07年04月-07年09月

2007年9月30日

説教題:教会の中の富者と貧者

聖書:アモス書 6章1-7節 ヤコブの手紙 2章1-9節

【説教】

ヤコブ2:5に、「私の愛する兄弟たちよ、よく聞きなさい」と言って、「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を受け継ぐ者となさった」と語っています。貧しい者は、周囲の人から軽んじられているだけでなく、自分でも力のない価値のない者と思っている。その貧しい者を神は選んで信仰に富ませている、キリストによって富者も貧者も差別をしていない、神は差別無く神を愛するものに約束された神の国を受け継ぐ者にしてくださっている、と聖書は言っているのです。

そこで2:1で「私の兄弟たち、主イエスを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」と言っているのです。これは主イエスを信じる者は、人の見方が変わるべきだということです。2-3で、教会に信仰の無い二種類の人が入って来た時の対応を記し、このようにその身なりによって対応を差別してはいけない、と厳しく忠告しています。

金持ちや立派な服装の人を重んじて、貧しい人や汚れた服の人を軽んじさげすむことは、この世では見られることです。しかし、イエスを信じる者は、そのような人の見方や対応をしてはいけない、それは誤った考えとすべきなのです。それは神が富者も貧者も差別無く神の国の民にしているからです。

教会の中に、明らかに富者と貧者との違いが分かる人たちがいる、同じ会社の一般社員やパートの使用人と上司とがいる、この場合教会生活はどうあるべきか。

アモス書には、神の民の中で富む者がその富を誇り奢った生活をしていたので、神の裁きが始まった時に先頭に置かれた、と記されています。

使徒言行録の初めには、信者が持ち物を全て教会に捧げて、共有し、必要に応じて分け合った教会生活をしたこと、が記されています。しかし、この教会生活はほんの一時だけでした。信仰者は、自分の家庭や自分の生活をもって、教会生活をするようになりました。それは自分が持っているもの、自分の考え、で生活するということです。その時、この世の考えが自分の中に入ってくる、ということが起こる恐れがあるのです。それで、今日の聖書の言葉をしっかり心に根付かせる必要があるのです。

聖書は、富んでいる者に、自分を誇り奢って貧しい者を軽んじ蔑むことのないように、命じています。2:8,9には、人を分け隔てしないで、隣人愛をもって教会生活をするように、1:27には、みなしごや、やもめが困っている時に世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、を勧めています。2:13には、人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです、と言っていまです。

教会は、富の共有によってではなく、キリストによって、神の愛によって一つなのです。私たちは、この世の富や立派な身なりで神の民にされているのではなく、神の愛、主イエスの十字架の愛に捉えられて神の民にされているのです。ですから、私たちは貧しくても、富む者でも、神の言葉を心に根付かせ、神の愛に捉えられて教会生活をするのです。

2007年9月23日

説教題:世の富のとりこになるな

聖書:アモス書 8章4-7節 ルカによる福音書 16章1-13節

【説教】

「この譬えの前には、放蕩息子の譬えがあります。放蕩息子は、父親からもらった財産を放蕩に遣い果たしてしまいました。今日の聖書の後16:19以下には、地上で自分の富をどのように使ったかによって死後の命がどうなるか、が語られています。

この16:1-13は、地上の富をどのように用いたらよいか、を教えています。

1-2に主人と財産の管理人が登場しています。私たち人間は、この管理人のように、主人である神から必要な富、財産を任されて生かされているのです。そしていつか、主人である神から、任されていた富の清算を求められるのです。清算の時は、任されている富を無駄遣いしていることが明らかにされる時、そして仕事と生活を取り上げられる時です。その時が迫っていることを知った時から、この管理人は職を失った後のことを考えました。

管理人は自分の管理の下にある証文を書き換えることにしました。この証文の書き換えが、主人に対して損害を与える不忠実な不正行為だという人と、管理人に与えられている権限内のことで不正行為ではないという人と、に分かれます。8節に主人が「この不正な管理人のやり方をほめた」とあります。主人がほめているのですから、不正であるはずがありません。8節の後半で、譬えを語っているイエスも、この管理人のやり方を見習うように、語っているので不正なやり方であるはずがありません。

この主人は地主で、管理人は農夫の収穫の見積もりから手当てまで任されていたのでしょう。6節の油はオリーブ油ではないでしょうか。収穫の見積もりは変わることがあるのです。管理人は自分に今与えられている権限を正しく使って証文を書き換えたのです。「不正な管理人」という呼び方は証文を書き換える前から付けられているようです。どのような不正をしたのか。1節に「主人の財産を無駄遣いした」とあります。この「無駄遣い」は、15:13で放蕩息子が財産を使ったのと同じ字です。管理人は、自分の手当ても自分の権限で決めていた、その手当てが取り過ぎだ、主人の手に入るべき財産だ、と告げ口をした人がいたのです。しかし、自分の手当ての収入を自分が使ったのは不正ではありません。

この管理人は職を失うことを知った時、証文を書き換えましたが、自分の懐にお金が入ったのではありません。借金に苦しんでいる人のために証文を書き換えたのです。借金に苦しんでいる人を助けることによって、自分に新しい命があると信じたのです。

私たちは職を失うことが迫った時、節約し、今出来ることで少しでもお金を自分の懐に集めようとするのではないでしょうか。アモス書の商人のように、世の人は不正をしてでも自分の懐を膨らませたい、と思うのです。14-15に、金に執着するパリサイ派の人たちが、自分たちは正しいから富が与えられているのだ、と誇っていることが記されています。

それに対してイエスは、この世の正しさや富は神から見たら不正なものだ、そのようなものの虜にならないで、神の国に入ることを最大の目標にして、この世のものは神の御心に従って使いきり、捧げきってこの世を生きるように、と今日の所で勧めているのです。

2007年9月16日

説教題:神に愛されて共に生きる

聖書:創世記 37章1-11節 コロサイの信徒への手紙 3章12-13節

【説教】

「AチャンとBチャン喧嘩することある?」。「どうして喧嘩するの?」。大人でも喧嘩をすることがある。兄弟でも、親子でも喧嘩することがある。喧嘩にはいろいろな理由がある。それは人間が、神様の知恵を与えられているのに、自分中心になって、これが良いことだと思って言うこと行うことが、神様から見ると良くないということがあるからです。

ヤコブさんが、カナンの所に住んでいる時のことです。ヤコブさんには12人の男の子がいましたが、誰よりもヨセフさんを愛していました。ヤコブさんには4人の奥さんがいました。ヤコブさんは、ヨセフさんのお母さんの奥さんが特に好きで、その奥さんにやっと与えられた子がヨセフさんでした。他の奥さんの子は皆ヨセフさんのお兄さんです。

ヨセフさんは、お兄さんのことをお父さんに話すことがありました。ヨセフさんの立場と自分が見たこと、体験したことを「お兄さんはこんなことをしたよ」と話したのです。お兄さんたちはそれを、ヨセフは「告げ口」をしている、と見ていました。人間はお互いに理解できないで、誤解して、対立することがあるのです。お兄さんたちは、ヨセフさんだけが可愛がられている、また告げ口をしている、とヨセフさんを憎んでいました。

この時ヨセフは17才でした。ヨセフはお兄さんたちと羊の群れを養っていましたが、お父さんはヨセフだけに袖の長い晴れ着を作ってあげたのです。そんな服では仕事は出来ない、お兄さんたちと一緒に羊の世話をすることは出来ません。それもあってお兄さんたちはヨセフと穏やかに話すことが出来なくなりました。そんな時、ヨセフは夢を見ました。畑で穀物の束を作っていると、ヨセフの束が真直ぐに立って、お兄さんたちの束がヨセフの束にひれ伏した、という夢です。ヨセフはこの夢をお兄さんたちに話しました。お兄さんたちは益々ヨセフを憎みました。ヨセフは又、ヨセフの星を太陽と月と他の星がひれ伏して拝む、という夢を見ました。お兄さんたちはその夢の話を聞くとヨセフを妬みました。

そのことがあった後、お兄さんたちが羊の群れの世話をしている所に行くように、お父さんがヨセフに言いました。お兄さんたちはヨセフが来るのに気づくと、ヨセフを殺そうと計画し、相談しました。ヨセフを殺して穴に投げ込むことにまとまりましたが、殺さないで穴に投げ込むことにしました。穴に投げ込まれたヨセフは、通りかかった商人によって穴から出されましたが、他の人に売られ、エジプトに売られて行きました。

このお父さんのヤコブと奥さんたち、子供たちの家族は、外から見たら平和な家族の生活をしていたのです。ところが、この家族はそれぞれ理由があってお互いに憎しみあっていたのです。ヤコブも子供を愛していたのです。しかし、その愛が憎しみを生んでいたのです。人間の愛は、家族をも正しく理解できない、一つにも出来ないのです。この一家は、神の愛とご計画を知った時に、皆が理解し合い、赦し合って一つになりました。

パウロは「あなたがたは神に選ばれ、愛されているので、互いに忍び合い、赦し合って生きなさい」と勧めています。私たちは神の愛によって共に生きることが出来るのです。

2007年9月9日

説教題:イエスの弟子であること

聖書:サムエル記下 18章31-19章9節 ルカによる福音書 14章25-33節

【説教】

ルカの26節に「もし、誰かが私のもとに来るとしても、父母、妻、子供、兄弟を更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない」とあります。これは厳しい言葉です。しかし、この「憎まなければ」というのは、イエスに従うことに対立する場合に、という条件がついていることを知る必要があります。父や母の思い、又自分の思いであっても、イエスに従うことに反して妨げになるなら、退けなくてはならない、ということです。父母、子供を憎むということが単独であるのではないのです。

この「憎まないなら」と訳されている言葉は、「手放す」という意味で、16:13の「一方を憎んで、他方を愛する」にも使われている言葉です。両方を選ぶことが出来ない、どちらかを選び、他方を軽んじ捨てるという言葉です。ローマ12:9の「悪を憎む」、嫌悪感を持って忌み退ける、とは別の言葉です。

