2011年9月25日
説教題:神の民の生き方
聖書:エレミヤ書 29章4-14節 フィリピの信徒への手紙 4章8-9節
【説教】
パウロは「終わりに兄弟たち」と言ってキリスト者がどう生きるべきかを告げています。
「すべて」という言葉を一つ一つに付けて6つのことを並べて記し、「また、徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」と書いています。この8つは、当時一般社会で重んじられていたことで、今でも重んじられていることです。特にキリストによって教えられて身につけることではありません。パウロは、その一般の人が重んじていることをキリスト者も全て「心に留めなさい」と言っているのです。
4:9では「私から学んだこと、受けたこと、私について聞いたこと、見たことを実行しなさい」と言っています。これは3:17の「私に倣うものになりなさい」と同じで、キリストに捕らえられている者が与えられた道を目標に向ってひたすら走るとことです。また天に本国を持っている者がその福音にふさわしく地上を生きるということでもあります。
それで4:8の「心に留めなさい」の理解が二つに分かれています。一つは、キリストを知らないこの世の人が重んじていることは心に留めるだけで実行しなくていい、無視をしてはいけないがそれなりに心配りすればいい、という理解です。他の一つは、心に留め心配りするということは、行動に現れる、実行を伴うことで、パウロの信仰生活に見られることだ。4:8の「心に留めなさい」と4:9の「実行しなさい」に区別はないという理解です。
私は、この世も神が造り治めている世界なので、たとえ罪が支配しているように思われる状態でも、その世界に責任をもって生きるべきだ、という理解です。エレミヤ29:4以下でエレミヤはバビロンに捕囚の身とされている神の民に「私があなたたちを捕囚の民としてそこに送ったのだから、その地で落ち着いた市民生活をして子孫を得なさい」と命じています。この民が新しい神の選びの民になっていくのです。
自分たちは神の民、救われている民だ、神を知らない民は汚れた民、滅びの民だ、という考えと生き方をキリストは新しく換え、十字架と復活によって新しい神の民を誕生させたのです。フィリピ4:8,9はその新しい神の民の生き方を教え、私たちに勧めているのです。
ローマ・カトリック教会は以前、キリスト者だけが神の民で生きる資格がある、キリストを信じない者は悪に支配されている、と他宗教の人を強制的にキリスト教に改宗させ、生活習慣もキリスト教的に変えさせたことがありました。しかし、そのような理解を誤りであったと2000年3月に教皇がバチカンの聖堂で神の前に謝罪しています。どの宗教も文化も習慣も神から認められて存在しているのだから重んじるべきだ、と現在は言っています。
私たちは、自分と考えや生き方の違う人に対しても、自分は神の民だから正しいと他を裁くのではなく、神にあってすべて真実なこと、気高いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、名誉なこと、徳や賞賛に値することを心に留めるのです。それが神の民のあるべき生き方です。そしてそのようなことに心を留め、愛を持って実行する私たちに平和の神が共にいてくださるのです。
2011年9月18日
説教題:主にあって常に喜べ
聖書:フィリピの信徒への手紙 4章2-7節
【説教】
この手紙は、4:1で「私の愛し、慕っている兄弟たち。私の喜びであり冠である愛する人たち」と書いた後、4:2で「私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」と書いています。二人の婦人に、対立するのを止めて同じ思いになりなさ、と勧めているのです。パウロは、この二人のことを知っていながら、フィリピの教会は私の喜びであり冠である、と書いているのです。
それは教会の中にある二人の対立は小さなことだ、気にする事はないということでしょうか。そうではありません。二人の教会の中での立場や対立の内容は分りませんが、4:3にある言葉から二人は教会の中で重んじられていたようです。人が集まると意見の違いが起こります。教会の中でこの二人に意見の違いがあり、各々に賛同者があって教会全体の問題になったのかと思われます。家庭でも教会でも、不和や対立はその問題が何であるかよりも、自分の考えや立場に固執することによって起こるので、共同に立つ立場で一致することが必要です。どちらに正義があるか、「正義は我にある」では対立は解消しません。
パウロは二人の名を挙げてそれぞれに「主において同じ思いを抱きなさい」と勧めています。「十字架の主によって罪人の私が赦され生かされている。相手もこの主によって生かされている。」この主にあって一つになるのです。それが教会です。パウロは、教会で読まれる手紙に二人の名を挙げたのです。パウロには二人を辱める思いはなく、二人は教会で軽視されてよい人ではありません。ただ教会にある問題点をはっきりさせて確実に解決するために、又そのことは二人も教会も理解できる、とパウロは信頼して書いているのです。
そしてパウロは「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と教会に勧めているのです。不和対立があっても主が解消してくださる、この確信があるから教会は問題がある状態でも主において喜ぶことができるのです。また主の確かなご支配を信じているので獄の中にいてもパウロは喜びの勧めができるのです。
そこで私たちは、その恵みの喜びである主によって与えられている「広い心が」、すべての人に知られるように歩むのです。それが教会であり、教会の歩みです。それはキリストのご支配を身近に感じることから出て来るのです。「主は近い」。これは距離的に共にいる、時間的に自分に迫ってきている、と受け取ることも出来ます。主のご支配の中にいる時には、私たちは自分の思いや力を越えて、広い心になって思い煩いを止め、神に全てを委ねるものになるのです。祈る人になるのです。「そうすれば、人知を超える神の平和が心と考えとをキリストによって守るでしょう」。これが一時的なものではない、本当の喜びです。
神がこの世界と歴史をご支配している。そして神は、罪人である私たちをイエス・キリストによって神の子として、神の愛のご支配の中に置いてくださっている。ここに私たちの喜びの源はあるのです。私たちには対立や争い、苦しいことや辛いことがありますが、神の子イエス・キリストを主と信じて生きる時、私たちは常に喜ぶことができるのです。
2011年9月11日
説教題:十字架の恵みに生きる
聖書:フィリピの信徒への手紙 3章17節-4章1節
【説教】
パウロは「皆一緒に、私に倣うものになりなさい」と言っています。信仰生活をしているあなた方は私を手本にしなさい、と言っているのです。目の前に手本や模範があると学んでいる者は分り易く、教えを具体的に身に着け易いです。
しかし、この言葉は自分に自信がなければ言えません。パウロはその自信を持っていたのです。それは神から使徒として選ばれ用いられているということもありますが、それ以上にキリストに捕らえられて生きているという確信があったのです。パウロは、自分は優れた立派な人間だとは思っていませんでした。「私は完全なものではない」と言っています。私は、不完全な者であるが、キリストに捕れえられているので、神からの賞を得るために自分の道をひたすら走っている。その目標を目指して走っている途上にある私に倣え、と言っているのです。
「皆一緒に」と「倣う者」は「共同に倣う者」という一つの言葉、合成語です。キリストに捕らえられての歩みは、個人がばらばらではなく、市民マラソンのように個人によって距離や走り方に違いがあっても、同じ目標を目指しているコースを、各自が自分に与えられた道を走るのです。キリストに捕れえられているので、教会全体がパウロに倣うのです。この私たちの教会も含まれているのです。そしてパウロは自分ひとりだけが手本ではない、「また、あなたがたと同じように私たちを模範としている人々に目を向けなさい」、と言っています。「目を向ける」は、「チラッと見る」のではなく「目を留め、注意深く見る」という言葉です。そこに模範があると注目して、どう歩んだらよいかを見て、倣うのです。
パウロは、キリストの十字架に敵対して歩んでいる人が多いから、この勧めをするのだと言っています。キリスト以外にこれも必要だといって結局キリストに敵対して、キリスト以外の力によって生きて、別の道を歩んでいる、そういう人が教会の中に多いというのです。例外的な少数の存在ではないのです。イエスを裏切ったユダやイエスをいさめたペトロも含まれるでしょう。本人も気がつかないうちにその仲間になっている人が多いのです。大事なことは十字架の恵みで十分だと確信することです。
彼らの行き着く所は、永遠の救いではなく、滅びです。「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇り、この世のことしか考えません」とパウロは言っています。この世ではそれなりに誇るべきもので価値あるものと満足していても、それは滅びるものなのです。
「しかし、私たちの本国は天にあります」とパウロは言っています。本国によってその国の民としての身分や、人間としての命が守られ、生きるのに必要な力と助けが与えられるのです。私たちはキリストによって天の国籍を与えられて、今ここに生かされているのです。ですから、肉の命が死んだら天の国に行くというのではなく、地上で肉の命で生きている時にも本国は天にあるものとして、キリストにあって福音にふさわしく生きるのです。
「だから、キリストに堅く立って歩みなさい」とパウロは最後に強く勧めているのです。
2011年9月4日
説教題:目標を目指して走る
聖書:フィリピの信徒への手紙 3章12-16節
【説教】
パウロは教会の導き手、教師としてこの手紙を書いています。ところが「私は既にそれを得たというのではなく、既に完全な者となっているのでもない。何とかして捕らえようと務めている」と言っています。導き手の教師が、自分は未熟だ、不完全だと言っている。パウロは、この言葉がフィリピの人たちにどう思われるかを知って、書いているのです。
