2006年3月26日
説教題:イエスの姿が変わった
聖書:マルコによる福音書 9章2-10節 出エジプト記 24章12-18節
【説教】
馬小屋に生まれ、貧しい人弱い人の仲間として歩まれたイエスのご生涯の中で、今日の聖書の出来事は非常に唐突で違和感を覚えるような出来事です。
イエスが山に登られて、姿が天に属する人の姿に変わったのです。その上、エリヤとモーセが現れイエスと共に語り合う、イエスがその存在も場所も、時間も空間も超越したお方であることを現す場面が生じたのです。これはどういうことなのでしょうか。
イエスは、この山に「ただペトロとヤコブ、ヨハネだけ」を連れて登られました。この3人だけを連れて行く時は、神様とご自分の特別な関係を示す時です。秘密性を持っている事柄を示す時です。ですから、今日の9節でイエスは三人に「復活するまで今日のことは誰にも話してはいけない」と命じています。復活まで正しく理解できないと言うことでしょう。
イエスが山の上で、神によって神の子に相応しい汚れのない姿に変えられ、エリヤとモーセが現れて語り合ったのは、イエスは天に属する神の子であることを現しているのです。エリヤは預言者、モースは律法を神から与えられた人、この二人と語り合っているのはイエスが預言の約束を成就したメシア、律法の完成者であることを示しています。イエスのこの変身と二人との語り合いはイエスが神の栄光を身に帯びたお方で、神の約束のメシアであることをこの歴史の中に示しているのです。
この有様を見たペトロは、「すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。」と言いました。ペトロはその場のすばらしさを暫らくでも味わっていたいと思ったのでしょう。「ペトロはどういえばよいのか分からなかった。弟子たちは非常に恐れていた」、と聖書は記しています。この弟子たちの感動から出た言葉を、愚かしい言葉としているようです。なぜでしょうか。 ペトロが語ると直ぐ雲が現れて彼らを覆ってしまうのです。そして、雲の中から声がするのです。それは神の声です「これは、私の愛する子。これに聞け」。イエスが洗礼を受けられた時にも天から声がありました「あなたは私の愛する子」。その天の声、神の声がここでは「これは私の愛する子、これに聞け」と弟子たちに語っているのです。
弟子たちが辺りを見回すと、イエスだけが彼らと一緒にいました。イエスは山に登る前の姿に戻っていました。そして、イエスは十字架に進むために山を下りて行くのです。ですから、栄光のイエスの姿に酔っているペトロの言葉を、聖書は愚かしい言葉と記したのです。
この栄光に輝くイエスが十字架に架けられるイエスの正体なのだ、と心の内に刻んでイエスに従って歩むように、ペトロや弟子たちに、この場面が示され、神から告げられたのです。「これに聞け」と言うのは、このイエスに聞き従え、と言うことです。
山の下の地上の世界は罪に支配されている世界で、イエスの歩みは十字架への歩みです。しかし、イエスはその歩みが空しくはない、神のご計画の道で勝利の歩みであると知っているのです。そして、そのイエスに従って歩む者も、イエスの正体を知った者は、神にあって必ず勝利する戦いだ、との確信をもって歩むことが出来るのです。
2006年3月19日
説教題:イエスは何者か
聖書:イザヤ書 48章1-8節 マルコ福音書 8章27-33節
【説教】
「イエスは何者か」を聖書は書いています。そのことを教会も語って来ているのです。
今日の聖書でイエスが弟子たちに、「人々は私のことを何者だといっているか」と尋ねられました。弟子たちは「「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「預言者の一人だ」と言っています。」と答えました。人々はイエスを、唯の普通の人間とか、教師の一人とは見ていない、メシアの先駆者か昔の預言者の再来と見ている、と答えたのです。イエスは弟子たちのこの答えをよしとして受入れました。しかし、弟子たち自身の主体的な思いを求められました。
「あなたがたは私を何者だと言うのか」。ペトロは弟子たちを代表して「あなたはメシアです」と答えました。先駆者ではない、預言者、神の救いを教える教師でもない、メシアその人だ、と答えたのです。メシアは、約束されていた神様からの救い主です。このペトロの答えを、マタイ福音書のイエスは大いに喜んで「あなたは幸いだ」と言っています。しかし、このマルコのイエスは、自分のことを誰にも話すな、と戒めています。なぜでしょうか。
