2022年3月27日
説教題:神の栄光を悟る光
聖 書:出エジプト記24章12~18節、コリントの信徒への手紙二 4章1~6節
「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。
(コリントの信徒への手紙二 4:6)
今日のパウロの手紙の御言葉は、イエス様の十字架のみわざとご復活によって、私たちが神さまの栄光をようやく知ることができた ― その恵みの大きさ・深さを高らかに告げてくれています。
私たちはイエス様の十字架の出来事とご復活がなければ、神さまの栄光を知ることができませんでした。福音によらなければ、神さまの栄光は私たちにとって、あまりに素晴らしすぎ、まばゆすぎ、うけとめきれないものなのです。
今日の新約聖書箇所の少し前・コリントの信徒への手紙二 3章12節以下で、パウロは預言者モーセが神さまの栄光を照らす顔の光をいただいたものの、人々に顔を向ける時は その光に覆いをかけた事柄を記しています。そのことを通して、主の御前での私たちの小ささを示しています。
モーセが神さまの栄光を顕す光を顔に受け、それを照らすようになったのは、十戒をシナイ山で神さまからいただいた時でした。その時のことが、今日の旧約聖書箇所である出エジプト記24章12節から18節に記されています。ご一緒に、まず旧約聖書の御言葉をたどりましょう。
神さまは、ご自分の宝の民・ユダヤ民族が平和で心豊かに暮らせるように掟をくださいました。それが、十戒を基とする律法です。神さまは、シナイ山にモーセを招き、石の板に十戒を刻み記してモーセに託しました。
十戒・神さまの掟には、神さまの愛があふれています。神さまが人間の幸福を思ってくださる、その憐みと慈しみは、実に深く激しいものでした。
17節の御言葉はこう語ります。人間の目には「主の栄光は…山の頂で燃える火のように見えた」(出エジプト記24:17)のです。神さまは、ご自分が預言者として選んだ者 ― この時はモーセです ― しか、この激しい炎のような神さまの愛の顕われ・熱情・パッションに耐えられないことをよくご存じでした。
旧約聖書の時代には、神さまの御声は選ばれた預言者にしか聞こえず、神さまと接することができるのはその預言者だけでした。預言者ではない人・聖別されていない人・清められていない人が、人間とは次元の異なる高みにおられる神さまの栄光のすばらしさを知ること・悟ることはできませんでした。
だから、しばしば礼拝説教の中で繰り返しお伝えしているように、人間は見えない神さまを信じることができず、神さまから離れ・迷い出てしまい、背いて、目に見えてわかりやすい偶像崇拝に走って神さまを嘆かせ、悲しませる事態を招いたのです。
パウロは、すべての人間が主の栄光を仰ぎ見ることができないことを、今日の聖書箇所の少し前・コリントの信徒への手紙二 3章12節以下でこう語ります。「モーセが…自分の顔に覆いをかけた」。
これは、旧約聖書の出エジプト記34章に記されていることを踏まえています。出エジプト記34章は、モーセが神さまから十戒を刻んだ石の板をいただいてシナイ山から降りて来た時、彼の顔は神さまの栄光を照らして光り輝いていたと告げます。
残念なことに、ユダヤの民はその輝きを受けとめることができませんでした。神さまの栄光で輝いているモーセの顔がまぶしすぎ、主の栄光が輝かし過ぎて、その前にとどまっていることさえできなかったのでしょう。
そこで、モーセは自分の顔に覆いをかけるようになりました。ここに、神さまの御前での私たちの弱さ・神さまからの距離の遠さが象徴的に表されています。
旧約聖書の時代を通して、神さまと人間の間は常に隔てられていました。
そもそも、エルサレム神殿の造りがそのようになっていたのです。神殿の最も奥まったところに、至聖所と呼ばれる特別な場所がしつらえてありました。そこに、モーセがシナイ山から持ち帰った十戒を刻んだ石の板を納めた神の箱が安置されていました。そこは聖なる神殿の中でも特に聖なる場所とされて、祭司の中でも選ばれた者の他、誰も入ることができませんでした。分厚い幕・緞帳、いわゆるカーテンで仕切られていたのです。
神殿にこのような隔てがあることで、悲しいことに人間社会にも差別意識が生じました。神さまのすばらしさをこの世で表そうとすると、どうしても人間相互も相対的に表されるようになってしまうのです。
神さまに選ばれた民であることを示すために、ユダヤの民は体に割礼を施すことを命じられました。この割礼は、体の構造上、男性しか施すことができません。そのために、女性は割礼のない者・神さまに選ばれたしるしを持たない者として社会で侮られ、低く見られることになりました。
また、至聖所に関わることを申せば、祭司が、また礼拝と律法に関わる律法学者や長老たちが、社会的特権を持つようになっていったのです。
神さまの栄光が圧倒的にすばらしく、この世のすべてを凌駕しているのは当然の、当たり前の事実です。真実です。しかし、それに付随するようにこの世に分け隔てや差別が生じて、主の恵みである誰もが等しく神さまのものという社会の姿は失われていました。
その社会の姿は、主の御心からかけ離れたものです。
神さまはご自身の御心 ― 愛と正義 ― を、御子イエス様をこの世に遣わして私たち人間に明らかにされようとなさいました。そのために、神さまはイエス様をこの社会で最も差別される者・最底辺の者とされました。イエス様は馬小屋で生まれ、貧しい家の息子として育ちました。
イエス様は、ナザレからエルサレムへと弟子たちと伝道の旅を続けながら、ご自身が神さまであることを明確に顕されることがたびたびありました。特に、今日の旧約聖書の箇所と関連付けて皆さんが思い起こすのは、山の上でイエス様の姿が真っ白に変わった出来事でしょう。
ところが、イエス様が神さまであると顕される出来事を何度も目の当たりにしながら、弟子たちにはその恵みの真理がわからなかったのです。
神さまでありながら、イエス様は弟子たちにさえ真実の姿を理解されず、貧しく、しかし霊に満ちてみわざを行ってゆかれました。
貧しいこと・貧乏は、「まだ」社会の最底辺ではありません。貧乏だからと言って、憎まれることはないからです。
人が人と共に生きる時、貧しいことよりも、周りから憎まれて嫌われることの方がつらいでしょう。当時の社会で特に疎まれ、憎まれ、白い目で見られた者 ― それは犯罪者です。神さまはご計画によって、イエス様を人々に逮捕され、死刑に処せられる犯罪者とされました。
それが、十字架の出来事です。
イエス様は神さまでありながら、人間の誰よりもみじめで悲惨な死に方をされたのです。差別に満ち満ちたこの世の罪を、イエス様は最底辺の者として一身に担ってくださいました。
そして、イエス様が息を引き取られた時、神殿の至聖所の幕は上から下までまっぷたつに裂けました。至聖所の幕は、神さまの栄光を顕すためではなく、人間社会の差別の象徴となってしまっていました。それが、イエス様の死・イエス様の十字架のみわざによって取り払われたのです。
差別が取り払われました。すべての者が主の前に等しく愛されている、互いに等しく尊重し合い、愛し合うのが本来の主の御前での姿であるとの御心が顕されました。
神さまは我が子を最底辺にまでおとしめて、すべての人への愛・主の栄光を顕してくださったのです。
イエス様の犠牲の死の三日後、主のご栄光が私たちに実によくわかる強烈な仕方で現れました。この時、主の栄光は私たちにはまぶしすぎて見ることのできない光・モーセの顔を照らした光として現れたのではありませんでした。
私たちに永遠の命を約束するよみがえり・復活として示されました。復活こそが、私たちに神さまの栄光を悟らせてくれる光なのです。イエス様の十字架の出来事とご復活によって、私たちは主の栄光を知ることができるようになりました。皆、神さまに等しく深く愛されていることがわかるようになりました。
その恵みのうちに置かれていることを心から感謝して、今日から始まる新しい一週間を心を高く上げて進み行きましょう。
2022年3月20日
説教題:福音は、不滅の命
聖 書:イザヤ書48章6~7節、テモテへの手紙二 1章9~14節
キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現わしてくださいました。この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。
(テモテへの手紙二 1:10b~12)
今日は、使徒パウロが愛弟子テモテに書き送った手紙から御言葉をいただいています。テモテは当時、ローマが植民地としていたリストラという都市に生まれたと言われています。今はトルコ共和国になっています。
テモテは、ギリシャ人の父とユダヤ人の母の間に、二つの文化の流れをくむ者として育ちました。ユダヤ人の母は、後にイエス様の福音に触れてキリスト者となりました。母の母、テモテにとっては祖母もユダヤ教からキリスト教に改宗しました。信仰の篤い母、祖母だったことが、今日の聖句の少し前に記されています。
薬円台教会にも祖母または祖母・母または父、そして子どもたちと三世代にわたって信仰が継承されている方々がおられますが、テモテはまさにそのような家庭環境で育ったのです。
イエス様の弟子たち、また使徒パウロは、今のトルコからギリシャ、地中海地方に広く伝道活動を展開しました。迫害に遭いながらも各都市に救いの福音を宣べ伝え、信じる者たちの群れ・教会をたててゆきました。
パウロは結婚せず、殉教して天に召されるまで家庭を持つことがありませんでしたが、もし彼に息子がいたら、テモテぐらいの年齢だったのではと伝えられています。パウロはリストラの教会でテモテの祖母・母と親しみ、おそらくテモテを少年の頃から良く知っていたのでしょう。テモテに洗礼を授けたのはパウロだったと、考えられています。
青年へと成長したテモテは、主の召し・召命を受けて福音伝道者となりました。宣教に身を献げる献身者となったのです。パウロにとって、テモテが共に伝道に身を献げる者へと導かれたのは、実に大きな喜びだったに違いありません。
ただ、そこに薄い影のようなものがかすかに落ちたかもしれません。当時は迫害の嵐が吹き荒れる時代でした。伝道活動には大きな危険・生命の危険が伴いました。捕らえられ、裁判もなく地上の命を取られてしまっても不思議はなかったのです。
パウロは我が身をもってその危険を知り尽くしていますから、息子のように可愛がっているテモテには、穏やかに、安全に生きてほしいと思う気持ちがあったでしょう。テモテの母・祖母を悲しませたくないという人間的な思いも、浮かんだでしょう。
しかし、今日の聖書箇所を繰り返し読めば読むほど、テモテの献身にパウロが抱いたかもしれないかすかな影は、ますますかすかになるように思えるのです。
パウロはまず、このようにテモテに語ります。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、ご自身の計画と恵みによるのです。」(IIテモテ1:9)
テモテが幼い頃から教会で過ごし、洗礼を受け、神さまのものとなり、さらに福音伝道者として生きるようになったのは、テモテ自身が選んで決断したことではなく、神さまのご計画なのだと告げています。だから、テモテは、またすべての献身者は、献身を誇らしく思ってはいけないのです。
もう少し踏み込んで申せば、献身者の献身に限らず、すべてのキリスト者は洗礼を受けたことを自分の決断・決心と思って誇りとすることはない、そうパウロは教えます。また、迫害の嵐の中でどのような苦難が待ち受けていたとしても、それは主がお決めになり、与えられる試練だから受け入れて忍耐するようにと勧めます。
12節では、パウロは伝道者のみならず、当時のキリスト者すべてが置かれていたであろう困難な立場を、自分の経験としてはっきりこう語ります。「わたしはこのような苦しみを受けているのですが」。苦難をも、主のご計画として受け止めるようにと語ります。なぜなら、主のご計画・御心である限り苦難にも恵みが隠されているからです。
苦しみを恥としない、恥ではなく主の誉・栄光の顕われ・恵みとするとパウロは告げて、その理由を12節後半でこのように挙げています。「というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており」。神さまに全幅の信頼をおき、この身をゆだね、神さまが神さまであることをよく知っている ― そう、パウロはテモテに自分の信仰を書き送りました。
神さまが神さまであることを知っている、とは当たり前のように思えますが、見えない神さまの恵みを真実に心と魂にとめ、感謝と喜び、そして自分の知性・人間の限りある理性を超えて大いなる方で、その方に身をゆだねることにこそ、この上ない安心があると言葉にする ― 信仰を告白する ― ことは実は困難です。
イエス様が地上を歩まれていた時に、一緒にいた弟子たちはイエス様が神さまであることがわかっていませんでした。
イエス様は、ご自分の方から弟子たちにその真理に目を開かれるようにと導いてくださいます。マルコ福音書8章29節で、イエス様は弟子たちにこう尋ねました。「あなたがたは、わたしを何者だというのか。」ペトロが正しく答えました。「あなたは、メシアです。」メシア・救い主、必ず神さまが遣わしてくださると預言されているキリストだと、ペトロは言ったのです。
ところが、ペトロは救い主がどのようなみわざによって私たち人間を救われ、神さまの大いなる愛と正義を現わしてくださるかをまったくわかっていませんでした。
イエス様は、私たちが受けるはずだった罪の報い・滅びを私たちに代わって受けてくださり、人間の限りある想像力では、およそ神さまと思えない惨めな姿で、十字架の上で救いのみわざを成し遂げてくださいました。
それはすでにイザヤ書53章「苦難の僕」と呼ばれる箇所に預言されていました。救い主の姿が、このように告げられています。「この人は…見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。…わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに…多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」(イザヤ書53:2b~4a、12b)
ところが、この苦難の僕が目の前にいるイエス様だとは、ペトロも他の弟子たちもまったく思い至ることができなかったのです。
イエス様は、ペトロから「あなたはメシアです」という答えがあった後、これからご自分が成し遂げられる救いのみわざをこのように語りました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」。(マルコ福音書8:31)
イエス様は、まさにこのとおりに十字架で死なれ、復活されました。
ペトロは、このイエス様の言葉を聞いてぎょっとしました。よもや、そんなまがまがしいことがイエス様に起こるなどとは思えなかったからです。また、イエス様の弟子である自分たちにとって、それは大いに不都合なことでした。そんな変なことをおっしゃらないでくださいと、ペトロはイエス様をいさめ始めました。
たいへん無礼、傲慢で自分の都合しか考えられない自己中心的なふるまいですが、ペトロには、またその時の人間の誰にも、自分の無礼がわからなかったのです。
イエス様は、こうペトロを叱りました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マルコ福音書8:33)
ペトロは、また私たちは、自分の狭い想像力の中で自分に都合の良い救い主のイメージを勝手に持つことしかできません。人間は、イエス様が開いてくださった十字架の出来事とご復活の真実を心の窓とする以外には、神さまの姿を見上げる道を持つことができないのです。私たちのこの無知と罪のために十字架に架かってくださった救い主イエス様の、またイエス様を遣わした神さまの愛の深さを知らなければ、イエス様がペトロを叱った時におっしゃった「神のこと」へのヴィジョンは開けません。神さまを仰ぐ心の目が開かれない ― そう申しても良いでしょう。
十字架の出来事なしには、神さまがここまで私たちを思い、私たちのためにご自分を犠牲にしてくださるほどに愛してくださるとはわからなかったからです。
しかし、十字架によって、私たちは真実に主を知りました。
今日の聖句でパウロはテモテに教え、私たちに高らかに告げています。「わたしは自分が信頼する方を知っており」と。
神さまを知ることの恵みは、ただ「知る」だけにとどまりません。
主を真実に知る恵みは、どんな苦しみの中にあっても、その先には救いが用意されていると希望を持てることです。なぜなら、どれほど今が苦しくても、主を信じる者はその苦しみに負けて滅びることがないからです。
私たちが苦難に打ち勝つ必要は、少しもありません。苦難に負けなければよいのです。じっと忍耐して踏みとどまれば、苦難に滅ぼされることはありません。負けずに踏みとどまっていれば、たとえ倒れ伏していようと、主が抱き起こしてくださいます。そして、私たちの主は私たちを抱き、背負い、苦難を乗り越えてくださいます。私たちが苦難に勝てなくても、主は勝利してくださいます。イエス様のご復活・死からのよみがえり・滅びをひっくり返してくださった主こそが、苦難に打ち勝たれるのです。
滅びることのない命・肉体が死んでも、生命を超えて生きる不滅の命・永遠の命を、イエス様はご復活で約束してくださいました。
見えないものを信じることが苦手な私たち、「人間のこと」ばかり考えて「神のこと」を思う心の窓を常に開けておけない私たちのために、イエス様はこう語りかけ、問いかけてくださいます。ヨハネによる福音書11章25~26節のイエス様の御言葉によってです。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」
信じます、と答えつつ、日々を過ごしたいと願います。
確かに、今、私たちは多くの困難に取り囲まれています。感染の収束はまだはっきりとは見えず、経済が停滞して物価が上がり、世界情勢は不安定です。平和が壊されています。
神さまは私たちを見守っていてくださるのかと、迷子の羊のように不安になる時がないとは、言いきれない私です。
しかし、その時にこそ私たちのために命を捨ててくださったイエス様の十字架を、栄光のご復活を思いましょう。信仰が弱められている時にこそ、次の聖句を思い起こしましょう。「信じます、信仰のないわたしをお助けください。」(マルコ福音書9:24)
救い主イエス様は、まさに私たちを救うために、助けてくださるために、主のみわざの大きさと愛の深さを知らせるために世においでくださいました。
主を知ろうと十字架を仰ぎ、そこに明らかにされる主の恵みに満たされ、ご復活の主に希望をいただいて、この一週間を進み行きましょう。
2022年3月13日
説教題:約束を信じて祈る
聖 書:エレミヤ書2章5~9節、エフェソの信徒への手紙6章12~18節
わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
(エフェソの信徒への手紙6:12~13)
今日のみことばは「わたしたちの戦い」と語り始めます。戦い ― この言葉を聞いて、皆さんはどんな思いを抱くでしょう。戦火がやまないとの報道が続き、特にこの言葉に敏感になっている時だからこそ、ご一緒に思いを巡らしましょう。
伝道者として働き始めた頃、「戦い」という言葉に関わるひとつの経験をいたしました。
教会の礼拝に通い始めて間もないある方が、こうおっしゃったのです。聖書に「戦い」「勝利」という言葉が記されているので驚いた、愕然とした、と。その方の表情や口調から、ショックを受けたことが伝わってまいりました。聖書には優しい言葉しかないと思っておられ、荒々しい暴力的な言葉を見てがっかりしたのでしょう。その方が、「戦い」という言葉を見るのも聞くのも、いやだという精神状態だったことも、あったでしょう。その方はおそらく、この世で競い合うことに疲れ果て、心の安らぎを求めて教会においでになったのです。大きな挫折があったのかもしれません…神経がすり減ってしまって、「戦い」「競争」「勝利」といった言葉に過敏に反応したのでしょう。
確かに、この世は競争社会です。椅子取りゲームのように、限られた数の社会的地位・富・資源を取り合う競争に加わり、頑張って落ちこぼれないようにしなければ生きてゆけないと思わされる場面がそこここにあります。
その方が避難所に逃げ込むようにして、教会に来られたのは正しいことでした。
聖書の詩編32編で、詩人は神さまに「あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方」と呼びます。
また、詩編91編には、信仰者は「全能の神の陰に宿る人」だと謳われています。神さまは「わたしの避けどころ」です。
イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と招いてくださいます。
だから、繰り返しますが、弱り、疲れた時に神さまのところ・教会に逃げ込むのは正しいことなのです。神さま・イエス様は、喜んで弱った私たちを迎え入れてくださいます。
しかし思い違いをしてはならないのは、教会・聖書に「戦い」はあるということです。それは人と人との競い合いではありません。今日の聖句が「わたしたちの戦いは、血肉 ― 肉体を持った人 ― を相手にするものではない」と語るとおりです。私たちを苦しめる根本的な悪と、神さまが戦ってくださるのです。
その根本的な悪を、今日の聖句は「暗闇の世界の支配者」と呼びます。私たちを疲弊させる競い合いへと駆り立てるのは、この悪であり、暗闇の支配者です。聖書はそれを悪霊、悪魔、ベルゼブルと呼ぶことがあります。
誤解がないように申し上げますが、競争そのものは良いものになる可能性を持っています。スポーツに典型的に表れるように、私たちは競い合うことで技を磨き、互いに高め合うことができます。
しかし、その健全な競い合いに悪が忍び寄る時、妬みが生まれ、自分以外の者を蹴落とそうとする自己中心的な欲が生まれてしまいます。
どこまでが健全な競い合いで、どこからが邪悪で利己的、自分の欲得しか求めない競争になるのか、その線引きは実に微妙です。神さまだけが、その細い線を見分ける分別をお持ちなのではないでしょうか。
私たちを邪悪な競争に駆り立てる悪が最もはっきりと目に見える形になったのが、人の血を流し、命を奪う戦争です。戦争が邪悪なのは、結果として勝った方・戦勝国でも、負けた方・敗戦国でも命が失われることです。勝った国で人が一人も傷ついていない・死んでいないということは、ありえません。勝っても負けても、誰かが必ず傷つき、失われ、悲しみがあり、血と涙が流れます。
また、戦争の勝ち負けで正義があやふやにされます。勝った国の主張が正義で、負けた国は悪者・犯罪者です。敗戦国が勝った国に裁かれる ― それを、私たちの国は第二次世界大戦後の東京裁判で経験しています。
私たち人間は、常にこの悪の誘惑にさらされています。神さまは、その悪と戦ってくださるのです。
この受難節・2022年の受難節では、イエス様の十字架の出来事とご復活の前は、イエス様が神さまの独り子・神さまであることが人々にわかっていなかったこと、にもかかわらず、イエス様を通して神さまの愛と義が顕されていたことを心にとめようとしています。
今日は、イエス様が律法をめぐって議論を交わした相手である律法学者たちが、イエス様をベルゼブル ― 悪霊 ― と呼んだことを思い起こしておきたいと思います。律法学者は当時、社会的な指導者であり、大いに権威を持っていました。自分たちだけが正しいという思い込みから、神さまであるイエス様をこともあろうに悪霊と呼んだのです。イエス様を十字架に架けたのは、彼らのイエス様への憎しみであり、嫉妬でした。
イエス様が十字架で死なれたのは、ご自身の身に彼らの罪をも背負い、人間すべての罪を滅ぼしてくださるためだったのです。イエス様が悪に打ち勝たれた事実は、ご復活で明らかにされました。
イエス様は、この悪との戦いに私たちをも備えさせてくださいます。それは、イエス様が、ご自分お一人で伝道されたのではないことに表されています。イエス様は人々を招いて弟子とされ、どれほど欠点があっても、イエス様を裏切るほどにイエス様のことがわかっていなくても、愛して愛し抜かれました。人間を弟子として、共に伝道し、愛して愛し抜かれた ― それは、私たち人間を悪との戦いに備えさせてくださるためだったのです。
私たちは、この世に疲れてイエス様の御体なる教会に逃げ込みます。そこで休み、憩い、取り囲む悪に立ち向かう力を与えられます。今日の聖句で「邪悪な日によく抵抗し」と記されているのは、そのことです。
攻め寄せる悪に立ち向かい、よく抵抗し、悪の侵入を阻むようにと勧められています。「しっかりと立」つために、私達には神さまの武具が与えられています。
神さまの武具とは真理、正義、平和の福音、信仰、救い、さらに神の言葉だとエフェソ書6章14節から17節に語られています。武具であっても、これらは決して相手を傷つけません。私たちを守り、強め、栄光 ― 神さまの愛の顕われ ― によって闇を照らし、すべてを悔い改めへ、光の中へと招くものばかりです。ローマの信徒への手紙12章21節は、こう語ります。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」神さまの武具は、悪に打ち勝つための善なのです。
それを教会生活の中でどのように具体的に用いるか、その最初の行動・最も大切な行いが、エフェソ書6章18節に記されています。「どのような時にも、‟霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」神さまを仰ぎ、あなたはどこにおられますかと問うて御心を尋ね求め、願っていることが御心に沿って実現するように祈ることが、主に導かれた私たちの「戦い」です。「戦い」という言葉を用いたくなければ、祈りは、私たち信仰者にとって生きることそのものです。
祈りこそが、私たちの日々の営みです。
神さまが差し伸べてくださる御手に、私たちの方からも手を伸ばしてすがり、神さまとの関わりを切望していることを確かに表すのが祈りです。
最初の人アダムが神さまの命の息につなげられ、命をいただいて生きる者となったように、私たち信仰者は祈りで神さまにつながって、生きる者とされ続けます。命の息を、瞬間・瞬間に新しくいただきます。その命は、イエス様が十字架のみわざとご復活によって救われた命・永遠の命です。今日から始まる新しい一週間も、祈りを通して神さまに結ばれ、永遠の命の息を豊かにいただいて進み行きましょう。
2022年3月6日
説教題:自由への新しい約束
聖 書:エレミヤ書31章31~34節、ヘブライ人への手紙2章14~18節
それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
(ヘブライ人への手紙 2:17~18)
受難節・レントの歩みが始まりました。イエス様が私たちの救いのために十字架に架かられたことを感謝し、みわざの成就が顕されるご復活を記念するイースター礼拝を待つ四十日の歩みです。
イエス様は完全に神・完全に人 ― まったき神でありまったき人 ― として、この世の私たちの間にお生まれくださいました。天の父は、たいせつな独り子イエス様を私たちの救いのために世に遣わされたのです。イエス様は、御父からいただいた使命を十字架の出来事とご復活で成し遂げられました。
私たちに与えられたこの救いの大いなる恵みの真理 ― イエス様が神の御子でありながら、人間としてこの世においでくださったこと ― は、イエス様が地上の命を歩んでおられた間、最も身近な家族や弟子、周囲の人々にさえわかっていませんでした。
しかし、聖書にはイエス様が地上の歩みの中でも神の御子としてのお働きをされたことが記されています。また、それに対する人間の無理解と無知も書かれています。神さまであるイエス様のお働きと、限りある人間の五感で感得できるものしか理解できない・理解しようとしない人間のありさまの隔たりの大きさに、わたしたちは主なる神の大きさと素晴らしさ、人間の小ささ・罪を知らされずにはいられません。
2022年のこの受難節、私たちは聖書から、イエス様が行われた神さまとしてのみわざを聞いてゆきたく思います。十字架の出来事とご復活を経て、ようやく私たち人間に明らかにされた救いの恵みをあらためて知り、主に感謝を献げたく思うのです。
今日の旧約聖書の聖句として与えられているエレミヤ書31章には、神さまが私たちに新しい契約を与えてくださったことが記されています。旧約聖書時代、人間は背信を繰り返しましたが、神さまが人間を捨て去ることはありませんでした。神さまが人間と最初に結んだ契約は、”律法を守るならば、神であるわたしはあなたがたを祝福する”という、いわば条件付きの契約でした。しかし、人間は律法を守ることができませんでした。神さまは、その人間の弱さと罪深さを憐れんで、”律法を守るならば”という条件を取り去ってくださいました。“あなたがたの心に律法を記す”と、契約の刷新を約束してくださったのです。
罪ゆえにどうしても神さまに背いてしまう人間が、心に律法を記される・主が心に宿ってくださることで、罪を赦される・罪から自由になるという神さまの約束が、預言者エレミヤの口を通して語られました。
イエス様は、この約束を果たすために、神さまに遣わされて世においでになりました。宣教の始めに、新しい約束が果たされようとしていることをイエス様はこう宣言しておられます。「…イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコによる福音書1:14b‐15)
イエス様は、人間を罪の縄目から解き放って自由にしてくださる・救ってくださるとの神さまの約束を、これから成し遂げられると宣言されました。完全に神である姿を明らかにしてくださったのです。しかし、当時、それを知る人間はイエス様のまわりには誰もいませんでした。
今日は、イエス様が救いのみわざを開始されるその時に、「悔い改めて」とおっしゃったことに心を向けたいと思います。
今年の受難節の始まり・灰の水曜日は3月2日でした。その日から主日を入れずに四十日の平日を数えて、教会は4月17日の復活日・イースター礼拝に至ります。
今日は御言葉と共に、受難節を過ごすにあたっての信仰の養いとしてひとつの事柄を心にとめたく思います。
「灰の水曜日」の「灰」について、ご一緒に思いを巡らしてまいりましょう。
旧約聖書のヨブ記では「灰」が実に印象深く語られています。
ヨブ記の中心的な人物・ヨブはたいへん信仰深く、常に神さまを最優先に思う人でしたが、神さまは理不尽なほどに苦しい試練を彼に与えました。
子どもと財産をすべて失い、重い皮膚病のために健康すら奪われたヨブについて、聖書はこのように語ります。「ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。」(ヨブ記2:8)
ヨブに降りかかった災難を見舞い、慰めるためにヨブの友人たちがやってきました。それについて、このように記されています。「遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。」(ヨブ記2:12)
灰の中に座る・灰をかぶるとは、旧約聖書では苦難の中で救いを求めて天の神さまを仰ぐ行いです。自分の力・人間の力では苦しみを乗り越えることができないと知って、ヨブは神さまの助けを求め、友人たちも同じように神さまにすがりました。
救いを求めて神さまを仰ぐことを、別の言葉で何と言うでしょう。そうです、「悔い改める」と言うのです。
灰と塵と聞いて、次の祈りの言葉を思い起こす方もおいででしょう。葬送式、教会での葬儀での決まった祈りの言葉です。
「この兄弟または姉妹のなきがらを今み手にゆだねて、土を土に、灰を灰に、塵を塵にかえします。」(葬儀の口語式文より)
この言葉から、神さまが最初の人アダムを土の塵をこねて造ってくださったことが思い起こされます。しかし、それでは人間は生きる者とはなりませんでした。神さまが命の息を吹き込んで、人は生きる者となったのです。
人は神さまの命の息なくしては土の塵にすぎません。そして、息をしなくなった人のなきがらを火葬にした後に残るもの、それが灰です。
神さまに救いを求めて悔い改める時に、旧約聖書時代の人々が灰や塵をかぶったのは、自分が神さまに造られたものであることをあらためて心に深くとめるためでした。そして灰の中に座り、塵をかぶる行為で、神さまに「神さま、あなたは私を造ってくださいました。愛して造ってくださったのですから、苦難から救ってください」と祈り願い・悔い改めを示しました。
この旧約聖書時代のユダヤ教の伝統は、キリスト教にも受け継がれています。
カトリック教会では、「灰の水曜日」に礼拝を献げ、その中で灰を司祭が指につけ、信徒の額に十字を書きます。その日に町を歩くと、額に黒ずんだ十字架をつけた人がたくさん歩いています。私たちプロテスタント教会はそこまで具体的なことをしませんが、受難節の始まりを「灰の水曜日」と呼ぶことで、その伝統を受け継いでいます。
神さまが土をこねた人の形は、愛されて命の息を与えられて地上を生き、命の息が神さまの御許に帰れば、人の形はなきがらになります。
そのなきがらは、火葬にされれば灰になるのです。
神さまが命の息をくださらなければ、この自分は土・塵・灰に等しいものである ― 私たちはその事実を「灰の水曜日」に深く心にとめて主を仰ぎます。
土・塵・灰とここで表されているものは、私たちの肉体です。繰り返しますが、私たちの肉体は死を迎えると単なる物体になって、文字どおり、埋葬されれば土に還り、火葬されれば灰になります。
はかないものです。
前回の説教で、「救い」は「命」であるとの御言葉の教えをお伝えしました。肉体は神さまからいただく「命」なくしては、単なる土・塵・灰にすぎません。これは言い換えれば、肉体は神さまからいただく「救い」なくしては、単なる土・塵・灰に過ぎないということです。 肉体を保つ生命を超える命としての「救い」を私たちは必要としています。「救い」は、なくてはならないものなのです。
さらに深く、心に刻むべきことがあります。それは、天の神さまが独り子イエス様を、このように土・塵・灰に等しい私たちと同じものとして世に遣わしてくださったことです。
今日の聖句・ヘブライ人への手紙2章14節には、その真実がこう記されています。「子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。」さらに、17節はこう告げます。「イエスは…すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」
この肉体 ― 血と肉 ― は罪の誘惑にきわめて弱いものです。そして、人間はその罪のために死をまぬがれることができませんでした。
神さまは御子イエス様に、死をまぬがれることのできない肉体を備えさせてこの世に遣わされました。それは私たちの罪をすべて背負い、私たちの代わりに「肉体の死」を担ってくださるためだったのです。
それによって、私たちを滅びから救ってくださるためです。
「救い」は「命」だと前回の説教で申し上げました。今日はさらに一歩進んで、このように心にとめてください。「救いは肉体の死を超えた、永遠の命」、「救い」は「永遠の命」です。
私たちの肉体は土に還り、塵となり、灰となって滅びますが、与えられた命の息は神さまの御許で永遠の命を生き続けます。それを私たちの目に見えるかたちではっきりと示したのが、イエス様のよみがえり・復活です。
イエス様は、こうおっしゃいました。ヨハネによる福音書11章25節です。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
このイエス様への深い信仰を、ローマの信徒への手紙10章9節でパウロはこう記しています。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」
イエス様の十字架の出来事とご復活によって、私たちは救われました。
教会はこの恵みに感謝し、イエス様の復活された日曜日を記念し、日曜日を主の日と呼んでこのように礼拝を献げます。
もちろん、私たちは一年中、いつの礼拝でも、このことを覚えて救われた喜びを胸に新しい一週間を歩み始めます。十字架の出来事と、ご復活の恵みをなおいっそう心に深く刻み、救い主キリストを仰ぐ原点に立ち帰って、悔い改めつつ過ごすのが受難節の歩みです。
今一度、説教の始めにお話しした「灰の水曜日」に思いを戻してください。灰の中にすわり、塵をかぶり、苦難の中にあって神さまの助けを求める「悔い改め」から、私たちもこの受難節の歩みを始めましょう。
2022年2月27日
説教題:救いの創始者
聖 書:ヨナ書1章9~16節、ヘブライ人への手紙2章1~4節
神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖たちに語られたが、この終わりの時代には、御子によって私たちに語られました。…だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。…この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証しておられます。
(ヘブライ人への手紙 1:1、2:3b~4)
強大な国が小さな国に侵攻し、子どもを含む多くの命が失われています。平和が破壊されたという報道を聞いて、今日、会堂においでになった方は少なくないでしょう。その時だからこそ、ご一緒に思いを巡らせたく思うのです。ご一緒に考えたく思います。
私たち人間にとって、なくてはならないものは何なのか、と。皆さん一人一人にとって、何が一番大切でしょう。最も失いたくないものは、何でしょう。
私たちは日々前を向き、希望を抱いて進んでいますが、時々立ち止まってご自分の心に問うてみると良いでしょう。私にとって、一番大切なものは何?・最も失いたくないものは何?と。今日の聖句が語るように、その問いなくしては、人間は自らがどこから来て、どこへ行こうとしているのかを思いめぐらすこともなく、ただ時に押し流されてしまいます。
もう一度繰り返してお尋ねします。皆さん一人一人にとって、何が一番大切ですか? 何を失いたくないですか?
