14年10月-15年03月

2015年3月29日

説教題:私の霊を御手に委ねます

聖書:創世記 22章6-18節 ルカによる福音書 23章44-49節

御子イエスは、私たち肉の人間を、それ故に神に背いてしまう罪人を救うために肉の人間になって歩まれました。その歩みは、自分の力を存分に発揮して人々に示す歩みではなく、肉の己を虚しくして、十字架の死に至るまで謙遜に神の御心に従う歩みでした。

その歩みがイエスを主と信じて歩む私たちの歩みの導きでもあります。

しかし、主イエスは神の子で私たちとは違います。イエスは私たち罪人の罪を贖って救うために遣わされたお方ですから、十字架上で「父よ、彼らの罪をお許しください」と祈り、「父よ、私の霊を御手に委ねます」と大声で叫びました。神を「父よ」と呼ぶことができるのは御子だけです。この御子の歩みを見、十字架上の祈りと叫びを聞く時、御子がどのように神を信じ委ねて謙遜に従ったかを知ります。そして私たちが如何に高慢で自分の知恵と力に頼り、それが何か力あるように錯覚していたことを、そして思い違いをしているのに平然として自分を誇っていたことを思わされます。そのことを知る時、私たちは唯悔い改めるだけです。その悔い改めを神は御子によって聞いてくださいます。

神の御心は造られたものが神の栄光を現すことにあります。主イエスは、神の御心に従って歩み抜かれた後、十字架上で「父よ、私の霊を御手に委ねます」と大声で叫んで息を引き取られました。この言葉は詩編31:6にあります。死の苦しみの中にある人が神に助けを叫び求め、神に聞かれていることを喜び賛美している言葉です。この言葉をイエスは父なる神に御子として、私は御心に従って歩み、今御心が成ることを信じ私の全てを御手に委ねます、と父と自分の心と歩みが一つである確信を持って、「罪は贖われた。御心は成し遂げられた。サタンと死に勝利した」と叫んでいるのです。罪に勝利した喜びの叫びです。

主イエスの十字架の死は、この世の力に負けた敗北の十字架ではありません。罪と死に苦しんでいる世の人を救う十字架、神のみ旨が成った勝利の十字架です。

ヨハネ福音書によると、主イエスは十字架につれる前弟子たちに「あなた方は世にあっては苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」と告げています。この言葉は私たちに対して告げられている言葉でもあります。十字架の主に従って歩んでいる私たちには苦難があります。主の弟子の道は快楽の道ではありません。主イエスに倣って、神から与えられている使命と責任を負って、それを果たす道です。その道は、苦難がありますが、神の栄光に結びついている道で、意味ある命の道です。そして、その苦難の道を主が導き支えてくださるので、勝利の道として歩むことができるのです。

そのように私たちが主の勝利を自分のものとできるのは、十字架の主によって自分の罪を知り告白して、心から罪の赦しを祈り求めることによってです。イエスの十字架を知り、御言葉を聞いても、自分の罪を認めず悔い改めないでイエスをののしるなら、イエスの十字架の勝利は何の意味も力もありません。「父よ、私の霊を御手に委ねます」と神のご計画と御業の勝利を確信して叫ばれた出来事は、信仰持って受け止めるとき、救いの出来事になるのです。そして私たちはその主を信じて勝利の歩みができるのです。

創世記22:1-14のアブラハムは、信仰者の父として私たちに信仰者のあり方、生き方を示しています。アブラハム親子は神を信じて、全てを神に委ねて歩みました。委ねきった時、神は贖いの羊を用意して親子の命を救い、神の民の祝福が約束されていることを示されました。神を信じ委ねて歩む歩みは一人孤独ではなく、親子、家族、民の歩みとなるのです。

十字架の主を信じ、主に従って、全てを御手に委ねて勝利の歩みをしたいと思います。

2015年3月22日

説教題:イエスの祈りと私たち

聖書:イザヤ書 45章20-25節 ルカによる福音書 23章32-43節

御子イエスは他の犯罪人と一緒に、罪人として十字架にかけられました。これは、全能で父なる神の深い御心なしには起こり得ないことです。そして、御子の父なる神に対する信頼と従順があって成り立つことです。

三つの十字架は、同じ犯罪人の十字架として立っています。しかし、他の二人はこの世的にも、神の前でも犯罪人ですから十字架刑は正当ですが、イエスは罪を犯していないので十字架刑は不当です。不当な十字架刑を神がイエスに与え、その刑をイエスが受入れているのです。御子イエスは十字架に架けられると、この刑は不当だと抵抗するのではなく、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているか知らないのです」と言いました。これは、父なる神に対しての祈りで願いです。「彼ら」は、今自分を十字架につけている関係者だけでなく、自分を神の子と認めない人々、神の御心に背いて歩んでいる全ての罪人を指しています。イエスは、肉の人間イエスの大きな愛の心で神にお願いしているのではなく、神の子として彼らのために十字架上で執り成しの祈りをされているのです。

多くの人は、神を知らないので自分が神に罪を犯しているとは思っていません。しかし深く考える人は、造り主で義なる神を思い、自分は神の前に正しくあるかを思うのではないでしょうか。神によって今ここに生かされている私たちは、神と正しい関係を持つことで、神との間に平和を得、平安で意味ある命に生きることが出来るのです。ところが人間は、神に逆らい神を無視して、自分の世界に自分の力で生きようとしています。その人間が神と正しく交わって生きるために、神は御子を与えてくださったのです。御子イエスは、自分を十字架につける人々を前に「父よ、彼らをお赦し下さい」と祈りました。この祈りを父なる神は聞いてくださいます。神は、神と私たちの橋渡しとして御子イエスを与えてくださり、御子イエスは橋渡しの務め、実を結ぶ執り成しをしてくださったのです。それによって私たちは罪人であったのにイエスによって神との交わりが与えられているのです。

イエスは全ての人間が救われるために神に赦しの祈りをされましたが、「自分が何をしているのか知らないのです」と言っています。「知らないで罪を犯している」とは、幼な子でも罪を犯している、生まれながらの人間は皆罪を犯している、ということです。幼な子で知らないで犯しても罪は罪です。犯した罪に対して責任があります。その罪の責任は、罪と知っている人、幼な子は親が代わって負って赦しを得ることになります。罪を知り、正しく赦しを求めることによって、赦しが与えられます。「知らないで罪を犯している」は、罪を赦していただく唯一の理由で、罪を知ったらその責任の償いをしなければなりません。

イエスと一緒に十字架につけられた犯罪人の一人は、イエスを見、祈りの言葉を聞いても神の前の自分に思いを向けないで「お前はメシアではないか、自分自身と我々を救ってみろ」といいました。これが多くの人間が口にする言葉です。この犯罪人は救いの言葉を受入れないで、滅びの道を歩んでいます。もう一人の犯罪人は、この犯罪人に対して「お前は神を恐れないのか」と自分たちは神の前にいるとたしなめ、自分の罪を神の前に告白し、イエスに自分も救いの中に覚えてくださいと願いをしました。イエスはこの犯罪人に「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」といいました。

イエスの十字架と執り成しの祈りは全ての人を救う力を持っています。しかし、その救いの力が有効に働くのには、罪の自覚と悔い改め、そして救いを求めるイエスへの祈りが必要です。私たちが罪を知って悔い改めるのに遅過ぎることはありません。

2015年3月15日

説教題:十字架を負わされて歩む

聖書:イザヤ書 53章3-8節 ルカによる福音書 23章26-31節

主イエスはローマの総督ピラトによって、祭司長や群集たちが要求している十字架刑の判決を受けました。私たち肉の人間の罪が神の子を十字架刑にしたのです。

イエスは十字架刑が決まると、処刑場に引かれて行きました。十字架刑の者は自分が架けられる十字架の木を背負わされました。夜通し裁きを受け疲れていたのでイエスの歩みが遅くなり、倒れることがあったと思われます。ここにもイエスの十字架の重荷、苦しみ、痛みが示されています。この時、そこにイエスを助ける人はいませんでした。

そこにシモンという人が通りかかりました。人間的に見たら偶然のことでも、十字架は神のご計画の中にあります。人々はシモンを捕まえて無理やりにイエスの十字架を負わせました。シモンは、自分の罪によって十字架を負わされたのではありません。自分の罪や意思と関係なくイエスの十字架を負わされて歩むことになったのです。神は、この時イエスと何の関係もなかったシモンをイエスに結びつけ、御業に用いたのです。それによってシモンは、人の罪を負って歩むイエスと同じ道を歩む者になりました。シモンには自分が行こうとしていた道と目的地があったでしょう。しかしシモンは捕らえられ、十字架を負わされてイエスの後を歩むことになって、自分の道と目的を捨て、神が備えた道を歩み、神が用意している目的に向かって、永遠の命の希望に向かって歩むことになりました。

教会はこのシモンにキリスト者の代表的な姿を見ています。ルターは、シモンは私たちキリスト者と少しも違わない、と言っています。イエスが「自分の十字架を負って、私に従いなさい」と言っているのは、自分の思いや弱さによる重荷、自分が生きるための重荷ではありません。キリスト者がキリスト者であるゆえに負う十字架は、自分に由来したもの、自分が選んだものでなく、神によって与えあられ、負わされるものです。この十字架を負うことはシモンにも重荷で苦痛だったでしょう。しかし、疲れ果てながらも十字架を負って歩む背を見ながらイエスの後を歩むことで、シモンはイエスの姿と歩みに自分の罪を知らされ、この十字架を負って歩んでいる私は孤独ではない、イエスと共に神からの道を歩んでいるのだ、イエスが私を導いてくださっている、という慰めと励ましを与えられながら歩んだでしょう。シモンは、イエスが自分の先を歩み、自分を導き励ましてくださっているので、重荷に耐え、辛い歩みでもしっかり歩むことができました。

