2010年3月28日
説教題:十字架上のイエス
聖書:イザヤ書 53章4-10節 マルコによる福音書 15章25-41節
【説教】
今週の金曜日に主イエスは十字架につけられ、十字架上で「真の人」になって死なれたのです。それによって私たちは救われたのです。「真の人」は、神よって命与えられ、生かされている純粋の人です。私たちは罪に汚れ、この世の思いと力に歪んでいる人間です。
イエスは十字架上で「我が神、なぜ私を見捨てるのですか」と叫びました。真の人だけが死を前にして神を「我が神」と味方として呼ぶことが出来るのです。「もし神がいるなら」と言っている人は、神にあっての自分を思わない、自分中心の人間です。
マルコ15:24に兵士たちが十字架につけるイエスの服を脱がして、くじ引きで分けた、とあります。死に行く人を目の前にしながら、くじ引きをして楽しんでいるのです。これは、真の人ではなく、罪に歪んでいる人です。この兵士が例外ではありません。29に、通りかかった人が「十字架から降りて自分を救え」と言ってののしった、とあります。この世の人は隣り人を見捨ててでも自分を救えと言うのです。イエスは世の罪人を救うために十字架につけられ、その十字架をご自分で受け入れたのです。その十字架上のイエスを31では祭司や学者たちが馬鹿にしたのです。32では一緒に十字架につけられている罪人たちもイエスをののしった、と記しています。これは私たちの姿でもあります。
イエスの十字架の意味をイザヤ書が語っています。私たちの背きのために、私たちに代わって苦しみと罰を受けた、苦難の神の僕がイエスだ、と福音書は記しているのです。
また詩編22をイエスは成就していると福音書は記しています。15:24は詩編22;18,19を、29-32は詩編22:8,9を、:34の叫びは詩編22:1を。イエスは神の救いの御計画を成就されているのです。神から与えられた、罪人の人間を救うメシアとして十字架につかれたのです。
この十字架のイエスを見て思うことは、私たちがどんなに罪人であるか、その罪人の救いが確かであるか、それなのに自分の罪も救いも気付こうとしていない人がいることです。
昼の12時に全地が暗くなったのは、神の子イエスから神の命が捨てられたのかも知れません。イエスは十字架上で真の人となられて、神の愛に背を向けている罪人の一人としての連帯責任、特に神の民ユダヤ人の王としての責任を思い、その罪を御自分のものとされたのです。それによってイエスが神から捨てられ、地上から光が失われたのです。
主イエスは真っ暗な中で「我が神、なぜ私を見捨てるのですか」と叫びました。イエスは捨てられている中でも、「我が神、あなたによってだけ私は存在し、生きるのです」と、母親から「お前は知らない。勝手にしな」と突き放されても「お母ちゃん」と叫んでしがみつく幼子のように、イエスは十字架上で神に叫び祈ったのです。3時のその時世界に光りが戻ったのです。イエスの祈りが聞かれたのです。そしてその時神殿の幕が上から下まで裂けたのです。神と人間の交わりが十字架のイエスによって新しくなったのです。
今は神の愛を知った歩みが出来るのです。私たちは神に見捨てられていると思われる時にも「我が神」と祈ることが出来るのです。その祈りはイエスにあって神に聞かれるのです。
2010年3月21日
説教題:十字架に向う決意
聖書:マルコによる福音書 10章32-45節
【説教】
主イエスは受洗後、メシアとしての自覚と決意を持って弟子たちと宣教の旅をしました。
マルコ10:32に「一行がエルサレムに上って行く途中、イエスは先頭に立って進んでいかれた。それを見て、弟子たちは驚き、従うものは恐れた」とあります。「エルサレムでいよいよ十字架に架けられるのだ」との決意で歩み出すイエスを、弟子たちはこの時になっても理解していないで、意外の思いをもって、驚き恐れの目でイエスを見たのです。
弟子たちは自分中心にイエスを見ていたので、同伴者イエスを理解できなかったのです。このことは私たちにもあることです。自分中心に見、対応しているので隣人も仲間も理解していないことがあるのです。弟子たちはイエスをどのように理解していたのでしょうか。
それは二度の、イエスが告げた受難予告に対する弟子たちの反応に見ることができます。一度目の予告8:31の時、ペトロはイエスを諌めたのです。そのペトロをイエスは「サタン引き下がれ、お前は神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱り、「私の後に従いたい者は自分を捨て、自分の十字架を負って私に従え」と言われました。二度目の予告は9:31です。:32には、弟子たちはこの言葉の意味が分らなかった、とあります。:33-34には、弟子たちが自分たちの中で誰が一番偉いか論じ合った、とあります。この時イエスは「一番先になりたいものは、全ての人の後になり、仕える人になりなさい」と言われました。
そして今日の10:33-34に三度目の予告があります。この予告は前二度の予告より内容が具体的です、事が迫っていることを意味しています。この予告を聞いた弟子たちの反応は:35-41に見ることができます。ヤコブとヨハネがイエスに近寄って「願いを叶えてください。栄光をお受けになる時、私たちの一人を右に、もう一人を左に座らせてください」と言ったのです。それを聞いた他の弟子たちは、二人に腹を立てたのです。この弟子たちも、イエスは栄光の座に着く、そのイエスの隣りに座りたいと思っていたのです。私たちもそのように思っていないでしょうか。
主イエスは一同を近くに呼び寄せて「異邦人の間では支配すると思われる者が人々を治める。偉い人が権力を振るっている。しかしあなた方の間ではそうであってはならない」「あなた方の間で偉くなりたい者は、皆に仕える人になり、全ての人の僕になりなさい」と弟子のあり方を示し、教えています。
ここで主イエスは、偉くなりたい意志を否定しているのではありません。「なりたいと思う者は」と、8:34、9:35でも言っていますが、これは「自ら意志する者は」ということです。イエスの弟子は、偉くなること、一番になることを自らの意思で願って言いのです。その時に偉い、一番の基準が異邦人とイエスの弟子では違うのです。イエスの弟子は、自分の十字架を負ってイエスに従う人、仕える人になるのです。その人が神の国で偉い人、大きい人、一番の人になるのです。
それはイエス御自身が歩まれた道です。私たちもイエスに従う決意に導かれるのです。
2010年3月14日
説教題:姿を変えられたイエス
聖書:出エジプト記 24章12-18節 マルコによる福音書 9章2-13節
【説教】
今日のマルコは8:27から9:32までのまとまりの中にあるといえます。このまとまり全体が、イエスがどのようなメシアであるか、を語っています。その中で今日の、高い山に登ったらイエスの姿が白く輝く服の姿に変わってエリヤとモーセと話をした、という記事は、イエスが旧約聖書の約束と結びついた神からのメシアであることを示しているのです。
出エジプト24:12-18には、モーセが高い山に登って神と相目見え、神の民、契約の民として生きるために契約を神から与えられることが記されています。イエスが山の上で光り輝く服に包まれてモーセと話し合っているのは、イエスが神から民に必要な道を与えられているメシアであることを現しているように思われます。エリヤは、神の声を聞いて偶像を拝む者と戦い、最後は天に上って行った預言者です。そしてマラキ書は、メシアが来る時先駆者としてエリヤが来る、と言っています。
イエスは3人の弟子を連れて山に登り、3人の前でイエスの姿が変わったのです。神が御臨在する、神の栄光の場がそこにあったのです。3人の弟子は、その場のすばらしさを体験し味わいました。神が御支配される神の国、救いの完成を現しているものでした。
9:5に「ペトロが口をはさんでイエスに言った」とありますが、ペトロが口をはさめる状況ではなかったでしょう。「言った」という字は「質問に答えた」という字です。ペトロはイエスから質問を受け、答えを迫られた。「ペトロはどう言えばよいか分からなかった」ので、「先生、私たちがここにいるのはすばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう」と思ったことを言いました。ペトロは、このすばらしい状態に私はもっといたい、そのために自分の力で仮小屋を建てよう、と思ったのです。もしその場に居たら、私たちの多くの者が思うことではないでしょうか。
ペトロが答えると、雲が彼らを覆って、雲の中から「これは私の愛する子、これに聞け」と声がありました。弟子たちがあたりを見回すと、イエスだけが居たのです。雲は神の御臨在を意味しています。自分中心の思いで、神の栄光に与っている恵みを自分だけのものにしていたい、自分の力でそれをしよう、と思っていたペトロと弟子たちに、神は、全ての人を救うために、メシアのイエスは苦しみを受けて殺されるのだ。自分の思いではなく、イエスに聞き従って歩め、と弟子たちに命じているのです。そして、自分を捨てて、イエスに聞き従うことによって神の栄光の国にいる者に変えられる、と告げているのです。
