2024年9月29日
説教題:平和を告げる主
聖 書:ゼカリヤ書9章9~10節、ルカによる福音書19章28~44節
エルサレムに近づき、都が見えてきたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…。しかし今は、それがお前には見えない。」
(ルカによる福音書19:41-42)
今日のルカによる福音書の御言葉から、イエス様が地上で過ごされた最後の一週間が語られます。今日は、その第一日目に、イエス様がなさった三つの事柄が記されています。最初のひとつは、イエス様が弟子たちと共にエルサレムに入られたことです。二つ目の出来事として、イエス様がエルサレムに歓呼の声をもって迎え入れられたことに感激した弟子たちが、イエス様を「主の名によって来られる方、王に」(ルカによる福音書19:38、詩編118:26)と声高にたたえ、それを戒めて黙らせようとしたユダヤ社会の指導者層の者たちをイエス様が逆に戒めて、「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す。」(ルカによる福音書19:40)そして最後の三つめの出来事は、イエス様がエルサレムのために泣かれ、嘆かれたことです。
三つの事柄は、あるひとつの言葉でつながっています。イエス様が人々に、また御言葉を通して現代に生きる私たちに賜るたいせつなメッセージが語りこめられています。そのひとつの言葉とは、「平和」です。
今日の聖書箇所に語られている二つ目と三つ目の出来事に「平和」という言葉が現れ、特に三つ目、最後の出来事ではイエス様ご自身が「平和」を語られました。その箇所、ルカによる福音書19章41節から42節をお読みします。「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…。しかし今は、それがお前には見えない。』」イエス様は、エルサレムの都をご覧になって、そこに平和がないことを深く嘆かれました。
神殿の町エルサレムは、いわゆる聖地であり、常に礼拝がささげられて清められ、どの町よりも神さまの御心にかなっているはずです。にもかかわらず、イエス様はそこに微塵も平和がないことを見抜かれ、何と可哀想なことかと、憐れんでくださいました。
聖書に「平和」という言葉が用いられる時、私たちは常に二つの平和を考えます。ひとつは、私たちが日常的に用いる「この世に争いがない」という意味での平和、人と人と、国と国、または民族と民族が互いに良い関わりを保って共に生きている人間同士の平和です。もうひとつの「平和」を、私たち教会に生きる者は 神さまとの関わりで考えます。
神さまとの関わりが、神さまの御心にかなっている時、聖書は「神さまと私たちの間に平和がある」と表現します。私たちが神さまに背かず、神さまの愛を私たちが信じきって安心し、喜んで御手に身をゆだねて平安に過ごしている ― これが、神さまと私たち人間が平和だということです。神学的には、神さまと私たち人間との間の平和を「仲直りしている」という意味の「和解」という言葉を用いることがしばしばあります。
神さまとの平和と、人間同士の平和。聖書が語るこの二つの平和は よく十字架の形にたとえられます。神さまと私たちが十字架の縦の棒、私たち人間同士が手をつなぎあって共に生きている姿が十字架の横の棒です。
十字架の横の棒・この世の平和は、たいへん残念ながら、この世が創造されて、アダムとエバが神さまに背き、エデンの園を追われてその東に暮らすようになってから今まで、実現されたことがありません。常にこの世のどこかで戦いがあり、人の体と心が損なわれています。
一方、十字架の縦の棒・神さまと私たち人間との間の平和を、イエス様が実現してくださいました。
今日の聖書箇所で、イエス様は神さまとの平和も、人間同士の平和もないと、エルサレムをご覧になって涙を流されました。ただ嘆かれただけではなく、神さまとの平和 ― 別の言葉を用いると「和解」、神さまと私たちとの「仲直り」 ― を成し遂げてくださいました。イエス様はそのために、十字架でご自身の命を捨ててくださったのです。神さまとの平和、人間同士の平和という二つの平和のために、イエス様のお命という大きな犠牲が払われました。ご一緒に、主のこの尊い御業を思いめぐらしましょう。
私たちは誰かに、この世の理想的な状態はどういうものか?と問われたら、あまり迷うことなく「平和」と答えると思います。平和がたいせつというこの理想は、実は新しい考え方です。前回の礼拝で、共同体の絆が助け合いの絆になる社会福祉の考えが、イエス様の十字架上での御言葉から始まったとお伝えしました。平和も、イエス様から始まっています。
イエス様がこの世に遣わされる前、人々が先ほどと同じ質問 ― この世の理想的な状態はどのようなものか? ― を問われたら、こう答えたでしょう。「自分たちが、敵に勝利すること。」勝利が、最も大切だったのです。自分が生きていて、さらに生き続けるためには、自分の仲間・味方がいて、敵がいるという構図が、当たり前のこの世の有様でした。
食糧や水といった資源は限られているので、敵に勝利して奪い取らなければ、自分たちが死んでしまうのです。勝利しなければ、逆に敵に自分たちの命と自由をはく奪され、持っている食糧や水を略奪されて死ぬしかないのが私たちです。私たち人間は、食べたり飲んだりして生命体としての命を維持しないと死んでしまいます。
最初に神さまが最初の人間、アダムとエバを創造された時、神さまは彼ら二人を死なない者として造られました。ところが、アダムとエバは神さまに禁じられた木の実を食べ、悪を呼び込み、罪を犯して、エデンの園から追放されました。アダムとエバは、禁断の実を食べてはならないという神さまの言いつけに背き、罪を犯しました。人間が犯した最初の罪・原罪です。
原罪によって、アダムに労働の苦しみと日々の糧を得る責任が、エバに子を産む苦しみが担わされました。楽園で過ごしていた時にはなかった苦しみと死が、こうして人間に与えられました。追放された土地、エデンの東 ― すなわち、この世 ― でアダムとエバの子孫たちは増え、日毎の糧を兄弟姉妹・仲間と分け合うために、敵と競い、その敵から奪うようになりました。
競争に勝って、人間は喜びを知るようにもなりました。勝つために、神さまが造られた他者を敵とし、敵の持っているものをその命を含めて奪う生き方が評価される ― これは、今も私たち人間の心に根強く潜んでいます。この地球上で、今も複数の戦争・紛争が続いていることを見ても、それは明らかです。
私たち人間を愛して造られた神さまは、私たちのその姿を悲しく思われます。殺してはならないとおっしゃる神さまに背き、神さまに造られた隣人を敵にしているからです。イエス様が、エルサレムの町を見て嘆いたのは、まさにその天の神さまの悲しみを表しています。
天の父・私たちの造り主が御子イエス様を世に遣わされたのは、まず神さまへの背きの罪を償い取り除き、神さまと人間との間に平和・和解をもたらすためでした。さらには、敵ではなく互いを隣人とするために、勝利ではなく平和を大切にする心を持てるようにと導くためでした。
今日の聖書箇所でイエス様がなさった最初の出来事を通して、イエス様は平和へと人々を導こうとされました。その最初の出来事とは、イエス様がエルサレムの町へ入る時に子ろばに乗ったことです。
敵に勝利して勝ち誇った王が領地に戻ることを凱旋ともうします。軍馬にまたがり、威風堂々と軍の将軍や兵士を引き連れて領地に戻って来る凱旋の姿は、神さまの御目には、そしてもちろん神さまと一体である御子イエス様には、少しも喜ばしく見えませんでした。
敵対して戦った者たちのどちらかが勝利したならば、もう片方は敗北したからです。敗北した側の王は、もう王ではありません。勝利した側に捕えられて命を奪われるか、奴隷にされてしまうか、どちらにしても、人間としての自由と尊厳をはく奪されてしまいます。王と共に戦って敗北した将軍たち、兵士たちも同様の扱いを受けました。さらには、戦いに夫を、父を、息子を、兄弟を送り出した故郷の領地の者たちも、同じ扱いを受けます。王が凱旋して帰還しないとは、ひとつの領土・町の滅亡すなわち死を意味したのです。
勝者がいれば、必ず敗者がいます。喜ぶ者がいれば、必ず悲しみ嘆く者がいます。神さまは、すべての人間が喜んで生きるようにと、人間を創造されました。
勝者がいると、必ず悲しみ嘆き、死に至らしめられる敗者がいる戦い ― 平和がない状態は、神さまを悲しませる大きな人間の罪そのものです。一部の人間にとっての歓喜の象徴である凱旋する王の立派な姿は、イエス様がご覧になれば人間の罪の表われでしかありませんでした。
同時に、今日の旧約聖書の御言葉・ゼカリヤ書で、エルサレムの町に続く門から入城する真の王の姿が、このように預言されていました。先ほど、司式者が朗読してくださいましたが、あらためてお読みします。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」(ゼカリヤ書9:9-10)
真の王は戦いを行わず、神さまに従ってすべての戦車、弓、すべての武器を捨ててあらゆる民が争わずに生き続けられるようにと平和の統治を行います。その真の王を、聖書は救い主・メシアと呼ぶのです。
預言者ゼカリヤに神さまの御言葉が託され、ゼカリヤ書に記されたのは紀元前900年代、イエス様がお生まれになる10世紀近く前のことでした。
神さまは、人間が「殺すな、盗むな、隣人のものを欲しがるな」との導きに背き、その禁忌を犯して戦い続け、世には平和がかけらもないことを悲しんでおられました。彼らが戦って悲しみと苦しみをもたらす罪に捕らわれていることを憐れんで、御子イエス様をその罪から救うために、メシアとして世に遣わさなければならないと計画されていたのです。
この計画の実現が、今日の聖書箇所に明確に記されています。イエス様はエルサレムの町へ続く門を通る時に、この世の勝利を体現する凱旋する王ではなく、ゼカリヤ書に預言されている平和を告げる王として、小さな子ろばに乗りました。
人々を睥睨することなく、高い軍馬の背の上から見下ろすことなく、子ろばにまたがったイエス様の両足は、まるで大人が子どもの三輪車に乗ったように地面についていたことでしょう。イエス様の視線は人々の目の位置よりも低くなり、イエス様は人々を睥睨するのとは逆に見上げるようにして、身を低くしてへりくだって、エルサレムの町に入られました。
そのお姿はユーモアに満ち、人々は大喜びして歓呼の声をあげました。
ユダヤの人々は、幼いころから聖書を暗唱させられていますから、ゼカリヤ書の聖句を覚えている人は少なくなかったでしょう。覚えていながら、「王が子ろばに乗ってエルサレムに入る」とはどういうことだろうと、首をかしげていた人が殆どだったのではないでしょうか。その人たちは、イエス様がその聖句を実際に体現して自分たちに見せてくださり、同時にご自身がメシアであると示されたことに深く感動したのです。千年近くの間、人々が待ち望んでいた平和の王、真の王、メシア ― 子ろばに乗って神殿の都エルサレムに入られる王であるイエス様が、ついにおいでくださいました。
こうしてイエス様がエルサレムに入られたのは、日曜日のことでした。六日後の金曜日に、イエス様は十字架に架かって、その地上のお命の終わりを迎えられました。勝利をたいせつなものと考える人々の罪をすべて負い、その罪もろともにご自身のこの世のお命を滅ぼされたのが、イエス様の十字架の出来事でした。私たちが平和を当たり前のように理想と思うその心は、こうしてイエス様がお命をかけて私たちに示されたものなのです。
この世の平和は、残念ながら未だに実現されていません。しかし、イエス様の十字架での死とご復活によって、私たちは神さまとの間に平和をいただいています。私たちは神さまの御心に従って、平和をたいせつなものとして尊ぶ心をいただくようになったのです。神さまの御心に従いたいと願う思いに、私たちの神さまは応えてくださり、私たちを力強く守り支え、導いてくださいます。
イエス様のお命の犠牲によって、どんな時も神さまの御手のうちに守り支えられ、決して見捨てられない幸いに感謝して、この新しい週の一日一日を進み行きましょう。
2024年9月22日
説教題:白髪を冠としてくださる神
聖 書:イザヤ書46章3~4節、ヨハネによる福音書19章25~27節
イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
(ヨハネによる福音書19:25-27)
今日、私たちはヨハネによる福音書を通して、イエス様が十字架に架けられ、地上でのお命が終わる時に語られた御言葉を、ご一緒に聴いています。十字架での死とは、当時のローマ帝国が定めた死刑の方法でした。当時、イエス様の国ユダヤはローマ帝国の植民地でした。
イエス様は、イエス様が人々に深く慕われていることを妬み、イエス様を憎んだ者たちの企みによってローマ帝国に謀反する者として捕らえられ、反逆者として死刑に処せられることになったのです。見せしめとして行うので、たいへん残虐な仕方で行われます。イエス様は前の夜に祈りの場で逮捕され、打ち叩かれました。痛めつけられて、もうすでに瀕死の状態で、自分がつけられる十字架を背負わされ、エルサレム市街地を刑場であるゴルゴタの丘へと歩かされました。イエス様はこの時、ご自分を憎む者たちの陰謀により、いわば冤罪を負わされて死刑に処せられました。しかし、ご自分は無罪だと、一言も弁明しようとはなさいませんでした。
陰謀は、それ自体が罪です。また、そうとわかっていながら冤罪だと指摘しないことも罪です。悪意を行動に移すこと、それを見て無関心を決め込むことは、いつの時代にあっても私たち人間の心に潜む罪と申して良いでしょう。人を憎み、排除して自分の願望を通す罪、見て見ぬふりをする無関心の罪、まわりに流される愚か者の罪が、イエス様を十字架に架けてしまったのです。
イエス様は、ご自分がその人間の罪をすべて背負い、ご自分の地上の命・生命体としての、人間としての命を終わらせることでご自身もろともに罪を滅ぼしてくださいました。
それが、イエス様の十字架の出来事です。イエス様は十字架で命を捨てられ、私たち人間の根源的な罪を私たちに代わって贖ってくださいました。私たちを罪から救うために、神さまがお立てくださったご計画が、こうして成し遂げられました。
説教のはじめの方で、十字架刑が残虐を極めるとお伝えしました。処刑される者は十字架に釘で手と足を打ち付けられ、そのまま晒し者にされて、衰弱して命の終わりを迎えます。イエス様はそのお苦しみの中で、激痛・苦痛にもかかわらず 愛する者への思いやりを忘れることはありませんでした。イエス様がおっしゃった十字架上での今日の御言葉には、その思いやりがあふれています。
イエス様が処刑された時、十字架のそばにいたのは三人のマリアと一人の弟子でした。イエス様の母マリアとその姉妹マリア、そしてイエス様に癒していただいたマグダラのマリア、母マリアにはイエス様の弟子ヨハネが付き添っていました。
イエス様には12人の弟子がいましたが、その一人イスカリオテのユダはイエス様を裏切って イエス様逮捕への手引きをし、ヨハネ以外の他の弟子たちはこの時、死刑囚となったイエス様と関わる者と見られるのを恐れてその場から逃げ去っていたのです。
母マリアの夫ヨセフは、この時すでに亡くなっており、マリアは未亡人でした。聖書では未亡人を表す言葉として「やもめ」を使います。「やもめ」は、当時のユダヤ社会でもっとも惨めな立場にありました。女性が働いて生活を成り立たせるのはたいへん難しいことだったからです。夫に先立たれ、さらに頼りに思う息子に死なれてしまうと、女性は周囲の者からの施しに頼るしか 生きて行く方法がありませんでした。
イエス様は、ご自分の死によってその立場に陥る母マリアを深く思いやられました。そして、その場で母マリアに付き添っていた弟子ヨハネに、母の今後を託されたのです。26節で、イエス様は母マリアに弟子ヨハネを示して「ご覧なさい、あなたの子です」とおっしゃいました。ご自分の代わりに、弟子ヨハネを我が子と思うようにと言い残されました。さらに27節で、イエス様は弟子ヨハネにも「見なさい、あなたの母です」とご自分の母マリアを自らの母と思うようにと示されました。血はつながっていないけれど二人が家族となり、互いを慈しんで支え合うようにと導かれたのです。
これは何でもないことのように思えますが、当時の社会の常識からすると、いえ、今でも、私たち人間が持っている感覚を覆す実に画期的かつ斬新な考え方を示しています。
私たちは自分と自分でない者をつなぐ絆として、血がつながっている血族関係を第一に考えます。現代でも、法律的には家族・親族の血のつながりが重視されています。親から子へと受け継ぐ世襲を大切にしている職業も、営みも、数多くあります。
ところが、イエス様は血のつながりを超える絆によって支え合う家族を、十字架の下(もと)に新しく作られました。それが、信仰で結ばれて共に神さまを天の父と呼び、互いを兄弟姉妹と呼ぶ神さまの家族である信仰共同体・教会です。
今では当たり前のこととなっていますが、社会の中で孤立してしまう弱い立場の者を、血縁によらず、社会全体で支援する社会福祉の発想は、このようにイエス様から、キリスト教から生まれていると申しても過言ではありません。イエス様が結んでくださって生まれる新しい絆は、血のつながりを超えて隣人同士が支え合い、助け合う隣人愛のわざを示しています。
イエス様は、当時の社会が見捨てている小さくて弱い者たちに、常に心を寄せられました。大人にあっちへ行けと邪魔にされる子どもたちを祝福し、当時は頭数(あたまかず)に入れられることのなかった ― つまりは人間扱いされていなかった ― 女性に常に優しく接し、助けてくださいました。人でなしと見なされた罪人 ― 前科者 ― や、当時の人々から軽蔑されていた職業の人たち、さらには偶像崇拝をする異邦人 ― 外国人 ― も隣人として自分のように愛し、常にご自分のもとに招いて慈しんでくださいました。
自分が不安や弱さを感じる時にこそ、私たちのために命を捨ててくださったイエス様の捨て身の愛に強められ、神さまが造られ等しく慈しんでいる隣人を通して力づけられるという大きな発想の転換を示してくださったのは、イエス様です。
使徒パウロは、この真理をこのように明確に宣言しています。「わたしは弱い時にこそ強い。」コリントの信徒への手紙12章10節後半の聖句です。
困った時に、自らの弱さを自覚して神さまに、イエス様にすがる時、私たちは御言葉を通して、見えないけれど常に差し伸べられているイエス様の御手にあらためて気付きます。
自分の弱さを自覚すること自体、私たちにはプライドを乗り越えるという勇気が必要です。イエス様は、私たちにプライドすなわち傲慢の醜さ、転じてへりくだることの麗しさを自ら示され、御言葉・聖書を通し、教会へ、兄弟姉妹の交わりへ、共同体で支えられている平安へと導いてくださいます。隣人・兄弟姉妹と共に生きる心の安らぎと、恵みに満たされて、私たちは力強く歩むことができるのです。こうして、私たち一人一人は弱くても、愛の絆で結ばれる共同体の中で強められます。
イエス様の母マリアを、イエス様から託されたイエス様の弟子ヨハネのその後の歩みを、少しご紹介して説教を終わりたいと思います。イエス様に母マリアを託されて、ヨハネはどう感じたでしょうか。マリアはイエス様を産んだ後にヨセフとの間に子どもを産んでいて、イエス様には血のつながりのある兄弟たちがいました。しかし、ヨハネはイエス様がどうして血のつながりのない自分にマリアを託すのか?とは思わなかったように、私は思います。イエス様と弟子ヨハネ、そして共に伝道の旅を続けて来た母マリアとの絆は血縁よりもはるかに強く深かったからです。
イエス様の十字架での処刑後、キリスト者が迫害されて酷く殺される時代が続きました。その中で、イエス様の弟子たちは、決して挫けることがありませんでした。ご復活のイエス様に会って、十字架の出来事の時には逃げ散って弱かった弟子たちは別人のように強くされました。弟子たちは礼拝を献げ続け、祈りつつ福音伝道を続けました。イエス様の十字架の出来事の救いと愛、ご復活が示す永遠の命の希望を語り続けました。
迫害の中で、弟子たちは一人また一人と殉教して天に召されました。唯一人、ヨハネだけは殉教しなかったと伝えられています。もちろんヨハネも伝道を行い、何度も捕らえられました。しかし、そのたびに生き抜いて、マリアのもとに還りました。他の弟子たちが殉教する勇気を与えられる中で、ヨハネはイエス様が十字架上で自分に語られた言葉に従い、マリアを守る勇気を与えられたのです。
ヨハネはマリアと共に、また別の資料によるとマリアを看取った後に、ギリシャの小さな島・パトモス島に幽閉されて、その生涯を終えました。イエス様が十字架の上でお命をもって示してくださった深い愛にヨハネは応え続け、ご復活によって示された御国への希望をマリアと共に抱きつつ、ヨハネはこの世の命を生き抜いたのです。
御心ならば、私たちもそのように地上にある命の日々を過ごしたい ― そのように願います。今日のこの伝道集会の主題とされているように、私たちの主はどんな時も、必ず共においでくださるのですから、安心して進み行きましょう。主にある兄弟姉妹として、隣人として、手を携えて歩んでまいりましょう。
2024年9月15日
説教題:王なる主の帰還を待つ
聖 書:イザヤ書52章7~10節、ルカによる福音書19章9~27節
人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。
(ルカによる福音書19:11)
イエス様は、十字架の道への途上、エルサレムへ向かう途中で通ったエリコの町でたとえ話をされました。それが、今日 私たちがいただいているルカによる福音書19章11節から27節の御言葉です。
司式者の朗読を聞いて、皆さんはどのように思われたでしょう。ひとつの強い印象と、ひとつの疑問を感じたと思います。私は、このような強い印象を受けました。今日のイエス様は、なんと恐ろしい話をなさるのだろう。特に最後の聖句は、実際に自分に向けて語られたとしたら 震えあがってしまいそうです。最後の聖句とは27節です。イエス様はこう語られました。「ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。」(ルカによる福音書19:27)
そして、ひとつの疑問は、このことです。イエス様が語られたこのたとえ話は、いったい何をたとえているのだろう。この問いに答えてくれるのは、最初の聖句・11節の後半です。主語を補って、お読みします。(イエス様は弟子たち、従い行く群衆と共に)「エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れると思っていたからである。」(ルカによる福音書19:11b)
私たちは、ルカによる福音書の御言葉を主日ごとに講解説教としてご一緒に読み進んでいます。ここ2カ月ほど、共にいただいた御言葉では、イエス様は「神の国」、御国について人々に語って来られました。神の国は、良い行いを積んだ、自他ともに認める立派な人格者が、生命体としての命をこの世で終えた後に行ける 俗に言われている死後の世界・天国ではないことを、私たちはイエス様のお言葉から一緒に聴いてまいりました。
この世に生きている間の人間の努力、良い人・立派な人・人格者になりたいという努力で行けるものではありません。幼子のように何も持たず、何もできず、神さまに頼るほかない小さな者と自らを自覚し、へりくだることで、イエス様は私たちが神の国を思う心をいただけると語られました。
私たち人間の目には覆いがかけられていて、この世とは別の次元にある神の国を見ることも、知ることもできません。ひたすら神さまに身をゆだねて導かれてゆく中で、神さまの時が満ちたその時に、この世が終わり 御国が来るのです。
ところが、ユダヤの人々は 神の国について大きく誤解していました。この世が終わるとは、ローマ帝国が支配する今のユダヤの世が終わることだと考えていました。その昔、ユダヤ民族の歴史の絶頂期を彩ったダビデ王のような、またはソロモン王のような頼もしい指導者が神さまから油注ぎをされて君臨してユダヤ文化が再び花開く未来を「神の国」だと期待していたのです。
神の国を語るイエス様が、イザヤ書ですでに700年前に預言され、自分たちが待ち望んでいるユダヤの真実の王・メシアだと思う者は、イエス様の弟子の中にもいました。その人たちは、イエス様が今、こうしてエルサレムに向かっているのはご自身がメシアであると明らかになさるためだと考えました。ユダヤの独立・神の国の到来は近い、「神の国はすぐにも現れる」と思っていたのです。イエス様は、その誤解を解き、人々の目を覆う分厚い覆いが少しでも剝がれるよう、導くためになかなかにショッキングな今日のたとえ話をされました。そのたとえ話は、イエス様が進まれる十字架の出来事とご復活に重なっていて、それをたとえていると言っても過言ではありません。
今日の12節で、イエス様はこうおっしゃいました。お読みします。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。」(ルカによる福音書19:12)イエス様が語られるのは、不思議な状況です。王の位を受けて、その国を統治する者が どうしてわざわざ遠い国で王権を授与される戴冠式を行わなければならないのでしょう。
イエス様が十字架に架かられた時のことを思い起こしましょう。イエス様が十字架に架けられた理由・死刑にされた理由は何だったでしょう。 ユダヤの王だと自称しているとされたためでした。
イエス様はそのようなことはおっしゃいませんでしたが、ユダヤの祭司長やファリサイ派たちは、こうして自分たちにたいへん都合の良い罪状を造り上げました。自分が預言されたユダヤの王・メシアだと自称するのは、神さまへの冒瀆の罪だからです。彼らにとって実に皮肉であったのは、イエス様が真実のメシアだったことです。また、この罪状はローマの総督ポンテオ・ピラトからすれば、宗主国ローマ帝国に謀反を企んだ反逆罪にあたります。
イエス様はご自身ではもちろん、そのようなことはおっしゃいませんでした。神さまに遣わされた御子イエス様は、ユダヤの最高の指導者、救い主メシアその方です。ユダヤばかりでなく、父なる神さまに創造されたこの全世界を導く指導者、キリストです。
十字架で死なれたイエス様は三日後に復活され、その真理を世に示されました。この世ではなく、次元の異なる神さまの油注ぎを受けて復活されたのです。ご復活のイエス様は、天の父なる神さまの右の座に昇って行かれました。そして、この世の終わりには もう一度私たちのところに戻って来られます。神の国を統治し、私たちを導き伴い永遠の命に生きてくださるためです。
今日、私たちが読んでいるたとえ話の「王の位を受ける人」とは、イエス様ご自身のことをおっしゃっているのです。イエス様は、当時の人々がご自分を正しく神の御子だとうけとめていないこと、理解していないことをよくご存じでした。だからこそ、今日の聖書箇所の中でこのようにおっしゃるのです。14節をお読みします。「国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。」
思い出してみましょう。十字架に架けられる前、ポンテオ・ピラトにイエス様とバラバのどちらを十字架につけるかと尋ねられたユダヤの群衆は、祭司やファリサイ派、律法学者にたきつけられて「イエスを十字架に架けろ」と叫びました。すべては神さまのご計画のうちにあり、こうして十字架の出来事が起こり、イエス様がご復活され、後に天に戻られました。
今、私たちは父なる神さまが天に、ご復活のイエス様がその右の座に、私たちの間で生きて働いてくださるイエス様である聖霊が共においでくださるこの世の教会の時代を生きています。この教会の時代を私たちがどう過ごすかを、イエス様は今日のたとえ話で伝えてくださっているのです。
私たちがイエス様から託されたことがあります ― それを、イエス様は今日のたとえ話で「十人の僕(しもべ)に十ムナ」を渡したと語っておられます。ムナは、ギリシャの貨幣単位でローマ帝国の100デナリオンと同じ価値を持つそうです。1デナリオンは、一日分の賃金でした。今の日本社会では、8千円から1万円ほどでしょうか。1ムナはその100倍、80万円から100万円です。私などにとっては、実にたいそうな大金です。お金で現実的な金額として示すとわかりやすいから、イエス様はこのように語ってくださいました。実際に私たち教会に生きる者にが託されているのは、伝道の働きです。
マタイによる福音書は、ご復活のイエス様が天に昇られる時に弟子たちに語られた大宣教命令を伝えています。マタイによる福音書28章18節から20節のこの御言葉です。お読みします。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」 ― これが、イエス様が神の国の王の位を受けておられるという宣言です ― 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28:18~20)
イエス様の弟子たちは、イエス様の御言葉に従いました。迫害に耐え、兄弟姉妹の殉教にひるむことなく、まさに命がけの伝道を行い、福音は海を越えてこの極東の日本に暮らす私たちにも伝えられました。私たちも大宣教命令に従ってイエス様に日々導かれて、こうして教会生活を送っています。
主に導かれ、主に従っている限り、そこに私たちの独善的で人間的な思いが過剰に入り込まない限り、イエス様というぶどうの木から生え出て養われている私たちぶどうの枝は、必ず実を結びます。
今日のたとえ話で語られた1ムナを「布に包んでしまっておいた」(ルカによる福音書19:20)人のように、私たちは隠れて礼拝をささげません。隠れて祈りません。船橋市薬円台、また七林町のこの地に教会がこうして立っていることを堂々と示しています。その幸いに感謝します。
伝道の実・実りは数で現れるとはかぎりません。教会が大きく成長して礼拝や集会に集う方々が増し加えられてゆくのは誠に喜ばしいことですが、教会の信仰の充実、そして一人一人の信仰の深まりは大きな恵みの実りです。私たちがそれぞれ、また集められて主の恵みに感謝し、信仰の喜びを共にする時、私たちの救い主イエス様は私たちの真ん中におられて、共に喜んでくださいます。
日々を生きる私たちは、信仰の上で、また日本がキリスト教国ではないために、心の葛藤や生きづらさに直面することがあります。主が手を取って導いてくださり、乗り越えて来ているからこそ、今 私たちはここに集っているのです。キリスト者としての重荷を祈りつつ耐えることも、伝道の大きな実りです。イエス様は、そのようにして従う私たち一人一人を、労い、そしてほめてくださいます。
今日の旧約聖書の聖句は、そのように神さまの御言葉・良い知らせを伝える者を讃える御言葉です。イザヤ書52章7節からお読みします。「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」
伝令の足は、汚(よご)れているはずです。土埃にまみれ、野山の草の葉や石で傷ついています。伝道する者・教会に生きる者は、この世でのさまざまな葛藤にもまれ、苦しみながらも止まらずに進み続けます。その足は、キリスト者として生きているがゆえに汚(よご)れていても美しいと、イザヤ書の御言葉は語ります。
また、イエス様はヨハネによる福音書13章で、ご自身の十字架の出来事とご復活後の弟子たちの苦難の伝道を思い、最後の晩餐の前に一人一人の足を洗ってくださいました。
イザヤ書52章はさらに告げます。続けて7節をお読みします。(伝令・伝道者は)「平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」(イザヤ書52:7)
