2009年9月27日
説教題:神に愛されている子供
聖書:エフェソの信徒への手紙 5章1-5節
【説教】
私たちはイエス・キリストの十字架によって救われています。イエスの十字架は全ての人を救う神の愛です。しかしその神の愛を信じていない人がいます。知らない人がいます。
5;1に「あなたがたは神に愛されている子どもですから、神に倣う者になりなさい」とあります。これは神の愛を知っているキリスト者に言われている言葉です。
神の愛によって救われたということは、今まで自分を支配し縛っていた自分中心の罪やこの世の力から解放され、自由にされたということです。神の愛を知らなかった今までの自分は古い人で、神の愛に生かされている今の自分は新しい人となるのです。
神の愛によって解放され、自由にされた私たちはどう生きたらよいのでしょうか。その私たちが生きる新しい目標とするお方として「神」が示されたのです。しかし、「神に倣う者になる」ということが私たちにできるでしょうか。パウロは、「私に倣いなさい」と他の所で言っていますが、「神に倣え」と言っているのはここだけです。人間の中には高慢になって、自分を神とする人がいます。自分に従え、自分を拝めと言う人がいます。しかし、ここで示されている「神」は私たちを救うために御子を十字架につけてくださった神です。その神に倣うのです。その神の愛に倣って生きるのです。私たちも、十字架を自分のものとして自分を捨て、神が愛するものを愛し生かすように生きるのです。
「神に愛されている子供ですから」と始めに言っています。父に愛されている子供も、父を正しく知るまでは甘えて勝手をするかも知れません。でも大人になって、父の愛によって今自由な者とされていることを知った時には、父の愛に応えよう、父の子にふさわしく、父に正しく倣って生きよう、という思いが生まれます。新しい人が誕生し、神に愛されている子の喜びと感謝の歩みが始まるのです。
子は父のあらゆる面を真似ます。神の絶対的な意志と支配を高慢に成って真似る人間がいます。私たちは神のどこを、どのように倣うのか。5:2で「キリストが私たちを愛してご自分を神に捧げて下さったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」と言っています。自分中心の愛ではない、キリストに生かされている新しい人の愛で歩むのです。5;3では「聖なる者のふさわしく」あることを求めています。罪や汚れを断絶している神の子にふさわしい者になるのです。地上に心を置くのではなく、神の国を見ながら歩むのです。
その生き方は、神の愛のご支配の中にあってですが、自由を失っているのではありません。十字架によって自由にされているのです。奴隷ではなく、子なのです。子にされている者は、自由意志によって、父である神に倣う者になるという歩みをするのです。それは、奴隷のように神の道を重荷で辛いと不平不満を持つ歩みではなく、子とされていることを喜び感謝して、神の前に主体的に積極的に歩む歩みです。
神の子は、父である神に倣って愛に生きることが期待されているのです。そして、その愛に生きる命と力は、十字架によって、神から私たちに与えられているのです。
2009年9月20日
説教題:神に導かれる隣人愛
聖書:創世記 45章1—15節 ヤコブの手紙 2章8-13節
【説教】
ヤコブが2:8で「聖書に従って『隣人を自分のように愛しなさい』という律法を実行しているのなら」と言っているのは注目すべき言葉です。2:1-13は、隣人を愛することが人を分け隔てする問題を生じることになる、と語っているのです。
私たちは隣人を見、相対します。その時当然のこととして、隣人を外から見、観察し、自分が持っている尺度で区別し、序列化します。そして、隣人に対する態度を変えるのです。2:1-4にその態度の違いが描き出されています。
貧しい人を差別することは、その人の生存を危険にすることがあるのです。飢えや自殺にいたることがあるのです。2:10-11では、律法全体が一つになっている。だから、その小さな一つの違反でも人殺しと同じ罪になる、神の御心に背くことになる、と言っています。私たちは差別をそのように重大に思っているでしょうか。
ヤコブは、人を分け隔てしないためには、聖書に従って「隣人愛」を実行することだ、と言っています。「隣人を自分のように愛しなさい」ということも、聖書を知っている人と、聖書を知らない人では違いがあるのです。一般に「自分の身になって考えなさい」と言いますが、その時の自分をどう見ているでしょうか。「人に迷惑をかけるな」「悪を行なうな」「仲良くしなさい」と言いますが、「悪い友だちの仲間になるな」「よい友達を持ちなさい」とも言います。自分が上に向かって行くようにして、下に向かう自分を捨てるように、と親も自分も思うのです。そこでは隣人を観察し、差別、序列化がされるのです。私たちは自分が可愛いし、大切なのです。ですから、自分を愛するように隣人を愛する時、自分に身近な人、役立つ人、好意的な人、味方になる人には愛を感じるが、逆の人の場合には無関心になり、反感を感じることが起こるのです。私たちは自分を失いたくないのです。
裁判の難しさは、自分を中立の立場に置くことの難しさにあるのでしょう。
「自分のように」「自分を愛するように」と言っても、「自分を正しく見て、正しく愛しているか」が問題でしょう。ルターは「キリスト者は、キリストにあって全ての人に仕える奴隷である」「キリストが私に対してなってくださったように、私も隣人に対してキリスト者になりたい」と言っています。ですから、「聖書に従って」が意味をもつのです。「聖書に従って」は、「神の国に生かされている者として」であり、「十字架の愛に生かされている者として」です。十字架の愛によってキリスト者とされている私たちは、隣人を差別してしまう心に気づくのです。自己中心に愛してしまう罪人の自分を捨てるのです。聖書に従い神の愛に導かれて「隣人を自分のように愛する」者になりたいと思います。神は、十字架のキリストによって、私たちをそのようなキリスト者にして下さるのです。
創世記45:1-15は、ヨセフが兄たちを赦し、兄弟たちと一つになったのは、神に導かれてである、と言っています。神の愛が、分かたれ、裁き合う兄弟を一つにし、新しい命を与え、光と喜びの中を生きる者にしてくださっているのです。
2009年9月13日
説教題:一つとされる神の民
聖書:コリントの信徒への手紙一 1章10-17節
【説教】
パウロは手紙のはじめの挨拶が終るとすぐ、10節で「兄弟たち、あなた方に勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして固く結び合いなさい」と言い、11節で「あなた方の間に争いがあるのを」聞いた、と言っています。
この争いをそのままにしていたら大きな問題になるかも知れない。そこでパウロは、この問題を取り上げ解決するようにと、権威をもっている者として上から命令するのではなく、心を込めて諭すように勧めているのです。
問題はなぜ起こったのか。どのように解決したらよいのか。パウロは、「皆、勝手なことを言わず」と言っています。ここは「皆、語ることを一つにし」とも訳されています。国と国とが条約を結ぶ時に使う表現です。両国が自分の主張を捨てて、平和共存の条約を結んだ時の表現です。「勝手なことを言う」のは、自己主張すること、自分の思いと存在をはっきり現すことです。この世ではこれが大きな意味を持っています。しかしパウロは、そのことが争いの原因になっている、と見ているのです。「自己主張を止め、人間の声によってではなく、キリストにあって一つになるように」と言っているのです。
「固く結び合う」という言葉は、ばらばらに乱れているものを整理して正しい位置に戻す、部品を一つに結び合わせてあるべき状態にする、という言葉です。キリスト者は、キリストによって一つの体に、一人一人がキリストの体の肢体として適切に結び合わされるのです。パウロは分裂や争いが見える教会の問題解決としてこのことを言っているのです。
ところが現実の教会には、皆が勝手に自己主張するだけでなく「私はパウロに」「私はアポロに」とグループが出来、対立が起こっているのです。しかし、パウロとアポロは対立関係にはありません。「私はパウロに」という人がいても私はそのグループに関係ない、とパウロは言っています。アポロもこのグループには全くの関心がありません。「ケファに」「キリストに」という人も、自分を誇るためにその名を利用しているのです。人間幾人かが集るとそこにグループができ、競い合いや対立が起こるのです。教会でも起こるのです。
そこでパウロは、キリストは幾つにも分かれたのか、と言います。この分かれた理由が、信仰理解の違いなどにあったではなく、誰から洗礼を受けたかを誇る、洗礼を授けてくれた先生を誇ることにあったようです。そこでパウロは、皆イエスの十字架によって救われたのではないのか、私は洗礼を授けることよりも十字架の福音を告げ知らせるために遣わされている、と言っています。
イエス・キリストによって救われ、新しい人にされることは、キリストの体である教会に結び合わされることなのです。それは、自分を新しい人とし、自己主張や人間的な誇りを捨てて、キリストによって皆が固く結び合わされて生きることなのです。
私たちキリスト者は、キリストによって一つにされ、キリストのご支配の下に生きる、神の民なのです。
2009年9月6日
説教題:天に属する命と体
聖書:列王記上 3章4-14節 コリントの信徒への手紙一 15章35-49節
【説教】
私たちが求めている救いはどのようなものなのでしょうか。
自分が実感できる喜び、楽しみ、満足感でしょうか。教会では、キリストにあっての復活に、神の命に与ることを救いとしています。「神の命に与る希望があるから、現在の苦しみは取るに足りない」というのが教会の語っている救いで、キリスト者の生き方です。
ところが現実には、35節で「死者はどんなふうに復活するのか。と聞く者がいる」と書いてあるように、教会の中にも「死んだ人間が復活するものか」という人がいるのです。