イエスの十字架と歩みは人々の罪の贖いとなりました。シモンの歩みは、自分の罪を贖うこともできませんが、イエスに従い同じ道を歩むことで神のご計画と栄光に連りました。

この時、十字架を負って歩むイエスを見て「かわいそうに、辛いでしょう」と嘆き、悲しむ婦人たちが群れとなってイエスに従って歩みました。自分と関係ないけれど、その姿を見たら同情しないではいられない、ということです。教会の中にも、イエスの十字架の苦しみをこの婦人たちのように見ている人がいます。しかし、イエスの十字架は彼女らの罪の贖いのためなのです。預言者が語るメシアもこのイエスです。メシア預言をどのように読み、聞いているかが問われます。自分たちの罪を贖うための十字架を負って歩むイエスを同情心で見ている婦人たちに、イエスは「自分の罪に気付き、自分は罪人だと知れ。そして嘆け」と言っています。この言葉は、今の教会に対しても言われています。

私たちはレントのこの時、十字架のイエスに同情するのではなく、礼拝で十字架のイエスに出会い、十字架を負ってイエスに従って歩む思いを新たにしたいと思います。その時空しさと闇の道が光の道になり、苦難と嘆きの歩みが慰めと喜びの歩みになるのです。

2015年3月8日

説教「神の救いのご計画」

イザヤ書 53章11-12節 ルカによる福音書 22章47-53節

主イエスは地上を自由に歩んでいました。誰かに仕える、社会的な責任を負っている、という縛られた身ではありませんでした。ご自分の意思と決断で行動できる自由人でした。

自由の身である主イエスが、十字架への道を自ら受入れて、これが自分の歩む道であると歩んだのです。そこに救い主イエスの道と歩みがあります。レントの時そのことを思い、私たちがどう歩むべきかを考えたいと思います。

主イエスはご自分に何が起こるかをご存知で、「いつものようにオリーブ山に」「いつもの場所に」行きました。その時、その所で自分が自由を失うことを知っていて、そこに行きました。イエスは、逃げる事も避ける事も出来たのに、捕らえられる所に行ったのです。

そこにユダを先頭に群集が現れました。ルカは22:3で、サタンがユダに入った、と書いています。人間は自分の内にサタンが入る隙を持っています。十二弟子で、いつもイエスと一緒に居たユダにサタンが入ったのです。ユダの隙が何であったか、他人事として詮索するのではなく、我が身はどうか思わされます。イエスに近づいて接吻したのですから、イエスに好意を持っていて、親しく交わる心があったのです。ユダの内に「イエス様、メシアとしての力をはっきり示し、行動を起こしてください」との思いがあり、そこにサタンが入ったのでしょうか。イエスを窮地に追い込んだら力を現すだろうと考えて、祭司たちの手にイエスを渡したと考える人がいます。そうだとしたらユダは、自分はイエスと一緒に居てイエスをよく知っている、メシアであるイエスのために自分の役割を果たそうと考えて行動した、がその考えは自分勝手の誤った考えだとは分からなかったとなります。

ユダだけでなく、十二弟子は皆イエスのメシア像を誤解していました。イエスが十字架と復活を予告された時、弟子たちは誰もイエスが語る救い主を理解できませでした。私たちは主の十字架に出会うまで自分が考えている肉的な救い主観から自由になれないのです。

イエスは22:42で「私の願いではなく、御心のままに行ってください」と祈り、決断をされました。この時までイエスご自身にも肉の人間の思いが宿っていたのです。それで弟子たちの無理解に対しても寛容でした、ユダの接吻も拒否しないで受けられました。それで、その接吻を合図にユダに先導された群衆がイエスを捕らえました。

22:47,54に群集がイエスを捕らえたとありますが、群集は固有名詞を持たない、自分の判断と責任を失っている人々です。22:2,6では、祭司長たちは群集を恐れています。昼間明るい光の下では群集もそれなりに神の愛と義によって判断し行動します。しかし、夜や闇の中では群集は闇の力、サタンの力によって行動します。神に背く悪を行う人は、夜の闇を頼りに悪い思いを遂げようとします。22:49の「イエスの周りにいた人々」は弟子たちですが、イエスが捕らえられるのを見て阻止しようとしました。しかしイエスは、ご自分が捕らえられるのを阻止しないでよいと言われ、自分を捕らえようとしている者に「今はあなたたちの時、闇が力を振るっている」と言いました。

弟子たちはイエスを見捨てて逃げました。この時、主イエスは弟子たちを見捨てたのではありません。弟子たちを愛し救うために、今ご自分から離れるようにされているのです。イエスと一緒に弟子たちが捕らえられないためであった、と思われます。イエスは全ての人を救うために世に来て、十字架につかれました。もし弟子たちがイエスと一緒に裁かれたら、神の裁きを受けるのですから弟子たちは滅びる者とされてしまうでしょう。

神の救いのご計画は、イエスがそれを受け入れ、決断して実行されて、実現したのです。

2015年3月1日

説教題:永遠の大祭司イエス

創世記 14章17-20節 ヘブライ人への手紙 7章20-28節

人間の救いはお金でも、長生きでもありません。神の愛の許に生きることです。「あー私は救われた」と叫んで喜ぶのは、行き詰っている時に壁が除かれて道が開けた、ということでしょう。しかし自由に生きるだけでは本当の救いにはなりません。それは動物的救いです。動物は神を知りません。死んだら終りと希望を持たず刹那的に今を生きています。

聖書は、神が天地の造り主で、歴史の主、完成者であるから、神の愛の許に生きること、神のご計画と完成への業に結びついて生きることが救いである、と教えています。

ヘブライ人への手紙は、迫害の中にいるキリスト者に、御子イエスによって神と結び付けられているのでイエスを信じて希望を失わずに生きよ、と勧め、励ましています。

神に背いている罪人の人間が神と交わり結びつきを持つために、神はご自分の民を選び、律法によって交わりの道を用意してくださいました。しかし、7:19にあるように、祭司は神と人間との交わりを成り立たせる仲介者の立場に居て、仲介の働きをしますが、律法による祭司は肉の人間なのでその立場も働きも次々と代替わりして継続しなければならない暫定的で頼りないものです。

そこで7:21,24で、神は律法による祭司とは別に、イエスを神が誓って永遠の祭司に任命した、イエスは神に任命された永遠の祭司である、と言っています。十字架に死んで復活し、天に昇り神の右にいるイエスは、創造の始めから世の終わりまで、永遠に神と共にいて私たちのために執り成し、仲立ちをしてくださっているのです。その執り成しは十字架の死によるものなので、地上にいる罪人の人間を神に結びつける確かな力があります。

救い主イエスの重要な身分と働きは、王、預言者、祭司の三職です。多くの人はイエスの祭司職に余り関心が無いかも知れません。それは神との交わり、神の許に赦されて生きることに関心が薄いからです。しかし祭司イエスによって神との交わりが与えられ、神にあって生きる者にされていることは、非常に重要なことで、そこに救いの中心があります。

この手紙は初めからイエスがどんなに優れた祭司であるかを語っています。4:14,16では「私たちにはもろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているので」「大胆に恵みの座に近づこう」と言っています。祭司は、神と人間の間の橋の存在で、仲立ちの働きをしますが、イエスは神と人間の両方に確かな足場を持っている橋で、両者に力を持って仲立ちの働きができる方です。イエスを主と信じて神に近づく者は、「私は罪人で、弱い人間でだめだ」と思う時にも、「神の憐れみを受け、恵みに与って、時宜に適った助けをいただく」ことができます。10:19以下も、イエスの十字架を信じて、真心から希望を持って神に近づこう、と勧めています。7:19に「最も優れた希望」とある「希望」は神との交わりに生きることです。完全な救いは、真心から礼拝できる生活です。

祭司で重要なことは、その祭司を神が認めていることです。肉の祭司も神が認めていましたが、肉の人間には罪があり死があるのでその存在も働きも限られていました。それに対してイエスは、神の子で罪がなく神が認めている永遠の大祭司です。歴史の中でメルキゼデクが神に任命された祭司で、レビ系統の祭司を生んだアブラハムを祝福しています。イエスはそのメルキゼデクと同じ神に属する祭司である、とこの手紙は強調しています。

大祭司イエスは、資格も働きも、人間を神に完全に結びつけることができる祭司です。このイエスによって神に近づく者、祈り、礼拝する者は神との交わりが与えられ、神の愛に包まれて生きることができます。それが本当の救いです。

2015年2月22日

説教題:死と復活を予告する

聖書:ヨブ記 63章7-14節 ルカによる福音書 18章31-34節

先週の水曜日から受難節です。教会はイエスの死と復活を覚えて歩んでいます。イエスは十字架の死と復活を三度弟子たちに予告されました。そのことが神のご計画で人々の救いに重要なことである、と共に、イエスの弟子たちに重要な意味を持っているからです。

主イエスは「今私たちはエルサレムに行く」と語り出していますが、この時までにイエスと弟子たちは何回かエルサレムに行っています。それなのにイエスがこのように語り出しているのは、ご自分の死の時が迫っていることを思っているからです。イエスは、今苦しみを受けて殺されるためにエルサレムに向かっている、と緊張感を持って弟子たちに語っています。「人の子について預言者が書いたことは皆実現する」と続いて語っています。