パウロは、敵対している人たちが「自分は神を知っているので神と霊的に完全に一つになっている」と言っているのに対して私は違う、と言うと共に、私は何とかして捕らえようとして追い求めている、それは完全な者となる道を確かに走っているのだ、と言っているのです。「完全な者」は「終了した者」「ゴールに到達した者」です。信仰生活はその目標に向っている生活です。それが「何とかして復活に達したい」という生き方です。
この生き方は、自分の思いや力から出てくるのではなく、キリストの愛に捕らえられているのでキリストの苦しみと死に結びつきたいと思う、その思いから出てくるのです。その生き方は、「なすべきことは唯一つ後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリストによって上に召してお与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。その生き方の一途な姿と熱心さが分ります。この生きる目標も自分で決めるのではなく、キリストと出会って与えられたのです。完全な復活にあずかることです。
ここで知らされるのは、肉の体で地上を生きている間は目標に達しない、ということです。私たちの救いは、肉の生活、地上の世界をも超えたものです。神が備えていて下さるものです。そして、神はその復活の命をすでに私たちの内に与えてくださっているのです。ここに私たちの救いがあり、信仰生活があるのです。
この肉の生活の中に完全な救いがあるのではありません。復活のキリストに結びついた霊の命、霊の体があって、神のご計画の中に生かされているのです。そのご計画の道を与えられ、ひたすら走る目標に完全な復活があり、救いがあるのです。肉の体で生きている時は目標を目指して走るのです。それが救いにあずかっているキリスト者です。
「だから、私たちの中で完全な者は誰でもこのように考えるべきです」、とパウロはいっています。自分は完全だと思っている人は、肉である者はたとえキリストを信じていても不完全で途上にいるのだと思いなさい、と言っているのです。しかし、キリスト者の中にはパウロと違う考えを持っている人もいます。そこでパウロは「しかし、別の考えがあるなら神はその人に神のお考えを明らかにしてくださいます」、だから神に祈りなさい、「いずれにせよ、私たちは到達したところに基づいて進むべきです、と言っています。
キリストの道を走る、と言っても一人一人その置かれている状況や道は違うので、それぞれが自分に与えられた自分の道を走るのです。キリストにあって目標を目指し見つめて生きることは、肉の死を見つめて生きることになりますが、死を滅びとしてではなく、そこに復活の栄光の体に変えられて永遠の命に生きる、希望を見て生きることなのです。
2011年8月28日
説教題:復活の希望に生きる
聖書:イザヤ書 46章1-4節 フィリピの信徒への手紙 3章10-11節
【説教】
私たちは、個人として希望を持って毎日を生きていますが同時に、社会や歴史の中に生きている人間としての希望をも持って生きています。多くの人は自分中心の世界に生きています。だから自分の世界に余り関係のないことには関心が薄いです。そして自分の世界はいろいろな出会いと関係によって広がっていきます。地震、津波、原発事故に出会って生きている世界が変った、生きる目標や希望が変った、という人が多くいます。
パウロはキリストに出会うことによって、それまで誇り生き甲斐にしていた生き方や価値観が変ったのです。自分の肉を誇って生きていたのが、神がご支配される世界に生きる者に変えられたのです。神の憐れみと恵みによって生かされている者に変えられたのです。
そのことを「キリストを知ることによって」と言っています。それはキリストと出会い交わることによって知った、ということです。出会っても、相手に反発をしていたら正しく相手を知ることはできません。お互いに愛し理解し受け入れ合い、心を一つにして相手を正しく知ることができるのです。それを「キリストを得、キリストの内にいる者と認められる」と言っています。パウロは、キリストを土の器である自分の中に宿し、キリストの愛とご計画の中に、新しい世界に、新しい人として生かされる者とされたのです。
「私はキリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかってその死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」。これがパウロの生き方になったのです。キリストと出会って一度愛の交わりが出来たら十分だというのではありません。日々常にキリストを新しく知り、その愛に応え、キリストと共に歩むのが信仰生活です。
それは、十字架で罪に死んで、復活したキリストの力を自分のものとしている歩みです。それは罪と死の力を吹き飛ばした力によって生きるのです。罪の力から解放され、自由にされ愛の人として生きるのです。その歩みは、神に従順に歩んだイエスの歩み、十字架への苦しみの歩み、と重なるものになるのです。キリストによって救いを得た新しい人は、復活の力によって十字架の苦しみの歩み、罪人の罪を担う歩み、他人を救うための歩みを歩むことができるのです。この手紙の1:27で「ひたすら福音にふさわしい生活を送りなさい」と言った後、1:29で「キリストを信じるだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」と言っています。
そして、「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」という希望がキリスト者にはあるのです。すでに救われキリスト者とされているが、未だ完全な救いを得ていない。「何とかして達したい」ということは未だ達していない、ということです。キリスト者は既に十字架と復活のキリストを知って復活の命に生かされているのです。しかし私たちは、まだ肉の体で復活の体ではないので、完全な復活にあずかる約束の命を今先取りして生きているのです。キリスト者はその自覚と希望をもって、地上の与えられた日々を福音にふさわしく、負うべき苦しみを負って、キリスト者として最後まで歩むのです。
2011年8月21日
説教題:価値観の転換
聖書:フィリピの信徒への手紙 3章4-9節
【説教】
先週夏休みを頂いたので横浜にいる娘たちと箱根に行きました。多くの観光客がきていました。大自然の中で、日常の生活から離れて、与えられた時と環境を楽しんでいました。
日常生活に戻ったら、自分の務めを行う生活になります。人間社会では各自なすべきことがあります。そのことを知り、実行できて一人前の人間といえるのです。幼な子も、親の下でそれなりの行動が出来て、自分も周囲の人も楽しむことが出来るのです。
イスラエルの民には、神から為すべきことを律法として与えられていました。2で犬と呼ばれている人たちは、律法を知り行なっている自分たちが神の民だ、と 肉の体と行いを誇って、神の前に義とされるために自分たちと同じ体になって律法を行え、とフィリピの人に強要していたのです。しかしパウロは、律法によっ てではなくキリストによって義とされる、キリストを信じることが大事だと説いたので、犬たちに激しく反発し、彼らの主張は誤っている、信仰生活を誤らされ るな、と強く言っているのです。
パウロは5-6で、自分は律法を身につけ熱心に行った、と言っています。しかしキリストに出会うことによって、律法理解が変えられたのです。生まれながら 生粋の神の民で、律法の行いも神の前に正しく熱心に行なった、それは益となることだと理解していたのが、キリストによってそれは神の前に罪だ、損失となる 行いだと換わったのです。価値観の転換が起こったのです。神に益になると思っていたことが、神に背くことと知ったのです。
自分が律法を知っている、律法を行なうことで義とされる、ということは、神はいなくていい、神の憐れみはいらないということになる、と知ったのです。知っ て変えられただけではない、8で「そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリスト の故に私は全てを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています」、というまでになったのです。キリストによって与えられている恵みの命に生かされてい る、とキリストを知れば知るほど、他のものは必要ないキリストだけでいい、肉の行いなどは不要だ邪魔だ、と肉の行いと誇りを突き放し、遠ざけることになっ たのです。
これは、自分を誇り、自分を頼みとし誇る生き方から、キリストの赦しと恵みによって生かされていることを喜びと感謝する生き方に変わったということです。
9でパウロは、今の私には律法による義を求める思いも、行なう熱心さもない、それは自分を誇り神に背いて他人を見下し裁く自分の義に生きることになる、と 言っています。今のパウロは、神から与えられる義を信仰によって求め、神に義とされる道を歩んでいるのです。十字架の赦しによって神から与えられる義こそ 救いと命を与える義です。
この世は、人間の知恵と力で義を自分のものに出来る、義の国、義の社会が作れると思っています。しかし、私たちは神が造られた世界に、神から命と役割を与えられて生かされているのです。ですから、人生や世界の見方や生き方を転換する必要があるのです。
2011年8月14日
説教題:何を誇りとするか
聖書:フィリピの信徒への手紙 3章1-7節
【説教】
人間は誇りをもって生きています。暴力団や犯罪人も仲間内では誇りを持っています。暴力団は肩で風を切って歩み、国際的な窃盗団は捕まっても堂々としています。
3:1に「主において喜びなさい」と言っています。パウロは、キリストに結びつくことによって喜ぶように、喜びに生きるように言っています。キリストが喜びの源なのです。
そして3:2で急に激しい言葉で「あの犬どもを注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷を身につけている人を警戒しなさい」と言っています。
「犬」は、野良犬で、汚れた者を意味する、人間を侮辱する言葉です。「よこしまな働き手」は、間違えた働き手、人を別の道に導く危険な働き手です。「切り傷に過ぎない割礼を持っ者」は、「切り傷の者」という言葉で、彼らはその傷があることを「割礼の印がある。だから確かな神の民である」と主張していたのです。
