2009年3月29日
説教題:仕えるために来た主
聖書:列創世記 25章27-34節 マタイによる福音書 20章20-28節
【説教】
イエスと弟子たちの共同生活も3年程になり、十字架を前に終わろうとしている時です。イエスはメシアでイエスによって神の国が来る、との思いが弟子たちにあったのでしょう。ゼベダイの息子たちの母親はイエスに、王座に着いた時二人の息子を右と左に座らせてください、と頼みました。それを聞いていった10人の弟子は腹を立てました。
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言いました、「異邦人(神を知らない国の人)の間では支配者たちが民を支配し、偉い人が権力を振るっている。しかし、あなた方の間ではそうであってはならない。偉くなりたい者は皆に仕える者になりなさい。人の子が仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たように」と。主イエスは、自分を献げて多くの人を解放するために神の許から来た、仕える者である、弟子たちも自分と同じように仕える者になれ、と言ったのです。
「仕える」は、食卓で奉仕する、給仕するという意味で使われる言葉です。ルカ22:25-27にマタイ20:25-27の言葉があります。ルカでは、直ぐ前に記している最後の晩餐の食卓で、イエスがパンを取って弟子たちに与え「これはあなた方のために与える私の体である」と語っています。食卓で仕え給仕するのは食器だけを運ぶのではありません。食器の中味も与えます。命の糧を与えるのです。仕え給仕することは、空腹の人、疲れている人に栄養を与え、新しい命を与えることになるのです。そのために人の子イエスは来たのです。
創世記25:27-34には食卓は出てきませんが、:29以下は食卓で給仕しているように読むことが出来ます。兄のエサウは疲れ切って倒れそうなのです。ヤコブは自分が作った煮物を自分は食べないで、エサウに与えました。昔のことです、余るほど煮物は作らなかったでしょう、煮物を作るのには時間と働きがありました。ヤコブも空腹だったでしょう。しかし、空腹の自分を抑え黙らせて忍耐して、疲れ倒れそうなエサウに給仕し元気づけ、命ある者にしたのです。ヤコブの行為は兄エサウから長子の権利を弱みに付け込んで奪うことにもなっています。しかし、このことによって「兄が弟に仕えるようになる」(25:23)という神のご計画が実現したのです。ヤコブは神から与えられた穏やかな性格と弟の立場を大事にし、多くの批判を受けても、神の選びと使命に忠実に生きたのです。神のご計画と御心に自分を献げ仕えて生きたのです。神はそのヤコブを重んじ大きな存在としました
イエスは、その生涯を神の僕として歩み、最後には罪人として十字架につけられて殺されました。それは多くの人を罪から解放して、神の命に自由に生かすために、身代金として自分の命を献げることになりました。イエスが、神の御心に添って積極的に仕え、御自分の命を献げてくださることによって、私たちは罪と死から解放されて新しい命に生かされる者になったのです。
ですから私たちも、神のご計画によって与えられている道で、自分を献げて、弱く倒れそうな人を生かすように仕える者となって生きるのです。
2009年3月22日
説教題:栄光の主に導かれる民
聖書:出エジプト記 24章3-11節 ペトロの手紙二 1章16-21節
【説教】
十字架に歩まれた主イエスは神の御子で、神の栄光を持っているお方でした。ペトロ1:16に「私たちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨」と言う言葉があります。主イエスは、神の栄光をもって私たちの中に来てくださり、私たちを罪から解放してくださったのです。この神の子の栄光の力によって、私たち罪人は神の栄光に結びつく者に変えられたのです。
しかし1:3-4では、私たちはそれだけでなく、尊くすばらしい約束を与えられている、と言っています。この約束は御子イエスによって確かなのです。私たちは、十字架と復活の出来事の後に、現在この約束を与えられて生き歩んでいるのです。この手紙の著者はその約束が確かであることを、12-15で、私自身がイエスから直接示された、そしてその確かさを自分が死んだ後も人々が思い出して信じるようにここに書いている、と言っています。使徒たちはその命の全てを尽くしてイエス・キリストの救いの確かさを伝えているのです。その救いは、十字架と復活で終わりではなく、栄光の主の再臨で完成するのです。
16節以下で、十字架に歩んだイエスは神の力に満ちた栄光の主である、と強く語っています。「私たちはキリストの威光を目撃した」と言っています。これは、十字架に向かって歩んでいた人間イエスが栄光の御子の姿に変わられた、その出来事を指しています。自分がそこにいたからこれは確かなことだ、と言っています。この出来事の中で、神から「これは私の愛する子、私の心に適う者」、という声があったのです。この声は主イエスの十字架への歩みすべてが神の栄光に包まれていることを示しています。だから、私たちは弱さや罪があるけれどこの栄光の主によって確かに救われるのです。その主を信じ、主に従って歩む私たちは、栄光の主の十字架と復活によって新しい命に生かされているのです。
そして、この十字架と復活の救いの主が栄光を持って再臨する、私たちを生まれ変わらせて下さった主が再臨する、と言っているのです。来臨の主は、愛と共に裁かれる主です。悪や罪を裁くのです。御子イエスの十字架の戦いと裁きに救われた者は御子の道を歩みます。その道には神の栄光に包まれた救いがあり、永遠の命の国があるのです。
出エジプト24章には、神の民が契約の血によって結ばれたことが記されています。血による契約関係は確かなものとなるのです。民は神と一つに結ばれたのです。この民は、神の愛と力によって導き守られる民になったのです。神の民は旅する民です。しかし、放浪の旅ではなく、神に導かれ約束された地を目指しての旅です。
御子イエスは、肉の弱さを持っているとき神の栄光の姿に変えられ、神の声を聞いて、十字架の道を歩み抜かれました。そして私たちを救い、栄光の主の民としてくださったのです。主の民とされた私たちは、まだ悪と罪が力を持っている世界で、誘惑に負けそうな弱さのある身で歩んでいますが、十字架の主が栄光の主であることを覚えて、主に導き支えられて与えられた道を歩んで行きたいと思います。そして最後に神の栄光に与りたいと思います。
2009年3月15日
説教題:死と復活を予告する主イエス
聖書:ヨブ記 1章8-12節 マタイによる福音書 16章21-28節
【説教】
教会では今主イエスの十字架の死に思いを向けて歩んでいます。主イエスの十字架の死が私たちの救いに深く関わっているからです。
主イエスの十字架の死は、気がついたら十字架があった、振り返ったら十字架に歩んできていた、というのではありません。イエスは、この道は十字架にいたると御存知で、十字架に歩まれたのです。イエスは、弟子たちに「私は何ものか」と尋ね、「あなたはメシア、生ける神の子です」との答えを得た時から、自分は苦しみを受けて殺され、三日目に復活する、と語られています。この言葉を聞いてペトロはイエスをいさめました。イエスの身の上を案じて、神の子として栄光の道を歩むように、と忠告したのです。するとイエスはペトロに「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わないで、人間のことを思っている」と言われました。「サタン、引き下がれ」は、荒野でサタンを退かせた言葉です。十字架に歩むのを止めようとするペトロに、同じサタンを見ているのです。
人間的な思いは、苦しみを受けて殺されるのは嫌で、楽しく快い歩みをした方がいいです。イエスも出来るならその道を歩みたい、と祈っています。しかし、私の思いではなく、御心がなるように、と祈りを結んでいます。神は罪人の人間を救いたい、これは我が子にしか出来ない、と思われ、その道をイエスに与えられたのです。イエスは、この十字架の道を自分の道と受け入れたのです。それは、罪の人間を救い、神の栄光を現す道です。
ヨブ記のヨブは、正しい人で神を拝み祝福を与えられていました。神は、サタンが来た時サタンに、ヨブの正しさに注目し評価するように、ヨブを示しました。するとサタンは、「人間は利益がなければ神を敬うことはしない。もし財産を失ったらヨブは神を呪うでしょう」と言いました。サタンは神に逆らう敵です。そこで神は、サタンの思いが正しいか試すために、ヨブから財産や子を奪うことを認めました。しかし、ヨブは神を畏れ賛美しました。1:20-22にある通りです。このヨブによって神はサタンに勝利したのです。
主イエスは、十字架を予告した自分をいさめたペトロに、サタンを見ました。人間のことを思って神のことを思わない、と叱責されました。人間のことを思う。これは現代だけではなく、いつの時代にも大事なことです。しかし、神の御計画御心を思うことはもっと重要なことなのです。
主イエスは、「私に従う者は、自分を捨て、自分の十字架を負って私に従いなさい」と弟子たちに言いました。主イエスの十字架は、主イエスに与えられた道で、サタンに勝利して、罪人の人間を、罪から解放し新しい命に生きる者にしたのです。その新しい命に生かされている者に、自分の十字架を負って私に従いなさい、と言っているのです。自分を捨てて、神から与えられている使命と責任を誠実に負って歩むのです。日本には「滅私奉公」という言葉があり、「お役に立ちたい」と言う人もいます。イエスに従う歩みは、孤独でも虚しくもない。神とイエスが共にいて下さり、実りがある充実した歩みなのです。
