2020年9月27日
説教題:逆らわぬ者は味方
聖 書:箴言16章7節、マルコによる福音書9章38-41節
主に喜ばれる道を歩む人を 主は敵と和解させてくださる。
(箴言16章7節)
ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追いだしている者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
(マルコによる福音書9章38-41節)
今日は説教題を「逆らわぬ者は味方」といたしました。ご覧になって、何と申しましょうか、何となく引っかかりを感じた方がおられるかと思います。教会であまり聞きたくない言葉があります。それは、隔てをつくる言葉です。今日の説教題にある「味方」という言葉が、そうではないでしょうか。敵をも愛しなさい、とイエス様は教えてくださいました。ですから、私たちは敵・味方と分けて考えることは悪いこと・避けるべきことと、何となく考えています。考えというほどにははっきりせず、感じていると言った方が近いかもしれません。
神さまは、すべての人を隔てなく愛してくださっています。私たちもその恵みをいただき、イエス様にならって、すべての人を隣人とできるように信仰を育てられたいと願います。だから、敵・味方という考えそのものを、せめて教会にいる間は忘れていたい ‒ そんなふうに思います。
今、私は“せめて教会にいる間は忘れていたい”と申しました。ということは、ふだんの生活・教会の外での週日 ‒ ウィークデイ ‒ の生活で、私たちは初めての方と接する時に“自分に親切で好意的か・何となくイヤな感じか”とちょっと警戒して心の準備をします。仕事を進める中で、“自分の言っていることは相手を納得させられそうか・言い負かされそうか”と考えながら言葉を選びます。これは極端な言い方をすれば、誰かが自分の味方か・そうでないか、“勝っているか・だめそうか”を意識せずにはいられないということでしょう。私たちは、常に比較の中で生きています。度々申し上げることですが、白いものが白く見えるのは、それと比較して黒いもの、赤いもの、青いものがあるからです。私たちは比較を通してものを見分け、そのように感知するように造られています。この比較から、隔てが生まれ、隔てから競争が生まれ、勝ち負けが生まれ、敵・味方が生じてしまいます。そして、私たちはそれがやむことのないこの世で、競い合うことに疲れ果ててゆきます。
だから、“せめて教会にいる間は 勝ち負け・競争を忘れていたい”のです。
しかし、教会は“束の間”の平安を与えられるところではありません。教会で、イエス様を通して私たちが神さまからいただくのは、“永遠”の命です。永遠です。教会でホッとして、ちょっと休んだだけで、疲れたまま いやいやこの世に出て行くのではありません。新しい力をいただいて、リクリエイト・再創造されて、元気いっぱいに派遣される出発点が、教会です。神さまは御言葉を通して、この世の現実に向かい合う力をくださいます。イエス様は、私たちのこの世の現実に寄り添ってくださいます。まったき神・まったき人として、イエス様はこの世の私たちのただ中においでくださいました。完全に私たちと同じ人・人間でもある方として、イエス様は私たちの感じ方に合った言葉を使われ、一緒に課題を乗り越えてくださいます。
今日の説教題にある「逆らわない者は、味方」という言葉は、イエス様が、今日の聖書箇所の中で自ら、弟子を教える時に用いられた言葉です。イエス様は、その御言葉によって、2千年以上前の弟子たちに、イエス様に従う者としての姿勢を教えると同時に、今・現代のこの国に生きるキリスト者である私たちが抱える課題にも答えを与えてくださいます。
さて、今日は前置きがたいへん長くなりました。
今日の聖書箇所 マルコ福音書9章38節は、弟子ヨハネが、イエス様にこう報告したところから始まります。「先生、お名前を使って悪霊を追いだしている者を見ました。」
勝手にイエス様のお名前を使っている、と驚き、怒っていました。
私たちはここを読んで、イエス様のおゆるしをいただいていないのに、“私はイエス様に推薦されて悪霊を払っています、あのイエス様の推薦だから、絶対に効力があります” と宣伝していた者がいたように理解します。これだけでも、いんちき・詐欺行為でヨハネが怒るのももっともです。しかし、ことはもっと深刻でした。名前は、力・権威を表します。その名前を持つ人の威力を示します。神さまであるイエス様のお名前を使うとは、その威力を勝手に利用していることをさします。たいへん冒瀆的な、罪深い行いです。
ただ、イエス様の弟子ヨハネは、これを見て、すぐにやめさせたわけではありませんでした。38節の後半に「わたしたちに従わないので」という言葉があります。ヨハネは、詐欺まがいのけしからぬ行為をしているその怪しい悪霊払いに、声をかけたのです。“イエス様のお名前を使うのなら、まず私たち本物のイエス様の弟子に、誠意を尽くすべきではないか。私たちはイエス様に従っている。悪霊を払うための権威をイエス様から授けられた。あなたは、その弟子である私たちに まず従いなさい。イエス様に直接 従うのは、まだ早い。”そのようなことを言ったのではないでしょうか。
どんな人も、イエス様に連なる者、イエス様に従う者にするために声をかける ‒ ヨハネの伝道者としての姿勢には、感動をおぼえます。
しかし、その一方で、ヨハネの自意識にも気づかされます。自分こそが、イエス様の本物の弟子。そのプライドゆえに、ヨハネはたいへん高圧的な、上から目線の態度で、その怪しい悪霊払いに話しかけたのではないでしょうか。初めから、あなたはわたしたちの仲間ではない、よそ者だと決めつけていたのです。 隔てる姿勢を取っていました。
そして、その悪霊払いがヨハネに従わず、イエス様の弟子に従う様子がなかったので、たいへん怒ってイエス様に言いつけに来たのです。
これは私たちには、自然な態度のように思えます。
私たちも、聖書のこの箇所を読みながら、ヨハネと同じように、イエス様のお名前を勝手に利用している者を怪しい者・けしからぬ者と思います。その詐欺のような行いはやめさせなければと考えます。
ところが、イエス様はおっしゃいました。「やめさせてはならない。」
え〜! いんちきや詐欺を野放しにしてしまうのか?と思いたくなりますが、イエス様は「やめさせない」理由を、筋道を通して教えてくださいます。お読みします。「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」
弟子でさえ行うことの難しい、実にイエス様からの権威の受託と天の父への深い祈りがなければできない悪霊払いを、怪しい者ができたかどうかはわかりません。イエス様は、今はそれを問題にしているのではないのです。ただ、その者に悪霊を払うことができたにしろ、できなかったにしろ、イエス様のお名前を使い、イエス様にかたちだけでも頼ろうとしたのは事実です。そのすぐ後に、自分が頼ろうとした方を悪くいうはずがありません。悪く言ったら、自分自身を否定し、なおのこといい加減な者だと証明するようなものです。
さらに、イエス様はヨハネに、また御言葉を通して私たちに、たいせつなことを教えてくださいます。40節の御言葉です。お読みします。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」
もとの聖書の言葉は、「わたしたちに反対しない者は、わたしたちに賛成しているのである」と訳すこともできます。
日曜日以外の日・ウィークデイをこの世で、日本ではきわめて数の少ないキリスト者・クリスチャンとして生きている私たちに、イエス様のこの御言葉は深い知恵と大きな勇気、広い心を与えてくれます。
日本では教会と関係なく、イエス様の名が用いられる事があります。
すぐに思い浮かぶのは、クリスマスです。クリスマスは、もともとキリストのミサという言葉で、イエス様のお名前 救い主キリストが入っています。日本では商業的に用いられることがしばしばです。ケーキが売れ、プレゼント交換の機会として小売店が繁盛します。町にクリスマスセールという文字が電飾でピカピカしているのを見ると、私たちは、つい、苦々しく思ってしまいます。
イエス様がお生まれになった日だと、本当にわかっているのかしら、サンタクロースの誕生日と間違えているのではないかしらと、つい、意地悪い思いが浮かんだりします。
しかし、皆さん よくおわかりの通りに、だからこそ、クリスマスは日本での絶好の伝道の機会となります。私たちは本当のクリスマスを、イエス様の恵みを、まだその幸いを知らない方々に知らせることができます。薬園台駅前の広場で、たくさんクリスマスキャロルを歌い、本当のクリスマスを教会で過ごしませんかと、教会にお招きできるのです。ふだんは、教会の外の方にお招きの声をかけるのが苦手な人も、この時は、ちょっと大きな声を、笑顔で出せるのではないでしょうか。
また、キリスト教式の結婚式にも、私たちはちょっと批判的な思いを持ちがちです。ホテルや結婚式場の設備であるチャペルで結婚式を挙げ、そのあと、すぐに披露宴というかたちが多いように聞いています。チャペルは教会ではありません。キリストを信じる人が二人、三人集まれば、そこは教会です。イエス様がその二人、三人の信じる者・クリスチャンと共においでくださいます。建物や設備だけあっても、信徒さんがいなければ、そこはからっぽです。教会ではありません。そのようなチャペルでの結婚式で誓いを立てても、本当の誓いになるのだろうか、イエス様はどう思われているのだろうか、と戸惑いと、今日の聖書箇所のヨハネのように、少し怒りのようなものも感じます。
その私たちの落ち着かない思いを、イエス様は今日の御言葉でなだめてくださいます。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方だ。」 ‒ 私たちに反対しない人たちは、わたしたちの仲間だ、だから安心して、心安らかに過ごしなさい。
キリスト教式の結婚式を挙げる方々は、キリスト教式の結婚式がすてきだから、教会に来たことはないし、聖書も知らないけれど、とても良いものがあると思えるから、自分の人生の実にたいせつな儀式をキリスト教式で行うのです。とても良いものがある、というその思いは、確かに間違っていません。
その後の人生で、心が折れる辛い経験をされた時に、もしかするとその方は、みんなに祝福されたチャペルでの結婚式を思い出し、その時に読まれたコリントの信徒への手紙一13章の「愛は忍耐深い。愛は情け深い」から始まる御言葉を思い出すかもしれません。それはどういう意味なのだろう、と本当に教会を訪ねるかもしれないのです。そこでイエス様とのまことの出会いがあり、心の底から慰められ、力づけられることがあるでしょう。
どんなきっかけであろうと、イエス様の御名を知り、それに好感を抱く者を私たちが迎え入れるようにと、今日の御言葉は勧めています。
さらに、イエス様はおっしゃいます。今日の最後の聖句41節です。お読みします。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
イエス様は、この時にすでに律法学者やファリサイ派の人々から批判されていました。それはやがてイエス様を殺す計画となり、イエス様は犯罪者として死刑・十字架刑の判決をくだされます。キリストの弟子は、重罪人と親しい関わりのある者として、迫害を受ける時が来ます。イエス様は、弟子たちのために、その時のことを今日の聖書箇所の最後の聖句を言われた ‒ そう考えられます。
この最後の聖句41節が語る一杯の水。それは、砂漠の中にある国 ユダヤでは命を保つための貴重なものです。“そのような迫害の時に、自分の取り分の水から、キリスト者に一杯の水を分けてくれる者には祝福がある。” イエス様は、そう言われました。
具体的な迫害と言える事態ではなくても、キリスト者が100人に一人、人口の1パーセントしかおらず、きわめて少ない日本では、私たちクリスチャンはまわりから“少し変わった人”と見られることがあるかもしれません。それでも、キリスト者でない方がキリスト者である皆さんと接して、ちょっと言い方がおかしいかもしれませんが、“あ、この人は言ってみれば「良い」方に変わっている人”と思うのではないでしょうか。
御言葉で養われ、キリスト者は、自分では気づかなくても、心のうちにおいでくださるイエス様によって、聖霊の導きによって、この世の価値観に左右されず、一本筋が通っていることがしばしばあるのです。イエス様が十字架の出来事でお示しくださった愛によって、この世の価値観だけでは思いもよらない愛による解決を、聖霊に導かれたキリスト者が成し遂げることがあるのです。それを世の人々は “ちょっと変わっているけれど、「良い」方に変わっている” と見るのです。
イエス様は、おっしゃってくださいます。“そのあなたをしっかりと、好意的に、好ましいと思って見ている世の人がいる。その人たちは、キリスト者の仲間だ。友だちだ。わたしが祝福する人たちだ。”
この世の価値観に左右されず、私たちの心をまっすぐにしているのは、イエス様の愛です。私たち罪深い者をも、敵とせず、我が子として愛してくださる神さまの慈しみを、イエス様は十字架で果たしてくださいました。イエス様の深い愛を受けて、私たちも、すべての人に隔てなく、すべての人の隣人となる志を抱いて、今週も進み行きましょう。
2020年9月20日
説教題:神と人に仕える者に
聖 書:申命記7章6-8節、マルコによる福音書9章30-37節
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面(おもて)にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
(申命記7章6-7節)
一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
(マルコによる福音書9章33-37節)
今日、与えられているマルコによる福音書9章30節からの御言葉は、イエス様が弟子たちにもう一度、ご自身が死んでゆかれることとご復活について語られたと告げています。もう一度、と今、私は申しましたが、それは一度ではなかったかもしれません。実にたいせつなことなので、念を押して話されたのでしょう。
イエス様と弟子たちは、いつもは人々・群衆に取り巻かれていました。しかし、30節に「イエスは人に気づかれるのを好まなかった」と記されていることからわかるように、この時、イエス様は敢えて、あまり人のいない道を選び、群衆を避けられました。ご自分の死と復活を、弟子たちに静かにじっくりと考えて欲しかったからです。
特に、イエス様はご自分がどのように地上の命の終わりを迎えられるかを、こうはっきり語られました。「人々の手に引き渡され、殺される。」「引き渡す」とは、聖書の元の言葉では“犯罪者として逮捕される”という意味を持つ言葉です。“裏切られる”という意味もあります。
また、イエス様はただ「死ぬ」のではなく、人に「殺される」のです。それを聞いて、弟子たちは、戸惑い、大いに動揺したでしょう。死の三日後に復活すると言われても、何のことだかわかりません。しかし、イエス様に質問するのも恐ろしかったのです。いつもはイエス様を中心に、おそらく、わいわいとにぎやかに明るく伝道の旅をしていた弟子たちは、緊張した面持ちでイエス様の後ろを、少し離れて歩いていたでしょう。
それでも、いつまでも黙っていることはできませんでした。不安と恐れのために、何か話さずにはいられなかったのです。けれど、みんな苛立っているので、和気藹々と語り合うことからは程遠く、議論になってしまいました。33節から後を読むと、この時、弟子たちが何を議論していたかがわかります。議論と言うより、口げんかに近かったのでありましょう。12人は、自分たちの中で誰が一番偉いかと言い合いをしていたのです。
イエス様がご自身の死と復活、この実に大切なことを語られたのに、弟子たちはいったい何をやっているのかと、ここを読んで皆さんは感じられたことでしょう。12人の弟子たち自身も、そう思っていました。だから、イエス様に「何を議論していたのか」と尋ねられて、恥ずかしく、気まずくて黙っていたのです。
ただ、どうしてそんな話になってしまったのかは、想像がつきます。
イエス様はご自分が裏切られ、律法学者と祭司たちに排斥されて逮捕され、殺されるとおっしゃっている ‒ それが何のことだか分からないが、自分はどこまでもイエス様についてゆくと言った者がいたのでしょう。これは大切なことです。イエス様は、自分は人々を救うメシアだが、その為にこれから殺される・犯罪者になると語られました。何のことだかわからなかった弟子たちは、その、実に衝撃的なイエス様の言葉を気味悪がって、いっせいに逃げてしまってもおかしくありません。
けれど、この時、12人の弟子たちは一人も欠けることなくイエス様に従い続けていました。それぞれにイエス様に期待していることがあったのです。
ある者は、イエス様が長く病に苦しんでいる人々を 癒やしの みわざ により助けているその姿に強く心を惹かれていたでしょう。
律法を振りかざして人々を叱りつけてばかりいるファリサイ派の人々や律法学者を論破するイエス様に、力強い新しいユダヤの指導者の姿を見ていた者もいたでしょう。
貧しい人々に寄り添うイエス様の優しさに憧れ、自分もイエス様のいない生活が想像できなくなっていた者たちもいたに違いありません。
また、もっと具体的なことをイエス様に期待している者もいました。
むしろ、全員がそうだったと言ってもよいかもしれません。
イエス様がユダヤの政治的な統治者となることです。当時、ローマの植民地だったユダヤの国を、イエス様こそが独立に導いてくださると思っていたのです。その期待は、イエス様が、ご自分は殺される・三日後に復活するとおっしゃっても、旧約聖書の預言として弟子たちの心に希望を灯し続けていました。
そのことを思い起こすと、イエス様がユダヤの独立を果たした時に、自分が弟子としてその場にいないことを、弟子たちは それぞれ、考えられなかったのです。
だから、イエス様が逮捕される・殺される・復活する、と わけのわからないことをおっしゃっても、自分はイエス様に最後までついてゆくと言った弟子がいたのでしょう。その言葉に、誰か他の弟子が、自分だけがイエス様の本当の弟子だなどと言うな、と反論したのではないでしょうか。
自分だって、ついてゆく。何せ、イエス様に弟子になれと声を掛けていただいた時、自分は仕事を捨て、大切な仕事道具の網も舟も捨てたのだから。
それに対して、別の弟子が、自分は父親を捨てたぞ! そんな大きな犠牲を払ってイエス様の弟子になったのだから、自分こそが真実の、一番の弟子だと言ったでしょう。
イエス様の弟子たちは、それぞれ仕事や家族を後にしてイエス様に従って来ました。それは事実です。そこに弟子たちの情熱の真実と潔さがあったのも、本当のことです。
ただ、私たちはここで立ち止まって考えるよう、御言葉に促されています。弟子たちは真実にイエス様にお仕えしようとしていたのでしょうか。自分たちが勝手に思い描き、期待しているイエス様の幻影に仕えようとしていたのではないでしょうか。
また、歯をくいしばるようにして犠牲を払ってイエス様に仕える自分のあり方を自慢し、どれだけ自分が情熱的に、悲愴な覚悟でイエス様に従えるかを競争し合ってしまったのではないでしょうか。それは、もはや、お仕えする態度・奉仕の姿勢ではありません。弟子たちは競い合い、口喧嘩をし、12人とも、みんな恐ろしい形相をしていました。
教会は、そういう、誰もが恐ろしい形相でにらみあうところでしょうか。まったく違います。教会は、我こそは、自分が、自分が、と自己主張をするところではありません。
確かに、この世はそうかもしれません。より良い生活と自己の充実・自己実現のために、人はこの世でそのように頑張るのでしょう。しかし、教会は、互いが競い合って、緊張がみなぎり、来ると胃がきりきりするようなところであってはなりません。
イエス様は、カファルナウムの家に着くと、弟子たち12人の怖い顔を見渡して、まずご自分が腰を降ろされました。カファルナウムの家は、イエス様と弟子たちが伝道の本拠地としていたところです。
ペトロの家だったとも伝えられており、イエス様と弟子たちが一番ほっとできる居場所でした。怖い顔なんかしていないで、仲良く、笑顔でくつろぐところだったのです。イエス様は弟子たちを優しく呼び寄せて、おっしゃいました。たいせつなことを、静かに教えられたのです。35節の御言葉です。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
この御言葉でイエス様は、謙遜を尽くしなさいと導くだけではありません。いちばん後になる者が偉いということになると、今度は、人間はそれを競い合います。“お先へどうぞ”の応酬が始まってしまうのです。それも、見当違いです。イエス様は、主の御前・神さまの御前では一番もビリもない、競争なんかない、先になるも 後になるもない、みんな、同じように神さまに愛されていると、伝えようとなさいます。そして、いただいた神さまの愛を、みんなが同じように互いに分け合い、互いを大切にしあうのです。それが主に仕えるということです。
その時、イエス様が弟子たちを教えられている部屋に、よちよちと子供が入って来ました。ペトロの甥か姪かもしれません。
弟子のひとりが、大人が大事な話をしているのだから、子供は入ってくるなと邪険に追い払おうとしたのではないでしょうか。当時のユダヤの文化では、子供は可愛い者というよりも厄介者であり、邪魔者であり、12歳になるまで人間として数に入れてもらえませんでした。女性は大人になっても、数に入れてもらえませんでした。そのような文化背景も踏まえておきましょう。
さて、その時、子供は、久しぶりにイエス様と弟子たちが帰ってきたので、嬉しくて近寄って来たのに、ダメと言われてしまったのです。見れば、いつもはニコニコしているおじさんたち、お兄さんたちが怖い顔をしているので、びっくりして半ベソになったかもしれません。
教会に小さいお子さんが入って来たら、そのお子さんにもニコニコしてもらいたい ‒ 私は、そう思います。そう願います。
イエス様は、その子供の手を取って、12人の真ん中に立たせました。この世では厄介者・邪魔者と相手にされない者が真ん中にいる ‒ たいせつにされている ‒ それこそが、神さまが望んでおいでのことだと示されました。
イエス様は、それを言葉にされました。今日の聖書箇所の最後の聖句です。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」イエス様が本当はどなたであるか、弟子たちにはまだまだわかっていません。しかし、わからなくても、イエス様の名のため・イエス様の弟子・イエス様についてゆく者として生きるのなら、わたしを受け入れなさい。それは、この世の価値観とまったく異なる天の思いを持つことだ ‒ この世で厄介者・邪魔者と疎んじられる者を、神さまに造られたかけがえのない一人として、大切にすることだ。
さらに、イエス様は天の父なる神さまへの道を、弟子たちに開かれました。「わたしを受け入れる者は、わたしではなくて」‒ ここに、イエス様の究極のへりくだり・父なる神さまの御前にひれ伏すお姿を読み取ることができます ‒「わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
弟子たちは、まだこの時、イエス様の十字架の出来事とご復活を知りませんでした。イエス様がこの勝手な自分たちのために、十字架でご自身を亡き者にしてまで、天の父への道を開いてくださったことを知ったのは、ご復活の後です。私たちは御言葉と聖霊を通して、こうして、その恵みに与っています。すべての人に等しくそそがれている神さまの愛を伝え、分かち合うことが奉仕であることを知っています。
主にお仕えする、そのひとすじの心を持ってイエス様に従い、今日から始まる一週間を、主の僕として過ごしてまいりましょう。
2020年9月13日
説教題:信仰のないわたしを
聖 書:イザヤ書41章13節、マルコによる福音書9章14-29節
わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う 恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。
(イザヤ書41章13節)
人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」すると、霊は叫び声を上げ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。
(マルコによる福音書9章20-29節)
今日の聖書箇所が司式者により朗読されるのを聞きながら、語られている出来事をドラマのように思い浮かべた方が多いと思います。
幼い頃から引き付けを起こす病に苦しめられていた息子。その我が子のために、おそらくありとあらゆる助けを求めてきた父親。そして、力強い御言葉によって、その息子から悪霊を追い払い、病を癒やされるイエス様。その三人を弟子たちがみつめ、やりとりを真剣に聞き、さらに そのまわりを律法学者たちと群衆が取り囲んでいる ‒ その情景が思い浮かんだのではないでしょうか。
特に、皆さんの心には、イエス様と、悪霊に取りつかれた息子の父親のやりとりが印象深く残っているでしょう。
父親はイエス様にお願いをしました。22節からをお読みします。父親の言葉です。「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」この父親は思わず「おできになるなら」と言ってしまいました。これは本心だったでしょう。
息子が幼い頃から何年も苦しむのを見て、父親は何とかしてやりたいと力もお金も時間も、息子のために費やしてきたのです。評判の良い医師・お医者さんがいれば、遠くても息子を連れて診てもらったでしょう。祈祷師や占いのような、律法で禁じられている方法にも頼ったかもしれません。けれど、効果はありませんでした。父親は、助けてもらえそうな手段の情報を聞きつけると、毎回、大きな期待をもって駆けつけたことと思います。けれど、息子は十分に癒やされず、良くならず、がっかりすることの繰り返しでした。
イエス様の評判を聞いて、父親は今度こそ、と希望を抱きました。あいにく、イエス様は三人の弟子たちを連れて山に行っておられました。そのため、父親は弟子たちに息子から悪霊を追いだしてくれるよう頼みました。しかし、弟子たちには、それができませんでした。父親は“また、だめだったか”と気落ちしたことでしょう。弟子たちの先生であるイエス様が現れて、父親の心は、大きな期待と、“どうせ、まただめだ ”という両極端の間で激しく揺れ動いたに違いありません。
その揺れ動く心が、正直に現れたのが、今日の22節の父親の言葉です。「おできになるのなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」
その正直な願いに、イエス様は「『できれば』と言うか」と応じられました。
イエス様は神さまです。全能の方、何でもおできになる方です。不可能はありません。しかも、この前の前、8月30日の主日礼拝説教の聖書箇所で、ご自分が救い主・メシアであると宣言されました。前回9月6日の聖書箇所では、三人の弟子に恵みの“前味(まえあじ)”として、神さまであるご自身の輝くばかりに白い衣のお姿を示されました。その方に「できれば、お願いします」と言うのは、あまりに失礼です。
私たちは、イエス様が「『できれば』と言うか」と父親におっしゃった言葉に続けて、父親をこう諭すのではないかと勝手に想像してしまいます。「わたしは神だ。わたしには、できないことなど何もない。わたしは天の父の御子だから、父にお願いして祈れば、何でもできる。」
ところが、聖書をご覧ください。イエス様は何とおっしゃられたでしょう。ご自分のことは一言も言われませんでした。こう告げたのです。「信じる者には何でもできる。」
ご自身がどなたかということではなく、父親の心めがけて、希望と約束の言葉を言ってくださいました。「あなたが信じる者になれば、あなたが、わたしに癒やしができると信じさえすれば、その願い、息子のための祈りは、必ずかなえられる。」
父親は、イエス様の言葉にすぐにお答えしました。「信じます!」
父親の心はパッと明るくなったはずです。今まで、誰もこんな希望と期待を抱かせてくれませんでした。これまで会った医師、祈禱師、占い師、民間療法を行う人々は、「おできになるならお願いします」という父親を、冷たい目で睨んだだけだったのではないでしょうか。
疑ってかかるのなら、やってやらないと意地悪を言う者もいたかもしれません。その人たちとイエス様は、まったく違う方であると、父親に瞬時にしてわかったのです。イエス様は、父親の、いえ私たち人間の、願いと不安、期待とおののきの間で揺れる弱さをそっくりそのまま受けとめてくださいます。私たちの魂を慰め、力づけてくださる主だからです。
さらに父親は、すぐ、声を張り上げて本当の思いをイエス様に言いました。息子のためではなく、自分のための心の底からの願いです。24節後半です。お読みします。「信仰のないわたしをお助けください。」
イエス様は、その父親の願いを受けとめ、即座に息子に取りついた霊に命令しました。「この子から出て行け。」そして、そのとおりになりました。息子は倒れ、一時は死んだように見えましたが、イエス様が手を取って起こされました。立ち上がり、新しいすこやかな人生を歩み始めたのです。
信じられないわたしを、お助けください ‒ これは、私たちの心の底にある真実の願いではないでしょうか。まだそれほど長く教会生活を送っていない頃、私たちはイエス様をこの目で見ることができないので、聖書で奇跡のみわざを読んでも、ついホントかな?と思ってしまったり、イエス様が本当におられるというしるしを、自分はどこに見せていただいているのかという疑いが湧いてきたりして、必死にそれを打ち消すために祈り、教会に通い、聖書について牧師に質問したり、信仰書を読んでみたりします。
教会生活を長く送る中で、私たちはそれぞれ試練に遭います。どうしてこんなひどいことが自分に起こるのか、または、イエス様がおられる教会なのに、どうして兄弟姉妹にこんなことを言われるのかと、涙にくれることもあります。そして、イエス様を疑ってしまうのです。
イエス様がおられることを、信じられなくなるのです。
イエス様は私を見守ってくださっていないのではないか、私のことなんか知らない雲の上の方ではないか ‒ そう思って、信仰が失われそうになります。私たちから信仰が失われそうになる時、それは、祈りがかなえられない時、長く忍耐しなければならない時、またあまりに理不尽としか思えないことが起こった苦難・困難・試練の時です。
今日の聖書箇所では、それは息子を苦しめる霊として表されています。父親は、苦しむ息子を見ながら、こんなことが自分と息子に起きてしまうということは、自分は神さまに見捨てられているのではないかと疑い始めます。霊、悪霊とは、そのように私たちと神さまの間に割り込んで、私たちを神さまから引き離そうとするものです。それがエデンの園でアダムとイブを誘った蛇であり、また今、私たちに襲いかかるさまざまな苦しみです。そして、その誘惑や試練に負けてしまい、神さまから遠のいてしまい、神さまを信じられなくなってしまうのが、私たちの心に潜む弱さです。悪です。罪です。
そこから神さまのもとへと引き戻して戴こうとする時に、必ず必要になる祈りが、今日の父親の最後の言葉です。「信仰のないわたしをお助けください。」何のために教会に行っているのか、イエス様はどこにおられるのか、とつい、疑いと不信が鎌首をもたげた時に、私たち全員が心の中で叫び、祈らなければならないことです。「信仰のないわたしを、お助けください。」
今日の御言葉は、私たちに実にたいせつなことを示してくれています。それは、私たちが自分の力で信仰を持つようになるのではないということです。教会の礼拝に通い、聖書を学び、それを積み重ねて、まるで学力をつけるように、信仰を自分で育ててゆくのでは、決してありません。
私たちはもともと、御言葉と聖霊を通して神さまに語りかけられ、それにお応えして祈って、神さまから信仰をいただきます。日々、信仰を新しく、改めて戴かなければ、だんだん神さまから離れてしまいます。もともと、私たちは弱く、悪に惹かれる罪深い者なのですから。
その弱い私たちを、必ず神さまの御許に、天の国、御国へ連れて行ってくださるために、イエス様は自ら私たちのその弱さ・罪を一身に背負って十字架に架かってくださいました。私たちの罪の贖いのためにご自身の命を捨て、しかし三日後によみがえられ、永遠の命の約束を高く掲げて、御国への道を開いて、私たちの先頭に立って進んでくださいます。
今日の父親の正直な信仰告白の言葉にならい、私たちも日々、自分の心をみつめ直し、祈りたく思います。「イエス様、わたしは、あなたを救い主と信じます。ですから、どうか、イエス様、あなたを信じる心を与えてください。信仰を与え続けてください。そこにしか、私の心のまことの平安と幸いはないのです。」
今日から始まる一週間、この祈りをおぼえ、日々、信仰を新たにされて、心明るく進み行きましょう。
2020年9月6日
説教題:神の国が現れる
聖 書:マラキ書3章23-24節、マルコによる福音書9章1-13節
また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどに白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、「雲」が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
(マルコによる福音書9章1-8節)
マルコによる福音書を読み進んでいます。前回は、イエス様がご自身こそ救い主としてこの世においでになったことを、ついに弟子たちと人々に宣言されました。しかし、十字架の出来事による救いのみわざにこめられた神さまの深い愛は、誰にも理解されないままでした。永遠の命の約束である復活は、もっと受け容れられませんでした。
それでも、イエス様はなかなか悟ることのできない人間を突き放すことなく、諦めて見捨てることなど決してなさいません。ご自身のもとへと力強く招いてくださいます。
前回の礼拝でご一緒にいただいたイエス様の御言葉は、今も皆さんの心に響き続けているのではないでしょうか。「わたしのあとに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
そして、前回の聖書箇所の最後に、イエス様は私たち人間にはたいへん不思議に思えることをおっしゃいました。9章1節です。お読みします。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
そして、今日の聖書箇所も、この御言葉から始まります。
「神の国が現れる」「力にあふれて現れる」 ‒ 今日の説教題といたしましたが、これはどういうことでしょう。私たちは「主の祈り」の中で「御国を来たらせたまえ」と祈ります。御国 ‒ 神の国が来てください・悲しみや苦しみといった欠け・欠陥のあるこの世が終わり、完全な神の御国が来るようにと、主日には毎回、こうして声をそろえて祈るのです。神さまの国が現れる・御国が来るのは、私たちの切実な願いです。しかし、その時は、まだ来ていません。
ところがイエス様は、2020年以上前の、マルコ福音書の時代に、今、ここに一緒にいる人々の中には、神の国が来るのを見るまで決して死なない人がいるとおっしゃったのです。イエス様の12人の弟子たちは、裏切り者ユダと、イエス様が母マリアの老後を託されたヨハネの他は、皆 殉教してこの世の命を終わっています。私たちが御国を待っているのですから、2020年以上も生きている人はいないはずです。
イエス様は、何をおっしゃったのでしょう。
