2024年3月31日
説教題:ご復活は曙と共に
聖 書:詩編57編8~12節、ヨハネによる福音書20章11~18節
マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
(ヨハネによる福音書20:18)
主のご復活、ハレルヤ!
今年の受難節は、ヨハネによる福音書から恵みをいただいてまいりました。昨日の土曜日までの6週間、私たちはヨハネによる福音書の御言葉に、神さまの御心とこの世の逆説的な在り方を聴きました。人の罪が深まるにつれて、主のご栄光 ― 私たちへの慈しみと導き ― がますます輝くことを知らされてまいりました。
十字架の出来事は、人の罪の極みでありました。まさにその時に、イエス様は私たちに代わって罪を贖われ、十字架で死なれました。このようにイエス様に代わっていただかなければ、私たちは救われず、滅びるしかなかったからです。イエス様の十字架の出来事が、このように私たちの救いのためだったことは、三日後のご復活によって初めて私たち人間に明らかになりました。
十字架の出来事と同じように、神さまの御業はあまりに壮大で、私たち人間の思いをはるかに超えています。そのために、イエス様の弟子たちや、それまでイエス様を慕って付き従って来た者たちは、イエス様のご復活をすぐには理解できませんでした。恵みを恵みとして受けとめることができなかったのです。それは、現代に生きる私たちも同じです。神さまがイエス様のよみがえりで私たちに与えてくださった恵みを、すぐに理解して受けとめるのは、私たち人間にとっては難しいことです。つい、死者が復活することなどあり得ないのではないかと、人間の常識で復活を捕らえようとしてしまうからです。
イエス様のご復活の恵みを心に深く受けとめるにあたり、今日の聖書箇所で鍵となる言葉・キーワードは『見て、信じる』、それから『伝えられた御言葉を聞いて、信じる』 ― この二つです。さらには、この二つの違いをはっきりと心に留めることです。
そのために、まず、イエス様のこの言葉をご一緒に聴きましょう。今日の聖書箇所の少し先にある御言葉、ヨハネによる福音書20章29節です。お読みしますので、どうぞ良い耳を開いてお聞きください。「見ないのに信じる人は、幸いである。」このイエス様の御言葉は、「伝えられた御言葉を聞いて、イエス様を信じる者は幸いである」と言い換えることができます。
「見ないで信じる人は、幸いである」 ― そのイエス様の御言葉を心に留めて、ご一緒に今日の御言葉を読んでまいりましょう。
ヨハネによる福音書20章は「週の初めの日」と語り始め、それが日曜日の出来事だったことが示されています。イエス様が十字架に架けられたのが金曜日、そして全地はイエス様のいない暗黒の土曜日を過ごして日曜日の夜明けを迎えました。土曜日は安息日で何も作業をしてはならないと律法で決められていたので、弟子たちも、イエス様を慕っていた者たちも、イエス様のお体を葬りにふさわしくきれいにして差し上げることができませんでした。
そこで、明るくなるのを待ちかねて、マグダラのマリアは墓に走りました。イエス様の時代のユダヤの墓は横穴の洞窟を利用したものが多く、洞窟の入り口を大きな石で塞いで亡くなった方の体を納めます。ところが、その大きな石が脇に転がり、墓はぽっかり口を開けていました。
これを見ただけで、マリアはイエス様のお体が墓から盗まれたと思い込みました。イエス様は死刑に処せられましたが、亡くなった後もひどい扱いをされて葬ることもできないと、マリアは思ったのです。そこで、マリアはペトロとヨハネのところへ走り、「主が墓から取り去られました。」(ヨハネによる福音書20:2)と知らせました。
ペトロとヨハネは墓に走り、実際に墓の中に入ってイエス様のお体がないことを確かめました。今日の聖書箇所の8節に、この言葉があります。お読みします。「見て、信じた。」イエス様の体がないことを「見て、信じた」のです。イエス様のご復活を信じたのでは、ありません。イエス様のお体が墓にないので、人間の常識の中だけの理解で「盗まれた」と思い込んで、それを信じたのです。ですから「見て、信じた」の後に、聖句はこう続きます。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(ヨハネによる福音書20:9)
それから、ペトロとヨハネの二人の弟子は、何もせずに帰ってしまいました。イエス様が死刑にされたことで大きな衝撃を受けていたペトロとヨハネは、さらにショックを受けて何もする気にならなくなってしまったのでしょう。死刑にした後も、その遺体を侮辱するようなひどいことをする者たちが、イエス様の弟子である自分たちにも危害を加えるのではと恐ろしくなってもいたでしょう。無気力と恐怖に、二人は支配されていました。
そして、ここから ― ヨハネによる福音書20章11節から ― が、今日 与えられている聖書箇所です。マリアは一人、墓の外に立って泣いていました。マリアの心は、喪失感と悲しみでいっぱいでした。そこに、ご復活のイエス様が現れてくださいました。私たち人間は「見て、信じる」者たちですから、マリアはそのお姿を見て、イエス様のよみがえりを信じたのでしょうか。
いえ、そうではありません。聖句を注意深く読みましょう。14節からお読みします。「こう言いながら(マリアが)後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」
マリアはイエス様を見ても、わからなかったのです。15節の中ほどにあるように、園丁だと思っていました。マリアがイエス様だと気付いたのは、どの瞬間でしょう。よく耳を澄ましてお聴きください。「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先生』という意味である。」
マリアがイエス様に気付くことができたのは、イエス様を見たからではありませんでした。イエス様に呼びかけられて、気付いたのです。
思えば、マリアだけでなく、私たちは皆そうなのではないでしょうか。私たちはイエス様が天に昇られて父なる神さまの御許に帰られた後の時代、聖霊降臨後の教会の時代を生きています。だから、ご復活のイエス様のお姿を実際に見ることはできません。しかし、私たちはイエス様が御言葉・聖書の言葉を通して私たちに語りかけてくださっているのを知っています。イエス様が天に昇られた時に約束してくださった聖霊の恵みによって、それを知らされているのです。
私たちが聖書を読んで感動し、御言葉で心を奮い立たせられ、苦しみや悲しみの時に慰められ励まされて力をいただくのは、御言葉を通してイエス様が私たちそれぞれに呼びかけ、それぞれの心に語りかけてくださるからです。その呼びかけこそが、私たちが復活のイエス様に出会うということです。
マリアはイエス様に呼びかけられ、イエス様が死を超えて共においでくださることを知り、悲嘆から喜びへと引き上げられました。本当に、どれほど嬉しかったことでしょう。夜が明けてあたりに光が広がるように、マリアの心に大きく希望が広がりました。
今日の聖書箇所の最後の聖句・18節には、イエス様に出会ったマリアが喜びと勇気に満たされて取った行動が記されています。
18節をお読みします。「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」マリアは、イエス様に従っている自分の仲間・兄弟姉妹のところへ行って、わたしは復活のイエス様に出会ったと語り、イエス様がおっしゃったことを伝えたのです。
イエス様のご復活から後、2000年以上の間、私たちキリストの教会はこのマリアと同じことを教会の使命として行い続け、今に至ります。
私たちは、人生のある時・ある瞬間 ― 多くは、失意や悲しみの中 ― 、イエス様に声をかけられます。それは、肉体の耳に聞こえる声ではなく、御言葉を通して私たちの魂に届く声です。主は、その御声を通して私たち一人一人に語りかけ、私たちの心を暖め、励まし、寄り添ってくださいます。
私たちはそれぞれ、主に出会った者たちとして同じ信仰の体験を持つ兄弟姉妹と教会として歩みます。イエス様の言葉を伝えて宣教・伝道を行い、新しくイエス様との出会いをいただく兄弟姉妹と手を携えて進み続けます。
今日の聖書箇所・御言葉は、悲嘆の日や苦しみの時に、必ず思い起こしたい希望の源です。イエス様はよみがえられた…そして、私に、私たちそれぞれに呼びかけてくださり、いつも共においでくださいます。
今日は、復活日・イースターであると同時に、2023年度最後の日でもあります。この2023年度を、私たち薬円台教会は教会創立50周年の一年として心をひとつに歩んでまいりました。コロナ禍から解放されて間もなくでしたが、主に導かれて力強く進むことができました。導きの主に、あらためて深い感謝をささげます。これからの50年、いえ、そのもっと先までも、イエス様は私たちと共においでくださいます。どんな時も、私たちそれぞれに、また薬円台教会の群れに寄り添って、呼びかけ、慰め、力づけてくださいます。その安らぎと励ましを心に、今日からの日々を力強く歩んでまいりましょう。
2024年3月24日
説教題:救いが成し遂げられた
聖 書:詩編22編28~33節、ヨハネによる福音書19章17~30節
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
(ヨハネによる福音書19:30)
今日は「棕櫚の主日」です。この「棕櫚の主日」から受難節6週間の最後の週が始まり、この一週間・7日間にイエス様の身に、また私たち全人類の歴史に刻まれる実に大きな出来事が起こります。受難週の一日、一日に何が起こったのかをご一緒にあらためて思いめぐらしてまいりましょう。
まず日曜日・棕櫚の主日です。イエス様は、弟子たちやイエス様を慕って付き従って来る者たちと共に神殿に都・エルサレムに到着されました。イエス様はここまでの約3年間、伝道の働きをなさっていました。人々の病を癒し、空腹を満たし、神さまの御子として、天の父の愛と正義を伝えて人々の心を豊かに満たしてくださいました。その噂はエルサレムにも届き、エルサレムの人々はイエス様の到着を棕櫚の葉を振って大歓迎しました。
人々はイエス様が凱旋将軍のように軍馬にまたがり、威風堂々と町に入られる姿を期待しましたが、イエス様は人々の意表を突く行動を取られました。小さなろばに乗って、エルサレムに入られたのです。自らを低めて、私たち人間すべてと共においでくださる姿を、イエス様はこうして表されました。人々は驚きながらも、そのユーモラスな姿を喜んで大歓迎しました。
また、ユダヤの真実の王・救い主メシアが小さなろばに乗る姿は、天の父の救いのご計画のうちにあり、すでにザカリヤ書に預言されていました。今日の招きの詞が、その救い主の到来を語る預言の言葉です。イエス様は、ご自分が真の救い主であることを明確に示すために、ザカリヤ書の預言どおりに行動されたのです。
翌日月曜日、イエス様は神殿の境内で「宮清め」をなさいました。「わたしの父の家は祈りの家である」とおっしゃって、神殿の境内で私利私欲のための商売が行われ、ユダヤ人ではない異邦人が静かな祈りを妨げられていることに憤られました。
火曜日は、イエス様が神殿の境内で律法学者たちと神学論争をなさった日です。イエス様は、律法が人間的に解釈されていることを悲しまれて、今のままでは ― つまり救いのみわざ・イエス様の十字架の出来事とご復活がなければ ― エルサレムは救われない、この世に希望はないと嘆かれました。世の救いのために、イエス様の十字架の出来事とご復活は絶対に成し遂げられなければならない神さまのご計画だったのです。
水曜日は、油そそぎの日でした。イエス様は、エルサレムから4キロほど離れたベタニアの町の家に招かれました。その時に、一人の女性がたいへん高価で貴重なナルドの香油を大量にイエス様にそそいだ出来事が起こりました。「香油をそそがれる」とは、神さまに選ばれ、立てられた者であることを表します。イエス様が真実に神さまから遣わされた救い主、真の世の指導者だと示されたのです。
木曜日が、最後の晩餐の日でした。「洗足木曜日」と言われるように、イエス様は弟子たちの足元に跪(ひざまず)いて身を低くし、「足を洗う」という奴隷の仕事を弟子たちのためになさって、ご自身がすべての人に仕える方であることを示してくださいました。真実の指導者とは、権力と暴力で自分の周りの者たちを支配し、搾取するのではなく、むしろその逆に自分の周りの人々のために身を挺して働く者であるとはっきり伝えられたのです。
さらに、最後の晩餐・過ぎ越しの食事の席では、パンを裂いてご自分の体がこのように人々の救いのために裂かれること、杯を取ってご自分の血潮が人々の救いのために流されることを告げられました。
この木曜日の夜に、イエス様はキドロンの谷・ゲツセマネの谷で祭司長や律法学者たちの一味に逮捕されました。
金曜日は、ご受難の日・イエス様が十字架に架かられた日でした。聖金曜日とも、受難日とも呼ばれます。
今日、ご一緒にいただいているヨハネによる福音書の聖書箇所には、イエス様が十字架で処刑された時の出来事が時系列的に記されています。
イエス様は鞭打たれた後、十字架を背負わされてゴルゴタの丘に向かいました。他の福音書と併せて読むと、イエス様が十字架に架けられたのが午前九時だったことがわかります。今日の聖書箇所にも記されていますが、この時、イエス様と同じように十字架で死刑に処せられるものがイエス様の他に二人、いました。強盗の罪で死刑となる者と並んで、イエス様は死ななければならなかったのです。それぞれの罪状・罪が何であるかが、十字架の上に掛けられました。イエス様をいいかげんな裁判で死刑にせざるを得なかったローマ帝国の総督、ポンテオ・ピラトは、イエス様の罪状としてこう記すよう命じました。「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」それを見たユダヤ人の祭司長が、ピラトにもっと正確にこう記した方が良いと進言しました。「この男はユダヤ人の王と自称した」(ヨハネによる福音書19:21)ところが、ピラトはそのままにしておくようにと言いました。今日の聖書箇所の19章22節です。
イエス様は、真実の指導者とは何かという意味において神さまがご自身の宝の民ユダヤ人に、また私たち人類すべてに与えてくださった「王」です。神さまは、この時、実に不思議な方法でポンテオ・ピラトを用いました。逆説的かつ皮肉な仕方で、ピラトが命じたイエス様の罪状は神さまの真実を語ることになったのです。ヨハネによる福音書は、このように神さまの救いのご計画がイエス様の十字架の出来事を通して進められていることを明らかにしています。
続いて19章23節から語られるイエス様の下着のことも、すでに聖書の言葉「(彼らは)わたしの着物を分け 衣を取ろうとしてくじを引く。」(詩編22:19)として記されたことの実現でした。
受難週の一日一日の出来事を通して、私たちが御言葉から知らされることは天の父がイエス様を遣わしてくださり、救いのご計画を着々と進められたことです。だからこそ、イエス様は息を引き取られる時に「成し遂げられた」とおっしゃいました。父なる神さまのご計画が成し遂げられたのです。
イエス様が最期の最期まで神さまに従いぬいて、私たちの救いを成し遂げてくださったことに感謝をささげましょう。イエス様が最期まで主に忠実に仕え、信仰者としての真実の姿を示してくださったことを深く心に留めて この受難週の一週間を過ごしましょう。
2024年3月17日
説教題:暗闇に輝く光
聖 書:出エジプト記3章13~14節、ヨハネによる福音書18章1~11節
イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。
(ヨハネによる福音書18:6-9)
受難節に入ってから、ヨハネによる福音書からイエス様の十字架への道・ご受難をたどっています。前回の礼拝までに聞いた御言葉から、イエス様の十字架の出来事は 相反する二つの事柄が交叉して起こったということに気付いておられると思います。十字架の出来事は、神さまが私たちの救いのためになさった大いなる御業でした。同時に、十字架の出来事は、人間がまったく罪のないイエス様を死刑に処した、人の罪の極みの所業でした。神さまが私たちを愛してそそいでくださる栄光の光が、まばゆく輝いたのはこの十字架の出来事でした。同時に、人間の罪の暗闇が暗さを極めたのもこの時だったのです。今日の聖書箇所は、その光と闇の中に立つイエス様のお姿を鮮やかに私たちに示しています。
今日の聖書箇所は「こう話し終えると、イエスは…」と始まっています。ヨハネによる福音書14章から17章の終わりまで、イエス様はずっと弟子たち11人に心を傾けて語り続けておられました。なぜ弟子たちは12人ではなく、11人だったのでしょう。イエス様を逮捕する計画に加担して、「この人がイエスだ」と逮捕しようとしている者たちに知らせる裏切りを銀30枚で引き受けたユダが、その場からいなくなっていたからです。残った弟子たち11人に、イエス様は福音書の章の数にして4章にわたって語られました。ご自分が裏切られて逮捕され、十字架に架けられると知っておられたので 父なる神さまの愛と正義を弟子たちに伝え、言い残しておこうとされたのです。14章から17章までの御言葉をイエス様の「告別説教」 ― 十字架での死を覚悟された遺言にあたる説教 ― と呼ぶことがあります。前回ご一緒に聴いた「わたしはぶどうの木」と始まる御言葉も、この中にあります。
すべてを語り終えた後に、イエス様は逮捕される場所、キドロンの谷へ向かわれました。この「キドロンの谷」をゲツセマネと記している福音書もあります。イエス様がエルサレムにおられる間、弟子たちとの、またお一人での祈りの場所となさっていたところでした。弟子の一人だったユダはそれをよく知っていたので、3節にあるように「一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって」来ました。
そこには深く暗い闇が広がっていました。だから、彼らは「松明やともし火や武器を手にしていた」のです。「一隊の兵士」は、当時のユダヤを植民地にして支配していたローマ帝国の兵士たちです。その数は、およそ600人だったと言われています。
たった一人の、丸腰のイエス様を逮捕するために600人と、ユダヤの主だった指導者たち。彼らは松明、ともし火、武器を手にしてたいそう勇ましい様子でした。本当に強く、勇ましかったのでしょうか。いいえ、彼らは怯えていたのです。ナザレのイエスというたった一人の青年を怖がっていました。富も名声も経歴も何もないけれど、民衆に凄まじいほどに慕われ、愛され、尊敬されて、愛のわざを行うイエスという青年が民衆を率いて彼らの地位を奪うのを恐れていたのです。
イエス様は、困っている人・悩んでいる人、社会の底辺で喘いでいる人たちに助けの御手を差し伸べておられました。その優しさを恐れる、危険だと感じて排除しようとする、捕らえて殺そうとするのは見当違いも良いところです。これこそが、罪の闇だったのです。その闇の中に、神さまから遣わされた光であるイエス様は立っておられました。
ヨハネによる福音書は、イエス様が世に遣わされた光であることをその書の冒頭で告げています。ヨハネによる福音書の第1章1節と4から5節をお読みします。「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」この「言」はイエス様のことです。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」 イエス様の内にこそ、光があります。そして、5節です。「光は暗闇の中で輝いている。」今日の聖書箇所は、まさにこの事実をそのまま表しています。しかし、5節には、続けてこのようにも記されています。「暗闇は光を理解しなかった。」
イエス様の優しさを、愛を、ユダヤ社会の指導者たちは理解しようとせず、受け容れず、光を闇が呑み込もうとしていました。そんなことが、できるわけがないにもかかわらず。それが、今日の聖書箇所に記されている出来事です。
この時、イエス様は罪の闇である祭司長やファリサイ派の人々が遣わした下役たちがご自分を捕らえに来たことをわかっておられました。だから、彼らの前に進み出て、敢えて こう尋ねて質したのです。「だれを捜しているのか」彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエス様は「わたしである」と自らおっしゃいました。ユダが、裏切りの接吻をするまでありませんでした。
イエス様がおっしゃった「わたしである」は、神さまがご自身を顕す時に語る言葉・顕現の言葉です。今日の旧約聖書の箇所 出エジプト記3章14節で、神さまは初めてモーセにご自身の名を伝えた時に「わたしはある。わたしはあるという者だ」とおっしゃられました。ヨハネによる福音書は、今日の聖書箇所で、イエス様が「わたしである」とおっしゃったことを通して、イエス様が神さまであることをはっきりと記しています。
今日の聖書箇所の6節に、これはどういうことだろうと不思議に思えることが起きています。6節をお読みします。「イエスが『わたしである』と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。」ここにある「地に倒れた」という言葉は、もとの聖書の言葉では そのまま「ひれ伏した」と訳しても何ら差支えのない単語です。イエス様を捕らえに来た者たちは、神さまに造られた人間の本来の姿を現わして 思わずイエス様の前にひれ伏しました。
ただ、ここで彼らがイエス様に平伏して十字架の出来事が起こらなくなるのは 神さまの御心ではありませんでした。十字架の出来事は、私たちのための救いのご計画だからです。私たち人間すべてを救うために、私たちが一人も罪の闇の中で失われないために、イエス様は十字架に架からなければならなかったのです。だから、イエス様はもう一度、ご自身を捕らえに来た者たちに尋ねました。「だれを捜しているのか」そして、天の父の御心のとおりに、イエス様は自ら逮捕されました。
この時、ペトロが持っていた剣で大祭司の手下に打ちかかり、その右の耳を切り落としてしまいました。イエス様は、この御言葉・今日の聖書箇所の最後の聖句でペトロを戒めました。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
闇の中で武器を振り回せば、それは悪に悪をもって立ち向かうことになります。目には目を、歯には歯を、暴力には暴力をもって報復すると、悪の連鎖が続くばかりです。今もこの世に戦争があるように、それはこの世がこの世である限り抜け出せない罪の闇です。しかし、イエス様はそこに光を灯しにおいでくださいました。ペトロを戒め、この世の闇に光の窓を開けてくださいます。
ローマの信徒への手紙12章21節に、この御言葉があります。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」悪に、より強い悪で打ち勝つのではなく、善をもって打ち勝つことが御心にかないます。悪に悪で報復していたら、悪の連鎖が続くばかりだからです。悪の連鎖をを断ち切る光の道があることを、イエス様はご自身を犠牲にして十字架に架かり 私たちに示してくださいました。
この世がこの世である限り、世の終わりが来ない限り、一見すると悪の勝利が続いているように見えてしまうかもしれません。イエス様は、それが正しいわけがない、神さまはそんなことをさせるために私たち人間をお造りになったのではない ― だから、今の状況を当たり前と思ってはならない、諦めてはならないと身をもって知らせてくださるために、十字架に架かられたのです。
神さまは、光としてイエス様を闇のこの世に遣わしてくださいました。 私たちは、闇の子ではなく光の子です。光の子は、闇の中にいながらも 光をめざして希望をもって歩みます。イエス様がお命をかけて私たちに賜ったこの希望の光を心に堅く留めて、この新しい一週間を進み行きましょう。
2024年3月10日
説教題:主につながり続けよう
聖 書:イザヤ書27章2~6節、ヨハネによる福音書15章1~5節
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」
(ヨハネによる福音書15:4)
前回・受難節第三主日の御言葉で、イエス様はご自身を「一粒の麦」にたとえて 十字架への道を歩まれる思いを語られました。今日の聖句では、ご自身をぶどうの木にたとえておられます。
すでにお気付きの方も多いと存じますが、今日の聖書箇所ヨハネによる福音書15章1~5節のうちの第5節は今年度の薬円台教会の主題聖句です。第5節を、あらためてお読みします。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」教会総会で、今年度の主題聖句としてこの聖句を掲げたのは、教会全体が この御言葉を通して 教会の使命と働きを明確に示され、導かれて進むことができると私たちが心ひとつとされて信じたからです。教会で教会員をさして言う言葉に「教会の枝」がありますが、それはこの箇所をもとにしています。
教会につながる人は皆、イエス様を一本の木の幹として、そこから生え出て 互いにつながり合う枝です。施設への入居などで礼拝出席がきわめて難しくなった方々も、毎主日の礼拝をささげる方々も、今は諸事情から教会から足が遠のいている方も、信仰に揺らぎを感じている方も、等しくイエス様を基として生きる力と勇気、希望をいただいて、共に前へと、未来へと進む恵みをこの聖句は告げています。そこで、薬円台教会はこの聖句を掲げ、今年度の主題を「主イエスにつながり続けよう」として、歩んでまいりました。
その恵みを今、ここであらためて確認したうえで、「イエス様がぶどうの木、私たちがその枝」とはどういうことかを、今日はイエス様の十字架の出来事を心に留めて御言葉に聴きたく思います。そのために、まず神さまが私たちにとってどのような方かを、今日の旧約聖書の御言葉から学びましょう。
今日の旧約聖書箇所、イザヤ書27章2節では、天の父なる神さま・私たちを造られた主がご自身のことをこう語っておられます。お読みします。[「その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え。主であるわたしはその番人。」神さまは私たち人間を「ぶどう畑のぶどう」に、ご自身を「畑の番人」にたとえておられます。
畑の番人である神さまは、ぶどうである私たちに水を絶やさず与え、昼も夜も寝ずの番をしてくださって見守り、侵入してくる敵と戦ってくださいます。自分では何もできないぶどうのために、身を粉にして、時には身を挺して働いてくださいます。
ここで大切なことは「ぶどう畑の番人」と、自分では何もできずにただ世話をされ、守られる一方の「ぶどう」は、まったく次元が違うということです。神さまは、私たち人間をご自身に似た者に造ってくださいました(創世記1:27)が、神さまと私たちとは、根本的にまったく異なっています。
神さまは、私たちを造り、守り、ご自分と共に生きる永遠の命を与えてくださる「創造主にして番人、常に共におられるインマヌエルの主」です。一方、私たちは、自らを造り、守り抜くことはできません。また、私たちは永遠を概念として受けとめることはできても、自分を永遠のうちに置くことは決してできません。