教会が世に伝えるのは、主がもたらしてくださる平和です。私たちがイエス様の十字架の出来事とご復活により救われ、生命体としての死を超えて主と共に生きる恵みの事実です。そして、私たちはイエス様がもう一度来られるまで、主が王として私たちを守ってくださる神の国・永遠の命の希望を語り続けます。
明日9月16日、私たち薬円台教会は51回目の創立記念日を迎えます。これまで、そしてここまで私たちを導いてくださった主の愛に深く感謝をささげ、明日からの新しい日々を主に従う志を新たにされて進み行きましょう。
2024年9月8日
説教題:我が心に宿られる主
聖 書:詩編90編1~6節、ルカによる福音書19章1~10節
「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
(ルカによる福音書19:10)
イエス様は十字架への道を歩んでおられます。弟子たちを伴って、神殿の町エルサレムに向かっておられます。エルサレムをめざして南にくだると、途中にエリコという町があります。このエリコという町を、考古学者は世界で最も古い町と呼んでいます。当時も地域の拠点として重要な都市でしたが、イエス様にとっては十字架の道への通過点に過ぎませんでした。イエス様は、この町を通り過ぎようとされていました。しかし、この町で足を止め、宿を取ることになりました。
今日の聖書箇所 ルカによる福音書19章2節は、その理由をこう語っています。お読みします。「そこにザアカイという人がいた。」イエス様がエリコに泊まられたのは、このザアカイのためでした。
目的地へ急ぐイエス様は、その途中でイエス様を慕い求める人にひんぱんに呼びかけられました。癒してください、必要を満たしてくださいとイエス様にすがる人が後を絶たず、イエス様がその都度 足を留めて優しくその者たちに接されたことを、私たちは福音書のいろいろな箇所で、ご一緒に読んでまいりました。前回の礼拝では、イエス様がエリコの町に近づいた時、目の見えない人が必死にイエス様を呼び、イエス様に見えるようにしていただいた出来事をご一緒に聴きました。
さて、今日の聖書箇所に記された「ザアカイという人」は、イエス様を呼ぶ人・イエス様にすがり、救いと助けを求める人ではありませんでした。「開き直った人」と言ってよいでしょう。今日の聖書箇所の2節には、こう記されています。「この人は徴税人の頭(かしら)で、金持ちであった。」
徴税人とは、税金を徴収する人・税金を集める人です。当時のユダヤはローマ帝国の植民地だったために、独立国だったらあり得ない植民地税を 人々がローマに払わなければなりませんでした。ユダヤ社会で流通していた貨幣も、ローマの貨幣に両替しなければならず、それには手数料がかかりました。徴税人は、植民地税を集める時や両替の時に、法外な費用を手数料として要求し、ユダヤの人々を苦しめていました。しかも、その許可をローマ帝国からもらっていたのです。こうして徴税人は、人々から巻き上げた手数料で私腹を肥やし、金持ちになりました。
ユダヤの人々は税金という言葉を聞くと、支配者ローマを憎らしいと思うよりも、自分たちと同じユダヤ人なのに、祖国が植民地になったことを利用し、同じ自分たちユダヤ人から巻き上げたお金で金持ちになった徴税人をまっさきに憎らしいと思ったでしょう。祖国の不幸でいわゆる「うまい汁」を吸う徴税人など、ユダヤ人の風上にもおけないと軽蔑して、同胞意識・仲間意識などとうてい持てなかったに違いありません。
律法は、貧しい者に施しをするようにと教えています。律法を守るユダヤ人たちは、金持ちに対し、その豊かな資産からたくさん貧しい人に施しができるからこそ尊敬するのですが、徴税人たちはおそらく施すことなど思ったこともなかったでしょう。その点でも、ユダヤ人たちは徴税人を軽蔑していました。
ザアカイは、その徴税人たちをとりまとめ、もっとあくどくやって儲けろとけしかける「徴税人の頭」だったのです。当然、同じ民族・仲間であるユダヤ人から 憎まれ、嫌われ、軽蔑されていました。ザアカイが通ると、エリコの町の人々は、その後姿を見ながら今にあの人に神さまの裁きがくだるとひそひそ話をしたでしょう。
ただ、人にどう思われるかよりも、神さまの裁きが恐ろしい ― 神さまの宝の民・ユダヤ民族としては、こちらの感覚の方が普通だったと思われます。神さまは、この自分を世に有る者・存在する者としてくださり、常に見守ってくださる方です。その方に裁かれて、もうお前なんか知らないと見捨てられるのは、存在を全否定されることです。ザアカイは、それでかまわないと思っていました。目に見えるお金がすべてで、目に見えない神さまを思う心を失っていたのでしょう。
そのザアカイが、この日、街のざわめきに耳をそばだてました。聖書 ― 私たちの旧約聖書です ― に預言されている救い主・主なるお方かもしれないと評判の高いイエスという方が、この町にやってくると人々が興奮気味に話す声が聞こえてきたのです。ザアカイは、そのイエスという方を見物したいと思いました。3節にはこう記されています。お読みします。「イエスがどんな人か見ようとした。」
イエス様に会いたい、言葉をかけていただきたい、苦しみを癒していただきたい ― そう思ったのでは、まったくありませんでした。イエスという有名人がどんな顔立ちで、どんな様子かをただ「見たい」と、ザアカイは道の両脇に押し寄せた人々の群れに加わりました。しかし、小柄なザアカイは群衆に遮られて、人の背中しか見えません。嫌われ者ですから、前にどうぞと言ってくれる人は一人もいませんでした。そんなことには慣れっこになっているザアカイは、気にせずに別の見物手段を考えました。それが4節に語られています。お読みします。「(ザアカイは)イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。」(ルカによる福音書19:4)
なんと、ザアカイは救い主を、神さまを待ち伏せしようとしたのです。しかも、上から見下ろす形で見物しようとしました。私たちはイエス様に従う者ですから、イエス様をイメージする時にそのお背中を思い描きます。寄り添ってくださっている、と信じる時には横におられる姿を何となく思い浮かべるのではないでしょうか。イエス様に従って歩む者は、イエス様と正面から顔を合わせる立ち位置になることはありません。まして、上から見下ろすことはありません。
見えるものしか信じないザアカイの心には礼儀も、秩序もなく、ユダヤの律法もありませんでした。彼は、無法地帯に生きていたのです。何をしても裁かれることのない無法地帯では、何をするのも自由ですが、何をされてもどうすることもできません。だれも信用できず、常に何かに怯え、いっときも安心して休むことのできない混沌の闇と絶望の中に、彼の心はありました。ザアカイは、実に憐れな人だったのです。
いちじく桑は、枝が地面近くを低く這い、葉が濃く茂る木だそうです。ザアカイが身を隠すには、うってつけの木でした。しかし、私たちは神さまの目にはすべてがお見通しであることを思い起こさなければなりません。ザアカイが隠れているちょうどその真下に来た時、イエス様は「上を見上げて」(ルカ福音書19:5)くださいました。私たちはルカによる福音書で神さまの御前で身を低くするへりくだりについて、すなわち悔い改めについて語られるイエス様の御言葉を聴いてまいりました。イエス様はこの時も、ご自身は低い所におられて、ザアカイを見上げたのです。
そして、こうおっしゃいました。5節をお読みします。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」明るいお声だったでしょう。ザアカイが、こんな親しみをこめた声で呼びかけられたことはなかったのではないでしょうか。思わず葉陰から顔をのぞかせると、イエス様は実に晴れやかな、幼馴染と再会したような笑顔で、ザアカイとしっかりと目を合わせてくださいました。無法地帯で凍えていたザアカイの心を、一気に溶かす温かい笑顔でした。
「幼馴染と再会したような笑顔」と申しましたが、これは単なる想像による比喩表現ではありません。神さまは、ザアカイが生まれる前から彼をご存じです。ザアカイが、この世に生まれるご計画を立てたのは神さまだからです。神さまは、これまでずっとザアカイのことを見守り、見捨てることなどなかったのです。
そして、今、救いの主はザアカイにわかる目に見える姿で来られ、彼に声をかけてくださいました。イエスという評判の高い有名人を見物に来ただけだったザアカイは、こうしてイエス様との真の出会いをいただきました。
神さまは、言葉によって混沌から天地創造を成されました。律法を与え、無法地帯に秩序と安心をもたらし、心安らぐ安全地帯となさいます。イエス様はザアカイの心に、忘れていたその真理を思い起こさせてくださいました。ザアカイは喜んで、秩序のうちに生き直し、償いを実行したい、自分の罪を贖って人々から奪い取ったものを還したいと悔い改めました。その悔い改めの言葉が、8節の言葉です。お読みします。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
ザアカイはイエス様との出会いをいただきました。イエス様との出会いは、その時だけで終わるものでは決してありません。イエス様は、出会った者の心に宿り、私たちのうちにとどまってくださいます。十字架への道を急がれていたイエス様は、ザアカイの心に宿ってくださいました。
今は天の父の右の座におられるご復活のイエス様は、私たちそれぞれの心に聖霊の御力をもって宿ってくださいます。私たちが孤独な時に、全世界から見捨てられたように思う時に、主は私たちの心の内に暖かい光を灯してくださいます。時間・時代と空間を超えて私たちひとりひとりに、また私たち教会の群れに宿り、共においでくださるために、イエス様は十字架での死の後に復活されました。
こうして我が身のうちに真実の安らぎをいただいている恵みを心に留めて、今日からの新しい一週間、日々新しく主に出会いつつ 希望を抱いて進み行きましょう。
2024年9月1日
説教題:見えるようになれ
聖 書:詩編119編17~24節、ルカによる福音書18章31~43節
そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」
(ルカによる福音書18:42)
イエス様は群衆に囲まれていましたが、つとそこを離れ、12人の弟子たちを呼び集めました。弟子たちに伝えたい特別なことがおありだったのです。弟子たちは、何ごとかとイエス様の周りに集まりました。
ちょうど少し前に、一番弟子のペトロがこう言ったばかりでした ― 自分たちイエス様の弟子は、自分の持ち物を捨ててイエス様に従って来た、だから地位も財産もある最高法院の議員よりも立派で優れている。その弟子としての志をイエス様にほめていただけると思って、弟子たちは連帯感を強めつつ イエス様を囲んで その言葉を待ったでしょう。
確かに、イエス様は弟子たちに特別なことを告げました。神殿の町エルサレムへ行く、それは預言の言葉が成就するためだとおっしゃったのです。それを聞いて、弟子たちの心は高鳴りました。ユダヤの中心都市エルサレムで、自分たちが師と仰ぐイエス様がいよいよユダヤの本当の指導者になると受けとめたからです。
イザヤ書をはじめとする預言の言葉・ユダヤの民が待ち焦がれていた預言の成就がついに700年の時を経て実現する、そして預言が語っていた真の指導者は、自分たちの師・イエス様だ! ― そう思って弟子たちは誇らしさでいっぱいになりました。
ところが、その直後に、預言の成就とは何をさすかをイエス様は語られました。耳を疑う事柄でした。イエス様は、ご自分が偶像崇拝をする者たちに逮捕され、侮辱され、鞭打たれて殺されるとおっしゃったのです。栄光に輝くユダヤの真の指導者が、また自分たちが敬愛する師・イエス様が なぜそんな仕打ちを受けるのかと弟子たちは驚きました。
さらにイエス様は、ご自分は殺されるが三日後に復活すると言われました。それを聞いた弟子たちがどう思ったかを、今日の聖書箇所 ルカによる福音書18章34節はこう記しています。お読みします。「十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。」
この弟子たちの戸惑いを、皆さんはどう思われるでしょう。十字架の出来事とご復活がわからないとは、情けない…と思われるでしょうか。それとも、イエス様の御言葉・聖書の言葉がわからなくて戸惑った弟子たちの、そのわからない気持ちと戸惑いはわかる、と親近感をおぼえるでしょうか。正直なところを申しますと、私は後者です。
無人島に一冊だけ、本を持って行けるとしたら、その一冊は聖書だとキリスト教国では、またクリスチャンの間ではよく言われます。今では私は、それは当然だ、そのとおりだと思います。聖書のどのページを開いても、私たち人間の、まさに人間性をめぐる暗い葛藤が織りなすドラマと、その私たちを光へと導く神さまの恵みとイエス様の愛にあふれています。御言葉に感動し、その時々で勇気と励ましをいただきます。
しかし、私は教会学校に通っていた頃や洗礼を受ける前、受けてからもしばらくは、聖書がよくわかりませんでした。それでも、礼拝に出席し、教会生活を続ける中で、だんだんと分かってくる・見えて来る聖書の真理が実に山のようにありました。この恵みの山は、限りなく大きく深く、信仰生活を続けると受ける恵みはさらに増し加えられてゆくと私は信じています。聖書は、また信仰生活は、長く親しめば親しむほど、面白く豊かになり、この喜びと幸いは世の何にも優ります。
ただ、聖書を読み始めたばかりの頃、教会生活に通い始めてしばらくの間は、それはわかりませんでした。今日の聖書箇所に従って申せば、「この言葉の意味が隠されていた」のでイエス様の恵み、「イエス(様)の言われたことが理解できなかった」(ルカによる福音書18:34)のです。
ここで大切なこと・心に留めておきたいことは、御言葉の「意味」つまり「恵みと喜び、真理と救い」が「隠されている」ことです。私たちは宝物を掘り当てるように「意味・神さまの恵み、イエス様の救い」を努力して探さなければならないのではありません。恵みと救いは、聖書に明確に語られています。神さまが語られ、御言葉に記され、私たちに届けられています。ただ、私たちの心の目に覆いがかけられていて、それがわからない・見えないのです。
今日の旧約聖書の聖句 詩編119編17節から18節は、それに気付いた者の魂の叫びであり、願いであり、祈りです。その聖句をお読みします。「あなたの僕(しもべ)のためにお計らいください。わたしは命を得て、御言葉を守ります。わたしの目の覆いを払ってください。」
先ほどもお伝えしましたが、聖書の「意味・神さまの恵み、イエス様の救い」は、努力して探さなければならないものではありません。ただ「目の覆いを払ってください」とひたすら願い、祈り、神さまの御前に立ちたいと主を慕う心を抱くことによって与えられます。
また、神さまの御前に立つ時には、私たちは神さまの無限の大きさを思い、自分の矮小さ・小ささを自覚して身をできる限り小さくしたくなります。これが、へりくだりであり、悔い改めです。自分はなんと小さいのだ、虫けらのようだと思ったその時に、神さまが目の覆いを払ってくださり、恵みを賜い、心の目を開かれて、信仰が与えられます。私たちは自分で自分の目の覆いを剥ぎ取ることも、自分の努力で信仰を築いたり、勝ち取ったりすることはできません。
今日の聖書箇所の35節以降には、目が開かれて信仰が与えられた出来事が語られています。エルサレムへと弟子たちと向かうイエス様は、エルサレム近くの町エリコに近づきました。目が見えない人が、「わたしを憐れんでください」とイエス様に必死に呼びかけました。イエス様がどこにおられるのか、目の見えないこの人にはわかりません。ですから、近くに行こうとしても行けず、イエス様のもとに我先にと駆けて行く目の見える他の人たちに置いてけぼりにされました。
今日の聖書箇所39節には、その人の切ない姿がこう記されています。「先に行く人々が𠮟りつけて黙らせようとした」。しかし、この人は黙りませんでした。必死にイエス様を呼び続け、主の憐みを願い続けました。
私たちも、祈ります。願います。目に覆いをかけられて聖書の恵みが読み取れない時、イエス様、共においでください・決して私を見捨てないでください、あなたが成し遂げた十字架の出来事とご復活の大いなる恵みを、御言葉と聖霊によってわかるようにしてくださいとひたすら祈るのです。
イエス様は急いでおられても、何をしておられても立ち止まって、必死に祈る一人一人のそばにおいでくださいます。そして、語りかけてくださいます。
今日の聖書箇所40節から41節は、こう語ります。お読みします。「イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。『何をしてほしいのか。』」「何をしてほしいのか」 ― このイエス様の問いかけに、心を留めましょう。
私たちは、何が欲しくて聖書を開くのでしょう。何が欲しくて、教会に来るのでしょう。家内安全・商売繁盛を願うためでしょうか。自分や家族の幸福と、安定した生活を一番に求めて こうして今、礼拝をささげているのでしょうか。自分や家族の幸福と安定した生活を願い求めても、もちろん、良いと思います。ただ、もし、それが「一番」であったならば、私たちにとって、この後の聖餐式は意味を失います。聖餐式に招かれることもないでしょう。
聖餐式は、私たちのために罪を引き受けてくださり、十字架で死なれたイエス様を思い、救われた恵みを記念し、三日後のご復活が示す永遠の命の約束を思い起こす感謝と喜びのひとときだからです。
「何をしてほしいのか」 ― イエス様にそう尋ねられた時に、私たちは今日の聖書箇所の目の見えない人の言葉をもって答えます。その答えの言葉をお読みします。41節後半です。「主よ、目が見えるようになりたいのです。」
私たちは、目に覆いをかけられています。イエス様の十字架の出来事で救われた恵み、そしてご復活が示す永遠の命の約束を読み取れません。その恵みと命の御言葉を「見えるようになりたい」「わかるようになりたい」と、私たちは願って祈りつつ イエス様の御前に立つのです。「イエス様の十字架の出来事とご復活を魂で知って、深く感動し、心の底から救われた恵みに感謝したい ― だから、御言葉をわかりたい」と、私たちは祈ります。
イエス様は、応えてくださいます。今日の聖書箇所42節の御言葉をもって、私たちそれぞれに宣言してくださいます。42節をお読みします。「見えるようになれ、あなたの信仰があなたを救った。」
私たちの信仰生活は、洗礼を受けて救われた、その洗礼の瞬間から始まります。今日の聖書箇所の目の見えない人は、その瞬間に祈りをかなえられて「たちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従」(ルカによる福音書18:43)いました。さらに、御言葉は続けて語ります。今日の聖書箇所の最後の御言葉をお読みします。「これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。」(ルカによる福音書18:43)まさに「もろびと こぞりて」、御言葉への心の目を開かれた人と共に神さまに感謝と讃美をささげました。
御言葉に感動できる心の目をください ― これは、私たち教会の祈り、主を仰ぐ民すべての祈りです。御言葉の恵みがわかるようになること、その恵みに与る信仰を与えられること、一人の受洗者が与えられること、これは私たちすべての喜びです。
私たち薬円台教会も、心の目を開かれるようにと共に祈り、信仰を与えられ、感謝と讃美をささげてイエス様に従いましょう。今日よりも明日、明日よりも明後日、日々 御言葉の恵みをよりさやかに、さらに鮮やかに見ることのできる信仰を与えられて、イエス様の後を進み行きましょう。
2024年8月25日
説教題:永遠の命を受け継ぐ
聖 書:イザヤ書55章6~7節、ルカによる福音書18章18~30節
イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。
(ルカによる福音書18:27)
イエス様のお話を聞こうと、多くの人々が集まっていました。男性も女性も、幼子もお年寄りも、社会的身分の低い者も高い者も、あらゆる人がそこにいました。イエス様は、その群衆の中から弟子たちに来るなと言われた乳飲み子を敢えて抱き寄せて、こうおっしゃいました。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(ルカによる福音書18:17)
イエス様は、悲しみ・苦しみといったこの世の悪が イエス様がもう一度おいでになる時に終わり、この世は新しい神の国に呑み込まれるように消えて、信じる者は その神の国でイエス様と共に永遠に生きる恵みに与ると語られました。信じる者は、永遠の命に生きる者として神の国を受け継ぎます。群衆の中には、いえ、群衆だけでなく弟子たちの中にも、イエス様の話について行けず、それがどれほど大きな恵みかわからずに、ぼんやりしているだけの者がいたでしょう。イエス様の言葉を、そこにいた者はそれぞれに聞き、それぞれに受けとめ、あるいは受けとめきれずにいました。しかし、イエス様が語られる神の国・永遠の命の希望とその喜びがすぐに心に伝わり、目を輝かせた人もいたのです。
あるひとりの議員がそうでした。
この「議員」という言葉は、当時のユダヤ社会の指導者層を表します。具体的には、神さまの掟である律法を人々に指導する権威を持つ最高法院のひとりをさします。ユダヤ社会で、今もラビと呼ばれて尊敬される信仰の指導者との解釈もあります。
この議員は、今日の聖書箇所イザヤ書55章6節に語られている「主を呼び求めよ、近くにいますうちに」の祈りを心に刻んでおり、真摯に主を呼び求める人だったのです。今、自分の目の前・実に間近に、主への道を拓いてくださる方がおられるとこの人は確信しました。
彼はイエス様に敬意を払って、こう呼びかけました。「善い先生」。そして、こう質問したのです。「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」(ルカによる福音書18:18)
イエス様は、この人を丁寧に導いてくださいました。まず、「善い先生」と呼びかけたことについて、正しく教えてくださいました。19節後半のイエス様の言葉をお読みします。「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」ここで用いられている「善い」という言葉は好ましいもの全般を広くさすと同時に、「他に並ぶものがないほど優れている」という意味も持ちます。イエス様は、まず、神さまがこの世の次元をはるかに超えておられることを あらためてこの人に示されました。
また、この人がどうして「どうすれば」乳飲み子のように永遠の命を受け継ぎ、神の国・御国に生きられるのかを必死に知りたいと願っていることも見通しておいででした。乳飲み子のようにと言われても、どうすればそうなれるのでしょう。乳飲み子は、何もできません。大人になってしまった者が、乳飲み子の無力と弱さをどうしたら取り戻せるのでしょう。特に、律法の権威であるこの議員は律法に忠実に従って、「何かをする」こと・自分の行いを整えることに人生を集中し、人にもそう教えて来た人だったのです。
神さまはユダヤの民に、十戒を通して信仰の姿勢を整えるよう導かれました。十戒の第一の戒めから第四の戒めまでは、神さまとの関わりについてです。第五の戒めから最後の第十の戒めには、隣人との関わりが語られています。隣人との関わりについてのこれら六つの掟は、社会的な行動についての決まり事です。そのうちの第五から第九までの五つの戒めについて、イエス様は質問した議員に問われました。今日の聖書箇所の20節です。お読みします。「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
議員はすかさず答えました。21節の言葉です。お読みします。「そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」すると、イエス様はこうおっしゃいました。22節の御言葉です。「あなたに欠けているものがまだ一つある。」確かに、イエス様が議員に「知っているはずだ」とおっしゃったのは六つのうち五つの戒めで、一つ欠けています。
何でしょう? 第十の戒めです。「…隣人のものを一切欲してはならない。」(出エジプト記20:17)
この議員は、イエス様が「乳飲み子は神の国・永遠の命を受け継ぐことができる」と聴いて、イエス様に抱かれている乳飲み子をうらやましく思いました。乳飲み子が与えられている神の国・永遠の命を、自分も欲しいと思ったから「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」とイエス様に尋ねたのです。隣人のもの・ひとのものを欲しがりました。議員は、隣人である乳飲み子が与えられているイエス様に抱かれる平安と喜びを欲しがって、第十の戒めを犯してしまっていたのです。
イエス様は、続けて議員にこうおっしゃいました。「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(ルカによる福音書18:22b)乳飲み子は、何も持っていません。この乳飲み子と同じように無一文の丸裸になるには、議員はイエス様に勧められたとおりに持ち物をすべて手放すしかありません。持ち物・財産を手放すために、この行いを大切にする議員にふさわしい行動は、財産をただ捨てることではなく、売り払って貧しい人々にそのお金を施すことです。イエス様はそこまで見抜いておられました。
ところが、議員はイエス様に言われたとおりのことができない立場にありました。今日の聖書箇所は、こう語ります。ルカによる福音書18章23節をお読みします。「しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。」
「金持ち」と訳されていますが、ここで用いられている言葉は「豊かであること」という意味を持ち、その豊かさはお金に限りません。この議員はお金だけでなく、人がうらやむ地位も名誉も持っていて、それらは手放すことが難しかったのです。社会的地位が高いこの人は、様々な責任を負っていました。その務めを放棄してイエス様の弟子になり 伝道の旅のお供をしたら、最高法院は混乱し、家族は路頭に迷います。そのため、この議員はイエス様につき従って神の国に入ることができないと、自ら悟って深く悲しみました。
イエス様はその悲しむ姿をご覧になって、こうおっしゃいました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」(ルカによる福音書18:24)これを聞いた群衆は驚きました。ユダヤの社会では、貧しい者に施しのできる者こそが、最も神さまに愛されると考えられていたからです。金銭的・経済的に余裕がある、まさに「財産のある者」は いの一番に神の国に入れるはず、ましてこの人のように最高法院の議員で律法の指導者だったらなおのこと、神の国に近いはずだと人々は思っていたのに、イエス様は「(この)金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(ルカによる福音書18:24b)とおっしゃいました。
人々は、この議員が神の国に入れず、永遠の命をいただけないのなら、いったい誰が永遠の命に生きる救われた者となれるのだろうかと率直に口々に問いました。イエス様は、一言、こうおっしゃいました。27節です。お読みします。「イエスは、『人間にはできないことも、神にはできる』と言われた。」
この時、ペトロがとんちんかんなことを言いました。28節をお読みします。「するとペトロが、『このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました』と言った。」このペトロの言葉の、何がとんちんかんなのでしょう。群衆は何を勘違いし、イエス様の言葉の何が分からなかったのでしょう。議員はどうして神の国に入れないのでしょう。また、私たち人間の限界・罪はどこにあるのでしょう。
皆さんは、議員の人間的限界はもうわかったと思います。議員は乳飲み子をうらやましがり、隣人である乳飲み子に与えられている恵みを欲しがって、十戒の第十の戒めを破ってしまいました。そこから、私たち人間のどんな限界、どんな罪が見えて来るでしょう。
イエス様は、今日のやりとりで『人間にはできないこと』すなわち、人間の限界・人間の罪を二つ示してくださいました。ひとつは、神さまと自分との一対一の絆を、他の人と比べることです。
議員は、自分も本来、神さまの子として御手のうちに守られ安らいでいるはずなのに、それに気付かずに乳飲み子をうらやましがり、その恵みを欲しがりました。ペトロは、お金持ちの議員には持ち物のすべてを捨ててイエス様に従うことはできなかったけれど、自分たち弟子はそれができた、議員に勝ったと的外れな、つまらぬ自慢をして器の小ささを露呈してしまいました。議員もペトロも、自分と神さまとの固有の絆を、隣人がいただいている絆と比べてしまいました。
私たちそれぞれに与えられている神さまとの絆は、強い弱いなどなく、互いに比べ合うことはできません。私たちはそれぞれ、神さまから、他の人にはそそがれていない特別な愛をいただいています。それぞれ、隣人にそそがれているのとは違う神さまの愛、自分だけにそそがれている特別な愛で、神さまとつながっているのです。
議員のように、またペトロのように、私たちはつい、それを忘れてしまいがちです。自分の信仰と他の人の信仰を比べたり、他の人は神さまからたくさんの恵みに与っているのに自分は試練しか与えられないと思ったりします。神さまからの恵みの量を勝手に自分の秤で測ると、心は神さまから離れて行きます。悲しみや焦りが生まれてしまいます。ここに、私たち人間の限界・罪があります。
私たちの限界・罪をもうひとつ、イエス様は示してくださいます。私たちがすぐに忘れてしまう大切なことです。私たちが与えられているすべてのものは、実はすべて神さまのもの ― そのことです。
お金持ちの議員には、おそらく心の中で自分の誇りとしていることがあったでしょう。最高法院に席を置く議員となるために、整った行いを積み、学問を究め、しっかり能力を生かし、努力を重ねたことを誇らしく思っていたのではないでしょうか。しかし、努力も能力も実績も、すべて、神さまが議員にくださったものです。もともと、すべては神さまのものです。議員が人々に尽くして喜ばれていたのなら、それは議員を通して神さまの栄光があらわれているのです。
議員は乳飲み子と同じように、もともと何一つ持っていません。財産を手放そうが、持ったままでいようが、実はどちらも同じです。自分のものなどひとつもなく、この命すら神さまのものだと気付けば 議員は乳飲み子と同じように神さまの御手の中で安んじていられるのです。
今日の聖書箇所の最後の聖句・イエス様の御言葉は、それに気付くようにと私たちを導く道しるべです。お読みします。「イエスは言われた。『はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。』」(ルカによる福音書18:29~30)すべて神さまのもので、自分のものなど何一つないと気付いたら、それは「手放した」も同然、「捨てた」も同然です。そう気付けば、私たちは家や家族から始まるこの世のあらゆる事柄へのこだわりや執着から脱出でき、心を自由にはばたかすことができます。
