2014年3月30日
説教題:一粒の麦と十字架
聖書:ヨハネによる福音書 12章20-36節
イエスは、ヨハネ12:1-8で葬りの油注ぎを受け、12-19でろばの子に乗ってエルサレムに入城しました。そして12:23で「人の子が栄光を受ける時が来た」と言っています。
イエスは「私の時はまだ来ていない」と言っていましたが、ここで「私の時が来た」と言っています。その時は「人の子が栄光を受ける時」です。イエスは「私は自分の栄光を求めない」と言い、「私をお遣わしになったお方の栄光を求める」「私に栄光を与えて下さるのは、私の父です」と言っていました。この「私の時」は「十字架の死」です。
そのことを「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ」と言っています。多くの実を結ぶためには、良い麦が相応しい時に適した地に蒔かれ地に受け入れられて、麦であることを死なねばなりません。麦が死んで新しい命の源に変えられるのです。実を結ぶための死には当人しか知り得ない厳しさがあります。
12:27,28でイエスは「今私の心は騒ぐ、何と言おうか『父よ、私をこの時から救ってください』と言おうか。しかし私はまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」と、苦悩と戦って、自分の使命を果たせるようにと祈っています。
一粒の麦が死んで新しい命の源になり多くの実を結ぶのは自然の成り行きで生じることではありません。神の命を宿している麦が、神の御心に従って死ぬことによって成ることです。イエスの苦悩の中での決断の祈りに、天の父は28で「十字架で再び栄光を現す」と答えています。イエスの死に天の父が働いて、多くの人の罪が贖われる神の栄光が現れたのです。多くの人が神の民とされ、神の民として歩むようになったのです。
主イエスは、ご自分の死を実を結ぶ一粒の麦の死として語られたのに続いて、「自分を愛する者はそれを失うが、この世で自分を憎む者は、それを保って永遠の命に至る」と言いました。自分の命を愛することは大切ですが、神に命を与えられて今ここに生かされている私たちには自分の命よりも優先して愛すべきもの、また義務や責任が各自にあるのです。自分を憎むとは自分を嫌悪し粗末にすることではありません。自分が強く大きくなるために小さく弱い人を踏みつけて行く自分を憎んで、神さまに命を与えられ愛されている人間として、目の前にいる小さく弱い人を愛すると言うことです。それは、神から与えられている務めや責任を第一にして、自分の栄光や利益を第二にすることです。神の御心を優先することによって自分の命を死に渡しても神にある永遠の命に与かれるのです。
26に「私に仕える者は私に従え。そうすれば私のいるところに、私に仕える者もいる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にして下さる」とあります。「仕える」とは、個々の指示に従い仕えることよりも、キリストの僕になって仕えることです。自分に執着しないで、最後のところでは、自分を捨ててキリストに倣って神の御心を第一に生きるのです。
そのように十字架のイエスに従い倣って歩む者は、イエスと同じ一粒の麦となって地に落ちている者で多くの実を結ぶ者です、また神が大切な者として下さっているのです。
2014年3月23日
説教題:イエスとユダヤ人との対決
聖書:イザヤ書 63章15-19節 ヨハネによる福音書 8章48-59節
主イエスは神の言葉として私たちの所に来て、私たちの内に宿って下さいました。イエスと対話して私たちは神の真理を自分のものとして生きるようになるのです。
イエスは、議員のニコデモやサマリアの女と対話して、二人を神の真理を受け入れるように導きました。しかし、イエスを神の真理と認めない人がいます。自分たちが神の真理を持ち、世を治める責任と力を神から与えられていると思っているユダヤ人たちです。イエスは彼らと対話ではなく論争し対決します。お互い自分に真理があると主張し合うと対話が対決になります。ヨハネの7,8章はイエスとユダヤ人との対決を記しています。
7:1に「ユダヤ人たちがイエスを殺そうとねらっている」とあります。このユダヤ人の心と姿勢は8:59でも変わっていません、彼らは石を投げてイエスを殺そうとしています。
ユダヤ人たちは神の民なのに、自分たちは神に選ばれ,義とされて用いられて力も与えられていると確信していて、神の前に謙遜にならないのです。イエスの言葉の一部を聞き自分に都合が良いように理解して、8:30のようにイエスを信じる人もいたので、8:31でイエスは彼らに「私の言葉に留まるならば、あなたたちは本当に私の弟子である」と言いました。「留まる」は一時居るのではなく、住み続けること、その言葉から離れないで生活することです。「弟子」は主と一緒に生き歩み続ける者です。
イエスの真理を心の内に宿して生きる人は、神の民です。神の真理によって生きるので他の真理や尺度によって縛られず、自由に生きます。8:32でイエスが「真理は自由にする」と言うと、ユダヤ人たちは「自分たちはアブラハムの子孫だから、誰かの奴隷になったことはない、自由だ」と主張しました。しかし、彼らの心には神の言葉ではなく罪が宿っていたので、彼らは罪の奴隷なのです。イエスは、神の言葉を邪魔者だから殺せと言う者は悪魔だ、と神の民とは誰かをはっきりさせるために、対決的に言いました。
人間の世界は相対的世界で、絶対的な真理はありません。それで世の対話は時に対決になります。しかし教会は神の民なので神の言葉のイエスによって一つになります。
8:47までを聞いたユダヤ人たちは8:48で、イエスを「悪魔に取りつかれている」、その根拠はイエスがサマリア人であることにある、サマリア人は罪を犯すがユダヤ人の自分たちは罪を犯さない、と言います。しかし神の民でも罪を犯すことがあります。歴史の中で、神は罪を犯した神の民に罰を与えて悔い改めに導いています。それでも罪を犯してしまう神の民を天から見て、天を裂いて来て、救ってください、と祈った叫びがイザヤ書です。その祈りの叫びに応えて神が遣わしてくださったのが主イエス・キリストです。
ユダヤ人たちは、肉や外的なことで自分たちは神の民であると主張していますが、心には罪が宿っている、自分の栄光を求め現す者です。しかしイエスは、自分の栄光を求めず神の栄光を求め現すお方です。私たちも、肉の思いと対決して罪を捨て、神の言葉を宿すイエスの弟子となりたいと思います。その時私たちは神の栄光を現す器とされるのです。
2014年3月16日
説教題:イエスを正しく知る道
聖書:申命記 5章12-15節 ヨハネによる福音書 7章14-31節
イエス・キリストを正しく知るのにはどうしたらよいでしょうか。
ヨハネ7章には、イエスをよく知っているという人たちが登場しています。7:3以下にイエスの兄弟が登場します。この兄弟たちはイエスを肉親として知っています。それだけに肉的理解に囚われていて、神から遣わされたイエスが理解できません。彼らはイエスが奇跡を行ったことを知っていたので、「人が多くいるユダヤに行って、お前の業を見せてやれ。そうすれば世に知られる」と、イエスに勧めています。荒野でサタンが人を信じさせるために業を行え、と誘惑したのと同じです。肉的にだけイエスを知っている人は、イエスをこの兄弟たちと同じように知っているのです。
エルサレムにはイエスのことを知っている群衆がいます。彼らはイエスのことでいろいろ評価して囁き合っていましたが、ユダヤ人を恐れて公然と語る人はいません。皆、群衆の一人で、確信がなく、無責任な見方をしているのです。これではイエスを正しく知って、責任ある結びつきに向うことはできません。多くの人のイエス理解もこのような姿勢や理解ではないでしょうか。群衆は、イエスが公然と話をしているのに捕えないので議員たちはイエスをメシアと信じたのではないかとも思いましたが、イエスをメシアと認めるはずはない、と決めていました。それには、当時メシアは人々が出生を知らないお方として来ると信じられていたのに、自分たちはイエスの出生を知っている、という理由でした。
この群衆の声を聞いたイエスは、大事なことだ、黙っていることはできない、と大声で叫びました。「あなたたちは私を知っている」と言いましたが、「本当には私をしらない」と言っているのです。私がどうして今ここにいるのか知っているか、神から遣わされて何をしているのか、そのことを知らなければ私を知ったことにはならない。「私をお遣わしになった方をあなたたちは知らない」とイエスは言います。群衆や人々は思い込みや人間の考えに捕えられてイエスを見ているのです。彼らは,囁き合い、意見が対立して論じ合うことがあっても、謙遜になって学び自分の意見を見直して、考えを変えることをしません。それではイエスを正しく知ることはできません。
7:1以下に度々出てきているユダヤ人は、ユダヤ人の中の議員や指導者たちです。彼らは、神の言葉を知っていて、神から正しい者として民を治める権力も託されている、との自信と誇りを持っていました。それでイエスが自分たちと違うことを語り行うことが許せず、イエスを殺そうと思っていました。7:19-23では安息日に38年間苦しんでいた病人を癒したことがイエスを殺す理由とされています。7:24でイエスはうわべだけで裁くのは止めよ、と言っています。7:45-51では、祭司長やファリサイ派の人たちがイエスを連れてこなかった下役たちを非難した時、議員のニコデモが「我々の律法では、まず本人から事情を聴き、確かめて判断を下さなければならない」と言っています。謙遜になり、自分を無にしてイエスの言葉を聞く。これがイエス・キリストを正しく知る道です。
