2010年9月26日
説教題:苦難を負う共同体
聖書:創世記 32章23-33 マルコによる福音書 14章32-42節
【説教】
「苦難を負う共同体」は教会、神の民です。神の民が負っている苦難は何でしょうか。
今日の創世記は、ヤコブが兄エサウに会うために、エサウの所に行く途中で起こった事を記しています。ヤコブは、策略を使って長子の権利を兄エサウから奪い、エサウが貰うはずの祝福を父から騙し取ったので、エサウから命を奪われる恨みを受けました。それで逃げて伯父の所に20年いたのですが、神の導きに従って今故郷のエサウの所に帰るのです。
しかしエサウの所に帰るのには恐怖があります。今ヤコブは妻子たちを先に川を渡らせて一人夜を過ごしています。ヤコブは、自分の今までの歩みを思い返したでしょう。またエサウの所に帰ってからのことを思ったでしょう。ヤコブは一人眠れなかったでしょう。その時何者かが格闘をして来たのです。ヤコブはこの格闘に負けるわけにはいかない、と死力を尽くして戦いました。両方が決定的な勝利を得ませんでした。相手がヤコブの腿の関節を打ったのでヤコブの関節が外れた。それで、相手が勝ったと思われます。ところがその人が「もう去らしてくれ」と言ったのです。ヤコブは「祝福してくれるまで離さない」と必死で祝福を求めました。ヤコブはこの人が神の人だと分かったのではないでしょうか。だから祝福を求めたのでしょう。祝福は上の者が下の者に与えるのです。
その人は、祝福を与えるのではなく、ヤコブの名を尋ねました。名を知らせることは正体を知らせることで、相手の手の内に捕らえられることです。名を尋ねられ「ヤコブ」と答えました。その人は「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる、お前は神と戦って勝ったのだから」と言いました。名前は体を現すのです。改名はその人が変ることです。ここでヤコブはイスラエルに、他人のかかとを掴んで自分が上に昇る人を意味するヤコブから、神が支配する人を意味するイスラエルに変ったのです。
イスラエル(神の民)は人間の罪を自分の中に持っている、と同時に、地上を歩んでいる人間共同体の重荷、苦難をも自分のものとして負って歴史の中を歩んできたのです。そして、御子イエスが神からのメシア、キリストとして遣わされ、新しい神の民を誕生させたのです。今日のマルコ14:34で主イエスは「私は死ぬばかりに悲しい」と言っています。36では「アッバ、父よ、この杯を私から取り除いてください」と祈っています。主イエスによるその苦難を負った十字架の死は、罪人の人間を贖うため、罪の重荷に苦しんでいる人を解放するための死なのです。それで主イエスは「しかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことがなりますように」と祈りを結んでいます。神の御心であり、私が負うべき重荷は負い抜きます、と神の前に祈っているのです。これが、主イエスの従順で、重荷を負っている人の重荷を一緒に負い、代って負う柔和さ、謙遜さです。
この主イエスの祈りと十字架によって、私たちは罪の重荷から解放され、神の命に生きることが出来るのです。この主イエスに導かれ、支えられて、教会は、神の民は、自分たちの重荷を負い合う、と共に、隣り人の重荷も、この世の重荷も負って歩むのです。
2010年9月19日
説教題:新しい神の民
聖書:出エジプト記 12章21-27節 マルコによる福音書 14章22-26節
【説教】
戸籍に名前があるのは人間関係の中で誕生し、歩んでいたことを意味しています。それなのに今その所在も生死も分らない人がいるのです。神は全ての人を、神との正しい関係に生きるように造られました。神との正しい関係に生きる人間は、人間同士も正しい愛の関係をもって生きるのです。ところが人間は、神から離れて、人間関係の正しさも失って、自分中心になり、孤立を求めたり、他人を支配し従わせようとするようになったのです。
そのような人間の世界の中に、神は、イスラエルの民をご自分の民として選ばれ、その民に過ぎ越しの夜小羊を屠ってその血を鴨居と柱に塗るように命じました。この神の言葉を聞いて従うことによって、神の民は人間を奴隷として支配しているエジプトの国から脱出したのです。神の民が人間として救われたのです。
荒野を苦労して旅することになりましたが、神との交わりを与えられ、民も互いに愛し合い正しい交わりをしながら歩んだのです。苦労の多い旅でも神の御計画の道を目標に向って歩んでいる歩みは、意味ある歩みであり、どの日も大事な意味ある日でした。
ところがその民が、神に造られ生かされていることを大事にしない民になってしまったのです。旧約の神の民も、個人の歩み、自分の歩みになってしまい、目先のことに捉えられ、自分が手に出来る今の結果や目標達成を求める民になったのです。孤立して生きているホームレスのようにその日、その時の楽しみや思いで過ごすようになったのです。
神はその人間の罪を、ご自分のものとして覚え、ご自分の痛みとして負われ、御子を罪の贖いの犠牲にされたのです。マルコ14:12にある「過ぎ越しの小羊を屠る日」の食事は、奴隷であった民が神の言葉に聞き従って神の民になった出エジプトを記念する食事です。神は、御子イエス・キリストを新しい民を誕生させる過ぎ越しの小羊とされたのです。
御子イエスの死が、多くの人のための犠牲である、その「多くの人」の中にこの私も入っている。イエスの犠牲によって私の罪も贖われた。と信じてイエスの死を自分の中に受け入れる時、神はその人を新しい神の民にされるのです。イエスの十字架の死によって、今まで神を知らなかった人々も、神を知り、信じて神の民になるのです。
私たちの誕生と歩みと死、それも私が単独であるのではなく、神によって人間関係の中で起こっているのです。神の民としての誕生、歩み、死といえるのです。私たちは神と正しく結びついていることによって意味ある者であり意味ある歩みが出来るのです。
現在物が豊かになり、長生きするようになりました。しかし虚しく生きている人が多いのではないでしょうか。神のことを思わないで、神との交わりや関係を失っているのです。それが罪です。御子イエス・キリストの犠牲によって、神から離れていた私たちが、神の愛と義の中に生きる者とされたのです。新しい神の民にされたのです。そのことを知り、心から喜び、信じて生きる、その時本当に生きることになり、意味ある日々を歩むことになるのです。
2010年9月12日
説教題:ナルドの香油を注ぐ
聖書:マルコによる福音書 14章3-9節
【説教】
一人の女が主イエスに高価な香油を注いだ事は、四つの福音書全てにありますが女の名前や香油を注いだ背景は福音書によって違いがあります。マルコは、この女の身分、香油を手に入れた過程、イエスの所在を知った事情、香油を注いだ理由、等は何も記していません。この福音書の関心は、主イエスにあって良いことは何かなのです。
食事の席に、招かれていない、女が勝手に来て香油の壷を壊してイエスの頭に注いだのです。何人かは憤慨しました。礼を失し、食事の場を乱し、不愉快です。しかし、この人たちが注目し憤慨したのは、この女の乱暴な行為よりも、その香油が高価であることでした。そして直感的に計算し思ったのです。「なぜ、こんなに高価な香油を無駄使いするのか。この香油は300デナリオン以上に売って貧しい人々に施すことが出来たのに」。貧しい人への施しは申命記で神の民に命じられていることですし、良い業として高く評価されていたのです。この人たちは、日頃良い業のことを思っていたので、この時直ぐに「なぜこんな無駄使いをするのか」と思ったのでしょう。そして彼女をそのことで厳しく咎めたのです。
その時イエスは言われました「するままにさせておきなさい」と。この女が自分の自由な思いで行なっている主イエスに対する行為、それは乱暴で非難される行動である。けれどそれだけに、強い思いと決断で行なっている行為である。この自由で決断的な行為が生きるということだ。私は、私に対するこの行為を受け入れる、と言ったのです。続いて「なぜこの人を困らせるのか、私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したい時に良いことをしてやれる。しかし、私はいつも一緒にいるわけではない」と言われました。
この女の人は、他の人に理解できる考えで、客観的な理由で行動しているのではないのです。ですから他の人から「お前の自由な行為は何だ」と責められると弁明に困るのです。しかしイエスは「私に良いことをした」と評価し、「私はいつも一緒にいるわけではない」と、今一緒にいることを大事にして、今この時でなければ出来ない良いことを私にしてくれたのだ、だから貧しい人に施すいつでもできる事とは次元が違う良いことなのだ、とイエスはその行為を良いことと評価して喜んで受け入れているのです。イエスは「この人は出来る限りのことをした。前もって埋葬の準備をしてくれた」と言っています。今この時がイエスとの決定的な交わりなのだ、と信仰で知ってその交わりを何よりも重んじ、イエスに対する愛で出来るかぎりのことをしている、それが良いことなのです。「福音が宣べ伝えられる所では、この女のしたことが伝えられる」。福音は神からの喜びの知らせです。
私たちの礼拝や奉仕も、他の人が見たらどう思われるかが第一ではないのです。福音に生かされている喜びと感謝から出てくるものなのです。ですから他の人から見たら、無駄で他にもっと有益な使い方があると言われる行為でも、自分が今神に対して持っている喜びと感謝で行なう行為を、神は良いこととして受け入れて下さるのです。
2010年9月5日
説教題:私たちと共にいる主
聖書:列王記上 21章1-16節 マルコによる福音書 12章35-44節
【説教】
今日の福音書は、主イエス御自身がご自分はどんな救い主であるかを教えています。
35-37の所でイエスは、神殿に集った人々にご自分から語り出されています。先ず、「どうして律法学者たちは『メシアはダビデの子だ』と言っているのか、と問い掛けています。当時律法学者だけでなく、人々はダビデ王のような軍事的、政治的に強い王のメシアを求めていました。異邦人のローマからの解放をしてくれる王をメシアの到来を期待していました。しかし現実の王は力を持つとその力を自分中心に使うようになるのです。