サムエル18:32でダビデ王は、そこに来た使者に「若者アブサロムは無事か」と尋ねています。アブサロムはダビデの子です。この時アブサロムは40歳になっていた、そしてダビデとの間に感情的対立がありへブロンの地で「私がイスラエルの王になった」と宣言し、イスラエルの人々がアブサロムのもとに集まって来たのです。それを聞いたダビデはエルサレムを出、アブサロムと戦っていたのです。ですからアブサロムはダビデにとって、反逆の子、現在自分を苦しめている敵です。しかし、ダビデは息子に対する愛の思いが強くて、戦いの前線から来た使者に、息子は無事か、と問うのです。父親のダビデには40歳になっていても息子は若者で、自分を苦しめ戦っている敵の大将であっても無事であって欲しいのです。使者は「主君、王の敵、あなたに危害を与えようと逆らって立つ者はことごとく、あの若者のようになりますように」と答えました。

ダビデはアブサロムが死んだことを知りました。「私の子アブサロムよ」と繰り返し呼び、「私がお前に代わって死ねばよかった」と嘆き、ダビデと一緒に戦った人たちが沢山いる前で嘆き泣き続けて、部屋に入ったのです。父が子の死を悼む愛の現れとしては美しい姿かもしれませんが、神によって民の王として立てられている者としてはどうでしょうか。

19:2以下に、戦争に勝った勝利の日が喪に服す日、王の息子の死を悼む日に変わった、戦争に勝利した喜びで帰って来た兵士たちは、脱走して来たことを恥じる兵士が忍び込むように町に入ってこなければならない雰囲気になった、と記されています。そこでヨアブは王のもとに行って、父親として息子を思う思い、息子に対する愛を退け、憎んで捨てて、神に立てられた民の王としての心と生き方を選び愛するように、と勧めました。

このような選びを必要とすることが私たちの信仰生活にも起こることがあるのです。

キリストの弟子は、肉による愛や感情、又肉の一時的な思いや計算に従って歩むのではなく、神の御心と一つになって、神の御計画の道を歩むのです。そして、その道を歩む者を主が導き、力を与えて歩ませて下さるのです。

2007年9月2日

説教題:福音に仕える者の誇り

聖書:コリントの信徒への手紙二 11章7-15節

【説教】

私たち人間は、生物として健康で長生きすれば十分だ、と言うのではありません。自分の存在と働きが認められ、評価されなくては本当に生きていくことは出来ません。誰に認められ、評価さられているか、それを誇りにしているか、が重要な問題なのです。

10章から12章に亘ってパウロは、自分の誇りと他人が誇りとしていることについて語り、それによってコリントの人たちに何を誇りにしてどう生きるべきか、を語っているのです。

10:2-3でパウロは、私たちは肉で歩んでいるけれど、肉に従って歩むために戦っているのではない、と言っています。生きることは戦いです。パウロは、自分たち教会の戦いは、肉の思いや欲望を満たすために肉の人間に従っての戦いではないと言い、4節で「私たちの戦いの武器は神に由来する力で、それはどんな敵の要塞も破壊するに足ります」と言っています。神に由来する力に従って戦うのには、神に全く服従することが必要です。ですから、10:17-18で主に仕える者は、「誇る者は主を誇れ」、自己推薦する者ではなく、主から推薦される者こそ適格者として受け入れられる者である、と言っているのです。

肉に従って生きる世界では、肉的な力、強さ、大きさが認められ、評価されます。教会にも、信仰者の中にもそのような評価をする人がいるのです。コリントの教会にも10:12にあるように肉の人間の仲間としてお互いに評価し合い、比較し合う人が、教会の指導者、キリストに仕える者として入って来たのです。そして、教会の中に彼らと一緒に歩む人が生まれたのです。それでパウロはこの手紙を書いているのです。

11:7は、パウロがコリントの教会からお金をもらわないで福音に仕えていた、それを6節にあるように「パウロは素人だから、話し方も下手で、未熟な者だから報酬をもらえないのだ」「資格のない素人が福音を伝えることは神に罪を犯していることになる」と言う人がいた、そこでパウロはその評価が正しいと思うのか、と教会に強く問うているのです。パウロは8-9で、コリントの教会での生活費などは他の教会からもらっていた、それらの教会も貧しかったので「掠め取っている」という人もいる、そうまでしてコリントの教会からお金をもらわなかったのはあなた方に負担をかけないようにと思っているからだ。報酬を求め、報酬を得る権利はあるが、その権利を使わないで無報酬で福音に仕えたのだ。11節でそれは私があなた方を愛しているからだ、「神がご存じです」とパウロは言っています。

肉に従って生きる人は、肉の眼で見えることで比較し、評価し合って誇りを持つのです。しかし、キリスト者や教会は、この世から評価されなくても、否この世から否定され迫害を受けても、神の力によって生かされている確信があるなら、誇りを持って力強く生きていけるのです。福音に仕える者の誇りは、神の力、キリストによる救いの福音を信じ、その福音のために用いられている確かさにあるのです。それでパウロは報酬のお金が目当てで福音を語り、教会を利用する人がいる間は、無報酬で主に仕えると言っているのです。

私たちの誇りは、神の救いの確かさ、十字架の福音にあるのです。

2007年8月26日

説教題:主に正しく仕える

聖書:出エジプト 23章10-13節 ローマの信徒への手紙 14章1-9節

【説教】

今日の聖書の14:1-2を読むと、「裁くな」「軽蔑するな」と言っています。パウロは一度ローマの教会を訪ねたいと思って、自己紹介のつもりでこの手紙を書いています。ですからローマの教会の事情を知ってこの手紙を書いているのではありません。パウロは、ローマの教会だけでなく、教会全体のことを思って、このような問題はどの教会にもあり、教会にとって重要な問題だ、と思って書いているのです。

パウロは1節で「信仰の弱い人を受け入れなさい」、と信仰の強い人に対して勧めています。ここにいるのは信仰者です。教会員です。信仰者が他の信仰者を裁き、軽蔑しているのです。「受け入れなさい」というのは、仲間として認めなさいというだけでなく、「歓迎しなさい」「喜んで受け入れなさい」と言っているのです。なぜ裁いてはいけないのか、受け入れなくてはいけないのか。

それは3節にある「神はこの人をも受け入れられたからです」。教会は神の教会なのです。キリスト者は、罪人であった者がキリストによって神に受け入れられ、神の教会に結び付られ、生かされているのです。4節で「他人の召使を裁くとは、いったいあなたは何者なのですか」と言っていますが、キリスト者の信仰生活と教会生活は自分の信仰理解を主とした生活ではないのです。キリスト者は、自分がどんな信仰理解を持っているかではなく、自分が誰の召使か、自分の主人は誰かが中心的に重要な問題なのです。

何を食べるか、食べないか、どの日をどのように重んじるか、重んじないかは二の次のことなのです。どんな信仰生活でも、信仰をもって主にあって行っているなら、他人が裁き、軽蔑してはいけないのです。9節にあるように「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となられるため」だったからです。

7節で「私たちキリスト者は誰一人自分のために生きる人はいない、自分のために死ぬ人はいない」と言っています。ある人は言うかもしれません。私は、自分のためではなく家族のために、子どものために、社会のために生きている、と。しかしパウロは続いて8節で言うのです「私たちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」と。一家の中心だから家のために生きる、親だから子どものために生きるということはキリスト者にはないのです。一家の中心であっても、親であっても、主にあって与えられた命に生きるのです。私の命も、体も、時間も自分のものではなく、神によって与えられたものなのです。キリストによってそのことを知らされて、今ここに生かされているのです。私たちはキリストを主人とし、キリストの召使として生かされているのです。神に仕えるものとして歩む、それが家や子どもや隣人のために歩むことになるのです。

出エジプトに安息日を守ることが記されていますが、主イエスは安息日に病人を癒し、安息日は神のみ旨によって生きる日で、律法や習慣が絶対ではない、と仰っています。

私たちは、主のものであることを感謝し、主のために生きる者でありたいと思います。

2007年8月19日

説教題:御言葉を聞いて、行う人

聖書:アモス書 5章18-24節 ヤコブの手紙 1章19-27節

【説教】

今日のアモス書5;21-23には、神の民が立派な礼拝を捧げているのに、神がその礼拝を強く退けていることが記されています。

21-23の全面的拒否に対して、24節が肯定積極的な勧めのように読めます。そのように読む人がいます。しかし5:18-20には、主の日は喜びの日と待っている人たちに、その日は裁きの日だ、その日は「お前たちにとって闇の日だ」と言っています。ここでは社会的正義や愛の業、見せかけの礼拝が問題になっているのではありません。「主の日を光の日、救いの日と待ち望んでいる人」が問題とされているのです。この人たちは、自信を持って、主が到来する日は自分たちに喜びを与えてくれる光に日、と待ち望んでいるのです。その人たちに神は、お前たちは神に裁かれるべき人間だ、人間であるお前の全体が変わらなければいけない、と言っているのです。24節は「正義や恵みを洪水のように流せるならやってみろ」と激しい裁きの言葉として読むことが出来るのです。自分は立派だ、神の民だ、正義も礼拝も立派にしている、と誇らかに思っていても、神はそれを退け拒否しているのです。神の言葉を謙遜に、自分が裁かれるべき罪人として聞いていないからです。

ヤコブでは、19節に「聞くに早く、語るのに遅く、怒るのに遅いようになりなさい」とあります。「聞くに早く」というのは、「ああ分かった」と頭の回転が速くなりなさい、というのではありません。「早く」は「急ぐ」というスピードの意味もありますが、急ぐ時には他のものは後回しにしてそれを優先する、邪魔なものは退けそのものに集中すると言うことが必要です。ここでは、神の言葉を優先しろ、自分が語りたい言葉は後回しにしろ、と言っているのです。私たちは自分の都合や思いを先にして、神の言葉を聞くことを後回しにしているのではないでしょうか。怒りの心によって神の言葉を聞くことを中断するな、怒りの心は後回しにしろ、と言っているのです。