2014年3月9日
説教題:イエスが永遠の命の言葉
聖書:ヨシュア記 24章14-24節 ヨハネによる福音書 60-71節
私たちが毎週教会に来て礼拝で聖書の言葉を聞いているのは、6:63「命を与えるのは霊です。肉は何の役にも立たない」からです。肉の命は神を知らない罪の命です。
6:48-51でイエスは「私は命のパンである。私は天から降ってきた生きたパンであり、このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉である。」と言っています。食べるとは信じることで、イエスを信じ、イエスに従って生きることです。56には「私の肉を食べ、血を飲む者は、何時も私の内におり、私もその人の内に居る」とあります。肉のためのパンは、食べたらパンは形を失って肉になります。それに対して、霊の命のパンは食べたら、命であるイエスの言葉がいつもその人の内に宿っていて心の底から霊的に生かし、その人を包んでイエスにあって歩ませるのです。
ここで、肉の自分と神からの霊の命のどちらを中心にして生きるか、の問題が起こります。霊の命であるパンを受け入れるか、拒否するかです。イエスは、食べなさい、信じなさい、と力で命令をしていません。神はその人の内に語りかけ、その言葉を聞いて、受け入れて自分のものとするようにしています。もし求める心が起きなければ、主イエスの言葉と命はその人の内に宿らず、命になりません。
イエスが、ご自分がどのようなパンなのかを語り説明すると、ひどい話だとつぶやき,イエスから離れ去る人が出ました。群衆だけでなく、一緒に歩んでいた弟子と言える人も去って行きまして。主イエスは残っていた12人に「あなた方も離れたいか」と問い、決断を迫りました。ペトロは「主よ、私たちは誰の所に生きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。神の聖者です。私たちは信じ知っています」と答えました。
私たちにはこのように信仰の決断を迫られる時があります。ヨシュアは同じように決断を神の民に求めています。信じることは、他の神を捨てることです。自分の内にある他の神の声を取り除くことです。
ペトロがこのように答えたのは、肉のペトロに特別な知恵や能力があったからではありません。マタイ16:16でペトロが「あなたはメシアです」とイエスに信仰告白した時イエスは、ペトロに「それを告白させたのは、人間ではなく私の父だ」と言いました。信仰は、神が私たちの内に聖霊を持って働いてくださることによって、受け入れ、喜んでイエスに従って生きる、本物になるのです。命のパンであるイエスを信じて生きることは、毎週礼拝で命のパンであるイエスの言葉をいただいて、内に宿して生きることです。それには、心の内にイエスに対する愛と、永遠の命に対するあこがれと喜びがなければできません。
私たちは、イエスこそ永遠の、真の命を持っているお方と信じて、イエスからは離れないで歩む、それによって霊的な命に育てられ、用いられるのです。神のご計画の中に生きる命は、霊的な命で肉は何の役にも立たないのです。肉が死んでも、霊があれば生きるのです。私たちの肉は衰えても、霊の命は神に結びついて日々新しく生きているのです。
2014年3月2日
説教題:パン五つと魚二匹の価値
聖書:ヨハネによる福音書 6章1-15節
この出来事を四つの福音書が皆記しているのは、教会にとって重要なことを教えているからです。それは、主イエスが魔術的な力を持っているお方だということより、霊的に飢えている人々に霊的な命を豊かに与えるお方であるということを教えているのです。
6:2に「大勢の群衆がイエスの後を追って来た」とあります。この人たちは、「イエスが病人たちになさったしるしを見たから」、生きる命を失っていた病人が癒されて生きる命を得たのを見て、その命を求めて来たのです。マルコ6:34はイエスが「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊の群れのような有様を深く憐れまれた」、と記しています。この群衆は飼い主を求め、活き活きと生きる命を救い得ようとイエスの後を追ってきたのです。
心に病や迷いがある時には空腹は忘れるものです。この群衆も空腹であることを忘れていました。しかしイエスは彼らを見てフィリポに「この人たちに、パンをどこで買えばよいか」と言われました。イエスは、肉の人間は肉の糧も必要で、今この人が何を必要としているかを本人以上にご存知でした。「イエスがフィリポにこう言ったのは、試みるためで、ご自分では何をしようとしているか知っておられた。」フィリポを教育訓練するために尋ねられたのです。フィリポは、どうしたらよいか分からないで、「めいめいが少しずつ食べるのにも200デナリ分のパンでは足りないでしょう」と答えました。200日分の賃金、もしこんな大金を持っていても無に等しいです、という思いでこの金額を言ったのでしょう。これが、イエスの存在を無視した、人間的な目と計算による考えで、結論です。
この時アンデレがイエスに「ここに五つのパンと二匹の魚を持っている子供がいます。でもこの人数では何の役にも立たないでしょう」とイエスに言いました。彼は、この人数では何をしてもダメだ、と初めから諦めるのではなく、そこに何かあるか、自分が手にできる物がどの位あるか、と探し回ってこの少年を見つけたのでしょう。そして、役に立たないかもしれないがイエスが何かして下さるかもしれないとの思いで、これが手にしている全てです、とイエスに差し出しました。この世は数が多く力の強く大きいものに意味があり、価値あるとされています。五つのパンと二匹の魚は小さい価値のないものに見えます。
主イエスは人々をそこに座らせました。群衆が秩序ある人々に、神の民、飼い主のもとにいる羊になったのです。イエスがパンを受け取り、こんな僅かな物と不平不満をつぶやくのではなく、神に感謝しました。そして座っている人々に分け与えました。魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えました。イエスに差し出され、イエスが手にされて祈ることによって、取るに足りないパンと魚が、そこに座っている人々のお腹と心を豊かに満たし、生きる命を与えるのに十分な物になったのです。
教会の主(しゅ)は、取るに足りない人間が今ここに生かされ、与えられている自分のすべてを主イエスに委ね、主イエスが与えて下さる命のパンを感謝していただいく時、その人を満ち満ちた命に生きる者にかえて下さるのです。
2014年2月23日
説教題:神は今も働いておられる
聖書:ヨブ記 23章1-13節 ヨハネによる福音書 5章1-18節
38年間病気で苦しんでいた人が登場しています。何歳から、どんな病気であったか、分かりませんが38年間は長いです。「ベトザダ」池の回廊に横たわって、池の水が動いた時に入ったら癒されるのでその時を待っていました。そこにイエスが来て、その人が横たわっているのをじっと見、長い間病気であるのを知って「良くなりたいか」と言われました。
なぜこんな質問をされたのでしょうか。38年、池の水が動いた時に入るために場所取りをし、怠けず忍耐して水を見、直ぐ行動を起こせるようにしている。そこは生存競争の世界で、お互いに助け合い切磋琢磨して育て合う競争ではなく、敵と競う残酷な場です。「私を池の中に入れてくれる人がいない」と言う孤独の世界にいる。この病人が、人生を諦め、真剣に生きる希望を失っていても納得できます。それでイエスは「人生を投げ捨てていないか。神から与えられている命をあきらめないでしっかり最後まで生きたいと願っているか」と聞いているのです。病人は「水が動く時、入れてくれる人がいない。他の人が先に降りて行く」と答えました。ここには、良くなりたい思いが一杯あるので第一に入ろうと努力している、という思いと、だけど私はダメだと半分諦め、人を頼りにしている消極的な思いが見えます。イエスは、病人がつまらないことを聞くなと言う対話拒否や完全な人間不信になっていないで、「主よ」と答えて語りかけてくれる人がいることを喜んでいる、そこに神から与えられて生きる意欲がある、と見ました。
ヨブも、サタンの試みによって苦難の生活を強いられ、その状態から解放されたいと思うが神が見えない、そこで神に訴えたい「どこに神がいるのか。今私に神は見えないが、私は神を信じ、神の前に正しく歩んでいる。神と共にある」、と言っています。
この病人も38年間神が見えなかったかも知れませんが、イエスの問いかけに答えて「神を信じているので、神にあって人として生きたい」と心の思いを現しました。それでイエスは「起き上がれ。床を取り上げて、歩け」と命じました。病人はその命令を実行しました。今まで死人同然であった人が、イエスの言葉で命と力を与えられ、新しい人になって立ち上がり、床を取り上げて、新しい歩みを始めたのです。病人は、13節でその人が誰かを知らなかったと言っていますが、神を信じ人を信じてイエスの命令に聞き従ったのです。
その日が安息日だったのでユダヤ人たちが、今日は安息日だから床を担いで歩くのは律法違反だ、と咎めました。彼らがイエスを責めたので、イエスは「私の父は今も働いておられる。だから私も働く」と反論されました。神が安息日を天地万物創造の後に持たれたのは、神が何もなさらなくなったのではありません。神は今も創造されたものを治め保持し、愛と救いの業をしているのです。七日目の休みは、生活に秩序を与えるためで、七日目の安息日は主の日、神に仕える日として守りなさいと定めているのです。