私たち人間の中で、永遠の源である神さまがおられることを、生まれた時から知っている者は誰一人としていません。聖書と、信仰共同体である教会で語られる御言葉、兄弟姉妹の交わりを通して主の恵みを教え伝えられ、聖霊のお働きによって信仰をいただかなければ、神さまがおられると心にうけとめることすらできないのです。この事実が示すのは、それほどに、私たちは神さまから遠い存在だということです ― 聖書の言葉を用いれば、罪深く、救いがたいということです。
私たち人間とはまったく異なり、私たちが暮らすこの世を創られ、それを存続させておられる方・神さまのことを、「絶対他者」と呼ぶことがあります。哲学の言葉で、人間とは絶対的に異なる、人間とは他の者である超越的存在をさすときに用います。
今日の御言葉のたとえを用いれば、神さまが「ぶどう」になることはあり得ないのです。しかし、全能の神さまは、あり得ないことを行う奇跡のみわざをなさいました。それが、今日の聖句に表されています。
神さまの御子イエス様は、神さまです。私たちが仰ぐ三位一体の神さまは父なる神・救い主なる御子イエス様・聖霊の三位一体の神様です。そして、イエス様はご自身のことをこうおっしゃいました。その御言葉、今日の聖書箇所第5節を、これまでに語ったことを踏まえてお聴きください。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」
絶対他者である神さまが、私たちと同じ人間になった ― これが、奇跡です。天の父なる神さまは、私たちからきわめて遠い存在で、私たちとつながることはありません。しかし、私たちと敢えてつながってくださるために、御子イエス様を私たちと同じ人間として世に遣わしてくださったのです。絶対他者であるにもかかわらず、私たちと同じ罪人の仲間になってくださいました。
罪深く、救いがたい私たちを救うためには、その私たちの罪が私たちの命そのもので償われるだけではとうてい足りなかったからです。神さまご自身が、私たちを創られた責任を一身に背負って、ご自身を ― つまりは、ご自身の御子イエス様を ― 犠牲にしなければ、その罪の深い穴は埋めようがなかったのです。
私たちを十字架のみわざで救ってくださったイエス様は、三日後にご復活なさり、その事実を通して 私たちと永遠に共においでくださる約束を賜りました。ご復活のイエス様は、本当に私たち教会の基、教会というぶどうの木の幹となって 枝である私たちの隅々にまで御言葉の糧と生きる力・勇気・希望を与えてくださいます。
イエス様は、今日の聖句でおっしゃいます。「わたしにつながっていなさい。」「つながる」という言葉は、もとの聖書の言葉では「とどまる」「踏みとどまる」「留まる」「泊まる」と同じです。
今日の聖書箇所の少し先・9節で、イエス様はこうおっしゃいました。お読みします。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」イエス様の愛にとどまり、イエス様につながり続けて、真の力をいただきつつ 豊かに実を結ぶ希望を抱いて この新しい一週間を進み行きましょう。
2024年3月3日
説教題:一粒の麦
聖 書:イザヤ書53章1~5節、ヨハネによる福音書12章20~26節
イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
(ヨハネによる福音書12:23-24)
受難節第3主日の今日、私たちはヨハネによる福音書からイエス様がご自身を「一粒の麦」にたとえた御言葉に聴いています。十字架に向かう御心を明確にされた御言葉です。
この御言葉はキリスト者でない方にも、聖書が伝えるいわゆる名言・美しい教えとして知られています。それは、我が身を犠牲にして多くの他の者を活かす美徳の勧めの言葉です。
一粒の麦が、その麦としての形を保って土に埋もれているだけなら、何も変わらない。もし、麦粒としては自らのかたちを失い、そこから芽が、また根が出て麦粒としては壊れてしまえば、粒から生え出た麦の穂は豊かに実を結ぶことになる ― イエス様は、こう語られました。
イエス様は一粒の麦のたとえを語られた24節の、すぐ次の25節でそのたとえの意味をこう語られます。お読みします。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」自分自身にこだわらず、この世で自分を手放す者・自分を捨てる者・自分の命を他の者のために犠牲にする者は、とこしえに栄える ― イエス様は、そう語られました。
ここに、この世のものとは異なる新しい価値観が示されました。人間は自然界に造られた者として、生存本能を持っています。限られた食料と水を確保して生き残るために、私たち人間は競争するのが当たり前、戦って必要な物を勝ち取るのが当たり前の「この世」に生きています。しかし、それだけが人間の生きる意味ではないと、神さまはイエス様の十字架の出来事を通して私たちに教えてくださるのです。
ただ、ここで私たちは「ああ、人のために自分を犠牲にすることは麗しいことだ」と道徳的、倫理的なこの世の導きをいただいて「心が洗われるような良い話だ」と納得し、感心して終わってしまってはなりません。イエス様の十字架の出来事はこの世の道徳的な教訓を超えて、天の父なる神さまの栄光を指し示しています。
それを、イエス様は23節でこう語られます。お読みします。「人の子が栄光を受ける時が来た。」また、私たちがイエス様について行くことで、この世の次元を超えて神さまの愛に包まれ、正しい者とされる恵みをこう語っています。今日の聖書箇所の最後の聖句、26節です。お読みします。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
繰り返しますが、イエス様は、私たちが十字架のイエス様を仰ぐことで、天の父の栄光に与る恵みへと私たちを招いてくださっているのです。それはたいへん具体的に申せば、イエス様の弟子になり、福音の伝道・宣教のために働くことへの招きです。
今日の聖書箇所 ヨハネによる福音書12章20節から26節の御言葉は、つい後半の「一粒の麦」に心を惹かれ、そこだけに集中しがちですが、伝道の奉仕へと私たちを招いています。20節から22節に、それが記されています。今日は、この箇所の御言葉に心を向けましょう。
20節にあるのは、過ぎ越しの祭りで神さまを礼拝するために神殿の都エルサレムにやって来た人たちの中に何人かのギリシア人がいたという言葉です。神さまの宝の民ユダヤ人ではないけれど、神さまを真の神さまと信じてギリシアから地中海を渡ってはるばるやって来た外国人・異邦人たちです。
21節で、このギリシア人たちがイエス様の弟子フィリポに熱心にこう頼みました。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」続けて、22節をお読みします。「フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。」聖書はどうしてこんな回りくどいことを、わざわざ書き残しているのでしょう。伝道のためです。
フィリポがアンデレに話し、二人で一緒にイエス様のところへ行ってギリシア人たちのことをイエス様に取り継いだのは、ヨハネによる福音書の初めの方に記されていることを踏まえています。イエス様のところへ、まずアンデレがペトロを連れて行き、二人がイエス様に従う決心をして弟子になり、次の日にフィリポもイエス様の弟子になりました。
イエス様の弟子になるとは、イエス様を信じてつき従って行き、イエス様のことを語り伝える伝道を行うことをさしています。その大切さを、私たちはこの何気ないように見える御言葉から読み取るようにと勧められています。
ユダヤ人ではない人たち・ギリシア人がイエス様に会いたいと言った時にこそ、イエス様の十字架の御業を通して主のご栄光があまねく世を照らす時が到来したのです。それを、イエス様は明確に告げられました。この御言葉です。今日の23節をお読みします。「イエスはこうお答えになった。『人の子が栄光を受ける時が来た。』」
ユダヤ人という民族を超えて、ギリシア人が、ローマ人が、私たちアジアに暮らす者たちが、そしてこの世のすべての人がイエス様を語り伝える者となる道が拓かれる時こそが、イエス様が十字架で死なれ、救いの御業をなさる時だったのです。
今日は、この後に聖餐式があります。聖餐式の制定の言葉の最後は、こう結ばれています。「あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」(日本基督教団 口語式文:コリントの信徒への手紙一11:26)
イエス様を信じる者は皆、イエス様の弟子であり、伝道者です。信徒の方々は証者として、教職は説教を通して、それぞれ伝道します。信仰者は、皆 伝道者です。伝道者が伝えるのはイエス様が私たちの救いのために十字架で死なれ、三日後に復活されたという福音です。ただ、それだけです。
私たちは証しを立てます。それは、イエス様がこの私のために十字架で死んでくださったことを伝える証で、自分を語るのではありません。説教者である私は聖書を説き明かして説明し、解説する役割を担っていますが、私はこの時、私ではなく、通り良き管として用いられているだけです。私たちはそれぞれ、自分にこだわらず、自身を捨てて福音を伝えます。そのように、私たちは伝道を通して、それぞれが「一粒の麦」としてイエス様に用いられるのです。
証しを立てた人の名も、説教者の名も、この世に残らなくてよいのです。福音が語り継がれ、人々がイエス様の救いの御業を聞き、恵みに与り、さらに語り継いでゆけば、それでよいのです。
私たちは皆、この世に名を残さなくても、人々の記憶から消え去っても、今日の聖書箇所の最後の聖句にあるように「父がその人を大切にしてくださる」のですから、それでよいのです。それ以上の幸いはありません。
栄光は、わたしたちにはありません。栄光は、ただ主にあります。
音楽の父バッハは、作曲した曲の最後に自分の名前をサインしませんでした。SDGとだけ、記したことが知られています。SDG とは、Soli Deo Gloria、「神にのみ栄光を」の頭文字です。神さまにささげた曲を通して、主を知り信じる人が起こされることが、バッハにとっての最高の幸福だったのです。自分の名前など、忘れ去られてよいと思っていたのです。
神さまにささげる私たちのすべての奉仕、すべての働きを通して、主を知り信じる人が起こされることが、私たちの至高の喜びです。その恵みを心に留めて、今日からの受難節第3週を主に導かれて進み行きましょう。
2024年2 月25日
説教題:民が皆、生きるために
聖 書:イザヤ書49章7~8節、ヨハネによる福音書11章45~57節
これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。(ヨハネによる福音書11:51-53)
受難節第2主日を迎えました。今日から復活日イースターまで、これまで講解説教で読んでいたルカによる福音書を離れ、イエス様の十字架への歩みとご復活をヨハネによる福音書の御言葉でたどりたいと思います。
今日の聖書箇所には、イエス様の十字架への歩みがこの世で決定づけられた経緯(いきさつ)が語られています。何が起こったのかを、ご一緒に読んでまいりましょう。
冒頭45節はこう語ります。「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。」この「マリア」は、イエス様の母マリアではありません。エルサレムから4キロほど南東に進んだところに、ベタニアという町があり、イエス様と親しい兄弟姉妹が暮らしていました。姉マルタ、妹マリア、そして弟のラザロです。
そのラザロが病気になり、亡くなってしまいました。すでに墓に葬られていたラザロを、イエス様はよみがえらせたのです。ヨハネによる福音書11章25節に、このイエス様の言葉があります。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」この御言葉がラザロに働き、彼はイエス様の言葉に従い、よみがえって墓から出て来ました。
ラザロのよみがえりを目撃したユダヤ人の多くが、イエス様を信じました。どのように信じたのでしょう。イエス様を神さまの御子、預言されたメシアとして信じるのなら良かったのですが、彼らの信じ方には別の期待が込められていました。
旧約聖書で預言されているメシアは、神さまの宝の民であるユダヤの人々を苦難から救うと預言されています。イエス様がおられた時代、ユダヤは、大国ローマの支配下に置かれた植民地でした。自分の国が他国に支配されているとは、たいへんな屈辱であり、大きな苦難です。ユダヤの人々の間に、メシア到来への期待が広がりました。彼らは、ローマ帝国に対して反乱を起こし、ユダヤを独立へと導いてくれる力強い指導者メシアが現れるのを切望するようになりました。イエス様がよみがえりの奇跡を起こすのを目撃して、人々はこの方こそがユダヤ独立革命のリーダーだと信じたのです。
独立を悲願と願う人々がいた一方で、反乱・独立革命が起こってはならない、それは困ると考える人たちもいました。ユダヤ社会で当時、指導者の立場にあった祭司やファリサイ派の人々です。彼らは、支配者であるローマ帝国と連携してユダヤ社会の秩序を守っていました。ローマ帝国と結託しているから、彼らは存在意義があり、権威を保っていられたのです。イエス様の人気が高まるに連れて、彼らは実際に反乱が起きて、宗主国ローマ帝国がその反乱を武力で鎮める事態になると予感しました。48節に、こう記されています。お読みします。「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」反乱が起きれば、それを鎮圧しにローマから大軍が投入され、たちまちユダヤ人は皆殺しにされてしまうとの彼らの不安と恐れが記されています。
当然のことながら、彼らは そのような惨状を絶対に招きたくなかったのです。その年の大祭司だったカイアファが、こう言いました。 「あなたがたは何も分かっていない。」(ヨハネ福音書11:49)大祭司とは、祭司長の中で、最も権威を持つ者です。その彼が「どうすればよいかなど、迷う必要は何もない、答えはもう明らかなのに、それを何も分かっていない」と言い切ったのです。
続いて、カイアファはその「答え」をこう語りました。50節をお読みします。「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
カイアファの計画はこうです ― ローマ軍にユダヤ民族が皆殺しにされてしまうのは、避けたい。ナザレのイエスとかいうその男をローマ帝国に対する謀反の罪で訴えよう。謀反を犯した者はローマ帝国によって死刑にされる。今、メシアではないかと人々が信じ始めているナザレのイエス一人がローマ式の死刑方法である十字架刑で死ねば、今の問題は解決する。イエスというあの青年一人を犠牲にすれば、国民全体は滅びない。
一人の命か、国民全体の命か ― ここには、究極の問いがあります。
わかりやすい例を挙げましょう。船が沈没して、頼りの綱の救命ボートには十人しか乗れないのに、乗ろうとしているのは十一人という状況です。無理やり十一人全員が乗り込めば、救命ボートは沈んでしまいます。一人を犠牲にすれば、十人は助かります。
皆さんだったら、どうするでしょう。何が正しいのでしょう。
自分の命も、隣の人の命も、同じように神さまが与えてくださった大切な命です。命はどれも、神さまのものです。それは真実ですが、それにしがみついて自分の命だけを守り通すのが正しいのでしょうか。今日、この聖書箇所を与えられていることをきっかけに、皆さんお一人お一人がそれぞれ、静かに思いを巡らす時間を持てると御心にかなうと思います。そして、イエス様はどうなさったかを、聖書に聴いていただきたく思うのです。神さまは、イエス様を通して自己犠牲の尊さを私たちに教えてくださいます。
今一度、今日の聖書箇所に戻りましょう。大祭司カイアファは、二つの声を持っていました。ひとつは、カイアファという人間の声です。もうひとつは、大祭司として神さまの言葉を伝える預言者としての声です。
カイアファがイエス様を犠牲にしてユダヤ国民を救おう、自分たち指導者層も助かろうと言った時、これは人間カイアファの声でした。国民の大多数と共に自分も助かりたい、また指導者であり権威を持つ今の自分の立場も守りたいという人間的な欲がもたらした言葉です。
ところが、同時に、これは神さまに導かれた言葉でもあったのです。51節に、この真実が記されています。お読みします。「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。」
ヨハネによる福音書は、さらにこの言葉にこめられた神さまのご計画を語っています。52節をお読みします。「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」イエス様がローマ帝国への反逆者として十字架で死刑になるのは、神さまの御心だと この御言葉は語っています。
イエス様が十字架で命を捨てられる ― すると、ユダヤの国民が救われるだけではなく、全世界の、すべての時代に生きる者が、神さまに命を与えられたことを知り、救われて主のもとにひとつに集められるという預言だったのです。
この預言が、今、この礼拝の場で実現されていることに気付いていただきたく思います。私たちはイエス様の十字架の出来事で救われたことを信じて、聖霊に導かれ、主に招かれて、今 この場に集められています。週日はそれぞれの持ち場で、いわば「散らされて」過ごしている者たちが、今、ひとつとされて主に礼拝をささげています。
もう一度、繰り返します。イエス様の十字架の出来事は、ユダヤの指導者層がイエス様を犠牲にしてユダヤを守り、自分たちが助かろうとするきわめて人間的なたくらみの結果でした。同時に、このように自分が助かることをまず考えてしまう人間を、神さまが救おうとされるご計画なのです。人間の罪による暗さが深まる中、神さまの救いのご計画が光を放っています。光と闇が交差する瞬間が、ここに語られています。この世が御心によって、救いの歴史・救済史の大きな一歩を踏み出したことを、この御言葉が告げています。
もう少し、今日の聖書箇所を読み進めてまいりましょう。53節はこう告げるのです。「この日から、彼ら ― 祭司長とファリサイ派の人々 ― はイエスを殺そうとたくらんだ。」さらに54節には、イエス様がエフライムに身を隠したことが記されています。
「身を隠した」とありますが、これは逃げ隠れしたというよりも、神さまが定めた時を待つためでした。神さまが定めた時とは、過ぎ越しの祭りです。その時に犠牲として屠られる「神の小羊」となるために、イエス様は十字架への道を歩み始めておられます。
過ぎ越しの祭りは、エジプトで奴隷だったユダヤの民が、神さまがお立てになった預言者モーセに率いられて、自由と独立へと歩み始めたことを記念するユダヤの祭りです。なぜ「過ぎ越し」というのかを、思い起こしていただきたいと思います。
神さまはユダヤの民に小羊を屠って、その血を家の門に塗るようにと命じられました。そのうえで、エジプト中の各家で最初に生まれた子の命を取る者を、神さまは遣わしました。エジプトの王・ファラオの長男、世継ぎの王子もこの時に命を奪われました。その使いの者は、小羊の血が門に塗られている家には決して入らず、そこを通り過ぎ ― 「過ぎ越して」行きました。小羊の血を門に塗ってあるユダヤの家の者は皆、初子(ういご)の命をとられるという災いから免れました。神さまの力を思い知らされて、エジプトの王はユダヤの民がエジプトから出て行くことを許しました。ユダヤの民は犠牲となった小羊の血によって救われ、奴隷の身から自由になったのです。
イエス様は、この救いの小羊です。皆が生きるために、ご自分は敢えて犠牲になって、その命を私たちに与えてくださったのです。その恵みを深く心に留めて、この受難節第2週を進み行きましょう。
2024年2 月18日
説教題:主の園の愛の歌
聖 書:イザヤ書5章1~7節、ルカによる福音書13章1~9節
…『もう三年の間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』(ルカによる福音書13:7-9)
今日の聖書箇所は「ちょうどそのとき」という言葉で始まっています。それは、「どんなとき」でしょう? 前回の聖書箇所に記されているので、まずその内容をご一緒に思い出しましょう。
イエス様は集まった群衆に、人は誰も皆、この世の終わりの日の裁きの時に向かって進んでいることを告げられました。恐ろしいことに思えますが、その裁きへと歩む私たち一人一人には、必ずイエス様が付き添ってくださっているのです。そして、自分中心の生き方から、本来の神さまのものとして生かされる生き方へと心を変えて ― これを、聖書は「悔い改め」と呼びます ― 神さまとの仲直りを勧めてくださいます。
ただ、今日の聖書箇所が語る時点でイエス様のお話に耳を傾けていた群衆には、それがわかりませんでした。「裁き」と聞けば、自分が自覚しないで犯した罪に対しても「罰」がくだされることだと、反射的に思ってしまっていたのです。人々がそのように感じておののいていた、「ちょうどそのとき」を、今日の聖書箇所はさしています。「ちょうどそのとき」、こんな出来事があったと、何人かの人が来てイエス様に知らせました。
13章1節から あらためてお読みします。「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。」(ルカ福音書13:1)私たちが使徒信条で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と信仰告白して、イエス様を十字架刑の苦しみに晒す決断をくだしたピラトの名前が出てきました。
当時、ユダヤの国はローマ帝国の植民地とされていました。ローマ帝国本国からユダヤに派遣されて、植民地を支配する裁量を任されていたのがローマ帝国の高い位にある役人だったピラトでした。「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」とは、ピラトがガリラヤで行われていたユダヤの人々の礼拝で、残虐な流血行為を行ったことをさしています。
旧約聖書に記されているとおり、ユダヤの礼拝ではいけにえの牛や羊がささげられます。ローマ帝国はローマ皇帝を神として崇めますから、ピラトはユダヤの礼拝でローマ皇帝が崇められていないことを激しく批判する意味で、こともあろうに礼拝中のユダヤ人を襲ったのです。
イエス様が「裁き」について語られていたので、群衆の何人かはこの出来事を次のように解釈したと推測できます。ユダヤのあちこちの町で同じように礼拝がささげられているのに、ピラトが襲ったのは、特に「ガリラヤ」の礼拝だった。どうして、「ガリラヤ」だったのだろう?そして、こう考えて納得するのです。襲われたガリラヤの人々は「裁き」を受けたに違いない ― 何か罪を犯していたから、罰として裁かれたのだ、と。たいへん卑近な俗世の言葉を用いると、ガリラヤの礼拝中に災難に遭った人たちには「バチがあたった」と思ったのです。
しかし、イエス様は、その考えを見抜いて、そうではないと知らせるために、こうおっしゃいました。2節から3節にかけての御言葉を、お読みします。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。」
さらに、イエス様はもうひとつの悲惨な事柄をご自分から話されました。それは、シロアムの塔が倒れて18人もの人々が亡くなった事故でした。その事故についても、人々は「亡くなった人たちは、自覚のあるなしにかかわらず、神さまの目からご覧になって何か大きな罪を犯していたから裁かれ、罰がくだり、塔の下敷きになったのだ」、「バチがあたったのだ」と何となく思っていました。その「何となく」思っていることを、イエス様ははっきりと否定されました。
4節のイエス様の言葉をお読みします。「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。」
イエス様がこれら二つの出来事を語られて、群衆に明らかになさろうとしているのは、「神さまはバチなどあてる方ではない」ということです。これは、たいへん大切なことです。
私たちは、事故や災害などの大きな苦難に遭うと、反射的にこう思ってしまいます ― 何も悪いことはしていないのに、どうしてこんなことになったのだろう。自分は、何か悪いことをしたから、その罰としてこのようなことが起ったに違いない。
私たちは起こった出来事に対して、本能のように「どうして自分に」または、「どうして、他の人ではなくこの人たちに」と理由を探さずにはいられません。そして、バチがあたったのだ ― 自分では気付かないうちに、何かの罪を犯していたから裁かれて罰を受けたのだと考えて、何となく納得しようとするのです。
「バチがあたる」という考えを、悪者が罰を受け、善人は幸せになる ― 悪は悪の報い・善は善の誉れを受ける「因果応報」という言葉で表すこともあります。イエス様は、この因果応報をきっぱりと否定されました。
そして、3節と5節で、繰り返してこうおっしゃいました。「言っておくが、あなたがたも(バチから免れた・逃れられたと思っているあなたがたも)悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」イエス様は、この御言葉で、神さまの御前では、皆 同じだとおっしゃるのです。皆、同じように罪深く、同じように神さまのもので、裁きの時には同じように神さまの御前に立つのです。
ここでイエス様はひと言、「滅びない」道を示してくださっています。それが「悔い改める」ことです。教会で、また聖書で用いられている「悔い改め」という言葉は、特別な意味を持っています。自分が神さまから命を与えられて造られた事実をよく心と魂とで受けとめ、自分の命も人生も、実は自分のものではなく神さまのものであると知って真実の平安をいただく ― それによって、神さまを中心とする生き方になる恵みを、聖書は「悔い改め」というのです。
「悔い改め」は、「神さまに愛されていることを何にも優る喜びとして、自分もひたすらに神さまを慕って生きる」と言い換えることもできます。
この世で、私たちは人間関係について「良い」または「悪い」という言い方をします。たいへん卑近で俗世的な表現ですが、わかりやすいのでこの言葉を用いると、私たちは神さまと「良い関係」を持てる時に幸福でいられます。人と人とが良い関係になるために、もし仲が悪い者同士だったら「仲直り」をします。
神さまと人間との関係が良いことについても、同じ言葉「仲直り」を用います。「仲直り」は、前回の聖書箇所のたいせつな言葉でした。イエス様は、私たち一人一人に寄り添って、あなたの命と人生はあなたのものではなくて本当は神さまのものなのだと言い続けてくださいます。その真実を受けとめて、イエス様と、神さまと良い関わりを結び「仲直り」をする時に、私たちは救われ、安心して生きることができます。
「仲直り」のしるしとして、人間同士は握手をします。互いに手を差し伸べ合いますが、神さま・イエス様との「仲直り」の時、イエス様が先に、そして初めからずっと私たちに手を差し伸べてくださっています。私たちがその手に気付いて、握り返すのをイエス様は忍耐強く、ずっと待ち続けてくださっているのです。
もうひとつ、実にたいせつなことを、今日の聖書箇所の後半が語っています。イエス様は、神さまがそそいでくださる愛に気付かない私たちを我慢強く待ってくださるだけでなく、その間には私たちのことを、神さまに執り成してくださるのです。
