスに誕生したイエス・キリストは聖霊によってマリアに宿ったのです。
これは普通の子とは違う、人間の世界での出来事とは次元が違う出来事なのです。聖霊によって宿ったのは、その全てが神の意志と御計画と御力によって起こった出来事なのです。神が人間のことを思い、人間を救うために、唯一度行われた事なのです。
神がマリアの胎に宿ったのです。それは、神に背を向け、神に聞き従わない人間を、神との交わりの中に生きるように新しく造り替えようと欲したからです。神は、上からの一方的な救いではなく、神と人間が真実に交わる救いを欲しられたのです。
罪人の人間を神との交わりに生きる人間にする。そのためには神と人間との間を執り成すお方が必要です。そこで、神は真の人となってマリアに宿って執り成しをするお方になる決意をされたのです。聖霊によって宿ることをマリアが受け入れた。そこから神と人間の執り成しをするお方の正しい存在と位置付けによる歩みが始まったのです。
マリアに宿ることによって、御子は真の神で、真の人となったのです。マリアがどうして神の子を宿すために選ばれたのか、ルカは1:27で、マリアが「ダビデ家のヨセフのいいなずけであった」と記し、マタイはヨセフの系図を記して、マリアはヨセフと婚約していた、と記しています。聖書は、ヨセフの系図を記すことによって、御子をこの地上の歴史の中に生きた人間として位置付けると共に、神はマリアを一時的な思いで選んだのではなく長い御心を実現させるためにヨセフの婚約者が選ばれた、と語っているのです。この人間の歴史の中に全く新しい人間が誕生したのです。
この系図には人間に対する神の深い思いが示されています。神は、アブラハムを選んで、子孫に祝福を与えると約束されました。そして神の民に、ダビデの子孫から神の国を建て、神の国を治めるメシアを誕生させる、と預言しました。
しかし、神の御心は人間には分らないのです。ヨセフはマリアが身ごもったことを知り、そのことが分るようになると、大いに悩み迷いました。神の前に正しい人であったので、マリアの子を自分の子と認めることはできない。しかしそのことが表ざたになったらマリアは石で打ち殺されることになる。そこでひそかにマリアと縁を切る決心をしました。
その時天の使いが「ダビデの子ヨセフ、妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と言ったのです。ヨセフは、神の使いの声に聞き従い、自分が考えた結論を捨ててマリアを迎え入れました。ヨセフは信仰の人になったのです。
マリアもヨセフも、聖霊によって宿った子を受け入れるのに躊躇しました。しかし、この二人は、神を信じ、天使による聖霊の働きもあって、頑なにならず、また逃げないで、重荷を承知で聖霊による子を我が子として受け入れました。
神の子は聖霊によって宿ったのですが、マリアとヨセフが御子を受け入れることによって、ダビデの子として誕生したのです。神が約束した救い主の誕生になったのです。
2010年12月5日
説教題:全ての人への福音
聖書:イザヤ書 55章1-11節 ローマの信徒への手紙 15章7-13節
【説教】
イザヤ書55章は、バビロンに捕囚されているユダヤの民に語りかけている神の言葉です。国が破れて70年が経ち、バビロンでの生活も落ち着いている民に、その生活を捨てて私の所に来なさい、と語りかけているのです。
渇きを覚えている人は私の所に来なさい、と神は呼びかけています。しかし、今ここで水を得ているからこの生活でいい、という人が多かったのです。神は、その水や糧は真の命を与えるものではない、私に聞き従って魂に命を得なさい、と言っています。
神の言葉に聴き従うと言うことは、お金や人間的な力を大事にした生活を捨てて、神が約束された土地に神に導かれて行くことです。そこで神の国を建てるのです。そこで神は、とこしえの契約を民と結んで民を生かしてくださる、と言っているのです。
この言葉は新しい神の民を形成することを呼びかけている言葉です。今までのユダヤ人がそのまま神の民になるのではなく、捕囚の民に語りかける神の言葉を聞いて、心新たにして聞き従った民が中心になって、新しい神の民が形成されるのです。これは、神の言葉に聞き従うことによって神の民にされるという、全ての人に与えられている福音です。