列王記上 21章に記されているアハブ王と妻のアゼベルはその代表的な例です。このように神から与えられた王としての力を、神の御旨から離れて、自分勝手に使うのが神からのメシアであるはずがありません。
メシアがダビデの子として誕生するということはどんな意味なのでしょう。イエスはその説明をするように、「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている『主は我が主にお告げになった。私の右の座に着きなさい』と」と言っています。これは詩編110編の言葉ですが、後の教会が、主イエスが十字架と復活の後で神の右に昇られたことから、イエスご自身がご自分をどんなメシアか教えた、と加筆したのです。「神の右の座に着く」ということは、天にあって、私たちがどこにいても、どんな時にも、神のみ旨を持って私たちと共にいてくださり、私たちの救い主になってくださるメシアだ、ということです。
メシアがダビデの子といわれている通りにイエスはダビデの家系に生まれました。それだけでなく十字架と復活昇天によって、眞の王、祭司、預言者となったのです。群集はイエスの教えを聞いて、真のメシア、救い主がここに来たと喜んだのです。
次に、律法学者に気をつけなさい、と教えました。神の言葉を持っている律法学者が、神の言葉を正しく理解していないことがある、また律法学者であることを誇り、自分の益を求めるような誤った振る舞いをすることがある、だから気をつけなさい。と言っているのです。この警告は教会に対して、神の言葉を与えられた時にこのような誤った振る舞いをしないように、という警告でもあったのです。
41以下には貧しいやもめの献金を通して教えています。この貧しいやもめは、神の御支配と愛と恵みを信じて生きているのです。自分の全てを神に委ねて、持てる全てを、自分の命を神に捧げたのです。イエスは、弟子たちを特に呼び寄せ、他の人とこの貧しいやもめの生き方と神への捧げ方の違いを説明しました。イエスは、他の人を非難していません、また弟子たちにこのやもめのようにしなさいとも言っていません。ここで主イエスは、ご自分が今このやもめのように生きている、そして十字架に自分の命を捧げる、と教えているのです。
主イエスはここに語られたように生き、メシアとなられたのです。このメシアは今天にあって、罪人とも、貧しい人とも、どこにいても、いつも共にいてくださるのです。
2010年8月29日
説教題:神の愛に応えよう
聖書:ホセア書 11章1-9節 マルコによる福音書 12章28-34節
【説教】
ホセア書には、イスラエルに対する神の愛がどのように深い愛かを記されています。親の愛の手をも退けるわが子を、厳しく罰して捨てるのではなく、信頼し忍耐して、自分の許に立ち帰るのを待っている。人間なら義と赦しで自己分裂してしまう。「私は神であり、人間ではない」と神は、神の愛の力で、人間には不可能な、罪の子を赦し生かしているのです。
神の愛は浅く軽いものではありません。神は御子を十字架につけて私たちの罪を赦し生かして下さっているのです。この神の愛にどう応えるかが私たちに問われています。
今日のマルコで、律法学者がイエスに尋ねました「あらゆる掟の内で、どれが第一でしょうか」。当時律法学者は600以上の掟を決めていたのです。この質問にイエスは「第一の掟はこれである『イスラエルよ聞け。私たちの神である主は唯一である。心を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二は『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさる掟はほかにない」、と答えました。主イエスは、二つの掟があると言っているのではなく、第一の掟としてこの二つの掟が一つになっている、と言っているのです。
初めに言った掟は申命記6:4-5にあります。イスラエルの民は、歴史や生活環境の背景の中で、私たちの神は、天地自然と人間の造り主である唯一の神で主である、と告白し、子どもたちにも教えて来たのです。第二に言われた掟はレビ記19:18にあるのですが、この掟は、イスラエルの民が聖なる神の民として守られ生かされてきた、取るに足りない民なのに神に愛され守られてきた、だから一緒に生きている人々を愛しなさい、と命じているのです。神の愛は神の民だけに注がれたのではない。神は造られたもの全てを愛し、意味ある者として生かし、栄光を現す存在とているのです。
神の愛によって赦され生かされている、その神の愛を知った民は、心から唯一の神、主を愛するのです。その愛は、神が造られ愛し大事にしているものをも、当然のこととして愛するのです。「隣人を自分のように愛しなさい」というのは、自分中心に生きている人に、自分を大事にしているように隣人を大事にしなさい、と言っているのではないのです。自分自身を愛することが出来ない、隣人に愛せないところがある、しかし、神がこの自分を愛し生かしてくださっている、隣人も神が愛し大事に生かしている。その神に愛されている自分を受け入れて愛するように、隣人を受け入れ愛しなさい、と命じているのです。
律法学者が「先生、仰るとおりです。(この二つの掟は)どんな焼き尽くす捧げ物や生けにえよりもすぐれています」と言うと、イエスは「あなたは神の国から遠くない」と言いました。当時人々は、神の国で神と交わるのには、掟を守り捧げ物をすることが必要、と考えていたのです。しかし聖書は、私たちが掟を行い捧げ物をして神との交わりを得るのではなく、神の愛によって神の民とされ神との交わりが与えられるのだ、と言っています。
私たちが神に愛されて、赦され生かされていることを真実に知って、感謝を持って神の愛にお応えして生きる、神はそのことを私たちに求めているのです。
2010年8月22日
説教題:悔い改めと正しい服従
聖書:イザヤ書 5章1-7節 マルコによる福音書 12章1-12節
【説教】
今日のマルコが書いていることは、実際にこんなことがあるだろうかと思われる、乱暴な行動をする農夫と慎重さを欠いて使者を派遣する主人のことです。
マルコ12:1はイザヤ5:1-7と似た内容です。共にぶどう園はイスラエルの民でぶどう園の主人は神、農夫は民の指導者です。マルコはぶどう園をよく管理しているので良い収穫がありました。そこで主人が収穫の取り分を得ようと使いを送りました。農夫たちはその使いを侮辱し、殺してしまうのです。主人の息子が来ると、ぶどう園を自分たちのものにしようと、その息子を殺してしまうのです。この話をイエスがしたのを聞いたイスラエルの指導者たちは、これは自分たちに当てつけに作った話だ、と受けとめました。この話で、主人から遣わされて殺された息子は十字架のイエスを意味している、と誰にも分ります。
しかしこの話と十字架のイエスとの間には大きな違いがあります。この話は、息子が殺された後主人はどうするだろうか、と問を投げかけて「戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人に与えるに違いない」と答えています。しかしイエスが十字架で殺された後、神はイエスを十字架につけた人を殺すことをしていません。他の人に代えてその座につけることもしていません。
10-11は主イエス御自身が語ったのではなく後の教会が加えたのだと思われます。これは詩編118:22-23の引用ですが、この詩編は「恵み深い主に感謝せよ」で始まり。13以下では主は私を助けてくださる、と言い、17,18では「死ぬことなく生き長らえて、主の御業を語り伝えよう。主は私を厳しく懲らしめられたが死に渡すことはされなかった」と言っています。それに続いている22,23をマルコは引用しているのです。この引用によって、マルコの教会は、神の恵みと教会のあり方を説明し、教えているのです。
ぶどう園の主人はどうするだろうか。現実に起こったことは、詩編118編に語られていること、神の言葉が実現したのです。神は正義によって農夫を殺してぶどう園を自分のものに取り戻すのではなく、恵みによって農夫を生かしたのです。そして神は、農夫を殺す代わりに息子を死に渡したのです。御子の死は、農夫の一方的な罪の責任ではない、殺されることが分っていながら、農夫の中に息子を送った神の意志による死でもあったのです。これは人間の目には全く理解できないことです。しかしこれが神の業なのです。主イエスが殺されたことによって、また死んでくださったことによって新しい農夫が誕生した。しかしその新しい農夫はそれまでの農夫と無関係ではないのです。新しい神の民である教会の中にも古い民の心と罪があることを知らなくてはいけなせん。神から貸与されているものを自分のものにしてしまう罪です。
しかし、神の子の十字架、捨てられた石によって民は新しく変えられました。新しく変えられて生かされているのです。私たちは捨てられた石によって真実に悔い改め、神のものを神にお返しして生きる生活をするのです。そのように神に生かされているのです。
2010年8月15日
説教題:神の憐れみ
聖書:マルコによる福音書 10章46-52節
【説教】
46-47に、バルテマイという盲人の物乞いが「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び続けた、と記されています。これは異常です。バルテマイがいつから盲人であったか分りませんが、長い間盲人で物乞いをしていたことは確かだと思われます。人間は自分の体や環境になれるものです。彼がそんなにも叫んでいたのはなぜか。現在の生活状態が耐えられないということではなかったでしょう。彼は何を悩み、どんな救いを求めていたのでしょうか。
「ダビデの子」はイスラエルでは救い主の意味で呼ばれていました。バルテマイは物乞いをしながら「ダビデの子」の名とイエスに関する情報を得ていたのでしょう。それで「私を憐れんでください」と叫んだのです。彼は神の前に虚しく歩んでいるように思い、神からの救いを求めていたのだと思われます。多くの人が黙らせようとしたのですが、「私には神の救いが必要だ」と彼は叫び続けました。イエスは立ち止まって「あの男を呼んで来い」と言われました。彼の叫びをイエスが聞いて、彼に心を向け、呼び寄せたのです。叫び声の力よりも、神の憐れみをご自分の身に負って十字架に向って歩んでいたイエスの心が、彼の声を聞いて呼び寄せたのです。