自分の命にしがみつくことなく、地上の命を超えて神さまと共に永遠に生きる道が拓かれます。ただ、私たちはこの真理に、御言葉を通してしか気づくことができません。また御言葉を聴いただけでは、今日の聖書箇所の群衆・議員・ペトロのように理解できず、聖霊の助けが必要です。
これら二つの「人間には気付けないこと・わからないこと」、「できないこと」を、神さまはおできになります。人となってこの世においでくださった神さま・イエス様が、私たちに代わって十字架の出来事とご復活で、その不可能を可能へと導き、救いを成し遂げてくださいました。
イエス様は、十字架に架けられてなお、死刑に処され、屈辱と苦痛の中で死んでゆくことを神さまからの特別な恵みと知って、神さまを讃えつつ地上の命を終えられました。
また、イエス様は、すべてが神さまのものと知っておられたからこそ、ゲツセマネの園で「すべては御心のままに」と祈られ、天の父にご自分のいっさいをゆだねられたのです。
こうして、イエス様は私たちの不可能の壁・罪の壁をご自分の死をもって突破してくださいました。その十字架の死の彼方に、神さまは三日後のご復活・永遠の命への道を拓いてくださっていました。本来は壁のこちら側で屍となるしかない私たちは、イエス様の後について、イエス様が開けてくださった突破口を通って、永遠の命へと進むことができるようになったのです。
だから、私たちは安心していて良いのです。
何かを頑張ってやり通した時、神さまへの感謝を忘れて、自分をほめてやりたいと思うことがあっても、良いのです。また、人と比べて、神さまからの恵みが自分には少ないと悲しんで、神さまを恨んで泣くことがあっても良いのです。そういう私たちの人間らしさ・人間臭さを、イエス様はわかってくださっています。イエス様は私たちに寄り添ってくださり、時に私たちの涙を拭ってくださいながら、ただ、イエス様が私たちに代わって、それらの罪を引き受けられ、ご自身の命をもって罪を贖ってくださったことを語り伝えて進めば、それで良いとおっしゃってくださるのです。
そのように赦されている喜びを胸に、今日からの新しい一週間も、イエス様の慈しみと優しさに包まれて進み行きましょう。
2024年8月18日
説教題:乳飲み子のごとくに
聖 書:詩編8編1~3節、ルカによる福音書18章15~17節
「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
(ルカによる福音書18:17)
イエス様が弟子たちと町から町、村から村へと進まれると 必ずと言ってよいほど 人々が集まって来ました。病や不自由な体に苦しむ人をイエス様が癒してくださるとの評判、また何よりも神さまのすばらしさを伝える説教の評判が高かったからばかりではありません。
人は、イエス様がそこにおられるだけで強く惹きつけられました。「イエス様の香り」という言葉があります。私たちキリスト者は、その「イエス様の香り」をまとわせていただくことをひとつの憧れとしています。香りは目に見えませんが、花びらが風に揺れると匂い立つように、イエス様の仕草や表情、ちょっとした動きが人々を引き付けたのです。
イエス様と弟子たちがおられるところには、何かたいへん良いものがある ― 安らかでありながら、何にも優る力を与えられる何かがあると人々は直感して、仕事の手を休め、あるいは家の中から出て集まりました。「イエス様の香り」に触れたいと思ったのです。
イエス様が神さまの御子であるとはわからなくても、この方のお話に耳を傾け、「あなたの心が安らかであるように」 ― これはヒブル語のあいさつの言葉「シャローム」です ― と言っていただけたら、ましてその時にイエス様に軽く指を触れ合わせるようにでも触れていただけたら、心が満たされる・祝福されると感じたに違いありません。
今日の聖書箇所には、そのようにして集まった人々が「乳飲み子までも連れて来た」(ルカ福音書18:15)とあります。「触れていただくために」と記されていますが、この「触れていただく」は頭に手を置いて祝福されることをさします。これは、私たちの礼拝にも引き継がれています。幼児祝福式でご覧になったことのある方、またはご自身がお子さんの時に こうして祝福された方がおいでだと思います。
教会の幼児祝福式の時のように、今日の御言葉では、人々が家族でイエス様のまわりに集まりました。後に教会が神の家族と呼ばれるようになることを思うと、今日の聖書箇所に描かれている光景に、 私の心は熱くなります。
子どもたちの中には、もう自分から「イエス様に会いたい!」と言い出せる年齢の子、よちよち歩きで父母に手を引かれてくる子、そして抱っこされなければ自分では動けない「乳飲み子」がいました。ほほえましい光景が広がっていたことでしょう。ところが、イエス様の弟子たちは「乳飲み子を連れて来た」人々を叱りました。
なぜ、弟子たちはこんなことをしたのでしょう。大人だけでも大勢いて、イエス様に触れられ 癒されたいと願う人、祝福を受けたい人、イエス様のお話に耳を傾けたい人でイエス様と弟子たちのまわりには群衆と呼んでよいほどの人だかりができていたからと思われます。大人を中心に考えて、子どもたちを軽んじたのでしょう。
また、子どもたちにイエス様のお話が理解できないとも、思ったのでしょう。わからない話を聞いていると、子どもは飽きてぐずり出し、じっとしていられなくてうろうろし出し、そのうち走り始め、イエス様そっちのけとなって遊び出して声を出してはしゃぎ、そのうちけんかをして大声で泣き出して、イエス様のお話を群衆が静かに聴くどころではなくなる…そのような思いが弟子たちにあったのは容易に想像できます。
確かなことは、彼らが「大人以外は来てはいけない」と当然のように家族連れを叱った背景には、当時、子どもを大切にする文化がなかったことが考えられます。
これは繰り返し申し上げていることですが、大人になっていない子どもは未熟で半人前、一人前になるまでは認めないとの考えから子どもを大切にする文化へと全世界が変化したのは、人類の歴史上、きわめて最近のことです。
「子どもの権利条約」が国連総会で採択され、実際に効力を持つようになったのが1990年のことですから、まだ33年しか経っていません。子どもも一人の人間としての権利と尊厳を持ち、誰の所有物でもなく、差別されず、平等に生命の安全と教育の機会を与えられる存在だと公に認められてからまだ33年しか経っていないのです。
弟子たちは、当然のように子どもたちを大人から分け隔てして、連れて来た親たちを叱りました。叱られた親たちは気を悪くして、その場にとげとげしい空気が流れたかもしれません。
しかし、イエス様は優しい「イエス様の香り」を放ったままでおられました。16節はこう語ります。お読みします。「しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せ」た。まだ言葉もわからなければ、イエス様がどなたかさえわからない乳飲み子・赤ちゃんに、イエス様は直接 優しく語りかけて 呼び寄せたのです。
イエス様は、人間には「取るに足りない」と思われる者も、どんな人も、分け隔てなさいません。誰にでも、罪びとにも、世間的には評判の良い人望の厚い人にも、この世的には尊敬されている仕事のできる人にも、この世的には能力がなくて自分でも自分はダメだと思ってしまっている人にも、優しく声をかけ、私のところへ来なさい、休んでいきなさいと声をかけてくださるのです。
それから、イエス様はこうおっしゃいました。今日の17節です。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(ルカ福音書18:17)
「神の国」は、私たちが礼拝で講解説教を通してルカによる福音書、特に数週間前の17章に入ってから、イエス様が集中して語られている恵みの言葉です。この世の悪にイエス様が打ち勝ってくださり、私たちが神さまの完全な守りの中でイエス様と共に生き続ける永遠の命・「神の国」を、私たちは今、待ち望んでいるのです。その「神の国」にいれられるにふさわしい者として、イエス様は当時の誰もが歯牙にもかけない「乳飲み子」をお手本とするようにと、驚くようなことをおっしゃいました。
どうしてでしょう。
前回の聖書箇所で、イエス様が私たちに語ってくださったたいせつな言葉を思い起こしたいと思います。その言葉は「へりくだり」でした。「へりくだり」とは、信仰の姿勢を表す言葉です。神さまの御前で、自分は取るに足らない者だと身を縮め、だからこそ神さまから力をいただけると 自分ではなく神さまにだけ期待をかけ、希望を託す信仰を、イエス様は私たちにお示しくださいました。
乳飲み子はまさに、自覚しなくても ― 自覚することすらできません ― その身は小さく頼りなく弱く、まだこの世で生きたという実績・痕跡を殆ど残していない「取るに足りぬ」者です。しかし、その弱さ小ささゆえにこそ、神さまの御手のうちに自らのすべてをゆだねることができると イエス様は示されるのです。
今日の交読詩編の御言葉を、今日、併せて心に留めましょう。祈りをささげる祈り人・詩人は、こう祈ります。「わたしの魂を、幼子のように 母の胸にいる幼子のようにします。」(詩編131:2)神さまの御前で自分は赤ちゃんのように無力で頼りなく、それゆえに全面的に神さまに守り通される信仰者でありたいと願うのです。神さまの御手のうち、その胸に抱かれ、その御翼の陰 ―そこにこそ、私たちの誠の安らぎがあるからです。そここそ、私たちの真実の居場所なのです。
イエス様はその恵みをお示しくださるために、ご自身が この世に「乳飲み子」となってお生まれくださいました。私たちは、その出来事をクリスマスとして祝います。不可能なことは何一つない全能の方が、その全能を用いて、神さまでありながら 取るに足らぬ、自分では何もできない乳飲み子になられました。
イエス様が神の国・御国からこの世に来られたその最初から、ご自身の御身をもって真実のへりくだりを表して乳飲み子となってくださったのです。また、イエス様は この世の歩みの最後には、誰からも嫌悪され軽蔑され「人でなし」と言われる死刑囚にへりくだられ、十字架に架かられました。
私たちは、自分の弱さを知らされて、前に進む気力を失うことがあります。人に見くびられ軽んじられて、悔しく、情けない思いをすることがあります。しかし、私たちが自分の弱さを嘆く時こそ、神さまに甘えきって良い時なのだと イエス様は今日の御言葉を通して 私たちにお示しくださいます。私たちに、イエス様はこうおっしゃってくださいます ― ひとりでがんばらなくてよい、私があなたを抱いて、背負って あらゆる困難を一緒に乗り越える。その励ましを心に受けて、共においでくださる主に従って、今日から始まる新しい一週間を心明るく、足取り軽く進み行きましょう。
2024年8月11日
説教題:小さき者への主の愛と義
聖 書:詩編51編18~19節、ルカによる福音書18章9~14節
「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる。」
(ルカによる福音書18:14)
今日は、前回の聖書箇所の最後の聖句を思い起こすことから始めましょう。
イエス様は、こうおっしゃいました。ルカによる福音書18章8節、今日の聖書箇所の直前の聖句をお読みします。「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」イエス様は、終わりの日のことを語っておられます。その日は「人の子」、イエス様が再びおいで下さる日です。イエス様はご自分が来られる時に、神の国とその義 ― 神さまのご支配により、誠の正義が貫かれる神さまの国 ― を待ち望んでいる信仰者がいるだろうか、と問いかけました。
その場には、おそらく、弟子たちだけではなく、イエス様と弟子たちを囲むように群衆が集まっていたと思われます。群衆の中には、イエス様の言葉尻を捕らえて足を引っ張り、失敗させ、人々に慕われているイエス様を失墜させようと目論んでいるいわゆる律法の専門家 ― 律法学者やファリサイ派の人々もいました。彼らは、自分は神さまがユダヤの民にくださった掟・律法を詳しく正しく知っていると思い込んでいます。自分たちは神さまについての知識を持っていて、他の一般の者たちは何も知らないから、自分たちの言うことをきけばよいのだと、他の人々を見下していました。
イエス様はそのような律法の専門家たちをご覧になって、自分で自分を正しいと判断することが、神さまの御前ではどれほど危険なことか、つまり、どれほど不信仰なことかを、教えてくださるために今日のたとえ話を語られました。今日の冒頭の聖句・ルカによる福音書18章9節に、こう記されているとおりです。お読みします。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」
イエス様は、神さまを自分の「主」と仰ぐ信仰の本当の意味を教えてくださろうとなさったのです。神さまを主とするとは、神さまが自分の御主人様で、自分は忠実に、どんな時もご主人様に付き従う召し使いだという事実が完全に身に付いているということです。忠実な召使いは、御主人様に命令されたら、その命令がたとえ納得のいかないもの・よく意味がわからない理不尽なものであっても 異議を唱えず、どうしてかとも聞かずに、それを成し遂げます。その命令に対して、召使いは自分では決して判断をくださず、ただただ従うだけなのです。また、ご主人様は召使いをどうにでも好きにできます。落ち度があったら、ゆるさずに追放してしまうことも、捨て置いてしまうこともご主人様の自由です。この時にも、召使いは反論したり、抗議したりせず、せめてものこととして「ゆるしてください」と頼むことができるだけです。
イエス様は、この主に従い通す姿勢を「へりくだり」と呼んでおられます。今日の聖書箇所の最後の聖句18章14節後半にある言葉です。その箇所をお読みします。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」その前にたとえ話を語られ、高ぶる者はこういう祈りをする人、へりくだる者は神さまの御前でこのような姿勢を示す人、とお示しくださいました。
では、イエス様が語られたたとえ話をご一緒に聴きましょう。イエス様は、こう語られました。10節をお読みします。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。」
ファリサイ派の人は心の中でこう祈りました。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」心の中で祈ったとは、本心から祈ったということです。皆さんはこの箇所を聞いて、どのような印象を持たれたでしょう。なんだか嫌な感じだと思われたのではないでしょうか。どうして嫌な感じを持つのか、ご一緒に聖書の御言葉を思い起こしながら考えてみましょう。
まず皆さんが気付くのは、ファリサイ人のこのお祈りが「自分と他の人は違う、自分は特別に立派だ」と言っていることでしょう。今、私たちが読み進めているルカによる福音書13章で、イエス様はこうおっしゃっています。「そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」(ルカ福音書13:30)神の国では、後とか先とか、身分の上下など分け隔てがなく、誰もが神さまの御前では同じだとおっしゃっています。神さまは、分け隔てをなさらない方だということです。ガラテヤの信徒への手紙3章28節には、こう記されています。お読みします。「…ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」
今日のたとえ話の中のファリサイ人は、どうでしょう。自分で勝手に社会の人々に序列をつけ、自分は立派で他の人はダメだと判断をしています。人について判断するとは、裁いていると申しても良いでしょう。さらにこの人は、自分が律法に忠実で、律法どおりに週一回の断食をして十分の一献金をしていると自分の行いを言いました。まるで、神さまに自慢をしているように聞こえます。自分はこんな行いをしているのだから、自分はこのユダヤ社会では立派な人間なのだと、自分の判断を神さまに教えているようにも聞こえます。繰り返しますが、神さまを主と信じるとは、自分では判断しないということです。そうすると、自分勝手な判断を連ねているファリサイ派の人の言葉は本当にお祈りなのかと、疑問すら湧いてきます。
さて、徴税人はどのような祈りをささげたのでしょう。徴税人とは、当時のユダヤ社会で税金を取り立てる時に不正に手数料を上乗せし、私腹を肥やしていた人たちで 悪人の代名詞のように言われて人々から忌み嫌われ、律法学者やファリサイ派から軽蔑されていました。
徴税人は、神さまから遠くに立ち、俯いて胸を打ちました。ユダヤでは祈る時に顔を上げ、天を仰ぐそうです。また、胸を打つとは、悲しみや嘆きを表す所作だそうです。顔を俯ける・顔を伏せるとは、心にやましいことのある者、文字どおりに「神さまに顔向けできない」者の仕草です。そのとおりで、この徴税人は自分が罪人で、神さまにまともに顔向けなどとうていできない者だと恥じ入っていたのです。そして、彼はこう言いました。「神様、罪人(つみびと)のわたしを憐れんでください。」(ルカ福音書18:13)
ファリサイ派の人が「自分は立派だ」と自己判断を下したのなら、この徴税人は「自分は罪人」と自己判断して自分を裁いていると思われるかもしれません。しかし、自らを罪人とするのは、主観による自己判断ではありません。徴税人が言っているのは、事実そのものです。私たちは皆、神さまの御前では罪人だからです。神さまの御言葉である聖書は、一貫してその事実を告げています。たとえば預言者エレミヤは「だれひとり悪から離れられない」と語り、(エレミヤ書23:14、使徒パウロは「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマの信徒への手紙3:10)と告げています。
徴税人はこの事実に続けて「憐れんでください」と言いました。「憐れんでください」という言葉は、聖書のもとの単語では「ゆるしてください」との意味も持ちます。私たちが今使っている新共同訳聖書の前に礼拝で用いられていた口語訳聖書では「おゆるしください」と訳されています。徴税人は、「神さま、罪人のわたしを憐れんで、おゆるしください」と胸を打ちながら言ったのです。
徴税人は、神さまの御前で人間がどのような者であるかを、神さまから人間に示された事実としてはっきりと知っています。また、それゆえに人間が神さまに何をお願いしなければならないかも、知っています。だから、イエス様はこの人が神さまに「義とされ」(ルカ福音書18:14)て「家に帰った」と語られました。
神さまに義とされるとは、神さまから「あなたはまさしくわたしのものだ、わたしの僕(しもべ)だ、わたしの子だ」と言われることです。神さまの慈しみのうちに置かれ、神さまから「わたしはあなたを愛する」と恵みをいただくことです。徴税人が恥入りながら嘆きとともにささげた祈りに、神さまは深い慈しみをもって応えてくださり、恵みを賜ったのです。
徴税人の祈りは、説教のはじめの方でお話しした神さまがご主人様、信じる者たちが付き従う召し使いという神さまと人間の関わりから考えると「わたしのご主人様である神さま、あなたの召し使いになれない罪人のわたしを、ゆるして召し使い(しもべ)としてください」という祈りだと言えます。これは、私たち人間の究極の祈りです。信じる物 皆の祈りであり、願いです。
神さまを「ご主人様」とするのは、なんだかいやだな、まるで神さまが専制君主の暴君のようだと思う方もおいでかもしれません。ここにひとつ、私たちが確かに心に留めておかなければならないことがあります。それは、神さまがどのような方か、イエス様はどなたかということです。私たちの究極の祈り願いである「罪人の私をゆるしてください」「我らの罪をゆるしたまえ」をかなえてくださるために、私たちのご主人様、私たちの主イエス様は、ご自分の命を十字架で捨ててくださいました。イエス様は、私たちに代わって私たちの罪を贖ってくださいました。私たちを赦して滅ぼさず、滅ぼさないばかりか、ご復活によって永遠の命の約束を与えてくださったのです。
人間が「ご主人様」になると、とたんに横柄・傲慢・高慢になって高ぶるのでしょうけれど、神さまは「ご主人様」として私たちを守り、慈しみ、ご自分の命を捨てるほどに私たちを大切にしてくださいます。主なる神さまは、私たちにそうして仕えてくださるほど、御主人様・「主」でありながら、ヨハネによる福音書13章によれば、私たちの足元に身を低くして、足を洗ってくださるほどへりくだって私たちを愛してくださいます。そのイエス様の御身を低められた姿勢によって、主に従い主に倣う私たちも主の御前に、また同じように主に愛されて主のものとされている兄弟姉妹、主が造られた隣人を大切にするようにと招かれているのです。
私たちに代わって十字架に架かってくださったイエス様を思う時、私たちはひざまずきたいような思いを抱かずにはいられません。「罪をゆるしたまえ」との祈りの言葉が、唇からあふれずにはいられません。その祈りを胸に、今日から始まるこの新しい一週間も主に従い、へりくだりのイエス様に倣って、確かな歩みを進めましょう。
2024年8月4日
説教題:気を落とさず絶えず祈る
聖 書:詩編22編23~32節、ルカによる福音書18章1~8節
「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
(ルカによる福音書18:7-8)
今日は八月第一主日、日本基督教団が定めた平和聖日です。第二次世界大戦中に日本基督教団が置かれた立場と判断を振り返り、平和の君イエス様に導かれて、私たちがこの世にあって私たち人間に可能な限り平和を築けるようにとの志を新たにする日です。
それを思いますと、今日の聖書箇所でイエス様が語られる第一声は、私たちへの力強い励ましとして響いてまいります。今日の聖書箇所・ルカによる福音書18章1節でイエス様は、こうおっしゃいました。「気を落とさずに絶えず祈らなければならない。」
今は世界各地で武力闘争が長引いていますが、私たちは、気を落とさず、諦めず、こう絶えず祈るように導かれています。平和を実現する者とさせてください、そのために平和の君であるイエス様の福音を伝える者に育ててください、今、悲しいことに世界で複数の闘争・戦争が続いていますが どうか私たちが諦めずに真剣に祈り続けられるよう力を与えてください。
ただ、私たちは、ルカによる福音書を始めから終わりまで続けて毎日曜日ごとに読む講解説教から恵みをいただいているので、イエス様のこの御言葉を、まずは聖書の文脈から思いめぐらさなければなりません。
「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」とのイエス様の御言葉は、先週の礼拝でいただいた御言葉と深く関わっています。前回の礼拝の聖書箇所でイエス様は、世の終わりにどんなことが起こるかについて、旧約聖書の悲惨な出来事を例に挙げて語られました。
イエス様は、世の終わりの大惨事のさなかに、私たちのところに再びおいでくださいます。それは、起こるであろうその惨事のさなかに、私たちが救われている恵みを示し、私たちに代わってこの世の最強の悪とイエス様が戦ってくださるためです。
その大きな恵みは、その時 イエス様の周りでお話に聞き入っていた弟子たちには、残念ながらすぐにはわからなかったかもしれません。弟子たちは起こるであろう大惨事に怯え、暗い顔になったのではないでしょうか。
イエス様は、その弟子たちを励ますように、世の終わりに備えて「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と教えられ、「絶えず祈る」ことについて ひとつのたとえ話を弟子たちに話してくださいました。
沈み込んだ弟子たちを元気づけるためか。世の終わりの悲惨な出来事と打って変わって、イエス様が語られたのはユーモラスなたとえ話でした。
ある町に神を畏れず、自分が誰よりも偉いと思い、人を人とも思わず誰にでもたいへん尊大にふるまう裁判官がいました。町で最も権力を持つ指導者のひとりである裁判官が、絵にかいたような専制君主だったのです。みんなこの裁判官を怖がって、そばに来る人などいないと思いきや、一人のやもめがひっきりなしにやってきました。やもめは、夫を亡くした未亡人です。女性ができる仕事がほとんどない当時の社会で、やもめは最も惨めな存在でした。
このやもめが誰かから被害を受けました。彼女は、裁判官のところへ来て、自分を守り、相手を裁いて 相応の償いをさせてくれと何度も何度も頼みました。
あまり適切なたとえではないかもしれませんが、百獣の王ライオンのような裁判官のまわりを、やせて貧相なやもめの顔をしたハエがぶんぶん飛び回る光景が目にうかびます。裁判官であるライオンはハエを無視し、たてがみを振って払いのけ、尻尾で叩き、ついには轟くような唸り声で威嚇しても、やもめのハエはその都度 さっと飛び去って、平気で戻って来てつきまとい、同じ頼みごとをしつこく繰り返したのでしょう。尊大な裁判官はついに根負けして、5節でこう言いました。お読みします。「…あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやってきて、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。」
イエス様はこのたとえ話の後に、神さまは、当然、この裁判官よりもずっとお心が広く優しく、「選ばれた人たち」、つまり「神さまを信じて従う私たち」の裁きの願いを必ず聞き届けてくださると力強くおっしゃってくださいます。
この世の終わりの日、御国が来る日、イエス様が再びおいでくださる日は裁きの日です。「裁き」と聞くと恐ろしく思えますが、私たち信仰者には、その時にイエス様が私たち一人一人の傍らに寄り添い、執り成し、弁護してくださいます。その裁きを経て、私たちは約束された永遠の命を主と共に歩むようになるのです。それを願う私たち教会の祈りを、天の父・神さまが聞かずにほうっておくわけがない、とイエス様は弟子たちにおっしゃってくださいました。
その御言葉を通して、私たちも世の終わりとイエス様の再臨を、昼も夜も絶えず祈り求め続けなさいと、今日の御言葉で勧められ、励まされています。イエス様は、今日の最後の聖句でこうおっしゃいました。ルカによる福音書18章8節の御言葉です。お読みします。「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」。あなたがたが思っているよりも、世の終わりとイエス様の再臨は速やかにくるかもしれない、とイエス様はおっしゃるのです。
私たちの日々の祈り・主の祈りで、「御国を来たらせたまえ」と祈ります。この主の祈りの言葉をもって、私たちは世の終わりとイエス様の再臨を毎日のように祈り願っています。しかし、それははるか先、ずっと後のことだから、自分に関係ないような気に、つい、なってしまっているのではないでしょうか。正直申しまして、私自身が気をつけないと、ついそのような気持ちになっております。そうではなくて、いつその日がやって来てもよいように、真剣に自分のこととしてリアルにうけとめて祈りなさい、とイエス様は私たちを諭してくださるのです。
また、イエス様は、こうもおっしゃいました。ルカ福音書18章8節後半の御言葉をお読みします。「しかし、人の子が来るとき(イエス様の再臨のとき)、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」イエス様のこの厳しい問いに真摯にお応えするために、私たちは何があっても、今 この世界にまだ複数の戦争が続いていても、自然災害で失われる命があっても、信仰を保ち続け、信仰を継承し、気を落とさずに絶えず祈らなければなりません。「御国を来たらせたまえ」そして、「主イエスよ、来てください」と、真実の希望を抱いて、教会がひとつとなって祈らなければならないのです。今、私がお読みした「主イエスよ、来てください」は、新約聖書の最後、ヨハネの黙示録22:20に記されている願いの言葉です。私たち教会は、この祈り願いを引き継いで、今に生きているのです。今の時代に祈り、信仰を継承して次の世代にも、同じ信仰と祈りを伝えて祈り続けます。
「御国を来たらせたまえ、主イエスよ、来てください」との祈りは、私たちの現実・平和を求める今の現実に密着した切実な祈りであることを、聖書の他の箇所からお伝えします。
私たちが比較的よく親しんでいる次の聖書の御言葉があります。「…『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。…あなたがたの父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイによる福音書6:31~33)
私たちの天の父・神さまは、食べ物・飲み物、着る物といった私たちの生命維持に必要な具体的な物をよくご存じで、私たちがそれらを願うことは百も承知でおられる、だからわざわざ祈るまでもないと、イエス様は教えてくださいます。
私たちに真の命 ― 主と共に生きる永遠の命 ― を賜る神さまが、この世の命・生命体の維持に必要なものを御心とご計画によって私たちに与えてくださるのは当たり前です。当時の社会状況ですから、「何を食べようか」という問いは「明日は何を食べることができるのだろうか、そもそも食べるものがあるだろうか」という切実な問いだったと考えられます。しかし、天の父・神さまは、御心ならば、私たちの生命体としての必要を当然のように満たしてくださいます。だから、むやみに心配して心を乱し、不安で不幸な時間を過ごすのは避けるようにとイエス様は諭してくださるのです。
イエス様が、私たちに祈り求めるようにと教えてくださるのは、「神の国とその義」です。なぜ教えてくださるのかと言えば、私たち人間が自分では思いつくことができない願いであり、祈りだからです。
また、イエス様はご復活後、天の父の右の座に戻られる時に 弟子たちにこう命じられました。「大宣教命令」と言われるこの御言葉です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るようにと教えなさい。」(マタイによる福音書28:18b~20a)この時に言われた「命じておいたこと」の中心に「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」との祈りがあります。
繰り返しますが、神の国とは、この世の終わりが来て、イエス様がおいでくださり、神さまがすべてを守り治めてくださる神の国となることをさします。
この世の政(まつりごと)は、民主主義の今の世では私たち人間が行っています。多くの人々の意見を代表して選出され、選ばれる人が指導的立場に立ちますが、人間は人間である限り、どうしても過ちを犯します。人間には、真実の正義が何かが、わからないからです。
繰り返しますが、私たちが暮らすこの世界では、今も複数の戦争・紛争が続いています。それぞれが自分の正義を掲げているから、正義同士が衝突して、神さまが造られた尊い命が失われています。
神さまが守り治めてくださる神の国なら、完全に正しいただひとつの神さまの正義が行われ、そこでは争いはけっして起きないでしょう。神の国では、完全な平和が実現しています。イエス様は、その神の国と神の義を求めなさい、と究極の真理を祈り願うようにと私たちに教えてくださいました。
今日の旧約聖書の詩編の言葉も、すべての民が神さまの前にひれ伏し、神さまを「主」とするようにと祈っています。その御言葉を、今一度お読みします。「地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます。」(詩編22:28-29)
