2012年9月30日
説教題:罪を赦す神の愛
聖書:イザヤ書 44章21-22節 マタイによる福音書 9章1-8節
【説教】
先週の特別伝道礼拝で平野克己先生も語られましたが、この世は新聞やテレビもどこを見ても暗い話題ならあります。狭い世界だけで生きていたら望みがなくなります。
聖書に中風の人が登場しています。病はその人を暗くさせ、周囲の人も暗くさせます。イエスのところに中風の人が連れて来られました。イエスから光と命をいただきたいと、狭い自分の家を出て中風の人を連れて来たのです。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は許された』と言いました」。
マタイは簡潔に記されていますが、マルコとルカはこのところを非常に丁寧に記しています。しかしマタイには、イエスが「その信仰を見た」それが大事だったのです。そこに他の人がいたか、その家の造りがどうであるか、は関心がなかったのです。イエスが見た信仰は、中風の人に元気が与えられたい、罪を赦していただきたい、イエスはそれをしてくださる、イエスは神の力を持ち愛と憐みのお方だ、という信仰だと思います。
イエスが見た「その人たちの信仰」の「その人たち」は、先ず中風の人、それに彼を床のまま連れてきた人たちです。この中風の人は床を担いで家に帰れるだけの成人です。本人の意思を無視して連れてくることはできません。本人が家から出てイエスのところに行きたいと強い信仰を周囲の人に伝え、その信仰に仲間の者たちが動かされて運んだのです。
「子よ、元気を出しなさい、あなたの罪は許される」とイエスが言われました。この時まで、中風の人は元気がなかったのです。暗い闇の中にいたのです。病気のために元気がなかった、と言えるでしょう。しかし、病気であっても活き活きと生きている人はいるのです。元気を失うのは自分の居場所がないからです。自分はいても喜ばれない、何の役にも立っていない、と思うと元気を失うのです。病人は自分自身をそのように見て、元気を失うのです。「元気を出しなさい。あなたの罪は許される」は一つの言葉なのです。
「あなたの罪は許される」の「罪」は失敗、的外れです。自分が神の御心にはずれていると思うと元気がなくなります。罪が許され、神から認められ受け入れられることで、元気を与えられるのです。神によって生かされている私たちは神から罪赦されることが必要です。神から認められ、自分の居場所を得たら元気になれるのです。
罪を赦すことは神にしかできません。イエスが「罪を赦す」と言ったのを聞いて、「律法学者の中には『この男は神を冒涜している』と思う者がいた」のです。その中には、この男イエスは病を癒して元気にする力がないのに、罪を赦すと神の権威を使って人を欺いている、と思う人がいたのです。それでイエスは、実際に罪を赦して元気にすることができることを示すように、中風の人に「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言いました。その言葉を聞くと、その人は起き上がって家に帰ったのです。
群衆はそこに神の働きを素直に見て喜び、神を賛美しました。教会は、元気なく生きている人に、イエスによる神の赦しを宣言し、元気に生きる力を与えているのです。
2012年9月16日
説教題:神のご計画と教会
聖書:出エジプト記 19章1-8節 エフェソの信徒への手紙 1章15-23節
【説教】
今日は薬円台教会39周年の創立記念日です。教会創立記念の時に教会が行うべきことは、この教会なら39年前に宮崎創先生を中心に具体的にこの教会の歩み出しがされ、今日まで歩んできたことを覚えることと、教会とは何か、どうして歴史の中に、人間の世界に教会が存在しているのかを考えることです。
教会はキリストの体で、頭はキリストです。エフェソ1:20-23で、キリストに神の力が働いて、今キリストは神の右に居まし、教会の頭となってすべてのものを満たしています、と言っています。「満たしている」の反対は「空っぽ」「空虚」です。満たしているということは、内実があり、意味があるということです。この世のすべては、私たちの存在も働きも全てキリストによって満たされているのです。キリストが頭となっている教会に結びついていることによって私たちは、造り主である神の御心御業に結びついて、意味ある者とされているのです。
出エジプトで神は、神が選んだイスラエルの民は、神の宝であり、祭司の王国、聖なる国民だ、神の選びと導きを喜び誇りとして歩むように、と言っています。イスラエルの歩みに倣い従って、他の民も、神の民のなることを神は期待して言っていたのです。しかしイスラエルも肉の罪人の民でした。それで、御子イエス・キリストによって罪贖われることによって、キリストの体である教会が誕生し、神のご計画は新しい進展をしたのです。新しく神によって選ばれ、教会に結び付けられた者が、新しい神の民で、キリスト者なのです。新しく選ばれ、神の民にされていることは素晴らしいことです。
何が素晴らしいのでしょうか。頭であるキリストによって、神に結びついている者であることです。それによって、私たちは神にあって、意味のある者、価値のある者となっているのです。私たちの存在も働きも空しいものではない、内実のあるものなのです。それは、私たちの存在や働きがよってではありません。キリストによって満ちるものにされるのです。キリストによって教会全体が満たされるのです。教会に連なる全てのものが隅々まで満たされるのです。そして教会は世界のすべてを満たし、意味あるものにするのです。
この手紙の著者は15-19で、神が与える知恵と霊によって神の御心と御業が確かに進められていることを知り、あなた方に与えられている希望がどんなものか、キリストによって受け継いでいる栄光がどんなの栄光に輝いているかを悟るように、祈っていると言っています。あなた方の教会がキリストの体であることを明確に自覚しているように、と願っているこの祈りは、すべての教会に対しての祈りで、薬円台教会に対する祈りでもあります。代々のすべての教会が、同じキリストの体として歩んでいるのです。
私たちも創立記念のこの時、ご計画によって立てられたこの教会が、キリストの体であり、すべてのものを満たしているところであることを喜び感謝したいと思います。そして、キリストによって満たされている者として歩んでいきたいと思います。
2012年9月9日
説教題:悪霊との対決
聖書:サムエル記上 16章14-23節 マタイによる福音書 8章28-34節
【説教】
聖書の悪霊は、神に逆らい敵対する霊で、昔の人が考えた架空の存在ではなく、被造物が存在するところには存在している、現代でも存在しているのです。
サムエル記には、神の霊がサウルから離れると神から悪霊が来てサウルを苦しめた、とあります。サウルは、悪霊が活動していない時には正常な人間したが、悪霊が入ると正常な人間が変わったのです。悪霊が支配すると神に不平不満を持ち、周囲の者を妬み、自分中心のなるのです。個人としても、権力者としてもこのようなことが起こるのです。神に立てられ、神に仕える王が神から離れて生きる王に変わったのです。現代でもこのようなことがあるのです。神の霊を宿していないと悪霊が宿ることになってしまうのです。
マタイ福音書は、イエスと悪霊に取りつかれた男との出会いと対決を記しています。この出会いは偶然ではありません。イエスはそこが異邦人の地であることを知っていて「向こう岸に行こう」と舟を出し、悪霊に取りつかれている男と出会ったのです。この地の人は、神の民が汚れた動物として豚を飼い生きる糧にしていました。悪霊に取りつかれた男は、自分たちが唯一の生活の場としている墓から出てきて、「神の子、かまわないでくれ。まだその時でないのに、我々を苦しめないでくれ」とイエスに願いました。
悪霊は神の支配下にあるので、神と対等の存在ではありません。終わりの時には神が悪霊を無力にするのです。その時まで悪霊の存在は許され、神に従う者をふるいにかけ試みる働きをしているのです。悪霊によって男は凶暴に振る舞っていましたが、深いところで自分を失い、闇の中にいて救いを求めているのです。イエスがその男を悪霊から解放して闇の中ではなく光の中に生きる人にしようと思われているのを悪霊は知って、イエスに「まだその時でないのに、私たちを無きものにしようと来たのか」と大声で叫んだのです。
そして悪霊は、イエスと出会い正面から対決したのでは勝ち目がないので「我々を追い出すなら、あの豚の中にやってくれ」と願ったのです。神から汚れた動物とされている豚が自分にふさわしいと思ったのでしょう。イエスは「出ていけ」と言いました。悪霊は願い通りに男から出て豚の中に入りました。そしてその豚の群れは崖を下って湖になだれ込んで死にました。悪霊たちは自滅したのです。そして、悪霊に取りつかれていた男は、自分を取り戻し、神の光の中に正常な人間として生きるようになったのです。
この時、豚を飼っていた人たちが町に出て行って、悪霊に取りつかれていた男のことと豚のことなどを話して知らせました。町の人は、男が正常になったということよりも、自分のこと、自分たちの豚が死んでしまったということに最大の関心を持ったのでしょう、イエスを見ると「その地方から出て行ってもらいたい」と言いました。これが神の民でない人々の世界です。一人の人間がどう生きるか、人間が悪霊から解放されて正常に生かされるかよりも、自分の損得に関心を持ち、価値判断もそちらにおいているのです。
しかし、私たちはイエスキリストを心に宿している、悪霊に勝利している者なのです。
2012年9月2日
説教題:嵐の中で
聖書:マタイによる福音書 8章23-27節
今日の聖書に記されている、この船は、教会を意味している、と理解されてきています。
船に先ずイエスが乗って、弟子たちが従いました。マルコとルカの同じ記事の所を見ますと、イエスが「向こう岸に渡ろう」と言って船が漕ぎ出されています。主イエスが中心にいる船で、イエスが指し示す地に向って進んで行く船です。それが教会です。
この時弟子たちの中には、漁師だった者もいました。この船は嵐に遭います。マルコとルカは「突風」と記しています。この湖ではこの季節のこのような時に突風が起こることがあると彼らは知っていたと思われます。しかし彼らは、そのことを主張してイエスに従うことを辞めるのではなく、突風が起こる可能性はあるけれど自分の考えよりも、イエスを信じてイエスに従ったのです。この船はイエスによって皆が一つになっているのです。