今日の聖書箇所 ルカによる福音書13章6節から、イエス様はその執り成しを「実のならないいちじくの木」の話で語られます。神さまが人々を造られ、大切に慈しんで養い育ててくださることを、今日の旧約聖書 イザヤ書5章1~7節の御言葉は神さまを園丁、人々をぶどう畑・ぶどう園とたとえて語っています。それをもとに、イエス様は私たちのことを「ぶどう園に植えられたいちじくの木」とたとえて語られました。
ぶどうが実る環境を整えたぶどう園ですから、いちじくの木にとっては実を成らせるのが難しい場所だと容易に想像できます。イエス様が園丁となって一生懸命世話をしても、ちっとも実がなりません。ぶどう園の主人である神さまは「実が成らない木をここに植えておくのは、場所ふさぎだから切り倒せ」とおっしゃいます。滅ぼしてしまえ、とおっしゃったのです。
ところが、イエス様はこう神さまにお願いしてくださいます。ルカによる福音書13章8節の御言葉です。お読みします。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。」
「滅ぼさずに、生かしておいてやってください。私が何とかしますから」 ― イエス様はこうおっしゃって、木の周りを掘り、肥やしをやるというたいへんな作業をなさるから見逃してやってくれと、実のならない木である私たちを神さまに執り成してくださいます。
木の周りを掘って、肥やしをやるという大仕事 ― これこそ、イエス様が私たちのために十字架に架かってくださった大きなみわざそのものです。そのみわざによって、イエス様は私たちを救い、ご復活によって希望を与えてくださいます。「そうすれば、来年は実がなるかもしれません。」(ルカによる福音書13章9節)と、神さまにさらに執り成してくださるのです。
私たちはイエス様がおられなければ、神さまに愛されていることを知らず、ただ裁きの時へと進み、滅びるしかない者でした。誰もが、皆 同じように滅びる者だったのです。イエス様は、その私たちを滅ぼすのは待ってくださいと天の父に願い、自分が私たちの代わりになるからと大きなみわざ・十字架の救いを成し遂げられました。三日後のご復活によって、私たちは滅びずにずっと神さまのものとされる永遠の命の約束をいただいたのです。
先週の2月14日は、受難節の最初の日である「灰の水曜日」でした。この日から今、私たちは受難節・レントを過ごしています。
私たちは毎日、イエス様の十字架で救われた恵みに感謝し、復活の希望に満ちてその日を過ごします。その感謝を深め、さらに大きな希望を心にいただいて、この受難節第二週を平安のうちに進み行きましょう。
2024年2 月11日
説教題:萬の事を所為に時 有也
聖 書:コヘレトの言葉3章1~11節、ルカによる福音書12章54~59節
あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。(ルカによる福音書12:57-58a)
今日の聖書箇所の冒頭は、イエス様がおっしゃられたこの御言葉です。お読みします。「イエスはまた群衆にも言われた。」(ルカ福音書12:54)イエス様は、弟子たちと群衆、両方に向けて語り始められました。
イエス様を慕い、仕事も家族も捨てて従い行く弟子たちとは異なり、群衆は、イエス様の評判を聞いて、好奇心からイエス様を見物に来た者がほとんどでした。その中には、弟子になりたいほどにイエス様を慕っている者もいたでしょう。一方、イエス様の評判が高いので、見物しに来ただけという者も少なくありませんでした。
イエス様が群衆に向けて語りかける時、それはありとあらゆる立場の人に向けておっしゃっている言葉と受けとめて良いでしょう。弟子たちはそれを一緒に聴いていますから、この時、イエス様は弟子たちに向けても同じように語られたと考えられます。さらにまた、時空を超えて、今、私たちに語りかけてくださっています。
イエス様は、群衆に向けて、また、今 私たちに向けて、今日の聖書箇所の54節から56節でこういう意味のことをおっしゃいます。「あなたがたは、空模様を見て、これからどういう天気、どういう時になるか分かる。」雲が西に出るのを見れば にわか雨の時が来ると分かり、南風が吹いていれば 暑い時になると分かる ― あなたがたは、ある程度、時を見分けることを知っていると、人間が持っている知識を駆使する力を、私たち自身にあらためて認識させてくださいました。
それを踏まえて、イエス様は56節の問いを、その場にいた者皆に投げかけられました。この問いです。「どうして今の時を見分けることを知らないのか。」この時、イエス様は、聴く者たちに「偽善者」と厳しい言葉で呼びかけられました。それは、「あなたがたは本当は見分けられるのに、できないとごまかしている」との意味をこめた呼びかけだったのです。あなたがたは、本当は分かっている。本当はやればできる。それなのに、知らん顔していてはならないと、イエス様は人々を励まされたのです。イエス様に こう言われても、群衆は「何のことだろう? 今がどんな時かを知っているはずだと、このイエスという人は言うけれど、自分には、何がなんだかわからない」とポカンとしていたことでしょう。
今日の聖書箇所は、二つの事柄に分かれているように見えますが、実はつながっています。56節の「どうして今の時を見分けることを知らないのか」と、57節の「どうして自分で判断しないのか」は、同じ問いかけです。イエス様は、ポカンとしている群衆に、また同じようにポカンとしている私たちに、すぐに「今があなたたちにとってどんな時であるか」を教えてくださいます。それが、58節のこの言葉です。お読みします。「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くとき」。「役人」は、少し先を読むと「裁判官」をさしていることが明らかです。
イエス様は、「今、あなたはあなたを訴える人と一緒に、裁判官のところへ行く道の途中なのだ」と、「今」が、人々にとって、また私たちにとって、どんな時かを明確におっしゃっています。この時、群衆は、ますます困惑したのではないでしょうか。いったい、どんな罪で訴えられて、その訴える人と裁判官のところに行かなければいけないのか…と首をひねったことでしょう。
イエス様は、それに対しても、すぐに答えを与えてくださいます。最後の59節で、借金を返さないから訴えられたのだということが語られています。借りたお金の全額を、最後の1レプトン(今の日本円にすると63円から72円ぐらいです)まですべて返さないと、牢に投げ込まれてしまうとイエス様はおっしゃいます。その場に集まっていた誰もが、自分は訴えられるようなことはしていない、そもそも借金をしていない、今、自分を訴える誰かと一緒に 裁判官のところに行こうとしてもいない、牢に投げ込まれるとは何ごとかと、思ったでしょう。イエス様のおっしゃることを、とうてい自分のこととは思えなかったのです。
私たちは、どうでしょう。イエス様の御言葉が意味することを、自分の事柄として受けとめることができるでしょうか。
私は、イエス様がこう私に語りかけてくださっていると受けとめています。「原田よ、あなたは今、刻一刻と裁きの時に向かって歩みを進めている。」まさに、そのとおりです。
この世の終わりには、イエス様がもう一度、世に来られて裁きをされます。私たちは今日の礼拝でも、使徒信条によって信仰告白をしました。その「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」の言葉のとおりに、私ばかりでなく、すべての人が、この世の終わりである主の裁きの時に向かって今を生き、今この瞬間を過ごしています。
ただ、ここで、私はハッと気づかされるのです。私は「神さまのもの」として、今を生き、この世の終わりに向かって瞬間から瞬間へと生きているということに。
イエス様を信じるようになる前・洗礼を受ける前の私は、自分を「自分のもの」だと思っていました。神さまに造られ、命を与えられて、自分は本来は神さまのものなのに、自分勝手に心も体も使い放題にしていました。この事実を、イエス様は「借金」と言い表しておられるのです。自分では借りたと思っていませんが、実は私は神さまのものを、好き放題にしていたのです。聖書は、これを罪と呼びます。
この罪に気付かないまま、この世の終わりの時に、神さまの御前に出たら必ずこう厳しく咎められるでしょう。「あなたはわたしのものだ。どうして、それに気付かずにいた。」
一方、この世の終りへの歩みの途上でイエス様と出会った人は、「自分は神さまのもの」であることに、イエス様との出会いを通して、終りの日に先だって、必ず気付かせていただけます。
今日の聖書箇所58節の「あなたを訴える人」は、イエス様です。イエス様は、この世の終わりの時に向かって、私に寄り添って一緒に歩みながら、ある時、私の心にこう語りかけてくださったのです。
「原田よ、あなたは自分は自分のものだと思っているようだが、違うよ、あなたは神さまのものだよ。あなたは、わたしの愛しい原田なんだよ。天の父が造り、私がいつも一緒にいるたったひとりのあなただよ。わたしがどれほどあなたを大切に思っているか、いつも一緒にいたいと願っているか、どうしてわかろうとしないのだ。わたしがこうして、ほら、手を差し伸べているのに なぜ、知らん顔しているのだ。」
イエス様は私のために、私に代わって肉を裂かれ、血を流して、「原田が借りた分」を十字架で神さまに返してくださっていました。その真理・真実にまざまざと気付かされて、心の底からイエス様に感謝して「申し訳ない」と思ったその時に、私は受洗を決意したのです。
それが、神さまが私に与えてくださった救いの「時」でした。その時以来、私は、私に寄り添って歩いてくださるイエス様に、決して知らん顔などできなくなりました。ずっと前から差し伸べ続けてくださっていたイエス様の手を、私はその時、ようやく握り返したのです。そして、私のために命すら十字架で捨ててくださったイエス様から、決して離れたくないと強く願いました。その思いは、今もずっと続いています。
イエス様が差し伸べてくださっていた手を握り返して、イエス様と共に歩く ― 今日の聖書箇所58節で、イエス様はこのことをこう呼んでおられます ― 「仲直り」。イエス様が仲立ちをなさってくださって、神さまと和解することです。神さまと、イエス様と、自分の間に平和がある ― 「仲直り」とは、そういうことです。そのように神さまとイエス様に愛され、ゆるされている自分は、同じように愛されている隣人とも、手をつなぎ合えるようになります。
繰り返しますが、私たちは瞬間、瞬間の「時」を生きています。その瞬間、瞬間ごとに、差し出されているイエス様の手を握り返し、この方が十字架で私のために、私たちの救いのために血を流し、肉を裂かれたことを思い起こしましょう。イエス様が共においでくださることに深く感謝して、イエス様のそばを決して離れず、この新しい一週間も、主と共に進み行きましょう。
2024年2 月4日
説教題:主が地に投ずる火
聖 書:ミカ書7章1~4節、ルカによる福音書12章49~53節
わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。
(ルカによる福音書12:49)
今日の聖書箇所を聞いて、皆さんは「恐ろしい」と思ったことでしょう。思い浮かんだのは、神さまがソドムとゴモラの町に硫黄の火を降らせて滅ぼした出来事(創世記19章)ではないでしょうか。ソドムとゴモラの町の人々が神さまに背き、悪事を楽しむ罪深い者たちだったために、神さまは彼らに硫黄の火を降らせたのです。では、今日 イエス様がおっしゃっている「火」も、旧約聖書に記されているのと同じ人々の背きを戒める火なのでしょうか。
また、今日の聖書箇所の後の方には、イエス様が「わたしは地上に平和をもたらすために来たのではない」(ルカ福音書12:51より)というギョッとする御言葉があります。
さらにイエス様は続けて52節で、同じ家に暮らす者同士が分裂して、対立するという意味のこともおっしゃいました。本来ならば愛し合っているはずの家族が憎み合って争う様子を想像して、イエス様が投じる火は争いの火、すなわち「戦火」「戦争の火」なのかとつい思ってしまいます。
ここで、イエス様が「平和の君」(イザヤ書9:5)と預言されていたことを思い起こしましょう。また、イエス様がこの世にお生まれになった時、夜空に現れた天使の大軍は「地には平和」と神さまを讃美しました。イエス様が投じようとされている火が「戒めの火」でも「戦いの火」でもないことは、実は、今日のイエス様ご自身の言葉から明らかです。それは、49節後半の御言葉です。お読みします。「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」この御言葉からわかるのは、イエス様が投じようとされている火が、これまで地上で燃えたことがない火・存在したことのないものだということです。
人間を戒める炎は、すでにソドムとゴモラの町で燃えました。ですから、イエス様が投じようとなさっているのは戒めの火ではありません。
戦火・戦いの火は、人類の歴史上、絶えることのないものです。既に地上のどこかで燃えさかった火、そして残念ながら、毎日のように、今も報道されている火です。ですから、イエス様が投じようとなさっているのは、戦火・戦いの火ではありません。
では、イエス様がもたらされる火は何でしょう?親しい者同士の間に、分裂と対立をもたらす火とは、何でしょう?分裂と対立は、争いや戦いの糸口になるのでできるだけ避けたい事態ですが、実は、それまでよりも良い新しい道を拓くきっかけとなります。
皆さんは、弁証法という考え方・思考法をご存じと思います。ある提案に対して、それとは対立する意見を提示し、議論をして最初の提案よりもずっと良い新しい提案を作り上げる考え方です。
具体的な例をあげると、わかりやすいでしょう。ある国でこんな意見が出されたとしましょう。「経済を発展させて国が豊かになるには、資材や商品の輸送を行う必要があるので、自動車の数を急速に増加させましょう。」しかし、それに対して こんな対立意見が出ます。「自動車の排気ガスで環境汚染が進む。それには反対だ。」
この時、それぞれの立場の者が自分の考えにこだわってばかりいて、相手の考えを尊重しなければ、平行線で何も変わりません。互いに「なるほど」と相手の意見を聞き、「互いに相手を自分よりも優れた者と考え」(フィリピ2:3)て尊重し合うことが、大切です。
今、私が申し上げた言葉を聞いて、あれ?聞いたことがある…と気付いた方、おられますか?「互いに相手を自分よりも優れた者と考え」る ― これは聖書の言葉、フィリピの信徒への手紙2章3節の御言葉です。
「互いに相手を自分よりも優れた者と考え」るとは、イエス様がおっしゃったこの御言葉から導き出される姿勢です。イエス様はおっしゃいました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコ9:35)
先ほどの例の話に戻ります。反対意見を尊重して、自動車の台数を増やして経済発展を遂げると同時に、環境汚染を防ぐにはどうしたらよいかを、皆が力を合わせて考えることになります。そしてハイブリッド車や、電気自動車(EV車)といった、斬新な新しいもの・より良いものが作られることになります。対立は、こうして協力と和解という高い次元に私たちを導くきっかけになり得るのです。
イエス様はユダヤという国家に、律法の新しい解釈を与えました。イエス様は今日の聖書箇所で、「家に対立を起こす」ことを語られているので、ここで「国家」とは国の「家」と書くことを頭の片隅にちょっと置いてください。また、神さまの宝の民とされたユダヤ民族という神の「家」族を連想してもよいでしょう。
神さまであるイエス様が自ら語られる律法解釈は、天の父の深い愛に根ざし、従来の律法解釈とはかけ離れたものでした。そのために、イエス様は律法学者・祭司・長老たちと激しく対立することになってしまったのです。
律法学者・祭司・長老たちは神さまの愛の律法を自分たちが人々を裁き、支配下に置く道具としていました。こうして、おそらく自覚なしに神さまに背いてしまった彼らに、イエス様は真実の律法解釈を知らせ、再び神さまのもとに連れ戻して、神さまとの和解へと導こうとされたのです。しかし、この神さまの救いのご計画は、彼らにはわかりませんでした。
弟子たちすら、イエス様が神さまであることがわからず、イエス様を裏切る行動を取る者が現れて分裂し、イエス様が逮捕された時には弟子たちはばらばらに逃げ散ってしまいました。
ユダヤの「家」・が、分裂し、対立しあうようになったのは、決してユダヤ民族だけの罪にとどまりません。神さまに造られた私たち人間は本来、神さまの家族とされる恵みの道を与えられていますが、あっけないほどたやすく互いに対立しあってしまうのです。平和を保てないのです。このような私たちすべての者を、イエス様は十字架の出来事で神さまの御前に呼び戻して、神さまとの和解・平和の道を拓いてくださいました。
今日の聖書箇所 ルカによる福音書12章50節で、イエス様はこうおっしゃいました。お読みします。「しかし、わたしには受けねばならない洗礼(バプテスマ)がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」この苦しみの洗礼(バプテスマ)は、十字架の出来事をさしています。イエス様は、私たちに代わってあらゆる人間の罪を負って十字架に架かられ、ご自身の地上の命によって神さまとつながる絆を結んでくださいました。私たち人間が神さまにゆるされ、互いにゆるしあい、互いに仕え合って力を合わせて御心に従って進む「神さまと、人と共に生きる道」が開かれたのです。その約束のしるしが、イエス様のご復活です。
私たちはそれぞれ、神さまに愛されて、一人一人 異なる者として造られてこの世の、今のこの時代に生まれ 共に生きるようになりました。それぞれが異なるゆえに人間関係で悩み、それぞれの利得を求めて競い合い、それが団体や国の単位の事柄になると紛争となり、戦争となります。しかし、違う者が共に生きることを、イエス様はご自身の身を十字架で犠牲にして、対立と分裂を超え、異なる力を出し合ってより良い未来と、より高い次元の心映えへと進ませてくださいます。この恵みに希望をおいて、共に生きる最高の可能性を信じて、この新しい一週間を進み行きましょう。
2024年1 月28日
説教題:備えて、待ち望む
聖 書:イザヤ書21編11~12節、ルカによる福音書12章35~48節
主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕(しもべ)たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。
(ルカによる福音書12:37)
今日の聖書箇所が朗読されるのを聞いて、イエス様がおっしゃった御言葉のうち、どの言葉が最も皆さまの心に残ったでしょう。「目を覚ましていなさい」でしょうか。「用意していなさい」でしょうか。
イエス様が、どうしてそうおっしゃるのかわからなかったから、心に残っているのは「どういうことかな?」という疑問だという方のほうが多いかもしれません。どうして、イエス様は私たちに目覚めていなさいとおっしゃるのでしょう。また、「用意していなさい」とは、何のための用意でしょうか。今日のイエス様の御言葉に秘められ、隠されている大きな恵みは何でしょう。それらの問いを胸に置きつつ、さあ、ご一緒に御言葉に聴いてまいりましょう。
ルカによる福音書の今日の聖句に至るまでに、イエス様はご自分が十字架に架かられることと、ご自身を犠牲にされるそのみわざによって人々が救われることを繰り返し 話されました。さらに、前回の礼拝でご一緒に読んだ聖書箇所で、イエス様は弟子たちに「神の国」のことを語られました。
前回の礼拝の聖書箇所、ルカによる福音書12章31節で、イエス様は「ただ、神の国を求めなさい」と勧め、さらに32節では「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と恵みを伝えられました。
「神の国」とは、言い換えれば「永遠の命」のことです。さらに言い換えれば「イエス様が身を挺して教えてくださった分かち合いの心」です。「神の国」、「永遠の命」、「分かち合いの心・隣人愛」は、求めさえすれば、求めて祈った者の魂と心に即座に与えられるものです。
イエス様の十字架の出来事とご復活を知らされていない間、人間は誰でも自分の力を頼りにして、自分の力だけで生きようと頑張り、もがいて苦しみます。イエス様が自分のために十字架で命を捨ててくださったことを魂で知ると、私たちは自分の力ではなく、神さまに生かされていることを知るようになります。一人だけで頑張らなくて良い、とわかってくるようになるのです。御言葉を通して、自分は自分のものではなくて、神さまのものであると心と魂で知ると、神さまが、神さまのものであるすべてを私たちに分け与えてくださるのだから、私たちも互いに分かち合おうとの心が生まれます。この分かち合いの真理に気付かされ、私たちは、自分一人ではなく兄弟姉妹・隣人と共に生きることこそが、人間にとっての最も真実なる生き方だと知るようになります。この瞬間に、私たちは心と魂に「神の国」を与えられるのです。
こうして「神の国」を与えられた瞬間、心と魂は「永遠の命」で満たされ、このうえない安心感と喜びをいただきます。これが、私たち一人一人に起こる恵みの出来事です。この出来事を通して、私たちは心が打ち震えるような深い感動を受けます。
ここのところを、皆さん、どうか決して誤解なさらないでください。御言葉を通して私たちがいただく恵みは教訓でも、生きる知恵でも、道徳的な正しさでもありません。恵みは、神さまに生かされて自分が今を生きていることを圧倒的な感動と喜びで受けとめ、心が躍る魂の経験です。
「神の国」は、主を信じる私たち一人一人に起る出来事です。この「神の国」の出来事が、この世全体に起こる時が来ます。イエス様が、今日の聖書箇所でおっしゃっているのは、そのことなのです。
私たちは今日、実は今日ばかりでなく主の日・日曜日のこの礼拝のたびに、それを信じていると 声をそろえて言っています。告白しています。そうです、使徒信条で私たちが先ほど、皆で告白したことです。使徒信条のその部分を、イエス様のご降誕のところからあらためてお読みします。
「主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ ― クリスマスの出来事ですね ― ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり ― これが十字架の出来事とご復活です ― 天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。」
その次に使徒信条に語られている事柄を、今日の聖書箇所でイエス様はおっしゃっているのです。お読みします。「かしこより来たりて」そうなのです。私たち一人一人をこの世にありながら、洗礼によって神の国のものとしてくださったイエス様は、「かしこ」、つまり「あのところ、神の右の座」から「来たりて」、すなわち「おいでになる」のです。
イエス様は、もう一度 この世においでになります。それを、主の再臨と言います。イエス様がおいでくださるとは、言葉では言い尽くせないほどすばらしいことです。
私たちは、地上におられたイエス様のお姿を拝見することなく、お声を聞いたこともありません。しかし、イエス様は今、この礼拝で聖霊と御言葉を通して私たちを力づけ、この新しい一週間を生き抜く元気を与えてくださいます。そのイエス様が、おいでくださるのです。
何がすばらしいのか、何が良いことなのか、ぴんと来ないかもしれませんので、イエス様がおいでくださった時に起こる実に具体的な事実を申し上げます。イエス様がこの世に再びおいでになるその時、私たちには説教者が必要なくなります。イエス様の御言葉を、直接 イエス様から聴き、説き明かしていただけるからです。
今、イエス様が再臨しておられない時、私たちは聖霊の助けによって聖書を読みます。しかし、聖書を読んでも、そこに秘められ、隠されている多くの恵みのすべてを読み取れないことがあります。そこで、礼拝の中で、今、私がさせていただいているように説教を通して、この御言葉にはこういう恵みが語られているのですと説明する人が必要になります。
こうお話しすると説教者は聖書の御言葉の「通訳」のようだと思われるかと思います。説教者と通訳は、似ているところもあるかもしれませんが、かなり異なると 私はよく思います。
通訳は、語られた内容のすべてを正確に伝えようと努力します。たとえば、英語で語られた言葉の内容を、そのままそっくり、日本語に置き換えます。ところが、説教者は、聖書が語るあふれるばかりの恵みの中から、ほんのわずかしか 伝えることはできません。説教者がその時に与えられた、ある角度から見える恵みしか、伝えられないのです。
一方、「神の国」が来て、この世にイエス様がおいでになったら、イエス様が語られるどの御言葉も、私たちにすべて、まるごと、わかるようになります。私たちはイエス様が語られるすべての恵みをそっくりそのままうけとめることができ、この世のものとは思えない幸福に満たされるでしょう。
今 私は「この世のものとは思えない」と言いました。「神の国」が来て、イエス様が再臨される時に起る事柄は、まさにこの言葉通りです。「この世のもの」は、過ぎ去ります。この世は終わり、すべてが「神の国」になります。ただ、この時がいつなのかは、私たちにはわかりません。
また、再びこの世においでくださったイエス様は、ある大切なことをなさいます。今一度、使徒信条の言葉をご覧ください。先ほどお読みした「かしこより来たりて」の先に、何と記してあるでしょう。私たちは、聖書から知らされているどんな事柄を、先ほど告白したのでしょう。このように記されているのを、今、皆さんご覧になっておいででしょう。お読みします。「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とをさばきたまわん。」
この世に再びおいでになったイエス様がなさるのは「裁き」です。ここにある「生ける者」とは、イエス様がおいでになる時に目覚めていて、つまりイエス様のお帰りを喜んで「すぐに戸を開けようと待っている人」(ルカによる福音書12:36)です。
今日の聖書箇所で、イエス様は私たちに、イエス様が再び世においでになるその時をしっかりと待っている者になるようにとおっしゃておられます。「イエス様、おかえりなさい」と喜んで迎える者になりなさい、と教えてくださっているのです。
イエス様の再臨を待っていた者たちに、イエス様は驚くような恵みをくださいます。それが、今日の聖書箇所の次の聖句に記されています。お読みします。「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」(ルカによる福音書12章37b節)
何と、神さまであるイエス様が、僕(しもべ)のように、私たちの食事の給仕をなさってくださるのです。今、イエス様が十字架に架かる前、主の晩餐に弟子たちを招かれたことを心に思い浮かべておられる方がおいででしょう。また、イエス様が弟子たちの足もとにひざまずき、その足を洗ってくださったことを思っておられる方もおいででしょう。イエス様がなさった主の晩餐と、洗足の出来事は「神の国」を、イエス様が先取りするようにしてくださった恵みの出来事だったのです。