私たちは神が見えなくなってしまうことがありますが、神は最後の完成の時まで働いておられるのです。私たちもイエスにあって神を信じて、与えられた業に励むのです。
2014年2月16日
説教題:蒔く人も刈る人も共に喜ぶ
聖書:ミカ書 6章13-16節 ヨハネによる福音書 4章31-42節
聖書は救いを「闇の世に光が来た」と言っています。ところが、闇の世は光を受け入れない、世は闇を理解しなかった、また光よりも闇の方を好んだ、とも言っています。
神の言葉であるイエスは、サマリアの女と対話して、彼女が光であるイエスを受け入れて救いの道を歩むように導きました。
そこに町へ食べ物を買いに行っていた弟子たちが戻って来、イエスと女が対話しているのに驚きました。当時男女が外で親しく語り合ってはいけないとされていたからです。
今まで希望も張合いもなく空しい日々でいた女が、イエスによって神との交わりを知らされ、希望と意味のある歩みができるようになったと,嬉しさと感激一杯で、黙って居られないで、この嬉しさと感激を人々に伝えたいと水がめをそこに置いて、町に行きました。
女が水がめを置いて町へ行くと、弟子たちは町に行って買ってきた食べ物を出して「食事をどうぞ」とイエスに勧めました。するとイエスは「わたしはあなた方の知らない食べ物がある」と言ったのです。弟子たちは、この言葉とイエスの空腹でない様子から「誰かが食べ物を持ってきたのだろうか」と互いに言い、納得し合った。するとイエスは、先の女と対話したように、光を理解していない弟子たちに語り出しました。「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っている。目を挙げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。」神の救いの言葉が命のパンです。イエスにあっては、御言葉を種として蒔くと共に、救いの喜びの刈り入れも今なされているのです。サマリアの女にそれが現れています。サマリアの女は町に行って「さあ、見に来てください。」と直接イエスに出会って自分と同じ喜びを得るように人々を誘っています。ここでは、刈り入れの時が来ているのです。
苦労の多い種まきと喜びの刈り入れは別の時、別の人がする、という言葉がミカ書にあります。それは苦労の多い働きをしても喜びの収穫は別の人が手にする、仕事をしてもつまらない、という考えです。しかし、イエスにあっては種まきの苦労と収穫の喜びは一つなのです。イエスは「あなたがたが自分では苦労しなかったものを刈り取るために、私はあなた方を遣わした。他の人々が苦労し、あなたがたはその労苦の実りに与かっている。」とも言っています。伝道の種まきと、信仰に導かれる収穫は別の時、別の人であっても、イエスにあって一つにされて働きと収穫を共に喜ぶのです。伝道は忍耐と時間がかかります。直ぐに実を結ぶことは少ないです。だからと言って種まきを怠けるのではなく、目を挙げてみると実りが刈り入れを待っている。それは他の人が蒔いた種の実りです。種まきの苦労だけがあるのではないのです。今苦労して蒔いた種も実を結ぶのです。
伝道は個人で行って完結するのではありません。教会が種まきと刈り入れをしているのです。信仰者の誕生は教会全体の喜びです。
2014年2月9日
説教題:命の水をいただく礼拝
聖書:列王記下 17章22-29節 ヨハネによる福音書 4章7-26節
私たちは肉の体で地上を歩んでいるので、天にいます神を知ることができません。神はご自分を知らそうと「言(ことば)」である御子イエスを私たちの中に与えて下さいました。
今日の聖書は、言であるイエスが、語りかけ対話することによって、真(まこと)の神を知らないために真の命を失って歩んでいた一人の女を、神の命をいただいて歩むように導いていることを、記しています。ここで言葉であるイエスが語りかけて、神の命を宿している御言葉の種となって蒔かれ、蒔かれた地がイエスとの対話によって良い土地にされて受け入れられ、御言葉が育ち実を結ぶように、イエスが愛と忍耐をもって対話をしています。
イエスは旅の途中、井戸のそばで休んでいるとサマリアの女が水を汲みに来たので、「水を飲ませて下さい」と女に頼みました。ごく自然な頼みですが、女は驚いて、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私にどうして水を欲しいと頼むのですか」と言いました。聖書は「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」と説明しています。その背景になっていることが列王記下に記されています。ユダヤ人は、サマリア人が拝んでいる神は違うと差別し、男と女の差別もありました。このような壁があるとお互いの交わりが難しい。お互いに孤立し、閉ざされた世界に生きることになる。イエスは神の言葉なので人々が他の人との間に作っている壁を破り、知らないサマリアの女に語りかけ、対話を始めました。
イエスは「水」ということから対話を進め、「命の水」「真の命」に女の目と心を向けさせました。そして女は「主よ、渇くことのない、その命の水を下さい」とイエスに頼みました。イエスは、女が自覚していない真の命の渇きに目を向けるように、「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と言いました。女は自分の人生を見直し、生きること、真の命に思いを向けたでしょう、そして「私には夫はいません」と答えました。イエスは「その通りだ。夫が五人いたが、今連れ添っているのは夫ではない」と言いました。
今連れ添っている男がいるが夫ではない。この女は孤独に一人意味のない日々をむなしく生きているのです。意味ある充実した日々を生きる、それが本当の命に生きることです。そしてその命は、真の神と交わること、神を礼拝することで与えられるのです。サマリアに異邦人の神が持ち込まれてから、サマリア人は、昨日はあちらの神、今日はこちらの神、と節操なく神々を拝んでいたのです。この女の節操のない生活、生き方がその象徴です。
女は、どこで、どの神を礼拝したらよいか、とイエスに尋ねました。イエスは「婦人よ、私を信じなさい。場所に縛られないで神を礼拝する時が来る。霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」と教えました。
礼拝は神との交わりです。神に心の渇きを訴えて命の水を下さるように願い求め、神から命の水をいただく、その神との交わりが礼拝です。霊と真理で礼拝することが大事で、場所でも形式でもありません。私たちは、この礼拝によって私たちを生かす永遠の命の水をいただき、神に結びついた、意味ある命の日々を生きるのです。
2014年2月2日
説教題:与えられている使命
聖書:ヨハネによる福音書 3章22-30節
「聖書には出る幕がある。出るべきところで出ることでその人は役割を果たすが、出るべきでないところで出たらその幕全体をダメにしてしまう。聖書も、どこででも持ち出すのは間違えている。」と言っている人がいます。親も子供も、老人も病人も出る幕がある、そこで出ることでその人は意味ある働きをし、役割を果たす、とも言っています。
バプテスマのヨハネは、救い主メシアが私たちの所に来たことを知らせ、救い主を迎える備えを進めました。ヨハネが登場したのは一時でした。ヨハネは自分に与えられている役割と使命を、神から知らされて、自覚していました。しかし、弟子たちは自分たちが置かれている場や役割と使命について正しくは知りませんでした。私たちも、神から固有の役割と使命を与えられて歴史の中を一時歩んでいますが、自分が生きている世界と自分を神にあって正しく理解していないことがあります。
ヨハネの弟子たちは、イエスが洗礼を授けているところに人々が行くのに妬みを持ちました。人間は他の人の繁栄を喜んであげるよりも妬みを持ちます。主イエスを十字架につけろと言ったのも妬みからでした。弟子たちは、ヨハネの存在が小さくなってしまう、と不安と憤りをもったのです。ヨハネは、弟子たちの訴えを聞いて、「天から与えられなければ人は何も受けることができない」と言いました。今の場ではヨハネはもう主役ではない、メシアが主役である、メシアが登場する備えをするのがヨハネで、それまで主役になって活動するのがヨハネに与えられた使命です。自分の存在と役割、使命をどう受け止めて、果たすべきかをヨハネは弟子たちに語りました。
そしてヨハネは弟子たちに教えています。花嫁を迎えるためにいる花婿の介添え人は花婿が来たことを聞くと、自分の出る幕は終わった後は花婿が出る幕だ、と脇に退いて、花嫁と花婿が主人公になったのを喜ぶ。そのように私は今人々がイエスの方に行くのを喜ぶ、イエスが登場したので自分は退くべき時が来た、と。
ヨハネが語ってきたことを正しく聞いていたら、そのことは理解できたはずですが、弟子たちは先生であるヨハネの言葉を自分中心に聞いていたので、正しく理解できなかったのです。イエスに仕えているヨハネなのに、イエスこそヨハネの下にいる者と見ていたのです。それは自分中心に他の人を見ているからで、妬みも起こるのです。
ヨハネは、この幕でこの場に至るまでの場でなすべきことを十分に行い使命を果たした、花嫁が来たので喜びに満たされて自分は退く、「あの方は栄え、私は衰える」と言っています。私たちは神から与えられた場で今この時に与えられた使命を果たせばよいのです。預言者や私たち人間の言葉は衰え、神の言葉が永遠に生きるのです。
それだけに今ここに命を与えられている私たちは、今与えられた幕に登場している者として、神の民、神の家族として使命を果たす者でありたいと思います。今日、役員改選の総会があります。神の前で使命を果たす教会員、役員でありたいです。
