2006年9月24日
説教題:信仰から出る奉仕
聖書:コリントの信徒への手紙二 9章6-15節
【説教】
今日の聖書は、9章の小見出しに記されていますように、エルサレムの教会を援助する仲間に加わるように、と呼びかけているところです。
援助することは多くの場合、持てる人が、貧しくて困っている人に、持っている物の一部を分けて与える、と理解されています。困らない程度でいい、余っているもの、使わない物を援助に出してください、と呼びかけがされています。
しかし、パウロはコリントの信徒に「エルサレムの信徒のために」信仰による援助を呼びかけているのです。コリントの信徒も豊ではありませんでした。また、コリントの町にも貧しい人がいて、日々目にしていたでしょう。それなのに遠いエルサレムの会ったことのない人への援助を呼びかけているのです。これは唯貧しい人に援助すると言うのではなく、同じキリストを信じる者が、兄弟として一つの交わりにある、神の恵みを共有している者として援助すること、を勧めているのです。エルサレム教会の貧しさは、ユダヤ人からの迫害にあったのです。8章の初めを読むと、マケドニアの教会は極度の貧しさの中にあるのに、キリストを知らせてくれたエルサレムの教会が困難の中にあるというので、キリストの喜びに生かされているその喜びから、惜しみなく援助する豊かさを現した、とあります。この豊かさは経済的な豊かさではありません。豊な心が神から与えられた。その心の豊かさが「惜しみなく施す」ことになるのです。
9章1節の「奉仕」は、口語訳聖書では「援助」と訳されています。ですから、ここでの援助はお金のやり取りが中心ではありません。この援助は神にある奉仕であり、神にあっての交わりなのです。そして、この援助による交わりが多くの人を信仰的に奮い立たせる、ともいっています。
6節でこのことをわかって欲しい、とこの援助を種蒔きと刈入れにたとえています。種蒔きはいつも刈入れの収穫を手に出来るとは決まっていません。昔は収穫を手にすることが出来なかったことが現在よりも多かったでしょう。種蒔きは持てる物を手放し失うように思われたかも知れません。しかし、神を信じるとき、種蒔きは刈入れを信じ期待でき、惜しまずに手放すことが出来るのです。7-10節で、神は信頼して与える者に全ての必要なものを十分に与えてくださる、蒔いた種を増やし、慈しみの実を結ぶように成長させてくださる、と言い、12節では、信仰によって援助することは、損するどころか、神に感謝しないではいられなくなる、と言っています。そして、この援助を行うことによってエルサレムの教会は、自分たちの福音がコリントの教会にどのように信じられているかを知って、神を褒め称えるようになり、コリントの教会に与えられた神の恵みを見て慕い祈るようになる、と言っています。
信仰による援助は、主にある奉仕、交わり、分有で損失どころか、恵みを与えられることになるのです。神をあがめ、賛美する交わりになるのです。
2006年9月17日
説教題:キリストの福音に生きる
聖書:ガラテヤの信徒への手紙 1章1-10節
【説教】
パウロは、福音を知らない人に福音を伝えることを非常に大事なこととして「そのためにはどんなことでもする」と言っています。しかし、同時に、「他の人に宣教しておきながら自分が失格者になってしまう」ことのないように注意している、とも言っています。
今日の手紙は、「キリストの恵みへ招いてくださった方から、こんなにも早く離れて、他の福音に乗り換えようとしていることに、私はあきれ果てています」と書いています。「乗り換えようとしている」ので、未だ乗れ換えているのではないようです。しかし、人間は乗り換えてしまう弱さをもっているのです。「他の福音」とありますが、7節では「他の福音と言っても、もう一つ別の福音があるわけではない」と書いています。福音は、4節に要約されている、キリストの福音がただ一つあるだけです。「この悪の世」「私たちの罪」とはどうゆうことでしょうか。それは、神の愛と義の支配ではなく、自分中心の豊かさや自由、快楽を求める心です。昔も今も変わりないのです。人間の歴史はそれらを求めている歴史です。そして人間にはこの弱さがあるのです。
パウロは手紙なのに、4節で「あなた方のための」福音と書かないで、「私たちの」と書いています。パウロは、自分はこの福音に生きているのだ、との思いを新たにして、この私の思いをあなた方も知って、あなた方もこのキリストの福音に生きるように、と勧めているのです。パウロは、この手紙の書き出しで「人々からでもなく、人を通してでもなく、キリストと神によって使徒とされたパウロ」と書いています。ガラテヤの教会に、この世的な人間の権威や力が幅を利かせる動きがあったのでしょう。それで、私はキリストの福音立っている、と強調しているのです。
10節で「人に取り入ろうとしているのか、神に取り入ろうとしているのか」と書いているのは、パウロは人に取り入ろうとしているのだ、と言う人がいたのです。それで「もし今なお人の気に入ろうとしているなら、私はキリストの僕ではありません」、とかってそうであったとしても今は違うと言っているのです。「かって」と「今」はどこで変わったのか。13-16節のキリストを知った時とする人、また、ローマの手紙7章から肉の自分の弱さを知りキリストを見上げ福音の恵みに感嘆した時、この手紙を書いている今とする人もいます。
いずれであっても、パウロは自分の中にも、人間世界で人の気に入られ、自分が喜び満足する生き方を求める心があることを自覚しているのです。そのような自分のためにキリストがご自身を捧げてくださった、それによって私は今、人間の思いや欲が支配している世界から、神の恵みの支配に招き入れられている。それで、人にではなく、神に喜ばれようとして生きている、これが今の私だ、キリストの僕だ、と言っているのです。
福音が語られても、聞いて受け入れなくては、生かす力になりません。それで、人に入れられるように、福音が人の喜ぶ話に変わることがあるのです。ガラテヤの教会は福音を受け入れたのです。ですからパウロはキリストの福音に生きるように訴えているのです。
2006年9月10日
説教題:神に愛されている私たち
聖書:マルコによる福音書 12章28-31節 ホセア書 11章1-4
【説教】
今日の聖書で、学者たちがイエスに「掟の中でどれが一番ですか」と尋ねています。その質問にイエスは「第一の掟はこれである。『イスラエルよ聞け、あなたの神を愛しなさい。』第二の掟は『隣人を愛しなさい。』この二つにまさる掟はない」、と聖書に書いてある言葉を引用して答えられました。知らなかったら聞く。イエスに聞く。聖書に聞く。これが正しいことです。イエスは聖書を通して神に聞いています。この答えの掟が語っている『愛する』とはどのようなことなのでしょうか。やさしくする、大事にする、こころに思う、ということですね。
460年程前に、日本に初めてキリスト教が伝えられると直ぐ、日本人に分かるようにキリスト教の教えが日本語で書かれました。その時『愛』『愛する』という言葉は用いませんでした。当時の日本語の『愛する』が相応しくないと思ったのです。今でも、愛は好ましくない意味にも使われています。1592年に出たキリスト教の教理を教えている本“どちりな きりしたん”は、十戒を語った後で 「右此十ヶ条は、ただ二ヶ条に極まる也。一には、ただ御一体のでうすを万事にこえて御大切に敬ひ奉るべし。二には、我が身のごとく、ぽろしもを思へと云う事是也」 と書いています。「でうす」は「神」、「ぽろしも」は「隣人」です。「ただ御一体の」と言っているのは、この前の所で「三位一体の神」を語っているからです。ここで『愛する』を、『御大切に敬ひ』『我が身のごとく思へ』、と言う言葉で表しています。
「イスラエルよ、聞け」と言われた神は、イスラエルの民をご自分の「宝」として、「御大切に愛された」のです。だから、この私に聞き従え、と言っているのです。
ホセア書には、神がどのようにイスラエルの民を愛したか、御大切にしたか、が書いてあります。聖書はイスラエルの民のことを書いていますが、これは私たち全ての人間のことを語っているのです。私たちは、母の胎内にいる時から、創造主で支配者ある見えない神に御大切にされて、誕生し、育ってきたのです。神の愛、神の御大切に依って今の私たちがあるのです。聖書が教えてくれているのでそのことがはっきり分かるのです。ですから私たちは神を愛し、隣人を愛するのです。
聖書以外にも、色々な教えがあります。「悪い奴はやっつけろ」「お前は死んでしまえ」などテレビや漫画には色々な人間が出てきます。現実の世界にも色々な人間がいて、色々なことが云われています。そこで私たちは、イエスと一緒に聖書に何と書いてあるかを読んで、聖書の言葉を私たちが聞き従う言葉とするのです。テレビや漫画の言葉は忘れていいのです。しかし、聖書が語っていることは忘れてはいけないのです。
神は、私たちが生まれる前から、私たちを愛し、宝として御大切にしてくださっているのです。それで私たちは、神を愛し、神が宝として愛している隣人を愛するのです。これは聖書が語っていることなので、忘れてはいけないのです。
2006年9月3日
説教題:福音を受け入れているか
聖書:使徒言行録 13章44-5章2節 イザヤ書 5章1-7節
【説教】
平和を祈っている時に思わされることは、神の愛と義によるご支配の願いと、人間の利害と感情による力の支配である現実との差の大きさです。神のご支配は、ただの願いで、現実性はないのでしょうか。神は無力で歴史の中に実際には何も出来ないのでしょうか。
しかし、聖書は、神はイスラエルを選び、神の民として導き訓練して、この歴史の中に神のご支配を現す者にされた、といっています。イザヤ5章は、ぶどう畑の例えで神とイスラエルの関係を語っています。神は、良いぶどうを選んで、良い地に植え、良いぶどうが実るように必要な十分な準備を心込めて行いました。所が実ったのは、酸いぶどうでした。神はご自分の宝としてイスラエルを愛し心にかけて導き訓練したのです。それなのに実ったのは神の求めている実ではありませんでした。見栄えの良い立派な実で自分の存在を強く現している実であったかもしれません。神の基準ではなく、自分たちの基準で生き実を結んだのです。それで神は7節にあるようにイスラエルを捨てたのです。