さらに言えば、御言葉は私たちの心の食べ物・心の糧です。イエス様は、御言葉の食事を私たちに給仕してくださいます。この世に再び来られたイエス様は、私たちに御言葉の恵みを大盤振る舞いされ、私たちの心と魂を満腹にして満たしてくださるのです。
今日の聖書箇所には、もうひとつ、たいへん大切な事柄が語られています。イエス様の十字架の出来事とご復活の福音を信じる信仰者たちが、そのようにイエス様のお帰りを待ち焦がれている間をどのように過ごせばよいかについて、イエス様は明確な指示を与えてくださっているのです。イエス様は、信仰者・キリスト者には、イエス様がお帰りになるまでの間 この世での宣教・伝道をお任せくださいます。
今日の聖書箇所の41節で、イエス様の一番弟子ペトロはイエス様にこのように尋ねました。「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」イエス様は、この問いを受けて、こうおっしゃいました。43節です。「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。」その「僕」とは「主の僕」すなわちイエス様の弟子であり、信仰者・クリスチャン・キリスト者です。主が、この「主の僕」に何を託されるかが、44節のイエス様の言葉に表されています。お読みします。「確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。」「主人」すなわち神さまは、「全財産の管理」すなわち「この世のすべての管理」を、信仰者に任せてくださるのです。その御言葉は、神さまの御心にかなう「この世」が成るように、信仰者として主に従って生活し、「すべての民をわたしの弟子に」(マタイによる福音書28:19)するよう伝道に励むことを意味しています。
今日の御言葉を通して、イエス様が私たちにはっきり示してくださるのは二つの事柄です。ひとつは、イエス様がこの世にもう一度 おいでになるその時を待ち望んで、よく備えておくことです。もうひとつは、その備えが、信仰者としての御心に適う生活と宣教をさしていることです。イエス様の十字架の出来事とご復活を宣べ伝えて、再臨の時への準備をする者になりなさいと、イエス様は今日の聖句を通して 私たちに為すべきことと志を与えてくださっているのです。
正しいとわかっていることを丁寧に進めてゆくことに、私たちの大きな安心・平安があります。信仰者として心安らかに進む道を示してくださることに、今日の聖書箇所の大きな恵みがあります。
まだ、今日の聖書箇所の恵みがぴんと来ない方もおられるか…とは、思います。ただ、このことだけは覚えておいてください。
教会に連なる者・礼拝に招かれた者として、教会は聖書に導かれ一貫した信仰の希望を抱いています。これを示す、二つの明確な事実をお伝えします。
まずひとつが、主の祈りです。私たちは礼拝の初めの方でささげる主の祈りで、こう祈っています。「天にまします我らの父よ、願わくは御名を崇めさせたまえ。御国を来たらせたまえ。」御国、つまり「神の国」が来るように、「イエス様が再び、この世においでになるように」とイエス様の再臨を祈っているのです。
ふたつめのこととは、聖書そのものです。聖書をお持ちの方は、聖書本文の最後のページをご覧ください。ヨハネの黙示録22章20節、新約聖書の480ページです。ここに、聖霊によって聖書の御言葉に養われる私たち信仰者すべての、願いと祈りの言葉がはっきりと記されています。ここに記された後、今、私たちの間に鳴り響き続けている言葉です。お読みします。「アーメン、主イエスよ、来てください。」
今に鳴り響くこの祈りの言葉に心を合わせて、それぞれに、また教会という信仰共同体として、大いなる恵みに満たされて進んでまいりましょう。この言葉のとおりに、イエス様がおいでになり、御国が来る約束に希望を抱いて、今日から始まる新しい一週間を歩んでまいりましょう。
2024年1 月21日
説教題:尽きることなき主の恵み
聖 書:詩編147編7~11節、ルカによる福音書12章22~34節
あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
(ルカによる福音書12:29-32)
今日の聖書箇所の最初の言葉を聞いて、私たちはどうしても戸惑いを感じてしまいます。イエス様はこうおっしゃいました。ルカによる福音書12章22節後半です。お読みします。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。」
この御言葉は、「食べ物や衣服のことで、あれが良い、これはいやだと好き嫌いや贅沢を言ってはならない」 という戒めではないと、直感した方は多いと思います。では、イエス様は何を私たちに伝えてくださろうとしておられるのでしょう。私たちは、今日の御言葉からどんな恵みを与えられているのでしょう。正直なところ、少々わかりにくいと感じます。
イエス様がおっしゃった「何を食べようか、何を着ようか」という言葉は、「今日の昼ご飯は和食にしようか、中華にしようか、晩御飯のメニューは寒いから鍋物がいいな。今日は寒いからふだんのコートよりも分厚いダウンジャケットを着ようか、それともコートの下にセーターを着ようか」といろいろな選択肢を思い浮かべて迷うことをさしているのでは、ありません。
イエス様の時代は、食べることや着ることの選択肢が、殆どない時代でした。今のようにふんだんな選択肢がなかったばかりでなく、スーパーでお惣菜を買うことや、量販店で手軽に自分に合うサイズの服を買うことができなかった時代です。
食事の準備をするにも、食材を手に入れるところから、場合によっては狩りや釣りから始めなければなりませんでした。着る物の準備はもっとたいへんです。糸を撚り合わせたり、布を織ったりするところから始めることが多い時代でした。
今日の御言葉で、イエス様が「命のことで」とまず言っておられるのを心に留めましょう。この言葉で、イエス様は「生きて行くために必要なもの」をさして、言っておられます。
生活に必要な三要素をよく「衣食住」と言います。イエス様の時代には、生き延びてゆくために、つまり「命のこと」の「衣・着るもの」と「食・食べるもの」を手に入れるために、十分に計画して準備を行い、相当な時間と労力をかけなければならない厳しい現実がありました。もちろん、今の時代であっても災害に遭えば私たちも支援されるまで、また復旧・復興するまで同様の状況に置かれることは、言うまでもありません。
ただ、私たちが穏やかで安全、そしてそこそこ豊かで便利な生活を過ごし続けられたとしても、私たち人間から思い悩み・思い煩いが消えるとは思えません。
前回の聖書箇所で、イエス様は私たちの命が、それぞれの自由になるものではなく、神さまの御手のうちにあること・神さまのものであることを教えてくださいました。私たちは自分の命が続いて行けばよい、生き続けたいという願いを当然のように、本能のように持っており、さらにできるだけ「良く」生きたいとの願望、この世的な言葉を用いれば「欲」を抱いています。このように、自分にとって良い未来・将来を願っているのに、私たちには、未来・将来に何が起るか、ほんの一時間先のこと、それどころか一分、一秒先のことは、何もわかりません。
先がわからないので、私たちは未来・将来に大きな不安を感じます。しかし、その不安の中で、私たちは様々な起こり得る出来事を想定し、それに備えて計画を立ててがんばり、状況に応じて軌道修正をしながら、生きて行きます。つまり「思い悩み」ながら生きて行くのです。いろいろありながらも、人生のさまざまな山を越え、谷を越えて年を重ねると健康面での課題・慢性的な不調や症状に悩まされるようになります。それらと向き合って歩むことも、「思い悩み」に当たります。
こうして「思い悩む」時、私たちは自分の思い悩み・思い煩いにイエス様が寄り添って、励まして導いてくださることを大いに期待します。だから、私たちは一生懸命、心をこめて、こう祈ります。イエス様、私には未来のこと・将来のことはまったくわかりません。わからないから不安です。おののき、恐れ、怯えているこの私に寄り添ってください。
ところが、今日の御言葉で、イエス様はこうおっしゃるのです ― 「思い悩むな。」思い煩うこと自体をやめなさい、くよくよと心配して自力で必死に計画を立てようとして、心を空回りさせるのをやめなさい、とおっしゃるのです。
思い悩んでも、それは空回りだとのイエス様の御言葉の根拠は、25節にあります。その御言葉、ルカによる福音書12章25節をお読みします。「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」
繰り返しますが、私たちは、より良く豊かに生きたいと願っています。つまり、何の工夫も労苦も感じずに、ぼ〜っと生きるよりも、充実した毎日を送り、健康管理に努め、この世の楽しみを少しでも長く享受しようとがんばろうとします。充実した毎日・健康管理・楽しく元気な長寿をめざす ― どれも、私たちが「良いこと」「人間としての立派な目標」と思う事柄です。ところが、イエス様は30節でこうおっしゃいます。「それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。」「充実した毎日・健康管理・楽しく元気な長寿をめざす」 ― それらは、神さまを信じていない異邦人が、必死に求める「命」だと、イエス様は語ります。
私たちは前回の聖書箇所から、私たちの「命」の決定権は神さまにあって、私たち自身は自分の命をどうすることもできないことを知らされました。ここで決して誤解してはならないのは、イエス様は「充実した毎日・健康管理・楽しく元気な長寿をめざす」のは、悪いことだからやめなさいと、否定しているのではありません。それらを人生の究極のゴール、自分の最高の目標、それぞれの魂がめざす真理にしてはならないと、おっしゃっているのです。
では、イエス様は、何を求めなさいとおっしゃっているのでしょう。そうです、ずばり、こうおっしゃっています。31節です。お読みします。「ただ、神の国を求めなさい。」「神の国」とは、言い換えると何でしょう。「永遠の命」です。
私たちはこの世の「今、この時」を、一生懸命 生きています。しかし、この世の命・生命体としての命・細胞の集合体としての私たち人間の肉体は、いつかは終わりを迎えます。今日の聖書箇所25節でイエス様が言われるように、「思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすこと」は、人間の誰にも、決してできません。できないからと言って、人生のがんばりは空しいのかと言えば、決してそうではありません。その根拠が、イエス様が十字架の出来事とご復活で私たちに与えてくださった「永遠の命」の約束です。
私たちは今、イエス様が寄り添って、重荷を共に担って支えていてくださるからこそ、「この世での今、この時」を、心を満たされて喜ばしく生きています。肉体の命が終わっても、その喜びと幸いは終わりません。これが「永遠の命」をいただいて、「神の国に生きる」恵みです。これこそが、キリスト者への神様からの祝福です。私たちが仰ぐ先、究極の目標、それぞれの魂がめざす真理こそが「永遠の命」、つまり「神の国」です。
教会の皆さんはお一人お一人、それぞれこの世でのお仕事での大きな課題や、生活の中でのすさまじいほどにたいへんな事柄に立ち向かっておられます。そのために、日曜日の朝、教会に来る時間も体力も気力もないのではと、お一人お一人のご様子を拝見しながら、私は何となく感じて心配になることがあります。ところが、私がそう感じていても、皆さんは教会に来られます。こうして、礼拝に出席するために、日曜日には教会に集うのです。
主日に礼拝に出席して、教会が心ひとつに主を仰ぐことが、教会の最も大切な奉仕です。それを、皆さんはこうして成し遂げています。また、礼拝を中心とする教会生活の営みで必要とされる奉仕を、それぞれが担い、成し遂げています。その皆さんの姿を見て、私はこう思わずにはいられません。
信仰を通して、皆さんは教会につながって、イエス様から決して離れなければ、どんなにつらくても「この世での今、この時」を満たされて喜ばしく生きられる、それがご自分にとって一番の幸福だということをよく知っておられるということです。信仰の恵みと幸いを、皆さんは言葉を超えて、魂で知っておられるのです。
教会でのことか、この世でのことかという区別なく、すべての私たちの言葉と行いを、イエス様が神さまにつなげてくださっています。イエス様が、私たちのすべてを神さまにつなげてくださる ― それを、聖書はイエス様によって「救われた」と言い、「神の国を求め、神の国に生きる」というのです。イエス様は、それをはっきりと今日の聖句でおっしゃっています。31節をお読みします。「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのもの ― この世的な目標・充実した生き方 ― は加えて与えられる。」
前回の聖書箇所で、イエス様は十字架に架かる覚悟を語られました。私たちに「神の国」・「永遠の命」を与え、「神さまの前に豊かに生きる恵み」を私たちに示すためでした。
「神さまの御前に豊かに生きる恵み」 ― 前回、イエス様はそれが何かを語られました。何だったか、覚えておいででしょうか。それは、自分も、自分以外のすべての人も、共に満たされて生きるために 命すらも分かち合う、このイエス様の生き方に憧れ、従う志・信仰の志です。
だから、イエス様は今日の聖書箇所の33節で こう語られるのです。お読みします。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。」 ― イエス様ご自身が、命も、肉も、血も、すべて十字架で捨てて、私たちに分け与えたことを、イエス様は今日の聖句では、こう言い表しておられます。すべてを分け与えると、自分は無になります。それこそが、33節の後半でイエス様がおっしゃる「尽きることのない富を天に積」むことなのです。
今日の聖書箇所は、34節で こうしめくくられています。お読みします。「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」私たちの心が神の国を仰ぎ、イエス様が私たちを神さまにつないでいてくださる限り、私たちの真実の富・まことの恵みは、生死を超えて、いつも、そして永遠に神の国にあります。その信仰をあらためて心にいただき、今日から始まる新しい一週間を、ひたすら主を仰ぎ見て、尽きぬ恵みをいただきつつ進んでまいりましょう。
2024年1 月14日
説教題:神の前に豊かになる
聖 書:詩編39編6~10節、ルカによる福音書12章13~21節
そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
(ルカによる福音書12:15)
聖書には、必ず恵みが語られています。今日の聖書箇所でイエス様はたいへん厳しい言葉を言われますが、もちろん恵みがあふれています。今日のイエス様の御言葉には、どんな恵みがあるのでしょう。
恵みとは、御言葉を通して励まされ、気持ちが明るくなり、心が前向きになり、生き生きと希望に燃えることをさします。
今日の聖書箇所を、一読すると、私たちは群衆の一人がイエス様に実に厳しく叱られてしまったような印象を受けます。しかし、叱られて委縮するのではなく、私たちの心をのびやかに、そして豊かにする恵みを私たちはイエス様のこの御言葉からいただくことができます。イエス様を通して私たちが神さまからいただく愛は、今日の聖書箇所のどこに秘められているのでしょう。さあ、恵みを求めて、今日の聖書箇所をご一緒に読み進めてまいりましょう。
イエス様と弟子たちに群衆が押し寄せ、イエス様は群衆に怯え、おののく弟子たちを聖霊によって励まされました。そこに、まるで割って入るように、群衆の一人が自分の欲求をイエス様に突き付けて来たのです。それが、今日の聖書箇所の冒頭、ルカによる福音書12章13節のこの言葉です。お読みします。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
これは唐突な訴えで、イエス様に対してたいへん無礼に思えます。しかし、発言した人にとっては切実な問題でした。この人の発言の背景には、当時のユダヤ社会のこのような風習がありました。ユダヤ社会では家族に生まれた最初の子・長子、特に長男が特別の権利を与えられます。旧約聖書の創世記に記されている、ヤコブが父イサクを騙して長子の権利を奪い取った出来事を思い起こすとわかりやすいと思います。その長子の権利は、実は財産の相続権だけではないのですが、この世の事柄としてユダヤの人々が「財産」とだけ解釈して、遺産争いの種となったことにも神さま・イエス様は心を痛めておられたことでしょう。
発言した人は、遺産争いの真っただ中にいて、兄たちに父の遺産をすべて持ち去られた状況だと推測できます。彼は、「先生」とイエス様に呼びかけました。「先生」と呼ばれるユダヤ社会の指導者は、遺産争いのような、こうした揉め事を裁く立場にあったのです。ところが、イエス様は「ユダヤ社会の指導者」として尊敬され、揉め事を裁いて治める立場として頼りにされていた祭司や律法学者ではありません。全世界の人類の指導者であり、次元の異なる高みにおられる方です。
そのことをはっきりさせるために、イエス様は訴え出た人にこうおっしゃいました。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」たいへん厳しく、意地悪なようにも聞こえてしまう御言葉ですが、この言葉には次のようなイエス様の思いが込められています。「わたしは、この世での裁きごとのために天の父に遣わされたのではない。あなたに、この世の知恵を超える恵みを与えよう。」
そして、イエス様は群衆一同に、つまり そこにいた人々全員にこうおっしゃいました。12章15節の御言葉です。お読みします。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」この言葉は、遺産の分け前が欲しいと訴え出た人を イエス様が「貪欲」「欲張り」と厳しく戒めた言葉だと受け取られがちですが、そうでしょうか。
そして、その後にイエス様が語るたとえ話は貪欲な人・身の程知らずにも、自分の力で自分の命の保証をしようとした人が 神さまに命をとられて罰を受ける話と理解したくなりますが、本当にそうでしょうか。
「貪欲」や「欲張り」は、自分の正当な取り分よりも、さらに欲張って、むさぼって他人の物まで取り上げようとすることをさすのではないでしょうか。ですから、そもそも、遺産のことを訴え出た人は自分の正当な権利を主張しているのであって、「貪欲」なのは、 むしろその人の分まで取り上げた兄弟たちです。
また、命を取られた金持ちのたとえ話では、豊作だった自分の畑の作物をどのようにしようと、その金持ちの人の自由です。畑も、そこから採れた作物も、金持ちの人の所有物であり、その扱いについては所有者が自由な権限を持っています。では、このたとえ話の中で、神さまは自分の物を貯蔵して安心したら、罰としてお前の命を奪うぞと、私たち人間を理不尽に脅しておられるのでしょうか。今、私は「罰」という言葉を使いましたが、ここでイエス様が群衆に、また私たちに今 伝えようとなさっているのは「こうしたら罰を受ける」または「こうすれば褒められる」という、この世の「お説教的な」教訓ではありません。
イエス様がここで「命」の話をなさっています。それは、ご自分がこれから十字架に架かられ、私たちの救いのためにご自身の命を犠牲にされることを見据えておられるからです。人間は、「命」をどうすることもできません。「命」は、神さまのものだからです。命を与えることも、奪うことも、神さまの自由です。そして、イエス様は、私たちの代わりに神さまに十字架の上で命を奪われました。私たちの「貪欲」の罪を、私たちの代わりに担ってくださったのです。
ここで、「貪欲」を「人の物を欲しがる欲張り」という意味ではなく、「自分のためだけに生きようとする自己中心的な価値観・利己主義・エゴイズム」と理解し、受けとめると良いでしょう。
「自分のためにだけ生きる」貪欲をやめるとは、どういうことでしょう。「自分のためにだけ生きるのではない」生き方は、どんな生き方でしょう。それは、自分と、自分以外の人のために生きようとすることです。
この世的な価値観では、私たちは皆、自分の畑が豊作だったら、この金持ちのように倉を立ててそこに保管し、貯蔵をすることが合理的だと考えます。自分の命を自分で守ろうとする、この世的な知恵です。この「この世的な知恵」の価値観を超えるのは、この世だけしか見えていない人間にはとうてい不可能です。イエス様に導かれ、手を引かれ、寄り添っていただかなければ超えることはできません。
では、イエス様のたとえ話の中の金持ちは、どうすれば良かったのでしょう。イエス様は、この金持ちの手を引いて貪欲という罪から救われ、どんな恵みに導いてくださるのでしょう。イエス様は、この金持ちが、その豊作の豊かな収穫を、貯め込まず、まわりで暮らす人々すべてに与えて分かち合うようにと導いてくださいます。みんなで分かち合うことで、この金持ちは自分も、自分以外の隣人も、皆、豊かに暮らせるようになるのです。
分かち合うこと・持っている者が、持っていない者に分け与える助け合い ― これは、言葉で言えば簡単ですが、実行するのはたいへん難しいことです。
今、私たちの社会では、老後を生き延びるための貯金額がしばしばメディアの話題として取り上げられます。ある初老を迎えた夫婦が、これまで一生懸命働いて貯金して、それに年金を加えて、自分と配偶者が少し老後を楽しんで生きて行ける金額を蓄えたとしましょう。しかし、「分かち合い」の愛の精神で、一生懸命貯めたそのお金を、貧しい他の老夫婦に「どうぞ」と自分たちのお金を分け与えることができるでしょうか。分かち合って、爪に火を灯すような苦しい生活をする道を選べるでしょうか。
お金をもらった方の夫婦は、若い頃に贅沢に遊び暮らしていた結果の自業自得で、貯金がないのかもしれません。分けてもらっても、「儲けた!」としか思わず、感謝する気持ちすら持たない夫婦かもしれません。それでも、分かち合うことができるでしょうか。
イエス様が示される愛は「それでも分かち合う」、「それでも分け与える」愛です。
イエス様は、十字架の出来事の意味がわからない私たち人間のために、命を捨ててくださいました。罪を赦されて救われたのに、感謝の気持ちなど少しも持たない者のため・自分を憎んで陥れた者たちのために、ご自身の命を、肉を、血潮を分け与えてくださったのです。イエス様の、その尊い犠牲が神さまの私たちへの深い愛であることを、神さまはイエス様のよみがえり・ご復活で示してくださいました。
神さまは私たちに、愛と義 ― 自分と自分以外の誰をも大切にすることと、真実の正義を貫くこと ― を、イエス様を通して示してくださったのです。それは、すばらしすぎて、そしてある意味では凄まじすぎて、人間にはとうてい不可能なことに思えます。しかし、不可能かもしれませんが、その愛と義を仰ぎ見て そのすばらしさを理想とする価値観を心に抱くことで、私たちの心も社会も豊かになります。
神さまの御前に豊かになるとは、「自分を無にして人に尽くしたイエス様がおられる」という真理の事実を知ることです。この世の合理性を超えて、隣人を豊かにし、そのことで自分の心が豊かに喜ぶ生き方があることを、魂で知ることです。さらに言えば、イエス様を知り、この世の価値観を超える生き方に憧れる者たちがこうして週に一度、集められてイエス様の凄さを確認し合い、礼拝をこうして献げていることが、「ものすごい」としか言いようのない大きな恵みです。
イエス様の十字架の出来事とご復活によって、人の思い・この世の価値観をはるかに超える神さまの愛がこうして示されました。そして今、私たちは神さまの前に豊かにされています。この豊かさを心にとどめて、この世へと、今日から始まる新しい一週間の歩みへと遣わされてまいりましょう。
2024年1 月7日
説教題:恐れも、不安もなく
聖 書:詩編118編1~9節、ルカによる福音書12章8~12節
会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。
(ルカによる福音書12:11-12)
新しい主の年2024年、希望と御力に満ちるイエス様が私たちを堅く守り支え、導いてくださる一年となりますように。御言葉を取り継がせていただくにあたり、まずその祈り願いを献げます。と申しますのも、本年はその最初の日・元旦の午後4時頃に能登半島にて大きな地震が起こり、地域は未だ惨状と不自由の中にあります。翌日の1月2日、羽田空港で大きな事故が起こりました。二つの惨事に巻き込まれた方々、それぞれの回復・修復・復帰に関わる方々の上に主の大きな助けと御支えを祈ります。
今日から、薬円台教会 主日礼拝の新約聖書の御言葉は、アドヴェントの前に与っていたルカによる福音書に戻ってまいりました。ルカによる福音書12章8節から、講解説教の再開へと導かれています。1ヶ月ほど間隔があいてしまいましたので、今日のイエス様の御言葉がどのような状況で語られたものか、12章1節を振り返ることから始めたく思います。
ルカ福音書12章1節には、こう記されています。お読みします。「とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。『ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。』」
冒頭の言葉「とかくするうちに」とは、どんな状況を指しているのでしょう。それをもう一度ご一緒に確かめることから、御言葉の黙想へと導かれてまいりましょう。
イエス様が弟子たちと伝道活動を展開する中で、イエス様を慕う人々がたいへん多く現れるようになりました。イエス様は、当時のユダヤ社会が遵守していた律法の解釈について、その権威とされる律法学者やファリサイ派の人々とは異なる真実の神さまの愛に根ざす解釈を語られました。それが、人々の心に強く響いたのです。
ところが、律法学者やファリサイ派の人々は、自分たちと異なる律法解釈を語るイエス様を敵とみなし、イエス様の人気をねたみ、イエス様を陥れようと策略を巡らせ始めました。当然のことながら、人間に過ぎない律法学者やファリサイ派の人々の知恵が神さまの御子イエス様の英知に優るはずなどなく、彼らは逆に恥をかくことになりました。イエス様と弟子たち、そして律法学者やファリサイ派の人々の間に険悪な雰囲気が生じてしまいました。それが、12章1節の冒頭が語る「とかくするうちに」の内容です。
ルカによる福音書12章1節は、続けてこのように語ります。イエス様と、律法学者・ファリサイ派の人々の対立が激しさを増す中で「数えきれないほどの群衆」がイエス様と弟子たちの周りに詰めかけて来ました。互いの「足を踏み合うほど」、すなわち足の踏み場もないほどの人だかりとなったのです。ここで、イエス様は群衆に語りかける前に、「まず弟子たちに話し始められ」ました。このことで、イエス様は弟子たちへの ― つまり、イエス様を慕い、イエス様を信じて従う私たちへの ― 限りない優しさと慈しみを表してくださいました。群衆に囲まれた弟子たち・キリスト教信仰が一般的ではない社会に生きる私たちへの深い愛を、イエス様はここでお示しくださったのです。