パウロはその人たちに「愚かな人だ」と言っています。そして、種を蒔くことと、種が死んで新しい命の芽がそこから出てくることを語っています。「この譬えは、死と死人からの復活を十分に説明している、とは言えない」という人は多いです。パウロは、ここでは、死人からの復活について直接説明していません。37-38節で「人間は種粒を蒔くが、神は御心のままに、その蒔かれる種一つ一つに新しい体をお与えになる」と言っています。41節までで語っていることは、地上や天上に存在するものの命と体は神の御心によって与えられているものだ、ということです。だから、現実の命と体だけを見て、神による命と体があることを思わないのは愚かだ、と言っているのです。
復活は人間の業や力によって成るのではありません。復活は、死んだ人の業や歩み、葬る人の葬り方によって左右されるのではありません。神の御心と御力によるのです。ですからここでの説明は、人間の論理で理解しようとする者にとっては、丁寧ではありません。
パウロがここで強く告げているのは、私たちのために十字架に死んで葬られたイエスが、神によって天に属する命の体に復活させられた、その事実があるのだから、イエス・キリストを信じる私たちは、イエスを復活させた神の御心と御力によって新しい命の体に復活させられる、ということです。そこに私たちの希望があるのです。
復活するのは、元の体に再び戻るのではありません。44節以下にある「自然の命の体」は、生まれながらの罪があり朽ちる命の体です。その命の体の人間が、イエスを信じて死ぬことによって、イエスの霊をいただいて天に属する、朽ちない霊の命の体に復活するのです。死ぬまでは、自然の力が肉の体を生かしていますが、信仰によってイエスの霊もその体に宿っているのです。私たちの命の体は、自然の生まれながらの命の体だけではないのです。十字架と復活のイエスに与る天に属する命の体があるのです。
列王記上3章で、ソロモンが王に立てられたことを神に感謝して祈った時、神はソロモンに「何でも願うことを与える」と言いました。そこでソロモンは、知恵者と言われていましたが、「自分は取るに足りない若者で、民をどう導いてよいか分らない。だから、神のみ旨を正しく知る知恵を与えてください」と願っています。
私たちは、自分の愚かさを知ると共に、私たちが思っている以上にすばらしく貴い、天に属する命の体の約束が与えられていることを、覚えて歩んで行きたいと思います。
2009年8月30日
説教題:栄光に与る希望
聖書:ローマの信徒への手紙 8章18-25節
【説教】
人間生きていくのには希望が必要です。旅路でも道を見失ったら足は進みません。確かな道を歩んでいるなら、険しい山路でも、希望と喜びを持って積極的に進んでいけます。
人々は苦しみのない快楽を求めています。それが救いだと思っている人がいます。しかし聖書は、8:17で言っているように、キリスト者はキリストと共に苦しむことを、主とともに栄光を受ける歩みとして喜んでいるのです。
8:18に「現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」とあります。これがキリスト者の現在の歩みです。将来確かな栄光の希望がある。そのことによって、現在キリストにあって与えられている苦しみをしっかり担って歩んでいけるのです。その苦しみを担っての歩みは、嫌々担っている歩みではなく、希望の喜びを持っての歩みです。希望があるところには、他の人に対して心を向ける余裕があります。
確かな希望は、約束されている道を歩むことによって得られるのです。自分の好き勝手な道を歩んでいたのでは、約束されている希望を得ることはできません。栄光に与る希望が約束されている道は、十字架のイエスによって開かれたのです。その道を後に続く人が確かな足跡を残して歩んでいるのです。教会がその道を確かなものにしているのです。
栄光の希望は、キリストを信じて待っていたら与えられる、というのではありません。キリストの道をキリストと共に苦しみを担って歩むことによってだけ得られるのです。その苦しみは、自分一人の救いのためではありません。19,20に「被造物」が救いを求めている、とあります。被造物は、死と滅びで終る世界にいて、そこからの救いを求めているのです。被造物が死と滅びに服しているのは造り主である神によるのです。そして神は、その救いの道を十字架のイエスによってつくったのです。私たちが信じ、求めている救いは、その被造物全体の救いなのです。その救いのために私たちは苦しみを担っているのです。
23に「霊の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、体の贖われることを、うめきながら待ち望んでいる」とあります。私たちはキリストによって神の子とされ救いの道を歩んでいますが、まだ神の栄光である新しい天と地に生きる永遠の神の子とされていません。18,19に「現される」「現れる」とあるのは、神が今まで覆うっていたのを取り除いて現すということです。信仰の歩みをしている時には、希望として望み見ていたものが終わりの救いが完成する時には、はっきり現れると言っているのです。この救いの完成を望み見て私たちは今信仰生活をしているのです。
希望の全体は見えない。しかし、キリストによって神の創造と救いの御計画を知った私たちは、確かな栄光の希望をもって、今与えられている道を歩むのです。苦しみを味わうことがあっても、その道を歩んだ信仰の先輩たちに続き、今歩んでいる仲間とともに、後に続くものを思い、被造物全体の救いを望み見ながら歩むのです。このキリストにある栄光の希望が私たちをキリスト者として強くし、その歩みを目標へと導くのです。
2009年8月23日
説教題:神によって仕え合う
聖書:コロサイの信徒への手紙 3章18節-4章1節
【説教】
先週夏期休暇を頂いて、栂池から白馬の山歩きをしました。栂池山荘は、夕食は5時半からで朝食は7時からでした。「明日、白馬に行く」と言うと、「朝食は御弁当にしましょう。出かける時鍵はここに入れてください。受付の人はいませんから」と言われました。栂池山荘は山歩きをしない人か、山歩きの最後の宿としている人が宿泊しています。ですから朝食は7時過ぎでよく、夜9時にテレビを見ている若い客がいました。白馬山頂宿舎では5時半に夕食した私たちが最後でした。よく見える所に「朝早い人がいるので、夜は8時には静かにして、他人に迷惑にならないようにしてください」と掲示してありました。朝食は5時には出来ていました。これは、神が造られた自然の中を、神が治めている時間の中で山歩きをすることなのだ、と思わされました。
今日の聖書3:21に「父親たち、子どもをいらだたせてはならない」とあります。子育ては親の責任だ、と言われますが、今日の聖書は、親子も夫婦も奴隷と主人もその関係を、お互いに相手を理解して仕え合う関係だ、とは言っていません。3:20で「子供たち、どんなことについても両親に従いなさい」と言って、「それは主に喜ばれることです」、と言っています。エフェソ6:4には「主がしつけ、諭されるように育てなさい」とあります。聖書は、両親が自分の経験と知恵と責任で育てなさい、とは言っていないのです。主が両親の経験と立場を通して知恵と力を両親に与えている、それによってしつけ、育てなさい、と言っているのです。「いらだたせるな、いじけるといけないから」というのは、子どもが親の言うことに不平不満をもって、親に素直に聞き従わなくなるということです。それは、子供にも神から、今あなたはここでこう死なさい、項あるべきです、ということが示されているのに、親が子どもに違うことを指示命令しているからでと思います。
3:22-25では、奴隷たちに、主にあって主人に仕えなさい、と言っています。
4:1では、主人たちに、自分の思いで奴隷を扱うのではなく、天にいます主人に仕える者となって奴隷を扱いなさい、と言っています。
山歩きをして思わされたのは、自分の思いを押し通すのではなく、宿の食事時間、寝起きの時間、宿の人の助言を聞くことが大事だ、ということでした。神から与えられた自然環境、時間、肉体などを謙遜に受け留めて歩むとき感謝と喜びの歩みになるのです。
人間は一人一人思いも力も違います。しかし社会人としての適応、まとまりも必要です。それを、法律や上からの力によって縛り、仕えるようにするのではなく、一人一人が神にあって、与えられ生かされている環境や条件を自覚し、神の前に責任をもって生きることがここに示されていると思います。誰か人間が支配者になるのではなく、肉体と自然と社会環境の創造者であり、支配者である神によって今ここに生かされている、そのことを、謙遜に自覚して神の前にお互いに責任をもって仕え合って生きる家族、社会人でありていと思います。それが神が求めている、神にある喜びの生き方ではないかと思います。
2009年8月16日
説教題:神と恵みの言葉に委ねる
聖書:使徒言行録 20章25-35節
【説教】
今月の30日に衆議院議員の選挙があります。各党が、自分たちの党は政権をとったらこの国をこのようにします、と言っています。しかし、他党は、信用できない、と批判しています。約束が信頼されていないのはなぜか。それは、人間の力で社会や歴史をつくることは出来るからです。人間は、十人十色で、皆自分の思いがなることを求めているのです。
聖書の民も、神の言葉に聴き従うよりも、自分の思いで歩むことを度々しているのです。その民に神は、神の義こそ眞の義であることを知って、神の力に依り頼んで生きるように勧めています。特に新約聖書では、神は御子イエスの十字架を通して神の義とご支配を示し、イエスを主と信じて歩むように命じています。
教会が誕生した時、パウロは福音を伝え、教会を立てる働きをしました。今日の20章はパウロの第三回伝道旅行の終わりに近い所です。この旅行の最後の目的地はエルサレムです。パウロはエルサレム教会に諸教会からの献金を渡したら、ローマからイスパニアに行きたいとの思いを持っていました。パウロは、エルサレムへの出発を前に、ミレトスにエフェソや近隣の教会の長老を呼び集めて説教をしたのが今日の聖書です。この箇所は“パウロの告別の説教”とも呼ばれています。
パウロは、15-21で今まで自分は言葉だけでなく身をもって福音を伝えてきたと語り、22-27で今エルサレムに行く途上にあるがそこで何が起こるかわからない、無事にすまないことは聖霊によって知らされている、これがあなた方と最後の別れになるだろう、と語っています。ここでパウロは、福音が神の福音であること、だから自分は神の導きと力を信じて福音を伝えたこと、そこで残る教会の長老たちがどうあるべきか、を語っています。