21節の「あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去りなさい」は、肉の心にある清くない思い、あふれるほどの悪を、十字架の言葉を素直に聞いて捨て去りなさい、と言っているのです。私たちの心には、肉の人間の中から出てくるものがあると共に、時代の風や世の空気によって新しく心に入ってくる汚れや悪もあるのです。「心に植え付けられた御言」とありますが、植え付けるためには、心に根を張って繁っている汚れや悪を抜き去ることも同時に必要です。風や空気によって絶えず新しい種や汚れが入り込んでくるので、19-21の勧めの言葉は、信仰生活で終わることなく聞く必要があります。

22-25では、神の言葉を聞いて根付かせる人になりなさいと言っています。その人は、生まれながらの汚れと悪を十字架によって取り去って、新しく生きる人です。救いを与えてくれる御言葉をいつも一心に見つめて生きる人です。その人は聞いて、行う人であるように努める人です。その時、とるに足りない業もささやかな神賛美も、神は喜んで受け入れてくださるのです。何をしたかという人間やこの世の基準で判断されるのではないのです。

2007年8月12日

説教題:目を覚まして主人を待つ

聖書:ルカによる福音書 12章35-48節

【説教】

私たちは今の時だけに生きているのではありません。過去からの歴史の上に立ち、未来に対する責任を負って、今の時に生きているのです。

目覚めて主人を待つ僕の譬えをイエスが語っています。この主人は、天に昇られた主イエスです。天のイエスが再び地上に来るのを待っている、これが私たちの歴史観であり、生きる姿勢です。主イエス・キリストは今は私たちの目には見えません。この世界も歴史も主イエスが不在、神が不在に見えます。しかし、天に、神の許に主イエスはいるのです。

主人を待つ僕は、自分には主人がいることを決して忘れてはいけません。今主人は不在だけれども、過って主人のもとで働き生活していた、現在も主人の僕として今ここにいる、そして主人はその権威をもって近く帰宅する、このことを忘れてはいけません。

「腰に帯を締め、ともし火をともして」目を覚まして主人を待つのは、僕の自覚をしっかり持って待つということです。イエスの僕は、十字架によって罪から解放されて生かされていることを知っているのです。しかしイエスが不在の世界は、罪が支配している闇の世界です。イエスの僕も弱さから眠りに誘われます。だから僕は福音の光を、ともし火を消してはいけないのです。闇の世界でともし火をともし続け、心を引き締め腰に帯をして直ぐに主人に仕えることが出来るようにしているのです。

イエスは、主人の帰宅は婚宴からの帰宅だ、と言っています。婚宴は自宅で行われ終わる時間が決められていません。ですから主人は直ぐ帰るか、夜明けの帰宅になるか分からないのです。それでも目を覚まして待っているのがよい僕です。

現実の歴史の中で私たちは、神のご臨在とご支配を信じて、闇の世界であっても福音の光をともして、平和の確立と神の国の到来を待っているのです。この僕の待ち方は、腰に帯をして門にともし火をともして待っている、あたりは闇だがこの家には主人がいる、光がある、希望があることを示している待ち方だ、と表現している人がいます。帰ってきたら直ぐに戸を開けるように待っている僕もいるでしょう。待ち方は各々違いがあるでしょうが、キリスト者の生き方は、目を覚まして主人を待つというあり方では、共通です。

41節以下でペトロがイエスに、この譬えは弟子のリーダーである自分たちに語られたのか、全ての人に語られたのか、と尋ねました。それに対しイエスは、召使たちの上に立つ者に求められるのは主人に対する忠実で、主人から任された財産を自分の物のように扱うのではなく、主人の物として忠実に扱い管理することが求められている、と答えました。続いてイエスは、主人の思いを知っている者だけでなく、知らずに主人の物を不忠実に扱った者も主人が帰宅した時それなりの裁きを受ける、と言っています。

いつまでも闇が続き神は不在に思われる現実の世界ですが、神はイエスによって罪と闇に勝利しているのです。主は必ず再臨するのです。私たちは、福音の光を掲げ、神に忠実に仕える姿勢を失うことなく、目を覚まして主を待つ者でありたいと思います。

2007年8月5日

説教題:真の愛と平和に生きる

聖書:ローマの信徒への手紙 12章9-21節

【説教】

今日は日本基督教団が平和聖日としている日です。62年前に終戦を迎えた悲惨な戦争を覚え、二度と戦争をしないで、平和な歩みをするよう聖書から導きを与えられる日です。

戦争が起こる背景はいろいろですが、戦争をなくし平和であるためには、戦争を起こす人間に目を向けることが必要です。聖書によって自分の罪が示され、その罪がキリストによって裁かれ、赦され、新しく神の愛に生かされていることを知ることが必要です。

12:9で「愛には偽りがあってはなりません」と言っています。この「愛」は神の愛です。「偽り」は「演技する」「見せかけ」という言葉です。「信徒である自分は愛の人だ」と思って生きている人に、「その愛に偽りがあってはならない」、と言っているのです。この「偽り」は、別に本物があるということで、心とは別の見せかけの演技している、という意味に理解する人がいます。しかしここでは心と行動が別だと言うのではありません。心で「憎らしい」と思っているのに、「嬉しい」とニコニコしているのは偽りだから、憎らしい心を行動でも示しなさい、と言っているのではありません。

「私は心からキリストの愛に生きている」と信じている「愛」が、「自分が理解している愛」「自分に納得できる愛」で、「本物のキリストの愛ではない」と言っているのです。キリストの愛を偽り物にするな、と言っているのです。この世の中は、憎しみに仕返しをすることが当然と思う、また自分中心で他人ことまで考えられない、という社会です。ですから偽りの愛でも、自分は真に神を愛し、人を愛していると思い込んでしまうのです。

パウロは、12:1-2で、この世の基準や評価によってではなく「何が神の御心であり、神に喜ばれることか」をわきまえて信仰生活をするように勧めているのです。

9節に「悪を憎み、善から離れず」と語っています。この世は悪に甘いので、このような人は「冷たい愛のない人」といわれるでしょう。「悪を憎む」は悪を嫌悪し身震いして遠ざけること、「善から離れず」は膠で貼りついて離れないことです。この悪も善も、自分やこの世の基準ではなく神の基準です。キリストにあって生き、養われ、成長することによって、成熟したキリスト者になって、偽りのない愛に生きなさい、と勧めているのです。

10節「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れたものと思いなさい」。兄弟愛はこの世が持っている理想の愛の一つです。兄弟愛は、人間の力で切ることの出来ない、期待が裏切られても赦し生かそうとする愛です。十字架のキリストの愛と一つに結びつく愛でもあります。教会はキリストの愛によって、互いに育てられて行く共同体です。

キリストの愛に従っていても、人間の理解力や行動には限界があります。17節では「誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善を行うように心がけなさい」と言っています。18節では「出来れば、せめてあなたがたは全ての人と平和に暮らしなさい」と言っています。これは、人間の限界を認めて、平和が失われた時、私は愛の人なのに相手が平和を失わせたと裁くのではなく、罪の赦しを祈るように勧めている、と思われます。

2007年7月29日

説教題:苦難の道を歩む共同体

聖書:列王記上 19章3-18節 ペトロの手紙一 3章13-22節

【説教】

「苦難の道を歩む共同体」は教会です。キリスト者は、一人平安で楽しい日々を過ごすよりも、イエスを主と信じることによって、主と共に苦難の道を歩むのです。

苦難にもいろいろあります。人間的な弱さや社会的な問題による苦難、訓練、鍛錬などの苦難もあります。しかし、今日の主題の苦難は、18節で「キリストも罪人のためにただ一度苦しまれた」と言っているのに結びついている苦しみです。キリストが苦しまれたのに重なる苦しみです。その苦しみを、キリスト者は自分の苦しみとして歩むのです。

9節に「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」とあります。悪や侮辱に仕返しをする。これが一般的な考えであり、生き方です。しかし神は、罪人を滅ぼし去るのではなく、キリストによって罪人を赦し神の祝福を与え、生きるようにされたのです。私たちがキリストによってそのように赦され、神の祝福に結びつく者にされているのです。その祝福を受け継いで歩む、日々受け継いで歩み、次の世代にも受け継ぐ、それがキリスト者であり教会なのです。教会は歴史の中に祝福を受け継いで歩んでいるのです。

13節に「善いことに熱心であるなら」とありますが、これは神の前に善をもって歩むことに心から熱心であるなら、ということです。そうすれば、神が味方になって下さるので、害を加えるものはいない。たとえ迫害を受けても、心の中で信じている主イエスが味方になって支え、神の祝福を受け継いで存在し、神にある希望を語ることが出来る者にしてくださるのです。キリストへの熱心と、キリスト者の苦しみが切り離せないものになっているのです。17節で語っていることは、単にこちらの方がよいと言っているのではなく、神の御心があるところには祝福がある、と言っているのです。

18節以下に、キリストの苦しみがどんなものかを短く説明しています。「正しい方が,正しくない者のために苦しまれた。あなた方を神のもとへ導くためです」。この苦しみは、自分の弱さや自分を生かすための苦しみではなく、私たちを神の祝福に生かすための苦しみです。このような苦難は、この世が知らないものです。この世は自分の責任による苦難をも無きものにしようと思っているのです。人を救い生かすために苦しむとこは、この世は好みません。その苦しみを負う力もありません。ですからこの苦難の道を歩む歩みは、この世では孤独になります。

エリヤは、その歩みに耐えられなくなって、私一人だけこの道を歩んでいるが私の命も奪われそうだ、この祝福を受け継ぐ道も終わりではないか、と神に嘆き訴えました。その時神は、エリヤに今見えないけれど7千人が残っている、苦難の道を歩み祝福を受け継いでいる共同体は健在だ、と告げました。