それは、マルコ福音書9章2節から後の、今日の聖書箇所を読むとわかってまいります。イエス様は、先ほどお読みした不思議な言葉を言われた六日後、その時にその場にいた者の中から弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山、祈りの場に登られました。
そこで、彼らはイエス様のお姿が変わられたのを目の前で、ありありと目撃しました。イエス様の服は真っ白に輝き、その輝きのまばゆさは、この世のものではありませんでした。すると、エリヤが現れ、預言者モーセが現れました。旧約聖書で大預言者とされているエリヤ、モーセと、イエス様は親しく語り合い始めました。
エリヤが現れた ‒ これは何を意味しているのでしょう。今日の旧約聖書の聖句はこう語ります。「わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」(マラキ書3:23)
主の日とは、終わりの日・裁きの日のことです。神さまがこの世に来られ、私たち人間を神さまのものとされた聖なる者と、そうでない者に裁かれます。地は震い動き、誰もが必死で山に逃げなければならない苦難の時が来ます。ですから「恐るべき日」とイエス様は言われますが、それは同時に、不完全なこの世が終わり、神さまの国・御国がすべてとなる大いなる恵みの日です。今日の旧約聖書箇所 マラキ書3章23節によれば、エリヤが現れるのは、この日が来る前触れです。
またイエス様が、この世の姿とはまったく異なるお姿、神さまとしてのお姿をまばゆいまでの白い服に包まれてはっきりと示されました。
あまりのことに、イエス様の三人の弟子ペトロ、ヤコブ、ヨハネはおののきました。おののきながらも、ペトロはイエス様がエリヤ、モーセと語り合っている姿に感動して、思わず自分でも何を言っているのかわからない言葉を口走ります。ただ、一人一人のために仮小屋を建てると言ったのは、ペトロが真実に尊い神さまの御力と栄光に心を震わされたことを如実に表しています。仮小屋は、掘っ立て小屋ではありません。天幕と言ってもよいでしょう。礼拝をするために張るテントです。たいへんな労力をかけて立派な天幕を建て、そして、天幕は、かけた労力にもかかわらず、その目的を果たすとあとかたもなく片付けられることにこそ、意味があります。
すると、7節で雲が現れて弟子たちを覆いました。終わりの日に、主が雲に乗っておいでになる、その雲です。それがわかるのは、雲の中から声がしたからです。神さまの声は、イエス様こそがご自身の御子であることを告げました。その宣言の御言葉をお読みします。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
その時、すべてがこの世の日常に戻り、ただいつもの姿・自分たちと変わらぬ服を着たイエス様だけが一緒におられました。
この世にいながら、イエス様が選んで山に連れて登ったペトロ、ヤコブ、ヨハネは神の国の到来を目撃させて戴きました。今日の聖書箇所の最初の聖句・イエス様の不思議に思える御言葉に戻れば、彼らこそが「神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者」になったのです。イエス様は、必ず約束を守られ、ご自分の御言葉を成就させます。こうして三人は、この世に生きているうちに、神の国の到来と、神さまとしてのイエス様のお姿を見る者となりました。
皆さんは、“前味”という言葉をご存じでしょうか。
神の国・御国のすばらしさを、聖書は祝宴にたとえています。神さまに招かれた人々が互いに平和に、なごやかに集まり、神さまがその人々を美味しい食事と飲み物でもてなしてくださいます。
それがこの世の終わりに起こる前に、それに近いものをわずかにいただく ‒ この世にいながら、その幸いを味わわせていただく ‒ その実に大きな恵み、神さまの心の寛さと私たちへの慈しみがあらわれているのが“前味”です。私たちはそこまで深く、主に愛されています。
今日の御言葉を通して、ペトロ・ヤコブ・ヨハネの三人の弟子は、神の国の“前味”をいただきました。
実は、私たちも教会の礼拝の中で、この“前味”をいただきます。
それが、聖餐式です。
聖餐式は、もちろん、私たちの救いのために十字架で裂かれたイエス様の御体を命の糧・パンとしていただき、十字架でイエス様が流された血潮を杯として、イエス様の愛の犠牲を記念して執り行います。聖餐式では、その初めにこのように申します。「キリストのからだと血…この恵みのしるしは、わたしたちすべてを主において一つにします。今、御霊の神に支えられて、…互いに愛しあいながら主の再び来たりたもう日を待ち望みたいと思います。」この定められた言葉が語るように、私たちは主に招かれて聖餐式の場で思いをひとつとされ、あくまでもなごやかに、兄弟姉妹として互いを大切に思う心に満たされて、いつか到来する神の国の“前味”をいただきます。
今日の聖書箇所が語る出来事を、イエス様の弟子のうち三人が特に経験した神秘的な「証し」の記録だから、私たちには遠い雲の上の話だと受けとめてしまってはなりません。聖書の御言葉は、すべて私たちの今とつながり、私たちの今のあり方をリアルに支えてくれています。三人の弟子たちが経験した神の国の“前味”を、私たちも聖餐式でいただいているのです。聖餐式は、教会がこの世にありながら、天とつながっていることを私たちが実際に体をもって、食べること・飲むことを通してリアルに味わう大切な時なのです。
まことに残念ながら、私たちはコロナウイルスの感染のために、2月から聖餐式の執行ができておりません。しかし、今日の聖書箇所は、その私たちのために、聖餐式の尊さと恵みをあらためて知らせてくださろうと主に与えられた御言葉です。
やがて感染が収束し、安心して聖餐式に与るその日を、心一つにされて待ち望みましょう。
今の時を共に忍耐することで、私たちはさらに絆を堅くされています。互いを思いやり、苦しい時にこそ、この社会をなごませ、優しさがあふれることを共に祈っています。そのせつなる願いを、それぞれの場で祈りとして主に献げつつ、今日から始まる一週間の一日一日を歩んでまいりましょう。
2020年8月30日
説教題:あなたこそ我が救い主
聖 書:イザヤ書53章10節、マルコによる福音書8章27節-9章1節
イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに「人々はわたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教えられ始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
(マルコによる福音書8章27-34節)
マルコによる福音書を、ご一緒に読み進んでいます。四つある福音書のうち、最も短いこのマルコ福音書は全部で16の章から成っています。今日、第8章を読み終えて、ちょうど半分のところまで進みました。読んだ量のことを申し上げたいのではありません。今日から、特に心していただきたい箇所が始まることを、お知らせしたいのです。
いよいよマルコ福音書の後半に入る直前の今日の聖書箇所で、イエス様は実に重要なことをおっしゃいます。ご自分が救い主・メシアとしてこの世においでになったこと、十字架に架かり、三日後に復活されることを、はっきりと告げられました。今日の御言葉から、マルコ福音書は、それを読む私たちにはっきりとわかるかたちで、イエス様の十字架への道を語り始めます。もちろん、聖書を読む時、どの箇所を開いても、私たちは常に、十字架とご復活を心の中で仰ぎながら御言葉をたどります。それを踏まえた上でなお、私たちのために、世から排斥され、殺される道を進むイエス様を、ご一緒に深く心に留めてゆきたいと願うのです。
これまで共にマルコ福音書を読む中で、私たちはイエス様の真実のお姿が、誰にも分かっていなかったことを知らされています。確かに、どんな病もいやす、不思議ですばらしい力を持った人だとたいへん喜ばれていました。また、イエス様が語られる神さまのお話は、人々の心を震わせ、大きな励まし・希望・勇気を与えました。人々はイエス様が大好きで、イエス様を深く慕って、ぞろぞろとあとをついて来ました。しかし、人間の心の目は開かれていませんでした。心の耳も開かれていませんでした。誰も、イエス様が、何百年も待ち望んでいた救い主・メシアだとはっきりわかってはいなかったのです。
今日の聖書箇所で、イエス様は旅の途中で、歩きながら、おそらくわざと何気なく、弟子たちに尋ねました。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」何気なく問われたからこそ、弟子たちは気楽と申しましょうか、構えずにお応えしました。
洗礼者ヨハネだと言われています、と答えた弟子がいました。人の世から離れ、荒れ野で厳しく禁欲的な生活を送って人々の心を神さまに向けたヨハネです。ヨハネは、ヘロデ王の悪行を指摘し、批判し、ついにそのために牢に入れられ、ほんの戯れで殺されてしまいました。イエス様は、そのように清く正しい洗礼者ヨハネの再来だと言われていたのです。
エリヤと言われている、と答えた弟子もいました。ユダヤの人々はいつか、救い主メシアが現れると信じています。エリヤは旧約聖書の時代に生きた預言者です。救い主がおいでくださる直前に、もう一度、この世に現れて、メシアの来臨を告げると預言されています。
また、他の弟子は「預言者の一人だ」と言う人たちもいると言いました。神さまの言葉をいただき、この世に警告を発し、誤りを正して神さまの正義を示す者として、イエス様を見ていたことが分かります。
イエス様は、洗礼者ヨハネの再来、エリヤの再来。預言者。人々はこう噂していますよ、と弟子たちは答えましたが、その答えには、弟子たち自身の考えも反映されていたでしょう。みんながそう言ってイエス様のことをほめる、だから自分もそう思う、ということです。自分の先生であるイエス様は、ヨハネやエリヤのようなすばらしい方だ、預言者のように神さまの言葉を預かっておられるのだと、弟子として大いに誇らしく思っていたのです。
ところが、イエス様はさらに重ねて、こう尋ねられたました。29節です。「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか。」この問いに、12人の弟子たちは一瞬、心のうちで“ え!? ” と思ったでしょう。それまでワイワイと楽しげに話していたのに、一瞬、沈黙して緊張が走ったでしょう。洗礼者ヨハネ、エリヤ、預言者。この世で考えられる最高の人間です。イエス様はどうして、「それでは」と問われるのか。
イエス様の問いかけは、今日、ここにいる私たち一人一人への問いかけでもあります。厳しい問いです。教会では、みんながイエス様を誉め讃える ‒ だから自分も、というのは、信仰ではありません。イエス様がこの自分を、そのお命をもって救ってくださり、教会を通して天につなげてくださった方だから、私はイエス様を讃えます。皆さんも、そうでしょう。その信仰を確認させるために、イエス様は弟子たちに、あなたにとって私は誰かと、尋ねたのです。
私たちは、家族の間で、または夫婦の間、親しい友人同士で、こう問いかけることがあります。相手が自分を信頼してくれていないと思えた時、大切なこと ‒ 仕事がつらくてやめたいと思っている、体の調子が悪い ‒ そういうことを隠されていた時です。「どうして、そんな大事なことを私に話してくれなかったの? 私はあなたの何?」
教会でも、私たち同士の間で、これは切実な問いです。
私は毎日、祈る時に、神さまが私を薬円台教会に遣わしてくださったことを感謝します。私にとって、皆さんお一人お一人は、神さまが私に託してくださった大切な信徒さんです。私がお預かりした神さまの大切な羊です。しかし、皆さんにとって、私は何者でしょう。私は皆さんお一人お一人にとって、ちゃんと牧師でしょうか。私は震えるような思いをもって、そうであるように日々祈りを深め、学びを深め、主に頼らなければならないと思いを新たにされます。
皆さん同士も、お互いを、神さまの家族・兄弟姉妹と思っておられるでしょうか。そうあり続けるために、私たちは祈ります。
日々、互いに神さまから遣わされてお互いとの関わりをいただいていることを、自分の心にあらためて確認し、感謝し、続けて そう生きられるよう、祈りたい大切なことです。
さて、聖書に戻りましょう。一瞬の沈黙のあと、ほがらかに声を挙げたのは一番弟子のペトロでした。こう言ったのです。「イエス様、あなたはメシアです。」ヨハネよりも、エリヤよりも、旧約聖書の預言者たちよりも素晴らしい方と言ったら、もう、それは来るべき方・救い主メシアしかいないではないか ‒ ペトロは、そう考えたのでしょう。他の弟子たちも同じ思いで、それをペトロが声に出したのです。
しかし、この時、イエス様は、弟子たちが本当には、メシアとは何者かがわかっていないことを見通しておられました。そこで、今日の30節です。いったん、イエス様はそのことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められました。それから、あらためて弟子たちに、救い主・メシアとは何かを教えられました。
ご自分がこれから多くの苦しみを受け、ユダヤの指導者たちによって排斥されて殺され、三日後に復活されると告げたのです。真実です。
救い主とは、私たちに永遠の命を賜るために、ご自分はこの世の命を犠牲にしてくださる方です。
しかし、これをまだ知らない弟子たちは、ぎょっとして凍り付いたようになったに違いありません。死んで三日後の復活、この復活という言葉はほとんど耳に入らなかったでしょう。弟子たちにとって、イエス様が、自分はユダヤの指導者に排斥されて、つまり罪人とされて殺されるという言葉だけが、耳の中で雷のように轟き、大きな衝撃を与えたのです。弟子たちは思ったでしょう。イエス様はこれまで、確かに律法学者やファリサイ派の人々に激しく非難されたり、議論されたりすることはあったけれど、まさか、そんな大ごとになるはずがない。大好きなイエス様が、どうしてそんなことになってしまうのか。
イエス様と12人の弟子たち。生活を共にし、村から村、町から町へと一緒に旅をして、イエス様を中心に笑いと感動が尽きることがない、そういうすばらしい、いわばチームであり仲間だと弟子たちは思っていました。そこにはイエス様はいてくださらなくてならない方です。また、この心満たされる毎日が、ずっと続くものと信じていたのです。
弟子たちは、いっせいに青ざめました。それを、付き従っていた群衆は見ていました。イエス様を囲んだ弟子たち・いきいきとした命の輝きがきらめくようなグループが、目の前で どよ〜んと、世にも暗い一団に成り変わってしまったのです。
これはまずい、と思ったのが、一番年上、イエス様よりも年上のペトロでした。人々の希望の光であるイエス様、その弟子たちがこんな暗い顔になっては、人々が力を失ってしまう。罪人として殺されるような人の弟子なのかと思われたら、自分たちも恥ずかしい。しかし、群衆が見ているので、弟子である自分がイエス様に意見したら、ますます群衆の人気を失うと考えました。そこで、イエス様をわきへ連れて、おそらく小声で、年長者として叱りつけました。せっかく今までこうして人々に希望を与えてきたのに、何ということをいうのかと叱ったのです。ペトロは、群衆にイエス様と自分たち弟子がどう見えるかということしか、この時、頭にありませんでした。
イエス様の十字架の出来事とご復活の恵みを知っている私たちは知っています。イエス様がご自分を犠牲にされたことこそが、私たちの希望の源です。神さまは、そのためにイエス様を世に遣わされたのです。
神さまが、イエス様の十字架への道を備えてくださいました。神さまのご計画は、私たち人間の思いをはるかに高く超えています。
イエス様は、ペトロの叱責をおそらくさえぎって、それをペトロに、弟子たちに、また群衆に、つまりは私たち人間すべてにはっきりと言い渡されました。33節の言葉です。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
そして、人の目には恥としか思えない十字架での死刑が、天の神さまのご栄光を顕し、永遠の命の道を開くことを宣言されました。さらに、あらためて、弟子たちと、人々をご自分と共に歩む者として招かれました。
この招きの御言葉です。“わたしに従いたい者、わたしを通って神さまのものになりたい者は、自分すなわち人間の限界ある理屈・考えを捨て、わたしに従いなさい。わたしについて来る決断をしたために、この世から疎まれるとしても、それを自分の十字架として背負って、わたしと共に神さまへの道を歩み出そう。”
イエス様のお招きに、今日、私たちはあらためて応えましょう。自分の思い・人間の価値観でなく、神さまの御心を祈り求めましょう。イエス様、あなたこそわたしの救い主、そうお応えし、今日から始まる一週間、イエス様を通して神さまを仰ぎ見て、主に愛され、守られ、支えられる喜びに生きてまいりましょう。
2020年8月23日
説教題:目を上げて主を仰ぐ
聖 書:列王記下6章15-17節 、マルコによる福音書8章22-26節
一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。イエスは盲人の手を取って、村の外へ連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。
(マルコによる福音書8章22-26節)
今日、ご一緒にいただいている御言葉・ここに語られているイエス様のいやしのみわざは、前回、私たちが受けとめた恵みと密接につながっています。今日の聖書箇所は、イエス様が目の見えない人の目を開き、見えるようになさったことが告げられています。
司式者の聖書朗読を聞きながら、前回の御言葉を思い出した方も少なくないでしょう。それはイエス様の弟子たちへの嘆きの言葉です。イエス様はこうおっしゃられました。今日の箇所の少し前、17節から18節にかけてです。お読みします。
「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。」
この時、イエス様が弟子たち、また私たち人間について嘆かれたのは、神さまの恵みがわからないからでした。弟子たちは、その直前に、イエス様が耳の聞こえない人の耳を開かれたみわざをなさったことを知っていながら、また、イエス様が男の人だけでも五千人、四千人の空腹を満たされた時に、その場にいて自分たちもイエス様の働きに招き入れていただいてながら、なお神さまの恵みの豊かさがわかりません。また、イエス様を通して天の父に頼り、すがり、すべてをお任せすることができません。弟子たちは、舟の中でパンを持って来なかったことで言い合いをしました。自分たちの力で何とかしようとしても、どうにもならない時、人間は互いを責めて諍いを起こします。心を合わせてイエス様のお力にすがれば良いのに、そうできないのです。
このように自分の力を捨てきれないことを、聖書は「かたくな」と言います。このかたくなさのために、神さまと自分の間に高くて厚い壁を建て、せっかく神さまがそそいでくださる恵みをはじいてしまうのです。目が、耳が開いていても、この自我の壁のせいで、神さまの愛と恵みを見ることも聞くこともできません。
これが、マルコ福音書を読み進める中で、私たちが前回の聖書箇所まででいただいた厳しい戒めでした。
では、どうすればよいのでしょう。もちろん、私たち人間にはどうすることもできません。イエス様が私たちのために働かれ、力を尽くされて、私たちの耳を開き、目を開いてくださいます。イエス様こそが、神さまの御前へと一歩を歩み出させてくださるのです。
今日の聖書箇所には、その一歩が語られています。
イエス様は、このみわざを通して、目の見えない人の目を開いてくださいます。それを語る御言葉に聴いて、私たちも心の目、開いていながら見えていない心の目を神さまに向けて開いていただきましょう。
今日の最初の節・22節に、イエス様と弟子たちがベトサイダに着いたと記されています。ベトサイダはガリラヤ湖の北のほとりにある村で、イエス様の弟子 ペトロとアンドレ、フィリポはここの出身です。
マタイによる福音書では、イエス様がこの町でたくさんの奇跡のみわざをなさったにもかかわらず、真実に神さまの方へと心を向ける人が少なかったことが記されています。おそらく、この村の人たちは、イエス様のなさる奇跡に素直に驚いたでしょう。けれど、たいへん残念なことに、イエス様のことを魔法使いのような不思議な力を持った人だとしか受けとめられなかった ‒ そう考えられます。
イエス様と弟子たちの一行がベトサイダに着いてすぐ、人々は一人の目の見えない人をイエス様のところに連れて来ました。7章でご一緒に聴いた耳の聞こえない人の時と同じです。あの時は、人々は耳の聞こえない人の上に手を置いてくださいとイエス様にお願いしました。今日の箇所では、触れていただきたいとお願いしたとあります。
マタイによる福音書11章で、イエス様はベトサイダを嘆いて、ベトサイダ、お前は不幸だと叱りつけられました(マタイ11:21)。
そこのところだけを読むと、ベトサイダとその周辺の地方の人々がソドムやゴモラの町の人のように不道徳で堕落した、いわゆるならず者だったと思えてしまいます。しかし、そうではなかったようです。ベトサイダの村の人々は、困っている人を思いやる優しさを持っていました。どんな病もたちどころに治してくださるという評判のイエスという方にいやしてもらえるようにと、目の見えない人をイエス様のところに連れてきたのです。
よく、この世的な意味で、名医やたいへん上手な整体士やマッサージ士を賞賛する時に“ゴッドハンド・神の手を持つ”、または“カリスマ”という言葉が使われます。それは人間とは思えないようなすばらしい技術・わざや知識を讃えていることを意味しますが、その方の人格を含めてすべてを尊敬しているわけではないでしょう。
それと似たようなことで、この時、ベトサイダの人々はイエス様のいやしの力をすばらしいものとして求めていましたが、イエス様を、神さまの御子を求めていたわけではありませんでした。
触れるといやされる ‒ 魔法の杖を一降りしてもらえば、願い事がかなう ‒ そのような価値しか、イエス様に期待していなかったのです。
また、意地悪な読み方ですが、目の見えない人をイエス様のところに連れてきた人々の中には、そのような魔法を見物したいという好奇心を抱いていた人もいるかもしれません。思いやりの中に、少し濁った、人間的な汚らしさが混じっている、そんなところでしょうか。
イエス様は、それを見抜いておられました。ですから、23節で、「盲人の手を取って、村の外に連れ出し」たのです。イエス様は、この人を人々の中から一人だけ連れ出し、取り分けられました。取り分ける、別にする ‒ この言葉が聖書の元の言葉では「聖なる者」「神さまのものとする」という意味を持つことは、繰り返しお話ししたとおりです。
耳の見えない人と一対一で向き合われたように、この時も、イエス様は目の見えない人一人だけとの時間を持たれました。そして、その人の目にご自身の唾をつけ、両手をその人の上に置いて「何が見えるか」と尋ねられました。この人は、中途失明者 ‒ 子供の頃・若い頃は見えていたけれど、ケガや病気で失明した人だったと思われます。生まれつき目が見えなかったら、自分が何を見ているのか、言葉で表現することは難しいでしょう。イエス様は、それもご存じで、「何か見えるか」と尋ねられました。
イエス様は、この時、この人の横に並んで立って、この人の目を村の方に向けておられたと思います。正面に立っていたら、目を開かれたこの人に最初に見えてくるのはイエス様の顔だったでしょう。それはすばらしいことだと思います。しかし、私たちがイエス様と顔と顔を合わせてお会いできるのは、コリントの信徒への手紙一 13章12節にあるように、御国に行ってからです。
この世では、イエス様は私たちの隣に、横に並んで立ってくださるのです。同じ方向を向いて寄り添ってくださると言い換えても良いでしょう。一緒に前に進んで行くためです。私たちが疲れ果て、あるいは心がくじけて歩けなくなったら、今日の聖書箇所で目の見えないこの人の手を引いて村から出てくださった時のように、手を引き、歩みを支え、ついには抱き、背負ってくださって共に進み続けるためです。
さて、少しずつ見えるようになったこの人の目にぼんやりと映ったのは、自分をイエス様のところへと連れて来てくれた人々の姿、村の生活だったようです。「人が見えます」とこの人は言いました。この「人」は、日本語では表しようがなかったのかもしれませんが、複数です。「人が何人か見えます。何本もの木のように ‒ 確かに人は胴体が幹、腕や脚が枝のようで、木のように見えましょう ‒ 見えますが、歩いています。」
この人の目に最初に映ったこの世の風景は、あくせくと歩き回る人々の姿でした。神さまは私たち人間を、いつも見守ってくださっています。この時のイエス様も、もちろんそうでした。しかし、そのイエス様の真実の姿 ‒ 私たちのまことの救いのために十字架で命を捨ててくださる方という真実 ‒ を心の目で見ることが、私たち人間にはできません。神さまを忘れ、あるいは漠然と心の支えを求めながら、神さまの見守りの中で、うろうろと歩き回っています。ベトサイダの人々は、優しく人を思いやる心を持っています。そのように人間的に道徳的・模範的であることと、神さまを真実に仰ぐことは、実は違うことなのです。それは、今を生きる私たちも同じです。
私たちは自分の良心に従って、善く生きよう、人のためになろうと思います。しかし、教会においでになる前、イエス様に出会う前は、神さまが見えないので、どちらを向いたら神さまを仰げるのかわかりませんでした。イエス様に出会うまで、自分の力で何とかしよう・善く生きよう・人に優しく、自己を充実させ、豊かな人生を送ろうと思います。しかし、自分で何とかしようとしても、心に平安を感じられず、焦りながらむなしくうろうろしていたのではないでしょうか。
神さまの方を向くこと・神さまを仰ぐことを、神さまの方に心を回すと書いて回心と申します。別の言葉を用いれば、悔い改めることです。どこに神さまがおられるのか見えず、どっちに心を回せば良いのかわからず右往左往している、私たち弱い人間すべての姿です。神さまの助けと救いがぜひとも必要な迷った羊たち、人間の姿です。
この人間の姿を、イエス様は、この主に取り分けられた人が心に留める人間の本性を表す姿として、まずこの人に見せられました。
今日の聖書箇所には「見える」という言葉が、5回用いられています。この中で、聖書の元の言語・ギリシャ語では、少し異なる言葉が使われているところが一箇所だけあります。24節です。お読みします。「すると、盲人は見えるようになって、言った。」最初にぼんやりと視力が戻ってきた時に使われている「見えるようになって」。このところだけ、「仰ぐ」を意味すると同じ言葉が用いられています。五千人、四千人の空腹をイエス様が満たされるために、「天を仰いで」祈りを献げた時の「仰ぐ」と同じ言葉です。
目の見えなかったこの人は、イエス様に連れ出されて、物理的・生理的にいやされて本当に目が見えるようになりました。しかし、まず、それに先立って、心の目を開かれていたのです。イエス様に横に立っていただき、寄り添っていただいて、神さまを仰ぐ姿勢をいただきました。そして、イエス様は、神さまを仰ぐということをまだ知らない人々の迷える姿をこの人に見せました。
前に申し上げたことを、今また繰り返しお伝えします。この人は、イエス様によって、村から、この世的なものからいったん、連れ出されました。取り分けられ、イエス様と一対一のひとときを賜り、聖なるものとされて、神さまが共においでくださることを知ったのです。そして、主と共にいる平安に満たされた心で、まだ神さまをどうしたら仰げばよいかわからない人間の本質的な悲しみ ‒ これを人間の罪と言ってもよいでしょう ‒を、心の目で見つめ、知らされました。
こうして、一度主に手を引かれ、招かれ、イエス様と出会い、迷える人間の本質と哀しみ ‒ 罪 ‒ をイエス様に示された者・神さまに取り分けられて主のものとなった者は、新しくされて、この世に戻されます。
この時、イエス様は主に心を向ける目を新しく戴いたこの人を村に戻らず、そのまま家に帰るようにとおっしゃられました。
それは、主を仰ぐ新しい目・新しい心をいただいたばかりのこの人が、村に戻って、すぐこの世の人間的な思いにまみれるのを避けさせ、しばらく一人祈る時を家で持たせるためでした。それから、この人は自らの心の中にイエス様がおられることを確信し、聖なる者とされつつ、この世を生きてゆくよう備えられて、村で、この世で、生きてゆきます。
私たちは、それぞれの心の出来事をきっかけに主に招かれて教会へ来るようになりました。礼拝に通ううちに、主を自分の人生の中心にするようにと信仰を育てられます。それが、心の目を開かれ、イエス様に寄り添っていただいて、主を仰ぐ真実の思いをいただくということです。私たちは一週間に一度、日曜日のこの礼拝で、それを新しく、あらためて、いただきます。礼拝で、いわば更新され、清められて主のものとされます。そして、聖なる者として、礼拝が終わると祝祷と共にこのイエス様の体・教会から、この世へと遣わされてゆきます。私たちはキリスト者・クリスチャンとして、この世で、しかしこの世の人間的なものにまみれてしまうことなく、主を仰いで生きてゆくのです。
イエス様は、私たちが神さまの御前に進み出るための一歩をくださいます。これを毎週、繰り返すのがクリスチャンの人生の歩みです。
暑さが厳しく、その中で感染者数は上がり下がりしながらですが、拡大し続けています。感染防止のために、礼拝への出席を控えておられる方も、まだ多くおられます。その中ではありますが、イエス様が私たちの横に必ず寄り添ってくださることを、今週も日々、思い起こしつつ歩みましょう。イエス様に心の目を開いていただいて、主に選ばれ、主のものとされている恵みを感謝して、心安らかに進み行きましょう。
2020年8月16日
説教題:やわらかな心をいただく
聖 書:エレミヤ書5章20-23節、マルコによる福音書8章1-21節
「愚かで、心ない民よ、これを聞け。目があっても、見えず 耳があっても、聞こえない民。わたしを畏れ敬いもせず わたしの前におののきもしないのかと 主は言われる。
(エレミヤ書5章21-23節)
弟子たちはパンを持ってくるのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。そのとき、イエスはファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。イエスはそれに気付いて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」
(マルコによる福音書8章14-18節)
今日は、あまりに聖書箇所が長いので、皆さんは少し驚かれておいでかもしれません。しかし、この箇所は1節から21節のひとつのまとまりを成し、イエス様が弟子たちに、また時空を超えて、今私たちに伝えようとされているたいせつな事柄を語っています。さっと読むと確かに三つの出来事に分けることができるように思ってしまいますが、それらはすべてつながっているのです。
ここに語られている三つの出来事を順に簡単に見てまいりましょう。ひとつは1節から9節までで、イエス様がわずか七つのパンと少しの魚で、四千人の人々を満腹させてくださった奇跡の記録です。
二つ目は11節から13節までで、ファリサイ派の人々がイエス様に議論をしかけ、難癖をつけ、あら探しをしようとしました。イエス様は律法を神さまの愛に基づいて正しく解釈して語られますが、ファリサイ派の人々は、その証拠・しるしを見せろと迫りました。イエス様は、自分の正しさだけを信じているファリサイ派の人々のかたくなさを深く嘆かれました。
三つ目の出来事は、弟子たちがイエス様のなさっているみわざの本当の意味をいかに理解していないかを表しています。目があっても見えないのか、耳があっても聞こえないのかというイエス様の戒めは、前回の礼拝でご一緒に読んだばかりのイザヤ書の聖句「(救い主がおいでになる時)見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く」を思い起こさせます。
今、私は“思い起こさせる”と申しました。実は、これら三つの出来事 ‒ わずかなパンが実に大勢の人の空腹を満たした奇跡、ファリサイ派の人々のイエス様への攻撃と心のかたくなさ、真実を見る目と聞く耳を、イエス様が私たちに開いてくださろうとなさる三つの出来事すべてを、私たちは最近の礼拝で聴いた聖書箇所から“思い起こす”ことができます。
これらの三つの出来事を、イエス様と弟子たちはすでに経験していました。イエス様が男性だけで五千人の人々を、五つのパンと二匹の魚でお腹いっぱいにされた奇跡は、マルコ福音書の6章30節に記されています。私たちは、その箇所を7月5日の礼拝でいただきました。ファリサイ派と律法学者たちとの論争は7月26日の礼拝説教の聖書箇所でした。耳の聞こえない人の耳を開かれたのは、繰り返しになりますが、前回の礼拝でした。
たいへん興味深いのは、パンと魚の奇跡です。7月5日に読んだ出来事と、人の数、パンの数、パンの屑を集めていっぱいになった籠の数が違うだけで、あとはほとんど同じです。興味深いと申しますのは、一度あのような、実に印象深いことをイエス様がなさってくださったのですから、弟子たちはそれを覚えていてよさそうなものなのに、同じように困り果て、言う言葉まで同じです。どうして、イエス様の恵みを心にしっかりと刻んでおけないのかしらと思わなくもありません。
次の11節から13節では、自分たちの正しさを執拗に主張して、イエス様の律法解釈の証拠・しるしを見せろというファリサイ派の人々に対して、イエス様は怒りではなく、心の中に嘆き・悲しみを抱かれました。
そして、これら二つの事柄が、今日の聖書箇所の語る三つ目の出来事の伏線となっています。三つ目の出来事もパンをめぐってのことで、イエス様は弟子たちのかたくなさ・真実を悟ることのできない心の鈍さを戒められました。戒められているのは弟子たちですが、イエス様はファリサイ派の人々や、洗礼者ヨハネを亡き者にしたヘロデ王、ひいては人間そのものの本質に厳しい言葉を語られます。私たちも、もちろん、耳を傾けなければならないイエス様の教えです。
14節から、少し詳しく御言葉をご一緒に読んでまいりましょう。
イエス様は、弟子たちと舟に乗って、またガリラヤ湖を渡られました。この時、舟は順調に進んでいたようで、弟子たちは落ち着くと同時にお腹がすいてきました。何か食べようと言うことになったのでしょうけれど、パンがひとつしかありませんでした。
パンが足りない、というのはこれで三度目です。しかし、実は食べ物の準備をしておかないというのは、イエス様の弟子としていたらない、ダメな弟子だということにはなりません。イエス様は、弟子たち十二人をこれよりずっと前、初めて訓練のために伝道の旅に遣わされた時、こうおっしゃいました。6章8節です。お読みします。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履き物を履くように。」すべてを手放し、旅の先々で神さまの教えを語り、そのことを通して神さまが会わせてくださる人に、神さまにすがる思いで施しを受けるようにとイエス様は教えられました。神さまにだけ依り頼む信仰が育てられるように、また自我を捨てて、人の施しに頼るへりくだりを学ぶようにと導かれたのです。
そして、実際に食べ物がないという現実に直面すると、イエス様は天の父・神さまに祈って、五千人、四千人の人々に十分な食事を用意してくださいました。
ところが、弟子たちは覚えていることができません。伝道の旅に出かける時にパンは持たずに出発するようにと言われたことも、またイエス様の豊かな恵みの奇跡も、それを思い起こすことが必要な時に、思い出せないのです。
パンがない、と気付くと、弟子たちは反射的に失敗した、と思ったのでしょう。そして、おそらく、お前が忘れたのだろう、いや、何を言う、忘れたのはそっちじゃないかと責任のなすりあいを始めたのです。乗っているのは小さな舟ですから、弟子たちがごそごそと言い合っていたのは、イエス様に聞こえていました。