2014年1月26日
説教題:神の国に入る道
聖書:民数記 21章4-9節 ヨハネによる福音書 3章1-15節
今日の聖書に登場しているニコデモは「パリサイ派に属するユダヤ人の議員」です。生活はまじめで社会的地位のある人です。ニコデモが夜イエスの所に来て「先生、あなたが神から来られた教師であることを知っています」と言っているのは、昼間忙しくて来られなかったからか、誇り高い人間なので人目を避けてなのか、分かりませんが、イエスから教えてもらいたい悩みと問題があることとその答えを切実に求めている熱心さは分かります。その問題は、神から来た教師から答えが得られる問題で、神と自分はどのような関係にあるのか、自分はどう生きたらよいのか、という生きることの基本的な問題だと思われます。
イエスは、ニコデモが語りかける言葉を聞いて、問題は神の国のことだと直ぐ知り「人は新たに生まれなければ神の国に入ることはできない」と言いました。この「新たに生まれなければ」という言葉は「上から」という意味もある言葉です。でもニコデモはこの言葉から、新しく母のから生まれると言う理解だけをして、上から生まれるという発想はありませんでした。ニコデモは、イエスがしるしを行っているのは神が共にいるからだと言っていますが、このイエス理解は、ヨハネ2:23-24に記されているイエスのしるしを信じたがイエスを正しく理解していない多くの人、と同じ理解でした。ニコデモには上からの霊的な誕生という発想がなく、人間は母から生まれて死ぬという肉の世界だけに生きているので、「年をとった者がどうして生まれることができるか。もう一度母の胎に入って生まれることが」と言います。この言葉は、イエスと立っている場の違い、話の食い違いをよく表しています。肉の私たちとイエスとの間にはこのような食い違いがよく起こります。
それでイエスは、神による霊的な世界と命があることを地上の風の誕生と活動で説明しました。霊と風は同じ言葉ですから、同じ誕生と活動で語ることができるのです。しかし、ニコデモは生徒が教師から学ぶように、「そうですか」と謙遜に学ぶ者にならず、「どうしてそんなことがあり得ましょう」とイエスの言葉を受け入れるのを拒否し、イエスの教えを否定しました。神の国に入るのには、神のご支配を受け入れる者でなくてはなりません。神の子イエスを信じて従う者でなくては入れません。
イエスは「あなたはイスラエルの教師でありながらこんなことが分からないのか」と問いただし、上から来た教師であるイエスを信じないなら神の国のことは分からない、と言いました。そして、民数記21:4-9に記されている、罪を犯した者が神の裁きである蛇に咬まれても竿の先に上げられている青銅の蛇を仰ぎ見たら救われる、と神がされたことを話されました。この実例のように人の子イエスが十字架と復活昇天によって上げられる、そのイエスを信じて仰ぎ見る者は救われる、神の国に入れる、とイエスは話されました。
神の国への道は、肉の自分の考えを誇らず固執しないで、謙遜になってイエスの言葉を聞いて受け入れ、十字架のイエスを仰ぎ見て生きることです。十字架のイエスを仰いで新しく生まれることです。その時、神の命を与えられて、神の国に新しく生きる者となり、夜闇の中を動き回るのでなく、昼の光の中を喜んで神を賛美して生きるようになるのです。
2014年1月19日
説教題:主イエスの弟子たち
聖書:出エジプト記 4章10-17節 ヨハネによる福音書 1章35-42節
主イエスの弟子は、心の深い所にある生きる喜び、感謝、誇りで他の人と違いがあります。自分の知恵と力で自分中心に生きている人は、この世的な喜びと誇りで生きています。それは自分中心の相対的で、対立し、争いを生じる限界の中での喜びや誇りです。主イエスの弟子は、神の大きなご計画と御心の中に生かされている者になるので、小さく弱い者、また苦しみの生活であっても、神に生かされ用いられていることを喜びと感謝します。
それは主イエスが弟子と認めて下さる時から始まります。イエスの弟子にされるのにはイエスを知っている人に導いてもらって、イエスと出会うことが必要です。
バプテスマのヨハネは二人の弟子と歩いている時、イエスを見たので二人に「見よ、神小羊だ」と言いました。二人は、この時までにヨハネが語っていたことを通してイエスに対する思いを与えられていたので、「見よ、神の小羊」という言葉を聞くと決断して、主体的にヨハネから離れ、イエスに従いました。現在イエスは教会にいますので、私たちがイエスについて語り,教会を紹介することでこのイエスとの出会いが起こります。
ヨハネの導きによってイエスに従った二人を、イエスが振り向いて見ました。イエスは二人に目を留め、愛の眼差しで見て「何を求めているのか」と尋ねました。二人が心の深いところで何かを求めていて自分の後についてきていることをご存知だったのです。それはイエスの後について来る歩み方と振り返って目を留めたイエスとの目の交わりの真剣さで知ったのでしょう。二人は「求めているのはこれです」と答えることができませんでした。「ラビ、どこに泊まっておられますか」と尋ねました。当時の学習の仕方に、ラビと呼ばれる先生が泊まっている所に行って学ぶということがあったので、そのような学びで先生から得たいものを求めています、という二人の答えであったとも思われます。イエスは「来なさい、そうすれば分かる」と言いました。
「泊まる」という言葉は、枝が幹に「繋がっている」、イエスの愛の中に「留まっている」という意味があり、一時交わるというのではなく、深い交わりを続けると言う意味があります。二人はイエスに従って、泊まっているところを見、イエスと一緒に泊まりました。イエスと深い交わりをし、イエスの愛と命に結びついて生きる者になったのです。
二人の内の一人アンデレは、イエスと出会いイエスを知った喜びを伝えたいと兄弟シモンを探し、見つけたので「私はメシアに出会った。メシアを見つけた」と告げました。それでシモンをイエスのところに連れて行きました。イエスに連れて行くのが伝道です。
イエスはシモンをじっと見つめて「あなたをこれからケファ(ペトロ)『岩』と呼ぶ」と告げました。イエスと出会うことでシモンはペトロという新しい人にされたのです。イエスの弟子ペトロは、イエスによって新しい人にされて、導かれ、祈っていただいて教会の土台になるのです。イエスの弟子は人間的に欠けと問題の多い者であっても、イエスが共にいて神の御用をするのに相応しい者につくり変え、意味ある者として下さるのです。
2014年1月12日
説教題:神が導かれる旅路
聖書:出エジプト記 14章5-14節 マタイによる福音書 2章13-24節
私たちの人生や生活を、一年の四季や旅に例えることがあります。それは、今の生活をすべとするのではなく、四季がある一年全体や旅全体の中で今を見ることが一つの意味です。そして別に、四季の変化も旅路も自分の思うようにはならない、その道を歩んでいるという意味もあります。私たちは誕生もその後も、自分の思いを超えた神のご計画の中にあるのです。ですから、神の御心に添って歩むときに正しく意味ある歩みができるのです。
それなら今歩んでいる歩みが神の御心に添った歩みであるか、御心から外れているかどうしたら分かるでしょうか。この世の多くの人は、成功や勝利、平安や快楽を結果として得ているかどうかで判断するのではないでしょうか。それは自分中心ですし、その時の刹那的な判断と言えます。この世界全体が神によって造られ治められているのですから、神を正しく知ることが正しい判断をするときに先ず必要なことです。
どうしたら神の御心を知ることができるか。出エジプト14章は、モーセに導かれてエジプトを逃げ出した民にエジプトのファラオ王が自ら軍を率いて追い迫ってきた、と記しています。民はモーセに「これは私たちの思いとは違う」、モーセは間違えた道を歩ませている、と叫んでいます。しかし、神の思いは人間の思いより深く大きく、神がなさることは人間の思いとは違うことがあります。神に従うことが、私たちに快楽を与えず、苦しく辛い状態にすることがあります。場合によっては、死の恐怖に導かれることもあります。民の叫びに対してモーセは「これは神のご計画による、神が導かれている旅路だ。だから、人間的な思いで恐れるな。落ち着いて、今日神がなさる救いを見なさい」と言います。
クリスマスに生まれた御子の誕生も、その後の歩みも、神の導きによるものでした。イエスの母マリアも父ヨセフも聖霊によって神の言葉を聞き、信じて、辛い重荷を担わされて苦難の道を歩みました。しかしそこに全ての人が喜ぶ救いの道があったのです。クリスマスの喜び、救いの恵みはこの二人が神に導かれて歩んだ旅路の中で与えられたのです。
今日の聖書に記されている彼らの旅路も厳しいものです。人間的に見たら難民の歩みのように見えます。この残酷とも思われる歩みを愛の神がなさるのか、と疑問をもちます。その疑問に答えるようにマタイは,1:22,2:5,15,17,23,で「このことは、神が預言者たちを通して言われたことが実現したのだ」と出来事の度に言っています。神は信じて歩む者を通して、人間の思いではなく、御心を行われるのです。人間を用いて神の愛と救いの御心を実現されるのです。神の愛と救いの御心は何か、それは人間に快楽を与えることではなく、人間を罪の支配から解放し、神の愛のご支配の中に生きるようにすることです。
御子イエスは、モーセが民を導いたよりも確かな導き手となって、私たちを先導して神の愛と救いの旅路に導いてくださるのです。イエスと共に歩む旅路には、苦難や誘惑、試練もありますが、その多くは神が用意されていたものでなく罪人である人間の罪やこの世の闇の力から来ていて、御子によってその旅路は勝利したものとなっているのです。