キリスト者の存在も歩みも、神の歴史の中にずっと残され、続いているのです。孤独な歩みではありません。教会は、苦難の共同体になって神の祝福を受け継いでいるのです。

2007年7月22日

説教題:一つ心で主に仕える

聖書:ヨシュア 2章1-14節 フィリピの信徒への手紙 4章1-3節

【説教】

今日与えられた聖書は女性が主人公のように登場しています。それは、女性の小さな働きも主に用いられると大事な意味あるものになる、と語っているのです。

ヨシュア記のラハブは遊女です。彼女は、町にひそかに入って来た二人のイスラエル人のスパイを家に入れかくまって、追っ手をごまかし安全に逃がしました。これは特別にすばらしいことではありません。遊女は誉められる身分でも働きでもありません。唯彼女は、イスラエルの神を信じて、神が歴史を治めていると見ていました。そして、その神に自分の命と家族の将来を委ね、それを基にして自分に出来ることをしていたのです。遊女ですから、男を家に入れるのに特別大きな決断や考えを持っていなかったかも知れません。日常的に行っていることを、神が特別な業とされたのです。ラハブは、その時二人がスパイだと知り、神の導きとご支配を知ったのでしょう。ヘブライ人の手紙11:31では「信仰によってラハブは様子を探りに来た物を迎え入れた」と記しています。ラハブは選択と決断に迫られたとき、神の力と導きに身を委ね、従う決断をしたのです。それがイスラエルの勝利に役立つものとなり、身を守ることになったのです。

フィリピ書のきょうの所には、二人の婦人が登場しています。この二人はこの所だけに名前が記されているので、二人のことについては何も分かりません。二人の名前が記されて「同じ思いになりなさい」と勧められていることは、二人が教会の有力者で、対立していることが教会全体の問題になっていたからだろう、と多くの人は推測しています。

しかし、二人は教会の中で以前から問題を起こしていたので、皆の前で名前が読まれても誰も驚かない、教会全体に迷惑をかけている二人だった、という見方もあるのです。女性の存在や働きがあまり重んじられていなかった時代に、なぜ問題を起こしている二人に同じ思いになるようにと言い、この二人を支えてあげて下さいと教会員に頼んでいるのか、と問い掛けている人がいます。その人は、この二人が命の書に名を記されている人たちと力を合わせて福音のために戦った人たちだからだ、と説明しています。キリストによって真実の救いを与えられ、その救われた命に全てを捧げて生きている人たちだ、と言っているのです。だから二人にも言うのです「主において同じ思いになりなさい」と。パウロは二人に「お互いに自己主張するのではなく、譲り合って一つになりなさい」とか「教会の指導者の言うことを聞きなさい」とは言っていません。「主において同じ思いになる」その時、その思いと存在と働きが有益なものになるのです。

4:2-3では二人の婦人に対して「主において同じ思いになりなさい」と勧めていますが、パウロはこの手紙全体で繰り返し、教会員全員がキリストにあって一つになりなさい、と勧めています。私たちは、自分の存在も働きも、私個人のものでは取るに足りないものです。その私たちが、キリストにおいて同じ思いになって教会生活をする時、わたしたちの存在も働きも意味あるものとなり、福音を証しその前進に役立つものになるのです。

2007年7月15日

説教題:互いに重荷を担い合う

聖書:ガラテヤの信徒への手紙 6章1-5節

【説教】

A子チャンのお父さんが小学生の時テレビでこんなことを言う人がいました。「赤信号、皆で渡れば怖くない」。これいいことかな。皆がしていると悪いと思わなくなってしまう。大人でも悪いこと、いけないことをしてしまう。今はいいと思ってしまう。今日の聖書は、「万一だれかが不注意にも何か」いけないことをしていたら、それいけないんだよ、と注意して悪いことを止めさせなさい、と言っています。そのように注意して、神が決めたことに気づかせて、正しく守るようにしなさい、と言っています。

その時どのように注意するかが大事なことです。「霊に導かれているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」と言っています。

赤信号で渡っている人を注意するのに、自分は立派だ力がある、だから私の言うことを聞け、と注意する人がいるでしょう。交通警察の人や学校の先生など。「おい、だめだ」「何している」と、上から叱るように強く言うでしょう。でも子どもは、みんなは、愛によって教えられていることを、優しい心で人にも言うでしょう。

「霊に導かれて生きている」というのは、あなたがたは自分の知恵や力で生きているのではなく、神様の知恵と力、お父さんお母さんや先生の知恵や力に導かれて、正しい道を歩んでいる、その愛の教えを身につけて生きている人ですよといっているのです。だから自分ひとりだけでなく、他の人も愛に生きるようにしよう、と私たちは思うのです。

「柔和な心」というのは、優しい心ですが、よく飼いならされた素直で優しい心です。盲導犬のような優しい心で、間違えている人を導きなさい、と言っているのです。

子どもも大人も、不注意にもいけないことをしてしまうかもしれない。「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」は、子どもに対しても、大人に対しても言われているのです。「互いに重荷を担い合いなさい」というのは、大人でも、失敗し、いけないことをしてしまうことがある、その時、非難攻撃して裁くのではなく、その失敗や罪を互いに担い合いなさい、と言っているのです。「互いに」というのは、私は失敗しない罪を犯さない、という人はいない。失敗し罪を犯している人を見た時、私には関係ないと、見ない振りをしてしまうのではなく、その罪を自分のこととして一緒に担いなさい、と言っているのです。「その罪を一緒に担う」というのは、一緒に罪を犯すことではありません。悪いことをしている人の一人の思いを持ち、一緒に正しい道に帰るようにするのです。

私たちは大人でも、一人で正しく歩み抜くことは出来ないのです。重荷、弱さがあるのです。他の人に教えてもらい、助けてもらい、担ってもらって歩み抜けるのです。

5節で「めいめいが自分の重荷を担うべきである」と言っている「重荷」は「責任」です。それは、時代や社会や他の人から時には不当に負わされるものもあります。けれども、それを先ずは自分の負うべき重荷と自覚して受け止め、自分が責任を持って担うのです。その上で互いに重荷を担い合って歩むのです。そこにキリストの教会が作られていくのです。

2007年7月8日

説教題:主による生き返り

聖書:エレミヤ書 38章1-13節 ルカによる福音書 7章11-17節

【説教】

イエス・キリストによって与えられた神の恵みのすばらしさは、異邦人にも救いが与えられるという広がりだけでなく、深い悲しみにある人を解放する恵みでもありました。

イエスがナインの町の門に近づくと、門から棺が担ぎ出されるところでした。その棺の中の死人はやもめの一人息子でした。聖書の時代のやもめになった婦人の生活は現代以上に大変でした。女手一つで若者になるまで育てた一人息子が死んだのです。この母親の悲しみ、嘆き、絶望の深さは察することが出来ますが、町の人々は大勢傍に付いていても一緒に涙を流すことが出来ることの全てで、この婦人に語りかける言葉はなく、その悲しみと嘆きから解放する力はもっていませんでした。

「主はこの母親を見て」と書いていますが、この「主」という言葉は、「主人」という意味ではなく、旧約聖書で神に対して使っているのと同じ意味で使っているのです。「主はこの母親を見て、憐れに思い」とは、神がこの悲しみ嘆いている婦人を見られたと言うことです。夫にも息子にも先立たれ、一人残された、と嘆いている婦人を神は見ているのです。そして憐れに思われ、腹の底から悲しみと嘆きを一つにしているのです。

主は「もう泣かなくともよい」と言われました。この主の言葉を、「泣くな」「泣かないでいなさい」「泣くことはない」と訳している聖書があります。泣かないではいられない人に、「泣くな」と言うことは残酷なことでしょう。子どもは一層大声で泣きます。ずっと泣き続け、泣かないではいられない婦人に、主は、もう泣き続けるのは止めなさいと言って、棺に近づいて手を触れ「若者よ起きなさい」と言われたのです。泣き続けないではいられない悲しみと嘆きを主は取り去ったのです。私が共にいることで、あなたの悲しみを取り去る、と行動をもって示されているのです。

イエスが「若者よ起きなさい」と言われると、死人は起き上がってものを言いはじめました。「死人」が起き上がったのです、仮死状態にあった人が生きを吹き返したのではありません。主は、自分が命と死の支配者である神と一つで、その力を持っていることを示しているのです。イエスは起き上がった息子を母親にお返しになりました。

イエスはこのことを、この母親を憐れに思って行われたのです。母親の信仰や祈り、強い願いによってではありません。母親の悲しみや嘆きの中に祈りや願いもあったでしょう。しかし、母親は、夫と息子の死は神さまのなさったこと、と受け止め、諦め、それなりの平安を得ようとしていたのではないか、とも思われます。そのような母親に、神が目を留め、深く憐れんで、主の思いが臨んだのです。神の一方的な憐れみの業なのです。

歴史の中でも神はその民に憐れみの心をかけていることを聖書は記しています。

神は、憐れみをもって、いろいろなあり方で個人の歩みの中に、又歴史に中に臨んでくださることを、聖書を通して示しています。その神の憐れみによって、私たちは、死や悲しみの支配から解放されて、神のご支配の下に新しい歩みをすることが出来るのです。

2007年7月1日

説教題:神の恵みは全ての人に

聖書:使徒言行録 11章1-18節

【説教】

1-3節に、異邦人も神の言葉を受け入れたのでペトロが異邦人と一緒に食事をした、とエルサレムの人たちが伝え聞いた。そこにペトロが来たので、神の恵みは選ばれたイスラエルの民だけに与えられていると信じていた人たちがペトロを非難した、と記されています。

私も子どもの時、日本には神風が吹く日本の神がいる、と教えられていたので、主イエスを信じる前は、世界には多くの神や宗教があるのに、どうして聖書の神だけが真実の神で、教会だけに真実の救いがあると言えるのか、疑問に思っていました。先週私は、日本聖書教会が主催した会で「福音書の正典性」と題する講演を聞きました。他にも多くの福音書が書かれていた中で、他の福音書が消えて四つの福音書だけが残ったのは、創作されたものではなく証人がいた、歴史性がある、歴史上に現存した人間イエスがキリストだと書いている。それで四福音書は教会で長く読み継がれて正典に成った、と語られました。

使徒言行録も教会が正典としている書です。ここに記されていることは作り話ではありません。歴史的に実際にあったことで証人が確認していることが記されているのです。

エルサレムに戻って割礼を受けている人たちから非難されたペトロは、ことの次第を彼らに説明しました。10:9-23と、11;5-14に記されていることです。

ペトロは昼の12時頃空腹を覚えながら祈っていると眠くなって夢を見ました。天から動物の入っている大きな布が吊るされて来ました。そして「屠って食べなさい」と声を聞きました。ペトロは「清くない物、汚れた物は口にしたことがありません」と答えました。すると「神が清めた物を清くないなどと言ってはならない」とまた声がしました。こういうことが三度あって、全部天に引き上げられました。ペテロは目を覚まし、今見たことは何を意味しているのか思案をしていると、カイザリアから三人の使いが来たのです。カイザリアのコルネリウスに神の天使が現れ、ヤッファに行ってペトロを招いてきなさい、と告げたのに従って三人の使いが来たのです。その時ペトロは、天から動物の入った布が下りて来て「神が清めた」と天の声が言ったのは、「どんな人間も清いとか、汚れているといってはいけない」と神が言っていることを示しているのだ、と理解したのです。

