2012年3月25日
説教題:神の子の従順と人の罪
聖書:申命記 21章1-9節 マタイによる福音書 27章15-26節
【説教】
教会は、主イエス・キリストは人間の罪を負って十字架に架けられた、イエスを十字架に架けたのも人間の罪だ、と語っています。多くの人は、自分はそんな罪人ではない、2000年前にイエスを十字架つけたことに私は何の責任もない無関係だ、と言います。それならば人間に罪はないか、と訊くと、罪はある、罪人はいる、と答えるでしょう。
「罪」とは何か。罪とは、間違い、誤り、的外れ、掟を破ること等とも言われます。そこで何が間違いか、的は何か、掟は何かとなる。これが罪だと言う基準が、人それぞれ自分を中心に決めていて、多様なのです。社会秩序を保つ法や伝統等も、人によって悪法だ不公平だと言って、破っても罪と思わない人がいます。私たちは、自分や地域社会を超えた、神による基準で共に生きることなしに平和に生きることはできません。教会は神の前で己の罪を知り、神から赦しを与えられて、神を中心に共同体を形成して歩んでいるのです。
それで教会は人間の罪、自分自身の罪を十字架に見るのです。十字架を見て、神の子イエスの従順と人間の罪を知り、人間の罪がイエスを十字架につけたことを知るのです。
人間の罪がイエスを十字架につけたとしても、2000年前のことで今の私がしたことではない、私には関係がない、と思うかもしれません。しかし、歴史の中で唯一度起こったこの出来事は、過去のものと過ぎ去ってしまうものではないのです。イエスを十字架につけた罪は今の私たちの内にもある、私もイエスを十字架につけた人々の仲間になっている、今の私がイエスを十字架につけた、と言える繋がりを持っている出来事なのです。
私たちのどのような罪がイエスを十字架につけたのでしょうか。イエスを十字架刑に決めたのは総督ピラトで、その権限が有効なものとなり実行されたのです。しかしピラトは、イエスを調べて罪を見つけることが出来ないので無罪釈放したいと思ったのですが、自分の責任で決めることを放棄して群衆の声に従い、自分は手を洗って「この判決に責任はない」と言って総督の席から十字架刑を告げたのです。このピラトのように、私たちも神から託されている責任を誠実に負うことをしないで、神の御心に背くような意思決定や言動をしているのではないでしょうか。そのピラトと同じ私たちの罪がイエスを十字架につけていると言えるのです。
マタイ福音書は、神の民が神に対して謙遜になって神の声を聞いて従うべきであるのに、高慢になって自己主張し神に背いている罪、を明確に記しています。この神の民の罪がイエスを十字架につけたと言えます。この民が高慢であるのと同じ罪も私たちにあります。また群集が人の後ろに身を隠して無責任に「十字架に付けろ」と騒いで総督を動かした。このような人の後ろに身を隠して無責任に生きて人を動かす罪も私たちの中にあります。
神の子イエスは、このような人間の罪によって十字架刑が決まるのも、刑が執行されるのも、神の御心として黙って受け入れ、神が備えた道を従順に歩まれました。この神の子の従順によって神の御業が成就し、私たちに罪の赦しの救いが与えられたのです。
2012年3月18日
説教題:神の言葉は実現する
聖書:マタイによる福音書 26章47-56節
【説教】
東日本大震災を体験した人に、「思っていなかったことが突然起きた」「何が起ったか理解できなかった」と語る人と、「このことが起ると聞いていたので、それを思い出して行動した」「このことも起り得ると思っていたので、落ち着いて行動できた」と語る人がいます。この言葉は生きるか死ぬかを分けることになります。人間の経験や学ぶことは限られています。そこで人は「飲み食いしようではないか、どうせ明日は死ぬ身ではないか」と言います。
主イエスはゲッセマネで祈った後「時が近づいた。行こう、見よ、裏切る者が来た」と十字架に向かって行きました。このイエスには「どうせ明日は死ぬ身だ」という思いはありません。「時が来た」とは、神がイエスを通して罪人の罪を贖う時が来た、ということです。
この世界と歴史は裁かれる。しかし、この世界と歴史の全てが死と滅びで終るのではなく、神の命に生かされるのです。主イエスの命も死も、唯一人の人間の命と死ではなく、神のご計画と御心によって全ての人と繋がりを持っているのです。私たちの命と死も単独にあるのではなく、神のご計画と御心によって広い繋がりを持って今ここにあるのです。私たちの命と存在は地上を生きている全ての人と繫がりがあるのです。そのことを多くの人は大震災を通して思わされました。私たちは世界の人と繋がりがあるのです。
主イエスはご自分が神のご計画によって捕らえられ、十字架に架けられることをご存知で、そのことを弟子たちに告げていました。そして今ユダは「先生こんばんは」と言ってイエスに接吻しました。この接吻が自分を捕らえる合図だとイエスは知っていました。しかし、ユダを突き放すことも、その接吻を拒むこともしないで、自然に応対しました。それは、主イエスが今そこで起こっていることがどういうことか全てお見通しで、広い神の世界と歴史の中でそれを受け止められていたからです。それが神の御心であり、神による救の道であることを信じていたからです。
しかし、人間は救い主が捕らえられ、殺されるということは理解できません。それで、人々がイエスを捕らえに来ると、一人が剣を抜いて大祭司の手下の片耳を切りました。本能的な防衛行動で、守るために相手を切ったのでしょう。その男にイエスは「剣をさやに収めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言いました。イエスは、多勢に無勢で勝ち目がないから止めろ、と言っているのではありません。イエスは天の軍団を送ってもらって自分を助けることも出来ました。それで「しかし、それでは必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」と続けて言われました。人間の眼から見たら、人間の策略がユダを用いて、祭りの時に騒ぎを起こすことなくイエスを捕らえ、人間の力が世を支配しているように見えます。しかし、実は神の御心が世界と歴史を支配しているのです。
私たちも今起っていることだけに捉えられないで、神のご計画の中に生かされていることに思いを向ける時、自分一人の命を超えた神の命に生かされていることを知ります。この世界と歴史は何が起こるか分からないお先真っ暗でなく、神の光りがある世界なのです。
2012年3月11日
説教題:十字架を前にした祈り
聖書:マタイによる福音書 26章36-46節
【説教】
今日は東日本大震災から一年の日です。1年経っても過去の事ではなく、現在の問題です。全能の神の御心は何か。私たちはどのような神の言葉を聞き、学ぶべきか。
私たちは、言葉によって正しく理解し、伝えることが出来、対話と交わりが出来るのです。あの出来事に遭った人は言葉を失いました。言葉を失うと正しい理解と判断を失い、対話と交わりを失います。引きこもりなった人が避難所の中に見られました。対話できるようになると、自分中心の言葉になって、理解し合えない、対立する、段ボールで壁を作る、仮設住宅で独立して生活する、となっていきました。そこで私たちが知るのは、対話の大切さと難しさであり、対話を難しくしているのは自分中心の罪と死だということです。死によって対話が断たれ、罪によって対話が破れるのです。罪は親子の対話をも破ります。
しかし、人間は生きるためには孤独の中から全く知らない人との間にも新しい対話と人間関係を生み出すことが必要です。ボランティアの中には全く知らない土地から、自分を捨てて救援に来て、新しい交わりを生み出している人がいます。人間は孤独状態で生きることはできません。平和に対話が出来る人間関係によって人間の生活はあるのです。そして、罪と死に打ち勝たなくては罪と死の世で正しい対話を持つことは出来ないのです。
その対話には、罪と死がなく創り主である神との対話を正しく持つことが、基本になります。罪人の私たちは神と正しく交わることなしに、人と正しく交わることはできません。神が私たちと交わるためには、御子によって私たちの罪を贖って下さることが必要です。
御子イエスは神から遣わされて、罪人である私たちの中を歩まれ、十字架を前にして「父よ、できることならこの杯を私から過ぎ去らせてください」と祈られました。杯は十字架であり、十字架の死が罪を贖って神と結ぶ新しい契約になります。イエスは人間の罪の重さをご存知で、その罪を完全に贖う務めを果たすために悲しみ苦しんで祈ったのです。そしてイエスは、「しかし私の願い通りではなく、あなたの御心が行われますように」と祈りました。イエスは、この祈りで神と深く交わり、神の御心を引き受けられたのです。
イエスはこの祈りで心を確かにして十字架に進みました。十字架には神の堅い意志の救いが用意されています。人間の罪はイエスの祈りと十字架によって完全に贖われ、私たちは神に義とされるのです。この十字架の贖いを信じる者は、神との交わりを得、神の愛と恵みの中に生きる者とされ、罪と死から解放され、人と真に対話できる者にされるのです。
イエスの祈りと十字架は、言葉を失ってしまうほどの私たちの悲しみ、苦しみ、更に死をも神の愛の手に包んでくださるのです。私たちはそれによって、言葉を失わないで神に祈ることができるのです。言葉を失い呻くことしか出来ない時にも、聖霊が執り成して神との対話をつくってくださるのです。私たちは神と語り合うことによって、神から人間として生きる命が与えられ、人と交わって生きることができるのです。