預言者が書いているのはメシアのことです。イエスが死と復活の予告を一度目にしたのは、ペトロが「イエスはメシアです」と信仰告白をした時で、自分は苦しみを受けて殺されるメシアである、と告げました。二度目は、人々がイエスの癒しの業に驚いていた時、人の子は人々に引き渡される、と告げました。二度の予告は共に、イエスをメシアとして誤って理解している弟子たちに、メシアであるイエスを正しく理解するように告げています。ところが弟子たちは二度とも、イエスの言葉が理解できなかった、と聖書は書いています。神からの救い主が苦しみを受けて殺されるということはあってはいけないこと、と言ったペトロの思い、神からの救い主は栄光の座に着く力あるお方である、と思う弟子、これは弟子たち皆の思いでした。同じ思いを私たちも持っているのではないでしょうか。

三度目の予告でイエスは、神からの救いはイエスによって実現する、と預言者たちが書いている。神のご計画は全ての罪人を救おうというご計画である。それ故十字架の死と復活がご計画の中心にあり、ご自分がその預言者たちによって示され予告されている救い主である。と、その救い主であるとの自覚を持って備えられた道を歩んでいるとの確信をもって、言っています。イエスの業も歩みも十字架と復活を示し、目指しています。

イエスは今、死が迫っている時、十二弟子を呼んで丁寧に死と復活を予告されました。ところが18:34には「12人はこれらのことが何も分からなかった。彼らに言葉の意味が隠されていたから」と書いてあります。私たち肉の人間に分かることは、目の前の見えることだけです。神のご計画は話だけでは分かりません。一緒に生活していた弟子たちでさえ、三度も予告を聞いているのに分からないのです。このことは私たちが謙遜になって御言葉を学ぶことが必要であることを、改めて思わせます。

私たちの信仰生活は、キリストが分からない、知りたいです教えてください、というところから始まるのです。「隠されていて分からない」ことは、必ず明らかにされて分かる時が来る、ということです。覆いが取り除かれて、隠されていたことが分かるのです。イエスに救いがあると信じてイエスから離れず、イエスを心に宿していた弟子たちに復活のイエスが語りかけてくださいました。復活のイエスがパンを裂いて渡されたとき弟子たちの目が開いてイエスが分かった、イエスが語る言葉が理解できた、と福音書は書いています。

私たちは、私たちの罪のために死んでくださったイエスが、私たちを罪なき者にしてくださり、神の愛と恵みの中に新しく生きるように復活された、そのことが教会の礼拝でイエスに出会うことによって全体的に分かるのです。その時、罪の自覚を深くすると同時に、罪赦されて新しく生かされている喜びを味わい知ることができるのです。

教会は、イエスの体で、死と復活のイエスを記念して歩んでいる、と共に、神の救いのご計画と実現を語り、証ししているのです。

2015年2月15日

説教題:悪霊との戦い

聖書:ヨブ記 1章6-12節 ルカによる福音書 11章14-26節

聖書が「悪霊」と呼んでいるのは人間に取り憑いて人間を支配する神的な力です。人々はこの霊に取り憑かれて病気など悪い状態になると信じていました。口の利けなくなっていた人が、イエスが悪霊を追い出されたので、口が利けるようになりました。11:15に「悪霊の頭はベルゼブル」とあり、11:18では「ベルゼブルはサタンの仲間」と言っているので、ベルゼブルはサタンの国で強大な力を持っているといえます。 同じ神的な力を持っている霊でも、神の霊以外は、悪霊、サタンの仲間で苦しみや悩みをもたらすものです。

ヨブ記1:6-12では、神がサタンの存在と働きを認めています。聖書は、サタンからの苦しみは神が認めているので絶対的な悪ではない、神への信仰を強く確かにするものである、と言っています。パウロも「サタンからの棘が私を強くする」と言っています。

幼い子は注射や医者を嫌います。厳しい教育も嫌がります。痛い苦しいことは悪霊によるので避けたいと思うのです。でも親が認めているなら痛く苦しいことでも受入れて耐えます。イエスは、空腹の時サタンから神の子なら石をパンにしたらよいではないかと言われたのに対して、「私は神の言葉によって生きる」と答えました。しかし肉の人間は、親の愛から離れて善悪や幸不幸を選んで、サタンの声を神の声と聞くこともあるでしょう。

口の利けなかった人がイエスによって口が利けるようになると、群衆は驚嘆しました。イエスが神的な力を持った悪霊を追い出したからです。ところが中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」という人や、イエスが神からのメシアならメシアであるしるしを別に示せという人がいました。この時も、特に権力や身分を誇りにしている人たちが、自分の立場や権限を守り世の秩序を保持するという意識もあって、イエスがなさったことを批判的に見ていました。

彼らの心をイエスは見抜いて、「内輪争いをしたら国も家も荒れ果ててしまう。責任ある者は内輪争いなどしない」、また「あなたたちの仲間も病気を癒しているが、それは何の力によってなのか。この癒しをしたことで私を裁くなら、同じ言葉が自分たちの仲間を裁くことになる」と彼らを批判し問題点を指摘しました。そして「しかし、私は神の指神の力で、悪霊を追い出している。神の国が私と共にここに来ている」と告げました。イエスの業を正しく見るには、そこに神の業がなされているのを見る目、信仰が必要です。

イエスは続いて「強い人が国を守っている時はその国は安全だが、もっと強い者が来たら強い者がすべてを奪い取ってしまう。だから、この世的に強い力で守っている、守られている、といっても安全だということはない」と言いました。人間が私は超人的な力を持っていると言っても、そのような力は頼りになるものではありません。「私は神の指で悪霊を追い出している。私と共に神の国が来ている。私に味方して、神の国に私と共に生きる者になりなさい。私に味方しない者は私に敵対する者になる。」とイエスは言いました。

イエスは今も悪霊と戦っています。私たちは神のご支配がこの世に確立し、神の愛と恵みの幸いに生きるように、イエスの味方になって悪霊と戦うのです。

肉の人間は、神に背く霊が宿っているので、快楽や立身出世を喜び、重荷を負うこと苦しむことを不幸と受け止めてしまう。だから、汚れた霊をイエスに追い出してもらって心が清くされても、そこに神の霊を宿さなかったら、汚れた霊が仲間を呼んで住み着いて以前よりも悪くなる。イエスと一緒に悪霊と戦い続けなさい。悪霊を追い出し続けなさい。とイエスは続けて言っています。このイエスと共に戦うのが私たちの信仰生活です。

2015年2月8日

説教題:神の恵みと憐みの広さ

聖書:創世記 17章1-6節 ルカによる福音書 13章6-17節

今日の聖書には6-9と10-17に別の話が記されています。

6-9ではイエスがたとえを話されました「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探したが見つからなかった」と。ぶどう園は神の国です。ぶどう園にいちじくの木を植えたのは、主人はぶどう園の脇に添えもののように植えたといえます。主人は添え物として植えたけれどもそのいちじくの木に愛を持ち心配りをしていたのでそれなりの実を結ぶことを期待していました。それで何年も実を探しましたが一つもありませんでした。主人は園丁を呼んで「実を探したが見つけたことがないので切り倒せ。土地を無駄に塞がせておくのか」と命じました。当然の命令です。

ルカ3:8-9で洗礼者ヨハネは「悔い改めの実を結びなさい、良い実を結ばない木は伐り倒されて火に投げ込まれる」と言っています。悔い改めは、神に背いていた心を神に向けることです。マタイとマルコは、イエスが十字架を前にして都に行く時、いちじくの木に実を求めたのに、自分の存在を示す葉が茂っているだけで求める実がないでその木を枯らしたことを記しています。実を結ばない木を切り倒すのは神の当然の裁きです。

この主人の命令に園丁は「切らないで今年もこのままにして下さい。木に肥しをやってみます。来年は実がなるかもしれません。それでだめなら、切り倒して下さい」と、主人にお願いをしました。この園丁を教会は主イエスと読んでいます。イエスは実を結んでいない罪人の私たちのために神に執成しをしてくださっているのです。唯「今裁くのを待ってください」と延命の執成しだけでなく、「肥しをやり続けますから来年は実を結ぶかもしれません」と、実を結ぶ期待をもって恵みを与え続けて下さっているのです。それによって虚しく生きていた私たちは、神の裁きを赦されて生かされているだけでなく、実を結ぶ歩みをするようにとの思いによって、今も日々恵みを与えられ生かされているのです。

10-16には、イエスが安息日に18年間病の霊に取りつかれていた女を癒されたことを、会堂長が安息日の規定を破っていると責めたので、イエスが反論していることが記されています。イエスは、自分は神の前に正しいと主張している会堂長を神の前に演技している偽善者で本心は自分中心の主張をしていると指摘し、「誰でも安息日にも牛やろばを解いて水を飲ませに行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに18年もサタンに縛られていた。安息日でも解いてやるのは当然でなないか」と言いました。ここで「アブラハムの娘」と言っているのは、創世記にあるようにアブラハムを通して神は世界の民をご自分の民とされている、そのように神の憐みは広い、その神は安息日にも広く開放して自由の命を与えようと思われている、そこに神の御心がある、ということを言っているのです。