主イエスが乗っている船は平穏な航海が約束されているのではありません。主イエスは平穏な道を歩まれたのではなく、神から与えられた十字架の道を歩まれたのです。イエスは弟子たちを平穏無事な歩みに導いてはいません。イエスが向かう所はどこにもイエスに逆らう力が臨んできたのです。宣教のために進んでいるこの船が嵐に遭いました。
漁師であった弟子は突風に遭うかもしれないという思いを持っていたでしょう。彼らを含め弟子たちは皆、自分の経験と力で起こっていることに対して出来るだけのことをしました。しかし嵐は激しく船が波に呑まれそうになりました。その時イエスは眠っていました。小さい船で、中心の存在であったイエスが眠っていることは弟子たち皆が知っていました。しかし、イエスは疲れているので十分に休ませてあげよう、と起こしませんでした。
イエスは、疲れのため船に乗るとぐっすり眠ったのです、肉の人間です。イエスは疲れと共に、神を信じ、弟子たちを信頼して、船に乗っている間は安心していてよいと気を安らかにして嵐の中でも眠っていたのです。イエスはそのように神と弟子たちを信頼しているのです。そして「ここには私と一緒に平安があるよ」、と弟子たちに語っているのです。
しかし弟子たちは、船が波に呑まれそうになり自分たちの無力さを知って、「主よ、助けてください。溺れそうです」と言ってイエスを起こしました。この弟子たちの呼びかけはイエスを信じての祈りです。ここでイエスを信じている内容は、イエスが自分たちの問題を共有してくれる、それで自分たちは平安を得ることができる、というものでした。
ところがイエスは、起きると「なぜ怖がるのか。信仰の薄いものよ」と言って、風と湖を叱りました。すると凪になったのです。弟子たちはイエスを見直し「いったいこの方はどういう方なのだろう。風や湖も従う」と互いに言いました。イエスは、唯共にいて平安を与えて下さる救い主ではありません、私たちが生きている世界と歴史を治めている神と共に働いて、私たちの歩みと働きを、神の御心にそう意味あるものにしてくださる方です。
教会は歴史の中で激しい嵐に遭いますが、イエスが中心にいますので決して沈みません。そして教会員は、嵐に遭う度に、イエスを新しく知らされ、強く育てられていくのです。
2012年8月26日
説教題:主に従う歩み
聖書:マタイによる福音書 8章18-22節
先週夏期休暇をいただいたので、八ヶ岳に行って山小屋に2泊しました。一緒に泊まった人は殆ど高齢者で、仕事を辞めて時間ができたので登山を始めた人、医者から勧められたので知的障がい者を毎週末に山に連れて行っている、それで夫婦でアルプス登山などをしている、という人たちがいました。その人たちの顔は明るいです。知的障がい者が喜んでいる顔を見ると私たちも嬉しくなる、「高齢者だ、病人だ」と家にいるよりも、苦しく辛いけれども目標を持って山登りをしている方がいい、と言っていました。
今日の:18,19に「イエスは弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。その時ある律法学者が近づいてきて『先生、あなたがおいでになる所なら、どこでも従って参ります』と言った」とあります。ここでイエスを取り囲んでいる群衆は、イエスが多くの病人を癒すのを身近に見ていた人たちです。イザヤの言葉が聞かれ、イエスを救い主と見ている所です。向こう岸は別の地です。ルカはこの記事をイエスが「エルサレムに向かう決意を固められた」時と記しています(ルカ9:51)。いずれにしろイエスは、異邦人や自分に逆らう者たちと戦うという決意で、「向こう岸に行こう」と言っているのです。そのイエスを見、イエスの言葉を聞いて律法学者は、イエスに「どこにでも従って参ります」と申し出たのです。彼はまだ弟子になっていません。しかし、律法学者として平穏無事な歩みをするよりも、イエスに従う歩みに意味があり価値がある、と思ったのでしょう。イエスに従って生きる決断をして申し出たのです。
この申し出を聞くとイエスは「狐には穴があり、鳥には巣がある、だが人の子には枕する所がない」と言いました。イエスは、イエスに従うことの厳しさを言い、覚悟と決断を求めたのです。イエスに従うことは弟子になるのと同じで、責任を持って歩むことが求められます。イエスに倣い積極的に聞き従うことで、意味あり実りある歩みになるのです。
この時すでに弟子になっている一人が「主よ、まず父を葬りに行かせてください」と言いました。この『父』がすでに死んでいたのか、死が迫っている状態なのか分かりませんが、イエスが「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言っていることは、肉体的には葬ることができる人を死んだ者と言っているのです。神にあって生きている者は、神から離れて生きている者とは違う。だから、親を葬ることは子どもとして大事な務めで義務であるが、今は父をその仲間に任せて、あなたは私に従いなさい、とイエスはこの弟子に命じました。弟子として従うことはイエスと同じ道を歩むことなのです。
主イエスに従うのは、幼子のようについていくのではなく、また権威や強制によって自分の意志に反して従わされるのでもなく、自分の意志と決断で責任を持って聞き従うことです。その時、たとえどんなに厳しい道を歩むことになっても、与えられたその道を最後まで歩みぬくのです。そこに弟子の喜びがあり、生き甲斐があるのです。
私たちは主からの「従いなさい」の声を聞いて決断して従っているのです。また弟子となってもこの世の誘惑に遭います。その時「私に従え」の声を新しく聞いて従うのです。
20012年8月19日
説教題:イエスによる癒し
聖書:列王記下 5章1-14節 マタイによる福音書 8章1-4節
マタイ8:1-17に三つのイエスによる癒しが記されていますが、これらの癒しは、ただ病が癒されたというだけでなく、交わりを失っていた者が神との交わりを与えられ、人間として生きる者にされた、救いの業である、と記しているのです。17節にイザヤ書を引用して、イエスが病人を癒したのは約束されている救い主であるからだ、と言っています。
人間は交わりの中で真に生きるのです。病気は、唯肉体の一部の変調だけでなく「私は健康ではない。病人で他の人とは違う」という思いから心を弱くさせ、生きる力を消極的にさせます。いじめられている子の多くが、仲間の交わりを失いたくないので耐えている、と言っています。神によって与えられている仲間との交わりで人は真に生きるのです。
重い皮膚病の人は、レビ記に記されていますが、仲間の民から離れて生活し「私は汚れた者です」と言って歩まなければならなかったのです。内臓などが健康でも、明るい心で生きることはできなかったでしょう。列王記に登場しているナアマンはアラムの軍司令官ですが重い皮膚病になりました。重い皮膚病になったことを嘆く言葉はなく、軍司令官の立場にいましたが、病で疎外感が強くあったでしょう。病は治った方が良いので、アラムの王からイスラエルの王に手紙を書いてもらって、イスラエルに行き、病気を治してもらいました。それでナアマンは、イスラエルの神こそ真の神であることを知り、信じて、今後イスラエルの神を礼拝して生きる、そこに真の命がある、と告白しています。
マタイ8:1-4の重い皮膚病の人がどうしてこの病になったのか分かりません。病になった理由は他の病人の場合も記されていません。この人は、今汚れた者とされているのは辛いけれどもこの病を神からと受け入れ、神の御心が自分にも働いていると信じているのです。それで、イエスのことを聞いたので、イエスのところに行ってひれ伏し「主よ、御心ならば私を清くすることができます」と言いました。この人は精一杯自分の思いをイエスに伝え、後は主の御心です、と全てを委ねたのです。これが信仰であり、祈りです。
主イエスは、近づくことも禁じられていた重い皮膚病の者に手を差し伸べ触れたのです。主は疎外されていた者と一つになったのです。そして「清くなれ」と言われました。このイエスの御心と行動によってこの人は清くなりました。清くされて神と人々との交わりを得たので、主イエスは「誰にも話さないように。ただ行って祭司に体を見せなさい」と言いました。祭司に清くなっていることを証明してもらって真の交わりを得られるのです。
ところが、マタイはこの人のその後については記さず、マルコは「彼はそこを立ち去ると大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」と記しています。彼は清くされることを願い、イエスによって清くされると、イエスの言葉から離れて、自分の心の赴くままに行動したのです。どんなに喜びが大きく、感謝と善意であっても、これは問題です。
マタイは、清くされた人の不従順については何も記していませんが、17節で、イエスは病人の病を担う約束された救い主である、とイザヤ書を引用して語っています。
2012年8月12日
説教題:どこに家を建てるか
聖書:マタイによる福音書 7章24-29節
家は、生活するところ、人生をつくり、送るところです。自分の家をどこに建てようかと思う時、先ず考慮するのは交通や生活の利便性、次はその土地の安全性でしょうか。土地が安全でなく家が倒れ流されたら、生活は失われ、それまで積み重ねてきたもの、蓄えてきたものが全て無になってしまい、人生も変わります。
主イエスは、私たちの人生は神にあってよい実を結ぶことが大事だ、天の国に入る歩みでなくては意味がない、と言った後で、「そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に家を建てた賢い人に似ている」と言っています。
5章から7章で語られているイエスの言葉を聞いて、その上に自分の家を建てて生活し、人生の歩みをして行く者を賢い人と言っているのです。なぜなら、雨風の災害が襲っても岩を土台としているので、その家は倒れたり流されたりしないからです。それで、今までの労苦や蓄えが失われず、築いてきた生活や人生がむなしくならないで意味あり価値あるものとして残り、その家で生活を築き続けることができるのです。
「私の言葉を聞くだけで、行わない者は、愚かな人に似ている」、と主イエスは言っています。その人はイエスの言葉を聞いたのですが、自分の考えやイエスとは別の考えによって日々の振る舞いをし、人生の歩みをしていたのです。災害などをも軽く考え、災害に遭っても修理して生活を続けることができると思っていたのでしょう。ところが、その家が倒れ流されることが起こったのです。