2014年1月5日
説教題:全ての民の救い
聖書:イザヤ書 49章1-6節 マタイによる福音書 2章1-12節
今日は2014年最初の主日礼拝です。教会の暦では明日の1月6日は異邦人も主の恵みを知った主の公現日です。
昨年の暮れNHKテレビが「神の数式」という番組で、科学者たちが宇宙と物質は神が創造したのでその存在と活動を美しい一つの数式で表せると考えている、その考えの正しいことが証明されつつある、と放映していました。宇宙論的、物理科学的神存在の証明は初代教会の時代からされて来ていますが、この番組によると万物を神が創造されたのは仮説ではなく、事実であると科学的に証明されているようです。
少し前までは、自然の動きも出来事も、物の存在や変化も、どうしてそうなるのか分からなかったことが、今では計算で予想や理由の究明ができるようになってきています。それによって混沌とした世界ではなく、真の神が治めている秩序ある世界に生きている、との思いが広がっています。真の神を信じることで、不安や恐怖から解放され、救われます。
この真の神は聖書が語っているイスラエルの神と同じ神です。イザヤ49:1で「島々よ、私に聞け、遠い国々よ、耳傾けよ」と言っているのは、真の神を知らない人たちに神から遣わされた預言者が呼びかけている言葉です。注意深く、耳傾けて聞いて心に納めろ、と言っているのです。神の言葉はこのように聞くことが大事なのです。それで預言者は、神はこの姿勢で聞くことを求めている、と言って神の言葉を語っています。
イザヤ自身は特に力のある人間ではありません、神が選んで預言者にし、神の言葉を与えているのです。しかしイザヤは、預言者であることに喜びを持てないでいました。語ることが実を結んでいない、国も滅んでしまった、囚われから解放されたので故郷に帰還しようと民に勧めても聞かない人がいる。これが現実の人間です。そこでイザヤは、目を肉の人間から神に向け、神が力強く語る言葉を聞きます。神が地の果てまでも救うとされている、神の僕は光となってその救いを国々に知らせる使命がある、その使命を担うことに存在の意味がある。イザヤはその言葉を聞いて、預言者として新しく立ち、語るのです。
マタイ福音書は、東方の学者たちが星を調べていてユダヤ人の王の誕生を知りました。神は異邦人も用いるのです。学者たちは、神の救いはイスラエルに限定されないと信じ、星に導かれてエルサレムに来ました。ユダヤ人の王の誕生なのでエルサレムで人々に尋ねました。そこで、約束されている神からの救い主の誕生であることを知りました。幼子に出会った時、喜び、ひれ伏して幼子を拝み持ってきた宝物を捧げました。真の神がここにいまして天地を治めていますことを知り、信じたからです。この東方の学者たちの信仰と歩みが全世界の人に、全ての民の救い主の誕生を知らせることになったのです。
御子を救い主と信じ神を崇めて歩む、その私たちの信仰と歩みが、全ての民の救いがここにあると示す光となるのです。真の神が居ますことが科学的にも証明されても、大事なことはその神を信じ、御子を救い主と信じて生きることです。
2013年12月29日
説教題:御子に出会った羊飼い
聖書:イザヤ書 61章1節 ルカによる福音書 2章8-20節
クリスマスに御子が誕生した喜びの出来事は多くの人の前で起こったのではありません。
ベツレヘムの馬小屋で男の子が生まれたことが全ての人の喜びで、私たちの救い主の誕生である、と世界の人が知り、世界の人が祝うようになったのは、御子に出会った羊飼いたちが、この出来事とこの出来事が持っている重要な意味を、人々に告げ知らせたことによります。
そのように重要な役割を担い果たした羊飼いたちは特別な羊飼いたちではありませんでした。夜通し羊の番をしていた、人々から軽く見られていた普通の羊飼いたちでした。ただ、神を信じ、神から与えられた仕事と思っていつものように夜羊の番をしていました。すると、主の使いが来て、主の栄光が周りを照らしたのです。羊飼いたちは、思いがけないことが突然起こったので、驚き恐れました。神の裁きが来たのか、何が起こったのか分からず、唯恐れました。天使は「恐れるな」と命じました。羊飼いたちが、神のご臨在を恐れている心を静め、天使が語る言葉を冷静に聞くためでした。その他に、彼らが特に夜、孤独と闇の中で人生に不安や恐れを感じていたで「人生に恐れや不安を持つな,それらに囚われるな」と、神の栄光と共に命じたのかもしれません。天使は、羊飼いたちを主の栄光で包んで「恐れるな」と命じると、「民全体に与えられる大きな喜び」を彼らに告げました。これは「この喜びを民全体に告げ知らせろ」と命じていることでもあります。
喜びの内容は「今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。あなた方は飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける。これがしるしである」です。「救い主が飼い葉桶の中に寝ている」という知らせは、普通には信じ難いことです。「そんなことあるか」と聞き流してもよいような知らせです。しかし羊飼いたちは、この知らせを神からの知らせと聞きました。ルターは「聖霊が信じさせてくださった。」「彼らの信仰が強かったので、天使が近づいて、語りかけて下さった。」と言っています。クリスマスの出来事を神がなさってくださった、それを信じ受け入れて喜びに生きること、その出来事と喜びを人々に伝えること、そのことも神が力を与えて下さって私たちの内に起こるのです。
羊飼いたちは、天使が離れると「さあ、主が知らせて下さった出来事を見てこよう」と話し合って、急いで出かけました。同じ強い信仰を持っている仲間がいました。信仰生活には一つの信仰による決断と行動が大事であり、仲間も必要です。
彼らは幼子を探し当て、その光景が天使の話した通りだったので神を崇め、賛美して、人々に知らせました。天使の言葉を聞いて信じて、幼子を見ると、幼子が特別な子になるのです。聖霊が働くのです。そのことを私たちも確認して、人々にこの特別な幼子の誕生と喜びを伝えたいと思います。羊飼いたちは、幼子の誕生と天使が自分たちに告げたことを一緒に、一人ではなく仲間と一緒に知らせました。それによって聞いた人々は信じたのです。世界の人が信じて喜びに生きるようになったのです。
2013年12月22日
説教題:クリスマスの恵み
聖書:イザヤ書 52章7-10節 ヨハネによる福音書 1章1-14節
今年もいろいろな出来事、事件、災害などがありました。信仰を持っていない人は、闇の中を歩むか、刹那的な時の中を歩んでいるのではないでしょうか。
真の神は言によって万物を創造されました。言は、神の御心でご計画です。全ての被造物に意味を与えています。どんなに小さく弱い被造物も神にあって、意味あるものとして造られているのです。言には命と光があります。言を失ったら命を失い、闇になります。
言を失った肉の人間の中に神の言が来て宿ったのです。人間は、自分が闇の中にいるのを知ったら光を求めるかというと、闇の中で平安と楽しみ喜びを見つけ、また作り出します。しかし闇の人間は、真の光を作り出すことができないだけでなく、神の言葉を聞いて信じるまでは、真の光を求めることも、受け入れることもしないのです。1:11,3:19に言われている通りです。「きれいごとばかり言っていては世の中平和に生きていけない。闇の力も認めなくては」という言葉を聞くこともあります。これが肉の人間の世界です。
そのような肉の闇の世界の中に神の言が来て宿ったことは、被造物の世界に造り主の意志と愛と命が宿ったということです。この私にも神の言が宿って、私を生かし意味ある者としてくださったのです。これがクリスマスの出来事です。
聖書は、神の言葉が肉となって私たちの内に宿ったことが、神の栄光であり、恵みであると言っています。闇のままで光を受け入れないで済まそうとしている壁を破って、肉の中に光の御子が与えられた、それが神の栄光で恵みなのです。1:12,13で「言は自分を信じる人々には、神の子となる資格を与えて下さった」と言っています。これがクリスマスの恵みです。神の子となる資格、力、権利を与えて下さったとは、養子にして下さったということです。神と結びついた者、神の子の権利をもって生きる者になったので、もうむなしい者ではありません。「宿った」という言葉は、遊牧民が張る幕屋に共に宿ったという言葉です。言は、住居を移して生活している人間、移り変わる世の中で永遠に一か所に留まることをせず世性流転の生活をしている人間の中に宿ったのです。言が来て宿り、私たちの中に生活を共にして歩む御子が居給うのです。ここに神の御心と愛を見、知るのです。そして私たちは愛を宿している者となって生きるのです。これがクリスマスの恵みです。
この恵みは全ての人を照らし、命を与える光の出来事でもあります。この恵みをいただいて恵みに生かされている者は、この神の栄光の恵みを知らせる者になります。しかし、人間の力で知らせるのではありません。そんなことはできません。イザヤは、偶像を神としていた国を無力にして真の神が王になった、囚われている人が解放されて帰還して来る、その出来事に出会って喜び躍動して伝えている人の足が美しい、と言っています。私たちも言が肉となって私たちの中に宿った出来事を受けて、その恵みを伝えるのです。
言である御子が私の中に宿ってくださったのです。私たちは、世界と自分がどんな状態にあっても、御子が共にいてくださるので、意味ある喜びの歩みができるのです。
2013年12月15日
説教題:主は近い、喜べ
聖書:ゼファニヤ書 3章14-20節 ルカによる福音書 3章7-17節