11:15「私が話しだすと」とペトロが言っているのは10:34-44のことです。神は人を分け隔てなさらない、どの国の人でも神を畏れる人を神は受け入れてくださる。イエスを信じる者は誰でも、罪の赦しを受け、神の恵みの中に生きる者とされるのです。そのことがここにはっきり示されたのです。これは作り話ではない、単なる教えでもないのです。神の恵みが、ペトロとコルネルウスを通して、歴史の中に現実に示されたのです。

17節でペトロが、自分と同じ賜物を、神は異邦人の彼らにもお与えになった、と言った。するとこの言葉を聞いた人々は一時静まりました。言葉がなくなったのです。自分の思いを深め、神の言葉を聴いたのです。そして「神は、異邦人をも悔い改めさせ、命を与えて下さったのだ」と言って神を賛美しました。神の恵みは全ての人に与えられているのです。

2007年6月24日

説教題:捨てられた者をも救う神

聖書:使徒言行録 8章26-38節

【説教】

8:26のフィリポは、6;5に出ている人です。教会は、ユダヤ人が昔から守ってきた生活をしている人でなくても救われる、と信じていたので、ギリシャ語を話すユダヤ人も教会の中にいました。しかし、その人たちから苦情が出、その処理するのに選ばれた一人がフィリポです。フィリポと一緒に選ばれたステファノが、神はイスラエルの歴史の中でイエスによる救いを告げてきたのにあなたたちは神の言葉に逆らっている、と語ったので、彼はユダヤ人から石で打ち殺され、エルサレムの教会は迫害を受けました。それで、フィリポは、サマリヤの町に逃げて行きそこで福音を宣べ伝えました。サマリヤはユダヤ人からは神に捨てられた町、捨てられた人たちと見られていたのです。しかし、フィリポはその人たちにキリストによって神の救いが与えられている、と福音を告げたのです。

今日の8:26に、主の天使が「ここをたって南に向かい、ガザに下る道に行け」と言った、とあります。フィリポを導いたのは、神の御心であり、神の力でした。フィリポはその神の意志と力に従いました。そこは寂しい道、人が通らない道でした。それは唯一人に福音を伝えるための歩みで、フィリポはそのために神に選ばれ用いられたのです。

神の救いに導かれる人も、神から特別な恵みを与えられていました。その人はエチオピアの女王に仕える高官でした。この人は、ユダヤ人から見たら、神から捨てられた人です。しかし、神の特別な恵みを受けて、聖書の神を示されエルサレムに礼拝にきていたのです。当時は国際化の時代でしたので、この高官も、ギリシャ語に訳された聖書とユダヤの神を知り、天地の造り主で歴史と世界の支配者である神に関心と興味をもっていたようです。それで自分の国や育ちに縛られないで、この神による救いが自分にも与えられるだろうか、と思ってエルサレムに来たのではないでしょうか。

神に選ばれ救いに導かれても、ユダヤ人のように、それを自分中心に考え、他を裁いて見捨てるような理解をする人もいます。そのような人がイエスを十字架につけたのです。その人たちとは対照的にフィリポもこの高官も、神の前に謙遜で、神の導きに素直に従っています。フィリポは、神の霊が「追いかけてあの馬車と一緒に行け」と言われたのを聞くと、その馬車に寄りました。そして、「読んでいることが分かりますか」と尋ねました。これは非常に大胆なことです。立派な馬車に寄り添って汗と埃にまみれ息せき切って走ることも大胆ですが、「読んでいることが分かりますか」と尋ねるのも失礼なことです。これは神の霊がさせたのです。その質問を聞いて高官は「手引きをしてくれる人がなければどうして分かりましょう」と言って、フィリポを馬車に乗せ、そばに座らせました。この高官の謙遜さ、読んでいることを知りたい熱心さ、を思わされます。しかしこれは、この捨てられた一人を救おうと思われる神の熱心さが、高官を捉え支配し、心を動かしたのです。

神は、今も、イエスによって大事な一人としてあなたに眼を止め、あなたは捨てられていない、と救いの言葉を語りかけて、私たちを救いに導いてくださっているのです。

2007年6月17日

説教題:私たちを救う力のある名

聖書:申命記 8章11-20節 使徒言行録 4章5-14節

【説教】

私たちは学校、会社、団体などの力に支配されて生きています。国家や社会の秩序の力もあります。これらの力を自分が正しいものとして受け入れることが出来ると、自分を生かし守り平安を与えるものと評価して、その力に積極的に従います。

しかし、自分の意志と合わない時には、自分を圧迫し束縛するものとなり、その力からの解放、救いを求めます。10-12節でペトロは、「私たちが救われるべき名はイエス・キリストの名です」と言っています。この言葉は、私たちに救いとは何かを、示しています。

ペトロは神殿で、イエス・キリストの名によって救いが与えられる、と語ったので牢に入れられました。そして今牢から出され、国を治める権威を持っている人たちに取り囲まれて「お前は誰の名によって語っているのか」と尋問を受けました。そこでペトロは、イエス・キリストの名だけが人間を本当に救い生かす力を持っている、と語ったのです。このペトロの言葉は、国を治めている人たちには、自分たちの権威を無視するだけでなく、国や社会の秩序を失わせ混乱させる言葉と聞こえました。国や社会に秩序が必要なことは正しいのですが、問題は誰の意思と力によって支配され、秩序を保つかです。

イスラエルの指導者たちは、自分たちは神に選ばれた民だから、自分たちは神の権威を持っている、と高慢になっていました。そこにイエスが現れて、その指導者たちは神から与えられている権限を越えている、と厳しく批判したのです。そのためにイエスは、その指導者たちによって、ということはこの世の人間の意志と力によって、十字架に架けられて殺されたのです。このイエスに、神はあらゆる名にまさる名をお与えなったのです。

申命記には、自分たちが今あるのは、自分たちの働きによると思うかもしれないが違う。神の意志と力によって、導かれ、住み、収穫の実を得たのだ。それを忘れてはいけない。と強く語られています。困難な荒野を導かれて歩んでいる時だけではない、豊な冨を築いて生活している時も、自分の力ではない神の意志と力によるのだ、と言っているのです。

神の意志と力のあるところに私たちの救いがあるのです。神の意志と力がこの世界と歴史と自然を支配しているのです。神の意志を正しく理解し、自分の中に受け入れて生きる時、私たちに救いがあるのです。

その救いを与えてくれるのはイエス・キリストの名だけだ、とペトロだけでなく、聖書全体が言っているのです。フィリピの信徒への手紙2章9-11節は、「天上、地上、地下のものがすべて、イエスの名にひざまずき、神をほめたたえる」と言っています。イエスの名にはそれだけの力があるのです。そこに真の救いがあるのです。

その救いは、この世の不当な力からの解放という救いだけでなく、罪と死からの救いでもあります。イエスの名によって歩む歩みは、神の義のご支配の下に、神から与えられた道を、神の命に生かされて歩む歩みなのです。その歩みは、空しい滅びへの歩みではなく、勝利と完成に向う意味ある実りある歩みなのです。

2007年6月10日

説教題:神の招きと応答

聖書:使徒言行録 2章37-42節

【説教】

私たち人間は、神によって造られていると共に神の霊を与えられて、他の動物とは違う人間として生かされているのです。人を傷つけ悲しませても何とも思わない、反って面白がっている人がいます。その人は神の霊を失っている人だ、と言ってよいと思います。神の霊、聖霊は信仰を持つ前に人間に与えられているのです。

聖霊降臨の日、まだイエスを信じていない人たちが、聖霊を注がれて語ったペトロの話を聞いて、自分たちは何と酷いことをしたのだろう、と心を打たれました。これは、語っているペテロに神が働いている、と共にその言葉を謙遜になって聞いた人たちにも働いたので、ペトロの語る言葉が単なる知識として聞くのではなく、彼らの心を打ったのです。この人たちは今まで自分の考えやこの世的な基準で生きてきました。ところが今その生き方が神の前に罪であることを知らされたのです。彼らは「私たちはどうしたらよいのでしょう」と尋ねました。ペトロは「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます」、と言いました。神の言葉を聞いた者は、悔い改めに導かれるのです。悔い改めは、失敗し間違えた、元に戻ろう、出直そう、と言うことではありません。視点や立場を全く新しく改めることです。今までの視点や価値観を全く捨てて、新しく神を中心にした視点、神のご計画の完成に向う考えに変わるのです。

ルカ14章15-24節で、イエスが神の国を、ある人が宴会を開いた時の譬えで語っています。前もって招いていた人たちがいる。その人たちに用意が出来た、と迎えに行った。するとその人たちは都合があって行けないと断った。断った理由は、この世的には認められる、立派な理由です。しかし、自分の考え、自分中心に歩むのではなく、その招いて下さった方を中心に一緒に生きよう、その生き方が自分の生きる道だとしたら、自分の都合を捨てて招きに応えるべきでしょう。この宴会の主人は、招きを断った人たちに考えを変えるように重ねて呼びに行くことをしないで、その人たちに代わって喜んで招きに応える人を連れてくるように、僕に命じました。その招きは席が満ちるまで続けるように命じました。神の招きはこのようなものだ、とイエスは語っているのです。

そして聖霊降臨によって実際にこの招きが始まったのです。その聖霊によって、神の言葉を聞いて心打たれた人は、ペテロの勧めに従って、悔い改めて洗礼を受けました。これが神の言葉に正しく応答するありかたです。