当時人々は「メシア」を、自分たちを苦しみや辛さから救ってくれる人、政治的圧迫から解放してくれる人と見ていたのです。弟子たちのメシア理解も同じだと思われます。そこでイエスは、間違えたメシア理解で私をメシアと言うな、と戒められたのです。
31節以下でイエスご自身が「自分は何者か」を告げています。イエスは先ず、「人の子は必ず多くの苦しみを受ける」と告げます。「必ず」と言うことは、神の定めに従って、と言うことです。イエスは、神の御意志に従って、苦しみを受け、殺され、三日目に復活する、自分はこのような者だ、とお話のなったのです。32節に「はっきりと」とあります。これは、30節の「誰にも話さないように」と違い、これが正しいイエスだ、と告げているのです。
このイエスの言葉を聞いてペトロは、イエスを脇へお連れして諌め始めたのです。自分のところに連れてきて従わせることをしたのです。それに対してイエスは、ペトロを叱って「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人ことを思っている」と言われました。「叱る」と「いさめる」は同じ言葉です。イエスの立場にペトロが立っていたのです。教会では、このペトロの姿を他人事ではない、この私もペトロと同じ思いにいる、と見るのです。私たちは、人間の思いを叶えてくれるのが救い主で、イエスもそのような救い主だと思うのです。そのように、神の思いを受入れることも、神の道を歩むことも出来ない私たちを、神の思いを受入れ神の道を歩む者とするために、イエスは苦しみを受け十字架に死んで下さったのです。それによって私たちは神の民とされたのです。そこに私たちの救いがあるのです。
29節の「メシア」はギリシャ語では「キリスト」です。新共同訳聖書は、旧約聖書が約束している救い主を意味しているときには、「メシア」と言い換えています。神のみ旨に従って十字架の死に至るまで従順に歩んだイエスを教会は「キリスト」と呼んでいます。
イエスをキリストと知り、信じるとき、神の民とされ、神の道を歩む者とされるのです。
2005年12月4日
説教題:神の言葉と人間の言葉
聖書:エレミヤ書 36章1-8節 マルコによる福音書 7章1-13節
【説教】
マルコの2節に「汚れた手」とありますが、この「汚れ」は泥やごみによる汚れではありません。世俗のものに触れたことによる汚れです。ユダヤ人は神の清い民である誇りを持っていましたから、3節にありますように、世俗のものに触れたら清めの水で手を清めて食事をして、清い体を保ち清い神の民の群れを守っていました。1節にある「エルサレムから来た」人たちは、権威あるところからイエスが神の民として正しい言動をしているか見に来た人たちです。そして、イエスの弟子の中に手を洗わないで食事をする者がいるのを見つけました。そこでその人たちは、5節でイエスに弟子たちが手を洗わない理由を尋ねています。
人間の組織や社会を秩序あり平和に守って行くためには一つの権威の下に従うことが必要です。神の民の清さと社会を守り、昔からの言い伝えを守ること、権威ある人の声に従うことが義務づけられていました。しかし、真に神にある言い伝えか、神からの権威ある声かは吟味する必要があります。イエスは、エルサレムから来た権威ある人たちに「あなたがたは偽善者だ」と言い、イザヤの言葉「この民は、口先では私を敬うが、その心は私から遠く離れている。人間の戒めを教え、空しく私を崇めている」を引用した後、「あなたがたは、神の掟を捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている」と言っています。
人間は、自分が力や権威を持つと、自分の言うことが正しく、自分を守るとこが組織や社会を守ることのように思うようになるのです。親や公の権威を強調したり、昔からの秩序に従いなさい、となるのです。人間の言い伝えは、神の御心から遠く離れて、上に立つ強い人間の考えや力を小さく弱いものに押し付ける、ということになることが多いのです。