大震災記念の日、十字架によって与えられた神との交わりの命を覚えたいと思います。
2012年3月4日
説教題:主の食卓に与る者
聖書:マタイによる福音書 26章17-30節
【説教】
食卓を用意する時には、一緒に食事をするのは何人か、誰と誰が同席するかを考えます。主イエスは十字架に架けられる前の日「十二人と一緒に食卓の席につかれた」のです。
主イエスは地上で多くの人と交わりを持ち、食卓をも共にしました。しかし、主イエスはこの最後のお別れの食卓に十二人の弟子たちだけを招いたのです。この食卓がどのように特別なものであるかを主イエスはご存知でした。主イエスは、この食卓にイエスと共に与る者はイエスと新しい関係に生きることになり、この食卓の関係が地上で終ってしまうのではなく神の国で新しい結びつきを持つことになる、と告げました。
この食卓に与った十二弟子は、イエスが祈りを持って選び、身近に置いて教え導き、歩みを共にした人たちです。ところがこの食卓で食事を始める時、イエスは「あなた方の一人が私を裏切ろうとしている」と言いました。イエスはその人を知っているのに、「お前、裏切るのを止めろ」とは言わなかったのです。皆の前で「裏切ろうとしている」と言ったのです。それはこの食卓に与っている者が皆、自分はこの食卓にいるのが相応しいか、と自分に問うことをイエスは求めたのだと思われます。イエスの言葉を聞いて「弟子たちは非常に心を痛め、『まさか私のことでは』と代わる代わる言い始め」ました。仲間が裏切ることに心を痛めたのではないのです。長い間イエスと一緒にいるのに「私は裏切らない」という確信のある弟子はいませんでした。これがイエスの弟子たち、また私たちの現実です。
十二弟子は神が御心によって選んだのです。その時からユダはいたのです。ユダは自分の心の変化や周囲の影響によって裏切る者に変ったのではなく、本人自身が気づかない心の深いところで裏切る者だったのです。ユダは心からイエスに従うことをしていなかったのです。自分の思いがあり、自分の思いを捨てきれないでいた、そこに悪魔が働きかけたのです。ユダは、イエスを引き渡す機会をねらっていて、お金で引き渡しました。ユダはお金を手にしましたが、イエスに有罪の判決が出ると後悔してお金を投げ出しました。ユダは自分の思いにイエスを結び付けようと思ったのでしょう。ユダと同じように人間的な思いが他の弟子たちにも、私たちにもあるのです。イエスは、そのことに気づいて悔い改めて、神の国に結びつく食卓に与るように、弟子たち皆に語りかけたのです。
イエスはユダを愛の手の中に置いていました。それなのに彼が裏切ったのは、神の心がそこにあったからだと言えます。しかしイエスは、裏切る者は不幸だ、生まれなかった方がよかった、と言っています。ユダは、イエスを裏切った後、自ら罪の処理をしようと自ら命を絶ったのです。私たちは自分が行なったことの責任を負うことも、悔い改めることにも限界があります。主イエスは、弱く罪人である人間を選び、弟子として愛しているのです。そして最後の食卓で、このパンと杯によってイエスと一つになり、イエスの十字架によって罪赦され、義とされ、神の命に生きる者にされる、と告げているのです。
私たちは聖餐の度に自己吟味し悔い改めて与り、十字架の恵みを感謝して生きるのです。
2012年2月26日
説教題:柔和な王
聖書:ゼカリヤ 9章9-10節 マタイによる福音書 21章1-11節
【説教】
福音は光で、イエス・キリストです。イエス・キリストに出会い、キリストを知ることによって、私たちは闇の世界から光の世界に生きる者に変えられるのです。
イエスはエルサレムに近づいた時、弟子を使いに出してろばを引いて来させました。イエスは、弟子を使いに出す前に、どこにろばがいてろばの所有者とどんな問答があるか、を全てご存知でした。そして実際にイエスが語られた通りでした。私たちにはこのように先を知る知識も力もありません。このイエスの行為について聖書は「預言者を通して言われていたことが実現したのである」とゼカリヤ9:9を引用しています。ここでイエスによってなされていることが、神の預言の実現で、天地を創り歴史を治めている神がイエスを通してご自身の御心を地上の歴史の中に成就している、と聖書は言っているのです。
そして聖書は、イエスは神から遣わされた神の民の王、民が自分たちの王として迎え入れるべきお方で、救い主である、とも言っているのです。この世は、イエスを自分たちの王として迎え入れ聞き従うことによって、救いを得るのです。
イエスは、神の御心が現され成就する十字架に進む第一歩として、ろばに乗って民の都エルサレムに入られました。ここで主イエスはご自分を柔和な王であると示しています。この王は、軍馬に乗って力で民を治め従わせる王ではなく、弓や刀を絶ち、それらとは縁を切って、柔和によって支配し治める王です。
主イエスはマタイ11:29で、「私は柔和で謙遜な者である」と言っています。「柔和な人」は、自分の考えに頑でない人、やわらかい心で物事を分ってくれる人です。「謙遜な人」は自己中心でなく、相手を重んじる人といえます。柔和と謙遜を並べると、力のない頼りない人、だから自己主張しないで相手の言いなりになる人のようにも思われます。しかし、柔和は、飼い馴らされている動物、よく躾けられている人を意味しているのです。謙遜は、強く高い人が、弱く低い人と同じ立場に自分を置くことです。ですから柔和で謙遜なイエスは、重荷を負って疲れ苦しんでいる人の重荷を一緒に負い、代って負うことができるのです。私たちは、自分が負っている荷だけでも、重荷で苦しみます。イエスは、その重荷を一緒に負ってくださる柔和な王として、民の中に来たのです。
神の民はろばに乗った王を、自分の上着を道に敷いて、神から遣わされて来た自分たちの王として歓迎しました。ここには、自分の思いが叶えられ実現したという喜びとは別の、喜びの叫び賛美の声があります。神のご支配があり、神の国があり、神に祝福された民と世界があるのです。私たちはこの柔和な王によって、福音を示され、福音の光りの中で自分を見、世界を見て、神の御心にあって生き、柔和な者となって歩むことが出来るのです。
自分中心、人間中心だあった私たちが、神によって創られ治められている世界に生かされている者である、と知り信じることによって、私たちは生きる中心を変えられるのです。喜びや悲しみ、希望や生き甲斐などの心が転換し、感情のあり方も変革するのです。
2012年2月19日
説教題:律法にまさる義
聖書:マタイによる福音書 5章17-26節
【説教】
「私が来たのは、律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない」とあるのは、当時イエスはそのために来たと思っている人がいたのです。
当時、律法を守り行なえ、そうしないと神の国に入れないで、反って罰を受ける、という考えがあり、そのことで人々は、苦しんでいました。それで、イエスはその律法を廃止して私たちを律法から解放した救い主だ、と言う人がいたのでイエスは「私は廃止するためではなく、完成するために来たのだ」と言ったのです。「完成する」というのは「満たす」ということですが、新しく律法を増し加えて満たすのではありません。
律法は、神の御心を示し、その御心を行ない、神の道を歩むように、神が民に与えたのです。神の愛と恵みの御心を示すものとして与えられた律法を、律法学者やファリサイ派の人は、文字や人間の言葉で受け止め、その文字や言葉を守って行なうことを人々に求めたのです。それで人々は、律法が自分を縛り苦しめるものになり、神の愛と恵みによって生かされているのではなく、人々の前で苦しんで律法を行って歩むことになったのです。
それでイエスは「あなた方の義が律法学者やファリサイ派の人の義にまさっていなければ天の国に入れない」と言ったのです。律法学者やファリサイ派の人にまさる義と言うのは、人の前の義ではなく、神の前での義で、神の御心に適う義のことです。
神の御心に適う義がどのようなものなのか、イエスはルカ18:9-14で示しています。ファリサイ派の人は、律法を守り行って、「あの徴税人のような者ではないことを感謝する」と誇って自分の心に言っています。他方徴税人は、自分は神の前に出ることが出来ない罪人です、お許しください、と神に祈っています。イエスは、神に義とされたのは、ファリサイ派の人ではなく、この徴税人である、と言っています。また、イエスが安息日に手のなえた人を癒された時、イエスが律法を破るか注目していた人々に、イエスは「律法は命を殺すためではなく、生かすためにある」と言いました。
今日の聖書でイエスは「私は命を救うために来た。私は神の御心によって歩むことを教えている。律法を破り廃止するためではなく、律法を完成させるために来た。律法は神の御心を示しているので天地が消え去るまで消えない。だから神の御心に適う律法学者にまさる義を行ないなさい」と言っています。キリスト者は、イエスによって人間と自分の罪を知り、罪が赦されたことを謙遜に感謝して、キリストにあって歩むのです。
そのように罪赦されている自分を知っているので、自分も他人をも裁くことなく、自分が罪を犯すことがあっても、神の赦しを信じて罪を告白して悔い改め、神に赦されて生きることができるのです。また、兄弟や人の罪を赦して、兄弟と平和に生きるのです。
私たちは罪人で、神の前に歩むのに相応しくないのに、イエス・キリストによって義と認められ、神と民とされているのです。そして、神の民とされていることを謙遜に喜び感謝して、御心に添って歩む歩みを、神は律法学者にまさる義としてくださるのです。