39節に、この聖霊はイスラエル人に与えられる、その子孫にも、遠くにいる全ての人にも与えられる、とあります。今は全ての人が神に招かれているのです。神は人間に霊を与えて生かして下さっているのです。人間に与えられている神の霊は、人を傷つけ悲しませると、罪を感じ心痛めるのです。その霊にあって神の言葉を聞いて、神の招きに応えることを神は期待しているのです。

2007年6月3日

説教題:主イエスが聖霊を注ぐ

聖書:出エジプト記 19章3-9節 使徒言行録 2章29-36節

【説教】

主イエスは、ご自分が選ばれた人たちに、ご自身の責任で、聖霊を注がれました。聖霊は誰にでも与えられたのではないのです。17-18節に神は「私の霊を全ての人に注ぐ」と言っていますが、この「全ての人」は、「終わりの時に救いにあずかる人」で、21節に「主の名を呼び求める者は全て救われる」とある人です。聖霊は、神を信じ、イエスを救い主と信じる信仰と一つに結びついていて、切り離せません。聖霊を注がれることは、救われることです。救いは神と真実の交わりが与えられることです。神との間に理解し合うことが出来、平和な関係が出来ることです。

出エジプト19:3-9には「聖霊」の言葉はありませんが、神はモーセを選び、モーセは神の選びに応えて聞き従って仕える者になった、そこに聖霊が働いているといえます。聖霊は永遠の神と一つで、イエス以前にも存在し働いていたのです。

しかし、イエス以前に人々が聖霊で思うことはこの世的な勝利でした。人々は、ダビデのように神の力を戴いてイスラエルに勝利をもたらすメシア、を待望していました。そのようなメシアを待望している人たちに、ペトロは、「ナザレのイエスこそ神から遣わされた方です。このイエスをあなたがたは十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死から解放して復活させられました」、とイエスこそ神からのメシアであることを語っています。ダビデについては、29節で「彼は死んで葬られた。その墓は今でも私たちの所にある」と断言しています。それに対して「神はイエスを復活させ、神の右に上げ、約束の聖霊を御父から受けて注いで下さったのです」、と強調しています。

聖霊降臨は、神のご計画によって、創造と救いの歴史の中に、イエスが仲保者、救い主としての存在と働きをされて、起こった出来事なのです。聖霊は神の霊です。しかし、父なる神と、御子イエスと、聖霊がばらばらに存在して働くのではありません。三つが、違いはあるけれど一つになって存在し働いているのです。旧約の時代にも聖霊はありましたが、イエスが天に上げられて、イエスご自分が責任をもって注ぐことによって、地上の人々の中に存在して働く聖霊は新しく、イエスの霊となったのです。

イエスは、十字架を前にして、私が去って行ったら聖霊が与えられる、その霊は、イエスの霊であり、弁護者、慰め主、助け主、真理の御霊である、と約束しています。聖霊を注がれ、受け入れた者は、神の偉大な御業を理解することが出来、イエスを救い主と知ることが出来、「イエスを主と告白することが出来る」のです。そして、この霊によって、イエスを知り、信じる信仰が強められ、深められ、地上での信仰生活を力強く歩むことが出来るのです。この霊は、今もイエスを信じる者に、そして教会に注がれているのです。

この霊を注がれていないキリスト者も教会もないのです。私は弱いキリスト者だ、小さな教会だ、と倒れそうになることがあります。しかしその時、イエスの霊が私を助けて下さり、イエスによる救いがここにある、と聖霊が信じる私と世界に語って下さるのです。

2007年5月27日

説教題:宣教する教会の誕生

聖書:創世記 11章1-9節 使徒言行録 2章1-11節

【説教】

今日は聖霊降臨日です。聖霊は、十字架と復活のイエスを信じる人たちが、主にあって一つに集まって心を合わせて祈っている時に、その人たちに天から与えられました。

復活のイエスが、1:8で「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受け、地の果てに至るまで私の証人となる」と約された、そのことがこの時起ったのです。聖霊を与えられ力を受ける、それは「私の証人になる」という姿で現れると言っているのです。

聖霊降臨の時、「炎のような舌が別れ別れに現れて、一人一人の上に留まった。一同は聖霊に満たされて“霊”が語らせるままにほかの国々の言葉で話しだした」のです。この時までの弟子たちは、イエスを十字架につけたこの世の人たちを恐れ、身を沈めて集まっていました。聖霊降臨はその弟子たちを変えました。それは弟子たちを新しく生まれ変わらせる、新しい創造の出来事でした。そして、この世界と歴史をも新しくする出来事でした。

この時エルサレムには世界の各地から信心深いユダヤ人たちが来て滞在していました。その人たちが、聖霊に満たされて語る弟子たちの言葉を聞いて驚き怪しみました。弟子たちが、神の偉大な業を、共通に語っていたからです。そのように聞き理解できたことは、聞く者にも聖霊が働いていた、といってよいと思います。聖霊は、広く世界に歴史の中に与えられたのです。

しかし、聖霊が与えられた人と場所は限定されています。イエスを信じる人たち、心を一つにして祈っている所、信心深いと主が認めた人たちです。同じ弟子たちが語る言葉を聞いているのに、「あの人たちは酒に酔っているのだ」といって、あざける人もいたのです。

聖霊が語らせることは、聖霊によらなくては理解できないことなのです。神は、語る者にも聞く者にも聖霊を与えて、神の偉大な出来事をこの世界と歴史の中に語り伝えるようにされたのです。これが教会の誕生です。「私の証人になる」これが教会の存在理由で、霊によって一つになって神の業イエス・キリストの救いを語るのが教会です。

創世記11章に、バベルの塔を建てようとした人間が、言葉が混乱してそれが出来なかった、そして神によって全地に散らされた、ということが記されています。人間、生まれながらの知恵と力で語り聞く時には、どうしても自分中心になって、親子でも話が通じない理解し合えない、ということが起こるのです。話が通じない理解し合えない者が、一つの仕事を完成させることは難しく、一緒に生活することも難しいです。

彼らは、世界に散らされることによって、神のご支配の下に一緒に生きることの大切さ、隣人と共に生きることの重要さを知るようになったのです。神を見失って、自分の思いと自分の業に心と目が奪われ、混乱させられ、散らされた人間が、聖霊によって一つにされ、統一を与えられるのです。聖霊による新しい統一体が教会です。教会は神の救いの現実を示しているのです。教会が出発点の存在となって、世界と歴史は、神の霊によって一つになるのです。世界が理解し合い、共通の実りある歩みをする時が来ているのです。

2007年5月20日

説教題:復活の主の命令

聖書:エゼキエル書 43章1-7節 マタイによる福音書 28章16-20節

【説教】

教会の暦では、先週の木曜日が復活の主イエスが天に上げられた昇天記念日でした。復活の主の命令は、昇天の主の命令でもあります。

18節で復活の主は「私は天と地の一切の権能を授けられた」と宣言しています。世界全体と歴史の全てがこの主の下に治められているのです。十字架と復活によって罪人の人間を新しくしてくださった主は、世界と歴史も新しく創造されたのです。今主は、復活したイエスとして地上を歩まれているのではなく、神の右に居まして一切を治めているのです。

復活の主は20節で、弟子たちに「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束しています。19-20節にある、主の宣教の命令は、ご自分は何も参与しないで上から命令しているというのではありません。主ご自身が弟子たちを相応しい者に生かし、世界と歴史をも責任をもって治め、弟子たちと共に歩むと約束して与えているのです。ですからこの命令は、主ご自身が責任をもって実行させてくださるのです。

主の命令は「行って、すべての民を私の弟子にしなさい」です。主は、今既に自分自身が主の弟子になっていて、弟子である喜びに生きている者に、すべての人を自分と同じ救いと弟子の喜びに生きる者になるよう勧めなさい、と命じているのです。喜びを知らない人を、自分と同じ喜びに生きるように進めることは、喜びと誇りを持っての奉仕でしょう。「弟子にする」ことは、「心から喜んで従う者にする」ことです。主が上から力で一方的に従わせるのではありません。弟子を用いて、喜んで従う者にするのです。

復活のイエスを主と信じる者には、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束は、力強い慰めと励ましです。「世の終わり」と訳されている言葉は、「一つの時代が完全に終わる」という意味です。私の生涯の終わり、教会の時代の終わり、ということです。「終わる」は「完成する」という意味があります。その時代が完全に終わるまで、意味ある完成まで、復活の主が私たちと共にいて下さるのです。「私と共にいなさい」ではありません。弟子たちが主から離れても、イエスは弟子たちを見捨てなかったのです。私たちが弱く、躓いても、主は私たちを見捨てずに共にいて下さるのです。

「いつも共にいる」の「いつも」は、「すべての日々、どの日も」ということです。生涯にも、歴史の中にも、いろいろな日があります。そのどの日も、すべての日々共にいる、いない日はない、途中でいなくなることも、見捨てることもない、また、共にいることを他の者に妨げられることも、排除されることもない、というのです。

この約束を、天と地の一切の権能を持っている主がして下さっているのです。この約束は必ず果たされるのです。私たちは、この主にあって、復活の主の命令を日々携えて、終わりの日まで歩むことが出来るのです。私たちは弱く、この世には悪や罪や死が力を持っています。しかし、それらは絶対的な力ではないのです。復活の主がそれらに勝利しているのです。その主にあって歩む時、私たちの歩みも業も意味あるものに成るのです。

2007年5月13日

説教題:お言葉を下さい

聖書:ダニエル書 6章14-23節 ルカによる福音書 7章1-10節

【説教】

A子チャンは「お母さん、これで遊んでいい」と聞くことがあるでしょう。先週教会で皆がお菓子を食べている時、B子チャンが1つお菓子をもらった、そうしたらおばあさんが「ママに聞いてから食べなさい」と言った。B子チャンは「ママいい?」と聞いたら、ママは「チョコレートはだめ、甘い物今食べたばかりでしょう」と言った。他の人が「食べたら」、と言ったけれどB子チャンは食べなかった。自分のお母さんの言葉を聞いて従ったのね。