直ぐ前の10:45で「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と言われたイエスが、その言葉を盲人に具体的に示されたのです。人々は盲人に「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と言いました。盲人は上着を脱ぎ躍り上がってイエスの所に来ました。喜びの大きさが分ります。
イエスは「何をしてほしいのか」と尋ねました。盲人は「見えるようになりたいのです」と言いました。このイエスの質問に対する盲人の答えは、10:35-37にある二人の弟子の答えと全く違います。二人の弟子は自分中心で、憐れみを求めるよりも、自分たちの欲望を適えて欲しいと言っているのです。主イエスは、二人に「自分が何を願っているか、分かっていない」言いました。盲人に対しては「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。盲人は直ぐ見えるようになり、十字架に向うイエスに従いました。
これは、盲人が肉の目が見えるようになることを求めていて、その願いが適ったと言うのではありません。盲人は物乞いをしながら、人々は目が見えることによって互いに批判し合い、不満や呟きをもって闇の中を歩んでいる、と知っていたのです。彼が求めていたのは、お金でも、肉の目が見えることでもない、霊の目が見えるようになって自分が生かされている意味を知り、神にあって自分がどう生きるべきかを知ることだったのです。
ヨハネ9:39で主イエスは、肉の目が見えることを誇り神の前に謙遜にならないファリサイ派の人々に「見えると言っている。だからあなたたちに罪が残る」、と言っています。
神は憐れみをもって御子を地上に、罪人の中におくってくださり、私たちを神の道に生きるようにして下さったのです。その神の憐れみこそ私たちの救いで、生きる力なのです。
2010年8月8日
説教題:神の愛の中にいる民
聖書:マルコによる福音書 10章13-16節
【説教】
10:13に「イエスに触っていただくために人々は子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人たちを叱った」とあります。弟子たちは、自分たちはイエスの近くにいてイエスを知っているが、この親たちはイエスを知らない、唯我が子に益があるようにとイエスを利用しようとしている、そんな勝手なことからイエスを守らなければいけない、と思って叱ったのでしょう。その気持ちは私たちにも分ります。
ところが、主イエスは親に連れられてきた幼子を「私の所に来させ、妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と言われたのです。神の国に入るのには、学ぶことも、主に従って歩んで相応しい人になることも必要ではない、幼子でいいのだ、と言われたのです。ルカ18:15,16には「乳飲み子も含まれている」とあります。
弟子たちは神の国が分らなくなったのではないでしょうか。主イエスは続いて「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることは出来ない」と強く言われたのです。そして子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されたのです。このイエスの行為は、親たちもそこまで思っていなかった、と驚いたでしょう。これは弟子たちに対する教育的な行為と思われます。
主イエスは、親の思いであってもイエスの所に来た子、人見知りしないでイエスに抱かれた子、この子たちこそ神の国の民だ、と言っているのです。神の国に入るのは人間の力や行為によるのではないのです。神の一方的な愛によるのです。その神の愛を受け入れ、愛の御支配に身を委ねる者が神の民なのです。主イエスは弟子たちに、そのように神の愛の手を私心無く受け入れるような幼子になりなさい、と教えているのです。
この記事の後に富める青年が悲しみながらイエスの前から去って行った出来事が記されています。教会が二つの話を弟子たちに対する教育として一つに結び付けて伝えたのです。富める青年は「私は物心ついた時から、律法を知り、守っていた。あと何を行なえば永遠の命が得られますか」とイエスに教えを求めたのです。主イエスは、このことをして私に従いなさい、と教えました。その言葉を聞いて青年はイエスの前から去ったのです。イエスに抱かれた幼子とイエスから去って行った青年の違いは明確です。23で主イエスは弟子たちを見回して「財産のある者が神の国に入るのはなんと難しいことか」と言っています。主イエスは「難しい」で終るのではなく、弟子たちに、神の国に入るのは易しい、お前たちはすでに神の国に入っている、神の愛の中にいる民なのだ、と言っているのです。ところが、弟子たちにはその理解のないことが24節以下に示されています。
神の民は自分の力で神の国に入っている民ではないのです。神から遠く離れていた者を招く神の愛、その愛を受け入れ、信じて全てを神に委ねている、それが神の民なのです。私たちは神の愛によって神の民にされているのです。自分を誇ることを捨てて、神の愛によって神の民にされていることを、素直に受け入れ喜んで生きたいと思います。
2010年8月1日
説教題:神が求める平和
聖書:マルコによる福音書 9章42-50節
【説教】
今日は日本基督教団が平和聖日としている日です。現在でも世界の各地で争いがあり、日本国内でも悲惨な事件が起っています。現在が平和な時代、平和な世界とは言えません。
賛美歌21の561番に「平和を求めて、絶えることなく話し合いを続けましょう」とありますが、現実には話し合いが自己主張の対立であり、力による平和になるのです。神の前に謙遜になって真実の正しさを求める姿勢がなければ対話も虚しくなるのです。
マルコ9:42に「小さい者の一人を躓かせる者は」とありますが、この「小さい者」は、子どもではありません、未熟な者、一人前でない者、援助を必要としている者です。主イエスは、弟子たちも神の前では未熟な者、ペトロもサタンと言われる者、そのような小さい者を躓かないようにご自分の手の中に抱き入れているのです。
42節は、大人は子どもを躓かせないよう、倒れないよう、守りなさい、躓かせて倒れさせる人は厳しく裁かれることを知りなさい、と言っています。大人が子どもの面倒を見る、強い人が弱い人を援助する、のは当然のことです。43-45で「地獄に入るよりは命に与る方が良い」、47で「神の国に入るほうが良い」と言っています。平和を得る、ということが、命に与り、神の国に入ることになり、神の御支配の下に生きることになるのです。
ここで主イエスは、大人は神から自分に与えられている子どもに対する責任を自覚し、誠実にその責任を果たしなさい、と厳しく警告をもって言っています。そして、子どもが躓き倒れたことを自分の責任としてどれほど真剣に受けとめているか、と問い掛けているのです。「私に関係ない」「自己責任だ」の言葉を現在よく聞きますが、主イエスはあなたに関係がある、あなたに責任のあることだ、と言っているのです。
43-47には、自分の救いの邪魔になるものは、自分の体の一部でも切って捨てなさい、と言っています。手がやりたいことをする、子どもが手や足で他人に悪戯をする、そのために隣人の安全が破られ、秩序が守れない。自分の手と足なのです。自分の心と体を神の御支配の下に置けば自制できるはずです。自分を主張するための手や足なら切って捨てる。37で主イエスは「私の名のためにこのような子どもを受け入れる者は私を受け入れるのである」と言っています。自分の大きさを誇り、自己主張するのではなく、私のような小さい者を受け入れてくださった神の許で自分を見、小さい者である隣人を意識するのです。
50に「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」と言っています。ここでイエスは、塩である自分(イエス)を自分自身の中に持って、互いに平和に過ごすことを求めています。平和は一人では作れません。相手がいるのです。しかし、第一に大事なことは、キリスト者が心も体も主イエスにあって神のものになることです。
私たちは、自分自身がキリストの十字架によって神との間に平和を与えられ、神に受け入れられて、神の御支配の下にいるのです。神のものとされているのです。キリスト者がお互いにそのことを喜び、感謝して、生きるのです。そこに神が求める平和があるのです。
2010年7月25日
説教題:神の民の広がり
聖書:マルコによる福音書 9章33-41節
【説教】
人間の世界は、自分の考えや立場を明確にして自分を理解させようと自己主張をし合い、対立が生じ、争いになります。教会もこのような自己主張をし合い、対立して、争いが起こることがあるのを知ります。私たちは、自分を知ることなしに、他を批判できません。
今日の聖書の前9: 32に、弟子たちは怖くてイエスに尋ねられなかったとありますが、弟子たちはイエスの言葉の何が分らなくて、何が怖かったのでしょうか。
主イエスは、自分は災害や病気のような人間を越えた力によって死ぬのではない、人の手に渡され、人の手によって殺されるのだ、それが神の御心なのだ、と二回も話しているのです。弟子たちにはそれがどのようなことなのか、神の御心はどこにあるのか、分らなかったのだと思います。弟子たちがどれほどイエスの言葉が理解できないで自分中心の思いを持っていたかは、33-34に見ることが出来ます。
主イエスは35-37で、子どもは未熟で役に立たない、人に迷惑をかけ重荷になる、がその幼な子を弟子たちの中心において、自分はこのように弟子たちを受け入れている、と弟子たちに行為をもって教えているのです。そして、主が主の代りに派遣している者として、主の名によって子どもを受け入れる者は、神を受け入れることになると、言っています。
ところが38に「ヨハネがイエスに言った『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないのでやめさせました』」とあります。当時、イエスの弟子ではないのにイエスの名によって悪霊を追い出す人がいたようです。9:14以下にイエスの弟子も悪霊を追い出せなかった、と記されています。イエスの弟子だから、イエスの弟子でないから、と画一的に悪霊を追い出せる、追い出せないということではなかったのです。イエスの名を使うことで、イエスの力が働いて悪霊を追い出す人がいたのです。