2009年3月8日
説教題:悪霊を追い出す主
聖書:マタイによる福音書 12章22-32節
【説教】
目が見えず口の利けない人がいる。どうしてこの人がこのような辛い悲惨な身になったのか。22節に「悪霊に取り付かれて」とその理由が記されています。
この人の責任ではない、周囲の人の責任でもない。この人は悪霊に支配されているのです。悪霊の力に対して人間は無力です。悪霊の力から解放されて自由になるのには人間以外の力によらなければ不可能だということで、このような境遇の人は、迷信やいろいろなものに救いを求めます。今も昔も多くの人が行なっていることです。
この人がイエスによって癒されたのです。ものが言え、目が見えるようになったのです。これを見た群集は皆驚きました。我を忘れ、正気を失うほど驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」、と言ったのです。これはイエスをこのように見直したということです。ところが、同じ出来事にファリサイ派の人々は別の反応をしました。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せない」と言ったのです。「この者」イエスは悪霊の頭だから部下の悪霊を追い出せたのだ、と群集の驚きに心で反発したのです。
この反応の違いは、この世を支配している力は何か、という先入観、心を支配している考えの違いによるのです。群集は、自分は無力で間違えのある人間だ、この世界を支配しているのは愛と真実の神だと思っているので、悪霊に支配されていた人が解放されたのを見て、この人は神からのメシアではないか、と素直に思ったのです。それに対してファリサイ派の人々は、自分たちは正しい、自分たちが神に託されてこの世界を治めている、自分たちの仲間以外の人間イエスが悪霊を追い出すのは神の力ではなく悪霊の力によってだ、と思ったのです。12:14でファリサイ派の人々はイエスを殺そうと相談しています。
イエスは彼らの考えを見抜き、「国も家も内輪争いしたら成り立たない。サタンがサタンを追い出せば内輪もめだ。あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」と言われました。神はあらゆる人を用いて、ファリサイ派の人をも用いて御心を行われます。しかし、決定的なことはイエスによってなされるのです。心が先入観に捉えられていて頑なですと、イエスを通して行なわれる神の御心を素直に受け入れることが出来ないのです。
イザヤ書35:5-6に語られている、神の救い、神の栄光が現れる時、その約束の時がイエスと共に来た、とここで聖書は記しているのです。私たちはこれを素直に信じるのです。
イエスは悪霊と戦われただけではありません。イエスは最も強力な悪霊を追い出されたのです。30節は、イエスによって神の国が来ている、だからイエスの御支配の国に生きるか、イエスは神の力を持っていない、自分が正しいと思う世界に生きるか、私たちは決断が迫られている、と言っています。イエスに対しての信仰的決断です。
その決断の結果は終わりの裁きの時にはっきり現されるのです。
31節で「だから言っておく」とイエスの最後的な警告が語られています。神がイエスによって行なっている御業を、見て知っていながら、故意に逆らうことをするな、と。
2009年3月1日
説教題:何を拝むか
聖書:申命記 30章15-20節 マタイによる福音書 4章1-11節
【説教】
今日の聖書のイエスは、肉の人間の弱さを身に帯びていることが強調されています。
荒野で40日間断食をされ空腹を覚えられました。そこに悪魔が来て「神の子ならこの石をパンになるように命じたらどうだ」と誘惑したのです。悪魔はイエスに神の子の自覚を呼び覚まさせて、肉の人間の弱さに呼びかけたのです。しかしイエスは、神の言葉に聞き従って生きると言って、悪魔の誘惑の声に従いませんでした。
悪魔はイエスを高い山に連れて行って、世とすべての国々とその繁栄を見せ「もし、ひれ伏して私を拝むならこれを皆与える」と言いました。ここで悪魔はあたかも見せているものが全て自分のものであるかのようにイエスに示し、「私をひれ伏して拝むならこれらを皆与える」と言ったのです。肉の人間は、自分の命と平安を求めるだけではないのです。力を求める、財力、権力、支配力を求める。その欲望には限りがないのです。また反対に、弱いこと、支配されること、見下げられることには耐えられないのです。悪魔はこの世のものを実際に自分のものにしているように見えます。お金や力を自分のものにしたい、そのためには悪魔と手を結ぶことが必要だ、と思われるのがこの世の現実です。悪魔はイエスに、唯神に愛されている子というだけでなく、自分と手を結んで、この世の力を実際に自分の手に持たないか、と誘惑したのです。
出エジプトで荒野の旅をしたイスラエルの民も、いろいろな誘惑や試練を受けました。旅の間、神が民に繰り返し言ったことは、言葉や表現は違っても、申命記30:15-20で言っている「あなたの神、主を愛し、その導きに従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得かつ増える。もし聞き従わず、他の神々を拝み仕えるならば、--必ず滅びる」です。荒野でこの民は、他の民が拝んでいるものを拝もうと金の子牛を作って拝みました。偶像を拝みました。その度に民は神から罰を受け、悔い改め神に立ち帰ったのです。
世界と歴史の真の所有者で支配者は、悪魔でも偶像でもありません。造られたものは命も力もないのです。
イエスは「退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ、と書いてある」と、申命記6:13の言葉で悪魔を退けました。この言葉は神の子イエスだけに与えられている言葉ではありません。神の民すべてに、この言葉を確かな自分のものにして、この言葉で生きるようにと与えられている言葉です。ところが、イスラエルの民は、自分たちのメシアはこの世界と歴史を支配する王で、自分たちはその王と一緒に世界と歴史を治める民になる、と信じたのです。そのようなメシアは悪魔と手を結んでいる偽メシアです。
主イエスはご自分が力ある者になるのではなく、神に仕えて十字架に歩まれました。そして、十字架の死で終わるのではなく、復活され「私は天と地の一切の権能を授かっている」という真の力を神から与えられたのです。この神の前では悪魔は力のないことがはっきりしているのです。私たちの歩みはこの十字架に歩む主イエスに倣い従う歩みです。
2009年2月22日
説教題:安心しなさい、わたしだ
聖書:イザヤ書 30章12-17節 マタイによる福音書 14章22-33節
【説教】
教会は昔から舟に例えられています。ノアの箱舟に教会を見る人がいます。今日の聖書の舟が自分たちの教会の姿と歩みを示している、と見る人がいます。
主イエスの指示に従って弟子たちだけが船に乗り、舟はイエスが示す目的地に向かって進み出しました。この船に乗るのは弟子たちの自由意志ではないのです。イエスの強い意志があり、主の意思に従って弟子たちは一つの舟に乗ったのです。舟はそこに留まっているのではなく、主が示す目的地に向かって進んで行くのです。教会も同じです。
舟を出発させた後、主イエスは祈るために山に登られました。自分の使命を果たすために祈ったでしょう、そして弟子たちのために、その船のためにも祈ったでしょう。船の中に主イエスの姿はありませんが、弟子たちも舟もイエスに忘れられてはいないのです。
舟は逆風のために悩まされることになりました。舟が進んで行く時このようなことが起こるのです。教会の歩みにもこのようなことが起こります。舟にはその湖で漁師だった者がいましたが、自分たちの経験や力では舟を自由に進ませることが出来ない状態になったのです。弟子たちは解決策を失い不安と、恐怖に支配されました。
そのとき弟子たちは湖上を歩いてくるイエスを見ました。しかし不安と恐れの中にいると悪い想像をしていくのです。弟子たちは悪い者が迫ってくるように見てしまいました。「幽霊だ」と怯えて叫び声をあげました。これがイエスの弟子たちの姿なのです。
するとイエスが語りかけたのです「安心しなさい。私だ、恐れることはない」。その声は優しく、確信に満ちた力強い声だったと思います。この主イエスの声をはっきり聞くことが大事なことです。先入観や不安、恐怖に捉えられていては見るものも正しく見えないのです。イエスの言葉を聞いてペトロの目が開け、イエスと認めることができました。イエスの言葉を聞いてイエスを知る。これが信仰です。
ペトロはまだ逆風が吹いていて波が荒い中でイエスを確認すると安心して言いました。「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と。ペトロは、自分もイエスと同じ水の上を歩く奇跡の歩みをしたいと思ったのではなく、主と交わりをして不安と恐怖から完全に解放されて平安と新しい命を得たいと思ったのです。イエスは「来なさい」と言われました。ペトロは喜んでイエスの方に歩み出しました。荒波の上をイエスの方に進んで行ったのです。ところがペトロは強い風に気付き怖くなりました。それで沈みかけたのです。自分の限界も波風など周囲のことも考えないで、そられに捉われないで、主イエスを見てその言葉に従って歩んでいる時には、ペトロは湖上を歩んでイエスに近づくことが出来たのです。そして、沈みかけたペトロが「主よ、助けてください」と叫ぶと、主は手を伸ばして捕らえ助けました。これが教会の歩みなのです。