メシアの先駆者エリヤは、洗礼者ヨハネである、とイエスが:12、13で語っています。
主イエスは、聖書に約束されているメシアで、神の御心を行なう神の子です。今日のマルコはそのことを示し強く語っています。このイエスこそ私たち信じる全ての人の救い主なのです。そして、イエスは弟子たちと一緒にいるのです。このイエスに聞き従って歩む者は、最後の日にイエスと一緒に変えられるのです。私たちは、そのことを信じて、地上の道を、十字架に向って歩んでいるイエスに聞き従って、歩んでいきたいと思います。
2010年3月7日
説教題:ペトロがした信仰告白
聖書:マルコによる福音書 8章27-33節
【説教】
私たちが聖書を読むのは、救い主イエス・キリストがどのようなお方であるか、を知るためです。今日のマルコはそのことを直接語っています。
イエスは弟子たちと宣教の旅をされている途中で弟子たちに「人々は私のことを何者と言っているか」と尋ねられました。そして「あなたがたは私を何者だというのか」と尋ねました。弟子たち、お前たち自身は私を何者と見ているか、と尋ねたのです。
主イエスは、ただ弟子たちの思いを知りたいのではなく、弟子たちは今までの交わりで自分をどのように知ったか、また自分を何者と見て自分と一緒に歩んでいるのか、知ろうと思われたのです。ペトロは弟子を代表して「あなたはメシアです」と答えました。これが信仰告白です。主イエスから私の思いを問われる。その問いに対して主の前で責任を持って答える、応答する、それが信仰告白です。ペトロがした信仰告白は、弟子たちを代表しての信仰告白であり、イエスと共に歩んでいる私たちの信仰告白でもあります。
主イエスはペトロがした信仰告白を拒否しませんでした。黙って受け入れたのです。しかし「するとイエスは御自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められた」のです。主イエスは、ペトロがした信仰告白ではイエスを正しく理解していない、このままでイエスが何者かと人々に語られたら困る、誤解を与える、と思われたのでしょう。
マルコ福音書は続いて、イエスが自分は必ず苦しみを受けて、殺され、復活すると語られたこと、を記しています。ペトロがした信仰告白とイエスの戒め、続くイエスの受難と死と復活の予告は一つに結びついている、と編集しているのです。:32には「しかも、そのことをはっきりとお話しになった」と注を加えています。すると、ペトロがイエスをわきへお連れしていさめ始めたのです。ペトロはイエスを子ども扱いして注意したのです。
イエスをお連れしたペトロは前にいたので、イエスは振り返って弟子たちを見、ペトロを叱っていったのです。「サタン引き下がれ」、私の前にいないで、私の後に引き下がって従う者になれ、と言われたのです。ペトロだけでなく、弟子たち皆がサタンの誘惑に負けていたのです。「お前は神のことを思わず、人間のことを思っている」、とイエスは続いて言われました。これは、ペトロがイエスをメシアと告白したメシア像が、サタンの誘惑に囚われた人間中心で、神の御心によるメシアとは違う、と言っているのです。
ペトロは、自分は正しいと思ってイエスを子ども扱いしていさめたのです、イエスの先に立ってあなたはこのようなメシアであるべきですよ、と言ったのです。人間中心、自分中心なのです。弟子たち皆がこの時はそうだったのです。私たちもペトロの信仰告白と同じ状態になっているのではないでしょうか。
神からのメシアであるイエスは、全ての人を救うメシアなのです。イエスは神の御心に従って苦しみを受けて殺されるメシアであることを受け入れて歩まれているのです。
私たちはこのイエスによって救われていることを、謙遜と感謝を持って覚えましょう。
2010年2月28日
説教題:悪の霊との戦い
聖書:エフェソの信徒への手紙 6章10-18節
【説教】
主イエスは私たちの救いのために苦しみを受け十字架に死なれたのです。主イエスの御受難は他人事ではない、私のためなのです、主の御受難によって私たちは救われたのです。
主の御受難によって救われた者は、苦しみのない安楽な信仰生活をするのでしょうか。違います。私たちは、神の民として主イエスに結びついて、戦いの信仰生活をするのです。
エフェソ6:12に「私たちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、闇の世の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」と記されています。
この世には悪い人、事件や問題を起こす人、私たちを苦しめ悩ます人がいます。「あの人がいなければ」と思われる人がいます。しかし聖書は、相手は人間ではない、その人を支配している悪の霊だ、と言っているのです。悪の霊は、個人だけではない、暗闇の世界の支配者でもある、と言っています。この悪の霊は、私たち人間の中に宿って私たちを動かすことがあるのです、また時代を動かし、政治家や経済人を動かすこともあるのです。
悪の霊がどんなものか、どんなに恐ろしいものかを聖書全体が語っています。先週の礼拝説教で開いたマルコ1;13には、サタン、悪の霊がイエスを誘惑した、試験した、それだけの力を持っている、と記されています。神の子の歩みを左右する力を持っているのです。
エフェソ6:11には「悪魔の策略に対抗して立つことが出来るように」とあります。悪魔は策略を持って私たちに働きかけて来るのです。自分の仲間になれ、自分の支配下に入れ、と誘惑し力で臨み、対決して来るのです。「対抗して立つ」というのは、対立し向かい合って立つことです。:11-12に「立つ」という言葉が3回出てきています。:13の「抵抗」も「反対して立つ」という字ですから、4回「立つ」の字が使われています。「立つ」は、基礎を置く、陣地を守る、という意味の言葉で、反対語は、逃亡、陣地を見捨てて逃げる、です。:12の「戦い」は、兵器による戦争ではなく、取っ組み合いの戦いです。取っ組み合いの戦いで立つ、逃亡しないで与えられた陣地を守りぬくのが信仰の戦いです。戦う人間自身の心と体力が強くなければ勝利をえることは出来ません。それで:10に「主に依り頼んで、その偉大な力によって強くなりなさい」と勧められています。
悪魔が策略をもって、私たちを神から引き離そうと臨んで来ているのです。内から外から働きかけて来るのです。私たちは、無菌室にいるのではなく、多種の菌がいるこの世の中で生活し、日々信仰の歩みをしているのです。どの菌にも対抗できるように強くしていることが必要です。それは主によって強くされることです。:11に「神の武具を身に着けなさい」とあります。ここに紹介されている神の武具で完全武装して信仰生活を戦って歩むのです。
私たちはこの受難節の時、今も悪の霊が策略を持って私たちに臨んでいることを認め、主によって強くされて戦い、与えられた信仰の道を外れないで正しく歩みぬく者でありたいと思います。
2010年2月21日
説教題:主が受けた試練
聖書:ヘブライ人への手紙 2章10-18節
【説教】
今日の聖書は、主イエスが荒野でサタンの誘惑を受けられた意味を教えています。
マルコ1:9-15を開いてください。主イエスは、罪人の一人になって「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼」を受け、神の霊を注がれて神から「私の愛する子」と呼ばれ、「私の心に適う者」と告げられました。それから直ぐに、神の霊によって荒野に送り出され、40日間サタンの誘惑を受けられたのです。その時、主イエスに天使たちが仕えたのです。そして、サタンの誘惑に勝利し、「私と一緒に神の国が来た」、と宣べ始められたのです。
このイエスの歩みをヘブライの手紙は「多くの子らを栄光へと導くためになされたことで、救い主イエスにふさわしいことであった」と言っています。「多くの子ら」と言っているのは、神の御心は「全ての子ら」を救うことでしたが人間には頑なな者がいるためです。
結果的に「多くの子ら」となってしまっても、神は全ての人を神の子とし、神の国に生きる者とするように、御子イエスを救いの御計画と実行の創始者、先駆け、完成者とされたのです。救いの道を拓く者であると同時に、救うために必要なことをされる方なのです。数々の苦しみの中にいる者、弱い者も救いの道を歩きぬくように、導き支える完全な救い主なのです。それが荒野でサタンと戦って勝利したイエスです。
私たちは洗礼を受けキリスト者としての歩みを始めます。その時ある人は、救われてキリスト者になったら、苦しみ悩みから解放されて、楽園に生きる生活が来る、と期待するかもしれません。しかし現実の信仰生活は荒野を歩んでいるように思われるものです。
「サタンの誘惑を受けた」という言葉は、「試みを受けた」「試験を受けた」という言葉です。ヘブライ2:18「試練」も同じ言葉です。命を賭けた試み、テストにイエスは合格したのです。罪人の人間、荒野を歩んでいる人間を救うのにふさわしい救い主である、と神によってイエスは合格し、救い主として歩み、命をかけてその使命を果たされたのです。