それに対してパウロは、「彼らではなく、私たちこそ真の割礼を受けた者です。私たちは神の霊によって礼拝し、イエス・キリストを誇りとし、肉に頼らないからです」、と言います。イエス・キリストによって神に結び付けられ、神の霊によって神との交わりが与えられている。神に礼拝を捧げている。この私たちこそ真の割礼を受けている神の民である。パウロはキリストに生かされていることを誇りに思ってこのことを言っているのです。
しかし、パウロは犬たちが誇っている肉の誇りを知らないで彼らを非難しているのではありません。誇っている肉を知っているからその恐ろしさ危険さが分るのです。それで、私も彼らと同じ肉を誇ることも、しようと思えばできる、その肉を生き甲斐にして生きることが出来る。と言って、実際に自分はキリストを知る前にはどんなに肉の誇りに生きていたかを5-6で述べています。
5-6で、犬たちが誇っている肉は私も身につけているし、律法の義も熱心に行なった、と言っています。しかし、この律法と肉を誇りとすることは仲間内の誇りでしかないことが復活のキリストに出会って分ったのです。律法の義に熱心であることによって、神の教会を迫害したのです。神を裁き、神の義、神の救いを否定することになったのです。
そのキリストとの出会いによって起こったこと、使徒言行録9章に記されていることを、7で「しかし、私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損とみなすようになったのです」、と言っています。その時までのパウロは肉の世界に生きていたのです。しかし今は、異邦人をも救う神の愛と恵みを知って、教会の指導者となっているのです。それで「私が誇るのはキリスト」となったのです。
私たちは、狭く小さな自分の世界だけで誇りをもって生きていてはいけないのです。自分に誇りを持って生きろ、最後に頼りになるのは肉の自分だ、いう考えが現代は強くあります。しかし私たちは、神が弱く間違いを犯してしまう私たちを赦し、私たちに力と使命を与えて生かし歩ませてくださっている、このことを誇りとして生きるのです。
2011年8月7日
説教題:神の憐れみによる平和
聖書:列王記下 5章1-14節 フィリピの信徒への手紙 2章25-30節
今日の聖書はエパフロディトのことを語っています。エパフロディトは4:18で語られているように、獄にいるパウロにフィリピの教会からの援助物資を持って来た人です。援助物資を届けると共に、パウロの所にそのまま滞在して獄にいるパウロを助ける世話をするようにフィリピの教会から奉仕の務めを与えられていました。そのエパフロディトを帰す、と今日の2:25で書いています。
詳しいことは分りませんが、エパフロディトはフィリピの教会から、パウロが獄にいる間はパウロの所にいて世話をするように遣わされていたようです。それでパウロは、今彼を帰すことについて、「私がそちらに帰さねばならないと考えている」と自分の判断と責任で行なうのだと、先ず強く言っています。
これは、エパフロディトがパウロの所にいるのが嫌になって帰って来るのだ、パウロに「帰りたい」「帰りたい」と言ったので、またホームシックになって役に立たなくなったので帰されるのだ、等の声がフィリピの教会あり、その声がパウロにも聞こえていたのだと思わされます。人間の能力や働きは個人の違いがあります。一生懸命に働いてもそのように見られないことがあります。人間の見る目、評価は自分中心で、相手を正しく見ていないことがあります。テモテが「確かな人」であるのに対して、エパフロディトは問題視されていた人のようです。それで、フィリピの教会の中には「エパフロディトはパウロを助けるどころか迷惑をかけている。努めの途中で帰って来る困った人だ」と思われたようです。
それでパウロは「私が必要と思うので、そちらに送るのだ」と言っているのです。25の「帰す」は「遣わす」という字です。そして、エパフロデトは私の兄弟、協力者、戦友で、あなたがたからの使者として私の奉仕者になった、と言っています。エパフロディトがしきりに帰りたいと言ったのも、病気になったのも事実だ。彼は仮病を使ったのではない。実際に彼は病気になり、瀕死の重病になったのだ。それで皆に会いたがったのだ。神の憐れみによって彼の病が癒えた。それで大急ぎで彼を送る。彼を皆で歓迎してほしい。とパウロは、フィリピの人たちに、自分たちの自己理解と相手理解は正しいといって彼を裁くのではなく、神の憐れみのよって謙遜に自己理解し相手を理解するように、そして平和な喜びの交わりを作るように、と勧めているのです。
今日読んだ旧約のナアマンの記事もこのことを教えてくれています。自分は正しい、相手が間違えている、という所からは争いが起こります。神の前に謙遜になって、神の憐れみによって自分たちが生かされていることを知るところに平和があるのです。
私たちは、自分を正しく知っているようでも、自分中心に自分を理解していることがあるのです。相手に対する理解も、人間の肉の力だけでは正しく出来ないので、誤解や陰口、風評のようなものに惑わされるのです。そして自分と相手を対立させ、争わせるのです。
聖書は、私たちが神の憐れみによってお互いに生かされていることを教えているのです。
2011年7月31日
説教題:福音に仕える
聖書:フィリピの信徒への手紙 2章19-24節
3月11日には、多くの人があの惨事を自分の事として受けとめ、何か自分にできないかと思いました。それだけでなく、テレビのお笑い番組は地震津波の報道に変更され、イベントや催し物が中止になりました。なでしこジャパンの優勝は、スポーツやサッカーに関心のある人日本人には、大きな喜びでした。
パウロは2:19で「私はあなた方の様子を知って力づけられたい」と言っています。獄の中にいるパウロがフィリピの教会の様子を知って力づけられる、といっているのです。フィリピの教会はパウロによって建てられた教会です。伝道は福音を伝えるだけではありません。伝えた福音が聞かれ信じられる、そして教会が建ち成長して行く、この全てが伝道です。パウロはフィリピの教会のことが気になっているのです。けれど今自分は獄にいるので行くことが出来ない。それで、テモテを代りに遣わして様子を知りたい、そして力づけられたい、と言っているのです。
そしてテモテを遣わすことを「主イエスによって希望しています」と言い、23では「送りたいと願っています」と、何か決断力がないような言い方をしています。これは、主権は自分ではなく神にある、自分は神の下に仕え従う、と言っているのです。自分の思いや都合で物事を決めて行なうのではない、神の御心があるならばこのようにしたい、というのです。神を無視して自分の思いを中心に判断し実行するのは神から離れることになります。
22に「テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めているところであり、息子が父に仕えるように、彼は私と共に福音に仕えました」とあります。「確かな人物」はテストに合格した人、熟練の人、と言う意味です。テモテはパウロと一緒にフィリピに行って福音を伝えました。ですからフィリピの人たちはテモテのことをよく知っているのです。パウロはそれで「あなたがたが認めるところです」と言っているのです。
「仕える」は「奴隷として仕える」と言う字です。1:1の「奴隷」が動詞になっているだけです。奴隷として仕えるのでも、主人の力を恐れて仕えるのではなく、主人によって生かされていることを喜んで仕える奴隷です。福音に仕える人は、使徒であっても、一人のキリスト者であっても同じです。福音に生かされていることを喜んで、福音に仕え、福音のために働くのです。「息子が父に仕えるように」とありますが、ここには「仕える」という字はないのです。「息子が父に、彼は私と共に福音に仕えた」となっているのです。テモテはパウロの信仰による息子です。テモテはパウロに息子のように仕えたのでしょう。その仕えたことをパウロは、テモテは肉の関係によってではなく福音にあって自分に仕えている、自分もテモテも共に同じように福音に仕えている、その思いからこのような書き方になったのでしょう。
パウロはテモテの才能などについては何も言っていません。福音に仕える者は福音に生かされていることを喜び、福音のために喜んで仕えることが大切なのです。
2011年7月24日
説教題:真実の誇りと喜び
聖書:列王記上 2章1-4節 フィリピの信徒への手紙 2章12-18節
私たちは今を生きていますが、一人今だけを生きているのではありません。「その日暮らし」という言葉がありますが、今日だけ一人生きるのは人間の生き方ではありません。地震津波に遭った人たちも、現在では今をどう生きるかではなく、将来の共に生きる生活をどう作っていくかを考えているのです。一人今だけを生きているのでは虚しくなります。
パウロは2:16で「こうして私は自分の走ったことが無駄ではなく、苦労したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることが出来るでしょう」と言っています。パウロは、今日が全てというのではなく、キリストの日に向って走っているのが人生でその走りは意味があり、虚しくはならない、と言っています。パウロは3:14で「賞を得るために、目標を目指して走る」と言っています。賞金目当てに、優勝するのを目標に走ると言うのも分り易いです。しかし、キリスト者が走って得る賞は、市民マラソンのように年齢や体力などによってコースも制限のタイムも違うが、その与えられたコースを走り抜いたら賞が与えられる、といった賞です。大事なことは、他の人に勝つか負けるかではなく、自分に与えられた規定のコースを力を出して最後まで走りぬくことです。
パウロは、神から与えられている使徒としての使命に生きることを、走るべき道を走ることといっているのです。パウロは獄に入れられているけれど、使徒として与えられた道を誠実に走っている、だから獄にいても今の生活は無駄ではない、労したこともこの世的に成果がなくても無駄ではない、キリストの日に誇ることが出来る。私はそのように生きている、と言っているのです。この意味ある走りと誇りはパウロが自分で獲得したものではなく、神が備え、内に働き、力を与えてくださることによって得ているものです。
