2025年9月28日
説教題:希望を抱く捕らわれ人
聖 書:ゼカリヤ書9章9~12節、使徒言行録5章12~32節
ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」
(使徒言行録5:29~32)
今日も、イエス様の弟子たち・使徒の働きと、最初の教会・初代教会の営みを御言葉に聴いてまいりましょう。今日の聖書箇所 使徒言行録5章12節は「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた」と記されています。初代教会の使徒たちを通して聖霊なるイエス様が働かれ、しるしと業 ― 人の知恵と常識を超えるいやしが行われました。
まず心に留めておきたいのは「教会」という言葉が建物ではなく、私たち・イエス様の救いの福音を信じる者たちをさすことです。使徒たちは自分たちが暮らしているところでも主を仰いで讃美し、また神殿に礼拝に出かけました。
神殿では、ソロモンの回廊と呼ばれる外庭に集まりました。祭司も、一般の人々も、ユダヤ人ではない外国人・異邦人も出入りでき、最も多くの人たちが行き来する場所でした。祭司たちは使徒たちに関わろうとしませんでしたが、民衆は多くのいやしのわざが使徒たちを通して行われているのを見て、イエス様を信じる者は増え、教会の群れが大きくなっていったことが12節から16節までに記されています。
ところが、この勢いを見て邪魔をしたくなった者たちがいたことを、17節が語っています。大祭司とその仲間のサドカイ派の人々 ― サドカイ派は当時の社会のエリート中のエリートと言われ、復活を信じません ― は、自分たちこそが人々に尊敬されるはずなのに、その人気と敬意をすっかりイエス様の弟子たち・使徒たちに持っていかれた格好になってしまい、それが大いに気に入らなかったのです。彼らは、極端な行動に出ました。「ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた」(使徒言行録5:18)のです。
イエス様が十字架で死なれた時、イエス様の弟子たち・使徒たちが最も恐れていたのが死刑囚ナザレのイエスの仲間、犯罪者として逮捕されることでした。しかし、イエス様のご復活を通して、今や使徒たちは強められ、逮捕を恐れず、また恥とも思っていませんでした。
19節から21節にかけて、その彼らに働いた主のみわざが記されています。お読みします。「ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、『行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい。』と言った。これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。」
神さまは天使を遣わされ、人の手が造った牢の戸をたやすく開いて使徒たちを自由にしてくださいました。また神さまは天使を通して命の言葉・イエス様の救いの福音を人々に告げるようにと使徒たちに告げ、使徒たちはそのとおりにしました。ここには、神さまが使徒たちに、また私たちに与えてくださる三つの恵みが語られています。
ひとつは、自由です。私たち人間を造られた神さまは、私たち一人一人を大切に見守られ、誰一人としてないがしろにされません。これは、私たち人間同士の間で、誰かが誰かにないがしろにされ、差別され、理不尽な扱いを受け、虐げられたり、いじめられたりしないことを表します。残念ながら、私たち人間はこの本来の姿を失い、いまだに争いが絶えない世に生きています。聖書はそれを罪と呼びます。
神さまがユダヤの人々をご自分の宝の民となさったのは、彼らがエジプトで奴隷として酷使され、理不尽な扱いを受けていたからでした。彼らを救い出すために、神さまは預言者モーセを立て、エジプト脱出のみわざを成し遂げてくださいました。奴隷という捕らわれの身から、ユダヤの人々はこうして自由になったのです。
しかし、実は人間にとって、自由はなかなか難しい恵みです。『自由からの逃走』という書物をご存知でしょうか。ドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロムが、ナチズムが台頭した時代・1941年に上梓した大衆の心の動きを考察した書物です。人は自由になると、その自由から逃げ出したくなるという説が展開されています。
きわめて単純かつ卑近な例をあげましょう。私たちは誰しも、試験を受けた経験があります。試験前には、言ってみれば自ら自由を抑圧して、やりたいことを我慢して、勉強に集中します。試験を終えた後の解放感の大きさは、得も言われぬものだったのではないでしょうか。
ただ、入学試験の場合、入学だけを目標にしていた人は目標が達成されて、自由時間を手にした途端に、何をしたらよいのかわからなくなるかもしれません。試験は本来、希望する学校に入学して、そこでの学校生活を満喫するためのものです。新しい人生のステージ「への」自由だったはずなのに、試験突破だけを目標にしていると試験「から」の自由になって、 試験が終わると真空地帯に投げ出されたように感じてしまうのです。そして、悪い誘いがあると、ふらふらとついて行ってしまう…ということにもなりかねません。
束縛「からの」自由を手にすると、人間は途方にくれたり、間違った選択をしたりします。先ほど『自由からの逃走』が、ナチスが台頭した時代に書かれたとお伝えしました。ナチスの総統ヒトラーは、民主主義による選挙で選ばれました。当時のドイツはインフレなどの社会不安に抑圧されていて、その状況下で大統領を選ぶという自由を与えられた時、間違った選択をしてしまったのです。
神さまは、このような人間の弱さ・罪をよくご存じです。旧約聖書 出エジプト記には、エジプトの奴隷の身分から逃げ出して自由になったユダヤの民が四十年も砂漠・荒れ野をさまよったことが記されています。見えない神さまを信じることができず、自分たちの手で金の子牛を造ってそれを神さまとして崇めたり、空腹に負けて、砂漠での自由なんかもういらないから、エジプトの奴隷に戻っておなかいっぱい肉が食べたいと言ったりしたことを、お読みになられた方は多いでしょう。それでも、神さまは決してご自分が選んだ民を見捨てはなさいませんでした。私たちは神さまに、そこまで深く愛されているのです。
さて、今日の聖書箇所に戻ります。神さまは天使を通して使徒たちを牢から解き放ち、自由にしてくださった後、もう知りませんよ、自分の好き勝手にしなさいとおっしゃったわけではありませんでした。なんのために自由が与えられるのかを、このようになすべきことを告げて導いてくださったのです。「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」(使徒言行録5:20)
使徒たちに与えられた自由は、理不尽な逮捕・束縛「からの」自由ではなく、御言葉を告げる伝道「への」自由だったのです。神さまはイエス様の十字架の出来事で罪の報いである死から救われ、ご復活によって永遠に主と共に歩む恵みを信じる者に自由と使命を与えてくださいます。
自由と使命、こうして二つの恵みを与えられた弟子たちですが、この使命には再び逮捕される危険が伴いました。実際に、27節には伝道を始めた弟子たちが再び捕らえられて、最高法院の大祭司の前に引き出され、尋問されたことが記されています。
大祭司は「あの名(イエス様の名)によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか」と使徒たちを問いただしました。権威を振りかざせば、あれほど大祭司や長老たちを怖がり、逮捕を恐れていたペトロたちですから、すっかり恐れ入ると思ったのでしょう。
ところが、使徒たちは堂々とこう言いました。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」(使徒言行録5:29b)また、この真理の根拠を使徒たちはこのように明言するよう、導かれました。今日の聖書箇所の最後の聖句をお読みします。「わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」(使徒言行録5:32)
最高法院は裁判の場です。この世の裁判官として、また罪を追求する検察官として大祭司がいました。しかし、真実の裁きは神さまがされます。そして、この時、神さまご自身 ― 私たちの神さまは主なる神・御子イエス様・聖霊の三位一体の神さまです ― が使徒たちの証人として、また弁護者として共においでくださいました。
主が共におられる時、伝道する者は絶大な勇気を与えられます。勇気 ― これが、今日の聖書箇所が語る三つ目の恵みです。
初代教会は、誕生してすぐ、このように使徒たちが伝道するたびに逮捕されるという苦難に遭いました。聖霊が多くのしるしと不思議なわざを、使徒を通して働かれて、人々をいやし、教会は人々から愛され、兄弟姉妹として教会に加わる人も多くなりました。これは、教会を後ろから力づけてくれる追い風と言ってよいでしょう。ただ、使命のためには追い風ばかりではなく、むしろ苦難・向かい風が必要な場合があります。
飛行機が離陸する時に必要なのは、向かい風です。自分に向かって吹き付ける風に果敢に耐え、その風に乗る時に、鉄の塊である飛行機がふわりと空へと舞い上がります。教会が向かい風に乗る勇気を、神さまが、イエス様が、共においでくださって与えてくださるのです。
初代教会のように、私たち教会に生きる者は、真の自由・使命・勇気を与えられています。イエス様が必ず寄り添ってくださり、私がいるから大丈夫、さあ父なる神さまへの道を共に歩もうと御言葉をもって私たちを導いてくださいます。今日から始まる新しい一週間を、その恵みを心にいただいて力強く進み行きましょう。
2025年9月21日
説教題:永遠の見守りの内に
聖 書:詩編121編1~3節、ヨハネによる福音書15章11~17節
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
(ヨハネによる福音書15:16)
今日の主の日の礼拝を、特別伝道礼拝として、こうして皆さんと礼拝をささげる幸いに感謝いたします。今日の主の日「も」、ご一緒に主を仰ぐ薬円台教会の方々、そして今日初めて讃美と祈りをささげる方々と共に御言葉に与ります。
この礼拝に与えられた新約聖書の聖書箇所 ヨハネ福音書15章16節で、イエス様は弟子たちにこう語られました。先ほど司式者が朗読してくださいましたが、今一度お読みします。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしが(イエス様が)あなたがたを選んだ。」イエス様が弟子たちにおっしゃったこの言葉は、今、ここに集まっている私たちへの語りかけです。私たちは今、イエス様に招かれ ― 招待され ― 、イエス様に選ばれてここに集まったのです。
先週一週間、よく歩み抜いたと、イエス様は私たちをねぎらって、この礼拝で休むひととき・まことのやすらぎを与えてくださいます。休んだうえで新しい一週間を進み通す力を、与えてくださるためにこそ、イエス様はこうして私たちを招いてくださっているのです。
今日は午後の特別伝道集会 講演会の講師として、精神科医 石丸昌彦先生においでいただいています。礼拝説教と午後の講演を通して、一貫した主題を「やすらぎをもとめて~心が疲れた時に」といたしました。心がすりきれたようになった時、千々に乱れて自分が自分でないように感じる時、イエス様から、またイエス様の御体なる教会を通して、疲れ果てた者にどんな憩いが差し出されるかを、私が見聞きした中からご紹介したく思います。
私は牧師になるための学びの場・神学校に行く前に、看護学の学びのためにアメリカの北にある大学町ボストンで数年を過ごしました。そこの教会で、一人の青年が私の心に深く残る証詞を語りました。それを今日、皆さんと分かち合いたく思います。
証詞を立てた方は二十代前半の日本人青年で、音楽・ジャズピアノを学ぶためにニューヨークに留学していました。私には音楽のこと、ジャズピアノのことはわかりませんが、ニューヨークにあるジュリアード音楽院が世界で最も権威ある学びの場であり、そこの学生となるのがどれほどたいへんか ― この世的な表現をすれば「どんなすごい」ことかは想像がつきます。意欲や努力だけでなく、その人の才能やセンス、情熱、また幼い頃にそれに気付いて育ててくれる恵まれた環境と、数多くのコンテスト入賞の実績やオーディションを勝ち抜く勢いとチャンスがなければ、その音楽院の学生にはなれないと聞いたことがあります。青年はその座を掴み、喜びに溢れて留学生活を始めました。大好きなことを思いきりでき、やればやるほど楽しくなり、どんどん世界が広がる思いの毎日だったでしょう。
ところが、思いもかけないことが起こりました。近所のスーパーマーケットに買い物に行く途中で、突然現れた二人組の男に銃をつきつけられ、金を出せと言われたのです。何もできずに呆然としていると、財布を取られ、ポケットの小銭を取られ、あっという間に犯人たちは走り去っていきました。財布には20ドル、3千円ほどの金額しか入っていませんでした。怪我もなく、命が助かって良かった、アメリカは銃社会だからそういうこともあるだろう…と皆さんは思われるでしょう。
しかし、ああ良かったでは、済まなかったのです。命を奪われそうになった恐怖、銃口にさらされた悪意に、青年の心は壊れてしまいました。自分ではいつも通りに生活しているつもりでしたが、青年は音楽院の練習室でピアノを破壊し、自分のことも傷つけて血だらけになっているところを友人たちに助けられて病院に運ばれ、そのまま精神科病棟に入院しました。
青年は証詞の中で、その病のさなかに「自分を虫けらのように感じた」と言っていました。「犯人にとって、襲う相手が誰でも良かったことに打ちのめされた」「あれほど簡単に自分がないがしろにされたことが受け入れられず、世界全体が信じられなくなった」青年は、そう言葉を探しながら経験した屈辱と耐え難さを語ろうとしましたが、表現しきれないものだと感じました。
青年が少し良くなった頃に、友人の一人が彼に付き添って一緒に街歩きをしてくれました。その時に、ビルの地下で、日本語で礼拝をささげるキリストの集会を見つけて何気なく入ってみたのだそうです。母国の言葉と、穏やかで明るい笑顔に迎えられたことで、青年はホッと心が休まるのを感じました。今日、この礼拝にいただいている御言葉「わたしがあなたがたを選んだ」 ― この御言葉を、青年は「わたしがあなたを選んだ」とイエス様に言われたように感じたそうです。「自分は虫けら」と思わされ、砕け散った自分の心の破片を、イエス様がひとつひとつ石ころや砂粒だらけの地面から選んで丁寧に拾ってくださり、大切に両手で抱いてひとつに戻そうとしてくださっている― そのように思ったそうです。
周りの誰もが、青年が留学生活を切り上げ、療養のために日本に帰ると考えていましたが、青年は帰国しませんでした。ニューヨークのこの日本人教会を心の居場所にして、当初の予定よりはずっと時間がかかりましたが、最初に希望した音楽の道を進み続けました。青年が進んだのは、舞台で脚光を浴びる演奏者の道ではなく、音楽療法・ミュージックセラピーと呼ばれる分野でした。その役割が、自分をも癒すと感じたのでしょう。
心の病は完全には直りませんでしたが、青年は病と共に生きる勇気を与えられました。その勇気を賜る主を、一緒に仰ぐ兄弟姉妹・教会の仲間に出会いました。青年は、こうしてイエス様に寄り添われて、教会と共に、群れの中で守られることに深い安心を感じたのです。
今日の旧約聖書の聖書箇所 詩編121編には、その冒頭に「都に上る歌」と記されています。ユダヤの人々は一年に一度、エルサレムの神殿で礼拝をささげます。当時、エルサレムに向かう旅は徒歩で砂漠を越えて、野宿をしなければならず、命の危険と隣り合わせでした。砂嵐、襲って来る狼や山犬といった獣、強盗、砂漠特有の激しい寒暖の差に耐えられないかもしれないからです。
この詩編を読むと、神殿の都エルサレムへ旅立つにあたって、二人の人の言葉が記されていることにすぐ気付かされるでしょう。一人は「わたしの助けはどこから来るのか。」(詩編121:1)と問いかける「旅立つ人」です。もう一人は、その「旅立つ人」を「見送る人」です。
「どうか、主があなたを助けて 足がよろめかないようにし まどろむことなく見守ってくださるように。」(詩編121:3)と祈って見送ります。
旅立つ人と見送る人の二人の他に、実は、もう一人います。旅立つ人は、その一人が共にいることを確信しているから、こう語ります。2節です。「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」見送る人も、もう一人が旅立つ人とも、心配する自分とも共にいることを信じて、こう断言します。5節です。「主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。」
もう、お気づきだと思います。その「もう一人」とは、私たちの救い主イエス様です。旅人が砂漠の灼熱の太陽に焙られている時、「覆う陰」となってその陽射しから守ってくださるのは、イエス様です。6節には、こう語られています。「昼、太陽はあなたを撃つことがなく 夜、月もあなたを撃つことがない。」なぜ、昼の太陽はこの旅人を撃たないのでしょう。なぜ、月も凍てつくような夜の砂漠の寒さがこの人を打ち倒さないのでしょう。それは、イエス様がこの人の代わりとなって陽射しに焙られ、イエス様がこの人の代わりに凍えてくださるからです。
私たち人間は、簡単に傷つき、その心は言ってみれば「簡単に」壊れてしまいます。また、いとも「簡単に」人を傷つけてしまう罪を犯す可能性・悪に対する脆弱さ・弱さを、私たち人間は持っています。そのあらゆる罪と弱さを、イエス様は私たちに代わってすべて引き受けてくださいました。それが、神さまの御子イエス様の十字架の出来事です。天の父・神さまは、十字架の出来事の三日後にイエス様をよみがえらせてくださいました。そのご復活こそ、父・御子・聖霊の三位一体の神さまが私たちといつも共においでくださり、見守り、助け続けてくださるしるしです。
今、私が申し上げた「いつも」とは、私たち人間が人生の生命体としての終わり・死を超える永遠「とこしえ」です。困難・苦難・病・課題と向き合う時、私たちは人生の山を越える「旅人」です。教会の兄弟姉妹は、その旅人の安全と無事を祈って「見送る人」です。私たちはそれぞれ、時に「旅人」、時に「見送る人」、そして、たいへんしばしば、その両方の立場で祈り合いつつ教会生活を送っています。そして、そこにはいつも、いつも、イエス様がおいでくださいます。神さまが見守ってくださっています。
主に見守られ、愛され、救われて進む教会は、あなたの、わたしの、信じる者・信じたいと願う者すべてがやすらぐ真実の居場所です。今日から始まる新しい一週間、その恵みに心を満たされて進み行きましょう。
2025年9月14日
説教題:心も思いも一つにし
聖 書:詩編23編1~6節、使徒言行録4章32~5章11節
「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」
(使徒言行録4:32)
今日の聖書箇所の冒頭が朗読されるのを聞いて、「あれ、聞いたことがある」と思われた方が少なくないと思います。そのとおりです。ペンテコステの出来事を記した聖書箇所の直後に、ほぼ同じ最初の教会・初代教会の生活の様子が記されています。使徒言行録2章44から45節です。お読みします。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」ここでは「皆一つになって」、そして今日の聖書箇所としていただいている使徒言行録4章32節では「心も思いも一つにし」と、「一つとなる」ことが語られています。「何かを自分だけのものとして持つ」という所有の概念を捨てて、「すべてを分かち合う」のが教会です。神さまに愛されて造られ、神さまが自分に与えてくださった人生を生き、イエス様に救われた恵みを知り、それを喜ぶ 「信仰」というただ一つのことで集められ、結ばれている教会の群れの姿がここにあります。
人は信仰を与えられ、神さまによって生かされていると分かると、命の源が神さまにあること、そして自分はその命を与えられて生きていることに気付かされます。命を所有しよう・生きようと考え決心して世に生まれ出る人間の赤ちゃんは、一人もいません。何の意識もなく、自覚なくこの世に生まれたこと ― それは、命が与えられたものであることを示しています。
赤ちゃんは誰もが、みんな何も持たずに生まれてきます。お財布を握りしめて生まれてくる赤ちゃん、王冠をかぶって生まれる赤ちゃん、宝石をちりばめたドレスをまとって生まれる赤ちゃんは誰一人いません。
ただ、生まれる前から神さまに見守られて、それぞれがそれぞれの人生を担わされていると言うことはできましょう。見守られていながら、お母さんのおなかの中から生まれることなく御許に呼び返される赤ちゃんがいます。人とは異なる身体的または精神的特質を担って、生まれて来る赤ちゃんもいます。聖書には「生まれつき目が見えない」人、「生まれつき口のきけない」人のことが記されています。
さらに、どのような家庭に生まれるかで、この世での歩みは変わってまいります。王の長男・世継ぎとして生まれる赤ちゃんもいれば、食うや食わずの家庭の末っ子として生まれる赤ちゃんもいます。「赤ちゃんは命の他には何も持たずに生まれて来るから人間は本来、平等だ」という考えが幻想にすぎないのは、この事実からもわかります。
実は、この世はそれほどまでに本来「不平等」なのです。だから、人は自分よりもたくさんものを持っている人を見ると「平等になろう」「自分も同じようになろう」とします。この「もの」はお金や物品に限りません。名誉や姿かたち、能力をもさします。この世でもてはやされ人気者になれる、または尊敬される「何か」(これをオーラと言ったり、カリスマ性と言ったりします)、いろいろなもので人間は互いを比べ合います。比べ合うことが、努力や頑張りになることもあれば、争いのもとになることもあります。また、これにより、わけへだてが生じます。
実際に、イエス様の時代にはユダヤ社会を支配していたローマ人と、従わざるを得ないユダヤ人、そしてそのユダヤ人の中にも権力を持った祭司や律法学者、長老や議員たちがいたり、お金はあっても軽蔑されている徴税人たちがいたりと、階級のようなものがありました。階級のようなもの、と言えば、今の社会に「格差」という言葉があるように、現代でもそれは変わりません。
領土や権力をより多く自分たちのものにするために、今もこの世界では複数の争いが続いています。その「平等」がないこの世で、教会が信仰による「平等」を実現しようとする姿が、今日の聖書箇所に記されています。イエス様に救われた命ただひとつによって、教会は結ばれて一つになります。
「一つになる」とは、一人の人のようになると考えて良いでしょう。私たちは、体のどこかにケガをすると、ささいなケガでも「痛い!」と感じます。美容院に行ってヘッドスパをしてもらうと、頭皮がすっきりして体も心も、全身が爽快になります。
教会は、一人の人のように痛みも喜びも分かち合います。兄弟姉妹の誰かが痛みを負えば、全体がその痛みの癒しのために祈ります。兄弟姉妹の喜びは、教会の喜びです。また、私たちはそれぞれの賜物とささげもので教会の営みを成り立たせて、今、こうして御国に向かって進んでいます。
その分かち合いの具体的な仕方が、今日の聖書箇所 使徒言行録4章の34節以下に記されています。土地や家を持っている者は、それを売って、その代金を使徒たち ― イエス様の弟子たち ― の足元に置き、それを教会の人々が同じように分かち合って、同じ生活ができるようにしたのです。
しかし、兄弟姉妹が平等に暮らすためのささげものでさえ、比べることに用いてしまう人間の罪があります。それが、今日の聖書箇所の5章1節から11節にかけて記されています。
アナニアとサフィラという夫婦が、ごまかしのささげものをしました。土地を売って、その代金の一部だけを教会に持って来て、残りは自分たちのものにしたのです。これは教会への献金の仕方として、何もとがめられるところはありません。ささげものは、多い少ないに関わらず、主に喜ばれます。ささげることができない時には、感謝の祈りだけでも、もちろん主は喜ばれると私は信じています。
しかし、アナニアとサフィラの夫婦は土地を売ったお金を全部ささげたと見栄をはって、「ごまかしのささげもの」をしました。3節から4節にかけて、それを指摘するペトロの言葉が記されています。その聖句をお読みします。「すると、ペトロは言った。『アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、(土地は)あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおり(代金の一部は教会にささげ、あとは自分の生活のために手元に残すというようなこと)になったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(使徒言行録5:3-4)
続いて、5節にはこう記されています。お読みします。「この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。」10節では、妻のサフィラも同じように息絶えたことが書かれています。
この箇所を読んで、私たちはつい、神さまが彼ら夫婦を罰したのだ、神さまを欺いた罪に罰がくだったのだと考えてしまいがちです。神さまが、彼らを裁いたのだと思ってしまいます。本当にそうでしょうか。
パウロは、「(罪の)行き着くところは死にほかならない。…罪が支払う報酬は死です。」(ローマの信徒への手紙6:21、22より)と語っています。
アナニアとサフィラの夫婦は、教会の人たちに立派な信仰だと思われたくて、見栄をはり、嘘をつきました。自分たちの信仰が他の人よりも優れていると、決して比べることのできない信仰を、兄弟姉妹と比べようとしてしまったのです。
信仰も命と同じで、神さまから与えられるものです。人間は自分で信仰を造り出すことも、信仰を自分のものにすることはできません。ところが、彼ら夫婦は、信仰を自分のものでどうにでも色をつけたり、着飾らせたりできると思ってしまったのです。
それによって、兄弟姉妹よりも優れた信仰を、神さまではなく兄弟姉妹に見せつけられると思いました。神さまではなく、人の目を意識した時、彼らの心にはすでに悪・サタン・罪への誘惑が入り込んでいました。先ほどお読みした聖句の中で、ペトロが言っているとおりです。
罪が私たち人間を連れて行くその行き着く先・行き先は「死」、滅びにほかなりません。神さまが罰を与えて二人の命を奪ったのではなく、「罪の報いは死」というきわめて自然な帰結が現れたにすぎません。
ご一緒に、心に留めておかなければならないことがあります。アナニアとサフィラは、自分たちでは、それほど悪いことをしている意識がありませんでした。見栄をはって話を盛ったり、意地を張ってできない我慢をしようとしたりするのは、悪事としては些細で「かわいい」部類にさえ入ると思われるかもしれません。しかし、それは神さまの御前で決してしてはならないことだったのです。神さまを欺くことなど決してできないのに、そのすべてを見通される方をないがしろにしたも同然だったのです。
私たちも罪の意識なしに、罪に、すなわちサタンに手を引かれてふらふらと滅びの道を進んでしまうことがあります。
イエス様は、そうして死に行き着くはずの私たちをサタンから取り返してくださり、代わりにご自分が死に突き進んでくださいました。それが十字架の出来事です。しかし、命の源であるイエス様は死で終わることはありませんでした。死に打ち勝ち、永遠の命を示してくださいました。ご復活のイエス様に導かれて、私たちはイエス様と共に命の道・真理の道を御国へと向かいます。サタンに連れられて行く先には、死しかありませんが、イエス様は私たちをその滅びへの道から連れ戻してくださいます。
生まれたばかりの教会で起こった夫婦の死は、罪とは何かを教会の人々に、またそれを今 こうして読む私たちにあらためて突き付けます。
この罪の結果・死から、イエス様こそが、ご自身を犠牲にして救い出してくださるのです。その尽きせぬ恵みを今日、新しく心にいただきましょう。今日から始まる一週間を聖霊に清められつつ、誘惑から守られて過ごしてまいりましょう。
2025年9月7日
説教題:大胆に御言葉を語る
聖 書:詩編2編1~12節、使徒言行録4章23~31節
『主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕(しもべ)たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕(しもべ)イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業(わざ)が行われるようにしてください。』祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。
(使徒言行録4:29~31)
今日の新約聖書 使徒言行録の聖書箇所は、「さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き」と始まっています。「二人」とは、イエス様の一番弟子ペトロとヨハネのことです。二人は、イエス様の十字架の出来事とご復活にあふれる神さまの愛と正義を人々に堂々と語り伝え、感動を呼んだために、逮捕されてしまいました。
罪もないのに一晩を牢屋で過ごし、釈放された二人が真っ先に向かったのは仲間たちのところ、すなわち教会の兄弟姉妹のところでした。イエス様のご復活後、聖霊が降ったペンテコステの出来事から、イエス様を信じる者たちは生活を共にして一緒に暮らしていました。信じる者たちの集まるところ・教会が、まさに神さまの家族となっていました。だからこそ、繰り返しますが、釈放されたペトロとヨハネは家・教会の兄弟姉妹のところに帰ったのです。
ペトロたちが逮捕され、牢に留め置かれた間、できたばかりの教会は心を合わせてペトロとヨハネの無事を祈っていたでしょう。二人が帰って来ると、教会の仲間たちは大いに喜んで迎え、ペトロから「祭司長たちや長老たちの言ったこと」を知らされました。
祭司長たちや長老たちといった当時のユダヤ社会の指導者層は、現代社会で言えば有識者・権力者、そして支配者にあたります。彼らは、ペトロとヨハネにイエス様の十字架の出来事とご復活の恵みを語ってはならないと命令しました。福音を伝えてはならない、世に真の愛と正義を告げ知らせてはならないと、伝道を禁じたのです。
それに対し、ペトロは「あなたがたではなく、神さまに従う」と決然と告げました。神さまを主とするユダヤ社会で、神さまに従うことは当然のことで、民衆はペトロの言葉を正しいと受けとめます。だから、祭司長たちや長老たちはペトロたちを釈放せざるを得ませんでした。
私たちキリストの教会の使命は、伝道です。イエス様の十字架の出来事とご復活にあらわされた神さまの愛と正義を、世に伝えて、教会は前進します。
その伝道がこの世の支配者たち ― 祭司長たちや長老たちに禁じられたと知った教会の人たちは、実に大切なことを行ないました。24節に記されています。お読みします。「心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。『主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。』」