今日の御言葉は、その答えを告げています。失いたくないもの、最も大切なもの、それは「救い」です。より正確には、「神さまが世の始めから、御言葉を通して人間に語り続けてくださっている救いの福音を聴くこと」です。
心して、今日の聖句の2章1節を読みたいと思います。「聞いたことに…注意を払わなければなりません。そうでないと、押し流されてしま」うからです。
神さまは人間を愛して造ってくださいました。その人間は、神さまの救いがなければ生きてゆけません。救いの反対語は、滅び・死です。神さまを信じる者にとっては、「生きて命があることと、救われていることは同じです。「神さまに救われる」というかたちで神さまとの関わりを持ち続けなければ、人間としてのあり方を保つことができないのが、神さまに造られた私たち人間です。救いは、すなわち命です。説教の冒頭でお尋ねした問いに、心のうちで「一番大切なもの、それは命」と答えた方がおられたら、それは御言葉に照らして、正しい答えなのです。
救いは、命です。死と滅びからの救いです。神さまは預言者を通して、私たちに救いの御手を差し伸べていることを語り続けてくださいました。それが、旧約聖書です。
さらに、神さまはよりはっきりと私たちへの救いを示してくださるために、イエス様を世に遣わしてくださいました。イエス様のご降誕から、新約聖書が始まります。イエス様は、十字架の出来事とご復活で私たちの救いを成し遂げてくださいました。救いの福音が、こうして揺るぎない事実・真実として現わされたのです。私たちは十字架の出来事で救われ、ご復活により永遠の命をいただいたことを福音に聴き、それを語り継いで、新約聖書の時代・教会の時代を今、生きています。
今日、私たちに与えられている新約聖書 ヘブライ人への手紙の聖句は、旧約聖書・新約聖書に語られているすべての神さまの御言葉が、どれほど大きな恵みであるかをあらためて教えてくれています。預言者を通して語られ、旧約聖書に記された神さまの御言葉は、新約聖書の御言葉とつながり、重なり、響き合い、組み合わさって、人間が神さまに救われて生きる豊かな喜びを私たちに告げてくれているのです。
今日、与えられている旧約聖書の聖書箇所はヨナ書です。ヨナの物語が、新約聖書のイエス様の救いの恵みと併せて読まれる時、どれほど大きな恵みをいただけるか、これから少しの間、ご一緒に思いめぐらしましょう。
預言者ヨナは、たいへん情けない預言者です。ニネベの町が悪にまみれているので、神さまは町の人々への戒めの言葉をヨナに託しました。ヨナは神さまの使いとして、ニネベの町の人たちに「神さまを忘れて悪いことばかりしていないで、神さまに立ち返りなさい」と言いに行かなければなりませんでした。
相当な勇気を必要とすることです。ニネベの町の神さまを忘れたならず者たちに、袋叩きにされるのが容易に想像できたからです。ヨナには、この勇気が足りませんでした。彼は臆病で腰抜け、たいへん情けない預言者だったのです。彼は神さまの命令に背いて逃げ出しました。ニネベの町とは反対の方角の町に行く船に飛び乗りました。この船は、現代で言えば、電車やバスといった公共交通機関と考えてくださるとよいでしょう。いろいろな人が乗り合わせていました。
神さまは、ヨナを諦めませんでした。彼にちゃんと使命を果たさせようと、船をニネベに戻そうとなさいました。大風を送り、海を大荒れにして船の航行を阻みました。
嵐の海で船は波にもまれ、砕けそうになりました。船上は大混乱でした。ヨナ書1章5節をご覧ください。船乗りたちは「それぞれの神に助けを求めて叫びをあげ」(ヨナ書1:5)ました。
ところが、その騒ぎの中でヨナはぐっすりと寝込んでいた、と聖書は語ります。
さて、皆さんの心に閃くことはないでしょうか。嵐に翻弄される船、死んでしまうと恐れる船の上の者たち、その騒ぎをよそに、一人だけ船の中で眠っている者がいた。皆さん、お気付きではないでしょうか。
新約聖書によく似た箇所があると、気付いた方がおいででしょう。そうです。イエス様と弟子たちが湖を渡る舟に乗り、湖上で激しい嵐に遭った出来事が福音書に記されています。イエス様は、その嵐を鎮めてくださいました。この出来事は、マタイ福音書では8章23~27節、マルコ福音書では4章35~41節、ルカ福音書では8章22~25節に記されています。
マタイによる福音書からお読みします。「そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。」(マタイ8:24、新約聖書14ページ)
え、イエス様がヨナのように眠っている?と驚きますが、似ているのは事実です。神さまが一貫した救いのご計画のもとに、御言葉を与えてくださっているからこそ、このように旧約聖書と新約聖書が重なるのです。
さらにマタイ福音書を読み進むと、それがよくわかります。
「弟子たちは(眠っているイエス様に)近寄って起こし、『主よ、助けてください。おぼれそうです』と言った。イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。』そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。」(マタイ8:25~26)
私たちはこの箇所を読むと、弱い者に寄り添い、励ましてくださる優しいイエス様がどうしてこの時は弟子たちを慰めてくださらないのだろうと不思議に思います。弟子たちの恐怖と労苦に寄り添うどころか、この時のイエス様は眠り込んでおられ、弟子たちに起こされて起きたとたんに弟子たちを「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と容赦なく叱りつけた、聖書は伝えています。
なぜ、イエス様は嵐を怖がる弟子たちの信仰が薄いとおっしゃったのでしょう。
ここで、私たちは思い起こさなければなりません。
信仰は、何から始まるのですか?
ローマの信徒への手紙10:17に、このように記されています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」まさに、今日の新約聖書の聖句 ヘブライ人への手紙2章3節後半が語っていることです。その聖句をお読みします。「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。」
信仰は何を聞くことから始まるのかと言えば、神さまの御言葉、キリストすなわち救い主の御言葉を聴き、記された聖書に聞くことから始まるのです。
これに倣えば、イエス様は、嵐の舟で弟子たちを𠮟った時、言い換えればこうおっしゃったのです。「あなたがたは、ちゃんと救いの御言葉・神さまの言葉を聞いていないだろう。だから信仰が薄いのだ。」
旧約聖書に語られている御言葉を覚えていれば、ヨナ書を思い出し、船に乗っていた者たちが助かることを知っているはずだからです。騒がずに落ち着いて、神さまの助け・救いを待てるはずなのです。
さて、ヨナ書では、船に乗っていた者たちはどのように嵐から救われたのでしょう。
ヨナは、神さまの怒りを招いたのは自分であり、嵐が起きたのは自分のせいだということをよくわかっていました。そこで、船に一緒に乗り合わせている者たちに、自分の手足を縛って海にほうり込めと言いました。罪は自分にあるのだから、自分が命を捨てれば神さまの怒りはおさまり、他の者たちは助かると言ったのです。
一緒にいた者たちは驚きましたが、結局はヨナに言われたとおりに、彼の手足を縛って海にほうり込みました。そして、嵐は静まりました。ヨナ以外は、全員が無事でした。死の淵から、滅びから、救われたのです。
これも、そのままイエス様に重なります。
イエス様は、ご自分が手足を釘で十字架に打ち付けられ、十字架に架かって命を捨てられました。この御業は、私たち人間が全員無事に、滅びから救われるためだったのです。
神さまが語られ、旧約聖書に記された事柄は、このようにイエス様の十字架の出来事とご復活に結びつきます。ジグソーパズルのピースが、ピースだけを見ていると何が描かれているのかわからないのに、しかるべき場所にぴったりと収めると、こんな素晴らしい絵だったのかと感動と共に明らかになるのと似ています。神さまの御言葉・聖書は、私たちに与えられた神さまの救いのご計画・福音と言う壮大で、感動に満ち満ちた真理の表われです。聖書は面白い!すばらしい!と心と魂で感じてくださると良いと思います。
ただ、何となく、まだ心にストンと落ちないと感じておられる方もおいでと思います。どうして、神さまは御言葉の中で、情けない預言者ヨナ・人間的にはあまり尊敬できるところのないヨナと、イエス様を重ねられるのか、不思議だと思われているでしょう。
それは、イエス様が完全に神さまであると同時に、完全に人としてこの世においでくださったからです。それを思い起こすと、そうだったのか!とストンと心に落ちます。
フィリピの信徒への手紙2章6節に、こう記されています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。」
おそれ多いことですが、イエス様は、ヨナの臆病・情けなさ・その場しのぎの身勝手さといった、実に人間的な弱さを持ち得る「人間と同じ者」、完全な人となって世においでくださったのです。
しかし、人間ヨナと決定的に異なるのは、イエス様は罪をいっさい犯さない方・神さまに背かない方、本当に無実な方だったことです。
その方が、私たち教会という船に乗った者たちをこの世の嵐から救ってくださるために、その身を犠牲にされました。私たちの弱さ・背き・罪のすべてを背負って、私たちの代わりに死んでくださったのです。そうして与えられた命・救いには、神さまの、またイエス様の、私たちへの深い愛が表わされています。
今日、御言葉から、私たちはひとつのことを心にしっかりととめて、今日からの七日間を過ごしたいと願います。
今日の説教の始めでお尋ねした問いを、今一度繰り返します。私たち人間にとって、なくてはならないものは何でしょう。皆さん一人一人・キリスト者一人一人にとって、何が一番大切でしょう。最も失いたくないものは、何でしょう。
今日の御言葉から、皆さんはその答えをしっかりと心に収めておられるはずです。
私たちになくてはならないのは、神さまの「救い」です。
この救いにこめられた神さまの、またイエス様の、私たちへのとてつもなく深い愛の真実です。心のうちで主の十字架と栄光のご復活を仰ぎつつ、今週一週間も神さまのもの・救われた者として進み行きましょう。
2022年2月20日
説教題:互いのために祈る
聖 書:列王記下4章32~37節、ヤコブの手紙5章13~16節
信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。
(ヤコブの手紙 5:15~16)
今日は、祈りを勧める御言葉をいただいています。
御言葉に導かれて、今年度の薬円台教会 主題と聖句が「祈り」であることを、思い起こしましょう。
今年度の主題は「祈りの教会として歩もう」、主題聖句はローマの信徒への手紙12章12節「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」です。
この主題聖句を役員会が考え始めたのは昨年の今頃、感染防止に努める日々が二年目に入り、これまでのように教会に集うことを当たり前とできない教会生活・信仰生活が続く中でした。苦難にあっても、ただ歯を食いしばって忍耐するだけでなく、希望を抱くようにと語りかける聖句に励ましを与えられ、この聖句を掲げて一年を過ごすようにと促されたのです。
私たちの希望の源は、イエス様の十字架の出来事とご復活にあります。イエス様の私たちへの愛は、十字架の出来事に現われました。私たちの身代わりとなって十字架に架かってくださるほどに、イエス様は私たちを深く愛してくださったのです。どんな時も、どんなにつらい時も、愛されている喜び・神さまが共にいるから大丈夫と思える安心が、私たちを支えます。もうダメだと諦めてしまうことは、ありません。少し立ち止まって休まなければならないと思うことがあります。その間も神さまの御手に抱かれて、御国へと進み続けています。
だから、安心してすべてを御手にゆだね、また立ち上がり、イエス様に寄り添っていただいて歩み出せると信じる心を持てるのです。
その信じる心が、信仰であり、希望です。
私はひとりではない、イエス様が共においでくださるとの思いが、希望の源であり、またさらに希望をふくらませる原動力です。ひとりぼっちではない ― 自分は主の民の一員・神さまの群れのひとり・教会に生きる者。この事実を魂で知ることは、私たちを強くします。
皆さんは、「見える教会・見えない教会」という言葉があるのをご存じでしょうか。もしご存じでなければ、この機会に心にとめていただくと良いと願います。
見える教会は、人間の目に見える教会のことです。もちろん、教会の建物をさすのではありません。教会という信仰共同体を作り上げている神さまの群れ・信じる者の集まり・私たち教会をさします。薬円台教会は見える教会、お隣の新津田沼教会、船橋教会も、見える教会です。
では、見えない教会とは何でしょう。私たちが、神さま・イエス様とつながれて、「聖霊の働きによってひとつとされている教会」です。
見える教会は、聖霊の働きによって、天につなげられて見えない教会とされます。
教会のことを、イエス様の体と表現することがたびたびあります。体があるのですから、頭(かしら)があるはずです。教会の頭(かしら)、それはイエス様です。イエス様は神さまの右の座、天におられます。イエス様がおられる天に、イエス様を頭(かしら)とする体としてつなげられている教会、具体的に人間の目に見えなくても、主とひとつとされている教会が見えない教会です。
繰り返しますが、私たちを天と、またお互いとつなげてくれているのは聖霊です。
人間の目で聖霊を見ることはできませんが、その働きを見ることはできます。ちょうど、私たちが風を見ることはできなくても、木の葉や枝が風にそよぐのを見て、風の動きを知ることができるのと同じです。私たち人間の目で見て、理性で知ることのできる聖霊の働きがあります。それはイエス様の十字架の出来事とご復活という福音の事実であり、聖書の御言葉であり、祈りです。聖霊、福音、御言葉、そして祈りが、天と私たち、また私たちを互いに結び合い、ひとつにつなげています。
だから、主題聖句は「祈りなさい」と私たちに祈りを勧め、今日の御言葉も「互いに祈りなさい」と促すのです。
だいぶ前置きが長くなってしまいましたが、今日のヤコブの手紙の聖句をご一緒に思いめぐらし、共に祈りについて学んでまいりましょう。今日の聖書箇所の最後に、このような聖句があります。ヤコブの手紙5章16節の最後の部分です。「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」(ヤコブの手紙5:16)
この聖句に、ひっかかりを感じる方もおられると思います。
まず、「正しい人」という言葉です。正しい人は一人もいないとパウロが言っているのに、おかしいのではないかと思う方がいらっしゃるでしょう。
次に、「祈りに効果がある」と、まるでお百度参りで願いがかなえられるようで見当違いなのでは、と感じられるのではないでしょうか。
それぞれについて、少し説明いたします。まず「正しい人」について。ここでヤコブが「正しい人」と言っているのは「信仰が正しい」という意味です。神さまを生活の中心とし、最優先とする、その心の姿勢が正しい信仰です。
また、ヤコブがあえて「祈りに効果がある」と語るのは、「祈っても無駄だ、祈りなんて何の役にも立たない」という声が、その頃の教会の中で聞こえたからでしょう。ヤコブの時代、教会は常に迫害の危機にさらされていました。迫害の中でキリストの教会として礼拝を献げていることが密告され、追手がかかり、兄弟姉妹が逃げ込んだところにもその追手が迫った時、そして、その先に死が待っているという切羽詰まった中で、教会のみんなが祈り始めると「祈っている場合じゃないだろう!」と怒る信徒さんがいたのではないでしょうか。
その気持ちはわかります。何か打つ手はないかと、最後まで自分にできること・人間の力が及ぶことを捜し続けたい思いはあるでしょう。しかし、もう人間にできることをすべて行った後でもなお、人の力・自分の力・人間の力に頼ろうとするのは、全能の神さまを知らないこの世の価値観です。
不測の事態・緊急事態が起こった時、私たちの信仰は試されます。この世の価値観で頭をいっぱいにして、神さまにすがるのを忘れてしまうのです。
これは、私たちにも十分に想像がつくことです。
新型コロナウイルス感染症が拡大し始めた一昨年、2020年1月末に三密を避けるため集まらないことが当たり前になりました。その中で、世間一般の考えでは「今は教会で礼拝を献げるなんて論外だ、礼拝なんて献げている場合ではないだろう」ということになります。そして、その世間一般と同じように思われたキリスト者もいたかもしれません。
しかし、「見える教会」として集まって礼拝を献げるだけが礼拝ではありません。「見えない教会」であることを信じて、聖霊の働きに身をゆだね、集まらなくても御言葉と祈りでひとつになることが、教会には可能なのです。
また、正しい信仰を与えられていれば、危機に瀕した時にこそ、私たちが神さまにすべてをゆだねる祈りを献げ、また互いのために祈り合わなければならないことが、すぐに心に浮かぶはずです。苦難のさなかにある時こそ、私たちは神さまにすがり、祈り、礼拝で神さまとの心の出会いをいただかなければなりません。
この世の価値観が「祈っている場合じゃないだろう!」「礼拝なんか献げている場合じゃないだろう!」と騒ぐ時にこそ、キリストの教会は静まって祈り、心ひとつになって礼拝を献げるのです。
私たちの身に、人間の力では避けることのできない大きな災難が降りかかる時、私たち人間には祈ることの他、何もできません。
たとえば、地震の時などもそうでしょう。もうしばらく前のことになりますが、大きな揺れが長く続いたことが2回ほどありました。その時、私たちは安全なところを捜し、そこでじっと揺れがおさまるのを待ちます。その時に、積極的な行動としてできるのがただひとつ、祈ることです。神さまにすがって「地震を鎮めてください、揺れを鎮めてください」、そして互いのために「兄弟姉妹を守ってください」と祈ることが、たったひとつのできることです。恐怖のあまり、この世の価値観に引きずられて「今は祈ってなんかいる時ではないだろう!」とパニックを起こしかけている信仰者がいるかもしれません。その方のために「兄弟姉妹に、今こそ主にある心の平安を与えてください」と祈るのが、私たちの互いのための祈りです。
今日の聖句は、そうするようにと私たちを導く御言葉です。「互いのために祈りなさい」と、危機に瀕したキリスト者が忘れてはならない行いを教えてくれています。
最後に、今日の聖句でたいせつなもうひとつのことに、少し触れておきましょう。それは、罪の赦しと病のいやしが結び付けられていることです。
今日の聖句では、このように記されています。ヤコブの手紙5章15節です。「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。」(ヤコブの手紙5:15)
私たちが病気にかかるのは、罪を犯して何か神さまの怒りを招くことをしたからではありません。ですから、この聖書箇所にもひっかかりを感じる方がいらっしゃると思います。
罪の赦しと病のいやし、どちらもイエス様が行ってくださり、十字架でお命をかけて成し遂げてくださいました。一見すると別の事柄のように思えるこの二つを結ぶのは「元どおりにする」「修復する」ということです。罪を犯し、誰かを傷つけ、自分を傷つけ、関係を壊し、損害が生じた時、私たちは償いを求められます。
人の心を傷つけたり、最悪の場合は命が失われたりした場合、私たちには取り返しがつきません。償うことができず、元どおりに修復することができません。それは、人間には不可能なことです。
イエス様は、その私たちに代わってあらゆる損失を元どおりにしてくださるために、十字架に架かられました。
病気についても同じことが言えます。すべての病気を治し、元のとおりの健康な体に戻すことは、私たちには不可能なことです。
今、私たちを脅かしている新型コロナウイルス感染症は、今の人間の医療の知識では、まさに癒すことのできない病です。治った後も苦しい後遺症が残ることも、よく知られています。感染症にかかる前の体・元の体に戻ることは難しいのです。
イエス様がなさった癒しのみわざとは、この人間には不可能な「健康体に戻す」「元どおりにする」ことでありました。
罪の償いの成就を、イエス様は損失の究極のかたちである死をくつがえすことで私たちにはっきりとお示しになりました。
同様に、病の行き着く最悪の結果は死ですが、イエス様はこれもくつがえされました。
どのようなかたちでくつがえされたか、皆さんはよくご存じです。イエス様は復活・よみがえりによって、死をくつがえしてくださったのです。「元どおりにする」・「修復」としての 罪のゆるしと病のいやしは、イエス様の復活によって、私たちに見えるかたちとして示されたのです。その事実を、聖書は救いの成就と呼ぶのです。
イエス様によって、私たちにはすでに救いを与えられました。赦しと癒しは約束されています。一人一人が、また教会が心をひとつとされて、常にそれを心に思い起こしたいと願います。
主を求めてそれぞれに祈り、また主を求めて教会としてひとつの心で祈り、また互いのために祈り合って、赦しと癒しを約束されている恵みを喜びましょう。主のものとされている幸いを感謝しましょう。その喜びと安心に心を満たされて、今週一週間の一日一日を歩み行きましょう。
2022年2月13日
説教題:真理なる神の知恵
聖 書:箴言2章1~9節、コリントの信徒への手紙一 2章6~10節
わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
(コリントの信徒への手紙一 2:7~8)
聖書に、私たちがびっくりするような言葉があります。「神の愚かさ」(コリントの信徒への手紙一 1:25)という言葉です。神さまが愚かって…え!? どういうこと?と一瞬、耳を、また目を疑いたくなりますが、今日の聖句の少し前に記されています。神さまの御業をめぐり「愚か」という言葉が何回か用いられており、文脈をたどるため次にご紹介しましょう。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリント一 1:18)
「神は世の知恵を愚かなものにされた。」(コリント一 1:20)
「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(コリント一 1:21)
「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にとってはつまずかせるもの、異邦人にとっては愚かなものですが…神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(コリント一 1:24)
「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。」(コリント一 1:25)
神さまの愚かさ、それは言い換えれば「人間には計り知れない御心」ということです。人間の理解を超える大きな知恵なのです。
神さまの御子イエス様が人間の手によって十字架にかけられ処刑された出来事、そしてキリスト者がそれを恵みとしていることは、クリスチャンではない人にとっては「変な」ことでありましょう。福音の恵みにまだ目と耳を開かれていない方・イエス様との心の出会いをまだいただいていない方々は、こう思うでしょう。「人間に殺されてしまった神さまなんて、どこがありがたいのだろう。」そして、神さまがイエス様をそのために世に遣わされたと聞かされると、ますますわけがわからなくなります。「どうして、神さまなのに、そんな馬鹿なことをするの?」と、私も実際に何度か質問されたことがあります。
繰り返しますが、イエス様の十字架の出来事とご復活には、神さまの大いなる深い知恵が秘められています。しかし、人間の理性・常識・感性では、それをすぐには受けとめきれません。
前回の礼拝でもお伝えしたことですが、福音に出会うとは、人間的常識・理性・価値観を大きく変えられることをさします。
前回の御言葉から、私たちは次のことを教わりました。人の常識は、ねじれ現象・ブレを起こすということです。一般社会では人殺しは罪なのに、いったん戦争になると一転して、人を倒すこと・殺すことが美徳とされます。多くの敵を(人を)倒した者が英雄として賞賛されます。
しかし、イエス様は「やられても、やり返さない・殺されても、殺さない」の徹底した平和を貫かれました。そのために、この「常識のねじれ現象」・ブレを起こす私たちの罪を、ご自分が一身に引き受けてくださいました。
私たちの正しさには一貫性がありません。そのために、神さまの御心にかなわず、本来は自分たちの命の滅びをもって、そのブレの罪を償わなければなりませんでした。
ところが、イエス様は私たちの身代わりとなってくださり、天の父なる神さまに「私の命に代えて、人間を救ってください」と願われ、実際に十字架でご自身の命を捨ててくださったのです。イエス様のご復活は、神さまがこのイエス様の贖罪の願いを聞き届けてくださった証です。
人間は自己犠牲を終始一貫して、美しいもの・美徳とは思えない理性と感性を持っています。
友だちの身代わりに我が子が死ぬということが起こったとしましょう。お友だちをかばったために我が子が殺された時、親御さんの心には葛藤が渦巻くでしょう。身を挺してよく友人を守ったと我が子を褒めたい思いとともに、深い悲しみとやるせなさ、友人は生きているのに、我が子にはもう会えないという、何とも割り切れない思いが交互に胸をよぎるでしょう。
我が子が、私の子が、何もそこまでよその子のためにしなくても良かったのでは…と思って、心乱れてしまうのが私たち人間の知恵・価値観・道徳的感性です。
一方、神さまは、御子イエス様を私たち人間のために犠牲にされることをはっきり決断しておられました。神さまにとって、我が子イエスは、人間のために徹頭徹尾、終始一貫して、「そこまでしなければいけなかった」のです。
神さまは、すすんで我が子を十字架で犠牲にされ、御子イエス様はそれに従い抜かれました。
この一貫した愛と義こそが、神さまの知恵です。
確かに人間の一般常識からすれば、たいそう愚かしく見えるかもしれません。自分と自分の身内が損をするからです。これは裏を返せば、自分と自分の身内が良ければ、他はどうなっても良いというたいへん自己中心的な生き方です。私たちは、どうしてもこの自己中心的な考え方と感性から逃れることができません。パウロがからみつく罪の縄目と言ったのは、まさにこのことでしょう。
しかし、神さまは、私たちの代わりにイエス様を罪の縄目の犠牲にすることによって、私たちを救ってくださいました。
神さまの愚かさは人よりも賢く、イエス様という一粒の麦の命の犠牲によって多くの命が救われて大いなる実りとなりました。
神さまの弱さは人よりも強く、イエス様は肉を裂かれ血を流されて苦しんで死なれましたが、神さまの御力によって死に打ち勝ち、よみがえられたのです。
教会へ行き、聖書を開いて福音に触れる機会があっても、この神さまの福音の知恵・真理である救われた喜びを知らないうちは、私たちは先ほどお読みしたコリント一 1:18に記されている「滅んでゆく者」です。
滅びる者ではなく、救われた者として、ぜひ福音の知恵・神さまの真理の知恵を知るものとさせていただきたいと、強く願い祈ります。
この知恵を世に広く知らせるために、私たちは教会というイエス様の御体を通して伝道します。
何度も繰り返してお伝えすることですが、残念ながら、人間は生まれた時から神さまを知っているわけではありません。誰かに教えてもらわなければ ― 伝道されなければ ― この真理に目を開かれることなく、知恵を知らずにいるのです。だから、私たち教会は、一生懸命に伝道します。御言葉を語ります。
また、福音の真理は一度教えてもらったら、それで良いというものではありません。なぜなら、この真理は常に新しい喜びを伴っているからです。新しく語られ、その都度 心に深く受けとめて恵みと知り、聞くたびに神さまのものとされている幸いを喜ぶのが福音の真理を知る「知恵」です。また、私たちはその喜びを一度知ったら、常に求め続けるようになります。
今日の旧約聖書 箴言の聖句、箴言2章3節は次のように語ります。「知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら 分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら 銀を求めるようにそれを捜すなら」。私たちは福音の真理を知らされ、その喜びを知った後は、常に御言葉に耳を傾け、神さまに心を向け、主に呼びかけ、讃美の声をあげ、そして「捜す」ようになります。
耳を傾け、心を向け、呼びかけ、声をあげる ― これらはすべて、私たちが主日ごとの礼拝で行っていることです。神さまの御前に立ち、神さまに「わが子よ」と呼んでいただき、私たちからも「主よ」と心を献げます。私たちは礼拝ごとに神さまと新しく出会い、新しく命をいただいて七日の旅路を歩み行く力に満たされます。こうしたことができない時、私たちは必死で主を「捜す」ようになります。群れからはぐれて迷った羊が、飼い主の声を求めるのと同じです。
新型コロナウイルス感染症拡大防止のために、私たちは2020年2月から、会堂に共に集って礼拝を献げることができなくなりました。この2月で、ちょうど3年目を迎えようとしています。
主は、私たちに問うておられるのかもしれません ― あなたは、わたしを捜しているか? 礼拝でのわたしとの出会いを求めているか?