2012年2月12日
説教題:地の塩、世の光である
聖書:創世記 18章18-33節 マタイによる福音書 5章13-16節
【説教】
主イエスは「あなたがたは地の塩、世の光である」と言っています。「イエスを信じてイエスに従って歩んでいるあなたがたはこの世で特別な存在だ」と言っているのです。
イエスを信じている者は、罪人を救うために十字架についたイエス・キリストによって生かされているのです。キリストがその人に宿り、その人と一つになっているのです。
塩には腐敗を防止する力があります。食べ物や命を失った動植物が時間と共に腐敗するだけでなく、人間も政治も社会も腐敗して神による生ける命を失うのです。人間と世を腐敗させるのは、神を忘れ神に背を向けて生きようとする、罪です。それで塩の存在、キリスト者と教会の存在が大きな意味を持つのです。
キリストは塩としてこの世に存在し溶け込んむことによって、この世に神の御心を伝え、悔い改めさせ、御心に向わせる働きをするのです。塩は固ったままでは腐敗防止の働きをしません。自分の存在を周囲のものの中に溶け込んでその働きをするのです。キリスト者も教会も、自分はキリストにあっ生きているので他と違うのだと自分を堅く守るのではなく、腐敗していく世に溶け込んで腐敗する力と戦うのです。もし溶け込むことでキリストを失ったら世の腐敗防止に無力になってしまいます。塩の力を失い腐敗が進んだということになってはいけないのです。キリスト者として溶け込んでいくことで役割が果せるのです。
また塩は食べ物に味をつける働きがあります。塩のない食べ物は味気ないものです。適当に塩味が付けられておいしく食べられるのです。塩は食べ物それぞれの持ち味を引き出します。全ての食材が塩によって存在を表し、個性を出すのです。それも少量の塩が溶けてなされる働きです。しかし、塩が役割を失ったら投げ捨てられてしまいます。
光は、闇の中でその存在さえも失っていたものを、明るく照らし出します。一つの灯りで部屋全体を明るくし、そこにある全てのものを照らし出して生きた存在とします。キリスト者もその存在が小さくても世にあるものを神の光の中に照らし出して救い生かすのです。
創世記18章で神は、アブラハムを全ての民を祝福するために選んだ、と言った後、で「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える声を聞いた。行って、確かめる」と言われました。そこでアブラハムは「行って確かめた時、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼすのですか。正しい者がいたら町全体を赦さないのですか。町全体を滅ぼすことはあなたのなさることではない。全くありえない」と神に問い迫りました。この世は少数の悪いものによって全体が悪くなる、腐敗する、裁かれることが多くあります。悪い者を裁き滅ぼす、しかし正しい者は救う、ということもあることです。しかし、アブラハムは自分を選んで全ての国民を祝福すると約束された神は、神から見て少数でも正しい人がいたらその民全体を赦し生かすべきではないか、と訴えたのです。神はこの訴えを聞かれました。
神はこの約束をイエスによって実現されたのです。キリスト者の存在が世界と歴史全体を救うのです。地の塩、世の光であるキリスト者の存在意味と使命はここにあるのです。
2012年2月5日
説教題:イエスに従う者の幸い
聖書:マタイによる福音書 5章1-12節
【説教】
「私は不幸だ、幸いを求めている」という人がいる一方で、「私は今のままで幸せだ」という人がいます。私たちにとって幸いとは何でしょうか。
イエスは「心の貧しい人は幸いだ」と言っています。「貧しい」というのは「何もない」だけでなく、「なにもない、必要なものが欠乏しているので必要な何か欲しい」と求めている人です。その人がどうして幸いなのでしょうか。イエスは自分に従ってくる人に無責任に「幸いだ」と言っているのではありません。イエスは「なぜならば、天の国はその人のものだからだ」と言っています。神の御支配の下にあるからだ、と言っているのです。迷子の羊は羊飼いに見つけてもらうことで幸いを得たのです。私たちも神のご支配の下にあって幸いを得るのです。イエスは、イエスを信じて従う者を神の国に生きる神の民としてくださるのです。イエスは、生きるのに必要なものが自分の内にないことを知ってイエスにそれを求め、イエスを信じて従ってくる者に「私によってあなたは神に受け入れなれた、神の国はあなたのものだ、だから神にある幸いがある、祝福がある」と言っているのです。
「悲しんでいる人」は、持てるものを失って悲しみ嘆いているのです。物質や富だけはない、親しい人や健康を失った、誇りや名誉、希望を失って嘆き悲しんでいる人がいます。自分も人も慰め励ますものを何も持っていない人に、イエスは私によって神からの慰めが与えられる、と言っているのです。「慰める」とは傍らに寄り添うということです。
「義に飢え渇く人々」は、この世に悪や不義があって、神の義がない、神の義がほしいと飢え渇き、神に義を求めているのです。その人はイエスによって神の義に出会うのです。神の義は、裁いて退ける義ではなく、愛し、赦し、受け入れて生かす義です。その義によって自分が神に愛され、赦され、生かされていることを知り、義に満たされるのです。
「憐れみ深い人々」は、他人の悲しみを黙って見ていることができないで、助けの手を差し出さないではいられない人です。その人は自分が悲しんでいる時にイエスを知り、イエスの憐れみによって慰めを与えられて生かされている人です。私たちは自分のことで精一杯で他人のことまで負えません。しかし、自分が人からは憐れんでもらって救われた経験を持って生きている人は、他人の悩みや苦しみを黙って見ていることができないのです。
この世は残酷で、苦しんでいる人に、自分の問題は自分で解決しろ自己責任だ、と言います。しかし、自分では負いきれない問題があります。地震津波の被災者に対して世界の人が援助の手を差し出して下さいました。その中には援助を受けた人たちが多くいます。
私たちは自分の力で幸いな命を得ることはで来ません。私たちの幸いな命はキリストによって神から与えられるのです。神の憐れみと義が私たちに宿って、私たちを生かしてくださる、そこに幸いがあるのです。その幸いは神によって確かにされ支えられ強められるのです。そして自分一人幸いと喜んで満足していないで、他の人に神の義を持って臨み、憐れみ深い者となり、憐れみ深い行為をする者になれるのです。
2012年1月29日
説教題:イエスが受けた誘惑
聖書:申命記 6章10-15節 ルカによる福音書 4章1-13節
【説教】
イエスは洗礼を受けられた後、聖霊に満たされ、荒野を“霊”に引き回されて悪魔から誘惑を受けられました。イエスが受けた誘惑は、自分の思いを利用して外から迫ってきたのではなく、神が用意された、神の御心による誘惑でした。
神から引き離そうとする誘惑は先ず避け退けるべきです。しかし神による誘惑もあるのです。それは神による試験で、その人がどの程度自分を知っているかを調べ、その人を育てるために行なう試練でテストです。この誘惑は避けるのではなく受け止め対決してなければなりません。神はイエスが救い主の歩みを始める時にこの誘惑を用意されたのです。
荒野でイエスは空腹を覚え、食べ物が欲しいと切実に思いました。イエスは罪人の一人となって洗礼を受けました。肉の人間の弱さをご自分のものとされていました。人間を救う救い主は人間が持っている問題、悩み苦しみを自分のものとするのです。食料や経済の問題は人間が解決すべき第一の問題だと人々は言います。悪魔はイエスに「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と言いました。神の子の力を先ず自分の空腹の問題を解消すために、自分のために使ったらどうだ、そのような救い主をこの世の人々は喜んで迎え入れる、と誘惑したのです。
しかしイエスは「人はパンだけで生きるのではない」と言って誘惑を退けました。人間は食べるだけに存在しているのではではありません。神からこの肉体と命と働きを与えられて存在し生きているのです。このことが第一に大事なことです。主イエスは十字架の道を歩み、「十字架から降りて自分を救え」という声を無視しました。現在無意な延命を望まない、意味ある生き方をしたい、短命でもいい、と言っている人がいます。
悪魔はイエスを高く引き上げ世界のすべての国々を見せ「この国々の一切の権力と繁栄を与えよう。それは私に任されている。だから、もし私を拝むなら、みなあなたのものになる」と言いました。権力欲、支配欲は誰にでもあり、その欲望には限りがありません。悪魔は地上でそれなりの力を持っていて、その欲望を悪魔が利用しての詐欺や悪しき支配をさせています。悪魔は「それは私に任されている」と言いましたが、イエス御自身、地上で罪を赦す権威を持っていたのです。イエスは神と一つになっているその権威を行使されています。イエスは申命記6:13の言葉によってこの悪魔の誘惑を退けました。
次の「神の子なら神の愛があるだろう。神の子だけにできることをやってみろ」という悪魔の誘惑をイエスは詩編91:11-12の言葉で退けました。