イザヤはユダヤ人に、神を求めて神に立ち帰ることの重要さ、必要さをここで強く語っています。バビロンにいる捕囚民は、ここで70年生活して生活基盤もできた、神を求める必要がない、という人が多かったのです。現代でもそのような人が多いのではないでしょうか。しかしその生活は、お金や物、人間関係が支配している生活です。私たちは、国の指導者の下に一つになるのではなく、神の民となることによって、国や民族の壁を破って神の前に主体と責任を持って生きる人間、神の国のために意味ある者になるのです。
ローマ15:12に「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる」とある言葉は、イザヤ書11:10では「全ての民の旗印として立てられる」となっています。異邦人を治めるのは、力で治めるのではなく、この旗印の下に自分の意志で集って一つに治めると言っているのです。このエッサイの根から現れた芽はイエス・キリストを指しています。イエスが諸国民を集める旗印なのです。そこに集められた者はユダヤ人も異邦人も皆、自分を誇るのではなく、神の憐れみをほめたたえるようになるのです。
イザヤは「魂に命を与えられよ」「魂に命を得よ」と言っています。人を本当に生かすのは神です。神と真実に結びつくことによって私たちは本当に生きることになるのです。イエス・キリストによって罪を知り、罪贖われて、私たちは神との結びつきを得たのです。神の民、神の家族とされ、意味ある一員となったのです。これは、神の言葉を聞いて信じて従ったことによって神から与えられる平和であり喜びです。ここに希望があるのです。
神は、私たちが自分の中から生み出す喜びや希望ではなく、真の喜びと希望を、イエス・キリストによって与えてくださっているのです。私たちはクリスマスに生まれたイエス・キリストを信じることによって、この命と喜びを自分のものとすることができるのです。
2010年11月28日
説教題:主来臨の希望
聖書:エレミヤ書 33章14-17節 ヤコブの手紙 5章7-11節
【説教】
今、北朝鮮と韓国の間での砲撃、沖縄の基地の問題など、力で国を治めることが話題になっています。地上の世界は、軍事力に頼り、力のある者を救い主としています。
しかし今日のエレミヤは、獄の中から、神が約束を果たす日が来る、その時にはダビデのために若枝が生えて国を平和に治める、と語っています。エレミヤは、「今バビロンが力を持っているのは神の御心によるのだから、自分は神の民の王だから破れることはないと高慢になってバビロンと戦うのではなく、今は神の前に謙遜になってバビロン王に従うべきだ」とユダの王ゼデキヤに言ったので、ゼデキヤによって獄に入れられたのです。
この時、バビロンに捕囚になっているユダヤ人に、「神はバビロン王の軛を砕くので、あなたたちは2年の内にユダに帰ることができる。」と書き送った預言者がいました。それに対してエレミヤは「あなたたちはバビロンで家を建て果樹を植え、妻を娶って子を産め。70年の時が満ちたらこのユダの地に神が連れ戻してくださる。バビロンに捕囚されていても神は見放しているのではない、目を留め、導き養ってくださる。」と書き送ったのです。
この世の人々は、目に見える支配を唯一の支配と見るのです。そして、武力や政治力による支配を求め、その支配に神の臨在が見えないと、救い主は未だ来ていない、闇はいつまで続くのか、というのです。それに対してエレミヤは、自分が獄に入れられていても、神の御支配と御力は確かなのだ、と信じていたのです。ですから神から与えられた言葉を命を賭けて告げたのです。神の言葉、神の御計画が確かであることこそ、私たちに救いだ、生きていることの意味がある、と信じて語ったのです。神が語った約束の若枝が、御子イエス・キリストの誕生によって現されたのです。
今私たちは、その御子イエスの誕生を待つ、待降のときを迎えています。そして教会は今、既に御子が誕生して十字架につかれ復活して天に上げられていることを知っています。それで教会は、この待降の時、主イエスの再臨を待つ時としても守っています。
現在も地上の世界は人間と罪が支配しているように見えます。肉の目に見えるものが力あるように思われます。しかし見えない神が世界と歴史を確かに治めているのです。
初代教会はその神の御支配を確かに信じて力強く歩んだのです。ヤコブの手紙は、農夫が実りを待つようにして信仰生活をしなさい、と勧めています。農夫は神を信じて、希望をもって与えられた今なすべき務めに励みます。その時の大切な姿勢として「裁きを受けないように、互いに不平を言うな」と言っています。農夫も天候や虫、動物などに不平を言いたくなることがあるでしょう。人間生活でも他人に不平を言うことがあります。