私たちは弱い者です。神が与えてくださっている力にも、走るべき道にも不平不満を思ったり、失敗したり投げ出したくなることがあるのです。その時に、神に立ち帰って、神を信頼して与えられた道を謙遜に、誠実に走る時救いが与えられるのです。
列王記上 2:1-4にダビデ王の最後の様子が記されています。ダビデは度々失敗し、罪を犯しました。しかしダビデは、自分が神から離れて、罪を犯した、と知ると神に立ち帰って、神に導き支えられて歩みました。そして今死を前にした時、ダビデの周辺で王位継承の争いが起こったのです。ダビデは後継者に選んだソロモンを呼んで、自分は今死ぬが自分の歩みも労苦も、永遠の神の御心と御計画の中にあって用いられたので虚しくはなかった、という思いを持ちながら、ソロモンも神を信じ、神から与えられた道を従順に、誠実に誇りと喜びをもって歩むように、と勧めています。
パウロは、自分が走ったこと、使徒として歩んだことをキリストの日に誇り喜ぶ、と言っています。それだけではない、あなた方一同と共に喜ぶ、とも言っています。神にあって与えられた道を歩む歩みは、キリストに結びついている全ての人の命と働きに関係して、その全ての人に真実の誇りと喜びを分かち与えるのです。
2011年7月17日
説教題:福音に生きる
聖書:民数記 11章12-17節 フィリピの信徒への手紙 2章12-16節
「だから愛する兄弟たち」という言い方は、自分が愛している人たちにどんなに力を込めて語りかけているかが表されています。
「いつも従順であったように、私が共にいる時だけでなく、いない今はなおさら従順でいなさい」。この勧めは、同じキリスト者である私たちに対しても通じる勧めです。「パウロが一緒にいる時には、フィリピの人たちがパウロにも神にも従順で、その従順さは合格点に価していたのです。そこで、パウロがいない今こそ、人間の前で人間の評価を得るためでなく、神の前に従順でありなさいと勧めているのです。そしてこの「今」は、キリストに結び付けられている今でもあります。私たちはキリストによって神の民にされ、神のご計画の中に生かされているので、神の前で神の評価を得ることによって真に意味ある者とされ救われるのです。神の評価を受けて救われるのは大変なことです。キリストに結びついて神に従順に最後まで歩み抜いて得ることが出来るのです。
ですから、この救いの道以外に心も目も足も向けないように「恐れおののきつつ」注意して歩むのです。この「恐れ」は、「失敗したらどうしよう」という恐怖心ではなく、神の民とされていることの「喜びと誇り」による恐れとおののきです。私たちは自分の力で神の民となったのではありません。神がキリストによって与えてくださったのです。「あなた方の内に働いて御心のままに望ませ、行なわせておられるのは神」です。だから神に従順に歩むのです。それが神に救われている者の自覚を持った責任ある歩みなのです。
「何事も不平や理屈を言わないで行ないなさい」。これは、出エジプトの時にイスラエルの民が神に不平や理屈を言って約束された土地に入れなかったことを思って語っているのです。自分中心に物事をみていると、世の中のことがあれもこれもに不平不満をもち、神が与えてくださっていることに、従いたくない、背きたいとなります。「理屈」は心の中で疑りを持って論じ合うことです。その理屈は解決案をつぶし、解決の道を見いださないのです。私たちは彼らのようにならないように注意して歩むのです。
キリストによって与えられた神の民の道、福音の道を歩むことによって「よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つ」のです。キリスト者は福音の道を喜びと感謝を持って歩んでいるのです。キリスト者が輝くのは、キリスト者が光りの存在だからではありません。命の言葉、福音を持っていて、福音によって生き歩んでいるからです。パウロは他の手紙で「私たちは宝を土の器に持っている」と書いています。
世の人は「神は死んだ」と言って、光りのない世界に生き、闇の中を勝手に歩んでいます。しかし神は生きています。神の言葉に光と命があるのです。福音に生きるキリスト者は、一人救いの道を歩むだけでなく、世の人に光と命がここにあると示し、希望と命に生きるように導いているのです。私たちは今の世に福音の光を明るく輝かしたいと思います。
2011年7月10日
説教題:イエスこそ唯一の主
聖書:イザヤ書 45章20-25節 フィリピの信徒への手紙 2章9-11節
フィリピ2:9の「このため」という言葉は、6-8で語っているキリストのへりくだりと従順を指しています。神が、人となって十字架の死に至るまで従順であったキリストを評価して、キリストを高く上げたのです。
キリストは高く上げられることを前提にして神に従順であったのではありません。ゲッセマネの祈りに示されているように、キリストは自分の思いを無にして、神が罪人を救おうと思われている御心に自分の全てを捧げきったのです。それによって神の御心が実現したのです。6-8にはキリストの従順が、9-11には神の思いと主権が語られています。
神は、十字架に死んで、地下の陰府にまで行ったキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えになったのです。「名」は他者と識別するだけでなく、地位、役割、身分、力などをも表します。全ての名に勝る名は神で、その神が全ての名に勝る名をキリストにお与えになったのです。それでキリストは、天上、地上、地下のもの全てが跪いて仕える主になり、全てのものを治める絶対的な権威をもったのです。
ここにキリストによる救いがあるのです。私たちは、キリストのへりくだりと従順を模範として歩んで救われるのではありません。キリストを通して罪人を救おうとされた神を信じ、キリストを信じることによって、神が私たちをキリストに結びつく者としてくださって、救われるのです。私たちは主イエス・キリストの愛と命に生かされるのです。
イザヤ45:20に「偶像は木に過ぎないことも知らずに担ぎ、救う力のない神に祈っている」とあります。人々は偶像を神としているのです。神は「私をおいて神はない」とご自分を現し、23で「私の前に全ての膝はかがむ」、そして仕えることを誓うと言っています。この神の言葉がイエス・キリストによって実現したのです。
「神」や「主」という名前を持っているものが地上に、又歴史の中に多くあります。しかし、本当の「神」「主」は神によって高く上げられたイエス・キリスト唯一人です。全ての者はこの唯一の主イエスに膝をかがめて仕えるのです。
この主イエスは、高い所にいて上から一方的に支配し治めるお方ではなく、へりくだって地上に来られ罪人の罪を担って十字架に歩まれたお方です。地上にあり、地下にある全てのものを神の御心によって存在し、生きるものとされたのです。この歩みをされたキリストを救い主と信じる者には、このイエスが主となってくださり、信じる者をご自分に結びつく者として受け入れ、愛のご支配の下に入れてくださるのです。
私たちの救いはここにあります。そしてこの救いは、私個人の救いではなく、造られたもの全てに対する救いなのです。私たちの思い通りになることが私たちの救いではありません。イエス・キリストこそ唯一の主であることを信じてそのご支配の下に従順に生きる時、私たちは神に愛され、活かされ、意味ある者とされていることを知るのです。そして、私たちは主の御力を頂き、支えられて、愛と従順に生きることが出来るのです。
2011年7月3日
説教:キリストの従順
聖書:フィリピの信徒への手紙 2章6-8節
【説教】
讃美歌21の280「馬槽の中に」の作者由木康は、この世に本当の愛があるかと疑問をもっていた時、たとえ人間の世界に本当の愛がなくてもイエスには愛があるとの光が与えられて作った、と言っています。この歌は「この人を見よ」と5回言っていますが、この言葉はピラトがイエスを指していった言葉で、イエスを「模範とすべき人」として見なさいと言っているのではありません。この人イエスは神の子なのです。聖書も讃美歌もイエスが誰か、人となった神の子で罪人である私たちを救って下さったお方だ、と告げているのです。
フィリピ2:9-11は当時の賛美歌でした。6-8は主語がキリストで、神と等しいキリストが人となり十字架の死に至るまで従順であったと告げ、9-11は主語が神で、神がキリストを高く上げ、全てのものが膝まずくようにされたと告げています。聖書は小見出しで「キリストを模範とせよ」と記していますが、ここで語られているキリストは、私たちが模範とするお方ではなく、私たち罪人の罪を贖って神の許に生きる者にして下さったお方なのす。
キリストは、神と同じ身分、同じ存在、等しいお方だったのですが、そのことを固守しようとは思われないで、被造物である人間になったのです。自分の思いを捨てて神の御心を自分のものとして人間に成ったのです。ですから「僕の身分になった」ともいっているのです。僕は、主人ではありません、仕え従う者です。神と等しい方がそのようになられたのです。それは神がキリストを通して人間を救おうと思われている、その神の思いに従う決意をされ実行されたのです。これはキリストご自身の思いではなかったのですが、キリストは神の思いを自分の思いとして主体的積極的に従順の道を歩まれたのです。
そのことを「へりくだって、死に至るまで、十字架の死に至るまで従順でした」と言っています。「死に至るまで」は「死ぬまで」という意味にもなります。「十字架の死に至るまで」は十字架というゴール、目標を見つめてその苦難の道を最後までしっかり歩み抜いた、ということを現しています。この歩みこそ、主イエスが十字架を前にゲッセマネで「しかし、私の願いではなく、御心が行なわれますように」と祈られた従順の歩みです。この従順な歩みの十字架の死によって、私たちは救われたのです。利己心や虚栄で生きていた私たちが、神の慈しみによって生きる者にされたのです。自分の思いや力によって生きるのではなく、キリスト者として、キリストが内にあって生きる者になったのです。
今日の聖書の箇所では、キリストは私たち罪人と同じ人間になり、罪人として十字架で死んで終って、救いがないように見えます。しかし、キリストが罪の人間になってくださったことも、神に従順に歩んで十字架に死なれたことも、神にあって決して虚しいことではなかったのです。神にあって意味あることだったのです。9-11が続いているのです。