28で「どうか、あなたがた自身と群れ全体に気を配って下さい」と言っています。他人のことだけではない、自分自身にも福音に生きているか気を配りなさい、と言っているのです。昔も今も、他人を批判し問題があるとして、自分は正しく問題がない、とする人が多くいます。教会の中にも、キリスト者の心の中にもそのことが起こる危険があるのです。29「私が去った後に、残忍な狼どもがあなた方のところに入り込んできて、群れを荒らすことが私には分っています」。30では、狼が外から来るだけではない、仲間の中からも狼になる者が出てくる、と言っています。これが人間の世界の現実です。教会も例外ではない。狼は、神に仕えるのではなく、自分を主人にし神の羊を自分のものにするのです。
そこでパウロは長老たちに勧めるのです。「今、神とその恵みの言葉にあなた方を委ねます」、と。パウロは、自分の言葉を守れ、この人に聞き従え、皆で話し合え、自己研鑚しろ等と言っていません。キリスト者も、教会も、神の福音に生きることは戦いの生活です。肉の人間もこの世も自分の思いがなることを求める力が強いのです。それで神の御心がなるように生きることは戦いの生活になるのです。その戦いは、神と恵みの言葉を信じて、全てを委ねて聴き従って歩むことによって勝利を得ることが出来るのです。
2009年8月9日
説教題:神のすばらしい御業
聖書:ヨナ書 3章1-5節 使徒言行録 9章26-31節
【説教】
今日の聖書の9:26に「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じなかった」とあります。:29には「ギリシャ語を話すユダヤ人と語り議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた」とあります。サウロには二つのグループの敵がいました。その理由は7:54-8:3を読むと分ります。
サウロは、ギリシャ語を話す人に好意的であったキリスト者ステファノを石で打ち殺したユダヤ人たちの仲間だったのです。サウロを含んだユダヤ人たちの迫害によって、多くのキリスト者はエルサレムから散っていきました。彼らは、散っていきながら福音を告げ知らせ、信者を生み出して行きました。信仰の堅さ、聖霊の働きの強さを思わされます。使徒を中心にしたキリスト者は迫害の中でもエルサレムに残っていました。弟子たちはこの二つのグループに分かれました。
サウロは、ダマスコの教会を迫害するためにダマスコの近くに来たとき、天からの光りに照らされました。そして天からの声が「私はあなたが迫害しているイエスだ」と言って、サウロになすべきことを指示しました。サウロは、その指示に従って歩むことによって、目からうろこのようなものが落ち、目がはっきり見えるようになって神の創造と救いが分ったのです。9:1-20に記されています。このサウロがパウロです。
サウロは神から力を与えられて、イエスが救い主であることを人々に語りました。これは驚くべき神の業です。サウロ自身の中から出てきたのではありません。今まで否定していたイエスの十字架による救いを真実と信じるようになったのです。自分が迫害していた人たちの仲間になったのです。キリスト者になったサウロは、エルサレムにいる弟子たちの仲間に加わろうとしましたが、弟子たちはサウロを弟子だと信じないで恐れました。ギリシャ語を話す弟子たちはサウロを殺そうとねらいました。ステファノを殺し教会を迫害したことに対する憎しみがあったのでしょう。9:23,24のユダヤ人は、キリスト者ではないユダヤ人で、一緒に教会を迫害した仲間のサウロに裏切られたとの強い思いがあったのだと思われます。神はこのサウロを選び用いて福音の伝道者にしたのです。
神はどうして、福音の伝道者、教会の基礎の働きをする人物に、あえてこのサウロを選んだのでしょうか。教会を迫害し、教会の敵となり、キリスト者から憎まれ殺そうとさえ思われる人物をどうして神は選び用いたのでしょうか。伝道は憎まれている人よりは、好感を持たれている人によって進められる方が望ましいのではないのでしょうか。
後にパウロは、自分が神に選ばれて使徒伝道者になった経緯について度々書いています。そこでパウロは、神がなさっていることは人間の知恵や賢さとは違う、神の愚かさ、神の知恵による、と言っています。神の救いは、人間の知恵や力によって獲得するものではありません。神が恵みとして与えてくれるものです。パウロはそのことを神に救われ選ばれることによって知ったのです。それで喜んで福音を語る務めを果たしたのです。
2009年8月2日
説教題:平和をつくる神の愛
聖書:コリントの信徒への手紙二 5章14-21節
【説教】
今日は日本キリスト教団が、64年前の戦争を覚えて、平和聖日としている日です。
平和は神の愛が支配して現実になるのです。神の愛が強く支配しないと、肉の愛、自分中心の愛、この世的な愛が力を持つのです。そして、混乱と争いが起こるのです。
神は天地を創造された時から、愛をもって創造し、愛によって治めているのです。ですから、この世界と歴史に平和があるのです。その愛は、神の霊、聖霊によって地上に臨み働くのです。神は愛である御子を人間の中に送り、御子の十字架を通して神の愛を示されました。その愛が聖霊となって私たちの内に宿り、生きて働いて、キリスト者を平和をつくる者にしているのです。
5:14「キリストの愛が私たちを駆り立てる」と言うのは、神の愛が私たちの心を支配している。神の霊が私たちの内で強く働いている、ということです。どうしてキリストの愛が私たちを駆り立てるのか。「私たちはこう考えます。一人の方が全ての人のために死んでくださった以上、全ての人が死んだことになります」。このように聖霊によって私たちはイエスの十字架を理解し、イエスを私たちの救い主と信じるのです。自分の知恵や思いによってではありません。キリストの愛が私たちを駆り立てて、愛に生きる者にするのです。5:17で、「キリストに結ばれている人は誰でも、新しく創造された者になる」、と言っていることが現実になるのです。自分ひとり、自分中心にものを見て生きる者ではなくなったというだけでなく、自分の生きている世界と歴史全体が自分中心ではなく、神の愛によって存在し、生き、生かされている世界になったのです。新しい創造が起こったのです。
:18では、キリストを知り聖霊が宿って起こって、その新しい創造を、「神と和解させられた」と言っています。神が御子の十字架によって、私たちとの間に和解を与えて下さった、平和を得たのです。それによって私たちはキリスト者として、神が平和を与えてくださっていることを伝える者になったのです。神は「和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになった」のです。私たちの知恵や力でこの務めをするのではありません。私たちの内に宿り働いている聖霊の導きと力によって、この務めをするのです。
平和をつくるのには、政治や経済などのあり方が重要ですが、聖書は一人一人の心の中に神との平和がなければ平和はない、と言っています。神との間に平和を得ることによって、自分自身が平和な心を得ると同時に他者のことを思う愛を内にもてるのです。自分の義を主張し、他を批判し裁くことに熱心であるこの世で平和をつくるのには、各個人が神と和解し、神の愛、聖霊がその人を生かし、支配すると共に、その社会全体が神と和解し、神の愛にあって従順であることが必要です。私たちがキリストによる和解を得たとき、そこに本当の平和を作る神の愛があるのです。教会もキリスト者も問題があり、罪があります。しかし、その問題と罪を主が愛を持って負ってくださり、神との和解を与えてくださったのです。それによって私たちは平和をつくる神の愛に生きる者にされているのです。
2009年7月26日
説教題:神の恵みの声を聴く
聖書:創世記 21章9-21節 ローマの信徒への手紙 9章19-29節
【説教】
ローマの9:1-5でパウロは、神の民イスラエルが主イエスの救いを信じていないことを、深い悲しみと心の痛みをもって書いています。
6節で、イスラエルが信じないのは神の約束が変わり、キリストによって神の民への言葉は無効になったのではないか、との疑問をとりあげて、7節以下で神の約束は今も有効だ、神は神の恵みによる子孫に祝福を約束しているのだ。神は自由に恵もうと思う者を恵み祝福を与えるので、と語って来ました。
そこで19節の疑問「神が一方的に恵もうと思う者を恵み、憐れもうと思う者を憐れむのなら、人間はそれに逆らえないではないか、それなのになぜ神は人間の責任を責めるのか」が出てくる、それに答える形でパウロは語りだしています。
「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か」。人間には、神のなさることは神の勝手気ままに見えます。しかし、神は深い御心により、愛と真実をもって、恵もうと思う者を恵んでいるのです。人間は自分中心ですから、自分は全部分っている、自分の考えは正しいと思っています。「あなたの考えていることは私には分っている」と親子でも言い争いが起こるのです。親に対しても素直になれず、素直に現実を受け入れられないのです。
神に対しても神のなさることは不当だ、というのです。しかし、神と人間の違いは絶対的です。ここでパウロは、焼き物師と焼き物、造り主と被造物の例えで神と人間の関係を語っています。ここでパウロは、神と人間の関係を語るだけでなく、作られた物に違いがある、人間の間に違いがある、と言っています。貴い器に作られたのはイスラエルで、貴くない器は異邦人です。両方とも「どうして自分をこんな器に作ったのか」と言える立場にはいないのです。ここでパウロは、神は異邦人を怒りの器とし滅ぼすことを思われていたが、神は怒りの器である異邦人を寛大な心で耐え忍んだ。それもイスラエルの民に御自分の豊かな栄光を示すために、神はそのようにされた。と言って、どちらの器の方が神の恵みを多く受けただろうか、両方の器共に、神の大きな憐れみを受けているのではないか。両方の器が共に神の大きな憐れみと栄光を頂いているのです。と結論づけています。