賢い人と愚かな人との違いはどこからきているか。主イエスは明確に言っています。主イエスの言葉を地盤とし土台としてその上に自分の家を建てて生活し人生を築いているか、別のものを地盤とし土台としてその上に自分の家を建てているかの違いだ、と。これは、主の言葉をどう聞くか、またその言葉にどう応えるか、の違いです。
28,29節に、この時イエスは、学者や教師のようにではなく、聞き従わなくてはいけない権威ある者として教えた、それで群衆は驚いた、とあります。このイエスに神の権威を認めて、謙遜になってその言葉を受け入れて聞き従う人が賢い人なのです。自分中心に見えるものや知識で判断せず、神の権威を以て語られた言葉を地盤にして、その地盤に結びついて家を建て、イエスの言葉に聞き従って歩んでいる人です。それに対して愚かな人は、イエスの言葉を聞いても謙遜にならず、自分中心の判断と考えで家を建てているのです。
神の思いと人の思いは異なるのです。この世では、人間には想定外のことが神のご計画で起こるのです。神の民が捕囚の民になったのです。神は民が神に立ち帰る謙遜で忠実な民になることを望んでなされたのです。十字架による救いは人間の思いと異なるのです。
十字架の主の言葉を謙遜に聞いて歩む時、私たちは確かな家を建てて、良い実を結ぶ歩みをする者になるのです。主の言葉に結びついた振る舞いをし、生活をし、人生を築いて行く時、その振る舞いも生活も人生もむなしくはならないのです。
2012年8月5日
説教題:主が与えてくださる平和
聖書:イザヤ書 11章1-10節 ヨハネによる福音書 14章25-35節
今日は日本基督教団が「平和聖日」としている日です。1962年12月(アドヴェント)の常議員会で、60年安保闘争と東西の冷戦が深刻化している中で、先の戦争を覚えクリスマスの平和の主を教会が語ろう、ということで8月第一日曜を「平和聖日」に定めたのです。
人間は悲惨な体験をしているのにどうして争いをやめないのでしょうか。自分中心の思いが人間の中にあるからです。この中心が改まらない限り対立、争いはなくならないのです。「みんなの意見を聞いて、よく話し合い、納得を得て決めたら」と言いますが、それでは何も決まりません。野田総理が「決められない政治ではなく、決める政治を」と言っていますが、国会だけではない、国際関係でも、話し合いは自己主張の対立が続くだけです。家庭や国家、世界が平和であるのは,多くの場合、数や力で一時的に治まっているにすぎないのです。一時が過ぎると混乱が起こり、別の力によって治められることになるのです。
ヨハネ14:27で十字架に向かう主イエスは弟子たちに「私は平和をあなた方に残し、私の平和を与える。私はこれを世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」と言っています。主イエスが十字架につけられたら弟子たちは、自分が立っている立場も歩んでいる道も全て間違えていたのではないか、自分たちも十字架にかけられるのではないか、という心騒ぎと怯えを持ち、平和な状態でいられなくなるのではないか、と主イエスは考えたのです。それで29「事が起きた時に、あなたがたが信じるようにと、今その事の起こる前に話しておく」とイエスは話しているのです。
また主イエスは14:15-26で、イエスが去って行った後に聖霊が弟子たちに与えられ、聖霊が弟子たちと一緒にいて、イエスにある平和を与える、と言っています。
主イエスが「残し与える」と言っている「平和」は、ただ争いがないというのではなく、弟子たちの心の深いところに残し与える平安です。真の平和は、外から力や政治やお金などで与えられるものではありません。人間の自分中心の心、この世の罪の力、そのような平和の障害となるものを、十字架によって無力にし、神のご支配のもとに生きるものとする聖霊を心の中に与えることによって、可能になるのです。主イエスが十字架と復活と昇天によって与える聖霊を、世界の人々が心に宿し育てることによってだけ、真の平和が世界に生まれるのです。政治や経済や科学技術などは、人間の生活を豊かで素晴らしいものにしていますが、それによって真の平和を作り出すことはできません。
イザヤは11章で神による真の平和を語っていますが、これは夢物語ではありません。神にあって相手を理解しているからでしょう、インドの少女が毒蛇と戯れ、ロシアの青年が猛獣と共に伏しているのをテレビで見ました。
真の平和は私たちの自分中心の思い、争いの心が十字架によって取り去られ、聖霊をその心に宿すことによってだけ可能なのです。イエスを信じることによって一人一に聖霊が与えられるとき、私たち自身に平和が与えられ、人々との間に真の平和があるのです。
2012年7月29日
説教題:救いの実を結ぶ木
聖書:エレミヤ書 7章1-11節 マタイによる福音書 7章15-23節
オリンピックの選手に選ばれた人たちは、代表選手に選ばれた後では存在も目標も生き方も変わった、選ばれた者として自己管理し、悔いのない競技をしたい、と述べています。
私たちも、救いを与えられて神の民とされ神の愛と恵みに生かされるようになった今は、生き方も生きる目標も、罪びとであった時とは変わったのです。救いを得るまでは、罪びとで救いを必要としている自分、そして無力な自分を、神や人々からの裁きの目で、ダメな自分と見ていました。それが十字架によって罪贖われた後は、神の愛に生かされている自分を感謝と喜びで見るようになったのです。しかし、深く自分を見ると、私たちは自分を見ている目が変わっていないことを思わされます。それは「自分は正しい」という立場で、自分がダメなのではない、と見る高慢さです。神の前に謙遜になっていないのです。
罪に支配されていた者が、神の恵みをいただいて神の民として生きるようになった、それがイスラエルの民です。イスラエルの民は、自分たちは神によって存在していると自覚していたので、神殿礼拝を大事にしていました。エレミヤ7章でエレミヤは、民と指導者が礼拝のために神殿に来たのに対して、「お前たちはこの神殿で神に礼拝し、神の言葉を聞いて正しい歩みをする、と誓っているが偽りの誓いをしている。神殿を自分たちの思いをかなえる強盗の巣にしている」と言っています。このような偽りの指導者はどこにでもいます。教会の中にもいます。この指導者たちがマタイ7:15にある「偽預言者」です。
この偽預言者も礼拝をし、神との交わりをしているので、外から見た目では真の預言者と区別ができません。しかし心は神に向いていないで自分に向いていて、民を自分のものにしようとしているのです。イエスは、彼らは羊の皮をまとっているが内側は狼である、と言っています。自分に託されている羊を、神のもの、イエスの民としないのです。仕える者になっていないのです。それでイエスは、真の預言者か偽預言者かその実で見分けなさい、と言っています。実とはなんでしょうか。時が来たらその木が自ずと結ぶものです。
その実がなんであるか、ここには語られていません。ただ実と木が一つであることが強調されています。どの木の実か分かるのは専門家が調べて分かることです。悪い木は周囲の木に悪い影響を与えるので、皆切り倒されて火に投げ込まれるのです。実だけが評価されるのではなく、実と一緒に木が問題とされるのです。私たちは良い木が良い実を結ぶ、そのことだけを知っていればよいのです。
良い実を結ぶ良い木は、イエス・キリストによって生かされている木です。その木が結ぶ実はどんなに小さくても、形が悪くてもイエスにあって良い実であり、イエスの恵みを現す実なのです。それに対して自分中心の木は、新しくイエスに生かされている恵みを排除している木です。イエスは別のところ(ヨハネ15:1-4)で、「実を結ばない者にならないで、実を結ぶ者になりなさい」と言っています。私たちが実を結ぶことができない木であっても、悔い改めるときイエスは私たちを良い木に変えて、実を結ぶ木にして下さるのです。
2012年7月22日
説教題:天の父に求めよう
聖書:イザヤ書 51章1-9節 マタイによる福音書 7章7-14節
「求めなさい。そうすれば与えられる」というマタイ7:7,8の言葉は聖書や教会と関係のないところでも、あきらめないで目標に向かって努力を続けるように、願い求めている相手が誰であっても熱心に願い求めれば与えられる、という意味で語られています。
しかし主イエスはここで、9-11に語られているように、天の父に求めなさいと言っているのです。天の父は、私たちの求めに応えて、ご自分の意志で私たちによいものを与えてくださる、と言っているのです。天の父は、地上の父以上に、私たちが神の栄光を現す歩みをするように、御心によって必要と思われるものを与えてくださるのです。
幼な子にとって、父が自分にしてくれることは、自分の理解を超えていることがあります。しかし、父は我が子が自分を信頼して熱心に求めることを、喜んで待っているのです。
ここには、何を求めているのか、具体的なことは何も語られていません。熱心に求めれば与えられると言っていますが、父がよいと思うものが与えられるのであって、自分の熱心さによって自分の求めていたものを獲得できる、というのではありません。
7:13-14にあるように、門を開けて入れてくださった道は「命がある」道です。そこに入って初めて命に生きる者になるのです、そして命ある歩みができるのです。
神の命に至る門は狭く、道は細いです。私たちが、自分中心の罪を十字架につける道です。私たちは十字架のイエスを通して神の命に生きる者にされて、7:12の「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という言葉を受け入れることができるのです。「人にしてもらいたいと思うこと」は、その人が、自分中心にしてもらいたいと思っていることもある。愛でその心を知り受け入れる。それは人間の愛や善意ではできません。求めていることに応えようとしたら、相手に振り回されることになります。主イエスによって神の知恵と力を与えられできることです。十字架のイエスによって天の父と一つになることによって、天の命に生き、キリスト者として歩むことができるのです。