その人を見てヨハネは自分に従うように言いました。しかしその人はヨハネに従いませんでした。それでヨハネは、イエスの名によって悪霊を追い出すのを止めさせよう、としたのです。イエスの名を使う者は自分たちの仲間だ、自分の下に居るべきだ、ヨハネはそのように思ったのです。ところが主イエスは「やめさせてはならない。私たちに逆らわない者は、私たちの味方なのである」と言ったのです。マタイ7:22-23には、自分はイエスの名によって語り、悪霊を追い出し、奇跡を行なっている、と言っている人に対して、天国に入る決定的な時にイエスが「あなたたちのことは全然知らない」と言う、と記されています。マタイ13:24-30の毒麦の場合もそうですが、イエスは弟子たちに、最後の裁きは神に委ねて、地上にいる時には、自分を中心に裁き排除するのではなく、主の名によって受け入れなさい、と言っているのです。ヨハネは「私たちに従わないので」と自分を中心にやめさせ、排除しようとしているのです。ここに人間の世界、教会の姿があります。
神は、私たちのようなとるに足らぬ者を、主イエスによってご自分の弟子とし、神の民として下っているのです。
2010年7月18日
説教題:祈りの力
聖書:マルコによる福音書 9章14-29節
【説教】
聖書は神に背く霊を悪霊とか、汚れた霊と言っています。この霊によって人間は病気になり、狂った言動をするのです。神の言葉を聞かないと、別のものの声を聞く、自分の肉にある動物的な声、欲望の声に聞くようになるのです。そして正常で健全な人間性を失ってしまう、それが聖書の語っていることです。
現代は医学が進んでいるので人間の身体的な問題を医学的に説明し、医学的に解決することが多くなっています。しかし、人間の問題、世界と歴史の問題は神と人間の関係を抜きにしては、本当に解決することは出来ないのです。ということは、神と人間の関係が正しければそれらの問題は解決するのです。
主イエスに、群集の一人が「息子を連れてきました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。この霊を追い出してくれるようにお弟子たちに申しましたが出来ませんでした」と言いました。それに対してイエスは「なんと信仰のない時代なのか。いつまで私はあなたがたと共にいられようか。」と言いました。この子の問題は、信仰の無い時代が起こしている問題だ、と言っているのです。社会全体が神の言葉を聞かない、人の話を聞かない、対話が無い、神の御支配の下に健全に生きる社会でなくなっている。神以外の声に振り回され、疲れ、嫌気を覚え、孤独になり、我を忘れたような行動をしたくなる。このような力は私たちの中にも宿っているのではないでしょうか。主イエスは弟子たちも含めて、今は不信仰の時代だと言っているのです。
しかし主イエスは「信仰の無い時代だから、汚れた霊を追い出せないのは仕方が無い」とは言っていません。「その子を私のところに連れてきなさい」と言われました。この問題はイエスを知り、イエスの所に来て、身を委ねることによってだけ解決できるのです。
父親はイエスに「おできになるなら、私どもを憐れんでください」と言いました。イエスは「出来ればというのか。信じる者には何でも出来る」と言いました。父親は直ぐに「信じます。信仰の無い私をお助けください」と言いました。
イエスが汚れた霊を追い出した後で、弟子たちはイエスに「なぜ、私たちはあの霊を追い出せなかったのか」と尋ねました。イエスは「この種のものは祈りによってでなければ追い出すことは出来ない」と言われました。
弟子たちは祈りをし、祈りの生活をしていたでしょう。この汚れた霊を追い出すためにも祈ったでしょう。父親もこの子が幼い時から熱心に祈っていたと思います。しかし、祈りは信仰を持ってでなければ力が無いのです。不信仰の中での祈りには力がないのです。祈りの力は、神を絶対的に信頼し、信じて決断し、行為することによって神が働く力です。
人間の思いや努力が祈りの力になるのではなく、神の力、神の御心が祈りの力となって現れるのです。ですから祈りには信仰が必要なのです。信仰をもって、神を信じきって、神に身を委ねて祈る時、神は御心によって御力を現してくださるのです。
2010年7月11日
説教題:福音の真理に生きる
聖書:列王記上 10章1-9節 テモテ一 3章14-16節
【説教】
今参議員選挙の運動が行なわれていますが、この選挙の目的は、私たちがどのような国家共同体を作って生活していくか、を決めることです。一人一人の生き方や思っていることは違いますが、共同体の一員として生きる領域があるのです。しかし、政権や生活の場が変っても一人の人間として変わらない自分の生き方を持っていることも大切なことです。
今日の聖書でソロモン王を訪ねたシェバの女王が「あなたの臣民はなんと幸せなことでしょう」と言っているのは、ソロモン王が自分を王位につけた神の御旨に添う王であることを見て知ったからです。ソロモンの冨はすばらしかったのですが、ソロモンが外国の女たちを妻とし、その妻たちが外国の神々を拝んで神に背くようになり、ソロモン王に敵対する人が出てきたのです。そして国が分裂したのです。神を無視して、人間の声に従うと対立や争いが起こるのです。対立や争いは、他者との間だけでなく、自分自身の中でも起こります。神にあって生かされていることをしっかり持っていることが大事なことです。
パウロはテモテ宛に、「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたい」ので、手紙を書く、といっています。神の家は、真理の柱と土台があるのです。また生ける神の教会です。「真理」は「神の深い御心」ということです。その家の生活は神の真理によって意味あるものとなっているのです。ソロモンでさえも罪人になった、神はそのような罪人の人間をキリストによって義とし、神との交わりと御計画の中に生きるようにしてくださったのです。だから、神の救いの御心がここにあると柱に高く掲げて生きなさい、移り変わりの激しいこの世でこの土台に建って揺るぎない生活をしていることを示しなさい、と言っているのです。これがキリスト者の生き方だ、生ける神の教会の生活だ、と示して生きるように指導しなさい、とパウロはテモテに言っているのです。
土台や基礎は人々の目には見えません。人々は建物の外観に注目します。しかし、外観が立派でも、時と共に朽ちます、風雨や地震などによって傷み崩壊します。神の真理の土台に建っている教会は、人々の目に見える部分は変化しても、基本的なところは時代や人々が移り変わっても変ることなく、歴史の中にその存在を示し続けて行くのです。
マタイ7:24-27に、建物を建てるのに土台が大切だと書いてあります。古い日本の家は土台石の上に柱を立てています。そのため洪水の時には家が浮いて川の水に流されることがあります。土台と柱、家全体がしっかり一つに結びついていることが必要なことです。
私たちの生き方と生活は、神の御心と御計画に堅く結びついていること、福音の真理を土台とすると共にその真理を高々と掲げて生きることが大事なことです。生ける神の教会は、破壊し変質させようとする人間や時代の力に対して、それらの力が無力であることを示し、神の真理の力によって生きるのです。
この福音の真理に生きる教会こそこの世を救うのです。私たち一人一人がしっかり持っているべき生き方です。
2010年7月4日
説教題:神の豊かな恵み
聖書:マルコによる福音書 8章14-21節
【説教】
この世の人間や政治の考えや行動の中に、悪魔性や神の真実や愛を見ることがあります。自分中心に凶暴を行なう人や国があり、建設的で愛と慈善を行なう人や国があります。
マルコ8:11に、ファリサイ派の人々がイエスに議論をしかけた、とあります。この人たちは、神の御支配はこのように現れる、と自分たちの思いを持っているのです。それでイエスに、あなたがメシアならそのしるしを見せて欲しい、と迫ったのです。それに対してイエスは「今の時代の者たちには決してしるしは与えられない」と答えました。
「今の時代」は「人間中心の時代」を意味しています。地上の人間が自分たちの満足するものを求めている時代です。それでイエスは、神の御支配はこの時代の人間が満足するものではない、この時代の人々が求めているしるしは与えられない、と言っているのです。
8:15で主イエスは弟子たちに「ファリサイ派の人たちのパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められました。それを聞いた弟子たちは、パン一つしか持っていないことを指摘されたのだ、これは誰の責任だと言うことを論じ合ったのでしょう。弟子たちには、自分たちの手元にパンが幾つあるかが大問題なのです。イエスは、「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ分らないのか。悟らないのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」、と信仰のない人にいう言葉を弟子たちに対して使っています。19-20の質問と答えがあって、21で又「まだ悟らないのか」と言われています。何を悟れ、と言っているのでしょうか。
パン種は、パンを膨らましておいしくする素で、腐敗させる酵母です。沢山の粉の中に僅かなパン種が入ることによって、その粉全体に広がり、この世の人が喜ぶパンになるのです。ファリサイ派のパン種は、自分の力で神の国に入れる正しい人になり正しいことを行なう人になれる、という考えであり生き方です。ヘロデのパン種は、人間とこの世の知恵と力こそ真実な力だ、権力と冨こそ生きる力だ、という考えであり生き方です。このような考えや生き方はこの世の人に受け入れられ、神の前に謙遜になって、正しく神の言葉を聞いて受け入れるのを妨げるのです。イエスの弟子たちにもその恐れがある、神の民の性質も変えてしまう、それでイエスは気をつけろと戒められたのです。それなのに、8:33でペトロはイエスから「サタン」と呼ばれているのです。