この神の憐れみの声は、旧約の時から神の民だけでなく、神の民でない者にも呼びかけられていたのです。25節以下で、パウロはそのことを具体的に語っています。
創世記21:9-21では、神が選びの子ではないイシュマエルにも「私は必ずあの子を大きな国民とする」と約束しています。神の憐れみの深さ豊かさは、罪人を救うために、御子を十字架につけることに示されています。パウロは神の恵みを語りながら、度々中断して、人間的な反発の言葉を入れています。これは当時の論法ですが、私たち人間が神の恵みを素直に受け入れないことを現しているようにも思われます。
私たちは、神の言葉を心静かに聞き、受け入れて、神の自由な深い憐れみによって今ここに神の愛の中にいつことを素直信じ、感謝し讃美したいと思います。
2009年7月19日
説教題:偽預言者を警戒せよ
聖書:エレミヤ書 7章1-11節 マタイによる福音者 7章15-23節
【説教】
主イエスが15節で「偽預言者を警戒せよ」と弟子たちに警告しています。この偽預言者はどこにいて、どんな姿をしているのでしょうか。「彼らは羊の皮を身にまとって、あなた方のところに来る」とイエスは続いて言っています。
預言者は神の言葉を、神の民や人々に伝える人です。ところが、神の言葉を伝える、と神の民のしるしである羊の皮を身にまとって、あなた方のところに来る預言者に偽者がいる、と主イエスは言っているのです。「その内側は貪欲な狼である」。内側は、その人の心、その人の本体です。貪欲な狼は、生まれながらの人間、自分中心の人間です。キリスト者と教会の群れは、キリストによって狼であった人間が内側から羊に変えられたのです。自分の知恵や力で他の人を食い物にして生きる人間が、神の言葉に聞き従って生きる羊に変えられたのです。その教会に内側が狼で羊の皮をつけた預言者が、教会の教師としてくるのです。彼らは神からでなく、自分の思いやサタンによって来てくるのです。
内側が狼であるとどうしたら分るでしょうか。外側は、姿も生活も区別が出来ないのです。16節で「あなたがたはその実で彼らを見分ける」と言っています。預言者が語っている言葉が救いの実を結んでいるか、別の実を結んでいるかで区別できる、と言っているのです。しかし、この世的、人間的には狼が与える実のほうが救いらしく見えるのです、偽預言者が語る言葉の実の方が魅力的に見えるのです。ですから私たちは注意しなければならない、警戒しなければならないのです。19節20節に、実を結ぶ時は終わりの時である、終わりの時に結ばれる実によって、偽預言者を見分けられる、と言っています。
21節以下は偽預言者に対する言葉です。21節でイエスが「天の父の御心を行なうものだけが天の国に入れる」と言っています。それなのに、22節で口先だけでなく心も生活も立派な預言者として活動したことを語っている人が、23節ではイエスから「私はきっぱり言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ』」と言われています。ここを読むと、偽預言者は他人事ではない、私たち自身の信仰者としてのあり方が問題である、ということを思わされます。21節に「私の父の御心を行なう者だけが」とありますが、私たちは自分の知恵や経験を神の言葉としていないか、謙遜に神の言葉に聞き従っているか、を思わされます。23節に『不法を働く者ども』とありますが、神からキリスト者として召され与えられた責任と務めを、キリスト者として正しく行なっているか、自分が正しいと思っているだけではないか、を思わされます。(ルカ18:9-14)。
エレミヤでは、神の前に礼拝するために神殿に来た人たちに対して、エレミヤは、お前たちの心と生活は神から離れている、強盗と同じだ、と言っています。
今日、聖書に登場している人は、自分は正しい神の民だ、と思っています。外から見ても立派な神の民です。しかし、主イエスは、内側は羊ではなく狼だ、と言っているのです。私たちは、生まれながらの自分は狼なのだと言うことを深く知る必要があるのです。
2009年7月12日
説教題:執り成しの祈りの勧め
聖書:歴代誌下 6章17-21節 テモテへの手紙一 2章1-7節
【説教】
この手紙は、年老いたパウロが信仰の子である若いテモテに、教会の指導者として責任を果ために為すべきことを教えるように書いています。
教会には大事な務めがいろいろあります。2:1の「まず第一に」は、テモテと共に教会に対しても、大事なことが多くある中で先ずこのことを行うように、と勧めているのです。第一に何が大事か明確でいないと、個人でも、集団でも迷いや混乱が起こります。
パウロはまず第一に祈ることを勧めています。その祈りは、自分のためではなく、「全ての人のために」祈る祈りです。この祈りは、自分が救われている確信に立ち、神が全ての人の救いを望んでいることを知ってできることです。祈りは独り言ではありません。神を知り、救いを知って、神に語りかけるのが祈りです。この祈りが出きるのが教会です。
2:2で、当時のローマ皇帝や権力者のために執り成しの祈りを捧げるように勧めています。当時の権力者は教会に好意的とは言えませんでした。私たちは人間的、個人的な感情や熱心さで執り成しの祈りをするのではありません。神の愛と真実を信頼して執り成しの祈りをするのです。先の大戦の時、多くの宣教師は強制帰国させられた米国で敵国になっている日本のために祈り、日本の教会、学校、宣教のために募金をしていたのです。大戦後間もなくドイツで書かれた祈りの書は、ヒットラーや占領者のためにどんな執り成しの祈りをしたか、執り成しの祈りはどうあるべきかを書いています。
執り成しの祈りは、自分の思いが成るように祈るだけでなく、病気も治らない、思い通りの結果にならない、その現実を受け留めて、神のみ旨に従えるように、神の御心が成り、御旨が進められるように、祈るのです。権力者に対しての祈りは、権力者が信仰を持つように祈ることもありますが、権力者が神の前で与えられた務めを正しく責任をもって果たすように祈るのです。その時、教会も与えられている責任を果たす働きをするのです。
祈りは、自分の思いや力によって祈るのではなく、神を信じ、神の言葉に聴き従ってさされる、神を信じる者に与えられている特権です。ですから、神にある希望と光りを見て、神に感謝の服従でなされるのです。
ソロモンは神の民の特権を知っていました。神との交わりが与えられ、神から特別に目をかけられていることを。そこでその特権を自分勝手に使うのではなく、神に向かって謙遜に祈る祈りを聞いて下さりように、「あなたが御住まいである天から耳傾け、聞き届け、罪を赦してください」、と祈っています。
執り成しの祈りこそ、キリスト者が選ばれ、教会が建てられていることの重要な意味があるのです。執り成しの祈りは、キリスト者と教会に与えられている尊い務めであり、責任であり、特権です。また「主の祈り」でいつも祈るように命じられている祈りです。
私たちは心と口と生活を通して、すべての人のために執り成しの祈りをするのです。全ての人が神の愛と恵みを知って、自分に与えられている務めを果たすように祈るのです。
2009年7月5日
説教題:信仰の共同体
聖書:使徒言行録 4章32-37節
【説教】
イエスによる救いは、個人的に救いを求めている人に与えられるだけではありません。全ての人に、一人一人に真実の救いを与える、と同時に、社会と歴史を救う救いです。
その救いが語られると、イエスを救い主と信じる人々が増え、一つの群れをつくりました。それが教会です。4:32「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだ、と言うものはなく、すべてを共有していた」、35「その代金は必要に応じて、各々に分配された」。これが誕生した時の教会でした。
この教会については、理想的な共同体として描かれているのか、一時ではあるがこの共同体の教会が実際に存在したのか、異なる理解があります。この時代に存在したクムラン共同体は厳しい規則や強制力をもっていました。現在の多くの修道院も同様です。しかし、理想的な国家、友情による共有、原始共同体社会など規則や強制力に拠らないで共有する共同体は昔から考えられています。使徒言行録は2:44-45でも、キリストにある一思い一つ心によって、この共同体が成り立っていたと記しています。
この共同体が実際に存在した場合でも、存在したのが一時だったのは確かです。継続できなかった理由の一つは、教会が大きくなり広がったので共同体の生活を続けるのが困難になった、ということがあります。しかし、もっと大きな理由は、教会は信仰の共同体で、経済生活の共同体ではない、ということにあるでしょう。
6:1に、日々の分配のことで苦情が出た、とあります。分配を苦情が出ないように行なうことは非常に難しいです。給食の分配を考えても分ります。6:2-5を読むと、持ち物を売った代金をその足もとに置いて分配も行なっていた使徒たちは、権威をもっていましたが、自分たちが全力で苦情が出ないようにするのではなく、自分たちは神の言葉と祈りに集中するので、分配の担当者を選ぶように、と提案し、一同はそれに賛成しています。
人間は皆が平等ではありません、違いがあります。違いのある一人一人がキリストに結びつけられ、キリストの共同体をつくり、愛し合い、力を出し合って、主の業をしているのです。教会は、キリストを信じる信仰の共同体なのです。パウロは教会を「キリストの体」と言っています。教会は、一人一人に違いがあり、分配、力、役割に違いがあってもいいのです。違いを大事にし重んじるのです。大事なのは信仰です。信仰には、キリストによる救いの力、愛の力、聖霊が伴っています。キリストの愛と聖霊が教会を一つにするのです。
信仰の共同体である教会は、他の人と比べて評価したり裁いたりするのではありません。また、規則や強制力によって自分を捨て無にして一つになるのでもありません。そこでは一人一人が自由で真実に生かされるのです。弱く小さな者も、キリストにあって生かされ用いられ、誇りと喜びが与えられる共同体です。
人間の群れである教会がキリストの体であることは奇跡です。そして、教会は、世界と歴史の中に、眞の命に生きる神の国、神の民の核が、既にここにある、と示しているのです。