私たちの地上の歩みも、この世的には「この人を見よ」といわれるような貧弱な価値ないものに見られるかも知れません。しかし、キリストにあって生き死ぬなら、その生も死も決して虚しくはないのです。神に救われた意味ある生であり、歩みであり、死なのです。
2011年6月26日
説教:福音によって一つに
聖書:創世記 4章1-8節 フィリピの信徒への手紙 2章1-5節
【説教】
私たちは、一人で生きているのではない、人間は皆が助け合い、協力し合って生きているのだ、と身をもって知っています。
しかし、パウロは一般の人にではなく、キリストを信じている教会の人々にこの手紙を書いているのです。それでパウロは、「あなた方に幾らかでもキリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、慈しみや憐れみの心があるなら」と言っています。人間一般が持っている心にではなく、キリスト者の心を相手に語りかけているのです。「幾らかでもあるなら」という言葉は、「ないと思うけれど幾らかでもあるなら」とも「確かにあるのだから」とも読めます。いずれにしろキリスト者は、キリストの心を内に与えられているのです。ですから「あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにしなさい」と勧めているのです。キリスト者はそうすべきですし、又それが出来るのです。
ここでパウロが、一つになるようにと勧めているのは一般の人が一つになるあり方とは違います。一般の人は、利害やこの世の力、規則また共通のものなどによって一つになります。しかし、キリスト者はキリストの思いによって一つになるのです。
キリストの励まし、愛によって生かされている、ということは、自分中心の人間的な思いやこの世的な思いを捨てて、キリストが罪人であった私たちを愛し十字架によって神の民にしてくださった、その神の民にしてくださったキリストの愛でお互いに赦し合い、愛し合って、一つになるのです。「励まし」と「慰め」いう言葉は殆ど同じ言葉で「傍らに来て慰め、助け、励ます」という言葉です。それは聖霊の交わりによって与えられるのです。
その聖霊は私たちを神の御心と一つに結び付てくださるのです。神は私たちが一つになって神のご計画に生きるように、一つになって神からの使命と責任を果たすようにと教会に結び付けて下さっているのです。
でもキリスト者も肉の人間です。一つになって生きるのを破る力を内在しているのです。「利己心」と「虚栄」です。利己心は、自分の利益や仲間意識です。虚栄は、「値打ちのないものを誇ること」です。自分の正しさ、美しさ、価値観を誇り主張して他を見下すのです。それが罪です。創世記のカインとアベルの兄弟にもこの思いがあったのです。パウロは、その思いをキリストによって捨て、「へりくだり」「互いに相手を自分より優れた者と考えなさい」と勧めています。この考えは、相手も神に許され愛されて生かされていることを知る、そのことによって可能となるのです。私たちは自分を特に大事な物として注意を払いますが、聖書は自分のことだけでなく他の人の存在も働きも大事な物として注意深く見なさい、と言っています。これがキリストの福音に生きる人のあり方なのです。
神の民は、神の赦しと愛によって使命を与えられて生かされていることを知っているのです。私たちは神に生かされていることを知ることなしに正しく自分を知ることは出来ないのです。赦しと愛の福音を知るとき、私たちは福音によって一つになれるのです。
2011年6月19日
説教:信仰による苦しみ
聖書:民数記 14章1-19節 フィリピの信徒への手紙 1章29-30節
【説教】
一般に、信仰は救いを与える、だから信仰を持ったら悩みや苦しみから解放されて、喜びと平安、感謝の生活になる、と思われています。
それなのに1:29で「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」と言っているのです。これはどういうことなのでしょうか。
キリストを信じることは、神がキリストによって示してくださった神の御心、神の愛を信じることです。そこで私たちは、自分が今ここに生かされている意味を知るのです。キリストによって、今歩んでいる道この道を、神から与えられた道、救いの道と信じて歩む者になるのです。その道はキリストの十字架によって与えられた命の道です。その道を、神の深いお考えと愛によって私に与えられた恵みの道、と受け入れるのです。その道を歩むことは神に救われている者にとって光栄であり、誇りなのです。
神の民イスラエルは、神から選ばれて約束の地へと旅する民になり、荒野を旅しました。民数記13章、約束の地を目の前にした時、神は部族ごとに一人を選んで約束の地を偵察するように命じました。その命令に従って偵察した人たちが偵察の結果を民に報告しました。その土地はすばらしい土地です。しかし先住民がいて私たちは彼らに勝てません、との報告がされました。14章のこの報告をどう受け止めるかが問題です。神に選ばれ、導かれている民であることを忘れた者たちは約束の地に入るのは止めよう、と言いました。しかし、モーセと神の民の自覚を持っている者は、私たちは神に愛され導かれて、神が約束された土地に入るのだ。私たちは神の民なのだ、神が共にいて下さる、と言って前進したのです。神の民でなくても、自分には恵みと共に責任と使命が与えられている、その重荷と苦しみは「特権だ」「喜びだ」と言って、苦難と重荷を喜んで負って歩んでいる人がいます。
詩編119:67,71には、私が無知で間違いを犯し罰を受けて苦しんでいるのは私にとってよいことだった、とあります。キリスト者にとって、神の言葉を正しく理解していないで間違えたことを行ってしまい、罰を受ける苦しみは、刑罰ではなく、恵みの導きなのです。損失ではなく、益で、教えられ、成長させられることだ、と聖書は言っているのです。
27-30で、キリスト者は戦いの生活をする、とありますが、この戦いの相手は誰か書いてありません。しかし、キリストを信じる者はキリストの名によってキリストに敵対するものと戦うのです。その敵は私たちの内にも外にもいます。時代や社会の力や価値観もそうです。それらとの戦いは苦しい戦いであっても、キリスト者には名誉ある戦いなのです。パウロ自身、獄に入れられても、福音の前進に役立っている、と喜んでいるのです。
私たちは神によって今ここに生かされていることをキリスト者として受け止め、不平や理屈を言わないで、個人的社会的な責任を果たして歩んでいくのです。ローマ5:1-5では、キリストによって信仰に導き入れられて歩んでいるので、苦難をも誇り、忍耐して歩んでいる。その歩みは、失望させるものではなく、確かな希望を与える、と言っています。
2011年6月12日
説教:神の霊による生活
聖書:エゼキエル書 36章25-28節 フィリピの信徒への手紙 1章27-28節
【説教】
1:27に「ひたすら福音にふさわしく生活しなさい」とあります。この「生活する」という言葉は「市民生活をする」という言葉です。この手紙が書かれた時にはギリシャのポリス国家が滅亡していましたが、ポリスの一員として市民生活をすることが当時も人間のあるべき生活とされていて、この言葉が使われていたのです。ひたすら福音にふさわしく神の国の市民の一員として生活しなさい、と勧めているのです。
福音に生きる人は、罪とこの世の力から解放されて、神の恵みのご支配の下に生きるのです。肉の体で地上の国に生きていますが、神の国に生きているその市民にふさわしい生活をするのです。キリスト者は、この世の人は汚れているから交わらない、人に使われるのは嫌だ、と孤立して一人生きるのではありません。市民の一員として、共同体の一員として生きるのです。そこで神の国の市民であることを誇りを持って示すのです。
パウロは今獄の中からこの手紙を書いています。それで22-25でフィリピに行って会えるかも知れないと書いていますが、27では「そちらに行って会うにしても、離れているにしても」そのことに捉われないで、「ひたすら」唯この生活をしなさい。何が起こっても、この生活を身につけておくことが大事なことです、と言っているのです。
神の国の市民生活では何が大事なのでしょうか。パウロは「一つの霊にしっかり立つ」生き方だ、と言っています。「一つの霊」は神の霊です。ペンテコステの日に、この霊がイエスを信じる弟子たちに与えられ、弟子たちは一つになり、教会が誕生したのです。ですから、信じて祈る弟子たちは、この霊を与えられて神の民とされ、神の民の生活をするのです。その生活はこの世にあって、神の国の新しい喜びの生活です。
旧約聖書の時代、エゼキエルは、神の民がバビロンに捕囚されている所で、神はご自分の民を集めて、神の民の名にふさわしい民にする。神の民の名に値する民にする。その霊を与える。と神の約束を告げています。
その新しい霊がペンテコステに弟子たちに与えられたのです。この霊によって、神の民は一つに結ばれて、一つになって歩むのです。獄の中とフィリピとに離れていても同じ福音にふさわしい生活をするのです。その具体的な生活の姿は、「一つ霊によって堅く立つ」です。「堅く立つ」は「兵隊が砦を堅く守ること」で、これが神の国の基本生活です。この世の色々な流れや力に動かされないで、自分に与えられている責任の場を守り、自分に与えられた生活を守る生活です。それは自分の力によって頑張って行なうのではなく、神の霊が自分の内に宿ることによってできるのです。それはこの世との戦いの生活でもあります。
キリスト者と教会は、聖霊を与えられて生き、一つになってしっかり立ち、心を合わせて福音のために戦うのです。神の民は、個人で生きるのでも、個人で戦うのでもなく、霊によって結ばれて協同して戦うのです。それによってどんなことがあっても、脅されてたじろぐことなく、神の国を示す福音にふさわしい生活の歩みが出来るのです。
2011年6月5日
説教:私が必要とされている
聖書:フィリピの信徒への手紙 1章22-26節
【説教】
私たちは人生の進路を選ばなくてはならない時があります。その時に何を考えて道を決めて選ぶでしょうか。
パウロは、「どちらを選ぶべきか私には分らない」といっています。今自分の前に二つの道がありその選択が迫られている。どちらを選ぶかは自分だけでなくフィリピの教会にも関係があることなので、今選択で迷っている気持ちを率直に伝える、と共に、迷いの中にあなたがたへの思いがある、と言っているのです。