今日のイザヤ書で神は「お前たちは、立ち帰って 静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と言っています。
2009年2月15日
説教題:闇の中で知る主の愛
聖書:列王記下 5章1-14節 コリントの信徒への手紙二 12章1-10節
【説教】
日本キリスト教団の教会歴によると、今日の主題は「いやすキリスト」で、今日の聖書、旧約の列王記下はナアマンの重い皮膚病が癒されたことを、福音書はマタイ15章21-28節でカナンの女の娘が癒されたことを記しています。
所が今日のもう一つの聖書コリント二12:7-10では、パウロが体に刺さったとげを取り去るように神に祈ったけれど神は取り去って下さらなかった、と語っているのです。それなのにパウロは、とげは取り去らなかったけれど、神は癒してくださった、恵みが十分に与えられていることを知った、と言っているのです。
病は医学的に判断され、医学的に癒されます。しかし聖書は、病が神によって癒される、信仰によって、祈りによって癒される、と語っています。このことは、信仰や祈りがあれば医者や薬はいらない。病が治らないのは信仰と祈りが足りないからだ、と言っているのではありません。信仰によって病が治ることがあるでしょう、しかし、医学的な癒しと信仰による癒しは違うのです。ナアマンもカナンの女も、その癒しは単に医学的に治ったというだけでなく、神の愛を知り、福音の光を与えられて、新しい人にされたのです。
パウロも、当時医学的と思われていることは行なったでしょう、そして何度も真剣に祈ったのです。それでも医学的には治らなかった。所がパウロは、治らないところで神の声を聞いたのです。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と。それによってパウロは、キリストの力が自分の内に宿って力を発揮し続けるように弱さを誇る、と新しい人になったことを喜んだのです。このことをパウロは、12:1-7で素晴らしい体験をしたと語った後で、福音の光りは素晴らしい体験よりもここにある、と語っているのです。パウロのとげが何か分りませんが、ガラテヤ4:13以下に記されている病だろうと言われています。その病は、肉体を痛め弱めると共に、人に忌み嫌われるもので、伝道の妨げになるものでした。しかし、その病がきっかけになってガラテヤの伝道が行なわれた、とそこで言っているのです。
聖路加病院の日野原重明先生は、「病気が病人をつくる。医者は病気よりも病人を相手にすべきだ。治らない病気の人でも、絶望して自分を失うのでなく、病気を受容して、病人ではなく、人間として生きるように助けることは出来る」と言っています。
病気が医学的に癒されて治ることは素晴らしいことです。救いであり福音です。しかし医学的に健康な人でも闇の中に生きる人はいるのです。反対に、医学的この世的に闇の中にいるのに神の愛を知って、光に生きる人がいるのです。9歳で赤痢の高熱のため脳性まひになって寝たきりになった水野源三さんは、13歳の時信仰をもって洗礼を受けました。そして47歳で召されるまで寝たきりでしたが、神の愛を賛美して生きました。
例え闇といわれる状態の中にいる人でも、神の創造と十字架の愛によるご支配を謙遜に信じ、神の愛に自分の全てを委ねるとき、神に癒され、新しい人にされるのです。
2009年2月8日
説教題:祝福を告げる主イエス
聖書:マタイによる福音書 5章1-12節
【説教】
私たちは幸せを求めています。青い鳥を見つけたい、幸せがあるなら、山のかなたの遠くまでも捜しに行きたい、との思いを持っています。それは現在の自分の生活に幸せを感じていないからでしょう。幸せはどんなものなのでしょう。幸せは憧れでしょうか。
主イエスは近寄ってきた弟子たちに、「何と幸いなのだろう、貧しい人たちは」と語りだしました。ここで主イエスは幸せについての定義や教育を始めようとしているのではありません。「ここに幸いがある。幸いな人がいる」と告げているのです。
「何と幸いなのだろう、心の貧しい人たちは」は、「幸いな人になるために貧しい人になりなさい」と言っているのではありません。「今私について来ているあなたがたは、心が貧しくなっている。だから幸いだ。天の国はあなたがたのものだ」と言っているのです。
ここで「心の貧しい人」と言われている人は、人間の深い心が貧しくて人間性を失っている人です。心が貧しいと野獣の心になって、愛を失い、他人を受け入れることが出来なくなる。心が広く、豊な人が人間性をもっている人です。しかし、神の前で自分は心が貧しいと真実に告白する人は、主イエスの十字架の愛に生かされていることを知るのです。ですから、自分の愛の力や知恵によって生きるのではなく、神の愛によって生かされる人になるのです。神がご支配される天の国に、神のご支配の中に生きる人になるのです。
この山上の説教は、神の子である主イエスが弟子たちに語っていることが重要です。特にイエスが告げている祝福の言葉は、弟子たちでなければ祝福にならない言葉です。11,12節は「私のために迫害を受けるとき、あなたがたは幸いである」と言っています。他の理由でののしられ、悪口を浴びせられることは幸いと関係ないのです。このことは3-10節の幸い全体に言えることです。
私たちも主イエスの弟子たちの中に入っています。私たちにも主イエスは、心の貧しい人々、と言っているのです。神の前に誇るものは何もないのです。それ故、神から戴く恵みと愛によって生かされているのです。そこに幸いがあるのです。そのことを知っているから、神の愛に支配されて、心広く心豊な人になれるのです。
4節の「悲しむ人々」も神の前で悲しむ人です。罪に悲しむ人、その人は十字架の愛によって赦され強い慰めが与えられるのです。この世で理解されないで神の前で孤独に悲しむ人も、神が傍らに居て理解し見方になってくださることを知って慰めを得るのです。
この世の人は、ここに幸せがある、これが幸せだ、と勝手に言います。そのような声や指示に迷わされてはいけないのです。主イエスと共にいることが、貧しさや悲しみを知ることになっても、そこに真の幸いがあるのです。主イエスは弟子たちに、あなたがたはこのように幸いな者だ、と告げているのです。ですから私たちはその幸いな者に相応しく生きるのです。自分が天の国の民にされていることを喜ぶだけでなく、この罪の世で苦しみ戦っている人に、悲しみにいる人に、この幸いに生きるよう愛をもって勧めるのです。
2009年2月1日
説教題:ここは神がいます家
聖書:創世記 28章10-19節 マタイによる福音書 21章12-17節
【説教】
ヤコブは双子の兄エサウとの仲が悪く、遂に兄から「殺してやる」と言われるまでになってしまいました。それで母の勧めもあって、母の兄の所に逃げていくことになりました。ヤコブは暗い孤独な逃亡の旅を始めてベテルの地に来ました。日が暮れ、疲れもあってヤコブは眠りました。そして夢を見ました。
夢の中に天まで達する階段が現れ、神の使いが天と地の間を上り下りしていました。そこに神ご自身がご臨在してヤコブに語りかけたのです。「自分は、あなたの祖父に現れ約束を与えた神である。私はあなたの祖父の与えたのと同じ約束をあなたにも与える、居場所を与え、子孫を砂粒のように多くし、祝福を与える。私はあなたと共にいる。どこに行っても必ず守り、約束を果たすまで決して見放さない」。ヤコブは神と交わり、神の言葉を聞き、約束を与えられて、孤独ではなくなりました。新しい人間に生まれ変わったのです。それで神と出会ったその場所をベテル「神の家」と名付けました。
神と出会って、神の言葉を聞き、神から力を与えられて歩むことは非常に重要なことです。それで、その後ベテルは重要な礼拝の場所になりました。イエスの時代にはエルサレムの神殿が礼拝の場所とされていました。神と交わるためには神に喜ばれる人であり、神に喜ばれる捧げ物が必要とされました。
マタイ21:12に、神殿の境内で売り買いする人や両替人がいるとありますが、これらの人々が行っていることは、礼拝のために必要とされていることで、神の民の律法でも認められていることでした。所がイエスはそれらの人を境内から追い出したのです。神殿は神の家です。神が主人で、神が治めている所です。イエスはイザヤ56:7の言葉で、神の前に出て神とお会いするのは砕けた心があればよいのだ、その心が大事なのだ、と言ったのです。イザヤ56:3-5では、異邦人、宦官、不完全な者でも真心から神を求める者に差別なく神は交われる、と言っています。そしてイエスは、エレミヤ7:11を引用して、神の家なのに人間が自分を主人にし、神の物を自分の物として、自分たちは神殿で礼拝しているから神に守られている、と安心している。強盗と同じで、神殿を自分たちの欲望を満すために利用し、その行為に対して安心を得る場にしている、と言ったのです。
神殿は神の居ます所で、神の家と重んじられてきています。しかし、生ける神はこの世界と歴史のどこにでもいらっしゃるのです。神と交わる所は、場所や建物に限定されないのです。神は心砕いて祈る者には、この世的なもので差別することなく、ヤコブに顕れたように、どこにあっても神の方から求める者のところに来て交わり、孤独で不安の中にいる者にあなたと共にいる、と語りかけてくださるのです。
神が居ます所で神と交わるのは、私たちが主人になって私たちの勝手な言動に安心を与えるものではないのです。神が居ます神の家は、神が主人で神が治めている家なのです。私たちが神にとって新しく生かされるところなのです。
2009年1月25日
説教題:ガリラヤで伝道を始めた