旧約聖書の時代から、この祈りはすでに神さまから与えられていた祈りだったのです。また、実にたいせつなことは、この祈りの言葉はイエス様が十字架の上で私たちに代わってささげてくださった祈りだということです。
え?と思われるかもしれません。しかし、思い出してみましょう。今日の旧約聖書 詩編22編の最後の聖句は、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」と始まる詩編22編の最後の言葉です。イエス様は、この詩編22編の冒頭の聖句を十字架の上で叫ばれました。
マタイによる福音書にこう記されています。「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マタイによる福音書27:46)
詩編22編は、失意のどん底にある者が神さまを呼んで嘆くうちに、主に祈って助けられ、これまで神さまからいただいた多くの恵みを思い起こし、ついには最後の聖句で神の国 ― 「すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように」― を願い求めるまでの信仰の喜びの過程を映し出しています。イエス様は、十字架の苦しみの中におられながらも そのようにして私たちの弱さに寄り添い、弱さと罪を代わりに担ってくださいました。
重ねて、お伝えします。イエス様が祈られた神の国は、完全な平和の国です。今、私たちが過ごしている八月は、日本という国にとって特別な意味を持つ時です。日本は世界大戦のさなかの八月に、世界で最初に核爆弾の標的とされ、大きな犠牲が払われて終戦を迎えました。これは決して、決して、繰り返されてはならないことです。そのことをも深く心にとめて、平和聖日の今日、神さまの国と神さまの義 ― 平和 ― を、心を合わせ、決して諦めずに祈り続ける志を新たにさせていただきましょう。
2024年7月28 日
説教題:主が再び来られる日
聖 書:創世記19章15~21節、ルカによる福音書17章26~37節
「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」
(ルカによる福音書17:33)
今日の聖書箇所が、聖書本文の段落の途中で区切りの悪いところから始まっていることに 皆さんはお気付きでしょう。日本語の新共同訳聖書、私たちが今こうして使っている聖書では、私たちが前回の礼拝で読んだ25節から今日の聖書箇所の終わりの37節までがひとつの段落とされています。このひとつの段落で、イエス様はたいへん豊かに、多くの事柄を語られました。そこで、前回の礼拝では前半部分、今日は後半部分をご一緒に聴くようにと導かれました。
前回の御言葉を通してイエス様は、御国が来て、イエス様が再びこの世においでくださる「イエス様の再臨」でこの世が終わることを弟子たちに、また私たちに教えてくださいました。
今日の聖書箇所の最初の聖句、26節でイエス様は「この世の終わり」そして「ご自身が再び世に来る時」に何が起こるかを語られます。続けてイエス様は、私たち人間には想像もつかない想定外の神さまの御業を、私たち人間にわかるように、歴史上の経験から話されました。
まず語られているのが ノアの箱舟の大洪水の出来事です。創世記6章から、出来事としては8章にかけて記されています。創世記6章5節から7節にかけて、こう記されています。お読みします。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。』」この世にはびこる人間の悪があまりに量を増したので、神さまは人間を造られたことを後悔され、元の清い世界に戻そうとされました。こうして、大洪水がこの世を襲い、ノアの箱舟に乗っていたもの以外はすべて 滅ぼされてしまいました。
イエス様は、さらに時代が下り、信仰の父と呼ばれるアブラハムとその甥ロトが体験した出来事を語られました。今日の旧約聖書の聖書箇所には、この出来事の一部が記されています。ソドムとゴモラの町に人間の悪がはびこったので、神さまは「硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼし」(創世記19:24)ました。この時、神さまは天使をアブラハムの甥ロトの家に遣わされ、「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。」(創世記19:17)とおっしゃってロトとその妻、娘たちを滅びから救おうとされました。
「後ろを振り返ってはいけない」とは、とうてい乗り越えられないような出来事が起きた時に、自分がこれまで築いてきた財産や技能にたよらず、それらを惜しんでしがみつかず、すべてを捨ててひたすら神さまだけに頼るようにとの 神さまの路と家族への愛に根ざしたメッセージでした。ところが、ロトの妻は神さまを仰いで前に進むことができませんでした。自分が築いたものに心を惹かれて、つい振り返り、塩の柱に変えられてしまいました。
今日の聖書箇所で、イエス様はこのようなことが「人の子が現れる日」、つまりイエス様が再び世に来られるこの世の終わりの日に起こるとおっしゃいました。
父なる神さまがロトの家族に「後ろを振り返ってはいけない」と言われたように、今日の聖書箇所でイエス様はこう語られます。31節から32節です。お読みします。「その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻の事を思い出しなさい。」
この世の終わりの日に起こるのは、人間の力ではどうすることもできない大災害です。イエス様は、ここで大切な二つのことを私たちに伝えてくださっています。
ひとつは、この大災害が旧約聖書に記録されている大洪水や硫黄の火が人の世の悪がはびこってしまったことが招いた結果であるのと同じく、世の終わりに聖書に預言されている大惨事は、世の悪が招いた結果だということです。
世界中の人々の悪が、川底のヘドロのように積み重なっているのが、この世です。この世の土台・人間の実存、そして信仰の礎としての福音の恵みをさえ、その悪がその重さと暗さでぐらつかせようとしているのです。聖書はその罪の積み重ね・悪を悪魔「サタン」と呼びます。人間の悪が集められて積み重なると、人間の手に負えない化け物のような力を持つようになるのです。私たち人間の手に負えないのだったら、私たちは もう、神さまに頼り、神さまに全てをゆだねてすがるしかありません。
イエス様がここで伝えてくださる大切なことの二つ目とは、この世の終わりに世の悪が噴出して大惨事となる時、私たち人間は神さまが示してくださる黄金律・聖書のゴールデンルールを決して守ることができないということです。
黄金律とは、何でしょう。そうです、神さまを愛し、また自分を愛するように隣人を愛する主への愛と隣人愛の教えです。
今日の聖書箇所の34節から35節にかけて、イエス様はこうおっしゃいます。お読みします。「言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」
仲の良い二人・一緒に生きてゆきたいと思う二人のうち一人が命を奪われ、一人が残されるという人間にとっての実に悲劇的な状況をイエス様は敢えて、私たちに伝えておられるのです。
生き残った一人は、友が命を奪われ、自分が生き残ってしまったことを負い目と感じて、生き残った自分を「どうしてあの時、助けてあげられなかったのか」と責め続けながら生きることになります。助けることなど、とうていできない実に厳しい状況だったにもかかわらず、私たち人間は自分を許すことができないのです。生き残った人の残りの人生は、生きていながらうつろで死んでいるようなものになってしまいます。ここには、救いはありません。そのような大惨事が、世の終わりの日に起こるとイエス様はおっしゃられます。そして、まさにこの日に、イエス様は再び私たちのために世においでくださいます。
何のためにおいでくださるのか、もう皆さんはおわかりでしょう。
先ほどお伝えした二つのことを、イエス様が解決して、私たちを助け、救ってくださるためです。
二つの事柄のうちのひとつは、人間の罪の積み重ねが大惨事として人間の手には負えない事態を招いたことでした。人間にはどうすることもできないことを、全能の神さまは成し遂げてくださいます。悪の力・人間を滅びへと引きずり込む闇の力に打ち勝つことができるのは、全能の神さまであるイエス様です。イエス様は、この世においでくださり、悪の力とのこの戦いを私たち人間に代わって引き受けてくださいます。
もうひとつは、神さまへの愛・隣人への愛を貫くことができない私たちが、すでに赦されていることをあらためて示してくださるためです。私たちは、イエス様の十字架の出来事とご復活を信じて受け入れることで、すでに赦され救われているのです。この世の終わりは、イエス様が人間の罪・悪の力を徹底的に消し去り、破壊するためです。この世の終わりは、イエス様が十字架の出来事とご復活の福音を信じる者に、救いが確かに与えられていることをはっきりと示される、まさにその時なのです。そのすべてが、神さまのご計画のうちにあります。
今日の聖書箇所33節のイエス様の御言葉を、私たちそれぞれに直接語られていることとして今一度 ご一緒に思い巡らしましょう。お読みします。「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」
自分の力に頼り、自分が築いてきたものにすがって生きようとする者はロトの妻のように、未来を失います。
自分の力を捨てて、主のご計画にすべてをゆだね、お任せする信仰をいただく時に、私たちは死を超え、この世の終わりを超えてイエス様と共に生きる永遠の命に与るのです。
今日から始まる新しい一週間を、それぞれ、主にゆだねて私たちが歩めるよう 祈りを深めて進みましょう。
2024年7月21 日
説教題:主の家にとどまる
聖 書:詩編14編1~3節、ルカによる福音書17章20~25節
「…人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」
(ルカによる福音書17:25)
今日の聖書箇所が語る聖句をご一緒に読み進める前に、皆さんに思い起こしていただきたい言葉があります。それは、「主の祈り」の言葉です。その中の一節が、今日の聖書箇所でイエス様が語られた恵みと深く関係しています。
「主の祈り」で、私たちはまず神さまに呼びかけます。「天にまします我らの父よ」、と。次に、最初の祈りをささげます。「ねがわくは御名をあがめさせたまえ。」全地で神さまのお名前が讃美されますように、と祈る者は祈りながら、同時にここで神さまをたたえ、賛美します。
今日の聖書箇所と関連して、思い起こしていただきたいのは、その次の祈りです。私たちは、何と祈るでしょう。「御国を来たらせたまえ。」御国・神さまの国が来ますように ― 私たちは、そう祈るのです。
イエス様は、祈りを教えてくださいと願った弟子たちに、この「主の祈り」を教えてくださいました。「主の祈り」は、何を祈ればよいのか、信仰生活でどのような希望を持ち、どのような姿勢を保てばよいのかをイエス様が弟子たちに、また私たちに教えてくださっている大切な信仰のエッセンスです。
「御国を来たらせたまえ。」 神さまの国が来ますように、と祈るのは 私たち教会に生きる者の祈りの原点です。ただ、私たちはその祈りの意味を普段はあまり考えず、特に「主の祈り」は暗唱して体で覚えているために、何となく声に出してしまっています。今日の聖書箇所を幸いなきっかけとして、「御国を来たらせたまえ」について思いめぐらすようにと 私たちは導かれています。
今日の最初の聖句、ルカによる福音書17章20節でイエス様はファリサイ派の人々に、こう尋ねられました。「神の国はいつ来るのか。」イエス様の時代のユダヤの人々は、旧約聖書を聖書としていました。その旧約聖書のところどころ(サムエル記12章や歴代誌上17章など)に、諸国に君臨する王がダビデ王の子孫から立てられ、その王を通しての神さまによる統治が永遠に続くことが預言されています。すべての国々をひとつに治める偉大な王国がユダヤに建てられ、それが神さまの国となると預言されていたのです。
ところが実際の歴史の中では、ユダヤの国は何世代にもわたって、何百年もの間、諸国に君臨する国となるどころか、独立国でさえありませんでした。ユダヤ民族がさまざまな大国に支配される屈辱に耐えられたのは、いつか自分たちの国が神さまの国になるという預言があったからです。彼らはその預言に希望をおき、その時を待ち、自分たちユダヤの国が神さまの国となる日を待ち望んでいました。
しかし、その望みはきわめて現実的な、この世的なものでした。ファリサイ派の人々の心にイメージとして浮かんでいたのは、大きくて強い、たとえばローマ帝国のような国の皇帝や王が自分たちの神さまの前に深々と頭(こうべ)を垂れ、ひざまずき、自分たちユダヤ人の国が最も優れた国と世界中に認められ、そして自分たちが他国の者たちを見下して、ふんぞりかえる姿だったでしょう。その姿は、ファリサイ派の人々の心の目に まさに「見える」ように鮮やかだったのです。その間違いを、イエス様はこう指摘されました。今日の聖書箇所ルカ福音書17章20節後半をお読みします。「神の国は、見える形では来ない。」
イエス様が言われる「神の国」は、もちろん真実の神さまの国すなわち神さまがすべてを導き、整え、治めてくださる平和のことです。
イエス様は、平和の君・平和の王としてこの世に遣わされました。競い合い、戦って、互いを蹴落とし合って順位を決め、力で優劣を判断するのは神さまの御心ではないと、示してくださるためにこの世にお生まれになったのです。自分を愛するように隣人を愛しなさいと、身をもって教えてくださるために 世に来られました。
イエス様は、愛そのもの・平和そのもの・神さまの御心そのもの、つまり「平和の王」イエス様が「神の国」です。
今日の聖書箇所で、そのイエス様はどこに立っておられるでしょう。ファリサイ派の人々が意地悪な質問をするためにイエス様を囲み、イエス様はおそらくその真ん中に立っています。人々の間におられます。だから、イエス様はこうファリサイ派の人々に答えられました。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
それから、イエス様は弟子たちにこう言われました。今日の聖書箇所の後半、22節です。お読みします。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。」
イエス様はご自分のことを「人の子」と呼ばれます。「人の子の日」とは、「イエス様の日」と言い換えて良いでしょう。イエス様が栄光に輝く日が来るのを見たい、と弟子たちが願っていたことをイエス様は見通しておられたのです。
弟子たちの中にも、ファリサイ派の人々の願いに似たこういうイメージがありました。いつの日か、自分たちの先生であるイエス様がローマ帝国の支配を覆す革命を起こし、ユダヤの新しい王として全世界に君臨して栄光に包まれる姿。
そのような日を見ることはできない、とイエス様は弟子たちに言われました。なぜなら、本当の「イエス様の日」とは「イエス様がもう一度 地上においでになる日」「主の再臨の日」ことだからです。
再臨の日は、世の終わりの日です。ヨハネによる福音書14章で、弟子たちにイエス様はもう一度、地上に来られることを約束してくださいました。
マタイによる福音書24章29から30節で、イエス様はこの世の終わりの日、ご自身がもう一度世に来られることをこう語っておられます。お読みします。「その苦難の日々(この世の終わりへと向かう日々のことです)の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子(イエス様のことです)の徴(しるし)が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」
そうして、人々が互いに憎み争うこの世は終わり、愛と平和の神さまの国・御国が実現するのです。
皆さんの中には、この聖書箇所を聞いて まるでSFの世界で信じられない、空想の物語だ、と思い、イエス様は何かを象徴し「たとえ」を使って語っておられるから事実は別にあると感じられる方が多いと思います。
だからこそ、イエス様は、今日の聖書箇所をはじめとして、何度も何度も、繰り返し、終わりの日に向かうこの世の苦しみと、ご自分がもう一度この世においでになる再臨の時のすばらしさ・御国の到来の力と栄光を語ってくださるのです。私たち人間には、この世の終わりと神の国の到来、そしてイエス様の再臨をなかなかそのまま信じることができないからです。
イエス様は、イエス様の言葉を理解できない弟子たちに実に大切な、そして実にシンプルなことを教えて下さいました。今日の聖書箇所 ルカによる福音書17章23節には、イエス様の言葉がこう記されています。お読みします。「『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。」
終わりの日には、さまざまな災害が起こり、人々の間ではいろいろな噂が飛び交います。イエス様は、信仰者・キリスト者、イエス様の弟子たちが、人々が言い交す勝手な言葉に惑わされてはならないと教えてくださいます。人の声に誘惑されて出かけて行ってはならない、人を追いかけてはならないとおっしゃいます。
私たちがなすべきこと、それは信仰にとどまることです。今日の旧約聖書の御言葉が告げるように、主の家にとどまり、信仰に堅く踏みとどまるのです。ただ、その終わりの日よりも前に、弟子たちが目の当たりにするイエス様の重要な御業があります。そこに、私たちの信仰の基があるのです。イエス様は、それを今日の最後の聖句でこう語られました。ルカによる福音書17章25節をお読みします。「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」
弟子たちが、また私たち教会に生きる者が信仰の基とするのはイエス様が多くの苦しみを受けて排斥されるご受難 ― 十字架の出来事とご復活です。
人間の長い歴史の中で、平和が大切にされない時代が長く、実に長く続きました。旧約聖書に、その時代の出来事が記されています。平和よりも、争って勝つ事の方がずっと大切だったのです。人に優しくして、自分の持っているものを持っていない人と分かち合うことなど 愚かな行いと思われていたのです。
イエス様は私たちのために十字架で命を捨てられ、究極の優しさ・自己犠牲を実行してくださいました。人に優しくして、自分の持っているものを犠牲にすることが御心にかなう愛のみわざであることは、イエス様のご復活で私たちにはっきり示されました。
今、私たちは争いよりも平和な世界、自分の物を自分だけで抱え込む利己主義者であるよりも互いに愛し合う世界の方がずっとすばらしいことをよく知っています。イエス様の十字架の出来事とご復活によって、知らされたのです。知らされたにもかかわらず、イエス様のようには実行できない私たちです。
その私たちを、イエス様は御言葉で日々整え、清めて、愛し合う世界を目指す道を進むようにと導いてくださいます。進む時には、最初の一歩がどっちを向いているか、またその人がどんな姿勢で最初の一歩を進めようとしているかが、実に大切です。
私たちの最初の一歩はイエス様に従う方向を向いています。その時の私たちは、信仰に堅く踏みとどまり、揺らがない姿勢でいるように ― 人の噂や風評に惑わされず、聖書・御言葉に軸足を置くようにと、イエス様は今日の御言葉で私たちに教えてくださっています。
それを知らせてくださろうと、主は私たちのために命をさえ捨ててくださいました。その究極の優しさを心に留めて、主に愛されているからこその命であることを思いつつ、人を愛する者へと成長させていただけるよう祈りましょう。その希望を胸に、今日から始まる新しい一週間の一日一日を正しい信仰の姿勢で進み行きましょう。
2024年7月14 日
説教題:聖別される喜び
聖 書:レビ記14章1~9節、ルカによる福音書17章11~19節
それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
(ルカによる福音書17:19)
今日の聖書箇所には、イエス様がエルサレムをめざして進んでおられることが 最初に記されています。イエス様は、すべての者のしもべとなって、私たち人間を罪から救うために 十字架への旅の途上におられます。ガリラヤとサマリアの間を通ってエルサレムへと南下してゆかれました。
サマリアに暮らす人々は、生粋のユダヤ人からは軽蔑の対象とされていました。これは、次のような歴史的背景によります。イスラエルの王国のサマリアにあたる地域が、他民族に征服されたことがありました。その時代に、サマリアではユダヤ人と他民族との結婚により 混血の人たちが多く生まれました。ユダヤ人は「自分たちだけが、神さまの宝の民」という選民思想に基づく 他民族への優越感を持っていますから、混血のサマリア人は自分たちユダヤ人とは違い 神さまの民ではないと差別するようになりました。
イエス様は、決して差別をなさらず、誰にも分け隔てなく接する方です。サマリア地方を避けることなく、ガリラヤとサマリアの間を、通って行きました。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人たちがイエス様を出迎えました。どこの町や村でも、出迎えの人々はイエス様にできるだけ近づいて、衣の裾にでも触れることができたら祝福されると思うほど迫って大歓迎するのですが、この時は遠くの方に立ち止まったままでした。罹っていた病気のためでした。
当時、重い皮膚病に罹った人は、ユダヤの律法では健康な人たち・皮膚病の症状がない人たちに近づいて、一緒に過ごすことを禁じられていました。誰かが近づいてきたら「汚れています」と言って、自分から遠ざけなければならなかったのです。
イエス様が世に遣わされる前、人々は自分たちに想定外の不幸な出来事が起こると 自分が罪を犯したから、神さまがそれを罰したのだと考えました。いわゆる「因果応報」の考えです。罪を犯したから病気になったなど、医療について研究が進んだ今の時代では考えられません。しかし、当時はそのように考えていたのです。そのため、病気になった者、特に感染力が強い重い皮膚病に罹った者は「私は罪で汚れていますから、近寄らないでください」と自らを隔離しなければならなかったのです。
皮膚病が治った時には社会復帰できますが、この時には「汚れを清められた」という表現を用いました。清められたかどうかを判断するのは、祭司でした。今日の旧約聖書レビ記14章の聖句は、それを定めた律法の言葉です。皮膚病に罹っていた人は祭司に体を見てもらい、完全に治っているのを確認されて、ようやく隔離から解放され、社会に復帰できたのです。病から癒され、罪が赦されたことを、祭司が宣言したのです。
イエス様がこの村においでになった時、重い皮膚病に罹っていた彼らは、イエス様に駆けよって 清められたい、癒していただきたいと願っていたことでしょう。それは許されていませんでした。だから、彼らは遠くから「イエス様」と呼びかけ、「私たちを憐れんでください」と必死に声を張り上げたのです。
私たちが続けて読んでいるルカによる福音書の前の方・5章にも、イエス様の足元にひれ伏した重い皮膚病の人について記されています。イエス様がこの時、どうなさったか覚えておいででしょうか。ルカによる福音書5章13節をお読みしますので、お聴きください。「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。」(ルカによる福音書5:13)5章で重い皮膚病の人に助けを求められた時、イエス様はその人に手を触れ、加えて言葉で癒しのみわざを行いました。
ところで、今日の聖書箇所で、イエス様は遠くで立ち止まっている皮膚病の人たちを見て、こうおっしゃいました。14節です。お読みします。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」先ほどお伝えしたように、皮膚病に罹った人が祭司に体を見せるのは「清められた」と宣言をしてもらうためです。イエス様の言葉をいただいた十人は、言われたとおりに祭司のところへ進み始めました。
ここで少し立ち止まり、ご一緒に思いを巡らせましょう。
イエス様は、御言葉で病を追い払ったわけでも、癒しを行ったわけでも、彼らに手を差し伸べて触れてくださったわけでもありません。十人の皮膚病の人たちは、「え~、そんなことをおっしゃらずに、すぐに私たちを癒してください」と言いたかったでしょう。「別の村で前になさったように、私たちに触れて癒してください」とも、言いたかったのではないでしょうか。
ところが、彼らは素直に、そのまま祭司のところに行きました。彼らがイエス様を信じた信仰は、実に強く深かったのです。イエス様の御言葉に素直に従った彼らの従順な信仰を、主は見ておられました。その信仰によって、彼らは清められ、癒されました。14節の後半に記されているとおりです。その御言葉をお読みします。「彼らは、そこ(祭司のところ、という意味です)へ行く途中で清くされた。」彼らは皆、祭司に「清められた」と認められ、各々の元の暮らしへ戻り、復帰を果たすことができました。
その中で一人だけ、15節に記されているように「自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら(イエス様のところへ)戻って」(ルカによる福音書17:15)来ました。そして、イエス様の足元にひれ伏して感謝したのです。(ルカによる福音書17:16)
教会学校や幼稚園の礼拝で、この聖書箇所を説き明かすと 聞いている子どもたちはたいてい、ここでよくわかった!という顔をします。「今日の聖書のお話は、ちゃんとありがとうを言いましょう!というお話だね。僕たち・私たちは よくわかった!」という顔です。
そのように受けとめることは、良いことですが 私たちは今日、イエス様がおっしゃった最後の聖句に注目したいと思うのです。十人の重い皮膚病の人たちは、イエス様に「イエス様」と呼びかけ、さらに「先生」と呼びかけました。イエス様が自分にとってどんな方であるかを言い表しました。
私たちが、祈りの始めに神さまに呼びかけ、「私たちの救い主イエス様の父なる神さま」と祈り始めるのと同じです。それから、十人は自分の願いをささげ、それは叶えられました。彼らは癒され、清められました。
清められるとは、清いもの・神さまのものとされる、つまり「聖別される」ということです。彼らは神さまに呼びかけ、神さまから恵みをいただきました。ただ、これだけで終わってしまっては その恵みは十分ではありません。
十人の皮膚病の人たちのうち、一人だけ、それもユダヤ人に差別されていたサマリア人がそれに気付かされてイエス様のところに戻って来ました。イエス様のもとに帰って来たその一人の人の姿は、一週間の恵みをいただいた私たちが、この世の汚れにまみれながらも、自分は世に属さず、神さまのものだとの信仰の自覚をもって こうして日曜日・主日の礼拝に招かれ、集う姿と重なります。
ここで私たちは礼拝の中で働く聖霊の主の御力により、イエス様の十字架の出来事で救われた恵みの喜びを新たにされます。今日の聖書箇所の最後の聖句でイエス様がおっしゃったとおりです。「あなたの信仰があなたを救った。」
イエス様を信じて救われた恵みの事実を、こうして主の御前で、また礼拝の中で明確に宣言していただくことは、私たち信仰者にはなくてはならないものです。自分は神さまに愛されて造られ、本来 清いもの・神さまのものだという自覚だけでは、信仰者として十分とは言えません。
神さまの御前に立って感謝をささげ、罪の赦しの宣言を受けて、私たちは新しい一週間を生きる力をいただくのです。イエス様が私たちのために、十字架でお命を捨てて勝ち取ってくださった罪と死と絶望への絶対的勝利である罪の赦しの宣言は、それほどに大切なものだからです。
そして、私たちは礼拝の後、教会の玄関から送り出され、再びこの世へと遣わされて行きます。この世での自分の持ち場で、与えられた務めを果たしに出かけてゆくのです。自分の責任を果たし、さらに、御心ならば、聖霊に導かれて福音を伝え、伝道するために出かけて行きます。
だから、イエス様は戻って来た一人の人に こうおっしゃいました。「立ち上がって、行きなさい。」この御言葉は、この人を、また私たち一人一人を信仰者として世に遣わす派遣の御言葉です。イエス様は 今、私たちを送り出してくださいます。‟さあ、新しい一週間の歩みを始めなさい!行ってらっしゃい!” 清められ、聖別され、罪の赦しの宣言をいただいた安心を胸に、私たちもここからこの世へと、出発して参りましょう。イエス様に導かれて、新しい一週間を希望に心を満たされて進み行きましょう。
2024年7月7日
説教題:しもべの使命
聖 書:詩編95編6~7節、ルカによる福音書17章1~10節
命じられたことを果たしたからといって、主人は僕(しもべ)に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕(しもべ)です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
(ルカによる福音書17:9-10)
イエス様は、今日の聖書箇所でイエス様に従う者の基本的な姿勢を教えてくださいます。今日の聖書箇所の前まで、イエス様はファリサイ派の人々や群衆がいるところで語られていましたが、今日の御言葉は弟子たちだけに語られました。
弟子とは、イエス様を信じてつき従っている使徒12人を中心とする者たちです。「イエス様に従う」という意味では、時代と空間を越えて、今ここに集められている私たちも イエス様に従おうとしている者たちです。そして、イエス様はご自身に従う者を、今日の御言葉の中で「しもべ」にたとえられました。
「しもべ」とは、どういう立場の者でしょう。それをイエス様は、今日の聖書箇所の後半・7節から10節にかけて語ってくださっています。今日はまず、そのところをご一緒に聴きましょう。
イエス様は、このように語られました。しもべには主人がいて、主人の畑を耕したり、羊の世話をしたりと主人のために働いて過ごします。しもべは、主人の家で寝起きしています。ですから、朝から夕方まで、外で働いた後、主人の家に帰って来ます。私たちは働いて帰宅すると、くつろいで食事をしますが、しもべには それは許されていません。8節にあるように、主人にこう命じられるのです。「むしろ、夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事しなさい。」仕事を終えたら、さらに別の仕事が待ち構えているのが、しもべの生活です。
まるで奴隷ではないか…と思われるでしょう。そうなのです。「しもべ」とは、まさに奴隷のことをさします。奴隷は、命とその存在を主人に買い取られた者です。自分のすべてが、主人のものなのです。時間もエネルギーもすべて、主人のために使わなければなりません。
しもべは、いわば主人の手足です。私たちの脳が手足に命じて手足がそれを果たしたからといって、私たちは手足に感謝しません。私たちが自分の手足に対して「ありがとう」と言わないように、主人は奴隷・しもべがどれほど自分のために仕え、尽くそうと、決してお礼など言いません。今日の9節でイエス様は、奴隷・しもべの身分とはそのようなものだとおっしゃるのです。