主イエスは私たちを救う救い主として悪魔と対決し、神の言葉によって悪魔の誘惑に勝利したのです。イエスは、悪魔がこんな救い主になったらどうだと誘った神の御心とは別の救い主ではなく、神の御心に適った救い主であることをこの試験で示されたのです。この神の試験に合格してイエスは救い主としての歩みを歩んでいくのです。この悪魔の誘惑に勝利したイエスが私たちの救い主なのです。
2012年1月22日
説教題:神の御心に適う者
聖書:イザヤ書 42章1-7節 マタイによる福音書 3章13-17節
【説教】
現在の日本の政治社会また人々の生き方は、安定していない、落ち着いていないと言えます。それは日本の政治も人々も自分中心と今どうあるかという刹那的な思いや価値判断で生き行動しているからだ、と言えないでしょうか。
ヨハネは、自分中心で目先のことだけを考える人に悔い改めて神に立ち返り、神にあって生きるように呼びかけました。そのヨハネの所にイエスが罪の悔い改めの洗礼を受けに来ました。ヨハネは、イエスに罪がないことを知りましたので自分の方こそイエスから洗礼を受けるべき者だ、とイエスに洗礼を授けることを躊躇しました。それに対してイエスは「今は止めないで欲しい。正しいことを行なうのは我々にふさわしいことだ」と言いました。それでヨハネはイエスに罪の悔い改めの洗礼を授けたのです。
これはイエスが罪人の仲間、その一人にご自分の身を置かれた、ということです。「正しいこと」は、「神のあって正しいこと」で、神の義、神の御心に適うことです。人間の考えで正しいのではありません。イザヤ42:1-4に神が選んだ僕について記されていますが、この神の僕は、神の正しさで世界と人々を選び裁くと言われています。神の御心に適うものを選んで取り、適わない他を捨てるのです。イエスは我々は神の前に適うことをすべきだと言って、ヨハネは神から与えられた務めを正しく行ない、イエスは神から遣わされた救い主として御心に従って罪人に身を置かれたのです。
イエスは罪がないので、罪人を救うために罪人の中に身を置かれ、十字架へと歩まれました。イエスは、自分は神の子で罪はない、罪人とは違う、という立場に立たなかったのです。神の民の罪、罪人の罪をご自分のものとされて負われ、神の前で罪を告白し悔い改めの洗礼を受けたのです。このイエスによって私たちは罪から解放され救われたのです。私たちの救いの原点はここにあります。私たちの洗礼もこのイエスの洗礼と一つに結びつくことで神の御心に適う者になるのです。
イエスが洗礼を受けて水から上がると、神の霊がイエスに与えられイエスに宿りました。そして天から「これは私の愛する子、私の心に適う者」と声がありました。この声はイザヤ42:1の言葉を想起させます。イザヤの告げた神が選び、神の心に適う僕はイエスによって現れた、と人々に告げているのです。この僕、イエスによって世界の正義は導かれ、自分中心にである国々の争いと混乱は、神の正義によって平和を得、安定するのです。国々は安定し、人々は落ち着いて心安らかに生きることができるのです。この神の心に適う僕、イエスが導く正義、裁きは、この世的な力によるものではなく、神の憐れみと愛を基としているのです。罪人を上から力で裁き滅ぼす義ではなく、罪人の中には入って罪人の罪を代って担い、憐れみと愛で新しい命を与えて生かす義なのです。
私たちの洗礼も信仰生活もこのイエスを原点とし、基としているのです。私たちはこのイエスを信じイエスに支えられて、神に適う者、キリスト者の歩みをしたいと思います。
2012年1月15日
説教題:新生への道
聖書:イザヤ書 40章3-8節 マタイによる福音書 3章1-12節
【説教】
私たちは地上を歩んでいる時に、今どこを歩んでいるのか、どこに向っている道を歩んでいるのか、を確認することが必要です。分かれ道や立ち止まる節目の所などに来た時には、広く周囲を見回して、歩んできた道を見直して、道を確かめた新しい歩みを始めることが大事です。一年の初めは歴史と社会を見直して新しく歩み出す区切りの時です。
洗礼者ヨハネは荒野で神の言葉を与えられ、人々を神の道に立ち返るように呼びかけていました。言葉に出会うことによって歩みを変えることがあります。
荒野は人が住まないところです。ヨハネはその荒野で、こんな荒野に私たちを生かす神はいない、命はない、と望みも生きる力も失っている人々に「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言いました。神はいない、命もない、と思っていた荒野に神はいて語りかけているのです。ヨハネは自分の考えや研究によって語ったのではありません。神から与えられた言葉を語ったのです。神から与えられた務めを果たしていたのです。
荒野に来る人も肉の欲望を持っています。しかし荒野では肉の欲望は命を失い神の命だけが生きるのです。「悔い改め」は「心から向きを変える」ことです。聖書は神に背を向けていることを罪と言っています。罪は間違えていることでもあります。「悔い改め」は罪を認めて正しい道に方向転換して正しい神の道を歩むことです。考えや生活の一部ではなく、人間全体の生きる向きを転換するのです。神に背を向けていた歩みから、神に向かって歩むように転換するのです。自分の思いや欲望、社会の力に従っていた歩みから、神の御支配に委ねて生きるようになるのです。そこに救いがあるのです。
ヨハネは悔い改めと神の国が近づいたことを語ると同時に、「主の道を整え、道筋をまっすぐにせよ」と言いました。天の国の主を心深く迎え入れるように余計な邪魔物をすべて取り除いて道を整えるのです。それが罪を認めて告白することになり、洗礼を受けることへと導かれるのです。ヨハネが告げる言葉を聞いて、罪を告白し洗礼を受ける人がその地方一帯から来ました。その中にファリサイ派やサドカイ派の人々いるのを見てヨハネは「蝮の子らよ」と叱責し洗礼を拒否しました。彼らが自分の罪を真剣に告白していないのを見たのです。彼らは、自分の肉的な誇りに洗礼という誇りを一つ加えようとして、ヨハネの所に来たのです。それでヨハネは、自分の肉的な誇りをすべて神の前に捨てよ、真に悔い改めて新しい人になって生きることを求めよ、と厳しい言葉で言ったのです。
私たちが神の民として生きるのは神の命の道を生きることです。間違えた道を歩んでいたらその道を歩んでいた自分をすべて転換させることが必要です。罪を告白して悔い改め、自分の全てを神に委ねて神から命を与えられ命の道を歩むのです。その時神は私たちを命の道に導き、その道を歩ませてくださるのです。
この年神を信じ、神に全てを委ねて与えられた道を歩んで行きたいと思います。その時、荒野を歩むことがあっても、そこにも神がいて神の言葉を聞くことができるのです。
2012年1月8日
説教題:神が共にいます歩み
聖書:ホセア書 11章1-4節 マタイによる福音書 2章13-23節
【説教】
クリスマスは私たちの世界が闇であることに目覚めさせる出来事です。クリスマスも新年も明るい喜びだけがあるのではありません。闇の世であることを知り受け止める時、天から来た救いの光が大きな喜びになるのです。新年を迎えた喜びもそこにあります。
今日の聖書は、イエス誕生後間もなく、天使がヨセフに「起きて、子どもと母親を連れてエジプトに逃げよ」と告げたので、ヨセフは起きて夜のうちに幼子と母親を連れてそこを立った、彼らが去った後ヘロデ王はその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を皆殺した、と記しています。聖書はここにも天使がいて、神が共にいますイエスの歩みの始めだ、と言っています。
私たちはこのことを受け入れるのに抵抗がないでしょうか。神がいますのにどうしてこんな悲惨な事が起こるのか。ここで私たちが注意しなければいけないのは、この世を闇の世にしているのは神ではなく、人間の罪がこの世を闇にしているということです。イエスが旅先の馬小屋で誕生しなければならなかったのも人間の罪によるのです。この世の権力者も一般民も皆自分中心に生きているので、自分の地位や生活の平安が乱されることを恐れ、その恐れのあるものを受け入れることを拒否し、入ってきたら排除するのです。
神はそのような闇の世も罪の人間も見捨てないで、世を愛し救うために、罪人の罪を代わって負うために御子を私たちの中に誕生させてくださったのです。神の愛の眼差しは闇の世に注がれ、罪人を救うために御業がなされているのです。
幼子と産後間もないその母親を連れての旅は大変だったでしょう。何の準備もなしにエジプトに逃げて行くのです。彼らは神を信じ、神に全てを委ねて出発し、歩んでいったのです。彼らの中に神が共にいたのです。ですから神に守られた神共にいます歩みをしたのです。彼らがエジプトに行ったのは唯人間の罪だけでなく神のご計画でもあったのです。
マタイ2:15の「私はエジプトから我が子を呼び出した」はホセア11:1にある言葉です。今御子がエジプトに行って住み、そこから新しい神の民となってエジプトから脱出する。それが新しい神の民の誕生になる。真の救いになる、と聖書は言っているのです。マタイの2:19-21に彼らがエジプトからイスラエルに帰って来た、とあります。神の約束がイエスによって実現しているとマタイは記しているのです。
私たちのこの一年の歩みも、神共にいます歩みとして始まっています。神が共にいます歩みは問題のない明るい快適な歩みだけではありません。私たちは人間の世にキリスト者として歩むことをしっかり自覚して歩まなければなりません。人間の罪による問題や暗さ、重荷を今自分に与えられているものとして担う使命感と責任感をもって歩んで行くのです。そのために必要な知恵と導きと力を神が共にいて与えてくださるのです。