聖書:イザヤ書 8章23-9章3節 マタイによる福音書 4章12-17節
【説教】
主イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ユダの地からガリラヤに行きました。ルカは「霊に満たされてガリラヤに」帰ったと書いています。
ヨハネが捕らえられたと聞いて、イエスはヨハネの時は終わった、預言者の時からメシアの時になったと自覚され、宣教を始められたのではないかと思います。宣教を始めるのにどこが一番よい場所か。宣教がやり易いか、将来性があるか、などいろいろ考えるでしょう。主イエスはガリラヤを選んで宣教を始めたのです。それは、人間的な考えやこの世的な条件を調べて決めたのではありません。伝道は神によってなされるのです。イザヤ8:23を引用して、ガリラヤを宣教を始める地にした説明がされています。
ガリラヤの地は、イスラエル部族の地、神の民の地ですが、異邦人の地になっている。神を失い、光を失っている。とイザヤは言っています。イザヤ8:19-22で、神の民が神を捨てて、口寄せや霊媒まじないに頼っている、暗闇の中に追放された状態になっている、と言っています。9:1で「闇の中を歩む民は光を見る。その地に光りが輝いた」と言っています。それをマタイは「光りが射し込んだ」光りの活動が始まった、と言っています。イザヤの言葉が今イエスによって実現した、と言っているのです。
イエスは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えました。この言葉は3:2でヨハネが語っているのと同じ言葉です。しかし内容は違います。ヨハネは、イエスのよる神の支配が近づいているから神の国を迎える準備をしろ、と言っているのですが、イエスは、私と共に神の支配が来ている、だからあなたがたは自分中心の考えや生き方を捨てて、私のもとに来て神の国に生きる者になりなさい、と言っているのです。ですからイエスの言葉を聞いて従った人は、神からの光りを与えられ、その光りに大きな喜びと楽しみを与えられるのです。主イエスの時から伝道は、私たち人間の知恵や力によってではなく、何よりも主ご自身が先立ってなされるのです。私たちはその主の業に従い参与するのです。
全世界に広まった伝道は、主イエスがガリラヤで始められたのが出発点になっているのです。伝道は暗闇の地に光りが来ていることを告げるのです。「悔い改めよ」と告げるのです。人々に、暗闇の力に支配されている歩みを捨てて、方向転換して、光の道を歩むようにと迫るのです。暗闇の中で光をそっと溜め込むのではなく、良い教え素晴らしい生き方の一つとするのではなく、暗闇の世界に居る者から光の世界に生きる者に転換することを迫るのです。真の光りが来ていることを知らせて、今居る世界が暗闇の世界で、闇の民になっている現実に目覚めさせるのです。
闇の中に居る人は、そこが闇であることも、光がきていることも気付かないで居るのです。現代でも情報は、管理されたものしか与えないでいるか、自分が好みの情報しか入手にしないのです。そこで私たちは、世界も日本も闇の世界ではなく、福音の光りが支配していることを、世界の人が知って光りの中を歩むように祈り、伝道に励みたいと思います。
2009年1月18日
説教題:網を捨てて従った
聖書:マタイによる福音書 4章18-22節
【説教】
主イエスが神の子として福音を述べ伝え始めて最初になさった御業は、漁師を弟子に招くことでした。主イエスがガリラヤ湖の辺を歩いておられる時、シモンとアンデレの兄弟をご覧になった。「私について来なさい」と呼びかけると二人は網を捨てて従いました。
イエスは、御業をなさるために、人間を弟子として用いられたのです。イエスは、人間を救う神の業を人間の手を必要としないで、お一人で行うことが出来るお方です。しかし、世界の人を救うために、イエスは人間を弟子として用いたのです。教会を建て、私たちを教会に招き入れて、御業に参与させてくださっているのです。
漁師たちは主イエスに招かれることを期待していなかったと思います。二人は網を打って漁をしている時で、別の二人は網の手入れをしている時です。生活のための仕事をしている時に「私について来なさい」と呼びかけられたのです。主イエスの一方的な招きです。しかしイエスは、歩いていて、たまたまそこにいた漁師に声をかけたのではないと思います。ルカ6:12以下には、イエスが弟子を選ぶのに夜通し祈ったと記されています。招かれた者は突然でも、イエスは祈りをもって一人一人を招いているのです。そのイエスの祈りが招かれた者の内に働いて彼らは従ったのでしょう。このことは私たちにも起こることです。突然の出会いによって人生が変わることは誰にでもあることですが、特にイエスとの出会いには内なる神の働きがあって、変えられることがあるのです。
イエスに従うのは、私たちが主人として相応しいと調べて合格したと選んで従うのではありません。招き給う主が、主体性をもって、御旨によって呼びかけ招くのです。その呼びかけに漁師たちは従ったのです。天の国は神が支配される国です。神と人間が話し合って治める国ではありません。人間は神のご支配に従う、神の言葉に聞き従うのです。
イエスに招かれた漁師たちは網を捨ててイエスに従いました。自分の仕事を捨て、自分の経験や力をも捨てて、イエスを信じ従って生きる者になったのです。捨てることはそのものから解放されることです。私たちは、これ大事なものと旧いものに固執してなかなか捨てられない、それで旧いものから解放されない、自由になれないのです。しかしここでは、新しく得る生き方がある、捨てて失うものよりも新たらしく得るもののほうが遥かに大きいので、喜んで網を捨ててイエスに従うことが出来たのです。新しい命を得たのです。
イエスの招きは、単なる指示ではなく、新しい存在と新しい歩みへの創造です。自分の生活や自分の家など自分中心の世界から、神の世界に生きる者に創造されるのです。イエスはその能力を見込んで弟子に招くではありません。イエスに従った漁師たちは、この後素直で立派な弟子として歩んだのではなく、イエスが相応しい弟子にして下さるのです。
イエスは祈りをもって私たちを招き、責任をもって導き、主の弟子として歩ませて下さるのです。私たちは日々古い自分を捨て、自分を支配し縛っている自分中心の罪を捨てて、主イエスによって新しくされて生かされるのです。
2009年1月11日
説教題:天が開け、霊が下った
聖書:イザヤ書 42章1-4節 マタイによる福音書 3章13-17節
【説教】
洗礼者ヨハネは、罪を悔い改めて神に立ち帰るように、人々に洗礼を授けていました。その洗礼を受けるためにイエスもヨハネの所に来たのです。ヨハネはイエスに気付きました、そして「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに」と洗礼を授けるのを躊躇しました。しかしイエスは、「今は止めないで欲しい、正しいことをすべて行うのは、我々に相応しいことです」と言って、ヨハネから洗礼を受けられました。
「我々」はヨハネとイエスです。洗礼を授けるヨハネも、洗礼を受けるイエスも、今神の前に正しいことを行うべきだ、と言っているのです。洗礼は神が定め命じていることです。人間の考えや判断で決めたり、行ったりするものではありません。ヨハネとイエスのどちらが上か、どちらがより正しい人か、と言う人間的な評価はここでは問題ではないのです。今神から自分に与えられている努めを正しく行う。そのことがヨハネとイエスに求められていることです。これは教会が行っている洗礼についても言えることです。
しかし、イエスがヨハネから、罪人が罪を悔い改める洗礼を受けることが正しいことなのでしょうか。イエスは、神の子ではないのか、罪人だったのか。この疑問が初代教会の時からありました。その一端を3:14-15に見ることが出来るのです。
ここでイエスは、自分を神の前で正しく知って、自分の意志で積極的にヨハネから洗礼を受けられたのです。イエスは、自分が神の子であることを自覚されながら、罪人の一人になって洗礼を受けられたのです。イエスは、自分は神の子で罪人ではないと、孤高を保ったのではありません。
イエスが洗礼を受けて、水から上がると、天がイエスに向って開いたのです。今まで閉じられていた幕が開いて、天の一番奥までイエスに明らかに示されたのです。そして神の霊がイエスに降ってくるのを見たのです。この洗礼によってイエスは、神の心を知り、神の霊が宿り、神と一つになったのです。イエスは御自分の使命と責任を示され、それを果たす意思と力を与えられたのです。
その時天から「これは私の愛する子。私の心に適う者」と言う声がありました。この言葉はイザヤ書の言葉と結びついている言葉です。神はイエスを愛する子、私の心に適う者と言って励ますと共に、周りにいる者たちにイエスをそのように知って受け入れよと命じているのです。
イエスは、罪人の一人になって、罪人の罪を負い十字架によって贖われ、その使命を自覚して、その努めを遂行する歩みをこの洗礼によって明確に始められたのです。
その救いの業はイエスが独り孤独に行うのでは実を結びません。罪人である人間がこの御子イエスを正しく知って信じて従うとき救いの業が実を結ぶのです。そして救われた者は、この御子イエスと父と聖霊の名によって洗礼を受けて、キリスト者として歩むのです。そのキリスト者を、神はイエスにあって愛する子、心に適う者としてくださるのです。
2009年1月4日
説教題:主イエスの最初の旅
聖書:マタイによる福音書 2章13-23節
【説教】