イエスは19-20で、弟子たちに、人々にパンを分け与えた時にパンの屑は幾籠あったか、と尋ねて「まだ悟らないのか」と言っています。17-18でパンの奇跡を想い出させて念を押して強調しているのは、神の恵みはそこに居る人々を満腹にしているだけではない、余ったパン屑がどんなに沢山であったか、そこに神の豊かな恵みを見なさい、ということです。
「悟る」というのは「まとめて総合的に理解する。把握する。洞察する」ということです。目の前の人が満腹した、今満たされた、というだけでなく、パン屑がこのように集められている、そこに神の豊かな恵み、神の御支配の確かさを見よ、と言っているのです。
2010年6月27日
説教題:神の歴史と人間の歴史
聖書:エステル記 7章1-10 マルコによる福音書 6章14-29節
【説教】
参議院選挙の公示がされました。選挙によって国も生活も歴史も変ります。しかし、人間の数も力も絶対的ではないのです。人間を越えた絶対的な力があるのです。
エステル記を初めから読んで来ると、人間が自分の国と歴史を作っているのではない、自分自身の歴史さえも自分が作っているのではない、もっと大きな力が全てを包んでいる、ということが分ります。
今日の聖書にヘロデ王とバプテスマのヨハネの死が記されています。イエスと十二人の宣教が成果を上げ、イエスの名がヘロデの耳に入ったのです。イエスがなさったことだけでなく、イエスがどんな人か、何者かとの噂も聞こえたのです。するとヘロデは「イエスは私が首をはねたヨハネが生き返ったのだ」と強く思ったのです。というのは、ヘロデはヨハネの首をはねたのですが「私はこれで立派な歴史をつくれる」という確信がなかったのです。私は間違えたのではないか、歴史を汚したのではないか、それで神はイエスを遣わし、私を責めると同時にイエスが歴史を清くする、と思ったのではないでしょうか。
私たちは、自分中心になって行なってきたことをそれでいいのだ、と自己満足し、自分を説得します。しかしある時から、自分中心にしていたが別に中心があるではないか、との思いが起るのです。権力者たちも歴史の中でこのような経験をし、回顧して記しています。
ヘロデ王は、ヨハネがヘロデ王の結婚は罪だと言っているのを聞いて、ヨハネを捕らえ獄に入れました。人は、自分が良くないことをしていると知らされ、それが悪いことと認めても、素直に悔い改めないのです。自分の力で自己正当化をするのです。ヘロデは、ヨハネを神の人と知って、獄のヨハネに好意を持ち、ヨハネの教えを聞いて自分はどうしたらいいのだろうかと当惑しながらも喜んで耳を傾けていたのです。人間は神にあって正しく強く生きたいのです。真理の道を知り、真理の道を歩むことは喜びです。しかしヘロデ王は目に見える一時的な人間の世界に現実の自分の身を置きました。それで自分の誕生日祝いの時、多くの客の前でヘロディアの娘が踊りを踊った褒美に「欲しいものはなんでもあげる」といいました。そして娘は「ヨハネの首を」と言ったのです。ヘロデ王はヨハネを殺したくなかったので、非常に心を痛めたのですが、ヨハネの首をはねました。
人間の歴史は権力者によって作られているように見えますが、ヘロデ王に見られるように、権力を持ち行使できる状態でも、自分の思うことが行なえないのです。外的、内的な力が自由に行動することを妨げるのです。そして人間の思いと業は一時的で滅びるのです。
しかし、神の御心に添った思いは生き、その言動は実を結ぶのです。ヨハネは獄に入れられましたが、神の言葉は縛られてはないでヘロデに真理の道を語り続けたのです。ヨハネは死にましたが、その言葉は生きていてヘロデに迫りイエスを知らせたのです。イエスは十字架に死にましたが、救いの業と言葉は、今も生き続けていて私たちに強く迫っています。人間の歩みは、人間が中心の歴史ではなく、神の御心がなる歴史の中での歩みなのです。
2010年6月20日
説教題:宣教への派遣
聖書:マルコによる福音書 6章7-13節
【説教】
今日本では派遣社員制度が問題になっています。派遣会社が名簿を持っていて名簿の社員を派遣するけれど、無責任だという問題です。派遣は、遣わす者が、為すべき使命を明確にして、その働きや身分、待遇などについて責任を負って、遣わさすのです。
聖書に「十二人を派遣する」と小見出しがあります。主イエスは十二人の弟子を責任を持って宣教に遣わしたのです。主イエスはこの世がどんな所か身を持って知っていました。6:1-6に、自分を人間として良く知っている故郷では宣教者としては受け入れられなかった、とあります。人間の知識や情で宣教することは出来ないのです。その後、主イエスは弟子たちと一緒に付近を宣教しました。この宣教の反応や結果について何も記されていません。見るべき成果はなかったのでしょう。
主イエスに呼び寄せられた十二人は、3:13-14に御心に適う者として集められ、ご自分のそばにおいて教育され、宣教と悪霊を追い出す権威を持たせて派遣させる者とするために、任命されていたとあります。主イエスはこのように準備していたのです。十二人が各自自分の思いと力で出て行って宣教する、というのではありません。十二人は、主イエスの下で育てられ、一つ心になって、主イエスから与えられた同じ、悔い改めて福音を信じることを語るのです。そして、二人ずつ一組になって派遣され、宣教するのです。単独での派遣ではありません。仲間がいるのです。語り合い、協力し合って自分たちの使命と働きを確認し合って宣教するのです。
イエスは派遣する者に「汚れた霊に対する権威」を授けました。神に背くこの世の霊に勝利する霊を与えたのです。宣教はこの勝利の前進です。「杖一本のほか何も持って行くな」と命じました。昔の旅です。何も持たない旅は神と主イエスだけを頼りにする旅です。どこにあっても神が旅の全てをご支配していることを信じ、示すのです。そして「どこでもある家に入ったら、その土地から旅立つまで、その家にとどまりなさい」と言いました。宣教の旅で家の中に迎え入れてくれる家があったら、その家でしっかり親しい交わりをし、その家で宣教を続けなさい、というのでしょう。あちらの人、こちらの人と数多くの人に宣教する方法もありますが、家に留まり続けるのも宣教が前進する一つの道です。
「しかし、あなたがたを迎え入れず、耳を傾けようとしない所があったら、そこから出て行き、彼らへの証として足の裏の塵を払い落としなさい」。宣教を受け入れない所で、忍耐し、努力して耳を傾けさせなさい、とは言っていません。塵を払って出て行くのは、宣教のために来たので、宣教できなければ完全に身を引くという意思表示でしょう。
神は派遣会社のように無責任ではありません。神は、主イエス御自身が始め、弟子たちを派遣して進められた宣教の働きに、今私たちを派遣してくださっているのです。私たちは自分の知恵や力不足に悩むことなく、主にあって宣教の歩みに励みたいたいと思います。
宣教は、主が責任を持って遣わし、最終的な責任も負ってくださるのです。
2010年6月13日
説教題:悪霊からの解放
聖書:サムエル記上 16章14-23節 マルコによる福音書 5章1-20節
【説教】
私たちは「悪霊に取りつかれている」という言い方を普通はしていません。しかし聖書は、私たちの世界、人生の出来事を神との関係で見、記しています。その時、神以外のものによって支配されていることを、悪霊に取りつかれていると言っているのです。
旧約のサウル王は、王の地位と力を持つと、謙遜に神に聞き従う者ではなくなり、自分の思いを神の思いとするようになったのです。15:20-24で、神に背いて神への供え物にしようと滅ぼすべき物のうちから最上の物を取り分けたのに、それは兵士の声に従ったので自分は神に背く気はなかった、と自分の正当性を主張しながら、神の前に罪を犯したと告白しています。このような自己正当の主張と罪の自覚という動揺は私たちにもあるのではないでしょうか。神に背いて罪を犯しながら自己主張するサウロを神は捨てられました。神の霊がサウロから離れ、悪霊が支配するようになったのです。サウロは悩まされ苦しみ正常心を失ったのです。16:22-23にあるように、サウロは神から遣わされた者によって神の霊を与えられた時悪霊から解放されて、心安らかになりました。
悪霊に支配されて悩み苦しむのは、神の霊との戦いがあるからです。マルコ5:1-5の悪霊に取りつかれている人は、神を知らない異邦人の世界で墓を住まいとしています。この人は人間共同体の外にいて死が支配している所で生活をしているのです。そして誰もこの人を落ち着かせることが出来ず、この人は凶暴で自分勝手な行動をし昼も夜も騒いでいるのです。「好きなことを自由にしたい」お酒や薬で自分を忘れたい、という人がいます。悪霊に取りつかれている人をそこに見ることが出来ます。
この人にイエスが出会うと、この人はイエスに「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから苦しめないで欲しい」と大声で叫びました。ここにこの人と悪霊の分裂が起こってことを見ることが出来ます。悪霊はイエスを見て神の子と知ったのです。神は人を正しく生かす方なのです。悪霊は、自分が追放されることになる、追い出されたくない、と戦うのです。サウロ王と同じ悩み苦しみを味わい、「私にかまわないでくれ」とこの人と悪霊が叫んだのです。
神の子を知り認めたからと直ぐに悪霊が出て行くとならないのです。悪霊は頑固です。悪霊が残っている間その人は今までの自己の生活に固執し、悪霊は自己防御するのです。汚れた霊はイエスに「豚の中に移らせてくれ」と願いました。そこで汚れた霊は豚の中に移って、死と破壊の凶暴な行動をして湖に入って死にました。
豚を飼っていた人たちが町や村にこの出来事を知らせました。人々は、悪霊に取りつかれて凶暴な行動をしていた人が、服を着て正気になってイエスの前に座り仕えているのを見ました。人はイエスによって変るのです。その人を支配している霊によって変るのです。
イエスに出会い、悪霊から解放された者は、神の子イエスを主と信じ、正気になって主に仕え、与えられた地で救われた恵みを喜んで力強く語って歩む者になったのです。
2010年6月6日
説教題:宣教者イエス
聖書:マルコによる福音書 1章29-39節
【説教】
主イエスは、安息日の礼拝を終って、シモンとアンデレの家に行きました。その家ではシモンの姑が熱を出して寝ていました。シモンはイエスにそのことを話しました。