しかしそれは、イエスの十字架が救い主にふさわしい、と言っているのではありません。十字架の死は、神の子が人となって、私たちの代わりに死んでくださったのです。十字架の救いは信仰によって与えられる、義とされて神の栄光に結び付られる救いです。
それに対して、主イエスの洗礼に続く荒野の誘惑が私たちの救い主にふさわしい、というのは、私たちが、神の子として最後まで歩みぬいて、神の栄光を受けるための救い主にふさわしいということです。この世の生活はどんなでもいいというのではありません。
私たちは、主イエスが拓かれ先立って歩まれた歩み、信仰者の歩みを主に続いて主と共に歩むのです。信仰生活は試練の歩み、戦いの歩みです。しかし栄光への歩みです。
2:17,18で「イエスは、神の御前に忠実な大祭司となって, - - - - -、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることが」できる、と記しています。
受難節のこの時、主イエスは私たちのために人となって試練をご自分のものとされて歩まれ、勝利されたことを深く覚えて歩んでいきたいと思います。
2010年2月14日
説教題:神が望まれること
聖書:イザヤ書 1章10-17節 コロサイの信徒への手紙 2章16-19節
【説教】
今週の水曜日からレント、受難節に入ります。この期間に断食や禁欲的な生活を行なっている教会があります。しかし、私たちは、この時特別に断食などを、行っていません。
それは、受難節の意味や主の十字架と復活を軽視しているからではありません。私たちはそれらを重んじていることを、限られた時に特別な行為で現すのではなく、全ての日々を十字架と復活の恵みを覚えて歩むのです、それで特定の時に特別なことを行なうことにこだわらないのです。
コロサイ2:16に「あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また祭りや新月や安息日のことで、誰にも批評されてはなりません」とあります。これは教会の人たちが、律法等ユダヤ人が守ってきた生活習慣を守っていない、と批評されていたのだと思われます。コロサイは異邦人の町ですからグノーシスの考えをもった人が批評したのかも知れません。
断食する人、それを定めて守り実行する人は特別な力のある人、その人には特別な力が与えられる。と言う考えは広くあります。神に近い人、神に近づける人と言う考えがあります。暦を重んじ、安息日や特別の日を重んじることも信仰の現われと見られています。
しかしパウロは、キリストの十字架と復活の救いを信じる者はそれらから解放されて自由になっている、と語りました。それが私たちの教会の信仰です。
;17「これらはやがて来るものの影にすぎない。実体はキリストにあります」。「やがて来るもの」は、キリストの再臨による新しい御國です。そこに本当の命があり、体があるのです。食べ物や日は神の愛と恵みの一つの現われです。影であって実体ではないのです。私たちの命は御國に生きる命です。地上に生きているこの肉の体に、キリストの命が信仰によって宿っているのです。:18-19に、肉の思いによって判断し生きることを止めて、キリストに結びついて生きるように、教会に結びついて生きるように言っています。それこそ神に結びついて、神に育てられ、成長していく、生きた命なのです。
:23には、食べ物や日を重んじることは、独り善がりの礼拝で、実は何の価値もない、肉の欲望を満足させるだけだ、とあります。自己中心と自己満足を育てるだけなのです。
イザヤ書も、ささげ物と礼拝が、自分の思いを叶えるようにとの思いからされている、自分中心で自己満足なものなので、私はそれらのささげ物と礼拝を拒否する、と神が言っています。神が求めているのは、礼拝の時だけささげ物をして信仰的に振舞うことではなく、日々の生活が神の愛と恵みに生きて歩んでいることだ、と言っています。
私たちは、肉の思いで生きていて神の前に出るのではなく、神が求めている生き方を知って、神が求めている生き方をしたいと思います。心から神の愛と恵みに生かされているものとして日々歩むこと。それが神の求めていることなのです。特定の日だけ特別なことをすることではなのです。私たちは実体であるキリストに結ばれた、歩みを日々するのです。そのとき私たちの信仰は、年々神に育てられて成長していくのです。
2010年2月7日
説教題:健やかに生きる力
聖書:サムエル記下 12章18-23節 マルコによる福音書 2章1-12節
【説教】
マルコの3節に「四人の男が中風の人を運んできた」とあります。この五人は一つ共同体のような強い結びつきを持って生きていた人たちで、中風の人が癒され、健やかになることが、四人にも喜びであり、健やかな歩むをさせることだったのです。四人は中風の人を運んできたのですが、群集に阻まれたので、屋根に穴をあけて病人をつり降ろしました。
イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に「子よあなたの罪は赦される」と言いました。その人たちの信仰は、「イエスは病人を癒してくれる」という確信と、病人をイエスの前に運んできたこと、を指しています。信仰は、心で信じると共に行動となるのです。
イエスは病人に出会って「罪赦される」と言いました。病人は床についたままなのです。マタイ9:2では「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言っています。床に就いたままで元気を出しなさい、罪赦されているから、と言っているのです。
罪は神との関係を失うことです。病人だから特別に罪がある、ということではありません。全ての人が罪人です。罪赦されることは、神との関係が和解されることです。神の愛と恵みの中に包まれることです。そこで本当に元気で健やかになれるのです。
律法学者たちは、イエスの言葉を聞いて、「神を冒涜している。神おひとりのほかに、誰が罪を赦すことができるか」と心の中で考えました。神のほかに誰も罪を赦すことができないのはその通りです。イエスは神の子です。それでイエスは律法学者たちの前で、中風の人に「起き上がり、床を担いで家庭に帰りなさい」と言って、イエスが地上で罪を赦し健やかに生かすことの出来るお方であることを示されました。
五体満足で健康であることが健やかに生きる基のように考えられ、言われています。しかし「五体不満足」と言う本を書き、その体で元気で明るく生きている人がいます。事故で床に就いたままで人々に光りを与えている人がいます。五体満足で健康でも、神との正しい関係を失って、罪の不健全な生活をしている人がいます。
今日の旧約のダビデは、肉体が健康である上に、王でこの世的な力も持っていました。しかし、バトシェバのことで罪を犯しました。神の前に罪を犯したことを知ったダビデは、罪を告白し、打ち砕かれました。その罪に対する罰として、生まれた子が死ぬ、と告げられ、子どもは弱っていきました。ダビデは、王の力も権威もなく引きこもり、健康なのに地面に横たわって夜を過ごしたのです。子どもが死んだことを知った時、ダビデは子どもが死んだ悲しみもあったでしょうが、神は御心をなしともうと受けとめて、食事をして元気を取り戻しました。神との交わりを求めて祈り、子どもは死んだけれども神との交わりが確かにある事を信じることが出来、神にあって健やかに歩む歩みを取り戻したのです。
勿論病が癒されることは望ましいことです。祈りであり、喜びです。しかし、イエスに罪赦され、神との交わりがあるなら、肉体の状態がどうであっても、目の前に困難なこと、辛いことがあっても、私たちは元気に、健やかに歩んで行くことが出来るのです。
2010年1月31日
説教題:救いに留まっていよう
聖書:ヨナ書 1章4-16節 マルコによる福音書 4章35-41節
【説教】
今日のヨナ書とマルコは興味深い対照的なことを記しています。
両方共に、目的地に向って船が進んでいる、その船の中でヨナとイエスが眠っている、その眠っている船が大風と突風に襲われる、と同じような出来事が語られています。
しかし、ヨナは、神の命令に背いて、自分の意志で神が命じているのとは別の目的地に向う船に乗りました。ところがその船は大風によって進めなくなったのです。眠っていたヨナは起こされ、荒海の中に投げ入れられ、舟は静かになった海を進んでいったのです。
それに対して、マルコの舟は、主イエスが「向こう岸に行こう」と弟子たちに命じて、神の子の御意志による目的地に向って進んだのです。この舟も突風に遭いましたが、イエスが叱ると風と波は静かになり、イエスと弟子を乗せた舟は目的地に進みました。
船に誰が乗っているか、どこに向って進んでいるか、が大事なことです。教会を舟に例えることは聖書の中に幾つも見ることが出来ますが、突風の中を主と弟子たちを乗せた舟が進んでいるマルコのこの舟はWCC(世界教会協議会)のシンボルマークになっています。
舟が岸を離れると突風が起こりました。この湖で漁師をしていた弟子は、舟を漕ぎ出す時に、突風が起こるかも知れない、という予感があって、イエスに知らせ忠告したかもしれません。しかし、自分の思いではなくイエスに従ったのです。