すると、イエス様はこう彼らを戒められました。15節です。「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種にはよく気をつけなさい。」どういう意味でしょう。
これは戒めですが、イエス様は弟子たちを叱ったわけではありません。イエス様がパン種を神の国にたとえられる箇所も確かにありますが、聖書でパン種は、あまり良くないことのたとえに用いられることの方が多いのです。パン種・イースト菌は発酵して膨らみ、大きくなります。この菌の発酵をカビや悪いものの繁殖とみなして、ユダヤの神殿の祭壇に供えるパンは、パン種を入れないと規定されていました。こうして、パン種は、じわじわと広がって大きく育つ悪をたとえるものとなりました。イエス様は、パンがないことで言い合いをしている弟子たちをなだめるように、こんな意味合いで15節の言葉をおっしゃったのではないでしょうか。「パンを持ってこなかったらしいけれど、律法を間違って解釈しているファリサイ派みたいなパン種や、ヨハネを亡き者にしたヘロデみたいな悪のパン種が入っているパンだったら、食べない方が良いくらいだ。そういうパンを持って来なかったのだから、かえって良かったではないか。」これはファリサイ派の人々やヘロデに対する痛烈な批判であり、戒めです。そして、むしろ、弟子たちを慰め、それほどに悪いファリサイ派やヘロデに気をつけなさいと教えておられます。
しかし、弟子たちには少しもイエス様のおっしゃっている意味がわかりませんでした。自分たちがパンを持ってきていないから、イエス様が怒っていると思ってさらに言い合う声が高くなってしまいました。
それが、イエス様を嘆かせたのです。イエス様は17節から18節で、ついに悲痛と言って良いような言葉をおっしゃられました。
お読みします。
「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」
覚えていないのか ‒ そうなのです。弟子たちは、イエス様にパンを持たずにでかけなさいと言われたことを忘れ、五千人、四千人をイエス様が満たされたことを忘れています。そこにこめられた意味・神さまにこそ頼れば良いのだという主の愛を、心と魂で受けとめていないから、真実に胸に刻み込んでいないから、覚えていられないのです。
これは、今、私たちにも告げられている主の、イエス様の嘆きの言葉です。私たちも、苦しみや苦難の中で、神さまに愛されて造られ、豊かな恵みをいただいて神さまの子とされ、教会に生きる喜びを忘れてしまいます。
どうして神さまの愛を忘れ、幼子のようにその恵みを受け容れられないのでしょう。自我が邪魔をするのです。パンがない、お腹がすいた。この時、赤ちゃんは自分でどうにかしようとせず、ただ泣きます。親が与えてくれるのを信じて、泣くのです。しかし、私たちは自分で少し何かができるようになると、泣かずに工夫し、頑張るようになります。
人間の次元で考える限り、これは立派な成長です。
しかし、神さまがご覧になれば、私たちはいつまでたっても神さまの子どもです。何もできない、神さまに頼るしかない赤ちゃんです。
そして、それをきっちりとわきまえて、自分に頼らず、力を捨て、神さまだけにすがる心を備えていなければなりません。
自分に頼り、人間の次元・レベルで考えるから、ファリサイ派の人々は律法から神さまの愛をくみとることができなくなってしまいました。
自分に頼ることを、聖書は「かたくな」と言います。
自分の力に頼ることで、神さまと自分の間に堅い壁を築き、主の恵みをはじいてしまうのです。目が、耳が開いていても、この自我の壁のせいで、神さまの愛と恵みを見ることも聞くこともできません。
イエス様は、この私たちの自我にかたくなにしがみついてしまう罪から、私たちを解放してくださるために十字架に架かってくださいました。そして、ご復活により、私たちが永遠に神さまの幼子でいられる道を開いてくださったのです。
かたくなな自我を捨て、やわらかな心をいただきましょう。
神さまがくださる恵みを、クッションのように深く沈めて受けとめられる信仰を育てていただきましょう。
猛暑の中、そして感染拡大が収まらない中ですが、日々、そうしていただく恵みを、イエス様に目を開いていただいて見えるように、また耳を開いていただいて聞こえるようにしていただきたいものです。そして、そそがれている恵みに感謝して、今週一週間を歩みゆきましょう。
2020年8月9日
説教題:耳よ開け、舌よ解かれよ
聖 書:イザヤ書35章4-5節 、マルコによる福音書7章31−37節
心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。
(イザヤ書35章4-5節)
それからまた、イエスはティルス地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
(マルコによる福音書7:31−37)
今日の新約聖書の聖書箇所 マルコによる福音書第7章31節で、イエス様は弟子たちと旅を続けたことが記されています。前回、フェニキアの女性の頼みを聞き入れ、その娘から悪霊を追い出されたみわざを、ご一緒に読みました。イエス様はその後、さらにユダヤから遠く離れて異邦の地・北のシドンへ向かわれました。シドンから、今度は南へ、東の異邦の地デカポリスを通って、ガリラヤ湖へ戻って来られました。しばらくユダヤから遠く離れ、外国・異邦の地で、イエス様はようやく、天のお父様と過ごす祈りの時間を持つことができたのでしょう。また、弟子たちと語らい、弟子たちを教えられる時も持たれたでありましょう。
こうして、イエス様はガリラヤ湖へ帰って来られました。人々は、イエス様を待っていました。イエス様に癒やしていただきたい人が大勢いたのです。耳が聞こえず、舌の回らない人を、人々はイエス様の前に連れて来ました。「舌の回らない」とは、たいへんリアルな表現です。耳の不自由な方は、自分の声が聞こえません。私たちは話をする時、いつも自分の声を自分で聞いて、確かめながら舌の動きや声の出し方を調整するので、ある程度は、はきはきと話せます。耳の不自由な方には、そのフィードバックがたいへん困難なのです。
今日の聖書箇所で、耳の聞こえない人の知人・友人は、まわりの人と意思疎通・コミュニケーションを取りにくいその人の孤独を、何とかしてあげたいと思ったのでしょう。彼らは、イエス様の服の裾に触れた女性がたちどころに癒やされたことや、時には、イエス様が病人に触れず、御言葉だけで、癒やしたことを見たり、聞いたりしていました。ですから、イエス様にこう頼んだのです。“その人の上に手を置いてください。”子どもたちを祝福したように、そうしてくだされば、きっとこの人の耳は聞こえるようになると、人々は考えていたのでしょう。
ところが、イエス様は、人々が望んだようにはなさいませんでした。
今日の聖書箇所の33節をお読みします。「そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。」
これまでになさった癒やしのみわざと、違うことをなさいました。
違う点は、二つあります。
ひとつは、群衆の中からこの耳の不自由な人だけを連れ出したこと。
もうひとつは、これまでのように、ただ一言で、またはただ触れて、癒やされたのではなく、手順がいくらか多いことです。
イエス様は、これらの“いつもと違うこと”を通して、人々に、また今は御言葉を通して私たちに大切なことを示そうとされています。
まずひとつめです。イエス様は、群衆の中からこの耳の不自由な人だけを連れ出されました。この人だけと、向き合おうとされたのです。
神さまの恵みは、社会全体に及び、教会全体を満たします。今、私たちはこの世界全体の感染収束を祈り願っています。また、薬円台教会の成長発展を祈っています。また一方で、私たちはそれぞれに、それぞれが抱えている悩みや苦しみといった、一人一人の課題の解決を願っています。私たち一人一人が祈る時、主は親身に、そのただ一人の声に耳を傾けてくださり、その一人に寄り添い、そして主の時が満ちる時、その人のために最も良い打開の道を開いてくださいます。
主が一人一人の祈りに応えてくださる応え方は、本来、群衆・人々の前で、言葉はよくありませんが、まるで見世物のように行うことではありません。イエス様は、苦しむ人一人と、一対一の出会いと、一対一の時間、ただその人だけのための時間と力を持ってくださいます。
長年、出血に苦しんでいた女性が、こっそりとイエス様の服の裾に後ろから触れて癒やされた時のことを、皆さんは覚えておいででしょうか。マルコ福音書5章が語る出来事です。この時、イエス様は、誰がご自分に触れたかをご存じでした。しかし、あえて、この女性を呼び出されたのです。顔と顔を合わせて会うためでした。そして、女性の心の中でおそらく一瞬の葛藤があり、群衆の前でさらしものになってしまうことの恐ろしさよりも、イエス様に招かれ、名を呼ばれた恵みの喜びが優りました。
イエス様は、今日の聖書箇所で、あらためて私たち一人一人が主に造られ、主に特別な一人として愛され、神さまの御前に、かけがえのない一人として立たせていただく幸いを示してくださいます。
ふたつめとして、先ほど、イエス様が癒やしに用いられた手順が、いつもよりも多いことをお話ししました。ここで、イエス様はもうひとつの大切なことを私たちに示そうとされています。
それは、イエス様は癒やしのみわざ、またあらゆる奇跡を、私たち人間が考えるほどには、簡単になさっているのではないということです。
確かに、人間の目には簡単なことのように見えます。およそ人間の力の及ばないことを、イエス様はあっという間になさるのです。命の絶えた娘が生き返り、全身が麻痺していた人がたちまち起き上がれるようになり、十二年もの長く苦しかった病気が癒やされます。
イエス様のお父様、天の父は、六日間で天地を造られました。
しかし、神さまがそのみわざを、簡単になさったとは聖書のどこにも書いてありません。むしろ、その御力を用いられたことが、旧約聖書の多くの箇所に記されています。善いものをこの世にもたらし、この世を善いもので満たすために、神さまは心を尽くし、御力をそそぎ、愛をこめて、天地を創造されたのではないでしょうか。
また、十二年間、病に苦しんでいた女性がイエス様の服の裾に触れた時、イエス様は、こうおっしゃいました。「自分の内から力が出て行ったことに気付いた」(マルコ5:30)。イエス様が、また神さまが、また今は聖霊が、私たちのために働かれる時、私たちの主は御力を用いてくださいます。
耳の聞こえない人をイエス様の前に連れて来た人々は、そのことにまったく気付かなかったのでしょう。友人の耳を聞こえるようにしてもらいたいという優しい心・善意でいっぱいの人々ですが、逆に神さまであるイエス様に命令してしまっています。「この人の上に、手を置いてください」と。
イエス様が、この耳の聞こえない人のために御力を用いられたのが、はっきりとわかる言葉があります。34節です。その言葉を、お読みします。「天を仰いで深く息をつき」。天を仰いで ‒ イエス様は、天の父に祈っておられます。天のお父様とご自分との強い愛の絆に、この耳の聞こえない人を招き入れてくださる祈りです。
そして、「深く息をつ」かれました。この言葉は、元の聖書の言葉では「うめく」「苦しみもだえる」と同じです。イエス様は、苦しむ者に寄り添ってくださいます。寄り添うとは、その人の隣にいて、同じ思いを分かち合うことです。私たち人間には、実は不可能なことです。どれほど大切に思っている人であっても、本当にその人の苦しみを、私たちは自分の痛みとして引き受けることができません。
ケガや病気で痛いとうめく方の、その痛みを、私たちは自分の肉体では感じることができません。ですから、イヤな厳しい言い方になってしまいますが、私たち人間の慰めは、どれほどに心をこめても、究極的には表面だけのきれいごとにならざるを得ないのです。それが、私たち人間の限界です。自己、エゴという自己中心の殻を破れない私たちの罪の根源でもありましょう。
イエス様は、私たちの痛み・苦しみを引き受けてくださいます。何でもおできになる神さまだからです。
耳の聞こえないこの人の孤独や先行きの不安を、イエス様はご自身のこととして分かち合われました。そして、天の父にその苦難からの解放を共に祈ってくださったのです。言葉を話すことのできない、この人のために。
イエス様は、「エッファタ(開け)」と言われました。耳よ開け、舌よ、そのもつれを解かれよ、解放されよ、そう祈ってくださいました。
35節には、こう記されています。「たちまち耳は開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」
イエス様は、この癒やしの奇跡を話してはいけない、と人々に口止めされました。それは、この人の上に手を置いてくださいとイエス様に頼みに来た人々には、この奇跡の真実の意味がわからないことを知り尽くしておられたからです。このことを、単なる魔法のようなことだと誤解されて言いふらされるのを、イエス様は望まれませんでした。
なぜなら、耳を開くことは、神さまのみわざであり、それをなさったということは、イエス様が救いの主・メシアであることをあらわしているからです。
今日の旧約聖書の御言葉をご覧ください。お読みします。「心おののく人に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。(この神こそ、メシア、イエス様のことです)…そのとき、見えない人の目は開き、聞こえない人の耳が開く。」
私たち人間の目は、普通に、いわゆる生理学的に、視力を備え、見えているようで真実を見抜いていないことがあります。同様に、生理学的には聞く力・聴力を備えていても、真実を聞き分けることができずに風評に惑わされること、どうしたらよいのか戸惑うことが、どれほど多いことでしょう。それは、昨今の感染への社会の言動を見ても、明らかです。
聖書は、それを罪と呼びます。イエス様は、この耳の聞こえない人の苦しみを引き受けてくださったように、この後、私たちすべての罪を引き受けてくださって、十字架に架かられました。肉を裂かれ、血を流してくださいました。それは、この罪から私たちを解放し、ご復活によって天の父への道・御国への道を、開いてくださるためだったのです。
私たちは聖餐式で、イエス様の御体なるパンと血潮なる杯に与って、この恵みを言葉と体で知ります。今、感染予防のために聖餐式に与れないことは、たいへん寂しく残念なことです。しかし、せめて今、御言葉で、イエス様が私たちのために力を尽くしてくださって、十字架の出来事とご復活で私たちを御国の希望のうちに置いてくださっていることを、しっかりと心に留めて感謝いたしましょう。
私たちの耳と目が、聖書の御言葉と主の真実に向けて開かれることを、日々祈りつつ、今週も進み行きましょう。
2020年8月2日
説教題:御前に伏して祈る
聖 書:イザヤ書52章10節 、マルコによる福音書7章24−30節
主は聖なる御腕の力を 国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が わたしたちの神の救いを仰ぐ。
(イザヤ書52章10節)
イエスは、そこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
(マルコによる福音書7章24−23節)
私たちはマルコ福音書を読み進みながら、イエス様が その御業をとおして人々に、またそれを伝える御言葉を通して私たちに、深い愛をそそいでくださった恵みをいただいています。と同時に、人間の思いをはるかに超える神さまの思い・その目の覚めるような驚きの真実を知らされています。
前々回の主日礼拝7月19日、前回26日、そして今日の礼拝でいただくマルコ福音書7章の御言葉では、イエス様を通して、人々の知性と感性の限界を打ち破る神さまの真実が三つ、伝えられています。
前々回19日の御言葉で、イエス様は人間が自分の行いや努力で神さまの御心にかなう信仰を身に付けられるものではない、と教えてくださいました。私たちが幼子のように素直に、神さまだけにすがる時、神さまは私たちを“我が子”としてくださり、守り通してくださるのです。それが、聖なる者にされる、信仰を与えられる恵みです。
前回26日、イエス様は私たち人間の心に罪の根源・悪が潜んでいることを厳しく伝えられました。私たちは自分では正義を貫いていると信じて、違う意見や立場の人々を非難します。非難は憎しみを生み、論争になります。言葉の応酬で決着できないと、人間は戦争を起こします。そのように争いを招く正義は、真実の正義でしょうか。折しも、今日は日本基督教団が定めた「平和聖日」です。私たちが貫くのは自分の正義ではなく、神さまの正しさでなければなりません。憎しみではなく理解と思いやりをもって互いに歩み寄り、未来へと平和を築いてゆくことを、主は私たちに期待してくださっています。
さて、今日の聖書箇所で、私たちは三つ目の神さまの真実をイエス様の言葉と行いから教えられています。そして、それは まことにこの日・平和聖日にふさわしい御言葉でもあります。
イエス様は、ご自分に洗礼を授けたヨハネがヘロデ王により無残な最後を遂げてから、ずっと神さまとの静かな時間を求めておられました。ヨハネの死は、6章半ばに記されています。この悲惨な出来事は、イエス様が12人の弟子たちを、訓練の意味もあって、二人ずつ伝道に遣わした直後に起こりました。
ヨハネの死に、イエス様は心を痛められました。また、イエス様は、弟子たちの訓練のためにも、人々・群衆から離れて神さまに祈りを献げる時間を持とうとされていました。
しかし、人々・群衆は、イエス様と弟子たちを追いかけてきます。そのために、イエス様は、お腹をすかせた男性だけでも五千人の人々を養うみわざを行われました。その後、イエス様は弟子たちだけを舟に乗せ、やっとお一人になられ、御父に祈りを献げるために山に行かれました。ところが、弟子たちは湖で逆風に遭い、イエス様は水の上を歩かれて助けに行かれました。イエス様は、天のお父様とだけのたいせつな時間を、本当になかなか、お持ちになることができません。私たち人間が、その妨げをしてしまいます。それは、イエス様に癒やされたい、イエス様のお話を聞きたいという、自分の願いを満たすためです。イエス様への思いやりや配慮はありません。ところが、そんな私たちに、イエス様は必ず、ご自身の力と時間を犠牲にして、寄り添ってくださるのです。
さて、今日の聖書箇所の冒頭でも、イエス様が人々・群衆を避けておられたことが記されています。聖書はこう語ります。お読みします。「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気付かれてしまった。」
聖書の後ろの方にある地図をご覧になるとわかりますが、このティルス地方は、地図のずっと上、北の方です。もはやイスラエル、ユダヤの地ではありません。海の民と呼ばれ、舟を操ることがたいへん巧みで、地中海貿易を盛んに行ったフェニキア人の土地です。ユダヤ人から見れば、外国です。異邦人の土地です。ここに、イエス様が祈りの日々を過ごしたいと願っておいでのことを知っていた人がいたのです。その人は、イエス様を自分の家にかくまうように住まわせました。
ところが、やっぱり、イエス様がいやしの御業を行うこと、そして今、フェニキア地方のその家におられることが、人々にわかってしまったのです。
その中の一人の女性がイエス様の足元にひれ伏して、悪霊に取りつかれて苦しんでいる娘を助けてくださいと必死に頼みました。
その女性にイエス様が応えておっしゃった言葉に、私たちは少し戸惑います。27節をお読みします。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
イエス様は、このたとえで何を伝えようとなさったのでしょう。
ここで、思い起こしておきたいことがあります。それは、ユダヤの人々は、外国人・異邦人に、私たちが海外からの方に対して感じる感じ方とはまったく違う思いを持っていたということです。
ユダヤの人々は、自分たちの民族は、神さまの宝の民だと信じています。外国人・異邦人は、神さまを知りません。自分たちの手で木や石から造った、命のない偶像を祭っています。神さまは偶像崇拝を厳しく禁じられていますから、ユダヤ人でない異邦人は、罪人です。汚れた人たちなので、一緒に食事をしませんでした。できるだけ、関わりを持たないように生活していました。ですから、外国人・異邦人に自分たちの神さまのことを伝える・伝道するという思いはまったくありませんでした。神さまは、自分たちユダヤ人だけの神さまで、自分たちだけを守り、恵みをくださるという独占意識だけを当たり前のように持っていたのです。
イエス様は、神さまがユダヤの人々が心豊かに、力を合わせて安心して生活できる共同体を築けるようにと、社会のきまりごとをくださいました。それが十戒を始めとする律法です。
ユダヤの社会的指導者である律法学者・祭司、イエス様と論争を繰り広げるファリサイ派の人達は、この律法の研究者であり、律法をユダヤの人々に教える立場にありました。しかし、律法がすばらしいと知っているはずなのに、それをユダヤ人以外の人に教えよう、伝道しようとする思いは微塵もありませんでした。神様の恵みは、自分たち神の宝の民が独占する ‒ そのような、民族的なエゴイズムとエリート主義が、外国人に対するユダヤの当たり前の態度だったのです。
皮肉なことに、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、このように独占して守っている律法を間違って解釈していました。人間の知性だけで考えたために、神さまの愛がすっぽり抜け落ちた解釈をしていたのです。イエス様は、父である神さまに遣わされて、その誤りを正そうとされていました。すでに、前々回、前回の礼拝説教でお伝えしたとおりです。
律法解釈の誤りを正すとは、まず“律法を知っている”人たちが対象になります。ここで、先ほどの27節、イエス様がフェニキアの、娘をいやして欲しいと頼んだ女性に答えた言葉をもう一度お読みします。
「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
私たちがイエス様の御言葉を聴く時に心しなければならないのは、イエス様は真実・真理・事実、本当のことを、ありのままにおっしゃるということです。きれいな言葉でその場を取り繕うこと、根拠のない慰めをおっしゃることは、なさいません。ですから、私たちはこの言葉を聞いて、驚くのです。子供とは、神さまの子・宝の民、ユダヤ人のことです。ユダヤ人のものとするパンは、ご自身また父なる神さまの恵みをさします。また「犬」は民・人間ではないですから、外国人・異邦人を“民ではない”と隔てた表現です。イエス様は、足元にひれ伏した外国人の母親に“ユダヤ人に与えるべき神さまの恵みの御言葉・いやしのみわざを、外国人にはしてはならない”と言われました。それは、真実です。
神さまの恵みのきまりごと・律法を知っているのは、今のところ、それを受けたユダヤ人だけです。イエス様は、その彼らの間違いを正しにおいでになったのですから、“まず、神さまは、ユダヤ人に正しい恵みを授ける”と言われました。
ところが、このようにイエス様に言われても、フェニキア人の母親はひるみませんでした。イエス様は、実は以前にも、ユダヤ人ではない外国人、ゲラサ人から悪霊を追いだしておられます。私たちはその出来事をマルコによる福音書5章で、ご一緒に読みました。その噂は、フェニキアにも届いていたことでしょう。
もうひとつ、私たちが注目したいことがあります。それはこの時代の女性の社会的地位の低さです。イエス様がマルコ福音書6章で五つのパンと二匹の魚の奇跡を行った時、そこに集まった群衆の中で“人”として数えられたのは男性だけでした。6章44節に、このように記されています。「パンを食べた人は男が五千人であった。」女性は、数のうちに入れられていなかったのです。日本語にも、古い表現すなわち古い考え方の表れとして“女子ども”という言葉がありますが、共通しているかもしれません。女性の意見や女性の願いを、まともに取り合おうとしない差別が当たり前のこととして行われていたのです。
しかし、そのような風潮の中で、イエス様は女性としっかりと向き合ってくださいます。すでに私たちは、マルコ福音書5章で、イエス様がゲラサの人から悪霊を追いだしてユダヤに戻られてすぐ、群衆にまぎれてイエス様の衣の裾に触れ、癒やされようとした女性にまっすぐ声をかけておられます。また、会堂長の娘をよみがえらせたのは、さらにそのすぐ後でした。女性が一人前の人間として数えられることのなかった時代に、イエス様は女性一人一人をみつめ、その願いを受けとめ、真実の命を与えてくださる方です。
今日の聖書箇所で、フェニキア人の母親はユダヤ人の男性から二重に差別される立場にありました。偶像崇拝をする外国人であり、女性だったからです。イエス様は、この母親を“小犬”と呼びました。私たちは、ドキッとせずにはおれません。当時のユダヤ人男性の感覚を、イエス様は敢えてそのまま、言葉にされたのです。
“試練”という言葉があります。神さまは、私たち人間を試されます。それが、信仰のための訓練、試練ということがあるのです。イザヤ書で神さまが人間を「虫けら」と呼ばれる箇所があります。イザヤ章14節です。神さまからご覧になれば、これは真実であり、事実です。虫も人間も、神さまがお造りになったもので、どちらも、神さまは思いのままに滅ぼすこと、踏みつぶすことがおできになります。信仰者にとって、神さまを信じる者にとって、神さまは、それほどに大きな権限、主権をお持ちです。
神さまに「虫けら」と呼ばれて、私たちは素直に、はい、そのとおりですと受け入れることができるでしょうか。
これは、ひとつの試練です。
神学校の学生だった時に、こう、教えられました。私たちは、神さまに虫けらと呼ばれても、まさに自分は神さまの御前ではそのとおりに小さく賤しく、何の力も持たない者だと、謙虚に、自然に受け容れられる信仰をいただけるように祈りなさいね。先生方は私たち学生にこのように語り、またそのために祈ってくださいました。
なぜなら、私たちは、「虫けら」と呼ばれると、つい怒りを感じるからです。今日の聖書箇所で言えば、フェニキア人の母親が「小犬」と呼ばれて、激しい屈辱と怒りを感じて、フンッと立ち去るか、泣きわめくかしても、それほどおかしなリアクションではないでしょう。
ところが、この母親は驚くような答えをしました。28節です。聖書そのものが、「ところが」と始まっています。お読みします。
「ところが、女は答えて言った。『主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。』」
今、マルコ福音書を7章まで読み進んでいますが、イエス様を「主よ」と呼んだのは、この女性が始めてです。私の命と人生のすべてを支配される主よ、あなたの御前では私は小犬です、虫けらです、とイエス様の言葉をそのとおりに受けとめ、それでもパン屑を、恵みのおこぼれをくださいと願いました。
私たちは自分を大切にする自尊心を持っています。しかし、神さまの御前では、プライドを捨て、自分の知恵が神さまの教えと違っていたら、間違っているのでは自分だと自らの不完全さを顧み、ひれ伏す謙虚さを持たなければなりません。
イエス様は、このフェニキア人の母親の謙虚な心を受けとめ、その娘から悪霊を追いだしてくださいという、その願いをかなえられました。
イエス様は、この社会でどれほど小さく見える者、どれほど力無く見える者も、分け隔てなく愛してくださいます。外国人も、女性も、皆、等しく神さまの宝の民だからです。それは、当時のユダヤ社会の常識と自然な感覚をひっくり返す、まったく新しい事柄でした。いいえ、今も、新しいこととして私たちは受けとめなければなりません。
私たちは、すぐに差別をしたがるからです。今 私たちに起こっていることで申せば、感染者やその家族を悪いことでもしたように見てしまったり、ひどい場合には医療者のお子さんを保育園が預かり拒否をしたりしたことが報道されています。どんな時も、どんな人も、分け隔て無く接するのは、私たち人間にとって、たいへん難しいことなのです。
しかし、分け隔てをしないことこそが、平和への道を開きます。
分け隔てをしたがり、差別をしたがり、競い合う私たちの罪を滅ぼしてくださるために、イエス様は十字架に架かってくださいました。
私たちもイエス様のあとに従って、自分の勝手な思いを捨て、歩んでゆきたいと願います。今週一週間、イエス様の御前に、主の御前に、自分を投げ出しておゆだねし、ひれ伏す心を持ち続けましょう。
2020年7月26日
説教題:清められる幸い
聖 書:詩編51編12-14節 、マルコによる福音書7章14−23節
それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。…イエスは言われた。「… すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
(マルコによる福音書7章14−23節)
今日もマルコによる福音書から、恵みをいただこうとしています。
イエス様はまったき神・またまったき人として、天の父なる神さまからこの世に遣わされました。信仰とは関わりないことを説教で語るのは好ましいことではありませんが、今日はその必要があると判断してお話しします。
キリスト者ではない歴史家・歴史研究者が、イエス様を人間の歴史に現れた驚くべき方として、このような表現を使って教科書等の中で紹介・説明することがあります。“それまで、一民族の信仰だったユダヤ教を、世界宗教へと変えた一大宗教改革者・宗教的天才。”神さまであるイエス様を、天才と呼ぶこと自体に、私たち信仰者は何と畏れ多い無礼なことを、と思わずにはいられません。ただ、この歴史研究者の見解は、事実を確かに見据えています。イエス様が地上で伝道されたのは、神さまが人間に与えてくださった掟・律法の真実に正しい解釈でした。
前回の礼拝の聖書箇所で、イエス様はそれまでの律法解釈とはまったく異なる、目の覚めるような新しい掟の理解を語られました。
私たち人間は、努力して何かをやりとげようとします。それはそれで価値あること・大切なことですが、神さまの御前にあっては、私たちは努力して聖なる者にはなれません。聖書に言われているように、自分の力を捨て、すべてをすっかり神さまにおゆだねします。自分の力だけに頼ることはかえって傲慢です。私たちを清めてくださる神さまの愛と御力を否定することになるからです。
前回の聖書箇所で、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、ユダヤで古くから守られている言い伝えに従って、自分の力で自分を清められると思い込んでしまいました。イエス様は、その人間中心・人間の自己中心の考えや感覚から生まれる傲慢をひっくり返されました。神さまこそが、ただお一人、私たちを清められる方だと教えてくださったのです。これは、人間の認識の大改革です。
今日の聖書箇所は、それに続けて、イエス様はさらに人間の本質に迫ります。
人間は、自分は中道を行くと申しますか、もともと良くも悪くもないニュートラルな存在だと自分のことを勝手に考えがちです。良いものが心にそそぎこまれ、良い教育を受け、良い環境と友だちに恵まれれば、自分は良い者になれる。逆に環境が悪く、もっと申せばいわゆる運が悪ければ、悪人になってしまう ‒ そのように、社会のせい・育ちのせいにしたがるところがあります。
今日の聖書箇所で、イエス様は、その私たちが何となく感じていることを、きっぱりと否定されます。外から人に入るものは人を汚さない・悪くなどしない、ただし、「人の中から出てくるものが人を汚す」と、私たちの中・心の中にこそ、罪が宿っている厳しい真実を語られました。このことも、人間の本質について、当時にあっても、また今を生きる私たちにとっても、日常の中に埋もれて忘れがちな真実であり、神さまを知らない者にとっては実に革新的な事実です。
さて、そのイエス様が言われた御言葉をご一緒に聞いて参りましょう。今日の最初の聖句、14節をご覧ください。
イエス様は「群衆を呼び寄せて言われた」と記されています。群衆とは、イエス様と、ファリサイ派や律法学者たちが論争しているのを遠巻きにして、どうなることかと見守っていた人々をさします。
人々はこの時、途方に暮れていたはずです。彼らは皆、イエス様のことが大好きでした。神さまの恵みを分かり易く語って教え、伝えてくださり、病や体の不自由なところを癒やしてくださるイエス様を、誰もが慕っていました。一方で、ファリサイ派の人々と律法学者たちは、社会的指導者・学識者で、尊敬しなければならない人たち・言うことを聞かなければならない偉い人たちだったのです。
イエス様と、律法の専門家。どちらが真実を語っているか、群衆は戸惑っていたでしょう。自分たちが頭を下げて従うことしかできないファリサイ派の人々や律法学者たちを、若い青年のイエス様が堂々と叱りつけたことに驚いてもいたでしょう。
その人々をイエス様は呼び寄せました。たいせつな、たいせつなことを教えておかなければならなかったからです。
15節で、イエス様は言われました。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もない。」
外から人の体に入るもの、と申しますと、まず私たちは食べ物のことだと思います。イエス様がここで語られるのは、確かに食べ物・お腹に入るもののことです。
神さまは、人間が食べる物、すなわち 体に入れる物について厳しい掟を命じられました。前回の説教でお伝えした「食物規定」と呼ばれる掟です。食べて良いものと、食べてはならないものが明確にされていて、禁じられている食物の代表に豚があります。他に、エビや貝のカキも食べてはならないという掟が定められていました。
これは、神さまが確かに律法に定めたことで、食前の手洗いのような言い伝えではありません。くわしく知りたい方は、後で、どうぞ旧約聖書の律法の書にあるレビ記11章をご覧ください。
また、このレビ記11章43節には、このように記されています。お読みしますので、どうぞお聞きください。爬虫類を食べてはならないという掟に続く、神さまご自身の御言葉です。「あなたたちはこれらすべての爬虫類によって、自分自身を汚らわしいものとしてはならない。これらによって汚れ、それによって身を汚してはならない。わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なるものだからである。」
今お読みした御言葉から、神さまが、愛するイスラエルの民がご自分との約束・掟に背くことで、ご自身にとって汚れた者になることを心配されていることがわかります。私たちが聖なる者・汚れた者であるのは、飽くまでも、神さまがお決めになることなのです。ファリサイ派の人々や律法学者が、自分や律法の掟を守る人は聖なる人であり、掟を守れない人は汚れた悪い人であると決めることには、何の意味もありません。
少し話が飛びますが、今日のための説教準備をしながら、ふとこのように思いました。神さまが食べてはならないと定められた豚は、ユダヤ人ではない私たちも、よく火を通してから食べます。E型肝炎を起こすウイルスや食中毒を起こす細菌が潜んでいることが多いからです。エビはアレルギーを、貝のカキも食中毒を起こしやすい食材です。こんなことを思いながら、御言葉を繰り返し読んでいて思い出すこと・心に浮かんでくることがありました。
私の家はクリスチャンホームではなかったので、幼稚園ぐらいの頃、近所の神社でお祭りがあると、お友だち数人と一緒に、母に連れて行ってもらいました。私の母親は、厳しく、屋台で売っているものを買って食べてはいけませんと言うのです。もう半世紀以上も前の話ですから、屋台の食べ物が不衛生かもしれないことを心配したのです。お腹が痛くなるから食べてはダメ、体力のない子どもはすぐ重症になるからダメということでしょう。母は、子供たちのことが心配だから、ダメだと言ったのです。幼くても、自分の親ですから、私にはその母の気持ちはわかりました。