エレミヤは、ユダヤの指導者たちに、自分は正しいという頑な思いを捨てて、謙遜になって神の下に立ち帰るように、との神の言葉を語りました。しかし、王や指導者たちはその言葉を聞きませんでした。指導者が人の声を聞いていたら、確信ある指導は出来ないでしょうし指導されるものも迷わされるかもしれません。人間の言い伝えを守れ、権威ある者の言葉に従えは、社会生活や仕事をする上では、一面必要で正しいことでもあります。
しかし、それが神の御心に反する、弱く小さいものを抑えつけ縛って自由を奪うなら、それは正しくないこと、神の前に罪です。エレミヤは31章31節以下で神が新しい契約によって律法を人間に与える、と語っています。33節でその契約によれ律法は、胸の中に授けられ、心の中に記される、とあります。34節では「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし『主を知れ』と言って教える事はない」と言っています。小さい者も弱い者も神の言葉を心に記されて自由に、自分に相応しく生きることが出来るのです。
主イエスは、神の愛の御心が言葉なって私たちの心の中に宿るように、十字架によって新しい契約を神と結んで下さったのです。クリスマスは、その神の子イエスが人間の言葉が支配しているこの世界に来て、私たちに神の愛と自由を与えて下さった恵みのときです。
2005年11月27日
説教題:神の言葉を聞け
聖書:イザヤ書 51章4-11節 マルコ福音書 13章24-31節
【説教】
生きるのに必要なことは、何よりも、恵みによって生かされていることを知ることです。
世の中は自分の思うようになりせん。なんとなく生きているところにインターネットで自殺の誘いがあると集団で自殺をする、援助交際をする、仕事をしない,学校にも行かない、という若い人がいます。高齢になっても、死の告知を受けても、その日を充実して生きる人はいるのです。一生懸命に希望を持って充実して生きるのは、年齢、環境に関係ないのです。
イザヤ書51章は、神の民イスラエルがバビロンに滅ぼされ捕囚の民とされてバビロンニ連れてこられて50~60年経った時に、預言者がその民に語っている言葉です。今バビロンが滅んで捕囚から開放された、自分たちの故郷に帰ろう、と呼びかけているのです。しかし、民は、50年その土地に住んで落ち着いた生活をしている、この生活でいい、苦労して荒野を旅し自分たちは知らない先祖の土地に行くのは嫌だ、と預言者の言葉を聞かないのです。なんとなく生きている現状でいい、というのです。
神はその民に語るのです。「私の民よ、心して私に聞け。私の国よ、私に耳を向けよ。教えは私のもとから出る。私の裁き(道)を全ての人の光として輝かす」と。神は、民が神の民として誇りと喜びを持って生きることを教え、導こうとしているのです。その歩みが全ての人に光となるのです。聖書が語る光と救いは唯なんとなく生きている、安らかな生活をする、ということではないのです。神が示す道を、その目標に向かって歩むことなのです。その道は荒野の厳しい歩みです。しかし、その歩みは意味ある充実した一歩一歩なのです。だから神は「奮い立て、奮い立て」と、昔世界を造って悪の力を滅ぼしたこと、モーセを指導者としてエジプトから導き出したこと、など神が実際見行ったことを示して、神の言葉を聞いて、神が示す道を歩むように、力強く勧めるのです。そして、捕囚であった民が神に自由を与えられて、民の故郷に帰ってくるときには、喜びの歌を歌いながら都のシオンに入る、その時にはその時までの苦労、嘆き、悲しみが皆消え去ってしまう、と断言しているのです。そこに人間の生きる意味と価値があるのです。
マルコ13章でイエスは、十字架の死を前にして、この世に終わりがあることを語った後、「そのとき、人の子が大きな力と栄光を帯びて雲に乗って来る」と言っています。それは、十字架に死んで復活し天に上げられたイエスが再臨することを語っているのです。「その時人の子は、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」というのは、イエスにあって、神の言葉を聞き、神の道を歩んでいた人たちに、神との交わりが与えられることです。
イエスは続いて、「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」と言っています。この神の言葉に聞く時、私たちは神の恵みによって生かされていることを知り、神が示す道、神の国に入る道を歩む者になるのです。