激しい突風に舟は波をかぶって水浸しになり、漁師であった弟子たちも狼狽したのです。主イエスは眠っているのです。弟子たちには、イエスは眠っている無力な人、に見えたでしょう。自分の経験や知識ではなく、主イエスに救いがあると信じて従った確信が失われ、不安になり、イエスを起こし「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」と言いました。この「私たち」には無力な人に見えるイエスも含まれています。「舟が沈みます。あなたもおぼれます。眼っている場合ではないですよ」と起こしたのです。
イエスは起きると、風と湖に「黙れ。静まれ」と言いました。すると風も波も静かになりました。そして弟子たちに「なぜ怖がるのか。未だ信じないのか」と言われました。イエスは、信じていないだから怖がっている、と弟子たちに言っているのです。イエスを信じていれば何が来ても怖くないのでしょうか。違います。恐怖や不安が来ても、恐怖や不安に負けない、我を失うことがない、恐怖や不安の中でも我を失うことなく、今自分がなすべきことをしっかりすることが出来る、それをしなさい、と言っているのです。
イエスは、風も波も従わせるお方ですが、肉の人間になってくださり、私たちと一緒に歩んで下さったのです。この神の子イエスが私たちの救い主で、イエスと同じ舟に乗って世の中を航海しているのが私たちです。この舟に時代の風や世の波が襲いかかって来ることがあります。その時「神は眠っているのではないか」と思うことがあります。しかし、主イエスに導かれ進んでいる舟はこの世のどんな波風にも負けません、沈みません。イエスがいるので、眠っているように見えても、勝利の主によって目的地に必ず着くのです。
2010年1月24日
説教題:ここに神の力がある
聖書:申命記 30章11-14節 マルコによる福音書 1章21-28節
【説教】
今、連日ハイチの大地震被災地の様子をテレビも新聞も報じています。その報道を見て心痛めることの一つは、ハイチの被災地が無秩序の状態にあることです。倒れた家の中の品物が公然と盗まれている、援助の食べ物や品物が奪い合われている。小さい者弱い者は何も手に出来ない、やっと手にした物も横から奪われてしまう。その様子が報じられている。
そこにいる人皆が、権威ある立場を認めて、一つ秩序の中に存在し活動して生きていることは大事なことです。それは国家や地域だけでなく、個人にも言えることです。
心と生活が無秩序である人。落ち着きがなく迷っている人。病院の検査結果や入学就職の発表を待つ人。このような人は健康でお金や自由があっても、平安がなく望をもてないでいる。不安で真の自由や主体性を持てない、救いがない状態です。
今日の聖書で、イエスが会堂に入って教え始められた、とあるのは人々が会堂で聞く言葉に権威を認めてその社会が秩序を持っていた町でのことです。イエスの話を聞いた人々は非常に驚きました、「律法学者のようにではなく権威ある者として教えたからである」と説明されています。学者は、先輩の教え、学者である地位、研究による知識などを拠りどころにして、語っていたのです。ですから学者自身が外にある力に、支えられると同時に縛られて、語っていたのです。それに対してイエスは、自分が神から力を与えられている者として、自由に力強く語ったのです。15節の福音を神の子の権威で語ったのです。
申命記30;11-14に語られている言葉がイエスによって実現しているのです。律法を行なって自分の力で天国に入ろうとしても人間には出来ない。罪人で死に支配されているこの自分を救うことも人間には出来ない。しかし、今神の言葉が、救いの言葉が与えられている。申命記では、神の民には神の言葉は幼い時から与えられているので、この言葉は実行出来ない遠いものではない身近に日常的の実行しているものだ、と言っているのです。学者たちはだから実行しなさい、と教え語ったのです。
しかしイエスは、この言葉は私自身だ、私と共に神の国が来ている、だから私を信じて告白する者は救われる、と神の子の権威をもって語ったのです。
その時、汚れた霊に取りつかれた男がいてさけんだのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分っている。神の聖者だ」。「正体が分っている」と言うことは、私はお前を無力している、という意味なのです。この男の叫びに対してイエスは、「黙れ。この人から出て行け」と叱りました。イエスは霊に正体を知られても無力にされない。それどころか汚れた霊を神の力で叱ったのです。すると汚れた霊はその男から出て行きました。イエスの言葉に力があって汚れた霊も聞き従ったのです。
イエスと共に、神の力、神の権威による支配と秩序が、そこに来たのです。このイエスにある神の秩序の中に生きる時、私たちはどんな生活や体の状態にあっても、災害や混乱にあっても、自分中心にならずに、落ち着いて正しく生きることが出来るのです。
2010年1月17日
説教題:漁師を弟子に召す
聖書:エレミヤ書 1章4-10節 マルコによる福音書 1章1-20節
【説教】
マルコは1;14で「イエスはガリラヤへ行き福音を宣べ伝えた」と記しています。福音を宣べ伝えるのは、イエスご自身が主体的になさるのです。15節でイエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」といっています。神の国が歴史の中に完全に来るのは終末の時ですが、主イエスによって神の国は確かに来ているのです。ですから、福音を信じることは、イエスを神の子と信じ、イエスと共に神のご支配が来ていることを信じて、イエスに聞き従う者になることです。
主イエスは、福音を宣べ伝えながら湖の辺を歩いていました。そしてシモンとアンデレの兄弟を見て「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言いました。イエスは言葉だけでなく、その歩みも存在も、ここに福音があると語っていたのだと思われます。二人は「直ぐに網を捨てて従った」のです。「網を捨てて」ということは大変なことです。それなりの内的か外的な理由がなければありえないことだ。と多くの人はその理由をあれこれ考えて、網を捨てて従ったことを説明しています。
しかし、この二人がどのような背景があってイエスの言葉を聞いたのか聖書はなにも説明していません。続いて登場するヤコブとヨハネについても、網を捨ててイエスに従った背景や動機については何も記していません。人間的な背景に関係なく、イエスが目を留め、御心によって招いた、とだけ記しています。人間的に考えると、時間をかけて慎重に考えて決めるべきことなのに、軽率に直ぐ決めて行動を起こしている、問題行動のように思われます。しかし、マルコの記述は、神のみ旨の絶対さと神に従う者のあり方を語っているように思われます。どうして最初の弟子が漁師だったのか、私たち人間には分りません。結果から推測するだけです。
このような神による召しの問題は、エレミヤ書にも見ることができます。1:4-5「主の言葉が私に臨んだ『私はあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、私はあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた』」。生まれる前です。預言者にふさわしい資格も条件も何もない時に、神は預言者に選び任命したのです。エレミヤは、「私には出来ない」と拒みました。それに対して神は。私が選び遣わすのだ、だからその務めをしなさい、と強く命じるのです。神のこの強い御旨と力に人間は従うのです。
漁師と農民は特に学問も力もない普通の人です。神は最初の弟子を、特に力のある優れた人ではなく御旨に適う人を召し、喜んで従う人を召したのです。そして、主ご自身が「人間をとる漁師にする」のです、召された者がイエスによって新しい人に造られるのです。
イエスの弟子は、イエスの後について歩み、従い、仕えることで、神の国がここに来ていることを証しして歩むのです。孤独ではありません。道が分らなくなることもありません。たとえ、困難や行き詰まりに思われる時でも、イエスが道なのです。その歩みは、今までなかった主と共にある新しい歩みであり、充実した喜びの歩みなのです。
2010年1月10日
説教題:御子イエスによる救い
聖書:出エジプト 14章15-25節 ヨハネの手紙一 5章6-12節
【説教】
人間は、自分ではどうすることも出来ない力によって、今ここに命を与えられて生かされていることを、正しく認識することが大切です。その力と自分との関係を正しく認識することで、自分がどうあるのか、どうあるのが望ましいのか、を思うことが出来るのです。
出エジプト14章は、神の民イスラエルがエジプトを出る時のことを記しています。5-10節にエジプト軍が追いかけて来て背後に迫ったとあります。そこでイスラエルの民は神に向かって叫び、祈りました。神の民である私たちに対して神は考えを変えたのですか。神の声がそこある、神がそこに共にいると言うので、私たちはあなたの声に聞き従ってきたのに、これでは救いがない、平安がない、私たちが聞き従った意味がない、と神に訴えたのです。モーセは神の声を聞いて民に告げました。13,14節「恐れてはならない。落ち着いて、今日あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。主が戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」