この年がどんな年になるか分りませんが、神が共にいて私たちを通して御心をなすとの信仰を持ち、御言葉に励まされつつ歩んでいきたいと思います。
2012年1月1日
説教題:神に導かれる歩み
聖書:マタイによる福音書 2章1-12節
【説教】
私たちはクリスマスの喜びの中で新しい年を迎えています。私たちはクリスマスで救い主を示され、誰の御支配と導きの下に生かされているかを知らされました。新しい年もその主が私たちと共にいて、世界と私たちが歩む道と歩みを教えてくださるのです。
クリスマスの時に学者たちが、「ユダヤ人の王」が生まれたことを知らされて、「その生まれた王を拝むために」星に導かれて東方からエルサレムに来ました。「星を見て拝みに来た」のは、この学者たちが天地の造り主である神を信じていたからです。天地の造り主である神が、私たちに命を与え、今ここに生かしてくださっているのです。ですから、私たちはこの神の御心に添って歩むことによって、喜びと生きる意味が与えられるのです。
学者たちはこの神を信じていたので、学者として知識を得ただけで済ますことができず、この王を拝むことが自分の人生に意味がある大事なことだと思って、自分の今の生活を整理し、自分が生まれ育ち生活しているところを出て、遠い国に旅立ったのです。そして、苦労の多い旅をしてエルサレムに来て、幼子の王に出会って礼拝しました。
私たちが意味ある歩みをするのには、深く世界と歴史のことを考えることが必要です。そして、天地の造り主で歴史の主にています方から命を与えられて生かされていることを、覚えて生きることが大事です。自分の命は自分のものと気ままに生きる、また考えなしに吹く風に任せて無責任に生きることもできます。責任ある立場に着くことや責任のある判断や行動をすることを嫌がり避けたがる人がいます。しかしそれでは神さまから頂いた命を軽んじ、正しく生きることにならないのです。
学者たちは自分に与えられている働きと知識によって星を見て調べ、神の御心を知るように務めていたのです。そして神の御心を知ったら、その御心に添って行動したのです。この生き方は私たちも見習うべきです。学者たちは行くべき道も目的地もはっきりとは知らないで旅立ちました。無謀な出発にも思われますが、学者たちは神を信じていました。私たちの歩みも学者たちのように苦労が多く迷うことがあるかも知れませんが、神が導いて下さるのです。私たちのこの年の歩みもそのような歩みになるのではないでしょうか。
学者たちはエルサレムで道が分らなくなった時、諦めないで「教えてください」と謙遜に尋ねて廻りました。私たちも諦めないで謙遜に尋ね聞く心が必要です。
学者たちは捜していた幼子の王に会うと、持って来た宝物を捧げて拝みました。これは、自分の全てを捧げて仕えます、ということです。この王に出会い拝むことで旅の目的は果たせました。そして今彼らは神から新しい道を示されました。夢でお告げがあったので、別の道を通って自分の国に帰って行きました。この帰路は、神が共にいてくださる、神は確かなお方だ、という喜びと平安で足も軽い歩みだったと思います。そして自分の国に帰っても神が共にいてくだり神に導かれた歩みをしたでしょう。
私たちもクリスマスの神の導かれてこの年を歩んで生きたいと思います。
2011年12月25日
説教題:クリスマスの喜び
聖書:ルカによる福音書 2章1-14節
【説教】
クリスマスの夜、天使たちは羊飼いたちに「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言いました。この天使が告げた大きな喜びは、私たちにも与えられているのです。「民」は、皇帝や総督、王などの下で生活している人、特別な力を持っていない人です。私たちです。その民全体に大きな喜びが与えられたのです。
この時羊飼いたちは、自分に与えられている羊の番を夜通ししていると、暗い夜に突然神の栄光に照らされた天使が現れたので、驚き、何が起こったのか、これから何が起こるのか、不安を感じ、唯恐れを覚えたのです。天使は、「恐れるな。私はあなたたちに大きな喜びを告げる神からの使いだ。落ち着いて私の言葉を聞きなさい。」と言って救い主の誕生を知らせました。大きな喜びとは、救い主が今日ダビデの町に生まれたことです。
ヨセフとマリアは、皇帝が全領土の住民に登録せよと勅令を出したので、その命令に従って登録をするためにナザレからベツレヘムに旅をして来ていました。マリアは身ごもっていたので辛い旅だったと思われますが、二人は神から与えられている民としての身分と生活環境を受け入れて、自分たちの義務と責任を果たすためにベツレヘムに来たのです。二人は、神が自分たちと共にいてくださると信じていたので、この旅を歩めたのです。
ベツレヘムに来た時、マリアは月が満ちて初めての子を産みました。幼子は布にくるんで飼い葉桶の中に寝かせました。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからです。
ベツレヘムは、ヨセフの血筋の家がある町ですから、親戚や知人がいたと思われます。マリアは出産が近い身体です。それなのに誰も二人を泊めてくれないのです。二人は知人にも町の住人にも見捨てられたのです。ルターは「ヨセフは自分にできる精一杯のことをした。多分、宿の女中に水を持って来てくれるように頼んだでしょう。けれど、誰かが手伝ってくれたなどとはどこにも書かれていません。若い妻が牛小屋で寝ていると聞いても、誰もそれを心に留める人はなかったでしょう。」と書いています。
これは異常なことではないのです。この世は、皆自分中心で、冷たく非情なのです。権力者が住民登録を行なうのも自分の力と富を増すため、民を道具のように利用するためです。
ところがそこに神はいるのです。その見捨てられた人、孤独な人、しかしそこで神を信じている人と共に神はいるのです。造り主である命と愛の神は、神を信じて与えられた道を歩んでいる人と共にいるのです。ですから、羊飼いたちに天使が来たのです。
ナチスの時代に、聖書の言葉に誠実に従ったために獄に入れられた牧師は獄の中で「ここにも大きな喜びが与えられている」と言ってクリスマスを祝いました。
神から与えられている愛の交わりを自分中心になって絶っている人がいます。神の言葉や神からの道を頑なに拒否する人がいます。そのような人たちにも神は、飼い葉桶の中の幼子に出会って喜ぶように、そこに救いがあり、喜びがある、と告げているのです。
クリスマスの喜びは、神の心を受け入れて神にあって歩んでいる人と共にあるのです。
2011年12月18日
説教題:マリアに宿った御子
ルカによる福音書 1章46-56節
【説教】
マリアに宿った子は、人間の思いを超えた、全く神の思いと力によって宿った子でした。
マリアは、結婚して子どもを宿したいという思いと、清い生活をしているという誇りを持っていたでしょう。しかしその思いと誇りを捨てて、神の言葉を受け入れました。これは驚くべきことです。神に選ばれ用いられた務めを唯信仰によって受け入れたのです。この信仰が信仰者の模範とされているのです。
マリアが神の言葉を受け入れたのは、気まぐれや無責任なものではありません。信仰によって受け入れたことは、神の前に責任を持って受け入れたということです。マリアが神の言葉を受け入れることができたのは、自分に固執しないで、神に従ったからです。それだけでなくこの時、神の言葉と同時に神の霊がマリアを包んで力を与えたのです。
マリアだけでなく、自分に語りかけられた神の言葉を信仰もって受け入れる人は皆、マリアと同じように、自分の中に神の御心を宿すのです。御子を宿すのです。
神の言葉を受け入れたマリアは、急いでザカリヤの家に行きました。彼女は宿った子によって、考えと生き方が全く変えられたのです。自分の思いではなくて、自分の内に宿っている御子を中心にして考え、生きるようになったのです。マリアは初めての妊娠です。親類のエリサベトが身ごもって6ヶ月だと聞いたので、彼女に教えてもらおうと急いで行ったのでしょう。私たちが御言葉を受け入れて、御子を私たちのうちに宿した時にも、このマリアと同じような思いと生き方の変化を起こすのです。
マリアを迎えたエリサベトは喜びました。胎内の子も喜んだのです。
そこでマリアは神を賛美しています。47:48節で「身分の低いこの主のはしためにも目を留めてくださった」「今から後、いつの世の人も私を幸いな者というでしょう」と喜び賛美しています。この喜びと賛美は、自分を誇り、自分のすばらしさを喜んでいるのではありません。神の御心の真実で確かであることを賛美しているのです。
51-53節で、神がマリアを選び彼女に御子を宿すことによって、神はどのような御心を示されているか、を賛美し語っています。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らす。」思い上がる者は、神よりも自分が知恵ある者と思っていて、神の言葉を聞かないのです。マリアから神の子が生まれたことを信じないのです。マリアの子は人間の子だ、と言うのです。人間は神から命を与えられて生かされているので、子どもを宿すのは神からの授かりものだ、と言う考えを軽んじるのです。そして人間の知恵と力を誇っているのです。そのような思い上がりが大地震で打ち砕かれたのです。
私たちは、マリアとは違うあり方ですが、神の前に謙遜になって、天地や世界の出来事また生活の中で神が語りかける言葉を聞き受け入れて、自分の内に御子を宿し、御子によって自分に思いと生き方を新しくしたいと思います。そして、このクリスマスの時、マリアと同じように神をあがめ、賛美したいと思います。