教会の人たちが第一にしたこと、それは祈りだ!と思いがちですが、そうではありませんでした。神さまに向かって、それぞれが別々の心と思いをもって、祈りをささげたのではなかったのです。この時、ペトロとヨハネを私たちのところに無事に戻してくださったことへの感謝の祈りをささげた人がいても、不思議ではありません。また、神さまに伝道が禁じられてしまったことを嘆く人がいたとしても、それはいたって自然なことです。しかし、教会が行なったのは心を一つにし、神さまに向かって同じ声をあげ、主よ、あなたは天地のすべてを創られた方ですと言うことだったのです。
これは、たいへんたいせつなことです。これは私たちの礼拝の中に、今も引き継がれています。この礼拝の中で、私たちはすでにこれと同じことを行ないました。
なんだか、おわかりでしょうか…そうです、信仰告白です。特に、使徒信条で、私たちは私たちの主・神さまがどのような方かをこのように、声をそろえて、神さまに向かって言い表します。「我らはかく信じ、代々の聖徒と共に使徒信条を告白す。我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」私たちは、こうして神さまの御前で心を一つとされ、一人の人のようになるのです。
今日の聖書箇所は、続けて聖書の言葉をささげました。ペトロとヨハネ、そして教会に起こった、この世の支配者に伝道を禁じられるという試練・困難・苦難を、神さまに聖書の御言葉を通して訴えたのです。それが、今日の旧約聖書の御言葉としていただいている詩編2編の聖句です。神さまを信じない者たちはむなしいことを企て、地上の王たち・指導者たちは団結して主とそのメシア ― 救い主です ― に逆らう、と御言葉は語ります。それを、教会の人たちは聖書の御言葉から読み取りました。
聖書に聴く・御言葉をいただく ― これが、今、私たちが聖書朗読に続く説教に共に与ってしているこのことです。
この世の王、この世の支配者、この世の政治を司り、社会を導く人たちが神さまに背くことは、残念ながら、実にしばしば起こってしまいます。アメリカの大統領は今のトランプ氏に至るまで、歴代すべての大統領が左手を聖書に置き、右手を上げて「神さまの助けによって So help me God」と誓いを立てます。しかし、その国の大統領はこれまで、平和へと私たちを導いてくださる神さまに背いて、何度も戦争をしています。他の国々も、同様なのではないでしょうか。国を導いてくれるはずの政治家が、国民のためではなく、自分の利益や名誉のために政治の舵を切っている現状は昔も今も、少しも変わらないのです。
すでに聖書を知っている人であっても、置かれた状況によっては神さまの御言葉に従わず、人間的な判断をしてしまいます。ですから、教会は繰り返し、繰り返し、イエス様の十字架の出来事とご復活の福音を伝えて、伝道を、宣教を続けます。
人間が社会を導き、政治を司る時、社会の人々はその政治家に身を任せることになります。その国の政治家が戦争を始めてしまったら、国民は兵士となって徴用され、命さえもその政治家の判断にゆだねることになります。80年前に終戦を迎えた太平洋戦争でも、日本で、多くの若者が国のために命を散らしていきました。
私たちを真実に正しく導いてくださるのは、神さまです。そして、神さまがなさることは、人間の政治家・人間の指導者の真逆です。神さまは、まず、決して判断を誤りません。さらに、ご自分のために私たちの命を求めるようなことは、決して、決してなさいません。むしろ、私たち人間のため・民のためにご自身をささげてくださいました。
私たちの主イエス様は、私たちのために、十字架で命を捨ててくださったのです。神さまは、私たちを罪の報いである死と滅びから救うために、我が子イエス様を犠牲にし、最強の悪である「死」に御子を渡されました。しかし、人間であると同時に神さまでもあられるイエス様は死に打ち勝ち、ご復活によって私たちが救われたことをはっきり示してくださったのです。
イエス様の十字架の出来事とご復活は、神さまの私たちへの尽きせぬ愛のしるしです。私たち人間を、ご自身を犠牲となさるまでに深く愛してくださる主のしるしを、教会は語り続けなければなりません。そこまで深く愛された事実から、私たちは互いを大切にし、いたわり合い、思いやって生きる豊かな人生を頂くのです。
だから、今日の29節で教会の人たちはこう祈りました。29節をお読みします。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕(しもべ)たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」それから、教会は兄弟姉妹同士、神さまの家族としてお互いのために祈ります。今、私たち薬円台教会も、同じ祈りをささげています。30節です。お読みします。「どうか、御手を伸ばし聖なる僕(しもべ)イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業(わざ)が行われるようにしてください。」「しるしと不思議な業」というのは、人の力や知識を超えるところに神さまの御手が働きますようにとの祈りです。
そして、今日の聖書箇所の最後の聖句はこう語ります。31節です。お読みします。「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。」
教会はこの世の支配者の脅しを恐れず、たじろぐこともひるむこともなく、伝道を続けました。苦難の時も、やすらかな時も、私たち教会は一つとなって礼拝をささげます。信仰告白を行い、御言葉に聴き、祈り、そしてここから世に遣わされて主の愛と正義を伝えます。
いにしえの教会のわざを、この新しい主の日も、私たち教会に生きる者はたどって主に従う恵みをいただいています。愛されている喜びを今、心に受けて、今日から始まる新しい一週間を力強く進もうではありませんか。
※8月31日は、船橋市内日本基督教団三教会交換講壇のため、この日は船橋教会 米田芳生牧師が説教ご奉仕をされました。原田は新津田沼教会で説教ご奉仕をしました。そのため、この日の説教は教会HPには掲載いたしません。
2025年8月24日
説教題:ただひたすらに主に従う
聖 書:詩編118編17~25節、使徒言行録4章1~22節
そして、二人(ペトロとヨハネ)を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」
(使徒言行録4:18~20)
使徒言行録を読み進んで、第4章に入りました。前回と前々回の礼拝で、私たちはたいへん喜ばしい出来事を知らされました。ペトロがイエス様の御名によって足の不自由な人の足を癒し、その人は生まれて初めて自らの足で歩き、踊り、神殿で礼拝をささげる恵みに与ったのです。
ところが、その嬉しい出来事のために、ペトロとヨハネが逮捕される事態となってしまったことが、今日の聖書箇所には語られています。神殿の庭で、ペトロとヨハネはイエス様の十字架の出来事とご復活を人々に語り続け、福音宣教をしていました。すると、ユダヤ社会の有力者・指導者である祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が二人に近づいてきました。神殿守衛長は、神殿を警備する警察官のトップと考えてよいでしょう。
また、ここでサドカイ派の人々が登場していることに着目したいと思います。サドカイ派の人々は、復活などあるはずがないと考えていました。彼らは神さまをあがめていますが、どちらかというと人間の理性で把握できる事柄だけを重んじ、ユダヤ社会の上層部・エリート層から支持されている一派でした。
そのサドカイ派は、今日の2節にあるように、「二人(ペトロとヨハネ)が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので」いらだったのです。迷信じみたことで人々を惑わすな、とばかりに、彼らはペトロとヨハネを逮捕して牢に入れてしまいました。
ただ、4節にはこう記されています。お読みします。「しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。」(使徒言行録4:4)言葉が持つ力の強さを思わされる事実が、ここに示されています。ペトロとヨハネが投獄されて福音を語れない間も、語られた言葉は人から人へと伝えられ、何と男性だけで五千人もの人々が福音を信じて受け容れ、救われました。
これに続く聖句は、ユダヤ社会の中心的な人々、いわゆる指導者たちがペトロとヨハネをどのように無礼に扱ったかを語っています。聖句を追って御言葉を説き明かす前にお伝えしますが、ここに書かれているのは、実に情けなく、ふがいない社会的指導者たちの姿です。偉そうにしていても、祭司長や律法学者たちには一貫性がなく、彼らが意気地のない小心者だということがはっきりわかります。そんないいかげんな者たちが、社会の指導者であることに、読みながら怒りを感じるほどです。怒りと共に、この自分もその罪深い人間であることにあらためて気付かされます。
さて、5節です。ペトロとヨハネを尋問するために、議員、長老、律法学者たち、そして大祭司一族がエルサレムに集まりました。気が付かれた方が多いと思いますが、集まったのは、最後の晩餐の夜にイエス様をゲツセマネの園で逮捕して、裁判にかけた者たちです。
あの時、ペトロはイエス様の近くに行くことすらできず、偉そうにしている権力者たちの様子があまりに恐ろしいので、イエス様など知らないと三度も言ってしまいました。その恐ろしい人たちが今、ペトロとヨハネを取り囲んで責め立てようとしているのです。神殿の庭で、二人の周りで騒ぎが起きたからでした。
騒ぎと言っても、もちろん、暴動ではありません。喜ばしい、人々が笑顔になる出来事でした。足の不自由な人がペトロに手を取ってもらって立ち上がり、歩き、踊れるようになったのを、周りの人が見て驚き、ペトロを賞賛しました。
賞賛されたペトロは、大いに慌てました。この人はイエス様の御名によって癒されたのであって、ペトロはイエス様に用いられただけです。ペトロはそれを、人々に一生懸命に説明し、それがイエス様の救いの福音の説教になりました。
このことがユダヤ社会の有力者たちをいらだたせたのは、人々が歓声をあげたり笑ったりして、ふだんと違うことが起きたからでしょう。それが暴動であるかのように見えて、神殿の庭にいるローマ帝国に内通している者たちがローマ帝国への反乱が起きていると本国に報告して自分たちの立場が悪くなるのが恐ろしかったからです。神さまを礼拝する神殿の庭で、冒涜的なことが起きたからペトロたちを逮捕したのではありませんでした。自分たちの保身のため、また自分たちの面目を保つために、彼らはペトロたちを捕らえて尋問したのです。
彼らは、こうペトロに尋ねました。「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか。」(使徒言行録4:7)使徒言行録4章8節は、この時のペトロについてこう記しています。「そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。」
イエス様が逮捕された夜、ペトロはイエス様が議員たちに囲まれているのを見て、怖くなってイエス様を知らないと言ってしまいました。今、状況としてはあの時のイエス様と同じ立場に、ペトロは立たされています。しかし、ペトロはもう、あの時のペトロではありません。復活されたイエス様に会い、ゆるされ、今は聖霊に満たされて別人のように強められています。ペトロは怖がらず、大胆に、まず尋問であいまいに問われた「ああいうこと」は何なのかを自分で明確に言葉にしました。
議員たちは自分たちにとって不愉快だから「ああいうこと」としか言いませんでしたが、ペトロにとっては「イエス様の御名が人を癒した」恵みの出来事です。それを、ペトロは語らずにはいられませんでした。
ここは、私などが説き明かしをするよりも明確に、御言葉そのものが語っています。8節後半からお読みしますので、ご一緒に御言葉に聴きましょう。「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」
ここで、深く心に留めておきたいことがあります。それは、不自由だった足をイエス様の御名によって癒された人が、ペトロとヨハネと一緒にこの場にいることです。この人がその場にいたことは、少し先の方、14節にこう記されています。「足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。」
議員たちに囲まれて取り調べを受けるのは、たいそう恐ろしいことです。繰り返しますが、そうされているイエス様を見て、ペトロは怯え、イエス様の弟子だと言えなくなってしまったのです。それを思うと、この不自由な足をいやしていただいた人が、尋問されるペトロたちから離れなかったのは驚きです。権力者たちとの面倒なことはご免だと、ペトロとヨハネを見捨てて、良くなった足で、それこそ、すたこらその場から逃げてしまったとしても、何の不思議もありません。ところが、この人はペトロとヨハネのそばを離れようとしませんでした。この世のどんな厄介に巻き込まれても、ここから離れずにいるのが、心が安らかでいられるとの確信があったからです。
ここに、イエス様にいやされ、救われ、強められた者の姿があります。もう一歩進んで言えば、このペトロとヨハネと癒された人の姿に、ここに、私たち教会の姿があります。私たちは一人では、教会になりません。イエス様は、こうおっしゃいました。マタイによる福音書18章20節です。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
ペトロも、ヨハネも、いやされた人も、その場から逃げ出すより、三人一緒に取り調べられているその場にいることの方がはるかに心が平安に守られると分かっていました。
ペトロとヨハネ、いやされた人の三人は、イエス様の御名によって集まっていました。そこには、イエス様が、ともにおいでくださいます。そこは、真実の安らぎに満たされた安全地帯です。
教会は、実にさまざまな事情や背景をお持ちの方々が、イエス様の十字架の出来事とご復活によって救われたというただひとつのことだけで、こうして集まって御言葉から共に力をいただくところです。イエス様に招かれて集まった私たちの中心にイエス様がおられ、先頭に立って導き、背後も支えてくださいます。その教会には、聖霊に満たされて福音を語る者がいて、語らずともそこにいることで救いの恵みを証しする者がいます。
キリストの教会は、このように強められて、今まで二千年近く前進しています。私たち薬円台教会も、半世紀を越えるその営みを行なって、このように歩み続けているのです。
さて、今日の聖書箇所が語るこの時、ペトロの心にはあのイエス様が逮捕された夜の出来事が浮かんでいたことでしょう。あの時、イエス様は本当にたったお一人で、誰からも見捨てられ、イエス様を殺そうとする者たちに囲まれていました。ペトロも、イエス様を見捨てたのです。
その時とよく似た状況で議員たちに取り囲まれて、ペトロは、そのイエス様のお姿が旧約聖書に預言されていたことを、人々に告げずにはいられませんでした。それが、今日の聖書箇所の11節、ペトロの言葉です。お読みします。「この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。」
議員たちは、ペトロに取り調べの意味を明らかにされ、また自分たちも神殿の門で物乞いをしていたと知っている人が証人としてそこにいるので、ペトロたちに何の落ち度もなく、自分たちにとがめられる筋合いはないと認めざるを得ませんでした。そこで、ペトロたちに帰ってもよいと言い渡しました。
実に情けないのは、議員たちのその後の行動です。彼らは不安になって相談し、口止めしようと決めました。また同じことが起こるのではないかと、心配になったからです。自分たちが支配してきた神殿の雰囲気が変わり、またローマ帝国に目をつけられるから、口止めをしようとしました。
今、私はたいへんおかしなことを言いましたが、お気付きでしょうか。「自分たちが支配してきた神殿」 ― そう言いました。この言葉がたいへんおかしいと言うのは、礼拝する空間を支配なさるのは父・子・聖霊の三位一体の神さまだからです。議員たちでは、ありません。私たち人間が、礼拝の場を支配するなど、あり得ません。しかし、彼らは、そう考えていたのです。
教会も、同じです。神さまでないものが、教会を治め、守り、支え、導くはずがありません。私たちを治め、守り、支え、導いてくださるのは主です。そして、私たちは、ただお一人の神さま、御言葉と聖霊に示される神さまに従います。
だから、ペトロとヨハネは議員たちが「今後あの名によってだれにも話すな」と命令した時に、こう言いました。19節です。お読みします。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。」
ペトロの言葉は、当然です。イエス様に救われて、イエス様に従う者が、イエス様ではない者の命令など聞くはずがありません。
ただ、私たちは平和を思うこの八月に、特に考えずにはいられません。人間が人間を支配する歴史が続いている、と。今日の聖書箇所の最後のところでも、ペトロの言葉を聞いた議員たちは、ペトロとヨハネをさらに脅してから釈放しました。脅して、人間の力でペトロとヨハネを、また主の教会を支配できると思っていたのです。
それは、大きな誤りです。が、この聖書箇所から、教会がこれから直面する迫害という試練が、容易に想像できます。キリストの教会は、その厳しい迫害の歴史をも乗り越えて、世界の様々な場所に今日の主の日に集い、ひとつとされています。イエス様が共においでくださり、十字架でご自分が救った者たちを守り、支えてくださったからです。その恵みをひたすらに堅く信じ、ひたすら主に従って、今日から始まる新しい一週間を力強く進み行きましょう。
2025年8月17日
説教題:新しい約束を頂いて
聖 書:創世記12章1~3節、使徒言行録3章11~26節
「あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と神はアブラハムに言われました。それで、神は御自分の僕(しもべ)を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」
(使徒言行録3:25~26)
前回の礼拝で、私たちはペトロが神殿の門で物乞いをしていた足の不自由な人を、イエス様の御名によっていやした出来事を聴きました。イエス様がかつて癒しの時になさったように、ペトロがこの人の手を取ると、この人はしっかりと立ち上がりました。立ち上がったばかりでなく、癒された恵みへの感謝を賛美と踊りで現しながら、ペトロとヨハネの後について神殿の境内に入りました。今日の聖書箇所の冒頭の聖句が語るように、この人は踊ったり歌ったり、讃美の声を上げたりしながら、ペトロとヨハネから離れようとしませんでした。
いやされて、自由に歩け、踊れるようになった喜びではしゃぎまわる人が神殿の門で物乞いをしていたあの人だと気付いて、たくさんの人が「一斉に集まって来」(使徒言行録3:11)ました。中にはペトロがこの人の手を取って立たせたのを見ていて、ペトロがいやしの奇跡をおこなった、すごいと言う人も大勢いたでしょう。
ペトロは、これは良くないと思いました。この人はイエス様の御名によっていやされたのであって、ペトロがいやしたわけではないからです。そこで、彼は「イスラエルの人たち」と人々に呼びかけ、みわざをなさったイエス様を彼の言葉を通して指し示しました。ペトロはこの時、イエス様の十字架の出来事とご復活を言葉で伝える説教をしたのです。
イエス様がなぜ十字架に架からなければならなかったのかを語る中で、ペトロはユダヤの人々がイエス様に何をしてしまったかをはっきりと告げました。また、神さまが十字架で死なれたイエス様をよみがえらせ、命の導き手であることが示されたと語りました。その証しが今日の聖書箇所の15節にこう語られています。お読みします。「あなたがたは、命の導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。」
この言葉は、ユダヤの人々の罪を、またイエス様が捕らえられた時にイエス様を知らないと見捨てたペトロ自身の罪を告げています。しかし、私たち人間が悪い・罪深いと批判するだけではなく、ペトロはその闇からの救いの道がひらけていることを語りました。それが、17節から19節にかけての言葉です。お読みします。「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たち(律法学者や祭司たち、ファリサイ派の人たちのことです)と同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」ペトロは、こう語ったのです。あなたがたも、自分も、神さまがご自分の宝の民 ― イスラエルの民・ユダヤ民族 ― に約束してくださった救い主メシアがイエス様だと分からなかったから、無知で知らなかったから、イエス様を十字架に架けてしまった…けれど、今、それがわかり、心にイエス様が救い主だと受け容れれば赦されるのだ、と。
ユダヤの預言の書、私たちにとっての旧約聖書のイザヤ書やエレミヤ書は、救い主メシアがおいでになると希望を語っています。それがイエス様によって実現したと、ペトロは人々に告げて救いの成就を知らせました。預言者によって語られてきた神さまの約束は、今やイエス様によって果たされたと大きな喜びを伝えたのです。
旧約聖書の時代に、神さまは大きく三つの約束を人間に与えてくださいました。最初の約束が、ノアの箱舟の出来事の後の虹の約束です。この時は、まだユダヤ民族という民族のくくりすら存在していませんでした。人間の世に悪がはびこっているので、神さまは、人間を創ったのは良くなかったと思われ、正しい人・ノアの一族の他は大洪水で滅ぼしてしまわれました。ただ、それでも神さまは、ご自分が造られた人間を愛おしいと思ってくださいました。もうこの大洪水の後は、このように人間を滅ぼすことはないと約束してくださり、そのしるしに空に虹をかけてくださいました。
二つ目の約束は、アブラハム契約と呼ばれます。今日の礼拝では、旧約聖書にアブラムが登場する創世記12章1節から3節の御言葉をいただいています。この時も、まだユダヤ民族という民族的なくくりはありませんでした。ノアの子孫は、今のトルコ、イラン、イラクあたりで暮らすようになりました。アブラハムはノアの長男セムの子孫で、初めはアブラムという名前でした。後に、神さまからアブラハムという名を与えられたのです。
今日の旧約聖書の聖書箇所で、神さまはアブラムに「わたしが示すところに行きなさい」とおっしゃいました。どこそこへ行きなさいではなく、ただ、わたしに従って、わたしの言うところへと旅をしなさいと命じました。そして、「わたしはあなたを大いなる国民に」(創世記12:2)する、「地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る」(創世記12:3)と約束してくださいました。
神さまはノアを信頼して洪水から逃れるための箱舟づくりを示されました。同じように、神さまはアブラムを信頼し、ご自分に従うようにと言われました。また、アブラムを通して、すべての地上の人間に祝福を与えると、ほとんど無限大と言ってよい恵みを約束してくださったのです。心に留めておきたいのは、この約束には「アブラムが神さまの命令に従ったら」という条件が付いていないことです。神さまは人間を深く信頼し、造った人間たちはどんなに出来が悪くてもやっぱり可愛くてたまらない、祝福すると約束されました。
神さまがアブラムとその妻サライ(後のサラ)を連れて行ったのは豊かなカナンの土地でした。現在のイスラエルです。残念なことに今、ガザの紛争が続いている土地です。そのカナンの地でアブラハム夫妻が子々孫々繫栄することを神さまは約束してくださいました。これが、アブラハム契約です。ここで、神さまはただひとつだけ、条件を出されました。男の子が生まれたら、その子の体に割礼を施して、神さまと契約を結んだしるしとするという条件です。
繰り返しますが、神さまは人間をたいへん深く愛してくださいました。創世記を読むと、アブラハムも、決して罪を犯さない完全に正しい人ではなかったことがわかります。それでも、神さまはアブラハムを通して祝福の契約・恵みの約束を人間に与えてくださいました。
ところが、アブラハムの子孫、特に孫たちはその神さまの信頼を大きく損なうようなことをしました。アブラハムの息子がイサク、イサクが妻リベカとの間に授かったのがエサウとヤコブの双子の兄弟です。
二人はもちろん、割礼を受けて神さまの恵みの民とされました。しかし、兄弟同士で争うことになりました。神さまの恵みの民が、神さまの祝福を競い合い、エサウは祝福を軽んじ、ヤコブはエサウをだましてそれを手に入れました。神さまは私たち人間を、出来が悪くても可愛いと愛してくださいましたが、神さまを侮辱する悪・信頼すべき相手を裏切る暗い罪がはびこり始めたのです。イスラエル民族は、悪賢いとさえ言えるヤコブの子孫です。
時代が下り、出エジプト記の時代に、預言者モーセを通して十戒を基盤とする律法を守るならば、祝福を与えるという厳しい条件付きの約束・モーセ契約が神さまと神さまの宝の民・イスラエル民族の間に与えられました。
今日、私たちが御言葉に聴いているペトロの説教は、聞くユダヤの人々の心に虹の契約、アブラハム契約、そしてモーセ契約にいたる神さまの恵みの約束を思い起こさせました。どの契約も、神さまが人間を決して見捨てず、人間を大切にしてくださり、守りと支えを賜るとの神さまの愛に満ちています。ただ、人間が悪に悪を、罪に罪を重ねてゆくので、だんだん条件が厳しくなってしまいました。イエス様が世に遣わされた時代には、律法学者と祭司たちが律法によって人々を支配し、裁き、格差を作ってそれを広げ、規則ずくめで窒息しそうな社会になっていました。
イエス様は、人間が重ねる悪と罪のすべてをご自分の身に担って、それをご自分の地上の命もろとも十字架で滅ぼしてくださいました。そのみわざによって、私たち人間は神さまとの本来の関わり ― 神さまが、出来が悪くても、何もできなくても、ただひたすらに神さまを慕うひとすじの信仰に無邪気に生きる関わり ― を再び与えられました。それが、イエス様の十字架の出来事でゆるされ、ご復活で永遠の命を与えられる恵みの新しい約束、新しい契約です。
旧約聖書の預言を知らなくても、今日、初めて教会に来られた方が今もし、この礼拝にいらしたとしても、ペトロの説教の最後の聖句の恵みを豊かに心に留めれば、私たちの天の父・御子イエス様・聖霊の三位一体の神さまは、私たち皆を一人も漏れることなく豊かに祝福してくださいます。今日の最後の聖句をもう一度お読みして、今日の説教の結びといたします。
「…神は御自分の僕(しもべ・御子イエス様のことです)を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」(使徒言行録3:26)
ここに語られているように、神さまはイエス様を通して、私たちをあらゆる悪から引き離してくださいます。災難からも、悲しみからも、病からも、苦しい人間関係からも、私たちが自分で自分を苦しめる自己嫌悪からも救い出してくださいます。
神さまはイエス様を通して、私たちにあなたがたは、またあなたがたはそれぞれ、私が造ったありのままで愛おしいとおっしゃってくださいます。私たちがどんな失敗をしても、神さまはイエス様の十字架ゆえに、私たちを決して見捨てずに共においでくださいます。その大きく深い愛を信じて、この新しい週も心にイエス様を宿し、力強く歩んでまいりましょう。
2025年8月10日
説教題:救い主の御名によって
聖 書:詩編115編1節、使徒言行録3章1~10節
ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
(使徒言行録3:6~8)
前回の礼拝で与えられた御言葉を通して、私たちは生まれたばかりのキリストの教会・イエス様を信じる者たちが心を一つにして分かち合う共同生活を始めたと知らされました。その時、まだ伝道をしていなかったことも、御言葉を通して、気付かされたことも覚えておいでと思います。
今日の聖書箇所 使徒言行録3章1節から10節の冒頭を読むと、「キリスト教を伝道する」という意識が、まだ弟子たち・使徒たちの中に明確には育っていなかったことがわかります。3章1節に、こう記されています。お読みします。「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。」弟子たち・使徒たちは、これまでと同じように、ユダヤ教の信徒として神殿での礼拝に出席していたのです。
イエス様に命じられた罪の救いの福音、「主の死を告げ知らせる」という後に私たちキリストの教会の中心となる事柄を表す聖餐式は、この時は使徒たちの家で、個人的な儀式として行われていました。前回の聖書箇所 使徒言行録2章46節に記されているとおりです。
あえて言えば、使徒たちはユダヤ教の正典である旧約聖書に預言されたメシアがイエス様だと明確に信じていましたが、自分たちはユダヤ教の信者だという認識だったのです。
その歴史的背景を踏まえたうえで、今日の聖書箇所を読んでまいりましょう。今日の聖書箇所で、ペトロは最初の伝道につながるわざを行いました。それが、神殿の門のところにいた生まれつき足の不自由な人のいやしを、救い主イエス・キリストの名によって行ったわざです。
御言葉は、こう語ります。ペトロとヨハネが神殿の午後三時からの祈りに加わろうと神殿の門にさしかかった時、ちょうどそこに生まれつき足の不自由な男性が運ばれてきました。当時は社会福祉の仕組みがなく、心身に障害があって働くことが難しい人々は親族に養われるか、物乞いをするしかありませんでした。礼拝の時間には多くの人が門を通るので、その時刻に合わせてこの男性をここに連れて来てくれる親族か、友人がいたのでしょう。
旧約聖書の律法は「施し」を神さまに喜ばれる大切な行いと定めています。礼拝に行く時には、特に身を清め、神さまに喜ばれることをしたいと人々は思い、ちょうど神殿の門のところにいる足の不自由なこの人に、多くの人が施しをしていたに違いありません。
ところで、今日の聖書箇所には注目したい言葉・キーワードがあります。それは1節から10節までに五回用いられている「見る」という言葉です。実は、聖書の元の言葉では、この「見る」にはそれぞれ違う単語が用いられていて、そこに今日の「伝道の始まり」・ 「伝道の第一歩」として、ぜひ心に留めておきたい重要な導きが潜んでいます。
最初の「見る」という言葉ですが、これは第3節に用いられています。お読みします。「彼(足の不自由な人)はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。」最初にペトロとヨハネを「見た」のは、足の不自由な人でした。この「見る」は「ただ見る」という意味で、英語で言えばseeに相当する単語が用いられています。足の不自由な人は「あ、神殿に入って行く二人連れの青年だ」、と気付いて二人に「施しをお願いします」と声をかけました。
次の「見る」という言葉は二つ続けて、4節にあります。お読みします。「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『わたしたちを見なさい』と言った。」最初の「じっと見て」という言葉は、言い換えるとすれば「心を込めて」「相手の魂に向けてまなざしを送る」という強い言葉です。今日、用いられている「見る」というギリシャ語の単語の中で、最も「強く見る」ことを意味します。そのようにペトロとヨハネは、自分たちを見て声をかけて来た人をじっと見つめました。
それから、「わたしたちを見なさい」と言いました。この「見なさい」に使われている単語は、英語の聖書ではlookです。