神に捨てられた古いイスラエルに代わって、神は新しい民をイエス・キリストによって誕生させたのです。イエスは、この世的人間的な基準で見るなら、高く評価されない生涯を歩まれ、死にました。古いイスラエルが見栄えは良いが内実のない実を結んだのに対して、イエスは、神のご支配に従順で神の御心に添う生涯を歩み、死を迎えたのです。そのイエスによって、この歴史の中に神の愛と義のご支配が示され、福音の種が蒔かれたのです。そして、教会となって根付き、存在しているのです。新しい神の国が歴史の中に現実のものとなって示されているのです。
使徒言行録によると、パウロとバルナバは安息日に同じ会堂で3回続けて、神からの福音、イエスによって示された神の愛と義の支配が歴史に中に来たことを、語りました。町中の人が「主の言葉を聞こうとして集まって来た」のです。所が、それを見てユダヤ人たちはひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話に反対したのです。このユダヤ人は古いイスラエル人です。「自分は神から特別にすばらしいものを与えられているのだ」という誇りと優越感を持って、人を見下げているのです。ですから、イエスによって神の愛と義が罪人に与えられると言う福音が受け入れられないで、ののしっているのです。このユダヤ人も、古いイスラエル人も例外的な人間ではなく、私たちの中にいる人間なのです。
ユダヤ人たちからののしられ、話すことに反対される中で、パウロたちは勇敢に「神の言葉は先ずあなた方に語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見よ、私たちは異邦人に行く」といいました。自分の優越感を大事にすることによって、ユダヤ人は謙遜になれず神の言葉を聞くことが出来ないのです。それに対して、神の前に謙遜にならざるを得なかった異邦人は、神の福音を受け入れました。そして、キリスト者と教会が誕生し、福音を世界に伝えて行く存在になったのです。福音は、歴史の中に、光として既に確かに与えられているのです。
2006年8月27日
説教題:怒ったままでいるな
聖書:エフェソの信徒への手紙 4章25-31節
【説教】
子どもは自分中心です。その子どもに自分の人生、自分の世界に自分の責任で生きることがいいのだ、と言う人がいます。聞くべき人の声を聞けなくなって、直ぐ怒り、切れる子がいます。しかし、幼子は親の下で健全に生きるようになるのです。大人も、人間は神の前に謙遜になって、御言葉に聞き従うことによって正しく生きることが出来るのです。
パウロは、17節から19節で神を知らない人の生き方をするなと言い、20節以下であなたたちはキリストに学び、キリストに結び付けられているのではないか。と言っています。キリスト者は赤ん坊ではないのです。キリストに学んだ神の民、新しい人なのです。
25節で「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」と言っています。「うそ」を言うのも、「真実」を言わないのも自分を守るため、自分が損をしないためです。生存競争が激しいこの世で、自分で自分を守り、勝ち抜いて生きるためには、「うそ」も必要になるのです。しかし、自分の力によって生きていると言うのは、うそ、偽りなのです。私たちはキリストによって赦され、神の愛と恵みによって生かされているのです。このキリストのあるとき、私は弱く貧しい人間だけれど、神様から与えられている道を、神様が導き支えられて歩んでいるのです。このキリストにある真実が大切なのです。
「私たちは互いに体の一部なのです」という「私たち」は、キリストに学び、キリストに結びついている私たちです。この私たちは、キリストにあって一つの体である世に結び付けられているので、お互いにキリストにあって真実を語り合うのです。
次に「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません」と言っています。ここでは「怒るな」とは言っていません。怒らないではいられないことがあります。自分の意思を表すため、正しいことを知るために、怒ることも時に必要です。最近怒りからの殺人事件、放火事件が報じられています。戦争もテロも自爆も怒りの表現でしょう。しかし、「怒っても罪を犯すな」と言っているのです。「罪を犯すな」は、先ず相手を傷つけるなということです。そして「罪を犯す」のは、自分を神とし、自分を正しいとしてしまう、神を見失ってしまうことのです。「罪を犯すな」は、神を見失う、ということです。
「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」と言っています。私たちの怒りは、「未だ分かってくれない」と、いつまでも解決されないことが多いのです。しかし、怒りがいつまでも私の中に残っていてはいけないのです。神の前にその怒りを出すのです。神は、怒っている私のことを理解し、全てを導いて下さるのです。そのキリストの愛と神の真実を信じて、怒りを消し去るのです。祈り、礼拝する私たちには出来るのです。
キリストを見る時、私たちは自分自身が、神から怒りを持たれ、不従順な者であることを知るのです。その怒りの罰を受けるべき私たちのために、キリストが十字架についてくださり、私たちを愛に生きる者にして下さっているのです。ですから、私たちは怒ることがあっても、怒りに支配されていないで、愛に生きる者となれるのです。
2006年8月20日
説教題:キリスト者と家族
聖書:エフェソの信徒への手紙 5章21-6章4節
【説教】
夫と妻、子と親この関係が、私と他の人を知る基になっています。それは、ただ自分と他の人の性格や人物像を知ると言うだけでなく、自分と人の居場所、存在意味や役割を知ると言うことでもあります。自分の家、家族の中にいると落ち着く、アットホームな気持ちになるのです。自分の家や家族から離れているとホームシックに、精神的な病になるのです。そして子どもは家族の中で成長すると、親離れをし、新しい家庭をつくります。
この人間のあり方は、人間が子どもを生み育てるという社会ではどこでも変わりありません。しかし、家や家族のあり方は、時代や場所によって違うのです。エフェソの手紙はその時代と場所の家や家族を前提にして書かれています。23,24節で,夫が妻の頭である、だから妻は夫に仕えなさい、と言っているのは、当時の社会秩序をキリストにあって受け入れなさいといっているので、夫と妻が差別を作りなさいといっているのではありません。この21-33節で注目すべきことは、夫と妻が独立した個人として記され、「互いに仕え合いなさい」「愛し、敬いなさい」と勧めていることです。夫に「キリストが教会を愛したように妻を愛しなさい」と言っていますが、キリストが教会を愛したのは罪人を愛し受け入れたのです。ですから、ここでは夫は、従順な妻ではなく、不従順な背く妻を愛し受け入れなさい、と命じられているのです。「人は父母を離れて、その妻と結ばれ二人は一体となる」は、創世記の言葉を引用しているのですが、現実には結婚しても親と同じ住まいで生活するのが一般的だったのです。そのような家、家族の中にあっても、夫と妻はキリストにあって自律してお互いに仕え合って、新しい家庭をつくりなさい、と勧めているのです。
この勧めは現在の私たちにも語っているのです。私たちはキリストにあって責任を持って家庭をつくるのです。現代は世界的に家庭のあり方が混乱していますが、家庭が弱体化し崩壊することは人間形成が出来なくなることです。自分と人の区別が身につかなくなり、自分と人の居場所、役割が分からなくなり、親が親でなくなり、子が子でなくなるのです。現代は、家がアパート化し、家族の交わりが少ない。家族がいなくても、電化製品がありスーパーや自動販売機があるので、困らない。女の人は、賢母が模範でしたが、現在では女性も男に頼らないで生きるようになっている。共稼ぎをしている女性の中には、いつまで結婚生活が続くか分からないので、離婚した時に困らないよう仕事をしている、と言う人もいます。しかし、幼い時から、親がいなくても冷蔵庫がありゲームとお金があるから寂しくない、困らない、では人間形成が出来ません。社会形成も出来ません。結婚を必要としない、子どもは要らない、では社会や歴史が成り立たなくなります。
聖書は、夫も妻も、親も子も、各々自分の利害や感情で生きるのでなく、自分を愛するように家族を愛するように、またキリストにあって相手を受け入れ重んじて、一つになって生きるように、勧めています。家族によって、神の民は育てられ、真実の人間社会、神の国が形成されるからです。
2006年8月13日
説教題:主に従う道
聖書:申命記 10章12-22節 ヘブライ人への手紙 12章3-15節
【説教】
今日の聖書は、旧約、新約共に、私たちは神の民にされている、その恵みを覚えて、神の民に相応しくしっかり歩もう、と勧めています。
申命記は「今あなたの神が求めておられるのは何か。ただ、神を畏れてその道に従って歩み,主を愛し,心を尽くし,魂を尽くして神に仕えることではないか」と、新約は「気力を失ったり,疲れ果てたりしないで、主から与えられた道を歩みなさい」と言っています。
聖書がこの勧めをしているのは、神の民の中に、神の道を歩む気力を失っている人がいるからです。一度神の道を知ったら、喜びの歩みが続くというのではないのです。ヘブライの手紙は1-2節では、信仰生活を長距離の競争や駅伝に例えて、自分に定められた道を最後まで走り抜こう、と勧めています。4節では、信仰生活を罪との戦として、血を流すことのあるボクシングの戦いに例えています。3節は2節にも4節にも結び付けて読めます。この手紙は、迫害を受けて辛い信仰生活をしている教会宛に、書かれました。
「気力を失い、疲れ果てる」ことは、肉体的な弱さによることがあります。しかし、「もう嫌だ、止めた」と思うのは、孤独や目標を失うことによって、意味や張り合いがなくなることで、起きることがあるのです。勉強をする気がない、やる気が起きないのも空しく思うからでしょう。信仰生活にもそのことが起こるのです。
信仰生活で孤独になり、意味や張り合いを失うのは、主から目を離すことによって、仲間や目標が見えなくなって起こるのです。そこで聖書は、キリストに目を向けなさい、キリストをみなさい、と言っています。信仰生活はキリストに目を向けることによって始まり、立ち直って、続くのです。キリストが先立って導き、傍らにいて励まして下さっているのを知るのです。そして、仲間が一緒に走り、応援いることを知って、新しい気力を与えられ、疲れがどこかに行ってしまうのです。それが信仰生活なのです。