この時、弟子たちは足の踏み場もないほど集まって、自分たちに迫って来る群衆の勢いに圧倒され、恐怖を感じていました。イエス様と弟子たちの周りに集まった群衆は、イエス様を慕ってやって来た者たちばかりとは限りません。イエス様が有名になり始めていたので一目、その姿を見てみたいと好奇心から集まった人、何か面白そうな事件が起こりそうだから見物に来た人の方が多かったでしょう。さらに、群衆の中には律法学者やファリサイ派の人々にけしかけられて、イエス様を陥れようと企んでいる者もいたはずです。
私たちはイエス様の十字架の出来事とご復活を通して、イエス様が救い主であり、神さまであることを知っていますから、律法学者やファリサイ派の人々ではなくイエス様こそが正しいと、当然のこととして理解し、心の平安をいただいています。ところが、この時の弟子たちには、まだその恵みの真理は与えられていませんでした。十字架の出来事とご復活の事実は、この時、まだ起きていなかったのです。弟子たちは、まだイエス様が神さまの義を顕す方であると知らず、社会的権威を持つ律法学者やファリサイ派の人々と、イエス様との間で心は揺れ動き、不安を抱いていました。
さらに、「数えきれないほどの群衆」に囲まれ、面白がっている彼らの無責任な無数の視線にさらされ、もみくちゃにされそうな状況は、ただそれだけで恐ろしいものです。人混みの苦手な弟子がいたら、気分が悪くなって逃げ出したくなったに違いありません。加えて、当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあるので、人々が集まって騒いでいたらローマの兵士たちがやって来て、暴動の火種となった犯人としてイエス様と弟子たちは彼らに乱暴されたり、逮捕されたりする恐れもありました。
弟子たちは、ただひたすらイエス様が大好きで、イエス様といつも一緒にいたいとの思いだけで、イエス様について来た者ばかりです。よもや、群衆に囲まれて脅かされるような、こんなことになるとは思っていなかったでしょう。弟子たちの心は、恐れと不安でいっぱいでした。だからこそ、イエス様は、群衆ではなく、まず その時に最も居心地の悪い思いをしていた弟子たちに語りかけたのです。
今日は説教題を「恐れも、不安もなく」といたしました。イエス様は、弟子たちに「恐れることも、不安に思うこともない」と慰めと励ましを その時の弟子たちの状況に実に具体的に即した言葉で語られたのです。
前置きが長くなりましたが、今日の最初の聖句 ルカによる福音書12章8節にはイエス様のこの御言葉が記されています。お読みします。「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も天使たちの間で、その人を自分の仲間であると言い表す。」
群衆に囲まれて、怖がっている弟子たち。この場から逃げ出したいと思っている弟子が、12人の中に何人もいたかもしれません。この場から逃げ出す、ということは「イエス様から逃げ出す」ということです。つまり、「人々の前で、このイエスという人なんか自分は知らない」と態度で示して、イエス様から逃げ出してしまいたいほどに弟子たちの不安が大きくなっていたことを、イエス様は見通しておられたのです。
こうお話しして、「あ! よく似た場面が聖書の中にある! 福音書に語られている!」と気付いた方が、おいでなのではないでしょうか。そうです。最後の晩餐の後の、イエス様が逮捕されたあの出来事の場面です。あの、十字架でのイエス様の死とご復活に至る出来事です。
イエス様は、ゲツセマネの園で血が滴るように汗を流して渾身の祈りをささげた後に逮捕されました。この時、弟子たちがどう行動したかをマルコによる福音書14章50節からお読みします。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」
今日 いただいている聖書箇所の時点で、イエス様はすでに、群衆に囲まれておののく弟子たちが、後にご自分を見捨てて逃げ散ることをご存知でした。
一番弟子のペトロはいったん逃げましたが、気になって逮捕されたイエス様と捕らえた人たちの後をこっそりついて行きました。しかし、このペトロも「お前はあのイエスとかいう人の仲間だろう」と問われると、怖くなって三度も「あんな人は知らない」と言ってしまいました。そのことを心に置きながら、今日のイエス様の御言葉をご一緒に読みましょう。
8節を、今一度お読みします。「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。」続けて9節を読みますので、お聞きください。イエス様はこうおっしゃいました。「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。」
これはたいへんだ!と皆さん、感じたのではないでしょうか。イエス様が逮捕された時、弟子たちは逃げ散ってしまいました。ペトロは、イエス様なんか知らないと三度も言ってしまいました。9節で、イエス様は天使たちの前で、自分を見捨てて逃げたこんな弟子たちなんか知らないとおっしゃり、イエス様と一体であるの天の父なる神さまも「こんな人たちは知らない」と言われるだろう ― イエス様は、そう語るのです。イエス様を知らない、自分とは関係がないと衆人の前で公然と行ってしまうことは、それほどに罪深く、救いがたいことなのです。イエス様と何の関係もないと言ってしまう者は、イエス様から、また神さまからも見捨てられると主は言われます。
ここで、私はドキッとせずにはいられません。これまでの人生で、自分は心ならずもその場の人々の雰囲気に怯えて、キリスト者ではないふりや、クリスチャンではないふりをしてしまったことが、あったのではなかったか…と思いを巡らさずにはいられない気持ちになります。洗礼を受ける前、まだイエス様を知らなかった頃に、何かとてつもなく失礼なことをイエス様や聖書について言ったりしたりしてしまわなかったかと、心配になります。
しかし、そんな私に、イエス様はこうおっしゃってくださいます。10節です。お読みしますので、お聞きください。「人の子の悪口を言う者は皆赦される。」この御言葉には、実に罪深い私への、また罪深い弟子たち、人間たちへのイエス様の大いなる愛があふれています。
「人の子」は、イエス様がご自分をさす時に用いられる言葉です。「人の子の悪口をいう者は皆赦される」とは、「イエス様を悪くいう者、イエス様を貶める者は皆、その罪を赦される」と言い換えることができます。イエス様は、「わたしのことは、どう悪く言ってもよいのだよ、私から逃げても、こんな人は知らないと言ってもゆるされるよ」とおっしゃってくださっているのです。
次に語るイエス様の御言葉によって、その理由が明らかにされます。「しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない。」(ルカによる福音書12:10b)とイエス様はおっしゃいました。イエス様のことを貶めても、聖霊が執り成してくださるから、私たちは罪を赦されるのです。その執り成しをしてくださる聖霊を冒瀆する者は、自ら天の父・御子イエス様・聖霊の三位一体の私たちの神さまを完全に冒瀆することになります。だから、聖霊を冒瀆してしまったら決して赦されることはないと、イエス様は警告されるのです。なぜなら、繰り返しになりますが、聖霊が執り成して父なる神さまとイエス様、そして私たちの間を強い絆で結んでくださっているからです。
聖霊とは、どのようなお方でしょう。イエス様は十字架で死なれ、三日後にご復活されて弟子たちに姿を現わしてくださいました。その後、イエス様は天の父の右の座へと天に昇られ、私たち人間にはそのお姿を見ることはできなくなりました。しかし、イエス様は、天に昇られる時にこうおっしゃったのです。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。」(ルカによる福音書24:49)この天の父が「約束されたもの」が、聖霊です。
もともと私たちは、天の父を肉の目・肉眼では見ることができません。だからこそ、天の父はイエス様を、私たちに見える姿で人となって世に遣わしてくださいました。そのイエス様が天の父の右の座に還ってしまったら、私たちが生きるこの世には、もう天の父とイエス様を信じるよすががなくなってしまうのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。私たちに天の父と御子を結ぶ絆を与えてくださるために、神さまは世に聖霊を送ってくださいました。
聖霊を送るとの約束を、神さまは聖霊降臨の日に果たしてくださいました。聖霊が弟子たちに降り、不安や恐れにおののいていた弟子たちは、聖霊によって驚くほど強められ、伝道に邁進する力をいただきました。
聖霊は、弟子たちだけに降ったのではありません。イエス様の十字架の出来事とご復活により罪を赦され、救われた恵みを信じる私たちすべて ― すなわち信仰共同体・教会を満たして力強く信じる者たちを導かれ、現在に至ります。
聖霊は、私たちの目には見えないけれど、私たちの心に宿ってくださり、私たちに信仰を与え、御言葉から恵みをいただく力を与え、今、こうして礼拝で私たちをひとつにしてくださっている方です。今、このように卑しい私をも憐みによって用いてくださって、説き明かしの御言葉を与えて語らせてくださっているのも、聖霊です。
聖霊は、十字架の出来事とご復活を私たちに受け入れ、信じる信仰と希望をくださいます。聖霊は、私たちの間で実際に、実にいきいきと、私たちの信仰の源として「生きて働くイエス様」その方なのです。
もう一度、繰り返して申し上げます。だから、イエス様はこうおっしゃるのです。ルカによる福音書12章10節の後半です。「聖霊を冒瀆する者は赦されない。」イエス様は、十字架で肉を裂かれ、血を流し、「こんな人は知らない」とご自分を裏切る弱い弟子たち・弱い私たちがその罪を天の父とイエス様の御前で執り成してくださる者として聖霊がいるから、その聖霊を冒瀆してはならないとおっしゃいました。聖霊によってこそ、イエス様が逮捕された時に逃げ散った弟子たちは赦され、あのペトロも赦され、その後の生涯をイエス様の赦しと愛と、十字架での犠牲を伝えるためにささげるようになることを、イエス様は今日の御言葉で預言されたのです。御国での救いの恵みを、弟子たちが罪を犯してしまう前に前もって与えてくださったのです。
聖霊は私たちの日々の信仰生活の中で、最も身近に働かれる方です。今日、礼拝に出席しようとの思いを私たちのうちに起こしてくださるのは、聖霊です。讃美の時に、私たちの心を熱く動かすのも聖霊です。祈りの時には聖霊が私たちの言葉を整えてくださり、今も、御言葉の恵みを私たちに与えてくださっています。そして、いざという時には真実にこう私たちを助けてくださる方だと、今日の聖書の御言葉でイエス様ご自身がおっしゃっています。この素晴らしい助けと励まし、どれほど聖霊が私たちの頼りとなるか、もうこの私などがあらためて説き明かす必要などありません。
ご一緒にイエス様の言葉に耳を傾けましょう。今日の最後の聖句をお読みします。「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」
私たちの言葉と行いのすべてを、聖霊が教えてくださいます。新しい年2024年のすべての日々、すべての瞬間瞬間を、聖霊に導かれて主の御前にキリスト者とされて、クリスチャンとして 恐れも不安もなく、ただ主に依り頼み、信仰と希望と愛に満たされて進み行きましょう。
2023年12 月31日
説教題:主こそ真の王
聖 書:エレミヤ書10章6~11節、マタイによる福音書2章1~12節
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
(マタイによる福音書2:9-12)
2023年最後の主日礼拝を、このように皆さまと共にささげられる幸いへの喜びと感謝を、まず 主におささげします。感染症拡大防止のために、昨年度までの三年間は、クリスマス礼拝後の愛餐会を開くことができず、イヴ礼拝後にはキャロリングを行うことができませんでした。先週24日に、どちらも薬円台教会の伝統行事として開催できて、恵みの時を持てたことを本当に嬉しく思います。
クリスマス後、教会の暦は1月6日を「公現日」と定めています。“公(おおやけ)に現れる”と書いて「公現日」です。英語ではエピファニーといい、「明らかになる」ことを意味します。何が公に明らかになるのでしょう。何が、世界に広く現わされるのでしょう。この日を「栄光祭」と呼ぶキリスト教の教派もあります。
そうなのです。イエス様がお生まれになり、私たちの暮らすこの世の隅々にまで、あまねく主の愛を現す栄光が輝きわたるようになった、その主のご栄光が公に現れることを心に留める日が、「公現日」です。
今、私は「この世の隅々にまで、あまねく主の栄光が輝きわたる」と申しました。具体的に申しますと、イエス様がお生まれになる前、ユダヤ民族は私たちの神さまである天の父・創造主を「自分たちの民族の神さま」と考えていました。もちろん、これは正しくありません。神さまは天地を創造し、ユダヤ民族だけでなく 私たち全人類を創られました。神さまこそが誠にこの世のすべてを動かす方であることが、イエス様のご降誕によって世界中に明らかになりました。
どんなに優れた人間の支配者も、私たちが主と仰ぐ三位一体の神様には到底 比べられません。比べること自体が、冒涜的です。神さまは、この世界の真の指導者であり、私たちをこよなき幸せへと導いてくださる「王たちの中の王」、「真の王」なのです。その真理が、御言葉なるイエス様をまったき人としてこの世に遣わしてくださったことで、イエス様を信じる者すべてにくっきりとわかるようになりました。だから、イエス様を救い主とするキリスト教は世界宗教となったのです。
ヨハネによる福音書1章は語ります。「光は暗闇の中で輝いている。」(1:5)イエス様であるその輝きは、大きく明るくなって行きます。世界の隅々にまでおよびます。今も、広がり続けています。イエス様の救いのみわざが全世界に広がって、この極東の国 私たちが暮らす日本にも、その恵みが伝えられました。
今日の聖書箇所では、その始まりとなる最初の礼拝・占星術の学者たちの礼拝が語られています。前置きが長くなってしまいましたが、御言葉に添って、ご一緒に最初の礼拝を思い巡らしてまいりましょう。
占星術の学者たちは、遠い東の国にいながら、救い主を強く、強く尋ね求める心を与えられました。今日の2節に、このように記されています。彼らは長く旅を続け、ユダヤの中心エルサレムへたどりついて、こう尋ねました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」これは痛切な問いかけです。「自分が抱えている課題への解決・究極の答えは、どこにあるのか。私の救いは、どこにあるのか」と彼らは問いかけました。そして、彼らの専門分野である星にその答えを得て、星に 導かれてエルサレムにやって来たのでした。
彼らがそれまで依り頼んできた占星術は、その救いは新しく生まれるユダヤの王にあると 彼らに示しました。当時の社会にあって、占星術の学者は最高の知識人であり、高い科学技術を持った人たちでした。星の動きを見て、天候を予想し、その年の自然災害やそれに伴っての疫病の流行などを人々に知らせることができたからです。
彼らは薬学や医療にも詳しかったと言われています。占星術の学者たちは、星の運行を観測して得た予想と予報を王に伝え、王はそれによって農作物の不作や干ばつ、自然災害への備えをすることができました。食糧などを、当時の時代の技術なりに備蓄して国を守ったのです。
このように、占星術の学者たちの能力・知識・尽力によって、社会と人々の心に安定と安心をもたらすことが、ある程度、できました。しかし、できないことも実に多かったことでしょう。自分たちの予想・予報がはずれてしまい、嘆く人々を見て、人間の力には限界があることを思い知らされていたのではないでしょうか。
自分はおよそ 完全からは ほど遠い、自分には決定的な欠点があると、彼らは深く感じました。自らの欠点・「欠け」を、悲しみと無力感とともに思い知ることを、聖書は“罪を知る”と言います。だから、学者たちは人間を超える超絶的な方・救い主を渇望したのです。そして、彼らは星に導かれました。今日の聖書箇所9節には、「東方で見た星が先立って進み」と記されています。その星を追って、彼らはひたすら砂漠を進みました。
彼らは従順で謙虚な心を持っていました。その謙虚な彼らに、神さまは星を通して到達地点を示してくださいました。聖書にはこのように記されています。「幼子のいる場所の上に止まった。」(マタイ福音書2:9)
旧約聖書に「哀歌」という書があります。その3章25節は、こう告げています。「主に望みをおき尋ね求める魂に 主は幸いをお与えになる。」学者たちは、この哀歌の御言葉どおりに、尋ね求めて与えられ、大きな喜びと幸いをいただきました。今日の御言葉、マタイ福音書2章10節はこう語ります。「学者たちは、その星を見て喜びにあふれた。」
学者たちが家に入ると、そこには幼子イエス様が母マリアと共におられました。ユダヤの礼拝と決定的に違う、イエス様を主と仰ぐ私たちの礼拝の最初の形がここにあります。ユダヤの礼拝では、神殿の奥・至聖所には、祭司しか入ることができません。ささげものをするにしても、祭司に託して、自分では直接ささげることができません。しかし、イエス様は私たちと同じ人間の体を持ち、見える姿で親しく私たちに臨んでくださいます。学者たちは、ユダヤの礼拝では祭司に託して献げる献げ物を、こうして直接、イエス様に献げることができたのです。
学者たちは、あふれた喜びを、ささげもので表しました。今日の聖書箇所は、11節の後半で こう語ります。「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」
ここで、学者たちがささげた宝は、占星術により星の運行を調べ、人を癒やすのに必要な、たいへん卑俗な言葉を用いれば占星術の学者たちの「商売道具」だった黄金・乳香・没薬でした。彼らは、これまでの自分たちが「絶対に必要な物」と思っていた物をイエス様にささげました。それらの物よりも、イエス様に出会った喜びと感謝の方がずっと大切だと感じて、彼らは自分たちのすべてを献げたのです。
その中の没薬は、当時のシリア地方で死者の埋葬に用いられ、遺体をミイラにする防腐剤でした。これは、イエス様が後に十字架で死なれることを表しています。イエス様は、自分の罪のために滅びなければならない私たちを救うために、まったく罪のない方であるにも関わらず、私たちのために命を捨ててくださいました。そして私たちに永遠の命を与えたことを、ご復活によって示してくださいました。
その憐みのみわざを思う時、私たちはいくら私たちが献げ物をしても、追いつかない ‒ そんな ふがいなさを感じます。しかし、せめてもの、自分にできるせいいっぱいの献げ物を、私たちの主は喜んで受けとめてくださいます。 それが 宝であっても、行動で献げる奉仕であっても、心からの祈りの言葉や思いであっても、すべて受けとめてくださるのです。主はささげものを清め、私たちをも清めて、礼拝の喜びと幸いで満たしてくださいます。
今日の御言葉は最後に、学者達が別の道を通って帰って行ったことを告げています。救い主と出会った人は、これまでと別の道を与えられ、異なった生き方をするようになるのです。新しい生き方を与えられるのは、礼拝の大きな恵みです。
今日の聖書箇所は最初の礼拝を私たちに語っていますが、それはそのまま、私たちが今日 主の日ごとにささげる礼拝の心そのものです。
私たちは主に招かれて、主を尋ね求めて礼拝に集います。礼拝の中で、イエス様は私たちの心に宿り、大きな喜びと明日からの一週間を新しく生きる力を与えてくださいます。また、私たちはその喜びへの感謝を、主への讃美を歌い、ささげものをすることで表します。
この一年、神さまは私たちを主の日ごとに、そのように礼拝を通して聖霊と御言葉で導き通してくださいました。この恵みの礼拝を魂の中心・生活の中心として、明日からの新しい一年をご一緒に歩んでまいりましょう。
2023年12 月24日
説教題:永遠なる喜びの誕生
聖 書:イザヤ書40章61~11節、ルカによる福音書2章81~21節
天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
(ルカによる福音書2:10-11)
今、こうして私たちが救い主のご降誕日・クリスマスをおぼえて礼拝をささげ、深い感謝と喜びに満たされている幸いを感謝いたします。
今日の新約聖書の聖書箇所、ルカによる福音書2章8~21節は、イエス様がお生まれになった夜に起った出来事を語っています。
イエス様は、この世の片隅・馬小屋に降誕されました。ご降誕から遡ること700年以上 ― そんな昔から、今日の旧約聖書のイザヤ書にあるように、救い主メシアが世においでくださることは預言されていました。ユダヤ民族が幼い頃から暗唱して、待ち焦がれ、待望していた救い主ご降誕のその預言は、確かに成就したのです。
ただ、ユダヤの人々は、このようなかたちでメシアが世に来られるとは 思ってもいませんでした。突然、彗星のように文武両道の若者が現れて、優れた政治的なリーダーシップを発揮し、ユダヤ民族独立革命を起こし、ローマ兵を蹴散らしてユダヤ国家を起こしてくれると思い描いていたのです。そのような若者は、王家の血筋か、ユダヤ社会のエリート層を出自とすると、皆が当たり前のように思っていました。政治的なリーダーシップと、軍事的な知識と鍛錬は この世的な意味で「選ばれた社会階級」に生まれなければ養われず、身に着かないからです。人々は王の宮廷か、高官の豪邸で救い主が誕生し、絹の産着にくるまれて黄金のゆりかごに寝かされると思い描いていたでしょう。
真実の救い主は、宮廷にも、豪邸にもおいでになりませんでした。他の誰かの居場所を奪ってしまわないようにと馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされ、この世の歩みの最初から、思いやりとへりくだりに溢れておられました。ここに、神さまの深い思慮による大いなるご計画がありました。
700年来の預言が成就して 救い主メシアがお生まれになったことは、広く全人類に伝えられなければならない計画です。そのために、神さまが特別に憐みをもって選んだ人たちがいました。主が選ばれた人々こそが、「羊飼い」たちでした。今日の主日礼拝の旧約聖書 イザヤ書40章11節には、メシアである「主」は「羊飼い」として民を養い、集め、弱く小さな者を抱き、母性を尊重しつつ、群れ全体をさらに導いて行く方であることが記されています。
羊飼いは、ユダヤ社会で実に大切な役割を果たしていました。ユダヤの民にとって大事な財産である羊を預かり、その群れを、体を張って野獣から守る役割です。そのために、勇気と知恵、優れた身体能力と精神力が求められました。
イエス様はユダヤの二人目の王 ダビデの末裔です。ダビデは少年時代、羊飼いの役割を果たしていました。羊の番をする勤めを通して、後に巨人ゴリアテを倒す戦闘力・戦略力を身に着けたと思われます。
羊飼いは社会にとって不可欠で、高い資質と能力を求められていながら、人々からは忘れられがちな存在でした。羊を良い糧・牧草地ときれいな水で養うために、町の文化的な営みから離れた野原で暮らしていたからです。羊と一緒に野宿を余儀なくされていたことは、言うまでもありません。このように、羊飼いはたいへんな労力を費やしているにもかかわらず、人々からはあまり重要視されず、彼らの社会的地位は決して高いとは言えませんでした。羊飼いは、ユダヤ社会の「縁の下の力持ち」のような存在のひとつだったと考えて良いでしょう。脚光を浴びることのない、隠れた英雄が「羊飼い」だったのです。イザヤ書40章11節で、救い主メシア・イエス様が「羊飼い」であると記されているのは、イエス様が その「隠れた英雄」としておいでくださるという意味なのです。
イザヤ書40章10節には、メシアは力を帯びておいでになると記されています。その「力」とは、敵を殺傷してその文化を破壊する「武力」ではなく、敵をさえも友として手を携えて共に働き、弱い者や幼い者を養い育て、導く「愛の力」だったのです。イエス様はその愛の力に満ちて、この世においでくださり、私たちを友として慈しんでくださり、群れとしてまとめてくださり、群れの中の一人も漏らさずに、私たちすべてに光の中の正しい道を歩ませてくださる導き深い羊飼いです。
イエス様がお生まれになった夜、神さまは、この人間の世で不遇に扱われ、それでも誠実に務めを果たしていた羊飼いたちを選んで、救い主のご降誕を知らせました。これが、今日の聖書箇所 ルカによる福音書2章8節から9節の出来事です。
羊飼いたちが寒く暗い野原でオオカミやキツネといった野獣から羊を守って番をしていると、突然、天使が現れ 主の栄光があたりを実に不思議な光で照らし出しました。
この世のものとは到底思えない不思議な事柄が起こったことに、羊飼いたちは恐れおののきました。
その彼らに、天使はマリアに告げ、ヨセフの夢でヨセフに語りかけたのと同じ言葉を告げました。この言葉です。「恐れることはない。」怖がらなくてよい理由を、天使はすぐに続けてこう言いました。「わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」(ルカ福音書2:10)
天使は、このうえなく喜ばしい「良いしらせ」を告げるために来たからです。その「良い知らせ」とは、言うまでもなく預言が成就して、救い主がお生まれになったと告げる福音です。ユダヤの民の、そしてユダヤ民族だけにとどまらず、すべての人類を恵みで満たす方が天の父なる神さまから遣わされたのです。
天使はこう言いました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ福音書2:11)さらに、神さまは天使を通して 羊飼いたちに特別の恵みをくださいました。救い主がお生まれになった「しるし」、つまり揺るがぬ確かな「証拠」があると、天使は羊飼いたちにはっきりと告げたのです。それが、12節です。お読みします。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
生まれたばかりの赤ちゃんが、家畜の餌箱である飼い葉桶に寝かされているとは、日常生活ではまず起こらないことです。めったにないことが起こり、それは救い主を見分ける「しるし」として充分な事柄でした。
驚く羊飼いたちが仰ぎ見る空に、天使の大軍が加わり、このように神さまを讃美しました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
ここに、神さまがこの世に示された価値観の大転換がありました。武力、さらに言えば暴力で敵を打ち負かすことよりも、御心に適うのは平和であるという真の幸福・真実の幸いの根本を 羊飼いたちは知らされました。
戦いよりも平和が良いと、現代に生きる私たちは当たり前のように感じています。ただ、ここで私たちは思い起こさなければなりません。この世は、自分の力で戦って、誰かから欲しいものを勝ち取ることに大きな価値を置いています。自分の主張する正義を貫くために、簡単に、または結局は、腕力・武力に、合法化された暴力を振るう私たちです。だから、世界で今も複数の戦争が起こっているのです。