しかしこの手紙は、神にあって与えられたものを受け入れ、短期を起こさず、忍耐して知恵と力を尽くして収穫を待つように、と勧めています。農夫はよい収穫を得るために日夜心配りをし、必要な世話や労苦をしています。ここに私たちの信仰生活の姿があるのです。神の御支配と約束は、イエスの誕生によって確かであることが示されているのです。
2010年11月21日
説教題:神の恵みに感謝する
聖書:申命記 8章11-18節 使徒言行録 14章8-18節
【説教】
今日ご飯食べてきましたか。昨日よく眠りましたか。私たちは今、お家があって食べる物があるのは当然として暮らしています。でも牧師先生が小学校の時には、戦争で、お家のない人食べる物のない人が日本中にいました。今はいい時代です。
人間の歴史では物のなかった時代が長かったのです。皆が力を合わせて働き、平和で、助け合ったから、今のように豊かな生活が出来るようになったのです。温室や人工的な設備や技術で物が作られ、運び保存されて私たちが手に出来ます。人間はすごいと思います。私たちは、前に生きて働いてきた人、今生きて働いている人に感謝したいと思います。
人間はすごいし、人間に感謝するのは当然ですが、聖書は人間よりも先ず神に感謝しなさいと言っています。申命記8:12-18を読むと、イスラエルの人が長い旅をして今の土地に落ち着いて家を建て食べる物が手に出来るようになった、そのことで神を忘れるな。自分たちの力と働きでこれらを手にできたと思うな。神の御心があってこれらの物が手にできているのだ、と訓告しています。
使徒言行録では、パウロが足の悪い人を歩けるようにしたので、人々がパウロを神さまだといって拝もうとした、とあります。医学や技術が進んで人間によって色々のことができるようになりました。でもその医学も技術も神さまから人間に与えられた力です。人間は、神さまから与えられた力を神の御心に従って用いることで実りある事ができるのです。
自然や人間だけを見ていて、神を忘れてはいけないのです。
パウロは、自分たちを「神様だ」と拝もうとする群集に、「自分も同じ人間だ。生ける真の神を知り、信じ、感謝して礼拝しなさい」と教えました。生ける真の神は、天と地と海と、その中にある全ての物を造り、雨を降らせ、実りの季節を与えて下さっているのです。
収穫物を与えて下さった中心にいるのは神です。今日は、先ず神に感謝をしましょう。
神に感謝する時私たちは、自分が沢山の収穫物を手にしたこと以上の感謝を思います。申命記も、神が命を与え導いて下さった恵みを忘れるな、と書いています。厳しい自然環境や天候不順などで収穫が僅かな時がありますが、その時にも神は恵みをもって導いて下さっているのです。その時神は人間として、神の民として訓練して下さっているのです。
先日チリーの鉱山で落盤事故があって地下に閉じ込められた人がいたこと知ってるかな。地上と連絡が取れなくなった人たちは食べる物をどうしたでしょう。地上と連絡が取れるまでの2週間、33人がそこにあった魚のフレークの缶詰を一日一人スプーン1,2杯づつ食べて生きた。そして神さまに感謝のお祈りをした、と報じられています。
厳しい自然や災害事故などを体験することも神の恵みなのです。その体験を実際にすることによって神の恵みの深さ大きさを知ることができると共に、ここにも神の恵みがある、この恵みを感謝して皆で分け合って生きよう、という導きを与えられるのです。神を信じ、愛の御心を知る時、手にしている物は僅かでも神に感謝する者となれるのです。
2010年11月14日
説教題:神を信じて歩む
聖書:創世記 18章 1-14節 ルカによる福音書 3章7-14節
【説教】
今情報をどこまで公開してよいのか、各方面で問題になっています。社会が開かれつつある時代だからで、以前は地域社会ではお互いに個人情報もよく知られていたのです。
ルカ福音書に、ローマがユダヤを治めていた時ガリラヤに領主ヘロデがいた、とありますが、そこの住民はユダヤ人以外の民もいて、地域社会の生活規範が混乱していました。そこで洗礼者ヨハネは、人々に悔い改めて神に立ち帰るように勧めました。
