2018年9月30日
説教題:ともし火を整えて待つ
聖 書:詩編24編7-10節、マタイによる福音書25章1-13節
だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。
(マタイによる福音書25章13節)
先週の特別伝道礼拝で十戒を学び、今日は、ふたたびマタイによる福音書に戻ってまいりました。イエス様が弟子たちに語られた「十人のおとめ」のたとえ話を、ご一緒にいただいています。物語のように、もう少し申しますと、アニメーションか映画のように、イエス様の言葉で情景がいきいきと描き出されます。先ほどの司式者の朗読と共に、皆さまは花婿の到着を待つ十人の少女たちのかわいらしい姿を思い浮かべたのではないでしょうか。
わくわくと喜んでイエス様を待つ教会の姿を、イエス様は十人のおとめたちのたとえで語られました。教会の姿。それは何でしょう。今日も、私たちは聖書朗読の前に信仰の告白をいたしました。私たちが神さまを信じていること、聖書と、バプテスマ・主の晩餐の二つの聖礼典をよりどころとして、教会生活を送っていること、送りたいと願っていることを、声を合わせ、心をひとつにして、主の御前に言挙げしました。その信仰告白の中で、使徒信条に入る直前のところに、私たち教会の姿が、実に具体的に語られています。神さまが、またイエス様が、私たち教会に望んでおられる、期待しておられる理想の姿と申してよいでしょう。
今一度、お読みします。聴いてくださるだけでも良いのですが、皆さんの目の前・椅子カバーのポケットに入っている信仰告白をご確認くださるか、または交読文の背表紙に貼ってある文言をご一緒にたどってくださると、なお良いかと思います。教会の姿、教会が何をするところか、私たちはこう申しました。「教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行い、愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたもうを待ち望む。」
教会は5つのことをしています。まず、公の礼拝・主の日の礼拝を毎週、献げます。私たちは、今、その最中です。毎週行っています。
二つ目に、福音を正しく伝えます。礼拝説教を中心として、聖書の言葉を伝え、神さまの愛を受けた恵みの器である私たちが、その受けた愛と真理を世に伝えてゆくことをさします。これも一生懸命、行っています。先の日曜日には、特別伝道集会を行うことができました。
三つ目に、バプテスマ・洗礼式と、主の晩餐・聖餐式を行います。
洗礼式は4月1日のイースター、5月20日のペンテコステに行うことができました。聖餐式は、毎月最初の日曜日に執行しています。
四つ目が「愛のわざ」を行います。互いに互いのために祈り合い、助け合い、また教会の外へも手を差し伸べます。私たちひとりひとりが日常生活の中で、イエス様が十字架で献げられた自己犠牲の愛のわざにならい、自分も他の人も大切にして生きてゆくことをさすと言っても良いでしょう。難しいことです。それができていない私ですが、イエス様に導かれると希望を抱いて、進んで行く毎日です。
そして、最後の五つ目です。「教会は、主のふたたび来たりたもうを待ち望む。」教会は、イエス様がもう一度、この世においでになるのを待ち望んでいる、主の再臨を待ち望む − そういうところです。
イエス様は十字架で死なれ、三日後に復活されて天のお父様・神の国におられる神様のもとに帰られました。そこから、もう一度、イエス様が約束してくださったとおりに、この世においでくださるのを、私たちは一緒に待っているのです。「待っている」という実感を、お持ちでしょうか。イエス様がもう一度、この世においでくださる時。それは世が、神の国・天の国と一体になる時です。神さまがすべて悪いものを滅ぼしてくださり、私たちには、もう何一つ悲しみも、苦しみもなくなる時です。そのすばらしさを、私たちはまだ知りません。ですから、「待っている」という実感を持ちにくい。それが正直なところでありましょう。
だからこそ、イエス様は何度もおっしゃってくださるのです。あなたがたは、その時がいつかまったく知らない、その日・その時を知らない。だから、どのように待てばよいのかわからないし、そもそも自分たちが待っているということ自体を忘れてしまう。自分が、イエス様を待っているということを、いつも心に留めておきなさい。それが、「目を覚ましていなさい」ということの第一歩です。イエス様は、それを、今 私たちが読み進んでいるマタイによる福音書では24章29節から繰り返し、繰り返し、語ってくださいます。そして、今日の聖書箇所では、特にどのように待てば良いかを教えてくださるのです。
聖書は、しばしば、もう一度 世においでくださるイエス様を花婿に、そのイエス様を待つ教会を花嫁と語ります。今日のたとえ話には、その比喩がよくわかる形で現されています。
イエス様の時代のユダヤでは、結婚式の時に、まず花婿が夜、花嫁の家を訪れるのが習わしでした。その花嫁の家で、結婚のお祝いの宴を開きます。今日の聖書箇所の10節で「婚宴の席」とあるのは、その祝宴です。その時に、花嫁の妹たちや従姉妹、年下の友だちが、手に 手に灯りを持って、家の門のところで花婿を出迎えることになっていました。今日のたとえ話に語られているとおりです。当時は12歳になれば、少女は結婚適齢期に達したとみなされていました。言ってみれば、ようやく恋に恋する年頃になった少女たちが、恋の実りの結婚式で花婿のお出迎えの役割を務めることになります。大切な、そして華やかな役割です。少女たちが、それぞれに美しく着飾って、どれほどわくわくドキドキと、花婿の到着を待っていたかが目に浮かぶようです。それぞれに何度も鏡を見たり、お互いの服や髪型を褒め合ったりしながら、自分は花婿をお迎えして、ちゃんと花嫁のところにご案内する大切な役割を担っているのだと、幾度も心に言い聞かせるでしょう。
自分が花婿を待ち、出迎えることを心に言い聞かせる。イエス様は、このおとめのたとえを用いて、私たち信仰者が、イエス様がもう一度、この世においでくださり、それと同時にこの世が終わり、すべてが新しくされて、新しい天と地が始まることを、私たちが今待っていること、すばらしい その時を待っていることを心に言い聞かせるようにとおっしゃいます。それが、「目を覚ましている」ことなのです。
私たちも洗礼を受ける前、また受けた時は、自分が神さまのものとなったことを強く意識します。自分のためにイエス様が十字架で命を捨ててくださったこと、そこまで自分が愛されていることを深く感謝します。また、そのイエス様が、目には見えないけれど、これからずっと一緒にいてくださること、悲しみ苦しみを一緒に担ってくださることを何度も思い起こし、わきあがる喜びをかみしめます。その方・その方で喜びの表し方は異なることでしょう。祈ってイエス様との時間を長く持つ方、教会でのご奉仕を喜びとされる方、神学書や説教集を夢中で読む方、さまざまと思います。洗礼を受けたけれど、あまり自分が変わった気がしない、これからイエス様は私に何をしてくださるのだろう。そう思って、日々を楽しみに過ごす。イエス様が与えてくださる恵みを数えながら過ごす。そのような喜び方をされる方もおいででしょう。イエス様と出会った喜び・信仰を与えられた喜びは、私たちの心に宿ったともし火です。あかあかと元気よく燃えて、私たちの心を高く上げ、前へと進ませてくれます。
ところが、この喜びに私たちがだんだん慣れてくることがあります。
祈りは次第に習慣になってしまいます。ご奉仕が、喜びではなく「やらなければならない義務」に感じられてきます。イエス様がなさって下さった十字架での犠牲を思えば、救いの喜びは心によみがえってきます。しかし、それを思い出すこと自体が間遠になるかもしれません。
花婿を思い出せなくなってきます。花婿が来ること、イエス様の恵みと、イエス様の再臨の約束を忘れて行きます。今日の聖書箇所は、5節でこう語ります。「花婿が来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。」今年は2018年ですから、イエス様が天に戻られてから二千年近くが経っています。そして、私たちはつい、こう思ってしまいます。二千年もの間、世々の教会が、これほど待ち続けてもおいでにならないのだから、今日おいでになる、明日おいでになるということはないだろう、イエス様はずっと後においでになるのだろう。そう思い始めるのが、「花婿が来るのが遅れる」ことです、私たち人間の側からイエス様の再臨の時期を勝手に想定することです。そして、私たちの信仰は眠り込みます。待つことを忘れ、信仰の喜びを忘れてしまうのです。
しかし、ちゃんと起こしてくれる「叫ぶ声」があります。イエス様が世においでになり、伝道活動を始められた時は、ヨハネが「荒れ野で叫ぶ者の声」となりました。今日の聖書箇所の6節は語ります。「真夜中に『花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。どんな形でこの声が叫ばれるのか、私たちはまったく分かりません。24章でイエス様が語る、これもまた「たとえ」でありますが、そのように、恐ろしい出来事として起こるのかもしれません。どのようなことであれ、それはこの世の苦しみ辛さが終わる喜びのさきぶれです。大きな恵みです。
イエス様は7節で語られます。「そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。」それぞれの信仰のともし火を、しっかり燃やそうとしました。ところが、ここで十人のおとめの中で、信仰を整える備えのない愚かなおとめと、備えのある賢いおとめが表れてしまいます。ともし火を燃やし続けることのできる油として、イエス様は、その備えをたとえられました。
信仰のともし火、信仰の喜びを思い起こさせる油。イエス様は、何をもって「油」と言われたのでしょう。
古くから、多くの神学者・聖書学者が、さまざまな解釈をしています。しかし、答えがひとつになることがない、そういう「問い」です。
イエス様のたとえ話は、私たちへの教えであると同時に、私たちがそれぞれいただいている信仰を思い巡らすための問いかけでもあります。
私は 今は、この油は、私たちそれぞれの心に刻まれた御言葉ではないかと、そう説教準備のための黙想の中で答えをいただいたと思います。次にこの聖書箇所を黙想する時には、また新しい答えをいただくかもしれませんが、今は、こう思うのです。イエス様の十字架のみわざと復活が、この自分の救いのためであったと すぐに思い起こせる御言葉が、信仰を整える備えです。油です。この御言葉があれば、この御言葉を思い起こせば、苦しい時も悲しい時も、イエス様が私を見捨てずにいてくださることがすぐにわかる。そして、深く慰められ、励まされる。喜びが心にいっぱいになる。ここまで、この私を愛してくださったイエス様がいつも寄り添ってくださるのだから、私は大丈夫。そう強められて、うなだれず、心を高く上げることができます。イエス様が、ふたたび この世においでくださるのを、心待ちにする思いがよみがえります。そういう、自分の心に刻まれた御言葉を蓄えてゆくのが、信仰生活でありましょう。その御言葉は、ひとりひとり違うと思います。苦しみの中・つらさの中で、礼拝で、あるいは聖書研究会で、または祈りながら一人聖書を読む中で、与えられた御言葉だからです。イエス様は、そのようにして、私たち一人一人と出会ってくださるからです。
今日のたとえ話の中で、イエス様が語る賢いおとめたちは、ちょっと意地悪なのではないか、そう感じた方は少なからずおられましょう。
私たちは互いに助け合うことをイエス様に教えられているのだから、油のあるおとめたちは、備えのなかった者に分けてあげれば良いのに。しかし、それはできないのです。それぞれが、イエス様と出遭う中で与えられた御言葉だからです。それぞれが、イエス様と共に歩んだ信仰の歩みが、御言葉と共に心に刻まれているからです。
イエス様は、神さまは、祈りの中で呼べば、御言葉を通して必ず応えてくださいます。また、私たちの呼ぶ声よりも先に、常に、御言葉を通して呼び続け、語りかけ続けてくださる方です。主の御声を聞きわける良い耳、主を呼び続ける心の声を備えられたいと願います。
信仰のともし火を整えて待つ、そしてイエス様の再臨を喜んで待ち望むとは、その耳、その声をいただくことでありましょう。今週、主は私たち一人一人に、どのような出会いをくださるでしょう。それを心から楽しみにして、今日から始まる七日間を歩んでまいりましょう。
2018年9月23日
説教題:幸福への道しるべ
聖 書:出エジプト記20章1-17節、ヨハネの手紙一3章11-18節
神はこれらすべての言葉を告げられた。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
(出エジプト記20章1-3節)
今日は特別伝道集会の礼拝として、御言葉から「十戒」をいただき、神さまがくださった十の恵みの言葉をご一緒に味わおうとしています。
伝道集会を機会として、私たちプロテスタント教会がたいせつにしている三要文のひとつ、十戒について思いを巡らしたく思います。
十戒を「恵みの言葉」と申しますと、エッと思われるかもしれません。また、今日は説教題を「幸福への道しるべ」といたしましたが、それも意外だと感じておいでかと思います。
十戒は十の「戒め」と書きますから、これをしてはならない、あれもしてはならないといましめ、禁じる言葉と受けとめておいででしょう。幸福どころか、正しく清いかもしれないけれど自由のない窮屈な生活へ導くもの、そんなイメージがあるかと思います。どうして、これら十の神さまの言葉をたどると、幸福に行き着けるのでしょう。
そもそも、私たち人間にとって幸福とは、しあわせとは何でしょう。
自分でひとつの目標を立て、これを成し遂げれば幸福だと、私たちはそれぞれに頑張ります。達成することができれば嬉しく、心は満ち足ります。めざしていた学校や企業に入ることができたり、この人とならと思い決めていた方と家庭を持ったり、またそこに新しい命が与えられたり。自分の望みどおりに物事が運ばなかったとしても、慰められたり、新しい友情を知ったりなど、予想外の喜びに出会って、ああ、これが幸福だったのだとしあわせを発見することもあります。
穏やかで満ち足りた日々が続くと、幸福を当たり前と思うようになることもあるでしょう。人並みに過ごせているから、まあ、これで良いか、可も無く不可も無し。満足すること・足を知ることが幸福だと思えてくる年代を迎えることがあります。
一方で、私たちは人生に確かな答えが欲しいと思うことがあります。自分が歩むこの道は、正しいのか。これが本当に自分の人生なのか。はっきりした指針を持っていないと、大切な決断を迫られた時に、どうすれば良いのか分からない。不安があっては、幸福とは言えません。
十戒・神さまからの十の恵みの言葉は、私たちに生きる指針を与え、魂の平安に与る幸福へと導いてくれます。
これらの言葉は、ある日突然、降ってわいた命令として、神さまから与えられたのではありません。歴史的な、そしてたいへん劇的な出来事があり、その出来事を通して、神さまはひとつの民族・ユダヤ民族に出会ってくださいました。神さまがユダヤ民族と出会われたのは、彼らを通して、人種の隔て無しに、国境を超え、空間を超え、もちろん時代と時間を超えて、私たちすべての人間と、出会ってくださるためだったのです。十戒は、最初の出会いの言葉・愛の言葉です。
この出来事を、まずご紹介いたしましょう。
ユダヤ民族は紀元前20世紀から13世紀の間、今から4千年程前になりましょうか、パレスチナ地方をさまよう弱小民族でした。砂漠地帯で、生活は厳しい天候に左右されることが多く、飢饉から逃れるために大きな国に頼らざるを得ませんでした。聖書の初めの書・創世記は、その後半がヨセフ物語と呼ばれています。ここには、ユダヤ民族が飢饉の時に大国エジプトを頼ったことが記されています。民族ごと、エジプトに移住するようなかたちで生き延びたのでしょう。
エジプトはご存じのように、ピラミッドの建設に財力も労力もそそいでいました。いくらでも人手が欲しいので、エジプトにお情けをかけられた立場・弱い立場にあるユダヤ民族は、すぐにピラミッド建設に駆り立てられました。民族ごと、奴隷にされてしまったのです。
民族がまるごと奴隷というのは、あまりに悲惨です。国もなく、自由もない彼らを、神さまは深く憐れまれました。そして、ご自身が最初に出会われる民族として、この惨めで弱いユダヤを選ばれました。
神さまは預言者モーセを通して、民族に語りかけ、エジプトから逃れ出るようにと導かれました。
ユダヤ民族は、男性だけで60万人にのぼる大集団でした。この労働力を、常にピラミッド建設を行っているエジプトが手放したがるはずがありません。エジプトの王ファラオと、ユダヤ民族の指導者として神さまに立てられた預言者モーセは何度もやりとりを行いました。神さまはその都度、ユダヤ民族を助けてくださいました。エジプトを困らせ、苦しめる十の災いを起こしてくださったと、出エジプト記は伝えています。
ついにファラオは、いったんはユダヤ民族を引き留めることを諦め、ユダヤ人たちはエジプトを脱出することができました。ところが、彼らがエジプトを後にしたとたん、ファラオは軍隊を差し向けて、彼らを追ってきたのです。彼らは必死に逃げましたが、やがて目の前に海が迫ってきました。紅の海・紅海です。神さまはこの時、奇跡を起こして彼らを救ってくださいました。海を二つに割り、ユダヤ民族があらわになった海の底を通って逃げることができるようにしてくださったのです。そそり立った水の壁の間を、ユダヤの民は逃げました。後ろから追ってきたエジプト軍が、彼らと同じように海の底を通ろうとすると、水の壁は崩れ、元の海原に戻り、エジプト軍を飲み込んでしまいました。こうして、ユダヤ民族はエジプトでの奴隷の身分から解放され、自由になりました。
ところが、自由になったからと言って、すぐに幸福になれたわけではありません。彼らには国土がありませんでした。持って運べるほどのわずかな財産しか持ち合わせていませんでした。水を探すのもたいへんな砂漠を、昼の暑さと夜の寒さ、飢えと渇きに苦しめられながら、さまようことになったのです。この時に彼らユダヤ人が心に受けて、持っていたのが、モーセを通して語られた神さまの約束の言葉です。
必ずこれからユダヤの国土となる土地に導くという約束でした。
神さまは、この約束が確かであることを、ユダヤの人々にすでに示してくださっていました。神さまは、ユダヤ人をエジプトの奴隷の身分から救うと約束してくださり、十の災いを起こして、本当にエジプトから脱出させてくださいました。海を二つに割る奇跡を起こして、本当に彼らを救ってくださいました。さらに、渇きに苦しんでいたら岩から水を湧き出させてくださり、食べ物としてマナを降らせ、うずらを与えてくださいました。神さまは、ご自身が必ず約束を守り、実現させる方だということを、幾つもの奇跡で示してくださったのです。
神さまはこうして、ご自身がどれほどユダヤの民を大切に思っているかを現されました。聖書に記されている奇跡は神さまの万能・そのお力を人間に示すのではなく、むしろ神さまが深く人間を愛し、何をもってしても助けてくださろうとしていることを現します。
神さまは、奇跡を通して、わたしはこれほどにあなたがたを思っている、あなたがたは私にとってそれほどに大切だと、ユダヤの民に語り続けます。その同じ言葉を、ユダヤ民族から出発し、時空を超えて、今、私たち一人一人にも語ってくださるのです。私たち一人一人に命を与え、一人一人にすべて異なる人生を与えた神さまは、私たち一人一人の人生に計画を与えられ、私たちを造ったことに責任を持って、永遠に守り通してくださいます。
そして、神さまは、今日の旧約聖書の御言葉を通して、ついにユダヤ民族にご自身を顕されました。私たちがいただいている聖書箇所、出エジプト記20章2節は神さまの自己紹介の言葉です。神さまはこう言われました。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」
あなたがたをこれまで助けてきたのは、この自分だと言われます。そして、十戒の第一の言葉を告げられました。
この言葉です。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」それは、この私ほどに、あなたのことを愛している者は誰もいないという神さまの愛の宣言です。あなたを造り、あなたを守り通す者を神と呼ぶのであれば、まさに、このわたしこそが、あなたのただ一人の神だと、神さまは言われます。
だから、他のまがいものの神を信じてはならないのです。
神さまは、人間の手で造られるものであるはずがありません。人間は人間を、またあらゆる「命」を造り出すことができません。それは高度に科学が発達した現在であっても、いまだに不可能なことです。神さまが命を造られ、私たちを造ってくださったのです。私たちが神さまを造るのでは決してありません。だから、神さまは二番目の言葉を言われます。「あなたはいかなる像も造ってはならない。」木や石から造られたものを、私たちが神と呼んでひれ伏すことはありえません。神さまは、第三の言葉でこう言われます。「あなたはそれら – 偶像のことをさします – に向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」それがどんなに無意味なことか、ユダヤの民はよく知っているはずです。人間が木や石で造った偶像に、海を二つに分ける奇跡を行うことなどできません。
十戒のこれらの言葉は、たいへん堅い言葉で「唯一神信仰」と呼ばれたり、「偶像崇拝の禁止」と呼ばれたりします。堅いと同時に、私たちの自由な心を縛り付けるように厳しく響きます。しかし、これらは実は神さまからの一方的な命令ではありません。神さまがユダヤの民になさった救いの奇跡、そしてそれらを通して私たちすべてに示された神さまの愛の事実です。
これほどに私はあなたを愛しているのだから、あなたは私を神として信頼しない筈がない。切実な思いをこめて、神様はそう言われます。
ここまで愛を告げてくださる神さまに、ユダヤの民は背き続けてしまいました。神さまが目に見えず、そのお声も聞けない方なので、信じることができなかったのです。
ついに、神さまは目に見える人間となって、地上においでくださいました。イエス様です。イエス様は、私たちが神さまを信じない、その罪、そしてそこから生まれてしまうすべての罪を私たちの代わりに背負って十字架で命を捨ててくださいました。ここに、神さまの愛は再びはっきりと私たちに示されました。
もう一度、ユダヤ民族だけでなく、イエス様の十字架を通して、神さまは私たちに言われます。これほどに私はあなたを愛しているのだから、あなたが私を信頼し、神として頼らないはずがない。私は必ず、あなたを助ける。あなたに永遠の安心を与える。永遠の安心。永遠の命。これこそが、私たちの幸福です。
ここに示された神さまの愛は、私たち一人一人・個人への愛であると同時に、共同体への愛です。出エジプト記の時代には、ユダヤ民族全体への愛でした。今の時代ではまず、教会・信仰共同体への愛です。
共同体への愛は、たいへん具体的なかたちを取ります。それは、秩序・きまり・法・律法となって与えられました。ユダヤ民族はエジプトから逃れて自由になりましたが、共同体としての秩序を何一つ持っていませんでした。無法状態だったのです。これは恐ろしいことです。秩序やきまりは、私たちを守ってくれます。幼稚園で廊下を走ってはいけないというきまりがあるのは、ツルツルする廊下を走って転んで、走ったその子供自身が怪我をしないためです。
十戒の言葉の五つ目「あなたの父母を敬え」から最後まで、私たちが共同体の中で守り守られて生きるための「きまり」が与えられています。そして、それは愛から始まっているのです。
あなたの父母を敬いなさい。共同体の中で、高齢となり、弱くなってゆく者を決してないがしろにせず、大切にすることを勧めています。自分自身が生きるか死ぬか、余裕のない砂漠をさまよう生活の中でも、弱っている者をいたわり助けなさいと主は教えます。それは、秩序・きまりの基本が愛であることを示しています。天の父である神さまが私たち人間を我が子として助けてくださる愛にならい、私たちもまず、この世に自分を産み落とし、愛情をそそいでくれた父母をせいいっぱい、愛するように。また、人類最初の殺人事件が兄弟殺しであったように、家族は激しい憎しみの生まれるところでもあります。それを乗り越えて、互いに愛し合うことから始めるようにと、主は言われます。
父母は、私たち誰もが最初に出会う自分以外の人間です。こうして血縁で結ばれた共同体・家族は、やがて新しい人を他の共同体・家族から迎え、新しい家族を生み出します。これが結婚です。その結婚の愛の絆をたいせつにするために、姦淫してはならないと主は言われます。人の物も、権利も、自由も盗んではならない。神さまが造られ、神さまのものである人の命を奪ってはならない、殺してはならない。真実を語ることで、共同体の秩序を保つように。そして、最後の言葉は「隣人の家を欲してはならない」。神さまは私たち一人一人をしっかり見ておられ、それぞれに最もふさわしい良いもの、ぴったりなものを与えてくださいます。隣人のものを欲しがっても、それは神さまが与えてくださるもの・自分が今持っているものに及ぶはずがないのです。主の愛で満ち足りる人生が、ここに示されています。
私たち人間が造った法律、たとえば日本国憲法は愛から始まってはいません。十戒は、私たちを愛して、そのためにご自身の命を捨てられた方・人となってまで私たちを救ってくださった神さまからの贈り物です。喜びをもっていただき、従い、感謝を献げましょう。
2018年9月16日
説教題:目を覚ましていなさい
聖 書:イザヤ書40章1-8節、マタイによる福音書24章32-51節
天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。…だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。
(マタイによる福音書24章35-36節、42-43節)
イエス様が終末の日・この世の終わりの日を語る御言葉をいただいて、今日で3回目を迎えます。これまでの2回の礼拝説教では、この世が終わり、新しい天と新しい地が始まる時に、必ず私たちのもとに再びおいでくださること、だから決して希望を捨てず、そのこれまでこの世が知らなかった喜びをいただくのを楽しみに、今の時代を耐え忍びなさいと語られるイエス様の言葉をいただきました。
今日は、かなり長い聖書の言葉を聴きました。イエス様の説教の一部分です。ここまでのところで、イエス様は、世の終わりに私はあなたがたのところにもう一度、必ず来る。世の終わり、そしてイエス様がもう一度おいでになるその時は、天の父の他にはだれも知る人はいない、しかし、恐れることはないと語られました。そして、今日のイエス様の勧め、身近な言葉で言えば「アドバイス」は、恐れに陥らないために「目を覚ましていなさい」という教えです。世の終わりと聞くと、どうしても不安におののいてしまう私たちに向けて、そう、イエス様は安心を与えてくださいます。
目を覚ましていなさい。もちろん、本当に寝てはいけない、とおっしゃっているのではなく、心と魂の姿勢、信仰の姿勢を示す言葉です。「心と魂が目を覚ましている」とは、どういうことでしょう。また、「信仰が目を覚ましている」とは、どういうことでしょう。また、どうして「目を覚まして」いれば、私たちは安心で、平安でいられるのでしょう。イエス様は、今日の御言葉で、それをたいへんいきいきとしたたとえを用いて語って下さいます。聖書を見ますと、今日の新約聖書の聖書箇所は、三つの小見出しに分かれています。大きく三つのことが語られていると読み取って良いでしょう。順を追って、イエス様が私たちに何を伝えようとなさっているのかを、ご一緒に思い巡らしてまいりましょう。
まず、32節「いちじくの木から教えを学びなさい」と始まる35節までのところを考えてみます。ここで、イエス様は、いちじくの木に葉が伸びると、夏が来たことがわかるように、この世の終わりの時・イエス様の再臨の時にはしるしがある、と語っておられます。これは日本で暮らす私たちでしたら、別にいちじくの木でなくても、桜の花が咲いたら春爛漫を迎えたとわかる、と考えても良い表現です。比較的、意味の軽い「たとえ」と受けとめて良いでしょう。
その「この世の終わり」のしるしとは、前の前、9月最初の礼拝でいただいた24章の最初の方の御言葉に語られていました。戦争の騒ぎや噂、偽メシアの出現、飢饉や地震、キリスト者への迫害が、終わりの時代のしるしでした。その時、人々はうろたえて、何を頼りにし、何を信じて寄りすがればよいのかわからなくなるけれど、イエス様の福音によって救われた者・キリスト者は、聖書の言葉・イエス様の言葉に堅く立って、耐え忍びなさいとイエス様は言われました。
だから、今日のこの箇所でも、イエス様は聖書の言葉・ご自身の言葉の確かさを、もう一度、私たちに力強く伝えてくださいます。35節です。イエス様は、こう言われます。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」この世の終わりは、これまでの天地が滅びる時です。新しい天と新しい地が始まる時だからです。それまでのすべてが滅びても、決して滅びないもの。それが神さまの御言葉・聖書です。また、ヨハネ福音書が語るように、御言葉としてこの世に来られたイエス様です。今日の旧約聖書の聖書箇所からも、私たちは同じ御言葉への確信と安心をいただきました。もう一度お読みしますので、お聴きください。イザヤ書40章8節「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
このイザヤ書の言葉は、神さまの御言葉は慰めだと語っています。