そして、15-18節に神の言葉があり、19節以下に神の救いが記されています。
ここに、聖書の神がどのような神で、どのような救いを与えてくれるのか、が語られています。一つは、神は絶対的な神で、人間の目から現状がどのように見えようとも、神の言葉が実現する。神は御計画を進められるお方である。もう一つは、神の民は、神を信頼して御言葉に聞き従って歩んでいるなら、一時的に恐怖や不安に満ちた状況に陥ることがあっても、神は守り、救われる。神を信じて落ち着いているなら、神の救いを見る。ということです。神は、神の民を愛し、ご計画の中に用いて、導き歩ませているのです。
ヨハネの手紙の時に神の民は、イエス・キリストを神の子と信じる民でした。所が当時、イエスとキリストを別に分けて受け止めていた人がいたのです。5:1に「イエスがメシア(キリスト)であると信じる人」とありますが、これはイエスをキリストと信じない人が、教会の中にもいたということです。
神が絶対的な存在なら肉の人間になるはずがない、十字架について死ぬなどありえない、と考える人がいたのです。イスラエルの民は、エジプト軍が迫ったことで神の御計画が理解できなくなり、人間的な理解力に聞き従って神を動かそうとしたのです。そのように人間に理解できる、人間的な救いを求めることが起こるのです。しかし聖書の神は眞の人になってくださったのです。5:1で「イエスがメシアと信じる者」とあり、5:5で「イエスが神の子と信じる者」とあります。そして5:6に「水と血を通ってこられた」イエスと言って、9節以下で神と御子のことを語っています。絶対的な神が人となり十字架についてくださった、そこに、神の私たちに対する思いの深さと、神の力の偉大さがあるのです。
12節の「御子に結ばれている人」は、御子イエスを救い主と信じ、結ばれて、神の御計画の中を歩んでいる人です。その人は、神との和解を得て、神の命、神の愛に生きているのです。私たちはこの御子イエスの救いを自分のものとして歩んでいるのです。
2010年1月3日
説教題:神が都に来て住む
聖書:ゼカリヤ書 8章1-8節 テサロニケの信徒への手紙一 2章1-8節
【説教】
新しい年を迎えました。聖書は、神を世界と私たちの造り主であるだけでなく、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」である、地上にいる私たち一人ひとりと関わりをもって生きて働かれる神である、と言っています。また私たちはクリスマスの喜びの中で新年を迎えています。この年も神は私たちと共にいて、関わりをもってくださるのです。
今日のゼカリヤ書は、ユダの民がバビロンの捕囚からエルサレムに帰って来て神殿を再建しようと工事を始めたけれど妨害があって中断した、その後工事を再建した時に書かれた書です。ゼカリヤは1:2-6と8つの幻で、神は今までご自分が語られたように行なわれた、これからもその通りに行なうだろう、だから御言葉に聞き従おう、と言っています。
そして8:2で神は、妬みを起こすほどの激しい熱情の愛をエルサレムに注いでいる。そして:3で都に神殿が建ったら主ご自身が都の真ん中に来て住み、都が「信頼に値する都」と呼ばれるようになる。:4,5では、その都には老人や男の子、女の子たちが住み平和で明るく過ごすようになる、と言っています。:6では、このようなことは人間の歴史と現実を見ると不可能なことに思われる。しかし、神はそのことを実現される。人間には驚くことであるが、神には驚くことではない、と言っています。
この世界は明日どうなるかわからない、と人間は思います。そして現実の世界は、戦争や経済格差がなくならないで、自分中心による憎しみ、深い不安と絶望感があります。
しかし聖書は、肉の目に見える世界と歴史を越えて、御言葉が語っている世界と歴史を見るように教えています。神は廃墟となっていた都に捕囚民を帰還させて神殿を再建させたのです。人間には思いも及ばないことをされたのです。御言葉を聞いて、神を信頼して、世界と歴史を見直す時、神は一人ひとりの人生に真実に関わっていることが分るのです。
テサロニケの手紙は、地上の主イエスを直接知っている人が未だ生きている時に書かれました。パウロは今日の所で3回「あなたがたは知っている」と言っています。パウロが伝えた福音を信じることに、いろいろな人が、妨害したり悪口を言うか知れない。しかし、あなたがたは自分で体験した恵みを思い起こしなさい。確かな体験を大事にしなさい。と言っています。神の言葉を聞いて、信じて、与えられた恵みの体験。そこに留まって、そのことを中心において世界と歴史を見て、生きることが大事なことなのです。
パウロは、自分が福音を語って歩んでいるのは、神から認められて福音を委ねられているからだ。自分は神に用いられて務めを果たしている。だから私を通して伝えられている福音を信じて生きるように、とパウロは強く勧めているのです。神はこの世界の都に、闇の中に輝く光として、肉の人間となって私たちの中に来て世界と歴史を治めているのです。
この年、人間的にはどんなことが起こるか分りませんが、どんなことが起こっても、神がこの地上にいる神の民の都に来て住んで、私たちに心をかけて下さっているので、私たちは神を信頼し、御言葉に聞き従って歩んで行きたいと思います。
2009年12月20日
説教題:救い主が生まれた
聖書:イザヤ書 9章1-6節 ルカによる福音書 2章1-14節
【説教】
神の子イエスの誕生は作り話や架空の物語ではありません。地上の歴史の中に確かに起こった出来事で、具体的な歴史背景や人間関係は聖書によって知ることが出来ます。
ルカ2:1以下にイエスが生まれた時、皇帝アウグストウスが全領土の住民に登録しろと勅令を出し、ヨセフとマリアはナザレからベツレヘムに行った、とあります。人口調査は、皇帝や国を治めている者が、兵や税を確保するために行なっていたのです。
塩野七生(「ローマ人物語」の著者)は「平和は、持てる者にとってのみ最高に価値があり、平和の確立と維持には冷徹な行政と戦略を欠くことができない」と言っています。権力者は、自分中心の平和のために人々を辛い苦しい目に遭わせて平気なのです。そのような世界の中に、闇の世に光りとして神の子が誕生したのです。イザヤは、このみどり子は神の義と恵みで世を治め、永遠の平和の君と呼ばれる、と言っています。
自分中心は権力者だけでなく、マリアが身重であるのに人々は自分中心で、誰もマリアたちを助けないのです。そのような人々の中で、ヨセフとマリアは自分と血の繋がりのない子を宿し、神から託された自分の子として、大変な思いをしても産み育てたのです。
この時、羊飼いたちは「民全体に与えられる喜び」「あなた方のために救い主が生まれた」と告げる天使の言葉を聞きました。彼らは、そんなこと私に関係ないと聞き流すのではなく、そこに神の御旨、御計画があると信じて直ぐ行動を起こし、神の言葉の確かであることを知って喜びました。この時代は、アレキサンダー大王やローマによって、国境の壁は取り去られ、地域社会や伝統は崩れ、地域や血の繋がりを中心にした秩序や生活が破れている時代でした。しかし、自分の国を守る、自分の地域を大事にする、そのためには他の国や地域は痛い目に遭ってもかまわない。自分の血筋の者は大事にするが他の者は知らない。というのが自分中心の罪が支配しているこの世です。
人間がこの世に、世界と歴史の中に命を与えられて、生まれて来るのは、肉の両親からですが、神の御旨によってで、神の創造の業の一つです。御子は地域社会や血の繋がりのあるものに役立つ者として誕生し、生きたのではありません。国境を越えて全ての民に救いを与え、神の恵みによる喜びを与えるために、誕生し、神に仕えて歩んだのです。
ホームレスになっている人の多くは幼い時から、家庭の愛を知らない、忍耐して愛されたことがない、それで直ぐに一人になるのだそうです。熊本市の「赤ちゃんポスト」に預けられた子の内、戸籍に入れたくない、世間に知られたくない、不倫、未婚、親が分らないが6割以上と報じられていました。離婚と再婚、養子や施設で育てられる子、実父母による虐待問題など、子どもが愛の人間関係をもたないで育つことが起っています。
イエスは子どもを持ちませんでした。しかし、「神の御心を行なう者は私の兄弟、姉妹である」と言って新しい神の家族、教会を建てました。神の子イエスは、罪を取り除いて、神のあって赦し愛し合って生きるようにと、誕生したのです。
2009年12月13日
説教題:マリアへの告知
聖書:イザヤ書 11章1-10節 ルカによる福音書 1章26-38節
【説教】
今日の聖書には、マリアに御子を身ごもって産むと天使から告げられたこと、が記されています。マリアは、天使の知らせを聞いて「どうしてそんなことが。私は男を知らないのに」と驚き尻込みしました。しかし、神のなさることと信じ「私は主のはしためです。お言葉どおりに、この身になりますように」と言いました。このマリアの信仰がクリスマスの出来事を現実のものにしたのです。このマリアの信仰はクリスマスの時に学ぶべき大事な信仰です。