今日の聖書に出ている百人隊の隊長は、百人の部下がいる兵隊の隊長です。この隊長が頼りにしていた兵隊の一人が病気で死にそうなった。隊長は、神様なら治してくれる、と思いました。でも、この隊長は、神様が選んだ民の仲間ではなかったのです。別の家の人だったのです。それで神様が選んだ民の長老、神様の家の人に使いを出して、「神様に頼んで、病気を治してください」、とお願いしました。その願いを聞いた長老は、イエスさまの所に行って、「イエスさま治してあげてください」、とお願いしました。

イエスさまは、この頼みを聞いて、隊長の所へ行きました。イエスさまが隊長の近くに来た時、隊長はそのことを知って使いを出し、「私はイエスさまを迎え入れることはできません。私が出かけて行ってお会いするのも相応しくない者です」と言いました。世界には、ここからは、よその人は入ってはだめ、という塀や壁があります。隊長は、自分は神の民ではないのでイエスさまと交われない、神の子イエスは清く自分は汚れている、と理解していたのです。そこで、「一言お言葉を下さい。そして、私の部下の病気を治してください」と言いました。言葉を言うだけで病気が治る、隊長はそう信じて言ったのです。

隊長は、自分は本当の力が支配している世界に生きている。部下に「行け」と言えば死の危険がある所でも部下は行く、「これをしろ」と言えばどんなに困難なことでもする。私の命令の言葉を聞いた部下は私の言葉通りに行います。そして、私自身も力の下にいる者です。皇帝や王の言葉に従います。この世界は神様の力の下にあるので、神の子の言葉に皆従います。だから、お言葉によって部下の病気は治ります、と言ったのです。

私たちは、お母さんが私たちを愛し守り生かしてくれている、と知っていますね。お母さんは神様から、お母さんですよ、と責任と力を与えられているのです。だから、他の人の言葉を聞いて食べたり、他の人の後に付いて行くのではなく、「お母さん、いい」と聞いて、お母さんの言葉を求め、お母さんの言葉に従うのね。

私たちは、神様によって愛され生かされているのです。この世界と歴史の全ては神様が御心を行うために支配しているのです。神の言葉は力があり、その通りに成るのです。

ダニエル書は、王様が自分自身の言葉を重んじ、権威ある言葉としましたが、神の言葉は、ライオンをも支配していて、ダニエルを守り生かした、と書いています。

神様は、武力やお金ではなく、言葉によって存在と御心を示しこの世界と歴史を治めているのです。私たちの救いも平安も、神の言葉をしっかり聞いて従うところにあるのです。

2007年5月6日

説教題:私があなたを選んだ

聖書:申命記 7章6-11節 ヨハネによる福音書 15章11-17節

【説教】

子供は「どうして」「なぜ」と問います。大人は「どうしたら勝ち組みに入れるか」といった、技術、手段、方法を問うようになります。しかし、「どうして私が今ここにいるのか」、「なぜ生きているのか」、という問いは大人にも重要な問いです。

聖書は、はっきりと神が世界を造り私たちに命を与えて生かしてくださっている、と言っています。そのことをわきまえて生きることが、神から求めたれているのです。11節に「私の喜びがあなた方の内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」とあります。この喜びは、相手を倒して一人勝ち誇る喜びではありません。12節のように、私が神の喜びに満たされると、互いに愛し合うことになるのです。それは、主イエスの愛が私たち内に宿ることによって生まれるのです。13節で、そのイエスの愛は友のために命を捨てる愛である、と言っています。この「捨てる」は、16節にある「任命する」と同じ字です。「任命する」は口語訳聖書では「立てる」でした。責任ある働きに任命する、その務めに立てる、という意味で、「置く」とも訳せる字です。「土台を置く」「捧げ物を置く」とも用いられます。「命を捨てる」のは、「友の罪を贖い、友を新しく生かす力を持つものとして、捧げ物を置く所に置く」と言うことです。「献血」は他の人を生かすために、自分の血を捨てることだ、と言えます。他人の献血で生かされた人は、他人のために献血するでしょう。

イエスは、そのようにあなたがたは友のために命を捨てなさい、互いに愛し合いなさい、と言っているのです。これは、主イエスに愛され生かされているからです。人間は皆罪人です。キリストに愛され、罪贖われて生かされていることを知る者だけが、お互いに赦し合い、愛し合えるのです。15節に「もはや私はあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからです」とあります。僕は奴隷で、奴隷は主人の思いも計画も知らないで、命じられた目の前のことだけを行うのです。その働きも、今生きていることも、「どうして」という意味は何も考えないのです。そして主人の気に入るように出来なければ罰を受けるのです。イエスによって生かされる前の人間はそういう状態だったのです。

申命記が述べているように、神は神の民を愛し、選んで、神の栄光を現す民、祝福の民とされたのです。自分たちが「どうして」存在し、歩んでいるかを知らされたのです。ところが、この民は神の愛に導かれた歩みをしないで、自分の思いと力で歩んだのです。

神は、イエスによって新しく神の御心を人間に示してくださったのです。16節で「あなたがたが私を選んだのではない。私が選んだのだ」、と強く言っています。とるに足らぬ者を神が一方的に選んで、生かしてくださっているのです。選びは使命を与えることでもあります。その使命は「出て行って実を結び、実が残るようにする」ことです。この実は、イエスの愛の実です。イエスによって父なる神の愛を知った者は、神の愛を示す者として生きるのです。この使命は、イエスが私たちを愛し選えらんで、与えて下さったので、イエスが責任をもって果させてくださり、やがてこの世が神の愛を知るようになるのです。

2007年4月29日

説教題:手足を示す復活の主

聖書:ルカによる福音書 24章36-43節

【説教】

十字架に架けられたイエスが復活した、このことは私たちの理解力を超えた出来事です。神の子が肉の人間になり、人間の罪をご自分のものとして十字架に死なれ、復活されたのです。この復活は、私たち人間を新しく生かし、世界と歴史を新しくする出来事なのです。

36節の「こういうことを話していると」というのは、34、35節の復活したイエスに会い、イエスだと分かった話です。その話をしている弟子たちの中に、突然復活のイエスが立たれ、「あなた方に平和があるように」と言われました。それで「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」のです。復活のイエスは、十字架のイエスとは違う実態であり、姿でありました。ですから弟子たちにはエマオへの道を一緒に歩んだのに分からなかった。しかし、十字架のイエスと一つでもある。弟子たちがその話をしていたところにイエスがまた現れたのです。イエスは「なぜ、うろたえるのか、どうして心に疑いを起こすのか。私の手や足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい」と言われました。「疑いを起こす」という言葉は、考えを進める、計算を伸ばす、という言葉です。その考えや計算を伸ばしていくと、自分が経験で考え計算して理解できる現実とあまりにも違う姿になる、それで不安になりうろたえるのです。弟子たちは、イエスは死んだ、生き返るはずがない、と思っている。そこに復活のイエスが現れた。弟子たちは、思ってもいなかったことがそこに起こったので、驚き、次に何が起こるのかと怖くなったのです。

そこでどちらを採るか、自分の経験や理解力か、今復活のイエスが示している現実か。

復活のイエスは、「私の手や足を見なさい。まさしく私なのだ」と言われ、私が復活してここにいるこの現実を確かなこととしなさい、と言っているのです。このイエスの言葉は、今見て、触って確認して確かだと知って、認めなさい、と言っているのではありません。ご自分の手と足を示されて、肉の人間となって十字架に死んだ神の子が復活したのだ、人間の考えや計算に合わないけれど確かに起こったのだ、自分の経験や理解力を捨てて、私の言葉、私が示していることを信じなさい、と言っているのです。

パウロは「十字架の言葉は、救われる私たちには神の力です」と言っています(コリント一2:18)。ギリシャ人に代表される人間の知恵では愚かなものと思われても、神の力、神の知恵である十字架の言葉を宣べ伝える。十字架と復活の神の言葉をどうしたら理解できるか、信じられるか。それは、神を信じて、聖書を読み、世界と歴史を見ることです。

信仰を持つことを、「コペルニクス的転回」と言うことがあります。自分を中心に物事を考え、自分の立場は動かさないで周囲が移り変わる、という天動説から、天のある点を中心にして自分の足場も自分がいる世界も動き移り変わる、という地動説に変ることに擬えて言うのです。コペルニクスは天文学者でありますが牧師でもあります。神にあって自分と世界を見ることによって、自分中心人間中心でなく、神にある人間の命、世界と歴史の動きが理解でき、神による現実が見えるようになるのです。復活のイエスが見えるのです。

2007年4月22日

説教題:父は御国を下さる

聖書:ルカによる福音書 12章30-34節

【説教】

今日の説教題は薬円台教会の2007年の年度主題、12章32節は主題聖句です。

この聖句は22節によると、主イエスが弟子たちに、何を求めて生きるかを語られた中にあります。22節の「何を食べようか、何を着ようか、と思い悩むな」と言う悩みは、レストランでどの料理を選ぶか悩む、デパートでどの服にするか悩む、という悩みではありません。生きるために何か食べる物があるか、体を守るために何か着る物があるか、という悩みです。この言葉は、食べ物、着る物を本当に必要とし求めないではいられない人に語られた言葉です。それがなくては生きていけないという状況にある人に、思い悩むな、と言っているのです。イエスは弟子たちに言っているのです。

30節で「それらはみな世の異邦人が切に求めているものだ」と言っています。地上に生きている世の人はみなこれらのものを切に求めているのです。それなのに、同じ状況にいるイエスの弟子たちは、なぜ求めなくてよいのでしょう。弟子はこれらを必要としないのでしょうか。そんなことはない、弟子たちも必要としています。唯、求め方が違うのです。

「あなた方の父はこれらのものがあなた方に必要であることをご存知である」、だから「ただ神の国を求めなさい。そうすればこれらのものは加えて与えられる」のです。「神の国を求める」、これがイエスの弟子たちが第一に求めるものです。

「神の国」は神がご支配している国です。悪や罪、自分や人間が支配している国ではありません。私たちは主の祈りで、「御国を来らせたまえ」と祈り、続いて「御心の天になるごとく、地にもならせたまえ」と祈ります。御国は、神の御心が支配し行われる所で、地上にはないのです。地上では罪や人間が力を持っているのです。御国を来らすことは、神のなさることです。そして神の子イエスと共に、その地上に神の国が来ました。しかし、イエスによる神のご支配はこの世には隠されています。御国は、歴史が完成される時に、将来はっきり現れる国です。だから神の約束と実現を信じ望み見て、神に祈るのです。