4節に「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」とありますが、ここで「だから血を流すまで戦え」と言っているのではありません。血を流すまで戦わなくても勝利の歩みをして来た、これからもキリストによって勝利の信仰生活を歩める。だから、自分は弱い、もうだめだ、と気力を失うな、疲れ果てたと言わないで、キリストに目を向けて勝利の歩みをしなさい、と言っているのです。
5節で「子どもに対するように、あなた方に話されている次の勧告を忘れています」と言っています。この「勧告」は「慰めの言葉」です。上からの命令ではなく、苦しく辛い状態にある人に慰めと励ましを与える言葉です。その勧告の内容は、父親がわが子に対する真実の愛を持って鍛錬する、その鍛錬を子どもが軽んじないように、あなた方も父なる神の鍛錬を重んじよう、ということです。聖書は、私は上を望まないこのままでいい、という信徒に、それではいけない、と言っているのです。
信仰生活は、主に導き支えられて、与えられた栄光への道を歩む生活です。
2006年8月6日
説教題:キリストは私たちの平和
聖書:イザヤ書 11章1-10節 エフェソの信徒への手紙 2章14-22節
【説教】
今日は広島に原子爆弾が投下された記念の日で、8月は日本の終戦記念の月です。現在イスラエルが連日爆撃して、多くの人が死に傷つき、家や道路、生活の必要な施設が破壊されています。イラク、アフガンも平安とは言えない状態です。人間の知恵や力では平和がつくれない現実を見せつけられています。アメリカもイスラエルも、好んで戦いをしているのではない、悪を無力にして、危険や不安のない永続的する平和のために、仕方なく必要な戦いをしているのだ、と公言しています。しかし、何が悪で、何が正義か、悪を徹底的に無力にする考えが正しいか。親子の間でも正悪を決めるのは難しく、力による支配は却って問題を起こすのではないでしょうか。
今日の聖書を書いているパウロは、以前は、神の律法を守っている自分たちイスラエル人は義人だと考えて、律法を守れない罪人もキリストによって罪赦されて義とされると告げるキリスト者を悪と見、教会とキリスト者を迫害したのです。しかし、キリスト者になると、それまで考えていた律法を守っている人が義人で、律法を知らない人や守れない人は罪人だという考えは間違えていた、と知ったのです。そのように自分中心の人間の考えで義と悪を決めて、その基準によって裁き戦うのでは何の平和ももたらさないのです。真の平和は、人間の手にあるのではなく、神の手にあるのです。神を真実に知ることによって、義を知り、悪と罪を知るのです。そして、自分中心の一時的な平和ではなく、神にある真の義と平和に生きる希望を自分のものにできるのです。
14節で「キリストは私たちの平和です」と言っています。平和とは何か。平和は神と一つになることです。平和は、神の義と一つになり、神と一つになることです。14節に「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」とあります。「二つのもの」と分かれているのは、何よりも神と人間です。神の義と、人間が自分で主張している義、この二つを一つにするにはどうしたらよいか。肉の人間の中にある「敵意」は結局神に対する敵意なのです。神と対等に自分を置く、そして神をも他人をも裁く。その罪「敵意」をキリストは十字架によって取り去り、神との間に平和を得たのです。
キリストにある平和に依って「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」とあります。人間社会は規則や戒律によって秩序を守ろうとします。しかし、そこには規則を決めた一方的な力による主張があり、弱く小さな者を死に追いやる自分を義として神を神としない人間が生まれるのです。律法や規則によって人間の罪が力と姿を現すのです。秩序や平和は律法や力にあるのではないのです。キリストにあるのです。15,16節にあるように、キリストが律法を廃棄し、又十字架によって神と和解させ、敵意を滅ぼして新しい人を造って平和を実現するのです。キリストが来る前には存在しなかった新しい人間が誕生したことによる平和です。17節以下にあるように、この新しい人によって建っている教会の存在は、そのキリストにある平和がこの歴史に中に実現していることを現しているのです。
2006年7月30日
説教題:神に仕える者の恵み
聖書:サムエル記上 17章31-47節 コリントの信徒への手紙二 6章1-10節
【説教】
今イスラエルがレバノン領土を激しく爆撃しています。キリスト者は、新しい神の民新しいイスラエルと言われています。現在のイスラエルは古いイスラエルです。私たちとどこが同じで、どこが違うのでしょうか。私たちも現在のイスラエル人も同じ旧約聖書を読んでいますが、イスラエル人はイエス・キリストによる救いを信じていないのです。
イスラエル人は、自分たちは神に選ばれた神の民で神が共にいる、だから戦いに勝利し神の栄光を現す、と信じているのです。それで、ダビデとゴリアテの戦いはダビデが武力で勝利した、現在も武力で勝利できる、と爆撃しているのでしょう。しかし私たちは、キリストによって、自分の知恵や力を誇る罪から解放され、全ての民が等しく神の恵みによって生かされていることを知っているのです。ですからダビデも武力によるのではなく、神を信じる信仰と恵みによって勝利を与えられたと理解するのです。
コリント6章3節の「この奉仕の努め」は、4章1節の「この務め」からつながっています。「私はこの務めを委ねられているので落胆しません」と言っています。非常に消極的で敗北を覚悟しているようです。伝道者は、自分の働きの勝利が見えないで落胆し、自分には伝道だけでなくキリスト者の生活を続けるのも無理だ、と思うことがあるのです。そこで思うのは、自分は土の器だ、ということです。そして、土の器である私を通して十字架と復活の神の命が現れるのだ、ということを知るのです。
そして6章1節で「神からいただいている恵みを無駄にしてはいけません」と言うのです。「恵み」は自分が神に愛され十字架によって罪赦されて生かされていることです。「無駄にする」とはそこから何の益も生じないことです。無駄にしないとは、その恵みが現れる生き方をすると言うことです。3,4節「私たちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に、神によって仕える者としてその実を示しています」となるのです。
この世の人は、神に仕える者はその主人である神を示す立派な姿や力の人を思うのではないでしょうか。しかし、キリスト者は、十字架の恵みによって生かされていることを示すのです。4,5節に記されている姿は敗北者の姿を思わせますが、6,7節で「神の力によって」神の純真、慣用、親切、愛を現している、と確信をもって言っています。
新しい神の民は、十字架のキリストによって生かされているので、肉の自分を誇り頼りにしていた、古い神の民とは違うのです。教会は初めの時から巨大な人物はいませんでした。少年ダビデのような、この世的には弱く小さく戦いに役立つような武器も持たないキリスト者によって、福音は広がり、教会が建てられて行ったのです。キリスト者の信仰生活は、この世的には評価されるところは何もないかもしれません。しかし、私たちは神の恵みによって、罪赦され神の愛をいただいて、神の御用に仕える者にされているのです。ですから、この世に向って力強くキリスト者であることを示し、キリスト者である誇りと喜びを持って生きるのです。
2006年7月23日
説教題:神の家での生活
聖書:列王記上 10章1-13節 テモテへの手紙一 3章14-16節
【説教】
パウロは、「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたい」、と書いています。私たちは一人で生きているのではありません。神の家の一員として生きているのです。
「神の家とは、真理の柱であり、土台である生ける神の教会です」と説明しています。教会と言うと、薬円台教会の建物やここで礼拝をしている群れを第一に思うかもしれませんが、私たちは神の教会に属しているのです。そこに私たちの存在と生き方があることを自覚していることが大切なことです。この世の人たちに教会を知ってもらいたい時、薬円台教会を知ってもらいたいと思うよりも、神の教会を知ってもらいたいと思うでしょう。それで、「どこの教会でもいいから教会に行きなさい。近くの教会に行ったらいいですよ」と勧め、「2時間かけてでも薬円台教会にいらっしゃい」とは言わないでしょう。
神の教会は人間を本当の意味で、自由で豊かに生存させ、平和な生活をさせてくれるのです。なぜそのように言えるのか。それは人間の真理ではなく、神の真理を柱とし土台としている「生ける神の教会」だからです。柱や土台は外からは見えませんが、それが確かであることによってどんな嵐や地震に遭っても倒れないのです。教会は、この世の歴史の中で嵐や地震に遭って来たのですが堅く立ち続けているのです。キリスト者一人一人の存在も生き方も、教会に依り頼んでいたら、倒れて命を失うということはないのです。
「神の家でどのように生活すべきか」と言う問題提示には、「このような組織や秩序で、このように事を決め守ったらいい」、という見える教会のあり方に関する答えを期待するかと思います。所がパウロは、具体的な見える教会生活については一言も触れないで、教会の真理の柱と土台に目を向けて歩むように勧めているのです。その神の真理は16節に頌栄の形で語られています。神の子がキリスト、救い主として肉になって地上に現れ、十字架と復活によって義とされ、天に上げられた。このキリストとその御業が、キリスト者が目を向けるべき、神の真理なのです。神の意思と御業によって、私たちは教会に結び付けられて存在し歩んでいるのです。そして、この神の真理が世界に宣べ伝えられ、信じられているのです。この真理によって世界の人は自由で平和に生きることができるのです。
旧約は、ソロモンの所にシェバの女王が訪ねてきたことを記しています。当時ソロモンは栄華を極めていました。しかしイエスは、その栄華も野の花の一つほどにも着飾っていない、と語っています。ソロモンの知恵は、列王記上3章に記されていますが、神が「願うものは何でも与える」と言われた時「私はどのように振舞うべきかしりません」と言って与えられた神の知恵です。イエスは、その知恵を聞くために女王が謙遜になって遠くから訪ねて来たと語って、ここにソロモン以上の者がいる、とパリサイ人に告げています。謙遜になってイエスに聞く、そのことが私たちを正しい道に歩ませるのです。