私たちは一人で生きているのではありません。私の進路や生活は、家族や周囲の人たちの生活や生き方、喜びや悲しみにも深く結びついています。教会では「神の民」「神の家族」といって、交わりを大事にし、お互いの人生や生活を結びついたものとしています。
パウロにとっては二つとも望ましい道なのです。それで迷っているのです。板ばさみになって締め付けられ身動きできないで苦しくなっているのです。
一方は、この世を去ってキリストと共にいることで、自分が熱望していることです。これはキリストにあって神が迎え入れてくださってできることです。もう一方は、肉に留まって地上で生活することです。この生活も神によって与えられて成り立つものです。
私たちは自分の思いだけで生きることが出来ないことを知っています。周囲の人や繋がりのある人たちの理解や協力なしに生きていくことはできません。私たちはそのような関係や生活の中で、これが私を必要としていることだ、と判断するのです。自分が必要とされていることは、私たちに喜びを与えます。神は、全ての人を必要な人として命を与え、生かしているのです。必要とされていない人はいません。
パウロは「あなたがたのためにもっと必要です」と言っています。使徒として生かされているパウロは、迫害や獄にある現状からこの世を去ってキリストと共にいることを神が望んでいるように思う、しかし地上にいる方があなたがたにもっと必要であると思う、と言っているのです。絶対に必要だ、というのではありません。私たち人間には「もっと必要だと思う」と比較による判断しか出来ないのです。なにが神の求めていることか、必要としていることか、役立つことか、分らないのです。そこでパウロは祈りをもって示された決断を語り、苦難があっても生きてフィリピに行って共に喜びたい、と書いているのです。
私たちの決断はこのような決断です。私たちは自分の思いだけで道を選び歩むのではいけないのです。神が必要として生かし与えてくださっている道を、苦労が多い道でも、私を必要としている道を行くのです。神から必要とされている道を歩む時には神が必要なものを備え、助けてくださるのです。そして、必要としている人に役立つ者にされるのです。今ここに命与えられ生かされている意味がそこにあるのです。
石巻で津波から9日ぶりに、津波で流された家から80歳の祖母と16歳の孫が救出されました。生きていたことは虚しくなく、必要とされていたから頑張って生きたのです。
2011年5月29日
説教:これが私の救い
聖書:フィリピの信徒への手紙 1章19-21節
【説教】
地震と津波で被災され避難している人たちの報道されている姿が、震災直後とは変化しています。震災に遭った直後の姿は恐怖と悲しみ、無力感でいっぱいでした。しかし今は笑顔が見られ、元気を取り戻した顔になっています。
フィリピの手紙は、喜びの手紙と呼ばれていて、私は喜ぶ、喜んでいる、あなたがたも喜びなさい、という言葉が度々出てきています。喜ぶことは、人から言われても、喜ばせるものがなくては喜べません。1:18では「私はそれを喜んでいます」と言い、「これからも喜びます」と言っています。獄に入れられていても、キリストが告げ知らされて福音の前進に役立っているので喜んでいる。だから、私が獄に入れられていることを悪いことと思わないであなたがたも喜びなさい、と言っているのです。
パウロは、この喜びは継続する喜びだと言っていますが、今獄にいて明日の命も分らないのにどうして「これからも喜びます」といえるのでしょうか。その理由を19節で「というのは、あなた方の祈りと、霊の助けによって、このことが私の救いになると知っているからです」と言っています。「救い」は喜ぶ理由になります。「救い」は何でしょうか。獄から出ることでしょうか。パウロは「私の身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」と言っています。この実現が救いだ、と言っているのです。唯一つこの実現だけを思っている。この身の存在も、働きも、歩みも全てがキリストをあがめることになる、だから私にはここに救いがある、と言っているのです。しかし、それはパウロの力によってできることではありません。
フィリピの教会の祈りが、パウロが獄にいても、どんな状況にいても、一人ではない、キリスト者の仲間がいる、キリストにあって一つ体になり一緒になって神をあがめているという思いをパウロに与えているのです。キリストを知らない人は、各自が壁を作って自分を守っているので、他の人と一つになることが出来ません。キリスト者はキリストにあって一つになり祈り合って生きるのです。また、「イエス・キリストの霊の助けによって」救いに生きることができるのです。この霊は、万事を救いの益になるように働いて下さるのです。私たち罪人を神の愛の下に生きる者にしてくださり、祈る者にして下さり、祈りの取り成しをして下さるのです。そして私たちを救いに与る者としてくださるのです。
21節で「私にとって生きることはキリストであり、死ぬことは利益なのです」と言っています。十字架のキリストと共に死に、罪と死に勝利したキリストの命に生きる時、私たちは生きることによってだけでなく、死においてもキリストがあがめられることに益する者になるのです。獄の中にあってもキリストにある命は、望みと救いの命なのです。
22才でハンセン氏病の施設に入り信仰を持った玉木愛子の句です。「目ささげ 手足ささげ 降誕祭」(病で両足を切断、両眼が失明)、「毛虫匍えり 蝶と化る日を 夢見つつ」「顧みて 豊かに病める 走馬灯」(80才の作)。キリストにある救いを感謝して歩んだのです。
2011年5月22日
説教:福音の前進に役立っている
聖書:エレミヤ 20章7-9節 フィリピの信徒への手紙 1章12-18節
【説教】
パウロは挨拶の言葉に続いて「兄弟たち、私の身に起こったことについて知って欲しい」と書いています。これは、パウロが獄に入れられたことを知ったフィリピの人たちがパウロと福音伝道のことを心配している、知りたがっている、ということがあります。
それでパウロは、「このことを知ってもらいたい。私の身に起こったことは、神の言葉を伝えるのに妨げになったのではなく、かえって福音の前進に役立っているのだ」、と書いているのです。獄に入れられたことがどうして福音の前進に役立つことになっているのか。
「福音の前進」の「前進」という言葉は、前に立ちはだかっている壁や岩などさまざまな障害物を押しのけて前に進んで行く、という言葉です。このような前進には苦労や犠牲は当たり前のことなのです。パウロは13節で「つまり、私が獄に入れられたことが、他の犯罪などによってではなくキリストのためだと、獄のある兵営全体とその他の人々に知れ渡っている」と書いています。この兵営はローマ兵の兵営です。そこに聖書の福音を伝える頃は普通では不可能です。厚く高い壁があります。それがパウロが獄に入れられたことで実現したのです。パウロが獄に入れられた理由、獄での生活の様子などが兵営全体の話題になったのでしょう。洗礼を受けた人はいなくても福音が知られたことが前進です。
14節では、パウロが獄に入れられたのを見て、その地方にいる主に結ばれている兄弟たち、キリスト者の多くの者が神のご計画を確信して恐れずに神の言葉を語るようになった、と言っています。これも福音の前進です。主にある兄弟の「全部の者」ではなく、「多くの者」が神の言葉を語るようになった、これが歴史の中にある教会の現実です。
15-17節には、その人たちが御言葉を語っている動機が一つではなく二種類ある、と記されています。一つは「ねたみや争いの心」で、「自分の利益を求めて、獄にいるパウロを苦しめようと言う不純な動機から」語っている人々です。福音を語っているのですが、信仰の仲間に対して対抗意識を持っている人はいるのです。自分の存在や働きを大きくしようと言う人はどこにもいるのです。パウロの場合には、教会を迫害していた時があったので、教会の中に反抗意識を持っている人がいても不思議ではありません。
勿論、そのような人ばかりではない。善意から、パウロに対する愛の心で、真実に伝道する人もいます。それならこの違いをどのように考えたらよいのでしょう。
パウロは「口実であれ、真実であれ、とにかくキリストが告げ知らされているので、私はそれを喜んでいる」と言っています。とにかく福音の前進に全部役立っている、と言っているのです。私たちの存在も働きも福音の妨げになっているのではないか、私たちは罪人で福音を伝えることが出来ないのではないか、と思われる。教会の現状は弱く貧しく福音を伝えるのに相応しくない、と見える。しかし福音は、エレミヤが語っているように、神ご自身が私たちを用いて語らせるのです。ですから、神を信じて歩んでいる私たちの全てを神は福音の前進に役立つものとしてくださるのです。
2011年5月15日
説教:共に恵みにあずかる
聖書:フィリピの信徒への手紙 1章7-11節
【説教】
パウロは7節で「私があなたがた一同についてこのように考えるのは当然です」と言っています。フィリピの信徒たちのことを神に感謝し喜ぶのは当然だ、と言うのです。
自分のことではなく、他の人のことをこのように言えるのは、自分とその人が特別な関係にある、ということです。そのことをパウロは、「あなたがた一同のことを共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているから」だ、と説明しています。あなたがたと私は一体になって、分けられないものとなって、「恵みを分かち合っている」「恵みに結びついている」、だからだと言っているのです。
私たちは、「私は心からあなたのことを思っている」「私は愛の心であなたのことを思っている」と言いますが、実際には自分中心に相手を思っていると言うことがあるのです。親子でも、親がどんなに我が子を愛し考えて決めたことでも、「親が決めたことは嫌だ」「私は親が決めた道は行かない」となるのです。私たちはキリストの十字架によらないでは自分を捨てることが出来ないのです。私たちは、自分中心の心、自分中心の愛を十字架に付けて、キリストの心を心とするキリスト者、恵みに与る者になったのです。
パウロは、恵みに一緒に結びついている者で、その神の御心でフィリピの人たちを愛している、キリストの愛を源としてあなたたちを愛している、と言っているのです。私たちの内にキリストが宿って、始めて私たちは人を愛することが出来る人になるのです。