真実に平和をまっとうしようと志したら、お人よしだと侮られて 持っているもの ― これは富や財産に限りません。自由や権利、主義や思想をも含みます ― を全部 奪われて人格をふみにじられるのが、「この世」です。私たちはその「この世の価値観」では、真実の安らぎを得られないことを、自己犠牲の愛を貫いたイエス様と出会って、初めて知るようになります。
私たちは神さまが私たちをこよなく愛してくださっていることを表す天上のしるしである「ご栄光」を、この身で現す「善きもの」でありたいと願うようになります。「善きもの」が地上で現す神さまのご栄光とは、飼い葉桶に寝かされたイエス様を通して まず羊飼いの、そしてイエス様の十字架の出来事とご復活を通して私たち一人一人の心に、また人類全体の心に与えてくださる「愛の力」に他なりません。
平和を願いたいという希望、神さまに愛されているように隣人を愛したいという愛は、神さまが私たちに与えてくださった「しるし」・イエス様を信じる信仰から始まります。まさに、信仰による希望と愛が 私たちの生き方の根本なのです。コリントの信徒への手紙一 13章13節にこう記されているとおりです。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
御子を世に遣わしたその瞬間から、神さまは御子の身を飼い葉桶に置いて、宿屋の部屋を他の誰かに譲られました。その主の愛から、私たちの平和への願いは始まります。
今日のルカによる福音書の聖書箇所で、羊飼いたちは、その神さまの愛の「しるし」だと教えられた「飼い葉桶の中で眠っている乳飲み子」を探そうと、急いで走り出しました。そして、自分たちが救われる約束のしるし・証拠である幼子、マリアとヨセフを探し当てました。
イエス様がお生まれになった時の出来事は、しばしば「最初の礼拝」と言われます。特に、東方の博士がイエス様を拝むために長い旅を続けて、乳飲み子のイエス様を拝することができたことをさして「私たちキリスト者にとっての最初の礼拝」と申します。
しかし、羊飼いたちがイエス様を探し当てたことも、私たちキリスト者がささげる最初の礼拝です。私たちは、月曜日から土曜日まで、この世の価値観の中を泳ぎ渡ります。競争原理によるこの世の価値観は、大波小波となって私たちを暗い罪の水底に引きずり込もうとします。その中を、私たちはイエス様に救われ、導かれて、主の日・日曜日にたどり着きます。自分が救われたしるしを確かめるために、礼拝に集います。
この世の社会でどのように扱われていようと、それに関係なく、私たちは主日の礼拝で、皆が兄弟姉妹として等しく、今日の聖書箇所の羊飼いたちのように、この自分が選ばれて神さまに呼ばれ、招かれていることを知るのです。
私たちはイエス様を目で見ることはできませんが、兄弟姉妹・教会がささげる礼拝を通して、確かにイエス様がおられることをあらためて知ります。主の日の礼拝でイエス様を探し当て、イエス様に会い、安心し、感謝し、また新しい一週間を泳ぎぬくための力をいただきます。お命さえも私たちを救うために譲って、十字架で死なれ、それによって永遠の命を約束してくださったイエス様のしるしを、これから私たちは聖餐式でさらに確かに賜ります。
イエス様のご降誕は、神さまの私たちへの愛のしるしです。そのこのうえなく尊い贈り物を深く心に宿して、今日のクリスマスの恵みをいただきましょう。
2023年12 月17日
説教題:いと小さき者のために
聖 書:ミカ書5章1~3節、ルカによる福音書2章1~7節
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
(ルカによる福音書2:6-7)
アドヴェント第三主日を迎えて、クランツの三本目のろうそくに灯りがともりました。今日も、聖書の二つの箇所が朗読されました。まず、旧約聖書ミカ書から、救い主がお生まれになる場所を預言した言葉が読まれました。そして、新約聖書 ルカによる福音書2章1~7節から 私たちはその預言が実現したことを知らされます。その御言葉が告げるように、イエス様はベツレヘムでお生まれになり、赤ちゃんのイエス様は馬小屋の飼い葉桶に寝かされました。
ヨセフとマリアは、ユダヤの北の町・ナザレで暮らしていました。聖霊によりイエス様がマリアの胎に宿った時、天使ガブリエルがそれをマリアに告げるために「ナザレというガリラヤの町」に 神さまから遣わされたことを、私たちは前回 ご一緒にお読みしたルカによる福音書1章26節に聴きました。
ベツレヘムは、エルサレムの南8キロほどのところにある町です。ナザレからベツレヘムまで、140~150キロほどの距離があります。現代は車でルート6という高速道路を走り、1時間半から2時間の距離ですが、新約聖書の時代には、徒歩で1週間ぐらいの道のりだったのではないでしょうか。
身重のマリアが、臨月に近かったにもかかわらず どうして一週間もの旅をしてベツレヘムに行かなければならなかったのかが、今日の御言葉には淡々と記されています。ここを読むと、イエス様はユダヤがローマ帝国から屈辱的な扱いを受けていた、その歴史的な事柄めがけて この世においでくださったことがよくわかります。今日の聖書箇所・ルカ福音書2章1節をお読みします。「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た。」
ユダヤはローマ帝国の植民地となり、ユダヤの全領土の人たちに住民登録をしなさいと命令が出されました。この住民登録は、ユダヤの人口を調べるための調査を目的としていました。植民地ユダヤに「人頭税」、つまり住民一人一人の頭数で税金を課すためでした。
ユダヤ民族は十二の部族から成りますが、それぞれ 自分の属する部族の町で この登録をしなければならなかったのです。日本に籍を持つ人で言えば、本籍のある場所に行って登録をするようなものです。
この命令にやむなく従って、ヨセフと身重のマリアはナザレを旅立ち ヨセフが属するユダの町 ベツレヘムに向かいました。自分の所属する部族の町に住民登録のために行かなければならない人たちは、マリアとヨセフの他にも数限りなくいたと思われます。
この時、こうしてユダヤ中の人たちが移動していました。ヨセフとマリアが宿屋に泊まることができなかったのは、このようなユダヤの歴史上、屈辱的な事が起こっていたという背景があったからでした。むしろ、宿屋に泊まることができたのは幸運な人たちで、多くの人が羊飼いのように野宿をせざるを得なかったと思われます。
この無理な旅の途中で、マリアは産気づいてしまいました。野宿している時に出産するのは、危険すぎます。出産時の出血の匂いで、狼やキツネといった羊を襲う野獣が集まってきてしまいます。苦しむマリアを支えながら、ヨセフはたいそう慌てたことでしょう。野獣を避けるために、どんな場所であれ、屋根と壁で守られている所を探さなければならなかったのです。
マリアとヨセフはそれぞれ、天使を通して「恐れることはない、主があなたと共におられる」との御言葉と約束をいただいていました。二人とも、それを信じて世にある困難を乗り越え、結婚し、ここまで一緒にやって来ました。そして、神さまはもちろん、この時も二人に寄り添ってくださり、仮の宿・出産の場所として馬小屋の片隅を与えてくださいました。つらい旅だからこそ、イエス様が無事にお生まれになって産声をあげられた時の安心と喜びは本当に、本当に大きなものでした。
ルカによる福音書2章10節には、このような天使を通しての神様からの御言葉があります。「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。』」イエス様のお生まれ・ご降誕が私たち主の民全体にもたらした大きな喜びとは何か、また主にある幸いと恵みとは何かを あらためて考えさせられます。
皆さんの中には、このようにお考えの方もおいででしょう ― 神さまがヨセフとマリアのことを深く思いやって寄り添われるのならば、宿屋に泊まらせてやっても良かったのではないか。
しかし、この時の状況では、ヨセフとマリアが宿屋に泊まれば、宿屋の数にも部屋数にも限りがありますから、他の誰かが宿屋に泊まれなくなってしまったでしょう。ここに、神さまの次元である永遠・無限とは異なり、終わりがあって限りのあるこの世の現実が示されています。
「民全体」が喜ぶ・恵まれる・幸いをいただくとは、平等と平和をさしています。限りのあるものを互いに奪い合って自分のものにしようとするから、そこに競争が生じます。競争から戦いが起こり、それは戦争になります。
神さまは、そんなことは決して望んでおられません。だからこそ、民全体を思って、御子イエス様を民の・私たちの最底辺と言っても良いような過酷な状況に遣わしてくださいました。イエス様は、つらい事柄の中でも、よりつらい苦難の中にご自身を置いてくださり 私たち人間の苦しみのすべてに寄り添ってくださったのです。
今日の旧約聖書箇所 ミカ書に「いと小さき者」という言葉があります。誰もかえりみないこの世界の暗い片隅に、ひっそりと暮らして忍耐している者・差別されている者・虐げられている者、競争にいつも負けて小さな分け前しか手にすることのできない者、戦いにいつも敗れて持っているすべてを取り上げられてしまう小さい者たちを、神さまは見ていてくださいます。
自分は決してその「いと小さき者」にならない・人生の挫折も敗北も、突然の悲しい出来事も 自分に起きるはずがないと言い切れる方は、おられないのではないでしょうか。どなたも、人生の年月を重ねる中で「今の自分ほど惨めな人間は、他にいないのでは」と深い無力感を感じたことがおありでしょう。私たちが落ち込んでいるその心の暗い片隅に、神さまは希望の光としてイエス様を与えてくださいました。イエス様は競争・争いを避けて平和を実現するために、自分を大切にするのと同じように隣人を大切に思い、譲り合うことを教えてくださいました。言葉で伝えるだけでなく、ご自身の御体と地上の歩みのすべてをもって、それを私たちに示されました。
イエス様は、お生まれになる時には誰かに宿屋の部屋を譲り、人間として死を迎えた時には、この地上で生きる場所さえ 私たちに譲ってくださいました。十字架で私たちに代わって死なれ、私たちを救うために命すら捨ててくださったのです。まさに、イエス様は 神さまから私たちに与えられた愛と平和を指し示す贈り物・プレゼントです。
教会は、クリスマスに 運営に困難のある福祉施設や教育施設への献金をささげます。そこには、神さまからの贈り物・イエス様への感謝を 今「いと小さき者」として労苦している方を そのご労苦を思いつつ 自分にできる支援するという意味がこめられています。
神さまがご覧になれば、私たちは皆「いと小さき者」です。その小さい者同士が、イエス様が身をもって教えてくださった自己犠牲の愛を心に抱いて 助け合い、支え合って進んで行く先に真の平和があります。その恵みを心にいただいて、この一週間も主を仰いで進み行きましょう。
2023年12 月10日
説教題:神の御子が生まれる
聖 書:イザヤ書9章1~6節、ルカによる福音書1章26~38節
天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
(ルカによる福音書2:35-38)
アドヴェント第二主日を迎えて、クランツの二本目のろうそくに灯りがともりました。今日も、聖書の二つの箇所が朗読されました。私たちの天の神さまが、御子イエス様をこの世に遣わされるとの預言の御言葉を、私たちは旧約聖書イザヤ書に聴いています。御言葉は、打ち続く戦い・戦争がついに終結し、「一人のみどりご・男の子」が「平和の君」として生まれ、この世に平和をもたらす恵みの約束をいただきました。その約束が実現したのは、実に預言から700年ほど後のことでした。どうして、これほど長い年月が過ぎてしまったのでしょう。
それは、人々が、主に立ち帰るようにと預言者を通して招いてくださる神さまの言葉を聞こうとせず、神さまではないもの・偶像を勝手に自分の神として崇める偶像崇拝を続けていたからです。神さまは、人々の不信仰を悲しみ、嘆き、「あなたたちが その誤った悪の道を進むなら、その先には破滅・滅亡が待っている」とさえおっしゃいました。それでも人々は神さまを仰ごうとしませんでした。
その背きの罪の結果として、ユダヤの民は大国アッシリア、さらにはバビロニアとの戦いに敗れ、美しいユダヤの国・神殿の都エルサレムは瓦礫の廃墟となり、人々は捕らえられて遠いバビロンに連行されて行きました。いわゆる「バビロン捕囚」の出来事です。
神さまは、いくら御言葉で呼びかけても 愚かで頑なで、目に見える物しか信じることのできない人間を、見捨てはなさいませんでした。ついに、人間の目に御言葉が聞こえるように、私たちの限られた五感を通して知ることができるようにと「人となった神の言(ことば)」・御子イエス様を与えてくださいました。イエス様は、こうしてこの世においでくださったのです。
今日、私たちは新約聖書から、イエス様の母となるマリアが、イエス様を聖霊によって宿したことを天使に告げられる御言葉をいただいています。ユダヤの人々が神さまの御言葉を聞いても、主に立ち帰らなかったのとは正反対に、マリアは神さまの言葉を素直に受け容れました。
信仰とは、御言葉をいただき、その恵みに与ることです。その信仰を、今日のルカによる福音書1章が語るマリアの姿を通して、ご一緒に聴きましょう。
今日の聖書箇所で、マリアはいきなり目の前に現れた “人ならぬ者・天使” に「おめでとう」と祝われて驚き恐れました。マリアは、まず、天使の出現にびっくりし、さらに加えて「恵まれた方」と呼ばれて「主があなたと共におられる」との言葉に戸惑いました。創造主なる天の神さまは「インマヌエル(共においでくださる)の主」だと信仰を通して知らされてはいても、どうして天使がこの自分に向けて、ことさらに「おめでとう。主があなたと共におられる」と言うために現れたのか、わからなかったからでしょう。
マリアはこの時、14歳の少女だったと伝えられています。自分はごく普通の若い女性、もっと言ってしまえば “取るに足らない平凡な者・大勢の中の一人”と何となく思っていたのではないでしょうか。なぜ自分?と思ったでしょう。
ところが、天使が「主があなたと共におられる」と言ったのは、文字どおりの意味でした。天地創造の主なる神・父なる神さまと一体のイエス様が、この時にマリアの内に宿ったのです。イエス様はマリアの体の中・胎の内におられて、これ以上ないほどぴったりとマリアと共においでくださるようになったのです。
天使はマリアに「恐れることはない」 、何も心配はいらない、と告げて、マリアがイエス様を身ごもったと言いました。それはマリアの、いえ私たち人間全体の常識と理性による理解を超える事柄でした。マリアは実に正直に、天使に向かって「そのようなことがありえましょうか」と言いました。
すると、天使は「あなたの親類のエリサベト」の身に起こったことを語りました。それは、子を授からないまま年をとり、人間の常識ではもう子どもをまったく望めなくなっているマリアの親類のエリサベトに、神さまが夫ザカリアとの間の子を与えた出来事でした。その子はすでに胎内で六ヶ月を迎えていました。エリサベトのお腹の子は、後にイエス様に洗礼を授ける洗礼者ヨハネです。その恵みの奇跡のように「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)と、天使は力強くマリアに断言しました。主の全能を告げ、主の力がマリアを包んでいるから、少しも恐れることはないとマリアを励ましたのです。
マリアには、この励ましが実に、切実に必要でした。なぜなら、ごく平凡な少女マリアが 神さまに選ばれて御子を胎内に宿し、人知を超えたその神さまの御業のために、人の世ではたいへんな苦労をすることが容易に予想できたからです。結婚前に身ごもった女性・姦淫の罪を犯した者として、マリアは石打の刑で殺される可能性がありました。婚約者ヨセフとの結婚は、もう望めないと思って当然でした。にもかかわらず、神さまは、人が危惧するすべての事柄からマリアを守り通して、必ず 共においでくださるとおっしゃったのです。その神さまの約束をすなおに信じたことに、マリアの幸いがありました。さらに、予想できる苦難をも、受け容れる覚悟を持つ強さが、マリアに与えられたことは、このうえない恵みでした。
マリアは言いました。「わたしは主のはしためです」 ‒ これは、私はあなたの僕(しもべ)・卑しい召使です・ひたすら、お仕えする者ですという言葉です。神さまを自らの主と仰ぐ信仰の告白です。そして、祈りました。「お言葉どおり、この身になりますように。」 ‒ 御心の通りのことが、私に起こりますように。
マリアに起こった出来事は、イエス様を受胎したという点では、確かにマリアだけに起こった特別な事柄です。他の誰にも、マリアに起きたことは起こりません。神さまがマリアを特別に選び、神さまがマリアだけに与えた人生を歩ませたからです。
しかし、この事実は、そっくりそのまま私たち一人一人にもあてはまります。私たちそれぞれが、その人生で体験することは、それぞれの、ただその人限りの特別な体験です。その人以外には、他の誰にも起こりません。神さまが、それぞれに、それぞれの特別な人生を選び、その人だけに与えた人生だからです。
私たちそれぞれの歩みには、それぞれの課題があり、苦難があり、悲しみがあります。そして、神さまは私たち一人一人を愛して造ってくださったので、その全能をもって、それぞれがいただいた “特別な人生”に、常に寄り添って苦難を分かち合い、一人一人を守り通してくださいます。
神さまはマリアを、この御言葉の約束によって守り通してくださいました。「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。…神にできないことは何一つない。」(ルカ2:30、37)
主がマリアを守り、支え通したのとまったく同じように、私たちも主に愛し抜かれ、守り通されます。次のように聖書が語っている通りです。コリントの信徒への手紙一10章13節からお読みしますので、お聞きください。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
試練の大きさ・深さは人によって異なります。神さまは、その人 その人に合わせて試練を賜り、耐える力・忍耐する力を与えてくださいます。また、その人 その人に合わせたタイミングで逃れの道を備えてくださるのです。マリアに与えられた人生の試練の大きさ・深さは、すさまじいものでした。
マリアの苦労は、イエス様を出産した頃のことばかりではありません。彼女は若くして夫ヨセフに先立たれたと推測され、さらには母として慈しみ育てたイエス様が、十字架に架かって死なれるのを見ることになります。人間の常識からすると、マリアの人生は幸福だったとは思えないかもしれません。しかし、それは祝福された人生、神さまが遣わされた天使に「おめでとう」と祝された人生だったのです。神さまが常に共におられる、その幸いの大きさを、マリアはイエス様を身ごもって、自分の身をもって知ることで、体と心と魂で知り尽くしていたに違いありません。
マリアと同じように、私たちそれぞれの人生は、神さまに祝福されてイエス様が共においでくださる・寄り添ってくださる人生です。今日、その恵みの事実を堅く心に留めましょう。
絶やさず御言葉に聴き、御心をたずね、御心のとおりに この身になりますようにと、神さまに自分のすべてをおゆだねしましょう。主は必ず私たちと共においでくださり、慰め、励まし、必要ならば逃れる道をも備えてくださいます。
今日から始まる新しい一週間、私たちもマリアのように「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と確かに告げられていることを信じて、喜びのうちに進んで行こうではありませんか。
2023年12 月3日
説教題:父の使命を果たす御子
聖 書:イザヤ書55章8~11節、マタイによる福音書1章18~25節
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
(マタイによる福音書1:23)
アドヴェント・クランツの一本目のろうそくに、灯りがともりました。これから、私たちは待降節・アドヴェントの四週間を歩んでご降誕日を迎え、イエス様のお誕生日・クリスマスを感謝をこめて祝います。
今年のアドヴェントは、講解説教として読み続けているルカによる福音書からしばし離れて、イエス様のお誕生を巡る出来事を聖書に聴きたいと思います。
アドヴェント第一主日の今日は、ヨセフの身に起こった出来事をマタイによる福音書1章に聴きましょう。マタイによる福音書第1章、新約聖書の第1ページです。聖書を開いて、皆さんは、あ~、ここか!と思われたのではないでしょうか。そうです、あのカタカナばかりの名前がずっと続く系図のページです。マタイによる福音書は、このイエス様の系図によって旧約聖書とつなげられています。いわば、この系図が旧約聖書と新約聖書の懸け橋で、ここに記されている名前を見れば、旧約聖書に記されているあの出来事・この出来事を 思い起こさせるようになっています。神さまは、ここに記されている名前を持つ人々と深く関わりを持たれ、その人々の生き方と人間の歴史は 神さまと関わることで形づくられました。
ところどころに女性の名前もありますが、多くが男性の名で、この系図は基本的には 父が子をもうけ、その子が父となって子をもうけ…とつながっています。この人間の歴史の中に、神さまの御子イエス様が突入してくださいました。それが、マタイによる福音書1章16節、先ほど司式者が朗読してくださった今日の聖書箇所の2節先の聖句です。お読みします。「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」
イエス様は神さまでありながら、人となって私たちの暮らすこの世にお生まれになりました。私たちは、それを心に受けとめています。「神さまが人となられた」・「神の御子が人となり」とはどういうことかと言えば、この世の人間の系図に組み込まれ、人間社会の一人として生きたということです。
昔も今も、特に子どもたちが大好きな、善良な市民が困っているとどこからか現れて悪者を成敗してくれたり、問題を解決してくれたりする超人的な「助け手」としてのヒーローやヒロイン ― たとえばウルトラマンや、プリキュアや、どらえもん ― は、人間社会の一員とは言えません。架空のキャラクターですから当然ですが、そのフィクションの設定上でも戸籍や国籍、市民権などを持たず、どこかの家の系図に入るということは 考えられません。ところが、イエス様は、私たち人間とは次元の異なる神さまの御子でありながら、私たちと同じ人間社会の一員になってくださいました。しかも、今日の聖書箇所が語るように衝撃的な事情の中に生まれてくださったのです。
今日の聖書箇所は、このように始まります。マタイによる福音書1章18節をお読みします。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」イエス様がマリアのおなかに宿られたのは、婚約していたマリアとヨセフにとって、またおそらく二人の家族にとって、衝撃的な事柄でした。世俗的な言い方をすれば、マリアはヨセフと婚約しているのに、ヨセフとまったく関わりを持たずに妊娠したという事態が起きたのです。
人間にわかる現象だけをユダヤ社会の掟・律法から見ると、マリアは姦淫の罪を犯したことになります。これは、死に値する罪でした。ヨセフはマリアに裏切られたと世間に訴え、律法学者たちがその言い分は正しいと認めて、マリアに石打の刑・死刑が執行されても不思議ではありませんでした。しかし、ヨセフはそうしようとは思いませんでした。
19節をご覧ください。このように記されています。「夫ヨセフは正しい人であったので」。律法学者やファリサイ派の人々のように、律法を人間の知恵で考えて「正しく」解釈して、マリアを姦淫の罪で罰することが、神さまがご覧になって「正しい」ことならば、夫ヨセフはマリアを訴えるのが正しいことになります。
しかし、ヨセフはそうはしませんでした。19節を続けてお読みします。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず」― つまり、マリアを訴えようとはせず、「ひそかに縁を切ろうと決心した。」夫ヨセフは、マリアに罰を受けさせて苦しめることを決して望みませんでした。自分は世間からお人よし・腰抜けと思われても良いから、婚約はなかったことにして、ひっそりとマリアと別れようと心を決めました。マリアがこれからの人生を やがて生まれて来るおなかの赤ちゃんと共に歩んで行けるようにと、マリアと、そのおなかに宿った新しい命に可能性をひらいたのです。ヨセフのこの広い心・優しい決心こそ、神さまがご覧になって「正しい」とされることでした。だからこそ、神さまはヨセフをマリアの夫に選んだのです。
決心はしたものの、まだ思い悩むヨセフは、夢を見ました。20節からの出来事です。神さまから遣わされた天使が、ヨセフの夢に現れて こう告げました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」(マタイ1:20)そして、天使はヨセフに生まれて来る男の子に「イエス」と名付けるようにと言いました。子どもに名前を付けるのは、ユダヤの社会では父親の役割でした。神さまはヨセフに、思い悩まず、何も恐れず怖がらず、マリアと家庭を持って生まれてくる子の父となり、その子に父親として「イエス」 ― 「神は救い」という意味です ― と名付けなさいと告げたのです。
22節で、天使は旧約聖書の預言者の言葉をヨセフに伝えました。イザヤ書7章14節のこの御言葉です。旧約聖書の御言葉を拝読します。「それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」インマヌエルは、今日のマタイ福音書1章23節の後半にあるように「神は我々と共におられる」という意味です。
ヨセフはユダヤ社会に生まれた者として、旧約聖書の御言葉を暗記していますから、天使がイザヤ書の御言葉を語るのを聞いて すぐに理解しました。預言に語られ、ユダヤ民族のみならずすべての人を平和へと導く救い主・メシアが、マリアのおなかに宿ったことを ここで知ったのです。またインマヌエルという天使の言葉によって、「神さまが自分と、またマリアと共にいてくださる」恵みを深く深く知ることができました。こうして、ヨセフに限りなく大きな、深い安心が与えられました。ヨセフは、主にある平安に満たされたのです。
神さまは私たちがどんな状況にあっても、「恐れるな、わたしがあなたと共にいる」とおっしゃって私たちを守り支えてくださいます。その守りと支えは神さまの時・神さまのなさり方で私たちに与えられます。私たちがその守りと支えを信じる時、私たちの心に勇気と希望がふつふつと湧いてまいります。この時、ヨセフにその力が与えられました。
この後、ヨセフには多くの苦難が待っていました。 身重の妻マリアを守って、遠くベツレヘムに旅をしなければなりませんでした。その旅の途中で、マリアは産気づきました。現代だったら、タクシーを呼んで病院の分娩室に直行する状況です。しかし、ヨセフはすべての困難を一人で乗り越えなくてはなりませんでした。