最初のseeが視界に入ってくるものを漠然と見ているのに対し、lookは自分が見たいものに焦点を合わせて集中して見ることをさします。ここで、足の不自由な人と、ペトロ・ヨハネの二人のイエス様の弟子は互いに向かい合いました。群衆の中の誰かとしてすれ違う立場から、向かい合う者になったのです。
足の不自由な人が、さらにペトロとヨハネを見つめたことが5節にこう記されています。お読みします。「その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると」。英語の聖書では、足の不自由な人がペトロとヨハネに「深い関心を寄せ」paid attention たと訳されています。この人は、この青年二人は、こんなにじっと自分を見てくれるのだから、特別に良い施しがもらえると期待したのです。金貨か、銀貨、もしかすると美味しい食べ物かもしれないと、想像を巡らせながら、目を輝かせて二人を見つめました。
ここまでの流れは、実は私たち教会の福音伝道の目標とする姿を示しています。教会は地域の福音宣教の拠点として、ここに立ち、地域の人々に見られています。
特に、何か欲しい、今の自分の人生には足りないものがあるから、それを何かで満たしてほしいと求めている人に見られています。神殿の門を通ったペトロとヨハネが、施しが欲しいと願っている足の不自由な人に見られたように、教会は地域で見られているのです。
求めている人 ― 教会では、その方々が初めて教会においでになった時から「求道者」と呼びます ― が、ペトロとヨハネが声をかけられたように、「私はどう生きればよいのかわからなくて、何かを求めているのです」と教会にいらしたら、「心を込めて」「相手の魂に向けてまなざしを送る」ように、教会はその方に心をそそぎたい、そう心から思います。
ただ、足の不自由な人がペトロとヨハネに金貨や銀貨、食べ物を期待したように、教会に初めて来られた方は、福音とは別のものを求めておられます。
どういったものを求めておられるのでしょう。
不安の中におられる方だったら「心が静まる時と空間」や「話を聞いてくれる誰か」を求めているでしょう。孤独に苦しむ方は、「人とのつながり」が欲しいかもしれません。知識を増やしたい方は「キリスト教について知りたい」「聖書の世界を知りたい」「仏教や神道との違いを知りたい」といった望みをお持ちかと思います。音楽の好きな方が「教会音楽に浸りたい」と思って教会においでになることもあるでしょう。
一番多いのは「自分の人生に、何か良いプラスになるものが欲しい」「正しく生きる指針が欲しい」「心が洗われるような、深い感動に心が震える話を聞きたい」という願い・求めを抱いて来られる方々だと思います。
前回もお伝えしましたが、私たちが「プラス」だと思う事柄、「正しく生きる指針」と信じる事柄、そしてここに呼び集められて礼拝を今、ささげている私たちが皆、「深い感動に心が震える」と思う事柄は、ただひとつ、イエス様の十字架の出来事とご復活なのです。この自分を救うために、なんと神さまの御子イエス様が、自分に代わって十字架であの苦しみを受けられたという、その十字架の出来事。そして、そこまで自分を愛し抜いてくださる主と、死をさえ超えて一緒にいられるという、永遠の命の約束の復活。教会が伝えること、私たちキリスト者が世に語ることは、ただひたすらに、この救いの福音です。
救いの福音は今、私たちの心を満たし、これから私たちを神の国の恵みへと導いてくれます。この導きに従って、求める者にはすべてが与えられます。マタイによる福音書6章33節 山上の説教でイエス様がこうおっしゃったとおりです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
救いの福音を真実に心に受けとめて信じ、イエス様に愛され、救われて今、こうして生きていると魂で知る時、私たちはすべてを与えられ、豊かに満たされます。「心が静まる時と空間」も、「話を聞いてくれる誰か」も、「人とのつながり」も、「キリスト教について知りたい」「聖書の世界を知りたい」「教会音楽に触れたい」「仏教や神道との違いを知りたい」という願いも、もちろん、「自分の人生に、何か良いプラスになるものが欲しい」「正しく生きる指針が欲しい」「心が洗われるような、深い感動に心が震える話を聞きたい」という求める思いも、全部かなえられます。聖霊が働き、イエス様の御名によって、求める方の心の扉が開かれて福音を感謝して受け容れる時、すべてが加えて与えられます。
さて、聖書に戻りましょう。使徒言行録3章6節です。足の不自由な人に、金貨や銀貨などを期待され、きらきらした目でみつめられたペトロは、こう言いました。「わたしには金や銀はない」と、現実的に答えたのです。ただ、ペトロはこう続けました。「が、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
キリストとは「救い主」を意味します。ペトロは、ここでイエス様のお名前を告げることを通して、「ナザレの人イエスは、わたしたちの、あなたの救い主。この方の力によって立ち上がり、歩きなさい」と、足の不自由な人に言ったのです。
神さまの名 ― 御名は、それ自体がすさまじい御力を持っています。自分たちが造った武器・核兵器が暴走してしまったら制御できない人間に、神さまの御力をどうこうすることなどできません。だから、私たちはそのお名前をみだりに口にしてはならないと、旧約聖書の十戒に、その第三の戒めとして厳しく告げられているのです。その御力は、イエス様の十字架の出来事とご復活により、聖霊を通して私たちの間に働くようになりました。
神さまは、たった一人の御子イエス様を私たちの代わりに十字架に架け、犠牲にされるほどに私たちを大切に思ってくださいます。ペトロはその主の愛が、イエス様の御名を通して、足の不自由な人のうえに働くと信じて、この人のためにイエス様の御名を告げました。
ここでペトロが「立ち上がりなさい」と言った時に用いた言葉は、「起きなさい」です。この時、ペトロの心には、イエス様と一緒に伝道をしていた頃、イエス様がなさった様々な癒しのみわざが浮かんでいたことでしょう。イエス様は、ある指導者の娘・12歳の少女の「手を取って」起き上がらせ、病をいやされました。それは、マタイによる福音書9章25節に記されています。
また、ペトロは自分が、イエス様に招かれて、イエス様がなさっているように水の上を歩こうとして、強い風に怯えて沈みかけたことも鮮明に思い出したに違いありません。この出来事は、マタイによる福音書14章に記されています。ペトロは湖に沈んで死んでしまうと思って怖くなり、イエス様に「主よ、助けてください」と必死に叫びました。
すると、「すぐにイエスは手を伸ばして(沈んでゆくペトロを)捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』」(マタイ福音書14:31)とおっしゃって、ペトロを救ってくださいました。ペトロはこの事を、ありありと思い出していたと思います。
イエス様は、おぼれかけたら必ず岸に引っ張り上げ、自分がころびかけたら必ず手をつかみ、抱くようにして支えてくださる ― ペトロにとって、また私たちにとって、イエス様はそのように私たちを守ってくださる方です。イエス様は、ご自身の命をさえ犠牲にして、私たちを助けてくださった方です。その守りと助けこそ、ペトロが身をもって知っているイエス様の愛の力なのです。
主を信じて歩いた時、ペトロはイエス様と同じように水の上を歩くことができました。イエス様の愛によって、ペトロには不可能が可能になったのです。
不可能を可能にする方・イエス様は、私たちには取り返しのつかないことを取り替えさせてくださいます。ペトロは、イエス様が逮捕された夜、あんな人は知らないと言ってしまいました。それを激しく後悔して、号泣しました。おそらく、自分なんかいなくなってしまえばよいとおもっていたことでしょう。しかし、復活されたイエス様に「わたしの羊を飼いなさい」と使命を与えられて、新しく生きる力をいただきました。
「立ち上がる」「起き上がる」という言葉には、もとの聖書の言語では「死からよみがえる」という意味もある単語が用いられています。ペトロを愛し、ペトロを立ち直らせたイエス様の愛の御力は、ペトロを通してこの足の不自由な人の不可能をも可能にしました。7節の途中からお読みします。「すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。」
ここを読むたびに、私は何度読んでも「わ!この人歩けた!」という驚きと感動、そして何とも言えないしみじみとした喜びを感じます。歩けるようになった男の人は、喜びのあまり踊ったり、賛美の歌を歌ったり、感謝の祈りを大声でささげたりと大騒ぎしながら、ペトロとヨハネと一緒に神殿の中へ入って行きました。今まで歩けなかったこの人は、門から中に入ったことがなかったので、境内の様子を見て大いに感激したことでしょう。教会に初めておいでになった方が、講壇をご覧になって「わ~、教会の中ってこうなっているのですか!」と声を挙げられることがあります。それと同じように、この人は「うわ〜」と感じ入りながら、人生初めての礼拝に出席したのです。
イエス様のことが大・大・大好きなペトロの気持ちがこの男の人に伝わって、この人も、ペトロとヨハネ、つまりキリストの御体なる教会を通して神さまを賛美し、神さまを仰がずにはいられなくなりました。ペトロは、こうして最初の伝道をしたのです。また、イエス様の御名によって歩けるようになったこの男の人も、その歩き踊る姿をもって民衆に証ししました。
それが、今日の聖書箇所の最後の二つの聖句、使徒言行録3章9節および10節です。お読みします。「民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の『美しい門』のそばに座って施しをこうていたものだと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。」
教会はこの世・この地域の人々に見られる立場にあります。私たち教会も、世の人々としっかり見つめ合います。そしてイエス様の救いの福音を伝え、そのお名前によって行動することで教会は伝道へと導かれているのです。
今日の聖書箇所でペトロが足の不自由な人におこなったのは、イエス様がなさった仕草、また湖に沈みかけた自分の手をつかんで救ってくださったイエス様が、この自分を愛して、この自分にしてくださったことをそのままなぞるような、同じ行動でした。
古くから読まれて来た信仰書に『キリストにならいて』(イミタチオ・クリスティ)という題の本があります。直訳すると「キリストの真似をする」という意味の題です。中世に生きたトマス・ア・ケンピスという修道士によって書かれ、今も読み継がれています。
私たちはイエス様のようには、なれません。しかし、少しでもイエス様のように人を愛し、正義を貫き、神さまに愛され、時には試練を受けて救われる体験を繰り返しながら生きて行きたいと、私たちは願います。主に愛される喜びを自分一人だけで大事にしまっておくのではなく、今こうして教会で共に喜んで礼拝をささげているように兄弟姉妹と分かち合い、イエス様がなさったことの真似をして隣人に伝えてまいります。それが伝道だと、今日の御言葉は語っています。
イエス様がなさったように、イエス様のお背中を追うように、イエス様のあとをついてゆく ― それが、私たち信仰者にとっての「主に従う」真の道です。イエス様についてゆけば、その真似をすれば、自然に正しく愛に生きることができるのです。それが伝道への第一歩であることを、心に留めつつ共に進み行きましょう。今日から始まる新しい一週間も、主に従って歩んでまいりましょう。
2025年8月3日
説教題:主に応え、一つの群れに
聖 書:エゼキエル書37章22~23節、使徒言行録2章37~47節
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
(使徒言行録2:38b~39)
前回7月27日と前々回7月20日の主日礼拝で、私たちはペトロの人生初めての福音説教を御言葉から聴きました。ペトロが説教で語ったことは、今も、この日曜日の朝に、時差があるとは言え同じ日の同じ時間帯に、全世界の教会で語られています。
主日礼拝で語られる説教の中心、それは救い主イエス様の十字架の出来事とご復活に他なりません。説教とは何かと尋ねられたならば、それは救い主の十字架の出来事とご復活を伝えることです。
今日の最初の聖句、使徒言行録2章37節は、その福音を聴いたユダヤの人々の反応を語っています。ユダヤの人々は、十字架に架かられて死なれたナザレのあの青年・イエスこそがメシアだったことを知らされて「心を打たれ」たと、ここに記されています。ここには、もとの聖書の言葉では「心臓まで切り通される・刺し貫かれる」という表現が用いられています。
しまった!失敗した!と気付いた時、皆さんは心臓のあたりがドン!と内側から叩かれたように痛くなりませんか?子どもの頃、特に小学生1年生だった頃、登校して学校に着いてから忘れ物をしたことに気付いた時、私は本当に胸が、心臓がえぐられたように痛くなりました。大きくなるにつれて、心臓に毛が生えるのか、皮が分厚くなるのか、平気になりました。心臓が痛くなるあの感覚を大人になってもお持ちの方はきっと、とても良い方・善良で真面目な方だと思います。
ユダヤ人たちは、すでに大人たちでちょっとした失敗や、「しまった!」ということにはびくともしない心臓の持ち主たちだったでしょう。ところが、この時は本当に心が激しく痛むほどの罪悪感を抱いたのです。イエスを十字架につけろ!と言ったのが、自分たちだったからです。イエス様がご復活したのは、イエス様が神さまの御子であり、神さまであることのしるしです。
イエス様はよみがえったのだから、いいじゃないかということには、決してなりません。激しい罪悪感を抱くと、私たちは償いたいと願います。自分のせいで苦しむことになってしまった相手のために、なにかしたいと思います。だから、ユダヤ人達はペトロと使徒たちにこう尋ねました。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか。」もう今は会うことのできないイエス様のために、自分に何ができるのか、何をしたらよいのかと必死で質問したのです。ペトロは、彼らにこう答えました。38節をお読みします。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。」
洗礼とは、まずひとつめのこととして、罪・汚れを洗い流していただくことです。それによって、罪を赦していただきます。さらに、ペトロはこう続けました。「そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」洗礼とは、二つ目のこととして、聖霊で満たされること、心にイエス様が宿ってくださることなのです。これは、たとえて言えば、福音に感動し、神さまに愛されていると感じ取ることのできる受信機をいただくことです。
神さまは完全で誰よりも正しく、すべてを知り、すべてを導き、すべてを決めて、私たちの未来を開かれる方です。その方に永遠に愛され続けるとの約束を、いつ、どんな時も御言葉を通し、福音を通して受け取れて、幸福に包まれることのできる魂の受信機こそが、聖霊の賜物です。
かつてユダヤの民は、律法を守らないと神さまの愛と正しい裁きはいただけませんでした。しかし、ペトロは、イエス様の十字架の出来事とご復活ゆえに、神さまは律法遵守という条件なしで神さまの愛と正しい裁きをいただけるようになった恵みを告げます。39節をお読みします。(聖霊は)「わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
神さまは、イエス様の十字架のみわざと三日後のよみがえりを通して、すべての人を招いてくださいます。ガラテヤの信徒への手紙3章28節にこう記されているとおりです。「…ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあってひとつだからである。」(口語訳)
今日の聖書箇所 使徒言行録2章40節で、ペトロが「このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをした」と語られています。何を話し、何を証ししたのでしょう。私たちは、知っています。福音書からすでに、ペトロの身に何があったのかを知らされています。
ペトロはイエス様なんか知らないと言ってしまい、それにもかかわらず、ご復活のイエス様に実に優しく赦されました。この出来事は、いつどこで思い起こしても、イエス様の優しさ、慈しみ深さに心が震えます。そのペトロの証しを聞いて、三千人ほどが洗礼を受けて使徒の仲間に加えられたのです。42節には、その三千人ほどのクリスチャンが「使徒の教え、相互の交わり」、聖餐式である「パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と記されています。
三千人の悔い改めと洗礼、そしてイエス様の弟子たち・使徒たちの働きは、エルサレムの人々を驚嘆させました。43節にあるように、人々はそれをただほめたたえることはできず、すさまじいことが起こったと「恐れ」をもって受けとめました。人間の評価を超えることが、そこに起きたからです。
それまで、洗礼を受けて聖霊を宿したクリスチャンたちは、ユダヤの歴史になかった全く新しい共同生活を始めました。44節から47節にかけて、その信仰生活、できたばかりの教会・初代教会の生活が具体的に記されています。それは私有を排する生活でした。
人類最初の殺人事件でカインが弟アベルをねたんで殺してしまったことからわかるように、私たちの罪の根源は人と自分を比べ、人に勝ちたいと願い、勝てないとどんなことでもしてしまう誘惑にかられることにあります。この世でわかりやすい比較はお金持ちか、貧乏かということでしょう。初代教会は、その比較・その差をなくしました。これは私のものだという所有の概念を取り払い、わたしのものは、あなたのもの、みんなのものという分かち合いを徹底したのです。
今でも、基本的・原則的には教会には私物を置きません。教会に置いてあるものは、教会の群れ全体のものです。
初代教会は、「毎日ひたすら心を一つにして」(使徒言行録2:46)神殿で礼拝をささげて神さまの御前に伏し、「家ごとに集まってパンを裂き」聖餐式を行って、「喜びと真心をもって一緒に食事をして」愛餐会を持ち、神さまをたたえて讃美をささげ続けました。誰が見ても、そこには一途で、思いやりに満ち、仲睦まじく、見ていて心を洗われるような初代教会の姿がありました。その姿について、今日の聖書箇所の最後・使徒言行録2章47節の聖句にはこう記されています。お読みします。(信者たちは)「民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」
今日の御言葉から、特に心に留めたいことがあります。それは、私たちにとって少しびっくりすること・意外に思えることです。私たちは、教会の使命は伝道だと心得ています。ところが、初代教会は、この段階では伝道していません。悔い改めて洗礼を受け、礼拝をささげ、讃美をささげ、聖餐式を行ってイエス様の尊い犠牲によって救われた恵みを日々思い起こし、互いに分かち合い、清く睦まじい生活を送っています。主に忠実に、誠実に信仰生活を送っている「だけ」と言えば、確かに「それだけ」です。生活しているだけで、伝道はしていません。
実は、今日の聖書箇所の始めにある人々の問い ― イエス様の救いの恵みに、私たちはどうお応えしようか、わたしたちはどうすればよいのか、という問い ― への答えが、ここにあるのです。私たちはイエス様の限りない愛に、兄弟姉妹と共に礼拝をささげ、イエス様の死をおぼえ、分け隔てなく一つの群れとなって生活することでイエス様の愛にお応えします。教会がそのように生き、歩む姿そのものが、この世全体への証しとなります。証しする教会の姿そのものが、伝道となりました。群れは民衆全体から好意を寄せられ、自分もそうなりたいと思う者が日に日に教会の群れに加えられていったのです。
さて、ここであらためて、ご一緒に思いを巡らしましょう。私たちは、礼拝の説教で、人生を正しく、心豊かに歩むための、生活の指針になる道徳的な教えを教わることができると思いがちです。説教で、人に優しく、自己中心的に生きるのではなく思いやりをもって生きなさい、と言われたら、ああそうか、今日は良いことを聞いた、これを明日、出会った人に伝えて伝道しようと思うかもしれません。
しかし、イエス様の十字架の出来事とご復活に根ざしていない思いやりや優しさは、聖書に一言も記されていません。イエス様の救いの十字架の出来事と復活を語らずに、人の優しさや思いやりといったいわゆる美談だけが礼拝で語られたとしたら、その話は説教でも証しでも、何でもありません。それを良い指針をいただいたと思って伝える伝道が伝道ではないことも、今日の聖書箇所からわかります。
少々くどいようですが、ペトロが彼の人生最初の説教で、何を語ったか、もう一度思い出しましょう。ペトロが語ったのは、救いの福音です。イエス様の十字架の出来事と三日後のご復活です。それが神さまの救いのご計画であり、人は罪ゆえにイエス様を十字架に架けたということです。
説教の中心は、常に救いの主の十字架の出来事と、愛のしるしの主の復活です。ペトロはその後に語った証しで、おそらく自分がイエス様を知らないと言ったこと、自分の罪と向き合い、復活されたイエス様に暖かく赦された恵みを語りました。証しの中心は、救いの主の十字架の出来事で罪をゆるされた喜びです。赦されて、主と共に永遠に歩む、この世にはない至上の幸福です。その証しを聴いて心に聖霊を受けた人々は、礼拝と讃美をささげ、聖餐に与って主の死を告げ知らせ続けました。それが、私たちが今に受け継いでいる教会生活なのです。まさに、それが、薬円台教会が創立当初から掲げ続けている「神中心・礼拝中心の生活」です。
私たちが自然に喜ばしく、そのように礼拝をささげ、今日もこれから行いますが、聖餐式に与る時、神さまは私たちを、薬円台の地・七林町の地に、地の塩として味付けされ、世の光として輝かせてくださいます。もったいないほど嬉しいことです。この生活を、私たちはイエス様に従い、イエス様を慕って祈りつつ、一歩一歩と続けて進めてまいります。それから、具体的な伝道の働きへと遣わされてゆくのです。
教会の土台は、イエス様です。教会の礎は、救い主の福音にあります。イエス様を離れ、イエス様の救いの福音を離れたら、どのような新しい工夫に満ちた伝道のわざを尽くしても、その伝道は決して実を結びません。ヨハネによる福音書15章に記されているとおりです。
今日から始まる新しい週の一日一日、まず、聖書から生活の指針ではなく、救いの福音でゆるされたイエス様の愛をいただきましょう。イエス様の大きな愛と優しさに包まれて、過ごしましょう。そのクリスチャンとしての生活こそがこの世への証しであり、平和への道であり、伝道の正統な道なのです。
2025年7月27日
説教題:主の復活の証人として
聖 書:詩編16編7~11節、使徒言行録2章22~36節
「ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府(よみ)に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」
(使徒言行録2:30~32)
今日、わたしたちはペトロの生涯最初の説教の後半部分をいただいています。前回の礼拝で、ペトロはイエス様が十字架に架けられて地上の命を終えられたのは、私たち人間を救ってくださるためのご計画だったと明言しました。
私たち人間は自らの罪のために地上の命を終えると滅びる他ありませんでしたが、イエス様がその滅び・死を私たちに代わってすっかり引き受けてくださったのです。この神さまの救いのご計画の成就を、神さまはイエス様のご復活・よみがえりによって示されました。
ペトロは今日、私たちがいただいている彼の最初の説教の後半を通して、イエス様の復活が私たちに永遠の命の約束である恵みを力強く語っています。24節で、ペトロはこう告げました。「イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」
まさに、そのとおりであります。イエス様は光として世においでくださいました。イエス様がおられるところでは、光が闇に勝ち、闇を払い、悪・罪・死、あらゆる禍々(まがまが)しい事柄は追い払われるのです。また、天の父なる神さま・御子イエス様・聖霊の三位一体の私たちの神さまは、すべてのものを支配されます。イエス様が何かに支配される、それも死に支配されるなどということはありえません。
ペトロは目の前にいるユダヤの人々に、あなたがたが知っているあのナザレのイエスこそが、御子イエス様である事実を、彼の説教・今日の聖書箇所の後半を通して明確に語りました。29節で、ペトロは「兄弟たち」とユダヤの民の同胞に呼びかけました。そして、ユダヤの民であれば、誰でも敬愛しているユダヤの二代目の王ダビデが残した言葉から、御子イエス様が救い主メシアであるとはっきりした根拠を示したのです。
そのダビデが残した言葉は、先ほど司式者が朗読された今日の旧約聖書の聖書箇所、詩編16編です。ダビデは父の羊の世話をして野山で過ごしていた少年の頃から、神さまに慈しまれている恵みを心と魂でよく知り、神さまを畏れ敬い、慕い通す、まさに信仰の人でした。神さまが見えない方であるにもかかわらず、ダビデは神さまの愛を実に近々と、リアルにうけとめて喜ぶことができたのです。
今日の聖書箇所では割愛せざるを得ませんでしたが、今日いただいている旧約聖書 詩編16編2節でダビデは神さまへの畏敬の思い・信仰をこのように、実にストレートに告白しています。「あなたはわたしの主。 あなたのほかにわたしの幸いはありません。」神さまこそが、自分の人生の「主」人公・我が人生の中心におられると、まずダビデは告げます。それから神さまがおられ、自分を造ってこの世に生かし、見守り続けてくださることの他は何も、自分にとっては嬉しくない、真の幸いではないと言い切っているのです。
「あなたはわたしの主。 あなたのほかにわたしの幸いはありません。」 ― この祈りは、もっと日常的な、くだけた言葉で言い換えればこうなりましょう。「わたしにとって、神さまが最優先! わたしは神さまが大好き! ほかのだれより、どんな事柄よりも、神さまが好き!」神さまへのこのいちずな思いこそが、私たち信仰者の本音のはずです。
この世の名誉と富に恵まれ、この世でたいそうな人気者であっても、信仰者はそれらすべてよりも神さまを大切にし、神さまへのひとすじの信仰をその人の「芯」として人生を貫き通すはずです。
ダビデは名誉と富、人気に恵まれた人でした。神さまの御旨によってユダヤの王として立てられ、大いなる誉れを受けました。名武将・大将軍として勇名をとどろかせました。ユダヤの人々に愛され、大いに尊敬されました。音楽と文学の賜物にも恵まれました。竪琴の名手で、作詞作曲した讃美歌は数知れません。
しかし、そうした人生の喜びは、「神さまが自分の神さまでいてくださる」というただひとつの幸福の前には色あせ、幸福ではないとさえ感じられる…ダビデはそう神さまに祈ったのです。神さまの愛を信じ、その愛に応えて生きていることを知り尽くす深くいちずな信仰がなければ、とうていささげられない祈りです。
ダビデの人生には大きな喜びと激しい悲しみや苦難がありました。信仰の上でも、彼は大きな失敗をしました。しかし、彼は深い谷の底から神さまに祈りをささげることは、決して忘れませんでした。
私たちは「祈り」というと、神さまの名をまずお呼びして、感謝をささげ、次に日々の営みの中で自分の思いだけで判断し、祈らずに行動したことや人を傷つけたこと ― も十分に可能性としてあり得たこと―を懺悔し、それからいろいろな願い事をささげます。確かに、わたしたちは願い事を含めて、どんなことも神さまの御前に打ち明けることを許されています。また、私たちが祈る前に、神さまは私たちの心を私たちに宿ってくださる聖霊・生きて働くイエス様を通して私たちに必要なものや事柄・私たちの願い事をご存じです。その願い事に、神さまの御旨に添った仕方で、時には自分の祈りとは違う結果で、神さまが選んだ時に応えてくださいます。長い時を経て、私たちは神さまが本当に私たちそれぞれのために最善の道を与えてくださったことを知るのです。
神さまは、祈る私たちを、慈しんで喜んでくださいます。私たちが神さまにすがり、願いを祈りとしてささげる私たちを暖かく見守ってくださいます。そして、神さまがおそらくもっとも喜んでくださる私たち人間の姿が、「神さま大好き! ほかのだれよりも、どんな事柄よりも神さまが好き!」と幼な子のように神さまを慕う祈りをささげる今日のダビデの姿です。
神さまを我が主とする恵みを最高の幸福とするダビデの究極の願いは、神さまと永遠に共にいられることでした。肉体の死を超えて、ずっと神さまと一緒にいられることができたなら、至高の幸福はいつまでも続くのですから。この願いは、私たち信仰者の究極の願いでもあるはずです。
神さまは、イエス様を通して、このダビデの願い、そして信仰者全ての究極の願いに応えてくださいました。また、ダビデの願いの成就は、すでに旧約聖書に預言されていました。
今日の聖書箇所 使徒言行録2章30節で、ペトロはこう語りました。お読みします。「ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。」この王座とは、ユダヤの王という意味を超えて、死に支配されず、この世の何ものにも支配されず逆に支配する神さまだという意味です。
イエス様は、実際に家系としてはダビデの子孫・末裔にあたります。マタイによる福音書の最初の部分、イエス様の系図に記されているとおりです。
また、ダビデに与えられた「あなたの子孫から王座に着く者があらわれる」という預言は、サムエル記下7章12節・13節で預言者ナタンからダビデに告げられたこの神さまの御言葉です。その箇所をお読みします。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。」(サムエル記下7:12~13)この預言の言葉にある「わたしの名のために家を建て」の「家」が世界の諸教会、「とこしえに堅く据える」とは、人々のイエス様への信仰がこの世の土台となる恵みを語っています。
この預言の言葉にあるように、ダビデは救い主メシア・イエス様の到来を地上の命があるうちに経験することはできませんでした。しかし、この預言によって「主と永遠に生き続ける」確信を抱いていました。それがはっきりと示されているのが、今日の詩編16編10節のこの言葉です。「あなたはわたしの魂を陰府(よみ)に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 命の道を教えてくださいます。」主を畏れ敬い、主を愛し、主に従って共に進むとは「命の道」を歩むことなのです。
今日のみことばのダビデの信仰告白、簡単な言葉では「イエス様が大好き!」を心に留めて、日常の中で折に触れて思い起こしたいと願います。苦しみが続き、願い事ばかりの祈りをささげる時にこそ、思い出したいのです。「イエス様、あなたのことが大好きです。あなたは私のために十字架での苦しみをお受けくださったのですから。それほどにこの私を大切にしてくださるのが、わたしの主、あなたなのですから。」と信仰の原点に立ち戻って主への思慕を神さまに打ち明け、告白しましょう。
イエス様にそこまで深く愛され、それを恵みとする喜びを、ペトロは説教の最後に力強くこう告げました。今日の最後の聖句をお読みします。「だから、イスラエルの全家 ― 私たちはユダヤ民族ではありませんが、イエス様によって無条件で神さまの民・新しいイスラエルとされています ― は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