これは、どんな時も、私たちが必ず心に留めておきたい神さまの真実です。聖書の言葉は、私たちが弱められている時、たいへん厳しく響きます。叱られているように、責め立てられているようにしか読めない時があります。さらに、今日のこの後の聖書箇所に見られるように、私たちを不安に落とし入れ、脅かすように思えることもあります。イエス様がおっしゃることは、私にはとうてい実行できないから、私は永遠の命をいただけない、救われない、ダメ人間だと思ってしまうことがあります。イエス様の十字架の出来事とご復活という確かな救いのしるしがあり、神さまが、私の目にあなたは価高く貴い、私はあなたを愛していると言って下さっているのに、そう、自分の罪におののいてしまう私たちなのです。自分の思いと、イエス様の十字架・復活・神さまの愛。どちらが確かでしょう。イエス様の十字架とご復活に顕された神さまの愛に決まっています。それは、私たちが信仰的に弱くなっている時、自分の影に怯えるような意味のないことです。それこそ、私たちを神さまから引き離そうとする悪の思うツボです。
ご自分の言葉の確かさ、神さまの言葉の確かさ。それは慰め・安心・喜びだと、イエス様はこう強く強調されて、次の事柄を語られます。
「目を覚ましていなさい」と小見出しがついている、36節から始まる箇所です。36節で、イエス様は、終わりの日が来ることは、天の父・神さまの他は誰も知らないと語られました。そして、二つのたとえが語られます。ひとつは「創世記に記されている大洪水のように、その日は急に来る」と、語られています。大洪水の時、ノアはどれほど人々にあざけられても、神様に言われた通りに山の上に巨大な箱船を作りました。神様の言葉を信じて、そこに堅く立ち、人々のあざけりを耐え忍びました。そして、神様の言葉どおりに救われました。ノアは神様に従って、いつ来るかわからない洪水のために用意をしたのです。
もうひとつのたとえは、43節に語られています。ノアのたとえに比べるとサラッとひと言しか語られていないので、見落としがちですが、43節をご覧ください。お読みします。「家の主人は、泥棒が夜のいつごろやってくるかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。」泥棒も、家の人たち、特に家を守る立場にある家の主人が、泥棒のことなど考えもせずに寝静まっている時に、ノアの洪水のように急にやってきます。用意がないと、泥棒に襲われてしまいます。財産を奪われ、最悪の場合には、愛する家族を傷つけられ、命さえ奪われてしまうかもしれません。
44節で、イエス様は、こうしめくくっています。「だから、あなたがたは用意をしていなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
ここで、今日の説教の始めに立てた問いを、もう一度、問いたいと思うのです。「心と魂が目を覚ましている」とは、どういうことでしょう。また、「信仰が目を覚ましている」とは、どういうことでしょう。もう、皆さんはおわかりでしょう。心と魂が「目を覚ましている」とは、「用意をしている」ことです。イエス様が再びおいでになる時、ちゃんと「待っている」ということです。
「目を覚ましている」というと、つい私たちは起きてテキパキと作業をしているイメージを描きます。しかし、神さまに心を向けずして、その御言葉を聴かずして、私達にどんな正しい作業ができるでしょう。
「目を覚ましている」とは、神さまの言葉をしっかりと聴いて受けとめ、準備して待つことです。
イエス様が泥棒のたとえを用いられことから、この説教の準備をしつつ思い起こしたのは「番犬」です。私が生まれ育った実家では、母がたいへん犬が好きで、ずっと犬を飼っていました。
実家のあるのは静かな住宅地で、その地域一帯の家が何軒か、空き巣に入られたことがありました。隣の家に空き巣が入ったのですが、実家には入りませんでした。私の実家には、空き巣がねらうような、めぼしい財産がまったくなかったからということも、もちろんあったと思いますが、それに加えて、犬が吠えたからです。
実家の犬は、番犬としてしつけられたことはありません。ただ、家族のことが大好きです。家族が留守だと、その間、一生懸命にその帰りを待っています。ワンちゃんを飼ったことのある方はどなたもご存じと思いますが、どれほど家族の帰りを待ちわびていたかは、家に帰った時の、あの犬の喜びようでわかります。
そして、空き巣事件の時、泥棒の足音を聴いて、うちの犬は、一心に待っている家族の足音ではないとわかり、全然嬉しくないどころか、そんな見知らぬ人には来て欲しくないから、猛烈に吠えたのでしょう。
空き巣事件があった後、近所の人でたまたまその時、家にいた方から、あの時、お宅のワンちゃんの鳴き声がすさまじかった、何かが起こったと思った、と聞かされました。
いちずな心で、一生懸命、大好きな主人を待っているから、留守を守る犬は利口な犬・立派な犬ではなかったとしても、ちゃんと泥棒・悪を撃退できるのです。実際、実家の犬はあまり賢くありませんでした。ただ、自分が家族に愛されている事だけは、よく判っていました。
犬と同じというと、皆さんはイヤな気がするかもしれませんが、主人に愛されていることを知っているという意味では、私たちの信仰も、この主人を慕う犬のように単純で良いのだと思います。大好きなイエス様・私たちの主なるイエス様を、私たちも一心に待つのです。待つ間に、しっかりと留守を守ります。この世の日常生活を、御言葉に従いつつ、丁寧に誠実に送るのが私たちの信仰生活です。
さて、聖書に戻りましょう。三つ目の小見出しのついた、今日の聖書箇所の45節からは、今、お話しした「留守を守る」ことが語られています。犬の話ではありませんが、主人の帰りを待つその家の使用人のたとえを、イエス様は用いられました。主人が帰る、と言ったら、必ず帰ってくるのです。5分後でも、5年後でも、帰るのが「いつ」ということは関係ありません。
主がこの世に来られると言われたら、確実に来られます。そして、私たちはイエス様を、私たちのために命を捨ててくださり、しかしご復活されて永遠の命を私たちのために勝ち取ってくださったイエス様を、お慕いしているのではないでしょうか。愛する主が来られる。このことに私たちの思いは集中し、待つことに集中し、「いつ」ということにはあまり関心を持たなくなるはずなのです。
「いつ」ということにこだわり、主がおいでになるという言葉を、真摯にうけとめていないと、私たちの心も行いも乱れ始めます。48節で、イエス様はこのような者を「悪いしもべ」と呼ばれます。勝手に「主人は遅い」と思い込むのは、「主がおいでになる」とおっしゃった御言葉を信じていない不信仰の表れです。御言葉よりも、自分の考え、何の根拠もない自分の思いを優先しているからです。こうして自分が主人となり、仲間を殴り始めて平和を乱し、まわりと自分を不幸にしてゆきます。こうなってはならないと、イエス様はこのたとえを通して語られます。
信仰生活を送るうちに、私たちは、つい目の前の教会行事や、具体的な奉仕の意味を考えなくなります。自分がこのご奉仕の作業をしているのは、この私のために命を捨ててくださったイエス様への感謝の表れであることを、忘れてしまいがちです。教会生活は、イエス様を慕い、ふたたび世に来られるイエス様をお迎えするために、備えて待つこと。今日、薬円台教会は創立45周年を迎えました。主を待ち続け、備え続けて45年。これからも、同じ主を待つ思いでひとつにされて、この世の終わりへと共に進んで行きましょう。祈り合い、励まし合って、主に従って進んでまいりましょう。
2018年9月9日
説教題:主イエスの再臨
聖 書:ダニエル書12章1-13節、マタイによる福音書 24章15-31節
そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。
(マタイによる福音書24章30節)
今日の新約聖書の箇所を読んで、または先ほど、司式者によって朗読されるのを聞いて、このように思われた方が多くおいでと思います。「今の、こんな時に、この御言葉が与えられるのか。」
先週は大型で強い勢力を持った台風21号が過ぎ去ろうとしている中で、礼拝を献げました。そして、祈祷会の日・木曜日の朝、北海道で震度7の地震が起こりました。まだ被害の全貌が分かっていません。大災害です。この6月からを振り返りますと、7月にかけての西日本豪雨災害に始まって、災害が日本の各地を次々に襲った、そういう夏でありました。今年の暑さも例年になく異常に厳しいものでした。
私たちの会話の中では、こんな言葉が聞かれるようになりました。「ねえ、このまま行くと、私たち、どうなっちゃうのかな〜。」こんな言葉を言わずにはいられないほど、私たちは不安を感じています。これから、どうなるのか。これから、災害がますます頻繁に起こるようになり、予測もできず、予測ができないから予防もできず、どこへ逃げたら良いのかもわからず、うろうろしている間に、今日の聖書箇所の21節にある「今後も決してないような大きな苦難が来る」のではないか。つい、そう思ってしまいます。
こんな時に、今日のような「この世の終わりの日・終末の出来事」を預言するイエス様の言葉を聞くと、ますます不安になってしまう。「こんな時に、この聖書箇所を聞くのは嫌だ」と思われるかもしれません。しかし、それは逆です。
そのような不安にかられている時だからこそ、私たちは今日の、この聖書箇所を与えられています。それは不安を煽るために与えられたのではありません。逆です。最悪のことが起こったとしても、大丈夫。イエス様は、そう私たちに知らせ、大きな安心を与えるために、今日の言葉を語ってくださいました。
私たちの幸福と心の平安、完全な安心は、聖書を落ち着いたペースで、平常心で、丁寧に読むことから始まります。今日の週報の「今週の祈りの課題」に「日々、聖書に親しむ習慣を戴けるように」と書いたとおりです。ですから、今日も、いつものように、少しずつ丁寧に御言葉に聴いてまいりましょう。
この聖書箇所を読んで、または聞いて、すぐに前回の礼拝の聖書箇所の続きなのに反対のことを言っていると気付かれた方がおいでと思います。前回、イエス様はニセの救い主の横行・戦争の騒ぎや噂・迫害、そしてそのような苦しみに私たちが負けて、互いの信頼が崩れ、どんどん教会から離れてばらばらにされてしまう「今の時代」の困難を指摘されました。そして、それに耐え忍んで、教会に、イエス様の愛につながり続けなさいと力づけてくださいました。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」この言葉を胸に、教会の礼拝後、私たちはこの世での戦いに出発したはずなのです。
ところが、一週間を過ごして、ふたたび ここに集められてみたら、イエス様は真反対のことを言われます。16節をご覧ください。「そのとき、ユダヤにいる人々は — これは主を信じる人々は、神の民は、と読み替えて良いでしょう — あなたがたは、山に逃げなさい」と書いてあります。耐え忍んで、苦しい状況に踏みとどまって、逃げずに神さまにつながり続けていなさいと言われていたのに、一目散に逃げなさい、取る物も取らずとりあえず逃げなさい、そう言われているのです。
これは、これまでの苦しみとは桁違いな「大きな苦難」が来るからなのです。それまでも、私たちを神さまの愛から引き離そうとする闇の力は働いていました。その「闇の力」は、自分に絶望する思いだったり、自分をすべての中心において自己中心に生きる、神さまを忘れた生き方だったり、善いことのために自分が損をする生き方は絶対に避けて、利益を優先させる考え方だったりします。それが組織として、政治的な、または社会的な力を持つと、戦争や紛争といった社会不安が起こります。その間「耐え忍びなさい」とイエス様は言われました。しかし、「今後も決してないような大きな苦難」が来ます。
それは、今日の聖書箇所の最初の言葉・15節が語る、その時です。「憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つ」時です。
とうとう、神さまが本来おられはずの「聖なる場所」に、この「闇の力」が立ってしまいました。「闇の力」、それを聖書は「悪」、さらに擬人化してサタンと呼ぶことがあります。サタンはいつも、神さまの地位を奪おうとねらっています。自分が支配者になりたいのです。しかし、神さまのご支配が、別の言葉を使うと「神さまがお造りになったもの、私たちを守る」ことなのに対し、サタンの支配は「壊す・破壊する」ことです。15節の「憎むべき破壊者」とは、その意味です。
それでは、サタン・悪・闇の力は、神さまに勝ったのでしょうか。私たちは皆、悪に支配されてしまうのでしょうか。
いいえ、一見して、悪が勝ったように見せかけること、これも神さまのご計画です。だからこそ、イエス様は言われるのです。逃げなさい。もう聖なる場所に踏みとどまることには意味がない、そこは悪に占領されているから、飲み込まれてしまわないうちに逃げなさい。そして、自分のすべてを、これまでにも増して神さまにゆだねなさい。お任せしなさい。
こうして、終わりの時が来ます。
しかし、神さまを知らなかったら恐ろしいとしか思えないこの時は、神さまを信じる者にとっては恐怖の時ではありません。苦難を耐えると、新しい時が始まります。この世が終わるとは、何もなくなってしまうことではありません。苦しみが終わって、新しい時がまいります。この世が神さまのおられる天とひとつになります。それは、今は見ることのできない神さまと、顔と顔を合わせて出会うことができるようになる時です。もう、悲しみも、苦しみも、私たちに涙を流させるものは何もない、悪のない新しい天と新しい地が始まります。
そのしるしとして、本当に、本当にすばらしいことが起こります。
それが、イエス様の再臨です。2000年以上前に天に戻られたイエス様が、もう一度、私たちのところにおいでくださいます。今日の聖書箇所では、30節にこう記されているとおりです。お読みします。「そのとき、人の子の −「人の子」とは、イエス様がご自分をさして言われる言葉です – 人の子のしるしが天に現れる。」
イエス様が、ただお姿を現すのではなく、まず「しるし」を示してくださいます。それは、30節に続けて「すべての民族が悲しむ」と記されていることからわかるように、イエス様の十字架です。自分のために、神さまから引き離そうとする闇の力に負けて、時に神さまから離れてしまう私たちの罪のために、かけがえのないこの方が命を捨ててくださった、その十字架です。十字架のしるしを仰ぐ時、私たち一人一人は心に痛みを感じずにはいられません。その悔い改めをいただいた後に、イエス様は力と栄光を帯びて、私たちのところに来てくださいます。30節の後半にこのようにイエス様ご自身が語られています。お読みします。「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」
このように語られても、と皆さんは思われることでしょう。
長い教会生活を送っておられる方も、イエス様がもう一度、来てくださること・主の再臨はピンと来ない、喜ばしいこととして心に響いて来ない、それが正直なところかと思います。終わりの日のことですから、今からピンと来て良く分かっているというのは、逆におかしいです。私は、そう思います。
今、私たちが心と魂とに刻んでおくべきこと。それは、その時まで、イエス様がもう一度来られる時まで、すべてを神さまにゆだねて、流れに乗るように時の中を進んでいれば、この世では経験することが絶対にできなかった強烈な喜びをいただけるということです。
皆さまお一人お一人の、イエス様との出会いの体験を思い起こしていただくと良いでしょう。それはイエス様を信じてみよう、と思った小さな心の高ぶりかもしれません。御言葉を通して与えられた、思いがけない大きな安心かもしれません。教会の兄弟姉妹が何気なく言ってくれた優しい慰めの言葉が、本当に心にしみて嬉しかった。力づけられた。そう思った瞬間かもしれません。又、自分はここ・教会にしか居場所がない。静かな心で、そう悟った時が洗礼を決心した時だったという方もいるでしょう。ひとつひとつが、喜びの体験だったと思うのです。また、その喜びを重ねて、いくつもの悲しみや苦しみを乗り越えて来られた方もおいででしょう。その意味では、主を信じる者は皆生存者です。悲しみの海に投げ込まれて、生き残った者たちです。
これからそれを体験してゆこうという、教会に来られてまだ日が浅い方は、ぜひそれを楽しみにしていただきたいのです。その日常の中でキラッと光った、小さな宝石のような喜び。その輝きを何千倍、何万倍、何億倍にもした強烈な感動と喜び。それが、イエス様の再臨の喜びです。それを心から楽しみにして、あなたがたの希望としなさい。
イエス様は、今日の聖書箇所で、そう語ってくださっています。
ご一緒に、イエス様が再びおいでになるその時を、楽しみに待ちましょう。教会は、実にそのための待合所です。また、動く待合所でもあります。教会という舟に乗り、共にひとつの心でイエス様の十字架を仰ぎ、この世の荒波・苦しみをひとつ、またひとつと超えながら、終わりの日まで進んで行きます。終わりの日が遠すぎて、そこに心の照準を合わせきれないように思っても、どうぞこの教会という舟にご一緒に乗ってください。明日に明日をつなぎながら、兄弟姉妹と共に、イエス様と共に、教会は希望そのものの中を、完全な喜びそのものに向けて進みます。そこにただ身をゆだねることに、私たちの幸せがあります。
2018年9月2日
説教題:最後まで耐え忍ぶ
聖 書:歴代誌下 15章1-8節、マタイによる福音書 24章1-14節
しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。
(マタイによる福音書 24章8-14節)
先々週、二泊三日で、若い方の修養会にリーダー・スタッフとして奉仕する機会をいただきました。十代後半の方、大学生、社会人、これから牧師になろうと神学校で学ぶ神学生、そこに中堅どころの牧師たちがリーダーとして加わり、信仰について、教会について、神さまを信じて生きることそのものについて、共に学び、夜遅くまで実によく語り合いました。主題講演にお招きした講師の先生が、最初のセッションでたいへん根本的な問いかけをしてくださいまして、それをきっかけとして話が盛り上がったということもあったと思います。
問いの一つがこうでありました。「あなたにとって、命の次に大切なものは何ですか?」この質問は、質問自体が議論を招く、そういう仕掛けが隠れている問いです。セッションの後に6人ほどから成る小さなグループ − 分団ですね − に分かれて話し合いをしますが、いろいろな意見が交わされました。質問がおかしい、そもそも「命の次に」とはどういうことか、命が一番大事というのは真実か。そう問いかける青年がいました。命が大事と言うけれど、命って何か。ただ酸素を吸って二酸化炭素を吐き出して、生物学的に生きていることだろうか。
この質問を造った講師の牧師は、参加者に、まさにそうした根本からいろいろと考えて欲しかったわけですから、この質問に、逆に疑問を持った参加者がいたのは、講師のもくろみ通りだったと思います。
絶対に失いたくない、そう思うものが、一番大切なもの。これさえあれば自分は大丈夫と思えるもの・確かなよりどころを持ちたい。そのように話し合いは進みました。「本当に確かなよりどころ」とは、何があっても、どんなに長い時間が流れても、変わらないものということでありましょう。それは何か。そういう問いに発展しました。
永遠不滅のもの。それは、何でしょう。
私たちは今、こうして教会に集められていますから、答えを知っています。主の愛こそが永遠。それが永遠の命。そう、すぐに答えを出したくなります。しかし、イエス様はおっしゃるかもしれません。それは優等生の答え、答えを知識として覚えている者の回答に過ぎない。そして、イエス様は、こう私たち一人一人に問いかけるかもしれません。あなたは、私があなたの為に十字架に架かったことを、あなたと共に永遠に生きるために復活したことを、心と魂で知っていますか?
今日の新約聖書の箇所は、イエス様が「本当に確かなもの」へと私達の心と魂を導いて下さる、イエス様の説教の一部分です。
イエス様の時代、イスラエルの人々は「確かなもの・永遠不滅のもの」を持っていると信じていました。それは律法と神殿でした。律法にさえ、たとえ闇雲にでも、形式的にでも、従っていれば大丈夫と律法学者とファリサイ派は、イスラエルの人々に教えました。そして、神殿に献げ物をしている限り、神さまは自分たちの味方だとも思っていました。それは、美しく巨大なエルサレム神殿がここに建っていることで証明されている、そう信じていたのです。
しかし、律法は人間的に歪んだ解釈をされ、そして、もとより神殿は人間が造ったものであります。前回の聖書箇所で、イエス様は神さまの御心を尋ねようとしないファリサイ派と律法学者たちを、偽善者と呼ばれました。「あなたたち偽善者は不幸だ」と批判し、そのままでは滅んでしまうと警告されました。こうも言われました。「あなたたちの家は見捨てられて荒れ果てる。」この「家」が神殿を指していることは明らかでした。何よりも確かな神殿が見捨てられ、荒れ果てるとは、あまりに衝撃的な言葉でした。ユダヤ民族に起こってはならないことでした。
今日の24章は、そのイエス様の言葉におののいた弟子達のささやかな抵抗と、問いかけから始まります。
イエス様が「こんなものは、神さまに見捨てられる」と言われ、その神殿の境内を出て行こうとされると、弟子たちは後を追い、神殿の建物を指さしました。「イエス様、この堅牢なエルサレム神殿、神さまの住まいを神さまがお見捨てになり、私たちユダヤの民が捨てられるわけがないではありませんか」という意味をこめて、指さしたのでしょう。ところが、イエス様は、はっきりとこう言われました。24章2節の後半です。「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」築き上げられた大理石は、がらがらと崩れてあとかたもなくなると言われたのです。
弟子たちは、イエス様がこの世の終わりの時のことをおっしゃっていることに、少し経ってから気付きました。ご自分がこれから十字架に架けられ、三日後に復活され、天の父のもとに帰られるけれど、もう一度、この世に戻ってくることがあると語られたことも思い出しました。それが世の終わりの時であると、イエス様が言っておられたこともよみがえってきました。弟子たちが、イエス様のおっしゃったことを理解していたとは、到底思えません。
しかし、弟子達が、神殿が崩れるとイエス様が言われたので、恐ろしくなったのは確かではないでしょうか。そこで、彼らはオリーブ山で一人、祈っておられたイエス様に近づいて尋ねたのです。
「神殿が崩れるという、その世の終わりはいつ起こるのですか。その時が来ることを、前もって知ることはできますか。何か『しるし』はありますか?」
確かに、「この世の終わりが来る」と聞かされたら、恐怖におののくでありましょう。すべてが崩れ落ち、消え失せ、幕を下ろすように自分の意識が途絶えて、そのまま死の暗闇の中に飲み込まれてしまう – そういう世の終わりが来る。そこから逃れることは無理だとしても、せめて、それがいつ起こるかは知っておきたい。心の準備はしておきたいと、弟子たちは思ったのではないでしょうか。
それに、イエス様は答えてくださいました。4節から、いくつかの「しるし」が現れると、イエス様はおっしゃいました。
まず、5節です。自分は救世主だ、メシアだと名乗る者が大勢現れて、多くの人を惑わします。次に、6節です。戦争の騒ぎや戦争の噂が飛び交います。さらに、7節。飢饉や地震が起こります。
ここで、ご一緒に立ち止まって、考えてみましょう。私たちの周りを、また今、起きていることを思い起こしてみましょう。ニセのメシア。戦争。地震。すべて、比較的近年に起こったことばかりです。と申すよりも、これらは、いつも、人間の世の中で起こっていることです。また、これからも起こるであろうことです。
オウム・サリン事件の犯人たち13人の死刑が、つい一ヶ月ほど前に執行されました。教祖・メシアを名乗る者が、多くの青年を悪に引き込み、世を惑わした事件でありました。過去1年間に1万人以上の人が亡くなった戦争・内戦は四つあります。アフガニスタン紛争、シリア紛争、イラク紛争、メキシコの麻薬戦争です。地震は日本だけでも、かなりの頻度で起こっています。2ヶ月半前の大阪府北部地震では、ブロック塀が倒れて亡くなった方がおられました。記憶に新しいところです。
地震はまた起こるでしょう。世界のどこかで、戦争は続くでしょう。第二、第三の麻原彰晃が現れない保証は、どこにもありません。イエス様の時代から、ずっと、同じように起こってきたこと、繰り返されてきたことです。
イエス様がおっしゃるのは、今、私たちが生きている、その生きていること自体が苦しいことである、歴史は人の罪と恥と苦しみの連続である、それを自覚して、心得ておきなさいと言われます。そして、その苦しみの中を、この世は、人間と人間の社会は、終わりに向かって驀進しています。しかし、その「終わり」は、弟子たちが想像して恐ろしがっているような真っ暗な「無」ではありません。イエス様は、こう言われます。8節です。お読みします。「これらはすべて産みの苦しみの始まりである。」「産みの苦しみ」、新しいものが生み出されるための苦しみです。その新しいものとは、この世が消えて、神さまがおられる天と一体となる「新しい天と新しい地」「新天新地」です。
このマタイによる福音書24章は「小黙示録」、小さい黙示録と呼ばれることがあります。新約聖書の最後の書・ヨハネの黙示録のように、世が終わり、すべての苦しみが終わって天と地がひとつとなる終末の出来事を語っているからです。ヨハネの黙示録21章に語られているように、世が終わり、イエス様が天からもう一度おいでくださる時には天と地はひとつとなって「もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」世界が始まります。そこまでが、今の私達の「この世」です。この世の終わりには、永遠の平安と喜びが待っています。
今のこの世の苦しみは、私たちを神さまから遠ざけます。特に自然災害や病、戦争といった理不尽な暗闇の力に飲み込まれて行く時、私たちは、どうして神さまが自分をこのような目に遭わせるのかと、問いかけたくなります。つい、神さまが本当においでになるのかと、不信仰な疑いに捕らわれることもあります。神さまから離れ、苦しみに飲み込まれて絶望してしまうと、私たちは生きていながら死んだような存在になってしまいます。キェルケゴールが言うように、絶望は死に至る病です。9節の「あなたがた・キリストを信じる者は苦しみを受け、殺される」とはそのことをさしているのでしょう。
イエス様はキリスト者への迫害についても言っておられますが、信仰を持つ者への迫害は、いつの時代でも、さまざまなかたちで私たちを襲い続けます。
迫害を含むあらゆる苦しみは、私たちを神さまから遠ざけると同時に、私たち兄弟姉妹の絆を分断し、互いの心から信頼を奪い、裏切りと憎み合いが横行します。パウロが嘆いたコリントの教会のもめごとは、今、教会が主を忘れて人間の群れに過ぎなくなってしまう時、どの教会にも起こりうる問題です。
終わりに向かって苦しみの中を驀進しているこの世にあって、私たちは、その時に頼りにしたい、よりどころとしたい神さまの愛と兄弟姉妹の愛を、こうして奪われてしまうのです。
しかし、苦しみには終わりが来ます。朝の来ない夜はありません。闇の中で、闇の暗さに打ち勝つ光として、イエス様は私たちのためにこの世においでくださいました。その光であるイエス様につながり続け、光の子として、光の中を歩むようにとイエス様は言われます。だから、イエス様はおっしゃいます。13節です。「終わりまで耐え忍ぶ者は救われる。」
耐え忍ぶとは、苦しみに負けず、私たちを主から引き離そうとする闇の悪の力に負けず、主を信じ続けるということです。
イエス様が、必ず終わりの日においで下さると約束された、その約束を信じて希望を捨てず、教会にとどまり続けること。それが、耐え忍ぶことです。14節が語るように、全世界に福音を宣べ伝え、たゆまず伝道を続けること。それが、私たちキリスト者の正しい忍耐です。
耐え忍ぶ中で、苦しみのこの世に、終わりが来ます。喜びと、永遠に御国に生きる幸いが始まります。イエス様が、今日の聖書箇所の最後の聖句で語られるとおりです。
どのようなことがあっても、私たちはイエス様につながり、教会から離れず、兄弟姉妹で手を取り合って、励まし合ってまいりましょう。この「教会」という舟に共に乗り、イエス様に従って、この世の荒波・大波・小波を越えてまいりましょう。
2018年8月26日
説教題:主に砕かれ、目を開かれる
聖 書:イザヤ書 66章1-2節、マタイによる福音書 23章13-39節
律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。(マタイによる福音書23章13節)
エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。
(マタイによる福音書23章37-38節)
初めに、今日の聖書箇所を開いて、皆さんが気になっていることがおありと思うので、その説明をしたいと思います。13節の終わりに、メダカのようなしるし・見ようによっては十字架のようなしるしがあります。これは何だろうと思っておられることでしょう。聖書を今のかたちに編集する時、写本が用いられました。印刷技術がない時代に、書き写して御言葉は伝えられました。その写本はひとつではなく、かなりの数があり、こちらの写本にあって、こっちにはない聖句がいくつかあります。今日の聖書箇所では、13節の後に14節として短い聖句が入っている少数の写本があるけれど、大多数の写本にはそれがないことを示しています。14節をご覧になりたい方は、マタイによる福音書の最後のところに記してありますので、お時間がある時に見てください。それがあるのと、ないのとで、御言葉が伝えようとしているメッセージに変わりはありません。
さて、今日の聖書箇所、新約聖書のマタイによる福音書23章13節以下は、読むのも、聴くのもたいへんつらい箇所です。イエス様が、ファリサイ派と律法学者たちを厳しく批判する言葉が続きます。あなたがた偽善者は不幸だ、とイエス様は何度も言われます。数えてみると七回、繰り返されています。この箇所のことを、「七つの不幸」と呼ぶことがあります。皆さんは、マタイによる福音書5章の山上の説教を覚えておいででしょうか。「心の貧しい人は幸いである、悲しむ人は幸いである」とイエス様が人々に語られる御言葉です。「幸いである」、文語ですと「幸いなるかな」とイエス様は八回の祝福をくださるので、「八福」と呼ばれることがあります。その「八福」と対照的にイエス様が鋭い言葉で戒めを語られるのが、この「七つの不幸」です。