神さまは、こんなに傍若無人な方だったのか…とショックを感じる方もおられるかもしれません。しかし、思い出しましょう。イエス様はマルコによる福音書10章43から45節で、こうおっしゃいました。お読みしますので、心の耳を澄ませてください。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子(これは、イエス様がご自身をさす時に使う言葉です)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
イエス様は、何と、ご自分は天から私たちに仕えるため、つまり私たちの奴隷になるためにおいでくださったと言われるのです。
ひるがえって今日の聖書箇所を読むと、私たちの心に浮かぶ聖書箇所があります。ヨハネによる福音書13章です。ここに記されているのは、最後の晩餐の時に、イエス様が弟子たち一人一人の足元にひざまずいて、その足を洗われた出来事です。
主人の足、また主人のお客の足を洗うのは、奴隷の役割でした。イエス様は、神さまでありながら 自ら私たち人間の奴隷となり、仕えてくださったのです。人間に仕えるそのイエス様のお姿は、究極的には十字架の出来事で私たちに示されました。
今日の聖書箇所の始めの方・1節から4節は人を罪に陥らせず、また人の罪を広やかな心で赦すようにとイエス様は語っておられます。イエス様は、自分にひどいことをした人を赦すことの大切さと、赦されて未来を与えられることの喜びを十字架の出来事で私たちに教えてくださいました。
イエス様は、私たち人間のすべての罪を背負い、私たちに代わって命を捨てて その罪を贖い 私たちに赦しを与え、失敗しても悔い改めて 何度でもやり直すことのできる未来を与えてくださいました。その恵みは、イエス様の三日後のご復活で私たちにはっきりと示されました。
私たちがイエス様に救われて生きているこの命は、裁かれて罪人と烙印を押され、死で終わる命ではありません。罪人でありながら、その裁きをイエス様に代わっていただき、それによって救われてずっとイエス様と共に、主と共に生きることを赦された命です。イエス様のご復活は、死を超えて生きる命・どん底から栄光へと昇華する私たちの主にある命を示してくださっています。
今日の聖書箇所の5節で、「からし種一粒ほどの信仰」というよく知られた御言葉が語られています。信仰は、イエス様が十字架の出来事とご復活でお示しくださった恵みの福音・死を超えて生きる命を、感動・喜び・感謝を心に抱いて 魂の底深く受けとめることです。その感動と喜び、感謝を抱いて、この世の苦難に負けず力強く、朗らかに、兄弟姉妹が互いに手を携え助け合って進み続けるのが、信仰生活です。
私たち人間は、相対的にしか、物事を受けとめて認識することしかできません。だから、この人の信仰は深く、この人の信仰は大したことがないとつい比べがちです。ところが、イエス様は信仰が心に与えられていればよい、どんなに小さな信仰・小さなからし種一粒ほどの信仰でも イエス様の十字架の出来事とご復活を信じて感謝をもって受けとめていればよいとおっしゃってくださるのです。
この大きな励ましの言葉をいただいて、私たちは今日、これからこの礼拝の中でイエス様が十字架で私たちのために苦しまれたことをおぼえ、聖餐式に与ります。
イエス様が、まず私たちのしもべとなってくださったからこそ、私たちはイエス様のしもべとされるのです。忠実なしもべ・イエス様に従う弟子として 与えられた恵みの信仰の道を進み行きたく思います。今日から始まる新しい一週間を、その志を抱いて歩み行きましょう。
2024年6月30日
説教題:御言葉は我が道の光
聖 書:詩編119編105~112節、ルカによる福音書16章19~31節
アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』
(ルカによる福音書16:31)
今日の聖書箇所が朗読されるのを聴いて、皆さんはどんな印象をお持ちでしょうか?前々回の聖書箇所では、イエス様が不正な管理人をほめるのに驚かされ、前回もその続きで釈然としないまま2週間を過ごした方もおられるでしょう。今日の聖書箇所は、わかりやすい! ― そう感じた方が多いかもしれません。
イエス様が語られた話を、こう受け止められたのではないでしょうか。あるところに贅沢に暮らしている金持ちがいて、その門の前にはラザロという貧しく、皮膚病にかかった人が倒れていました。金持ちはラザロを助けず、ラザロはつらい中で、体にできたつらいできものを犬になめられるという過酷な状況にありました。悲惨な中で、ラザロは天に召されました。天使たちがラザロを、信仰の父・偉大なアブラハムと同じ天の食卓に連れて来てくれました。御国で、彼は豪華な宴席をアブラハムと共に囲む恵みに与ったのです。
金持ちも、地上の歩みを終えました。彼は御国に入れず、陰府(よみ)で炎にあぶられ、苦しめられました。いわゆる「灼熱地獄」に落ちたのかもしれません。金持ちはアブラハムに憐みを乞いますが、厳しく拒絶されてしまいました。
今日の最後の聖句はアブラハムが金持ちの願いを拒む、この言葉で終わっています。お読みします。『モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』(ルカによる福音書16:31)「モーセと預言者」とは、律法のことを「モーセ五書」と呼ぶことからもわかるように、前回の聖書箇所の「律法と預言者」と同じです。つまり、今日の最後の聖句で、アブラハムは 神さまが私たち人間に愛をこめて下さった掟・律法に従わない者の頼みになど絶対に応じない、断固として断ると言っているのです。さらに、イエス様がこの話を語った当時は新約聖書がまだ存在していませんでした。ですから、「モーセと預言者」、「律法と預言者」と言えば、それは聖書そのものをさしたのです。
ここで、私たちは律法が貧しい人に施しをしなさいと勧められていたことを思い出します。レビ記19章9節から10節に貧しい者への施しがこのように勧められています。お読みします。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。」これは、ミレーの名画「落穂拾い」の主題となった聖句です。レビ記19章にあるこの聖句の少し先、19節に、隣人愛を勧める聖句があります。
これらの聖句を踏まえて、私たちは思うのです。今日の聖書箇所の金持ちは、律法の勧めに従わず、貧しいラザロに施しをしなかったから、罰を受けて灼熱地獄に落とされたのだ、と。
また、「金持ち」という言葉から 私たちが思い出すイエス様の御言葉があります。マタイによる福音書19章21節で、イエス様は弟子入りを願った金持ちの青年にこうおっしゃいました。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」続く23~24節では、こう告げておられます。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
このような聖句を思い起こして、私たちは何となく、お金持ちは悪者だから地獄に落ち、貧しくて病人のラザロは良い人なので、天国に行ったと感じます。だから 私たちも、地獄に落ちないように頑張って良い人になりましょう、今日の教えを心に刻みましょう…。
さて、皆さん、イエス様は今日の聖書箇所を通して、本当に、そのようなことを私たちに伝えようとなさっているのでしょうか?
「地獄に落ちないように」と先ほど、敢えて申しましたが、私たちプロテスタント教会は、地獄があるとは考えておりません。地獄に落ちるような罪は、イエス様が私たちの代わりに十字架で背負い、イエス様が死をもって贖ってくださったのです。
また、私たちは宗教改革者ルターとカルヴァンを通して「聖書のみ」に集中することの大切さを知らされています。聖書の御言葉を一語、一語丁寧に読み、聖霊に聴くことから私たちの信仰は始まります。
今日の聖書箇所の御言葉をあらためて、ご覧ください。「金持ちがラザロに施しをしなかった」とは、書いてありません。加えて、当時の人々がたいへん皮膚病に敏感だったことを思い起こしてください。その頃、重い皮膚病にかかった人は、自ら「汚れています」と言って健康な人が暮らしているところから離れ、いわば町から追放された形で過ごさなければなりませんでした。
ラザロはどうだったでしょう。彼は、できもので覆われていながら、金持ちの門の前に横たわっていました。金持ちの食卓から落ちる食べ物のくずを食べたいと思いを巡らす時間、犬が寄って来てできものをなめる時間があるほど長く、そこにいました。金持ちは、ラザロを自分の家の前、門前から追い出してはいなかったのです。皮膚病に対する当時の一般的な対応を考えると、この金持ちはむしろ病を負ったラザロに寛大で、自宅の門前にいることを黙認しただけでも憐れみがあったと言って良いでしょう。
聖書が語っているのは、金持ちが金持ちとして神さまから与えられた人生を生き、ラザロはラザロとして与えられた人生を生きていたいうことだけです。
それは、25節のこの聖句からわかります。お読みします。「しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前(ここで「お前」は、金持ちをさします)は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。』」
イエス様がここでアブラハムの言葉を通して私たちに伝えてくださるのは、地上で金持ちとラザロが対照的な人生を与えられていて、地上の命が終わった時に それが逆転したということだけです。イエス様は、言い換えれば聖書の御言葉は、二人について それ以上のことは語っていないのです。
一般に文章をじっくりと熟読することを、私たちはよく「読み込む」と言います。「込む」とは「思い込み」にあるように、「入れる」ことです。「読み込む」とは、自分の考えや思いを読んでいる文章に入れ込み、比較検討しながらクリティカルに読むことなのです。
聖書を読む時には、それを避けるようにと神学校で教わりました。聖書を「読み込む」のではなく、私たちは聖書から神さまが私たちに伝えようとしてくださっているメッセージを「読み取る」、主の導きを「読み出す」のです。その「読み取り」・「読み出し」の手がかりとなる興味深い事実が、今日の聖書箇所に記されています。名前についてです。
名前はもちろん一般社会でも大切ですが、私たちキリスト者にとって特に重要な意味を持っています。私たちは神さまの御名を讃え、御名が崇められるようにと「主の祈り」の最初に祈ります。また、神さまは、私たち一人一人の名前を「命の書」に書き記してくださっています。私たち一人一人の名前を呼んで、寄り添い支えてくださいます。今日の聖書箇所で名前に関することで特に心に留めたいのは、金持ちには名前がなく、ラザロには名前があることです。
このラザロという名前はユダヤの言葉・ヒブル語で、「神さまは助けてくださる」という意味です。私たち人間が地上の人生を歩む中で、今日の御言葉の金持ちのように「良いものを」、良いもの「だけ」をもらって「いつも」「毎日遊び暮らして」悲しみや苦しみを知らない人は、一人も存在しないのではないでしょうか。
私たちには皆、この世で苦難があります。金持ちでも、才能や環境に恵まれていても、順風の登り坂があり、逆風の下り坂があり、「まさか!」の時があります。悲しみや苦しみを知らずに「毎日遊び暮らして」いるだけの人間は存在しません。この世にそんな人間は存在しないから、イエス様はこの金持ちに名前を与えていないのです。
私事で恐縮ですが、私は聖書の世界では生きてゆくのが極めて難しい立場の「子どものいない未亡人(やもめ)」です。それでも、私は「神さまに助けられた」者です。わたしは「ラザロ」です。神さまは、私をも助け、救ってくださいました…イエス様の十字架の御業とご復活によって。私は主にある喜び、生きる幸いを知る恵みを存分にいただいています。「毎日遊び暮らして」はいませんが、主が共にいてくださるがゆえに「毎日喜びをもって暮らして」いることを 主に感謝します。
皆さんも、もちろん 信仰に生きるその喜びを知っておられます。私たちは、みんな 「神さまが助けてくださ」った、「イエス様に救われた」ラザロです。
私たちは、聖書すなわち御言葉なるイエス様、父なる神さまが与えてくださった律法に基づく救いの福音に、聖霊に導かれながら、ひたすら心の耳を傾けて聴くことで、その恵みを知るのです。
今日の旧約聖書の聖句が語るように、御言葉は私たちが苦難の多い険しい人生の坂を上り下りする道を照らす灯です。今日は、その御言葉から説教題「御言葉は我が道の灯」もいただきました。
御言葉が灯だと心と魂で知ることができるのは、聖霊によって聖書を読み、感謝と共に確かな恵みを受ける時です。イエス様は、今日の最後の聖句で、「モーセと預言者」すなわち聖書にひたすら聴く恵みを語っておられます。
祈りつつ、聖霊で満たされて、「聖書のみ」の思いを掲げて進み行きましょう。神さまを主と呼べる幸いと、イエス様に救われた喜びを胸に、今週も心を高く上げて進み行きましょう。
2024年6月23日
説教題:人の心を知る主
聖 書:エレミヤ書17章9~11節、ルカによる福音書16章14~18節
律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。
(ルカによる福音書16:16-17)
前回の聖書箇所で、イエス様が弟子たちに語られたたとえ話には、私たちが一瞬「え!」と驚くような事柄がありました。借金の証文の金額を半分に書き換えさせた管理人が、それをほめられたというのです。私たちのこの世の常識では、証文に記されている借金の額を勝手に少なく変えたら、それは「不正」「悪い行い」「ごまかし」「偽り」です。神さまに厳しく戒めていただかなければ、気持ちがおさまりません。こんなごまかしをほめるなんて…何かおかしい、怪しいとつい、思ってしまいます。
この話を少し離れたところで「一部始終」、聞いていたファリサイ派の人々も そのように感じました。そこで、彼らはイエス様を「あざ笑った」と 今日の聖書箇所の最初の聖句で語っています。ファリサイ派の人々は、そんな神さまの教えがあるものかと、神さまの御子イエス様をあざ笑ったのです。
神さまの御子であり、ご自身が神さまであり、ヨハネ福音書によれば御言葉そのものであるイエス様が、誤りを弟子たちに伝えるはずはありません。私たちが先ほど、日本基督教団信仰告白で「聖書は…神の言(ことば)にして信仰と生活との誤りなき規範なり」と声をそろえてささげたとおりです。
イエス様は、ご自分をあざ笑ったファリサイ派の人々の本心を見抜いておられました。今日の聖書箇所は、この言葉で始まっています ― 「金に執着するファリサイ派の人々」。前回の聖書箇所の最後の聖句・ルカによる福音書16章13節は、こう終わっていました ― 「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」ファリサイ派の人々が実は、神さまを主と仰がず、富を主人としている事をイエス様は知り尽くしておられたのです。
13節から14節への文脈から、私たちはつい「富イコールお金」と考えてしまいます。この「富」はお金を含みますが、お金だけではありません。私たちがこの世で価値があると思うもの・「あったらいいな」、「持っていたらこの世での幸福を手に入れられる」と思うものです。 お金の他に権力や名声、社会的地位、能力 ― 今の言葉でスペックが高い、と言った方が馴染みやすいかもしれません ―、可能性 ― これも今の言葉でポテンシャルまたはポテンシャリティーが高いと言うのでしょうか ― が、私たちがこの世で生きて行くのに「あったらいいな」と思うものでしょう。
大切なのは、こうしたこの世の価値は それだけでは罪や悪とは関係がないということです。お金持ちが、悪い人・悪人・罪人・人だと決めつけることなど決してできないことを、私たちはよく知っています。お金持ちのお金は、その人が勤勉に働いて、その正当な報酬として積み上げたお金です。お金持ちがお金持ちになる手段、さらに、その豊かな富の用い方が御心にかなっているかを判断される ― 聖書の言葉を用いれば、その善悪を判断なさる ― のは神さまです。
お金ばかりではありません。この世で価値のあるものを手に入れた手段、そしてその用い方の善悪を見究めて、私たちの心の底を見通しておられるのは神さまなのです。
さらに思いを巡らせば、私たちがこの世で手にするものは、もともと すべて私たちが神さまからいただいたものです。神さまの恵みの賜物です。いただいた賜物を、どう生かすかが問われているのです。
ファリサイ派の人々の心の中では、賜物が目当て・目的になっています。お金・権力・名声・高い社会的地位・能力を目当てにする、つまり「神さまからの賜物を目的にしている」のなら その姿勢は信仰ではなく、ご利益信仰です。自分一人がその賜物・富を独占しようと思っているのなら、なおさらのことです。
その恵みのすべては、自分を幸福にすると同時に 隣人をも幸福にするために、この自分を通過点として神さまが用いてくださるように計らってくださいます。神さまは、賜物が私たちそれぞれを通過して、隣人のために、また社会のために用いられるよう働いてくださいます。その神さまの計らい・ご計画にお任せするのが、信仰です。自分も、隣人も豊かに神さまの恵みで満たされる ― これが、神さまがレビ記19章18節で語られ、私たちが黄金律とする信仰の姿勢です。恵みを独り占めして、隣人の幸福に用いようとしない自己中心的な我欲に突き動かされて行動する時、信仰はご利益信仰に堕落してしまいます。
イエス様は、ファリサイ派の人々が陥っているそのあやまちを正そうとされました。また、今 御言葉を通して私たちに同じ過ちを犯さないようにと導いてくださいます。
今日の15節で、イエス様はファリサイ派の人々にこうおっしゃいました。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかす」。ファリサイ派の人々は、神さまからいただいた律法を頑なに、人間的に解釈して「自分の正しさ」として人に見せびらかし、人々を支配する手段にしました。
律法も与えられた恵みという意味で、賜物そのものです。しかし、賜物を尊びながらも間違って自分勝手に用いると、神さまに忌み嫌われるものになってしまいます。イエス様は、そのことを「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われる」と15節でおっしゃいました。
16節で「神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」と語られます。律法と預言者の時代、まだ救い主が世に遣わされていなかった旧約聖書の時代が洗礼者ヨハネで終わったこと、イエス様が世に遣わされて御国の門が開かれ、誰もがわけへだてなく御国に招かれている恵みを、イエス様は告げて下さいます。
ただ、神さまはどの時代でも、いつでもどこでも、私たちの未来にあっても、永遠にただ一人の神さま、私たちのただ一人の主です。それは律法の冒頭・十戒の最初にこう告げられているとおりです。十戒が記されている出エジプト記20章3節からお読みします。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」
この律法の第一の戒め・神さまだけをひとすじに仰ぐ信仰が私たちに与えられていることは、実に大きな恵みです。この掟を守ることによって、私たちはこの世の価値観に惑わされず、神さまに整えられて主のご計画にすべてをお任せすることができるようになります。
この恵みを、イエス様は今日の聖書箇所の17節でこう語られました。お読みします。「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。」
神さまこそがただお一人の主 ― この主の愛は決して揺らがない、天地が崩壊してこの世が跡形もなくなったとしても、私たちが神さまに愛されている恵みの真理は決して消えないと、イエス様はおっしゃいます。そして、その愛の深さを ご自身が十字架に架かり、三日後によみがえられることではっきりと示してくださったのです。
今日から始まるこの新しい一週間を、主の愛を豊かに受けて 平安と希望のうちに進み行きましょう。
2024年6月16日
説教題:正しさをもってささげる
聖 書:歴代誌上29章16~20節、ルカによる福音書16章1~13節
ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。
(ルカによる福音書16:10-11)
どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
(ルカによる福音書16:13)
イエス様が弟子たちに語られた今日のたとえ話は、たいへん興味深いと同時に、何を教えとして読み取ったら良いのか わかりにくい話です。イエス様が語られたのは、次のような内容の、少しひねったユーモアのある面白いたとえ話です。
「ある金持ちに一人の管理人がいた」と、イエス様は語り始められました。金持ちの主人は神さま、財産管理を任された管理人は私たち人間です。この世を創られた時に、神さまは創世記1章28節~30節にかけて最初の人間に告げたように、天地・この世の管理を人間に任せてくださったのです。
ところが、この管理が杜撰だったので、神さま、すなわち主人はこう告げました。2節の後半です。「会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。」
管理人は仕事を失い、失業者になって路頭に迷うことになりました。彼は慌て、大いに困りました。急に「土を掘る」力仕事に転職することは体力的に難しいし、プライドを捨てて「物乞い」となり 町の人の施しに頼る覚悟もありませんでした。
そこで、管理人は知恵を絞り 自分を助けてくれる友だちを作っておくことにしました。そして、その友だちを作るために、なんと彼は不正な手段、ごまかしを使ったのです。
管理人ですから、主人であるお金持ちに借りのある人たちが誰か、また一人一人がどれだけ借りがあるかを把握していますし、証文も手元に保管しています。彼は、この自分の立場を利用することにしました。借りのある人たちを一人一人呼んで、借用書の証文に、実際の半分しか借りていないと書き直させたのです。
今日の聖書箇所ではパトス、コロスといった穀物を量る単位が用いられていますが、お金に置き換えるとわかりやすいかもしれません。100万円の借金があるとして、それを50万円でかまわない・証文にそう書きなさいと言われたら、良かった!と思います。なんだかおかしい、胡散臭いような気がしても、実際に苦しい借金の重荷を半分にしてもらえるのですから「助かった!」と嬉しく思って当然です。
借りのある人たちは、こうして管理人に借りを軽くしてもらい、管理人を親切で良い人だと感謝するようになりました。失業した管理人が路頭に迷って困っていたら、その人たちは彼にこう声をかけるでしょう。「うちで食事をしませんか。泊まって行ってもかまいませんよ。いいんですよ、借りを軽くしてもらったあの時のお礼をさせてください。」こうして、人に恩を売ったずるがしこい管理人は失業しても 生活にさほど困ることがありません。
ただ、この時の彼の行動が人に恩を売り、計算づくで自分の立場を良くするものだったことに、私たちは眉をひそめたくなります。自分の主人であるお金持ち(神さまです)をあざむき、まわりの人間をもあざむく不誠実な行動だからです。人としてゆるせない ― そう感じます。
ところが、です。8節をご覧ください。お読みします。「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。」私たちは、イエス様のこの御言葉に 驚かずにはいられません。いったい神さまは、このずるがしこい人間のやり方のどこが御心にかなうとおっしゃるのでしょう。
神さまは、管理人であれ、誰であれ、ご自身が造られた私たち人間が苦しむと悲しまれます。私たち人間がいきいきと喜ばしく、笑顔で過ごすのを 神さまもご自身の喜びと思ってくださるのです。
それは、私たちが地上の命を生きている時も、御許へ住まいを移しても変わりません。管理人はその動機、きっかけとなった考えはどうであれ、自分が幸福になり、他の人たちも借りを軽くしてもらって幸福になる道を選びました。
この世には貸し借りがあり、施す者と施される者がおり、私たちは互いに比べ合うという相対的な視点でしか 物事を認識することができません。その窮屈なこの世で、限りのある、神さまからご覧になれば偏った倫理観でこれは正しいとか、ずるがしこいから許せないとか 思ってしまう私たちなのです。そして、私たちはこの世に生きている限り、神さまを仰ぎつつも この世の在り方にならうしかありません。
その中で自分にできる精一杯を尽くして、この管理人が自分の幸い、また周りの人・隣人の幸いにつながる手段を選び、行ったことを神さまはほめてくださいました。
聖書の黄金律・ゴールデンルールと呼ばれる神さまの御言葉を思い起こしましょう。レビ記19章18節です。お読みします。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」イエス様は、この天の父の御言葉をマタイによる福音書の山上の説教で、また他の福音書でも語られています。この御言葉に忠実に生きることが、この世にあっても御国にあっても、大きな事・神さまの御心に忠実に生きる信仰者の姿勢として示されています。
管理人は、結果的に自分自身を大切にして、隣人のためにもなることを行いました。それは御心にかなうことでした。だから、神さまは、この管理人の行いを喜ばれたのです。
繰り返しになりますが、この世で生きる時に、私たちは神さまの御心に背くようなことをどうしてもしなければならない事態に陥ることがあります。特に、私たちが生活している日本社会は、キリスト教文化圏ではないので 勤め先やご家族、親族のことを思って わかっていながら御心に背いてしまうことはたびたび起こります。
そもそも、キリスト者・クリスチャンではない家族・親族・知り合いが亡くなったら、そのご葬儀はたいてい仏式です。仏式のお葬式に出席する時、私たちの心の中で必ず葛藤が起こります。神さまではない他のものに礼拝することに、激しい抵抗を感じるからです。
ただ、葛藤が起こるという心の動きは、御心にかなうものになりたいと ひとすじに主を仰ぐ信仰を鮮明に表しています。神さまは、その葛藤をご覧になっておられ、イエス様を通して私たちに寄り添ってくださいます。私たちはイエス様を通して神さまに「これから自分はあなたを礼拝しない場へ赴かざるを得ませんが、どうかおゆるしください。私の胸のうちの葛藤をあなたが鎮めてください」と祈りをささげます。そうして、仏式のお葬式へ出かけ、その場のしきたりに従う行動を求められ、そのようにします。
その場の空気を壊さず、諍いを起こさず、この世での自分の立場も、キリスト者ではない方々の立場も守り尊重するためです。
「ユダヤの神さま一本槍」のファリサイ派や律法学者たちが、この現代の日本にいたとしたら、私たちはたちまち彼らの正義に裁かれて、偶像崇拝者・掟破りと糾弾されるでしょう。しかし、イエス様は決して、そのように私たちを裁いたり、咎めたり、戒めたりなさいません。
私たちが小さなこの世のことに忠実だと、神さま・イエス様・聖霊が働いてくださって、大きな御心に忠実な者としてくださいます。自分としては「仕方なく」行ったことが「自分自身を愛するように隣人を愛する」主の御心として、為されるのです。
イエス様ご自身は、この世の不正に忠実に歩まれました。それが、イエス様の十字架への道のりでした。イエス様は、ファリサイ派や律法学者の陰謀、ユダの裏切り、ペトロの背信をすべてご存じでありながら、それらを退けたり、避けたりなさいませんでした。この世の不正に従って歩まれたのです。それは、神さまから与えられた私たちの救いという大きな使命を、十字架で成し遂げるためでした。
今日の聖書箇所の最後の聖句・13節でイエス様はこう語られました。お読みします。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。」イエス様ご自身が、決して二人の主人 ― この世の価値観と神さまの教え ― に従いなどなさらなかったことを、私たちはよく承知しています。
イエス様は神さまの御子であり、神さまです。同時に、地上の歩みでは 神さまの僕(しもべ)である私たちと同じ人間でもありました。「僕(しもべ)」とは、召し使いのことをさします。
イエス様は、ご自身自ら、神さまにだけに仕えて 私たちを十字架で救われる贖いのみわざを果たしてくださいました。
何が正しいのか迷う時、私たちはまず、イエス様ならどうなさるかを考えるようにいたしましょう。イエス様を通して、天の父の御心を仰ぐためです。私たちの主はただお一人、父・子・聖霊の三位一体の神さまだけだからです。
私たちは、ただお一人の主にお仕えします。そのことこそが、私たちに与えられている真実の喜びと安心・平安です。その恵みを心に留めて、今日から始まる新しい一週間をひとすじに主を仰いで進み行きましょう。
2024年6月9日
説教題:兄の悲憤、父のなだめ
聖 書:詩編103編6~13節、ルカによる福音書15章25~32節
兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。…「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」
(ルカによる福音書15:28、31)
前回の礼拝で、私たちは父のもとに帰って来た放蕩息子のたとえ話に 神さまにゆるされることの恵みの深さを聴きました。イエス様が語られた15章のたとえ話は、「放蕩息子の話」として広く知られています。しかし、イエス様は神さまに背いた「放蕩息子」と、ゆるしてくださる父なる神さまの二人だけのこととして この話をされたのではありません。15章の11節をご覧になると、それがわかります。イエス様は、こうこのたとえ話を始められました。「ある人に息子が二人いた。」
この話は、父とその二人の息子の話です。父なる神さまと、私たち教会・信仰共同体に生きる者の二つの姿の話なのです。
父には兄と弟の二人の息子がいます。弟は父をないがしろにして家を出て行き、自分勝手な放蕩を尽くした挙句、さんざんな目に遭ってようやく父を思い出し、悔い改めて父のもとに帰って来ました。父はこの弟に無礼なふるまいをされたことなど気にせず、弟の帰りをたいへん喜び、お祝いの宴をひらきました。
そして、今日の25節から、イエス様は「兄の話」を語られました。私などが説明しなくても、イエス様の御言葉だけでドラマのように状況を思い描くことができます。
今日の聖書箇所の最初の節・25節をお読みします。「ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。」(ルカ福音15:25)彼は、驚いて召使いにどうしたことかと尋ねました。
25節の聖句と兄の召使いへの問いかけだけで、兄がどんな人でどのように生きているか ありありとわかります。兄は、父と共に家業に励み、ふだんは祝宴・パーティ、お祭り騒ぎにはなじみがないたいへん真面目な人なのです。召使は、この兄に家で起こったことを伝えました。27節をお読みします。「弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。」
この返事に、兄は怒って固まってしまいました。兄の心中は、こんな思いで一杯になったのではないでしょうか。‟あの身内の恥が、帰って来たのか。元気でのこのこ戻って来た。そして、なんだと! 父上はあいつのために、たいせつな子牛をごちそうにしてお帰りなさいパーティを開いているだと!!”