「はい!」と私たち薬円台教会は答えます。
会堂にそろって集えない主日も、聖霊と祈りと御言葉でひとつとされてまいりました。
今日の旧約聖書の聖句・箴言2章5節には興味深い言葉が用いられています ― 神を知ることに「到達する」という言葉です。
先ほどもお話ししたことですが、この言葉は福音の真理を一度知ったら、それで終わりというものではないことをよく表しています。さらに深く、さらに親しく、私たちは主日ごとに主を捜し、出会っていただき、その恵みの大きさを知る喜びを重ねます。イエス様に寄り添われる幸いを知り、イエス様に導かれ伴われて主の道を歩み、ついには「御国」に「到達」します。
それぞれの状況により、場を共にすることが困難な時も、主がご自身と私たちをひとつにしてくださいます。主を求めて「捜す」心によって、私たちは感染のまん延と関わりなく祝福されています。今日も、明日も、それぞれの持ち場で主を仰ぎ、主を知る真実の知恵の喜びに満たされましょう。救われた喜び・恵みの真理を知る神さまの知恵を、一瞬一瞬新しくいただき、泉の水のように絶えず湧き上がるイエス様の愛に触れて新しく生かされ、さらに勇気と希望、主にある力に満たされて、今週の一日一日を歩んでまいりましょう。
2022年2月6日
説教題:主に清められる幸い
聖 書:サムエル記下12章1~10節、ペトロの手紙一 1章22~25節
あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。
(ペトロの手紙一 1:22~25)
今日の礼拝で、私たちは新約聖書からペトロによる説教の言葉をいただいています。この御言葉はペトロが当時のキリスト者たちに伝え、今 時と場所を超えて私たちに語りかける教えであると同時に、ペトロ自身のイエス様との関わりの中でいただいた恵みの証であり、彼が信仰者として心にいただいた真実と申してよいでしょう。
ペトロは死を恐れずにイエス様についてゆくと豪語してからわずか数時間後に、逮捕されたイエス様を三度も知らないと言ってしまいました。彼は自分の弱さを知って激しい自責の念と後悔に苦しみました。彼が抱いた罪悪感と自己嫌悪、「取り返しのつかない」絶望はとてつもなく深く重いものだったでしょう。自ら断ち切ってしまったイエス様との絆は、修復不可能だとしか思えなかったのです。イエス様が十字架で死なれ、ペトロからは、もうイエス様にいかなる謝罪の言葉も届かなくなってしまいました。
しかし、イエス様の方から死を超えて、ペトロに言葉をかけてくださいました。イエス様はよみがえられ、彼にこう尋ねてくださいました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」(ヨハネ福音書21:16 )
よみがえり・復活は、確かに奇跡です。しかし、ペトロにとっては、イエス様が自分をゆるしてくださったことの方が奇跡に思えたでしょう。自分を否定したペトロを、イエス様は広いお心で受け入れ、天の父を仰ぎ、共に御国をめざす生き方へと再び招き入れてくださいました。絶望していたペトロに、イエス様は「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ福音書21:17)と、福音伝道の使命を与えられました。
ペトロは、今日の聖書箇所で彼自身が記しているように、「神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれ」(ペトロの手紙一1:23)、神さまのものとなって、与えられた使命を全うする人生を歩み始めたのです。
「神さまのものとなる」ことは「聖別される」、「清められる」と言い換えることができます。今日の聖書箇所で、ペトロは清められる幸いをキリスト者に勧めています。「魂を清め」、「清い心で深く愛し合いなさい」(ペトロの手紙一 1:22)と語ります。自分がイエス様から受けた恵み ― 神さまのものとされて、互いに愛し合うこと ― と等しい祝福が、私たち皆に与えられていると、今日の聖句で告げているのです。
イエス様がおいでになる前、旧約聖書の時代には、罪を犯した人間にはこの清められる恵み ― 復活のイエス様に神さまの道へと立ち帰らせいただき、イエス様と共にその主の道を歩む関係修復 ― が為されていませんでした。
今日の旧約聖書の聖書箇所では、自分では意識せずに罪を犯したダビデが、その罪を、預言者ナタンを通して神さまに指摘される出来事が語られています。
神さまは、ダビデにこう告げられました。「…主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをした…ゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。」(サムエル記下12:9~10)
ダビデの家は、この神さまの言葉どおりに、その後、剣で殺し合うようになりました。ダビデが知らずに犯した罪のために、ダビデの息子たちはいさかいを起こし、ダビデは息子アブサロムと対決して戦死させなければならなくなったのです。
神さまが今日の旧約聖書で語る「あなたの家」とは、ダビデの血筋・イスラエルの民、今の時代にあっては神さまに造られた私たちが暮らす「この世」と広く考えてよいでしょう。この世から剣が去らないとは、この世から争いごとがなくならないことをさします。
本当にそのとおりの世に、私たち人類は生き続けています。
歴史を振り返っても戦争・紛争・冷戦・政治的紛糾は絶えず起きていますし、今現在も国際社会に緊張があることは、皆さまも報道を通してご存じでしょう。
集団や共同体、特に国家を挙げて争う戦争では、私たちは神さまに背く価値観を持つようになります。人殺しはどの集団・共同体でも罪とされますが、戦争では敵を多く倒せば英雄です。大きな殺傷力を持ち、脅威となりうる武器を開発しようとするモチベーションが、私たちの科学技術を発展させてきたことは決して否定できません。
その「剣が去らないこの世」に、「平和の君」としておいでくださったのが、イエス様です。神さまの意に背いて剣を振るい合い、覇を競って人の命を奪ってまでも勝利を収めようとする私たちのただ中に、イエス様はおいでくださいました。私たちを「神さまのもの」として主の道に連れ戻し、神さまとの関係を修復してくださるため、いやすために、この世においでくださったのです。
イエス様は、平和を理想とする価値観に、私たちを常に立ち帰らせてくださいます。
やられても、やりかえさない ― 私たちにとって実に困難なこの価値観を、イエス様は、私たちに思い起こさせる御業を行ってくださいました。
「殺されても、決して殺さない」― このことを、自らをもって実践してくださったのです。自分が犠牲になることによって、他の誰かが傷つくのを阻止する究極の「平和を理想とする価値観」を、イエス様は十字架のみわざで成し遂げられました。
そして、ご復活によって、十字架の出来事が、神さまが与えてくださった愛の現れ・栄光であることを、ご復活で示してくださいました。
十字架のみわざとご復活を、私たちは聖霊と御言葉、そして聖餐式で思い起こします。
私たちキリスト者は「自分の命・兄弟姉妹の命・隣人の命は神さまのものであって、自分の好きなようには決してできない」ことを深く心に留めるのです。
私たちは、神さまのもの。
それを、今日も心に深く留めましょう。
イエス様の十字架のみわざによって清められ、ご復活によって希望をいただいていることを感謝して、今週の一日一日、心を高く上げて進み行きましょう。
2022年1月30日
説教題:神の栄光を現す
聖 書:歴代誌下29章15~17節、コリントの信徒への手紙一 6章12~20節
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
(コリントの信徒への手紙一 6:19~20)
今日は使徒パウロが、コリントの教会へ送った手紙から聖句をいただいています。コリントはギリシャの町の名前です。アテネから少し西にあり、アテネが哲学・学問の都市として知られていたのに対し、歓楽の都として有名でした。
ギリシャは、人間性を大いに礼賛する文化を持っていました。アテネで哲学が深く探求されたのは、人間が持つ理性・知性を緻密に究めたいという熱い思いからだったのではないでしょうか。アテネで理性が探求されたのなら、コリントで探求されたのは人間の感性の探求だったかもしれません。人間にとって最も大きな喜びは何か ― その問いに応えようとするかのように、神さまと救いの福音をまだ知らないコリント人たちは人体に可能な限りの生理的な喜びを追い求めました。
コリントの町には、「娼婦」があふれ、みだらな看板があちこちに掲げられていました。そのような風俗の乱れを不道徳とも下品とも思わず、むしろ人間として当然の楽しみとみなすのがコリント人だったのです。
このコリントの町にも、使徒たちの伝道の働きによってイエス様を信じ、福音を信じて救われる者が興され、教会が生まれました。喜びに満ちた礼拝が献げられ、主への感謝の祈りと讃美の声がコリント教会に響いたことでしょう。
しかし、洗礼を受けてコリント教会で信仰生活を送るようになった人々の生活が根底から変えられるようになるのはなかなか困難なことだったようです。
パウロは、その手紙の中でコリントの教会員たちがいさかいを起こしたことを嘆き、神さまに心を向けるよう教えています。社会的立場の強い者・弱い者が共に等しく主の御前に身を低くするのが教会ですが、コリント教会では、この世的な身分の上下と格差から生じるいろいろな問題が尽きなかったのです。
また、今日の聖句の少し前に記されているように、コリント教会の人々は、コリントの町にごく当たり前にはびこっていたみだらな行いをあらためていませんでした。
パウロは、コリント教会の乱れを手紙で知って心配し、説教を書き送りました。パウロがコリント教会に贈ったその戒めと導き、そして励ましの言葉を今日、こうしてご一緒にいただいています。
福音を聴き、受け容れ、信じて洗礼に与ってキリスト者とされた者の幸いを、今日の聖書箇所は私たちに告げています。信仰の基を確かめさせてくれているのです。
洗礼を受けるとは、自分が神さまに造られたものであることを知ることです。イエス様の十字架の出来事で救われたことを知ることです。さらに、イエス様のご復活により永遠の命を約束されていつまでも主と共にいる恵みに与ることです。この恵みで人の生き方は、その進路を大きく転換させてゆきます。自分中心・自分最優先だった生き方から、神さまを中心として御心をたずねつつ、その教えに従って生きる道へと導かれます。自分が「主」だった自己中心の生き方から、神さまを文字通りに「主」とする神さま中心・礼拝中心の歩みへと変えられるのです。
教会ではしばしば「ありのままのあなたでよい」との言葉が聞かれます。それは、主が私たち一人一人を大切なご自身の作品として造ってくださった恵みを、喜びと共に知ったこと・福音を信じて主のものとなったことを大前提としています。ですから、「ありのままのあなたでよい」とは、教会では次のように言い換えられます。「神さまに、このように造られた自分を感謝して受け容れる」こと。
そして、「自分は人間的・この世的な意味では決して恵まれた環境に生まれなかったが、神さまはこの自分のためを思い、自分のために特別な計画を約束してくださるのだからすべてが益となる主の約束を信じて、主に従う道を歩む」こと。
「ありのままでよい」とは、自分勝手で良いという意味ではなく、むしろその逆なのです。
ギリシャ文化の人間礼賛は、神さまをまだ知らない人間の好き勝手の極みを推し進めてゆきます。極論すれば、理性・知性の点では、人間がどこまで神さまが創られた自然に介入できるか、感性の点では人間が神さまを思うことなく音楽・造形芸術・文学その他の言語芸術でどのような美を発見できるかということになりましょう。
この人間礼賛の出発点は「人間」全般ではなく、突き詰めればそれぞれの主観です。主観とは、つまりは「自分の感じ方」ですから、自分以外の人のことを考えていません。それぞれがその主観で最高と感じる理性・知性・感性を追い求めると、自分は楽しく気持ちが良いが、それが誰かを傷つける結果を招くという事態が容易に想像できます。今日の主日礼拝箇所・新約聖書箇所が語る「みだら」は、まさにそういう事態を招く行いです。具体的な例を挙げなくても、皆さまは容易にみだらな行為が招くさまざまな悪しき状況 ― 人の尊厳が損なわれる状況・誰かが傷つき悲しむ状況 ― を思い浮かべることができるでしょう。
たいへん残念なことに、人間は「自分が神さまに造られた」ことを知らず、神さまを知らずにこの世に生まれてまいります。神さまはユダヤの人々をまずご自分の宝の民として選び、多くの恵みを与えてくださいました。それでも、ユダヤの人々は目に見えない神さまを信じず、耳に聞こえない御言葉に従おうとはしなかったのです。
人間が神さまを知らずに生まれてくるようになったこと ― それこそが、人の罪・原罪がもたらした悲しい事実ではないでしょうか。
神さまを知らないから、人間 ― 私たち ― は、何とか自分の力でこの世を生きて行こう・生き抜こうとします。自分にとって有利なもの・利益をもたらすもの(これを別名で誘惑と言います)が正しく見えて、善悪の判断を誤ることがあるでしょう。私たちは、この誘惑に自分自身をゆだねてしまいがちです。「主観」では、それが良いことに思えるからです。
誘惑とは、悪への誘いに他なりません。私たちには未来を見ることができず、状況を真実に正しく判断することができません。悪への誘いに招かれやすく、その危うい道に迷い込みやすい者なのです。せっかく神さまのものとして造られて、光の中を歩んでいるはずなのに、その主の道からはずれて悪の暗闇に引き込まれてしまうのが、私たちです。
神さまを主とせず、自分を主とすることを聖書は「罪」と呼びます。しかし、実は神さまを主と仰がず、主の道からはずれる時、私たちの主人はもはや私たち自身ではなく、悪そのものになっています。悪が主人とは、何と恐ろしいことでしょう。
こうして私たちは、自分自身を悪に売り渡して、その奴隷も同然になってしまいます。悪の奴隷・罪の奴隷となった私たちを買い戻して、闇から救い出してくださったのが、イエス様の十字架のみわざです。今日の聖句は「あなたがたは代価を払って買い取られたのです」と語りますが、それはまさにこの真実を告げているのです。「代価を払って買い取られた」、イエス様がそのお命で私たちを買い戻してくださったことを告げるこの言葉から、福音・イエス様の十字架の出来事とご復活は、救いのみわざだということが、あらためてよくわかるでしょう。
歴史の中に現れ、この出来事をこの地上で起こった事実として成し遂げてくださったイエス様は、その事実によって神さまが確かに私たちの主であることを示してくださいました。神さまが確かにおられ、私たちを創られ、ずっと一人一人を見守り続けてくださっていることが、こうして示されたのです。
罪の奴隷だった私たちはイエス様によって買い戻されて、神さまのものとして生きています。福音を受け容れるとは、この真実を知って本当のありのままの自分・神さまのものとしての自分を知ることです。本当のありのままの自分とは、「神さまが創ってくださったこの世にひとつしかない芸術作品」です。
私たちは一人一人、神さまの最高傑作なのです。
それを心と魂で深く受けとめて感謝する時、私たちはイエス様・この世で生きて働かれる聖霊が宿る主の神殿となります。
神さまは私たち一人一人を愛して造ってくださいましたから、その作品である私たちは神さまの愛の現れです。
神さまの愛が目に見えるように現れることを、別の言葉で何と言うでしょう ― 栄光、主の栄光です。こうして、神さまに造られ、イエス様に救われた私たちは、今日の聖句が語るように神の栄光を現すものとなることができるのです。
イエス様は十字架で命を捨ててまで、私たちを神さまの御手に戻してくださいました。私たちは、自分のものではなく神さまのものです。
イエス様はご復活で、私たちのよみがえり・死を超えて神さまと共にいられる恵みを約束してくださいました。それが本当のありのままの私たちです。
その喜びを体いっぱいに現わしつつ歩む私たちであるようにと、今日の御言葉は私たちを力づけてくれます。
みだらなことをしてしまう体が、聖霊の宿る神殿である自覚をいただき、聖霊で満たされた時に、主の栄光を現す器となるのです。これが、キリスト者がいただく恵みです。
感染拡大のために、私たちはもう2年間にわたり、クリスマス礼拝やイースター礼拝の時、まだ福音を知らない方々を教会にお招きすることができずにおります。実に、福音伝道を行いにくい時期を過ごしています。
しかし、私たちがただ存在するだけで、主が造ってくださったこの体でこの世を「主のもの」として生きてゆく時、私たちは主の栄光を現すことができます。
“キリスト者が世にいるだけで伝道になる! だから、それをよく心と魂で知りなさい、知ってクリスチャンとして歩みなさい”と、今日のパウロの言葉は私たちを励ましてくれています。その励ましに応えましょう。胸を張って主を仰ぎ、心を高く上げて、今日から始まる新しい一週間を、主にある幸いな者として進み行きましょう。
2022年1月23日
説教題:御言葉を口と心に
聖 書:申命記30章11~14節、ペトロの手紙一 1章3〜9節
あなたがたは、終わりの時に現わされるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが…あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。
(ペトロの手紙一 1:5~6、8)
今日は、イエス様の一番弟子だったペトロが記した手紙から御言葉をいただいています。ペトロはイエス様の一番弟子でした。それにもかかわらず、イエス様が逮捕されて偽りの裁判にかけられた時に「あんな人は知らない」とイエス様との関わりを否定してしまいました。
ペトロはイエス様が逮捕される前、イエス様のためなら命さえ惜しいと思わないと公言していました。誰よりもイエス様を最も慕う者だと、自分では堅く信じていたのです。しかし、イエス様が容疑者として連行された時、その仲間とみなされて一緒に逮捕されるのを恐れるあまり、イエス様を否んでしまいました。また、否んだ直後に、イエス様がここに至るまでのすべてを見通されていたことを知って号泣しました。自分の情けなさに泣いたのです。
十字架の出来事の後、イエス様はよみがえられ、そのペトロに会ってくださいました。イエス様は「あんな人は知らない」と関わりを否定したペトロを優しく赦してくださいました。一見すると元漁師で筋骨たくましく頑健で根性がすわっているように見えるペトロ、そしてその名(ペトロは岩をさし、イエス様がつけたと言われるペトロの愛称です)が示すように頑固一徹なところがあるペトロでしたが、すべてを見通されるイエス様は、このペトロにも実は意気地なしで弱いところであるとご存じでした。イエス様は、ご自身が最も孤独になられる時に、肝心のペトロにも「あんな人は知らない」と見捨てられることをご存じでした。人の心の弱さを、主はご存じなのです。心弱く、情けないものであると知っていても、イエス様はペトロを深く愛しておられたのです。
それは、私たち今を生きる者、そしてイエス様に実際にお目にかかった経験がない者たちにとっても同じです。イエス様は人間の弱さ・肝心の時には隣人ではなく自分を優先せずにはいられないその人間らしさをご存じで、私たちのその弱さを贖ってくださるために十字架に架かってくださったのです。
イエス様は、復活後にガリラヤ湖畔でペトロたちに出会ってくださいました。その場で、ペトロは「あんな人は知らない」とイエス様を否んでしまったことを悔い、「わたしはイエス様を愛している」とあらためて告げる機会をいただきました。その機会をイエス様はペトロのために作ってくださったのです。それを通して、イエス様はペトロに赦しを与えられました。イエス様の赦しと愛によって、ペトロは別人のような強さを与えられました。彼が、イエス様から与えられた使命に従って福音伝道者として殉教して果てるまで、宣教の務めに励んだことは皆さんがご存じのとおりです。今日、私たちがいただく御言葉は、ペトロがその宣教活動のひとつとして記した説教の一部です。
ペトロは、イエス様から与えられた使命に生きることを自分の幸いとしました。その幸いが、十字架の出来事の前からイエス様の弟子だったという特別の恵みに与った自分たち使徒だけのものではないことを、ペトロは人々に伝え、また今、新約聖書に収められた彼の手紙・読む説教を通して私たちに伝えてくれています。
前回の礼拝にて、私たちはイエス様の弟子たち・使徒の働きを記した「使徒言行録」から、主が私たちキリスト者に務めを授けてくださっていることを知らされました。その務めは、イエス様が昇天しつつおっしゃった大宣教命令 ― 福音伝道 ― が中心です。しかし、それにイエス様が付け加えられた次の御言葉に忠実に生きることをもさしています。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ福音書28:20)
イエス様は、わたしたちとどんな時も主と「共にいる」とおっしゃってくださいます。イエス様と「共にいる」ことが私たちの務めなのです。主と「共にいる」者として、私たちはこの世でさまざまな役割を与えられています。仕事での役割、社会人・家庭人としての役割があります。そして私たち一人一人が、神さまに造られた者として生きるという役割を担っています。私たちが存在する・生きることそのものが、神さまからの使命・召命です。
また、このように言うこともできます。主が「共にいる」ことは、御言葉が私たちに与えられているという事実によって明確に示されています。ヨハネ福音書の冒頭が告げるように、天の父なる神さまは御子イエス様を「言」として世に遣わされました。
私たちは御言葉を心に宿し、口で語り、御言葉が語る喜びで自分が満たされ、またその喜びをこうして礼拝を通して分かち合って伝え、主と「共にいる」務めを果たしています。その務めを忠実に、真心をこめて丁寧に果たしている時、主の光に照らされて、主の道を正しく歩んでいる安心と充実が私たちの心を満たします。
ペトロはその安心と充実・平安と幸いを、今日の聖句で「言葉では言い尽くせないすばらしい喜び」と言い表しました。その喜びは信仰者に満ちあふれ、どのような苦難の渦中にあっても希望の光をその心に灯してくれます。
ペトロは、今日の聖句で「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならない」と記しています。その「試練」とは、当時、キリスト者を苦しめていた迫害でした。その時代、シリアから地中海にかけての地方を支配していたローマ帝国は、ローマ皇帝を神として崇めていました。もちろん、キリスト者はローマ皇帝が神だとは認めません。そのため、キリスト者はローマ皇帝への、ひいてはローマ帝国への反逆者とみなされて逮捕され、残虐に処刑されました。その残虐な処刑は、見せしめのためでした。
コロセウム・円形劇場では、キリスト者たちを野獣に襲わせる処刑が見世物になりました。ライオンが老いた者・子どもを抱いた母親のいるキリスト者たちに襲いかかるのを、ローマ市民は熱狂して見物しました。どうして、そんな残酷な迫害の方法が取られたのでしょう。それだけ人間が罪深いと言えば、そのとおりでありましょう。ただ、この残酷さは、繰り返しになりますが、見せしめのためだったのです。
キリスト者がこのように無残に、屈辱的に、そして苦しめられて殺されるのを恐れて、キリスト者は主への信仰を捨て、一般のローマ市民はますますキリスト者を忌み嫌って、ローマ帝国・ローマ皇帝に従うことが目論まれていました。
ところが、目論見どおりにはなりませんでした。
まず、キリスト者は永遠の命の約束を信じていますから、この世の死を恐れません。また、見物した人々の中に、キリスト者たちが互いをかばい合い、主を讃美しながら地上の命の終わりを迎えてゆく殉教の姿に、人間が求める幸いの真実を見出だした者が少なからずいたのです。迫害というこの世の苦しみを耐え忍び、常に希望の光をいただき続け、地上の最後の息が主への愛を讃美する歌となる ― そのキリスト者の姿は、目には見えないけれどイエス様が共におられることを信じ、主と「共にいる」務めを果たす喜び・「言葉では言い尽くせないすばらしい喜び」を表していました。迫害の恐怖に打ち勝つほどの、絶対的な喜びです。
その喜びを自分も受けたいと願う者が次第にふえてゆきました。福音の救いに与り、その喜びを心に受け、まことの心の平安をいただこうと、ひそかに洗礼を受ける者が多く起こされるようになったのです。
主のものとされる「言葉では言い尽くせないすばらしい喜び」は、迫害ばかりでなく、この世のあらゆる苦難に耐え忍ぶ力を与えます。神さま、どうしてですか?と問いかけたくなる苦しみの中にいても、「共にいる」主が常に私たちに寄り添ってくださっています。この世の終わりの時にも「共にいる」イエス様が、その終わりの時を超えて私たちを導き続け、希望の光を私たちの心に灯し続けてくださいます。
今、私たちは感染急拡大の中にあって不安を感じ、日常生活へのさまざまな差し障りを耐え忍んでいます。悲しい事件が起こると、社会はその心理的背景を今の感染がもたらしている閉塞状況に求め、さらに人々の不安を増幅させているかもしれません。新型コロナウイルスという同じひとつの脅威に対し、各国が協力し合い助け合わなければならない時ですが、なかなかそうならない現実もあります。
しかし「共にいる」主が、今、私たちの心と口に御言葉の喜びを与え、行く手に希望の光を掲げてくださっています。その喜びに満たされ、主の希望の光に暖められつつ、今日から始まる一週間の一日一日を進み行きましょう。
2022年1月16日
説教題:務めを授けられて
聖 書:エレミヤ書1章7~8節、使徒言行録9章1〜19a節
…アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」
(使徒言行録 9:13~16)
新約聖書は大きく分けると、四つの部分から成っています。四つの部分とは、福音書、使徒言行録、手紙、そして最後のヨハネ黙示録です。その中の手紙は、書かれた説教・読むことのできる説教と考えてよいでしょう。今日はまず、新約聖書に納められている手紙・読める説教が書かれたいきさつをお伝えします。
イエス様の十字架の出来事とご復活の後、残された弟子たちはいただいた恵みを語り、伝道を展開しました。シリアから地中海地方にかけて、多くの教会が興されました。弟子たちは次々と教会を興しました。教会を興すとは、教会の建物を建てることを意味するのではありません。イエス様の福音に呼び集められて、福音を信じる者たちの群れを教会と申します。建物などなくても、かまわないのです。具体的に申せば、イエス様を救い主・キリストと信じて礼拝を定期的に献げる集会が教会と言ってよいでしょう。弟子たちはこうして福音に呼び集められた信じる者たちを御言葉で養い、その信仰が実り始めると数カ月から数年で、その教会を離れました。まだイエス様の福音を聞いたことのない人たちに伝えて、さらに新しく教会を興すためでした。
伝道の展開のために、こうして弟子たちが移動しながら信仰共同体を次々と育ててゆくのはイエス様が天に昇られる時に言い残された大宣教命令に従う弟子の務めでした。弟子の説教に養われた新しい信仰共同体・教会は、先ほどお伝えしたように、ある程度育つと、説教者を新たな宣教へと送り出さなくてはなりません。自分たちの群れには説教者がいなくなります。もちろん、これまで説教者が語り教えてきた福音を、今度は自分たちの中から新しい説教者が立てられて、その者がイエス様の弟子として語りました。しかし、伝言ゲームをなさったことがある方はすぐにおわかりでしょうが、一所懸命に忠実に伝えているつもりでも、少しずつ語る内容が変わってしまうことがあります。教会を興した時に最初に福音を伝えた初代の弟子たちは、福音の内容が次第に変わってしまうことを恐れ、残して来た教会に向けて説教を書き送りました。それらの説教が、新約聖書に収められた数々の「手紙」なのです。最も多く残っているのは、パウロの手紙です。今日の新約聖書の御言葉は、このパウロがいかにして伝道者になったかを私たちに伝えてくれています。
パウロは地上でイエス様に召し出され、ユダヤとその周辺地域各地を巡って天の父を教え、伝え、癒しのみわざを行ったイエス様の伝道の旅に付き従った弟子たちとは異なります。彼は、地上を生きたイエス様・各地を伝道して十字架で死なれた人間としてのイエス様と会ったことがないのです。
その意味では、私たちと同じと申してよいでしょう。彼は多くの手紙として説教を残し、そのすさまじいばかりにエネルギッシュな、命がけの伝道活動によってヨーロッパがキリスト教社会となる道筋が開けたと言っても過言ではありません。
今日の御言葉は、イエス様と出会う前のパウロがどんな人間だったかを告げています。
彼は福音伝道者とは正反対の、キリスト者を迫害する人だったのです。もともとはサウロという名で、「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込」んで、イエス様に従う者たちを見つけたら「男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行」しようともくろんでいました。
彼はユダヤ教の純粋で熱心な信徒であり、律法学者としての将来を期待されていた優秀な青年でした。その純粋さと熱心さゆえに、彼は十字架で死刑となったナザレのイエスは極刑となって当たり前の悪人で、その教えに従う者・キリスト者も滅びることが御心だと信じ、キリスト者を迫害していたのです。
このようにイエス様を激しく嫌っていたサウロが、どうして百八十度大転回して、イエス様を慕い、命がけで人々に福音を伝える伝道者になったのでしょう。
人間の考えをはるかに超える出来事が、彼に起こったのです。それは、まさに神さまのみわざとしか考えられないことでした。今日の新約聖書の御言葉は、その出来事を伝えてくれています。
先ほど司式者が朗読してくださった聖句、使徒言行録9章3節から8節をご覧ください。復活の主・イエス様がサウロに現れて、キリスト者の迫害に意気込んでいたサウロの視力を奪いました。復活の主イエスに語りかけられたことによって、サウロはパウロへと変えられ、まったく新しい人生・神さまの僕としての人生を歩むことになりました。
神さまから御言葉に仕える僕となるよう召し出されることを「召命」と申します。サウロは、この召命を受けたのです。
今日の旧約聖書の聖句には、神さまに預言者として召し出された若者エレミヤが、神さまからのその召命をいったんは断ったことが記されています。サウロ、後のパウロについて御言葉に聴く前に、エレミヤについての御言葉をご一緒に読みましょう。
旧約聖書の時代、神さまの御言葉は預言者を通して厳しい警告として世に語られました。
ユダヤは美しい国でしたが、決して強大な武力を持っていたわけではありません。攻め寄せてくる強国に滅ぼされないために、外交政策として政略結婚をすることがありました。ユダヤの王家に、強国の姫を輿入れさせるのです。姫は結婚・輿入れの時に、身の回りの物と同時に自分の国の宗教もユダヤに持ち込みました。ユダヤの国以外の諸国はほとんどが偶像崇拝をしていましたから、エルサレム神殿に偶像が何体も立ち並ぶというたいへん奇妙で罪深いことが起こるようになってしまいました。
神さまはこのありさまを嘆かれました。繰り返し、預言者を通して ”偶像崇拝をやめないと、ユダヤの国は滅びると、激しい怒りと共に警告を発したのです。
この厳しい言葉が預言者を通して語られたために、預言者は人々に嫌われ、虐げられていました。エレミヤはその預言者への迫害を知っていました。だから、神さまの召命に従って預言者となるのを恐れ、「わたしは語る言葉を知りません。若者に過ぎませんから」(エレミヤ書1:6b)とたじろぎ、神さまの使命を断ったのです。
しかし、神さまは「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」(エレミヤ書1:8)「…わたしはあなたの口に わたしの言葉を授ける」(エレミヤ書1:9b)とエレミヤに約束してくださいました。
その力強い約束を通して励ましをいただいたエレミヤは、神さまの召命を受け入れました。それは神さまに身を献げて従い抜き、御心・御旨を取り継ぐ預言者となる志を立てることでした。神さまが自分と共においでくださるという喜びが、この世の人々からの虐げや迫害を恐れる恐怖心に打ち勝ったのです。
この世の考え・人の思いによれば、人々に嫌われ排斥される者になるのはとうてい幸福とは思えません。しかし、エレミヤはこの世の安泰ではなく、神さまが与えてくださる平安に我が身をゆだねたのです。
自分の知恵を頼りに自己流の判断 ― いわば、自分勝手に人生の舵取り ― をするよりも、すべてを神さまにお任せする方が正しく安心だとエレミヤは心に深く思ったのでしょう。
さて、今日の新約聖書にも、神さまからの使命をいったんは断る人物が記されています。
目が見えなくなったサウロのもとへ、主はアナニアという弟子・イエス様の福音伝道者を遣わそうとなさいました。しかし、サウロが主の「聖なる者たち」― キリスト者たち ― を迫害していることを噂で知っていたアナニアは、キリスト者を迫害するサウロの目を癒すのは嫌だと主に言いました。自分の教会の人々、兄弟姉妹にひどいことをしているサウロとの関わりを断ったアナニアの思いは、私たちにも容易に想像がつきます。自分がアナニアだったら、同じように答えただろうと思う方は決して少なくないでしょう。自分が行って、その者の目を癒したら、自分の教会の兄弟姉妹がその者によって危害を加えられるかもしれないからです。