友だちも一緒にそれを聞いていましたが、その子たちは、母の気持ちには思いが至らず ‒ 自分の母親ではありませんから、当然と思いますが ‒ 、ただ「連れて行ってくれる大人のきまり」と受けとめたようです。ちょっと厳しいけれど、屋台のりんご飴や べっこう飴が食べられないのは残念だけど、きまりなら仕方ない、というところでしょう。
それで、お祭りに行きましたら、幼稚園の他の子たちのグループと幾組も出会いました。中には、綿菓子やチョコバナナを食べているグループもありました。
それを見て、私と一緒に行った友だちは、その子たちを指さして、こうわぁわぁと言ったのです。「あ、いけないんだ! お祭りで買い食いしちゃいけないんだよ! 悪い子だよ!」…屋台で売っているお兄さん・おじさんにとってはたいへんな営業妨害ですが…。
この「いけないんだ!」の大合唱は、食べている子たちがおなかをこわすかもしれないと、心配して言っているわけではもちろん、ありません。ただ“きまり”だからダメと言っているだけです。
ファリサイ派の人々や律法学者たちは、まさにこの“きまりだから、破ったらいけないんだよ!”の大合唱をしていたのです。どうして神さまが豚やエビやカキ、爬虫類を食べてはならないとおっしゃったのか、まったく考えていません。神さまは、ご自分の民が苦しんではならないから、きまりをくださって、守ることを約束させたのです。
約束を守り、ご自身の愛のうちにとどまる者をご自分の者・聖なる者とされるました。きまりは、神さまの愛の証しです。
それに背く者は、神さまの愛などいらないと拒む者です。神さまは悲しまれて、彼らを汚れた者と呼ばれました。イエス様がおっしゃるのは、このことです。
イエス様が、人間の汚れとして弟子たちに教えたのは、人の心に潜む悪・罪です。今日の聖書箇所の21節で、イエス様はそれを端的に語っておられます。20節の後半から、お読みします。「人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。」この言葉に続けて、イエス様は12の罪を列挙されます。読むだけで暗い気持ちになる12の悪です。
私たちが、自らの中に悪を持ち、それが私たちを汚す、つまり神さまから遠ざけるとイエス様はおっしゃいます。この言葉を聞いて、人々は暗澹とした気持ちになったかもしれません。禁じられた物を食べず、ルールを守ってさえすれば、清い者・聖なる者・神さまの御前に立てる良い人でいられるというファリサイ派の人々や律法学者たちの教えの方が、楽と言えば、楽です。
また、律法を破る人を本当の神さまの御心を知らずに非難する者は、お祭りの屋台で売っている食べ物を買った友だちを、分けもわからずに“悪者”呼ばわりする子どもと同じです。それは、愚かなこと、今日の聖書箇所の箇所では「無分別」とイエス様に戒められている罪なのです。人を非難する ‒ その愚かさを、イエス様は聖書の他の箇所で、他人の目の中のおがくずは見えても、自分の目の中の丸太は見えない者と厳しい言葉で指摘されています。
こうして、イエス様は、汚れの根本・罪の源は私たち人間の心そのものにあると諭されました。人間がどうしても神さまに背いてしまう原罪を指摘されたのです。それは人間が清められた食物を一生懸命食べようが、何をしようが、どうすることもできません。
イエス様は、その行き詰まりに突破口を開いてくださいます。
人間が“どうすることもできない”この罪の課題を、“どうにかしてくださるために”こそ、イエス様はこの世においでくださいました。
人間にはどうすることもできないから、天の父は我が子イエス様を、私たちのために遣わしてくださったのです。どうにかする、とは人の汚れを清めることでした。人の汚れ・罪を、イエス様はすべてご自分が担って、十字架に架かって下さいました。私たち皆が、神さまのもとに呼び戻され、聖なる者とされたしるしが、イエス様のご復活です。
忘れてはならないことがあります。私たちは、ゆるされましたが、それでも、悪い思い・私たちを汚す悪が、私たちの中から絶え間なく出て来ることです。
今日の聖書箇所の最終聖句でイエス様はそれを鋭く見抜いておられます。“悪は、みな(人の)中から出て来て、人を汚すのである。”(23)
自分で、心にわき出てくる悪い思いに、気付くことがあります。気付かないこともあります。気付いても、誘惑や周囲の状況に負けてそのままにしてしまうことがあります。しかし、そんな私たちの弱さをすべて知り抜いて、イエス様は私たちを憐れんで、十字架への道を歩んでくださったのです。
私たちは、そこまで深くイエス様に、また天の父である神さまに愛されています。その愛を私たちの心にそそぎこんでくださる聖霊に寄り添われています。この主の愛にお応えする道は、そのイエス様にどこまでも付き従ってゆくこと、福音を伝えること、いただいている愛をまわりの方々への優しさとして、行い・言葉・生きる姿勢で表してゆくことです。
私たちは、またこの社会、全世界が、今同じ困難、感染症の拡大という大きな苦難に直面しています。その中にあっても、いえ、その中にあってこそ、イエス様の愛に、精一杯お応えしつつ、今週一週間も歩んでまいりましょう。
2020年7月19日
説教題:御言葉を喜びとする
聖 書:イザヤ書29章13-14節、マルコによる福音書7章1−13節
ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 — ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。 — そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。
(マルコによる福音書7章1−9節)
マルコによる福音書を読み進んでいます。前回と前々回の説教で、イエス様が人々のため、また弟子たちを助けるために神さまとしてのお力を働かれ、奇跡のみわざをなさったことを聴き、ご一緒に恵みに与りました。
今日は、ファリサイ派の人々と律法学者たちにイエス様が語られた厳しい言葉から、信仰の姿勢を新たにされようとしています。
今日の新約聖書の言葉は、このように始まっています。「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。」この文だけを聞くと、はるばるエルサレムから、ガリラヤ湖まで、直線距離にして120キロメートルもの旅をして、イエス様に会うためにファリサイ派と律法学者たちが集まったような印象を受けます。残念ながら、そうではなくて、イエス様がなさった奇跡の噂が広まり、評判があまりに高いので、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、イエス様を調べに来たのです。
律法学者とファリサイ派の人々は、自分たちこそ、神さまの教えを正しく伝えることのできるユダヤの指導者だと思っていました。魂の導き手として、人々が一番によりどころとし、頼りにするのは自分たちのはずでした。ところが、ユダヤの中心・神殿のあるエルサレムから見れば、片田舎としか思えなかったナザレ出身の若者が、人々に大いに慕われているというのです。彼らは疑いと、妬み心を抱いて、イエス様のあら探しをしにやってきました。
彼らはすぐに、弟子たちが食事の前に手を洗わないことに気付きました。そして、洗うようにと教えていないイエス様を非難したのです。
彼らの非難の理由は、二つありました。
ひとつは、イエス様が指導者にふさわしくない、ということです。ファリサイ派の人々や律法学者は、自らを“先生”だと思っていました。人々の手本、模範となる行動をして、弟子たちや人々がそのとおりにするように、指導と監督をするのが“先生”の責任だと考えていたのです。イエス様の、弟子たちへの指導と監督が不十分だから、弟子たちは正しい行いができない、食事の前に手を洗えない、とイエス様を批判する材料、いわば言いがかりをつけたのです。イエス様はたいへん人気があって、人々から慕われているが、自分たちのように立派なユダヤの指導者ではないと、彼らはイエス様を非難しました。
もう一つの非難の理由は、“食事の前に手を洗わない”ことそのものの内容です。
今、感染拡大のただ中にあって、私たちは頻繁に手を洗います。もちろん、それは感染予防のためであり、自分と、また身近な方々を感染から守るためです。広くは社会の感染拡大を押さえ込むための、一人一人にできること、そして行えば必ず感染拡大防止の効果が上がることとして、私たちはそうしています。
また、この新型ウイルス感染拡大以前から、私たちは食事前の手洗いを躾として身に付けています。衛生的で安全な生活を守るためです。
しかし、ファリサイ派の人々や律法学者たちがイエス様を非難したのは、手を洗わないのは不潔だという、私たちが考える手洗いの現実的・具体的な目的ではありませんでした。食事前に手を洗わないのは、昔から守られていることに背いている・伝統に従っていないことだと言って、非難したのです。
今日の聖書箇所は決して長くありませんが、その中に繰り返し語られている言葉があります。「言い伝え」という言葉です。五回、用いられています。3節と5節で「昔の人の言い伝え」、8節で「人間の言い伝え」、9節で「自分の言い伝え」13節で「受け継いだ言い伝え」。また、良く似た意味合いで、4節後半に「昔から受け継いで固く守っていること」という言葉が使われています。
そして、今日の聖書箇所の最後の聖句、13節では、イエス様の言葉がこのように伝えられています。「あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。」
イエス様が繰り返し用いられる「言い伝え」は、神の言葉を無にしている・御言葉から恵みを聴き取れないようにしている、御心に背いた良くないものなのです。
今日の聖書箇所では、“汚れている”・“清める”ということも、語られているので、それに関連づけて申せば、“言い伝えは、汚れたもの”となりましょう。神さまの御心にかなっていないものだとイエス様は、おっしゃろうとしたのです。「人間の言い伝え」「自分の言い伝え」「人の言い伝え」とイエス様は語られます。人間が勝手に考えた、人間中心の考え方で、神さまの真実の御言葉を歪めているということです。
ファリサイ派の人々や律法学者は、神さまのことだったら、自分たちに任せておけば良い、何でも教えて進ぜよう、と思い込んでいます。
その彼らにとって、このイエス様の言葉は実に衝撃的だったでしょう。
当たり前のことですが、イエス様のおっしゃることは真実です。なぜなら、「食事の前には、手を洗わなければいけない」とは、神さまの定められた律法に記されていないのです。
旧約聖書の始めの五つの書、創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記を「律法の書」と呼びます。確かに、たいへん事細かな決まりごとが、これら五つの書には神さまの掟として記されています。特に、身を汚すことをしてはならないと神さまは教えられました。申命記で、神さまは「すべていとうべきものは食べてはならない」(14:1)、「ひづめが分かれ、完全に二つに割れており、しかも反すうする動物は食べることができる」(14:6)と細かく決めておられます。だから、ユダヤの人々は反すうする牛は食べられますが、豚は反すうしないから食べません。
こんなに細かく神さまが決めてくださったのだから、「食事の前には手を洗いなさい」ともお決めになったのでは、と思いたいところです。しかし、それは記されていません。
神さまが掟を人間に与えられたのは、それを守ることで、人間が汚れないようにするためでした。しかし、人間には、それで精一杯なのです。自分で自分を清めることは、人間にはできません。清めてくださるのは、神さまだからです。もちろん、清める“儀式”については、神さまは掟として定めてくださいました。しかし、儀式で祭司を通して働かれるのは、神さまです。
清めるとは、“聖なる者とする”こと、神さまがご自分のものとして、私たちをこの世から“取り分けて”くださることです。しかし、清められても、人間の目に見えるしるしは、私たちには残りません。
ファリサイ派の人々や律法学者は、清められた者であるしるしが欲しいと願ったのでありましょう。そして、目で見えるしるしは偶像崇拝になるからと、行動で表そうとしたのです。食事の前に手を洗えば、あの人は“清め”を行っている、異教徒ではない、同じ天の父・神さまを崇める兄弟姉妹のしるしとわかる — そのような使い方もされたかもしれません。しかし、神さまのわざである清めを自分で自分に行うのは、たいへん傲慢なことです。
ファリサイ派の人々や律法学者たちは、神さまに忠実でありたいと願いました。それは本当に純粋な信仰心だったと思います。しかし、彼らは神さまが定めていない掟を勝手に造り出し、それを自分の信仰のしるし・証しとしてしまいました。気付かずに犯した傲慢の罪です。
イエス様は、彼らが今以上に傲慢の罪を犯さないようにと、厳しい言葉をおっしゃられました。神さまの掟を捨てて、人間の思いと考えで言い伝えを造り上げ、「神の掟をないがしろにしている」、神さまがくださった御言葉を自分の都合に合わせて使っていると、批判されました。その時に挙げた例が、今日の聖書箇所の終わりの方に語られるコルバンのことです。神さまは十戒の第五戒で、「父と母を敬え」と、年老いた両親を養うようにとおっしゃっているのに、あなたがたは両親に費やす自分の財産を惜しんで、これは神さまへの献金・コルバンだから父と母のためには使えないと言い訳をして、両親を放っておく — 何という偽善者だ、と言われました。
イエス様は、暴走する彼らの自分勝手な御言葉の解釈を止めて、繰り返しますが、彼らに罪を気付かせようとされました。しかし、それは、イエス様に対する彼らの憎しみに油をそそいだだけだったのです。
イエス様が弟子たちに教えられたのは、神さまの掟よりも、神さまに愛されているという真実でした。
弟子たちを、私たち人間を造られた主は、責任をもって私たちを見守り、私たちがただ主を仰ぐことで、私たちをご自分のものとしてくださいます。心を主に向けるだけで、私たちの心は満たされ、清めていただけるのです。
神さまに愛されている喜びは、私たちの心を潤して、与えられているもの・周りの方々・事柄に感謝する思いと、周囲への思いやりを育てます。
どれほど私たちが深く神さまに愛されているかを、示してくださったその究極のしるしが、イエス様の十字架の出来事とご復活です。
神さまから私たちがいただく御言葉には、当たり前ですが、何も人間が付け加えることはありません。私たちは、ただそれを受けとめ、素直に励まされ、主との出会いと、主と永遠に共に生きてゆくことのできる幸いを喜ぶだけで良いのです。
今日から始まる一週間も、主の愛に包まれ、その力強い御手に支えられていることを日々、瞬間・瞬間に思い起こしつつ、心を高く挙げて進み行きましょう。
2020年7月12日
説教題:安心しなさい。わたしだ。
聖 書:出エジプト記3章13-14節、マルコによる福音書6章45−56節
モーセは神に尋ねた。「わたしは今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うに違いありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
(出エジプト記3章13-14節)
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間にご自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
(マルコによる福音書6章45−51節)
今日のマルコ福音書で、イエス様が弟子たちに語られたのは、今、私たちが、心から聞きたいと願っている言葉そのものです。
「安心しなさい。恐れることはない。」
新型コロナウイルスの感染は、いったん収まったかと思えましたが、一昨日から再び感染者数が増えたことが報道されています。この数字をどう見れば良いのか、これからどうなってゆくのか、専門家の方々からも明確な説明はありません。感染への恐怖心から、社会は営みのすべてを止めてしまうことはできません。不安に思いながらも、慎重に歩み、進んでまいります。その中で、「恐れることはない。怖がることはない。私がいるから大丈夫だ」とおっしゃってくださる主が、救い主が、私たちにはおられるのです。
イエス様は、これはイエス様に失礼な申し上げようですが、ただ 気持ちのうえで私たちを励ますために こうおっしゃっているのではありません。何とかなるから大丈夫と、今の時をやり過ごすための言葉ではないのです。私が責任をもって、あなたを造った神である私が責任をもって何とかするから、恐れることはない ‒ そう、言葉と行いで伝えてくださるのが、今日の聖書箇所です。
今日の出来事は、前回の礼拝で語られた“五千人の給食の奇跡”に、事柄としてつながっています。イエス様が弟子たちを助けるために湖の上・水の上を歩かれたこの出来事は、イエス様の“水上歩行”としばしば呼ばれます。イエス様が立て続けに、奇跡に次ぐ奇跡を行われことが語られています。前回もそうであったように、イエス様は恵みを賜ると共に、私たち教会が保つべき信仰のありよう・姿勢を教えてくださっているのです。
今日、注目したい言葉があります。前回は「人里離れて」に注目しましたが、今日は「強いて」という言葉を、まずご一緒に思い巡らしましょう。45節、今日の聖書箇所が始まって、すぐのところに記されています。イエス様は弟子たちを「強いて」舟に乗せました。「強いて」とは、本人が、あまりしたいと思っていないことを、無理にと言うと言い過ぎかもしれませんが、強制力を持って“させる”ことです。
弟子たちは、この時、あまり舟に乗りたくありませんでした。前回、イエス様は五つのパンと二匹の魚で一万人近い人々の空腹を満たされました。弟子たちは、このみわざに招かれて、どんどん増えてゆくパンと魚を人々に分け与える務めを果たしました。イエス様と一緒に働いたので、人々はイエス様だけでなく、弟子たちにもお礼を言ったでしょう。弟子たちは人々から憧れに満ちたまなざしをそそがれ、感謝と賞賛の言葉を浴びました。人々の喜びは、弟子たちの喜びでもあったでしょう。いつまでも一緒にいたいと、弟子たちも、人々も思ったのではないでしょうか。しかし、思い出しましょう。彼らがいたこの場所は、本来は「人里離れた所」です。砂漠・荒れ野です。命が危険にさらされる所、魂が誘惑に遭う場所です。神さまが先立ってなさったことを、人々に感謝され褒めそやされているうちに、奇跡のみわざを自分たちの力のように錯覚する傲慢の罠が、ここに潜んでいます。イエス様は、その罠から弟子たちを遠ざけるために、彼らを群衆から離れさせました。
それが、イエス様が弟子たちを「強いて」舟に乗せたことの意味のひとつです。
では、どうして舟だったのでしょう。向こう岸に用があったから、そして最も早い交通手段が舟だったからと言ってしまえばそれまでですが、もう少し深い意味があります。
前回の聖書箇所を思い出していただきたいのですが、イエス様は、初めての伝道体験から戻った弟子たちを、人里離れた所に行ってリフレッシュさせようとなさいました。それは、荒れ野・砂漠でこの世的な事柄を離れ、神さまの御前に静まって祈り、心を新しくしていただくためでした。ところが、人々がイエス様と弟子たちの先回りをしていたので、それができなかったのです。そこで、イエス様は、弟子たちを乗れる人数が限定され、人々が次々と乗ってこられない舟に「強いて」乗せました。弟子たちをこの世的から取り分けるためです。清める・聖別するという言葉には、もともと「取り分ける」「別にする」という意味があります。人間はもちろん、自分で自分を清めることはできません。神さまが、選んだ者をあえて「強いて」、清め分かってくださるのです。
ここから進んで、さらに、もっと深い意味があります。
聖書、特に新約聖書で“舟”という言葉が出て来たら、皆さんにすぐ思い浮かべていただきたいものがあります。何でしょう。そうです。教会です。信仰共同体です。
同じひとつの舟に乗り込むとは、乗った人たちが同じ進む方向・目的を持つということです。同じ経験をするようになります。そして、一度、舟に乗ると、周りは水ばかりですから降りることができません。舟が、ちゃんと目的地に着くように、心を合わせて共に働くようになります。
何度も繰り返して申し上げてきたことですが、そして、教会の大多数の皆さんよりも後からこの教会に加わった私が、こんな高いところから大発見のように言うことでもけっしてありませんが、薬円台教会は、文字どおりに舟の形をしています。
教会員がこの舟の乗組員として、この世のさまざまな荒波を乗り越えて行く思いを、建物の形そのものが表しています。
しかし、舟が教会を表していることをあらためて心に留めてみると、「強いて」という言葉にひっかかりを感じないでしょうか。いかがでしょう? 皆さんは、教会の一員になる時、自分の自由な意思により、イエス様の招きに応えて決心して洗礼を受け、この舟・薬円台教会という信仰共同体に乗り込んだはずです。喜びをもって、自ら進んで乗り込んだのであって、強制された覚えはないと思います。
ただ、信仰生活・教会生活の中で、御言葉を通して、私たちが魂で学び、知ってゆくことがあります。それは信仰を持つ者の自由とは、この世で言う自由気ままとはまったく違う、もう少し申せば、自分勝手の正反対だということです。
今日は、週報に「主の祈り」と「使徒信条」を掲載しています。私たちプロテスタント教会の者は、宗教改革を経て、カトリックとは異なり、一人一人が主の御前に立つことを重んじて自由に祈ります。しかし、「主の祈り」では同じ言葉で、声をそろえて献げます。「使徒信条」で、私たちが同じ神さまを信じていることを、同じ言葉で告白します。自分勝手に神さまのイメージを造り上げたり、教会は居心地が良くて自分を甘えさせてくれそうだと思ったり、この世的な思いが入り込んだりすることを避け、整えるための同じ言葉です。私たちの自分勝手な思いを刈り込んで、整えてくださるのも「強いて」舟に乗せてくださる神さま・イエス様なのです。
そして、イエス様がこの舟・教会に、私たちと一緒に乗ってくださいます。今日の聖書箇所では、イエス様はご自身が祈りの時を持つために山へ行かれ、舟に乗っていなかったと記されています。
イエス様が乗っていない舟は、逆風に遭うと漕ぎ悩んでしまいました。イエス様は、弟子たちが困っているのをご覧になり、助けるために神さまとしての御力を用いられ、湖の上を歩いて舟に近づいてくださいました。ところが、弟子たちはイエス様がそばを通り過ぎるのを見ても、イエス様とは気付きませんでした。幽霊だと思って、悲鳴をあげる始末でした。神さまと幽霊の見分けもつかなかったのです。
この時、イエス様が舟のそばを通り抜けて行かれたのは、舟のへさきに向かって行かれたためと思われます。もっとも逆風を受ける立ち位置に、イエス様は弟子たちを逆風から御身をもって守るために、立とうとして舟の脇を通られました。
ところが、弟子たちには、イエス様が自分たちを守ってくださろうとされた、この深い思いやりを少しも理解できませんでした。神さまとは思わず、ただ水上を歩く超自然現象的なものを見た、幽霊だ!とおびえたのです。
この時の弟子たちには、どなたが我が神か、わからなくなっていたのです。逆に申しますと、我が神・私が信じ、頼ってすがっている神さまはどんな方かを忘れているということです。神さまは見えない方なので、使徒信条に記されている天地の造り主である父なる神・独り子である救い主イエス様・聖霊の神さまを、忘れてしまう、または逆風・逆境に遭って信じられなくなってしまうことが、私たちに起こるのです。
イエス様は、そのように弱い信仰しか持てない私たち・弟子たちを叱りはなさいませんでした。むしろ、こうおっしゃってくださいました。「安心しなさい。」そして次の言葉です。「わたしだ。」
先ほど、弟子たちはイエス様と幽霊の見分けもつかなかった、と申しましたが、私自身は、当然、その弟子たちよりもはるかに、はるかに小さく弱い信仰の器です。これは客観的に明らかで、弟子たちはイエス様と実際に一緒にいて、行動を共にしていたので、イエス様のお顔も声も知っていますが、私は知りません。
しかし、私が、と申しますより、地上に生きたイエス様を知らない私たちが、もし神さまがお姿を現したら、はっきり神さまだ、イエス様だと知ることのできる言葉があります。
それがこの「わたしだ」という言葉です。
「わたしだ」と訳されていますが、これは神さまのお名前です。今日の旧約聖書 出エジプト記はモーセが神さまと初めて会った時のことが記されています。モーセに名を問われて、神さまは燃える柴の中から、「ある」という者だと自己紹介をされたのです。
「存在する」と言い換えても良いでしょう。それとまったく同じ言葉を、湖の上を歩いて弟子たちに近づいたイエス様はおっしゃいました。それが、「わたしだ」と日本語に訳されているのです。
私たちは、また私たち人間ばかりでなく、すべての被造物は、自らを「ある」・「存在する」者にすることはできません。神さまに造られて、初めて存在できるようになるのです。この時の「存在する」とは、ただ夫婦となった男女から、子供が産まれることを意味しているのではありません。一人一人、かけがえのないたった一人の存在として「生かされる」ことをさします。そして、この意味で最初から存在している、最初から「ある」または「いる」、命の根源は、神さまお一人です。
神さまは、私たち一人一人を造られたことの全責任を負ってくださいます。こういう顔・こういう姿・こういう性格の者はたった一人・この人、と思って愛して造ってくださったからです。
イエス様が今日の聖書箇所で言われる「わたしだ」は、ただイエス様が弟子たちに幽霊ではないということを告げただけでなく、造り主の愛そのものを示された言葉なのです。
私たちを造った責任を負って、イエス様は私たちの罪をも、すべて担ってくださいました。それがイエス様の十字架の出来事です。イエス様が私たちの罪の重荷を代わってくださり、責任を取ってくださったから、私たちはゆるされて、永遠に「いる」「ある」者となる命をいただきました。そのしるしが、イエス様のご復活です。
教会という舟に、イエス様は必ず乗っていてくださいます。しかし、イエス様がどなたかであるかを忘れてしまったら、逆風の中を、いえ、たとえ順風であっても、進んで行くことはできません。
イエス様は、どなたでしょう。
私たちは、今日の御言葉からそれをあらためて教えられています。
心に深く留めています。
イエス様は、「わたしはある」「いる」「存在の根源だ」とおっしゃる方です。存在の根源として、神さまは私たちの存在を実現してくださいました。造り主としての全責任を負って十字架に架かり、私たちの代わりに滅びて、私たちを救い、救い主となられ、そのしるしとして復活されました。救い主イエス様を思い起こし、私たちは恵みの言葉を聞くことができるようになります。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」
今週一週間、この御言葉を繰り返し思い出しながら、主に導かれ整えられて、日々を安らいで過ごしてまいりましょう。
2020年7月5日
説教題:人里離れた所へ
聖 書:列王記下4章42-44節、マルコによる福音書6章30−44節
さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むとよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教えられ始めた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンはいくつあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人とまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。
(マルコによる福音書6章30−44節)
今日の新約聖書の御言葉は、イエス様が五つのパンと二匹の魚の奇跡、“五千人の給食の奇跡”を行われたことを語っています。
イエス様がなさったこのおおいなるみわざを、私たちはマタイによる福音書の講解説教にてもご一緒に聴きました。今日は、まず、三つの事柄を心にとめていただきたく思います。
一つは、イエス様は、このみわざで弟子たちを訓練されたことです。イエス様は、37節で「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とおっしゃり、弟子たちと共に神さまの栄光を表す働きをされました。教会はこの時の弟子のように、常に主と共に働きます。どんな活動も自分達が先頭に立って行っているのではありません。神様の働きの中に入れて戴いていることを、あらゆる活動で忘れずにいたいと願います。
二つ目は、イエス様が希望を教えてくださったことです。その場に男性が五千人いたということは、女性と子どもたちを入れたら一万人近い人々がそこでおなかをすかせていたということでありましょう。
一万人の人に、五つのパンと二つの魚だけ。私たち人間は、たったこれだけの食べ物では、無に等しい、一万人ほどの人の空腹を満たす役にはまったくならないと諦めてしまいます。ところが、ほんのわずかでも“ある” のならば、諦めることはないとイエス様は教えてくださるのです。私たちが持っているほんのわずかなもの ‒ 五つのパンと二つの魚・わずかな賜物・わずかな優しさ・わずかな愛を、神さまは大きくしてくださいます。私たちに主が働かれる時、人間に与えられているものは、人間の思いを超えて豊かになると、希望を持ちましょう。
三つ目の事柄として覚えておきたいのは、イエス様がなさったこのみわざが、旧約聖書に語られている主のみわざと重なることです。列王記下4章に預言者エリシャを通してなさった神さまのみわざが、人々が与えられたパンを食べきれずに残したというところまで、同じように行われています。イエス様は、旧約聖書の時代に父なる神さまがなさったことをご自分がなさって、ご自身が神さまであることを示されました。
今日の、この良く知られている御言葉について、三つの事柄を心に置いたうえで、今日は、もう少し詳しく御言葉を思い巡らし、共に恵みに与りたく思います。
今日の御言葉は、イエス様が伝道に遣わした12人の弟子たちがイエス様のもとに戻ったことから語り始められています。30節です。弟子たちはイエス様に「自分たちが行なったことや教えたことを残らず報告し」ました。イエス様は、弟子たちが、おそらく興奮気味に、初めて福音伝道者として経験した事柄をこれやあれやと話すのを、優しく親身に聞かれたでしょう。
それが一段落すると、イエス様はこうおっしゃられました。31節です。「さあ、あなたがただけで人里離れたところへ行って、しばらく休むがよい。」
この時期、イエス様も、弟子たちも、たいへん忙しい思いをされていたことがよくわかります。イエス様にいやしていただこう、また弟子たちもイエス様から悪霊を払う権能を授かっているのなら、それによって楽にしてもらおうと、イエス様と弟子たちの周りには、次から次へと人々が押し寄せるように集まっていました。
食事をする時間も、休む時間もなかったようです。
イエス様は、弟子たちを思いやって「休むがよい」と言われました。
どこへ行って休むことを勧められたのでしょう。「人里離れた所」と記されています。
この「人里離れた所」は、今日の聖書箇所の中で心に留めたい言葉です。ですから、本日の礼拝説教題にも用いました。「人里離れた所」というこの言葉は、今日の聖書箇所で三回、繰り返されます。「人里離れた所」 ‒ 人混みや町の騒がしさが消えた、静かでゆったりとした田園風景が思い浮かぶでしょう。ところが、聖書のもとの言葉では、「荒れ野」「砂漠」です。
前回の礼拝で、ご一緒に洗礼者ヨハネの最期を語る聖書箇所を読みました。そのヨハネが救い主イエス様の到来を大声で告げていた「荒れ野」です。また、イエス様がヨハネから洗礼を受けられた直後に、悪魔の誘惑を退けたのも「荒れ野」でした。この単語には、「孤独な場所」という意味もあります。
「荒れ野」「砂漠」は、疲れた心を癒やしてくれるような場所ではありません。むしろ その逆で、人間が生きて行けない厳しいところです。たった一人、孤独の中で自分の命が極限にまで追い詰められる所です。
そこで、人は人間を超える者との出会いを経験するのでしょう。その超越的な者とは、自分を惑わす悪魔かもしれません。または、心の極限状態にあって真実に私たちを必要なもので満たし、まことの命を与え、新しく正しく豊かに生きる道を示してくださる神さまかもしれないのです。
イエス様が弟子たちに「しばらく休むがよい」とおっしゃった、この「休む」という言葉も、厳密には「労働と労働の間」「リフレッシュすること」という意味を持ちます。
イエス様が、次から次へとやって来る人々のために忙しく立ち働く弟子たちに勧められたのは、この世的・俗世的な騒がしさを離れて、自分を見つめ直し、神さまの御前に静まって気持ちを新たにしていただく時間です。それは、祈りのひとときと申しても良いでしょう。
これは、今を生きる私たち教会の者にとっても、たいへん大切なことです。私たちはこの世の営みの中で働き、人と関わり、人と共に生きていますが、神さまと過ごす特別な時間をいただいて心を新たにしていただくひとときが、ぜひとも必要です。
それが、一日の中では祈りのひとときであり、一週間で言えば、この日曜日の朝の主日礼拝の時間でしょう。神さまと向かい合い、清められる時です。
今日の聖書箇所32節で、弟子たちはイエス様の勧めに従って、舟に乗って人々から離れた静かな祈りの場所をめざしました。ところが、33節をご覧ください。人々は弟子たちが出かけて行くのを見て先回りして、その祈りの場所でイエス様と弟子たちを待ち構えていたのです。
これでは、イエス様と弟子たちは、大切な祈りの時・神さまと過ごす恵みの時を持つことができません。人々・群衆は、神さまのことなど、実はほとんど考えていません。
考えているのは、自分の苦しみや悩みが取り払われて、自分が楽になることです。そのために、神さまであるイエス様、そして神さまに仕え、イエス様と共に働く弟子たちに祈る時間がまったく取れなくなってしまっても、お構いなしです。
ここで、イエス様はどのようになさったでしょう。
聖なる時間を持つために、人々を追い払われたでしょうか。自分のことだけで頭がいっぱいで自分中心の人々の身勝手さ・思いやりのなさを叱ったでしょうか。
いいえ、イエス様はそうはなさいませんでした。
34節をご覧ください。お読みします。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」ここにある「深く憐れみ」という言葉は、文字どおりに訳すと「内臓・はらわたがちぎれるほどの痛みを伴う深い憐れみ」という意味です。
イエス様は、ご自身の大切な時間・弟子が父なる神に清められ、力をいただくためになくてはならない時間を、自分たちの欲望のために犠牲にしている勝手な群衆を、それほどに深く思ってくださいました。
説教準備のために、この箇所を繰り返し読んで、私は胸が熱くなる思いがしました。自分の病気が治れば、神さまなんかどうでも良いと思っている群衆は、不届き者に思えます。ところが、イエス様は憐れんでくださいます。実は、群衆を不届き者と思うこの自分こそ、自らの自己中心的な姿が見えていない不届き者です。私事で恐縮ですが、私が牧師館で説教準備をする部屋、言ってみれば私の書斎は、七林小学校の校舎の真向かいです。集中しようとすると、子どもさんの声や楽器の音が気になることがあります。そのような時に、私は思うのです。イエス様は、決していらいらなさらないだろう。