その勧めを聞いて洗礼を受けに来た人たちに、ヨハネは「蝮の子らよ。差し迫った神の怒りを免れると誰が教えたのか。悔い改めの実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』と考えるな」と言ったのです。ルカはこの人たちを「群衆」と記し、マタイは3:7で「ファリサイ派やサドカイ派の人々」と記しています。バリサイ派もサドカイ派も自分たちはアブラハムの子孫だから神の裁きを免れると言っていたのですが、実生活は神の言葉に聞かないでいたのです。ヨハネは「神はこの石からでもアブラハムの子を造ることが出来る」と、言って彼らの誤った信仰理解と生活を悔い改めるように強く勧めたのです。
アブラハムは信仰の父と言われています。そのことは今日の創世記にも記されていることです。アブラハムの子は信仰による子を意味するのです。ところが彼らは、アブラハムの子は血筋によると理解し、自分はアブラハムの子孫だと誇って自分の血筋や業を頼りに歩んでいたのです。それでヨハネは、「悔い改め神に立ち帰らなければ、あなたがたは大木であっても神に切り倒される、裁かれる」と言いました。
群集は「では、私たちはどうすればよいのですか」と、ヨハネに尋ねました。悔い改めの実を結ぶのにはどうしたらよいのか、と聞いたのです。パリサイ、サドカイ両派共に律法に従って悔い改めの儀式は忠実に行なっていたのです。ヨハネは「下着を二枚持っている人は、一枚も持っていない人に分け与えなさい」と答えました。多くの人は下着を二枚は持っているでしょう。一枚も持っていない人に思いを向けないでいるのではないでしょうか。ヨハネは、特別な人だけができる施しではなく、心があれば誰にでも出来ることを行いなさい。食べる物についても、特別な断食ではなく、ともに分かち合って生きなさい、と言ったのです。特別な善行や美談になることではないが、心からの愛の生き方をしなさい、と勧めているのです。
この生活を喜びと誇りをもって、神から与えられた道と受けとめて歩むことが出来るのは、神を信じてできることです。神を信じていないときには、自分が持っている物を誇るのです。物だけではない、血筋や身分、業績などを誇るのです。他の人と違うことを誇り、喜びとして生きるのです。神を失うと人は神に代るものを持つのです。
私たちは無力なのです。神から見捨てられたら命も何もないのです。しかし、神はご計画によって大切な者として私を今ここに生かし、用いて下さっているのです。だから、神に感謝して与えられた物を喜んで御心に添うように用いて生きるのです。
2010年11月7日
説教題:信じて眠っている人々
聖書:テサロニケの信徒への手紙一 4章13-18節
【説教】
今日は召天者記念礼拝です。昨年のこの礼拝後、この教会では岡阿弥敬子さんが新しく記念者に加わりました。
今日の聖書の箇所は、親しい者が死んだ嘆きと疑問の手紙に対する答え、と思われます。
「兄弟たち、既に眠りに付いた人たちについては、希望を持たないほか人たちのように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知って欲しい」と言っています。パウロは、信仰を持っている人でも、親しい者が死んだら嘆き悲しんでいい、と言っています。親しい者、愛する者が死んだら悲しむのは人間にとって当然のことです。親しい者が死んでも何も感じないというのは、人間の交わりや心と感情を失っていると言えます。
しかし、信仰を持っている者の嘆き悲しみは信仰のない人とは違う、あなたがたには希望がある、だから嘆きの中にも希望の光がある、と言っているのです。その希望は信仰による希望です。ですからパウロは、ぜひ次のことを知っておいて欲しい「イエスが死んで復活されたと、私たちは信じている」「神は、イエスを信じて眠りについた人たちも、イエスと一緒に導き出してくださる」と言っているのです。この信仰が大事なのです。
死を眠りと見ることは多くの社会でされています。今日の聖書も「眠っている人」と死者を呼んでいます。教会の中でも「永眠者」という言葉が使われています。しかし、聖書は「永遠」に眠り続けるのではない、終わりの時に目覚める、と言っています。「死んだように眠っている」という表現がありますが、永眠は命を失っている眠りで、死です。しかし一般の人は、「安らかにお眠りください」と追悼します。しかし再び目覚める命をもっての死は誰にでも与えられているのではありません。肉の人間の死は厳粛な罪人の死です。
「イエスが死んで復活された」と言っていて、「イエスが眠った」とは言っていません。イエスは十字架に死んだのです。私たち罪人の救いのためにイエスが十字架で死んだ、そのことを信じるのです。そこには悔い改めの信仰があり、古い人が死ぬ事実があるのです。今までの命がだらだらと、死んだ後も復活に於いても、続くのではありません。罪の命との明確な決別、裁きの死があるのです。イエスの死を信じることで、私たちの死に於いてもイエスが共にいてくださり、死の中にもイエス・キリストの命があるのです。夜眠っている時にも、昼と同じ神の愛の中にいる、と信じることができるのです。