漁師の家です。病人が寝ていることは直ぐ分ることです。病人がいることは、当人だけでなく、家の者、周りの者全てに、無視できないことです。イエスは、病人の傍に行き、手を取って起こされました。すると熱が去ったのです。熱がなくなって健康を回復したのです。そして、姑は一同をもてなしました。
その後、日が沈むと、イスラエルでは日没から一日が終わり始まるので、安息日が終るのを待っていたように、人々は病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのところに連れてきました。イエスは、病人を癒し悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しになりませんでした。ここではイエスは信仰のあるなしを問題にしていません。まだ信仰のない人、イエスを知らない人に癒しと悪霊の追放を行なっているのです。そして、イエスに癒されたシモンの姑は、神を賛美し、一同をもてなしたのです。このイエスの行動は病人を癒すことだけを目的としていないことは明らかです。
35-39を読むと、主イエスは一人で祈っています。神との交わりに集中しています。イエスが祈っていると、シモンと仲間の者が来て、「皆が捜しています」とイエスに言いました。「皆が捜している」というのは、前夜の病人や悪霊に取りつかれた者たちと同類の者たちがイエスから同様に癒してもらいたいとの目的で捜している、ということです。弟子たちは、病人を癒すことは良いことだ、一人でも多くの人が癒されるように、とイエスを呼びに来たのです。私たちもこの弟子たちと同じ思いを持つのではないでしょうか。
ところが主イエスは「ここでの働きはもういい。他の町や村に行こう。そこでも宣教するために私は出て来たのだ」といわれたのです。「宣教」は神の救いが来たことを知らない人たちに広くはっきりと権威を持って伝えることです。イエスはそのために神の許から地上の私たちの所に、歴史の中に来られたのです。信仰はイエス・キリストを正しく知ることです。病人の癒しや悪霊の追放が救いとなるのには、そこに働く神の力を見る目が必要です。神の恵みの力を見る目がなければ、どんなに大きな出来事が起こっても救いにならないのです。神の愛と恵みを知るとき、信仰が与えられ神を喜び感謝して与えられている重荷をしっかり担って歩む者となるのです。
30-31で、イエスによって高熱の支配から解放されたシモンの姑は「一同をもてなした」のですが、一同の中心には御子イエスがいます。「もてなす」は「仕える」とも訳されていますが、姑は感謝と喜びで、まだふらつく体であったでしょうが、イエスを中心にした一同の食事のもてなしをしたのです。宣教はこのような実を結ぶのです。
私たちもイエスの宣教による実です。ですから私たちも教会も、心から喜んで神に仕え、与えられている重荷を負って歩み、イエスの宣教に続いて福音を語っているのです。
2010年5月30日
説教題:私たちは何者か
聖書:ローマの信徒への手紙 8章12-17節
【説教】
今、鳩山内閣は沖縄にある米軍基地の問題で大変な状態です。政治に限らず、地上の命や生活は人間の相対的な数や力によって動かされています。その場、その時、又相手によって言うこと、行なうことが決まり、変ります。絶対的な永遠の世界ではないので、一時の責任を負えるだけです。命も義も力も相対的な世界では限りがあり、死で終るのです。
私たちは、相対的な世界ではなく、神が支配している絶対的な世界にあって本当に生きることができるのです。神はこの人間の世界に御子を遣わして、肉の人間を支配している罪と死を滅ぼし、神による新しい命を信じる者に与えてくださったのです。キリスト者は、肉の体で地上の世界を歩んでいますが、神の霊によって生きる人間とされているのです。
8:9「神の霊があなた方の内に宿っている限り、あなたがたは肉ではなく、霊の支配下にいます」「霊の支配下にいる」とはいうのは、神の命によって生きている、ということです。この自覚が大切です。8:12「それで兄弟、私たちは一つの義務があります」と言い、続いて「肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」、と結論のように語っています。キリスト者は神の子とする霊を受けて、神の養子に、神の子にされているのです。
キリストの霊が、私たちを神の養子にする手続きを完全にしてくださって、神の子にしてくださっているのです。そこで必要なことは、養子にされている私たちが、私は神の子なのだ、という自覚を持ち、誇りと喜びを持つことです。父なる神を「お父ちゃん」と心から喜びと信頼をもって呼べるようになることです。
今日の説教題を「私たちは何者か」としましたが、これは私たちが「私たちは何者か。私たちはキリスト者だ。神の子だ」と喜びと誇りを持って答えることを想定しての説教題です。「神の子」は、「肉の子」「この世の子」「自然の子」と違うのです。その誕生が違い、育ちも生き方も違うのです。肉の子、自然の子は、「この子は教えていないのにこんなことをしている」というように、肉の思いや本能で行動し生きます。この世の子は、言葉を覚えるように、この世の人に倣い、真似、競い合って行動し生きていきます。しかし神の子としての行動や生き方は、神から教えられなくては分らないし、身につかないのです。
神の民は、神だけに聞き、倣って歩むのです。神の子は、父なる神に対して責任を持っている者として生きるのです。私たちは生きる命と力を「私は神の子だ」という信仰の確信に持っているのです。それによって、肉の人間である私たちの存在と働きが一時で消え去ってしまうものではなく、永遠の神の命を与えられ、神の御計画と御国に結びついた、意味ある、価値ある者となるのです。私たちも教会も大事で貴い存在なのです。
「私は何者か」「私は神の子だ」と自問自答し、この自覚を持って目覚めて歩む時、私たちは肉やこの世に引きずられることなく、霊に導かれて歩むことができるのです。
2010年5月23日
説教題:天と地をつなぐ聖霊
聖書:ヨシュア記 1章1-9節 使徒言行録 2章1-11節
【説教】
五旬祭の日(ペンテコステ)に起こったことが使徒言行録2章に記されています。
この日に起こったことは、神の深いご計画の現れで、主イエスを信じている者に、天に昇られ神の右にいます主イエスから聖霊が与えられたのです。天と地の人間を結びつけるのが聖霊です。神の御心がここに実を結んだのです。この聖霊を与えられて誕生したのが教会です。天と地をつなぐもの、地に神の御心を示し実現するものとして地上の歴史の中に誕生したのが教会です。教会は神によって建てられ、歩んでいるのです。
教会は新しい神の民と呼ばれています。初めの神の民イスラエルは、奴隷となっていた民を神が唯愛によって御自分の民に選ばれた者たちでした。神はモーセを導き手としてイスラエルをエジプトの地から導き出されましたが、旅の途中でモーセが死にました。民は強力な指導者を失って、不安の中におかれました。その時、神は新しい指導者ヨシュアに「私はモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもしない。強く雄々しくあれ。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神主は共にいる」と言っています。民の心と置かれている情況がどのようであったかを想像させます。私たち地上を歩んでいる者の心と生活の情況はいつも、どこでもこの言葉に似たものではないでしょうか。
神はヨシュアに「あなたは知恵と力があるから大丈夫だ。頑張れ」とは言っていません。「私が共にいる」と言っているのです。神の民は、神が共にいるので、神の道を歩めるのです。神はその民を用いて御心を地上の歴史の中に示しているのです。地上の人間の歩みはその日暮しではありません。神の創造から完成までの全体に連なっている歩みなのです。
神の民をはじめ人間が神に背を向け自分の道を歩むようになってしまったので、神は御子イエスの十字架によって人間の罪を贖われ、復活させて天に神の右に上げられたのです。十字架と復活の出来事も、聖霊降臨も神のご計画の中で起こっているのです。
「突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っている家中に響いた」、人間には突然の思いがけない地震も、学者は数百年の歪が限界に来て起こったのだ、と解説しています。神の見えない御心がキリストと聖霊降臨によって示されているのです。聖霊降臨の出来事一つひとつが神の御心を現しているのです。そして、聖霊降臨はこのペンテコステの日だけに起こったのではなく教会の歩みの中に常に起こっているのです。
教会は、聖霊をいただき宿して、この地上の歴史の中を歩んでいるのです。キリストと聖霊によって天の神と地の人間をつないでいるのです。地上で神の国の言葉を語り、神が愛し御支配していることを知らせ、神にある希望と喜びに生きる歩みをしているのです。
私たちは聖霊を与えられるように心から祈りたいと思います。聖霊を与えられることによって、私たちは日々を意味ある者とされて歩むことができるのです、そしてその存在と歩みを通して神の御心をこの歴史の中に示すのです。
2010年5月16日
説教題:聖霊をいただく恵み
聖書:イザヤ書 45章1-7節 エフェソの信徒への手紙 1章15-23節
【説教】
復活したイエス・キリストは天に昇られました。この昇天は、復活と同じように、大きな救いの業です。復活が死に勝利した眞の命に生きる救いというなら、昇天は、世界と歴史全体を御支配される神にあって、自分が今ここに生かされている恵みと意味と貴さを知らされる救いである、と言えます。
復活して新しい命を与えられても、虚しく意味なく生きているのでは、救いになりません。「時間を持て余す」「なすべきことがない」「虚しく気晴らしで過ごしている」、という日々の命は本当の救いではありません。
先週「親と子が心で結ばれている」と子どもが言いましたが、「親の心、子知らず」という言葉があるように、親と子は思っている心が違います。親は、子供一人のことだけを思うのではなく、周囲の状況、子どもの成長や将来のことなども思うでしょう。駄々をこねている子どもは、大人にならなくては親の心は分りません。話せば分るのではなく、成長して大人になったら分るのです。