神の民であることを誇り、女を軽んじ、律法を守っているという自分中心の縛られた生き方をしている人々にイエスは、神の恵みと憐みによって生かされていることを知り、悔い改めて、神の恵みと憐みの実を結ぶように生きることを勧めています。

2015年2月1日

説教題:弟子を宣教に派遣する

聖書:ルカによる福音書 10章1-12節

「七十二人を派遣する」はルカだけが記しています。十二人を派遣したことは9:1-6にありマタイ、マルコにもあります。それらの記事と今日の記事に同じ言葉や、同じ内容のことが記されています。ですから主イエスが弟子たちを世に派遣された、今も派遣している、そのことをこのようにルカは記している、と言ってよいと思います。

神は世界の救いを思っていらっしゃいます。私たちは自分の救いや自分の幸せを先ず思います。当然のことですが、そこに留まっていることが多いのではないでしょうか。弟子たちも弱く辛い思いでいる自分の救いを求めてイエスの所に来たのです。その弟子たちをイエスは御自分のそばに置き、神のご支配のもとに生きる者にされると、世に派遣されました。七十二人の派遣も主イエスが任命し、力と務めを与えての派遣です。七十二の数は世界の民を意味し、世界に福音を述べ伝えることを思っての派遣です。

七十二人が遣わされた所は、「主イエスご自身が」行って宣教しようと思われていた所でそこは特定の所ではなく、世界の全ての地です。肉の体で歩まれたイエスは肉の体の人間全てに宣教することをお考えになったのです。それでご自分の代わりに弟子を任命して、宣教に遣わされたのです。イエスの弟子でありキリスト者であることは、自分一人の救いや幸せに留まっていることができません。世界に宣教に遣わされているのです。

「収穫は多いが働き人は少ない」の「収穫」は、福音を信じる人救われる人で、神ご自身が愛と恵みをもって意味ある命と希望を与えて実を結ばせているのです。ですから収穫は多いのです。「収穫が多い」というのは、小魚を網で沢山捕る多さではなく、一本釣りで捕る多さです。派遣された弟子が語りかけ証しすることによって、一人一人に神の愛と恵みが働いて、捕えたのです。収穫が多いから働き人が多く必要です。弟子は自分が働き、仲間と手を組んでも手が足りないので、働き手を送って下さいとお願いするのです。

主イエスは「行きなさい。私は遣わす。それは狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と言っています。福音を知らないで、生存競争に勝つことが生きることとしている人の中に、神の国の福音、神にある平和を告げることは、敵国の中で活動するような危険なことです。しかし、派遣されている者には任命者が共にいるので、自分の力によってではなく、神の力によって使命を果たすことができるのです。

「財布も袋も持っていくな」と命じています。自分の持ち物を頼りにしないで、神を信じ、御言葉に従って生き、使命を果たすのです。神が働き人に必要な報酬を与えて下さいます。財布も袋も持たなくても困らないように神がしてくださるのです。

弟子たちは派遣されて改めて自分がキリスト者であることを、キリストの恵みと愛によって生かされ用いられていることを知ったでしょう。教会は昔も今も、宣教することによって自分たちが神に生かされ、歩むことができるのだ、ということを知らされています。私たちはそのことを自覚して派遣されている使命を果たすよう歩みたいと思います。

2015年1月25日

説教題:十二人を選んだイエス

聖書:エレミヤ書1章4-10節 ルカによる福音書 6章12-16節

ルカ6:13は「朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けた」と書いています。その前にはイエスが山で夜通し祈られたと記されています。イエスは十二人を選ぶために祈っていたのです。

イエスが祈っている間、夜通しイエスを待っていた弟子たちがいました。その弟子たちは、力と自信ある立派な人たちではなく、弱く小さい生きる力を失って闇の世界に生きている人たちでした。その人たちに、イエスが光と力を示し注いでくださったので、イエスに救いがあるとイエスの後を付いて来て、暗い闇の中で待っていたのです。

その弟子たちの中から十二人を選び、使徒と名付けました。十二人は特に優れた人ではありませんが、イエスは十二人を適当に選んだのではありません。祈って選んだのです。

この十二人だけでなく、私たちがキリスト者であるのもイエスの祈りと選びがあってと言えます。私たちは自分の思いだけではイエスに従い続けることはできません。従い続けることを困難にすることが自分の内外に起こるからです。イエスが祈って呼んでくださることで、私たちはイエスに従い続けることができ、イエスと共の歩む者になれるのです。自分中心だと、私と共にイエスがいる、私の歩みにイエスが共歩む、となってしまいます。

このイエスの祈りは、選んで呼び寄せる時だけでなく、呼び寄せた者の歩みの全ての時にされているのです。ルカ22:23でイエスは、ペトロに「私はあなたの信仰が無くならないように祈った。だから、あなたが立ち直ったら、兄弟を力づけてやりなさい」、と言っています。イエスを裏切る言葉を口にした者をもイエスは赦し、裏切ったことで絶望に陥っている者のために祈っているのです。イエスはペトロの弱さも、私たちが欠けの多い者であることも十分にご存知で選び呼び寄せて下さっているのです。私たちは謙遜になってイエスの祈りと御力に導き支えられて歩むのです。

イエスが十二人を選んだのは、新しいイスラエル、新しい神の民を建てるためでした。十二人の選びは、十二人の為だけではなく、十字架と復活の証し人、使徒となって教会の柱となるようにとの意味がありました。救いのご計画と歴史の中で十二人は選ばれ使命を与えられているのです。私たちも自分一人がキリスト者として歩むだけでなく、救いの歴史の中で与えられている使命を果たすように選ばれ、生かされているのです。その使命を果たすようにイエスは祈って下さっているのです。

ルカは「使徒と名付けた」と書いています。「使徒」は、遣わされた者ですが小間使いでなく、遣わした方の権威と使命を与えられている、正式な代理人です。ですから、イエスの使徒はイエスの代理人としての権威と使命を与えられているのです。欠けの多い者をイエスが任命することによって、イエスの代理人の権威と使命を与えられるのです。十二人だけでなく私たちもキリスト者と呼ばれた時、イエスによって使徒とされてこの世に遣わされていて、その働きと責任は任命者である主が負ってくださっているのです。

2015年1月18日

説教題:信仰に堅く立ちなさい

聖書:ヨシュア記 1章1-9節 コリントの信徒への手紙一 16章13-24節

パウロは、コリントの教会に仲たがいが起こっていることを指摘し、キリストにあって一つになるようにと問題解決の道を示した後、教会からの質問に答えることで手紙を書いて来ました。その後、大事な一言として命令形で勧めをしています。

問題を持っている人に必要なのは当人がその問題を自覚して本気になって問題に対処することです。周りの人の助けがあっても当人に自覚とやる気がないと問題は解決しません。

主イエスは、十字架を前に弟子たちに「目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るか分からないから」と言い、ゲッセマネで「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」と言っています。キリスト者が目を覚ましているということは、この世界が見えるものでできているのではない、世界は神の言葉で造られ治められている、その中に私たちが生かされている、という自覚をしっかり持つことを意味しています。ですからパウロは、この手紙の7章で「世のことに関わっている人は、関わりのない人のようになるべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」と書いています。これはこの世の事には無関心、無責任でよいと言っているのではありません。今置かれている場と時を正しく見、正しい判断をしなさい、と命じているのです。この世のことで右往左往するのではなく、主イエスの再臨の時に神の栄光に与かる者であるように歩みなさい、と言っているのです。

「信仰に基づいてしっかり立ちなさい」は、肉の弱さのために内外の誘惑や力によって動揺し、ふらついてしまう私たちに対して、信仰によってしっかり立ち続けなさい、と命じている言葉です。この「信仰」は、十字架の言葉を神の力と信じ、十字架によって救われていることを喜んで生きている信仰です。コリント教会の人たちも、私たちも既に信仰に立っていますが、「目を覚まして、信仰に堅く立て」は常に新しく聞くべき言葉です。

「雄々しく、強く生きなさい」は、自分の弱さを知っているのでこの世の人と力を前に立ちすくんでしまう私たちに、信仰に堅く立って雄々しく強く生きよ、と勧めているのです。モーセの後継者で不安でいたヨシュアに、神は「私が共にいるので強く雄々しくあれ」と繰り返し言いました。私たちも、キリストによって神が味方となって共にいてくださるので、この世で孤独な戦いをしているように思われる時にも強くあることができるのです。

「何事も愛をもって行いなさい」は、神の愛のご支配の中で行いなさい、ということです。神の愛に包まれて行う時に全ての事は意味あるものになるのです。

ここに使われている言葉は軍隊でも使われていました。「目を覚ましていろ」は、番兵が夜でも昼でも周囲の動きに敏感であり続けるように。「堅く立ち続けよ」は置かれている持ち場に留まり続け、陣地を守り続けるように。「雄々しく、強くあれ」は、小隊が大隊の敵兵を目前にしても援軍を信じ、軍の名誉を思って対応するように。使われています。

信仰生活は神に逆らう力との戦いの生活です。戦いには苦難が伴います。神は世に勝利しています。私たちはその勝利の信仰に堅く立ち、各自の道を歩み抜きたいと思います。

2015年1月11日

説教題:教会の交わり

聖書:コリントの信徒への手紙一 16章1-12節

16:1に「聖なる者たちへの募金について」とありますが、これは「この質問に答える」という表現です。「募金」は、「寄付金」で、神に捧げる「献金」とは違います。コリント教会の中に、誰のための募金か、どう行えばよいのか、と問う人がいたのでしょう。