そして、私たちが愛する相手の人もキリストの同じ恵みに生きている、と言う時お互いに愛し合うことが出来るのです。そうでないと一方的な愛で、親子の間に見られる愛と同じように、全財産や命を賭けた愛でも交わり合うことができないのです。
パウロとフィリピの人々は共にキリストの恵みにあずかって生き、歩んでいるのです。それで、パウロはいつもフィリピの信徒のことを神に感謝し喜ぶことが出来、「あなたがた一同のことを、どれほど思っているかは、神が証しして下さいます」と言っているのです。この言葉は、神と自分との間に信頼関係がある、と同時に、相手も神を信頼している、お互いに神の前に隠すことがないという時に言える言葉です。
「どれほど思っているか」は、「しきりに会いたがっている」とも訳されている、「会うことを熱望している」という意味の言葉です。地震と津波で離れ離れになった家族や親しい者が会いたがっていたのと同じ気持ちです。一体である者が引き離されている思いです。共に恵みに結びついている者同士はそのような関係なのです。
それで私たちは、キリストの日、キリストが再臨し、福音が完成する日に、キリストにある者同士が会うことが出来る、その日を希望とし目標として歩んでいるのです。
そのためにパウロは、フィリピの教会の人たちに、そして私たちに「知る力と見抜く力を身に付けて愛が益々豊かになるように」と祈っています。信仰生活は神によって成長させられるのです。キリストの愛が豊かになるのです。すばらしいことです、感謝です。
2011年5月8日
説教:神が完成してくださる
聖書:イザヤ書 35章1-2節 フィリピの信徒への手紙 1章1-6節
【説教】
地震と津波で沢山の家が壊され、流され、町全体がめちゃくちゃになりました。どうしてこんな事が起こったのでしょう。人間は勉強してその事が少し分って来ました。この地球を神様が造って下さった。未だ創造が終っていない。地面の下が動いているのです。
地震や津波があるこの地球に私たちは生きている。地球には、災害があり、病気、事故、死もある。でも、地球を造り、私たちに命を与えてくださっている神さまは、愛の神です。私たち一人一人を愛して虚しいものにはしないのです。ですから、神さまの与えてくださった地球の上で、神さまを信じて、神様から与えられた道を歩むのです。
今日の聖書でパウロさんは、「あなた方のことを思う度に神様に感謝して祈っています」、と言っています。何を感謝しているかと言うと、フィリピの人たちがキリストによる救いを知ってから、その救いから離れないでいることです。そのことがパウロさんにも、フィリピの人たちにも嬉しいことで感謝なのです。
何故なら「あなた方の中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を成し遂げてくださると、確信している」からです。善い業は救いの業です。「救い」は神様の業が成し遂げられること、神様の御心が実現することです。
神様の御心は、罪人の人間もイエスさまを信じて神の子になって神様の愛の中に生きるようになることです。そのためにイエスさまは馬小屋に生まれ、十字架に死なれたのです。
イザヤ書35章1-2節に、荒野が喜び踊る。砂漠に花が咲く。神の栄光を現す。とあります。神さまは大きく深い御計画と御力でそのことを実現されるのです。
春に葉っぱが出るより前に花が咲く木があります。その木は前の年の夏から秋にかけて養分を蓄えていたのです。そして、寒い冬の間に花になるために用意をしていて、春になったら花を咲かすのです。寒い冬があって、花を咲かすための準備が出来るのです。花を咲かす前に養分をやってもきれいな花は咲かないです。花を咲かすために養分も水もやってはいけないという木があります。寒いから可哀相だと暖かくしていたら花は咲かないで枝や葉が茂る。厳しい寒さの冬、養分も水もない時、それが花を咲かすのに必要なのです。
神様が地上の動物、植物を造り命を与えて生かしてくださっているので、自然の厳しさの中でも神様の栄光を現すように、完成させてくださるのです。植物は、花を咲かせ実を結んで栄光と完成を現しています。人間の完成はキリストの日に実現するのです。
キリストを信じている人の中に神が善い業が始めておられるのです。そして、神が完成してくださるのです。私たちは神の御心に従って歩んでいると、時が来たら花が咲き、実を結ぶ命に生きているのです。私たちは神様から、時に厳しい道、苦難の道を歩まされます。それは、自分で選んだ道でも自分で作った道でもない、神から与えられた道です。私たちは別の道を歩みたいと思って、もし別の道を歩んだら花は咲かないし実も結びません。神から私に与えられた道を歩んで行くと、神が花を咲かせ実を結ばせてくださるのです。
2011年5月1日
説教:感謝と喜びの手紙
聖書:フィリピの信徒への手紙 1章1-5節
【説教】
今日から「フィリピの信徒への手紙」を読んで礼拝を行ないます。
この手紙はパウロが書いた手紙です。パウロとフィリピの信徒との関係については使徒言行録16章に記されています。この手紙を書いた理由の第一は、フィリピの教会がパウロの伝道や獄の生活を援助する贈り物をした、そのお礼で4:10-20にそのことが直接記されています。第二は、今パウロの所に来ているエパフロディトをフィリピに帰すに当たっての思いで2:25-30に記されています。その他、獄中のパウロの近況を知らせること、フィリピの教会が一つになるように、問題を起こす人が来たようだから注意するように、等のことが記されています。幾つもの目的をもってこの手紙を書いたパウロの心の中心にあるのは、フィリピの教会に対する愛と福音に生かされている喜びです。
この手紙の冒頭で「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから」と差出人である自分の名前をテモテと並べて記しています。テモテは、使徒言行録16章からも分るように、パウロとは信仰による息子のような関係です。しかしパウロは自分をテモテと同じ立場に置いて並べて書いています。また、パウロは、他の手紙では「使徒パウロ」と書いて教会に対して責任ある者であることを示していますが、ここでは「キリストの僕」と書いています。僕は奴隷です。上に立つ者ではなく、下にあって仕える者です。教会の人が皆謙遜になるようにというパウロの思いが表れている、と思われます。そして、テモテと一緒にキリストの僕であることを誇り喜んでいる、と言っているようです。
続いて「フィリピにいてキリストに結ばれている全ての聖なる者たち」と手紙の宛先と受け取る人を書いています。あなたたちと私は、今いる場所や生活は違うけれど、同じキリストに結ばれて同じ神の民にされている、一つ心で同じ目的を持って歩んでいる仲間なのだ、と言っているのです。
そして「私たちの父である神と主イエス・キリストから恵みと平安があるように」と祝福を祈る挨拶の言葉を記しています。当時一般的な手紙は、この世的で自分中心の喜びや幸せを祈ることが挨拶になっていたのです。しかしパウロは「神とキリストからの恵みと平安があるように」と祈っています。これはキリスト者だけの独特のものです。先日、大地震、大津波、原発事故の中にあっても「神の恵みを頂いて、家族だけですが礼拝を守ることが出来て感謝しています」と南相馬市の牧師が電話で話していました。教会外では聞くことの出来ない感謝の言葉です。
3,4節に「私はあなた方のことを思い起こす度に、私の神に感謝し、祈る度にいつも喜んで祈っている」とあります。パウロは獄中で神に感謝と喜びの祈りをしているのです。それはフィリピの人たちが福音を信じるようになってから、福音と結びついていて離れないでいるからだ、と言っています。「最初の日から今日まで福音にあずかっている」これは本当にすばらしいことです。私たちもこのことをお互いに感謝し喜んで歩みたいと思います。
2011年4月24日
説教:イースターの喜び
聖書:マタイによる福音書 28章1-9節
【説教】
この日、墓に行った婦人が「大いに喜んだ」とマタイは28:8で記しています。
この喜びがキリスト者の喜びの信仰生活の源ですが、この喜びは地震や津波でお互いに所在の分らなくなっていた者同士が再会して抱き合って喜んでいる喜び、とは違います。28:8で婦人たちは、復活のイエスに出会っていません。「恐れながらも大いに喜んだ」のです。そして「急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」のです。これは、墓に納められたイエスが今生き返った、という喜びとは違うことが分ります。
婦人たちが墓に来て先ず体験したのは地震です。私たちは先日大地震を経験しましたが、自分の知恵と力では何も対応出来ない大きな意志と力がそこに働いて、私たちの知恵も力も命も、その意志と力の前には無力で、私たちはただ従う外ありませんでした。
墓に来たに婦人たちに天使が来て、「十字架につけられたあのお方は、かねて言われていた通りに復活された」、と告げました。そして、「弟子たちに告げなさい。『あのお方は復活された。ガリラヤでお目にかかれる』と」、と命じたのです。婦人たちは「かねて言われた言葉」を思い出したのではないでしょうか。そして、地震も天使に出会ったことも恐ろしかったでしょうが、主イエスが神の子で神の意志と力と命を持っていらっしゃるお方なのだ、そのお方が私たちと一緒に歩んでくださったのだ、と知って「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」のです。
婦人たちが走って行くと、行く手にイエスが立ったのです。イエスは彼女たちを迎えるように立って「おはよう」と言われました。「おはよう」は「喜びなさい」という言葉です。復活の主は彼女たちを迎えて、「おはよう、喜びなさい」と言っているのです。復活のイエスは「人間となって十字架についた私は復活したのだ。これから私と一緒に生きよう」、と告げているのです。イースターの喜びはこの喜びです。
地震と津波、死と命を経験した私たちは、私たちが神の意志と力の御支配のもとにいることを知らされています。この世界の中に生かされている私たちは、主イエスに結びついて生きる時に、罪の命は死に、復活のイエスの命に結び付られて、新しい神の命に創造されて、その命に生きるのです。そこに、イースターの喜びに生きる命があるのです。