地上の見える世界は争いが絶えず、嵐や地震はなくならない、どこに救いがあるのか絶望的な現実であっても、神の救いはすでに果たされ、神の家は堅く建っているのです。
2006年7月16日
説教題:パン種の力を知れ
聖書:ガラテヤの信徒への手紙 5章2-12節
【説教】
パン種は、練った粉全体を膨らます力があります。そのパン種を聖書は、良い力にも、悪い力にも譬えて語っています。
今日の聖書では、パン種が悪い力を持っている。そのパン種が教会の中に入っている。そのパン種が教会全体に広がらないように注意しろ、と語っています。
ガラテヤの教会に入ってきたパン種は何か。2節以下に言われている、割礼を受けよ、律法の良いことは行え、という考えです。その考えに対して、パウロは1節「私は断言します」、2節「もう一度はっきり言います」と強く「否」と言っています。割礼を受け律法を守って神の民にされると言う考えはキリストによって神の民にされると言うのと相容れないことです。4節「律法によって義とされようとするなら、キリストとは縁もゆかりもまい者とされ、いただいた恵みも失います」、6節「キリストに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰が大切です」、と言っています。
キリスト者になってもなぜ割礼や律法が忘れられないのか。それは私たち人間の中に、神の民であるしるし、安心感を得るもの、自分はこれを行っているという手応えになるものを求めるものがあるからではないかと思います。パウロは、3章で十字架につけられたキリストを語り、キリストによってガラテヤの教会が建てられたことを語って来ました。7節では、色々な問題があったけれどよく信仰生活を走ってきた、と喜んでいます。しかし、律法を行おうというパン種が入ってきたのでパウロは心配でならないのです。それはパン種の力と、教会にパン種を宿し成長させる要素がと思うからです。教会の中にも、神の民とされているしるし、安心感、手応えが欲しいと思っている人がいるのです。
11節でパウロは、自分がキリストを知る前は律法を行いそのことを誇って教会を迫害していた、しかし今はユダヤ人の会堂でキリストの十字架による救いを語っているのでユダヤ人から迫害を受けている、と自分の信仰の経歴を語っています。なぜユダヤ人がキリスト者を迫害するのか。それはユダヤ人の誇りを、罪とし有害なもの、と語るからです。
6節は、「愛の実践を伴う信仰こそ大切」をどう訳すかが教会では問題にされています。カトリック教会は「愛の実践を伴う」に重点をおいて読みました。それに対して福音主義教会は「信仰こそ大切」と読んでいます。私はこれだけ愛の実践をしている、ということが大切なのではなく、愛の実践が出来ない罪人の私もキリストの十字架の恵みによって救われている、という信仰が大切なのだと読むのです。ルターは「結局のところ教会は、もしも福音を純粋に教えようとするなら、迫害を受けねばならない」と言っています。律法や自分の行いを誇る罪の古いパン種は十字架によって全て捨て去るべきなのです。
新しいパン種である福音、神の国の力はそれ自身生命力と成長力があって、福音を広げ、愛の業による光を放つのです。私たちは、その新しいパン種の力を信じ、私たちの内に受け入れ、心と生活とが一体になって歩んでいきたいと思います。
2006年7月9日
説教題:神のご計画と神のみ業
聖書:エステル記 4章10-17節 使徒言行録 13章13-25節
【説教】
「人間生きることが大事だ」と言っても、子どもから大人になる時考えて分からなくなって、事件を起こす17の問題、中高生の家族殺害問題などがあり、自殺する人が日本で毎年3万人以上いると報じられています。なぜ生きなければいけないのか分からない、親も自分が自由に生きる妨げをしている敵に見える、という人が現実にいるのです。このような肉の現実の世界で何が一番大事で必要なのでしょうか。
教会は、神を知り、自分を知ることが、最も大事なことで必要なことだ、と語ってきています。神を知ることが知恵の初めなのです。神を知って、初めて自分を正しく知ることが出来、世界と歴史と周囲の人々と共に生かされている意味を知ることが出来るのです。
今日の聖書に、パウロたちは安息日に会堂に入って席についた、とあります。安息日に会堂で礼拝が行われているのです。この世の仕事、家庭の事、自分の計画を全て一時休んで神の前に集まって礼拝するのです。皆が神の前で心を一つにしている、その礼拝で聖書が朗読されました。その後、パウロたちに「励ましの言葉を話してほしい」と依頼がありました。そこでパウロは、「神が私たちの先祖を選び出した」と、遥か昔から私たちは神のご計画と恵みの選びのみ業の下に存在し、歩んできているのだと、語り出しました。
私たちは、自分中心になって、自分の見るところで考え判断してしまいます。神も、自分のみるところだけで、神はいる、いない、と決め付けてしまうのです。そのように自分中心の人間に、教会は神と自分を正しく知る問いを持っています。「生きている時も、死ぬ時も、あなたの唯一の慰めは何ですか」。死が迫って来る時にも慰めを与え、光と希望を与えるのは何ですか、と言う問いです。教会はその問いに「それは、この私が私のものではなく、神のものだ、キリストのものだ、と知ることです」と答えています。
パウロは、聖書に登場している民は私を含んでいる、私は神のものだ、と言っているのです。23節で「神は約束に従って、このダビデの子孫から救い主イエスを送ってくださったのです」と言っています。しかし現実の深刻さから、神は私たちが救いを求めている現実をご存知だろうか、肉の世界を神がどう思われているか、と疑問をもってしまいます。その時聖書は、神はご計画の中で救い主を約束し用意していて、救い主イエスを神のみ業の中で与えてくださっている、と語っているのです。救い主を通して神のご計画とみ業を見直すと、悲惨な事件や自殺の責任は、神を知り自分を知ることをしないで、神に背を向けて歩んでいる人間の世界、罪の世界にあることを知らされます。イエスはその罪のためにご自身を十字架に捧げられたのです。十字架から、私たちは神の愛と恵みのご計画、み業を知るのです。そのなかに私たちの存在と人生があることを知るのです。
エステルも、自分の快楽に満足することが自分の生きている意味でも目的でもない、神にあって今ここに生かされている意味を知って誠実に歩むことが大事なのだ、と知りました。その意味ある存在と歩みを神が助けてくださる、と聖書は記していりのです。
2006年7月2日
説教題:聖霊が導く教会の歩み
聖書:使徒言行録 13章1-12節
【説教】
3章1節に、5人の名前が記されていますが、この5人はユダヤ人であっても、ユダヤの地で生まれ育ったのではありません。この人たちは、ヘレニストと考えられます。
ヘレニストとは当時の国際人です。イエスが生まれ、教会が誕生した時代を、一般にヘレニズムの時代と言います。イエスが誕生する333年前にアレクサンドロス大王がペルシャ王を破り、ギリシャ文化を広げました。旧約聖書もギリシャ語に訳されました。イエスが生まれる63年まえには、ローマがエルサレムを占領し属州の一部しました。ギリシャもポリスの都市国家が崩れ、国境は無力になり、国民性やその時までの共同体は崩壊したのです。世界主義、国際化の時代になり、個人は主体性をもって自由に生きる時代になりました。しかし、新しい人間の生き方、社会や秩序のあり方は確立していませんでした。
その時代に神は、イエスを救い主として与え、教会を誕生させたのです。イエスはギリシャ語に訳された旧約聖書を引用されています。律法学者たちがユダヤ人であることを強調し伝承的解釈に固執するのに対して、イエスは神にあって自由に解釈されました。今日の9節でサウロから呼び名が変わったパウロも、それまで自分はイスラエルに属しヘブル人の中のへブル人ですと誇っていっていたのに、イエスを知り教会共同体の一員になると、それらをキリストの故に損とみるようになったのです。そして、キリストに結ばれているならユダヤ人もギリシャ人もない、とも言っています。
教会は、唯救われた個人が集まっている群れではありません。イエスの十字架によって新しい命を与えられて、イエスの十字架を出発点としイエスの再臨を望み見ながら生きている共同体です。この教会の時代を、キリストの時、中間の時、聖霊の時とも言います。
13章2節によると、彼らが礼拝し祈っているとき、「バルナバとサウロを神のために選び出して神の仕事に当たらせるように」、と聖霊が告げるのを聞きました。教会は、自分の考えで歩むのではありません。聖霊によって建てられ、導かれ、歩むのです。アンテイオケアの教会は、自分たちだけの教会に固執しないで、二人の上に手を置いて、全てを神の手に委ねて伝道に出発させました。4節にあるように「聖霊によって送り出した」のです。
二人はキプロス島の会堂で神の言葉を告げ、総督のいるパフォスまで来ました。総督は二人を招いて神の言葉を聞こうとしました。その時、総督と交際していた魔術師エミマが総督をこの教えから遠ざけようとしたのです。自分の地位と利益が脅かされることを恐れてだと思われます。自分が安住している自分中心の世界と歴史に生きようとしていたのです。サウロは聖霊に満たされて彼を厳しく叱責しました。するとパウロが告げた通りになりなした。ローマの総督は、この出来事を見、また主の教えを聞いて信仰に入りました。聖霊は教会の中だけではなくこの世にも働いているのです。
現代もヘレニズムの時代と同じように変動の時代です。この世界の中に神は教会を建て、新しい人間の生き方と社会のあり方を、聖霊によって語り、示しているのです。
2006年6月25日
説教題:悪霊と神の霊の戦い
聖書:サムエル上 16章14-23節 使徒言行録 16章16-24節
【説教】
今日の聖書は、5章36節から始まったパウロの第二伝道の一部です。パウロは、第一伝道で蒔いた種がどうなっているか見に行こう、とバルナバに相談しました。伝道に行くことで一致したのですが、マルコのことで二人の意見が激しく衝突しました。教会の中で意見の衝突が起こっているのです。結局二人は別行動をとることになりました。この衝突と別行動に悪霊と神の霊の戦いがある、と言う人がいるかも知れません。しかし聖書は、いずれをも悪霊と言わず、聖霊に導かれて歩んだと言っています。