兄は怒り、宴たけなわの家に決して入ろうとしませんでした。怖い顔をして、外から家の中を睨んでいたのでしょう。
父が、兄の怒りに気付いて出て来てくれました。そして、兄を優しくなだめたのです。この「父」が神さまであることを思うと、その優しさは驚くばかりです。
旧約聖書の時代、礼拝の中心はささげものでした。大切な財産である牛や羊の中から最上のものを選び、それを焼き尽くして神さまにささげるのが、礼拝で行う大切なことだったのです。焼き尽くして、牛や羊の煙と香りを空に昇らせ、それによって神さまが人間の過ちをゆるし、怒りの罰をくださないようにとなだめたのです。神さまをなだめる「宥めの香り」が、人間から神さまへの一番のささげものでした。
ところが、イエス様のたとえ話では この逆で、父なる神さまが人間をなだめてくださるのです。
イエス様は、私たち人間に真実の神さまの思いを伝えようとしてくださいます。神さまは、実に優しい方なのです。すねている兄(私たち人間)を、父(神さま)は心をこめてなだめました。
ところが、兄は父にこう言いました。29節です。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。」兄は、本当に真面目です。神さまに何年も仕え、御言葉に背いたことは一度もないと明言できる正しく立派な信仰者なのです。
この兄は、実に正しい人です ― ただ、私たちは思い起こさなければなりません。使徒パウロはローマの信徒への手紙3章10節にこう記しました。「正しい者はいない。一人もいない。」私たち人間の中には、罪を犯さない者は一人もいません。 気付かずに神さまの御心に背いてしまう私たちなのです。
この兄も、直後に御心に背いたことを言ってしまいました。
兄は父に、こう恨み言をいいました。29節後半からお読みします。「(わたしはお父さんに長年仕え、言いつけに背いたこともないのに、お父さんは)わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。」この兄の言葉の中で、兄の罪を表しているのはどこでしょう。
兄の心の声を、祈って 私なりに黙想いたしました。兄の胸には、こんな思いが浮かんでいたと思われます。‟ 自分はこんなに父のために働いているのに、父は何も私にくれない。父なる神さまに仕えてこんなに多くの奉仕をささげ、こんなに掟と御言葉に忠実に生きているのだから、神さまは自分に報いをくださるはずなのに、自分は与えられていない。”
兄にたとえられている人が、神さまからのいわばご利益をあてにして奉仕していることが ここに表れているのです。私たちの信仰は、ご利益信仰ではありません。
私たちは、ただ ただ神さまが大好きで、神さまのために喜んで働き、奉仕する神さまの僕(しもべ)です。
奉仕しなくても、何もささげなくても、神さまは私たちが神さまを信じ、神さまに期待し、信じることで力づけられているだけで喜んでくださるのです。私たちは行いや働きによって神さまのものとされているのではなく、ただ信仰によって神さまのものとされています。
この放蕩息子と兄のたとえ話を、イエス様が罪人や徴税人を差別したファリサイ派や律法学者に向けて語ったことを思い出してください。ファリサイ派や律法学者は、律法を頑なに守るという行いで神さまに従おう・神さまにほめてもらおうとしています。イエス様は、その過ちをここで指摘されたのです。
もう少し、踏み込んだことをお伝えしたいと思います。皆さんの中には、このたとえ話の兄について、こう思われる方もいると思います。
この兄は、父から何か欲しいから働いていたのではなく、父に認めてもらいたい・良い息子だと思われたいから頑張っていたのではないか。私もそう思って、黙想いたしました。そして、このような悲しい思いが兄の心にあったのではないかと思いを巡らしました。
兄は、こう心中で嘆いていたのです。‟ これほど一生懸命、お父さんに仕えているのに、お父さんは あのどうしようもない放蕩者に恵みを与え、私の気持ちをわかってくださらない。お父さん、あなたのお気に入りの息子は、私ではなく弟なのですね。”
このたとえ話で神さまが父、私たち人間が兄ですから、兄は心の中で神さまに向かってこうつぶやいたことになります。‟ 神さま、あなたは私を愛してくださらないのですね。”
神さまの愛を疑ってしまう、神さまからいただく恵みを他の人と比べてしまう ― これは、私たち人間の悲しい過ちです。罪です。私たちの、その実に人間的な思いをも、神さまは憐れんでくださいます。
神さまからいただく恵みの中で、何が最も大きな祝福であるかをイエス様はこう語られました。31節です。お読みします。「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。』」神さまの祝福とは、ひたすら 神さまが私たちと一緒においでくださることなのです。
私たちが、自分が祈ったとおりの、自分に都合の良い恵みを与えられたら喜び、違う結果になったら 機嫌を悪くするのでは、神さまは悲しく残念に思われるでしょう。私たちがどのような者であっても、またどのような思いをその時に心に抱いていたとしても、神さまは私たち一人一人を、私たちそれぞれがすべて違っているように、特別の愛をそそいでくださいます。
私たちは時には放蕩息子であり、時には兄のようでもあります。神さまからご覧になれば 罪人や徴税人のようだったり、ファリサイ派や律法学者であったりするかもしれません。それでも、私たちがどのような者であっても、父・子・聖霊の神さまは 必ず私たちと共においでくださるのです。
マタイによる福音書の最後で、天に昇られるイエス様は、弟子たちに こうおっしゃいました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」その御言葉のとおりに、イエス様はどんな時も私たちを見捨てず、必ず 寄り添ってくださいます。
また、今日のルカによる福音書15章31節で イエス様はたとえ話の父親の言葉として こうおっしゃいました。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。」その次の御言葉です。「わたしのものは全部お前のものだ。」本当にその御言葉どおりに、イエス様は私たちのために 十字架でご自身の命さえ犠牲にしてくださいました。私たちにすべてを与えてくださったのです。それほど、私たちは主に深く愛されています。
あんな恵み・こんな恵みと人と、互いがいただいている恵みを人間的な判断で比べて一喜一憂するのは、やめたいものです。
私たちは、イエス様が命を捨てるほどの特別な愛を、それぞれに与えられています。この真理、ただひとつを心に受けて、進みましょう。今日から始まる新しい一週間を、主の光に包まれて過ごしましょう。
2024年6月2日
説教題:放蕩息子、帰る
聖 書:エレミヤ書31章18~20節、ルカによる福音書15章11~24節
そして、彼はそこをたち、父のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
(ルカによる福音書15:20)
ルカによる福音書15章には、イエス様が語られた三つのたとえ話が記されています。前回の礼拝で、私たちははじめの二つを聞きました。迷子の羊と、失くした銀貨を必死に探す持ち主の話です。それぞれのたとえ話で語られていたのは、私たちを造り、神の子としてくださる神さまの私たちへの深い愛でした。
神さまについてゆけずに迷子になって帰れなくなったものを、神さまは必死で探し出してくださいます。見つけ出したら抱いて大切に連れ戻し、たいへん喜んでくださいます。探すために苦労したことなど、まったく気になさらず 親しい者たちを招いて「お帰りなさいパーティ」さえ 開いてくださるのです。神さまは、私たちが迷子になったら探し出してくださる方なのです。前回の礼拝で、私たちはその恵みをいただきました。
迷子になった時、神さまについて行けない時、神さまに背こうといういわば「悪気」が、私たちにあったわけではありません。今日の放蕩息子のたとえ話で、イエス様は 神さまにはっきりと背いてしまった者・罪びとへの神さまの思いを語られました。
イエス様は、「ある人に息子が二人いた」と話し始められました。「ある人」は天の父なる神さま、二人の息子は神さまが造られた私たちです。
弟が、すさまじいことを言い出しました。12節です。お読みします。「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」
子どもは、親が亡くなった時に遺産として親の財産を受け継ぎます。父親が生きているのに、この弟はその父に「死んでください、あなたなんかいなくていいから、あなたの財産だけください」と言ったも同然です。父親はまったく怒らず、弟の希望通りに息子二人に財産を分けてやりました。
財産は家畜や畑だったかもしれませんが、弟はすぐにそれらをすべてお金に換えて、家から出て行きました。自由が欲しかったのです。与えられた居場所・生まれた環境から自分を切り離したい、自分だけの自分になりたいと思いました。
自分だけの自分になって、やりたいことをしたいと思った息子ですが、この「やりたいことの中身」はたいそう虚しいことでした。今日の聖書箇所に用いられている「放蕩」という言葉は、虚しく不道徳な道楽に溺れて、身を持ち崩すことをさす言葉だそうです。 身を持ち崩すとは、自分の身を保てずにぐずぐずに壊れてしまうということでしょう。
この息子にはもともと、本当に意味と意義のあるやりたいことなど、何もなかったのです。いえ、もっと言えば、この息子は家を出た時に、真実の自分もそこに置き去りにしてしまったのです。抜け殻が、さまよい出たようなものでした。抜け殻で中身がなくてからっぽだから、彼は誠実な人間関係を築くこともできませんでした。だから、本当に困った時に手をさしのべてくれる友達が誰もいなかったのです。
豚の餌を食べなければならないほど飢えて、行き詰まって、彼は初めてこの真実に気付きました。17節です。お読みします。「そこで、彼は我に返って」 ― 彼は、真実の自分を父の家に置いて来てしまったことに気付いたのです。
そして、彼はこう言いました。少し先へまいります。18節です。「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。』」
この罪は、どんな罪でしょう。先ほど「この息子は家を出た時に、真実の自分もそこに置き去りにしてしまった」と言いました。これまで与えられていたすべての恵みの代わりに、虚しい快楽を手に入れた時、この息子は生きる喜び・真実の命を自ら捨てたも同然でした。
彼は放蕩の限りを尽くしている間、死んでいたのも同然だったのです。私たちの魂が「神さまなんかいない」とうそぶき、糸の切れた風船のようにさまよっている間、父なる神さまは私たちの魂の死を悲しみ、本当に残念に思ってくださいます。
しかし、希望は必ず あります。私たちのうちに希望があるのではありません。神さまと私たちの関わりの中に、希望があるのです。神さまは、どんな時も、私たちの手を必ず握りしめていてくださいます。
私たちの方から手を放してしまっても、神さまは私たちをつかんでいてくださいます。そのつながっている神さまの手と私たちの手の中に、希望があります。そこに、必ず希望は息づいているのです。神さまに背いた者が、そうだ、自分にはお父さんがいた…自分には父なる神さまがいた ―そう思い出した時、神さまは手に力をこめて 私たちを抱き寄せてくださいます。神さまは、愛をこめて私たちを造ってくださったその思いを、貫き通してくださいます。
今日のたとえ話で、放蕩息子がとぼとぼと家への道を歩いてゆく20節の半ばで イエス様はこう語られます。お読みします。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」
父は、この息子に「死んでください」と言われたのも同然の無礼な仕打ちを受けました。ところが、そんなことはまるでなかったかのように、息子が帰って来たことを全力で喜びました。
先ほど、神さまは「私たちの魂が『神さまなんかいない』とうそぶき、糸の切れた風船のようにさまよっている間、私たちの魂の死を悲しみ、本当に残念に思ってくださる」と申しました。神さまは、私たちが神さまに立ち帰る時、本当にこのように喜んでくださるのです。事実、24節にこのように記されています。お読みします。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった…そして、祝宴を始めた。」
この無礼な息子・父に「死んでくれ」と言わんばかりに生前の遺産分与を求めた息子のように、私たちはイエス様を十字架に架けてしまいました。それでも、主は私たちが魂の死から救われることを 心から望んでくださったのです。
そして、主の日ごとに私たちが主に立ち帰り、礼拝で信仰を告白するのを 私たちの天のお父さまは限りなく喜んでくださいます。祝福してくださいます。今日、私たちはその恵みのしるしの聖餐式にこれから私たちは与ろうとしています。深い感謝のうちに、また私たちの主が 必ず私たちと共においでくださる方であることをあらためて心に留めてその大きな安心と幸いのうちに、聖餐式に臨みましょう。今日から始まる新しい一週間を、恵みに満たされて進み行きましょう。
2024年5月26日
説教題:わたしを探してください
聖 書:詩編119編169~176節、ルカによる福音書15章1~10節
「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
(ルカによる福音書15:7)
イエス様の御名を聞いて、真っ先に思い浮かべるイメージが「迷子になった小羊を探し出し、群れに連れ戻してくださる」お姿…という方が大勢いらっしゃると思います。それほどよく知られているイエス様のお話が、このルカによる福音書15章にあったのだと あらためて気付かされた方もおられるでしょう。
イエス様は、このたとえ話をどのような状況で語られたのか ― 今日は、御言葉に従って15章の最初・第1節からご一緒に読んでまいりましょう。15章1節には、こう記されています。お読みします。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。」
「徴税人」も「罪人」も、当時のユダヤ社会の嫌われ者でした。「罪人」は、ユダヤの律法どおりに安息日を守らなかったり、食物規定を犯して好きな物を食べたりする人たちです。「徴税人」は、税金の取り立てに手数料を加算し、私腹を肥やしている者たちでした。
その徴税人や罪人たちが、イエス様の話を聞こうとイエス様に近づいたのでした。イエス様のまわりには、すでに弟子たち、ついて来た大勢の群衆、さらにイエス様の話の上げ足を取ろうとしているファリサイ派の人々や律法学者が集まっていました。嫌われ者の徴税人や罪人がやって来るのを見て、ファリサイ派の人々や律法学者たちは露骨に嫌な顔をしたことでしょう。彼らは、徴税人や罪人を拒まずに受け入れるイエス様を批判し、「この人(イエス様)は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い始めました。
食事を共にするのは、信頼と仲間意識の表われです。ファリサイ派の人々や律法学者は、自分たちは清くて御心に適う者で、イエス様と徴税人、罪人とは違うと差別的な発言をしました。すると、イエス様はその差別発言をしたファリサイ派の人々や律法学者たちに向けて、こうおっしゃったのです。4節をお読みします。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」
ここでイエス様がおっしゃった「あなたがたの中に」という言葉には「徴税人や罪人、さらにはイエス様をすら差別するファリサイ派の人々や律法学者でさえ」というニュアンスがこめられています。また、今 こうして御言葉をいただいている私たちを含めて、人間すべてに語りかけていると考えて良いでしょう。
当時のユダヤ社会では「羊」は、財産を表しました。自分自身と家族を支える大切な資産である「羊」は、「群れ」であるからこそ大きな価値を持ちました。
ある品物が、ひとつのまとまりとして意味を持つことは、今日の聖書箇所 ルカによる福音書15章8節以下で、イエス様が語られたもう一つのたとえ話でよりはっきりといたします。先にその二つ目のたとえ話に目を向けましょう。ドラクメ銀貨を十枚持っている女性が、その一枚を失くしたら、見つけるまで念を入れて探し出すという話です。
このドラクメ銀貨十枚は、当時 女性が結婚する時の持参金として実家からプレゼントされ、嫁ぎ先に持ってゆくものだったそうです。この十枚は首飾りのように、ひとつにつなぎ合わせて女性に贈られるものでした。ドラクメ銀貨1枚が1万円ほどですから、10万円の価値を持ちます。それと同時に、女性にとっては両親の思いがこめられた大切なものです。
そのつなぎ合わせられた銀貨の輪の結び目が何かの拍子に切れ、銀貨がばらばらとこぼれてしまい、9枚は見つかったけれど最後の1枚が見つからない ― そんな状況を思い浮かべると、その1枚を探す女性の必死さを感じられるでしょう。十枚でひとつにつながっているドラクメ銀貨 ― その完全な形が損なわれてしまっては、女性にとっては大きな心の痛みとなるのです。
「羊の群れ」も、「群れ」であるからこそ、持ち主にとっての重要な意味があります。群れの大きさに関わらず、一匹欠けても 自分の「群れ」として完全ではなくなってしまうからです。
ところが、羊は銀貨と違って動き回ります。羊は「群れ」として行動する習性があり、互いに肩など体の一部が触れあっている感触を通して、自分の位置を確認します。誰かが自分に触れて導いてくれると その後についてぞろぞろと「群れ」で動きます。その習性を利用して、羊飼いは羊の群れを美味しい牧草地ときれいな水のある場所に連れて養います。
羊は「群れ」で他の羊たちとふれあい、その中に自分がいる時に、安心していられます。「群れ」からはぐれ、一匹だけ迷子になってしまうと、たいへんなストレスにさらされるのだそうです。
ところが、羊は迷子になりやすいのです。以前、羊は目があまり良くないとお話ししました。羊の目は瞳孔が横向きに細く、視界は270度から320度の広さ – つまり、自分のかなり後ろの方まで、首を動かさずに見渡すことができます。その代わりに、奥行きを測る視力が欠けていて、土地の高低やへこみ・くぼみがわからず、立ち往生するそうです。体が触れあっていれば、勇気を出してその方向に進むことができますが、ふれあいを失い、視力に頼るだけの状況に陥ると立ち止まってしまいます。こうして、羊は群れからはぐれてしまうのです。
群れからはぐれて迷子になったという、そのストレスだけでも羊は相当 衰弱してしまいます。ふれあいを失った羊は、孤独ゆえに意気消沈して気力を失います。また、先ほどお話しした視力の特性のために、他の羊や羊飼いが触れてくれる感触に頼って歩み出せないために、自分の力ではもう群れに帰れません。
「群れ」の一匹がいなくなってしまった ― これは、群れの所有者、そして群れを任されている者にとっては一大事です。
たいへん身近な例として、このようなことが考えられます。たとえば保育園でお子さんたちを預かって公園に連れて行き、ふと気づいたら一人いなくなっていたら、大事件です。何としても、迷子を捜し出さなければなりません。
その状況での心のざわつきと焦り、冷や汗が滲み出て来るような思いは、ファリサイ派の人であろうが、徴税人であろうが、律法学者であろうが、罪人であろうが、皆 同じだとイエス様はおっしゃいます。そのとおりではないでしょうか。
神さまは、私たち人間をご自身に似た者にお造りくださいました。心の動きも似ていると、類推することができます。ですから、迷子を思って動揺する心境は、神さまも 私たちも同じだとイエス様は語られるのです。いえ、私たちを深く深く慈しんでくださるがゆえに、迷子を思うその思いは私たちよりはるかに強いのではないでしょうか。
神さまに見守られている「私たち・この世の群れ」からたった一人でも欠けたら、神さまは必死に探してくださいます。
たとえ話の中では、ちゃんと群れの中にいる九十九匹を野原に残してまでも、探しに出かけてくださいます。ただ、この聖書箇所を読むたびに 私は思わずにはいられません ― 決して迷わない九十九匹は、本当に存在するのだろうか?イエス様は、迷子の羊を探すために それほど真剣になってくださると示すために このように言われたのではないでしょうか。
今日の7節で、イエス様はこのようにおっしゃられます。7節をお読みします。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
ここで言われている「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」は、そのように罪を犯さない人は、本当にこの世にいるのでしょうか?