2009年6月28日
説教題:主の恵みを知っている
聖書:申命記 26章1-11節 コリントの信徒への手紙二 8章8-15節
【説教】
今日の聖書はエルサレムの教会を援助する献金の勧めをしているところです。
エルサレム教会は貧しかったようですが、福音の喜びに生かされていたので、援助して欲しいと言っていませんでした。それどころか他からの援助は受け取らない、と言う思いが見られたのです。パウロは、貧しい教会を助けたい、と同時に、エルサレムの教会と他の教会が主にある愛によって良い交わりをするように、と援助献金を呼びかけたのです。
他人を援助する献金は人間的には喜んで出来ることではありません。自分の方こそ援助してもらいたい、と思ったりします。教会の中にも人間的な思いはあるのです。
10-11に「あなた方はこのことを去年から実行した、だからやり遂げなさい」とあります。援助献金を始めたのに事情があって途中でしなくなっていたようです。6、11、で「やり遂げるように」と繰り返し勧めています。人間的な思いで中断したのならそのような思いは捨てるべきだ、と言っているのです。
8:8でパウロは、教会にこの援助を命令として言っているのではない、マケドニアの教会が主にあって行なっているのを見て、同じ主にあるものとしてどうあるべきか自分を確かめて欲しい、と言っているのです。比べて自分を見る、心新たに自分を評価する、しかしその評価の基準や尺度はこの世のものとは違います。「主にある愛」です。パウロがこの援助を始めたのも愛によってです。パウロは、この援助によって、教会がお互いに神の愛と恵みを知って欲しい、神の愛と恵みを知ればこの援助は必ず実行され実を結ぶ、と信じて始めたのです。そして今もその確信をもって成し遂げるように勧めているのです。神の愛と恵みを知ることは、罪から解放されたことを知ることです。自分中心の思いから解放さたのです。
申命記8:17-18には、神の恵みによって富と生活が与えられたことを忘れてはいけない、と記されています。人間は自分の力、自分の働きでこれを手に入れた、だからこれは自分の物だ、と思うのです。それに対して聖書は、神の憐れみと恵みによってすべて与えられたのだ、と言っているのです。神の恵みによって命が与えられ、富が与えられていることを知るのです。ですから信じることによって、持っている物を手放すことが出来るのです。手放すことに不安をもたないのです。持っている物に必要以上に固執しないのです。
ですからパウロの思いは援助の額の多少ではありません。8:12には「進んで行なう気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて神は受け入れるのです」とあります。心があるなら、持っていないお金を捧げられなくても、その心を神は受け入れて善しとして下さる、と言っているのです。8:13には、こんなに貧しい私が捧げて、あの人は楽しい思いをしている、と思う人に対して、そんなことはない、愛による援助は釣り合いがとれるようにするのだ、と言っています。神が釣り合いの取れるようにして下さるのです。人間的、この世的にではありません。主の恵みが私たちを生かして下さるのです。
2009年6月21日
説教題:世の光としての使命
聖書:フィリピの信徒への手紙 2章12-18節
【説教】
現代は個人化、個別化しています。社会や集団のあり方も個人化しています。部落や地域社会の結びつきが弱くなり、家庭や家族さえ一体性が失われつつあります。
一昨日のテレビ「ご近所の底力」で山口県向津具海岸の漂流ごみ清掃を報じていました。そのごみは、日本だけでなく台湾、中国、韓国などのもので、10年以上の間そこの住民は漂着ごみの処理をしていませんでした。そのごみを何とかしたいと思った個人が、近くの沿岸にごみがないのを見、ごみがない経緯を知り、そこと同じようにインターネットでエコボランテアと連絡をとり、280人の集った人たちと地域の人たちが一緒になって、漂流ごみの清掃がされたのです。ボランテアは、唯地球を汚したくないきれいにしたいとの思いだけで、何の義務も強制もない所に、自主的に遠くから時間とお金をかけて来て、そこの指導者に従順に従って、無報酬で労働し、ごみ処理をしたのです。
イエスを信じる者たちの群れ、教会は個人の集りです。教会は、個人が自己主張し合って争いや混乱を起こしているこの世で、星のように輝いているのです。教会はそのように一つになって、苦労があっても不平や理屈を言わず与えられた務めを行なっています。それは神の子イエスが死に至まで神に従順であることによって、自分たちが救われていることを知っているからです。ですからパウロは、自分がいない時にも、教会全体の一人一人がお互いに主イエスにあって、謙遜で従順で一つであるように、と勧めています。
一つであるのには力がいります。伝統の力、人間的な力、軍事力や経済力の力などが人間を一つにしようとしてきています。しかし、その結果「人間の歴史は戦争の歴史である」と言われています。個人が自立して主体性をもって話し合って一つにまとまる、ということが言われますが、自己中心の個人が集って混乱が生じてまとまらないのが現実です。話し合いの民主主義を実りあるものにするのには、各自が自分中心でなくなることが必要です。神の前で世界と歴史を見、自分と他の人々を謙遜に見て、神にある正しい尺度で判断と決断が出来る個人の集りでなくては一致はないのです。
「あなたの内に働いて、御心のままに望ませ、行なわせるのは神です」。キリスト者一人一人の中に、その交わりの中に、教会全体の中に、神が宿っておられるのです。それでキリスト者と教会は一つになれるのです。「不平や理屈」も神に対して言うことになるので、神の深くて大きな御心や御計画を知り得ない人間は、神に従順に従うのです。
「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、-----世にあって星のように輝き」と言っています。「とがめられることがない」というのは「神から」です。問題があるなら、神はとがめるのではなく、助け、導き、補って下さるのです。私たちの内にあって働き、望みを与えてくださっている神によって歩む、その歩みが光りを放つことになるのです。この存在と歩みが教会に与えられている使命です。
そして、その光りは内に宿っている神ご自身が放ってくださっているのです。
2009年6月14日
説教題:神に立ち帰って生きよ
聖書:エゼキエル書 18章25-32節 使徒言行録 17章22-34節
【説教】
人間は昔も今も自分中心です。自分の利益のために学び謙遜になることはありますが、神の前に謙遜になって、神からの責任を正しく自覚して生きることをしません。
パウロは、当時知恵もあり文化的な好奇心のあったアテネの人々に、眞の神を知るように語りました。ところが、話を聞いていた人々の多くはパウロをあざ笑い、自分の考えや生き方を変えないで去って行ったのです。
エゼキエルは18章1-24節で、バビロンに捕囚されていた神の民が「自分は義しいのに、先祖が犯した罪で今囚われの身になっている、これは神の不当な裁きによる」と言っているのに対して、「そんなことを言うな、神は先祖によってではなく、その人自身の行いで正しく裁いている。神は悪人を裁いて殺すよりも、立ち帰って生きることを喜ぶ。」と語っています。そして25節を語るのです。正しくないのは神ではなく神の民であるお前たちではないか。自分たちは神の民だと言いながら、神の言葉に聞かないで、神を批判している、その心こそ正しくないのではないか。と言っているのです。
これは、新しい神の民である私たちに語られている言葉でもあります。この民は、神のご支配に対する不平不満、そして自己主張自己正当化をしています。それに対して神は、27,28節で、悪を行なった悪人でも悔い改めて背きから離れれば必ず生きる、と言っています。30-32節では、お前たちは立ち帰れ、と二度も言っています。
このエゼキエル書の言葉と、アテネの人たちに語っているパウロの言葉とは共通するものがあります。当時のアテネの人は文化人で知恵者であることを誇っていました。パウロは求められて、天地の造り主であり、世界と歴史の主である神について、アテネ人の心を思い言葉を選んで慎重に語りました。27節で「これは、人々に神を求めさせるためであり、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことが出来るように」人と季節をつくった、と言い、30節で「神はこのような無知な時代を大目に見て下さいましたが、今ではどこにいる人でも皆悔い改めるように、と命じておられます」と言いました。知恵の初めは畏れをもって神を知ることです。神を知ることによって、自分と世界を知ることが出来るのです。
アテネの人たちだけでなく、現代人も、指導者たちも神を正しくは知らないでいるのです。ですから神の前に正しくないこと、愚かしいこと、問題のあることを行っているのです。そのような世界に神は御子を遣して、神を知る道を与えてくださったのです。御子イエスを信じた者に聖霊を与えて下さり、神を知る新しい人に造りかえて下さるのです。ところがアテネの人たちの多くは、パウロが語ることを聞くと愚かしいと言ってあざ笑い、神の言葉を語るパウロの前から去って行ったのです。
聖書は私たちに、御子によって神を知り、自分中心であった道から神の道に立ち帰るように、自分が正しいとしていた思いと歩みを捨てて、神にあって正しい道を歩いて生きるように、勧めているのです。
2009年6月7日
説教題:神の富への招き
聖書:マタイによる福音書 11章25-30節
【説教】
28節で「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と言っている主イエスはどういう方なのでしょうか。疲れとは縁のない力に満ちている方、重荷を負うこととは関係のない富や権力を持っている方なのでしょうか。
