2013年9月29日
説教題:真実に清く生きよう
ゼカリヤ書 8章7-17節 エフェソの信徒への手紙 4章25-32節
エフェソ4:25に「だから、偽りを捨てて、真実を語りなさい」とあります。この言葉は、4:24までに語ってきたキリストに結ばれている人に語りかけています。
この世の人々は、自分を守るために仮面をかぶって、自分の弱さを見せないようにして生きているのです。それでお互いに平和で良い交わりの生活をしているのです。しかしここでは、キリストによって古い人を脱ぎ捨てて心の底から新しくされている人に対して、新しくキリストを着て偽りを捨てて真実を語る人になりなさい、と言っているのです。人間は弱いです。ですから自分を守るために偽りを語るのです。人間は自分中心の罪人ですから、偽りの仮面を捨てて裸になって語り合いましょうと言っても、裸になったら自分の正義で相手に怒りや不満を持ち、無慈悲な言動をし、争うようになるのです。
パウロはここで裸になりなさいとは言っていません。古い人はすでに脱いでいる、今着ているキリストによって真実を語りなさい、と言っているのです。4:31で「無慈悲,憤り、怒り、の一切を捨てなさい」と言い、4:32で「互いに親切にし、憐みの心で接し、神があなた方を赦して下さったように赦し合いなさい、と言っています。罪人の人間が裸になるのではなく、お互いにキリストによって赦され、守られ、助けられている者として、キリストの真実によってお互いに生きるのです。それがキリスト者の生き方なのです。自分やこの世の正義を主張するのではなく、正しくない、人をかばっている、仮面をかぶっていると言われることがあっても、親切と憐みの心で赦し合うのです。
4:26に「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません」とあります。悪や不義、過ちに対して怒ることは必要です。教育を必要とする所では怒ることが起こります。最近「体罰」が問題になっていますが、怒り、罰することがあっても罪を犯してはいけないのです。教師も親も教会も注意すべきことです。罪人の私たちが赦されて新しい人にされて生かされているのです。「自分中心の罪とこの世の義によって生きる偽りを捨てて、神の真実を語り合って生きる」のです。神の愛と憐みの心が世界と歴史を治めている真実なのです。
4:28はキリスト者の生き方を具体的に語っています。「盗みを働いていた者は、今から盗んではいけません。労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」と。この盗みは、お金だけでなく、恵みを与えられているのに代価を払っていないことなどの一切を言っている、と読むことができます。神から生きるために必要な恵みを与えられているのに対して正当な感謝の代価を払っているだろうか。この体と生活を神に捧げて生きることがここで勧められていると言えます。4:29には語る言葉も、自分中心の罪の言葉ではなく、聞く人にキリストの恵みが与えられ、その人をキリストを着ている者に相応しい人に造り上げるのに役立つ言葉であるべきだ、と言っています。
私たちは、キリストを内に宿し外に着ている、キリスト者なのです。そのことを喜び誇りとして、互いにキリストの真実によって一つにされ生きたいと思います。
2013年9月8日
説教題:キリスト者の生き方
聖書:創世記 1章26-31節 エフェソの信徒への手紙 14章17-14節
世の中には色々な人間がいて、色々な生き方をしています。人それぞれが自分の責任で生きているのだから、他人があれこれ言うことではないのでしょうか。
人間は、神によって造られ生かされているので、神にあってあるべき生き方があるのではないでしょうか。神はそれをキリストによって教えて下さったのです。そして、私たちをキリストに結び付けて、キリストの体として生きる者にしてくださっているのです。
パウロは4:17で「そこで、私は主によって強く勧めます。もはや異邦人のように歩んではなりません」と言っています。キリストに結び付けられるまでは、私たちは、生きたいように生きる、周囲の人と同じように生きる、自分を誇るように生きる、そのような生き方をしていたと言えます。その生き方は神を知らない異邦人の生き方なのです。
神を知らず、神の御心に背いて勝手な道を歩んでいた私たちの罪を、キリストはご自分の死によって贖って、私たちを神に結びつく神の子にしてくださったのです。その主イエス・キリストから命令を委託されている者としてパウロは、異邦人からキリスト者になった教会員に、「強く勧める」と力を込めて告げるのです。「もはや異邦人ではない。だから彼らと同じ生き方をしてはならない」と。
異邦人とキリスト者の違いは、キリストに出会って神を知っているか、その出会いがなく神を知らないか、の違いです。パウロは、キリストに出会っていないで神を知らない者は「愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、無知と心の頑なさのために、神の命から遠く離れている」と言っています。神と交わり、結びつくことによって本当の命があり、意味ある歩みがあるのです。愚かな考えは、神以外のものを神として重んじて、正しい道を知らないのです。それで、真の光を失い、希望がなく、自分が何を行っているのか分からなくなっているのです。
4:20「しかし、あなた方はキリストにこのように学んだのではありません」と言っています。キリストに出会い、キリストと体に結び付けられて、キリストを知るのです。キリストの思いを自分の思いとするようになるのです。「キリストに結ばれて教えられて、真理がイエスの内にある、その真理を学んだはずです」と言っている真理は、神の真理で、神の御心です。人間の在るべき生き方もそこにあります。
22-24に、以前の古い人を脱ぎ捨て、神にかたどって造られた新しい人を身に着けなさい、とあります。神に背く罪人になってしまった古い人を捨てて、神が創造してくださった時のあるべき人間になって生きる、キリストによって新しい人に、あるべき人に再創造していただいて生きる、これがキリスト者なのです。
キリスト者は、立派な生き方をしてそれを誇るのではなく、罪人である自分がキリストによって新しい人にされていることを感謝し喜んで生きるのです。教会の礼拝の度にキリストに出会い新しくされているのです。ですから、教会の礼拝が信仰生活の中心なのです。
2013年9月1日
説教題:体全体が成長する
聖書:士師記 7章9-18節 エフェソの信徒への手紙 4章14-16節
人間も自然も日々新しくされています。人間も自然も私たちが思うように新しくなるのではなく、神によって日々新しくされています。その新しさは、神の栄光を現すように成長させられている命の現れであると言えます。新芽が出る春や育ちゆく幼子だけでなく、秋の自然も年齢を重ねた者も、日々新しく生かされている命を現しています。新しく生きて命は、神の愛と恵みを与えられて、神の完成に向かって成長しているのです。
私たちは、神を知らない動物と同じに生きているのではありません。一人の人間として孤立して生きているのでもありません。神によってキリストとの交わりの中で生かされているのです。キリストによって神を知るまでは、自分中心、この世中心に生きていたので、成長は自分が強く大きくなるということでした。
しかし、私たちにキリストが与えられて、自分中心に生きることが神の御心に背いている罪であることを、私たちは知らされたのです。そして、その古い自分を十字架につけ、神の愛と恵みに新しく生かされる者とされたのです。神から与えられた兄弟姉妹が一つに結び付けられ、一緒になって神の栄光を現すために生きるようになったのです。
キリストの体である教会は「成熟した人間になり、キリストの豊かさまで」成長する、と聖書は言っています。未熟でない、成熟した人間は、外と内からの誘惑や圧力に負けないで、神から与えられている自分の道をしっかり歩み抜くことができるのです。その成長は自分の力でするのではなく、神が成長させて下さるのです。キリストが体の節々を一つに結び付けて、体全体をご自分の愛によって造り上げ、成長させてくださるのです。
士師記には、ギデオンが、イナゴのように数多いミデアン人らの武装兵に、300人の兵で立ち向かったことが記されています。ギデオンが兵を集めると3万人以上集まったのですが、神は「多すぎる」と言い、300人だけが御心に適う者として残されました。この人々は皆、自分の思いや力を捨てて、神に従う一つの者になって行動して大勝利したのです。
キリストの体である教会も、地上の世界では小さな群れです。しかし教会の頭はキリストで、キリストが体のあらゆる節々を補い合ってしっかり組み合せ結び合わせて、一つの体に造り上げ、成長させるのです。ですから、教会には排除されたり、敬遠される節はないのです。自分は小さい、役立たずだと身を引くことはないのです。この私も、キリストに結び付けられることによって、神の栄光を現す器とされるのです。キリストによって一つにされて体全体が生き、成長するのです。成長は、体全体が大きく強くなるというよりも、十字架に歩まれたキリストに向かって、成熟した人になっていくのです。神の御心を正しく知って、与えられた道を歩み、神の愛と恵みの栄光を現す人に成るのです。
教会とキリスト者は日々新しくされ、神の栄光を現す民、群れとされて、御心の完成に向って成長しているのです。この私も、教会に結び付けられることによって、神の前に相応しい者とされて、教会の大事な節や肢、神の栄光を現す器とされるのです。
2013年8月25日