私たちはクリスマスの光の中で新しい年を迎えました。しかし、暗い、闇や罪が支配しているような報道が次々とされています。クリスマスの光はどこにあるのでしょう。
クリスマスに誕生した御子イエスは闇や罪と関係のないお方ではないのです。罪人を救うために闇の世に光りとして誕生されたのです。そのことは、神の子が馬小屋に誕生されたことにも現されています。御子イエスはこの世で弱く貧しい者が強いられている辛い歩みを御自分のものとされたのです。
そして、誕生されたイエスの最初の旅は、ヘロデ王の手から逃れるエジプトへの旅でした。私たちにとって光りや喜びは何でしょうか。自分の欲望が満たされ、思いが適うことでしょうか。ヘロデは自分の欲望を満たし、権力を維持するために自分の妻子をも殺したのです。神は天の軍勢でイエスをヘロデ王から守ることも出来たでしょう。しかし、神はヨセフに「起きて、子どもとその母親を連れてエジプトに逃げなさい」と言いました。
ここで大事なのは、神に何が出来るかではなく、神は何を望んでいるか、何を命じているかです。神は、御子イエスがこの世の罪を御自分のものとして味わい担うことを、望まれたのではないでしょうか。自分の知恵や力で罪に対するのではなく、神の言葉に聞き従うことで対応するように命じられたのです。ヨセフはその言葉に直ぐに従いました。主イエスは、その歩みの初めから十字架の死に至るまで、神に従順な歩みをされたのです。
16節以下に残虐な出来事が記されています。この出来事は神の業ではなく、罪の人間が行なったことです。罪の人間は自分中心でこのようなことをも行なうのです。残虐なヘロデに対して、神は上回る残虐で報復して滅ぼすのではなく、神の言葉による勝利、十字架の義と愛による勝利の道をイエスに与えられたのです。そして、ここで神はヘロデに敗北したのではなく、ヘロデはイエスに無力で指一本触れることが出来なかったのです。神は唯イエスだけを守ったのではありません。神の言葉に従って歩む者を守られたのです。ヨセフもマリアも神の言葉に積極的に従うことで守られたのです。
ヘロデ王が死んで、主イエスはイスラエルの帰り、ナザレに住むようになりました。ナザレ人は貧しく小さな存在を意味します。そのことは、私たちの小さな存在と生活が神のご計画に結び付けられていると言うことです。暴虐な王が支配し、人間の力が動かしているように見えるこの世界は、実は神が支配し、神の御心が行われている世界なのです。
この主イエスの最初の旅は、神が約束されたことの成就の旅でした。聖書はそのことを15節、17節、23節に繰り返し語っています。この世界は、今年も闇と罪が支配しているように見えることがあるでしょう。自分の力の弱さに絶望的な無力感を思わされるときがあるでしょう。しかし、闇の力は一時的で命をもっていません。イエスを誕生させ歩ませてくださった神がこの世界と歴史の真の主なのです。私たちはこの年、御子と共に、神の言葉に耳傾け、導かれ、励まされて歩んで行きたいと思います。
2008年12月28日
説教題:東方の学者たちが御子を拝む
聖書:マタイによる福音書 2章1-12節
【説教】
今日は今年最後の主日礼拝です。またクリスマスの光りの中での礼拝です。
人生を旅に譬えて語ることは昔からあります。聖書も信仰生活を旅として語っています。
クリスマスの時、東方の学者たちが星に導かれて御子イエスの所に旅をしました。この学者たちの旅は、私たちの人生について、また日々の歩みについて考えさせます。
先ず、この学者たちは星を通して神の言葉を聞いて旅立ちました。この学者たちは、気まぐれや、自分の考えで旅立ったのではありません。次に、学者たちは「ユダヤ人の王がお生まれになった。その方を拝みに行く」という目的をもっていました。神から歩む道を示され、目的をもって旅立った。人生をそのように歩むことは非常に重要なことです。
気まぐれや自分だけの思いで何かを始めても、暫くすると虚しくなり、苦労を感じると簡単に投げ出します。子どもは泣き喚くほど求めていて、喜んで始めたことでも、他の事に興味を持つと簡単に投げ出します。大人でもそのような人がいます。
現代は、自分の道は自分で探せ、目的や目標は自分で見つけろ、と言います。しかし、個人が人生の道や目標を見つけることは、芸術家など一部の人の以外は、殆ど不可能です。自分が今ここにこのような人間として神に生かされている、と神を信じて神から自分に与えられている道や目標を示されるということが必要だと思います。そして、この学者にとっての星、神からの目的を示して旅立たせる星は、各自に与えられていると思います。
学者たちは、神から今自分に与えられている努めとして、忍耐強く夜星を調べ続けていました。それで星が語る神の言葉を聞くことが出来たのです。そして、神が示した目的を果たそうと、生活の場を離れて、旅立ったのです。旅は冒険です。先に何があるか分らないのです。昔のことです、旅立つ前に得る情報は少なく、苦労や辛いことの多い旅だったでしょう。しかし、学者たちは神を信じ忍耐して、示された道を進んだのです。
学者たちは、幼子の所に導かれ、幼子に出会いました。その時、学者たちは、神の約束は真実で、長い旅の目的は果たされた、苦労と辛いことが多かったが意味ある旅だった、と思ったでしょうか。そして神がこの世界と歴史を治めていることを信じて喜んだのです。
このことは私たちの人生についても言えることです。私たちは、誕生の時から神にあって歩み、神から示されて親離れして人生の旅を歩む、その終わりの時に、神にあって感謝の意味ある人生だった、と言えるのではないでしょうか。学者たちはそのように生きることが、神から与えられた人生を生きることだ、と語っているのです。
学者たちは、御子を礼拝しました。そこに神のご臨在を見て、今までの歩みを感謝すると共にこれから御子に仕えて歩むことを示しています。幼子の王はどんな捧げ物でも喜んで受けてくださいます、またどんな働きでも意味あるものとしてくださる王です。
私たちは今年最後の礼拝で、学者たちと一緒に御子の誕生を喜び、この年の歩みを振り返り、神に導かれた歩みであったこと、意味ある歩みであったことを感謝したいと思います。
2008年12月21日
説教題:神は我々と共におられる
聖書:マタイによる福音書 1章18-25節
【説教】
イエス・キリストのお誕生を、私たちはどうしてお祝いするのでしょう。
18節に、イエスの母はマリアで、マリアはヨハネと婚約していたが、二人が一緒になる前に聖霊によって身ごもった、と記されています。「身ごもっていることが明らかになった」とありますが、これはマリアが自分が身ごもっていることを見つけた、ということです。
イスラエルでは婚約したことは結婚したことと同じ意味をもっていました。19節に「夫ヨセフ」と記されています。婚約者したら男は夫という立場になるのです。ヨセフは身に覚えのない子をマリアが宿していると知って、「正しい人であったので、マリアのことが表ざたになることを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」のです。
「正しい人」とは、神の前に正しい人です。神にあっては、姦淫は罪で、罪は憎み退けるべきものです。ヨセフはマリアを受け入れることは出来ない、イスラエルの民も姦淫の女を受け入れない。死刑以外ない。そこでヨセフは誰にも知られない内に縁を切ろう、と決心したのです。マリアに問題を投げて縁を切ろうと決心したのです。この時マリアもヨセフも、お互いに理解し合えず悩み苦しみ孤独だったと思います。この理解し合えない二人の悩みと孤独は、私たちも、夫婦でも親子でも人間誰でも、持っているものです。
その時天の使いがヨセフに「ダビデの子ヨセフよ。恐れず、マリアを妻として迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む、その子をイエスと名付けなさい。この子は民を罪から救うからである」と言いました。孤独で悩んでいたヨセフに、神の使いが、あなたを理解しているよ、と語りかけたのです。ヨセフは慰めと力を与えられたでしょう。ヨセフは決断してマリアを妻に迎え入れたのです。
ヨセフがマリアの夫になってイエスが生まれた。このことが非常に重要なことなのです。イエスは2-16節に記されている系図に結びついて誕生したのです。天使がヨセフに言った「自分の民」は、直接にはこの系図に結びついているイスラエルの民でしょう。しかし神はアブラハムに「地上の諸国民はすべてあなたの子孫によって祝福を得る」(創世記22:18)と約束しているのです。イエスはこの約束の成就なのです。地上の諸国民すべてを自分の民として、神が共にいてくださる、という祝福、神の命と喜びを与えるお方なのです。
「イエス」は「神は救い」という意味の名前です。この世界に神の救いが来たのです。「この子は自分の民を罪から救う」と天使は言いました。2-16節のヨセフの系図は罪人の系図でもあります。肉の人間は皆罪人なのです。その罪人を救うためにイエスはこの世に誕生したのです。イエスの救いに私たちも除外されてはいないのです。
イエスにはもう一つインマヌエルという名前があります。「神は我らと共におられる」という意味の名前です。神から離れて自分中心になっている、神に背を向けている、そのために行き詰まり、悩み苦しみ、闇の中に孤独でいる私たちと神は共にいて下さるのです。神が共にいてくださるお方がこの世界に誕生したのです。それがクリスマスなのです。
2008年12月14日
説教題:主と共に生きるために
聖書:士師記 13章2-5節 マタイによる福音書 11章2-15節
【説教】
クリスマスの前に登場するヨハネは、神の子を迎え入れるために悔い改めのバプテスマを授ける者である、と共に、救い主の先駆者である、という大きな存在です。