25節で主イエスは、神がご自分を「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者に」、つまりイエスに示してくださったことで、神を賛美しています。知恵ある者や賢い者は学者や指導者です。この人たちには神が分からない。自分はもう神を知っていると決め込んで、謙遜に新しく学ぼうとしないからです。幼子は一生懸命に学ぼうとします。そのことを25節は言っています。神は、謙遜に神に学ぼうとする者に、イエスを通してご自分を示されるのです。神を知るのは、イエスによって示していただくほかないのです。
主イエスは、そのように神とご自分の関係を語った後で、28節以下を語っているのです。イエスによって神を知る、そのことが疲れている者に休みを与えることになる、と。疲れている人は、重荷を負って体力を使い果たしています。重荷を投げ出し、身軽になって疲れから解放されたいと思います。しかしこの世の賢い者の正論は、与えられた責任をしっかり果たせ、と言います。彼らは、自分は安らかな処にいて人を裁いているのです。
幼子は、神の前で自分を見ます、そしてこの世の人々から裁かれていることを感じます。弱く小さい者は、幼子と同じように満点に出来ないのです。そこで疲れ、逃れる道がなく苦しむのです。その人たちにイエスは「私のもとに来なさい」と言っているのです。「重荷をもっとしっかり負え」でも「重荷を投げ捨てろ」でもありません。主イエスと一緒に、幼子として、弱く小さい者として神の前に出るのです。疲れてしゃきっと出来ない、それでいいのだ、神に赦され受け入れられている、と主イエスが一息つかせてくれるのです。休みを与えてくれるのです。主イエスにあって神を知り、神との交わりの中で自分を知るとき、神に赦され、愛され、受け入れられて生かされていることが分るのです。
主イエスは、疲れている者、重荷を負っている者を招いて、重荷を取り除くのではなく、「私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい」と言っているのです。軛を一緒に負う時、同じ者同士でないと軛は痛く辛いものになります。主イエスは自分が柔和で謙遜な者だ、力んだり誇ったりしないで軛を一緒に負って、軛の負い方歩み方を学んで、神から与えられた荷を負ってその道を歩もう、と言っているのです。
イエスの十字架は辛く投げ出したいものに見えます。しかし、主イエスは神から自分に与えられた恵みとして担い貫いたのです。外から見たら重荷で疲れていると見える子育てや仕事でも、神からの恵み、宝として、誇りと喜びを持って続けることができるのです。
主イエスがご自分のものとされている、神を正しく知らせること、この軛をイエスと一緒に負って歩むことを主イエスは勧めています。そこに安らぎがあるからです。主にあって負う軛は重荷ではなく、神から与えられている栄光、誇りと喜びなのです。
2009年5月31日
説教題:神の霊が注がれた
聖書:ヨエル書 2章23節-3章2節 使徒言行録 2章1-11節
【説教】
天のイエスと地上の人間とを一つにしているのは、ペンテコステに与えられた聖霊です。旧約聖書では、神の霊が与えられた人は預言者や王など特定の人でした。
ところがペンテコステの日には、集まって心を合わせて祈っていた一同に聖霊が与えられたのです。この人たちは、イエスの十字架と復活によって、神の愛と恵みを知り、罪贖われて新しい人とされている人たちでした。しかし、そのことを人々の前で証しする力はありませんでした。それで「上から聖霊が降るとあなたがたは力を受け、私の証人となることが出来る」との言葉に従って、心を合わせて祈っていたのです。
集まって祈っている所に「突然激しい風が吹いてきたような音が天から聞こえ、炎のような舌が現れた」と記しています。これは、神から聖霊が降って来たことを表現しています。この出来事は私たちの思いを越えた、自然の流れの中では起きないことです。彼らの思いを越えた想定外のことでした。神はこのような働きで御心をなさるのです。
神から聖霊を与えられることによって、彼らに奇跡が起こり彼らは内から変えられたのです。一人一人が燃える心でイエス・キリストを証しし、神の福音を語り出したのです。
この時聖霊はこの家だけに降臨したように読めますが、風も炎もはっきりした境界がありません。周辺にも働きと力を持っています。聖霊は受け入れることも重要です。聖霊を受け入れるのは信仰です。この時、大勢の人がエルサレムに集っていました。その中には「信心深いユダヤ人たち」がいました。この人たちは神の救いを祈り求めていたのではないでしょうか。その人たちは、使徒たちが燃える心で語りだした言葉を聞いて、驚くと共に、その語られていることが、神の偉大な業であることを理解しました。その人たちに聖霊が注がれ、その聖霊を受け入れ、聖霊が力をもって働いたのだと思います。聖霊によって謙遜にされて使徒たちの言葉を聞いた人たちは使徒たちが語る言葉を理解しました。
そこには同じ使徒たちの言葉を聞いたのに、自分の知恵と思いで聞いていたので、その語っていることが理解できない人たちがいました。聖霊を受け入れていなかったからです。
この出来事はヨエル書が語っている預言の成就だ、とペトロは説明しています。ヨエルは、1章で旱魃による窮乏の極みを語り、2章21-24以下で神による収穫の喜びを語っています。収穫は創造者であり救済者である神の恵みの業なのです。ペンテコステは春の収穫祭の日です。この日に聖霊降臨があったのです。ヨエルの3章では、神が全ての人に差別なく聖霊を与えると約束しています。その約束がここに成就したのです。昇天の主イエスから神の創造と救いの業の実りを意味する聖霊がここに注がれたのです。
聖霊が注がれるということは、この歴史の中で、この日を始めとして、信じる人に与えられ続けられているのです。それが教会です。この日誕生した教会には、その存在にも歩みにも聖霊が注がれ続けているのです。教会とキリスト者の思いと歩みは、私たち人間ではなく、神が霊を注いで導き、力を与え、実を結ぶ者としてくださっているのです。
2009年5月24日
説教題:イエスは天に上げられた
聖書:エレミヤ書 10章1-11節 ルカによる福音書 24章44-52節
【説教】
教会の暦は「主の昇天日」を使徒言行録1章3,9節によって定めています。しかし、主イエスが天に昇られた日や昇られたときのことを記しているのは、使徒1:9の他に今日のルカだけです。教会は、新約聖書が出来る前から信仰告白をもっていて、その信仰告白は主イエスの昇天について確固たる位置を占めていました。
聖書はいろいろな表現で地上を歩まれたイエスが天に昇られたことを語っています。主イエスが天に昇られたことの意味はいろいろあります。クリスマスの時に御降誕された御子は昇天で天の父なる神の許に帰られたのです。御子が神の許に帰られたのは、ヨハネ福音書14:2-3によると私たちを天に迎え入れるためだです。天に昇られ神の右にいますのは、主イエスが世界と歴史を治めているということです。イエスの昇天で重要なことは、昇天の日付や昇天した時の様子ではなく、昇天によって私たちにどんな救いが与えられたかです。天は、上というよりも神が居ますところで、地上とは別次元という意味です。
今日のエレミヤ書は、国が滅ぼされバビロンに捕囚されているイスラエルの民に、バビロンを恐れるな。彼らが神としているのは偶像だ、大きな像で金箔で飾られていても身動きも口を利くことも出来ない虚しい神だ、木工や金細工人が造ったものだ。そんな神に頼っている民を恐れるな。私たちの神は命の神、天地の造り主だ。と言っています。
主イエスの昇天は、私たちの救いが地上だけではない、今の一時だけではない、天の神に結びついている、永遠の救いを与えてくださる救いであることを示しているのです。
ルカ24:50-51で、主イエスは地上で為すべきことを全て成し遂げて、弟子たちを祝福しながら天に上げられた、と記しています。主イエスは弟子たちを見捨てて天に行かれたのではありません。祝福しながら、強い結びつきと一体感をもって天に上げられたのです。
ですから、イエスと弟子たちは居るところが離れ、肉の目で見ること交わることが出来なくなりましたが、イエスは天から神と一緒に弟子たちを愛し、心注ぎ、御支配しているのです。聖霊を与えて、信じる弟子たちと共にいてくださるのです。
イエスが天に上げられ聖霊によって新しい交わりが与えられることになりました。イエスを信じ、イエスとの交わりご支配のもとに生きる教会が誕生したのです。この教会が地上で御子イエスを救い主と証しするようになったのです。
又、私たちは主イエスがいます所に心があり、主と共にいるのです。教会は頭を天に持ち、地上に手足の肢があるキリストの体です。
現代、多くの人は、肉的な目に見えるものを求め、そのことに捉えられ固執して生きています。そのために、この世的に強く大きいことを競う生存競争と自分を守るということで争いや悲惨な出来事も起こっています。
教会はそのような地上の歴史の中に、天の神の御旨、御計画を証しするものとして歩んであるのです。主イエスを信じ、昇天の主と心も思いも一つになって、歩んでいるのです。
2009年5月17日
説教題:私たちに必要な大祭司
聖書:ヘブライ人への手紙 7章20-28節
【説教】
このヘブライ人への手紙は迫害と試練の中にある教会に宛てて書かれたと思われます。
迫害の中にいる人はどんな救いを求めているでしょうか。この手紙は、「私たちには大祭司がいる。大祭司によって神との愛の交わりが与えられている。だから希望を失うな。」と励ましているのです。神との平和な交わりの中にいる時には、私たちは艱難や苦難があっても、神から与えられている道と、誇り喜びを持って歩んで行くことが出来るのです。
救いをどう考えるか。肉的、この世的に考えるか。神に結び付いての意味や命を考えるか。それによって祭司についての理解も違ってきます。
礼拝も祈りも神とも交わりです。しかし、現代は、祈りも自分の願いを叶える手段に利用している人が多いのではないでしょうか。結婚も、神前で祭司によって式を挙げて、先祖に見守られ子孫に責任を持つ二人という思いが生じるなら、苦しく辛いことも乗り越えていくように結婚生活をするでしょう。教会では神にあって結ばれたことの大切さを告げます。しかし、気が合ったから一緒になった二人は気が合わなくなると別れる、自分が気に入った式で結び付いた二人は気に入らなくなったと簡単に別れます。