死と復活を信じる。その信仰によって私たちは、イエスと一緒に、神によって命に導き出されるのです。その命と希望は、今肉の体で生きている私たちにも、信仰によって与えられているのです。17節に「このようにして、私たちはいつまでも主と共にいるのです」とあります。「主と共にいる」ことが重要なのです。死んだらお終いではないのです。命を持った歩みがあり、命を持った眠りがあるのです。18節で「ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい」と勧めています。嘆き悲しんでいる人に、「主が共にいてくださる」、という信仰の言葉によって慰め、希望に生きるように励ますのです。
2010年10月31日
説教題:神の言葉が人を生かす
聖書:イザヤ書 6章1-7節 ローマの信徒への手紙 1章16-17節
【説教】
今日10月31日は、1517年のこの日にルターが95か条の問題提示をした宗教改革記念日です。今この教会では芝山集会でルターの「キリスト者の自由」を読んでいます。
ルターの95か条の第一の問題提示はこのような文です。
「私たちの主であり、教師である主イエス・キリストが『悔い改めよ』と言われた時、彼は信者の全生涯が悔い改めであることを望み給うたのである」。
この問題提示と共に、討論のために、問題の解説と自分の主張を次のように書いています。
1、「悔い改め」は心の向きを変えること、転回することである。今まで地上に向っていた心を、今は天に向けて生きよ、と言っているのである。今まで、地上の命、地上の世界に心を向け、その尺度で価値判断し、人を見ていた。しかし主は、今からは天の尺度で物事を見、評価するように、人を見るように望んでいるのである。
2、主は文字の教師ではなく、霊と命の教師である。だから主の言葉は霊と真理を持って行なわれることを教えている。断食や祈り、施しなど、偽善者が行なっている上辺だけの悔い改めを行なえと教えているのではない。あらゆる生活の仕方で、全ての人がその境遇に於いて、キリストの教えに適合する悔い改めをするように教えているのである。
3、私たちは全生涯を通じて「私たちの負い目を赦してください」と祈らなければならない。全生涯自分自身の悔い改めを行い、自分自身を嫌う。なぜなら、私たちが祈るように命ぜられているのは、赦されることがなければ、私たちは救われることがないからである。
ルターは21歳の時に死の恐怖から修道院に入りました。この時ルターは「いかにして、恵みの神を獲得できるか」を問題にし、そのために努力しました。しかし、救いを獲得することは出来ず、義の神と罪人の自分との大きな距離を強く知りようになりました。
アウグスチヌスを読んでいたルターは、「神の義とは、神がこれを人に与えることにより義なる者を造りたもうところのものをいう。同様に、主の救いとは、救われた者をそれによって造りたもうものである」、また「それは行いから出てくる人間の義とは区別して『神の義』と言われる」とあるのを読んで、ローマ1:16,17を新しく読み、理解したのです。
16「私は福音を恥としない。福音は、信じる者すべてに救をもたらす神の力である」。この世では、自分の力で堂々と獲得することが相応しいので、神の恵みとして与えられることは恥ずかしいことです。しかし、救いは自分の力では得られない、御言葉が、福音が全ての人を救う神の力である。この福音を持っている人は、たとえ他の人から愚かだ、弱い者だと言われても、神の前では、神から見れば、強く賢い人だ。福音は、神の力、創造する力、命の力で、地上の力や人間の力とは違う。そして、福音は人間を新しく造り、命を与え、生きる力を与え、神の御心を行う者にする。このことを知り、確信したのです。
ルターは、自分に義がある、自分の言葉に聞き従うところに救いがある、義と命は自分の力で獲得するものだ、といっていた生き方を改革したのです。これは現在でも新鮮です。
2010年10月24日
説教題:造り主と私たち
聖書:ルカによる福音書 12章1-7節
【説教】