「八福」、八つの祝福はそれぞれ別の事柄・ばらばらな祝福ではありません。心の貧しい人とは、心がへこんでいて、そこを神さまに満たされるのを待っている人です。へこんでいない、平らなところに水がそそがれると、水は溜まらずにながれてしまいます。しかし、へこんだところにそそがれた水は、水たまりになってそこにとどまります。この水が神さまのくださる命の水だったら、とどめていただく方が、たくさんいただける方が幸いなのは、当然のことでありましょう。また、悲しむ人は、笑顔でいられる人よりも多くの慰めを必要としています。神さまがより近く寄り添ってくださり、より深く憐れんでくださるから、その人は幸いだとイエス様は言われました。これが、八つの祝福を貫く神さまの恵みです。人間的な考えや物の見方からすると、決して幸いだとは思えない時にこそ、神さまは私たちにより近く寄り添ってくださる、神さまにより強く招かれるようになるという恵みです。
今日の聖書箇所でイエス様が語られる「不幸」は、その逆です。神さまから遠のいてしまう人間のあり方、ここでは具体的にファリサイ派と律法学者のあり方を、イエス様は「不幸」と言っておられます。当時のファリサイ派や律法学者たちのどんな姿が、また私たち人間のどんな本質が、神さまから私たち自身を遠ざけてしまうのでしょう。
13節をご覧ください。なぜ不幸なのか、それはファリサイ派と律法学者が、人々の前で天の門を閉ざしてしまうからだ、自分たちが神の国に入らないばかりか、他の人たちをも入れまいとするからだとイエス様は言われます。天の国に入る、神の国に入るとは、死んでから行くところという意味ではありません。神さまの守りのうちに置かれる、神さまに従う、神さまのご支配のもとに身をおくことをさします。これが、神さまから遠ざかってしまうことをさすのは、言うまでもありません。
ファリサイ派や律法学者たちは、一生懸命に神さまの掟・律法を忠実に守ろうとし、また厳密に守るようにと他の人たちにも教えながら、実はそのことで逆に神さまから遠ざかっていると、イエス様は言われます。15節は、そのことが、もっと厳しい言葉で告げられています。ここで「改宗者」というのは、偶像崇拝からユダヤ教の神さま、キリスト教の神さまも同じ方、ヤハウェですが、そのヤハウェを信じるようになった人という意味です。苦労して伝道しても、伝道の内容が間違っているから、やっと改宗した改宗者を、神の国の子・光の子にするのではなく、彼ら自身よりも倍も悪い地獄の子にしてしまうとは、何と恐ろしいことでしょう。
イエス様は、13節・15節で、ファリサイ派や律法学者たちを偽善者と呼んでいます。偽善者は神さまから遠ざかって行く。そう言われます。偽善者とは、本心では良いことを思ったり考えたりしていないのに、良い人に見えるように人に親切にしたり、人助けをしたり、道徳的なことを言ったりおこなったりすることです。偽善者とはどんな行いをする人たちか、イエス様は先ほどもお話しした山上の説教のところ、特に6章の初めの方で具体的に語っておられます。見てもらおうとして、人の前で良い行いをする人。ラッパを吹き鳴らして、大勢の見物人を集めてから、その人たちの目の前で貧しい人たちに施しをする人。良い行いを、困っている人を助けたいと思う真実の思いからではなく、人にほめてもらおう、見てもらおうという思いで行うのが、偽善者です。誰も見ていなかったら、廊下に落ちているゴミなど拾わない。困っている人は見捨てて行く。けれど、誰かが見ていたら、せっせとゴミを拾い、困っている人に猫なで声で近づいて行く。それが偽善者です。
律法学者やファリサイ派の人々が、一生懸命に律法を守るのは、神さまの教えを守っている信仰深い自分の姿を、他の人に見せて尊敬してもらうためだとイエス様はおっしゃいます。そして、それを人に教えることは、16節にあるように「ものの見えない案内人」だと厳しく言われます。「ものの見えない」とは、16節に続けて記されているたとえのように、黄金と黄金を清める神殿の違いがわからないようなものです。エルサレム神殿は、たいへん美しい建物だったようです。ユダヤ民族は神殿を、神さまのおられるところ、神さまがすべてを清めてくださるところとして尊重し、黄金で飾っていました。それを、この世で尊重される黄金で飾られているから、神殿は尊重すべきところだと考えるのは、おかしなことでしょう。
しかし、ファリサイ派や律法学者たちは、それと似たようなことを行い、また人に教えていました。極端に言ってしまうと、祈っている人は立派に見えるから、尊敬されるために人前で祈り、それを人にも教えていたのです。こうなると、自分を立派に見せたいために、祈るという行いを利用し、ひいては神さまを利用していることになります。
神さまから遠ざかる、とはこのことです。神さまではなく、自分を立派に見せたいという欲望が最優先の事柄となる時、私たちは神さまに背を向けて、自分を神としています。
神さまのことが大好きで、ただひとすじに神さまに従ってゆきたいから、神さまがお決めになった律法を守る — それが、神さまを信じるということです。信仰をいただくということです。それは神さまと自分の間の事柄で、他の人間の誰が見ていようが、見ていまいが、関係の無いことのはずです。このように素朴な思いで神さまの御前に立つことができず、人前に立とうとする者を、イエス様はさらに激しい言葉で戒められました。33節で、彼らはイエス様に「蛇よ、まむしの子らよ」とさえ、呼ばれています。
しかし、ここでちょっと立ち止まりたく思います。イエス様はどうして、ここまで厳しい言葉でファリサイ派や律法学者を批判されるのでしょう。批判どころか、裁きと思われる言葉さえ、イエス様は言われます。33節です。お読みします。「蛇よ、まむしの子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」。また38節。「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」。
イエス様は、彼らを憎んで、このようなことを言っておられるのではありません。誰をも敵となさらない、誰をもわけへだてなく招くイエス様ですから。
ここで語られている厳しいイエス様の言葉は、神さまから彼らへの、また神さまに心を向けることを忘れた時の私たちへの、預言の言葉と言って良いでしょう。今のままだったら、やがて滅びてゆくと、イエス様はこれから彼らに、また私たちに起こりうることを語っておられるのです。これは、悔い改め・神さまへと心を向けることを促す警告です。最後通告です。
神さまが私たちの天の父であることが、ここでは強く思い起こされます。天の父なる神さまは、まさに私たちの親として、イエス様を通して、イエス様が地上に生きた時代の人々に、また聖書によって今は私たちに語りかけておられます。
言うことをきかない子供に、お母さんは怖い声でこう言い渡すことがあります。「いつまでもそんなことをしていると、置いてゆきますよ。」「そんなことをする子は、うちの子ではありません。」それは、我が子を思い、子供を安全な親の守りのもとに呼び戻すための親の言葉です。旧約聖書の時代、神さまは繰り返し、繰り返し、ご自分から離れてしまう者・迷い出てしまう者に、戻りなさいと呼びかけました。イエス様を通して、父なる神さまは言われます。
37節の後半です。お聴きください。「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。」散らばって遊んでいる雛たちが猫や、他の天敵に狙われていることに気付くと、めん鳥は短い鳴き声で呼び、雛たちを自分の翼の下にかくまいます。猫が襲って来た時に、最初に傷つくのが自分であるようにと、雛たちを守るのです。
神さまとイエス様は聖霊と共に三位一体の神さまですから、神さまとイエス様の思いはひとつです。同じです。この警告を語られたのち、イエス様は、このファリサイ派や律法学者たち、偽善者のためにも、彼らの背きの罪をゆるし、神さまのもとに呼び返し、連れ戻すために十字架に架かられました。
いつも私たちと共においでくださる私たちの主・インマヌエルの主なる神さまは、私たちの方からも、いつも主と共にいたい、主のもとを離れたくないとの気持ちを持っていて欲しいと願っておられます。人間の目の前で自分を飾り立てようとする偽善者とならずに、ただ主の御前に立つ者になるようにと望んでおられます。それは命令ではありません。私たちを愛し、慈しんでくださる思いからです。今週も、そこまで深く私たちをたいせつに思ってくださる方に従って、主の道を歩みゆきましょう。
2018年8月19日
説教題:主を知って仕える者に
聖 書:詩編 75編1-6節、マタイによる福音書 22章41節-23章12節
あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
(マタイによる福音書 23章10b-12節)
マタイ福音書をご一緒に読み進み、この夏、私たちはイエス様が地上で過ごされた最後の週の出来事を与えられています。本日の「論争の火曜日」を語る聖書箇所で、イエス様はユダヤ社会で指導者となっているさまざまな立場の人たちから、いくつかの質問を受けました。それらは、質問というよりも挑戦と言った方が良いかもしれません。イエス様は、そのひとつひとつに人間の知恵と思いを超える、神さまの視点から答えられました。ファリサイ派やヘロデ派、サドカイ派の人々はイエス様をやりこめよう、人気を凋落させ、信用を失わせようと、悪意を抱いて挑んで来ました。イエス様は、そんな彼らをも教え導き、神さまを正しく仰げるようにと語られたのです。しかし、群衆に慕われているイエス様の人気をねたみ、憎しみでいっぱいになっていた彼らの心に、イエス様の言葉は届きませんでした。イエス様に論破されたという悔しさが、彼らの間でますます膨らんで行きました。
そして、最後に、イエス様の方からファリサイ派の人々に質問をされました。今日の聖書箇所、マタイによる福音書22章41節から46節にはそのことが記されています。イエス様は、彼らにこう問いかけました。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」
メシアとは、救い主のことです。ファリサイ派の人々はもちろんのこと、ユダヤ民族は長い間、救い主・メシアを待ち望んでいました。
アッシリアやバビロンといった大きな国に攻め込まれ、滅ぼされ、ユダヤ民族は何十年にもわたって国そのものすら失っていました。
ばらばらになったユダヤ民族をひとつにつなぎとめていたのが、神さまでした。神さまが彼らに与えた掟・律法を守り、他の民族と自分たちが異なることを、自分たちにも、周りにも示し続けることで、彼らは消えることなく、民族として生き残り続けました。さらに彼らを強く結び合わせていたのが、神さまが遣わされるメシアを待つ希望でした。国土を持つようになってからも、彼らはなかなか独立できませんでした。いくつかの国の支配下に置かれ、隷属的な立場にありました。いつの日か、救い主・メシアが現れて、今の屈辱から救い出してくれる – 彼らは預言者が語った主の言葉に望みを託していたのです。
メシアは、ダビデ王の末裔から生まれると預言されていました。やがておいでくださる救いの主メシアは、ダビデの子孫・ダビデの子。それが、ユダヤ民族の合い言葉のようになっていたのではないでしょうか。イエス様がエルサレムに入られた時のことを、思い出してください。人々は、子供達まで、「ダビデの子にホサナ」と歓呼の声でイエス様を迎え、この人こそダビデの子・メシアに違いないと喜びました。
イエス様は、母マリアの夫となったヨセフの血筋を見ると、確かにダビデ王までさかのぼることができます。マタイ福音書は、イエス様の系図から始まっています。新約聖書を初めて開いた方は、どんな愛に満ちた言葉が書かれているかと思いきや、その期待を裏切られて、カタカナの見慣れない名前ばかりがずらりとならぶページに出くわすことになります。面食らいますが、この箇所は、イエス様が確かに預言されたダビデの子孫であることを示すための大切な記録なのです。
ダビデ王はイスラエル王国を築き、その息子ソロモンの時に、イスラエルはシバの女王を感激させるほど、豊かな国へと成長しました。ですから、ユダヤの人々はダビデの子・救い主と言えば、まず、国を独立と繁栄に導く王様を思い描きました。
群衆がイエス様に期待していたのも、そのような政治的・この世的な指導者だったのです。しかし、神さまは御子イエス様を、そのために世に遣わされたのではありませんでした。ユダヤという民族を超えて、人間の魂の救いのために、イエス様はおいでくださいました。
メシアはダビデの子。だからメシアは、ユダヤ民族を独立に導く指導者。それがご自分についての誤った考えであると指摘するために、イエス様は敢えて、メシアについて質問されたのです。そして、ダビデ自身がメシアを我が神・主と呼んでいる詩編110編を引用されました。メシアは神さまであり、ダビデの子孫が王になることが預言されているのではないと示されたのです。これには誰一人として言い返すことができませんでした。もはや、イエス様を言い込めようとする者はいませんでした。論争しようとする者はもう現れなかったのです。
イエス様は、ご自身が主なる神であると明言されて、ユダヤの律法学者たちとの神学論争に終止符を打たれました。新約聖書を知っている今の私たちからすれば、神さまと神学論争をして勝てるわけがないのは当然です。しかし、当時のユダヤの指導者たちは、イエス様が神さまとは知らず、自分たちがそのような愚かしい挑戦をしたことにも気付きませんでした。そしてイエス様に負けたことで、イエス様への憎しみが増し、それがイエス様を十字架刑へと追い詰めて行くことになりました。実は、そのすべてが天の神様のご計画のうちに、始めから定められていたのです。そのことに、私たちは主のおはからいの深さを思わずにはいられません。
今日は、23章の12節までを礼拝の聖書箇所として戴いています。司式者がお読みくださいましたが、23章1節をあらためて拝読します。「それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。」
ここから、人々と弟子たちに語られたイエス様の説教が始まります。
イエス様は、ファリサイ人が、どうして神さまに神学論争を挑むなどという愚かしいことをしてしまったのかを、その一部始終を見ていた人々と弟子たちに語られました。ファリサイ派の姿は、風車に決闘を挑むドン・キホーテ以上に滑稽です。また、自らに敗北と破滅を招いているという点では、悲劇的でもあります。そして、ドン・キホーテのような明るさがありません。悪意から始まったので暗く、その失敗は見苦しく、どうしようもないと申しましょうか、救いがありません。
どうしてこうなってしまったのでしょう。イエス様は、彼らの姿に人間の「どうしようもなさ」、言ってみれば「罪」を見ておられます。イエス様が彼らをみつめるまなざしには、憎しみはありません。憎しみではなく、憐れみがこもっています。しかし、厳しく怒りをもってご覧になっているのも確かです。彼らファリサイ人だけでなく、私たち人間に、そのまなざしは注がれています。イエス様は何を人間の、私たちの罪とおっしゃるのかを、御言葉に聴いてまいりましょう。
ご自分に敵対して挑戦してきたファリサイ人・律法学者達ですが、イエス様は3節で、彼らについて人々にこのように語っておられます。お読みします。「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。」先ほど、イエス様が彼らを、憐れみをもってご覧になっていると申し上げたのは、彼らの立場を、その限界ごと、イエス様が受けとめておられるからです。人々に、またご自分の弟子達にさえ、イエス様はファリサイ派や律法学者の言うことを行い、守るようにと言われました。その理由は、ちょっと戻って2節にあります。イエス様の言葉をお読みします。「律法学者やファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。」モーセの座に着いている者たちだから、彼らの言うことをすべて行い、守り従いなさいとイエス様は言われます。
「モーセの座」は「教えの座」と書いて「教座」とも呼びます。ユダヤ社会の指導者の地位を表す言葉だそうです。モーセはシナイ山で神さまから律法を授けられました。モーセがその律法を彼の後継者ヨシュアに、ヨシュアは長老たちに、長老たちは預言者たちに、預言者たちは大会堂の人々に伝え、この律法を受け継いだ大会堂の人々が自分たちファリサイ派の基になったと、ファリサイ派の人々は主張していました。このように、大切な律法の正しい、正統な後継者は自分たちであると信じ、また、実際に律法を必死に守ろうとしている律法学者とファリサイ派の人々の言うことを尊重しなさい、とイエス様は言われたのです。ご自身が、当然と言えば当然ですが、神さまの律法を重んじていたことがよくわかる言葉です。
それに続けて、3節の後半で「しかし」とイエス様は言われました。「彼らの行いは見倣ってはならない。」この禁止の言葉は、たいへん厳しく響きます。大切な律法を守る立場にあるファリサイ派と律法学者への強い批判がこめられているからです。彼らは言うだけで、実行しないとイエス様は言われます。その様子を、イエス様は4節でこうおっしゃいました。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」この主のお言葉について、ご一緒に思いを巡らせてみたいと思います。
ファリサイ派や律法学者が、人々の肩に背負いきれない重荷をまとめて載せるとは、どういう事でしょう。彼らは、人々に律法を教える立場にあります。律法は、人々が神様を中心として、神様に愛されていることを基とし、同じように神様に愛されて造られた人々と共に平和に生きようと、互いを大切にできるようになるための決まり事です。
ですから、人々はファリサイ派や律法学者から律法を教わると、いがみあう関わり・争い・無法の混乱から逃れられるはずです。穏やかに生きることができ、楽になるはずなのです。ところが、実際には律法を教わると、人々は背負いきれない重荷を積まれることになると、イエス様は言われます。
たとえば十戒の最初の戒めを考えてみましょう。「あなたには、わたしをおいてほかに、神があってはならない。」神さまの大きさと素晴らしさを思い、天地を造られた大いなる方が、この小さな私をも造って命を与えてくださったと、私たちは心と魂で知らされることがあります。御言葉に触れ、聖霊をそそがれて、礼拝の中で、あるいは祈りや黙想の中で、神さまを、その愛と共に知る瞬間です。その時、私たちはこの方以外に、自分が神さまと呼ぶ方がいるはずはないと、ごく自然に心の底から思います。十戒の最初の戒めは、その時、このような神さまからの語りかけとして聞こえるでありましょう。「あなたを造ったわたしは、あなたをこんなに大切に思っている。あなたは、それを知り、喜んで受け入れてわたしとつながっている。この確かな絆にまさる絆は何もない。だから、あなたは、わたしの他に神となるようなものを求めようとも、探そうともしないだろう。」
しかし、律法として、十戒の第一戒・命令としていただくと、それは厳しい言葉になります。「あなたには、わたしをおいてほかに、神があってはならない。」命令や禁止は、それを知らずにいた時には気付かなかった、自分の中に潜む可能性や欲望にも目を開かせてしまうことがあります。この戒めだったら、人はこう思うかもしれないのです。そうか、自分は他にも何かを神とすることができたのだ。そんなことを今は考えもしないけれど、気付かずに神さまではない何かを崇めてしまうかもしれないのだ。そして、人は自分と神さまをつなぐ道がきわめて細く、周囲が闇に閉ざされ、それにいつ、自分が呑み込まれるかわからないことを、恐れと共に知るのです。律法学者やファリサイ派によって律法を教えられ、告げられると、人はこうして自分の中の罪を知らされます。
人の肩に背負わされる重荷とは、この罪の重荷でありましょう。
律法学者やファリサイ派の人々は、こうして律法と共に人が罪深い者であることを教えます。けれど、この罪を取りのけてはくれません。イエス様は4節でこう言われました。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本動かそうともしない。」
動かそうとしても、取りのけようとしても、それができないのが、彼らです。もっと言ってしまうと、それが人間です。私達は律法から罪を知ることはできても、それを自分ではどうすることもできません。
そのことを知らせる律法学者やファリサイ人は、人の罪も、自分の罪も、軽くすることも、消すことも、赦すことも、何もできないのです。
罪を告げる彼らは、本来、重い病気を患者さんに告げなければいけない医師のように、つらい立場にあります。ところが、彼らはそれに気付いていたでしょうか。少しも気付いていませんでした。それどころか、人々に罪を告げることができる立場にあることを、誇らしく思っていたのです。彼らのどうしようもない愚かしさ、救いのなさ、滑稽さと悲劇の原点はここにあります。自分も律法を真実には理解できない、また守りきれない罪人であるにもかかわらず、律法に詳しくない人々を見下し、そればかりでなく、彼らは人々から尊敬されようとしていたのでした。彼らは信仰が深いから、律法に詳しいのだと言わんばかりに、祈りの時に頭や腕にくくりつける聖句の入った小箱を大きくして目立とうとします。「先生」と呼ばれたがります。
いつも人よりも優れた者と思われたがり、他の人と自分を比べたがり、人よりも優位に立ちたがる。それは、ファリサイ人や律法学者だけではありません。私たちはほとんど無意識に、この世の中で、自分が他の人と比べて「ちょっとでもまし」だと信じて安心しようと、いつも心の中で「人と比べる」ということをしているのではないでしょうか。「ちょっとでもまし」であることの証拠にしたくて、人から丁寧な扱いを受けたいと願ったりします。ほめられたい、尊敬されたい、今日の聖書箇所の言葉で言えば「先生と呼ばれることを好み」ます。
イエス様ははっきりと「先生」と呼ばれるのは一人だけ、「父」は天の父・神さまおひとりだけ、そして「教師」はキリストだけだと言われました。
まことに「先生」「教師」と呼ばれる方は、イエス様だけです。私たち人間が皆、「言うだけで行うことができない」中で、イエス様おひとりが「罪を告げ、そして赦しのみわざを行う」方です。
イエス様は、こう言ってくださいました。思い出しましょう。マタイ福音書11章28節です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」
イエス様は、私たちの重荷を取り去ってくださるために、御業を行ってくださいました。それを私たちは知っています。私たちの代わりに罪を負って十字架に架かられました。それによって、私たちは赦されたのです。楽になったのです。安らぐことができるのです。
イエス様こそが、教えて語り、そして行うことのできる方です。イエス様が「あなたがたの教師はキリスト一人だけである」と言われたとおりです。
そして、今日の聖書箇所の最後の聖句で、イエス様は言われました。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
イエス様は、この言葉で、この火曜日から三日後の金曜日に十字架に架かられるご自身を示されました。イエス様こそが、すべてをご支配される神さまでありながら、私たちの救いのためにご自身を人間へと低めてくださいました。十字架で辱めのうちに死刑となられ、私たちの罪をあがなってくださいました。イエス様にしかおできにならないことでありながら、同時にイエス様は、そのように自分を低めて神さまと人に仕える道へと私たちを招き、まことの生き方の憧れを示し、教えてくださいます。今週も、イエス様が私たちに与えられ、イエス様がただひとり、私たちを正しく教え導いてくださる方・主でおいでくださることを感謝して、主の道を進み行きましょう。
2018年8月12日
説教題:神と隣人を愛する
聖 書:申命記 10章12-22節、マタイによる福音書 22章34-40節
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
(マタイによる福音書 22章37-40節)
イエス様が十字架に架かられる三日前の火曜日の出来事を、マタイによる福音書を通してご一緒に読み進んでいます。この「論争の火曜日」、イエス様はユダヤの指導者層たちが、イエス様を罠にはめて罪人にしよう、死刑にしようと仕掛けてきた質問に次々と答えられました。イエス様のお答えは、当然ではありますが、すべて神さまの御目からご覧になった真実・真理で、人間の思いも知恵も超えていました。人々はイエス様のお答えを聞いて、「そうだったのか!」と目を見張るほどの驚きと、新しい気付きをいただきました。また、そのお答えは、イエス様への憎しみという闇を心に抱えた質問者たち・ユダヤの指導者層を悔い改めさせよう、何とか神さまの方に正しく心を向けさせようと、主の光の方へ導こうとするものでもありました。しかし、イエス様のこの思いは、ユダヤの指導者たちには届かず、彼らはイエス様を論破しようとますます心をかたくなにするばかりだったのです。
先ほど司式者がお読みくださった今日の箇所は、こう始まっています。復活をめぐる論争で、サドカイ派の人々がイエス様に「言い込められた」ことをファリサイ派の人々が聞きつけました。すると、復活のことでは反対の聖書理解をしていたサドカイ派とファリサイ派が「一緒に集まった」のです。ユダヤ社会で聖書の専門家と自他共に認める者達が、束になってイエス様を試そうとしました。自分達と異なる事を言ったら、冒瀆罪として訴えようとしたのです。そして、彼らの一人・律法の専門家が、律法の根幹・基本と言える質問をしました。36節です。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
「最も重要」と尋ねたのですから、一番大切なことひとつを期待したのかもしれませんが、イエス様は「第一」、「第二」と序列をつけて二つの事柄を告げられました。
「最も重要な第一の掟」と言われたことを、今一度、お読みいたしますのでお聞きください。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これは、旧約聖書・申命記6章5節の言葉です。神さまはユダヤの民に、十戒を始めとする律法を与え、恵みの契約・約束をされた時に、神の民として生きる心構えとして、この言葉を与えられました。その神さまの言葉を、イエス様はそのまま語られました。
エジプトで奴隷だったユダヤの民を、神さまは可哀想と憐れんでくださり、そこから救い出し、独立した民族としてくださいました。また、神さまは、エジプトから脱出できた後は自分たちでやりなさい、とユダヤの民を見放してしまうことはなさらなかったのです。彼らが平和と秩序のある社会を築き、それを保つことができるようにと、神さまは律法を与えてくださいました。その律法に従い通せば、わたしがあなたがたに満足と幸福を与えると、約束してくださったのです。さらに、律法を守るために必要なことさえ、教えてくださいました。どうしたら律法を守れるかも示してくださったのです。律法を守るためのきまりが律法の中にあるということ自体が、まず大きな恵みではないでしょうか。神さまは律法を守りたくても守れない人間の弱さをよくご存じで、律法に従うための掟をも、与えてくださったのです。私たちの社会は秩序を保つ為に法律を持っていますが、人間が造った法律には、何をしたら法律を守れるようになるかは書いてありません。
律法を守る為に必要なこと。それは、神様への愛です。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主を愛せば、あなたは恵みにつながる律法を守ることができる。そのように、わたしにつながり続ければ、わたしはあなたがたを守り、栄えさせる。掟の背後には、神さまがご自分の民をいとおしんで与えてくださった、この恵みの約束があります。その約束を守って、神さまの愛に精一杯応えることが、最も重要な第一の掟だと、イエス様は言われました。
しかし、最も重要な掟はひとつだけではありません。続けて、イエス様はこうおっしゃいました。39節です。「第二も、これと同じように重要である。」この言葉は「第二の掟も、第一の掟と同じように重要である」と重要の度合いが同じであることを強調しているように聞こえます。少し補足しますと、この箇所は元の聖書の言葉では「第二の掟は第一の掟に似ている」または「第二の掟は第一の掟と同じである」と読むことができるのです。二つの掟は内容が違っていて、同じように大切というのではありません。二つの掟が良く似た、同じ内容だから同じように大切。イエス様は、そうおっしゃいました。では、その第二の掟はなんでしょう。お読みいたしますので、お聞きください。「隣人を自分のように愛しなさい。」この言葉は、私たちが礼拝で用いているこの新共同聖書の前の訳・口語訳聖書で覚えておいでの方もおられるかと思います。口語訳でもお読みします。「自分を愛するようにあなたのとなり人を愛せよ。」
第一の掟で言われた「神さまへの愛」は「隣人への愛」と良く似たこと・同じと言っても良いことで、これら二つの掟をひとつのもののように大事にしなさいとイエス様は言われました。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神さまを愛することは、自分を愛するように隣人を愛することと表裏一体で同じだと、主は言われます。
神さまをこのうえなく大切と思う心は、愛の行いで表されるのです。主を愛して与えられた信仰によって立ち上がり、自分が神さまに、または誰か愛する人にしてもらって嬉しいと思うとおりに、自分が自分を、本能的と言っても良い確かさで守り通すように、誰かを守り、助け、支え、導く働きを始めなさい。
これが、律法の中で最も重要な掟だとイエス様は告げられました。今、「誰か」と言ってしまいましたが、こうして「誰か」と、愛による関わりを持つと、自分とその人とは「隣人・となり人」になります。たとえこの世的には敵対する立場であってとしても、その隔てを超えて、自分とその人とは「隣人」になれるのです。