パウロはシラスを連れて出発しました。そして、フィリピの町に来ました。16節に「祈りの場所」とあります。ユダヤ人が少ないので会堂がなく、祈りの場所で集会をしていたのです。パウロが神の救いの話をするために祈りの場所に行く途中、占いの霊に取り付かれている女がパウロたちの後について来て、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を述べ伝えているのです」、と繰り返し叫んだのです。
パウロは、この女がついて来るのは神の救いを伝えるのに有害だ排除すべきだと思ったので、叫んでいる霊を「イエス・キリストの名によって」その女から追い出しました。キリストの名によって追い出されたのは、その霊がキリストと共に歩む霊ではなかった、悪霊だということです。しかし、その霊によって彼女は特別な占いの力を持っていました。現代でも占いに頼る人がいます。悪霊は偽りの霊です。悪霊、偽りの霊との戦いは、昔の時代だけではなく、現代のことでもあるのです。
この女には主人がいて、彼女から占いの礼金や利益を得ていました。その利益が得られなくなった主人たちは、パウロとシラスを広場に引き立て高官に引き渡しました。「この者たちはユダヤ人で、私たちの町を混乱させています」と言うのがその理由にされました。この理由は広場の群集も高官も受け入れました。当時ユダヤ人は、ギリシャ人やローマ人からこのように見られていたのです。この訴えを聞いて、町の役人は調べることをしないで、服をはぎ取り鞭打って牢に入れました。これは当時でも不当な扱いです。その上パウロはローマの市民権を持っていました。しかし二人は正当な権利の主張をしませんでした。たとえ二人が正当な訴えをしても群衆の声で聞かれなかったかもしれません。
この世の自分中心の力、人間の集団の力も悪霊に支配されることがあります。悪霊と戦うのは自分の力、人間の力ではなく神の力が必要です。二人は神を信じ、神が共にいて支え守ってくださることを信じて戦って以下のです。それで二人は牢に入れられても賛美歌を歌い祈ったのです。この25節を読むと、24節までのひどい扱いを受けているときにも、二人は闇の中で絶望に嘆いていたのではなく、神を信じ、救いを確信して悪霊と戦っていたと思います。そのような実体験を戦時中にしたと宣教師から聞いたことがあります。
この世で生きている限り悪霊と戦わなければならないことが起こります。その時私たちは主が共にいてくださることを信じて、神の勝利を確信して戦い抜きたいと思います。
2006年6月18日
説教題:神の従って語る教会
聖書:歴代誌下 15章1-8節 使徒言行録 4章13-31節
【説教】
ペンテコステの日に聖霊を与えられることによって、弟子たちにどのように変わったか。その一つの姿が今日の聖書に記されています。
弟子たちは、十字架を前に逃げて散って行きました。イエスが復活した後も、家の戸を閉め、鍵を掛けていました。人々やこの世の力を恐れていたのです。
所が今日の聖書では、ペテロとヨハネは大胆な態度で語るべきことを語っています。この二人は、イエスの死と復活を民衆に教えていたので、神殿の守衛長たちに捕らえられ牢に入れられ、その次の日に集められた議員たちの真ん中にたたされて、「お前たちは何の権威、誰の名によってああいうことをしたのか」と尋問されていたのです。そこで大胆な態度をとったのです。十字架の前、女中の一言に狼狽たペトロとは別人になっています。
それは4章8節に記されているように「ペトロは聖霊に満たされた」からです。イエスは人間によって殺されたのではない。人間のユダヤ人やローマ人の手によって殺されたけれども、イエスは神からのメシアとして私たちの罪のために死なれたのだ。「私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほかにない」とペトロは聖霊によって知らされ、確信を持って大胆に語ったのです。私たちは自分が誰に属し、何によって生かされているか、を知ることによって、狼狽する者になったり、大胆になったりするのです。
議員たちは二人が無学な普通の人であることを知って驚いた、と書いてあります。議員たちは、自分たち民の指導者たちに囲まれているのに、二人が大胆な態度をとっているのに驚きました。二人が「イエスと一緒にいた者であると」分かって、イエスと同じ罪びと扱いも出来ると思ったでしょう。しかし、イエスの名によって足を癒された人がそこにいたので、議員たちは相談した上で、二人に「今後あの名によって誰にも話すなと脅しておく」ことにしました。議員たちは自分たちのこの命令は二人に聞かれ、守られると思ったでしょう。しかし、二人は「神の従わないであなたたちに従うことが、神の前に正しいかどうか考えてください」、と反論したのです。あなたたちは神の前に正しくない、と暗に言って、たとえ議員の命令でも神の意思でないものには従えない、と言っているのです。議員たちは驚いたでしょう。しかし、自分たちが神の意思に従っているか反省することなく、彼らは、自分たちの立場と権威で「二人を更に脅して」、釈放しました。
二人が釈放されると、二人に注目していた人たちが、神を賛美しました。二人はイエスを信じる仲間のところに行き、今までのことを報告しました。その報告を聞いた人たちは心を一つにし、一斉にかみに祈りました。「主よ、今こそ彼らの脅しに目をとめあなたの僕たちが思い切って大胆に見言葉を語ることが出来るようにしてください」、と祈りました。この祈りは、救いの言葉を語る使命が自分たちに与えられていることを示しています。弟子たちと教会は、祈りによって聖霊が与えられ、聖霊に満たされて歩んだのです。
聖霊を与えられた弟子たちは、神に従って歩むと共に、神の言葉を大胆に語ったのです。
2006年6月11日
説教題:神の子とする霊が導く
聖書:申命記 6章4-9節 ローマの信徒への手紙 8章12-17節
【説教】
12節は「それで」という言葉で始まっています。「それで」は、8章1-11節、キリストに結ばれている者は肉の人から霊の人になった、と言っていることを指しています。
パウロは、7章で、神から与えられた律法が「むさぼるな」といっていることによって「むさぼり」が罪であることを知った。しかし、肉の人間である自分には、「むさぼり」を正しいとする罪の法則があって、その法則によって自分は「むさぼって」いる。パウロは「私は何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から誰が私を救ってくれるでしょうか」と自分に絶望し嘆いていますが、救いを求めています。そして、神を見上げ罪の法則に支配されていた肉の自分を、キリストが救って下さったことを知ったのです。8章1節で「今やキリストに結ばれている者は罪に定められない、神から罪の宣告を受けない、罪の法則から解放されているからだ」、と喜びの叫びのように語っています。8章2節では「霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放した」といって、この手紙を読んでいるあなたも私と同じ喜びを味わっているでしょう、と言っています。
12節はその喜びの叫びを受けて、「それで」私たちには一つの義務があります。と語り出しています。「それは肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」。肉に生きるなら「むさぼり」は良いことです。しかし、神の国では死ぬべきものです。13節「しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」と言っています。口語訳聖書は「霊にとって体の働きを殺すなら」と訳しています。「体の仕業」「体の働き」は、習慣的に自然に体が動いてしまうことです。むさぼりに体が動いてしまうのです。教育も社会も、積極的意欲的に自分を生かすこと、強く大きくなることを良い事としています。ですから人間社会ではむさぼりに向かう体になっているのです。「絶つ」「殺す」は、意図的に能動的に行う事です。むさぼりに向かう肉に支配されている体を、霊によって絶つのです。
神の霊は、御子を十字架におくって下さった神の愛です。子育ても家庭も社会も、お互いに愛によって、肉の自分のむさぼりを絶つこと、犠牲にすることが、必要ではないでしょうか。現代は評価されませんが、この愛によって自分を犠牲とすることが貴い事です。
14節「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」。神の霊に導かれる者は肉の支配を絶つのです。神の霊に支配され、霊に導かれて歩むのです。そのように存在して歩めるのは神の子だからです。神が、私たちを子として受け入れ、歩まして下さるのです。
15節「あなたがたは、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私たちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。これは、私たちが、キリストによって肉の支配から完全に解放されて、神の子にされ、神の霊に支配され導かれていることを言っています。
私たちを神の子にして下さった霊が、神の子として生きる命と愛と力を私たちに与えて下さり、私たちを神の法則に生き、歩むものとして下さるのです。
2006年6月4日
説教題:一同は聖霊に満たされた
聖書:ヨシュア記 1章1-9節 使徒言行録 2章1-13節
【説教】
今日はペンテコステと呼ばれている主日です。イエス・キリストが十字架で死に復活された年のこの日、イエスを信じて祈っていた人たちに天から聖霊が与えられました。外にいた人にも分かるような出来事が起こったのです。その出来事は、直ぐその場でペトロが説明していますように、信じて祈っていた人々を新しい人に変える出来事だったのです。
この出来事によって「一同は聖霊に満たされた」のです。心も体も聖霊の支配の下に生きる者にされたのです。ここにキリスト者と教会が誕生したのです。
聖霊の人は「聖霊がかたらせるままに」話し出しました。それは神の偉大な業の話でした。ペトロはこの出来事は、神が預言者ヨエルに約束した神の霊が与えられたのだ、それで若者は幻を見て語り、老人は夢を見て語っているのだ、その幻と夢は主の名を呼ぶものは皆救われると言うことだ、と説明しています。幻や夢は、幻想やはかない夢とは違います、ヴィジョン、目標、目的地です。私たちの歩みを今あるものにする神による救いです。