私のことを申せば、言われた方や周りの方が嫌な思いをするのは明白なのに なんで あんなことを言ってしまったのかと思うことを繰り返してばかりです。神さま、イエス様、ゆるしてくださいと祈りの中で願うことばかりです。また、気付かない間に 神さまが導いてくださるのとは別の方角に 勝手に進もうとしているかもしれないと 時々恐ろしくなります。
ローマの信徒への手紙3章10節には、使徒パウロのこの言葉が記されています。お読みします。「正しい者はいない。一人もいない。」人間は、誰も皆、神さまのもとから迷い出てしまう者・過ちを犯す者だとの言葉です。
パウロのこの言葉も、実は詩編の二つの箇所からの引用です(詩編14:1、53:4)。
パウロでさえ、詩編の祈りの人でさえ、神さまから迷い出てしまう者なのです。私たちは皆、自分では自覚もなく、どうすることもできずに主の民である恵みからはぐれて、いつの間にか迷子になってしまうのです。
その私たちを必死に探し出し、神さまの正しい道へと、また真の主の群れへと連れ戻して下さるのは 私たちの主です。
その必死さと真剣さのゆえに、イエス様は私たちのためにご自身の命すら 十字架で犠牲になさってくださいました。そうまでして、イエス様は必ず私たちを主へと連れ戻してくださいます。
その確かな証が、イエス様のご復活です。ご自身の命を犠牲にしても、私たちを救い、父なる神さまのもとに戻してくださることを大きな喜びとなさる ― それが、私たちの救い主イエス様です。
だからこそ、今日の聖書箇所には「喜ぶ」という言葉が何度も用いられているのです。命を捨てて、探し出した私を、私たち一人一人をイエス様は「喜んで担いで」、「友達や近所の人々を呼び集めて…一緒に喜んでください」とおっしゃり、「大きな喜びが天にある」と言われます。
イエス様に忠実に生きたいと願いつつ、私たちは日々を過ごしています。皆さんが多くのご奉仕をささげておられるこの薬円台教会を、主は確かに導いてくださっています。その中で、あえて、心を合わせて、なおもこう祈ることを忘れずにいたいと願います ― 「イエス様、私を、私たちを探し出してください。」
神さまは、私たちが神さまの民として身を寄せ合って神さまのお近くにいることを喜んでくださいます。私たちからも おそばから決して離れずに共にいさせてくださいと祈りましょう。心から願いましょう。今日から始まるこの新しい週も、主と共に生かされている喜びに、心を満たされて力強く進み行きましょう。
2024年5月19日
説教題:教会のはじまり
聖 書:創世記11章1~9節、使徒言行録2章1~13節
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、‟霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
(使徒言行録2:1‐4)
聖霊降臨日を迎えました。聖霊降臨によって教会が誕生した恵みを記念して、私たちは今、ペンテコステ礼拝をささげています。
教会の三大祝日はイエス様のお誕生・ご降誕を祝うクリスマス、ご復活のイースター、そして今日のペンテコステ・聖霊降臨日です。ペンテコステは、キリスト教社会ではない文化では、クリスマスとイースターに比べるとあまり認知されていないように思います。この聖霊降臨日に弟子たちに降った聖霊とは何であるかを、まずご一緒に思いめぐらしてまいりましょう。また、この恵みによって、私たち信仰共同体・教会が始まったことを特に深く心に留め置くために、今日は説教題を「教会のはじまり」といたしました。
聖霊は私たちの神さま、三位一体の主なる神さまです。三位一体の主は、創造主なる天の父・救い主なる御子イエス様、そして私たちに信仰を与える聖霊の「三位」にして一つの方です。
イエス様は天の父・神さまから世に遣わされ、十字架の出来事とご復活で救いの御業を果たされました。ここで、イエス様の地上での使命は完成・成就しました。ですから、イエス様はいつまでもこの世にとどまらず、本来の御座・天の神さまの右の座に戻らなければならないのです。
神さまが、御子イエス様を人間としてこの世に遣わされたのは、私たちの目には見えない神さまを、見えるようにしてくださろうとの配慮からでした。神さまが見えないから、その御声が聞こえないから、その導きを信じることができない人間が魂で愛を知ることなく、争いを重ねているのを、神さまは可哀想だと思ってくださったのです。それでは、ご復活されたイエス様が天に戻られたら、また私たち人間には、神さまが見えなくなって愛を失ってしまうのでしょうか。
いえ、そうならないために、イエス様は、ご自分が天に戻られる時に、弟子たちに約束をしてくださいました。こう言い置かれたのです。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ福音書24:49)
イエス様は弟子たちに、イエス様のように、神さまの御心どおりに聖書の言葉を説き明かし、語る力を与える者が、必ず高い所・天から送られてくると約束されました。この「約束されたもの」こそが、聖霊です。
神さまは、必ず約束を守る方です。ご復活から50日後の五旬祭の日、ギリシャ語で言うペンテコステの日に、天から聖霊が降りました。その出来事を語るのが、先ほど司式者がお読みくださった今日の新約聖書の御言葉です。私たちキリストの教会は、毎年、その恵みの出来事を記念して、こうしてペンテコステ礼拝を祝っているのです。
あらためて、聖霊とは何か・どんな方かと申せば「復活されたイエス様が天の父の御許に還り、昇天された後に、イエス様と入れ替わるように、私たちに寄り添って、私たちに神さまの御心を伝え、聖書の言葉を理解する力を与えてくださる方」です。また、祈りの時に、神さまは私たちに聖霊を通して語りかけてくださいます。だから、私たちは礼拝の前・集会の前・祈りの前に「聖霊で満たしてください」と祈るのです。
聖霊の恵みとして、皆さまの心に留めておいていただきたいことを今日は二つ、お伝えします。
ひとつは、聖霊が御言葉の力を現すことです。今日の新約聖書の言葉・使徒言行録2章が語る聖霊降臨の出来事は、それを私たちに伝えてくれています。「炎のような舌」が、そこに集まっていた者一人一人の上にとどまった、と語られています。舌 ― それは、言葉を語ります。
教会で、また聖書で、言葉は特に深く大切な意味を持っています。世界を造られた天地創造の時、神さまは言葉で「光あれ」とおっしゃることで光を造られました。また、ヨハネによる福音書は「初めに言(ことば)があった。」と神さまを、またイエス様を「御言葉」と言っています。私たちがコミュニケ―ション・意思疎通のために用いる言葉ではなく、「御言葉」であることを、心に留めましょう。
神さまの言葉・「御言葉」は、意味を伝えると同時に、感動を伝えます。神さまの私たちへの深い愛、イエス様が私たちの代わりに命を捨ててくださった深い愛が、聖書の言葉・「御言葉」にこめられているからです。
今日の聖書箇所の11節後半をご覧ください。「炎のような舌が一人一人の(弟子の)上にとどまる」と、弟子たちはさまざまな外国語で語り始めました。彼らは、外国語で、同じ事柄・同じ内容を語っていました。その内容とは、そこに記されているように「神の偉大な業」です。
「神の偉大な業」とは、救いの御業です。イエス様が十字架で私たちのために死んでくださり、それによって私たちを罪と滅びから救い出してくださり、復活されたことです。
今日の聖書が語る出来事は、たいへん不思議なことのように思えます。しかし、思えば、これと同じことが毎週、全世界の教会で行われているのです。日曜日ごとに、世界中のキリストの教会で、ありとあらゆる国の言葉で礼拝が献げられ、聖書の御言葉が読まれ、主の愛が語られ、イエス様の十字架の出来事とご復活の救いの福音が告げられています。
今現在、すべてのキリストの教会が行っている「教会のわざ」が最初に為されたのが、今日の聖書箇所が告げる五旬節・ペンテコステの日でした。だから、聖霊降臨日・ペンテコステは「教会の誕生日」とも呼ばれています。
今日、聖霊について心に留めていただきたいもうひとつのことは、聖霊が神さまの愛の力を現すことです。愛とは、あなたはたいせつだ、私にとっていなくてはならない人、かけがえのない人だと互いに深い関わりを結び合うことです。イエス様は、私たちを愛して深く関わってくださいます。
私たちがもし、もう生きていたくないと絶望することがあったならば、聖書を通してこう語りかけてくださる方です ― 私はあなたに生きていて欲しい、私があなたに寄り添うから生きて欲しい。だから、神さまは私たちに肉体の死を超える永遠の命を与えてくださったのです。
愛は、生きる希望を与えます。絶望の死の淵から命へと呼び返し、よみがえらせるのが、愛です。よみがえり・復活は、死んだもの、滅んだもの、壊れてしまったものが元どおりに、さらにそれ以上のものになることを言います。一度、絶交状態になってしまった者同士が仲直りをして、さらに信頼を深め、互いに今まで以上に心を寄せ合い、助け合って進む ― そのような関わりの復活を聖霊は私たちの内で働いて、可能にしてくれます。聖霊は、一度は解体してしまったもの、ばらばらになったものをもう一度、元どおりに修復し、復活させる力をさすのです。
今日の旧約聖書はバベルの塔の話を伝えています。人間は、れんがを造ることを知り、アスファルトを発明して何でもできる力を持ったように思い、天 ― 神さまの領域に踏み込もうと傲慢になりました。
人間の知恵の成果は、善も悪も両方もたらします。たとえば、数学と技術の成果であるインターネットはたいへん便利ですが、それを用いた犯罪を招いています。真の善悪の判断は、神さまがなさる御業で、人間は神さまの領域に踏み込んではなりません。
バベルの塔の話で、神さまは人間がそれ以上、傲慢にならないようにと、互いの言葉がわからないようになさいました。こうして、神さまは人間が、自らを神とする傲慢の罪を犯す過ちから守ってくださったのです。そして、人間は全地に散らされました。
長い旧約聖書の時代を経て、新約聖書の時代に、バベルの塔と逆のことが、聖霊降臨日に起こりました。
聖霊によって、弟子たちはさまざまな言語で、しかし、まったく同じ内容・神さまの偉大な業・福音という同じひとつのことを語り始めました。主のみ恵みによって、ばらばらになっていた人間の心がひとつとされました。心がひとつになるとは、敵・味方の対立がなくなることです。
聖霊によって主の愛に満たされて、私たちが生きるこの世界に、平和がもたらされる希望がここにあります。たいへん残念なことに、この世界に、まだ本当の平和は訪れていません。しかし、聖霊を信じ、イエス様の愛を信じ、父なる神さまを共に仰ぐことで、私たちは平和への道を与えられています。その希望の恵みをいただいて、今日から始まる一週間を歩んでまいりましょう。
2024年5月12日
説教題:主に従う者は
聖 書:申命記5章1~10節、ルカによる福音書14章25~35節
自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
(ルカによる福音書14:27)
今日は、説教題を「主に従う者は」とさせていただきました。主に従う者が、どんな心構えで過ごせばよいかを、イエス様が今日の御言葉を通して私たちに語りかけてくださるからです。また、今日の聖書箇所 新約聖書 ルカによる福音書14章25節から35節の小見出しをご覧いただくと、そこに「弟子の条件」と記されています。イエス様は、私について来て 私の弟子として生きるのなら、こうしなさいと教えてくださっているのです。
今日の聖書箇所の冒頭 ルカによる福音書14章25節は、こう語ります。「大勢の群衆が(イエス様と)一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。」
「大勢の群衆」の中には、神さまの教えを新しく しかも魅力的に語ると噂の高いイエス様への単なる好奇心でついて来ている者が少なからず いました。イエス様は、その者たちに「こうこうでなければ、わたしの弟子ではありえない」と厳しくおっしゃられたのです。
「わたしの弟子ではありえない」という言葉は、今日の聖書箇所に3回、繰り返されています。その御言葉は、私たちの心にたいへん厳しく響きます。こんな厳しいことを心に留めておかなければならないのなら、自分はキリスト者・クリスチャンとして 到底やっていけない…と私などは思ってしまいます。
ただ、イエス様に招かれて洗礼を受け、この礼拝に集っている私たちは すでにイエス様の弟子です。何度も礼拝に出席している方は、まだ洗礼を受けておられなくても イエス様の弟子となる志をいただいています。ですから、「わたしの弟子ではありえない」とのイエス様の御言葉は、逆説的ではありますが、弟子とはどのようなものかを明確に私たちに教え、そのような弟子になるようにと私たちを励ます力強い導きの言葉なのです。イエス様は「わたしの弟子であるあなたがたに、わたしは大いに期待している。だから、こう歩んでほしい」と言ってくださっているのです。
こう歩んでほしい…という弟子の姿勢を、イエス様は三つ 示されておられます。ひとつずつ、ご一緒に御言葉から聴き取ってまいりましょう。
まず、最初の姿勢は26節に語られています。イエス様は、こうおっしゃいました。26節をお読みします。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」これは、私たち弱い人間には、愛の主イエス様がおっしゃったとすぐには実感できないような、ギョッとするほど、厳しい御言葉です。
この御言葉は、前回の聖書箇所と関係づけて読まなければなりません。前回の聖書箇所 ルカによる福音書14章15節から24節で、イエス様はこの世の幸福を神さまよりも優先する者は、永遠の幸福・神さまの御国の幸いをいただけないことを示されました。
私たちは幸福を他者との関わりの中で感じます。特に、自分にとって親しい者との間で実感します。この世で親しい人間と言えば、まず「家族」が思い起こされます。血のつながりのある父、母、子ども、兄弟、姉妹、そして血のつながりはないけれど 私たちが深く愛おしく大切に思う妻、夫。それぞれ、私たちにとってかけがえのない存在で、家族と睦まじく過ごす日々は私たちの心に幸いと平安をもたらします。しかし、家族・血族だから親しく、睦まじくいられるのでしょうか? そもそも、家族・血族の絆が存在するのは、あくまで「この世」でのことなのです。
イエス様は、マタイによる福音書22章30節で イエス様はこうおっしゃいました。「復活の時には(これは、この世が終わり すべてが神さまの国となったら…という意味です)、めとることも嫁ぐこともなく、(誰もが)天使のようになるのだ。」
イエス様は、御言葉を通して、繰り返し「わけへだてなく」とおっしゃいます ― それは、男性も女性もなく、身分の違いなどもちろんなく、現在の私たちの社会の課題として言われている格差の問題を超えるのが理想的な在り方だということです。
神さまの国・御国では、わけへだてがありません。
天使に性別がないように、御国では 私たちは男性であるか、女性であるか、現代的な角度から申せばLGBTQの事柄 つまり自分が男性であるか 女性であるかを考えることも、悩むこともなくなると イエス様はおっしゃいます。
血縁関係にない男女が家族となるための結婚は、御国ではもうありません。自分の夫、妻、子ども、兄弟、姉妹、さかのぼって父と母という関係そのものがなくなります。自分の家族、他の家族という区別がなくなり、みんなが全体で、神さまを父とする兄弟姉妹になります。その永遠の御国を心に描いて この世の現実を歩んで行きなさい ― イエス様は、キリスト者の基本姿勢として まずそのことを教えてくださいます。
二つ目の姿勢は、27節に語られています。27節を拝読します。イエス様は、こうおっしゃいました。「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」イエス様がここで言われる「自分の十字架」とは、何でしょう?
「十字架」は、死刑の道具です。イエス様は十字架に架けられ、死刑に処せられてこの世の命を終えられました。罪人を罰するための死刑の道具ですから、「自分の十字架」とは「自分の罪」と考えて良いでしょう。
私たちそれぞれの、自分の罪とは何でしょう。一人一人、過去にこんなことをやらかしてしまった、あれはどう考えても人間としてアウトだったと思える、いわゆる黒歴史があるのではないでしょうか。自分でたいそう気になっていて、どうしても変えることの出来ない性格的な弱点・欠点も「罪」です。その黒歴史や欠点を、「自分の十字架」として、そのまま背負って私について来なさいと、イエス様はおっしゃってくださいます。
目を背けたくなる自分のありのままの姿としっかり向き合い、むしろ 自分の弱いところを意識的に背負って イエス様について行く ― それが、キリスト者・クリスチャンの二つ目の姿勢です。その「自分の十字架」を、イエス様が代わって背負ってくださり イエス様の十字架の出来事で私たちに代わって贖ってくださった恵みを、常に心に留めておくためです。イエス様の十字架の出来事と、それによって救われた恵みを忘れずに過ごしなさいと、イエス様は私たちを励ましてくださいます。
最後の三つめの姿勢は、28節から33節のイエス様の御言葉に示されています。ここで、イエス様はたいへん重要な言葉を二回、繰り返しておっしゃられます。28節と31節にある「腰をすえて」という言葉です。
イエス様の弟子であること・キリスト者であることを人生の土台として、そこに腰をすえて生きることを 私たちはイエス様に強く勧められています。私たちはこの世で、それぞれいろいろな立場をもって生きています。ご家庭では妻として、夫として、または父として、母として生きておられるでしょう。仕事の場では、それぞれ専門的知識や資格、経験や与えられている役職を通して働いておられると思います。そのどの立場や役割にもまして、イエス様は私たちがイエス様の弟子・クリスチャン、教会という信仰共同体に生きる者であることに土台を置き、そこに腰をすえて生きるようにと私たちを導いてくださいます。
こう考えてもよいでしょう。自分の名刺を作るとしたら、その肩書には必ず「キリスト者・クリスチャン・イエス様の弟子」と書きなさいということです。
たとえば 私だったら「薬円台教会 教職(牧師)原田裕子」ではなく、「クリスチャン 原田裕子」「イエス様の弟子 原田裕子」と書きなさいと、イエス様はそうおっしゃるのです。
信仰を言い表して洗礼を受けた方は、皆 この同じ肩書になります。教会に連なる方は、皆 「クリスチャン だれだれ」「イエス様の弟子 だれだれ」と自ら名乗ることになります。事実、神さまの命の書に、私たちの名がそのように記されていることを思い起こしましょう。
この世で、クリスチャンであることに腰をすえ、キリスト者であることを貫き通す者こそが わたしの弟子だと イエス様はおっしゃいます。私自身の経験から、正直に申しますが、これはなかなか、いえ、実に難しいことです。貫き通せない状況に、私たちはこの世で毎日のように直面します。しかし、貫き通したいとの願いと志、祈りを忘れずに進み続けましょう。
イエス様は、私たちにその姿勢を望み、欠け多く罪深い私たちを深く愛して必ず共においでくださいます。決して私たちを見捨てず、「わたしに従いなさい、わたしについて来なさい」と励ましてくださいます。
今日の聖書箇所の最初の聖句のように、イエス様について行く私たちを「振り返り」、何度も繰り返して弟子としての心構えを教えてくださいます。私たちを慈しんで、養い育て、導いてくださる主に従って 今週も力強く歩んでまいりましょう。
2024年5月5日
説教題:主の栄光、神の輝き
聖 書:イザヤ書35章1~6節、ルカによる福音書14章15~24節
主人は言った。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。」
(ルカによる福音書14:23‐24)
今日の御言葉を通して イエス様は、神の国・御国について語られ、その恵みの大きさと深さを私たちに伝えてくださいます。神の国・御国についてイエス様が語られるのを、私たちはルカによる福音書13章から、数回の礼拝説教にわたり聴いてまいりました。
今日の聖書箇所に至るまでに、私たちは神の国は遠く彼方にあるのではないことを知らされました。神の国は、この世の現実の中に、からし種のように小さく、けれど確かに蒔かれていることを聞きました。また、身をかがめて小さな戸口から入るようにへりくだらなければならないけれど、神の国への道が必ずひらけていることをイエス様に教えられました。神の国へ、誰もがわけへだてなく招かれていることも、知らされました。この世で苦しんでいる者こそが 神の国に真っ先に招かれていることを聴きました。神さまは、私たちからのお返しなど求めずにひたすら恵みを与え続けてくださいます。私たちのために、大切な御子イエス様さえ、お与えくださったのです。ギヴ・アンド・テイクではなく、ギヴ・アンド・ギヴが神さまの愛であることを 前回の礼拝で私たちはあらためて知らされました。
今日は、イエス様の言葉を聴いて、私たちと同じようにその恵みの深さに感動した人の言葉から始まります。その言葉に応えて、イエス様はさらに、主の恩寵の大いなることを語ってくださいました。
イエス様は、こう語られます ― 神の国の宴会に招かれていた人々がいた、と。恵みをあふれるばかりにいただく神の国への招待状を、もらっていた人々がいたのです。ところが、宴会の時刻になったので 招きの詞を送ると その人たちは次々に断って来ました。
実は、この断りの理由には、共通点があります。その共通点は何かを考えながら、断った人たちの理由の聖句をお読みしますので お聴きください。
18節「最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。』」
19節「ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。』」
20節「また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』」
神の国の宴会への招待を断った三人の人たちに、共通しているのは何でしょう?それは、幸福だということです。この世的に豊かで、満ち足りているということです。土地を買えるお金持ち、牛を十頭も買うことのできる裕福な人、結婚して幸せの絶頂にいる人。三人とも、神さまを特に意識していません。そして、それぞれ、自分の今の状態にすっかり満足しています。神の国の宴会に行かなくても、人生を楽しめると思っているから、せっかく招かれているのに神さまの方を向こうとしません。実にもったいないことです。
この世の幸福と、神さまが与えてくださる恵みは次元が異なります。決定的に異なる点は、この世の幸福はいつまでも続かないけれど、神さまの恵みにより賜る幸福は永続するということです。
この世で価値を持つ土地の価格・地価は大暴落して、土地を買った人は大損するかもしれません。十頭の牛も、財産としての価値をいつまでも保つことはできません。年取ったり、病気になったり、迷い出て失われてしまったりします。家族の幸福は、それこそ神さまの祝福がなければ保つことができません。
神さまが恵みを差し出してくださっているのに、見向きもしないでこの世での幸福だけを求めるとは、なんと残念なことでしょう。
もうお気づきだと思いますが、この人たちのやっていることは偶像崇拝です。神さま以外の何かを、神さまよりも大切にしてしまったのです。
今日の聖書箇所の最後の聖句で、このようにイエス様は語られました。24節をお読みします。「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。」
神さまのお招きを断った人たちが、どれほど深い罪を犯しているかが 示されている御言葉です。しかし、神の国での宴会を断った人たちは、自分のやっていることが偶像崇拝だとは気付けなかったのです。ここに、人間の限界があります。
聖霊によってイエス様に導かれなければ、私たちも自分が何を真実に大切にしているかを振り返って考えることもなく、その日その日を この世の事柄に追われてあくせく過ごしてしまいます。
土地や牛、人生の大きな節目である結婚。イエス様は分かりやすい三つの例を挙げて、この世の幸福を示してくださっています。これら三つよりもわかりにくいこの世の幸福は、たくさんあります。私たちを取り囲んで偶像崇拝へ誘惑しようと待ち構えています。私たちが、それぞれ自分の正義を振りかざしてしまうことも、そのひとつです。そのために、今もこの世から争い・戦争が絶えません。
また、今 目の前にあるこの世の幸福は、私たちにとって 神の国よりも確実でリアルなことに思えます。私たちは自分の現実生活が充実していること ― 流行りの言葉遣いとしては、だいぶ使い古された感じがありますが、まさに「リア充」 ― が、大好きなのです。
イエス様は、私たちが求めるこの世の幸福よりも、神の国・神さまの恵みがはるかにすばらしいことを、私たちに分かるようにはっきりと語ってくださいました。
それが、21節です。「すると」からお読みします。「すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』」
前回の聖書箇所と同じように、この世の価値観からすると満ち足りていないかもしれない人を 断った人たちに代えて神の国に招きなさいと イエス様はおっしゃるのです。
今日の旧約聖書の御言葉と併せて読むと、イエス様が示される神の国のすばらしさが私たちにも明らかにされます。今日の旧約聖書の御言葉は、神さまの癒しと回復を謳っています。私たちは、神の国に生きる恵みによって、癒しと回復を賜るのです。
宴会 ― これは、神の国の盛大な宴・神さまの食卓、主の食卓をさします ― に招かれた貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人は、皆、神さまの食卓で癒され、自分の望みをかなえられ、満たされます。
今日の旧約聖書の御言葉は、荒れ地・荒れ野、砂漠で廃墟となったユダヤの町に川が流れて土地が潤い、花が咲き乱れて楽園のような美しさが取り戻される姿を謳っています。人間にはどうやっても取り返しがつかないことを、神さまは元のとおりに回復・修復してくださいます。砂漠を楽園によみがえらせ、病を癒し、滅びた者を救ってくださいます。
私たちにはどうすることもできない命の終わり・死をさえ、神さまはイエス様を通してくつがえしてくださいました。十字架で死なれたイエス様は、死を超えて 三日後に復活されたのです。
それを知らされている私たち教会に生きる者は、それぞれ自分が偶像崇拝をしていないか、神さまの招きにすなおに応じて日々の歩みを進めているか 自らをかえりみる機会を与えられています。悔い改めて、神さまを人生の中心・生活の中心にする生き方に立ち帰るチャンスを日々、いえ 一瞬一瞬ごとに与えられているのです。
イエス様は、今日のたとえ話の最後の聖句で 神の国への招待を断った者たちにこうおっしゃいました。24節を、今一度お読みします。「あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。」イエス様がおっしゃる「わたしの食事」 ― それは、この礼拝で私たちが共に与る聖餐式です。イエス様に招かれて、私たちはイエス様の十字架の出来事とご復活を信じ、お招きに応えて洗礼を受けます。そうして、イエス様の食卓・聖餐式の恵みに与ります。
この世にありながら、神の国の食卓に着かせていただくことで、私たちが自覚せずに枯渇していた魂はみずみずしくよみがえります。聖餐式で私たちがいただくイエス様の身体なるパンと、血潮なる杯は、私のために、私たち一人一人が永遠の命をいただくために ご自身は死なれたイエス様の深い愛そのものだからです。イエス様の愛の食事によって、私たちの心は花園のように麗しく変えられます。それは、私たちが自分の力で変わったのでは まったくありません。イエス様が、私たちを神さまの子・光の子に変えてくださるのです。
イエス様の十字架の出来事とご復活 ― この確かな根拠を心に与えられて、恵みの聖餐式に与りましょう。新しい力に満たされて、今日から始まる一週間を進み行きましょう。
2024年4月28日
説教題:日々、恵みに満たされて
聖 書:詩編96編1~2節、ルカによる福音書14章1~14節
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。…宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。
(ルカによる福音書14:11,13-14)
前回の主日4月21日の礼拝後に、私たち薬円台教会は2024年度定期教会総会を開き、主の御前にて今年度の主題と主題聖句をいただきました。主題は「日々新しく恵みに満たされて、福音を伝えよう」、その基となっている聖句が本日の旧約聖書の詩編96編1~2節です。
詩編96編1~2節をあらためてお読みします。「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。」ここには、神さまをわたしたちの神さまとして仰ぐことのできる感謝と喜びが、いきいきと謳われています。また、神さまからの恵みに満たされた私たちが 日毎に信仰を養われて、「御救いの良い知らせ」・福音を世に宣べ伝える伝道の心意気が語られています。日毎に祈り、御言葉に親しみ、礼拝で兄弟姉妹が共に主を仰いで恵みに与って真実に正しく生きる力を与えられると、私たちは聖霊で満たされ、その恵みをまだ知らない方々に伝えたくなります。
私たちは、何をするにもイエス様をお手本にします。伝道をする時にも、もちろん、イエス様をお手本とし、イエス様が教えてくださる信仰の姿勢で福音を世に伝えてまいります。今日の新約聖書の御言葉を通して、イエス様は私たちにその信仰の姿勢を教えてくださっているのです。
2020年から、昨年2023年の5月に法的判断がくだされるまで、新型コロナ感染症によって私たちは集まること、そして教会に新しく近隣や知り合いの方々をお招きして伝道集会を開くことができませんでした。3年以上にわたる忍耐の時を経て、今年度は始めから、感染症が拡大する前の教会行事を再開し、伝道活動に再び勤しめるようになりました。
ただ、すべてがすっかり前と同じに戻ったのではありません ― 社会全体が、感染症拡大予防から他者との距離の取り方について、また情報の伝達方法について、学んだことがいくつもあります。オンラインで会議を行う方法は、これから先も活用され続けるでしょう。会議の時間を短くする傾向も、一般化されたとの感があります。
伝道活動の再開にあたっては、感染拡大予防の対策ばかりでなく、3年の間に起こった社会・世界の変化を考慮し、かつ配慮しなくてはなりません。この3年余の間に、社会・世界では何が起こったでしょう。パンデミックのさなかなのに、戦争が起こり、しかも長引いてしまっていることにこの世全体が心を痛めています。私たちが暮らすこの国のこととしては、社会が子育てにより深い関心を寄せ、保育施設や児童相談所が以前よりもクローズアップされているように思えます。SNSや動画配信などの便利な伝達手段が一般的になった反面、それによるいじめや風評被害の課題が報道されるようになりました。そのために、個人情報について、以前よりもずっと慎重な扱いが必要とされ、期待されていると感じています。