子どもを虐待する報道が最近多く見られます。虐待している方にはその理由があるようですが、子どもが健全に育つのには、厳しい躾けよりも、未熟な子どもを包む親の愛と忍耐が大事でしょう。それは、造り主である神からこの子が与えられて親として今生かされていることを感謝して受け留め、神の真理の下で人間の成長を見、人間の世界と歴史の秩序の中で現在を見て行動する、ということです。
ルカ12:1でイエスは「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」と言っています。ファリサイ派の人々は、自分たちは律法を知っているし、守っている、お前たちは未だ十分でない、「これをしなくてはいけない」と厳しく命令しているのですが、人を生かす愛がなかったのです。それでイエスは、見えない愛を失って、見える行為だけを問題にしている彼らを「偽善」、と言っているのです。
パン種は、古いパン生地の残り物で、新しいパン生地に少し入れると生地全体に広がって全体を膨らませ味のあるパンにするのです。ファリサイ派の人々はモーセから伝えられて来た神からの律法を古い形式的なものにして受け伝えているのです。しかし今新しいパン種が人々に与えられている。イエスはそのように言っているのです。
そのパン種は真の命の糧を与えるパンにあるのです。命のパンはイエス・キリストで、神の愛です。神の愛によって私たちは生かされるのです。イエスは、言葉で神の道を語るだけでなく、十字架を通して身をもって神の愛を現し、罪人である私たちの罪を贖って私たちを生きる者にしてくださったのです。
12:4以下でイエスは、今見える世界で人を殺す力を持っている者がいる、この世の力がそれである。しかしそのような人や力を恐れるな、この見える世界を超えて尚力を持っている方を、神を恐れなさい、と言っています。神の御支配の中にいることが大事なことです。私たちは生きて行く時に今目に見えるもので判断し、評価してしまうことがあります。幼子を虐待することもそこから来るのです。神の御支配の中で幼子を見、親の自分を自覚する時、大人とは別の基準と尺度で幼子の言動を受け入れることが出来るのです。
5節以下では、神を恐れるように勧めています。神は私たちの髪の毛一本さえも価値のある大切な物として、覚え心にかけて下さっているのです。幼子に象徴的に見られるように、私たち人間には神を忘れて自分中心になってしまう罪があります。幼子は愛の中で正しく育てられて神にあっての自分を知る成熟した大人になるのです。私たちはイエスの十字架の愛によって新しく生かされることによって、神の民に相応しい愛の人になるのです。
外から虐待のように強いられても、イエスによって造り主と自分との関係を知るのでなければ、神の前に正しい道を見いだすことは出来ないのです。御子にあって正しい神との関係を知る時、私たちは小さい者で苦しく辛い歩みをしていても、神が愛し覚えて下さっていることで、価値ある者として、喜びと誇りを持って力強く生きることが出来るのです。
2010年10月17日
説教題:なんと幸いな人々か
聖書:マタイによる福音書 5章1-12節
【説教】
教団の教会暦では今日が年の終わりの主日です。終末と聞いて何を思うでしょうか。人生の終わり。今までの歩みが何であったかを思うのではないでしょうか。
今日の聖書で主イエスは、ご自分に近寄って話を聞いている人に、神の子の権威を持って語っています、「心の貧しい人は幸いである」と。これは「幸いなるかな、心の貧しき者」とも訳されています。「幸いだ」「幸いな人々だ」という言葉が一番先にきていて強調されているのです。3節から10節までの分は皆同じ「幸いだ」で始まっているのです。
続いて「心の貧しい人々は」と言っています。「貧しい」は、「欠乏し、困窮していて命の糧を求めている」という言葉です。何も無いというよりも、乞食になっている、命の糧を求めている、という意味が強い言葉です。心貧しくて何も無くても、これでいいと人生を諦め、投げやりになって特に求めることをしない人がいます。しかし、心を真実に生かす糧が無い、欲しいと切実に求めている、その人は幸いだ、とイエスは言っているのです。
「なぜならば、天の国はその人たちのものだから」と、主イエスは幸いである理由をはっきりと述べています。3節から10節まで全て同じ型で語っています。今主イエスの所に来て、イエスが語っているこの言葉を聴いている人々に告げているのです。あなたがたは実に幸いだ、と。