得てして、私たちは自分の都合が満たされることを第一に考えてしまう不届き者です。そして、この不届き者は、イエス様・神さまからご覧になれば、実は、はらわたがちぎれるほど可哀想な者たちなのです。どっちへ進めば本当に心を満たしてくれる命の水と心の糧があるのか、導いてくれる羊飼いがいないので、道に迷い、右往左往し、時に苛立って、互いと喧嘩して、だんだん弱って行くばかりだからです。
イエス様は、迷った羊たちを決して叱りつけて追い散らすようなことはなさいません。群衆に「いろいろと教え始められた」とは、見えない神さまの導きを求めるようにと、天の父を示されて話をされたのではないでしょうか。
愚かしい群衆・私たち人間が神さまを仰がず、自己中心でいるその罪のために、イエス様はご自身のたいせつな神さまとの時間を犠牲にされました。後に、イエス様はご自身をまるごと、私たちの背きの罪を贖うために十字架に架けられました。そのみわざによって、私たちは救われました。私たちは、このイエス様の深い憐れみに生かされているのです。
新型コロナウイルスの感染が長引き、私たちはいろいろなことに忍耐を求められています。試練の時に、私たちはつい自分勝手になっているかもしれません。その私たちをイエス様が深い憐れみをもって見守ってくださっていることを、決して忘れずに過ごしましょう。今週一週間も、イエス様に愛され、十字架のみわざによってゆるされ、ご復活によってイエス様に従って新しく生きる希望を与えられていることを感謝して、主に従って進み行きましょう。
2020年6月28日
説教題:当惑と喜びの岐路にあって
聖 書:マラキ書3章23-24節、マルコによる福音書6章14−29節
イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」という人もいた。ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。実は、ヘロデは自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。そこで、ヘロディアはヨハネを憎み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。
(マルコによる福音書6章14−20節)
福音書は、イエス様がどなたか・どんな大きな恵みを私たちに賜った方かを伝えてくれます。同時に、私たちに福音をどう受けとめ、感謝し、さらに、イエス様をまだ知らない方にどう伝えれば良いのかをも教えてくれています。今日の聖書箇所は、さっと読むといったい何の恵みがあるのかと思ってしまいます。イエス様に洗礼を授けた洗礼者ヨハネが、ヘロデ王の命令によって無残に殺されたことが語られています。しかし、この御言葉から、私たちは信仰と伝道の正しい姿勢を聞くことができるのです。
前回の礼拝説教で、私たちはイエス様が弟子たちを福音伝道に派遣されたことをご一緒に御言葉に聴きました。福音書を読んでいると、イエス様が癒やしの奇跡を行われてお一人で働かれ、弟子たちはただイエス様の後にくっついて、たびたび間抜けな失敗を繰り返しているだけのような印象を受けますが、それが正しいとは言いきれません。
確かに、弟子たちはイエス様といつも一緒にいながら、十字架の出来事からご復活に至るまで、ついにイエス様を真実に神さまの子・神さまとして理解しきれませんでした。しかし、前回の聖書箇所が語るように、イエス様はそのような弟子たちを訓練され、福音伝道に遣わされました。一緒に働く者としてくださったのです。それは、今も同じと申して良いでしょう。イエス様・生きて働かれるイエス様である聖霊の主は、私たちを導いて、今、伝道に用いてくださいます。
さて、繰り返しますが、前回の聖書箇所でイエス様は弟子たちを伝道者として訓練され、ご自分と弟子で、共に神さまの真実を伝えるグループ・群れを造られました。
今日の聖書箇所は、この言葉で始まっています。「イエスの名が知れ渡ったので」 ‒ これは、癒やしの奇跡を行うイエス様の名が知れ渡ったというばかりでなく、前回の出来事に続いて記されていることから、イエス様に率いられて伝道を行う一団の名が高まったと読み取るのが自然です。と申しますのは、すぐ後に洗礼者ヨハネの名が出てくるからです。洗礼者ヨハネは、イエス様のために道を備えるようにと荒れ野で声を上げた者、言ってみれば先触れをした者でした。ヨハネは罪を洗い流す洗礼を行い、清められるよう人々に勧めたばかりでなく、一緒に働く弟子たちを育てました。洗礼者ヨハネとその弟子たちのグループは、人々によく知られるようになっていました。ですから、イエス様と弟子たちが伝道活動を始めた時、人々は“あ、あのヨハネと弟子たちのような一団”、しかし、新しく、さらに強烈な伝道団と認識しました。ヨハネに率いられた一団が、イエス様と弟子たちが人々に受け入れられやすくする社会的な下地を備えたと申して良いでしょう。
私たちは似たものを見ると、違いをみつけようとします。私たちの知性の自然な働きです。人々はヨハネとその一団と、イエス様と弟子たちを比べました。それによって、イエス様がヨハネ、完全に人間でしかないヨハネと違う特別な存在であることが、人々にわかって来たのです。
人々はこのように言いました。今日の聖書箇所の14節後半・71ページから72ページにかけてのところです。お読みします。「人々は言っていた。『洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。』」
ヨハネは人間でしかありませんから、イエス様のように奇跡を働くことができませんでした。人々はイエス様の奇跡のみわざの不思議を、イエス様の先触れを行ったヨハネと比べて、このように理解しようとしたのです。そして、生きたまま天に昇っていったと旧約聖書に語られている預言者エリヤが再び戻ってきたのだ、“昔の預言者のような、不思議ですさまじい、神さまに用いられて人間離れした働きを行う預言者”が現れたのだと、イエス様のことを噂し合いました。残念ながら、イエス様が“救い主”だという気付きには、まだ至りません。
そして、この巷の人々の噂が、ヘロデ王の耳に入りました。
洗礼者ヨハネが生き返った ‒ こう聞いて、ヘロデ王の心中は大きく波立ったに違いありません。ヘロデ王は、すでにこの時、ヨハネを殺してしまっていたからです。そして、ユダヤの人々が皆、このことを知っていて、イエス様とその弟子たちを見て、その働きに触れて、ヨハネを思い出して噂し合っている声がヘロデ王の耳に届いた時、彼の心に実に苦いものが広がったのに違いありません。
ヘロデ王。もう少し正確にその名を申しますと、ヘロデ・アンティパスです。
イエス様がお生まれになった時、東方からイエス様を拝みに来た学者たちと会い、ユダヤの王が生まれたと知って自分の地位が脅かされるとおののき、二歳以下の男の子を殺させたユダヤの王も、ヘロデ王という名だったのを覚えておいでと思います。今日の聖書箇所が語るヘロデ王は、その息子です。
17節の「実は」という言葉から、ヘロデ王がヨハネを殺してしまったいきさつが語られています。この王は、イエス様の先触れを行った洗礼者ヨハネを殺し、後にイエス様が律法学者や祭司たちのたくらみによって十字架に架けられる時には、止められたかもしれないのに、何もしようとしませんでした。
こう申しますと、たいへんな悪者・悪魔のような人物に思えます。しかし、今日の聖書箇所を少し詳しく読みますと、このヘロデ王が、悪者と言うよりも弱い人だったことが浮かび上がってまいります。そして、私たちの罪の根本が、悪を行ってしまうその手前にあり、私たちの心に根ざしている弱さであることに気付かされるのです。
ヘロデ王は、自分の兄弟の妻だったヘロディアを横取りし、妻としていました。ヨハネは、これを律法に反しているとして鋭く批判しました。この批判を怒ったヘロデ王は、ヨハネを捕らえて牢に入れてしまいました。ところが、実際にヨハネと会ってみて、ヘロデ王の心は思いがけない方向に動いて行きます。
19節からをご覧ください。お読みします。「そこで、ヘロディアはヨハネを憎み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。」
ヨハネを殺したいほど憎んでいたのは、ヘロデ王ではなく、その妻となった姦淫の女・ヘロディアでした。ところが、それができなかったと聖書は語ります。なぜなら、ヘロデ王を処刑する命令をくだせる立場にあるのはヘロデ王で、ヘロディアではないからです。そして、ヘロデ王には、ヨハネが実は処刑されてはならない、正しい聖なる人だということがわかり始めていました。
ヘロデ王はヨハネを尊敬し、守ろうとするようになっていました。
ヨハネの教えを聞いて、大いに戸惑いながらも、喜んで、その語る言葉に耳を傾けていたのです。
ヨハネは、何をヘロデ王に語っていたのでしょう。
今日の聖書箇所の御言葉が告げようとしている恵みを、私たちは今、聖霊に導かれて、その行間に聴き取りたいと願います。
今日の説教の始めに、こう申しました。“この御言葉から、私たちは信仰と伝道の正しい姿勢を聞くことができるのです。”人間ヨハネが、人間ヘロデ王に語った神さまの恵みの教えは、今、私たち教会が伝道の言葉として、また自分の信仰の糧として心に受けとめなければならないことです。
ヘロデ王は、どのようにしてヨハネと出会ったのでしょう。おそらく、まずは、部下に捕らえさせたヨハネを見に牢へ行ったのでしょう。王が想像していたのは、甲高い声で自分と妻の姦淫の罪を激しく批判する風変わりな、言葉はよくありませんが、狂信的でうさんくさい雰囲気を持つ人だったのではないでしょうか。人の暮らしを嫌い、荒れ野でイナゴと野蜜を食べ、らくだの毛衣を皮の帯で体に縛り付けている変な人・神の方ばかりを向いているので人の心などわからなくなっている奇妙な人で、およそ自分とは話が合わないと思っていたのに違いありません。ヘロデ王は、ヨハネを、自分を罪人だと批判するうるさい敵だと思っていました。
ところが、牢にいたヨハネは、ヘロデ王を敵だとは思っていなかったのです。自分を捕らえて自由を奪った張本人であるにもかかわらず、ヨハネは深い思いやりのまなざしで、ヘロデ王を迎えました。
ヨハネはどうして、ヘロデ王の罪を指摘したのでしょう。それは、ヘロデ王が罪に沈んだまま悔い改めないと、清められないからです。
ヨハネはヘロデにこう語ったのでありましょう。“神さまはあなたを愛して造られたのに、あなたはその神さまに背いて、どんどん遠くに行ってしまう。神さまはそれを悲しまれ、あなたが戻ってくるのを待っている。だから、神さまのふところに帰りましょう。悔い改めて、一緒に祈りましょう。罪を洗い清めていただきましょう。”
こう、ヨハネは心をこめてヘロデ王に語りかけたのではないでしょうか。そして、ヘロデ王はハッと気付かされたのです。そうだった、この自分も神さまに大切に愛されている一人だったのだ、と。
この時代、ユダヤはローマ帝国の支配下にあり、ユダヤの王は王と言ってもローマ帝国の言いなりになる傀儡(かいらい)・人形のような存在でしかありませんでした。本来、ユダヤの王は神さまに立てられた者のはずなのに、いったい自分は何なのだ・神さまに見放されているのではないかと思ったことも一度や二度ではなかったはずです。
自暴自棄になっていたかもしれません。そのヘロデ王に、ヨハネは再び神さまを一緒に仰ごうと、心を寄り添わせて主を示したのです。
ヘロデは、このヨハネの優しさに大いに戸惑いました。捕らわれていながら、なお、このように自分を、人を愛する力をヨハネに与えている神さまに驚き、その大きさに当惑しました。しかし、同時に彼は、ヨハネを通して自分にそそがれている神さまの愛を深く喜ばずにはいられなかったのです。
おそらくヨハネは、救い主イエス様のことも、ヘロデに告げたでありましょう。今、自分のすぐ近くに、すでに救い主がおいでになっていると知らされて、ヘロデは大いなる方への畏れ ‒ 当惑と喜び ‒ をさらに深めたのではないでしょうか。
私たち教会が語るべき福音伝道の言葉は、神さまを指し示し、その愛を告げる言葉です。そして、私たちの時代は、その証しとしてイエス様の十字架の出来事とご復活を告げるよう導かれています。
語られた人は、当惑と喜びを知るでしょう。
すでに福音を告げられている私たち自身も、毎日曜日に礼拝の中で、イエス様がご自身を私たちのために献げられた当惑するほどに大きな愛を感謝し、喜びます。それによって信仰を新たにされ、新しい一週間を歩み始めます。
さて、こうしてヘロデ王はヨハネに導かれて、信仰の入口に立ちました。しかし、自分の誕生日の宴の戯れの中で、ヨハネを死なせなければならなくなってしまいました。26節に、このように記されています。「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、客の手前、少女の願いを退けたくなかった。」
簡単に誓いを立ててしまったこと、また客の手前・人間の思惑を気にする弱さが、ヘロデ王に大きな罪を犯させました。
イエス様は、この弱く愚かしいヘロデ王の罪のためにも、十字架に架かられました。救いをご復活で示されました。
今日、いただいた聖書箇所を、2000年前の遠い出来事・血なまぐさく陰惨な歴史のひとこまとしてだけ受けとめないようにいたしましょう。私たち教会が、語るべき・示すべき伝道の言葉を受けとめて、神さまの愛に包まれ、守られて、今週一週間を過ごしてまいりましょう。
2020年6月21日
説教題:主イエスに遣わされる
聖 書:エゼキエル書2章3-4節 、マルコによる福音書6章1−13節
イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。…
それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。…また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出て行くとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。
(マルコによる福音書6章1−13節)
今日は感染が収束し始めておよそ1ヶ月が経ち、薬円台教会の礼拝に久しぶりに出席された方も多くおられます。魂の我が家に帰った気がしてホッとされているかと思います。先ほど執り行った洗礼式に加えて、久しぶりの主の御前での再会は実に嬉しい、幸いなことです。主に感謝を献げます。
さて、今日の聖書箇所の前半では、イエス様が、イエス様のふるさとであるナザレに帰られた時の出来事が語られています。故郷では、イエス様は受け入れられませんでした。イエス様が伝道を始められる前に、ナザレで大工さんとして働く青年だったことを、故郷の人々は知っていました。また、少年時代のイエス様と、イエス様が育った家庭、兄弟たちのことも知っています。人間的な意味で、人間としてのイエス様をよく知っていること — これが、神さまに与えられた福音宣教のお働きを進めるイエス様を受け入れる大きな妨げとなりました。
ここで、私たちが決して誤解してはならないことがあります。
ナザレで少年時代を過ごしたイエス様が、会堂で神の御子でなければ語れない御言葉を語り、教えられたことを、故郷の人々が受け入れなかったわけではありません。ここをさっと読むと誤解しがちなのは、ナザレの人々が少年時代のイエス様を知っているから、あの子どもが大きくなって生意気なことを言っていると、まともに聞こうとしなかったように思ってしまうことです。これは違います。それは、人々が決して感じなかったことでした。2節の二つ目の文をご覧くださるとわかることですが、むしろ、逆に、彼らは驚いたのです。イエス様の言葉に感動したのです。すばらしい教えだと感銘を受けたのです。
ところが、その感動・感銘を、彼らは神さまを仰ぐ心の土台にすることができませんでした。イエス様の御言葉に触れて、私たちは天の父なる神さまを知り、その御前に立つ思いへと促されます。イエス様は父なる神さまに通じる道だからです。しかし、ナザレの人々の関心は、天の神さまではなく、イエス様に集まり、そこにとどまってしまいました。
伝道活動を始める前のイエス様を知っているからこそ、「どうして、あの大工さんのイエス、マリアの息子のイエスが、確か、律法や神殿と関わったこともないはずなのに、こんな素晴らしいことを語れるようになったのか」という問いで心も頭もいっぱいになってしまったのです。自分に納得の行くこの世的な知識で、イエス様を知ろうとしてしまいました。
これは、現代に生きる私たちにとっても、ひとつの警告となりましょう。聖書学や歴史学、時には言語学や考古学の観点から聖書の御言葉・イエス様の足跡を辿る研究は、たいへん重要です。研究者の方々の地道な調査と考察の成果から、説教者は正しく御言葉を説き明かすためのたくさんの恩恵をいただいています。
しかし、この世的な事実にあまりに興味を持ちすぎて、信仰がなおざりになってしまっては本末転倒です。私たちは聖書を通し、イエス様を通して常に、イエス様が神さまの御心のどのような真実を伝えようとされているのかを聞く耳を持っていなければなりません。
その聞く耳を持てなかった故郷ナザレの人々の間では、イエス様はわずかのいやしを行われただけで、天の父の愛と正しさを伝える伝道の御業をなさることは、あまりできませんでした。宣教の実りは豊かではなかったのです。
これは、イエス様にとって思いもかけないことだったでしょうか。
皆さんはどうお考えになりましょう。
実は、イエス様は前もってすべてを見通され、このように伝道が困難だということもわかっておられて、故郷ナザレに帰られたのです。
イエス様のこの帰郷は、「しばらく実家に顔を出してないから、ちょっと帰る」というものでは、けっしてありませんでした。もし、そうだったら、イエス様は弟子たちを連れて行かなかったでしょう。しかし、今日の聖書箇所の1節にあるように、弟子たちはイエス様に従って、一緒にナザレに向かいました。イエス様のナザレへの帰郷。それは、弟子たちに宣教・伝道を教えるための第一歩であり、イエス様の弟子への教えの第一段階だったのです。
今日の聖書箇所の後半には、弟子たちを初めて伝道に遣わされたことが記されています。イエス様は弟子たちを思いやり、手を取るようにして、細かく持ち物についてまで、教えてくださいました。荷物を極限まで少なくするのは、真実に神さまの言葉に耳を傾け、真心をもって弟子たちを支援する人をさがすためです。そして、それはたいへん難しいことです。これまで、弟子たちはイエス様が人々にたいそう慕われていることばかりを見てきました。
イエス様がおられるところに人は群がり、イエス様の足元に社会的に地位がある人がひれ伏して、癒やしの奇跡を求めました。しかし、そこには御利益信仰的な面が大きかったこと、イエス様の御言葉を通して真実に天の父を求める心が薄かったことを、イエス様は弟子たちに教える必要を感じておられたのです。イエス様が弟子たちをナザレに連れて行ったのは、福音伝道・宣教は実に困難であると、身をもって経験させるためでした。伝道が困難だとわかっていれば、弟子たちはそれに備えて祈り、心を整えていただけます。受け入れられなくても、ナザレでの経験があれば挫折感はさほどでもなく、「足の裏の埃を払い落として」先へ進むことができるのです。
先へ進む — 今、このように申しました。
地の果てまで福音を宣べ伝え、主の道を進み続ける このことこそ、イエス様が常になさっておられること、そして私たち教会に生きる者に常に期待しておられることです。
2月末から、3ヶ月余りの間、私たちは新型コロナウイルス感染拡大のために、礼拝と平日の集会に集うことがたいへん困難になりました。
集まって礼拝を献げ、祈りを合わせ、讃美を献げることが、私たちキリストの教会の伝道の基です。それをウイルスによって奪われたようになりました。しかし、伝道は少しも止まること・足踏みをすることがありませんでした。その証しが、今日の洗礼式です。
私たちは、イエス様から大宣教命令をいただいています。そのしめくくりの言葉が、今年度の薬円台教会の主題聖句でもあります。大宣教命令をお読みします。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ福音書28:18b〜20)
今日、喜びの洗礼式が行われ、神さまの家族の新しい姉妹が薬円台教会の群れに加えられました。主に導かれて、私たちはこの困難な時にも、決して立ち止まることがありませんでした。教会は育ち続け、イエス様の御言葉に忠実に進み続けています。この事実と経験を、大きな励ましとして、これからの一日一日を、希望を抱き、主を仰いで歩み続けましょう。
2020年6月14日
説教題:恐れず、ただ信じなさい
聖 書:ヨシュア記1章5-9節 、マルコによる福音書5章35−43節
一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。…わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。
(ヨシュア記1章5-9節)
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外へ出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。
(マルコによる福音書5章35-43節)
マルコによる福音書第5章の後半で、イエス様は二つの御業を立て続けに行われました。ひとつずつの御業を一回の説教で説き明かし、今日は二つ目の御業の恵みをご一緒にいただこうとしています。
もともと、イエス様は今日の、この二つ目の御業のために道を急いでおられました。イエス様は初めてユダヤ以外の異邦人の土地、ガリラヤ湖の対岸・ゲラサに渡って、そこでユダヤ人以外の者に初めて、その者から悪霊を追い払う癒やしの御業・を行われ、再び湖のこちら側に戻ってこられました。
イエス様がどんなに重い病気の人も癒やしてくださることが、すでに人々の間に知れ渡っていました。舟に乗って湖を渡り、ユダヤ側に戻って来られるイエス様を、大勢の人々が岸辺で待ち構えていました。それは、前回の聖書箇所の冒頭・マルコ福音書5章21節 ‒ 今、今日の新約聖書箇所を開いておられる方は、そのページの右上をご覧ください ‒ その箇所に記されています。そして、22節です。イエス様が舟から降りると、すぐに一人の人がイエス様の足元にひれ伏しました。その人は「会堂長の一人でヤイロという名」だったことが記録されています。
当時、ユダヤの町には会堂があり、人々は安息日にそこに集まって律法の朗読と説教を聞いて過ごしました。会堂長は、その会堂を管理し、いろいろな事柄を取りまとめてゆく指導的な立場にありました。会堂長は、いわば町の有力者で、重要人物とみなされる存在だったと申して良いでしょう。財政的にも裕福だったと思われます。その立場にある人・ヤイロというこの人が、イエス様の足元にひれ伏したのです。これは一大事だと、集まっていた人々は思ったに違いありません。会堂長ほどの人が、誰かの足元にひれ伏すとは、と誰もが驚いたでしょう。イエス様は伝道活動を始めたばかりで三十歳、青年と言って良い年齢でした。威厳のある、服装も立派な会堂長が、奇跡を行うという噂の、どちらかと言えば粗末な姿の若者の足元にひれ伏している ‒ そのような常識では考えられない光景だったのです。
それほどにイエス様の評判が高かった、そう申すことができましょう。しかし、同時に、会堂長ヤイロの苦しみ悩みが深く、切羽詰まっていたとも言えるでしょう。
23節には、そのヤイロの願いが記されています。お読みします。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
前回、当時の女性は男性よりも軽んじられていたとお伝えしました。一家には、跡継ぎになる男子の誕生が必要でした。しかし、だからといって、その家の女の子が親に軽んじられて、可愛がられなかったかというと、まったくそうではなかったようです。旧約聖書のさまざまなところに、娘が両親に、特に父親に大切に愛されていたことが記されています。
いずれは他の家に嫁いで行く娘だからこそ、父親にとってはどれほど甘やかしても足りないほどに可愛いということも、きっとあったでありましょう。
今日の聖書箇所の終わりの方で、幼いと言っても、ヤイロの娘は12歳になっていたことが記されています。異性である父親に対して、少しずつ心理的な距離を置き始める、そのような微妙な年頃です。そして、父親の目には、思春期を迎えて女の子らしく、いっそう可愛らしくなる時期でしょう。その娘が、どのような病気かはわかりませんが、すぐにも息絶えてしまいそうな状況に陥っていました。
ヤイロは、何としても娘の命を救って欲しいと願ったのです。
この人がひれ伏して頼み込んだ相手は、イエス様だけではなかったかもしれません。
会堂長ですから、当然のこととして、ユダヤ教の祭司に願ったでしょう。もちろん、いろいろな医師にも診てもらったでしょう。
さらに、迷信のようなものであっても、藁にもすがる思いで、ありとあらゆる治療法を試したに違いありません。それでも、娘の息はかすかになってゆくばかりでした。会堂長がイエス様の足元にひれ伏したのも、イエス様の癒やしの評判が高かったからであって、福音を信じていたわけではなかったでしょう。
イエス様は、ヤイロの願いを聞き入れ、弟子たちと共に瀕死の娘が苦しんでいるヤイロの家へと道を急ぎました。ところが、間に合わなかったのです。ここからが今日の聖書箇所です。35節をお読みします。
「会堂長の家から人々が来て行った。『お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。』」
人間が死をすべての終わりと考えていることが、ありありとわかる言葉です。まだ命があってこそ、どれほどかすかであっても息をしているからこそ、父親ヤイロも、家族も、家の人々も、四方八方に手を尽くして治る方法を探していたのです。しかし、亡くなってしまいました。死は、行き止まりの袋小路で、そこから先へは進めないもの。その感覚が、35節から伝わってまいります。
もう、先生に、イエス様においでいただく必要はありません。できることは何もないのです。イエス様には、帰っていただきましょう。
これが人間の常識でしょう。ところが、このやりとりを聞いたイエス様は、人間の思いをはるかに超えて先へ進もうとされます。主は、会堂長にこう言われました。「恐れることはない。ただ信じなさい。」
人間がもうダメだと思ったところから、イエス様の歩みはより力強くなられます。それまでは、会堂長がイエス様の手を引っ張るようにして、家への道案内をしていたでしょう。しかし、ここからは、イエス様が先に立って進んで行く、そのような印象を受けます。
家に着くと、家の人たちは少女の死を嘆いて泣き騒いでいました。
イエス様が「子供は死んだのではない」と言うと、あざ笑う者さえいました。
イエス様の十字架の出来事とご復活を信じる者に、滅びという意味での死は、ありません。イエス様はヨハネによる福音書で、このように言われました。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」(ヨハネ福音書14:19b)そして、「心を騒がせるな。神を信じなさい。」(ヨハネ福音書14:1)とおっしゃるのです。
イエス様は横たわっている少女の手を取り、直接に関わりを持ってくださり、言葉をかけられました。「タリタ・クム」 ‒ 少女よ、起きなさい。この呼びかけに応えて、少女はよみがえりました。
娘が起き上がり、歩くのを見て、その死を悼み、イエス様をあざ笑った人たちは我を忘れるほどに驚きました。人の常識・人間の理性の枠を超える事柄の経験を、イエス様は人々に与えたのです。
私たちは、祈りの中で、イエス様を通して天の父なる神さまにたくさんの願いごとをします。特に今は、心を合わせて新型コロナウイルスの感染拡大が完全に収束し、治療薬とワクチンの開発が一日も早く為されるようにと祈っています。私たちは、人間に与えられた理性で思いつける事柄が現実になるようにと祈ります。ところが、神さまはまったく別次元での解決の方法をお持ちかもしれないのです。しかし、私たち人間は自分に見えること・自分の知っていることがすべてだと思ってしまいます。
今日の聖書箇所で、会堂長ヤイロも、他の人々も、少女の病気が治るか・治らないかという選択肢の中でしか考えられず、治るという望みしか持っていませんでした。死んでも生き返るという考えは、有り得なかったのです。人間の理性では、死んだら終わりだからです。
ところが・にもかかわらず、人間の思いでは、もうダメだと諦めるしかないところから、イエス様の真実の歩みは始まります。それは、人間の力を超える領域に私たちを引っ張って、連れて行ってくださる歩みです。
今日の聖書箇所では、少女が生きているうちはヤイロがイエス様の手を引っ張るようにして、家に連れて行こうとしていました。亡くなってしまったら「どうぞお帰りください」と言うしかない、それが人間の歩みです。私たちは神さまに、こうしてください、ああしてくださいと祈りを献げますが、それはイエス様の手を引くヤイロに似ているでしょう。
私たちに考えつけるすべての可能性が尽きてしまったところから、イエス様が私たちの手を引いて歩み出してくださいます。信じなさい、私についてくれば大丈夫だからとおっしゃって、人間の思いを超える解決を与えてくださいます。死を超えてイエス様と共に生きる道を、永遠の命を与えてくださるのです。
十字架の出来事とご復活の後の教会の時代を生きている私たちには、その証しがすでに与えられています。私たちに信じる力を与えてくれる聖霊がすでに、私たちを、教会を導いてくれています。
自分の力ではもう進めない ‒ そう思った時にこそ、主に献げる祈りを深めましょう。主にあって強く雄々しくあるとは、自分が強くなることではなく、自分のすべてを主におゆだねして、神さまに自分を運んでもらう ‒ そのような潔さを持つことです。今日から始まる一週間の一日一日を、主にお任せし、主の御手に運ばれて、安心のうちに過ごしましょう。
2020年6月7日
説教題:信仰により救われる
聖 書:創世記3章8-9節 、マルコによる福音書5章21−34節
イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足元にひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。
大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血はまったく止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
(マルコによる福音書5章21−34節)
前回5月31日にペンテコステ礼拝を献げて教会の誕生を祝い、今日は心を新たに、マルコによる福音書に戻ってまいりました。
5月24日の主日礼拝の説教で、イエス様が一人の男の人から悪霊を追い払い、その人を癒やされた箇所から恵みをいただきました。イエス様は、今日の聖書箇所でも続けて癒やしの御業をなさいます。
続けて二人の人を癒やされました。正確に申せば、一人を病から癒やされ、一人を死からよみがえらせて、救われたのです。
一度の説教で、この二つのみわざをいっぺんに語り尽くすことはできませんので、二回に分けて説き明かします。ただ、この二つのみわざが互いに深く関わっていることは、ぜひ心に留めておいてください。そのひとつのこととして、イエス様がその御業を働かれたのが、二人とも女性だったことがあげられます。イエス様の時代のユダヤでは女性は社会的地位がたいへん低く、人として数に入れられないほどでした。今の時代に生きる私たちは、今日の箇所を読んでも、立て続けに行われた癒やしと救いが、共に「女性のため」だったことにそれほど驚きを感じません。しかし、当時のユダヤの社会では、女性へのイエス様の優しさ・思いやりは驚きだったでしょう。人を隔てる何事にも関わりなく、イエス様の愛が誰にもわけへだてなくそそがれていることが、ここで表されていることを心に置いていただきたく思います。
イエス様が癒やし、救った二人の女性の一人は十二歳の少女、もう一人は十二年間、出血が止まらない病気にかかった、まだ若い女性でした。ここにも、「十二」という数が共通しています。
今日は、この二人のうち、十二年間病気だった女性が癒やされた出来事から、ご一緒に恵みをいただきたく思います。この女性について、私たちが、特にこの時代のユダヤ社会特有の事情として知っておかなくてはならない事柄がいくつかあります。
ひとつは、先ほど触れましたが、女性の社会的身分が認められていなかったことです。たとえば、誰か指導的な立場にある人 ‒ 政治家や、当時の律法学者、祭司など ‒ が男性と女性から同時に助けを求めたら、その人が真っ先に助けるのは男性です。女性は後回しにされます。
ふたつ目は、この女性の病気が出血を伴うものだったことです。律法で、血は汚れたものとされています。特に、女性の月のものの出血は汚れており、女性はその間、人との接触を避けなければなりませんでした。この女性は、ずっと出血が続いていたので、人と会うことができません。汚れた者として、社会に出ることができない生活を十二年間、続けていたのです。
この女性は病気で体がつらく、絶え間ない出血のために、貧血に苦しんで、普通の生活はできていなかったでしょう。その体の苦しみに加えて、この人は社会から切り離され、深い孤独の中に置かれていました。たまに体調が良いからと外へ出ても、周りの人は声をかけてくれません。汚れた女性だと冷たく目で見られ、避けられてしまいます。
この女性の悲願は、健康を取り戻し、体が楽になり、家族と過ごし、友人もいて、笑顔で過ごしたい、そんなごく普通の社会生活を送ることだったでしょう。
何としても治りたくて、女性は何人もの医師に診てもらいました。保険制度などない時代ですから、たいへんなお金がかかりました。財産を使い果たしましたが、それでも、どの医師にも治すことができませんでした。
いろいろな治療を試み、その中には治療そのものが体にこたえ、苦しく、つらいものもあったでしょう。ところが、病気はかえって悪くなるばかりだったのです。
この女性にはいくつもの苦しみが、折り重なるようにのしかかっていました。
まず、女性であること。病気で体が苦しいこと。汚れていると差別される病気にかかってしまったこと。そのため、人と関わりを持てずに孤独に閉じ込められていること。お金を使い果たして、貧乏になってしまったこと。病気が治らないばかりか、悪くなっていること。
今、こうして数えただけでも六つあります。これらのすべての結果として、七つ目の苦しみがあげられるでしょう。それは、絶望するということです。生きる力を失った魂は、体が生きていても死んでしまいます。哲学者キルケゴールが「死に至る病」と呼んだのが、この絶望です。女性は、まさにこの魂の死・絶望の淵にありました。
彼女は家に閉じこもり、人の目を避けてうずくまるようにして暮らしていたでしょう。その時に、彼女はイエス様の噂を耳にしたのではないでしょうか。体が麻痺した人が癒やされたそうだ。重いひふ病の人も癒やされたと聞いた。この自分も、治るかもしれない。
噂ばかりでなく、ある日、家の外の通りに、大勢の人々が集まって騒いでいるのが聞こえました。その騒ぎに耳を澄ましてみると、今まさに、そのイエス様という方が、癒やしの御業を行うために道を通ってゆくところらしいのです。藁にもすがる思いで、女性は家を出ました。おそらくこの時、汚れた身であることを人にみつかって騒がれないように。顔を隠す布などを被ることは忘れなかったでしょう。
人々が群がっているのを見て、女性に名案がひらめきました。それが、今日の聖書箇所の27節から28節に記されています。お読みします。「群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである。
女性の心にひらめいたのは、一種の迷信に近いものだったように思えますが、皆さんはいかがでしょう。