パウロは、この募金について既に話をしているのですが、教会の中に問う人がいたので、この募金はガラテヤの諸教会にも指示し実行している、そのようにあなた方も実行しなさい、と言っています。この募金は一般社会で行っている貧しい人を助ける援助とは違います。「聖なる者たち」とは、この手紙の1:2に「キリストによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」とあるようにキリスト者は皆聖なる者ですが、ここでは全ての教会の基になっているエルサレム教会の人たちを指しています。エルサレム教会から恵みを戴いて私たちの教会がある。だから神からいただいた恵みを分かち合い、教会の交わりを強めるためにエルサレム教会の為に募金して送ろう、と勧めているのです。

教会は昔も今も、キリストの体として他の教会と親しい交わりをしています。私たちの教会も単独で存在しているのではありません。日本基督教団に属する一つの教会であり、諸教派や海外の教会ともキリストの体として福音を共有して存在し歩んでいます。この交わりによる共有を失ったらキリストの体ではなくなってしまいます。一度も会ったことがなくても福音と信仰が一つであると言うことで教会は相互に一体感を持っています。

「私が着いて初めて募金が行われることがないように、各自収入に応じて幾らかずつでも手元に取って置きなさい」と言っているのは、パウロが、この募金に強制力を感じさせたくない、自主的に少しずつ集めて置いて行ってほしい、と思っている現れです。

その募金の扱いについては、パウロがコリントに着いたら教会が選んだ人たちに手紙を持たせてエルサレムに届けてもらう、パウロもエルサレムに行くので一緒に行くことを望むならそうしよう、一緒に行くか別に行くか自由に決めたらいい、と書いています。

コリント教会にはパウロに対して批判的な人、パウロと行動を共にしたくない人がいたのかも知れません。教会はキリストの体でも、人間的に違う人が集まっているので、教会の中に自己主張や感情や意志の違いが生じます。教会はその違いを認め赦し合い受け入れ合って歩んでいるのです。コリント教会だけではありません。

5-9には、コリントに行く計画が記されています。パウロは教会を訪ねることで主イエスにある一体感を実質的に強めたいと思っていたのでしょう。ですから、自分の思いや計画が絶対ではなく、「主がお許しくだされば」という条件が付いている計画です。

10-12にはテモテとアポロのことが記されています。この二人につてコリント教会に語る責任を感じているのです。テモテについて配慮をお願いし、彼の働きを紹介しています。私たちはキリストにあって他の人たちのことにも関心を持ち、お互いに良い交わりができるように配慮し、支援すべきです。そのことが教会の交わりを強め豊かにするのです。

2015年1月4日

説教題:私たちが立っている福音

聖書:イザヤ書 42章10-17節 コリントの信徒への手紙一 15章1-11節

今日の聖書の15:1でパウロは、私があなた方に告げた福音をここでもう一度知らせる、と言っています。既に知らせている福音をもう一度知らせるのは、福音が重要なもので、今も生活の拠りどころとしているものだからです。

新年を迎え、時の中に生きている自分を新しく見直しているのではないでしょうか。時の流れの中に限られた命を与えられて生かされている。そのことを日常は考えないで過ごしています。それでカレンダーを新しくした時に、今まで何度も行ってきたことですが、今年もまた新しくそのことを思わされて心新たにしたでしょう。年の初めに心と思いを新たにすることは、その年をそして人生を意味あるものと歩むために必要なことです。

コリントの人たちは、福音を聞いて受け入れ信仰生活を始めた時には、福音による生活を喜んだと思います。ところが今、人間的な主張をし合って秩序が失われている状態だ、と伝えられている。そこでパウロは、どうしたらよいかとの質問に答えた後、信仰生活の原点である福音が何であるかを再確認するように、勧めているのです。私たちの礼拝も、新しいことを聞くのではなく、御言葉を聞いて福音を再確認しているのです。

パウロはここで二つのことを言っています。一つは、福音は教会を通して伝えられ、受け入れられ、それが生活の源となり基盤となっている、福音は人間が造ったものではなく、歴史の中で変わらずに世の終わりまで、教会から教会に伝えられ、それによって生活され続けていくものだ、ということです。

二つ目は、福音は神からの喜びの知らせで、その内容と実体はイエス・キリストである、キリストが神からの救い主である、ということです。キリストによる救いは「聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと」にあります。神に背く罪人であった私たちの罪をキリストが十字架で贖い、私たちを神に受け入れられて意味ある者、神の命に生きる者にしてくださったのです。パウロはそのことを1:18で「十字架の言葉は、滅んで行く者には愚かなものですが、救われる私たちには神の力です」と言っています。十字架は、ダイナマイトのように私たちの罪と悪の力を全て吹き飛ばしているのです。

十字架に死んだキリストは、三日目に復活して使徒たちと数々の人たちに現れて、神の命の生きていることを示されました。パウロは、キリストを信じる私たちは今もその命に生かされている、私自身もその命に生かされ歩んでいる、と語り、復活の命に生きているなら私たちの労苦は決して無駄になることはない、と力強く告げています。

パウロは、コリントの人たちが福音を再確認し、福音に正しく立って生活するように、福音を基盤として神にある喜びの生活をするように勧めています。私たちの信仰生活は、神にある喜びの生活であるところに、特徴があります。そこに神の救いがあります。年の初めのこの時、私たちは、クリスマスの恵みを覚え、十字架と復活の喜びを再確認して、この年を歩んで行きたいと思います。

2014年12月28日

説教題:神の秩序に生きる

聖書:コリントの信徒への手紙一 14章26-40節

私たちは、一人一人神から違う賜物を戴いて、自分に与えられている賜物を感謝し、喜んでいます。子どもの世界には、自分がもらった物を喜んで人に見せびらかす、見せびらかされた子どもは自分がいい物をもらっているのに「これいらない、私もあれが欲しい」、ということがあります。人間は向上心や欲があるので、大人でもこちらの方が良いと言われるとそれが欲しくなり、手に入れようと思い、妬みや紛争が起こります。

14:26に「集まった時にそれぞれ詩編の歌をうたい、・・語り、・・」とありますが、これは「それぞれが自分に与えられている賛美をうたい、自分に与えられている教え、啓示を語りなさい」と言っているのです。教会が誕生して間もない時で、教会の集会の秩序が整っていなかったと思われます。それで問題は、各自が自分に与えられている賜物を喜び感謝するその現し方です。それがコリントの教会では、1:10,12にあるように「皆、勝手なことを」言い、各々が自分に与えられている賜物を誇り合っていたので、混乱が起こっている状態でした。

それで、どうしたらよいかと質問が来たので、パウロはここで答えているのです。「あなた方は集まった時、それぞれ神から与えられて持っている賜物は全てあなた方を造り上げるために用いるべきです」と。賛美も教えも皆、各自の信仰を育てると共に教会を建てるのに役立つものです。混乱や争いが起こるのは神から与えられているものを、神の御心に従って用い表現することをしないで、肉の自分の思いを入れて用い表現しているからです。神の賜物も御心も御業も、人間を通して現される時には、そのような危険があります。

教会に皆が集まると多様なものがそこにあります。それは教会の豊かさと多様な人の集まりを現しています、が同時に、そのことが混乱や紛争を生じる理由にもなります。中でも問題を起こす危険を多分に持っていたのが異言でした。パウロは「異言を語る者がいれば、二人か三人が順番に語り一人に解釈させなさい。解釈する人がいなければ教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい」と命じています。

礼拝は教会生活の中心です。礼拝で神から各自に与えられている賜物を神の御心に添うように用いる時、その賜物の用い方が礼拝の場以外でも同じように用いられるようになるのです。そしてその賜物によって各々が育てられ、教会が建てられるのです。それが教会生活です。教会生活は私たちの地上での生活の全てで、教会生活が信仰生活になります。

14:40で結論のように言っています。賜物の用い方を「全て適切に秩序正しく行いなさい」と。ここを「全てを品位を保つ仕方で、秩序正しく為すようにしなさい」と訳した人がいます。秩序にも悪の力や独裁者によるものもあります。信仰生活は神から救いを与えられて歩む生活です。救いは、古い罪に縛られや肉の人間の力に支配されていた私たちが、神よって解放され自由に生きる喜びを与えられることです。数日で新しい年になります。各自が神から与えられている恵みの賜物をどう用いて生きるかは大事なことです。

2014年12月21日

説教題:言(ことば)が私たちの内に宿った

聖書:イザヤ書 45章18-25節 ヨハネによる福音書 1章1-14節

クリスマスは神の言が私たちの内に宿ったことを喜び祝うことです。言葉はその人の思いの現れです。神は御子によって心の深い思いを現されたのです。

聖書は「初めに言があった。」「言は神と共にあった。万物は言によって成った」と言っています。この「言(ことば)」は神と別人格ですが、一緒に深い同じ思いをもって心を込めて宇宙も自然も人間も造り、治めています。ですから、私たちがどのように小さな取るに足りない存在であっても、私などつまらない者と自分の存在を軽んじてはいけないのです。

ところが肉の人間は、神に目を向けないで、この世のことに目を向け、この世の力が私たちを支配し動かしているように思います。神の言を聞かないで、自分の肉の声やこの世の声を聴いて生きています。それで神からの命を失い、光を失っています。聖書は「言の内に命があった。」「命は人間を照らす光であった。」と言っています。神の思いやご計画との結びつきの言葉を失った人間は、生きる意味も、歩む道も見えなくなります。