説教題:父なる神への祈り
聖書:列王記上 8章54-61節 エフェソの信徒への手紙 3章14-21節
私たちの信仰生活と教会生活は、私たちが自分の知恵と力で頑張って行うというのではありません。人間はどうしても自分中心、人間中心になります。それで、対立や争いが起こり、格差が大きくなる、信仰生活として相応しくないものになってしまうのです。
私たちは、造り主である神の愛と恵みの御力をただいて、信仰者として相応しい生活ができるのです。神を知らず、神から遠く離れて生きていると、神が造られた人間として相応しく生きることができないのです。その神を知らずにいた異邦人がキリストによって神に結び付けられて生きるようになったのです。
パウロは、異邦人が神と結びつけられた恵みについて語った後、3:1で「こういうわけで」異邦人にその恵みを伝えるために自分が召されていることを喜ぶ、あなた方も一緒にこの恵みを伝えて欲しいと言い、3:14で「こういうわけで」と3:1の言葉に戻って「私は御父の前にひざまずいていのります」と父なる神への祈りを記しています。
誰にどのように祈るか。パウロは、御子イエスキリストの父である神に、私も御子イエスによって神の子にされ、神との交わりを与えられています、ですから感謝と喜びを持って神を父と呼んで、親しさと畏れを持ってひざまずいて祈る、と言っているのです。このように神に親しさと畏れを持って近づいて語りかける、これが私たちの祈りです。
「御父から天と地にある全ての家族がその名を与えられています」。名を与えられているということは、そのお方によって存在が意味あるものにされている、ということです。そのお方との交わりなしには、存在していることも意味がないものになってしまうのです。
「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、霊により、力を持ってあなた方の内なる人を強めて下さるように」と、パウロは自分のためではなく相手のために、執り成しの祈りをしています。これは大事なことです。父なる神によって内なる人、肉の内なる人ではなく、私の内に生きているキリストが力を持つように祈っているのです。「信仰によってあなた方の内にキリストを住まわせ、愛に根ざし、愛にしっかり立つ者としてくださるように」。自分中心の愛ではなく、キリストの愛が深く内に根ざして地上の嵐にも倒れず、干ばつにも枯れないで生きている愛を持って生きるように、堅固な土台に立っている建物のような信仰生活をするように、と祈っています。「また、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超える愛を知るように」と祈っています。この限りなく大きな愛に私たちは包まれ生かされているのです。
このパウロの執り成しの祈りは、私たちのための執り成しの祈りでもある、と言えます。私たちはこのような多くの人の執成しの祈りによって、導き支えられ、慰め励まされて、信仰生活ができているのです。私たちは自分中心で、自分のことだけを思って祈ることの多い者です。私たちも、すべての者に名を与えている父なる神に、他の教会員、他の教会、この世の全ての人のために執り成しの祈りをする者でありたいと思います。
2013年8月18日
説教題:福音が全ての民に
聖書:エフェソの信徒への手紙 3章1-13節
8月のこの時には、戦争の悲惨さ残酷さが報道されます。戦地や引上げの時の体験、日系アメリカ人の特別な経験、などのテレビ報道を私は見ました。そのような報道を見て思わされるのは、私たちは自分を中心にした限られたことしか知り得ないことです。その情報で判断し行動するのです。ですから誰からどのような情報を得るかは非常に重要です。
聖書は,私たちは神に造られ生かされている者なので、自分の知恵や力によって自分の栄光のために生きるのではなく、神に仕え神の栄光のために生きなさい、と言っています。
問題は、自分中心の人間がこの神の御心をどう受け入れるかです。神は、御子をこの世に遣わされて十字架への道を歩ませることによって、私たちに出会い、私たちを神の御心を受け入れて生きる新しい人にしてくださったのです。パウロはキリストに出会って、自分も神の怒りを受ける罪人であることを知ると同時に、神に結びついた神の民として新しく造られたことを知ったのです。そしてパウロはその福音の喜びを特に異邦人に伝える者とされたのです。3:1-2でパウロは、私が異邦人に福音を伝えるように選ばれているのは恵みである、と言っています。神の御用のために生きることは喜びなのです。そのことは、神に造られ生かされている私たち全ての人に言えることです。全ての人が神の愛と恵みの御心を知って生きるようになったら、本当に素晴らしいことです。
3:3の「秘められた計画」,4,5「実現されるこの計画」,9「秘められた計画」という言葉は、「奥義」とも訳されています、「神の御心」です。神の御心であるご計画は、秘めておくこと、隠しておくことが重要ではなく、人間には理解できない不思議に思われる内容であることに重要さがあるのです。そしてそのご計画を現わし知らせる仕方も重要なのです。
神は先ず、キリストによってその御計画を現わし示されました、3:3「啓示によって知らされた」,5「この計画は、啓示された」のです。そして、そこで知らされた神のご計画は、やがて異邦人もイスラエル人も全ての人が一緒に神の民とされて、神の国と神の命を受け継ぐ者とされる、ということです。そのご計画を実現するために、パウロを始め私たちは神に選ばれ用いられているのです。この私が、キリストによって新しい神の民にされているのは、私が神に結びつく者とされて神の栄光のために生かされているだけでなく、この喜びをまだ神を知らない異邦人にキリストによって神を知って喜びに生きるように伝える務めが与えられているのです。全ての人に伝えるのがキリスト者の務めです。
伝えるのには、自分自身が伝える福音に生きていなければなりません。それだけでなく、世の初めから神がご計画を持って創造し、歴史の中で御心を示してくださっている、その神が私たちの宣教と共に働いて福音を伝えているのです。情報化の時代でいろいろな情報が流れ、不信感がいっぱいの人々に対して、私たちはキリストにあって福音を伝えるのです。キリストの体である教会を通して、ご計画とその実現を伝えるのです。全ての人が喜びに生きるように、神の栄光に与かるように、との祈りを持って福音を伝えるのです。
2013年8月11日
説教題:神の住まいとなる
聖書:エフェソの信徒への手紙 2章19-22節
パウロは2:1-18で、以前はキリストを知らず神と関係のない異邦人であった人が、今キリスト者になっている、キリストによって神に結びつく者に変えられて生かされている、と語ってきました。その変化を19,20で「従って、あなた方はもはや外国人でも寄留者でもなく、神に属する者、神の家族である」といっています。
パウロは、私は神の民であったが、キリストを知るまでは生まれながらの肉の思いで生きていた。その私もキリストによって神によって生きる新しい人に変えられた、と2:3以下で言っています。そして、私もあなた方もキリストによって新しく生かされている、あなた方は神の民、神の家族である、と言っているのです。パウロたちイスラエル人から見たら、異邦人のキリスト者の礼拝や生き方は少し違うというところがあったと思いますが、パウロはそのことは何も問題にしていません。キリストによって私もあなた方も、神に属する新しい人にされた、そのことを強調しているのです。それは私もあなた方も神がここに居ますということを現す者として生きている、ということです。
2:19で「あなた方はもはや、外国人でも寄留者でもない」と言っていますが、聖書は多くの所で、神の民の国籍は天にあるのでこの世では外国人で寄留者である、と言っています。それなのにここで、「あなた方はもはや、外国人でも寄留者でもない」と言っているのは、あなた方は地上の命だけでなく人生全体の居場所がある、地上の命が終わってもいるべき国があり故郷がある、と言っているのです。神に結びつていない者は、死んだら全てが空しくなってしまうので、希望も生きる意味もない者なのです。キリストにあって神に結びついている者は、皆同じ神の命に生かされている聖なる民、神の家族です。地上の歴史の中で、神が住む家を一緒に建てている仲間である、ということができるのです。
その建物は神が住む家であることが重要で、その建築は神の住まいを建てることが目的です。ですからその建築には、神に選ばれた者が用いられるのです。そして、その建築の土台はキリストで、建物全体はキリストによって各々が組み合わされ、建築の働きをする者もキリストによって用いられて、神の住まいが建てられるのです。2:22には「キリストにおいて、あなた方も共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなる」とあります。
この神の住まいは、神が住んで見張っていてくださっている家なのです。神はそこに住んで、悪が危害を加えないように見張り、私たちが神の道を歩み抜くように愛の眼差しを持って見ていてくださるのです。神は、私は罪人なので神に近づくのに足が重い人というに愛の招きと赦しの眼差しを、自分はまだキリスト教が分からない、場違いのことをしてしまった、と小さくなっている者に赦しと励ましの目を、注いでくださっているのです。
教会が神の住まいです。礼拝が教会をつくっているのです。神が居ます礼拝に、神を知らない異邦人も招かれ、神と結びつく者にされるのです。その教会を神が建てて下さっているのです。教会は私たちを新しく生かしてくださる神の住まいなのです。