教会の信仰・聖書の信仰は、イエス様との人格的な出会いを通して、私たちの心に、魂に与えられます。私たちはイエス様の十字架の出来事とご復活を通して、イエス様がまさにこの自分のために、命を捨ててくださったこと、そしてよみがえられ、死を超えて自分と共にいてくださることを知って、イエス様を慕うようになるのです。私たち一人一人に与えられた恵みを知らずに、つまりイエス様の愛を知らずに、イエス様を知らずに信仰をいただくことはできません。
信仰はイエス様に、神さまに愛されている喜びを知る幸いです。イエス様の服に触って、愛されていると知ることは不可能でしょう。
しかし、すでにこの時、イエス様は、人混みの中に、この女性がいること、そしてこっそり自分に触れて癒やされようとしていることをご存じでした。そればかりでなく、これまでこの女性がどれほどつらい思いをしてきたか、どれほどの深い孤独に苦しんできたかも、分かっておいででした。イエス様は、全能の方で、何でもご存じです。神さまですから。
イエス様は、この女性を憐れまれました。だから、服に触れば癒やされると思ったこの女性の迷信めいた思い違いにも関わらず、この女性を癒やされました。
女性はイエス様に触れたとたんに、出血が止まり、自分が癒やされたことを感じました。悪い言葉を使いますと、女性は内心で「やった!」と思ったでしょう。そして、すぐにその場を離れて姿を消してしまおうとしたでしょう。
ところが、イエス様は「わたしの服に触れたのはだれか」と問うて、立ち止まられました。繰り返しになりますが、イエス様は神さまであり、全能の方です。この女性の病と苦悩も、人混みにまぎれて癒やされようとしたことも、服に触れたのがこの女性であることも、そして、女性がご自分に会わずに立ち去ろうとしていることも、すべてご存じでした。知っていて、イエス様は敢えて「だれか」と問い、急ぐ足を止めて応えを待ちました。それは、この人と、出会うためだったのです。
神さまは、私たち一人一人を深く愛して造られ、一人一人を知っておられます。一人一人の人生に創造主としての責任を負われ、絆を結んでくださいます。イエス様は、その絆をこの女性と結ぶために、「だれか」と問いかけてくださったのです。
女性は逃げたでしょうか。いえ、逃げませんでした。
彼女の心の中で、一瞬の激しい葛藤があったでしょう。イエス様の前に進み出て、イエス様ばかりでなく群衆の前に身をさらし、そして恵みを「かすめ取る」ようにして癒やされたと明らかにしなければならないのは、この女性にとって実につらいことでした。そのつらさを乗り越えて、逃げずにとどまるには、たいへんな勇気が要りました。
イエス様に出会い、この方に自分のすべてをゆだねて生きる決断には、勇気と覚悟が必要です。その勇気は、自分の力で絞り出せるものではありません。
イエス様が、神さまが、私を信じて良い・私に頼りきり、すべてをゆだねて大丈夫と聖霊をもって語りかけてくださるのです。私を信頼しなさい ‒ イエス様はその明らかなしるしを、いわば証拠を、十字架に架かって私たちのために命を捨てられることで、はっきりとお示しくださいました。
イエス様に身をゆだね、お任せする信頼が与えられてこそ、私たちは主の前に身を投げ出す覚悟をいただけます。自分のすべてを主の御前に投げ出す ‒ それが、ひれ伏すということでしょう。イエス様への信頼に根ざして、身を投げ出す覚悟・勇気が信仰です。女性はその覚悟と勇気をもって、今日の聖書箇所の33節にあるように、女性は「震えながら」イエス様の御前に「進み出てひれ伏し」ました。
この女性は、人混みにいることを群衆に知られたら、避けられ、罵られ、ことによったら石を投げられる立場にありました。人前に出ることには実に危険なことでもあったのです。
しかし、この時、イエス様のまなざしに遭って、女性にはイエス様しか見えなくなったのではないでしょうか。イエス様は後に、十字架に架かられます。それは私たちのすべての弱さと罪を負ってくださるためでした。イエス様から恵みをかすめ取って逃げようとするこの女性の弱さをも引き受け、かばい通してくださる私たちへの愛のご決意は、後の十字架で事実として示されます。
女性には、この時、イエス様にそのように受け入れられていることがわかったのでしょう。この方が自分を受け入れてくださるなら、誰にどう思われてもかまわない ‒ その強い思いが、女性の心を満たしたのです。神さまだけが私を知っていてくださるのなら、それで自分は幸いだ、あとのことはかまわない ‒ 私たちも、苦難の中で、そのように思うことがあります。この女性は、その思いを抱きました。
私たちも、教会に初めて来た時は、イエス様と出会ってはいなかったのです。教会においでになったきっかけはさまざまでしょうが、「教会に行くと人生が豊かになる」という漠然とした期待だったかもしれません。それでも、教会に来たこと、後ろからであっても神さまに近づこうとしたことをイエス様は、ほめてくださいます。教会の門をくぐって、礼拝の席に着いた、その覚悟と勇気を信仰とお呼びくださり、祝福されました。「あなたの信仰があなたを救った」と救いの宣言をされ、「安心して行きなさい」と平安を約束してくださったのです。
その御言葉は今日、私たち一人一人にも語られています。
イエス様は、今日、新しく私たちに出会い、私たちが新しくイエス様に自分のすべてをゆだね、お任せする覚悟を固める機会を与えてくださいます。そして、私たちがどれほど自分を小さな者と恥じていても、どれほど罪深いと思っていても、信仰を与えてくださるのです。そして、「安心して行きなさい」と平安を約束し、私たちをこの場から一週間の旅路へと送り出してくださいます。今日から始まる一週間を、主の祝福と共に、そして主と共に、歩み出しましょう。
2020年5月31日
説教題:聖霊によって主を知る
聖 書:エゼキエル書37章9-14節 、使徒言行録2章1−13節
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から集まって来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話しているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
(使徒言行録2章1−6節)
ペンテコステ、聖霊降臨日を迎えました。
申すまでもなく、キリストの教会が祝う大きな祝祭 クリスマス、イースターと並ぶお祝いの日です。大勢の兄弟姉妹と、この同じ場所で喜びを分かち合うことはできませんが、心はひとつとされて、聖霊をいただく喜びと感謝を献げたく思います。
イエス様はご復活されて四十日後に、天の父のもとに昇られました。
イエス様は、ご自身を見上げ、見送る弟子たちを天に昇りつつ祝福され、天の父が弟子たちに約束されたもの・聖霊をエルサレムにとどまって待つようにと言われました。
弟子たちは「約束されたもの」が何であるかは、おそらくわかっていなかったでしょう。しかし、彼らはイエス様のおっしゃったとおりにエルサレムにとどまり、待ち続けました。
実は、エルサレムにとどまるのは、弟子たちにとって決して簡単なことではありませんでした。イエス様は死刑囚・重罪を犯した者として十字架に架けられましたから、その弟子・仲間であることがわかると嫌がらせをされたり、憎しみをぶつけられたり、ひどい場合には逮捕されたりする危険がありました。
イエス様がゲツセマネの園で逮捕された時、弟子たちが逃げ散ったことを思い出してみましょう。
または、十字架の出来事の後、エマオへの道でイエス様が二人の弟子に会われたことも思い起こしましょう。あの時、二人の弟子は都エルサレムから郊外の町エマオへ逃げる途中だったのです。
十字架の出来事の時、弟子たちは実に弱く、イエス様を卑怯に見捨てたような者たち、またはペトロのようにイエス様を知らないと否んだ者たちでした。ところが、復活のイエス様に出会った後、彼らは別人のように強められたのです。
ご復活のイエス様は再び彼らに会われ、彼らが卑怯だったことなどなかったように、朝ご飯を用意してくださったり、ご復活のしるしをトマスに触らせてくださったりなさいました。十字架の出来事の前と変わらない親しみと慈しみを示してくださったことで、弟子たちは、自分たちがゆるされ、愛されていることを知ったのです。
これほどに、自分はイエス様に愛されている ‒ そう知った弟子たちは、たいへん強められました。愛され、大切に思われていることは、人間を、その魂の根底から支えます。弟子たちは、もうエルサレムの町の人々やローマ兵からの嫌がらせや、根拠のない憎しみを恐れませんでした。イエス様は必ず約束を果たしてくださる ‒ そう信じて危険なエルサレムを離れず、そこにとどまっていたのです。
イエス様に愛され、イエス様を信じる、そしてイエス様の約束を待つ ‒ これによって、弟子たちとその仲間 ‒ その中にはイエス様の母マリアや女性たちもいたでしょう ‒ 彼らは強められました。愛され・信じ・待つ、このことで、彼らは一つになったのです。
これは私たち教会に生きる者にとって、たいへん大切な言葉です。「一つになる」。そして、その言葉は、今日の聖書箇所の冒頭、第1節に、語られています。お読みします。「一同が一つになって集まっていると」。そして、彼らは同じ一つの経験をしました。
激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、その音が家中に轟きました。聖霊が降ったのです。イエス様の約束が果たされました。
聖霊はどのような形で、彼らに降ったのでしょう。
それは炎のような舌として現れ、分かれ分かれになって、一人一人の上に伸び、そこにとどまりました。
聖霊は風の音、炎のような舌だと、聖書は私たちに語ります。
舌から分かれたものが一人一人にとどまると、一同は聖霊に満たされて、神さまの偉大なみわざをあらゆる国の言葉で語り始めました。
さまざまな国の言葉で、ただひとつのこと・神さまの偉大なみわざを語り、伝道を始めたのです。これは、今、日曜日の朝に、世界中のキリストの教会で行われていることです。ヨーロッパ大陸で、アフリカ大陸で、南米のアメリカ大陸で、アジア諸国で、それぞれの国の言葉で、しかし同じひとつのことが教会で語られています。
その同じひとつのこととは、福音です。天の父なる神さまの救いのご計画、すなわち、イエス様の十字架の出来事とご復活、それを通して私たちに与えられた罪のゆるし・救いと永遠の命です。
今日の聖書箇所が語る五旬節の聖霊降臨の出来事から、2000年以上、キリストの教会は、忠実にこのひとつのことを、あらゆる言葉で語り続けています。
今日の聖書箇所が語っているのは、伝道する教会が誕生した瞬間の出来事なのです。だから今日、私たちはペンテコステ礼拝で、教会の誕生日を祝っています。
私たちは、三位一体の主を信じています。三つにして一人の神、三位一体の神さまです。創造主なる天の父、御子にして救い主なるイエス様、そして聖霊 ‒ この三位、三つのペルソナの神さまです。
時々、皆さんが父なる神さまはわかる、イエス様もわかる、でも聖霊はわかりにくいとおっしゃるのを耳にすることがあります。
私たちは洗礼を受けたその時から、あるいは洗礼を受けようと決意した時から、すでに聖霊で満たされているのに、人間の理性で理解したようにはなかなか思うことができないようです。
今日の聖書箇所の三つの言葉から、聖霊の働きについてご一緒に思い巡らしてまいりましょう。
三つの言葉とは「風の音」「炎のような舌」そして「一つになって集まる」、この三つです。
まず、聖霊は風の音と共に降ったと、そう今日の聖句は語ります。聖書のもとの言葉では、風は「神の息」「生命のいぶき」そして、聖霊そのものをさします。神さまが天地を創造され、海に魚を、陸に植物と動物を、そして人間を造られた時、この最初の人アダムの鼻に神さまはご自身の息を吹き込んで、人を生きる者となさいました。私たちが聖霊で満たされるとは、私たちが命の源なる神さまの息で満たされ、いきいきと喜ばしく生きるものとされる、そのことをさします。
聖霊は、私たちを神さまの息で神さまとつなげ、主にある命に活かすのです。
次に、聖霊は「炎のような舌」だと聖書は告げています。聖霊は福音を語り、伝える舌として私たちを満たします。また、聖書の御言葉を理解させてくれるのも、聖霊の働きです。この理解とは、単に意味がわかるというだけではありません。御言葉から、私たちは感動と力をいただきます。励まされます。私たちは、実に聖霊によって主の恵みを知るのです。
たとえば、ヨハネによる福音書16章33節に励まされる方は多いと思います。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。」この言葉で私たちが元気づけられるのは、ただ知識として理解できるからではありません。他ならぬイエス様、この自分のために十字架に架かってまで、この私を大切に思ってくださるイエス様がおっしゃってくださるから、力が湧いてくるのです。この感動を私たちの心に熱く、それこそ炎のように起こしてくれるのが、聖霊です。
また、私たちはこの感動を、同じようにイエス様に愛され、イエス様を慕う者と一緒に分かち合いたいと願います。声を合わせて讃美歌を歌って主をたたえ、共に同じ言葉で信仰を告白したいと思います。それが、私たちが献げる礼拝です。
また、礼拝でいただいた恵み、聖書から受ける励ましを、それをまだ知らない親しい人に伝えたいと思うようになります。仲の良い人に、自分が大切にしているものを知って欲しい、できれば同じ思いを持つようになって欲しいと思うのは自然なことです。イエス様の福音を伝えるための言葉を語る舌を、聖霊によって私たちは与えられます。
そして、聖霊は私たちを主にあって一つに集めます。
今年のペンテコステ礼拝、私たちは新型コロナウイルス感染拡大のために、そろって祝うことができません。しかし、今、この瞬間、ご自宅で教会の礼拝を思いつつ、祈っておられる兄弟姉妹と、心は一つに集められています。
少し、俗な話になってしまいますが、このようなことはこの世のイベントでは起こらないと思います。新型コロナウイルス感染拡大のために、数限りないイベントが中止されました。音楽のコンサートや、演劇、スポーツが行われなくなりました。それらは、行われなければ、本当になかったことになるのです。実際にその場にいて、同じものを見て、同じものを聞かないと、同じ一つの心にはなれません。
しかし、礼拝は違います。場所は離れていても、御言葉に導かれて福音 ‒ イエス様の十字架の出来事でいただいた赦しと、ご復活が示す永遠の命 ‒ を思い起こすことで、私たちは教会の絆で結ばれていると知ることができます。福音を思い起こし、兄弟姉妹・神さまの家族とされている恵みが心を潤すのは、私たちを一つにしてくれる聖霊のみわざなのです。
もちろん、皆で教会に集まり、一緒に献げる礼拝にまさるものはありません。けれど今の時は、それを楽しみに祈り合うことができます。祈りでつながることができる ‒ これも聖霊のみわざです。
私たちの祈りに応えて、感染は収束に向かっています。このまま、感染第二波が起こらずに、順調に、少しずつ、出席者が増し、讃美の声が大きくなることを祈り願います。慎重に行いますので、それには、もしかするとこれから数ヶ月という時間がかかるかもしれません。
しかし、私たちをひとつに結び合わせてくださる聖霊の主を信じ、聖霊に依り頼む心をいっそう強くされて、それぞれの場で心はひとつにされて祈りつつ、進みましょう。
今日から始まる一週間も、聖霊に満たされていきいきと、日々喜ばしく、歩んでまいりましょう。
2020年5月24日
説教題:家路をたどる幸い
聖 書:イザヤ書65章1-5a節 、マルコによる福音書5章1−20節
一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々(たびたび)足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。…イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。
(マルコによる福音書5章1−20節)
前回の礼拝の聖書箇所で、イエス様は弟子たちと湖を渡られました。向こう岸に行こう、そう弟子達を促されたのはイエス様だったのです。
こうしてイエス様がめざされたガリラヤ湖の向こう岸は、ゲラサ人の地方でした。ユダヤ人の土地ではありません。民族が異なり、ユダヤ人が神さまと仰ぐ私たちの天の父とは違うものを崇めていました。
異民族であり、異邦人です。マルコによる福音書では、今日の箇所が初めて、イエス様がユダヤ人以外の者に恵みのわざを働かれたことを伝えています。ゲラサの人々がユダヤ民族とは異なる文化を持っていたのは、先ほどお読みした中で、豚と豚飼いについて記してあることでわかります。ユダヤ人は、律法によって豚を食べることを禁じられていますから、豚はユダヤでは飼育されない、いないはずの家畜です。
さて、イエス様が舟から降りるとすぐに、近寄って来た人がいました。悪霊に取りつかれた人でした。まさに、この人のため・苦しんでいるたった一人の異邦人のために、イエス様は湖を渡られたのです。
この汚れた霊に取りつかれた人を、皆さんは、今 私たちが比較的良くメディアを通して耳にする「モンスター」のように思うでしょうか。人格が破綻しているのではないかと思ってしまうような、残酷で猟奇的な事件を起こした犯罪者を、犯罪心理学の言葉でサイコパスというそうです。人の痛みや苦しみを想像できず、起こした事件で良心の呵責を感じることができないサイコパスを、メディアはモンスターと呼びます。人間とは違う者・人間の姿をしているけれど、中味は化け物という意味で、モンスターという言葉を使うのでしょう。
今日の聖書箇所が語る、この汚れた霊に取りつかれた人のことを、私はどうも、そのモンスターとは思えないのです。もう少し申しますと、人間の姿をしているけれど中味は化け物のように残虐なモンスターを、神さまがお造りになったとは思えないというのが、正直な思いです。
この人は、たいへん気の毒な人です。聖書の登場人物の中で、可哀想な人を思い付くだけ 上げなさいと言われたら、真っ先にとは申しませんが、私はかなり早い段階でこの人を可哀想な人に数えると思います。また、どうしても、この人のことを他人事とは思えないのです。
この人は、自分の中に潜む破壊的な力をどうすることもできませんでした。その力は、自分のまわりの人を傷つけるものではなかったようです。4節には、このように記されています。お読みします。「これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかった。」では、彼はまわりの人に乱暴を働いて傷つけるのかというと、そうではないのです。
この人は、人でありながら、人と暮らせない寂しい人でした。5節に、こう記されています。お読みします。「彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。」この人の身内は、暴れる彼を自分たちのところに穏やかにとどめ置こうとして、鎖や足枷を使ったのでしょう。しかし、彼はそれを引きちぎり、砕いて、人間の住むところから逃げ出してしまうのです。行くところは人の住めない山であり、墓場です。墓場 ‒ 命が尽きる場所・滅びの場所です。希望がまったくないところにしか、この人は行くことができません。そこで一人で幸せに暮らせるかというと、とんでもないのです。石で自分を打ちたたき、自分を滅ぼしてしまおうとするのです。
聖書が悪霊という言葉を用いる時、それは神さまが望ましいとするあり方と真逆・正反対の方向に進もうとする力を指します。
神さまは、つながりをたいせつにされます。ご自身が最初の人間アダムを造られた時、その鼻にご自身の命の息を吹き込んで、この息でアダムとつながり、アダムを生きる者とされました。さらに、人がひとりでいるのは良くないとおっしゃられ、アダムを助ける者として、その妻エバを造られました。
今日の旧約聖書の御言葉が語るように、神さまはどんな者にも御手を差し伸べてくださいます。その者を清めて、汚れと滅びから引き上げ、ご自分と共に生きる喜びを知らせようとしてくださいます。
また、神さまは私たちが互いにつながり合うのを喜んでくださいます。互いに愛し合いなさいと、イエス様は繰り返しおっしゃられます。イエス様は、誰も手を触れようとしない重い皮膚病・感染症の人に触れて、つながって、その人の病を癒やされました。私たちが互いに組み合わさってひとつとなるように、ひとつの体を造り上げるように、信仰共同体・教会を建て上げることも、聖書は強く勧めています。
さらに、神さまに命の息でつながって愛される自分をたいせつにし、同じように造られた兄弟姉妹、隣人をたいせつにすることを尊ぶようにと教えられます。そこに、私たちが生きるまことの幸いがあるからです。
しかし、このゲラサの墓場の人は、どうでしょうか。少し、暗い話をしなければなりません。おゆるしください。
この人は、人とつながることはおろか、一緒にいることすらできませんでした。自分をもたいせつにできないばかりか、痛めつけ傷つけようとして、その自分を石で打ちたたくのです。神さまが望まれるのと、真反対です。しかも、それはその人にとって、決して嬉しいことでも、気分の良いことでもありません。その人は、その自分から逃れたくて叫び、さらに自分を痛めつけるのです。自分が嫌いだからです。誰も好きになることができない、自分すら、好きになれない、自分が大嫌い。この人のどこにも、愛がありません。だから、悪霊だと聖書は言うのです。 ただ、繰り返しますが、私はどうしても、この墓場で自分を滅ぼすためにしか生きられないこの人のことを他人事には思えません。
私が中学生、高校生であった頃、若かった頃の自分の苦しみは、この人の苦しみに近かったのではないかと思えてならないのです。何に頼ったら安心できるのかわからないので、不安です。頼るものをみつけることができないので、自分で自分を頼れる何かに造り上げようとしていました。そんなことは、できるはずがありません。焦りました。
もちろん、楽しい思い出の多い中学生時代・高校生時代でもありました。しかし、いつも、心の底に、たいへんな焦りがあったことを、聖書の今日の箇所を読むと思い出さずにはいられないのです。
神さまを求めようとしない人、信じようとしない人は、その焦りの中で一生を過ごすのではないかと、つい思ってしまいます。そして、それはどれほど苦しいことかと思わずにはいられません。
自分を神として、自己中心的に生きるとは、そういうことです。
そして、イエス様は、神さまを知らなかったこの墓場の人から、その自己中心の思いを追い出してくださいました。
自己中心的に生きるということの凄まじい破壊力、その暗い滅びの力を、今日の御言葉は語り尽くしていると言っても良いでしょう。
イエス様が、その悪霊に名乗るようにと言うと、レギオンと答えました。「軍団」という意味です。語源はラテン語で、戦う兵士が六千人で、この「軍団」・レギオンとなります。それほどの破壊力があるということでしょう。
さらに、イエス様がこの人から出て行くようにと悪霊に命じると、悪霊は「後生だから、苦しめないで欲しい」と頼み、この地方から追い出さないでくれとしきりにイエス様に願いました。そして、ついに二千匹の豚の大群に乗り移らせてくれと頼み、イエス様はそれを受け入れられて、そのとおりになさいました。
そうしたら、どうなったでしょう。豚の大群は、このレギオンに耐えることができなかったのです。その滅びの力・破壊する死に向かう力を中に収めておくことができず、それに突き動かされて一気に崖を下り、湖になだれこんで次々と溺れてしまいました。
人とつながろうとせず、自分を神としようとして苦しむ心 ‒ 神さまを知ろうとしない孤独な心は、それほど強く命を死へと引き込む凄まじい負の力を持っているのです。
私たちは、今、感染拡大防止のために、人との接触をできるだけ少なくするようにと勧められています。社会的距離・ソーシャルディスタンスを取るようにと言われています。もちろん、それは感染拡大防止のためにはぜひとも必要なことです。しかも、それは別に魂のことを問題にしているわけではありません、接触を避けるようにと言うのは、物理的な意味合いにおいてです。
しかし、それでも、私たちはどうしても一人で過ごす時間が長くなります。おおげさなことを申し上げるようですが、私はこの感染拡大が始まる前と、今とでは、文化のありよう・社会のありようが変わって行くような気がしてなりません。
そして、人が孤独の力、このレギオンの力に吸い込まれて魂を滅ぼされてしまわないために、私たちは神さまがたいせつにするようにと教えてくださっているつながり・愛の保ち方を、あらためて思い起こし、心に留めて生きなければならないと思うのです。
イエス様は、墓場で苦しんでいたこの人を、孤独の闇の力から救われました。悪霊を追い払ってもらったこの人は、正気になりました。人間らしさ ‒ 人と関わりを持って生きたい、人をも自分をも受け入れて素直に生きたいと思う気持ちを取り戻したのです。そして、自分を救い出してくださったイエス様と一緒に行きたいと願いました。
しかし、イエス様はこの人に、こう言われました。おそらく、本当にこの人のためを思って、優しく言われたのでしょう。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」この人が失っていた身内の人々とのつながりをまず取り戻し、神さまに与えられた環境を感謝し、そこに喜びを見いだすようにと、イエス様はこの人を導かれました。
そして、その穏やかなつながりの中で、神さまが差し伸べてくださる手にしっかりとすがって一歩一歩、一日一日を歩んでゆくようにと促されました。それが、この人の身近な人々・この人がたいせつに思う家族に神さまを伝え、主の恵みを知らせることだと、イエス様は教えてくださったのです。
家にとどまって過ごす時間が長い今のこの時に、私たちも、イエス様が教えてくださるこの恵みを、今日、素直にいただき、心にしっかりと受けとめましょう。人との心のつながりをいとおしみ、大切にする私たちそれぞれの家路に向かう幸いは、いつの日か、天の家・私たちの真実の心のふるさとに帰る家路につながっています。それを覚えつつ、今日から始まる一週間を平安のうちに過ごしてまいりましょう。
2020年5月17日
説教題:風を鎮める方と共に
聖 書:詩編46編1-8節 、マルコによる福音書4章35−41節
その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ、静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
(マルコによる福音書4章35−41節)
今日は、イエス様がなさった御業の中でも、よく知られている奇跡を伝える御言葉をいただいています。三つの共観福音書・私たちがしばらく読み進んでいるマルコ、昨年読み終えたマタイ、そしてルカによる福音書のどれにも記されている出来事です。イエス様が弟子たちと舟に乗って湖を渡っておられたところ、激しい突風に襲われて、乗っていた舟が沈みそうになりました。イエス様が風と波立っていた湖を叱りつけると、風がイエス様の言葉に従ってすっかり静まりました。イエス様の言葉に、人間を苦しめる病ばかりでなく、自然現象である風さえも従うことに、弟子たちは驚きました。
今日の聖書箇所の最後の節は、その弟子たちの驚きが記されています。その言葉を、今 あらためてお読みします。「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか。」
こう驚く弟子たちに、イエス様の十字架の出来事とご復活の福音の恵みを聖書によって知らされている私たちは、こう思います。弟子たちにはまだこの時、イエス様が神さまであることがわかっていなかったのだ、と。イエス様は天地を創造された神さまの御子であり、ご自身が神さまであり、だから被造物である自然現象 ‒ 風や湖をも従わせる方なのは当然です。
この聖書箇所は、そのようにイエス様が神さまだということを私たちにあらためて知らせてくれます。それ自体が恵みですが、イエス様が風を静められたこの出来事の恵みは、それだけにとどまりません。
今日の箇所は、前回の礼拝でいただいた御言葉をも含めて、そこから聴き取ってゆきたいと思います。
前回の御言葉で、イエス様はたとえを用いて神の国・御国のすばらしさを人々に語られました。今日の聖書箇所の少し前、4章33節をご覧ください。「イエスは、人々の聞く力に応じて」とあります。
イエス様が私たち人間に、具体的にイメージすることのできる成長する種や樹木のたとえを用いて語られたのは、人々それぞれがどれだけ霊的に良い耳を持っているかを見分けて語ってくださったということです。そして、34節にはこのように記されています。お読みします。「たとえを用いずに語ることはなかったが、ご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」。
ここで私たちは、イエス様が、“人々”と“ご自分の弟子たち”をはっきりと分けていたことを知らされます。イエス様が語られる御言葉を、その時その時に聴くだけの人々。イエス様が選び、招いて、イエス様といつも一緒にいる弟子たち。
イエス様は弟子たちには、「ひそかにすべてを説明され」、神の国の秘儀を伝えようとされていました。その選ばれた弟子たちは、いわば霊的なエリートのように思えます。自分も、その弟子たちのようになりたい、霊的に優れた者になりたいと、あまり深く考えずに思ってしまうかもしれません。
しかし、イエス様の弟子になるとは、人間的な視点 ‒ 言ってみれば「この世的な、俗世間の基準」‒ から見た幸福からは、ほど遠いことだったのではないでしょうか。最初にイエス様に弟子となるよう招かれて従ったシモン ‒ 後のペトロ ‒ とアンデレ、ヤコブとヨハネは、まっとうな職業である漁師という仕事を捨ててしまいました。網や舟といったこの世で価値のある財産を捨て、また父親すら後にして、イエス様について行きました。徴税人レビ、後のマタイと伝えられているこの人も、税金を集める仕事を放り出してしまいました。
職場放棄、無断欠席。決して褒められたことではありません。そればかりか、社会的信用を失う事柄です。評判は「ガタ落ち」になり、それを完全の回復するのは難しいかもしれません。
そして、イエス様がなさっていた伝道のお働きは、この世的、社会的な後ろ盾や権威を持たないものでした。そもそも、イエス様ご自身が、神さまの教えを説くためのこの世的な権威 ‒ 資格や免許と言ったライセンスと申しますと、わかりやすいかもしれません ‒ を持った祭司でも律法学者でもなかったのです。イエス様が大工の仕事をやめて、伝道のお働きを始めたことを、母マリアや弟・妹たちはたいへん心配しました。マルコによる福音書で、私たちがすでに読んだ箇所ですが、3章21節に次のような言葉があります。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。」
仕事をやめて、伝道のお働きをされるイエス様と弟子たちには、経済的な生活の保証もなかったでしょう。カファルナウムのペトロの家もしくは実家で、初めの頃の弟子たちと共同生活をされたと伝えられています。
イエス様の弟子になるとは、そのように社会的に認められず、生活も苦しい、この世的な見地からはおよそ“良い”とは思えないことだったのです。
さらに、イエス様について弟子となることが、この世的な意味合いばかりでなく、おそらく霊的な意味でもたいへん厳しい事柄であったと示すのが、今日の聖書箇所が語る出来事です。
今日も、前置きが長くなりました。
マルコ福音書4章35節からの今日の聖書箇所を、少し詳しく読んでまいりましょう。イエス様はその日の夕方、弟子たちにこう言われました。「向こう岸に渡ろう。」夜の湖を舟で漕ぎ渡ろうとおっしゃられたのです。「向こう岸」は、5章から始まる御言葉によれば、違う神を崇める異教の土地・ゲラサでした。悪霊にとりつかれた人を癒やすために、イエス様は夜の湖に舟を進めるよう、弟子たちに言われました。
弟子たちは、その目的を知らなかったかもしれません。しかし、イエス様の言葉に素直に従って、舟を出しました。弟子たちにとって、その時は、イエス様の言葉に従って行動していること・イエス様と心を合わせていることがたいせつだったのです。仕事も家族も、社会的信用も財産も捨ててイエス様に従った弟子たちにとって、イエス様のために自分たちが働けることは、喜びであり、誉れだったでしょう。幸福感に満ちた船出でした。
ところが、激しい風に舟は翻弄されます。37節をお読みします。「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。」弟子たちがどれほど慌てたかを想像するために、ここで、皆さんに思い出していただきたいことがあります。弟子たちのうち、四人は元漁師でした。どんな天気でも、夜でも、また急にお天気が変わったとしても、舟を操ることは上手だったでしょう。その弟子たちが、これは手に負えないと直観するような、おそらく経験したことのない不気味で、すさまじい風と、それによって荒れ狂う湖の波だったのです。
それが、イエス様の弟子となることの意味ではないでしょうか。
イエス様の弟子となるとは、私たちの教会の現実に照らして申せば、洗礼を受けることです。クリスチャンとなることです。イエス様の最初の弟子たち ‒ ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネ ‒ 彼らがそうだったように、私たちも、イエス様が自分に目をとめ、自分と出会い、一緒に働こうと声をかけてくださったことで、救われる ‒ そのような魂の経験を経て、洗礼を決心します。イエス様に出会えたから、やっぱり生きていて良かったと、おおげさではなく心の底から思って、喜びと希望に満ちて信仰生活・教会生活を始めたはずでした。
ところが、教会生活で、または信仰生活で、思いもかけなかった痛みを負うことがあります。
この牧師は、またはクリスチャンであるはずのこの兄弟姉妹は、この自分に、どうしてこんな心ないことを言うのだろうと、深く傷つく経験をすることがあります。その言葉は、牧師または兄弟姉妹が、やはり人間としての限界・欠けや罪、愛と配慮の足らなさからだったということがあるでしょう。また、長い 長い年月の後に、実はこういう意味だったのだと、言われたことの背景がようやく本人に理解できることもあります。
自分自身・個人の信仰生活としては、洗礼を受けると自分の罪深さをこれまで以上に強く、つらく感じ取るようにもなるでしょう。とっさに取ってしまった行動や、言い返してしまった言葉が、イエス様の十字架で罪をゆるされ、魂の滅びから救われ、清められたはずなのに、少しも変わっていないことで、立ちすくむ思いをすることがあります。
イエス様の弟子となり、教会の神の家族に加えられて、「向こう岸に行こう」と船出した私たちは、そのようなかたちで突風に襲われるのです。
もちろん、日本社会では100人に一人しかいないと言われているキリスト者となったために、さまざまな意味で、文字通りに風当たりが強くなることがあります。家族の中で自分一人がキリスト者だと、食前の祈りをどうしよう、お墓参りの時はどうしようと、いろいろと思い悩んで、ストレスを感じることがあるのではないでしょうか。それも、イエス様の弟子として船出したために経験する突風でありましょう。
そして、その時、私たちが心の痛みと共に、真っ先に感じてしまうのは「イエス様に従っているのに」 ‒ 洗礼を受け、イエス様の弟子になり、この世とは次元の違う御国を仰ぎ見て、この世の幸いとは違う恵みをいただこうとしたのに、どうして悩まなければならないのか、という思いです。
この自分の今の苦しみを、イエス様はご覧くださっていないのではないかと思ってしまうのです。イエス様を信じて、イエス様にすがって、教会という舟に乗り込んだのに。
さて、今日の聖書箇所に戻ります。38節です。弟子たちが舟の艫でみつけたのは、枕までちゃんと頭にあてがって、すっかり寝入っているイエス様の姿でした。やっぱり、イエス様は自分を見てくださっていなかった! こんなに私は、また私たちは苦しいのに、寝ておられた!