イザヤは、神の民が神の言から離れたために捕囚の民とされている時、「天地を造り、堅く据えられた神は、混沌としてではなく、人が住む所として創造された」と言って、現実の世界と歴史が混沌と見えても、この世界と歴史には神の御心が生きている。だから混沌の中を手探りしていないで、神に目を向け神の言を聞いて生き、歩め」と語りかけています。混沌は人が住む所ではありません。神は、光と命があり存在するものの意味と役割が見えて分かる世界の中に人間を造っているのです。「私は主、正義を語り、公平を告知する者」と神は民に告げています。この民は世界の民で、世界の民が神の言によって造られ、救いの日に世界の民が神の言を聞いて神の者とされて神に仕えて歩むのです。

ところが、聖書は「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分の民の所に来たが、民は受け入れなかった」と言っています。それで、神は言を受け入れない人間を混沌の状態に見捨てるかというとそうではない。言を受け入れない罪人の中に御子を言として遣わして人間に語りかけ、人間がその言を聞いて救われるようにとされたのです

言が肉となって私たちの中に宿ったことは、私たち人間が神のご計画と御心を理解できるように、受け入れて救われるように、という深いご配慮の御業なのです。「宿った」は「テントを張って宿る」ことで、言である御子が私たち人間世界の中に来て、生活と共に移動していつも共にいるのです。言の御子は、馬小屋に生まれ十字架に歩まれました。それは、私たちが罪人であることに気づいて、罪を捨てて神の言に生きるためです。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」のです。言は聞くだけでなく、心に受け入れ信じる時、神は神の子と認めて、その生活の中に宿り、地上の歩みにいつも共にいて神の愛と恵みの中に意味ある者として生かしてくださるのです。

人となって私たちの中に宿った神の言を心から信じ受け入れて、光の中を歩みましょう。

2014年12月14日

説教題:ヨセフの子イエス

聖書:イザヤ書11章1-5節 ルカによる福音書 2章1-7節

イエスは神の子です。しかし肉の人イエスは、人間ヨセフを父とし、神が約束した血筋の子として地上に誕生し、ヨセフが父親の責任を果たして成人しました。

マリアがイエスの母に選ばれたのはヨセフの婚約者だったからです。マリアもヨセフも当人たちは共に特に優れている人ではありませんでした。当人たちの思いや力とは別に、神がご計画をこの二人を用いて実行する決意をされたのです。神が臨んでご計画を行われたことは二人には非常に辛く厳しいものでした。しかし二人は神から選ばれて与えられた務めを担い責任を果たしました。それによって御子は人として育ち、地上を歩みました。

ヨセフが身重のマリアを連れてナザレからベツレヘムに旅をしたのは、神が約束されていたメシアが誕生する地で、ヨセフが約束されていた血筋の子だったからです。ヨセフはマリアが身ごもっていることを知った時非常に迷い離縁を決意しました。しかし神の使いの声を聞いて、マリアが身ごもっている子の父になる決断をしました。それによってイエスは神の約束通りにダビデの子孫としてベツレヘムに誕生したのです。

イエスは、歴史や地上の人間関係とは無関係に生まれ、そこにある問題を他人事として歩まれたのではありません。イエスは父ヨセフを通して、私たちと同じ歴史の中を生きる肉の人間として、苦楽や悩みを負って歩まれました。血筋や歴史、社会などは関係がないと世から離れたら、人として正しく生きることはできません。それらの現実を認め、そこにある問題を自分のものと負うことで健全な人として生きるのです。私たちも神のご計画の中で自分がどのように存在し、生きているを知ることが大事です。そのことをイエスは、聖霊とヨセフの子として誕生し育てられることで、神の子として特別に知らされました。

ヨセフがイエスの父であることは、この世の親子の籍、血筋として重要で、そこに責任関係があります。しかしイエスとヨセフは肉の関係はありません。神のご計画とヨセフが受け入れることによって、養父と養子の関係のようですがイエスはヨセフを父として誕生し育てられ、神のご計画が実現しました。私たちもヨセフのように、神の言葉を聞いて受け入れ従う時、私たちを通して神の御業が行われ、私たちの存在と歩みが神の救いの業と栄光に結びつく者とされるのです。

ヨセフは不完全な人間でしたが、イエスの父親として大変であっても負うべき責任を誠実に果たしました。それによってイエスは健全な人となって歩みました。私たちもヨセフと同じように欠けの多い親であっても、神にあって親として与えられている責任を誠実に果たす時、神がその働きを親として十分なものとしてくださるのです。

私たちは自分中心に生きてしまいがちですが、ヨセフは明らかに自分の子ではないイエスを我が子として受け入れ育てました。このように神から与えられた人を我が子として受け入れ育てることは、特に現代の養父と子、里親と子,産院での間違いの問題が起こっている時、ヨセフが神を信じて神に支えられてなされたことの意味を思わされます。

2014年12月7日

説教題:ここに神がいます

聖書:イザヤ書 28章11-13節 コリントの信徒への手紙一 14章20-25節

コリントの教会では、異言の賜物を戴いた人が大いに喜び、人々の前でその賜物を示したので、自分もその賜物が欲しいと思う人が出て困ったようです。それでパウロに「神からの賜物についてどう考えたらよいのか」と質問状が来ました。

パウロは、12:4-11で「神からの賜物はいろいろあるが、それらの賜物は皆同じ神からきている」と言い、14:20で「物の判断については子供になってはいけない。大人になりなさい」と命じています。「物の判断」は賜物についての判断で、異言は賜物ですから神に喜んで感謝するのは当然ですが、その感謝の表し方が子どもではなく大人と成ってしなさい、と命じるのです。大人は賜物を戴いたことを、ただ嬉しいと喜ぶのではなく、賜物をくださった方の思いに添うように活用することが正しい感謝の表し方だと知っています。

子どもに大金や多くの自由を与えてはいけない、正しくそれを活用できないから、と言われます。神に賜物を求めるのも、他人が持っているものを欲しいと言う求め方は誤っています。神はその人に相応しい賜物を与えて下さっているのですから、私たちは自分に与えられているものを感謝して手にし、生かして用いるようにすべきです。

異言の内容や実態は分かりませんが、神から自分に与えられたと、神と自分との間だけで益となり喜びになっていたようです。それでパウロは6-8で、異言を語っても、教会に何の役に立つか、楽器をもらって嬉しくて音を出しても聞いている人には何を意味している音か分からないと言い、13-14では、異言は神との語り合いなので祈りと言えるが、教会では理性でも祈りなさい。そうすればその祈りは教会でも実を結ぶ、と言っています。

そして、神の前に自分を弁えている大人になって賜物を求め、活用しなさい、一人前の完成した大人になりなさい、と命じてイザヤ書を引用しています。神の言葉を幼児語のように聞く者は神との交わりが失われる者となり、しっかり熱心に聞く者には救いの言葉になる、と言っていると。だから、教会全体が異言を求めるのではなく、理性を伴った預言を語る賜物を求めなさい、と命じます。

そして、もし教会全体が異言を語っていたら、幼児が賜物を戴いて嬉しいと喜んでいるような状態になるので、「ここに神がいます」恵みがあり喜びがある、と表現していても、そこにいる人は何を言い、表現しているのか分かりません。それに対して、皆が預言しているところに信者でない人がいたら、その人の心に悔い改めが起こり、「ここに神がいます」と告白するでしょう。とパウロは言っています。

「教会全体が預言しているところに」というのは、全員が預言を語っていると言うのではなく、説教者が一人神の言葉を語って、その言葉を全員が神の言葉と聞き、悔い改めて神を賛美している、ということです。それが礼拝です。真の礼拝が捧げられているところには「ここに神がいます」という神のご臨在があり、悔い改めと信仰告白が起こるのです。クリスマスはそのような礼拝を造る御子を私たちにプレゼントして下さった出来事です。

2014年11月30日

説教題:神からの賜物

聖書:コリントの信徒への手紙一 14章1-5節

今日から待降節です。主イエスが生まれる時「彼らの泊まる場所がなかった」とルカは記していますが、毎年この時、他人事としてではなく、私たちがその場に居たらどうするだろうか、と思わされます。私たちは、泊まるのを拒まないもっと愛の人だったでしょうか。

パウロは14:1で「愛を追い求めなさい」と言っています。「追い求める」は、野獣が必死で獲物を追い求める意味です。この愛は13章の「愛」で、生まれながらの人間の中にはない、神の愛です。神の愛は賜物です。この愛を追い求めるとは、「神様、愛を下さい」と必死で求めて手に入れることです。それには、その愛が私にはない、しかしその愛を自分の物にしなければ生きていけない、と知ることが第一です。神の愛を追い求めるのは、自分にその資格や力あるからではありません。その愛がなえれば生きていけない、命がないからです。愛を追い求めるとは、神様私に目を向けて下さい、私の罪を赦し、受け入れて下さい、と必死で求めることです。

喉が渇いた鹿が涸れた谷間で諦めずに水を求めているように、神の愛を求めるのです。鹿は僅かな水の香りを感じると一生懸命に足で土を掘って水を得て飲みます。虐待児の報道の中には子どもが親に「もうしないから。言うこと聞くから赦して」と泣いてすがりついているのを見た、という言葉が載っているのがあります。幼児が親に甘える。共稼ぎの忙しい親は僅かな時間の甘えを受け入れてあげることができない。親の忙しさをそれとなく知る子は甘えてはいけないと分かっているけれど親と一緒の時には甘える。多くの家庭にあることなので、それを見た人も特に注意しない。それが悲劇になっていることがある。