イザヤ51章は、捕囚されてであったがバビロンに50年住み今は安定した生活をしている民に、「主は廃墟になり荒れ野になったユダの地を喜びの地にする。だから、バビロンを立ってユダの地に向え」と呼びかけています。民は、今の生活を捨てて神の言葉に聞き従うことを、自分中心の思いで躊躇しているのです。それで神は「私の民よ、心して私に聞け。奮い立て。」私が一緒にいる、だから私の民よ奮い立て、と呼びかけているのです。
この世界は人間中心、自分中心の世界のように見えます。それで人の求めていることは聞けない。自分も自分中心の求めをする。私たちはそのような思いでいるのです。その私たちに神は、この世界と歴史を神ご自身が支配している神の思いが先にあって、私たちを神の民にし、私たちを通して神のご計画がなされる、と言っているのです。
私たちはそのことを信じ、十字架のイエスによって私たちも神の民としてふさわしい歩みができるよう、天の父に必要なものを与えてくださるよう、祈り続けたいと思います。
2012年7月15日
説教題:人を裁くな
聖書:サムエル下 12章1-14節 マタイによる福音書 7章1-6節
最近、またいじめが話題になっています。事件になる前になぜ注意しなかったのか。仲良し仲間の遊びと思った、と教師も言っているように、外から見てそれが悪いことか悪くないのか分からないので注意しなかったようです。そのように判断に迷うことはあります。
聖書の「人を裁くな」は、明らかに悪いことをしているのに「裁くな」と言っているのです。「あなたも裁かれないためである」という理由からです。同じ悪いことをしているのだから、お互い悪いことを見ても見過ごし、悪い仲間でいなさい、と言うのでしょうか。
そうではありません。イエスは、私たちの罪と悪のために、血を流し命を捨てられたのです。イエスは悪いことをした人に対する対し方を問題にしているのです。私たちは、人の罪、間違いや悪には敏感で直ぐ目を留めます。しかし、自分の罪や悪には鈍感で気が付かず、自分は間違えていないと自分を見ているのです。そのように自分は正しいという立場で人を裁くことが多いのです。そうであってはいけない、と主は言っているのです。
神の前で自分を見直したらどうなるか。自分も同じように間違いをしている。そこで、同じような間違いをしているので自分も裁かれないように相手を裁かない、間違えている者同士仲間でいよう、これで私は正しい、というのでしょうか。
「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け」と主は言っています。目に丸太があるので自分も人も正しく見えていないのです。そのことに気が付かないで、相手の目におがくずがあるので歪んで見て間違えている、と裁くのです。神の前で自分を見たら、自分の目に丸太がある、それで自分も歪んで見ていることを知るのです。神の前で自分の罪を知って、悔い改めて丸太を取り除いていただくことによって、私たちは自分も相手も正しく見ることができるのです。そして相手の目からおがくずを取り除くことができるのです。
ダビデも、人の間違いを聞いて激しく裁いている自分が同じ間違いをしていると神の前で知らされた時、罪を告白し悔い改めて謙遜な新しい人のなったのです。
ガラテヤ6:1-2に「兄弟たち、万一誰かが何かの罪に陥ったら、“霊”に導かれているあなたがたは柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。自分自身に気を付け、互いに重荷を担いなさい」とあります。キリスト者は、主によって霊の人になっているので、お互いに罪の仲間でいるのではなく、正しい道に立ち帰るように、罪を注意し、重荷を担い合って歩むのです。「人を裁くな」は、人の罪を見ても黙っていなさい、ということではありません。キリスト者として正しく罪人に対しなさい、お互いに赦されて生かされている者として、神の前に謙遜になって、互いに間違いを愛を以て忠告し合い、弱さや欠点を助け、重荷を担い合って歩みなさい、ということです。
ガラテヤ5:15,26にあるように、肉の人間は互いに裁き合い、滅ぼし合っているので、「人を裁くな」は、十字架を知らない人には、豚が真珠を貰ったようになるでしょう。しかし、私たちには、自分と人を正しく見て重荷を担い合う霊の人になれ、との勧めです。
2012年7月8日
説教題:神の国を求めなさい
聖書:マタイによる福音書 6章25-34節
今日の聖書全体で主イエスは「神の国を求めなさい」と命じています。それは私たちが神の国を求めていないからです。神の国は神がご支配する世界です。ところが私たちのこの世界は、神ではなく、悪や罪が支配しているのです。悪や罪とは何か。
今日は、初めて教会に来た高校生がいます。この世界は自分の力で生きていく世界だと教えられているでしょう。生存競争の世界だ、勝ち抜くことが必要だ、強く大きくなれと言われているでしょう。そして、自分は正しい、自分の正しい行動に妨害する者は悪だ、敵だと主張した人もいます。しかしこれらは神から見ると、罪であり悪なのです。神の国を求めることは、神の義を求めることなのです。神の義を私たちに教え、私たちを神の義に生きるようにしてくださったのが、御子イエス・キリストです。
神の義と神の国、神のご支配はイエスによってこの世界に、歴史の中に来たのです。
私たちは、自分中心に生きていますが、神は御心によって神の栄光を現すところとして世界と万物をお造りになったのです。それで全てのものは存在しているのです。ですから全てのものは今ここに生かされていることを喜び神を賛美しているのです。神を信頼し、神に全てを委ねて存在しているからです。ですから思い悩みがありません。
ところが人間は、神の義と神の国に生きているのでなく、自分が主である国に生きているのです。それで自分の力で自分が思う明日を迎えることができるか、と思い悩むのです。
そのような人間に主イエスは、神を信じて思い悩まないでいるものとして、空の鳥を意識してしっかり見なさい、野の花をよく観察してどう育っているか学びなさい、と言いました。空の鳥は、食べ物を得るために飛び回って捜し、全力で食べ物に向かって行っても失敗することがあるのです。食べ物を求めて渡り鳥のように遠方まで行く鳥もいます。鳥には敵もいます。呑気に空を飛んでいるのではありません。野の花も、厳しい環境の中で生きている上に、明日炉に入れられるのです。それでも、鳥も野の花も、神から与えられている自分の環境、現実を受け入れ、神に全てを委ねて思い悩まないで生きているのです。
私たちは、神を信じないで、自分の知恵と力で全てを手に入れて生きようと思っているのです。明日の分も手に入れておきたいのです。そこで、手に入れる力や食べ物や着る物が偶像のように、私たちを支配するようになるのです。神は私たちを鳥や野の花以上に価値あるものとして重んじ、愛し、必要なものを日々与えてくださっているのです。
それで主イエスは、「だから、何を食べようか、何を着ようかと思い悩むな。それらは皆、神を知らない異邦人が切に求めているものだ。あなた方の天の父はこれらのものが必要なことをご存じである。」と言い、続いて「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆加えて与えられる。だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。」と言っています。
主イエスは私たちに、このように神の国を求め生きることを求めているのです。
2012年7月1日
説教題:富は天に積みなさい
説教:申命記 8章11-20節 マタイによる福音書 6章19-24節
マタイ6:19‐20に「富」とありますが、この富はお金や財産だけではありません。大切な物を納めるお蔵、宝物殿を意味する言葉で、そこに納められている物をも意味するようになったので、「宝」と訳されることが多いです。ですから「富を天に積む」というのは、宝になるもの、お金や財産だけでなく、才能、学問、人生経験、などをも含め、それらを宝として整理して積み重ねて、天に蓄え積みなさい、と言っているのです。
宝を蓄え積むのは、誰が何のためにどう集め積むか、が問題になります。今生きている自分のために地上に宝を積んでも、いざという時に使い物にならない物になってしまう。だから天に宝を積みなさい、とイエスは言っているのです。
天に宝を積むことについて、マタイ19:21で「完全になりたいなら、行って持ち物を売り払って、施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。そして私に従いなさい」とイエスは言っています。この「富」は6:19-20と同じ言葉です。持ち物を売り払って施してしまうのですから、お金や財産はない。あるのは神の心を行い、神に従って歩んでいる歩みです。その心と歩みが天に積まれる宝なのです。そこに心と歩む目標があるのです。宝を積み重ねるのは、宝を使わないで積むのではなく、宝を使うことが積むことになるのです、どう使うかです、使わないで積んだ富は役に立たなくなるのです。才能も学問も経験もお金も、どう使うか使うことによって富が増し、宝の価値が高くなるのです。
地上に積んで蓄えた宝は時とともに使い物にならなくなってしまうのです。それに、地上の財産も命も、私たちが自分の思いと力で積み重ねて、今のがあるのではないのです。
申命記8:11-20で神は、地上の食べ物、土地、財産と命は人間が自分たちで積み重ねて手にしているのではない、神が御心によって与えてくださったものだ、と言っています。神が与えてくださったものを神の御心によって用いる時に、神が祝福を与えてくださり、富を天に積むことになる。その時私たちの思いと心は神の許にあり、私たちは神にあって大事な宝とされているのです。
主イエスがこのように「地上に富を積んではならない」「富は天に積みなさい」「あなたの富のあるところにあなたの心がある」と言っているのは、私たちが、神が与えてくださっている宝を正しく使わず、天に宝を積んでいないからです。一時の空腹を満たすために神から与えられた大事な長子の権利を軽んじて失ったエサウになってはいけないのです。
6:24で「神と富とに仕えることはできない」と言っている「富」はお金の魔力です。お金が神と並んで私たちを支配するものになるのです。私たちはお金や宝に支配されるのではなく、私たちは神によって生かされているので、富も宝も命も、私たちが責任を以て使うように、神から与えられているものなのです。私たちは、与えられているお金も才能も学問も経験も日々の歩みも、神の御心にふさわしく天に積む者として歩んでいくのです。私たちが生きる目標も、意味も、天に、神の許にあるのです。