待降節は、神の言葉である御子に心から耳を傾け、恵みの命を知る時です。
2005年11月20日
説教題:豊かに実を結ぶ恵み
聖書:レビ記 19章9-10節 マルコ福音書 4章1-9節
【説教】
今日は収穫感謝の礼拝で沢山の果物などがここに捧げられています。これは、私たちの働きの実りは神様の恵みによるのです、ありがとうございます、というしるしです。
この果物は、自分の家で出来たのを持ってきた人もいるでしょうが、多くの人は買って来たのです。私たちの仕事はいろいろで此処に持ってこられないものが多いです。それで私たちの働きの実りの代わりに、農家や果樹園の人たちが一生懸命に長い間お世話して実りの季節を迎えて収穫したこの果物を、私たちの感謝を現すものとして捧げているのです。多くの大人の人はお仕事をするとお金をその働きの実としてもらいます。この果物はそのお金で買ってきています。ですからこの果物を私たちの働きの実の代わりに出来るのです。
私たちの働きの実なのに、どうして「これは僕が働いて作ったのだから僕のものだ」、と独り占めにしないで、神様にありがとうございましたと捧げるのでしょうか。
私たちは自分の存在や働きを大きく見てしまうのです。だから、これは僕が作った果物だ、と思ってしまうのです。けれど、私たちは神様の恵みによって体も健康も守られ働く事が出来たのです。その上私たちの仕事も神様の御心に添わなければよい実を結ばないのです。どんなに私たちが一生懸命に働いても、自分勝手で神様の御心とは違う事をしていたら、その働きは実を結ぶものにはなりません。その上天気や虫、病気などによっても良い実ができません。私たちの収穫は、神様の恵みによるのです。ですから先ず神さまに感謝するのです。そして、私たちは、神様からの恵みを、無駄にしないで豊かな実を結ぶように、神様の御心を求めながら日々歩むのです。
また、神さまに収穫の実の恵みを感謝する時、私たちは、私たちが手にしている収穫の実の使い方も、自分勝手ではなく、神様の御心に沿うように使わなくてはいけないでしょう。神様は収穫物、働きの実をどのように使いなさいと仰っているでしょうか。
レビ記には、畑のものを収穫する時、これは自分の物だ他の人には少しもあげない、と全部を自分のものにするのではなく、土地のない人や働く事の出来ない人のために、畑に残しておきなさい、と言っています。沢山の畑を持っている人は畑を持っていない人のことを思い、健康で力があって沢山の仕事が出来る人は病気やいろいろな事情のために仕事が出来ない人のことを思いなさい、といっているのです。神様は、全ての人が思い遣り助け合って、一緒に喜んで生きることを、求めているのです。
マルコ福音書は、蒔かれた種の内,良い恵まれた土地に蒔かれた種が沢山の実を結んだと書いています。良い土地の人は食べ切れない収穫を手にするでしょう。しかしそれは、収穫の実を手に出来ない人に分けてあげるための神の恵みでもあるのです。神様の恵みは、唯私のためだけに与えられているのではなく、私たち造られたもの全てに対する慈しみに富んだ恵みなのです。
2005年6月5日
説教題:私たちを生かし導く光
聖書:マタイによる福音書 5章13-16節
【説教】
光は、闇の中にいる人に、希望を与え、喜びを与え、生かし導きます。
13-16節の「あなたがたは世の光である」と言われている「あなたがた」は、11、12節の「あなたがた」と同じ人を指しています。「私(イエス)のために」「迫害され」ている人です。
迫害されている人は、明るい光の中を歩んでいるとは思われません。しかし、聖書でイエスは、「私は世の光である」「私に従う者は、暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」、と言っています。また、「光が世に来たのに、人々は、その行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」、とも言っています。この世は罪の世で、罪を光としているのです。ですから、真の光が迫害を受けるのは当然なのです。