弟子たちがこの時、イエス様を起こすために言った言葉に、彼らのやりどころのない怒りと申しましょうか、苛立ちが表れています。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」 ‒ 今日の旧約聖書の御言葉を用いれば、あなたは、私たちの砦の塔、苦難の時の避けどころではないのですか、眠っていて、全然見守ってくださっていないじゃないですかと、弟子たちは言いたかったでしょう。
この時、弟子たちがイエス様に期待したのは、自分たちと一緒に舟から入り込んでくる水を掻い出し、沈没から免れるという現実的な助けでした。
ところがイエス様は、やおら起き上がって、弟子たちには予想もできなかった仕方で、彼らを苦難から救い出されました。それは、弟子たちと同じ行動を取って、激しい波風に抵抗することではありませんでした。風も波も、神さまであるイエス様の相手ではない・抵抗など必要ないことを示されたのです。
イエス様は風と湖を「黙れ、静まれ」と言葉で叱りつけられました。
神さまは言葉で天地を造られました。神さまが力として用いられるのは、何と言ってもまず、言葉だからです。神さまに造られた被造物である自然・風と湖はその言葉にしたがい、たちどころに「風はやみ」、穏やかな「すっかり凪になった」のです。
洗礼を受けてイエス様の弟子となり、イエス様を慕い、イエス様に従おうと歩み出す時、私たちは今日の聖書箇所のように、突風の試練に遭います。予想もしなかった次元から霊的な試練が降って来たことに、私たちは大いにショックを受けます。イエス様は自分に寄り添ってくださっていないのかという疑いもショックと共に湧き起こり、心が痛み、途方に暮れます。しかし、その時に、イエス様、イエス様と今一度すがりつくと、イエス様はまったく別の次元の、神さまとしての全能を用いてくださって、私たちを救われます。風を静め、湖を平らかにして、私たちと共におられることをはっきりと示してくださいます。この試練を経て、私たちがイエス様に寄せる信頼と希望は、これまでに増して深く、大きく育ちます。私たちは、いくたびかこのようなイエス様との霊的経験を繰り返して、信仰の足腰を強くされ、クリスチャンとして成長させていただきます。
今、長引く感染拡大の中で、神さまは、イエス様は、果たしてこの人間の苦しみをご覧になっておられるのかと思ってしまうことが、あるかもしれません。しかし、この時にこそ、風を静め、思いもかけない救いをもたらしてくださる主の御力を信じましょう。
私たちが勇気と希望を抱いて、忍耐の日々を過ごしていること自体が、そして今、ゆるやかながら感染拡大が収束に向かいつつあることが、主の働きの兆しではないでしょうか。信じて、祈り続けましょう。そして、この困難を通してこそ、イエス様に従うキリスト者として、さらに大きく深く信仰を成長させていただきましょう。
2020年5月10日
説教題:大いなる神の国
聖 書:イザヤ書9章5-6節 、マルコによる福音書4章26−34節
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。
(イザヤ書9章5-6節)
また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、さっそく、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、ご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
(マルコによる福音書4章26−34節)
新型コロナウイルス感染拡大がなかなか収束しない中で、私たちが痛切に感じるのは、私たち人間は本当にわずかな知識しか持たないということです。
確かに人類は文化を築き、進歩を遂げてきました。それを、私たちは歴史を通して学び、また、この社会で生きている日常の中で実感します。人間はまず舟による航海技術を駆使して、この広大な地球を、「股に掛けて」旅行し移動することができるようになり、次に飛行機で世界一周が可能になりました。2005年、今から15年前にはたった67時間での世界一周が記録されました。3日足らずです。
さらに、別の次元で、文明によって世界は小さくなりました。インターネット技術です。どこにいても、あらゆる国の人と画面に映る姿を見ながら会議ができるようになりました。
しかし、そのように発達した文明を持っていても、今、私たちを互いから遠ざけている新型コロナウイルスについて知り尽くすことができません。どんな薬で治療できるのか、まだわかりません。
メディアは専門家会議の中継を行い、私もできるかぎり、すべての中継と質疑応答を見聞きするように努めています。強く印象に残るのは、質疑応答の場面です。専門家が可能な限りの力を尽くして説明しているのに、どうして質問者はその専門家がとうてい答えられないとわかりきっている質問をしてしまうのだろうと思ったのです。質問をされる新聞記者やメディアの方々が、ジャーナリストとしての使命感から、国民を代弁するつもりで問いかけていることはよく分かります。しかし、それらの質問を受けながら、疲れた苦しげな表情をされている医療専門家の方々が、「そんなことを聞かれたって、わからないものはわからない」と内心で思っておられるであろうことも、画面から伝わってきました。
私自身がかつて医療従事者だった経験があるからかもしれませんが、本当に人間は人間自身の体について、また自分自身の体について、まだまだ知らないことの方が多いと、実感として思います。驚くような快復力で病を克服する方もおられれば、大丈夫だと思ったのに、実にあっけなく、まるで指の間から命というかけがえのないものが、するっとすべり落ちてしまうように、助けることができたと医療チームが確信した命が失われてしまうこともあるのです。
私はどうしても、人間の小ささ・無力さを感ぜずにはいられません。
それと同時に、この世界を微細な原子のミクロ的なものから、広大な宇宙のマクロ的なものまで、実に緻密に造り上げた大いなる神さまの全能を思わずにはいられません。
私たちが目で見て、耳で聞き、知識と能力を駆使して造り、扱えるもの、また神さまが造られたこの世界で発見できるものは、ほんのわずかなのだと思います。自分が目で見て、耳で聞き、五感で確認できる「この世界」「この世」についてさえ、私たち人間にはとうてい知り尽くすことができません。神さまは「この世界」「この世」をご自身の「御国」「神の国」とは別に造られました。そして、今日のマルコによる福音書でイエス様が語られる神の国の、はかりがたい大きさとすばらしさを思わずにはいられません。
今日の聖書箇所は、その大いなる神の国をめぐる「たとえ話」です。
前回の説教でも申し上げたことですが、イエス様はその伝道のお働きをこのひとことから始められました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)神の国は近づいた、とおっしゃるのですから、それは、この世・被造世界のすべてを人間が知ることをさすのでは、まったくありません。神の国は、この世とは別、つまり次元を異にし、それが近づいてきているのです。
ところが、イエス様は別の箇所でこのようにもおっしゃられています。「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20〜21)私達の間に既にあって、しかし、私達の目には見えず、御言葉の光の中で初めて僅かに分かって来るのが神の国です。
こういう言い方もできるでしょう。生き生きと動いて近づきつつ、私達の間で、既に神さまのなさる働きとしてひそかに始まっている神の国。
また、こうも言えるでしょう。大いなる神の国のただ中に、まるでご自身の手のひらに載せるように、神さまは「この世」を造られた ‒ だから、この世は神の国に包まれるように存在しているのかもしれません。
そして、こうも言えるでしょう。私たちが見る・聞く・触る・味わう・嗅ぐ、この五感で感じ取ることができるのは三次元の世界の出来事です。考え方によっては、これに「時間」・「時の流れを実体験する感覚」を加えて「この世」を四次元とすることもあるそうです。神の国は、私たちの感知できる三次元・四次元を超えて「ある」もの、存在するものだから、私たちにはわからないのです。
私たちが「ある」という時、それは特定の場所をそのものが占めることをさします。たとえば、この聖書は、今、この講壇の上に「ある」のです。又は、特定の時に起こった出来事の事も「ある」と申します。例えば、1973年に薬円台教会の創立という出来事が「あった」のです。
この三次元ないし四次元の考え方から、私たちは、つい、神の国を「空の彼方に」ある場所、または「人が亡くなったら、行くところ・いわゆる“天国”」と捕らえてしまいがちです。神の国を自分の感知できる範囲で理解しようとする限り、その大きさ・すばらしさを人間の限界の中に押し込めてしまいます。
しかし、それでは、神の国の真理のすばらしさをわずかでも垣間見るどころか、逆に遠ざかってしまいます。
神の国は、別の言葉を用いると「永遠の命」です。三次元・四次元の限界がある人間の世界を超えてなお、つまり肉体の死を超えてなお、私たちが神さまと共にいる幸いをいただくことを意味します。
同じことを別の角度から申しますと、私たちは「今・この世」に生きながら、同時に神さまに知られ、イエス様の十字架の出来事とご復活によって救われた福音を信じることによって神さまのもの・神の子とされ、神の国に生きる恵みをいただいているのです。聖霊を通して、この恵みと幸いを私たちは信仰の喜びとして味わうことができます。礼拝や、御言葉を通して心が動かされ、励まされるように思います。
ただ、見ること・聞くことができないので、じれったく思ってしまうことはあるでしょう。神の国は、どういうものか。そして、私たちは神の民として、「この世」にありながら、どう「神の国のもの」「天に国籍を持つ光の子」として生きれば良いのか。
イエス様は今日の二つのたとえ話によって、私たち人間がじれったく思ってしまう、その「わからなさ」を満たそうとしてくださいます。
今日も、だいぶ前置きが長くなりました。
さて、最初のたとえ話から聞いてまいりましょう。26節です。イエス様は言われました。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」私たちが種蒔きをした後、眠って起きて、ごく普通に日々を過ごしているうちに、土はひとりでに種に実を結ばせ、やがて収穫の時が来る、そう語られます。
27節に、心に留めておきたい言葉があります。「どうしてそうなるのか、その人は知らない。」神の国の働き、言ってみればそのメカニズムの神秘を、人間は知らなくても良い、ただ神さまにお任せしていれば良い、そうイエス様はおっしゃいます。
種蒔きは、教会のわざで言えば「伝道活動」をさすかもしれません。特別伝道集会や、教会にまだイエス様を知らない方々を招くさまざまな機会が、伝道活動です。また、私たちがイエス様にならい、自分の欲を抑えて自己中心的にならず、自分以外の他の人のためを思って言葉を選び、行動することも、広い意味での伝道です。特別伝道集会を開いても、初めて教会においでになる方を迎えられないこともあるでしょう。ご家族の中で、ご自分一人がキリスト者の場合、家庭伝道に苦しむこともあります。こんなに祈り、家族が教会に足を運ぶようにと毎日工夫しているのに、何年も祈りが聞かれず、工夫も実を結ばないと焦り、逆に家族関係がぎくしゃくしてしまうこともあるでしょう。
そのように、必死に種蒔きをして、その後のメカニズムの工夫をしてしまおうとする私たちに、イエス様はおっしゃってくださるのです。種蒔きをしたら ‒ 自分にできる限りの福音の宣べ伝えを行ったら ‒ あとは神さまにお任せしなさい。その種蒔きは、すでに私たちの間にある神の国に蒔かれているのだから、そこでの神さまのお働きに任せて良いのです。ごく普通に夜眠り、昼起きて、主に従ってキリスト者としての誠実な歩みを続けていれば、やがて実を結び、収穫の時が来るから。イエス様はこう語られて、時に伝道に焦りや行き詰まり、自分の無力さに立ちすくむ思いをしてしまう私たちを安心させてくださいます。これは、大きな恵みです。そして、何気なく過ごす日々の中で、私たちがまったく気付かなくても、神さまが大きなお働きを着実に進めてくださっていると知るのは、心強いことです。
ふたつ目のたとえは、神の国の大きさを「からし種」にたとえています。日本の文化ではごく小さい物のことをゴマ粒、さらに極々小さい物のことをケシ粒と申します。そのケシ粒が、「からし種」にあたるでしょう。ご覧になったことのある方も、おいでと思います。本当に小さい、吹けば飛ぶような物。それが、からし種です。
私たちが福音伝道のために、広くはキリスト者として、イエス様に従って行えることは、からし種のように小さいでしょう。自分の欲を抑え、たとえばマスクを買うために列に並んだ時に、長く列に立っていられないご高齢の方に自分の順番を譲ってさしあげる ‒ こういうことがあるでしょう。これは単に小さな親切であって、伝道とは何の関わりもないではないかと考える方がおいでと思います。そもそも、どなたかに順番を譲る時に「自分はキリスト者ですから、イエス様の教えにならって自己犠牲のわざとして、あなたに順番を譲りましょう」などと言いません。小さな親切とすら思わないほど、当たり前のように他の人に順番を譲る・にっこりと笑顔で道を譲る ‒ そうなさる方は多いと思います。
しかし、このような優しさや、自然に身についた自分以外の誰かを優先する姿勢と行いを、神さまは「神の国のからし種」として認めてくださいます。私たちひとりひとりがそのように、御心にかなう言葉と行いを続け、それが積み重なって行き、互いを、またこの社会を快い音楽のように満たすと、イエス様が32節でおっしゃるように、「成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」神の国の実りとなるのです。神さまが私たちの間で、私たちの小さな善い行い・御心にかなう姿勢を、神の国のものとして大きく育ててくださいます。
感染拡大が継続し、私たちはいつもと異なる日々を過ごしています。緊張しています。これからのことが不安でもあります。自分の心の平安を保ち、自分の生活を守ることを考えるだけでせいいっぱい ‒ そのように思ってしまいがちでしょう。
このような時には伝道活動はできない、そう思ってしまうかもしれません。そもそも、教会の礼拝に誰かをお招きすること自体が、今は不可能です。礼拝に出席したい方に、感染拡大防止のために出席をお控えくださいと言わなければならないのが、今の現実だからです。
しかし私は、本当に神さまは、そのように悲観的になりがちな私たちをしっかりと見守ってくださっていると思います。今日の聖書箇所・イエス様の御言葉は、そのような私たちにこそ、今、必要な信仰の姿勢だからです。
私たちには見えないところで、神さまは大きなお働きを為してくださっています。それにすっかりお任せし、私たちはただ誠実に主に従い歩めば良いのです。そのことを心に留めて、今日から始まる一週間も、心を高く挙げて主の道を歩んでまいりましょう。
2020年5月3日
説教題:聞く耳のある者
聖 書:詩編119編105-112節 、マルコによる福音書4章21−25節
あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。
(詩編119編105節 )
また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない、聞く耳のある者は聞きなさい。」また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、さらにたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」
(マルコによる福音書4章21−25節)
今日の主日礼拝から、私たちは再びマルコによる福音書に戻ってまいりました。受難節からご復活日までは教会の暦にふさわしい聖書箇所に、そして、先週の4月26日・教会の新年度が始まった主日礼拝では今年度の年度主題聖句に聞きました。今日は、マルコ福音書4章21節から25節の御言葉をいただいています。
21節が「また」という言葉で始まっていることから推測できるますが、イエス様はあるひとつの事柄について、さまざまな角度から弟子たちに教えを語られています。受難節に入る直前に読んだ4章1節からの御言葉は、イエス様が御言葉の伝道を種蒔きにたとえるたとえ話でした。御言葉の種が、どんな土地に蒔かれるかによって、信仰がすこやかに育つこともあれば、せっかく与えられている信仰を心に受け入れられないこともあると、イエス様は語られたのです。
イエス様は、御言葉の聴き方について教えておられます。
この種蒔きのたとえ話を聞いた人は、おそらく皆、自分は御言葉の種を受け入れる「良い土地」になりたいと願うでしょう。
信仰が育つ・神さまが与えてくださる信仰を心に受け容れるとは、恵みを知ることだからです。
恵みを知るとは、どういうことでしょう。
生きているすばらしさ・命を与えられている幸いを知ることです。
すばらしさや幸福を知る、あるものや事柄が“すごい”とわかる ‒ これは、実はある程度、大人になっていないと、言い方を換えると成熟していないとわからないことです。幼い子どもにとっては命があること・生きていることが当たり前です。死を知らず、死んでしまうこと自体、何のことだかわかりません。
神さまがお創りになった世界、自然と植物、動物たちの美しさも、深く味わい知るようになるのも、少し大きくなってからでしょう。
人の心の優しさ、その暗い面、複雑さを知るようになるのも、ある程度、成長してからです。自分自身をみつめるようになり、自分は何者?と考えるようになります。子どもは成長して大人になる中で、人の心と自分の存在の不思議に目覚める時が来ます。
心が成長し、感受性が豊かになり、情緒、いわゆる「ものの哀れ」を知るようになって、私たちは、人間は、この世界と命のすばらしさを知り、それがどこから与えられているかについて、はるかに思いをめぐらします。
どこから与えられているか ‒ すべて、天の父・私たちの主なる神さまから与えられています。
それを知らせてくれるのが、御言葉であり、それを記した聖書です。
御言葉・聖書、そして私たちが目で見て、お声を聞くことのできる御言葉としてこの世においでくださったイエス様はさらに、もっとすごいことを知らせてくれています。
その“もっとすごいこと”とは、死で終わらない命、永遠の命です。イエス様がご復活によって示された永遠の命。それは別の言葉を用いると「神の国」と言い換えられます。
イエス様は、その伝道の初めにこうおっしゃられました。マルコによる福音書では1章15節にあります。この言葉です。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
イエス様が世に来られ、永遠の命・神の国を私たちに示してくださいました。イエス様は、このように近づいている神の国を、ご自身の教えと、十字架の出来事とご復活で教えてくださったのです。
しかし、そのすべてを、私達は恵みとして受けとめきれているでしょうか。全ては聖書に記してあります。また、イエス様の十字架の出来事とご復活を信じて受け入れ、洗礼を受けた者は聖霊を戴きます。
聖霊は、私たちのうちで働いてくださり、私たちが聖書の御言葉を受けとめるよう、助けてくださいます。
それでも、私たちには聖書に記してあることのすべてはわかりません。聖書の御言葉を説き明かすための専門職として、聖書学者がおり、牧師がいます。全世界の大学の神学部や神学大学、神学校では新しい研究が日々、進められています。牧師はそれらの研究に学び、日々祈り、黙想し、御言葉を繰り返し読んで、そこにこめられた御心をいただいて、正確に信徒の皆さんに伝える努力をしています。
しかし、私たち人間にとって、「聖書の御言葉は、これで伝え尽くした、これで完璧な説教だ」と思えることはけっしてありません。聖書は、まるで尽きることのない泉のように、新しい恵みを次から次へと示してくれるのです。
聖書に何か新しく書き加えられることは、決してありません。にもかかわらず、聖書は常に新しい恵みを私達に語りかけてくれるのです。
聖書の言葉は、くっきりはっきりと聖書の紙に印字されています。それは明らかです。隠されているものでは、断じてありません。
さて、ここまでお話ししたことを、今日のマルコ福音書の御言葉への準備段階と受けとめてください。
今日の御言葉は、たいへん謎めいて聞こえます。最初の部分・21節で、イエス様はこう言われました。「ともし火を持ってくるのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。」
ともし火は、イエス様の時代のランプです。油に灯心を浮かべ、そこに火をつけて、その油が燃え尽きるまで、周囲を明るくしてくれます。そして、ここでは、イエス様そのもの、そしてイエス様としておいでくださった御言葉を指しています。
「ともし火を持ってくる」とは、世の光であるイエス様がおいでくださったことを告げています。
今日の旧約聖書 詩編119編にも、御言葉が私たちの導きの光であることが謳われています。暗闇の中を右も左もわからずにいる私たち。どう歩めば人として正しく幸福に生きられるか、正しい答え・正解を求めている私たちです。真実の幸福へと辿り着きたいと願っている私たちです。導きの光・イエス様は、御言葉によって私たちが思いやりに満ちた行いができ、正しく優しく話せるように整えてくださいます。一日一日の歩みを、私たちの手を取るようにして進めてくださり、そして御国へと辿り着かせてくださいます。
今日のマルコ福音書でイエス様がおっしゃっているのは、それは実に明らかなことだ、ということです。ここはユーモラスにも思える言葉ですが、イエス様は、ランプに火を灯すのは部屋を明るくするためでしょう、と言われます。ランプに火を灯して、その上から升をかぶせてしまったり、ベッドの下に置いたりする人はいませんね、とイエス様はおっしゃいます。そのように、私が御言葉として、光としてこの世に来たのは、真理で世を明るく照らすためだと言われます。
聖書がわからない、日本語で書いてあるのに、まるで頭に入らないし感動もできない、だから長く読み続けられないと思ってしまいがちな私たちに、寄り添ってくださる励ましの言葉です。
聖書の言葉はわかりづらいかもしれない、暗号のように何かを隠しているように思えるかもしれない、そうイエス様は言われます。
また、イエス様が導きの光・神の御子・御言葉であると、人々にはわかりません。この世にお生まれになった時に、神の御子が産まれたと判って喜んだ人はごく僅かでした。駆けつけた羊飼い達、東方の三人の博士達。その位でしょうか。ナザレの村の大工ヨセフの息子として成長される間、成人されてからも、人々には判らなかったのです。
それは今もそうです。私は時々、教会の外で、キリスト教に関心をお持ちでない方に尋ねられることがあります。イエス様って、神の子だったって本当? 本当だと言うと、それは、どういうこと?と難しい質問をされます。教会の礼拝に通わずに、それを知ろう・判ろうとするのは、土台、無理な話です。
信じなければ、わかってこないこと・見えてこないこと、その価値・すばらしさがわからない神さまの御国、永遠の命。これを神学用語で秘儀と言います。秘儀の「秘」は秘密の「秘」、「秘められている」の「秘」です。秘儀の「儀」は儀式の「儀」を書きます。
それは、信仰を与えられれば、明らかになると、イエス様はおっしゃられます。それが、22節の御言葉です。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので公にならないものはない。」
信じようとしない者には隠されているが、信じたいと願う者にははっきりとした幸い・喜びとして与えられる ‒ そうイエス様は、信じたいと願い、信じようとしている私たちを力づけて、強く招いてくださいます。
そして、御言葉の聴き方を教えてくださいます。23節です。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
聞く耳とは、御言葉を福音として、喜びの知らせとして聴き取ることのできる耳です。それは、どのような耳でしょう。
イエス様は言われます。24節です。「何を聞いているかに注意しなさい。」耳は、目や鼻と少し異なる特殊な機能を備えています。前にもお話ししたことがありますが、自分が聴き取りたい言葉や音を、耳に流れ込んでくるたくさんの音情報の中から拾い出して、それに集中することができます。たくさんの人がざわざわと話しているパーティ会場や、いろいろな音が響き合う駅のホームで、私たちは聴き取る必要のあるアナウンスや、自分が聞きたいと思う人の声・対話している相手の声を聞き分けられます。神さまは、私たちの耳をそのように造ってくださいました。
「何を聞いているかに注意しなさい」とは、「自分が何を聴き取ろうとしているかに注意しなさい」という意味です。多くの音や声の中から、本当に大切な事柄を聞き分けているかをイエス様は問うておられます。私たちは、耳には聞こえないイエス様の御声・神さまの御言葉を聞き取りたいのです。
そのために必要な心構えを、イエス様は次の聖句で私たちに教えてくださいます。24節後半です。「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられる」 ‒ 自分の量る秤、自分が福音を受け入れようと持っている秤が大きければ大きい程、福音を聴き取る量は多く、恵みが増します。
自分の持っている耳の秤が小さいとは、福音を自分勝手にえり好みして聞くために、少しの福音しか聴き取れないことを意味します。イエス様の優しい御言葉、たとえば「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのそばに来なさい」(マタイ11:28)は喜んで受け入れるけれど、厳しい警告の御言葉「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」(マタイ12:36)は恐ろしいから聞かなかったことにしようと思ってしまいがちですが、それでは実に小さな秤しか持たないことになります。
福音をえり好みして、自分勝手に選んで聞くとは、結局は自分が中心になっていることの表れです。神さまを自分のご主様にいただいているのではなく、自分が主人となっています。
それでは、福音はまったく正しく聴き取れません。
御言葉を何でも素直に受け容れようとするとき、神さまは私たちの聴く耳の秤をたいへん大きくしてくださいます。
そして、その大きな秤にあふれるほどに、福音の恵みをそそぎこんでくださいます。それが、25節の前半でイエス様がおっしゃる「持っている者 ‒ 大きな秤を持っている者 ‒ は更に与えられる」という言葉の意味です。「聞く耳を持つ者」とは、このように幸いな者です。
25節の後半、今日のマルコ福音書の聖書箇所最後の言葉は、厳しく響きますが、イエス様の優しさに満ちた警告です。「自分の好きな福音だけを聞き、耳に痛い御言葉を捨てるような、もともと素直に福音を聞く耳を持とうとしない者。彼らは、そのようにえり好みする耳を取り上げられる。」えり好みする自己中心的な姿勢を取り上げられるというのは、逆に恵みです。なぜなら、心を入れ替えて、自分ではなく神さまを主とし、神さまの方に心と魂を向ける「悔い改め」「回心」をするすばらしいチャンスをいただいたことになるからです。
聖書の御言葉をそのまま、すなおに受け入れ聞き従う心を持つ時、私たちは「聞く耳を持つ」幸いなものとされます。それを日曜日ごと、主日礼拝ごとに、何回も、何年も続けて行く時、私たちは心と魂で、この世にありながら、御国のすばらしさ・永遠の命の幸いを少し成りとも味わい知ることのできる神さまの子とされます。
今、新型コロナウイルス感染の拡大が続く中、さまざまな情報がテレビに、ネットに、SNSにあふれています。どれが正しく、どれがデマに近い誤った情報か、見極めがつかない不安に陥ることがあります。また、私たちは良い耳を育てていただく礼拝に、皆がそろって集う機会を新型コロナウイルス感染拡大防止のために、今は奪われてしまっています。しかし、天の父・イエス様・聖霊の神さまは、その中にあっても、私たちを守り支えてくださっています。
礼拝に集うことができなくても、御言葉をいただき続けましょう。薬円台教会は、メールを皆さまに毎日お送りすることで、少しでも礼拝に集えないことの補いにしようと努めています。
今週も、すなおな心で御言葉に聴き、たくさんの恵みと喜び、励ましをいただきながら、教会として主を共に仰ぐ心をひとつにして進み行きましょう。
2020年4月26日
説教題:主に寄り添われ、歩み出そう
聖 書:詩編23編1-6節 、マタイによる福音書28章16−20節
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
(マタイによる福音書28章16−20節)
今日から、薬円台教会は2020年度の新しい歩みを始めました。
新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、一堂に会して礼拝を献げるのがきわめて困難になる中、先ほどの牧会祈祷でも祈りましたように、先週の主日に私たちは主の御前で教会総会を無事に終了することができました。主の導きを感謝いたします。2019年度の教会活動の報告すべてが承認され、2020年度の活動計画が可決されました。感染拡大がいつまで続くか医療の専門家の方々にもまだ見極めがつかないようで、2020年度、今年度の活動・年間行事の中には変更を余儀なくされるものがあるかもしれません。しかし、私たちは主に志をいただき、それを「良し」とされて、出発をすることになりました。
薬円台教会は、毎年、宣教基本方針、その年のテーマ・主題を定め、それを導いた聖句を掲げて一年を歩みます。今年度の宣教基本方針・主題は「教会の基なる主に立ち帰ろう」、そして主題聖句が上に掲げたマタイによる福音書の最終聖句です。
主に立ち帰ろう ‒ 新しく父なる神さまだけを自分の、そして教会の魂のよりどころとして、主のみに従う信仰をいただこう ‒ そのように、いわば信仰の基をあらためて定めることをめざします。
私たちはおよそ五年をかけて、毎週の主日礼拝で、じっくりと新約聖書の最初の書、マタイによる福音書に聴きました。昨年、2019年の夏頃に読み終わりましたが、福音書一巻から教会全体で恵みをいただいた、これはぜひ大切にしたい私たち教会の体験・兄弟姉妹が共有する信仰の体験です。
イエス様に立ち帰る・主に心を向き直す・回心する ‒ その悔い改めから新たに出発いたしましょう。
何度も申し上げていることですが、悔い改めとは反省すること・犯した過ち(あやまち)を後悔することだけをさすのではありません。むしろ、神さまを仰ぎ、力と知恵、勇気と希望をいただくのですから、恵みです。
その恵みを、今日は今年度の主題聖句を中心とするマタイによる福音書28節16節以下の御言葉に聴きましょう。
イエス様はご復活ののち四十日、地上にとどまられました。父なる神さまから受けた使命をまっとうされ、地上での使命・私たちの罪の救いを成し遂げられたイエス様は神さまとしての本来の天の御座・「父なる神の右」に帰られます。
弟子たち ‒ イエス様を裏切って自ら滅んだユダがいなくなり、十二人だった弟子たちは、ここでは十一人になっています ‒は、イエス様からかねて言われていたとおり、ガリラヤの山に登りました。イエス様は、約束したとおりに、そこで待っておられました。
イエス様と弟子たちとの地上の別れの時が近づいていました。
ついにイエス様の姿をこの目で拝することができなくなってしまう…弟子たちはイエス様との離別の悲しみでいっぱいだったでしょうか。
今日の御言葉からは、別れのつらさは意外にも、それほど強くは伝わってまいりません。むしろ、イエス様が弟子たちに今後の福音宣教の使命 ‒ 教会の言葉では、「大宣教命令」と申します ‒ を託した励ましの力強さが語られています。
弟子たちの中には、イエス様の逮捕から十字架の出来事、そしてご復活、さらに昇天と、目の前で起きていることについて行けず、まだ「疑い」戸惑っている者もいました。しかし皆が「ひれふして」、復活されたイエス様からの使命を心して受けとめたのです。
この別れの時も、イエス様は彼らに「近寄って」親しく言葉をかけられました。そして、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と告げられました。イエス様の弟子とは、イエス様の十字架の出来事によって救われた恵みを信じ、神さまだけを自らの導きの光として従う者になることです。「イエス様の弟子にする」とは、救いの恵みの福音を人々に伝え、洗礼を授け、イエス様の自己犠牲の愛・隣人に尽くす愛の教えを伝えてゆくことです。
弟子たちは、イエス様からいただいたこの使命に忠実に従いました。彼らはあらゆる苦難・迫害に耐え、福音を伝え、教会を建て、信じる者の群れを大きくしていったのです。
実のところ、キリスト教は、現在、世界でもっとも多くの人々、およそ20億人もの人々の魂のよりどころとなっています。
弟子たちは、かつては弱さを露呈した者たちでした。卑怯で、言ったことを貫く心の強さを保てない、平凡で小さな者たちだったのです。聖書の四つの福音書の後に「使徒言行録」という使徒たち ‒ 最初の弟子たちのことをさします ‒ の伝道活動の記録があります。彼らは実に厳しい迫害に遭い、命を落としそうになり、何度も逮捕され、牢獄につながれます。悲しい仲間割れ・諍い(いさかい)も経験します。しかし、苦しさや困難に負けることなく、地中海地方を中心に次々と教会を建て、信じる者の群れを大きくしていきました。
イエス様が十字架に架けられた時には、逃げ散ってしまった弱い弟子たちは、どうしてこれほど強く、忍耐強くなったのでしょう。
それは、イエス様が弟子たちに最後に語ってくださった恵みの約束によります。その約束 ‒ それこそ、私たちが今年度の主題聖句としていただいたイエス様の御言葉です。お読みします。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
その約束のとおりに、天に帰られたイエス様は、ペンテコステの日に私たちに聖霊を与えてくださいました。目には見えないけれど、私たちの心に信仰の火を灯し、どんな困難にあってもくじけない強さを与えてくださるまことの友、生きて働くイエス様なる聖霊です。