十戒を思い出しても良いでしょう。十戒の最初の四つの戒めは、自分と神さまの間の事柄です。神さまを精一杯愛すれば、あなたはたとえ他に神さまみたいなものがあったとしても見向きもしない、神様のことだけを思って満ち足りる安息日を喜んで守るようになる。十戒の後半、五つ目の戒めから最後の戒めでは、神様との関わりを基盤として、自分と他の人の関わり方が語られます。神である私はあなたを愛し、全責任をもってあなたを支える。だから、あなたはその私の愛に応えて私を愛するならば、あなたの親がたとえどんな毒親でもないがしろにはしない、盗みも殺人も、夫婦間の裏切りも犯さない。そこに豊かで幸福な生き方があると、神さまは私たちを励まして下さいます。
さらに「隣人となる」ことで思い起こされるのは、ルカによる福音書10章にある、イエス様が語られた「善きサマリア人」の話です。少し長くなりますが、ご紹介したいと思います。ルカ10章のこの話では、イエス様を試そうとした律法の専門家が、「何をしたら、永遠の命を受けつぐことができますか」と尋ねたと記されています。イエス様が、律法には何と書いてあるかと問うと、この人は自分の知識をひけらかすかのように、今日の聖書箇所でイエス様が答えられた最も重要な掟を言って、イエス様に正しさを認められました。すると、律法の専門家はさらに自分の律法解釈をひけらかそうとするかのように、またイエス様を言い込めようと、「わたしの隣人は誰ですか」と尋ねました。すると、イエス様は、「善きサマリア人」の話をされたのです。
「善きサマリア人」の話では、ある旅人が追いはぎ - 今の言葉で申しますと、強盗・路上での暴行・強奪・強盗犯ということになりましょうか – に襲われました。身ぐるみ剥がれてしまった上に、殴られて半殺しにされ、旅人は息も絶え絶えになって道に倒れていました。
神さまに仕える祭司がそこを通りかかりましたが、大けがをしているこの人を避けて、道の反対側を通って行ってしまいました。続いて、神殿で神さまに仕える部族であるレビ人が通りかかりました。この人も、祭司と同じように怪我をした旅人を避けて、道の反対側に行ってしまいました。祭司もレビ人も、旅人が元気な時に神殿で出会ったら、神さまを共に崇める神さまの家族・兄弟同士として笑顔で挨拶する間柄のはずです。ところが、二人ともある律法を守るために、けが人をあえて避けました。律法では、死んだ人に触れた者は定められた日数の間、神さまのご用をしてはならないことになっています。それでは神さまを正しく愛していないことになると祭司とレビ人は思ったのでしょうか。大けがをしてピクリとも動けない人に近づいて、もしその人が本当に死んでいたら、大切な神さまのご用を果たすことができなくなってしまいます。それで、二人は兄弟を見捨てたのです。神さまが一番大切、そのご用を果たす自分もたいせつ、律法を守るために、兄弟は犠牲にしても仕方がないと考えたのかもしれません。
しかし、これで本当に神さまの律法を守ることになるでしょうか。神さまが第一の掟で私たちに求められる「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神さまを愛しなさい」とは、愛する神さまが喜ばれることを、自分の喜びとすることでありましょう。神さまが愛して造られた自分も、他の人も、神さまが望まれる姿でいること・その姿に少しでも近づこうとすることで、この掟は守られるのです。
そのように神さまを愛する思いと、神さまに愛されている自分を大切にする思いをもって、人を愛そうとする時に、「自分のように隣人を愛しなさい」という律法を守ることができるのです。
さて、その後、この瀕死のけが人の近くを、今度は用事で先を急いでいたらしいサマリア人が通りかかりました。
ユダヤ人とサマリア人は犬猿の仲でした。ユダヤ人はサマリア人をユダヤ教の異端宗教を信じる民族として軽蔑し、交流を絶っていました。しかし、このサマリア人はためらわずに、けが人を介抱しました。
そればかりでなく、自分のロバに乗せて宿屋に運んで手当を頼み、宿屋の主人に必要なお金さえ渡したうえで、旅路を急ぎました。
−自分が瀕死のけが人として路上に倒れていたら、神さまは自分をどのように助けてくれるか。自分はどのように扱われれば、最も神さまに、また神さまの民に愛されていると確信できるか。もし、神さまが路上に瀕死の姿で倒れていたら、自分はどうやって、神さまへの精一杯の自分の愛をあらわすことができるだろうか。− サマリア人は、心のうちに、それらの問いへの答えを確かに持っていました。神さまに愛されていること、その愛に応えたいとの願いを抱いていたからです。神さまの愛を通して、信仰をいただいていたからです。そして、彼はその答えのとおりに行動しました。ユダヤ人に敵と憎まれていたサマリア人は、この世の隔てを超えて、苦しんでいた人の隣人となったのです。
今日の聖句、マタイによる福音書22章34節以下に戻りましょう。
イエス様は今日の最後の聖句22章40節で、こう言われました。お読みします。「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」「律法全体と預言者」とは、聖書、まだ新約聖書がない時代ですから、ユダヤ人にとっての聖書・私たちにとっての旧約聖書をさします。ここで「基づいている」と訳されているのは、元の聖書の言葉では「ぶらさがっている」という意味の言葉です。この方がイメージしやすいと思います。神さまを自分のすべてを尽くして愛することと、自分を愛するように隣人を愛すること。この二つであって一つの掟から、それを元にして、613あるという細かい決まりごとのすべてが、ぶどう棚のぶどうの実のように下がっているのです。それが、神さまがご自分の宝の民に与えた律法です。
最後に、ぜひ心を留めておきたいことをお伝えしたいと思います。
律法学者たちは、今日のマタイ福音書でも、途中でお話ししたルカ福音書にしても、この律法の最も重要な掟を、イエス様を試すための、いわば試験の解答として用いました。彼らの頭の中では、これは標語のように覚えておくべき事柄に過ぎなかったのではないでしょうか。
文字の連なりとして頭の中にあるだけで、心にも、精神にも、思いにも根付いておらず、従って、隣人になりなさいという行動を起こすことなど考えてみたこともなかったでしょう。
イエス様がこの世に遣わされたのは、この最も重要な二重の掟を行われるためでした。神さまに愛されているのに、すぐにそれを忘れて偶像を崇め、自分を神とする私たちの罪を贖ってくださるために、イエス様は神さまのご計画に従われました。御心のままにとゲッセマネの園で祈られて従ったのは、父なる神さまを御自身のすべてをもって愛しておられたからでしょう。イエス様を憎んで逮捕に追いやったファリサイ派や祭司たち、無責任にイエス様を死刑にしろと騒ぎ立てた群衆、この背きの罪のために滅びかけ、瀕死の状態にある者たちの隣人となってくださるために、神さまの独り子は私たちの間においでくださいました。イエス様が真実に神さまを愛し、私たちの隣人となってくださったことを深く知り心にとどめて、今週も歩んでまいりましょう。
2018年8月5日 平和聖日礼拝
説教題:主にあって生きるとは
聖 書:詩編 27編1-4節、マタイによる福音書 22章23-33節
イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の言葉も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。
(マタイによる福音書 22章29-33節)
今日の聖書箇所、マタイによる福音書22章23節はこのように始まっています。「その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が」。旧約聖書、すなわちユダヤ民族にとっての聖書にも、死んだ人がよみがえる復活が記されています。ですから、つい、私たちは、ユダヤの人々が皆、復活を信じていたという先入観を持ってしまいます。しかし、すべてのユダヤ人が復活を信じていたわけではありませんでした。これまでにイエス様を論破しようと質問を問いかけたのはファリサイ派の人々、そしてヘロデ派の人々でした。今日はサドカイ派の人々がイエス様に近づいて来ましたが、サドカイ派の人々は復活を信じていませんでした。
サドカイ派は、イエス様の時代に、ファリサイ派と張り合うようにして、ユダヤの指導者層に勢力を持っていた人々です。
彼らもファリサイ派のようにイエス様をねたみ、群衆の前でイエス様に恥をかかせて信頼を失い、人気を落とそうと、今日の質問を用意してやってきました。彼らはイエス様に、聖書に記されている復活が理屈に合わないことを突き付けようと目論んで、こういう質問をしました。
ある家に七人の息子がいて、長男が結婚しました。ところが、跡取りになる男の子が産まれないうちに、この長男は亡くなってしまいました。律法では、このような場合に、未亡人となった長男の妻だった女性は、跡取りを産むために、残された兄弟と結婚するようにと定めています。それに従って、残された女性は次男と結婚しました。しかし、子が生まれないまま、また次男が亡くなって、女性は三男と結婚しなければならなくなりました。こうして、女性は次々と七人の兄弟皆と順番に結婚し、七人すべてを天に送りました。
やがて、女性自身も亡くなりました。
そこで、サドカイ派の人々はイエス様に質問したのです。復活した時には、かつて女性と結婚したことのある兄弟みんながよみがえり、七人が全員揃います。女性も復活して、そこにいます。その時、女性は誰の妻になるのですか。復活があるとすれば、女性が順番に男性の妻となっていったというこの世の時の流れを混乱させるので、こういう不合理が起こってしまう、だから、本当は復活などないのだ、とサドカイ派はイエス様に言いたかったのでしょう。
イエス様は、きっぱりとこう言われました。「あなたたちは、思い違いをしている。」聖書と、私たち人間の思いを遥かに超える神様の力を知っていれば、そんな思い違いはしないはずだとおっしゃられたのです。さらに、こうも言われました。30節です。「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」
サドカイ派の思い違いは、何だったのでしょう。それは、彼らが復活を、この世の出来事と同じ次元で考えようとしたことでした。この世は、神さまの守りと愛が完全になる天の国が訪れる時に過ぎ去ります。ヨハネの黙示録は、終わりの日に、イエス様が再びおいでくださって、この世の死・悲しみ・労苦が過ぎ去り、新しい天と新しい地が始まることを告げています。その終わりの日に、神さまを信じ、イエス様の十字架の出来事とご復活を信じて救われた者は復活します。この世が終わるのですから、全く新しい次元の世界が、復活した者たちの前に開けるのでありましょう。サドカイ派の人々は勿論、その復活を知りません。この世の次元でしか考えることができなかったのです。
復活の時には、めとることも嫁ぐこともない。イエス様はそう言われました。めとること・妻を迎える、嫁ぐ・夫と共に人生を送る、それは、結婚をさします。
それは人生で最も喜ばしいことだと、イエス様の時代の価値観では考えられていたのではないでしょうか。結婚のお祝いの宴会が、一週間も続いたことを、少し前の説教でお話ししました。それは当時のユダヤの人々が、どれほど結婚をめでたく嬉しいことだと思っていたかをよく表しています。また、結婚は神様が私達に言われた「産めよ、増えよ、地に満ちよ、海に満ちよ」の御言葉に従う第一歩です。子供が生まれてくる、次々と大勢生まれて、神様の民が地に満ちる家庭を作る、その初めの一歩が結婚だったのです。しかし、と、イエス様は示されます。復活とは、私たちがその結婚をする必要がなく、もっとすばらしい幸いを与えられる次元に生きることです。新しい命は、それまでのこの世の命とは異なるもの、今の私たちにはまだ知らされていない、未知の恵みです。知らされていない、わからないけれど、だからこそ、天の御国に憧れて期待する望みの恵みが、ここにあります。
とは申しましても、まったくわからないわけではありません。イエス様の言葉の中に、新しい天と新しい地に生きるとはどういうことかを知る手がかりになる言葉があります。復活の命をいただいた者は「天使のようになる」とイエス様は言われました。神さまの僕・天の御使いである天使は、完全に神さまのものです。ですから、神さまのもとから迷い出ることはありません。「天使のようになる」 とは、決して神さまから離れず、神さまに背かない者になることではないでしょうか。完全な安心がここにあります。天の御国を知るとは、その景色などがどうであるかを知ることではなく、そこで神さまが、今よりも確かに強く私たちをとらえて離さずにいてくださると知ることです。
その安心・主にある平安は、旧約聖書の時代から、すでに約束として私達に与えられていました。イエス様は32節で、こう言われました。「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」
神様はアブラハムに、故郷を離れ、自分がこれまで頼りにしていた物を全て捨てて私に従いなさいとおっしゃいました。その時、どこそこに行くと、この世の土地の名前はアブラハムに教えませんでした。
アブラハムは、神さまが自分をどこに導いて行くのかを知らされていませんでした。しかし、神さまが自分に間違いなく良いことをしてくださる、長い目で見れば、神さまが与えてくださるのは恵みだけだと信じて、神さまに従いました。
アブラハムを招かれた時、神さまが この世の土地の名前をおっしゃらなかったのは当然と言えば、当然です。なぜなら、神さまはアブラハムだけでなく、信じる私たちすべてを、この世のどこかではなく、ご自分の国・天の御国に連れて行ってくださるからです。私たちの旅の目的地は、天の御国です。私たちはそれぞれ、必ず体の死・肉体の死を経験しますが、それを神さまは私たちと共にいて、私たちの手を取ってその死の谷を飛び越えてくださり、御国へと導いてくださるのです。それが復活に与ることであり、永遠の命をいただくことです。
先々週の金曜日、7月27日に、東神大時代の同級生が天に召されました。大学教授としての務めを定年まで終えられて神学校に入り、いわば第二の人生を教会の牧師となって神さまに仕え、用いられた方でした。若くして亡くなったというわけではありませんが、急に倒れ、一年半の昏睡状態が続き、目覚めることなく逝去されました。
ご葬儀の前の前夜式に私は出席し、このようなことを伺いました。私の同級生だった牧師が倒れたのは日曜日の午後でした。朝はいつもどおりに教会の方々と礼拝を献げ、その日の説教を、この言葉で終えたのだそうです。 「今日はここまでにいたします。続きは来週、皆さん、ぜひお楽しみに。」
教会の方々が、その続きを聞くことはありませんでした。それが講壇から教会の方々へ牧師が語った最後の言葉だったと知らされて、胸が痛みました。
ところが。前夜式の最後に、奥様がご挨拶をされました。
実にしっかりとされておいででした。そして、ご挨拶を、私には笑顔にさえ見えた明るい顔で、こう締めくくられたのです。「亡くなった夫とは、長いこと夫婦をやっておりました。こうして一度はお別れしますが、この続きは、また天の国で。」
この続きは、また天の国で。
続きは、あるのです。
同級生だった牧師が「続きは皆さん、ぜひお楽しみに」と言った、そのお楽しみは、いつか御国で再び会う時にかなえられるのです。
私たちには、終わりということがない。私たちは永遠の命をいただいて天の国で主と共に生きる、それが救われたということなのだと、あらためて魂に知らされた言葉でした。
私たちがご一緒に今、主を仰いでいるこの瞬間・この時が、その永遠の命にひとすじにつなげられています。教会は、この世にありながら天の御国を知るところです。イエス様が十字架で流された血によって、私たちは御国への道、天の父への道をいただきました。
今日はこれから聖餐式に与ります。イエス様が命がけで開いてくださった道によって、私たちは今ご一緒に、そして永遠に、御国に宿り、天の父の御顔を仰ぎ望む幸いをいただきます。今週も、一歩一歩、永遠につながる今を、主の道を、確かに踏みしめて歩んで参りましょう。
2018年7月29日
説教題:神のものを神に返す
聖 書:創世記 1章26-27節、マタイによる福音書 22章15-22節
…皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気付いて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、誰の肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
(マタイによる福音書 22章17節b~21節)
今日の箇所は教会においでになったことのない方も「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」と古い訳で、ことわざのように知っているかもしれない言葉です。この世のことと、神さまのことを分けて考えるように。そう解釈され、受けとめられることの多い言葉ですが、果たして本当にイエス様はそうおっしゃったのでしょうか。
さて、始めのところ、15節から16節でイエス様を取り巻く悪意の構図が興味深く記されています。それまでのところで、イエス様の三つのたとえ話を聞いたファリサイ派の人々は、イエス様が救いの警告をくださっていることに気付きませんでした。彼らはイエス様と「論争」していると思いこんでいたので、たとえ話でイエス様にポイントを取られた、負けそうだと感じました。そこでいったん神殿の庭から「出て行って」、作戦を練り直しました。そして、ヘロデ派の人たちを仲間に引き込んで、新しい質問をしにイエス様のところに戻ってきました。
ファリサイ派の人たちが、ヘロデ派の人たちと仲間になって、一緒に行動した。このところが、実はたいへん興味深いのです。なぜなら、ファリサイ派とヘロデ派はまるで反対の立場を取り、仲が悪い者同士だったからです。ファリサイ派の人々は律法をかたくななまでに守ろうとしていました。ですから、神様の宝の民であるユダヤ民族を支配するのは神様お一人だと考えてました。この時代に、ユダヤはローマ帝国の支配下にありましたが、ファリサイ派の人たちにとって、それはまったく受け入れられないことでした。彼らははっきりとローマ帝国に反旗をひるがえす立場を取っていたのです。
一方、ヘロデ派はその名が示すように、ヘロデ王を支持する者たちです。ヘロデ王の血筋は、その前にユダヤの王だったハスモン家の血筋を押しのけて王位につきました。その時に、ローマ帝国の権力を後ろ盾として、いわばローマ帝国に助けてもらって王位に就きました。
このような経緯があるので、ヘロデ派はローマ帝国の言いなりです。
ファリサイ派は、神さまの掟である律法ゆえにローマ帝国に抵抗していました。ヘロデ派は神さまとの関わりを考えることなく、ただ政治的にローマ帝国に追従していたのです。ところが、この二つの対立する立場の者たちが、イエス様を論破するため・彼らの意識からするとイエス様に「勝つ」ために、手を組んで一緒に行動しました。それほどに、当時のユダヤ社会を担っていた者たちにとって、イエス様は目障りだったのです。ユダヤの一般の人々、聖書の中では群衆と呼ばれている人々がイエス様を深く信頼している事に、彼らは恐れを感じていました。イエス様を言い負かし、人々に「イエス様はたいした人ではない・この人を信じるのはやめよう」と思わせたかったのです。
そのために、ファリサイ派とヘロデ派が考えついたのが、植民地税を巡る問いでした。ローマ帝国は、植民地として支配するユダヤの人々から高い税金を取りたてていました。それが植民地税であり、今日の聖書の言葉では「ローマ皇帝に納める税金」と言い表されています。
ファリサイ派の人々は、ローマの植民地にされることに激しく抵抗していました。自分たち神さまの民を支配できるのは、神さまだけだと、律法によって堅く信じていました。ローマ皇帝になど、税金を払う必要はない。これが彼らファリサイ派の立場です。そして、ローマ帝国のおかげでユダヤの王になれたヘロデ派の人々は、ローマにとって都合の良いことにはすべて賛成しますから、ローマ帝国には税金を払えば良いと考えていました。その当時、この真っ向から対立する二つの考えが、ユダヤの人々の関心を集めていたのでしょう。
ファリサイ派の人々は、ヘロデ派の人々と一緒にイエス様にお追従を言いながら近づき、この質問をしました。
「皇帝に税金を納めるのは、律法にかなっているでしょうか。適っていないでしょうか。」神殿で神さまの教えを人々に伝えるほど、律法に精通しているあなたなら、おわかりでしょうと彼らはイエス様に迫りました。もし、イエス様が、ローマ帝国に税金を払うべきだと応えたら、神さまのご支配よりもローマの支配を優先し、神さまをないがしろにしていると、ファリサイ派の人々が騒ぎ立てるつもりでした。ユダヤの律法により、イエス様を神さまへの冒瀆の罪で裁こうとしたのです。一方、イエス様が、ローマ帝国に税金を払う必要はないと応えたら、ヘロデ派の者たちが、ローマ帝国に対する反逆の罪だと騒ぐつもりだったのでしょう。イエス様がどちらの答えを言われても、罪人にすることができる、そういう罠の仕掛けがある質問を放ちました。
イエス様は、その質問の背景にある強い悪意を見抜かれました。厳しく「偽善者たち」と言われたのは、ファリサイ派の人々に向けて言われた言葉でしょう。彼らは、神さまがくださった律法に従うと言いながら、そこに示された神さまの深い愛を少しも見ようとしていません。律法は、それを守って人々が平和に暮らすようにと神様がくださったものなのに、彼らはそれを争いの種に使いました。またイエス様への憎しみで心をいっぱいにして、愛の律法を、イエス様をおとしめるために利用したのです。神さまの恵みを、憎しみに利用して誰かを不幸にしようとしている – その彼らこそが、神様を冒瀆しています。
しかし、イエス様は彼らに怒りを表されたり、彼らの その冒瀆の罪を糾弾したりはなさいませんでした。神さまの真実を示すだけにとどまられました。
イエス様は、植民地税としてローマ皇帝に納めるデナリオン銀貨を持って来るようにと言われ、その銀貨に刻まれている事柄をファリサイ派とヘロデ派の人々に示されました。そこに顔が刻まれ、「ローマ皇帝は神の子」という言葉も銘として刻まれていました。
イエス様はその事実を示してから、ファリサイ派の人々・ヘロデ派の人々に尋ねられました。「これは、だれの肖像と銘か。」
ローマ帝国の貨幣には、その時の皇帝の肖像が刻まれています。それは、誰が見ても明らかです。ですから、彼らは「皇帝のものです」と答えました。イエス様は、彼らが答えたそのままの言葉を用いられて、彼らの問いにこう応えられました。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
イエス様の答えは、単に政治のことは政治で解決し、信仰のこととごっちゃにしないで分けておきなさいという意味ではありません。信仰の事柄は、私たちが生きてゆく姿勢を決めるものです。信仰の姿勢が決まれば、私たちの生きてゆくすべてが決まります。神様を信じて信仰をいただいた人が、教会から一歩出て社会で働く時は、宗教的に中立と申しましょうか、特定の立場を取らずに無神論者になるということは、ありえません。何をするにしても、言うにしても、信仰に基づいたことになるはずです。
イエス様は、貨幣に皇帝がかたどられているから、これは皇帝のものだということを、ファリサイ派とヘロデ派の人々に理解させました。皇帝のものは、皇帝に返せばよいでしょうと言われました。そして、神のものは神に返しなさいと言われ、自分が何者であるかを忘れないようにとおっしゃられたのです。この言葉は、私たち人間が、神さまにかたどられて造られ、神さまのものであることを明確に思い起こさせます。先ほど司式者にお読みいただいた創世記の御言葉は、それを私たちに告げています。私たちは、神さまがお造りになったものの中で、最も神様ご自身に似せて造られていることを語る言葉です。
その聖句を、今一度お読みします。
「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」(創世記 1章26-27節)
神さまに似せて造られたとは、何と畏れ多いと思わずにはいられませんが、それが私たちへの神さまのご計画なのです。それは、私たちが造られたもの・被造物の中で、最も神さまをよく知ることができるという事実を意味します。また、貨幣を見ればそこに皇帝の顔があって皇帝のことを思わせるように、私たちが神さまに似て造られたのは、自分を眺め、お互いの姿を見て、そこから神さまを思うためなのです。自分のすべて、またその自分を囲むこの世界のすべてに、神さまが関わってくださり、愛して造ってくださったことを思い起こすためです。私たちはどんなに過ちを犯し、どんなに醜い生き様をさらしたとしても、自分が神さまに似せて造られたという事実から逃れることはできません。別の言い方をすると、神さまの御手から私たちが漏れ出ることは決してなく、神さまがいつも共においでくださるということなのです。そして、イエス様はこのことを語られた三日後に十字架に架かり死なれます。それは、私たちが どれほど非人間的な生き方をして、鬼畜のように罪を犯したとしても、神さまに赦され、救いの御手のうちに置かれるためだったのです。
私は戦争をまったく知りませんが、夏の盛りを迎えると終戦記念日を思わずにはいられません。来週、教会は平和聖日の礼拝を献げます。そのことを思いながら、今日の説教準備をしていたからかもしれませんが、一人の方の事がしきりと思い出されました。もうだいぶ前に天に召された方で、十五、六年前にある教会でご一緒に教会生活を送りました。お医者さんで、太平洋戦争の時に軍医として従軍した方です。
少年の頃に洗礼を受けて、軍隊に入った時はすでにクリスチャンでした。それが分かると軍隊では厳しい制裁を受けるなど、厄介なことになるので、隠し通していたそうです。天皇は現人神というようなことが周りで言われると、そうだ・そうだと同調せざるを得ませんでした。自分の神さまは天の父ただ一人と思いながらも、神さまに対して、たいへん後ろめたい思いをし続けていました。それと同時に、今のこの世とこの時代をやり過ごさなくてはならないニセの自分と、信仰を持っている本当の自分とは違うのだと思い込みたい気持ちも強く持っていました。
しかし、ある日、トイレで黙祷していて – トイレの個室でしか、祈ること、それももちろん、言葉に出さずに祈ることしかできなかったのです − 、ふと気が付いたそうです。ニセの自分も、信仰を貫きたいと願っている自分も、神さまがご覧になれば同じ一人の自分だ。そして、その自分はまるごと神さまに受けとめていただいている、神さまのものであり、地上の命の終わりが来たら、全部をお返しして御許に行くのだと、魂でわかったとしか言えないほど深く、心から思ったのだそうです。そして、その時、貫かれるように、ああ、この自分をそうして神さまのものとしてくださるために、イエス様は十字架に架かってくださったのだとわかった。その方は、そう証をされました。
戦争の時代でなくても、いつの時代でも、私たちには「皇帝のものは皇帝に」と考えて、この世を生きなくてはならないことが必ずあります。しかし、そうして生きている私たちはまるごと、その考えもどんな思いも含めて、神さまのものにして戴けているのです。それが「罪を赦されている」ということでありましょう。そして、いつか、神さまのものである自分のすべてを、感謝をこめてお返しする日が来ます。それは、神さまの本当に、本当に近くに行ける喜びと平安の日です。
それは、本来のあるべき場所に自分が置かれる日です。今週も、自分が神さまのものであることを心に留め、主がそのように共においでくださることに平安をいただきつつ、進み行きましょう。
2018年7月22日
説教題:主の招き、主の選び
聖 書:イザヤ書 55章1-5節、マタイによる福音書 22章1-14節
王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。「この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。
(マタイによる福音書 22章11-14節)
イエス様がそのご生涯の最後の一週間の一日で、渾身の力を込めて神さまの愛と正しさを伝えられた「論争の火曜日」。今日も、その火曜日に、イエス様が語られたひとつのたとえ話からご一緒に恵みをいただこうとしています。前回の礼拝説教で、イエス様は、ご自身を礎石・隅の親石として これから神の国が新しく建てられると言われました。
その「神の国」がどのようなところかを、イエス様は今日の箇所で、たとえを用いて説明されました。
「神の国」・天の国は、どんなところでしょう。そこは、ある王が王子のために婚宴を開いたのに似ているとイエス様はおっしゃられました。天の国は、結婚披露宴が行われているようなものだと言われたのです。当時のユダヤ社会で人々が最も楽しく、恵みを受けるのが婚宴でした。ある共同体、村や町で誰かの家の息子が結婚するとなると、それはその共同体にとって本当に嬉しいお祝い事だったのです。その村や町に暮らす人は全員、そして友人や親戚はすべて招かれて、宴会は一週間も続けられました。招かれた人たちは一週間、仕事を休むことができました。婚宴に招かれましたと言えば、その一言だけで、仕事を休むのに十分な理由だったのです。しかも、仕事をしなくても、その週の間は、食べる物と飲む物のすべてを、婚宴でいただくことができます。しかも、それは贅を尽くしたごちそうと、良いワインばかりです。食べることに必死な時代に、婚宴は、その必要を豊かに満ち足らせくれる恵みの機会でした。それは体だけのことではありませんでした。もちろん心も、楽しい語らいで満ち足り、心身共に必要をすべて満たされる。それがイエス様のおっしゃる「御国・天の国」です。
そのうえ、イエス様がたとえに用いられたのは、2節にあるように「ある王が王子のために催した婚宴」でした。王様が、その世継ぎの王子の、新しい家族の出発である結婚を祝う特別な宴だったのです。