2013年8月4日
説教題:キリストは平和を実現した
聖書:イザヤ書 57章14-21節 エフェソの信徒への手紙 2章14-18節
今日は日本基督教団が「平和聖日」としている日です。「平和」とは何でしょうか。
2:14に「キリストは私たちの平和です」、15に「キリストは双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現した」とあります。双方とは、対立し排除し合っていた異邦人とイスラエルの民です。この双方が一緒になったのではなく、双方が一人の新しい人に造り上げられて、キリストによって神に結びついた新しい人が創造されて、平和が実現したのです。この平和はキリストなしの平和とは違うのです。
キリストなしでも「平和」と言われているものがあります。この世の人は、キリスト抜きに戦争と平和を見ています。キリスト抜きということは、神抜きということです。人間の間だけで戦争と平和を見ている、敵意も不和もそこだけで理解しているのです。人間同士の間で仲良く交わる平和があります。しかしその平和は、一時的なもので時が来ると破れてしまう不安定で表面的な平和なのです。心に平和がないと直ぐいらいらするのです。神との間に平和がないと自分中心になって、相手を批判し攻撃するようになるのです。
先の戦争の敗戦直後、日本人は昨日まで敵国人あったアメリカ人に対して、心の底には恐れと不信感を持っていたのですが、表面的にはアメリカ人を平和に受け入れました。キリストなしにも表面的には敵意の壁は取り除けるのです。力やお金などによって。しかしその平和は、双方を心から一つにしていない、心に不信感があるものでした。
平和聖日で、日本のキリスト教会と戦争のことを思います。日本のキリスト教会はこの世の圧力に、神にある平和で戦うのではなく、表面的で一時的であっても妥協しての平和を採った、と具体的な事例を挙げての批判があります。神の民として今ここでどのように決断して行動すべきか、現実には難しいことです。あるアメリカ人の宣教師は、日本人に宣教する者として平和的に働かれましたが、敵国人として牢に入れられ強制送還されました。しかし、送還されたアメリカで、敵国である日本のために祈り、講演し理解を求め、この戦争は直ぐに終わるので戦後の日本のキリスト教主義学校と教会の再建ためにと、募金活動もしているのです。アメリカ人も日本人もない、キリストにあっては一つである、との信仰に生きているのです。ここにキリストによる真の平和があるのです。
16「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされた」、ここにキリストによって、神との間に平和が実現した新しい人がいるのです。この人は、自分も相手も罪赦され、神に愛されて生かされている新しい人なのです。この人は自分が平和に生きることができると共に、隣人とも遠く離れている人とも、平和に生きることができるのです。
平和聖日のこの日、私たちは、キリストが平和であり、十字架によって平和が実現されていることを感謝して覚えると共に、自分中心で不信感による争いが絶えない世界で、この平和の福音に生かされている者として歩んで行きたいと思います。
2013年7月28日
説教題:私は何者か
聖書:創世記 17章1-11節 エフェソの信徒への手紙 2章10-13節
私たちは、自分が何者か、自分は父親だ、自分はこの会社の社員だ、との意識を持って生きることが大事です。しかし、この私が、神に罪赦されて父親として生かされている、と深いところで自覚していることが、より大事です。神によって自分の自己理解と生き方が本当に正しいと認められることが大事なのです。
来週は平和聖日ですが、私たちは、時代と環境の中で自分は何者であると自覚し、自分はこれで正しいと判断をしても、間違えることがあるのです。そのことを戦争が終わって、多くの人が経験したのです。
私たちは、神の子イエス・キリストの十字架に出会って、真の神を知り、神が造られた世界と人間を知るのです。その時私たちは、神の前で自分が罪人であることも知るのです。神に選ばれたイスラエル人から見ると、彼ら以外は神を知らない民、異邦人です。
エフェソ2:3でイスラエル人であるパウロは、「私たちも皆、以前は生まれながら神の怒りを受ける者でした」と言っています。キリストを知るまでは、自分は正しいと高慢で人を裁く罪人だったのです。キリストに出会ってその罪を知り、神が罪を赦して下さっただけでなく、神は神が準備してくださっている善い業をして歩むように私たちを新しく造ってくださっていることを、知ったのです。キリスト者は、新しく生かされているのです。
2:11で「だから心に留めておきなさい」と異邦人キリスト者に言っています。心の深いところに宿し、刻み込んでおきなさい、と言っているのです。何を宿すのでしょうか。第一は「あなたがたは以前には肉によれば異邦人で、割礼のない者と呼ばれていた」ことです。割礼は、創世記17章に記されているように神がアブラハムに神の子であるしるしとして身に着けるように命じたもので、このしるしを身に着けて生きることは、生きることに意味と価値を見ることができ、喜びを持って確かな歩みができるのです。他方、異邦人で割礼のない者は、神となんの関係もない者で、空しく生きているのです。2:12に「この世の中で希望を持たず、神を知らずにいた」と言われています。
2:13で「しかし、あなた方は以前は遠く離れていたが、今やキリスト・イエスにおいて、キリストの血によって、神に近い者になった」と言っています。これが心に宿す第二のことで、最も重要なことです。キリストの血が、罪人のイスラエル人も遠く離れていた者も共に神と一つに交わる民にした、ということです。このことを心に宿して生きるのです。
それによって、私は、以前は神から遠く離れていたが、今はキリストによって神にある善い業をするように新しく造られた神の民である、との自己理解を持って生きるのです。
この世の人は、神にあって「私は何者か」ということには関心がないかも知れません。自分は何者であるかを、自己中心に思い、その自分をこの世に示しているのです。それが罪の世界です。その世界の中で私たちは、キリストによって新しく造られ、意味ある者として生かされ歩んでいるのです。私はキリスト者である、と心から喜んで生きるのです。
2013年7月21日
説教題:恵みによる救い
聖書:エフェソの信徒への手紙 2章1-10節
教会の礼拝はイエス・キリストに出会う場です。私たちはイエス・キリストに出会って、神を知り、命を知り、自分を知って、救いを与えられるのです。
この手紙は1:23で「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしているお方の満ちておられる場です」と言っています。「満ちている」ということは、中身があり、内実があり、意味があり、価値があるということです。私たちの存在も働きもキリストに結びつくことで空しくならないのです。私たちだけではない、世界も歴史も、日々の業もキリストによって空しいものではないのです。そこに救いがあるのです。
2:1に「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」とあります。「あなたがた」は手紙の受け手で、異邦人のキリスト者です。キリストを知る前も真面目で一生懸命に生きていました。しかし今キリストを知って、自分を見る見方が変わったのです。今まで真面目に正しいと思って生きていたことが、過ちと罪で死んだものだった、と知ったのです。「過ちと罪」は「道を踏み外し、的外れをしていた」ということです。どうしてそういうことになったのか。真の正しい神を知らなかったので、「この世を支配している者、空中の勢力を持つ者」の力の下に生きていたのです。その力は、空中と地上で勢力を持つ、人間を超えた力ですが、神に背く力で、今も人々を過ちと罪に歩ませている力です。その力の下にある人も世界も働きも、神にあっては死んでいるものなのです。
3には「私たちも皆」とあります。これは手紙を書いている人たち、パウロを中心にしたユダヤ人、神の民です。「神に選ばれて、神を知っているはずの私たちも皆、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、神を知らない人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」、と言っているのです。神を知らなかった者も、神を知っていた者も、キリストに出会うまでは罪の生活をしていた、神の怒りを受ける者であった、と言っているのです。私たちはこの自覚がなく、自分は正しいと誇らかに思っていないでしょうか。
4で「しかし、憐れみ豊かな神は、私たちを愛して下さって」と言い、5で「罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かしてくださった」と言っています。6で「キリストによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」と言っています。
神の前に死んでいた私たちを、神は恵みをもって愛し、十字架のイエスと共に死んだ者としてくださると共に、神の命に生きる者にしてくださったのです。イエス・キリストと共に復活し、天の王座に着く者にしてくださったのです。これはすべて私たちの力や行いによってではありません。ただ神の恵みによるのです。救いは神が与えて下さった賜物です。賜物は感謝してお受けすべきものです。それが信仰です。