人間はある程度成長すると自分の限界を知り、世の中もバラ色だけではないことを知るようになります。地上にある肉の人間が、自分の世界だけを見て絶望し、闇の中に生きているように思う、そこに天から光が与えられたのがクリスマスです。
神の民もダビデ、ソロモンの時代までは、自分たちは神の民で神と共に歩み、勝利の道を歩んでいる、と思っていました。ところが、ソロモンの死後、神の民は分裂し、異邦人の神を拝む王や民が出てきて、神の民の国が異邦人の国に滅ぼされてしまいます。
神を捨てて偶像や人間に頼ろうとする民に預言者は、神は義なので、不義をそのまま見過ごすことはできない、その不義を厳しく罰する、と語りました。ゼファニヤも神の裁きを語っています。しかしゼファニヤは、神の怒りを語るだけではなく、3:7-11で「悔い改めて神を受け入れるならば、神は喜んでその民を受け入れて下さる」と救いの道も語っています。3:14で「喜べ神が来てくださる」と言い、3:15では「イスラエルの王なる主はお前の中におられる」と告げています。それは、敵をすべて追い払うということです。また、神は民を見捨てない、ということでもあります。
私たちは、自分は信仰者なのにこんなに罪を犯している、と沈んでしまうことがあります。その時、自分が罪人であるを自覚することは、神の言葉を受け入れていることで、悪いことと正しいことを知っているのです。ですから絶望することはないのです。そこには義の神と共に赦しの神、私たちを生かしてくださる神が居るのです。洗礼者ヨハネはそのことを人々に語り、洗礼を受けて神を迎え入れる備えをするように勧めました。
多くの神の民が、洗礼を受けることを願って、ヨハネのところに来ました。その中には、自分は立派な神の民で他の民とは違う、と他を裁き自分を誇っている人がいました。しかし私たちは、自分が正しいと思って歩んでいる道が神の道から外れていることがあることを、知っています。ですから、自分が正しいと思う道を歩んでいるのではだめです。神が示してくださっている道を歩むことが大事なのです。ヨハネはその人たちに「悔い改めに相応しい実を結べ」と言いました。
このヨハネの言葉を傍らで聞いていた人の中に、自分は神の前に正しく歩みたいけれど、自分に与えられている道でどう歩んだらよいのか分からない、という人がいました。「私はどうしたらよいのでしょうか」とヨハネに聞きました。群衆には富める人も貧しい人もいます。ヨハネは「下着を二枚持っている者は一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物も同じようにせよ」と、神から各自に与えられている基準で、自分にできる正しいことを神の前で謙遜に行うように勧めました。徴税人と兵士にも、神が与えてくださっている道を、人間的な思いを入れないで、各自神の前で正しく歩むように教えました。
罪を犯してしまうこの私を、神は見捨てない。神の声を聞いて悔い改めれば神は近くにいて私の中に宿ってくださる。この救いの希望と喜びをもって歩んで行きましょう。
2013年12月8日
説教題:荒野で叫ぶ声を聴け
聖書:イザヤ書 40章3-8節 ヨハネによる福音書 1章19-28節
先週、以前仕えていた南相馬市の鹿島栄光教会の会堂改修、牧師館新築感謝会に出席しました。教会員が少なく、教会員自身が被災している中で、立派な改修と新築がされたと感激しました。ある人は「ここにこの会堂があり、教会があることが、神のご計画と信仰の証しになる」と話されました。その通りだと思います。ところが、人間の力と働きだけを見て、そこに働いている神のご計画、神の働きを見ないことがあるのです。
今日の聖書で、エルサレムの権力者から遣わされてきた人たちが、ヨハネを証人として尋問する立場に立って、「あなたは誰か」と厳しく尋問しています。この世は数と力が大事です。権力者は、ヨハネが人々を集めて洗礼を授けていること、それも汚れている異邦人に清めの洗礼を呼びかけるだけではなく、神の民であるユダヤ人にも洗礼を呼びかけていて人々を集めているのを問題にしているのです。そのことは権力者にとって、自分たちの誇りを傷つけ、権威を否定している、と思われることです。
ヨハネは「公言して隠さず『私はメシアではない』と言い表した」。「公言して」と「言い表した」は同じ言葉を重ねているのです。「隠さず」は「否定しないで」ということです。ヨハネは先ず「私はメシアではない」と強く言っています。これは、人々がメシアを求めていて、ヨハネがメシアではないかと思う人々がいたからです。ヨハネは、自分はメシアではなく,メシアについて証しをしている者である、と事実をそのまま告白したのです。
神はヨハネに、闇の中で光が来たことを証しする務めを与え、証しする力も与えていました。それでヨハネの証しを聞いた人たちは、光が来ることを知ってヨハネの所に来たのです。権力者が、ヨハネが特別な者なので人々が集まるのだ、と思うのも当然です。
尋問に来た人たちはヨハネに、「それではエリヤか、あの預言者か」と、次々とメシアと共に来ると約束されていた者かと尋ねます。それに対してヨハネは一つずつ「私は違う」と答えました。それで彼らは、「それではお前は何者か」と、自分はこれだという答えを求めます。それでヨハネはイザヤの言葉を用いて「私は荒野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」と答えました。ヨハネは、一時的に存在して消え去ってしまう声に過ぎない、しかしその声が神に用いられ、荒野で叫ぶ声の使命を果たしているのです。イザヤ書の荒野は、人里離れた寂しい地というよりも、奴隷であった民が約束の地へと歩む地、捕囚から解放された民が故郷に帰還する道です。そこには人間的この世的物質的な支えや助けはない、けれど神の約束と語りかけている声がある。その約束と声が民を生かし力づけて歩ませ、育て鍛えている所です。その声は、唯大声で叫ぶ声ではなく「主の道をまっすぐにせよ」と聞くべき言葉をはっきりと伝えている声です。「主の道」は神のご計画、神の意志が進んで行く道です。神がその道を整えて下さる、だからその道を進もう、とヨハネは荒野で叫んでいるのです。そして神の民がそのヨハネの声に従ってきているのです。
私たちもこの時代に、荒野で叫ぶ声として用いられているのです。
2013年12月1日
説教題:神の約束は果たされる
聖書:エレミヤ書 33章14-16節 ルカによる福音書 21章25-33節
今日から待降節です。神が約束された救い主、御子イエスが誕生したお祝いのクリスマスを迎える準備の時です。お祝いの準備を始める日の聖書は「天と地に激変が起こって、諸国の民はなすすべを知らず不安に陥る」と言っています。これが神のご計画で約束です。
神は、現在の天と地、人間の世界がこのまま永遠に存続するとはされていません。このままではいけないのです。神の御心に添う世界に造りかえなければいけない、とお考えになっているのです。その神のご計画を知らないので、「人々は、この世界に何が起こったのかとおびえる」のです。現実にそこに起こっていることが理解できないのです。
聖書がここに記していることは、歴史の完成、終末の時のことですが、これと同じような混乱状態は現在も世界の各地に見られるのではないでしょうか。神を信じない人々、また神のご支配を知らない人々は、自分の義を主張し、自分の存在と力を大きくしようとしています。人間の心は一つになりません。人が集まると考えの違いや対立が生じます。一人の人も考えが変わります。大きな自然災害も各地に起こっています。それで政治の世界だけでなく、経済や科学技術などの世界、個人的な生活の在り方などでも各地で混乱が起こっています。人々はいつどのようにこの世界が変わるか分からない不安の中にいます。そこには確かな目標がなく、目標に向かっているという意味ある歩みがありません。
エレミヤは33:14で、「見よ、私がイスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主が言われた」と記しています。この時エレミヤはユダの王によって獄に入れられていました。エレミヤが、人間の思いで歩んでいるユダの国は神から罰を受け、異邦人の支配下に置かれる、と語ったからです。しかしエレミヤは、「神は、神の民と共にいると言った、約束を果たす日が必ず来る」、と確信を持って語っています。闇が支配している状況の中で、光の時が来る、神を信じ光を見て希望に生きよう、と語っているのです。
ルカも「その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びてくるのを人々が見る。このようなことが起こり始めたら身を起こして頭を上げなさい」と言っています。エレミヤが語っている約束の日は、ダビデ家からイエスが生まれた日のことで、クリスマスによって約束が果たされたことを現しています。そして神の約束はキリストの再臨をも語っています。
待降節のこの時、私たちは、神が約束によって御子を与えて下さったことを感謝し喜び祝う準備をすると共に、神は終わりの時に救いを完成させて下さる、キリストを再臨させて下さるとの確かな約束を信じて、今の時をその日に備えて生活するのです。今までの人間的な思いによる歩みを捨てて神の前に目覚めた歩みをするように、悔い改めるのです。
地上の世界は、互いに自分の義を主張して混乱し、確かな目標がなく空しい歩みをしていますが、天地は滅び私たちが死ぬことがあっても、神の国は必ず来るのです。神の約束のご支配が実現するまで、この世界は決してむなしく滅びることはないのです。
待降節は神のご支配と約束を忘れている私たちが悔い改めて神に思いを向ける時です。