20012年6月24日
説教題:神の民として歩む祈り
聖書:マタイによる福音書 6章9-15節
この祈りはイエスによって神の民にされた者が感謝を以て神に捧げる祈りです。
「御国が来ますように」「御心が地でも行われますように」と神の民として祈るのです。
「私たちに必要な糧を今日与えてください」は、神の民として生きる糧を今日与えてください、神の恵みで生かされていることを今日も覚えさせて下さい、と祈っているのです。
12節は「私たちの負い目を赦してください。私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」となっています。主の祈りは「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」です。「負い目」は借金で返さなければいけない借りです。私たちは生まれた時から親や多くの人に借りをしながら育てられ大きくなってきています。しかし、私たちはそのことを日常はあまり気にしていません。子は幼い時には甘えていい、親に迷惑をかけていいのです。日常は特に気にしていなくても、親子でも仲間関係でもお互いに貸し借りがある者として歩んでいます。自分が一方的に貸しているのではない、自分も負い目があり借りがある、ということを心に覚えていることは必要な大事なことです。
親や、仲間、社会に負い目がある、借りがあるという中で、私たちは神に愛され生かされていることを忘れ、神に背を向けて歩んでいた。私たちはそのことを御子イエスによって知ったのです。その神に対しての負い目、罪を御子イエスによって贖っていただいて、今神の民とされて神の愛のご支配の下に生かされているのです。そのことを知ることによって、私たちは親をはじめ、隣人や社会に対しても借りがある、返さなければいけない負い目、罪がある、どうかその負い目、罪を赦してください、と祈るのです。
そして「私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救い出してください」と祈ります。誘惑は、悪い者が悪いことを行うように誘うことです。悪の道に誘うのです。この世にはそのような悪い者が沢山いるので、「遭わせないでください」と祈っても、遭います。それでこの祈りは、そのような誘惑に遭っても、誘惑に負けないで、神によって勝利させてください、という祈りであるといえます。
しかし主イエスは、勝利させてくださいではなく、誘惑に遭わせないでください、と祈るように命じ教えています。「誘惑」には「試練」「テスト」の意味もあります。試練は訓練でもあり、訓練は私たちを鍛えます。テストも私たちを教育し、合格する人間に育てます。試練やテストは親や教師など味方である人が愛と善意から行います。それで聖書は進んで神からの試練を受けるように勧めています。それなのに主イエスは、試練やテストをも遠ざけてください、と祈るように命じ教えているのです。なぜでしょうか。
私たち人間は自分の弱さを忘れて高慢になるのです。ですから主イエスは、私たちが高慢になって、誘惑や試練を求めるのではなく、自分の弱さを自覚して、危険な冒険の歩みをしないで、神の民として平安な歩みをするように、この祈りを命じているのです。
私たちは、この祈りよって神と自分を知って、神の民として育てられていくのです。
2012年6月17日
説教題:必要な糧を今日与え給え
聖書:出エジプト記 16章12-27節 マタイによる福音書 6章9-11節
現在日本では、食事のパンは神に祈らなくても手に入ります。主イエスは全ての人にどうしてこの祈りをするように命じているのでしょうか。
この祈りは「今日の私に必要な餌を与えてください」と言っているのではないのです。私たちは、動物として野獣のように強く大きな体になるように、肉の自分中心に生きているのではありません。この11節は9節から一つに結びついている祈りです。
主イエスが、私たちに造り主である天の神を知らせ、神との間に正しい関係をつくってくださって、神に感謝してこのように祈るように、命じ教えているのです。私たちは、神によって造られ命を与えられ生かされていることを知っているので、感謝してこの祈りをし、唯動物として生きるのではなく御名を崇めるものとして存在し、歩んでいるのです。そして、その歩みに必要な糧を与えてくださいと祈るのです。また、神の国が来るように祈りつつ悪や罪と戦うために必要な糧、御心が行われるように重荷や苦難をしっかり担って歩むのに必要な糧、を与えて下さいと祈るのです。この糧は、神から与えられ、感謝して受け入れる私たちを神の民として生かす糧なのです。
この祈りの「私たち」は「イエス・キリストを信じる者」で、この「糧」は聖餐のパンと考えることもできます。しかし、この祈りで求めている「糧」は、肉のキリスト者を生かす日毎のパン、今日の命の糧です。祈り求めるのは、自分の力で手に入れることはできないからで、恵みを以て与えてください、と謙遜に求めているのです。私たちは、生きることも日々の糧も自分の手で獲得しているように思っていますが、生きるのに必要な全てものが神から与えられているのです。神から恵みとして与えられたものとして感謝していただくのでなければ、神からのどんな賜物も私たちへの心遣いも、私たちには何の役にも立たないのです。沢山のものを持っても無駄に使い、生活や人生を破壊してしまうということがあるのです。「必要な糧を今日も」と祈り求めるのです。
出エジプト16章には、民が食べ物のことで神に不平を言ったのを神が聞かれて、神が民に、日々の糧を与えるので毎日必要な糧を手にしてその日に食べるように、と命じたのに、神の言葉に聞き従わないでその日の分以上を集めて翌朝まで残す者がいた。その残された糧は、翌日の命を生かす物にならないで、有害なものになった。と記されています。
祈ったら神は必要な糧を与えてくださる。それなら、この祈りをしていれば私たちは糧を得るために働く必要がないのか。この問いにルターは「いいえ、神の助けに頼りながら、私共一人一人が召しに従って一生懸命に働くことが神の御心です。」と答えています。私たちはこの祈りをしつつ自分に託されている務めに励むのです。その時キリスト者は、「私たちに必要な糧を」という「私たち」を、イエスの弟子だけでなく地球上の全ての人を含むと思うのです。この祈りは今地球上で飢えている人に必要な糧を与えてくださいと祈っているのです。自分一人満腹しているからこの祈りは必要ない、というのではありません。
2012年6月10日
説教題:御国が来ますように
聖書:イザヤ書 59章1-4節 マタイによる福音書 6章9-13節
主イエスは私たちに祈りを命じ教えていますが、祈りは、口で祈るだけでなく、心と行いと生活全体を伴ってなされるものです。
「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように、地の上にも」の祈りは、直接試合をしている選手たちに応援席から呼びかけているようなものではありません。私たち自身が直接神に身を以て訴え働きかけている祈りです。「御国が来ますように」という祈りは、私たちが神の国の一員になっての祈りです。今は未だ神の国が来ていないので、神以外のもの、罪と悪がこの地上と私たちを支配しているので、私たちはそれらと戦いながら祈っているのです。
私たちは主イエスに導かれなければ、御国を求めるよりも自分の国を求め、御心が行われるよりも「御心を変えてください」「私の思いを適えてください」という祈りをするでしょう。私たちは神の御心を求め、御心に従って歩むよりも、自分の思いを実現したいと思い、そのための労苦を惜しまないのです。その私たちがこの祈りをするのは、御子イエスによって、天の神を知らされ、神の子として新しく生かされているからです。神の前に謙遜になって、自分の存在も歩みも神にあって意味あるものであることを知ったからです。御心に背き、結びついていないものは、むなしく滅びるか、捨て去られるのです。
神が造り主で、全てのものを治めているならば、祈らなくても御心がなるでしょう。それなのにどうして「御心がなるように」と祈るのでしょうか。使徒言行録17:18に登場している、ストア派の人たちは、なるようになるのだから祈る必要はない、祈っても意味がない、成り行きに逆らわず、与えられた環境や状態を黙って甘受し,諦観して生きる、という生き方をしました。エピクロス派の人は現世主義、快楽主義の生き方をしました。
主イエスは神の絶対的な御心と御力を認めた上で、神を父と呼んで熱心に祈ることを教えています。神は、私たちと関係なく外から運命のように働いて御心を行われるのではなく、祈る私たちを通して御心を行われるのです。主イエスがゲッセマネで祈るのと神の御心が一つになって救いの御業が行われ、実を結び福音になったのです。神が私たちを用いて御心を行う、その時御心を知ることによって私たちは重荷や苦難を負うことになっても、運命と諦めてではなく、神の愛に生かされ用いられていると喜んで受け入れて負うのです。
イザヤ59:1-4は、バビロン捕囚から解放されてエルサレムに帰還した民が、神は自分たちにこんな苦しみを与えている、私たちに救いはない神はいない、と不平を言っているのに対して、預言者が、捕囚から解放されて帰還しているではないか、救われているではないか、あなたたちは罪によって共にいる神が見えなっているのだ、と告げています。
私たちは被造物全体が神によって救われることを主の祈りで祈っているのです。そして私たちは、この祈りを心から祈ると同時に、身を以て神の国が来、御心が地に成るように、与えられた荷を日々担って歩んでいくのです。
2012年6月3日
説教題:御名が崇められますように
聖書:エゼキエル書 36章22-28節 マタイによる福音書 6章7-9節
主イエスは、祈りは偽善者や異邦人のようであってはいけない、といった後「こう祈りなさい」と祈りの姿勢と何を祈るべきかを教えられました。主イエスは、イエスに教え導かれなくては祈りにならない、祈ることができない、と言っているのです。