王様とその一族の繁栄には、王様の国の人々の生活の安定も、当然、深く関わっています。人々に大いにお祝いされるのがふさわしい婚宴でした。また、王様も、国の人々に祝って欲しいと願ったのです。神の国・天の国は、そこで暮らす人々・そこに属する人々が、喜びを共に分かち合うところ、互いに喜び合う幸せなところなのです。王様は、その国の人々の中でも自分の息子・王子さまの婚宴のお客として特にふさわしいと思われる人々に、前もって招待状を送りました。私たちも、結婚式の招待状をいただきます。そうして、日時と場所が知らされます。私たちが受け取る招待状は、出席か欠席かをお知らせするようになっていますが、イエス様が言われた王様の招待状は、本当に「おいでください」というお招きだけでした。
ところが、いよいよその王子様の婚宴の日が来て、そろそろ時間になろうという頃になっても、美しく飾られた宮廷の宴会場に、招待客の姿が一人も見当たりません。料理のしたくは着々と進み、厨房からは肉の焼ける良い香りが漂ってきます。王様は首を傾げながら、家来たちに命じて、招待客を呼びに行かせました。驚いたことに、誰も来なかったのです。
料理がすっかり出来上がり、テーブルにごちそうが並びました。王子様と、新しく王子様と結ばれるお妃様は、すっかりきらびやかに正装して、慎ましくお祝いを受けるのを待って席についています。
王様はもう一度、別の家来たちを招待客のところへ使いに出しました。こう言わせるためでした。4節の後半です。お聴きください。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」
それでも、招かれていた人々は来ようとしませんでした。多くの招待客が、なんと、王様の招きを無視しました。
ある人は今、この季節だったら自分の畑の農作物の世話をした方が、良い生活ができると思ったのでしょうか。畑に行ってしまいました。
また、ある人は今、つかんでおきたいお客さんがいたのでしょうか、自分の商売・自分の利益のために出かけてしまいました。
中には、招きに来た家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった人々さえいました。胸のあたりが冷たくなるような、痛くなるようなことです。この人たちは、王様の使いに向かって「うるさいな」とでも、言ったのでしょうか。「あんたの息子の結婚なんか、どうでもいいんだよ。こっちはこっちで忙しいのに、邪魔するな」とばかりに、あまりにひどいことを行いました。
天の国・神様の国は、最も良いもので心も体も満たされるところです。他ではいただけないすばらしいもので、養われるところです。また、天の国・神様の国は、喜びを分かち合う幸せに生きるところです。それなのに、こんな恐ろしいことが起こってしまいました。
このたとえを言い換えると、このようになるでしょう。神さまは、すべての良い物と、分かち合いの幸いを与えようと、あらかじめユダヤの人々、それも神さまのことをよく知っているに違いないユダヤ社会の指導層、祭司長やファリサイ派の人々・律法学者・長老たちを天の国・神の国に招きました。それなのに、彼らは、そんなものはいらない、自分たちが好きな物を好きなように手に入れたいから、邪魔するなと、神さまを拒否したのです。
このたとえ話に王の御子・王子様のことが語られ、神さまの御子イエス様ご自身を連想させるのも大切なことでありましょう。たとえ話の中の人々が王様の使いを殺して王子様のお祝いを拒否し、王子様を拒否したように、ユダヤ社会の指導層は、実際、この時すでにイエス様の暗殺を目論んでいたのです。
私たち一人一人を深く愛し、大切に思ってくださり、だからこそ、私たち一人一人がそれぞれ、本当に必要なものをご存じの神さまです。その方が、その必要を満たしてくださり、私たちと生きる喜びを分かち合おうと、手を差し伸べてくださっています。イエス様はこのたとえ話で、その神の国・天の国の恵みを語っておられます。それなのに、人々はそんなものはいらない、うるさいと神さまの御手を払いのけてしまったのです。
このたとえ話では、その「人々」はイエス様を憎んでいたユダヤ社会の指導者層の人々をさしています。しかし、それだけではありません。いつの世でも、神さまに招かれているのに、そんなものは いりません、うるさい!と言ってしまうのが人間です。今、私たちはこうしてお招きに与って礼拝を献げています。しかし、厳しい試練にあって、その中で神さまが祈りに応えてくださらないからと希望を失い、もう神さまに頼らない、そう思ってしまうことが起こらないとは、限りません。本当なら、試練の中・逆境の中でこそ、私たちは神さまにすがって、耐えて、真実の慰めをいただきます。しかし、その忍耐ができない時、私たちは神さまの救いの御手を振り切ってしまうのです。
また、私たち人間の弱さは、神さまの恵みの中に置かれていると、それがどんなに幸いなことかに鈍感になってしまうことにあります。恵みに慣れてしまって、それがどんなにすばらしいか、その価値がわからなくなってしまうのです。
さて、神さま、いえ、イエス様のたとえ話の中では「王様」は、招いた人々に裏切られて、たいへん悲しまれました。嘆き、怒り、家来を殺した人殺しどもを滅ぼし、町ごと焼き払ってしまいました。
そして、王様は自分の中の「くくり」を取り去りました。神様と言い換えて良いでしょう。神様は、それまでは、エジプトの奴隷だったユダヤの人々を、その弱さ・惨めさゆえにあえて選んでご自分の宝の民とされていました。しかし、ユダヤ社会の指導者層への信頼を裏切られた今、神様は、ご自分が造られたすべての人々・民族も人種も越えたすべての人間が、ご自分の民であることをはっきりとさせました。
たとえ話の中の王様が、家来に命じて、誰でも婚宴においでなさいと招いたのは、そのことをさしています。10節で、イエス様はこのように語られています。どうぞお聴きください。「そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」善人も悪人も。これは、私たち人間が見て善人悪人と見える者という意味でしょう。また、善人も悪人も、神さまは清めてくださるという意味でありましょう。私たち みんな・全員への招きがここに示されています。
ところが、11節です。たいへん興味深いことが記されています。11節をお読みします。「王が客を見ようと入って来ると婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。」ユダヤでは、宮廷に招かれた人は礼服・晴れ着を与えられ、それに着替えて王様の前に進み出ることになっていたと伝えられています。ですから、このたとえ話でも、婚宴に招かれた人は皆、王様が用意してくれた礼服をまとっていたのです。
「身にまとう」とは、聖書にしばしば現れる表現です。使徒パウロはこう記しています。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている。」(ガラテヤの信徒への手紙3章27節)「主イエス・キリストを身にまといなさい。」(ローマの信徒への手紙13章14節)また、「神の武具を身につけなさい。」(エフェソの信徒への手紙6章11、13節 これは繰り返されています。)神さまに招かれた者は、神さまのものとされているしるし・神さまに従う心を持っている者のしるしとして、差し出された礼服を身にまといます。
それは「信仰」という名の礼服ではないでしょうか。それを受け取って感謝して身につけることが、私たちの神さまへのお応えです。私たちが信仰を身につけたことをご覧になって、神さまは私たちに選びをくださいます。それは、私たちを神さまにはっきりと向かわせます。具体的には何かと申しますと、祈りと奉仕です。もう一度申します。とてもたいせつなことだからです。神さまは、私たちを選んで、祈る心を与えてくださいます。また、私たちを選んで、奉仕する心と力を与えてくださいます。私たちは、人が、その人は教会の兄弟姉妹であっても、という意味ですが、人が聞いているから祈るのではありません。ただひと筋に、神さまに向けて祈ります。また、私たちは人に期待され、人に命じられて、人のために奉仕するのではありません。ただ、ただ、ひと筋に神さまのために働くのです。
信仰という礼服を身につけていなかった一人の人は、招かれていながら、神さまに従う心・祈る心・奉仕する心を持つようにと選ばれなかったのです。そして、この人は天の国の外の暗闇へと、突き戻されてしまいました。そして、イエス様は言われました。今日の聖書箇所の最後の聖句・14節です。お聴きください。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」この言葉は、私たちに、自らを振り返るようにと促す主の勧めの御言葉です。自分は本当に神さまのことをひと筋に思って、祈りを献げているだろうか。ひとまえで祈る時、人間の耳に快いようにと考えて、美しい言い回しばかりを並べてしまってはいないだろうか。ご奉仕をする時、教会の人にほめられることだけに気をとられてはいないだろうか。まことに、本当に神さまがくださった信仰の礼服を身にまとっている時、私たちは神さまに選ばれて、神さまにだけ心をまっすぐ向けて祈り、働くことができています。
今日の御言葉は、私たち薬円台教会の信仰の成長のうえで、たいへんたいせつな箇所です。主にひたすら愛されるだけ・守られるだけの幼い信仰から、奉仕と祈りへと、愛する者を守る愛の力を備えた者へと、育てていただきましょう。それを心に留める一週間を歩みましょう。
2018年7月15日
説教題:神はその独り子を賜りて
聖 書:イザヤ書 9章1-6節、マタイによる福音書 21章33-46節
イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」
(マタイによる福音書21章42節)
今日の新約聖書の御言葉が朗読されるのを聞いて、聖書にこんなむごたらしい話があったのだと驚かれた方、または、あらためてそうだった、イエス様はこういう厳しいたとえ話をされた、と思い出した方がおいでと思います。これはイエス様が地上で過ごされた、最後の一週間のうちの三日目、「論争の火曜日」に語られた二つ目のたとえ話です。イエス様は、ご自分を憎み、敵対してお命まで奪おうとしている祭司長やファリサイ派の人々に向けてこの話を語られました。それは彼らを脅したり、糾弾したりするためではありませんでした。彼らのためを思って、イエス様は「そのままではあなたたちは滅んでしまう」と、たとえ話を用いて警告されたのです。前回の説教でお伝えした一つ目のたとえ話も、彼らに、考え直して神さまのもとに立ち帰るようにと勧める警告でした。しかし、それを聞いても、祭司長や長老たちは自分のことを言われているとは気付かずにポカンとしていたのではないでしょうか。そこで、イエス様は今日の聖書箇所のたとえ話をされたのです。ここまで厳しく、はっきり伝えなければわからないと思われたからでありましょう。
その同じ言葉を、今私たちも聴いています。この警告の中に、イエス様が私たちにくださる恵みがあります。また、警告を超えて、神さまが私たちをどれほど思い、どれほど希望をくださる方かを、あらためて知らされる恵みがあります。
いつものように、始めから少し丁寧に聖句をたどって、ご一緒にこの恵みを探してまいりましょう。
イエス様はこう語られました。「ある家の主人がぶどう園を作った。」
当時のユダヤのぶどう園は、今の日本のぶどう園とは違います。果樹園としてぶどうの実を出荷するところではありません。ぶどう酒を作るところです。飲み水に乏しい砂漠地帯にあるユダヤでは、ぶどう酒を作ることにはたいへん大切な意味がありました。飲み水に代わるもの、命をつなぐものを作る – それが、ぶどう園の営みだったのです。
このたとえ話の中で、イエス様が言われる「主人」とは、天のお父様・神さまをさしています。説教では「神さま」とお話しした方がわかりやすいと思いますので、ここからはそういたします。
さて、神さまがぶどう園をたいそう念入りに作られたとイエス様は語られました。神さまは、ぶどう園に悪い者が入り込まないように、園(その)の回りに垣根を巡らせました。ぶどう酒を作るためにぶどうの実を搾る、その搾り場も作りました。それを邪魔しようとする者、収穫したぶどうの実・せっかく作ったぶどう酒を盗もうとする者がいたらいち早く気付いて追い払えるように、見張りのやぐらを作りました。そして、すっかり整ったぶどう園を農夫たちに貸して旅に出かけられたのです。農夫たちは、祭司長や長老たち・ファリサイ派の人々・律法学者をさします。彼らはぶどう園の経営を任されました。ここに、気になる言葉がありますね。「旅に出た。」たとえ話であることを忘れて、神さまが「旅に出た」と読んでしまうと、私たちは不安になります。神さまは、いつも見守っていてくださるはずの方、いつも寄り添っていてくださるはずの方です。その方がご自分の民を置き去りにしてどこかに行ってしまわれるとは、考えにくいことです。考えたくないことでもあります。
しかし、イエス様がたとえ話を用いられたのは、まさに「神さまがいなくなったら」人間たちが何をするか、「神様がいないと思い込んだら」「神様を見失ったら」「神さまを忘れたら」ユダヤのリーダーたち・人間の指導者たちが何を始めるかを、祭司長たちに、また今、ここで私たちに、考えさせてくださるためではなかったでしょうか。神さまが旅に出て、導き守ってくださる方がいなくなったら、私たち人間は、どうなるのでしょう。ぶどう園は荒れ果ててしまうのでしょうか。命をつなぐぶどう酒を、ちゃんと作ることはできないのでしょうか。
イエス様のたとえ話には、特に記されていませんが、ユダヤの指導者たちは真面目だったようです。せっせと働いたのでしょう。そして、34節です。いよいよ収穫の時が近づいて、「収穫を受け取るために、(主人は)僕たちを農夫たちのところへ送って」来ました。もともと神さまのものをお借りしていたのですから、そこでできたもの・収穫したものは、主人に、主に、神さまにお返ししなければなりません。できたぶどう酒を渡してくださいと、使いの者たちが遣わされてきました。ところが、35節をご覧ください。一人は袋だたきにされ、一人は殺され、もう一人も石で打ち殺されました。
ぶどう園を借りて働く者たちが、その持ち主である神さまのことをお留守だと思い込んでいる間に、どんな恐ろしいことを考えるようになったのかが、ここに記されています。自分たちが努力して作ったぶどう酒は、自分たちのものだ、誰にも渡さない。そう考えるようになったのでしょう。神さまはユダヤの人々をご自分の宝の民とされ、悪い者から守ってくださるために、律法・神さまの掟という約束をくださいました。その守りの律法が、イエス様のこのたとえ話の中の垣根であり、見張りのやぐらでありましょう。それらにしっかりと守られて、外からはぶどう園に悪い者が入ってこなかったのかもしれません。
ところが、ぶどう園の中で働く者たちは、恐ろしいものへと変質してしまったのです。外敵から守られていればいるほど、自分たち・園の中にいる者だけが良ければよいという思いが強くなり、それは自己中心的な欲望の温床となりました。ついに外からのものいっさい、神さまからの使いをも攻撃するほどに「自分たちの努力の産物」「自分たちの利益」に凝り固まるようになってしまいました。借りているぶどう園を自分たちのものとして、自分がその主人になっていたのです。
神様が愛され、あらゆる悪から守ろう、豊かに暮らさせようとぶどう園を託して下さった素直で可愛らしい群れが、神様に牙を剥く貪欲な化け物の群れになっていました。それが私たちの本性なのです。
このぶどう園の主人は、遣わした僕たちを殺されて、ぶどう園を諦めたでしょうか。農夫たちに乗っ取られたままにしたでしょうか。私たちの常識の中では、諦めるのが賢い選択でしょう。しかし、イエス様のたとえ話のぶどう園の主人・神さまは、そうはなさいませんでした。36節には、かえって「前より多くの僕を送った」と記されています。ところが、農夫たちはこの僕たちも同じようにひどい目に遭わせたのです。それでも神さまはぶどう園を見捨てようとはされませんでした。37節で、神さまはとうとう最終手段をお執りになることを決意されました。こう記されています。お読みしますので、お聴きください。「そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。」
主人・主なる神様が、ご自身の御子イエス様をこの世に送られた事と、重なり合う言葉です。イエス様のお誕生を告げるこの御言葉が思い起こされます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」ヨハネによる福音書3章16節です。神さまがぶどう園を見捨てなかったのは、ぶどう園が、神さまの愛して造られた「この世」だからです。
今日の説教準備のために、この聖句と今日の聖書箇所の37節を並べて、二つの聖句を繰り返して読んでいましたら、ひとつのことに気が付きました。私はこの気付きに恵みをいただいたと思いましたので、ここで、皆さんと分かち合いたく思います。
イエス様がこのたとえ話で「主人」と言われている天の父なる神さまは、ぶどう園であるこの世に御子を遣わす時に、こう言われました。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう。」こうは言われなかったのです。「わたしの息子なら、収穫したぶどう酒を渡してくれるだろう。」または、「わたしの息子なら敬って、ぶどう園を返してくれるだろう。」収穫やぶどう園について、それが誰のものになるか、イエス様は触れておられません。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と神さまが御子を世に遣わす時に言われた、とおっしゃいました。「敬う」とは大切にすることです。神さまは、人間がなくてはならない関わり・神さまとのつながりを大切にできるかどうか、ただそれだけを思っておられるとイエス様は言われるのです。人間が神さまを神さまと知って尊び、仰ぎ、自分ではなく神様を主と敬うことに、私たち神さまに造られた者のまことの幸いがあるからです。そうであってほしいと、神さまは私たちのために願いながら、イエス様を送ってくださったのです。
そして、39節です。恐ろしいことが起こりました。農夫たちは神さまの御子を敬うどころか、こう言いました。「さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。」ぶどう園どころか、神さまの全ての権威を自分達のものにしようとたくらみ、その息子を捕まえ、放り出して殺してしまいました。御子をただ殺すのではなく、捨て去ったのです。
これはまさに、イエス様の身にこの日から四日後の金曜日に起こること、十字架の出来事です。イエス様は、そして天の父なる神さまも、神さまの御子が人々に敬われないことをすっかりご存じでした。
四日後に、まさに今、イエス様の目の前にいる祭司長や長老たちのたくらみにより、十字架で死なれることを知っておいでだったのです。
ご存じでありながら、人間の常識から考えると殺されてしまうという最悪の結果を招くことを知りながら、神さまはイエス様を世に送られ、イエス様は十字架で殺されるために世にお生まれになりました。
なぜでしょう。どうして、神さまは愚かしいようにすら思えることを為されるのでしょう。
もう少し読むと、その秘密がわかります。イエス様は、祭司長や長老たちに問いかけました。ぶどう園の主人は、こんなひどいことをした農夫たちをどうするだろうか。彼らは、このたとえ話が自分たちの事を言っているとまだ気付いていませんでした。そんな悪人達はひどい目に遭わせて殺されるべきだと息巻きました。気付いていませんが、彼らはこの時、自分たちへの裁きを自ら語っています。自分たちユダヤの指導者層、元からの神の民は滅びるべきだと言ったのです。
すると、イエス様は彼らもよく知っているはずの詩編118編22節の御言葉を語られました。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』ぶどう園から、殺されて捨てられた神さまの御子が、悪が蔓延して腐りきったぶどう園をすっかり新しく立て直す時の礎石となる、基の石となる、そのようにご自身のご復活と御国の希望を告げられました。そして、それは人の目には愚かしいほどに不思議だと、私たちが今思っていることをそのまま語っています。
悪人は滅びるべきだと、祭司長たちは言いましたが、イエス様は滅びることはない、新しく建て直すのだと、希望を言われました。祭司長たちにとって、たいへん厳しい言葉がその後に続きますが、それは警告です。本当に手遅れになってしまう前に、神さまの元に戻りなさいという警告です。それに従えば助かります。救われるのです。
私たちは、どれほど罪を重ね、神さまを忘れ、自己中心的に生きていたとしても、終わりの日の前であれば、いつでも考え直すことができるのです。いつでも、正しい道に戻れます。私たちはいつでも「ただいま」と神さまの元に帰り、お帰りと迎え入れていただけるのです。
その帰る道・神さまと私たちをつなぐ橋が、十字架に架かられ、死なれ、しかし復活されたイエス様です。私たちが「ただいま」と帰る家は、イエス様が礎石となっている新しい主の家です。
私たちのために、イエス様が十字架で命を捨ててくださったからこそ、私たちにはまことの魂のふるさと・帰る家があります。それを心に留め、安心して今週一週間も進み行きましょう。
2018年7月8日
説教題:立ち帰れと招く主の御声
聖 書:エレミヤ書 3章19-22節、マタイによる福音書 21章28-32節
イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
(マタイによる福音書 21章31b〜32節)
前回の礼拝から、イエス様が地上で過ごされた最後の一週間のうちの三日目、「論争の火曜日」を聖書箇所としていただいています。イエス様は、イエス様を憎んでおとしめよう、人々の前でイエス様に恥をかかせようと目論んで近づいた祭司長や長老たちに、いくつか質問をなさいました。また、たとえを用いて、教えようとなさいました。説教準備のために、繰り返しこの「論争の火曜日」にイエス様が語られたことを読むと、これはイエス様だからこそおできになったことだとの思いを深めずにはいられません。
祭司長たちは、イエス様が人々に愛されていることを妬み、イエス様に、社会の指導者としての自分たちの立場を取られてしまうことを恐れました。ですから作戦を立て、ここではイエス様を無学な田舎者と人々の前で馬鹿にすることで、イエス様が人々に神さまのお話をなさるのを止めようとしたのです。彼らはすでに、イエス様の暗殺計画すら、目論んでいました。そのような強い悪意を持ち、この世の権力を嵩に着て迫って来る者たちに、イエス様は問いかけられました。呼びかけ、語りかけ、ご自分から手を差し伸べられたのです。天の父・神さまのことを話し、ご自分を敵とする彼らをも、正しい道へ、神さまの愛のもとへと導こうとされました。しかも、イエス様は、彼らが間違った方向へと進んでいることがはっきりした時点と事柄を示し、彼ら自身に自分たちの誤りがわかるように、お話してくださいます。彼らの誤りがはっきりした時点と事柄。それは、洗礼者ヨハネのことを、祭司長や長老たちが正しく受けとめなかった、そのことです。
前回も、イエス様は洗礼者ヨハネのことを、彼らに尋ねました。そして、今日の聖書箇所では、祭司長や長老たちが洗礼者ヨハネを信じなかったことをはっきりと指摘されました。
洗礼者ヨハネがどういう人だったかを、確認しておきましょう。彼は、神さまの愛から遠くなってしまった律法の理解を刷新し、新しい心をもって神さまにつながるようにと、罪の清めの洗礼を勧めた人物です。「神の国は近づいた」と救いが近いことを荒れ野で呼ばわり、イエス様が預言された神さまの御子であることを真っ先に見抜いたのも、このヨハネでありました。しかし、ユダヤの指導者たちは、ヨハネを信じようとしませんでした。律法を神さまの愛の表れとしてとらえなおそうとせず、ただ、ただ、かたくなに律法を守ることに固執していたのです。ヨハネがヘロデ王に逮捕された時も、もちろん何もしようとしませんでした。そして、ヨハネはヘロデ王の戯れ言のために、首をはねられてしまったのです。
イエス様は、今日の聖書箇所で、彼らユダヤ社会の指導者層の罪・ヨハネの勧めを信じなかったことをたいへん厳しく指摘しています。その指摘の中には、ヨハネを見殺しにしたことも含まれているでしょう。しかし、イエス様は罪を糾弾なさっただけではありませんでした。
罪を憎んで、それを責めることは、私たち人間にもできます。
イエス様がなさったことは、それをはるかに超えています。自分のしたことが過ちだったことを知り、罪を認め、思い直し「考え直せば」、つまり悔い改めれば、罪人も神さまのものとされる・神の国に入れる希望を彼らに伝えたのです。イエス様はご自分を敵とする者をも敵とせず、むしろ、彼らに主にある希望を伝えようとされました。
そのために、今日の聖書箇所で、イエス様は たいへんわかりやすいたとえを用いて語っておいでです。「考え直す」、悔い改めて神さまの方を向き、その御言葉を聴くことの大切さが、ここに記されています。
では、ここからこのたとえ話をあらためて、ご一緒に読んでまいりましょう。
28節の中程から、「ある人に息子が二人いた」と、イエス様はお話を始めました。
この「ある人」は、天の父・神さまです。息子二人は私たち人間をさします。神さまは、二人の息子のうちの一人に「今日はぶどう園に行って、働きなさい」と言われました。神さまにお仕えする時、神さまはご自身の働きに私たちを参加させてくださいます。私たちのご奉仕は、すべて神さまがなさっているお働きに自分も加えさせていただく、つまりは、神さまと一緒に働く、そう考えるとよろしいでしょう。イエス様がペトロやアンドレ、ヤコブやヨハネを弟子にされた時も、イエス様は、自分と一緒に来なさい、私のあとについて来なさい、さあ一緒にやろうと、ペトロたちに声をかけられました。
ですから、今日の聖書箇所でも、神さまはこの息子と一緒に働くつもりで「今日はぶどう園に行って働きなさい」と言われたと考えられます。しかし、息子の答えはつれないものでした。「いやです。」「そんなの、いやだよ。」と息子は拒絶しました。ここのところは、私たちの家庭でも見られる日常のひとこまと重なり、親しみを感じますね。しかし、この息子は考え直しました。天の神さまのために働くのが、正しいことだと思い出したのです。今から出かけても、お父さんが、つまり父なる神さまが、ぶどう園での仕事をほとんどご自分で済ませてしまって、自分にできることはたいして残っていないかもしれない。でも、神さまが自分に声をかけてくださったこと、一緒に働こうと望んでくださったことに、自分は応えたい。
私たちのまことの心の平安は、神さまにすっかりゆだねて、その御手に抱かれていることにあります。神さまが望まれるとおりに、神さまが行きなさいと言われるところに、身を置いて生きる。そこに、私たちの真実の安心があります。
この息子は、神さまに「いやだよ、ぶどう園なんかに行かないよ。僕は僕で、やらなければならないこともあるし、忙しいんだ。」
そう言って、自分が思うとおりのことをし始めたのはないでしょうか。しかし、そこに心の平安はありませんでした。何となく落ち着かず、好きなことをしているはずなのに、心が満たされない — そのように感じたのでありましょう。そこで、彼は考え直したのです。神さまのおっしゃる通りにしよう。その方が自分は落ち着く。しっくりくる。
遅ればせながら、ぶどう園に姿を現した息子を、このお父さん・神さまは喜んで迎えてくださったに違いありません。そして、考え直して神さまに従ったこの人は、神さまと共にいる、このところこそが自分の居場所だとあらためて心と魂で感じたのです。自分の居場所をみつける — これは、実に幸いなことです。
さて、このたとえ話には、神さまから「私のぶどう園で働きなさい」と招かれた者が他にもいました。話の中では、もう一人の息子とされています。この息子は「お父さん、承知しました」とたいへん良いお返事をしました。返事だけして、さっきの息子と同じで、言われたとおりにしませんでした。自分の好きなこと、自分がしなければならないと考えることを優先したのでしょう。そして、この息子は考え直すということをしませんでした。自分勝手な道を進み、ついに、神さまが望まれたように、神さまと一緒に働くことがなかったのです。
このように祭司長と長老たちに語られたイエス様は、あらためて彼らに尋ねました。31節です。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」それはもちろん、後から考え直して、ぶどう園に行った先の息子です。祭司長と長老たちは、そのとおりに答えました。
その答えを聞いて、イエス様はこう言われました。「はっきり言っておく」 — イエス様が大切なことを言われる時に用いられる言葉です。
続けて、「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」徴税人は、税金を集める人のことです。当時の徴税人は、ユダヤ人でありながらローマ帝国の手先になって、同胞・仲間であり、同じ民族のユダヤ人から植民地税を取り立て、同時に私腹を肥やしていました。ユダヤの人々から蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われ、悪人・罪深い者の代表のように言われていた人たちです。娼婦は姦淫の罪を犯させる者として、その罪は明らかでした。祭司長や長老たちは、こう考えていたでしょう。「徴税人や娼婦たちは罪人で、神さまから背き、神さまから遠く離れている。滅びの道を歩んでいる者たちで、神さまは、もう彼らをご自分の民とは思っておられないだろう。もう、彼らを守るおつもりも、助けるおつもりもなく、彼らは見捨てられて滅びるだけだ。徴税人や娼婦たちが、神さまの国に入ることは有り得ない。一方、自分たちは神さまの掟・律法をしっかりと守っている。神さまは、私たちを誰よりも早く、一番に、ご自分の国に入れてくださるはずだ。」
ところが、イエス様は、徴税人や娼婦たちの方が先に御国に入る、神さまのものとなるとおっしゃられたのです。祭司長と長老たちは、この言葉を理解できずに茫然としたことでしょう。神さまの国に入れない者よりも後になる、ということは、自分たちは滅びるということなのかと思ったかもしれません。徴税人や娼婦たちが神さまの国に入れるとは、どうしてだろうとも思ったでしょう。