そのアナニアに、主はこうおっしゃいました。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」(使徒言行録9:15)
アナニアが嫌悪するサウロ・人間にはキリスト者の敵としか思えないサウロこそ、主が伝道者として選んだ者だと主は宣言されました。さらに主は、こうおっしゃいました。「わたしの名のためにどんなに苦しまなくなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」(使徒言行録9:16)
この御言葉を言い換えれば、主がアナニアに、こう告げられたと申してよいでしょう。
“ あなたがサウロを嫌い、兄弟姉妹のために彼を憎む気持ちはよくわかる。しかし、あなたがたはわたしの教え・敵をも愛しなさいとのわたしの言葉をよく覚えているだろう。そして、サウロの目を癒やさないでそのままにしておくことで、彼に復讐してはならない。復讐は、わたしがすることだ。だから、わたしはサウロの目を開き、彼を伝道者として立てることで、彼にとてつもない苦労を与える。”
主にこのように言われたら、アナニアにはもう主からの使命を断る理由がなくなってしまいます。
主が語られたのは、人の心を知り尽くし、その心の小ささに寄り添ってくださる言葉、まさに神さまの御言葉です。
こうして、アナニアは主に遣わされてサウロのもとへ行きました。サウロの上に手を置きました。これは、洗礼式と聖餐式の二つの聖礼典を執行するために聖霊で伝道志願者を満たす「按手式」の方法です。アナニアは、サウロの目を癒しました。
目が見えるようになったサウロは洗礼を受け、キリスト者となり、後にパウロと名を変えて、主がアナニアに告げたとおりに苦労に次ぐ苦労を重ねる伝道者になりました。
その頃、福音伝道は社会を乱すとされ、パウロは何度も逮捕され、投獄され、殺されかけました。地中海を渡りアテネ、ローマへ伝道する旅では、船が難破して命が危うくなりました。パウロは、人の目には、実に苦難の道・いばらの道としか思えない伝道者の人生を歩むことになったのです。
しかし、パウロ自身にとって、復活のイエス様との出会い・主との出会いは今日の聖句が語るとおり「目からうろこ」(使徒言行録1:18)の出来事でした。それまで見えていなかった真実が心に映り、主に用いられ、すべてを主にゆだねるまことの幸福を生きるようになったのです。
この幸福を与えられているのが伝道者ばかりでないことは、言うまでもありません。私たちは皆、伝道者であるかないかにかかわらず、皆、神さまから務めをいただいています。
その務めに励む時にこそ、神さまは私たちを世の光として輝かせてくださいます。
その務めは、教会での奉仕に限りません。私たちが与えられている役割のすべて ― この世での仕事、社会人・家庭人としての役割、そして私たち一人一人が神さまに造られた者として存在していることそのものが、神さまからの召命です。
その務めを忠実に、真心をこめて丁寧に果たしている時、主の光に照らされて、主の道を正しく歩んでいる安心と充実が私たちの心を満たします。その安心感と充実感こそが、主が私たちにくださる平安と幸いです。
感染が急拡大し、国内外で穏やかならぬ事件や出来事が起きていますが、おののかず、心を騒がせず、それぞれの務めを今、自分にできることと受けとめて着実に果たしてまいりましょう。祈りつつ、御心を求めつつ、今週もそれぞれ与えられているなすべき務めを果たしながら、確実に一歩一歩を歩んでまいりましょう。
2022年1月9日
説教題:世に打ち勝つ信仰
聖 書:出エジプト記14章19~25節、ヨハネの手紙一 5章1〜6節
イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
(ヨハネの手紙一 5:1-5)
今日の新約聖書の聖句は、イエス様の弟子・使徒ヨハネによるヨハネ文書のひとつ、「ヨハネの手紙一」からの御言葉です。 さっそく1節からご一緒に読んでまいりましょう。こう記されています。
「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。」
イエス様がメシア・救い主であると信じる者はだれでも、メシア預言をその民族の歴史において受けたユダヤ民族であるか否かにかかわらず、どの民族・人種であっても、神さまに愛される「神の子」なのだ、と1節は告げています。ユダヤ人ではない私たちにも、福音は届けられました。その事実がここに記されています。
さらに続けて、「神の子」は、同じようにイエス様を信じる自分以外の他の「神の子」を愛すると語られます。そうです、私たちは互いを天の神さまを父とする神さまの家族として、兄弟姉妹が互いに愛し合うように導かれているのです。
2節を読みましょう。2節は、私たち信仰者が兄弟姉妹として互いを愛し、尊び、大切にして助け合う時は、いつも必ず神さまを愛し、神さまの教えに従っていると語ります。自分勝手な自己中心主義・エゴイズムを捨てて、隣人と兄弟姉妹を自分よりも優れた者として大切にしなさい、そう今日の御言葉は私たちを導いているのです。そんな実行困難なことを、さらっと言われても、と少し畏れを感じずにはいられません。
さらに私たちは、見えない神さまを愛するのは不可能、そもそも、神さまを「愛する」なんて、畏れ多くてできないと考えがちです。また、神さまの掟を守ること ― 十戒をはじめとする律法と、イエス様が十字架の出来事でお示しくださった自己犠牲の愛の教えを守ることなど、とうていできないとたじろいでしまいます。
ところが、そのたじろぐ私たちに、3節は優しくこう告げてくれます。
「神を愛するとは、神の掟を守ることです。」
神さまの義とイエス様の愛を仰ぎ、イエス様に倣って ― “イエス様に倣って”とは、イエス様のあとについて、イエス様の真似をしながら、という意味です。イエス様にくっついて歩んで行けば、それは神さまを愛することになる、またそれで神さまの掟を守ることになるから大丈夫だと、御言葉は私たちを大いに励ましてくれているのです。
続けて、心強い言葉が語られます。3節の後半をお読みします。
「神の掟は難しいものではありません。」
イエス様に従い、御言葉を生きる指針として信仰生活を送るのは、堅苦しく厳しい修行のようなものではない、難しくはないと、御言葉は断言してくれます。
その理由を、続く4節は高らかにこう掲げます。
「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。」
「世」とは、この世に潜む悪とそれへの誘惑をさしていると言ってよいでしょう。きわめて簡単に言えば、イエス様が十字架でお示しくださった「自己犠牲の愛」の逆が「この世」です。「この世にひそむ悪」です。自分だけを優先し、しかもその自分ですら愛せないのが悪に溺れた心です。やりたい放題をして、ずるい手口で莫大な富を手にしても心は満たされず、ますますむなしさを感じる生き方が「この世に潜む悪」に誘い込まれた者のありようです。むなしさに苦しみながらも、そこから逃げることができません。
溺れる者が自分で自分の髪を引っ張り上げて水から陸に上がろうとしても無駄で、不可能なように、この世にいる私たちは、自分で何とかしようと悪あがきをしても、どうにもならないのです。
水に溺れている人は、水の外にいる人に引っ張り上げてもらわなければ救われません。水の外・この世の外におられる方とは、人間ではありません。造られた被造物ではないのです。神さまです。神さまが、この世から私たちを引っ張り上げ、救い出してくださらなければ、私たちは決してこの世の悪から逃れることはできません。
この世が私たちを引き込む最悪の結末は、むなしさの極みにある虚無であり、魂の死です。生きる力・命を失って滅びることです。
旧約聖書の創世記によれば、私たちはもともと、神さまが土をこねてかたちづくられ、塵から造られたものです。神さまは、そうしてかたちづくられた最初の人間・アダムの鼻に命の息を吹き入れられ、その命の息によって初めて、アダムは生きる者になりました。私たちは、その命の息で神さまにつなげられて生きています。命を失うとは、体が滅びることではなく、この神さまとのつながりを断ち切られる、もしくは自分から断ち切ってしまうことです。
私たちの肉体が、物理的・生物的に滅び・死を迎えるのは確かな事実です。
しかし、神さまに造られて愛されたというもうひとつの確かな事実を心に受けとめて喜び感謝する「信仰」は、永遠に変わりません。
神さまに愛されている、そしてそれを自分でも知っているという事実・信仰という事実がある限り、私たちの主にある命は死にません。また、教会という信仰共同体が、世代から世代へと信仰を受け継いでゆく現実がある限り、この世は信仰者と、その群れである教会を死なせることは決してできないのです。それは、キリストの教会がペンテコステの日に誕生してから、今までこの世から消え失せたことがないという歴史の事実が証言しています。
この世とそこに潜む悪は、信仰者ひとりひとりと、その共同体である教会を死なせることはできません。この世は、信仰を滅ぼすことができません。つまり、勝ち負けで言うならば、この世は信仰に勝つことが決してできないのです。
今日の御言葉の4節から5節は、そのゆるぎない事実・真実をこう告げています。
「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。」
信仰とは、イエス様の十字架の犠牲によって救われ、ご復活によって永遠の命の約束をいただいたと信じることです。心にその信仰をいただくことによって、また同じその信仰でつなげられて教会という信仰共同体になることによって、私たちは世に滅ぼされて死ぬことはなく、世に打ち勝っているのです。
「勝ち負け」という言葉は嫌いだ、教会で聞きたくないという方が、少なからずいらっしゃるでしょう。その思いは、たいへんよくわかる気がいたします。
この世は弱肉強食の競争社会で、人を蹴落として自分がこの世の階級を這い上がろうとしなければ安楽に生きることができない、それがいやだという思いでしょう。人が競い合う醜さを息苦しく感じて、教会にはそんな競争はないと信じて期待する ― それが、皆さんのお気持ちだと、私は思います。私も、同じです。競争社会に疲れ切って教会に来られた方々には、「キリストが死に打ち勝たれた」という言葉さえ、つらく感じられるでしょう。
「打ち勝つ」「勝利」という言葉を用いないとすれば、今日のヨハネの手紙一 5:4b節の御言葉は、こう言い換えることができます。
“神から生まれた人は皆、この世から御国へ向けて前進を続けるからです。御国に向けてのたゆみない前進、それがわたしたちの信仰です。”
そうなのです。信仰は、前進することなのです。イエス様に導かれ、寄り添われて、一歩一歩、兄弟姉妹と手を携えて神さまの御国へと進む、それが信仰生活です。
人の目には後戻りに見えることも、つまずいて転んで起き上がれないように見えることも、足踏みして前に進まないように見えることもあるでしょう。しかし、信仰者は、またその群れである教会は、常に前進を続けています。
イエス様が私たちに代わって一度、十字架でご自身の命をこの世で捨ててくださったゆえに、私たちの信仰がこの世で立ち止まり、悪に追いつかれ、吞み込まれて死ぬことはありません。
今日は、旧約聖書の御言葉に出エジプト記の「紅海渡航」の出来事をいただいています。
神さまは、エジプトで奴隷だったユダヤの人々をたいそうかわいそうに思ってくださいました。憐れんでくださいました。憐れんで、ユダヤの人々をご自分の民として、救ってくださったのです。 ユダヤの民がエジプトから脱出した時、後ろから攻め寄せるエジプト軍に海辺の際に追い詰められ、前に進むことができなくなってしまいました。この時、神さまは、神の子たちのために何をしてくださったでしょう。
まず、攻め寄せるエジプト軍と戦ってくださいました。神さまは、神の子たちに代わって、神の子らの敵・この世の悪と戦ってくださるのです。
次に、神さまは海を二つに分け、海の中に道を造ってくださいました。前に進めるようにしてくださったのです。
神の子たち・私たちが困難に直面して、自分の力・人間の力ではどうしても前に進めない時、神さまは人知をはるかに高く超えるみわざによって、私たちのために前に進む道を拓いてくださいます。私たちは、このことの確かな証拠・証を持っています。十字架で死なれ、しかし三日後のご復活によって御国への道を拓いてくださったことを伝えるイエス様の福音こそが、私たちの希望の証です。
私たちは、今、新しい年を迎え、また新しい年度への歩みを準備する時に入ろうとしています。変異株による感染の再拡大が懸念されています。しかし、主が道を拓いてくださることを堅く信じましょう。主が、私たちの前に道を造ってくださり、未来を造ってくださることを信じましょう。希望に満ちて、この一週間を進み行きましょう。
2022年1月2日
説教題:まことの王に仕える
聖 書:イザヤ書52章7節、マタイによる福音書2章1〜12節
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。…彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
(マタイによる福音書2章1節、9-12節)
今日の聖書箇所、東方の学者たちの礼拝は、クリスマスをお祝いして年を越し、新年を迎えて最初の主日礼拝でよく語られます。
イエス様を初めて礼拝したのは、羊飼いと羊たち、馬小屋の家畜たち、そして遠い東の国からはるばる旅をしてきた学者たちでした。教会の暦では、1月6日をエピファニー、公現日または顕現日と呼びます。福音の恵み・イエス様の十字架の出来事とご復活によって救われたことが、ユダヤ民族だけでなく、あまねく世界に広がることを意味します。占星術の学者たちがユダヤ民族ではなかったこと、はるか遠い国から来てイエス様を礼拝し、恵みを受けて自分の国へ帰ったことが今日の聖書箇所に語られています。それが、福音が民族を超え、国を越えて広がる公現・おおやけに現れる出来事を語っているのです。
先ほど司式者によって朗読された聖書箇所では、星に導かれて旅する東方の占星術の学者たちの姿が語られています。
暗い砂漠。夜空には満天の星。そしていちだんと明るく光る星が学者たちを導いています。絵のように美しい風景が思い浮かぶことや、教会学校で献げるページェント・クリスマス降誕劇のひとつの山場であることから、この聖書箇所を童話のように思っておられる方も決して少なくないでしょう。
しかし、その風景の裏にあるのは、実にリアルで世俗的、人間の欲にまみれていると申してよいであろう政治の世界です。学者たちを導いたのは、「ユダヤの王のお生まれ」を示す星でした。「王」という言葉には、どこか童話めいた響きがあります。「裸の王様」、「王様の耳はロバの耳」などの物語があり、民主主義の世に生きる私たちには「王」そのものが過去のものに思えます。しかし、「王」は人々を治め統べる統治者であり、共同体の指導者をさします。共同体が大きくなれば、それは国になります。国の指導者とは、政治的決断権を持つ者、すなわち私たちが現在、首相や大統領と呼ぶ立場の者ということになります。
一国の首相や大統領は、国民のために身を粉にして働き、国民に利益と幸福をもたらす判断をくだし、苦難の時には国民を慰め、励ますことを期待されているはずです。その立場の者が、いつの間にかその権力を自分のため・自分と近しい関係にある者たちだけのために使ってしまうことがあるのは、残念ながら昔も今も変わりがないようです。だからこそ、先ほど題名を申し上げた「裸の王様」や「王様の耳はロバの耳」といった王すなわち権力者・共同体の支配者を揶揄する物語が、時代を越えて語り伝えられて来たのです。
学者たちは、「占星術の学者」でした。彼らは星の動きを観測して、農作物の収穫を左右する天気や自然災害を予測する専門家でした。今で言う気象予報士、地震学者、天文学者といった科学者だったのです。彼らの務めは、自分たちが立てた予測を国の支配者であり指導者である王に報告することでした。その報告を受けて、王がどう働くかは王の資質にかかっていました。飢饉や干ばつの予測を受けて、備蓄食糧をどう確保し、どう配分して苦難の時を乗り越えるかの政治的・経済的最終決断をくだすのは王だからです。治めている国の人々に十分な食べ物が行き渡るよう工夫する王もいれば、自分と家族が豊かに暮らすことしか考えない王もいたでしょう。占星術の学者たちが苦労して考え抜いて報告した予測を、人々を守るために活かす王と、自分のためにしか用いない王がいたのです。
学者たちは、どんな王のもとなら人々が豊かに幸福に暮らせるかを考えるようになりました。ほんとうの王・まことの王とは何かを真剣に思いめぐらすようになったのです。彼らは、自分たち国民・すべての人々の命と生活を守り、だれもがいつも安心して笑顔で暮らせるようにしてくれる王がいたら、どれほど良いかと思いました。人々を救うためならば、自分がすすんで犠牲になろうとする覚悟を持つほど民を愛する王がいたら、どんなに嬉しく心安らぐことでしょう。そのような王が、もしいたならば、その前にひれ伏したいと彼らは思いました。
そう思いながら天体観測に励むうちに、彼らは思い描いていたまことの王の誕生を知らせる星を見つけたのです。彼らは、そのまことの王の御前にひれ伏すために、東の国から旅立ちました。この王に、自分たちの宝である黄金・乳香・没薬 ― 聖書学者によると、これらが当時、天体観測に使われていた品々すなわち、学者たちになくてはならない仕事の道具だったそうです ― を献げたいと、それらを携えて旅をしました。
学者たちは当初、「王」というのだから、宮殿で王子として生まれたのだと考えたのでしょう。エルサレムのヘロデ王のところに行きました。ところが、そこには新しく生まれた王はいませんでした。
エルサレムで彼らが会ったヘロデ王は、彼らから新しい王が生まれたと聞いて大いに不安を感じました。自分に王子は生まれておらず、その新しい王は自分の王位を脅かすものかもしれないからです。ヘロデ王は「王」という権威・権力を自分の手に握りしめ、そのうま味をいつまでも吸っていたかったから、不安を感じたのでしょう。ここに人間の身勝手な欲、この世的な醜さが表れています。
ヘロデ王がこの時に感じた不安は、暗い底なしの悪意に育ち、後にベツレヘムとその周辺の二歳以下の男の子を皆殺しにせよという嬰児虐殺の残虐な暴挙を招いてしまいました。(マタイによる福音書2:16~18)
子どもは、私たちの未来です。
ヘロデは、自らの手で未来を滅ぼすにも等しい罪を犯しました。
一方、ヘロデの宮殿を後にした占星術の学者たちは、星に導かれてイエス様のおられる家に着きました。
イエス様こそ、まことの王です。
この方は、すべての人間を滅びから救うために、十字架でご自身の命を犠牲になさることを使命としてお生まれになりました。そして、救いのみわざを成し遂げて三日後に復活され、私たちに永遠の命を生きる希望を示してくださったのです。
学者たちはこれ以上ないほどの喜びにあふれて、イエス様の御前にひれ伏し、黄金・乳香・没薬を献げました。彼らは「ヘロデのところへ帰るな」と夢で告げられたので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行きました。
「別の道」 ― 実は、これはたいへん大切な言葉です。
学者たちは、単にヘロデを避ける道を進んだだけでなく、新しい道を歩み始めたのです。それまでの彼らには、もしかすると重荷だったのかもしれない宝 ― 黄金・乳香・没薬という仕事道具・自分中心の王に仕えるための道具 ― を降ろし、まことの王なるイエス様を仰ぐという希望を心にいただいて、軽やかに進み出しました。
イエス様というまことの王・救い主なる神さまとの出会いをいただいた者は、それぞれの「この世の持ち場」に帰ります。私たちも、今日の礼拝後にそれぞれの場・明日からの生活や仕事の場に戻って行きます。願わくば、御心ならば、礼拝で心を新たにされ、それぞれが真実に従っているのはこの世の常識や人の考えではないとの思いを胸に抱いておられますように。私たちが真実にお仕えしているのは、まことの王であり、私たちのために命さえ惜しまず捨ててくださったイエス様なのです。
イエス様が私たちに十字架の出来事を通してお示しくださった愛を心に、主を仰ぎつつ歩み出しましょう。そうして行うこの世のわざがすべていつか、主にあって実を結ぶようにと祈り努めつつ、この主の年2022年を共に進み行きましょう。
2021年12月26日
説教題:天よ喜べ、地よ歌え
聖 書:イザヤ書49章7〜13節、ヨハネの黙示録22章1〜5節
天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。
もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。
もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。
(ヨハネの黙示録22章1〜5節)
今日の説教題「天よ喜べ、地よ歌え」、これは旧約聖書の御言葉からいただきました。バビロン捕囚から解放されたユダヤの人々は、ふるさとイスラエルへと向かいながら、喜びに満たされていました。たいへん大きく深い喜びでした。喜びのあまり、こう言わずにはいられなかったほどでした。天も自分たちと共に喜べ、地も自分たちと共に歌って神さまをたたえ、讃美せよ。
今日、私たちも大きな喜びで心をいっぱいにしています。コロナ禍のさなか、三密を避けねばならないため、今は教会に実に集まりにくい状況です。今日も、感染拡大前・二年前の半分ほどの人数しか、ここに集まることができていません。にもかかわらず、私たち薬円台教会の群れは大きくなっています。今日、一人の方が洗礼を受け、さらに新しく一人の方が教会に加えられました。昨年は二人の方が洗礼を受けられました。この試練の時・この苦難の時に、神さまは私たちに特別の恵みを賜ったのです。深く感謝を献げます。
さて、今日 いただいている新約聖書の御言葉・ヨハネの黙示録には、使徒ヨハネ(洗礼者ヨハネとは異なる人物・イエス様の弟子ヨハネです)に与えられた終末の日の幻が記されています。
終末の日とは、イエス様がもう一度、私たちの暮らすこの世においでになる日です。再臨の日とも申します。
イエス様は、2000年ほど前に赤ちゃんとしてこの世においでくださいました。それが「救い主のご降誕」、クリスマスの出来事です。イエス様は私たちと同じ人間として成長され、父なる神さまから与えられた使命に従って十字架の出来事で私たちを救われ、ご復活で永遠の命を与える約束をされて、天の御父の右の座に帰られました。今は、天に帰られたイエス様に代わり、聖霊が私たちを導き、寄り添って力を与えてくださっています。
そして、イエス様はもう一度、天から世においでくださいます。それが終末の日です。この世が天の御国にすっかり包まれて、今はまだこの世にある悪しきもの・闇に棲むものがなくなります。悲しみと労苦が消えて、私たちは喜びに満たされて主への感謝を献げているのです。神さまは使徒ヨハネに、その御国を幻で示されました。ヨハネの黙示録に描かれているのは、その幻です。
今日の聖句では、「神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた」(ヨハネの黙示録22:1)ことが描かれています。神さまと、小羊 ― 私たちの救いのために十字架で命を捨てられ、犠牲の小羊となってくださったイエス様がおられる御座から、命の水が流れ出ています。
私たちは、水がなければ生きてゆけません。水は命を与え、保ちます。生物的な命ばかりでなく、魂を潤し、希望と勇気を与え、まことの命を与える水は神さまの言葉・御言葉です。
命の水の川は、今日の聖句によれば「水晶のように輝」いています ― 水でありながら、その中にきらめく光を宿しているのです。御言葉は、光です。ヨハネによる福音書1章4節「言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった」 ― この真実を、思い起こさずにはいられません。輝く水は、都の大通りの中央を滔々と流れ行きます。溜まって動かない水・淀んだ水ではありません。湧き出ては流れ行くので、目の前の水は常に新しい水です。いえ、今、「目の前を」と申しましたが、この命の水の川を、私たちはただ眺めているのではありません。
私たちは、この命の水の川のただ中にいます。川が、私たちを運んでくれていると申してよいかもしれません。不思議なことですが、下流へ押し流すのではなく、より御国の近くへ、主の近くへ、神さまとイエス様の近くへと連れて行ってくれるのです。
私たちが読む聖書は、御言葉を満載しています。私たちはそれを、固定された言葉・変わることのない言葉・ゆるぎない言葉だと受けとめています。それは正しいことです。イザヤ書の40章8節が語るとおり「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」のです。御言葉は確かに、ゆるぎない真実を伝え、鉱物・水晶のような堅固さを保って時代から時代へと受け継がれています。
しかし同時に、聖書は滔々と流れ行く大河のように、常に新しい水を湛えています。だからこそ、私たちは同じ御言葉を何度読んでも、その都度、新しく力をそそがれます。新しく慰められ、新しく励まされます。
人生のその時・その時で、私たちはいろいろな課題や困難に直面します。その折々に私たちは聖書を開き、御言葉を読み、礼拝で御言葉に聴き、神さまを求めます。そして、その時・その時にぴったりと適切な励ましを御言葉からいただきます。それぞれに異なる課題や困難に対して、御言葉のうちに、それぞれへの正しい導きが備えられているのです。
私たちは洗礼を受ける時、神さまのものとされた感動でいっぱいになります。今日、洗礼を受けられた方もそうだと思います。また、洗礼式の証人(あかしびと)となられた皆さんも、ご自身の洗礼の時のことを思い出し、胸が熱くなられたでしょう。私自身も洗礼を受けた時、本当に嬉しく思いました。こんな喜びと安心は初めて、と思いました。もう死んでも大丈夫なのだ、と思ったほどです。人生の感動の頂点が洗礼にあるようにさえ思えました。
しかし、皆さんは、その洗礼時の私の思いが間違いであることに気付いておられるでしょう。人生の本当の感動、イエス様に支えていただいて主の道を歩む人生の真実の感動は、洗礼から始まるからです。信仰生活はここから・洗礼から始まります。洗礼の時にいただいた喜びと安心よりも、もっともっと深い喜びと安心の日々が、ここから始まるのです。洗礼は、信仰生活の第一歩です。
今日の御言葉が語る水晶のように輝きながら流れる命の水の川は、私たちに与えられた信仰が、滔々と流れる川の水のようであることを教えてくれています。信仰は、一度与えられたらそのまま固定してしまう、そういうものではありません。信仰は、常に新しくされます。更新される、と言っても良いでしょう。私たちの心は日々、御言葉によってバージョンアップされて行きます。日曜日ごとの礼拝は、その大切なバージョンアップの時です。
聖餐式は、イエス様が十字架で私たちの命を贖ってくださったことを、御言葉に加えてパンと杯で、自分の肉体をもって実際に味わうことを通していただく恵みの時・特別な更新の時、パワーアップする時と考えても良いでしょう。
先ほど、私たちは今日の聖句にある「命の水の川」のただ中にいる、その川に御国へと運ばれているとお伝えしました。それは、私たちが信仰を通して神さまからいただく安心を教えてくれています。
人生は運ばれてゆくものではなく、私たちそれぞれが歩むものだと思われる方も、もちろんおいででしょう。それは、まったく正しい考えです。私たちは、イエス様に従い、その歩みを御言葉に聴きながら一日一日を一歩、また一歩と歩んでゆきます。その道は平らではありません。平穏無事なだけの人生というのは、おそらく誰にもないでしょう。上り坂があり、下り坂があります。そして、まさか!があります。もう歩けない・前に進めないと思うことがあります。
その時に、命の水の川に運ばれていることを思い起こすようにと、御言葉は語ります。やれるだけのことをやって、どうしても力が及ばないと気づいたら、自分で何とかしようとせず、ただ神さまの御手に自分のすべてをゆだねるようにと、今日の御言葉は告げています。
ゆだねるとは、力を抜くことです。自分でどうにかしようとじたばたしないで、流れに身をまかせることです。この時、この世の流れに身をまかせるのではなく、神さまの命の水の流れに身をまかせる ー それが、私たち信仰者のありようです。
初めて泳げるようになった時のことを覚えておいででしょうか。私はよく覚えています。父と母にプールに連れて行ってもらい、仰向けに抱かれるように水に入れられて、「さあ、裕子、力を抜いてごらん、力を入れなければ浮くからね」と言われました。「パパもママもそばにいるから大丈夫、さあ、力を抜いて」ー そう言われて、できるだけ体全体を楽にしたのを覚えています。私の視界には真夏の青い空しか見えず、耳のそばでちゃぷちゃぷとプールの小さな波の音がしました。こうして、私は初めて水に浮くことを覚え、手足を動かすと進む・泳げるようになりました。皆さん、そうだったのではないでしょうか。
そうです ー 力を抜くと、私たちは水に浮きます。人生で力を抜く時、私たちのそばにはいつも、イエス様がおいでくださいます。さあ、力を抜いて、大丈夫とおっしゃってくださいます。
詩編46編11節にこう記されているとおりです。「力を捨てよ、知れ。わたしは神。」力を抜くと、私たちはどうなるでしょう。力を抜いた体はやわらかくなります。だから、水に浮くのです。力を抜いた心も、やわらかになります。やわらかになった心 ー それは、かたくなさを手放した、自由な心です。自分に対しても、まわりの人に対しても、やわらかです。優しくなります。ありのままの自分・神さまが造ってくださったとおりの自分を受け入れられるようになります。こうでなくてはならないという思い込みから解放されて、自分に優しくなれるのです。やわらかい心は、まわりに優しい心です。まわりの方々を思いやり、困っていたら助けてあげようと思うようになります。また、助けを差し伸べられたら、喜んでそれを受け入れられます。意地を張らない、それがやわらかい心です。誰もがやわらかい心を持てるようになれば、私たちは助け合うようになります。互いを支えあって、共に主の道を歩めるようになります。それが、キリスト者の歩み・教会の姿です。
イエス様は、限りない優しさをもって私たちの救いのために十字架で命を捨ててくださいました。その方が、ご自分が道となり、また命の水の川となって、必ず私たちを最も正しく、最も良い私たちの居場所・ふるさとである御国へと運んでくださいます。
今日の恵みを感謝し、力を抜いて、主がどんな時も私たちを、また私たち一人一人を導き励まし、助けてくださることを信じ、力を抜き、やわらかく優しい心を抱いて、共に新しい年へと進んでまいりましょう。
2021年12月19日
説教題:救い主が来られる
聖 書:サムエル記上2章1〜10節、ルカによる福音書1章46〜55節
ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び 主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き 御救いを喜び祝う。…驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神 人の行いが正されずに済むであろうか。
(サムエル記上 2章1節、3節)
そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、このはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」
(ルカによる福音書 1章46‐49a節)
今日のクリスマス礼拝にいただいている新約聖書の聖書箇所は「マリアの賛歌」と呼ばれます。天使にイエス様を受胎したことを告げられてからしばらく後に、マリアが献げた祈りの言葉です。
クリスマス礼拝でこの御言葉が読まれ、心に留められるのは、この祈りに神さまを仰ぐ私たちの姿勢・信仰の原点が謳い込められているからです。
クリスマスはイエス様のお誕生日ですが、私たちはその日を待つ待降節からご降誕の日々を、家族や友人、親しい人たちの誕生日を祝う思いとは異なる、特別な感謝をこめて過ごします。
私たちは自分や、自分と親しい人たちの誕生日を、神さまのご計画の中で愛されて造られたこと・今日まで主の御手に守られ導かれて過ごしてきたこと・良き出会いと交わりが与えられていることへの感謝をこめて祝います。
もちろん、クリスマスにも私たちは感謝を献げます。クリスマスにお生まれになったイエス様は、神さまの大いなる救いのご計画によって私たちの間・この世に来られました。私たちは平和を築くことができず、神さまから与えられた様々な恵みを破壊してしまう罪深い者です。しかし、その罪の報いとして私たちが当然受けなければならない滅びから、私たちを救うために、神さまはイエス様を世に遣わしました。イエス様がご自分の地上の命を私たちに与えて、私たちの代わりに十字架で死なれたこと、しかし三日後にご復活されて救いのみわざを成し遂げてくださったことを、私たちは感謝せずにはいられません。
心にあふれる感謝の思いは、神さまを讃える讃美となって礼拝で献げられます。神さまが御子イエス様を私たちに与えてくださり、いわばプレゼントしてくださったから、私たちもクリスマスには思いをこめて互いに贈り物をいたします。
また、自分または自分たちが受けている恵みを分かち合う意味で、わたしたちはクリスマスをひとつの機会として、困窮していて支援が必要な方々や団体に献金をします。
感謝と讃美、神様からいただいている恵みの分かち合いを通して、教会はイエス様のお誕生を祝うのです。