ペトロが語り、今に語り継がれている救いの福音 ― イエス様の十字架の出来事とご復活 ― から、今日も新しく恵みをいただきましょう。私たちはこの恵みの証人として、イエス様から使命をいただいています。その使命をも心に深く留めて、今日から始まる新しいこの週も、聖霊に満たされて進み行こうではありませんか。
2025年7月20日
説教題:救い主の死を語り継ぐ
聖 書:イザヤ書53章6~10節、使徒言行録2章14~24節
「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」
(使徒言行録2:23~24)
今日の聖書箇所は、この聖句で始まります。「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。」(使徒言行録2:14)聖霊によって語る舌を与えられたペトロが、いよいよ説教を始めました。聖霊に導かれてペトロが語り始めたのは、抜き差しならない事情と申しますか、どうしても語らなければならない事態に置かれたからでした。
その抜き差しならない事情・語らなければならない事態とは、前回の聖書箇所の最後の聖句に記されています。聖霊に満たされて、十二人の弟子たちはそれまで自分の力だけでは決して話すことのできなかった様々な国・いろいろな言語で神さまの偉大な御業を語り始めました。それを目の当たりにしたエルサレムの町の人々は「皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言」(使徒言行録2:12)いました。戸惑いはありましたが、信じられないような出来事を前に素直に驚き、感動する人々が多かったのです。ところが、13節にはこういう人もいたことが記されています。お読みします。「しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた。」(使徒言行録2:13)ペトロたちがいただいた神さまの御力、聖霊に満たされて語る力をバカにした者たちがいたのです。
ここで私たちは、聖霊について、実に重要で現実的な事実を知らされます。それは、キリスト者・クリスチャン、イエス様を信じる者たちに聖霊が働いても、まったくわからない者やあざける者、受け容れられない者たちが実際に存在することです。むしろ、そのような人たちの方が多いかもしれません。
私たちは皆、神さまに造られ、誰でも福音を信じて聖霊を心に受け、この身にイエス様を宿す恵みを与えられています。誰でも主に救われて、その愛に包まれて永遠の命へと至る正しい道を主と歩む幸いへと招かれているのです。ところが、実にしばしば、人間自身が持っている自我が、その恵みの邪魔をします。ペトロたちを「朝からボージョレ・ヌーボーで酔っ払っているふとどき者」とあざわらったエルサレムの人たちは、目の前の神さまの御業を自分の知識の中だけで理解し、説明を付けようとしました。神さまの御業の大きさを、小さい自分の中だけで解釈しようとしたのです。
これは使徒言行録の時代ばかりでなく、今も、よくあることのように思えます。いえ、人間が多くの知識とそれを活用する能力を持つようになればなるほど、つまり今の方が、私たちがこのような傲慢な行いをするリスクは大きくなっているのではないでしょうか。
神さまの大きさを、自分の小ささのうちに閉じ込めようとする ― 神さまに対して、こんな無礼はありません。聖霊はペトロを通して、それに相対するよう働きました。神さまへの侮辱は見過ごせないからです。
そこで、聖霊に満たされた弟子たちは姿勢を正して立ち、一番弟子のペトロが、これまでよりもはるかに大きな声を張り上げて、話し始めました。繰り返しますが、これは、記録されている中ではペトロの最初の説教、またイエス様の弟子の最初の説教、最初の伝道であり、最初の宣教です。
何が語られたのかを、今日は特にしっかりと皆さんの心に留めて帰っていただきたい、会堂を後にして世に遣わされて行っていただきたいと私は心から願います。ペトロが語ったことは、今も教会が語り継がなければならない福音の中心だからです。
また、ペトロがどのようにその福音の中心へと話を進めたかにも、大いに心を留めたく思います。ペトロはおずおずと話し始めたのではなく、聖霊に満たされて力強く人々を福音へと招き始めました。それが、14節後半のこの聖句です。お読みします。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。」ぜひ知ってほしいから、聞いてくださいと初めにはっきり言っていることに、私たちも学びたく思います。
私たち教会も、薬円台の地・七林町の地域に、知ってほしいから聞いてほしい、ここに教会があると発信して招き続けなければなりません。
ペトロは、今はまだ朝の九時で、自分たちが酒に酔ってたわごとを言っているわけではないと断言しました。むしろ、ぜひ聞いてほしい大事なことだと言いました。そして、聖書の言葉を語り出したのです。
ユダヤの人々は聖書 ― 私たちにとっての旧約聖書を大切にしています。6歳になると、教育として聖書を暗記するほど大切にしているのです。聖書に預言されている神さまのご計画、救い主メシアに大きな期待をかけているからです。
ペトロはこの時、神さまのご計画が記されている預言の書ヨエル書の御言葉を語りました。こう始まります。使徒言行録2章17節からお読みします。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」そして、すべての者が信じて救われ、終わりの日には主の名を呼び求める者が救われる恵みがこう語られます。21節の御言葉です。「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」
ペトロは、自分たち主の弟子・使徒を酔っ払いと侮辱する者に対しても、救いの恵みを伝えます。それが、御心だからです。ユダヤの人々は、このヨエル書の救いの約束を知っています。御言葉を畏れ敬う思い、そしてその御言葉と、ペトロたちとがどんな関係にあるのかと、ののしるのをやめて聞く姿勢になったでしょう。
ペトロはすかさず、もう一度こう言いました。22節です。「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。」そして、預言されている救い主メシアがどなたであるかを、高らかに告げ知らせました。お読みします。「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。」五十日前、過越祭のあの時に、ゴルゴタの丘で十字架にかかり、死刑になったあのナザレのイエスこそが救い主だと明らかにしたのです。
続けてペトロが語ること ― 神さまのご計画の成就 ― は、その場にいた者たちにとっては腰が抜けるほどの驚きだったでしょう。彼らは確かに、ナザレのイエスと言われた青年がむごい扱いを受け、人々の「十字架につけろ」という言葉で十字架で死刑に処せられたことを事件として知っています。
ペトロが22節の後半、216ページの一行目から二行目にかけて「あなたがた自身が既に知っているとおり」と指摘したのはこのことです。この事件は、神さまが「お定めになった計画によ」(使徒言行録2:23)り、「あらかじめご存じのうえで」(使徒言行録2:23)神さまが為さったことだとペトロは言いました。
その時、イスラエルの人々の心に浮かんだのは今日の旧約聖書イザヤ書53章「苦難の僕(しもべ)」 の箇所だったに違いありません。どうして救い主が、このように惨めな姿で語られるのか、不思議に思っていたユダヤの人が少なからずいたでしょう。しかし、ペトロがこう語ったので、その謎は解けました。あのイエスという青年こそが、メシアであり、すべては神さまの御心だったと知らされて、人々の心には、何とも言い難い思いが広がったに違いありません。
十字架の出来事の前の夜、欺瞞に満ち満ちた裁判でイエス様が堅く口を閉ざされ、ご自身のためには一言も弁明をしようとしなかったのは、イザヤ書の預言のとおりです。イザヤ書53章が語るとおりに、イエス様は自分たちの罪をすべて負って十字架に架かられ、私たちの代わりに十字架で死なれました。
聖餐式の時に、必ず司式者が読む「制定の言葉」の最後の言葉を思い起こしましょう。この言葉です。「あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」(一コリント11:26)私たち教会の役割は、イエス様の十字架の出来事と、その死を告げ知らせることだと述べられています。そして、ペトロは彼の生涯最初の説教、今日の聖書箇所で、それを人々にはっきりと告げたのです。
その聖句、今日の聖書箇所・使徒言行録2:23からお読みします。「あなたがたは(イエス様を)律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」ペトロが告げたこのイエス様の死・私たちの罪を負い、私たちの罪を贖い、死から救うための犠牲の死が、代々の教会によって今まで語り継がれてきました。それは今、この瞬間に語られています。さらにこれからも、教会で、繰り返し、繰り返し、語り継がれてゆきます。
イエス様の十字架の出来事は死で終わりません。神さまは、イエス様をよみがえらせました。私たち主を信じる者すべてが、決して死で終わらない永遠の命を約束されていることを明らかにされるためです。
ペトロは、その真理も、こう語りました。使徒言行録2章24節を、続けてお読みします。「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」
このペトロの最初の説教から、私たち教会が為すべき務めを私たちは今日、いくつも教えられました。神さまへの冒瀆には敢然と立ち向かい、聞いてほしいことがあると明言することが、最初の務めでありましょう。
聞いてほしいこととは、相手への抗議や非難、批判の言葉では決してありません。冒瀆する者をも、敵対する者をも豊かにする恵みの福音を伝える、これが二つ目の務めです。恵みの福音とは、イエス様の死とご復活 ― 十字架の出来事とよみがえり、そして終わりの日の救いに他なりません。
日曜日が来るたびに、キリストの教会でこの福音が語られます。私たちは、キリスト者として生きるすべての瞬間に、証し人とされています。言葉で、行いで、私たちの存在そのものでその福音に与っている恵みと喜びと平安を証しします。今日から始まる新しい一週間の一日一日、その一瞬一瞬を、聖霊に満たされ、いただいた命を輝かせて進み行きましょう。
2025年7月13日
説教題:主を宿し、主と進む
聖 書:ヨエル書3章1~5節、使徒言行録2章1~13節
「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、…ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
(使徒言行録2:8~11)
今日新約聖書箇所が朗読されるのを聞いて、一カ月前に聞いた御言葉だ!と思われたでしょう。そのとおりで、私たちは6月8日の聖霊降臨日・ペンテコステの日に、また毎年の聖霊降臨日にこの御言葉をいただいています。
今日は、使徒言行録の講解説教として、聖霊が弟子たちに降った恵みにご一緒に与ろうとしています。前回の聖書箇所で、ペトロが兄弟姉妹たち・イエス様の弟子たちの祈りの輪の中に立って話したことを思い起こしましょう。ペトロは「聖書の言葉は、実現しなければならなかった」(使徒言行録1:16)と言いました。
イエス様の十字架の出来事からご復活、昇天まで、すべてがあらかじめ神さまが計画され、預言されたとおりに実現したことを深く心に留めようと言ったのです。イエス様ご自身が、天の父なる神さまのそのご計画に忠実に従われて十字架に架かられたように、自分たちも御心に従って進もうと志を明らかにしました。彼らには、ユダに代わる十二人目の弟子マティアが、くじ引きで選ばれ、こうして仲間がそろい、イエス様の預言の実現を待つばかりとなったのです。
イエス様が昇天される前に告げた預言、それは天の父が約束されたものが与えられるとの恵みの言葉でした。どのように与えられるかは知らされていなかったので、弟子たちは五旬祭の日に驚きと衝撃の経験をすることになりました。
この日も、弟子たちはひとつに集まっていました。家の中で皆が座っていたと記されているので、場所は前回の聖書箇所でくじ引きが行われた部屋、弟子たちが泊まっていた家の二階と考えられます。
神さまの約束は、実に激しいやり方で彼らに与えられました。2節に、こう記されています。お読みします。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」(使徒言行録2:2)
神さまが彼らに約束されたのは、聖霊です。聖霊とは、私たち人間にわかるものとしてはまず風、風が吹いて来るような音として与えられました。皆さんに何度も繰り返しお伝えしたことですが、聖書の言葉では風と息、聖霊は同じ単語です。旧約聖書の元の言葉・ヒブル語(ヘブライ語)ではルーアッハ、新約聖書のもとの言葉・ギリシャ語ではプネウマです。
創世記2章7節に、こう記されています。神さまが、最初の人アダムを造られた時の出来事です。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)人間は、神さまがこうして命の息・ルーアッハをふうっと風を送るようにアダムの鼻に吹き込んでくださったから、命を与えられて生きるようになりました。
私たちは鼻で呼吸し、呼吸しなければ生きることができません。最期の息を引き取るという表現がありますが、まさにそのように、息をしなくなると人間は命を終えるしかありません。魂・霊の点からも、同じです。神さまと命の息でつなげられて、私たちは神さまのものとされ、主の御手のうちに生きるのです。
洗礼の時、私たちは罪の体に死んで、罪を洗い流され、聖霊をそそがれて新しく神さまのものとして生まれる霊的な体験をします。今日の聖書箇所の聖霊降臨の出来事には、その体験が私たちの目に見え耳に聞こえることとして記されています。
弟子たちに、聖霊がそそがれました。しかも、それは「激しい風が吹いて来るような音」として耳に聞こえるだけではなく、目に見えるものとしても現れました。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」(使徒言行録2:3)たのです。
もとはひとつの舌が、分かれ分かれになったと記されています。神さまはその御言葉(言・ことば)によって天地創造の御業を成し遂げられました。神さまは、造られた天地のために御言葉を通して、預言者にご計画を語らせました。預言者とは、「言」を「預かる者」と書きますが、文字通りです。イエス様が十字架の出来事を成し遂げ、復活され、そして昇天後のこの聖霊降臨・ペンテコステを迎えるまで預言者にしか、神さまの御言葉は聞こえず、わかりませんでした。しかし、聖霊降臨の時に、弟子たちは神さまの舌から分かれたそれぞれの舌・聖霊をいただいて、御言葉を語れるようになったのです。
舌をいただくとは、もとの舌 ― つまり神さまである聖霊 ― が語るとおりに語ることをさします。それが、このように記されています。「一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、‟霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2:3b-4)
ペンテコステの礼拝、今年は6月8日でしたが、その日の説教ではあらゆる国の言葉・言語で福音が語られ、伝えられるようになり、それがまさに今、この主の日・日曜日に世界中の教会で起きていることだとお話ししました。
語られている内容は同じです。神さまの御旨が語られます。御旨・救いのご計画が、私たちの地上での故郷の言語 ― 韓国出身の方であれば韓国の言葉で、日本語を母語とする方にとっては日本語で、英語圏出身の方には英語で ― で語られます。それが、地上の教会でささげられる主の日の説教です。
いろいろな言語で語られますが、内容はひとつ ― 主の御旨、救いの福音です。もとの舌はひとつだから、同じ内容が語られます。それは、私たちの魂の故郷、天の御国の神さまの言(ことば)です。
語られるその同じ内容・救いの福音とは何でしょう。イエス様が私たちに代わって罪を負われ、十字架に架かられ、罪を贖ってくださったので私たちが救われた、罪の重荷から解き放され、死ぬべきさだめをゆるされて、永遠に神さまと共に御国で生きることができるようになったという恵みの真理です。
その恵みのうちに私たち人間を生かしてくださるようにと、神さまは世を造られる前からご計画を立ててくださっていました。神さまの救いの歴史・救済史は、この確かなご計画によって、着実に進められているのです。
イエス様の弟子たち ― 使徒たち ― は、聖霊を授けられ、それが彼らの上にとどまり、彼らがそれを宿すようになってから、その計画にそって伝道を進め始めました。
神さまのご計画は、私たち人間が立てる企画や計画とはまったく違います。私たちは未来を見通すことはおろか、次の瞬間に何が起こるかすら、まったくわかりません。ですから、私たちが立てる計画は、頓挫したり、失敗したりと、うまくいかないことがあります。
神さまのご計画は、必ず成功します。なぜなら、神さまは、過去・現在・未来の時間のどこにでも自由に存在され、時間をも支配しておられるからです。神さまの時間の支配とは、人間の側から理解しやすく言い換えれば、未来を知り尽くし、未来を造られるのは神さまだということです。
神さまのご計画、今日の旧約聖書の言葉を用いれば「夢」「幻」 ― これははかないものでなく展望、ヴィジョンのことです ― は、成し遂げられるのが当たり前です。言い方を変えれば「ご計画が成し遂げられる」とは、「御旨が成就する」ことで、これは当然のことです。
弟子たちは聖霊にとどまっていただき、聖霊を宿すことで、そのご計画に参加する者として神さまに招かれたのです。
今日の聖書箇所では、激しい風の音に町の人々が弟子たちの家に集まって、弟子たちが様々な言語・様々な故郷の言葉を話し出すのを目の当たりにして、驚いたと記されています。救いの福音が語られていることに、集まった人々はその福音に気付きませんでした。12~13節に、こう記されています。お読みします。「人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った。しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた。」(使徒言行録2:12-13)
何か素晴らしいことが起こっていると思う人、戸惑う人、そして、受け容れることができずにあざける者がいました。弟子たちに良い印象を持たず、あざわらった者の方が多かったかもしれません。
弟子たちは死刑囚の関係者として、この世で危険視され、迫害を受ける立場にあったからです。
最悪からの出発となりました。
にもかかわらず、神さまのご計画は必ず成就するのですから、伝道は必ず成功します。その真理を信じ、何があっても主に従い通し、主に助けられ、仲間を助けて弟子たち・使徒たちは宣教に励みました。
その働きの実りが、2000年ほどの時間を経て、今、私たち薬円台教会の礼拝として、世界中の教会の礼拝として現れています。迫害にも負けず、救いの福音は語り継がれました。今、この主の日・日曜日に語られています。何ごとにも負けず、くじけずに、これからも語り継がれていきます。
私たちは、一人一人、洗礼を受けて神さまの救いに与ります。聖霊にとどまっていただき、罪を清められて、キリスト者・クリスチャンとして主に従う新しい生き方を踏み出しました。
繰り返しますが、私たちは聖霊に宿っていただき、イエス様が心のうちに住んでくださって、福音を伝えることのできる舌をいただいています。その恵みを、私たちプロテスタント教会は「万人祭司」という言葉で表します。主を信じるすべての者が、祭司となって主のご用に用いられることをさします。
私たち人間にとって、折りが良くても悪くても、私たちの主は私たちそれぞれを最善の時と場所、そして最善の方法で用いてくださいます。自分から一生懸命 がんばろうとしなくても、イエス様は私たちの手を引いて力強く進んでくださいますから、安心していて良いのです。
私たちはそれぞれ、導かれるままにこうして主に奉仕をささげ、互いに助け合って教会に仕え、未来へと、夢の実現・平和の実現へと歩んでいます。その幸いを信じ、希望を抱いて、今日から始まる新しい一週間を聖霊に満たされて進み行きましょう。
2025年7月6日
説教題:使徒の務めを継ぐ
聖 書:サムエル記上10章20~24節、使徒言行録1章12~26節
「次のように祈った。『すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。』二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。」
(使徒言行録1:24~26)
前回の主日礼拝から、私たちは「使徒言行録」を読み始めました。その時にいただいた御言葉では、弟子たちはご復活のイエス様が天に昇られるのを、イエス様の祝福を受けながら見送りました。あまりにいつまでも見送っているので、二人の天使に「なぜ天を見上げて立っているのか」と言われてしまったほどでした。
約束された聖霊を待つ間、またイエス様がもう一度、この世においでくださるのを待つ間、弟子たちに、また救い主イエス様の福音を信じる私たちにはしなければならないことがたくさんあります。希望を抱いて、しかし、何もせずに天を見上げて待っているだけではなりません。弟子たちは、また私たちは、その日に向けて私たち人間にできる備えをしなくてはならないのです。
今日の聖書箇所は、約束の聖霊を賜る聖霊降臨の日までに弟子たちが行ったことを大きく二つ、伝えてくれています。
ひとつは、祈ることでした。14節に記されているように、彼らは「心を合わせて熱心に祈っていた」のです。場所は、都・エルサレムで泊まっていた家の二階の部屋でした。ここは最後の晩餐と同じ場所と言われています。「彼ら」とは、十一人の弟子たちと、ガリラヤからイエス様に付き従って来た婦人たち、イエス様の母マリア、またイエス様の実際に血のつながった兄弟たちでした。15節には「百二十人ほどの人々が一つになっていた」と述べられています。祈りは立ってささげますが、部屋はぎゅう詰めだったでしょう。
そうして祈っている中で起きた、もうひとつのことが語られています。それは、神さまの御心を弟子たちが、また私たち人間が祈って求めながら、導かれるとおりに行うことです。祈りと、御言葉にあらわされているご計画に従った行動の二つが、今日の御言葉で私たちに示されています。
その行動は、ペトロの言葉から始まりました。彼は兄弟姉妹の中に立って語り始めましたが、それは裏切り者ユダについてだったのです。ペトロはこう話し始めました。「ユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。」(使徒言行録1:16)
ペトロが「ダビデの口を通しての預言」は実現しなければならなかったと言っている「この聖書の言葉」とは、ダビデの祈りと記されている旧約聖書の詩編41編10節をさします。
その聖句をお読みします。「わたしの信頼していた仲間 わたしのパンを食べる者が 威張ってわたしを足げにします。」(詩編41:10)
イエス様が友と呼んでくださった十一人の弟子たちのひとり・ユダは、この言葉を預言として、イエス様の仲間でありながら、実際にイエス様を裏切って、お命をねらう者たちにイエス様を逮捕させてしまいました。全能の神さまであるイエス様は、もちろんこのことを前もってご存知でした。知っていたにもかかわらず、預言が実現しなければならないとイエス様は自らおっしゃって、ユダの裏切りを止めなかったのです。止めたら、神さまのご計画・救いの十字架の出来事と永遠の命の約束であるご復活がなくなってしまうからです。ですから、ペトロは、ユダの裏切りは神さまのご計画のうちにあったと言っているのです。
続けて、ペトロはこう言います。17節をお読みします。「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。」裏切り者ユダを、ペトロはあらためて「わたしたちの仲間の一人」と呼んでいることに、皆さんは、少し驚きを感じないでしょうか。私は驚きと、ペトロの思いにある感動をおぼえました。
ペトロが、あのユダもかつては自分たちの仲間だったと、こうあらためて語るのは、弟子たちの誰もがユダと同じことをしてしまう人間的な弱さ・罪を持っているとよくわかっているからです。イエス様のご受難に際しては、弟子たちは一人を残して皆、逃げ出してしまいました。ペトロ本人も、自分では気づかずに、逮捕されたイエス様のことを「あんな人は知らない」と三度も言ってしまったのです。ペトロは、自分の心根も、ユダと同じだと罪人の自覚、それもイエス様にゆるされて救われた罪人としての思いをもって、ユダのことを語っています。
ただ、ここで深く心に留めるようにと今、私たちが導かれているのは、そのことではありません。ペトロが神さまの御言葉、またイエス様の御言葉を実に忠実に守り通そうと仲間、弟子たちに呼びかけるその姿勢です。
繰り返しますが、イエス様ご自身が「聖書の言葉は実現しなければならない」との意味で、「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」(マタイによる福音書26:24)と最後の晩餐の時におっしゃって、御言葉に、つまりは神さまの御心に忠実だったのです。ペトロはそのイエス様の天の父への従順さにならい、御言葉がたいせつに守られ、実行されてゆくようにと仲間の弟子たちに告げています。
ユダはマタイによる福音書によれば自ら命を絶ち、今日のペトロの言葉によれば自分が買った土地に身を投げて、滅びてしまいました。ペトロが語ろうとしているのは、そうして御心によって十二人のうちの一人が滅びてしまったが、イエス様が十二人を選んだその「十二人」は守られなくてはならないということです。
イエス様が十二人の弟子を選ばれた「十二」という数は、旧約聖書 創世記に語られているユダヤの祖、ヤコブ(別名が「イスラエル」そのものです)の息子・孫たちが十二部族となってユダヤ民族を構成した事実によります。神さまの御心は、十二人によって成し遂げられるのです。
ペトロは、その御心を聖書の御言葉によって示しました。それが今日の聖書箇所 使徒言行録1章20節後半の、詩編109編8節のこの御言葉です。お読みします。「その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。」(使徒言行録1:20b)旧約聖書の109編8節の、その言葉はこのような表現なのでご紹介しておきます。「地位は他人に取り上げられ」る ― 旧約聖書にはこう記されているのです。
ユダの弟子の務めは、ほかの人が引き継がなければなりません。ペトロは引き継ぐ人は、次のような人でなければならないと言いました。21節から22節をお読みします。「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼(バプテスマ)のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」そのようにずっとイエス様に付き従って来た者は、十一人の弟子の他には、二人しかいませんでした。その二人が「バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフ」(使徒言行録1:23)とマティアでした。
さて、この二人の中から、どう一人を選べば御心にかなうのでしょう。聖書には、伝統的な主の選びの示され方が記されています。主の選びの示され方 ― それは、「くじ引き」です。
今日の旧約聖書の聖書箇所 サムエル記上10章20~24節にも、神さまが選ばれたサウルがユダヤの最初の王であることを示すために、神さまが預言者サムエルを通して「くじ引き」を導いたことが語られています。ですから、教会で何事かを決めようとして、議論が煮詰まった時に深く祈って「くじ引き」を行うのは、正しいこと・御言葉にかなった、つまり御心にかなったことなのです。
このように、前回の主日礼拝から読み始めた「使徒言行録」には、私たちが教会で行っていることの原点が具体的に語られています。「使徒言行録」は大いに信仰の養いとなりますが、この点でも、「使徒言行録」を教会で読み進むのは実に意味深いことです。
今日の聖書箇所では、くじ引きの結果、マティアにくじが当たり、彼がユダの空席を埋めて十二人目の弟子・使徒となりました。
今日の御言葉から、私たちはまず祈ることを強く勧められています。どんな時も、何ごとも、私たちはまず祈ってから始めます。そして、祈り続けます。行動を起こす時は、今日の御言葉でのペトロがそうだったように、イエス様が語られた主の御言葉と聖書の御言葉に基づいて行動します。私たちの行いの根拠は、必ず主のご計画と御心を顕す聖書の御言葉になければなりません。
イエス様に従い通すと、私たちの心は「これが正しいのだ」という私たちの落ち着き・平安で満たされます。ご復活のイエス様は、そのように私たちの心に宿り、私たちと共においでくださるのです。その安らぎをいただきつつ、聖霊に満たされるよう祈りつつ、今週も御言葉に養われ、主に守られて日々を過ごしてまいりましょう。
2025年6月29日
説教題:力を与える約束
聖 書:詩編33編8~11節、使徒言行録1章1~11節
イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」
(使徒言行録1:7~8)
今日からご一緒に、『使徒言行録』を読み始めます。先週の日曜日に、私たちは『ルカによる福音書』による講解説教を終え、同じくルカが記録した『使徒言行録』に進むこととなりました。
先ほど司式者が聖書箇所を朗読されましたが、第1節の始めの聖句を今一度、お読みします。「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して」、こう語り始められているのです。「わたし」とは、ルカによる福音書を書いたルカ自身をさしています。「第一巻」とは、『ルカによる福音書』のことです。今日から読み始める『使徒言行録』は、『ルカによる福音書』の第二巻、続きの記録なのです。
では、「テオフィロさま」とは誰のことだろうと、皆さんは思われるでしょう。『ルカによる福音書』の冒頭、第1章3節にも同じ名前があり、ルカはイエス様が地上でなされてから天に昇られるまでの出来事をこの「テオフィロさま」、もとの聖書の言葉を直訳すると「テオフィロ閣下」に宛てて書いているのです。同じように、『使徒言行録』も、この「テオフィロ閣下」に宛てた記録です。
この「テオフィロさま」が具体的に誰かは、まったくわかっていません。ただ、この名前の意味が聖書のもとの言葉、ギリシャ語で「神に愛された者」だということは、すぐにわかります。当時、ギリシャ語はイスラエルから地中海地方にかけて主に商業の共通言語として、今の英語のように広く用いられていました。ルカは、ユダヤ人から見れば外国人 ― 聖書の言葉では「異邦人」 ― の身分の高い、「閣下」と敬称で呼ぶ誰かにイエス様をめぐる真実・事実を書き残そうとしたことが、『ルカによる福音書』と『使徒言行録』の冒頭から読み取れます。
「神に愛された者」・テオフィロが、歴史上の具体的などんな人物だったのかを探るのもたいせつかもしれませんが、「神さまに愛されている者」が、私たち人間すべてをさすことを、今日は共に心に留めたく思います。自由な想像の翼をはばたかせれば、ルカは、私たち「神さまに愛されている者」すべてに宛てて、つまり、今、こうして礼拝で御言葉をいただいている私たちにも宛てて、イエス様の十字架の出来事とご復活、そしてその後の弟子たちの歩みを書き残したと考えられます。