マタイ11:2,3は、ヨハネが牢の中でイエスのことを聞いて弟子をイエスに遣わして「来るべき方はあなたでしょうか」と尋ねさせた、とあります。「尋ねさせた」の言葉から、ヨハネは、辛い生活から救い主は未だか、イエスが待っている救い主か、と迷いや不安をもっていたと読む人がいます。又、ヨハネはバプテスマを授けた時からイエスが神の子だと確信していたが、弟子たちに来るべき方を教えるために尋ねさせたと読む人もいます。
しかし、口語訳は「自分の弟子たちをつかわして、イエスに言わせた」となっていて、ヨハネはイエスに質問しているのではありません。私は、この時ヨハネはイエスに対して迷いも不安もなかったと思います。2節に「キリストのなさったこと」と記されていることは、イエスがキリストであるとヨハネも福音書の著者も確信していることを示しています。ヨハネは、イエスにあなたが待つべきお方で、他に誰も待つことはないのですね、と自分の確信を告げているのです。このヨハネの信仰告白に、イエスが応答してヨハネの弟子に「行って見聞きしていることを伝えなさい。私に躓かない人は幸いである」、誘惑や障害があっても躓かないヨハネは幸いだ、と言っているのです。
ヨハネは神の御支配の到来を確信して身をもって伝えました。そのために牢に入れられたのです。その命と生涯の全てで、イエスが救い主だ、と先駆者として伝えたのです。先駆者は、士師記13:5で「救いを始める者」の意味で使われていますように、来るべき者と一体になっているのです。ヨハネによって来るべきお方イエスが示されているのです。
主イエスはヨハネの弟子たちが帰ると、群衆にヨハネについて話しました。ヨハネは預言者以上の者である。ヨハネは、来るべきお方を伝えるだけの預言者とは違う、もっと大きな者である。預言者であると同時にそのお方に結びついている者である、というのです。
そのことから11節で、肉の人間の中では、ヨハネは先駆者でキリストに結びつき天の国に属する偉大な人間である、しかし、キリストが来て、キリストによって天の国に入れられた人、天の国に生きている人に比べたら全く質的に違う、天の国に生きている人は最も小さい人でもヨハネよりも大きい、と言っているのです。人間的な能力によってではなく、キリストによって、神によって違う者にされているのです。
ですから12節に言われているように、ヨハネの時から、キリストの到来を知った人が天の国に入ることを全力で求めているのです。そして、天の国に入っている人は一人でもこの国に入るようにと全力で奪い取るように導き努めている、と言っているのです。
天国は近づいた、というのはヨハネの時までです。ヨハネを先駆者としてキリストが来たのです。新しい時が始まったのです。時代が変わったのです。私たちはその救いの時、新しい時に神の民として生かされているのです。救い主の到来を喜び感謝しましょう。
2008年12月7日
説教題:神から来る救い主
聖書:マタイによる福音書 13章53-56節
【説教】
主イエスがガリラヤを始め各地でメシアとしての活動をされて故郷に帰られました。昔のことです、イエスがどこでどのようなことをしているか、故郷の人は知っていたと思います。イエスは帰って来て会堂で教えられました。会堂で話をすることは、会堂の責任者が許せば、誰でも出来たのでそのことは特別なことではありませんでした。
ところが、イエスが会堂で教えておられると人々は驚いたのです。この「驚いた」は7:28でイエスが律法学者以上に権威ある者として教えたので「非常に驚いた」と訳されているのと同じ言葉です。人々はそのように驚いて「この人は、このような知恵と奇跡を行なう力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか」と言いました。故郷の人々が何に驚いたのか。一つは、7:28の驚きと同じイエスが権威ある者として教えた内容と力です。もう一つは、自分たちのよく知っているイエスがそのように語っていることです。
故郷の人たちは、イエスの言葉と業に神の力があることを認めて驚いているのです。ここでこの人たちがこのイエスは神からメシアの力が与えられているのだ、と思えば信仰に導かれたでしょう。ところが人々は、「この人は、大工の息子ではないか」と、イエスが教えていることよって心を変えないで、イエスの教えを怪しいもの、信じられないものとしたのです。イエスに対するこの故郷の人々の言葉を、岩波書店の「新約聖書」は、「この知恵と力はどこからこいつにやって来たのか。こいつは大工の息子ではないか」、と訳しています。イエスは自分たちがよく知っている仲間だ、というこの人々の思いを現しています。
神から人間の中に御子が与えられた、人間の仲間の中に救い主が与えられた、それがクリスマスの出来事であり、喜びなのです。しかし、故郷の人々は、同じ仲間と言うことが躓きになって、イエスを神からの救い主と信じることが出来なかったのです。イエスの教えに驚いたのですから、神に思いを向けてイエスを見直すべきだったのです。自分中心の人間世界だけに思いを向け、自分の知恵と先入観で結論を下したのです。それによってこの人々からはイエスが告げる神の言葉を理解しようとする思いが失われてしまったのです。
イエスは人間の世界の中に誕生したのです。イエスの故郷は、ナザレだけでなく、地上の人間世界全体です。イエスは、世界のどこに住む人に対しても同じ仲間であり、救い主なのです。ここに記されている故郷の人々の姿は私たちにとって他人事ではないのです。私たちも、神からの救い主をどのように迎え入れているか、が問われているのです。
福音を語ることも奇跡を行なうことも、神の恵みを知る道なのです。ですから、イエスは信仰のないところでは神の言葉を語ることも奇跡もなさらなかった、と聖書は記しています。現在も人々は神の救いはどこにあるのか、と言っていますが、神は全ての者を救う愛と力をもって御子を与えて下さっているのです。人間が自分中心で、自分中心に神の救いを求めているので、その神の恵みを知ることが出来ないのです。自分中心の罪を知って、悔い改めて神に思いを向けるとき、クリスマスの恵みを知ることが出来るのです。
2008年11月30日
説教題:今がどんな時か知る
聖書:イザヤ書 2章1-5節 ローマの信徒への手紙 13章11-14節
【説教】
現代は先が見えない、目標や希望がもてない、といわれています。今日から待降節、主の降誕を待つ、神の救いの完成を待つという目標を持って歩む時です。
イザヤは「終わりの日」神の業が完成する日を描いています。イザヤの時代はアッシリアの軍事力によって混乱している時代でした。預言者は混乱の中で、神による平和の確立を信じ、神の御支配のもとに生きるように勧めているのです。「終わりの日」と言う言葉から、人生の終わりを語る人がいます。私たちは預言者と共に、信仰によって、人生の終わりの日を神による完成の日、救いの時と受け入れることが出来るのです。
ローマ13:11に「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」とあります。終わりの時のことを知ることと同時に、今がどんな時か知ることも大事なことです。今の時を知ることは、何時何分と知ることよりも、「今は眠りから覚めるべき時」と知ることが大事なことです。「眠り」にはいろいろあるでしょう。居眠りもあります。居眠りから目覚めてなすべきことをする、今が何をなすべき時か知って行動を起こすことが重要なのです。目覚ましがなっているのに床から離れないで、居眠りを続けていてはいけないのです。新共同訳が「更に」と訳している所を、口語訳は「なお、このことを知っているのだから特にこのことを励まねばならない」と訳しています。
「このことを励まねばならない」の「このこと」は、12:1-13:10を指していると思われます。救いの時が来た、今そのことをはっきり知った、だから「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が良いことで、神に喜ばれ、完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(12:2)と勧めています。同じことを13:12-13でも勧めているのです。
「夜は更け、日は近づいた」のです。あたりは夜の闇でも、私たちは朝が近い、神のご支配とその御業の完成が近いことを知っているのです。ですから、神なしの闇の生き方、人間中心の生き方を捨てて、神の御支配の中に生きる生き方をすべきなのです。
「闇の行いを脱ぎ捨てて光りの武具を身に着けましょう」と勧めています。着ている物を脱ぎ捨てることが出来るのは、新しく着る物がそこにあるからです。歌舞伎役者は衣装を着ることによって役の人物に心からなりきれる、と言っています。キリストを着ることで、私たちは外観だけでなく、心も体も生活も全体がキリスト者に変えられるのです。
「あなたがたは今がどんな時か知っている。闇を脱ぎ捨て光りを身につけなさい。キリストを身にまといなさい」と書いているのは、ローマにいる信徒に対してです。既に信仰生活をしている人に対してです。その人たちに「今は眠りから覚めるべき時だ」と書いているのです。このことは、私たちにも言われている言葉です。ルターはキリスト者の全生涯が悔い改めである、と言っています。待降節のこの時、私たちは悔い改めてキリストを着る喜びのクリスマスを迎えたいと思います。
2008年11月23日
説教題:王さまの来るのを待つ
聖書:マタイによる福音書 25章31-46節
【説教】