私たち教会に生きる者はイエス様の平和を伝えて、伝道活動を展開します。伝道活動は福音を伝える ― すなわち、情報伝達ですから、伝え方に慮りが必要です。個人情報について、また隣人との接し方について、私たちは細やかな配慮を求められます。感染症拡大よりも前の伝道のかたちに再び戻るのではなく、今の時代にふさわしく工夫された新しい伝道の形が必要とされています。
そこで、今年度の主題には「新しく」という言葉が入っているのです。
もちろん、「新しく」とは、教会で今この時に格別に求められている事柄ではありません。むしろ、「新しく」とは、教会の基本姿勢です。私たちは日毎に主に新しく呼ばれ、それに新たに応えて、日々新しく神さまとの関わりをいただきながら信仰の人生を送ります。その当たり前のようでいて、常にあらためて心に留めなければならない信仰の姿勢を、私たちは今日のイエス様の御言葉からいただいています。
少し前置きが長くなりましたが、本日の聖書箇所に、ご一緒に聴いてまいりましょう。今日のルカによる福音書14章1節からの聖書箇所は、イエス様が安息日に癒しの御業を行った恵みを語っています。
それは安息日の出来事で、場所はファリサイ派の議員の家の食卓の席でした。イエス様が安息日に病の人を癒される ― そこにファリサイ派の人々や律法の専門家が絡むという出来事を、皆さんと、前にもご一緒に礼拝で読んだことを記憶されているかと思います。
その時に癒されたのは、腰が曲がって十八年間も伸ばすことができなかった女性でした。ファリサイ派や律法学者たちは、イエス様が安息日に癒しを行った、作業をして働き、律法違反を犯したと批判しました。その批判を受けて、イエス様は神さまの御心を語られ、主の愛が私たちを御国へと、永遠の命へと導くと「神の国」のことを話されました。人の世にあって互いに睨み合い、批判し合い、足を引っ張り合うよりも、「同じ方向」を向いて心ひとつに進むことを勧めてくださったのです。「同じ方向」 ― それは、イエス様の御跡に従い、イエス様に従って、神の国に向かうことをさします。
今日の聖書箇所でも、イエス様は安息日の癒しのみわざから、神の国の恵みを語られました。繰り返しになりますが、イエス様はこの時、ファリサイ派の議員の家で、食事の宴席に招かれていました。
招待された人たちが、おそらく争うようにして上席に着こうとするのを イエス様はご覧になりました。その様子から、神の国に招かれた者の姿勢を 婚宴の席をたとえに用いて教えてくださったのです。それは、11節の真理を私たちに伝えてくださるためでした。11節をお読みします。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカによる福音書14:11)神の国への入り口は狭いから、身を低くし、へりくだって小さくなって入りなさい ― 前の前の主日、4月14日の礼拝でその御言葉をいただいたことを記憶にとどめておられる方がおいでだと思います。イエス様は、その教えをここでも繰り返してくださいました。
また、招待をした人に向けて、今日の聖書箇所の13節でこうおっしゃいました。13節をお読みします。「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」イエス様は、私たちをご自身の御国に招いてくださる神さまとして、こうおっしゃられます。
神さまは、私たち皆を御国に招いてくださっていますが、その恵みには貧しい者、人間的な思いからすれば 体が思うように動かせなかったり、目が見えなかったりと 満ち足りているとは考えられない状態にある者たちを真っ先に招いてくださるのです。どうして、そのような、いわば人間的な価値観から言えば ― 言葉は良くないと思いますが ― 「弱い」立場の者を優先してくださるのでしょう。
その理由は、14節に記されています。こうイエス様はおっしゃるのです。「その人たちはお返しができない。」私たちは何かをもらうと、またはしてもらうと、感謝の思いをこめて「お返し」をします。その「お返し」は、相手の方との絆や友情を深めるでしょう。
ところが、時には、お返しをすることを義務のように思い、お返しをしないと借りを作ってしまうこと・相手の方に対して引け目を感じるようになることを恐れて無理をして「お返し」をすることがあります。
金銭的・精神的な余裕がないのに、何とか工面してお返しをすると、だんだん相手の方との関わりを負担に思うようになります。「お返し」は、場合によっては人と人を遠ざけてしまいます。必ずしも良いことではないのです。
神さまにあって、「お返し」はありません。与えたりもらったり、貸したり借りたりという関わりは、言ってみればギヴ・アンド・テイクの関係です。神さまは、その関係性を超越しておられます。ただ、ひたすら、ギヴ・アンド・ギヴ ― 与え尽くされるお方です。
イエス様は、私たちのために、神さまに何のお返しもできない私たちを「神の国」、永遠の命に招くために 人としてのすべてを与え尽くしてくださいました。私たちを救うために、十字架で命を捨ててくださったのです。私たちは、イエス様から そのように限りのない深い愛をいただいています。
私たちのお手本、人生の模範はイエス様です。イエス様がなさるように自分もしたいと願うことを、私たちはゆるされています。イエス様は私たちに、教会の兄弟姉妹と、またこの世での隣人と関わる時に、与え尽くす生き方を示してくださいます。教会生活でも、またこの世への伝道においても、相手の方のためになることだけを目的として生きるようにと、イエス様は私たちに教えてくださるのです。それが、私たちの信仰の姿勢です。
そのようにイエス様に従って進む私たちは、真実の恵みと幸福、平安と喜びに満ちた「神の国」へと導かれます。この2024年度、私たち薬円台教会は 喜びと希望を胸に、イエス様に従う志でひとつとされ、信仰の姿勢を保ちつつ、心を高く上げて進み行きましょう。
2024年4月21日
説教題:主の御翼に守られて
聖 書:詩編17編1~8節、ルカによる福音書13章31~35 節
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」(ルカによる福音書13:34)
今日 与えられている聖書箇所の最初の聖句は、イエス様が人々に神の国を伝えているところへ、ファリサイ派の人たちがやってきたことを語っています。皆さんがご存じのとおり、ファリサイ派の人々はイエス様を妬んで憎み、イエス様の人気が失墜するようにと、イエス様がお話をされているところに現れて何かと難癖をつけていました。ところが、今日の聖句では、少し違います。彼らは、イエス様の身に危険が迫っていると教えに来てくれたのでした。
ファリサイ派の人々は、イエス様に近寄ってこう言いました。31節後半の聖句です。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」この「ヘロデ」とは、イエス様がお生まれになった時に占星術の学者たちが訪ねて行った「ヘロデ大王」の息子です。このヘロデ、詳しくはヘロデ・アンティパスという名ですが、今日の聖書が語る時代には、ヘロデ大王の後を継いでユダヤのガリラヤとペレア地方の領地を治めていました。当時のユダヤはローマ帝国の植民地でしたから、領地を治めていたと言っても名ばかりの王、いわゆる傀儡政権の王でした。
父親のヘロデ大王と同じように、このヘロデもイエス様を殺そうとしました。すでに、イエス様に洗礼を授けた洗礼者ヨハネを殺しています。王である自分を、ヨハネが批判したからでした。同様に、王である自分を差し置いて人々を教えるイエス様を憎らしく思い、邪魔者と考えていたのでしょう。
ファリサイ派の人々は、このヘロデの企みをイエス様に知らせました。善意からというよりも、イエス様がガリラヤ地方・ペレア地方から出て行ってくれればそれでよいと思ったからかもしれません。
イエス様は、権力を振り回して悪だくみをするヘロデを「狐」と呼んで、ファリサイ派の人々にこうお答えになりました。今日の聖書箇所32節から35節です。まず、32節をお読みします。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。」この御言葉は、次のように言い換えることができます。「ヘロデよ、あなたは私を殺す計画など、立てる必要はない。私はやらなければならないこの世の使命を三日間でやりとげる。そして、どのみち、この世の命を終えるからだ。」
この御言葉を聞いて、イエス様が何のことをおっしゃっているのか、お判りでしょう。そうです、イエス様の使命とは十字架に架かって私たちを救い、三日後のご復活で永遠の命を約束してくださることです。次に語られるイエス様の御言葉を聴くと、それはさらにはっきりと分かります。
イエス様は、かつてこの世に神さまに背いていると警告して、そのために物わかりの悪い愚かで信仰のない人々に殺されてしまった預言者たちのように、この自分は命を終える、それもエルサレムで終えるとおっしゃっています。十字架に架かって私たち人間の救いのために命を捨てるイエス様のお覚悟は、繰り返し言われる次の言葉に響いています。32節「今日も明日も」。そして33節「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。」
イエス様が言われる「自分の道」、それは十字架への道です。34節で、イエス様はユダヤの人々のために天の父の御言葉を語られています。三位一体の主 その方が語られる御言葉として心に受けとめるとよいでしょう。
三位一体の主のことを、あらためてお伝えします。神さまは唯お一人の方なので、一つの体と書いて「一体」と読みます。「三位」は「三つの位」と書いて、父・子・聖霊をさします。位と申しましても、父・子・聖霊の間に順位があるわけではありません。唯一人のお方が私たちに顕われてくださる時に、父・子・聖霊の三つの位格としてご自身をお示しになることを、「三位」と言い表すのです。
父は創造主、天地を造られた天の神さまです。
子とは、創造主なる父の御子にして、私たちの救い主イエス様。
聖霊は、イエス様がご復活の後に私たちに遣わされ、目に見えないけれど、今、私たちの間で生きて働いてくださるイエス様です。聖霊によって、私たちは御言葉に感動し、神さまを讃美する信仰を与えられ、三位一体の主なる神さまに愛されていると深く知ることができます。
唯一・お一人の神さまがお持ちの父・子・聖霊の三つの位格は、互いに深く愛し合う力で堅く結ばれています。
私たちが祈りで、「天のお父さま」と呼びかければ「父」がくるりと私たちの方を向いてくださり、「イエス様」と呼べばイエス様が私たちに寄り添ってくださる、そして「聖霊の主」と祈る時には聖霊が私たちの心を信仰で熱く燃え立たせてくださいます。いずれの方も、わたしたちのただお一人の主です。
イエス様を私たちのもとへと、この世へと遣わしてくださったのは、創造主である父なる神さまです。
繰り返しになりますが、今日の聖書箇所の34節で、三位一体の一人の主イエス様は天の父の御言葉を語られています。旧約聖書の時代から預言者の警告を聞き入れず、天の父に背いてばかりのユダヤの民を神殿の都エルサレムと呼んで、天の父はこう嘆いたのです。34節を、お読みします。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。」
一番安心な居場所は、神さまの翼の下で守られることです。にわとりのお母さんが、猫や烏などの外敵に雛たちが狙われていることに気付くと、雛たちを呼び寄せる様子を思い浮かべましょう。まだよちよちとしか歩けないふわふわの雛たちは、自分で身を守る力も知恵もありません。猫や烏がどれほど恐ろしいか分からないので、母鳥がどれほど一生懸命にこっちへ来なさい、翼の陰に隠れなさいと呼んでも、遊びに夢中になっていたら母鳥のところに来ないかもしれません。その雛がどうなってしまうか、容易に想像がつきます。
愚かで可哀想なその雛が、神さまを信じることのできなかったユダヤの人々、そしてイエス様の福音を心に受けとめているのに信仰を持てずにいる私たち人間の姿です。
天の父なる神さまは、その愚かな私たちを見捨てることはありませんでした。確かに、今日の35節で、イエス様はこのようにおっしゃいました。お読みします。「見よ、お前たちの家は見捨てられる。」この言葉によって、私たちは神さまから見捨てられ、決して救われないと思ってしまいます。さらに続けて否定の言葉「決してわたしを見ることがない」 ― つまり、永遠の命をいただいて、神の国に入ることができないと記されているので、私たちはさらに、自分たちが神さまから見捨てられるとの不安を抱きます。
ただ、この「できない」という否定・打消しの言葉は「期間限定」です。イエス様は、希望の言葉を今日の聖書箇所の最後に与えてくださいました。その御言葉をお読みします。「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない」。
エルサレムの人々が「主の名によって来られる方に、祝福があるように、ホサナ、ホサナ」とイエス様を大喜びで迎えたのはいつでしょう。受難週最初の日曜日・棕櫚の主日です。
イエス様は故郷ナザレの町のあるガリラヤ地方から、弟子たちと伝道の旅を「今日も明日も、次の日も」続け 人々に「教え、伝え」、人々を「癒し」てエルサレムへと、十字架へとひたすら進まれました。私たちを見捨てずに救う十字架の出来事が、はっきりと人々の目に見えるようになったのは、棕櫚の主日からです。
イエス様は、今日の御言葉でそのことを告げておられます。イエス様の十字架の出来事と、その救いのみわざによって私たちに永遠の命が約束されたご復活は、私たちが決して見捨てられずに主の御手の中に抱き続けられる恵みを示しています。
この礼拝の後に、私たちは定期教会総会を開きます。主の導きによって新しい力と決断をいただいて、薬円台教会は、いよいよ51年目へと進み出します。50年の間に、薬円台教会は恵みの時と試練の時を与えられました。
苦しい時もあったと思います。しかし、神さまは決して私たち薬円台教会をお見捨てになることはありませんでした。私たちは、特に薬円台教会で長く教会生活を送って来られた方々は、その恵みをご自身の信仰体験として熟知しています。
これからも、どんな時も、主が私たちと共においでくださることを信じる心をいただけるよう祈りを深めましょう。今日も、明日も、どんな時も変わることのないイエス様の愛を信じて、心ひとつに進み行きましょう。
2024年4月14日
説教題:狭い戸口から入る
聖 書:詩編107編1~9節、ルカによる福音書13章22~30 節
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。」
(ルカによる福音書13:24-25)
今日の聖書箇所を読んで、マタイによる福音書の「狭き門」の御言葉を思い起こされた方が多いと思います。次の聖句です。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ福音書7:13-14)
今日のルカによる福音書も、マタイによる福音書にあるように、命に至る真理の道・神さまと共に生きる恵みの道への入り口が「狭い」ことを、指摘しています。しかし、異なる点があります。
マタイによる福音書は真理と命の道・神さまと共に生きる恵みの門の他に、滅びに通じる門があると告げています。滅びに通じる門は広くてみつけやすく、道も広々として楽々と歩けるので、多くの人がそちらに行ってしまいます。正しい道と罪深い道を、イエス様は私たちに分かりやすく比べて語ってくださっています。
ところが、今日のルカによる福音書の御言葉では「狭い戸口」のことしか語られていません。私たちには神の国へ至る戸口が与えられているが、その入り口が「狭い」という点に、イエス様は集中して語っておられます。
今日の聖書箇所は、エルサレムに向かうイエス様にある人が質問をした、その質問から始まっています。その人はイエス様に、こう尋ねました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」この質問を、言い換えると「イエス様、神の国の恵みに生きる人は少ないのでしょうか」という問いになりましょう。
前回の聖書箇所で、イエス様は「神の国」の話をされました。「神の国」は、死んだ者が行く天国のことではなく、今、神さまの恵みに満たされ、救われて喜んで生きていることそのものです。「神さま」と聞けば「律法を守らないといけない」と条件反射のように思い浮かべるようになっていたユダヤの民は「神さまの恵み」と「救い」を、その時に、初めて、身近に感じることができたのではないでしょうか。イエス様に今日の質問をした者は、自分はその恵みに与れるのか…その思いから、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」とイエス様に尋ねずにはいられませんでした。
イエス様は、その問いには直接「多い」または「少ない」とはお答えになりませんでした。ただ、「狭い戸口から入るように努めなさい。」と、信仰の心構えを示してくださいました。神の国の恵みを知るその入り口の戸口は確かにそこにあり、狭いけれど、信仰をいただき、姿勢を整えていただければ、必ず入ることができるとおっしゃってくださるのです。イエス様は、ルカによる福音書の前の方で、私たちにその心構え・信仰の姿勢・救いへの道を教えてくださいました。狭い戸口から入る姿勢、その入り方を教えてくださったのです。
ルカによる福音書9章です。お読みします「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(ルカ福音書9:23b-24)
狭い戸口からの入り方とは、自分を捨ててイエス様に従う従順な姿勢です。
皆さんは、日本の茶道とキリスト教の関わりについて耳にしたことがあるかと思います。茶道の作法が、聖餐式によく似ているのです。お茶室の入り口を見たことがおありでしょうか?「にじり口」と呼ばれるお茶室の入り口は、本当に小さく狭くて、身をかがめて這うようにしなければお茶室の中に入れません。
イエス様は、十字架に架かるために神殿の都エルサレムに入られた時、通常だったら人々を睥睨するために馬に乗って町に入られるところを、身を低くして小さなろばに乗られました。
自分は人よりも優れているという思いや、それ以前の、人と競い合って勝ちたいと思う気持ち、何が何でも自分が一番という自己中心的な思いを捨てなければ、身を低くすることはできません。
これは、私たち人間にとって、かなり難しいことです。私たちは自由な自我を持ち、その自我を他者にも認められたいと願う自己承認欲求を抱いています。子どもたちを見ているとよく分かりますが、私たちは競争するのがけっこう好きです。人と競い合おうとする思いの根底には、自己承認欲求があります。人よりも自分が優れていることを自分自身で確認して、今の自分で良いのだ、この自分には存在する価値・生きる価値があるのだと確かめなければ挫けてしまいそうな弱さが、競争心・闘争心の裏側に隠れています。
しかし、イエス様は、私たちが本来は、そんなにびくびくと自分を確かめながら生きなくても良いと教えてくださいます。人と比べて自分はどうか…など、本当は心配しなくて良いのです。私たちは一人一人、神さまに認められてこの世に生まれ、見守られ、承認されて生きているからです。神さまは私たちそれぞれを「この世にいなくてはいけない唯一の、かけがえのない一人」としてお造りくださいました。神さまは、私たちを愛してくださるからこそ、命を与え、肉体を与え、生命体としてこの世に生まれさせてくださったのです。
自分以外のすべての人に、全人類に「あんたなんか」とみくびられたとしても、見下されたとしても、つまはじきにされたとしても、私たちは一人一人、それぞれ、神さまに承認されています。この世の誰もが「あんたなんか、役に立たないからいなくてよい」と言ったとしても、神さまは必ず「わたしには、あなたが絶対に必要だ」とおっしゃってくださいます。
そのように神さまに承認されて、私たちは自分で他者からの承認を求めようとする渇望から解放されます。自我から、自分のエゴから、自由になるのです。もう自分はこの世にいても良いのかなどびくびくせず、強くなるのです。自分はこの自分で良いのかという不安や、自分と人を比べる優越感やその裏返しの劣等感から解放されて、のびのびとした心で、神さまの御前に立つようになります。神さまに慈しまれ、愛する我が子と呼ばれ、心の底からの安心をいただき、神さまの懐に抱かれて「神の国」、救われた恵みに生きてゆきます。
私たちはまた、神さまの御前では、この世で支配的な価値観からも自由になります。自分と人とを比べる時、私たちは能力の高さや財産の多さを物差しにしがちです。新しい人と出会った時に、神さまが与えてくださったその人との出会いを喜ぶ前に、その人の出身や学歴や職歴を根ほり葉ほり知ろうとする人がいるのは、その表れでしょう。人と会った途端に、その人の外見・ルックスによってその人を判断しようとするルッキズムという好ましくない言葉を、よく耳にします。どんな目鼻立ちやスタイルが、神さまの目からご覧になって「良い」のかは私たちにはわかりません。神さまは、それぞれに異なる姿と賜物を、その姿と賜物を愛してくださるからこそ 私たちそれぞれに与えてこの世に生まれさせてくださいました。
こうして、私たちを自我から、またこの世の価値観から解き放って自由にしてくださる神さまと、神さまの愛を信じ、愛されて造られた自分、愛されて造られた隣人を受け入れることから、イエス様との歩みは始まります。
この世の価値観を捨てること、自分勝手な思い込みを捨てることは、かなり難しいことです。だから、イエス様は神の国への戸口を「狭い」とおっしゃり、「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」(ルカ福音書13:24)と、今日の御言葉で示してくださるのです。今日の御言葉はたいへん厳しく響きますが、イエス様は私たちがこの世の価値観を捨てきれない弱さをご存じで、敢えて指摘してくださっているのです。
私たちがこの真理に早く気づいて、早く真実の自由を知り、自分と他人を比べて一喜一憂する空しさから解き放ってくださるために、こうも語っておられます。今日の聖書箇所の25節です。お読みします。「家の主人(私たちの主、神さまのことです)が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。」
私たちは、神の子・神さまのもの、そして神の国に生きる者たちです。一瞬一瞬を、神さまに愛されている喜びと幸いに満たされて生きています。だから、イエス様と出会ったら、イエス様が自分のために十字架で命を捨てられ、永遠に共においでくださるために復活されたことを魂で知ったならば、一刻も早く信仰告白をして、洗礼を受け、神さまとの絆を教会で明らかにするのが良いのです。
私たちはイエス様から離れてしまうと、すぐにこの世の価値観に引きずられて主と共に生きる自由の恵みを忘れてしまいます。その私たちを導くために、イエス様は主の日・日曜日ごとに私たちをこうして教会に導いてくださいます。私たちに気付かせるために、御言葉を与え、祈りを教えてくださり、教会に集わない日にも聖霊を通して語りかけてくださいます。
そのイエス様の御声に従い、イエス様のあとについて、私たちはこの世の価値観を捨てる心構えをいただき、狭い戸口をくぐって、私たちはこの世にはない真実の自由、神の国に生きる喜びを知るようになります。神さまに愛されている ― その限りない幸いのうちに、今日から始まる一週間の一日一日を進み行きましょう。
2024年4月7日
説教題:世に、御国の愛と自由を
聖 書:申命記5章25~31節、ルカによる福音書13章10~20節
そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」
(ルカによる福音書13:18-19)
今日の主日礼拝から、受難節と復活日にいただいたヨハネによる福音書から、ルカによる福音書に戻ってまいりました。どのような状況が語られていたか、ルカによる福音書13章9節までの事柄を思い起こしてから、今日の御言葉に聴きましょう。
イエス様は天の父なる神さまの慈しみと、完全な正しさを人々に語り続けておられます。イエス様の人気はどんどん高まり、人々はイエス様を慕い、説教を聞こうと群がるようにイエス様の周りに集まるようになりました。そのイエス様を、ユダヤ社会の指導的立場にある律法学者たちや祭司、ファリサイ派の人々は妬んで、イエス様のお話の言葉尻を捕らえ、難癖をつけようとしていました。ある種の緊張感がある中で、今日の聖書箇所の出来事が起こったのです。
それは、安息日の出来事でした。安息日は神さまにささげる一日です。神さまが六日間で天地を創造され、七日目に休まれたことから 聖書の律法の掟が与えられました。神さまは愛の掟・律法を通して、私たち人間も週の六日間はこの世の役割や責任を果たし、七日目を安息日として何の働きもしないと定めました。安息日は、自分の生活を支える仕事や作業といったこの世の営みを手放して、神さまに自分の力と時間をささげる日です。「仕事が休みの日」というよりも、本来は神さまの日・主日だと考えると良いでしょう。今、私たちがこの主日礼拝でしているように、神さまと自分、神さまと私たち信仰共同体との堅い絆を、礼拝を通して再認識する日です。
今日の聖書箇所で、イエス様はその安息日にある会堂で礼拝説教をされていました。そこに、18年間も腰を伸ばすことのできなくなった女性がいました。イエス様は、その女性を呼び寄せてたちどころに曲がった腰を癒されました。
こうして今日の聖書箇所を読みますと、皆さんは「ああ、イエス様が癒しの奇跡をされたのだ」と気付くと思います。そして、その先です。イエス様が癒しのみわざを安息日に行ったことを会堂長が批判した14節を読んで、「ああ、またイエス様を嫌いな人たちがつまらない言いがかりをつけている」と感じられるのではないでしょうか。
そうなのです ― 今日、御言葉が語る出来事は福音書の中でたびたび繰り返されています。しかし、同じように繰り返されているのではありません。癒しのみわざをなさり、会堂長との安息日をめぐるやりとりをされた後で、イエス様は今日の聖書箇所では「神の国」について語られました。
18節の冒頭に「そこで」という言葉があることに、ご注目ください。私たちが使っている「新共同訳聖書」には、もともとの聖書にはない「小見出し」が付けられています。小見出しが役に立つ場合と、逆にない方が良かったのにと思える場合があります。
今日の聖書箇所は後者で、もしかすると、ない方が良かったと考えられているケースです。今日の18節と19節の間にある「からし種とパン種のたとえ」というゴシック文字の言葉が、その「小見出し」です。
ここに小見出しを入れてしまったために、腰の曲がった女性を癒したイエス様のみわざと、安息日についての論争という、いわば福音書を読み解く時の「ひとつのセット」と、19節から後のイエス様の神の国についての話が、二つの別々の話のように読めてしまいます。前の「セット」と後の神の国のお話は、実はひとつながりの事柄なのです。「神さまの愛と解放」というキーワードでつながっています。
イエス様は会堂で、腰の曲がった女性への癒しのみわざを通して「神さまの愛と解放」を人々の目の前で行いました。
また、ご自身が神さまとして行われたこのみわざの意味が、安息日に癒しのわざを行ったとイエス様を批判して律法違反を犯したと糾弾した会堂長と、会堂にいた人々にはっきりとわかるように、ご自身のみわざについて説明されました。
それが、16節のイエス様が語られた御言葉です。
お読みしますので、お聴きください。「この女はアブラハムの娘なのに(神さまの宝の民、神の子なのに、という意味です)、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」(ルカによる福音書13:16)
この「安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」は、もとの聖書の言葉では、英語の文法で言う仮定法過去完了のようなものが用いられていて、このようにも訳せます。「今までこの女性がサタンに束縛されていた十八年間の安息日に、この女性が束縛から解かれていたらどれほど良かったことか。」
つまり、イエス様は、安息日は本来、束縛から解かれる日・真実に自由になれる日のはずであることを教えてくださったのです。
思えば、本来「休む」とはそういうことでありましょう ― 義務や重荷から解き放されて、楽に呼吸する・安らかにのびのびと息をするのが安息日です。それを、会堂長をはじめとするユダヤの指導的な立場にいる者たちは「休まなければいけない日」「何も作業をしてはいけない日」「何もしてはいけない日」、「悪いことをしてはならないが、良いこともしてはいけない日」と規則にして、この規則で人々を精神的に縛り付け、がんじがらめにしていたのです。人を癒し、助ける良い行いすらできない日とは、なんと不自由でむなしい日でしょう。安らかに息をするはずの安息日に、息を殺すようにして律法を守り、くつろぐどころか窮屈な思いをして過ごすことになります。
そのような安息日の過ごし方は、神さまの思いとは真逆です。イエス様は、今日の聖書箇所で、その事実・真実を指摘されました。「神さまの思い」「ご計画」「御心」とは、別の言葉で言い換えると、今日の聖書箇所でイエス様がたとえを用いて語られている「神の国」です。
「神の国」は、生命体としての肉体が終わりを迎えた時に、魂が行く場所 ― それを「天国」と言うことがありますが 、そのことではありません。
神さまは、抽象的・形而上学的な事柄ではなく、安息日を恵みとして受けとめる、そのように日常的な、いわば身近で小さなことの中から私たちに語りかけてくださっています。それが、御心・「神の国」です。イエス様が18節からの神の国のお話で、「神の国」を小さな小さなからし種にたとえておられるのは、身近で、私たちが見過ごしてしまいそうな日常的な事柄の中に「神の国」の恵みが潜んでいることを、私たちに伝えるためです。
安息日は、規則を守って息を殺してじっとしていなければならない日ではなく、心を神さまにゆだねて重荷から解放される魂の恵みの自由時間なのです。御心を御心として知り、恵みを恵みと気付いていただき、いきいきと喜ばしく生きるとき、私たちは「神の国」の恵みをいただき、その幸いを体験します。
それは、小さなからし種という神さまの恵みが人の心に蒔かれると、大きな木に育ち、そこに鳥が巣をかけて新しい命が開き、御心にかなう楽しく明るい賑わいを持つようなものだとイエス様はおっしゃいます。
私たちの肉体は、生命体としては限界のある存在です。しかし、御心によって、神さまに愛されて導かれていることを知って「神の国」、永遠の命に、豊かな喜びを抱いて生きることができると、イエス様は私たちに気付かせようとなさってくださっています。
イエス様を通して神さまの恵みに気付くとは、本当に自由に生きることです。それは私たち自身を縛ってしまうあらゆる偏見や、思い込み、こだわりからも自由になることをもさします。自分や仲間だけが良くて正しいのだという偏見や思い込みから、自分や仲間とは違う存在 ― 隣人 ― への偏見が生まれてしまいます。偏見や思い込みから自由に解き放されると、私たちは自分とは異なる隣人に肯定的な関心を寄せることができ、喜びと驚きをもって違いを受け入れ、親しくなれるのです。
神の国の恵みによる自由から、隣人愛は大きく育ちます。
イエス様のその導きを、今日の安息日に喜びと共に心に留めましょう。今日から始まる新しい一週間を、神の国に生かされている自由のうちに心明るく進み行きましょう。