この「幸い」は、裕福になる、立身出世する、この世的な喜びがある、だから幸いだ、というのではありません。この「幸い」ほ「神の祝福がある」「神からの幸いがある」という言葉です。心が貧しくて命の糧を切実に求めて私の所に来て私の言葉を聞いている、だから幸いだ、なぜなら、天の国を自分のものにしている、心に神の言葉が宿っている、心を神の言葉が支配している、だから幸いだ、神の祝福が与えられている。と主イエスは御子の権威をもって告げているのです。これほどすばらしい人生があるでしょうか。イエスの所に来て御言葉を聞いている人には、その幸いがあるのです。
次に「悲しむ人々は幸いである」とあります。この悲しむ人は色々な人が考えられますが、イエスの所に来ている人なので、神に背いている悲しみ、罪人である自分を悲しんでいる人、と見てよいのではないかと思います。その悲しみの人は、イエスの言葉によって、罪赦され義とされただけでなく、神がいつも傍らにいて慰めてくださることを知るのです。なんと幸いなことでしょう。
「柔和な人」は、頑なでない人、自己主張に固執しない人、素直な人、相手にやさしく思いや行動を合わせる人です。この柔和な人の代表は主イエスです。柔和な人は、イエスの言葉を聞いて受け入れイエスと一つになる人です。この人は「地を受け継ぐ」、神が約束されて神の民に与えるとされている地が持っている幸いの全てを受け継ぐのです。
ここに語られている幸いは全て終末の将来に与えられるものですが、主イエスの言葉を聴いて礼拝を捧げている私たちは、現在既にこの幸いを神から与えられているのです。
2010年10月3日
説教題:救いの道を拓く
聖書:出エジプト記 32章7-14節 マルコによる福音書 14章43-52節
【説教】
先日、ユダヤ人数人がガザに医療品等を運び込もうとしてイスラエル軍に妨げられ連行されました。そのユダヤ人たちは「イスラエル人が皆、ガザの封鎖に賛成しているのではない。パレスチナの人たちと平和に生きていきたいと思っている人がいることを知ってもらいたい。そのための行動だ」と話しています。この行動は、世界が道を失って混乱しているけれども救いの道があることを、私たちに示していると思われます。
出エジプトには、モーセが山で神の言葉を聞いている時に、民はモーセが下りてくるのが待ちきれないで金の子牛を造り、それを神として礼拝した、とあります。地上の世界では神の姿が見えない、神のご臨在とその導きが分からない。そこで人々は今この時、自分たちを導いてくれる神が欲しい、となるのです。それでアロンに要求して偶像を造ったのです。歴史の中にこのようなことが常に行われています。現在もあります。
今日のマルコには、十二弟子の一人ユダがイエスを裏切って祭司長たちに渡したことが記されています。ユダは、イエスに選ばれた弟子ですが、心の深い所に自分の判断基準や尺度を持っていて、イエスに従いきれなかったのです。ユダは、自分の判断基準や尺度が自分中心ではなく、自分が生まれ育った地域社会や時代によるもので客観的に正しい、と確信を持っていたのでしょう。だから、イエスを売り渡したのです。
このユダを、弟子たちは自分たちの仲間であったと語り伝え、教会も十二弟子の一人であったと福音書に記しているのです。福音は喜びの知らせです。ユダが十二弟子の一人だったことが喜びになるのでしょうか。説教題「救いの道を拓く」の「拓く」は、辞書によると「障害物を取り除いて広げて行くこと」、とあります。私たちが救いの道を見つけるのに、また歩んで行くのに、障害物になるのは罪です。この障害物はこの世の力や環境など大きな石のように存在しています、また外から罪の力が私たちを支配し、縛っています。しかし、一番の障害物は自分の中にある罪です。この罪の存在を知り、認め、取り除くことなしに救いの道に入ることも、歩んで行くこともできないのです。
ユダは、イエスを十字架に引き渡すと弟子たちの中から消え去りました。主の復活後には、ユダに代って復活の証し人が選出されました。教会にはユダはいないのです。ユダは私たちの中に罪が宿っていることを常に自覚させる存在です。そして、十字架と復活の主を見る時、今はユダはいない、ユダは十字架によって消え去った、今は復活の命によって新しく生かされている、と救いの道を歩んで行く確信を与えられるのです。
罪が支配しているこの世界、罪に支配されている私たち人間。この世界に、私たち人間の中に御子イエスが救い主として来て下さって、十字架によって罪を、救いの障害物である罪を取り除いてくださったのです。イエスの十字架によって救いの道は拓かれたのです。その救いの道を歩み、救いの道があるとこの世に示しているのが教会であり、キリスト者です。その存在と歩みは世界と歴史の中で重要なものです。