イエス様は、今日の聖書箇所の最後の節・32節で、その理由を語っておいでです。「なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
祭司長たちは、律法をかたくなに守り、守っているのだから安心だ、自分は神さまのものと驕り高ぶっていました。
律法にこめられた神さまの愛には目が行かず、神さまを思うことは忘れられ、律法を守ることだけが目的になっていたのです。神さまを忘れることは、罪そのものです。ヨハネは、その罪を洗い清める洗礼を受けるようにと人々に勧めました。しかし、祭司長や長老たちは、ヨハネの呼びかけを聞こうともしませんでした。
イエス様は、前にお話ししたことの繰り返しになりますが、彼らのこの罪を厳しく指摘しました。このままではあなたがたは滅びる、そうイエス様は警告しておられます。しかし、祭司長たちに、まったく希望がないのかと言えば、そんなことはないのです。
考え直して自らの罪に気付き、神さまに立ち帰れば良いのです。神さまのところに戻るのに、遅すぎることはありません。神さまへの立ち帰りが、終わりの日よりも先であれば良いのです。ただ、私たちが心に留めておかなければならないのは、その世の終わりの日が盗人のように忍びやかに、誰も気付かないうちに来る、いつ来るかわからないということです。
その日まで、神さまはご自分から離れてしまっている者の心が戻ってくるのを、忍耐強く待っていてくださいます。今日の旧約聖書の御言葉、エレミヤ書3章22節は、その神さまの言葉を伝えてくれています。「背信の子らよ、立ち帰れ。」そして、神さまに背いた挙げ句、苦難に陥った者たちに、神さまは「わたしは背いたお前たちをいやす」とおっしゃってくださいます。(参照)レビ記26:44~45b
私たちの信仰は「自分は神さまを信じているから大丈夫」と、どっかりと座り込んで落ち着いてしまったとたんに、信仰ではなくなってしまいます。神さまを求めて信じるのではなく、神さまを信じている自分に自信と誇りを持つという間違った姿勢になってしまうからです。
自分がしっかりと神さまの方を向いているかをいつも確かめ、神さまに「あなたを呼びます。あなたを信じる私に造り変えてください」と祈りつつ、神さまに立ち帰り、考え直しながら、今週もイエス様に導かれて歩んでまいりたい。そう、心から祈り願います。
2018年7月1日
説教題:主を知る知識を賜りて
聖 書:イザヤ書 11章1-5節、マタイによる福音書 21章23-27節
イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」
(マタイによる福音書21章23-25a節)
イエス様が地上で過ごされた最後の一週間の出来事を、一ヶ月ほど前からじっくりと御言葉に聴いています。今日は火曜日の出来事について語られた聖書箇所をいただきました。火曜日に、イエス様は神殿の境内 — これは神殿の「庭」と言った方がイメージしやすいでしょう — 神殿の庭に入り、礼拝に来た人々に父なる天の神さまのことを伝えられました。ところが、祭司長とユダヤの長老たちがイエス様に近づき、たいへん失礼な質問をしたのです。こういう質問でした。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」
言い換えると、こうなりましょう。「お前は、この聖なる神殿で神さまのことを教える、つまり説教をしたり、聖書の言葉について説き明かしたりする資格を持っていないではないか。さっさと出て行け。」
ユダヤの社会では、神殿に関わる職業に就く者・聖職者は特定の民族の者に限られていました。祭司長の役割は、親から子へ、さらにその子どもへと代々伝えられてゆくことが決められていたのです。また、長老はユダヤ社会の指導者として、そのきまりごと・律法を守らせる立場にありました。イエス様は「何も優れたものが出ない」と言われたユダヤの片田舎・ナザレの出身でした。言葉には独特の訛りがあり、家の仕事は大工さんでありました。姿や様子を見れば、律法に定められた聖職者でないことは一目瞭然だったのです。だから、祭司長と長老たちはイエス様に難癖をつけて、追い出しにかかりました。イエス様には何の権威もない、つまり「正当な資格がない」というのが、その理由でした。
また、彼らがイエス様を追い出そうとした背景には、イエス様への実にあからさまな敵意がありました。彼らがこだわる「権威」とは、神さまの素晴らしさではありません。神さまに仕えて神殿で働く身分・聖職者の身分が与えてくれるこの世の権威です。ユダヤの社会では、聖職者は特別に尊敬され、社会の上層部で他の人々を支配することができました。ところが、イエス様は、そういう彼らが区別し、差別し、見下している人々に寄り添い、彼らを助け、ご自身も彼らと同じ仲間として生きておられたのです。イエス様は人々にたいへん信頼され、指導者として求められるほどに人気が高まっていました。
祭司長やユダヤの指導者層・長老たちは、自分たちの立場がイエス様によって脅かされることを恐れ始めました。イエス様の人気をねたみ、イエス様に嫉妬して、憎しみを抱いていたのです。彼らは、イエス様を神殿から追放することで、自分たちとイエス様、どちらが上に立つ者なのかを人々に見せつけようとしたのです。
しかし、ここで思い起こしていただきたいことがあります。そもそも、イエス様はどなたでありましょう。どんな方でしょう。イエス様は神さまに遣わされて、この世においでくださった神さまの子です。そして、ここエルサレムにおいでになるまでに、ユダヤのあちこちの村や町で、神さまとしてのお力を用いられ、病気に苦しんでいる人を癒やして、助けて来られました。またお腹をすかせている四千人・五千人にのぼる人々に一度に十分な食べものを与え、満腹させてくださいました。人間には決してできない奇跡を行って来られたのです。祭司長たちが難癖をつけた聖職者の資格どころの話ではありません。
イエス様その方が、神さまなのです。
皆さんは、こうも思われるかもしれません。そのように失礼なことを言われたのなら、イエス様は奇跡を行って、神さまの子である証拠を示せば良いのに。しかし、イエス様はそうはなさいませんでした。どうしてでしょう。神さまはご自分のためには奇跡を行わないからです。神さまの御力は、人間への愛を顕すために使われます。人間を助けるために用いられます。
今日の旧約聖書の聖書箇所、先ほど司式者がお読みくださったイザヤ書11章の聖句は、預言者イザヤにより、イエス様がお生まれになることが、そのお誕生の800年ほど前にユダヤの人々に告げられた御言葉です。エッサイを父とするダビデの血筋に救い主がお生まれになる、若枝が育つ。その方は神さまの霊に満たされて、完全な知恵と思慮と勇気、そして神さまを知り、敬う心を受けています。この方こそ、イエス様です。イザヤ書11章3節が語るとおりに、イエス様は「目に見えるところによって裁きを行わず 、耳にするところによって弁護することはない」方です。ですから、イエス様は、目に見える奇跡のかたちで、ご自身が救い主であると示されることはありません。
また、イザヤ書は救い主について、こうも預言しています。「弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。」(イザヤ11:4)。イエス様が御力を用いられるのは、この世の弱い者・貧しい人のためなのです。そして、そのイエス様の御力は「口の鞭」「唇の勢い」で表されます。口・唇が表すのは、言葉です。父なる神さまが天地を言葉によって造られたように、イエス様も言葉を何にもまさるご自身の力とされます。ヨハネによる福音書が告げるように、イエス様ご自身が「言葉」としてこの世に来られました。
イエス様は、ご自分を攻撃し、神殿から追い払おうとする祭司長や長老たちに、言葉で真実を示そうとされたのです。それは「議論」「論争」というかたちで現れました。
イエス様がこの世で過ごされた最後の一週間の一日・一日を、教会では曜日ごとに名前をつけて呼ぶことがあります。イエス様がエルサレムに歓呼の声を上げ、棕櫚の葉を打ち振る人々に迎え入れられた日曜日は、棕櫚の主日(しゅろの しゅじつ)、棕櫚の日曜日です。月曜日は宮清めの日、そしてこの火曜日は「論争の火曜日」と呼ばれます。今日の聖書箇所を皮切りに、実に25章の終わりまで、イエス様は、議論と説教を続けられます。イエス様をやりこめよう、イエス様の人気と人々からの信頼を落とそうとする祭司たちや律法学者たちが、今日の聖書箇所のように、次々と意地悪な質問を浴びせかけました。
もちろん、イエス様はそれらの質問に、人間の知恵をはるかに超える神さまの知恵で、明確に答えて行かれます。そこに神さまの知恵と思慮、愛と正義の大きさと深さが語られます。そして、祭司たち・律法学者たちは、その矮小さ・神さまに仕える仕事に就いていながら、神さまのことを忘れ、ちっぽけなプライドや、この世での栄誉にこだわっている愚かしい姿を浮き彫りにされてゆくのです。しかし、その愚かしい姿が私たち自身のものであることも、私たちは心に留めておかなければなりません。
今日の聖書箇所は、これから十字架に架かられるイエス様が、神さまの愛と正義を人々に伝えようと言葉を駆使される、その導入部分とうけとめていただくと良いでしょう。
そして、イエス様が真っ先に言われたのが、ヨハネのことでした。ヨハネは、当時のエルサレム神殿の礼拝が、神さまから心が離れてしまった祭司たちによって、形ばかりの礼拝になってしまっていることを見抜いた人でした。美しく荘厳な礼拝を献げている時にこそ、私たちは本当に心が神さまに向けられていることを、祈り求めなくてはなりません。ヨハネはむなしい神殿の礼拝に目を向けず、何もない荒れ野・砂漠で祈りの生活を始めました。華麗な刺繍をほどこし、宝石を織り込んだ祭司の服をまとわず、およそ人が着るものとは思えない、らくだの毛衣に荒縄の帯を締めたみすぼらしい姿になりました。すべてを捨てて、ヨハネは神さまだけを求めたのです。
今日の聖書箇所で、イエス様は祭司と長老たちにこのように尋ねています。「ヨハネの洗礼はどこからのものだったのか。天からのものか。それとも、人からのものか。」
ヨハネの洗礼。それは、人が持っているものすべてを捨てて、神さまだけに心を向けることを強く勧める信仰を表しています。
洗礼は神さまを信じ、神さまのものとなる信仰を受けたことを示すものです。神さまを自分の人生を導く主だと告白して、教会に連なる者・永遠の命をいただく者は、皆、洗礼を受けます。私たちキリストの教会に生きる者は、それを当然のこととしています。
ところが、今日の事柄が記されている時代には、ユダヤの人たちは洗礼など必要ないと思っていました。自分たちには割礼があるから、それで十分だと思い込んでいたのです。割礼とは、ユダヤの家に生まれた男の赤ちゃんが生後8日目に、体に決して消えない傷をつける儀式です。その傷さえついていれば、信仰など心から消え失せていても、神さまのことを忘れていても、神さまの宝の民だと胸を張っていられると安心しきっていました。洗礼を受けなければならないのは、汚れていて、罪を清めていただかなくてはならないユダヤ人以外の民族、聖書で言う「異邦人」だけでした。しかし、ヨハネは、それではいけない、自分たちも異邦人のように、神さまに心を向けて、汚れを清めていただく洗礼を受けなければと語りました。「清める」とは、神さまのもの・聖なるものとして、この世から取り分けられることを意味します。その清めの必要を説き、それに応えて集まった人々に、ヨハネはヨルダン川で洗礼を授けました。そして、イエス様が洗礼を受けにおいでになった時、この方こそが、はるか昔から預言されていた神の御子・救い主であると知って、それを高らかに告げたのです。
イエス様は、このヨハネの洗礼は天からのものか — つまり、神さまの御心にかなうもの・神さまのご計画か — それとも、人からのものか — 人間の知恵と理屈に過ぎないのか、と祭司長たちに尋ねたのです。
祭司長たちは、荒れ野で暮らし、汚らしい毛衣をまとったヨハネを、もうそれだけで馬鹿にして、まともに取り合おうとしませんでした。
社会的地位の高い自分たちこそが、神さまに認められていると思い込んでいたのです。神さまの真実は、人と人との間に分け隔てを持たないことです。しかし、祭司長たちにとっては、もう、分け隔て・区別・差別による優越感が、自分を支えるものでした。神さまに支えていただくのではなく、この世の価値観に支えられていたのです。神さまは、彼らにこそ清めの洗礼が必要と、ヨハネを通して語りかけておられたのに、彼らは聴く耳を持とうとしませんでした。
そして、イエス様が洗礼の真実の意味を尋ねられた時、彼らの心を占めていたのは、自分たちを命がけで愛してくださる神さまを知ろうとすることではなく、人々がどう思うか・どうすれば人々からの信頼や尊敬を失わないかということだけでした。神さまを求めることを忘れた彼らは、人々を見下しているようで、結局は人々の機嫌と顔色を伺いながらこそこそと生きる情けない生き方しかできなくなっていました。イエス様は、その彼らをも見捨てず、信仰に導くために、長い論争と説教の火曜日を過ごしてくださいました。
今日のイエス様の言葉から、今の時代、洗礼を受けて教会に生きる時代の私たちがぜひ心に刻みたいのは、それぞれが受けた洗礼を、ユダヤ人の割礼のようにしてはいけないということです。洗礼を受けたから、神さまのことを考えるのは卒業したということでは、決してありません。むしろ、洗礼から、日々、瞬間・瞬間に新しく神さまを呼び、聖書を通して神さまに応えていただく新しい、孤独のない、寂しさのない、充実した人生が始まるのです。洗礼を受けて日の浅い方も、数十年の信仰の歴史を持つ方も、これから洗礼を受ける方も、また今日、初めて教会においでになった方も、ぜひ、日ごとに、毎日、神さまを自分の人生を導く「主」であると新しく知って生きてゆかれますように。主を知る幸いをいただいて、今週も歩んでまいりましょう。
2018年6月24日
説教題:主の定めを知る民となる
聖 書:エレミヤ書 8章4-7節、マタイによる福音書 21章18-22節
…「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」
(マタイによる福音書 21章21〜22節)
私たちが前々回の礼拝から読み始めたマタイによる福音書21章から、イエス様の地上のご生涯最後の一週間が語り始められます。前々回10日、前回17日と礼拝に出席された方は、イエス様の歩みが、矢継ぎ早に記されているという印象をお持ちになっておいでではないでしょうか。
そして、これまでイエス様に抱いていた優しく穏やかなイメージがくつがえされて、少なからず戸惑ってしまう、そういう思いを持った方も多くおられると思います。前回の、イエス様が神殿の境内の商売人の椅子を倒し、両替人を境内から追い払ったところでも、私たちは説き明かし・説教を聞かずに この激しく荒ぶるイエス様の姿を読むと、イエス様はこんなに乱暴な方だったのかしらと驚いてしまいます。今日のいちじくの話も、どう受けとめたら良いのかと、皆さんは思っておいでではないでしょうか。
この出来事を、今日の最初のところ・18節から少し丁寧にたどってまいりましょう。「朝早く、都に帰る途中」と始まっています。イエス様はエルサレムに宿をとらず、近くのベタニヤという村に泊まって、翌朝早く、再びエルサレムに戻ってこられました。朝早くからテクテク歩かれたからでしょうか。イエス様はお腹がすいてしまわれました。そこで、道端に生えていたいちじくの木に近づいて、その実を召し上がろうとしました。ところが、葉っぱばかりで、実はひとつも成っていなかったのです。イエス様はその木をこう呪われました。「今から後いつまでも、お前には実がならないように。」そうしたら、その木はたちまち枯れてしまったのです。ここを読んで、私たちは驚き、首をかしげずにはいられません。
イエス様は子ろばに乗って、人々を優しく守る真実の王様としてエルサレムに来られたはずです。なのに、実がないからと言っていちじくの木を枯らしてしまわれました。真実の王様ではなく、まるで自分に無礼を働いた村の子供を手討ちにする暴君の殿様のように思えてしまいます。イエス様はこんな、自分の思い通りにならないからと言って八つ当たりをされるような方なのでしょうか。こう読んでしまうと、この聖書の箇所は、神さまに幻滅しかねない出来事です。
しかも、この出来事はルカ福音書、マルコ福音書にも記されています。私たちに、たいせつな真実を伝えようとしている箇所なのです。聖書はここから、何を読み取るようにと私達に言っているのでしょう。
聖書はどこを開いても、私達への神様の愛が語られています。神様の素晴らしさが語られています。幻滅を招きそうなこのいちじくの出来事にも、恵みが隠れている筈です。それは、どんな恵みでしょう。
実は、21章はイエス様のなさったことだけに焦点をあてていると、恵みが見えづらい箇所です。ここは、エルサレムの人々の姿にも注意を払いたいところなのです。イエス様を熱狂的に大歓迎した人々。彼らは少しもイエス様の本当のお姿を理解していませんでした。魂の救い主であることがわからず、ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれる政治的な指導者だと誤解していました。自分の目先の問題を解決してくれる都合の良い人物として、イエス様がエルサレムに来られたことを喜んだのです。そのように自分の都合しか頭にない人々は、自分の利益のことを考えます。だから、神さまを本当にたいせつに崇めることができず、境内では神さまを利用してお金儲けをしてしまうのです。
神さまをこのように利用してしまう、もっと言ってしまえば、神さまを冒瀆してしまうユダヤの人々の心の底には、甘えがありました。
ここで申し上げる「甘え」は、神さまに頼るという意味での良い甘えではありません。まわりのものごとを真剣に受けとめ、それらに真剣に取り組まなくてもかまわないだろうと、すべてを馬鹿にして「なめて」かかっている、という意味での「甘え」です。神さまを含めて、自分以外のすべてを軽く見ている、この甘えは自分中心・自己中心に他なりません。ユダヤの人々の場合、この甘えは神さまのくださった恵みの律法の勝手な解釈から生じていました。
自分たちは「神さまの宝の民」だから、神さまがくださった律法 — これはきまりごとです — これを形だけ守っていれば大丈夫と考えていました。これは、真心がこもっていない偽りの信仰です。
今日の旧約聖書はエレミヤ書の御言葉をいただいています。先ほど朗読されたこの箇所には、何度も「偽り」という言葉が語られていました。神さまはユダヤの人々をこう戒められたのです。「あなたがたは偽りに固執して、律法を形ばかりに守っているだけで、私に愛されていることを忘れている。」神さまに愛されていることを忘れると、私たちの心は満たされることがなくなってしまいます。神さまの愛を知らないと、私たちは他のまがいもの — それはすぐに消えてしまう人からの誉め言葉、名誉、お金、いっときのはかない楽しみといったものでしょうか — そのようなにせ物で心を満たそうと、それらを追いかけてゆきます。その姿を、神さまは、乗り手もなく戦場に突進してゆく愚かしい軍馬たちにたとえました。破滅の道へと走るその姿は、もう愚かしさを通り越しています。痛々しいほどではないでしょうか。
それでは、あまりにあなたがたはかわいそうだ、と神さまは人々を憐れんでくださいました。そこで、彼らをもう一度、ご自分のところに呼び集めようとしてくださったのです。これは、新約聖書の言葉を使えば、「教会へ招いてくださる」ことをさします。もともと「教会」という言葉は「呼び集められた者たち」という意味なのです。ところが、人々は目に見えない神さまの、耳に聞こえない御言葉に気付きませんでした。神さまの言葉を預かった預言者エレミヤがいくら叫んでも、耳を貸さなかったのです。 今日の旧約聖書の箇所の先を読みますと、13節にこう記されています。「わたしは彼らを集めようとしたがと 主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなく いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは彼らから失われていた。」(エレミヤ8:13)
神さまがせっかく彼らを呼び戻そうとしても、いただいている愛の大きさ、赦しの深さを、ユダヤの人々は少しも理解できていませんでした。宝の持ち腐れのようなものです。私たちも同じです。聖書の言葉を理解しようとしないと、そのために礼拝に来て、聖霊で満たされるように願わないと、せっかくこのように聖書を手にしていても宝の持ち腐れです。あまりにもったいないことです。
さて、そのようにユダヤの人々は神さまからいただいた恵みが理解できずに、打ち捨てていました。この聖書の言葉にあるように、「神さまが与えたものは 彼らから失われていた」のです。
神さまからの愛を感謝してたいせつに生きる時、それは私たちの間で実を結びます。私たち同士の愛の絆になったり、他の人々を助ける力になったり、神さまを愛する思いがより深くなったりします。それは、私たちを豊かな生き方へと導いてくれます。共に生きる命になるのです。
しかし、繰り返しになりますが、神さまの愛に気付かないと、私たちは豊かに生きることができません。実を結ぶことができないのです。魂は、死に落ちこんでゆくしかありません。
神さまが預言者エレミヤの言葉を通して植物にたとえたように、葉がしおれ、実はならず、枯れて滅びてしまうのです。旧約聖書では、これは「たとえ」として語られました。しかし、この世に神さまの御子としてお生まれになったイエス様は、神さまのこの言葉を、今日のいちじくの出来事で実際の事柄として表されたのでした。
それは、私たちによくわかる、よく見えるかたちで警告を与えるためです。少しでも聖書に触れる機会があるなら、教会の礼拝に来る機会があるなら、初めは何が何だかわからなくても、離れずにいなさい、神さまに愛されていることを知るようになさい。
このいちじくのように、枯れてしまってはいけないから。あなたがたの魂が、死んでしまってはいけないから。そう、イエス様は弟子たちに、また今ここに集まっている私たちに伝えてくださろうとなさっているのです。
私たちが特に心に留めたいのは、これが警告であって、脅しではないということです。
神さまのお招きに応えて立ち戻るなら、私たちが呼び集められた神さまの群れとなるなら、教会としてとどまるなら、大きく深い恵みが約束されています。それを、イエス様は今日の聖書箇所の後半で語られます。
今一度、その約束の言葉をお読みします。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」
ここにももうひとつ、心を留めたいこと、まちがって読んでしまってはいけないことがあります。それは、イエス様がここでおっしゃっているのは、神さまを信じ、愛されていることを魂で知って信仰を持てば、何でも自分勝手な願いをかなえることができるわけではない、ということです。イエス様が言われた中にある「疑わない」という言葉、これは元の聖書では「二つに分かれない」という意味の言葉です。神さまが言われること・聖書の御言葉と、この世で言われていることが対立することがあります。身近なことを申しますと、聖書には「人を殺してはならない」と書いてありますが、私たち日本の社会、また他の国でも死刑が法律で定められています。神さまは「どんな人でも殺してはならない」とおっしゃいます。
しかし、死刑というこの世のきまりは「社会が殺しても良い人がいる」と言っているのです。また、御言葉と自分の願いが対立してしまうことは、日常的にあることでしょう。
その時に、心が分かれない。それが「疑わない」ということです。実際に行動に表すことは難しいかもしれませんが、心はいつも神さまと共にある、神さまに従う、それが信仰を持つことです。また、それができるようにと願うのが、私たちの祈りです。イエス様が今日の御言葉の最後で言われる「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」とは、神さまの御心を求めて祈るならば、それはすべて与えられる、という意味なのです。
神さまは私たちを造ってくださった方です。ですから、私たちが自分のことを知るよりもずっと、私たちについて深く知っていてくださいます。私は子供の頃、牧師になるとは思ってもみませんでした。しかし、神さまは成長した私をすでに計画していてくださり、今、この場所で私がこうして皆さんと出会い、御言葉を語ることをご存じだったのです。そして、こうして神さまのために牧師としてお仕えできることは、私の心にも体にもあふれるばかりの、もったいないほどの喜びです。私たちが願う以上に与えてくださるのが、神さまです。私たちが不可能と思っていること、山が立ち上がって海に飛び込むようなことも、神さまが導いてくださる時、神さまの愛が私たちをひとつにしてくださる時、可能になります。
神さまに見守られ、私たちも神さまに呼びかけ、祈り、讃美を献げられる幸いを、このいちじくの話は私たちに知らせてくれています。
主と共に生きる喜びを胸にいただいて、今週一週間も歩みゆきたい。心からそう祈り願います。
2018年6月17日
説教題:すべての民の祈りの家
聖 書:エレミヤ書 7章1-11節、マタイによる福音書 21章12-17節
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしている。」
(マタイによる福音書 第21章12-13節)
イエス様が地上で過ごされた最後の一週間、十字架の出来事とご復活を語る聖書箇所を、前回の礼拝からご一緒に読み始めました。前回の御言葉で、私たちはイエス様が小さなろばに乗ってエルサレムに入られた、その優しく謙虚なお姿を知りました。その直後の今日の箇所。皆さんは驚かれたのではないでしょうか。前回のイエス様と、今日のイエス様は、対照的と申して良い程に異なります。先程、司式者がお読み下さった今日の御言葉のイエス様は、荒ぶる方・荒々しい方です。激しく人々を追い立て、腰掛けを倒して怒りを表されます。今日の聖書箇所は、「イエス様の宮清め」と言われる箇所です。優しいイエス様のイメージがひっくり返されるように思った方もおいででしょう。
しかし、私たちは思い出さなければなりません。イエス様は父なる天の神さまと一体の方です。そして、天の父なる神さまは「わたしは熱情の神である」と言われました(出エジプト記20:5)。私たちが間違った道に進みそうになると、神さまは真剣に怒り、私たちを滅びから守ろうとしてくださいます。私たちを真剣に愛してくださる神さまは、私たちがどれほど情けなくても見捨てずにいてくださいます。その「見捨てずにいる」とは、ただ暖かく見守り、寄り添い、支えるだけではありません。そのままでは滅びてしまう、危ない、やめなさいと厳しく激しい警告をも、私たちに与えてくださるのです。
今日、イエス様は激しい怒りの行動をもって、御言葉を通し、私たちに本当の礼拝とは何か、本当に祈りを献げるとは何かを示そうとしてくださいます。
今日の聖書箇所の前半部分をさっと読むと、「境内」という私たち日本で暮らす者にある固定したイメージを与える言葉もあり、イエス様が、神殿という聖なる場所をお金で、この世的な欲で汚してはならないと戒められたというだけの意味に受けとめてしまいがちです。
今、皆さんの頭の中には、神社のお祭りで境内にたくさん屋台が出ている、そのような屋台をイエス様が蹴散らした、そのような光景が浮かんでいるかもしれません。それは聖書が語るイエス様の時代のユダヤの神殿の境内とはだいぶ異なるので、少し説明をしたく思います。
ユダヤの神殿は、献げ物をする場所でありました。その献げ物は、生きた牛や羊といった家畜でなければなりませんでした。貧しくて牛や羊を手に入れることもできない場合は鳩を献げる、そのように神さまはお決めになり、その決まりを律法としてユダヤの民に与えられました。一年に少なくとも一回、ユダヤの人々、特に成人した男性は神殿で礼拝を献げ、同時に牛や羊、鳩の献げ物をしました。祈りと献げ物を献げたのです。祈りも、献げ物も神さまの御心にかなうものでなくてはなりませんでした。献げ物は、律法に「傷のないもの」と決められていたのです。神殿のあるエルサレムの町に、ユダヤの人々は国中からやってきます。巡礼をするのです。この時、献げ物として、生きた牛や羊、鳩を連れてくるわけですが、長旅になるため、「傷のない」状態のままエルサレムまで運ぶのは、きわめて困難だったでしょう。途中で病気になったり、怪我をしたり、環境が変わるので痩せてしまったりします。献げ物は、祭司が一匹一匹、「傷がないか」、神さまに献げる物としてふさわしいかを調べて、検査します。せっかく苦労して、自分の村や町から、はるばる牛や羊を連れてきても、これでは駄目ですと言われてしまうこともあったのです。そこで、巡礼をする人の便宜を図るために、神殿の境内では、すでに検査を済ませた羊や鳩を売るという商売が思いつかれました。人々は家畜を連れずに楽にエルサレムまで旅をしてやってきて、境内で献げ物を買えば良くなったのです。たいへん便利なので、このような商売をする店が、あっという間に境内にあふれるほどに多くなりました。
今日の聖書箇所にある「売り買いをしていた人々」というのは、つい私たちが思い浮かべてしまう、神社の境内に出ている焼きそばやりんご飴の屋台とお客さんではなく、この献げ物にする家畜の売り買いをさしているのです。
ここに書いてある「両替人」のことも、ご説明いたしましょう。巡礼に来た人々は、献げ物として、お金を献げる、いわゆる献金もしました。この時にはユダヤの貨幣しか献げてはなりませんでした。ここに、イエス様の時代特有の問題が生じてしまいます。イエス様の時代、ユダヤはローマ帝国の植民地でした。ユダヤの人々は、言ってみればこれまでの暮らしをローマ帝国に乗っ取られた形となり、社会的にはローマの法律に従い、通貨もローマのものしか使えなくなりました。そのため、神殿に礼拝に来た人々は、自分たちが日常使っているローマの貨幣を、ユダヤの貨幣に両替して、献金しなくてはならなかったのです。ここにも、先ほどの献げ物の家畜と似た新しい便利な商売が誕生しました。ローマのお金をユダヤのお金に両替する時に、かなりの金額の手数料を取りました。それで大いに潤ったのが両替人です。