2011年12月11日
説教題:先駆者ヨハネ
聖書:ゼカリヤ書 2章5-13節 ルカによる福音書 1章57-80節
【説教】
ゼカリヤは、バビロンに捕囚されていた民が解放されて、エルサレムに帰って来て神殿の再建を始めたのにその再建の働きが中断してしまった、その中断した時に用いられた預言者です。神殿の再建が中断したのは、民が神のことよりも、自分のこと、この世のことを優先的に思ったからです。そこで神はゼカリヤをとおして、神が都と神殿を再建する思いを持ち事を行なわれる、神がそこに住んで民を守り救う時が来る、だから神の民はエルサレムに来て神殿を再建しなさい、と人々に神に立ち返ることを勧めたのです。
ルカ福音書。エリサベトは月が満ちて男の子を産みました。この子に名前を付ける時、そこに集まった人たちはこの世の習慣に従った名前を付けたらいい、と勧めました。ところがエリサベトは「いいえ、ヨハネでなければいけません」と言いました。言葉が言えなくなっていた夫ザカリヤも「その子の名はヨハネ」と書いて示したのです。「ヨハネ」は、天使が名付けるようにザカリヤに告げた名前です。天使によって身ごもることが告げられ、名前も付けられたことは、この子のこれからの歩みと生涯を神が責任を持って関与されることを意味しています。そしてこの子ヨハネは、神のご計画の中で身ごもり、生まれただけでなく、その歩みも生涯の働きも神のみ旨とみ力の下にあることを示しています。
そして、ヨハネの誕生に起こったこととイエスの誕生に起こったことに殆ど同じ経過を見ることができます。1:11-7と1:26-28、1:57と2;6。まさにヨハネはイエスの先駆けで、イエスの誕生はヨハネの誕生をなぞっているように見えます。
勿論ヨハネの誕生とイエスの誕生とでは違いがあります。マリアが38節で神の言葉を受け入れたのに、ザカリヤは神の言葉を受け入れなかったので、その事が起こるまで口が利けなくなりました。マリアの34節の言葉とザカリヤの18節の言葉との違いは、私たちには明確には分りませんが、ザカリヤは、神の前に「高齢で子どものできるはずがない」という自分の考えをいつまでも正当化して、口が利けなくされたことを不当なことと思い続けるのではなく、神の前に謙遜になって天使の言葉を受け入れ「その名はヨハネ」と書いたのです。そこで口が利けるようになり、神を賛美したのです。
ザカリヤは先ず、神がヨハネの誕生をとおして神の御計画、神の約束を実現される方であると賛美します。続いて、ヨハネはいと高き方の預言者で、主に先立って行き、道を整える、と賛美しています。ヨハネは一人独立した存在ではないのです。イエスとセットになっているのです。イエスの先駆者であることに存在と歩みの意味があるのです。
クリスマスは突然来たのではありません。先立つ者なしには来ないのです。イエスを正しく知り、迎えるためには、神に立ち返るように語る先駆者ヨハネが必要なのです。私たちには、聖書をとおし、又教会をとおして預言の言葉を聞き、信仰へと導かれてクリスマスを迎えるのです。既に信仰を持っている教会と私たちは、この世に対してヨハネのように救い主の到来を知らせる者である、そこに存在の使命がある、と言えます。
2011年12月4日
説教題:救いは近い
聖書:イザヤ書 2章1-5節 ローマの信徒への手紙 13章8-14節
【説教】
今年は大地震があったので「救いとは何か」を思わされました。
地震と津波で町全体が壊され、住む所が失われ、親しい者を亡くし、避難所で一時を過ごし、現在仮設住宅で生活している人などがいます。その人たちの中には、早く前の良かった生活に戻りたいと言う人がいますし、また、時代や社会が移り変わり人間もかわる、だから新しい時代にあった新しい街をつくり新しい生活をしようと言う人もいます。
地震と津波の前までは、人間の知恵、力、経験や今までの人間関係が大事で、そこに救いがあると思っていた人が多くいました。ところが地震と津波や原発事故の後、人間の知恵や力、今までの経験や人間関係で問題を解決することができない、世界は人間を超えた神が造ったのであり、神が治めている、と多くの人が知ったのです。そして大地震は、世界と歴史は神が造り治めていることと終わりがあることを、象徴的に示しているといえます。今までの人間中心の世界は闇の世界であった、そこに神からの光が示された、ともいえます。
「救いが近づいている」とは、今のこの世が救いを求めている、闇の世である、ということです。人間の知恵と力に頼り経験を基に生きているのがこの世です。ローマ12:2に「この世に倣うな。心を新たにして自分を変えていただき、神の御心を知りなさい」とあります。この言葉を受けてパウロは「あなたがたは今がどんな時か知っている。眠りから覚めるべき時が来ている」と言っているのです。この世に倣うな、ということは人間の知恵や技術や経験に倣うな、ということです。私たちは今までそのような生き方をしていたのです。しかしそれではいけないのです。今は神によって造られ治められている世界に生きていることを知ったのですから、キリストによって新しい人にされて、神の御心と神の言葉によって生きるべきなのです。人間の世界に終わりがあり、神の世が確かに来るのです。クリスマスを前にしたこの時、特に私たちはそのことを思うべきなのです。
イザヤは、イスラエルの国が滅亡し捕囚されていた民に、神は御心によって世界と歴史を治め、やがて主の神殿に立たれる。その時シオンが中心になって世界を治めることになる。その統治は武力によってではない神のご支配によって、争いや対立がなくなる。だから神の民ヤコブの家よ、神の言葉に聞き従い主の光りの中を歩もう、と言っているのです。
私たちは、人間の世が終って神の世が来る、そこに神にある者の救いがある、と知っているのです。イエス・キリストの出来事と世界の出来事、身近な事を通して知らされているのです。ですから私たちは今、キリストに目を向けて、この世の捨てるべきものを捨て、神が喜ぶものを身につけて歩むものにならなければなりません。
11-14で、あなた方キリスト者は、今がどんな時か知っている、救いが近づいている、だから闇の行いを脱ぎ捨てよう、争いとねたみを捨てよう、そして光の武具を身に着けて昼歩くように品位をもって歩もう、と言っています。捨てることと、身につけることが同時に行なわれるのです。そして光りの中を歩むのです。これがキリスト者の生き方です。
2011年11月27日
説教題:キリストの系図
聖書:創世記 15章1-6節 マタイによる福音書 1章1-17節
【説教】
新約聖書は、イエスの系図を書頭に記しているマタイ福音書を最初に置いて、聖書を読む人が先ずイエス・キリストはどのようなお方かを知るようにしています。
マタイ1:18以下では、イエス・キリストが神の子で、聖霊によって身ごもった、「神が共にいますお方である」と記しています。このマリアから生れた神の子が系図を持っていることが大事なことです。系図は、イエスが地上の歴史の中を歩んできた人間で、私たちと同じ肉の人間として誕生した、この人の誕生は歴史的事実である、と語っているのです。
私たちが求めている救いは、個人的なものもありますが、それ以上に人間的、社会的、歴史的な救いも求めています。イエス・キリストは、肉の人間の個人的な問題だけでなく、社会的、歴史的な背景の問題もご自分のものとされて誕生されたのです。
この系図は先ずアブラハムから始めています。アブラハムは神に選ばれ、神との間に契約を結んだ人です。神はアブラハムに、子孫を増やし、その子孫によって諸国の民は祝福を受ける、との約束を与えました。この系図はその約束を基に、その祝福を得る希望を目指しています。アブラハムは子どもができないので、養子を迎えて子孫にしようと考えました。その時神は「あなたから生れる者が跡を継ぐ」と言い、「あなたの子孫は、この星の数ようになる」と約束されました。アブラハムは主を信じ、神はアブラハムを義とされました。神とアブラハムとの関係が正しいものとされ、契約が有効なものとして結ばれたのです。
この神とアブラハムとの間に結ばれた契約を背後にもってこの系図の歴史があります。神はその契約を中断することなく、有効なものとされ続けたのです。神の御心がこの系図の歴史全体を包んでいるのです。神の御心はイエスの誕生によって成就したのです。
この系図は第一に、族長や王の系図で示されています。神は、契約を結んで神と一つになるように民を治める者を、立てたのです。そこに救いがあるとされたのです。イエス・キリストはそのように民を治めるお方なのです。
またこの系図は三つに区分されています。アブラハムからダビデまでの区分は、神の民が登り坂の時です。ダビデは理想的な王で、救い主はダビデの子孫から出、ダビデ王に並ぶ王と期待されるようになりました。イエスはダビデの子孫だと系図は語っています。
ダビデの後の14人は、国が分裂して外敵に滅ぼされバビロンに移住させられる、落ち行く時です。その後は国なき時代で、この系図にある人でもその存在を聖書の中に見ることが出来ない人がいます。その存在も歩みも見えなくなった、無視された時です。しかしその時もその民と共に神はいた、この民の歴史を意味あるものとしてイエスは誕生したのです。
系図に女性の名前が記されるのは例外的なことですが、この系図には4人の女性の名が記されています。4人は立派な女性ではなく、遊女、異邦人、不倫の女などです。
この系図は立派な祖先を示すのとは全く違います。罪と汚れを持った人の中に神からの救い主が来て誕生した、その人たちと神は共にいて下さる、と語っている系図です。