主イエスは、先ず祈りは「天におられる私たちの父よ」と呼びかけで始まる、と教えています。祈りは、祈る相手がいるのです。目標なしに空に矢を放つのとは違います。独り言でもありません。私たちは、イエス・キリストによって天の父を知り、天の父との交わりが与えられて、造り主で命の主である天の父に子として語りかけるのです。天の神と地上の私たちの間を仲立ちしてくれるのは御子イエスです。神は、イエスによって私たちを子としてくださって、子である私たちに心を向け、私たちの祈りを聞いてくださるのです。
「こう祈りなさい」と祈りを教え命じている主イエスは、私たちと一緒に祈っているのです。私たちはイエスの心と口に合わせて「天にいます私たちの父よ」と祈るのです。「天にいます私たちの父よ」と呼びかけている「私たち」の中に主イエスが入っているのです。地上にいる罪人の私たちが神の子にされて天の神に祈ることができ、その祈りを天の神に聞いていただけるのは、御子イエスと心と口を合わせて祈るからです。そして、父なる神は子とされている私たちの祈りを待っているのです。
また「私たち」は「イエス・キリストを信じている人たち」です。私たちの祈りは排他的な自分中心の祈りではありません。祈りの姿勢も内容も共同の生の中で祈るのです。「奥まった自分の部屋で祈る」ことも、神に思いを集中させて祈るということで、その場合でも祈りは神の民の一員、教会の一員としての祈りです。
祈りの第一は「御名が崇められますように」です。「御名」は「神ご自身」です。「神ご自身が神の名を崇められますように」ということです。神の御名は、具体的には御子イエスによって示された神の栄光、恵み,真理、愛、道です。
エゼキエルは、神はかって民を選び、その民の中に言葉を宿して神がここにいますという歩みをさせてきた、ところが民は神の名を汚してきている、それで、神ご自身が汚された名を聖なるものにする、と言っています。それが御子イエスによってなされたのです。新しい神の民によって神がどのようなお方か知ることができるようになったのです。新しい民は石の心を取り除かれて、生きた肉の心を与えられ、神の霊が宿る民になったのです。
神の霊が宿ることによって、神の民も神を崇めることができるようになったのです。神を神として崇めるのは、イエスによって示された神を、そしてかみの栄光、恵み,真理、愛、道を、その存在と歩みによって現すことです。神に造られたもの全てが神の栄光を現すべきですが、中でも何よりも神の民が神の恵みと愛と赦しによって生かされていることを喜び、身を以て現すべきなのです。聖霊を宿しているキリスト者と教会が、被造物全体の先頭になって神を崇める歩みをするように、イエスはこの祈りで命じているのです。
2012年5月27日
説教題:聖霊の働き
聖書:ヨエル書 3章1-5節 ローマの信徒への手紙 8章26-30節
五旬節(ペンテコステ)の日に、イエス・キリストを信じて祈っていた人たちに聖霊が天から与えられ、教会が誕生しました。その出来事は使徒言行録2章に記されています。
聖霊は天の神の霊です。天の神の霊が地上の人間に与えられたことは、天の神と地上の人間との間に道ができ、神と人間の交わりができるようになったということのです。
キリスト者と教会は、天の神と地上の人間を結び付ける「ところ」、拠点として誕生したのです。結びつけるものはキリスト者と教会の中に宿っている聖霊で、聖霊が結びつける存在であり、働きをするのです。聖霊は、天に挙げられたキリストによって、信じて祈っている人たちに与えられたのです。聖霊を与えられた者は、神と結びついた者であり、神の子とされているのです。神の子とされている人間は、肉によって地上を歩んでいるだけでなく、霊によって神の義と天の命に生きているのです。
ところが現実の地上を歩んでいるキリスト者である私たちは、神の御心が分からず神の義ではなく肉の思いで生き、罪の誘惑の中で、今どのように決断して歩んだらよいのか分からないのです。その時どうしたらよいのか。祈ることです。祈って聖霊を与えられることです。聖霊は弱くなっている私たちを助けてくれるのです。
聖霊の大きな働きを、パウロは「霊は、弱い私たちを助けてくださる」と言っています。霊は私たちと共にいて、私たちが自分ではどうすることもできない重荷を、代わりに担って下さることによって助けて下さるのです。重荷のために絶望的な状態にいる私を助けて、神と結び付けてくださるのです。神と結びつくことによって、私たちの存在も歩みも働きも、この世的にとるに足らないものであっても、意味あるものになるのです。
それなのに弱い私たちは、当然祈らなければいけない時にも、どう祈ったらよいか分からない者になることがあるのです。その時、聖霊が助けてくださり「御霊自らが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」のです。霊が神との間の仲介者になって、私たちを神と結び付けてくださるのです。私たちが祈りを失い、言葉を失って、神との交わりを投げ出してしまう時に、神と交わる働きをしてくださるのです。私たちの中に、神への思いを目覚めさせ、神に語りかける言葉を生み出してくださるのです。
「人の心を見抜く方」である神は、霊がキリストを信じる者を神の御心に従って歩むように神に結びつけている霊の働きを、喜んで受け入れるのです。
ヨエルは地上のすべての民にその神の霊が与えられる時が来ると言っている、その時が今来た、とペトロは、この日に聖霊降臨の出来事を指して、言っています。
神との交わりを失い、希望を失い絶望の中にいた民に聖霊が与えられたのです。その民が主の名を呼んで祈るなら、聖霊が与えられたのです。そして、神の道を意味ある者とされて歩むのです。この聖霊によって私たちキリスト者と教会は、この地上にあって天の神と結びつけている大事な存在であり、大事な働きをしているのです。
2012年5月20日
説教題:真実の祈り
聖書:列王記上 8章27-32節 マタイによる福音書 6章5-8節
祈りはどの宗教にもあり、信仰を持っていない人も祈りをます。主イエスは、イエスに従って来た人たちに、他の人とは違う真実の祈りをするように、教えています。
「祈るときにもあなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは人に見てもらおうと会堂や大通りの角に立って祈りたがる」。当時ユダヤ人は毎日時間を定めて祈りをしていました。その毎日まじめに祈っている人を偽善者だ、と言っているのです。祈りは、神との語り合いです。それなのにこの人たちの祈りは、人と自分の前で演技している祈りなので、真実の祈りではないのです。
真実の祈りは、神に聞いていただく祈りです。その真実の祈りをするためにソロモンは神殿を建て、神殿を通して神に祈る祈りを聞いて下さい、と天にいます神に祈っています。この祈りは聞かれ、神の民は祈りの民となったのです。そして、御子イエス・キリストが新しい神殿となり、民は御子を通して祈ることができるようになったのです。
それでイエスは、「あなたがたが祈る時は、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と言ったのです。イエスに従ってきた人たちの家には自分の個室などなかったでしょう。ここでイエスが言っているのは、会堂や人々の前で祈ることがあっても神とだけ向き合って真実の祈りをしなさい、人の目やこの世の声から離れて、気を散らさないで、神と語り合う祈りをしなさい、と言っているのです。
語り合いは、独り言ではない、相手がある、それも一方的にこちらが話す相手は聞けだけというのでもない、こちらも話すけれど相手が話すことも聞くのです。しかし、偶像の神を信じている人は神に自分のことや思いを説明して要求や願いをするのが祈りとしているのです。それで「あなたがたが祈る時には、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は言葉が多ければ聞き入れられると思い込んでいる。あなたがたの父は願う前からあなた方に必要なものをご存知なのだ」とイエスは言っているのです。
宗教改革の時、教会は「なぜキリスト者は祈る必要があるのか」との問いを出し、「神が私たちに求めている感謝の主要な部分が祈りだからです。また神は祈り求め感謝する者に用意している恵みと賜物を与えようと思っておられるからです。」と答えています。
親は子がお小遣いなどを手にした時に「有り難う」と感謝を言うことを教えるでしょう。神も私たちが命与えられ生かされていることを感謝し祈ることを求めているのです。また親は子が欲しい物は分っていても「これ欲しい。頂戴」と率直に言うのを待っているし、言うのを喜びます。神への祈りも父と子の信頼による語り合いなのです。父は幼子の我がままや未熟さを知っています。ですから子は父にその我がままや未熟さを率直に出していいのです。その祈りを神は聞いて下さるのです。幼子は父との真実の語り合いによって父の思いを知り、自分を知り、大人になっていくのです。
私たちは真実の祈りによってキリスト者として育てられ強められていくのです。
2012年5月13日(子どもと一緒の礼拝)
説教題:主にある親と子
聖書:レビ記 19章1-3節 エフェソの信徒への手紙 6章1-4節
聖書は「子どもたち、両親に従いなさい」と言っていますが、両親に従わないことあるかな。幼い子は「ぼく、いや」と、自己主張する。人間が自分の意志を持つことは大事なことです。でも、皆が自己主張していたら困ります。それで幼い子にはしつけが必要です。
お父さんも、お母さんも自分の意志を持って、自己主張して来たのです。人間は皆、自分中心なのです。自分中心で神さまの御心に従わなかった人間に神さまは御子イエス・キリストを通して諭し、しつけてくださったので一人前の人間になっているのです。それで、父親、母親となり責任を負って子供を育てているのです。
だから、「お父さん、お母さん、子どもを怒らせないで、主がしつけ諭されたように育てなさい」と聖書は言っているのです。子どもは一人前の人間になるために、先ず親の言うことを聞くのです。親に従うのです。親は、親も子も神さまから生かされていることを、子供に教えるのです。親も子も一緒に、神さまにあって生きることを学びながら、歩んで行くのです。
幼い子は、叱られるのが怖いから親の言うことを聞く、ご褒美やお駄賃をもらえるから言われたことをする、というがあるでしょ。でも、いつまでもそれでは動物と同じです。親は子供が自分の意志で親に従うように育てるのです。親は、神さまによって親と子が共に命を与えられここに生かされていることを教え、神に感謝して育て、歩むのです。それで、子どもは怖いからではなく、親を敬って従うようになるのです。敬う、というのは、神さまを神さまと心から思うことです。同じように親を親として敬うのです。先生も警察官も神さまにあって、認め、敬って従うのです。