いえ、私は今、ヨセフは「一人で」困難を乗り越えると申しましたが、聞いておられる皆さんは、その誤りにお気付きでしょう。ヨセフは「一人」ではありませんでした。インマヌエルの主である神さまが、ヨセフと共においでくださいました。ヨセフは、それをよくわかっていました。神さまが自分と共にいて、すべての困難を乗り越えさせてくださることを、ヨセフは確信していました。「神さまが自分たちと共においでくださる」― その恵みのしるしの男の子・イエス様が、自分とマリアの家族の一人として生まれてくるのですから、すべては必ず守り支えられる はずです。その確信のもとに、ヨセフは喜びと希望と勇気を抱いて、主の定めたとおりに進みました。そして、聖霊によって宿った御子は、お生まれになりました。天の父から救いの使命を与えられ、人の姿となっておいでくださったのです。
今日、神さまから天使を通して与えられた恵みの御言葉を 真正面からすなおに受けとめ、そのとおりに行ったヨセフの信仰を心に留めたいと願います。自分は一人ではない ― 必ず、神さまが共においでくださる ― そのインマヌエルの恵みを今 心に豊かに受けて この新しい一週間を歩んでまいりましょう。
2023年11 月26日
説教題:一羽さえも慈しむ主
聖 書:イザヤ書51章12~16節、ルカによる福音書12章1~7節
友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。…五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。
(ルカによる福音書12:4,6)
今日の礼拝は、収穫感謝日礼拝としてささげられています。
主は私たちを愛し、だからこそ、地の実り・働きの実りを与えてくださいます。もちろん、いつも主に感謝している私たちではありますが、今日は特に私たち一人一人に与えられた主の愛を、御言葉を通してあらためて深く知り、さらなる感謝をささげる礼拝といたしましょう。
御言葉に聴く前に、突然ですが、皆さんに伺います。レーナ・マリアというゴスペルシンガーをご存知でしょうか。スウェーデン出身の女性で、天使のように澄んだ、輝かしく明るく、聞く人の心を勇気づける歌声の持ち主です。世界中で活躍しており、日本にも何度も来てコンサートを開いています。日本のコンサートでは日本語で讃美歌を歌い、音楽を通して伝道活動を展開しています。1998年に開催された長野パラリンピックの開会式で、讃美歌「輝く日を仰ぐ時」を歌ったのを覚えておられる方もいらっしゃるでしょう。
レーナ・マリアが日本語で歌う讃美歌のひとつに「一羽のすずめ」という曲があります。残念ながら、私たちが使っている讃美歌21には入っていないのですが新聖歌285番です。
「心くじけて」と歌い出します。一節の歌詞をお読みします。「心くじけて思い悩み などて寂しく空を仰ぐ 主イエスこそが わがまことの友 一羽のすずめに目をそそぎたまう 主はわれさえも 支えたまうなり 声高らかにわれは歌わん 一羽のすずめさえ 主は守り給う」
この讃美歌は、 今日のルカによる福音書の聖書箇所をもとに 1905年にアメリカで作詞・作曲されました。「心がくじけて折れそうな時に、一羽のすずめさえも支え守ってくださる主を思い起こし 主に勇気をいただこう」と讃美します。皆さんは もう、お気づきだと思います。
今日の聖書箇所が、この讃美歌のもととなっています。
その今日の聖書箇所の出来事は、どのような状況で語られたのでしょう。少し、その前の聖書箇所を振り返りたいと思います。イエス様はある家に食事に招かれましたが、ファリサイ派の人々や律法の専門家と険悪な雰囲気になってしまいました。
律法の専門家たちはユダヤ社会で、いわば「法の番人」として権威を振るい、ファリサイ派の人々は、その専門家の知識によって民衆の律法違反を取り締まろうと、人々の言動に目を光らせていました。彼らは社会秩序を守ってくれる権威者と人々に尊敬されていると同時に、たいへん恐れられていました。彼らに「違反者」と決めつけられたら、ユダヤ社会の掟破り・犯罪者・罪人のレッテルを貼られるからです。彼らを批判するなど、論外としか思えませんでした。ところが、イエス様は彼らを外側はきれいだが、内側は汚れた者として戒められました。人々は驚きました。この出来事はユダヤ社会では大事件だったのです。これはたいへんだ、見ものだと、イエス様がファリサイ派と律法の専門家たちと対峙なさっている家に、どんどん人が集まって来ました。そのことが記されているのが、今日の聖書箇所のルカによる福音書12章の冒頭、 第1節です。
その3行目に、こう記してあります。「イエスは、まず弟子たちに話し始められた。」(ルカ福音書12:1b)大勢の人が集まり、ファリサイ派の人々と律法学者たちがイエス様の言葉尻をとらえて反論し、貶めようとしている中で、イエス様は「まず 弟子たちに」語り始めました。どうしてでしょう。弟子たちが「心くじけて」いたからです。
弟子たちは、自分たちの先生であるイエス様が、こんな大事件を引き起こしてしまったことにうろたえていました。何よりも、足の踏み場もないほど集まった多くの人たちに囲まれて、恐ろしくなり、冷や汗をかき、目が泳いでいたことでしょう。社会的権威を持ったファリサイ派と律法の専門家たちの前で、自分たちは吹けば飛ぶような存在だとしか思えなかったからです。
イエス様は、怯えている弟子たちにこうおっしゃいました。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。」(ルカ福音書12:1b)神さまの御子、そしてご自身も神さまであるイエス様から見ると、律法を勝手に解釈し、それで人々を取り締まって支配しているファリサイ派と律法学者は御心にかなう正しい人のふりをして 隣人を傷つけて悪を行っているのです。
ここで言っている「パン種」はイースト菌のことです。パン生地にイースト菌をほんの少し入れると全体が大きく膨らむように、少数のファリサイ派と律法学者の偽善がユダヤ社会全体に悪影響を及ぼしていました。人々は神さまの御心を尋ねず、神さまを思わず、同じ人間に過ぎないファリサイ派や律法学者の顔色を窺うようになってしまっていたのです。神さまが愛をもってユダヤの民に律法を与えてくださったという真実が、人々の恐怖に覆い隠されてしまいました。
神さまの御心の真理が、明らかにされなければなりませんでした。
また、その真理を語る者が、それが神さまの真理であるがゆえに怖がる必要など何もないことを、イエス様は弟子たちに伝え、勇気づけようとしてくださいました。
自分と反対の立場にいる大勢の人に囲まれたら、恐ろしいのは事実です。この聖書箇所を読むと、私はある場面を想像してしまいます。そんな状況を妄想しなくてもよいのに、と皆さんに失笑されるかもしれませんが、お話しします。
私が渋谷の109前の交差点で街頭インタビューをされた、という場面です。インタビューの最後に、インタビュアーに「ところで、ご職業は?」と聞かれたら 私はこう答えるしかありません。「職業と言うよりも生き方として、私はキリストの教会の牧師として生きています。」 その時に、まわりに集まっている野次馬の中から、「ここは日本だぞ! 仏教国だぞ! 神道の国だぞ!」という挑戦的な、または嘲るような声が上がるのではないかと、私は想像してしまうのです。宗教の自由が保障されているこの国で、そんなことを言うのはおかしいのですが、群衆にまぎれているのを良いことに、言う人がいるかもしれません。さらに、どこから声が上がったかわからないのを良いことに、「そうだ、そうだ」と尻馬に乗って無責任に騒ぐ人も出て来るでしょう。さらに無責任な人たちは 「面白いことが始まった」とばかりにスマホを取り出して、動画配信を始めるのではないでしょうか。
もしもそんなことが起こったら、実に馬鹿らしいことなので、私は相手にせず、黙って立っているつもりです。できれば、そんな声はどこ吹く風とばかりに泰然自若・毅然としていたいと思います。
しかし、皆さんは今の私の言葉を聞いて気付かれたでしょうか。ここに、私の本音が現れています。私は、立っている「つもり」・毅然として「いたい」 と言いました。これは願いであり、そうできないかもしれないという私の正直な思いが現れてしまっています。私は逃げ出すかもしれない、毅然としていられないかもしれない ― そんな恐怖心を心の底に抱いているのです。
群衆の中から上がるどら声は、それを浴びる立場の者には恐怖であり、脅威です。今日の聖書箇所の弟子たちは、私が妄想してしまう状況に似た思いで、集まった群衆に怯えていたのではないでしょうか。
その弟子たちに、また小心者のこの私に、イエス様は今日のみことばを語ってくださるのです。臆病な弟子たちを、また取るに足らぬこの私をイエス様は友と呼んで、勇気づける言葉をおっしゃってくださったのです。今日の聖句に、「友人であるあなたがたに言っておく」というイエス様の呼びかけが記されています。
4節から、少し途中を飛ばしますが、お読みします。イエス様の言葉です。「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。…言っておくが、この方を恐れなさい。五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(ルカ福音書12:4-7)神さまが、あなたがた一人一人を深く気にかけて、見守っていてくださるから大丈夫だ、怖がることはない、恐れるなと力づけてくださいます。
気になる方がおられるかもしれないので、イエス様が語られた数字について、少し補足的に説明します。
二アサリオンは、今の貨幣価値に換算すると1,250円ぐらいに相当します。五羽で1,250円ですから一羽は250円、スターバックスのコーヒー一杯分よりも安い値段ですずめ一羽の命が売られています。 十把ひとからげならぬ「五羽ひとからげ」にされて、人間の目には一羽一羽の価値・それぞれの価値などなきに等しい「一羽のすずめ」です。しかし、神さまはその一羽をも、愛して造ってくださり 心に留めて守り支えてくださると、イエス様はおっしゃいます。
私たちには見分けがつきませんが、神さまは一羽一羽のすずめを、それぞれ、たった一羽しかいないすずめ・かけがえのないすずめとして愛してくださるのです。同じように、いえ、すずめよりも、ご自身に似せて造られた私たち人間の一人一人を 神さまは深く深く愛し、気にかけてくださいます。
続けて、イエス様は、私たちの髪の毛一筋までも、主はご存知だとおっしゃいました。私自身が気付かなくても、私の髪に白髪が一本増えていれば、神さまは原田には気苦労が多いのかな、一筋の毛が抜け落ちたら、栄養が足りているかなと心配してくださいます。
お姿は見えないけれど、その神さまがいつも私たちと共においでくださいます。それをはっきりと私たちに示そうと、イエス様は今日の出来事とのしばらく後に十字架で命を捨てられ、三日後に復活されました。
私たちの肉体の死を超えて、永遠に私たちに寄り添ってくださることを示すためです。私たちが、人のかけて来る「圧」に心おののく時、イエス様は「人間は体を殺しても、あなたがたから私と永遠に共にいる恵みを決して奪えない。だから人間など恐れるな、大丈夫だ、わたしがそばにいる」とおっしゃってくださいます。
最後に、今日の説教の冒頭で触れた「一羽のすずめ」の讃美歌の歌詞の第2節を、ご紹介しましょう。このように歌います。「心静めて 御声聞けば 恐れは去りて ゆだぬるを得ん ただ知らまほし 行く手の道」
私たちも、今日から始まるこの一週間、どんなことが待っているのか「行く手の道」を知ることはできません。しかし、人の「圧」に恐れおののく時に、イエス様の御言葉を思い起こしましょう。祈り、できれば聖書を開いて御言葉に聴きましょう。嵐の湖のように波立ち おののく心をイエス様が鎮めてくださるのを待ち、すべてをゆだねて 死を超えて私たちを導いてくださる主から希望と勇気をいただきましょう。
2023年11 月19日
説教題:真実の幸いを知る鍵
聖 書:歴代誌下24章17~22節、ルカによる福音書11章45~54節
だから、神の知恵もこう言っている。「わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。」こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。
(ルカによる福音書11:49-50)
今日の御言葉では、イエス様が律法の専門家に厳しい言葉を告げられた出来事が語られています。
この御言葉の前の聖書箇所を覚えておいででしょうか。イエス様が食事の前に身を清めるしるしとして手を洗わないことを ファリサイ派の人々は不審に思いました。食事の前に手を洗うのは「昔の人の言い伝え」として、神さまがユダヤの人々に与えてくださった掟の一つなのに、イエス様がそれを守らなかったからです。これを神さまがくださった掟・律法への背き、すなわち違反だとファリサイ派の人は思い、心の中でイエス様を犯罪者とみなしました。イエス様はその心の内を見抜かれ、ファリサイ派の人々の心の狭さ・愛の乏しさを、「あなたがたは不幸だ、正義の実行と神への愛をおろそかにしている」と指摘されました。
神さまの御子であるイエス様がおっしゃることは、そのまま神さまの御言葉ですから、素直に聞けばよいのです。しかし、ファリサイ派の人々にはその素直な心・神さまの御心を聴き分ける良い耳を持っていませんでした。イエス様が天の父の御子だと気付かなかったうえに、「一番正しいのは、自分だ」という自己中心的な思いでいっぱいだったからです。彼らは、イエス様の言葉に大いにムッとしたことでしょう。イエス様をお客様に迎えて、楽しいはずの食事の場が気まずくなりました。
今日の聖書箇所は、その凍り付いたような場で、律法の専門家が発した言葉から始まります。律法の専門家は、いわば ファリサイ派の人々を理論的に擁護する者として、彼らに知恵をつけている学者たちです。ファリサイ派と同じ立場です。
民衆が文字に記された律法を持っておらず、専門家たちの律法解釈に頼るしかない時代でした。ですから、ファリサイ派の人々も、律法の専門家も、ユダヤ社会の秩序を律法で守る指導者として尊敬され、恐れられていました。
このようにファリサイ派と律法の専門家は同じ立場の者たちだったので、律法の専門家は今日の最初の聖句・ルカ福音書11章45節の、この言葉を言ったのです。「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります。」
イエス様は、誰のことも侮辱しようとなど なさいません。誤りを指摘し、事実を述べられました。律法を人間的な視点から勝手に解釈して他者を裁き、それによって神さまに背いて正しい道から迷い出てしまっている者たちを、主の道へと呼び戻してくださろうとなさったのです。神さまの正しい道はこちらだと、イエス様は指し示し、教えてくださっています。教えられている者が我を張って「自分が正しい」と自己主張しても、むなしいだけです。誰も、また何ごとも、その自己主張によって良くはなりません 。何も良くならずに、我を張る ― 神さまを押しのけて、自分を中心とすることで、かえって神さまから離れてしまいます。この事実を、イエス様は「不幸」とおっしゃったのです。
それに気付かせるために、イエス様は律法の専門家にこう言われました。46節をお読みします。「あなたたちは…人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。」律法の専門家は、ファリサイ派と同じように他の人の律法違反という罪を糾弾して、罪という重荷を背負わせます。しかし、決して、その重荷を一緒に担おうとはしません。イエス様とは大違いです。
イエス様は私たちに、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28 口語訳)とおっしゃいました。私たちの重荷を共に背負ってくださるためです。さらにイエス様は、律法の専門家とファリサイ派の人々が勇んで率先して行っている自警団のような取り締まりが、どれほど御心とかけ離れているかを ユダヤの歴史に基づいてこのようにおっしゃいました。47節です。「あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。」
このイエス様の言葉は、今日の旧約聖書の御言葉が語る預言者ゼカルヤの出来事をさしています。イエス様がルカによる福音書11章47節で、律法の専門家たちに「自分の先祖」と言っているのは、預言者ゼカルヤを死に追いやった者たちのことなのです。
今日の旧約聖書の御言葉、歴代誌下24章17節以下をご一緒に思いめぐらしてまいりましょう。そこに記されているように、ユダの王ヨアシュは祭司ヨアダが生きている間は、主なる神さまに従った生き方をしていました。祭司ヨアダが民衆に敬愛されているので、彼が教える律法に従っていれば、自国の社会秩序を守れると考えたのかもしれません。しかし、この従順はきわめて人間的なものでした。王ヨアシュの心には神さまへの信仰がなかったのです。
神さまから信仰心をいただくとは、ただ従順に律法に従うだけではありません。ただ従っているだけでは、命のないロボットです。
神さまは、私たちに「命」をくださいました ― それは、神さまからいただいたものすべてを嬉しく受け入れ、与えられている神さまからの使命を喜んで果たすための「命」です。こうすべきだから、しなくてはならない…そんな窮屈さを感じる時、私たちは「命」の生き生きとした喜びを忘れかけているのです。
律法の専門家とファリサイ派の人々は、律法を必死に守り、民衆にもそれを強制することが信仰だと、間違って思い込んでいました。そこには、信仰の喜び・真実の幸いはありませんでした。
私たちも、このことを心に留めなければなりません。教会で神さまにささげるご奉仕に喜びを感じなくなり、ただつらいだけになったなら、働く手を休めて 祈りをささげ、御言葉に聴く姿勢を持ちたいものです。
イエス様は、今日の御言葉で、律法の専門家とファリサイ派の人々が、旧約聖書のユダの王ヨアシュと同じ過ち・罪を犯していることを、気付かせようとなさいました。繰り返しますが、王ヨアシュは 神さまのことを思わず、社会秩序を保つために祭司ヨアダに従っていただけでした。そこには、主にある命の喜び・信仰の恵み・真実の幸いを知る感動はありませんでした。だから、彼はヨアダが亡くなると、目で見て触ることができるアシュラという異邦の神を敬い、偶像崇拝を始めました。見ることのできない真の神様よりも、見える偶像の方が、ご利益がありそうに思えたのでしょう。
神さまに背き、神さまでないものを神と崇めるのは最悪の罪です。ですから、ヨアダの息子で預言者ゼカルヤは王ヨアシュを戒め、神さまの警告の言葉を伝えました。こう言ったのです。 「なぜあなたたちは主の戒めを破るのか。あなたたちは栄えない。あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる。」(歴代誌下24:20)
預言者は、神さまが背きの民に向けて遣わした使者です。ところが、王ヨアシュは神さまからの使者・ゼカルヤを殺すよう命令し、その殺害に自らも手を下しました。人間同士の戦いで、和解への提案を携えてやって来た相手方の使いの者・使者を殺害するとは、新たな宣戦布告に他なりません。王ヨアシュとその家臣は、ゼカルヤを殺すことで、神さまに反撃すると宣言したも同然のことをしてしまいました。
ゼカルヤは、その死に際してこう言いました。歴代誌下24章22節からお読みします。「主がこれを御覧になり、責任を追及してくださいますように。」この言葉を、神さまは確かに受けとめてくださいました。その事実を、神さまの御子イエス様がおっしゃる今日の御言葉として今日の新約聖書の聖書箇所で告げておられるのです。
ルカによる福音書11章50節を今一度、ご一緒に聴きましょう。「天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。」
遠い昔に顔も名前も知らない誰かがやらかした罪など、今の時代に生きる私たちには関係がない ― そう考える方もおいでかもしれません。時代の変遷により、現代を生きる私たちは、昔とは異なる価値観によって生きているから、昔の人がやったことに責任を持てと言われても、責任の取りようがない…そのように思えることもあるかもしれません。しかし、私たちが歴史を学ぶのは、何のためかを考えたいと思います。歴史を学ぶ意味は複数あるでしょうが、その一つに過去の過ち・罪から学び、同じ過ちを繰り返さないために学習するという目的があるのではないでしょうか。
広島市の平和公園にある原爆死没者慰霊碑には、こう刻まれています。「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから。」
私たち人間は、自分では決して取り返しのつかないことをやってしまい、かけがえのないものを失ってしまうことがあります。それを心に刻み、もう二度と同じ悲劇を繰り返さない、また繰り返させないために 私たちは過去の出来事・歴史を学ぶのです。どうしてそのような過ちに陥ってしまったのかを考え、二度と同じ轍を踏まないようにすることは、まさに私たちの責任です。イエス様は、今日の御言葉を通して その厳しい真実を 私たちにはっきりと示されます。
イエス様は、真実を私たちに示しただけではありませんでした。私たちへの深い愛によって、イエス様は、私たちには担いきれないその責任・重荷を共に背負ってくださいます。
イエス様が、私たち人間の罪の責任を取ってくださったのです。イエス様が私たちに寄り添ってくださるとは、その恵みの事実の表われです。私たちへの主の愛をはっきりと示すために、イエス様は私たちの罪をすべて代わりに担ってくださって、十字架に架かられました。
本来ならば、罪の責任をとって自らの命を差し出さなければならない私たちに代わり、ご自身が地上の命を捨て、三日後に復活されて永遠に私たちに寄り添ってくださる慈しみを示してくださいました。イエス様は、ご自身の地上の命を私たちに与えて私たちを救ってくださり、私たちの罪の重荷を共に背負うために復活してくださったのです。私たちは、イエス様が与えてくださった恵みの真実の幸いを知る「鍵」を、福音としていただいています。
私たちの喜びを知り、真実の命に生きる信仰へと招く「鍵」である「御言葉」を心に受けて、この一週間も主に従って進み行きましょう。
※11月12日は鎌ヶ谷教会との交換講壇で、鎌ヶ谷教会で毎月第二主日に講壇ご奉仕をしてくださっている安東 優牧師が説教してくださいました。
そのため、11月12日の主日礼拝説教のHPへの掲載はありません。
2023年11 月5日
説教題:もう泣かなくともよい
聖 書:イザヤ書40章1~8節、ルカによる福音書7章11~17節
イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。
(ルカ福音書7:12-15a)
本日の主日礼拝を、私たちは召天者記念礼拝としてささげています。先に天に召された信仰の友・兄弟姉妹を思いつつ、今、この場に召し集められているのです。
召天者のご家族も、今日はご一緒に主を仰いでいます。その中には、日曜日を教会で過ごす生活をなさっておられない方もおいででしょう。教会は、キリスト教は、聖書はどのように死と向き合うのか ― そう思いめぐらしておられる方もおいでかもしれません。
先ほどご一緒に讃美歌111番を歌いました。「信じて仰ぎみる」と歌い出すこの讃美歌は、教会のお葬式・葬儀・葬送式でささげる代表的な讃美です。教会生活にあまり馴染んでおられない方で、このたいへん明るく、力強く、行進曲のように勇ましい讃美歌がお葬式という悲しみの極みに歌われることに違和感を持つ方も少なくないと思います。いえ、教会生活を送っていても、内心で「え?」と思う方がおられるかもしれません。
今日は、私たち教会に生きる者・クリスチャンが地上の命の終りと別れに際して何を信じ、何を思いめぐらすのか、そして私たちの主は私たちに何を教えてくださるのかをあらためて御言葉に聴きたく思います。
そして、ぜひ、このことを心に留めていただきたいのです。先ほど、私は「教会は、キリスト教は、聖書はどのように死と向き合うのか 」と申しましたが、私たちキリスト者は「死と向き合う」ことはありません。私たちが先に天への旅路をお見送りした兄弟姉妹は、命の終りにあって「死と向き合う」のではなく、「体の死・肉体の死、生命体としての命の終わりを越えて、イエス様に手を引かれ、イエス様に導かれ 死を超えて進み続けている」のです。
では、この真理を語る今日の聖書箇所をご一緒に読んで行きましょう。
イエス様は弟子たちや、イエス様を慕う群衆と共にナインという町に入ろうと町の門にさしかかりました。すると、町の中からお葬式の行列が出てきました。当時は死者・遺体を土葬するので衛生上の理由もあって町中に墓地を造らず、町の外・人の住まない荒れ野や砂漠に近いところに墓地があったからと考えられます。亡くなってこれから葬られようとしているのが、ある母親の一人息子であることは、イエス様と弟子たち、そしてイエス様に付き従って来た群衆にもすぐに分かりました。葬列の嘆き方が激しく、町の人たちに付き添われ、慰められているのがたった一人の女性だったからです。
この女性は自分のたった一人の家族・一人息子を失って一人ぼっちとなってしまいました。ここに、この女性をさす「やもめ」という言葉が用いられています。女性が社会で仕事を持ち、自立した生活をする機会がほとんどなかった当時、夫を亡くした未亡人、聖書の言葉で「やもめ」となることは収入がないこと、すなわち生活できなくなることを意味しました。この女性は、親族の援助や他の人々からの施しで生活してゆく他なかったのです。時には蔑むような目で見られ、時には厄介者扱いされたことでしょう。
経済的に苦しいばかりでなく、心情的にもつらい、そんな生活の中で、この女性は夫が亡くなった後、忘れ形見の一人息子を大切に育てて行きました。やがて息子が結婚して、家に若い夫婦の笑い声が上がるようになり、そのうち子どもたちが生まれて家族が楽しく和やかに過ごす…やもめの母親はそんな日を夢見つつ、息子との二人の生活を守って来たのです。
ところが、その息子が亡くなってしまいました。やもめの母親は、すべてを失った思いになったでしょう。生きる力を打ち砕かれて、自分では立っていることさえできず、周りの人に体を支えられて、ただ泣くばかりだったのではないでしょうか。
イエス様は、その母親をご覧になって、たいそう気の毒だ、可哀想だと深く憐れまれました。ご自分の力を、この母親のために用いてよみがえりのみわざをなさる決心をしてくださったのです。
イエス様は、母親に「もう泣かなくともよい」とおっしゃいました。
私たちが泣くのは、事柄の解決になる手段がもう何もない、絶望的な段階です。私が幼い子どもだった頃、何かができずに泣き出すと、「泣いてもどうにもならないでしょ!」と母に叱られました。でも、本当に「どうすることもできないから」泣いていたのです。泣くことしかできないからです。
このやもめの母親が泣いていたのも、本当にどうにもならないからでした。亡くなった息子は、もう何をしても、どうしても人間の力では生き返ることがありません。だから、泣くしかなかったのです。
その母親に、イエス様は「もう泣かなくともよい」とおっしゃいました。これは、ただの慰めの言葉ではありませんでした。イエス様の御言葉、すなわち神さまの言葉には力があります。
今日の旧約聖書のイザヤ書の聖句が語るとおりです。御言葉は、大いなる力をもって働きます。イエス様は、もう泣くことはない、あなたが泣くことになった出来事を私が元通りに回復・修復するとおっしゃり、続いてすでに亡骸となっている息子の体に言葉をかけました。