全世界に、また後の世の人たちにも、イエス様の愛と恵みを知ってほしいというルカの痛切な願い、そして福音を告げ知らせる伝道の志の深さを知らされる ― 『使徒言行録』の冒頭には、そのような信仰の情熱がこめられています。
語られている事柄は、私たちが前回の礼拝でご一緒に読んだ『ルカによる福音書』の最後の部分とほぼ同じです。ご復活のイエス様が、弟子たちを祝福しながら天に昇られていったことが記されています。それに加えて、私たちが今日の御言葉から、新しく知らされたことがあります。その中から、今日は二つの事柄をお伝えしたく思います。
新しく知らされたことのひとつ、それはご復活のイエス様が弟子たちにこうおっしゃったことです。今日の4節からイエス様の言葉をお読みします。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」弟子たちは、待つようにとイエス様に言われました。イエス様が死刑にされたことから、イエス様の弟子たちは重罪人の関係者と思われ、エルサレムにいると逮捕されると恐れ、逮捕されないまでも白い目で見られ、嫌がらせをされる恐れがありました。そのような中でも、エルサレムにとどまって神さまが約束してくださった聖霊が降るのを待つようにとイエス様はおっしゃったのです。これは、弟子たちにとって恵みの御言葉です。エルサレムから離れず、逆境にとどまって、ただじっと耐えなさいと言われたのではなく、弟子たちはイエス様から苦難に身を置き続ける根拠をいただきました。
天のお父様が弟子たちに約束の恵み・聖霊を待ち望み、希望を抱いて待つようにとの使命を与えられたのです。ただ待つのではなく、苦しい状況が一気に反転して喜びで満たされる、その喜びを待つのです。喜びへの希望に支えられて、苦難に耐えるようにと導かれました。
この恵みは、今日の聖書箇所の弟子たちだけでなく、私たちの日常をも支える励ましです。苦しみの時・悲しみの時に、その時が過ぎ去ったならば大きな喜びが待っていると信じて、祈りつつ苦難に立ち向かうようにと私たちの主は私たちを元気づけてくださいます。聖霊降臨を経て、教会の時代に生きる私たちはすでに聖霊をいただいていますから、その待つ間も生きて働くイエス様なる聖霊が、私たちに寄り添って力を与えてくださるので、より心強く苦難に耐えることができるのです。
私たちが新しく知らされることの二つ目は、私たちが今、イエス様の再臨 ― イエス様が再びおいでになるその時を、待っているという恵みの事実です。
ご復活のイエス様に会ってもなお、弟子たちにはわかっていないことがありました。6節で、弟子たちはイエス様に問いかけます。その問いは、弟子たちの理解の浅さ・恵みを悟る心の弱さを示していました。彼らの問いかけは、こうでした。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか。」
弟子たちは、この期に及んで、まだ、イエス様がユダヤ民族の独立のために世に来られたと思い込んでいたのです。決してそうではありません。天の父・私たち人間すべてをお造り下さった創造主なる神さまは、すべての人のためにイエス様を世に遣わされました。決してユダヤ民族のためだけの神さまではおられないのです。
ですから、もちろん、ユダヤ民族の独立のためだけに働かれる神さまではありません。その誤りを、イエス様はこう指摘されました。7節の御言葉です。お読みします。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」イエス様がおっしゃった言葉の意味は、言い換えるとこうなります。天の父が私たち人間のために恵みのご計画を立ててくださっているのだから、自分勝手に御旨の詮索をすることはない。
そして、8節でもう一度、イエス様は弟子たちに、また御言葉を通して今・ここに集う私たちに、天の父のご計画・約束による希望を語ってくださいます。8節をお読みします。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
「力」という言葉に着目しましょう。この「力」という語は、日本語でもそうですが、もとの聖書の言葉でも「大きく何ごとかを変化させ、作用する働きの度合い」を示します。弟子たち・私たちに神さまが与えてくださる「働き」とは、何でしょう。その働きの大きさは、いかばかりでしょう。
イエス様がユダヤをローマ帝国の支配から解放し、独立へと導いてくださると思い込んでいた弟子たちは、救い主・メシアのお力、神さまのお力を過小評価するというたいへん無礼なことをしていたのです。救い主・メシアの御力は、ユダヤというひとつの民族の解放にとどまりません。ローマ帝国の支配をくつがえすだけでなく、私たち人間を支配している罪・悪、人間が他の人間を支配しようとする身勝手で傲慢な欲望の暗闇から、私たち全人類を救ってくださる自由への力です。その自由への力を、聖霊を通して神さまは私たちにそそいでくださいます。
他の人間を支配しようとするのではなく、兄弟姉妹・隣人を愛して、愛によってつながって人類そのものが強められる力を神さまは聖霊によって私たちに与えてくださるのです。腕力・武力、理論の力で他者を押さえつけるのではなく、互いに助け合い、励まし合ってより良い絆を造る愛の力が聖霊によって弟子たちに、私たちに与えられます。
イエス様は弟子たちに、聖霊が降ったら、その力に満たされて福音を地の果てにまで宣べ伝えなさいと命じました。それが、8節後半の「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という御言葉です。
説教の最後に、今日の御言葉が語る興味深い出来事に着目したいと思います。イエス様が弟子たちを祝福しながら見えなくなるのを、弟子たちは見送りました。10節は、こう語ります。お読みします。「イエスが離れ去って行かれるとき、彼ら(弟子たちのことです)は天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。」(使徒言行録1:10~11a)天使が現れて、呆然と、言葉はよくありませんがイエス様が見えなくなってぽかーんとしている弟子たちにこう言ったのです。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。」(使徒言行録1:11)いつまでぼんやりしているのだ、と弟子たちは二人の天使に言われてしまいました。
さらに、天使は今日の聖書箇所の最後の聖句でこう告げました。「イエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」二人の天使が弟子たちに告げたのは、イエス様の再臨です。
イエス様は、この世が神さまの御力 ― 愛と正義の御力 ― にすっかり包まれて御国が来る時に、もう一度同じお姿でこの世においでくださいます。そして、弟子たちはその時のために、ただぼんやり突っ立っていてはいけないのです。イエス様がもう一度おいでになる再臨の時を待ち望みながら、救いの福音を地の果てにまで宣べ伝えるようにとイエス様から使命をいただいています。ぼんやりしていないで、伝道への備えをしなければなりません。
天使に言われて、弟子たちはそれに気づかされました。「そうだ! 希望をもって今の時を忍耐しよう、聖霊を受けたら、力強く進もう!」と気付かされたに違いありません。
聖霊降臨・ペンテコステの日に聖霊が降って、福音を語る炎のような舌を与えられたら、弟子たちは堰を切ったように語り始め、伝道を始めました。イエス様の福音を信じて救われる者が次々に興され、主を礼拝する群れ・信仰共同体が形成され、教会が生まれました。苦難の中にあっても、希望を抱いて来たるべき喜びの日を待ち望み、伝道に邁進するイエス様の弟子たちの働きがこうして始まりました。
あらためて申しますが、私たちは、その弟子たちの働きをルカが記録した『使徒言行録』を、これから読み進んでまいります。私たち一人一人がその御言葉によって日々強められ、教会に生きる喜びを新たにされつつ、力強く前進を続けましょう。
2025年6月22日
説教題:心の目を開かれる
聖 書:ヨシュア記1章1~9節、ルカによる福音書24章44~53節
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」
(ルカによる福音書24:45~48)
今日で、ここ4年ほど日曜日の礼拝で、毎回 ご一緒に講解説教として読み続けてまいりました「ルカによる福音書」を読み終えます。ここまで導いてくださった主に、まず感謝をささげます。
前回の聖書箇所で、私たちは復活されたイエス様が弟子たちの真ん中に現れてくださったことを御言葉に聴きました。実体のない幽霊・亡霊ではないかと怖がる弟子たちに、イエス様は「まさしくわたしだ。」(ルカによる福音書24:39)とおっしゃられ、実際に傷ついたお体のままよみがえられたことを、その手の傷、足の傷を見せてお示しくださいました。私たち人間と同じ肉体を持ち、生命体としてエネルギーを取り込みつつ生きておられることを、焼いた魚を食べて示されもなさいました。
それらの事柄を告げる前回の聖書箇所で、イエス様が弟子たちに特に伝えたいと望まれたのは、ご自身が神さまであると同時に完全に人間だという真理でした。また、それを踏まえて、私たちが神さまに身も心も深く愛されて造られ、体も心もひとつとされてまるごと神さまのものだという恵みをも、あらためて示されたのです。
弟子たちは、ご復活のイエス様に会えて、たいへん喜びました。一度は死なれたイエス様が戻って来られ、失われたと思っていた絆が取り戻されたからです。弟子たちはイエス様が伝道の旅を始めてからエルサレムで十字架に架けられるまでのおよそ3年間、イエス様と旅をして、寝食を共にしていました。共同生活をして、イエス様の御言葉を聴き、一緒に食事を楽しみ、イエス様の奇跡のみわざを見届け、イエス様の優しさと思いやりに包まれ続けていました。イエス様が十字架に架けられる前と同じ肉体を持ってよみがえられたのだから、その喜びに満ちた毎日が戻って来ると、弟子たちは喜んだに違いありません。
ところが、焼いた魚を召し上がった後、イエス様は弟子たちのその期待をひっくり返すようなこと、期待に背くような事柄をおっしゃいました。それが、44節です。お読みします。「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
旧約聖書に語られているメシア・救い主についての預言は、すべてイエス様のことであり、必ず実現するとイエス様はおっしゃいました。実際に、旧約聖書に記されたメシアの預言をイエス様は実現され、十字架の出来事で私たち人間を自らの罪による滅びから救い出してくださり、復活されました。そして私たちは今、世の終わりの時に、イエス様がもう一度おいでくださるのを待ち望んでいます。それは、イエス様が44節で「必ずすべて実現する」とおっしゃったことのひとつで、これから起こる出来事です。
すでに一度、司式者が朗読してくださったにもかかわらず、今 こうして44節をあらためてお読みしたのは、その後のイエス様の御言葉に注目したいからです。イエス様は、弟子たちにこうおっしゃられました。「これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」弟子たちは、イエス様がこう言われたことに、こう感じたでしょう。「え〜! イエス様が復活してくださって、また一緒に過ごせると思っていたのに、イエス様はそれを過ぎ去った過去の出来事として語っておられる。もう、一緒にはいてくださらないのだろうか…。」
そうです、そのとおりなのです。イエス様は、地上・この世での使命である救いのみわざを成し遂げられました。ですから、本来のご自分のおられる場である「天の父の右の座」に戻らなければなりません。弟子たちと一緒に暮らすことは、もうないのです。
ただ、皆さんはこうも思われるのではないでしょうか。天の父なる神さまが、イエス様を私たち人間の目に見える、私たちと同じ人間として世に遣わされたのは「見える」「主の御業を自分の目で実際に目撃する・見る」ことを通して、見えない神さまへの信仰を与えるためではなかったか…。それなのに、見えるイエス様が一緒にいてくださらなかったら、私たちはどうして父なる神さまを知ることができるのだろう?また旧約聖書の時代に逆戻りではないか?
皆さんがそう疑問に思われるのは、もっともです。私たちの信仰の目・聖書を読んでそこに恵みを見ることのできる心の目は閉ざされていて、イエス様が導いてくださらなければ、わたしたちには聖書が読めません。字は読めて、知識の上では何が書いてあるのかわかりますが、そこにこめられている神さまの愛と正義のメッセージを心で受けとめることができません。
弟子たちがいっせいに暗い顔・不安げな表情になったのを、イエス様は見ておられ、彼らの心のうちを察しておられたでしょう。だから、イエス様はすぐに弟子たちのために、このみわざをなさってくださいました。45節をご覧ください。お読みします。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」。
イエス様はこれまで、目の不自由な人を癒して、目が見えるようにしてくださいました。それと同じように、イエス様は閉ざされて聖書に恵みを読み取ることのできない弟子たちの心の目を、ここで開いてくださったのです。見えない人の目を開く ― それは私たちの神さまのみわざ、イエス様のみわざです。イエス様は、ご自身が見えるお姿で地上にとどまっていなくても、彼らが御言葉に心を揺り動かされ、御言葉に励まされて勇気づけられるようにと、このみわざを弟子たちのためになさってくださいました。
それから、イエス様は救いの福音を高らかにおっしゃいました。その御言葉をお読みします。『メシアは(イエス様ご自身のことです)苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する』(ルカによる福音書24:47)
ここまでは、弟子たちが自分の目で目撃した事実です。さらに続けて、イエス様はおっしゃいました。『また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』(ルカによる福音書24:47)『罪の赦しを得させる悔い改め』とは、救いのみわざの時に、赦された者の魂に起こる信仰の出来事です。
罪を赦され、救われた者・神さまのものとされてその御手のうちに抱かれた者は、悔い改める ― 他の言葉で申しますと「回心」します。「回る心」と書いて「回心」です。自分の欲望やこの世の誘惑に向けていた心を、くるっと神さまの方に向けて、神さまを仰ぐようになるのです。
さらに、彼らは心の目を開かれ、救われた恵みに与ったことをあらゆる国の、すべての人に伝えるようにと遣わされました。こうして、弟子たちは宣教へ、伝道へと世に遣わされることとなったのです。
さらに御言葉を深く喜びをもって味わい知ることができるようにと、主なる天の父は、私たち人間に聖霊を降す約束をしておられました。イエス様は、48節でそのことも語られます。今年は6月8日、2週間前の日曜日がペンテコステ・聖霊降臨日でした。天の父が弟子たちに約束された聖霊が降るのは、ペンテコステの出来事です。
イエス様は、その後、弟子たちをエルサレムの郊外・ベタニアへと連れていかれました。50節に記されている出来事です。そして、イエス様は手を上げて弟子たちを、またこの世を祝福しながら、復活のお姿のままで天に昇って行かれました。本来、イエス様がおられるのは、天の父、私たちの主なる神さまの右の座ですから、そこに昇って行かれたのです。
「祝福しながら」は、もとの聖書の言葉では「良い言葉を語られながら」とも訳せます。ヨハネによる福音書によれば「言」(ことば)として世においでくださったイエス様は、世から天に昇られる時も「言」(ことば)、それも「良き言葉」を弟子たちに与え続けてくださったのです。
今日の最後の聖句、ルカによる福音書の最後の聖句は、弟子たちが天に昇られるイエス様を伏し拝んでから、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神さまを賛美したと語ります。イエス様が天に昇られた出来事は、イエス様の祝福・「良い言葉」によって、弟子たちにとって悲しい別れとはならなかったのです。祝福・「良い言葉」は、神さま・イエス様・聖霊の主の他には、誰にも与えることのできない力に満ちた勇気と希望を与え、弱っている時には深い深い慰めを与える主の慈しみと励ましです。
弟子たちの心は、イエス様から新しい使命・ミッションを与えられたことでさらなる喜びに満たされていました。新しい使命・ミッションとは、イエス様の救いのみわざの福音を世に伝える宣教・伝道の務めです。ルカによる福音書はここで終わりますが、この終わりは弟子たちの働きの始まりを意味します。そして、弟子たちの働きである宣教・伝道を、私たちは継承し続け、今もこうして行っているのです。
次の主日礼拝から、私たちはこの弟子たちの働きについてルカが記録した「使徒言行録」を読み始めます。弟子たちが直面した数々の試練、今に至るまで教会がさらされる様々な苦難、そしてその都度 差し伸べられる主の恵みと導き、守りと支えをご一緒に導きを祈り願いつつ、心躍らせながら読み進みましょう。今日の御言葉を通して、イエス様が弟子たちになさってくださったように、心の目を開かれて御言葉の恵みに与りつつ、手を携えて進み行きましょう。
2025年6月15日
説教題:平和があるように
聖 書:イザヤ書35章1~4節、ルカによる福音書24章36~43節
…イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。」
(ルカによる福音書24:38~39)
前回の礼拝では心をひとつとされて聖霊の恵みに与り、教会の誕生日・聖霊降臨日の礼拝をささげました。今日は、再びルカによる福音書の講解説教に戻ります。
復活されたイエス様は、信仰の友を見捨ててエマオへ逃げようとしていた二人の弟子に現れてくださいました。このように憶病で卑怯な自分たちさえ、イエス様は見捨てない ― その主の愛に心の目を開かれた二人は急いでエルサレムに戻りました。再び他の弟子たちと合流し、復活のイエス様に会ったことを知らせたのです。他の弟子たちも、ペトロが復活のイエス様に会ったと話していました。
そのような状況の中で、今日の聖書箇所の最初の聖句の出来事が起こりました。その聖句、ルカによる福音書24章36節をお読みします。「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」
弟子たちが、イエス様は本当に復活されたのだ、いや、やっぱり信じられないなどと話しているその輪の真ん中に、イエス様が現れたのです。これは、弟子たちでなくてもびっくりです。弟子たちは、現れてくださった復活のイエス様を、亡霊・幽霊だと思って怖がりました。これには、世界共通のある事柄を思わずにはいられません。私たち人間は、死んだ人が亡霊・お化けとしてこの世に戻ってくるのを、たまらなく恐ろしいと感じるのです。
弟子たちは、また私たち人間は、どうして亡霊・お化けを怖いと思うのでしょう。その理由を、イエス様はよく知っておられます。38節のイエス様の言葉から、それが伝わってまいります。38節をお読みします。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。」
日本語だと分かりにくいのですが、「心に疑いを起こす」という言葉は、聖書のもとの言葉では「意味づけをしようとする」「理屈をつけようとする」という単語です。それを踏まえると、イエス様が弟子たちにこうおっしゃったことがわかります。「どうして、自分たち人間の理解で、目の前に起こっていることを意味づけようとするのか。」
私たちが亡霊・幽霊・お化けが怖いのは、それが人間の合理性・理性では説明できず、不思議だからです。人間には見えるはずのないもの、ましてそれが人間にとって最悪の死、一度死んだら帰って来られないはずの死から戻って来たものだから、私たちは怖くてたまらないのです。
生きている間は家族や友人、知り合いでも、死から戻ってきたら何か恐ろしい別物になっているのでは…とつい考えてしまうのが、私たち人間なのです。そして、人間は空想の世界でゾンビなるものを作ったり、この世に復讐をしに来たお化けだと妄想したりして、ますます怖がります。この人間の認識する力の限界を、イエスさまは「なぜ うろたえるのか」とおっしゃりながらも、実に優しく寄り添ってくださいました。
イエス様は弟子たちに、ご自身がこの世の姿のまま、復活されて何も変わっていないことを示されました。だから、こうおっしゃったのです。39節を拝読します。「わたしの手と足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
イエス様が弟子たちに「見なさい」と言われた手と足には、十字架に架けられた時に釘で打たれた跡がそのまま、残っていました。その傷を見て、弟子たちはようやく、「お~、本当にイエス様そのものだ!」と気付かされました。彼らは大喜びしながらも、どうしてこういうことに…と不思議がりました。復活は人間の理性を超える神さまの御業・神さまの次元の事柄だから、理屈をつけようとするのはやめなさいとイエス様に言われたのに、なおもわけを知りたがる弟子たちです。
その弟子たちに、イエス様はなおも寄り添ってくださいました。命ある者のしるしのひとつとして、エネルギーを補充することが挙げられます。動物は食事で、植物は光合成で命を保ちます。凍結状態になって長く命を維持できるクマムシ、植物では1000年以上たって発芽した蓮の種などがありますが、今はいわゆる「活動状態」での生命体をお考えください。イエス様は、肉と血潮をお持ちの命であることを示してくださろうと、弟子が差し出した焼いた魚を食べてくださいました。イエス様のご復活に驚き、戸惑う弟子たちに寄り添ってくださるイエス様の優しさが、伝わってまいります。
その今日の聖書箇所では、復活についてたいへんたいせつなことを心に留めていただきたく思います。お伝えすると、なんだ、当たり前ではないかと感じられると思います。しかし、決して誤解してはならない、軽んじてはならないことなので、あらためてお伝えします。それは、イエス様の復活はまさに現実に起こった出来事・リアルそのものの出来事だったという事実です。
イエス様は、地上のお体のまま、まったき人間でありまったき神さまであるその人間のまま、よみがえられました。この箇所から私たちがあらためて読み取るようにと導かれているのは、復活がイエス様の教えが今も生きている、という比喩表現や象徴的な事柄ではないというたいせつな事実です。真理です。この事実から、私たちの信仰は精神世界・魂の事柄、いわゆる形而上的な事柄では「ない」ことがよくわかります。
私たちは全身全霊で創造主なる父・御子イエス様・聖霊の三位一体の神さまを信じています。つまり、肉体・精神・魂・理性・心を分けることなく、身も心も神さまのものなのです。
それは、聖礼典 ― 洗礼式と聖餐式を考えるとよくわかります。洗礼を受ける時、私たちは言葉で信仰の誓いを立てるだけではありません。薬円台教会もそうですが、比較的多くの教会で、滴礼と呼ばれる仕方で、実際に頭に水をそそがれて、清められます。教派によっては、頭だけに水をかけるのでなく、水槽に水を満たし、全身をそこに入れて洗礼を受けます。これを浸す礼と書いて浸礼と呼びます。
また聖餐式の時、私たちは読まれる式文を聴くだけではありません。実際にイエス様がご自身の体とおっしゃって裂いてくださったパンと、流された血潮なるぶどう酒を体に入れ、味わいます。私たちは理性だけではなく、感覚をもって清められ、イエス様のみわざを体験します。愛されていることを、全身全霊で知るのです。
私たちは、聖書に語られている言葉を理解し、納得して、信じるのではありません。聖書を理解できるのを待っていたら、私などはいつまでたっても、たぶん今でも、洗礼を受けられなかったと思います。
弟子たちは初め、復活されたイエス様を亡霊だと思って、理性・知性ではわからないから信じようとしませんでした。信じられないと言うより、理性・知性に邪魔されて、信じようとしなかったのです。その彼らに、イエス様は理性・知性でわかろうとしてはならないとおっしゃってくださいました。それが、イエス様がおっしゃった「なぜ、心に疑いを起こすのか」という言葉です。
何度も繰り返しお伝えしていることですが、神さまは私たちとは次元の異なる方ですから、私たちに理解しきれるはずがありません。造られた恵みを知り、愛されて今も見守られている幸いを体と心、魂で知って感謝にあふれるのが信仰です。心にあふれた感謝が、他の誰かへの優しさや思いやりになるように、主よ、お導きくださいと祈りつつ生きるのが信仰生活です。
今日の聖書箇所で、イエス様が弟子たちの真ん中に現れた時に言われた言葉を、最後にご一緒に思い巡らしましょう。イエス様は、こうおっしゃいました。「あなたがたに平和があるように。」この「平和」という言葉は、もとの聖書では「ひとつである」という意味もある単語です。
近年、よく使われるようになった言葉に「まるっと」という表現があります。「まるごと」「ひとくくりにして」「全部」と言いたい時に、若い世代の方々が使います。イエス様がおっしゃった「平和」、聖書のもとの言語の言葉では「エイレーネー」という言葉は、その「まるっと」に近いように思います。ご復活のイエス様が弟子たちの真ん中に現れる前、彼らはご復活を信じる・信じない、とばらばらの思いを持っていました。 実際に弟子たちのうち、二人はエマオという別のところをめざして一度、逃げ出してしまったのです。ばらばらにならず、ひとつであるように、あなたがたは「まるっと」わたしの弟子であるように、とイエス様は現れてくださいました。
弟子たち、つまり教会である私たちは、よく羊の群れにたとえられます。羊は「群れとしてひとつ」、「まるっと群れ」でないとなりません。迷い出た羊は、生きていけないからです。私たちの神さま、御父・御子イエス様・聖霊の三つにして一人の神さまは、私たちに生きてほしい、ずっと一緒にいてほしいと願ってくださっています。
今日は、三位一体主日です。私たちの神さまが、父・子・聖霊の三つにして一人の神さまであることを、今一度、深く心に留めましょう。私たちのために命を願い、その永遠の命を私たちに約束してくださるためにこそ、父は御子イエス様を世に遣わし、十字架の出来事によって私たちを死から救い出されました。ご復活は、そのみわざが成し遂げられたことの表われです。
イエス様は聖霊を通して、私たちに「平和があるように」「ひとつとされるように」と今日もおっしゃってくださっています。その御言葉に従って、この新しい週も全身全霊をもって主の導きに従い、ひとつの神の家族として力強く進み行きましょう。
2025年6月8日
説教題:故郷の言葉で福音を
聖 書:創世記11章1~9節、使徒言行録2章1~13節
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、‟霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
(使徒言行録2:1~4)
今日は聖霊降臨日で、ペンテコステ礼拝をささげています。「せいれいこうりん」とは耳慣れない言葉ですが、「聖霊」が「降って」、私たち人間に「臨んで」くださった、と書いて聖霊降臨です。ペンテコステとは、新約聖書のもとの言葉・ギリシャ語で「五十番目」をさす言葉です。何が、何から五十番目なのでしょう。「イエス様のご復活から数えて、五十番目の日」です。この聖霊降臨日・ペンテコステは、私たち教会にとってたいへん大切な、重要な日です。
教会は、三つの日を重んじてお祝いします。ひとつはイエス様のご復活・イースター、もうひとつが、イエス様のご降誕・クリスマスです。そして、もうひとつが、今日の聖霊降臨日、イエス様のご復活から五十日目のペンテコステです。
ご復活されたイエス様は、天の父の右の座に戻られました。イエス様がこの世に来られたのは、天の父なる神さまに遣わされたからです。私たち人間が神さまを目で見ることができず、そのために神さまを信じることが難しかったので、神さまは、御子イエス様を世に遣わされました。神さまは、ご自身の御子イエス様を、私たちと同じ人間の体を持ち、目で見てお声を聞くことのできる方としてこの世に遣わしてくださったのです。
それでは、イエス様が天に戻られたら、また私たち人間には、神さまが信じられなくなってしまうのでしょうか。いえ、そうならないために、イエス様は、ご自分が天に戻られる時に、弟子たちに約束をしてくださいました。
私たちはここしばらく、日曜日の礼拝で、ルカによる福音書の講解説教を聴いています。前回ご一緒に聴いた聖書箇所の少し先に、イエス様が天に昇る時に語られた、弟子たちへの約束の御言葉があります。その聖句を、お読みします。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ福音書24:49)イエス様は弟子たちに、イエス様が御父の右の座に戻られても、イエス様が地上においでになった時のように、神さまの御心どおりに聖書の言葉を説き明かし、語る力が、必ず高い所・天から送られてくると約束されました。この「約束されたもの」こそが、聖霊なのです。
神さまは、そしてもちろん神さまと一体であるイエス様は、約束を守る方です。ご復活から50日後の五旬祭の日、ペンテコステの日に、天から約束されたもの・聖霊が降りました。その出来事を語るのが、先ほど司式者がお読みくださった今日の新約聖書の御言葉です。私たちキリストの教会は、毎年、それを記念して、こうしてペンテコステ礼拝を祝っているのです。
あらためて、聖霊とは何か・どんな方かと申せば「イエス様が天に昇られてから50日後に、イエス様と入れ替わるように、私たちに寄り添って、私たちに神さまの御心を伝え、聖書の言葉を理解する力を与えてくださる方」です。
また、神さまは聖霊を通して私たちの心に、魂に語りかけてくださいます。私たちは神さまの御前に静まる時、祈る時、その聖霊を求めます。だから、私たちは礼拝の前・集会の前・祈りの前に「聖霊で満たしてください」と祈るのです。
聖霊の恵みとして、皆さまの心に留めておいていただきたいことを今日は三つ、お伝えします。ひとつは、聖霊が御言葉の力を現すことです。今日の新約聖書の言葉・使徒言行録2章が語る聖霊降臨の出来事は、それを私たちに伝えてくれています。
「炎のような舌」が、そこに集まっていた者一人一人の上にとどまった、と語られています。舌。それは、言葉を語ります。教会で、また聖書で、言葉は特に深く大切な意味を持っています。世界を造られた天地創造の時、神さまは言葉で「光あれ」とおっしゃって、光はその御言葉に応えて現れました。天地創造は、言葉による創造です。また、ヨハネによる福音書は「初めに言葉があった」と語り、神さまが、またイエス様が「御言葉」そのものの方であると明確に述べています。この「御言葉」とは「言」と聖書では書かれていて、私たちがコミュニケ―ション・意思疎通のために用いる言葉を超えています。神さまの言葉・「御言葉」は、意味を伝えると同時に、感動を伝えます。神さまの私たちへの深い愛、イエス様が私たちの代わりに命を捨ててくださった深い愛が、聖書の言葉・「御言葉」にこめられているからです。
今日の聖書箇所の11節後半をご覧ください。「炎のような舌が一人一人の(弟子の)上にとどまる」と、弟子たちはさまざまな外国語で語り始めました。彼らは、外国語で、同じひとつの事柄・同じひとつの内容を語っていました。その内容とは、そこに記されているように「神の偉大な業」です。