2013年11月24日
説教題:収穫の喜びと感謝 (子どもと一緒の礼拝)
聖書:申命記 16章9-15節 コリントの信徒への手紙二 9章10-12節
ここに沢山の果物や野菜が捧げられています。これは誰に感謝して捧げているのでしょうか。神さまに感謝を捧げているのです。
この果物と野菜は、農家の人が種を蒔かないと実りがないですね。でも農家の人が種を蒔いても鳥が食べる、芽を出しても枯れる、虫に食われる、病気になる、実が風や台風で落ちることもある。神さまが種に命を与え、守ってくださり、太陽と雨をそして季節を与えて下さってこのように実り、収穫ができたのです。それに、農家の人が働くことができるように、食べ物や生活に必要なものを神さまが与えてくださっています。ですから神さまに感謝するのは、この果物を手にした人だけでなくみんなで感謝するのです。
そして、今日のありがとうの感謝は、神さまだけでなく、農家の人や天気予報をする人、水や電気を送ってくれている人、運んでくれる人などみんなに感謝しているのです。だから農家の人も、お店で買って手にしている人も「これは私の物」と独り占めしないで、神さまに捧げてみんなで感謝するのです。
パウロさんは、収穫物を手にすることができたのは誰のお蔭ですか、種を蒔いた人がいるからでしょう。でも種を蒔く人に種を用意して与えたお方がいる、種を蒔く人にパンを与え健康で働く力を与えたお方がいる、そのお方は種が芽を出し成長させて沢山の実を結ばせてくださるお方です、と言っています。このお方は神さまですね。パウロさんは神さまが与えて下さった恵みを感謝して、必要としている人たちと分け合う時、種が多くの実を結ぶように、恵みを与えた人も多くの恵みを得て豊かになる、と言っています。
フィリッピンで台風30号の大災害がありましたね。そう日本からも援助に行っています。日本が東日本大地震で大変だった時に援助してもらった、それで今度日本人として援助しようという人たちがいます。まだ自分は大変な生活をしているのだけれど、あの人に援助できるだけの力が与えられているのを感謝し喜んで援助しよう、という人がいます。援助することによって、私はこれだけ豊かにされているのだと喜ぶことができます。嫌々援助すると損をした、自分は貧しくなったと思ってしまいますね。1年生も人を助けてあげると大きくなったと思うでしょう。手にした収穫物を神に感謝して分け合うことによって、私たちは豊かな人にされます。
そこで何を感謝するかです。沢山の立派な収穫があったからそれを感謝することもありますが、小さい実、格好の悪い実でも恵みによって実を結んだことを感謝するのです。全ての実りを感謝するのです。お店に出せない収穫の実も沢山あります。それらも感謝するのです。金メダルを取った人だけが感謝するのではなく、弱く小さい歩みしかできない人も神にあって生かされ、用いられていることを感謝するのです。収穫感謝は、全ての人の存在と働きが神さまにあって実を結ぶことを覚えて感謝しているのです。
2013年11月17日
説教題:キリスト者の戦い
聖書:ヨシュア記 1章1-9節 エフェソの信徒への手紙 6章10-20節
キリスト者以外も戦いをします。その戦いは生きるためで、赤ん坊も含め全ての人がその戦いをしています。しかしキリスト者は、生きることが他の人と違う、と言えます。
信仰のない人は、生きるための戦いに勝つためには強くならなくてはいけないと、言います。ところがパウロは「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」と言っています。強くなりなさいというのは、あなた方は弱いと言っていることです。弱いから自分を強くしなさい、というのではなく、主が強いから主を信頼して主のご支配の中で強くなりなさい、と言っているのです。キリスト者は、自分の力、自分の強さによって戦うのではありません。「主に依り頼み」は、6:1の「主に結ばれている」と同じ言葉で、「主のご支配の中で」という言葉です。キリスト者の戦いは自分を生かすためではなく、神の御心を自分の信仰生活を通して現すことです。神の御心を現すために、信仰生活をする、神に用いられる、それがキリスト者の生き意味です。
私たちキリスト者が戦う相手は、神の敵である悪魔です。悪魔は,御子イエスを誘惑したように、いろいろな策略で私たちを神から引き離そうとしています。策略を持って誘惑し、攻撃してくるので、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」と命じています。私たちは自分の力だけでは悪魔に対抗して立つことができないのです。私たちの戦いの相手は、血肉といった人間ではなく、地上を支配し人間をも動かしている諸霊です。宗教改革でルターが戦った相手は、カトリック信者ではなく、その人たちの中に働いて自分を義と主張させていた悪の霊でした。
これら悪の霊の存在は、戦争や紛争などだけでなく、虐待や過酷な雇用関係など身近なところにも現実に見ることができます。この世には、また人間の心の中にも、私たちを神から引き離そうとする霊が働いています。生きる力をも失わせ、人間関係を破壊し、愛と憐みの業をさせないようにします。6:13で、その悪霊に勝つために神の武具を直ぐに身に着けなさい、と言っています。呑気にしていることはできないのです。そして隙のないように完全武装して戦えと命じています。
6:18以下では、一人完全武装して戦うだけでなく、祈るように命じています。祈りは神との交わりです、祈りによって神を戦いの場に引き出し、戦いを神の戦いにするのです。キリスト者は主にあって心を合わせ一つになって、絶えず祈って戦うのです。そこに確かな勝利があるのです。ヨシュア記で神が語っているようには、死んだモーセや人間に助けを求めてもむなしいです。神が共にいてくださることが勝利の道を歩む確かな力なのです。ヨシュアがなすべきことは神を信じて、神の言葉に忠実に従うことでした。
キリスト者の戦いは神の御心に従って生きる戦いです。その勝利は、この世で大きく強くなることでも長生きをすることでなく、神の御心に従って生き抜いたらたとえ短命であっても勝利の歩みなのです。神から引き離そうとする力に勝利することが大事なのです。
2013年11月10日
説教題:主に結ばれている者
聖書:レビ記 25章35-46節 エフェソの信徒への手紙 6章1-6節
今日の聖書の箇所は、5:21にある「キリストに対する畏れの心を持って互いに仕え合いなさい。」の勧めの中にあります。キリストに対する畏れを持っているのは、キリストによって救われていることを喜んでいる人です。
この手紙は教会宛に書かれています。ですから5:22-33を読むと分かるのですが、夫と妻は互いに仕え合うことでよい家庭を作りなさい、とは言っていません。キリストの教会を建てなさい、と勧めているのです。夫と妻は神によって結び合わされて、父母を離れて結ばれ一つ体になった。この世の人間関係から離れ、主にあって一つになってキリストの体を造りなさい、と勧めているのです。
6:1-9も教会の中での人間関係やお互いの自己理解と義務と責任について語っています。6:1「子どもたち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。」とある「子どもたち」は幼子ではなく、成人している教会員のことです。一般社会では、子供も大きくなったら一人前なのだから親に従わないで自立して考え責任を負え、という考えがあります。ですから、ここで「子たちよ 両親に従え、それは正しいことです」と言っているのは、人情として正しい、社会常識や習慣とし正しい、ということではなく、主に結ばれている者として、主によってその両親が与えられて今の自分があり、親子関係がある、だから成人して親の問題点が見え、親が重荷になるようになったとしても、親を敬い従いなさい。これは主にあって正しいことです、と言っているのです。
ここで言われている親子の関係は、肉の親子の関係ですが、信仰者として教会の中で親子関係にある人々にも言っていると思われます。教会は神の家族であるとパウロは各所で記しています。教会は母なる教会とも言われています。教会が新しい信仰者を産み育てるのです。教会にはその責任があり、それを果たして一人前の教会だと言う人がいます。
6:5から奴隷と主人のことが語られています。パウロは奴隷の生活を知っていて、主に結ばれている者として、神のご支配を信じて主に従うように主人に従いなさい、と言っているのです。奴隷も主人も主によって今ここに生かされているのだから、主にあって自分の境遇を受け入れて、不平や理屈を言わないで、置かれている場で義務と責任を果たしなさい、と命じているのです。奴隷だけでなく、苦難の生活をしている全ての人に、神がこのように私を用いて下さっているのだと、自分に与えられている務めを主にあって心を込めて行い、責任を果たしなさい、と言っているのです。
教会は、人々が権力やお金、利害関係などこの世の力で結び合っているのではなく、キリストの愛と恵みによって結び合わされている共同体で、キリストの体、神の家族です。ですから自分が置かれている立場を自分の力を示す場とは思いません。主にあって互いに仕え合い、喜んで自分の責任を負って果たすのです。それによって一人一人が育てられ、成長すると共に、教会全体もキリストの心に適う成熟した神の家族となって行くのです。
2013年11月3日
説教題:神のご支配を信じて
聖書:ヨブ記 1章16-22節 マタイによる福音書 6章25-34節