神の民も生まれながらの人間は、神を知らない人間と同じ罪に死んでいる者なのです。礼拝でキリストと出会い、恵みによって救いを与えられることを新しく覚えることによって、私たちはキリスト者になり、意味ある者として生きる者になるのです。
2013年7月14日
説教題:永遠の命を得る道
聖書:申命記 30章15-20節 マタイによる福音書 19章16-26節
私たちはどのような世界で、何を目標に生きているのでしょうか。
一人の男がイエスに近寄って来て「先生、永遠の命を得るのには、どんな善いことをすればよいでしょうか」と尋ねました。永遠の命は、死ぬことも滅びることもない、虚しくない命でしょう。そのような命は誰もが得たいと思うでしょう。どうしたらその命を得ることができるか。この男は善いことをしたら得られると思っているのです。
この男がイエスにこのことを尋ねたのは正解でした。イエスが永遠の命を持っていて、その命を得る道も知っていたからです。イエスが神の独り子だからです。
イエスは「なぜ良いことについて私に尋ねるのか。善い方はお一人である。もし命を得たいのなら掟を守りなさい」と言われました。「善い方」は神です。イエスの父である神です。申命記も、命と滅びは神と共にある、と言っています。永遠の命は神にあるのです。神の手の中にあって、求める者に分け与えるというものではなく、神と共に生きることによって自分のものにできる命なのです。「得る」は、獲得するという意味はなく、「自分のものにしている」「所有している」という意味です。同じことを、マルコ10:17は「永遠の命を受け継ぐには」といっていますが、「受け継ぐ」は「相続する」「遺産を受け継ぐ」という言葉です。19:23に「神の国」とありますが「神の国」は神の子が受け継ぎ、所有するのです。神の意志によってその国に生かされ、永遠の命に生きる者になるのです。
イエスは「掟を守りなさい」と言いました。神の御心を守り行う人になりなさい、そうすれば、神は御心に適う者として永遠の命を与えて下さる、と言ったのです。しかし、この男は、永遠の命は自分の力で得るもの、自分が善い行いをしたら神がそれを評価して下さり得ることができる、と固く思っているのです。それで「どの掟ですか」、と問い返し「そういうことは皆守ってきました。まだ何か欠けているのでしょうか」、と重ねて問い返しているのです。この男はまじめで、自分が掟を守っていることに自信があったのです。
イエスは「もし完全になりたいなら、持っている物売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから私に従いなさい」と言いました。持っている物を売って施すのは、天に宝を積むことになり、心が地上から天に向くように変わる、そして私に従いなさい。そうすれば、神はあなたを真実の神の子として受け入れ、永遠の命も与えて下さり、あなたは神の命も国も宝も受け継ぐようになる、と言っているのです。
この男はイエスのその言葉を聞くと悲しみながら立ち去って行きました。「そんな永遠の命はいらない」、と晴れやかな心で去ったのではありません。神の民で、神の掟を守っているのですが、地上に財産があり心があるので、永遠の命を得ることができないのです。
永遠の命は、生きている命で、頭で考えてり手続きで得る命ではありません。永遠の命を得ることは、永遠の命を自分のものとして生きることです。今神を信じて神のご支配のもとに生きることです。それが永遠の命を得ていることなのです。
2013年7月7日
説教題:神が創造された男と女
聖書:創世記 2章18-25節 マタイによる福音書 19章1-12節
先日米国の連邦最高裁判所が「婚姻を男女の関係に限定しているのは国の法律に違反している」という判決を言い渡しました。84歳の女性が、連れ合いの遺産相続を配偶者として得ることができない、と起こした訴訟に対する判決です。これは米国の法律に「結婚防衛法」があり「配偶者は夫婦である異性の相手である」と限定している法によって配偶者と認められなかったことの訴訟に対しての判決です。この判決言い渡しを報じている新聞に、大阪の男性の「アメリカ人の男性と結婚しているが、配偶者と認められないのでビザが切れて一緒に居られなくなる。この判決はありがたい」との言葉も載っていました。
結婚とは何か。夫婦、子どもが与えられる、家庭をつくる、これは人間関係の基本であり、社会生活の基本です。その基本をどう考えて形成していくか。
マタイ19:3でファリサイ派の人々が「何か理由があれば夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と質問しています。離縁を言い出すことができるのは夫だけで、妻にはありませんでした。夫が支配者で妻は従属者の在り方が見えます。19:7で彼らは「では、なぜモーセは離縁状を渡して離縁するように命じているのですか」と言っています。これは申命記24:1にある規定です。そこには「何か恥ずべきことを見出し、気に入らないとき」という条件が付けられています。小さなことでもこの条件で離縁状が渡されていたのですが、それでもこの規定は弱者に対する配慮から定められたと言われています。
彼らのこのような質問や考えに対してイエスは「創造主は初めから人を男と女におつくりになった。人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく一体である。神が結び合わせたものを人は離してはならない」と答えました。
神が男と女に創造されたので、人間は同性の者だけでなく異性の者がいる。男と女はお互いに相手を必要とし、助け合って、一つになって生きていくのである、だから基本的には離婚はすべきだない、と言っているのです。理解しがたいところがある異性を相手として交わり、一体となって生きていく、それが人間であり、一人前に成熟するということであり、社会生活の基本を確かにすることである、と言っているのです。
同性同士で結婚している人の「小さい時から同性の者とだけ遊び一緒にいた。異性は理解できない。一緒に居たいと思わない」との発言も新聞に載っていましたが、「理解できる人、一緒にいたいと思う人とだけ一緒にいる」、これでいいのでしょうか。異質の理解しにくい人と努力して理解して交わり、一緒に生きていく、それが人間社会を正しくつくっていくうえで大事なことではないでしょうか。そのことを先ず、結婚と家庭生活で実現するのではないでしょうか。神はそのように男と女に人間を創造されたのです。
私たちはお互いに、神が創造された男と女なのです。その違いをお互いに認め、重んじて一つになってよい家庭をつくり、社会をつくっていく、そこに神にあって私たちの存在意味とお互いの違いを認めて歩む歩みの価値があるのです。神の祝福もあるのです。
2012年6月30日
説教題:罪赦されている私たち
聖書:創世記 45章1-8節 マタイによる福音書 18章21-35節
今日は教会に初めて来た高校生もいますが、「罪」とは何でしょうか。規則を破る、掟を守らないことですが、聖書は、神の御心に添わないことを正しいとすること、借りをつくること、重荷を負わせること、傷つけ痛みを与えること等も罪と言っています。
ペトロは主イエスに「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したら何回赦すべきですか。7回までですか」と問いました。「自分に対して罪を犯したら直ぐにも罰し仕返しをしたい、しかしイエスが愛と赦しを教えているので、忍耐して7回まで赦し、8回目に思い切って仕返しをしようと思います。これで合格ですか。」と質問したのです。それにイエスは「7回どころか、7の70倍までも赦しなさい」と答えたのです。これは、罪を1回、2回、・・と数えていて、7の70倍の次にはまたまとめて罰を与えなさい、と言っているのではありません。どこまでも赦しなさい、と言っているのです。
そのことを天国のたとえで説明しています。イエスの弟子たちは、イエスによって罪赦されて神の民にされ、神のご支配の中に生かされているのです。神の民は自分の正しさや忍耐力で生きているのではなく、神の国は神の権力で治められている国でもないのです。
ある国の王が、貸した金の決済をした時、1万タラントン借金をしている家来が連れて来られました。1万タラントンという金額は、1タラントンが兵士の日当の6,000日分ですから、日当1万円として600億円になります。王は、この家来に妻子も持ち物も全部売り払って借金を返せ、と命じました。しかし家来は「返すから待ってください」とひれ伏してしきりに願いました。王は、憐れに思って彼を赦し、借金を帳消しにしました。
ところがこの家来は、王宮から出て自分に100デナリの借金をしている仲間に出会うと首を絞めて「借金を返せ」と言い、「どうか待ってください。返しますから」とひれ伏して頼んでも承知せず、牢に入れたのです。デナリは日当の額ですから100デナリは100万円となります。600億円帳消しにされて自由にされ生かされているのに、100万円を待つことができず牢に入れたのです。別の仲間がこれを見ていて、王に告げました。
王は、その家来を呼び、お前が頼んだから憐み帳消しにしたのだ、お前も仲間を憐れんでやるべきでないか、と怒って借金を返済するまでと、家来を牢役に渡したのです。
神の国は、罪人が神の憐みと赦しによって民にされている国、神の憐みと赦しによって治められている国です。神が治めているその神の力は、罪は赦さないと厳しく裁き罰する力のではなく、自分に罪があることを認めて神に赦しを求める者は憐みを持って赦し、罪から解放して自由を与えて生かす、という力です。神の国はその神の憐みの赦しによって自由にされ、生かされている者によって成り立っている国です。