「神の偉大な業」とは、救いの御業です。イエス様が十字架で私たちのために死んでくださり、それによって私たちを罪と滅びから救い出してくださり、復活されたことです。弟子たちは、様々な言語で同じひとつの恵み・救いの福音を語り始めたのです。
今日の聖書が語る出来事は、たいへん不思議なことのように思えます。しかし、思えば、同じことが毎週、全世界の教会で行われています。日曜日ごとに、世界中のキリストの教会で、ありとあらゆる国の言葉で礼拝が献げられ、聖書の御言葉が読まれ、主の愛が語られ、イエス様の十字架の出来事とご復活の救いの福音が告げられています。
今現在、すべてのキリストの教会が行っている「教会のわざ」が最初にあらわされたのが、今日の聖書箇所が告げる五旬節・ペンテコステの日でした。だから、聖霊降臨日・ペンテコステは「教会の誕生日」とも呼ばれています。
今日、聖霊について心に留めていただきたい二つ目のことは、聖霊が神さまの愛によって、神さまと私たちを結び合わせ、教会の兄弟姉妹の絆を結ばせ、さらにはあらゆる人と隣人愛でつながる愛の力の表われだということです。知らなかった者同士が、教会で出会い、日曜日ごとの礼拝で週に一度、顔を合わせます。お互いに思いやり、祝福や癒しを祈る司式者の祈り、献金祈祷者の祈りに「アーメン」すなわち「賛成!」「そのとおり!」と声を合わせて心をひとつとされます。
教会生活を始めると、私たちにとってはそれが当たり前になるのであまり感じませんが、考えてみると、実はこれがすごいことです。血縁や地域の自治会のつながりでもなく、この世の生業(なりわい)つまり仕事が同じわけでもなく、何かの利害関係を持つわけでもなく、ただ神さまに招かれてイエス様に従う決心をしたことのみによって集められ、地上の生涯にわたり、また死を超えて、会い続け関わりを持ち続けるのが私たち教会です。教会を「神の家族」と呼びますが、なるほど本当に神さまの家族として、私たちはこの世を生きています。
今日は説教題に、今日の聖書箇所からいただいた「故郷の言葉」という言葉を入れました。私たちは主にあって、イエス様を長子とする兄弟姉妹とされる神の家族・教会です。主にある私たちの故郷は、教会を通して仰ぐ天の御国です。フィリピの信徒への手紙3章20節には、それがこうはっきりと記されています。「わたしたちの本国(国籍、故郷)は天にあります。」
イエス様の十字架の出来事とご復活で救われた恵みを信じ、永遠に天の故郷(ふるさと)を共にめざして生きるようになった愛の家族・神さまの家族が私たち教会です。この救いの福音の恵みを、私たちそれぞれの魂に知らせてくれる力こそが、聖霊なのです。
聖霊の愛の力は、知らない者同士を結び合わせるだけではありません。今日、皆さんにお伝えしなければならない三つ目のたいせつなこととは、聖霊の愛の力によって、損なわれたもの・こわれた関係が修復される恵みです。
一度、絶交状態になってしまった者同士が仲直りをして、さらに信頼を深め、互いに今まで以上に心を寄せ合い、助け合って進む ― そのような関わりの復活を聖霊は私たちの内で働いて、可能にしてくれます。
聖霊は、ダメになった関わり、心がばらばらになってしまった人間関係、なによりも神さまに背いて壊してしまった信仰をもう一度、修復し、復活させる力です。イエス様が逮捕された夜のペトロを思い出してみましょう。ペトロはイエス様を三度も知らないと言ってしまい、激しく後悔して号泣しました。もう取り返しがつかない、イエス様との関係を自ら破壊してしまったと絶望したからです。しかし、復活されたイエス様は、ペトロと会ってペトロとの愛の絆が切れてしまっていないことを告げてくださったのです。
今日の旧約聖書はバベルの塔の話を伝えています。人間は、れんがを造ることを知り、アスファルトを発明して何でもできる力を持ったように思い、天、すなわち「神さまの領域」に踏み込もうと傲慢になりました。
人間の知恵の成果は、善も悪も両方もたらします。たとえば、原子爆弾を武器として用いると、それは悪魔の所業になります。人類で最初に原子爆弾の攻撃を受けた国に暮らす者として、私たちはそれをよく心得ています。しかし、原子を活用する知識は、平和時に用いれば原子力発電として社会に大きく貢献します。真の善悪の判断は、神さまがなさる御業で、人間は神さまの領域に踏み込んではなりません。
創世記のバベルの塔の話では、人間が神さまの領域である天に侵入しないよう、自分を神とする偶像崇拝に陥らないようにと、人間の増長を神さまが阻止してくださいました。傲慢にならないようにと、互いの言葉がわからないようになさったのです。こうして、神さまは人間が、自分を神とする危険・神さまへの背きの罪から守ってくださいました。しかし、その守りの代償として、人間は全地に散らされました。
長い旧約聖書の時代を経て、新約聖書の時代に、バベルの塔と逆のことが、聖霊降臨日に起こりました。聖霊によって、弟子たちはさまざまな言語で、しかし、まったく同じ内容・神さまの偉大な業・福音という同じひとつのことを語り始めました。心がひとつとされたのです。心がひとつになるとは、敵・味方の対立が消えることです。
聖霊によって主の愛を知らされた私たちのめざすところ、平和を築く希望がここにあります。残念なことに、この世界に、まだ平和はありません。しかし、聖霊を信じ、イエス様の愛を信じ、父なる神さまを共に仰ぐことで、私たちは平和への道を与えられています。聖霊の御力で満たされて、私たちは平和を築くようにと導かれています。聖霊に心を満たされて、今日から始まる一週間を歩んでまいりましょう。
2025年6月1日
説教題:主は生きておられる
聖 書:イザヤ書35章5~6節、ルカによる福音書24章13~35節
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目は開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
(ルカによる福音書24:30~31)
イエス様が復活された日、十字架で死なれた金曜日から三日目の日曜日、エルサレムから急いで遠ざかろうとする二つの人影がありました。都から11キロ、歩いて2時間ほどのところにあるエマオという村に向かうイエス様の二人の弟子の姿でした。
イエス様の伝道の旅に付き従ってきた二人でしたが、木曜日の夜から起こった出来事に翻弄され、すっかり困惑していました。木曜日の夜、イエス様と過越祭の食事をして祈りの場に出かけたところ、イエス様は急に逮捕されてしまいました。恐ろしさのあまり、ペトロ以外の弟子たちはその場から逃げ散り、翌日にはイエス様が十字架に架けられて死刑に処せられました。弟子たちは気が動転したまま、土曜日の安息日を過ごしたのです。そして、日曜の朝、イエス様が葬られた墓に出かけた女性たちからイエス様のご復活を天使が彼女たちに告げたと聞かされました。
弟子たちは、この女性たちの話を信じず、聞き流しました。ところが、木曜日の夜からひどく落ち込んでいた一番弟子のペトロは、その話に鋭く反応しました。すぐ、墓に走って行ったのです。ペトロは、驚愕した様子で戻って来ました。ペトロから、弟子たちは本当にイエス様のお体が墓にないと知らされました。女性たちから聞いたイエス様の復活を、たわ言と聞き流していた弟子たちのうちの何人かが、それを聞いて、ペトロのようにイエス様の墓に向かいました。
その場に残った弟子たちもいました。そのうちの二人の視線が、ふと合いました。二人は互いに同じことを考えていると、すぐにわかりました。この混乱に付き合っていると大変なことになる、自分たちも逮捕される、今の間にこの場からできるだけ遠くに逃げてしまおう ― 二人は、そう考えたのです。
これまでイエス様に導かれ、他の弟子たち、また女性たちと共に過ごしてきた二人でしたが、もうこれ以上は一緒に行動できない、そう感じていました。二人は、イエス様を死刑にしたユダヤの祭司長や律法学者たちが、何らかの陰謀を巡らせてイエス様のお体を墓から隠し、お体を盗んだ罪を弟子たちになすりつけ、逮捕しにやって来ると想像を巡らしました。こんなことに巻き込まれるのはごめんだと、二人は思いました。そこで二人の弟子は、エルサレムから逃げ出すことにしたのです。
とりあえず、近くの村・エマオに向かいました。この二人は、他の弟子たちや、一緒にガリラヤからやってきた女性たちを見捨てたのです。罪悪感がなかったわけではありません。だから、彼らはエマオへの道を歩きながら、木曜日からの「一切の出来事」(ルカ24:14)を語り合わずにはいられなかったのです。
すると突然、その道を後ろから来た人、つまりエルサレムから来た人に、こう声をかけられました。かけられた言葉は、今日の聖書箇所 ルカによる福音書24章17節です。お読みします。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」。
二人に声をかけたのは、復活されたイエス様でした。しかし、気が動転し、おびえきり、困惑している二人の弟子には、それがわかりませんでした。今日の聖書箇所 ルカによる福音書24章16節にあるように、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」のです。
エルサレムで起こった一大事、あの言いようもなくむごい事件を知らない人がいるのか…と、二人の弟子は「暗い顔をして立ち止ま」(ルカ24:17)りました。二人の顔が暗くなったのは、自分たちが仲間を見捨てて逃げていることへの罪悪感からだったかもしれません。あのひどい出来事を、言葉にして語らなければならないつらさもあったでしょう。それでも二人は、自分たちにわかっている事の次第を、声をかけて来た人に語りました。
今日の聖書箇所では、19節から24節にかけて、二人の言葉が記されています。この箇所には、この二人の弟子がイエス様がメシアであることに間違った期待をかけていたと記されています。21節で、弟子たちはこう話しました。お読みします。「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」この二人だけでなく、イエス様のことをそう考えたユダヤ人は実に多かったのです。
二人の弟子は、イスラエルの独立へとユダヤの民を導くのが救い主メシアで、メシアはユダヤ民族のためだけに働くと考えていたのです。イエス様は、弟子たち二人の間違ったメシアの理解を正しく導く説明をしてくださいました。27節にこう記されているとおりです。(イエス様は)「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された。」聖書・御言葉の恵みを、イエス様ご自身が二人に説教してくださったのです。
神さまが、わけへだてなく、すべての人間を神さまに愛され、神さまを愛し、互いに愛し愛される「極めてよい」ものとして造られ、その中でも特に奴隷として苦しんでいたユダヤの民に目を留めて その苦しみから救い出してくださったことから、イエス様は弟子たちに語られたのではないでしょうか。
そしてユダヤの民ばかりでなく、全人類が神さまを信じてひとつとされ、一人の力だけでなく主の民・共同体として生きるよう、神さまに導かれていると語られたのでしょう。
弟子たち二人は、この見知らぬ道連れが語ってくれる神さまの愛に心が熱くなるのを感じました。この人の語りは、いつまで聞いていても聞き飽きず、彼らはもっと話を聞きたくなりました。弟子たちは目指すエマオの村に到着した時、なおも先に行こうとする道連れを、一緒に宿に泊まるようにと無理に引き留めました。その人は、二人と共にいることにしてくれました。
共に食事の席に着いた時、道連れは食卓のパンを手に取り、賛美の祈りを唱え、そのパンを裂いて渡してくださいました。これは、弟子たちがイエス様と食事をした時、特に最後に過越祭の食卓を囲んだ時に、イエス様がなさったことでした。パンを裂き、これはあなたがたのために裂かれたわたしの体だ、とおっしゃってくださったことが、弟子たちにありありと思い出されたのです。
弟子たちは、ハッと気付きました。見知らぬ道連れと思っていたこの人は、イエス様だ!自分たちは仲間を見捨て、危険な状況のさなかに置き去りにしてしまったけれど、イエス様はそんな自分たちを決して見捨てずに、聖書に何が証しされ、愛と真理が語られていると教えるために、こうして現れてくださった!。
主はよみがえられ、生きておられます。イエス様は、弟子たちのために行動を起こし、御言葉を語ってくださいました。もし、イエス様が現れて語りかけてくださらなかったら、自分たちはずっと困惑と罪悪感を抱えたまま、暗い顔のままだっただろうと二人は思いました。エルサレムに置き去りにした仲間たちに将来、もしどこかで会えても、うしろめたさから合わせる顔がないと二人は感じていました。ところが、イエス様は彼らが陥りかけていたその罪の闇から、二人をつれもどしてくださったのです。二人は、罪への道から救われました。
十字架で死なれたイエス様は復活され、弟子たちを罪から呼び戻し、罪から解き放し、神さまにどんな時も愛されている安らぎ、また神さまを仰ぎ慕う熱い心をよみがえらせるために二人に現れてくださいました。
こうして、ご復活のイエス様が二人に会ってくださって、二人の遮られていた心の目が開きました。今日の聖書箇所の33節はこう語ります。お読みします。「(二人は)時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると。」二人はどうしたのでしょう。彼らは、夜の闇をものともせず、仲間のもとへと帰って行ったのです。
すると、そこには、イエス様のよみがえり・ご復活を信じて喜び合う仲間の姿がありました。33節の途中、先ほどお読みした続きから今日の聖書箇所の最後までを拝読します。「エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」
私たちの主は、生きておられます。復活されたイエス様は、もちろん今も生きて、私たちのために働いてくださっています。御言葉を語り、私たちをご自身のもとへ、主の御体なる教会へ、私たちの真の友の群れへと呼び戻し、この群れ・信仰共同体をいきいきと導いてくださいます。
今日、これから私たちは聖餐式の恵みに与ります。聖餐式を通して、私たちも、私たちのためにご自身の肉と血潮を分け与えてくださるイエス様をあらためて心の目で仰ぎましょう。この新しい一週間を歩み通す新しい力と、燃える心を賜りましょう。
2025年5月25日
説教題:主の御言葉を思い出す
聖 書:イザヤ書53章11~12節、ルカによる福音書24章1~12節
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」
(ルカによる福音書24:5b~6)
イエス様が十字架で死なれてから三日目、日曜日の朝を迎えました。今日、私たちがいただいている聖書箇所ルカによる福音書24節第1節は、こう語り始めます。「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。」この一文には主語がありませんが、この文は前の節から続いていると受けとめてください。ですから、「香料を持って墓に行った」のは、ガリラヤからずっと、イエス様の伝道の旅に従ってついてきた女性たちです。
彼女たちは、金曜日の十字架の出来事の後、アリマタヤのヨセフが慌てて、省略された、いささか雑な方法でイエス様を葬ったのを見ていました。それでは何ともイエス様がおいたわしいので、自分たちで葬りのわざを行いたいと、心を決めたのです。イエス様の血にまみれたままの傷ついたお体を拭き、葬りにふさわしく香料や香油、没薬で整えようと考え、すでに金曜日のうちには、手回しよく準備することができました。イエス様が亡くなられた翌日の土曜日、女性たちは主を失った悲しみと嘆きでうちひしがれていましたが、この決心が彼女たちを支えました。イエス様を、ふさわしく葬る、この計画をやり遂げようとの思いに支えられて、彼女たちは暗黒の土曜日・安息日で何の作業もできない、出かけることすらできない長い一日を耐え忍んだのでした。
日曜日の朝を待って、婦人たちは墓に向かいました。「明け方早く」と記されています。まだ闇が残り、うっすらとあたりが見えるようになった頃、と思われます。彼女たちは、準備した香料を携えて、朝露を踏みながら、一心に墓をめざしました。
当時のリビア地方の墓が、横穴の洞窟の形をしていることは、すでに何度かお伝えしました。死を忌み嫌い、生きている者が暮らすこの世から隔絶するために、その墓には大きな石で蓋をします。
さて、婦人たちがイエス様の墓に行ってみると、その墓の入り口をふさいでいた大きな石が「墓のわきに転がしてあり」(ルカ24:2)ました。どうしたことか、と彼女たちは思うこともなく、むしろ、おそらくこれ幸いと墓に入りました。墓に入る、まして洞窟のような形の墓に入るとは、私などには少し恐ろしく思えますが、イエス様のお体をきれいにしようとの思いでいっぱいの婦人たちはまったくたじろがずに中に進みました。
ところが、イエス様のお体は、そこにありませんでした。4節はこう語ります。お読みします。「婦人たちが途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。」(ルカ4:4)婦人たちは、この二人の人がこの世の者ではなく、天からの、神さまのからの御使い・天使であると直感したでしょう。自分たちの、いえ、この世の人間の理解常識を超えることが今、目の前で起きていることに恐れおののいて、彼女たちは「地に顔を伏せ」(ルカ4:5 )ました。
その婦人たちに、天使と思われる輝く衣の二人はこう告げたのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(ルカ24:5-6a)イエス様は生きておられる、死者の中にはおられない、復活なさったのだ ― 人間の理性・知性の常識をはるかに超えて、朝日のごとくこの世を照らす事実が語られました。
イエス様がよみがえられたと聞いて、婦人たちは伏せていた顔をパッと上げたのではないでしょうか。そこには、まず驚きと戸惑いの表情が浮かんだに違いありません。すぐには信じられず、喜べず、婦人たちは困惑するしかなかったと思います。
二人の天使は、イエス様のご復活を婦人たちが受けとめられるようにと、続けてこう言いました。6節後半からお読みします。「まだガリラヤにおられたころ、(イエス様が)お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人(つみびと)の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(ルカ24:6b~7)
イエス様の「言葉」を思い出すように。そう言われ、そのとおりに「婦人たちはイエスの言葉を思い出し」(ルカによる福音書24:8)ました。かつて、確かに、イエス様は十字架の出来事と復活を語られているのです。
ここで、皆さんに、特に心に留めておいていただきたいことをお伝えします。今年のイースター、4月20日の礼拝にて、私たちはマタイによる福音書の御言葉を通して主のご復活を祝い、永遠の命を約束されている恵みに与りました。マタイによる福音書で、復活されたイエス様は婦人たちの前によみがえりのお姿をあらわしてくださいました。挨拶の言葉を婦人たちにかけられたのを、覚えておられますでしょうか?
一方、私たちが講解説教として聴いているルカによる福音書では、ご復活のイエス様は墓の前・婦人たちの前にはあらわれません。先ほど、司式者が今日の聖書箇所を朗読してくださいました。聴いていて、または聴きながらお手元の聖書の言葉を黙読しながら、マタイによる福音書との違いに気付いた方が、皆さんの中におられると思います。今日、共に聴いているルカによる福音書では、イエス様のお姿がなくとも、イエス様からかつて語られた言葉を思い起こすことによって、婦人たちはイエス様の復活を知ったのです。
婦人たちの心に起こったことは、私たちと、今こうして教会として礼拝で御言葉の恵みに与っている私たちとまったく同じです。ルカによる福音書、そして同じくルカによって記録された使徒言行録は、教会を強く意識して記されています。
また「イエス様」「言葉」、この二語から連想して、今、ヨハネによる福音書の冒頭を思い出しておられる方がいるのではないでしょうか。そうです、ヨハネによる福音書1章14節は、イエス様のことをこう語っています。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
イエス様の言葉を思い出す、イエス様の言葉を思うとは、まさに御言葉なるイエス様・ご復活のイエス様が聖霊によって私たちの間におられると知ることです。
今日の聖書箇所に戻りましょう。こうしてイエス様のよみがえりを知らされた婦人たちがすぐに行ったことを、ルカによる福音書24章9節からお読みします。「そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。」
聴いたことを、知らせた ― これも、私たち教会が宣教・伝道活動として行っていることです。私たちは見なくても御言葉を通し、聖霊によってイエス様のご復活を信じて、永遠の命の希望を まだイエス様を知らない方々に伝えます。
婦人たちが弟子たちに伝えても、弟子たちですら「この話がたわ言のように思われたので…信じなかった」(ルカ福音書24:11)と記されているのは、私たちの伝道のなかなかに厳しい現実を示しているようで、たいへんリアルに響きます。
聖霊が働いてくださらなければ、人間は理性・知性の限界の壁を超えて 人間とは異なる次元におられる三位一体の神さまの出来事を信じられないのです。
弟子たちは婦人たちの話を聞き流し、墓に確かめに行こうともしませんでした。いえ、十一人全員がそうではありませんでした。弟子たちの中でただ一人、ペトロは違いました。今日の最後の聖句・12節をお読みします。「しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。」
他の弟子たちが真に受けなかったイエス様の復活を、ペトロは何としても信じたかったのです。ペトロはイエス様に会って、三度もイエス様を知らないと言ってしまったことを謝りたいと切実に願っていました。あれほど慕っていたイエス様との関わりを自分でぶち壊してしまったペトロは、ほんの少しでもイエス様と再び関わらせていただきたい、と心の底から思っていたのです。婦人たちの話のように、イエス様のご復活がほんのわずかでも現実のことであるという可能性があるのなら、それをこの身で感じたい、せめて、その話の出所をこの目で見たいとペトロは墓へ走りました。
十一人の弟子たちの中で、ペトロが最も自覚的にイエス様からのゆるしとイエス様との関わりの修復・和解を必要としていました。イエス様を必要としていました。いったいどのような人が特に強くイエス様を求め、イエス様に招かれるのか、イエス様ご自身が語っておられます。それを、ペトロも聞いていたはずです。その御言葉を、今、私たちも思い出しましょう。ルカによる福音書5章31節から32節の御言葉です。お読みします。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである。」
このイエス様の言葉を初めて聞いた時のペトロは、特に強い何らかの感慨を抱かなかったかもしれません。イエス様の一番弟子である自分が、この御言葉の「罪人」だという自覚は、それほどなかったのです。
一方、イエス様がオリーブ山で逮捕されてから後のペトロは、「罪人」の自覚を深く抱いていました。イエス様を三度も知らないと言ってしまった後、ペトロは自らの言動を深く悔いて号泣しました。その後も、自己嫌悪、後悔、罪悪感でその心は弱りきっていました。イエス様がその後、十字架に架けられたので、もうとりかえしがつかないと嘆いていました。もし、とりかえしがつくのなら、ひとめでもイエス様にお目にかかれるならひれ伏して謝りたい、とペトロは切実に願っていたでしょう。他の弟子たちがたわ言と聞き流したイエス様のよみがえりを聞いて、ペトロは、現実とは思えないその話に一縷の望みをかけました。
ペトロに罪の自覚があったから、この時、彼は特に強く激しくイエス様を求めていたのです。
しかし、少しご一緒に思いを巡らしていただきたく思います。罪の自覚を抱くことを、聖書は「悔い改める」と言い表します。「悔い改める」ことを「回心」とも申します。自分の方ばかり向いていた心の角度をくるっと反対向きに回し、「回心」して、神さまの方を向くことをさします。この時のペトロには明確な罪の自覚がありましたが、私たちには皆、同じ罪を犯す心の弱さがあります。私たちは皆、それぞれの欠点と弱さを持ち、勇気が足りなくて、ペトロのように、その場で自分を守ろうと浅知恵を働かせ、神さまの御心とは異なることを言ったりしたりしてしまう罪人予備軍、いえ、罪人なのです。
そして、誰も皆、イエス様を通して主の愛のゆるしにすがらなければ、自己嫌悪と恥で一歩も前に進めないように思う者たちなのです。
さて、墓へ行ったペトロは、中をのぞきました。そして、ただ亜麻布がそこに残され、イエス様がおられないことを確かめました。この時に、ペトロの記憶に浮かんだのは、婦人たちが天使に言われて思い出したイエス様がかつて、語られたお言葉、ご自身の十字架でのご受難と復活を予告するあの御言葉だったのではないでしょうか。それは、ルカによる福音書9章22節の言葉です。お読みします。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」あの御言葉のとおりに、イエス様は復活されたのかと、ペトロは驚き、不思議な思いと希望の入り混じった心を抱いて墓から家に帰りました。
しかし、私たちは知っています。墓にイエス様のお体がなかったと確かめたペトロは、イエス様の御言葉が実現したことを確信しました。主は生きておられる! 主はよみがえられた! 今も自分と共におられる!その確信・信仰によって、イエス様の言葉を思い出すことによって、ペトロは別人のように強められました。彼は伝道に邁進し、それから後の地上の歩み・この世での人生のすべてを主にささげました。
私たちも今、こうして共に御言葉をいただき、御心ならば聖霊によって強められて、会堂からそれぞれの持ち場へ、家へ、この世の営みへと向かおうとしています。御言葉なるご復活の主に強められ、聖霊に心に宿っていただいて、ここから世へと遣わされてまいりましょう。信仰の確信という安心をいただき、希望によって勇気をいただいて、この新しい週を進み行きましょう。
2025年5月18日
説教題:静かな勇気
聖 書:詩編42編1~9節、ルカによる福音書23章50~56節
イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。
(ルカによる福音書23:55~56)
イエス様は、過越祭の週の安息日の前日、金曜日の午後3時に十字架の上で息を引き取られました。ゴルゴタの丘での処刑に集まっていた人々は、それぞれの居場所に戻って行きました。丘には、イエス様を真ん中に三人の死刑囚の体が架かったままの三本の十字架が残されました。陰惨かつ陰鬱な空気が、そこに垂れ込めていたでしょう。
その陰鬱な場所に、とどまった人たちがいました。ヨセフという最高法院の議員と、ガリラヤからイエス様に付き従い、伝道の旅もご一緒した婦人たちでした。え?! 最高法院の議員?!と、皆さんは首をかしげたくなると思います。最高法院の議員たちが、イエス様を十字架刑へと追いやったからです。
今日の聖書箇所を読むと、最高法院の議員たちの中に、イエス様の処刑に同意していなかった人がいたことがわかります。今日の聖書箇所の冒頭・ルカによる福音書23章50節にはこう述べられています。お読みします。「さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。」
ここを読んで、私たちはこう思わずにはいられません。「善良な正しい人」、このアリマタヤのヨセフが最高法院で発言権を持つ議員としていたのなら、イエス様が欺瞞に満ちた裁判にかけられた時に イエス様のために反論したのではないか ― そのような記録は残っていないのか…。残念ながら、ルカによる福音書ばかりでなく、他の三つの福音書のどれにもそのような記述はありません。私たちにわかるのは、悪に塗りこめられ、悪が満ち満ちる最高法院の面々の中に「善良な正しい人」もいた、ということだけです。
神さまは、私たち人間を本来「良いもの」として造ってくださいました。創世記をお読みになれば、それは明らかです。私たちがどれほど神さまに背いてしまっても、そこにはほんの少しであっても「善良な正しさ」は残っていることが示されているように思います。神さまが私たちのうちに備えてくださった「良いもの」は、大きな声・大きな悪に押しつぶされているかもしれませんが、確かにそこに存在しているのです。
マタイによる福音書27章57節は、アリマタヤのヨセフについて「この人もイエスの弟子であった」と述べています。イエス様がエルサレムの町に入られてから、夜、闇にまぎれてイエス様のお話を聞きに来ていたのでしょう。自分の同僚たちがイエス様を目の敵にしている中で、アリマタヤのヨセフはイエス様が語られる御国の到来に希望をおいていたのです。しかし、最高法院の同僚たち ― 律法学者や長老たち ― に対して、ヨセフがイエス様の処刑を巡って強い反対の意思表示をしたり、徹底して反論する姿勢を取ったりすることはなかったと思われます。
このヨセフが、同僚の議員たちがゴルゴタの丘を去って行く中「勇気を出してピラトのところへ行き」(マルコによる福音書15:43)、イエス様のお体を十字架から降ろして自分に渡してほしいと願い出ました。イエス様のお体が、さらされたままになっていることに心を痛めたのでしょう。
また、ヨセフは律法に忠実という意味でも「善良な正しい人」でした。ユダヤの掟・律法の書であるモーセ五書のひとつ・申命記21章22〜23節にこう記されています。「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。」ヨセフは「正しい人」として、このきまり・掟を守るためにも、イエス様のお体を葬りたいから十字架から降ろさせてほしいとピラトに申し出たのです。
その願いは受け入れられ、ヨセフはイエス様のお体を十字架から降ろしました。それまで静かにしていた小さな「良いもの」、悪の力に圧をかけられていた「正しい人」は、ここで精一杯の勇気を奮いました。
イエス様を十字架から降ろしたこの行動で、アリマタヤのヨセフがイエス様の弟子であることが明確になりました。今後、最高法院議員の立場を保てるか危ぶまれる事態です。議員なのに死刑囚の弟子だったのだ、と悪評を立てられて失脚する可能性は高かったと思われます。ヨセフはそれでよい、イエス様の弟子であることを貫き通したいと思ったのではないでしょうか。
前回の礼拝で、私たちはイエス様が十字架上でどのように息を引き取られたかを御言葉に聴きました。イエス様は地上の命が尽きようとする中で、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で天の父に信仰告白をされました。天の父に従い通すイエス様の信仰が、アリマタヤのヨセフにイエス様の弟子であることを貫く勇気を与えた ― そう思えてならないのです。イエス様はこのように、どんな時も、私たち人間を強め、力づけてくださいます。
この時、ユダヤの暦では日付が変わろうとしていました。日没と共に翌日・安息日になるので、ヨセフは慌ただしくイエス様を葬りました。54節にこう記されているとおりです。お読みします。「その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。」安息日には何の作業もできないので、翌日の準備を日没までに済ませなければならなかったのです。