今日は召天者記念礼拝です。私たちが教会として今日記念している方々は名簿に記されている方々です。しかし私たちは、この名簿に記されている方々を覚えることによって、地上を歩み神に召された全ての人に思を向けてこの礼拝を捧げているのです。そして何よりも、今ここに生きている私たちの地上の歩みと、召される死に思いを向ける礼拝です。
教会は誕生初期の時から、教会として覚えるべき人の記念日を持っています。そして、無名の信仰者を覚える日も持つようになり、中世から11月2日を「諸聖徒の日」として守るようになりました。日本基督教団では11月第一主日を召天者記念の日としています。
この日第一に、死がどうしてあるのかに思いを向けます。聖書は、罪によって死が来る、神だけが罪を決めることができ、罪を赦し義として生かすこともできる、と言っています。
ヨブ記で、サタンが神に、ヨブは家庭も財産も恵まれているから神を敬っているがそれらを失ったら神を呪う、と言ったので、神はヨブに苦難を与えることをサタンに赦し、サタンがそれを実行したことが記されています。ヨブは苦難に遭っても「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と神を呪いませんでした。その後ヨブは、罪を犯していない自分がこのような苦難を受けるのか分からない、と嘆きます。それで友人たちは、自分は罪人だと認めて悔い改めろ、と勧めます。がヨブは、私は神を知り信頼している、肉の死は確かにあるが、たとえ私が罪を犯したことがあったとしても私の罪を贖って私の味方となってくださり、神を仰ぎ見て生きるようにしてくださる、と友人に告げています。
イエスは、空の鳥や野の花を見なさい、生きるか死ぬかで思い煩っていない。明日炉に投げ込まれる草も、神が今日の命命を与えているので活き活きと美しく装い輝かせている、だから神の国と神の義を求めなさい、と言っています。余命何日と告げられた人が残された日々を精いっぱい生きた、残された仕事に励んだ、という実例は数多くあります。
東日本大震災の時にも、逃げれば自分の命は助かったのに、他の人を助けるために、危険を知らせる使命を果たすために、死に向って命を投げ出した人がいます。その死は無駄な死でしょうか。死は忌むべきものなのでしょうか。パウロは「私たちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです、生きるにしても、死ぬにしても私たちは主のものです」と言っています。生きるか死ぬかは私たちにとって最大の問題ではないのです。神によって命与えられ、死は神に見捨てられるのではなく、神の許に召されるのです。今日記念している方々も神のものとして神の許に召されているのです。
死は罪によって来るのです。罪人の人間は、キリストの十字架によって贖いの命を与えられ、十字架を信じることによって死は眠りになり、眠りは目覚める時があるのです。永遠の眠りではありません。地上には帰らぬ人になっても神の国に目覚めて生きるのです。
私たちは明日のことを思い煩うことなく、今日与えられている命を主にあって精いっぱい生きるのです。その生死を超えた歩みが主にある永遠の命に生きている者の歩みです。
2013年10月27日
説教題:今の時を生かしなさい
聖書:エフェソの信徒への手紙 5章15-20節
「時を生かしなさい」は口語訳聖書で、新共同訳は「時をよく用いなさい」です。「生かしなさい」「よく用いなさい」は、お金を払って自分の手に買い取った物として有効に用いなさい、という意味の言葉です。ここでは今の時をどう生きるかを問題にしています。
5:16に「今は悪い時代なのです」と続いています。「今の時」「時代」は、私たちが生きているこの時です。今は悪が支配している悪い時なのです。その悪は自分中心の義、自分が強く豊かになろうという思いです。その時(世)の中に御子が愛と恵みをもって来てくださり、ご自分の命を代価に払って私たちを悪の支配から解放し、神のものとしてくださました。私たちはそのことを知って、キリストにあって生きているのです。
キリストは、私たち個人を贖ってキリストのものとしてくださっただけでなく、私たちが生きている時も世界も悪の支配から解放し、神のものにしてくださったのです。今は悪い時、悪が支配し満ちている時代のように見えます。ですから私たちは、すでにキリストが買い取って神が支配しているのを知っている者として相応しく生きるために、「愚か者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩む」のです。「賢い者」というのは、知識や知恵に優れている人や世渡りの上手な人ではなく、神の愛と恵みによって生かされていることを知っている人、神に喜ばれるようにと歩んでいる人です。「愚か者」は、学力のない人や忘れ物をする人、世渡りが下手な人ではなく、神のことを思わない人、自分中心の思いに支配されている人です。キリスト者は賢い者として生きるのです。
「細かく気を配って歩む」「よく注意して歩む」のは、悪い時代なのでそうしないと正しい道から外れてしまうからです。気を配り注意するのは、自分にとって損か得かではなく、5:10の「何が主に喜ばれるかを吟味する」ことです。5:17では「だから無分別な者にならず、主の御心がなんだあるかを悟りなさい」と言っています。今は悪い時代ですが、神は今の時を恵みの時として私たちに与えて下さっているのです。今の時を神から与えられている時として受け入れ、恵みの時として生かしてよく用いて生きるのです。病も、失敗も、災害も、神の栄光を現す機会となるのです。パウロはフィリピ2:14,15で「何事も不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、よこしまなまがった時代の中で、神の子として、星のように輝く」と言っています。闇の中で神を賛美している人は、同じ闇の中にいる他の人に希望を与える星のような存在になるのです。
神の恵みに生きるとは、酒に酔って我を忘れるのではなく、神に生かされている恵みと責任に目覚めて、今のこの時を喜びと忍耐を持って賢く生きることです。個人として生きるだけでなく、主の民として教会で互いに神の恵みを語り合い、神を賛美し合うことは信仰を強めることになります。この時が、キリストによって買い取られ、神のご支配のもとにある恵みの時として私たちに与えられているのですから、私たちは自分に与えられている今の時を、神の喜ばれるように有効によく用いて歩んでいきたいと思います。
2013年10月6日
説教題:光の子として歩もう
聖書:申命記 28章1-9節 エフェソの信徒への手紙 5章6-14節
5:6に「むなしい言葉に惑わされてはなりません」とあります。子供だけでなく、人生経験豊かな人も詐欺に遭っています。そのような事件が起こるのは、お金を取ろうとする人の知恵の賢さと、見つからなければ悪いことをしてもいいのだという考えがこの世にあるからです。事件の報道を見て「うまいことをして稼いでいるな」と自分も仲間になる高校生や大学生がいます。このようにして稼ぐのは神の御心ではありません。
この手紙はキリスト者に宛てて書かれています。「むなしい言葉に惑わされてはいけません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順の者たちに下ります」と惑わすことよりも、惑わされることが不従順でその者に神の怒りが下る、と言っています。この世にはむなしい言葉が多いです。ですからキリスト者は神の言葉を聞いて、惑わされないように歩まなくてはいけないのです。
この世は上手にだまして利益を得て生きることを良いこととしているのです。きれいごとを言っていたら儲けることができない、生きていけないという人がいます。だまして得た物で生きている人は、神の前では生きていけませんが、この世では生きていけるのです。この世の人は、闇の中にいるので光も正しい言葉も知らないので、むなしい言葉を自分の知恵と判断とで正しい言葉として生きているのです。
しかしキリスト者は、むなしい言葉に惑わされてはいけないのです。「彼らの仲間に引き入れられないように」しなければいけないのです。神に対して不従順になってはいけないのです。聖書は、光と闇とを明確に対置しています。神は、キリストの十字架と復活によって、闇が支配している世界と光が支配している世界とを明確にし、私たちが闇の世界に生きていることに気づかせ、私たちを神の子、光の子にしてくださったのです。ですから、私たちキリスト者はこの世がどんなに闇の世でも神の子、光の子として歩むのです。5:8「あなた方は、以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。光の子として歩みなさい」と高い上からでなく、私たちの内に宿ってくださっている主が命じているのです。「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じる」のです。
光の子として歩む私たちの歩みが以前と違うのは、自分の喜びが中心であった歩みが、「何が主に喜ばれるかを吟味」して歩むように変えられたことです。私たちの内には今も自分を喜ばそうという思いがあります。そこで信仰の戦いが起こります。しかしその戦いで力となるのは、肉の自分の意志の強さではなく、光の子としてくださっているキリストの力です。キリストの力に生かされ、導かれて生きる時、「実を結ばない暗闇の業に加わらないで」実を結ぶ歩みをするようになるのです。終わりの日に全ての業が、神の前でむなしいものか、意味あるものか、が明らかにされるのです。
人間もこの世も依然として闇が支配しているように見えます。だからこそ私たちはキリストに結ばれて光の子として、喜びを持って力強く歩んで行きたいと思います。