32節に「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国を下さる」とあります。イエスの弟子は、自分の知恵や力に頼らない、人間の声に従うのでもない、神の声に聞き従って歩む。そのためこの世では小さな群れです。この世の大きく強いものに圧倒され、迫害され怯える状態にいます。しかし主が小さな群れの羊飼いとなって下さっているのです。また「あなた方の父は喜んで御国を下さる」との約束を信じて生きるのです。

「主の祈り」は、「御国を来らせたまえ」の前に「御名を崇めさせ給え」と祈っています。御名を崇めることは、神のご臨在とご支配を見、神を神とすることです。御国は神が与えてくださる賜物ですが、私たちは傍観者でいるのではありません。私たちは、イエスを主と信じる生活によって、御国の先駆けが既にここに来ていることを示すのです。

この年私たちは、礼拝を中心に御名を崇めつつ、御国を待つ歩みをしたいと思います。神はこの私たちに必要なものを与え、その歩みを守り導いて下さいます。

2007年4月15日

説教題:復活したイエスを知る

聖書:ルカによる福音書 24章13-35節

【説教】

今日の聖書は、13-27と28-35に分けて話がされ、絵画が沢山描かれています。

13-27は「エマオへの道」「エマオに向う弟子たち」等の題がつけられています。ルオーが、明るい夕陽に向って黒い影を後ろにつけて三人が歩んで行く絵を描いています。別の人は、三人を正面から、中央に背を伸ばし顔を上げ先を見て歩んでいる若者がいて、両側に肩を落とし首うなだれてしょんぼり歩んでいる人を描いています。28-35は「エマオの食卓」「エマオのキリスト」等の題がつけられ、その絵は、キリストを中心にした食卓が明るく、その食卓に集っている人の顔も明るい。また別の絵はキリストを見て驚いた顔と姿を描いています。またほっとした平安な顔や姿を書いている絵もあります。

多くの人がこの記事に魅力と、身近さを感じているのではないでしょうか。この記事は二人のイエスの弟子が暗い顔をして歩んでいる所から始まっています。二人の弟子の一人はクレオパですが、もう一人の名前は記されていません。ルカも教会もその名前や人物には関心がないようです。ルカは、二人がイエスの弟子なのに復活のイエスに気づかなかった、十字架と復活の恵みが理解できなかった、そのことに関心があったのです。

二人は、イエスが話していた十字架と復活のこと、イエスが神の子でメシアであることは聞いていたのです。二人は「この一切の出来事について話し合って」いたのです。しかし、二人が自分の経験や知識で話し合っても、主イエスが何者で、十字架死んだ意味が分からないまま堂堂巡りの話をしていたのです。その二人に復活のイエスご自身が近づいて来て一緒に歩いたのです。二人の弟子がイエスと気づかなかったのは、二人の知識や努力が不足していたからではない、二人は「あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけて」いたのです。「解放をする力のある預言者だ、と信じていたのです」。それなのに十字架で殺されたので暗い顔をして力なく歩いていたのです。婦人たちが墓に行って、墓にイエスの遺体がなく、天使が「イエスは生きておられる」と告げたことを聞いても、唯の驚くべきことでしかなかったのです。人間的この世的な思いに支配されていたのです。

ルカはこのところを、この50年後に教会の信仰に立って、力を入れて書いたのではないでしょうか。復活の主ご自身が近づいて来て一緒に歩いたのだよ、「しかし、二人の目は遮られていてイエスだとは分からなかった」。神が上から働いてくださらなければ、どんなに長い間イエスと親しい交わりをしていても、イエスと一緒に歩んでいても、十字架に死んで復活したイエスが分からないのです。イエスは「ああ、物分りが悪い者たち」と言いました。これは二人を責めているのではありません。「なんて分からないのだ。分かってくれ」と愛する子に親が言う言葉です。愛と必ず分かるという熱意と信頼をもっての言葉です。復活の主は、聖書全体に亘り、ご自分について書かれていることを説明されました。主ご自身が聖書を説明されたのです。そして、食卓でイエスがパンを取り賛美の祈りを唱えている時、二人の目が開けてイエスだと分かったのです。これは今も起こっていることです。

2007年4月8日

説教題:あのかたは復活なさった

聖書:イザヤ書 43章1-7節 ルカによる福音書 24章1-12節

【説教】

今日はイースター、十字架に死なれたイエスが復活された記念の日です。十字架に死なれたイエスが復活された、このことが今日の日を意味ある日にしているのです。たとえ普通の人間が死んで生きかえったとしても、全ての人を救う神の力にはなりません。

この日の朝、婦人たちは墓に葬られたイエスの遺体に塗ろうと思って、香料を用意して墓に行き、墓に入りました。ところが、そこに置かれてあるはずのイエスの遺体がないのです。こんなはずはない、と途方にくれてしまいました。すると輝く衣を着た二人の人が現れ「なぜ、生きておられるお方を死者の中に探すのか。あのお方はここにはおられない。復活なさったのだ」と言ったのです。「生きた方」「あのお方」と言われていることが、復活を記念し祝うのに重要なことです。十字架に死んだイエスが、生きておられる方なのです。そのお方が、遺体となってそこにおかれているのではなく、復活されたのです。そのことが私にたちに神の力を示しているのです。単なる不思議なこと、ありえないことが起こったのではないのです。神の子イエスにとっては起こるべきことが起こったのです。

輝く衣の人は続けて言いました「ガリラヤにおられるころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する、といわれたではないか」と。この主イエスがガリラヤにいた時に言った、十字架と復活が起こったのです。十字架と復活は、神がイエスに用意された、一つに結びついたものです。

ルカ23:46でイエスは「父よ、私の霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取られました。イエスは父なる神から託された使命を果たし終えて、父の御手に委ねたのです。イエスは神の手の中で生き、息を引き取ったので、その歩みも死も決して空しくはならない、消え去ってはいないのです。十字架と復活は神によってなされたことです。私たちは神の出来事として、信仰をもって受け止め、信じるべきことなのです。肉の目で確認したり、頭で理解することとは違うのです。神の命が、人間の命を生かす出来事なのです。

コリントⅠ1:18は「十字架の言葉は、滅んでいく者には愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」と言っています。「復活が神の力」とは言っていないのです。十字架だけが独立してあるのではなく、十字架と復活が結びついているのです。「十字架が神の力」と言っている「力」はダイナマイトを意味する言葉です。潜在化している力です。その力が復活で顕在化したのです。顕在化した力はエネルギーです。潜在化している力が顕在化して、活動し、効果を現したのです。十字架の死、犠牲が真実なものとして父なる神に受け入れられたので、イエスは命を与えられたのです。

イエスの十字架の死が私たちを救う神の力です。神の愛、義、赦し恵みの力が、十字架で潜在化しているのです。しかし十字架だけで終わったら敗北です。復活によって顕在化し、死に勝利したのです。イエスの十字架による神の義と愛の力が、復活によって顕在化してこの歴史の中に示されたのです。そのことを今日は記念し、喜び祝うのです。

2007年4月1日

説教題:御子の十字架の死

聖書:イザヤ書 56章1-8節 ルカによる福音書 23章44-49節

【説教】

今週は、教会の暦では主イエスがエルサレムに入城され、十字架に架けられた週です。イエスの歩みが完結された週です。ルカ23:46の言葉は、主イエスが十字架で息を引き取られる時に叫ばれた言葉です。イエスの歩みの全てがこの言葉に凝縮されています。

マタイとマルコが「わが神、なぜ私をお見捨てになるのですか」と神に捨てられた罪人の罪を負っている主イエスの姿を示しているのに対して、ルカのこの言葉は、34節の「父よ、彼らをお赦しください」と執り成しの祈りをしているのと合わせて、罪人を神の許に導き入れる神の子イエスの姿を強く示しています。そして、43節で「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と告げています。イエスは十字架上で、暗い闇の世界に行くのではなく、神の国の楽園に行く思いをもたれているのです。

その思いの中でイエスは、46節「父よ、私の霊を御手にゆだねます」と大声で叫ばれたのです。この言葉は、子として父である神を信頼していると共に、子として父から託された使命を全て果たし終えたとの確信をもって、父なる神に語りかけている言葉です。それは父と子の信頼と愛、お互いに応え合う誠実な交わりの中の言葉です。主イエスは十字架の死の向こうに、神の国楽園を見ているのです。そして、愛する父なる神が喜んで自分を迎えてくださる、との信頼と確信を持っているのです。このイエスは、神の子ですが人間です。このイエスがこの叫びで神の許に行くということは、イエスの愛の中に身をおく人間もイエスと一緒に、イエスに従って、神の許に行くことが出来るということです。

この46節の言葉は、詩編31:6の引用で、詩編31は夕べの祈りに唱えられる詩編でもあります。夜の眠りは孤独で暗黒の中に入って行くのです。その眠りが平安であるのには、一日のなすべきことをなし終えて、自分と歴史を支配される神に自分の身を委ねるときです。人間は、眠りと死を重ねて思ってきています。平安と救いを得て眠る、そして死を迎える。このイエスの言葉はその平安と救いを私たちに与えてくださるのです。

イザヤ書56:1-8には、今まで神との交わりが絶たれていた異邦人や宦官も神の許に集うことが出来るようになった恵みが語られています。この恵みが今イエスの十字架によって、この歴史の中に現実に、与えられたのです。イエスは全ての人を神との交わりに入れる使命を果たされたのです。私たちも罪によって神との交わりが絶たれていたのですが、イエスによって神の国に入ることが出来るようになったのです。

イエスを主と信じることによって、私たちも神に「父よ、私の霊を御手にゆだねます」と言っていいのです。そのように夜毎に祈って一日の終わりの眠りに就きたいと思います。また神様、私はイエスにあって歩みました、後は御手に委ねます、と人生の終わりの時を迎えたいと思います。そのように、私たちが主にあって心と生活の全てを委ねる時、神は喜んで私たちの全てをご自分の手に受け入れてくださるのです。イエスの十字架の死はそのような恵みと平安の歩みを与えてくださったのです。