しかし、クリスマスの出来事は、神の子が人となった、神の御業であることがより大事なことなのです。マリアは、「ダビデ家のヨセフのいいなずけ」で、「おとめ」であったので、神に選ばれ用いられたのです。イザヤ書との関係がそこに見られます。神の御計画の時が満ちて、御子は女から生まれたのです。
マリアは、男を知らずに聖霊によって身ごもり産んだのです。御子イエスは、普通の子と違う、神の子です。私たち罪人の人間を救うために、聖霊によって人となって、マリアから産まれたのです。
聖霊によってマリアから生まれたイエスはどのような人で、どのような救い主なのでしょうか。人間は父親と母親の遺伝子をもって生まれます。イエスは半分神で、半分人間なのでしょうか。男の遺伝子は罪に穢れていて、女の遺伝子は聖いのでしょうか。マリアに起こった出来事は、医学的生物学的な事ではなく、神による出来事なのです。聖霊による子でマリアが用いられたということは、「水が水管を通るように用いられた」のではなく、「身ごもることによって母の血と結びついた」のです。永遠の神の言葉が肉となって私たちの間に宿ったのです。イエス・キリストは、「まことの神」で「まことの人」なのです。
まことの神がまことの人になることによって、イエス・キリストは、神と人の仲保者に成ったのです。神の子が、人となって私たちの中に来て下さり、私たちの罪を負って十字架について下さった。それによって私たちの罪は贖われ、神との交わりが新しくつくられたのです。救いの道が開かれたのです。「神は万物を御子によってご自分と和解させられた」(コロサイ1:19-20)のです。御子イエスは、ご自分が一つであって、二つの役割を、時と場合に応じてなさるのです。神と人の仲保者であり、橋の存在です。私たちに神との交わりを与えて下さるのです。
御子イエス・キリストは今天に昇られて私たちのために執り成しをして下さっているのです。それによって私たちは世の終わりまで御子による救い、神との交わりの中に生きることが出来るのです。マリアに御子の誕生を告げ、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と語った天使は、今も私たちにそのことを告げているのです。
私たちを救おうという神の強い意志が、マリアを用いて、イエスを誕生させたのです。私たちはこの神の御心と御業を信じ受け入れて、心から御名を崇め、賛美しましょう。
2009年12月6日
説教題:神の前に立ち帰れ
聖書:エレミヤ書 36章1-10 テモテの手紙二 3章14節-4章8節
【説教】
人間は自分の都合のいいように状況を判断し、人の話を聞く者です。しかしそれではいけないのです。自分に都合が悪いこと、自分に厳しいことを正しく聞くことが大事です。
テモテ4:2以下に「折りが良くても悪くても、励み、忍耐強く教えなさい。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来る。人々は自分に都合の良いことを聞こうと好き勝手に教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くようになる」とあります。この言葉は、いつの時代にも、どこにも当てはまる言葉です。
待降節のこの時私たち、「世の中が悪い」「世は闇だ」、そこに救いの光が与えられた、と神の言葉を聞くだけでなく、自分中心の罪に支配されている私たち罪人を救うために神の子が来て下さった、と聞くことが大事なことです。
所が現実の世界はどうか。エレミヤ36:1以下に、ヨヤキム王の時代にエレミヤを通して神の言葉が語られ、王がそのことばを聞いたのですが、王は神の言葉が読まれるとその巻物を切って燃してしまった、と書いてあります。神の言葉を聞いて悔い改めるどころか、神の言葉が書いてある巻物を燃やしてしまい、エレミヤを捕らえて殺そうとするのです。
神はエレミヤの巻物のように聖書を通して私たちに語りかけています。聖書の言葉をどのように聞いているでしょうか。パウロの時代も神の言葉が正しく聞かれない時代でした。
テモテ3:14以下、今日の聖書でパウロは、宣教の後継者テモテに、この世の中にはいろいろな声や教えがある。しかし神の言葉を聞いてそこに留まっていなさい。その確信から離れてはなりません。と強く言っています。そして、聖書こそ、イエス・キリストを通して語られている神の言葉を正しく教えている。聖書から神の救い、神の愛と赦しの言葉を正しく聞くことが出来る。だから聖書によって神の言葉を聞いて、神の前に立ち帰り、神の前に正しく生きるように。と勧めています。
そして、4:1で、自分自身神の前に立ち、神の言葉を聞いて従っている者として、厳かに命じるのです。神の言葉を語る者は、自分自身が神の前に立って神の言葉を聞き、心から従う者でなければならないのです。エレミヤもパウロもそうでした。
ですからパウロは厳かに「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても」と命じているのです。ただ宣べ伝えるだけではない、間違えている人にはその間違いを指摘して、戒め、励まし、忍耐をもって教えるのです。忍耐強く聞き学ぶことも必要です。
しかし現実には、いつの時代も健全な神の言葉を聞こうとしないで自分に都合の良いことを聞こうとするのです。現代社会もそうです。人が求めるものを与える。学校も生徒が集らなければ成り立たないと校名や学部名を変えているのです。教会も伝道も人が来なければ意味がない、と人々や時代の要望に応えるべきだと言う声があるのです。
パウロは再臨の主を前に見ながら命じています。私たちはクリスマスの時だけでなく、信仰生活の全ての時、神の言葉を聞いて、神の前に正しく歩む者でありたいと思います。
2009年11月29日
説教題:救いが来る
聖書:イザヤ書 51章4-11 テサロニケの信徒への手紙一 5章1-11節
【説教】
待降節最初の主日、救い主をどのように待つべきか、を聖書から聞きましょう。
イザヤ書は、神が約束している救いは唯個人の救いだけではなく、民全体、国全体、世界と歴史全体を真実に意味あるものにする救いだ、と教えています。神が約束されたその救いは、自分たちの現状がどうであっても、状況によって変わることはない、確かに来る。だから、神の約束を受けて意味あるものとなるように、御言葉に従って与えられた道を歩んで行こう、と言っています。
イザヤ51章は、ユダの民がバビロンに捕囚されて50-60年過ぎた時にユダの民に与えられた、救いの言葉です。51:4で神は「私の民よ」「私の国よ」と呼びかけています。国が滅んで、民は捕囚民になっている。しかしお前たちは私の民だ、私の言葉に耳傾けて聞け、と語りかけているのです。
クリスマスを待つのはここから始まるのです。自分の状況、世界の現状がどうであれ、歴史の主である神は生きていて、私たちに「私の民よ」と強い一体感を持って呼びかけ、ご自分が今行なおうとしている救いを告げているのです。
「私は瞬く間に、私の裁きを全ての人の光りとして輝かす」と言っています。実際にこの時バビロンは弱体化しペルシャが強くなっていて、ペルシャに攻撃されたバビロンは無血開城し、ユダヤ人に帰国が許されたのです。しかし、バビロンに50年住んで、それなりの安定した生活を得ていた人々は、破壊されているユダの地へと荒れ野を苦労して行くことを望まないのです。7-8で神は、神の義と救いを知る者は、私の言葉を聞いて、従って歩め。今の生活を捨てて荒野を行くのは愚かだという人の嘲りを恐れるな、彼らは虚しいものになる。しかし、神にあって歩む者は永遠に生きることになる。と言っています。
私たちの救いは、一時的な安らかな生活ではなく、辛く大変な道でも神の言葉に従う歩みで、神の御計画と栄光の御業に結びついている歩みの救いです。食って寝て安らかな毎日を過ごすのが人間の救いではありません。
人となった御子イエスは私たちの救いのために十字架の道を歩まれたのです。私たちは今、復活して天に上げられたイエスの再臨を待っている時を生きているのです。
テサロニケの手紙は、再臨を待っていることをはっきり語っています。再臨を待つ姿勢は私たちの信仰生活全体のあり方でもあります。クリスマスを知り、イエスが十字架への道を歩まれたことを知っているわたしたちは、神の救いの光を知っているのです。4「あなたがたは暗闇の中にいるのではない」。5「あなたがたはすべて光りの子。昼の子だ」。6「従って他の人のように眠っていないで、身を慎んでいましょう」と言っています。
私たちは、イザヤの言葉やクリスマスを通して神の救いが私たちの中に来たことを知っているのです。ですから昼の子、光りの子として、神にある救いの道を目を覚まして歩んで行きたい。眠らないように身を慎んでいたい、と思います。
2009年11月22日
説教題:大地も愛される神さま
聖書:レビ記 25章1-7節 コリントの信徒への手紙一 3章4-9節
【説教】