さらに、少し前の礼拝説教では、クリスマスを祝う心として このようなことをお伝えしました。
この世がすっかり神さまの御国となって、苦しみも悲しみもなくなる終わりの日を、私たちは待っています。その日には、イエス様がもう一度私たちのところへおいでくださいます。主の再臨の日・終末の日・裁きの日です。その日を待ち望み、その日に向けて進み続けることを、私たち教会は希望と勇気の表れとします。待ち望みながら、やがて来る終末の日のいわば前祝いとして、私たちはイエス様が最初にこの世においでくださったご降誕を祝うのです。
今日の聖書箇所は、新約聖書も旧約聖書も、さらにもうひとつのクリスマスを祝う教会の姿勢を私たちに伝えています。
それは、神さまがとてつもなくすばらしい方・大いなる方であり、高きにおられる神さまの御前では、人間である自分が本当に、実に小さく無力であることをあらためて知る“へりくだり”です。
クリスマスを迎える季節に、私たちはこの“へりくだり”を、ついつい忘れがちです。なぜなら、イエス様ご自身が大いに “へりくだり”を表されてお生まれになったからです。 イエス様は、神さまの御子のお生まれとしては、あまりにわたしたちに親しみやすい、卑近と申してもよいほどに親しみやすい仕方で誕生されました。
何でもおできになる全能の神さまですから、御子イエス様をいきなり、この世で最強の王・最も賢く指導力に富む政治的指導者として世に与えるというなさり方もあったでしょう。
ところが、イエス様は赤ちゃんとして降誕されました。
最近、たいへん嫌な言葉を目にする、または耳にするようになりました。親ガチャ ‒ 生まれてくる子は親を選べない ‒ という言葉です。
その言葉を今、敢えて用いれば、イエス様は実に人間的な価値観から申せばハズレの環境に生まれたことになります。
イエス様は、植民地として強大国に支配されている民族の、貧しい夫妻の子として、しかも旅の途中で宿屋にも泊まれず馬小屋で生まれました。惨めさの中で、無力な、私たち人間がお世話をしてさしあげなくてはならない赤ちゃんとしてお生まれになりました。それにより、イエス様は私たちの心に愛を呼び起こし、守ってあげたいという優しさを目覚めさせてくださったのです。
私たち人間を愛して造ってくださった神さまの私たちへの期待と、私たちを善い者へと育ててくださる神さまの深い 深い知恵がここにこめられていました。それほどご自分を低めてまで、神さまは私たち人間のことを思ってくださり、このように御子イエス様を私たちに赤ちゃんとして与えてくださったのです。
人間の中で最初にその事実に気付いたのが、イエス様を受胎した母マリアでした。
宇宙を治める方が、今、自分のうちに小さな命として宿っていることの畏れ多さを、マリアはたいへん幸いなこととして喜び、神さまを讃美しました。
それが、今日の聖句・「マリアの賛歌」です。
神さまは人間が、平和を築く者となり、誰とも敵対せず、誰をも隣人とすることを望んでおられます。
しかし、イエス様がお生まれになった時代には、強大な帝国ローマが威を振るい、強い者が弱い者を、富む者が貧しい者を虐げていたのです。いえ、それはイエス様の時代ばかりではありません。その前からそうでしたし、今もそうだと言えましょう。
人類全体が新型コロナウイルスという脅威に等しく脅かされているのに、それでも人間同士で争うことをやめられない私たちなのです。
「マリアの賛歌」には、その基となった旧約聖書の祈りがあります。今日、新約聖書ルカ1章の「マリアの賛歌」と合わせていただいている旧約聖書サムエル記上の「ハンナの祈り」です。週報の別面に記載されている聖句を見比べると、似ていることに気付かれるでしょう。
旧約聖書の聖書箇所について、少しお話しします。ハンナは子どもに恵まれず、子だくさんの女性ペニナから見下され、侮辱されて悲しんでいました。ハンナは祈りを深めました。神さまの御力と憐れみにすがり、依り頼みました。神さまは、このハンナを憐れんで、ついに子どもを授けてくださいました。子を授かったと知った時、ハンナの心に喜びと神さまへの感謝と共に浮かんだのは、ペニナへの仕返しの言葉の数々だったのです。
ハンナは、その自分の心の小ささと醜さに驚いたでしょう。自分はペニナの意地悪な言葉に苦しめられ、言葉の刃がどれほど深く人の心を傷つけるかを知り尽くしているはずなのです。にもかかわらず、同じ刃を振るおうとしている自分がいるのです。ハンナはこの自分の罪に気付いて、自らを厳しく戒めました。それが、この御言葉です。これはハンナが自分に語っている言葉です。
「驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。」(サムエル記上2:3)
私たちの心には、やられたらやり返したいと思う復讐心が潜んでいます。また、誰を前にしても、つい相手に勝ちたいと本能のように湧き起こってくる競争心が常に宿っています。競争心が邪悪な方向に向かう時、私たちを優しく諭し戒めるのは、イエス様が赤ちゃんとして生まれた事実です。
大いなる全能の神さまが、人間の中で一番弱い者・赤ちゃんになってくださったことで、私たちは自分たち人間の小ささに、あらためて気付かされます。世俗的な表現を用いれば、「こんなに自分は器の小さい人間だったのだ」― さらに、最近の若い男の方が言いそうな言葉にすれば「自分は、こんなに“ちっちぇー”人間だったのだ」と思います。その事実に思い至る時、私たちは、その“ちっちぇー”人間になってまでして、私たちを慈しみ、善い者になりなさいと導き、ついには私たちを罪の報いである滅びから救うためにご自分の命を十字架で捨てられたイエス様の愛の大きさを知ります。“へりくだり”とは、このことです。
感謝と讃美、分かち合いの思いと、終末の日への希望 ‒ そのクリスマスの喜びに加えて、今日、イエス様が十字架で流された血潮の色である赤い四本のろうそくが灯されているのを心に映し、あらためて御前にへりくだり、罪のゆるしをいただきましょう。また、聖餐式で主の御体なるパンと血潮なる杯に与って、ご一緒にクリスマスの恵みを受けましょう。
2021年12月12日
説教題:喜びの知らせ
聖 書:イザヤ書40章1〜11節、マタイによる福音書3章1〜3・12〜12節
そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
(マタイによる福音書3:1-3)
アドヴェントに入り、講壇にクランツを置くこの季節に、よく尋ねられる質問があります。ろうそくは、何を意味しているのですか?という問いです。イエス様は、暗闇の世を照らす光として世においでくださいました。ろうそくに火を灯すのは、その世の光なるイエス様を表しています。
ご降誕日・クリスマスまでのアドヴェントの四週間は、イエス様が世に遣わされた日が近づき、光なるイエス様が近づいてくださることを表して、週ごとに灯すろうそくの数を増やしてゆきます。
聖書的な根拠はありませんが、おそらくほとんどのキリストの教会で、このようにクランツを置き、四本のろうそくを立てて、週ごとにろうそくの灯りの数を増して灯しながらアドヴェントを過ごします。
同じく聖書的ないわれはないのですが、ろうそく一本一本を順にこう呼んで思いをこめる習慣があると聞いたことがあります。
1本目のろうそくは「預言のろうそく」で、希望を表します。
2本目のろうそくは「天使のろうそく」で、平和を表します。
3本目のろうそくは「羊飼いのろうそく」で、喜びを表します。
4本目のろうそくは「ベツレヘムのろうそく」で、愛を表します。
今日はアドヴェント3週目、三本目のろうそくに灯りが灯されました。ご紹介した習慣によれば、喜びのろうそくが灯されたことになります。
そして、私たちは今日、まさに喜びの御言葉をいただいています。
旧約聖書からは、預言者イザヤの口を通して語られたバビロン捕囚からの解放の喜びの御言葉が与えられています。
新約聖書からは、荒れ野で呼ばわる洗礼者ヨハネが、救い主イエス様の伝道活動の始まりが告げられています。
イエス様はマリアとヨセフの初めての子としてこの世にお生まれになってから、30年ほどはナザレで穏やかな日々を過ごされました。私たち人間と同じように赤ちゃんから少年へ、そして大人へと成長し、ヨセフの生業だった大工さんとしての仕事をなさっていました。イエス様が神さまの律法を、神さまその方でなければおできにならない愛と正義に満ちた解釈で説き明かされ、天の父・主なる神の慈しみと正しさを伝道されるようになったのは、30歳頃からのことだったと伝えられています。
イエス様の伝道活動の始まりは、そのまま、イエス様が救いのみわざを成し遂げるために十字架への道を歩み出されたことを意味します。その真実を、イエス様がこれから歩まれる道筋の露払いをするように、洗礼者ヨハネが人々に告げました。今日の新約聖書の聖句には、そのことがしるされています。
イエス様はこのヨハネから洗礼を受けられ、天の父から聖霊を受けて伝道活動 ‒ 天の御父について人々に教え、御父の御心を伝え、人々を癒やす御業を始められました。
イエス様のお誕生からさかのぼること およそ760年ほど前に、神さまは救い主を世に与えられると約束してくださっていました。預言者イザヤの口を通して語られたその約束がいよいよ実現されることを、洗礼者ヨハネは告げたのです。
ヨハネは、当時のユダヤ社会で神さまに仕える者として尊敬されていた祭司・律法学者・長老のいずれでもありませんでした。神殿のある都エルサレムの世俗の賑わいから遠く離れた荒れ野‒ 砂漠で、禁欲的な生活を送り、御言葉と向かい合い、祈りの日々を過ごしていました。
祭司・律法学者・長老は長い贅沢な衣をまとい、広場を闊歩して人々に敬われようとしていました。それと真反対に、ヨハネは人の目にどう見えるかなどまったく気にせず、らくだの毛衣をまとってひたすら神さまを求めていたのです。その一途な姿に心を打たれ、あらためて神さまに立ち帰り、ヨハネから罪を洗い清める洗礼を受けようとする人々が多く興されました。
バビロン捕囚の出来事から、およそ五百数十年が経っていました。イザヤ書の預言のとおりに、国土と独立、自由を失っていたユダヤの人々は解放されてユダヤに戻ることができました。神殿を建て直し、町を再興しましたが、かつての繁栄は戻りませんでした。
洗礼者ヨハネの時代、つまりイエス様がお生まれになった時代には、ユダヤはローマ帝国の植民地とされていました。植民地税に苦しめられ、独立を語ろうとすれば、町にはローマ兵の監視の目があって反逆者として捕らえられるおそれがありました。かつてのバビロン捕囚の頃ほどではなかったにしても、独立も自由も望めない状態でした。
人々の心には、かつてイザヤが語った次のような虚しさが広がっていたことでしょう。
「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。この民は草に等しい。」(イザヤ書40:6b〜7)
イエス様は伝道を始められた最初の説教・山上の説教で、こうおっしゃいました。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草」。(マタイ6:30a)その御言葉から、「草は枯れ、花はしぼむ」とのイザヤの言葉が思い起こされずにはいられません。イザヤが、人間のはかなさのたとえとして用いた「野の花」です。
人間はふとした瞬間に、歴史を振り返り、また自分が歩いてきた道のりを振り返って、人間は、また自分は、この野の草のようにはかないと、無力感・虚無感に襲われます。
ただし、神さまに見守られていることを思い起こす時、そのむなしさは消え去ります。
今、引用したマタイ福音書6章30節の御言葉で、イエス様はこう続けて語られました。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたには なおさらのことではないか。」(マタイ6:30)イエス様はこう力強く、神さまが人間を愛しておられることを告げて、人々の心を神さまに向き直らせ、回心・悔い改めへと導きました。
今がどれほどつらく、前途が暗闇に閉ざされているかのように思える時も、神さまを仰ぐ時、私たちの心には光が灯されます。私たちの心に光を灯してくださるのは、世の光としておいでくださった御子イエス様です。
またイエス様は、私たちが聴き、読むことのできる御言葉として世においでくださいました。先ほどお伝えしたように、イエス様は洗礼者ヨハネから洗礼を受け、父なる天の神さまからの聖霊で満たされて、そのお働きを始められました。神さまの御言葉を伝える伝道活動を始められたのです。
神さまの言葉・御言葉は揺らぐことも、失われることも、変わることも、廃れることも、永遠にありません。今日の旧約聖書 イザヤ書の御言葉がこう語るとおりです。「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
光であり、御言葉であるイエス様は神さまを指し示すために、世に遣わされました。神さまの愛と正義を、ご自身が十字架のみわざとご復活で人の目に見えるように現すために、イエス様はこの世にお生まれくださいました。神さまの言葉はとこしえ・永遠です。
私たちは御言葉から、どんな時も、いつも変わらずに必ず希望と勇気、前進する力をいただけます。御言葉が与えてくださる力は、社会の状況や政治のあり方、国のかたちがどうであっても、また私たち一人一人の人生のどんな瞬間にあっても変わりません。
詩編の詩人は、こう謳いました。詩編139編11節の御言葉です。「『闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。』闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち 闇も、光も、変わることがない。」
闇も、光も、変わることがない ‒ 私たちが闇と感じる苦難も悲しみも、神さまの光なる御言葉を心にいただけば、闇ではなくなります。私たちは御言葉の光を掲げて、この世の闇を進み続けられるのです。
今、私たちは主に導かれて、コロナ禍の闇を通り抜けようとしているのかもしれません。世界的な貧困や格差社会、政治的な課題、環境問題も御言葉の光を掲げて取り組むようにと、私たちは主に招かれています。私たちそれぞれの心に宿った光が小さくても、アドヴェントクランツの光がひとつ、ふたつ、三つと増えてゆくように、私たちが隣り人を思いやり、その隣り人がさらに隣り合う人々を思いやることで、光は大きくなってゆきます。主の光でそれぞれの心を満たされ、この世が主の光で照らされることを祈り願いつつ、今週の一日一日を進み行きましょう。
2021年12月5日
説教題:主へと招く御言葉
聖 書:エレミヤ書36章1〜8節、ルカによる福音書1章34〜38節
ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、次の言葉が主からエレミヤに臨んだ。「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」
(エレミヤ書36:1-3)
天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
(ルカによる福音書1:35-38)
今年のアドヴェントでは、日本基督教団の聖書日課から主日礼拝の聖書箇所をいただいています。この聖書日課は、イエス様がなぜ私たちの間に遣わされたのかを知り、神さまの御心と救いのご計画を旧約聖書の聖書箇所から聴き取るようにと私たちを促しています。
今日の旧約聖書箇所エレミヤ書は、主が預言者エレミヤを通して語られた赦しへの招きです。預言者エレミヤの時代に、ユダヤ民族は大国アッシリアに、次いでバビロニアに攻められて、窮地に陥りました。バビロニアはユダヤの知識階級や有力者、技術者を捕らえて、バビロンに連れて行きました。
これが、「バビロン捕囚」と呼ばれる出来事です。
実は、この悲劇が起こる前に、神さまは、預言者エレミヤを通して、こんな悲惨なことにならないようにとユダヤの人々に悔い改めを呼びかけて警告をくださっていました。今日の旧約聖書箇所は、その警告の記録です。
ここに語られている「悪の道」とは、神さまを「自分のすべてを導いてくださる主」とせず、神さまではないもの ‒ たとえば自分自身の力、お金、名誉、社会的地位などを自分勝手に最優先とすることです。“悪の道を進む” とは、言い換えれば “神さまに背を向ける・神さまに背く” ことをさします。
悪の道を進んだ結果、エルサレムの神殿の中は異様な光景となりました。他の民族の偶像が建ち並ぶようになってしまったのです。偶像崇拝により、どう考えても人の道にはずれた恐ろしいことが平気で行われました。献げ物と称して、清らかであるべき場所でみだらなことが行われ、幼い子どもたちがいけにえとして献げられました。
偶像崇拝をする民族は、日照りが続いて雨乞いをする時などに、偶像に我が子を献げ、その見返りとして願いの成就を求めました。ユダヤ民族の神さま・わたしたちの神さまは、そのような、人身御供のような献げ物を厳しく禁じていました。
ところが、ユダヤの人々はこの頃、偶像崇拝・背きの道・「悪の道」に迷い込み、神さまが造り与えてくださった尊い命・幼い子どもたちの命を献げ物とする過ちを犯していたのです。
神さまはたいへん悲しまれ、命を与えるご自分の愛が民に踏みにじられていることを激しく憤られました。しかし、怒りの中でも、神さまは民に “もう勝手にしなさい、わたしはあなたがたを見捨てるから、滅びてしまいなさい” とは、おっしゃいませんでした。エレミヤを通して、“そのまま悪の道を行けば、あなたがたは本当に国をバビロンに滅ぼされてしまう。しかし、わたしに立ち帰るなら、わたしはあなたがたの罪と咎を赦す” と優しく寛大な御言葉をくださいました。主を仰ぎ、その御言葉によって正しく歩めば、敗色濃厚な今の大国との戦いから逃れさせてくださり、ユダヤを救い、決して彼らを見捨てないと招いてくださったのです。
この主の招きの言葉を伝えたエレミヤは、ユダの王や家臣に喜ばれるどころか迫害されました。余計なことをいううるさい者とみなされて、神さまの言葉を伝える預言者であるにもかかわらず、神殿に出入り禁止、いわゆる「出禁」にされてしまったのです。
当時、神さまの言葉を心に聴くことができるのは預言者だけでした ‒ イエス様が世に来られ、ご復活後に昇天を経て私たちに聖霊をお送りくださってからは、私たちは一人一人、聖霊を通して聖書の御言葉に御心を聴き、恵みをいただけるようになったのです。
そのエレミヤを神殿から閉め出してしまったのですから、「ユダヤの『悪の道』ここに極まれり」です。御言葉を聴くことができません。それでも神さまは、これほどに愚かさで無礼、傲慢きわまりないユダヤの民を見捨てはなさいませんでした。「出禁」になってしまったエレミヤの口に御言葉を授け、エレミヤの助手バルクがそれを巻物に記録しました。いわゆる口述筆記です。バルクは、エレミヤを通して神さまに命じられたとおり、断食の日にその巻物を神殿で読み上げました。
ところが、その御言葉に従った者は一人もいませんでした。時の王 ヨアキムに至っては、その警告に激しく反発し、何と御言葉が記されたその巻物を「ナイフで切り裂いて暖炉の火にくべ、ついに、巻物をすべて燃やしてしまった」(エレミヤ書36:23)のです。
神さまは、人間に与えた命を尊ぶようにと教えてくださり、それによって正しく平和に生きなさいと巻物で警告し、ご自分のもとへと招いてくださいました。しかし、ユダヤの民は神さまのその憐れみと恵みを拒絶し、さらには御言葉の巻物を焼き捨てて、神さまを侮辱しました。
神さまは深く嘆かれ、ユダヤがバビロニアの攻撃を受けるがままになさいました。より厳しい試練の中で、ユダヤの民がご自身に立ち帰るよう計らわれたのです。しかし、ユダヤは頑なに神さまに背き続け、悲惨な状況に陥ってゆきました。
それでも、神さまはユダヤの民を、また人類全体を見捨てることはなさいませんでした。エレミヤの時代から数百年後、神さまは預言者イザヤを通して約束された「救い主」を世に遣わしてくださいました。
これが、イエス様のご降誕です。
いくど御言葉で呼びかけても立ち帰らない愚かで頑なな人間に、神さまはついに「人となった神の言(ことば)」・御子イエス様を与えてくださいました。
イエス様がマリアのおなかに宿られた時、預言者エレミヤの時代にユダヤの人々が神さまの御言葉に立ち帰らなかったのとはまさに正反対に、マリアは神さまの言葉を素直に受け容れました。
今日は、そのマリアの信仰を新約聖書ルカによる福音書にご一緒に聴こうとしています。今日の新約聖書の聖句から一部をお読みします。「天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。…神にできないことは何一つない。』マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』」(ルカによる福音書1:35-38)
マリアはいきなり目の前に現れた天使 に「おめでとう」と祝われて驚き恐れました。
天使の出現にびっくりし、さらに加えて「恵まれた方」と呼ばれて「主があなたと共におられる」との言葉に戸惑いました。創造主なる天の神さまは「インマヌエル(共においでくださる)の主」だと信仰を通して知らされてはいても、どうして天使がこの自分に向けて、ことさらに「おめでとう。主があなたと共におられる」と言うために現れたのか、わからなかったからでしょう。
マリアはこの時、14歳の少女であったと伝えられています。自分はごく普通の若い女性、もっと言ってしまえば “取るに足らない平凡な者・大勢の中の一人” と何となく思っていたのではないでしょうか。なぜ、自分に天使が?と思ったでしょう。
ところが、天使が「主があなたと共におられる」と言ったのは、文字どおりの意味でした。天地創造の主なる神・父なる神さまと一体のイエス様が、この時にマリアの内に宿ったのです。イエス様はマリアの体の中・胎の内におられて、これ以上ないほどぴったりとマリアと共においでくださっていました。
天使はマリアに「恐れることはない」‒ 何も心配はいらないと告げて、マリアがイエス様を身ごもったと言いました。それはマリアの、いえ私たち人間全体の常識と理性による理解を超える事柄でした。マリアは実に正直に、天使に「そのようなことがありえましょうか。」と問いました。
すると、天使は「あなたの親類のエリサベト」の身に起こったことを語りました。それは、子を授からないまま年をとり、人間の常識ではもう子どもをまったく望めなくなっているマリアの親類のエリサベトに、神さまが夫ザカリアとの間の子を与えた出来事でした。その子はすでに胎内で六ヶ月を迎えていました。エリサベトのお腹の子は、後にイエス様に洗礼を授ける洗礼者ヨハネです。
その恵みの奇跡に顕れているのは、神さまの全能です。「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)と、天使は力強くマリアに断言しました。主の全能を告げ、主の力がマリアを包んでいるから、少しも恐れることはないとマリアを励ましたのです。
マリアには、この励ましが必要不可欠な立場にありました。
なぜなら、ごく平凡な少女マリアは 神さまに選ばれて御子を胎内に宿し、人知を超えたその神さまの御業ゆえに、人の世ではたいへんな苦労をすることが予測できたからです。結婚前に身ごもった女性・姦淫の罪を犯した者として、マリアは石打の刑で殺される可能性がありました。婚約者ヨセフとの結婚は、もう望めないと思って当然でした。
にもかかわらず、神さまは、人が危惧するすべての事柄からマリアを守り通して共においでくださるとおっしゃったのです。
その神さまの約束を信じて恵みを受けるか、信じずにさらに「ありえない」と天使の言葉を退け、神さまの恵みを拒むかは、マリアの決心にかかっていました。
マリアはすなおに主を信じ、人間には「ありえない」としか思えないことを心に受け入れ、恵みとうけとめたことを言葉で言い表しました。マリアは言いました。「わたしは主のはしためです」‒ 私はただお一人の神さま、あなたの僕です・あなただけにお仕えする者です‒ と信仰を告白しました。それから、祈りました。「お言葉どおり、この身になりますように。」‒ 御心のとおりのことが、私に起こりますように。
信仰告白と祈りを、マリアは主に献げました。
マリアに起こった出来事は、イエス様を受胎したという点では、確かにマリアだけに起こった特別な事柄です。他の誰にも、マリアに起きたことは起こりません。神さまがマリアを特別に選び、神さまがマリアだけに与えた人生を歩ませたからです。
しかし、この事実は、そっくりそのまま私たち一人一人にもあてはまります。私たち一人一人が人生で体験することは、その人ひとりの体験です。他の誰にも、その人に起きたこと、その人にこれから起きることは起こりません。神さまが一人一人を特別に選び、その人、その人それぞれに特別に与えた人生を歩ませるからです。
私たちそれぞれの歩みには、それぞれの課題があり、苦難があり、悲しみがあります。
しかし、神さまは私たちそれぞれを一人一人、特別に選んでその人生を与えてくださっています。そして、神さまは私たち一人一人を愛して造ってくださったので、その全能をもって、それぞれがいただいた “特別な人生” に、常に寄り添って苦難を分かち合い、一人一人を守り通してくださいます。
今日、私たちが与えられているこの御言葉 ‒ 「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。…神にできないことは何一つない。」(ルカ1:30、37)‒ によって、マリアが守り抜かれたように、私たちも主に愛し抜かれ、守り通されます。
次のように聖書が語っている通りです。コリントの信徒への手紙一10章13節の御言葉です。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
試練の大きさ・深さは人によって異なります。神さまは、その人 その人に合わせて試練を賜り、耐える力・忍耐する力を与えてくださいます。また、その人 その人に合わせたタイミングで逃れの道を備えてくださるのです。
マリアに与えられた人生の試練の大きさ・深さは、すさまじいものでした。彼女の苦労はイエス様を出産した頃のことばかりではありません。彼女は若くして夫ヨセフに先立たれたと推測されています。さらには、慈しみ育てた我が子イエス様が、十字架に架かって死なれるのを見るという悲惨を受けなければなりませんでした。
人間の常識からすると、マリアの人生は幸福だったとは思えないかもしれません。
しかし、それは神さまが遣わされた天使に「おめでとう」と祝された人生だったのです。「お言葉どおり、この身になりますように」と祈った時、マリアは自分のすべてを主にゆだね、そこに至上の平安をいただきました。その平安が一人のうら若い平凡な女性だったマリアを限りなく強めました。自分の力ではなく、ただ主によって強められる ‒ それは祝福された幸いな人生です。
神さまが常に共におられる、その幸いの大きさを、マリアはイエス様を身ごもって、自分の身をもって知ることで、体と心と魂で知り尽くしていたに違いありません。
その幸いは、マリアが、天使の言葉を神さまからの招きの言葉として聴いた時に始まりました。また、マリアが、いただいているすべてを受け入れて御心が成りますようにと祈ることから始まりました。
私たちは神さまにどうしてもかなえていただきたい願い事がある時、心を尽くして何度も祈ります。もし、願いがかなえられないと、たいそうがっかりします。一生懸命に努力をしたことの成果が実らないと、神さまが祈りを聞き上げてくださらなかったように思うのです。しかし、その時に与えられた別の道が、実は自分にとって最も良い道だったと、何年も、時には何十年も経ってから気付くことがあります。過去に自分が願った祈りよりも さらに大きな恵みを、神さまは計画し、準備してくださっていたのです。
マリアは祈りました。「お言葉どおり、この身に成りますように。」このマリアの祈りは、私たちに祈ることのできる最も御心にかなった祈りでありましょう。御心を聴きつつ、自分の勝手な欲望ではなく 神さまのご計画の中を歩む時にこそ、主は私たちに堅く寄り添ってくださり、どんな時も共にいてあらゆる苦難を一緒に乗り越えてくださいます。また、苦難からの逃れる道が、神さまが決められたその時に、必ず与えられます。御心は、御言葉を通して私たちに告げられています。御言葉を通して、私たちは御心を聞き、主へと招かれています。このお招きに、お応えしましょう。いつも御言葉に聴き、御心をたずねつつ、御心のとおりに この身になりますようにと、神さまに自分のすべてをおゆだねしましょう。その時、主は必ず私たちと共においでくださり、慰め、励まし、必要ならば逃れる道をも備えてくださいます。
今日から始まる新しい一週間、私たちもマリアのように「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と確かに告げられていることを信じて、喜びのうちに進み行こうではありませんか。
2021年11月28日
説教題:救い主を待ち望む
聖 書:イザヤ書51章4〜8節、テサロニケの信徒への手紙一 1章5〜10節
わたしに聞け 正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。
人に嘲られることを恐れるな。
ののしられてもおののくな。
(イザヤ書51章7節)
主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州で響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。
(テサロニケの信徒への手紙一 1章8〜10節)
今日から教会の暦は、イエス様のお誕生を感謝するクリスマスに向けて、祈りつつ日々を重ねるアドヴェント・待降節に入ります。
講壇のクランツの一本目のろうそくに、灯りが灯りました。ひとつの炎・ひとつの光が、一生懸命に燃えてひとすじの信仰を表しているように思えます。
イエス様は、この世の闇を照らす光として、お生まれくださいました。
クリスマス礼拝の日の色、いわゆる典礼色は、光の色・白です。
薬円台教会は、クランツのろうそくの色として赤を選んでいます。
赤は明るく鮮やかで、特に冬に似合います。私たちの心を暖めてくれる色です。クリスマスオーナメントなどによく用いられるこの赤い色は、イエス様が十字架で流された血の色を表しています。
イエス様の十字架の出来事を思う時、わたしたちはふと、イエス様のこの世でのお誕生をクリスマスの日を、ただ喜ばしくおめでたいこととして手放しで祝ってよいのかという心持ちになります。
確かに、お誕生日はそれぞれの命の最初の日として、だれにとっても記念すべきお祝いの日です。私たちが家族のお誕生日、また親しい方のお誕生日を祝いたくなるのは、自然な思いでありましょう。まして、それが慕わしいイエス様のお誕生日であれば、なおさら盛大に祝いたくなります。
また、イエス様がマリアのお腹に宿ることをマリアに告げた天使は、「おめでとう」とマリアに祝いの言葉を告げました。
しかし、マリアと婚約者ヨセフを取り巻く諸環境、また当時のユダヤ民族の政治的状況は、イエス様のお誕生を「おめでとう」と歓喜できるようなものではありませんでした。
マリアと婚約者ヨセフは貧しく、マリアは結婚前にみごもった者として、またヨセフはそのような女性を娶った者として周囲の人々から白い目で見られることが、当然 危惧されました。
ユダヤはローマ帝国の支配下に置かれた植民地でした。ユダヤ民族は戦いに負け続けている人々としてさげすまれていたばかりか、重い植民地税を課せられるという苦難にありました。
植民地税のためにユダヤの人の数・人口を調査しようと、ローマ帝国はユダヤ民族にそれぞれ自分の町で住民登録をするよう命じました。マリアとヨセフも、そのためにベツレヘムに向かいました。楽しい旅ではありませんでした。屈辱的な旅であり、身重だったマリアにとって、また寄り添うヨセフにとって苦しい旅でした。イエス様がお生まれになったのは、その旅の途中でした。若く貧しい夫婦には泊まる場所すらなく、イエス様が産声をあげられたのは、家畜用の汚れた暗い場所でした。
惨めな場所に人の子としてイエス様がお生まれくださったのは、天地を創造され、この世界のすべてをご計画される神さまの御子が、人間の苦しみのいっさいを知ってくださるためでした。イエス様は、神さまのたったひとりの御子であり、もちろんご自身も神さまでありながら、人間の立場にまで身を低めてくださったのです。
しかも、御子イエス様は、神さまからこの世で果たすべき大きな使命を命じられていました。それは、人の罪をすべて代わりに背負い、人がその罪のために受けるべき裁きを代わりに受けて十字架の上で死に、滅び、それにより人を救うという使命でした。
神さまは、イエス様がお生まれになる今から2021年ほど前、正確には2025年前という説もありますが、それよりもずっと前から御子イエス様を救い主として世に与える約束をしてくださっていました。
その約束は紀元前760年頃、今から3000年ほど前に、国を滅ぼされ悲しみと絶望の中にあったユダヤ民族に与えられました。
ユダヤ民族はそれからも民族衰亡の危機に何度もさらされながら、近いところでは第二次世界大戦頃のホロコーストに遭いながらも、滅びることなく、現在に至るまで、多くの分野で力を持っています。経済的・金融的な国際ネットワークを築いていることは皆さんもよくご存じでしょう。音楽家メンデルスゾーンを生み出したメンデルスゾーン家は銀行業の一家です。大富豪ロスチャイルド家も、ユダヤ系です。科学者では精神科医フロイト、物理学者アインシュタインの名が思い浮かびます。映画監督スティーヴン・スピルバーグもユダヤ系です。