2011年11月20日
説教題:良い実を結ぶ枝
聖書:イザヤ書 5章1-6節 ヨハネによる福音書 15章1-8節
【説教】
農家の人はすばらしい果物、良い収穫が沢山あるようにと長い間いろいろなお世話をしています。簡単にこの果物が出来たのではないのです。
イザヤ書を読むと、神様が神様のぶどう畑を耕し、石を除いて良いぶどうを植えた。ぶどう酒を造る用意をして良いぶどうが実るのを待っていた、と書いてあります。しかし、実ったのは酸いぶどうだったのです。農家の人が心を込め苦労してお世話したのに、そこに植えられて育った木は自分勝手に好きな実を結んだのです。神様はそのぶどう畑の世話をすることを止めて、「勝手にしなさい」と畑を見捨てました。そうしたら、その畑は茨が生い茂り、虫が来る、病気になるなどで、実を結ばない木になってしまいます。神様は、この話を神の民にしたのです。
神の民は神様に愛され、生かされ、育てられている人々です。私たちです。私たちは神の民ですから、神様と心を一つにしないといけないのです。神様と神の民、農家の人とぶどうの木が一つになるのはどうしたら出来るでしょうか。
神様がぶどうの木を知ってくれることです。神様がぶどうの木になってぶどうの木を知ってくれたらいいです。でも、ぶどうの木と一つになったら茨が生い茂るようになるでしょう。ぶどうの木が神様の心を知って、神様の心と一つになることによって、ぶどうの木は神様が喜ぶ実を結ぶことができるのです。神様によって造られ、生かされている私たちは、ぶどうの枝である私たちの心と生き方が変らなければいけないのです。
それで神様は、イエスさまをぶどうの木とし、わたしたちをイエスさまのぶどうの木に結びついている枝としたのです。ヨハネ15:1でイエスさまは、「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である」と言っています。イエスさまだけが、農夫である神様の心を知って生きている、本当のぶどうの木なのです。良い実を結ぶ本物のぶどうの木なのです。だから「私につながっていながら実を結ばない枝は皆、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはいよいよ豊かに実を結ぶように手入れをされる」のです。
イエスさまは「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言っています。イエスさまは枝である私たちに、つながっていなさい、と言っていますが、枝である私たちがつながっているだけではなくて、ぶどうの木のイエス様も枝である私たちにつながっている、と言っているのです。それで枝はぶどうの木であるイエスさまから必要な命と力を与えられるのです。この両方の結びつき、離れないでいること、お互いに為すべきことを行なう、それによって木と枝は一つに結ばれ、一つ心で、一つ命に生き、実を結ぶのです。
私たちは造り主である神様の心が分らないで生きているのです。神様のことを思わないで、自分のことだけを思っている、自分のことしか分からないものなのです。それで神様は私たちの中にイエスさまを与えてくださったのです。イエス様と結びつくことによって私たちは神様の心と一つに結びついて生きることができるのです。
2011年11月13日
説教題:終末の希望を見る
聖書:マタイによる福音書 24章1-14節
【説教】
多くの人は今日が明日も続く、大きな変化のない世界に生きていると思っています。それで、落ち着いた平安な生活をしています。
しかし私たちは、自分の命もこの世も日々変っていることに気付かされることがあります。自分の死が迫っていることを知らされたら、明日はどうなるのか不安になります。
マタイ24:1-2で、神殿が大きな石によって堅固に建てられているのに感激した弟子がイエスにその神殿に注目するように促しましたのに対して、イエスは「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と言っています。弟子たちがこのように堅固な神殿に信頼を置いていれば安心ですね、との思いをイエスに伝えたのに対して、イエスは「地上のどんな堅固なものも崩れるものだ。永遠ではない。終わりがある。」と言われたのです。
このイエスの言葉を聞いて弟子たちは、イエスが神の子であることに目覚めさせられたのだと思います。神が天地を造り、この歴史をも治めている、だから神の子であるイエスは神殿が崩れることを知っているのだ、そしていつ崩れるかも知っているのだ、だから平然とそのことを確信をもって言ったのだ、と弟子たちは思ったのでしょう。
それでイエスに「そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世が終る時にはどんな徴があるのですか」と尋ねました。「あなたが来られる時」というのは、復活して天に昇られたイエスの再臨の時です。弟子たちのこの問いは、教会の問いでもあります。
弟子たちの問いにイエスは「人々に惑わされないように気を付けなさい」と言っています。「私がメシアだ。救い主だ」世界を治め、平安を与える、という人が出る。問題を解決するのに軍事、政治、経済などの力がある。最新で有効な科学技術を偶像にすることもあります。それらは、人間の想定内の世界では通用するかもしれません。しかし私たちが生きている世界は、神が創造し神が治めている世界です。この世の知恵と力は神の前には無力なのです。そのことは東日本大地震、津波、原子力発電所事故などで私たちが深く知らされたことです。私たちは、人間やこの世に頼るのではなく、神の御心と御力に頼ることによって生かされるのです。イザヤも言っていますように、地上の出来事は神の御心によっているのです。ですから神の言葉に聞き従うところに救いがあるのです。
同じ出来事、同じ事柄を見ても、見る人によっていろいろに見えます。失われたものに思いと目を留め続ける人、失ったものを取り戻そうと回復、復興再建を思う人がいます。聖書によって見る人がいます。回復し復興再建しても、この世のものは結局滅びるもので、相対的である。神にあるものだけが永遠で滅びない。だから人間が、神にある人間に新しく変えられて、神にあって生きる人に変えられることが必要である、と見て信仰を持った人がいます。このことが大事なことであり、救いなのです。
教会は、この世の相対的な命や力に惑わされないで、主の言葉によって変えられて、終末の希望を信じ、信仰によって終末の希望を見て歩んでいるのです。
2011年11月6日
説教題:本国は天にある
聖書:フィリピの信徒への手紙 3章17-21節
【説教】
今日は、召天者名簿に記されている34名の方々を覚えての礼拝です。召天者記念礼拝で誰を覚え、記念するかは教会によって違います。この教会では、教会との幅広い関わりの方を覚え、記念しています。ここに記されている方の中にお会いしたことがない、全く知らない、という方がいると思います。でも、その方々をも覚えて記念礼拝をするのです。
最も新しい御名前のNさんは、静岡教会の教会員で80才過ぎまで静岡でお一人で生活されていた方です。ご高齢なって認知症が進まれたので、姪のTさんがお世話することで習志野の施設に移られ、今年の1月に病院に入られ2月に召されました。病院の計らいもあって仏式で葬儀をしたのですが、Nさんが忠実な教会員だったのでTさんはそのままでは気が済まなかったのです。Nさんの御兄様が以前この教会に出席されていたのと宮崎先生とお交わりがあったことで教会に話があり、3月に私と宮崎先生がご自宅に行って記念会をしました。静岡教会でも覚えられているでしょう。
私も教会員もお会いしたことのない方が、Mさんのお三人、Sさんなど、この名簿には幾人もいます。Mさんのお三人は北海道北見の墓から当地の霊園の墓に改葬納骨する式を私が行なったのでここに御名前があり、ご遺族の方が今日出席して下さっています。Sさんは、召された直後に甥のAさんから、親も本人も救世軍の信者だったので葬儀をして欲しい、と電話があって葬儀をした方です。
大事なことは教会によって召された者として名前が記され、教会で覚えられていることです。フィリピ4:3には、生きている人に「神の命の書に名前が記されている」とあります。キリストにある者は神に覚えられているのです。それは、生死を越えた神の命、永遠の命に生かされているのです。命の書に名前を記されている者が「本国は天にある」とされている者です。召された者も、今地上を歩んでいる者も同じ神の国の民なのです。キリストを信じて神の心を中心に神から与えられた道を歩む者を、キリストにあって神がご自分の民として愛し、生かし、歩ませてくださるのです。私にとって親しかったか、交わりがなかったか、等は小さなことなのです。キリストにあってこの人もあの人も神の恵みを頂いて歩んだ、そのことをお互いに覚え合うのです。
「私の本国は天にある」と言う者にとって大事なことは、自分の居場所は天の国にあり、世は過ぎ行くものということです。わたしたちは地上を旅人として歩むのです。天の本国をこの世に証しする者として誇りと喜びをもって歩むのです。主イエスの十字架による救いを信じて、神のご支配に身を委ねて生きる者は、肉の生死を越えて、神の国に生かされているのです。神の命を与えられて生かされているのです。この喜びに生きるのが救いです。
今地上を歩んでいる私たちは、肉やこの世の思いや力に支配されて、神から離れてしまう可能性を持っています。ですから日々悔い改めて、キリストによって変えられて、新しく神の民となって歩み、召されている方々と共に天で大きな喜びを与えられたいと思います。