「大地も愛される神様」ということは、神さまは他のものをもっと愛されている、ということですね。もっと愛されているのは何でしょうか。人間です。
神様は、大地や植物や動物をお造りになった、最後に人間を造られました。その時神様は、人間を神様と特別に交わることが出来るように神様にかたどって造り、人間が被造物全体を治めるようにされました。
神様は人間に命を与え、食べるものを与えて、生きるようにしてくださいました。人間は種を蒔いて、育て、実を結ばせます。けれど、命を与え、成長させてくださるのは神様です。アポロやパウロの働きが成長し実を結ぶのに役立つのは、神様の御心に添って働く時です。大切なのは神様の御心です。アポロもパウロも神様の御心に添って働く時、報酬として働きの実を受けることが出来るのです。
レビ記25:2で、神様は人間に、神様のために土地を休ませなさい、と言っています。土地に「もっと実らせろ」と人間が厳しく管理するのではなく、土地に自由を与え、実った物も人間が全部集めるのではなく、今必要な物だけ採って、あとは動物の食べ物になるようにしなさい、と言っているのです。
ここで大事なことは、土地をずっと休ませておくのではなく、6年間は人間が種を蒔き育て実らせて、1年だけ休ませなさい、と言っていることです。子どもも、風邪でクラス閉鎖になって毎日家で自由にしていたら嫌になったでしょう。自由で勝手なことをする毎日だと困った子になることがあるのです。大人でも、責任がなく自由で勝手が出来ると、悪いことをする人が出るのです。動物も植物も同じです。土地も正しい手入れをしないと荒れ、自然が破壊されるのです。災害が起こることにもなるのです。人間は神様から、大地を治めるように、正しく世話するように責任を与えられているのです。
神様は、人間を愛し食べ物や自然を与えて生きるようにして下さっていますが、大地をも愛しているのです。それは人間の食べ物のためでもありますが、大地そのものをも愛されているのです。ですから私たちは自分が食べることだけを考えるのではなく、土地や大地も愛し、正しくお世話し管理しなくてはいけないのです。
土地を愛し、大事にしていると破壊された土地も回復させることができるのです。動植物が傷ついたり、病気になって弱っても、簡単に「もうだめだ」と捨てるのではなく、上手にお世話し、助けると、元気にさせ、生かし、育てることが出来るのです。
人間が、神様から与えられた責任を正しく果たす時、そこに神様の栄光を見ることが出来るのです。また、人間が豊かに喜びをもって生きることが出来るのです。
自分中心の罪の人間から、神と愛の交わりを持った、神の子とされて生きる人になりましょう。パウロやアポロのように、神に仕える人、神のために力を合わせて働く人になりましょう。
2009年11月15日
説教題:救いの約束
聖書:出エジプト 6章2-13節 ヘブライ人の手紙 11章23-31節
【説教】
ヘブライ人への手紙11章は信仰と信仰によって歩んだ人のことを語っています。1-3では、神が世界を創造し治め完成される、そのことが人間に示され約束されている、それを人間が信じる、それが信仰であると語っています。
23-31でも、7節が「信仰によって」で始まっています。23節はモーセの両親の信仰です。出エジプト2章に記されています。モーセの両親は、信仰によって幼子を産み、育て、川に捨てたのです。それは神の御計画の中で行なわれたことでした。そしてモーセはエジプトの王女の許で育てられました。しかし、モーセは神によって信仰を与えられ、成人した時、王女の子と呼ばれる状態にいることを拒み、その生活を捨てて、虐待されている神の民の一員となって歩む道を選びました。出エジプト2:11-15に記されています。
ヘブライ24-28に3回「信仰によって」と、モーセの信仰による決断と行動が語られています。ここで大事なことは、目先の楽しみや財宝ではなく、「与えられる報い」即ち神との真実な交わりと、その交わりによって与えられる救いの約束を選び信じて、そこに希望をもって歩んだことです。
モーセは出エジプト3章と6章で神と出会っています。神はモーセに、神が歴史を導き完成させる。人は個人としてそこに生きるだけでなく、神の民として歴史の中に生きる。歴史の中に神によって生かされる。と語っています。6:9でモーセはその神の言葉を民に語りました。ところが「彼らは厳しい重労働のために意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとしなかった」のです。彼らは、神を信じないので、神による歴史を信じない、それで忍耐がなく、意欲を失ってしまうのです。これが奴隷根性です。
28-29には信仰によって導くモーセと、モーセに従って歩む民の歩みが語られています。この信仰による荒野の歩みによって民は育てられたのです。約束の幻を失って、忍耐がなく、目先の快楽を求め「肉が食べたい。エジプトに帰りたい」とつぶやく奴隷根性を持っていた寄せ集めの民が、荒野をモーセに導かれることによって神の民に育てられたのです。約束を信じ、忍耐を持って神の希望の道を歩む民になったのです。
30では、虚しいと思われることでも、神の言葉に聴き従って、エリコの街を7日回り角笛を力いっぱい吹き鳴らし、皆で一斉に鬨の声を上げると城壁が崩れた、と語っています。ヨシュア6章に記されていることです。
信仰によって行なうことは、奴隷根性や義務感で消極的に行なうのではなく、「これは自分に与えられた特権だ」「誇りだ」「喜びだ」と大きな幻を見て行なうことなのです。
神を信じる信仰は、自分一人のこと、今のことだけを問題とするのではないのです。私たちが負い対面している問題は、自分一人の人生で解決や完成するのではないのです。荒野のような世界を歩んでいる私たちの現実では、多くの人が意欲を失い、奴隷根性になっています。しかし私たちは、神の救いと約束を信じて、希望と喜びを持って歩むのです。
2009年11月8日
説教題:生きている者の神
聖書:創世記 15章1-15節 マルコによる福音書 12章18-27節
【説教】
12:18に「復活はない、と言っているサドカイ派の人々」とあります。サドカイ派はユダヤ教の一派で、地上の命だけを信じ、聖書もモーセが書いたものを字句通りに読んでいたようです。それで、もし復活があるなら申命記に書かれていることを実行した人は復活の時どうなるのか、復活などあり得ないだろう、と嘲笑的にイエスに尋ねたのです。
この質問は、この世的なことしか考えない人には共感をもてるのではないでしょうか。復活は、地上に生きていたいつの時の姿、状態で起こるのか。そのように考えると、復活は現実的にはありえない、となります。この質問に対してイエスは「あなたたちは、聖書も神の力も知らないから思い違いをしている」と言いました。
続いてイエスは、25節で「死者の中から復活する時には」、26節では「死者が復活することについては」と言っています。聖書は、今まで生きていた人が死んだ、その人を生き返らせるのが復活だ、と言っていません。聖書の復活は、地上の世界、肉の命のとは違うのです。地上の時、肉の時とは違うのです。神によって与えられる新しい命なのです。神が定めた時になされる新しい人の誕生なのです。
モーセの柴の書、出エジプト3章で、燃える柴の中で出会った神は「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言ったのです。ここで神は「私はアブラハムの神であった」とは言っていません。「私はアブラハムと共に今も生きている神である」と言っているのです。神は「いつでも『ある』お方」なのです。ですから、申命記は跡を継ぐ者を産んで家名や後継者を残すために夫が死んだら夫の兄弟と再婚するように命じていますが、神にある者は、そのようにして後継者を残す必要がないのです。
創世記15;1-18には神がアブラハムと土地を与える契約を結んだことが記されています。8節以下の儀式は、契約を破ったら自分はこの犠牲のように屠られてもいい、自分は責任をもってこの契約を真実に守る、という儀式です。守る力がなければその契約は効力がありません。契約は、契約を結んだ神が生きている、だから有効だ、となるのです。神はここで、私も生きているし、アブラハムの子孫も生きている、だから有効だ、15:13以下では400年以上有効だ、と言っています。このことを神は、15;1-8で肉の命を失ったアブラハムが神から跡を継ぐ新しい命与えられると告げた後で、示しているのです。
私たちはアブラハムのように力のない者ですが、神が新しい命を与えてくださるのです。このように聖書が語っていることを知り、神の力を知るとき、私たちは初めて聖書が語っている復活を正しく知ることが出来るのです。
復活は、神の力によって、神に結ばれた新しい命で、神の国に生きることなのです。ですから25節で「めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」と言っているのです。「天使のように」神に仕える者になるのです。神との結びつき、神との絆が最も大事で確かな者になるのです。
2009年11月1日
説教題:神に愛されている命
聖書:エレミヤ書 29章10-14節 ローマの信徒への手紙 8章26-39節