長年にわたり力を蓄えてきたユダヤ系民族の忍耐を支えたのは、神さまからの御言葉と、救い主を与えるという約束でした。
今日の御言葉で、神さまは民をこう励まされます。イザヤ書51章7節の御言葉です。今 一度、お読みします。「人に嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな。」(イザヤ書51:7)そして、ユダヤの人々を軽んじている「諸国の民」は裁かれると語られたのです。(イザヤ書51:5)
神さまは、正義と救いを現す方を遣わし、救われた恵みがとこしえに続くようになさるとおっしゃいました。救われた恵みとは、神さまの御手のうちに堅く守られてまことの平安をいただくことに他なりません。救い主・メシアとは、この御手へと人々を導く方のことです。神さまへの道となってくださるイエス様のことです。旧・新約聖書のあらゆる御言葉が、救い主がイエス様として、世においでになったことを示しています。
イエス様は、神さまが人間を励ますためにくださった御言葉「人に嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな」を、十字架の上で実際に体現されました。
イエス様は、肉を裂かれ血を流されながらも忍耐されました。天の父から与えられた救いのみわざの使命を成し遂げられ、私たちがイエス様を通して神さまの国・御国の恵みと平安へと進む道を開いてくださったのです。
人に馬鹿にされているように思えて悔しさを感じる時、“人生ってなんて不公平!”としか思えず、世に侮られているように思える時、イエス様が十字架上で受けられた侮辱と虐げを思い起こしましょう。
イエス様は、私たちに代わり、また私たちと共にその侮辱と虐げを受け、「恐れるな」とおっしゃってくださる主の御言葉によって、私たちと共に忍耐されました。
そのみわざによって、私たちは神さまの子・光の子とされる恵みに与っているのです。
イエス様のお生まれは、その約束の実現です。
私たちはクリスマスで、この神さまの約束の実現を喜びます。
しかし、繰り返しになりますが、ここで私たちはそれぞれの心に、何かトゲのようなひっかかりを感じずにはいられません。
私たちは一人一人、神さまに命をいただいて生きるため・命の喜びを心と身いっぱいにいただくために この世に生まれてまいりました。ところが、イエス様だけは、死ぬためにこの世にお生まれになったのです。天の父から、私たちの救いのために十字架で死ぬという使命を受けていたためです。
イエス様のお誕生は、私たちの犠牲となるためでした。それを、これで自分は救われた!とただ喜ぶだけで良いのだろうか…それではあまりに自己中心的で、イエス様に申し訳ないのではないか…そんな思いが、私たちの心に浮かぶのは自然でありましょう。
教会がクリスマスを祝うのには、イエス様のお誕生日ということに加えて、大切な意味があります。それは今日の新約聖書のみことばに、はっきりと記されています。
今一度、今日の新約聖書の聖句 テサロニケの信徒への手紙一 1章9節の途中からお読みします。「彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。…あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。」(一テサロニケ1:9-10)
「テサロニケの信徒」は、「テサロニケ教会」と言い換えて良いでしょう。テサロニケ教会はパウロが開拓伝道をして興した教会の中でも、特に伝道の進展に恵まれ、迫害の嵐に遭っても必死にそれに耐えた、小さくても粘り強い信仰に満ちた信仰共同体でした。
パウロがそのテサロニケ教会の信仰を喜んで、祝福とさらなる御言葉の教えを書き送りました。それが、今日 拝読している「テサロニケの信徒への手紙一」です。その聖句には、テサロニケ教会を支えた信仰の希望と、伝道の根拠となる事柄が大きく二つ、記されています。
ひとつは、目に見えないためにわかりづらく、つい偶像信仰に走ってしまっていた旧約聖書時代とは異なり、ついに私たちと同じ人間として目に見えるイエス様がお生まれになったことです。今日の聖句が語る「偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった」とは、そのことをさしています。私たちは、クリスマスにイエス様が “目に見える神さま” として世においでくださったことを喜び祝うのです。
そして、なんとイエス様はこれからもう一度、おいでくださいます。イエス様は十字架で死なれ、三日後に復活され、天に昇り 天の父なる神さまの右の座につかれ、今もそこにおられます。そのイエス様が、これからもう一度、世においでくださいます。今日のみことばの「御子が天から来られるのを待ち望むようになった」とは、その信仰を表す言葉です。
イエス様がもう一度おいでになることを「主の再臨」と申します。その時、神さまの救いのみわざがすべて完成し、この世が神さまの国・御国とひとつになります。この時、主の大いなるご計画である救いのみわざ・救済史が完成します。
今はまだ私たちを苦しめる難題・課題がこの世にあり、私たちは涙を流すことがあります。近いところでは東日本大震災、今の新型コロナウイルスによるパンデミックも、その難題・課題・苦難です。しかし、御国の到来と共に、神さまはすべての苦難を取り去り、私たちの「目の涙をことごとくぬぐい取ってくださ」います。ヨハネの黙示録21章4節が告げるとおりです。
その時、イエス様はもう一度、私たちのところに来られます。これが主の再臨です。クリスマスでイエス様のお誕生を祝うごとに、私たちは一年、また一年と、主の再臨の希望を新たにします。
神さまの国・御国、完全な平和と恵みの世が近づいていることを確信して、待ち望む心と祈りを献げます。こう祈るのです。“神さま、あなたはたいせつな独り子を私たちにくださるほどに、この世を愛してくださいました。感謝いたします。わたしたちはイエス様のお生まれを信じ、それをしるしとして、クリスマスを祝います。それと同じ信じる心と期待する思いをもって、私たちはイエス様がこれからおいでになることも待ち望んでいます。天の父よ、あなたのご計画が完成し、御国が来ますように。”
“イエス様の再臨と共に、御国が来ますように。” ‒ 私たちが「主の祈り」の「御国を来たらせたまえ」と祈るのは、まさにこの祈りです。
神さまのご計画・救済史が着実に進められていることを、私たちはイエス様が初めて世に与えられたクリスマスで、知らされました。
この神さまのご計画・救済史は、次にイエス様が世に遣わされる再臨で完成します。この時、いっさいの苦しみが消え、死は消え、私たちは主と共に永遠の命の喜びに満たされます。
私たちはクリスマスを、イエス様の再臨・御国の到来の、いわば“前祝い” として祝うのです。
心を合わせて祝う中で、今日のみことばが伝えるテサロニケの教会のように苦難に負けず伝道に励み、どんな時も希望を捨てず、すべてを主にゆだねて前進する勇気をいただきます。イエス様が教えてくださるように、兄弟姉妹同士で互いに相手を敬愛し、隣人に仕える志を新たにされます。
さあ、そのクリスマスの恵みを待ち望んで、アドヴェントの一日一日を、また今日から始まる新しい一週間を、心を高く上げて進み行きましょう。
2021年11月21日
説教題:主は心によって見る
聖 書:サムエル記上 16章7-13節、テモテへの手紙 一1章12-17節
しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
(サムエル記上 16章7節)
今日は“神さまに召し出される”、“神さまに招かれて、神さまのご用をする”、“ご奉仕をする” ことについて信仰の学びをいただきます。
旧約聖書からは、ダビデが神さまに選ばれた出来事を語る聖書箇所が与えられています。ダビデはユダヤの国の二代目の王です。ユダヤの王は、私たちが何となく考える政治的指導者のように人々から選ばれた者でもなく、力で王座を勝ち取った者でもありませんでした。
実は、そもそも、神さまの宝の民・ユダヤ民族に人間の王がいること自体がおかしなことです。預言者モーセに率いられてエジプトから逃れ、自由と独立を与えられたユダヤの人々は、約束の地カナンで過ごすうちに、ひとつの国としてまとまり始めました。落ち着いて来ると、周りの国々を見て、それらの国のように「王」を欲しがりました。
神さまは驚きました。神さまこそが、彼らの王だからです。神さまこそが、王としてユダヤの民をあらゆる外敵から守り、彼らの自由と独立を守るために戦う方です。ところが、もうすでに神さまという至高の王を与えられていながら、ユダヤの民は自分の目・人間の目で見て存在を確認できる“人間の王” を欲しがりました。
人間の王は、支配欲にかられて悪政を行い、高い税金を課して国民を苦しめるかもしれません。他国を侵略して自分の名をとどろかせたいと、若者を徴兵して無謀な戦争を起こすかもしれません。王となって権力を手にしたら、家臣や国民が面白いように自分の言うことをきくので、その権威の力に酔って、民を守り抜くという本来の王の務めを忘れてしまうかもしれないのです。人間は罪深く、誘惑に弱いものだからです。
しかし、ユダヤの民があまりにも人間の王を欲しがるので、ついに神さまは彼らのために、彼らの中から王を立てることを思い決められました。
神さまが預言者サムエルを通して最初に王に選び、そのしるしとして香油を注がれたのはサウルでした。サウルは長身で、たいそう目立つたくましい美青年でした。サムエル記上9章2節にはこう記されています。(サウルは)「美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった。」
ところが、このサウル王は預言者サムエルを通して与えられる神さまの御言葉に従わず、時々たいへん安易に人間的な判断をしてしまいました。ふさわしい王ではなかったのです。神さまはサウルを王に立てたことを後悔なさいました。サムエル記上15章11節は、その主の思いをこう伝えています。「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない。」
神さまは預言者サムエルに、サウルを王位から退け、彼に代わる新しい王を探し出すようにと命じ、多くの息子を持つエッサイのもとへと遣わしました。エッサイは立派な息子たちを次々とサムエルの前に出し、彼の前を通らせました。しかし、神さまはその中から、一人も選ばれませんでした。サウルのように “人の目に美しい者、長身で人目に立つ者“ が王にふさわしいと思われなかったのです。そして主は、なんと、まだ少年なので、息子の数に入れられていなかった末っ子のダビデを王に選ばれました。
今日の聖書箇所の少し先、サムエル記上17章には、ダビデが主に立てられて、ユダヤ人の敵・ペリシテの巨人ゴリアトと戦おうとした時、お兄さんに お前は「思い上がりと野心」(サムエル記上17:28)を抱いている、生意気だと叱られる箇所があります。
また、この戦いの時、ダビデはサウル王によろい・かぶとを着るように言われました。
重い鎧・兜、そして剣という大人の兵士の格好をさせられたダビデは「こんなものを着ていたのでは、歩くこともできません」(サムエル記上17:39)と言って、それらをすべて脱ぎ、剣も外してしまいました。
この時のダビデは、人間の目には本当に少年・子どもで、人間の常識では戦えるとは思えなかったのです。また、鎧・兜・剣を重いと感じたダビデ自身も、自分が少年だとの自覚があったでしょう。ただ、ダビデは自分がゴリアトに挑む時、神さまが自分を守り通してくださることを堅く信じていました。彼は、こう言いました。「…主は、あのペリシテ人の手から、わたしを守ってくださるにちがいありません。」(サムエル記上17:39)
神さまが目を留められたのは、人の目にはいかにもひ弱に見える少年の姿ではありませんでした。神さまはダビデの心を御覧になって、少年ダビデを後のユダヤの王として選ばれました。その選びに応えて、ダビデは若年者ながら、主を侮り、主の民に危害を加える者と、主の守りを一心に信じて果敢に戦おうとしたのです。神さまの守りによって、ダビデはみごとにゴリアトに打ち勝ちました。
今日の聖書箇所に戻ります。預言者サムエルの前を通ったダビデの兄たちは、サムエルの訪問理由を知っていて、「我こそは、ユダヤの王に」と人間的な欲を心に抱いてしまったのではないでしょうか。ところが、初めから数に入れられていなかったダビデの心にあったのは、与えられた務めを通して神さまにお仕えするというすなおな思いでした。実際、この時も、ダビデは羊の番をしていました。与えられたその役割を、何の不満も抱かずに、おそらく喜び楽しんで行っていたのです。ささやかな働きを通して、神さまにお仕えすることを嬉しく思っていました。神さまは、そのダビデの素朴で素直な信仰の心に目を留められたのです。
また、今日、わたしたちは新約聖書から、使徒パウロの信仰の心をいただいています。「テモテへの手紙」は、パウロが弟子テモテに宛てて書いた手紙・書かれた説教です。ここで、パウロは自分が神さまから命じられて、福音伝道の務めに就き、奉仕していることを次のように語ります。テモテへの手紙一1章12節です。「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。」
パウロは、かつては その名をサウロと言い、神さまとイエス様に「忠実」とはとうてい言えない生き方をしていました。キリスト者を迫害していたのです。彼は、その頃の自分を率直にこう語っています。13節をお読みします。「以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。」イエス様の十字架の出来事によって救われたことを知らず、ナザレのイエスは自分を神の子だと偽って人々をたぶらかし、自分がユダヤの王だと言ったから死刑になったのだと思い込んでいたのです。
ご復活のイエス様が、そのサウロに現れて呼びかけてくださいました。間違った考えから自分を憎む者に、真実を伝え、信じる喜びの恵みを与えるために現れてくださったのです。敵をも愛し、ゆるす、イエス様でなければおできにならない愛とゆるしのみわざを、サウロの上になさってくださいました。
もし、あくまでも “もし“、イエス様が自分と自分を慕うキリスト者・クリスチャンを迫害するサウロを厳しく戒める者として現れたら、サウロはイエス様に激しく反発したでしょう。イエス様から優しく語りかけられ、あなたはわたしを迫害するが、どうしてそんなことをするのかと尋ねられて、サウロは初めて自分の犯していた罪を知ったのです。
パウロが今日の聖書箇所でこう語る言葉は、本当にその言葉通りです。15節をお読みします。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」
サウロは復活のイエス様に会った時に、数日間、視力を失いました。イエス様との出会いはそれほどに強烈で、サウロを心の底から変える心の中の大事件だったのです。
自分は正しい者・正義漢だと思い込んでいたのに、実はとんでもない悪人だとわかった ‒ 確かに、こんな衝撃的なことはありません。
サウロはイエス様に導かれて、神さまの方へと心を回し、回心し、悔い改めをしました。神さまは、このサウロの心を見ておられました。サウロの心がこのように大きく変わることを、神さまは初めからご存じだったのです。そして、目が見えるようになったサウロは、これまでとはまったく反対に、イエス様の十字架とご復活を伝える福音伝道者となったのです。パウロと新しく名乗るようになった彼は、ゆるされた喜びにあふれ、イエス様と共に、神さまのために働ける喜びに満ちて迫害と戦いながら、すさまじいまでの伝道活動を続けました。
何度も逮捕され、何度も牢屋につながれ、何度も死にかけながらも、イエス様の福音を伝えることを諦めようとはしませんでした。自分は神さまに疎まれ、憎まれ、見捨てられて滅びても当然な者だったのに、救われ、ゆるされ、そのうえ神さまのご用をさせていただいている ‒ 迫害のどんな苦しみも、パウロからこの喜びを奪うことはできませんでした。神さまは、パウロのこのひたむきな心を御覧になったのです。神さまはパウロを常に見守り、愛し、パウロの望みのとおりに彼から離れることはありませんでした。パウロは地上の生涯を神さまに献げ、ついにローマで殉教しました。殉教という命の終わりをさえ、パウロは喜んで受け入れたでしょう。
ダビデと、パウロ。それぞれに神さまに選ばれ、呼ばれ、招かれて、主の呼び招くお声にまっすぐにお応えしました。
私たちもイエス様と出会い、神さまに招かれて教会に連なる者となりました。教会でそれぞれ役割を担い、ご奉仕を献げています。ご自分は特に何も係がない、と思われる方もおいでかもしれません。係がないからご奉仕していないというわけでは、決してありません。まず、こうして神さまに心を向け、礼拝で神さまに会おうとしたところからが、神さまへのお応えです。ご奉仕です。御言葉を聴くことで、神さまのものとしての役割をひとつ、果たしているのです。
最後にぜひ、お伝えしておきたいことがあります。今日の旧約聖書箇所の中で一箇所、首をかしげたい言葉があると思った方がおいででしょう。サムエル記上16章12節、ダビデが初めて預言者サムエルの前に現れるところです。お読みします。「エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。」皆さん、こう思われるのではないでしょうか。”容姿や背の高さではないと神さまはおっしゃるけれど、ほら、ダビデはやっぱり いかにもはつらつとした姿の良い少年だったと書いてあるではないか。”
いえ、この「血色が良く、目は美しく、姿も立派」とは、ダビデの心が神さまにこう見えたということです。おそらくダビデは、父エッサイの目に、またお兄さんたちの目には、こう見えていなかったでしょう。ただの平凡な、いたずら小僧にしか見えなかったのです。他の息子たちとは違って、自慢できるような子ではないから、エッサイはダビデをサムエルに見せたくなかった、だから羊の番をさせていたと考えることも可能です。
ダビデのひたむきな信仰・一途に神さまに憧れ、神さまを慕い信じるその心が、神さまには「血色が良く、目は美しく、姿も立派」と見えたのです。
だから、こうも申せます。私たちそれぞれが、人の目にはどう映ろうと、どう見えようと、ひたすら主を信じ、神さまにすべてをゆだねる時、私たちは一人一人、神さまの御前で「血色が良く、目は美しく、姿も立派」なのです。人の目にどう見えるかではありません。神さまの御前にまっすぐに立つ時、神さまは私たちを美しく立派だと見てくださいます。そう見ていただくこと、そのことこそが、限りなく豊かな祝福なのです。その主の愛のまなざしに守られて、祝福を心いっぱいに受けて、今週一週間を進み行きましょう。
2021年11月14日
説教題:信仰によって世を恐れず
聖 書:出エジプト記6章2-7節、ヘブライ人の手紙11章23-29節
信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりもまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。
(ヘブライ人への手紙11章23〜29節)
マルコによる福音書を読み終えてから、私たち薬円台教会は主の日の礼拝にて、旧約聖書に記された“神さまと人の間に起きた出来事”から信仰を学んでいます。神さまが最初の人アダムとエバに何をしてくださり、二人がどのように神さまの愛にお応えしたか、あるいはお応えできなかったか。アブラハムが なぜ信仰の父と呼ばれるのか。人類最初の殺人事件は、カインの神さまへのどんな思いから起きてしまったのか。私たちは、御言葉に聴いてまいりました。
今日は、大預言者モーセが神さまから使命を受けた聖書箇所をいただいています。預言者と申しましても、これから起きる未来の出来事を予(あらかじ)め言い当てる「予言者」ではありません。神さまの言葉を預かって、それを人間に伝える「預言者」です。
イエス様がおいでになり、私たちが聖霊をいただくまで、神さまの言葉は神さまに選ばれた預言者にしか聞こえませんでした。旧約聖書には多くの預言者がいたことが記されています。その伝えた言葉が、“書”として残されている預言者が少なくありません。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルが代表的です。
預言者の中で、特に偉大な預言者、“大”預言者と呼ばれるのが、モーセです。
今日の旧約聖書の言葉が語るように、モーセは神さまが初めて、お名前を知らせた預言者です。それまでの人々は、アブラハムでさえ、神さまのお名前を知りませんでした。
当時のメソポタミア地方、シリア地方で多くの民族が、自分たち人間の手でこしらえた偶像を拝んでいる中で、ユダヤの人たちだけが“見えない神さま”をあがめていました。一方で、その真実の神さまを仰ぐユダヤ民族は、最も虐げられた人たちでもあったのです。
神さまは、この一番弱く、一番苦しめられていたユダヤ民族に目を留めてくださいました。その苦しみから彼らを救うことを決意され、御心を人々に伝える民族の指導者として、モーセを選び出されました。民族の指導者という意味でも、モーセは特別な預言者です。
紀元前13世紀頃、ユダヤ民族はエジプトで奴隷として虐待され、こき使われていました。エジプトの王ファラオの墓であるピラミッドを建設するために、莫大な人数の力が必要でした。ユダヤ人は、そのために使われていたのです。
家畜のように虐げられ、重労働をさせられながらも、ユダヤ人は辛抱強く、丈夫で、神さまに言われたとおりに「産めよ、増えよ」(創世記1:28)に従って多くの子どもを産みました。エジプトの王ファラオは、ふと心配になりました。ユダヤ人の数が、いつの間にか自分たちエジプト人よりも多くなりそうに思えたのです。反乱を起こされたら危険だと思ったファラオは、恐ろしい命令をくだしました。ユダヤ人の家に男の子が生まれたら、殺してしまえという命令でした。
あるユダヤ人の家に、男の子が生まれました。今日の新約聖書の言葉はこう語ります。ヘブライ人への手紙11章23節をお読みします。ちなみに、ヘブライ人とはユダヤ人をさします。イエス様の十字架の出来事の時にイエス様を十字架につけろと叫んだユダヤ人たち。しかし、彼らや彼らの子孫で後にイエス様を信じ、キリスト者になった人たちに宛てて書かれた説教を、今日 わたしたちは読んでいます。ヘブライ人への手紙11章23節です。「信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。」神さまの命令と、王の命令。どちらが大切か。このユダヤ人の両親はよくわかっていました。神さまは、天地のすべてを創り、自分たちにも、生まれた男の赤ちゃんにも、命を与えられたお方です。かたや、王と言っても、自分と同じこの世のもの、造られた命・限られた力を持つ者にすぎません。神さまの命令が絶対です。その神さまが、「産めよ、増えよ」と仰っているのですから、命を絶つようなこと・生まれた子を殺すようなことは決してしてはなりません。
神さまは、ご自身が愛して造った人間が、ご自身の愛する命を守って大切にするはずだと人間を信頼してくださっています。カインの弟殺しの出来事があった後でも、神さまはまだ人間への期待を捨ててはおられません。モーセの両親は神さまの信頼と期待に応えようとしました。神さまからの信頼と期待に応えようとする ‒ これが、信仰です。
その信仰によって、彼らは勇気をいただきました。神さまを信じ、この世の人間の王を恐ろしいと思わなくなったのです。両親は三か月間、赤ちゃんを隠して育てましたが、だんだん赤ちゃんが大きくなるにつれて、泣き声も大きくなりますから隠しきれなくなりました。パピルスの籠に入れてナイル川の葦の茂みの間に置きました。赤ちゃんはエジプトの王・ファラオの王女に拾われて、そのまま宮廷で王女の子として育てられました。この赤ちゃんが、後の預言者モーセです。
モーセは大人になって、自分と同じ肌の色・髪の様子をしたユダヤ人が、エジプト人の奴隷として重労働に就かされていることに気付きました。エジプト人が、自分の仲間・同胞であるユダヤ人を殴っているのを見て、彼はそのエジプト人を殺してしまいました。
モーセもまた、罪を犯す人間であることには変わりがなかったのです。こうして、モーセは殺人犯としてファラオに追われる身となりました。彼はエジプトから逃げ、ミディアンという地方に隠れて、羊を飼って過ごす静かな生活を長く続けました。
その間も、ユダヤの人々はエジプトで苦役にあえいでいました。神さまは、ユダヤ民族をそこから救い出す決心をされました。
聖書はこう語ります。今日の旧約聖書箇所の前、出エジプト記2章23節の途中からお読みします。「…イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き…イスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」
神さまがこのように民族の救いを決心してくださっても、先ほど申しましたように、神さまの言葉は直接、ユダヤの人々には届きません。その頃、選ばれた者の他には神さまの言葉を聞くことのできる者はいませんでした。”ユダヤの人々よ、エジプトから脱出して自由の身となりなさい” とおっしゃる神さまの言葉が届かないのです。神さまから御言葉を預かって、人間に伝える仲介者・通訳のような者である預言者が必要でした。神さまは、この役割のためにモーセを選び、彼に燃え尽きない柴の中から彼を呼んで、エジプトからユダヤ人たちを脱出させる指導者となる使命を与えられました。
モーセは、この使命を成し遂げるためにたいへんな苦労をしました。
ユダヤの人たちが、すぐにモーセのことを神さまの御言葉を預かっている預言者と信じたわけではなかったからです。信用してもらうまでにひと苦労があり、さらに、それから後もたいへんでした。ファラオが、便利な奴隷であるユダヤ人たちを、そう簡単に手放す気にならなかったからです。
神さまはファラオを苦しめ、モーセとユダヤ人を救うため、また時にはモーセとユダヤ人を試して試練を与えるために、多くのみわざを為されました。
ついに、ユダヤ民族はモーセに率いられ、神さまに導かれてエジプトからの脱出を果たしました。しかし、新しい土地に自由で独立した民族として定住するまでに、彼らは四十年も荒れ野・砂漠をさまよわなければなりませんでした。その間、ユダヤの人々は、こんな食べ物も水もない砂漠でさすらいの身になるよりは、エジプトで奴隷だった方がまだ良かった、エジプトに帰りたいとモーセに愚痴を言い、怒りをぶつけてモーセを苦しめました。
このユダヤの人々の不信仰を怒る神さまと、神さまの御心が少しもわからない人々の間に立って、モーセは本当に、本当にたいへんな苦労をしたのです。
もし、モーセに信仰がなく、彼が神さまに従っていなければ、こんな苦労はしなくて済んだかもしれません。
実にこの世的な、人間の側からだけ見た言い方をすれば、モーセには、エジプト人を殺してしまったという自分の罪だけを償って、エジプトに帰り、そこで安穏と暮らす道もあったように考えてしまいます。
しかし、神さまから使命を与えられた者に、その道はありません。繰り返しますが、神さまは、ご自身が愛して造った人間が、ご自身の言葉・神さまから与えられた使命を大切にして、それを成し遂げようと志すはずだと人間を信頼してくださっています。人間が神さまに何度背いても、神さまは人間への愛と信頼と期待を抱き続けてくださいます。人間が自分の小さな力で一生懸命、それに応えようとすると、神さまは親が子を見守り、足りないところを手伝ってやるように、折りにかなった助けをそっと与えてくださいます。神さまからの信頼と期待に応えようとする ‒ これが、信仰です。モーセは神さまのこの愛と見守りを信じ、つらくなるたびに神さまが自分を慰め、励まして下さっていることを思い起こし、ついに与えられた使命を成し遂げました。私たちも、信仰者としてそれぞれ主から使命をいただいています。
神さまに従い通すという正しい道を歩む時、どんな苦労・苦難があっても神さまが寄り添ってくださいます。神さまは、その人に耐えられないような試練は与えません。必ずその苦しみから逃れる道を備え、人間の思いを超えた解決へと導いてくださいます。
神さまにすべてをおゆだねし、お任せする時、神さまが共に苦しみと戦ってくださいます。だから、私たちがこの世のものを恐れることはありません。
この世・いわゆる普通の日常生活の中で、私たちが怖い・恐ろしいと思うのは何でしょう。今 私たちが直面しているコロナ禍は日常ではありません。災害です。緊急事態宣言という言葉が使われたことからわかるように、非日常です。地震や事故といった災害は、日常ではありません。日常生活の中で恐ろしいのは、人間関係の難しさだったり、そのために自分の心が揺れたり、誰かに傷つけられたり、自分が誰かを傷つけたりすることでしょう。この世で恐ろしいのは、人の罪なのです。しかし、神さまは私たちを罪から守り、罪を犯すことからも遠ざけようとして、いつも私たちに寄り添っていてくださいます。この神さまにすべてをゆだね、神さまにお任せする時、私たちが人の目や人の言葉、自分の限界や欠点を過剰に恐れることはもうありません。
私たちは信仰によって、世を恐れることはないのです。
モーセはその生涯をかけて、この世と、人の罪と向き合いました。彼にはまず、自分の罪がありました。彼は自分の仲間であるユダヤ人を守ろうと、立場としては敵となるエジプト人を殺してしまいました。この自分の罪の他にも、彼の人生は常に罪に取り囲まれていました。彼は、自分の民族・ユダヤ人を解放と独立へと導くために、ファラオとエジプト人の支配欲という罪と戦わなければなりませんでした。エジプトを脱出した後は、神さまを信じないユダヤの人々の背きの罪とも向き合うことになりました。ユダヤの民に向かっては彼らの罪を戒め、民の不信仰を怒る神さまに対しては彼らを執り成して、主の怒りをなだめようと心を尽くしました。こうしてモーセは、多くの人の罪を背負って神さまの御前に立ったのです。
ここまでお話しすると、モーセと似た歩みをした“誰か”が、皆さまの心に思い浮かんできたかもしれません。“誰か”などと、失礼なことを言ってはならないでしょう。そうです。モーセの歩みには、後の世にお生まれになるイエス様と重なるところがあります。
もちろん、イエス様とモーセが決定的に違うことは心に留めておかなければなりません。人間であるモーセは大きな罪を犯しています。また、出エジプト記を読むとわかりますが、モーセ自身が初めはなかなか神さまに従おうとしませんでした。勝手な理屈を並べ、神さまに文句を言い、使命から逃れようとしました。そういう自分の人間的な弱さを自覚してこそ、モーセは不信仰なユダヤの人々の気持ちを理解し、寄り添うことができたとも言えるでしょう。
イエス様は、当たり前のことですが、神さまであり、まったく罪のない方です。完全に清らかな方が、罪にまみれたこの世に、弱い者・人間と同じ者となるために最悪の状況の中に生まれてくださいました。
ローマ帝国に支配された弱い国ユダヤに、主はお生まれになりました。イエス様は貧しい若い夫婦の子として、ユダヤ人にとっては屈辱的な税金を算出するための旅の途中、不潔な家畜小屋の片隅で生まれました。そこまでして、イエス様は徹底的に私たちに寄り添ってくださいます。私たちの罪のすべてを私たちに代わって背負い、私たちが恐れるものすべてと戦って、それに打ち勝たれるためでした。その真実・事実を現実の行動で表されたのが、イエス様の十字架の出来事とご復活です。イエス様を見上げ、神さまにすがる時、人の目も思いも怖くなくなります。イエス様が、すでに世に勝っていてくださるからです。このイエス様の後に従って、私たちは人の顔色ではなく、神さまの御顔を仰いで進みます。
今日から始まる新しい週の一日一日、世を恐れず、ただ主を慕い、主の愛に応え、主の道を歩みましょう。
2021年11月7日
説教題:信仰を受け継いで
聖 書:創世記15章1-6節、ヤコブの手紙2章14-23節
神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが神の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
(ヤコブの手紙 2章21〜23節)
今日の御言葉は厳しく語ります‒ 「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:17b)
前回の主日礼拝でご一緒に御言葉に聴いた方々は「え!?」とびっくりなさることでしょう。
前主日は宗教改革記念日でした。その日の御言葉を通して、私たちは宗教改革者 マルティン・ルターが、教会の基は「信仰のみ・聖書のみ・恵みのみ・キリストのみ・神に栄光を帰するのみ」であると、五つの「のみ(ソラ)」を強調したと学んだばかりです。
それなのに、今日は「信仰のみ(だけ)」ではだめで、行いで表せと言われてしまうなんて、どういうことかと思えてしまいます。
“行いで信仰を表す” とは、神さまだけでなく自分以外の人間にも見て分かるように、信仰的な行い‒ つまり、善い行い ‒ をさすように思えて、少し反発を感じる方もいらっしゃるかもしれません。イエス様が、次のようにおっしゃっていることを思い出されておいでだからでしょう。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」(マタイ福音書6:1)
それなのに、今日の聖句は「(行いを伴わない)そのような信仰が、彼を救うことができるのでしょうか」(ヤコブ2:14b)と告げます。
これは矛盾するではないか…とつい思いがちですが、イエス様の言葉と今日の聖句が矛盾していないことに、すでにお気づきの方もおいででしょう。