神殿で売られる検査済みの羊や鳩、また両替人の手数料は、法外に高いものでした。神殿で礼拝を献げ、神さまの御前に正しい姿で立とうとする人たち、自分たちが暮らす遠いところからはるばると、一生懸命に旅をしてエルサレムにようやく辿り着く人々の弱みにつけこむ商売だったのです。何で利益を — これは「儲け」と言う言葉を用いてしまって良いでしょう — 手に入れているかと言えば、こうした人々の素朴な信仰心を利用していたのです。神さまへの信仰を利用するとは、神さまを利用することです。神さまを利用するとは、神さまを自分の道具として使えるものとして、冒瀆していることです。これは、赦されざる罪でした。だから、イエス様は激しく怒りを表されたのです。
神さまを冒瀆し、神さまを見下す行いと態度は、破滅を招きます。
イエス様は、こうしたあくどい商売人たちを追い出して、こう言われました。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしている」。イエス様のこの言葉は、そのまま今日の旧約聖書で預言者エレミヤが預言した事柄です。
今日の箇所の旧約聖書は、「主の神殿、主の神殿」と、さも神さまを崇めているように言葉だけで主を称えることのむなしさと、その罪を指摘しています。心の伴わない言葉は、うつろでむなしく、偽りにすぎません。心のこもらない、うわべだけを取り繕った祈りの言葉は、ただむなしく空っぽなのではありません。空っぽで何もなければ、まだ良いのです。聖書の物の見方の中には、「空っぽ」が良いとする考えはありません。聖霊で満たされず、神さまからの恵みと愛とで満たされて充実していないと、空っぽな心には、悪いものが住み着いてしまいます。そして、預言者エレミヤが預言し、イエス様が同じ言葉をここで引用して繰り返されたように、空しく主を崇める空っぽな神殿には、悪い物・悪意・強盗が住み着いて、そこを巣にしてしまうのです。
礼拝に臨む時に、このようにむなしくなった心を悪い物に占領されてはならない。イエス様は、それを厳しくお示しになるために、今日の「宮清め」で戒めをくださったのです。
皆さんは、礼拝においでになる前、ご自宅で祈りの習慣をお持ちでしょうか。教会でお祈りをするから、それで十分と思い、おうちを出る時にはことさらに祈らないかもしれません。その日の礼拝でご奉仕を担当する司式者、奏楽者、受付と献金のお祈りのご奉仕を担当される方、そして説教者は礼拝前に短く祈り会を持ちます。主日の礼拝の前に、必ずオルガンの後ろの部屋で集まって献げているので、皆さんもよくご存じと思います。
また、私は土曜日に、次の日・日曜日の礼拝の準備を終えた後、牧師館に帰る前に、会堂でひとり、翌日の礼拝のために祈ります。
この前日の祈りと、礼拝前のご奉仕者との短い祈り会で、必ず私が、と申しますか、すべての牧師が神さまに献げる願いがあります。礼拝は神さまと出会うたいへん貴重でたいせつな、この世の他のところでは決して経験できない時と場所です。その神さまとの出会いのために、牧師が必ず献げる願いとは、「私たちを神さまとの出会いにふさわしく『清めてください』」ということです。
「清めてください」、とは元の聖書の言葉では「取り分けてください」という意味があります。この世のさまざまな思い — それは、今日の聖書箇所が語る羊や鳩を売る人や両替人の心に巣くった強盗の思い・この世の欲得・貪欲を含みます。そこから私たちを隔離してください、取り分けて神さまの正しい思いのうちに置いてください、という願いです。また「清めてください」とは、きれいにしてください、洗ってくださいという意味でもありましょう。片付いていないところを、すっきりと片付けることもさします。イエス様の宮清めのように、私たちの心の中の悪い物を追い払ってください。そう祈り願います。けれど、追い払って心が空っぽになっただけでは、いけません。私たち人間の力では、その空っぽに、また悪い思いが戻って来るのを押し返すことはできないのです。強盗の巣になってしまわないように、神さまに良い物で心を満たしていただかなければなりません。
今日の聖書箇所の後半は、イエス様が悪い物を追い払った後、どのように神殿を満たしてくださったかが記されています。14節をご覧ください。このように語られています。「境内では、目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。」
この境内とあるのは、実は何層にも区切られた神殿の庭の、最も外側でした。異邦人、つまりユダヤ人ではない者たちの庭と呼ばれるところでした。神さまが近々とご臨在くださる聖所と呼ばれるところからは遠く、差別された者がかろうじて神殿に入ることをゆるされる、そのような場所だったのです。神さまがおられると考えられていた聖所には、祭司たち聖職者しか入れませんでした。その近くにユダヤ人の成人した男性だけが入れる庭があり、女性だけのための庭があり、その外側が異邦人の庭、今日の聖書箇所の舞台となっている場所でした。誰もが神さまに等しく招かれているはずなのに、実際に人間の手によって造られた神殿には、悲しい差別の現実が、厳然として存在していたのです。そして、ユダヤ人の成人した男性でありながら、体に障害を持つ人々、「目の見えない人や足の不自由な人」は、はじき出されてこの外側の庭にしか入れませんでした。
たいへん興味深いのは、怒りをあらわにされて、椅子をなぎ倒し、商売人や両替人を追い散らしているイエス様、人間的な思いからすると、荒々しくてそばに寄るのが恐ろしいように思えるイエス様に、目の見えない人や足の不自由な人は自分たちからすすんで近づいていったことです。この人たちには、神さまを冒瀆している人々のあくどい商売の正体がわかっていました。それを厳しく戒めるイエス様が、本当にこの世を正しく導いてくださる方であることを、弱い立場にいるからこそ、魂でわかっていたのです。彼らはイエス様を慕ってそばに寄り、イエス様は彼らをいやしてくださいました。弱っている時、苦難の中にある時にこそ、私たちは礼拝へと強く招かれています。イエス様は苦しみの中にある者を知ってくださって、その者に必要な慰めと、傷ついた心へのいやしを与え、弱った人が失った自信と人間としての尊厳を取り戻させてくださいます。
だから、私たちは試練に遭って辛い時にこそ、思いきって礼拝に出席します。そこに、確かに恵み深く、私たちにとこしえの愛を賜るイエス様が待ってくださっているからです。
この時、この場に子供たちもいました。今では信じられないことですが、当時、子供はいくらでも産むことができて、取り替えがきく者として少しも大事にされていませんでした。先日もお話ししましたが、実に子供の人権が国連で世界共通の取り決めとして認められるようになったのは、つい30年ほど前のことなのです。神さまの御前では、子供でも大人でも、みな取り替えのきかない、この世でたった一人の、かけがえのない神さまの子です。子供たちは「ホサナ、ホサナ」とイエス様に歌いかけました。「ホサナ」。どういう意味の言葉でしょう。「救ってください」、「助けてください」。素直なお願いの言葉、心の底からの神さまへの祈りの言葉です。神さま、あなただけが私を助けることがおできになります、それほどあなたは私にとって大切な方です、と讃えて歌う讃美歌です。ここに、まことの礼拝があります。「神さま、私を助けてください」。そうひたすら主にすがることができる場所と時間が、この礼拝なのです。
イエス様は、今日の聖書箇所の最後近くで、こう言われました。「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた」(詩編8:2)。神さまにすがる心、信仰を与えてくださるのは、神様ご自身だと指摘されたのです。そうです。私たちが何を礼拝でいただくか、その基になることを、イエス様はここで教えてくださいます。それは、神さまを信じて頼る心、私たちの魂のよりどころです。
教会の礼拝でこそ、私たちの心はまことに安らぐことができます。真実に私たちを助けて支えてくださる方の愛が私たちを包むからです。この安心を胸に、今週一週間も歩みゆきましょう。
2018年6月10日
説教題:平和の君が来られる
聖 書:ゼカリヤ書 9章9-10節、マタイによる福音書 21章1-11節
シオンの娘に告げよ、「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。」
(マタイによる福音書21章5節)
6月10日の主日礼拝から、薬円台教会は読み続けているマタイによる福音書を通し、毎主日の礼拝でイエス様の地上のご生涯の最後の一週間の出来事 ー 十字架の道行きとご復活に向かう事柄 ー を味わい知る恵みをいただきます。
イエス様のご生涯最後の一週間は、日曜日から始まりました。その日に、イエス様は神殿の町エルサレムに入られたのです。ここで十字架に架けられることも、イエス様は既にご存じでした。イエス様は大観衆に歓呼の声をもってエルサレムに迎え入れられました。イエス様が天の父なる神さまの教えを人々に伝え、癒やしの奇跡を行っていることは、すでに広く知れ渡っていました。人々は旧約聖書に預言されている救い主とはこの方では、との期待を抱いていたのです。
同時に、人々はさらに別の事柄をイエス様に大きくかけていました。旧約聖書のゼカリヤ書で、預言者ゼカリヤはまことの王が子ろばに乗ってエルサレムにおいでになると預言していたのです。その預言の言葉は、マタイ福音書21章5節に再録されています。今日の聖句はその預言の言葉です。
エルサレムのまことの王が、子ろばに乗っておいでになる ー イエス様はご自身が神さまの子であり、救いのみわざを成し遂げる使命をいただいて神さまからこの世に遣わされたことを知り尽くしておられました。ご自身こそが「まことの王」であると示されるために、ゼカリヤの預言をそのまま実現されたのです。もっとも、それは当時のユダヤの人々が期待していた「王」のあり方ではありませんでした。ローマの圧政からユダヤの民を救い出す政治的な指導者をユダヤの人々はイエス様に期待していましたが、イエス様は魂の救い主としての「まことの王」の姿を子ろばに乗る姿で表されたのです。
この世の王は、威風堂々・颯爽と馬にまたがって登場します。子ろばにまたがってちんまりとご自身の王なることを示されたイエス様は、彼ら地上の王とどう異なるのでしょう。
違いの一つは、子ろばの小ささ・背の低さです。馬上から人々を見下ろし、力で支配するのではありません。子ろばに乗る王様は、人々と目線が変わらず、困難にあたっては人々の手を引き、時には肩を組み合って共に働く近さにいます。イエス様はそのように人々に近く、共に働く王としてのご自身を示されました。
二つ目は、子ろばの歩みがゆっくりであることです。馬の走る速さは、軍馬・競走馬として用いられることから、よく知られています。その早い馬に乗る王様に付き従おうとするとき、ついて行く民も速さを求められます。限られた力ある者しか、王に従えないことになってしまいます。子ろばに乗るイエス様はゆっくりと進まれます。よちよち歩きの子供も、足の弱ったご高齢の方も、心身に不自由さを抱えている方も、皆、イエス様の歩みについて行くことができます。誰一人として御国への歩みから漏れ出ることがないようにと、イエス様は子ろばに乗られました。
三つ目は、子ろばが軍馬のように戦いの場ではなく、荷を負うために用いられることです。イエス様は、人々にこう語られました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのところに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)ご自身が人々の心の重荷・罪を担う者として世に来られたイエス様は、荷を負う子ろばに乗ることによって、私たちへの慈しみを示してくださったのです。
地上の王は、領土拡大のために侵略戦争を行います。まことの王・魂の主なるイエス様は、平和のために来られました。私たちが一人一人神さまに愛されて造られ、だからこそ戦いの中で死んではならない ー それを表されるために、イエス様は子ろばに乗られました。
この子ろばは、母ろばと一緒にいて、まだ荷も載せる仕事をしたことがなかったと聖書の言葉から察することができます。子ろばの生まれて初めての仕事が、大観衆の歓呼の声の中を、神さまを背に乗せて歩くことだったのです。ろばが人間と同じ知性と感情を持っていたら、「どうしてそんな大きなお仕事を、この小さな私が?」とたじろいだかもしれません。しかし、この子ろばは素直にイエス様に従いました。イエス様を乗せて十字架への道と、その彼方にある永遠の命へと歩み出したのです。
私たちもそれぞれ、聖書の御言葉から、または礼拝や祈りの中で、神さまから召し出されることがあります。それは教会での働き・奉仕に限らず、この世・社会で主の御心に従って働くように示され、励まされることです。耳には聞こえない主の御声が魂に届いた時、子ろばのような素直さをもって、主に従いましょう。そこにこそ、私たちの心の平安と主の平和があるのです。
2018年6月3日
説教題:主よ、憐れみたまえ
聖 書:詩編 57編1-6節、マタイによる福音書 20章29-34節
…二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
(マタイによる福音書20章30〜31節)
イエス様はエルサレムの町へ、天の父から遣わされた十字架の救いのみわざへと道を急いでおられました。イエス様がおいでになると聞いて、エルサレムへ通じる街道の道端で物乞いをしていた二人の盲人は必死に声を上げました。ダビデの子よ、救い主よ、と。彼らは旧約聖書に預言されているダビデの裔・救い主がイエス様であることを、確信を持って高らかに告げたのです。ところが、この二人は群衆に叱りつけられてしまいました。当時、心身に障害を持つ人たちが受けていた不当な扱いが、ここに示されています。この世・社会に役に立つかどうかを価値基準とする社会では、障害を持つ人々と、就労できるほどに成長していない子供たちはひとりの人としての扱いを受けていなかったのです。
しかし、そのような価値観をくつがえすかのように、イエス様は子供たちを招いて一人前の大人と同じ祝福を与えました。命はすべて神さまが造られたものです。今日生まれた命も、何十年と過ごしてきた命も、主に愛されて造られ、大切に見守られるという点では等しくかけがえのない命なのです。人の命は皆、平等 ー これは当時の社会では実に画期的な事柄でした。根源的すぎてかえって、この世的・社会的な通念で凝り固まった人々には受け入れ難い考え方でした。これが主の真実であったのに。
二人の目の不自由な人たちは、そのイエス様の御心を知っていました。自分たちが苦しんでいるからこそ、その苦しみを通してイエス様のすばらしさと恵みを知ることができたのです。そして、二人は叱りつけられてもくじけずに、必死に叫び続けました。彼らが本当に願っていることを叫んだのです。それは「目が見えるようにしてください」ではありませんでした。もっと根本的なことでした。私のことを思ってください・愛してください・憐れんでください ー この願いだったのです。
その願いに応えて、イエス様は立ち止まってくださいました。二人に近づき、何をしてやれるのかと尋ねてくださったのです。二人はそろってこう言いました。「目を開けていただきたいのです。」文字通りに「見えるようにしてください」という意味もあり、心の目を開いて真実が見えるようにしてください・イエス様がどのような方かわかるようにしてください・あなたを主と仰ぐ信仰をください ー そう願ったのでもありましょう。
イエス様は、目が見えず、そのために当時の社会的な暗闇に閉じ込められていたかのような彼らを深く憐れんでくださいました。それは心の目を開かれず、この世という暗闇に閉じ込められている私たち人間すべてへの憐れみでもあったのです。イエス様は彼らの、また私たちの目を開き、光を与えてくださいました。
見えるようになった二人はイエス様に従いました。文字通り、イエス様と弟子たち一行について行ったのです。そして、彼らはイエス様がどのような方であるかを開かれた目をもってつぶさに目撃することになりました。十字架の出来事とご復活を見ることになったのです。それは同時に、聖書を読む私たちが、読むたびにイエス様に心の目を開いていただき、御言葉を通して救いの恵みに繰り返し、繰り返し与ることをも意味しています。
私たちには、苦しみに沈む日・勝算のわからない戦いを挑まなくてはならない日・希望の持てない日々・不安な夜があります。その時に、イエス様、あなたの光をくださいと願うようにと今日の聖書箇所は私たちを力づけ、促します。イエス様の光とは、憐れみです。私たちを救うために十字架で命を捨てられた主、そしてご復活されて永遠に私たちと共にいてくださる主は、私たちに必ず寄り添ってくださいます。苦しみの時に、また今週も日々、イエス様を呼びましょう。自分を主の御前に投げ出して「私を憐れんでください」と大胆に祈りましょう。私たちの主は、必ず応えてくださいます。
2018年5月27日 三位一体主日礼拝
説教題:ご受難と復活の予告
聖 書:詩編 22編1-6節、マタイによる福音書 20章17-28節
…「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。」
(マタイによる福音書20章22b~23a節)
イエス様はエルサレムに入られる前に三度、捕らえられて犯罪人として殺され、しかしその後に復活されることを弟子たちに予告されました。初めて予告をされた時、ペトロは驚きのあまり「そんなことがあってはなりません」と、イエス様をいさめてしまいました。イエス様はそのペトロを、神さまのご計画を邪魔するサタンと厳しく戒められました。二度目の予告の時には、弟子たちは非常に悲しみました。師と仰ぎ、慕い、恵みに満ちる福音宣教の働きに自分たちを加えてくださっているイエス様が犯罪人として亡き者になることなど、彼らに受けいれられるはずがありませんでした。
三度目の予告で、イエス様は初めて「死刑を宣告」されて「十字架につけられる」と、ご自身の刑死の具体的詳細を語られました。その死の予告に動揺し、殆どの者はイエス様が「三日後に復活する」と明言された言葉を聴くことができませんでした。イエス様は三度の予告のすべてで復活の希望を語られましたが、実に残念なことに、弟子たちは理解できなかったのです。
しかし、弟子ではない人の中に、主のご復活を聴いて信じた者がいました。イエス様の弟子、ヤコブとヨハネの兄弟の母でした。彼女はイエス様が死に打ち勝って王の中の王・神さまの御座に着かれることが分かったのです。しかし、彼女はそのことをたいへんこの世的・人間的に受けとめることしかできませんでした。イエス様が御座に着いたあかつきには、自分の愛する二人の息子たちが神さまの側近として御座の右と左に座し、12人の弟子の中で最も重用されるよう取りたててくださいと主に願いました。我が子の幸福と栄達、その生涯の安定を願う母心からでした。その願いを知って、他の弟子たちは怒りました。確かに身勝手な願いでありましょう。しかし、この世が救いがたい競争社会であるという現実を如実に示した願いでもあったのです。私たちが今、手にしているもの ー 地位や財産、平穏で安心な日々 ー は、誰かが手放さざるを得なかったからこそ、得られたものかもしれないのです。結果的に勝ち取った・奪ったものかもしれません。
自分の罪に気付いていないこの母を、イエス様は叱りませんでした。ただ、これから自分は苦杯を飲むことになるが、それを二人の息子たちは共に飲むことができるかと尋ねました。これは十字架に架かり死なれるご受難をさしています。
そうとは理解できていないヤコブとヨハネの二人の弟子は、イエス様に従う決意表明として「できます」と勇んで答えました。イエス様は、彼らの軽薄な返事を、この時も戒めませんでした。それどころか、「確かに」あなたがたは私の杯を飲み、苦労を共にすることができると告げました。
この驚くべき肯定の言葉で、イエス様は何を語ろうとされておられるのでしょう。イエス様は、彼らがイエス様の名のために苦しむことが、苦しみの杯をイエス様と共に飲むことだと言われたのです。後にイエス様がゲッセマネの園で逮捕された時、ヤコブとヨハネの兄弟は他の弟子たちと同じようにイエス様を見捨ててしまいました。ペトロが恐怖心から我知らずイエス様を三度も否み、それに気付いた時に激しく泣いたように、後に彼らもイエス様を見捨てた己が弱さを嘆き、苦しみました。しかし、ご復活のイエス様は彼らに、大きく深い愛をもって接してくださったのです。ゆるされたことを知って、彼らはもう二度と、どんな時もイエス様から離れることはすまいと思いました。苦しみの時もイエス様と共にあるために、自分の苦しみをイエス様の十字架での苦しみ・杯ととらえ、それを飲み干すことを決意したのです。
ヤコブとヨハネの兄弟は、イエス様が天に還られた後、迫害に苦しめられながら伝道の一生を貫きました。ヤコブは殉教をも厭いませんでした。苦しみを「イエス様の杯」と心得て、ヤコブとヨハネの兄弟はイエス様と共に生きるために、その苦しみをすすんで我が身に引き受けようとする決意をいただけたのです。
私たちが苦しんでいる時、主は必ず寄り添って支え助けてくださいます。それと同時に、私たちが自らの苦しみを「主の杯」ととらえ、それを受けて忍耐し通す時、それは私たちの方から主と共にあるために大胆に主に近づく一歩となります。主により近づくために勇気と希望をもって、苦しみに耐える ー この苦難の理解ゆえに、キリスト教は世の御利益信仰と大きく一線を画し、主を信じる信仰が私たちの恵みの源となります。
今日も、主の十字架を仰ぎ、主と共に進み行きましょう。
2018年5月20日 ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝
説教題:神の御業を語り継ぐために
聖 書:創世記 11章1-9節、使徒言行録 2章1-11節
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
(使徒言行録2章1−4節)
今日は聖霊降臨日・ペンテコステ礼拝を献げています。私たちキリストの教会ではクリスマス、イースターと並んで喜ばしくお祝いする記念の日です。「教会の誕生日」と呼ばれることがしばしばあります。言い換えれば、教会が教会としての活動を始めた日です。イエス様の十字架の出来事で私たちが救われ、ご復活で永遠の命をいただいたことを世に伝える、このことを始めた日です。
イエス様の弟子たちは、イエス様が天に帰られた後、自分の思いで伝道活動を始めたのではありませんでした。これは、たいへん大切なことです。伝道は良いことだから自分たちでどんどん始めよう、というのではなかったことを、心に留めておきましょう。私たちが神さまのために働く時、最初にするのは祈ることです。御言葉に聴くことです。祈って、聖書を読んで、神さまが私たちに何をするようにとお命じになっているかを尋ねることから始めます。
イエス様の弟子たちは、イエス様から大宣教命令をいただきました。「地の果てまでも福音を宣べ伝えなさい」と言われました。しかし、それは飽くまでもイエス様に従い、イエス様の時・神さまの時に開始しなければなりません。弟子たちは、まず、イエス様に「聖霊があなたがたに降(くだ)るのを待ちなさい」と言われました。だから、勝手に伝道に出発しないで、一つになって集まり、祈って、聖霊が降るのを待っていました。
聖霊が、弟子たちに二つのしるしを示しつつ現れたことが、今日の聖書箇所から読み取ることができます。
まず、そのしるしは「音」として与えられました。2節にこう記されています。「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」風は聖書のもとの言葉では、「息」と同じ言葉です。神さまの息が吹き込まれた、その音が与えられたと考えても良いでしょう。
次に「炎のような舌」が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。「炎」が、神さまが私たち人間と関わりを持とうとされる時に現れることは、旧約聖書にしばしば記されています。モーセが初めて神さまとの出会いをいただいた時、神さまは彼に燃える柴、その炎の中から語りかけられました。それと同時に、神さまは彼に「近づいてはならない」と言われました。神さまは私たちと次元を異にする大いなる方です。主との出会いが、炎で焼き尽くされるように、私たちの存在が成るか成らぬかのきわどさで与えられる特別なものであることが示されています。そして、私たちは主との出会いをいただくと、新しい命に生かされます。この礼拝の中で、私たちは一人の兄弟が新しく主のものとされるのを見届けたばかりです。
そして、「舌」は御言葉と深く関わっています。私たちは言葉を語る時に、舌を巧みに使っています。御言葉を語り伝える力を、弟子たちは与えられました。イエス様は、このように弟子たちが聖霊で満たされて整えられ、備えられるのを待ちなさいと言い置いて天に帰られました。イエス様が約束された聖霊は、このような実に衝撃的な体験として、弟子たちに与えられたのです。
聖霊に満たされた弟子たちに、驚くべきことが起こりました。彼らは知るはずもない、さまざまな国の言葉で語り始めたのです。
言葉は違っても、弟子たちは皆、同じ内容のことを語っていました。
今日の聖書箇所の最後11節に、こう記されています。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業(わざ)を語っている。」彼らは口々に、それぞれ別の言語で、救いの福音を語っていたのでしょう。天地を創られた神さまが私たち人間を罪と滅びから救うために御子イエス様を遣わし、十字架の出来事で私たちの罪が贖われこと、そして、ご復活で私たちが肉体の死を超えて、神さまと共に生きる道が与えられたことを喜んで、神さまを讃えていたのです。
その時、五旬祭のためにあらゆるところからエルサレムに来ていた人々は、この様子を見て驚きました。弟子たちは、自分たちの母語・母国語であるヘブル語の方言アラム語と、簡単なギリシャ語しか話せません。その彼らが聖霊に力をいただいて、様々な外国の言葉で福音を伝え始めたことに、集まっていた人々は呆気に取られた、そのように聖書は伝えています。
外国語を知らない者が、突然、その言葉を話し始めるというのは、このペンテコステの日にだけ、そして弟子たちにだけ、起こった神さまの奇蹟のみわざでしょう。しかし、この日以来、弟子たちの伝道の働きを通して、福音は世界中に伝えられてゆくことになりました。
今では、キリストの教会で主の日のたびに、毎日曜日、世界各地でさまざまな言葉による礼拝が献げられています。2012年現在、聖書は2,551の言葉に翻訳されているそうです。自分が最も慣れ親しんでいる言語で、説教が語られ、讃美歌を歌い、祈りを献げる礼拝が行われているのです。
聖霊はこのように、私たちに福音を語り伝える力を与えます。これは、どちらかというと聖霊が私たちに働きかけた結果と言ってもよいかもしれません。
実は、そのかなり前の段階から、聖霊は私たちのうちで働いています。私たちが信仰告白の中で御前に告白することですが、聖書は神の言葉です。聖書は一冊の本ですが、不特定多数の人に向けて書かれている一般の書物のように a bookではありません。「その本」The Book という特別な本です。何が特別なのかと言えば、神さまが直接私たち一人一人に宛てて書いてくださった愛の手紙が一冊になったものだということです。神さまが、直接、この私に語ってくださっている、それが御言葉なのです。そして、それは聖霊を通して初めて分かってくることです。また、御言葉が伝える私たち一人一人へのメッセージも、聖霊を通して響いてまいります。皆さんは聖書を読み、讃美歌の歌詞を歌い、説教を聞いて心が熱くなることがあると思います。その主にある感動は、聖霊が私たちの心の目と耳を神さまに向けて開いてくれるからこそ、起こるのです。神さまに愛されていること、神さまが私たち一人一人をかけがえのない者として大切にしてくださっていることを知るのは、実に聖霊によってです。
また、私たち皆が、聖霊によって御言葉を受けとめるようになるということは、御言葉から同じメッセージをいただくということです。一人一人が勝手に神さまを信じているのではなく、自分勝手な思い込みではなく、同じ信仰によってひとつになるということです。同じ信仰によってひとつになる。これが教会です。ですから、聖霊降臨日・ペンテコステは教会の誕生日と呼ばれるのです。
最後に、聖霊は「回復」であることをお伝えします。ばらばらになっていたものが、ひとつにつなぎ合わされて復元する、それを「回復」と言って良いでしょう。
今日は、旧約聖書の御言葉にバベルの塔の箇所をいただいています。
人間が神さまによってではなく、自分たちの思いだけで計画を立て、神さまに迫ろうとして力を結集する時、恐ろしい暴走が始まる危険があることを、神さまは見抜いておられました。
正しいことか、間違ったことかを問わずに、出来るからやってしまう、そこに悪が忍び寄ります。時々、説教の中で皆さんにお伝えしていることですが、科学の進歩にはその危険がまといつくことがあります。神さまがお造りになる命に、私たちが手を加えることは、いったいどこまで赦されるのでしょう。
神さまは、その悪をはびこらせないように、人間が神さま無しで力を結集しないように、互いの言葉がわからなくなるようにされました。
人間は散らされたのです。しかし、聖霊は、こうしてバラバラになった人間を、神さまを信じる信仰で再びひとつに結び合わせます。
私たちは聖霊を通して同じ一人の神を、同じ一つの信仰の心で信じ、一つの群れとされて、主の道を進んで行きます。
今日、聖霊による回復を記念するこのペンテコステの日に、一人の兄弟が教会の群れに新しく加えられたのは、大きな喜びです。同じイエス様の群れとして歩む杉並教会と、一人の姉妹を通して絆を堅くされたことも恵みです。
聖霊によってひとつとされている恵み、聖霊によって一人一人愛されている喜びを胸に、今週一週間を歩んでまいりましょう。
2018年5月13日
説教題:主はすべての人に輝きを
聖 書:イザヤ書 55章1-5節、マタイによる福音書 20章1-16節
友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
(マタイによる福音書20章13b〜14節)