親の愛を失ったら生きていけない。必死ですがり、突き放されてもあきらめない。私たちも神に対して自分中心で罪を犯しています。神の愛がなければ生きていけません。突き放されてもすがりついて愛を求める。その私たちに神は賜物の愛を与えて下さるのです。

賜物は神からの贈り物です。現在は贈り物をもらっても「いらない」と言う子、はっきり「いらない」と言わなくても喜ばない子がいます。現代は自分の好みのものを求めます。自分中心の価値判断で物を求め、生きています。しかし聖書は、神からの賜物を熱心に追い求めなさい、と命じています。神からの賜物こそ私たちを生かすのです。その賜物は個人個人違いがあっても、優劣はなく、皆神にあって価値あり意味のある賜物です。賜物は贈り物だからくださるのを待っていようという姿勢では、神の賜物は手に出来ません。「私にとって必要な賜物が与えられる。賜物を与えられたら最大限活用しよう」と大きな期待をもち、必ず与えられると確信して追い求めるところに神からの賜物は与えられ、与えられた賜物を有効に活用できるのです。

待降節の時、自分中心の思いでいることに気づき、私たちには「愛」がないことを知って、心から「神の愛」を追い求める者になりましょう。そして、お互いに謙遜になって、夫々がいただいている賜物を重んじ合い、一つ心になって主を迎え入れたいとと思います。

2014年11月23日

説教題:神が実らせてくださる

聖書:申命記 26章5-11節 マルコによる福音書 4章26-29節

収穫とは何でしょうか。「蒔いた種が芽を出して、成長して実を結ぶ。その実を自分の手に入れる」それを収穫と言います。実を結んだ、手に入れた。それが喜びで感謝です。

一年の中で、植物によって種を蒔く時も、実を結ぶ時も、違いますから収穫の時も異なります。それで旧約聖書では年三回、収穫感謝のお祝いをしています。年三回でもそのお祝いは、今手にしている収穫物手だけでなく、その時期に手に入れた収穫物全部の感謝のお祝いです。今日の礼拝は、一年全部の収穫感謝の礼拝です。

感謝するとは「ありがとうございます」と心から言うことです。感謝には、「ありがとう」と言う、相手がいます。先ず神さまに、ありがとうございます」と言います。どうして神さまに「ありがとうございます」というのでしょうか。

一つは、天地の造り主である神さまによって私たちも造られ、命を与えられ、仕事をする力を与えられているからです。その神さまによって命を与えられている種を蒔いて、神さまが成長させてくださって実り、収穫できたのです。ですから神さまに感謝します。

もう一つ神さまに「ありがとうございます」と感謝する理由があります。それは、この収穫物を手にすることによって、私たちが神さまの愛と恵みを戴いて生かされている、神さまのご支配の中にいる、と知るからです。

イエスさまは、私たちが種を蒔くと芽が出て成長して実を結ぶ、そこに神の国がある、神の国はそのような国であると言っています。収穫を手にすることによって、神さまがこのように私たちと世界を御支配していて、私たちの小さな働きも、自然の厳しい環境も、益となるようにしてくださって収穫することができたのだ、と喜び感謝するのです。

その神の国は、私たちが何もしなくても山の草木に実りがある、という国ではありません。その実を手にしても収穫と言いますが、イエスさまが譬えて言っているのは、人が土に種を蒔き、鎌を入れて手にした「収穫」です。神の国は、神によって生かされている人が、神から与えられている自分の務めを、御心に従って忠実に行う時、取るに足りないような働きであってもその働きを実を結ぶための意味あるものにされるのです。「人が種を蒔く」と、神は夜も昼も、人が眠っていて知らない時にも成長させ、実を結ばせてくださるのです。収穫感謝は、「私たちの働きを、実を結び収穫するのに、意味のあるものにしてくださって、ありがとうございます」、と神さまに感謝するのです。

種を蒔いて実を結ぶ、ということは人間の歴史や社会についても言えます。今私たちがここにいるのは、先祖や神の民が神さまから与えられた務めを行って歩んで歩みを、神が実りに結びつくように導き助けてくださったことによる。だから私たちは自分だけ意味ある者にされていると感謝するのではなく、神に結び付けられている全ての人と一緒に、神の国に生かされていることを感謝するのです。そして、神にあって、今与えられている務めを喜んでするように、思いを新たにするのです。

2014年11月16日

説教題:滅びない愛

聖書:ホセア書 11章1-4節 コリントの信徒への手紙一 13章1-13節

今日の13章は愛について語っているところとしてよく知られていますが、ここに語られている「愛」は、親子や男女の愛など私たちが知っている「愛」とは違います。

1-3で「愛がなければ」と3回語っていますが、私たちはここに語られているそこに愛がある、例えば「全財産を貧しい人に使い尽くす」のは愛の現れだ、と思うのではないでしょうか。完全な信仰と思われる信仰も、愛の業も、「愛がなければ無である」と言われている「愛」とは何でしょうか。この「愛」は人間が生まれながら持っている愛ではありません。12:31に「もっと大きな賜物を受けるように熱心に求めなさい」とあり、14:1に「愛を追い求めなさい」とあります。この愛は神が賜物としてキリストによって私たちに与えて下さる愛です。キリストを信じる者が、自分の中に愛がないことを知らされて、神に熱心に求め、キリストによって与えられる愛です。

この愛は神からの賜物ですが、12章で言っている多くの賜物の一つではありません。8に「愛は決して滅びない」とありますが、どんなに強い親子の愛も男女の愛も時の中で滅びます、一時的なものです。滅びない愛は神の愛だけです。神の愛が全てを生かし、結び付け実を結ばせます。全てのものを空しくしないで、一時的なものも永遠の中に包みます。

その愛は、忍耐強い、罪人を赦して新しい人に創造し、敵であった者を新しい味方として生かし、味方として支えます。私たちは自分中心に判断し結論を出します、自分を正しいとして頑張り、その場で人を評価し、裁きます。神の忍耐は、自分中心に頑張る力ではなく、相手を受け入れる愛です。キリストを信じる者はその神の忍耐によって新しい人にされ、包まれ支配されて生きます。それによって、自己主張し自分中心であった私たちが、キリストのご支配のもとに生かされて、忍耐強く、寛容で情け深い者になるのです。自分も相手も自分の思うように自分の支配下に、自分が義としているところに置きたいと思う私たち、その私たちを神はキリストによってご自分の義と愛で包み、私たちをご自分と一つにしてくださり、私たちが相手を理解して受け入れることができるようにするのです。

自分中心の罪、全てを自分のものにしたい罪、これらの罪に勝利して、神にあって生きる者になるには、神の愛の勝利に身を置き、委ねて、その愛に包まれ支配されて生きる他ありません。この神の愛だけが、全てを忍び、信じ、望み、耐えるのです。そして、決して滅びない永遠の命と意味を持っているのです。神についての言葉も知識も、その言葉が実現したら存在している意味を失う、その時までの一時的な滅びゆくものです。

しかし、信仰の知識も愛の業も神のご計画が完成する時まで、ご計画の役割の一部を負い果たしています。取るに足りない小さな存在で一時的な業であっても、神にあって歩んでいる私たちの存在と歩みを、神が愛の内に包んで実を結ぶものにつながる意味あるものにしてくださるのです。神の栄光に与かるものにしてくださるのです。暫らくに人生でも、欠けの多い信仰生活でも、神のご計画に役立つものにしてくださるのです。

2014年11月9日

説教題:教会はキリストの体

聖書:コリントの信徒への手紙一 12章12-30節

パウロは12:12で「体は一つでも多くの部分からなり、体の部分は多くても体は一つです」と言った後、「キリストの場合も同様である」と言っています。これは、27の「あなた方はキリストの体であり、一人一人はその部分です」と結びついている言葉です。

教会は多くの人が集まっている、という考えもありますが、体は異なった多くの部分が集まってできているのではありません。先ず一つの体があるのです。教会も先ずキリストの体があり、その体に結びついた者がキリストの体になるのです。

キリストの体は人間が造るのではなく、十字架に死んで復活し天に上げられたキリストご自身が、聖霊として地上にご臨在してキリストの体になるのです。キリストの体である教会は、キリストを主と告白して洗礼を受け、新しく聖霊に生かされている者が結び付けられて、建てられ存在しています。

人種、生活状態、身分などこの世的に異なった人であっても、同じキリストを信じ、教会の信仰告白を受け入れて洗礼を受けた者はキリストの体に結び付けられ、教会の一員になります。キリストの体の部分になります。

14で「体は一つの部分ではなく、多くの部分から成り立っている」と12を繰り返すように言っています。これは、コリントの教会に、私の信仰、私の立場ということを強く主張する人がいて、仲たがいが生じていた背景があるようです。教会がキリストの体であるのは第一に、体のどの部分も等しくキリストの霊によって生き、キリストにあって用いられている、そこには役割の違いはあっても上下関係はないことが重要です。

教会の中で、自分と他を比べてその存在や働きを評価、批判して劣等感を持って自分はいらない存在だと思ったり、お前はいらないと言うのは間違いです。体に中でその部分がどんなに優れた働きをしていても、神がそこにその部分を置いているので、他の部分が同じ部分を求めるのは誤りです。教会がキリストの体で、いろいろな部分から成り立っているのは、異なる環境で生活している人や、性格や生活習慣の人がキリストによって一つに結びつけられているのが教会だ、ということです。全ての部分が一つ体になって全体のために働くのです。分裂を起こすのではなく、一つ体になって健やかに生きる、それが教会です。教会は、分裂を起こさないように、孤立しないように、キリストに結びついて全体が一つ体であることを強めるように、キリストの霊によって互いに心して励むのです。