イエス様が戒めた行いは、 “信仰深い人だ” と尊敬されたいため、つまりは自分の虚栄心や達成感を満足させるための行ないです。イエス様は、そのような見せかけの善行を行う人たちのことを「偽善者たち」と呼びました。そして、彼らの滑稽な行動をこのように批判されています。マタイ福音書6章5節からお読みします。「(偽善者たちは)人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。」(マタイ6:5b)
なぜイエス様は彼らを偽善者とおっしゃるのでしょう。それは、彼らが信仰者だと自分でひけらかしていながら、人間に自分の行いを見せることだけに夢中で、神さまの御前に立つことの大切さを、それどころか神さまがおられることまでも、すっかり忘れているからです。
今日の聖句が語る「信仰を表す行い」とは、施しや祈り、親切な言動などのいわゆる善い行いだけをさしているのではありません。
信仰者の行いのすべてに、信仰が表れ出ると告げているのです。
私事で恐縮ですが、説教者として教会にお仕えするために神学校に入った時、最初に教授の先生がたから言われたのは “箸の上げ下ろしにも神学を思いなさい”でした。
何をしている時にも、福音を宣べ伝えるための学びである神学を心に留めておくようにという言葉です。
その表現を使えば、今日の聖句が私たちに勧めているのは「箸の上げ下ろしにも、神さまを思いなさい」、“常に神さまに心を向けていなさい” という信仰の基盤となる姿勢でありましょう。
思えば、どんな時も、神さまは私たち一人一人から目を離さずに見守り続けてくださっています。神さまは常に、私たちに御心を向けてくださっているのです。私たちには見えないけれど、私たちに常に寄り添い、最も良いものをいつも私たちにくださろうと手を差し伸べてくださっています。イエス様の福音によって神さまの子・教会の家族となった私たちの「行い」とは、その恵みの御手にすがり続けることです。
さまざまな事情から、特に、今のように新型コロナ感染に警戒しなければならない時には、教会に来られず、礼拝出席がままならないことがあります。その時にも、神さまに心を向け、聖霊と御言葉によって神さまと神さまの家族・兄弟姉妹との絆を思い起こすのが、私たちの “信仰の行い”です。
信仰の行いとは、神さまとの関わりそのものです。
その信仰の行いの正しい姿を、私たちは今日、旧約聖書から、神さまとの関わりをまことにたいせつにした信仰の父・アブラハムから読み取ることができます。
ご一緒に、アブラハムの信仰を語る御言葉に聴きましょう。
アブラハムは後にユダヤ民族の「国民の父」と呼ばれるようになりますが、繁栄の契約を神さまと結んでいただくまで「アブラム」という名でした。今日の旧約聖書箇所にあるとおりです。
アブラムは、大洪水から主の導きによって救われたノアの長男セムの末裔です。ノアが正しい人であったように、その子孫アブラムも主に従う者でした。
神さまがアブラムに旅に出るようにと命じると、目的地が告げられなかったにもかかわらず、彼は素直に御言葉に従ってシリア地方を放浪しました。
エジプト近くにいた時には飢饉に遭い、さらに地方の王たちの争いに巻き込まれるなど困難の多い旅でしたが、アブラムの心が神さまから離れることはありませんでした。彼はひとすじに神さまに頼り、いつも神さまが彼とその一族を祝福してくださると信じていたのです。
アブラムは、実に恵み豊かに過ごしていました。しかし、彼にはひとつ、人の目から見ると欠けていることがありました。彼自身も、それを寂しく思っていました。
跡継ぎの子がいなかったのです。
当時、家にその財産を受け継がせる正統な跡継ぎがいないのは、大いに不幸なことと見られました。どれほど豊かに暮らしていても、それを受け継ぐ血族がいなければ虚しいと思われていたのです。
アブラムも、その妻も、子供を望みながら与えられず、すでに高齢だったので、すっかり諦めていました。家の召使いに財産を嗣がせると決めていました。
ところが、ある夜、「主の言葉が幻の中でアブラムに臨」みました。(創世記15:1)前にもお伝えしたように、聖書で用いられる「幻」という言葉は“はかないもの”ではなく、神さまが与えてくださる理想をさします。
アブラムは夢の中で、主の御言葉により天幕の外へ連れ出されました。それが、今日の聖句の出来事です。アブラムが天を仰ぐと、広い夜空に数えきれないほどの星が瞬いていました。アブラムを愛しまれる神さまは、地上の人生でアブラムに欠けていたひとつのことを与える約束をしてくださいました。「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」‒ 実子を諦めることはない、子が授かるとおっしゃられたのです。
アブラムも高齢でしたが、妻のサライ(後のサラ)も高齢で、すでに子を産めないはずの身でした。それでも、子供は生まれると、神さまは言われました。人間の常識では信じられないことを、神さまはアブラムに約束されたのです。
アブラムは神さまの約束を信じました。神さまは、そのアブラムの信仰を「義」‒ 主の御前で正しい者・神さまのものとしてふさわしい‒ と認めてくださいました。
神さまを見なくても信じ、しるし‒ しるしとは、すぐに実現される奇跡と言って良いでしょう‒がなくても、アブラムは主を信じました。
信仰によって神さまのものとされている ‒ これを、信仰によって義とされる、と申します ‒ ことを喜び、御手のうちに安らぐのが、信仰者の幸いです。
実は、アブラムはこの約束をいただいた後も数十年間、サライとの間に子を与えられませんでした。約束を待ち続け、さらに神さまを信じ続ける試練と忍耐の長い時間が与えられたのです。アブラムが99歳を迎えた時、神さまはアブラム・サライの夫婦と新しく約束を交わしてくださいました。この時、アブラムはアブラハムという新しい名を、サライには新しくサラという名を与え、二人の間に息子イサクが生まれました。
アブラハムは、なおも主から試練を受けました。やっと授かったイサクを献げ物とするようにと告げられたのです。それでも、アブラハムは主に従い通しました。これが、信仰の行いです。神さまが人間の常識を超える方であり、その御言葉とみわざが善であることにまったく疑念の余地はないと信じる心の行いです。
私たち教会が信じて義とされる福音 ‒ イエス様の十字架のみわざとご復活 ‒ は、人間の常識からすれば有り得ないことです。聖霊の御働きによって、私たちはその人間の常識では信じられない出来事を素直に受け容れられるようになります。信仰を与えられて、その出来事を恵みだと知ってわかり、深く感謝し、心から喜ぶようになります。さらにその信仰を豊かに育てていただきます。
信仰の行いとは、自分の力ではなく神さまの御力にすがることです。自分の力がとうてい及ばなくなった死後に、神さまの力が働いてイエス様が死からよみがえられたように、私たちも復活することに希望を抱いて、安心して今を力いっぱい生きることです。
さて、今日の礼拝は、先に天に召された方々をおぼえて献げる召天者記念礼拝として献げています。実は、特にこの日を定めなくても、教会はイエス様によって、地上のこの世が天の御国へとつながり、天への道となっています。日曜日の礼拝のたびに、私たちは天の神さまと、その右の座におられるイエス様を仰ぎ、聖霊で満たされて、先に御国へと住まいを移された方々と共に礼拝を献げています。
しかし、それを目に見て確かめることのできない人間である私たちには、その恵みの真実をなかなか実感できません。そのために、また召された方々のご家族がまだイエス様を知らない時には福音を知らせる機会となるようにと、このように年に一度、召された方々のお顔写真を会堂に置いて、共に礼拝を献げていることをあらためて思うのです。
お写真の中には、懐かしい信仰の友がおられるでしょう。その方と教会で語り合った時の様子や表情、ちょっとした、いかにもその方らしい癖が思い出されるかもしれません。礼拝の時の讃美の声や、お祈りの言葉が、心によみがえられるかもしれません。
兄弟姉妹と教会で、また礼拝で共に過ごしたこと。それも、私たちの信仰の行いです。
信仰の行いは主と、また兄弟姉妹との主にある交わりそのものです。
旧約聖書の時代から、イエス様の十字架の出来事とご復活、そして今の教会の時代と、私たちは神さまとの関わりと兄弟姉妹の交わりによって、信仰を受け継いでまいりました。
繰り返しますが、「信仰の行い」は、私たちは神さまにすがり続け、教会の兄弟姉妹と共に歩むことです。それによって、私たちは心の深い安らぎと、すべて満ち足りる幸いをいただいています。
この安らぎと幸いには、終わりがありません。永遠の命だからです。
私たちより先にこの世の歩みを終えた方々は、神さまに守られて、今も永遠の命に生きておられます。また、私たちも、肉体の死を迎えても同じ永遠の命を生き続けます。
主にある喜びは永遠です。
信仰を受け継いだ恵みを感謝し、私たちも、まだ福音を知らない方々に喜びを伝える希望を抱いて、今日から始まる一週間を心豊かに進み行きましょう。
2021年10月31日
説教題:互いに愛し合いなさい
聖 書:創世記4章1-12節、ヨハネの手紙一 3章10-14節
主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
(創世記4章6-7節)
なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。
(ヨハネの手紙一 3章11-12節)
今日は宗教改革記念日です。
504年前の紀元1517年、修道士マルティン・ルターが、カトリック教会の罪のゆるしをお金で買える贖宥状(免罪符)を激しく批判して、「95ヵ条の論題」をヴィッテンベルクの城の扉に貼り出しました。
それは、“いわゆる聖職者” である司祭・修道士・修道女以外の者には意味不明の儀式に過ぎなくなっていた当時のカトリック教会のあり方への強烈な異議申し立てでした。当時の礼拝はラテン語で献げられており、礼拝に出席しても 先ほど申しました “いわゆる聖職者” でなければ、何が語られているか、まったくわかりませんでした。
ラテン語以外の言葉 ‒ それぞれの母語・日常語 ‒ に翻訳された聖書がまだなかったので、人々は修道院に入るか、神学校に入るかする他には、イエス様の十字架の出来事とご復活の福音の恵みをうけとめる手立てがありませんでした。教会は そこにつけこんで、贖宥状(免罪符)を売っていたのです。そのカトリック教会の罪と堕落を、マルティン・ルターは厳しく指摘しました。
こうして宗教改革運動が始まり、私たちプロテスタント教会が誕生しました。
罪のゆるしは、お金で買うことはできません。私たちが罪をゆるされたことを知るのは、イエス様が自分の代わりに罪を背負って十字架で死なれ、罪を贖ってくださった福音によってです。福音を受け容れると、私たちはイエス様を信じる信仰を与えられます。
信仰によって、私たちそれぞれは、また信仰共同体である教会は、神さまのものとされて罪をゆるされ、永遠の命に生きる者となるのです。“神さまのものとされる” とは、 “主の御前に義とされる・正しい者とされる” と言い換えることができます。
プロテスタント教会は、荘厳だけれど意味のわからない儀式や金銭でやりとりされる免罪符を排除し、イエス様の十字架の出来事とご復活を信じる “信仰のみによって義とされる”・“正しい者とされる” ことを掲げて歩み始めました。
その “正しい者とされる” ために私たちが心がけなくてはならないのが「互いに愛し合うこと」だと、今日の御言葉は告げています。
教会の兄弟姉妹同士、さらに社会・世界の人々同士が互いに愛し合うこと。それは、人間同士が互いをたいせつに思うだけでなく、それぞれが神さまを仰ぎ、神さまに心を向ける回心をさすのです。
今日の新約聖書の聖句は、「カインのようになってはいけません」と、厳しく私たちに言い渡しています。「カインのようになる」とは、どういうことでしょう。
旧約聖書箇所から、私たちはそれについて教えられています。
前回の礼拝でご一緒に読んだ創世記の聖書箇所から、今一度 振り返りをいたしましょう。最初の人アダムとエバは、神さまの言いつけに背いて、エデンの園から追放されてしまいました。しかし、神さまは二人を見守り続け、二人も神さまを慕い続けました。
ここからが、今日の旧約聖書箇所が語る出来事です。
アダムとエバの間に、息子が生まれました。その時、エバは「主によって男子を得た」(創世記4:1)と言って主をおぼえ、喜びと感謝を表しました。エバのこの言葉から、彼女が、そしてもちろん夫アダムも、神さまを慕い、信仰をいただいていたことがわかります。
アダムとエバは、カインとアベルという二人の息子に恵まれました。
カインは大人になって「土を耕す者」・農夫になり、アベルは「羊を飼う者」・羊飼いになりました。父と母を通して信仰がしっかりと継承されていたのでしょう。カインとアベルは、それぞれ神さまに献げ物をしました。
ところが、神さまは「アベルとその献げ物に目を留め」、「カインとその献げ物には目を留められなかった」のです。
カインは悲しみ怒り、嫉妬のあまり、アベルを野に連れ出して殺害してしまいました。
こうして、人類最初の殺人事件が起きてしまいました。
幼稚園や教会学校でお子さんたちにこの出来事をお話しすると、たいへん正直な可愛い声が上がります。子どもたちは、こう言います。「アベルを殺しちゃったカインはとっても悪いけど、でも、それは神さまがアベルをひいきしたからだよ! 神さまは、不公平だよ!」
子どもたちは、自分がカインだったらどう思うかを敏感に感じ取っています。自分が一生懸命描いた絵や、心をこめて作った工作をお父さん・お母さんにあげたら、弟や妹の描いた絵・工作の方がほめられ喜ばれる ‒ もし、そんなことがあったら悲しくて悔しくて涙が出てしまうに決まっています。
しかし、ここで私たちは立ち止まって思いをあらためなければなりません。神さまの御前に立った時、神さまが、私たちを比べることはありません。どの一人も、たった一人しかいない、かけがえのない神さまの作品として、御前に立っているのです。
一人一人、それぞれ神さまからその人だけがいただくことのできる個別の、特別な神さまからの愛をそそがれているのです。
カインとアベルは、カインはカインへの主の特別な愛で、アベルはアベルへの主の特別な愛で、それぞれ包まれていたのです。
なぜこの時、カインの献げ物に神さまが目を留められなかったのかは、聖書に記されていません。私たちに推測できるのは、もしかしたら、カインは自分の作物の中で一番良い物を神さまに献げなかったのかもしれない…ということです。
アベルは「羊の群れの中から肥えた初子(ういご)」を献げました。初子は、その年に一番早く生まれた羊です。神さまに献げた後、群れに小羊が一匹も生まれない恐れもありますが、そのリスクを犯して、アベルは最初の小羊を神さまに献げました。肥えた小羊でした。ふっくらと可愛らしく、もしアベルが自分の手元に置いて養えば丈夫に育ち、将来は群れのリーダーになりそうな小羊だったのではないでしょうか。しかし、アベルはその小羊を自分のものとせずに神さまに献げたのです。神さまを最優先とする信仰を、アベルはこの献げ物で表しました。それを神さまは「正しい」として喜ばれたのです。
カインが怒って顔を伏せた時、神さまは彼に優しく声をかけました。その言葉は、こう言い換えることをゆるされると思います。“カインよ、わたしのとった態度が不公平に思えて、それを不服とするなら言ってごらん。カイン、お前は自分だって一生懸命作った作物を持って来たのに、アベルばかり気に入られたから怒っているのだろう。その思いが正しいと思うのなら、ほら、ちゃんと顔を上げてわたしに話してごらん。”
神さまって不公平 ‒ 私たちはそれぞれ、つい、そう思ってしまうことがあります。なぜ、あの人の祈りはすぐにかなえられたのに、私の祈りはいつになっても聞き上げられないのだろう。なぜ、あの人は恵まれた環境で順風満帆の人生を歩んでいるのに、私は苦労ばかりが多いのだろう。
神さまは、もしも、私たちがそう感じたら、その思いをご自分にぶつけるようにと、おっしゃってくださるのです。
苦難が多く、たびたび試練に遭うのは、神さまがその人を特別に見込んでおられるからです。聖書にこのような言葉があります。コリントの信徒への手紙一10章13節です。お読みします。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリントの信徒への手紙 一10:13)
その人が試練に耐えて、神さまが備えてくださっている逃れの道が必ず与えられていることを信じ、祈りつつそれを求める資質・賜物を持っているからこそ、神さまはその人と強く深く関わろうと試練を与えるのです。その試練を通して、私たちの信仰は神さまから決して離れない強いものに育ちます。たくましく、打たれ強い信仰へと育てられます。
ところが、カインは神さまに思いをぶつけず、アベルを自分の嫉妬心のはけ口としました。とんでもない見当違いです。
ここで私たちが心に留めておきたいのは、神さまが「正しい」とおっしゃるのは第一に“神さまを仰ぎ、顔と心を上げて御前に立つ” ことです。
正義を語り、行動で表し、社会的弱者に寄り添う愛のわざを行う「正しさ」は、まず神さまの御前に立つこと・思いを御前に注ぎ出して祈ることから始まります。
今日の聖句で神さまはカインに、「(お前が)正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める」と告げました。ちゃんと神さまに心を向けなさい ‒ これを悔い改め・回心と言います‒ そうしないと、待ち伏せている悪の誘惑に陥り、しかもそれと戦って支配しなければならないのはお前だと警告してくださいました。
カインの両親・アダムとエバは、悪の誘惑に負けて、罪に支配されてしまいました。誘惑する機会をねらって待ち伏せていた蛇の悪にまんまとはまって善悪の知識の木の実を食べてしまいました。
神さまは、カインが同じ誘惑に陥らないようにと、声をかけ、諭してくださったのです。ところが、カインは神さまに警告されたにもかかわらず、親と同じように罪・過ちを犯してしまいました。
繰り返しになりますが、カインは神さまに心を打ち明けず、自分で自分の気持ちのはけ口を探して弟アベルを殺害しました。神さまに頼らず、自分で課題や困難を解決しようとする ‒ これは一見すると自立した立派なことに思えますが、少しも正しいことではありません。
私たち人間は、自力では罪を支配できません。逆に罪の奴隷になるだけです。神さまにすがり、頼り、苦しい時は祈って忍耐するのが私たちにできる最善の「正しいこと」なのです。
そのように神さまにすがる祈りの信仰生活を続けるうちに、私たちは教会の兄弟姉妹も、隣人も、すべてそのように等しく神さまに見守られ、愛されていることを良く知り、心に受けとめるようになります。
神さまがたいせつに思ってくださる自分を知り、そして兄弟姉妹・隣人を、皆 同じようにたいせつにする思いが育てられてゆくのです。
私たちは、ついこんな少し無理ながんばりをしがちです。聖書に「互いに愛し合いなさい」と書いてあるから、人間関係でいろいろと悲しいこと・苦しいことがあっても我慢して “良い子” でいようと努力しがちなのです。
しかし、私たちは “良い子” である前に、神さまに “甘える子”、悲しいことがあったら神さまの腕の中でわんわん泣く子で良いのです。
やがて私たちはそれぞれ、自分だけでなく、人間は誰もがそうして等しく神さまの御前で弱さをさらけ出す者であると知るようになります。それによって、私たちは互いに心を開き合い、ゆるし合い、信頼し合い、助け合うことができるようになるのです。
こうして、私たちは神さまの御前で「互いに愛し合う」者へと育てられてまいります。主によって、信仰によって、「互いに愛し合う」者にしていただけます。
神さまは命の源です。顔を上げて神さまを仰がないこと・神さまに背いてしまうことは、命からどんどん離れてゆくことを意味します。
背きの罪は、死に向かいます ‒ アダムとエバがエデンの園から追放されたように。また、カインが弟アベルを殺してしまったように。
神さまを仰ぎ、神さまにすがり、自分のすべてを神さまにゆだねるとは、命のうちに生きることを意味します。
私たちは、体の死を超えて、神さま・イエス様・聖霊の三位一体の主と共に永遠に生きる命を与えられています。
その真実を 私たちは 「聖書」の御言葉を通して知り、「信仰」をいただいて、救い主「キリスト」イエス様に寄り添っていただく「恵み」を感謝し、ただ「神さまのみにすべての栄光」を帰すのです。
聖書、信仰、キリスト、恵み、神に栄光を帰す ‒ この宗教改革の五つのキーワードは、私たちプロテスタント教会に生きる者の幸いの基です。
自分が主に愛されていることを深く知り、その真実を通して兄弟姉妹・隣人も主に愛されていることをよくうけとめて、互いに愛し合って本当に平和な世を祈り求めてまいりましょう。
2021年10月24日
説教題:全能者である神
聖 書:創世記2章9・15-25節、ヨハネの黙示録4章8b・11節
主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
(創世記2章9節)
彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」
(ヨハネの黙示録4章8b節)
今日の主日、私たちは新約聖書からの聖句として、前回に続きヨハネの黙示録から御言葉をいただいています。黙示録の筆者は聖霊に満たされて、天上の礼拝を幻に見ることができました。彼は天上に上げられて「天の玉座の上に座っておられる方」(ヨハネの黙示録4:2)を仰ぐ幸いに恵まれたのです。
玉座の周りには24人の長老と四つの不思議な生き物がおり、天の礼拝が献げられていました。四つの生き物は「昼も夜も絶え間なく」(4:8)神さまの「栄光と誉れをたたえて感謝をささげ」続けています。
彼らは神さまを讃美し、感謝を献げるため、おそらくそのことのためだけに存在する天上の生き物たちなのです。彼らは「聖なるかな」と繰り返し、神さまがどのような方かを謳い上げます。
「聖なる」とは、この世・地上のものではない存在について語る言葉です。この言葉は、もともとの聖書の言語では「切り取られた・隔てられた」という意味を持つ単語です。ですから「聖なる方」とは、地にあるものすべてをはるかに超えてすばらしく、この世とはまったく別の次元におられる方をさすのです。四つの生き物が讃える方、私たちが主日ごとに礼拝を献げている方は「聖なる全能者・神さま、私たちの主」です。人間はもちろん、あらゆる被造物のいる地平とは異なる高い次元におられ方こそが、私たちの創り主・神さまです。
神さまは、私たちとは異なる次元におられます。だから、私たちは神さまを見ることも、そのお声を聞くこともできません。しかし、今日の聖句が語るように、神さまは確かに「かつておられ、今おられ」、地上の時間を超えて常においでになります。
神さまは「全能者」です。
神さまは無から命を、混沌から天地を創造されました。
私たちが見て・聞いて・嗅いで・味わって・触ることのできるものすべてのものを創られました。また、見ること・聞くこと・嗅げないもの・味わえないもの・触れないものも、創られました。私たちには想像すらできないありとあらゆるものを創ることがおできになり、また何でもなさることが可能です。
神さまは、すべてを善のために創り、善を成し遂げられます。この世界も、私たちも、神さまによるその善なるご計画に添って創られました。ですから、私たちは神さまに創られたありのままの姿で、与えられた当初の生き方で歩んでいれば、きわめて善いものであり続けることができたはずです。
ところが、最初の人アダムとその妻エバは神さまの言いつけを守らず、蛇の誘惑に負けて善悪の知識の木から実を取って食べてしまいました。
聖書の最初の書「創世記」には、神さまの天地創造のみわざが記されています。今日の旧約聖書の聖書箇所は、最初の人アダムとエバが創られた出来事が語られています。神さまの天地創造のみわざを、今一度ご一緒に思い巡らしましょう。
神さまは六日の間働かれ、天地のあらゆるものを創られました。
最後に創られたのが、人間でした。
このみわざを告げる聖書の言葉から、 神さまが人間をどのようなものとして創られたかを読み取ることが できます。私たち人間が、本来、どのようなものとして主に創られたのか ‒ それをあらためて心に留めるのは、 たいへんたいせつなことです。
神さまは「土の塵で人を形づくり、 その鼻に命の息を吹き入れられ」(創世記2:8) 人を生きる者としてくださいました。この言葉から、私たちが神さまの命の息で神さまにつながっていることが分かります。
次に15節をご覧ください。神さまは「人をエデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、 守るようにされ」(創世記2:15)ました。こうして、神さまは人間に豊かな土地を託され、預けて、そこで “働く者” とされました。
15節から分かることが、もうひとつあります。人間は、天地のすべてが本当は神さまのものであることを深く心に留めて、その神さまの土地 ‒ 自然と、そこに生きる被造物すべて ‒ を “守る役割を主から託された者” です。
さらに、18節をご覧ください。神さまは「人が独りでいるのは良くない」(創世記2: 18)と言われました。人間は神さまにつながると同時に、自分以外の他の人間とつながり、関わり合う “共に生きる者” として創られたのです。
20節にあるように、神さまは人間を「自分に合う助ける者」(創世記2: 20)を必要とし、 また他の誰かに必要とされるものとして創られました。
私たち人間が他の誰かをどれほど切実に必要と思うかは、神さまがなさったこの事実から分かります。自分の連れ合いを、自分の一部として必要かつ大切と思う心を持つようにと、 神さまはアダムにとっての「助ける者」・ エバを、彼のあばら骨から創られました。エバはアダムの一部から創られた、なくてはならない彼の体の部分なのです。
さらに、神さまは “善悪を知らない者” として人間を創造されました。私たち人間を “何が正しく、何が悪なのかを、十分には判断できない無垢な者” にとどめておくのが、神さまの御心でした。
「無垢」は、 “あらゆる欲を持たず、汚れがないこと” をさします。
欲は両刃の剣です。
欲を意欲・ 向上心と言い換えれば、それは私たちの賜物・ 資質・才能を磨き育てる大切な原動力をさします。学習意欲は、私たちになくてはならないものでしょう。
その一方で、欲を自分の満足だけのために用いるとたいへん悪い結果を招いてしまいます。たとえば、"我欲” は自己中心的な破壊力を持つ悪の道を開きます。また、"愛欲" は人間を邪(よこしま)な悪に引きずり込みます。前回10月17日の主日礼拝では、 ダビデが部下の妻バトシェバが水浴びをしている姿に惹かれて罪を犯した出来事を語る聖書箇所をいただきました。愛欲の誘惑に、ダビデさえも惑わされたのです。
「無垢」は良い意味でも悪い意味でも、そうした欲をいっさい持たない状態をさします。英語で何と言うでしょう。イノセントinnocent です。では、innocentの別の訳語は何でしょう。「無罪」です。
神さまは最初の人間アダムを「無垢」、「無罪」の者・罪なき者として創られました。愛欲など、まったく持っていません。だから、裸を意識しません。赤ちゃんのようなものです。25節にこう記されています。「人と妻は二人とも裸であったが、 恥ずかしがりはしなかった。」(創世記2:25)
裸に羞恥心を感じるのは、衣服を着ないことが、人間の社会・人間が共に生きる場では、悪であるとわかるようになってからです。ダビデが水浴中のバトシェバの美しい裸体に惹かれて罪を犯したように、裸は悪を呼び入れる危険な誘惑となります。
“善悪を知ることのできない者” として創られたアダムとエバには、 裸でいることが誘惑になるなど、まったく知りませんでした。彼らは無垢であり、罪のない無罪の者であり、そして無知でした。善も悪も、欲も知らない者でした。神さまは、最初の人間アダムとエバをそのような者として創られたのです。これが神さまのご計画・御心でした。
人間が神さまに背くことなく、 無垢・無罪・無知のままでいられたら、エデンの園で幸福に生き続けるはずでした。
しかし、人間は蛇の誘惑に負けて禁じられていた「善悪の知識の木」から実を取って食べてしまいました。このように私たち人間には、誘惑に負けて神さまに背いてしまう弱さが潜んでいます。その弱さを考えや言葉や行動で表すと、悪が現れ出てきます。神さまの言いつけに背き、知恵の木の実を食べ、悪を現出させたアダムとエバを、神さまはエデンの園から追い出し、東へと追いやらなければなりませんでした。
それでも、神さまはアダムとエバを見捨てませんでした。
人間を見捨てませんでした。
神さまは人間を愛して愛し抜き、人間を創られた創造主としての責任をとことん取ってくださいます。
そのために、神さまは天地創造のご計画を成し遂げるために、人間を善なるもの・善いものに戻してくださいました。罪に堕ちた人間を救い、その罪をゆるし、罪の結果である死・滅びから贖い出して、いつまでも神さまと共に生きる永遠の命を与えてくださったのです。
その救いのために、神さまはご自身の全能を用いてくださいました。何でもおできになる神さまは、より崇高で偉大になられる御力も、またその反対に賤しく矮小になる御力もお持ちです。神さまは後者・人間と同じく小さな者になる力を敢えて用いてくださいました。ご自身を私たちと同じ低い次元にまで貶めて人間とされ、この世にイエス様としてお生まれくださいました。イエス様は、完全に神であると同時に、完全に人間である方です。人間に代わって十字架に架かり、罪を贖ってくださるために、神さまは全き神にして全き人になられたのです。
十字架の上で、人間を罪なき者として創造された神さまの最初の御心・ ご計画は貫かれ、全うされました。成就しました。
イエス様が十字架の上で言われた地上での最後の言葉「 成し遂げられた」(ヨハネによる福音書19:30)は、 神さまのご計画の成就を告げる言葉です。神さまの救いのご計画は、ここに成就しました。
神さまは、そのご計画をさらに、今なお進めておられます。それは御国の成就・この世が神さまの天の御国とひとつになることです。
ヨハネの黙示録は、この世が天の御国とひとつになる、その日の希望を語ります。
その日、この世のすべての悪しきもの‒ 私たちを涙させるあらゆる苦難‒ は消え去り、喜びだけが私たちの心を満たします。
その日、今は私たちがそのお姿を見ることのできないイエス様が、もう一度、おいでくださいます。
今日のヨハネの黙示録の聖句が語る天上の礼拝で、四つの生き物が神さまを「やがて来られる方」と讃美しているのは、イエス様がもう一度おいでくださること‒ これを「再臨」と言います‒ を表しています。
山あり谷あり、私たちの人生は進み、時代は流れ行きます。
聖書は、その歩みと流れがまっすぐにイエス様の再臨に向かっていると告げています。それは命の言葉、私たちに希望と力、今のすべての苦難を忍耐し、あらゆる困難に立ち向かう勇気を賜る命の言葉です。
聖書は、私たちへの神さまからの励まし・エールなのです。
御言葉を通して、私たちを力づけてくださる主を仰ぎ、主を慕って新しい力をいただいて、今週の一日一日を歩んでまいりましょう。
2021年10月17日
説教題:主を讃える礼拝の喜び
聖 書:詩編36編6-10節、ヨハネの黙示録7章9-17節
この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。
(ヨハネの黙示録7章9-10節)
マルコによる福音書を読み終えてから、薬円台教会の主日礼拝では旧約聖書と新約聖書のさまざまな聖書箇所から恵みと学びをいただいています。今日はダビデの信仰に学び、彼が献げた真実の礼拝を心に留めましょう。また、神の国・御国のまことの礼拝の姿を告げるヨハネの黙示録にも、ご一緒に心の耳を傾けたく思います。
今日の旧約聖書の聖書箇所は、限りなく明るい主への讃美の御言葉です。しかし、この讃美と、真実に正しい礼拝を献げた者の歩みは、実に厳しく苦難に満ちていました。逆に言えば、自分の罪を知り、それを心から悔い改めるという心の中での大事件があったからこそ、この讃美を献げることができたのです。
この讃美の祈りを献げたのは、ユダヤの二代目の王であり、ユダヤの統一を成し遂げたダビデです。ダビデは少年の時に神さまからの召しを受け、初代のサウル王に側近として仕えながら音楽と詩、そして戦(いくさ)の賜物を開花させてゆきました。神さまがくださったその賜物のために、彼は大きな試練に遭いました。サウル王を支えて戦った戦いで彼は武功を上げ、ユダヤの人々はダビデを若き英雄として讃えました。それが、サウル王の激しい嫉妬を招いてしまったのです。サウル王は、ダビデの命を狙うほどにこの有能な部下を憎むようになりました。ダビデはユダヤ国内にとどまることができず、ついには敵国の傭兵となって生き延びなければならなくなりました。
しかし、彼をユダヤの二代目の王に立てるという神さまの御心・神さまのご計画は実現し、彼はユダヤの統一を成し遂げました。
神さまに従い、神さまに導かれるとおりに働いたら、この世の王にねたまれ憎まれてしまったという皮肉な試練は、ダビデに強靱な信仰を与えました。
ダビデはこの経験から、どんな逆境にあっても主が共においでくださり、必ず苦難から救い出してくださると確信できるようになりました。苦難・試練を通して神さまがダビデに信仰を与え、信仰を深めてくださったのです。
ユダヤは大国に囲まれた小さな国で、独立を保つのはたいへん困難でした。しかし、ダビデは何があっても主が助け導いてくださるとの希望を常に抱いて前向きに民を率い、ユダヤは大いに繁栄しました。