【説教】
今日は召天者記念礼拝です。教会共同体の中で召された方を教会として覚え、礼拝を捧げているのです。この一年の間に召された一人一人を今思います。
人間の命と死について、三つの考えがあると思います。一つは、自分の命、自分の死と考える。二つ目は、家族の一員、地域社会の一員として生き、死ぬと考える。三つ目は神にあっての命であり死であると考える。この場合、神は聖書の神に限りません。
映画「おくりびと」になった「納棺夫日記」の著者青木新門氏は、死や死体を忌み嫌い穢れたものという考えがあるが、仏の光、永遠の光りの中に命はある、死も死体もその光りの中にある、と思うようになった。それで、死体処理人として扱われていることにも、今では感謝の気持ちがある、と書いています。
私たちは勝手に、清いとか穢れていると決め、良い悪いと言っているのではないでしょうか。自分中心に、役立つ有益な人、困った人と思う。しかし人は皆、神の愛によって命与えられ、歩み、召されるのです。その人の真実は神だけが知り、御手の内にあるのです。
神の前では、全ての人が罪人で、死は罪人が支払う報酬です。しかし神は、罪人である私たちを罪に穢れたものと捨て去るのではなく、御子の十字架を神の小羊の死とされて、私たちの罪を贖って、復活の命、神の愛による命に生きる者としてくださったのです。
私たちは召天者名簿に記されている方々皆が、神の愛によって歩み、召され、神の永遠の愛の中にあることを覚えるのです。ローマ8:26以下には、肉の体で生きている私たちのために神が霊をもって祈り、共にいてくださる。だから神との交わりは真実であり、私たちに対する神の働きは確かで、私たちの命も歩みも虚しくはならない、神の御計画の中で大事な意味あるものとしてくださる、と記されています。
パウロは、このような神の愛の確かさを、御子の十字架によって確認させられている、と言っています。主イエスによって示された神の愛です。十字架の愛です。この確かな徹底した神の愛の中に、私たちの命と召しの全てがあるのです。死を越えての私たちの全てがあるのです。神の愛と私が別ではないのです。神の愛の勝利の中に私たちの全てがあるのです。神が共に働いて、私たちを神の御計画の中で益あるものとしてくださる、そのことが私たちを本当に生かすのです。
ここで重要なことは、神の愛を私たちも確かなこととすることです。神を味方と信じることです。そして神の愛に身を委ねることです。パウロは38節で「私は確信する」と言っていますが、26-39では「私たち」と教会全体、教会の共同体全体を一つに包んで語っています。私たちは、自分中心に生きるのではなく、社会の一員として生きていますが、人間共同体の交わりを超えて、神の御計画の中で命を与えられ、歩み、召されるのです。
そのことを信じて、この時、平安を与えられると共に神の愛に応えて歩む思いを強くしたいと思います。
2009年10月18日
説教題:賜物の管理者
聖書:ペトロの手紙一 4章7-11節
【説教】
今日は私たちの教会の暦では終末主日です。来週は降誕前第9主日で創造が主題です。
私たちの教会の暦の特徴は、終末がはっきりした区切りになって新しい教会の一年が始まると言うのではなく、終末と創造が結びついている、ということにあります。
4:7に「万物の終わりが迫っています」とあります。「終わり」という言葉から、私たちは死を思います。しかし「終わり」は、終点であり、ゴールあり、目標であります。完成、成就という意味もあります。それは初めの時からしっかり見ているべきものです。スタートの時から目標や完成がはっきり見えなくては意味ある走りや仕事はできません。万物は神によって創造され完成させられるのです。万物の中心に人間がいます。キリスト者は神にあって終わりに向って生かされていることをいつも自覚しながら生きているのです。
終わりが迫っていることを知っている私たちはどう生きたらよいのでしょうか。「だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」と勧めています。終わりを単なる死、全てが虚しくなると思って、我を失って取り乱し、投げやりに無責任になる人がいます。しかし、終りは、神の業が完成することなのです。キリスト者はそのことを知らされている者として、思慮深くあるべきなのです。神の御計画の中で今ここに生かされている命を冷静に思い、自覚しながら生きるのです。「身を慎んで祈る」のです。身勝手をするのではなく、神の前に謙遜になって、神との語り合いをもって、ふさわしく生きるのです。
「人間の評価はその人の終わりの時にされる」とも言われます。私たちは取るに足りない者です。しかし、その私たちが神の者とされ、神のご計画の中に生かされているのです。私たちは皆、神から恵みの賜物を与えられているのです。4:10に「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕え合いなさい」と勧めています。賜物を授かっていない人はいないのです。私のような者何の役に立つのだと思うのではなく、その賜物は一人一人違う、その違いを認めて受け入れて、生かして互いに仕え合うのです。互いにその違う賜物を重んじあって、生かして互いに仕え合うのです。8節にあるように、お互いに心を込めて愛し合い、弱さによる罪を覆い合って、互いに仕え合うのです。それによって神が立派な完成を与えて下さるのです。自分ひとりで終らせるのではないのです。
私たちは主にあってその賜物の善き管理者でありたいと思います。善き管理者とは、賜物を独り占めして他の人に触らせないでいる人ではなく、その賜物を生かして用いる人、互いに仕え合う人です。授かっている賜物をそのように生かして用いることによって、11節の後半に語られているように、イエス・キリストを通して、私たちの存在も働きも、神に栄光を帰すものになるのです。終わりの時、万物の完成の時に、神がこの私たちの歩みも働きも存在も意味あるものとしてくださるのです。
神による終わり、完成を望み見ながら、今与えられている命を生きたいと思います。
2009年10月4日
説教題:神のぶどう園の労働者
聖書:マタイによる福音書 20章1-16節
【説教】
主イエスは、天国の譬えとして、このぶどう園の話をしています。
このぶどう園の主人は神さまです。主人はぶどう園で働く労働者を雇うため夜明けに出て行きました。この主人は、朝だけでなく、この日何度も雇うために出て行っています。午後5時になっても出て行って、仕事を求めている人を雇いました。このような雇い人の求め方は一般には考えらません。その日の仕事の量は大体予想できます。主人はその仕事の量に合わせて朝の内に必要な労働者を雇うでしょう。夕方5時に労働者を求めて雇うことはしないでしょう。ここには、仕事が予想以上に多いので急遽労働者を新しく雇わなくてはいけなくなった、と言うことは記していません。
この主人は単なる労働者として彼らを雇っているのではないことが分ります。5,6節には、どこに行っても誰も雇ってくれないので、一日虚しく過ごしていた人々が登場しています。この人々に主人は「ぶどう園に行きなさい」と呼びかけています。そして、夕方のなると彼らにも夜明けから働いていた労働者と同じ賃金を払ったのです。
この賃金の払い方に、夜明けから働いていた労働者は不平を言いました。「この連中は1時間しか働かないのに、まる一日暑い中を辛抱して働いた私たちと同じ賃金とは」と。この不平は私たちには当然のように思われます。地上の多くの賃金制度が、労働時間や労働条件(この場合暑さ厳しい中での労働と夕の涼しい中での労働の違い)によって決められているから。この世の裁判ではこの不平は正当な主張とされるでしょう。
ところがこの主人は少しも動じないで「友よ、あなたに不当なことはしていない」と平然と言って、「あなたは私と約束をしたではないか。約束によって与えるものを受け取って帰りなさい。私は最後の者にもあなたと同じように支払いたいのだ」と言いました。主人は約束の通りに支払っている、と言っています。朝からの労働者も、この約束の賃金を誰よりも先にもらったら喜んで帰ったかも知れません。しかし夕方5時からの労働者に支払われているのを見ていたのです。他の人と比べて、自分はあの人より上であると思ったのです。それで不平が出たのです。自分は暑い中一日辛抱して働いたのに、あの連中は1時間しか働いていない、と自分に見えるところでしか人間を判断していないのです。一日仕事を求めていたのに誰も雇ってくれない。その時その人は自分をどんなに虚しく、惨めに思っていたでしょうか。ぶどう園で愛の主人の下で仕事をしている人は、辛い仕事でも、張り合いを持ち喜びと充実感を持っていたのではないでしょうか。
ぶどう園の主人は虚しく過ごしている人に、今からでも私のぶどう園に来なさい。そこには辛くても充実した命を生きる神の国がある。そこでの働きには、取るに足りない働きの者にも、神が十分な報いを与えてくださる、とイエスは言っているのです。
私たちは、他人を見て、神から自分に与えられているものに不平不満を持つのではなく、ぶどう園の主人に召され、仕えている労働者であることを喜び、感謝したいと思います。