イエス様が弟子たちにお語りくださった「ぶどう園の労働者のたとえ話」は、この世の常識からすると実に不公平な事柄に思えます。ぶどう園を持つ主人が働き人を求めました。呼びかけに応じた者には一デナリオンの報酬を約束しました。この約束は貫かれ、真っ先に雇われて夜明けから日暮れまで働いた者にも、後になって夕方に雇われて日暮れまでわずか一時間ほどしか働かなかった者にも、同じ一デナリオンが支払われました。早い時刻に雇われて長い時間汗水垂らして働いた者は、主人に不平を言いました。こんなに頑張った自分と、後からぶどう園に来てほんの少ししか働かなかった者が同じ扱いを受けるのは不公平だ、と。
このたとえ話の「主人」は神さま、「働き人」は私たち人間です。神さまのなさることが理解できず、理不尽だと怒る私たちに、神さまは優しく「友よ」と語りかけてくださいました。それが今日の聖句です。イエス様がこの聖句で語られるのは、神さまが約束した恵みを一人一人に確実に与えてくださっていることです。ここで私たちが思い至らなければならないのは、そもそも私たちは神さまの園で働くにふさわしい者かということです。「神さまの園」と聞くと、私たちが思い浮かべるのはエデンの園ではないでしょうか。最初の人間アダムとエバは神さまに背き、人間はその原罪のために園から追放されました。ところが、このたとえ話では、神さまはそこに私たちを招いてくださるのです。夜明けから何度も何人も、広場で「誰も雇ってくれない」と途方に暮れている者を迎え入れてくださいます。ご自分のもと ー 神の国・永遠の命 ー へと、神さまは私たちを呼び戻してくださるのです。私たちが長時間働く者か、後になってから園に加わった者かにかかわらず、それぞれに与えてくださるのは同じ一デナリオン ー 等しい救いの恵みです。
神さまは私たち一人一人をご自身のご計画に必要な者として深く愛し、かけがえのない者として造ってくださいました。私たちそれぞれに与えられた人生は、他の人には生きることのできない特別な歩みです。
このことを恵みとして知る時、私たちは信仰を与えられて救われます。洗礼を受け、主のものとなります。救いは一回、そして完全です。私たちの存在そのものがまるごと救われます。頭だけ救い出していただいた、手だけが罪を赦されたということはありません。皆が同じ一つの完全な救いをいただきます。
私たちは皆、それぞれの一デナリオン・それぞれ固有の輝きをいただいています。その輝きを主の光の中で確かめつつ、今週一週間も心を高く挙げて進み行きましょう。
2018年5月6日
説教題:ただ神のみが救いの主
聖 書:詩編 126編1-6節、マタイによる福音書 19章16-30節
わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。
(マタイによる福音書19章29-30節)
一人の青年が、イエス様に熱心に問いかけました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」この問いには青年の、また当時のユダヤ社会の人生観・価値観、そして彼らの律法解釈がたいへん良く表れています。永遠の命を得る ー 神さまに愛されて御国に入れられる ー ために、善行を積まなければならないという実績主義・業績主義がその根底にあります。また「善いことをする」時、主体はあくまでも「自分」にあります。青年にとって、またユダヤ社会にとって模範とされる生き方とは、自分をよりどころとしながら神さまに近づこうとするものだったのです。
イエス様はこの青年に自分を捨てるようにと促されました。彼が頼みとしている財産・能力・社会的評価、また彼自身を支えている自負心を捨て、自分ではなく他者、それも困窮している他者に目を向けるようにと言われました。神さまにすべてをゆだねる自由な生き方へと、進む道を変えてくださろうとしたのです。さらに、イエス様は「わたしに従いなさい」と、弟子になるようにと彼を招かれました。共に主の道を歩もうと手を差し伸べてくださったのです。
ところが、青年は自分の持っている物と自分自身を手放すことができませんでした。せっかくイエス様に招かれたのに、どうしても従うことができなかった青年は、悲しみながら帰って行きました。
イエス様と青年のやりとりをすべて聞いていた弟子たちは、自分の持っている物をすべて捨てて従った者ばかりでした。漁師だった者は舟と網という財産、家族、そして生業そのものを捨てて、イエス様の伝道のお働きに加わったのです。しかし、それでも自分を捨てることはできません。「だれが救われるだろうか」ー すべてを捨てられる人間などいないではないか、と彼らはイエス様の厳しい言葉に驚きの声をあげました。率直な弟子ペトロは、弟子たちの不満と焦りをすぐに言葉にしてイエス様にぶつけました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」持っている物をすべて捨てて従った自分たちでも、神の国には入れられないのか ー イエス様の言葉と行いに親しく接していながら、やはり弟子たちは「捨てる」という行いと、「自分の」行いに報いを求めて自己実現を図りたい思いから抜け出ることができずにいるのです。ペトロの問いには、どうしても自己から自由になれない人間の暗愚と罪が表れています。
しかし、イエス様はペトロを戒めませんでした。マタイ福音書16章で彼を「サタン、引き下がれ」と叱ったような厳しさをここでは示されなかったのです。イエス様は「自己から自由になれない」人間の限界・罪を「それは人間にできることではない」と静かに事実を言われ、続けて「神には何でもできる」とおっしゃられました。救いようのない人間を救うために、何でもおできになる主が、その全能を十字架でご自身を捨てるために用いられるとの覚悟を表されました。
続いてイエス様がペトロをはじめとする弟子たち一同にかけた言葉は、優しさと慈しみに満ちていました。それが、今日の聖句です。あなたがたはすべての苦難と死を超えて、御国まで私と共に御国への道を歩み続け、永遠の命を受け継ぐ ー 主はそう彼らに告げました。後にイエス様が逮捕された時、彼らはイエス様を見捨て「主と共に」歩むことができませんでした。ペトロは三度、イエス様を知らないと言ってしまいました。イエス様はそのすべてを見通しておられ、それにも関わらず、あなたがたは永遠の命を受け継ぐと保証してくださったのです。十字架で私がすべて、あなたがたの罪を贖うから大丈夫だと言ってくださったのです。しかも、イエス様は弟子たちだけを救うおつもりではありませんでした。
「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」とは、イエス様に従う決心ができず、悲しみながら去って行ったあの青年をも救う言葉です。イエス様が十字架に架かられ、復活されたことを知らされて、青年は従えなかった自分のために主が命を捨ててくださったことを知るでしょう。そして、先にイエス様に従った弟子たちよりもイエス様にぴったりと付き従う者になるかもしれません。すべての者への主の招きが、今日私たちひとりひとりにも新たに与えられていることをおぼえ、私たちも「従います」とあらためてお応えしつつ歩んでまいりましょう。
2018年4月29日
説教題:二人ずつ遣わされる
聖 書:エゼキエル書 2章1節-3章3節、マルコによる福音書 6章6b-13節
…イエスは、付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、帯の中に金も持たず、ただ履き物を履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
(マルコによる福音書6章6b〜9節)
薬円台教会は去る4月22日に定期教会総会を開催し、いよいよ本格的に2018年度を歩み出しました。今年度の年度主題は「主にあって心ひとつに歩む共同体」、主題聖句は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイによる福音書18:20)です。
今日は主題聖句の中にある「二人」という言葉に着目し、マルコ福音書のイエス様の御言葉から、教会の務めについて味わい学ぶことといたしましょう。イエス様は弟子たちを二人ずつ、神さまのための働きに派遣されました。
ここで私たちがまず心に留め置きたいのは、イエス様が助け手を必要とされていたわけではないことです。イエス様は神さまで、完全な方ですから助け手などいなくても、すべてをご自身お一人で成し遂げることがおできになります。にもかかわらず、イエス様は不完全な弟子たち・私たち人間をご自分のお働きに招き入れてくださいます。神さまの愛を伝える伝道は、孤独に行うものではないからです。イエス様は愛を伝えるために、弟子たちと愛で結ばれつつ伝道を進められました。
イエス様が弟子たちを二人ずつ派遣したのも、そのためでした。神さまと私たちそれぞれ一人ずつが結ばれるだけでなく、私たちが互いに主の愛で結ばれ、互いに祈り合い、助け合って働くことを主は望まれました。また、私たちは神さまの御心を本当に正しく知ることはできない者です。一人だけでは福音を誤って伝えてしまうかもしれません。二人であれば、互いに教え合い、正し合うことができます。
今日の聖句で、イエス様は伝道の旅に携えて行ける物を厳しく制限されています。弟子たちが携行をゆるされたのはただ二つ、「汚れた霊に対する権能」と「杖一本」でした。「汚れた霊に対する権能」とは、病や事故・災害など理不尽に人間に襲いかかる悪と苦難に打ち勝つ神さまの力です。「杖一本」はしばしば「信仰」と象徴的に解釈されます。神さまが行きなさいと言われるところがたとえどこであっても、すべてを主にゆだねて素直に出発する信仰を与えられて、弟子たち・私たちは働きを始めるのです。信仰の杖は、私たちが挫けそうになった時に、しっかりと支えて立たせてくれます。そして、信仰とは「何よりもまず、神の国と神の義を求める」(マタイ6:33)ことだとおっしゃったイエス様の言葉を思い起こしましょう。神さまを求め、信仰をいただくことによって「何を着ようか」「何を食べようか」「何を飲もうか」という日常のすべては、神さまの恵みに「加えて与えられ」ます。だからこそ、イエス様はパンも袋もお金も持たず、ただ履き物を履き、下着は一枚だけを着て出かけるようにと言われました。
持たずに出かけることで、弟子たちは人々に語りかけるきっかけを得ます。それは人々に「パンをください」と頭を下げて頼むことです。イエス様ご自身がサマリアの女を救った時に、ご自分からこの女性に「水を飲ませてください」(ヨハネ福音書4:7)と頼んだことを思い出しましょう。私たちは伝道する時、自分たちは神さまに愛されていることを知っているが、知らない人たちもいるという認識から出発します。それは事実そのものですが、「知っているわたしたち信仰者・知らない未信者」という分け隔てを生みます。そこから発して、未信者の方に対して「上から目線」で接しないようにと、イエス様は言われます。だからこそ、むしろ「頼む」ことから始めるようにと主は勧められたました。人間は皆等しく神さまに愛されて造られ、等しく食べ物・飲み物がなければ飢え渇き、苦難に遭えば悲しんで希望を失いそうになってしまうものです。私たちが等しく神さまに愛されて造られたことを深く心に留めることから伝道を始めるようにと、主は今日の聖句で示してくださいます。また、それは伝道ばかりに限りません。教会の内外で私たちが行い語るすべてに、主の愛が現れ出るはずです。
今年度も、イエス様の愛に満たされて、共に喜び共に泣き、祈り合い助け合って、ご一緒に御国へ、永遠の命へと進んでまいりましょう。
2018年4月22日
説教題:永遠の命をいただくには
聖 書:レビ記 18章1-5節、マタイによる福音書 19章13-22節
イエスは言われた。「もし完全になりたいなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
(マタイによる福音書 19章21節)
今日いただいているマタイ福音書の御言葉は、大きく二つに分かれています。前半ではイエス様が子供たちを祝福され、後半では一人の男性がイエス様に会いにまいります。多くの注解書・御言葉の研究書が、この箇所を二つに分けずに、ひとつながりに読むようにと勧めています。前半と後半。大変対照的な箇所です。前半の子供たちは、自分の力ではイエス様のそばに来ることもできません。連れて来られました。一方、後半の男の人は、16節にはっきりと書かれているように、「イエスに近寄って来た」のです。自分からイエス様に会いに来て、心を満たされることを強く求め、イエス様に期待してやって来た青年でした。ところが、自分で求めることもできずに連れて来られた子供たちが、イエス様から祝福をいただき、青年は「悲しみながら」立ち去ったのです。
今日の箇所は、読んだ後に心に何とはなしに寂しい印象が残ります。子供たちの箇所を読んだ時には、イエス様の光に包まれている子供たちを見るように思ってしあわせな思いになりますが、男の人が「悲しみながら立ち去った」ことを読むと、この人はせっかくイエス様に会えたのに、と残念な気がいたします。イエス様に会って悲しくなる、そのようなことが、どうして起こってしまったのでしょうか。
この箇所を読むと、とぼとぼと立ち去ってゆく青年の後ろ姿が見えるようで、せつなくなります。それは、そこに私たち自身の姿を重ねているからではないでしょうか。子供たちは、自分が祝福されていることにも気付かず、祝福とは何かも知らずに、イエス様の愛に包まれています。私たちそれぞれにも、確かにその時代がありました。しかし、時が流れ、子供は少年に、そして青年に成長します。私たちは子供のままではいられません。いつの間にか、イエス様の愛の光の外へ迷い出てしまいます。
今日の聖書箇所が語る青年は、成長した子供です。イエス様に「天の国はこのような者たちのものである」と言われた、その子供だったのです。「天の国」とは、神さまがすべてを守られ、その守りの御手がすみずみに及んで、私たちを悲しませる事柄が何ひとつないことをさします。私たちを最も悲しませるのは絶望であり、肉体の滅び・死でありましょう。死が私たちを嘆かせ、苦しめることがない、その時、私たちは永遠の命をいただいています。限りない安心に心を満たされている – それが永遠の命をいただくということです。子ども時代のように、イエス様の愛の光に包まれると言い換えても良いでしょう。
時間を巻き戻すことができないように、私たちは何も知らずにただ愛されていた、あの幼い時代・子ども時代には戻れません。新しい人生の時代が、私たちそれぞれに訪れます。自分が平安の中に置かれていたこと・主の御手に守られていたことを忘れ、振り返ることをせずに、ひたすら自分の前に、欲しいもの・求めているものを探す、そういう人生の時です。苦しい年頃です。この青年は、そのような人生の時代にあったのでしょう。その中で、人生をどう生きれば幸福になれるのかという問いを抱いて、イエス様の前に立ったのです。
しかし、ここで、この青年はイエス様に間違った問いかけをしてしまいました。誰もが陥りがちな間違いです。幼子のように、自分の力ではまだ殆ど何もできない時には、おそらく考えつきもしないことです。「人生をどう生きるか」「どう生きれば幸福になれるか」と問う時に、こう考えてしまうのです。「自分はこの人生で、何をすれば良いのか。何を行なえば、幸福になれるのか。」子供から成長し、いろいろなことを自分の力でできるようになると、求めるものを手にするためには、「自ら何かを行なう」のが当たり前になります。ですから、この青年は、イエス様にこう尋ねました。今日の聖書箇所の16節です。
「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」言い換えると、こういう質問になるでしょう。私がどんな善い行いをすれば、神さまは私にご褒美をくださるのでしょう? 私はご褒美に、心の平安という幸福をいただきたいのです。死を前にしてもたじろいだり、絶望したりしない、希望にあふれる強い心をいただきたいのです。神さまは、それを永遠の命・天の国とおっしゃるのですよね。私は、それをご褒美にいただきたいのです。どんな良いことをすれば良いのでしょう。
これは、たいへん素直な問いかけです。この世の優等生の生き方から、自然に導かれる問いかけということもできるでしょう。実際、この青年はたいへん真面目に生きてきて、今日の聖書箇所の18節から20節にあるように、神さまが守りなさいと言われる十戒を、ちゃんと子供の頃から守っていました。ユダヤの社会でまっとうな人だと、周囲に信頼されることを、行なってきたのです。
ところが、イエス様は「どんな善いことをすればよいか」という、青年の質問、これが間違っていると言われました。それを伝えるために、こうおっしゃったのです。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。」イエス様に、善い事について尋ねるのは間違っています。なぜなら、イエス様がこの世に遣わされたのは、人間がどんな善い行いをすれば神さまにも人にも認められるのか、そして見返りを受けるのかを人々に伝えるためではないからです。善い行いをして、ご褒美をもらう、報酬がある。それは道徳的合理性です。この世のことです。イエス様がユダヤの村や村を巡ってなさっておられた事とは、何の関係もありません。イエス様は何の為にこの世においでになったのでしょう。それは、神様と、神様が完全に支配される天の国の真実・福音を伝える為でありました。
十字架に架かられ、私たちを救われるためでした。
そうして死なれたイエス様を、神さまはよみがえらされて、救いのみわざが成し遂げられ、私たちに死を超える永遠の命が与えられたことを示されました。
イエス様は、その為にこそ、天の父に遣わされたのです。
ですから、イエス様は、今日の聖書箇所で、この青年に続けてこう言われました。「善い方は おひとりである。」
青年が言った「善いことをする」、そこには自分しかいません。しかし、真実に心を満たされて生きるとは、自分一人だけの力で生きてゆこうとすることではないのです。
イエス様は、この青年に言われました。「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」神さまの掟を守るとは、イエス様・神さまからご覧になれば、神さまに心を向け、神さまを愛している証です。ところが、神さまがくださった掟・十戒を守っていながら、青年は少しも神さまのことを思ってはいませんでした。青年にとって、掟を守ることは、学校の優等生が試験の回答欄に機械のように正確に、正しい答えを書いてゆくようなものでした。神さまが喜んでくださるか、今も自分を見守っていてくださるか、そのように心を神さまに向けることなど、思ってもみなかったのです。神さまがいつも一緒にいてくださることで、私たちは力をいただき、心を満たされるのに、青年はそれを思ったこともありませんでした。
いえ、幼い日、青年が子供だった頃には、何も考えず、自分の力など意識することもなく、神さまの愛に身をゆだねていたはずです。それがどんなに幸福なことだったか、青年はすっかり忘れてしまっています。神さまから遠くへ迷い出てしまっています。それがはっきりとわかるのは、20節です。
青年はイエス様にこう反論しました。神さまの掟・十戒なら、皆守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。欠けています。皆さんにも、もう青年に大きく欠けているものが何か、お分かりでしょう。
青年には、神さまに心を向けることが、決定的に欠けているのです。神さまに心を向ける、それを悔い改めと言い換えても、神さまへの愛と言い換えてもよいでしょう。
青年の反論「まだ何か欠けているでしょうか」とは、イエス様からご覧になると、たいへん見当違いで、ものが見えていない上に生意気な言葉です。この青年とイエス様のやりとりは、青年が悲しんで立ち去ることから、よくイエス様がたいへん厳しい態度を取られたように解釈されますが、私は、続けて語られたイエス様の言葉は、青年への優しさに満ちていると思うのです。イエス様は、「お前の欠けは大きい。どうしようもないほど欠けている。お前なんかダメだ」とはおっしゃいません。イエス様が青年にかけた言葉は、実に前向きです。「完全になりたいのなら。」イエス様は、こう言われました。「あなたにも、道はひらけている。欠けのない完全なものになりたいのなら」と、進むべき道を示してくださいました。しかもそれは、優等生の青年の、神さまの掟についての知識に合わせてくださった道でした。
「隣人を自分のように愛しなさい」 − これは神さまの掟・律法の土台の土台です。神さまの教えの中で、最も大切な黄金律・ゴールデンルールは何ですか?と質問されたら、優等生は「隣人を自分のように愛しなさい」と答えるでしょう。それを、青年の目線に合わせて「行なう」とすれば、財産をすべて売り払って貧しい人に施すことを指します。そして、宝・自分の心のすべて、自分がたいせつと思う事柄すべてを神さまのおられる天に向け、そこに預け、自分自身を神さまにゆだねるのです。
それが、イエス様が言われる「宝を天に積む」ことです。また、イエス様に従うことです。「従う」とは、文字通りに「親ガモの後ろに小ガモがついて離れないように、ぴったりとイエス様の後をついてくる」という意味です。イエス様の弟子になることを指します。
神さまにすべてを預け、身も心もゆだねる。それは、神さまの愛に包まれていた幼い日の幸福と安心に戻ることです。こんな幸いはありません。イエス様は、神さまに少しも心を向けていない、この世のもの以外何も見えていないこの青年に、さあ一緒に進もう、私と一緒においでなさいと招き、青年が求めている永遠の命を与えてくださろうとしたのです。イエス様はこう言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。(ヨハネ14:6)」しかし、青年はイエス様と共に歩み出すことはできませんでした。たくさんの財産・自分が努力で積み上げてきたこの世で価値のあるものを、たくさん持ちすぎていて、どれもイエス様のために手放すことができなかったからです。
イエス様が語る愛、また聖書の愛は、愛する者のために、自分の何かを手放すことを指します。イエス様は十字架で私たちのために命を手放されました。私たちを愛してくださったからです。
しかし、不思議なのは – 不思議というのはふさわしくない言い方で、神さまのみわざだからこそ、と言うべきなのでしょう。私は洗礼を受ける時に、身ひとつで教会に飛び込んだように思いました。その時、私の家族は誰一人喜んでくれはしなかったからです。それでも、神さまのものとなってからずっと、心は豊かに満たされ続けています。私はずっと、幸福です。悲しみながら立ち去った者ではなく、このような者が、イエス様と共にとどまることを赦された者である幸いを、感謝せずにはいられません。また、日々、いえ瞬間・瞬間に、私はイエス様に問いかけられているように思うのです。あなたは私に従うか?
それに一瞬・一瞬、従いますと答え、神さまに心を向けることで、私は生きています。
今日は、礼拝の後に教会総会が開かれます。この新しい年度も、私たち一人一人が、また群れ全体として、日々、瞬間・瞬間、イエス様に「わたしに従いなさい」と招かれています。それに皆で励まし合い助け合って「従います」とはっきりと答え続けるために、恵みの話し合いが与えられることを信じます。主の愛で互いに結ばれ、強められて、この一週間、この一年を、共に歩んでまいりましょう。
2018年4月15日
説教題:神が結び合わせてくださった
聖 書:創世記 2章18-24節、マタイによる福音書 19章1-12節
「…創造主は初めから人を男と女にお造りになった。…それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って神が結び合わせてくださったものを、人間は離してはならない。」
(マタイによる福音書19章4b〜6節)
人と人を結ぶ絆は何でしょう。しばしば言われるように、血縁・姻戚関係でしょうか。「金の切れ目が縁の切れ目」という言葉もあります。血のつながりほど確かなものはないと告げる「血は水よりも濃い」は、聖書の舞台であるパレスチナ地方のことわざだそうです。血縁者・家族以外は信用しない文化的風土の中で、イエス様は母マリアと兄弟たちを退け、「わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(マタイ12章50節)と言われました。天の父・救い主・聖霊の三位一体を信じる信仰こそが、私たちをひとつに結ぶ ー 人と人を結ぶのは信仰だと告げる主の言葉は、当時の人々にとって革命的とさえ言って良い事柄だったでしょう。
社会の最小単位が家族、そのまた最小単位が夫婦です。信仰によって結ばれた夫婦の家庭は、主にこよなく愛されている平安で満たされた憩いの場となり、家庭人はここで癒やされて、平和な社会を築く新しい力をいただきます。
今日の聖句の最後部分は、結婚式の最後に牧師が新婚の二人と、立ち会う者皆に宣言する言葉です。新郎・新婦が共に創造主なる神を信じているクリスチャンでなければ、この宣言は本当には意味を持ちません。しかし、これは伝道と希望の言葉です。何があっても離縁・離婚をしてはならないとは、イエス様はおっしゃっておいでなのではありません。神さまが備えてくださったこの特別な愛の絆を、人の手で切り離し、壊してしまわないように、大切に大切に希望と願いを心に植える種のような言葉です。
私たち人間には神の御心を本当には正しく知ることはできません。ですから、夫と妻になっても、互いに相手が「神さまが結び合わせてくださった者」かを、確かめる術をもちません。不幸にして、どうも そのような人ではないと分かることもあるでしょう。その事実を祈りの中で、御言葉を通して、あるいは教会の兄弟姉妹の聖霊に導かれての助言を通して、それを知らされることがあります。しかし、それまでは絆に信じてすがり、絶対に手を離すまいと力を尽くすのが、私たち教会に生きる者の真心・主への誠意でありましょう。希望を抱いて信仰の絆にしがみつく時、神さまは忍耐する力と勇気をくださいます。
2018年4月8日
説教題:新しい命の夜明け
聖 書:詩編 127編1-2節、ヨハネによる福音書 21章1-14節
イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで網を打ってみると、魚があまりにも多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
イエスは、「さあ、来て朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
(ヨハネによる福音書 21章6節、12節)
イエス様を失い、失意のうちに弟子たちは危険なエルサレムを離れました。ペトロが元の職業であるガリラヤ湖の漁師に戻ろうと語ると、他の6人がついてきました。イエス様がいなくては、御国を宣べ伝える伝道の働きはできない ー 彼らは深い挫折感を抱いて生活のための仕事に戻りました。イエス様と過ごし、伝道の働きに加えられて張り切っていた充実した日々・イエス様で心を満たされていた日々はもう失われてしまった…そのむなしさの中にいた彼らに、復活のイエス様はお姿を現してくださいました。
イエス様は彼らと出会った時に行われた奇跡 ー 網を打つと魚がたくさんとれる ー を再現してくださいました。イエス様と彼らしか知らない特別な関わりが再現されたことで、彼らは目の前におられるのが復活されたイエス様だと気付いたのです。主が共においでくださる! イエス様と過ごしていた時に、彼らの心を満たしていた明るい希望が、再び弟子たちによみがえってきました。
この時の弟子たちの人数は7人でした。「七」という数は聖書では聖なる数で、全世界の教会を表すと言われています。イエス様は、聖書の言葉を通して、私たち教会に語りかけてくださいます。今、気落ちしているかもしれない方に。今、新しい生活や新しい挑戦に期待と共に不安を感じておられる方に。今、自分を襲った思いがけない苦難と戦っておられる方に。私が共にいるから、大丈夫、一緒に前へ進もう、と。
ご復活の主に導かれ、励まされて、今日も心を高く上げて進み行きましょう。
2018年4月1日 イースター(復活日)礼拝
説教題:主のご復活を信じる幸い
聖 書:詩編 117編1-2節、ヨハネによる福音書 20章19-29節
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いだ。」
(ヨハネによる福音書20章27b〜29節)
イエス様は復活された日の夕方に、弟子たちの前にお姿を現しました。この時、トマスだけがその場に居合わせませんでした。弟子たちがイエス様の復活を喜ぶ中で、彼だけは十字架に架けられた時の御手の傷・槍で刺し貫かれた脇腹の傷を、見て触らなければ、イエス様の復活を信じないと言い張りました。イエス様の復活は、全能の神さまのみわざです。トマスは主の無限の御力を、人間の小さな理性の枠の中に封じ込めようとしました。神さまは、私たちを愛してくださっているからこそ奇跡を起こしてくださいます。しかし、彼はそれを忘れ、超常現象としか見ようとしなかったのです。
八日後に、イエス様は再び現れ、今度はトマスも含めての弟子たちの真ん中に立ってくださいました。イエス様は、トマスにだけ特別に言葉をかけられました。それは、彼が神さまの愛を忘れてしまっていることをとがめる叱責ではありませんでした。彼にぴったりと寄り添う言葉でした。あなたがこの傷に指を突っ込んで確かめたいのなら、そうしなさい ー そこには、トマスを受け入れる赦しと慈しみが満ちていたのです。
それを聞いた時、トマスはハッと思い出しました。そうだった、この限りなく優しい方こそがイエス様だった ー 自分が慕っているイエス様は、今、まさしくよみがえられてここにおられるのだ。もう、見て触る必要などまったく感じずに、彼はイエス様との再会を心から喜び、イエス様を復活させてくださった神さまを讃えて、思わず叫びました。「わたしの主よ、わたしの神よ。」
信じるために目に見える証拠を願っていたトマスは、主の愛という目に見えないものを信じる信仰者に変えられました。見える物はいつかは消え去りますが、見えないものは永遠です。信仰者は、その永遠に抱かれる幸いをいただきます。今日も、御言葉を通して見えない主と出会い、幸いな歩みを続けましょう。