今日は礼拝に果物が捧げられています。このような果物になるまでには、種が蒔かれ、芽が出て育ち、花が咲いて、実を結ぶ過程があったのですね。そして、その時々に水や栄養が与えられ、相応しいお世話をしてもらって、立派な実が出来たのですね。花が散ってから「今度は立派な実を結ばせよう」と栄養を与え世話をしても少ししか効果がないでしょう。種を蒔いた時からその時に応じて相応しいお世話をすることが大事なのです。
子どもは大人になるのが一つの実りです。そして、神様に喜ばれる大人になるのには、小さい時から神様のお考えを聞いて、育っていくことが大切なのです。
今日の収穫感謝の日は、人間の死によって結ばれる人生に実りを思う日、でもあります。大人も死を前にした時に、立派な人生の実を結ぼう、と思っても遅くてよい実を結べないで、今まで生きて来たように死の時を迎えることが多いのです。それで、若い時、元気な時から、与えられている日々を神にあってよく生きることが大事なことなのです。
今日の聖書は人間の最後の時、人生の実りの時に、王さまが来て、王さまの気に入った人と気に入らなかった人を分ける、と書いてあります。
果物でも良い果物とそうでないのと分けます。良い物かそうでな物かは選んで分ける人が決めます。自分の考えで、熟しているから良い、売るのには熟しすぎているから良くない、形がいいからお土産に良い、形は悪いけれど重くてしっかり実っているから良い、など選ぶ人の思いで分けます。王さまはどのような思いで人を分けるのでしょうか。
王さまは来ると、「父に祝福された人たちこっちにおいで」と右に、「呪われた人たちあっちに行きな」と左に分けました。王さまは何を見て右と左に分けたのでしょうか。分けられた人たちは、分けられた理由が判りませんでした。それで王さまに尋ねました。
王さまは説明しました。この王さまは神様です。神様は、前もって人の子イエスを遣わしていた、そのイエスの再臨が私だ、イエスの言葉を聞いて信じて歩んでいるかどうかを見て分けているのだ、と答えました。そして、人の子イエスの言葉を聞いて守った人は右に選んだ、その人たちは優しかった、イエスの言葉を聞いても守らなかった人は左に追いやった、その人たちは優しくなかった、と説明しました。
それで右に分けられた人は、いつ私が優しかったのですか、と尋ねました。特に優しくした覚えがなかったのです。王さまはお友だちに優しくしたこと、仲良くしたことを教えました。それは自然に心が動いて優しくしたのです。左に分けられた人もいつ優しくしなかったか尋ねました。その人たちも特に意識しないで意地悪していたのです。
大人でも意地悪したり、人を騙して困らせたり、自分の得になることをする人がいます。子供は騙されないように、意地悪にも負けようになることが必要です。でもそれは疑り深い人になるのとは違います。主イエスの言葉を聞いた人は、神様を信じて優しい人になるのです。神様は優しい人を祝福された人、神様に喜ばれる実を結ぶ人として下さるのです。
2008年11月16日
説教題:神からの律法と福音
聖書:申命記 18章15-22節 マタイによる福音書 5章38-48節
【説教】
主イエスは5:38-39で弟子たちに、「あなたがたも聞いているとおり」と言った後「しかし私は言っておく」と言っています。43-44でも同じ言い方をしています。ここで主イエスはご自分が、今まで教え語ってきた人たちとは違うことを語っている、と言っています。
今まで律法があり、預言者が来て語ってきた。そこに私が来た。私はその人たちとは違う。しかし、違いはあるけれど同じ神の道を示し、その道をどう歩むべきかを語っているのだ、と言っているのです。律法はモーセの時に、神の民を神の国に導くために与えられました。ところが、律法は民を高慢にし、自分を誇って神から離れる罪人を生み育てるものになったのです。それで神は、御子イエスによって救いの道を与えてくださったのです。
主イエスは、ここに神からの新しい律法があると仰って、「悪人に手向かうな、復讐するな、それは神に委ねよ。そして敵をも愛せよ」と新しくどう歩むべきかを語ったのです。このイエスの要求をどのように受け止めて守るべきなのでしょうか。この要求をその通り行なう絶対無抵抗、絶対平和を採る人たちがいます。他方、それでは社会の秩序は失われる、国を治めることはできない、という人たちもいます。
ここに要求されていることは、肉の思いが心を支配している限り人間には出来ません。個人としても、社会人としても出来ないことです。また、悪は許してはいけないことです。ここで主イエスは私たちに、自分の思いや力に頼るのではなく神を信頼して、神のご支配の下で隣人と交わって生きるように勧めているのです。
この言葉を主イエスは十字架の勝利に向う歩みの中で語っているのです。「悪人に手向かうな」というのは、弱く負けるから手向かうな、と言っているのではありません。右の頬を打たれても倒れないで左の頬を出せるのは強く力のある人です。その人が主にあって忍耐し、自分で仕返しをするではなく、神を信頼して、神の裁きに委ねるのです。ローマ12:19にはそのように勧められています。ローマ13:1-7には神から権威を与えられている者は、神から託されているその権威を用いる責任がある、とも語っています。神が終わりの時に、神の義が支配する国を完成される。御子イエスはそのことを信じて十字架に歩まれたのです。そして、私たちも主に従って歩むのです。ここに勧められていることは、相手の言いなりになれ、ということではありません。神の義のご支配を示すことなのです。
主イエスは十字架で神の義の勝利を示されました。神は、イエスの弟子たちと共にいて、今も地上の歴史を治めているのです。その神の御支配の下で、私たちはこの言葉に聞き従って歩むのです。自分の力によって歩むのではなく、神が歩ませて下さるのです。
ここで主イエスが語っていることは、命令ではなく、福音です。神の民ならこのように歩みなさい、歩めるのだ、とキリスト者に与えられている恵みの言葉です。愛の言葉です。神の民ならこのようなことはしないだろう、出来ないだろう、と十字架の主が愛をもって語りかけながら私たちを導いて下さっているのです。
2008年11月9日
説教題:神を信じて歩む
聖書:創世記 13章1-18節 マタイによる福音書 3章7-12節
【説教】
今の世界は、経済も教育も、自由がいい、幼児は無限の可能性を持っているのだから管理規制し枠にはめてはいけない、という考えが強いです。問題が生じたら見えざる神の御手が解決してくれる、という人がいます。しかし、現在世界の経済に混乱が生じています。人間は罪人で、欲や自分の思いに支配されて自分の力や自由を使うのです。そのために他人を不自由にし傷つける、強者の勝ち組みと弱者の負け組みが生じ、混乱が生じるのです。
創世記13章は、アブラムが、甥のロトと一緒に歩んで行くのには家畜や使用人などが多すぎる、だからこれから別の道を歩もう、ロトお前が自分の行く道を選べ、といって二人が分かれて歩むようになったことを記しています。アブラムは、自分が年長者であるという力を、ロトを生かすために用いています。自分の自由を放棄して、ロトの自由に従う者としています。このアブラムに対して神は、その土地をあなたの土地とし、祝福を与える、と約束しています。ここに神に選ばれた者はどのように歩むべきかが示されています。
福音書は、ヨハネが人々に悔い改めの洗礼を勧めているところです。悔い改めは、自分中心に生きてきた人間が、神によって生かされている人間に方向転換することです。3:1-2でヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」といっています。4:17のイエスと同じ言葉です。主イエスの十字架と復活によって神のご支配が来る、神の国にふさわしい者になれ、と勧めているのです。この勧めによって多くの人々がヨハネのところに来ました(3:5-6)。
所がヨハネはそのなかにファリサイ派の人が大勢いるのを見て「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りから免れると誰が教えたのか」と言ったのです。蝮は、毒をもっている、人を傷つけ殺す。お前たちはそのような者だ、と言っているのです。ファリサイ派の人たちは、自分は神の前に正しい者だという自信を持っていて、他の人たちを見下し裁いていたのです。ですから、悔い改めの洗礼も、罪人が義とされるものなら良い行為を積み重ねよう、と受けに来たのです。そこでヨハネは、自分は蝮なのだとの自覚をして、その心を本当に悔い改めるのでなければ神の怒りから免れることは出来ない、と言っているのです。
「悔い改めにふさわしい実を結べ」というのは、立派なあれこれのことを行なえというのではなく、木にふさわしい実が結ばれる、心から悔い改めればそれにふさわしい実を結ぶ、だから真実に悔い改めよ、そして良い木になれ、と言っているのです。
「我々の父はアブラハムだ。我々は神の前に義人だ、罪人とは違う」という思いでいるなら大間違いだ。血筋でアブラハムの子孫が存在しているのではない。アブラハムと同じ神を信じて歩む信仰を持っているのが子孫だ。神はこの石からでもアブラハムの子を作ることが出来る。異邦人や他の人を養子にして正当な継承者にすることが出来る。神はイエス・キリストによってそのことをなさる。と聖書は言っているのです。
悔い改めの洗礼を受けたキリスト者は、アブラハムの子とされ、良い木にされたのです。生涯神を信じて、自由と力とを隣人を生かすために用い、仕える者となって歩むのです。
2008年11月2日
説教題:主と共に生きるために
聖書:テサロニケの信徒への手紙一 5章4-11節