ユダヤの葬りのわざとは、文化・風習としては遺体を香油や香料、没薬で処理して亜麻布で包むエジプトの方法と同じです。この時、ヨセフは香油や香料を調達できず、亜麻布でイエス様のお体をくるみ、自分が所有していた新しい墓に納めることしかできませんでした。
55節に、ガリラヤからイエス様に付き従って来た女性たちがヨセフについて行き、葬りを見届けたと記されています。イエス様が息を引き取られるのを、遠くから見ることしかできなかった女性たちが、せめてもとの思いでイエス様の葬りに伴いました。敬愛し、慕ってやまないイエス様が無残な死なれようをなさり、女性たちの心には悲しみと嘆きが渦巻いていたでしょう。しかし、彼女たちの心は、悲しみと嘆きだけでいっぱいだったのではありません。次の行動を起こそうとの力が、与えられていました。彼女たちは、ヨセフがやむを得ず、十分な葬りのわざを行えなかったことに気付いて、自分たちの手でそれを行おうと決心しました。
ローマ帝国の法律によって死刑となった者の遺体に手を加えたら、自分たちの身が危うくなる可能性がかなり高い状況でした。同胞であるユダヤ人からも、処刑された、あのナザレのイエスの仲間だと嫌がらせを受けることも容易に想像できたでしょう。
それでも、彼女たちはイエス様の葬りのわざを、イエス様のために行いたいと願い、香油と香料を準備しました。直前まで、次々と起こる予想外・想定外の出来事に翻弄されて涙にくれるしかなかった女性たちが、自分で行動を起こそうとしたのです。
行動を起こす ― それは計画を持ち、そのために祈り、力と知恵を尽くすことです。計画の成就に向けて希望を抱き、前に進む勇気ある姿勢をもって、私たちは行動を起こすことができます。特に、その計画が自分だけのためではなく、他の誰かのためのものである時、信仰者にとっては主のため・主の御体なる教会の兄弟姉妹のため・隣人のためである時、確信に満ちた方向付けと力を与えられます。
イエス様のために、しっかりと葬りのわざを行いたい ― イエス様への愛と、最後の最後までイエス様に従いたいと思う心、そしてその計画のために前を向く力が、十字架で亡くなられたイエス様の死を通して彼女たちに与えられました。
コリントの信徒への手紙一 13章13節は、使徒パウロを通してこう語ります。「…信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」アリマタヤのヨセフと女性たちの最後の最後までイエス様に従いたいと思う心 ― これは信仰に他なりません。ヨセフがとっさにイエス様を葬る手立てを考えてお体を墓に納め、女性たちが、葬りのわざを完成させる計画を立てて前を向き、準備を行った ― これは希望です。そして、イエス様を深く敬愛していたからこそ、その愛によって、信仰と希望がヨセフと彼女たちに与えられたのです。
イエス様の十字架の死という最悪の出来事に直面して、彼女たちの心にあらためて湧き起こったイエス様への深い愛と信仰、そこからさらに生まれた勇気と希望が、翌日の安息日・暗黒の土曜日の間、彼女たちを支えました。
そして、私たちはすでに知っていることですが、土曜日の翌日、日曜日の朝にイエス様はよみがえりのお姿を彼女たちにあらわしてくださいました。良き葬りという彼女たちの計画・人間の計画をはるかに超える神さまのご計画・イエス様のご復活が、準備されていたのです。
より良い恵みが、私たちの行く手には常に備えられています。主に導かれている信仰の恵みを信じ、私も与えられている「良いもの」を発動させる小さな勇気、静かな決意をいただきたい ― 今日の聖書箇所を読みつつ祈り、私は説教準備をする中で、特にその思いを深められました。
私に与えられている「良いもの」は小さく弱く、さまざまな力に押されて黙ってしまう時があります。しかし、勇気は沈黙していても、無にはなりません。静かに息づいています。主のため・兄弟姉妹のため・隣人のためを思う時、イエス様はその小さく押し黙った、静かな勇気に力を添えてくださいます。その信仰の恵みを信じて、今日も、また今日から始まる新しい一週間も、心を高く上げて進み行きましょう。
2025年5月11日
説教題:主よ、御手にゆだねます
聖 書:詩編31編1~7節、ルカによる福音書23章44~49節
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
(ルカによる福音書23:46)
今日の礼拝でいただく御言葉には、イエス様が十字架の上で息を引き取られた時の出来事が語られています。その前日、洗足木曜日の最後の晩餐後の夜に逮捕されたイエス様は、夜通し暴力にさらされ続けました。その暴力とは、鞭打たれたり殴られたりといった体への暴行、そして虚偽と怠慢に満ちた裁判にかけられ、民衆に罵倒されるという言葉の暴力、心への暴力でした。
イエス様は、刑が執行される丘まで、痛めつけられたお体では十字架を背負いきることができないほど 弱っておられました。さらに十字架に手首と足を釘打たれ、その苦痛は激しく出血はおびただしく、十字架が丘に立てられてからは肺がつぶされて息が苦しく、窒息による最後の時が迫りつつありました。
今日の聖書箇所は、イエス様と他の二人の犯罪人に十字架刑が執行されたのが昼の十二時頃だったと述べています。「全地は暗くなり」(ルカによる福音書23:44)と44節後半に記されているように、あたりが暗くなりました。雲が太陽を覆って暗くなったのではなく、日食が起きたためにまさに45節にあるように「太陽は光を失っ」たのです。
人間の力を超える現象は、他にも起こりました。45節後半です。お読みします。「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。」この神殿の垂れ幕とは、神殿の最も奥まった部屋・至聖所の垂れ幕です。至聖所には、十戒を記した石の板を納めた契約の箱が置いてありました。
ここには、定められた祭司のうちから、さらに儀式を行う都度、そのためにくじで選ばれた祭司しか入ることができなかったのです。限られた者しか入れないように、至聖所は垂れ幕で厳重に仕切られていたのです。
アダムとエバが神さまとの約束に背き、最初の罪・原罪を犯してエデンの園から追放され、神さまのそば近くにいられなくなってしまったように、きわめて限られた以外の、ほとんどすべての人間は垂れ幕に遮られ、人間が肉の目で見ることが可能な神さまの証である契約の箱に近づくことができませんでした。
ところが、イエス様が地上の命・人間としての命を終えられるその時、そのへだての垂れ幕が真ん中から二つに裂けたのです。垂れ幕は、人間が、その罪のために神さまから隔てられていることを示す物でした。このへだての垂れ幕が、イエス様の十字架の出来事によって罪が贖われた恵みによって真ん中から裂けました。へだてが、取り去られたのです。
神さまと私たちはそもそも存在する次元が異なり、神さまと私たちの間には人間の罪という深い、深い谷間があります。イエス様は、十字架でご自身の地上の命を犠牲にしてその谷間のくぼみを埋め、天の父と私たちの間に橋をかけてくださったのです。
続く46節に、ルカによる福音書によるイエス様の地上での最後のお言葉が記されています。お読みします。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカによる福音書23:46)
この言葉は、今日の旧約聖書の聖書箇所 詩編31編6節の聖句と、かなりの部分が重なります。旧約聖書 詩編31編6節をお読みします。「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。」
詩編31編は、窮地に陥ってすべての人間に見捨てられた者 ― 詩編31編1節には「ダビデの詩」とユダヤの二代目の王ダビデによると記されています ― が、究極の、そして最強の救い手に助けを求める祈りです。究極の、そして最強の救い手とは、神さまです。
ありとあらゆるこの世の者に背かれ、憎まれ、疎まれても、神さまだけは深い愛をもって、その人を慈しんでくださいます。この世の何者よりも確かで、強い守りと助けを与えてくださいます。神さまを信じる・信仰をいただくとは、その神さまの確かさと愛を信じて自分のすべてをゆだね、お任せすることです。自分の願うようにではなく、神さまの御心が正しいのだから、この身をその通りに扱ってくださいと神さまの御手に自分を預けることです。それを信仰の告白として、この世の誰の前でも、そして全世界に向けてはっきりと言い表し続けて、私たち信仰者は生きて行くのです。だからこそ、詩編31編の祈りの人は救いを求める祈りとして「主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」と祈りました。
さて、今日の新約聖書の御言葉・ルカによる福音書23章46節に戻りましょう。今一度、この聖句をお読みします。「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』」
イエス様は天の父・神さまに向けて、ご自身が与えられた使命に忠実で、十字架でのこの世の死に至るまで神さまに従い通したことを大声で言い表されました。ある神学者は、このイエス様の神さまへの言葉を「十字架での勝利の声」と呼び、死刑の道具に過ぎなかった十字架がこの時に「力ある十字架」となったと考察しています。
イエス様の十字架でのご受難・お苦しみは、肉体的にも、精神的にも、社会的な立場の点でも、人間に考えられる最悪の状況でした。いわば この世のどん底から天の父に呼びかけた御子の御言葉は、父に命じられた最悪を成し遂げた雄叫びなのです。
思い出していただきたいことがあります。それは、私たちが苦境に陥った時に、たとえ苦しい現実が変わらなくても、それにもかかわらず、その苦しさに負けずに主から力をいただき、主が共においでくださることによって苦境に陥る前よりも強められて、困難に立ち向かえる恵みを、思い起こしていただきたいのです。私たちは弱い、にもかかわらず、その弱い時にこそ、主が共におられ、主がすでに世の出来事すべてに勝利してくださっている事実によって強められます。その幸いを、使徒パウロはコリントの信徒への手紙二 12章10節の御言葉で告げています。
十字架の上でこの世の命を終えられるイエス様は、この世のどん底にありながら、にもかかわらず、天の父によってこの世を越える誉れを与えられていたのです。それが私たちに明らかになったのは、三日後のご復活によってですが、実は福音書はこのイエス様の最期の御言葉でそれを知らされた者たちがいたことを述べています。
イエス様は、46節の最後の御言葉を叫んだ後に息を引き取られました。続く47節をお読みします。「百人隊長 はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。」 百人隊長とは、ローマ兵百人を束ねる隊長で、ローマ帝国の皇帝を神とする異邦人です。その人が、 イエス様の最期を目の当たりにしたことにより、私たちの信じる神さまを賛美したのです。
さらに、48節はこう語ります。お読みします。「見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。」「胸を打つ」とは、まさに「胸を打たれた」「心を打たれた」、つまり「深く感動した」ことをさします。イエス様に激しい嫉妬を抱き、憎んで十字架に追いやった陰謀者たちが、「十字架につけろ」と強く求めた烏合の衆が、また犯罪人が死んでゆくのを見物に来た悪趣味な者たちも、ある真理に確かに触れて、その輝きに心を打たれて帰って行ったのです。
人間には、まだ言葉では言い表せない大いなる何ごとかが確かに、イエス様の十字架の死によって起こりました。この出来事を、それまでイエス様を知っていた ― 慕っていた、と言い換えても良いでしょう ― 弟子たちをはじめとするすべての人々、そしてイエス様にずっと付き従っていた婦人たちは遠くに立って見つめていました。イエス様の最期の時、近くにいることができませんでした。
この出来事の意味が明確にあらわされ、イエス様の方から弟子たちとガリラヤから共に来た婦人たち ― 信仰者たち ― に近づいてくださるまで、彼ら彼女らは三日後のご復活を待たなければなりませんでした。
私たちは今日の御言葉から、イエス様がまったき人として最も神さまに忠実に生きた信仰告白を知らされています。天の父・神さまの御手にすべてをゆだねる恵みと平安を、日々 心で信じ、口で告白してゆだねるようにとイエス様は示してくださいました。
困難に出会うと、つい祈るのを忘れて、自力で何とかしようとじたばたする私たちです。ただ、祈ってばかりいて、困難から目を背け、立ち向かおうとせず、この自分に神さまが与えてくださっている力と時間と心構え・意志を尽くす人のわざを放棄してしまうのは、御心ではありません。まず、祈ることを忘れず、心を鎮めて、主が共に困難に共に立ち向かってくださるよう祈りましょう。そして、祈りの最後には、御心ならば この困難を乗り越えさせてください、この身と霊を主にゆだねますと祈りたいものです。イエス様がなさった信仰の告白を、イエス様にならってささげたいと、そう願うのです。
祈りは、神さまに こうしてください、ああしてくださいと自分の頼みを訴えることではありません。それは、自分の願いを中心にして、それを補佐してくださいと神さまに助手を頼むようで実に失礼です。私たちは神さまを中心に、神さまを主として生きています。だから、神さまの御心を中心に、御心のままにと身をゆだねなければ、祈りは祈りになりません。真実の祈り、真の祈りをささげられるよう、導きを祈りましょう。主に身をゆだねる時にこそ、真実の心の安らぎと力にあふれた希望が湧いてくることを信じましょう。この新しい週の日々の祈りの折りに、御手にお任せする信仰を告白しつつ進み行きましょう。
2025年5月4日
説教題:楽園の恵みは今、ここに
聖 書:詩編22編28~32節、ルカによる福音書23章32~43節
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
(ルカによる福音書23:42~43)
今日、ご一緒にいただく御言葉は、イエス様が十字架につけられ、死刑が執行された時の出来事を語っています。イエス様は服を剥ぎ取られ、十字架に釘付けにされ、その十字架が丘に立てられました。
イエス様が十字架に架けられた時、同じように処刑された死刑囚が二人いました。この時、処刑の丘には三本の十字架が立てられました。ローマ帝国の植民地となっていた当時のユダヤでは、宗主国ローマの法律により、言ってみれば普通のこと・日常の中でこうして見せしめの死刑が行われていたのです。三本の十字架が丘に立ったことで、イエス様が処刑されてゆく犯罪者の一人、たまたまその日、処刑されることになった三人の一人として扱われたというむごい事実を私たちは知らされます。
「イエスを十字架につけろ」と叫んだ民衆は、三本の十字架とそこに架けられた死刑囚の姿を立って見ていました。ユダヤの最高法院の議員たちも、その民衆の中にいたのでしょう。イエス様を徹底的におとしめたいという自分たちの思惑通り・たくらみ通りになったので勝ち誇り、イエス様にあざけりの言葉を浴びせました。
そのあざけりの言葉・35節の聖句をお読みします。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」他人を救ったとは、イエス様が本来ならば死刑になるはずだったバラバに代わるようなかたちになったことをさしていると考えられます。民衆を扇動して、バラバを解放してイエス様を十字架につけろと叫ばせたのは議員たちだったと言われていますから、議員たちは得意満面でイエス様を罵ったのでしょう。その尻馬に乗って、ローマの兵士たちもイエス様を侮辱してこう言いました。37節です。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
続く38節に記されているとおりに、イエス様の十字架にはこう落書きされた札が掲げられていました。「これはユダヤ人の王」。ローマ帝国から見れば、植民地であるユダヤの王を身の程知らずにも自称する愚かしい反逆者として、イエス様は死刑に処せられました。また、ユダヤの人々からすれば、イエス様は自分こそが神さまから遣わされた救い主メシアだとうそぶいて、自分たちを惑わし、神さまを冒瀆した者だから死に値するということになります。
ここで私たちが心に留めておきたいのは、この嘲りの言葉が、人間の考える「神」とは何かをよく示していることです。彼らは、イエス様を通して信仰をいただき、私たちが今、仰いでいる神さまとはまったく別の何かを「神」と言っているのです。その「神」は人間の理性による理解を超える力を、自分の都合の良いように使う「神」です。
この人間が考える「神」のイメージは、イエス様の時代も、今の時代もたいして変わっていません。私たちが福音を伝える時に、いらない雑音のように邪魔をします。彼らがイメージする「神」、この世が「神」と漠然と感じるものは、奇跡を起こして、絶体絶命の十字架の上から降りて自分のために自分を救う「神」です。
その「神」は、私たちが神さまと仰ぐお方ではありません。自分の力を見せつけるため、もしくは自分の都合の良いように現実を変えるために自分に備わった人間の目に映る現実を自在に変化させられる魔法使いか、超能力者か、超自然的な存在です。「神」というよりも何か化け物めいた不思議な力を持った何かです。
これまで何度か、皆さんにお伝えしたことですが、私たちの神さま ― 父・子・聖霊の三つにして一人の神さま ― は、ご自分の都合のために御力を使うことはありません。悲しむ者・苦しむ者・飢えている者のために、私たちの神さまは御力を使われるのです。
イエス様が奇跡のみわざを働き、多くの苦しむ者の病をいやし、四千人・五千人もの人々に食事を与え、時には死んだ者をよみがえらせたのは、私たち人間のためでした。
私たちの天の父は、この世によいものをもたらそうと天地を造られ、私たちを愛して造られました。御子イエス様はご自身ではなく、私たちを救うために十字架に架かってくださいました。聖霊は、そのまことの天の父と御子を私たちに知らせるため、わたしたちのために、今 働いてくださっているのです。
ご自身のためにはみ力を用いられぬイエス様は、どれほど惨めな姿をさらして耐え難い苦痛にあえいでおられても、決して十字架から降りることはなさいません。降りること自体はイエス様にとっていとも簡単なことですが、そうしたら 私たちは救われないからです。イエス様は、嘲る者たちのためにさえ、ローマ兵のためにさえ、そして時を越えて今という時代に生まれて来た私たちのために、十字架の上にとどまり続けてくださいました。
人間が考える超能力者のような「神」は、人間がその理性と想像力の限界の中で考えるから当たり前なのですが。皮肉なことに実に人間的です。人間的とはどういうことかと言えば、まず自己防衛本能があり、自分と自分の味方・家族、または利益でつながっている人間のために働き行動し、結果として自分のために自己中心的に生きるということです。その人間の限界を、人間には想像もつかない深い愛で突破して、さらにその愛で私たちを満たしてくださるのがまことの神さま、私たちがあおぐ父・子・聖霊の三つにして一人なる神さまです。
今日の聖書箇所が語る、人間の本質を言い当てている聖句をお読みします。39節です。「十字架に架けられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』」イエス様と一緒に死刑に処せられている二人のうちの一人さえ、死刑を見物している者たちと同じようにイエス様を愚弄しました。この人の罪は、マタイによる福音書には強盗と記されています。また、聖書学者や研究者により、イエス様の代わりに罪を赦されたバラバのようにローマ帝国に反抗する独立運動を起こし、その政治活動の中で暴行を犯してしまった者とする説もあります。
独立運動を起こしたことで捕らえられ、死刑と判決をくだされたとすれば、この罪人は自分が正義のために行動を起こしたのにこうなって、誰も救ってくれない、仲間にも見捨てられた、自分の人生は何だったのだと深く幻滅していたでしょう。ユダヤがローマ帝国の植民地にされているこの時代に生まれていなければ、こんな裁きは受けなかったのにと絶望していたでしょう。
違う時代に生まれていたならば違っていたと考える、その思考の背景には、歴史に表れる人間の移ろいやすさ・どうしようもなさ ― 私たち人間の限界すなわち罪の深さがあります。この犯罪人のイエス様へのののしりは、罪の深い沼にはまりこみ、この世と人に幻滅し、イエス様を、つまり神さまをも呪う言葉です。
この時、反対側の十字架につけられた犯罪人がその呪いをたしなめました。その言葉を40節からお読みします。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」たしなめたこの犯罪人は、イエス様が何も罪を犯していないのに十字架に架かられたと、わかっていたのです。
どうしてわかったのでしょう。それは、34節のイエス様の言葉を聞いたからです。イエス様は、34節でこうおっしゃいました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」イエス様は、悪意と自己中心的な保身という悪・罪によって罪なき者をこうして死刑に処している罪人たちの罪をゆるしてくださいと天の父に願い、執り成してくださいました。
十字架刑は十字架に釘で打ち付けられ、ぶらさがった自分の重みで肺がつぶれ、徐々に窒息して息絶えて行く実に残酷な死刑の方法です。一気に命を取らず、意識がある中でじわじわと死が迫って来るので処刑される者にとって何ともいやな、つらい時間が課せられます。
死刑となった者たちの中には、まだ声を出せるうちにと思って命乞いをする者も、いたでしょう。怖いとわめく者、自分は悪くないと訴える者がいたでしょう。そして自分に残っている気力と体力を使って呪う者も、今日の御言葉が語るように現にいたのです。
その中で、イエス様はただ天の父に祈りをささげ、罪のない者をこうして死刑にした民衆、最高法院の議員たち、そこにいたすべての者の罪をゆるしてくださいと願うことに、残りわずかな地上の命の力を使われました。天の父に、この人たちは自分で自分の罪さえわからず、自分のやっていることの意味がわからないのだから、どうか滅ぼさないでくださいとイエス様は祈ってくださいました。
罵った者をたしなめた犯罪人は、この祈りに驚いたのです。罪を犯した者の祈り、いえ、それ以前に、人間に祈れる祈りとは、とうてい思えなかったからです。
繰り返しますが、イエス様は十字架の上で地上のお命の最後の時間さえもご自分のためには使わなかったのです。私たちのために、ご自身のすべてを使い尽くしてくださいました。この深い愛の事実ゆえに、私たちはイエス様を救い主と知らされます。
今日の聖書箇所が語るこの犯罪者も、十字架の上でまさに救い主との出会いを果たしました。それを出会いとわかったからこそ、この人は42節でこうイエス様に願いました。「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」神さまに自分を知っていていただく、自分も神さまとの出会いをたいせつに心に留める ― この人は、その出会いを、まさに自分の命が尽きようとしている時に与えられたのです。
イエス様は、この人を祝福されました。それが、43節の御言葉です。お読みします。「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」こう言っていただいた犯罪者は、どれほどの安らぎで心を満たされたことでしょう。
この御言葉は、この犯罪者への言葉であると同時に、今 私たちに語られています。また、イエス様の御言葉は、豊かな祝福であると同時に、まごうかたなき事実です。イエス様と一緒にいる者、主が共においでくださる者は、今 礼拝をささげている私たちがそうであるように、世にありながら御国・永遠の命の約束をいただくからです。この祝福の事実のうちに生かされている恵みに、感謝いたしましょう。今日から始まる新しい一週間の一日一日を、イエス様が共においでくださる安らぎと喜びのうちに進み行きましょう。
2025年4月27日
説教題:主の十字架に従って
聖 書:イザヤ書35章1~4節、ルカによる福音書23章26~31節
人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。
(ルカによる福音書23:26-27)
前の主日に、私たちは主のご復活・イースターを共に喜び祝う恵みに与りました。今日の主日礼拝から、再びルカによる福音書の講解説教に戻ります。
イエス様は十字架を背負わされ、刑場までの道のりを歩かせられました。命を奪う処刑道具を死刑囚自身に背負わせるとは残酷そのものですが、それがローマ帝国の十字架刑のやり方だったのです。
十字架は地面に埋められる部分があるので、かなりの大きさです。背負って歩く途中で、イエス様はその大きさと重さに耐えかねて進めなくなりました。そこで、刑の執行者たちはシモンというキレネ人を捕らえ、イエス様の代わりに十字架を背負わせ、運ばせました。
キレネは現在のリビア、エジプトの西・アフリカ大陸の北の国にあった都市でした。地中海をはさんで ちょうどギリシャの対岸に位置し、ギリシャの植民地でした。シモンは「田舎から出て来た」と記されていますが、ギリシャの植民都市として五本の指に入るほど栄えた時代があったそうです。今日の聖書箇所が語るこの時代は、ローマ帝国が勢力をもっていたので「田舎」という認識だったのかもしれません。
このキレネのシモンという人は、エルサレムで祝われる過越の祭りを見物しに、外国からやって来た観光客だったのでしょう。姿や服装がエルサレムの人々とは異なり、イエス様が十字架を背負っている状況も理解できずに呆然としていたので 逆に目をつけられてしまったと思われます。シモンにとってはたいへんな迷惑ですが、拒むことはできなかったのでしょう。
その頃は、死刑には見せしめの意味がありました。死刑となるイエス様が先頭、その後ろに無理やり十字架を担がされたキレネ人シモンが続きました。27節には、こう記されています。「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。」
民衆は、今日の聖書箇所の直前で イエス様を十字架につけろと叫んだ者たちです。十字架刑の執行を見届けるため、自分たちの主張どおりに人が死んでゆくのを見たいという醜い支配欲と好奇心でぞろぞろとイエス様の後ろを歩いていたのでしょう。
「嘆き悲しむ婦人たち」は、ガリラヤからイエス様に付き従っていたナザレの女性たち ― ご復活のイエス様に会った女性たち ― ではありません。28節で「イエス様は婦人たちの方を振り向いて」こう呼びかけられました。「エルサレムの娘たち」。これまでイエス様の伝道の旅につき従って来た女性たちはエルサレムで暮らしているわけではありませんから、イエス様が彼女たちに「エルサレムの娘たち」と声をかけたとは考えにくいことです。また、今日の聖書箇所の少し先、イエス様が十字架で息を引き取られたことを語る23章49節にこう記されています。「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。」イエス様が十字架を背負わされている時・刑場のゴルゴタの丘をのぼる時、イエス様を慕っていた者たちは、この時、イエス様の近くにいることができなかったのです。
では「嘆き悲しむ婦人たち」とは、どんな人たちでしょう。「泣き女」と呼ばれる女性たちだった可能性が、聖書学者や研究者によって示されています。世界のさまざまな文化・ほぼあらゆる文化で、お葬式の時に嘆き悲しむ役割の者が存在しました。お金で雇われて、いかにも悲しげに泣く一種の職業だったとも言われています。中国をはじめとするアジアの文化、私たちが暮らす日本にも、また、中東からヨーロッパにかけても、かつて この風習がありました。
悲しみの場を盛り上げ、死を悼む「泣き女」の存在には、死が人生で最悪の出来事であるというこの世の人の思いがよく表れています。これから死刑になる人であっても、その人の死は嘆かれ、泣き女の嘆く声で人々は死の恐ろしさと禍々しさを心に刻まれなければならなかったのです。彼女たちは、そういう役割のため・死んでゆく人のため、ここではイエス様のために泣いていました。
イエス様は28節で、彼女たちに「エルサレムの娘たち」と呼びかけた後、当時の人々が驚くことをおっしゃいました。「わたしのために泣くな。」イエス様のためではなく、「むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」と言われました。どうして、イエス様はこうおっしゃったのでしょう。それは、いつか、この世の終わりの日が来るからです。
私たちは先週の主の日に、イースター礼拝をささげてイエス様のご復活を祝ったばかりなので、どうしてイエス様がこうおっしゃったかがわかります。イエス様の十字架の出来事と復活を信じる者にとっては、肉体の死の彼方に永遠の命が約束されています。終わりの日の向こうに、いつまでも神さまと共に生きることのできる幸いが待っています。
ところが、この救いの福音を信じない者にとっては、肉体の死が真実の最悪・いっさいの終わり、その後はすべて「無」です。この世の終わりはすべての終わり、まさに自分のために泣くしかない絶望なのです。イエス様は、救われないとはそういうことだと示すために、「嘆き悲しむ婦人たち」に向けて、彼女たちの現実を指摘されました。
続く30節の、イエス様の言葉をお読みします。「そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める。」この御言葉は、預言者ホセアが語った預言の言葉で、旧約聖書 ホセア書10章8節に記されています。
偶像崇拝を続けるユダヤの民に向けて、神さまが悲しみと怒りをあらわされて厳しく戒める日、その戒めの厳しさと苦しさに人々はいっそ山や丘に潰されて一気に無になる方が良いと言い始めるという預言です。
続く31節、今日の聖書箇所の最後の御言葉は解釈が分かれるところですが、神さまの戒めを戒めと受けとめることのできる「生(なま)の木」 ― 神さまと命の息でわずかにつながっている者 ― さえ、このように恐れおののくのだから、この戒めの意味がわからない「枯れた木」 ― 神さまを忘れている者たち ― は意味もわからずにただ滅びて無になると、神さまから離れてさまよい、御許に帰れなくなった者たちの空しさを告げておられると考えることができましょう。
ホロコーストの時代にナチスにより収容所に送り込まれ、生還した精神科医フランクルは、苦難について、苦難そのものよりも、苦難の意味がわからない時にこそ人はより深く悩み苦しみ、絶望すると語っています。「枯れた木」は、このように苦難の意味を知ることができず、絶望のうちに滅びてゆく神さまを忘れた人々をさすと言ってよいでしょう。
イエス様が語られたこれらの言葉から、ゴルゴタの丘を上るイエス様の後に続く十字架を背負った外国人シモンと、イエス様の死刑を求めて叫んだ民衆と泣き女たちは、何とも救いようのない、救いがたい人の群れのように読み取れます。イエス様とは関係のない、人の愚かさが凝縮された光景のように思えます。
しかし、実は、これは恵みの光景なのです。聖書のどの箇所にも神さまの恵みが語られています。今日、私たちに与えられているこの御言葉にも、私たちへの主の慈しみに満ちているのです。
もう一度、27節をお読みします。「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。」彼らが、イエス様に従っていた ― こう語られていることを、心に留めましょう。
ルカによる福音書9章23節で、イエス様はこうおっしゃいました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」さらに、ルカによる福音書14章27節で、イエス様はこうもおっしゃいました。「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」