肉の人間の違いによってではなく、キリストによってキリストの体に結び付けられ、部分にされているのです。この私たちの教会も、キリストがご臨在し、歴史の中を生きているキリストの体です。キリストを主と告白して捧げている礼拝は生けるキリストの体です。

キリストの霊によって一つとされているこの私たちの教会も、キリストの体です。この教会の礼拝も福音の光を放ってこの歴史の中を歩んでいます。私たち一人一人はキリストの体の部分です。部分の隅々にもキリストの霊はご臨在し生きて働いています。

2014年11月2日

説教題:主が死を滅ばされた

聖書:イザヤ書 25章6-10節 コリントの信徒への手紙一 15章20-28節

人間は皆、死で地上の歩みを終わります。召天者記念礼拝は、故人を覚え記念するだけでなく、私たちも含めて全ての人にとっての命と死に思いを向けての礼拝です。

聖書は「キリストは最後の敵として死を滅ぼした」と言っています。「滅ぼした」は、戦いで勝利し敵を無力にしたということで、無力になった敵が未だ残っていて、敵を消し去っていません。死は今も未だありますが、キリストが死に勝利し、死を無力にしたのです。

神は、十字架で死を滅ぼしたキリストを新しい命に復活させました。死を滅ぼした神は、今まで死が持ち、死が支配していた全てのものをご自分のものとされ、死をもご自分の支配下に置いたのです。それまでは、死が人間と世界と歴史を支配していました。結局は死で終わる、暗く虚しい道を歩んでいました。

24「世の終わりの時、キリストは全ての支配、権威、勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡される」。その時までキリストが神の国の王になっていますが、死が未だ存在しそれなりの力を持っています。死が人間に対して実質的な力を持っているのは、人間の死が罪の裁きである死刑の死だからです。神の御旨に従いえないこの世の人間は裁きの死を逃れることはできません。今も、死で終わる道を歩んでいるのです。それは悪魔、サタンの手にあるのです。その罪をキリストが十字架の死で完全に贖ってくださいました。

ですからキリストに結びついている者は、罪なき者として神が受け入れて下さり、神の愛と恵みの支配下に生きる者とされるのです。キリストを信じる者は今肉の体で地上を生きていても死に支配されてはいません。罪に生きていた古い自分はキリストの十字架と共に死んだ者とされ、復活の命に生きる者とされるのです。死の恐れや痛みに苦しめられることはありません。死によって全てが空しくなってしまう道を歩むのではなく、神がご支配される命の道、意味ある道を歩んでいるのです。

肉の体で歩んでいるキリスト者の死についてローマ6:6-8で「古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された(肉の)体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っている」と言っています。キリスト共に死んだのなら、キリストと共に生きるのです。私たちは、肉の歩みも死も、神にあって意味あるものになっているのです。ですから私たちは神によって与えられている道を歩むのです。その歩みも死も空しくはない、神の御旨に添うように心して全力で励むのです。やがて私たちが迎える死は、全てを空しくするのではなく、全てを神にあって、新しい意味あるものにする死です。肉体の死を超えて神の栄光の国に向っての歩みであり死です。

既に神に召された方、死んだ方が今どこでどうしているか。私たちが死んだら具体的にどうなるのか。それらは神に委ねればよいのです。私たちは死後のことを思い煩うことなく、今日与えられている歩みに全力で励むのです。

主が死を滅ぼされているので私たちは今日の歩みを感謝と喜びを以て歩めるのです。

2014年10月26日

説教題:霊の賜物と働き

聖書:コリントの信徒への手紙一 12章1-11節

教会では、人間的な知恵や力によって生きるのではなく霊によって生きる、と言います。しかし、霊的な知恵や力と言っても分かり難いです。

12:1に「霊的な賜物については」とありますがこれは、「霊的な賜物について教えて下さい」と書いてきた質問に答える書き方です。パウロは、先ず「次のことはぜひ知っておいて欲しい」と言って「霊の賜物を戴く前は異教徒で、偶像を拝んでいた。しかし、真の生ける神の霊を与えられることによって『イエスは主である』と信仰告白をして生きるようになった。ここに神の霊が何であるか現れている」と教えています。

「イエスは主です」と告白する人は、口先で言うだけでなく、生活全体がイエスのご支配の下にあることを現す者となるのです。そこにキリスト者がいて、教会が存在します。ところが、コリントの教会の中に霊の賜物を戴いていると主張する人たちによる対立や混乱があったので質問状が来たのです。それでパウロは、「賜物や務め、働きはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊、同じ主、同じ神です。一人一人に霊の働きが現れるのは全体の益の為です」、と答えています。

神の霊の賜物は、一人一人に相応しく個別のものが神から分け与えられている、のです。各々は与えられた賜物を主にあって十分に用いて生きる、それが信仰生活です。そこには与えられている賜物を自由に喜んで用いて主に仕える教会生活があります。その生活は、各自がばらばらに行動し歩んでいるように見えても、同じ主にあって賜物を用いて歩んでいるので、神が意味あるものとしてくださるのです。それで「それらの賜物による働きは全体の益となる」のです。キリスト者を造り、教会を建てるのです。

教会が主にあって一つになるのは、各自が与えられている個性や特質を失って違いがなくなり均一になって一つになるのではありません。「あの人のここが困る。いない方がいい」等とお互いに批判し合っていたら一つになれません。お互いに同じ霊のよって与えられている賜物を受け入れ合い、各自が自分の賜物を主にあって用いる、その時神がそれらを相応しいものにしてくださり、全体の益となるのです。

8-11では、賜物の中に特別な力を持った賜物がある、その賜物が個々別々の人に与えられている。しかしここに述べている賜物は全て、その人や賜物に優劣がるのではありません。神が自由に望むままに賜物を分け与えているのである。それ故、私たちにとって大事なことは、各自が自分に与えられている霊の賜物を感謝して受け、主の御旨が何であるかを祈り求めながら、主にあって相応しく用いることである。と言っています。

同じ一つの霊が霊の望むままに賜物を一人一人に分け与えているということは、私たち人間の思いや知恵によってではなく、霊の望むところに従って賜物を用いるべきです。霊が望むところを示してくださいと祈り、示された時には霊が望むままに働くように努める、そこにキリスト者の生活があり、教会生活があるのです。

2014年10月5日

説教題:主の恵みの食卓

聖書:コリントの信徒への手紙一 11章17-19節

聖書は、教会の理想ではなくありのままの姿を描いて、教会が何かを示し教えています。

11:17に「あなた方の集まりが良い結果にならないで、むしろ悪い結果になっています」とあります。この「集まり」が教会です。教会は、神が神の民を呼び集めた集まりですから神の栄光を現すはずですが、現実の有様が18-22に描かれています。教会は、神の民が神によって集められているので信仰によって一つに結ばれているはずですが、コリントの教会は、1:10以下には信仰に仲間割れがあるとあり、今日の所では集まりの在り方に仲間割れがある、と記されています。どうして教会に仲間割れが起こるのでしょうか。

この時代の教会すなわち集まりは、未だ整えられていませんでした。17~22を読むと、礼拝と食事が一緒に行われています。イエスによって神を信じる者が一緒に集まって、イエスと食事を共にしたことを記念する主の晩餐をする、これが礼拝でもあったのです。

しかし、教会に何のために集まるか。20,21によると、教会に主の晩餐のため、食事のために集まったのです。ですから「各自が自分の分を持ってきて、それを食べる」集まりでした。それで空腹の人がいるのに満腹の人がいるということになる。初代教会は、主イエスと交わりを共にする主の食卓に呼び集められことを重んじて集まり、過ぎ越しの食事、主の十字架の恵みの意味をもっている主の晩餐をしたのです。

しかし、食事と礼拝を一緒に行うのは問題です。それで、食事は礼拝と別にするようになり、主の晩餐の恵みは聖餐として礼拝で行うようになりました。33,34にあるように、食事は礼拝と別の所でするようになります。

「主の晩餐」と今日の聖書の小見出しには三度用いられていますが、この言葉は短期間で使われなくなり「感謝」に替わりました。私たちは「聖餐」と呼んでいますが、この呼び名も形式も教会によって多様です。「パン種の入っていない一つのパンを裂くこと」を主の晩餐の恵みの重要なことしている教会があります。27,28に「ふさわしくパンと杯に与かるように」勧められていますが、その相応しい意味は、聖餐の形式ではありません。このパンが私の罪のために十字架についてくださったイエスの体であると畏れと感謝を以て受ける信仰と、この集まりが神の栄光を現すのにふさわしいかという信仰生活のことを指しています。自分の信仰と生活がパンと杯を受けるのに相応しいか自分を吟味し、確かめて感謝して聖餐に与かるのです。そのようにして聖餐に与かる時、主の晩餐の恵みをいただくことができるのです。罪深い私たちが、自分勝手に飲み食いして生きていた者が変えられ、感謝して神の栄光を現す者にされるのです。その時には教会の集まりに仲間割れはなくなり、神の栄光を現す集まりになります。

尊い御子イエスの十字架によって私たちが赦され生かされている恵みを、信仰によって聖餐に与かることで深く味わい知っている者は、その赦され生かされている感謝と喜びを証しして生きる者とされて歩むのです。