今日の聖書箇所、ルカによる福音書7章14節後半の御言葉です。お読みします。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」そして、そのとおりになりました。
息子はよみがえり、起き上がって、ルカによる福音書7章15節によれば「ものを言い始めた」― 言葉を話し始めました。よみがえりのしるしが、この息子にあっては「言葉を語る」ことだったのです。
さらに、ルカによる福音書7章15節後半はこのように語ります。「イエスは息子をその母親にお返しになった。」直訳すると「イエス様は息子を母親に与えた」という言葉です。命を造り、命を与えてくださる神さまだからこそ、おできになることを イエス様はなさったのです。
こうして、イエス様は、死の行列・葬列を止めてくださいました。絶望へと続く歩みを中断させ、死に奪われていた命を取り返し、新しく母親に与えてくださったのです。ただ元どおりの生きた体に戻るだけではなく、新しい命として与えられました。よみがえり・復活とは、まさにこのことです。
ここに、この出来事から3年ほど後のイエス様ご自身の十字架での死とご復活が投影されていることにお気づきの方がおいででしょう。イエス様は十字架でご自分が私たちに代わって死なれることによって、私たちすべての魂の死・絶望に陥る虚無への歩みから救い出してくださいました。聖霊として、また御言葉として常に私たちと共においでくださり、私たちの魂を、死を超えて生かし続けてくださいます。ですから、私たちには絶望はありません。
今、私たちが生きる世界を見渡すと複数の戦争が起こり、悲惨な状況には救いがないように思えます。しかし、イエス様は私たちが不安と悲しみの底に沈む時、必ずこうおっしゃってくださいます。「もう泣かなくともよい。」
私たち人間の力ではもうどうにもならなくなっても、必ず救いの道・打開の道をイエス様が開いてくださるから、泣くことはないとイエス様は言われるのです。私たちのためにお命を捨てるほどに、私たちを愛し、大切に思ってくださるイエス様がおっしゃるのですから、これほど確かな言葉はありません。
どんな時も希望を捨てず、あきらめず、万策が尽きたとしても その先にイエス様が開いてくださる新しい、より良い道が与えられることを信じましょう。先に召された兄弟姉妹・信仰の先達は、その希望を伝えようと教会に生き、信仰に生き、そして死を超えてイエス様に導かれ、御国に召されて行ったのです。この真理に今日、あらためて心を留めて、明日を生きる勇気と永遠の命への希望を新たにさせていただきましょう。
※10月29日は神学生が神学校から派遣されて説教奉仕をされました。そのため、ホームページへの説教の掲載はありません。
2023年10 月22日
説教題:自らの内を清められる
聖 書:詩編103編1~5節、ルカによる福音書11章37~44節
愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。
(ルカによる福音書11:40-41)
今日の聖書箇所で、イエス様はファリサイ派の人々を厳しく戒められました。この箇所を読まれて、はらはらする思いをされる方が多いと思います。ユダヤの社会で当時、ファリサイ派の人々は大きな権威を持っていました。神さまの掟・律法にきわめて詳しく、ユダヤ社会の規律を整えるために、人々を教え、律法を守らせ、違反者を厳しく導いていたからです。そのファリサイ派に、イエス様が今日の聖書箇所のように手厳しく批判なさったら、彼らを激怒させて報復されてしまう…悪くすれば社会的制裁を受けてしまう…と心配になるのではないでしょうか。
イエス様が神さまの御子であることを、当時のユダヤの人たちは誰もまだ知りませんでした。この世的には、つまりユダヤの人々にとっては、イエス様はナザレという小さな田舎町出身で、身分も富も権力もない三十代に入ったばかりの若者にすぎなかったのです。
確かに、その若者が町や村をめぐって神さまの栄光を伝え、教えの真実の意味を伝えると、人々はその教えにこれまで感じたことがなかったほど深く感動しました。イエス様は奇跡のみわざを行い、嵐をしずめ、病をいやし、人々の飢えを満たしてくださいました。イエス様の教えに心を震わせ、みわざに感動した者たちは、イエス様が「ただの若者ではない」と直感していました。もちろん、それはイエス様がまさに神さまの御子だからに他なりません。しかし、十字架の出来事とご復活までは、この世のだれにも、それは明確にわからなかったのです。
ですから、今日の聖書箇所のように イエス様が神さまとしての権威でファリサイ派の過ちを指摘されると、当時の社会では「なんだ、この青二才は」と思われてしまいます。実際に、イエス様が十字架につけられて死刑に処せられたのは この世の事情では祭司・律法学者そしてファリサイ派の人々といった当時の社会的指導者に憎まれたからでした。
もちろんイエス様は、ご自身の言葉が招く社会的制裁を簡単に予測しておられました。それが天の御父のご計画のうちにあることを、熟知して受けとめておられました。そして、けっしてひるむことなく、神さまとしてファリサイ派の人々をも教え導こうとなさったのです。
では、今日の聖書箇所の御言葉をご一緒に読み進んでまいりましょう。
最初の37節には、ファリサイ派のある人が、イエス様と弟子たちを食事に招いたと記されています。この人がイエス様から教えを受けたいと思ったのか、それともイエス様に悪意を抱いていて何らかの落ち度をみつけて貶めたいと思ったのかはわかりません。ただ、どうも 悪意を持っていたように思えます。
38節には、この人が、イエス様が食事の前に身を清めなかったことを不審に思ったとあります。食事の前に身を清める ― 具体的には「手を洗う」ことは、ユダヤ社会で神さまの掟(聖書の中では「昔の人の言い伝え」とされているものです)として定められていました。ファリサイ派の人は、イエス様が神さまの掟を破った ― ユダヤ社会の規範を破り、神さまに背く罪を犯したと考えたのです。
たいへん俗なたとえを用いますと、ファリサイ派の人々は私たちの社会で言う自警団のようなものかもしれません。新型コロナ感染症が蔓延した初期の頃、マスクをしていない人に厳しく注意したり、営業している飲食店を激しく批判したりすることが「自粛警察」と呼ばれていた記憶があります。
マスクのことで言えば、着用していない人には何か特別な事情があるのかもしれません。「自粛警察」には、その人の事情など考えずに 自分の正義感を押し付ける印象がありました。強い言葉を用いてしまうと、「独りよがりの正義感」かもしれないと思えました。
独りよがりの正義は、隣人を傷つけます。それはもう、正義とは言えません。
本当に正しい正義感から作られた規則があるとすれば、それはすべての人を守るためにあるので、規則違反をした人を批判し、傷つけ、社会から除外することを第一の目的としているのではないはずです。規則を守ること自体が、規則の目的になってしまってはならないのです。
ファリサイ派の人々は、規則を守ることを第一の目的としていました。
規則を守るという「行い」によって、自分を清められると信じ込んでいたからです。神さまが深い愛をもって規則・律法を人間に与えてくださったことを忘れ、規則・律法を神さまとしていました。
もう一歩踏み込んで言えば、「律法を守るという自分の行い」こそを、神さまと崇めていたにも等しかったのです。「自分の行い」を崇めていたら、これは「自分は神さま」と思っていることになります。
だから、ファリサイ派の人たちは、今日の聖書箇所の終わりの方・43節にあるように「会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好む」尊大な、上から目線の人間たちとなっています。
イエス様はファリサイ派の人の考えを見抜いて、39節の御言葉をおっしゃいました。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」(ルカ福音書11:39)
人間の行いは、目で見てわかる事柄です。イエス様は、それを「器の外側」にたとえて、今日の御言葉を語られました。
行いは心の動きによって起こされます。その心を、イエス様は「器の内側」にたとえられたのです。
そして、律法を守るという行いだけしか念頭にないファリサイ派の人々は、人間という器の外側をきれいにしても内側は汚れたままだと戒められました。
人間を器にたとえて考えるのは、神さまが人間を造られた、創世記に語られている事実から思い起こされます。今日の礼拝では、旧約聖書の御言葉を詩編103編からいただいています。1節から5節までしか礼拝では読みませんが、ぜひ22節まで、103編全体を読んでいただきたく思います。
詩編103編14節は、主の創造をこのように語ります ― 「主はわたしたちを どのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを 御心に留めておられる。」
神さまは塵を集めて、最初の人アダムを造られたと創世記2章7節に記されています。塵を集めて人間の形にしただけでは、私たちはただの土くれの寄せ集め・土の器です。詩編103編15節にこう謳われているとおりです ― 「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上を吹けば、消えうせ 生えていた所を知る者もなくなる。」
そのように儚い私たちに、神さまは命の息を吹き入れられて主にあって「生きる者」としてくださいました。この「命の息」は、「神さまの私たちへの愛」「聖霊」「神さまと私たちを結ぶ絆」、そして「信仰」と言い換えて良いでしょう。
この世の誰もが私たちの存在を忘れ、「知る者もなくな」っても、神さまは私たち一人一人を造られたこと・命をくださったこと、そして永遠にご自身と共に生きるものとして覚え、知っていてくださいます。それを「永遠の命」・「救い」と、聖書は語るのです。
この世的には「塵」「生命体という有機物」「朽ち果ててゆく物」にしか過ぎない私たちは、物が時の流れと共に摩耗し荒廃するのと同様、病を負い、罪を重ね、傷みます。
しかし、この世を超える御国の命を私たちに備えてくださる神さまは、今日の聖句に続く詩編103編3節から4節に語られているように「罪をことごとく赦し 病をすべて癒し 命を墓から贖い出してくださ」います。まさに、「長らえる限り良いものに満ち足らせ」(詩編103:5)てくださるのです。
「永遠の命」を与えられると、私たちは神さまと共に「存在し続ける」者とされます。この世のものでありながら、この世を超える御国の命を与えられた恵みの事実を、聖書は「聖なるものとされる」「清められる」と言います。「神の子とされる」「救われる」と言い換えても良いでしょう。
「救い」が私たち人間に明らかにされたのは、イエス様の十字架の出来事とご復活によってでした。私たちのすべての罪・病・傷みを、イエス様が代わりに負ってこの世のものとして死なれ、三日後のご復活によってイエス様は私たちが永遠に聖なるものとされる約束をくださいました。
私たちは、自分の行いで聖なるものとされ、清められたわけではありません。すべて、イエス様がなさってくださいました。
私たちにできる「行い」があるとすれば、ただその恵みの事実を信じ、感謝をささげることだけです。感謝をささげることを、イエス様は今日の新約聖書の41節でこう語っておられます。お読みします。「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。」礼拝で主に感謝をささげ、さらにその感謝を困っている人・助けを必要としている人のために使いなさいと教えてくださいます。主への愛を礼拝での感謝で表し、主への愛を隣人愛としてこの世で生きてゆく真実の人生を、イエス様は私たちに示してくださいます。
信仰によって、私は自分では何一つ、たいしたことをしていないのに清められ、主の御前に正しい聖なる者だと約束されています。本当に、感謝をささげるしかありません。
今日から始まる一週間、信仰によって清められていることをひたすら感謝して、イエス様に従って進み行きましょう。
※10月15日は日本基督教団が定めた信徒伝道週間初日で、薬円台教会 教会員が証しを語られました。そのため、ホームページへの説教の掲載はありません。
2023年10 月8日
説教題:御言葉は我が内なる光
聖 書:詩編119編105~112節、ルカによる福音書11章33~36節
あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。
(ルカによる福音書11:34-36)
今日の御言葉の説き明かしで、皆さんに最初にお伝えしたいのは、今日の新約聖書の箇所が誤解して読まれやすいということです。
この聖書箇所の冒頭・34節で、イエス様は「ともし火」について語られています。ここを読んで、すぐにマタイによる福音書でイエス様が語られた山上の説教を思い起こす方が多いでしょう。こう語られた箇所です。「あなたがたは世の光である。」(マタイ福音書5:14)
イエス様は続けてこうおっしゃいました。「…ともし火をともして升の下に置く者はいない。」(マタイ福音書5:15)「…あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ福音書5:16)
イエス様がこのように説教された御言葉から、私たちは何となく 私たちの中に光があるように思ってしまいます。その光が立派な行いの原動力となり、人々はその行いをしている者 ― つまりはキリスト者・クリスチャンを見て、クリスチャンが信じている天の神さまを讃美するようになるとイエス様が言っておられるように思います。しかし、イエス様は、本当にそうおっしゃっているのでしょうか。
今日の聖書箇所は、いまお読みしたマタイによる福音書の箇所に似ています。「ともし火」や、その「ともし火を升の下に置く者はいない」というマタイによる福音書で語られた言葉が、今日の聖書箇所でも語られています。また、34節にはこう記されています。「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい…」(ルカ福音書11:34)
私たちは「澄んだ目」と聞くと、その目の持ち主は心がきれいで、その心根の清らかさが目に現れていると思ってしまいます。「少年や少女の澄んだ目」は、よく使われる言い回しです。人生経験が浅く、人間の悪意やずる賢さ、残酷で自己中心的な意地悪をされたことがまだないので、自分でも そんな悪いことを人にするなど思いもよらない少年少女たち。少年少女の瞳はきれいに澄みきっている ― と、私たちの文化・日本語を用いる文化では考えます。
しかし、日本語で「瞳が澄んでいる」とは「心が清らか」を意味することから連想して、イエス様は「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」という言葉で、「瞳が澄んでいれば、あなたは全身が清められている」とおっしゃったと考えてしまうのは、実は誤解です。
私たち薬円台教会が使っている新共同訳聖書で「澄んでいる」と訳されている言葉は、聖書のもとの言葉では「単純」「ただひとつ」を意味します。「清らか」とか「濁りがない」とか「きれい」という意味はありません。文語訳聖書では、ここを訳して「汝の目正しき時、全身明るからん」という表現が用いられていました。
目が「単純」「ただひとつ」で「正しい」とはどういうことか、なんだかよく分かりません。それで、私たちが今 使っている「目が澄んでいれば」という訳になったのでしょう。イエス様は、私たちにここで何を教えてくださろうとなさったのでしょう。
神さまは私たちを造ってくださり、その時に、私たちの目も造ってくださいました。その目は、「ただひとつの正しい目的」のために造られたはずです。その目的が「ただひとつ」で、そのために使う時、私たちの目は「正しく」使われている、御心にかなって使われているということでしょう。
私たちに目があるのは何のためか ― それは、神さまが御言葉を通して私たちにくださる真理を現す光だけを読み取り、目を通して心に受けとめるためです。
これが耳だと、実は少しわかりやすくなります。私たちの耳はもともと、自分が聞きたい声や音を、鼓膜を震わす物理的な無数の音の中から選んで聞き分ける力を与えられているからです。
だから、イエス様はヨハネによる福音書10章3節でこうおっしゃるのです。「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。」羊飼いはイエス様、羊は私たちです。
私たちの耳は、聖書を通して、イエス様の御声・御言葉をこの世のたくさんの様々な音から聞き分けるように造られています。御言葉に聴いて、正しく豊かに歩むことができます。
耳に比べると、私たちは目から入る情報を選り分けられるように造られていません。美しいものだけを見て、見たくないもの・汚いものを見ないようにすることができません。
ところが、目にも「ただひとつ」のことに集中するという「正しい」使い方があると、イエス様はおっしゃいます。それが、今日の聖書箇所です。もちろん、その「ただひとつ」を見るとは、天の神さまを仰ぐことです。その方にいつも見守られ、御言葉に足元を照らしていただき、正しく豊かに生きてゆくことができます。イエス様は、そのように今日の御言葉を通して私たちを励まし、力づけてくださっているのです。
聖書は、私たちはもともとからっぽだと語ります。9月上旬の礼拝でいただいたルカによる福音書の聖書箇所 ― 悪霊・汚れた霊を追い出されたみわざを巡る御言葉から、イエス様はそれをずっと語り続けておられます。からっぽな私たちを、神さまはイエス様を通して、宝でいっぱいにしてくださいます。コリントの信徒への手紙二4章6節から7節に、こう語られているとおりです。お読みします。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」
神さまの光と御言葉をいただき、イエス様に心の内に宿っていただいて、私たちは満たされて歩み続けます。土の器に過ぎない私たちが、主の愛という宝で満たされる時、私たちはイエス様という光を中に秘めたランプのように輝き始めます。イエス様はおっしゃってくださいます ― いきいきと輝き続けなさい、十字架で私はあなたのために死に あなたの中に宿るために復活したのだ、と。
御言葉なるイエス様を心にいただいて、今日から始まる一週間、イエス様に輝いていただいて、それによって私たちも輝いて進み行きましょう。
2023年10月1日
説教題:三日三晩後のしるし
聖 書:ヨナ書1章11~16節、ルカによる福音書11章29~32節
…ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。
(ルカによる福音書11:29-30)
今日の御言葉で、イエス様は預言者ヨナについて話されています。どうしてイエス様がヨナについて語られたのかをご一緒に思いめぐらしてまいりましょう。
大切なのは、イエス様の十字架の出来事とご復活の福音とこのヨナ書を合わせて読むことで、イエス様がどれほど深く私たち人間を愛してくださったかがあらためて心に響いてくることです。
イエス様は、ご自身が十字架の出来事の三日三晩後にご復活されることを、ヨナの身に起こったことと重ねて こう語られました。今日の新約聖書の御言葉 ルカによる福音書11章29節後半でイエス様がおっしゃられたことをお読みします。「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」(ルカ福音書11:29b)
このヨナの身に起こったことを旧約聖書から読んでまいりましょう。聖書をお開きの方は、旧約聖書のヨナ書、1445ページをご覧くださると良いかもしれません。
アッシリアの都 ニネベの町の名前が出てまいります。ニネベの町の人々はアッシリア人で、ユダヤ人ではありません。創造主なる天の神さまを知らず、偶像崇拝をしています。享楽的で、この世の快楽に溺れ、罪を重ねていました。
神さまはヨナにこう命じられました。ヨナ書1章2節をお読みします。「…ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしに届いている。」
ヨナはニネベの町に行って、この世の快楽に酔いしれる人々・偶像崇拝をする異邦人に「悔い改めよ、神さまを求め、神さまを信じよ」と呼ばわれと言われたのです。これはたいへんな役割です。異邦人伝道を命じられたということです。
このヨナは預言者ではありましたが、立派な預言者ではありませんでした。イザヤやエレミヤといった、この世とは異なる主の御心を、勇気をもって告げた預言者とは、まったく違う情けない、いわば「ヘタレな預言者」だったのです。
ヘタレなヨナは 主の命令どおりにしたら、ニネベの町の人々に襲われて袋叩きに遭うと考えました。それが怖くて、神さまから与えられた使命を放り出して、逃げ出したのです。ニネベと逆方向に向かう、タルシシュ行きの船に 乗り込みました。
すべてをご存じの神さまは、ヨナを逃しません。大風を送って、ヨナが乗った船をタルシシュへと行かせまいとしました。この大風の為に海は大荒れになり、船に乗り合わせたヨナ以外の人々全員が命の危険を感じるまでになりました。ヨナが神さまに背いているために、他の人々が犠牲になりそうな状況だったのです。この時、なんと当人であるヨナは、のんきに船底でぐっすりと眠っていました。
さて皆さん、似たような事柄を新約聖書で読んだことがある…とは、思われませんか。イエス様が弟子たちと湖に舟を漕ぎ出し、嵐に遭った出来事を思い起こしてください。(マタイ福音書8:23~27、マルコ福音書4:35~41、ルカ福音書8:22~25)
もちろん、イエス様は神さまに背こうとされたのではありません ― イエス様は神さまですから「ご自身に背く」ことは、そもそもあり得ません 。ただ、弟子たちと一緒に乗り込んだ舟が嵐に遭い、その時にイエス様が眠っておられたことはヨナの出来事と重なっています。
ヨナとイエス様の出来事に、重なる部分がある…このことを心に留めておいてください。ヨナの出来事に戻ります。
船長は、眠っていたヨナを叩き起こしました。船に乗り合わせていた人々は、こう言いました。ヨナ書1章7節です。「さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう。」
くじに神さまの御心が顕われることは、皆さん ご存じのとおりです。
船に乗り合わせた者がヨナも含めて全員がくじを引いたところ、当然ですが御心が顕われてヨナに当たりました。まさにヨナのせいで、この大嵐の災難が起こっているからです。
ヨナは、皆に自分が神さまに背いているために嵐が起きたと白状しました。そして、こう言ったのです。ヨナ書1章12節です。お読みします。「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている。」(ヨナ書1:12)
乗組員はそうするには忍びないと、懸命に船を陸に漕ぎ戻そうとしましたが 海はますます荒れるばかりでした。やむなく、彼らは神さまに叫び、祈りました。「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」(ヨナ書1:14)そして、ヨナに言われたとおりに彼の「手足を捕らえて海へほうり込むと、荒れ狂っていた海は静まった」(ヨナ書1:15)のです。
ヨナとイエス様について、さらに大切な事柄が重なっていることにお気付きでしょうか。ヨナは、他の人々を嵐から救い出すために自分を海にほうり込めと言いました。
ヨナは自分が罪を犯したのですから、その責任を取ったと言えばそれまでですが、結果的にヨナが犠牲になったことで他の人々は助かりました。
一方、イエス様はまったく異なります。イエス様はまったく罪の汚れがなく、完全に清い方です。神さまなのですから。にもかかわらず、私たちの罪をすべて負ってくださり、私たちが滅びの死から助かるために犠牲となって十字架に架かってくださいました。イエス様ご自身がこのように語るとおりです。マルコによる福音書10章45節の御言葉です。お読みします。「人の子は…多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
旧約聖書に語られている情けないヨナの姿と、新約聖書の福音に示される私たちの救い主イエス様は 次元が違い過ぎて比較にならないほど異なります。にもかかわらず、自らが犠牲となって多くの人を助けた出来事として、神さまはその命の書である聖書に、ヨナとイエス様を重ねて語り、私たちに深い教えを与えてくださいます。
イエス様はまったき神・完全に神さまであると同時に、まったき人・完全に人間 ― つまり 情けなく、不甲斐なく、欠点だらけで罪を犯す人間としての歩みを、私たちの暮らすこの地上で進めてくださろうと、このヨナにご自身を重ねてくださいます。イエス様は、こうしてヨナにご自身を重ねることで、私たちと共においでくださる強い志と愛とを表しておられるのです。こうしてヨナと重なる姿にまでご自身を低めて、深く、深く人間を憐れんでくださいます。そこまで私たちを愛して、私たちが生きるこの世においでくださった、その愛の大きさがここに示されています。
情けない私たち人間に、ご自身を重ねてくださるイエス様。私たちと共にいてくださろうとするイエス様の愛の深さに、説教準備をしながら、私の心は震えました。
もう一度、ヨナ書に戻りましょう。海にほうり込まれたヨナを、神さまはこうして救われました。「さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。」(ヨナ書2:1)
ヨナには ニネベの人々に悔い改めを説く「果たすべき主からの使命」がありますから、神さまは何としてもヨナを用いようとされ、その命を取ることはなさいませんでした。
巨大な魚に吞み込まれたヨナは、魚の腹の中で心の底から悔い改めて主に祈りました。その祈りの最後の言葉がヨナ書2章10節に記されています。お読みします。「誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある。」(ヨナ書2:10)
主は、このヨナのせつなる祈りと、悔い改めて御心を果たそうとの決心 ― ヨナの回心を聞き上げてくださいました。ヨナ書2章11節はこう語ります。「主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した。」(ヨナ書2:11)三日三晩後に、ヨナは陸地 ― この世 ― によみがえりました。
私たちは、ここで思い起こさなければなりません。イエス様は、十字架の出来事から三日三晩後に復活されました。ここで、私たちの神さまが「ヨナのよみがえり」というしるしによって、イエス様の救いのみわざを旧約聖書の時代から ― 神学者カール・バルトによれば世の初めから ― 計画されていたことが明らかとなります。主のご計画の壮大さに、私は呆然とするばかりです。
繰り返します。イエス様は、ヨナに、肝が小さくて弱虫で 本当に「人間らしい」「人間臭い」ヨナにご自身を重ねてくださいました。イエス様は「へりくだって」、私たちと共においでくださろう・弱い私たち人間と同じ地平に立ってくださるのです。私たちは、このイエス様の憐みと愛によって救われ、日々新しく命をいただいて生き生きと活かされています。
ヨナに表される私たちの弱さと不甲斐なさを担ってくださるイエス様に感謝して、今日から始まる新しい一週間を、心豊かにされて進み行きましょう。