まさに、この聖霊によって、イエス様はいつも、私たちと共においでくださるのです。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
今年度の歩みの中で、いつも主題を思い起こし、教会の基なるイエス様に立ち帰りましょう。
私たちはいつも主の御前で、幼子の素直さを忘れずにいたいものです。小さい頃、ジャングルジムに初めてよじのぼる・初めてすべり台のてっぺんからすべり降りる時、お父さん・お母さんにこう言わなかったでしょうか。
「お父さん、お母さん、ぼく(わたし)を見ていてよ!」
このように幼子が言うのは、二つの思いからでしょう。
ひとつは、大好きなお父さん・お母さんに見守っていて欲しい、この小さな冒険がうまくいかなかったら、すぐに助けて欲しい。
もうひとつは、ぼく(わたし)には新しいこと・勇気を必要とする冒険を成し遂げる力があるから、大好きなお父さん・お母さんに見届けて欲しい。
幼子・深く愛された者は、その愛を信頼し、さらにその愛から成長する力を受けています。「ぼくを、わたしを見ていて!」と呼ぶ私たちに、お父さん・お母さんが笑顔で「ここにいるよ、大丈夫」と応えてくれたからこそ、幼かった私たちは小さいなりに、凜々と勇気を小さな胸にみなぎらせ、それぞれの新しい冒険へと身を躍らせることができたのです。
弟子たち、またその後進である私たち教会に生きる者も、神さまの御前ではこの幼子と同じです。
「さあ、行っておいで。一緒にいるから」とイエス様に言われ、弟子たち・私たちは安心して歩み出します。深く愛された者は、イエス様の、その愛を信頼し、さらにその愛から成長する力を受けています。
私たち薬円台教会は、今、大きな試練に遭っています。薬円台教会だけではありません。すべてのキリストの教会が困難のうちにあります。教会は、人が集まって活動することをその基本とします。今まで、私たちは当たり前のように会堂に集い、自然に手を取り合い、力を合わせて教会活動を営んでまいりました。それが、ほとんどできなくなりました。
しかし、この活動の基本を封じられた今こそ、一見してたいへん弱められてしまったように思える今こそ、死からよみがえられ、暗闇を光にしてくださるイエス様を深く信頼する時です。心を乱さず、希望を持ち続けることこそが、永遠の命です。死地に活路を見いだしてくださるイエス様が一緒です。必ず、私たちは神さまのご計画どおりに、与えられた福音宣教の使命を続ける力をいただけます。
2020年度は試練の中で始まりましたが、イエス様が常に見守り、支えてくださることを堅く信じて、今の事態に決してくじけず、負けず、この新しい一年・この新しい一週間を心一つに進み行きましょう。
2020年4月19日
説教題:神の家族は助け合う
聖 書:イザヤ書58章6節-9節前半 、マタイによる福音書25章31−40節
人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちに用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
(マタイによる福音書25章31−40節)
今日は、薬円台教会にとって2019年度最後の主日です。今日の礼拝後に予定されている教会総会をもって、私たちは一年のしめくくりをいたします。
今年度、私たちが与えられた主題は週報の一番上、左端に一年間、掲げ続けられてまいりました。「主の愛に満たされる共同体」 ‒ 主に愛された者としてふさわしく、兄弟姉妹を、隣人を愛する群れに成長させていただけるように。それが2019年度を通しての私たち薬円台教会の祈りであり、日々の歩みを導いた思いです。主題聖句の聖書箇所を、今日はこの礼拝の御言葉としていただいています。
主題聖句を、あらためてお読みします。「わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
イエス様は、この御言葉をマタイによる福音書23章37節から始まる長い「終わりの日」の説教の最後に語られました。
この世が終わる時、イエス様はもう一度、私たちのところへおいでになります。再臨の日です。私たちが一人一人、神さまの御前に立ち、御心にかなう者か、そうではない者か、裁かれる「裁きの日」でもあります。
今日の聖書箇所の32節から33節にかけて、イエス様のおっしゃられた言葉はこのように記されています。「すべての国の民がその(イエス様の、ということですね)前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。
聖書では「右」は良いものをさします。イエス様は、神さま・天の父の「右の座」にいらっしゃいます。羊として右により分けられるのは、神さまに正しい・御心にかなうとされた者です。
そして、イエス様は、その正しい人たちに“あなたがたは御国を受け継ぎ、永遠の命を与えられる”と恵みを語られます。その理由が、イエス様が飢えていたときに食べ物をくれた、のどが渇いていたときに水を飲ませてくれた、衣食住を満たし、病気のときに慰め、牢にいたときに訪ねてくれたからだとおっしゃられました。言われた人々は、驚きました。イエス様に会ったことがなかったからです。今、初めてイエス様に会ったのですから、イエス様をお助けしたことなど一度もありません。
そこでイエス様が「はっきり言っておく」と告げられたのが、この聖句、私たちを導いた2019年度の主題聖句です。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
「わたしにしてくれたこと」 ‒ 御心にかなう者は、イエス様に何かをしてくれた、良いことをして必要を満たしてくれたとイエス様はおっしゃいます。私たちは神さま・イエス様に良いものを与えられ、すべての必要を満たしていただいています。それは、神さま・イエス様の愛の表れです。愛そのものと申しても良いでしょう。イエス様が、「わたしにしてくれた」とおっしゃるのは、私たちからご自分が愛を受けたという意味です。あなたがたは、私の愛に応えてくれた ‒ イエス様は、そうおっしゃったのです。御心にかなう者として、私たちに神さま・イエス様がどんなことを望んで期待されているか、どんな私たちに成長してもらいたいと願っているか、わかる言葉です。
神さま・イエス様は、私たちがご自身と愛の関わりを持って欲しいと願っておられるのです。神さま・イエス様が私たちに愛をくださる、そして私たちもその愛に、私たちなりのせいいっぱいの愛でお応えする ‒ それが望まれています。
しかし、十字架に架かり、私たちのためにお命までも捨てられたイエス様の愛に、私たちが応えることはとうていできない、そう私たちは思います。私たちは御心にかなうことなく、山羊として ‒ ご存じの方も多いと思いますが、山羊はキリスト教圏の文化ではサタン・悪魔を象徴するものです ‒ 見捨てられてしまう。そう悲しむ私たちに、イエス様はおっしゃってくださいます。いや、大丈夫。あなたが兄弟の中で最も小さい者 ‒ これは最も困っている者、最も苦しんでいる者をさすでしょう ‒ を助けたそのことで、この私に愛のわざをしてくれたのだ、そう言われます。
あなたがたが互いに愛し合う、それが、私たちのイエス様への愛なのです。
教会の兄弟姉妹・私たちが互いに思いやり深く、助け合うことを神さま・イエス様は喜んでくださいます。それが、私たちから神さまへの、何にも優る献げ物だからです。
それは、今日の旧約聖書の御言葉に聴くとさらに力強く響きます。お読みします。どうぞ、耳だけを開いてお聞きください。「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて 虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え さまよう人々を家に招き入れ 裸の人に会えば衣を着せかけ 同胞に助けを惜しまないこと。」
断食とは自分に必要なものを食べず、犠牲を払って神さまに自分を献げることです。献げるとは、犠牲を払うことです。
イエス様が、私たちのために十字架に架かってくださったのも、この犠牲です。ご自身を献げ物としてくださったのです。
自分を献げる。自分の何かを犠牲にする。それは、私たち人間の日常の中では、今日の旧約聖書・新約聖書が共に語るように、飢えた人に自分のパンを裂いて分けて与え、家を失ってさまよう人々を自分の家に招き入れ、助けを惜しまないことです。パンは自分のお腹を満たす量しか、持っていないかもしれません。余るほどたくさん持っていての、その余りを差し出しても、それは自分を犠牲にしたことにはならないでしょう。
自分にゆとりがないと、誰かに優しくなれないと私たちはよく思います。自分に余裕がないと、他の人に親切になれないというのも、よく経験することです。自らが切羽詰まっている時には、誰しも自分のことしか考えられなくなります。
しかし、その時にこそ、自分が困っている中で、苦しむ中で、または悩む中で、自分よりも困っている人・自分よりも助けを必要としている人に手を差し伸べるようにと、今日の聖書箇所を通して私たちの主は語りかけてくださいます。
だんだん“愛のわざ”のハードルが高くなってきたと、皆さんは思われるかもしれません。やっぱり自分にはできないかもしれない、そう感じるかもしれません。
イエス様は、やはり、大丈夫とおっしゃってくださいます。
なぜ大丈夫なのか。それは、自分には愛のわざは果たせないとたじろぐ私たちの弱さ・自分のことしか考えられないと諦めて自己中心の生き方をしてしまう私たちの罪を、イエス様が私たちに代わって担い、十字架の死で清めてくださったからです。
正しく愛された者は、その愛によって強められます。
正しい愛・イエス様の十字架の愛を知っている者は、それを見上げて仰ぎ、めざすように導かれます。
感染が拡大するこの状況の中で、私たちはお互いから距離を取らなくてはなりません。自然と、メールやラインなど、いわゆるネット環境で繋がりあうようになります。ふと、長く連絡を取り合っていないあの人、この人は、今どうしているだろう、安全に過ごしているだろうかと思います。すると、その人からひょっこり連絡をもらう ‒ そんなことが先週2回ほどありました。喜ばしいことです。
私たちが互いを思い合う気持ち、それを愛と呼んで良いと思いますが、引力、磁力のようだと感じました。引き離されても、繋がりあおうとする力が働くのでしょうか。
私は実に三十年ぶりに、友人と連絡を取り合いました。その友人は、パピーウォーカーです。パピーウォーカー。ご存じでしょうか。
盲導犬となる子犬を、教育が始まるまでの一年間、家庭で預かって育てるボランティアです。ただひたすら子犬に愛情をそそぐのが、パピーウォーカーの役目だそうです。甘やかすのではありません。しつけはしつけとして行いつつ、真実の愛をそそぐのです。
盲導犬は、いったん調教が始まり、盲導犬として目の不自由な方のために働くようになると、その方の目となって一心に、献身的に尽くします。お仕事中の盲導犬に声をかけても、見向きもしません。好きな食べ物を口元に持って行っても、気を引かれた素振りも見せません。
目の不自由な御主人と一体となって、自分というものがないかのように、御主人に尽くします。
どうしてそんなことができるのか。それは、子犬の間の一年間、深く愛された経験を持つからなのだそうです。
これは犬の話ですが、犬に限らない気がするのです。
イエス様の愛をそそがれ、私たちは真実に愛されることを礼拝で、教会で、聖書を通して知るようになります。イエス様の愛にお応えする者として、何をめざせば良いのかを知るようになります。十字架を仰ぎ見て、互いに助け合おうとする志を抱いて歩むようになります。
イエス様は、“それで良い”、そうおっしゃってくださいます。
私たちは、今、忍耐の時を過ごしています。不安な時でもあります。
今日、この礼拝の場に、いつも必ず出席されているあの方、この方の姿が見えないと気づいておられる方もおいででしょう。その中には、礼拝出席を我慢して控えて、今日欠席されている方もおいでです。
自分がもしかすると、症状の出ていない保菌者かもしれない ‒ 特に若い方に、その可能性を自覚して欠席を決断された方がいることを、私は知っています。
私自身が最も心配しているのも、自分が無症状の保菌者で、ご高齢の方や持病のある方に感染させてしまうことです。本当の思いやりは何かを深く考えさせられます。
何が真実に正しい決断なのか、何が主の御前に正しい助け合いなのかを、私たちは深く考えなければならない時にいます。それを、絶えず主に祈り求め、聖書の御言葉からいただき、互いに励まし合いましょう。その絆を与えられている教会は、それだけで幸いな恵みの共同体、主の愛に満たされている共同体です。共に主を仰ぎ、今週も歩みゆきましょう。
2020年4月12日
説教題:主のご復活を告げる
聖 書:イザヤ書55章8-11節 、ヨハネによる福音書20章11−18節
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。
(イザヤ書55章8-9節)
マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
(ヨハネによる福音書20章11−18節)
イエス様のご復活の朝、イースターを迎えました。
今年の受難節 六週間、私たち教会は世界的な感染拡大のためにこれまで経験したことのない忍耐と緊張を強いられました。それが続く中ではありますが、よみがえりの主の光が、今、希望となって私たちを照らし、私たちを暖かく包んでいます。
光が私たちにそそいでいるのに、私たちには、その希望の恵みがまだ分からない。それが、今日のヨハネによる福音書20章の御言葉の語り始めにあるマグダラのマリアの姿です。
マリアは この朝、泣いていました。喜びの日は、涙で始まりました。
彼女は、まだ夜が明けないうちに、イエス様を葬った墓に行きました。金曜日に急いで葬られたために、イエス様の体が香油や没薬で弔(とむら)うにふさわしく整えられていなかったからです。しかし、墓へと急ぐ中で、マリアは気が付いたのではないでしょうか。行っても、墓の入口は巨大な石でふさがれていて、自分でそれを転がしてどけ、墓に入ることはできない、と。それでも、マリアは暗い道を急がずにはいられませんでした。
ところが、墓の口はぽっかりとあいていました。石はどけられ、墓そのものもからっぽでした。驚いたマリアはイエス様の弟子ペトロと、もう一人が泊まっていたところへ走り、それを伝えました。弟子二人も、その場へ駆けつけて、イエス様の体がそこにないことを認めました。イエス様が、ご自分はよみがえるとおっしゃっていたことを思い出しましたが、半信半疑だったようです。彼らは家に帰ってしまいました。泣いているマリアを放って、墓の前に置き去りにしたのです。
聖書の時代の人が思うことと、現代を生きる私たちが考えることは、それほど大きく変わらない ‒ そう思うことがたびたびあります。
教会に通った経験のない方・聖書を少し読んだ、または文学作品などを通して聖書に関心を持った、そのような方々から、イエス様の復活を質問されることがあります。だいたい、このように尋ねられます。“復活は、ほんとうに起こったのですか?”
そして、こう問われる方は、だいたい次のように、ご自分なりの解釈をおっしゃいます。“ほんとうかどうか、わからないじゃないですか。イエス様の体が墓になかったのは、盗まれたからでしょう。イエス様をねたみ、憎んでいた人は大勢いたのだから、その人たちが、イエス様が死んでもなお、その体を痛めつけようとして盗んだのですよ、きっと。”
これはマグダラのマリアが考えたことと、おそらく同じです。
マリアが泣かずにはいられなかったのは、そのためです。十字架であのように苦しんで死なれたイエス様の、亡骸がなおもひどい扱いを受けることを思って、マリアの目から涙があふれました。
死んでもなお、相手を憎んでしまうほど、私たち人間の罪の闇は深いのかもしれません。イエス様は、その罪のすべてを担ってくださいました。私たちを、その重荷と闇から解き放ってくださるためです。
暗黒の罪のすべてを背負ったイエス様は、ご復活によって、私たちに神さまの愛の光・栄光を顕してくださいました。
ご復活は、ほんとうに起こったことです。事実であり、真実です。
今日の週報の、主日礼拝順序とは反対の面をご覧ください。
感染拡大のために、子どもの礼拝・CS / 教会学校の礼拝を今日からお休みせざるを得なくなりました。一番右の欄をご覧ください。子どもの礼拝では、主日礼拝で私たちが互いに読み交わす「交読詩編」にあたるものとして、わかりやすい言葉でリタニーを読みます。
子どもの礼拝はお休みしますが、リタニーは主日礼拝につどう方々にも読んでいただきたいと思って、掲載してあります。
始めのところをお読みします。ご一緒に、目で追ってください。
「ハレルヤ! 主はよみがえられました。」
「ハレルヤ! ほんとうに 主はよみがえられました。」
このとおりなのです。ほんとうに、主は復活されました。
復活は、私たちが この世の人間の次元から、神さまの高みの次元をかすかに仰ぎ見ることのできる“窓”のような出来事でした。
人間の次元と、神さまの次元は隔絶されていました。
今日与えられている旧約聖書 イザヤ書55章は、それを語ります。
お読みします。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。9天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」
しかし、神さまは、そのクレバスのような隔絶を超えて、イエス様を通して私たちに手をさしのべてくださいます。天空の高みを、私たちにも仰がせようとしてくださいます。
そのために、神さまは独り子イエス様を私たちに遣わされました。ヨハネ福音書は、こう語り始めます。「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。」 イエス様は、完全に神さまであると同時に、完全に人間として、この世においでくださいました。イエス様は、この世の次元と神さまの次元の通り道となられました。天の父の御心を成し遂げられました。今日の旧約聖書 イザヤ書が、さらにこう語るとおりです。わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。
この預言のとおりに、イエス様は神さまのご計画どおり・御心どおりに、十字架で死に、三日後によみがえる使命を果たされました。
しかし、イエス様が十字架の出来事とご復活で開いてくださった道・窓は、私たちが御言葉を聴き、信じることで見えてまいります。
信じるには、勇気が必要です。二つの勇気と申して良いでしょう。
ひとつは、まったく自分・人間には見当のつかない、神さまの次元に、イエス様を通して身をゆだねる勇気です。神さまと人間との間の次元の違い・クレバスを、イエス様の手にすがって、思いきって飛び越える魂の跳躍を行う勇気です。
もうひとつは、イエス様がご自身を私たちのために犠牲にしてくださった愛にならい、ただその愛の尊さを仰ぎ見ながら、自分と、隣人のためにできる最もよいことを、それがどんなにみっともないと思われようと、自分がどんなに軽蔑されようと、地道に行う勇気です。
勇気の反対語は“臆病”です。ただし、臆病は、必ずしも悪いことではありません。なぜ臆病か、なぜ怖がるのかと言えば、今目の前にある事実から、この先に起こるいろいろな危険を予測する知恵があるからです。点と点を結んで線にするように、事柄と事柄の間に筋道を立てて考える知恵を、神さまは人間に備えてくださいました。その筋道立てて理論的に考える、その力は、言い換えれば 人間に見える地平・次元にしかとどまらずに、理屈をこねるということでもあります。
私たちは、確かに今、ワクチンが開発されていない、つまり治療法のないウィルスの感染拡大のために不安の中にいます。怖がっています。不安が煮詰まると、私たちはそれぞれの理屈を展開するようになり、互いに批判を始めます。けなし合い、弱点を攻撃し合います。人間に見える次元は、どんどん、自分に見える次元に縮んで行きます。
どんどん、自己中心的になります。
その中で、思い起こしたいのです。イエス様が十字架で私たちのために、屈辱の中で命を捨てられたことを。その自己犠牲による救いの使命を成し遂げられたイエス様を、天の父が喜ばれ、復活のご栄光をイエス様に与えられたことを。
そして、今、自分が自らのプライドや損得を捨てて、自分と隣人のために、できるせいいっぱいのことは何か、と思い巡らす勇気を持ちたいと願います。
すでにメディアやインターネットニュースなどで、ご存じも方もおられると思います。イスラエルの大統領、ルーベン・リブリンのことです。80歳、パレスチナ問題という困難な課題を抱えるイスラエルの、有能な指導者です。このリブリン大統領は、新型コロナウイルス感染拡大のために家でじっと過ごすしかないイスラエルの小さな子どもたちのために、YouTubeで何度も絵本の読み聞かせの画像を流しています。一国の大統領ですから、日夜、感染拡大防止のためにエネルギーと時間を使い、国政と経済が停滞しないようにせいいっぱい働いています。その中で、イスラエル国家の中でもっとも小さな者たち・子どもたちに、なおせいいっぱいの「自分にできること」をしています。このリブリン大統領の子どもたちへの絵本の読み聞かせを、素朴な善意と受けとめる国民性が、イスラエルにあるのでしょう。私たちの持つ聖書のうち、旧約聖書を聖典とするユダヤ教で心一つにされている国民ですから。
この絵本の読み聞かせをSNSやツイッターで「票集め」「人気取り」「スタンドプレー」と批判する声もあるでしょう。しかし、それは人間の醜い心の闇・罪です。話が元に戻りますが、その暗さが、イエス様の死後の体をいたぶろうとする冷酷で残忍な人間の深い罪にも繋がってゆくのです。イエス様は、私たちをその闇から救われました。
さて、さらに戻って、ヨハネ福音書の御言葉を読みましょう。イースター、イエス様のよみがえりの朝、イエス様の体がいたぶられているのではと、マリアが流していた涙を止めた言葉がありました。今日の聖書箇所の中で、それは二回、繰り返されています。最初は13節。天使の言葉です。「婦人よ、なぜ泣いているのか」次に、ご復活のイエス様の言葉。15節。「婦人よ、なぜ泣いているのか。」
もう、涙を流さなくてよい・泣かなくて良いと、ご復活のイエス様はマリアに言われました。イエス様はよみがえられ、完全に人間だった時と同じように、マリアの名を呼ばれたのです。しかし、マリアがイエス様にすがりつこうとすると、主はそれを押しとどめられました。
イエス様は、マリアに言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」これから神さまのもとへもどられるイエス様は、もうこの世・人間の次元の方ではありません。だから、すがりつくのはよしなさいとおっしゃられたのです。
新約聖書の最後の書・ヨハネの黙示録21章に、この世がすっかり新しい神さまの国となり、私たち人間が神さまと顔と顔を合わせてお目にかかる時のことが預言されています。神さまは語られます。「人は神の民になる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」
マリアは、ここに預言されている終わりの日の前味・先触れを、イエス様のご復活を通して体験したのです。マリアは、もはや自分のラボニ、「先生」ではなく、自分の「主」である神さま、救い主イエス様に会いました。そして、「もう泣かなくてもよい」と、言葉で涙を拭っていただきました。
イエス様は、マリアにたいせつな務めを託されました。弟子たち、地上のイエス様に素朴で正しい希望を見て、期待をして信じたいと願う者たちに、ご自身が真実に神の子であり、神さまであることを告げるようにと言ったのです。
今日の聖書箇所の最後の節18節で、マリアがそれに忠実にしたがったことが明らかにされています。マリアは弟子たちのところへ行って「わたしは主を見た」 ‒ ご復活のイエス様に会い、私たちの神と会った ‒ と伝えました。
マリアに託された使命は、私たち教会に生きる者の使命です。
私たちは、復活の主を伝え続けます。どんなに愚かだと思われても、そんなことがあるわけないと蔑まれても、事実は伝え続けなければなりません。
このイースターから始まる今週一週間の歩みを、復活の主に勇気と希望をいただいて過ごしましょう。ご自身を私たちのために献げ尽くされたイエス様の愛と復活のご栄光に、神さまの高みを仰ぎ見て心を高く挙げましょう。この時にあって、自分と隣人のために最善を尽くしつつ、共に助け合い励まし合って進み行きましょう。
2020年4月5日
説教題:平和の王が来られる
聖 書:ゼカリヤ書9章9-10節 、ヨハネによる福音書12章12−19節
その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」
(ヨハネによる福音書12章12−15節)
今日は、キリスト教の暦で「棕櫚の主日」と呼ばれる日です。受難節6週間の最後の一週間、受難週を導く主の日・日曜日です。
今日の新約聖書の聖書箇所の始めの方に「なつめやし」という言葉があります。イエス様がエルサレムの町に入られるのを、エルサレムの人々・民衆・群衆はたいそう喜びました。大きな扇のようななつめやしの葉を手に持って、それを、今の私たちの時代にある物でたとえれば、コンサートのうちわのように振り、イエス様を大歓迎したことが記されています。「なつめやし」と「棕櫚の主日」の「棕櫚」は、実は同じヤシ科、ヤシの種類の植物ですが、本当は違うものだそうです。しかし、エルサレムの人々がイエス様を喜んでお迎えしたのは揺るぎない事実です。
町の入口・町の門で、人々が尊い人を大歓迎する ‒ これはローマの風習でした。ユダヤは、当時、ローマの支配下にあり、その植民地でしたから、このようなことが行われたのです。今、私は「尊い人」と申しましたが、ローマの風習に照らして正確に申しますと、戦いに勝った王や将軍・皇帝が、こうして大歓迎されたのです。
国が戦う・戦争をするということは、国の指導者 ‒ 王や将軍、皇帝 ‒ ばかりでなく、全国民を巻き込みます。兵士・兵隊として、国民・民衆、群衆の中で一家の長を、夫を、子どもたちの父親を、息子を、戦地に送らなければなりません。難なく戦いに勝てば、兵士たちは家に戻れます。生活は平穏に戻るでしょう。万が一、命を落としたり、日常生活に戻れないような大怪我をしたりしたとしても、国が勝てば、それは社会的には、意味のあることになりました。名誉を讃えられ、家族は手厚い保障を受けました。国が負けてしまったら、送り出した兵士の夫たち・父たち・息子たちも、国に残っていた人々も、命を奪われ、財産も、自由を奪われて奴隷にされてしまいます。
誰が指導者か、その人は国を勝利に導いてくれる有能な指導者か。それは、人々・民衆・群衆にとって 実に大切なことでした。自分たちを守り通してくれる指導者かどうかは、自分と愛する家族の命に直結する大問題だったのです。勝って帰った指導者 ‒ 王・将軍・皇帝 ‒ を、人々は命の救い主・凱旋の王・真実のリーダーとして讃えました。
これは「大昔、二千年前の話だ」とは、言えない事柄です。
今、私たちは見えない敵・ウィルスとの戦いのさなかにあります。私たち一人一人が、兵士でありましょう。そして、私たちを不安・貧困・恐怖から守ってくれる真実の指導者を求めています。究極的には、感染症・病がもたらす死から守ってくれる指導者を求めているのです。
さて、この時、エルサレムの人々は どうしてこれほど熱狂的にイエス様を歓迎したのでしょう。それは、イエス様が私たち人間にとって最悪のこと すなわち「死」に打ち勝たれたからです。死に打ち勝つ ‒ 私たち人間にとって、これ以上の大勝利はありません。
ヨハネによる福音書は、それをたいへん明確に記しています。今日の聖書箇所の17節です。お読みします。「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらされた」。イエス様は、あのマルタとマリアの兄弟、ラザロが病気で亡くなった時、すでに墓に葬られていたそのラザロを生き返らせました。そのみわざが、大評判になっていたのです。人々は、イエス様を「死に打ち勝つ」凱旋将軍として迎えました。
パリのシャンゼリゼ通りに凱旋門があります。実際にパリに行って、ご覧になったことのある方もおいででしょう。ローマ帝国の風習にならって、ナポレオンがフランスに凱旋する時に造らせたのだそうです。あの凱旋門に似合うのは、どんな出で立ちの王・皇帝・将軍の姿でしょう。りりしく背を伸ばし、頼もしく、そして人々の尊敬を集めるにふさわしい英雄的な姿ではないでしょうか。人々を睥睨するために、高い位置から見下ろす姿勢がふさわしいでしょう。人々は、この英雄を“見上げたい”のですから。
ですから、凱旋する王・将軍・皇帝は馬に乗ります。
イエス様は、どうされたでしょう。
イエス様は、これからご自身が、人間の誰にも想像がつかないかたちで、死に打ち勝ち、私たちの命を救い、死から救い出すことをご存じです。それを神さま・天の父からの使命・ミッションとして受けて、イエス様はこの世に遣わされ、人間としてお生まれになりました。
今日の旧約聖書の預言者ゼカリヤによる預言の言葉は、凱旋する王について神さまがこうおっしゃられたことを伝えています。「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者」。
神さまの言葉は約束であり、真実であり、必ず実現します。ですから、イエス様はこのとおりに、エルサレムの人々の歓呼の声・熱狂的な大歓迎をそのまま受けられました。しかし、その後、旧約聖書の預言の言葉は何と告げているでしょう。「高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」
イエス様は、預言のこの言葉も、忠実に実現されました。
英雄にふさわしい馬に、イエス様は乗りませんでした。イエス様が乗ったのは、預言の言葉どおり、ろば、それも子どものろば・小さいろばでした。大きな犬ぐらいでしょう。子ロバに乗ると、椅子に座るようなものですから、イエス様はおそらく、立っている姿勢よりも低くなったのではないでしょうか。
民衆を見下ろす・睥睨する姿勢からは、ほど遠いものです。こっけいです。おかしくて、これを見て笑い出す人も多かったでしょう。
しかし、ここにはイエス様の深い「へりくだり」の姿勢が現れています。へりくだって、神さまの御前に、身を伏せる姿です。また、神さまが言われるように、今 接している方は神さまに大切に愛されている大事な方であることを思い、自分よりも相手が優れている者と思って、相手の前に謙虚にへりくだる姿です。
「マウンティング」という言葉をご存じでしょうか。
数年前から、よく聞くようになりました。もともとは、霊長類・チンパンジーやゴリラを研究している動物学者が使う専門用語と教えられたことがあります。チンパンジーやゴリラの世界は、階級社会だそうです。強い者が,弱い者の上に立ち、文字どおり、相手の上に乗り、相手を組み敷いて、マウント ‒ これは英語で山、動詞として用いる場合はまさに「乗る」ことですね ‒ することをさします。
人間の社会でも、今は民主主義で貴族や平民という階級がなくなったとは言っても、階級社会が民主主義の世の中になってから、競争社会になったと言えるでしょう。実際には強い者・豊かな者・能力のある者が上にいて、より弱い者を組み敷き、その上に乗っているのです。
上に立つ者が、自分の率いる者を下に見て睥睨するというこの世の構造を、どうしても変えることができません。現実的には、この世的な能力のある者が そのように上に立って睥睨しつつ政治を行い、社会の指導にあたれば、社会が実質的に豊かになるという事実があります。
私は「競争社会」と申しました。競争には、勝つ者と負ける者がいます。ですから、競争は、別の言葉を用いれば、戦いです。「競争社会」は戦いの世をさすのです。
勝った者には いわゆる 上から目線が生じます。上に立つ者と、その人が下に見る者との間に遠い距離ができてしまいます。距離ができるとは、指導者が ‒ 王が・皇帝が、あるいは政治的指導者が ‒ 自分が導き、守らなければならない人々に寄り添っていないということです。ここには、平和はありません。
イエス様は、私たちに寄り添ってくださる方です。寄り添うとは、同じ平面に立ち、同じ目線を持つことです。隣にいるということです。互いの距離をなくし、私たちに限りなく近くなってくださいます。
弟子たちの足元にひざまずき、その足を洗ったように、私たちよりも身を低め、私たちのために尽くしてくださいます。
競争をなくし、戦いをなくし、まことの平和への道を開くのは、そのように寄り添うことだとご存じだったからです。その究極のかたち・行動が、イエス様の十字架の出来事でした。
イエス様は、私たちのために身を低め、低めて、ついには私たちの代わりに死に、滅んでくださったのです。
しかし、その死に打ち勝ち、ご復活されました。私たちは、その命の勝利の道・平和の道を、イエス様のあとに従って進んで行きます。
距離と申しますれば、今、私たちは新型コロナウイルスの感染を拡大させないように、できるだけ互いの間に距離を置いています。2メートルは離れるように、そう言われています。
すでに1ヶ月以上前の説教でお伝えしたことですが、聖書は感染する病・疫病や重いひふ病について実に多くを語っています。旧約聖書は、人と人との戦いの歴史・悲しい歴史、神さまが悲しまれる歴史を伝えています。また、人と病の戦いで、常に人が苦しむことを伝えています。神さまは、それを深く悲しまれます。感染する病・重いひふ病で、ひふ病にかかった人が「わたしは汚れています。近寄らないでください」と言わなければならないことを、本当に可哀想とあわれんでくださいます。イエス様は多くの「癒やし」の奇跡を行われました。その中には、重いひふ病にかかった人たちの「癒やし」も数多く含まれています。人と人との距離をなくし、誰もが互いに手を取り合い、寄り添い合ってひとつになって生きる平和を、イエス様は造ろうとされたのです。
今、病が私たちの間に距離を置かせ、絆を引き裂こうとしています。しかし、私たちをひとつにしてくださるイエス様は、今、この時も、ふたたび私たちが互いの手を取り合えるように、マスクなしで語り合い、笑い合えるように、まことの平和・日常の平和を私たちが取り戻せるようにと戦ってくださっています。
私たちが心のよりどころとするのは、平和の君・イエス様と三位一体の神さまの他にありません。
今の時、不安と恐れを主にあずけ、私たちと共に忍耐してくださる主への信仰に なお、堅く立ちましょう。心の平安と、日々の安全を築く知恵をいただいて、この一週間も主と共に歩みましょう。