動物は一人前になったら、親離れをして、親から離れます。でも人間は、大きくなって親の助けがなくても生きていけるようになっても、親子の関係を大事にするのです。まだ一人前ではないから、一人では生きていけないから、親の所にいて言うことを聞く、というのではないのです。幾つになっても神さまにあって親子の関係を持って生きて行くのが人間です。親と子は神さまから与えられている関係です。お互い一人前になっても、神さまにあって親と子は一緒に学び育てられ敬い従っていくのです。
人間の中には、自分は一人前になっているから神はいらない、と言う人がいます。でも聖書を読んでいる人は、神様に生かされていることを知っていて、神さまに感謝し、神の民の一員として生きています。
レビ記では「父と母を敬いなさい」と一緒に「安息日を守りなさい」と言っています。安息日を守りなさいは、日曜日を神さまの日としなさい、神さまを礼拝しなさい、と言っているのです。私たちはこの地上で神から与えられた人間関係を大事にし、与えられた時を御心に添うよう、神を礼拝し敬いながら歩むのです。そこに神からの幸せがあるのです。
20012年5月6日
説教題:キリストの愛と私たち
聖書:ヨハネによる福音書 21章15-22節
現代は情報化の時代と言われていますが、必要な情報が与えられていなために、孤独死、住民登録はあるけれど住んでいない、死亡の年齢なのに年金が払われている、等の事件や問題が起っています。ホームレスは生きた存在になっていないといえます。
人間として生きるのは、人格を持つことです。演劇で舞台の人物が役を持った人間になる時、その人物が人格を持ち、意味を持った人間になるのです。その人格は舞台監督などとの交わりや語り合い、舞台での演技等によって作られます。私たちにとって最も大事なのは創り主である神との交わり、神との語り合いです。神と深く交わり語り合うことによって、私たちは世界を知り自分を知るのです。神が私たちに出合い語りかけてくださることによって、私たちは御心を知り、自分を知り、責任を持って生きる者となれるのです。神との結びつきが無ければ、世界も私たちの存在も歩みも虚しいものなのです。
神は自分中心に生きている罪人である私たちの中に御子イエス・キリストを遣わしてくださり、イエスを通して私たちとが神と交わりと語り合うようにしてくださったのです。イエスは愛を持って「私を信じなさい」と語りかけ、「私に従いなさい」と呼びかけて私たちと一緒に歩み、語り合って下さっているのです。イエスを信じて、イエスと一緒に歩み語り合うことによって私たちは人格をもった真の人間として活きるようになるのです。
ペトロは復活のイエスから「この人たち以上に私を愛するか」と言われました。ペトロは漁師をしている時にイエスから「私について来なさい」と言われ、この世的人間的な全てを捨ててイエスに従いました。この時からペトロは、自分の知恵や経験、この世的人間的な思いによって生きるのではなく、イエスの言葉を中心にして生きる者に代ったのです。イエスによって歩みも思いも生き方もその中心が変わったのです。
しかしそのペトロの中に、肉の人間の罪が残っているのです。その罪にサタンが働きかけたのでペトロは、イエスがメシアとして歩むのを妨げるように「十字架につくことはあってはならない」と言って、イエスから「サタン引き下がれ」と厳しく叱られたことがありました。イエスと一緒に歩み、語り合っていても、私たち人間にはイエスを理解できない、イエスと一緒になれないでいるところがあるのです。それでもイエスは弟子たちを見捨てるのではなく、交わりを続け、歩みを共にし、語り合い理解を深めようとされているのです。弟子たちも失敗し、叱られてもイエスから離れないで、イエスに従いました。この弟子たちの信仰生活に歩みは、私たちが倣うべき大事なものです。
復活のイエスはペトロに三度「私を愛するか」と訊ねました。これはペトロが十字架を前にしたイエスを三度「その人は知らない」と否認したことに対応していると思われます。
イエス・キリストは私たちの内に残っている罪、弱さをご存知なのです。それでも私たちを捨てないで、愛し語りかけて下さっているのです。私たちはそのキリストの愛に応え、主からの問いかけに心から悔い改めて、神にある人間として存在し歩みたいと思います。
2012年4月29日
説教題:神が与えて下さる信仰
聖書:マタイによる福音書 16章13-20節
今、日本も世界も多様な価値観が混在していて互いに自己主張し合っている、混迷状態です。混迷は迷いで、不安定です。それで確かな価値観、一つの目標を求め、強力な指導者を求めています。歴史ではこのような時に独裁者が出て皆を一つにまとめて全体を前へと進ませて行くのですが、多くの独裁者は人々を破滅に導くという結果になっています。
人間の知恵と力で世界と歴史は成り立っているのではないのです。神に造られ治められているのです。神の御心に添う歩みだけが命を持ち、意味あるものであり、実を結ぶのです。
私たちが毎週ここで礼拝をしているのは、この礼拝が私たちの存在と歩みを意味あるものとするからです。私たちはこの礼拝で、イエス・キリストの十字架によって罪贖われた者とされて神に出会い、新しい人とされ、神の御心に添う歩みをする者になるのです。
教会はイエス・キリストの十字架による救いを信じる信仰を基として存在しています。この信仰がなければ礼拝さえ虚しいのです。礼拝だけではない、教会のどの集いも、働きもこの信仰によって意味あるものになるのです。私たちの毎日の生活も、人生も同じで、イエスを主と信じ、神の前に罪赦されて今ここに生かされていることを喜び感謝して歩む時、その歩みは意味あるものとなり、世界と歴史を意味あるものとする歩みになるのです。
イエス・キリストを救い主、主と信じる信仰はどこから与えられるのでしょうか。それはイエスと出会うことです。イエスと出会うのは、教会に来ること、礼拝を共にすること、聖書を読むことによってである、といえます。そこでイエスに出会い、イエスを知るためには、イエスがそこに居ますことを認め、その言葉を聞く謙遜さが必要です。自分中心で自分に関心のあることしか見ない、聞かないという人は、教会に来てもイエスが居ますことに気がつかず、イエスの言葉も聞こえない、ということになります。
イエスに出会った後どうするか。イエスは弟子たちを招きご自分の傍に置きました。弟子たちは招きに応えてイエスに従って歩みました。共に歩み語り合う中で、イエスが弟子たちに「あなた方は、私を何者だというのか」と訊ねたのです。イエスはご自分がどの様な者なのかを知るように弟子たちと共に歩み語っていたのです。
ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。ペトロがイエスをこのように理解し信じるまでには、ペトロが自分の持っている人間的な理解力や経験の知恵などを捨てて、イエス御自身からイエスを知ろうという謙遜さと熱心な探究心を持ってイエスに接していたという経緯があったと思われます。このペトロの信仰告白を聞いたイエスは「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは人間ではなく、私の天の父だ」と言いました。ペトロはこのすばらしいイエス理解と信仰告白を人間の知恵と力で得たのではなく神から与えられたのです。私たちの場合も同じで、神から与えられた信仰告白が私たちに正しい確かな道を示し、命と力を与えて地から強く歩ませてくれるのです。
私たちはこの世の声や価値観に迷わされないで、イエスを主と信じて歩むのです。
2012年4月22日
説教題:主に従って歩もう
聖書:マタイによる福音書 16章21-28節
私たちの日々の生活、人生は確かな目標に向って道を歩む歩みであるといえます。その歩みは、時に立ち止まって歩みを見直し確認して、新しい歩みをまた始めることが必要です。今日2012年度の教会総会を開きます。今年度の教会の主題は「主に従って歩もう」です。この主題は教会生活の原点です。この総会の時、この原点に立って私たちの教会生活、信仰生活を見直して新しい年度の歩みを始めたいと思います。
私たち教会の歩む道は、私たちが考えた道や時代がつくりだした道ではありません。主が示し、歩まれた道です。また主が私たちに与え、導き歩ませてくださる道です。その「主」は誰でしょうか。「主」は神の子イエス・キリストです。主御自身が弟子たちにご自分がどんな歩みをされるか教え始めた時、ペトロは「主よとんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」とイエスをいさめました。ペトロは、自分が従う主はこのような道を歩むお方であるべきだ、という思いを強く持っていたのです。
そのペトロに主イエスは「サタン引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず人間のことを思っている。」と言いました。ここで主イエスはご自分が人間のことを思うよりも神のことを思うお方であると示されています。人間のことを思うよりも、とは、罪人の人間の思いを適えるよりも、ということです。主イエスは罪人の人間を罪と死から救い出すために十字架に死なれたのです。それは神にあって人間のことを思ってのことです。「サタン引き下がれ」と言ったイエスは、ペトロの中に荒野でイエスを試みたサタンを見たのだと思われます。私たち肉の人間の中にも人間のことを思うサタンが宿っているのではないでしょうか。私たちは主イエスを救い主と信じています。ところが主イエスに期待し求めている救いは私たちの肉の人間が期待し求めているものではないでしょうか。イエスの言葉も自分中心に聞き理解しているのではないでしょうか。その時私たちは、イエスを主としているのではなく、自分を主とし、イエスを自分に従う者にしているのです。
主イエスはペトロに「サタン引き下がれ」と厳しく言いましたが、ペトロを排除してはいません。愛を持ってペトロを叱責し、このペトロを受け入れ、目覚めて悔い改めるのを求めているのです。ペトロもイエスの厳しい叱責に反発するのでなく悔い改めています。