この二つの聖句を読む時、私たちはつい、イエス様に従うには、自分を捨てなければいけない、自分の十字架を背負わなければならない、とイエス様に従うための条件を考えてしまいがちです。しかし、これら二つの聖句でイエス様が私たちに伝えてくださる最も大切なことは、イエス様についてゆくことです。イエス様に従うことです。どのようにしてであったとしても、どのような状態であったとしても、結果的にイエス様についてゆくことになったら、それはそれで、いえ むしろそれが、すばらしいことなのです。
今日いただいている聖書箇所で、自分はイエス様に関係がないと思っていた外国人シモン、イエス様を十字架につけろと叫んだ民衆、また、泣き女としてむなしく泣いて、もしかするとそのことでお金をもらってイエス様を利用している婦人たちは、現象として、事実として、イエス様に従っています。
イエス様はご自分の十字架をシモンが代わって担いだことで、シモンと関わりを持ってくださいました。イエス様を敵とみなし、十字架につけろと叫ばせることで、イエス様は民衆と関わりを持ってくださいました。泣くとお金がもらえるから、イエス様のために泣いた泣き女たちと、イエス様はここで関わってくださっているのです。
こうしてイエス様の方から関わってくださるのは、だれでも、どんな者でも、救うためです。キレネのシモンの名が今日、こうして聖書に残っているのは、彼の二人の息子 アレクサンドロとルフォスが信仰者・キリスト者となったからです。おそらく、シモン自身も今日の聖書箇所の出来事の後に、イエス様の福音を信じるようになったのでしょう。
私たちの人生のどこかで、イエス様は私たちに関わってくださいます。私自身のことを申せば、イエス様は私が幼い時に、教会学校で私に出会いをくださいました。同じご経験をお持ちの方が、私の他にも今、ここにおられます。教会附属の幼稚園に通ったこと、ミッションスクールでイエス様を知り、今、教会員になっておられる方も少なからず今、ここにおられます。どんなかたちであるにせよ、イエス様は私たちすべてにご自身との出会いを与えてくださいます。
薬円台教会の看板を電柱で見て、こんな所に教会がある、教会というものがある、と知ったご近所の方もいるでしょう。それがイエス様との出会いとしてその方の心に飛び込めば、その方はいつの日か、教会に来られるかもしれません。実に広い意味で、イエス様はこうして私たちと関わってくださり、世は大きな群れとなってイエス様に従っているのです。
この世は、十字架の出来事を超えて永遠の命へと進まれるイエス様に導かれています。絶望にとどまらず、イエス様に従って希望の道を歩んでいるのです。ゴルゴタの丘をご自身の命の終わりに向かって歩みながら、私たちすべての人間を永遠へと導いてくださるイエス様にあらためて感謝をささげましょう。今のこの世にどれほど多くの困難な課題があろうとも、ご復活の主にある希望を常に心にいただいて、今週も進み行きましょう。
2025年4月20日
説教題:主のご復活、平安の恵み
聖 書:イザヤ書12章1~3節、マタイによる福音書28章1~10節
すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
(マタイによる福音書28:9-10)
今日のイースター礼拝でご一緒に、洗礼式・入会式にて新しく薬円台教会に加えられた方々と共に、このように皆さまと主のご復活を祝える幸いを、心から感謝いたします。
金曜日に十字架の上で死なれたイエス様は、日曜日の朝早く、よみがえられました。預言されていたとおりに、復活されたのです。
イエス様のご復活を最初に知ったのは二人の女性でした。二人のうちの一人、マグダラのマリアは、イエス様に悪霊を追い出して癒していただいてから、ずっとイエス様に付き従ってきました。もう一人のマリアについて、私たちは知ることができませんが、二人とも、イエス様との出会いに深く感謝し、イエス様を師として仰ぎ、敬愛してやまなかったであろうことは、容易に想像ができます。
二人のマリアは、イエス様が十字架で息を引き取られた後、そのお体がアリマタヤのヨセフに引き取られ、ヨセフとニコデモがイエス様を葬るのを見届けました。それは金曜日の夕方のことでした。日没と共に土曜日・安息日が始まり、外出や作業がゆるされなくなるので、その葬りは慌ただしく行われました。イエス様のお体は、香油や没薬で十分には整えられずに、亜麻布でくるまれました。二人のマリアは、そのように、いわば雑に葬られたイエス様をおいたわしいと思いながら、遠くから見ていました。
当時のユダヤの墓は、洞窟・自然にできた横穴を利用したものが多く、イエス様もそのような横穴に葬られたと思われます。その入り口が大きな石でふさがれるところまでを、二人は見ていたのです。
翌日の土曜日・安息日を、二人は息を殺すようにして過ごしました。弟子たちをはじめ、これまでイエス様に付き従って来た者たちは、自分たちも最高法院の議員、祭司や律法学者たち、あるいはイエス様を死刑に処したローマ帝国の者たちに逮捕されるのではないかと怯えていたのです。その中、二人のマリアは安息日が過ぎて、日曜日になり、明るくなったらすぐに、イエス様のお体を香油と没薬できれいにして差し上げようと、ただそのことを思って耐え忍んでいたのではないでしょうか。
日曜日の朝がしらじらと夜が明ける頃、二人は墓に向かいました。イエス様の墓の前でローマ兵が見張りに立っていることに気付いて、二人は思わず立ちすくんだでしょう。この時、驚くべきことが起こりました。地が揺らぎ、天使が現れて墓をふさいでいた大きな石を脇に転がして、その上に座ったのです。
見張りのローマ兵は、主の御力の前には完全に無力でした。恐怖のあまり、死んだようになったのです。番兵たちの力を封じた天使は、二人のマリアに呼びかけました。「恐れることはない。」
天使は、番兵たちを恐怖で凍り付かせ、無力にしました。しかし、イエス様を慕い、その御力を知り、イエス様に愛されて天の父の愛を深く知った二人のマリアには怖がることはないと告げたのです。イエス様を通して神さまの愛を知り、真理への目を開かれて信仰者となる恵みがここに表されています。
十字架の出来事は、主を信じていない者にとっては実にむごい、残酷な処刑でしかありません。しかし、自分が十字架でイエス様に救われたと知っている者にとって、これはイエス様にしかおできにならない自己犠牲の愛のみわざです。三日後のご復活は、イエス様がご自身の地上の命を投げ打って私のために死なれたと知っている者にとってこそ、恵みの真実です。
信じない者にとっては、死からのよみがえりは絵空事にすぎないでしょう。また、イエス様のご復活も、死んでから再びこの世へとさまよい出て来る幽霊やゾンビと同じように不気味で忌まわしく、恐ろしいものにすぎないでしょう。イエス様の墓の入り口を大きな石でふさいだのは、そういうことが起こらないようにするためでした。また、墓の入り口を番兵に見張らせていたのは、かねてからイエス様がご自身の復活を語っておられたので、それが実現したと伝説を造ろうとする誰かがイエス様のお体を盗み出さないためでした。
イエス様の復活は、それらの人間のまがまがしい、あるいは狡猾な想像力をはるかに超える次元の異なる恵みです。人間が恐れる死を突破して、死の彼方に希望があることを知らせる大きな、大きな恵みなのです。天使が二人のマリア、この二人の信仰者に「恐れることはない」とはっきり言ったのは、この信仰による恵みの事実を告げるためでした。
だから、天使は続けて二人のマリアにこう告げました。6節をお読みしますので、お聴きください。「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」これは、大きな石で封印されていたにもかかわらず、墓の中にご遺体がない事実を見なさい、「ない」ということに神さまのみわざを知りなさい、ということです。
さらに7節の天使の言葉をお読みします。「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」再びイエス様に会える ― 主のみわざの真の幸い・信仰者の喜びは、ここにあります。死を超えてイエス様にまた会える、主は永遠に私たちと共においでくださいます。
続けて、8節を注意深く見てみましょう。こう記されています。「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び」 ― 二人のマリアは、イエス様との再会の希望を心にいただき、心に喜びがわいたのです。
そして9節。天使の言葉を二人は事実として受けとめました。「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」この「おはよう」と訳されている言葉は、もとの聖書の言葉では、「カイレテ」です。「カイレテ」は、「シャローム・あなたがたに平安があるように」と同じように「おはよう」、「こんにちは」、「ごきげんよう」にも使える挨拶の言葉ですが、元々の意味は「喜びなさい」です。
そのとおりに、マリアたちの心は喜びに満たされました。恐れは消え、イエス様の再会の嬉しさに満たされた二人は、イエス様の足を抱いてひれ伏しました。
日曜日の朝に、喜びに満ちて主の御前にひれ伏す ― ここに、私たちキリスト者の礼拝の原型があると申して良いでしょう。復活のイエス様の御前に静まって礼拝する、私たち信仰者・キリストの教会の最初の礼拝のかたちがここにあります。
復活のイエス様は、二人のマリアにこう言われました。今日の最後の聖句です。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」再会の喜びの約束を、弟子たちに伝えなさいとおっしゃいました。
私たち教会は、今日の聖書箇所を日曜日ごとの礼拝で繰り返しています。私たちは教会に来ても、自分の肉眼で見えるイエス様にお目にかかることはできません。しかし、御言葉を通してイエス様がよみがえられ、今は天の右の座におられる事実を知らされます。その事実を通して、イエス様が神さまから遣わされた御子であり、十字架の出来事が救いのみわざだったと知らされるのです。
二人のマリアが天使から、さらにイエス様から弟子たちにその真理を伝えに行きなさいと言われたように、私たちは主の日・主のご復活を記念する日曜日に礼拝から世へと遣わされて、未来の弟子たちにイエス様の十字架の出来事とご復活を伝えます。主が導かれる伝道のみわざに、こうして私たちは従います。喜びに満ち、イエス様との御国での再会を、またイエス様が世に再び来られるその時を、希望を抱いて恵みを伝えます。
信仰共同体・教会のその歩みを、信仰者のその生き方を、今日から始まる一週間、そして今日の礼拝後の総会から始まる新しい年度の一年間を貫いて進み行きましょう。
2025年4月13日
説教題:民衆の求めによって
聖 書:イザヤ書53章8~10節、ルカによる福音書23章13~25節
ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。
(ルカによる福音書23:20-21)
今日から、教会は受難週を歩み始めます。
この週の出来事をご一緒に思いめぐらしてから、今日の聖書箇所の恵みに与りましょう。週の初めの日の日曜日、イエス様は過越祭を過ごすために弟子たちを伴われて、神殿の町エルサレムに入られました、イエス様は神さまの教えを伝え、病を癒し、奇跡のみわざを行われ、たいへん評判になっていました。エルサレムの人々・民衆は預言されている救い主・メシアではないかと期待して、イエス様を大歓迎しました。手に手に持った棕櫚の葉を打ち振り、「ホサナ」の歓呼の声でイエス様をお迎えしたのです。受難週の初めの日・日曜日を「棕櫚の主日」と呼ぶのはそのためです。
月曜日から水曜日にかけて、イエス様は神殿の庭で人々に天の父について伝え、教えられました。祭司長たちや律法学者と律法をめぐる議論をなさいました。
木曜日は「洗足木曜日」と呼ばれています。イエス様は、弟子たちの足を洗い、彼らと地上での最後のお食事をなさいました。食卓でこれから十字架上で裂かれるご自身の体にたとえてパンを裂き、流されるご自身の血潮にたとえて杯を掲げて、これから御身に起こることを弟子たちに告げました。その後、いつもの祈りの場所であるオリーブ山・ゲツセマネの園へ赴かれ、ユダの裏切りによって逮捕されました。
木曜日の夜から金曜日の早朝にかけて、イエス様は4回、裁きの場に立たされました。死刑の判決を受け、ローマ帝国の処刑方法に従って十字架に架けられて、イエス様は金曜日の午後3時に息を引き取られました。
次の日・土曜日は暗黒の土曜日と呼ばれています。光であるイエス様が、この世におられなくなったからです。
ここまでが、受難週の日曜日から土曜日までの出来事です。しかし、暗黒の土曜日のままでは終わりませんでした。
イエス様は十字架で私たちの代わりに、わたしたちの罪を負い、罪をご自身の命で償い、本来ならば罪のために滅びなければならない私たちを救ってくださいました。私たち人間を救うこのみわざは、イエス様の御父・天の神さまの御心であり、ご計画でした。命がけで御心を成し遂げたイエス様を、神さまは誉れとなさり、復活させてくださったのです。
土曜日の翌日・日曜日の朝早く、イエス様を慕う数人の女性たちと弟子ペトロとヨハネは、イエス様がよみがえられたことを知りました。これが、復活日・イースターの朝の出来事です。私たち主を信じる者は、この復活の日・日曜日を記念してこのように日曜日を「主の日」と呼び、毎週日曜日に礼拝をささげます。
さて、先ほど イエス様が裁きの場に引き出されたのは4回と申しました。1回目は最高法院、2回目はピラトの尋問、そして3回目はヘロデ王の尋問でした。
ピラトはイエス様には罪がないと判断しましたが、最高法院の者たち・ユダヤ社会の中心にいる者たちがイエス様を死刑にと迫るので、判決を宣告しませんでした。ユダヤ社会の内輪もめだと察知し、ユダヤ社会の中で解決させることで自分の立場を守ろうとしました。
そこで、名ばかりの王ではありましたが、ユダヤの王・ヘロデにイエス様を引き渡しましたが、ヘロデもイエス様には罪がないと判断しました。ただ、権力を持たないヘロデ王も、ピラトと同じように最高法院の面々の顔色をうかがって無罪を宣告せず、ピラトのもとにイエス様を送り返しました。ピラトとヘロデの二人とも、このようなたいせつな判断をくだすのはあなたでしょう、とばかりに相手を尊重する振りをして、本来の責任を放棄しました。
イエス様がピラトのもとに戻されたところから、今日の聖書箇所が始まります。ピラトは、イエス様を死刑にと迫る最高法院の者たち ― 祭司長たちと最高法院の者として選ばれている議員たち ―と、民衆を呼び集めました。そして、こう言ったのです。
14節の最後の御言葉です。「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。」(ルカによる福音書23:14b)ピラトはローマ帝国から植民地ユダヤに派遣されている総督で、役人・高級官僚でした。ヘロデ王に引き渡した時とは打って変わって、思い切った発言と思いきや、実はここにもピラトが責任逃れをしようとしているあるたくらみがあったのです。
ピラトは、イエス様が民衆にたいへん人気があることをよく知っていました。説教の始めにお伝えしましたが、イエス様が逮捕された木曜日のわずか四日前、日曜日にはエルサレムの人々・民衆は手に手に棕櫚の葉を持って、イエス様を町の入り口で大歓迎しました。ピラトはこの民衆の大歓迎を深く印象にとめていて、これを利用しようと思いつきました。
祭りの時には、恩赦を行う習慣があります。「恩赦」は、おめでたいことがあると囚人の状況に応じて罪を軽くすることで、最近でも各国で実際に行われています。ピラトは、この恩赦を使ってイエス様を釈放しようとしました。そこで、「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない」と言ったのです。
ところが、18節にはこう記されています。「…人々は一斉に、『その男を殺せ。バラバを釈放しろ』と叫んだ。」(ルカによる福音書23:18)民衆はイエス様ではなく、バラバという人の釈放を願い、イエス様に死刑を求めました。ここに名前が挙げられているバラバという人物は19節にあるように、エルサレムの「都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていた」(ルカによる福音書23:19)人でした。ただのならず者であったとも、ローマ帝国への反逆を企て、ユダヤに独立運動を起こそうとしたとも伝えられていますが、はっきりしたことはわかっていません。
ピラトは20節で、再び人々・民衆にイエス様の釈放を呼びかけました。しかし、人々はイエス様を「十字架につけろ」(ルカによる福音書23:23)と叫び続けました。22節で、ピラトは三度目にイエス様の釈放を呼びかけましたが、人々は思い直すどころかいっそう激しくイエス様の死刑を求めました。23節をお読みします。「ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。」
人々はわめき出し、自分たちの要求を通そうとピラトに迫るその怒鳴り声は、民衆の暴動そのものにまで高まりました。ピラトはここで民衆を治める総督として、自分の呼びかけがまずかったことに気付きました。民衆をなだめるどころか、逆に民衆の暴動を招いていたのです。
前回もお伝えしましたが、ピラトが最も大事にしていたのは、自分の立場を守ること・保身です。今の状況を誰かがローマ帝国の皇帝に報告したら、自分は失脚して高級官僚の身分を失ってしまうことが目に見えていました。今の社会的地位と、満ち足りた生活を失ってしまうのです。自分と自分の家族の幸福が一番大事なエゴイスト・ピラトにとっては、イエス様が無実だという真実など、もはやどうでも良いことでした。
ピラトはただ、自分が任されたユダヤに何事も起こらず、民衆は騒ぎを起こさず、自分の評判が落ちなければそれで良かったのです。そこで、ピラトはこう決めました。今日の聖書箇所 24節と最後の聖句25節をお読みします。「そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。」(ルカによる福音書23:24-25)
「好きなようにさせた」とは、実にひどいと思わざるを得ません。また、イエス様を死刑につけろとわめく民衆に、恐ろしさを感じます。
週の初めの日曜日に、彼らはイエス様を大歓迎しました。ところが、そのわずか五日後の金曜日の朝には、彼らはイエス様を死刑にしろとわめきたてたのです。最高法院の者たちがイエス様の死刑を実現するために、民衆の中に手下の者を送り込んでそう言わせた、または扇動させたと言われています。その声 ―イエス様を死刑にしろ、十字架につけろという声 ― はどんどん大きくなりました。イエス様が自分たちの期待したメシア、ローマ帝国の支配から自分たちを解き放ってくれる独立運動の指導者ではないようだとわかったから、その期待がはずれた反動で、叫び出した者がいたでしょう。
その声にもまして、民衆を動かしたのは「まわりのみんながそう言っているから、自分も同じことを言おう」「みんなが言っているのだから、それが正しいのだろう」「みんなと同じことを言っておけば、いいのだろう」という心の動きでしょう。ピラトやヘロデとは異なり、死刑を求めるという究極的な発言を民衆にまぎれて放つことができたからでもありましょう。神さまは、人間が民衆としてこのように無責任な発言をすることを見通しておられて、イエス様の十字架の出来事への道を計画しておられたのです。
私たち人間一人一人を、神さまは良い者としてお造りくださいました。今日の聖書箇所で「イエス様を十字架につけろ」と叫んだ民衆の一人一人も、ふだんの生活では良い人たちに違いありません。
ただ、私たち人間は弱いのです。弱いから、周囲に流されて罪を犯してしまいます。罪だとは気付かずに、間違ったことを言ったりしたり、考えたり思ったりしてしまいます。その罪のすべてを、イエス様は背負って十字架に架かってくださいました。それは、ご自身の命もろとも、私たちの罪を滅ぼしてくださるためでした。
今日の聖書箇所が語っている出来事は、決して歴史の中の、遠い砂漠の国の、見知らぬ人々の話ではありません。この出来事は自分にはかかわりがないと思ったら、私たちはイエス様を知らないと言ったペトロのようにイエス様の愛を払いのけることになります。
しかし、もし私たちがイエス様を払いのけたとしても、イエス様は私たちに手を差し伸べ続けてくださいます。そうして、イエス様は私たちを罪の闇・悪の沼から引っ張り上げてくださいました。今日から始まる受難週の一日一日を、そのイエス様の深い慈しみによって生かされ、イエス様に寄り添われている恵みと幸いを覚えつつ進みましょう。この週を歩み抜いて、イエス様のご復活を祝うイースター、次の日曜日を共に心待ちにいたしましょう。
2025年4月6日
説教題:茨の冠、華やかな衣
聖 書:イザヤ書53章6~7節、ルカによる福音書23章1~12節
ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。
(ルカによる福音書23:11)
オリーブ山で逮捕されたイエス様は、三つの裁きの場に連れ出されました。神さまであるイエス様が、人間に裁かれるという恐ろしい罪がここで三度も繰り返されたのです。
最初の裁きの場が、前回の主日礼拝でご一緒に聴いた最高法院での裁判の場でした。最高法院の面々はイエス様が自らを神の子・神さまだと言っていると決めつけ、イエス様を、神さまを冒瀆した罪による死刑と定めました。
何度も繰り返してお伝えしてきたことですが、当時のユダヤはローマ帝国の植民地でした。そのため、ユダヤは神さまの掟・律法の他に、ローマ帝国の一部の法律を守ることを求められました。最高法院がイエス様を死刑だと判決を下して、それを自分たちで執行してしまうわけにはいきませんでした。ローマ帝国の法律に照らして行わないと、私刑・リンチと同じでローマ帝国から見れば最高法院が殺人を行ったことになってしまいます。
では、どうしたらよいのでしょう。
今日の聖書箇所の最初の聖句 ルカによる福音書23章1節は、その解決のために彼らが行ったことが記されています。お読みします。「そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。」ローマ皇帝の代理人として、今 ユダヤを統治している総督 ポンテオ・ピラトにイエス様を訴えに行きました。訴えて、自分たちの判決をローマ帝国の法の上でも認めさせようとしたのです。
「全会衆」という言葉がありますから、最高法院のメンバーである祭司長や長老たち、律法学者といった指導者たちだけではなく、判決を聞いていた人々が皆 ピラトのもとに出かけて行ったことがわかります。人数の多さ、すなわち声の大きさで、イエス様の死刑をピラトに認めさせようとしたのです。
ローマ帝国は、ローマ皇帝を神さまと崇めています。ユダヤの律法での冒瀆罪は適用できないので、ピラトのもとに押し掛けた者たちは別の罪をでっちあげました。イエス様がユダヤの民族を惑わし、皇帝に税金を納めなくてもよいと言い、ローマ皇帝が認めているユダヤの王ではなく自分が王だと言っていると言ったのです。
これらは、民衆を煽った扇動罪と、ローマ帝国への反逆罪にあたります。ローマ帝国への反逆罪は、ローマの法律でも死刑判決を言い渡されますから、ピラトのもとに押し掛けた者たちは ピラトがイエス様を死刑だと判断するのは間違いないと考えたのでしょう。
ところが、ピラトは慎重でした。すぐには、そう判断しなかったのです。これはピラトが正しいことをしっかりと見究めようとする、正義感の強い人だったからではありません。ピラトはイエス様が人々に愛され、エルサレムの町に入った時には大歓迎されたことをよく知っていました。最高法院の判決を知らない人々、いわゆるユダヤの民衆たちが イエス様が死刑になると知ったら大いに嘆いて大騒ぎになるとピラトは心配になったのです。
ユダヤの指導者たちと民衆の間でトラブルが起き、民衆が暴動を起こしたら、総督である自分がローマ皇帝にその責任を問われます。これまで積み上げてきた自分のキャリア、役人として総督にまで上りつめたこれまでの努力が無となり、自分が失脚してしまうかもしれないとピラトは不安に思いました。そこで、イエス様に直接 尋問を行いました。それが、今日の聖書箇所の3節です。
ピラトに「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねられたイエス様は、「そうだ」とはおっしゃいませんでした。「あなたが今、そう言っただけだ」とおっしゃったのです。「自分こそがユダヤの王だ」とも「ローマ皇帝がユダヤを治めているのは間違いで、ユダヤ人の国はユダヤ人の王である私が治めるべきだ」などとは、おっしゃいませんでした。これでは、ピラトはイエス様を反逆罪と決めつけることはできません。そのため、イエス様について 4節のように「この人に罪はない、自分はこの人を有罪にできない」と言いました。
しかし、最高法院から押し掛けた人々は なおもしつこくイエス様の有罪、特に民衆を煽った扇動罪をピラトに訴えました。ピラトは自分がここで無罪を宣告したら、ユダヤ人の指導者たちから反感を持たれてしまうと怖くなりました。ピラトは、神さまへの信仰を持たないので、自分だけの考えで頭がいっぱい、自分の感情だけで心がいっぱいでした。このイエスという青年は無罪だと思いながらも その決断を明確に言い渡す勇気を持てなかったのです。ユダヤの国の人々に対し、総督として責任を負っていながら、正しい裁きをする責任を貫くことができませんでした。
この優柔不断なピラトは、判断の責任をユダヤの王 ヘロデに押し付けることを思い付きました。ローマ帝国はユダヤの植民地として支配する際に、何もかもローマのものをユダヤに押し付けるという方法を取りませんでした。植民地政策として、近代まで様々な方法が取られ、中には支配する国の言語や文化のすべてを植民地に押し付ける政策もありました。
ローマはそうはしなかったのです。言葉は、今のユダヤで話している言語のままでよい、文化も信仰もそのままでよい、王がいるのなら、その王を殺すようなことはしない、ただ、その王は存在するだけで殆ど何の権力も持っていませんでした。ヘロデ王はそのような無力な立場で、イエス様が育ったガリラヤ地方の王として贅沢な暮らしだけは保証され、虚しく日々を過ごしていたようです。
ピラトは、ヘロデ王が判決をくだす権力を持たないのを知っていながら、もしユダヤの民衆がイエス様の死刑に反対して暴動を起こしたら、それは自分の責任になると不安になって、イエス様をヘロデ王の宮殿に送りました。ヘロデ王が過越祭を神殿の町エルサレムで過ごすために、ちょうどこの時にエルサレムにいたことも、好都合でした。
今日の聖書箇所の8節に、ヘロデ王がこういう形であってもイエス様に会えてたいへん喜んだことが記されています。しかし、その喜びはイエス様を尊敬していたからではありませんでした。8節の終わりの方に、こう述べられています。「イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいた」から、イエス様に会いたいと願っていたのです。会いたいと言うよりも、奇跡を行うと評判のイエスとかいう男を一目「見たい」と思っていたと言う方が近いと思われます。権力を奪われて、ただ贅沢な生活を許されているだけの王は、それほど退屈で虚しい日々を過ごしていたのでしょう。イエス様は、ヘロデ王に何を尋ねられても、9節に記されているように「何もお答えにな」りませんでした。
イエス様は、ご自分のためや、神さまとしてのご自分の力を示すために奇跡をなさることは決してありません。だから、ただそこに黙って立っておられるだけだったのでしょう。
続く10節には、ただ黙っているだけのイエス様を見て、祭司長や律法学者たちが調子に乗り「イエスを激しく訴えた」と記されています。イエス様が魔法使いのように奇跡を行なうことを期待していたヘロデ王は、その期待がはずれたこともあって、自分の兵士たちと一緒になって、何もできないではないかとイエス様をあざけり、侮辱しました。
この時、ヘロデ王はこう宣言することもできたはずです。「みんな、見なさい。この人は何一つできないではないか。イエスとかいう、この何もできない人が、ユダヤ人の王だと言い張るはずがないではないか。この人に罪はない。」
ところが、ヘロデ王はそう言える立場にあることに思い至らず、兵士たちと一緒になってイエス様をからかったのです。その馬鹿騒ぎの中には、ヘロデ王自身の自分の無力な立場へのやりきれなさもこめられていたでしょう。
ヘロデ王こそ、ローマ帝国の支配に屈して「何もできない」王でした。ヘロデは「このイエスという者が、自分こそユダヤの王だと言っているのなら、王の格好をさせてやろうではないか」と、派手な衣をイエス様に着せてピラトに送り返しました。ヘロデ王は、ここで自らの役割を放棄したのです。
本来、旧約聖書が語るユダヤの王は、神さまに油をそそがれ、神さまに選ばれた特別な存在として民を治めました。サウル王が預言者サムエルに、ダビデ王が預言者ナタンを通して主に導かれたように、王は正しい裁きを行う責任を負っていたのです。ところが、ヘロデ王はイエス様への何の決定もすることができず、ただ侮辱してピラトに送り返しただけでした。
ピラトは自分の出世欲や、自分の立場を守りたいという利己主義の罪を犯し、イエス様の無罪を主張できませんでした。ヘロデ王は、どうせ自分には何もできないという諦めと絶望の闇に落ちていたために、イエス様の無罪を指摘できませんでした。
こうして、罪を犯した者同士・脛に傷を持つ者同士で、それまで支配するローマ帝国のピラト・支配されるユダヤのヘロデ王として対立していたピラトとヘロデはこの後 仲が良くなったことが 今日の聖書箇所の最後の聖句・12節に記されています。それぞれイエス様が無実だと言える立場にありながら言えなかった者として、相手の心に自分と同じ闇・罪があると知って、親しみを感じたのです。
イエス様は、三つの場で裁かれる間、決してご自身の弁明をしようとされませんでした。この裁きの場で、最高法院の面々も、ピラトも、ヘロデ王も、それぞれ罪を犯しています。それぞれが重ねる罪、またそのまわりで尻馬に乗ってイエス様を侮辱する人たちの罪によって、イエス様は十字架に架けられてゆきます。
イエス様がご自身の弁明をなさらないのは、まさに彼らの罪を代わりに負って十字架に架かるためでした。ご自分を十字架での死に追いやる者たちを、その罪にもかかわらず愛し、救うためだったのです。
十字架の出来事と三日後のご復活の後、イエス様は天の父の右の座に昇られ、今もおられます。私たちが使徒信条で告白しているとおりです。私たちがこの世の終わりの日に裁きの場に立たされるとき、イエス様は私たちのために弁明をしてくださいます。この人はこの時、こういう罪を犯したと天の父が指摘される時、イエス様は私たちを弁護し、神さまに執り成してくださいます。
天のお父様に、こう言ってくださいます。父よ、あなたはこの人の罪を指摘されますが、それにはこのようなわけがあって、仕方がなかったのです。この人の罪はわたしが十字架で贖い償ったのですから、どうかゆるしてあげてください。わたしはこの人をたいせつに思い、深く愛しているのです。父よ、あなたこそ、この人を愛して造られ、この人の地上の歩みをずっと見守って来られたのではありませんか。
イエス様は、ご自分のためには弁明をされず、ひたすら侮辱と痛みを忍耐され、私たちのためにご自身を十字架で犠牲になさいました。そして、私たちを弁護して、弁明してくださいます。深い感謝の心をもって、この事実を胸に刻みましょう。このイエス様の慈しみに包まれている幸いを深く心に留めて、受難節の日々を歩んでまいりましょう。