信仰深いダビデでしたが、きわめて人間的な弱さも持っていました。
今日の聖句の直前で、ダビデはこのような言葉を主の御前に吐露しています。
「神に逆らう者に罪が語りかけるのが わたしの心の奥に聞こえる…(彼は)床の上でも悪事を謀り 常にその身を不正な道に置き 悪を退けようとしない。」(詩編36:2、5節)
ダビデがここで語る「神に逆らう者」とは、自分自身をさしています。このような出来事がありました。(サムエル記下11章以下)
ある日、ダビデが宮殿の屋上から町を眺めていると、美しい女性の姿が目に入りました。彼が強く心を惹かれたその女性は、忠実で勇猛かつ有能な部下ウリヤの妻バトシェバでした。しかし、サムエル記によるとダビデは「彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。」(サムエル記下11:4)十戒が戒める姦淫の罪をダビデは犯したのです。
その後、バトシェバは、ダビデの子をみごもったと告げました。
ダビデは美しいバトシェバと、彼女がみごもった子を我が物にしたいと願って、はかりごとをめぐらしました。
彼自身が詩編の祈りの言葉・詩編36編5節で告白しているように、「悪事を謀」りました。ダビデはバトシェバの夫ウリヤを危険な戦地に送りました。ダビデは王であり、ウリヤの上官・上司という立場を利用して、勝手な命令を出しました。夫ウリヤはこの命令に忠実に働き、この危険な戦いで戦死してしまいました。ダビデは姦淫の罪ばかりでなく、殺人の罪をも犯したのです。
しかも、ダビデは自分の罪に気付いていませんでした。彼はこの時、おそらく殆ど無意識・無自覚に神さまの教えよりも自分の欲を優先していたのです。私たち人間は、ついそのように自己中心的な行いをしてしまいます。
ダビデの罪を指摘したのは、神さまから言葉を預かって伝える預言者ナタンでした。ナタンに言われて初めて、ダビデは自分の罪に気付きました。彼は「わたしは主に罪を犯した」(サムエル記下12:13)と言いました。愕然として放った言葉だったでしょう。彼は自分が神さまの正しい裁きによって、命を取られると覚悟しました。死に値する重い罪を犯したのです。
そのダビデに、預言者ナタンはこう告げました。「…主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」(サムエル記下12:13)
ダビデが愛したバトシェバは、お腹の子を出産しました。子は生まれてきましたが、元気がなく、日に日に弱ってゆきました。自分が犯した罪のために、我が子の、何の罪もない小さな命が消えてゆくのを、ダビデは目の当たりにすることになったのです。
ダビデは多くの苦難を経験して来ましたが、こんな悲惨なことはこれまでありませんでした。これは、激しい後悔と悲しみを伴う心の中の大事件でした。
ダビデは宮殿の一室に引きこもって断食し、地面に横たわったまま身を起こそうともせずに神さまにゆるしを願いました。一国の王とは思えない、なりふりかまわぬダビデの悲しみようを見て、家臣たちは彼を地面から起き上がらせようとしました。王がこんな様子では、国の政治は停滞し、それに気付いた敵国が攻め込んできます。しかし、ダビデは家臣たちを退け、食べることも起き上がることもしませんでした。
七日目に、子はついに息を引き取りました。家臣たちはその死をダビデに伝えるのを激しくためらいました。ダビデが悲しみと後悔のあまり、自分の命を絶ってしまうのではないかと心配したのです。
ところが、ダビデは子の死を知ると「地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝し」(サムエル記下12:20)ました。
ダビデが子供の死を知って最初にしたことは、礼拝を献げることだったのです。今日の聖句は、この礼拝で献げられた祈りの言葉だったかもしれません。
我が子がたった七日しか生きられなかったのは、親である自分の罪を償うためでした。それを、ダビデは神さまのまことに正しい裁きとして深く、真正面から受けとめたのです。
ダビデはこう思ったのでしょう。主の愛と裁きにより、自分は我が子の命を犠牲にして、生きてゆくことをゆるされた ‒ これから自分は、ゆるされた者の責任をもって生きてゆかなければならない。それこそが、主の御心だ、と。
ダビデは、自分に起きたこの悲惨な出来事は、主が自分に与えられた御業だと知ったのです。私たちも、ここで主の御業の大いなることを、それぞれ自分のこととして心に留めなければなりません。神さまが自分に働きかけてなさった御業は、それがどれほど深く苦しい痛み・悲しみを伴う出来事であったとしても、自分が主のものである・主に愛されていると知らされる恵みでもあります。
ダビデはその恵みを感謝して主を礼拝し、讃美を献げました。
今日の聖句から私たちはたいへん明るい印象を受けます。しかし、大らかな讃美の祈りには、ダビデのこの心がこめられています。“自分は、ひとつの命の犠牲によって、ゆるされた者だ。自分は、罪から救われた者・裁きの深淵である滅びの死から救われた者としての責任を負って主と共に生きてゆこう。”
一人の命の犠牲によって、ゆるされた者。
実は、私たちキリスト者は、皆そうです。
私たちは、イエス様が十字架に架かられ、ご自身の命を私たちのために犠牲にしてくださったことで、人間が本来的に持っている罪から救われ、ゆるされました。
イエス様に救われた罪人としての自覚を深く抱きつつ献げる礼拝こそが、私たちキリスト者が献げる真実の礼拝です。
その礼拝の心・真実の礼拝の姿勢を私たちに示すのが、今日の新約聖書の聖書箇所です。新約聖書の聖句は、聖書の最後の書「ヨハネの黙示録」からいただいています。
「ヨハネの黙示録」は、イエス様の弟子 ‒ 「わたし」と一人称で記されています ‒ が、聖霊を通して受けた"幻" を語る書です。日本語で“幻” と言うと"幻聴” や"幻覚” のように現実から遊離したはかない絵空事をさし、悪いことというイメージがあります。
しかし、聖書が語る"幻” は私たちの信仰的な憧れ・主の御心にかなう生き方や礼拝の献げ方の理想を意味します。ヨハネ黙示録には、私たち人間が神さまを仰ぎ見る理想の姿勢が語られていると言って良いでしょう。
7章の1節から、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民」が「数えきれないほどの大群衆」として集まり、そろって白い衣をまとって主を讃美する真実の礼拝が描かれています。白い衣を来た大群衆は、長老との言葉のやりとりで分かるようにキリスト者の群れです。
日曜日・主日には、世界中のキリストの教会で礼拝が献げられます。
世界中のキリスト者の心が主に向かってひとつとされている日曜日の朝 ‒ そのすべての教会の姿を霊的に書き表したのが、この7章の御言葉です。
国・人種・言葉はそれぞれ違います。しかし、皆そろって心にイエス様を信じる者のしるしとして、白い衣をまとい、同じひとつの心で主を讃美するのです。
キリスト者は、長老が語るように「大きな苦難を通って来た者」です。またその衣がそろって白いのは、それぞれの衣を「小羊の血で洗って白くした」からです。小羊の血で洗えば、この世的に言えばどんな色の衣服も血の色である暗赤色・褐色に染まってしまいます。しかし、聖書が語るこの「小羊」は、私たちの罪の償いのために十字架に架かられた救い主イエス様です。
イエス様は、私たちの罪を私たちに代わって負ってくださいました。
本来ならば神さまに裁かれて十字架に架けられ、死して滅びなければならなかったのは私たちでした。ところが、イエス様が私たちに代わって十字架で肉を裂かれ血を流され、地上の命を捨ててくださいました。それは、イエス様が私たちに代わって罪を裁かれ、罪で汚れた私たちを ”無罪” としてくださるためだったのです。 イエス様が十字架で流された血は、罪に汚れた私たちを清め、まっさら・真っ白にしました。それを表すのが、今日の聖句ですべての礼拝者・キリスト者が来ている「白い衣」です。
教会に聖歌隊がある場合、そろって白いガウンを着用して礼拝で讃美を献げます。その聖歌隊の白いガウンは、天使の格好を真似ているだけではありません。ここに告げられているように。神の小羊・イエス様に罪を贖われて清められ、白い衣を着るようになった者であるしるしなのです。
聖歌隊員でなくても、私たちキリスト者‒ イエス様の十字架の出来事で罪をゆるされ、ご復活により永遠に天の父なる神さまとイエス様と共に生きる福音を信じて洗礼を受けた者たち‒ は皆、人間の目には見えないけれど同じイエス様のユニフォーム ‒ 「白い衣」‒ をまとっているのです。
主日礼拝の時はもちろん、その他のあらゆる時にも、信仰をいただいているしるしとして、私たちの心はいつも「白い衣」をまとわせていただいています。
イエス様は、私たちが将来 犯してしまう罪をもゆるしてくださるために、十字架に架かられました。しかし、だからと言って白い衣を新たな罪で平気で汚すようなことは、もう私たちにはできません。救い主が命がけで与えてくださった白い衣を感謝し、それを白いままに保てるようにイエス様の導きを祈る祈りが必要です。それが、悔い改めです。
罪から遠ざかり、周りの人にも罪を犯させないようにするのは、この世に生きる私たちにとっては殆ど不可能ですが、悔い改めるたびに主は私たちを聖霊で清めてくださいます。
主日ばかりでなく、今週の一日一日・一瞬一瞬、神さまに心の一点を必ず向け、回心し悔い改めつつ、主のものとして生きる喜びと感謝に満たされて進み行きましょう。
2021年10月10日
説教題:み恵みに正しく応える
聖 書:申命記4章5-8節、ローマの信徒への手紙12章21節-13章7節
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。あなたがたが貢ぎを納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢ぎを納めるべき人には貢ぎを納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。
(ローマの信徒への手紙12章21節-13章7節)
今日の新約聖書の聖句は、実に力強く始まります。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」キリスト者・クリスチャンの生き方として “隣人愛” が世に広く知られていますが、この悪に善をもって報いよとの教えもキリスト者が仰ぎたい指針です。“やられても、やりかえさない ‒ 悪に悪を、暴力に暴力を、意地悪に意地悪をもってやりかえしてはならない” ことによって、主は私たちを平和への道へと導きます。この御言葉は、ただじっと忍耐して悪が大手を振るってまかりとおるままにしてはならない、と語ります。悪を、善で封じ込め、憎しみには愛をもって立ち向かいなさいと、導くのです。
ところが、これに続く聖句「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。」を読んで、私たちは戸惑わずにはいられません。もとの聖書の言葉では、「上に立つ権威」に ”この世の上司” “権力” と読み替えることのできる単語が用いられています。ここで、御言葉は “権力に従い、権威に忠実になりなさい” と教えているのです。さっと読んだだけだと、何だか “偉い人に逆らうことのできない腰抜けになりなさい” と言われたような違和感を禁じ得ないでしょう。この世の社会で、人の上に立って指示や命令を出す立場の人が正しく立派だとは限らないことを、私たちはそれぞれの経験から良く知っています。また、それは私たち人類の過去の歴史からも明らかです。残念ながら、おそらく地球上の多くの国が、独裁者の勝手な判断や愚かしい指導者の命令によって、流されなくても済んだはずの血が流され、多くの命が失われてきた歴史を持っています。
今日の新約聖書の言葉は、使徒パウロがローマ教会に宛てて書いた手紙・いわゆる“書かれた説教” です。どうしてパウロは、このようにこの世の上の者・この世の権力に従いなさいと言うのでしょう。パウロはその根拠を、次のように記しています。「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分に裁きを招くでしょう。」
思わず、え〜っ?!と思ってしまいます。特に私たちが暮らす日本では、クリスチャンは100人に一人と言われるほど少数なので、いわゆる上役・上司がクリスチャンである確率はきわめて低いと言ってよいでしょう。
パウロが、“すべての権威の根拠は神さまにある” と記したのは、旧約聖書の律法・十戒を中心とする律法によります。ユダヤの掟・社会の決まりごとである律法は、神さまから預言者モーセを通して与えられました。今日は旧約聖書の聖書箇所として、主に導かれてユダヤ民族を率い、共同体として育てたモーセの言葉をいただいています。
モーセはこの言葉を通して、ユダヤの民に、自分という人間の指導者ではなく、ひたすら神さまを仰ぐようにと教えています。今を生きる私たちも、もちろん、まことの指導者として仰ぐのは主なる神さまただおひとりです。
十字架に架かられる前の地上の伝道活動で、イエス様が繰り返し、繰り返し人々に教え、伝えられたのは天の父・神さまをあがめることでした。人間をはるかに超える深い愛と、真実の正しさをお持ちの神さまに自分をゆだねるようにと教えられたのです。その真理を踏まえてこそ、すべての権威の根拠が神さまにあるとわかります。今日の聖句でパウロが語っているのは、聖書を知り、三位一体の神さまを心と魂で知っている者にとっては当たり前のことです。しかし、これは説教の始めの方でお話ししたように、クリスチャンではない人の方が多い社会では実に通じにくい真理です。では、パウロはそれでも、間違った命令や怪しい指示をする権力者が上にいたとしても、尊重しなさいと言っているのでしょうか。
ここで、私たちは当時の時代状況を考えなくてはなりません。イエス様が十字架に架けられた後、キリスト者は激しい迫害に遭いました。この世的な言い方をすれば、キリスト者は死刑になった重罪人・ナザレのイエスの教えを信じている薄気味悪い人たちと思われたからです。今日の聖句は「ローマの信徒への手紙」‒ パウロがローマにあるキリストの教会に宛てて書いた説教 ‒ からいただいていますが、当時のローマで皇帝が神として崇められていました。この頃、ローマは皇帝ネロの時代を迎えようとしていました。ネロが暴君だったことは、皆さんは歴史の授業、小説や映画を通してご存じでしょう。
ネロの時代の少し前から、ローマ帝国はさまざまな面でほころびを見せ始めていました。帝国が侵略を繰り返した結果、ひとつの国家としてまとまるには巨大になりすぎてしまったのです。国の政治にあたる者たち ‒ 権力者たち ‒ は政治の難しさに倦み疲れ、私利私欲と出世に血道を上げるようになりました。文化は成熟を通り越して爛熟状態で、社会全体が乱れていました。皇帝ネロも、若い頃は正しく国を治めようと努めたようですが、ある時期を過ぎると、執政に関心を持たなくなりました。逆に、政治から逃避するように文学と音楽にのめり込みました。
竪琴を奏でながら自分の作った詩を歌うことに夢中になったのです。すべての道はローマに通じると言われた巨大文化都市ローマに火をつけて、ローマの大火を起こしたのは、この皇帝ネロです。なぜ、そんな恐ろしいことをしたのでしょう。燃えて崩れてゆくローマを見ながら、それを嘆く詩を作り、さして上手でもなかっただろう自分の歌を歌って家臣の喝采を得たかったというただそのためでした。そのうえ、自分が放火を命じたにもかかわらず、放火犯人はローマのキリスト者たち・ローマ教会の信徒たちだという噂を広め、キリスト者を激しく迫害したのです。実に愚かですが、崩壊しつつあるローマ帝国を治める責任を放棄して、ローマ市民の怒りが自分ではなくキリスト者に向かうようにしたという点では、たいへん狡猾です。卑怯でずる賢いとしか思えません。
皇帝ネロは、悪そのもののような権力者でした。パウロ自身も、ネロの迫害の時代に捕らえられ、殺されて殉教したと伝えられています。
それでも、今日の聖句でパウロはローマ教会に語ります。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」
今日の聖句でパウロは、じっと悪に耐えろとは言いませんでした。
忍耐の先を行けと教えたのです。
悪に立ち向かい、悪に勝てと言いました。
悪と戦う時、人間は悪をもって己の武器としてしまいます。別の悪である肉体的な暴力、言葉による暴力、または新しい権力という暴力を振るって戦ってしまうのです。暴力に暴力でしか対応できないのは人間の限界、人間の罪です。パウロは、イエス様に罪を贖っていただいた私たち・罪ゆえの滅びから救われたキリスト者は、イエス様に従って人間の罪の限界を超えよ、その先を行け、善をもって悪に勝てと語ります。
” 善をもって悪に勝つ” ‒ この「善」は “本質的に良いもの” という意味で、今日の聖句の少し前・ローマの信徒への手紙12章9節にある “偽りのない愛” と同義であると言って良いでしょう。真実の愛は、決して相手を傷つけません。イエス様は山上の説教でおっしゃいました。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5:38)イエス様は、この御言葉をご自身の命をもって実行されました。神さまに背き、神さまよりも自分自身そして自分たちの思いを優先して神さまを侮った無礼な私たち人間のために、神さまであるイエス様が十字架で命を捨ててくださったのです。
迫害され、家族と仲間、教会の兄弟姉妹を殺されても、怒るな・憤るな・相手を罵るなとパウロは教えています。彼がローマの教会に伝えたこの教えは、実行不可能に思えます。しかし、ローマ教会の信徒さんたちがこれを行い続けたことを、歴史の事実が教えてくれます。ローマのクリスチャンは世代から世代へと愛の信仰を受け継いでゆきました。
どんな迫害にも ‒ 脅しにも、侮辱にも、あらゆる暴力にも ‒ 彼らは静かに忍び耐え、そればかりでなく相手をゆるし、困っているのを見れば逆に助けの手を差し伸べました。その姿を、ローマの人々は初めは不思議に思い、やがてそこに、それまで知らなかった優しさと美しさを見出すようになったのに違いありません。そのキリスト者の姿に憧れ、教会に集う彼らがイエス様にならいイエス様に学んでいることを知って、自分もイエス様を知ろうとする人が次第にふえてゆきました。
紀元392年 ‒ 語呂合わせですが「み・く・に」の年、実に350年ほどかけて、キリスト教はローマ帝国の国の宗教・国教になりました。クリスチャンであることが当たり前の社会へと、ついに主が導いてくださったのです。
主にすべてをゆだねる信仰、主が必ず良いものを与えてくださると信じ抜いて前を向き続ける希望、そしていっさいを耐え忍ぶ愛 ‒ 信仰と、希望と、愛 ‒ である「善」が、悪に打ち勝ちました。
日本の教会 ‒ いえ、身近なところでは この千葉にある教会でも、教会員の数が10人に満たない群れがいくつもあります。それを欧米のキリスト教文化圏の方に話すと、日本の教会は聖書に書かれている教会のようだと言われます。この言葉は、むしろ励ましと受けとめたく思います。復活のイエス様に会った弟子たちやパウロたちが、何があってもくじけずに、いきいきと福音を伝えた時代のようだと思いたいのです。
今日は日本基督教団が定めた神学校日・伝道献身者奨励日です。コロナ禍がなければ、昨年も今年も、神学校から神学生が派遣され、説教ご奉仕と証しをいただくはずでした。それはできませんが、今日が神学校と神学教師、神学生のために神さまの祝福を祈り、支える決意を新たにする日であることには変わりません。また、私たちがイエス様の真実の愛の深さと強さをあらためて心にとめ、この福音をたいせつな誰かに伝えたい、広く語りたいと願う日であることは、いつもの主の日・日曜日と同じです。
イエス様の愛と正義 ‒ 本質的に善なる真理 ‒ を心にたいせつにいただいて、今週一週間を進み行きましょう。
2021年10月3 日
説教題:信仰に生きる幸い
聖 書:創世記22章7-12節、ヘブライ人への手紙11章1-3・17-19節
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
(ヘブライ人への手紙11章1-3節)
信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
(ヘブライ人への手紙11章17-19節)
今日の礼拝にいただいている新約聖書の聖句は、信仰とは何かをずばりと語る言葉から始まっています。
私たちはどうして、こうして教会に集うのでしょう。なぜ礼拝を献げるのでしょう。それは、信仰をいただいているからです。その信仰の真髄を、今日の御言葉は簡潔に言い表しています。私たちを整え、正しくひとつの心を持つ信仰共同体・教会として歩めるよう導く恵みの聖句です。
今日の新約聖書箇所第1節を今一度、味わいましょう。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ人への手紙11:1)
「望んでいる事柄」とは、何でしょう。もし、こうしてひとつに集まっていても、人間一人一人の望みや願いは違うと思っておられたら、それはたいへん大きな間違いです。私たち教会に連なる者の希望は共通で、ただひとつです。神さまの愛・イエス様の愛に包まれて、三位一体の主と永遠に一緒にいられること ‒ このただひとつのことです。それを、聖書は“死を超えて生きる永遠の命”と呼びます。“救い”と呼ぶのです。
“永遠の命”・“救い”を、もう少し身近な言葉で言い換えれば、“愛と、真実のやすらぎと幸福” です。 これが、私たちの望みです。私たちが「望んでいる事柄」です。教会は、神さまと人に愛され、自分も神さまと人を愛したいと願い、その命がけの愛にこそ真実の心の平安、そして真実の幸いがあると信じて望みを抱く者が集う共同体です。
確かに、私たちにはそれぞれの個人的な “願い事” があります。病気が治って欲しい、人との関わりを良くしたい、仕事で成功したい、心が洗われるような感動が欲しい … 日常生活の中で、私たちはそうした願いを抱きます。そのような、いわばこの世的な、人間的な願いごとを抱いて教会に集まる私たち・イエス様のもとに集う私たちを、イエス様は喜んで迎えてくださいます。マタイによる福音書の山上の説教で、イエス様はこうおっしゃいました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。」(マタイ7:7)私たちは何でも願い、何でも祈ってよいのです。神さまはお聞き上げくださいます。
願いごとがかなえられると、私たちの心はやすらぎ、幸福を感じます。しかし、“自分の願いごとをかなえて欲しいから、教会に通う” ことには真実の幸いはありません。願掛けをするだけならば、それは御利益信仰です。キリスト教は御利益信仰ではありません。真実のやすらぎと真実の幸福は “自分” を超えたところにあるからです。イエス様は、その真理を私たちに示してくださるために、ご自分を捨てて十字架に架かってくださいました。
イエス様の十字架の出来事とご復活の後に生きる私たちは、幸いです。見えない神さまを、イエス様の十字架を通して知ることができるからです。
旧約聖書時代の人々・神さまの宝の民であるユダヤの人々にとって、見えない神さまを信じることはたいへん難しいことでした。イエス様の十字架の出来事とご復活がまだ与えられていなかったからです。ユダヤの人々は見える物・偶像にどうしても頼りたくなって、神さまから離れ、神さまを悲しませることを繰り返しました。
今日の聖書箇所をいただいている「ヘブライ人への手紙」は、血筋としてはユダヤ民族であってもユダヤ教から改宗して、イエス様を信じるキリスト者となった人々が集まっている教会に宛てた手紙です。書かれた説教と言っても良いでしょう。キリスト者として生きつつ、その教会に集う人々はユダヤ民族としてのアイデンティティーを持っていました。ですから、彼らの祖先である旧約聖書の人々について多く語られ、17節からはアブラハムとイサクの出来事が記されています。
アブラハムはユダヤ民族の初代の長であり、信仰の父と呼ばれています。彼は、イエス様の十字架を知らなかったけれども、真実のやすらぎと幸福が天の父を信じることにあると、心と魂でわかっていた人でした。お姿を見ることができなくても神さまを信じきって、神さまに全てをお任せすることに本当の幸いがあると知り抜いていた人なのです。その息子イサクもまた、父アブラハムに忠実に従い、神さまに従い抜いた人でした。今日の旧約聖書の御言葉には、彼ら父子、特に父アブラハムの信仰の深さを伝える出来事が語られています。
創世記22章1節は、この聖句で始まります。「神はアブラハムを試された。」神さまに「試される」とは、試練を与えられることです。神さまは愛する者に困難な課題を与えられ、その者が主を信じて主に身をゆだねきるよう導きます。主にすべてをゆだねるとは、主に従い通すということです。それが信仰であり、そこにこそ、私たちが望んでやまない真実の愛、真実の平安、真実の幸福があります。
主にゆだねるとは、自分を手放す・自分の思いから解放されて自由になることです。しかし、自我の強い私たち人間には、これは実に難しいことです。自分で何とか解決しようと悪あがきをしてかえって苦しみ、なかなか自分の思いを手放すことができません。自分を主にゆだねられるようになるために、神さまは時に、たいへん厳しい試練を私たちに与えます。アブラハムが受けたのは、この試練でした。
アブラハムに与えられた最初の試練は、住み慣れた土地を離れることでした。旅に出なさい、と神さまは彼に言いました。その時、行き先を教えてくださいませんでした。しかし、彼はすべて神さまが与えてくださるものは良いと信じ、素直に従いました。
そのアブラハムに、神さまは恵みの約束をくださいました。彼の血筋を繁栄へと導き、子孫を空の星のように増やすと言われました。アブラハムと妻サラは子どもに恵まれないまま、もう子どもを望めない高齢に達していて、この約束をすぐには信じることができませんでした。しかし、神さまは約束を守り、アブラハム夫妻にイサクという跡継ぎの息子を誕生させてくださいました。アブラハムとサラはどれほど喜び、神さまに感謝したことでしょう。
ところが、神さまはさらなる試練をアブラハムに与えました。それが今日の聖書箇所の出来事です。創世記22章2節をお読みします。神さまはアブラハムに命じられました。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」人間の思いからすると、理不尽・不条理な命令です。
しかし、聖書には、アブラハムが神さまのこの命令を理不尽で約束違反だと抗議し、怒り、命令を撤回してくださるよう懇願したとはいっさい、記されていません。アブラハムの心には神さまへの「なぜ? どうして? 神さま、我が子イサクはあなたが約束してくださった子なのに…」との問いが渦巻いていたでしょう。にもかかわらず、アブラハムは黙々かつ淡々と、神さまに言われたとおりに準備を始めました。
当時の礼拝は山上で家畜を神さまへの献げ物として屠り、すっかり焼き尽くす奉献が中心でした。家畜は当時の人々にとって、自分と家族の命に次いで大切な財産でした。その家畜の中でも一番手をかけて大事に育て、一番価値のある一匹を神さまに差し出すのが、望ましい礼拝だったのです。しかも、その家畜のすべて‒ 毛も肉も骨も‒ を焼き尽くし、煙として天の神さまに献げ、自分には何も残らないようにしなければなりません。丹精して育てた大事な家畜をそうしてすっかり焼き尽くし、献げ尽くすことで、自分が神さまをどれほどたいせつに思っているかを示すためです。
アブラハムは献げ物を焼くための薪を準備し、二人の召使いの若者と少年イサクを呼びました。礼拝で我が子・独り子イサクを神さまに献げることは誰にも言わず、自分の心中にだけとどめていました。そして、四人はモリヤへと旅立ちました。彼らがモリヤに着き、礼拝を献げるにふさわしい山のふもとに立ったのは三日後のことでした。
何も知らされていない少年イサクは、父アブラハムに尋ねました。「お父さん、…焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」(創世記22:7)
父アブラハムは答えました。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」(創世記22:8)この言葉は、神さまへの敬虔と我が子への慈しみがこめられた誠意あるひと言です。人間のリーダー・家長・族長が難題に直面し、最優先すべきことを貫くために、愛する家族・仲間・自分の部下をやむを得ず犠牲にしなければならなくなった時に語れる言葉として最も真摯なものではないでしょうか。そして、イサクはその父にすなおに従いました。
アブラハムは薪を組み、我が子・独り子イサクを縛ってその上に横たえました。イサクは従順に従いました。アブラハムが刃物を振るった時、御使いが神さまの言葉を伝えました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。」(創世記22:12)
「神を畏れる者」とは、信仰者のことです。何よりも神さまの言葉を優先し、自分の思いを捨てて従う信仰を持つのが、神を畏れる者です。このアブラハムの信仰を主は祝福し、イサクをアブラハムに返して藪に角を取られた小羊を代わりに献げ物として与えてくださいました。アブラハムがイサクの問いに答えて「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と言ったとおりを神さまは実現してくださったのです。
その後、神さまはアブラハムに先に約束されたとおりに、イサクを通してユダヤ民族を国となるほどに大きくしてくださいました。アブラハムが信仰の父と呼ばれる所以は、今日の聖書箇所が語る事柄にあります。
繰り返しますが、信仰者とは、神さまの御言葉がすべてに優ってすばらしく、最優先されるべき真理であることを心と魂でよく知っている者のことです。
私たちは、神さまの言葉を自分勝手に選り好みしてしまうことがあります。今日の礼拝は心に響かなかった、自分の苦悩を救ってくれる説教ではなかった、せっかく出席したのに礼拝の中のどの御言葉‒ 讃美歌・交読文・旧新約聖書の御言葉とその説き明かし‒ にも、心が満たされなかったと感じてしまうことがあります。
しかし、その時に忘れてはならないのは、困難や課題、苦難からの脱出と救いの恵みを語る御言葉が礼拝で語られたのに、今の自分にはそれがまだ理解できないのかもしれないということです。神さまは、そのような私たちに試練を与えて信仰を成長させてくださいます。
アブラハムも、イサクを献げなさいとの神さまの命令を聞いた時はまったく理解できませんでした。アブラハムは神さまに従い通して、イサクを神さまから返していただき、あらためて我が子と呼べる喜びを深く知りました。
神さまが与える試練が、私たち人間にはたいへん衝撃的で悲劇的としか思えないことがたびたびあります。しかし、それが神さまから与えられている限り、通り越した後 ‒ 多くはずっと後 ‒ に、これが御心だったのだと分かります。なぜ? どうして? という問いで乱れていた心が落ち着く時が来ます。主にある平安が訪れるのです。
主にある平安を知る時 ‒ それは、試練を通して神さまの御言葉をより深く聴き取れる良い耳を育まれて、成長した信仰をいただいた時です。そして、新約聖書の時代・教会の時代に生きる私たちには、私たちに寄り添ってくださるイエス様が与えられています。試練の中で御言葉を聴き取れず、教会で恵みをいただけないとつい思ってしまう時にも、いえ、そのような時こそ、イエス様は私たちのために祈ってくださいます。
この箇所の説教を語る時に、よく紹介される絵・絵画があります。皆さんの中にも、礼拝の説教で語られるのを聴いたことがある方がおいでだと思います。20世紀のロシア出身のフランスの画家、シャガールの作品『イサクの奉献』です。まさに今日の旧約聖書の聖句が描き表されています。中央に刃物を振るうアブラハムが赤く、縛られて薪の上に横たわるイサクが黄色く、左上に天使が青く描かれ、天使はアブラハムに手をさしのべています。待った!をかけて、「その子に手を下すな」(創世記22:12)と言っているのです。
この絵に描かれているのは、実はこの三人だけではありません。絵の右上、背景と言ってよい遠さと小ささで、もう一人の姿が描かれています。十字架に向かうイエス様です。父アブラハムが独り子イサクを献げた時、神さまはアブラハムを止めてくださいました。神さまの独り子イエス様が、私たちの罪の贖いのために十字架に架かられた時、神さまは止めませんでした。何もおっしゃいませんでした。神さまは我が子を捨て、そのことを通して私たちを救ってくださったのです。救われて、私たちは、永遠に神さまとイエス様と聖霊の主と共に生きる幸いをいただくようになりました。
神さまが私たちに与える試練は、時に、たいへん厳しいことがあります。しかし、その時にこそ、十字架のしるしを思い起こしましょう。私たちのために、神さまがまず、我が子イエス様を捨ててくださったのです。イエス様は、ゲツセマネの園の祈りで神さまからいただいた使命を最優先すると決意し、十字架に架かってくださいました。ご自分の地上の命を手放してくださったのです。私たちが自分の思いから自由になって、自分を捨てて、ひたすら神さまにゆだねる幸いを、こうしてイエス様が教えてくださいました。そして、今も、これからもずっと、イエス様は私たちから離れることなく共に歩んでくださり、励まし続けてくださいます。自分のすべてを主にゆだね、神さまを中心として信仰に生きる幸いを心深くにいただいて、今日から始まる一週間を歩んでまいりましょう。