それから主イエスは、弟子たち皆に向かって「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい。」と言われました。自分を捨ててというのは、キリストによって新しい人になってということです。新しい人になって、十字架を見直し、十字架によって罪赦され生かされていることを知って、自分の十字架を背負って従うのです。主の十字架が唯の苦しみではない、私たちを救い生かす神からの光であることを知って、私たちも神から自分に与えられている十字架を背負ってイエスに従うのです。
主に従う歩みは、復活の主によって与えられた命の道の歩みです。意味ある歩みです。「私に従いなさい」と呼びかけている主が愛と励ましで先立ち共に歩んでくださる歩みです。
2012年4月15日
説教題:復活の主の命令と約束
聖書:マタイによる福音書 28章16-20節
人間の世界には争いが絶えません。冷たい戦争といわれる外からは分らない争いもあります。争いは罪によって起こります。自己主張によって神に背くことで起ります。
その罪の支配から私たちを解放し、神の御手の内を歩むように神は御子イエス・キリストを私たちに与えてくださいました。弟子たちも十字架と復活によって変えられました。イエスを「私は知らない」と否認していた弟子たちが、復活の主に出会って主と語り合うことによって、主を信じる新しい人に変えられたのです。
28:16,17に「11人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そしてイエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」とあります。弟子たちはイエスを信じて従う者になり、主が言われていた所に行って主を礼拝しているのです。「疑う者がいた」と言うのは、信じているけれど心のどこかに疑う所がある、理解できないで分らない所がある、ということです。これが弟子の現実です。私たちです。
復活の主イエスはその弟子たちに近づいてきて、彼らを信頼して重要な使命を託しました。「あなたがたは行って、全ての民を私の弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい。」この復活の主の弟子たちに対する在り方は、いつの時代の弟子たちにも通じるといえます。私たちも、主について、救いの御業に付いて分らない所がある、これが神の御心なのだろうかと疑う所がある。それでも信じて御前に出て礼拝を捧げる私たちを主は弟子として受け入れ、私たちに必要な御言葉を与えてくださるのです。
復活の主は「私は天と地の一切の権能を授かっている」と厳かに宣言されました。重要な命令を与える時に、その命令を与える者が、自分は何者であるかを相手に明確に告げることは必要なことです。復活の主は神から一切の権能を与えられているのです。
「だから」と続けて言います。主の命令は個人的なものではなく、世界と歴史全体の中で重要な意味ある聞くべき命令なのです。私たちの未熟さ弱さ貧しさを主は十分にご存知でこの命令を与えてくださっているのです。この命令が私に与えられていることは、主が、私個人を救おうとお考えになっているだけでなく世界全体をも救おうと、お考えになっていることを現しています。私が救われたのは、全世界が救われるために、神が私を用いようとお考えになったからです。ですから神は、私が用いられた務めを行うのに必要な力を与えてくださるのです。また、この世界に対しても神は御力をもって臨まれるのです。
私たちはこの命令を果すことに喜びと誇りを思うことがありますが、重荷に感じ、自分の弱さ不甲斐なさに嘆き、悲しむこともあります。しかし、私たちは自分の知恵と力で伝道するのではありません。主は「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と私たちに約束してくださっているのです。主が共にいて、共に働いてくださるのです。そして主は全ての民の中にも共にいて働いて下さるのです。働きの実、結果は神が引き受けて下さるのです。私たちは、自分の信仰で主の言葉に従って語り、働けばよいのです。
2012年4月8日
説教題:罪に死に、神に生きる
聖書:出エジプト記 14章10-31節 ローマの信徒への手紙 6章1-14節
復活日、イースターの喜びは、死んで葬られたお方が復活してその姿を示されたことにあります。しかし、それだけでなく主イエスが私たちの罪のために死んで甦られたので、罪と死がなきものになり、私たちが新しい命に生きる者になったことにあります。
罪と死の力は、見えないですが私たち一人一人を支配し、この世界全体を覆い包んでいます。それで、罪と死に支配されている者でいい、と諦めて生きているのが私たちです。それは、私たちが罪と死のない世界を知らないからです。
そのような人間の中に神は臨んで、ご自分の民を選び、民を神のご支配の下に新しく生かそうと、子羊の血によって民の罪を無きものにされ、モーセを通して民をエジプトから神が用意された地へと導き出されました。この出エジプトによって、民は神の御支配の下に新しく生きる民になり、死に向って歩む民から神の約束の道を歩む民になったのです。聖書は、主イエスの十字架と復活の出来事を過ぎ越しの子羊に結び付けて語っています。
ローマ6:6に「私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」とあります。これが私たちの信仰の原点です。洗礼でこのことが私たちに事実として起っているのです。見える世界を超えては、今までの罪が支配していた世界が、神の支配する世界に変わったのです。罪の奴隷であったことを知らなかった私たちが十字架によってそのことを知り、キリストの死と復活に信仰によって結び付けられることによって、私たちを支配していた罪は力を失い、神のご支配の下に生きる者になったのです。古い私、罪に生きていた私は死に、罪から解放され、罪の力は私と関係がないものになったのです。
それなら今生きている私はどんな存在なのか。キリストの十字架を信じて洗礼を受けている私たちは既に罪に死んで、今は復活の新しい命に生きているのです。イエスが復活したイースターの喜びは、人ごとや歴史の出来事と眺めて喜ぶ喜びではなく、今ここにいる私が罪に死んで新しく神に生かされている喜びなのです。
しかしまた聖書は、キリストの復活の命に生きることを、将来のこととしても書いています。神にあっては、罪人の私は死んでいる古い人で、現在の私は復活の命、神の栄光の命に生かされていますが、現実の見える世界では私は未だ肉の人間として存在し、歩んでいるのです。古い人と同じ罪に支配されている肉の体で歩んでいます。そこで洗礼を受けている人は、肉によって歩んでいますが、罪に支配された肉の私は既に死んで神の栄光の命に生かされ歩んでいるのだ、との信仰によって自分と世界を見、考え、判断して歩みなさい、とパウロは語っているのです。肉の体で歩んでいる私たちには信仰の戦いがあります。しかしその戦いの勝敗は既に決まっているのです。ですから私たちは、罪に死んで、神に生きている者として力強く歩むのです。このように私たちを新しい人とし神に生きる者にてくださった十字架と復活の出来事を、この時心から喜び賛美したいと思います。
2012年4月1日
説教題:十字架による救い
聖書:イザヤ書 53章1-8節 マタイによる福音書 27章45-56節
【説教】
主イエスは他の二人の犯罪人と一緒に十字架に架けられました。見た目には三本の十字架に違いはありませでした。しかし、ルカとヨハネの福音書はイエスが十字架上でご自分が神の子で、救い主として語った言葉を記しています。他方マルコとマタイは十字架上でイエスが「わが神、なぜ私を見捨てるのですか」と叫んだ言葉だけを記しています。
この叫びの言葉はどんな意味を持っているのでしょうか。神に「見捨てないで」と弱虫が悲鳴をあげているのだ、救い主らしくない、という人がいます。しかし、そのような見方は、イエスの十字架の死が分っていないことから出てくるのです。
イエスは、かなり前から自分が苦しみを受けて殺されることをご存知で、弟子たちにそのことを告げています。死の告知を受けた人が残された日々を誠実に歩むような歩みをイエスはしていたのです。それならイエスはなぜ最後まで堂々と歩まなかったのか。イエスは弱い人間で死を前にして死が怖くなり、我を失って叫んだのでしょうか。
主イエスは肉の人間ですが神の子で、イエスの十字架の死は、父である神の前で罪人となって十字架に架けられた死なのです。唯の肉の人間の死と見てはいけないのです。神は、神の栄光を現すもの、神と交わりを持つものとして、人間をお造りになったのです。それなのに人間は罪人になってしまったのです。神が人間との交わりを回復するためには人間の罪を処分しなければなりません。神は、罪人と交わることはできないので、御子イエスを罪の人間の中に遣わされたのです。イエスは十字架で二つの戦いをされました。
一つは荒野の試みでも戦った悪魔との戦いで、悪魔は十字架上のイエスに、救い主なら十字架から降りて自分を救ってみろと激しく誘惑し、挑戦しました。その戦いにイエスが勝利したことはルカとヨハネが記しています。他の一つは神の前に罪人となって人の罪を処理する戦いです。人間は罪人になって悪魔の虜になった。その悪魔の支配から解放されるための贖いが十字架です。また罪人の罪を神に赦してもらうための償いが十字架です。その贖いと償いを真実に果たすイエスは、その罪の重さと自分の責任の重大さに、叫ばないではいられなかったのです。それほど人の罪は重く、イエスの務めは重大なのです。
この十字架の救いはイエスが一人で決めて行なっているのではありません。神が罪人である人間を義として交わることを望まれ、十字架による救いを決意され、イエスによって実行されたのです。神が罪を知らないお方を、私たちを贖うために罪とされたのです。ですから神は、闇の中でも御子への思いを持ってその祈りと叫びを聞いて、それを無駄にはしませんでした。イエスはその道を最後まで歩まれました。それによって私たちは神に義とされ、神と和解できたのです。神との平和を与えられ、神と愛の交わりを得、神の恵みを頂いて生きる者になったのです。ここに神に結びついた命があり、救いがあるのです。
神に捨てられているのではないかと見える東日本大震災の被災地にも、十字架の主が救い主として共にいて下さり、慰め、励まし、救いの命と光を与えてくださっているのです。