祭司によって民は神と交わることが出来るのです。旧約の時代から、祭司が橋となって、礼拝と祈りを中心に神との交わりをして来ました。しかし、イエスが祭司であることは、他の祭司とは違いがあるのです。20-21に、イエスまでの祭司は律法に基づいてレビの血筋の者が祭司となっていた、それに対してイエスは、神が「あなたこそ永遠に祭司にする」と誓って祭司にした祭司である、と言っています。神様が誓うと言うことは非常に重要なことで、大祭司イエスは他の大祭司と違い、神の誓いによって、決して変更のない、永遠に祭司で、祭司の務めをしてくださるのです。祭司は、神と人間の交わりの橋になり、橋の努めをする人です。ですからイエスはご自分を通って、イエスを信じて、神に近づこうとする者を、執り成し、神に結び付けるのです。私たちはイエスによって神と完全に結び付くことが出来るのです。そこに私たちの完全な救いがあるのです。
他の祭司が人間であるのに対して、イエスは神の子で神のところにしっかりした足場を持っている祭司です。そのことを26節で、神は、このような祭司が私たちに必要な祭司とお考えになり、御子イエスを大祭司に立てたと言っています。この大祭司によって私たち罪人は、神と完全な交わりを与えられるのです。その時、弱く罪を犯してします私たちの命も歩みも主にあって虚しくはない、意味あるものとされるのです。
私たちは肉のこの世の生活、目に見える地上の生活が全てではありません。この手紙は、迫害の中にいる信徒に、イエスを見上げて、神から与えられた道を最後まで走り抜こう、と勧めています。イエスを信じて、神との交わりの中で生きることが重要なことなのです。礼拝も祈りもイエスによって、神の御前での礼拝、神との心からの語り合いの祈りになるのです。そこに神にある歩みがあるのです。
2009年5月10日
説教題:神さまの言葉を守る
聖書:ヨハネの手紙一 2章1-6節
【説教】
子どもと大人はどこが違うのかな。体の大きさが違う。いろんなことを知っている。
子どもは自分が経験したことだけしか知らない。大人は、自分が経験していないことでも、話で聞いたり、見たり、本で読んだりして知っている。だから、子どもが、前にしたことと同じ事をして褒められると思ったら、「ここではそれはいけないの」と叱られることがある。また、子どもは自分のことを中心に生きているので、「もう飽きた」「私これがいい」と他人のことを配慮することが出来ないし、あまり忍耐が出来ない。だから、子どもは、社会生活で善いこと悪いことの判断が正しく出来ない、教えられていることでも覚えていない、正しく行なうことも、忍耐して守ることも難しい。それで、子どもには保護者が必要なのです、子どもの言動には親が責任を持つのです。
大人でも間違えること、失敗することがある。それで、「私は神さまのお話を聞いているから間違えない、光りの中を歩んでいる、という人は、闇の中を歩んでいて嘘をついている」と聖書(1:6)は言っています。しかし、神さまからの光りの中で自分の間違いを知り、イエス様によって、ゴメンなさい、間違えていたと言って正しくやり直すなら、光りの中を歩むことになります、と言っています(1:7-10)。これは大人の人に言っているのです。
2:1に「私の子どもたちよ」と言っていますが、これはおじいさんが主に大人の人に言っているのです。子どもも大人も間違えるし失敗もする。罪を犯すことがある。しかし、ボクは子どもだからいいんだ、人間だから仕方がない、いや私は正しい間違えていない、と言うのではなく、自分の間違いを認めて、これからは間違えないようにしなさい。と言っているのです。そして、もしそれでも間違えることがあったら、天の父である神さまは御子イエスを私たちの弁護者、一緒にいて守り助けてくれる人として与えてくださっているから、そのイエス様が助けてくれるよ、と教えているのです。
一生懸命に、失敗しないように、間違えないようにと思っていても、失敗してしまう、間違えてしまう。そこで「もし間違えることがあっても、イエス様を信じて、イエス様と心で結ばれていれば、イエス様が神様の前で助けてくださる」、これが大事なことです。
神様を知っている人は、神様の言葉を大事にします。イエス様は神様の言葉を大事にしました。そして私たちに「『お互いに愛し合いなさい』これが神様と私からの大事な掟ですよ」と告げています。このイエスさまの言葉を大切にしましょう。いつも心で覚えているようにして、他の面白いことがあっても、忘れないように、なくさないようにしましょう。そのように歩んでいると、もし忘れてもイエス様が助けてくれます。
神様の言葉を大切にして守っているか、ということは、その言葉を知っているか、覚えているかではなく、お互いに仲良くしているか、愛し合っているかを見て分るのです。仲良く出来なかった時、そのことに気づかされた時、イエス様によって謝って赦していただき、やり直す。それが神の言葉を大事に守っていると言うことです。
2009年5月3日
説教題:聖霊の働きと教会
聖書:ネヘミヤ記 2章1-8節 コリントの信徒への手紙一 12章4-13節
【説教】
今日の聖書コリント一12;1-13には、キリスト者が新しい人であるしるしに聖霊が与えられている、そこに特徴があり、キリスト者の源がある、と記されています。
12:1に「聖霊の賜物については、次のことをぜひ知って欲しい」とありますが、これは教会からの質問に答える書き方です。14章まで聖霊の賜物について書いています。
その第一に言っているのは12:2-3で、霊が与えられると言っても、イエス・キリストの霊で、異教の偶像の前で熱狂的になる霊とは違う、「イエスは主である」と告白する人に与えられている霊である。ということです。
その次に12:4,5,6で、賜物、務め、働きはいろいろあるが、それを与えているのは同じ霊、同じ主である、と同じ趣旨のことを三回繰り返して記しています。7節では「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」と言っています。キリストによる新しい人は、イエスを主と告白し、新しい命と力を与えられているのです。その命と力で、主から与えられた務め、働きをするのです。それは一人勝手に行なうのではなく、全体の益となって現れるものとなるのです。
12:13では「一つの霊によって、私たちは、全く違う立場にいるものであっても、皆一つの体になる」と言っています。これは教会です。キリスト者の新しさ、新しい人の生き方は、キリストの霊を与えられていて皆が一つ体になる、個と全体が一つになるという新しさです。これが教会として現されているのです。
霊の賜物と働きは、一人一人違いがあります。8-10にその違いの幾つかが記されています。しかし、違いはあるけれど、出所は同じなのです。そして皆一つ目的のため、全体の益のために働いていると7節で書いています。11節では霊は一人一人に分け与えられて働いているけれど、それは霊のお考えによってである、と書いています。
この霊はキリストの霊で、霊のお考えはキリストのお考えです。神は一人一人の人間を救うと同時に、世界と歴史全体をも救おうという大きな目的、御計画の中で、御子を世に送り、御業を進めているのです。そして御子イエス・キリストを信じる者を誕生させ、霊を与えて教会を建てられたのです。ですからキリスト者と教会は、神のご計画の中で存在し、歩んでいるのです。人間が自分の存在や働きを誇るのではありません。神の霊にあって、人間のそのような誇りも自己主張も消し去られ、一つになるのです。神は教会を通してこの世界に働いているのです。神の霊を与えられた者が、神の御旨を素直に受け入れ、神の前に謙遜になって正しく仕えることによって神の業は進められて行くのです。
私たちは、教会が霊の働く場である、神の御心を現す場であることを信じると共に、それに相応しい教会であるように祈り、努めたいと思います。洗礼を与えられ、聖餐式に与っている恵みを感謝し、一つのキリストの体を作っていきたい。神の霊による歩みをしていきたい、と思います。
2009年4月26日
キリストにある新人
聖書:コロサイの信徒への手紙 3章1-11節
【説教】
キリスト者は、他の人たちと、どこが違うのでしょうか。主イエスの十字架と復活によって、私たちは新しい人に生まれ変わった、と言います。古い自分と、新しい人となったキリスト者の自分とどこが違うのでしょうか。
イエス・キリストの十字架と復活を他人事と見ているならばどこも変わっていないでしょう。しかし、2;12で語られているように「イエスを信じて、洗礼を受ける」という体験をしているならば、古い人は十字架と共に死んで葬られ、死者の中から復活された新しい人とされて生かされているのです。古い人は、肉の体とこの世に縛られ、支配されて生きている人です。新しい人は、その古い人が死んで、3:1に語られている「キリストと共に復活させられている」人間です。古い人が生き返って元気になったなではありません。
「あなた方はキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」と3:1で言っています。新しい人キリスト者は、求めるものが古い人とは違うのです。上にあるものを求める、そこに身を置くことを目標として生きる人間になったのです。目の付け所、ものの見方、基準が変わったのです。「そこでは、キリストが神の右の座についておられます」。キリストと共に復活させられて初めて知る上の世界です。それまでは下の世界しか知らず、下の世界が全てだったのです。「上にあるものに心を留めなさい」と言っています。心のあるところに、思いがあり、生きる中心があるのです。
「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神のうちに隠されているのです」と言っています。私たちの新しい命、歩みは神の内に隠されているのです。隠されていることは、この世の人の目にも、自分の目に見えない、地上の世界では見えないのです。新しくされた私たちの命と歩みは神の御計画と神の御力の中にあるのです。私の思いや地上の力に支配されているのでも、動かされるのでもないのです。神のみ旨に従って歩むのです。その命と歩みは今隠されているけれど、やがてキリストが再臨する時に、神の栄光の中ではっきり現れるのです。キリスト者は古い人とものの見方、生き方が変わったのです。価値判断の基準や尺度が変わったのです。