現代人は人間の知恵と力で生きているので、目先の事だけを考え、希望を持てずに、その日暮らしの生活をしているのではないでしょうか。しかし、神様が世界をお造りになって完成される、その中に私たちを歩ませて下さっている。そのことを聖霊によって知らされ、聖霊に導かれて歩む時、私たちは神の偉大な業、この歴史の栄光ある完成の幻と夢を見て、希望を持って生きることが出来るのです。キリスト者と教会は、この日から人間の知恵や力によってではなく、聖霊に力と導きによって歩み、語っているのです。
ヨシュア記で、神はヨシュアに「私の僕モーセは死んだ。今あなたはこの民と共にヨルダン川を渡り、私が与えようとしている土地に行きなさい」と言っています。モーセは死んだ。この民イスラエルは問題のある民だ。この民をまとめて先住民のいる土地に入って行くことは、私には出来ない、とヨシュアは思ったでしょう。しかし神はヨシュアに、「世界と歴史に主である私が土地をあなたに与える、強く雄雄しくあれ、私はモーセと共にいたようにあなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」と告げました。ヨシュアに自分を強くしろ、知恵を出せ経験を生かせ、人人を組織化して上手に使え、と言っていません。人間に頼るのではなく、神を信じて神の示す道を歩め、と言っているのです。
このヨシュアに語った神の言葉がキリストを信じている者にも与えられているのです。言葉が与えられるだけでなく、聖霊なる神が、キリストを信じている者たちにいつも共にいて下さるのです。教会は聖霊なる神が宿っているところなのです。
この日、ペトロの話を聞いて自分の罪を知った人が「自分たちはどうしたらいいでしょうか」と訊ねました。ペトロは「悔い改めなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます」と告げました。聖霊を受け,聖霊が働くためには、神の前に謙遜になることが必要です。人間の知恵と力で十分だという思いを捨てて神を信じて祈る時、神は聖霊を今も与えて下さるのです。聖霊に満たされる時、私たちは希望と喜びをもって生きることが出来るのです。
2006年5月28日
説教題:大祭司の祈り
聖書:イザヤ書 45章1-7節 ヨハネによる福音書 17章1-13節
【説教】
祭司は、神と人間の橋になる存在で、橋の務め仲立ちの働きをします。大祭司は、神の民全体の橋で、民全体のための仲立ちをするのです。橋は両側にしっかりとした足場がなくてはその役を果たせません。イエスは神と人間の両側に足場を持っているお方です。
そのイエスが十字架を前にして神に語りかけています。イエスは弟子たちに聞こえるように神に祈っているのです。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」と、天の神を父と呼んで、十字架の死が敗北ではなく、神とイエスの栄光を現ように祈っているのです。神の栄光は、神の救いです。それは2節の「子はあなたから委ねられた人すべてに、永遠の命を与えることができる」、と言う救いです。神の子イエスが、大祭司としての存在と働きを神から与えられたので、十字架に死ぬことによって、全ての人の罪を贖い、委ねられた人を清めて交わりに与らせ下さい、と父なる神の祈っているのです。このイエスの祈りが聞かれたのです。
イエスは、神の子ですから神と人間の橋のなり、橋の務めをするのに十分な資格を持っています。しかし、祭司は、民の罪を贖うために犠牲の捧げものを神に捧げなければなりません。イエスは,ご自身を「世の罪を取り除く神の子羊」(1:29)として十字架に捧げたのです。その捧げものを神は受入れました。それによって、救いの業は完全に成し遂げられたのです。17章4,5節「私は、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げ、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前で私に栄光を与えてください」の祈りが聞かれ、罪人である私たちが神と交われる者とされたのです。神の民、神の命に与る者とされたのです。地上でなすべきことを成し遂げられたイエスは、今天に昇り、神の右にいます。
6-8節でイエスは、イエス・キリストを知った者はイエスの手の中にあり、イエスにあって神の栄光を現す者である、と言っています。9節からは、「彼らのためにお願いします」とそのイエス・キリストを信じる者のために執り成しの祈りをしています。このキリストは、今も神の右にいて私たちのために執り成しの祈りをして下さっているのです。キリストが祈った内容は、11-12節の、彼らは世に残るので守って下さい、私が世にいる間は私が守りました、ということです。イエスは、弟子たちが主を見失わないように,守ったのです。「私は道であり、命である。私を通らなければ父の許に行く事は出来ない」と言って守ったのです。イエスは父の許に行きますが、弟子たちはこの罪の闇の夜に残されるのです。弟子たちが、この世で闇の力に支配されないで、勝利するように祈っているのです。13節では、終わりの時に、キリストと再会出来て、よく勝利したと喜びに溢れることが出来るために、今まで語り、今弟子たちに聞こえるように祈っている、と言っています。
私たちもイエス・キリストの大祭司としての働きと、十字架の犠牲によって、神の民とされているのです。そして、キリストは今も、私たちがこの歴史の中で最後まで神の子の歩みをし、託されている使命を果たすために祈って下さっているのです。
2006年5月21日
説教題:悲しみが喜びに変わる
聖書:創世記 18章23-33節 ヨハネによる福音書 16章12-24節
【説教】
ヨハネの福音書が書かれた時は、キリスト者がユダヤ人の会堂から追い出されローマ帝国からも迫害を受けている時でした。その状況の中でキリスト者たちは救いの言葉を切に求めていました。この福音書はそのキリスト者に対して書かれたのです。
12節の「言っておきたいことは、まだ沢山あるが、今あなた方には理解できない」は、十字架に架けられる前に弟子たちと最後の食事をした後、イエスが弟子たちに語った言葉です。イエスは本当に言っておきたい事が沢山あったでしょう。しかし理解できない事を語っても無意味であるだけでなく、混乱を与え誤解を与えて、かえって悪い結果が生じる恐れがあります。「今は理解できない」いつ理解出来るようになるのでしょうか。イエスは特に何を言っておきたいのでしょうか。
13節で「その方、すなわち、真理の御霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる」と言っています。真理の御霊が来て、その御霊に導かれる時に分かるようになるのです。それは、神の真理です。なぜ神の子イエスが十字架に架けられるのか、キリスト者が迫害されるのか、なぜ世界がこんな闇なのか、疑問に思う事が沢山あります。その疑問に対する応えは、人間が学問研究して分かるのではなく、神から真理の御霊が与えられその御霊に導かれる事によって理解できるようになるのです。神のなさることは、神から教えていただく外ないのです。
13章の初めからこの16章までイエスは繰り返し「私は去って行く」と語り、16章16節では「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなる」と言っています。しかしここでは「またしばらくすると、私を見るようになる」と続いて言っています。17節では「父のもとに行く」と言う言葉が「見えなくなる」と結びついて語られています。ですから、「見えなくなる」はイエスが天に昇られた意味し、「見るようになる」は再臨を意味しています。ヨハネの教会だけでなく、この歴史が終わる時まで、教会の時代は、キリスト不在です。信仰によって、真理の御霊に導かれてキリストを見る事が出来るだけです。そのために、信仰の弱い私たちは、神が見えない、神の真理がわからないと言う状態になり、この世の見えるものに心も生活も覆われてしまうこともあるのです。
しかし、キリストは去って行くが、また来るのです。16節から19節で使われている「しばらく」と言う言葉は、「ミクロン」と言う言葉です。わずかの間、耐えていたら主を見る事が出来る、苦しく辛くてもミクロンの間だ、と主は言っているのです。
20節で「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」とあります。この「あなたがか」は、イエスの弟子たちよりも、教会を指しています。この言葉は教会に対して語られているのです。教会が、なぜ福音が理解されず、伝道が進まないのだ、黒い雲がいつまで世界を覆っているのか、と悲しみに落ち込んで行きそうになる。その教会に勝利者として十字架に向かう主が、その悲しみは喜びに変わる、と言っているのです。
2006年5月14日
説教題:ぶどうの木と枝
聖書:出エジプト 19章1-6節 ヨハネによる福音書 15章1-10節
【説教】
イエス様は「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である」と仰っています。イエス様はご自分が、ぶどう畑の持ち主であり農夫である神様が「この木こそ、私が自慢し誇りにしているぶどうの木だ」と言っている、その真実のぶどうの木であると仰っているのです。そして、5節で私たち人間はぶどうの木の枝である、と言っています。 真のぶどうの木であるイエス様に繋がっている枝が実を結ぶことが出来るのです。実を結ばない枝は、農夫が切ってしまう。良いぶどうを実らせるために、農夫は手入れをするのです。
このぶどうの木と枝のたとえによってイエス様は、人間はぶどうの枝だけれども、真のぶどうの木である私に繋がっている枝だけが、農夫の手入れによって生かされ、農夫が期待している良い実を結ぶのだ、と言っているのです。ぶどうの木は非常に勢いがよく繁茂します。しかし、外から見たらよく繁茂していて立派に見えるぶどうに木は良い実を結ばないのです。どの葉っぱにも太陽の光が当たり風通しも良いように枝が切られ、手入れされているぶどうの木が良い実を結ぶのです。農夫は、木としっかり繋がっている枝を残して、実を結ばない枝は切って捨てるのです。
イエス様は、「私に繋がっていなさい」と仰っていますが、それは手をつないでいるような繋がり方ではなく、水分も養分も生きるのに必要なものは全て真のぶどうの木からもらう枝のように、自分が生きるのに必要な全部を私から得るように繋がっていなさい、といっているのです。私たちは、イエス様と日曜日だけ繋がっている、役に立つと思われることで繋がっている、気が向いた時だけ繋がっている、というのでは農夫が誇る真の実を結ぶことが出来ないのです。そのような枝は切り捨てられ集められ焼かれてしまうのです。良い実を結ぶためには、真のぶどうの木にしっかりと繋がり続けることが必要なのです。イエス様から離れないで最後まで繋がり続けることです。