【説教】
今日は召天者記念礼拝で、この教会で召天の営みをされた方の関係者がご出席下さっています。今年は小林宣典兄、杉原悦子姉、お二人の葬儀を行ないました。
教会の葬儀では、神から与えられた命が神に召されたのだから平安がある、と語ります。しかし私たちは、神の義と真実を知り、人間の弱さや罪深さを思う時、この様な者が神に召されて平安を与えられるだろうか、裁きを受けるのではないか、と不安をもたないでしょうか。立派に歩んでいた、厳しい神の裁きを受けても、義なる者とされる、と胸を張って言える人がいるでしょうか。召された人もそう言えるでしょうか。教会は葬りの時にどうしてそのように言うのでしょうか。それは、キリストの教会だから言えるのです。
今日の聖書は、今年の8月4日に召された杉原悦子様のお父様が記された墓碑の言葉が「汝らはみな光のこども、昼のこどもなり」(5:5)とお聞きして、決めました。私は、悦子様がご逝去された後、救世軍の信仰をもっていたのでキリスト教で葬りをしたい、とご依頼を頂いて式を致しました。その後、杉原家の墓碑にこの聖句が記されていることをお聞きしました。悦子様の一番上のお兄様は軍人で、敗戦の時に自決されたのです。それで、救世軍の伝道者であったお父様がこの墓碑を建てられた、というお話でした。今日の聖書は、4:13から、キリストにあって死んだ者にはキリストがいつも共にいる、だから希望を失うな、と語っているところです。5:5で、あなたがたキリスト者は光の子、光が支配している昼の子なのだ、キリストを知らない闇に属している人とは違う、と言っているのです。
戦時中軍人の子を持ったキリスト者の父親はどんな思いだったでしょうか。お父様は、お前は軍人で自決したが、私の子キリスト者だ、光りの子だ、とこの墓碑で言っているのではないでしょうか。戦時、キリスト者でも人を殺し傷つけた人がいる。戦地でなくても、敵でなくても、隣人を傷つけるのが人間です。心を傷つけても気がつかない私たちです。敗戦で自決する、自ら命を絶つ。神の御心に添うことだろうか。私たちは神の心を忘れ、見失うことがある、冷静で正しい判断や行動ができないことがある。それでも聖書は「あなたがたは光の子、昼の子」と言っているのです。
5:6に「眠っていないで」、5:7に「眠る者は夜眠り」とあります。4:13の「眠りについた人」とある「眠り」は「眠って休息をとる」「床について時間が来るまで眠る」という言葉で、死をも意味する言葉です。しかし、5:6、5:7の「眠り」は「目を覚ましていなさい」と命じられたのに眠ってしまう眠りです。弱さや誘惑によって我を失ってしまう、正常の自分ではなくなることです。「そうあってはいけない」、とここでは強く言われています。
しかし、5:10に「主は私たちのために死なれましたが、それは目覚めていても、眠っていても、主と共にいるためです」とあります。この言葉は5:6,7と同じ言葉です。死の眠りだけでなく、私たちが我を失ってしまう時にも十字架の主は共にいてくださるのです。主が共にいて赦しと愛とを与えてくださるので、私たちは平安を得ることが出来るのです。
2008年10月19日
説教題:目標を見つめて走る
聖書:フィリピの信徒への手紙 3章12-16節
【説教】
今日の聖書は3:7-21が一つの区切りになっている中にあります。3:5-6でパウロは、自分が生まれ育った環境のなかで立派な人間として歩んでいた、と言っています。所が、イエス・キリストを知ったパウロは、自分が神の前に罪人であった、自分はキリストの十字架と復活によって赦されて生かされているのだ、と知ったのです。その時までのパウロは、肉が主人となって、肉に導かれて歩んでいたのです。しかし、キリストを知ったときから、キリストに導かれて歩む者に変わったのです。そのことが今日の所に書いてあります。
キリストは私たちの命の主であり、導き手です。キリストと一つになって生きたい、これがパウロの思いです。12節でパウロは、「私は既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者になっているわけでもありません」と言っています。パウロは、キリスト者であります、又教会の指導者でもあります。それなのにパウロはこのように言っているのです。「完全な者」には二つに意味がありまし。一つは、完全に救われている者、キリスト者の資格を持っている者です、もう一つは、成熟している者、出来上がっている者です。
教会の中に、自分は信仰を持っている、洗礼も受けているだからキリスト者の資格を持っている、律法から自由にされている、と言って勝手なことをしていた人がいたのです。そこでパウロは、キリスト者の資格、救いの完全はそのようなものではない、キリスト者は心から罪を悔い改めて主イエスに従うので、キリスト者は常に悔い改めている者だ。外側の資格、完全さだけでなく、十字架と復活のキリストと一つになるのが目標だ、私はまだ完全な者ではない、だから成熟したキリスト者になるように努めている、とパウロは言っているのです。
しかし、それは自分の思いや力によって出来ることではありません。「何とか捕らえようとして、努めているのです。自分がキリストに捕らえられているからです」(12)、と言っています。キリストを信じている人は、不完全な人間でも、キリスト者として形式的には完全な資格を持っています。しかし神の前では、罪人であることを悔い改め、不完全な者であると謙遜になって、完全に向って努めるべきなのです。これは、「母親」「教師」の資格を持っている人が、その名にふさわしい完全を目指して、日々謙遜に学び努めるのに対応して考えることが出来るでしょう。パウロは、キリストに捕らえられている者なのだから、キリストの心が自分の心となって生きる者になるよう努めるのだ、と言っているのです。
13-14で「兄弟たち、私自身既に捕らえたとは思っていません。なすべきことは唯一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向け、目標を目指してひた走ることです」と言っています。「目標を目指して」は「目標を見つめながら」「目標を見誤ったり、見失ったりしないで」ということでもあります。ヘブライ人への手紙12:1-2でも勧めている生き方です。
この生き方がパウロの生き方である、と共に、キリスト者である私たちの生き方でもあります。
2008年10月5日
説教題:キリストの血の尊さ
聖書:士師記 11章29-36節 ヘブライ人への手紙 9章11-15節
【説教】
最近、生きるのが嫌になった、と悲惨な事件を起こす人がいます。人間、誰でもいつも満足して生きているのではありません。自分自身や周囲のことについて時には失望し、嫌になることがあります。人間は自分自身の中に対話する相手をもちます。人間として生きるためには、自分の分身ではなく、人格的な他者との対話、神との対話が必要です。
士師記、エフタとその娘の物語は、人間中心の思いが強い現代人には抵抗がありますが、エフタも娘も神にあって生き、死を迎えることに生の意味と充実を得ていたこと、を語っています。自分に与えられている責任を果たすために命を捧げることは、現代でも尊いこととされています。エフタと娘の物語では、神との契約が重要になっています。神の前で有効に結ばれた契約は、神が責任をもって確かなものにしてくださるのです。
神との交わりは、罪人の人間が聖なる神と交わるのですから、先ず神が人間と交わるための契約が必要です。その契約に基づいて神からの呼びかけがあり、信仰によってその呼びかけに応えることによって、交わりが成り立つのです。
ヘブライ9:1に最初の、キリストが来る前の、神と人間の交わりについて記されています。その交わりは「礼拝」です。主人である神の前に人間が喜んで仕えるのが礼拝です。聖なる神がご臨在する場所、第二の幕屋の奥(9:3,7)に、年に一度大祭司が罪を贖う動物の血を捧げての礼拝で神と交わりが出来ていたのです。けれど、これでは罪人の人間は神と交わるのにふさわしい清い者にはなれないのです。心まで清くはなれないのです。ですからこの礼拝の規定、神との交わりのあり方はキリストの時までのものなのです。
「けれども、キリストは恵みの大祭司としておいでになった」(9:11)。キリストは「ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられた」(9:12)。そのように、神の方から御子イエス・キリストを遣わしてくださり、御子の十字架の血によって人間との交わりを新しくしてくださったのです。それで今は、特別の日に、特別の人が血を持って礼拝する交わり、というではなくなったのです。キリストの血に与る者は誰でも、いつでも生活の中全体で、親しく神と交わることが出来るようになったのです。キリスト者は、神にあって意味ある充実した命を生き、死を迎えることができるようになったのです。
9:9に「礼拝する者の良心を完全にすることはできない」とあります。「良心」は私たち全体を神に向かわせる心です。キリスト以前には、外側は神と交わっていても、心には隔ての幕があったのです。それが今はキリストの血によって、心まで改革され、心から神との交わりが得られるのです。そして、この「改革の時」はキリスト再臨の時をも意味していますが、今私たちが、神の心が完全に自分の心となる時を望み見ながら、信仰をもって肉の規定に従って礼拝し、神に仕えて歩む時、キリストの血と大祭司の働きによって、現在の私たちの働きも命も神にあって生きたもの、意味あるものとなるのです。
神と真実な交わり中に生きる時、私たちの歩みは空しくならない、充実と喜びなのです。