神が、御子を十字架につけて罪を贖い、復活して死に勝利し、天にあげられ、そこから聖霊が与えられる、これらは全てが一つに結びついて救いになっているのです。
天に上げられて神の右に主イエスがいますことは、私たちが主にあって、神の御計画と創造の御業の中で、今ここに生かされている、ということを示しています。天の主イエスと私たちを結びつけるのは聖霊です。聖霊を与えられることによって、神の救い、神の御計画と御業が私に結びつき、私の存在と歩みが意味あるものになるのです。
今日の聖書でパウロは、聖霊が与えられることを第一に祈っています。自分ひとりではなく、エフェソの教会の人々が、神を知り、神の知恵と啓示を聖霊によって深く知るように、心の目が開かれるように、と祈っています。私たち人間の知恵や力では神を知ることも神の心を知ることも出来ないのです。天から聖霊が与えられて初めて神の知恵も心も知ることができるのです。そのとき私たちは、今生かされ歩んでいる意味と貴さを知ることができるのです。
今日のイザヤ書45章は、イスラエルの民がバビロンに捕囚されて虚しさの中にいる時、預言者に神の霊が与えられて語った言葉です。ここで神は、今ペルシャのキュロス王を神からの救い主として用い、イスラエルの民をバビロンの支配から解放し、エルサレムを再建させる、と語っています。異邦人ペルシャ王を神の御業に用いることは、神の民には考えられないことです。また当時の歴史的な経験からは、支配者が手に入れた捕囚民を解放して帰国させ、その国の再建を助けることは考えられないことでした。しかし神は「私が主、私がこれらのことをする」と言っています。預言者はその神の言葉を聞いたのです。
イザヤの言葉とパウロの祈りは一つです。私たちも、聖霊を与えられて、歴史と世界の主である神の言葉を聞き、神の知恵と御業を知って生きる者でありたいと思います。
2010年5月9日
説教題:イエスさまは天に昇られた
聖書:マルコによる福音書 16章19-20節
【説教】
みんなイエスさま見たことあるかな。イエスさまに会ったことある。イエスさまは今どこにいるのかな。「教会にいる」「天にいる」。そう、イエスさまは今天にいる。
イエスは十字架で死んで、復活して40日の間地上を弟子たちと一緒に歩まれて、天に昇られたのです。天に昇られたのは、弟子たちにもうあなたたちと一緒じゃないよ、と「さよなら」したのかな。
○○ちゃんのように小さい子は、お母さんが見えなくなると「お母ちゃん」と泣いてどこにいるか捜すね。手をつないでいないと「手をつないで」とか「抱っこ」と言う。そうしないとお母さんが一緒だと思えない。安心できない。幼稚園や小学校に行っている子たち、あなたたちは母さんが見えなかったら「お母さんが一緒じゃない」と泣くかな。泣かない。自分は幼稚園や学校にいるけれど、お母さんはお家にいて、離れているけれど一緒だ、と知っている。離れているのにどうして一緒だと言えるの。「お臍でつながっているから」。それは生まれる前のことだよ。「心がつながっているから」「愛があるから」。そう、目で見えるイエスは、決まった所で、決まった時に、限られた人に会って一緒にいた。だけど、天に昇られたイエスさまは、私たちがどこにいても、いつも、誰とでも一緒にいてくださるようになったのです。
目には見えないけれどイエスさまは、今天の神さまの右にいて、世界のすべてのものを支配し、治めているのです。この世界と歴史が神さまの御心によって完成するように、愛を持って天で働いているのです。
私たちはお母さんやお父さんが見えなくても、一人ぼっちとは思わないでしょう。お母さんもお父さんも、別の所にいるけれど、私たちを心に覚え愛し、私たちのためにお母さんやお父さんとして必要なことをしてくれている、ということを知っているね。だから、お父さんやお母さんが見えなくても、私たちは泣かないで、幼稚園や学校で、元気で頑張れる。私たちは、天に昇られたイエスさまがこの世界を治めてよき完成のために今も働いている、その神のご計画の中で私たちが生かされ愛されている、ということを知るとき、自分が生かされているところで頑張ることができるのです。
心でつながっているから離れていても一緒だと言える、と言ったね。私たちが親と心がつながっているためには、親を信じる、親の言葉を聞いて守るのです。私たちが天のイエスさまとつながっているためには、イエスさまを信じて、イエスさまの言葉を聞いて守る人になることです。
イエスさまは天に昇られて、私たちを神の家族の一人としてくださり、いつでも、どこでも、一緒にいてくださるようになったのです。私たちはそのことを信じて生きるのです。感謝ですね。私たちは神の家族の一人として、与えられた自分の生活をまじめに、健康にしていきたいと思います。
2010年5月2日
説教題:神の民の存在意味
聖書:出エジプト記 19章1-6節 ヨハネによる福音書 15章1-11節
【説教】
出エジプト記で神は、「イスラエルは立派な民だから神の民だ」とは言っていません。イスラエルが奴隷であった時、神が、エジプトで御心と御力を示し、鷲の翼に乗せたように導き守ってエジプトから神の許に連れ出した。だから、私の民だ、と神は言っているのです。
神の民は、自分自身の存在や力によって神の民になったのではなく、神の選びと御力によって神の民とされ、歩まされたのです。そして神は「今、もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたは全ての民の間にあって、私の宝となる」と言っています。「私の宝」とは、他の人が「なんだ、そんなつまらないもの」と言っても、私は命を惜しまないで大事にする「私の宝」ということです。難民を養子にして「私の宝」としたと考えてもいいでしょう。イスラエルはそのような神の民とされたのです。その民は、神と結びついて御心を現して歩むことによって、神の栄光を現す民となったのです。
ところが、イスラエルは神に背いて、神の民でなくなったのです。そこで神は、御子イエス・キリストを世に遣わし、十字架の愛で新しく御自分の民を誕生させたのです。
ヨハネ15章は、イエスが十字架を前に弟子たちに語られた告別説教の一部です。
ここで主イエスは、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」、と忘れることができないように繰返し語っています。枝であるあなたがたは、ぶどうの木である私につながっていることによってだけで生きることができる、また、つながっているだけで実を結ぶことができる。あなたがたは実を結ぶ者なのだ、そのことを忘れるな、と言っています。
「私はまことのぶどうの木」と言っているのは、「他のものは違う、私だけが本物のぶどうの木である」と言っているのです。イスラエルは本物でなくなってしまった。私だけが、神の民の原木である。私によってだけ神の民は実を結ぶ、と言っているのです。まことのぶどうの木とその枝は、教会であり、私たちキリスト者です。新しい神の民です。
枝に「木につながっていなさい」と言っているのは、その枝が生来の木から出てきた枝ではなく接木された枝であることを意味している、と思われます。「つながっている」という言葉は「留まる、住む、変らずにいる」と言う意味です。十字架のイエスによって神に結び付られた者は、その十字架のイエスに留まり、生かされ続けていることが大切だ、そこで実を結ぶことができる、と言っているのです。
神が選び、心を込めて接木し、農夫として世話をして下さって、キリストに結び付て実を結ぶようにしてくださっているのです。枝が何かをして実を結ぶのではありません。木につながっていることで必要な命の水も糧も与えられ、実を結ぶことが出来るのです。
神の民は、神が選び、愛し、心にかけて救い生かしている民です。神の民の存在意味は神ご自身が「私の宝」としているところにあるのです。人間の思いやこの世の価値観の中にはないのです。小さく弱く取るに足りない民ですが、神の愛の中にある、神の永遠の命に生かされ、神の栄光の実を結ぶものにされている、そこに存在意味があるのです。
2010年4月25日
説教題:神の愛が全うされる
聖書:レビ記 19章9-18節 ヨハネの手紙一 4章13-21節
【説教】
自分独自の思いを人に伝えることは難しいことです。自分の思いを相手にそのとおりに理解されることはないでしょう。相手は、その人の耳で聞き、その頭で理解するのです。
ヘブル語の聖書がギリシャ語に訳された時、イエス・キリストが誕生する前ですが、親子の愛、夫が妻に対する愛、神がイスラエルや人間に対する愛を意味する言葉を、当時ギリシャではあまり使われていない言葉「アガペー」と訳しました。新約聖書では、一般的に人間が生まれながら持っている愛を意味する言葉「エロース」は一回も使われていません。聖書を日本語に訳すときにも、「情」「仁」「慈悲」のように一般に使われている言葉は使っていません。キリシタンの時には「アガペー」は「御大切」と訳しています。明治の時にも当時あまり使われていなかった「愛」と訳しました。
私たちは聖書が語っている「愛」が今まで人間が知っていた人間関係の情や仁、慈悲とは違う、全く新しいものと読むことが必要です。
ヨハネの手紙4章7節に「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っている」とあります。聖書の愛は、人間が生まれながら持っているものではないのです。この神から出た愛、神が愛である、そのことを私たちが知るのは、神が独り子を世に私たちのためにお遣わしになったことによってです。その愛によって私たちは新しい人にされて、生きるようにされたのです。そして、神の愛によって新しく生かされている者は互いに愛し合うべきである、と勧められています。神に愛され生かされている者が互いに愛し合っているなら、そこに神の愛があり、愛である神がいます、神の思いである神の愛が完全に目的に達したといえる、とこの手紙は言っています。
その時にも、互いに愛し合う愛は私たちの中に前からあった愛ではなく、私たちの中に留まっている神の愛だけが、互いに愛し合うことを可能にするのです。13節で「神は私たちに御自分の霊を分け与えてくださいました」と言っています。パウロは「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」と言っています。神は御自分の霊によって、私たちの中に現臨してくださる、そのことによって神が私たちと深く交わってくださる、その神の愛によってお互いに愛し合うのです。そして、そこに神がいることが分るのです。