イエス様は、枝である私たちが実を結ぶ枝であるように、「私に繋がっていなさい」、と繰り返し勧めているのです。その上イエス様の方から「私もあなた方に繋がっている」と仰っています。イエス様は、愛を持って私たちを包み、掴んで下さっているのです。
7節の「私の言葉があなたがたの内にいつもある」の「いつもある」と9節10節の「愛にとどまっている」の「とどまっている」は、4節の「繋がっている」と同じ言葉です。私たちは、イエス様の愛の言葉を聞いて、その言葉を心の中にとどめ刻んで、歩むとき神様が期待されている実を結ぶものになるのです。イエス様の言葉を軽く聞いているだけでは、神様が期待されている良い実を結ぶことは出来ません。イエス様にしっかり結びついている枝は良い実を結ぶのです。イエス様がそれに必要な命に水と養分と愛を与えて下さるのです。神様も私たちが良い実を結ぶように必要な手入れをして下さるのです。
2006年5月7日
説教題:キリストの新しい戒め
聖書:レビ記 19章9-18節 ヨハネによる福音書 13章31-35節
【説教】
今日の説教題は、ヨハネの35節から採りました。新共同訳聖書は「新しい掟」と訳していますが、「掟」は命令や規則のような意味合いが強いので、この所は諭し教える意味を含んでいる「戒め」の方が相応しい言葉です。聖書が命じている戒めは、なぜそう命じるのか幼い子にも分かるように教え、言い聞かせて納得させて、守らせるものなのです。
「新しい戒め」は、古い戒めがある、又は今の戒めが古くなることを意味しています。その古い戒めはモーセの十戒を中心にした戒めです。その戒めも、出エジプト20章に記されているように、神があなた方を愛して救い出して下さったので、あなたがたは神を愛し神の民として相応しい歩みをしなさい、と言っているのです。そのことをイスラエルの人は、親から言い聞かされている,と共に,イスラエルの民全体がその戒めを守って歩んでいたのです。それに対してイエスは,「あなた方に新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい」、と言っているのです。今までの戒めと比べて、その新しさは「私があなた方を愛したように」と言うところにあります。イエスは弟子たちをどのように愛したのでしょうか。13章1節に「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」,と記されています。「御自分の時が来た」とは、救いの完成の時,十字架の時が来たことです。「この上なく愛し抜かれた」とは、十字架の死の最後まで愛したことであり、救いの業が完成するまで愛し抜いたことです。その「救い」は、人間の罪を贖って、人間に神の子の栄光を与えることです。
ですから、モーセの十戒の愛が、自分を愛するように隣人を愛しなさい、とレビ記に記されている愛であるに対して、イエスの戒めの愛は、自分を死に至らせてでも弟子たちを神の民にする愛なのです。十字架と復活を信じてイエスに結びついている者は、神の子とされ、神の栄光を現す者として生きるのです。「私があなた方を愛したように」と言われている愛は、イエスの愛に生かされている者にだけ求められる愛です。その愛がキリスト者を神の民にし、教会をつくるのです。35節に「互いに愛し合うならば、それによってあなた方が私の弟子であることを、皆が知るようになる」とあります。事実、歴史の中で教会はこの互いに愛し合う群れ、神の家族として知られているのです。
私たちは、自分には未だ罪の残り滓があるので、神の栄光を現すことが出来ない、神の民の仲間に入れない、と思うかも知れません。しかし,13章2節にユダに裏切りが見えるのにイエスはユダの足を洗って、ユダをもこの上なく愛しているのです。36節以下にはペトロが、足を洗っていただいた時の謙遜さを失っていることが記されています。イエスは弟子たちが頼りない者であることを知っているのです。その弟子たちを愛し、信頼して神の御業を完成させようと決意されているのです。子育ても、教育も最も大切なのは愛と信頼です。愛と信頼によって,子どもは育ち,失敗した人間も立ち直るのです。イエスは、弟子たちに、そして私たち教会に、神の愛と栄光を証し、伝える責任を託しているのです。
2006年4月30日
説教題:良い羊飼いイエス
聖書:エゼキエル書 34章7-16節 ヨハネによる福音書 10章7-18節
【説教】
聖書は、神を羊飼い,神の民を羊にたとえて、神と民の関係を語っています。エゼキエル34:7-16は,国を治める羊飼いがその責任を果たしていないので,神ご自身が牧者になって民を治める,と語っています。イエスはその預言者が約束した神の牧者なのです。
ヨハネ10:11では、イエスご自身が「私は良い羊飼いである」,と語っています。「良い」は、「真の」「目的に適った」と言う意味です。私こそが良い羊飼いである,とは,他の羊飼いは偽の羊飼いや目的に適っていない羊飼いだ,と言っているのです。イエスは誰に対して語っているのか。6,19節によると,ファリサイ派の人やユダヤ人がそこにいたことが分かります。これらの人たちは、自分たちは神の民の牧者だ,羊飼いだ,と思っていました。イエスは、彼らにお前たちは羊飼いの務めを果たしているか,と問うっているのです。
イエスは、7節で「私は羊の門である」自分の門に入る羊は安心して安らぐことが出来ると言い、9節では「私を通って入る者は救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける」と言っています。そして10節で「私が来たのは、羊が命を受けるため,しかも豊に受けるためである」と言っています。イエスは,神の羊を救い,生かす羊飼いなのです。それに対して、自分は羊飼いだ、と言っている民の支配者たちは、盗人で神の羊を自分のものにしている。また彼らは狼が来ると羊を置いて逃げる。イエスはそのような羊飼いを雇われた羊飼いと言っています。この当時羊飼いは殆どが雇われ人でした。イエスは例外いで、雇われたのではない、神の羊を神から託された羊飼いなのです。狼が来ても逃げないのは、怖さを知らなかったからではなく、羊を思う心と神の期待に応える思いによってです。
イエスは14節で「私は良い羊飼いである」と重ねて告げ、「私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる」と言っています。イエスの羊は、昔も今もいつも変わりなくイエスによって知られているのです。その知り方は,「父が私を知っているのと」同じ,人間の知識や感情で知る以上の、私と心が一つになって知るのです。「私は羊のために命を捨てる」、羊である私のために命を捨てて下さるのです。「捨てる」と言う字は,「自分の意志で差し出す」と言う字です。イエスの死は、自然死でも殺されたのでもありません。羊のために、罪の私のために自らの強い意志で差し出された死です。その死によって私たちは救われたのです。17節に「私は命を再び受けるために、捨てる」とあります。イエスは死で終わらせるために命を捨てたのではないのです。新しい命を再び神から受けるために捨てたのです。
ある人は、この死によって私たちは狼が羊に変えられ,育てられたのだ、と言っています。この世は狼の世界,生存競争の世界です。羊も狼のような強く逞しい親分を求め、その親分の下で群れを作ります。私たちは、肉の心も生き方も狼になっていたのです。その狼の人間が、神の羊になって、新しい命を得て、豊に生きるために、イエスは命を捨てて下さったのです。私たちは良い羊飼いイエスによって豊に生かされている羊なのです。
2006年4月23日
説教題:復活のキリストを信じる
聖書:ヨハネによる福音書 20章24-31節
【説教】
先週私たちは、「十字架で死んだ主イエスが復活された」と告げた天の使いの言葉を、驚きと恐れを持って聞きました。しかし、多くの人はその言葉に驚きも恐れもしていません。真実だと信じていないからです。迷信だ、作り話だと思っている人にその言葉は何の力も持ちません。しかし、その言葉が真実だと信じた人には、人生を変える言葉なのです。
イエスの弟子トマスは、復活のイエスが弟子たちに姿を現された時、彼等と一緒にいませんでした。彼等から復活のイエスにお会いしたと聞いても、トマスは、聞いだけでは信じない、自分なりに証拠を見て納得しなければ信じない、とイエスの復活を信じませんでした。トマスのように自分で納得しなければ信じない、と言う人は多いです。それでいながら、現在少し調べれば真実ではないと簡単に分かるのに、振り込め詐欺がなくなりません。
私たちが、自分で確認し納得する、とはどうゆうことか。自分の世界と自分の経験や感覚を信用している、その世界に起こる事、自分の経験や感覚で納得出来る事を信じる、ということでしょう。そこで、どこで誰と一緒にいて語り合うかが大事なことになるのです。
トマスは、他の弟子たちと一緒に家の中に、戸を閉めていました。そこに復活のイエスが現れたのです。イエスはトマスに、「あなたの指をここに当て、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じるになりなさい」と言われました。トマスが自分で確認し納得したいと言っていたことを全て今行いなさい、と言われたのです。トマスはそれを実行しないで「私の主、私の神よ」と直ぐ答えました。この答えは、「私は信じない」と言う自分中心の世界と経験に立っての言葉ではなく、「私の主人、私の神様、私はあなたの僕です。私を受け入れ、用いて下さい」と告白している言葉です。
この告白を聞いてキリストは、「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は幸いである」と言われました。この言葉はトマスに対して言われたので、トマスの不信仰、疑り深さを咎めている言葉と思われます。しかしこの言葉はそれだけでなく、31節と結びついて、この福音書が書かれた時にはもう復活のキリストを肉の目で見ることが出来ない信仰者がいる、その人たちも幸いな人たちだ、と言っている言葉だと思われます。30節は「このほかにも多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない」と書いています。それはここに書かれていることだけで、イエスを神の子と信じて、命を受けることが出来る、と言っているのです。イエスの復活を信じるのは、しるしや資料の多さに依るのではないのです。信じるか、信じないかは、神の創造とご支配を信じるか。その信仰の世界で神の言葉を聞くか。肉の世界で人間の経験を信じて聞くか。と言うことなのです。