教会は、罪赦されて生かされている者たちの集まりです。罪赦されている者も罪を犯してしまうことがあります。それで教会生活は、神の前に日々自分の罪に気づき、悔い改め赦されて歩む生活なのです。またお互いに罪を赦し合う群れでもあります。
20013年6月23日
説教題:求めてやまない愛
聖書:エゼキエル書 34章11-16節 ルカによる福音書 15章1-10節
人間はどのような存在で、どのように生きたらよいのかは、高校生になると考えるようになるでしょう。このように考えて生きることは一生の間大事なことです。
ルカ4-6で、百匹の羊を持っている羊飼いがその一匹を見失ったら、見つけるまで捜し回り、見つけたら大いに喜ぶ、と語り、8-9で、十枚の銀貨を持っている女がその一枚を見失ったら、見つけ出すまで捜し、見つかったら大いに喜ぶ、と語っています。
この二つのたとえは共に、その持ち主が自分の所有物を見失ったら見つけ出すまでどこまでも捜す、見つけたら大いに喜ぶ、という内容です。見失われた羊が羊飼いを捜す、見失われた銀貨が持ち主を捜す、とは言っていません。持ち主が自分の所有物を失ったら探すのが当然だ、と言っているのです。なぜそんなに一生懸命に探すのでしょうか。それは自分の所にあるべきものだからです。探すのは、第一には自分のためで、第二には見失ったもののためです。この二つのたとえの話の各々の後に「このように悔い改める一人の罪人については」「このように一人の罪人が悔い改めれば」という言葉があります。見失った羊も銀貨も罪人の人間を意味して話されていることが分かります。
私たち人間は、神に造られ生かされている神のものなのです。神のものですから、神の許にあって正しく存在し、歩むことによって、存在価値があり、意味ある歩みになるのです。神から離れたら罪人なのです。罪人は失われている人間なのです。教会が「罪人」というのは、羊飼いに見失われている羊であり、女の所から無くなった銀貨です。羊飼いから離れても立派に元気で活き活きと生きている羊であっても、羊飼いにとっては存在意味のない羊になっているのです。羊自身にとってもその存在が虚しくなっているのです。女から見失われても銀貨自身はその価値を持っているでしょうが、持ち主から離れたら部屋の隅で意味も価値もない物になってしまうのです。ゴミになってしまうのです。見失うも、無くすも行方不明ということですが、価値がなくなった、滅び絶えた、ということです。
行方不明でなく、在るべきところに在って、所有者や使用者には価値と意味のあるものになるのです。私たちも、神のあって居るべきところに居ることによって価値ある者であり、命ある者なのです。神から離れた孤独の歩みは虚しく、本当の喜び、命はないのです。
エゼキエルは、神は羊飼いで、散って行った自分の羊を捜して集める、と言っています。神である羊飼いは、自分の羊が一匹でもいなくなったら、一匹の羊をも見捨てないで、行方不明のままにしておけないで、愛する羊を捜し回るのです。羊が意味あるものとして本当の命に生きるように愛を持って捜し回るのです。行方不明の羊は羊飼いから離れても呑気にしている、自分一匹は羊飼いにとって問題ではないと思っている、それでも羊飼いは愛を持って見つけるまで探し回るのです。そして羊飼いに見つけられたら、一緒に大いに喜びなさい、と周りの人々にも言っているのです。
神の許にあることで私たちは意味ある存在であり、価値あるた働きと歩みになるのです。
2013年6月16日
説教題:信仰による共同体
聖書:出エジプト記 16節9-29節 使徒言行録 4章32-37節
神によって世界が造られ、私たちが生かされてことは聖書によって分かることです。神によって私たちがどのように造られ生かされかを知ることは大事なことです。
使徒言行録4:32に「信じた人々の群れ」とあります。人間は一人孤立して生きているのではなく、群れの一員となって生きています。人間はいろいろな群れをつくりますが、一時的のものでない群れを共同体と呼ぶことができます。神を信じる民の群れを聖書も共同体と表現しています。
旧約聖書の神の民は、礼拝の共同導体、神の言葉に養われて歩む共同体でした。ところが神の民の共同体の中に、神につぶやきを言い、指導者に不平不満を言う人が出たのです。神の共同体も真実の神の共同体になるのには訓練が必要なのです。
使徒言行録4:32に「信じた人たちの群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分の物だと言う者はなく、すべてを共有していた」、34に「信者の中には一人も貧しい人がいなかった」とあります。これは驚くべきことで、十字架のイエスを主と信じ、聖霊を与えられて初めて実現することです。
信仰を持っていない人々も一つ目的なために心と思いを一つにすることはありますが、長期間継続することは不可能と言ってよいでしょう。人間は一人一人が違い、共同体の中でその違いが大きくなり、人間の考えや力で作った共同体は崩れるのです。個人の思いの中には欲の心、自分中心の心があります。それが自立や向上心のなるとも言われます。
「一人も貧しい者がいなかった」と誰が見て言っているのか。他人が外から見て言っているなら誰と比べて貧しくないと言うのか。自分が「貧しくない」と言っているのなら欲が無くない、ということでしょうか。「足るを知る」ことが美徳である、とは東西の賢者が言っています。しかし、足るを知るためには、欲望を持たず、他の人に関心を持たない、何を見ても心動かされない冷たい心で、砂漠の中にいるように孤独で生きることだ、とその賢者たちは言っています。何事にも無関心で生きる人でなければできないのです。
パウロは「私は自分の置かれている境遇に満足することを習い覚えた、私を強くしてくださるお方によって」と言っています。共同体の一員として生きるのは、共同体の他の人の貧しさ、痛み、重荷を自分のこととして生きるのです。キリストにあって一つの共同体に結び付けられた者は、自分中心の思いと歩みを捨てて、キリストにあって一つ心になり、一人として持ち物を自分の物と言わないで、すべてを共有するようになったのです。自分一人孤立して、他の人には無関心で生きる、というのとは違います。
最初の教会はこのような共同体を形成したのです。しかし使徒言行録6:1以下に記されているように、教会は組織体となり、役割分担をして、キリストの体として歩むようになりました。共同体の在り方は変わりましたが、主を信じる者の群れは、今もキリストにあって心と思いを一つにし、皆キリストの体に与かりみ言葉に養われて歩んでいるのです。
2013年6月9日
説教題:神に従う者の群れ
聖書:申命記 8章11-18節 使徒言行録 4章1-22節
ペトロとヨハネが、足が不自由であった男を癒した後、集まってきた民衆たちと話をしていると、祭司たちが来て二人を牢に入れました。彼らは、神殿での騒ぎを鎮めるためという理由でなく、二人がイエスの死と復活を民衆に語っているのに苛立って捕えたのです。
次の日、最高法院の構成員が集まって牢の二人の扱いについての議会を開きました。先ず大祭司が二人に「足が不自由であった男を何の権威によって癒したのか」と尋問しました。これは二人を捕えた時とは違う理由による尋問です。イエスの死と復活のことで苛立っているのはサドカイ派の人たちで、他の人たちはそのことは大きな問題としていなかったのです。しかしこの世も権力者は自分たちの外に権威を認めることができません。自分たちの権威や存在を否定することになり、この世を乱すことになると思うからです。それで大祭司は議会全体に、二人を自分たちが認めていない権威で力ある行為をしている、ということを示して尋問したのです。
ペトロは、以前は人々を恐れていましたが、この時には聖霊に満たされて「今、私たちは病人に善い行いをしたことで尋問を受けているが、この人が癒されたのはあなた方が十字架につけて殺し、神が復活させられたイエス・キリストの名によるのです。私たちが救われるのはこの名の他にありません」といいました。議員たちは、二人が無学の唯の人間なのに、権威を持っている自分たちの前で大胆に語るのに驚きました。
議会は二人を議場から去らせて協議しました。議員たちは意見を出し合った後、二人を脅かして「イエスの名によって話したり、教えてはいけない」と厳しく命じました。議員たちは、議会が決めて厳しく命じたので二人は黙って従うだろう、と思ったのです。
しかし、ペトロたちは「神に従わないであなた方に従うことが神の前に正しいか、どうか考えてください」と反問したのです。どんな権力者でも、知恵ある人間でも、自分たちが正しくないことを命じ、行うことがあることを知っています。ですから、権力、暴力、お金、甘い言葉などによって従わせるのです。今ペトロはイエスキリストによって神の愛と救いを示されているので「私たちは見たことや聞いたことを話さないではいられません」と言いました。神に従う人になって、主イエスから語れと命じられたように、語るのです。
議員たちは、二人を脅かした釈放しました。「皆の者がイエスの名による出来事について神を賛美していた」ので、二人をどう処罰よいか分からなかったのです。「皆の者」は、ペトロの所に集まってきた人々、ペトロの話を聞いてペトロから離れないでいる人々です。この人々は力やお金で集められた人ではありません。イエスの名による癒しを見、ペトロの話を聞いて神の愛と救いの御業を知った人々です。この人々が神を賛美していたのです。