神の愛は、御子イエス・キリストを遣わし、十字架と復活によって、罪の人間を新しい人として誕生させたのです。神の愛によって生きる新しい人を創造されたのです。その新しく創造された人が愛し合うのです。それによって神の愛が全うされているのです。
16節では「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、信じます」と言っています。「愛」は外から眺めて分るものではありません。他の人の愛がどんなに分らないか、愛し合っていると見えた関係がどんなに誤解であったか、私たちのよく知っていることです。
神の愛が与えられ、私たちの内に留まっている。ここに神の愛があり、救いが全うされているのです。私たちの中に、教会に神の愛は完全に目的を成し遂げているのです。
2010年4月18日
説教題:よい羊飼いと羊
聖書:ヨハネによる福音書 10章7-18節
【説教】
10章3-4節に語られている、羊が羊飼いの声を知っていて羊飼いに従って行く、ということは私たち映像で見ることができます。また、似たことは犬の散歩や動物園などでも見ることができます。そこに見られるのは相互の信頼関係です。そのような信頼関係ができるまでには、飼い主が自分の思いを動物に伝え理解させ従わせるまでの時間と労苦、愛があったことを思わされます。
この羊は野生の羊ではなくなっているのです。野生の羊が変えられているのです。自分の知恵と力で生きるのではなく、飼い主に導かれて生きる羊に変えられているのです。11節に「私はよい羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とありますが、この羊飼いによって羊は変えられたのです。それまでの羊は、命がなかった。盗人にも従っていくような生きている意味を持たない、死に支配されている羊だったのです。野獣であったとも言えます。
野獣であった羊が、羊飼いによって意味と価値のある、新しい命に生きる羊に変えられたのです。飼い主と散歩している犬は飼い主にとって大事な存在でしょう。盲導犬は犬が変えられているのです。主人が換わっても、新しい主人に盲導犬となって従うのです。
イエスは良い羊飼いと対比する者として、7-10節で盗人を示しています。盗人は羊のところに来て羊を自分の利益に利用しようとするのです。「しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった」のです。良い羊飼いと盗人の声を聞き分けて、盗人についていかない。このことは大切なことです。良い羊飼いによって変えられた羊でいること、良い羊飼いから離れない、盗人について行く羊にはなっていないことが大切です。盗人は、盗むため自分のものとするために策略を用い、誘惑します。羊はキリスト者、羊がいる囲いの中は教会として聖書は語っています。教会の中に、教会やキリスト者を利用しようとする者が入ってくることがあるのです。良い羊飼いとの繋がりをしっかり持っていないと、まことの羊飼いから離れて、利用される羊になってしまうことが起こるのです。
私たちは良い羊飼いによって導かれ養われて生きる羊に変えられたのです。野獣性から解放された自由な羊とされ、喜んで良い羊飼いの声を聞いて従う羊になったのです。今は良い羊飼いに導かれ、養われ、大切な価値あるものとして生かされているのです。
盲導犬が、盲導犬に変えられて新しい命を与えられ、価値あるものとして生きているように、私たちも良い羊飼いであるイエスによって、新しい命を与えられ、豊かに生かされているのです。私たちは、イエスの命を捨てての愛、その愛によって与えられた命のすばらしさを思うべきです。ですから、そのことを喜びと感謝を持って受け入れ、良い羊飼いの声を聞いて従い、先立って歩む羊飼いに倣い、その足跡を歩むように努めるのです。
今日の聖書は今年の教会の年間聖句です。今日は教会総会があります。私たちはこの年度も最後まで主イエスから離れないで、その声に聞き従って歩みたいと思います。
2010年4月11日
説教題:復活の喜びに生きる
聖書:ペトロの手紙一 1章3-9節
【説教】
最近、社会的に活躍した人でも、新聞の死亡記事に「葬儀は近親者で行ないました」と記されているのをよく見ます。「後日記念会が行なわれます」の文が付いていることがあります。また、葬儀や記念会の報道や記事には「あの人が亡くなったので、私の中にポッカリ穴があいたような気がします」とか「あの人によって今の私があるのです」と語る人が登場することが多いです。
私たちは一人で生まれてきて、一人で生きているのではありません。私の誕生は、私一人にとっての大きな出来事であっただけでなく、両親や祖父母などにも大きな出来事であり、皆の喜びだったのです。私たちは共同体の中で生きていて、共同体の中に喜びも悲しみも希望もあるのです。所が、地上の人間の共同体は無力化し崩壊しつつあります。
神を信じない人にとって人間の存在は有で、死は無に過ぎないのです。しかし、私たちは、神のご計画の中で、生かされているのです。今日の聖書に「神は私たちを新たに生まれさせ、死者の中からイエス・キリストの復活によって生きた希望を与えてくださっている」とあります。キリストに結びつくことによって、私たちは神の命に結びつけられ、神が御支配される神の国に生きる者となるのです。そこに私たちの生きた希望があるのです。
希望は地平線の向こうに、天に蓄えられていて、私たちが受け継ぐ者とされているのです。この希望が私たちの生きる力となるのです。この希望の力は、地上の世界や肉の私たちの状態がどんなに悲惨で絶望的であっても、死の告知を告げられても、神にあって与えられた命を精一杯生かす力となるのです。復活の主に結ばれているなら、自分たちの労苦が決して無駄にならない、とキリスト者は知っているのです。
この「知っている」「信じている」ということが大事なことです。聖書と教会は、神の御心とキリストによる救いの業を客観的に確かなこことして伝えています。この伝えられたことを、私のために神がしてくださった、と主観的に知って信じる。この二つがあって、私たちは復活を喜び、喜びの希望に生きることができるのです。
復活の命に生きることは、キリストによって神の民にされ、神の民が受け継ぐ天の宝を受け継ぐ者にされ、その希望に生きることです。神の民にされるのに必要なことは、キリストが神のみ旨に従って十字架に死に復活することで、すべてなされたのです。
神を知らない人は、自分の力で生きることを誇りにします。人間社会の共同体からも自ら疎遠になって独りで生きる人がいます。迷惑をかけたくない、わずらわしいのは嫌だ。自分の力で気ままに生きたい、という人がいます。そのような人は、神を知らず、神の義を知ろうとしないのです。独りでは生きる意味がないのです。
神は共同体の中に私たちに命を与え、生きるようにしてくださっているのです。神の国の民とされるのが救いです。神が私たちを救うためにされたキリストの復活を、謙遜に信じ、感謝して受け入れ、復活の命を与えられ、その喜びに生きる者でありたいと思います。
2010年4月4日
説教題:キリストは復活した
聖書:コリントの信徒への手紙一 15章12-20節
【説教】
今日はイースター、私たちのために十字架に死んだ主イエスが復活した喜びの日です。
聖書の中には、会堂長ヤイロの娘やラザロなど、イエス以外にも死んだのに生き返った人のことが記されています。しかし、イエスの復活はそれらの死んだ人が生き返ったのとは全く違うのです。
今日の聖書の12節に「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」
とあります。ここには、キリストとあってイエスとは記されていません。ヤイロの娘ともラザロとも言われていません。イエス・キリストの死と復活が大事なことなのです。そして、そのイエス・キリストの死と復活が私たちにとって意味ある、救いであり、喜びであり、命なのだ、と言っているのです。
ですから、ここで「死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」と言っているのは、死者は誰でも復活する、ということを言っているのではありません。ヤイロの娘やラザロも生き返りましたが、それは誰にでも起こることではありません。イエスが神に祈ってこの人たちが生き返ったのです。しかし、この人たちは時が来たらまた死んだのです。ここで「死者は必ず復活することがキリストの復活によって明らかではないですか」と言っている死者は、イエス・キリストの十字架と共に死んだ死者です。
その人は、十字架によって罪が贖われ、罪と死の支配から、神の命に結びついた神の支配に生きる者とされたのです。ですから、13節で「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」と言っているのは、キリストの十字架と復活は、罪人を救うためでなかったのか、キリストの死と復活によって罪人が救われたのではないか、そうでないなら、キリストの死も復活もなかったのではないか、と言っているのです。3-4節でパウロは、「キリストが、聖書に書いてあるとおりに私たちの罪のために死んだこと、復活したこと」、このことを最も大切なこととして受け、また伝えた、と言っています。
神の私たち罪人を救いたいという御心によって、キリストが十字架に死んで復活された。それによって神の御心が成就し、キリストを信じる者は復活の命に生かされているのです。ここに私たちの救い、宣教、信仰があり、地上での生活があるのです。この神がキリストをとおして与えてくださった救いは、神を信じ、キリストを信じる者には大きな喜びであります。この救いは信仰によって理解されることです。
しかし、信仰によることだからそれは実際にあったのかどうか分らない、というのではありません。20節にあるように、実際にキリストは復活し、罪贖われて死んだ者の初穂となったのです。5節以下の人々に現れたのです。そして17-19節で、あなたがたはキリストの復活を信じているので、確かで実りある命を生きているでしょう、と言っています。
私たちも信仰によって、復活の命に生き、希望と喜びに生きるようになったのです。