コリントの信徒への手紙一15章でパウロは、私たちは伝えられた福音を生活のよりどころとして生きています、と言っています。その福音を信じている人たちから、私たちは聖書を通してキリストの復活が真実に起こったのだと、礼拝において聞くのです。そこで私たちは、復活のキリストが今も私たちと共にいて下さることを、信じるのです。
2006年4月16日
説教題:あの方は復活された
聖書:マルコ福音書 16章1-8節
【説教】
今日は主イエスが墓から甦られた日です。この日の朝、墓に行った婦人たちは墓の中で天の使いから「あの方は復活された」と告げられました。
「あの方」と言うのは、よく知っている人ということです。歴史的に確かに存在し、確かに死んで葬られたイエスです。又、婦人たちが愛し、頼りにし、慕っていたイエスです。
イエスの復活は幻想だ、作り話だ、迷信だ、という主張は初代教会の時からあります。そう主張している人にとって、イエスの死と復活は何の重要さも意味もない出来事です。しかし、私に関係のない唯の「死人の復活」が告げられたのではないのです。「復活した」と告げられている「あの方」がどんなに私と結びついている方か、それによって「あの方が復活した」出来事が、私が生きている世界と歴史、また人生を一変させるのです。
マルコ福音書は、安息日が終わると三人の婦人がイエスに塗るために香料を買った、と記しています。この三人の婦人は、15章40節によると十字架のイエスを見守っていました。イエスは午前9時に十字架に架けられ、午後3時に息を引き取られました。婦人たちはその間イエスを見守っていたのです。15章41節は、この婦人たちがイエスに従ってイエスの世話をしていた、と記しています。世話をするとは、食事や洗濯など身の回りの世話をすることです。この婦人たちは、イエスを自分の分身以上に思っていたでしょう。息を引き取られた後もそこから離れないで、遺体を納めた場所を見つめていた、と47節は記しています。
婦人たちは、イエスに塗るために香料を買いましたが、死んで三日経った遺体に塗ることは考えられないことでした。イエスへの思いの深さを示しています。婦人たちは、イエスの死を確認して、生きていてもお金を持っていても意味がないように思ったでしょうか。多分持っている全てのお金で香料を買ったのだと思います。そして、他の事は何も手につかず、自分の思いの全てをそこに注いで、イエスとのお別れをしたい、と墓に行ったのでしょう。
墓に入ると、若者が座っているのが見えました。「婦人たちはひどく驚いた」と聖書は書いています。若者は「あのお方は復活なさって、ここにはおられない」と言いました。婦人たちはその言葉をどう聞いたのでしょうか。8節に「婦人たちは墓を逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」とあります。自分の経験と理解を超える力と何かの存在に対面したのです。また全く知らない世界にいることを知ったのです。ですから、そこにいるのが恐ろしくて逃げ出したのです。婦人たちは、驚きと恐れで若者の言葉を聞いていなかったようですが、彼女たちの耳はイエスに関する言葉をしっかり聞いて、心に刻んでいたのです。ですから、時が経って心が落ち着いた時、若者の言葉を思い出しました。イエスが「かねて言われた通り」復活されたことを知ったのです。
婦人たちは、死で終わるこの世界に、イエスの言葉が勝利して、死を超えて今も生きて働いていることを知ったのです。この人間の理解と思いを越えた出来事を驚きと恐れを持って静かに味わっている中から湧き出てくる喜び、その喜びがイースターの喜びです。
2006年4月9日
説教題:救い主のエルサレム入城
聖書:ゼカリヤ書 9章9-10節 マルコによる福音書 11章1-11節
【説教】
今日は棕櫚の主日と呼ばれている、主イエスが十字架に架けられた週の初めの日です。
この日主イエスは神の民の都エルサレムに入城されました。イエスは幼い時から何度もエルサレムに来ていました。しかし、この時のエルサレム訪問は特別な意味を持っていました。この時イエスは、神からの救い主、神の民の王としてエルサレムに入る事を望まれたのです。 イエスがこの都に入るのについて聖書は二つの注目すべきことを記しています。
一つは、主イエスが言われ通りに全てのことが行われたことです。王国で重要なことは、王の言葉に皆が聞き従うことです。イエスは、弟子を遣わして子ロバを連れて来るように命じました。もし誰かが「なぜそんなことをするのか」と尋ねたら、「主がお入用なのです」と言いなさい、と指示しました。そして、その通りにことが進んで、子ロバを連れて来たのです。これは腕力や権力などで人を支配し従わせるのではなく、神のご計画、神の言葉が支配していること、イエスの言葉が人々を支配し、従わせていることを示しています。イエスがそのような王である、神の御心に適った救い主であると言うことを示しています。
もう一つは、イエスが子ロバに乗って都に入城されたことです。イエスは、一度ロバに乗ってエルサレムに入ってみたい、と思われて子ロバに乗って入ったのではありません。ゼカリヤ書に預言されている王が私なのだと言うことを示し、約束の王メシアとして神の民の都に入られたのです。弟子たちは、連れてきた子ロバに自分の服を掛け、町の人は自分の服と葉のついた枝を道に敷いて、ユダヤの王が即位して都に入る有様で、王としてのイエスのエルサレム入城を用意したのです。人々は「ホサナ、主の名によって来る方に祝福があるように」と歓迎の叫びを上げて迎えました。
一般に王が都に入る時には、軍馬に乗り兵を従えて、力で支配し権威で従わせることを示します。ところがイエスは子ロバに乗って入城したのです。これはゼカリヤが語っている「高ぶることなく」「柔和である」王を示しているのです。「高ぶらない」「柔和である」ということは、唯おとなしいのではありません。野生の動物に対する、飼い馴らされ訓練を受けている動物にたいして使う言葉です。番犬でも盲導犬でもおとなしいだけでなく主人に事ある時には命を懸けて激しく戦います。イエスもこの後、15節で神殿の境内で売り買いしていた人を追い出し、台や腰掛をひっくり返す、という激しい行動をされています。王であるから国を治める責任があり、民を従わせることも必要です。軍馬に乗らず兵を従えないで、この王は何によって国を治めるのでしょうか。ゼカリヤは「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者」と言っています。神に従う王で、神の御心と御力によって国を治め民を従わせるのです。その王は「私はエフライムから戦車を絶つ、戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる」といわれています。これが主イエスによって実現したのです。
この王であるイエスが、私たちの罪を贖うために十字架について下さったのです。そして、このエルサレム入城が既に神に従って勝利を与えられた王としての入城であったのです。
2006年4月2日
説教題:キリスト者の誇りと喜び
聖書:ローマの信徒への手紙 5章1-11節
【説教】
受難節の時には、イエス・キリストのご生涯、その苦しみと死がどのような意味を持っていたかに思いを深めながら、礼拝を捧げます。今日のローマ書は6節から10節に亘って、キリストは私たち罪人のために死んで下さった、それによって私たちは神の前に罪なき者、義なる者とされた、そのことを強く語っています。これが今日の主日の大事なメッセジです。しかし、罪なき者義なる者にされたということは、私はどこで何をしてもいいというのではありません。キリストの十字架による救いはそのような救いではありません。
1節に「私たちは、信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」とあります。私たち人間は、自分を裁き赦すことが出来ないでいらいらしてしまう存在ですが、造り主である神との間に平和を得ることによって自分を受け入れ、周囲の人や世界を受入れることが出来るのです。それによって自分自身とも平和になることが出来、周囲の問題も赦し受入れることが出来るようになるのです。神を神として正しくし知り、造られた世界と自分を正しく知ることができるのです。神との間に平和を得ることは自分ひとりのことでは終わらないのです。自分が生きている世界全体にかかわることになるのです。自分が生きている人生全体に関係するのです。
2節に「キリストのお蔭で今の恵みに信仰によって導き入れられ」とあります。今既に恵みに導き入れられている、と言っているのです。私たちキリスト者は皆です。このところを、口語訳聖書は「今立っているこの恵み」と訳しています。これから恵みに入って、立つのではないのです。信仰を持っている人は、現在既に恵みに入っている、そこに立っているのです。その恵みは、神との平和であり、「神の栄光にあずかる希望を」約束している道です。神の栄光がご支配する神の国に入る道なのです。神の創造と救いの完成による栄光です。そこでは、キリスト者は神の子の栄光の体に変えられるのです。その神の救いの完成の栄光にあずかる道を誇りと喜びを持って歩んでいる、それがキリスト者なのです。
しかし勿論、キリスト者でも、地上を肉の体で歩んでいる時には悩み、苦しみがあります。キリスト者であることによって、隣人の問題、この世の問題を自分の問題として心痛めること、この世の人から迫害を受けることもあります。しかし、キリスト者は、そのような苦しみをも誇りとして受け止めて歩むことが出来るのです。3節から4節でそのことを言っています。ここでは、キリストの十字架の愛がキリスト者には注がれているので、苦難をも誇ることが出来る、希望を生むことも出来る、と言っています。キリスト者にはいつも神の愛が聖霊によって注がれているのです。神の愛がキリスト者を慰め励ますのです。それでキリスト者は、今自分が置かれている場、与えられている道、その務め、苦難、それらを私たちは恵みの中にあるものと受け入れ、誇りと喜びを持って担って歩んで行けるのです。
キリストの十字架の死は、罪人で死に支配されていた人間を、そのように力強く誇りと喜びに生きる人間に変えて下さったのです。