ここに神に従う者の群れが誕生したのです。この人たちは、外に神の御業を示され、御心を教えられただけでなく、内に聖霊を与えられて心動かされ、神を賛美し、神に従う者へと導かれているのです。この群れが教会で、ここに確かな救いがあり、命があるのです。
2013年6月2日
説教題:私たちを見なさい
聖書:イザヤ書 35章5-7節 使徒言行録 3章1-10節
聖霊降臨の日に聖霊を与えられて強い人にされたペトロとヨハネが神殿に行くと、門のそばに生まれながら足の不自由な男が品物のようにそこに置かれていました。この男は毎日そこに運ばれて来て置かれて、施しを乞うていたのです。この男は40歳を過ぎていたのです。足が不自由なので、このようにして施しを乞うて生活をしていたのでしょう。
彼はペトロたちにも施しを乞いました。それは大きな声で訴えたのだと思います。自分に気づいて訴えを聞いてください、自分の存在もこのような状態も神が与えて下さっているのです、という思いがあったのではないでしょうか。
ペトロとヨハネはこの男の声を聞いて何か感じたのでしょう。ペトロたちは彼をじっと見ました。「じっと見る」は「心を込めて、見抜くように見る」ことです。ペトロはこの男に神を信じる信仰があるのを見抜いたのです。そして「私たちを見なさい」と言いました。「目を開いて、しっかり私たちを見なさい」という命令です。この男は神によって生かされている命を、反抗することなく、謙遜に受け入れて、置かれた場所で精いっぱい生きて来たのです。ですから神の言葉を受け入れる信仰があると見たのです。神の前から与えられた命を謙遜に受け入れて歩んでいる者は、キリスト者を見たら、キリストによって生き歩んでいることが分かるのです。ペトロは、自分たちが何を持っているか、何によって生きているか、何をあなたにあげることができるかを見て知りなさい、と命じたのです。その男が何かもらえると思って二人を見つめました。この「見つめる」は、何をもらえるか期待の心で見つめる、です。見つめていると、ペトロが「私たちには金銀はないが、持っているものナザレ人イエスによって立ち上がり、歩きなさい」と言って手を取って立ち上がらせました。すると、その男は足がしっかりして、躍り上がって立ち歩いたのです。
ここに私たちは、どのように奇跡が起こるのか、神の言葉がどのように実現するのかを教えられるのです。今、運動部や各方面で暴力による指導が問題になっています。お互いに信頼関係があれば暴力は必要ない、信頼関係のないことが問題だとも言われています。
互いに見つめ合っている間に信頼関係ができたのです。それで「キリストの名によって歩みなさい」を素直に聞いて、従ったのです。40歳のこの時まで足が不自由だと歩くことをしていなかったので、立って歩くことに不安や躊躇があったでしょう。しかし、この男は、二人は何を持っているのだろうか、持っているものを神が私にも分けてくれるだろう、それを感謝していただこう、と心の両手を広げて期待して見つめて待っていたのです。それで、ペトロを信頼し、イエスの名に身を委ねて、立ち上がったのです。奇跡はこのように、神を信じて神の恵みをいただいて生きようと両手を広げて待っている者に、神がキリストを通して命を与え、力を与えて下さって起こるのです。
ペトロも私たちも立派な人間ではありませんがキリストによって生かされ、キリストによる命と力を身に宿しているのです。その「私たちを見なさい」と呼びかけるのです。
2013年5月26日
説教題:教会の存在意味
聖書:イザヤ書 32章15-20節 使徒言行録 2章37-42節
先週はペンテコステ、聖霊降臨日で教会が誕生した記念の日でした。教会が誕生したとはどんなことなのか。この世界と歴史の中に、天に昇られた神の右に居ますキリストから神の霊が与えられて、キリストの体が誕生したのです。
この地上に神の意志と力によって歩む人々が誕生したのです。地と天を結びつける存在が過ぎゆく世界の中に誕生したのです。それによってこの世界に過ぎ行くことのないものが存在することになり、永遠に生きる命が入ってきたのです。
この日に、この世の人々を恐れて戸を閉めて祈っていた人々に聖霊が与えられ、霊の人に変えられて神の偉大な業を大胆に語りだしました。そのことに人々は驚き怪しみました。
そこでペトロは人々にその出来事を説明しました。その説明の最後に「あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、メシアになさった」と告げました。このペトロの話を聞いていた人々にも聖霊が与えられ、大いに心が打たれ、「兄弟たち、私たちは良いですか」と尋ねました。これは、自分の知恵や判断を全て神に委ね、使徒たちに委ねて導きを求めている質問です。今まで自分の知恵や力を中心にして歩んできた人が、神の知恵に聞き従う者に変えられた、悔い改めている言葉です。神のご支配の中でどうすべきか、これは教会だけが確信を持って答えることができる問です。
ペトロは「悔い改めて、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。」と言いました。このペトロの言葉によって、その日3千人の人が洗礼を受けました。ここに教会誕生の意味があります。
今まで神に背を向けて自分中心に生きていた人々に、愛と救いの神が御子によって罪を知らせ、贖っていることを、教会は言葉と救われている喜びの命で伝えているのです。教会だけが伝えることができるのです。その言葉と讃美の命で伝える第一は礼拝です。教会の存在意味は真実の礼拝を捧げているところにあります。
ペトロは洗礼を受ける人々に「邪悪な時代から救われなさい」と勧めました。邪悪なものと戦って、邪悪な世を替えるのではありません。教会は自分中心で邪悪なものに支配されている人を、神の言葉に従って生きる人に変えるのです。光を失っていた人に光を与え、愛を失っていた人を愛の人にするのです。教会だけが神に生きる新しい人を生み出せるのです。神の霊によって新しい人になるのです。教会の存在意味は神とキリストから聖霊を与えられて、聖霊に満たされているところにあります。頭が天にあって地上を歩んでいるキリストの体であることに教会の存在意味があるのです。教会が存在していることで、この世と歴史に意味があり、命があり、光があり、愛があり、希望があるのです。
神の霊が与えられて、邪悪な時代から救われるのは、自分ひとり救われたらそれでいいというのではありません。遠くにいる全ての人にも救いの招きがあるのです。その招きに全ての人が与かるように、教会はそのためにも存在しているのです。
2013年5月19日
説教題:天から聖霊が降った
聖書:ヨエル書 3章1-5節 使徒言行録 2章1-13節
今日は聖霊降臨日です。聖霊と教会の誕生とどんな関係があるのでしょうか。
主イエスが天に昇られた後、イエスを信じて祈っていた弟子たちに突然異様なことが起こりました。聖書は「聖霊が降る」とその出来事を記しています。この日聖霊が降ったのは、神のご計画が具体的に現れたことです。
復活のイエスは、弟子たちに「エルサレムから離れず、前に私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」1:4と命じ、「あなた方の上に聖霊が降ると力を受ける」1:8と約束して、天に昇られました。そしてイエスは神と共に世を治めるお方になったのです。
激しい風が吹いてくる音が天から聞こえ、炎のような舌が祈っていた弟子たち一人一人の上に留まり、一同は聖霊に満たされたのです。聖霊は、神の息です、風で命で力です。満たされたということは、神の思いと命と力が全てを支配した、ということです。
ここにキリスト者が生まれ、教会が誕生したのです。キリスト者も教会も人間の知恵や力で生まれたのではなく、神の霊が満ちて、肉の人間が、霊の人になったのです。
聖霊に満たされた人々は、霊が語らせるままに話しだしました。それは酒に酔っているようにも思われました。4節の「他の国々の言葉」と8節の「めいめいが生まれ故郷の言葉を聞く」、11節の「神の偉大な業を語っているのを聞く」を合わせると、聖霊に満たされた弟子たちは、皆自分の上になされた神の偉大な業を各自が自分の言葉で力強く語ったのだと思われます。
この時までこの弟子たちは、人間的な思いと力に支配されていて、十字架のイエスを主と信じていることで、人々を恐れ小さくなって闇の中を生きていたのです。ですからイエスはエルサレムから逃げるな、聖霊が降ると力を受ける、と励ましたのです。漁師であった、知識も力もなく弱く小さな人間でこの世の人々や力を恐れていた弟子たちが、実際に聖霊が降り力を与えられると新しい人に変えられ、神の力に満たされて家の外の人にも聞こえるように、キリストの証し人になって、喜びと誇りを持って神の業を語り出したのです。
この時弟子たちに起こったことは、ペトロが説明しているように、預言者ヨエルを通して神が約束されたことが成就しているのです。ヨエルは、神の霊が全ての人に与えられる、神の霊が与えられると自分中心の人間の言葉ではなく神から与えられた神の言葉を語るようになる。その時老人は「夢」を見、若者は「幻」を見る。「夢」も「幻」もまだ来ていない「神の国」です、「神の愛と義が支配する国」が今ここに来ているように見るのです。聖霊を与えられた者は、新しい神の民になって、その国を見て、その国に生きている者、神の愛と義に生きる者になる。その時には、奴隷の男女にも霊が与えられ、主を私の救い主と呼ぶ者は、皆救われる。それがこの時に天から聖霊が降って現実に起こったのです。