現実の私たちは、信仰をもっていても信仰者として生きていないことを知らされます。パウロが「私が望まないことを行なっているのは、私の中に住んでいる罪です」と言っている現実です。ペトロが「サタン、引き下がれ。神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱責されたのと同じ人間なのです。しかし、主イエスは罪と死に勝利しているのです。私たちはこの世では悩みがありますが、主は罪と死に勝利しているのです。
私たちがイエス・キリストを救い主と信じることによって、十字架と復活の主と一つに結び付られるのです。そのとき聖霊が働いて、罪と死に勝利した新しい復活の命に生かされるのです。神の愛と恵みの御支配の命に生かされるのです。
2011年4月17日
説教題:ここに救いがある
聖書:イザヤ書 53章1-10節 ルカによる福音書 23章39-49節
【説教】
今週の金曜日は主イエスが十字架にかけられた日です。イエスが十字架に架けられた時のことは、見る人の位置や心の状態などによって、違う伝え方がされています。
ルカ福音書23:39-43の言葉は、誰がどこで聞いていたのか分りませんが、この記事を伝えた人は「ここに本当の救いがある。」と心に深く刻むものがあり、繰り返し人々に語ったのだと思います。この言葉を聞いて「ここに救いがある」と確信を与えられたのは、イエスと語り合っている人の会話を他人事として聞くのではなく、その語り合いに自分も参加している、自分の思いと言葉がここにある、と聞き救いの喜びを持ったのでしょう。
主イエスの十字架の両側にも十字架が立てられ、その十字架にも犯罪人が架けられていました。その犯罪人の一人は、隣りの十字架のイエスをののしったのです。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ」と。この犯罪人は、自分が死刑になっていることを覚悟していて、人間は十字架で死んだら終わりだ、と思っているのです。ですから、イエスの十字架と自分の十字架を同じに見ているのです。この人は神無き世界に生きていて、神に救われて生きることは考えることも、求めることもしていないのです。生きることも、罪も死も分っていないのです。
この犯罪人の言葉を聞いたもう一人の犯罪人は「お前は神を恐れないのか。同じ刑を受けていながら」と彼をたしなめました。この言葉には、同じ刑だけれどイエスの十字架と自分たちの十字架は違うとの、思いがあります。「我々は自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」ということを知っているのです。イエスと私たちは違う。私たちは罪人だけれども、このお方は罪のないお方なのに罪人の一人として十字架に架けられてご自身死の報いを受けているのだ、神が罪人を救うために十字架に架けているお方なのだ、と言っているのです。この犯罪人は、この時まで罪人として生きていたのですが、今十字架のイエスに出会い、自分とイエスの違いを知って、神を知り、罪と救いの命を知って、謙遜になって悔い改めているのです。
そしてイエスの方に顔を向けて「イエスよ、あなたの御国においでになる時、私を思い出してください」と言いました。イエスに思い出してもらうだけで幸せだ、救いだ、と言ったのです。するとイエスは「あなたは、今日私と一緒に楽園にいる」と言われました。
この犯罪人は何か良いことをしたのではありません。お前は生きる価値がない、と死を前にした所で、イエスに出会って、イエスと自分の違いを知り、罪のないお方が罪人のために十字架に架けられたのを見て、自分の罪と神の愛、神の救いの命を知って、全てをイエスに委ねたのです。イエスの憐れみにすがって「私を思い出してください」とお願いしたのです。この信仰告白と願いをイエスは聞いてくださったのです。
主イエスは十字架の罪人の傍らに共にいたように、私たちの傍らに今も共にいてくださっているのです。十字架によって神と私たちを遮っていた幕は裂けて、なくなったのです。
2011年4月10日
説教題:十字架刑が決まった
聖書:ルカによる福音書 23章13-25節
【説教】
イエスはポンテオ・ピラトによって十字架刑が決められました。ピラトは、神とローマから任ぜられた総督で、権限をもって十字架刑を決めたのです。このことは、彼の責任が重いこと、またイエスの十字架刑がユダヤ人だけの問題ではなく、世界の歴史の中に生きている人間全体の問題であることを現しています。
ユダヤ人は、自分たちの掟で処刑することができました。しかし、掟を越えての処刑は総督の権限が必要でした。彼らはイエスを仲間内だけの処刑にすることを善しとしませんでした。それで、イエスを夜に捕らえて死刑にすることを決めたのでが、この世の法で公的に処刑することを求めてイエスをピラトのもとに連れてきました。ピラトはイエスに尋問した後、イエスを連れて来た人々に「私はこの男に何の罪も見いだせない」と言いました。しかし彼らは納得せず、イエスは死刑に価する罪を犯していると訴え続けたのです。彼らは、自分たちは正しい、という正当性と満足感を求めているのです。私たちも同じことを求めます。そして、そのために人や権力や権威を利用するのです。
彼らは、イエスが自分たちの待ち望んでいるメシアとは違う、というだけでイエスを殺したいのです。ピラトは、ユダヤ人たちが再度イエスを訴えて来たので、イエスを再度尋問した後、「訴えているような犯罪はこの男には見つからない。だから釈放しよう。」と言いました。ピラトは、総督の権威と責任を持って行動すべきです。ところが彼は自分の地位と身の安全を大事にし、イエスに対する自分の判断を示していますが、結果的に最終決定はそこにいる人々に委ねることになり、イエスを十字架刑にしたのです。
人々の声がピラトの考えや判断を打ち負かしたのです。私たちは人の声に負ける弱さがあるのです。無責任な風評に動かされるのです。人の声に打ち負かされての決断でも、十字架刑は総督ピラトが公的な責任で決定した刑です。風評による行動でも責任を負うべきものとなるのです。十字架刑は神が定めた公的な裁判で責任ある者が下した刑なのです。
ピラトが内心どのように思っていても、十字架刑にした責任を負うのです。そしてイエスの十字架は、ピラトの人間としての弱さ不誠実さの罪をも問うているのです。ピラトだけではない。ユダヤ人の指導者たちも、自分の主張や生き方を正しいとして、それを批判するイエスをなき者にしようと民を動かした罪を強く問われています。また、指導者や人々に動かされて、自分個人の考えや責任を大事にしないで、他の人と一緒になって、罪のないイエスを捕らえ、訴え、ピラトを打ち負かすまでに迫った人々の罪も大きいのです。
誰のどの罪が一番大きく重いのか、十字架の責任は誰に一番強くあるのか、という議論は余り意味がありません。私の罪は小さい、あの人の罪の方が大きい。と言っていることが、自分の罪が分っていないことを現しています。何よりも、イエスは罪人である私たちを救うために十字架を受け入れたのです。私たちはイエスが十字架刑にされた、そこに自分の罪を見、神の前に深く悔い改めを迫られるのです。
2011年4月3日
説教題:聖餐式の恵み
聖書:出エジプト記 12章21-27節 ルカによる福音書 22章14-23節
【説教】
聖書の小見出しに「主の晩餐」とありますが、この小見出しの通りに、主(しゅ)イエスがこの食卓を用意され、食卓の主(あるじ)となって弟子たちのパンと杯を与えた特別な食卓でした。
19節で主イエスは「私の記念としてこのように行ないなさい」と食卓にいる弟子たちに命じています。「行ないなさい」という言葉は「繰り返して行ないなさい」と言う意味もあるようです。弟子たちはイエスが死んだ後も、この言葉を忠実に守って主の食卓を記念として行ない続けました。
22:14に、イエスが食卓に着いた後、イエスに促されて席に着いたのは「使徒たち」と記されています。弟子たちを「使徒」と呼ぶのは6:13にも「十二人を選んで使徒と名付けた」とあります。弟子がイエスと共に歩む者という意味が強いのに対して、使徒はイエスから遣わされて福音を伝える者という意味が強いと言えます。弟子たちは、唯主イエスの思い出を伝えるのではなく、福音を伝える者としてこの食卓を繰り返し行なったのです。
主イエスは、「私の記念としてこのように行ないなさい」と命じたこの食卓で、杯を取り上げ感謝の祈りをしてから「私は今後ぶどうの実から造ったものを飲むことはない。神の国が来るまでは」と言い、パンを取り感謝して裂き「これはあなた方のために与える私の体である。私の記念としてこのように行ないなさい」と言ったのです。ここで主イエスが告げているのは、自分はこの体を十字架につけて死ぬけれど、神の国であなたがたと共に食事をする、その時一緒に食事をするのが楽しみだ、と言っているのです。
この記念の食卓を初めの教会は「感謝」(エウカリスティア)と呼んでいます。この「感謝」は、感謝の祈りをすることから来ているだけでなく、この食卓で記念していることが、主イエスの十字架と復活による救いを記念し、今も生きて教会と食卓を支配している天のキリストを覚える、それが喜びで感謝であることから来ているのです。聖餐式は、十字架の主だけを記念するのではありません。十字架の救いを記念し、復活と昇天して神の右にいますキリストに目を向けて執り成しと愛のまなざしを覚えるのです。聖餐式では「心を高く上げよ」が語られ、歌われてきています。天にいますキリストに心を向けるのです。
過ぎ越し祭も救われてエジプトを出て新しく生かされていることを喜び記念して行なっていたのです。初めの教会は、復活祭を過ぎ越し祭を意味する「パスカ」と呼んで、「パスカ」の中で十字架と復活を記念したのです。
聖餐式の恵みは、イエスの十字架と復活によって新しく生かされている恵みを記念することです。今ここにその恵みを想起するのです。この食卓に居たイエスの弟子たちも21-24に記されているように、直ぐにイエスから心が離れ、自分中心で人を裁く罪人になってしまうのです。ですから教会は、この罪人であった私が主キリストによって救われているのだ、という恵みを想起する、主を記念する聖餐式を行うのです。聖餐式は私たちを新しく神の民として目覚めさせ、新しい人として生きる信仰の糧を与えてくれるのです。