2011年10月23日
説教題:神の恵みに歩もう
聖書:申命記 7章6-11節 フィリピ 4章19-23節
【説教】
この手紙は、パウロがフィリピの教会から物を贈って貰ったことを感謝している手紙です。フィリピの教会の近くにも困っている人はいたでしょう。それなのに遠くにいるパウロに援助の品を贈ったのは、両者の間に神による強い結びつきがあったからです。
多くの人がいる中で誰に目と心を向けるかはその人とどのような結びつきがあるかで決まります。目と心が先ず肉親、学校の友人、仕事の仲間などに向きます。パウロはキリストによって神に生かされていることを知っている仲間に先ず心を向けていたのです。それで4:19で「私の神」と私を強く出していますが、この神は「あなたがた(フィリピの人たち)の神」であり、「私たちの神」でもあるのです。私の神は、真の栄光と富を持っているので、贈り物をしてくれたフィリピの教会の人たちに必要なものを十分に与えてくださる神です、とパウロは信じてフィリピの教会のために神に執り成しの祈りをしています。
そして、神をほめたたえています。これが、この手紙の結びになっています。
人間は弱く貧しい存在ですが、神の恵みによって強く豊かにされて生かされているのです。申命記で神は、奴隷であったエジプトから神に導かれて出てきた民に、神の愛と恵みによって今の生があり歩みがある、そのことを忘れてはいけない、と言っています。
私たちはお互いに、神によって恵みを与えられて生かされ、交わりを与えられているのです。パウロは手紙を閉じる挨拶の言葉として、「キリスト・イエスに結ばれている全ての聖なる者たちによろしく伝えてください」と言い、「すべての聖徒たちからよろしく」と言っています。パウロはイエス・キリストにある交わりを非常に大事なこととしていました。肉親や民族などの関係よりも強い仲間意識を持っていたのです。ですから、キリストに結ばれて神の民とされているすべての聖徒に目と心を向けて「よろしく」と言っているのです。私たちキリスト者はお互いに皆神の民なのです、聖徒なのです。
キリストに結ばれている人たちの中にも気の合わない人、理解し合えない人もいるでしょう。性格や育った環境などが違う人間が唯キリストによって集まっているので当然です。しかし、キリストに結ばれている者同志は、キリストによって人間が変えられているのです。新しい人にされているのです。キリストの恵みによって生かされているということで強く深く結びついて交わり、仲間となって共に生きているのです。それが神の民であり聖徒です。お互いにキリストにあって赦され、恵みを与えられて生かされているのです。
キリスト者は皆、罪人の弱さや貧しさを身をもって知っています。ですからお互いに、罪の弱さと貧しさにある相手を、思い遣るのです。それでキリストに結び付られて新しい人に変えられて生かされている恵みのすばらしさを思い、「よろしく」と挨拶を交し合うのです。教会は人間的に違うところ、合わないところがあっても、お互いに仲間として一つに結びついて生きるのです。
一つに結びついて神の栄光が限りなくあるようにと神を讃美して生きるのです。
2011年10月16日
説教題:喜ばれる供え物
聖書:フィリピの信徒への手紙 4章15-18節
【説教】
現在日本で問題になっている一つに幼児虐待があります。親が「子どもを愛せない、憎らしいとさえ思う」と言うのです。幼児には居場所も食べ物も与えられている、しかし心が与えられていないのです。
4:15で、フィリピの人たちとパウロの間で物のやり取りをして両者が一つになって宣教の働きをした、と言っています。この物のやり取りにはお互いに心遣いのやり取りもあったのです。一方通行ではなかったのです。それで一つの働きを共同でできたのです。
心遣いも物と同じように、与える人と受け取る人が、互いに相応しく対応することによって効果を持ち物事が前進するのです。親と幼子の間では、親の方で十分な心遣いを持つことが必要です。ところが親が忙しい、子育てに経験不足などで、心遣いなしに居場所や物を与えて、幼子がそれを受け取らない、受け取るのを拒否する、幼子の対応が悪い、それが度重なる、続く、それで虐待に至るのです。心遣いは、物や言葉のやり取りだけでなく、また親子関係だけではなく、全ての人間関係で大事なことです。
パウロは、4:10-14で物の遣り取りよりもそれに伴っている心遣いが大事で、自分はその心遣いを喜んでいる、と言っています。そして4:17で、パウロに対する心遣いが神に対する思いから来ているので、神があなたがたの心遣いに対して相応しい豊かな実を与えてくださる、と言っています。4:18では、神からあらゆるものを受けて豊かになっている、エパフロディトから贈り物を受け取って満ち足りている、と喜びと感謝を述べ、続いて「それは香ばしい香りで神が喜んで受け入れて下さるいけにえです」と言っています。
「いけにえ」は神への犠牲の捧げ物です。パウロは自分が取るに足りない人間であると知り、罪人であったのに、罪贖われ新しく生かされ使徒とされていることを感謝していました。その自分に対してフィリピの人たちが自分を犠牲にしてまで贈り物をして、歩みを支え助けてくれている。これは自分に対する贈り物ではなく、神に対する心遣いからの贈り物である。だから神が喜んで受け入れて下さる贈り物だ、神が喜んで受け取って下さっている、と伝えているのです。この贈り物によって、人間の間だけでなく、神との間も真実で堅い交わりが出来るのです。キリスト者間のやり取りにも神の祝福が与えられるのです。
この神に喜ばれる供え物は、品物が何であるかではありません。神の心遣いに対して、神への思いをどう表すかが大事なのです。ナルドの香油を主イエスに注いだことを弟子たちが「無駄使いだ、愚かしいことだ」と咎めたのに対して、主イエスは「私に良いことをしたのだ。出きるだけのことをしたのだ」と喜んで受け入れられました。
神に罪赦され愛され生かされている。恵みを受けている。その愛と恵みにお応えする何かをしたい。そこで精一杯のことをする。それをこの世がどう評価するかは問題ではないのです。私たちが心から神の恵みに対して喜びと感謝を持って捧げるものを神は良い香りと受け入れて下さるのです。私たちの日々の生活が神の前に捧げている供え物なのです。
2011年10月2日
説教題:主が強くして下さる
聖書:フィリピの信徒への手紙 4章10-14節
今日の聖書箇所は、獄の中にいるパウロにフィリピの人たちが援助の品物を届けてくれたことにお礼を述べている所です。パウロは贈り物を貰って「私は非常に喜びました」と言っています。獄の生活は不自由で食物も不足している状態です。しかし、パウロは物に不自由していたので物を届けてもらって嬉しかった、とは言わないで、その喜びを「あなたがたが私への心遣いをついに表してくれたこと」と言っています。
そしてその直ぐ後で「物欲しさからこう言っているのではありません」と言っています。人間物がないと辛いです。しかし、人に見捨てられることほど辛いことはありません。一生懸命に生きているのに認められない、苦労したのに成果が認められない、ということは惨めです。人が認めなくても、自分なりの目標があり認めるべきものがあれば満たされた思いになれるでしょう。しかし、自分で自分を認めることができない時には生きる力を失うことにもなります。自分が自分を認めることができなければ強くなれない、頑張れないのです。人間は弱い者です。ですから誰かから愛されている、認められているということがないと大人になれないのです、人間として生きていけないのです。そこにいるだけでも喜んでくれる人がいる、失敗しても見捨てないで心にかけてくれている人がいる、それによって生きる力が湧いて来て、頑張ることができ、強くなり、成長していくのです。
パウロは獄に入れられていましたが強い人になっていました。主イエスによってどんな境遇に置かれても正しく強く生きることができる人にされていました。ですからパウロは、贈り物を手にしたことで先ずフィリピの人たちが自分を忘れないでいてくれているのだ、と喜んだのです。教会の交わりはお互いに覚え合い、祈り合うことが大事です。そこから物や言葉のやり取りが出てくるのです。「非常に喜びました」は物を手にした喜びの言葉です。
地上では、キリスト者も教会も物がなくては生きていけません。それで物を与え、受け取るということが必要であり、大事なことになります。しかし、そこに難しい問題があるのです。それは物が力になって、上下関係が無意識の内に生じ、自分と相手を見る目に優越感と劣等感、無力感、依頼心、差別感が起こることがあるのです。
パウロは、神にあって今ここに生かされていることを正しく理解して、自分が置かれている境遇を受け入れて対処することができる、といって贈り物を受け取っているのです。パウロとフィリピの教会の間に物のやり取りによる差別意識はないのです。「どんな境遇にあっても」がどんな境遇を想定しているかは4:12で分ります。「満足することを倣い覚えた」というのは経験によって身に付けたということです。しかしその経験は、難行苦行を積むことによってではなく、キリストと共に歩むことによる経験です。
私たちは弱い人間ですが、神がキリストによって私たちを認め、愛して下さっているので強くなれるのです。キリストはいつもこの私と共にいてくださる、だから私たちはどんな境遇にあっても、強くしされて、正しく対処して生きることができるのです。