聖霊はこの時から、キリスト者と教会に与えられているのです。今もこの礼拝に於いて聖霊は私たちを新しい霊の人にしているのです。聖餐式は、霊の人を養う命の糧です。
2013年5月12日
説教題:イエスさまと一緒のお祈り
聖書:ルカによる福音書 11章11-4節
イエスさまのお祈りを見、聞いていたお弟子さんの一人がイエスさまに「イエスさま私たちにお祈りを教えてください」とお願いしました。
イエスのお弟子たちはお祈りを知らなかったのでしょうか。お祈りをしたことがなかったのでしょうか。みなさんはお祈りを知っていますか。お祈りをしたことがありますか。
お弟子さんたちもお祈りを知っていたし、お祈りをしていました。でもイエスさまのお祈りを見、聞いて、私たちのお祈りは本当のお祈りではない、と知ったのです。
本当のお祈りはどんなお祈りなのでしょうか。イエスさまは山の上で人々に、お祈りは見えない天の神さまとお話しすることです、と教えました。あなたたちのお祈りは天の神さまとお話ししているお祈りですか。天の神さまは見えないので,独り言になっていないですか。お芝居のように人に見せるお祈りになっていないですか。と言いました。イエスさまは神さまの子ですね。だからイエスさまは天のお父さんの神さまと心からお話ができるのです。それを見、聞いていた弟子たちはこれが本当のお祈りだと知ったのです。
私たちもイエスさまと一緒にお祈りする時、天の神さまと本当のお祈りができるのです。
イエスさまは山の上で、自分の思いを「聞いて、聞いて」というだけの祈りではいけないとも教えています。自動販売機はお金を入れたら品物が出てきますね。そのように「神さまお祈りしているのだからこれを聞いて」と自動販売機をたたくようなお祈りではいけない。と言っています。みんなのお母さんも「聞いて、お願い」と言っても「今はだめ」「それはできない」ということがあるでしょう。お祈りも神さまの御心に添う時に聞かれるのです。ですから神さまの御声を聞いて、お祈りするのが本当のお祈りです。
神さまの御声を聴いて、御心に添うお祈りをするのにはどうしたらよいのでしょうか。イエスさまは、弟子たちがお祈りを教えてください、とお願いしたのにお答えになって、「このように祈りなさい」と祈りを教えて下さいました。私たちはイエスさまに「祈りを教えてください」と頭を下げてお願いすることが第一です。そうするとイエスさまが「こう祈りなさい」と祈りを教えてくれます。それは言葉だけを教えているのではありません。その言葉の中に神さまの御心が示されているのです。また、イエスさまと一緒にこう祈りなさい、と祈りの姿勢も心も教えて下さっているのです。ですから、イエスさまに一言ずつ教えて頂いて、イエスさまと一緒にお祈りする時、御心に添うお祈りになるのです。
来週は聖霊降臨日でイエスさまを信じて祈っている人に聖霊が与えられた日です。聖霊が与えられて私たちはイエスさまを内に宿して神の子になるのです。私たちの内からも神の子の霊が一緒に働いて、祈りをとりなし、神に聞いていただける祈りになるのです。
イエスさまは、祈りを教えて下さっただけではなく、私たちと一緒に祈っていてくださっているのです。私たちが「父よ」と呼びかける時、神さまは一緒に祈っているイエスさまによって、「愛する子」の祈りに耳を傾けて、祈りを聞いてくださるのです。
2013年5月5日
説教題:神が居ますところ
聖書:創世記 11章1-9節 エフェソの信徒への手紙 4章1-10節
今週の木曜日は、復活した主イエスが40日間地上を歩まれた後、天に昇られた日です。十字架の主イエスが復活されただけでなく天に昇られたことによって、私たちは罪が贖われただけでなく、天の神と結びつくことができるようになったのです。
エフェソ4:8と9で「高いところに昇った」、「昇った」というので低い所、地上に降りてこられたのだ、それは神の御子イエスが地上に降りて来られ、罪人の罪を贖って義とした方が、天の神の賜物を分け与えて下さるためだ、と言っています。キリストが天に昇られることによって、罪を贖われたキリスト者は天の神の賜物を分け与えられ、神にあって生かされる者になったのです。
4:1で「主に結ばれて囚人になっている私はあなた方に勧めます。神から招かれたのですからその招きに相応しく歩みなさい」と言っています。「囚人」という言葉は、牢にいるということでありますが、「捕えられている」「縛られている」という意味の言葉です。「あなたがたは神から招かれたのですから」の「招く」は、裁判所に呼ばれる、仕事に召されるという意味があり、招かれた者は招いた人の支配下に身を置きその指示に従うのです。キリストに捕えられ結ばれているパウロはそのことを喜び感謝していると共に、あなた方もキリストに招かれ結ばれているのだ、ふさわしく生きるように、と勧めているのです。
パウロは、以前自分中心に正しいと思う生き方をしていましたがそれは罪人の生き方でした。神を知らない者は神に背く生き方を正しい生き方と思っているのです。
創世記11:1-2に記されている人々の思いも行為も、人間的に見たら正しく立派なものです。しかしそれは、神を無視し神の御心に背く、罪なのです。神はその罪を裁かれました。大きなことをしなくても、有名にならなくても、神から与えられた命と生かされている場を感謝して受け入れて、神の御心に添って生きればよいのです。
地上に降りて来たキリストが地上で救いの御業を行って天に昇られたので、神は今、キリストによって天と地の造られたもの全てを、御心のご支配で満たしているのです。地上から天までの全てが、キリストに捕えられ、結びつけられ、神の御心に完全に支配されている、満たされている。それが創造者である神にあって,生かされ、意味あるものにされている、ということです。キリストが天と地を一つにしてこの世界と歴史を救うのです。
パウロは、人間として正しいと思っていた歩みが罪人の歩みであることを、イエスの十字架によって知らされ、キリストに捕えられてキリストの者とされていることを、今喜び感謝して、キリストの囚人として同じキリスト者にふさわしく生きよう、と語っているのです。キリスト者は皆キリストに召され、捕えられているのです。世界と歴史のどこにも神が居ます。ですからキリスト者は、神の御心に満たされている教会に結びついて、どこに居ても与えられた賜物を神にあって用い、意味ある歩みをするのです。
キリストに結びついている者としてふさわしい、意味ある歩みをするのです。
2013年4月28日
説教題:神の民を育てる教会
聖書:マタイによる福音書 18章15-20節
街で教会を捜す目印は十字架です。十字架は罪人が処刑されたしるしで、この世の人は喜ばないものです。しかし、教会に自分の存在と歩みの足場を置いているキリスト者はいつも十字架から目と心を離さないようにしています。そして教会は、世の人々にこの十字架によって救いを得るように、と語りかけているのです。
マタイ18:15に「兄弟があなたに対して罪を犯したら,行って二人だけの所で忠告しなさい」とあります。これは十字架なしには語れないし、実行できないことです。十字架によって罪人の私が赦されている、だからあなたも自分の罪に気づき十字架によって赦されなさい、と言えるのです。キリスト者でも罪を犯すのです。教会は罪を犯さない完全な人がいるところではなく、罪人が罪赦されて生かされるところです。罪人を新しい人、神の子、養子にしてくださるところです。しかし養子にされても古い命が残っているので、それが現れることがある。そのようなキリスト者に神は、私が私の子にしている、最後には私が責任を持つと約束し、だからあなたは私の子として生きなさいと命じているのです。
「兄弟があなたに対して罪を犯したら」とあります。私たちは自分が傷つけられた、損をしたということには敏感です。そしてこのことで訴え、償いを求める権利が自分にある、と思います。しかし21節以下でイエスは、借金を返さない人も赦せ、罪はどこまでも赦せ、と言っています。ここの「あなたに対して」は写本のこともあり省いて読めます。
それならここの罪はどのような罪なのか。16,17節にある他の人にも分かる罪で、教会にとって問題になる罪です。15-17にある「その兄弟を失うか、得るか」、18-20にある「教会が主にあって一つであるか、一つであることが破られるか」という罪です。
15節に「兄弟が罪を犯したら行って」とあるのは「兄弟が罪を犯したのを知ったら直ぐに行って」で、早く新しい人として目覚めさせるのです。パウロは「万一誰かが、不注意にも何か罪に陥ったら、あなた方は柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように自分に気を付かなさい」と言っています。教会は、古い命の罪を見過ごしにしていないで、兄弟を信仰に目覚めさせ、神の子に相応しく立ち帰らせるのです。
19節「どんな願い事であれ、心を一つにして求めるなら」。私たちは一人一人異なる願い事を持ち、違う生き方をしています。しかし教会は神の前に一つになって願い、生きるのです。教会は一つキリストの体です。体は異なる肢体が一つに結びついて生きています。「心を一つにする」という言葉は、音を集める、響きを一つにする、という言葉で、いろいろな楽器が集まって一つの調和した響きになるシンフォニーとなりました。教会はいろいろな人がキリストによって一つに集められて、各々が生かされると共に皆が一つ体として生き、調和した響きを出して神を賛美して歩んでいるのです。
教会は、十字架の主によって神を礼拝しています。礼拝の度に、罪人が新しく神の子にされ、教会が新しく生まれ、キリストの体にふさわしく育てられるのです。
2013年4月21日