一般に世の中が明るくなったとは、景気が良くなった、平和の兆しが見える、ということでしょう。しかし、その明るさは一時的であり、自分中心のものです。暗い生活の中で一時的な明るさへの解放を求める。痛み止めも苦しんでいる人には光です。多くの人にとってそのような光は宴会や行楽で、その代表は忘年会でしょうか。苦しく辛い事を忘れ、責任と重荷から解放されて、一時の光の時を過ごすのです。しかし、そのような光の時を好む生き方は生活全体をだめにし、生活や世の中を健全な明るさに生かすことになりません。
この世は自分のうちに光を持っていません。ですから、この世は、一時的な気晴らしのような光でも喜んで迎え入れるのです。人工的な光、イルミネーションが人々を誘い引き付けています。その光によって昼と夜の生活を狂わされ、生活をだめにしている人が居ます。メールや携帯によるこの世的な光の誘いに眩惑させられている人がいます。そのような人工的な光を好んでいる人に、神からの光がここにある、と存在して光を放つことは、この世では迫害を受ける事になるのです。しかし、イエスを信じて神の光に生かされている私たちは、世の光として存在し、真の命の光を放ち続けるのです。
15節は、神の光を隠したり消すものはいない、と言っています。光は置くべき所に置かれ、放つべき光を放つ事によって、その部屋全体を明るく照らすのです。置かれた場所や放つ光に、不平や理屈を言わないで、神を信頼して、闇の中で星のように光を放つのです。小さな星の光によって、道に迷っている人、行き先を探している人に、命の道を示し、正しく導くのです。
世の光ですあるイエスを信じている私たちは、光の存在となり、この世でイエスの光を放っていくのです。その光は、人を惑わす人工の光ではなく、神からの光です。その光は、全ての人を、生かし、永遠の命に導く光です。
2005年5月29日
説教題:神に立ち帰って生きよ
聖書:エゼキエル書 18章:21-32節 マタイによる福音書 3章1-6節
【説教】
エゼキエルは、エルサレムがバビロンに破壊されて、国の主だった人が捕囚の身になってバビロンに連れて行かれた、その中の一人でした。
捕囚民になって3年、エゼキエルが神の言葉を伝える預言者になった時、捕囚民もエルサレムに残った民もユダヤ人は、「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」という諺を口にして、現在自分たちが惨めで辛い目に遭っているのは、先祖のためで、自分たちの責任ではない。自分たちには現実に対してどうする事も出来ない。と,諦めて闇の中にいました。
現在の私たちの環境や世界、生活の現実にも、過去の結果で,自分たちの責任ではない、自分たちにはどうすることも出来ない。と,言うものがあります。
しかし、神はそのユダの民に、この諺を口にするのを直ぐに止めろ、二度と口にするな、と命じました。そして、全ての命を御手の内に治めて生かす、罪を犯したものだけが死ぬ、と言われたのです。
神は、父が過ちを犯しても息子が神のみ旨を行ったら父の故に死ぬことはない、悪人でも過ちから離れて正しい歩みをすればそれによって生きる。と、言うのです。逆に、正しい人でも正しさから離れて悪を行ったら、今までの正しいことは思い起こさないで、過ちによって死ぬ。と言います。
その神の言葉に対して、人間は、「なぜ息子が父の罪の責任を負わないのか」。「なぜ今までの正しい行いが忘れ去られてしまうのか」。「神は、正しくない」。と言うのです。自分が持っている思いや考えを、変えないのです。
神は,その反論に対して、人は自分の正しさによって生き、自分の罪によって死ぬのだ。だから、しかたがないと他人に責任を負わせていないで、今からでも神の前に正しく生きよ。と訴え、命じるのです。また繰り返し、「私は、悪人の死を喜ばない。正しい道に立ち帰って生きることを喜ぶ」、と言われています。神は、罪を犯した民も見放してはいないのです。預言者を通して、罪人の傍らに臨んで、救いの言葉を語り、救いの道を示しているのです。「お前たちは、悔い改めて、全ての背きの道から立ち帰って生きよ。どうしてお前たちが死んでよいだろうか。私は誰の死をも喜ばない。」と。
バプテスマのヨハネは、神の民に「悔い改めよ。神の国が近づいた。」と告げました。神が、愛のご支配をもって、近づいて下さるのです。それを聞いて,自分の罪を知った人が, ユダヤ全土から悔い改めの洗礼を受けに来ました。
私たちの信仰生活は、神に立ち帰って、神にあって生きる生活です。