その変化の一部が5-11に記されています。キリスト者になっても全てが一変するのではありません。肉の人間の中には古い人間が残っているのです。ですからパウロは、古い人を捨てなさい、と言っているのです。この言葉を聞いて、思いを新たにしてキリスト者の自覚を新たにし、自分の中にある古い人を捨てて、上にあるものに、キリストがいます所に、心を向けるのです。それによってキリスト者は育てられていくのです。
3:9-10に、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う、新しい人を身につけ、日々新たにされて、真の知識に達するのです」と、勧められています。私たちは、キリストにあって生きていく時、神の御計画の中で日々新しくされるのです。そして、やがて神の栄光に与る者とされて行くのです。
2009年4月19日
説教題:悪霊を追い出す主
聖書:ダニエル書 7章13-14節 マタイによる福音書 28章16-20節
【説教】
今日の20節は薬円台教会の今年度の主題聖句です。今日、定期教会総会があります。
クリスマスに誕生された御子イエスは、人間として私たちの中に宿り、人間として歩まれ、十字架で死なれ、復活されました。そして、28:18で、復活の主は「私は天と地の一切の権能を授かっている」と厳かに宣言しました。復活のイエスは、神の義と真実によって、罪と死を打ち破って、神の命に生き、世界と歴史の一切を治めているお方なのです。
ダニエルが語っている、神からの救い主がこのイエスによって実現しているのです。主イエスご自身、十字架につけられる裁きを受けている時、26:64でそれまで沈黙していたのに、「私はダニエルが告げている人の子の権能を持ってこの世界に来る」と言っています。そのことが今復活のイエスによって実現しているのです。
この復活の主は、弟子たちの前に現れて、「全ての民を私の弟子にしなさい」と宣教の命令を与えました。この命令は弱く頼りない弟子たちだけで行なうことは出来ません。「私は世の終わりまで、いつもあなたと共にいる」との約束を一緒にされているのです。教会は宣教命令と一緒にこの約束を与えられているのです。復活の主は、弟子たちに上から権能を持って命令するのではなく、十字架の愛をもって語っているのです。その上、私がいつも共にいるよ、支え力になるよ、と約束しているのです。だから弟子たちは、与えられた命令を、喜ばしい使命、誇りと働き甲斐のある努めとして励むのです。教会が宣教命令を喜びとし、誇りとして歩んでいるのは、この約束が与えられている、この約束の存在が大きい、といえます。
新共同訳聖書には省略されていますが、元の聖書にはこの約束の最初に「見よ」と注意を促す言葉があります。「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と呼びかけているのです。この約束をされた方は、死に勝利されているのです。時と共に消えてしまう約束ではありません。確かで、真実、世の終わりまで、共にいてくださるのです。
「世の終わり」の「終わり」は完成や実りを意味しています。今の時も、今の時の働きも必ず終る、その終わりは完成であり、実りです、その実りの時まで、イエスは一緒にいると約束しているのです。
「いつも」というのは、「全ての日々」ということです。特別な日だけではない、喜ばしい歩みをした日だけではない、失敗した日、泣きたい日にも、何も起こらなかった日にも、どの日にも私はあなたと共にいる。と約束しているのです。「共にいる」というのは、「傍らに一緒にいる」「中に混じっている」という意味です。そのように復活の主は私たちといつも共にいて下さるのです。私たちは決して主に見放されてはいないのです。孤独ではないのです。虚しい実りのない歩みをしているのではないのです。
全ての権能を持っている方が私たちと共にいて私たちを導き、その歩みと働きを実りあるものにしてくださるのです。
2009年4月12日
説教題:復活のイエスに会う
聖書:マタイによる福音書 28章1-10節
【説教】
主イエスが十字架に架けられて死に墓に葬られた、その全てをじっと見つめていた人たちがいました。イエスを愛して従ってきた人たちは、その全てを自分自身に起っている重要な出来事と、目を離せないで見ていたでしょう。主イエスの死と葬りによって一つの時代が終わった、新しい時代が始まる。二人のマリアは、墓に来てそのことを確認し、新しく生きる出発点したい、ということだけを思っていたのです。
墓に行くと、地震が起こり、墓をふさいでいた石が転がされ、石の上に天使が座りました。墓の番兵は恐ろしさに震え上がりました。が、婦人たちは驚きませんでした。彼女たちの関心事は、イエスの死によって時代が変わった、世界が変わったということでした。
その時、天使は婦人たちに「恐れることはない」と言いました。今起こった異常なことを恐れるなと言うのではなく、天使がこれから話すことを恐れるな、と言っているのです。この恐れは神のご臨在によって感じるものです。「恐れ」によって自分を失うな、と言っているのです。8節に「婦人たちは恐れながらも大いに喜び」と書いてあります。これは恐れのある喜びです。恐れを覚えながらでなければ得られない喜びです。深い悲しみと闇の中にいた婦人たちは、天使に「恐れるな」と言われて、大きな喜びを与えられたのです。
その喜びの中心になっているのは、天使が語った「十字架につけられたイエスは復活された」です。この言葉が彼女たちの心と体の中で大きな喜びとなったのです。彼女たちは、主イエスなら死で終わるのではなく甦るかもしれない、天使が語っていることは本当だ、と思い、新しい世界に生きる者にされている、と心の底から喜んだのです。
主イエスの復活を恐れと喜びを持って受け入れることが出来るのは、十字架のイエスが自分と結び付いている、そのイエスによって自分は生かされている、という歩みをしていた人たちです。その人たちは、主イエスが死んだことによって、自分が生きている中心を失い、生きる力を失ったのです。そのイエスが「復活された」のです。天使は、自分が語っていることが異様なことではなく、神の御計画によることだというように、「あの方が、十字架のイエスが、かねて言われていたことが今実現したのだ」、と言いました。
天使はそのことを急いで弟子たちに告げるように、婦人たちに命じました。婦人たちは、イエスの死と復活を確認するために墓に入ることをしないで、墓に背を向けて、今与えられた使命にすすんでいきました。心と生きる世界が新しくなったのです。
婦人たちが墓を去って、弟子たちの方に走っていくと、イエスが行く手に立って「おはよう」と言いました。主イエスの方から彼女たちに現れたのです。死と闇に支配されていた者に、私はこのよう生きているよ、とイエスがご自身を示されたのではないでしょうか。「おはよう」という挨拶の言葉は、「喜びなさい」という意味を持っている言葉です。
イエスの復活は、死と闇の世界から命の世界に転換する出来事です。イエスを主と信じる者には大きな喜びの出来事です。
2009年4月5日
説教題:神の子の十字架
聖書:マタイによる福音書 27章32-44節
【説教】
今日は棕櫚主日で、今週の金曜日は主イエスの十字架の日です。
神の子イエスが私たちのために十字架についてくださったので、罪人の人間である私たちは罪が贖われ、神に義なる者のとして受け入れられ、生かされているのです。
しかし、人間は「神」について、「救い」についていろいろな考えをもっています。
聖書が語っている神の重要な点は、創造者で治め完成させる神、人格を持っている救いの神、ということです。一人格の神は、父と子が分裂したり対立することはあり得ません。従って、神と神の子は、一つの思いで創造と救いの働きをしているのです。
27:39:40で、とそこを通った人が、「神の子なら、自分を救ってみろ」イエスをののしって言いました。「神の子なら、神の子の力を持っているだろう。その力で自分を救え」と言っているのです。そこには、神と神の子イエスは一つという理解はないのです。荒野のサタンと同じで、自分の思いで神の力を使って自分を救え、と言っているのです。
27:43では、祭司長や学者たちも一緒になって「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『私は神の子だ』と言っているのだから」とイエスを侮辱して言っています。本当に「神の子」で「神に頼っている」ならば、父である神が我が子を見殺しにするはずがない、今すぐ救ってもらえ、と神もイエスも理解しないで言っているのです。この人たちのようにイエスの十字架を見ている人たちはいつの時代にもいます。
イエスが「神の子」であることは、イエスが神の力をもっていて、その力を自由に使うことにあるのではなく、父である神と一つ思いを持ち、一つの創造と救いの業を行なうことにあるのです。その時、父である神が大きいので、神の子イエスは父の意志を自分のものとして、父に従うことで一つになっている、このことが重要なことなのです。
ヨハネ福音書3:16には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が独りも滅びないで、永遠の命を得るためである」と、神の思いが記されています。神の子イエスは、神の御心に基づいて歩まれ、十字架につれたのです。父である神は、我が子を十字架につける痛みを持たれて、私たちを救おうと思われたのです。神の子が十字架につれたのは、罪人の人間を救って、この世界と歴史を完成させようと思われている神の思いを果たす尊く重要な意味を持っているのです。神の子が、父の意志を受け入れると同時に、子としての意志と決断でご自身十字架につれ、ご自身を捧げられたのです。動物の犠牲ではなく、神の子ご自身の犠牲、それも自らすすんでご自身を捧げられた、このことが特別な意味を持っているのです。神の子イエスが、十字架につれたことによって、私たちが救われ、神の御心が実現し、御計画が果たされたのです。
そこで、私たちがその神の子イエスの十字架を正しく理解し、信じることが大事なことです。神の子が私たちのために十字架についてくださった。そのことをこの時、驚きと讃美をもって受け止め、この御子の十字架による救いを心から感謝したいと思います。