説教題:教会を造り上げよう
聖書:エレミヤ書 23章1-8節 エフェソの信徒への手紙 4章11-18節
今日の説教題と聖書は、今年の薬円台教会の年度主題と年間聖句です。今年の9月に薬円台教会は40周年を迎えます。この節目の時に教会誕生の源に目を向けたいと思います。2000年前に教会が誕生した時のことは新約聖書から知ることができます。
主イエスは12人の弟子を選び,御そばに置き、使徒と名付けてご用の一端を担う者とされました。ここに教会の起源があります。そして聖霊降臨によって教会が誕生しました。教会の誕生も、成長も神の業です。人間の業ではありません。
エフェソ4:11に、「ある人を使徒、預言者、福音の宣教者、牧者、教師とされた」、とありますが、誰がされたのでしょうか。4:10にある「もろもろの天よりも更に高く昇られた」お方です。神の右に昇られたキリストです。キリストが、神の御心と御力を共有されて、地上に臨み、歴史の中に御業をなされたのです。それでキリストによって教会の務めをする者が選ばれ、任命され、必要な力が与えられ、その務めを担うようになったのです。ですから、その人たちは自分の思いや力によって務めを行うのではありません。キリストの言葉を聞き、御旨に従うことによってその業を行い、責任を果たすのです。
エレミヤは、神の民は神のものなので、牧者は神の羊を治める責任を神から与えられている。それ故、この牧者は神の御旨に添わないような羊の扱いをしたら、神から罰を与えられる。と言っています。
教会の牧者も同じで、神の民を神の言葉によって導き養い守るのです。「教会を造り上げよう」と言っても、私たち人間が自分の知恵や力で教会を、自分の教会を造り上げるのではありません。キリストの体である教会を、教会員皆がキリストのご支配のもと、御言葉に聞き従いながら造っていくのです。12に「こうして聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき」とあります。「聖なる者たち」はキリストに救われた者たち、キリストの体に結び付いている者たちで、神の民です。孤独な存在や孤立した者ではありません。神の民として存在し、歩む者です。キリストの体に結びつくことなしに救いはなく、生きていることの意味も目的もないのです。キリストに結びつくことで、私たちの存在も生きていることも意味と目標をもつのです。「奉仕の業をするのに適した者とされ」とあるのは、キリストに結び付けられないと正しく奉仕をする者にはなれない、ということです。整え、準備された者が、適した者です。私はこんなに一生懸命にお世話をしている、奉仕をしている、と思っていることが自分中心で、余計なことであった、自己満足で必要なお世話や奉仕をしていない、ということが現実にはあるのです。キリストに結びついて、御言葉を聞き宿して、奉仕をするのに適した者にされるのです。
そのことが教会を造り上げていくことになるのです。この世の人がここにキリストの体があると見る、キリストの体に相応しい奉仕、愛の業に生きる教会になるのです。
そして教会は最終的にはキリストの満ち溢れる豊かさにまで成長するのです。
2013年4月14日
説教題:神の内のある命で生きる
聖書:申命記 7章6-13節 コロサイの信徒への手紙 3章1-11節
申命記はイスラエルの民に「あなたは神の聖なる民で、神はあなたを選び御自分の宝の民とされた」と言っています。奴隷であった民、今は荒野を空腹になって歩んでいる、神につぶやきと不平を言っている民です。神はその民をご自分の民、宝とされたのです。宝は、「私はこれを大事にし、絶対に手放さない」としているもの、です。聖書はその民に、自分をこのような者なのだと知り、その自覚を持って生きなさい、と言っているのです。
コロサイ3:1で「キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」と言っています。上にあるものを求めなさいと命じる理由は「キリストと共に復活させられている」ことにあるのです。キリストは復活して神の右にいるのです。だから、あなたがたは上にあるものに心と目を向け全身を向けて生きるように、そして「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないように」、と命じています。上にあるものを目標にして、それを熱心に追い求めて生きるように、と言っているのです。同じ目標に向かって行くのでも、追いまくられ強いられて歩むのと、あこがれの目標に向かって希望と喜びを以て歩んでいくのでは、その歩みも心も違います。私たちはキリストと共に神の命に復活させられ、キリストが上に居ますので、そこが自分の居場所であると心を留め、そこを目標として喜んで歩んで行くのです。
洗礼を受けたキリスト者は、同じ地上にあっても受洗前とは物の見方が変わり、生活の基盤、価値観が変わります。5節以下のように地上的なものを捨て去るのです。地上のものを生きる根拠にはしないのです。洗礼を受けても地上に生きて、地上的なものがまだ身についています。だから聖書は、地上的なものを捨てなさい、と命じているのです。この命令はキリスト者の自覚、キリストのものにされている自覚、神の宝である自覚を持って生きなさい、ということでもあります。その自覚によって実行が可能になるのです。
キリスト者の自覚と生きる目標がなくなったら、キリスト者であることもその歩みも意味を失います。この世で終わる歩みは、5節以下にあるようなもので、結局空しいのです。「上にあるものを求めなさい」というのは、あの人よりも偉くなるというような地上の相対的な世界での「上」ではありません。キリスト者が心の内から求めるもので、神の右に居ますキリストと共に生きることです。そこに目標を持って生きるのです。死で終わる命ではなく、神の内にある命に生きるのです。
しかし、このキリスト共にある復活の命は隠されています。隠されているのは神の栄光に包まれているのです。神が宝として、悪魔に危害を加えられないように大事に肉の目が見えないところに、私たちの永遠の命を隠しているのです。やがてキリストと共に神の栄光が現れる時に現れるのです。現実の私たちは弱く苦しみながら歩んでいますが、信仰によって復活の主を見上げる時、私たちは神の命の中に生かされている確信を与えられて希望と喜びを以て生きることができるのです。
2013年4月7日
説教題:最も大切なこと
聖書:イザヤ書 65章17-25節 コリントの信徒への手紙一 15章1-11節
パウロは「告げ知らせた福音をここでもう一度知らせます。これはあなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音です。」と言っています。大事なことは一度しっかり心に刻みつけるだけでなく、繰り返し聞いて、新たな思いで刻み込むことです。
教会の礼拝では毎週新しい話を聞くのではありません。礼拝では同じ福音を聞くのです。生活のよりどころにしている福音です。私たちの生活と人生を意味あるもの、実りあるものにしているのが福音です。その福音は時と場所、人と状況によって変わるようなものではありません。どの人の存在も歩みも福音が意味あるものにするのです。
パウロはその福音をここでもう一度語るのです。「私が伝えたのは、私も受け入れたものです。」と言っています。その福音はパウロが考えたものでも、造ったものでもありません。先輩の人から伝えられ、自分が受け入れてそれによって生きて真実に命と力があると確信している、その福音を伝えているのです。福音はそのように教会によって伝えられ、人々を生かして伝承されているのです。教会は毎週の礼拝で福音に生きる喜びを現しながら福音を伝えているのです。
「最も大切なこととして伝えたのは、キリストが聖書に書いてある通りに私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてある通りに三日目に復活したこと」と言っています。パウロは、自分にとってだけでなく、教会の伝承として、また全てのキリスト者にとって最も大切なこととして伝えているのです。それは聖書が語っていたことで、それが真実になったのです。その内容はキリストの十字架の死と復活です。これは人間の思いや力によって起こったのではありません。神が御心によって世界と歴史を支配していることを現している全ての人にとって大切なことなのです。
イザヤは、神が死と滅びに支配されない新しい人を創造される時が来る、と言っています。その新しい創造がキリストを通してなされたのです。その創造にあって、実りのない人生や労苦はもはや存在しなくなり、人生も労苦も意味あるもの、実を結ぶになるのです。
パウロは、肉の目で復活のイエスに出会ったこと、それを伝えること、を大切なことと記しています。しかしそれは、人間の目で見たのが確かだというのではなく、神を信じる信仰の目によって復活のイエスにお会いしている、と言っているようです。「とにかく、私にしても彼らにしても、このように宣べ伝えているし、あなたがたはこのように信じたのです。」と言っています。パウロのこの手紙は福音書よりも前に書かれています。その時代にすでにイエスの復活はこのように伝えられ、信じられていたのです。今も昔も教会は、福音の最も大切なところを信仰の目によって見、語り、人を生かし、伝えているのです。
聖書は「あなた方はキリストを見たことがないのに愛し、今見ていなくても言葉で言い尽くせない喜びに満ち溢れています」とも記しています。私たちもこの人たちと同じように礼拝で信仰によって主にお会いして、最も大切な福音をいただいて歩みたいと思います。